ヘブル人への手紙手紙13章17~25節 「完全な者にしてくださるように」

ずっとヘブル人への手紙を学んできましたが、きょうはその最後の箇所です。パウロの手紙でもそうですが、この手紙でもその最後は祈りによって結ばれています。きょうは、その祈りからご一緒に学びたいと思います。

 

Ⅰ.もっと祈ってください(17-19)

 

まず、17節から19節までをご覧ください。「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。私たちのために祈ってください。私たちは、正しい良心を持っていると確信しており、何事についても正しく行動しようと願っているからです。また、もっと祈ってくださるよう特にお願いします。それだけ、私があなたがたのところに早く帰れるようになるからです。」

 

この手紙の著者は、最後のところに来て、教会の指導者と信徒の関係について教えています。そしてその関係というのは、「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。」ということです。また、「この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることがないようにしなさい。」ということです。どうしてここに来て、指導者と信徒の関係について語っているのでしょうか。それは7節でも言われていたことですが、異なった教えに迷わされないように、神のことばにしっかりと立続けるためです。そのためには、神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを思い起こし、彼らの言うことを聞くことが必要です。そのことをここでは、この人たちは神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです、と言われています。どのようにして見張りをしているのかというと、神のことばによってです。だから、神のことばをもって指導している指導者たちの言うことに従うことが必要であって、それは、自分自身の益のためにもなることなのです。

 

けれども、ここでこの手紙の著者が指導者に服従するようにと言っている最も大きな理由は、その後の18節にあるように、指導者のためにも祈ってほしいということを伝えたかったからです。ここには指導者と信徒との関係は単に指導する者とされる者という関係以上のものであることが示されています。つまり、指導者と信徒の関係は祈りの関係であるということです。手紙の著者は18節で、「私たちのために祈ってください。」と懇願しています。また、19節には、「もっと祈ってくださるよう特にお願いします。」とあります。ここでは教会の指導者たちが信徒のために祈るというのではなく、むしろ教会の信徒が指導者たちのために祈ってほしいと言っているのです。もちろん、牧師は神の祭司として信徒のためにとりなして祈る務めが与えられていますが、その祈りは一方通行ではなく互いになされるものなのです。牧師が信徒のために祈るというだけでなく、信徒もまた牧師のために祈るという相互の祈りが求められているのです。そのようにしてこそ牧師と信徒の信頼関係が構築され、深められて、キリストのからだである教会が、キリストの御丈にまで達することができるのです。

 

尾山令仁先生は、ヘブル書の注解書の中でそのことについて次のように言っておられます。

「この祈り祈られる関係が成り立つ時、牧師と信徒の関係はすばらしい愛と信頼の関係になります。牧師が霊的権威を振りかざしたり、信徒が牧師に対して不平、不満やつぶやきを口にするのでは、教会は決して健康な状態とは言えません。牧師も、いくら教えてもその通りにしない信徒がいると、心の中に不満がたまってくるでしょう。それをためておかないで、祈りの中で神にそのことを申し上げるのです。一方、信徒は信徒で、牧師に対して不平や不満を持っているかもしれません。そんな時、それを祈りの中で申し上げるのです。お互いに不平、不満を相手にぶつけるのではなく、祈りの中で相手の欠けを神が補ってくださるように願うなら、神がそうした問題を解決してくださいます。」

 

祈りの中で神に相手の欠けを補ってくださるように願うというのはすばらしいですね。というのは、その問題を真に解決できるのは神しかいないからです。真の解決とは祈りの中でその人自身が変えられることだからです。イエス様は、「教会は、祈りの家でなければならない。」と言われました。なぜなら、教会は祈りの中から生まれたからです。皆さん、教会はどのようにして誕生したのでしょうか。ペンテコステというユダヤ教のお祭りの時、キリストの最初の弟子たちがたぶんマルコの母マリヤの家に集まり、心を合わせ、祈りに専念していたとき、突然、天から、激しい風が吹いてくるように聖霊が降ることによって誕生したのです。その日、三千人ほどが彼らの仲間に加えられました。ですから、教会は祈りの家でなければならないのです。教会が祈らなかったら教会ではなくなってしまいます。教会は祈りを通して神にすべてをゆだね、神が働いてくださることによって、すべての問題が解決されていくところなのです。

 

この手紙の著者はここで、「私たちは、正しい良心を持っていると確信しており、何事についても正しく行動しようと願っているからです。」と言っています。なぜ指導者のために祈らなければならないのでしょうか。それは指導者が正しい良心、純粋な良心を持って、何事についても正しく行動しようと願っているからです。教会の指導者がそのように生きているのなら、そのような指導者の言うことに従い、彼らのために祈るというのは、むしろ望むところではないでしょうか。

 

皆さんも、私のために祈っていてくださると思いますが、ぜひ祈ってください。ある人は、牧師のために祈るということはそれだけ牧師が無能であるということを意味するのではないか、牧師のために祈るということが、その牧師をかえってはずかしめることになるのではないかという人もいますが、そうではありません。確かに牧師にとって自分から、「祈ってください」と言えば、自分の弱さや無能さを露呈するかのようでなかなか言いにくいこともありますが、本当にへりくだった人とは、「私には祈りが必要です。どうか、私のために祈ってください。」と言える人なのです。

 

たとえば、パウロはローマ15章30節で次のように言っています。「兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によって切にお願いします。私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。」この「力を尽くして」ということばは、スポーツ選手がベストを尽くす時に使われることばです。それはかなりのハードワーク、重労働です。そのような力を尽くして祈ってほしいと言ったのです。偉大な人であっても祈りを必要としています。パウロは自分の知恵や力によって神の働きをすることはできないということをよく自覚していました。パウロが他の人たちよりも多く働くことができたのは、彼がそのような器として神に選ばれていたことは確かですが、と同時に、他の人たちよりも多く祈られていたからでもあるのです。偉大な牧師は、偉大な信徒によって作られると言っても過言ではありません。

 

19世紀に、イギリスに当時世界で一番大きな教会がありました。それはメトロポタンタバナクルという教会で、チャールズ・ハットン・スポルジョンという牧師が牧会していました。その教会には6,000人収容できる会堂がありましたが、当時、ロンドンのすべての教会の座席数を足しても15,000席であったということを考えても、この教会がいかに大きな教会であったかがわかるかと思います。

この教会には世界中から多くの人々が視察にやって来ていましたが、ある視察団が礼拝を終えてホールに出ると、そこにオーバーオールを着た男性がいたので、その人はきっとこの教会の用務員さんに違いないと思って、これだけ大きい教会をどのようにして温めているのかを聞きました。

「これだけ大けれども、いったいどのような発電システムなのかを見せてもらえませんか。」

するとその人は、「わかりました。それでは今、あなたたちをそこに案内します」と言って、彼らを地下室に連れて行きました。そして、彼らに、「ここがこの教会の発電システムです。」と言いました。そこには四百人もの男性がひざまずいて祈っていました。午前中の礼拝が終わり、夜の礼拝を迎えるにあたり、四百人もの男性がそのためにひざまずいて祈っていたのです。それがこのメトロポリタンタバナクルの成長の秘訣でした。スポルジョンの教会が世界最大の教会になったのは、彼が偉大であったからではなく、また彼の説教のせいでもありませんでした。それはこうした祈りがあったからなのです。

 

このヘブル人の手紙の著者も、「私たちのために祈ってください。」と言いました。いや、「もっと祈ってください。」とお願いしました。これはどういうことでしょうか。私たちは時々「祈ってください」とか、「祈っています」というのが口癖になっていることがあります。どこか社交辞令になりさがっていることがあります。そうした常套句としての祈りの要請ではなく、本気で祈ってほしいと懇願しているのです。これが祈りに生きている人の姿です。私たちも互いのために本気で祈り合うべきです。もっと祈ってくださるようお願いします。それだけ、私があなたがたのところに早く帰れるようになるからです。祈り祈られる関係、それこそ神が私たちの教会に望んでおられることなのです。

 

Ⅱ.完全な者としてくださるように(20-21)

 

次に20節と21節をご覧ください。「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が、イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行ない、あなたがたがみこころを行なうことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。どうか、キリストに栄光が世々限りなくありますように。アーメン。」

 

今度は、この手紙の読者たち、信徒たちのための祈りです。ここで著者は、平和の神がイエス・キリストによって、みこころにかなうことを彼らのうちにしてくださるように、また、彼らがみこころにかなったことを行うことができるように、あらゆる良いものを備えて、彼らを完全な者にしてくださるようにと祈っています。そして、この平和の神がどのような神なのかというと、「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された方」です。

 

まずこの「永遠の契約の血による羊の大牧者」ということから見ていきましょう。これは父なる神のことであり、また、私たちの主イエス・キリストのことです。イエスは偉大な大牧者です。牧者というのは羊飼いのことですから、イエスは偉大な羊飼いであられるということです。イエスはこのように言われました。「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)

イエスは私たちのためにご自身のいのちを捨ててくださいました。それは、羊である私たちがこの方にあって永遠のいのちを持つためです。まことにイエスは私たちの永遠の大牧者であられるのです。心配事で不安にさいなまれる時、主は共にいて助けてくださいます。人生に疲れ果てもう立ち上がれないと思う時、主は励ましを与えてくださいます。病気で苦しむ時には、いやしを与え、死の陰の谷を歩くような時には、あなたの前を歩いてくださいます。だから私たちは何も恐れることはありません。この方が永遠にあなたの大牧者であられるからです。

 

しかも、それは今だけのことではなく、今も、これから後もずっと、永遠にです。イエスがあなたの羊飼いでなくなることはありません。なぜなら、この方は永遠の契約の血によって、あなたを贖ってくださったからです。これはどういうことかというと、イエスが十字架の上であなたのために血を流してくださったということです。血を流すことがなければ、罪の赦しはないからです。イエスが流された血は、私たちの罪を贖う永遠の神の契約のあかしでした。まさにイエス様は良い羊飼いとなって、あなたのためにいのちを捨ててくださったのです。あなたはそれほどまでに愛されているのです。であれば、この方があなたを見捨てたり、見離したりすることがあるでしょうか。ありません。13章5節を見てください。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」とあります。イエス様は決してあなたを見捨てたりはしないのです。イエス様はあなたの永遠の大牧者なのです。

 

そのイエスを死者の中からよみがえらせた神は「平和の神」です。この時この手紙を受け取ったヘブル人クリスチャンたちは迫害の苦しみの中にありました。彼らは同胞ユダヤ人からも、ローマ帝国からも激しい迫害を受けていました。彼らは目の上のたんこぶで、邪魔者扱いされていました。家を失い、財産を失い、仕事を失い、家族を失うという苦しみの中で、相当辛い思いをしていたのです。しかし、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。この神は主イエスを死からよみがえらせてくださった神です。この神はどんな迫害の苦しみの中にあってもあなたを助け、あなたを守り、あなたに平安を与えて、その苦しみを乗り越えさせてくださる。この平和の神が、主イエスを死者の中からよみがえらせてくださったように、どんな状況からもあなたを救ってくださるのです。このことは、迫害で苦しんでいた彼らにとって何よりも大きな励ましだったに違いありません。その平和の神が彼らのうちに働いて、彼らを完全な者にしてくださるようにと祈っているのです。これがこの祝福の祈りのハイライトです。

 

では、完全な者になるとはどういうことでしょうか。これは何の欠点もない完全無欠な聖人君子になるようにということではありません。この「完全な者にする」というギリシャ語の言葉(ギリシャ語はカタルキゾウ)には、物事を適切な状態にするという意味があります。たとえば、この言葉はマタイの福音書4章21節にも使われています。

「そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。」この「網を繕う」の「繕う」が「カタルキゾウ」です。すなわち、穴が開いた網を繕って正常なすることという意味なのです。

 

また、ガラテヤ6章1節には、「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。」とありますが、この「正してあげる」が「カルキゾウ」です。すなわち、間違った状態を正してあげることを言うのです。

 

また、Ⅰテサロニケ3章10節には、「私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。」とありますが、この「補いたい」という言葉が「カタルキゾウ」です。不足しているものを補給するとか、補うという意味です。

 

そして、Ⅰコリント1章10節には、「さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。」とありますが、この「完全に保つ」が「カタルキゾウ」です。本来であれば、クリスチャンは一致していなければなりませんが、そうでないことがあるわけです。そういう状態を修復し、同じ心、同じ判断を完全に保つことができるようにすることを示しているのです。

 

このように、完全な者とするとは物事を適切な状態にすることです。間違ったところが正され、足りないところは補われ、破れたところが修復されて、神が望まれる状態に整えられることを言うのです。

 

私たちはどうでしょうか。私たちも魚の網が破れるように人生に敗れを生じているのではないでしょうか。羊のように目先のことに捕らわれて、道に迷ってはいるのではないでしょうか。霊的、精神的に、また肉体的、物質的に不足を感じているのではないでしょうか。人間関係においても壊れかけているのではないでしょうか。夫婦の間で、親子の間で、職場においても、友人との関係においても、壊れかけていませんか。壊れかけたラジオのように、壊れかけているのです。イエスはそうした壊れかけたものを修復し、正常な状態に回復してくださいます。足りないところを補って満たしてくださいます。なぜなら、イエスは十字架で敵意を廃棄されたからです。(エペソ2:16)キリストの十字架の血によって、こうした破れた人生が正常な状態になるようにと祈っているのです。

 

このように、平和の神はイエス・キリストによって物質的にも、肉体的にも、霊的、精神的にも、関係においても、社会的にも、ありとあらゆる面であなたの必要を満たしてくださり、あなたを完全な者としてくださるのです。このようなものはセミナーに行けば満たされるというようなものではありません。何らかの勉強会やワークショップに行けば解決するというようなものでもありません。これらのものはすべてイエスの血によって満たされるのです。このイエス・キリストの血によって、平和の神ご自身が、あなたがたが神のみこころを行うために、すべてのことについて、あなたがたを完全な者としてくださるのです。

 

このような神がいったいどこにいるでしょうか。私たちが今まで理解していた神は、自分の欲望を満たすために利用していたにすぎない神であって、自分が作った偶像にすぎませんでした。しかし、そのようなものが果たして本当に私たちを救うことができるでしょうか。できません。私たちを救うことができるのは、私たちのために十字架で死なれ、三日目によみがえって、私たちを罪の中から救い出してくださった救い主イエス・キリスト、平和の君です。この方があなたのすべての必要を満たし、あなたを完全な者にしてくださるのです。であれば、私たちはこの神を信じ、この神にすべてをゆだねなければなりません。あなたがたを完全な者としてくださいますようにという祈りの中に、あなた自身を置かなければならないのです。

 

Ⅲ.恵みがありますように(22-25)

 

最後に22節から25節までをご覧ください。22節には、「兄弟たち。このような勧めのことばを受けてください。私はただ手短に書きました。」とあります。「このような勧めのことば」とは、この手紙のことを指しています。著者は、ただ手短に書いたと言っていますが、手短に書いたにしてはかなり長いてがみです。ですから、ここでこの勧めのことばを「受けてください」と言っているのです。この「受けてください」という言葉は、下の欄外にもありますが「こらえてください」という意味のギリシャ語です。この勧めのことばをこらえて聞いてほしい、忍耐して聞いてほしい、というのです。

 

ということは、当時のクリスチャンたちの中にも今日の私たちと同様、忍耐に欠けている人たちが少なからずいたということです。そうでなければ、わざわざこんなことは言わなかったでしょう。ちょっと安心しますね。いつの時代でも忍耐することは簡単なことではありませんが、大切な真理を身に着けるにはこらえることが、忍耐が必要であることがわかります。

 

23節には、「兄弟テモテが釈放されたことをお知らせします。」とあります。テモテはパウロの第二次伝道旅行の時、ルステラでパウロに出会い、それ以後、パウロの手元において訓練した結果、すばらしい働き人として成長していました。パウロが獄中から手紙を書いた時、そのテモテもパウロと一緒に獄中にいたようで、その彼が釈放されたことを伝えています。このことから多くの学者は、この手紙はパウロによって書かれたのではないかと考えていますが、はっきりしたことはわかりません。しかし、このことから言えることは、テモテがこの手紙の著者と親しい関係であったということです。クリスチャン同士、喜びも悲しみも共に共有できることは大きな特権であると言えます。

 

24節と25節には、あいさつと心からの祝禱をもって終わります。「恵みが、あなたがたすべてとともにありますように。」

恵みは、このヘブル人の手紙における強調点の一つでした。なぜなら、彼らがキリストから離れてかつてのユダヤ教に戻って行ったのは、この恵みを忘れていたからです。だから最後に恵みをもう一度強調しているのです。

 

それは私たちも同じで、恵みを忘れてしまうと信仰のバランスを崩してしまうことになります。というのは、恵みを忘れると行いに走ってしまうからです。行いに走っていけば律法主義に陥ってしまいます。律法主義に陥ると人をさばくようになります。自分と同じようにしていない人に対して苦々しい思いを抱くようになるのです。自分はクリスチャンとしてクリチャンとしてちゃんと生きているのに、どうしてあの人はしないのだろうと人をさばくようになるのです。恵みを忘れているからです。恵みとは受けるに値しない者が受けることです。神の恵みを受けるにはふさわしい者ではないのに、神がキリストを与えて救ってくださいました。これが恵みです。それはあなたが立派な人だから、何か特別なことができるから、ちゃんとまじめに生きているからではなく、そうでないにもかかわらず、神はあなたを愛してくださいました。これまでずっと自分が捕われていたことから解放していただいた、であれば、もう人はどうでもいいのです。自分もどうでもいいのです。大切なのは、神があなたのことをどのように思っておられるかということです。そうすれば、すべてのものから解放されます。そして、どんな問題も乗り越えることができるのです。

 

先日、アンビリーバボーという番組で、ある男に暴行されたジェニファーという一人の女性が、犯人はロナルドであると証言したことで、彼は裁判で終身刑プラス50年の刑が言い渡され、無実の罪でノースカロライナの刑務所に収監されました。しかし、事件から11年後の1995年、O・J・シンプソンの事件の裁判で、当時最先端だったDNA鑑定が事件の解明に用いられた事を知り、最後の賭けとしてDNA鑑定を依頼した結果、彼は無罪であることが判明したのです。実は、彼にそっくりの男が真犯人だったのですが、彼女は間違って彼が犯人だと思っていたのです。自分の勘違いから事件と関係のない男性を11年間も服役させてしまった彼女は自責の念にかられ、また、いつ復讐されるかと思うと生きた心地がしませんでした。そして、ロナルドが釈放されてから1年後の1996年に、目撃者が何故過ちを犯してしまうのかを検証するドキュメンタリー番組への出演依頼がきっかけとなって、彼女は彼と会って謝罪し、自分の気持ちを正直にロナルドに話さなければならないと思い、そのように決意しました。大学の敷地内に置かれた礼拝堂で会った時、ジェニファーは自分の勘違いとは言え、とりかえしのつかないことをしてしまったことを詫びると、彼は、「私はあなたを赦します」と宣言したのです。その時彼女は、「長い間壊れていた心や魂がまるで氷が解けるように癒やされていくのを感じました。体の中で壊れた部分がもう一度もとに戻ろうとしている感じでした。」と言いました。会ってから2時間彼らは話しては泣き、話しては泣きを繰り返しました。お互いがどのような時間を過ごしていたか知りたがっていたしあの最悪の11年間は一体何だったのか?という思いを共有することができたのです。ロナルドはこのように言っています。「人間は間違いを犯します。完璧な人間なんてこの地球には存在しません。怒りを持ち続けるより許したいと思いました。許せば解放されるけど怒りを持ち続ければどこに行ってもそれを握りしめて苦しむ事になります。怒りを手放せば楽になれます。楽観的に考え始めれば前向きに良い人生が送れます。僕はハッピーで自由な人生を送りたいんです」ジェニファーは、とりかえしのつかないことをして、とても許される者ではなかったのに許されました。それが恵みです。その恵みは彼らの後の人生にどれほどの喜びと解放をもたらしたことでしょう。

 

同じように神は、許されるには値しない私たちにイエス・キリストを与えてくださいました。私たちが救われたのはただ神の恵みによるのです。この恵みがあれば、どんな迫害があっても、どんな問題が起ころうとも、必ず乗り越えることができます。すべては恵みです。私たちはこの恵みの中でしか生きることはできませんし、この恵みの中でしか成長することができません。ですから、この恵みを強調しすぎるということはありません。すべてを忘れてもこの恵みだけは忘れないでください。この恵みが、あなたがたすべてとともにありますように。神の恵みのうちにこのヘブル人への手紙を終えることができることを感謝したいと思います。

ヘブル人への手紙13章7~16節 「賛美のいけにえをささげよう」

イエス様を救い主として信じ、救いの喜びに与った人の最大のしるしは何でしょうか。それは生き方が変わるということです。そういう人は、自分の思いや考えではなく神のみこころに歩むことを求め、苦難の中にあっても最後まで忍耐して、天の御国を目指して最後まで信仰のレースを走り抜きます。たとえこの世に心が奪われることがあっても、イエス・キリストにしっかりととどまります。そして、兄弟愛をもって互いに愛し合い、旅人をもてなし、牢につながれている人や苦しめられている人たちを思いやるのです。また、金銭を愛する生活ではなく、いま持っているもので満足します。つまり、イエス・キリストの愛に生きるのです。その愛を軸にした生き方がきょうの箇所でも勧められています。それは神に喜ばれるいけにえをささげるという生き方です。

 

Ⅰ.恵みによって心を強める(7-9)

 

まず、7節から9節までご覧ください。ここには、「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼の生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。さまざまの異なった教えによって惑わされてはなりません。食物によってではなく、恵みによって心を強めるのは良いことです。食物に気を取られた者は益を得ませんでした。」とあります。

 

この手紙の著者は6節で、「主が私の助け手です。私は恐れません。人間は私に対して何ができましょう。」と言って、いよいよこの手紙を終えようとした時ふと思い出したかのように、ここで一つのことを書き加えています。それは教会の指導者たちのことです。神のみことばを彼らに話した指導者たちのことを思い出し、その生活の結末をよく見て、その信仰にならうようにと勧めました。いったいなぜここで教会の指導者たちのことを取り上げたのでしょうか。おそらく彼らが信仰に堅く立ち続けるためにどうしても必要であることを述べたかったからでしょう。それは神のみことばです。教会が教会であるために最も重要なことは神のみことばを正しく教え、宣べ伝えることです。みことばが正しく教えられなければ、信仰に堅く立ち続けることはできません。ですから神のことばを彼らに話した指導者たちのことを思い出し、その信仰の結末をよく見て、その信仰にならうようにと勧められているのです。

 

しかし、どんなにすぐれた指導者でもやがては過ぎ去ります。確かに、彼らの姿は記憶され書き留められることによって後代の人々に影響を及ぼすことができますが、いつまでも生きていて指導することはできません。ですから、そのように指導者たちの教えを思い出し、彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいながらも、最終的にはいつまでも変わることがない方に目を留めなければなりません。それはイエス・キリストご自身です。なぜなら、イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じだからです。この方が、私たちの本当の指導者であられるということは、何と幸いなことでしょうか。人はどんなに立派な指導者であっても、やがて死にこの世から去って行かなければなりませんが、私たちの主イエス・キリストは永遠に生きておられ、いつまでも変わることなく、私たちを助け、慰め、励まし、力づけてくださいます。この方がいつも私たちのすぐそばにいてくださるということが分かれば、何も恐れることはありません。だれがいなくてもこの方がともにいてくださるなら、千人力、万人力だからです。

 

ですから、9節にあるように、「さまざまな異なった教えによって惑わされてはなりません。」ここで言われているさまざまな異なった教えとはどのような教えのことでしょうか。この後に「食物によってではなく、恵みによって心を強めるのは良いことです。」とあることから、それは旧約聖書で教えられている食物や飲み物についての教えのことです。この手紙が書かれたころ初代教会では、禁欲を重んじるユダヤ教の一派であるエッセネ派の影響が強かったらしく、ある種の食べ物や飲み物を禁じる異端の教えがはびこっていたようです。それは、コロサイの教会にも入ろうとしていたようで、パウロはコロサイの教会への手紙の中で、「そういうわけで、食べ物や飲み物、あるいは、祭りや新月や安息日を、何か救いに必要なものと考えてはならない。」(コロサイ2:16)と言及しています。こうした異端的な教えは、このような律法を守っていないと救われないと教えていました。すなわち、信仰だけではだめで、信仰にプラスして何らかの行いが必要だと教えていたのです。こうした教えがこのヘブル人クリスチャンたちの間にも忍び込んでいました。

 

しかし、私たちが救われるために必要なすべての御業は完了しました。十字架によって。イエス様は、十字架の上で「完了した」と言われました。ですから、私たちはそのイエスの御業に感謝して、イエスを信じるだけでいいのです。どちらかというと日本人は「ただほど怖いものはない」とただで受けることに抵抗があり、何らかのお返しをしなければならないと思いがちですが、聖書で言っている救いとはそうしたことを一切必要とせず、ただ感謝して受け取るだけでいいのです。だから、「恵み」と言われているのです。それは神からの一方的な神からの賜物なのです。だからその恵みにいつも心を留めていなければなりません。そうでないと、振り回されてしまうことになります。この「迷わされてはなりません」の「迷わされる」という言葉は、「振り回される」とか、「吹き回される」という意味です。英語では「Driven」という言葉が使われています。流れに運ばれるとか、動かされるという意味になります。この言葉は、エペソ人への手紙4章14節にも使われていて、そこでは「吹き回される」と訳されています。「それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪だくみや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく・・」それはまさに風に吹き回されたような状態のことを言うのです。風はこっちから吹いていたかと思ったら次の瞬間にはあっちの方から吹いてきます。ある時は強く吹いているかと思ったら、次の瞬間はパタッと止んだりします。つまり一定ではないのです。いつもコロコロしていて安定していません。どこに吹き飛ばされてしまうかわからないのです。神の恵みにとどまっていないと、そのように吹き飛ばされてします。

 

ですから、恵みによって心を強めるのは良いことなのです。多くの人は恵みではなく、自分の行いによって心を強めようとします。一生懸命に伝道したり、熱心に奉仕をしたり、たくさん献金すれば心が強くなり、信仰が安定するだろうと考えているのです。伝道したり、奉仕したり、献金すること自体はすばらしいことですが、そうしなければ救われないとなると大変なことになります。そうしなければ救われないとか、そうすることによって心が強くなると思ってするのは間違っています。そうではなく、私たちは神に恵みによって救っていただいたので、その喜びから溢れてするのです。イエス様が十字架で完了してくださった救いの御業に信頼しその恵みの中に身を置くなら、あなたの心は強められるのです。

 

皆さんはどうでしょうか。ちょっとしたことですぐに不安になるのです、いつも心が揺れ動いて落ち着かないのです、という方はおられますか。そのような方は、どうぞイエス様のもとに来てください。イエス様はあなたのために十字架で死んでくださいました。あなたの救いのために必要なすべての代価を支払ってくださいました。ですから、もしあなたがイエスのもとに行くなら、あなたは何も悩む必要はないのです。あなたはそれを感謝して受け取るだけでいいのです。そうすれば、あなたは救われるからです。イエス様の恵みの中にあなた自身を置いてください。そうすれば、恵みによって心を強めていただくことができます。どんなことがあってもびくともしない深い平安を得ることができるのです。

 

皆さんはニック・ブイチチという方をご存知ですか。この方は生まれながら両手両脚がない障害を持って生まれました。彼は自分の状況に絶望し、8歳のころから三度も自殺を試みましたが、信仰深いクリスチャンである両親の全面的な支援と愛を受けて立派に育ちました。その彼がロサンゼルスでの講演を終えたあと、ひとりの女性が赤ちゃんを抱いて彼のもとにやって来ました。驚いたことに、その赤ちゃんはニックと同じように両手両脚がありませんでした。その母親は、子供の障害を何とか直そうと、多くの病院を巡り、神様に奇跡を現してくださるようにと祈りましたが、そのようなことは起こりませんでした。しかし、ニック・ブイチチの講演を聞いたその母親はこう言いました。

「神様は、きょうになって、ようやく奇跡を現してくださいました。私は今まで、子ともの手足が伸びて、完全な肉体を持った正常な人になれるように祈ってきましたが、きょうあなたを見て、手足がなくても幸せになれるということを知りました。そして、それこそが奇跡だということも。」

時には、苦しみを受けることが神のみこころであることがあります。その苦しみの中で神様に信頼し、あきらめないで歩んでいくとき、苦しみを許された神の意図を見いだすことができるのです。ですから、どんな苦しみの中にあってもキリストのもとに来て、キリストにすべてをゆだねるなら、キリストの恵みによってそのような苦しみの中にあっても心を強められ、びくともしない確かな人生を歩むことができるのです。

 

Ⅱ.宿営の外に出て(10-14)

 

第二のことは、宿営の外に出ようということです。10節から14節までをご覧ください。「私たちには一つの祭壇があります。幕屋で仕える者たちは、この祭壇から食べる権利がありません。動物の血は、罪のための供え物として、大祭司によって聖所の中まで持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるからです。ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。」どういうことでしょうか。

 

こここには旧約聖書における罪が贖われるための儀式とキリストの十字架の贖いの御業を比較して、宿営の外に出ることが勧められています。旧約聖書では、年に一度、民が犯したすべての罪が赦されるために、大祭司が雄牛と山羊を殺して、その血を取って、天幕の中に携えて行きました。天幕の中の一番奥のある至聖所と呼ばれる所に入って行き、そこに置かれた契約の箱の上にその血を振りかけたのです。血を取られた動物のからだはどうされたかというと、幕屋の門の外へ持って行き、そこで焼かれました。その体は汚れていたからです。それらの動物はイスラエルの罪を身代わりに負ったので、汚れているとされたのです。汚れたものは宿営の中に置くことができなかったので、宿営の外、幕屋の外へ持って行かれたのです。

 

ところで、ここには、「イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。」とあります。これはどういうことかと言うと、イエス様もあの殺されたいけにえの動物と同じように、エルサレムの町の郊外にあった十字架で死なれたという意味です。それはゴルゴタと呼ばれていた場所でした。なぜなら、イエスはあのいけにえの動物と同じように、人々の罪を身代わりに負われたからです。もともとイエスは神の子として全く罪のないお方でしたが、私たちの罪のために汚れた者となって死んでくださったのです。ということはどういうことかというと、神の恵みは宿営の中にあるのではなく、宿営の外にあるということです。神殿の中の祭壇や儀式にあるのではなく、十字架で成し遂げられた救いの御業の中にあるということなのです。であれば、そうした神殿の中にとどまっているのではなく、そこから出て、キリストのみもとに出て行かなければなりません。

 

何度も申し上げているように、この手紙は迫害の中にあったユダヤ人クリスチャンたちに宛てて書かれました。彼らは、かつてのユダヤ教から回心しイエス・キリストを救い主として受け入れましたが、そこには多くの苦難がありました。それまでのユダヤ人のコミュニティから追い出されるというだけでなく、時にはいのちを狙われることもありました。そうした中にあって彼らは、こんなことならクリスチャンとしてあまり目立った行動をせずに、神殿を中心としたかつてのユダヤ教の儀式にとどまっていた方が安全ではないかと考えていたのです。しかし、そこには救いはありません。イエス様はそのようなユダヤ教の伝統やしきたりから彼らを解放するために十字架にかかってくださいました。ですから、そんな彼らに求められていたことは思い切って宿営の外に出て、神のみもとに出て行くことだったのです。勿論、宿営から外に出るということは簡単なことではありません。元来、町というのは、外敵から守るために城壁がめぐらされていました。ですから、その城壁の内側にいれば安全です。そこから出るということは危険であることを意味していました。そこには罪を犯した人や汚れた人が住んでいました。普通の人が住めるような場所ではなかったのです。しかしキリストはそのような所から出て、罪人として死なれました。であれば、キリストの弟子である私たちも、そこから出て行かなければなりません。

 

「今の所から出る」ことは、確かに一つの大きな決断がいるでしょう。生まれながらの人間はいつも安定を求めますから、これまでの生活から出ようとしないのです。しかし、そこには救いはありません。救いは宿営の外に出たイエスの中にあるのですから。イエスはこう言われました。

「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その門は狭く、それを見い出す者はまれです。」(マタイ7:13-14)

いのちに至る門は小さく、その門は狭いのです。それを見い出す者はまれですが、そこにいのちがあるのです。迫害や苦しみはあるかもしれませんが、それを覚悟でその安住の場所から出て、主とともに生きる道を選ぶなら、あなたもいのちに至るのです。いや、そのような苦難の中にあっても、その中に主がともにいてくださり、それを乗り越えることができるように助けと力を与えてくだいます。

 

あなたにとっての恐れは何ですか。あなたにとっての十字架は何でしょうか。どうぞ恐れないで、あなたの十字架を負って、イエスのもとに出て行ってください。そうすれば、あなたも必ずいのちを得ることができますから。

 

14節には、「私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。」とあります。これがクリスチャンの生き方です。クリスチャンはこの地上に永遠の住まいを持っているかのようにではなく、天の都を求めているのです。なぜなら、この地上のものは一時的であり、天の都は永遠に続くからです。パウロは、Ⅱコリント4章18節で、「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」と言っています。また、同じⅡコリント5章7節では、「確かに、私たちは見えるところによってではなく、信仰によって歩んでいます。」と言っています。私たちは目に見えるこの地上の一時的なものだけでなく、目に見えないいつまでも続く天の都を持っているのですから、その都を求めて生きるべきなのです。

 

Ⅲ.賛美のいけにえをささげよう(15-16)

 

ですから、第三のことは、賛美のいけにえをささげようということです。15節をご覧ください。「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの過日を、神に絶えずささげようではありませんか。」

 

旧約聖書には、イスラエルの民が神を礼拝する時には動物のいけにえをささげることが求められていましたが、キリストが私たちのためにご自分のいのちという最高のいけにえをささげてくださったので、クリスチャンにはそのような動物のいけにえではなく、神が喜ばれる霊的ないけにえをげようというのです。そのいけにえとはどのようなものでしょうか。一つは賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実です。くちびるを通してささげられる賛美と感謝です。賛美というと、多くの人は讃美歌や聖歌、あるいはブレイズソングを歌うことであると思うかもしれませんが、ここで言われている賛美というのはただ口先だけで歌うのとは違い、主に向かってささげられる心からの賛美のことです。ですからそれは歌を歌っている時もそうですが、祈っている時にも、いつもくちびるからほとばしり出てくるものです。特にここには「絶えずささげようではありませんか」と言われています。いいことやうれしいことがあった時だけでなく、嫌なことや苦しいことがあっても、どうも歌うような気分になれない時も、体調が悪くうなだれているような時でも、毎日忙しくて賛美などしていられないというような時でもいつもです。いったいどうしたらそのようなことが可能なのでしょうか。ですからここには、「キリストを通して」とあるのです。キリストを通してでなければ、絶えず賛美することなどできません。でもイエス様を見上げるなら、どんな時でも賛美をささげることができます。

 

先週、私たちの結婚式を導いてくださった牧師婦人が召され葬式に参列しました。礼拝堂の前に置かれた棺の上には、この牧師婦人が書かれた紙が2枚置かれてありました。そこには、感謝、喜び、祈りと自筆で書かれてありました。1996年に乳がんを患ってから20年間、いつ天に召されるかわからない恐怖の中で、先生は主イエスにあって心からの賛美と感謝をささげることができたのです。イエスを見上げるなら、あなたもいつでも、どんな状況にあっても賛美のいけにえをささげることができるのです。なぜなら、イエスはあなたを愛して、あなたのためにいのちを捨ててくださいました。あたが一番苦しい時にでも、イエスはあなたを離れず、あなたを捨てませんでした。あなたのためにこれほどまでの痛みに耐え、最後までその愛の中に置いてくださったことを思う時、賛美が自然とあふれてくるのです。

 

パウロとシラスがピリピで伝道していたとき、占いの霊につかれていた若い女奴隷から占いの霊を追い出すと、もうける望みがなくなった主人から訴えられて、彼らは牢に入れられ、足かせを掛けられてしまいました。そのとき彼らはどうしたでしょうか。真夜中に、ふたりは神に祈りつつ賛美の歌を歌っていたと聖書に記録されています。すると突然大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部あいて、みなの鎖が解けてしまいました。目を覚ました看守は逃げられたと思い、「もうだめだ」と自害しようと思ったとき、パウロは大声で言いました。「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」助かったと思った看守はパウロとシラスのところに駆け込んでくると、ひれ伏して言いました。「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」するとふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:30)と言うと、彼とその家族は主イエスを信じ、その夜、その家の者全部がバプテスマを受けたのです。ハレルヤ!パウロとシラスはそのような状況でも主を賛美しました。なぜなら、主は賛美を受けるにふさわしいお方だからです。主は、私たちがいつでも、どんな時でも、主を賛美することを願っておられるのです。

 

詩篇34篇1節を開いてください。これはダビデの賛美です。

「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。」

これはダビデが敵であったペリシテの王に捕まえ、そこから脱出した時に歌った詩です。この時ダビデはサウル王から逃れペリシテの町に行きましたが、ペリシテまたイスラエルに手は対していた民族です。それがダビデであることはすぐにばれてしまいました。いったいどうしようか悩んだ末に、彼はペリシテの王アビメレクの前で気が狂った人のふりをして、この危機を逃れたのです。彼は、門の扉に傷をつけたり、ひげによだれを垂らしたりして気違いを装ったのです。するとアビメレクはそれを見て、「こんな気の狂った人間に用はない。さっさと私の前から連れて行け」と家来に命じたので、ダビデはやっとの思いで危険から脱出したのです。その時に歌った詩なのです。

ダビデにとってどんなに屈辱的であったかわかりません。それでも彼は賛美しました。あらゆる時に主を賛美したのです。

 

クリスチャンの信仰生活には、信仰によって困難を乗り越えて前進する時もあれば、ダビデのようにペリシテの王の前で気が狂ったかのような真似をしなければ自分を守れないようなときもあります。しかし、あらゆる時に主を賛美しなければなりません。なぜなら、そこにも神の守りと助けがあるからです。いやむしろ、そうした中にこそ、もっと深い神の恵みがあるのです。ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえを、神に絶えずささげることができるのです。

 

それから善を行うことと、持ち物を人に分けることも怠ってはいけない、とあります。これはどういうことかというと、賛美は歌ったり、祈ったりといたくちびるによってささげられるものだけでなく、善を行ったり、持ち物を分け与えたりといった行いによっても表すことができるもので、そうしたいけにえを神は喜ばれるということです。それは神の恵みによってキリストのいのちを受けた人にとっては、むしろ自然の流れであると言えるでしょう。

 

だからパウロはこう言ったのです。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)

「そういうわけですから」とは、パウロがそれまで語ってきたことを受けてということですが、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められたので、ということです。そういうわけで、その深い神の恵みを受けたのであれば、今度は自分自身を神様にささげて生きるべきであるというのです。それが善行であり、持ち物を分け合うということによって表れてくるのです。それが、「あなたがたのからだを、神に受け入れられる生きた供え物としてささげなさい。」ということです。あなたがたのからだをささげるというのはおもしろい表現です。普通ならば「心をささげなさい」と言うのではないかと思いますが、パウロは「からだをささげなさい」と言いました。からだをささげるとは自分のすべてをささげるという意味です。クリスチャンがささげるいけにえは死んだ動物ではなく生きている自分自身であって、自分の存在のすべて、自分の生活そのものが、神様へのいけにえだというのです。

 

18世紀のアメリカを代表する伝道者であったD・L・ムーディは、ある時神様の迫りを感じ礼拝に回ってきた献金の皿の上に、「D・L・ムーディ」と書いた紙切れを置いたと言われています。彼は自分自身を神へのいけにえとしてささげたのです。その皿の中で横になりたい気持だったのでしょう。私たちのからだをささげるとは、そういうことなのです。

 

ある人は、聖会で神のことばを聞いたとき、神の御霊が激しく彼に臨み、肌身離さず持っていた金メダルを献金の皿の上に置きました。それはオリンピックで獲得した金メダルでした。今まで10ドル献金していた人が100ドルささげたというならわかりますが、金メダルをささげたとは聞いたことがありません。その人にとっては、自分の人生において最も大切なものをささげることによって、自分の気持ちを表したのでしょう。

 

神様が喜んでくださるいけにえとは、このようないけにえです。神は私たちを、聖い、生きた供え物としてささげることを望んでおられるのです。それこそ霊的な礼拝なのです。私たちもこのようないけにえを神にささげようではありませんか。それは神がまず私たちをあわれんで、罪の中から救ってくださったからなのです。

ヘブル人への手紙13章1~6節 「主は私の助け手です」

いよいよヘブル人への手紙の最終章に入ります。この手紙の著者は、迫害の中にあったユダヤ人クリスチャンたちに対して、彼らがなぜキリストの恵みにとどまり、信仰のマラソンを最後まで走り続けなければならないのかについて述べてきました。そしてそれは、彼らには揺り動かされない御国に入るという約束が与えられているからです。であれば、そのような特権に与ったクリスチャンはどうあるべきなのでしょうか。そこでこの手紙の著者は最後に、それにふさわしい生き方とはどのようなものなのかを語ってこの手紙を結ぶのです。その第一回目の今回は「主は私の助け手です」というテーマでお話ししたいと思います。

 

皆さん、私たちの生活は何を信じるかによって決まります。つまらないものを信じていればつまらない生活となり、すばらしいものを信じていればすばらしい生活になります。もし「この世の中は金次第だ」と思っていれば、人生はお金の奴隷のようなものになり、そこには何の潤いもない、すべはお金という尺度で測られるような生活になってしまいます。その結果家族の間には心の交流はなくなり、お金がすべてといった生活になってしまうのです。ですから、私たちが何を信じて生きるのかということは、私たちの生活を左右するとても重要なことなのです。

 

それは信仰生活も同じで、私たちが何をどのように信じているかによって、その生活のスタイルが決まります。ですから、この手紙の著者は、私たちが信じている信仰の内容とはどのようなものかを述べた後で、いよいよその信仰から出てくる生活について勧めるのです。そしてその中で最も大切な愛について語っています。

 

Ⅰ.兄弟愛をいつも持っていなさい(1-3)

 

まず、第一のことは、兄弟愛をいつも持っていなさいということです。1節から3節までをご覧ください。1節には、「兄弟愛をいつも持っていなさい。」とあります。

 

このヘブル人への手紙をはじめ、聖書全体でクリスチャンに対して強く言われていることは、互いに愛し合いなさいということです。この手紙の読者であったユダヤ人クリスチャンたちは、クリスチャンに回心したことで、これまでのようにユダヤ人としてその共同体の中で生きていくことが困難になっていました。そのような時に彼らに必要だったことは何かというと、互いに愛と善行を促すことです。ですから、10章24節には、「また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。」と勧められ、また、続く25節にも「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」勧められていました。そういう状況であったからこそ、ますます熱く愛し合うことが必要だったのです。

 

そして、ここには「いつも」と強調されています。調子がいい時だけでなくいつもです。以前は熱心に愛し合っていたけど、今は冷めてしまいましたというのではなく、いつもです。6章10節には、「神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。」とあります。彼らはかつて熱心に愛し合っていました。しかし、クリスチャンとしての歩みの中で迫害や苦難に会うと、いつしかその愛が冷めてしまっていたのです。

 

これは私たちにも言えることではないでしょうか。イエス様を信じて救われた時は喜びにあふれていました。何をしてもうれしいのです。教会に集まって一緒に賛美したり祈ったりすることが楽しくて、できるだけみんなと交わりたいと思っていました。しかし、長い信仰生活の中で人間関係に疲れたり、様々な問題に直面すると、いつしかそのような関わりを避け、自分の殻に閉じこもるようになります。それはちょうどガソリンスタンドで給油するようなものです。一週間の中でいろいろなことエネルギーを使い果たした人がガソリンスタンドにやって来て、そこでたまたま知り合いの人でガソリンの給油にやって来る人がいると、「あっ、お元気ですか。毎日大変ですね。」と言ってその場を去っていくようなものなのです。そこには他の人との関わりはありません。しかし聖書が教える教会とは、自分の好みや利益のために集まるような所ではなく、神が招き、共に生きるように導かれた信仰の共同体であり、神の家族なのです。ですから、イエス様はこの共同体を実現するためにこのように言われたのです。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:35)ですから、教会は私と神様という個人的な関係だけでなく、私たちと神様という関係であり、そうした関わりが求められるのです。

 

イエス様はアジアにある七つの教会に手紙を書き送りましたが、その中にラオデキヤの教会に対して次のように書き送りました。「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、暑くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」(黙示録3:15-16)

ラオデキヤの教会はどういう点で熱くもなく、冷たくもなかったのでしょうか。自分のことしか考えていなかったという点においてです。「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることを知らない。」(黙示録3:17)

彼らは自分の姿が見えませんでした。自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、他の兄弟たちのことが見ていませんでした。ですから、彼らに必要だったのは、他の兄弟が見えるようになるために、目に塗る目薬を買うということだったのです。

 

それは私たちも同じです。自分のことだけに向きがちな関心を、他の兄弟に向けなければなりません。パウロも、「自分のことだけでなく、他の人のことも顧みなさい。」(ピリピ2:4)と勧めています。兄弟愛をいつも持っていることは、神の愛によって救われたクリスチャンがまず第一に求めていかなければならないことなのです。

 

次に2節をご覧ください。ここには、「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました。」とあります。このような互いの愛は、具体的な行動になって表れてきます。その一つが、旅人をもてなすことです。

 

旅人をもてなすということは、当時の社会において非常に重要なことでした。というのは、当時は今のように宿泊施設が整っているわけではなかったからです。ですから、巡回伝道者や預言者、あるいは仕事で旅行しなければならなかったクリスチャンにとっては、何よりもありがたいことだったのです。

 

「ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました。」とは、アブラハムのことです。アブラハムは三人の人が自分の天幕を通り過ぎようとした時、この見知らぬ人々を心からもてなしました。彼らは御使いで、そのうちの一人は主の使い、すなわち、受肉前のキリストでしたが、アブラハムは彼らを見ると地にひれ伏して礼をし、上等の小麦粉でパンを作り、また美味しそうな子牛を取って料理して、彼らをもてなしました。彼は、それが神の御使いだと知らずにもてなしました。それはアブラハムにとって特別のことではなく、板についていたというか、習慣になっていたのです。旅人をもてなすことは時間も労力もお金もかかるためかなりの犠牲を強いられますが、だからこそ私たちのためにご自身のいのちを犠牲にして愛してくださった主の愛にふさわしい応答でもあるのです。

 

特に外国の方々をもてなしましょう。言葉や文化が違う所で生活することは私たちの想像を超える困難があります。そのような中で温かく迎えてもらえることは本当に助かります。

私は今年の夏中国へ行きましたが、そこで受けたもてなしにとても感動しました。行く所、行く所、どこでも喜んで歓迎してくれました。「これはにわとり足ですがおいしいです。どうぞ食べてください。」「これは近くの川で今朝とった魚ですがおいしいです。どうぞ食べてください。」と、たくさんのお料理がテーブルに並べられてもてなしていただきました。中国の教会が成長しているのは、こうした生きた神の愛といのちが脈々と流れているからだということを強く示されました。

 

また、昨年の夏にアメリカのサンディエゴにいるスティーブ・ウィラー先生のお宅を訪問したときも、その心からのおもてなしに強く心が打たれました。ウィーラー先生のお宅には私たちのようなゲストが来ても泊まれるようにゲストルームが用意されてあり、そこにはトイレやシャワールームも完備されているので気兼ねなく泊まれるようになっています。また、広々としたガーデンを見渡せるデッキで食事ができるようになっていて、ゆっくりとくつろぐことができます。特に私たちが日本の教会の開拓に携わっているということで気を使ってくださり、滞在中はサンディエゴズーやサファリ―パーク、市内の観光にも連れて行ってくれました。本当に申し訳ないと思うほどのもてなしをしていただいて恐縮ではありましたが、キリストにある愛の深さを強く感じることができました。

 

中国でのもてなしにしても、アメリカでのもてなしにしても、それぞれ文化の違いもあり一様に同じではありませんでしたが、そこに流れていた精神は同じでした。それは兄弟愛をいつも持っていなさい。旅人をもてなすことを忘れはいけません、ということです。ややもすると私たちは完璧なもてなしを求めるあまり言葉が通じなかったり、文化の違いがあるとどのように接したらいいかわからないと不安になり、接触を避ける傾向がありますが、本当の愛はどのようにもてなすかということではなく、兄弟愛をもって愛すること、旅人をもてなすということを実践することなのです。

 

もう一つのことは、牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやり、また、自分も肉体を持っているのですから、苦しめられている人々を思いやりなさい、ということです。これはどういうことかというと、信仰のために投獄されている人々を自分のことのように思うということです。この牢につながれている人々というのはキリストの名のゆえに投獄されている人々のことです。日本では、信仰のために投獄されている人はほとんどいないだろうと思いますが、世界には今でもそのような人たちがたくさんいます。先にも述べたように、当時クリスチャンは信仰のゆえにしばしば投獄され重い刑罰を科せられました。このような時、クリスチャンは祈ることはもちろんのこと、自分も牢にいる気持ちで思いやり、時には訪問したり、何かを差し入れたりして、具体的に助け合うことが求められました。なぜかというと、その人たちは同じキリストのからだである教会に属している器官だからです。「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が喜べば、すべての部分がともに喜ぶのです。」(Ⅰコリント12:26)私たちはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。私たちはそれぞれ一つのからだにつながっているので、一つの器官が苦しめば、すべての器官がともに苦しむのは当然のことなのです。

 

Ⅱ.結婚がすべての人に尊ばれるように(5)

 

第二のことは、結婚がすべての人に尊ばれるようにすることです。5節をご覧ください。「結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行う者とをさばかれるからです。」

 

皆さん、本来、結婚は尊ばれるものです。すべての人に、クリスチャンの人にも、ノンクリスチャンの人にも、すべての人に尊ばれるものなのです。それなのに、結婚はあまり尊ばれていません。結婚することにどんな意味があるのか、結婚して束縛されるのならもっと自由でいた方がいいと、あまり結婚したがらないのです。しかし、結婚は本来神が制定されたものであって、人類の幸福と繁栄のために与えられたものです。その結婚が尊ばれなくなってしまいました。なぜなら、それを破壊するものがあるからです。それが不品行であり、姦淫です。不品行とは性的なすべての罪のこと、姦淫とは、結婚関係以外に性的関係を持つことです。ですからここに、寝床を汚してはいけません、とあるのです。性的関係は夫婦の枠組みの中では尊いものであり、夫婦の関係を緊密にするものですが、その枠組みから離れたところで行われると喜びが台無しになってしまうどころか、汚れたものになってしまうのです。それはちょうど花壇の花のようです。花壇にはふわふわした柔らかな土がまかれ、そこに花が咲くととてもきれいですが、花壇の外に、たとえばリビングに柔らかな土をまいて花を咲かせても、それはきれいではありません。むしろ汚い限りです。花はやわらかな土が置かれた花壇に咲くときれいですが、それ以外のところにまかれると汚れてしまうのです。それと同じように性的な関係も夫婦という枠組みの中で行われると喜びであり、二人の関係が緊密にしますが、それ以外の枠組みで行われると汚れてしまうのです。

 

創世記2章24節には、結婚の奥義について次のように言われています。「それゆえ男は父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」

皆さん、二人はどうしたら一心同体になるのでしょうか。父母を離れ、つまりふたりは結婚して、妻あるいは夫と結ばれ、すなわち、性的な関係が持つことによって一心同体になるのです。この順序が重要です。男と女は結婚して、妻と結ばれ、そうした性的結合が持たれることによって、一心同体となる、すなわち、より親密な関係になるのであって、結ばれる前に関係を持つと、あるいは結婚してからその枠の外で関係を持つと、逆に自分自身を、夫婦の関係が滅ぼしてしまうことになるのです。

 

箴言6章27~29節、32~33節をご覧ください。

「人は火をふところにかき込んで、その着物が焼けないだろうか。また人が、熱い火を踏んで、その足が焼けないだろうか。隣の人の妻と貫通する者は、これと同じこと、その女に触れた者はだれでも罰を免れない。」

「女と貫通する者は思慮に欠けている。これを行う者は自分自身を滅ぼす。彼は傷と恥辱とを受けて、そのそしりを消し去ることはできない。」

 

火というのは隣人の妻のことです。そのような者と貫通すると、罰を免れません。それどころか、自分自身を滅ぼし、そのそしりを消し去ることはできません。たとえば、ダビデがバテシェバと姦淫を行ったとき、その罪責感でのたうちまわった、その心はカラカラに渇ききっていたと告白しています。(詩篇32:3-4)ですからパウロは、Ⅰコリント6章18節のところで、「不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を犯す者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。」と言っているのです。自分のからだに対して罪を犯すとはどういうことかというと、このように自分自身を滅ぼすということ、それがずっと消えないということです。だから不品行を避けなければならないのです。それが結婚の前であっても、後であっても、結婚という枠組みの外で行われるなら、それが自分を傷つけ、その傷がいつまでも残り、自分自身を滅ぼすことになってしまうのです。そして、夫婦関係を、家族関係を破壊することになるのです。そしてその結果、地域社会、社会全体が破壊しまうことになります。それはこの社会を見ればわかるでしょう。社会全体が病んでいます。

 

それでは、どうしたらいいのでしょうか。もしそのような関係にあるならば、私たちはどうしたらいいのでしょうか。幸いなことに、私たちが罪を犯したからといって神は狼狽することはありません。もう神は受け入れてくださらないということはありません。傷は一生残るかもしれませんが、神は回復させてくださいます。もう一度麗しい関係を持たせてくださるのです。もう赦されないということはありません。ではそのためにどうしたらいいのでしょうか。聖書は悔い改めと実りある人生のために、次の四つのステップを踏むことを勧めています。

第一に、罪を告白して悔い改めることです。Ⅰヨハネ1章9節には、「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」とあります。私たちが罪を犯したならばそれが罪であったと認めて、悔い改めることです。それが砕かれるということです。自分が間違ったことをしたと認めることが砕かれるということです。これが最初にすべきことです。

第二のことは、その罪を捨てること、罪から離れることです。箴言28章13節には、「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。」とあります。どういう人があわれみを受けるのでしょうか。それを告白して、それを捨てる人です。自分のそむきの罪を隠す者は成功しません。

第三のことは、神の聖さを求めることです。詩篇51篇10節に、「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。」とあります。これはダビデのマスキールですが、彼はナタンによって罪が示されたときその罪の赦しを求めただけでなく、きよめられることを求めました。

そして第四のことは、悪魔の誘惑を避けることです。パウロは若き伝道者テモテに次のように書き送りました。「それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」(Ⅱテモテ2:22)罪から離れても、再び悪魔が誘惑してきます。誘惑自体は罪でも悪でもありません。問題はその誘惑に落ちてしまうことです。どうした誘惑に勝利することができるのでしょうか。ここでは二つのことが言われています。一つは情欲を避けるということ、そしてもう一つのことは、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めるということです。そうすれば守られるのです。

 

バテシェバと姦淫して後悔と憂鬱の中に疲れきっていたダビデは、主に罪を告白し、悔い改めて、その罪を赦していただきました。その時彼はどのように告白したでしょうか。詩篇32篇1-2節です。彼はこのように賛美しました。「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、その霊に欺きのない人は。」これは彼が罪を犯して悔い改め、その罪を捨て、離れることによって、罪をきよめていただいたダビデが歌った詩なのです。彼は、「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。」と高らかに賛美することができました。この「幸い」はHappyです。皆さんはHappyですか。その罪を赦していただきましたか。罪が赦され、罪がおおわれた人は何とHappyでしょうか。確かに自分の犯した罪に苦しむことはあっても、主がその罪を赦してくださったと言える人は本当にHappyなのです。そればかりか、詩篇51篇13節に、「私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。」とあるように、その経験が、同じような罪で苦しんでいる人の助けとして用いられることもあるのです。ですから、罪を犯したからもう終わりだとあきらめないでください。神様はその罪を赦してくださいます。そして、あなたをきよめて、ご自身のご栄光のために用いてくださるのです。

 

Ⅲ.金銭を愛する生活をしてはいけません(5-6)

 

第三のことは、金銭を愛する生活をしてはいけないということです。5節と6節をご覧ください。「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしはけっしてあなたを離れず、また、あなたを捨てなさい。そこで、私たちは確信してこう言います。「主は私の助けです。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」

 

金銭を愛することは、神を愛することに逆行することです。イエス様も、「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:24)と言われました。神を愛するのではなく、金銭を愛することが問題です。Ⅰテモテ6章9節にも、「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。」と言われています。金銭そのものが問題ではなく、金銭を愛することが問題です。この金銭を愛することがあらゆる悪の根だからです。ですから、争いごとの多くは大抵お金が絡んでいるのです。人はお金があれば幸せになれると思っていますが、実際にはお金を愛することで自分自身を亡ぼすことになってしまうのです。

 

以前、イタリアでもひとりの男の死が話題になりました。彼は公営の賭博で3億円を当て、かつては「イタリアで一番幸福な男」と言われた人物でしたが、「一度当たって二度当たらぬはずがない」とその後ギャンブルに手を染め、ついには一文無しになってしまったのです。

彼の最期は悲劇でした。子どもたちに里帰りの列車の指定席代も払ってやることができなかった彼は、自由席を確保しようと、ミラノ駅構内でまだ止まりきらない列車に飛び乗りました。そして線路に落ち、列車の下敷きになって死んでしまったのです。

彼の死は国中で話題になりました。大金を手にして金に目がくらみ、最後は一番大切ないのちまでも失った彼の人生は、はたして本当に「イタリアで一番幸福」だったのでしょうか。

 

ですから、金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなければなりません。なぜなら、主ご自身がこう言われるからです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てなさい。」これがどのみことばからの引用なのかはわかりません。イエス様は、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と言われましたが、「あなたを離れず、あなたを捨てなさい。」と言われたとは書かれていないからです。おそらくこれは旧約聖書からの引用でしょう。申命記31章6節やヨシュア記1章5節にそのような約束のことばがあります。しかし、ここで重要なことはどこからの引用であるかということではなく、この金銭を愛する生活をしてはいけないということが、このことと深いつながりがあるということです。すなわち、もしあなたがイエス様としっかりつながっていて、イエス様と親しい関係にあれば、あなたはもう不満足であるということはないということです。でももしあなたがイエス様から離れていて、イエス様との関係がなければ、何をしても不満であり、いつまでも満足することはできないということです。だから不満になるとお金やモノで心を埋めようとするのです。あなたがイエス・キリストに近ければ近いほど、あなたの心は満たされるのです。イエス様との関係が、あなたの心の満たしのバロメーターになるということです。主は決してあなたから離れず、あなたを捨てないと約束しておられます。にもかかわらずその主から離れてしまうと、人との関係やビジネスとの関係を優先してしまうのです。そうすると、いつまでも心が満たされることはありません。イエス様がいれば十分満足なはずだからです。

 

それはちょうど新婚時代のようです。新婚時代のことを思い起こしてください。皆さんにも新婚の時代があったはずです。それははるか昔、もう忘れてしまったわという方もおられるかもしれませんが、その感覚は覚えているでしょう。もう何も無くても幸せでした。あなたと二人、同じ屋根の下に一緒にいるだけで幸せだったはずです。別に高級な車がなくても、大きな家に住んでいなくても、そんなに贅沢な暮らしなんてできなくても、もう十分満足でした。それなのに結婚してしばらくすると、ちょっとしたことでも嫌になって文句を言うようになります。その愛から離れているからです。愛があれば必ず満足することができるのです。

 

ですから、聖書は確信に満ちてこういうのです。6節の「」のことばをご一緒に読みましょう。「主は私たちの助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」このような確信はどこから与えられるのでしょうか。聖書のみことばです。聖書のみことばを通して、私たちは確信に満ちてこういうことができるのです。聖書のみことばをベースにして生きるなら、たとえ問題があっても、たとえ不安なことがあっても、私たちはこういうことができるのです。「主は私たちの助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」

 

皆さん、人を恐れるとわなにかかります。しかし、主を恐れる者は守られるのです。主は私の助け手です。人間は、私に対して何もすることができません。だから何も恐れる必要はありません。あれがない、これがない、今月の支払いが間に合わない、リストラされたらどうしよう、パートの時間が減らされた、子供の学費をどうしようと心配するのはやめましょう。そういうのは神様を信じていない人です。神様を信じている人は、神が私の助け手ですと確信に満ちているので、何も恐れる必要がないのです。現代は不安の時代だと言われています。先が見えなくてみんな不安になっています。それはこの確信がないからです。心配すれば恐怖で暗くなりますが、この確信に満たされていれば、心がパッと明るくなり、安心感を持つことができます。

 

この手紙の受取人であったユダヤ人クリスチャンたちは、迫害によって財産までも奪われていました。彼らは、すべてを彼らは失ってしまったのです。けれども、彼らには信仰がありました。それは、主が彼らとともにおられるということです。彼らはすべてを失いましたが、一番大事なものを持っていました。それはイエス・キリストでした。イエス・キリストを持っているということはすべてを持っているということだからです。なぜなら、それは永遠のいのちを持っているということだからです。その一方でこの地上ですべてのものを持っていたとしても、もしいちばん大切なもの、永遠のいのち、イエス・キリストを持っていなのならば悲惨です。なぜならこの地上のものはすべて一時的なものであって、どんなものでもすべて過ぎ去ってしまうからです。この主がともにおられることこそ、私たちが勝利ある人生を歩んでいく秘訣なのです。

 

星野富広さんの詩の中に、「いのちよりも大切なもの」という詩があります。

「いのちが一番大切だと 思っていたころ

生きるのが苦しかった

いのちより大切なものがあると知った日

生きているのが嬉しかった」

ここで星野さんが言っている「いのちよりも大切なもの」とは何でしょうか。よく人間にとって一番大切なものは「いのち」だと言われますが、そのいのちよりも大切なものがあるというのです。それはイエス・キリストであり、イエス・キリストを信じることによってもたらされる永遠のいのちです。星野さんはかつて中学校の体育の教師として健康な肉体と、体育の能力にもすぐれた人でしたが、それらを一瞬のうちに失い、絶望の淵に落ちました。その苦しみと試練は過酷でありましたが、入院中に聖書に出会い、そこから本当の生きる希望と喜びを見出だしたのです。

 

あなたはこのイエス様を信じていますか。そして、イエス様にしっかりつながっておられるでしょうか。イエス様があなたとともにおられるなら、あなたはそれで十分です。イエス様があなたを助けてくださるからです。

これが、クリスチャンの人生観の根底にあるものです。ですから、私たちはどんな思い煩いからも解放され、何が真の満足であるかを悟りながら、この世を旅することができるのです。このようないのちを与えてくださった主に感謝します。そして、いつも主がともにおられることを信じて、主とともに歩んでまいりましょう。

ヘブル人への手紙12章18~29節 「揺り動かされない御国」

きょうは、「揺り動かされない御国」というタイトルでお話したいと思います。御国とは天国のことです。私たちにはこんなにすばらしい天国が約束されているのですから、感謝をもって歩もうではありませんかということです。

 

私たちの信仰生活はマラソンのようなものだということをお話ししてきましたが、長いマラソン競争の中にはいろいろなことが起こってきます。しかしそれがどんなことがあっても弱り果ててしまうことがなく最後まで走り続けるために、この手紙の著者はいろいろな勧めをしてきました。前回の箇所ではその一つがすべての人との平和を追い求めなさいということであり、聖い生活を追い求めなさいということでした。また、この世のものにしか関心がなく、信仰のことにはまったく関心がなかったエサウのようにならないように注意しなければならないということでした。

 

今日、私たちが学ぼうとしている箇所には、その理由が述べられています。新改訳聖書には訳されていませんが、実は18節の文章の最初には、原文で「なぜなら」という言葉があって、その理由が述べられているのです。なぜ平和を追い求めなければならないのか、なぜ聖い生活を追い求めなければならないのか、なぜエサウのようにこの世のことばかりに関心を持っていてはならないのか、なぜなら、私たちにはほんとうにすばらしい天の御国に入るという特権が与えられているからです。私たちがマラソンをする上で重要なことはどこに向かって走っていくのかということです。それがわかっていればどんなに苦しくてもそれを乗り越えて進んで行くことができますが、そうでないとちょっとした困難にぶつかっても「や~めた」と言って途中でリタイヤすることになってしまいます。そこでこの手紙の著者は、私たちの信仰のゴールである天国がどれほどすばらしいものであるかを見せることによって、その信仰にしっかりと留まるように励ましているのです。それでは、天国とはどういうところでしょうか。

 

Ⅰ.すばらしい天国(18-24)

 

まず、18節から24節までをご覧ください。ここには旧約聖書に出てくるシナイ山と比較して、天国はそのようなものとは全く違うものであると述べられています。18節と19節には、「あなた方は、手でさわられる山、燃える火、黒い雲、暗やみ、あらし、ラッパの響き、ことばのとどろきに近づいているのではありません。このとどきは、これを聞いた者たちが、それ以上一言も加えてもらいたくないと願ったものです。」とあります。

 

これはどういうことかというと、昔イスラエルがエジプトを出てから十戒が与えられたあのシナイ山に近づいた時のことを指しています。神が臨在していると言われていたシナイ山に近づこうとしていた時、それはどのようなものだったでしょうか。「たとい、獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない」という命令に耐えることができず、その光景があまりにも恐ろしかったので、イスラエルの民は皆、震えおののいていました。つまり、あの十戒はどのようにして与えられたのかというと、恐れの中で与えられたのです。神様はあまりにも聖いお方なので、罪に汚れた人間が近づこうものならばたちまち滅ぼされてしまったのです。

 

それは人間の罪がいかに恐ろしいものであるかを教えるためには必要なことでした。神は全く聖い方なので、少しでも罪を持っていたり汚れた人間が近づくことはできませんでした。すなわち、神の律法がモーセによって与えられたのは、人間がいかに罪深い者であり、自分の力では到底律法には従えない存在であることを自覚させるためだったのです。ですから、それが与えられた時の状況も、当然それにふさわしい雰囲気であったわけです。厳かな感じです。軽くありません。日本の国家はそんな感じですね。とても厳かです。あまりにも厳かすぎて沈みそうになります。十戒が与えられたのはそのような厳かな雰囲気の中で、神に近づこうものならたちまち打たれてしまうような恐ろしさがあったのです。

 

しかし、私たちが行こうとしている天国は、決してそのような所ではありません。それは、私たちの罪がイエス様の十字架の死によって取り除かれたからです。ですから、神は全く聖く、威厳のある方ですが、私たちは何の恐れもなく大胆に神に近づくことができるのです。22節から24節までをご覧ください。ここには、「しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルよりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。」とあります。

 

これが神の恵みよって、クリスチャンに与えられている行き先です。それはシナイにある山ではなく、シオンにある山です。地上のエルサレムではなく、天にあるエルサレムです。そこは、生ける神が臨在しているところなのです。それはこの書の11章に出てきたアブラハムやイサク、ヤコブといった信仰に生きた人たちが待ち望んでいた都でした。ヨハネの黙示録21章に出てくる幻は、まさにこの神の都、天国の光景だったのです。

 

その神の都、天のエルサレムの特徴は、シナイ山における恐ろしいさばきではなく、無数の御使いたちによる大祝会です。イエス様は、「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」(ルカ15:10)と言われましたが、そうした無数の天使たちの喜びが沸き起こっているところ、それが天国なのです。この天国が私たちに近づいているのです。やがて私たちはこの天のエルサレム、永遠の都に住むようになるのです。

 

そして、そこには天に名が登録されているすべての聖徒たちがいます。パウロやペテロといった聖書に登場している人もいれば、最近死んだクリスチャンの肉親や友人たちもいます。そこにはイエス様を信じて、天に名が書き記されたすべての聖徒たちがいて、主をほめたたえているのです。

 

私が初めて韓国の教会を訪問したのは1993年のことでしたが、ホーリネス教会では世界で一番大きいと言われている光林教会での礼拝を今でも忘れることができません。そこには何千人もの礼拝者がいましたが、礼拝が始まると礼拝堂の両脇のカーテンが自動的に閉まると、何百人で構成されたオーケストラが讃美歌を奏でたのです。するとこれまた何百人の聖歌隊が現れて、一緒に「来る朝ごとに」という讃美歌を歌いました。体が震えるほどの荘厳さと感動を覚えました。でも、天国での賛美はそんなものではありません。無数の御使いたちとともに何千、何万の聖徒たちが賛美をささげているのですから、ものすごい喜びと感動にあふれていることでしょう。

 

そればかりではありません。そこには私たちをそこに入ることができるようにしてくださった新しい契約の仲介者であられるイエス様がおられます。天国が恐ろしいところではなく喜びに満ち溢れた所であるのは、もっぱらそのイエス様がおられるからなのです。なぜなら、イエス様はその血によって私たちの罪を贖ってくださった方だからです。イエス様の血によって私たちのすべての罪が赦されました。もはやあなたの罪が思い出されることはありません。ですから、あなたは何も恐れることなく大胆に神のみもとである天国に行くことができるのです。

 

この「近づいている」という言葉は、そのことを表しています。原文では完了形といって、もうすでに起こった決定的なことを意味しています。そうです、イエス様が十字架で私たちのために死なれ、私たちのために血を流してくださったので、私たちの罪は取り除かれ、大胆に神のみもとに行けるようになりました。確かに今はまだこの地上にあってさまざまな問題で悩みで苦しまなければなりませんが、神の聖霊が私たちの心の中に住んでおられるので、この聖霊によって、そうした問題に悩まされることがあっても、さながら天国のような喜びにあずかることができるのです。そのことをペテロはこう言っています。

「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いまは見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことができない、栄に満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(Ⅰペテロ1:8-9)

何とすばらしい約束でしょうか。私たちはイエス・キリストを見たことはないけれども、このイエスを信じたことで、その中に入れていただきました。そして、ことばに尽くすことができない栄えに満ちた喜びに踊っているのです。

 

皆さんは、この喜びに踊っていますか。皆さんが近づいているのは恐ろしいシナイの山でしょうか、喜びにあふれたシオンの山でしょうか。だれでもイエス・キリストを信じるなら、この天国に名が書き記されるのです。そして何の恐れもなく、大胆に神のもとに近づくことができるのです。私たちが見なければならないのはこの天の御国です。天国を見れば希望が与えられます。そして、目の前にどんな問題があってもそれを乗り越えて走り続けることができるのです。

 

Ⅱ.天国の一員として(25-27)

 

第二のことは、天国がそれほどすばらしいところであるならば、その一員としての自覚と責任を持たなければならないということです。25節から27節までをご覧ください。

「語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。」

 

どんな場合でも、すばらしい特権にあずかれば、必ずそれに伴った責任があります。それは、どのような場合でも同じです。多くの子どもたちは早く大人になりたいと思っています。大人になれば何でも自由で、自分の思うように出来ると思っているからです。しかし、大人になれば自分の思うように出来ると同時に、自分のすることに対して責任を持たなければなりません。最近では必ずしもそうではないようですが、しかし多くのサラリーマンは社長になりたいと思っています。社長になればあれも出来る、これも出来ると、何でも出来ると思っているからです。送り迎えは運転手付きの車で、混雑した通勤電車に乗らなくても済みます。しかし、社長ほど大変な立場はないのです。というのは、社長には大きな責任があって、自分が下す決断いかんによっては、社員とその家族の生活がかかっているわけで、まかり間違うと、彼らを路頭に迷わしかねません。そういうことを考えると、オチオチ眠ってなどいられないのです。

 

それは私たちクリスチャンも同じで、クリスチャンにも大きな特権が与えられていて、その特権というのは大人になるとか社長になるといったものとは比べものにならないくらいすばらしいものです。神が永遠に共におられる天国へ行くことができるのですから。これほどすばらしい特権はありません。天国のすばらしいさがわからない人にとっては、それは絵に描いた餅のようなものでしかないかもしれませんが、そのすばらしさが少しでもわかっている人にとっては、道草を食ったりしないで、一目散に天国へ向かって行きたいと思うほどです。

 

しかし、そのような特権にあずかっているのに道草を食っている人がいるので、この手紙の著者はこのように語りかけているのです。「語っている方を拒まないように注意しまさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。」

 

どういうことでしょうか。イスラエルの民は、エジプトを出てから荒野を旅している間、モーセを通して神のことばを聞いていましたが、彼らは繰り返し、繰り返しそれに従わず、つぶやいたり、不平不満を言って神に逆らったがために、エジプトを出た時に成人していた六十万人の中で約束の地に入ることができたのはたった二人しかいなかったのです。それはヨシュアとカレブという人だけで、他の人たちはみな、荒野で死ななければなりませんでした。約束の地に入ることができなかったのです。それは、彼らが神の仰せに従わなかったからです。であれば、神そのものであられるイエス様が仰せになられたことに従わなかったら、どれほど大きな罰を受けるかは明らかなことです。昔イスラエルが約束の地に入ることができなかったように、神が約束してくださった天の御国に入ることはできないのです。それが、天国へ行く私たちクリスチャンに与えられている責任なのです。昨日の信仰があすの信仰を保証するわけではありません。神の前ではきょう真実であることが重要なのです。ですから、語っておられる方を拒まないように注意しなければなりません。

 

「ですから、聖霊が言われるとおりです。『きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試みて証拠を求め、四十年の間、わたしのわざを見た。だから、わたしはその時代を憤って言った。彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。』兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。」(ヘブル3:7-14)

 

「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)

 

皆さんはいかがでしょうか。イエス様の御声を聞いて、それに従っておられるでしょうか。それとも、悪い不信仰の心になって生ける神から離れているということはないでしょうか。「きょう」が大切です。「きょう」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないように注意しましょう。そして、もし神から離れているなら、神に立ち返らなければなりません。それが悔い改めるということです。悔い改めてもう一度、あなたの人生の主人としてイエス様をお迎えすればいいのです。そうすれば、主はあなたを赦してくださいます。この確信を最後までしっかりと保ちたいと思います。そうすれば、私たちはキリストにあずかる者となるのです。

 

26節と27節をご覧ください。「あのときは、その声が地を揺り動かしましたが、このたびは約束をもって、こう言われます。「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。」この「もう一度」ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。」どういうことでしょうか。

 

「あのとき」というのは、あのシナイ山で神が語られた時のことです。あのときは、神の御声が全地を揺り動かしましたが、今度は、地だけでなく、天も揺り動かすと、神は言われます。何のためでしょうか。決して揺り動かされることのないものが残るためです。これは何のことを言っているのかというと、この世の終わりのことです。聖書はこの世には終わりの時があって、その時にはすべてのものが滅ぼし尽くされると書かれてあります。天地万物のものがふるいにかけられるのです。ペテロ第二の手紙3章をご覧ください。1節から14節に次のように記されてあります。

「愛する人たち。・・・当時の世界は、その水により、洪水に覆われて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。・・しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象はくずれて去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。・・・しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいます。そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。」

 

このように聖霊はペテロを通してお語りになりました。万物が揺り動かされる時が来るのです。ペテロは個人的にも揺り動かされました。神殿も揺り動かされて壊れました。なぜでしょうか。本物が残るためです。本物が残るためにすべてのものが揺り動かされて、ふるい落とされるのです。

それが近くなればなるほど悪がはびこります。今、ほんとうに悪がはびこっています。それは、主がもう近くまで来ているという証拠でもあります。私たちが見ているものはすべて崩れ去ってしまいます。しかし、これらすべてが揺り動かされても、決して揺り動かされないものがあります。決して滅びないものがあるのです。それが天の御国です。神は私たちのために新しい天と新しい地とを用意しておられるのです。そして、私たちクリスチャンは、この神の国の一員とされている者なのです。何とすばらしい特権でありましょう。

 

Ⅲ.揺り動かされない御国を受けているのですから(28-29)

 

ですから、結論は何かというと、28節です。

「こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。」

 

すべてのものが揺り動かされ、崩れ落ちる日が来ます。それはちょうどノアの日のようだとイエス様は言われました。人々が平和だ、平和だと言っているような時に、突然、盗人のように襲ってくるのです。しかし、私たちには盗人のようにはきません。私たちはそのことをすでに神の言葉を通して知っています。そして私たちは、その恐ろしい日に会うことはありません。どうぞ安心してください。キリストを信じている人はさばきに会うことがなく、死から命へ移っているからです。私たちは決して揺り動かされることのない神の国に入れられ、キリストとともに共同相続人とされているからです。ですから、私たちは感謝しようではありませんか。恐ろしいところに近づいているのなら感謝などできません。そこにあるのはただ恐れだけでしょう。しかし、私たちは恵みに近づいているのです。神の国に近づいているのです。そここそ、私たちのゴールなんです。やがてそこから主が来られます。だから私たちは感謝しようではないか、というのです。

 

元々罪人であった私たちは、最後の日に万物がふるいにかけられるときには、到底それには耐えられない者でした。ただ恐れて、震えるしかない者でした。しかしそんな私たちが決して揺り動かされることがないように、神はご自身の御国に入れてくださいました。それは本当に感謝なことです。

 

そして、慎みと恐れをもって、神に喜ばれるように奉仕することができるのです。私たちは救い主イエス・キリストを信じる信仰によって救われました。良い行いによるのではありません。信じるだけで救われました。私たちが救われたのはただ神の恵みによるのです。すべての人にこの恵みが提供されています。でもこの恵みを拒み続けるならば、最後のところに書いてあるように、私たちの神は焼き尽くす火です。罪が残れば、その罪のゆえにさばかれてしまいます。神の前に隠すことは誰も、何もできません。でも神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを願っておられます。

 

ですから滅びることがないように、神は私たちを愛して御子を遣わしてくださったのです。神が御子を世に遣わされたのは世をさばくためではなく、御子イエス・キリストによって世が、あなたが救われるためです。そのようにヨハネの福音書3章17節に書かれてあります。神は私たちを救いたいのです。御子を与えてくださったほどに愛してくださいました。このキリストを信じるようにというのが、聖書のメッセージなんです。そして信じた者は、この神の愛から引き離そうとする者に気をつけなさいということを、この手紙の著者は繰り返し、繰り返して言っています。罪の誘惑があります。苦難もあります。迫害もあるでしょう。そうしたものを私たちは避けて通れません。だから、信仰の先達者たちを見なければなりません。彼らはそのような中にあっても最後まで信仰の道を走り通しました。何よりも私たちが見なければならないものは、信仰の創始者であり完成者であるイエス様です。この方を見なければなりません。この方から目を離してはなりません。そこには苦難はたくさんありましたが、みな栄光のゴールに入りました。キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すものは何もありません。患難も、苦しみも、迫害も、飢えも、危険も、このキリスト・イエスにある神の愛から引き離すものはないのです。私たちはしっかりとイエス・キリストにとどまり続けましょう。

ヘブル12章12~17節「神の恵みから落ちないように」

きょうは、「神の恵みから落ちないように」というタイトルでお話したいと思います。信仰生活はよく長いマラソンのレースにたとえられますが、その長いレースの途中にはほんとうに苦しいことが多く、最後まで走り続けることはそんなに楽なことではありません。この手紙の受取人であったユダヤ人クリスチャンたちも度重なる迫害や困難の中で、霊的にかなり疲れが出ていました。マラソンの場合そうですが、出発する時はだれもが元気一杯に勢いよく飛び出すものですが、やがて二十キロ地点、三十キロ地点になりますと先頭集団との間にかなりの距離が出きて来て、もうついてはいけない思い脱落していくように、彼らも霊的にかなり疲れ、衰弱していました。手は弱り、ひざは衰えて、ついには集会に出席することさえ止めるようになっていたのです。それはマラソンでいうなら途中棄権の一歩手前という状態です。そこでこの手紙の著者はそんな彼らを励まし、だれも神の恵みから落ちることがないようにと勧めるのです。いったいどうしたら最後まで走り抜くことができるのでしょうか。きょうはそのために必要な三つのことをお話したいと思います。

 

Ⅰ.まっすぐにしなさい(12-13)

 

まず、第一のことは、まっすぐにしなさいということです。何をまっすぐにするのでしょうか。弱った手と衰えたひざです。また、自分の前に置かれた走路、道ですね、それをまっすぐにしなければなりません。12節と13節をご覧ください。「ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道をつくりなさい。なえた足が関節をはずさないため、いやむしろ、いやされるためです。」

 

この手紙の受取人であったユダヤ人クリスチャンたちは相当疲れ果てていました。手は弱り、ひざは衰え、足はなえて関節をはずす一歩手前になっていました。どうして彼らはそれほどまでに弱り果てていたのでしょうか。それは、彼らを弱める者がいたからです。それは悪魔であり、その手下である悪霊どもです。悪魔はほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。彼らにいろいろな困難が起こるようにして、彼らの霊的力を弱めようとしていたのです。しかし、彼らの手足が弱り果てていたのはそうした悪魔の巧妙な働きもさることながら、この文脈から考えると、特に二つの原因があったことがわかります。一つは、1節に「いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて」とあるように、そうした重荷や罪とを捨てることができなかったことです。そのため彼らの手足は完全に麻痺し、だらけてしまったのです。もう一つの理由は、5節に「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。」とありますが、それを神の懲らしめとして受け止めることができなかったことです。それで彼らはいつまでもいじいじして、立ち上がることができないでいました。

 

そのような彼らに必要だったのはどういうことでしたか。ここには、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにすることでした。また、彼らの足のためには、まっすぐな道を作るということでした。なぜかとうと、そのようにすることによって、彼らのなえた足が関節をはずさないため、いやむしろ、いやされるからです。

 

これはとても大切なポイントではないかと思います。普通、私たちはだれかが霊的に疲れているとか、いろいろなことで落ち込んでいるとき、どうやってその人を励まそうとするかというと、その人に同情することによって励まそうとすることが多いのではないかと思います。「それは大変ですね、しばらくゆっくり休んでください」とか、「気分転換に自分の好きな事でもしてみたらどうですか」というふうにしてです。勿論、時にはそのようにして相手の気持ちに寄り添ってあげることは大切ですが、必ずしもそのようにすることによっていやされるかというとそうでもなく、そのようにすることによってかえって深い溝にはまってしまうことも少なくありません。では聖書はそのような時にどのようにするようにと勧めているかというと、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにするようにと勧めています。つまり、あなたが疲れ果てているなら、もうだめだと思うなら、その弱った手と衰えたひざとをまっすぐにするようにと言うのです。あなたのなえた足が関節をはずさないため、いやむしろいやされるためです。実際のところ、何もしないでいることが問題をもっと悪化させたり、回復をもっと遅らせてしまうことがあります。それはもっと弱らせてしまうことになるからです。手足が衰えた時、心が落ち込んだ時に必要なことは、そうした手足をまっすぐにすることです。そうでないと歩くことがおっくうになってきて、そのうちに本当に歩けなくなってしまうことにもなりかねません。

 

私は、今年始まってすぐに胆のうを摘出しました。胆石が悪さをしてしばしば発作を起こすので、一番の解決は胆のうを摘出することだと医者から言われ、そうすることにしたのです。数年前に一度手術をする予定でしたが病院の都合で手術が延期となったので、これはしばらく様子をみなさいということだと勝手に思い込み、というか手術がこわかったので、病院から抜け出しましたがその後も何度か発作に見舞われたので、これはしょうがないなぁと観念して手術を受けることにしたのです。医師の説明によると、これは腹腔鏡によって行われるので楽ですよと言われたのですが、実際は思っていたよりもひどく、麻酔がきれる頃は熱で意識がもうろうとしたほどです。それに身体中に点滴の管とか、血栓予防のマッサージなども取り付けられて身動きできない状態で、一日がとても長く感じられまた。その時、医者が信じられないことを私に言いました。「大橋さん、明日には歩けるようになりますからね。」明日には歩けるようになりますからと言われても、こんな状態でどうやって歩けというのか、無理でしょう、と思いましたが、医師の説明によると、最近の医学では、手術後、できるだけ早くリハビリした方が回復も早いということで、翌日には歩くようにしているということでした。何もしないでじっとしている方が、むしろ身体には悪いというのです。なるほど、じっとしていた方が身体にはやさしいのではないかと思われがちですが、実際には逆で、身体を動かした方がいいのです。

 

それは霊的にも言えることで、私たちの心が疲れ果ててもう立ち上がれないというときや、霊的に落ち込んだときに、もうだめなんですとじっとしていると逆に筋肉が硬くなって、なかなか立ち上がれなくなってしまいます。そのような時にしなければならないことは何かというと、その弱った手と衰えたひざをまっすぐにすることなのです。

 

それでは、その弱った手と衰えたひざとをまっすぐにするとはどういうことでしょうか。このまっすぐにするということばはルカの福音書13章13節にも使われていますが、そこでは「腰が伸びて」と訳されています。18年もの間、腰が曲がったままであった女性がイエス様のところに行くと、イエス様は彼女に、「あなたの病気はいやされました」と言って、手を置かれると、彼女の腰はたちどころに伸びたのです。彼女はどのようにして腰が伸びたのでしょうか。それはイエス様のところへ行ったからです。彼女はイエス様に呼び寄せられたとき、そのことばに従ってみもとに行ったので、いやされたのです。イエス様はこう言われました。

 

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのころに来なさい。わたしがあなたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

 

いやされるために必要なことは何もしないでいることではなく、イエス様のもとに行くことです。そうすればイエス様がいやしてくださいます。イエスのもとに行くなら、イエスがあなたの弱った手と足をいやし、強めてくださるのです。

詩篇103篇3~5節にはこうあります。主はあなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされるからです。あなたの若さは鷲のように、新しくなるからです。(詩篇103:3-5

また、イザヤ書53章4~5節にはこうあります。イエス様はあなたの病を負い、あなたの痛みをになったからです。彼は私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれました。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼のうち傷によって、私たちはいやされたからです。(イザヤ53:4-5)

ですから、イエス様のもとに行くなら、だれでもいやされるのです。

 

あなたはイエスのもとに行って、あなたの重荷をおろしていますか。あなたの弱った手と衰えたひざとをまっすぐにしているでしょうか。だったらどうしてこんなに苦しまなければならないのでしょうか。どうしていつまでも困難や苦しみが続くのでしょうか。それはあなたがイエス様のところに行っていないからです。イエス様を信じますと言いながらも、実際にはイエス様のことばよりも他の人のことばを頼りにしているからです。それは短い毛布のようで、あなたを温めることはできません。あなたが真にいやされたいと願うなら、イエス様のところに行かなければなりません。イエスのもとに行ってイエス様をほめたたえ、イエス様に祈り、イエス様のみことばをいただくなら、あなたはいやされるのです。

 

また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作らなければなりません。これは、あなたの道を整えなさいということです。信仰のマラソン競争をする上で障害となるもの、つまずきとなるもの、誘惑となるもの、足を引っ張るものがあるならそれらを取り除いて、まっすぐな道を整えなさいということです。これがないと困るんです、私にはそれが必要なんですと、長年執着してきたものに未練を残してはいけません。不要なものは一切捨てなければならないのです。そうでないと、あなたはいつも後ろ髪を引かれるようになかなか前に進んでいくことができないからです。

 

Ⅱ.平和と聖さを追い求めなさい(14)

 

第二のことは、平和と聖さを追い求めなさい、ということです。14節をご覧ください。ここには、「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」とあります。これは、どういうことでしょうか。

 

信仰のレースにおいて邪魔になるもの、重荷になるものは捨てなければなりませんが、逆に良いものは取り入れなければなりません。ここにはその取り入れるべき二つの良いものが取り上げられています。それはすべての人と平和を保つこと、そして聖められるということです。

 

まず、すべての人との平和を追い求めなさいとあります。一部の人とか気の合う人とだけでなく、すべての人との平和を求めなければなりません。信仰生活において疲れ果ててしまう大きな原因の一つに、人間関係がうまくいっていないことがあります。ですから、すべての人と平和であることは大切なことで、それを追い求めるようにと勧められているのです。信仰生活がマラソンの競争にたとえられているからといっても、そこに競争があるわけではありません。競争があるとお互いに勝ち負けを争うようになり、敵対関係を作ることになってしまいます。そういう生き方には安心感とか喜びといったものはなく、いつも孤独と不安にさいなまれることになってしまいます。しかし、信仰生活における原理は競争ではなく共生であり、ほかの人を蹴落とすことではなく、ほかの人と一緒に生き、天国を目指してお互いに助け合うものです。ですから、すべての人との平和を追い求めていく必要があるのです。

 

どうしても赦すことができない人とどこかでばったり顔を合わせた時に、そこから逃げ出したくなるような生き方に、本当の自由や喜びがあるでしょうか。パウロは、「自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」(ローマ12:18)と言っていますが、少なくても自分に出来ることにおいては、すべての人と平和を保つことを求めていかなければなりません。

自分はそのつもりでいても必ずしも相手がそれに応じようとしない場合もありますからうまくいかない場合もありますが、自分にできないことは神様にゆだねて、自分にできることとして、自分にできる限りは平和を保つようにベストを尽くすことが求められるのです。勿論、信仰に関することは妥協してはいけませんが、意外とそうでないところで自分を主張して争っていることがあるのではないでしょうか。そのような態度は百害あって一利なしで、何の益ももたらしません。イエス様も、「平和をつくる者は幸いです。」(マタイ5:9)と言われました。私たちは無用な争いを避け、平和をつくることを求めていかなければならないのです。そのためには、聖霊の力をいただかなければなりません。それは自分の力ではどうすることもできないことだからです。ですから、イエス様が平和を備えてくださいました。キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、敵意を廃棄してくださいました。このイエスを見上げるなら、聖霊の神がそれを可能にしてくださいます。

 

それからもう一つのことは、「聖められることを追い求めなさい」とあります。聖められることとはどういうことでしょうか。この「聖い」という言葉は、「清い」と少し違います。「清い」とは、よごれ、にごりなどがなく美しいこと、心に不純なところがないこと、清廉潔白を意味しますが、「聖い」とは、「区別する」という意味があります。英語ではHolyです。CleanとかPureではなくHolyなのです。この書物が何ゆえに「聖書」と呼ばれるのかというと、それはこの世の書とは異なっている書だからです。区別された書だからなのです。聖書は人が考え出した本ではなく、神ご自身が自らを啓示された書という意味で、区別されているのです。ですから、普通に私たちが本を読むように読んでも理解できません。なぜなら、聖書は神の息吹によって書き記されたので、同じ神の息吹(聖霊)を受けなければ理解できないからです。たとえ、大学の教授であっても、神の息吹を受けていなければ、トンチンカンな理解しかできません。それは光がなくて読むようなものです。ですから、あてずっぽうで、的を射てはいません。神がそのようにしたのです。

 

被造物と区別された聖なる神が、人やモノとかかわりを持たれる時、はじめてそれらが「聖なるものとなる」ということが可能になります。つまりこのヘブル12章14節の「聖なるものとなることを追い求めなさい」というのは、聖なる神とかかわった私たちが、そのかかわりにふさわしく生きることを意味しているのです。それを別な言葉で表現するなら、「聖別」ということばで表わされます。それは神の聖にならった倫理的生活のことで、きよい生活、この世にありながら、この世のものではない生き方、神のみことばに従った生活を意味しています。

 

たとえば、私たちは今こうして礼拝をささげていますが、なぜ礼拝をささげるのでしょうか。それは神を最優先にして生きているからです。この世にあってはいろいろな用事で日々忙しく走り回っていますが、その中にあって神を神として認め、この神を中心にして生きているという信仰の表明として礼拝をささげているのです。だれも暇なひとなどいないでしょう。みんな忙しくしています。しかし、その忙しさの中にあっても神を神として敬っているからこそ礼拝をささげるのです。だからこれを「聖別」というのです。この世と区別するのです。私たちは神に贖われた者として、神のものとして生きているので、この時間を神にささげるのです。もし余った時間、疲れて消耗しきった時間だけを神にささげて、「神さま。どうぞ言いたいことがあったら言ってください。」というのであれば、どんなに神様が語りたくても語りたくなくなります。自分のためには多くの時間を使いながら、神との時間のためには、わずかな時間しか割り当てられないとしたら、神からの良いものを得ることは期待できるはずはありません。

 

この世とのかかわり方においてはどうでしょうか。神から贖われたもの、神の所有の民として、神が願っておられるように生きているでしょうか。この世の価値観ではなく、神の価値観を持って生きているでしょうか。神の価値観が社会の風潮と相反するものだと分かっても、その価値観をしっかりと握って生きているでしょうか。

 

たとえば、ザーカイは取税人で金持ちでしたが、当時取税人というのはイスラエル人でありながらローマに協力して税金を取り立てていました。多くの場合、不正をして必要以上に税を取り立て、ローマに渡す以外のお金を自分たちで着服し、金持ちになっていました。ですからその不正直さとローマに協力したという理由でイスラエル人から嫌われていました。そのようなところにイエス様がやって来られると、いちじく桑の木に登って見ていたザーカイに向かって、「ザーカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」と言われました。私はこれってものすごいことだなぁと思いました。もちろん、ザーカイと名前を呼ばれたということもすごいことですが、それよりも、このザーカイが取税人でみんなから嫌われていたことを百も承知のうえで彼の名前を呼ばれ、彼のところに行って客となられたことです。案の定、それを見ていた人々はつぶやいて言いました。「あの方は罪人のところに行って客となられた」

皆さんだったら行きますか。みんなから白い眼で見られ、みんなから嫌われている人の友となることをされるでしょうか。しないと思います。そんなことをしたら自分も白い眼で見られ、自分の立場が悪くなるだけです。けれども、イエス様はそうされました。イエス様は罪人の友となられたのです。本当に救いが必要な人というのはこのような人であることを示されたのです。私たちはむしろこういう人たちを受け入れ、こういう人たちのところに行って友とならなければならないのです。それはこの世の見方、考え方とは全く逆かもしれません。しかし、この世がどのように見ようとも、私たちはこの世の見方ではなく、神の見方、イエス様の見方で物事を見なければならないのです。それが聖であるということです。

 

神の民とされた私たちは、海の上に浮かぶ小さな船のようなものです。水の上に浮いて限りは大丈夫ですが、ひとたび船の中に水が入ってくるならば、沈むのは時間の問題です。もし私たちの舟の中にこの世の水を入れるなら、その船は沈むしかありません。私たちはこの世にあって、この世のものではないという生き方が求められているのです。その生き方がどのようなものか、私たちは聖書の歴史を通して学ばなければなりません。聖書はこの世とは区別された書、聖なる書であるからです。

 

なぜ私たちは聖められることを追い求めなければならないのでしょうか。それは、聖くなければ、だれも主を見ることができないからです。イエス様もこう言われました。「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るから。」(マタイ5:8)神を見るためには、心がきよくなければならないのです。

 

イスラエルが40年の荒野の放浪生活が終え、いよいよ約束の地カナンに入っていく時を迎えていた時、イスラエルは南のシナイ半島の荒野からカナンの地に入るために、ヨルダン川の東の方に移動していきました。そしてエモリ人の王シホンとバシャンの王オグを打ち破ると、それを聞いたモアブの王バラクは恐ろしくなり、あることを思いつきました。それは預言者バラムを雇いイスラエルを呪わせるということでした。そこでバラムが出かけて行こうとすると、その途中で、ロバの前に御使いが立ちはだかりました。それが見えたロバは驚いて、駆け出したり、乗っているバラムを石垣に押し付けたり、道にうずくまってしまいました。そこでバラムがロバに鞭をあてて打つと、ロバが口を開いて言いました。「どうして三度もぶつんですか。これまでに、私が一度でもこんなことをしたでしょうか。」そのとき、主がバラムの目のおおいを除かれたので、彼は主の使いがそこに立っているのを見ることができたのです。

 

いったいバラムがなぜバラクのところに行こうとしたのか。それは彼の心の奥深くに利得を求める心があったからです。そのためにバラムは神が見えなくなっていました。それが破滅をもたらすことだったので、神は御使いを遣わして止めようとしたのです。ロバはその御使いを見ることができたのに、預言者バラムは見えなませんでした。そのためにロバを三度も打ったのです。これが神が見えていない人の姿です。

 

私たちも同じではないでしょうか。神が見えていない状態の時には、自分の思うどおりにならないことが起こると、同じようになってしまいます。預言者バラムはどうして神が見えなかったのでしょう。それは利得に目がくらんでしまったからです。私たちも気をつけなければなりません。神が語られることの中に生きるようにと私たちは召されたのです。それが「聖別」されること、つまり、「聖められること」なのです。

 

Ⅲ.神の恵みから落ちないように(15-17)

 

では、そのためにどうしたらいいのでしょうか。15節から17節までをご覧ください。「そのためには、あなたがたは良く監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されることかのないように、また、不品行の者や、一杯の食物と引き換えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。」

 

ここには、だれも神の恵みから落ちないようにとあります。私たちは、神の恵みによって救われました。私たちが何かをしたから、できたから救われたのではなく、救われるためには私たちができることは何もなかったのに、イエス・キリストを信じるだけで救われたのです。

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:23-24)

であれば、私たちはこの恵みにとどまっていなければなりません。だれもこの神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して、これによって多くの人が汚されたりすることがないように注意しなければなりません。

 

この一つの事例としてとりあげられているのがエサウです。エサウはイサクとリベカの息子で、双子の兄弟のお兄さんの方でしたが、ここに書いてあるように俗悪な者でした。彼は霊的なことよりも物質的なことにいつも心が奪われていました。ある日、彼が猟から帰って来ると、そこにとてもいい匂いがしたので何だろうと思って見てみると、弟のヤコブが煮物を煮ていたのです。彼は猟で疲れていたし、お腹もペコペコだったので、ヤコブに言いました。「どうか、その赤いのを、その赤い物を私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから。」

するとヤコブは言いました。「じゃ、今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい。」長子の権利をゆずるなら、これをあげましょう。するとエサウは、「長子の権利なんて、どうでもいい。そんなの今の私に何にもならない。そんなのお前にあげてやる。それよりもその赤いのを食べさせてくれ。俺は腹がへって死にそうなのだから。」と言って、それをヤコブに売ってしまったのです。それは神の特別な祝福でした。それなのに彼はその神の祝福を一杯の食物と引き換えに売ってしまったのです。彼は神の祝福よりも、自分の欲を満たすことにしか関心がなかったのです。彼は腹を満たすために神の祝福を捨てたのです。彼は四十歳になったとき、ヘテ人エリ娘エフディナとヘテ人エロンの娘バセマテという神を信じていない二人の女性と結婚しましたが、彼女たちはイサクとリベカにとって悩みの種であっと書かれてあります。(創世記26:35)

神の恵みから離れて不信仰になると、貪欲な者、俗悪な者となり、多くの人に悪い影響を及ぼすようになります。そして、後になって祝福を相続したいと思っても後の祭りで、祝福されるどころか、彼の心を変えてもらうことさえできず、むしろ弟のヤコブを憎むようになり、殺そうとまで思うようになったのです。

 

だから、神の恵みから落ちないように、また、不信仰という苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることがないように注意しなければなりません。

 

あなたの信仰生活というマラソンは今どのような状態でしょうか。二十キロ地点、三十キロ地点に差し掛かり、疲れ果てていないでしょうか。腕はだらんとなって振る力がなくなり、ひざは衰えてがくがくしてはいないでしょうか。足はなえて関節をはずしそうにはなっていませんか。弱った手と衰えたひざとをまっすぐにしなさい。また、あなたの足のためには、まっすぐに道を作りなさい。なえた足が関節をはずさないため、いやむしろ、いやされるためです。そして、神の恵みの中を最後まで走り続けようではありませんか。

ヘブル12章4~11節 「神の訓練」

きょうは、ヘブル人への手紙12章4~11節のみことばから、「神の訓練」というタイトルでお話します。このヘブル人への手紙の著者は、私たちの信仰生活は長距離競争のようなもので、そこにはいろいろなことが起こってきますが、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないで、忍耐をもってゴールを目指し、最後まで走り続けようではないかと勧めました。イエス様をちゃんと見てれば大丈夫です。なぜなら、イエス様は罪人たちの反抗を忍ばれ、十字架の死という究極的な苦しみを味わわれた方だからです。私たちもいろいろな苦しみを経験することがありますが、そこまでの苦しみを経験したことはありません。まあ、ちょっとしたはずかしめを受けることはあっても、殴られたり、殺されたりといったことはありません。しかし、イエス様は痛められ、苦しめられ、そして最後には十字架に付けられて死なれました。これほどの苦難を受けた方はいないでしょう。しかし、それほどの苦しみを受けた方だからこそ、どんな苦しみの中にある人をも理解し、慰めることができるのです。このイエスを見るなら、あなたは心に元気をいただき、立ち上がることができるのです。

 

しかし、この手紙を受け取った読者たちには、ここで一つの疑問が生じました。それは、イエス様を信じることで、なぜこんなに苦しい思いをしなければならないのかということです。苦しみに会ったとき彼らの信仰は弱り始めていました。神が私を愛しておられるなら、こんな苦しみに会わせるはずがない、神は私を見捨てられたに違いないと、生き消沈していたのです。そこでこの手紙の著者は、彼らがそのような苦しみを経験しているのはなぜなのか、すなわち、それは彼らが神の子どもであり、神が彼らを愛しておられるからであることを説明し励ますのです。いったい神の懲らしめ、神の訓練とはどのようなものなのでしょうか。

 

Ⅰ.子として扱っておられる(4-9)

 

まず、第一のことは、神は私たちを子どもとして扱っておられるということです。4節から9節までをご覧ください。まず4節から6節までのところです。「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。『わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。』」

 

いったいなぜ私たちは苦しみに会うのでしょうか。それは、神が私たちを愛しておられるからです。そして、この上もない関心を持っておられるからです。ですから、もし私たちが苦しみに会うとしたら、それは、私たちは神の子として愛され、受け入れられているという証拠なのです。というのは、主は愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからです。これは箴言3章11,12節の引用ですが、彼らがずっと学んできた聖書の中にちゃんと記されてあったのに、彼らはその神のことばを忘れていたのです。それで、自分がこんな苦しいのはあんなことをしたからだ、こんなことをしたからだ、だからこういうことが起こっているんだと思っていたのです。違います。あなたがそんな苦しみに会うのはあなたのこれまでの行いに対して神が怒っておられるからではなく、神があなたをご自分の子として扱っておられるからであり、あなたをこよなく愛しておられるからなのです。なぜなら、主は愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからです。

 

それは親が子どもをしつけることと同じです。7,8節をご覧ください。子どもを懲らしめることをしない父親がいるでしょうか。もしいるとしたら、それは私生児であって、ほんとうの子ではないということです。私生児というのはあまり聞かないことばですが、法律上の婚姻関係にない男女の間に生まれた子どもで、父に認知されていない子どものことを言うそうです。ですから、ほんとうの子どもではないので本来受けるはずの懲らしめを受けることができません。そして小さい時にそのようなしつけを受けられないと、その子どもの心は歪み、勝手気ままになり、やがて破壊的な行動に発展することさえあるのです。

 

聖書には、「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」(ローマ3:23)とありますが、人はみな生まれながら罪を持っているので、何が良いことで正しいことなのかがわかりません。ですからだれからも教えられていないのに悪いことをするのです。それは人が生まれながらに悪であり、何が正しいことなのかを知らないので、自己中心的になっているからなのです。ですから、何が良いことで正しいことなのか、何が悪いことなのかを教えてあげなければなりません。子どもが悪いことをすればそれが悪いことであるということを理解させなければならないのです。そして、悪いことを繰り返さないように、根気よく、しつけなければならないのです。・・・しなさいとか、・・・しなきゃだめだよ、というのは、口うるさいかもしれませんが、いくら口うるさいと言われても、わかるまで何度も何度も言って教えてあげなければなりません。もしことばで教えてもわからないときは、あるいは命の危険を感じるような時には、たたいてでも教えてあげなければなりません。ただし、その場合でも感情的にならないように、また、子どもに恐怖心を与えないように十分注意しなければなりません。

 

私たちは、言葉で言っても聞かない時、あるいは、命の危険がある時にはたたいてでもしつけることにしましたが、どちらかというと家内は言うことを聞かない時には、言うことを聞くまで何度も繰り返して言い聞かせていたように思います。でも車が来ているのに平気で横切ろうとしたり、命の危険を感じるようなときには、スパンクをしてでも教えてわからせました。普通はやらないので、やる時はすごいですよ。見ている側で涙がでるほどでした。娘のおしりをたたくってどんなに苦しいことかと思いますが、どうしてもしつけたい時にはたたいて教えることもあるのです。でもそれは子どもを虐待することとは違います。虐待は暴力であり、子どもに恐怖心を与えることですが、子どもを懲らしめことは、子どもを愛し、子どもに正しいことを教えるために行うものです。ですから、子どもはそれが自分のためにやっているということがわかるので、その時は、「いちいちうるさいなあ。」とか、「本当に面倒くさい。」、「何かあるとすぐにガミガミ言うんだから。」と思うかもしれませんが、後になると、「ああ私のためにやってくれたんだ」ということがわかり、心から親を尊敬するようになるのです。しかし、たとえむちを加えるようなことがあっても、小学校に入るまででした。あとは言葉だけで十分なんですね。

 

いずれにせよ、あなたに苦しみに会うのはあなたが神に見捨てられているからでも、過去のことで罰を受けているからでもありません。あなたが苦しみを受けているとしたら、それは神があなたを愛し、あなたを子として扱っておられるからなのです。あなたが立派なクリスチャンとして成長するために、あえて懲らしめを与えておられるのです。であるならば、私たちはたとえ困難や苦しみにぶつかることがあったとしても、この神の愛を確信して、ゴールに向かって走り続けていきたいと思うのです。

 

Ⅱ.ご自分の聖さにあずからせるために(10)

 

次に10節をご覧ください。ここには、神が私たちを懲らしめる理由が書かれてあります。それは、私たちをご自分の聖さにあずからせるためであるということです。

「なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分の良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分のきよさにあずからせようとして、懲らしめるのです。」

 

人間の父親は不完全なので、自分が良いと思うまま懲らしめるのですが、そこには間違いもあります。けれども、私たちの霊の父である神様は、完全な方であり、間違いのない方なので、本当の意味で、私たちにとって、益となるために懲らしめるのです。それは私たちをご自分の聖さにあずからせるためであるということです。私たちのクリスチャンライフの目標は、キリストのようになるということです。キリストに似た者になること、キリストのご性質に変えていただくということです。いったいどうしたらそのようになるのでしょうか。それは苦しみを通してです。苦しみを通して私たちの品性を整えてくださるのです。だからパウロはこう言っているのです。ローマ5章3~5節です。

「そればかりでなく、患難さえも喜んでいます。それは患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。」

 

パウロは、キリストによって神の子とされたということ、神との平和を持っているということを喜びましたが、それだけではく、患難さえも喜んでいると言いました。なぜなら、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っていたからです。どうやってキリストのような品性、愛、聖さ、心の広さを持つことができるのでしょうか。患難によってそのような品性、そのような人へと整えられていくのです。

 

アブラハムの孫で、イサクの子であったヤコブは神と格闘して、もものつがいがはずされてしまいました。それは彼の力が砕かれたことを意味します。彼のプライド、自信、能力、自己主張、自慢、肉の性質のすべてが砕かれたのです。それで彼は自分の力ではやっていけないことを悟り、神の力に全面的により頼む者に変えられたのです。人間的にずるがしこい者から神によって勝利する者、イスラエルへと変えられたのです。

 

またモーセは、人々から羨望のまなざしを向けられていた栄光の人生を歩んでいましたが、だれにも知られない孤独の荒野の人生に導かれることによって、へりくだること、従順を学びました。このように患難や苦しみを通して、私たちの品性は磨かれ、整えられ、神の聖さにあずかるようになるのです。

 

福島第一の半谷さんという姉妹は、入信の当初から厳しい主の訓練を受けました。田舎の檀家総代の長男の嫁として嫁いだため、キリスト教徒になることが許されず、即離縁して出て行くようにとお姑さんから言い渡され、それ以来、半年間大家族の中で口をきいてもらえなかったと言います。けれども、そのことが彼女の信仰を筋金入りにする素晴らしい恵みの機会となったのです。

 

世界的に有名なリバイバリストであったD.L.ムーディーの母親は、夫が五人の子どもを残して亡くなりましたが、少しも落胆したり、失望したりすることなく、苦しい生活の中にあっても、子どもたちに信仰による教育を与えました。彼女は、子どもたちを孤児院に入れるようにという勧めを断り、次のように言いました。「私の両腕が生きて私についている限り、私の子どもを孤児院や親戚に送ることはできません。母親ほど、子どもを思い、子どものために祈ってやれる人はこの世のどこにもいないのですから。」やがて彼女の子どもたちの中から、アメリカとイギリスをゆさぶった偉大な主のしもべ、ムーディーが誕生したのです。

 

ですから、苦しいからとあきらめないでください。いったいその苦しみは何のためなのかを覚えていただきたいのです。そしてそれは神があなたをご自身の聖さにあずからせようとしてあなたに与えておられる賜物なのです。それがわかったら、あなたはむしろ喜んでそれを受け止めることができるのではないでしょうか。

 

トルストイの「靴屋のマルチン」は、おじいさんが奥さんを亡くし、さらに一人息子も病気で失い、生きる力を亡くしているところから始まります。ところが、聖書を読むように示されて読み始めると、不思議な生きる力が内から沸き上がるのを体験するようになるのです。

聖書の語る希望は、災いや困難から守られた無菌状態での希望ではありません。かえって、試練の中でどうして立っていられるのだろうかと思うような、天来の力に満ちた希望なのです。泥水の中に身を置いてなおキリスト者は、いぶし銀のような信仰からくる希望の花を咲かせることができるのです。

 

Ⅲ.平安な義の実を結ばせる(11)

 

最後に、このように神の懲らしめを受けた人々はどうなるのかを見て終わりたいと思います。11節にはこうあります。「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」

 

これはスポーツでも、勉学でも、ビジネスでも、どの世界でも同じですが、その過程、プロセスにも痛みが伴います。スポーツのトレーニングで、筋肉に負荷をかけない限りは、筋力はついてきません。筋肉を傷めることで、筋肉が強くなっていくのです。同じように、信仰も負荷をかけることによって強くなっていきます。その負荷こそ懲らしめ、苦難なのです。それはそのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に、平安な義の実を結ばせるのです。

 

ある人々は、苦しみを避けたいと考えます。苦しみは自分の穏やかな信仰生活を破壊するかのように思えるからです。だから、できるならあまり問題や煩わしいことに関わりたくないと思うのです。しかしながら、苦しみは信仰を破壊するどころか、かえって強くします。苦しみは神との交わりから私たちを遠ざけるのではなく、むしろ神との交わりを強固なものとし、神なしには生きられないということを体験させてくれるのです。こうして、私たちが神の御心にかなった信仰生活を送れるようにしてくれるのです。

 

余り賢くない親は、子供を育てる時、子供の前に置かれている障害物を取り去り、なるべく楽なコースを歩めるようにしてやることが良いことだと考え、いろいろ手を貸し、子供を助けようとしますが、それは決して良いことではありません。それによってひ弱で、自分のことしか考えられないようなエゴイストになってしまうからです。よく「かわいい子には旅をさせろ」ということわざがありますが、子供が可愛いと思うなら、甘やかして育てるのではなく、世間の厳しさを教えて育てた方がしっかり育つのです。ディズニーの「ライオンキング」を思い出します。「百獣の王ライオンは、我が子を谷底に落とし、這い上がってきた子供だけを育てる」のです。自分の子どもがかわいいと思うなら、むしろそこに適当な障害物を置いてやり、それを自分で乗り越えて行けるように仕向けなければならないのです。苦しみを経験した人でなければ、苦しんでいる人の気持ちを本当の意味で理解することはできません。苦しんだことがある人は、苦しんでいる人に対する思いやりを持つことができ、あわれみ深い人になることができるのです。

 

神が与えてくださる苦しみもそれと同じでそれをまともに受け止める人は、神の御心にかなった人になることができるわけです。わざわざ誰かに障害物を置いてもらわなくても、最初からそこに障害物があるということは、そのことを自然に学ぶことができるわけですから、それほど感謝なことはないのです。それゆえ、詩篇の記者はこう言ったのです。

 

「苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びまた。」(詩篇119:71)

 

苦しみに会ったことは、私にとって不幸なことでした、ではありません。幸いなことでした。なぜなら、あなたのことばを学んだからです。神がどのような方であるかを学んだ。神がいかにあわれみ深く、恵み深いかを学びました。神がどれほど私を愛しておられるのを学びました。私たちは神のことをもっと知りたいと思ってもなかなか知ることができませんが、苦しみを通してそれがわかった。それは幸せではないでしょうか。

 

そして、これによって訓練された人々に、平安の義の実を結ばせるのです。平安の義の実とは何でしょうか。これは直訳では、「義という平安の実」となります。それは神の御心を意味します。それは平安をはじめとする御霊の実を意味すると言ってもいいでしょう。つまり、神が与えてくださる苦難や試練を嫌がらずに受け止める時、御霊の実を豊かに結ぶ神の御心にかなった人、イエス様のような人になることができるということです。

 

であれば、どんな苦難の中にあっても、どんな試練が襲いかかろうとも、何度倒れても立ち上がり、信仰のレースを、忍耐をもって最後までゴールを目指して走り続けようではありませんか。それができるようにと、主イエスはいつもあなたのすぐそばにいて、あなたを助けておられるのです。

ヘブル12章1~3節 「イエスから目を離さないで」

きょうは、ヘブル人への手紙12章1~3節から、「イエスから目を離さないで」というタイトルでお話します。このヘブル人への手紙の著者は、11章で信仰に生きた人たちを例に取り上げ、「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を、忍耐を持って走り続けようではありませんか。」と勧めました。では、どのようにして走り続けたらいいのでしょうか。聖書にはしばしば私たちの信仰生活が競技やスポーツにたとえて説明されていますが、ここでも信仰生活を競技にたとえ、そのために必要な三つのことを教えています。

 

Ⅰ.いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てる(1)

 

まず、第一のことは、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てるということです。1節に、「私たちも、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。」と勧められています。ここでは競争とありますが、どちらかというと短距離走よりも長距離走をイメージしてください。長距離走、あるいはマラソンを走るのに、荷物を背負って走る人はいません。できるだけ身を軽くして走ります。靴にしても、ウエア―にしても、できるだけ軽くして走るわけです。それと同じように、信仰のレースをする人も、レースの障害になるようなものを取り除かなければなりません。

 

では、信仰の競争において障害となるものは何でしょうか。ここには、いっさいの重荷とまとわりつく罪とあります。いっさいの重荷とまとわりつく罪とは、具体的にはどんなものを指すのでしょうか。

この「捨てる」という言葉の原語は「アポティセミー」という言葉ですが、これはローマ人への手紙13章12節でも使われています。「夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着ようではありませんか。」この「やみのわざを打ち捨てて」の「打ち捨てて」が「アポティセミー」です。ではこのやみのわざとは具体的にどのようなものかというのが、次の13節にこうあります。「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。」です。ですから、信仰のアスリートとして、走り続けたいと思うなら、ここにあるようなやみのわざを捨てなければなりません。

 

また、この言葉はエペソ人への手紙4章22節でも使われていて、そこには、このようにあります。

「その教えとは、あなたがたの以前の生活については言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、」

この「脱ぎ捨てるべきこと」の「脱ぎ捨てる」が「アポティセミー」です。信仰のアスリートとして勝利するためには、余分なもの、邪魔なもの、重荷になるもの、障害になるものは、脱ぎ捨てなければなりません。それは私たちが以前身に着けていた、人を欺く情欲といったものです。

 

また、同じエペソ人への手紙4章25節にも使われていて、そこには、「ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。」とあります。ここでは捨てるべきものとして挙げられているのは、偽りです。隣人に対して偽りではなく、真実を語らなければなりません。

 

また、コロサイ人への手紙3章8節もこの言葉が使われていて、そこには、「しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。」とあります。ここでは、怒り、憤り、そしり、また、口から出る恥ずべきことばを捨ててしまいなさい、とあります。

 

また、ヤコブ1章21節には、「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」 とあります。みことばがなかなかすなおに受け止められませんという人は、もしかしたらここに原因があるのかもしれません。それは、捨て去っていないことです。私たちはすべての汚れやあふれる悪を捨て去らなければなりません。それらのものを捨て去って、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなければならないのです。

 

次にⅠペテロ2章1、2節を開いてください。ここには、「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」とあります。

ここではすべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てるようにと言われています。私は信仰を持って何年も経つのになかなか成長していないという方がおられます。謙遜に言う場合もありますが、本当にそのような方もおられます。いったいどこに原因があるのでしょうか。捨てていないことです。ここには、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、とあります。そのようなものを捨てなければなりません。そして、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めるなら、それによって成長し、救いを得ることができます。それを捨てなければ、それらを身にまとっているなら、いつになっても成長することはできません。

 

また、思い煩うこと、心配することも大きな重荷です。なぜなら、思い煩いは霊的な力を削いでしまうからです。人は自分の将来に目を向けて、起こり得るすべてのことを想像しますが、想像することのほとんどは、否定的なことなのです。私たちは、未来の不確かなことや、過去の出来事の結果 として起こるのではないかと案ずる事柄で、自分を引き裂いてしまうのです。

 

ある精神科医の調査によると、人が思い煩うことの40パーセントは絶対に起こり得ないことであり、30パーセントはどうすることもできない過去の出来事、12パーセントは人から受けた批判(それもほとんど事実無根の話ばかり)、10パーセントは自分の健康のこと(心配すればするほど健康状態が悪くなるのだが)、8パーセントは実際に直面する可能性のある問題だそうです。何というエネルギーの無駄づかいでしょうか。だからイエス様はこう言われたのです。

 

「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」(マタイ6:34)。

 

明日のことは神に委ねて、その日その日を精一杯に生きることが必要なのです。こうした思い煩いや心配が、私たちの信仰のレースを重くし、前に進むことを妨げてしまうのです。

 

ところで、「重荷」と訳されていることばの原語の意味は、重要なものとか、突出しているもので、それが転じて重荷だとか、邪魔もの、やっかいなもの、足手まといのものと訳されるようになりました。非常に興味深いことです。私たちにとって、重要なもの、目立つもの、突き出てるものが、時として不必要な重荷となって、信仰のレースの足手まといになることがあるということです。これは大切なんです、これがないとダメなんですというものがあるとしたら、もしかしたらそれが重荷となってあなたの信仰のレースを妨げていることもあるのです。

 

ある婦人が携挙の夢を見ました。他の人はみんなスーと空中に挙げられていくのに、自分だけなかなか天に引き挙げられていかないので、「あれっ、どうしたのかなぁ、ちょっと体重が増えたからかなぁ」と思ってよく見たら、足首にロープが巻き付けられていて、そのロープの先を見ると、自分の家財道具がいっぱい縛り付けられていたというのです。それがゆえに、なかなか上に挙がっていかなかったんですね。その夢を見た方ははっとさせられたと言います。

 

私たちにもそのような重荷があるのではないでしょうか。そうしたものが障害になって、なかなか前へ進めないことがあるのです。物を持つこと自体は罪ではありません。しかし、その物が場合によってはあなたの足を引っ張ることにもなりかねないのです。物を持つことは、お金を持つこと、お金を貯めることは、必ずしも悪いことではありませんが、それに執着したり、そのこだわりがあると、霊的に成長するための障害物になることがあるということを覚えておかなければなりません。そういえば、イエス様は種まきのたとえの中で、いばらの中に蒔かれた種は、いばらが成長を塞いだで実を結ぶことができなかったと言われました。いばらとは何でしょう。この世の心づかいや富の惑わしです。そういったものがあると実を結ぶことができないのです。

 

旧約聖書の聖徒たちも、さまざまな重荷を抱えました。その時彼らはチャレンジを受けました。それを捨てるべきか、それとも持ち続けるべきか。11章を見る限り、彼らはその重荷を捨て去ることができたことがわかります。

 

また、ここにはいっさいの重荷だけでなく、まとわりつく罪を捨てて、とあります。この罪ということばの原語は「ハマルティア」です。ハマルティアは、アーチェリーで的を外すということばから来ています。ですから、的はずれが直訳です。皆さんは今、的に向かって信仰のレースをまっすぐに走っているでしょうか。それとも、的からはずれているでしょうか。勝手に自分で的を設定して、これがゴールだと、これがクリスチャンとしての私の目指すべきところだと突っ走ってはいないでしょうか。それは自分が設定したゴールであって、そのゴールに向かって走っているのは的はずれです。そうすると、遅々としてなかなか信仰の歩みが進まない、霊的に成長しないということも起こってきます。ですから、私たちにとって的が外れていることがないかどうかを、聖霊様によって示していただかなければなりません。聖書には、みこころに反することは罪だと言われています。信仰から出ていないこともそうです。なすべき正しいことをしないのも罪だとも言われています。ですから、だれの目にも罪だというのがあれば、あなた個人にとって罪だというものもあります。そのような罪も捨て去らなければなりません。

 

詳訳聖書では、この「まとわりつく罪」を、「たやすく、巧妙に、悪賢くまといつく、私たちを巻き込む罪」と訳しています。私たちの多くは罪を犯そうと思って犯すわけではなく、知らず知らずのうちに、無意識のうちに、気が付いたら道を踏み外していたということが多いのです。それほど巧妙に、罪の誘惑が仕掛けられているのです。ですから、私たちは常にそのことを意識して、聖霊によって私たちの内側を探っていただき、もし私たちの中に罪があるなら悔い改めて、正しい道へと導いていただかなければなりません。

 

ダビデは詩篇の中でこう歌っています。「 神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」(詩篇139:23-24)

 

この祈りを、私たちの祈りとしたいものです。そして、私たちにまとわりつく罪があるならば、それを捨てて、神が定めてくださった信仰の走路に立ち返り、その道を走り続けなければなりません。幸いなことに、私たちには、こうした重荷や罪といったものよりもはるかに大きな力を持っておられる神がともにいて助けてくださるので、それらのものをかなぐり捨てることができるのです。

 

 

Ⅱ.イエスから目を離さないで(2)

 

第二のことは、イエス様から目を離さないということです。2節をご覧ください。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをもろともせずに十字架を忍び、神の御座に着座されました。」

 

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離すなとありますが、それが勝利の秘訣です。マラソンランナーはじっとゴールを見ています。後ろばかり見ていたら遅れをとってしまいます。また、回りのランナーばかり見ていたら、焦ってペースを乱し、遅れをとってしまうことになります。もしあなたが優秀なランナーならただゴールを目指して一心不乱に走っていきます。そのゴールとはイエス・キリストです。そのイエスはただのゴールではなくスタートでもあります。イエス様は信仰の創始者であり完成者なのです。イエス様は私たちに救いを与えてくださった方であり、それを完成してくださる方です。

 

新改訳聖書には、この「創始者」ということばに※が付いていますが、下の欄外を見ると「指導者」とあります。ですから、イエス様は単に私たちに信仰を与えてくださったというだけでなく、その完成に向かって共に歩み、指導してくださる方であります。まさにイエス様は信仰のリーダーであり、信仰の先駆者であり、信仰の指導者なのです。常にイエス・キリストが私たちのリーダーであるということです。このイエスが目標です。私たちよりも先にこの信仰のレースを走ってくださいました。先ほど1節に、信仰の先輩者たちも私たちを応援する力強い応援団であるということを見ましたが、何よりの励みはイエス・キリストが私たちを応援してくださることです。完成に向けて指導してくださるということです。イエス様がいなければ、私たちはこの信仰のレースを走り抜くことはできません。

ピリピ人への手紙1章6節にはこうあります。「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださるということを私は堅く信じているのです。」

イエスが信仰の創始者であるならば完成者でもあります。始められたことを中途半端で投げ出される方ではありません。イエス様がイニシアチブをとってこの世に来てくださり、イエス様が先に私たちを愛してくださって、イエス様が先に信仰のレースを走り抜いてくださいました。全部イエス様が先なんです。初穂となって最初に死の中からよみがえられました。そのあとに続くのが私たちです。ですから、イエス様が始められたレースを、続いて走っているわけです。ですから、そのイエスが最後までその信仰のレースを完了させてくださる、ゴールを切らせてくださると約束しておられるのです。

 

そのイエスから目を離さないでいなければなりません。この「離さない」ということばは、他のものから目をそらして、あるものにしっかりと目を留めること。凝視することです。他のものからきっぱりと目を離して、イエスだけを凝視するということです。これは大切なことです。なぜなら、私たちは同時に二つのものを見ることができないからです。人は、神にも仕え、富にも仕えることはできません。二つのものを見ようとすれば遅れをとってしまうからです。コースから外れてしまうのです。そういうことがないように、イエス様が模範となってくださいました。ですから、このイエスを見続けるならコースから外れることがなく、最後まで信仰のレースを走りつづけることができるのです。

 

ところで、イエスさまはなぜ、このような苦しい信仰のレースを走り抜かれたのでしょうか。その理由が次のところに書かれてあります。「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」

 

ここには苦しみだけでなく、喜びもあったことがわかります。苦しみの中にも喜びがあります。ゴールのないマラソンを走るような人はいないと思います。それはただむなしいだけです。何のためにこんなに苦しい思いをしなければならないのか、何のために生きなければならないのか、それがわからなければ苦しいだけですが、ゴールがわかり、その先にどのようなものが待っているかがわかっているなら、どんなに苦しくとも、その喜びを胸に、それを先に見て、前に進むことができます。

 

それでは、イエス様の喜びとは何だったのでしょうか。それはその後にご自身が復活するということ、そして、その十字架と復活を通して成し遂げられた救いの御業を信じる者に永遠のいのちがもたらされるということでした。それをちょっと垣間見ることができたのが、イエス様と一緒に十字架に付けられた強盗の一人が、イエス様を信じた瞬間でした。彼は十字架の苦しみの中でイエスをののしったもう一人の強盗のことばをいさめると、イエス様に向かってこう言いました。

「イエスさま。あなたの御国の暗いにおつきになるときには、私を思い出してください。」(ルカ23:42)

するとイエスさまは彼に、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)と言われました。

イエスさまは十字架の苦しみの中にありながらも、パラダイスを見ることができました。その中にこの強盗のひとりもいる。また、それに続く何十、何万という人々が救われて、永遠のいのちがもたらされるということを知っていたので、その苦しみを耐え忍ぶことができたのです。

 

時々、私は考えることがあります。いったい何のために伝道するのだろうか。何のために教会を開拓するのだろうか。それは教会を通して神の福音が宣べ伝えられ、そこで多くの人々が救われ、主を知るようになるためです。想像してみてください。あの町でも、この町でも、主を信じて救われる人たちが波のようにやって来て、主をほめたたえるようになるのです。それは私たちの時代ではないかもしれない。ずっとずっと後の時代かもしれない。しかし、その時彼らはこういうでしょう。「ああ、ここに教会が出来て本当に良かった。こうして主の救いにあずかり、主を礼拝することができるのは本当に感謝なことだ・・・と。」それはふって沸くようなものではなく、多くの労苦がささげられますが、やがてそのような喜びがもたらされるということを思うなら、そうした労苦も乗り越えることができます。「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。」(詩篇126:5)

 

イエスさまがはずかしめをもろともせず十字架を忍ぶことができたのは、この喜びのゆえであったのです。自分が復活することも喜びでしたが、それだけでなく、ここにいる私たち一人ひとりが永遠の滅びから救われて永遠のいのちをいただき、共にパラダイスに入ることが、イエスさまにとっての何よりの喜びだったのです。私たちの姿が見えたんです。十字架につけられながら、今ここにいる皆さんの姿がイエスさまには見えたのです。私たちも見るべきです。私たちが携挙されて空中で主と出会うのを。そうすれば、どんなに苦しくても、そこには言葉には言い尽くせない喜びが待っているのです。そして、私たちの目の前にどんな苦しみがあっても、それを耐え忍び、信仰のレースを走り抜くことができるのです。

 

Ⅲ.イエスのことを考えなさい(3)

 

ですから、イエスさまのことを考えましょう。3節にはこうあります。「あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」

 

罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方とは、イエスさまのことです。イエスさまは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方です。このイエスさまのことを考えなければなりません。なぜなら、それによって、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。皆さん、いったいなぜ私たちは元気を失い、疲れ果ててしまうのでしょうか。それはこのイエスから目を離してしまうからです。自分のことを見たり、自分のことばかり考えて、自分にばかりフォーカスを当てるとどうなるでしょうか。落ち込みます。または反対にうぬぼれてしまいます。他人のことばかり考えたると、回りのことばかり考えるとどうなるでしょうか。ねたんだり、腹が立ったりします。サタンことばかり考えるとどうなるでしょうか。恐怖や敗北感に襲われます。罪について考えることは大切なことですが、罪のことばかり考えるとどうなるでしょうか。罪責感にさいなまれてしまいます。ですから、私たちはそのようなものを見るのではなく、イエスさまを見なければなりません。イエスのことを考えなければならないのです。

 

この「考える」ということばは、繰り返して考えるとか、深く考えるという意味です。皆さんはイエスさまのことを聞いたことがあります。聖書も読んだことがあります。メッセージも聞いたことがあります。私たちはそのようにして自分のキリスト像を持っているわけですが、正しいキリスト像を持つためには、たまに聞くだけでなく、毎日聞かなければなりません。毎日、毎日、何度も繰り返して聞かなければなりません。特に、あなたが困難の中にあるとき、試練に直面しているときは、イエスさまのことを考えてください。深く思い巡らしてください。そしてイエスさまがどのようなお方なのかをよくとらえてください。そうすれば、あなたは元気を失い、疲れ果ててしまうことなく、鷲のように翼をかって上ることができます。

 

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。このイエスのことをよく考えてください。それすれば、あなたはこのイエスさまから励ましと力をいただき、あなたの前に置かれている信仰のレースを最後まで走り抜くことができるのです。

 

最後にこれをご覧ください。これは、1984年ロサンゼルスオリンピック女子マラソン競技で、37位ながらも見事完走を果たしたスイスのガブリエラ・アンデルセン選手です。彼女は陸上競技場に姿を表すと、熱中症で今にも倒れ込みそうになりましたが、ゴールを目指して走り続けました。手助けをすると失格になってしまうため、医師らが並走し状態を確認しながら、本人の意思を確認すると、脚も手も思うように動かない状態の中、それでも本人はゴールを目指すことを選択したのです。

彼女がスタジアムに入ってから5分以上が経過しましたが、スタジアムの観客の声援に後押しされるかのように、彼女は最後の気力を振り絞り2時間48分42秒で完走を果たしたのです。

レース後、アンデルセン選手はこう言いました。「普通のマラソン大会なら途中で棄権していたでしょう。でも歴史的な大会だったので、どうしてもゴールしたかったのです。」

 

私たちの信仰生活は一度しかない歴史的なレースです。神様は、私たち一人ひとりに、人生のコースを定めておられます。そして、走るべき道のりを最後までりっぱに走り抜いた人に、勝利の栄冠を用意してくださいます。そのレースは決してたやすいものではありませんが、それでも私たちは走り続けることができるのです。なぜなら、信仰の創始者であり、完成者であるイエスさまがおられますから。イエスさまがすでにその道を走り抜かれ、神の右の座に着座されましたから、私たちはこのイエスさまの足跡に従って進んでいくことができるのです。また、観客の大声援も後押ししてくれます。みんなスタンディングオベーションで励ましてくれています。だから、私たちは走り続けることができるのです。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。これが信仰のレースを走り抜く最も大きな力なのです。

ヘブル11章33~40節 「天国を待ち望む信仰」

きょうは、ヘブル人への手紙11章33~40節から、「天国を待ち望む信仰」というタイトルでお話します。ヘブル人への手紙11章には、信仰によって生きた人たちについて語られておりますが、きょうの箇所には、それらの人々に共通の特質が語られています。それは、こうした人たちは皆、天国を待ち望んでいたということです。

 

Ⅰ.信仰によって勝利した人々(33~35a)

 

まず33節から35節前半までをご覧ください。「彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。女たちは、死んだ者をよみがえらせていただきました。」

 

「彼らは」とは、直接的には32節に出て来た6人の人たちのことを指していますが、それと同時にこのヘブル書11章全体に出てきた信仰の偉人たちのことを指しています。彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。

 

彼らが敵に勝利し、命の危険から守られたのは、信仰によってのことでした。信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得たというのは、イスラエルがエジプトを出て約束の地を占領したことを語っています。彼らは、ヘシュボンの王シホンやバシャンの王オグとの戦いに勝利し、約束の地に入ると、カナンを支配していた王たちを滅ぼして、ついにその地を占領することができました(申命記2:24-3:11)。

 

また、「獅子の口をふさぎ」というのは、ダニエルが経験したことを指しているものと思われます。ダニエルは、イスラエルがバビロンによって滅ぼされると、バビロンへ強制連行されましたが、その後バビロンがメディヤ・ペルシャの連合軍によって滅ぼされると、メディヤ・ペルシャの王であったダリヨス王に認められ、三人の大臣のうちの一人に選ばれました。しかし、彼には神の霊が宿っていたので、ほかの大臣たちよりもはるかにすぐれていたため、ほかの大臣たちからねたまれると、彼らの策略によってライオンの穴の中に投げ込まれてしまいました。

 

しかし、ダニエルが仕えていた神は、ライオンの口をふさぎ、彼を救い出してくださいました。ダリヨス王はダニエルのことが心配で、心配で、食事ものどを通らず、一睡もしないまま夜を過ごしましたが、夜が明けるのを待ち構えていたかのように翌朝すぐにライオンの穴に行き、こう呼びかけました。「生ける神のしもべダニエル。あなたがいつも仕えている神は、あなたを獅子から救うことができたか。」(ダニエル6:20)すると、ダニエルは王に答えました。「王さま。永遠に生きられますように。私の神は御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の害も加えませんでした。」(ダニエル6:21-22)

それでダニエルは穴から出され、逆に彼を訴えた者たちが獅子の穴の中に投げ込まれたのです。そればかりか、ダニエルを通して現された神の御業を見たダリヨス王は、ダニエルの神を賛美し、ひれ伏したのです。

 

その次に出てくる「火の勢いを消し」というのは、そのダニエルの三人の友人シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴが経験したことを指しているのでしょう。彼らもまたバビロン捕囚の際にダニエルと一緒にバビロンに連れて行かれた少年たちでしたが、バビロンの王ネブカデネザネルが、金の像を造り、これを拝まない者はだれであっても燃える炉の中に投げ込まれると脅しても、決してそれに屈しませんでした。彼らがネブカデネザル王の前に連れて来られた時、王が「もし拝まないなら、あなたがたはただちに炉の中に投げ込まれる。どの神が、私の手からあなたがたを救い出せよう。」(ダニエル3:15)と言っても、彼らは、「もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」(ダニエル3:17-18)とはっきりと答えました。

それを聞いたネブカデネザル王は、怒りを爆発させ、だったら炉の温度を七倍にして、彼らを炉の中に投げ込めと命じると、あまりの熱さに彼らを縛って炉まで連れて行った軍人たちが焼け死んでしまいました。しかし、三人の若者はどうであったかというと、焼け死にするところか、何の害も受けず炎の中を歩いていたのです。しかもよく見ると、炉の中に投げ込んだのは三人であったはずなのに、その中にはもう一人いて、その人は神の子のような方でした。つまり、それは受肉前のイエス様です。ネブカデネザル王は急いで彼らを炉から出すと、彼らが何一つ害を受けていなかったのを見て驚き、彼らの信じている神こそ本当の神であると宣言したのです。(ダニエル3:28)。

 

その次にある「剣の刃をのがれ」とは、アハブの王妃イゼベルがエリヤの命をねらって彼を殺そうとしたことから逃れたことや(Ⅰ列王記19:2-18)、イスラエルの王であったヨラムがエリシャを殺そうとしましたことから逃れたこと(Ⅱ列王記6:31-32)を指しているものと思われます。彼らは神のことばを大胆に宣べ伝えたことで、王たちの反感を買い、何度も命の危険にさらされましたが、主はそんな彼らの命を守ってくださいました。

 

次に「弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました」とは、前回のところでも見ましたが、ギデオンをはじめとする士師たちや、預言者たちのことを指しているものと思われます。彼らは最初から勇士だったわけではなく、最初は主の命令に尻込みばかりしているような弱い者でした。しかし、主のあわれみによって強くされ、信仰によって勇士となり、他国に勝利することができました。

 

また、預言者エレミヤも、主から召しを受けた時、「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」(エレミヤ1:6)と言うような弱い者でしたが、「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんなところへでも行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。」(エレミヤ1:7-8)。と言われる主の御声を聞いて強められ、ついには自分の命をかけて大胆に神のことばを告げました。36節には、「また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられるめに会い」とありますが、その一人がエレミヤだったのです。最初、彼は「まだ若い」とか、「どのように語っていいのかわからない」と言うような弱い者でしたが、信仰によって強められ、数々の困難を乗り越えて、自分に与えられた務めを果たすことができたのです。

 

そして、35節の前半には、「女たちは、死んだ者をよみがえらせていただきました。」とあります。これはツァレファテの貧しい未亡人やシュネムの金持ちの婦人のことを指しています。ツァレファテのやもめは、預言者エリヤによって死んだ息子をよみがえらせてもらいました(Ⅰ列王17:17-24)。また、シュネムの女は、預言者エリシャによって死んだ息子をよみがえらせてもらいました(Ⅱ列王4:17-37)。それは女たちの信仰によってということよりも、エリヤやエリシャの信仰によってということです。それは彼らが偉大な預言者であったからというよりも、彼らが信仰によって生きていたので、主が彼らを通してそのような御業を行ってくださったということです。

 

それは彼らだけではありません。私たちも信仰によって生きるなら、死んだ人をもよみがえらせるような偉大な神の御業を行うことができるのです。

 

Ⅱ.約束されたものを得なかった人々(35b-39)

 

しかし、このように信仰によって生きた人たちの中には、信仰によって勝利した人たちもいましたが、苦難の生涯を送った人たちもいました。35節後半から39節をご覧ください。

「またほかの人たちは、さらにすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを願わないで拷問を受けました。また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられるために会い、また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩きまわり、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、この世は彼らにあさわしい所ではありませんでした。荒野と山とほら穴と地の穴とをさまよいました。この人々はみな、その信仰によってあかしされました。約束されたものは得ませんでした。」

 

35節前半までのところには、信仰によって敵に勝利し、約束のものを得た人たちや、命の危険から救い出された人たちのことが紹介されてありましたが、ここには逆に、信仰によって、様々な苦難を受けた人たちのことが紹介されています。この人々はみな、その信仰によってあかしされた人々です。どのようなあかしかというと、信仰によって、約束のものを得た人々がいれば、信仰によって、苦難を受けた人たちもいたというあかしです。どちらも信仰によって生きた人たちでしたが、結果は必ずしも同じではありませんでした。それはどうしてかというと、私たちの信仰はこの地上の祝福だけを追い求めるものではなく、天にある祝福、永遠のいのちを求めるものだからです。これが、私たちの信仰にとっての究極的な約束なのです。そして、イエスさまがこの地上に来られたのも、私たちにこの神の国をもたらすためでした。イエス様はこう言われました。「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:10)このいのちとは永遠のいのちのことです。イエスさまが来られたのは、私たちがこのいのちを得て、それを豊かに持つためだったのです。

パウロは、ローマ1章16節でこう言いました。「私は福音を恥じとも思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」福音は、信じるすべての人を救い、変えることができる神の力です。パウロのようにキリストを迫害していた人さえも救い、キリストを宣べ伝える者に変えてくれました。私たちに生きる力を与えるのは、お金や知識ではなく、福音を信じる信仰なのです。イエスさまはこの永遠のいのちをもたらすために来られたのであって、この地上での祝福をもたらすためではありませんでした。ですから、ある人たちは信仰によって、国々を征服し、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、火の勢いを消すことができましたが、ある人たちはその信仰によって、様々な苦難を受け、約束されたものを得ることができませんでした。この世は彼らにとってふさわしいところではなかったのです。しかし、その信仰によって彼らはあかしされました。何を?彼らは信仰によって生きたということです。彼らはこの地上では報いらしいものは何一つ受けませんでしたが、代わりに、さらにすぐれた天の報いを受けたのです。

 

詩篇90篇10節にはこうあります。「私たちの齢は七十年、健やかであっても八十年、しかも、その誇りとするところは労苦と災いです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。」考えてみると、私たちのこの地上での生涯は点のようなもので、それは短いのです。それは早く過ぎ去ります。昨日まではあんなに若かったのに、あっというまに年をとってしまいます。しかし、死後のいのちは永遠なのです。線ように長く、どこまでも続きます。その永遠の世界をどこで、どのように過ごすのかは、この地上での、今の信仰の決断にかかっているのです。それゆえこの詩篇の記者であるモーセはこう祈っているのです。「それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。」(詩篇90:10)私たちもこのモーセの祈りを、自分の祈りとしたいと思うのです。

 

さて、35節後半には、「またほかの人たちは、さらにすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを願わないで拷問を受けました。」とあります。これは、この前に紹介されていたエリヤやエリシャによって行なわれたよみがえりと比較しての、さらにすぐれたよみがえりです。そのよみがえりとは、死者の中からの復活のことです。エリシャとエリヤが行なったのは「蘇生」と呼ばれるもので、一度死んだ者が息を吹き返すだけのことで、やがて再び死んでしまうものでした。しかし、ここで言われているよみがえりとは、死者の復活のことです。御霊のからだによみがえることです。キリストが死者の中からよみがえられたときに持っていたあの復活のからだによみがえることなのです。

 

この復活のからだを得るためには、この世においては救いを得るどころか、拷問を受けることさえあります。ここには、釈放されることを願わずに、拷問を受けた、とありますが、旧約聖書の時代には、そういう信仰者たちもたくさんいました。あのシャデラク・メシャク・アベデ・ネゴでさえ、死の危険から奇跡的に救い出されましたが、もしかすると、そのまま焼き殺されていたかもしれません。だから彼らは、「もしそうでなくても」と言ったのです。もし神が自分たちをネブカデネザル王の手から救い出さしてくれないということがあっても、それでも金の像を拝むことはしないと、断固としてそれを拒みました。それは、彼らがこのさらにすぐれたよみがえりを信じ、それを見つめて生きたいたからです。

 

「また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられるために会い、また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩きまわり、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、この世は彼らにあさわしい所ではありませんでした。」

 

これが誰のことを指しているのかははっきりわかりません。けれども、昔も今も、信仰によって生きようと願うなら、だれでもこのような迫害を受けます。なぜなら、そのように聖書に約束されているからです。

「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(Ⅱテモテ3:12)

ですから、もしあなたが信仰のゆえに苦難を受けることがあったとしたら、それはキリストの弟子とされていることの証であり、永遠のいのちという勲章を受けていることでもあるということを覚えて感謝しましょう。

 

1世紀に生きたユダヤ人の歴史家ヨセフスによると、紀元前2世紀頃ユダヤを治めていたのはシリヤでしたが、そのシリヤの王であったアンティオコス・エビファネスは、彼の政策にギリシャ思想を取り入れようと、ユダヤ人を激しく迫害しました。彼は、律法に基づく犠牲のささげものや割礼を禁じ、代わりにエルサレムの神殿にギリシャのゼウス像を配置し、これを拝まなかったら、その者には激しい拷問を加えるとし、それによって大勢のユダヤ人が死んでいきました。

その中に年老いた律法学者でエレアザルという人がいましたが、彼はどんなにアンティオコス・エピファネスによって脅迫されても、神の律法に背くことはできないと、喜んで殉教の死を遂げました。それは終わりの日に復活し、すばらしい御国に行くことができると信じていたからです。

 

これまで信仰によって生きた人たちの中には、そのような人たちがたくさんいました。それは、彼らだけに限らず、この手紙の読者たちにしても然り、先日お話しした中国のクリスチャンたちにしても然り、そして、私たち日本でも同じようにして死んで行った人たちがたくさんいました。豊臣秀吉の時代に起こった26人聖人殉教は有名な話です。それはいつの時代でも、どこででも起こり得る事なのです。

 

この世は彼らにとって、ふさわしいところではありませんでした。彼らは信仰のゆえに苦難を受け、この地上では報いらしいものは何一つ得られませんでした。しかし、彼らは、さらにすぐれたもの、天における報いを得るために、喜んで苦難を受けたのです。

 

Ⅲ.さらにすぐれたものを得るために(40)

 

それは私たちにとっても同じです。この世は、私たちにとってふさわしいところではありません。しかし、私たちには、さらにすぐれた世界が用意されているのです。ですから、そこでの報いを得るために、私たちはしっかりとそれに備えるものでありたいと思うのです。

 

それでは、そのためにどうしたらいいのでしょうか。この手紙の著者はこう勧めるのです。ヘブル12章1です。ご一緒に読みましょう。

「こういうわけですから、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」

 

皆さんの中に、心が元気を失い、疲れ果ててしまったという人がいますか。もしそういう方がおられましたら、ぜひ彼らのことを思い出してください。彼らのことを思い出すなら、あなたに励ましを受けます。というのはここに、こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り囲んでいるのですから、とあるからです。これはこの11章で紹介されてきた信仰によって生きた人たちのことです。また、イエス・キリストにあって天に召された信仰の先輩者たちも含まれています。あるいは、ついこの間まで一緒に信仰に歩んでいた家族や信仰の友も含まれています。それらの人々が雲のように私たちを取り巻いているのです。彼らはイエス・キリストにあって天に召されましたが今も生きています。そして、私たちのことを、あなたのことを見て、応援しているのです。

 

私たちは今、この地上で信仰の競争をしています。レースをしています。そこでは様々な患難があるでしょう。辛いこともあります。つまずいて倒れて、立ち上がれないような時もあります。疲れ果ててしまい、もうこれ以上は前に進めないという時もあるでしょう。でもそのような時に、ぜひ彼らのことを思い出してください。不平不満を言う前に、あきらめてしまう前に、ぜひ彼らのことを思い出していただきたいのです。彼らのことを思い起こすなら励ましを受けます。彼らは忍耐をもって走り抜きました。その彼らがあなたを見ているのです。彼らはただ傍観しているのではありません。天国から見下ろして見物しているのではないのです。彼らは私たちと同じように信仰のレースを走り抜き、その途上にはいろいろなことがありました。辛いことも、苦しいこともありました。でも彼らは最後まで走り抜いたのです。約束のものをこの地上では手に入れることはできませんでしたが、忍耐をもって走り抜きました。ですから彼らは、私たちの苦しみも、辛さも、悲しみも全部わかっているのです。すでに通っているのですから・・。その彼らが雲のように私たちを取り巻いて応援しているのです。ですから、私たちは彼らのことを思い出すことによって励ましを受けるのです。

 

私はもう溺れそうです、死にそうです、という人がいますか。そういう人はどうぞヨナのことを思い出してください。ヨナは魚に呑み込まれて三日三晩、その中で苦しみました。今私の直面している試練は炎のごとく私を焼き尽くそうとしていますという人がいますか。そういう人はシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴのことを思い起こしてください。彼らは涼し気な顔をして炎の中でイエス・キリストと一緒に歩きました。語り合いました。私は今巨人と戦おうとしていますという方は、ぜひダビデのことを思い起こしてください。どのような時でも、私たちは常に、どんな試練に置かれようとも、どんな困難に直面しようとも、どんな苦しみの中にあっても、この旧約の聖徒たち、ヘブル人の手紙の11章に出てくるような信仰の殿堂入りを果たしたような人たちが、私たちのことを見ていて、応援しているということを思い出すなら、あなたもまた奮い立つことができるからです。そのようにして、私たちも私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

ヘブル11章32節 「信仰によって生きた人々」

きょうは、「信仰によって生きた人々」とタイトルでお話しします。このヘブル人への手紙11章には、信仰によって生きた人々のことが取り上げられていますが、きょうのところにはこのシリーズの締めくくりとして六人の名前を挙げられています。その六人とはギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、そしてサムエルです。実際にはその後に預言者たちについても言及されていますから、もっと多くの人々が挙げられていることになりますが、とりあえず名前として取り上げられているのはこの六人です。いったいなぜ彼らの名前が挙げられているのでしょうか。

 

時代的な順序で言うならバラク、ギデオン、エフタ、サムソン、サムエル、ダビデという順序になりますが、ここにはそれとは違った順序で取り上げられています。おそらく、この手紙の著者は、時代的な順序を念頭に置いて名前を挙げたのではなく、信仰に生きた人たちにもいろいろなタイプの人たちがいて、そういういろいろなタイプを取り上げたかったのではないかと思います。

 

それでは、これらの人たちがどのように信仰に歩んだのかを見ていきたいと思います。

 

Ⅰ.ギデオン-臆病者でも

 

まず、最初に出てくるのはギデオンです。皆さん、ギデオンという人についてご存知でしょうか。聖書を無料で学校や病院に贈呈している団体がありますが、その団体の名前は「国際ギデオン協会」と言って、この人から取られました。信仰の勇士であったギデオンのように勇ましく主に仕えようという思いが伝わってきす。しかし、聖書をよく見ると、彼は最初から勇士であったわけではありません。ギデオンについては旧約聖書の士師記6章に記されてありますが、4節には、彼はミデヤン人の襲撃を恐れ、酒ぶねの中で、隠れるようにして小麦を打っていた、とあります。そんな彼に、ある日、主の使いが現われてこう告げるのです。「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」(士師6:4)これは、あなたは勇士なのだから、立ち上がってこれを迎え討ちなさいという意味です。しかし、彼はそれを素直に受け入れることができず、「主よ、もしあなたが私たちと一緒におられるなら、いったいどうしてこのようなことが起こるのでしょう。あなたは私たちとともにはおられません。あなたは私たちを捨てて、私たちをミデヤンの手に渡されたのです。」(同6:13)と答えました。

そんな彼に主は、「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。あたしがあなたを遣わすのではないか。」(同6:14)と告げるのですが、彼は尻込みして、なかなか従うことができませんでした。そして、だったらしるしを見せてくださいと、しるしを求めたのです。

 

最初は、彼が持って来た供えものを、主の使いが手にしていた杖の先を伸ばして触れると、たちまち岩から火が燃え上がって焼き尽くすというものでした(士師6:19-21)。

それでも確信がなかった彼は、次に、打ち場に刈り取った一頭分の羊の毛の上にだけ露が落ちて濡れるようにし、土全体はかわいた状態になっていたら、そのことで、主が自分を遣わしておられることがわかりますと言うと、主はそのようにしてくださいました(士師6:36-38)。

けれども、それでも確信がなかった彼は、もう一回だけ言わせてくださいと、今度は逆に土全体に露が降りるようにして、羊の毛だけはかわいた状態にしてくださいと言うと、主はそのようにしてくださいました(6:39-40)。

 

このようにして彼は、主の勇士に変えられ、わずか三百人で、ミデヤン人とアマレク人の連合軍十三万五千人を打ち破ることができました。初めは臆病で疑い深かった彼を、幼い子の手を引いて引き上げてくれる両親のように引き上げてくださり、信仰の勇者となることができたのです。

 

皆さんの中にギデオンのような臆病な人がいますか。しかし、そんな人でも変えられます。信仰の勇士になることができるのです。もしあなたが、確かに主は生きておられると確信しそのみことばに従うなら、信仰によって勇士となり多くの敵を打ち破ることができるようになるのです。

 

Ⅱ.バラク-優柔不断な人でも

 

次に出てくるのはバラクです。バラクについての言及は士師記4章にありますが、ちょっと優柔不断な人でした。当時、イスラエルはカナンの王ヤビンという人の支配下にあって苦しめられていました。その将軍はシセラという人でしたが、彼は圧倒的な戦力を誇り、イスラエルは彼の前に何も成す術がありませんでした。

 

ところが、ある時、当時イスラエルを治めていた女預言者デボラに、タボル山に進軍して、このシセラの大軍と戦うように、わたしは彼らをあなたの手に渡す(士師4:6-7)とう主のことばありました。それで彼女はそれをバラクに告げるのです。

 

するとバラクはどうしたかというと、女預言者デボラに、「もしあなたが私といっしょに行ってくださるなら、行きましょう。しかし、もしあなたが私といっしょに行ってくださらないなら、行きません。」(士師4:8)と答えるのです。何とも、もじもじした男です。行くのか、行かないのかはっきりしない、まさに優柔不断な男だったのです。

 

するとデボラは、「私は必ずあなたといっしょに行きます。けれども、あなたが行こうとしている道では、あなたは光栄を得ることはできません。主はシセラをひとりの女の手に渡されるからです。」(士師4:9)と告げました。私はあなたといっしょには行くけれど、主は別の方法でシセラと倒すというのです。それはひとりの女の手によってだというのです。それで彼は、ゼブルンとナフタリから1万人を引き連れて、タボル山に進軍したのです。

 

これはちょっと不思議です。確かにデボラは彼といっしょに行くと約束しましたが、そこで栄光を受けるのはバラクではなく「ひとりの女」だというのに、彼は進軍したからです。この「ひとりの女」とは、この後でシセラのこめかみに鉄のくいを刺し通したヤエルという人です。彼女はバラクとの戦いで追い詰められたシセラが彼女の家に水を求めて立ち寄ったとき、熟睡していた彼のところに近づいて、彼のこめかみに鉄のくいを刺し通したのです。それで彼女は栄光を受けたのです。栄光を受けたのはバラクではなくこの女性でした。にもかかわらずバラクは進軍したのです。なぜでしょうか。

 

それは彼が信仰によってそのように決断したからです。普通だったらこのようなことを言われたら、「だったら、や~めた。骨折り損のくたびれもうけだわ」と言って止めるところですが、彼はそうではありませんでした。それでも彼は出て行ったのです。それは彼が自分の栄誉ではなく、主とその民イスラエルの勝利をひたすら求めていたからなのです。ここではその信仰が称賛されているのです。本来ならこんな優柔不断な男のことなどどうでもいいことですが、それでも彼のことが取り上げられているのは、こ

うした彼の信仰が評価されていたからなのです。皆さん、どんなに優柔不断な人でも、信仰によって生きるなら主はその人を大きく評価してくださるのです。

 

Ⅲ.サムソン-破天荒な人でも

 

次に取り上げられているのはサムソンです。サムソンについては皆さんもよくご存じかと思います。彼はロバのあご骨で千人のペリシテ人を打ち殺したが、最後はそのペリシテ人に捕らえられて目をえぐられ、足には青銅の足かせをかけられ牢の中で臼をひかせられるという苦しみを味わいました。しかし、その牢の中で悔い改めると再び聖霊が激しく彼に下り、ペリシテ人の神ダゴンの神殿の柱を引き抜いて、そこにいた三千人のペリシテ人を打ち殺しました。その数は生きていた時に殺した敵の数よりも、多かったと言われています。

 

しかし、ここに信仰の勇者としてこのサムソンのことが取り上げられていることには、全く違和感がないわけではありません。というのは、彼の生活にはかなりいかがわしいところがあったからです。彼はナジル人として、生まれた時から神のために聖別された者であったのに、異教徒であったペリシテ人と結婚したり、売春婦であったデリラという女性と夜を過ごすなど、破天荒な生活をしていたからです。そんな彼でもここに信仰の勇者として取り上げられているのは、神の民イスラエルの敵であったペリシテを打ち倒すという神の御心の実現に向かって、生涯をかけて戦い抜いたからです。

 

かつてはヤクザの世界に身を置いていた人が神の福音を聞き、悔い改めてイエス様を信じた人たちの話を聞いたことがあります。彼らは、イエス様を信じる前はいわゆる全うな道から外れ、破天荒な生き方をしていた人たちでしたが、しかし、イエス様がその罪を赦してくださったことを知ると罪を悔い改め、「親分はイエス様」と言って、自分のいのちをかけて主を証するようになりました。彼らは反社会的勢力として一般の社会からつまはじきにされてもおかしくないような人たちでしたが、イエス様を信じたことで全く新しい人に変えられ、神の御心の実現のために生涯をかけて戦う者へとなりました。

 

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

 

このような人たちの姿をみるとき、たとえどのような背景がある人でも信仰の勇者として用いられることがわかります。考えてみると、サムソンのことについて書かれてある箇所をみると、その随所に、「主の霊が激しく彼の上に降って」(士師14:6、19)とありますが、どんな人でも主の霊が臨むとき、その人は神の器として聖霊の力を受け、神の御心の実現のために大きく用いられるのです。

 

Ⅳ.エフタ-軽率な人でも

 

次に取り上げられているのはエフタです。エフタについては士師記11章に記されてありますが、彼はギルアデという父親と遊女との間に生まれた子どもです。そのため正妻の子どもたちによって家から追い出され、ごろつきどもと略奪をしていました。そんな彼がイスラエルの檜舞台に登場したのは、当時イスラエルにアモン人が攻撃しかけてきたときでした。そのとき、イスラエルの長老たちは、あのエフタなら何とかしてくれるかもしれないと、彼のもとに人をやって、自分たちを助けてくれるようにと頼むのです。過去のことでイスラエルを恨んでいたエフタはすぐには応じようとしませんでしたが、長老たちの切なる要請に応じて、アモン人と戦うことになりました。その時、エフタは主に誓ってこう言いました。「もしあなたが確かにアモン人を私の手に与えてくださるなら、私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出てくる、その者を主のものといたします。」(11:30-31)こうして彼は出陣し、アモン人の大軍を打ち破って家に帰ってみると、何とその時最初に彼を出迎えたのは、彼のたった一人の娘でした。まさか彼の一人娘が出てくるなどとは夢にも思わなかったでしょう。それで彼は相当悩んだことと思いますが、それでも彼は、その誓いのとおりに自分の一人娘を主にささげたのです。彼は最初の誓いを最後まで貫いたのです。

 

ここで彼が自分の一人娘を主にささげたということが、いけにえとしてささげたということなのか、それとも主の働きのために結婚をせずに一生を過ごさせたということなのかについては見解が分かれるところですが、いずれにせよ、彼がここで信仰の勇者として取り上げられているのは、彼が主に誓ったことを最後まで誠実に履行したからなのです。もちろん、彼がイスラエルを導いてアモン人の大軍から民を救ったということも信仰の勇者として数えられていることの一因ではありますが、それ以上に、一度、神に対して誓った約束を最後までやり遂げたところに、彼の信仰の真骨頂が見られるのです。

 

時として私たちも軽率に主の前に誓うものの、自分の都合が悪くなるとそれを簡単に破ってしまうことがあります。誓約を守るということ、約束を果たすということはそれほど大変なことなのです。たとえば、結婚式の誓いにしても、常に相手を愛し、敬い、助けて変わることなく、その健やかなる時も、病める時も、富める時も、貧しき時もいのちの日の限り堅く節操を守ることを誓いますかと問われ、「はい、誓います。」と誓ったものの、実際に結婚してみると、「こんなはずじゃなかった。」と、いとも簡単に誓いから解かれようとします。そんなことなら初めから誓約などしない方がいいのに、それでも私たちが誓うのは、そこまでしても大切にしたいという思いがあるからです。

 

それは結婚だけではなく、私たちの信仰生活も同じです。ある意味で私たちの信仰生活はイエス様との結婚と同じです。イエス様が花婿であり、私たちはその花嫁です。聖書には教会がキリスト花嫁として描かれています。ですから、イエス様を信じた時どんなことがあってもあなたを愛し、あなたに従いますと誓ったはずなのに、私たちは自分に都合が悪くなると、いとも簡単にそこから解かれようとします。それは私たちに共通する弱さでもあるのです。

 

けれども、このエフタは違いました。彼は神に誓ったその誓いを、最後まで誠実に果たしました。その信仰が称賛されているのです。

 

Ⅴ.ダビデ-罪を犯しても

 

次に登場するのはダビデです。ダビデについてはもう説明がいらないくらい有名な人物です。彼はイスラエルの王であり、信仰の王でもありました。彼はいつも主に信頼し、その小さな体であるにもかかわらず、ペリシテの巨人ゴリヤテを石投げ一つで倒しました。そんな信仰の王であったダビデですが、実のところ、彼にも弱さがなかったわけではありません。彼の生涯における最大の汚点は、王の権力を笠に着た姦淫の罪と、それをもみ消そうとして犯した殺人の罪でした。どんなに偉そうに見える人にも弱さがないわけではありません。どんなに完全に見えるような人にも欠点はあるのです。しかし、ダビデの偉大さは、そのような弱さや欠点、罪や汚れがあっても、へりくだって神の御前に悔い改めたことです。彼は預言者ナタンによってその罪を指摘された時、自分の権力を笠に着て、それをごまかそうとしませんでした。彼は王の権力によって預言者ナタンの直言を退け、彼を処刑にすることさえできないわけではありませんでしたが、そのことばを受け入れ、神の御前に罪を悔い改めました。これは、そのときダビデが歌った詩です。

「神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。どうか、私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。」(詩篇51:1-2)

 

皆さん、このとき彼はイスラエルの王ですよ。王ともあろう者が自分の罪を認め、それを告白し、悔い改めるということは、王のメンツにかかわることでしたが、彼は王としてのメンツも何もかも捨てて、神の御前にへりくだったのです。それが彼の本当の意味での偉大さだったのです。

 

Ⅵ.サムソン-人はうわべを見る

 

最後に登場するのはサムエルです。彼は最後の士師として、また、祭司として、預言者として偉大な神の働きをしました。聖書を見る限り、彼は非の打ちどころがないほど完璧な人物として描かれていますが、そんなサムエルでも弱点がなかったわけではありません。彼の弱さはどんなところであったかというと、うわべで人を判断するという点でした。それは彼がサウルに代わるイスラエルの王を立てるとき、エッサイの家に生きましたが、長男のエリアブを見たとき、「確かに、主の前で油注がれる者だ」と思い、そうしようとしましたが、主は、そうではないと仰せられました。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」(Ⅰサムエル16:7)と仰せられたのです。それでエッサイはその弟アビナダブ、シャマと進ませましたが、彼らも主が選んでいる器ではありませんでした。主が選んでおられたのは七人兄弟の一番末の弟でダビデでした。彼はまだ小さく羊の世話をしていましたが、彼が連れて来られたとき、主は、彼に油を注げと言われたので、サムエルはダビデに油を注いで王としたのです。

 

このようにサムエルとて弱点はありましたが、それにもかかわらず、ここに信仰の勇者として彼が名を連ねているのは、そのような中にあってもイスラエルの民を終始信仰によって指導し、エルサレムの神殿がペリシテ人によって破壊され、イスラエルの中心であった神の箱が奪われても、弱り果てたイスラエルの心を奮起させようと必死に取り組んだからです。神の箱がペリシテ人のものになっても、神はなおもイスラエルの民とともにおられることを示し、それを取り戻した時にはそれを人里離れた遠いところに置き、イスラエルの民の心が神の箱にではなく、神ご自身に向けられるように指導しました。

 

このように、サムエルはイスラエルの民の心がいつも主に向けられるように指導しました。預言者として、神の命令に背き自分勝手な道を進もうとするイスラエルに神のことばを語り、主に従うようにと励ますことは大変だったと思いますが、それでも彼は忍耐して、その働きを全うしました。それは、彼が信仰によって歩んでいたからです。その信仰が評価されたのです。

 

このように、彼らは生きていた時代や背景も違い、また、性格もいろいろでしたが、どの時代、どのようなタイプの人であっても、共通していたのは、信仰によって生きていたということです。それはここに名を連ねている人もいれば、いない人もいます。そうした多くの人たちが含まれているのです。それが良い時であれ、悪い時であれ、彼らはひたすら神に信頼し、信仰によって生きたのです。

 

それは私たちにも求められていることです。私たちの置かれているこの時代は良い時か、悪い時か、良い時もあれば、悪い時もあるかもしれません。しかし、それがどんな時であっても、私たちもまた信仰によって生きていこうではありませんか。ですから、聖書は私たちにこう告げるのです。ヘブル人への手紙12章1節です。

「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。」

 

信仰の旅は、決してひとりぼっちではありません。あなただけがこの信仰の戦いをしているのではないのです。神に誠実を尽くした偉大な聖人たちや無名な信仰者たちが手本となって、私たちを励ましてくれています。彼らが今、天の御国にいることも私たちの励ましです。ですから、私たちも信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないで、神に従った人たちに背中を押されながら、信仰の歩みを続けていくことができるのです。

ヘブル11章30~31節 「いのちがけの信仰」

きょうは、「いのちがけの信仰」というテーマでお話します。このヘブル人への手紙11章には、信仰に生きた人たちのことが語られています。これまでアベルとエノク、ノアの信仰について、そして次にアブラハムとその子イサク、そしてその子ヤコブ、ヨセフの信仰が取り上げられました。そして前回はユダヤ人にとって最も偉大な存在であるといっても過言ではないでしょうモーセの信仰について語られました。きょうは、エジプトを脱出したイスラエルが約束の地に入るにあたって直面したエリコの城壁の陥落と、そのエリコに住んでいた遊女ラハブの信仰から学びたいと思います。

 

Ⅰ.みことばに従った人々(30)

 

まず30節をご覧ください。「信仰によって、人々が七日の間エリコの城の周囲を回ると、その城壁はくずれ落ちました。」

 

これはヨシュア記6章に出てくる内容です。エジプトを出たイスラエルは四十年にわたる荒野の旅をするわけですが、その後、モーセの次の指導者ヨシュアに率いられてヨルダン川を渡り、約束の地に入ります。そこで彼らが最初にしなければならなかったことは、エリコの町を攻略することでした。このエリコという町はあの取税人ザアカイが住んでいた町として有名ですが、世界最古の町として知られています。現在はヨルダン川西岸にあるパレスチナ自治区にありますが、かつてこの町にはかなり強固な城壁が巡らされていました。考古学者の発掘によると、この町の城壁は高さが7m~9m、厚さが2m~4mもあったと言われています。そんな城壁が彼らの行く手にはそびえ立っていたのです。そして、彼らが約束の地に入って行くためには、その壁を突破していかなければなりませんでした。いったい彼らはどのようにして突破したのでしょうか。

 

ヨシュア記を見ると、それは常識では考えられない方法、アンビリーバボーな方法でした。それは、一日に1回七日間、七日目には七回城壁の回りを回り、ときの声を上げるというものでした。すると城壁はくずれ落ちました。すなわち、彼らは武力によってではなく、信仰によって攻略したのです。彼らが神のことばに従って行動したので、神が御業を成されたのです。もし、彼らが神のことばに従わなかったらどうだったでしょうか。城壁はずっとそこにそびえ立ったままで、約束の地に入って行くことはできなかったでしょう。しかし、彼らは神のことばを額面通りに受け入れ、それに従って行動したので、壁は崩れ落ちたのです。これが信仰の働きです。たとえそれが自分の理性を越えたことであっても、あるいは今まで全く経験したことがないことであっても、神が示されたことであればそれに従うこと、それが信仰なのです。信仰によって、神のことばに従うなら、どんなに強固な城壁でも崩れるのです。

 

あなたにはどのような城壁がありますか。自分の息子や娘のとの間に越えられない壁があるでしょうか。自分の親、兄弟との間に、あるいは、職場の同僚、上司との間に、友人、知人との間に人間的には超えることが不可能だと思えるような壁がありますか。しかし、それがどんな壁であっても、神は崩すことがおできになるのです。それは、あなたがだれかと相談したからではなく、あるいは、そのためにあなたが一生懸命に努力したからでもなく、ただ神のことばに従うなら、神がそれを崩してくださるのです。それはあなたが思い描いたような方法やタイミングではないかもしれません。けれども、神様は完全であって、その神の完全な時と方法によって最善に導いてくださるのです。ですから、私たちは神の最善を信じて、忍耐して祈り続けなければなりません。そうすれば、ちょうど良い時に神が働いてくださるのです。このようなことを、これまで私たちは何度か経験したことがあるのではないでしょうか。たとえば、これまでいくらイエス様のことを語ってもかたくなに受け入れようとしなかった人が急に心を開かれて信じるように導かれたとか、自分の力ではどうすることもできない問題が、不思議に解決したということが・・・。

 

ローマ人への手紙9章16節にはこうあります。「したがって、事は人間の願いや努力によるの ではなく、あわれんでくださる神によるのです。」

別に、人間の努力が必要ないと言っているのではありません。努力することに何の意味もないと言っているのでもないのです。けれども、私たちの人生には、自分の力ではどうすることもできないことがあるのです。しかし、神はおできになります。神にはどんなこともできるからです。その神に働いていたたくために私たちは自分を神に明け渡し、神が命じられたことに従わなければなりません。自分の思いや考えではなく、神のみことばに従わなければなりません。そうすれば必ず壁は崩れ、神の約束の実現に向かって大きく前進することができるのです。

 

Ⅱ.一致した信仰(30)

 

第二のことは、一致した信仰です。ここには、「信仰によって、人々が七日間エリコの城の周囲を回ると、その城壁は崩れ落ちました。」とあります。だれか特別な人の信仰によってではなく、人々が七日間エリコの城壁の周囲を回ることによって、人々の一致した信仰によって城壁は崩れたのです。

確かにそこにはヨシュアという強力なリーダーシップがあったのは事実ですが、ヨシュアのリーダーシップだけではなく、そのリーダーに従い、神のことばに従ったイスラエルの人々の一致した信仰があったので、エリコの町の城壁はくずれたのです。もしその中のだれかが、「そんなことしたって無駄だよ。崩れるはずがない。そんなの馬鹿げてる!」「くだらない。俺はそんなことをしている暇なんてない!」と言ったとしたらどうだったでしょうか。壁は依然としてそこにそびえ立っていたことでしょう。イスラエルの人々の一致した信仰がこのような神の御業を引き出したと言っても過言ではありません。

 

エペソ4章13節にはこうあります。「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」

神が私たちクリスチャンに求めておられることは信仰の一致と神の御子に関する知識の一致に達することです。人それぞれ考えが違います。しかし、その違いを信仰によって乗り越えなければなりません。自分がどう思うかではなく、神は何と言っておられるのかを聞かなければなりません。そして、神のみこころにおいて一致しなければならないのです。そうすることによって、私たちは完全におとなになって、キリストの御丈にまで達することができるからです。

 

ですから、あなたが霊的に成長したいと思うなら、成長してキリストのようになりたいと願うなら、キリストのからだである教会につながっていなければなりません。なぜなら、私たちはキリストのからだである教会の一員として召されているからです。いいえ、私は結構です、私は自分で聖書を読み、自分で祈り、自分で礼拝するので教会に行く必要はありません、ということがあったら、そういう人は真の意味でキリストの御丈にまで達することはできません。私たちがいくら自分で聖書を勉強しても、いくら信仰書を読んでも、どんなにセミナーに参加しても、私たちがキリストのからだである教会の一員として召されている以上、その中で養われ、育まれていかなければ、健全に成長していくことはできないからです。イエス様は、ふたりでも、三人でも、わたしの名によって集まるところに私もいると言われましたが、どんな小さな教会でも、キリストによって召された神の教会を通して、神はご自身の栄光を現してくださるのです。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところなのです。

 

ですから、霊的に完全なおとなになりたいと思うなら、神の教会につながって、そこでキリストの満ち満ちた身たけにまで達することを求めなければなりません。そこで信仰において一致するということが不可欠なのです。

 

ピリピ1章27節にはこうあります。「ただ一つ。キリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、また離れているにしても、私はあなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにしてしっかりと立ち、心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘しており、」

 

福音のために心を一つにして共に奮闘しましょう。たとえそれが自分の思いや考えとは違っても、あるいは、自分がこれまで経験したことと違っていたとしても、クリスチャンは心を一つにすることが求められているのです。それがキリストの福音にふさわしい生活なのです。一人でぐるぐる回っていてもダメです。キリストのからだの一員として心を一つにして祈り、福音の前進のために助け合い、支え合って、ともに奮闘しなければなりません。その時、壁は崩れるのです。

 

日本にプロテスタントの宣教師が来て宣教を開始して160年が経ちますが、未だに1パーセントの壁を越えられないのはどうしてなのでしょうか?その要因はいろいろありますが、その中でも最も大きな要因はここにあるのではないかと思います。すなわち、キリストの福音のためにともに奮闘することです。それぞれが自分の考えがあるでしょう。けれども、キリストとその福音のために自分を捨てる覚悟がなければなりません。福音が全地に満ちるために自分の思いではなくイエス様の思いを持ち、イエス様の心を心として、イエス様のことばに従ってともに奮闘しなければなりません。それはこのヨシュアの時代のようにエリコの町を行進しなければならないということではないのです。それはその当時の、その状況の中で、神が示されたことであって、現代においても同じようにぐるぐると回れということではありません。回るか回らないかということではなく、神のことばに従って、福音のために心を一つにしなさいということなのです。

 

あなたも、この信仰の行進に招かれています。あなたも福音のために、心を一つにして、主の御名の栄光のために共に立ち上がろうではありませんか。それは信仰がなければでません。主よ、あなたが仰せになられることなら何でもします。どうか、この私を用いてくださいと、主の前に祈り求めるものでありたいと思います。

 

Ⅲ.いのちがけの信仰(31)

 

最後に、31節をご覧ください。ここには、遊女ラハブの信仰について語られています。

「信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました。」

 

イスラエルがこのエリコの町を占領し、そこに住んでいた人々を皆殺しにした時、遊女ラハブは助かりました。なぜでしょうか。それは彼女が、「偵察に来た人たちを穏やかに受け入れた」からです。これはヨシュア記2章にある出来事です。ヨシュアはこのエリコを攻略するにあたり、エリコの町を偵察するために二人の斥候を遣わしたのですが、彼らが向かったのがこのラハブの家でした。そのことがエリコの王の耳に入ると、エリコの王はこの二人を連れ出すためにラハブの家に人を送りました。その時ラハブはどうしたかというと、ふたりの斥候をかくまい、追って来た人に、「その人たちは確かにやって来ましたが、その人たちは、暗くなって、門が閉じられるころ、出て行きました。さあ、後を追ってごらんなさい。もしかすると、追いつけるかもしれません。」と言って、助けてあげたのです。

 

このとき、彼女には二つの選択肢がありました。彼らを受け入れる道と、拒む道です。もし彼女が自分たち家族の目先のことを考えたなら、拒んだ方が安全だったでしょう。けれども彼女はもう一つの道を選びました。それはかなり危険な道でもありました。もしそれが発覚したら、それこそ彼女と彼女の家族はエリコの町の敵として糾弾され、裁かれなければならなかったでしょう。場合によっては死刑にならないとも限りません。それでも彼女は、後者の道を選択しました。どうしてでしょうか。それは、彼女がイスラエルの神こそ唯一まことの神であることを知っていたからです。それを知った以上、この神に従い、この神を信じている人々と行動を共にすることが正しいことであると判断したからです。ヘブル書ではそれを「信仰によって」と表現しています。信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れたのです。その時のことを、ヨシュア記には次のようにあります。

 

「主がこの地をあなたがたに与えておられること、私たちはあなたがたのことで恐怖に襲われており、この地の住民もみな、あなたがたのことで震えおののいていることを、私は知っています。あなたがたがエジプトから出て来られたとき、主があなたがたの前で、葦の海の水をからされたこと、また、あなたがたがヨルダン川の向こう側にいたエモリ人のふたりの王シホンとオグにされたこと、彼らを聖絶したことを、私たちは聞いているからです。私たちは、それを聞いたとき、あなたがたのために、心がしなえて、もうだれにも、勇気がなくなってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神であられるからです。」(ヨシュア2:9-11)

 

そして彼女はさらにこう言いました。「どうか、私があなたがたに真実を尽くしたように、あなたがたもまた私の父の家に真実を尽くすと、今、主にかけて私に誓ってください。そして、私に確かな証拠を下さい。私の父、母、兄弟、姉妹、また、すべて彼らに属する者を生かし、私たちのいのちを死から救い出してください。」(ヨシュア2:12)

このようにして、彼女は彼らを逃してやりました。彼女は自分のいのちがけで彼らをかくまい、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れたのです。ここでは、その信仰が称賛されているのです。

 

それにしても、このヘブル人への手紙11章には信仰に生きた人たちの名前が記されていますが、その中に彼女の名前が出ているのは不思議なことです。というのは、彼女はエリコの町に住んでいた異邦人で、しかも遊女だったからです。そのような女性が信仰の殿堂入りを果たすということなど考えられないことだからです。ここには17人の人たちの名前が出てきますが、そのうち15人が男性で、女性はたった2人しかいません。しかもそのうちの一人は、あの信仰の父と言われているアブラハムの妻サラです。アブラハムが信仰の父ならば、サラは信仰の母と言っても過言ではないでしょう。そういう女性ならわかりますが、ラハブはそれとは全く比べものにならない立場の女性です。そういう人がこの中に紹介されているというのは本当に首をかしげたくなります。しかも、このヘブル人の手紙はだれに書かれたのかというとユダヤ人クリスチャンに対して書かれました。当時迫害の中にあったユダヤ人クリスチャンがその信仰に堅く立ち続けるようにと励ますために書かれたのです。そしてユダヤ人の社会においては女性が称賛されることはまずありません。ですから、ここに異邦人の、しかも女性が称賛されていることは驚くべきことなのです。しかし、どのような身分、立場であっても、神のことばを聞いて生けるまことの神を信じ、いのちがけで主に仕えるなら、だれでも信仰の殿堂入りを果たすことができるということがわかります。彼女はこの信仰によって称賛されたのです。

 

このラハブの信仰でも際立っている言葉は、ヨシュア記2章21節のことばではないかと思います。それは、「おことばどおりにいたしましょう。」という言葉です。ふたりの斥候が、イスラエルが城壁を破壊してエリコの町に入って来たときには、それがラハブの家であることがわかるように、彼らを吊り降ろした窓に赤いひもを結び付けておくように、そして家族の者は全部、家の中にいるように、もし戸口から外に出るものがあれば、その者はこの誓いから外れる、また、このことをだれかにしゃべってもならないと言うと、彼女は、「おことばどおりにいたしましょう。」と答えたのです。

 

この言葉は、かつてイエス様の母マリヤも発した言葉です。御使いガブリエルがやって来て彼女に救い主の母になると告げられたとき、「どうしてそのようなことがこの身になるでしょう」と戸惑っていると、御使いが、「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」(ルカ1:35)と告げました。するし彼女はこう言うのです。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカ1:38)このようにしてマリヤは、救い主の母となったのです。

 

ここに登場しているラハブも同じです。彼女もふたりの斥候から告げられると、「おことばどおりにいたしましょう。」と言ってすべてを主にゆだねました。いいえ、そればかりではなく、この信仰によって彼女は救い主の系図の中に加えられたのです。その後、彼女はユダ族のサルモンという人と結婚しボアズを出産します。このボアズはルツと結婚し、あの有名なダビデ王の祖父オベデを生みます。そしてこの子孫から救い主イエスが誕生するのです。すなわち、ラハブが救い主の系図の中に加えられているということです。あり得ないことです。異邦人の、しかも女性で、売春婦であった人が救い主の系図に入っているなんて考えられないことです。しかし、救い主の系図の中に彼女の名前がちゃっかりと記録されているのです。マタイの福音書1章を見るとわかります。ここには四人の女性の名前が記されてありますが、大半は異邦人の女性です。タマル、ルツ、ラハブです。そしてもう一人がイエスの母マリヤですね。たとえ異邦人であっても、ラハブのようないのちがけの信仰があるなら、私たちも救いの中に招き入れられるだけでなく、偉大な信仰の勇者としてその名が神の記憶の中に刻み込まれるのです。

 

私は先週まで中国を訪問しましたが、ラハブのようにいのちがけで主に従っているクリスチャンとお会いし、本当に驚きとともに励まされて帰ってきました。この老姉妹はC先生といって、Oさんの教会の創設者の奥様で、家の教会の指導者のひとりです。現在87歳になられアルツハイマーで入院しておられるので、病院を訪問してお話しを伺いました。C先生が神学校を卒業した1950年頃でしたが、その頃は毛沢東による文化大革命が始まろうとしていた頃でした。神学校を卒業して南の島に赴任したその日にご主人は捕らえられ投獄されました。「さぞお辛かったことでしょう。その時どんなお気持ちでしたか。」とお尋ねすると、C先生はこう言われました。「イエスの弟子にとって苦しみを受けることは当たり前のことです。神学校で学んだ一つのことは、キリストの弟子は苦しみを受けるということです。その苦しみを呑み込むことでイエス様の弟子に加えられると思うと、むしろそれは光栄なことでした。」と言われました。ご主人が何度も捕らえられる中、家族を支えるために羊の世話からいろいろな仕事をしなければなりませんでしたが、イエス様の十字架の苦しみに比べたら、それはたやすいことだと思いました。ものすごい信仰です。

やがてC先生御夫妻はK市に移り、そこで家の教会を始めます。最初は6畳と台所、それに2階を足したような小さな家で始めましたがそこに入りきれなくなると、近くのマンションに移り礼拝を始めました。それがこの写真です。そこも入り切れなくなると政府と交渉してK市の北部のお墓の跡地に教会を建てる許可を受けました。それがこの会堂です。このように中国の家の教会が会堂を持つことは非常に珍しいことで、ほとんどは政府の圧力によって閉鎖に追い込まれますが、この教会は神様の奇跡的なご介入によって今も立ち続けています。しかし、もっとすごいのは、そこに脈々と流れ続けているキリストのいのちです。

 

これは私たちが中国に到着した日に空港からまっすぐ向かった家の教会です。私たちが来るということで、この家のご夫妻が美味しい中華料理を作ってもてなしてくださいました。この方は農家の方でそんなに裕福ではないように見えますが、私たちのために自分たちにできる最高のおもてなしをしてくださいました。

夜の集会はここでやるのかと思ったらそうではなく歩いて3分くらいの別の場所でやるということで移動しましたが、私たちは外国人ということもあり、教会が海外の教会とつながりがあることが判明すると危害が加えられる恐れがあるということで、万が一のことを考えて小さな車に乗せられて移動しました。

そこは石作りの倉庫のようなところで150人くらい入れるくらいのスペースがありました。この集会はこの家の御夫妻が30年前から5人で始められてずっと続けられてきた集会でした。これまでどれほどの危険を乗り越えてこられたかわかりませんが、そのようなことは微塵も感じさせないほどの喜びが満ち溢れていました。集会の合間にこのようにお茶をついでくれでもてなしてくださいました。

集会は7時から始まって9時まで続き、最初に祈りと賛美を30分くらいした後で、5人の人が使徒の働き8章26節から39節のみことばから教えられたことを証し、最後に長老がまとめるというものでした。そして 主の祈りをして解散しましたが、そこには生ける主が臨在しているかのようでした。

この家の集会では火曜日の夜の他に日曜日の午後、木曜日の夜にも集会が行われていて、その他は総教会で行われている日曜日の礼拝と水曜日の祈祷会、土曜日の夜の福音集会に参加しているため、週に5回は集会に参加しているとのことでした。ほとんどイエス様を中心とした生活をしているとのことでした。

 

木曜日の夜は、街の中で持たれている家の教会の集会に参加しました。それはマンションで行われていましたが、どうやって狭いマンションで集会が持てるのかと不思議に思っていましたが、実際に行ってみてわかりました。中が広いのです。日本のマンションと比べたら倍くらいの広さがありありました。50人くらいが座れるスペースです。また建物もしっかりしていて音が隣に漏れることもないようでした。これがこのマンションの持ち主です。そして、こんな感じで集会が持たれていました。内容は火曜日に訪れた集会とほとんど同じです。この日はヘブル11章23節から28節までのみことばからの説明や証が続きましたが、この箇所は、私が中国に来る前に説教した箇所でもあったのでよく覚えていましたが、私よりもずっとよく聖書をよく読んでいるなぁと感心しました。

 

そして、土曜日の夜は福音集会といって、新しい人たちのための集会がありました。それもすべて役員を中心とした信徒たちによって導かれた集会でした。祈りと賛美の後で4人の方々が福音について15分くらいずついろいろな角度から説明したり、証をしたりしました。集会の最後に今晩イエス様を信じたい人は最後の賛美歌を歌っている時に立ってくださいと促されると、40人くらいの人が立ち上がりました。これが毎週土曜日に行われているのです。単純に計算しても月に百人くらい、一年で五百人くらいの人たちが救われることになります。

 

これは日曜日の礼拝の様子です。礼拝堂に八百人くらいの座席がありますがそこは一杯で、その他のスペースに椅子が並べられ、モニターで礼拝していました。おそらく千五百人くらいの人が集っていたのではないかと思います。

 

いったいどうしてこのようなことが起こっているのでしょうか。勿論、これらのことはすべて神の御業なのです。しかし、いのちをかけて主に従ったC先生御夫妻の信仰に主が働かれ、御力を現してくだったからです。

 

しかし、それは中国だけのことでありません。私たちも信仰によって神のことばにいのちかけで従うなら、同じような事が起こると信じます。それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできるからです。しかし、そのためには私たちを完全に神に明け渡さなければなりません。私たちがどう思うかではなく、神がどのように思われるか、その神のみこころを知り、みこころに従わなければなりません。そうすれば、堅く閉ざされたエリコの城壁が崩れ落ちたように、この日本を覆っている霊的な壁は必ず崩れ落ちるのです。そして、ラハブが救い主の系図の中に記録されたように神のすばらしい祝福の中へと招き入れられるのです。

 

あなたはラハブのような覚悟がありますか。もし見つかれば自分のいのちの保証はないという危険の中でもいのちがけで主に従っていくという覚悟ができているでしょうか。神が喜ばれることは私たちが何をするかではなく、死に至るまで忠実であるということです。いのちがけで主に従いましょう。そして、主がなしてくださる御業を待ち望もうではありませんか。信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。