民数記10章

きょうは、民数記10章をご一緒に学びたいと思います。約束の地に向かって進むイスラエルのために、そのために必要なことを主はシナイの荒野で語っています。今回の箇所でイスラエルは実際に旅立ちます。

1.銀のラッパ(1-11)

まず1節から11節までをご覧ください。

「1 ついではモーセに告げて仰せられた。2 「銀のラッパを二本作らせよ。それを打ち物作りとし、あなたはそれで会衆を招集し、また宿営を出発させなければならない。3 この二つが長く吹き鳴らされると、全会衆が会見の天幕の入口の、あなたのところに集まる。4 もしその一つが吹き鳴らされると、イスラエルの分団のかしらである族長たちがあなたのところに集まる。5 また、あなたがたがそれを短く吹き鳴らすと、東側に宿っている宿営が出発する。6 あなたがたが二度目に短く吹き鳴らすと、南側に宿っている宿営が出発する。彼らが出発するには、短く吹き鳴らさなければならない。7 集会を召集するときには、長く吹き鳴らさなければならない。短く吹き鳴らしてはならない。8 祭司であるアロンの子らがラッパを吹かなければならない。これはあなたがたにとって、代々にわたる永遠の定めである。9 また、あなたがたの国で、あなたがたを襲う侵略者との戦いに出る場合は、ラッパを短く吹き鳴らす。あなたがたが、あなたがたの神、の前に覚えられ、あなたがたの敵から救われるためである。10 また、あなたがたの喜びの日、あなたがたの例祭と新月の日に、あなたがたの全焼のいけにえと、和解のいけにえの上に、ラッパを鳴り渡らせるなら、あなたがたは、あなたがたの神の前に覚えられる。わたしはあなたがたの神、である。」

1節と2節には、「ついではモーセに告げて仰せられた。 「銀のラッパを二本作らせよ。それを打ち物作りとし、あなたはそれで会衆を招集し、また宿営を出発させなければならない。」とあります。主はモーセに、会衆を招集したり、また宿営させるために、銀のラッパを二本作らせるようにと命じました。3節、この二本のラッパが長く吹き鳴らすと、全会衆が会見の入り口にいたモーセのところに集まりました。4節、もし一本のラッパだけなら、分団のかしらである族長たちだけが集まりました。5節、それを短く1回だけ吹き鳴らすと、東側に宿っていた宿営が出発します。6節、二度目に短く鳴らすと、南側の宿営が出発します。このように分団を招集するときには長く、出発するときには短くラッパを吹き鳴らしました。また9節を見てください。イスラエルの民は、絶えず敵からの襲撃の脅威にさらされていましたが、その時には、ラッパを短く吹き鳴らしました。彼らが彼らの神、主に覚えられ、敵から救われるためです。このように敵と戦い、敵に勝利してくださるのも主ご自身でした。敵と戦うとき、主に覚えらるために、ラッパを吹き鳴らしたのです。また10節には、彼らの喜びの日、すなわち、例祭と新月の日に、全焼のいけにえと、和解のいけにえの上に、ラッパを鳴り渡らせるなら、彼らの神の前に覚えられる、とあります。ですから、ラッパの音というのは、まさに神の音であったのです。

私たちが、この地上にいて聞くラッパの音があります。それは、主イエス・キリストが私たちのために再び戻ってきてくるときです。「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」 (Ⅰコリント15:52)。イスラエルの民の族長たちが、ラッパの音を聞いてモーセのところに集まってきたように、私たち教会も、終わりのラッパの音とともに一挙に引き上げられるのです。

それだけではありません。イエスさまがこの地上に戻られるとき、今度はイスラエルの民自身が、イスラエルの土地に集まってきます。イエスさまが言われました。「人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」(マタイ24:31)ラッパは私たちを集め、一つにしてくださる神のみわざなのです。また、イスラエルが戦いに出たときに、ラッパが吹き鳴らされたように、神が地上にさばきを下さるときにラッパが吹き鳴らされることがわかります。黙示録に出てくる七つのラッパの災害です。したがって、イスラエルの民がラッパによって集められたり、旅立ったり、戦ったり、祭りを行ったりしたというのは、私たちが神のラッパの合図によって行動するように、それをいつも待ち望まなければいけないことを表しているのです。

2.出発順序(11-28)

次に11節から28節までをご覧ください。いよいよイスラエルが約束の地に向かって旅立ちますが、ここにはその出発の順序が記されてあります。

「11 第二年目の第二月の二十日に、雲があかしの幕屋の上から離れて上った。12 それでイスラエル人はシナイの荒野を出て旅立ったが、雲はパランの荒野でとどまった。13 彼らは、モーセを通して示されたの命令によって初めて旅立ち、14 まず初めにユダ族の宿営の旗が、その軍団ごとに出発した。軍団長はアミナダブの子ナフション。15 イッサカル部族の軍団長はツアルの子ネタヌエル。16 ゼブルン部族の軍団長はへロンの子エリアブ。17 幕屋が取りはずされ、幕屋を運ぶゲルション族、メラリ族が出発。18 ルベンの宿営の旗が、その軍団ごとに出発。軍団長はシェデウルの子エリツル。19 シメオン部族の軍団長はツリシャダイの子シェルミエル。20 ガド部族の軍団長はデウエルの子エルヤサフ。21 聖なる物を運ぶケハテ人が出発。彼らが着くまでに、幕屋は建て終えられる。22 また、エフライム族の宿営の旗が、その軍団ごとに出発。軍団長はアミフデの子エリシャマ。23 マナセ部族の軍団長はペダツルの子ガムリエル。24 ベニヤミン部族の軍団長はギデオニの子アビダンであった。25 ダン部族の宿営の旗が、全宿営の後衛としてその軍団ごとに出発。軍団長はアミシャダイの子アヒエゼル。26 アシェル部族の軍団長はオクランの子パグイエル。27 ナフタリ部族の軍団長はエナンの子アヒラ。28 以上がイスラエル人の軍団ごとの出発順序であって、彼らはそのように出発した。」

イスラエルが出発したのは、第二年目の第二月の二十日のことでした。それは、神がイスラエルの民を登録するようにと命じてから二十日後のことでした(民数記1:1)。雲があかしの幕屋の上から離れていきました。それでイスラエル人はシナイの荒野を出て旅立ちましたが、雲はパランの荒野でとどまりました。そして、どのように出発したかが描かれています。

まず初めにユダ族の宿営の旗が、その軍団ごとに出発しました(14)。ユダの宿営にはユダ部族以外にイッサカル部族とゼブルン部族がいましたので、彼らがまず出発しました。

次は17節にあるように、レビ人が幕屋を取り外して、彼らの後に続いて出発します。彼らは、イスラエルの軍団と軍団の間に挟まれるようにして進みました。その次はルベンの宿営が出発しました。すなわち、南側に宿営していた部族です。ここにはルペン族以外にシメオン部族とガド部族がいました。次に、聖なる物を運ぶケハテ人が出発しました。レビ族です。彼らが着くまでに、幕屋は建て終えられていなければなりませんでした。なぜケハテ族はゲルション族とメラリ族の後に続かなかったのかと言うと、彼らが着くまでに、幕屋が建て終えられていなければならなかったからです。そこまで計算されていたのです。すごいですね。実に整然としています。次に進んだのは、エフライム族の宿営です。これは西側にいた部族でした。ここにはエフライム部族の他にマナセ部族、ベニヤミン部族がいました。最後に出発したのはダン部族の宿営、すなわち、北側に宿営していた部族です。ここにはダン部族の他にアシェル部族、ナフタリ部族がいました。彼らは全宿営の後衛に回りました。

以上がイスラエル人の軍団ごとの出発順序でした。これを上空から眺めると、東から動いて、次にあかしの幕屋が動き、そして南、西、北と円を描くようにして出発していたことがわかります。実に整然としています。それはどういうことかというと、神の民の共同体には、このような秩序と順序があるということです。どうでもよかったのではないのです。神は混乱の神ではなく、平和の神だからです(Ⅰコリント14:33)。それは私たちが集まるところにおいても同じです。神の教会にも平和と秩序があります。それを乱すことは神のみこころではありません。「ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行いな」(Ⅰコリント14:40)わなければならないのです。私たちは、どのように神が権威を人々に与えておられるのかを、見極めることが大切なのです。

3.主の契約の箱が出発するとき(29-36)

最後に29節から36節までを見て終わります。まず29節から32節までをご覧ください。

「29 さて、モーセは、彼のしゅうとミデヤン人レウエルの子ホバブに言った。「私たちは、があなたがたに与えると言われた場所へ出発するところです。私たちといっしょに行きましょう。私たちはあなたをしあわせにします。がイスラエルにしあわせを約束しておられるからです。」30 彼はモーセに答えた。「私は行きません。私の生まれ故郷に帰ります。」31 そこでモーセは言った。「どうか私たちを見捨てないでください。あなたは、私たちが荒野のどこで宿営したらよいかご存じであり、私たちにとって目なのですから。32 私たちといっしょに行ってくだされば、が私たちに下さるしあわせを、あなたにもおわかちしたいのです。」

彼のしゅうとミデヤン人レウエルの子ホハブとは、モーセのしゅうとレウエル、別名イテロの息子レウエルのことです。ここでモーセはレウエルに、自分たちの道案内人になってくれと頼んでいるのです。荒野を歩くことは死を意味するということをテレビで観たことがありますが、何の目印もない広大な荒野を旅することは方向感覚を失うことでもあり、それは一般的には不可能なことでした。ですからモーセはずっとミデヤンの荒野に住んでいた彼らなら、どこをどのように進んで行ったらいいのかをよく知っていましたから、自分たちの目になってほしいと頼んだのです。

しかし、私たちはこれまで民数記を学んでくる中で、主が荒野を旅するイスラエルをどのように整え、備えてきたかを見てきました。まず二十歳以上の男子が登録され、敵の攻撃に備えました。また、イスラエルの各部族は天幕の回りに宿営し上空から見れば十字架の形になって進んでいきました。また、外敵の攻撃ばかりでなく、内側も聖めました。なぜなら、そこには神が住まわれるからです。神が共におられるなら、どんな攻撃があっても大丈夫です。ですから彼らは内側を聖め、ささげ物をささげ、過越の祭りを行ないました。そして、彼らが迷うことがないように、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって導いてくださったのです。これほど確かな備えと導きが与えられていたにもかかわらず、いくらその地域を熟知しているからといっても、イテろの息子に道案内を頼むというのは不思議な話です。いったいモーセはなぜこのようなことをしたのでしょうか。

それはモーセが彼らの道案内を頼ったというよりも、これまで長らくお世話になったしゅうとのイテロとその家族に対する恩返しのためであり、彼らを幸せにしたいというモーセの願いがあったからでしょう。事実、約束の地に入った彼の子孫は、イスラエル人の中に住みました(士師1:16,4:11)。なぜそのように言えるのかというと、33節から終わりまでのところに、実際にイスラエルの荒野旅を導いたのはミデヤン人ホバブではなく、主ご自身であったことがわかるからです。ここにはこうあります。

「33 こうして、彼らはの山を出て、三日の道のりを進んだ。の契約の箱は三日の道のりの間、彼らの先頭に立って進み、彼らの休息の場所を捜した。34 彼らが宿営を出て進むとき、昼間はの雲が彼らの上にあった。35 契約の箱が出発するときには、モーセはこう言っていた。「よ。立ち上がってください。あなたの敵は散らされ、あなたを憎む者は、御前から逃げ去りますように。」36 またそれがとどまるときに、彼は言っていた。「よ。お帰りください。イスラエルの幾千万の民のもとに。」

旅の中では後ろのほうにあるはずの契約の箱が、ここでは先頭に立って進んでいることがわかります。すなわち、本当の道案内人は、ホバブではなく主ご自身であったのです。主が彼らの先頭に立って進み、彼らの休息の場所をもたらしたのです。

そして、その契約の箱が出発するときには、モーセはいつもこのように祈りました。「よ。立ち上がってください。あなたの敵は散らされ、あなたを憎む者は、御前から逃げ去りますように。」また、それがとどまるときには、「主よ。お帰りください。イスラエルの幾千万の民のもとに。」と祈りました。つまり、真にイスラエルの荒野の旅を導いていたのは、主ご自身であったということです。モーセは出発するときには、その主が立ち上がり、敵が逃げ去って行きますように、宿営するときには、主がとどまってくださるように祈ったのです。

この二つの祈りは単純な祈りですが、私たちにとっても大切な祈りです。私たちが、この世において歩むときにも、霊の戦いがあります(エペソ6章)。その戦いにおいて勝利することができるように、主が立ち上がり、敵と戦ってくださるように、そして、敵の手から、私たちを救い出してください、と祈らなければなりません。また、この世において歩んでいるところから立ち止って、礼拝をささげるとき、「主よ、お帰りください。私たちとともにいてください。」と祈ることが必要です。というのは、私たちの信仰の歩みにおいて最も重要なことは、この主が共にいてくださるかどうかであるからです。私たちの信仰の旅立ち、その行程において、主が共におられ、敵から救ってくださり、敵に勝利することができるように祈り求める者となりますように。

Ⅱテサロニケ2章1~12節

新年あけましておめでとうございます。教会ではきょうが新年の礼拝となりますが、この新しい年もみことばから教えられ、主のみこころに歩ませていただきたいと思います。 この新年の礼拝で私たちに与えられているみことばは、Ⅱテサロニケ2章1節からの箇所です。1章のところでパウロは、テサロニケのクリスチャンたちが受けている迫害と患難の意味を語り、彼らを励ましました。それは彼らを神の国にふさわしい者とするためであって、やがてキリストが来臨されるとき、報いとして安息と栄光を受けるためであるということでした。けれども、テサロニケの教会の中には、このキリストの再臨についての間違った理解から、落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしている人たちがいました。そこでパウロは迫害と患難の中にあるテサロニケのクリスチャンたちを励まし主の再臨について正しく教えるために、この第二の手紙を書いたのです。

これはテサロニケのクリスチャンたちだけでなく、今の時代を生きる私たちクリスチャンに対する神からのメッセージでもあります。こうして新しい年を迎えるということは、同時に、主の再臨がより近づいているということでもありますから、私たちはこの主の再臨について聖書から正しく理解し、だれからも、どのようにも、だまされないようにしなければなりません。

きょうはこのことについて三つのポイントでお話をします。第一に、主のご再臨はいつやって来るのですか。その前には二つの兆候があります。背教が起こり、不法の人が現れるということです。不法の人と呼ばれる人が現れなければ、主の日は来ないのです。第二のことは、しかし、今は、その不法の人が来ないように、引き止められているということです。そして第三のことは、その時になると不法の人が現れますが、主は御口の息をもって滅ぼしてしまわれるということです。

Ⅰ.終わりの日の二つのしるし(1-4)

それでは、本文を見ていきたいと思います。まず1節から4節までをご覧ください。1節と2節をお読みします。

「1 さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります。2 霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください」

パウロはテサロニケのクリスチャンたちに、イエス・キリストが再び来られることと、主のみもとに集められることに関して、お願いしています。霊によっても、あるいはことばによっても、あるいはパウロたちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように勘違いして、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないようにしてください・・・と。イエス・キリストが再び来られることと、主のみもとに集められることに関してというのは、主の空中再臨とそのときに起こる携挙という出来事のことであります。

このことについてはすでに、Ⅰテサロニケ4章13節から18節までのところで学んだとおりです。聖書は、主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、天から下って来られます。そのときキリストにあって死んだ人たちが、まず初めによみがえり、次に、生き残っているクリスチャンたちが、たちまち雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うようになると言っています。そのようにして、私たちは、いつまでも主とともにいるようになります。これが主の日に起こることです。

ところが、テサロニケのクリスチャンたちの中には、彼らがまだ地上にいるというのに、主の日がすでに来たかのように話している人たちがいたのです。その日にはクリスチャンたちは引き挙げられると言われているのに地上に残っていたら大変なことになります。いったいこれはどういうことかと混乱しますよね。自分は救われていなかったのかと悩むに違いありません。

「霊によって」とは、別の霊、間違った霊、悪霊のことです。「ことばによって」とは、人のことば、人の考え、人の思いによってということです。神のことばによってではなく人のことば、人の教えによってということです。そして「私たちから出た手紙によって」とは、パウロたちから出たかのような手紙によってということで、パウロたちの名を名乗る偽物の手紙が当時出回っていたことがわかります。このようなことを言いふらす人たちは、いかにもそれが聖霊の導きによって示されたかのように語ったり、パウロが教えた内容であるかのように言って惑わしていたので、彼らは落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしていたのです。

いったい何が問題だったのでしょうか。彼らは人のことばに振り回されていて、聖書に書かれてあることをよく吟味していなかったということす。彼らは幼子のような純粋な信仰を持っていましたが、聖書をよく調べるという点では弱かったのです。ですから、誰かが主の日はすでに来たかのように言うのを聞くとすぐにそれを間に受け、落ち着きを失い、心を騒がせていたのです。私たちも注意したいですね。誰か他の人が語る言葉を聞いて、あるいはそうした類の書物を読んで、それがあたかも神から出たかのように思い込みと、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせてしまうことになります。しかし、もしその言っていることをみことばによってよく吟味するなら、そのように落ち着きを失ったり、心を騒がせたりすることはないのです。

あのベレヤのユダヤ人たちはそうでした。彼らはたとえパウロが語ったことであっても、それが本当に聖書に書いてあることなのかどうかを毎日聖書によって調べました。そのように聖書によってきちんと確認するなら、落ち着きを失ったり、心を騒がせたりすることはないのです。

では主の日はどのようにしてやって来るのでしょうか。3節と4節をご覧ください。

「3 だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。4 彼は、すべての神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。」

ここでパウロは主の日が来る前に二つの前兆があると言っています。一つは「背教」であり、もう一つは「不法の人」すなわち「滅びの子」の出現です。「背教」とはギリシャ語で「アポスタシア」と言いますが、これは「元々立っている所から離れて立つ」という意味です。すなわち、元々立っていた信仰から離れてしまうことを指しています。聖書に書かれてあることに背くことと言ってもいいでしょう。これは英語のapostasy(背教、背信という意味)の語源になったことばです。主の日が近くなると、社会全体、全世界がアポスタシアの状態になります。聖書から完全に離れた社会、それがまかりとおるような社会になるのです。現代はまさにそういう社会ではないでしょうか。それがますます加速しているように思えます。パウロはⅡテモテ3章1~5節のところでこう言っています。

「1 終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。2 そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、3 情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、4 裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、5 見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」

現代はまさにここに書いてあるような社会ではないでしょうか。それは神から離れた人間の、もともと立っていなければならない所から離れた人間の姿なのです。これはずっと昔から見られる傾向ですが、世の終わりが近くなるとその傾向がもっともっと強くなります。まさに今はこのような時代を迎えているのです。

主の再臨の前兆としてここに挙げられているもう一つのことは、「不法の人、すなわち滅びの子が現れる」ということです。彼は4節に、「彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高くあげ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。」とあるように、神に反抗し、自分を神よりも高く上げ、自分こそ神であると宣言する反キリストのことです。反キリストはサタンの手先となってキリストに対抗するのですが、パウロは、この反キリストが現れなければ主の日は来ないと言っています。それは何の根拠もなく言っているのではありません。このような不法の人が現れることは実はずっと昔から、旧約聖書で預言されていたことだったのです。

たとえばダニエル書7章24,25節には、「十本の角は、この国から立つ十人の王。彼らのあとに、もう一人の王が立つ。彼は先の者たちと異なり、三人の王を打ち倒す。彼はいと高き方に逆らうことばを吐き、いと高き方の聖徒たちを滅ぼしつくそうとする。彼は時と法則を変えようとし、聖徒たちは、ひと時とふた時と半時の間、彼の手にゆだねられる。」(ダニエル7:24,25)とあります。これは世の終わりのひと時とふた時と半時の間、すなわち3年半の間、神に敵対して、聖徒たちを滅ぼしつくそうとする反キリストのことを預言していたのです。彼は、「彼の軍勢は立ち上がり、聖所ととりでを汚し、常供のささげ物を取り除き、荒らす忌むべきものを据える。」(同11:36)のです。彼はエルサレムの神殿の至聖所にズケズケと入って来て、我こそが神であると宣言するのです。

この「荒らす忌むべきもの」については、イエスさまも語られたことです。マタイの福音書24章15節から29節です。「15 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)16 そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。17 屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。18 畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。19 だがその日、哀れなのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。20 ただ、あなたがたの逃げるのが、冬や安息日にならぬよう祈りなさい。21 そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。22 もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。23 そのとき、『そら、キリストがここにいる』とか、『そこにいる』とか言う者があっても、信じてはいけません。24 にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。25 さあ、わたしは、あなたがたに前もって話しました。26 だから、たとい、『そら、荒野にいらっしゃる』と言っても、飛び出して行ってはいけません。『そら、へやにいらっしゃる』と聞いても、信じてはいけません。27 人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。」

多く聖書学者は、これはB.C.2世紀にエルサレムの神殿を踏み荒したセレウコス朝シリヤのアンティオコス・エピファネスのことだろうと考えていますが、それは一つの型にすぎません。世の終わりには彼とは別の、不法の人、滅びの子、反キリストが現れるのです。彼が現れなければ、主の日はやって来ることはありません。

だから、だれにも、どのようにも、だまされてはいけません。聖書をよく見て、そこに書かれてあることが起こっているかどうかを確認して、冷静に判断しなければなりません。そうすれば、主の日がすでに来たかのように言うのを聞いても、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりすることはないのです。

Ⅱ.引き止める者(5-7)

では、その不法の人はいつ現れるのでしょうか。次に5節から7節までをご覧ください。

「5 私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話しておいたのを思い出しませんか。6 あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現れるようにと、いま引き止めているものがあるのです。7 不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。」

5節の「これらのこと」とは、1節から4節までのところに書かれてあることです。パウロはテサロニケの町を訪れて伝道したとき、信じた人たちにこれらのことをよく話していました。パウロがテサロニケで伝道したのはわずか3週間余りでしたがその短い間に彼は、救われたばかりのベイビークリスチャンに、これらのこと、つまり終末に関する聖書の教えを既に語っていたのです。キリストが再臨されること、また、その時にはクリスチャンは一挙に雲の中に引き挙げられること、そしてそこで主とお会いするということ、しかしその前にまず背教が起こり、反キリストが現れるということを話していたのです。ということは、これらのことは一部の聖書に興味のある人たちだけの話題ではなく、新しく救われたクリスチャンも知っておかなければならない大切で、基本的な教えであることがわかります。

その教えによると、確かに不法の人は現れるのですが、いまそれを引き止めている者があるということです。その引き止めているものとは何でしょうか。7節ではこれを「引き止める者」と人格的に表現しています。そうです、これは神の聖霊のことなのです。これをローマ帝国とその皇帝のことではないかと考えている人もいますが、そうではありません。このサタンの力をどうやってローマの皇帝が引き止めることができるでしょうか。どんなに力ある者でも、この悪に対抗できる者などいません。それを引き止めることができるのはただ神の力、聖霊ご自身以外にはいないのです。聖霊はペンテコステの時以来教会と共に臨在され、教会を守り、神の聖徒たちとともに働いておられるのです。主イエスはこう言われました。

「13 あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:13-16)

皆さん、私たちは地の塩、世の光です。塩が塩けをなくしたら何の役にも立ちません。クリスチャンは地の塩として、この世の腐敗を防止する役割が与えられているのです。また、この世の光として、この世を照らしていく役割があります。どんなにこの世が暗くなっても、完全に暗くなることはできません。なぜなら、そこにクリスチャンが置かれているからです。いったいどのようにしたら暗やみに勝利することができるのでしょうか。暗やみに空手チョップを食らわせてもだめです。キリストの御名によって出て行けと叫びますか。あなたがそのようにどんなに叫んでも暗やみが出ていくことはないのです。でももしあなたが光を持ってきたら、一瞬にして闇は消え去ります。ただ光を持って来ればいいのです。そうすればやみはすぐに逃げ去って明るくなります。その光を輝かせなければなりません。その光こそイエス・キリストの光、聖霊の光なのです。この聖霊とともに私たちはこの世に働いているサタンの力を制御し、悪霊の働きをとどめているのです。

しかし、その聖霊が取り除かれる時がやってきます。いつですか。携挙の時です。クリスチャンが一挙に引き上げられるので、彼を引き止めているものが無くなってしまうのです。その時には一気が悪の力がこの地上になだれ込むようになります。そして恐ろしい患難時代が始まるのです。でも今は地上には教会がありますから、聖霊を内住したクリスチャンたちがたくさんいるので、今はそれを引き止めているのです。やがてクリスチャンが取り除かれるとき、この世は一気に真っ暗になるのです。しかし、今はまだ「不法の人」が現れることが引き止められていますが、不法の秘密はすでに働いています。「不法の秘密」とは反キリストの霊のことです。Ⅰヨハネ2章18節にはこうあります。

「小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。」

一人の反キリストは現れていませんが、今は多くの反キリストの霊が働いているのです。事実周囲を見回すと、神に敵対する悪の勢力や、自らを神としてキリストに取って代わって礼拝されたがっている反キリスト的な力が強く働いていることがわかります。あからさまにキリストに反逆することはしなくとも、自分こそは神であるかのように人々から称賛されたり、感謝されたり、礼拝されることを求めている人たちがたくさんいることがわかります。キリストに従うなんてもってのほか、自分の思いのままに生きていきたい。それは反キリストの霊、不法の秘密がすでに働いているからなのです。だから、不法の人はまだ現れてはいませんが、不法の秘密はすでに働いています。それによって私たちは、世の終わりが近づいていることを知ることができますが、今は反キリストが定められた時に現れるようにと、聖霊が引き止めているのです。ですから、私たちは主の聖霊の働きを締め出してはなりません。

Ⅲ.その時になると(8-12)

では「不法の人」が現れるとき、いったいどのようなことが起こるのでしょうか?8節から12節までをご覧ください。まず8節から10節までをお読みします。

「8 その時になると、不法の人が現れますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。9 不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、10 また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。」

「その時になると」、すなわち「引き止める者」が取り除かれる時になると、いよいよ不法の人、反キリストが現れ、神とキリストに対する徹底的な挑戦が始まります。不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴うので、あっと驚くようなことをして、人々の心をひきつけます。一度死んだかと思ったら、その致命的な傷も治って生き返るので、全地が驚いて、彼に従うようになるのです。彼は圧倒的な権威を身にまとい、多くの人と堅い契約を結ぶので、政治的にも、軍事的にもカリスマ的な力をもって世界をまとめるのです。ところが3年半が経ったとき、事態は急変いたします。これまで世界を救うヒーローかと思っていた彼が急に傲慢なことを言い始め、神を汚すようなことを言い、自分こそ神だと宣言するようになるのです。4節にあるとおりです。

けれども主は、御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。「ハルマゲドンの戦い」と呼ばれている戦いにおいてです。御口の息をもってとはみことばによってということです。主はみことばの剣をもって反キリストを滅ぼされるのです。主のみことばにはそれほどの力があるのです。主はこのみことばをもって天地を創造されました。主が「光よ。あれ。」と仰せられると、光ができました。また主がこの地上を歩まれた時も、みことばによって病人をいやし、嵐を静め、死人をよみがえらせました。また、そのみことばによってサタンを退けられたのです。それは両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができるのです。

また、主は来臨の輝きをもって敵を滅ぼされます。この場合の来臨とは地上再臨のことです。その七年前に主は空中に再臨され、ご自身の花嫁である教会を携え挙げられますが、その七年後に、今度は多くの御使いを従えて天から下ってこられるのです。それはありにも輝いた姿なので、不法の子である悪魔は滅ぼされてしまうのです。しかし、そのさばきは悪魔だけに対してのものではありません。10節を見ると、それはその悪魔に従って神がキリストによって与えてくださった救いを拒否して受け入れなかった人々にも臨むのです。彼らがさばかれるのは、何か悪いことをしたからとか、刑事事件を起こしたからではありません。彼らが滅ぼされるのは、サタンの誘惑に負け、キリストの救いを拒んだからです。パウロはここで、「彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。」とはっきりと言っています。

私たちは、神の前に、キリストの十字架の愛を受け入れるか受け入れないか、すなわち、キリストを救い主として信じるか信じないか、救いか滅びの二つに一つの道しかありません。救われもしなければ滅びもしない道といった中間的な道は存在しないのです。救われなくてもいいけど、滅びたくはないとか、そういう道はないのです。救われるか滅びるかのどちらかの道しかないのです。だから、主イエスはこう言われたのです。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その満ちは広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。」(マタイ7:13)

神の愛によって与えられたキリストの唯一の救いをいつまでも拒む者に対して、主はあのエジプトの王パロの心をかたくなにされたように、かたくなにされます。もう少したったら信じられるようになるでしょうとか、仕事を退職したら信じるようになるでしょうというのは、サタンである悪魔の偽りです。後になればなるほどもっとかたくなになってしまいます。もしあなたが救われるための真理への愛を受け入れないと、偽りを信じるように、惑わす力が送り込まれるからです。だから、主が来臨されるとき滅ぼされることがないように、今、神の救い、神のあなたに対する愛を受け入れほしいと思います。確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。ですから、聖霊はこう言われるのです。「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたように、心をかたくなにしてはならない。」(へブル3:7-8)

どうかここにおられる人が一人も漏れることなく、神の御救いにあずかることができるように、きょう、もし御声を聞いたなら、心をかたくなにしないでいただきたいと思います。確かに今は恵みの時、今は救いの日なのです。やがてその救いのドアが閉じられる時がやってきます。そのときに、この救いに漏れることがないように、どうか主の救いを受け入れてください。この新しい一年が主の救いを受け、やがて来る主の来臨にしっかりと備えた年でありますように。たとえ、回りがどんなに騒いでも、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりするのではなく、みことばの約束をしっかり握りしめて生きる年でありますように祈ります。

Ⅱテサロニケ1章5~12節

あっという間に今年最後の主の日を迎えました。この一年も主が毎週の礼拝を守り、導いてくださったことを心から感謝します。きょうはⅠテサロニケ1章5節から12節までの箇所から、「感嘆の的イエス・キリスト」というタイトルでお話します。

Ⅰ.神の国にふさわしい者とするため(5-7)

まず5節から7節までをご覧ください。

「5 このことは、あなたがたを神の国にふさわしい者とするため、神の正しいさばきを示すしるしであって、あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです。6 つまり、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、7 苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現れるときに起こります。」

「このこと」とは、1節から4節までに書かれてあることです。テサロニケの教会には激しい迫害がありました。しかし、そのような迫害の中にも彼らの信仰は目に見えて成長し、彼らの相互の愛は増し加わり、そうした迫害や患難に耐えて、信仰を堅く保っていました。試練や苦しみは、彼らの信仰の根を引き抜くことはできなかったのです。でもいったいなぜクリスチャンにはこのような苦しみがあるのでしょうか。ここでその理由が語られているのです。それは、彼らを神の国にふさわしい者とするための、また報いとして彼らに安息を与えるためのものであるということです。どういうことでしょうか?

まず5節には、「このことは、あなたがたを神の国にふさわしい者とするため・・・・あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです。」とあります。クリスチャンがこの世で迫害や患難を受けることがあるとしたらそれは神の国のためであって、神の国にふさわしい者とするためなのです。Ⅰペテロ1章7節には、「信仰の試練は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」とあります。皆さん、信仰の試練は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも尊いのです。それは、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になるのです。それは苦しみを受けているクリスチャンが神の国の一員であるということの証拠であり、そのことによってクリスチャンはダイヤモンドのように輝きを増していくことになるのです。不純物が取り除かれることによってもっともっと聖いものに変えられていくために、そして、神の国の住民としてふさわしいものに造り変えられるために、神はこうした患難や試練を用いられるのです。

「そんなのいらない」と言う方がおられますか。そういう人は輝くことができません。称賛と光栄と栄誉を受けることはできないのです。試練はできたら避けて通りたいものですが、実はその試練こそが私たちを神の国にふさわしい者として整えるために神が用いられる道具だというのです。だから聖書はこう言うのです。

「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」(ヤコブ1:2-4)

これは本を読んで勉強したからできることではありません。ただ試練を通して、患難を通してそれに耐え、その忍耐を完全に働かせることによってもたらされるものなのです。これは口で言うのは簡単なことですが、実行しようとするとなかなかできることではありません。実際に試練に会うと、そのようには思えなくなるのです。そこから逃げることしか考えられなくなります。何とかこの試練を取り除いてくださいとひたすら願うだけなのです。試練が悪いものだと思って、そこから逃げることしか考えられないのです。けれどもその患難が、あなたに忍耐や信仰をもたらすのです。その患難から逃れることばかり考えていたら非常にもったいないことです。神があなたを創り変えることはできません。それは神の働きを阻害することにもなるのです。いつまでも完全なものとして成長を遂げることはできません。しかし、あなたが患難を通して聖書に約束された通りのことを私の身にも行ってください、主よ、どうか患難を道具として用いてください。傷もしみもしわもそのようなものの何一つない栄光の花嫁にしてくださいと祈るなら、神はあなたをそのように創り変えてくださるのです。

そんなこと言ったも、耐えられなかったらどうするんですか。大丈夫です。神はあなたが耐えられないような試練を与えることはなさらないからです。耐えられるように、試練とともに脱出の道を備えてくださいます。Ⅰコリント10章13節を見てください。「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」

ですからどうぞ安心してください。あなたがたの試練はみな人の知らないようなものではないのです。みんな同じような試練に会っています。涼しい顔して平気でいる人を見ると、「あの人はいいなぁ。あの人は試練なんてないんだろう」とか、「私の痛みや苦しみを理解することなんてできないだろう」と思うかもしれませんが、そうではないんです。みんな同じような試練を通っているんです。あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではないのです。けれども、神は真実な方ですから、あなたがたが耐えられないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道を備えてくださるのです。何とすばらしい励ましでしょうか。それは私たちを倒すためではなく、私たちを神の国にふさわしい者として整えるために与えているものだからです。あなたはその試練に耐えることによって、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な人となることができるのです。神の国にふさわしい者として整えられるのです。

へブル書12章11節にはこうあります。「すべての懲らしめは、そのときには喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」(へブル12:11)すべての懲らしめは、そのときには喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われものですが、後で振り返ってみると、あの苦しい経験があったからこそ今の自分があると思い、むしろその意見が感謝できるようになるというのです。

いったいなぜこんなに苦しみがあるのでしょうか?そのもう一つの答えが6節と7節にあります。「つまり、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。」

クリスチャンに対して不当な苦しみを与える者に対して、神は正当に報いを与えてくださいます。ですから、あなたは自分で復讐する必要はないんです。復讐は神がなさることですから、神は正しくさばいてくださいます。ですから、自分がさばきをつけなくてもいいのです。ついついさばきをつけたくなるのですが、そうやってさばきをつけることによって、私たちがさばかれてしまうことがあります。というのは、私たちは間違ってさばくことの方が多いからです。間違ってさばいたら大変なことになります。その責任はとても重いからですね。誤審、冤罪、これは大変な責任です。その人の人生を台無しにしてしまいます。ですから、そういうことがないように、神が正しく裁いてくださいます。今、不当な目に遭っていても、今、理不尽でも、不条理であっても、やがて神がすべてを正しくさばいてくださいます。

具体的にはどういうことでしょうか。具体的には「あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に力ある御使いたちを従えて天から現れるときに起こります。」

これはキリストが地上に再臨される時に起こることです。その七年前に主は空中に再臨され、キリストの花嫁である教会を一挙に引き上げられます。そして天国で結婚式が行われるのです。それが小羊の婚宴と呼ばれるものです。そこでクリスチャンはいつまでも主とともにいるようになるのです。

しかし、その時この地上では恐ろしいことが起こっているのです。七年間の大患難時代です。反キリストが現れて猛威を振うので、地上の多くの人々が死に絶えるのです。そしてそれがクライマックスに達するまさにその時、キリストが力ある御使いを従えて天から下ってこられるのです。オリーブ山という山です。その時主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わなかった人々を報復されます。その一方で、この地上で苦しみを受けたクリスチャンは、報いとして安息が与えられるのです。

皆さんには安息がありますか。あなたがこの地上でどんなに頑張っても、自分の力で罪を帳消しにすることはできません。あなたを罪から救うことができるのは、ただあなたの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださったイエス・キリストだけなんです。このイエスを信じるならあなたの罪は赦され、安息を受けることができます。いい人を演じても限界があります。結局、人はみな必ず死ぬのですから。死んだらすべてを失います。地獄の沙汰も金次第ということは通用しません。あなたは神の前に立ち、神のさばきを受けなければならないのです。もしあなたがイエスを信じていなければ、主はあなたに報復されます。そこには何の安息もありません。でも、イエスを救い主として信じるなら、主が報いとして安息を与えてくださるのです。主イエスは言われました。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

今は不当な苦しみにあえいでいるかもしれません。理不尽な思いでいっぱいかもしれません。でもやがて主イエスが再臨されるとき、主が正しくさばいてくださいます。あなたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、苦しめられているあなたがたには、報いとして安息が与えられるのです。

皆さん、なぜ私たちには試練や苦しみがあるのでしょうか。それはあなたを神の国にふさわしい者として整えるためであり、やがてさばき主なる主が再臨されるときに主が正しくさばかれ、あなたに報いを与えるためです。あなたはそこで真の安息を得るのです。だから、たとえ試練や苦しみがあってもがっかりしないでください。もう信じていても意味がないと投げやりにならないでください。主の日は近いのです。そのとき、主が正しくさばかれ、あなたに報いてくださいますから。

今、あなたが抱えておられる試練は何ですか?それがどんなに大きな試練でも、それよりももっと大きな方を見なければなりません。試練を通して神を見るのではなく、神を通して試練を見るなら、その苦しみの中に隠れている神のみこころを見出すことができるのです。

Ⅱ.感嘆の的イエス・キリスト(8-10)

次に8節から10節までをご覧ください。

「8 そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。9 そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。10 その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の―そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです―感嘆の的となられます。」

 

ここには、主イエスが再び来られるとき、神を知らない人々や、主イエスの福音に従わない人をさばかれるとあります。そのような人々は、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。 神はあわれみ深い方ですからすべての人々を救われると思っている方がおられますが、そうではありません。勿論、神はすべての人が救われることを望んでおられますが、だからといってすべての人が主の救いを信じるわけではないのです。そういう人たちはみな永遠の滅びの刑罰を受けるのです。死んだらみんな天国に行くのであって、地獄に行く人なんて誰もいないという人がいますが、それは嘘です。聖書は、そのような人は永遠の滅びの刑罰を受けるとはっきり言っているのです。そんな恐ろしい地獄など実際には存在しないと考えている人々がいますが、それは単なる人間の願望から出た想像にすぎないのであって、実際には地獄は存在するのです。

ですから、聖書はこう言うのです。ヨハネ3章16節です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」聖書は、キリストを信じる者はひとりも滅びないで、永遠のいのちを持ち、信じない者は滅びると明言しているのです。神はこの世の罪人を救うために御子を世に遣わされました。そして十字架にかけて人間の罪の罰を御子に負わせました。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠のいのちを持つためです。これが、人間が罪から救われる唯一の道です。これ以外には救いの道はありません。この御名のほかに、私たちが救われるべき名としては人間には与えられていないからです。この唯一の救い主イエス・キリストを信じない人々に対して、神はこのようにされるのです。

先週はクリスマスでしたが、主イエスが最初にこの地上に来られた時はベツレヘムの家畜小屋で生まれてくださいました。飼い葉おけに寝かされたと言います。実にみすぼらしい姿をとって来てくださいました。しかし、今度再び来られる時には、二度目の来臨の時には、天の万軍を従えて、王の王として、主の主としてお出でになられます。また、その時は最初に来られた時のように一部の人しか知らないような姿ではなく、世界中の人々がはっきりと目撃する形で来られるのです。

「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。」(黙示録1:7)

昔は地球の裏側で起こっていることを同じ時間に見ることなど考えられないことでしたが、今やテレビの発明や宇宙中継などによって、お茶の間に居ながら、世界中の動きを一瞬にして知ることができるようになりました。1963年、日本とアメリカとの間で、宇宙中継による最初のテレビ放映が行われましたが、そのときいきなりテレビの映像から飛び込んできたのはジョン・F・ケネディ大統領暗殺の生々しいニュースでした。そのニュースをご覧になった方々は、どれほどの衝撃を受けられたことかと思います。また、1989年にベルリンの壁が崩壊したニュースも、一瞬にして世界中に伝えられました。それと同じように、いやそれよりもはるかに鮮やかに、主の再臨の出来事はもっと大々的な出来事として世界中を揺るがすはずです。その時、世界中のクリスチャンは、どれほどの歓喜の声を上げることでしょう。それが10節にあります。ご一緒に読んでみましょう。

「その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の・・そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです。・・感嘆の的となられます」

世界中の人々の注目を集め、全てのクリスチャンの「感嘆の的」となられる主イェス・キリストの姿を想像するだけでも、胸が躍る思いがします。パウロのこのことばによって、テサロニケのクリスチャンたちは、迫害や患難の中にありながらも、ますます、主イエスに対する信仰を強められたのではないでしょうか。

現代に生きる私たちも、その時が来た時に、主イエスを「感嘆の的」とさせて頂けるように、今からイエスさまを信じ、イエスさまの再臨を待ち望みながら歩む者とさせていだたきたいものです。同時に、家族の誰か、友人のどなたかが取り残されてしまうことがないように、置き去りにされてしまうことがないように、みんなで主イエスを信じることができるように熱心に祈りに励みたい思います。そして主イエスが迎えに来られるとき一人も漏れなく携え挙げられて、天の御国に入れるように祈りましょう。

Ⅲ.御力によって(11-12)

最後に11節と12節を見て終わりたいと思います。

「11 そのためにも、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか、私たちの神が、あなたがたをお召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を慕うあらゆる願いと信仰の働きとを全うしてくださいますように。12 それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、主イエスの御名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。」

そのためにいつも祈っている必要があります。主イエスがいつ戻って来てもいいように、油断しないで祈っていなければなりません。ここでパウロはテサロニケのクリスチャンたちのためにこう祈りました。「どうか私たちの神が、あなたがたをお召にふさわしい者にし、また御力によって、善を慕うあらゆる願いと信仰の働きを全うしてくださいますように。」

神が彼らをこの世とサタンの支配から救い出し、罪を赦し、神の子としてくださったのは決して偶然のことではありませんでした。またそれは単に彼らの願いによるものではなかったのです。それは一方的な神のみわざであり、神の選びによるものでした。主イエスは、「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(ヨハネ15:16)と言われました。私たち一人一人は神に選ばれ、召し出されてここにいるのです。自分ではたまたま大田原に来て、たまたま教会に来て、たまたま信じたかのように思っていますが、それはたまたまのことではなく、神の深いご計画によるものでした。それはあなたが母の胎に生まれる前から、いや世界の基が置かれるずっと前からそのように選ばれていたことなのです。であるなら、その召しにふさわしく生きることが求められます。

その召しにふさわしい生き方とはどのようなものなのでしょうか。ここには、「御力によって、善を慕うあらゆる願いと信仰の働きを全うしてくださいますように。」とあります。つまり、進んで善を行うクリスチャンになるようにということです。エペソ2章10節には、「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」とあります。

しかし、進んで善を行う力など、私たちにはありません。私たちの生まれながらの人間は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行ってしまうからです。ですから、根本的には善を行う力など持っていないのです。では望みはないのでしょうか。いいえ、だからここには「御力によって」とあるのです。「どうか、私たちの神が、あなたがたをお召しにふさわしい者とし、また御力によって、善を慕うあらゆる願いと信仰の働きを全うしてくださいますように。」と、神の御力が強調されているのです。そればかりではありません。12節をご一緒に読みましょう。

「それは私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、主イエスの御名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。」

ここにも、「私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって」とあります。私たちは自分の力で良い行いができるのではありません。自分の力でキリストと同じ姿に変えられるのではないのです。私たちの神が、御力によって、そのことをしてくださいます。私たちの主であるイエス・キリストの恵みによって、それができるようにと助けてくださるのです。

であれば、私たちは主が私たちをその召しにふさわしい者とし、善を行うことができるように、私たち自身を主に差し出し、主によって造り変えていただかなければなりません。そのとき、主の力と主の恵みによって、私たちもそのような者へと変えていただけるのです。そして、主イエスの御名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるようになるのです。

この新しい年が主イエスの御力によって、その召しにふさわしい者として変えられ、信仰を全うしていくことができますように、主イエス・キリストの恵みによって堅く信仰に歩めるように祈ります。