イザヤ66:6-17レジュメ

「エルサレムとともに喜べ」

イザヤ66:6-17

 Ⅰ.新しい神の民イスラエルの誕生(6-9)

 「彼女は産みの苦しみをする前に産み、陣痛の起こる前に男の子を産み落とした。だれが、このような事を聞き、だれが、これらの事を見たか。地は一日の陣痛で産み出されようか。国は一瞬にして生まれようか。ところがシオンは、陣痛を起こすと同時に子らを産んだのだ。」(7-8)

 これはいったいどういうことか。「彼女」とはシオンのこと、その彼女から産み落とされる子とは新しい神の民イスラエルのことである。世の終わりになると、シオンから一瞬にして新しい国、民族が産み落とされる。このシオンとは神の臨在と支配、そして礼拝の中心となるところである。それは教会のことを指していると言ってもいい。もちろん、それは第一義的にはキリストのからだなる天上の教会のことであるが、その現れである地上の教会のことでもある。この教会を通して、主は新しい神の民である霊的イスラエル(クリスチャン)を産み出すというのだ。しかも一瞬のうちに・・。地上の教会を見る限り欠陥だらけで、時にはみすぼらしいと感じることさえあるが、この教会を通して主は新しいイスラエルを産み出される。それは教会に福音宣教がゆだねられているからである。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって救いを得させる神の力である。この福音のゆえに、教会を通して新しいクリスチャンが産み出されるのである。

あなたはその聖なる共同体である教会を愛し、教会に仕えておられるだろうか。教会を通して与えられる神の恵みを体験しておられるか。神はシオンを通して新しい神の民を産み出してくださる。その神のみわざにともにあずかろうではないか。

Ⅱ.エルサレムとともに喜べ(10-14)

 「エルサレムとともに喜べ。すべてこれを愛する者よ。これとともに楽しめ。すべてこれのために悲しむ者よ。これとともに喜び喜べ。」(10)敵の攻撃を受け荒廃していたエルサレムが回復し、栄光に輝く。そのエルサレムとともに喜べと勧められている。なぜなら、彼らは彼女の慰めの乳房から乳を飲んで飽き足り、その豊かな乳房から吸って喜んだからだ。彼らは幼子が母親の乳房からおっぱいを飲んで満ち足りるように、神の豊かな乳房から飲んで喜んだ。かつて神はアブラハムに「エルシャダイ」としてご自身を現されたが、これは母親の乳房が語源になっている。私たちの神はおっぱいの神であって、幼子が母親の乳房から吸って満足するように完全な満足を与えてくれる全能の神なのである。

それゆえに神は、「母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる。」(13)人はだれでも慰めを必要としている。その慰めはいったいどこにあるのだろうか。主は私たちにこう呼びかけておられる。「わたし、このわたしが、あなたがたを慰める。あなたは、何者なのか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子をおそれるとは。」(51:12)あなたは何を恐れていますか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れる必要など全くない。なぜなら、神があなたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められるからだ。

 Ⅲ.敵を激しく怒られる主(15-17)

 けれども、神に敵対する者に対してはそうではない。「まことに、主は火の中を進んで来られる。その戦車はつむじ風のようだ。その怒りを激しく燃やし、火の炎をもって責め立てる。」(15)その敵とは、具体的には「おのが身を聖別し、身をきよめて、園に行き、その中にある一つのものに従って、豚の肉や、忌むべき物や、ねずみを食らう者たち」(17)である。すなわち、表面的には敬虔に神に仕えているようでも、実際には偶像に仕えている者たちのことである。彼らは神のことばを悟らす、自分勝手な信仰、自分勝手な礼拝を求めて走り回っている。そのような高慢を遠ざけなければならない。そして、神のみことばにおののき、エルサレム(教会)とともに喜び、神の喜びと平安、慰めと満たしを経験させていただく者でありたい。

イザヤ書66章6~17節「エルサレムとともに喜べ」

イザヤ書の最後の章を学んでいます。きょうは6節から17節までのみこばから、「エルサレムとともに喜べ」というタイトルでお話します。この66章は65章の続きです。「主よ、いつまでですか」(6:11)というイザヤの質問に対して、主はエルサレムの荒廃とさばきのメッセージを語りますが、それで終わりではありません。その先に新しいイスラエル、霊のイスラエルがエルサレムとともに喜ぶ日がやってくることが示されます。きょうは、それがどれほどの喜びなのかをみことばからご一緒に見ていきたいと思います。

Ⅰ.神の民の誕生(6-9)

まず、6節から9節までをごらんください。 「聞け。町からの騒ぎ、宮からの声、敵に報復しておられる主の御声を。彼女は産みの苦しみをする前に産み、陣痛の起こる前に男の子を産み落とした。だれが、このような事を聞き、だれが、これらの事を見たか。地は一日の陣痛で産み出されようか。国は一瞬にして生まれようか。ところがシオンは、陣痛を起こすと同時に子らを産んだのだ。「わたしが産み出させるようにしながら、産ませないだろうか」と主は仰せられる。「わたしは産ませる者なのに、胎を閉ざすだろうか」とあなたの神は仰せられる。」

ここには、キリストが再臨される時の様子が語られています。キリストが再臨される時、キリストその敵に報復されます。それで町には騒ぎが、宮からは声が聞こえて来るのです。しかし、エルサレムはすみやかに回復されます。7節を見ると「彼女は産みの苦しみをする前に産み、陣痛の起こる前に男の子を産み落とした」とあります。「彼女」とはもちろんシオン、エルサレムのことです。シオンが産みの苦しみが臨む前に産み、陣痛が起こる前に男の子を産み落とすのです。これはどういうことかというと、8節を見るとわかります。

「地は一日の陣痛で生み出されようか。国は一瞬にして生まれようか。ところがシオンは、陣痛を起こすと同時に子らを産んだのだ。」

これはシオンがその子ら、すなわち神の民を産み出すという預言です。それは一瞬のうちになされます。「陣痛が起こる前に、一日の陣痛で、陣痛を起こすと同時に」産まれるのです。私は出産をしたことがありませんが、出産の前兆である陣痛がないまま出産できたらどれほど楽でしょうか。そのように神の民は一瞬にして産み出されるのです。あなたが新しく生まれた時も同じです。あなたはイエスさまを救い主と信じた瞬間に新しく生まれました。

ヨハネの福音書3章を見ると、ニコデモはイエスさまに尋ねます。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」(ヨハネ3:4)と。  するとイエス様は答えて言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」(ヨハネ3:5)

皆さん、人は水と御霊によって生まれなければ、神の国を見ることはできません。肉は神の国を相続することができないからです。ですから、御霊によって生まれなければ、だれも神の国に入ることはできないのです。御霊によって生まれるとは、御霊のことばである聖書のことばを聞き、それを信じて受け入れることです。あなたが神の国に入るには、あなたが幼子のようにへりくだり、神のことばを聞き、そこにある神の救いを受け入れなければならないのです。そうすれば、あなたもその瞬間に新しく生まれ変わります。そして、神の国に入ることができるようになるのです。

ところで、ここにはシオンが産み出すとあります。シオンとはエルサレムのことです。神の臨在とご支配のあるところを意味しています。それは何を指しているのでしょうか。教会です。神の祝福は教会を通して流れるのです。もちろんそれはキリストのからだである天上の教会のことですが、それと同時に、この地上の教会のことであもあります。なぜなら、この地上にある一つ一つの教会はどんなに小さく、欠陥があったとしても、それは天上の教会の現れだからです。ですからイエスさまは、「何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。」(マタイ18:18)と言われたのです。「まことにあなたにもう一度告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんなことでも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしのなにおいて集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:19-20)  何ということでしょうか。こんな欠陥だらで、不完全な教会でも、この地上に立てられた教会のふたりが、どんなことでも、心を一つにして祈るなら、天におられる私たちの神様は、それをかなえてくださるのです。この地上の教会の私たちがつなぐなら、それは天においてもつながれており、解くなら、それは天においても解かれているのです。この地上の教会をみる限りほんとうにみすぼらしいと感じることさえありますが、でも主はこの地上の教会が解くなら、解かれ、つなぐならつなぐと仰せになられました。この地上の教会はどんなに小さくとも、そこにキリストが満ちておられ、この教会を通して新しく救われる人たちを起こしてくださるのです。だから教会が大きいか小さいかということは全く関係ありません。大切なのは、そこにキリストのいのちが流れているかということです。キリストのいのちはキリストにとどまり、キリストのことばに従うところに流れます。イエスさまは言われました。

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)

また、こう言われました。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(ヨハネ15:7)

ですから、キリストのことばに従い、キリストにとどまるなら、そこにキリストのいのちが溢れるようになります。たとえその教会がどんなに小さくとも、この地上の教会のふたりが、心を一つにして祈るなら、天におられる私たちの神は、それをかなえてくださるのです。私たちの教会を通して、神の祝福が流れるようになるのです。神の民が生み出さるのです。

それゆえ、3世紀の有名な教父キプリアヌスは(Thascius Caecilius Cyprianus)は、「教会の外には、救いはない」と言ったのです。もちろん、救いは主のわざであり、産み出される方は神ご自身です。しかし、神は教会を通してそれを行ってくださるのです。ですから彼は、「教会の外には、救いはない」と言ったのです。  また、あの有名な宗教改革者マルチン・ルターはこう言いました。「教会の外には、望みもなく、罪の赦しもない。永遠の死とさばきがあるのみである。」そこまで言い切ったのです。なぜなら、教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところだからです。そして、教会には福音を宣べ伝える使命がゆだねられているからです。ですから、イエスさまはペテロに「わたしは、あなたに天の御国のかぎをあげます。」(マタイ16:19)と言われたのです。何を血迷ったのか、ローマカトリック教会はローマ教皇こそがこのペテロの後継者であると主張し、教皇をあたかも神のように敬っていますが、そういうことではありません。これは、「あなたは生ける神の子キリストです」と言ったペテロの信仰告白を指しているのです。イエスさまはその岩の上にわたしの教会を建てると言われたのです。そのような信仰告白の上に立てられた教会は、ハデスの門もそれに打ち勝つことはできないのです。それは教会には福音を宣教するという使命がゆだねられているからです。神は教会を通して救われる人を生み出しておられるのです。そういう意味で、マルチン・ルターが言ったことはあながち間違いではないのです。教会はこの福音を宣べ伝えているがゆえに救いがあるのです。

皆さんはどうでしょうか。こうした教会の理解の上に立って、教会を愛し、教会に仕えておられるでしょうか。教会を通してなされる神の救いのみわざに取り組んでおられるでしょうか。教会を通して生み出される新しい神の民を待ち望み、福音を宣べ伝えておられるでしょうか。「シオンは、陣痛を起こすと同時に子らを産んだのだ。」このすばらしい恵みに、私たちも加わらせていただきましょう。

Ⅱ.エルサレムとともに喜べ(10-14)

次に10節から14節までをご覧ください。10節には、「エルサレムとともに喜べ。すべてこれを愛する者よ。これとともに楽しめ。すべてこれのために悲しむ者よ。これとともに喜び喜べ。」とあります。

ここには、「喜べ」とか「楽しめ」という言葉が何回も出てきます。新しい神の国の中心であるエルサレムが喜びと楽しみの所となります。それまで荒廃していたエルサレムが回復し、栄光に輝くようになるからです。すべてこれを愛する者、すべてこのために悲しんだ者が慰めを受けるようになり、喜びにあふれるようになります。

それは11節にあるように、赤ちゃんが母親の乳房から飲んで飽き足りるかのようです。皆さん、赤ちゃんがお母さんのおっぱいを飲んでいる姿を見たことがありますか。赤ちゃんはそれさえあれば満足です。安心してぐっすり休みます。おっぱいは赤ちゃんにとってオールマイティなのです。それさえあれば満足します。そのような満足が与えられます。

おもしろいことに、かつて主はアブラハムに「エル・シャダイ」としてご自身現わされましたが、この「エル・シャダイ」とは母親が赤ん坊に乳を飲ませることがその語源となっています。「エル」は神、「シャダイ」は女性の乳房を指す言葉です。言わば、神はおっぱいの神です。赤ちゃんはそれさえあれば十分に満ち足ります。おっぱいを飲んでいれば大喜びなのです。ここで言われていることはそういうことです。おっぱいを通して赤ちゃんのすべての必要が満たされるように、神はご自身の民のすべての必要を満たしてくださるのです。

12節から14節をご覧ください。 「主はこう仰せられる。「見よ。わたしは川のように繁栄を彼女に与え、あふれる流れのように国々の富を与える。あなたがたは乳を飲み、わきに抱かれ、ひざの上でかわいがられる。母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる。あなたがたはこれを見て、心喜び、あなたがたの骨は若草のように生き返る。主の御手は、そのしもべたちに知られ、その憤りは敵たちに向けられる。」

12節の「繁栄」と訳されている言葉は「シャローム」ということばです。これはあらゆるわざわいから解放された平和な状態を表しています。新しいエルサレムはまさに川のような繁栄と平和が与えられ、あふれる流れのような富がもたらされます。

「あなたがたは乳を飲み、わきに抱かれ、ひざの上でかわいがられる。」また乳が出てきています。あなたがたはおっぱいを飲み、わきに抱かれて、ひざの上でかわいがられる。つまり、神は母親が赤ちゃんを完全に養い、保護するように、イスラエルを完全に守られるのです。

13節を見てください。「母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる。」それは母に慰められる者のようです。ここには「慰め」という言葉が3回も使われています。母親は慰めに満ちています。子どもが痛い思いをしたらどこに行くでしょうか。大抵は母親のところに行きます。なぜなら、慰めてくれるからです。滑り台から落ちて、ブランコから落ちて、テーブルにつかまり立ちしていたら落ちてあびをぶつけたとき、ワンワン泣くと、お母さんのところに行きます。お父さんのところには行きません。お父さんは慰めことを知らないからです。「何やってんの。ちゃんとつかまってないからだよ。」なんて冷たい言葉を発します。あっ、お母さんも言いますね。でもその後の対応が違います。 「何やっての。ちゃんとつかまっていないからよ。」 「しょうがないわね。」 「痛い、痛い、痛かったね。」 「痛いの、痛いの飛んで行け!」 「ほら、もう直った。よかったね」 なんて言って慰めてくれます。やっぱりお母さんです。お母さんは慰めに満ちています。私たちの神はお父さんのような力強さもありますが、お母さんのような優しさも持っておられる方です。あなたを慰め、あなたの必要を満たしてくださるのです。

皆さん、いったいどこに慰めがあるのでしょうか。人はみな慰めを必要としています。みなさんの中に「私は慰めがいらない」という人がいるでしょうか。誰もいないと思います。私たちは、生きている限りさまざまな困難にぶつかります。多くの人が、仕事のことや家庭のこと、人間関係のこと、自分の健康のことなど、さまざまな問題を抱えながら生きているのです。元気で活動的な人でも、身近に自分の悩みを打ち明けることのできる人がいなければ、やはり孤独に陥るでしょう。そんな時、いったい私たちはどこに慰めを見いだすことができるのでしょうか。

ある人は慰めを求めて、エンターテーメントに走ります。それもいいでしょう。しかし、こうしたエンターテーメントは一時的な気晴らしにはなっても、真の意味で人の心を深く慰めることはできません。エンターテーメントで満足できないと、人はやたらと高価なものを買ったり、お酒やギャンブル、ドラッグと、もっと強い刺激を求めて走り回りますが、こうしたものも一時的には渇きをいやしてくれても真の満足は与えることはできません。それは慰めるどころか、もっとひどい状態に引きずり込んでしまうこともあります。ではほんとうの慰めはどこにあるのでしょうか。

ここには、「わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる。」とあります。慰めてくださるのは神です。「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」(40:1)という言葉をもって始まるこのイザヤ書の後半部分には、その神の慰めが随所に語られています。(49:13、51:3、52:9他)まことに神は慰めの神です。その神がイスラエルだけでなく、今の時代を生きる私たちクリスチャンにも与えられているのです。キリストはこのように言われました。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

人は、さまざまなところに慰めを求めます。しかし、神以外のところに本当の慰めはありません。神の慰めは母親が赤ん坊を扱うようにやさしく、温かいものですが、同時に力あるものです。それは、いったん亡びた国をよみがえらせるほどの力です。罪の中に死んでいた者をそこから引き上げることのできるほどの慰めなのです。神が、この慰めを与えてくださるのに、どうして私たちは、慰めにもならないものを求め、救いにもないところに行くのでしょうか。神の救いと慰めを知っていながら、なんの救いも慰めもないかのように嘆くのでしょうか。イザヤ51章12節で、主は、私たちに呼びかけておられます。「わたし、このわたしが、あなたがたを慰める。あなたは、何者なのか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れるとは。」ほんとうの慰め主のところに行きましょう。このお方を信じ、このお方から深く、大きい慰めを受け取りましょう。

1977年11月15日、土曜日、新潟市で、学校のクラブ活動を終えたひとりの女子中学生が忽然(こつぜん)と姿を消しました。横田めぐみさんです。警察の必死の捜査にもかかわらず、彼女の行方は全くわかりませんでした。母親の早紀江さんは、娘に深い心の悩みがあって、それで行方をくらましたのではないかと考えました。「どうして、娘の気持ちを分かってあげられなかったのだろう。」と自分を責めました。この事件があって、いろんな人が彼女を訪ね、さまざまなアドバイスを与えましたが、その多くは「因果応報」に基づいた話でした。この家族には、過去に悪事があって、それが娘に報いとなって表われたのだというのです。だからお祓いをしてもらいなさい、先祖を供養しなさいというのですが、それは彼女をもっと苦しめました。

そんな時、ひとりの友人が、「聖書のヨブ記を読んでみたら」と言って一冊の聖書を置いて帰りました。悶々とした日を過ごしていた彼女はすぐには聖書を開くことができませんでしたが、ある日、大きな悲しみが襲ってきたので、彼女は聖書を開いて読んでみることにしました。彼女は、それまでも聖書のことばに断片的には触れていましたが、この時はじめて読んで感動しました。それはヨブ1章21節の「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」ということばです。そのとき彼女は、「人間よりも偉大なお方がおられ、すべてを包んでおられる」ということが分かり、聖書から深い慰めを得たのです。

めぐみさんの失踪から20年がたち、それが北朝鮮による誘拐であることが明らかになり、それからさらに10年がたちましたが、めぐみさんの行方はまだ明らかになっていません。そんな中で横田早紀江さんは、毎月、北朝鮮のために祈る、祈り会を開いています。彼女はこう言っています。「北朝鮮は、私から娘を奪い、私を苦しめた国ですが、北朝鮮の人たちは、私の娘以上に苦しめられています。神は全能で奇跡をなさるお方です。生きて娘に会いたい。けれどもそれもみこころの中にあります。今は、苦しめられている人たちが救われ、世界に平和が来るようにと祈っています。」  自分の娘の人生を台無しにした国とその人々を憎んでも当然なのに、早紀江さんは、その国の人々のために祈っているのです。このようなことは人間の慰めだけしか知らない人にはできません。神の慰めを知っている人だけが、他の人にもそれを分け与えることができます。人間の慰めは小さくて、不十分で、自分のためにも足りないほどですから、まして他の人に分け与えることなどできませんが、神からの慰めは大きくて、満ちあふれるほどですので、いくらでも人に分け与えることができます。分け与えずにはおれなくなるのです。

私たちも神の慰めのことばを聞き、深く慰められ、この神の慰めを人々と分かちあうことができますようにと祈り求めましょう。

Ⅲ.敵を激しく怒られる主(15-17)

最後に15節から17節を見て終わりたいと思います。 「見よ。まことに、主は火の中を進んで来られる。その戦車はつむじ風のようだ。その怒りを激しく燃やし、火の炎をもって責めたてる。実に、主は火をもってさばき、その剣ですべての肉なる者をさばく。主に刺し殺される者は多い。おのが身を聖別し、身をきよめて、園に行き、その中にある一つのものに従って、豚の肉や、忌むべき物や、ねずみを食らう者たちはみな、絶ち滅ぼされる。―主の御告げ―」

主はご自分に頼る者たちを見捨てることはされず、母のような愛によって慰めてくださいますが、敵に対してはそうではありません。その憤りが敵に向かって燃え上がるのです。

15節ではそれを「火」と「つむじ風」と「炎」という言葉で表しています。「見よ。まことに、主は火の中を進んで来られる。」「火」は神のさばきを、また、「つむじ風」は破壊的なイメージを、そして「火の炎」は激しい神の怒りを表しています。実に、主は火をもってさばき、その剣ですべての肉なる者をさばかれるのです。

いったいこの敵とはだれのことでしょうか。17節には、「おのが身を聖別し、身をきよめて、園に行き、その中にある一つのものに従って、豚の肉や、忌むべき物や、ねずみを食らう者たちはみな、絶ち滅ぼされる。」とあります。自ら身を聖別し、きよめているといいながら、園に行って、異教の神々に仕えていた人たちのことです。彼らは神に仕えているようで、一方では豚の肉や、忌むべき物、ねずみを食らう者たちでした。そうです、彼らは3節と4節に出てきた自分勝手な敬虔を求めていた人たちです。神によって産み出された子らと関係のない人たちです。それは言い換えると神のエルサレムとともに喜ぶことができない人たちのことなのです。神のことばも悟れず、ただ自分勝手な敬虔を求めるならば、その身に神のさばきを招くことになります。神が与えてくださるすべての祝福は、まことの教会を通して流れ出るからです。神が約束された共同体ではなく、自分勝手な信仰、自分勝手な礼拝を求めて走り回る霊的な高ぶりを遠ざけなければなりません。

あなたはどうですか?エルサレムとともに喜んでいますか。神のみことばにおののいておられますか。エルサレムとともに喜べ。エルサレム、神の教会とともに喜び、神の喜びと繁栄、慰めと満たしを体験させていただきたいと思います。

創世記5章

きょうは、5章に記されてあるアダムの歴史の記録からご一緒に学んでいきたいと思います。

Ⅰ.人類最初の人アダム(1-2)

まず1~2節をご覧ください。「これはアダムの歴史の記録である。神は人を創造されたとき、神に似せて彼を造られ、男と女とに彼らを創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、その名を人と呼ばれた。」

これは系図の形として書かれた歴史です。ユダヤ人の習慣として、彼らはよくこのような書き方をしました。マタイの福音書1章に記されてある系図もそうです。この系図の最初に述べられていることは、アダムが造られた時の経緯、要約です。神は人を造られた時どのように造られたかというと、神に似せてであります。神に似せて彼を造られ、男と女とに彼らを造られました。神が彼らを創造された時、神は彼らを祝福し、その名を「人」(アダム)と呼ばれました。3節以降は、その神の祝福がどのように展開(成就)していったかが記録されています。

Ⅱ.アダムの歴史(3-5)

3節からのところには、アダムの系図として10人の名前が出てきます。アダム、セツ、エノシュ、ケナン、マハラルエル、エレデ、エノク、メトシェラ、レメク、ノアです。この系図の叙述には、ある一定の型があることがわかります。それは、

①「・・は・・才になって、・・を生んだ。」→父になった時の年齢

②「・・は・・を生んだのち、・・年生きて、息子、娘たちを生んだ」→残りの 年数と他の子供の誕生

③「・・の一生は・・年であった。こうして彼は死んだ。」→合計した年齢(寿命)、死

というパターンです。これがこの系図の強調点なのです。この系図を見てまず第一に気づくことは、ここに出てくる人々の寿命が今日と比べて著しく長いということです。6章3節になって人の寿命が120歳と定められますが、それと比較しても、それ以前の人たちの寿命はことのほか長いことがわかります。これは、洪水前の気象や環境、食べ物など、今よりもずっと良かったということがその理由に上げられます。放射線による汚染なども、その当時は全くありませんでした。しかし、それ以上に、そこに神の祝福があったということが表されているのでしょう。この地上に人が増え始め、人の悪が増大したのがノアの時代であった(6:1-5)ということを考えると、ある程度は納得できます。現代は科学が進歩しているようですが、実際には退化しています。一つ一つの技術は進化しているようでも、社会的には逆に悪くっています。それはこの地上に人の悪がもっと増大しているからです。このままでは、この地球はいったいどうなってしまうことでしょう。それに比べこのアダムの時代からのしばらくの時代は、そうした悪が少なかったことを考えると、このように長く生きることができたということも理解できます。しかし、たとえ人の寿命がいくら長いとはいえ、その最後は「こうして彼は死んだ」ということばで結ばれていることを思うと、最初の人アダムによってもたらされた罪の結果人類に死がもたらされたことは、本当に悲しいことです。

ところで、ここにはそれぞれの人の年齢がしるされていますが、アダムの創造からノアの洪水までの年数が記録されているのではありません。これらの数を合計すると、大体2000年くらいになります。ですから、多くの人たち、特にファンダメンダリストと言われる人たちは、ここからアダムからノアの時代までを2000年、ノアからアブラハムの時代までを2000年、アブラハムからイエス・キリストの時代までを2000年、そして、今日まで2000年と計算し、人類が誕生してから今日までの年数を8000年だと主張しますが、それには注意が必要です。というのは、これはあくまでも系図を記しているのであって、年代記ではないからです。多くの系図がそうであるように、そこには省略されている人たちもいるからです。

Ⅲ.神とともに歩んだエノク(21-24)

この系図の中でもう一つ際だっていることは、24節の記録です。ここには、「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」とあります。5章の系図に記されてあるほかの人たちが「そして彼は死んだ」と結ばれているのに対して、エノクだけは例外です。彼だけは「死んだ」ではなく、「彼はいなくなった」とあるのです。神が彼を取られたので、彼はいなくなったのです。これはいったいどういうことでしょうか?

ここには、「エノクは神とともに歩んだ」とあります。ヘブル11章5節には、「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれることが、あかしされていました。」とあります。彼は神に喜ばれることがあかしさていたので、神に移されて、みえなくなったのです。

また、ユダ1章14節、15節には、「アダムから七代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。「見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。すべての者にさばきを行い、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである。」とあります。

これは主の再臨の預言です。エノクは、やがて主が千万の聖徒を引き連れて来られ、不敬虔な物たちをさばかれることを預言していたのです。ということは、これらのことからエノクがどのような歩みをしていたかがわかると思います。それは一言で言うなら、「神とともに歩く」歩みです。エノクの時代にはすでに多く人々がこの地上に増え広がっており、そうした人々の心が悪に傾いていた中で、彼は神とともに歩んだのです。後にノアの記述が出てきますが、ノアも同じです(6:5)。罪の中に生まれた人間の歩みというのはこの世の流れにしたがい、何の迫害もない、安易な道に歩みがちですが、それは放っておけば地獄へと堕ちていく道であります。こうした中で信仰に目覚め、つねに信仰の決断をもって歩もうとすれば、そこには多くの戦いも生じますが、実に、そうした歩みこそ神とともに歩む道なのです。エノクの人生はそういうものだったのです。彼は神を仰ぎ、永遠に変わることのない真実な神、全能であられる神により頼みながら、信仰によって生きたのです。彼が主の再臨と最後のさばきについて宣べ伝えていたということは、そのことを表しているのではないでしょうか。

そのように神とともに歩む者の最後は、「死を見ないように天に移される」ということです。これは「神とともに歩む者」の姿であり、一つのひな型です。すなわち、神とともに歩む人は、主イエス・キリストの再臨の時に必ず携え上げられ、永遠に主とともにいるようになるのです。エノクは肉体の死を見ませんでした。神とともに歩む私たちもやがて最後の死を見ることなく、永遠のいのちを受け継ぐようになるのです。

[分かち合いのために]

  1. アダムは何歳の時セツが生まれましたか。またセツを生んでから何年生きましたか。アダムの一生は何年でしたか。その後、彼はどうなりましたか。アダムの後の系図を見ると、そこにどのような書き方(パターン)がありますか。
  2. この系図をみると、多くの人たちが900歳くらい生きました。なぜそんなに長く生きることができたのでしょうか。
  3. この系図の中でエノクは他の人たちと違いがあることがわかります。どのような違いがありますか。彼はなぜ神に取られたのでしょうか。神とともに歩むとはどういうことでしょうか。そのような人にはどんな祝福が約束されていますか。

創世記4章17~26節

前回は4章1~16節までのところから、カインとアベルについて学びました。信仰によってアベルは神が喜ばれるささげ物をささげましたが、カインはそうではありませんでした。カインは自分の考えによってささげ物をささげました。それは自分の手によるささげ物を表していました。ですから、神はアベルのささげ物には目を留められましたが、カインのささげ物には目をとめられませんでした。

そしてそのことで嫉妬したカインはアベルに襲いかかり、彼を殺してしまったのです。しかも殺しておいて、今度は自分が殺されると嘆いているのです。神様はそんなカインをあわれみ、彼が殺されることがないように、彼に一つのしるしを与えてくださいました。それが何であったのかははっきりわかりませんが、それは彼が悔い改めようにという神からの機会でもあったわけです。しかしながら彼は悔い改めることをせず、エデンの東、ノデの地に住み着きました。「ノデ」それは「動揺」です。「さすらい」です。神から離れて人生はさすらいなのです。きょうのところには、その彼の人生がどのようになったのかがしるされています。

1.文化の起源(17-22)

まず17節をご覧ください。「カインはその妻を知った。彼女はみごもり、エノクを産んだ。カインは町を建てていたので、自分の子の名にちなんで、その町にエノクという名をつけた。」

ノデの地に住み着いたカインは、そこで妻を得ます。アダムとエバにはカインとアベルしかいなかったのに、いったいこの妻はどこからやって来たのかという疑問が起こりますが、それはここには書いていないだけで、アダムとエバには他に多くのこどもがいたようです。そのひとりが25節に出てくるセツですが、他にも多くいたのです。この17節には「町を建てた」とありますから、町を建てるくらいのこどもたちがいたということです。1:28のみことばから考えると、それは不思議なことではありません。

さて、カインはその妻を知り、子供を設けました。彼はその町の名にちなんで「エノク」という名をつけました。意味は「開始する」です。おそらく彼は、自分の思うような人生を、自分の計画を開始するという意味で町を建て、そういう名前にしたのだと思います。そして、それと同じような考えを持っていた人たちがたくさんいたのです。それがエノクという町です。

そのエノクにイラデが生まれ、イラデにはメフヤエルが生まれ、メフヤエルにはメトシャエルが生まれ、メトシャエルにはレメクが生まれました。19節を見ると、このレメクはふたりの妻をめとったとあります。ひとりはアダで、もう一人がツィラです。これがカインの道を歩む者の姿、神から離れた者たちの結末です。つまり、このレメクは今日まで続いている一夫多妻制の原型となったのです。男女の一夫一婦の関係は創造のはじめから定められていて、これは神聖なものなのに、神を信じないで、自分の欲望のままに歩む者は、この男女の神聖な関係を破り、神に反抗したのです。唯一の神を信じない者は、このように自分の欲望のままに生きようとするのです。

さて、20節を見ると、この二人の妻のうちアダはヤバルとユバルを、そしてツィラはトバル・カインを産みました。まずヤバルは天幕に住む者となり、家畜を飼う者、すなわち農業に従事する者の祖先になりました。そしてユバルは竪琴と笛を巧みに奏でる奏者、すなわち芸術の祖先、そしてトバル・カインは青銅と鉄のあらゆる用具を作る鍛冶屋、すなわち産業の祖先となりました。いわゆる文化の起源がここにあるわけです。しかし、このように文化がカインと彼の子孫たちから出たからといって、それ自体が悪であるということではありません。文化自体はすばらしいものであり、罪の結果、あるいは罪をおおう手段として生まれたものではありません。というのは、もし文化が悪であるとしたら、文化の進歩自体が悪になってしまいますし、人間の文化的努力のいっさいが無意味なものになってしまうからです。ですから、文化そのものは悪ではなく、それは神から与えられた恵みであり、人間の生活を潤すものであり、自然と社会に対して人間がなす真善美の活動とその成果なのです。問題は、こうした文化活動を営む人間がどうであるかということです。せっかく神様から恵みとして与えられたこの文化を自分たちの知恵や力を誇るものとして用いようとしたら、本末転倒になってしまいます。もしそうだとしたら、すなわち、それが神の栄光のためではなく、自分のたちの力を誇る道具になるとしたら、それは神への反逆の有力な武器と科してしてしまうのです。まさに現代の文化はこの神なしの文化であり、本当に罪に満ちた文化です。私たちに求められているのはこうした文化ではなく、神のための、神の栄光を現す聖書に基づいたキリスト教の文化をうち建てることです。

2.レメクの歌(23-24)

次に、23~24節をご覧ください。「さて、レメクはその妻たちに言った。「アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」

これはレメクがその妻アダとツィラに言ったことばです。レメクはここで何を言っているのでしょうか。これはレメクが、自分の残忍さを誇っているのです。カインを殺す者がいれば七倍の復讐を受けるのであれば、自分を殺す者にはその七十七倍の復讐を受けるということです。つまり、神様がカインに約束された七倍の復讐では足りないとして、七十七倍も報いようとしてるのです。それは自分の力が神以上のものであることを誇示しているのです。このように、人間は堕落すると、自分の残忍さを誇ったり、自分の不道徳を平気で人に誇ったりするようになるのです。これがカインの道、これが罪深い人間の姿です。

3.主の御名によって祈ったエノシュ(25-26)

それに対してここに、そうしたカイン、レメクとは違うもう一つの系統が現れます。それが信仰の系統、セツです。25~26セツには、「アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。人々は主の御名によって祈ることを始めた。」とあります。

先にアベルを失ったアダムとエバは、神様の前に深い悲しみと嘆きの日々を過ごしていたことでしょう。この悲嘆に暮れていた家庭にも、新しい喜びが訪れます。「セツ」の誕生です。「セツ」とは「基礎」という意味です。詩篇11:3には「正しい者」と訳されています。他に「柱」という意味もあります。おさらく、アダムとエバは新しく与えられた子どもとその子孫によって、自分たちの生活の基礎を正しく据えようとしたのではないかと思います。セツこそアベルに代わるべきものであり、アベルの足跡を踏むべき者と考えたのです。それがこの「カインはアベルを殺したので、彼の代わりに、神はもうひとりの子を授けられたから」という意味に込められているわけです。ですから、セツにもまた子供が生まれたとき、その子はエノシュと言いますが、そのとき、人は主の名で祈ることを始めたとあるのです。セツこそは、アベルに代わるべきもの、信仰の系統となるべき者として、神が与えてくださいました。そしてやがてこのセツの系統からアダらハムから始まるイスラエル民族が、そして、イエス・キリストにつながる系統が出てくるのです。ルカ3:38は、そのことを記しています。「エノス」とは「この「エノシュ」のことです。自分の町を建て、物から物に生きようとしたカイン、レメクの系統に対して、神様はアベルに代わる新しい信仰の系統として、ここにセツと、その子孫エノシュから始まる系統を備えてくださったのです。そして、エノシュは主の名によって祈り始めました。レメクが傲慢不遜にも大手をふっていた時に、このように主の御名によって祈ることは、決してやしいことではありません。しかしこのような人々を、神様はいつもわずかながら残しておられるのです。この尽きない神の恵みに感謝して、この信仰の道を歩み続ける物でありたいと願わされます。

創世記4章1~16節

きょうは創世記4章から人類で最初に起こった殺人事件について学びたいと思います。アダムとエバの最初の子であったカインが、その弟アベルを殺したという出来事です。

 Ⅰ.カインとアベルのささげもの(1-7)

まず1節~5節をご覧ください。

「人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た」と言った。彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。ある時期になって、カインは、値の作物から主へのささげ物を持って来たが、アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た、主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。」

アダムとエバに最初の子どもが与えられました。名前は「カイン」です。意味は、「わたしは得た」です。アダムとエバが神に背いて罪を犯し、エデンの園を追放された時、神は彼らに「女の子孫」から救い主を与えると約束してくださいました(3:15)。ですから、彼らに長男が生まれたとき「得た」と思ったのでしょう。しかしながら、それが間違っていたことがわかると、次に生まれた子どもを「アベル」と名付けました。意味は「空虚」です。神の救いがないことは本当に虚しいことだと悟ったのです。

さて、そのカインとアベルが成長して大人になった時、カインは土を耕す者に、アベルは羊を飼う者になりました。日が経って、神にささげ物をささげる時期になった時、カインは地の作物の中から主へのささげ物を持ってきましたが、アベルは羊を飼うものとして、彼の羊の中から、しかも羊の初子の中から、最上のものを持ってきました。すると神様は、アベルとそのささげ物に目を留められましたが、カインとそのささげ物には目を留められませんでした。いったいなぜ神様はアベルとそのささげ物には目を留められたのに、カインとそのささげ物には目を留められなかったのでしょうか。

その後で、そのことで怒り、顔を伏せていたカインに、神様は「あなたが正しく行ったのであれば受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口に待ち伏せしていて、あなたを恋い慕っている。」と言われました。すなわち、彼は正しく行なわなかったのです。いったいどういう点で彼は正しく行っていなかったのでしょうか。

このところをよく見ると、彼は土を耕す者になったのですから、その収穫の中から主へのささげ物を持って来たことは問題ではないかのように感じます。そこで多くの人はそのささげる態度に問題があったのではないかと考えます。アベル場合は最上のものを持ってきたのに対して、カインはそうではなかった。つまり彼は適当にささげたというのです。しかし、問題はささげ物の質で決まるのではありません。結果としてはそれも原因の一つであったかもしれませんが、ここでの問題は別のところにありました。それは、彼らがささげた物が何であったのかということです。つまり、血による犠牲であったかどうかが問われているのです。アベルは血による犠牲をささげたのに対して、カインは血のないささげ物をささげました。彼らはアダムとエバの子どもとし、神が受け入れられるささげ物とはどのような物であるのかを聞いて、それを知っていたはずです。すなわち、神が受け入れられるささげ物とは罪を贖うべきものであり、そこには動物の血が流される必要があったということです。なぜなら、罪の支払うべき報酬は死であり、命は血の中にあるからです。レビ記17:11とヘブル9:22に、次のように記されてあります。

「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。」(レビ17:11)

「それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」(ヘブル9:22)

血を注ぐことがなければ、罪の赦しはありません。彼らはそれをアダムとエバから聞いてちゃんと知っていたはずなのです。なぜなら、アダムとエバが罪を犯したとき、自分たちが裸であることを知り、それで神の前に出るのが恥ずかしいと思いいちじくの葉で腰の覆いを作って着ましたが、その着物は神の御前には何の役にも立たず、そのために神様は別の着物を着せてくださいました。どういう着物だったでしょうか?そうです、「皮の衣」(3:21)です。それは動物の血の犠牲が伴うものでした。彼らはそのことを知っていたのです。アベルはそのことをわきまえて血の犠牲としてささげ物をささげましたが、カインはそうではありませんでした。それが問題でした。彼らはともに堕落したアダムとエバの子どもとしてエデンの園の外で生まれましたから、ともに罪人であるという点では同じでした。しかし、その罪の赦しを請うために、すなわち、神に受け入れられるための手段、方法は違っていました。アベルは神の方法に従って、神のあわれみによりすがり、血の犠牲をささげたのに対して、カインは罪の赦しを受けることなしに、自分の手のわざをささげたのです。しかし、自分のわざによっては神に近づくことはできません。ただ神のあわれみによらなければ、神に近づくことも、罪の赦しも受けることはできないのです。このことをわきまえないで、自分のわざによって神に受け入れられようとすることは、神の御前には傲慢以外の何ものでもありません。

このことは、神の小羊であられるイエス・キリストを信じる信仰を表していたことは明らかです。神はイエス・キリストの十字架で流された血潮によって、その名を信じる者を義としてくだり、はばかることなく、大胆に恵みの座に近づくことができるようにしてくだったのです(ヘブル4:16)。

神がアベルのささげ物を顧みてくださりカインのささげ物に目を留められなかったのは、そういう点でカインが正しく行っていなかったからであって、決して神が人をかたよって見ておられたからではありませんでした。神はかたよって見られる方ではないからです(ローマ2:11)。そういう意味では、ささげ物が受け入れられなかったとしてもその責任は神様にあるのではなくささげた側にあるのだから、神に対して憤ったり、顔を伏せたりすべきではないのに、カインは自分の罪をわきまえずにやたら腹を立て、ついには弟を殺してしまいました。罪深い人間の本性が、ここによく表れているのではないかと思います。

 Ⅱ.カイン、アベルを殺す(8-14)

では、その人類最初の殺人事件を見ていきましょう。8節から14節です。

「しかし、カインはアベルに話しかけた、「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」そこで、仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。今や、あなたはその土地にのろわれてりう。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」カインは主に申し上げた。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」

ささげ物が受け入れられなかった責任は自分にあり、そのことを示されたカインは、神の言われることに耳を傾けるどころかアベルに嫉妬し、彼に襲いかかって、殺してしまいました。ここに最初の殺人事件が起こったのです。神に背き、神の言われることを拒んでいる罪人は、みなこのカインのようです。他の人を傷つけてしまうのです。それがこのような暴力的な犯罪につながることがあれば、暴力として表れなくても、苦々しい態度や、わがままな行動になってあらわれることもあります。しかし、それは結果的には悲惨的で、誰かを傷つけてしまうことになるのです。そして、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問われても、そうした殺人の責任をとろうとするどころか、「知りません。私は弟の番人なのでしょうか」とうそぶいくことになるのです。カインは、神様が自分の罪のすべてを知っておられることがわかっていても、あるいは、その罰からのがれられないことがわかっていても、それでもなお悔い改めて赦しを得ようとしませんでした。むしろ自己憐憫から、自分の運命をのろい、神の罰が厳しいと言って、不平を述べているのです。そして、罰からのがれられないと見てとると、今度は深く絶望してしまいます。今度は、アベルを殺した報復として、だれかが自分を殺しはしないかと思い、心配しているのです。まさにこれが罪人の姿です。どこまでも頑ななのです。神は、ひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われることを望んでおられます(Iテモテ2:4)。ですから、どんな罪を犯したとしても、ただ神の前に悔い改め、へりくだって歩めばいいのに、なかなかそれができないのです。そして、もっと、もっと意固地になって神をのろい、不平を並び立てながら、自分の人生をのろうのです。それが罪深い人間の姿なのです。

 Ⅲ.一つのしるし(15-16)

そんなカインに対して、神はどうされたでしょうか。15節と16節をご覧ください。

「主は彼に仰せられた。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。それで、カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。」

 

なんと、そのようなカインの嘆きに対して、神様は「それだから・・」と、だれも彼を殺すことがないように一つのしるしを下さいました。このしるしが何であるかはわかりませんが、いったいなぜ神様はこのようなしるしを彼に与え、彼を守ろうとされたのでしょうか。それは、神様はあくまでも彼が悔い改めることを願っておられたからです。そのために彼を守られる手段を講じてくださったのです。にもかかわらず彼は、そんな神様の愛の思いを悟ることができず、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住み着きました。「ノデ」とは「動揺」という意味です。神を離れてからのカインの毎日は、動揺にほかなりませんでした。それはさすらいであり、さまよいです。くる日もくる日も不安な動揺に終始しなければならない生活は、どんなに悲惨であったかがかります。

スタインベック原作の映画「エデンの東」は、ここにその名のルーツがあります。厳格な父に受け入れてもらえないジェームス・ディーン扮する主人公が、父に受け入れてもらうことを願いつつも、かえって背を向けて葛藤する様を描いています。

殺人の罪を犯しても、カインは真に悔い改めることをしませんでした。ところが、そんな彼の上にも、神様は「保護」という恵みを与えられました。神様はそれほどに人類が悔い改めて神に立ち返ることを願っておられるのです。私たちはカインの道、すなわち神様から離れた自己中心の道ではなく、アベルの道、すなわち、自分の罪を悟り、そのままの姿では聖なる神様の御前には出ることができないことを知り、信仰によって身代わりの犠牲をささげる。つまり、来るべき救い主イエス・キリストに信頼する道、信仰の道を歩む者でありたいと願います。