レビ記24章

きょうはレビ記24章全体から学びたいと思います。まず1~4節までをお読みします。

1.日ごとに、週ごとに(1-9)

「1 ついではモーセに告げて仰せられた。2 「あなたはイスラエル人に命じて、ともしびを絶えずともしておくために、燈火用の質の良い純粋なオリーブ油を持って来させよ。3 アロンは会見の天幕の中、あかしの箱の垂れ幕の外側で、夕方から朝までの前に絶えず、そのともしびを整えておかなければならない。これは、あなたがたが代々守るべき永遠のおきてである。4 彼は純金の燭台の上に、そのともしびを絶えずの前に整えておかなければならない。」

これは既に出エジプト記27章20-21節において、主がモーセに語られた内容と同じです。主はモーセにイスラエル人たちに命じて、ともしびを絶えずともしておくために、燈火用の質の良い純粋なオリーブ油を持って来させ、祭司アロンはそれを会見の天幕の中の、あかしの箱の垂れ幕の外側、つまり聖所でそれをともしておかなければなりませんでした。夕方から朝まで。

ご存知のように、この油は聖霊を象徴しています。聖所のともしびを絶えずともしておくために油を用意しておかなければならなかったように、私たちはいつも聖霊に満たされていなければならないということです。

次に5節から9節までをご覧ください。

「5 あなたは小麦粉を取り、それで輪型のパン十二個を焼く、一つの輪型のパンは十分のニエパである。6 それをの前の純金の机の上に、一並び六個ずつ、ニ並びに置く。7 それぞれの並びに純粋な乳香を添え、への火によるささげ物として、これをパンの記念の部分とする。8 彼は安息日ごとに、絶えずこれをの前に、整えておかなければならない。これはイスラエル人からのものであって永遠の契約である。9 これはアロンとその子らのものとなり、彼らはこれを聖なる所で食べる。これは最も聖なるものであり、への火によるささげ物のうちから、彼の受け取る永遠の分け前である。」

これも既に出エジプト記で語られたことです(出エジプト25:30)。聖所に入ると右側にこの備えのパンがありました。机はアカシヤという材木によって作られていましたが、すべて純金でおおわれていました。その上に12個のパンが2列に6個ずつ置かれていました。この12個のパンはイスラエルの12部族を表しています。それは安息日ごとに、絶えず主の前に、整えておかなければなりませんでした。このパンは何を表していたのかというとキリストのいのちです。神のみことばです。それを週ごとに絶えず、整えておかなければならなかったのです。乳香を添えて・・。乳香は祈りを表していましたね。すなわち、このパンと乳香は、祈りとみことばによって神との交わりを絶やしてはいけないということを教えていたのです。これらはいわば私たちの日常的な奉仕と言えるでしょう。ともしびの油といい、このパン、乳香といい、前にも語ったことをなぜここでもう一度語られているのでしようか。

それはレビ記全体を見るとわかります。この前の23章では主の例祭について教えられていました。それは過越の祭りから始まり、種なしパンの祝い、初穂の祭り、そして五旬節があります。これらは春の祭りです。そして秋には、ラッパを吹き鳴らす会合、贖罪の日、そして仮庵の祭りでクライマックスを迎えます。イスラエル人は今、シナイの荒野にいますが、約束の地に入ったとき、彼らは農作業によって食物を得ます。収穫の時期に沿って、このような盛大な祭りをして、主を礼拝するのわけです。そして私たちはこれら一つ一つの祭りには意味があって、それはキリストの十字架と復活、聖霊の降臨、そして携挙、再臨、千年王国という主イエス・キリストのみわざを表しているということを知りました。この例祭について教えられているそのあとで、、このともしびやパン、乳香について語られているのは、しかも、これらは以前、主がモーセにすでに教えられたことなのに、ここで繰り返して教えられているのは、そうしたイスラエル全体の祭りの中にあって、日々の小さな務めをないがしろにしてはならないということなのです。日ごとの、あるいは週ごとの、そうした小さな務めを忘れてはならないし、むしろ、そうした小さな務めの中に、そうした全体的なことがある、あるいは、そうした全体的なことの中にこうした小さな積み重ねがあるということを教えたかったのではないでしょうか。これらのことは日ごとに、あるいは週ごとに、絶えず主の前に行われなければならないことなのです。

私は昨日まで同盟の働きで仙台と岩手の北上に行ってきました。今はそういう時期なのかなあと思って、自分なりに与えられた務めを忠実に果たしていこうと思っていますが、こうしたことに取り組んでいて思うことは、こうしたことで振り回されて日々の働きをおろそかになってしまうというか、見失ってしまう危険性があるということです。あっちに行って、こっちに行って、あれをやって、これ をやってといううちに、日々の小さな務め、絶えず主の前に備えていかなければならない奉仕が忘れられてしまうということです。

それは僕だけに限らず、私たちクリスチャンのすべてにいえることではないでしょうか。あっちで聖会があり、こっちで聖会がありと走り回るのは構いませんが、それによって毎日の、あるいは週ごとの務めが忘れられてしまう。神がご自身の血をもって買い取ってくださった神の教会こそが私たちの信仰生活の土台であるはずなのに、その土台をしっかりと築かないで全体的なことで走り回ってしまう。そういうことがあるのではないでしょうか。やはり私たちは日ごとの糧を、日ごとに神の前に出て祈ること、つまり祈りとみことばによって祭壇を築き、いつも聖霊に満たされることを求めていかなければなりません。

2.律法が適用される範囲(10-14)

次に10節から14節までをご覧ください。

「10 さて、イスラエルの女を母とし、エジプト人を父とする者が、イスラエル人のうちに出たが、このイスラエルの女の息子と、あるイスラエル人とが宿営の中で争った。11 そのとき、イスラエルの女の息子が、御名を冒涜してのろったので、人々はこの者をモーセのところに連れて来た。その母の名はシェロミテで、ダンの部族のディブリの娘であった。12 人々はの命令をまって彼らにはっきりと示すため、この者を監禁しておいた。13 そこで、はモーセに告げて仰せられた。14 「あの、のろった者を宿営の外に連れ出し、それを聞いた者はすべてその者の頭の上に手を置き、全会衆はその者に石を投げて殺せ。」

ここでポイントとなるのは、イスラエルの女を母とし、エジプト人を父とする者が、イスラエル人のうちから出るようになったが、その息子が御名を冒涜したことについて、どのような処罰が下されたかということです。

十戒の中には、「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。(出エジプト20:7)」とあります。そして具体的に、「神をのろってはならない。また、民の上に立つ者をのろってはならない。(同22:28)」という定めもあります。この律法が果たしてイスラエル以外の外国人にも適用になるのかということです。

ここには、「イスラエルの女を母としても、エジプト人を父とする者」とあります。イスラエル人のうちにこういう人たちが出ていました。出エジプト12章38節を見ると、イスラエルがエジプトを出てきた時に、多くの外国人も出て来たとあります。こうした外国人がイスラエル人と結婚することによって、このような人たちが大勢いたのです。

聖書では、父がイスラエル人であれば母が異邦人でも子供はイスラエル人ですが、その反対はイスラエル人にはなりません。それでイスラエル人ではない者に、イスラエルに対して与えられた神の律法が適用されるのかどうかが分からなかったので、人々は主の命令を待ちました。それで主からの答えはどういうものであったかというと、「石で打ち殺しなさい」というものでした。つまり、イスラエルの宿営にいる限り、異国人であってもイスラエルの律法が適用されるということです。

それはこの旧約聖書の律法が、そのままイスラエル以外の全人類に適用されるということなのでしょうか。そうです、それはイスラエルに限らず私たち全人類に対する神のみこころが示されたものです。しかし、その解釈は必ずしも文字通りではないということです。たとえば、律法では姦淫の罪を犯す者は石打ちに定められていました。しかし、イエス様は姦淫の現場で捕えられた女の罪を赦されました。イエス様は、「あなたがたの中で罪のない人からこの人に石を投げなさい」と言うたので、「わたしもあなたを罪に定めなさい」と言われ、彼女を赦されたのです。それは、義人はいない、一人もいないからです。聖書はすべての人が罪を犯したので神からの栄誉を受けることができない、とあります。姦淫についても実際に姦淫を犯したかどうかではなく、だれでも情欲を抱いて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯していると言われました(マタイ5:27)。兄弟に向かって「能なし」とか「ばか者」7というような者は人を殺していると言われました(同5:22)。そのような者は燃えるゲヘナに投げ込まれるのです。そういう意味ではだれも正しい人などいません。私たちに求められているのはただ悔い改め、神のみこころに歩もうとすることです。ですから、旧約の律法はすべての人に適用されますが、その意味、もしくは解釈は慎重になされなければならないということです。もしもし通りそれを解釈するならば、本来の神のみこころとはき全く違った方向に行ってしまうのです。ですから重要なことは肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって産まれることです。ヨハネ1章13節を開いてください。ここには、

「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」

とあります。もっぱら神によって生まれたのでない限り、血筋によっても、自分の人間的な頑張りによっても、また他の人が認知するにしても、決して神の子供になれません。

けれども、神の御霊によって生まれた経験を持たずして、あたかも神の家族の中に属しているように振舞ったらどうなるのでしょうか?普段は、それらしく振舞うことができても、いざその人の根幹に関わる事項で確執が起こった時に、その人はこれまで表向き信じていたという化けの皮が剥がれてしまいます。その時に、主ご自身を呪う言葉、あるいは言葉に表さなくても明らかに呪っている行動に出てくるのです。それがこのイスラエルの女を母とし、エジプト人を父とする息子の根本的な問題だったのです。

真に御霊による新生を体験している人は、どんなことをしても神を呪うことはできません。呪ったとしても、悔い改めに導かれるだけでしょう。イスラエルの宿営の中にいたそのエジプト人は、そのように表向きイスラエル人のように生きていただけであって、神によって生まれ変わってはいなかったのです。

私たちは、神はえこひいきをされる方ではないことを知っています。「患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうすべての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。神にはえこひいきなどはないからです。(ローマ2:9-11)」エジプト人だからと言って、異なる律法ではなく一つの定めしかなかったように、聖書や教会から遠く離れている人々に対して、神はご自分の聖さを引き下げることはなさいません。やはり罪人として裁かれます。したがって私たちは、全ての人に対してその人が罪から救われるように祈っていかなければならないのです。

3.目には目。歯には歯(15-23)

最後に15節から23節までをご覧ください。

「15 あなたはイスラエル人に告げて言え。自分の神をのろう者はだれでも、その罪の罰を受ける。16 の御名を冒涜する者は必ず殺されなければならない。在留異国人でも、この国に生まれた者でも、御名を冒涜するなら、殺される。17 かりそめにも人を打ち殺す者は、必ず殺される。
18 動物を打ち殺す者は、いのちにはいのちをもって償わなければならない。19 もし人がその隣人に傷を負わせるなら、その人は自分がしたと同じようにされなければならない。20 骨折には骨折。目には目。歯には歯。人に傷を負わせたように人は自分もそうされなければならない。21 動物を打ち殺す者の償いをしなければならず、人を打ち殺す者は殺されなければならない。22 あなたがたは、在留異国人にも、この国に生まれた者にも、一つのさばきをしなければならない。わたしはあなたがたの神、である。」23 モーセがこのようにイスラエル人に告げたので、彼らはのろった者を宿営の外に連れ出し、彼に石を投げて殺した。こうしてイスラエル人は、がモーセに命じられたとおりに行った。」

ここには、神を呪うものは、だれであっても、その罪の罰を受けなければならない、とあります。。たとえ、それが異国人であってもです。主の御名を冒涜する者は殺されなければなりません。そこにはイスラエル人と異国人の間に差別はありません。

りそめにも人を打ち殺す者があれば、その人は必ず殺されなければなりません。動物を打ち殺す者は、いのちにはいのちをもって償わなければなりません。もし人がその隣人に傷を負わせるなら、その人は自分がしたと同じようにされなければなりません。骨折には骨折。目には目。歯には歯。人に傷を負わせたように人は自分もそうされなければならないのです。動物を打ち殺す者は償いをしなければならず、人を打ち殺す者は殺されなければならない。自分がした行ないにしたがって、それと同じ報いを受けるように主は定めておられます。人のいのちを取るのならば、自分のいのちが取られます。目には目、歯には歯、傷には傷です。それが聖書の原則です。

神は、罪を犯した者に対して、そのさばきを曲げるようなことはなさいません。これは新約聖書でも同じです、ユダヤ人でもギリシヤ人でも、すべての人が罪を犯し、すべての人が神の前で有罪とされている、とパウロは言っています。しかし、イエスはこれとは違うことを教えられました。マタイの福音書5章38-48節です。

「38 『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。41 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょにニミリオン行きなさい。42 求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。46 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。48 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」

これはいったいどういうことでしょうか。イエス様はここで、この旧約聖書の真意がどういうことなのかを教えてくださったのです。すなわち、それは敵を愛するということです。もし私たちが人を憎いと思ったら、『殺してはならない』という律法を実際に犯してしまうことになります。また、情欲を持って女性を見たならば、それは実際に姦淫を犯したのと同じです。その同じ文脈の中でイエス様はこう言われたのです。「『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。41 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょにニミリオン行きなさい。42 求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。」

これはなかなかできることではありません。というか、できないでしょう。どうですか。私の知っているアーサー・ホーランドという伝道者は、『右の頬を打たれたら、左の頬も向けなさ いなんて、俺にはできない。俺は殴られたら何倍にもして返して、ボコボコにしてから、神よ彼を哀れみたまえって祈る』と言っています。でも、それが本音ではないでしょうか。だって、普通に考えても、右の頬を打たれたら、反射的に殴り返そうとするのが普通です。皆さんも小さい頃によくけんかをしたことがあるかと思いますが、ケンカをして泣きながら家に帰ると親は何と言いましたか。「いいから、殴り返してらっしゃい !」って言われませんでしょうか? また、すごく強い復讐心を持っている方もまれにいますよね。「自分がこんな風になったのは例えば、親のせいだ!」と思って、いつか復讐してやると心に誓って生きている人って少なくありません。やられたらやり返す。二倍にして。そう、倍返しです。それが現実の私たちの姿だと思います。

実は神様もそういう方です。そういうと皆さんびっくりするかもしれませんが、神様の原則のひとつに『刈り取りの原則』があります。種を蒔けばその実を刈り取るという原則です。 

「人は種を捲けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、 肉から滅びを刈り取り、」(ガラテヤ6:7b‐8a)

「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23a)

しかしこれら二つのことばはここで終わってはいません。続きはなんと言っているかというと、こうです。

「人は種を捲けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、 肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」ガラテヤ6:7b‐8

「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は私たちの主キリスト・イェスに ある永遠のいのちです。」ローマ6:23a 

これら二つの聖書のことばは何を言っているのでしょうか? それは、わたしたちは自分の罪の刈り取り、神からの復讐を受けなくてはならない存在なのに、 神はイエス・キリストの十字架での死によって、私たちが受けなければならない刑罰のすべてを身代わりに受けてくださり、私たちの代わりとしてくださったということです。ただそのことを信じるだけで、永遠のいのちを与えられるようになったということです。神はそのひとり子であるイエスを犠牲にしてまで私たちを愛し、救いを用意してくださったのです。神の愛はそこまで深く、完全なのです。

だから、あえて神はわたしたちに自分で復讐をするなといっているのです。復習は神に任せなさい・・・と。「愛する人たち。自分で復讐してはいけません 。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」 (ローマ12:19)

神は復讐されるべきあなたを自分の御子を犠牲にするほどの愛で愛してくださっているのだから、復讐はしなくてもいいだろう?とわたしたちの語っているのです 。別の箇所で次のように言っています。

神が復讐よりも私たちに求めておられることは愛することなのです。神と同じ完全な愛で他人を愛することだったのです。自分を愛する者を愛することは誰にでもできます。そんなのは神を信じていない異邦人でもできます。しかし、神が完全であるように私たちも完全でなければなりません。つまり、自分に敵対する者を愛し、迫害する者のために祈ってこそ天の父の子どもだと言えるのです。

ですから、旧約の律法で「目には目を・・」とありますが、神が私たちに求めておられることは、天の父と同じように完全であることです。復讐は神に任せて、自分の敵を愛すること、迫害する者のために祈ること、それが神の求めておられることなのです。確かに、私たちは自分のした行為に応じて報いを受けなければならない者です。しかし、そんな者を神は赦してくださいました。神は御子イエス・キリストによって、私たちにいのちを与えてくださいました。ですから、私たちは目には目をという原則を聞いていますが、それよりもはるかにまさる神の愛に生きることこそ、神が私たちに求めておられることなのです。

レビ記23章23~44節

きょうはレビ記23章後半部分からお話します。23章には、イスラエルが守るべき主の例祭について教えられています。全部で七つあります。それは、過ぎ越しの祭り、種を入れないパンの祭り、初穂の祭り、七週の祭り(ペンテコステ)、ラッパを吹き鳴らす聖なる会合、贖罪の日、仮庵の祭りです。前回はこのうち最初の四つの祭りについて学びました。これらはいったい何を表していたのでしょうか。過ぎ越しはキリストの十字架の贖いを表していました。また、種なしパンの祭りは罪なきキリストご自身、あるいは、キリストによって罪が取り除かれたことの感謝を、初穂の祭りは復活の初穂としてのキリストです。そして七週の祭り、五旬節は聖霊降臨でした。それらはすべて春の収穫を祝う祭りですが、キリストがこの歴史に現れたことによってすでに成就した出来事です。

コロサイ2章16~17節には、「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」とありますが、これらの祭りはすべてイエス・キリストを指し示すものであって、次に来るものの影だったのです。

そしてきょうは残りの三つの祭りについて学びます。すなわち、ラッパを吹き鳴らす聖なる会合、贖罪の日、仮庵の祭りです。先の四つの祭りは春の収穫を祝う祭りであったのに対して、残りの三つの祭りは秋の収穫を祝う祭り、秋の祭りです。それは「第七の月」つまり九月から十月にかけて行われる祭りなのです。そして、春の祭りがキリストが初めに来られた時に成就した出来事を示していたのに対して、この秋の祭りはキリストが再び来られる時に成就する出来事を示しています。ですから、私たちは今、ちょうどその中間地点にいるわけです。その間主は農夫と同じように、秋の収穫のために実が結ぶのをじっと待っておられます。そして、実が結ぶようにと、細心の注意を払って作物を育てておられるのです。私たちは、キリストが戻って来られる日に備えて、自分の生活において実を結んでいるかどうかを吟味し、主がいつ戻って来られてもいいようによく備えておかなければなりません。

1.ラッパを吹き鳴らす日(23-25)

それでは23節から25節までをご覧ください。

「ついではモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。第七月の第一日は、あなたがたの全き休みの日、ラッパを吹き鳴らして記念する聖なる会合である。どんな労働の仕事もしてはならない。火によるささげ物をにささげなさい。」

秋の祭りは、ラッパを吹き鳴らして記念する聖なる会合から始まります。このラッパを吹き鳴らす日とはいつのことを指しているのでしょうか。ラッパは、大抵、雄羊の角で作られていましたが、それはイスラエルの民が一箇所に集まったり、荒野の旅において出発したり、あるいは戦争を始めたりした時に吹き鳴らされました。しかし、ここで最も重要なことは、これが世の終わりに吹き鳴らされるラッパであるということです。ヨエル2章1~3節をご覧ください。

「シオンで角笛を吹き鳴らし、わたしの聖なる山でときの声をあげよ。この地に住むすべての者は、わななけ。主の日が来るからだ。その日は近い。やみと、暗黒の日。雲と、暗やみの日。山々に広がる暁の光のように数多く強い民。このようなことは昔から起こったことがなく、これから後の代々の時代にも再び起こらない。彼らの前では、火が焼き尽くし、彼らのうしろでは、炎がなめ尽くす。彼らの来る前には、この国はエデンの園のようであるが、彼らの去ったあとでは、荒れ果てた荒野となる。これからのがれるものは一つもない。」(ヨエル2章1節-3節)

これは世の終わりを預言したヨエルの預言です。それは「主の日」という言葉で表されています。その日が近い・・・と。それはやみと、暗黒の日、雲と、暗やみの日です。これから後にこのようなことは起こりません。これからのがれるものは何一つないのです。それは世の終わりの神のさばきの日だからです。その日が来る時、角笛を吹き鳴らさなければならないのです。

これは明らかにテサロニケ人への手紙にある「最後のラッパ」とつながりがあります。Ⅰテサロニケ4章16-17には、「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下ってこられます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」とあります。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。つまり、これはキリストの『空中再臨』(携挙)という出来事において成就することなのです。

また、Ⅰコリント15章51-52節には、「復活(終わり)のラッパ」について語られています。「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」終わりのラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

また、これは、エリコ陥落の際に吹かれた角笛と同じです。ヨシュア6章3~4節には、「あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。」とあります。

この時吹かれた角笛(ラッパ)は、後に起こることの『影』でした。本体は、黙示録11:15にあります。「第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」

「そこで、民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴らした。民が角笛の音を聞いて、大声でときの声をあげるや、城壁がくずれ落ちた。そこで民はひとり残らず、まっすぐ町へ上って行き、その町を攻め取った。」(ヨシュア6:20)

民がラッパを吹き鳴らしたとき、城壁が崩れ落ちたように、神の御使いがラッパを吹き鳴らすと、空中の権威を持つ支配者(エペソ2:1)、暗やみの世界の支配者たち(エペソ6:12)の陥落し、この世の国はキリストのものとなるのです。

ですから、このラッパは、キリストが花婿として花嫁(教会)を迎えに来る時(空中再臨)に、「いってらっしゃい。/今、迎えに出ましたよ。」の合図として、花婿の父(御父)が吹くラッパなのです。Ⅰテサロニケ4:16のラッパは、まだ『携挙』は起きてないのでまだ吹かれていませんが、その日が刻一刻と近づいています。私たちはみな、いつこの角笛が、ラッパが鳴ってもいいように、準備していなければなりません。

2.贖罪の日(26-32)

次に、贖罪の日についてみていきたいと思います。26節から32節をご覧ください。

「ついではモーセに告げて仰せられた。 「特にこの第七月の十日は贖罪の日、あなたがたのための聖なる会合となる。あなたがたは身を戒めて、火によるささげ物をにささげなければならない。その日のうちは、いっさいの仕事をしてはならない。その日は贖罪の日であり、あなたがたの神、の前で、あなたがたの贖いがなされるからである。その日に身を戒めない者はだれでも、その民から断ち切られる。その日のうちに仕事を少しでもする者はだれでも、わたしはその者を、彼の民の間から滅ぼす。どんな仕事もしてはならない。これは、あなたがたがどこに住んでいても、代々守るべき永遠のおきてである。これは、あなたがたの全き休みの安息である。あなたがたは身を戒める。すなわち、その月の九日の夕方には、その夕方から次の夕方まで、あなたがたの安息を守らなければならない。」

第七の月の十日は大祭司が年に一度、至聖所に入って務めを果たす特別な日です。それは「贖罪の日」(ヨム・キプール)と呼ばれています。この贖罪の日については、すでに16章で学びました。最初に大祭司が自分の罪のためのいけにえとして雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをします。次にアロンは二頭の山羊を取り、一頭は主のため、もう一頭はアザゼルのためとし、主のためのやぎはほふられて、雄牛と同じようにその血を至聖所に携えて行き、イスラエルの罪の贖いとして贖いのふたに注がれました。大祭司はいけにえの雄牛とやぎを順番に殺し、それぞれの血を持って神殿の一番奥の至聖所に入り、モーゼの十戒が納められていた聖なる箱の上の「贖いのふた」の上に七回ずつ振りかけます。最後に大祭司は身代わりのやぎの頭に手を置いて全ユダヤ人の罪を告白します。身代わりのやぎは荒野へ放されます。これが「スケープゴート」の語源です。

いったいこれは何を表していたのでしょうか。これは私たちの罪が天の御座において永遠に赦されていることを示すものです。この箇所では、「身を戒める」ことが強調されています。これは断食のことです。主から罪の赦しと清めをいただくために、彼らは自分の罪を深く悔い改めることが求められました。それを断食という形で表したのです。また、この日にはいっさいの仕事をしてはいけませんでした。これは、キリストの救いの完成を表しているからです。救われるために私たちが行なうべきことは何一つありません。それを全き安息によって表しているのです。

それにしても、なぜ雄牛の血と山羊の血が流されなければならなかったのでしょうか?出エジプト記12章の過ぎ越しにおいて用いられたものは一歳の雄の羊でした。しかも全く傷のない・・。しかし、ここでは羊ではなく雄牛であり、雄やぎです。なぜ羊ではなかったのでしょうか。へブル9章7節を見てみましょう。ここには、『第二の幕屋 [至聖所] には、大祭司だけが年に一度だけ入ります。そのとき、血を携えずに入るようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪(burut)のためにささげるものです。』とあります。キリストの血は私たちのすべての罪を洗い流します。自分で知っている罪も知らないで犯した罪もです。

調べてみると、ヘブライ語では罪を表す単語が三つあります。一つは“ペシャ(pesha)”で、もう一つは“ケット(chet)”、そして三番目は“ブルット(burut)”です。ペシャは、ギリシア語でこれに相当する言葉は“ハマルティア(hamartema)”です。意味は的外れです。それに対し“ケットは、“行き過ぎる”という意味です。つまり、罪の行為を表しています。それに対して“ブルット(burut)”は、知らずに犯した罪”を表しています。そしてこのへブル9章7節の「民が知らずに犯した罪」ということばは、このブルット(burut)が使われているのです。つまり、大祭司が年に一度だけ至聖所に入り罪の贖いをしたのは、知っていながら犯した罪と、知らずに犯してしまった罪のすべてのためであったということです。もちろん、子羊の血が流されたことによって、その血を受け、それをかもいと門柱に塗られているということの前提(救われる前の罪が赦されたということ)があってのことですが・・・。ですから、子羊の血、雄牛の血、雄山の血はそれぞれ、私たちの罪のすべてが神の前に洗い聖められたことを表しているのです。イエスの血はその両方の罪をも私たちを神から遠ざけ、てくださいました。イエスの血はすべてのものに有効なのです。このために子羊の血と山羊の血がささげられなければならなかったのです。こうして贖罪の日には、キリストの血が私たちのすべての罪を清めてくれたことを表しているのです。ちなみに、雄牛の血がささげられたのは、強いものが弱いもののために死ぬことを表していました。

そしてこれはイスラエルの救いだけでなく、キリストの再臨と大きく関係があります。救われていない人たちに子羊の血について知らせる必要があるのは事実です。しかし山羊の血についても同様に知らせなければなりません。私たちはみな山羊の血も必要としています。イエスの血は犯したすべての罪だけでなく、知らずに犯したすべての罪からも私たちをきよめてくださるのです。イエスの再臨に備えるために、ただ未信者が悔い改める必要があるというだけでなく、私たちも悔い改める必要があるのです。

3.仮庵の祭り(33-44)

最後に仮庵の祭りを見ていきたいと思います。

「ついではモーセに告げて仰せられた。 「イスラエル人に告げて言え。この第七月の十五日には、七日間にわたるの仮庵の祭りが始まる。最初の日は聖なる会合であって、あなたがたは、労働の仕事はいっさいしてはならない。七日間、あなたがたは火によるささげ物をにささげなければならない。八日目も、あなたがたは聖なる会合を開かなければならない。あなたがたは火によるささげ物をにささげる。これはきよめの集会で、労働の仕事はいっさいしてはならない。以上がの例祭である。あなたがたは聖なる会合を召集して、火によるささげ物、すなわち全焼のいけにえ、穀物のささげ物、和解のいけにえ、注ぎのささげ物を、それぞれ定められた日に、にささげなければならない。このほか、の安息日、また、あなたがたがにささげる献上物、あらゆる誓願のささげ物、進んでささげるあらゆるささげ物がある。特に、あなたがたがその土地の収穫をし終わった第七月の十五日には、七日間にわたるの祭りを祝わなければならない。最初の日は全き休みの日であり、八日目も全き休みの日である。最初の日に、あなたがたは自分たちのために、美しい木の実、なつめやしの葉と茂り合った木の大枝、また川縁の柳を取り、七日間、あなたがたの神、の前で喜ぶ。年に七日間、の祭りとしてこれを祝う。これはあなたがたが代々守るべき永遠のおきてとして、第七月にこれを祝わなければならない。あなたがたは七日間、仮庵に住まなければならない。イスラエルで生まれた者はみな、仮庵に住まなければならない。これは、わたしが、エジプトの国からイスラエル人を連れ出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたがたの後の世代が知るためである。わたしはあなたがたの神、である。」こうしてモーセはイスラエル人にの例祭について告げた。について次に9-14節をご覧ください。ここには、初穂の祭りについて記されてあります。」

仮庵の祭りは、43節にあるように、イスラエル人がエジプトを出た後の40年間を荒野で過ごしたことを思い出し、無事に約束の地に入ることができたことを仮の住まいに住むことによって思い出しました。それは同時に、人は肉体という「仮庵」に70~90年間住むだけの存在であり、主の恵みなしには生きていくことはできないということを覚える時でもあります。

また、仮庵の祭りは、主イエスが地上に来られた事を象徴する祭りでもあります。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネによる福音書1章14節)

この「住まわれた」は、「仮庵となられた」ということを意味します。神はメシアであるイエスを地上に送って下さる事により、神と人との和解をもたらされました。ですから、仮庵の祭りは、和解の祭りでもあります。神と人、ユダヤ人と異邦人の和解を祈り願うことも大切です。

そればかりではなく、仮庵の祭りは、その年のすべての収穫の完了を祝う祭りでもあります。救いの完成の型でもあるのです。ヨハネの黙示録21章3節には 「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らと共に住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、…」 とあります。

この「神の幕屋」とは仮庵のことです。終わりの時、艱難時代の後にキリストが統治される千年王国が来ますが、その時、全世界の人々が仮庵の祭りを祝うために、エルサレムに代表を送るとあります。(ゼカリヤ書14章16節)つまり、仮庵の祭りとは、再臨を指し示す重要な鍵となっているのです。

神様は旧約の時代から、繰り返し、繰り返し、様々な方法で終わりの時代の事を示してくださっています。エジプトで仮庵(テント)で暮らしたことから始まり、この地で歩まれたキリスト、そして千年王国の到来の喜び。すべてがつながっています。そのすべての喜びを、この祭りによって祝うのです。それが40節にある内容です。この仮庵の祭りが、春の過越の祭りから始まる一連の主の例祭の締めくくりとなるのです。

ところで、イエス様は、この仮庵の祭りの最終日に、有名な言葉を言われました。ヨハネ7章37節~39節です。

「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」(37-39節)

この祭りとは仮庵の祭りです。この祭りの終わりの多いなる日にというのは、この祭りの終わりの日の最高潮に達する日、祭りが最も盛大な時に、イエス様はこういわれたのです。この祭りの終わりの日にはどんなことが行われたのでしょうか。この日には「水取りの儀式」というのがあったようです。イスラエルの民が荒野で40年間放浪の旅をしたとき、神がにがい水を甘い水に変えてくださったことや、モーセをとおして岩から水を出してくださった出来事を思い出しながら、かつて神が神の民の渇きをいやしてくださったことを思い起こし、そのことに感謝しながら、神の救いの完成を待ち望みながら、大祭司がきれいな祭服を着て金の柄杓をもってシロアムの池から汲んだ水を神殿に向かって運びました。行列になって・・・。イエスはそれを群集とご覧になりながら、「聖書のことばにあるように」とあるように、旧約聖書のある歌を引用してこう言ったのです。そのことばとは、イザヤ書イザヤ12章3節のみことばです。そこには、こう歌われています。「あなたがたは喜びながら、救いの泉(井戸の水)から水を汲む。その日あなたがたは言う。主に感謝せよ。・・」有名な「マイム・マイム」の歌です。キリストはこの「水を捧げる祭り」と、「生ける水の川」とを重ね合わせながら、真の生ける水は、後に与えられる聖霊であると証されたのです。 この水を捧げる祭りについては、大変な歓喜が伴ったようで、ユダヤ教の口伝律法の一つであるミシュナーにも「水を汲み出すこの祭りを見ていない者は、人生の喜びを知らない者である。」と述べているほどです。この仮庵の祭りの中で行われる行事は別名「シムハット・ベイト・ハ・ショエイヴァー」(水を汲み出す場所での喜び)とも言われています。(Wikipedia “Simchat Beit HaShoeivah”より引用)

これは千年王国の時に、御霊がこの地上に豊かに注がれることを預言しています。「わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。(イザヤ44:3)」御霊が注がれると、荒地が潤いを取り戻すという約束ですが、イエス様はこの約束を御霊の初穂である、私たち信じる者に対して与えておられます。

終わりの日には主がこの地に御霊を注がれ、この地を回復されますが、その前に私たちの心の奥底に、生ける水の川として、その潤いをほとばしる形で与えてくださると約束しておられるのです。私たちが心の中に与えておられる祝福を、私たちは後の世では全世界的に見ることができるようになるのです。私たちはその日がやってくることを信じ、それを待ち望む者でありたいと思います。