申命記9章

きょうは、申命記章から学びます。まず1節から10節までをご覧ください。

 

1.主が敵を追い払われたのは・・・(1-6

 

「聞きなさい。イスラエル。あなたはきょう、ヨルダンを渡って、あなたよりも大きくて強い国々を占領しようとしている。その町々は大きく、城壁は天に高くそびえている。その民は大きくて背が高く、あなたの知っているアナク人である。あなたは聞いた。「だれがアナク人に立ち向かうことができようか。」きょう、知りなさい。あなたの神、主ご自身が、焼き尽くす火として、あなたの前に進まれ、主が彼らを根絶やしにされる。主があなたの前で彼らを征服される。あなたは、主が約束されたように、彼らをただちに追い払って、滅ぼすのだ。あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出されたとき、あなたは心の中で、「私が正しいから、主が私にこの地を得させてくださったのだ。」と言ってはならない。これらの国々が悪いために、主はあなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。あなたが彼らの地を所有することのできるのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。それは、これらの国々が悪いために、あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。また、主があなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブになさった誓いを果たすためである。知りなさい。あなたの神、主は、あなたが正しいということで、この良い地をあなたに与えて所有させられるのではない。あなたはうなじのこわい民であるからだ。」

 

ここにも「聞きなさい」とか、「知りなさい」という言葉が繰り返して出てきています。彼らは何を聞かなければならないでしょうか。それは主が彼らの前に進み、摘を根絶やしにされるということです。それは彼らが強いから、彼らが正しいからではありません。それは主がアブラハム、イサク、ヤコブに訳されたからであり、その約束を果たされるためです。それは主が約束されたことを果たされる真実な方だからなのです。

このことを考えると、私たちはとても安心感が与えられます。これがもし自分たちの正しさのゆえであったとしたら、そうでなかったとしたらたちどころに滅ぼされてしまうことになります。しかし、それは私たちとは全く関係なく、ただ主が正しい方なので、主がそのように約束された方なので、その約束に従ってその地の住人を追い払ってくださるのです。

それゆえに6節には再び、「知りなさい」と出てきます。主は、私たちが正しいということで、この良い地を与えてくださるのではなく、むしろ、私たちはうなじのこわい民であるにもかかわらず、主はそのようなことをしてくださるのです。

いったい私たちはどれほどうなじがこわい民なのかを見ていきましょう。続く7節から21節までに、そのことについて記されてあります。

 

2.主に逆らい続けてきたイスラエル(7-21

 

「あなたは荒野で、どんなにあなたの神、主を怒らせたかを覚えていなさい。忘れてはならない。あなたがたはホレブで、主を怒らせたので、主は怒ってあなたがたを根絶やしにしようとされた。 私が石の板、主があなたがたと結ばれた契約の板を受けるために、山に登ったとき、私は四十日四十夜、山にとどまり、パンも食べず、水も飲まなかった。その後、主は神の指で書きしるされた石の板二枚を私に授けられた。その上には、あの集まりの日に主が山で火の中から、あなたがたに告げられたことばが、ことごとく、そのまま書かれてあった。こうして四十日四十夜の終わりに、主がその二枚の石の板、契約の板を私に授けられた。そして主は私に仰せられた。「さあ、急いでここから下れ。あなたがエジプトから連れ出したあなたの民が、堕落してしまった。彼らはわたしが命じておいた道から早くもそれて、自分たちのために鋳物の像を造った。」さらに主は私にこう言われた。「わたしがこの民を見るのに、この民は実にうなじのこわい民だ。わたしのするがままにさせよ。わたしは彼らを根絶やしにし、その名を天の下から消し去ろう。しかし、わたしはあなたを、彼らよりも強い、人数の多い国民としよう。」エジプトの地を出た日から、この所に来るまで、あなたがたは主に逆らいどおしであった。私は向き直って山から降りた。山は火で燃えていた。二枚の契約の板は、私の両手にあった。私が見ると、見よ、あなたがたはあなたがたの神、主に罪を犯して、自分たちのために鋳物の子牛を造り、主があなたがたに命じられた道から早くもそれてしまっていた。それで私はその二枚の板をつかみ、両手でそれを投げつけ、あなたがたの目の前でこれを打ち砕いた。そして私は、前のように四十日四十夜、主の前にひれ伏して、パンも食べず、水も飲まなかった。あなたがたが主の目の前に悪を行ない、御怒りを引き起こした、その犯したすべての罪のためであり、主が怒ってあなたがたを根絶やしにしようとされた激しい憤りを私が恐れたからだった。そのときも、主は私の願いを聞き入れられた。主は、激しくアロンを怒り、彼を滅ぼそうとされたが、そのとき、私はアロンのためにも、とりなしをした。私はあなたがたが作った罪、その子牛を取って、火で焼き、打ち砕き、ちりになるまでよくすりつぶした。そして私は、そのちりを山から流れ下る川に投げ捨てた。主があなたがたをカデシュ・バルネアから送り出されるとき、「上って行って、わたしがあなたがたに与えている地を占領せよ。」と言われたが、あなたがたは、あなたがたの神、主の命令に逆らい、主を信ぜず、その御声にも聞き従わなかった。私があなたがたを知った日から、あなたがたはいつも、主にそむき逆らってきた。」」

 

ここには、イスラエルがいかに主に逆らい通しであったかが示されています。彼らはホレブで主を怒らせました。いたいホレブでどんなことがあったのでしょうか。せっかく主がモーセを通して二枚の石の板、契約を与えてくださったというのに、彼らは堕落して、自分たちのために鋳物の像を作ってしまったのです。12節を見ると、「早くもそれて」とありますが、彼らはなぜそんなにも早くそれてしまったのでしょうか。人はみな目に見えるものに弱いんですね。少しでも状況が不利になるとすぐに不安になってしまうのです。実際に導いてくれる対象がほしいのです。そういう弱さがあるのです。

 

それはホレブでの出来事だけではありません。22節には、「あなたがたはまた、タブエラでも、マサでも、キブロテ・ハタアワでも、主を怒らせた。」とあります。タブエラではどんなことがあったでしょうか。これは民数記11章に記録されてある内容ですが、ホレブの山を出るとすぐに、彼らのうちのちのある者たちが激しい欲望にかられ、モーセにつぶやいたのです。「ああ、肉が食べたい」と。「エジプトで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいかも、にら、たまねぎも、にんにくも。」なのに今はこのマナを見るだけだ・・・。それはモーセにとってとても苦しいことでした。あまりにも苦しかったので、自分一人で背負うことができず、民の長老たちの中から七十人を集め、モーセをサポートしなければなりませんでした。そして主は、そのようにつぶやいたイスラエルに対して、主は肉をくださるが、一日や二日ではない。十日も、二十日も、一か月もであって、ついには彼らの花から出て来て、吐き気を催すほどになる、と言われたのです。そして、彼らがキプロテ・ハタアワまでやって来た時には、主はうずらの大群を運んできたので食べることができたのですが、彼らの歯と歯の間にあるうちに激しい疫病が起こり、彼らはそれで死に絶えたのです。

 

マサでの出来事というのは、エジプトを出てすぐのことです。彼らはエジプトを出てすぐシナイの荒野に導かれたのですが、そこには飲み水がありませんでした。レフィデムに宿営したときのことです。それで彼らは主を試み、つぶやいて言いました。「自分たちをエジプトから連れ出したのは、自分死セブンたちを渇きで死なせるためですか。」人は苦しくなるとすぐにこのようにつぶやいてしまいます。主を信じることができないのです。それでモーセはどうしたかというとあの杖をもってホレブの岩の上に上り、そこで岩を打つと、岩から水が流れ出たのです。その岩とはだれでしょう。コリントを見ると、その岩こそイエス・キリストであったとあります。つまり、イスラエルの四十年の荒野の旅は、主イエスを信じた後の私たちの信仰の旅でもあるのです。そこには多くの苦しみがあります。試みが起こります。しかし、イスラエルが岩からほとばしる水を飲んだように、私たちも岩であるキリストから飲み続けることができるのです。モーセはそのところをマサ、またメリバを名付けました。それは彼らが主と争い、主を試みたからです。彼らはそれほどまでに主に境続けたのです。

 

そして、23節にはカデシュ・バルネヤでの出来事が記録されています。忘れられない出来事です。彼らはそこから偵察隊を遣わしてかの地を探らせたのに彼らは主のみことばにそむいて上っていかなかったので、その後38年間も荒野をさまようことになってしまいました。当然、二十歳以上の男子はみな荒野て滅んでしまうことになりました。彼らか主を信じなかったので、神のさはぎを招いてしまいました。

 

3.神の慰め(25-29

 

「それで、私は、その四十日四十夜、主の前にひれ伏していた。それは主があなたがたを根絶やしにすると言われたからである。私は主に祈って言った。「神、主よ。あなたの所有の民を滅ぼさないでください。彼らは、あなたが偉大な力をもって贖い出し、力強い御手をもってエジプトから連れ出された民です。あなたのしもべ、アブラハム、イサク、ヤコブを覚えてください。そしてこの民の強情と、その悪と、その罪とに目を留めないでください。そうでないと、あなたがそこから私たちを連れ出されたあの国では、『主は、約束した地に彼らを導き入れることができないので、また彼らを憎んだので、彼らを荒野で死なせるために連れ出したのだ。』と言うでしょう。しかし彼らは、あなたの所有の民です。あなたがその大いなる力と伸べられた腕とをもって連れ出された民です。」

 

しかし、主はそれでもイスラエルを滅ぼそうとはなさいませんでした。ここでモーセはイスラエルの民がほぼされないように祈っています。彼はどのように祈ったでしょうか。

代位に彼は、イスラエルは主が力強い御手を持ってエジプトから連れ出された民であるということ、第二に、確かにイスラエルはうなじのこわい民ではあるけれども、主はその彼らの先祖アブラハム、イサク、ヤコブと契約をされた神であるということ、そして第三は、もし主がイスラエルを滅ぼすというようなことがあるとしら、その地の住人の物笑いとなり、無全く証にならないということ、そして第四に、彼らがどんなに不忠実な民であっても、神によって贖われた神の民、神の所有の民であり、その大いなる力と述べられた腕とをもって連れ出された民であるということです。

 

つまり、神がイスラエルを救われるのはイスラエルが何か良い民であり、特別な民だからなのではなく、主ご自身の栄光のためであるということです。うしたモーセのとりなしにゆえに、彼らは神のさばきを免れ、約束の地まで導かれました。それは彼らが正しい民だからではなく、何か特別な能力があったからでもなく、神が彼らを愛されたから、彼らを愛してご自分の所有の民とされたからなのです。

 

こうした神の特別の愛の中に私たちも置かれているのです。モーセがイスラエルの民のためにとりなして祈ったように、私たちもまだ救われていない神の民のためにとりなし、祈る者でありたいと願わされます。

申命記8章

きょうは、申命記8章から学びます。まず1節から10節までをご覧ください。

 

1.試みられる神(1-10

 

「私が、きょう、あなたに命じるすべての命令をあなたがたは守り行なわなければならない。そうすれば、あなたがたは生き、その数はふえ、主があなたがたの先祖たちに誓われた地を所有することができる。あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。あなたの神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。次から、これから入る約束の地の姿について書かれています。あなたの神、主が、あなたを良い地に導き入れようとしておられるからである。そこは、水の流れと泉があり、谷間と山を流れ出た深い淵のある地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろの地、オリーブ油と蜜の地。そこは、あなたが十分に食物を食べ、何一つ足りないもののない地、その地の石は鉄であり、その山々からは青銅を掘り出すことのできる地である。あなたが食べて満ち足りたとき、主が賜わった良い地について、あなたの神、主をほめたたえなければならない。」

 

 モーセは何回も何回も、主がイスラエルに命じるすべての命令を守り行うようにと命じます。なぜでしょうか。そのために主は、イスラエルが荒野を歩んだ全行程を思い出させています。そこには多くの苦しみ、試みがありました。荒野ですから食べ物や飲み物がありませんでした。それはまさに死活問題であったわけですが、いったいなぜそのような苦しみがあったのでしょうか。それは、彼らが主の命令を守るかどうか、彼らの心のうちにあるものが何であるのかを知るためでした。

 

 主は私たちを試みる時があります。いったいそれは何のためかというと、そのような苦しみの中にあっても主に拠り頼むなら、主が助け導いてくださることを知るためでした。3節には、『それは、無人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。』とありますが、まさにそのためだったのです。

 

 ヤコブ書12節から4節には次のようにあります。「私の兄弟たち。さまざまな試練に遭うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」

 

私たちに試練があるのは、私たちの成長のためなのです。その試練がためされて忍耐が生じ、その忍耐を完全に働かせることによって、成長を遂げた、完全な人になることができまるからです。だから、ヤコブは、「さまざまな試練に遭うときには、それをこの上もない喜びと思いなさい。」と言っているのです。確かに、できるなら試練を避けたいと思うものですが、しかし、その試練を通して学び、それを乗り越えることによって、本当の意味で成長を遂げることができるということを思うとき、それはむしろ喜ばしいものでもあるのです。かわいい子には旅をさせよ、ということばがありますが、主は、人がその子を訓練するように、私たちを訓練されるということを、私たちは知らなければなりません。そのような苦しみにある時こそ信仰を働かせ、全能の神に拠り頼まなければならないのです。イスラエルの荒野での四十年は、まさにそれを文字通り経験する時であり、このことを学ぶ学びの場であったのです。

 

 そして、イスラエルが入って行こうとしている地は良い地です。そこには、水の流れと泉があり、谷間と山を流れ出た深い淵のある地です。小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろの地、オリーブ油と蜜の血です。十分に食べることができ、何一つ足りないものがない地です。そのような地に導いてくださるからなのです。何という希望でしょう。このような地へ導き入れられるということを知るなら、目の前にどんな大きな試練があっても乗り越えられるのではないでしょうか。私たちは目の前の問題を見るのではなく、その先にある希望に目を留めなければなりません。

 

Ⅱ.主を忘れることがないように(11-18

 

次に11節から18節までをご覧ください。

 

「気をつけなさい。私が、きょう、あなたに命じる主の命令と、主の定めと、主のおきてとを守らず、あなたの神、主を忘れることがないように。あなたが食べて満ち足り、りっぱな家を建てて住み、あなたの牛や羊の群れがふえ、金銀が増し、あなたの所有物がみな増し加わり、あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そういうことがないように。・・主は、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出し、燃える蛇やさそりのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない、かわききった地を通らせ、堅い岩から、あなたのために水を流れ出させ、 あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。・・ あなたは心のうちで、「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ。」と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである。」

ここでモーセは、イスラエルの民に向かって注意を促しています。それは、彼らに命じる主の命令と、主の定めと、主のおきてとを守らず、彼らの神、主を忘れることがないように、気を付けなさい、ということです。いつそのようなことが起こりやすいのでしょうか。12節にあるように、「あなたが食べて満ち足り、りっぱな家を建てて済、牛や羊の群れがふえ、金銀が増し、所有物が増し加わる時です。その時心が高ぶり、主を忘れてしまいがちなのです。そのような時、愚かにも人間は、「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだと言うようになるのです。

 

しかし、主が彼らを祝福し、彼らをエジプトの地、奴隷の家から連れ出し、あの恐ろしい荒野を通らせた際に、堅い岩から水を流れ出させて飲ませ、天からマナを降らせて食べさせたのはいったい何のためだったのかというと、彼らを苦しめ、彼らを試み、ついには、彼らをしあわせにするためだったのです。主は彼らを祝福したいと願っておられますが、それは、彼らの心が高ぶって、自分の手のわざを誇るためではなく、主に感謝し、主をほめたたえるためだったのです。しかし、そうしたしあわせがもたらされると、あたかもそれを自分で手に入れたかのように錯覚してしまうのは彼らだけのことではなく、私たちも同じです。のど元過ぎれば熱さ忘れるということわざがあるように、あの苦しみの中にいた時は主に助けを求めても、そこから解放されるとすぐに主を忘れてしまうというのは、昔も今も変わらない人間の愚かな性質でもあるのです。ですから、私たちは、いつも主を忘れないようにしなければなりません。18節でモーセは、「あなたの神、主を心に据えなさい。」と言っていますが、主を心に末なければならないのです。

 

もう一つのことは、主が彼らに富を築き上げる力を与えられるのは、彼らの先祖たちに誓った契約を果たされるためであるということです。つまり、主は、イスラエルが何か良いものを持っているから祝福されたのではなく、あくまでも契約を履行されるために祝福されるということです。この理解はとても大事です。主はご自分が約束されたことは、必ず成就してくださいます。契約に違反するようなことは決してなさらないのです。私たちの主は契約を果たされる真実な神なのです。

 

その真実のゆえに、主は私たちの罪を赦され、神の子どもとしてくださいました。神が私たちをご自分の子としてくださったのは私たちが良い人間だからではなく、ましてや特別な能力があるからでもなく、そのように約束してくださったからなのです。それが時至って成し遂げられました。イエス・キリストを通してです。神は私たちをこよなく愛し、私たちを罪から救うためにメシヤを遣わしてくださると約束してくださり、このメシヤを信じる者を罪に定めないと約束してくださったので、その約束のゆえに、私たちは赦されているのです。私たちはこの契約の中に入れられているのです。ですから、どんなことがあっても、私たちを罪に定めることはできません。(ローマ8:31-39

 

Ⅲ.万が一、主を忘れるようなことがある場合(19-20

 

 最後に、19節と20節を見て終わります。ここには、もし主を忘れるようなことがある場合どうなるかが語られています。

 

「あなたが万一、あなたの神、主を忘れ、ほかの神々に従い、これらに仕え、これらを拝むようなことがあれば、きょう、私はあなたがたに警告する。あなたがたは必ず滅びる。主があなたがたの前で滅ぼされる国々のように、あなたがたも滅びる。あなたがたがあなたがたの神、主の御声に聞き従わないからである。」

 

人が自分の力で、自分の手でこのようなことをしたのだと思い始めると、主を忘れるようになるだけでなく、ほかの神々に仕え、これらを拝むようになると言われています。この場合の神々とは必ずしも手でこしらえた偶像だけでなく、神以外のものを神とすることを指しています。まことの神から離れれば、それに代わる何かに捕われてしまうのは当然のことだと言えます。それゆえ、いのちある神との交わりが阻害されてしまうのです。

 

そのようなことになればどうなるかというと、必ず滅びることになってしまいます。主に従い、主のおきてと、主の定めを守るなら、そこにいのちと祝福が溢れますが、反対に心が高ぶり、主から離れてしまうなら、滅びを招くことになってしまうのです。

 

このイスラエルに対する戒めは、教会に対しても言えることです。黙示録には、豊かになったラオデキヤの教会に対して、主はこのようなことばを書き送りました。「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」自分のありのままの姿を知らなければいけません。「わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」(黙示録3:17-18

 

ですから、私たちは金も、衣も、目薬も、主イエスからいただかなければなりません。イエス様からいただいて、真理を悟らせていただきながら、神に喜ばれる道を歩まなければならないのです。それが心に主を据えるということです。どんな時でも主を忘れることがないように、いつも心に主を据えて歩む物でありたいと願わされます。

ヘブル5章5~10節 「とこしえに救いを与える方」

きょうは、イエス・キリストこそとこしえの救いを与えることができる方であるということをお話したいと思います。まず5節と6節をご覧ください。

 

Ⅰ.神によって立てられたイエス(5-6)

 

5節には、「同様に、キリストも大祭司となる栄誉を自分で得られたのではなく、彼に、『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。』と言われた方が、それをお与えになったのです。」とあります。「同様に」というのは、その前のところで語られてきたことを受けてのことあります。その前のところ、すなわち、5章1節から4節までのところには、大祭司はどのようにして選ばれるのかについて3つのことが語られていました。すなわち、第一に、大祭司は人々の中から選ばれなければならないということでした。なぜでしょうか。なぜなら、大祭司は人々に代わって神にとりなしをする人ですから、その人々の気持ちを十分理解できる人でなければその務めを十分果たすことはできないわけです。

 

それから大祭司のもう一つの条件は何だったかというと、人々の弱さを十分身にまとっていなければならないということでした。自分自身も弱さを身にまとっているからこそ、人の痛みを十分理解し、そのために心から祈ることができるわけです。私は新年早々胆嚢摘出手術で一週間入院しましたが、中にはとても喜んでくださる方がおられまして、その喜びというのは「ざまあみろ」とか、「あっすっきりした」といった気持からでなく、どうも私は人からは強い人間に見られているようで、そんな私が一週間も入院したものですから、これで牧師も人の痛みが少しはわかったに違いないといった安堵心からのようでした。しかし、幸い、あれから大分自分の体をいたわるようになったためか、以前よりもぐっと調子がよくなった感じがします。こんなに調子がよくなるなら、もっと早く手術を受けていればよかったなぁと思っているほどです。

それから大祭司のもう一つの条件は何だったかというと、大祭司は自分でなりたくてもなれるわけではなく、神に召されて受けるのですということです。同様に、キリストも大祭司となる栄誉を自分で得られたのではなく、神によって召され、神よってそのように立てられたからこそその立場に着いておられるということです。

 

それは、『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。』という言葉からもわかります。これはいったい、だれが、だれに言った言葉なのでしょうか?これは旧約聖書の詩篇2篇7節の言葉からの引用です。このヘブル人への手紙の中には、この聖句が何回も何回も引用されています。それはイエスさまが、父なる神から、「あなたは、わたしの子」と呼ばれている、つまりイエスさまが神の独り子であることの宣言なのです。イエスさまは、旧約聖書の昔から神とともにおられたひとり子の神であり、人類を罪から救うために神によって遣わされたメシヤ、救い主であることとの証言なのです。イエス様はその辺のちょっとした偉大な人を超えた神のメシヤ、救い主なのです。そのことを表しているのがこの聖句です。

 

ここには、「きょう、わたしがあなたを生んだ。」ことばがありますが、エホバの証人の方はこの言葉が大好きで、「ほら、みろ。キリストは神によって生まれたと書いてあるではないか。神であるなら生まれるはずがないじゃないか、キリストはその神によって生まれた子にすぎないのだ」と言われるのですが、ここではそういうことを言っているのではありません。この「生んだ」という言葉は、神様がイエス様を「オギャー」と産んだということではなく、第一のものになるとか、初穂になるという意味なのです。つまり、イエスさまが死者の中からよみがえられたことによって、イエスが神の御子であられることが公に示されたのです。もしイエスが死んで復活しなかったらどうでしょうか。それは私たちと何ら変わらない人間の一人にすぎないということになります。確かに偉大なことを教え、すばらしい奇跡を行ったかもしれませんが、所詮、それまでのことです。しかし、キリストは死者の中からよみがえられたので、彼が神の子であることがはっきりと証明されたのです。つまり、これはキリストが神の子、メシヤ、救い主であることの照明でもあるのです。イエスは神の子であり、全く罪のない方であり、私たちの罪を完全に贖い、私たちを神のみもとに導くことができる方なのです。

 

それゆえに、このイエスについて別の箇所でこう言われているのです。6節、

『あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。』」

 

「メルキデゼクの位に等しい祭司」であることについては7章のところに詳しく出てくるのでそこで取り上げたいと思いますが、ここではただ一つのことだけを申し上げたいのです。このメルキデゼクという人物はエルサレムの王であり、祭司でもあった人で、アブラハムの時代にいた人物であるということです。大祭司というのはアロンの時代に初めてその職に任じられたわけですから、それよりもずっと先の時代の人であったということです。つまり、このメルキデゼクという人はアロンよりもすぐれた大祭司であり、ちょっと不思議な大祭司であったということです。そして、ここでは神の子イエスがメルキデゼクの位に等しい大祭司であると言われているのです。ここには、彼は「とこしえに」祭司であると言われていることから、キリストはそのような類な大祭司であるということがわかります。つまり、キリストは、私の罪も、あなたの罪も、完全にあがなうことがおできになられる方であって、そのために神によって立てられた方なのです。

 

このような方がいたら、あなたも助けを求めたいと思いませんか。人間は一見強そうでも、ちょっとしたことですぐに右往左往するような弱い者でしかありません。きょうは何でもなくても明日はどうなるかさえわからない不確かな者なのです。しかし、人間を超えた確かな神、メルキデゼクの位に等しい大祭司に支えられながら生きれらるということはどんなに幸いなことでしょう。私たちにはこのような支えが必要なのです。あなたは、それをどのように持っておられるでしょうか。

 

Ⅱ.涙をもって祈られたイエス(7)

 

次に7節をご覧ください。「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」

 

どういうことでしょうか。大祭司であるためのもう一つの条件は、人々を思いやることができるということでした。まさに、ここにはそうした大祭司イエスの姿が描かれているのです。4章15節にも、「私たちの弱さに同情することがおできになられるのです。どのようにおできになられるのでしょうか。ここには、「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことができる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」とあります。

 

確かにイエス様の生涯をみると、それは祈りの生涯でした。しかしその中でも、死を目前にしたゲッセマネでの祈りは、私たちの想像をはるかに超える激しい祈りでした。イエスは十字架の死を前にして、「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22:42)と三度も祈られました。それはこけまでひと時も離れたことがなかった父と離れることの苦しみを表していたからです。ルカは「汗が血のしずくのように地におちた。」と記録しています(同22:44)。それほど激しい祈りの葛藤でした。

しかし、それはゲッセマネの園での祈りだけではありません。というのは、ここに「キリストは人としてこの世におられたとき」とあるからです。この原文を直訳すると、「キリストは、ご自分の肉の日々において」となります。つまり、これはイエス様の地上生活の中のある特定の日のことを指しているのではなく、イエス様がこの地上で生活をしておられた間中のことなのです。ですから、イエス様はゲッセマネの園での祈りだけでなく、いつも涙を流して叫び続けておられたのです。あなたのために涙をもって祈っておられるのです。

 

一体どこのだれがこの私のために、あなたのために、涙を流して祈ってくれたでしょうか。イエス様以外にはおられません。主イエス様以外に、あなたのために涙を流して祈ってくれる方はいないのです。しかも、イエス様はいつもそのように祈っていてくださいます。この地上におられた時だけでなく、天におられる今も、父なる神に私たちのためにとりなしていてくださるのです。なんという大きな恵みでしょうか。

 

旧約聖書にサムエルという預言者が登場しますが、彼はイスラエルが神制から王制に移行していく際に大きな貢献を果たした人物です。なぜ彼がそれほどの貢献を果たすことができたのでしょうか。その背後に母ハンナの涙の祈りがあったからです。ハンナは夫のエルカナに愛されていましたが、残念ながら、なかなか子どもが与えられませんでした。その当時、妻の最大の役目は跡継ぎを産むことでしたから、それが彼女にとってどれほど屈辱的なことだったかわかりません。しかも、夫のエルカナには、ペニンナというもう一人の妻がいて、彼女には何人かの子供が与えられていたので、そのことでペニンナからも辛く当たられ、ハンナの苦しみは更に増すばかりでした。とうとうハンナは、食事もできないほどに悲しみに暮れるようになりました。

そんなある日、ハンナは、夫エルカナと共に神殿に上り、そこで、子どもを授かることを願って熱心に祈りました。彼女は主に祈って、激しく泣いたとあります。

ハンナが主の前であまりにも長く祈っていたので、祭司のエリはそれを見て心配になりました。くちびるが動くだけで、その声が聞こえなかったからです。それで、もしかしたら酔っぱらっているのではないかと思ったのです。

「いいえ、祭司様。私は酔っぱらってなんていません。私は心に悩みのある女でございます。ぶどう酒も、酒も飲んではおりません。私はただ主の前に心を注いで祈っていたのです。」

そのようにして与えられたのがサムエルです。そうした母の涙の祈りはサムエルが生まれた時だけではありませんでした。彼が成長し、やがて主のために用いられるようになってもずっと続きました。そうしたサムエルの働きの背後には、こうした母の涙の祈りがあったのです。

 

それはサムエルだけではありません。このキリスト教の歴史を振り返ると、偉大な働き人の背後にはいつもそうした涙の祈りがあったことがわかります。

たとえば、皆さんもよくご存知のアウグスティヌスもそうでした。アウグスティヌスは4世紀最大の教父といわれ、その思想と信仰は今でもローマ・カトリック教会でも、プロテスタントでも支持されています。そして最後はヒッポの監督にまでなりました。しかし、彼の若い時はそうではありませんでした。

アウグスティヌスは若い時に神から離れて享楽的な生活に浸り、熱心なキリスト教徒のお母さんモニカを悩ませました。また彼は当時の新興宗教であったマニ教にもはまるのです。どうしたらいいかわからず悩んだ母モニカは、彼が悔い改めて神のもとに帰るようにと祈りました。そしてある日、教会で祈っていたとき、その教会の神父がその様子を見て、こう言いました。

「子供は必ずあなたのところに帰ってきますよ、涙の子は滅びないと言いますから」

その言葉に慰められた母モニカは勇気を得て、いよいよ熱心に祈りました。しかし、その祈りが応えられたのはアウグスティヌスが32歳のときでした。彼がイタリアのミラノの庭園で木陰に身を寄せていたとき、隣の家の庭で遊んでいた子供たちの清らかな声が聞こえてきました。「取りて読め、取りて読め」。これを聞いたとき、彼は急いで部屋に入り聖書を手にして開いたところが、ローマ書13章12~14節の箇所でした。そこにはこうありました。

「夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」

彼の心は震え、やがて静まり、そしてやがてほのかな光と平安が彼の心に差し込んできたのです。そしてキリスト教に入る決心をしたのです。これがアウグスティヌスの劇的回心のときでした。そして「神よ。わが魂は、あなたのもとで安らぎを得るまで揺れ動いています。」という後世に残る有名な言葉を残したのです。

そして34歳の復活祭の日に、アンブロシウスによって洗礼を受けたのでした。これをいちばん喜んだのは言うまでもなく母モニカでした。「涙の子は滅びない」という言葉が現実になったのです。しかし母モニカはそれから9日目に天に召されました。まさしく母モニカの一生は、アウグスティヌスの回心のために捧げられた生涯でした。

すばらしいですね。涙の子は滅びません。涙の祈りは答えられるのです。そして、私たちの主イエスは、私たちのためにいつも涙を流して祈っているのです。

 

ノアという賛美グループの曲に、「聞こえてくる」という賛美があります。  「聞こえてくる」 あきらめない。いつまでも イエス様の励まし 聞こえてくる 試練の中でも 喜びがある 苦しみの中でも 光がある ああ主の御手の中で 砕かれてゆく  ああ、主の愛につつまれ 輝く

 

私たちにはイエス様の涙の祈りがあります。イエス様はいつもあなたのために祈っています。あなたはそのように祈られているのです。よく「私なんで・・」という人がいますが、それは事実ではありません。そんなあなたでも祈られているのです。そのことをどうか忘れないでほしいと思います。そして、たとえ試練があっても、たとえ苦しみがあっても、あきらめずに進んでいこうではありませんか。

 

Ⅲ.完全な者とされたイエス(8-10)

 

ところで、涙をもって祈られたイエス様の祈りはどうなったでしょうか。7節を見ると、「その敬虔のゆえに聞き入れられました。」とあります。イエス様が神の子であられるのなら、イエス様の祈りが答えられるというのは当たり前のことではないでしょうか。いいえ、そうではありません。それは、この地上に生きる人間がいかに神の御心にかなった歩みをするのが難しいかを見ればわかります。しかし、イエス様の祈りは、その敬虔のゆえに聞き入れられました。現代訳には、「父である神を畏れかしこむ態度によって」と訳されています。父である神を畏れる態度とは、もう少し別の言葉で言うと、こういうことです。8節から10節をご覧ください。

 

「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。」

 

キリストは本来、神の御子であられる方ですから、従順を学びというのは不思議なことです。こういう記述からエホバの証人の方は、「ほら、見てください。キリストは神の子ですが、神ではないということですよ。」と訳の分からないことを言うわけです。しかし、ここではそういうことを言っているのではありません。キリストが神に従うことを学ばれたのは、キリストが本来そのような性質を持っておられなかったからというのでのではなく、本来持っておられたにもかかわらず、なのです。それが神の「御子であられるのに」という言葉で表現されていることなのです。それなのに、ここでもう一度従順を学ばれたのは、それによってご自分の完全さを実証されるためであり、それゆえに、ご自分に従って来る人々に対して、とこしえの救い、永遠の救いを与える者となられるためだったのです。だから、このことはむしろキリストが本来そのような方であることを、むしろ強調している箇所でもあるのです。そのような方であるにもかかわらず、それをかなぐり捨てて、神に従われました。そのことを、ピリピ2章6~11節にはこう言われています。

 

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」

 

それは、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。イエスこそキリスト、救い主です。イエスは自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

 

皆さん、イエス・キリストこそ完全な救い主であられ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与えることがおできになるお方なのです。キリストはあなたも完全に救うことができるのです。この方以外にはだれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。それゆえ、私たちはこの完全な大祭司であられるイエスの御名に拠り頼み、どこまでもイエスに従う者となろうではありませんか。

 

あなたは何に信頼しているでしょうか。どこに救いを求めておられるでしょう。あなたを助け、あなたにとこしえの救いを与えてくださる方は、あなたの罪を贖ってくださった救い主イエスです。このイエスから目を離さないようにしましょう。

 

先ほども申しげたように、私は先週まで一週間入院して胆石の治療にあたっていましたが、それは自分が想像していたよりも少し大変な手術でした。何が大変だったかというと、手術の前には浣腸して腸にあるものを全部出すのですが、それが看護ステーションの隣にある処置室でなされるのです。便の状態を確認しなければならないからとのことですが、全く慣れていないこともあって屈辱的に感じました。そして、手術中は全く何もわかりませんでしたが、終わってから尿に管がついていてあまり身動きできないんですね。動きたくても体中に管が巻き付いていて気になって眠れないのです。するとだんだん麻酔は切れてきますし、気持ちは悪くなるし、ああ、こんなにひどいのかと一瞬思ったほどです。時々見舞いに来てくれる永岡姉のお顔が天使のように見えるほど、ありがたく、また安心しました。

でも、私はこの手術に臨むあたり一つみことばが得られました。それは詩篇62篇621,2節のみことばです。

 

「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。

神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。」

 

浣腸の時も、「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神

。神こそ、わが岩、わが救い。わがやぐら。私は決して揺るがされることはない。」と思う、不思議に平安が与えられるのでした。

 

皆さん、主こそあなたの救いです。あなたはっ決して揺るがされることはありません。この主に信頼して、この新しい年も前進させていただきましょう。

申命記7章

きょうは、申命記7章から学びます。モーセは、イスラエルが約束の地に渡って行って、そこで彼らが行うためのおきてと定めを語っています。前回のところでは、親が子どもに教える内容とその理由を語りました。それは、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよということでした。なぜなら、主は彼らをエジプトから救い出された方であられるからです。それがイスラエルの根源にあることで、新約の時代に生きる私たちにとっては十字架と復活による罪の贖いを指しています。私たちを罪から贖ってくださった主に従うことを、自分の子、孫、そしてその子孫に語り告げなければならないのです。そして、きょうのところには、異邦人を追い払うことについて教えられています。

 

1.互いに縁を結んではならない(1-5

 

まず、1節から5節までをご覧ください。

「あなたが、はいって行って、所有しようとしている地に、あなたの神、主が、あなたを導き入れられるとき、主は、多くの異邦の民、すなわちヘテ人、ギルガシ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、およびエブス人の、これらあなたよりも数多く、また強い七つの異邦の民を、あなたの前から追い払われる。あなたの神、主は、彼らをあなたに渡し、あなたがこれを打つとき、あなたは彼らを聖絶しなければならない。彼らと何の契約も結んではならない。容赦してはならない。また、彼らと互いに縁を結んではならない。あなたの娘を彼の息子に与えてはならない。彼の娘をあなたの息子にめとってはならない。彼はあなたの息子を私から引き離すであろう。彼らがほかの神々に仕えるなら、主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、主はあなたをたちどころに根絶やしにしてしまわれる。むしろ彼らに対して、このようにしなければならない。彼らの祭壇を打ちこわし、石の柱を打ち砕き、彼らのアシェラ像を切り倒し、彼らの彫像を火で焼かなければならない。」

 

 イスラエルが、入って行って、所有しようとしている地には、多くの異邦の民がいます。ここにはその七つの民が列記されています。それはヘテ人、ギルガシ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、およびエブス人です。これらの民はイスラエルよりも圧倒的に多く、強い民ですが、主が彼らを追い払ってくださるので恐れる必要はありません。何と力強い宣言でしょうか。この新しい一年が、力強い主の約束に守られてスタートできることを感謝します。

 

しかし、主がそのように先住民族を追い払われるとき、イスラエルの民が注意しなければならないことがありました。それは、主がそのように彼らを打つとき、彼らを聖絶しなければならないということです。彼らと何の契約も結んではならないし、容赦してはなりませんでした。

また、彼らと互いに縁を結んでもなりませんでした。それは具体的にどういうことかというと、彼らの娘をその地の息子に与えはならないし、その地の娘を彼らの息子にめとってはならないということです。なぜでしょうか?それは彼らの息子が主から離れることによってしまうからです。そうなれば、主の怒りが彼らに向かって燃え上がり、主はたちどころに彼らを根絶やしにしてしまわれます。ですから、彼らはその地の住民の祭壇を打ちこわし、石の柱を打ち砕き、彼らのアシェラ像を切り倒し、彼らの彫像を火で焼かなければなりませんでした。

 

パウロはこのことについて、コリント人への手紙第二でこう言っています。「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。」(Ⅱコリント6:14-15

 

これは、不信者との関わりを一切持ってはいけないということではありません。むしろ、神の愛を伝えていくために彼らと積極的に関わっていくべきです。けれども、そのことによって自分たちが立っているポイントを見失うことがないようにしなければなりません。光と闇とに全く交わりがないように、キリストと悪魔には何の交わりもないのです。度を越えた交わりは命取りとなってしまいます。それが不信者との結婚なのです。結婚は神が定めたもっとも親密な関係であるがゆえに、不信者と縁を結ぶなら、その根本が崩れてしまうことになります。つまり、まことの神から離れてしまうことになるのです。「いや、たとえ信仰が違っても別に問題はない」と言う人がいますが、本当でしょうか。そのようなことは決してありません。相手があなたに合わせているか、あなたが相手に合わせているかであって、最も深いところで一つになることはできないのです。それどころから、あなたは確かに信仰に歩んでいるようでも、もっと深く入っていこうものなら相手のことが気になってブレーキをかけてしまうことになるでしょう。つまり、同じ土俵に立てないのです。その結果、神との関係が弱くなってしまうか、離れてしまうことになってしまいます。

 

Ⅱ.主があなたがたを愛されたから(6-16

 

いったいなぜ主は異邦の民と縁を結ぶことについて、そんなに厳しく命じておられるのでしょうか。その理由が6節から16節までのところにあります。

 

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。あなたは知っているのだ。あなたの神、主だけが神であり、誠実な神である。主を愛し、主の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られるが、主を憎む者には、これに報いて、主はたちどころに彼らを滅ぼされる。主を憎む者には猶予はされない。たちどころに報いられる。私が、きょう、あなたに命じる命令・・おきてと定め・・を守り行なわなければならない。それゆえ、もしあなたがたが、これらの定めを聞いて、これを守り行なうならば、あなたの神、主は、あなたの先祖たちに誓われた恵みの契約をあなたのために守り、あなたを愛し、あなたを祝福し、あなたをふやし、主があなたに与えるとあなたの先祖たちに誓われた地で、主はあなたの身から生まれる者、地の産物、穀物、新しいぶどう酒、油、またあなたの群れのうちの子牛、群れのうちの雌羊をも祝福される。あなたはすべての国々の民の中で、最も祝福された者となる。あなたのうちには、子のない男、子のない女はいないであろう。あなたの家畜も同様である。主は、すべての病気をあなたから取り除き、あなたの知っているあのエジプトの悪疫は、これを一つもあなたにもたらさず、あなたを憎むすべての者にこれを下す。あなたは、あなたの神、主があなたに与えるすべての国々の民を滅ぼし尽くす。彼らをあわれんではならない。また、彼らの神々に仕えてはならない。それがあなたへのわなとなるからだ。」

 

異邦の民を根絶やしにしなければいけない理由は、彼らが主の聖なる民だからです。「聖」というのはある一定の目的のために分離されるという意味です。彼らが分離されて、聖なる神のものとされたということです。それをここでは「ご自分の宝の民とされた」と言われています。神によって造られた民はこの地上に数多くあれども、主は、この地の面のすべての国々の民にうちから、彼らを選んでご自分の宝の民とされたのです。これはものすごいことです。この世界には何十億という人が住んでいますが、その中で私たちを神の民、宝の民としてくださったのです。それはどのくらいのパーセントの確率かというと、この日本では1パーセント以下の確率です。その中に私たちも入れさせていただきました。主の宝の民とされたのです。これはものすごいことではないでしょうか。ですから、その密接な関係を壊すような要因をすべて破壊するように、というのです。

 

いったいなぜ主はイスラエルをご自分の宝の民として選ばれたのでしょうか。7節からのところらその理由が記されてあります。それは彼らがどの民よりも数が多かったからではありません。力があったからでもない。ただ愛されたからです。ん、どういうことですか?そういうことです。主がただ愛されたから・・・。つまり、私たちに何か選ばれる根拠があったからではなく、神が一方的にただ愛されたからです。これが聖書に描かれている神の選びです。つまり、神の選びは、神の一方的な主権的な選びなのです。

 

パウロは、この神の主権的な選びについてこう言いました。「神はモーセに、『わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。』と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」(ローマ9:15-16

 

しばしば、ユダヤ人が選民思想を持っていると言ってユダヤ人を批判する人がいますが、そもそも選民思想というのはそのようなものではありません。選民とは、神が一方的に自分たちを選び、一方的に関わりを持たれ、一方的にご自身の御業を成してくださることです。私たちが何かすぐれているから愛されているのではなく、ただ愛したいから愛されているのです。自分には愛されるような資格がないのに、にもかかわらず愛されることなのです。それが神の選びなのです。自分に愛される資格がないのに愛されるのは気持ちが悪いものですが、でもほっとします。自分が根本的に愛されていることを知ると、自分のありのままの姿、罪深いその暗やみの部分も見る勇気が与えられるからです。イスラエルが試されて、ここまで罪性が明らかにされてもなお、主が彼らを見捨てておられないように、私たちもとことんまで自分の罪深さが示されても、主がなお愛されていることを知ることができるのです。

 

 彼らの神、主は、そのような方です。この主だけが神です。他に神はいません。そして、この神が彼らと結ばれた、おきてと定めがこれなのです。これというのは十戒であり、また、その中心である神だけを愛しなさいということです。それ以外のものが入ってきてはいけません。これは神の恵みの契約なのです。これを守り行うなら、主が彼らを愛し、祝福し、その恵みの契約を千代までも守られますが、主を憎む者には、主はたちどころに彼らを滅ぼされます。その祝福の内容が12節から16節まで書かれてあります。特に16節には、「彼らをあわれんではならない」とありますが、神から祝福される力は、この不信者と交わらないという聖別にあることがわかります。私たちがどれほど立派に信仰に生きていても、たくさんの人々に福音を語っても、もしこの真理に立っていなければ、そこには力がありません。それがあなたへのわなとなることがあるからです。

 

Ⅲ.恐れてはならない(17-26

 

「あなたが心のうちで、「これらの異邦の民は私よりも多い。どうして彼らを追い払うことができよう。」と言うことがあれば、彼らを恐れてはならない。あなたの神、主がパロに、また全エジプトにされたことをよく覚えていなければならない。あなたが自分の目で見たあの大きな試みと、しるしと、不思議と、力強い御手と、伸べられた腕、これをもって、あなたの神、主は、あなたを連れ出された。あなたの恐れているすべての国々の民に対しても、あなたの神、主が同じようにされる。あなたの神、主はまた、くまばちを彼らのうちに送り、生き残っている者たちや隠れている者たちを、あなたの前から滅ぼされる。彼らの前でおののいてはならない。あなたの神、主、大いなる恐るべき神が、あなたのうちにおられるから。あなたの神、主は、これらの国々を徐々にあなたの前から追い払われる。あなたは彼らをすぐに絶ち滅ぼすことはできない。野の獣が増してあなたを襲うことがないためである。あなたの神、主が、彼らをあなたに渡し、彼らを大いにかき乱し、ついに、彼らを根絶やしにされる。 また彼らの王たちをあなたの手に渡される。あなたは彼らの名を天の下から消し去ろう。だれひとりとして、あなたの前に立ちはだかる者はなく、ついに、あなたは彼らを根絶やしにする。あなたがたは彼らの神々の彫像を火で焼かなければならない。それにかぶせた銀や金を欲しがってはならない。自分のものとしてはならない。あなたがわなにかけられないために。それは、あなたの神、主の忌みきらわれるものである。忌みきらうべきものを、あなたの家に持ち込んで、あなたもそれと同じように聖絶のものとなってはならない。それをあくまで忌むべきものとし、あくまで忌みきらわなければならない。それは聖絶のものだからである。」

 

さて、イスラエルの民が約束の地に入って行くにあたり、そこには当然、恐れが生じます。敵は自分たちよりもはるかに多く、強いわけですから、どうやって彼らを追い払うことができるのでしょう。そのために主は、かつてエジプトでパロに対してなされたことを思い出させています。それと同じように、主は彼らが恐れているすべての国々対して成されます。だから彼らを恐れてはなりません。

 

ここでも、やはりエジプトにおける主のみわざが出発点となっています。クリスチャンも同じように、キリストが十字架で死なれ三日目によみがえられたという主の圧倒的な救いの御業がすべての勝利の原点にあります。それによって、「神はわたしたちとともにおられる」ことが現実のものとなり、何も恐れる必要がなくなったのです。私たちはキリストの御業によって罪から贖われたにもかかわらず、いつも恐れを抱きながら生きる者です。自分の肉の弱さのゆえに、いつも罪に打ち負かされてしまう弱さがあります。そのことでいつもおびえているような者ですが、しかし、死者の中からキリストをよみがえされてくださった神が、私たちのうちにすでに住んでおられるのです。復活させる力があることを信じるその信仰によって、私たちのうちで復活の力が働くのです。そして肉の行ないを殺すことができるのです。

 

しかし、それはすぐにということではありません。22節には、「徐々にあなたの前から追い払われる」とありますが、私たちの肉の思いや行ないも、一挙になくなるのではなく、御霊に導かれつつ、徐々に克服されていくものなのです。ですから、たとえ今はそうでなくても、このキリストのいのちをいただいている者として、やがて完成へと導かれていくことを信じて、ここに希望を置きたいと思うのです。

 

25節と26節には、聖絶のものを欲しがったり、それを家に持ち込んではならないと教えられています。聖絶されたものを自分のところも持ち込むというのは、神が葬ってくださった罪を、また掘り起こすこととを意味しています。そのようなことを行なえば、私たちの状態は初めのときよりも悪くなってしまうと、使徒ペテロは話しています(Ⅱペテロ2:20)。ですから、そのようなことがないように注意しなければなりません。

 

 このように、主は私たちをご自分の宝の民としてくださいました。それは私たちかに何か愛される資格があったからではなく、主がただ愛されたからでした。私たちに求められていることは、この主が与えてくださった定めとおきてを守り、心を尽くして、精神を尽くして、力を尽くして主を愛することです。それがすべてです。主はそのような者を祝福してくださいます。何も恐れてはなりません。なぜなら、全能の主があなたとともにおられるからです。私たちに必要なことは、ただこの主を愛し、主と共に歩むことなのです。この新しい一年がそのような一年でありますように。

ヘブル5章1~4節 「聖なる祭司として生きる」

 新年おめでとうございます。この新しい一年も、皆さまの上に主の恵みと祝福を祈ります。この新年の礼拝に私たちに与えられているみことばは、ヘブル人への手紙5章1節からの4節までのみことばであります。このみことばから、聖なる祭司として生きるというタイトルでお話したいと思います。

 

 このヘブル書の手紙は4章14節から「大祭司」をテーマに話が展開されています。大祭司とは神と人との仲介者のことで、人々に代わって神にとりなしをする人のことです。私たちの主イエスはこの偉大な大祭司であるということが、10章の終わりまで続きます。いわばこのヘブル書の中心的な主題の一つでもあるわけです。なぜ大祭司なのか?それは、大祭司こそ旧約聖書において人々の罪を贖う働きをした人物だったからです。その大祭司と比較して、キリストはもっとすぐれた偉大な大祭司であるということを、ここで証明しようとしているのです。なぜかというと、この手紙はユダヤ教から回心したクリスチャンに宛てて書かれましたが、彼らはイエスをキリスト、救い主として信じることができたのは良かったけれども、そのことでかつてのユダヤ教の人たちから激しい迫害を受けたとき、「こんなはずじゃなかった」「こんなことなら信じなければよかった」と、以前の生活に戻ろうとする人たちがいたからです。そういう人たちに対して、イエス・キリストがいかに優れた方であるかを証明することで、この福音にしっかりととどまるようにと励まそうとしたのです。そして、前回の箇所では、このキリストがいかに偉大な大祭司であるかが述べられましたが、きょうの箇所には、その大祭司になるためにはどのような資格が必要なのか、その資格について駆られています。

 

 Ⅰ.人々の中から選ばれた者(1)

 

 まず1節をご覧ください。

「大祭司はみな、人々の中から選ばれ、神に仕える事がらについて人々に代わる者として、任命を受けたのです。それは、罪のために、ささげ物といけにえをささげるためです。」

 

 ここには、大祭司はみな、人々の中から選ばれ、とあります。大祭司であるための第一の条件は、人々の中から選ばれた者でなければならないということです。あたり前じゃないですか、他にどこから選ばれるというのでしょうか?しかし、このあたり前のことが重要なのです。すなわち、大祭司は人々の中から選ばれなければならないのであって、それ以外の者ではだめなのです。なぜでしょうか。それは、大祭司は人々に代わって神に仕える者、神にとりなす者ですから、人々の気持ちを十分理解することができなければならなかったからです。人でなければ人の気持ちを理解することはできません。人以外のもの、例えば今年は猿年だそうですが、どんなに去るが人間のような顔をしていても、猿では人人の気持ちを理解することはできません。人以外のものは人の気持ちを理解することはできないのです。ですから、大祭司は人々の中から選ばれなければならなかったのです。

 

それは最初の大祭司としてアロンが選ばれたことからもわかります。出エジプト記28章1節を見ると、イスラエルの最初の大祭司はモーセではなく、モーセの兄アロンでした。

「あなたは、イスラエル人の中から、あなたの兄弟アロンとその子、すなわち、アロンとその子のナダブとアビフ、エルアザルとイタマルを、あなたのそばに近づけ、祭司としてわたしに仕えさせなさい。」

 いったいなぜモーセではなかったのでしょうか。それはアロンがお兄さんだったからではありません。モーセよりもアロンの方が大祭司としてふさわしい人物だったからなのです。どのようにふさわしい人物だったかというと、アロンはイスラエルの人々の中で生まれ育ったので、イスラエルの人々の気持ちをよく理解することができました。しかし、モーセは違います。モーセはアロンと同じ両親の下で生まれましたが、モーセが生まれたときエジプトの王パロはイスラエルが多産なのを見て、いざ戦いになった時に、敵側について自分たちと戦うのではないかと恐れ、生まれたばかりの男の赤ちゃん殺すように命じていたので、本当は殺される運命にありました。しかし、モーセのお母さんはそんな惨いことなどできなとずっとかくしていたのですが隠し切れなくなったので、ある日パピルス製のかごに入れナイル川の岸の葦の茂みの中に置いたのです。するとどうでしょう。何とパロの娘が水浴びに来ていて見つけたので、彼はパロの娘に引き取られ、王女の息子として王宮で育てられたのです。

 

 ですから、モーセは確かにアロンと同じ両親の下に生まれましたが、イスラエルの民の生活からは離れて育ったので、彼らの気持ちをよく理解することができませんでした。彼らの気持ちを理解することができたのは彼らの中で生まれ育ち、彼らの気持ちを十分理解することができたアロンだったのです。だからアロンが大祭司として任命されたのです。モーセはイスラエルの偉大な指導者でしたが、大祭司になることはできませんでした。

 

それは、私たちの大祭司であられるイエス様も同じです。ヨハネの福音書1章14節には、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」とあります。ことばであるイエスさまが人として生まれてくださいました。なぜでしょうか。私たちと同じようになるためです。私たちの間に住み、私たちの悩みを知り、私たちの弱さを十分理解するためです。

 

ヘブル4章15節にはこうあります。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」

私たちの大祭司であられるイエス様は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。なぜなら、私たちと同じようになられたからです。私たちと同じように試みに会われました。私たちと同じように胎児としてお母さんのお腹の中に宿り、赤ちゃんとして生まれ、幼児としても、少年としても、青年としても、大人としても歩まれました。イエス様は私たちが通るすべてのライフステージを通られたのです。だから、私たちの弱さに同情することができるのです。それが人々の中から選ばれなければならないという意味です。イエスは、罪は犯されませんでしたが、すべての点で私たちと同じように試みにあわれたので、あなたのことを十分思いやることができるだけでなく、あなたに代わって神にとりなしをすることがおできになるのです。

 

 Ⅱ.人々を思いやることができる者(2-3)

 

 大祭司になるための第二の条件は、人々を思いやることができるということです。2節と3節をご覧ください。

「彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。そしてまた、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のためのささげ物をしなければなりません」

 

 大祭司は、自分自身も弱さをまとっています。決して完全なわけではありません。もう絶対に罪を犯さない者になったというわけではないのです。しかし、そのような弱さを身にまとっているからこそ、そうした弱さのゆえに、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。

 

 この無知で迷っている人々とは誰のことでしょうか。それはイエスを知らない人々のこと、つまり、ノンクリスチャンたちのことを指しています。なぜなら、ローマ1章21節に、「それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。」とあるからです。神を神としてあがめることをしないと、不平や不満で満たされるので、だんだん暗くなっていきます。感謝することができません。これが神を知らない人たちの特徴です。

 

それは、救われる前の私たちの姿でもあります。私たちもみな、かつては罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。15,16,17と、私の人生暗かった・・・のです。どうすりゃいいのかわからない、夢は夜開く・・でした。だからこそ、そうした人の気持ちをよく理解することができるのです。

 

ところで、この「思いやる」という言葉ですが、これは単に「相手の身になって思いやる」ということだけでなく、相手の怒りなどの激しい感情をやわらげるという意味で使われています。詳訳聖書といってもう少し詳しく訳された聖書があるのですが、それによると、「やさしく(忍耐深く)取り扱う」と訳されています。つまり大祭司は、まだイエスを知らない人たちの激しい怒りの感情をやわらげて、彼らを柔和に取り扱うことが求められているのです。ノンクリスチャンに対して激怒したり、ブチ切れてはいけません。むしろ、柔和で、穏やかな心で、やさしく、忍耐深くなければならないのです。それは自分自身も弱さをまとっているからです。自分自身も弱さをまとっているので、その弱さのゆえに、そのように無知で迷っている人々に対してもやさしく、忍耐強く接していかなければならないのです。

 

しかし、それは無知で迷っている人々に対してだけでなく、クリスチャンに対しても言えることです。ガラテヤ6章1~4節にはこうあります。

「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。」

 

 これはクリスチャンに宛てて言われていることです。兄弟たちよ、もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなければなりません。私たちは教会の中に肉的な人がいるとついついさばきたくなる傾向があります。しかしそうではなく、柔和な心でその人を正してあげなければなりません。なぜなら、自分自身にも弱さがあるからです。そのようにさばきたくなるのは、その人がある一つの事実を見失っているからなのです。すなわち、自分自身も弱さをまとっているということです。自分自身もその人と何ら変わらない弱い人間であるという自覚です。自分も同じような境遇に置かれていたら、きっと同じようなことをしたに違いないと思うと、そのように人をさばくことなんてできなくなるはずです。むしろ、柔和な心でその人を正してあげるようになるでしょう。

 

 実は、私は昨日から入院しておりまして、きょうは病院から外泊許可をいただいてここに立っています。以前から懸念されていた胆石の治療で、この正月の時期は一番時間的に余裕があると思い、明日、手術を受けることになっています。結婚して32年間一度も入院したことがなく、周囲からはいかにも元気そうに見られている私が入院することは、少し恥ずかしいこともあってあまり人には言いたくないと思っていたのですが、実際に入院してみてわかったことは、自分の本当に弱い人間なんだなぁということです。そういう弱さを抱えているということです。このように病気になって入院してみて、病気で苦しんでいる人たちの気持ちがよく理解できるようになったような気がします。それは霊的にも同じで、私たちは決して完全な者ではなく、自分自身も弱さを身にまとっているので、同じような弱さを持っている人々を思いやることができるのです。神の祭司としてその務めを果たしていくために、私たちいつもこのような謙虚な気持ちを忘れない者でありたいと思います。

 

  Ⅲ.神に召された者(4)

 

 大祭司であるための第三の条件は、神に召された者であるということです。4節をご覧ください。

「まただれでも、この名誉は自分で得るのではなく、アロンのように神に召されて受けるのです。」

 

イスラエルの最初の大祭司アロンは、自己推薦をして大祭司になったのではありません。また、自分でなりたくてなったのでもないのです。神がアロンを選び、彼を任命したのです。そうです、大祭司は神によって任命された人しかなることはできないのです。同様に、私たちが祭司として立てられたのも私たちがそうしたいからではなく、神によってそのように召されたからなのです。私たちが救われたのは、ただ神の恵みによるのです。教会に来ていれば自動的に救われるのかというとそうではなく、神が聖霊を通してその人に働いてくださり、その人が受け入れることができるようにと心を開かせてくださったので信じることができたのです。自分で信じようとがんばったから信じることができたわけではないのです。救いは神の一方的な恵みによるのです。それが私たちの救いないのです。イエスさまはこう言われました。

 

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ15:16)

 

あなたがたがイエス様を選んだのではありません。イエス様があなたがたを選び、任命したのです。それはあなたがたが行って、実を結び、そのあなたがたの実が残るためです。私たちは、永遠の神のご計画によって救われるようにと、神によって召された者なのです。そのようにして神の祭司となったのです。

 

私はよく、「牧師として一番大切だと思うことは何ですか」と聞かれることがありますが、そのとき迷わず答えることは、それは「召し」であるということです。召しといっても食べる飯ではありません。そのように選ばれた者であるということ、そのように召された者であるということです。

それが牧師としての自分の働きを根底から支えているものです。そうでなかったら、どうやって続けることができるでしょうか。できません。自分もそうですが、多くの牧師が悩むことは、自分は牧師には向いていないのではないかということです。でも自分が牧師に向いているかどうなんて関係ないのです。大切なのは、そのように召されているかどうかであって、そのように召されているのであれば、召してくださった方に対して忠実に仕えて行くこと、それが求められているのではないでしょうか。

 

それは牧師に限らず、すべてのクリスチャンに言えることです。あなたがそうなりたいかなりたくないかと関係なく、主がそのようにて召してくださいました。であれば、その召してくださった方に対して忠実に仕えていくことが求められているのではないでしょうか。

 

さて、これまで大祭司の条件について見てきましたが、最後に、この大祭司とはいったいだれのことを指しているのかを考えていみたいと思います。Ⅰペテロ2章9節をご覧ください。ここには、「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」とあります。ここには、私たちクリスチャンはみな神の祭司であると言われています。それは、私たちを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、私たちが宣べ伝えるためです。私たちにはそのような務めがゆだねられているのです。私たちは神の祭司として人々のために祈り、とりなしていかなければなりません。まだ救われていない人たちを、神へのいけにえとしてささげていかなければならないのです。そのような者として、私たちは人々の中から選ばれ、無知な迷っている人々を十分に思いやり、神によってこの務めに任じられているという自覚をもって、この務めを全うさせていただきたいと願うものであります。この務めを全うする神の祭司である私たちの上に、神の助けと励ましが豊かにありますように。