イザヤ65:13-25 レジュメ

「新しい天と新しい地」

イザヤ65:13-25

 Ⅰ.新しい神の民の創造(13-16)

 「主よ。これでも、あなたはじっとこらえ、黙って、私たちをこんなにも悩まされるのですか。」(64:12)というイザヤの祈りに対して、神は驚くべき救いの計画を語られた。それは「わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。」(1)ということである。神の民であるイスラエルが神に反逆したので、神の救いは異邦人に向けられた。そればかりではない。そのことによってイスラエルにねたみを起こされ、彼らが救われるようにされた。これが神の計画である。だれがそのようなことを考えることができただろう。本当に驚くべき神の計画である。しかし、そればかりではない。神はこの救いを新しい天と新しい地の創造をもって完成させてくださるように計画された。「ご自分のしもべたちを、ほかの名で呼ばれるようにされる。」(15)その名は「クリスチャン」である。クリスチャンはまことの神であるイエス・キリストによって祝福される。イエス・キリストによって先の苦難が忘れ去られる。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)私たちはイエス・キリストにあって新しく造られた者なのである。

 Ⅱ.新しい天と新しい地の創造(17)

 「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。」(17)この「創造する」という言葉は全く何もないところから何かを造り出す時に使われる言葉で、無からの創造のことである。神は今の天と地とは違う全く新しい天と地を創造される。そこでは、先の事は思い出されず、心に上ることもない。以前のものが過ぎ去るからである。そこには神がともにおられ、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。これこそクリスチャンにとっての真の慰めではないだろうか。クリスチャンにとってイエス・キリストを信じて救われても、この世はある意味で住みにくい所である。信じれば信じるほど辛いことや、苦しいことが起こる。様々な迫害があったり、人々から認められないこともある。けれども神はクリスチャンにこの世とは違う全く新しい天と新しい地を備えてくださり、そこで暮らすことができるように計画してくださった。私たちはそのことを知り、そこに希望を置かなければならない。この地上のことで、「滑った、転んだ、思うようにいった、いかなかった」ということで生涯を終えてしまうとしたらとても残念である。周囲がどのような態度を取るにせよ、「私たちはやがて、最後にはこういう希望があるんだ!」と告白して歩む者でありたい。

 Ⅲ.新しい祝福の創造(18-25)

 そのように歩む者を神は豊かに祝福してくださる。「だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。」(18)「そこにはもう、鳴き声も叫び声も聞かれない。」(19)そればかりか、「彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。」(24)と言われる。これまではどんなに祈っても答えられなかった。それは主の御手が短いからでも、主も耳が遠いからでもない。彼らの咎が彼らと神との仕切りとなり、彼らの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたからである。しかし、今は違う。今は罪が赦され神との親しい交わりの中に入れられたので「神様!」と呼ぶと、すぐに答えられる。

 神の恵みによって神の民とされた私たちは、この新しい天と新しい地を待ち望むことができるようになった。私たちはやがて神が創造された新しい天と地に入ることができるがゆえに、今の時を忍耐をもって歩まなければならない。現在の困難を見て落胆したりせず、やがてもたらされる美しい将来を見て、そこに希望を置かなければならない。そういう人はこの地上の生活においても主から新しい力をいただいて、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

イザヤ書65章13~25節 「新しい天と新しい地」

きょうは、イザヤ書65章後半のみことばからお話します。65章前半のところには、「主よ。これでも、あなたはじっとこらえ、黙って、私たちをこんなにも悩まされるのですか。」(64:12)というイザヤの祈りに対する、主の驚くべき答えが示されました。それは、「わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。わたしは、わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、『わたしはここだ、わたしはここだ』と言った。」(65:1)ということです。つまり、イスラエルが神に逆らってバビロンに滅ぼされることになったのは、それによって救いが異邦人にもたらされるようになるためであったということです。しかも、それはユダヤ人がつまずき倒れるためではありません。かえってそのことによって、イスラエルが救われるためです。異邦人が救われることを見たイスラエルにねたみが引き起こされ、今度は彼らが主を呼び求めるようになるためです。そのようにしてイスラエルの中の幾人かが救われるためだったのです。何という神の知恵でしょう。神の知恵は底知れず深く、私たちはそんな神の計画をはかり知ることはできません。

そして、この箇所には、エルサレムが荒れ果ててしまったもう一つの理由が記されてあります。それは神の新しい創造です。新しい天と新しい地の創造です。先のことは思い出されず、心に上ることもありません。神は新しい天と新しい地を創造してくださるのです。この古い天と地は滅びます。地上のエルサレムは消えて無くなります。しかし、新しいエルサレムは決して滅びることはありません。私たちはそこに希望を置かなければならないのです。  きょうは、この新しい天と新しい地について三つのポイントでお話したいと思います。

Ⅰ.新しい民の創造(13-16)

まず13節から16節までをご覧ください。13節と14節です。 「それゆえ、神である主はこう仰せられる。「見よ。わたしのしもべたちは食べる。しかし、あなたがたは飢える。見よ。わたしのしもべたちは飲む。しかし、あなたがたは渇く。見よ。わたしのしもべたちは喜ぶ。しかし、あなたがたは恥を見る。見よ。わたしのしもべたちは心の楽しみによって喜び歌う。しかし、あなたがたは心の痛みによって叫び、たましいの傷によって泣きわめく。」

「わたしのしもべたち」とは神の救いを受け入れ、神の民とされた人たちのことです。また、「あなたがた」とは、逆に、差し出された神の御手を拒み、神に反逆し続けていた人たちのことです。彼らは神の呼びかけに応じず、神の目の前に悪を行い続けます。そのような人たちには神のさばきが下ります。神のしもべたちが食べても、彼らは飢え、神のしもべたちが飲んでも、渇き、神のしもべたちが喜んでも、恥を見、神のしもべたちが心の楽しみによって喜び歌っても、心の痛みによって叫び、たましいの傷によって泣きわめくようになるのです。

15節後半を見ると、神はご自分のしもべたちを「ほかの名」で呼ばれるようにされるとあります。それはどのような名でしょうか。「クリスチャン」です。神の民はクリスチャンという名で呼ばれるようになります。使徒の働き11章25節から26節までを開いてみましょう。

「バルナバはサウロを捜しにタルソへ行き、彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」

イエスを信じる人たちが「クリスチャン」と呼ばれるようになったのは、彼らがアンテオケに来てからのことです。それまでは「この道の者」(使徒9:2)と呼ばれていました。それはイエス様がご自身のことを「わたしは道であり、真理であり、いのちです」と教えておられたからです。ですから、信者同士では兄弟姉妹と呼び合っていましたが、一般では「この道の者」と呼ばれていたのです。それがアンテオケに来てからは「クリスティアノス」「クリスチャン」と呼ばれるようになりました。なぜでしょう?彼らがいつもイエス・キリストのことを口にしていたからです。何でもかんでもイエス・キリストです。「クリスティアノス」とはキリストきちがい、キリストバカという意味です。これはキリストを信じる者たちにつけられたあだ名なのです。いつでも、どこでも、イエス・キリスト、イエス・キリストと言っていたので、こいつらはキリストきちがいだと、「クリスチィアノス」、「キリスト者」と呼ばれるようになったのです。つまり、彼らはイエス様を信じてからは、だれの目にも明らかなライフスタイルを送っていたということです。それがクリスチャンです。

皆さんはどうでしょうか。クリスティアノスになっているでしょうか。イエス様でいつもいっぱいです、いつもイエス様のことを考えています。口を開いたらイエス様、寝ても覚めてもイエス様、そのようになっているでしょうか。いつもイエス様を愛し、イエス様に喜ばれる道を歩んでおられるでしょうか。いや、私は自分がクリスチャンだということはあまり言いませんが、自分の生活を通して証していますという方がおられます。それも立派です。しかし、私たちは立派だからクリスチャンになれたのではありません。本当に愚かで罪深い者であるにもかかわらず、神の恵みによって選ばれ、救いの中に入れていただきました。神様って何とすばらしいのでしょう。ハレルヤ!と証できたら、どんなにすばらしいかと思います。立派な人はこの世にはたくさんいます。しかし、立派じゃなくても救っていただける。そして、神に喜ばれるような生き方に変えられると証できれば、本当にすばらしいと思うのです。

大河ドラマの軍師官兵衛もイエス・キリストを信じて洗礼を受けましたが、洗礼を受けてからは、その胸にいつも十字架の首飾りをつけるようになりました。もちろん、クリスチャン大名の高山右近もそうです。官兵衛はこの高山右近に影響されてクリスチャンになりました。「キリシタンは人が苦しい時こそ助けてあげるのですよ。あなたの前にも門が開かれています」という右近の勧めで、彼は「私にも門が開かれているでしょうか」と言ってキリシタンになるのです。あの時代キリシタンとして生きていくことは並大抵のことではなかったと思いますが、そうした右近の証によって彼はキリシタンの道を歩むようになったのです。そして、それからは以前のそれとは全く違う生き方となりました。誰の目にも、この人はクリスチャンだとわかるようなライフスタイルになったのです。皆さんはどうでしょうか。

16節をご覧ください。「この世にあって祝福される者は、まことの神によって祝福され、この世にあって誓う者は、まことの神によって誓う。先の苦難は忘れられ、わたしの目から隠されるからだ。」

皆さん、クリスチャンはまことの神によって祝福されます。この「まことの神」とは誰でしょうか。まことの神とはヘブル語で「アーメンの神」です。それはイエス・キリストのことであります。黙示録3章14節にはこうあります。

「また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。」

1章17節と18節を見れると、これはイエス・キリストが書き送っている手紙であることがわかります。この方が「アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方」と言っているのです。イエス・キリストこそまことの神であり、アーメンの神なのです。クリスチャンはこの神によって祝福されるのです。

Ⅰヨハネ5章20節にも、「しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。」 とあります。この方こそまことの神、永遠のいのちです。イエス・キリストこそまことの神であり、クリスチャンはこのまことの神によって祝福されるのです。

そして、この方によって先の苦難が忘れ去られます。キリストを知る前は様々な罪、悩み、苦しみ、傷、痛み、悲しみ、重荷でいっぱいでしたが、キリストを信じたことによって、先の苦難が忘れ去られました。キリストの血潮によって洗い聖めていただいたのです。過去の罪悪感、罪責感にさいなまれなくてもいいのです。敗北感にいつまでもしたっていなくてもいいのです。キリストがあなたの罪を贖ってくださいました。あなたはキリストによって神のしもべ、クリスチャンとして新しく造られたのです。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなります。それは新しい創造です。キリストにある新しい創造です。先の苦難は忘れ去られ、すべてが新しくされるのです。私たちはよく人生をやり直せるリセットボタンがあったらいいなあ、と思うことがあります。過去の失敗、罪や汚れ、苦しみ、傷のすべてを消し去り新しくやり直すことができたら、どんなにいいだろうと思うのです。そして、神はイエス・キリストにあってあなたの人生も新しくやり直せる道を開いてくださいました。あなたがキリストを信じるなら新しく造られます。あなたがキリストのうちにあるなら、新しく造り変えられ、古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなるのです。

Ⅱ.新しい天と新しい地の創造(17)

第二に、神の新しい創造のみわざは新しい天と新しい地の創造です。17節をご覧ください。 「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。」

ここで神はイザヤを通して、「新しい天と新しい地を創造する」と約束されました。今、私たちが住んでいるこの地球を中心とする世界は、「新しい創造」に対して「古い創造」に属しているものです。それが何年前であったかははっきりわかりませんが、創世記1章1節に「初めに、神が天と地を創造した」とあるように、神によって創造されたものです。しかし、この古い天と地は過ぎ去ります。そして、神は新しい天と地を創造してくださるのです。    この「創造する」という言葉は、全く何もないところから何かを造り出す時に使われる「バーラー」ということばです。これは無からの創造を表わしています。それに対して、すでに在るものを使って何かを作るときは「アーサー」という言葉を使います。これはすでにある素材を使ってそこから何か別の新しいものを作ることで、人間にもできることです。ここでは「パーラー」です。神は今の転と地とは全く違う違う新しい天と地を創造するのです。

皆さん、私たちは今住んでいる世界がまるで永遠に続いていくように思いがちですが、そうではないのです。この罪によって汚れた天地は滅ぼされ、全く新しい天と地に造り変えられる時がやって来るのです。少し長いですがⅡペテロ3章7節から13節までをご覧いただきたいと思います。

「しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。 このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」(Ⅱペテロ3:7-13)

ここには、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまう、とあります。すべての物質、原子に至るまですべて溶け去ってしまうのです。天の万象が完全に崩壊して、見る影もなくなってしまいます。しかしながら、神を信じて救い出された神の子どもたちのためには、義の住む新しい天と新しい地とが備えられています。それは何でしょうか。そうです、天国です。

そこでは、先の事は思い出されず、心に上ることもありません。以前のものが過ぎ去ったからです。そこには神がともにおられ、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくざいます。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもありません(黙示録21:4)。この地上で経験した様々な悲しみや嘆き、痛みや苦しみのすべてが思い出されることがなく、心に上ることもないのです。なぜなら、以前のものは過ぎ去るからです。これまでのものとは全く違う、別の次元の世界がもたらされるのです。それはクリスチャンにとって本当に大きな慰めではないでしょうか。

罪を悔い改めてイエス・キリストを信じた者にとって、この世はある意味で住みにくい所かもしれません。神が共におられるということを感じながら歩めるということは感謝なことですが、一方で、信じれば信じるほど辛いことや、苦しいこと、受け入れられないようなことにぶつかるのも事実です。迫害があったり、人々から認められなかったり、多くの軋轢(プレッシャー)なども起こります。しかし神はいつまでもクリスチャンをそのままにしておくことはなさいません。やがて新しい天と新しい地で暮らすことができるようにしてくださいます。ですから私たちはここに希望を置き、この希望に結びつくような生涯を送らなければなりません。この地上の目の前のことで「スッテン、バッテン、滑った、転んだ、思うようにいった、いかなかった」といったことだけで生涯を終えてしまうとしたら、何と残念なことでしょう。周囲がどうであれ、どんなことが起ころうとも、「私たちはやがて、最後にはこういう希望があるんだ」と告白して歩むものでありたいと思います。これが、神がイザヤを通してイスラエルに、いや私たち人類に伝えたかったことなのではないでしょうか。

最近、福田姉を天に送らせていただきましたが、他にもたくさんの方が病気で苦しんでおられます。そうした方々のところに行って賛美したり、祈ったりして思うことは、私たちにとって最後はこれしかないんだなぁ、ということです。死んでも生きるいのち、永遠のいのちこそ、私たちにとっての究極の望みなのです。

Ⅲ.新しい祝福の創造(18-25)

最後に18節から終わりまでを見て終わりたいと思います。18節をご覧ください。 「だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。」

ここで神は「エルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする」と言っておられます。このエルサレムとは何のことでしょうか。これは先ほど申し上げた新しい天と新しい地の聖なる都のことです。天のエルサレムのことです。黙示録21章2節には、「わたしはまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るの見た。」とあります。この「聖なる都、新しいエルサレム」のことです。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれません(19)。数日しか生きられない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もなく、百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされます(20)。彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べるようになります(21)。彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはありません(22)。この世では自分がどんなに汗水流して働いても搾取されるということがありますが、新しいエルサレムではそういうことはありません。働いたら働いた分だけ報いを受けることができます。彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが飢えて他人が食べることはないのです。

24節には、「彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。」とあります。すばらしいですね。「イエス様」を呼ばないうちに「何だい」という答えがかえってきます。私たちのことをすべてご存じであられる主がいつもそばにいて、すぐに答えてくださるからです。今まではそうではありませんでした。「主よ、聞いてください。」と祈ってもウンともツンともでした。罪があったからです。主の御手が短くて救えないのではありません。その耳が遠いので聞こえないのでもないのです。あなたがたの咎が、あなたがたと神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしていました。その罪が全部取り除かれて、神と非常に親しい交わりの中に入れられたので、「神様」と呼ぶとすぐに答えてくださるのです。

そして25節には、狼と子羊が共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食い、蛇は、ちりをその食べ物とし、神の聖なる山のどこにおいても、これらが害を加えることはなく、そこなわれることはありません。そこには弱肉強食はありません。一緒になって草やわらを食べるようになります。そういう平和な世界がやってくるのです。

ところで、新しいエルサレムにはもはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない(黙示録21:4)はずなのに、20節を見ると、「百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳でならないで死ぬ者は、のろわれたものとされる」とあるのはどういうことでしょうか。寿命が伸びて長生きすることと、死がないというのは全く違います。

実はこの19節までと20節以降の内容は、同じ終末の預言でもちょっと違う時代のことを描いています。19節までの内容はこの天地が滅び失せた後にもたらされる新しい天と新しい地の光景ですが、20節からのところは、その前にもたらされるこの地上の千年王国の預言です。イザヤはこの千年王国とその後にもたらされる新しい天と地という二つの光景を区別せずに見ていたのです。それはちょうど私たちが遠くを見るときと同じです。たとえば、こちらから大阪と広島の方を見ると実際にはそこにはかなりの距離がありますが、だいたい同じ位置関係に見えるのと同じです。イザヤも世の終わりの幻を見たとき、実際には千年王国と新しいエルサレムの間にはかなりの時間的な差がありますが同じ終わりの時代に起こることとして見えていたのです。

新約聖書のヨハネの黙示録では、それがもう少しはっきり描かれています。キリスト再臨されるとき、キリストにある者は一挙に雲の中に引き上げられ、空中で主と会います。その後、キリストとともにこの地上の平和な千年間を治めた後、新しい天と新しい地、聖なる神のエルサレムに入ります。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになるのです。これは希望ではないでしょうか。

これは決してたわごとではありません。主イエス・キリストの十字架と復活という事実に基づいたものだからです。キリストは、弟子たちにこう言われました。 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたのために場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもおらせるためです。」(ヨハネ14:1-3)  その場所こそ天国です。イエス様はその場所を備えるために天に昇られました。その場所を備えたら、私たちを迎えに来てくださいます。そして、その日は近いのです。

ですから、私たちはこのような希望が約束されていることを知り、たとえ現実の生活において辛いことや苦しいこと、耐えられないと思うようなことがあってもここに希望を置き、神にすがりながら、讃美と感謝をもって歩んでいきたいと思うのです。あなたはやがて新しい天と新しい地に入るのです。先の苦難は忘れられ、あなたの目の涙はすっかりぬぐい取られます。あなたは神の慰めを受けるようになるのです。神の約束に信頼しましょう。

イザヤ65:1-12 レジュメ

「すべての主、すべての神」

イザヤ65:1-12

 Ⅰ.不思議な神の救いの計画(65:1-2)

 「主よ。これでも、あなたはじっとこらえ、黙って、私たちをこんなにも悩まされるのですか。」(64:12)というイザヤの祈りに対する答えが65-66章に示される。「わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。」(1)「わたしに問わなかった者たち」とか「わたしを捜さなかった者たち」とは異邦人のことである。神の御手は神の民であるイスラエルに差し出されたのに彼らはそれを拒んだので、その救いの御手は異邦人に向けられた。いったいそれはなぜか?それはイスラエルが倒れるためではない。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及ぶためであり、そのことによってイスラエルにねたみが起こされ、彼らが救われるためである。こうしてイスラエルはみな救われる(ローマ11:11-14)。これがイスラエルを救う神の計画だったのである。いったいだれがこんなことを考えることができるだろう。だれもできない。ただ神だけが考えることができることできる。すべてのことが、この神から発し、神によって成り、神に至る。神はすべてのすべてなのである。この神が私たちの人生にも深く関わっておられると信じ、神にすべてをゆだねなければならない。

Ⅱ.反逆の民(3-7)

 なのに、イスラエルは神に逆らい、神の怒りを引き起こした。「園の中でいけにえをささげ、れんがの上で香をたき、墓地にすわり、見張り小屋に宿り、豚の肉を食べ、汚れた肉の吸い物を器に入れ」(3,4)た。神は彼らに何度も何度も救いの御手を差し伸べたのに、彼らはその御手をはねのけて、自分たちの思いに従って歩んだのである。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。彼らの咎が、彼らと神との仕切りとなり、彼らの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。そのような罪に対して、神は黙っていない。必ず復讐する。神の怒りの煙、一日中燃え続ける火が彼らを襲う。そのような神のさばきに会うことがないように、差し出された神の救いの御手を受け入れなければならない。

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者はひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」(ヨハネ3:16-18)

 Ⅲ.わたしが選んだ者(8-12)

 ところで、イスラエルが神に反逆したからといって、神は彼らを全く退けられたかというとそうではない。神は全く新しい計画をもって彼らを救われる。それが「残りの民」である。「主はこう仰せられる。「ぶどうのふさの中に甘い汁があるのを見れば、それをそこなうな。その中に祝福があるから」と言うように、わたしも、わたしのしもべたちのために、その全部は滅ぼさない。」(8)イスラエルのぶどう全体が腐っても、その中に甘い汁が残るようにする。それが残りの民である。神はイスラエルのためにその全部を滅ぼすようなことはしない。そこに残りの民を残してくださるのだ。それは神にとって祝福となるような存在である。彼らはやがて神の山々を所有するようになる。イスラエルだからといってすべてが神の民なのではない。またイスラエルだからといって、すべてが神に反逆したのでもない。主はこのイスラエルの中に本当のイスラエルを残しておられたのだ。パウロはこの奥義をローマ人への手紙11章1~5節でこう述べている。「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。それと同じように、今も恵みの選びによって残された民がいます。」

 時として私たちはエリヤのように嘆いてしまうことがある。「残されたのは私だけ、だれもあなたを信じない。私だけが残されている。私はひとりぼっちでさびしい。孤独です・・・。」しかし、そうではない。あなただけではない。あなたの他にも、神は七千人を、神のために残しておられる。それは励ましではないか。あなたは決して一人ぼっちではない。神のために共に手を取り合い、共に祈り、共に励まし合う仲間がいる。神はちゃんと残りの民を残しておられるのである。

 だから私たちは信じない者にならないで、信じる者になろう。神から差し出された愛の御手を拒絶するのではなく、感謝して受け入れ、その御手に信頼しよう。神はすべてのすべてであって、あなたのために最善の道を備えておられるのだから。

イザヤ書65章1~12節 「すべての主、すべての神」

いよいよイザヤ書のクライマックスに入ります。前回はイザヤの祈りから学びました。主がイスラエルの救い主となられたことはわかった、いつも共にいて、彼らが苦しむ時には苦しみ、その愛とあわれみによって彼らを贖い、昔からずっと背負い続けて来られたこともわかりました。だったらなぜこのような状況を許されるのですか?それがイザヤの祈りでした。それは具体的には、なぜバビロンによってエルサレムが荒廃しているということをお許しになられるのですかということです。そして、きょうのところでその理由が明らかにされます。

Ⅰ.不思議な神の救いの計画(1)

まず1節をご覧ください。 「わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。わたしは、わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、「わたしはここだ、わたしはここだ」と言った。」    「わたしに問わなかった者たち」とか、「わたしを捜さなかった者たち」とは、異邦人のことを指しています。神の民であるイスラエルは神の民であったのに、その神への反逆のゆえに、エルサレムは完全に荒れ果ててしまいました。でも、なぜ主はそのようなことを許されるのでしょうか。それは、神の救いの御手が、神を呼び求めなかった者たちに向けられるようになるためだったのです。

考えてみると、イザヤが預言者として召命を受けたとき、主は彼にこう仰せられました。「行って、この民に言え。聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないように。」(6:9-10)本当に不思議な言葉です。これから預言者として神の言葉を語ろうとしているというのに、聞いても悟るなとか、見ても、知るな、その目を堅く閉ざせ、自分の耳で聞くなとか、立ち返っていやされることのないために、というのですから・・。それはいったいどういうことだったのでしょうか。このことのためだったのです。すなわち、そのように彼らが悟らないことによって、救いの御手が異邦人に向けられるためです。

ローマ人への手紙11章11~14節を見ると、ここには、ユダヤ人の救いに関する神の計画が書かれてあります。 「では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。そして、それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。」

「彼ら」とはユダヤ人のことです。彼らがつまずいたのはいったい何のためだったのでしょうか。それは彼らが倒れるためではありません。むしろ彼らが救われるためです。彼らが神に反逆することによって、救いが異邦人に及ぶためだったのです。しかし、それだけではありません。そのように救いが異邦人に及ぶことによってイスラエルにねたみが起こされ、そのようにしてイスラエルが救われるためなのです。こうしてイスラエルはみな救われるという神の救いのご計画が完成するためだったのです。

「神の賜物と召命とは変わることがありません。」(ローマ11:29)

これがイスラエルを救う神の計画だったんですね。いったいだれがこのようなことを考えることができるでしょう。だれもできません。ただ神だけがおできになることです。神は全知全能であり、その計画は測り知れず、私たちが考えることもできないような知恵を持っておられます。それゆえに、私たちはこう祈りながら、そのこの神の測り知れない計画にすべてをおゆだねするしかありません。ローマ人への手紙11章33~36節です。

「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ローマ11:33-36)

すべてのことが神から発し、神によって成り、神に至るからです。私たちは、到底、神様の思いを知ることはできません。神様のご計画のすべてを、初めから終わりまで見極めることはできません。しかし、神様はその大きな知恵と豊かな知識をもって、私たちのために備えておられるのです。

先週、大田原に中国の家の教会出身の王淵さんのお母さんとお婆ちゃんが来会され、証をしてくださいました。王さんの通っておられる教会の牧師は、毛沢東によるあの文化大革命の時に何度も投獄されました。それは毛沢東の徹底した弾圧が加えられたからです。教会という教会は根こそぎにされたかと思われましたが、キリストの命は地下で脈々と生き続けていました。そして文化大革命が終わり1980年代に入ると家の教会はものすごい勢いで成長し、今では中国全土で1億3千万人以上のクリスチャンがいると言われています。いったいなぜ神様は中国にそんなにひどい迫害をもたらしたのでしょうか。  それは中国を救うためでした。文化大革命によって宗教が徹底的に否定され、教会や寺院、宗教的な文化財が破壊されてしまったことで、彼らから因習が取り除かれ、純粋に神を求める心が与えられました。また、そのようにして指導者が捕えられたことで、一般の信徒が家々で群れを導いていくことになったのです。 文化大革命は中国に激しい苦難を与えましたが、それによってリバイバルの備えができ、多くの人たちが救われる結果をもたらしたのです。

先日、ペルーに遣わされている下田宣教師からメールがありました。10月に滝元順先生がペルーに来て聖会を行うということで、その準備のために4時間くらい離れたところに車で向かっていたとき、運転手が居眠りをして大事故を起こしてしましいました。車は横転して何度も回転しぺしゃんこになってひっくりかえって止まりました。下田宣教師は額を何針か縫う怪我をして、顔面血まみれになりました。本当に生きているのが不思議なくらいの大事故でしたが、運転手はほぼ無傷でした。  運転手が警察の事情聴取を受けているとき、下田宣教師は運転手の後ろから、「こうして命があるのは奇跡だ。神様に感謝しなさい!!」とずっと言い続けたそうです。すると、この運転手クリスチャンではなかったのですが、下田宣教師の言葉を通してイエス様を受け入れたそうです。下田宣教師曰く、「人を一人導くために大変な怪我をした」

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のために、神はすべてのことを働かせて益としてくださいます。

「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:9)

神の道は、私たちの道よりも高く、神の思いは、私たちの思いよりも高いのです。神は完全な計画を持っておられます。その神は今に至るまで、私たちのために働いておられるのです。問題はあなたがそのことを信じ、その神の御手にすべてをゆだねるかどうかです。もしあなたが、あなたの道を主にゆだね、主に信頼するなら、主が成し遂げてくださいます。

Ⅱ.反逆の民(2-7)

次に2節から7節までをご覧ください。それとは対照的に、自分は神の民だと自称しながらも、あくまでも神に反逆し、自分の思いに従って歩む者には、神のさばきが下ります。5節前半までをお読みします。

「わたしは、反逆の民、自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、一日中、わたしの手を差し伸べた。この民は、いつもわたしに逆らってわたしの怒りを引き起こし、園の中でいけにえをささげ、れんがの上で香をたき、墓地にすわり、見張り小屋に宿り、豚の肉を食べ、汚れた肉の吸い物を器に入れ、「そこに立っておれ。私に近寄るな。私はあなたより聖なるものになっている」と言う。

3節の「園の中でいけにえをささげ」とか、「れんがの上で香をたき」というのは、どれも異教的な礼拝のことを指しています。彼らは何度も何度も差し伸べられた主の御手をはねのけ、そうした異教の神々にいけにえをさささげたり、不道徳な祭りごとに夢中になり、神のみ思いを痛めるようなことをしていていました。

そればかりではありません。「墓地にすわり」とは、イスラエルでは厳格に禁じられていた霊媒のことを表しています。彼らは占いをするために墓を訪れ、死んだ者の霊との接触を試みていたのです。「見張り小屋に宿り」というのも超自然的な存在と接触しようとする試みのことです。彼らはそうした隠れた所で夜を過ごし、死者や悪霊から啓示を受けようとしていたのです。「豚」は汚れた動物として食べることが禁じられていました(レビ11:7)。「汚れた肉の吸い物を器に入れる」とは、その豚の肉を煮た汁を器に入れることです。彼らはこのような異教的な儀式に関わることで、自分たちが特別に聖い存在になっていると勘違いして誇り、そうでない人たちをさばいていたのです。神はイスラエルに何度も何度も救いの御手を差し伸べられたのに、彼らは何度も何度もそれを拒み、反逆を繰り返してきました。そのような神の愛の御手をはねのけて、自分の思いに従って歩んだのです。

皆さん、主の御手が短くて救えないのではありません。その耳が遠くて、聞こえないのでもないのです。彼らの咎が、彼らと神との仕切りとなり、彼らの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのです。そしてその結果は何かというと、神のさばきです。そのような人の上には神のさばきがくだるのです。5節後半から7節までのところにこうあります。

「これらは、わたしの怒りの煙、一日中燃え続ける火である。見よ。これは、わたしの前に書かれている。わたしは黙っていない。必ず報復する。わたしは彼らのふところに報復する。―山の上で香をたき、丘の上でわたしをそしったあなたがたの咎と、あなたがたの先祖の咎とをともどもに。わたしは、彼らの先のしわざを量って、彼らのふところに、報復する」と主は仰せられる。」

ここには「報復する」ということが3回繰り返して言われています。皆さん、神は報復する神です。「怒りの煙」とは、神の怒りの息づかいを表しています。また、「一日中燃え続ける火」とは、神のさばきの炎を象徴しています。そのような悪は神の前に置かれたノートにちゃんと記録してあって、決して見過ごされることはありません。彼らのした行いに応じて、必ず裁かれることになるのです。

皆さんはいかがでしょうか。こうした神のさばきを受けることがないように、差し出された神の愛の御手を受け入れておられるでしょうか。神の御手はいつもあなたの前に差し出されています。あなたは、その御手を受け入れておられるでしょうか。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」(ヨハネ3:16-18)

御子を信じる者はさばかれません。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれています。どうかさばかれることがないように、神の御子イエス・キリストを信じてください。キリストはあなたが神にさばれないように、代わりにそのさばきを受けてくださいました。十字架の上で・・・。ですから、あなたが、あなたの身代わりとなって、あなたが受けるはずの刑罰を全部受けて死んでくださったと信じるなら、あなたは神のさばきから救われるのです。救われて天国に行くことができます。これが福音です。グッド・ニュースです。どうかこの福音を信じて救われてください。また、この福音を信じて多くの人が救われるように、この福音を宣べ伝えていきたいと思います。

Ⅲ.わたしが選んだ者(8-12)

ところで、イスラエルは神に反逆したからといって、神は彼らを全く退けられたのかというとそうではありません。神は全く新しい計画をもって彼らを救われました。それが残りの民です。8節から12節までをご覧ください。8節にはこうあります。

「主はこう仰せられる。「ぶどうのふさの中に甘い汁があるのを見れば、『それをそこなうな。その中に祝福があるから』と言うように、わたしも、わたしのしもべたちのために、その全部は滅ぼさない。」

どういうことでしょうか。神はイスラエルの全部を滅ぼすことはなさいません。そこに残りの民を残しておられます。それはちょうどぶどうのふさの中にある甘い汁のようなのものです。ぶどう全体が腐っていてもう食べられない状態でも、その中に甘い汁が残っているというのです。それは何でしょうか。それが残りの民です。彼らは神にとって祝福となるような存在です。神はイスラエルのために、その全部を滅ぼすようなことはなさいません。そこにちゃんと残りの民を残しておられるのです。                         9節をご覧ください。「わたしは、ヤコブから子孫を、ユダからわたしの山々を所有する者を生まれさせよう。わたしの選んだ者がこれを所有し、わたしのしもべたちがそこに住む。」

神はヤコブから子孫を、ユダから神の山々を所有する者を生まれさせよう、と言われました。それが神の選んだ者です。神の選んだ者がこれを所有し、そこに住むようになります。しかし、聖書ではこのように神が選んだ者とは残りの民だけのことではありません。実は私たちクリスチャンもそうなのです。クリスチャンも神によって選ばれた者だからです。ヨハネの福音書15章16節にはこうあります。

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」

これはイエス様の言葉です。「あなたがた」とは弟子たちのこと、すなわち、キリストを信じるクリスチャンのことです。私たちがキリストを選んだのではありません。キリストが私たちを選び、任命したのです。それは、私たちが行って、実を結ぶためです。私たちは神によって選ばれた者、神の民なのです。そのような者は神の山々を所有するようになるのです。

そして、そのように神の山を所有する者はどのような祝福を受けるのかが10節にあります。 「わたしを求めたわたしの民にとって、シャロンは羊の群れの牧場、アコルの谷は牛の群れの伏す所となる。」

「シャロン」とは荒廃した地、「アコルの谷」とはのろいの谷という意味です。そのようにかつて荒廃していた地が羊の群れの牧場となり、のろわれた谷が牛の群れの伏すところになるのです。

神はご自分の選んだ民をひどくさばかれることはあっても完全に滅ぼされることはしません。そこにちゃんと救われる者を残しておられるのです。イスラエルであるからといって、すべてが神の民なのではありません。またイスラエルだからといって、すべてが主に反逆したのでもないのです。主はこのイスラエルの中に、本当のイスラエルを残しておられたのです。

パウロはこのことをローマ人への手紙11章1~5節のところでこう言っています。 「すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身です。神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。それともあなたがたは、聖書がエリヤに関する個所で言っていることを、知らないのですか。彼はイスラエルを神に訴えてこう言いました。「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。」ところが彼に対して何とお答えになりましたか。「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。」それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。」

これは励ましではないでしょうか。パウロはこの奥義を伝えるために、エリヤの時代に、バアルにひざをかかめなかった人たちのことを例に取り上げています。あのときアハブとその妻イゼベルは主の預言者たちを殺しました。エリヤをそれを嘆き、「主よ。私だけが残されました。彼らは今この私のいのちさえも取ろうとしています」と言ったとき、神は「エリヤよ、そうじゃないよ。バアルにひざをかがめてない人はあなただけではない。他に七千人の人をわたしのために用意している」と言われたのです。それと同じように、今も、恵みの選びによって残されている人たちがいるのです。ここにも。この大田原にも。

皆さん、私たちは時としてエリヤのように嘆いてしまうことがあります。「主よ、あなたを信じている人はほとんどいません。私はひとりぼっちです。孤独でさびしいです。どんなに伝道しても、だれも信じてくれません。私だけが、私だけが、残されています。」でも本当ですか。違います。あなただけではありません。あなたの他にも、神は七千人を、神のためにちゃんと残しておられるのです。今も、恵みの選びによって残されている人がいるのです。何と感謝なことでしょうか。私だけが・・・と思っていたらそうじゃない。私の他にも、残りの民がちゃんと残されているのです。神のために共に手を携え、共に祈り、励まし合う民が残されているのです。あなたは決してひとりぼっちではありません。これは励ましではないでしょうか。

一方、主に反逆する者たちには、一転して厳しいさばきが下されます。11節です。 「しかし、あなたがた、主を捨てる者、わたしの聖なる山を忘れる者、ガドのために食卓を整える者、メニのために、混ぜ合わせた酒を盛る者たちよ。」

「聖なる山」とは「シオン」のことです。このシオンを忘れるとは、神を礼拝することを止めてしまう、忘れてしまうという意味です。そういう人は、代わりにガドのために食卓を整え、メニのために、混ぜ合わせた酒を盛ったりします。    この「ガド」とは幸運の女神のことです。新共同訳では「禍福(かふく)の神」と訳しています。またメニは「運命の神」です。カナン人だけでなくアラブ人たちも信仰していました。いわば異教の神です。そうした神々に食卓を整え、混ぜ合わせた酒を盛ってドンチャン騒ぎをするのです。それは昔も今も変わりません。

現代でもこのガドとメニを求めて人々は走り回っています。幸運の女神、運命の神を求めて夢中になっているのです。たとえば、ギャンブルとか宝くじはそうでしょう。幸運の女神、運命の神と呼ばれています。そうした神々に夢中になって、本当の神がないがしろにされています。だれもそんなのに夢中になっていませんよ、と言うかもしれませんが、気がついたらいつの間にか買っていたりとか、気になってしょうがないということがあるのです。それは依存しているということです。

先日厚生労働省から発表された統計によると、我が国のパチンコや競馬などのギャンブル依存症の人の割合は成人人口の4.8%に当たる536万人だそうです。これは5年前の1.5倍に増えました。アメリカの1.58%、香港の1.8%、韓国のo.8%に比べても、日本の依存度は極めて高いことがわかります。オーエンさんが中国から来て驚いたことは、日本にはこうした娯楽施設がたくさんあるということです。これでさらにカジノも導入しようと検討されているわけですから、日本にはどれほどガド礼拝、メニ礼拝が多いかがわかると思います。幸運を求めて、運命を求めて走り回っている。まことの神を忘れて・・。それは神が忌み嫌われることなのです。そのような人には、神の激しいさばきがくだります。12節をご覧ください。

「わたしはあなたがたを剣に渡す。それであなたがたはみな、虐殺されて倒れる。わたしが呼んでも答えず、わたしが語りかけても聞かず、わたしの目の前に悪を行い、わたしの喜ばない事を選んだからだ。」

ここで神は、そのような人を剣に渡すと言っています。それで虐殺されて倒れてしまうのです。それは神が忌み嫌われることだからです。神が呼んでも答えず、語りかけても聞こうとせず、神の目の前に悪を行い続け、神が喜ばないことを故意に、意図的に行ってしまうのなら、そのような人には、当然、神のさばきが下るのです。なぜなら、わかっていても平気で逆らう、故意に、意図的に逆らうことがあるとしたら、それは聖霊に逆らう罪であり、決して許されることではないからです。イエス様は言われました。「人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません。」(マタイ12:31)

皆さんはどうでしょうか。神が選ばれた者、残りの民ですか。それとも神を忘れてガド礼拝、メニ礼拝に走り回っている人でしょうか。神が救いの御手を差し伸べているのに、故意に逆らって、神の怒りを引き起こしてはいないでしょうか。

どうか神に逆らわないでください。信じない者にならないで信じる者になってください。神はすべてのすべてです。私たちの思いをはるかに越えて神は働き、私たちの人生に完全な計画をもっておられます。その計画にすべてをゆだねてください。この神を信じ、この神に従うことが、あなたにとっての最善の道なのです。やがてそれが明になるでしょう。しかし、その前にどうかこの神の恵みを受け入れてください。神は今もあなたにその手を差し伸べておられます。どうかその御手に信頼してください。そしてこの驚くべき神の救いの計画を知り、共にこの神に心からの賛美と礼拝をささげたいと思います。

イザヤ63:15-64:12 レジュメ

「イザヤの祈り」

イザヤ63:15-64:12

 Ⅰ.神のあわれみを求めて祈る祈り(63:15-19)

 主のあわれみと、豊かな恵みにふれたイザヤは、その主のあわれみを求めて祈る。「どうか、天から見下ろし、聖なる輝かしい御住まいからご覧ください。・・・私へのあなたのたぎる思いとあわれみを、あなたは押さえておられるのですか。」(15)「たぎる思い」という言葉は、エレミヤ31:20では「はらわたがわななく」と訳されている。聖霊は痛むという表現があるように、神にも感情がある。そのたぎるような思い、はらわたがわななくような思いを押さえないでください、と祈っているのだ。

 イザヤはなぜこのように祈ることができたのだろうか。それは彼の中に、主は自分の父であるという思いがあったからである。16節には、「主よ、あなたは、私たちの父です。」ということばが繰り返して語られている。神はあなたを我が子と呼んで下さる。神の子であるなら遠慮はいらない。何でも自分の思いを告げることができる。それはクリスチャンも同じである。パウロは、「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。」(ローマ8:14-15)と言っている。「アバ、父」とは、アラム語で父を呼ぶ呼び方のこと。それは最も親しい人への呼びかけである。私たちはそのような身分に変えられた。それゆえ、私たちは神を父と呼び、何でも願い求めることができるのである。

 J.I.パッカーという神学者は、「新約聖書の教えを一言で要約するとすれば、創造者なる神が、父であるということに関する啓示なのだ」と言った。キリスト教信仰を本当に理解し、自分のものにしているかどうかは、自分が神の子であるということを、どれだけ認めているか、神を自分の父としてどの程度認めているか、ということでわかる。私たちは神の子であるから、父なる神に大胆に、また、必死に求めることができる。

 主イエスはこう言われた。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。・・・してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、天の父が、求める者たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ11:9-13)

 主は、求める者たちに良い物を与えてくださる。なぜなら、主は私たちの父だから。そう信じて祈るなら、神は豊かにあわれんでくださるのである。

 Ⅱ.へりくだって祈る祈り(64:1-7)

 第二に、神に聞かれる祈りとは、へりくだって祈る祈りである。ここに重要な問いがある。それは、「ああ、あなたは怒られました。私たちは昔から罪を犯し続けています。それでも私たちは救われるでしょうか。」という問いである。そして、その答えは何か。それは救われるということである。なぜなら、私たちは自分の義ではなく、神の義に信頼しているからである。「私たちはみな、汚れた物のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げられます。」(6)この「不潔な着物」と訳された言葉は、直訳では「月の物で汚れた着物」となっている。つまり、月の物で汚れたナプキンのことを指している。イザヤはここで、自分たちの義はみな、使用済みのナプキンのようなものだと、へりくだって祈っている。そのようなものは木の葉のように枯れて、すぐにどこかに吹き上げられてしまう。そのようなもので救われるはずがない。私たちが救われるのはただ、神が与えてくださる衣、義の衣によるのである。だから古い衣を脱ぎ捨てて、キリストという義の衣を着せていただかなければならない。

 Ⅲ.神にすべてをゆだねて祈る祈り(64:8-12)

 神に聞かれる祈りの第三は、神にすべてをゆだねて祈る祈りである。「しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。」(8)ここに「陶器師」という言葉が出てくる。これが意味していることは、神は主権者であられるということである。神は陶器師であり、私たちは粘土にすぎない。私たちはみな、神の手で造られたものなのである。したがって、何の文句も言えない。ただ陶器師であられる主にすべてをゆだねるしかない。練られようが、焼かれようが、壊されようが、廃棄処分にされようが、それはただ陶器師の意のままである。そのみこころにすべてをゆだねなければならない。しかし、この陶器師は、同時に私たちの父でもある。だから、決してひどいことはなさらない。むしろ、私たちにとって最善のことをしてくださる。本来なら捨てられても致し方ないようなものなのに、それを新しく造り替え、神に喜ばれる聖い器にしてくださる。何という幸いなことだろうか。だから私たちはこの陶器師の手にすべてをゆだねて祈らなければならないのである。

イザヤ書63章15節~64章12節 「イザヤの祈り」

先週は63章の前半の箇所から、神の豊かな恵みについて学びました。神に背き続けるイスラエルを、「まことに彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ」(8)と呼んでくださり、「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いを彼らに送って、救ってくださいました(9)。そればかりか、主は昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた(9)のです。そのようにして主は、ずっと昔から彼らを導いて来られました。

それならば、なぜイスラエルはバビロンに苦しめられなければならないのでしょうか。なぜ主はじっと黙って、その状況を見ておられるのでしょうか。きょうの箇所には、そのことに対するイザヤの祈りが記されてあります。この祈りの答えが65章と66章に続くわけです。

きょうはこのイザヤの祈りから、神に聞き届けられる祈りとはどのような祈りなのかを学びたいとと思います。

Ⅰ.神のあわれみを求めて祈る祈り(63:15~19)

まず第一に、それは神のあわれみを求めて祈る祈りです。15節から19節までに注目してください。まず15節をお読みします。

「どうか、天から見おろし、聖なる輝かしい御住まいからご覧ください。あなたの熱心と、力あるみわざは、どこにあるでしょう。私へのあなたのたぎる思いとあわれみを、あなたは押えておられるのですか。」

ここでイザヤは、「どうか、天から見おろし、聖なる輝かしい御住まいからご覧ください。」と祈っています。これは、主が天の輝かしい聖なる御住まいから見ておられるという認識の上で、その熱心と力あるみわざは、いったいどこにあるのですか、と訴えているのです。私たちへのたぎる思いとあわれみを、あなたは押さえておられるのですか・・・と。どうかそんなことはしないでください。押さえることをしないで、私たちの上にそれを注いでください、と祈っているのです。

ここに「たぎる思い」という言葉がありますが、これはエレミヤ書でも使われていますが、そこでは「はらわたがわななく」(エレミヤ31:20)と訳しています。63章10節には主の聖なる御霊を痛むという表現がありましたが、ここでははらわたがわななくのです。神はあなたに対してたぎるような思い、はらわたがわななくような思いを持っておられるのです。その思いを押さえないでください、豊かに注いでください、というのです。そんなこと祈ったらおこがましいんじゃないとか、ズーズーしいんじゃないかとと思う必要はありません。なぜなら、神はあなたの父であられるからです。16節をご覧ください。

「まことに、あなたは私たちの父です。たとい、アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくても、主よ、あなたは、私たちの父です。あなたの御名は、とこしえから私たちの贖い主です。」

ここに、「まことに、あなたは私たちの父です。」とあります。そのことが何度も繰り返して言われています。そうです、神様は私たちの父なんです。神はあなたを我が子と呼んでくださる。たとえあなたがイスラエルの父アブラハムのことを知らなくても、たとえあなたがイスラエルに認められなくとも、神はあなたの父となってくださいました。あなたが救い主イエスを信じたことによって・・・。すごいじゃないですか。神は私たちの父なのです。

ローマ人への手紙8章14~15節には、「 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。」とあります。

皆さん、神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもなのです。ここには、、「アバ、父」と呼ぶとあります。「アバ、父」というのはアラム語で父を呼ぶ言葉だそうです。ちなみにお母さんのことは「イマ」と呼びます。「アバもイマ」も赤ちゃんが一番最初に発音するようなごく親しい言葉です。日本語では「パパ、ママ」でしょう。英語では「Daddy」とか「Mommy」です。これはとても親しい呼びかけなのです。神は私たちにとってそのような関係になりました。「アバ・父」と呼べるようになったのです。これはものずこいことです。

J.Iパッカーという神学者は、「新約聖書の教えを一言に要約するとすれば、創造者なる神が、父であるということに関する啓示」なのだといいました。また彼は、「キリスト教の信仰を本当に理解し、自分のものとしているかどうかは、その人が、自分が神の子であるということを、どの程度認めているか、神を自分の父としてどの程度認めているか、ということでわかる」と言いました。ですから、私たちが神を「アバ、父」と呼べることはものすごい特権なのです。私たちはこのような特権をいただいているのです。

ヨハネの福音書1章12節には、「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」とあります。皆さん、これは特権なんです。あなたがアブラハムの子孫であるかどうかなんていうことは全く関係ありません。たとえあなたがアブラハムの子孫じゃなくとも、あなたがイエスを救い主として信じ、受け入れるなら、神の子としての特権が与えられ、「アバ・父」と呼ぶことができるようになるのです。

皆さん、これが私たちの信仰です。神が父であるということ、その父を、「アバ」と呼べる身分にさせていただいたということ、それはいかにもったいなく、かたじけないことではありますが、それが私たちに与えられている恵みであり、その恵みを感じながら、神をお父さんと呼ばせていただく。それが私たちの礼拝なのです。だからこそイザヤは大胆に神に求めたているのです。どうか、天から見下ろして、聖なる輝かしい御住まいからご覧ください。あなたの熱心と、力あるみわざはどこにあるのですか。私へのたぎる思いとあわれみを、あなたは押さえておられるのですか。そんなことをしないでください。どうかあなたの燃えたぎるあわれみを、私の上に注いでください。私はあなたは私の父なのですから・・・・と。

皆さん、神様は、あなたが神様に向かって「アバ、父」と呼びかけることを求めておられます。神にあわれみを求めて祈ることを願っておられるのです。それはあなたがお父さんやお母さんの立場であるならよくわかるはずです。自分の息子や娘が音信不通で、何の関係もないことほど寂しいことはありません。多少うるさいなぁと思うくらいがちょうどいいのです。そうやってお父さんやお母さんを慕い求め、助けを求めてくるくらいがちょうどいいのです。神はあなたと親しい関係を持つことを求めておられるからです。

ルカの福音書11章9~13節にはこうあります。 「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」

だれであっても、求める者は受け、捜す者は見いだし、ただく者には開かれます。なぜなら、天の神はあなたの父だからです。子どもが魚をくださいというのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親はいません。卵をくださいというのに、さそりを与えるような父親がいるでしょうか。たまにそういう人もいますね。でもそれは普通じゃありません。普通、父親は子どもがこれこれ欲しいという時には、何とかその願いを叶えてあげたいと思うものです。皆さん、神はあなたの父です。あなたをあわれみたいと願っておられるのです。無関心であってはいけません。その父なる神に、あわれみを求めて祈らなければならないのです。求めなさい。そうすれば、与えられるからです。

Ⅱ.へりくだって祈る祈り(64:1~7)

第二のことは、へりくだって祈る祈りです。64章1~7節までをご覧ください。まず1~4節です。

「ああ、あなたが天を裂いて降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう。 火が柴に燃えつき、火が水を沸き立たせるように、あなたの御名はあなたの敵に知られ、国々は御前で震えるでしょう。私たちが予想もしなかった恐ろしい事をあなたが行われるとき、あなたが降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう。神を待ち望む者のために、このようにしてくださる神は、あなた以外にとこしえから聞いたこともなく、耳にしたこともなく、目で見たこともありません。」

これは、イエス・キリストがさばき主として天から降りて来られる預言です。そのとき、神に敵対している者たち、聖所を踏みつけている者たちは、震えます。主は、私たちが予想もしなかった恐ろしいことをされるので、山々は御前で揺れ動くのです。それは63章前半部分で見たとおりです。そのとき主は敵の流す返り血で、その衣服が真っ赤に染まりるのです。このようなことまでしてくださる神が他にいるでしょうか。いません。4節にこうあるとおりです。

「神を待ち望む者のために、このようにしてくださる神は、あなた以外にとこしえから聞いたこともなく、耳にしたこともなく、目で見たこともありません。」

このことばは、Ⅰコリント2章9節でパウロが引用しています。そこには「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神が備えてくださったものは、みそうである。」とあります。これが、イザヤ書に記されてあることの意味です。

皆さんは、このようなことを聞いたことがあるでしょうか。どの宗教がそのようなことを告げているでしょうか。それはどの宗教にも見られない、キリスト教だけが、聖書だけが告げていることです。キリスト教以外のどの宗教も、人間が何とかして神に近づくことができると教えます。その救いのベクトル、矢印がすべて下から上に向かっているのです。しかし、キリスト教だけは違います。キリスト教だけはその矢印が上から下に、天から地に向かっているのです。神のが人となられ、神が人となって十字架につけられました。神が人となって私たちのすべての罪を引き受けて死んでくださいました。そして、その名を信じるだけで救われると約束してくださいました。神の救いは上から下に向けられたのです。神の救いは一方的な神の恵みによるのです。信じるだけで救われるのです。しかし、信じない者は罪に定められます。どんなに善いことをしても、どんなに努力しても、どんなに真面目に生きても、自分の行いによっては救われないのです。そのような人は神のひとり子を信じなかったので罪に定められます。やがてキリストが天から降りて来られるときに、さばかれることになります。

このようなことは、私たちの理解を越えています。私たちがいまだかつて見たことも、聞いたこともないようなことです。しかし、神は、このようなことを、 ご自身を愛する者たちのためにそのようにしてくださるのです。

5~7節をご覧ください。 「あなたは迎えてくださいます。喜んで正義を行う者、あなたの道を歩み、あなたを忘れない者を。ああ、あなたは怒られました。私たちは昔から罪を犯し続けています。それでも私たちは救われるでしょうか。私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。しかし、あなたの御名を呼ぶ者もなく、奮い立って、あなたにすがる者もいません。あなたは私たちから御顔を隠し、私たちの咎のゆえに、私たちを弱められました。」

ここでイザヤは言っています。「それでも私たちは救われるでしょうか。」いい質問ですね。主よ、あなたは喜んで正義を行う者、あなたの道をを歩み、あなたを忘れない者を、あなたは迎えてくださいます。けれども、私たちは昔からずっと罪を犯しているのです。こんな私でも救われるでしょうか。救われるのです。なぜでしょうか?6節と7節をご覧ください。それは私たち義ではなく、神の義に信頼しているからです。私たちの義など何でもありません。それは不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、風のように吹き上げられるような存在にすぎません。

この「不潔な着物」という言葉には※がついています。下の欄外の説明を見ると、これは「月のもので汚れた」という意味です。ちょっと生々しい表現になりますが、使用済みのナプキンのことを指しているのです。私たちの義とはそんなものなのです。使用済みのナプキンのようで、汚れた着物のようなのです。私たちは自分の善い行いが自分を救うかのように思っていますが、そんなものは汚れたナプキンのようなものだというのです。被災地に行ってボランティアをする、発展途上国の恵まれない国の人たちを助けようと慈善団体に寄付をする。立派なことです。しかし、そのような行いによって救われると思ったら大間違いです。なぜなら、私たちの義はみな、汚れた着物のようだからです。そのような行いが悪いと言ってるのではありません。そのような行いでは救われないということを言っているのです。

私たちを救うことができるのはただ神の義だけであって、それは神の救いであるイエス・キリストを信じることによってのみなのです。61章10節を振り返ってみましょう。ここには、「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。」とあります。ここに「救いの衣」とか「正義の外套」といった言葉があります。私たちが救われるのは私たちの義、不潔な着物ではなく、神が与えてくださる神の義、救いの衣、正義の外套なのです。ですから、私たちはその古い不潔な着物を脱ぎ捨てて、キリストという義の衣を着せていただかなければなりません。

なのにどうでしょうか。7節を見てください。「しかし、あなたの御名を呼ぶ者もなく、奮い立って、あなたにすがる者もいません。」これが現実です。問題は神なのではなく、その神の救いにすがろうとしない私たち人間なのです。 「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのでもない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」(イザヤ59:1-2)

「主の御名を呼び求めるなら、だれでも救われる」のです。」(ローマ10:13)

あなたはどうですか。神の前にへりくだって、主の御名を呼び求めておられるでしょうか。それとも、あくまでも自分の義、自分の行いを誇っておられるでしょうか。しかし、覚えていただきたいことは、そんなのは不潔な着物にすぎないということです。木の葉のように枯れ、風が吹けばすぐにどこかに吹き飛んでしまうようなはかないものなのです。そんなものに頼らないで、神に頼ってください。へりくだって神を求めてください。神はへりくだってご自身を求める祈りを、決してないがしろにはなさいません。

Ⅲ.神にすべてをゆだねて祈る祈り(64:8~12)

第三に、神に聞かれる祈りは、神にすべてをゆだねて祈る祈りだということです。8節から12節までをご覧ください。8節、「しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。」

いいですね、この「しかし、主よ・・・」という言葉が。私たちの罪のゆえに神の御名を求めようとしない、神にすがることもしない、それが神との仕切りとなり、神との間に断絶が生じてしまいました。しかし、それで終わりではありません。「しかし、主よ」なのです。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手によって造られたものです。

どういうことでしょうか。たとえ私たちがかたくなでも、たとえ私たちが不忠実でも、神は変わらない愛をもって救ってくださるということです。この愛はヘブル語「ヘセド」といって契約に基づいた愛です。たとえ相手が契約を破っても神は決して破ることはしない、一方的に愛する愛です。 「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」(Ⅱテモテ2:13)

神はどこまでも愛してくださる方なのです。私たちに求められているのは、この神の愛の懐の中に飛び込むことです。子どもが父の懐に飛び込むように、神の懐の中に飛び込めばいいのです。それを何というかというと、ゆだねると言います。

ここには「陶器師」という言葉が出てきます。この「陶器師」という言葉が意味していることは、神は主権者であられるということです。好きなものを自由に造る権利があるということです。神は、まさに好きなものを造ることができる陶器師です。しかし、造るだけではありません。陶器師ですから、それを壊すこともできます。壊して、捨ててしまうこともできるのです。何でも自由にすることができる。それが陶器師です。

ここでイザヤが、「あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。」と言ってるのは、主は私たちをどのように造ろうが、いや、それを壊して、捨ててしまおうが、煮ようが、焼こうが、何をしようが、主はその権利を持っておられるということです。なぜなら、主は陶器師だからです。主が私たちを造られました。

しかし、ここでもう一つの確信があります。それは、主は私たちの父であるということです。ということは、決してひどいことはなさらないということでもあります。私たちにとって最善のことをしてくださるという確信です。私たちは、本来なら捨てられても致し方ないような粘土にすぎない者ですが、主はそれを決して捨てたりはなさいません。それを新しいものに造り替えてくださり、神に喜ばれる、聖い器に造り替えてくださいます。なぜなら、主は陶器師であると同時に、私たちの父だからです。そう信じて、この陶器師の手にわたしたち自身を、あなた自身をゆだねて祈らなければならないのです。

なのに、現状はどうでしょうか。10節と11節を見てください。「あなたの聖なる町々は荒野となっています。シオンは荒野となり、エルサレムは荒れ果てています。私たちの先祖があなたをほめたたえた私たちの聖なる美しい宮は、火で焼かれ、私たちの宝とした物すべてが荒廃しました。」

これは直接的にはバビロン捕囚のこと、究極的には世の終わりの日に荒らす忌むべき者によって、エルサレムが荒らされることを預言しています。しかし、それはイスラエルがバビロンによって滅ぼされた時だけでなく、あるいはこの世の終わりに荒らす忌むべき者によって荒らされるであろう時だけでなく、いつの時代でも起こることです。それは今の、私たちの時代でも、私たちの日々の生活の中にも起こっています。私たちの人生がまさにバビロンや荒らす忌むべき者によって踏みにじられ、荒れ果てたような状態になることがあるのです。主が陶器師であり、私たちの父であられるのなら、いったいどうしてそのようなことを許されるのでしょうか。それが最後の12節のみことばです。

「主よ。これでも、あなたはじっとこらえ、黙って、私たちをこんなにも悩まされるのですか。」

これは祈りの締めくくりの言葉です。これは63章15-17節に出てきた内容に似ています。祈りの始めと祈りの終わりが同じ言葉が使われています。これからバビロンに侵略されて、すべてが破壊されてしまう。それでもあなたは黙って見過ごされるのですか?

この祈りの答えが65章と66章に展開されるわけですが、そこには信じられないような驚くべき祈りの答えが出てきます。これがイザヤ書のクライマックスです。主よ。これでも、あなたはじっとこらえ、溜まって、見過ごされるのですか。私たちを悩まされるのですか。いや、そうではない。その答えをここに示されるのです。祈りに答えてくださる義務などないのに、神は祈り以上のことをしてくださるのです。私たちが祈る以上に、私たちが願う以上のことをしてくださるのです。ですから私たちはこの神を信じて、この神にすべてをゆだねて祈らなければなりません。

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩篇37:5)

あなたの道を主にゆだねて祈りましょう。主に信頼しましょう。主が成し遂げてくださいます。それが主に喜ばれる祈りであり、主が聞いてくださる祈りなのです。

レビ記23章1~22節

きょうはレビ記23章から学びます。22章ではどのように主へのささげ物をささげなければならないかということを学びました。きょうのところでは、主の例祭について教えが語られています。それではまず1~8節までを見ていきましょう。

1.主の例祭と安息日(1-3)

「ついではモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。あなたがたが聖なる会合として召集するの例祭、すなわちわたしの例祭は次のとおりである。六日間は仕事をしてもよい。しかし七日目は全き休みの安息、聖なる会合の日である。あなたがたは、いっさいの仕事をしてはならない。この日はあなたがたがどこに住んでいてもの安息日である。」

これはイスラエルの民に対して語られたことばです。彼らは毎年、主の聖なる会合として主の例祭を召集しなければなりませんでした。例祭とは、例年決められた時期に行うべき祭りのことです。それは全部で七つあります。過ぎ越しの祭り、種なしのパンの祝い、初穂の祭り、五旬節、ラッパを吹き鳴らす会合、贖罪日、そして仮庵の祭りです。このうち代表的なものは、過越の祭り、五旬節、仮庵の祭りの三つで、この時には、世界中にいるユダヤ人成年男子が、必ず出席しなければなりませんでした。

3節をご覧ください。「六日間は仕事をしてもよい。しかし七日目は全き休みの安息、聖なる会合の日である。あなたがたは、いっさいの仕事をしてはならない。この日はあなたがたがどこに住んでいても主の安息日である。」

 主の例祭についての教えなのに、まず、安息日について語られています。安息日とは、主が六日間で天地を創造された後、七日目に休まれた日を記念して、この日を聖なる日とするようにと定められたものです。この日にはいっさいの仕事をしてはなりませんでした。この日にはすべての手のわざを休めて、神を覚えて礼拝しなければなりませんでした。この安息日のことが七つの例祭に先駆けて語られているのです。いったいそれはなぜでしょうか。それは、この安息日がこれから語られる主の例祭が示していることの基本であったからです。

それはどういうことかというと、安息日にはすべての手のわざを休めて神を覚え、神を礼拝しなければならなかったように、主の例祭にもすべての手のわざを休めて神を覚え、神を礼拝しなければならなかったということです。なぜでしょうか。そうすることによって、自分たちの働きが自分たちのものではなく主なる神のものであって、神を中心に生かされていることを表明する必要があったからです。自分の行ないをやめ、主の行ないを認めることです。私たちが、だれかのことを知りたいと思うとき、どうでしょう。自分が動くことをやめ、そこに立ち止まって、その人の姿や行なっていることを、じっくりと見るのではないでしょうか。それと同じことです。私たちが、主にあって聖なる者と認められるには、自分ではなく主ご自身の姿や働きに集中し、それをじっくりと見なければならないのです。イスラエルは毎週土曜日の安息日にそれをしました。それだけでなく、一年を通してその節目、節目にそういうときを持ったのです。それが例祭です。

これらの祭りは、収穫祭です。季節ごとに行われました。初穂の祭りは、春の初めに収穫される大麦の初穂を主におささげする祭りです。五旬節は、春の終わりに収穫する小麦の初物を、主におささげします。そして仮庵の祭りは、秋のいちじくの木の実、オリーブ、ぶどう、なつめやしなどの収穫の後に行なわれます。今、イスラエルが、シナイ山の荒野のふもとにいることを思い出してください。これらは、彼らが約束の地に入ってから、与えられるところの収穫を前提にして、主がお語りになっているのです。私たち人間は、荒野にいるときには、水や食料などの備えのために、主に必要を満たしていただくために、祈り、主に拠り頼みますが、豊かになるときに神を忘れてしまいます。そこで、主は、収穫物をご自分にささげるように命じられることによって、イスラエルがいつまでも、主を信じ、主のうちにとどまることを学ばせようとされたのです

私たちは、クリスチャンとして聖なる歩みをするためには自分の働きをやめ、キリストに集中しなければなりません。キリストがなされたみわざ、今、行なわれていること、そしてこれから行なわれることの中に休み、とどまり、自分の行ないを取り除いていく必要があるのです。私たちは、自分が何らかの宗教的な行ないをしているから、自分が聖いと思ってしまうことがあります。たとえば、毎日祈っているとか、日曜日はちゃんと礼拝に行っているとか、いつも、いろいろな人に伝道しているとか、奉仕もちゃんとやっているとかです。それ自体はすばらしいのですが、それが実体のともなったものでなければ、すなわち、それがイエス・キリストにしっかりと結びついたものでなければ吐き出されてしまうこともあるのです。神が私たちに願っておられることは、キリストにとどまることです。キリストのみわざをみとめ、神がキリストにあって成されたことを信じて受け入れ、そのみわざにとどまっていることです。自分をキリストに明け渡すことです。そのためには今やっていることを休め、そこに立ち止り、神に集中しなければなりません。あれをして、これもしてと、忙しく動き回っていると肝心な神との関係が希薄となり、やることだけが先行してしまいます。そして、それがいつしか神のためにというよりも自分のために、自分の思いを実現するためにやっているということもあるのです。そうなると信仰もいつしか形骸化して、そこに生きた神との関係が無くなってしまいます。自分の思い付きで話したり、行動したりということになってしまいます。神のみこころからかけ離れた信仰に陥ってしまうのです。だから神は、こうした例祭を定め、自分の手を休めるようにと教えられたのです。その代表が安息日だったのです。

2.過ぎ越しの祭りと種を入れないパンの祭り(4-8)

4節と5節をご覧ください。

「あなたがたが定期に召集しなければならない聖なる会合、すなわちの例祭は次のとおりである。第一月の十四日には、夕暮れに過越のいけにえをにささげる。」

主への例祭は、過越の祭りをもって始まります。これが第一の月とあるとおり、この祭りをもってユダヤ人の暦が始まります。なぜ過ぎ越しの祭りから始まるのでしょうか。なぜなら、これが贖いを表しているからです。信仰のスタートは贖いです。

 それは、神の小羊であられたキリストを表していました。バプテスマのヨハネはキリストを見たとき、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。(ヨハネ1:29)」と呼びました。そしてイエスさまは、十字架につけられる前夜、弟子たちと過越の食事をされましたが、イエスさまがパンを裂いたときに、「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを与えてこれを行ないなさい。」と言われ、ぶどう酒の杯は、「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」と言われました(ルカ22:20)。そして、イエスは、この過越の祭りの日に十字架につけられて死なれたのです。そうです、イスラエルが食べ、血を門の鴨居と門柱につけたその小羊は、イエス・キリストご自身を示していたのです。ペテロは、「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。(1ペテロ1:18-19)」と言いました。

 過越の祭りが、この後のすべての祭りの出発点になっており、この祭りによって他の祭りが成り立っています。すべての土台になる祭りです。それは、私たちの主イエス・キリストが十字架で死なれ、血を流してくださったことが、私たちの信仰の土台であるということです。私たちの奉仕は、どのような動機から始まっているでしょうか。「私は罪人であったのに、神はキリストを死に渡されることにより、ご自分の愛を示してくださった。」ということから始まっているでしょうか?それとも、他のだれかに認められたいとか、自分の心理的欲求を満たしてくれるというような動機から始まっているでしょうか。私たちのすべての奉仕は、ただ「キリストの愛」に突き動かされているものでなければなりません

次に、種なしパンの祭りです。種なしパンの祭りは、過越の祭りのすぐあとに行われました。ここでいう種とはパン種のことで、パンをふくまらせるところのイースト菌のことです。イスラエルの民は、この祝いの前に、家の中にあるパン種をくまなく探し、家の中からパン種を取り除きました。そして七日間、種のないパンを食べました。初めの日と最後の日は仕事をしてはなりません。そして、この七日間、火によるささげもの、つまり、牛や羊、やぎなどの家畜を祭壇で焼いたのです。

これは何を表していたのかというと、過ぎ越しによって罪が取り除かれたことです。その祝いです。聖書ではパン種は罪を表しています。少しでもパン種が入っているとパン全体を膨らませるように、少しでも罪があると全体に広がってしまいます。そこでパウロは、コリント人たちにこう手紙を書き送りました。

「あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。(Ⅰコリント5:6)」

パウロはコリント人たちに、続けてこう言っています。

「新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種のはいらない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。(1コリント5:7-8)」

あなたがたはパン種がない者であるというのは、罪が許されたからです。キリストの血によって罪が赦され、罪が取り除かれました。もうパン種がなくなったのです。だから、古いパン種で祭りをしたりしないで、パン種の入らないパンで祭りをしなければなりません。それが種を入れないパンの祭りです。すなわちそれはキリストによって罪が取り除かれたことを祝う祭りなのです。

私たちの罪は取り除かれました。主イエス・キリストの血は、私たちの罪を取り除き、私たちを完全にきよめてくださったのです。ですから、私たちと、神との間に、何ら隔ての壁になるようなものは一つもありません。子供がお父さんやお母さんのところに走りよっていくように、私たちも大胆に、父なる神に大胆に近づくことができるのです!「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:16)」とヘブル書にある通りです。

3.初穂の祭り(9-14)

次に9-14節をご覧ください。ここには、初穂の祭りについて記されてあります。

「ついではモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。わたしがあなたがたに与えようとしている地に、あなたがたが入り、収穫を刈り入れるときは、収穫の初穂の束を祭司のところに持って来る。祭司は、あなたがたが受け入れられるために、その束をに向かって揺り動かす。祭司は安息日の翌日、それを揺り動かさなければならない。あなたがたは、束を揺り動かすその日に、への全焼のいけにえとして、一歳の傷のない雄の子羊をささげる。その穀物のささげ物は、油を混ぜた小麦粉十分のニエパであり、への火によるささげ物、なだめのかおりである。その注ぎのささげ物はぶどう酒で、一ヒンの四分の一である。あなたがたは神へのささげ物を持って来るその日まで、パンも、炒り麦も、新穀も食べてはならない。これはあなたがたがどこに住んでいても、代々守るべき永遠のおきてである。」

  ここには、彼らが約束の地に入り、収穫を刈り入れるときには、収穫の初穂の束を祭司のところに持ってくるようにとあります。祭司はそれを主に向って揺り動かします。彼らが受け入れられるように・・・。これは大麦の収穫の初穂を、主におささげする祭りです。祭司がそれを、主の前に前後に揺り動かして、この収穫を主に受け入れられるようにするわけです。これは、安息日の翌日、つまり日曜日であり、過越の祭りの三日目に行なわれます。つまり、これはキリストの復活を表していたのです。

キリストは過越の祭りの日に死なれ、墓に葬られました。安息日が終わり、日曜日に復活されました。日曜日の朝早く女たちが、イエスに香料を塗ろうと墓にやって来くると、墓の石は取り除かれていました。そこに御使いがいて、女たちにこう言いました。「この方はここにはおられません。よみがえられたのです。」そうです、初穂の祭りは、イエス・キリストの復活を表していたのです。使徒パウロはこう言いました。コリント人への手紙第一15章20節です。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」

 キリストは、私たちのために死んでくださり、その血によって罪を赦し、きよめてくださっただけではなく、よみがえってくださいました。よみがえって、今も生きておられます。そして、今、私たちのうちに住んでいてくださるのです。使徒パウロは言いました。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。 (ガラテヤ2:20)」

ここで、パウロは、私はキリストとともに十字架につけられており、死んでいる、と言っています。私たちはすでに死んでいるのです。このことに気づかないと、いつまでも、自分を改善しよう、良くしようと思ってしまうのです。そして、改善しようと思っても、むしろ罪を行なっている自分を発見して、パウロのように、「ああ、私はなんとみじめな人間なのでしょう。」と嘆いてしまいます。しかし、すでに私たちは死んでいるので、自分ではどうしようもありません。けれども、キリストはよみがえってくださいました。そして、そのよみがえりの主が私のうちに生きておられる。だから私たちは、このキリストにあって、キリストのいのちにある新しい歩みをすることができるのです。

12節には、「あなたがたは、束を揺り動かすその日に、主への全焼のいけにえとして、一歳の傷のない雄の子羊をささげる。その穀物のささげ物は、油を混ぜた小麦粉十分の二エパであり、主への火によるささげ物、なだめのかおりである。その注ぎのささげ物はぶどう酒で、一ヒンの四分の一である。あなたがたは神へのささげ物を持って来るその日まで、パンも、炒り麦も、新穀も食べてはならない。これはあなたがたがどこに住んでいても、代々守るべき永遠のおきてである。」とあります。

この初穂の祭りのときに、全焼のいけにえ、穀物のささげものを、初穂の祭りのときにもささげます。そして注ぎのささげものというのもあり、これはぶどう酒をささげます。それはなぜでしょうか。祭壇の上の火によって、これらが燃やし尽くされるとき、主がそのいけにえをお受け取りになったことを示しているからです。私たちの罪は完全に赦され、キリストの新しいいのちにあって生きることができるようになったのです。

4.五旬節(七週の祭り:ペンテコステ)(15-22)

 十字架と復活と続いたら、次は何でしょうか。そうです、ペンテコステです。次に五旬節の祭りについて教えられています。15-22節までをご覧ください。

「あなたがたは、安息日の翌日から、すなわち奉献物の束を持って来た日から、満七週間が終わるまでを数える。七回目の安息日の翌日まで五十日を数え、あなたがたは新しい穀物のささげ物を主にささげなければならない。」(15-16)

五旬というのは50日のことですが、それは初穂の祭りから七週を数え、さらに一日を加えた日数で。初穂の祭りとは主の復活のことを表していますので、主が復活してから50日目がペンテコステということになります。先ほどから「7」という数字がたくさん出てきているのに、ここでは50日目というのはおもしろいですね。七日目の安息日、七日間の種なしパンの祝い、そして、七週間後の五旬節です。7は、主ご自身のことを表しています。主のみわざが完全であり、完成されていることを示します。ですから、本来なら49日目に行われるはずなのに50日目というのは不思議です。このことについていろいろ調べてみましたが、納得のいく回答が見られなかったので、自分なりにカレンダーをずっと眺めていて気付いたことがありました。この七週の祭りは初穂の祭りから五十日目です。復活の日から五十日です。それは日曜日の出来事でした。それから49日後は土曜日になります。土曜日は主の安息の日ですが、この日ではだめなのです。なぜなら、主は復活をもってすべてを新しくされるからです。それが初穂の祭りの意味でした。そういう意味ではこのペンテコステは新しいスタートのときです。聖霊が降臨されることによってすべてが新しくなります。その新しいスタートは日曜日でなければならなかったのです。初穂の祭りから七週を数えた49日の次の日のことです。それはちょうど五十日後になります。それが五旬節です。だからここにはキリストの復活と聖霊降臨の出来事が完全に予言されていたのです。ユダヤ人はわからなかったと思いますが・・・。

この日には、小麦の収穫の初穂を、主の前におささげします。

「あなたがたの住まいから、奉献物としてパン・・主への初穂として、十分の二エパの小麦粉にパン種を入れて焼かれるもの・・二個を持って来なければならない。」(17)

パンを二つ、主の前にささげます。不思議なことに、このパンにはパン種が入っています。ふわふわとした、私たちが普通に見るパンです。これはなぜでしょうか?また、なぜ二つのパンなのでしょうか?

この五旬節のときに、ある大きな出来事が起こったことを思い出してください。イエスさまがよみがえられ、弟子たちの前に40日間現われて、彼らは祈り始めました。10日後、五旬節のときに、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こりました。そして、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまりました。そして彼らは聖霊に満たされて、外国の言葉で話し出したのです。この日に、ペテロの説教を聞いて、3千人が弟子となり、バプテスマを受けました。そうです、教会が誕生したのです。したがって、五旬節は、聖霊が降って、教会が誕生することを予め示していたのです。

ここでは、その教会とはどのようなものなのかが表されているのです。それはパンにパン種が入っているようなものです。もちろん、キリストによって罪が赦され、罪は取り除かれました。私たちは新しいパン種で祭りをしなければなりません。しかし、それは私たちは罪の完全な者であるということを示しているのではありません。罪は赦されてはいますが、まだ罪の性質を宿した弱い存在であるということです。そうした罪深い弱い私たちの中にキリストが宿ってくださり、キリストのからだが形成されているのです。それが教会なのです。私たちは不完な者ですが、その不完全な中にキリストがおられるのです。この事実を忘れてはなりません。それを表しているのがこの種を入れたパンなのです。

ですから、教会は互いにキリストにあって赦し合い、仕え合い、励まし合い、教え合っていかなければならないのです。そのようにして、成長し、キリストの身たけにまで成長することができるのです。もし自分が立派でもあるかのように考えて人をさばくようなことがあるとしたら、それは間違っています。

そして「二つのパン」ですが、これは、ユダヤ人と異邦人という二者が、キリストの十字架によって一つにされたことを表しています。パウロは、エペソ書2章で、「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。(エペソ2:14-15)」と言いました。キリストにあって、ユダヤ人も異邦人も、隔てなく交わりをすることができます。男も女も、自由人も奴隷も、すべての人がキリストにあって一つとなりました。私たちは、クリスチャンの間に、互いにぎくしゃくしたものがあり、なかなか交わることができない隔ての壁を感じているのであれば、それは、キリストではなく、自分自身が前面に出てしまっているからです。自分ではなく、キリストが第一になって、キリストのことが語られ、キリストが中心になっているとき、両者の違いは妨げとならなくなります。キリストが私たちの平和であり、二つのものを一つにしてくださいました。それが教会なのです。

「そのパンといっしょに、主への全焼のいけにえとして、一歳の傷のない雄の子羊七頭、若い雄牛一頭、雄羊二頭、また、主へのなだめのかおりの、火によるささげ物として、彼らの穀物のささげ物と注ぎのささげ物とをささげる。また、雄やぎ一頭を、罪のためのいけにえとし、一歳の雄の子羊二頭を、和解のいけにえとする。祭司は、これら二頭の雄の子羊を、初穂のパンといっしょに、奉献物として主に向かって揺り動かす。これらは主の聖なるものであり、祭司のものとなる。」(18-20)

そのパンといっしょに全焼のいけにえをささげます。また、穀物のささげ物と注ぎのささげ物をささげます。全焼のいけにえとは、私たちのすべてを主におささげすること、献身を表しています。一方、穀物のささげ物とか注ぎのささげ物とは、感謝を表しています。すなわち、感謝をもって献身を表していたのです。また、和解のいけにえは、主と和解するためのいけにえではなく、和解した者としてのいけにえ、すなわち、喜びを表していました。五旬節にはこうしたパンといっしょに、神への感謝と喜び、そして神への献身が求められたのです。

「その日、あなたがたは聖なる会合を召集する。それはあなたがたのためである。どんな労働の仕事もしてはならない。これはあなたがたがどこに住んでいても、代々守るべき永遠のおきてである。あなたがたの土地の収穫を刈り入れるとき、あなたは刈るときに、畑の隅まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂も集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。」(21-22)

収穫のときに、イスラエル人は、貧しい人、在留寄留者の人たちを顧みなければいけないことを教えられています。畑の隅々まで刈り取ることなく、それは残しておき、貧しい人たちが食べることができるように残しておきます。それは自分たちをエジプトから救い出し、約束の地へと導いてくださった主への感謝の表れでもあります。私たちも、キリストの十字架と復活、そして、聖霊の降臨をもって新しい生活へと導いてくださった主に、心からの感謝と賛美をささげる者でありたいと思います。