レビ記19章1~18節

きょうは、レビ記19章から学びます。17章からレビ記の後半部分に入りましたが、その後半部分の最初で教えられていたことは、血を食べてはならないということでした。レビ記の後半部分は神に贖われた者の聖なる生き方が教えられているところです。その最初のところでこのように教えられているのは、それが神の民の生き方の土台になることだからです。すなわち、いのちとして贖いをするのが血です。その血をないがしろにしてはならないということです。もちろんこの血とは、私たちのために十字架で血を流してくださったイエス・キリストの血を表しています。その血をないがしろにすること、たとえば、善い行いをしなければ救われないとか、どんな罪を犯していても好く悪とかといった間違った考えに従うことによって、主の血をないがしろにしてはいけないのです。

そして18章では、異教的なならわしや風習でまねてはいけないということで、性についての正しいおしえが語られました。

きょうのところには再び十戒が出てきます。十戒については既に出エジプト記20章で学びましたが、ここではその具体的な適用が語られています。

1.  聖なる者となるため(1-2)

まず1,2節をご覧ください。ここには、「ついではモーセに告げて仰せられた。 「イスラエル人の全会衆に告げて言え。あなたがたの神、であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。」とあります。ここには、これから十戒を与える目的が語られています。それは、「主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。」ということです。主が私たちにこうした戒めを与えられるのは私たちを戒めで縛るためではありません。そうではなく、私たちが聖なる者になるため、つまり、聖なる神との交わりを保つためなのです。

そういう意味では、私たちは既に聖められているのです。御子イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったことにより、この主を信じ、主と一つにされたことによって、すべての罪が贖われ神の民とされました。私たちは自分の力によって聖くなることはできません。ただキリストにあってのみ聖くなることができるのであって、聖い生き方をしていくことができるのです。ですから、これから与えられる戒めも自分の肉によってではなく、ただ御霊によって導かれることによってのみ行うことができるわけです。このことを忘れてはいけません。

2.  神への畏敬(3-8)

それでは3節から8節までをご覧ください。ここには、神への畏敬が教えられています。

「おのおの、自分の母と父とを恐れなければならない。また、わたしの安息日を守らなければならない。わたしはあなたがたの神、である。あなたがたは偶像に心を移してはならない。また自分たちのために鋳物の神々を造ってはならない。わたしはあなたがたの神、である。あなたがたがに和解のいけにえをささげるときは、あなたがたが受け入れられるように、それをささげなければならない。それをささげる日と、その翌日に、それを食べなければならない。三日目までに残ったものは、火で焼かなければならない。もし三日目にそれを食べるようなことがあれば、それは汚れたものとなって、受け入れられない。それを食べる者は咎を負わなければならない。の聖なるものを汚したからである。その者はその民から断ち切られる。」

これをみてまず最初に「あれっ」と思うのは、神への恐れについて戒められているはずなのに、その第一にあるのは自分の父母への恐れであるということです。しかも、ここでは父母ではなく母父になっています。いったいこれはどういうことなのでしょうか。出エジプト記ではこの父母を敬わなければならないという教えは第五の戒めとして与えられていましたが、ここでは一番最初に出てきているのです。それは、父母が神の代理者であり、この父母を愛することが神の聖を現す具体的な方法となるからです。ですから、エペソ6章2節を見ると、この父母を敬うことが第一の戒めであると言われているのです。私たちが神を恐れることを学ぶのは、自分の親を通してであることを忘れてはなりません。そういう意味でこれが第一の戒めであり、最初の戒めとして語られているのです。

それにしてもここで「父と母を恐れなければならない」ではなく、「母と父を恐れなければならない」とあるのは不思議です。いったいなぜ母と父なのでしょうか?母の方が怖いから・・・ではありません。ユダヤ人の注解によると、一般的に父よりも母の方が軽んじられる傾向があったので、このように母を先に出すことによって父と母の両方の大切さのバランスを図ったのではないかと思われます。

神への畏敬(恐れ)という原理は、ここでは三つの命令によって示されています。それは、安息日を守らなければならないということ、それから、偶像に心を移してはならないということ、そして、自分たちのために鋳物の神々を造ってはならないということです。

まず安息日を守ることです。これも出エジプト記20章に出てきましたが、20章では第五の戒めとして語られていました。しかし、ここでは一番最初に出ています。それは安息日を覚えてこれを聖なる日とすることが、神を神とし、神によって贖われた事実を覚え、その神を礼拝することだからです。神を敬うことの本質が、この安息日を守るということに現われていると言ってもいいでしょう。ですから、イザヤ書56章には、正義と公正を守ることの具体的な現れが、この安息日を守るということだったのです。なのに、彼らはこれをないがしろにしました。その結果、偶像を拝み、偶像に仕えることになってしまったのです。それで神は怒られ、彼らをバビロンへと渡されました。もし彼らが安息日を守り、神を神として敬い、この神に仕えていたなら、そうした過ちに陥ることはなかったでしょう。でもそうではなかった。それが彼らの問題だったのです。神に贖われた者にとって大切な第一のことは、神を神として敬い、この神のみわざを覚えて礼拝することです。

次に言われていることは、偶像に心を移してはならないということです。心を移すとは、心を向けるということです。偶像に心を向けてはならない。また、偶像を造ってもなりません。まことの神を知らない異教社会においては必ずと言ってよいほどこの偶像との関わりがあります。それが昔からの伝統であるとか、ならわしであるのに、それを拒むということで、クリスチャンは愛がないとか、冷たい、配慮がないと批判されることがあるのです。

かつて私が住んでいた町内会でもこうした偶像との関わりが強く、町内会に祭事部というのがあって、各班から毎年推薦された人が神社の世話人をしていました。その世話人の仕事の一つに神社のお札をもって各家庭に配り歩くことがありました。教会の私たちの家にも来られ、「これお札ない。1,000円です。」なんて言うのです。これには参って、「実は私たちはクリスチャンでほんとうの神様を信じているのでお札はいらないのです」といって断るのですが、それでも変な顔をするのです。「付き合いが悪い人だなぁ」とか、「キリストさんって変な人だなぁ」といった感じで・・・。それで、ある時からこう言ってお断りすることにしました。「私たちはキリストを信じているのでそうしたお札は必要ありません。でも町内会の皆様のためにいつもお祈りしていますから、これは町内会のためにお役に立ててください」と言って1,000円差し出しました。お金を出すのが嫌なのではありません。偶像を拝むこと、偶像と関わりを持つことが嫌なのです。なぜなら、聖書にそのように書かれてあるからです。ですから、どんなに断っても偶像を拒めば愛がないとか、冷たい、配慮がないといった批判は出るでしょう。でも私たちはそこを曲げることはできません。なぜなら、私たちの神は主であって、私たちを罪から救い出してくださったからです。

そのことがその次に書かれてあります。「わたしはあながたの神、主である。」このことばは、ここに何回も繰り返して出てきます。おそらくこうした異教社会の中に起こるさまざまな批判の中にあってそれでも私たちがそのように生きるのは、主こそ神であり、私たちを贖ってくださった方であるということを思い起こさせるためであったからでしょう。

次に、主に和解のいけにえをささげる時の規定が記されてあります。これによると、主にいけにえをささげるときは、受け入れられるようにささげなければなりませんでした。具板的にいうと、それをささげる日と、その翌日に、それを食べなければなりませんでした。三日目まで残ったものは、火で焼かなければなりませんでした。なぜでしょうか?腐ってしまうからです。当時は冷蔵庫がありませんでしたから、三日目まで残しておけば腐ってしまいました。腐るというのは罪に蝕まれることの象徴的なことでしたから、そのようなことがあってはならなかったのです。私たちが罪にとどまること、私たちを汚し、神との交わりから、また他の兄弟たちとの交わりから断たれることを意味していたからです。和解のいけにえ、これは神と和解した者がささげるいけにえですが、この和解のいけにえは、主との正しい交わりにふさわしい方法でささげられなければならなかったのです。

3.  隣人への愛(9-18)

次に、隣人との関わりにおける戒めをみていきたいと思います。9節から18節までをご覧ください。まず9節と10節です。

「あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂を集めてはならない。またあなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑の落ちた実を集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、である。」

これは貧しい人たちへのあわれみです。土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはなりませんでした。また、収穫の落ち穂を集めてもなりませんでした。さらに、ぶどうの実を取り尽くしてはなりませんでしたし、ぶどう畑の落ちた実を集めてもいけませんでした。なぜなら、貧しい人と在留異国人のために、それらを残しておかなければならなかったからです。ルツ記2章2節のところで、ルツがナオミに「どうぞ、畑に行かせてください。・・落ち穂を拾い集めたいのです。」と言っていますが、これはこのレビ記の戒めがあってのことです。彼らのように貧しい人が食べていくことができるように、神があわれんでおられるのです。ある意味でこうした態度が貧しい人へのおもいやり、愛の具体的な形となってあらわれるのです。「もったいないから全部とっちゃう」とか「これらは全部自分たちのものだから、だれにも食べられないようにしよう」というようなせこい考えを持たないで、自分に与えられたものを喜んで分かち合うということを、このような形で表したのです。これはある意味で現代の福祉とか、社会保障のあり方とその目的は貧困者を救済するということです。私たちも畑の隅々を残すような者、収穫を集めないで分かち合えるような者になりたいと願います。いや、このような教えに従っていくなら、必ずそうなると信じます。これは私たちが神の祝福に生きる道でもあるからです。

盗んではならない。欺いてはならない。互いに偽ってはならない。というのは、出エジプト記では第八、第九の戒めとして出てきたことです。盗んではいけないというのはあたりまえのことですが、意外と私たちの多くは、この戒めを破っています。それは単に物を盗むというだけでなく、他人の所有権を侵すことだからです。たとえば、借りた物を返さないとか、税金の申告をごまかすとか、そういったこともこの教えに含まれているのです。また聖書では、地とそれに満ちているものは、主のもである(詩篇24:1)とありますから、それを主に返さないとしたら、実はそれも盗んでいることになるわけです。

いったいなぜ私たちはそうしたことを兵器で行ってしまうのでしょうか。それは、神が与えてくださったものを感謝せず、自分で自分の必要を満たそうとしているからです。神は私たちのために御子をさえも惜しみなく与えてくださいました。その恵みによって私たちは救われたのです。この恵みに感謝して神と人に仕えていこうとするなら、盗んだり、偽ったりということはなくなるはずです。

パウロはエペソ4章25~29節で、「25ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。26 怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。27 悪魔に機会を与えないようにしなさい。28 盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。29 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」と言っていますが、そうした行為というのは古い人の姿、まだ救われていない人、神のことを知らない人、キリストのことを聞いていない人の姿なのであることがわかります。しかし、キリストのことを聞き、神によって贖われた者ならば、それが悪いことであって、神のみこころでないことであるということがわかり、そこから解放されるはずです。仮に、そうした罪に陥ることがあっても、悔い改めて、そこから新しい人に、神にかたどり造り出された人に変えられるはずです。ですから、こうしたことはすべて救いの問題から発しているのです。

13節と14節には、「あなたの隣人をしいたげてはならない。かすめてはならない。日雇い人の賃金を朝まで、あなたのもとにとどめていてはならない。あなたは耳の聞こえない者を侮ってはならない。目の見えない者の前につまづく物を置いてはならない。あなたの神を恐れなさい。わたしはである。」とあります。

隣人をしいだけてはならないというのは、隣人を圧迫してはならないということです。たとえば、雇い主が、ある人にどんな賃金でも働く必要があるに違いないとみてとって、その必要を有利に利用し、正当な賃金以下で働かせたり、隣人に対して抵当をとっている人が、専門的な自分の権利を主張して畑や田んぼを手に入れようとして、あわれな負債者から不必要にお金を巻き上げようとする行為などがそうです。こうした隣人をしいたげる行為は、私たちの社会の中では無限の例を上げることができるでしょう。最近もある弁護士が来て話しをしていたら、こうしたことが弁護士の間でも日常茶飯事に行われていると嘆いていました。しかし、こうしたことは神の民にはふさわしくないことと禁じられています。

また、不当な労働賃金の遅延行為も同じです。ただ正当な賃金を払うというだけではだめで、それを即座に支払わなければなりません。そうでなければ日雇いの労働者は生活していくことができないからです。これはどちらかといえば富裕者の犯しやすい罪です。富裕者にとって少額の金の受け取りが少しくらい遅れたからといってあまり不便を感じないかもしれませんが、しかし貧しい人たちにとっては死活問題なのです。そのように賃金を送らせることによって彼らは、実際上、彼ら自身のものを彼らから盗んでいることになるのです。

それから耳の聞こえない人、目の見えない人に対して侮ってはならないと教えられています。これは弱さを抱えている人への配慮です。だれにでも弱さがあります。そうした人の弱さにつけこんで、その人をけがしたり、つまずかせたりすることは、神の民としてふさわしいことではありません。かえってそうした弱さに同情し、補っていかなければなりません。からかってみたり、言ってはならないようなことを言うことは、汚れたことなのです。

次に15節と16節をご覧ください。ここには、「不正な裁判をしてはならない。弱い者におもねり、また強い者にへつらってはならない。あなたの隣人を正しくさばかなければならない。人々の間を歩き回って、人を中傷してはならない。あなたの隣人の血を流そうとしてはならない。わたしはである。」とあります。

このことについては出23章2~-3節にも、「訴訟にあたっては、権力者にかたよって、不当な証言をしてはならない」とか、「貧しい人を特に重んじてもいけない。」とありました。公正な裁判が行われなければならないということです。それでここにも、「不正な裁判をしてはならない」とあります。たとえ弱い者であってもおもねることをしてはならず、強い者であってもへつらってはいけません。意外と私たちは弱い立場の人たちの訴えを受け入れ、強い立場の人たちからの訴えを毛嫌いする傾向があります。しかし、そうした偏見を抱いてはいけません。裁判においては真実でなければならないのです。

またここに、人々の間を歩き回って、人を中傷してはならないとあります。そんなことをする人がいるのでしょうか。います。特に最近は顔が見えないことをいいことに、インターネットで平気で他人を誹謗中傷して問題になっています。中にはそれで名誉毀損で訴えたり、訴えられたりということにまで発展するケースもあります。「中傷」という言葉はヘブル語で「ラキール」で、これはエゼキエ書26:12で「商品」(レクラー)という訳された言葉と同類語です。また、足を意味する「レゲル」という言葉とも同類語で、話を商品のように、あちこちと運び歩くことを言うのです。それは隣人の血を流そうとしていることと同じです。ある意味で、中傷や悪口は人の心に血を流す行為で、汚れたことです。人を中傷したかといって警察に捕まることはないし、法律でさばかれるということもありませんが、それは偶像礼拝や殺人よりも恐ろしいことなのです。なぜなら、それは悪口を言う者、言われる者、聞く者の3人を一度に殺すからです。(ベン・シラの知恵28:13-26)

次に17節と18節をご覧ください。ここには「心の中であなたの身内の者を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。そうすれば、彼のために罪を負うことはない。
復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしはである。」とあります。

「心の中で身内の者を憎んではならない。」ここに、「身内の者」とありますが、なぜ身内の者とあるのでしょうか。よく考えてみると、こうした憎しみというのは身内をはじめ、日頃関わりを持っている人の間で抱きやすいものだからです。全然関係のない人を憎むというのはほとんどありません。家族、親族、教会、職場、学校関係、サークル、何かがきっかけとなって知り合った人たち、そうした人たちとの間でさまざまな軋轢が生じるのです。だから「身内」と言われているのです。そうした身内の者を憎んではいけません。

心の中で憎しみを持たないこと、これが聖い歩みをする上で、とても大切なことです。なぜなら、こうした憎しみがきっかけとなってさまざまな悪しき行為が生まれてくるからです。たとえば、人を馬鹿者と言う者は人を殺しているとイエス様は言われましたが、そのような心にあることが実際の行動に表れてくるのです。

しかし、こうした憎しみは私たちを疲弊させ、私たちの心を汚し、主にある喜びや平安、愛を奪ってしまいます。ですからパウロは、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」と言っているのです。喜びや祈り、感謝と憎しみは共存できません。いつも心に喜びや感謝があれば、こうした憎しみに囚われることがなくなります。

では、もし兄弟に憎しみを抱くことがあればどうしたらいいのでしょうか?ここにはただ単に私たちの隣人を憎んではならないというだけでなく、あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない、とあります。これはどういうことかというと、あなたの隣人が悪を行ったらどうしたらよいかということです。

ガラテヤ6章1節のところでパウロは、「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。」と言っています。このことばは、このレビ記の戒めが背景にあります。もしあなたの隣人が罪に陥ったならば、御霊の人であるあなたは、柔和な心でその人を正してあげなければなりません。ねんごろに戒めなければならないのです。そうすれば、私たちが彼のために罪を負うことはありません。逆に、そうしなければ、罪を負うことになるのです。つまり、私たちが何らかの方法で隣人の罪を阻もうと努力しなければ、そうした彼の悪事によって、私たちも共犯者となってしまうというのです。しかし、たとえその人の罪を責めるにしても、ねたんだり、憎んだり、言い争ったりするのではなく、柔和な心で戒めなければなりません。彼を自分自身のように愛さなければならないのです。

そして18節には、「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしはである。」とあります。復讐してはなりません。恨んではなりません。ユダヤ教のラビたちは、「お前がしたように私もする」これが復讐で、「わたしはお前がしたようにはしない」これが恨みだと言いました。

ところで、その後のことばは有名です。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」イエス様は、律法全体は、神を愛せよと、この隣人を愛せよ、の二つの戒めにまとめられると言われました(マタイ19:19,22:39,ローマ13:9,ガラテヤ5:14)。これが律法基本なのです。単に憎んではならないとか、復讐してはならない、恨んではならない、中傷してはならないということではなく、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよというのが、律法の原点にある戒めなのです。

イザヤ57:15-21 レジュメ

「神の自己紹介」                                          No.91

 

Ⅰ.その名を聖ととなえられる方(15-16) 

 ここには神がどのような方かが語られている。第一に、神はいと高く、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方である。57章前半には、まことの神から離れ偶像に走って行ったイスラエルの姿が描かれていたが、ここにはそうした偶像とは対照的に、まことの神とはどのような方なのかが示されている。すなわち、神はいと高きところにおられ、永遠に生きておられる方であり、その名を聖ととなえられる方である。これはどういうことかというと、神はずっと高いところにおられる方であり、私たちが近づきたくても近づくことなどできない存在であるということだ。よく「雲の上の方」という表現があるが、まさに神は雲の上の方である。

ところが、このように高く、聖なる方が、同時に、心砕かれ、へりくだった人とともに住み、へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かしてくださる。これは全く驚くべきことである。「心砕かれる」とは粉々にされ、ちりのようになるということである。これは、完全に悔い改めた人の姿である。また、「へりくだる」とは単に謙遜になるということではなく、苦難を受け入れて低くされることを表している。つまり、めった打ちにされるということである。神はいと高く、聖なる方であられるが、その神が、心がズタズタに切り裂かれ、自分の主張などは微塵もないほどに打ちのめされ、最も惨めだと自覚できる人とともにあり、そういう人の霊を生かしてくださるのである。

人はすぐに「自分はあれができる、これができる。あれを持っている、これを持っている。」と自分を誇りたくなる。しかし、神はそのような人の心には住まわれない。ただ心砕かれて、へりくだった人とともにあり、へりくだった人の霊を生かしてくださるのである。

Ⅱ.罪をいやしてくださる方(17-18)

第二に、神は罪をいやしてくださる方である。イスラエルの苦しみは、彼らのむさぼりの罪のためであった。「彼のむさぼりの罪のために、わたしは、怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。」(17)しかし、それで彼らが悔い改めたかというとそうではなく、彼らはなおもそむいて、自分の思う道に向かって行った。それで神はどうされたかというと、「わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、慰めを報いよう。」(18)普通だったら捨てられてもおかしくないのに、神は彼らを捨てるどころか、彼らの罪を赦し、彼らの傷をいやされ、その悲しむ者たちに、慰めを報いようというのだ。神はいつまでも怒っておられる方ではない。自分勝手な道に向かって行ったイスラエルを一時的に懲らしめることはされたが、いつまでもそのような状態に置かれることはなさらない。ちょうど我が子が悪いことをすれば一時的に懲らしめても、やがて許し、両手いっぱいに抱きしめて、まっすぐに歩んでいけるようにありとあらゆる助けを与えてくれる父親のようである。神はいつまでも私たちを罪に定めようとはなさらない。むしろその罪を赦し、その傷をいやしてくださる方なのである。

Ⅲ.平安を与えてくださる方(19-21)

第三に、神は平安を与えてくださる方である。「わたしはくちびるの実を創造した者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう」と主は仰せられる。」(19)「くちぴるの実」とは、賛美と感謝の歌を表している。彼らは罪の結果、神の怒りによってうめく者であったが、神はそうした者をいやし(救い)、感謝と賛美をささげることができるようにしてくださる。そればかりか、遠くにいる者にも近くにいる者にも平安を与えてくださる。「平安」とはあらゆる面で欠けのない状態、完全に満たされた状態のことである。現代は、まさに大きな恐怖と不安に襲われている時代である。こうした不安な時代にあっても、決してゆり動かされることのない平安を与えてくださる。

「しかし悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。静まることができず、水が海草と泥を吐き出すからである。「悪者どもには平安がない」と私の神は仰せられる。」(20-21)

あなたはどちらを選択しますか。イエスさまを信じ、心砕かれて、へりくだって歩みますか。それとも、こうした神の御声をないがしろにし、あくまでも自分の道に向かって行きますか。そこには荒れ狂う海しかない。神の前に心砕かれて、へりくだって歩むことができますように。神はあなたの罪をいやし、あなたの心を生かし、あなたに平安を与えてくださるのである。

イザヤ書57章15~21節 「神の自己紹介」

きょうはイザヤ書57章15節からのみことばから、「神の自己紹介」というタイトルでお話したいと思います。聖書の中には「神はどのようなお方か」が、いろいろな言い方で表現されていますが、神ご自身から「私はこういう存在である」と語られているところはそんなに多くはありません。しかし、ここには神ご自身が自らについてどのような方なのかを、はっきりと語っておられます。

Ⅰ.その名を聖ととなえられる方(15)

まず第一に、神はいと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方です。15節ご覧ください。 「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」

57章前半には、イスラエルが走って行った偶像の姿が描かれていましたが、それは一言で言うと虚しいということでした。「風が、それらをみな運び去り、息がそれらを連れ去ってしまう」(13)ほどはかないもの、それが偶像です。しかし、まことの神は違います。まことの神は、いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方です。これはどういうことかというと、神は私たちとは全く次元の違うところにおられる方であるということです。全くかけ離れたところにおられる方なのです。私たちが近づきたくとも近づくことができないほど高いところにおられる方なのです。よく「雲の上の存在」ということばがありますが、まさに神は雲の上の存在なのです。その名を聖ととなえられる方なのです。  この「聖」というのは区別するという意味で、人間とは全く区別された方、この世界を超越した方であるということです。私たちは人間ですと、「あの人は非常に優秀だ」とか「偉い人だ」という言い方をしますが、そのように言うのは自分と比較して偉いということであり、努力さえすればそのようになり得る可能性があると思っているからです。しかし、神さまは違います。神様は比べようがありません。全く次元が違うからです。神はこの被造物とは全くかけ離れた存在であって、背伸びしても、逆立ちしても、何をしても、決して近づくことができない方なのです。それがここでいう「聖」という意味です。この地上の何をもってしても全く比べることができないのです。それほど高く、それほど聖い方なのです。

この言葉は、出エジプト記3章5節に出てきます。モーセがミデヤンの地で羊を飼っていたとき、神の山ホレブにやって来ました。そこで彼は不思議な光景を見ました。柴は燃えているのに、焼き尽きていなかったのです。この大いなる光景を見てみようとそこに近づいたとき、神がモーセにこう仰せられたのです。

「ここに近づいてはならない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」(出エジプト3:5)

モーセは羊飼いでしたから、その羊飼いが足から靴を脱ぐということは、すなわち死を意味することでした。羊飼いの靴とはサンダルのようなものですが、それを脱いだら荒野を歩くことはできません。ごつごつとした岩や荒れくれたトゲがあるので、靴があってもそういうところで羊を飼うことは大変なことだったのです。まして靴がなかったら羊と一緒に行くことができませんから、羊を飼うことなどできませんでした。羊を飼うことができなければ、羊飼いは生きることができません。ですから、彼にとって靴を脱ぐということは、すなわち、死を意味することでもあったのです。その靴を脱げ、と神は言われました。なぜでしょうか?なぜなら、モーセはこれまでと全く違った領域に来たからです。聖なる神の御前に来たのです。彼の立っている場所は聖なる地でした。だから、彼は靴を脱がなければならなかったのです。それはモーセにとっては死という、羊飼いにとってはいのちに等しい靴を捨てるということであったかもしれませんが、そうした犠牲なしに聖なる神に近づくことはできなかったのです。モーセが土足で、陸続きのままに行くことができるお方ではなかったというのが、ここに表されていたのです。靴を脱がなければならなかった。それほど聖なる方であるということです。

また、ダビデ王の時代にこんな事件がありました。神の臨在の象徴である契約の箱を神の都に迎え入れようとした時、本当はそのためにはある定められた聖めの儀式を行い、人々が肩に担いで、御神輿のようにして運ばなければならなかったのに、ある人々がこれを牛車に積んで、牛に引かせて都に運ぼうとしました。ところが牛車の車輪が道のくぼみに落ち込んで、牛車が傾き契約の箱が落ちそうになったのです。そこでウザという人が落としてはならないと思い、箱を手で押さえました。すると、彼は神に打たれて死んでしまったのです。彼は全くの善意でやったにもかかわらず、どんなに善意からであろうとも、罪人である人間がその手で神の箱を押さえたので、神が怒りを発せられたからです。神が聖であるということはこういうことなのです。神は私たちが近づくことも、ふれることもできない、死をもってでなければ近づくことができないお方なのです。それが「聖」という意味です。

ところが、このように高く、聖なる所に住んでおられる方が、同時に、心砕かれて、へりくだった人ともに住み、へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かしてくださるというのです。これは全く驚くべきことではないでしょうか。ここに「心砕かれて、へりくだった人とともに住む」とありますが、この「心砕かれる」という言葉は言語のヘブル語では「ちり」という言葉で、粉々にされた状態を言います。それは完全に悔い改めた姿のことです。また「へりくだる」とは単に謙遜になるということではなく、現在の災い、苦悩を受け入れて低くされることを表しています。つまり、めった打ちにされるという意味なのです。神は聖くて高い所に住んでおられる方で、私たちがどうやっても近づくことができない方ですが、その心がズタズタに切り裂かれて、自分の主張などは微塵にもないほどに打ちのめされて、最もみじめだと自分を自覚できる人、そういう人ともに住み、そういう人の霊を生かし、そういう人の心を生かしてくださるというのです。

イザヤがこのように言ったのは、自分の体験からでした。6章にはイザヤが預言者として召された時のことが書かれていますが、そこで彼は、聖なる神がみ座におられる幻を見ました。そして、御使いたちが、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」(同3節)と呼びかわしているのを聞きました。その神の聖さの前に出たとき彼は、「私は、もうだめだ。」(同6:5)と叫びました。この聖なる神の前に、自分がいかに汚れた者であり、醜い存在であるかを悟ったのです。この神の前には死ぬしかない存在であることがわかりました。本当にめった打ちにされたのです。自分は預言者であり、神の代弁者であり、神のメッセージを伝える者であると自負していた彼が、この聖なる神の前に立ったとき、自分はもう何者でもない、本当ににちりにすぎない存在だということがわかったのです。「月とスッポン」という言葉がありますが、自分は神のみこころにはかなわない汚れた者であり、神の目にとまったら、滅びるしかない存在にすぎないというのが、彼の実感だったのです。文字通りめった打ちにされて、粉々に砕かれました。もう自分の存在そのものさえもなくなってしまったかのような経験をしたのです。それが心砕かれて、へりくだるという意味です。

しかし、彼はそのような中から神を仰ぎました。自分は神に打たれ、もうだめかと思ったのですが、その時、今まで賛美していた御使いが賛美をやめ、神にいけにえをささげる祭壇のあかあかと燃えている火の中から、炭火を取りイザヤの口にふれて、「この火がお前の口にふれたのだから、お前の罪は赦された。」(同6:7)と言われたのです。イザヤは、自分はもうだめだと思いましたが、自分ではなく神の方から一方的に触れてくださり、聖めていただいたのです。ほんとうに神の前に自分のいい加減さ、自分のだめさ加減さを認めることは辛いことですが、そのように全く砕かれたとき、神がその罪をいやし、彼とともに住まわれ、彼を生かしてくださったのです。

人は何かというと、すぐに「私はあれができる。これができる。」「あれを持っている。これも持っている」と、他人に誇りたくなるものです。そういう人の心には、神はお住みにはなれません。私はクリスチャンになってもう何年になります、キリスト教の世界ならよく知っています、とすぐに自負しがちになりますが、そういう人の心にはお住みになれないのです。神がお住みになられるのは、砕かれて、へりくだった人の心です。そのような心を、神は決してさげすまれないのです。むしろへりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かしてくださるのです。

天地が創造されて以来、世界中で一番砕かれ、これ以上に砕かれた方はいないという人は誰でしょう。そうです、イエス・キリストです。彼は、謙遜といった言葉ではもう追いつかないほど砕かれました。だって神でありながら、人間となられたのですから・・・。無限の方なのに、有限となってくださいました。全く罪がなかったのに、十字架にかかって死んでくださいました。ですから、私たちはこのイエスさまを信じて、このイエスさまと一つになること以外に、砕かれる道はありません。私たちがどんなにへりくだってみたところで、真の謙虚さを自分のものにすることはできないのです。しかし、自分を捨てて、十字架にまで架けられて砕かれたイエスさまと一つにされるならば、私たちもこの方のようになることができるのではないでしょうか。イエス様はこう言われました。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイ11:28-29)

キリストのもとに行って荷を下ろし、代わりに、キリストのくびきを負って、キリストから学ぶ。そうすれば、たましいに安らぎが来ます。なぜなら、キリストは心優しく、へりくだっているからです。キリストだけがそのように言うことができます。このキリストから学ぶことによって、私たちもへりくだった者となることができる。そして、神はそのような者とともにいてくださるのです。

Ⅱ.罪をいやしてくださる方(16-18)

第二のことは、神は罪をいやしてくださる方であるということです。16節から18節までをご覧ください。 「わたしはいつまでも争わず、いつも怒ってはいない。わたしから出る霊と、わたしが造ったたましいが衰え果てるから。彼のむさぼりの罪のために、わたしは、怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。しかし、彼はなおもそむいて、自分の思う道を行った。わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、慰めを報いよう。」

どういうことでしょうか。神はいつまでも争っておられる方ではありません。いつまでも怒っておられる方ではありません。神は一時的に、彼らのむさぼりの罪のために彼らを打ち、顔を隠して怒られましたが、それで彼らは悔い改めたかというとそうでなく、なおもそむいて、自分の思う道に走って行きましたが、それでも主は彼らをいやしてくださるというのです。彼らを導き、その悲しむ者たちとともに、慰めを報いるというのです。

これは第一義的には、バビロンによる神のさばきを表しています。彼らは神にそむいて自分勝手な道に歩んだので、神はバビロンという国をもって彼らを滅ぼし、70年の間捕囚としての生活をさせましたが、かと言って、いつまでも怒ってはおられませんでした。神様は彼らのそのような歩みを見ましたが、彼らの罪をいやし、慰めを与えてくださるのです。

何という慰めでしょうか。「だったら勝手にしなさい」と言って捨てられても不思議ではないのに、神はそのようにはされるどころか、彼らの悲惨で絶望的な状況の中にご介入してくださるのです。そして、罪によって受ける心の傷をいやしてくださいます。どのようにいやしてくださるのでしょうか。その罪を代わりに受けることによってです。53章に戻ってください。53章4~6節までのところです。

「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」    主のしもべであられるイエス・キリストが、その罪、咎を代わりに負ってくださることによって、私たちが受ける痛みや苦しみをいやしてくださるというのです。本来なら、私たちが受けなければならない罪の刑罰を、受けなくてもいいように代わりに受けてくだったのです。神の子とされるということがどんなに大きな恵みであるかがわかるでしょう。私たちは本当に罪深い者で、罪を犯さずには生きていけないような愚かな者ですが、その罪を悔い改めて神の救いイエス・キリストを信じた瞬間に神の子とされ、これからどんなに罪を犯すことがあっても、一生、その関係は変わらないのです。これからも犯すであろう罪の一切を許してくださいました。イエスの救いというのはそのように大きなものなのです。だからこれは特権なのです。

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:12)

皆さん、これは特権です。ものすごい特権です。あなたが悔い改めてイエス・キリストを信じたその瞬間から、あなたの過去、現在、未来のすべての罪が赦されたのです。あなたが神の子となったことで、神はどんなことがあってもあなたを見離したり、捨てたりはなさいません。世の終わりまで、いつも、あなたとともにいてくださいます。

16節には、「わたしはいつまでも争わず、いつまでも怒ってはいない。」とありますが、この「争う」という言葉は「断罪する」という意味です。神はいつまでも私たちを罪に定めようなことはなさいません。むしろ、神は私たちのたましいが衰えることがないように、慰めてくださいます。ですから、神にそむいて、自分かってな道に向かって行くようなことがあっても、一時的に怒るようなことはあっても、いつまでも怒っておられることはないのです。アッシリヤやバビロンによって捕らえられ、苦しめられるという懲らしめを受けても、いつまでもそのような状態に置かれることはしないのです。それはちょうど我が子にムチを加えるようなものです。我が子が悪いことをしたら、親はその子に何らかの懲らしめを与えても、やがてその子を許し、両手いっぱいに抱きしめ、まっすぐに歩んでいけるようにありとあらゆる支援を惜しまないでしょう。

同じように神さまはいつまでもあなたを怒ってはおられません。いつまでも争ってはいないのです。あなたが悔い改めて神に立ち帰るなら、神は赦してくださるのです。

Ⅲ.平安を与えてくださる方(19-21)

第三のことは、神は私たちに平安を与えてくださる方であるということです。19節をご覧ください。 「わたしはくちびるの実を創造した者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう」と主は仰せられる。」

「くちびるの実」とは何でしょうか。これは感謝と賛美の歌のことです。彼らは罪の結果、神の怒りによってうめく者でしたが、そうした者がいやされ、感謝と賛美の歌をささげるようになるという預言です。そればかりではありません。遠くにいる者にも、近くの者にも、平安を与えてくださいます。近くの者とはエルサレムにいるユダヤ人のこと、遠くの者とは、離散しているユダヤ人たちのこと、あるいは、キリストを信じて神の民とされた私たちクリスチャンを指していると言ってもいいでしょう。そのように遠くにいる者にも、近くにいる者にも、神の平安が与えられるのです。「平安」とはシャロームという言葉ですが、それはあらゆる面で欠けのない状態、完全に満たされた状態のことを言います。神は遠くにいる者にも、近くにいる者にもこの平安、シャロームをもたらしてくださるのです。

イエスは、こう言われました。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)

イエスは平安を与えてくださいます。それはこの世が与えるものとは違います。この世が与える平安とはどのようなものでしょうか。リビングバイブルでは、「はかない平安」と訳しています。きょうはきれいに咲き誇っても、明日にはしぼんでいくような一時的で、はかない平安ではなく、確かな平安、どんな状況でも全く動揺することのない確かな平安を与えてくださるのです。

ある歴史家は、「人類がかくも大きな恐怖と不安に襲われた時代は、今までの全歴史においてなかった」と言っていますが、このような不安な時代にあって一番求められているのは、このような平安ではないでしょうか。そのような平安を、心砕かれて、へりくだった者、すなわち、イエスさまを信じる者に、神は与えてくださるのです。

しかし、悪者どもはそうではありません。20節、21節をご覧ください。 「しかし悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。静まることができず、水と海草と泥を吐き出すからである。「悪者どもには平安がない」と私の神は仰せられる。」

「悪者ども」とは悪いことをしている人たちということよりも、神を信じない人たちのことです。イエスさまを信じないで、自分を信じ、自分の思う道を進もうとしている人たちです。そういう人はあれ狂う海のようです。常にイライラしています。決して満たされることがありません。言い知れぬむなしさと罪悪感で、常に不安を抱えています。水が海草と泥を吐き出すとあるように、彼らの口から出るのは泥です。口汚くののしり、いつも高圧的な態度で人を怒鳴りつけます。それが悪者の特徴です。心に平安がないので、常に人を攻撃していないと気が済まないのです。悪者どもには決して平安がありません。仕事に成功して、どんなにお金があっても、何一つ足りないものがないほど満たされた生活でも平安がありません。救い主イエスを信じないからです。まだ心に罪があるからです。罪が赦されない限り、平安はありません。それは荒れ狂う海のようで、静まることがないのです。泥を吐き出すしかありません。

皆さんはどうでしょうか。皆さんには平安がありますか。もしないなら、くちびるの実を創造した主に、賛美と感謝をささげることができる平安な心を与えてくださるように祈ってください。イエスさまのもとへ行き、心砕かれ、へりくだって歩んでください。そうすれば、あなたも平安を得ることができるのです。

イエスさまは言われました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイ11:28-29)

皆さんがどう進むかは、皆さんの選択にゆだねられています。イエスさまを信じ、心砕かれて、へりくだるなら、神があなたとともに住み、あなたの心を生かしてくださいます。でも、その声をないがしろにし、あくまでも自分の道に進んで行こうとするなら、そこには荒れ狂う海しかありません。どうか神の平安と慰めを受けることができますように。神の前に心砕かれて、へりくだって歩むことができますように。神はあなたの罪をいやし、あなたの心を生かし、あなたに平安を与えてくださるお方だからです。