今日は申命記14章から学び思います。申命記は英語でDEUTERONOMYと言いますが、「二度語る」という意味です。神はモーセを通して、これから約束の地に入るイスラエルに対して彼らが守るべき教えと定めを二度語るのです。いいえ、何度でも繰り返して語っています。それはなぜでしょうか。私たちはすぐに忘れやすい存在だからですね。だから、忘れないように、こうして何度もなんども語っているわけです。そしてその中心は何だったかというと、6章4-5節にあったように、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神であると主を愛しなさい、ということでした。それが11章まで語られて、12章からは、それを妨げる要因にどんなものがあるのかを具体的に語っています。12章はついて、主が選ばれた場所で礼拝をささげるようにと勧められていました。主が選ばれし場所には主の御名が置かれているからです。ですから、主を愛し、主を礼拝する者は、主の御名が置かれている場所に集まって共に主を礼拝することが求めてられているのです。人数が問題なのではありません。主は、二人でも、三人でも、私の名によって集まるところに私はいると言われました。二人でも、三人でも、主の名が置かれた所、当時、それは主の幕屋でしたが、そこで礼拝をささげなければなりませんでした。
そして前回の13章には、彼らは、自分たちのうちから他の神々に仕えるようにそそのかす者があったらどうしたらよいかということが教えられていました。そして、そのような者がいたら、必ず処罰しなければならないということが教えられていました。それがたとえあなたの兄弟、しまい
娘、愛妻、無二の親友であってもです。あるいは、その町の者全員がそうなってもです。その場合はその町とそこにいるすべてのものを剣の刃で聖絶しなければならないとありました。なぜなら、彼らは主によってエジプトの奴隷の状態から救われた者であり、主に従うこと、主を愛することが、彼らの祝福だからです。そうでなければ祝福はないからです。だから、自分たちにとってどうかということてはなく、主にとってどうか、主にとって良いことで、正しいとこであるならば、その主の教えに従って生きなければならない、ということが語られてきたのです。ですから、きょうの14章も、主を愛するという戒めの中で、語られている命令なのです。
1.死人のために自分の身に傷つけてはならない(1-2)
まず1節と2節をご覧ください。
「あなたがたは、あなたがたの神、主の子どもである。死人のために自分の身に傷をつけたり、また額をそり上げたりしてはならない。あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。」
死人のために自分の身に傷をつけたり、額をそり上げたりというようなことが、異教的な風習として行われていたようです。自分の息子、娘の死を前に悲しみをこらえきれない親の気持ちはわかります。それで命を絶つ人もいるくらいです。ですから、死者のために体を傷つけるという気持ちがわからないわけではありませんが、そのようにしてはいけません。なぜなら、彼らは、主の聖なる民とされたからです。主は彼らを地の面のすべての国々の民のうちから、彼らを選んでご自分の宝の民とされました。その神に従わなければならないからです。悲しみは悲しみとしてしっかりと受け止めつつ、死もいのちも支配しておられる全能の神にゆだねなければならないのです。
2.忌みきらうべきものを、いっさい食べてはならない(3-20)
次に3節から20節までをごらんください。
「あなたは忌みきらうべきものを、いっさい食べてはならない。あなたがたが食べることのできる獣は、牛、羊、やぎ、鹿、かもしか、のろじか、野やぎ、くじか、おおじか、野羊。および、ひづめが分かれ、完全に二つに割れているもので、反芻するものは、すべて食べることができる。反芻するもの、または、ひづめの分かれたもののうち、らくだ、野うさぎ、岩だぬきは、食べてはならない。これらは反芻するが、ひづめが分かれていない。それは、あなたがたには汚れたものである。豚もそうである。ひづめは分かれているが、反芻しないから、あなたがたには汚れたものである。その肉を食べてはならない。またその死体にも触れてはならない。すべて水の中にいるもののうち、次のものをあなたがたは食べることができる。すべて、ひれとうろこのあるものは食べることができる。ひれとうろこのないものは何も食べてはならない。それは、あなたがたには汚れたものである。すべて、きよい鳥は食べることができる。食べてならないものは、はげわし、はげたか、黒はげたか、黒とび、はやぶさ、とびの類、烏の類全部、だちょう、よたか、かもめ、たかの類、ふくろう、みみずく、白ふくろう、ペリカン、野がん、う、こうのとり、さぎの類、やつがしら、こうもり。羽があって群生するものは、すべてあなたがたには汚れたものである。羽のあるきよいものはどれも食べることができる。あなたがたは自然に死んだものを、いっさい食べてはならない。あなたの町囲みのうちにいる在留異国人にそれを与えて、彼がそれを食べるのはよい。あるいは、外国人に売りなさい。あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。」
ここには食べることができるものとそうでないものの区別が記されてあります。食べて良いものはどのようなものでしょうか。牛、羊、やぎ、死か、かもしか、野やぎ、くじか、おおじか、野羊、およびひづめが分かれて、反芻するものです。つまり、足の裏がふくらんでいるもので、例えば、犬や猫は足の裏がふくらんでいますが、ひづめがないため食べることはできません。また、反芻しない動物とは、肉食動物のことです。反芻するのは、草食動物だけです。しかし、反芻するもの、あるいはひづめが分かれているものでも、次のものは、食べてはいけないとされていました。すなわち、らくだです。これは反芻しますが、そのひづめが分かれていないので、汚れたものとされていました。また、岩だぬき、野うさぎ、豚です。これは、ひづめが分かれており、ひづめが完全に割れたものですが、反芻しないので、汚れたものとされました。
それでは、ここで言わんとしていることはどういうことなのでしょうか。というのは、イエスさまは、すべての動物はきよい、と言われたからです。また、神はペテロに、「神がきよいと言われたものを、きよくないから食べないと言ってはならない」と言われました。イエスは律法の目的であり、それを成就された方ですから、私たちはイエス様のことばに従わなければなりません。つまり、神がきよいとされたものをきよくないと言ってはならないということです。それは水の中にいるものも、空を飛ぶものも同じです。いったいこれはどういうことなのでしょうか。
このように地上の動物の中で食べてよいものと汚れているもの、また、水の中の生き物の中で食べてよいものと汚れたもの、空中を飛ぶものの中で食べてよいものと汚れているものの区別を見ると、なぜ神がそのように言われたかがわかります。それは衛生的な理由もありますが、それ以上にもっと大切な霊的な意味があったからです。それはこの3つに分類された動物について、汚れた動物の共通点を探してみるとわかります。
第一に、地上の動物は肉食が汚れているとされている点でん。そして、空の鳥では猛禽類(肉食)が、汚れています。なぜでしょうか?人のいのちは血にあるからです。ですから、神は初めに人を創造されたとき、人も含め、この地上のすべての動物は草食動物だったのです。つまり、神は、どの動物も肉を食べないように創造されたのです。実は、イエスさまが再臨されてからの千年王国においても、熊やライオンが草を食べると預言されています(イザヤ11:6-7)。だから、これが理想の状態なのですが、人が肉を食べるようになったのはノアの洪水後のことです。しかし、そこには一つだけ条件がついていて、それは、「肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。」(創世9:4)ということでした。これは、律法において定められたことですが、たとえ動物を食べるときにも、いのちを尊重しなければならないということです。したがって、神は生き物のいのちをとても大切にされており、ご自分のかたちに造られた人のいのちは、何ものにもまさって尊いものであるということです。
ですから、イスラエル人が肉食動物を食べないのは、神が人間や生き物を大切にしているように、自分たちもいのちを大切にしていることの現われなのです。もっと広い意味でいえば人を大切にするということでもあるでしょう。神を畏れかしこんで、人を自分よりも優れたものとみなし、慎み深く生きることでもあります。高ぶったり、無慈悲になったり、そしったり、陰口を言ったりするというのは、それは相手を傷をつけることであり、いわば「血を流す」ことでもあるのです。私たちの社会ではそうしたことが日常茶判事に起こっていますが、でもクリスチャンの間ではそうであってはなりません。そのように相手を食い物にし、相手の心を突き刺すような価値観を持ってはいけません。それを汚れたものとみなし、忌み嫌わなければならないのです。
第二のことは、これらの動物はすべて地上に、あるいは水に、直接、接していることです。どういうことかというと、地上の動物で、ひづめが割れているものがきよいとされたのは、足が直接、地面に接していないものです。それに対して、足の裏のふくらみで歩くものは、地面に接しているので汚れているとされました。同様に、水の中の生き物でうろこやひれがないものは、直接水に接するので汚れているとされました。あるいは、水底に接しているものもそうです。四つ足の這うものは、もちろん地面に接していますが、はね足のある者は、基本的に地の上ではねているだけで、這うことはないので、汚れてはいません。つまり、汚れているかどうかは、地に属しているかどうかで区別されているのです。
コロサイ人への手紙3章には、こうあります。「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。…ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。」(3:1-2,5)不品行、汚れ、情欲は地に属するものです。そうではなく、クリスチャンは天にあるものを求めなければなりません。
また、ヤコブはこう言っています。「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。…しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」(ヤコブ3:14-17)
ねたみや敵対心は地に属しているが、純真、平和、寛容、温順は上からの知恵です。ですから、私たちは、何が汚れているかを見分け、そこから袂(たもと)を断つという決断を、常に行なっていかなければならないのです。パウロは、こう言っています。
「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」(Ⅱコリント6:14~18)
あなたはどこに属していますか。この地上でしょうか、それとも天でしょうか?私たちは、神の一方的な恵みによってこの世から救い出された者、神の民、聖なる者です。ですから、この世に属するものではなく神に属するものとして、自らを聖別しなければなりません。彼らの中から出て行かなければならないのです。食べてよいきよい動物と汚れた動物の区別の規定が意味していたのは、まさにこのことだったのです。
また、ここに「子やぎを、その母の乳で煮てはならない」とあります。これはどういう意味でしょうか。肉と乳製品を一緒に食べてはならないということです。だからユダヤ人はハンバーガーを食べますが、チーズバーガーは食べません。肉と乳製品が一緒だからです。厳格なユダヤ教徒の家では肉料理用の鍋と、乳製品用の料理用の鍋が分けられているそうです。厳格なユダヤ人だとそこまでいつちゃんうんですね。
しかし、これはそういう意味ではありません。これは、子やぎをその母の乳で煮て食べると多産になるという異教的な習慣があって、そうした異教の習慣と関わりを持つことがないようにという意味です。実際に、イシュタロテとか、アシュタロテ、バアルといった偶像崇拝においてはこのようなことが行われていました。こうした異教的な習慣ではなく、ただ神の教えと守り、神を愛し、心を尽くして、神に従わなければならないことが言われているのです。
3.十分の一をささげる(22-29)
最後に22節から29節までを見て終わりたいと思います。
「あなたが種を蒔いて、畑から得るすべての収穫の十分の一を必ず毎年ささげなければならない。主が御名を住まわせるために選ぶ場所、あなたの神、主の前で、あなたの穀物や新しいぶどう酒や油の十分の一と、それに牛や羊の初子を食べなさい。あなたが、いつも、あなたの神、主を恐れることを学ぶために。もし、道のりがあまりに遠すぎ、持って行くことができないなら、もし、あなたの神、主が御名を置くために選ぶ場所が遠く離れているなら、あなたの神、主があなたを祝福される場合、あなたはそれを金に換え、その金を手に結びつけ、あなたの神、主の選ぶ場所に行きなさい。あなたは、そこでその金をすべてあなたの望むもの、牛、羊、ぶどう酒、強い酒、また何であれ、あなたの願うものに換えなさい。あなたの神、主の前で食べ、あなたの家族とともに喜びなさい。あなたの町囲みのうちにいるレビ人をないがしろにしてはならない。彼には、あなたのうちにあって相続地の割り当てがないからである。三年の終わりごとに、その年の収穫の十分の一を全部持ち出し、あなたの町囲みのうちに置いておかなければならない。あなたのうちにあって相続地の割り当てのないレビ人や、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人や、みなしごや、やもめは来て、食べ、満ち足りるであろう。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。」
ここには、収穫の十分の一を毎年主にささげるようにと勧められています。なぜでしょうか。それは、彼らが、いつも、彼らの神、主を恐れることを学ぶためです。私たちは自分の大切だと思っていることに時間とお金を費やします。その中で主こそ私たちを罪から救い出してくださった方であり、私たちにとって第一のお方であることを認め、この方を敬い、この方に従っていくことのしるしとして十分の一をささげるのです。ですから、これは決して義務でも、義理でもなく、神がなしてくださったことへの感謝の表われであり、この方によって生かされていることを示す信仰の表明なのです。もしそれが遠くて持っていくことが大変であれば、それをお金に代えてささげることができました。
いったいなぜイスラエルに、このようなことが求められていたのでしょうか。それは主への感謝というのはもちろんですが、そのことを通して主と交わりを持つためです。主は何も欠けたところがなく、私たちのささげ物を必要とされていません。神が、これらのささげ物を通して望まれているのは、私たちの「交わり」なのです。つまり、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神を愛しなさい、と言われた、あの命令に従い、神を愛することを求めておられるのです。ささげものはそのための手段にすぎません。その本質は神ご自身を喜ぶことです。私たちはとかく、自分の信仰を霊的、精神的なものだから、このようなささげものは特に必要ではないと考えがちですが、その信仰が本物であれば、喜んで自分を神にささげるようになるのです。時間も、お金もすべてを。私たちはよく霊的な事柄について口で語ることができても、実際の生活の中で、たとえば自分の収入や時間を主におささげしていなければ、それはただ表面的な信仰にすぎないと言えます。このように自分の生活に密着したところにまで、主がおられることを認め、このような実際の事柄について、自分をささげることによって、その信仰が本当に主に喜ばれる生きたものとなるのです。ある意味でこれは神との深い交わりの表われでもあるのです。
またここには、あなたの町囲みのうちにいるレビ人をないがしろにしてはならない、とあります。彼らには相続地の割り当てがなかったからです。彼らは主への奉仕に専念するために、その収入となるべき相続地が与えられていませんでした。ですから、他のイスラエル人たちが支えなければならなかったのです。これは新約聖書にも貫かれている教えであり、福音の働きに専念している者たちを、その他の人たちが支えるべきであることが命じられていますが、神の群れがこのみことばに聞き従うなら、どれだけ祝福されるでしょう。そして、教会は10組のクリスチャンがいればこれはそれほど難しいことではないはずです。
三年の終わりごとに、その年の収穫の十分の一を全部持ち出し、あなたの町囲みのうちに置いておかなければならない。とあります。それは彼らのうちにあって相続地の割り当てのないレビ人や、彼らの町囲みのうちにいる在留異国人や、みなしごや、やもめは来て、食べ、満ち足りるためです。神は、貧しい者、小さい者にあわれみを施すことを求めておられます。イエス様は、「この小さい者にしたのは、わたしにしたのである。」と言われました。また、「あなたがたも、この子どものようでなければ、神の国に入ることはてきません。」と言われました。この社会の中で貧しい者たち、小さい者たち、弱い者たちを心から受け入れ、彼らのために何ができめかを考えて取り組まなければなりません。なぜなら、そうするなら、「あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。」