ずっとヘブル人への手紙を学んできましたが、きょうはその最後の箇所です。パウロの手紙でもそうですが、この手紙でもその最後は祈りによって結ばれています。きょうは、その祈りからご一緒に学びたいと思います。
Ⅰ.もっと祈ってください(17-19)
まず、17節から19節までをご覧ください。「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。私たちのために祈ってください。私たちは、正しい良心を持っていると確信しており、何事についても正しく行動しようと願っているからです。また、もっと祈ってくださるよう特にお願いします。それだけ、私があなたがたのところに早く帰れるようになるからです。」
この手紙の著者は、最後のところに来て、教会の指導者と信徒の関係について教えています。そしてその関係というのは、「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。」ということです。また、「この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることがないようにしなさい。」ということです。どうしてここに来て、指導者と信徒の関係について語っているのでしょうか。それは7節でも言われていたことですが、異なった教えに迷わされないように、神のことばにしっかりと立続けるためです。そのためには、神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを思い起こし、彼らの言うことを聞くことが必要です。そのことをここでは、この人たちは神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです、と言われています。どのようにして見張りをしているのかというと、神のことばによってです。だから、神のことばをもって指導している指導者たちの言うことに従うことが必要であって、それは、自分自身の益のためにもなることなのです。
けれども、ここでこの手紙の著者が指導者に服従するようにと言っている最も大きな理由は、その後の18節にあるように、指導者のためにも祈ってほしいということを伝えたかったからです。ここには指導者と信徒との関係は単に指導する者とされる者という関係以上のものであることが示されています。つまり、指導者と信徒の関係は祈りの関係であるということです。手紙の著者は18節で、「私たちのために祈ってください。」と懇願しています。また、19節には、「もっと祈ってくださるよう特にお願いします。」とあります。ここでは教会の指導者たちが信徒のために祈るというのではなく、むしろ教会の信徒が指導者たちのために祈ってほしいと言っているのです。もちろん、牧師は神の祭司として信徒のためにとりなして祈る務めが与えられていますが、その祈りは一方通行ではなく互いになされるものなのです。牧師が信徒のために祈るというだけでなく、信徒もまた牧師のために祈るという相互の祈りが求められているのです。そのようにしてこそ牧師と信徒の信頼関係が構築され、深められて、キリストのからだである教会が、キリストの御丈にまで達することができるのです。
尾山令仁先生は、ヘブル書の注解書の中でそのことについて次のように言っておられます。
「この祈り祈られる関係が成り立つ時、牧師と信徒の関係はすばらしい愛と信頼の関係になります。牧師が霊的権威を振りかざしたり、信徒が牧師に対して不平、不満やつぶやきを口にするのでは、教会は決して健康な状態とは言えません。牧師も、いくら教えてもその通りにしない信徒がいると、心の中に不満がたまってくるでしょう。それをためておかないで、祈りの中で神にそのことを申し上げるのです。一方、信徒は信徒で、牧師に対して不平や不満を持っているかもしれません。そんな時、それを祈りの中で申し上げるのです。お互いに不平、不満を相手にぶつけるのではなく、祈りの中で相手の欠けを神が補ってくださるように願うなら、神がそうした問題を解決してくださいます。」
祈りの中で神に相手の欠けを補ってくださるように願うというのはすばらしいですね。というのは、その問題を真に解決できるのは神しかいないからです。真の解決とは祈りの中でその人自身が変えられることだからです。イエス様は、「教会は、祈りの家でなければならない。」と言われました。なぜなら、教会は祈りの中から生まれたからです。皆さん、教会はどのようにして誕生したのでしょうか。ペンテコステというユダヤ教のお祭りの時、キリストの最初の弟子たちがたぶんマルコの母マリヤの家に集まり、心を合わせ、祈りに専念していたとき、突然、天から、激しい風が吹いてくるように聖霊が降ることによって誕生したのです。その日、三千人ほどが彼らの仲間に加えられました。ですから、教会は祈りの家でなければならないのです。教会が祈らなかったら教会ではなくなってしまいます。教会は祈りを通して神にすべてをゆだね、神が働いてくださることによって、すべての問題が解決されていくところなのです。
この手紙の著者はここで、「私たちは、正しい良心を持っていると確信しており、何事についても正しく行動しようと願っているからです。」と言っています。なぜ指導者のために祈らなければならないのでしょうか。それは指導者が正しい良心、純粋な良心を持って、何事についても正しく行動しようと願っているからです。教会の指導者がそのように生きているのなら、そのような指導者の言うことに従い、彼らのために祈るというのは、むしろ望むところではないでしょうか。
皆さんも、私のために祈っていてくださると思いますが、ぜひ祈ってください。ある人は、牧師のために祈るということはそれだけ牧師が無能であるということを意味するのではないか、牧師のために祈るということが、その牧師をかえってはずかしめることになるのではないかという人もいますが、そうではありません。確かに牧師にとって自分から、「祈ってください」と言えば、自分の弱さや無能さを露呈するかのようでなかなか言いにくいこともありますが、本当にへりくだった人とは、「私には祈りが必要です。どうか、私のために祈ってください。」と言える人なのです。
たとえば、パウロはローマ15章30節で次のように言っています。「兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によって切にお願いします。私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。」この「力を尽くして」ということばは、スポーツ選手がベストを尽くす時に使われることばです。それはかなりのハードワーク、重労働です。そのような力を尽くして祈ってほしいと言ったのです。偉大な人であっても祈りを必要としています。パウロは自分の知恵や力によって神の働きをすることはできないということをよく自覚していました。パウロが他の人たちよりも多く働くことができたのは、彼がそのような器として神に選ばれていたことは確かですが、と同時に、他の人たちよりも多く祈られていたからでもあるのです。偉大な牧師は、偉大な信徒によって作られると言っても過言ではありません。
19世紀に、イギリスに当時世界で一番大きな教会がありました。それはメトロポタンタバナクルという教会で、チャールズ・ハットン・スポルジョンという牧師が牧会していました。その教会には6,000人収容できる会堂がありましたが、当時、ロンドンのすべての教会の座席数を足しても15,000席であったということを考えても、この教会がいかに大きな教会であったかがわかるかと思います。
この教会には世界中から多くの人々が視察にやって来ていましたが、ある視察団が礼拝を終えてホールに出ると、そこにオーバーオールを着た男性がいたので、その人はきっとこの教会の用務員さんに違いないと思って、これだけ大きい教会をどのようにして温めているのかを聞きました。
「これだけ大けれども、いったいどのような発電システムなのかを見せてもらえませんか。」
するとその人は、「わかりました。それでは今、あなたたちをそこに案内します」と言って、彼らを地下室に連れて行きました。そして、彼らに、「ここがこの教会の発電システムです。」と言いました。そこには四百人もの男性がひざまずいて祈っていました。午前中の礼拝が終わり、夜の礼拝を迎えるにあたり、四百人もの男性がそのためにひざまずいて祈っていたのです。それがこのメトロポリタンタバナクルの成長の秘訣でした。スポルジョンの教会が世界最大の教会になったのは、彼が偉大であったからではなく、また彼の説教のせいでもありませんでした。それはこうした祈りがあったからなのです。
このヘブル人の手紙の著者も、「私たちのために祈ってください。」と言いました。いや、「もっと祈ってください。」とお願いしました。これはどういうことでしょうか。私たちは時々「祈ってください」とか、「祈っています」というのが口癖になっていることがあります。どこか社交辞令になりさがっていることがあります。そうした常套句としての祈りの要請ではなく、本気で祈ってほしいと懇願しているのです。これが祈りに生きている人の姿です。私たちも互いのために本気で祈り合うべきです。もっと祈ってくださるようお願いします。それだけ、私があなたがたのところに早く帰れるようになるからです。祈り祈られる関係、それこそ神が私たちの教会に望んでおられることなのです。
Ⅱ.完全な者としてくださるように(20-21)
次に20節と21節をご覧ください。「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が、イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行ない、あなたがたがみこころを行なうことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。どうか、キリストに栄光が世々限りなくありますように。アーメン。」
今度は、この手紙の読者たち、信徒たちのための祈りです。ここで著者は、平和の神がイエス・キリストによって、みこころにかなうことを彼らのうちにしてくださるように、また、彼らがみこころにかなったことを行うことができるように、あらゆる良いものを備えて、彼らを完全な者にしてくださるようにと祈っています。そして、この平和の神がどのような神なのかというと、「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された方」です。
まずこの「永遠の契約の血による羊の大牧者」ということから見ていきましょう。これは父なる神のことであり、また、私たちの主イエス・キリストのことです。イエスは偉大な大牧者です。牧者というのは羊飼いのことですから、イエスは偉大な羊飼いであられるということです。イエスはこのように言われました。「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)
イエスは私たちのためにご自身のいのちを捨ててくださいました。それは、羊である私たちがこの方にあって永遠のいのちを持つためです。まことにイエスは私たちの永遠の大牧者であられるのです。心配事で不安にさいなまれる時、主は共にいて助けてくださいます。人生に疲れ果てもう立ち上がれないと思う時、主は励ましを与えてくださいます。病気で苦しむ時には、いやしを与え、死の陰の谷を歩くような時には、あなたの前を歩いてくださいます。だから私たちは何も恐れることはありません。この方が永遠にあなたの大牧者であられるからです。
しかも、それは今だけのことではなく、今も、これから後もずっと、永遠にです。イエスがあなたの羊飼いでなくなることはありません。なぜなら、この方は永遠の契約の血によって、あなたを贖ってくださったからです。これはどういうことかというと、イエスが十字架の上であなたのために血を流してくださったということです。血を流すことがなければ、罪の赦しはないからです。イエスが流された血は、私たちの罪を贖う永遠の神の契約のあかしでした。まさにイエス様は良い羊飼いとなって、あなたのためにいのちを捨ててくださったのです。あなたはそれほどまでに愛されているのです。であれば、この方があなたを見捨てたり、見離したりすることがあるでしょうか。ありません。13章5節を見てください。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」とあります。イエス様は決してあなたを見捨てたりはしないのです。イエス様はあなたの永遠の大牧者なのです。
そのイエスを死者の中からよみがえらせた神は「平和の神」です。この時この手紙を受け取ったヘブル人クリスチャンたちは迫害の苦しみの中にありました。彼らは同胞ユダヤ人からも、ローマ帝国からも激しい迫害を受けていました。彼らは目の上のたんこぶで、邪魔者扱いされていました。家を失い、財産を失い、仕事を失い、家族を失うという苦しみの中で、相当辛い思いをしていたのです。しかし、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。この神は主イエスを死からよみがえらせてくださった神です。この神はどんな迫害の苦しみの中にあってもあなたを助け、あなたを守り、あなたに平安を与えて、その苦しみを乗り越えさせてくださる。この平和の神が、主イエスを死者の中からよみがえらせてくださったように、どんな状況からもあなたを救ってくださるのです。このことは、迫害で苦しんでいた彼らにとって何よりも大きな励ましだったに違いありません。その平和の神が彼らのうちに働いて、彼らを完全な者にしてくださるようにと祈っているのです。これがこの祝福の祈りのハイライトです。
では、完全な者になるとはどういうことでしょうか。これは何の欠点もない完全無欠な聖人君子になるようにということではありません。この「完全な者にする」というギリシャ語の言葉(ギリシャ語はカタルキゾウ)には、物事を適切な状態にするという意味があります。たとえば、この言葉はマタイの福音書4章21節にも使われています。
「そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。」この「網を繕う」の「繕う」が「カタルキゾウ」です。すなわち、穴が開いた網を繕って正常なすることという意味なのです。
また、ガラテヤ6章1節には、「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。」とありますが、この「正してあげる」が「カルキゾウ」です。すなわち、間違った状態を正してあげることを言うのです。
また、Ⅰテサロニケ3章10節には、「私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。」とありますが、この「補いたい」という言葉が「カタルキゾウ」です。不足しているものを補給するとか、補うという意味です。
そして、Ⅰコリント1章10節には、「さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。」とありますが、この「完全に保つ」が「カタルキゾウ」です。本来であれば、クリスチャンは一致していなければなりませんが、そうでないことがあるわけです。そういう状態を修復し、同じ心、同じ判断を完全に保つことができるようにすることを示しているのです。
このように、完全な者とするとは物事を適切な状態にすることです。間違ったところが正され、足りないところは補われ、破れたところが修復されて、神が望まれる状態に整えられることを言うのです。
私たちはどうでしょうか。私たちも魚の網が破れるように人生に敗れを生じているのではないでしょうか。羊のように目先のことに捕らわれて、道に迷ってはいるのではないでしょうか。霊的、精神的に、また肉体的、物質的に不足を感じているのではないでしょうか。人間関係においても壊れかけているのではないでしょうか。夫婦の間で、親子の間で、職場においても、友人との関係においても、壊れかけていませんか。壊れかけたラジオのように、壊れかけているのです。イエスはそうした壊れかけたものを修復し、正常な状態に回復してくださいます。足りないところを補って満たしてくださいます。なぜなら、イエスは十字架で敵意を廃棄されたからです。(エペソ2:16)キリストの十字架の血によって、こうした破れた人生が正常な状態になるようにと祈っているのです。
このように、平和の神はイエス・キリストによって物質的にも、肉体的にも、霊的、精神的にも、関係においても、社会的にも、ありとあらゆる面であなたの必要を満たしてくださり、あなたを完全な者としてくださるのです。このようなものはセミナーに行けば満たされるというようなものではありません。何らかの勉強会やワークショップに行けば解決するというようなものでもありません。これらのものはすべてイエスの血によって満たされるのです。このイエス・キリストの血によって、平和の神ご自身が、あなたがたが神のみこころを行うために、すべてのことについて、あなたがたを完全な者としてくださるのです。
このような神がいったいどこにいるでしょうか。私たちが今まで理解していた神は、自分の欲望を満たすために利用していたにすぎない神であって、自分が作った偶像にすぎませんでした。しかし、そのようなものが果たして本当に私たちを救うことができるでしょうか。できません。私たちを救うことができるのは、私たちのために十字架で死なれ、三日目によみがえって、私たちを罪の中から救い出してくださった救い主イエス・キリスト、平和の君です。この方があなたのすべての必要を満たし、あなたを完全な者にしてくださるのです。であれば、私たちはこの神を信じ、この神にすべてをゆだねなければなりません。あなたがたを完全な者としてくださいますようにという祈りの中に、あなた自身を置かなければならないのです。
Ⅲ.恵みがありますように(22-25)
最後に22節から25節までをご覧ください。22節には、「兄弟たち。このような勧めのことばを受けてください。私はただ手短に書きました。」とあります。「このような勧めのことば」とは、この手紙のことを指しています。著者は、ただ手短に書いたと言っていますが、手短に書いたにしてはかなり長いてがみです。ですから、ここでこの勧めのことばを「受けてください」と言っているのです。この「受けてください」という言葉は、下の欄外にもありますが「こらえてください」という意味のギリシャ語です。この勧めのことばをこらえて聞いてほしい、忍耐して聞いてほしい、というのです。
ということは、当時のクリスチャンたちの中にも今日の私たちと同様、忍耐に欠けている人たちが少なからずいたということです。そうでなければ、わざわざこんなことは言わなかったでしょう。ちょっと安心しますね。いつの時代でも忍耐することは簡単なことではありませんが、大切な真理を身に着けるにはこらえることが、忍耐が必要であることがわかります。
23節には、「兄弟テモテが釈放されたことをお知らせします。」とあります。テモテはパウロの第二次伝道旅行の時、ルステラでパウロに出会い、それ以後、パウロの手元において訓練した結果、すばらしい働き人として成長していました。パウロが獄中から手紙を書いた時、そのテモテもパウロと一緒に獄中にいたようで、その彼が釈放されたことを伝えています。このことから多くの学者は、この手紙はパウロによって書かれたのではないかと考えていますが、はっきりしたことはわかりません。しかし、このことから言えることは、テモテがこの手紙の著者と親しい関係であったということです。クリスチャン同士、喜びも悲しみも共に共有できることは大きな特権であると言えます。
24節と25節には、あいさつと心からの祝禱をもって終わります。「恵みが、あなたがたすべてとともにありますように。」
恵みは、このヘブル人の手紙における強調点の一つでした。なぜなら、彼らがキリストから離れてかつてのユダヤ教に戻って行ったのは、この恵みを忘れていたからです。だから最後に恵みをもう一度強調しているのです。
それは私たちも同じで、恵みを忘れてしまうと信仰のバランスを崩してしまうことになります。というのは、恵みを忘れると行いに走ってしまうからです。行いに走っていけば律法主義に陥ってしまいます。律法主義に陥ると人をさばくようになります。自分と同じようにしていない人に対して苦々しい思いを抱くようになるのです。自分はクリスチャンとしてクリチャンとしてちゃんと生きているのに、どうしてあの人はしないのだろうと人をさばくようになるのです。恵みを忘れているからです。恵みとは受けるに値しない者が受けることです。神の恵みを受けるにはふさわしい者ではないのに、神がキリストを与えて救ってくださいました。これが恵みです。それはあなたが立派な人だから、何か特別なことができるから、ちゃんとまじめに生きているからではなく、そうでないにもかかわらず、神はあなたを愛してくださいました。これまでずっと自分が捕われていたことから解放していただいた、であれば、もう人はどうでもいいのです。自分もどうでもいいのです。大切なのは、神があなたのことをどのように思っておられるかということです。そうすれば、すべてのものから解放されます。そして、どんな問題も乗り越えることができるのです。
先日、アンビリーバボーという番組で、ある男に暴行されたジェニファーという一人の女性が、犯人はロナルドであると証言したことで、彼は裁判で終身刑プラス50年の刑が言い渡され、無実の罪でノースカロライナの刑務所に収監されました。しかし、事件から11年後の1995年、O・J・シンプソンの事件の裁判で、当時最先端だったDNA鑑定が事件の解明に用いられた事を知り、最後の賭けとしてDNA鑑定を依頼した結果、彼は無罪であることが判明したのです。実は、彼にそっくりの男が真犯人だったのですが、彼女は間違って彼が犯人だと思っていたのです。自分の勘違いから事件と関係のない男性を11年間も服役させてしまった彼女は自責の念にかられ、また、いつ復讐されるかと思うと生きた心地がしませんでした。そして、ロナルドが釈放されてから1年後の1996年に、目撃者が何故過ちを犯してしまうのかを検証するドキュメンタリー番組への出演依頼がきっかけとなって、彼女は彼と会って謝罪し、自分の気持ちを正直にロナルドに話さなければならないと思い、そのように決意しました。大学の敷地内に置かれた礼拝堂で会った時、ジェニファーは自分の勘違いとは言え、とりかえしのつかないことをしてしまったことを詫びると、彼は、「私はあなたを赦します」と宣言したのです。その時彼女は、「長い間壊れていた心や魂がまるで氷が解けるように癒やされていくのを感じました。体の中で壊れた部分がもう一度もとに戻ろうとしている感じでした。」と言いました。会ってから2時間彼らは話しては泣き、話しては泣きを繰り返しました。お互いがどのような時間を過ごしていたか知りたがっていたしあの最悪の11年間は一体何だったのか?という思いを共有することができたのです。ロナルドはこのように言っています。「人間は間違いを犯します。完璧な人間なんてこの地球には存在しません。怒りを持ち続けるより許したいと思いました。許せば解放されるけど怒りを持ち続ければどこに行ってもそれを握りしめて苦しむ事になります。怒りを手放せば楽になれます。楽観的に考え始めれば前向きに良い人生が送れます。僕はハッピーで自由な人生を送りたいんです」ジェニファーは、とりかえしのつかないことをして、とても許される者ではなかったのに許されました。それが恵みです。その恵みは彼らの後の人生にどれほどの喜びと解放をもたらしたことでしょう。
同じように神は、許されるには値しない私たちにイエス・キリストを与えてくださいました。私たちが救われたのはただ神の恵みによるのです。この恵みがあれば、どんな迫害があっても、どんな問題が起ころうとも、必ず乗り越えることができます。すべては恵みです。私たちはこの恵みの中でしか生きることはできませんし、この恵みの中でしか成長することができません。ですから、この恵みを強調しすぎるということはありません。すべてを忘れてもこの恵みだけは忘れないでください。この恵みが、あなたがたすべてとともにありますように。神の恵みのうちにこのヘブル人への手紙を終えることができることを感謝したいと思います。