Ⅱペテロ2章1~9節 「偽教師たちに気をつけなさい」

きょうは、「偽教師たちに気をつけなさい」というタイトルでお話しします。この手紙は第一の手紙と同様、キリストの弟子であったペテロから、迫害によって小アジヤに散らされていたクリスチャンたちに書き送られた手紙です。これは、彼の生涯における最後の手紙となりました。第一の手紙では、教会の外側からの迫害があっても神の恵み覚え、その恵みの中にしっかりと立っているようにと勧めましたが、この第二の手紙では、そうした教会の外側からの問題だけでなく教会の内側からの問題、すなわち、教会の中に忍び込んでいた偽教師たちに惑わされないようにと警告しています。

 

Ⅰ.偽教師たちが現われる(1a)

 

まず1節をご覧ください。

「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。」

 

「しかし」というのは、この前で語られてきたことの関わりを示しています。それと比較してどうかということです。この前で語られていたことは、預言とはどのようなものであるかということです。つまり、預言とは決して人間の考えや意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったものであるということです。彼らは自分の考えを語ったのではありません。聖霊に動かされて、神からのことばを語りました。神がこのように語りなさいと言われたことを、そのまま語ったのです。それは神から出たものであり、それゆえに、彼らは神のことばを語ったのです。これが神の預言です。

 

「しかし」です。しかし、それに対してそうでない預言者もいました。彼らは神のことばを語っているようでも、実際には神のことばではなく自分の考えを語っていました。神のことばを語っていれば必ずしもそれが本物だとは限りません。それは今に始ったことではなく、ずっと昔から、旧約の時代からイスラエルの中に出ていました。

 

たとえば、エレミヤ書28章にはハナヌヤという預言者が出てきますが、彼はこの偽預言者でした。神が廃ってもいないのに、あたかも神が語っているかのように語ったのです。彼は祭司たちとすべての民の前で、「イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。」と言って、二年のうちに、万軍の主が、バビロンの王のくびきを砕き、ユダのすべての捕囚の民をエルサレムに帰らせる、と預言しました。そしてエレミヤの首にかけてあった木のかせを取り除くと預言したのです。この木のかせというのは、神のわざわいと呪いの象徴です。イスラエルの民は神に背き、自分勝手な道に歩んだので、自らにそのわざわいと受けることになりましたが、その打ち砕くと言ったのです。大体、偽預言者は悪いことはいいません。その人にとって受け入れられることしかいいません。そうでないと去って行かれますから。

 

しかし、その時、エレミヤに次のような主のことばがありました。

「行って、ハナヌヤに次のように言え。「主はこう仰せられる。あなたは木のかせを砕いたが、その代わりに、鉄のかせをつくることになる。まことに、イスラエルの神は、万軍の主は、こう仰せられる。わたしは鉄のくびきをこれらすべての国の首にはめて、バビロンの王ネブカデネザルに仕えさせる。それで彼らは彼に仕える。野の獣まで、わたしは彼に与えた。」(エレミヤ28:13-14)

どういうことかというと、神は木のかせを砕くどころかもっと強力な鉄のかせをはめるというのです。ハナヌヤは、イスラエルの民にとって聞こえがいいように神の平安を預言しましたが、神のみこころは、むしろイスラエルが悔い改めることだったのです。それなのにハナヌヤは神のことばではなく、自分の考えを語りました。なぜでしょうか。人に気に入られたかったからです。イスラエルの民に聞こえがいいことを語りたかった。神のことばを語る者にとって、こうした誘惑はいつでも起こるものです。しかし、神の預言者は自分の考えを語るのではなく、神からのことばを語らなければなりません。

 

そのハナヌヤに対して、エレミヤは言いました。

「ハナヌヤ。聞きなさい。主はあなたを遣わさなかった。あなたはこの民を偽りに拠り頼ませた。それゆえ、主はこう仰せられる。「見よ。わたしはあなたを地の表から追い出す。ことし、あなたは死ぬ。主への反逆をそそのかしたからだ。」(エレミヤ28:15-16)

 

そのことばのとおり、ハナヌヤはその年の第七の月に死にました。恐ろしいですね。神が語っていないのにあたかも語ったかのように言うとしたら、神はそのような偽りの預言者を厳しく罰せられるのです。なぜなら、そのように語ることで自らに滅びを招くだけでなく、それに聞き従う人たちをも滅びに導くことになるからです。ですから、神のことばを語るということはとても重いことなのです。神のことばを語る者として襟を正される思いです。

 

しかし、本物の預言者は自分の考えではなく、神からのことばを語ります。たとえそれが人に気に入られなくても、それを聞いている人にとって聞き触りがよくなくとも、神のことばとして語るのです。なぜなら、それは1:19にあるように、暗やみを照らす確かなともしびだからです。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩篇119:105)

神のことばは私たちを正しい道に導きます。なぜなら、神のことばは、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。だからどんなに気に入られなくても、どんなに聞き触りがよくなくても、神のことばに目を留めていなければなりません。そうでないと惑わされてしまうことになってしまいます。

 

ここでペテロは、イスラエルにそうしたにせ預言者が出たように、あなたがたの中にも、偽教師が現われると警告しています。そういう教師がペテロの時代もいました。これからも出てきます。それはいつの時代でも起こることなのです。イエス様もこのような偽教師が現われることを予め語っておられました。マタイ7:15をご覧ください。ここには、「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。」(マタイ7:15)とあります。

こうした偽教師は、あのグリムの童話にある「狼と七匹の子山羊」のように、羊のなりをしてやって来ても、その中身は貪欲な狼です。いくらチョークの粉を食べてお母さんのような声を出しても、いくら小麦粉を足に塗って真っ白くしても、内側は貪欲な狼なのです。ドアの隙間から白い足を見て油断して戸開けると、呑み込まれてしまうことになります。

 

パウロも同じように警告しました。使徒20:29です。パウロはエペソの長老たちに告別の説教した時、その中で次のように言いました。

「私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。あなたがたの中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。ですから、目を覚ましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりに訓戒し続けてきたことを、思い出してください。」(使徒20:29-31)

ここでは、そうした狂暴な狼が外から入り込んで来るというだけでなく、内側からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こると言っています。だから、目を覚ましていなさい、と警告したのです。

 

そして、ペテロも警告しています。イスラエルの中にそうした偽預言者が出ました。そして今、あなたがたの中にも偽教師がいます。これからも出てきます。彼らはいろいろな曲がったことを語ってはあなたがたを惑わそうとしますが、そういう者たちには気をつけなさいと、警告していたのです。

 

最近、預言カフェに行ったという人の話を聞きました。預言カフェとは、お茶を飲みながら神様の預言を伝えてもらえるという変わったコンセプトになっています。1杯数百円のコーヒーを頼めば、だれでも預言が聞けるというのです。コーヒーを飲んでいるところに預言者だという女性が現われて一方的に神のことばを語るのです。たとえば、「あなたが大きな夢を抱いて、それに向かっていることを(神は)知っていて、応援しますと言っています。

ただ、いま目の前にあることを、たまたまこれを知ったから、やろうと決めたから「やらなくちゃ」とがむしゃらになっている。でもそれは結果が出るまでに半年1年と時間がかかりそうな事。やめるというのではなく、今「これしかない」と思っていることをいったん横に置いて、少しそのことばかり考えているのを離れて、やりやすいことから2つ3つ始めてみる。

それから、「これがいいんじゃないか」と、自分の考えだけで必死に進んでるんだけど、そうじゃなくて説明書を手に入れる。やり方を分かっている人に話を聞いて、やり方を理解した上で取り組んだほうがいい。その出会いがあるように、私はサポートしていきますよ(と神は言っています)」

といった具合にです。

その時自分が悩んでいることや迷っていることにピッタリあてはまることを言ってくれるので、とても癒されるというか、ホッとするのです。しかも、「と神はいっています」というので、本当に神が言っておられるのではないかと錯覚してしまうのです。

 

危ないです。それはここでペテロが警告していることです。神が言ってもいないのに、神の名を使ってあたかも神が語ったかのように思わせるのは、昔も今も変わらない偽預言者の常套手段です。そういう偽りの預言、偽りの教えに惑わされないように気を付けなければなりません。

 

Ⅱ.偽教師たちの特徴(1b-3a)

 

いったいどうしたらいいのでしょうか。そのような偽教師の教えに惑わされないためには、そうした偽教師たちがどのような者なのか、その特徴を知らなければなりません。ペテロはここで、偽教師たちの三つの特徴を取り上げています。1節後半から3節の前半までをご覧ください。

まず第一に、彼らは滅びをもたらす異端をひそかに持ち込むということです。1節の後半に、「彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかに滅びを招いています。」とあります。

 

「異端」とは「誤った教え」とか「偽りの教え」という意味です。キリスト教を名乗ってはいても、実質は違うことを教えます。聖書の教えではなく、聖書の教えを利用して自分の考えを語るのです。彼らの関心は神ではなく、この地上のことだけです。そして、自分を買い取ってくださった主を否定するようなことさえするのです。「買い取る」とは贖いのことを指します。その贖いを否定するのですから、救いを失ってしまうことになります。この異端の最大の特徴は、自分を贖って下さった主を否定するということです。そしてキリストを知らない、贖い主を知らないという事は罪が残るということなので、永遠の滅びに至ることになってしまいます。何年も教会に行き続けたのに、こうした異端に惑わされてしまうことになったら本当に悲しいことです。

 

2004年に「ダ・ヴィンチ・コード」(The Da Vinci Code)という本が出版されました。2006年には映画にもなりましたが、これは、イエス・キリストが、マグダラのマリヤと結婚したという想定のもと、イエスの死後、マリヤは子供たちを連れて逃れ、やがて古代の異教の信仰の聖なる女性のシンボルになったというものです。これを書いたダン・ブラウンは、この本に出てくる芸術作品、建築、資料、謎の儀式がみな正確なものであるかのように思わせ信じさせようとしていますが、これらはフィクションです。それなのに、この本が世界的な旋風を巻き起こしたのは、悲しいことに、神のみことばに対して無知な人が少なくなく、更に悪いことに、神の言葉を信じないでそれに従わない言い訳を必死に探している人が多いからなのです。

 

このような教えが、教会の中に広がって来ています。それはこれからもっと広がって行くでしょう。「キリストはインチキだった」とか、「十字架の贖い、復活などはあり得ない」などと、まさに「自分たちを買い取ってくださった主を否定」するようなことを言って、人々を滅びへと導くのです。

 

しかも悪いことに、彼らはそれをひそかに持ち込みます。「私は偽預言者です。これはあくまでも私の考えですが、私はあまり聖書に関心はないんです。私の関心はあくまでも皆さんの悩みを聞いて、皆さんを励ますことです。天国とか地獄とか、そんなことはどうでもいいんです。」なんて言うのであればすぐに「あっ、あれは偽教師だ」とわかるのですが、聖書のことばを用いて神はこう仰せられるというので、それを見分けるのが難しいのです。

 

冬が近くなる頃、いつも福島の教会の姉妹がりんごを送ってくださいますが、何年か前に届かない時がありました。というか、時期的に少し早かったんですね。家内からアップルパイを作るからりんごを買って来て、と頼まれたので、近くのスーパーで4個で498円のリンゴを買いました。それは青森産の真っ赤なりんごで、とても美味しそうでした。ところがそれをケーキに入れようと切ってみたところ、その内の1個が腐っていたのです。どうするのかなぁと思って見ていたら、腐ったところを取り除いて使える部分だけを使ってアップルパイを作りました。どれがいいりんごなのは切ってみないとわかりません。表面的にはどれも真っ赤で美味しそうに見えても、切ってみると中にはこのようなものが入りこんでいることがあるのです。

後日、スーパーに言って、「すみません。この前買ったりんごですが、中に腐ったものがありました」というと、スーパーのご主人が、「そうでしたか、それは大変申し訳ないことをしました。確かにりんごは外からは見分けが付かないので、そういうものが入り込んでいることがわからないんですよ。すぐに新しいものとお取替えします」と言って、1個おまけに2個くださいました。

 

異端も同じです。切ってみるまでわかりません。表面的には同じように見えても、切ってみるまではそれがどのようなものなのかわからないのです。彼らは滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、あたかもそれが正しい教えであるかのように見せかけますが、中身は自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招くようなことをするのです。だから、そうした偽りの教えに騙されることがないように注意し、いつも本物に触れていることが大切です。聖書をよく学び、聖書の正しい教えを持っていることが必要なのです。

 

偽教師を見分ける第二の方法は、それを教える者がどういう者であるかをよく見ることです。2節をご覧ください。ここには、「そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道からそしりを受けるのです。」とあります。どういうことでしょうか。何が正しい教えであり、何が間違った教えなのかを見分けることは困難ですが、それでも、それを見分ける方法があるというのです。それは何でしょうか?それを教えている者がどういう者であるかをよく見ることです。ここには、「多くの者が彼らの好色にならい」とあります。どんなに正しい教えをしているようでも、それを教えている人が道徳的に堕落しているとしたら、それは偽物だと判断することができます。

 

イエス様は、マタイ12:33~35でこう言われました。

「木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木のよしあしはその実によって知られるからです。まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。」

木の善し悪しは、その実によって知られます。もし木がよければよい実を結びますが、悪ければ悪い実を結びます。どんなに正しいことを言っていても、もし悪い実を結んでいるのであれば、それは悪い木であると判断することができるのです。

 

パウロは、エペソ4:19で、「道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行いをむさぼるようになっています。」と言っています。それは神のいのちから遠く離れているため、道徳的に無感覚となっているからです。であれば、結果的に、そのような者から出てくる行いも肉的なものとなります。

 

ペテロは、第一の手紙の中で、「あなたがたは、異邦人がしたいと思っていることを行い、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像崇拝にふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。」(Ⅰペテロ4:3)と言っています。もう十分なのです。それは神を知らない人たちがふけっていたものであって、神を知った今、キリストによって罪が贖われた人には、そのような行いは必要ありません。もう十分なのです。イエス・キリストを信じて新しい者にされたのですから、そういう人は、昼間らしい、正しい生き方をしようと努めるのです。

 

それなのに、こうした生活を続け、彼らの好色にならうなら、真理の道がそしられることになります。どういうことでしょうか?それは、不信者から、「だからキリスト教は変なんだよな」とか「そこが違うよ、キリスト教!」と言われるようになるということです。つまり、全く証になりません。そして、人々が真理から離れて行ってしまうことになるのです。ここには「多くの者が」とあります。怖いですね、多くの者がそのようになるのです。そういえばイエス様もそのように言われました。

「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見い出す者はまれです。」(マタイ7:13-14)

そこから入って行く者が多いのです。そことはどこですか?広い門です。滅びの門です。そこから入って行く者が多いのです。しかし、いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見出す者はまれです。そこから入って行かないように注意しましょう。

 

偽教師の特徴の第三は、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にするということです。3節の前半をご覧ください。

「また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。」

彼らは貪欲です。貪欲であるとは、今持っているもので満足できず、もっと欲しいとむさぼるということです。

 

以前、日本人の意識調査の中で、色々な収入のレベルの人たちに、それぞれ収入に関するアンケートを行ったところ、おもしろい結果が出ました。調査に応じたすべての収入のレベルの人が、「今よりも、もっとほしい」と回答したのです。人間の欲望は止まるところを知らないということです。どんなに持っていても、「もう少しほしい」という思いがあるのです。

 

これは生まれながらの人間の性質です。生まれながらの人間はどんなに物があっても満足することができません。もっと欲しいとむさぼるのです。特にお金や持ち物に対して貪欲です。だから聖書はこう言っているのです。

「衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分たちを刺し通しました。」(Ⅰテモテ6:8-10)

 

金銭自体が問題なのではありません。金銭を愛することが問題なのです。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。これは、働き人が報酬を受けることを言っているのではありません。働き人が報酬を受けるのは当然だと、聖書にはっきり教えられています(Ⅰテモテ5:17-18)。ここで言われていることはお金そのものが目的となることであり、貪欲であることです。そしてそのために作り事のことばをもって人々を食い物にすることです。彼らはお金集めを目的として人々が聞きたいことだけを語るのです。

 

「作り事のことば」とは、インチキであるということです。だれかれかまわず、このようなインチキに引っかからせようとしてやって来ます。「食い物にします」の原語の意味は、「商品として売り買いする」です。ですから、ここにも贖いという概念が含まれているのです。このインチキに引っかかると、私たちの罪がせっかく贖われたのに食い物にされてしまいますから、そういうことがないようによくよく注意し、見極めるようにしなければなりません。

 

Ⅲ.偽教師たちへのさばき(3b)

 

それでは、こうした預言者はどのようになるのでしょうか。第三に、その結果です。3節後半をご覧ください。

「彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行われており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。」

 

偽教師は、今は繁栄しているように見えても必ず滅びに至り、さばかれることになります。どのようにさばかれるのでしょうか。ペテロはここで、昔行われたいくつかの例をあげて説明しています。

一つ目の例は、罪を犯した御使いたちに対するさばきです。4節をご覧ください。

「神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。」

これは天使たちの堕落と、彼に対するさばきです。イザヤ書14:12~15には、堕落した天使に対する神のさばきが次のようにあります。

「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。」

これが悪の起源とされています。いったい悪魔はどこから来たのでしょうか。神が造られたものはすべて良いものばかりだったのであれば、いったいどこから悪が来たのでしようか。ここです。この「明けの明星」とはヘブル語で「ヘーレル」、ラテン語で「ルシファー」です。意味は「輝く者」です。ですから、この明けの明星とは輝く天使でした。天使たちの最高位に位置していた天使長、それがルシファーです。このルシファーが堕落しました。心の中で、「私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。」と言って神に反逆したのです。それで神は彼をよみに落とし、穴の底に落としました。それが悪魔、サタンとなったのです。神さまが造られたものはすべて良かったのですが、神は天使を人間と同じように自由意志を持つものとして造られました。そして、ルシファーは何を血迷ったのか天に上り、いと高き方のようになろうと高ぶってしまいました。それで神はこの天使をさばき、よみに落とされたのです。どんなに輝いていても、どんなに繁栄していても、神に背く者は、このようにさばかれるのです。

 

二つ目の例は、ノアの時代の不敬虔な世界に対するさばきです。5節をご覧ください。ここには、「また、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち八人の者を保護し、不敬虔な世界に洪水を起こされました。」とあります。

ノアの時代、人々の心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾いていました。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められました。そして、人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまですべて、地の面から消し去ろうと言われました。40日40夜雨を降らせ、不敬虔な世界を洪水で滅ぼされたのです。しかし、神とともに歩んだノアとその家族を保護し、箱舟によって救われました。ノアは人々に、もうすぐ洪水が来るから、あなたがたも悔い改めて箱舟の中に入りなさいと警告しましたが、その言葉を受け入れる人はだれもいませんでした。結局、ノアとその家族以外はすべて神に滅ぼされてしまいました。

 

三つ目の例は、ソドムとゴモラに対する神のさばきです。6節から9節までをご覧ください。

「また、ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、以後の不敬虔な者へのみせしめとされました。また、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。これらのことでわかるように、主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。」

ソドムとゴモラは、アブラハムの甥のロトが住んでいた町です。そこは主の園のように潤っていたので、ロトはアブラハムと別れて住むようになった時その地に住むことを選択しました。しかし、そこに住んでいたの人々はよこしまな者で、主に対して非常な罪人でした。ここに「無節操な者たちの好色なふるまい」とありますが、いわゆるホモセクシュアル、同性愛が堂々と行なわれていたのです。ロトの家に来た二人の御使いに対して、その町の住人は、「彼らをよく知りたいのだ」とロトに詰め寄りました。神はそうしたソドムとゴモラを火と硫黄で滅ぼし、それ以後の不敬虔な者たちへのみせしめとされたのです。

 

しかし、ロトはというと、そうした神のさばきから救われました。なぜなら、ここに「義人ロト」とあるように、彼はそうしたソドムの近くに住みながらも、心が神から離れなかったからです。というのは、ロトは彼らの間に住んでいましたが、不法な行いを見たり聞いたりしても、それに流されることなく、日々その正しい心を痛めていたからです。

 

私たちも今、ある意味でソドムのような町に住んでいます。しかし、そうした不法な行いを見たり、聞いたりして、日々心を痛め、神から離れることがなければ、ロトのように神のさばきから救い出されます。なぜなら、神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられるからです。そして、そのために神はご自身のひとり子を与えてくださいました。それが救い主イエス・キリストです。この方によって救われるようにと、神は救いの道を用意してくださいました。それが十字架の贖いでした。そこには大きな犠牲が伴いましたが神はそれほどまでに私たちを愛してくださり、私たちの罪の贖いを成し遂げてくださいました。これほど大きな恵みが他にあるでしょうか。ですから、この神の恵みを無駄にすることがないように注意すべきです。もしそのようにして滅びに向かわせることがあったら、神はきびしくさばかれるのです。

 

偽預言者が出ることは避けられません。でも、惑わされないように注意しなければなりません。偽預言者たち、偽教師たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとします。彼らはひそかに異端を持ち込むのでなかなか見分けができないのです。しかし、彼らの最後は滅びです。彼らはいのちに導くのではなく、滅びをもたらします。だから、気をつけてください。あなたがたの中にも偽教師が現われます。世の終わりが近くなると、ますますこうした傾向が強くなります。ですから、惑わされないように注意しましょう。彼らが言っていることをよく聞いてください。彼らは、神は言っていると言いながら、自分の考えを言っていませんか。自分のことを言い当てることに不思議な力を感じていませんか。貪欲に、作り事のことばをもって、あなたを食い物にしていませんか。惑わされないようにしましょう。真理のみことばである聖書に堅くたって、動かされないようにしましょう。この真理のみことばが、あなたを救いへと導いてくれるからです。

 

 

 

 

ヨシュア記19章

きょうはヨシュア記19章から学びたいと思います。

 

Ⅰ.シメオン部族の相続地(1-9)

 

まず1節から9節までをご覧ください。

「第二番目のくじは、シメオン、すなわちシメオン部族の諸氏族に当たった。彼らの相続地は、ユダ族の相続地の中にあった。彼らの相続地は、ベエル・シェバ、シェバ、モラダ、ハツァル・シュアル、バラ、エツェム、エルトラデ、ベトル、ホルマ、ツィケラグ、ベテ・マルカボテ、ハツァル・スサ、ベテ・レバオテ、シャルヘンで、十三の町と、それらに属する村々。アイン、リモン、エテル、アシャン。四つの町と、それらに属する村々。および、これらの町々の周囲にあって、バアラテ・ベエル、南のラマまでのすべての村々であった。これがシメオン部族の諸氏族の相続地であった。シメオン族の相続地は、ユダ族の割り当て地から取られた。それは、ユダ族の割り当て地が彼らには広すぎたので、シメオン族は彼らの相続地の中に割り当て地を持ったのである。」

 

まだ自分たちの相続地が割り当てられていなかった七つの部族に対してヨシュアは、「あなたがたはいつまで先延ばしているのか。」(18:3)と叱咤激励し、彼らが具体的な行動を起こすことができるように部族ごとに三人の者を選び出し、その地を行き巡るように彼らを送り出し、具体的に相続地のことを書き記させることによってその重い腰を起こさせ、行動へと駆り立てました。何よりも彼らには全能の神がともにおられました。そのことを思い起こさせるためにそれまでギルガルにあった会見の天幕をカナンの地の真ん中、シロに移しました。そして、その最初のくじがベニヤミン族に当たり、その割り当て地が彼らに与えられました。

 

この19章には残りの六つの部族に対する相続地が割り当てについて記されてあります。まずシメオン部族に対する相続地の分配です。シメオン族に対する相続地の分配で特筆すべきことは、彼らの相続地はユダ族の割り当て地から取られたということです。いわばユダ族から借用したかのような形で割り当てられたのです。9節にはその理由がこのように記されてあります。「それは、ユダ族の割り当て地が彼らには広すぎたので、シメオン族は彼らの相続地の中に割り当て地を持ったのである。」どういうことでしょうか。ユダ族には広すぎたのでシメオン族には借地しか与えられなかったというのは理解ができません。

 

二つのことが考えられます。一つは、シメオン族は相続地が与えられても、それを勝ち取っていくだけの気力というか、気概がなかったのではないかということです。以前にも述べたように、イスラエルの各部族は相続地が与えられたとは言っても、その地には先住民がいたわけですから、それを自分たちの領土にするためにはそうした先住民と戦い、勝ち取らなければなりませんでした。けれども、シメオン族は臆病であったがためにそのような戦いを回避したので、結局、ユダ族の領土を間借りするようなことになってしまったのではないかということです。

 

もう一つのことは、シメオン族は極めて激情的な性格であったがゆえに神の祝福に与ることができず、それ故に領土も与えられなかったということです。

シメオン族の始祖シメオンについては、創世記34章にある一つの出来事が記されてあります。それは妹ディナがその土地の族長ヒビ人ハモルの子シェケムに汚された時、シェケムだけでなく、その一族郎党全員を虐殺したという出来事です。ヒビ人たちはディナに行った行為を大変後悔し、自分たちはシメオンと同じヤハウェの神を信じてもよいと申し出たにもかかわらず、彼らが割礼を受けてその傷が痛んでいるとき、レビと一緒に剣ですべての男子を殺しました。彼らは妹ディナを遊女のように扱ったヒビ人を決して赦すことができなかったのです。

 

その出来事は後々までも尾を引き、創世記49:5~7には、ヤコブはシメオンの将来について次のように預言しました。

「シメオンとレビとは兄弟、彼らの剣は暴虐の道具。わがたましいよ。彼らの仲間に加わるな。わが心よ。彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りにまかせて人を殺し、ほしいままに牛の足の筋を切ったから。のろわれよ。彼らの激しい怒りと、彼らのはなはだしい憤りとは。私は彼らをヤコブの中で分け、イスラエルの中に散らそう。」

これはヤコブの預言的遺言ですが、これによるとシメオンとレビはその激しい性格のゆえに呪われるということでした。しかしレビ族は、やがてイスラエルの民が金の子牛を作って礼拝するという罪を犯したとき、兄弟に逆らっても主に身をささげたことで、その呪いから外されることになります。(出エジプト32:25-29)しかしシメオン族は、あのヤコブの預言のごとく呪われていくことになるのです。怒りや憤りを抑えることができないと、災いや呪いをもたらすことになるのです。

 

詩篇37:8-9には、「主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。悪を行なう者は断ち切られる。しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。」とあります。

またヤコブ書1:19-20にも、「愛する兄弟たち。 あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るには おそく、怒るにはおそいようにしなさい。人の怒りは、神の義を実現するものでは ありません。」とあります。

人の怒りは、神の義を実現するものではありません。それは大きな損失をもたらすことになります。ですから、私たちはキリストの十字架の道を思い起こし、聖霊の助けをいただいて、怒りを制御することを学ばなければなりません。

 

Ⅱ.ゼブルン部族への相続地(10-16)

 

次に10節から16節までをご覧ください。

「第三番目のくじは、ゼブルン族の諸氏族のために引かれた。彼らの相続地となる地域はサリデに及び、その境界線は、西のほう、マルアラに上り、ダベシェテに達し、ヨクネアムの東にある川に達した。また、サリデのほう、東のほう日の上る方に戻り、キスロテ・タボルの地境に至り、ダベラテに出て、ヤフィアに上る。そこから東のほう、ガテ・ヘフェルとエテ・カツィンに進み、ネアのほうに折れてリモンに出る。その境界線は、そこを北のほう、ハナトンに回り、その終わりはエフタ・エルの谷であった。そしてカタテ、ナハラル、シムロン、イデアラ、ベツレヘムなど十二の町と、それらに属する村々であった。これは、ゼブルン族の諸氏族の相続地で、その町々と、それらに属する村々であった。」

 

ここにはゼブルン族への相続地について記されてあります。ゼブルン族が獲得した地域は、巻末の地図をご覧いただくとわかりますが、マナセ族の北にありますが、彼らの獲得した地域は小さいながらも、ほぼ長方形をした肥沃な地でした。

ヤコブの預言的遺言では、「ゼブルンは海辺に住み、その側面はシドンにまで至る。」(創世記49:13)とありますが、実際に海辺に住んだのはアシェルであり、その側面もツロを越えることはありませんでした。神のみこころにかなう祈りのみが聞かれるということなのでしょうか。

 

このゼプルンについて、後にイザヤは、「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンとナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。」(イザヤ9:1)と預言しました。ここにはナザレという村があり、やがて救い主イエス・キリストが公に姿を現わされるまで、ここで成長していくことになります。そういう意味で、このゼブルンとナフタリの地は光栄を受けることになるのです。

 

「ゼブルン」は「ザーバル」というヘブル語に由来しますが、意味は「進む」です。それは彼らの性格をよく表していました。士師4章には、イスラエルがカナンの将軍ヤビンの将軍シセラとの天下分け目の戦いについて記されてありますが、この戦いにおいて極めて勇猛果敢に戦ったのがゼブルン族でした。イスラエル12部族の内の半分はこの戦いは勝ち目がないと思ったのか、兵を出しませんでしたが、残りの半分が兵を出し、その中でもこのゼブルン族の兵士は、死を恐れず、命を捨てて戦いました。このようにゼブルン族は極めて前向きで積極的な勇気ある部族だったのです。

 

これは私たちの人生にとっても大切なことです。生まれながらの人間は、そのまま放っておけば必然的に後ろ向きになり、否定的になっていきます。それほどに、私たちの周りには否定的で悲観的な事柄であふれているからです。新聞を読んでも、テレビを観ても、また周囲の人々が語る言葉を聞いても、積極的な言葉や前向きなことばよりも、否定的で後ろ向きな言葉で満ちています。ですから、そのままでいれば、自然に否定的になっていかざるを得ません。

 

しかし、神は私たちを罪から贖ってくださいました。私たちも「ゼブルン」のように、前に進んで行けるように、神が根本的な問題を取り除いてくださいました。異邦人のガリラヤも光栄を受けたのです。ですから私たちもゼブルンのように、信仰によって前に進んでいく者でなければなりません。

 

Ⅲ.イッサカル族への相続地(17-23)

 

次はイッサカル族への相続地です。17節から23節までをご覧ください。

「第四番目のくじは、イッサカル、すなわちイッサカル族の諸氏族に当たった。彼らの地域は、イズレエル、ケスロテ、シュネム、ハファライム、シオン、アナハラテ、ラビテ、キシュヨン、エベツ、レメテ、エン・ガニム、エン・ハダ、ベテ・パツェツ。その境界線は、タボルに達し、それからシャハツィマと、ベテ・シェメシュに向かい、その境界線の終わりはヨルダン川であった。十六の町と、それらに属する村々であった。これが、イッサカル部族の諸氏族の相続地で、その町々と、それらに属する村々であった。」

 

次はイッサカル族への相続地です。彼らに与えられた相続地は狭くはありましたが、ガリラヤ湖の南西部に位置するイズレエル平原と呼ばれる大きな平原の東部にありました。創世記49:14のヤコブの預言には、「イッサカルはたくましいろばで、彼は二つの鞍袋の間に伏す」(創世記49:14)とあります。この「二つの鞍袋」とは何かは難解なことばとされてきましたが、これが土地の相続についての預言だとすれば、イッサカルがマナセの二つの相続地に挟まれるような形で、この地を相続地として得るという預言だったのではないかと思われます。

 

この地は、古来重要な戦いの拠点でした。また、エジプトからレバノンに抜ける通商道路が通っていた重要な貿易の拠点でもありました。それゆえ、この地は狭くはあっても戦略的に見るならば極めて重要な場所であったと言えます。イッサカル族はこの領地を得たのです。それはイッサカル族が極めて謙遜であり、柔和であり、しかも忠実な部族であったからです。たとえば、それはイッサカル族の弟分にあたるゼブルンに対する態度を見てもわかります。ゼブルンは弟であるにもかかわらず、イッサカルに優先して相続地の割り当てを受けましたが、イッサカルはそのことで怒ったりせず、その優先権を弟に渡しました。なぜなら、ゼブルンの性格を知っていたからです。ゼブルンは前向きで積極的であり、リーダーへシップがあることを認めたのです。しかも、そのことですねたりせずに、弟ゼブルンを愛し、互いの共通の聖所を自分の領土のタボル山に建てました。こうした彼らの冷静で、慎重で、柔和で、謙遜、そして忠実さのゆえに、こうした重要な地を受けることになったのです。

 

「イッサカル」ということばは、「神が恵みを示してくださるように」という意味です。霊性で、慎重で、謙遜で、忠実なところに、神は恵みを施してくださいます。私たちもこのイッサカル族のような者でありたいと願わされます。

 

Ⅳ.アシェル族への相続地(24-31)

 

次は、アシェル族への相続地です。24節から31節までをご覧ください。

「第五番目のくじは、アシェル部族の諸氏族に当たった。彼らの地域は、ヘルカテ、ハリ、ベテン、アクシャフ、アラメレク、アムアデ、ミシュアルで、西のほう、カルメルとシホル・リブナテに達する。また、日の上る方、ベテ・ダゴンに戻り、ゼブルンに達し、北のほう、エフタ・エルの谷、ベテ・ハエメク、ネイエルを経て、左のほう、カブルに出て、エブロン、レホブ、ハモン、カナを経て、大シドンに至る。その境界線は、ラマのほうに戻り、城壁のある町ツロに至る。またその境界線は、ホサのほうに戻り、その終わりは海であった。それに、マハレブ、アクジブ、アコ、アフェク、レホブなど、二十二の町と、それらに属する村々であった。これがアシェル部族の諸氏族の相続地で、その町々と、それらに属する村々であった。」

 

「アシェル」という名前の意味は、「幸い」です。そのことばのごとく、彼の始祖が父ヤコブから受けた遺言的預言では、「アシェルは、その食物が豊かになり、彼は王のごちそうを作りだす。」(創世記49:20)とあります。また、神の人モーセが、その死を前にして、イスラエル人を祝福した祝福のことばには、「アシェルは子らの中で、最も祝福されている。その兄弟たちに愛され、その足を、油の中に浸すようになれ。あなたのかんぬきが、鉄と青銅であり、あなたの力が、あなたの生きるかぎり続くように。」(申命記33:24-25)とあります。その預言のとおり、彼らは、イスラエルの北部に位置する地中海沿岸の平野で、極めて肥えた良い土地が与えられました。

 

しかし、士師記を見ると、必ずしもそうではなかったことがわかります。彼らは地中海沿岸沿いの平野部どころか、むしろ山間部に閉じ込められ、カナン人の圧迫に悩まされ続けながら、やがては歴史の中へ消えていくことになりました。なぜでしょうか。それは彼らの姿勢にありました。士師5:17を見ると、「アシェルは海辺にすわり、その波止場のそばに住んでいた。」とあります。すなわち、イスラエルとカナン人の連合軍の天下分け目の戦いにおいて、日和見的な態度でその兵を動かさなかったのです。あんなにすばらしい約束が与えられていたのに、その約束に対して力の限り応答せず優柔不断な態度であったため、その約束を受けることができなかったのです。

 

それは私たちにも言えることです。神は私たちに「幸い」を約束してくださいました。それなのに、主が成せと命じられたことに対して全力で応答していくのでなければ、それは成就することはないのです。

 

Ⅴ.ナフタリ族への相続地(32-39)

 

次にナフタリ族への相続地を観たいと思います。32節から39節までをご覧ください。

「第六番目のくじは、ナフタリ人、すなわちナフタリ族の諸氏族に当たった。彼らの地域は、ヘレフとツァアナニムの樫の木のところから、アダミ・ハネケブ、ヤブネエルを経てラクムまでで、終わりはヨルダン川であった。その境界線は、西のほう、アズノテ・タボルに戻り、そこからフコクに出る。南はゼブルンに達し、西はアシェルに達し、日の上る方はヨルダン川に達する。その城壁のある町々は、ツィディム、ツェル、ハマテ、ラカテ、キネレテ、アダマ、ラマ、ハツォル、ケデシュ、エデレイ、エン・ハツォル、イルオン、ミグダル・エル、ホレム、ベテ・アナテ、ベテ・シェメシュなど十九の町と、それらに属する村々であった。これが、ナフタリ部族の諸氏族の相続地で、その町々と、それらに属する村々であった。」

 

ナフタリ族はガリラヤ湖の南西の平野部が与えられました。その地は豊かに越えたと地でした。それはヤコブとモーセに与えられた預言の成就でもありました。創世記49:21には、「ナフタリは放たれた雌鹿で、美しく子鹿を産む。」とあります。この「美しく子鹿を産む」ということばは、欄外の注釈にもあるように、「美しいことばを出す」という意味です。どういう意味でしょうか。それは将来メシヤがこの地から出て美しいことばを出すということの預言でもありました。事実、そのことばのとおり主イエスはこのナフタリの地から宣教の第一歩を踏み出されました。マタイ4:12-17をご覧ください。

「ヨハネが捕えられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた。そしてナザレを去って、カペナウムに来て住まわれた。ゼブルンとナフタリとの境にある、湖のほとりの町である。これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、 「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。 暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」」

主イエスの宣教は、このナフタリとゼブルンの間にあったカペナウムから開始されました。ここから美しいことば、神の国の福音が宣教されたのです。

 

さらに申命記33:21には、「ナフタリについて言った。「ナフタリは恵みに満ち足り、主の祝福に満たされている。西と南を所有せよ。」とあります。ずばりナフタリの領土の豊かさが預言されていました。このようにモーセが語り、ヤコブが語ったごとく、ナフタリは極めて豊かで肥沃な土地を手にすることができました。しかしながら、やがてこのナフタリ族は多くの多民族からの侵略を受け、その影響の中で混合民族を形成していくことになります。そして、遂には「異邦人のガリラヤ」と他のユダヤ人から蔑視され、歴史の中からその姿を消していくことになるのです。

 

いったいなぜそのようになってしまったのでしょうか。士師1:33に、その理由が記されています。「ナフタリはベテ・シェメシュの住民やベテ・アナテの住民を追い払わなかった。そして、その土地に住むカナン人の中に住みついた。」すなわち、ナフタリ族は追い出すべきカナン人を追い出さなかったからです。「ナフタリ」ということばは、「争い」という意味です。彼らは戦いを大変好んでいた民族です。それなのに追い出しませんでした。それは、異教や偶像崇拝に対して曖昧な態度をとったからです。モーセの命令はカナン人を追い出すことでした。それはイスラエルの民が他の民族に対して、差別的で冷酷であったからではありません。それはイスラエル民が偶像と交わることから守られるためです。それなのに彼らは偶像に対して曖昧な態度をとることで、その命令を守られなかったのです。それゆえに、ここにあるようなナフタリの曖昧な態度は、信仰的には極めて悪いものでした。その結果、彼らは折角与えられた神の祝福を喪失し、滅びていくことになったのです。

 

私たちはこのナフタリがたどった運命を他山の石としなければなりません。特に、私たち日本のクリスチャンはナフタリを反面教師にすべきです。クリスチャンは他者に対して、寛容であることが望ましく、それは大切なことです。むやみに他者の弱さや罪を暴き立て、裁くようなことがあってはなりません。しかし、時としてこうした神の命令には曖昧な態度を捨て、毅然とした態度で臨まなければなれません。こうした曖昧な態度がもたらす弊害は、私たちが考えていること以上に大きなものがあるからです。

 

Ⅵ.ダン族への相続(40-48)

 

最後に、ダン族への相続地です。40節から48節までをご覧ください。

「第七番目のくじは、ダン部族の諸氏族に当たった。彼らの相続地となる地域は、ツォルア、エシュタオル、イル・シェメシュ、シャアラビン、アヤロン、イテラ、エロン、ティムナ、エクロン、エルテケ、ギベトン、バアラテ、エフデ、ベネ・ベラク、ガテ・リモン、メ・ハヤルコン、ラコン、およびヤフォの近くの地境であった。ダン族の地域は、さらに広げられた。ダン族は上って行き、レシェムと戦って、これを取り、剣の刃で打ち、これを占領して、そこに住み、彼らの先祖ダンの名にちなんで、レシェムをダンと呼んだ。これがダン部族の諸氏族の相続地で、その町々と、それらに属する村々であった。」

 

ダン族にはパレスチナ中部にある地中海沿岸の土地が与えられました。しかしそれだけでなく、47節を見ると、彼らは上って行き、レシェムと戦って、これを取り、剣の刃で打ち、これを占領して、そこに住み、彼らの先祖ダンの名にちなんで、レシェムをダンと呼んだ、とあります。与えられた地が狭かったので、さらに領土を広げるためにそこから北上し、パレスチナの最北端、ガリラヤ湖の北に当たる地を責めて、その所を勝ち取ったのです。最初は小さな領域でしたが、積極的に領地を広げようと前進して行ったのです。この記録から、ダン族というのは、実に積極的な部族であったことがわかります。創世記49章のヤコブの預言や、申命記33章のモーセの預言でも、ダン族が積極的な民であることが言及されています。

 

しかし、士師記5:17のデボラの歌を見ると、必ずしもそうでなかったことがわかります。そこには、「なぜダンは舟にとどまったのか」とあります。つまり、彼らは戦いに出て行かなかったのです。カナン人の連合軍との天下分け目の戦いにおいて、日和見的な態度をとったのです。とすると、ここに記されてあるダン族の勇敢な姿はどういうことなのでしょうか。

 

ここには、ダン族が上って行ったのは、さらに領土を広げるためであったかのように書かれてありますが、必ずしもそうではありませんでした。確かに彼らに与えられたのはパレスチナ中部の地中海沿岸の狭い土地でしたが、そこには強力なペリシテ人が住んでいたのです。そのためペリシテ人に圧迫されたダン族は、仕方なく北へ逃走し、誰も行こうとしないパレスチナの北の果てに住むようになったのです。そのことは士師記1:34を見るとわかります。そこには、「エモリ人はダン族を山地のほうに圧迫した。エモリ人は、彼らの谷に降りて来ることを許さなかった。」とあります。何とダン族は勇敢な民どころか、狭い自分の土地さえも守ることができませんでした。そして終われに追われて、遂にはパレスチナの最北端にまで逃れて行ったのです。そればかりか、彼らはパレスチナにはびこっていた偶像崇拝に陥り、堕落して、黙示録7章にある終末の回復のリストからも外されていったのです。いったいこれはどういうことでしょうか。片や勇猛果敢な姿が描かれ、片や弱くて臆病な姿が描かれているのです。どちらが本当のダンの姿なのでしょうか。どちらも本当のダン族の姿でした。

 

このようなことは、私たちの中にもあるのではないでしょうか。ある時には信仰が強められ、自分でも信じられないくらい神の力に満ち溢れたかと思うと、次の瞬間には周りの状況をなかなか受け入れられず、極端に弱くなってしまうことがあります。あの神の預言者エリヤでさえ、バアルとアシェラの預言者と戦い神の圧倒的な力によって勝利したかと思ったら、次の瞬間にはイゼベルのことばに恐れ、「神さま、どうか私のいのちを取ってください。」というほど弱くなりました。そうした二面性が、私たちの中にあります。だったら、いつも信仰によって勇敢であるにはどうしたらいいのでしょうか。

 

それは神とともに歩むことです。いつも聖霊に満たされて、神の力を頂くことです。あのサムソンはどうでしたか。彼の力の源は長く伸びた髪の毛でした。ナジル人として生まれた彼は、生涯、頭にかみそりをあてませんでした。それは神の霊が彼とともにおられることを表していました。しかし、デリラによってその秘密を洩らすと彼の髪の毛はさっと切り落とされ、神の力が彼から去って行きました。

 

それは私たちも同じです。私たちがいつも神の力によって勇敢に前進していくためには、神の聖霊に満たされていなければなりません。神の命令を守り、神のみこころに歩むとき、神はご自身の聖霊で満たしてくださいます。私たちはダン族のように時として弱くなってしまう器であるということをわきまえて、いつも聖霊に満たされることを求めていきたいと思います。

 

Ⅶ.ヨシュアが求めた町(49-51)

 

最後に49節から51節までを見て終わりたいと思います。

「この地について地域ごとに、相続地の割り当てを終えたとき、イスラエル人は、彼らの間に一つの相続地をヌンの子ヨシュアに与えた。彼らは主の命令により、ヨシュアが求めた町、すなわちエフライムの山地にあるティムナテ・セラフを彼に与えた。彼はその町を建てて、そこに住んだ。これらは、祭司エルアザル、ヌンの子ヨシュア、およびイスラエル人の部族の一族のかしらたちが、シロにおいて会見の天幕の入口、主の前で、くじによって割り当てた相続地であった。こうして彼らは、この地の割り当てを終わった。」

 

ここには、イスラエルの全部族に対する割り当てが終わってからのことが記されてあります。各部族への割り当てが終わったとき、イスラエルの民はヨシュアに対して、どの町でも自分の好きな街を一つとるようにと言いました。それは、ヨシュアのこれまでの指導者としての功労に感謝を表すためです。イスラエルの民はその犠牲と功績の大きさを決して忘れることなく、これに最大限に報いようとしたのです。

 

それに対してヨシュアは、どんな土地を求めたでしょうか。ここには、エフライムの山地にあるティムナテ・セラフを求めたとあります。このティムナテ・セラフとは「太陽の部分」という意味で、太陽礼拝、すなわち偶像崇拝が盛んにおこなわれていたところです。いったいなぜ彼はそんなところを求めたのでしょうか。

 

ここにヨシュアの開拓者精神を観ます。この時彼は80歳を超えていました。年齢から行っても功績から言っても、もう隠居してもいい年であったはずです。それなのに彼はそのようにはせず、新しい挑戦を開始しようとしたのです。あえて困難な道を選んで、新しい第三の人生をスタートさせたのです。

 

私たち人間は老いていくと段々からだが弱り思考力も鈍くなるので、周囲もあまり期待しなくなります。そこでつい後ろ向きになり、消極的になりがちですが、また過去を振り返り、それで満足しがちですが、そうではなく、いつでも開拓者の精神をもって進んでいきたいものです。特にこの日本ではまだまだ獲得していない地がたくさんあります。そうした地を獲得していくためには、むしろ、人生のある程度のことを成し終えた老人のパワーが求められるのではないでしょうか。それは私たちには死を越えた永遠のいのちが与えられたという根源的な希望が与えられているからです。