Ⅰテモテ3章14~16節「敬虔の奥義」

きょうは3章後半の箇所から、「敬虔の奥義」というタイトルでお話したいと思います。2章3章には、私たちはクリスチャンとしてどうあるべきなのかが語られてきました。まず、すべての人のために祈らなければなりません。なぜなら、神はすべての人が救われて、真理を知るようになることを願っておられるからです。また、男は怒ったり、言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈らなければなりません。女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなければなりません。なぜなら、アダムが最初に造られ、次にエバが造られたからです。それが創造の秩序なのです。では監督はどうですか、執事はどうでしょう。どのような人が監督として、執事としてふさわしいのでしょうか。その資格について述べられてきました。 きょうのところはその続きですが、続きというよりも、そもそもと教会とは何なんですかという本質的なことが語られます。それが「敬虔の奥義」です。きょうはこの敬虔の奥義について三つのことをお話したいと思います。

Ⅰ.教会は神の家(14-15a)

まず14節と15節の前半をご覧ください。

「14 私は、近いうちにあなたのところに行きたいと思いながらも、この手紙を書いています。15 それは、たとい私がおそくなった場合でも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたが知っておくためです。神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。」

この手紙は使徒パウロから弟子のテモテに宛てて書かれた手紙ですが、いったいなぜパウロは手紙を書き送ったのでしょうか。遅ればせながらここにその理由が述べられています。それは、パウロがテモテのもとに行くのが遅くなっても、テモテが教会でどのように行動すべきなのかを知らせるためです。使徒として、先輩として、そして同労者として、若い牧会者テモテが苦闘しているのを見て放っておけなかったのでしょう。ここにパウロの弟子に対する温かさや思いやりを見ることができます。

ところで、パウロはここで教会についてきわめて重大なことを言っています。それは、教会は神の家であるということです。皆さん、教会は神の家です。教会が神の家であるとはどういうことでしょうか?

この「神の家」の「家」という言葉は「オイコス」というギリシャ語ですが、これは3章4節と5節にも出てきます。そこでは「家庭」と訳されています。皆さん、家庭というとどういうイメージがありますか?どちらかというと家族が住む場所とか空間といったイメージがあるかと思いますが、3章4,5節で使われている「家庭」という言葉は、どちらかというと家族に近い言葉です。それを構成しているメンバーたちのことです。英語の聖書では「Household」と訳されています。Householdとは、雇人も含めて一軒の家に住んでいる家族のことです。ですから、どちらかというと建物としての家よりも、それも含めたそこに住んでいる人たち、家族のことを指しているのです。ここでは自分の家と神の家が比較されているのです。自分自身の家庭をよく治めることを知らない人が、どうして神の家である教会の世話をすることができるでしょうか、と言われているのです。この場合の家とか、家庭は、そこに住んでいる人たち、家族のことを指しているのです。

ですから、神の家とは神の家族のことです。教会は神の家、神の家族なんです。神によって集められた者たちの群れ、共同体であります。エペソ2章19節にはこうあります。

「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」

私たちは、かつてはキリストから離れ、この世にあって望みもなく、神もない人たちでしたが、そのように遠く離れていた私たちも、イエス・キリストの血によって、イエス・キリストを信じて、キリストの中にあることによって一つにされました。同じ国民とされたのです。神の国民、神の家族です。ですから、教会は、その神の家族なのです。

皆さん、なぜ私たちは教会を大切にするのでしょうか。それは、教会は神の家、神の家族だからです。教会は牧師の家でもなければ、この世の会社とも違います。もし会社であれば社員が辞めても代わりの人材を見つけて補充すれば済むかもしれませんが、家族はそういうわけにはいきません。家族の代わりになる人はいないのです。あなたの代わりになる人はいないのです。家族とは私たちのいのちそのもの、生活そのものです。家族がいなければ、私たちの生活は成り立ちません。家族はそれほど重要なものなのです。そして、教会はその神の家族なのです。

Ⅱ.教会は真理の柱また土台(15b)

そればかりではありません。15節の後半の部分を見てください。ここには、「神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。」とあります。

ここには、教会はただ神の家族というだけでなく、生ける神の家族であり、真理の柱また土台です、とあります。どういうことでしょうか。「生ける神」というのは「死んだ神」「死んだ偶像」に対して使われる言葉です。まことの神が生きているのに対して、偶像は死んだものです。

この時パウロはエペソで牧会していたテモテにこの手紙を書き送りました。エペソには何がありましたか。エペソには偉大なアルテミスの神殿がありました。この神殿は現在では原形をとどめていませんが、当時は世界の七不思議にかぞえられていて、長さが115メートル、幅55メートル、高さは18メートルもあり、それが117本の柱で支えられており、総大理石で作られていたといました。それは紀元前7世紀に建てはじめて200年かけてやっと完成したほど立派な神殿です。そして奥には高さ15メートルのアルテミスの女神が祭られていたのです。それは木でできていましたが、顔と手足の先以外は黄金と宝石で飾られていました。エペソの町は、この偉大なアルテミスが祭られた神殿を中心に生活が営まれていたのです。

しかし、それがどんなに壮大なものであっても、ただの木や石でできたものにすぎません。そこにいのちがあるわけでもなく、また人にいのちを与えることができるわけでもないのです。それはただの偶像であり、死んだ神にすぎません。しかし、神の家である教会におられる方は違います。教会におられる方は生ける神であり、今も生きて働いておられる方です。この方は偶像の神々と違って、神を信じる者にいのちを与えることができる方です。ですから教会は「生ける神の教会」と言われているのです。

そればかりではありません。ここには、「その教会は、真理の柱また土台です。」とあります。どういうことでしょうか。教会とは神に召し出された物たちの群れであり、集まりですが、そこに集っている人たちを見ると、必ずしも優れている人たちというわけではありません。ただ罪赦された罪人、聖なる罪人であるにすぎません。そのような者が真理の柱とか、土台であるなんてとても言えるようなものではありません。ですから、多くの人たちはこれを、教会がイエス・キリストという真理の柱によって支えられ、イエス・キリストという真理の土台の上に建てられていると解釈するのですが、そうではないのです。教会が真理の柱、また土台だと言うのです。それはこの新改訳聖書だけなく口語訳聖書も、新共同訳聖書も、その他英語のすべての訳も同じように訳しているのです。いったいこれはどういうことなのでしょうか。

このことを理解するために、柱とか土台の役割について考えてみたいと思うのです。いったい柱は何のためにあり、土台は何のためにいるのでしょうか。もちろん、支えるためです。建物全体を支えるためにしっかりし土台と柱で支えるわけです。しかし、それだけではないのです。柱とか土台というのは建物の重要な「支え」であると同時に、場所によっては一種の飾りとしての効果もあるのです。日本式の家屋では「床柱」といって、床の間を黒檀やヒノキといった特別な木材が使われるのはそのためです。私が福島で会堂建設に携わったとき、礼拝堂の入り口を出たとても目立つところに3本の柱が立っているのですが、いったい何ために立っているのかわからなかったので、あるとき設計士に聞いたことがあります。「この柱は何のためにあるんですか」するとその設計士が言いました。「デザインです」かつて小さな会堂で礼拝をしていたとき真ん中に1本の柱が立っていて邪魔だったのですがどうしてもそれを取ることができず、柱に対してはあまりいい思いがありませんでした。できればスパッと取り払いたい気分なのですが、デザインというとても重要な働きがあることがわかったのです。

先ほど、エペソにあったアルテミスの神殿についてお話しましたが、パウロがこのように表現しているのは、おそらくこのアルテミス神殿の柱と土台を念頭に置いていたのではないかと考えられます。その場合の柱とは、確かに神殿全体を支えるという役割もありましたが、それ以上に豪華な装飾の方にウェイトが置かれていました。また、土台についても同様です。それは総大理石が使われていましたが、それがどれほど豪華であったかを想像するのは難しいことではないと思います。

このようなことを念頭において、この世界との関係においてこの地上の教会を見る時、それはまことにみすぼらしいかのように見えるかもしれませんが、教会は神の真理の見せ場、つまりあかしの場でもあるのです。そして、その神の真理が崩されないように守っているところでもあります。そういう意味で教会は真理の柱であり土台なのです。そこには生ける神が働いておられるところだからです。これは決して教会が間違いのない完全な組織であるということではありません。確かに目に見える教会は、組織的にも能力的にもいろいろに弱さがあり欠陥があります。しかし、だからといってその教会が「真の普遍的な教会、キリストのからだとしての教会であることが否定されるわけではないし、真理そのものが否定されるわけでもないのです。確かに私たちは不完全な存在ですが、しかし私たちは、この不完全な器の中に神の真理である福音を入れているのです。このことはⅡコリント4章7節をみるとわかります。

「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」

「この宝」とはイエス・キリストのことであり、その救いのみことば、福音のことです。私たちはこの宝を土の器の中ら入れているのです。皆さん、土の器をご存じでしょう。もし誤って落としてしまったらすぐに割れてしまうほど弱いものです。神は鉄の器、金の器のような強くて完全な器ではなく土の器のような弱い私たちにこの宝を入れてくださったのは、それはこの測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかにされるためなのです。だから、教会ってすごい所なんですよね。それがどんなに小さな群れであっても、今にも倒れそうな貧弱な建物であっても、その中にこの宝を入れているのですから。

この地上では、「教会」以外に実際的に、また正しくキリスト教の真理を現し、支え、守っているところはありません。だからこそエペソの教会も、数々の問題を抱えていても、異端的な教えや信仰から脱線することから何としても守られなければならなかたのです。それはまた今日の私たちの教会も同じです。私たちは、自分たちが所属している教会に与えられたこの重大な使命を心に留め、しっかりした教会生活を送らなければなりません。たとえそれがささやかな群れであっても、それは神の摂理によって立てられた教会なのであるということを覚え、共に真理を守り、これをあかししていきたいと思うのです。

Ⅲ.敬虔の奥義(16)

 

では、その真理とは何でしょうか。そこでパウロは、この真理の内容を「この敬虔の奥義」ということばでまとめて言及しています。16節をご覧ください。

「確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。「キリストは肉において現れ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」

「奥義」とは原語で「ムステーリオン」という言葉で、隠されていたものが、ある時ベールが上げられて明らかにされるという意味です。この言葉から英語の「ミステリー」ということばが派生しました。隠された真理が明らかにされることです。ですから偉大なのはこの敬虔の奥義なのです。そしてその内容は、16節の中の「」にまとめられています。

「キリストは肉において現れ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」

これは初代教会で歌われていた賛美歌の一部だったと考えられています。パウロは、当時よく知られていた賛美歌を引用して、真理とは何かをここで説明しているのです。その内容は、イエス・キリストの生涯全体にわたる事実で、次の六つのことです。

第一に、キリストは肉において現れたということです。キリストが肉において現れたとはどういうことでしょうか。それはイエス・キリストの受肉を現しています。ヨハネの福音書1章1~3節、それと14節、そして18節を開いてください。

「1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。2 この方は、初めに神とともにおられた。3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」

「14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

「18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」

「ことば」とはイエス様のことです。イエス様は二千年前に、聖霊によって処女マリヤから生まれましたが、その時に存在したのではありません。そのずっと前から、いや永遠の昔から神とともに存在しておられました。この方は神の子であられたのです。その方が肉体の姿を取って天から降りて来られました。この方が救い主イエス・キリストです。それは、いまだかつてだれも神を見た者はいないので、その神がどのような方であるのかを説き明かされるためでした。キリストは永遠に神とともにおられた神なので、それを解き明かすことがおできになられたのです

次は「霊において義と宣言され」という言葉です。これは、キリストが罪のない方であるということが聖霊によって宣言されたということです。キリストはいつそのように宣言されたのでしょうか。マタイの福音書3章16,17節には、イエス様がバプテスマのヨハネからバプテスマを受けたとき、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に下られるのをご覧になったとあります。そしてその時、天からこう告げる声が聞こえました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(3:17)

また、キリストは死人の中から復活したことによって義なる方であることが証明されました。「聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。」(ローマ1:4)

イエス様が死んだままであったなら、彼が救い主であるはずはなかったわけですが、イエスは死んで復活してくださいました。それによってこの方が大能の御子として、義なる方として公に示されたのです。

そして次は、「御使いたちに見られ」です。何ですか、「御使いたちに見られ」とは?「御使いたちによって見られ」というのは、キリストの存在は単に人々によって注目されたというだけでなく、天的な存在である御使いたちによっても注目されたということです。キリストはいつ御使いたちに見られたでしょうか。たとえば、キリストが生まれたとき、彼は御使いたちに見られました。羊飼いたちが荒野で野宿していたとき、そこに御使いたちが現れ、神を賛美して言いました。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に平和が、御心にかなう人々にあるように。」(ルカ2:14)。

また、イエス様が荒野で悪魔の誘惑を受けられた時も、御使いたちが近づいてきてイエスに仕えたとあります(マタイ4:11)。また、イエス様がゲッセマネの園で祈られた時もそうです。あるいは死人の中から復活した時も・・・。イエス様の生涯のすべは御使いたちにも見られたのです。

そして、キリストは諸国民の間に宣べ伝えられました。神の国の福音はユダヤ人のみならず、神からは遠く離れた異邦人にも宣べ伝えられました。それによってキリストは全世界の救い主であることを示されたのです。

また、世界中で信じられました。この手紙を書いたパウロもその一人です。彼は、以前はクリスチャンたちを迫害する者でしたが、復活のキリストが彼に現れてくださって、彼はこの福音を世界中に宣べ伝える使徒になりました。この福音は、世界中で信じられるようになったのです。

そして彼は、「栄光のうちにあげられ」ました。キリストは栄光のうちにあげられました。この中にはもちろん十字架と復活という救いの御業も含まれています。イエスの十字架は神の栄光でした。イエスの復活も神の栄光でした。イエス様は十字架と復活という救いの御業を成し遂げて、栄光のうちに天に上られたのです。キリストは死んで終わりではありませんでした。死んでよみがえられました。よみがえられて、天に上って行かれたのです。それは、私たちのために場所を備えるためです。場所を備えたら再び戻って来て、そこに私たちクリスチャンを、花嫁である教会を迎えてくださいます。私たちも死んでも終わりではありません。やがてよみがえり朽ちることのないからだ、栄光のからだに変えられて、天に上げられるのです。そこで、いつまでも主とともにいるようになるのです。

これが敬虔の奥義です。これが、私たちが信じている信仰の内容なのです。これが、教会が守るべき真理の内容です。その内容とは何かというと「イエス・キリスト」です。キリスト教の信仰とはイエス・キリストなのです。イエス・キリスト、これが敬虔の奥義であり、私たちの信仰そのものです。

これは隠されていることではなく、すでに明らかにされました。イエス・キリストとはどのような方なのか、どうしたら救われるのか、その真理が明らかにされたのです。聖書はそれを私たちにはっきりと示しています。この聖書の教えからズレではいけません。この真理からずれたら、そこには救いはないからです。このイエス・キリストを信じる者は、だれでも救われます。もしあなたが真理を求めているなら、イエス・キリストの許に行ってください。そうすれば、救われます。もしあなたが信仰の祝福を力を求めているならイエスの許に行ってください。そうすれば、あなたは力を受けます。すべては私たちのために死んでよみがえってくださったキリスト・イエスによるのだということを忘れないでいただきたいのです。これは私たちの理解をはるかに越えたことですが、これが真理なのです。確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。神がこの奥義を明らかにしてくださいました。そして、その中心がイエス・キリストなのです。私たちの信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでください。

教会はこのキリスト教の真理を明らかにしているところです。またその真理を守り支えるところでもあります。その教会の中に私たちもまた入れられました。それは、神は教会を通してご自分の働きをなさいたいからです。どこかのお店を通してではないのです。学校を通してでもありません。病院やどこかの会社でもない。神は教会を通してご自身の働きをなさろうとしておられるのです。

「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1:23)

神はこの教会を私たちにお与えになりました。それは私たちが教会を通して神の御業を行うためです。神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われて、真理を知るようになることです。すべての人が救われることを願っておられるのです。どのようにして救われるのでしょうか。教会を通してです。あなたを通してです。教会を通して神は、救われる人たちをご自身のところに引き寄せたいと願っておられるのです。であれば、そのために必要なことは何でしょうか。それは教会が、私たち一人一人がこの真理の上にしっかりと立っていることです。この真理から離れては救いはないからです。真理の柱、また土台である教会、生ける神の教会を通して、キリストにしっかりとどまっていなければならないのです。そのために神はこの奥義を明らかにしてくださったのです。私たち一人一人をみたらまことに貧弱な者ですが、神はこのような器にキリストという真理をお与えになられたということを覚え、私たちはこの真理を守り、証していく者でありたいと思います。真理の柱、まだ土台としての役割を果たしていきたいと思います。

民数記13章

きょうは民数記13章から学びます。これはイスラエルの歴史の中で最も悲しい出来事の一つが記されてあるところです。それは彼らが約束の地に入ることができなくなった原因となった出来事です。このことによってイスラエルは荒野を40年間もさまよわなければなりませんでした。それは彼らの不信仰が原因でした。いったいなぜ彼らは不信仰に陥ってしまったのでしょうか。きょうは13章からそのことについて確認していきたいと思います。

1.  約束の地への派遣(1-24)

まず1節から24節までを見ていきましょう。まず1節から16節までをお読みします。

「1 はモーセに告げて仰せられた。2 「人々を遣わして、わたしがイスラエル人に与えようとしているカナンの地を探らせよ。父祖の部族ごとにひとりずつ、みな、その族長を遣わさなければならない。」3 モーセはの命によって、パランの荒野から彼らを遣わした。彼らはみな、イスラエル人のかしらであった。4 彼らの名は次のとおりであった。ルベン部族からはザクルの子シャムア。5 シメオン部族からはホリの子シャファテ。6 ユダ部族からはエフネの子カレブ。7 イッサカル部族からはヨセフの子イグアル。8 エフライム部族からはヌンの子ホセア。9 ベニヤミン部族からはラフの子パルティ。10 ゼブルン部族からはソディの子ガディエル。11 ヨセフ部族、すなわちマナセ部族からはスシの子ガディ。12 ダン部族からはゲマリの子アミエル。13 アシェル部族からはミカエルの子セトル。14 ナフタリ部族からはボフシの子ナフビ。15 ガド部族からはマキの子ゲウエル。16 以上は、モーセがその地を探らせるために遣わした者の名であった。そのときモーセはヌンの子ホセアをヨシュアと名づけた。」

主はモーセに、人々を遣わして、主がイスラエル人に与えようとしているカナンの地を下がらせるようにと命じられました。いったいなぜ主はこのようなことを命じられたのでしょうか。ここで申命記1章19節から23節までをお開きください。

「19 私たちの神、が、私たちに命じられたとおりに、私たちはホレブを旅立ち、あなたがたが見た、あの大きな恐ろしい荒野を、エモリ人の山地への道をとって進み、カデシュ・バルネアまで来た。
20 そのとき、私はあなたがたに言った。「あなたがたは、私たちの神、が私たちに与えようとされるエモリ人の山地に来た。21 見よ。あなたの神、は、この地をあなたの手に渡されている。上れ。占領せよ。あなたの父祖の神、があなたに告げられたとおりに。恐れてはならない。おののいてはならない。22 すると、あなたがた全部が、私に近寄って来て、「私たちより先に人を遣わし、私たちのために、その地を探らせよう。私たちの上って行く道や、入って行く町々について、報告を持ち帰らせよう」と言った。23 私にとってこのことは良いと思われたので、私は各部族からひとりずつ、十二人をあなたがたの中から取った。」

このところを見ると、これは主がそのように命じたというよりも、イスラエルの民からの申し出であったことがわかります。彼らがパランの荒野のカデシュ・バルネアまで来たとき、主はモーセを通して「上れ。占領せよ。」と言ったのに、彼らは、その前に人を遣わして、その地を探らせてくださいと言ったのです。それでモーセは、そのことは彼にとっても良いことだと思われたので、各部族からひとりずつ、十二人を取って遣わしました。いったいなぜ彼らはその地を探らせようとしたのでしょうか。不安があったからです。自分たちに占領できるだろうか、自分たちの力で大丈夫かどうかと、その可能性を探ろうとしたのです。

それにしても、なぜ神はそのことを許されたのでしょうか。モーセはなぜそのことが良いことだと思われたのでしょうか。なぜなら、神の意図は別のところにあったからです。あとでヨシュアとカレブがこの偵察によって、ますます元気づいて、この地を占領しようと奮い立ちますが、神はそのために偵察することは良いことだと思われたのです。すなわち、その地をどのように占領すべきかを知るために、その準備として、先に人をやって偵察させようとしたのです。

それなのに、イスラエルの民の思惑は違っていました。彼らはその地を偵察して、自分たちの能力で彼らに勝利することができるかどうかを知ろうとして人を遣わしたかったのです。ですから、そこには大きな違いがあったことがわかります。

さて、彼らが遣わしたのは、イスラエル人のかしらたちでした。民数記1章にも、軍務につくことができる者たちが軍団ごとに数えられ、そのかしらたちが登録されていますが、ここに記録されているかしらたちとは異なる人たちです。それはおそらく、スパイ行為というかなり危険で、体力を使う特殊な任務であったため、比較的若い人が用いられたからではないかと思われます。

そのときモーセはヌンの子ホセアをヨシュアと名づけた。ヨシュアは、モーセによって名づけられた名前でした。その前は「ホセア」という名前で、意味は「救い」です。そしてヨシュアは「ヤハウェは救い」あるいは「主は救い」となります。このギリシヤ語名が、「イエス」なのです。つまり、ヨシュアは、単に人々を救い出す人物ではなく、全人類を罪から救い出すところのイエス・キリストを、あらかじめ指し示す人物であったということです。

2.  エシュコルの谷(17-24)

次に17節から24節までをご覧ください。

「17 モーセは彼らを、カナンの地を探りにやったときに、言った。「あちらに上って行ってネゲブに入り、山地に行って、18 その地がどんなであるか、そこに住んでいる民が強いか弱いか、あるいは少ないか多いかを調べなさい。19 また彼らが住んでいる土地はどうか、それが良いか悪いか、彼らが住んでいる町々はどうか、それらは宿営かそれとも城壁の町か。20 土地はどうか、それは肥えているか、やせているか。そこには木があるか、ないかを調べなさい。あなたがたは勇気を出し、その地のくだものを取って来なさい。」その季節は初ぶどうの熟すころであった。21 そこで、彼らは上って行き、ツィンの荒野からレボ・ハマテのレホブまで、その地を探った。22 彼らは上って行ってネゲブに入り、ヘブロンまで行った。そこにはアナクの子孫であるアヒマンと、シェシャイと、タルマイが住んでいた。ヘブロンはエジプトのツォアンより七年前に建てられた。23 彼らはエシュコルの谷まで来て、そこでぶどうが人ふさついた枝を切り取り、それをふたりが棒でかついだ。また、いくらかのざくろやいちじくも切り取った。24 イスラエル人がそこで切り取ったぶどうのふさのことから、その場所はエシュコルの谷と呼ばれた。」

モーセは、綿密にその土地と住民を調べてくるように指示しました。その地はどのような地形になっているか、そこに住んでいる民は強いか弱いか、あるいは多いか少ないか。その地質はどうなっているのか。また彼らが住んでいる町々は宿営の町なのか、それとも、外敵から守るための城壁があるのか。また、土壌はどうなっているか。作物を得るのに、適しているのかいないのか。肥えているか、やせているか、そして、みなを元気づけるために、そこのくだものを取ってきなさい、というものです。かなり綿密に調べるように命じました。

そこで彼らは上って行って、その地を偵察しました。偵察隊は、ツィンの荒野からレボ・ハマテのレホブに至るまでの地をゆきめぐりました。レボ・ハマテというのは、ダマスコよりもさらにはるか北にあり、ユーフラテス川の近くまで来ています。神さまが約束された土地の北端になっている町です。カナンの地の領土の広がりについては、34章1~12節に詳しく語られていますが、それは現在のイスラエルのほぼ全領土と、レバノン、シリヤ南部までを含んでいます。かなり広い領域を偵察しました。おそらく、12人が皆一緒に行動したというよりは、それぞれが分担の地域に分かれて偵察したのでしょう。

またここにはネゲブからヘブロンへとさりげなく書かれてはいますが、そこは彼らにとっては重要な歴史的スポットでした。ネゲブは神がアブラハムに現れたところであり、ヘブロンには、アブラハム、サラ、イサク、リベカ、レア、ヤコブが葬られた墓所がありました。しかしそこにはアナクの子孫が住んでいました。彼らは巨人のように体が大きく、ちょうどダビデが対峙したゴリアテのようでした。

しかし、そこは乳と蜜の流れる地であり、豊かないのちをもたらす土地でした。彼らはエシュコルの谷までやって来たとき、そこで、ぶどう一房ついた枝を切り取り、それをふたりが棒でかつぎました。これはイスラエル政府観光局のシンボルになっています。イスラエルに観光に行くと、必ず見るマークの一つです。それはこの地が豊かないのちをもたらす土地であることを表しています。

3.報告(25-33)

さて、その地の偵察から帰って来たスパイたちは、どんな報告をもたらしたでしょうか。最後に25節から33節を見てください。

「25 四十日がたって、彼らはその地の偵察から帰って来た。26 そして、ただちにパランの荒野のカデシュにいるモーセとアロンおよびイスラエルの全会衆のところに行き、ふたりと全会衆に報告をして、彼らにその地のくだものを見せた。27 彼らはモーセに告げて言った。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこのくだものです。28 しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。29 ネゲブの地方にはアマレク人が住み、山地にはヘテ人、エブス人、エモリ人が住んでおり、海岸とヨルダンの川岸にはカナン人が住んでいます。」30 そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」31 しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」32 彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。33 そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」」

四十日経って、彼らはその地の偵察から帰ってきました。これが後に、イスラエルが荒地で放浪する期間として定められた40年の根拠となります。彼らは偵察から帰ってくると、パランの荒野のカデシュ・バルネアにいたモーセとアロン、そしてイスラエルの全会衆のところに行き、その地で取ったくだものを見せて、自分たちが見たとおりのことを話しました。それは、その地は豊かな土地であるけれども、その地の住民は力強く、町々には城壁が張り巡らせてあり、そこにはアナクの子孫がいたということです。そればかりか、ネゲブの地方にはアマレク人が、山地にはヘテ人、エモリ人が住んでいるというものでした。

これは事実でした。彼らは自分たちが見たとおりのことを報告したのですからいいのですが、ここからが問題です。この調査をどのように受けとめ、そして、それにどのように対処していくかということです。31節をご覧ください。彼らはこの現実にこう結論しました。

「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」

ここで彼らは、自分たちと敵とを比べました。これが問題です。彼らは神ご自身と敵を比較したのではなく、自分自身と敵を比較しました。このようにもし自分と敵とを比較すると、そこには恐れ以外の何ものも生じることはありません。そしてその結論はゆがめられたものなってしまいます。彼らは自分たちが探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらしました。そこには非常に大きく、力強い民がいて、とてもじゃないが、勝てる相手ではない。彼らに比べたら、自分たちはいなごのように小さく、何の力もない者であるかのようだと言ったのです。彼らは心に植え付けられた恐れによって、物事を誇大解釈してしまったのです。

それに対してヨシュアとカレブはどうだったでしょうか。彼らの見方は違いました。30節には、そのような恐れにさいなまれた他のスパイのことばをさえぎり、こう言いました。

「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」

いったいこの違いは何でしょうか。同じものを見ても、その捉え方は全く違います。他のスパイたちは、そこには大きく、強い民がいるから上って行くことはできないと言ったのに対して、カレブは、「ぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。」と言ったのです。いったいこの違いは何なのか。

これは信仰によるか、そうでないかの違いです。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(へブル11:1)目に見えるものを信じ、それによって判断することは信仰ではありません。信仰とは目に見えるものがどうであっても、神が言われることを聞き、それに従うことです。そのみことばに基づいて、目に見えないものに対処する、これが信仰なのです。単に主がおられることを信じ、遠くにある約束を信じているだけではなく、実際に自分の前に立ちはだかる現実に対して、神ご自身とそのみことばを当てはめるのです。カレブはそのことを行なったのです。これは無謀とは違います。無謀とは、神が語っていないのに自分で勝手にそう思い込むことです。自分で、むりやりに、「これを信じます。信じます!」と言い聞かせるのです。しかし、信仰は違います。信仰は無理に言い聞かせることではなく、神が仰せになられことを信じることなのです。たとえ目に見えないことでも、たとえ、人間的には難しいことであっても。

特に、このような能力を神から与えられた人たちがいます。それを「信仰の賜物」と言います。神が与えてくださった賜物によって、人には不可能と思えることでも信仰によって信じることができるような能力を、御霊によって与えられているのです。自然にそのように信じることができ、必ずこのことは起こると確信することができます。この賜物を受け取るには、「自分が」ではなく、「神が」という姿勢が必要です。自分ができるかどうか、ではなく、神が何をなしてくださっているのかに目を留めなければなりません。

私たちのうちには、このカレブのような人も、また10人のイスラエルのスパイのような人も存在します。信仰によって、戦いの中に入っていくことができるときもあれば、恐れ退くときもあります。御霊によって、「これはきっとできる。」と思って前に進むこともあれば、思いもよらなかなった攻撃や試練によって、「これ以上前に進んだら、自分がだめになってしまう。」と思って、退いてしまうときがあります。しかし、私たちが、乳と蜜の流れる地に入りたいと思うなら、信じなければなりません。信じて、前進するしかないのです。たとえ現実的には難しいかのようであっても、主がそのように言われるのなら、そのように前進しなければならないのです。

ヘブル書には、「私たちは恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」(ヘブル10::39)」とあります。恐れ退いて、悲しみ、嘆き、さまよう人生ではなく、神が与えてくださった豊かないのちを受けるために、信じて前進していく者でありたいと思います。

Ⅰテモテ3章1~13「監督、執事にふさわしい人」

きょうは、Ⅰテモテ3章から「監督、執事にふさわしい人」というタイトルでお話します。1章で語ったことを受けてパウロは、教会においてクリスチャンはどうあるべきなのかを、2章から述べています。まず初めに、すべての人のために祈りなさい、ということでした。なぜなら、神はすべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられるからです。そして次にパウロは、男女の役割について教えました。男は怒ったり言い争ったりすることなく、きよい手をあげて祈るように、また、女はつつましい身なりで、静かにしているようにということでした。

その流れの中できょうのところでは、教会を治める人たちについて語られます。監督、長老、牧師、執事にふさしい人はどのような人であるかということです。それは、教会の秩序が保たれるために最も重要なポイントだと言えるでしょう。しかし、それは教会のリーダーだけに求められていることではなく、私たちクリスチャンすべてに求められていることでもあります。なぜなら、神は私たちすべてのクリスチャンがそのような働きをすることを願っておられるからです。これはすべてのクリスチャンに対する神のみこころであり、とりわけ、教会のリーダーたちに求められていることなのです。

Ⅰ.監督にふさわしい人(1-7)

それではまず、1節から7節までをご覧ください。1節をお読みします。

「人がもし監督の職につきたいと思うなら、それはすばらしい仕事を求めることである」ということばは真実です。」

「監督」とは文字通り「監督をする」という意味で、教会の監督をする人のことです。教会の牧師、教師、長老、伝道者など、教会の指導をする人たちのことです。いわば神の家の管理者のことです。どの集まりや組織にもその群れ全体をまとめるリーダーの存在がありますが、それが立つか倒れるかはほとんどの場合そのリーダーの腕にかかっていると言っても過言ではありません。ですから、それだけ責任が重いのです。しかし、ここには、「それはすばらしい仕事をもとめることである」ということばは真実です、とあります。それは牧師、教師だけでなく、すべてのクリスチャンに求められていることだからです。すべての人が監督になるわけではありませんが、そのような仕事を求めることはすばらしいことなのです。

では、監督にふさわしい人とはどのような人でしょうか。2節から7節までをご覧ください。

「2 ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、3 酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、4 自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。5 ―自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう―6 また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。7 また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。そしりを受け、悪魔のわなに陥らないためです。」

ここには、監督の資質として15の項目があげられています。まず「非難されるところがない」ということです。これは罪を犯したことがない完璧な人ということではありません。この言葉は元来「捕まえられない、取り上げられない」という意味で、まずいことをしてしっぽをつまれるようなことをしていない人という意味です。一般的に見ても非難されない、とがめられるようなことをしていない人ということです。

次は、「ひとりの妻の夫であり」ということです。当たり前じゃないかと思われるかもしれませんが、当時は、当たり前ではありませんでした。パウロの時代、一夫多妻制というか、妻の他に妾(めかけ)をもっていることが当たり前のことだったのです。男は、最低妾を3人は持てと言われていました。一人は話し相手のために、もうひとりは性的欲求を満たすため、そしてもうひとりは子どもを生んで育てるためにです。そうした背景にあってパウロは明確に一人でなければならないと言ったのです。これは当時としては画期的なことだったのです。

これは監督や牧師は必ずしも結婚していなければならないということではありません。独身でも問題ではありませんでした。しかし、妻を持つなら一人でなければならなかったのです。

自分を制しとは、正気であるとか、酒に酔っていないということですが、感情面で安定していることです。教会にはいろいろな問題が起こりますが、そうした問題があっても動揺したり、押しつぶされたりしないで、主にあって心の平安をいただき、常にバランスをもって対処することが求められたのです。

慎み深くとは、思慮深くとか、分別があるということです。この点に欠けると、教会はとんでもない方向に行ってしまうことがあります。みことばによって絶えず主から知恵をいただき、判断と決断をしていかなければなりません。

品位がありとは、ふるまいや態度においてたしなみがあり、礼儀正しいということです。坂東真理子さんが書いた「女性の品格」という本の中には、たとえば、約束をきちんと守るとか、長い人間関係を大切にする。敬語はきちんと使う。乱暴な言葉・ネガティブな言葉を使わない。流行に飛びつかない。姿勢は正しくする。良い客になる。値段でモノを買わない。思い出の品を大事にする。もてはやされている人に摺り寄らない。利害関係の無い人にも丁寧に接する。怒りをすぐ顔に出さない。不遇な人にも礼を尽くす。聞き上手になる。プライバシーを詮索しない。友人知人の悪口を言わない。といったことが挙げられています。こうしたことは全て、社会人として守るべきマナーですが、特に、教会の牧師、監督に求められることでした。

次は、よくもてなすということです。これは、お客さんをよくもてなすこと、お客さんだけでなく外国の人々や他の人々を率先して受け入れ、親切にして、愛を示すことです。人をもてなすには時間もお金も労力もかかりますが、だからこそ、そこには人々に対する敬愛の情がよく表れるのです。監督は、ことばだけで人を治めることはできません。もてなしの態度に現れるような思いやりが求められるのです。私たちも、外国の方々や新しく来られた方々を温かく歓迎し、心からもてなす教会になりたいと思います。

次は、教える能力があるということです。これだけが唯一、技術的に求められていることです。他はすべて人格的なことや性質的なことに関することですが、これだけが技術的なことに関することです。なぜなら、監督や牧師は、これがないとやっていけないからです。もちろん、教える能力があっても他の面で欠けていると問題になりますが、しかし、他の面でどんなに優れていても教える能力がないと治めることはではないのです。監督は真理のみことばをまっすぐに説き明かす者でなければならないからです。

そして、次は酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲であるということです。この五つのことは一つのまとまりとして考えることができます。同じような内容が別の表現で語られています。「酒飲み」とは「酒におぼれる」という意味で、習慣的な飲酒を指しています。酒は気ちがい水と言って、人を気ちがいにする水だと言われていますが、酒が原因で起こる悲劇は後を絶ちません。酒は理性や分別を失わせてしまうのです。酒飲みの指導者が本当に良い政治をした例があるでしょうか。箴言には、マサの王レムエルの母が、自分の息子に次のように教えました。箴言31章4,5節です。

「4 レムエルよ。酒を飲むことは王のすることではない。王のすることではない。「強い酒はどこだ」とは、君子の言うことではない。5 酒を飲んで勅令を忘れ、すべて悩む者のさばきを曲げるといけないから。」

それは賢明な戒めでしょう。神の家の管理者は酒飲みではなく、御霊に満たされることが求めなければならないからです。

暴力をふるわずとは、説明がいらないでしょう。殴る、蹴る、乱暴を働くという意味です。このようなことは神の家の牧者としてふさわしいことではありません。

温和でとは、思いやりがあり、優しく、柔和であることです。性格が落ち着いているということです。これは監督だけでなく、すべてのクリスチャンに求められている徳性でもあります。

争わずとは、文字通りけんか好きではない、論争好きではないということです。

そして金銭に無欲であるということです。これは、金銭を愛さないということです。なぜなら、「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」(6:10)これは牧師や監督だけでなく、すべてのクリスチャンに言えることですが、クリスチャンは金銭のことについては割り切って主にゆだねるべきなのです。

そしてここには、「自分の家庭をよく治め」とあります。またここには、十分な威厳をもって子どもを従わせているという条件が付け加えられています。なぜこのような条件があげられているのでしょうか。それは、これが監督者としての管理能力や指導力をチェックするポイントになるからです。「自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。」とあるとおりです。本当に厳しい条件です。私は牧師になって31年になりますが、いつもこのことで悩みました。時には、神の教会のために自分の家庭を犠牲にすることがあるからです。本当に家族には申し訳なかったと思います。しかし、何よりも優先しなければならないことは自分自身の家族です。自分の家庭を治めることを知らない人がどうして神の教会の世話をすることができるでしょう。できないのです。そういう意味では、私などは牧師としては失格者で、穴があったら入りたいくらいです。もちろん、神様が一番ですが、次は自分の家庭です。そして、教会であり、仕事でありというのがクリスチャンの優先順序です。もちろん、時には仕事が優先したり、教会が優先したりすることもありますが、基本的には家庭は教会や仕事よりも優先されなければならないことなのです。社会の最小単位である家庭を治めることができなければ、多種多様な人々で占められた神の家族である教会を治めることはできないからです。

そしてここには、「信者になったばかりの人ではいけません」とあります。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。「信者になったばかり」とは、まだ信仰生活の知識や経験が少ないということです。指導者にとって、知識や経験がどんなに重要であるかは言うまでもありません。経験がないと、自分のやっていることについて見えなくなり、自己満足に陥りやすくなり、高慢になりやくなるからです。その結果、悪魔と同じさばきを受けることになります。暁の子、明けの明星である天使の長が堕落したのは、このことが原因でした。彼は、「神のようになろう」と高ぶって、自分の領域を守りませんでした。その結果、神は彼をよみに落とされ、穴の底に落とされたのです。信者になったばかりの人が、教会において治める働きをすることは、霊的にも自分自身が高められることだと勘違いして高ぶってしまうことになりかねないのです。しかし、パウロのように主を知れば知るほど自分の足りなさ、罪深さ、至らなさを知るようになれば、すべてにおいて神の恵みとあわれみを求めるようになります。彼は神を知れば知るほど、「わたしは罪人のかしらです」と告白するようになりました。それこそが教会の監督者に求められていることなのです。

これは、若い人が牧会者なることはできないということではありません。テモテ自身も若かったし、古くは旧約の預言者エレミヤも若くして神の召しを受けました。肉の年齢のことではなく、信仰の経験のことを言っているのです。

牧師、監督に求められている最後の条件は、教会外の人々にも評判の良い人でなければならないということです。これは、監督になる人は、その地域においても評判が良くなければならないということです。もし評判が悪い人だと、「そしりを受け、悪魔のわなに陥る」ことになりかねないからです。これはどういうことかというと、世間の人々は、教会に無関心なようでも案外よく見ておられるということです。そして牧師や伝道者、あるいは信者にちょっとでもまずいことがあると、それを大げさに取りざたにするのです。しかし、いつでも悪いことだけを取りざたにしているわけではありません。良いことをすると「やっぱりクリスチャンは違うな」とか、「あの人はクリスチャンだから」と言われることも少なくありません。ですから、クリスチャンは地域社会から遊離するのではなく、かえって正しい評判を得て人々に良い影響を与えるように努めなければならないのです。

以上が、監督の資質、あるいは条件です。ここに挙げられた条件をよく見ると、そのほとんどが人格的なことに関することであって霊的、信仰的なことではないのがわかります。たとえば、「よく聖書を読み、祈る人」とか、「神を第一にしている人」といったことは挙げられていないのです。それはいったいどうしてでしょうか。おそらくそれは当然のこととして考えられていたからでしょう。そうした前提の上で、このようなことが求められていたのであって、そうしたことがどうでもいいということではないのです。おそらく、これはエペソの教会で問題になっていた点に焦点を絞っていたからかもしれません。霊的であればこうしたことはどうでもいいということではなく、教会の指導者たる者はこうしたことも含めてしっかりしていることが求められていたのです。それは、聖書に正しく従っていればその人の人柄や実際の生活の中にきわめて現実的に現れてくるものなのです。

Ⅱ.執事としてふさわしい人(8-12)

次に、執事の資質について見ていきたいと思います。8節から12節までをご覧ください。まず8節から10節までをお読みします。

「8 執事もまたこういう人でなければなりません。謹厳で、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不正な利をむさぼらず、9 きよい良心をもって信仰の奥義を保っている人です。10 まず審査を受けさせなさい。そして、非難される点がなければ、執事の職につかせなさい。」

8節からは執事の資格について述べられています。「執事」とは原語では「ディアコヌス」で、意味は、「仕える者」とか、「給仕する者」です。いわゆるしもべを指すことばです。奴隷のように仕える人たちのことなのです。新約聖書では、使徒の働き6章に最初に出てきます。そこにはギリシャ語を使うユダヤ人たちとヘブル語を使うユダヤ人たちとの間に起こった毎日の配給に関する問題を処理するために、七人の弟子たちが選ばれました。この七人の弟子たちのことです。彼らは、使徒たちはもっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことができるように、いわば教会の実務にあたったのです。つまり、執事というのは、監督、長老、牧師といった教会の指導者がその第一の務めである祈りとみことばに励むことができるように、補助的な働きをして彼らを助けたのです。一般に考えられている名誉職とは違います。しもべのように仕える人、それが執事です。こうした執事も神の教会の管理に携わるわけですので、パウロはここでこうした執事の資格を述べているのです。使徒の働きでは彼らの資格として、「信仰と聖霊とに満ちた人たち」が選ばれましたが、ここではもっと具体的に語られています。

それはまず謹厳で、二枚舌を使わず、大酒のみでなく、不正な利をむさぼらないということです。謹厳とは何でしょうか。謹厳とは尊敬と信頼に値するということです。つまり、誠実で、まじめであるということです。誠実で、真面目で、信頼に値する人こそ執事にふさわしい人です。

二枚舌を使わずとは、相手によって言うことを変えないということです。こっちの人にはこう言って、あっちの人にはこう言ってと、人によって言い方を変えることを二枚舌と言います。舌が二枚あるわけです。これは執事としてふさわしくありません。なぜなら、互いの間の信頼を損なわせ、混乱を生じさせることになるからです。信徒とじかに接することが多い立場として、執事には慎重な舌の使い方が求められるのです。

次に、大酒のみでなく、とあります。この点については監督と同じです。しかし、監督は「酒飲みでなく」とあったのに対して、執事には「大酒飲みでなく」とあることから、ある人は、監督には一切お酒を飲むことが禁じられているが執事はちょっとなら飲んでもいいと解釈する人がいますが、そういうことではありません。お酒を飲むのは酔うためであって、そこには放蕩があります。そのことによって引き起こす悲劇は後を絶ちません。そのようなものをいったい何のために飲む必要があるのでしょうか。これはお酒の量の問題ではなく、お酒によってもたらされる悲劇に対する忠告なのです。そのようなお酒をいったい何のために飲まなければならないのでしょうか。健康のために、少量のぶどう酒を飲むというのならわかりますが、あるいは、美味しいお料理のために調味料として使うというのならわかりますが、それ以外、酔うこと以外お酒を飲む目的がわかりません。飲んではならないということではありませんが、飲む必要がありません。

次に、不正の利をむさぼらずとあります。これはお金にクリーンな人であるという意味です。執事の仕事には金銭を取り扱うこともあったため、欲とむさぼりに気を付けるということは非常に大切なことでした。

そして、きよい良心をもって信仰の奥義を保っている人です。きよい奥義とは、神が啓示してくださったキリスト教の正しい真理のことです。つまり、正しい聖書の教えのことです。執事の働きはどちらかというと経済的なことや物質的な面といった実務的なことが中心ですが、そうした実務的な働きにあっても、それが正しい聖書の教理と信仰に立ってなされなければなりません。ですから、最初の執事たちが選ばれた時の第一の条件は、「信仰と聖霊に満ちた人」だったのです。これは立派な霊的な奉仕なのです。

12節をご覧ください。ここには、「執事は、ひとりの妻の夫であって、子どもと家庭をよく治める人でなければなりません。」とあります。執事にも結婚生活と家庭生活の健全さが求められているのです。執事も神の家の管理に携わるので、本質的には監督に求められていることと同じだからです。

さて、11節をご覧ください。ここには、「執事の妻も、威厳があり、悪口を言わず、自分を制し、すべてに忠実な人でなければなりません。」とあります。この「婦人執事」ということばには※がついていて、下の欄外の説明を見ると、「執事の妻」とあります。これは「婦人執事」のことなのか、「執事の妻」のことなのかはっきりわからないのです。というのは、原語ではただの「女」とか「妻」となっているからです。新改訳聖書が「婦人執事」と訳したのは、前後の文脈で執事のことが述べられているので、おそらくこれは婦人執事のことだろうと考えてのことです。しかし、2章で語られてきたことの流れからみると、そうかなぁと疑問を感じます。というのは、2章のところでパウロは、女は静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい、とあるからです。女が教えたり男を支配したりすることは許しません、とあるからです。その女性が監督、執事といった教会の指導者たちの中に出てくるというのはちょっと合わないような気がするのは私だけでしょうか。そういう意味では「執事の妻」と訳した方が全体的な流れにも合致するように感じます。英語の聖書も、wives(RSV)とかtheir wives(NIV)と、執事の妻として訳しています。ですから、たとえこれが「婦人執事」であったとしても、すでに2章で学んだように、男性執事をサポートする立場としての婦人執事であり、執事である夫や教会の指導者に仕えるふさわしい助け手としてであることを忘れてはなりません。アメリカの教会には「decons」(執事たち)と呼ばれる人たちと「deaconess」(婦人執事たち)という人たちがいる教会があると聞いていますが、それはとても聖書的ではないかと思います。なぜなら、あくまでも執事は男性であっても、その執事や教会の指導者たちを助ける働きが必要だからです。それを婦人執事と呼ぶか、執事の妻たちと呼ぶか、婦人たちと呼ぶかは違いますが、そのような助け手が必要なのは確かなのです。

では、そのような人たちに求められていることはどんなことでしょうか?ここには、「威厳があり、悪口を言わず、自分を制し、すべてに忠実な人でなければなりません。」とあります。それは執事に求められていることと同じことです。なぜなら、悪口は人間関係を損ない、お互いの信頼関係を台無しにしてしまうからです。また女性の場合は、特に感情的になると自分を制することができなくなって互いに気まずくなってしまうことがあるからです。また、忠実でない気まぐれな奉仕も、教会員に不安を与えてしまう恐れがあるからです。

しかし、もしこうした婦人たちの「女らしさ」という賜物がきよめられ、用いられることによって、男性には及びもつかないほどの信仰の美しさが加えられ、それが教会形成においても多大な貢献をなすことができるということを思うとき、こうした女性の働きが必要不可欠なものであるというだけでなく、そうした働きが補い合って、すばらしいキリストのからだである教会が立て上げられていくことがわかります。女性の人たちが目指す姿がここに描かれているのです。

Ⅲ.執事の務めをりっぱに果たした人は・・(13)

最後に13節を見て終わりたいと思います。ここには、こうした務めをりっぱに果たした人には、どのような祝福がもたらされるかが約束されています。

「というのは、執事の務めをりっぱに果たした人は、良い地歩を占め、また、キリスト・イエスを信じる信仰について強い確信を持つことができるからです。」

「良い地位を占め」とは、教会の中でも信頼され、尊敬される人になるということです。また「信仰について強い確信を持つことができる」とは、こうした執事の働きを通して信仰とは何か、福音とは何かということをますます知ることができるようになり、さらに大胆に信仰に歩めるようになるということです。そうした祝福が約束されているのです。これはやってみないとわからないことです。やってみるとその大変さに打ちのめされそうになることもありますが、それと同時にこうした霊的な祝福も味わうことができるというのは、本当にすばらしい特権ではないでしょうか。

ですから、このような仕事を求めることは、すばらしい仕事を求めることなのです。それはすべてのクリスチャンに求められていることでもあります。すべてのクリスチャンがこうした仕事につけるようにと、祈り求めていかなければなりません。格別に、そのような仕事が与えられた人は、その与えられた任務を嫌々ながら、しぶしぶと、適当にやってはいけないのです。尊い主の御用としてりっぱに勤め上げ、神に喜ばれるように忠実に果たしていかなければなりません。

ところで、このように監督、執事、婦人執事の資質を学んできますと、ある一つの疑問が生じてきます。それは、いったいこのような資格に適合する人などいるのだろうかということです。残念ながら、答えはノーです。だれもいません。聖書の要求を満たすりっぱな人など一人もいないのです。また、クリスチャンになったからといってこのような人間になれるわけでもありません。むしろ、あのイザヤが神から預言者としての召命を受けた時のように、「ああ、私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。」(イザヤ6:5)と絶望せざるを得ない者なのです。しかし、そうした現実にもかかわらず、このような資格が求められているというのはそういう人でないとだめだということではなく、それは第一に祈りのためであり、第二に牧師、監督、執事、そしてすべてのクリスチャンにとって、これが真の努力目標であり、成長の目標であるということなのです。

ではいったいどうしたらこの目標に達することができるのでしょうか。Ⅱコリント3章18節にはこうあります。

「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

皆さん、これは御霊なる主の働きによるのです。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに帰られていくのです。それはまさに、御霊なる主の働きなのです。ですから、今の自分を見たら「だめだ~」となりますが、御霊なる主に信頼し、みことばに聞き従って日々歩んでいくなら、主がそのような卑しい私たちを、主と同じ姿に変えてくださるのです。

よくこんな広告を目にすることがあります。「タクシー運転手募集!第一種免許証可、第二種免許証取得を目指します」ご存じのようにタクシーを運転するには第二種運転免許が必要ですが、第一種免許があればいいですよという広告です。なぜなら、実際に働いている中で第二種免許の資格取得を目指すからです。

これは私たちの信仰にも言えることです。私たちにはそんな資格などありませんが、しかし、私たちの主なる神は、ご自分の召し出される人にその資格を取得させないはずがありません。必ずそのようにしてくださるのです。なぜなら、私たちの資格は神からのものだからです。ですから、この神に信頼し、そのような者となれるように、神のふところに飛び込んでいきたいと思うのです。そして信仰について強い確信を持ち、さらに大胆に信仰に歩ませていだたきましょう。

Ⅰテモテ2:8~15「男は男らしく、女は女らしく」

きょうは、Ⅰテモテ2章後半のところから「男は男らしく、女は女らしく」というタイトルでお話します。パウロは1章で語ってきたことを受けて、すべての人のために祈るようにと勧めました。なぜなら、神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられるからです。そして、きょうの箇所では、引き続き祈りについて語りながら教会における秩序について述べています。すなわち、教会においては男は男らしく、女は女らしくあれというのです。男らしいとか、女らしいというのはどういう人でしょうか。

Ⅰ.男は男らしく(8)

まず8節をご覧ください。

「ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。」

まず男に対してパウロは、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい、と勧めています。祈ることはすべてのクリスチャンに求められていることですが、とりわけクリスチャンの男性に求められていることなのです。

20世紀最大の説教家と言われたイギリスの牧師D.M.ロイドジョンズ(David Martyn Lloyd-Jones)は、「祈りは、クリスチャンの男性にとって生死にかかわるものです。」と言いました。祈りは、それほど重要なものなのです。しかし、これほど重要な祈りが妨げられる時があるのです。どういう時でしょうか。それは怒ったり、争ったりするときです。これが、男の弱さでもあります。男性はどちらかというと怒ったり、争ったりする傾向があります。メンツとか虚栄心とか、優越感とか劣等感のゆえに、論争を好む傾向があるのです。おそらくこれは、エペソの教会でもよく見られた光景だったのでしょう。男が人前で怒ったり、言い争ったりするようなことがあったのです。しかし、このようなものは神の義を実現するものではありません。

ヤコブ1章20,21節には、「人の怒りは、神の義を実現するものではありません。ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」とあります。怒りではなく神のみことばを持たなければなりません。怒りは神の義を実現することはありませんが、みことばは、あなたのたましいを救うことができるからです。男は、怒ったり、言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈らなければならないのです。

では、きよい手を上げて祈るとはどういうことでしょうか。手を上げて祈るというのは、ユダヤ人が祈る祈りの姿勢でした。ユダヤ人は普通祈る時、手を上げて祈ったんですね。両手を前に差し出して、立ったままで祈ったのです。哀歌3章40節に、「私たちの手をも心をも天におられる神に向けて上げよう。」とありますが、それは、心を神に向けることの表現だったのです。それがキリスト教会にも取り入れられていたのです。

しかし、ここではただ手を上げて祈れと言われているのではなく、きよい手を上げて祈るようにと言われています。「きよい」とは、もともと神のために分けるという意味です。したがって、きよい手を上げて祈るとは、心と行いがすっかり神の方に向けられていることを示しているのです。私たち心と行いのすべてが神の方に向けられている状態で祈るということです。

イザヤ書1章15~16節を見ると、当時のイスラエルの民はそうではありませんでした。ここには、「15 あなたがたが手を差し伸べて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。16 洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。」とありますが、確かに表面的には多くのいけにえをささげ、新月の祭りやきよめの集会をしていました。しかし、神は、どんなに彼らがそのような宗教的な儀式を行っても聞くことはないと言われました。なぜなら、そこに中身が伴っていなかったからです。そのような祈りは神に喜ばれることはありません。神はその心と行いが神に向けられた祈りを求めておられるのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈らなければなりません。

Ⅱ.女は女らしく(9-14)

次に9節から14節までをご覧ください。まず9節から12節までをお読みします。

「9 同じように女も、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服によってではなく、10 むしろ、神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行いを自分の飾りとしなさい。
11 女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。12 私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。」

女性に勧められていることはどんなことでしょうか。女性には二つのことが勧められています。一つはつつましく身を飾ることで、もう一つのことは、静かにして、よく従う心をもって教えを受けることです。女性には祈るようにとは勧められていません。なぜなら、言われなくても、女性は率先して祈ることができるからです。しかし、女性にとって難しいことがあります。それは慎ましく身を飾ることと、静かにすることです。

まず慎み深く身を飾ることについて、パウロは次のように言っています。

「同じように女も、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服によってではなく、 むしろ、神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行いを自分の飾りとしなさい。」

どういうことでしょうか。この「飾り」と訳されている言葉は「コスメティコス」(kosmetikos)というギリシャ語で、英語のコスメティック(cosmetic:化粧品)の語源になった言葉です。ここからある人たちは、クリスチャンの女性は一切化粧をしてはいけないと考える人がいますが、そういうことではありません。外見をきれいにすること自体は悪いことではないのです。安心してください。歯を磨いて、髪を整え、お風呂に入って清潔にし、ちゃんと洗濯をした服を着ることは最低限のエチケットでもあります。

では、これはどういうことでしょうか。度を越してはいけないということです。ここには「つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り」とあります。派手な格好をすることもできるし、分厚く化粧したり、ブランド品を身に着けたりすることもできますが、あえてそのようなことはしないで、控えめに慎み深く身を飾るようにしなさい、と言うのです。なぜでしょうか。男性につまずきを与えないためです。

この手紙は、当時エペソの教会で牧会していたテモテに宛てて書き送られました。このエペソの町にはアルテミスの神殿があって、それは豊穣の女神アルテミスを祭った神殿ですが、そこには何千という神殿娼婦と呼ばれる人たちがいたのです。彼女たちは町に繰り出しては男たちを魅了していました。派手なファッションをして、金や真珠の宝石で身を飾って挑発していたのです。パウロはそういう状況の中で、あなたがたはこのような派手な格好をしてアッピールするのではなく、神を敬う女性にふさわしく、良い行いを自分の飾りとしなさいと言ったのです。

だから、そういう服を着てはいけないとか、化粧をしてはいけないということではなく、そのような格好をすることによって男性につまずきを与えることがないようにしなさいということなのです。女性はそうした外見で決まるものではありません。むしろ柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらこそ重要であり、それこそ、神の御前に勝ちあるものなのです。

箴言11章22節を開いてみましょう。ここには、「美しいが、たしなみのない女は、金の輪が豚の鼻にあるようだ。」とあります。どんなに美しく着飾っても、たしなみがない人は、金の輪が豚の鼻にあるようなものなのです。また箴言31章30節にはこうあります。

「麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、を恐れる女はほめたたえられる。」

麗しさは偽りです。美しさはむなしいのです。けれども、主を恐れる女性はほめたたえられます。

それから女性に勧められているもう一つのことは、静かにしていなさいということです。11節と12節にはこうあります。「女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。」

これは何回読んでも難解な箇所です。パウロは、いかにも女性を差別しているのではないかと感じられるところで、誤解を生むところでもあるのです。いったいこれはどういうことでしょうか?これは「女は黙っていろ」とか、口を開くことも許さないということではありません。女性の本分とか務めは静かにして、よく従う心をもって教えを受けることであるということです。そうでないと、教会が混乱してしまうことになるからです。エペソの教会にはこうした教えに従わない人たちによって問題が生じていました。一部の女性たちが限度を越えておしゃべりをして、あるいは、むやみやたらに他人のことに首を突っ込むことで混乱が生じていたのです。ここに「女が教えたり、男を支配したりすることを許しません」とありますが、男たち、これは教会の指導的な立場にあった人たちのことですが、そういう人たちの教えを受けるよりも教えようとしたり、支配しようとする人たちがいて、混乱していたのです。

ここが女性の弱いところでもあります。女性は一般的におしゃべりを好む傾向があります。それは女性に与えられた祝福でもありますが、この神から与えられた祝福が人間の罪のせいでゆがめられ、しばしば問題を引き起こしてしまう原因になることもあるのです。そういうことがないように、むしろ静かにしていなさいというのです。「おとなしい」という字を漢字で書くと「大人しい」と書きますが、もし騒ぎ立てるようなことがあるとしたら、それは逆に子どもじみているということです。大人らしい人とは、聖書の教えに従って、静かにして、よく従う心をもって教えを受ける人なのです。

いったいなぜ女が教えたり男を支配したりしてはいけないのでしょうか。13節と14節をご覧ください。ここには、「アダムが初めに造られ、次にエバが造られたからです。また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。」とあります。

なぜ女が教えたり男を支配したりしてはいけないのでしょうか。なぜ女は静かにして、よく従う心をもって教えを受けなければならないのでしょうか。それは、アダムが初めに造られ、次にエバが造られたからです。 また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯してしまったからです。これが、神が定めた創造の秩序なのです。それは決して女が男のロボットであるという意味ではありません。男も女も同じように神のかたちに造られました。そういう意味では男女は平等であり、同権です。しかし、アダムが最初に造られ、次にエバが造られました。エバはアダムの助けてとして造られたのです。それが神の創造の秩序でした。それはアダムが家長としてリードし、妻はそれをサポートするように造られたということなのです。

マシュー・ヘンリーという注解者が、創世記の注解でこう言っています。「エバはアダムの上に立つようにとアダムの頭の一部から造られなかったし、彼にひざまずくようにと彼の足から造られたのでもなかった。そうではなく、彼と等しい者として彼の脇腹から、彼に守られるべく彼の腕の下から、彼に愛されるべく彼の心臓のそばから取り出されて造られたのである。」

男女は互いに助け合い、補完し合うように造られました。男にも足りないところがあるし、女にも足りないところがありますが、そうした足りない者同士が補い合って一つのものを作り上げていくのです。それが夫婦というものです。夫婦を見ていると、両極端とまではいきませんが、全然違うタイプの人同士が結婚していることに気づきます。私たち夫婦はよく真逆だと言われますが、意外とそういう夫婦が多いのです。それでフーフーしているわけですが、そのように全く違った者が結婚して夫婦になるのは、それはお互いに足りない者を補い合って、さらに良い新しいひとりの人に作り上げられていくためなのです。だから、私たちは全く違って大変なのよ、というカップルがいたとしたら、それこそ神の祝福であることを覚えて感謝しなければなりません。

もう一つの理由は、アダムは惑わされなかったが、エバは惑わされて、あやまちを犯したからです。えっ、エバだけでないでしょう。アダムも罪を犯したじゃないですか。アダムもあやまちを犯しました。そうなんです。しかし、蛇に惑わされたのはアダムではなくエバでした。蛇は最初からわかっていたんです。アダムを誘惑しても鈍感な彼にはわからないだろう。こうした霊的なことがわかるのは女であるエバだと。それで蛇はエバを誘惑したのです。「あなたがこれを食べるそのとき、あなたの目は開かれ、神のようになりますよ。」するとエバは「あら、そうかしら」なんて言って、すぐに飛びついたのです。アダムに言ってもだめです。「えっ、目、そんなのどうでもいい。眠い・・」だから、アダムは罪を犯した時、こんな言い訳をしたのです。「あなたが私のそばに置かれたこの女が・・・」アダムはエバによって誘惑されたのです。でもエバは悪魔に惑われて罪を犯しました。そのことです。これが創造の秩序なのです。この神が造られた創造の秩序からすれば、女が教えたり、男を支配したりすることはふさわしくないし、あってはならないことなのです。

この「教える」という言葉はギリシャ語で「ディダケー」という言葉です。これは権威をもって継続的に教えるという意味です。ただ道を示すというのではなく、権威をもって従わせるようなことはよくないし、許されていないことなのです。女性は男性の権威の下で、時々、あるいはサポートする形で教えることはできますが、自分が権威をもって、継続的に教えることはふさわしくありません。このことばは、マタイの福音書28章15節には「指図する」と訳されている言葉ですが、女性が男性に代わって指図したり、支配したりというようなことがあってはならないということです。でも実際にはそういうことをよく見かけます。教会で女性が男性を教えたり、指図したりということがあるのです。確かにそのようなこともありますが、それは聖書が教えていることではありせん。そういうことは許されていないからです。こういうことを言うと多くの敵を作ることになるかもしれませんが、これが聖書で教えていることです。女性はあくまでもアシスタントであって、教えたり、指図したり、支配したりするというようなことがあってはならないのです。

しかし、Ⅰコリント11章5節と6節を見ると、女性でも教会で祈ったり、預言したりすることがあったことが示唆されています。ここには、こうあります。

「しかし、女が、祈りや預言をするときに、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭をはずかしめることになります。それは髪をそっているのと全く同じことだからです。 女がかぶり物を着けないのなら、髪も切ってしまいなさい。髪を切り、頭をそることが女として恥ずかしいことなら、かぶり物を着けなさい。」

「女が祈りや預言をするときに」ということは、女性でも祈ったり預言をすることがあったということではないでしょうか。預言とは言葉を預かると書きますが、これはみことばの奉仕のことです。説教したり、教えたりすることです。そういうことが行われていたのではないでしょうか。そうです、女性も祈りや預言をすることがあります。しかし、一つだけ条件があったのです。それは、女性が祈りや預言をするときには、頭にかぶり物をつけていなければならないということです。何でしょうか。このかぶり物とは・・・。これは権威のしるしです。女の権威は男です。妻の権威は夫です。そのような権威をつけていなければいけないということです。その権威の下にあるならできるのです。つまり、秩序をもってなされるのなら大丈夫なのですが、そうでないとできないということです。その秩序とは何でしょうか。それは男性のリーダーシップもとで、ということです。神が定めてくださった秩序において祈ったり、教えたりすることができるということです。そうでないのにすることがあるとしたら、それはふさわしくないことなのです。

でも、みんなやってることだもの、いいんじゃないですか?そんなに堅く考えなくても。これは堅いか、堅くないかということではなくて、聖書で何と教えているかということであって、それを逸脱することがあるとしたら、そこに神の祝福はないということを覚えなければなりません。なぜそのように行われるようになったのでしょうか。それは、男性が悪いからです。男性がしっかりしないからです。男性が霊的にもしっかりと女性をリードして導くことができれば、女性は安心してついてくることができますが、そうでないと、女性が男性を教えたり、支配したりするようなことが起こってくるのです。だから男性が悪いのです。男性がもっと女性のことを考えなければなりません。

Ⅰペテロ3章7節には、「同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。」とあります。男は、夫は、妻が、女性が弱い器であるということを、わきまえて、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなければなりません。そういう負担を負わせないように、男性がもっとしっかりしなければならないのです。そうでないと、女性が教えたり男を支配したりするようなことになるのです。

Ⅲ.子を産むことによって救われる(15)

最後に、こうした神の教えに従うとき、どのような祝福がもたらされるのかを見て終わりたいと思います。15節をご覧ください。

「しかし、女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。」

これも難解な箇所です。女は、子を産むことによって救われるとはどういうことでしょうか。子を産まなければ救われないのでしょうか。そういうことではありません。ここでは二つの解釈ができます。一つは、14節までの流れを受けて、女であるマリヤが救い主である子イエス・キリストを生むことによって救われるという解釈です。14節までのところには、アダムとエバによって罪に陥った話が出てきましたが、その女の子孫から出る救い主イエス・キリストによって、敵である悪魔が完全に踏み砕かれるという預言なのです。ですから、この子を産むというのは、マリヤの処女降誕のことを指しているのではないかということです。

けれども、ここでの救いというのをそのような意味での救いとしてではなく、女性としての本来の生き方を全うし、女性としての幸いを見出すという意味での救いととらえることもできます。なぜなら、ここに「女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら」と言われているからです。それはこれまでパウロが語ってきた内容でもありますが、慎みを持って、信仰と愛と聖さを保ち、子を産むという女性としての本来の生き方を全うするなら、男性が決して果たすことができない、美しくも尊い、女性としての特権にあずかることができるのです。

このどちらの解釈もできますが、私はどちらかと言えば後者の方が文脈的に正しいのではないかと思います。なぜなら、ここではずっと男性として、また女性としてどうあるべきなのかということが語られてきたからです。男性はどこでもきよい手を上げて祈るようにするなら、また女性は女性として本来あるべき生き方としてつつましく、静かにして、よく従う心をもって教えを受けるなら、確かに神はそこに豊かな祝福をもたらしてくださるのです。

今日のように間違った意味での男女平等が叫ばれる時代にあって、こうした聖書が教える男性像、女性像を期待するのは古臭いとか、時代遅れただと言われて難しいかもしれませんが、聖書は間違いのない神のみことばです。男は怒ったり、言い争ったりするのではなく、どこででもきよい手をあげて祈るなら、また、女が良い行いを飾りとして、静かに、よく従う心をもって教えを受けるなら、必ずすばらしい祝福が用意されているのです。私たちは聖書が教える男らしさ、女らしさを求め、神から祝福を受けるものでありたいと思います。

Ⅰテモテ2:1~7「すべての人のために祈りなさい」

今、このテモテへの手紙から学んでいます。これは、パウロが書いた最後の手紙です。いわば遺言のような手紙です。なぜパウロはテモテに手紙を書き送ったのかと言うと、この時テモテはエペソ教会の牧会をしていましたが、いろいろな問題で苦しみプレッシャーに押しつぶされそうになっていたからです。苦しくて、苦しくて、もう辞めたいと思っていました。そんなテモテを励ますためにこれを書いたのです。と同時に、そうした問題にどのように対処したらいいのか、すなわち、神の家でどのように行動すべきなのかを教えるためにこれを書いたのです。

そして、今日のところでは、公の集まりにおいてクリスチャンはどうあるべきなのかについて語っています。それは、すべての人のために祈らなければならないということです。

Ⅰ.すべての人のために祈りなさい(1-3)

まず1節から3節までをご覧ください。

「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。2 それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。3 そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。」

「そこで」とは1章の内容を受けてということです。1章には、パウロとは違った教えを説く人たちについて語られていました。ヒメナオとかアレキサンデルといった人たちです。彼らは信仰の破船に会いました。正しい良心を捨てて、自分たちの考えに従った教えを説き、信仰からズレてしまったのです。しかし、テモテよ、あなたはそうであってはならない。あなたは正しい信仰と良心を保って、勇敢に戦い抜かなければなりません。そのように勧めてきました。それを受けてということです。

それを受けて、まず初めにパウロが勧めていることは、すべての人のために祈りなさいということでした。そうした騒々しい、教会の秩序を乱すような人たちのいる中でまず初めにしなければならないことは、祈ることだというのです。なぜなら、教会はキリストの弟子たちの祈りの中から生まれたからです。彼らが心を合わせ、祈りに専念していたとき、突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまりました。それがペンテコステ、聖霊降臨です。それによってエルサレムに最初の教会が誕生しました。教会は祈りによって生まれました。だから教会はまず祈らなければなりません。

ここでは、すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために祈りなさい、とあります。自分たちが気に入っている一定の人々のためだけでなく、またクリスチャンのためだけでなく、すべての人のために、特に高い地位にある人たちのために祈るようにと言うのです。ここには、「願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい」と言われています。この願いとか、祈り、とりなし、感謝というのは、祈りに含まれる要素のことです。このように表現することによって、祈りの大切さというものを、いろいろな面から強調しているものと思われます。

なぜすべての人のために祈らなければならないのでしょうか?2節をご覧ください。「それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。」どういうことでしょうか。「敬虔に」とは、信仰深くということです。神を恐れ、神に信頼して生活することです。また「威厳をもって」とは、他の人々に対するあり方において、信頼に値する確かな態度で生活することです。また「平安で静かな一生を過ごす」とは、外的にも内的にも、静かで、落ち着いた平和な生活をすることです。そのために祈らなければなりません。それは、クリスチャンとしての私たちの幸せのため、幸せに一生を過ごすためなのです。

なぜすべての人のために祈ることが、特に高い地位にある人たちのために祈ることが、私たちの幸せな生活につながるのでしょうか。それは、すべての権威は神によって立てられたものだからです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものだからです。ローマ人への手紙13章1~5節に、つぎのように言われています。

「1 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。2 したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。3 支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者からほめられます。4 それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。5 ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。」

ですから、上に立てられた人というのは本来、神の立てられた秩序の下で、すべての人のための平和と幸福のために託されている職務を果たすべき人たちなのです。大田原の市長も、栃木県知事も、日本の総理大臣も、すべてそうです。あの人たちは選挙によって選ばれたんじゃないですか。彼らは人によって選ばれたんですよという方もおられるかもしれませんが、しかし、その背後には神の働きがあり神によって立てられているのです。それは彼らばかりではなく、たとえばあなたの学校の教師も、会社の上司も、家族の長も同じです。彼らもまた神によって立てられているのです。すべて上に立つ権威は神によって、神の目的と計画を果たすための道具として、神のしもべとして、神によって立てられているのです。神がすべての主権者であられ、その神が背後で働いているのですから、その権威を認めて、彼らのために祈らなければならないのです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。

しかし、パウロの時代、これはなかなか難しいことでした。なぜなら、それはクリスチャンを迫害していたローマ皇帝ネロのためにも祈れということになるからです。とてもできません。自分たちを迫害し、弾圧しているネロのために祈るなんて考えられないことです。皇帝崇拝を強要したり、偽りの教えを広める人たちのために祈るなんてできないことです。それで、公の礼拝において広くすべての人のために祈られるはずの祈りが、いつしか自分たちを中心にした関係者たちだけのための祈りに片寄ってしまっていたのです。しかし、祈りとは本来そのようなものではありません。公の礼拝における祈りとは、すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのためにもささげられなければならないものです。それが神の御前において良いことであり、神に喜ばれることなのです。あなたの政治的立場がどうであれ、その人があなたの好みであるかどうかということと関係なく、あるいは、その人の人格がどうであろうとも、すべての人のために祈ることは、高い地位にある人のために祈ることは神のみこころであり、私たちの平和と幸福になることなのです。

あなたはどうでしょうか。すべての人のために祈っているでしょうか。王と高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝をささげているでしょうか。天皇陛下のために祈っているでしょうか。日本の政治家のためにも祈っているでしょうか。この町の人たちのために祈っているでしょうか。ややもすると、私たちは、テレビのコメンテーターたちのように安易に政治家たちを批判したり、非難したりしますが、その前に私たちがしなければならないことは、彼らのために祈ることです。勿論、政治的な意見を言ってはいけないということではありません。でもそんな暇があるなら祈れと言っているのです。もし彼らのために祈るなら、その批判は今よりずっと少なくなるでしょう。そして、議論や論争といった無益なことを避け、神が求めておられる敬虔さや威厳さを保ち、平和で静かな日々を過ごすことができるのです。

S・B・ゴードンはこう言いました。「祈る人ほど今日の世界で重要な人はいない。それは祈りについて語る人でなければ、祈りについて説明できる人でもない。それは時間を割いて祈る人のことである。彼らには時間がない。それは他のことを犠牲にした時間である。他のことも大切であり、差し迫ったものである。しかし、祈りほど重要で差し迫ったものはない。」

先週は寺山兄の告別式が行われましたが、告別式でもお話したように、寺山兄は祈りの人でした。退職してから病気で療養されるまでの16年間、毎朝1時間、時間を決めて祈られました。その祈りの課題を見せていただきましたが、ハーベストタイムとか、MTCとか、その他いろいろな団体から出されている祈祷課題を覚えて祈っておられました。もちろん、教会のためにも祈ってくださいました。私は後でその祈りの課題を見せていただきましたが、赤い鉛筆で線を引いて、あるところには点がつけてあったりしました。そうやって祈ってくださいました。それは兄弟の遺体とともに棺の中に納められましたが、その祈りは決してむだになることはないでしょう。神の前に香のように立ち上がり、いつか必ず答えられるに違いありません。

ですから、私たちはもっともっと祈らなければなりません。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために祈らなければならないのです。

Ⅱ.神はすべての人が救われることを望んでおられる(4)

次に4節をご覧ください。ご一緒にお読みしたいと思います。

「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」

私たちがすべての人のために祈るのはどうしてでしょうか。ここにもう一つの理由が書かれてあります。それは、神はすべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられるからです。皆さん、これが神のみこころなのです。だれも、この神の救いから漏れる人はいません。神はすべての人が救われることを望んでおられるからです。これが神のハートです。あなたは神と同じハートを持っておられるでしょうか。すべての人が救われることを望んでおられるでしょうか。私たちはどんな人でも救われるように、すべての人のために祈らなければなりません。

ところで、ここには神の救いについて二つのことがわかります。一つは、すべての人が救われるためには、まずそのことを神に祈らなければならないということです。すなわち、伝道する前に祈らなければならないということです。伝道することは重要なことですが、そのためにはまず神に祈らなければならないのです。

そしてもう一つのことは、救われると真理を知るようになるということです。真理を聖書とか、神とか、キリストに置き換えても構いません。なぜなら聖書は真理の書であり、神は真理であられるからです。ここで言われていることは真理を知れば救われるというのではなく、救われれば真理を知るようになるということです。私たちはよく、「私はまだ聖書を全部読んだことがないから信じることができません」とか、「なかなか聖書を理解することができないから信じられないんです」、「もうちょっと勉強したら信じます。」という事を聞くことがありますが、それは違います。聖書を勉強したら信じることができるのではなく、信じたら聖書がわかるようになるのです。神がどのような方か、神が願っておられることはどういうことなのかがわかってくるのです。

あるとき、一人の方が電話をくださいました。それは、神には善い神と悪い神がいるのかということでした。皆さん、神には善い神と悪い神がいるのでしょうか。おりません。なぜなら神は唯一であって、それはこの天地万物を造られた創造主なる神だからです。この方は私たちを罪から救ってくださる救い主なる神であり、全く悪や汚れのない聖なる方、義なる方です。この方だけが神であって他にはいません。もしいるとしたら、それは神の装いをした偶像の神々であって、本当の神ではないのです。それなのにその方がわざわざお電話をくださったのは、そのようなことを誰か他の人から聞いて「あれっ」と思ったからでした。いろいろな教会でもう何年も聖書を勉強していてもまだ神を信じていないので、神がどのような方なのかがわからないのです。でも信じたらわかるようになります。

私たちも初めはそうでした。説教を聞いてもチンプンカンプンでした。でもイエス様を信じたら少しずつわかるようになりました。イエス様を信じて救われたら心の目が開かれ、説教を聞いても、自分で聖書を読んでいても、少しずつわかるようになりました。あるときはハッと気付かされたり、ああこういうことだったのかと思うようになったのです。

ですから、まだ聖書がわからないという方も、まず信じていただきたいと思うのです。そうすれば、少しずつ真理がわかるようになりますから。自分の頭で真理を知ることには限界があるんです。なぜなら、真理は知識ではなく人格だからです。百聞は一見にしかず、ということわざがありますが、もしまだ一度も会ったことのない人を知りたいと思うなら、その人についていろいろと情報を集めて知ろうとするよりも、まず会ってお話してみることです。そうすれば、知識で得た情報よりも何倍もその人のことを知ることができまるでしょう。それと同じです。

神はすべての人が救われて真理を知るようになることを願っておられます。そこにはあなたも含まれています。神はあなたが救われて真理を知るようになることを願っておられるのです。神はあなたを地獄に落とす方ではありません。あなたが救われることをこよなく願っておられるのです。

Ⅲ.すべての人の贖いの代価であるキリスト(5-7)

最後に5節から7節までを見て終わりたいと思います。救いに関する神のみこころを語ったパウロは、神ご自身とその救いのみわざについて言及しています。

「5 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。6 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。7 そのあかしのために、私は宣伝者また使徒に任じられ―私は真実を言っており、うそは言いません―信仰と真理を異邦人に教える教師とされました。」

まず神についてパウロは、「神は唯一です」と断言しています。唯一とはこの方だけという意味です。神はただ一人であって、聖書の神以外には存在していません。日本では昔から八百万の神といって八百万の神々がいると信じられてきましたが、それは嘘です。また神仏融合といって神道の神も仏教の神もみな同じだと言う人がいますが、それも違います。排他性を嫌う日本人には「あれも神、これも神、たぶん神、きっと神」と、曖昧な方が受け入れられやすいのですが、真の神はそういう方ではないのです。神はただ一つであって、それはこの天地万物を創造された方であり、それを保っておられる方、また生きとし生けるものすべてにいのちを与えてくださった方であり、罪の中にあえぎ苦しんでいる人類を救われる方なのです。

そしてここには、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです、とあります。この神の御許に行くことができるための仲介者も唯一であるということです。それは人として来られたキリスト・イエスです。キリストは100%神であり、100%人間であられたので、この方だけが私たちと神様との架け橋となることができたのです。神と人との間をつなげることができるのは、100%神であり、100%人間であられたイエス様以外にはいません。イエスのような仲介者は他にはいないのです。他にこのような救い主はいません。この世界にはたくさんの偉人と言われる人や聖人と言われる人がいますが、この方のような救い主は他にはいないのです。仏陀にしても、孔子にしても、釈迦にしても、ムハンマドにしても、ソクラテスにしても、確かに彼らは偉人、聖人の部類に入る人たちだったかもしれませんが、彼らはただの人間にすぎませんでした。死んで、葬られて、それで終わりです。でもキリストは違います。キリストは死んで、三日目によみがえりました。この方が死につながれていることなどあり得ないからです。キリストは100%神なので、死の力を打ち破ることができたからです。

イエスは神でありながら人の姿をとられました。それは、私たち人間を救うためです。人を救うためには、人にならなければならなかったのです。それが人として来られたキリスト・イエスという意味です。でもイエス様は一つも罪を犯しませんでした。神が罪を犯すことなどないからです。その代わりに、イエス様は私たちの罪を負って十字架で死んでくださいました。そして葬られて、三日目によみがえられました。また、天に昇って行かれました。このような仲介者は他にはいません。他にこのような救い主はいないのです。

「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

イエスが道であり、真理であり、いのちなのです。イエスを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。イエスだけが唯一無比の仲介者なのです。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒4:12)

この方以外には、だれによっても救いありません。私たちが救われるべき名として与えられているのはこの名、イエス・キリストだけであって、他にはいないのです。このイエスを信じるなら、だれでも救われます。どんな人も救いに漏れることはありません。

ではこの方はどのように救ってくださったのでしょうか。そのために何をしてくださったのでしょうか。6節にはこうあります。

「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」

「贖い」とは「代価を払って買い取る」という意味です。ですから、「贖いの代価」とは、身売りして奴隷となった人を買い取るために支払われる代価のことです。いわゆる身代金のことです。神は罪の奴隷であった私たちを買い取るために、キリストのいのちという代価を払ってくださいました。その代価によって私たちは自由にしていただけたのです。すべての人は生まれながら罪の奴隷であり、それゆえ、不自由で、良心の呵責に悩み、不安と恐れの中に生きなければならない者でしたが、そこから解放するためのイエス・キリストという方のいのちを、身代金を支払ってくださったというのです。キリストが十字架で死なれたというのは、私たちのすべてが自分の罪のために受けなければならなかった律法ののろいを、キリストが代わりに受けてくださったということなのです。というのは、律法には、「木にかけられた者はすべてのろわれたものであると書いてあるからです。」(ガラテヤ3:13)

Ⅰヨハネ2章2節を開いてください。ここには、「この方こそ、私たちの罪のための―私たちの罪だけでなく、世全体のための―なだめの供え物です。」とあります。この方は私たちクリスチャンたちだけの罪のためではなく、全世界のための、なだめの供え物として十字架にかかって死んでくださったのです。キリスト教徒のためだけでなく、イスラム教徒のためにも、またユダヤ教徒のためにも、ヒンズー教徒も、仏教徒も、神道の人のためにも、さらには創価学会や幸福の科学、おうかんみち、立正佼成会といった人たちのためにも死んでくださったのです。すべての人のための贖いの代価として、ご自身をお与えになられたのです。

だから、すべての人がイエスの救いの恵みにあずかることができます。なぜなら、イエスはすべての人の贖いの代価として死んでくださったからです。でもすべての人が救われるわけではありません。なぜなら、中には「いりません」とか、「結構です」「間にあっています」という人がおられるからです。あるいは、信じたいけど、信じたら大変でしょ、毎週教会に行かなければならないし、組織にがんじがらめにされると、心配される方がいます。どうですか、皆さん、信じたら毎週教会にいかなければならないのでしょうか。いいえ、違います。そうではなく、信じたら行きたくて、行きたくてしょうがなくなるのです。神の御霊である聖霊を受けると、神ってもっと知りたいと思うようになるのです。週に一回では物足りない。もう毎日でも行きたくなるのです。そうでしょ。アーメン。だから、そういう心配は必要ないのです。すべての人のための贖いの代価として死なれたイエスを、救い主として信じて受け入れればいいのです。そうすれば、あなたも救われ、真理について知るようになります。神は、すべての人が救われてほしいと願っておられるのであって、この救いはあなたにも差し出されているのです。

7節でパウロは、「そのあかしのために、私は宣伝者また使徒に任じられ・・教師とされました。」と言っています。宣伝者とは、王の命令を忠実に、正確に伝える人のことです。それから「使徒」とは「遣わされた者」という意味です。パウロは若き伝道者テモテに、あなたもまたこのすばらしい福音を伝えるために神によって遣わされているんですよ、ということを思い起こさせています。それは人を永遠の滅びから永遠の救いへと導くすばらしい知らせです。そのような尊い務めがゆだねられているのです。それは本当にすばらしい務めではないでしょうか。

そして、その務めに私たちも任じられているのです。私たちも宣伝者、使徒として、教師として遣わされているのです。それはまことに光栄なことではないでしょうか。ですから、私たちはいつもこの遣わされているということを覚え、その遣わされた先々で、このすばらしい恵みの福音を証する者でありたいと思います。あなたが遣わされている家庭や学校、職場、地域社会のすべては、神よって遣わされているのです。神はすべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。そのハートをハートとして、その遣わされたところで福音のすばらしさを証していく者でありたいと思います。

Ⅰテモテ1:12-20「私は罪人間かしらです」

先週からテモテへの手紙に入りました。これはパウロからテモテに宛てて書かれた手紙です。この時テモテはエペソ教会の牧師として様々な問題を抱えておりそのプレッシャーに耐えかねて、エペソを去りたいと考えていましたが、そんなテモテを励まし、彼がエペソにずっととどまり、与えられた使命を全うできるように励ましているのです。

きょうのところでパウロは、自分の個人的な証をしてテモテを励まそうとしています。

Ⅰ.私は罪人のかしらです(12-15)

まず12節から15節までをご覧ください。まず12節には、「私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。なぜなら、キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。」とあります。

ここでパウロは、なぜ自分が福音のために働くようになったのかを語っています。それは、キリストがこの務めに任じてくださったからです。自分がやりたいからやっているのではなく、あるいは、だれかにやれと言われたからやっているのでもなく、ただキリストがこの務めに任命してくださったのでやっているのです。

キリストはなぜパウロをこの務めに任命したのでしょうか。それは彼を忠実な者として認めてくださったからです。彼に何か特別な能力があったからではありません。また、彼が人格的に優れていたからでもないのです。神が彼を忠実な者として認めてくださったからなのです。だからパウロはここで、その務めに任じてくださった神に感謝をささげているのです。もしこれが自分の力でできるようなものならば、こんな感謝をささげることはできなかったでしょう。けれども、彼は自分の力ではなく自分を強くしてくださるキリスト・イエスの力に拠り頼んでいたので、その力の源である主イエスに感謝することができたのです。

これが私たちの信仰です。私たちは、私たちを強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。このことは、テモテをどんなに励まし、勇気付けたことでしょう。パウロも弱さを抱えていましたが、彼は自分の力の源がどこから来るのかをよく知っていました。そして、その方によってこの務めを行っていたのです。

私たちも、いろいろいなことで自信を失ったり弱さを感じたりすることがありますが、しかし忘れてはいけないことは、私たちが弱くても主は強いということです。そして、私たちはこの方から力をいただいて、強くしていただくことができるのです。この方が私たちを忠実な者としてこの務めに任じてくださったからです。

13節をご覧ください。

「13 私は、以前は神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。」

ここでパウロは、自分がかつてどのような者であったかを述べています。もっとはっきり言うなら、どれだけひどい人間であったのかということです。

パウロはかつて、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。ナザレ人イエスが救い主であるはずがないと、イエス様を信じる者を捕えては牢に投げ込んでいたのです。ステパノが処刑される時には、それに賛成票を投じました。その熱心さは国内ばかりにとどまらず、国外にまで追いかけて行ったほどです。そのようにして彼がダマスコまで出かけて行ったとき、その途上で、復活の主と出会いました。

「サウロ、サロウ。どうしてわたしを迫害するのか。」

「主よ、あなたはどなたですか。」

「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」

パウロにとってはまさに目からうろこでした。これまで激しく迫害してきたイエスがキリストだなんて全く考えられないことだったからです。

とても許されるはずがありません。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。あわれみとは、本来受けるべき罰を受けないで済むということです。そんなにひどいことをしたのですから当然さばかれても仕方ないのに、それを受けなくてもいいようにしていただいたのです。神があわれんでくださったからです。

いったいなぜパウロはこんなことを書いているのでしょうか。それは、こんなひどい者が救われたのは、神の恵み以外の何ものでもないことを明らかにするためです。14節を見てください。ここには、「私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。」とあります。どういうことでしょうか。

「恵み」とは、受けるに値しない者がただで受けるということです。あわれみは、本来受けなければならないものを受けなくてもいいようにしていただいたことですが、恵みとは、本来受けるはずのない者が受けることができるようになったということです。パウロは神の教会を迫害していたわけですから本来なら滅ぼされても仕方ないのに、そのようにならないように神があわれんでくださったというだけでなく、何と救ってくださったというのです。全く救われるに値しない者が救われました。これが恵みです。パウロはこのことをⅠコリント15章10節でこう言っています。

「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」

彼が救われこの務めに任じられたのは、神の恵みによってです。神の恵みによって、今の自分になりました。すべては神の恵みです。自分の存在、自分の働きのすべても、恵みによるのです。この恵みが、キリスト・イエスにある信仰と愛とともにますます満ちあふれるようになっりました。そしてこの恵みは、あなたにもあふれているのです。

そればかりではありません。15節を見てください。

「「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」

イエス様は罪人を救うためにこの世に来られましたが、自分はその罪人のかしらだと言っています。これまでいろいろな罪を犯した人はいるかもしれないが、私はその罪人の中でもトップですと言っているのです。私ほど罪深い者はいない。そう言っているのです。これが、パウロが自覚していたことでした。彼の自己認識だったのです。彼は謙遜にそう言っているのではありません。本当にそう思っていたのです。自分の過去を思う時、本当にそのように思えたのです。それは過去だけでなく、今の自分を見てもそうです。ここには「罪人のかしらです」と現在形で書かれています。昔も今も、ずっと罪人のかしらだ、自分ほど罪深い人間はいないと思っていたのです。

皆さん、これが成熟したクリスチャンの姿です。成熟したクリスチャンは、そうであればあるほど、自分の罪の大きさ自覚するようになります。それはちょうど光に近づけば近づくほど自分の陰の長さに驚くように、神に近づけば近づくほど自分の罪の大きさに圧倒されてしまうのと同じです。聖書を学べば学ぶほど、自分がどうしようもない人間であり、救いがたい罪人であることを悟るようになるのです。それは彼が初期の頃書いたコリント人への手紙を見るとわかります。これはA.D.54年頃に書かれて手紙ですが、この中で彼はこう言っています。

「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。」

しかし、それから5~6年後に書かれたエペソ人への手紙の中では違います。ちょっと変化しているのです。

「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、」(エペソ3:8)

そして、彼の晩年に書かれてこのテモテへの手紙の中ではこうです。

「私はその罪人のかしらです」A.D.64年頃のことです。

「使徒の中で」から「すべての聖徒たちの中で」になり、最後は「罪人のかしら」です。イエス様を信じて救われ、神の恵みを知れば知るほど、自分の罪深さに気づかされていったのです。

彼はそんな自分の姿を嘆いて、ローマ人への手紙7章24節ではこのように告白しています。

「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょう。」

いったいなぜパウロはこんなことを言っているのでしょうか。それはテモテにこの神の恵みに目を留めてほしかったからです。こんな罪深い者が救われたとしたら、それはどんなに大きな恵みでしょうか。こんな者が救われたのです。こんな者がこの尊い務めに任じられたのです。であれば、それは何と感謝なことでしょうか。もう世界観が180度かわります。自分を見るから落ち込むのです。自分でやろうとするから躓くのです。そうではなく、神を見なければなりません。決して赦されない者が赦されました。罪人のかしらにすぎない者が救われたのです。であるとしたら、すべてが恵みではないでしょうか。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られたということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。」

私は罪人かもしれないがあの人よりは少しはマシですとか、私も罪人ですがあの人も罪人ですというのは、本当の意味で罪を自覚していない証拠です。「私は罪人のかしらです」という人は、他の人のことなどもうどうでもよくなるのです。人があなたにどんなにひどいことをしても、こんな者が救われたということを思うとき、そのことも感謝と喜びに変えられていくからです。自分で何とかしなければならないと思うから息詰まるのです。もう自分には何もできませんと、私は罪人のかしらですと、すべてを主に明け渡すとき、すべてが恵みになるのです。

こんな話を読んだことがあります。失望した一人の伝道者が、列車に乗って山形県の「新庄」駅を通過しました。その時、駅員の言う「しんじょう、しんじょう」というアナウンスが「死んじゃおう、死んじゃおう」と聞こえました。しかしその後恩師を訪ね、元気になって帰宅した時は、「同じアナウンスが「信じよう、信じよう」と聞こえてきたというのです。すべてが神の恵みであることがわかるとき、本当に大きな励ましと力を受けるのです。

森永製菓の創業者の森永太一郎は、晩年、この「私は罪人のかしらです」というのぼりを持って全国を行脚してそうです。彼は19歳の時に陶器商に勤めたことがきっかけでアメリカに渡り日本の陶器を売ろうとしましたが全く売れず、失意の中である公園のベンチに暗い気持ち座っていたとき、とても上品な感じの婦人からキャンディを頂いたことがきっかけで教会に導かれ、イエス・キリストを信じました。すると彼は陶器職人になる夢を捨て、キリスト教の伝道者になろうと帰国し、すぐに家族や親族に伝道しましたが、そんな彼の姿を見た家族は、全く彼を受け入れることができませんでした。「太一郎はアメリカに行って、とうとう頭がおかしくなった」と罵倒されました。そして育ててくれた家からも離縁されてしまったのです。

それで彼は伝道者になることもあきらめて、再度アメリカに渡り、洋菓子作りを学ぶわけです。そして帰国後、マシュマロを作って販売すると、これが大当たりしました。それらのお菓子をガラス張りのリヤカーに積んで販売して回ったのです。そのリヤカーの上には看板に聖書の言葉が掲げられていました。それは、このみことばでした。「キリスト・イエス、罪人を救わんために世に来たりたまえり。」(Ⅰテモテ1:15)そのような彼を町の人たちは「ヤソのお菓子屋さん」と呼んだそうです。

やがてあの有名なミルクキャラメルが販売されると、日本中で大ヒットとなりました。昭和の人ならば一度は食べたことがあるでしょう。森永のキャラメルです。しかし商売の成功と同時に、信仰の面は一時停滞した時がありました。その信仰も、奥さんの死を契機に復活し、彼は川のほとりで泣きながら再献身を誓うのです。

やがて社長を退いて会長となってからは、全国の教会を伝道講演して回りました。その時の講演題は、判で押したかのように、いつもこれでした。「我は罪人の頭なり」、「私は罪人のかしらです」です。彼はいつも自分が罪人のかしらであるという自覚を持っていました。いや、晩年になればなるほど、その思いは強くなっていったのです。今、自分があるのはただキリスト・イエスの恵みです。こんな罪深い者をキリスト・イエスが救ってくださった。この私が救われたのだから、あなたが救われないはずがない。何という恵みでしょう。この神の恵みが彼の人生をさらに豊かなものへと導いたのです。それは森永太一郎だけでなく、私たちクリスチャンにとっても同じで、これが私たちの信仰生活の力であり、原点なのです。

Ⅱ.パウロがあわれみを受けた理由(16-17)

次に16節と17節をご覧ください。

「16 しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。17 どうか、世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄えとが世々限りなくありますように。アーメン。」

ここでパウロは、自分があわれみを受けた理由を述べています。いったいなぜ彼はそんなにあわれみを受けたのか。あんなにひどいことをしたパウロがあわれみを受けたのはどうしてなのでしょうか。それは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず自分に対してこの上もない寛容を示してくださったからです。どういうことかというと、パウロが救われたのは、神がどのように罪人を救うのかの見本を示すためであったということです。つまり、どんな人でも救われるということです。こんな罪深い者でも救われたのですから、救われない人などいません。こんなにひどい者でも救われたのですから、救われない人などいないということです。だれでも救われるのです。ここに希望があります。パウロを見れば希望があります。あのパウロが救われたのだから、あなたが救われないはずがないのです。だれでも救われます。あなたも、あなたの家族も、どんなにひどい人でも、イエス・キリストは救うことができるのです。

昨年、台湾に住むひとりの方からメールをいただきました。彼女のいとこが黒羽の刑務所に入っているのですが、どうかイエス様の愛を伝えてほしいという内容でした。彼は自分のしたことに対して反省することもなく、自分勝手なことばかり言うので、実の両親からもさじを投げられ、出所後は彼女のもとに身を寄せたいというが、正直、彼女にとっても重荷だと言うのです。そんな彼を救うことができるのはイエスさましかいないと、彼にイエス様の愛を伝えてほしいというのです。

すると数か月後に本人から手紙が届きました。出所後は全うな道を歩んで行きたいと思うので、私のところにぜひ伺いたいということでした。その内容が台湾のいとこのところにも言ったようで、彼女はとても勇気づけられたというのです。頼みの綱はイエスさまだけだ・・・と。

そうです、イエス様だけです。イエス様はどんな人でも救うことができるし、どんな人も新しく造り替えることができます。「だれでも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)パウロでも救われたんです。罪人のかしらであったパウロでも救われたのなら、このキリストの愛から漏れる人など一人もいないのです。だれでも、どんな人でも救われます。それが、パウロがあわれみを受けた理由だったのです。

パウロはこの神のあわれみを思うとき、もう神をほめたたえずにはいられませんでした。17節です。「どうか、世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄えとが世々限りなくありますように。アーメン。」

自分の過去を思い、救われるはずのなかった自分が救われた。そればかりではありません。この尊い務めに任じられました。一方的な神の恵みによってこの務めに任命していただいた。その恵みとあわれみを思うとき、彼は神をほめたたえずにはいられなかったのです。

とかく私たちは自分を見てダメだと落ち込むことがありますが、大切なのは自分を見るのではなく、こんなダメな自分を救ってくださった神を見上げることです。そうすれば、私たちはそこに偉大な神のみわざを見て励まされ、神をほめたたえるようになるのです。

Ⅲ.信仰の戦いを戦い抜いて(18-20)

だから結論は何かというと、だから、テモテよ、信仰の戦いを戦い抜きなさいということです。18節から20節までをご覧ください。18節です。

「私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言に従って、私はあなたにこの命令をゆだねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くためです。」

「この命令」とは何でしょうか。それは1章3,4節にあったエペソにずっととどまっていて、そこで違った教えを説いたり、果てしのない空想話と系図とに心を奪われないように命じることです。それはパウロの個人的な思いから出たことではなく、テモテに与えられた神の言葉、すなわち預言に従ってのことです。その預言に従ってテモテが信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜かなければならなかったのです。

信仰とは何でしょうか。信仰とは、神に信頼することです。エペソ人への手紙6章では「信仰の大盾」と言われています。それによって敵が放つ火矢を消すことができます。信仰の戦いにおいては、敵である悪魔が放つ火矢があるのです。それは人からの非難や中傷かもしれませんし、脅かしであるかもしれません。あるいは、あなたが神に信頼しないで、自分の力を信じるようにとそそのかす、甘い誘惑かもしれません。あるいは、神への疑いというものであるかもしれません。神への疑いは信仰をダメにします。クリスチャンが苦しみの中でも耐えられるのは、神を信じるからであって、それなのにそこに疑いが入って来ると、クリスチャンは失望の中に投げ込まれることになってしまうのです。

だから信仰の大盾をもって、悪魔が放つ火矢を消さなければなりません。詩篇18篇2節、「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。」(詩篇18:2)

詩篇91篇4節、「主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。」

神のみことばを学び、それを守ることは大切なことですが、それが単なる知識にとどまって、神への信頼につながらなかったら、すぐに敵に攻撃され、失望します。主が私たちのとりでであり、救い主です。この方に身を避けなければなりません。そうすれば、敵がどんなに攻撃してきても勇敢に戦い抜くことができるのです。

それからここには、「正しい良心を保ち」とあります。良心が責められることのない正しい生活をするという意味です。罪の意識があると、私たちはしっかりと立ち続けることができません。パウロはいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしましたが、良心が責められることのない正しい生活を心がけることが、信仰の戦いを戦い抜くために必要なことなのです。

ある人たちは、この正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました。ここには具体的に名前まで出ています。ヒメナオとアレキサンデルです。信仰の破船とは、信仰からずれてしまった人たちの状態を指していますが、彼らがどのようにずれていたのかははっきり書かれていないのでわかりませんが、Ⅱテモテ2章17節にはヒメナオについて、「彼らの話は癌のように広がるのです。」とありますから、健全な教えから離れ、そればかりか、人々をも信仰からも、福音からも遠ざけていたものと思われます。またアレキサンデルについてもⅡテモテ4章14節に、「私をひどく苦しめた」とあることから、パウロを非難して、真理のことばから離れていったのではないかと考えられます。パウロはそういう人たちをサタンに引き渡したと言っています。これはサタンの支配に引き渡したということではなく、教会の交わりから除外したということです。それによって彼らに、神を汚してはならないことを学ばせるためです。

私たちの信仰の歩みにはこうした戦いが尽きることはありませんが、しかし、信仰と正しい良心をもって勇敢に戦い抜かなければなりません。なぜなら、キリストはこんな者も救い、この尊い務めに任命してくださったからです。キリスト・イエスは、罪人を救うために来られたというのはまことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。すべては神の恵みなのです。この認識があれば、あなたもどんな困難にも立ち向かうことができます。だから私たちはこの恵みにとどまり、日々感謝し、主に信頼して歩んでいきましょう。