レビ記22章

レビ記22章

きょうはレビ記22章から学びます。21章では神に祭司に対して汚れから遠ざかるようにと教えられていましたが、きょうのところはその続きです。ここには祭司が汚れたままでささげ物に近づいてはならないことが教えられています。まず1~9節までを読みましょう。

1..聖なるささげ物(1-9)

「ついではモーセに告げて仰せられた。「アロンとその子らに告げよ。イスラエル人の聖なるものは、わたしのために聖別しなければならない。彼らはわたしの聖なる名を汚してはならない。それは彼らがわたしのために、聖なるもとのすべきものである。わたしはである。彼らに言え。代々にわたり、あなたがたの子孫のだれかが、イスラエル人がのために聖別した聖なるものに汚れたままで近づくなら、その者は、わたしの前から断ち切られる。わたしはである。アロンの子孫のうち、ツァラアトの者、または漏出のある者はだれでも、きよくなるまで聖なるものを食べてはならない。また、死体によって汚されたものに触れる者、精を漏らす者、あるいはすべて人を汚す、群生するものに触れる者、または、どのような汚れでも、人を汚れさせる人間に触れる者、このようなものに触れる者は、夕方まで汚れる。その者は、からだに水を浴びずに、聖なるものを食べてはならない。ただし、日が沈めば、彼はきよくなり、その後、聖なるものを食べることができる。それは彼の食物だからである。自然に死んだものや、野獣に裂き殺されたものを食べて、汚れてはならない。わたしはである。彼らがわたしの戒めを守るなら、彼らが、これを汚し、そのために罪を負って、死ぬことはない。わたしは彼らを聖別するである。」

21章に続きアロンとその子ら、すなわち祭司たちに語られています。先週もお話したように、この祭司というのは私たちクリスチャンのことでもあります(Ⅰペテロ2:9)。その祭司に対してどんなことが言われているでしょうか。2節には、「イスラエル人の聖なるものは、わたしのために聖別しなければならない。彼らはわたしの聖なる名を汚してはならない。」とあります。どういうことですか?祭司が汚れたままでささげ物に近づいてはならないというのです。具体的には3節の内容です。汚れたままで聖なるものに近づいてはならないということです。「聖なるもの」とは、主にささげられた聖なるささげもののことです。そのささげものに汚れたまま近づいてはいれないということです。その汚れとは具体的にどのようなものなのかが4節~8節にあります。すなわち、ツァラートの者、漏出のある者、死体によって汚された者に触れる者、精を漏らす者、人を汚す、群生するものに触れる者、どのようなものでも、人を汚れさせる人にふれる者です。覚えていますか、ツァラートや漏出のある者は隔離され、宿営の中に入ることができませんでした。祭司がツァラートにかかったり、漏出を持ったりすることがあります。そのとき、彼は汚れているので、ささげ物の分け前をもらうことができませんでした。そのようなものに触れる者は、夕方まで汚れるとされていたからです。そのような者は、からだに水をあびなければなりませんでした。水をあびてきめられた後で食べることができたのです。

しかし、日が沈めば、彼はきよくなり、聖なるものを食べることができました。つまり、次の日には食べることができたということです。どういうことでしょうか。私たちは、この祭司たちと同じように、日々きよめられる必要があるということです。日常生活を歩んでいくなかで、汚れたものにふれてしまうことがあります。というか、そういうことは日常茶飯事です。世の汚れにふれてしまうことがよくあるのです。すなわち、汚れた思い、陰口、うわさ話、嘘、偽り、無神経な態度等、そういうことは日常茶飯事に行なわれていて、それに振り回されたり、影響されてしまう場合があるのです。そういうものが私たちの中にこと頭の中に入ってくるのです。そのような汚れを、その日のうちにきよめていただかなければなりません。次の日にまで持ち越してはならないのです。神は一日という単位を大切にしておられます。その日の汚れをその日のうちにきよめていただき、次の日には新しい一日を始めなければなりません。

エペソ4:26には、「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけまん。」とあります。どういう意味でしょうか。怒りという感情は神が人間に与えてくださったものですからある意味で自然なものですが、それをいつまでも正当化していると悪魔に機会を与えてしまうことになるということです。人の怒りは神の義を全うするものではありません(ヤコブ1:20)。ですから、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなければなりません。そうした汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植え付けられたみことばをすなおに受け入れるようにしなければならないのです。だから、日が暮れるまで行き取っていてはならないのです。憤ることもありますが、それをその日のうちに解決しなければなりません。怒りは神の義を全うしないからです。

怒りは火山のマグマのようなものです。それは意識しなくても表に現わさなくても心の内の深いところに燃えたぎっています。機会があれば大爆発しますが普段からふつふつと火の玉となって不平不満となって周りに当たり散らしています。ですからいつも心の内を神様に探って頂きマグマを取り除かないと、いつか、突然にして大爆発してしまうことがあるのです。ついつい不平不満を周りに愚痴っていたり、当たり散らしたりして、トラブルメーカーのような人もいますが、あなたが気に入らないそのような人も、あなたが苦手な人も神様の造られた愛する人達なのです。互いに赦し合わなければなりません。マグマを取り除いて隣人を愛する事は自分の力や努力では出来ませんが、それができるようにと、キリストが十字架にかかって死んでくださいました。キリストが十字架につけられたのは、敵意を廃棄して、平和をもたらすためです。

「実にキリストは私達の平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意と言う隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。」エペ2:14。

ですから、私たちはこの方にあって自分が赦され、他の人も赦すことができます。その日のうちに怒りや憤りといったあらゆる悪を捨て去ることができるのです

そのような汚れを、次の日にまで持ち越すことはよくありません。一日の終わりに、神のみことばを読み、罪を告白してきよめていただき、次の日を出発させなければなりません。そうしなければ、ここで書かれているとおり、神のパンを食べることができない、つまりイエスさまとの交わりを持つことができなくなってしまいます。もちろん、私たちは、罪に定められることはありません。神の前に、キリストにあってきよく、傷のない者とされました。けれども、主との交わりがでできなくなってしまう、そのことによってもたらされる喜びを持つことができなくなってしまうのです。ですから、日々きよめていただく必要があるのです。

そうすれば、罪を負って死ぬことはありません。逆に罪の中で生き続けるなら、死ぬ可能性があります。これはクリスチャンへの警告でしょう。罪の中で生き続けるようなことがあれば、死んでしまうこともあるのです。クリスチャンであるということは、日々のきよめがある人であり、ないのであれば、その人はもはやクリスチャンとは呼ばれなくなってしまうこともあるのです。キリスト教信仰の本質は、この悔い改めにあるというのはそういうことです。どんなに罪深い者でもその罪を悔い改めるなら主は赦してくださいますが、自分がきよめられたと過信して悔い改めることをしないなら、死んでしまうこともあるのです。

2.一般の者は食べてはならない(10-16)

次に、10~16節までをご覧ください。

「一般の者はだれも聖なるものを食べてはならない。祭司と同居している者や雇い人は、聖なるものを食べてはならない。祭司に金で買われた者は、これを食べることができる。また、その家で生まれたしもべも、祭司のパンを食べることができる。祭司の娘が一般の人と結婚したなら、彼女は聖なる奉納物を食べてはならない。祭司の娘がやもめ、あるいは離縁された者となり、子どももなく、娘のときのように再びその父の家に戻っていれば、その父の食物を食べることができる。しかし、一般の者はだれも、それを食べてはならない。だれかが、あやまって聖なるものを食べるなら、それにその五分の一を足して、その聖なるものを祭司に渡す。イスラエル人に、そのに奉納する聖なるものを汚し、聖なるものを食べて、その罪過の咎を負うようにさせてはならない。わたしは彼らを聖別するだからである。」

これはどういうことでしょうか。祭司に分けられたささげものの肉やパン、穀物といったものを、一般の者はだれも食べてはいけませんでした。祭司と同居している雇い人もです。しかし、祭司に金で買われた者、つまり奴隷は食べることができました。また、その家で生まれたしもべも、食べることができました。

これは、キリストにある神の祭司にならないかぎり、ささげものを食することはできないということです。それは神との交わりを表していますので、キリストを信じて祭司にならなければ、神との交わりを楽しむことはできない、ということです。クリスチャンらしく、ふるまうことはできるでしょう。けれども、同居しているだけでは食べることができないのです。しかし、金で買われた人(奴隷)は食べることができました。彼は贖われたからです。私たちは買い取られることによって、主との交わりにあずかることができるのです。自分がどんなにみじめで、神の祝福にあずかるには到底できないような存在であっても、主イエス・キリストが流された血の代価を受け入れるならば、その交わりにあずかることができるのです。それは私たちが一生懸命にきよい生き方をしてもかなわないことですが、キリストの血潮によって買い取られた、と信じるなら食べることができるのです。そして、自分はもはや神のものであり、自分自身のものではない、と信じることによって、神の祝福のすべてを受け取ることができるのです。

祭司の娘でも、一般の人と結婚したら、聖なる物は食べることはできません。これはどういうことかというと、祭司以外の人との結婚、すなわち、異邦人と結婚することを指しています。それは神が忌み嫌われることです。神の祭司に求められていることは聖であること、すなわち、この世と分離することですから、それがなされなければ神の祭司ではなくなってしまうのです。その結果、神との交わり、キリストのいのちにあずかることができなくなってしまうのです。しかし、離婚されて、子どもがいなければ、父の家に戻ることができます。一般の人との交わりから解かれるからです。それは汚れからの解放を意味していました。

しかし、一般の人はだれも、それを食べてはいけませんでした。もしだれかが、あやまって食べてしまったらどうなるでしょうか。それに五分の一をプラスして祭司に渡さなければなりませんでした。あやまってだれかに害を与えてしまったとき、それに等しい償いをすればよいというのではなく、それに五分一をプラスしなければなりません。それは物理的な被害以上に、大きな損傷を与えてしまったからです。その償いとして、害を与えた額よりも、さらに五分の一を加えられた額で償わなければならなかったのです。

3.主へのささげもの(17~25)

次に17~25節までをご覧ください。

「ついではモーセに告げて仰せられた。「アロンとその子ら、またすべてのイスラエル人に告げて言え。だれでも、イスラエルの家の者、またはイスラエルにいる在留異国人がささげ物をささげ、誓願のささげ物、あるいは進んでささげるささげ物として、全焼のいけにえをにささげるなら、あなたがたが受け入れられるためには、それは牛、羊、あるいはやぎのうちの傷のない雄でなければならない。欠陥のあるものは、いっさいささげてはならない。それはあなたがたのために受け入れないからである。また、人が特別の誓願を果たすため、あるいは進んでささげるささげ物として、牛か羊の中から和解のいけにえをにささげるときは、それが受け入れられるためには傷のないものでなければならない。それにはどのような欠陥もあってはならない。盲目のもの、折れたところのあるもの、傷のあるもの、あるいは、うみの出るもの、湿疹のあるもの、かさぶたのあるもの、あなたがたはこれらのものをにささげてはならない。また、これらのものをへの火によるささげ物として祭壇の上にささげてはならない。牛や羊で、足が伸びすぎているか、またはなえ縮んだものは、進んでささげるささげ物とすることはできるが、誓願のささげ物としては受け入れられない。あなたがたは、こうがんの押しつぶされたもの、砕かれたもの、裂かれたもの、切り取られたものをにささげてはならない。あなたがたの地でそのようなことをしてはならない。また、あなたがたは、外国人の手から何かこのようなものを受けて、あなたがたの神のパンとしてささげてはならない。これらのものはそこなわれており、欠陥があるから、あなたがたのために受け入れられない。」

ここで再び祭司からすべてのイスラエル人に対して語られます。イスラエルの家の者、またはイスラエルにいる在留異国人が主にささげものをささげる時に、主が受け入れられるためにはどうしなければならないかについてです。そして、それが全焼のいけにえの場合、牛、羊、あるいはやぎのうちの傷のない雄でなければなりませんでした。欠陥のあるものは、いっさいささげてはならなかったのです。それは、ささげ物も、神ご自身を現わしていたからです。あるいは、神への供え物であるイエス・キリストを表していたからです。完全な方には、完全ないけにえが要求されるのです。それは和解のいけにえも同じです(21)。

私たちは、神に受け入れられるためにあらゆる努力をします。しかし、それらがみな不完全であることは百も承知です。私たちは、完全な方には、完全ないけにえをささげなければなりません。つまり、イエス・キリストにつながれた自分を見ること以外に、神に受け入れられることはできないのです。キリストに結びつけられた自分を主の御前にささげるときに、初めて主は、私たちを受け入れてくださるのです。主の御前に、ありのままの自分で出てきてください。これが、本当の献身です。

2 5節には、何かこのようなものを受けて、神のパンとしてささげてはならない、「何かこのようなものを受けて」とは、欠陥のあるものを受けてということです。外国人は、イスラエル人に与えられた律法など知りませんから、平気で欠陥のある動物をささげてしまう危険性がありました。相手は善意でしてくれること、与えてくれるものがありますが、私たちは、それをそのまま受け入れることはできないのです。

4.主への感謝のいけにえ(26~33)

最後に26~33節までをご覧ください。

「ついではモーセに告げて仰せられた。「牛か羊かやぎが生まれたときは、七日間、その母親といっしょにしておく。八日目以後、それはへの火によるささげ物として受け入れられる。しかし、牛でも、羊でも、それをその子と同じ日にほふってはならない。に感謝のいけにえをささげるときは、あなたがたが受け入れられるように、それをささげなければならない。その同じ日にこれを食べ、朝までそれを残しておいてはならない。わたしはである。あなたがたは、わたしの命令を守り、これを行え。わたしはである。わたしの聖なる名を汚してはならない。むしろわたしはイスラエル人のうちで聖とされなければならない。わたしはあなたがたを聖別したである。あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から連れ出した者、わたしは、で ある。」

ここには、牛か羊かやぎが生まれたときは、七日間、その母親といっしょにしておかなければならない、とあります。八日目以後、それらは主への火によるささげ物として受け入れました。なぜでしょうか?それは、この赤ん坊が乳離れをするためです。母親から赤ん坊を奪い取るようなことはしていけません。神は、動物にさえ、あわれみを示しておられるのです。私たちの生きている世界は、合理化、効率化が進んで、このように弱いものに対する配慮を無視して、突き進んでいます。この前の学びでもそうですが、貧しい者たちをしいたげる者は、格別のさばきを受けます。今の日本は、そのような社会ではないでしょうか。

28節には、「しかし、牛でも、羊でも、それをその子と同じ日にほふってはならない。」とあります。ここにも、神の動物にたいするあわれみがあります。母親と同じ日にほふってはいけません。そんなことをしたら母親がどんなに悲しむことでしょう。

29節には、主に感謝のいけにえをささげるときは、どのようにささげなければならないかが語られています。それは「あなたがたが受け入れられるように」です。これは「自ら進んで」と訳すことができます。つまり、感謝のいけにえをささげるときには、自ら進んでささげなければならないということです。そうでなければ感謝になりません。

パウロも献金の教えの中で、「いやいやながらでなく、人から強いられてでもなく、自分で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」(Ⅱコリント9:7)と言いました。だれから強いられたり、いやいやながらするのではなく、心で決めたとおりに、喜んでささげる。そのようないけにえこそ主に喜ばれるいけにえなのです。

「その同じ日にこれを食べ、朝までそれを残しておいてはならない。わたしは主である。」

朝まで残すのは、次の日に食べ物がなくなるのでは、と思い煩うからです。けれども、こういうものはみな、異邦人が求めているものです。けれども、私たちの天の父は、それが私たちに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とを第一に求めなければなりません。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。私たちは、その日その日に与えられるマナで養われなければなりません。焦って明日の分も集める必要はありません。必要であれば神が二倍の祝福を与えてくださいます。そうでないと、せっかく集めたものも腐ってしまいます。心配や思い煩いも私たちの心を汚しますね。私たちは日々、主に拠り頼み、主から新しい力、恵み、あわれみを受けなければならないのです。

そして31節から33節にこうあります。

「あなたがたは、わたしの命令を守り、これを行え。わたしはである。わたしの聖なる名を汚してはならない。むしろわたしはイスラエル人のうちで聖とされなければならない。わたしはあなたがたを聖別したである。あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から連れ出した者、わたしは、である。」

ここには、私たちがなぜ、聖なる歩みをしなければならないのかの理由が記されてあります。それは主が私たちを聖別してくださったからです。主は私たちを罪のエジプトから連れ出してくださいました。ですから、私たちは私たちを罪から救い出してくださった方にならって聖でなければならないのです。私たちは贖われた者、自分が神のものである、という意識を持っていることが、こうした聖なる歩みを行う原動力となるのです。

Isaiah61:1-11 “Rejoice in the Lord”

Last week I gave a message entitled ““Arise, Shine”from Isaiah chapter 60. “For your light has come, and the glory of the LORD rises upon you.” (1) Zion who had repented of her sin and had received the Lord’s redemption became brightly shinning as a light to the nations.

This chapter 61 is this continuation, but it is more than a continuation. It is about how the redeemed will receive enormous blessings. Their sadness that they have had up until now will be changed to joy and their mourning to praise. Therefore, no matter what situation we are in we can rejoice in the Lord.

 

  1. From sadness to joy (Vs. 1-3)

First let’s look at verses 1 to 3. “The Spirit of the Sovereign LORD is on me,

because the LORD has anointed me

to proclaim good news to the poor.

He has sent me to bind up the brokenhearted,

to proclaim freedom for the captives

and release from darkness for the prisoners,

to proclaim the year of the LORD’s favor

and the day of vengeance of our God,

to comfort all who mourn,

and provide for those who grieve in Zion-

to bestow on them a crown of beauty

instead of ashes,

the oil of joy

instead of mourning,

and a garment of praise

instead of a spirit of despair.

They will be oaks of righteousness,

a planting of the LORD

for the display of his splendor.”

Here it says, “The Spirit of the Sovereign LORD is on me.” (1) This “me” (1) is “the Lord’s servant” who in Isaiah has been shown continually. He was chosen to execute God’s commission. However, here “The Spirit of the Sovereign LORD is on” (1) him “because the LORD has anointed” (1) him “to proclaim good news to the poor,” (1) and “to bind up the brokenhearted.”(1) He will free the captives, and release the prisoners. He will “proclaim the year of the LORD’s favor and the day of vengeance of our God.” (2) He will “comfort all who mourn.” (2) If you read this far, I think you realized this is talking about the Savior, the Lord Jesus Christ who will be sent by God in the course of time. The word, “anointed” (1) is in Hebrew Messiah, which is the Savior.  In other words, this is a prophesizing about the Savior, Jesus, who will save mankind from sin.

Please open your Bibles to Luke 4:18, 19. Jesus quotes this passage here.  This is a record of Jesus’ first sermon. On the Sabbath he went to Nazareth where he was brought up at and went into the Synagogue there, and read the Bible. He was handed the book of Isaiah so Jesus opened the book and read it.  He read Isaiah 61:1, 2. “The Spirit of the Sovereign LORD is on me, because he has anointed me to proclaim good news to the poor. He has sent me to proclaim freedom for the prisoners, and recovery of sight for the blind, to set the oppressed free, to proclaim the year of the LORD’s favor.” (Luke 4:18-19)

After reading the passage, Jesus handed the scroll to the attendant. The people who were there fastened their eyes on Jesus. Then Jesus turned to the people and said in verse 21, “Today this scripture is fulfilled in your hearing.”

Then the people praised Jesus and were amazed at the words of grace that came from his mouth. Jesus proclaimed that he was the Savior that Isaiah had prophesized about. “Christ” in Greek means “the anointed one” In other words, Jesus Christ means “the anointed Jesus”. Jesus is really the anointed Savior. God sent Jesus as Messiah to this world.

However, if you look at this passage Jesus quoted Isaiah 61 verse 1 to the middle of verse 2. He finished with “to proclaim the year of the LORD’s favor.” (Luke 4:19) The passage continues, but he finished with “to proclaim the year of the LORD’s favor.” (Luke 4:19) That is because until there is the purpose of the Savior, Jesus’, first coming. That latter part will be fulfilled at Christ’s second coming. At that time Christ will come as the Lord of judgment, but before that he will come as the Savior. It is that prophecy. As the prophecy says, Christ came about 2000 years from now as Savior to this world. He proclaimed good news, the Gospel, to the poor. He healed the brokenhearted. He came to proclaim freedom for those captive to sin and to release those who were prisoners to darkness.

Certainly good news was proclaimed to the poor. Jesus said, “Blessed are the poor in spirit for the kingdom of shall be theirs.”  People with a thirsty spirit are really blessed. That is because such a person seeks God and believes God’s Word. All men build values and thinking based upon their experience. That becomes their rule for living.  Whatever matches it, they accept, but what doesn’t match it they refuse. The older a person becomes the more this tendency increases. However, when such people’s values are shattered, then their heart is opened. It is easier for such people to accept God. That is because they have become poor in spirit.  Things like bankruptcy, sickness, disasters, death in the family, etc. are all things that are turning points for values to change.  To such people the good news will be proclaimed.  Jesus said, “It is not the healthy who need a doctor, but the sick.  I have not come to call the righteousness, but the sick.” (Mark 2:17) This is the meaning. It is like a sick person. If he isn’t humble enough to receive medical treatment, then he won’t be saved.  A person that is fully immersed in his own thinking and values no matter how much he hears the wonderful news, he won’t be saved.

There is a joke. A person who was sightseeing in Canada saw an old man fishing at a lake. However, it was strange but the old man caught a huge fish, but he let it go and only put small fish the size of his hand in the bucket. The person who was sightseeing asked, “Why did you let the huge fish go?” The old man answered, “My frying pan is 25 cm. Therefore, a bigger fish won’t fit in it.”  That’s why the old man was letting the big fish go.

We too do things like this old man.  We throw out anything that doesn’t stay within our world view. We only accept what agrees with our own thinking.  Without realizing it we set our heart on own thinking making it absolute. We won’t accept anything else and judge things that are different from our own thinking.  That is what the scholars of the law and Pharisees of that time were like. They thought they were correct so they weren’t able to accept Jesus. They saw what Jesus was doing and they complained saying, “Oh no, he’s eating with sinners!” “He’s not following the religious traditions!” About such people Jesus said, “You brood of vipers!” (Matt. 23:33)

Here it says, “to bind up the brokenhearted”. (1) Are we binding up the brokenhearted? Jesus said, “Come to me all who are weary and I will give you rest.” Like this Jesus invites the brokenhearted to come and he will heal them.

Then is “to proclaim freedom for the captives

and release from darkness for the prisoners,

to proclaim the year of the LORD’s favor.” (1) “The year of the LORD’s favor” (1) is the “Year of Jubilee” that is in Lev. 25. The “Year of Jubilee” came every 50th year and was a year of being set free. At that time various debts were cleared.  Also the slaves who had been sold were set free and they were able to return to their homes. In short, this was massive liberation by grace.  This means that in the course of time the

Savior will come to this world and by this Savior he will bring freedom from sin. God’s people who have committed uncountable amounts of sin will be set free by their Lord. It is a pattern of the age of salvation when sin will not be accused.

 

Jesus came to proclaim the year of the LORD’s favor.” (1)  There will be massive liberation from spiritual problems, psychological problems, financial problems, and from all problems.  Therefore, when Jesus comes, many people will be encouraged by the words of grace that come from his mouth.  The blind will see, the lame will be healed and the dead will rise. Those who are demonized will be set free, and people captivated by various problems will be liberated. That’s not all. A time will come when those people who have sinned and as a result are captive to death will be forgiven.

Our mankind’s last enemy is death.  Death came as a result of sin. There is no one that can overcome death.  It is even said that mankind is the slave of death.  The famous Martin Hemmingway said, “All of mankind is a being shut in by death.” We became slaves for such a thing and in the end man gave up and yields to death. However, for us Jesus came, and took upon himself all of our sin and died in our place on the cross.  That is not all. Three days later he rose again. By the power of the resurrection like blasting death overcame it.  He came to make the “Year of Jubilee”, a perfect liberation, a reality and to proclaim it. What amazing grace! Like this he will “comfort all who mourn.” (2)

“and provide for those who grieve in Zion-

to bestow on them a crown of beauty                                                                                 instead of ashes,

the oil of joy                                                                                                                        instead of mourning,

and a garment of praise

instead of a spirit of despair.” (3)

“Those who grieve in Zion” (3) will be given “a crown of beauty.” (3) “Ashes” are a symbol of mourning and lamenting. When Israel was suffering in sorrow they covered themselves with ashes. For example, when David’s sister Tamar was raped by Amnon, her brother, (David was the father of both Tamar and Amnon, but they had different mothers.) “Tamar put ashes on her head and tore the ornamented robe she wearing” (II Samuel 13:19) that only “virgin daughters of the king wore.” (II Samuel 13:18) Then “she put her hand on her head and went away, weeping aloud as she went.” (II Samuel 13:19) That was the height of sorrow, an expression of the extremity of sorrow. However, by Christ when we are liberated from our sin, “instead of ashes (3) we will receive a crown on our heads. A crown on the head is a symbol of celebration. Christ will change  sorrows into blessing.

 

 

Also it says, “the oil of joy instead of mourning.” (3) This is a symbol of blessing. Oil is poured out when the king is ordained. Anointing of oil was also common on joyous occasions. It was also customary to anoint the heads of the guests at banquets. The oil of mourning will be changed into the oil of joy and blessings. The Savior, Jesus, will change your sorrows to joy.

As it says, “a garment of praise instead of a spirit of despair.” (3) “A spirit of despair” (3) is also changed into praise.

The result is “they will be called oaks of righteousness.” (3) Oaks are strong, hard, magnificent trees. They have very green leaves that are full of vital energy. They will become like such oak trees. An oak tree is an oak tree, but in 1:30 there is also “an oak with fading leaves.” Those who are separated from God and are living their own life are like “an oak with fading leaves.” (1:30) However, those who by the Savior, Christ, have been redeemed of their sin, and have been set free from their sin can live a life like a righteous oak tree.

 

II.          You will be called priests of the Lord (Vs. 4-9)

Next please look at verses 4 to 9. First I will read verses 4 to 6. “They will rebuild the ancient ruins and restore the places long devastated; they will renew the ruined cities that have been devastated for generations. Aliens will shepherd your flocks; foreigners will work your fields and vineyards. And you will be called priests of the LORD, you will be named ministers of our God. You will feed on the wealth of nations, and in their riches you will boast.” (4-6)

“They” (4) are the people that by God’s Christ have been redeemed of their sin. “They will rebuild the ancient ruins” (4) of Jerusalem and the temple and “renew the ruined cities.” (4) Aliens will shepherd their flocks; foreigners will work their fields and vineyards. Until then it will not be like this. Until then the aliens will torment Israel. Such aliens will shepherd their flocks; foreigners will work their fields and vineyards.

However, you will have a different responsibility.  What you will do is the work of the priests, you will minister and “you will feed on the wealth of the nations, and in their riches you will boast.” (6) “You” (6) are God’s redeemed, Zion. Zion will become the Lord’s priest, and “will be named ministers of our God.” (6) They will receive the wealth and glory of the nations.

This is an awesome blessing. Priests intercede to God for the people. Also they give God’s grace and blessings to the people. “You will be called priests of the LORD.” (6)

For example, Abraham prayed to God for Abimelech king of Gerar and his family. Also Jacob blessed the Egyptian Pharaoh . This means that their positions have been reversed. Usually the person of higher standing blesses the person of lower standing.  However, the lower person is blessing the higher person. This means that God gave Abraham and Jacob a position and authority surpassing the other kings of the earth. Therefore, to be a priest of God is a very glorious. “You will be called priests of the LORD.” (6) Us Christians are promised that we have been given this position. “You are a chosen people, a royal priesthood, a holy nation, a people belonging to God.” (I Peter 2:9)

“You” (I Peter 2:9) are Christians We “are a chosen people, a royal priesthood, a holy nation, a people belonging to God.” (I Peter 2:9) so that we “may declare the praises of him who called you out of darkness into his wonderful light.” (I Peter 2:9)

That’s not all. Please look at verse 7. “Instead of their shame

my people will receive a double portion,

and instead of disgrace

they will rejoice in their inheritance;

and so they will inherit a double

portion in their land,

and everlasting joy will be theirs.”

“My people will receive a double portion, and instead of disgrace…they will inherit a double portion.” (7) This “double portion” (7) more than being exactly as the words say a double portion, it is better to think of it as a symbolical figure. It means that they will be abundantly blessed.  In the Old Testament law too, a thief “must pay back double” (Exodus 22:4) for what he has stolen. It is to pay back double.  Israel was always being plundered, but a time will come when they will be properly paid back. Let’s look forward to the things that we have lost being paid back in double portion.  What has been taken away from you?  You may have had various things like your time, your effort, your money, your possessions stolen or you may have had bad times, but God will pay you back double.

Then verse 8 says, “For I, the LORD, love justice:

I hate robbery and iniquity.

In my faithfulness I will reward them

And make an everlasting covenant with them.”

“I, the LORD” (8) loves justice. “Justice” (8) is to act properly in accordance with the law.  It is to obey and behave properly according to the Bible.  It is to love God. Therefore, we too must obey the Bible. We must do what pleases God. There may be few, just a handful of people that do so.  It may be in the minority to live for God. Most people may think that the Bible is not important and they live by their own thinking, “but as for me and my household, we will serve the LORD.” (Joshua 24:15) We just walk on the road that the Lord shows.  That is because the Lord loves justice. People may criticize you.  People may give you a bad time. However, even so we walk the road that the Lord shows. That’s because the Lord loves justice. Such a person is blessed. Such a person is like verse 9 says blessed eternally into the following generations.

 

III.         Rejoice in the Lord (Vs. 10,11)

Therefore, the conclusion is to rejoice in the Lord.  Please look at verses 10 and 11.  “I delight greatly in the LORD;

my soul rejoices in my God.

For he has clothed me with garments of salvation

and arrayed me in a robe of righteousness,

as a bridegroom adorns his head like a priest

and as a bride adorns herself with her jewels,

For as the soil makes the sprout come up

and a garden causes seeds to grow,

so the Sovereign LORD will make righteousness and praise

spring up before all nations.”

”I” of verse 10 if you look at the context from verse 1 you will see that this is the Messiah. It is said to refer to the Savior, Jesus Christ.

Therefore, Jesus delights “greatly in the LORD.” (10) Jesus’ soul too rejoices in the Father, God. The Lord clothed Jesus “with garments of salvation and arrayed” (10) him “in a robe of righteousness, as a bridegroom adorns his head like a priest and as a bride adorns herself with her jewels.” (10) This doesn’t mean that Jesus needed salvation. This means that Jesus comes with salvation clothes. He comes arrayed “in a robe of righteousness, as a bridegroom adorns his head like a priest and as a bride adorns herself with her jewels.” (10)

This is not just Jesus. We who believe in Jesus and are a part of Jesus too can take part in the same blessings as Jesus. “We are heirs-heirs of God and co-heirs with Christ.” (Romans 8:17) When Jesus is blessed, we are blessed too. We share Jesus’ glory.

We are “co-heirs with Christ.” (Romans 8:17) That is because we are “co-heirs with Christ.” (Romans 8:17) so we can receive God’s blessings together with Christ.  Such blessings are promised to us.  In the Millennium we will rule this earth with Jesus. What a wonderful promise! We are really weak, lacking much, but even so just like Jesus who by the Lord delights “greatly in the LORD.” (10) and rejoices, we too can “delight greatly in the Lord” (10) and rejoice in the Lord.

“I consider that our present sufferings are not worth comparing with the glory that will be revealed in us.” (Romans 8:18)

 

We are promised such glory. Our present life has difficulties all the time. Every one has various concerns and struggles. There are deep societal problems too, financial problems, the education of children, taking care of parents, they are all difficult things However, we have been given a certain hope. Good news will be preached to the poor and the brokenhearted will be healed.  The captives will be set free and the prisoners released from darkness. The year of the Lord’s favor will be proclaimed. All who mourn will be saved. Instead of sadness there will be joy and instead of mourning there will be praise. Even in the midst of this present life we can rejoice in Christ. We can be thankful. In the midst of the realities of difficulties, don’t forget the Lord’s grace and let’s praise and thank the Lord.

This is from the book, “A life of Thankfulness, 365 days”. A 15 year old girl made this kind of contribution to an American newspaper.

“I am unfortunate. I don’t have my own room. My parents won’t believe me and they strongly watch my every move.  I don’t have a boyfriend. I don’t have good looking clothes. My future is all black.”

A 13 year old girl who read this contribution wrote this article and sent it to the newspaper. “I can’t walk.  How great a blessing it is to be able to walk! I can’t walk, but I can see, hear and talk so instead of complaining about my misfortunate feet, I am thankful!”

This content makes us think. We quickly look at what is not in the world and wail, and complain, but we aren’t looking at how great the grace is that we have been given. God has given us salvation. He gave use a future hope and blessing too. What we must look at is the Lord who gave us salvation. We can “delight greatly in the LORD” (12) and rejoice in our God and praise him. This week too let’s look at the salvation that we have been given, and give praise and thankfulness to the Lord.

イザヤ61:1-11 レジュメ

「主によって喜ぶ」                  No.95

イザヤ書61:111

 Ⅰ.悲しみを喜びに(1-3) 

 主によって罪赦され、神の民とされた者にもたらされる祝福がどのようなものかが預言されている。「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年とわれわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの代わりに賛美の外套を着けさせるために。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。」(1-3)この「わたし」とは誰のことか?これはイエスのことである。ルカの福音書4章18-19節のところで、イエスは会堂でこの箇所をお読みになられ、「きょう、聖書のみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」(ルカ4:21)と宣言された。イエスこそ主に油そそがれた方であり、貧しい者に福音を伝え、心の傷ついた者をいやし、捕らわれ人には赦免を、囚人には釈放を告げ知らせるために神から遣わされた救い主だったのである。

しかし、ルカの福音書を見ると、イエスの宣言は「主の恵みの年を告げ知らせるために。」で切れていることがわかる。いたいこれはどういうことだろうか。実はイエスはここで最初の来臨と二度目の来臨を分けておられたのだ。最初の来臨はイエスが救い主として来られた時に成就したが、二度目は違う。二度目はさばき主として来られる時に成就する。イザヤはその両方を見て預言したが、イエスはその最初の来臨が成就したと告げたのである。今から二千年前に。確かにイエスが来られたとき貧しい人に福音が伝えられた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目が開かれることを告げられた。しいたげられていた人々は自由にされ、主の恵みの年が告げ知らされた。しかし、それだけではない。やがてイエスはさばき主として再臨され、神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、喜びの油を、賛美の外套を着けてくださる。その時イエスはすべての敵に復讐し、神の民シオンを慰めてくださる。今はいろいろなことで苦しまなければならないが、やがてこのような喜びがもたらされる。これは必ず実現することである。なぜなら、前半に書かれてあった預言もちゃんと実現したことを私たちは知っているからだ。だから、私たちはここに希望を置くことができる。ここに希望を置いて、神からの慰めを受けるものでありたい。

Ⅱ.主の祭司ととなえられる(4-9)

そればかりではない。6節には、「しかし、あなたがたは主の祭司ととなえられ、われわれの神に仕える者と呼ばれる。」とある。これはどういうことか。祭司とは民に代わって神にとりなしをする人のこと。立場の下にある者が上の人を祝福する。それは下の者が上の者に勝る特権が与えられていることを意味している。イスラエルはもともとその祭司として召されていた(出エジプト19:6)。にもかかわらず彼らはその召しに不忠実だった。それで神は彼らからその特権を取り上げ、それを異邦人へともたらされた。そのようにして私たち異邦人がイエス・キリストを通してこの祭司の王国に加えられ、聖なる国民、神の所有とされた。霊的イスラエルとなったのである(Iペテロ2:9)。しかし、それは神がイスラエルを捨てられたということではない。神の賜物と召命とは変わることはない(ローマ11:29)。一時的に救いが異邦人にもたらされたが、それはオリーブの木につぎ木されているだけのことであり、やがてイスラエルはみな救われる。それは彼らが再び神の祭司となるためである。イスラエルがどんなに神にかたくなになり、神に反逆したり、神のみこころにそむいても、神は決して彼らを捨てることはない。それは霊的イスラエルとなった神の民クリスチャンにも同じことがいえる。私たちも何度も神に敵対し、その召しに不忠実になることがあるが、一度神を信じ、イエス・キリストの救いにあずかったのならば、どんなことがあっても捨てられることはない。神はずっと私たちを愛し続け、必ず捕らえてくださる。あなたもやがて神の祭司と呼ばれるようになるのである。

Ⅲ.主によって喜ぶ(10-11)

だから、私たちに求められていることは、主によって喜ぶことである。「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。」(10)「わたし」とはイエスのこと。イエスは主によって楽しみ、イエスのたましいも、神よって喜ぶ。であれば、イエスによって救われ、イエスに連なる者とされた私たちも主によって喜び、楽しむことができる。私たちはキリストとの共同相続人であるからだ。イエスに対する栄光は私たちに対する栄光であり、イエスの祝福は私たちの祝福でもある。だから、私たちもこの主によって喜び、楽しむことができる。現実の日々の生活にはいろいろな困難もあるが、私たちもこの主によって喜び、楽しもう。私たちにもこのようなすばらしい祝福が約束されているのだから。

イザヤ書61章1~11節 「主によって喜ぶ」

前回は60章1節のみことばから、「起きよ。光を放て」というメッセージでした。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからです。罪を悔い改めて、主の贖いをいただいた神の民は、光輝く存在になって、周りの国々を照らすようにというのです。  この61章はその続きですが、続き以上です。そのように主に贖われた者はものずこい祝福を受けるようになることが語られます。それまでの悲しみが喜びに、憂いが賛美に変えられるのです。だから私たちはどんな状況にあっても、この主によって喜ぶことができるのです。

Ⅰ.悲しみが喜びに(1-3)

まず1~3節を見ていきましょう。 「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。」

ここに「神である主の霊が、わたしの上にある」とありまりますが、この「わたし」とは誰のことでしょうか。これはイザヤ書の中でずっと示されてきた「主のしもべ」のことです。この方は主の使命を遂行するために選ばれ、立てられた人物ですが、ここには、主によって油を注がれ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために遣わされる方だと言われています。この方は捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰めてくださいます。ここまで読むと、これが誰のことを指していたかがわかるでしょう。そうです、これはやがて神によって遣わされる救い主イエス・キリストのことです。この「油をそそぎ」という言葉はヘブル語で「メシヤ」と言いますが、「救い主」のことです。すなわち、これは人々を罪から救ってくださる救い主イエスのことを預言していたのです。

ルカの福音書4章18~19節を開いてください。この箇所がイエス様によって引用されています。イエス様はその宣教の初期、自分の育った町ナザレに行き、いつものとおりに会堂に入って、聖書を朗読されました。それはイザヤ書でしたが、当時は巻物になっていましたのでその巻物を開くと、こう書いてある所を見つけました。

「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」(ルカ4:18-19)

これはイザヤ書61章1,2節のみことばです。イエス様はこれを朗読されると巻物を巻き、係りの者に渡してすわられました。そこにいた人たちが固唾を呑んでイエスを見つめていると、イエスは人々に向かってこう言われたのです。

「きょう、聖書のみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」(21)

そこにいた人たちはみんなびっくりしたでしょう。イエス様は、このイザヤ書で預言されていた救い主はご自分のことであったと宣言されたのですから。イエスこそ油注がれた者、メシヤ、キリストだと宣言されたのですから。それで人々はみなイエスをほめ、その口から出てくる恵みのことばに驚きました。

しかしこのところを見ると、イエス様はイザヤ書61章1節と2節の途中までしか引用していないことがわかります。「主の恵みの年を告げ知らせるために。」で終わっています。本来なら「主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ・・」と続くはずなのに、「主の恵みの年を告げ知らせるために」で終わっているのです。なぜでしょうか。それはここまでが救い主イエスが最初に来られた目的であったからです。その後の「われわれの神の復讐を告げ、」という部分は、後で成就します。それはキリストが再臨するときに成就することなのです。そのときキリストはさばき主として再び来られます。しかし、その前にキリストは救い主として来られます。その預言だっのです。その預言のとおりに、キリストは今から約二千年前に救い主としてこの世に来られました。貧しい人には良い知らせ伝え、心の傷ついた者をいやし、捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げるために来られたのです。

皆さん、キリストは私たちを救うためにこの世に来られました。貧しい人に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、来てくださいました。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年を告げるために来てくださったのです。

皆さん、私たちは何と多くのものにとらわれながら生きていることでしょうか。私たちは、往々にして自分の欲望の赴くままに行動しています。それが自由だと錯覚しているからです。しかし、本当の自由とは自分の欲望のまま生きることではなく、自分の意志によって生き方を選択できることです。しかし、罪に捕らわれた者はそうした罪の誘惑を拒否しようとしてもできず、自分の意志によって選択することさえもできなくなってしまいました。

そんな罪に囚われたみじめな人間の姿を嘆いて、使徒パウロはこう告白しています。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(ローマ7:24,25)

それは本当にみじめな人間の姿です。それはまさに死のからだなのです。いったいだれが罪に囚われた死のからだから私たちを救うことができるのでしょうか。だれもいません。ただ神だけが、神が遣わされた救い主だけができます。それゆえに彼は、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」と言ったのです。

イエスはこう言われました。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:31)罪を行っている者はみな罪の奴隷です。しかし、真理はあなたがたを自由にします。「もしキリストがあなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」(ヨハネ8:36)キリストは、あなたを自由にすることができます。罪に囚われた状態から完全に解放することができるのです。

ドイツの哲学者マルティン・ハイデッガー(Martin Heidegger、1889年9月26日 – 1976年5月26日)は、「人間というのはみな死に閉じ込められいる存在だ」と言いました。死の奴隷になっているのが人間だというのです。そういうものの奴隷になつて、結局のところ死に服するのが人間だとあきらめていたわけですが、そういう私たちのために、イエス様は来られました。イエス様は、私たちの罪を全部背負って十字架について身代わりに死んでくださいました。それだけではありません。三日目によみがえられました。その復活の力をもって死を爆破するかのように征服されたのです。イエス様は「捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年」を告げるために来られたのです。

ここには「主の恵みの年」という言葉がありますが、これはレビ記25章にある「ヨベルの年」のことです。この「ヨベルの年」とは、五十年ごとにやってくる解放の年です。その時にはあらゆる借金が棒引きになりました。また、奴隷に売られていた人々は解放されて家に帰ることができました。要するにこれは恵みの大解放であったわけです。そういう時がやって来るとイザヤは預言したのです。それは何を意味していたのかというと、このことです。やがてこの世界に救い主が来られ、罪に囚われている私たち解放してくださるということの預言だったわけです。罪によって苦しんできたこの人類がその罪から解放され、その罪を問わないという救いの時代がやってくるということのひな型だったのです。

イエスは、この恵みの年を告げ知らせるために来られました。それは霊的な問題であれ、精神的な問題であれ、肉体的な問題であれ、経済的な問題であれ、すべての問題における大解放です。ですからイエス様がおいでになられた時、その口から出る恵みの言葉に多くの人々が慰められたのです。盲人には目が開かれることを、足のなえた人はいやされ、死人は生き返りました。悪霊に縛られていた人も解放され、さまざまな問題に捕らわれていた人が解放されました。それだけではありません。罪を犯して、その結果である死に捕らわれていた人が赦される時が来たのです。それが主の恵みの年です。何という恵みでしょう。まさにアメージング グレーズです。それは私たちの人生を一変させます。3節をご覧ください。

「シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。」

シオンの悲しむ者たちは、灰の代わりに頭の飾りを着けてもらえます。灰というのは悲しみや嘆きのシンボルです。イスラエルでは大きな悲しみを被ったときに灰をかぶりました。たとえば、ダビデの娘タマルが異母兄弟アムノンに辱められたとき、タマルは頭に灰をかぶり、着ていたそでつきの長服を裂き、手を頭に置いて、歩きながら声をあげて泣いた(Ⅱサムエル13:19)とあります。それは悲しみの極致、極みの表現だったからです。しかし、キリストによって罪から解放されると、灰の代わりに頭に飾りをつけてもらえるのです。頭の飾りはお祝いのシンボルです。キリストはあなたの悲しみを祝福に代えてくださるのです。

また、悲しみの代わりに喜びの油を、とあります。これは祝福のシンボルです。油は王としての任職される時に注がれました。それは元気な者としての身だしなみでもありました。ぱさぱさしていません。しっとりとして、つやつやしています。悲しみの油がそのような祝福の油に変えられるのです。救い主イエスは、あなたの悲しみを喜びに変えてくださるのです。

また、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである、とあります。 憂いの心も讃美に代わるのです。

その結果どうなるか?「彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。」とあります。皆さん、樫の木というのは堅くて立派な木です。一年中、常に緑の葉をつけ、生命力に溢れています。そんな樫の木のようになるというのです。樫の木は樫の木でも、1章30節には「葉のしぼんだ樫の木」もあります。神から離れ、自分勝手に生きる人は、葉のしぼんだ樫の木のようです。しかし、救い主キリストによって罪贖われ、罪から解放された人は、義の樫の木のようになるのです。

Ⅱ.主の祭司ととなえられる(4-9)

次に4節から9節までをご覧ください。まず4~6節までをお読みします。 「彼らは昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。他国人は、あなたがたの羊の群れを飼うようになり、外国人が、あなたがたの農夫となり、ぶどう作りとなる。しかし、あなたがたは主の祭司ととなえられ、われわれの神に仕える者と呼ばれる。あなたがたは国々の力を食い尽くし、その富を誇る。」

「彼ら」とは神のキリストによって罪贖われた人たちのことです。彼らは廃墟となったエルサレムと神殿を建て直し、荒廃した他の町々を新しくします。そして他国人は、彼らの羊の群れを飼い、ぶどう作りに励むようになります。これまではそうではありませんでした。これまでは他国人はイスラエルを苦しめていました。そうした他国人がエルサレムの人たちのために羊を飼い、畑を耕し、ぶどう畑の手入れをするようになるのです。

しかし、あなたがたは違います。あなたがたというのは神に贖われた者、シオンのことです。シオンは主の祭司となって、神に仕える者と呼ばれるようになり、世界の富と栄光をその身に受けるようになるのです。    これはものすごい祝福です。皆さん、祭司というのをご存じでしょうか。祭司とは民に代わって神にとりなしをする人のことです。また、神の恵みと祝福を民にとりつぐ人でもありました。この祭司ととなえられるのです。

たとえば、アブラハムはゲラルの王アビメレクのために祈りました(創世記20:17)。また、ヤコブがエジプトの王パロを祝福しました(創世記47:10)。これはどういうことかというと、立場が逆転しているということです。普通、身分の高い人が低い人を祝福するのに、下の人が高い人を祝福したのです。それは神がアブラハムやヤコブに、その地の王に勝る権威や立場を与えてくださったということです。ですから、神の祭司であるということはとても栄誉なことなのです。その神の祭司ととなえられるようになるのです。そして、私たちクリスチャンにはこの立場が与えられていると約束されています。

「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」(Iペテロ2:9)

「あなたがた」とはクリスチャンのことです。私たちは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、私たちを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、私たちが宣べ伝えるためなのです。

そればかりではありません。7節をご覧ください。 「あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受ける。人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、その国で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが彼らのものとなる。」

二倍の祝福です。あなたの恥に代えて、あなたは二倍のものを受けます。この二倍というのは文字通りの二倍というよりも象徴的な数字と考えた方がいいかと思います。豊かな祝福を受けるということです。旧約聖書の律法でも、「盗んだものは必ず二倍にして返さなければならない」(出エジプト22:4)とあります。倍返しです。イスラエルはずっと略奪されてきましたが、ちゃんと報われる時がやってくるのです。このように失われたものが倍にして返されるなら、私たちも期待したいと思います。あなたから奪い去られるものがあるでしょうか。あなたの時間も、労力も、お金も、持ち物も、いろいろな物が盗まれたとか、いろいろなひどい目に遭ってきたということがあるかもしれません。でも神様は二倍にして報いてくださいます。

そして8節には、「まことに、わたしは公義を愛する主だ。わたしは不法な略奪を憎む。わたしは誠実を尽くして彼らに報い、とこしえの契約を彼らと結ぶ。」 とあります。

「わたし」とは主なる神のことです。主はどのような方なのでしょうか。主は公義を愛する方です。公義とは律法にかなった正しい行いのことです。聖書にしたがって正しい行いをすること、それは神様が愛されることです。だから私たちもそれに従うのです。神が愛されることを行うわけです。もしかしたら、それは少数派の、ほんの一握りの人たちかもしれません。マイナーかもしれません。大多数の人は聖書なんてどうでもいいと、自分たちの考えに従って行動するかもしれませんが、我が家と我は主に仕えん、です。私たちはただ主が示される道を歩むのです。それは主は公義を愛する方だからです。人はあなたを非難するかもしれません。人はあなたを煙たがるかもしれません。しかし、それでも私たちは主が示される道を歩みます。なぜなら、主は公義を愛する方であって、そのような者を祝福してくださるからです。  そのような人は9節にあるように、決して揺らぐことのない永遠の祝福を受けるようになるのです。

Ⅲ.主によって喜ぶ(10-11)

ですから結論は何かというと、主によって喜ぶということです。10、11節をご覧ください。 「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。地が芽を出し、園が蒔かれた種を芽ばえさせるように、神である主が義と賛美とを、すべての国の前に芽ばえさせるからだ。」    10節の「わたし」というのは、文脈上、1節から見ていただくとわかりますが、メシヤのことです。救い主イエス・キリストのことを指して言われています。

ですから、これはイエスが主によって大いに楽しみ、イエスのたましいも、父なる神によって喜ぶということです。主がイエスに、救いの衣を着せ、正義の外套をかぶらせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからです。ということは、イエス様も救いが必要だったという意味ではありません。これはイエス様が救いを帯びて来られたという意味です。イエス様は救いを帯びて来られました。正義の外套をまとい、花婿のような栄冠と、花嫁のような宝石で飾られてやって来られました。

それはイエス様だけのことではありません。このイエスを信じ、イエスに連なる者とされた私たちも、イエス様と同じ祝福にあずかることができるのです。なぜなら、私たちはキリストとともに、キリストとの共同相続人であるからです(ローマ8:17)。イエス様が祝福されるとき、私たちも祝福されます。イエスの栄光は私たちの栄光でもあるのです。イエスのものはすべて私たちのものなのです。なぜなら、私たちはイエス様とともに神の祝福にあずかる共同相続人だからです。私たちはそのような祝福が約束されています。来るべき千年王国では、イエス様とともに王としてこの地上を治めるようになるのです。何とすばらしい約束でしょうか。本当に私たちは弱く、足りない者ですが、それでもイエス様が主によって大いに楽しみ、喜ばれるように、私たちもこの神によって楽しみ、喜ぶことができるのです。

「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」(ローマ8:18)

私たちにはこのような栄光が約束されているのです。現実の生活は厳しいことばかりです。誰もがさまざまな悩みや苦しみを抱えています。社会の問題も深刻です。経済の事も、こどもの教育のことも、親の介護のことも、家族の病気のことも、どれも厳しいことばかりです。けれども、私たちには確かな希望が与えられているのです。貧しい者に福音が伝えられ、心傷ついた人もいやされます。捕らわれ人には解放を、主の恵みの年が告げられました。すべての者が慰められ、悲しみの代わりに喜びが、憂いの代わりに賛美がもたらされました。こうした現実の生活の中にあっても、私たちはキリストにあって喜ぶことができるのです。感謝することができるのです。厳しい現実の中に、こうした主の恵みを忘れないで、主に賛美と感謝をささげようではありませんか。

これは「一生感謝365日」にあった言葉です。アメリカの新聞に15歳の少女がこのような投稿をした。 「私は不幸です。自分の部屋をもってないし、両親の干渉が強くて私を信じてくれません。私のことを好きな男の子もいないし、素敵な服ももっていません。私の将来は真っ暗です。」  この投稿を読んだ13歳の少女が、新聞社にこのような文を送った。 「私は歩くことができません。人が歩いたりすることがどれほど大きな幸せでしょうか。私は歩くことができませんが、見たり聞いたり、話したりすることができるので、足の不幸に不平を言う代わりに、感謝をしています。」

考えさせられる内容です。私たちはこの世で無いものを見てはすぐに嘆き、不平を言う者ですが、自分たちに与えられているものがどれほど大きな恵みなのを見ていません。神は私たちに救いを与えてくださいました。将来の希望も祝福も与えてくださいました。私たちが見なければならないのは、私たちに救いを与えてくださった主です。私たちはこの方にあって大いに楽しみ、喜び、賛美することができます。今週も、私たちに与えられた救いを見て、主に賛美と感謝をささげましょう。