創世記18章

 聖書には、アブラハムは「神の友」と呼ばれています。(ヤコブ2:23,イザヤ41:8)それは、彼のある一つの行動を通してそう呼ばれるようになったというよりも、彼の生涯がまさにそのような歩みだったからです。しかし、このところには、彼がそのような光栄ある名が与えられるにふさわしい人物であったことがよく表されています。 

 1.旅人をもてなしたアブラハム(1-8) 

 まず1節から8節までをご覧ください。ある日、主は、マムレの樫の木のところで、アブラハムに現れてくださいました。彼は日の暑いころ、天幕の入り口にすわっていました。近東では、日中の暑さはものすごく、卵が焼けるほど暑いと言われています。そのような時に人々のたいていは家の中で休み、外で働くことはしません。アブラハムも天幕の入り口にすわり、休んでいました。そこに三人の人がやってきたのです。暑さのためただボーとしていたアブラハムは、何も考えることもなく地面に目をやったのでしょう。そして目を上げたとき、そこに三人の人が彼に向かって立っていました。そのときアブラハムはどのような行動を取ったでしょうか?2節には、「彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした」とあります。ここにアブラハムの信仰が生活の中に深く浸透していたことを見ることができます。旅人をもてなすことは神が命じておられることであり、神の民の義務でした(ヘブル13:2)。この当時は、今日のように旅館やホテルがあったわけではなく、こうした旅人をもてなすことが神の民の義務として、最高の徳であったわけです。まあホテルや旅館があるなしにかかわらず、こうやって人々をもてなすこと自体しもべのようになることですから、今日においてもとても大切な徳であると言えます。しかも素性のわからない人をもてなしたわけですから、それはただ信仰によってのみできたと言えるでしょう。3節の「ご主人」ということばは、下の欄外を見ると「主よ」となっていて、この時アブラハムがこの客を主なる神であるとわかっていたかのような印象がありますが、実際にはこの言葉は、「主人」とか「主」など、一般の客に対して使う丁寧な呼び方なので、必ずしも彼が神として認識していたわけではないことがわかります。ですから、アブラハムがここで三人の旅人をもてなしたのは、普通の旅人に対してごく自然にした行為だったのです。そして彼は、自分のもっている最上のものをもって、彼らをもてなしました。 

 2.主に不可能なことがあろうか(9-15) 

 次に9節から15節までをご覧ください。するとその旅人はアブラハムに尋ねました。「あなたの妻サラはどこにいるか」と。「天幕にいます」と告げると、その中のひとりが、こう言いました。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのとこに戻ってきますが、そのとき、サラには、男の子ができている」と。

サラはそれを天幕のうしろの方で聞いていましたが、それを聞いていて、心の中で笑いました。なぜなら、彼女には普通の女にあることが止まっていたからです。もう子供を産めるような体ではなかったのです。だから、そんなことあり得ないと思ったのです。

すると主が、「サラはなぜ「私はほんとうに子を産めるだろうか。こんな年をとっているのに」と言って笑うのか」と告げました。主にとって不可能なことはありません。そして、主は続けてこう言われました。「わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」 するとサラは恐ろしくなったのか、「いいえ、笑いませんでした」と言って打ち消しました。 

 この13,14節の「主」は太字の主になっています。これは父なる神「ヤーウェー」のことです。ヘブル語では「יהוה (YHWH)」と書きますが、ユダヤ人たちは、神の御名を発音することを恐れ、「יהוה (YHWH)」という御名が出て来ると、それを「アドナイ」と読み替えました。アドナイとは、「我が主」という意味です。新改訳聖書で太字の「主」と、普通の「主」を使い分けています。太字の「主」はこのエホバなる主のことであり、太字でない「主」が出て来た場合は「יהוה (YHWH)」ではなく、普通名詞の「主」です。新約聖書に出てくる主はほとんどがイエスのことです。しかし旧約聖書からの引用箇所にある主はやはりエホバのことを指し示しています。エホバはイエスの父にあたります。そして、イエスは神の子です。ですから、両者とも「主」なのです。それはイエスが言われた、「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)のことばからもわかります。ですから、これは人の子として生まれる前に、人として現れてくださったイエスご自身だったのです。 

その主イエスにとって不可能なことは一つもありません。これまでアブラハムに与えられた約束が実現していなかったのはそれが全く不可能なことだったからではなく、彼らの信仰の訓練のためだったのです。神には神の時があって、その時が満ちるとき、それが実現するのです。神にとって不可能なことは一つもないのです。神は人間には不可能に見えることでも可能にすることができる全能の神なのです。あなたはこのことを信じていますか。これが私たちの信仰です。ここで全能の主が人の姿をとって来られたというのも、このことを教えるためだったに違いありません。 

 3.とりなしの祈り手アブラハム(16-33) 

 最後に、16節から終わりまでを見ていきましょう。主はアブラハムにみこころを示し、これからソドムに対してなそうとしておられることを明らかにされました。それはソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、彼らの罪はきわめて重いため、彼らを滅ぼすということでした。するとアブラハムはどうしたでしょうか?23節からのところです。彼は驚き、かつ心配し、とりなしの祈りをしました。とりなしとは、その人に代わって祈ることです。ソドムとゴモラの滅びをわがことのように嘆き、神の怒りからソドムとゴモラを救おうとしたのです。なぜアブラハムはこんなに必死にとりなしたのでしょうか。それは、そこに甥のロトがいたからです。 

 アブラハムはどのようにとりなしたでしょうか。彼は大胆に祈りました。23節を見ると、「アブラハムは近づいて申し上げた」とあります。罪に汚れた人間が、聖く、正しい神に近づくなど考えられないことです。しかし、神とともに歩み、神の友と呼ばれたアブラハムは、大胆にも神に近づき、率直の自分の思いを打ち明けたのです。 

 第二に、彼は熱心に、忍耐強く祈りました。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか」と、もしそこに50人の正しい人がいたら、もしそこに50人に5人足りない45人がいたらと、最後には10人がいたら・・・と、忍耐強く祈っています。イエスは「いつでも祈るべきであり、失望してはならない」ことを教えるために、あるしつこいやもめのたとえを話されました。(ルカ18章)神様が望んでおられるのは、私たちがあきらめないで、失望しないでいのることです。そうした祈りを聞いて、最後にはそれをかなえてくださるのです。 

 第三に、彼は謙遜に祈りました。27節を見ると、「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください」とあります。また、30,32節を見ると、「主よ。どうかお怒りにならないでください」と言っています。彼は謙遜に、かつ大胆に、熱心に祈ったのです。 

 神様は大きな知恵と恵みをもってこの歴史を支配し導いておられます。その神の歴史の中に、私たちは祈りによって携わることができる恵みを与えてくださいました。それがとりなしの祈りです。ヘブル7:25には、「キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしておられるのです」とあります。とりなしはその人に対する愛から生まれるものです。Ⅰテモテ2:1には、「すべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい」とあります。とりなしは、神のみこころなのです。私たちもこの国が滅びることがないように、アブラハムのように神の前にとりなす者でありたいと願わされます。

民数記31章

きょうは民数記31章から学びます。

Ⅰ.主の復讐(1-24)

「主はモーセに告げて仰せられた。「ミデヤン人にイスラエル人の仇を報いよ。その後あなたは、あなたの民に加えられる。」そこでモーセは民に告げて言った。「あなたがたのうち、男たちは、いくさのために武装しなさい。ミデヤン人を襲って、ミデヤン人に主の復讐をするためである。イスラエルのすべての部族から、一部族ごとに千人ずつをいくさに送らなければならない。」それで、イスラエルの分団から部族ごとに千人が割り当てられ、一万二千人がいくさのために武装された。モーセは部族ごとに千人ずつをいくさに送った。祭司エルアザルの子ピネハスを、聖具と吹き鳴らすラッパをその手に持たせて、彼らとともにいくさに送った。彼らは主がモーセに命じられたとおりに、ミデヤン人と戦って、その男子をすべて殺した。彼らはその殺した者たちのほかに、ミデヤンの王たち、エビ、レケム、ツル、フル、レバの五人のミデヤンの王たちを殺した。彼らはベオルの子バラムを剣で殺した。イスラエル人はミデヤン人の女、子どもをとりこにし、またその獣や、家畜や、その財産をことごとく奪い取り、彼らの住んでいた町々や陣営を全部火で焼いた。そして人も獣も、略奪したものや分捕ったものをすべて取り、捕虜や分捕ったもの、略奪したものを携えて、エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原の宿営にいるモーセと祭司エルアザルとイスラエル人の会衆のところに来た。モーセと祭司エルアザルおよびすべての会衆の上に立つ者たちは出て行って宿営の外で彼らを迎えた。モーセは軍勢の指揮官たち、すなわち戦いの任務から帰って来た千人の長や百人の長たちに対して怒った。モーセは彼らに言った。「あなたがたは、女たちをみな、生かしておいたのか。ああ、この女たちはバラムの事件のおり、ペオルの事件に関連してイスラエル人をそそのかして、主に対する不実を行なわせた。それで神罰が主の会衆の上に下ったのだ。31:17 今、子どものうち男の子をみな殺せ。男と寝て、男を知っている女もみな殺せ。男と寝ることを知らない若い娘たちはみな、あなたがたのために生かしておけ。祭司エルアザルは戦いに行った軍人たちに言った。「主がモーセに命じられたおしえのおきては次のとおりである。金、銀、青銅、鉄、すず、鉛、すべて火に耐えるものは、火の中を通し、きよくしなければならない。しかし、それは汚れをきよめる水できよめられなければならない。火に耐えないものはみな、水の中を通さなければならない。あなたがたは七日目に自分の衣服を洗うなら、きよくなる。その後、宿営にはいることができる。」

この31章は、26章から続く約束の地に入る備えが語られています。1節から3節までのところを見ると、主はモーに、ミデヤン人にイスラエル人の仇を報いるようにと命じておられます。その後彼は彼らの民に加えられます。つまり、この出来事の後でモーセは死に、彼らの民に加えられるということです。いわば、これがモーセの最後の務めであったわけです。これから約束の地に入ろうとしていたイスラエルに、いったいなぜこのようなことが命じられたのでしょうか。

その背景には25章の出来事がかかわっています。25章1節には、イスラエルがシティムにとどまっていた時、モアブの女たちとみだらなことをしたことが記録されています。これは偽りの預言者バラムの助言によってモアブの王バラクがモアブの女たちをイスラエルの宿営に送り、彼らと不品行を行わせ、偶像礼拝の罪を犯させました。そのためイスラエルに神罰が下り、イスラエル人二万四千人が死にました。この時のモアブの女たちこそ、モアブにいたミデヤンの女たちです。このことは主を大いに怒らせたので、主ご自身が、ミデヤン人を襲って復讐すると言われたわけです。ですからこれは個人的な恨みではなく、神ご自身の復讐だったのです。

4節をご覧ください。このために主はイスラエルのすべての部族から、一部族ごとに千人ずつをいくさに送るようにと命じられました。そして祭司エルアザルの子ピネハスを、聖具と吹き鳴らすラッパをその手に持たせて、彼らとともにいくさに送りました。それはこの戦いが軍事的な戦いではなく主ご自身の戦い、主の聖なる戦いであったからです。彼らは主がモーセに命じられたとおりに、ミデヤン人と戦って、その男子をすべて殺しました。またその他に、ミデヤンの五人の王たち、エビ、レケム、ツル、フル、レバを殺しました。そして、この事件の張本人であったバラムをも剣で殺しました。また、ミデヤン人の女、子どもをとりこにし、その獣や、家畜や、その財産をことごとく奪い取り、彼らの住んでいた町々や陣営を全部火で焼き払いました。そして、略奪したものや分捕ったものをすべて取り、エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原の宿営にいるモーセと祭司エルアザルとイスラエル人の会衆のところに帰って来たのです。

するとどうでしょう。宿営の外で彼らを出迎えたモーセは、戦いの任務から帰って来た千人の長や百人の長たちに対して怒ったとあります。なぜでしょうか?女たちを生かしておいたからです。通常の戦いであれば、捕虜として捕えた女や子供は生かしておきますが、今回の事件はその女によってもたらされたものでした。そうしたイスラエルにつまずきを与えたものをそのままにしておいてはいけない、それらを徹底的に取り除くことを求められていたのです。

主イエスは山上の説教の中でこのように言われました。「もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。」(マタイ5:29-30)

信仰のつまずきとなるものがあれば、それを取り除かなければなりません。それなのに、彼らはその女たちを生かしておきました。それでモーセは怒ったのです。それで、男の子はもちろんのこと、男と寝て、男を知っている女もみな殺すようにと命じました。ただ男と寝ることを知らない若い娘たちだけを生かしておかなければなりませんでした。そしてその罪のきよめの期間は七日間です。ミデヤン人を殺した人たち、あるいは、捕虜でもだれでも、人を殺した者、あるいは、その死体に触れた者は、三日目と七日目に身をきよめなければなりませんでした。火に耐えるものは火できよめ、耐えられないものは水によってきよめました。

2.分捕り物の分配(25-47)

「主はモーセに次のように言われた。 「あなたと、祭司エルアザルおよび会衆の氏族のかしらたちは、人と家畜で捕虜として分捕ったものの数を調べ、その分捕ったものをいくさに出て取って来た戦士たちと、全会衆との間に二分せよ。いくさに出た戦士たちからは、人や牛やろばや羊を、それぞれ五百に対して一つ、主のためにみつぎとして徴収せよ。彼らが受ける分のうちからこれを取って、主への奉納物として祭司エルアザルに渡さなければならない。イスラエル人が受ける分のうちから、人や牛やろばや羊、これらすべての家畜を、それぞれ五十に対して一つ、取り出しておき、それらを主の幕屋の任務を果たすレビ人に与えなければならない。」そこでモーセと祭司エルアザルは、主がモーセに命じられたとおりに行なった。従軍した民が奪った戦利品以外の分捕りものは、羊六十七万五千頭、牛七万二千頭、ろば六万一千頭、人間は男と寝ることを知らない女がみなで三万二千人であった。この半分がいくさに出た人々への分け前で、羊の数は三十三万七千五百頭。その羊のうちから主へのみつぎは六百七十五頭。牛は三万六千頭で、そのうちから主へのみつぎは七十二頭。ろばは三万五百頭で、そのうちから主へのみつぎは六十一頭。 人間は一万六千人で、そのうちから主へのみつぎは三十二人であった。モーセは、主がモーセに命じられたとおりに、そのみつぎ、すなわち、主への奉納物を祭司エルアザルに渡した。モーセがいくさに出た者たちに折半して与えた残り、すなわち、イスラエル人のものである半分、つまり会衆のものである半分は、羊三十三万七千五百頭、牛三万六千頭、ろば三万五百頭、人間は一万六千人であった。モーセは、このイスラエル人のものである半分から、人間も家畜も、それぞれ五十ごとに一つを取り出し、それらを主がモーセに命じられたとおりに、主の幕屋の任務を果たすレビ人に与えた。」

 すべてのきよめをした後で、捕虜として分捕ったものは、いくさに出た兵士たちと、イスラエルの全会衆との間で二分されました。そして、そのように二分されたもののうち、いくさに出た戦士たちからは、五百に対して一つを主のためのみつぎ物として徴収し、それを祭司エルアザルに渡さなければなりませんでした。また、イスラエルの民からは五十に対して一つを、主のためのみつぎ物、すなわち、主への奉納物として徴収し、レビ人に与えなければなりませんでした。それは農耕による収穫物だけでなく、戦いで略奪した物もすべて、祭司とレビ人が受けるためです。レビ人の取り分が祭司の取り分よりも多いのは、それだけ人数が多かったからでしょう。主はこのようにして神に仕える者たちも、ちゃんとそれを受けられるように配慮しておられたのです。一般には忘れられがちな彼らのことが、こうしてきちんと覚えられていたのです。

 さて、彼らが略奪した物を見てみましょう。ものすごい量の戦利品です。羊が70万頭近く、他の家畜も万単位です。そして女の子たちも約3人もいます。主の怒りとその復讐が、いかに大きかったかを物語っています。そして、これらを軍人と会衆との間で二分されました。

 3.指揮官たちのささげ物(48-54)

それでは最後に48節から終わりまでのところをご覧ください。

「すると、軍団の指揮官たち、すなわち千人の長、百人の長たちがモーセのもとに進み出て、モーセに言った。「しもべどもは、部下の戦士たちの人員点呼をしました。私たちのうちひとりも欠けておりません。それで、私たちは、おのおのが手に入れた金の飾り物、すなわち腕飾り、腕輪、指輪、耳輪、首飾りなどを主へのささげ物として持って来て、主の前での私たち自身の贖いとしたいのです。」モーセと祭司エルアザルは、彼らから金を受け取った。それはあらゆる種類の細工を施した物であった。千人の長や百人の長たちが、主に供えた奉納物の金は全部で、一万六千七百五十シェケルであった。従軍した人たちは、戦利品をめいめい自分のものとした。モーセと祭司エルアザルは、千人の長や百人の長たちから金を受け取り、それを会見の天幕に持って行き、主の前に、イスラエル人のための記念とした。」  すると、軍団の指揮官たちはモーセのもとに進み出て、自分たちが手に入れた金の飾り物などを持って来て、それを主の前で自分たち自身の贖いとしたいと言いました。どういうことでしょうか?彼らはミデヤンという大敵に対して、わずか1万2千人の兵で戦い、しかもイスラエルの側にはただの一人の犠牲者も出なかったことを、心から主に感謝しているのです。それは主の特別な助けと守りがなければあり得ないことでした。それはまさに主の戦いだったのです。そのことを実際に体験して、自分たちが得た戦利品は自分たちのものではなく主のものであると、自分たちの贖いの代価として、その一部を主にささげたのです。

モーセと祭司エルアザルは、彼らからのささげ物を喜んで受け取ったことでしょう。それらの金は装飾品だったので、あらゆる種類の細工が施されていました。その重さは全部で一万六千七百五十シェケルでした。1シェケルが11.4gですから、その総数は百八十キログラムであったことがわかります。それは莫大な量でした。それほど彼らは圧倒的な主の力を体験したのです。モーセと祭司エリアザルはそれを天幕に持って行き、主の前に、イスラエル人のための記念としました。この驚くべきすばらしい主の助けと救いを記念するものとして、これらの金を会見の天幕の主の前に納めたのです。

あなたは、彼らのように、主の圧倒的な救いと助けを経験しているでしょうか。自分たちの側には全く犠牲者が出ず、これだけの戦利品を手に入れることができたのは、ただ神の驚くべき御業です。私たちの信じている神はこのようなお方なのです。そして、私たちはいつか主がこの地上に再臨されるそのとき、このことを目の当たりにするでしょう。そのことがコロサイ人への手紙2章13節から15節までのところに記されてあります。

「それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」

その時、神は初めに人を造られた時に与えられたものを、そして罪によって失われたものを奪還してくださいます。そして、それらを捕虜として凱旋の行列に加えてくださるのです。これが私たちの信じている神であり、やがて世の終わりに行われることです。その勝利の凱旋の中に、私たちも含まれているのです。このすばらしい神の救いと力ある御業を覚え、私たちも神に感謝して、喜びと真心をもって主に自分自身をささげていく者でありたいと思います。

ヘブル1章4~14節 「御使いにまさるキリスト」

 きょうは、ヘブル人への手紙1章4節から14節のみとばから、「御使いよりもまさるキリスト」というタイトルでお話します。前回はこの手紙の冒頭のところで、神は語られる方であるということを学びました。神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分の分け、また、いろいろな方法によって語られましたが、この終わりの時には御子によって語られました。御子であられるイエス・キリストを見れば、父なる神がどのような方であるかがわかります。キリストを見た者は父を見たのです。なぜなら、御子は神の栄光の輝きだからです。神は、御子によってすべてのものを現してくださいました。ではその御子とはどのような方しょうか。前回はそれを御子の七つの特質をあげてお話しました。きょうのところではそのことを御使いと比較して語られます。御使いと比較することによって、キリストがどれほどすぐれた方であるのかを際立たせようとしているのです。 

   Ⅰ.御使いにまさるキリスト(4) 

 まず4節をご覧ください。「御子は、御使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続されたように、それだけ御使いよりもまさるものとなられました。」 

    御使いとは天使のことです。皆さん、天使は実在しているのでしょうか?天使というと、一般に真っ白い服を着た人に羽がついた人やキューピットに羽がついたイメージがあって、どこかおとぎ話や空想話のようにとらえられがちですが、これは確かに実在しているものです。それは神によって造られた被造物の一つで、決しておとぎ話とは違うのです。コロサイ人への手紙を見ると、キリストは目に見えるもの、見えないもの、王座も主権も権威も、すべて造られたとありますが、その目に見えない被造物の一つが天使なのです。聖書には旧約聖書に108回、新約聖書に165回言及されています。確かに、御使いは実在しているのです。 

 それにしても、なぜここで御使いのことが取り上げられているのでしょうか。それは、この手紙の受取人がユダヤ人クリスチャンであったからです。ユダヤ人は御使いを重んじていました。ユダヤ人は律法をとても大切にしていましたが、それはこの御使いを通して与えられたと信じていたのです。たとえば、パウロはガラテヤ人への手紙3章19節でこのように言っています。「では、律法とは何でしょうか。それは約束をお受けになった、この子孫が来られる時まで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたものです。」彼は、律法は御使いたちを通して仲介者の手で定められたものだと考えていました。また、ステパノも使徒の働き7章53節で、「あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことがありません。」と言って、律法が御使いたちによって定められたものであると信じていました。それが、ユダヤ人が信じていたことなのです。ですから、ユダヤ人は、御使いを特別な位置に置いていたのです。そのため、中には御使いは神と自分たちの仲介者だと思う人たちもいました。 

 実際に、御使いは人間よりも優れているので、超自然的なことができます。たとえば、使徒の働き12章を見ると、ペテロがヘロデ王によって捕えられ、牢に閉じ込められていたことが記録されていますが、その牢から解放されたのは御使いたちの働きによるものでした。ペテロは牢獄で二本の鎖につながれ、ふたりの兵士の間に寝ており、戸口には番兵たちが監視していたので、もうどうやっても逃げることなどできない状態でしたが、その夜、主の使いが現れて、牢を光で照らすと、ペテロの脇腹をたたいたのです。すると、鎖が彼の手から落ちました。そして主の使いの後について第一の衛所、第二の衛所と行くと、門がひとりでに開いて外に出ることができ、助け出されました。勿論、それは聖徒たちの祈りに対する紙の答えではありますが、そのために用いられたのはこの御使いたちでした。御使いは、そのような超自然的なことができる存在なのです。 

 するとどういうことが言えるでしょうか。こうした御使いをあたかも神でもあるかのように思い、礼拝の対象としてしまうという危険性があるということです。これは私たち日本人にもいえることです。何か崇高なもの、常識を超えた不思議な存在、自分にご利益をもたらすような対象があると、すぐに手を合わせてしまう傾向があるのです。実際に、コロサイの教会には御使いを礼拝する者たちがいました。さらに、神の御子イエス・キリストも神の御子ではなくこうした御使いの一人であると教える異端も出てきました。今でもそのような異端がいます。たとえば、エホバの証人と言われるグループはその一つです。彼らはキリストを神の御子ではなく、天使長ミカエルだと主張しているのです。それはキリストを被造物の存在にまで引き下げることであり、当時のコロサイの教会にいた異端者たちと同じような過ちを犯していることになります。

 そこで、この手紙の著者はキリストがどのような方であるかを明らかにするためにキリストを御使いと比較し、キリストがどれほど偉大な方であるかを語るのです。 

 Ⅱ.神の御子キリスト(5~13) 

 ではキリストはどれほど偉大な方なのでしょうか。まず5節をご覧ください。ここには、「神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」またさらに、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」」とあります。 

 これは詩篇2篇(7節)からの引用です。キリストが御使いよりもすぐれている一つの理由は、キリストが神の御子であられるということです。神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」どの御使いに対しても神がこのように言われたことはありません。ただキリストに対してのみ、「あなたは、わたしの子」と呼びました。このように呼ばれる方はただ一人、神の御子イエス・キリストだけなのです。 

 ところで、この「きょう、わたしがあなたを生んだ」ということばは誤解される危険性があることばです。やっぱりキリストは神によって造られたものではないかと思われるからです。こういう箇所をみると、エホバの証人の方は「ほら見ろ。やっぱりキリストは神によって造られた存在じゃないか」と反論してきます。しかし、この「生んだ」ということばは造られたという意味ではなく、むしろその逆で、「第一のものになられた」ということです。つまり、キリストは万物の創造者であり、支配者であるということを表しているのです。万物の創造者であり支配者であるということは、被造物であるどころか、それは造り主なる神であるということでもあります。

パウロはこのことをコロサイ書1章15~18節でこう言っています。「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。」

 

御子は見えない神のかたちであり、神ご自身です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られました。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。このように、御子が万物の創造者であるということは、この方が造り主なる神であるということです。この世界を創造された方こそ神だからです。それじゃ、「生まれた」とはどういうことなのでしょうか。それは第一のものになられたという意味です。すべてのものが、この方によって支配されているということなのです。キリストはそれを死から復活することで証明されました。

 5節をご覧ください。「またさらに、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」とあります。これはⅡサムエル記7章14節のみことばの引用ですが、このみことばによってもキリストは神の御子であることが強調されています。これはダビデが神の家を建てたいと願っていたとき、神が預言者ナタンを通して彼に語られたことばですが、Ⅱサムエルには「その王座をとこしえまでも堅く建てる。」とあるように、これはこの世の王国のことではなく神の国のことを指して語られていました。それゆえ、この子とはソロモンのことではなくその子孫であるイエス・キリストのことだったのです。神はこのダビデの子孫から生まれるキリストを「わたしの子」と呼びました。このことからもわかるように、キリストは神の御子なのです。

 神は、かつてどの御使いに対してこのように言われたでしょう。このように呼んだ御使いは他にはいません。ただ神の御子イエス・キリストだけがこのように言われたのです。ということは、キリストは御使いとは比べものにならないほど偉大な方であるということです。

 次に、6節をご覧ください。ここには、「さらに、長子をこの世界にお送りになられるとき、こう言われました。「神の御使いはみな、彼を拝め。」とあります。これは詩篇97篇(7節)からの引用ですが、長子をこの世界にお送りになるとき、神は、「神の御使いはみな、彼を拝め。」と言われました。つまり、キリストは礼拝の対象であるということです。神の御使いはそうではありません。神の御使いは、彼を拝まなければなりません。御子と御使いがどれほど違うかは、このことばからもはっきりわかります。

 それでは御使いは何のために存在しているのでしょうか。7節にはこうあります。「また御使いについては、「神は、御使いたちを風とし、仕える者たちを炎とされる。」どういうことでしょうか。これは詩篇104篇(4節)からの引用ですが、御使いは風のように、また炎のように、仕える存在にすぎないということです。御使いは神の目的を実行するために、神に仕える存在なのです。

 しかし、御子は違います。8節と9節をご覧ください。ここで、御子については、こう言われています。「神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。あなたは義を愛し、不正を憎まれます。それゆえ、神よ。あなたの神は、あふれるばかりの喜びの油を、あなたとともに立つ者にまして、あなたに注ぎなさいました。」これは詩篇45篇6~7節の引用ですが、おもしろいことに、ここで神は御子を「神よ」と呼びかけています。9節にも、「それゆえ、神よ。あなたの神は、・・・・」と、「神」と「あなたの神」の二人の神が出ているのです。これはどういうことかというと、イエス・キリストが神であることです。それをもっとも明瞭に表したのがこの箇所なのです。

 聖書はまことの神は唯一であると教えています。その神がキリストを神と呼んでおられるのです。つまり、聖書はその唯一なる神は、父と子と聖霊という三つの神であるというのです。これを神学用語で「三位一体」と言います。三つにして一つであるという意味です。これが、聖書が教えている神なのであって、これ以外の神はありません。キリストは神ではないというとしたら、それは聖書で言っている神ではないことになるのです。

そのことは、ヨハネの福音書1章1節から3節までを見てもわかります。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」「ことば」とは神の御子イエス・キリストのことです。そのことばは神とともにおられたひとり子の紙であるとはっきり言われています。

 また、パウロもこう言っています。テトス2章13節、「祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現れを待ち望むようにと教えさとしたからです。」

 かつてパウロはクリスチャンを迫害する者でした。神は唯一であって、それ以外に神がいるはずがない。そういうことを言う奴がいるなら、そういう奴をひっ捕まえて懲らしめてやらなければならないと躍起になっていました。そしてダマスコという町に向かっていたとき、そこで復活の主イエスと出会いました。「主よ、あなたはどなたですか。」と言うと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と言われたのです。まさに目からうろこでした。これまで迫害していたイエスが神の子、キリスト、救い主であるとは・・。それで彼はイエスを救い主として信じて受け入れ、今度はキリストこそ救い主であると宣言するようになりました。このテトスのみことばは、その宣言の一つです。パウロはキリストこそ私たちの救い主であり、大いなる神であると告白したのです。

 ですから、その御座は代々限りなく続きます。また、その御国の杖はまっすぐです。杖がまっすぐであるということは、正義を行うということです。そのさばきは公平で、公正です。この世の中には不公平なことがあまりにも横行していますが、キリストの杖は真っ直ぐなのです。キリストは義なる神であって、この義を愛し、不正を憎まれるのです。それゆえに、神は、神である御子に、あふれるばかりの喜びの油を注がれました。この油とは勿論、聖霊の油のことです。キリストは神の聖霊を無現に注がれた方なのです

 ところで、皆さんはイエス・キリストという名前の意味をご存知ですか。「イエス」とはヘブル語で「ヨシュア」で、意味は「神は救い(神は救う)」です。そして、「キリスト」はヘブル語で「メシヤ」で、意味は油注がれた人という意味です。旧約聖書で油注がれた人は三人いました。王と祭司と預言者です。ですから、他国に支配されていたイスラエルでは「油注がれた人」とは自分たちを その状態から解放する救い主を意味していました。ですから、イエス・キリストという名前は救い主イエスという意味で、イエスをそう呼ぶだけで 一種の信仰宣言となっているのです。イエスこそキリスト、救い主、神の油を無限に注がれた方なのです。

 そして、10節から12節までを見ても、キリストの卓越性が示されています。「主よ。あなたは、初めに地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。これらのものは滅びます。しかし、あなたはいつまでもながらえられます。すべてのものは着物のように古びます。あなたはこれらを、外套のように巻かれます。これらを、着物のように取り替えられます。しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。」

 造られたものはやがて必ず滅んでいきます。それがエントロピーの法則です。進化していくのではなく、退化していくのです。滅んでいきます。それがこの自然の法則なのです。キリストは天地万物の創造主であり、すべてのものはこの方によって造られましたが、その造られた物はやがて滅んでいくのです。私たちはこのことをよく理解していなければなりません。なぜなら、私たちの心は、いつもこの世の物に執着する傾向があるからです。だから持っていないと不安になるのです。でも持ち物はすべて失われていきます。それは滅んでいくものなのです。私たちの肉体でさえいつまでも続くものではありません。それは必ず滅びるものなのです。それは大切なものですが、絶対的なものではないのです。そうした物に捕われていると、ちょっとしたことで平安を失ってしまうことになります。だから、こうした物に執着するのではなく、いつまでも続くものに信頼しなければなりません。いつまでも続くものとは何でしょうか。それが神です。いつまでも続くものは信仰と希望と愛です。その中でも一番大いなるものは愛です、とⅠコリント13章に記されてありますが、神こそいつまでも変わることなく続く方なのです。神は、いつまでもながらえます。すべてのものは着物のように古びますが、しかし、神はいつまでも変わることなく、その年は尽きることがありません。

ヘブル13章8節を開いてください。ご一緒に読みたいと思います。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」

 イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも同じです。この方こそ、私たちが信頼するに値する方です。このような方に信頼して歩めるということは何と幸いなことでしょう。今の世の中を見ると、目まぐるしく変化する時代です。タイプライターなんて使っている人などだれもいません。ワープロも一昔前の話です。今はパソコンの時代であって、スマホの時代です。スマホの時代なんて言っても、私には何のことかよくわかりませんが・・・。よくわからないで言っています。スマホとかタブレットとか何のことだかよくわかりません。考えるだけでも疲れます。でも今はこういう時代なのです。この先今度はどんなものが登場するかわかりません。科学技術は日々進歩し、私たちの住むこの社会は目まぐるしく変化していますが、だからといって、それが必ずしも幸福をもたらすかというとそうでもありません。本当に人間らしい生き方というのは別のところにあるのではないでしょうか。それはいつまでも変わることのない神、イエス・キリストに信頼して生きるということの中にあるのです。なぜなら、イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じだからです。

 Ⅲ.神の御座に着かれたキリスト(13~14)

ですから、結論は13節と14節になります。「神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。」

 これは詩篇110篇からの引用ですが、キリストが御使いたちよりもはるかにすぐれているということは、彼が神の右の座に着かれたということからもわかります。神の右の座に着くというのは、神の権威の座に着くということです。すなわち、キリストは神ご自身であられるということなのです。キリストは私たちの罪を贖うためにこの世に来られました。そして、私たちの罪を赦すために身代わりとして十字架にかかってくださいました。そして、三日目によみがえり、その救いの御業を成し遂げてくださいました。キリストは死んだだけでなく、よみがえられたのです。それによって、この方こそまことの救い主であることを示されたのです。そして、その罪の贖いを成し遂げられて、天に昇り、神の右の座に着かれました。イエス・キリストは主の主、王の王であって、すべてを支配しておられる全能の神なのです。

 神は、かつてどの御使いに向かって、このように言われたでしょうか。このように言われた御使いはいません。御使いは、ただ仕える霊であって、救いの相続者となる人々、これは私たちのことですが、私たちに仕えるために遣わされている存在なのです。しかし、キリストは違います。キリストは神の御子であって、御使いからも、すべての人からも礼拝を受けるにふさわしい方なのです。

 このように、イエスが神の御子であられ、いかに偉大な方であるかを知ることができたかと思います。私たちは、イエス・キリスト以外のすばらしいものを見てそれがなんとなくすぐれていると思い、このイエスから目を離してしまうことがありますが、そこからは何の助けも、何の慰めも、何の解決も得ることはできません。あなたに真の喜びと希望を与えることができるのは、この天地万物を創造された造り主、それらすべてを支配しておられるまことの神イエス・キリストだけなのです。この方はいつまでもながらえられる方で、決して滅びることがありません。この方はその全能の御手をもって、きのうもきょうも、いつまでも変わることなく、今もあなたのいのちをも守っていてくださいます。この方に目を留めなければなりません。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:2)このイエスに信仰の始まりがあり、その過程があり、その完成があります。ですから、このイエスをあおぎ見続けていけばよいのです。真の望みはこのイエスを仰ぎ見ることから生まれます。このイエスを見たら、私たちの中から恐れや不安が消えます。霊的貧弱さ、未熟さから解放されます。イエスをすみずみまでじっくりと見続けるなら、あなたの中にある不平不満、憎しみ、ねたみ、敵意、復讐心、うらみ、つらみ、心の闇から解放されるのです。

クリスチャンとなったあの有名なウェスタン歌手、ベバリ・シェアは、「キリストには変えられません」という賛美歌を書きました。

「キリストにはかえられません。いかに美しいものも このお方で心の満たされてある今は 世の楽しみよ去れ 世のほまれよ行け キリストにはかえられません。世の何ものも」

 彼は、彼の心がキリストで満たされたとき、世の何ものも 彼の心を奪うものはないと告白したのです。そうです。ほんものの心で満たされた心はただ喜びはずむだけなのです。

 あるアフリカの青年が、クリスチャンになりました。その青年がある集会でこんな証をしました。「みなさん、私の心はキリストさまでいっぱいでゴムマリのようです。どんなに私を人がたたきつけても、私は強くたたきつけられればたたきつけられるほど、高く喜んではね上がるだけです。もし悪魔が思い切り私をたたきつけたら、私は高く高く天に上って、もう再び地上に帰らないだけです。」これがキリストによって心が満たされた人の思いではないでしょうか。もう何も思い悩む必要はありません。どんな困難も、苦しみも、病も、このキリストにある神の愛からあなたを引き離すことはできないからです。キリストを見るなら、あなたの心はこのような喜びに満たされるのです。

 ですから、どうぞ、心を開いて、キリストを迎え入れてください。キリストこそ、心底からあなたの心をゴムマリのようにふくらんだ、満たされた心にしてくださいます。健康で力強い心にしてくださるのです。なぜなら、キリストにこそ、あなたの心を満足させるすべてのものがかくされているからです。キリストは、造られた御使いとは違って、造り主であり、神の力が満ちています。キリストはいつまでも変わることなく、あなたを守ってくださいます。キリストにこそ、罪の赦しがあり、死からの解放があります。キリストにこそまことのいのち、永遠のいのちがあるのです。この方はまことの神だからです。どうか、この方から目を離さないでください。キリストのことば、その生涯、そしてその十字架と復活をよく見て、味わってください。この方はあなたの人生にも、大きな助けを与えることができるのです。

民数記30章

きょうは民数記30章から学びます。

Ⅰ.自分の口から出たとおりのことを実行しなければならない(1-2)

「モーセはイスラエル人の諸部族のかしらたちに告げて言った。「これは主が命じられたことである。人がもし、主に誓願をし、あるいは、物断ちをしようと誓いをするなら、そのことばを破ってはならない。すべて自分の口から出たとおりのことを実行しなければならない。」

これは、モーセがイスラエル人の諸部族のかしらたちに告げたことばです。モーセは28章と29章においてイスラエルが約束の地に入ってからささげるいけにえの規定について語りましたが、ここでも同様に、イスラエルが約束の地に入ってからどのように生きるべきなのかについて語っています。ここでは主への誓願と、物断ちの誓願について教えられています。主への誓願についてはナジル人の誓願ということで、これまでレビ記や民数記で学んできました。それは、主のために「この期間、これこれのことをします」と誓願をして行うことですが、物断ちとは、逆に、主のために「この期間、これこれのことをしません」と誓うことです。誓願とは積極的に何かをすることであるのに対して、物断ちは積極的に何かをしないことです。

こうした誓願や物断ちは、主がとても尊ばれることでした。主のためにこれをするとか、これをしないといった意志や決意を主が喜ばれたからです。しかし、そのように誓ったならば、それを果たさなければなりません。すべて自分の口から出たことは、そのとおりに実行しなければならなかったのです。誓ったのにそれを果たさないということがあれば、それは主が喜ばれることではありません。それゆえ、主に誓ったことは取り消すことができなかったのです。新約聖書には、「誓ってはならない」と戒められていますが、それは、無責任になってはいけないということです。誓願、決意、志はとても尊いものですが、そのように誓ったならば、それを果たさなければならないのです。果たさせない誓いはするなというのが、主が戒めておられたことなのです。

Ⅱ.誓願の責任(3-16)

 それでは、この誓願について主はどのように教えておられるでしょうか。3節から16節までをご覧ください。

 

「もし女がまだ婚約していないおとめで、父の家にいて主に誓願をし、あるいは物断ちをする場合、その父が彼女の誓願、あるいは、物断ちを聞いて、その父が彼女に何も言わなければ、彼女のすべての誓願は有効となる。彼女の物断ちもすべて、有効としなければならない。もし父がそれを聞いた日に彼女にそれを禁じるなら、彼女の誓願、または、物断ちはすべて無効としなければならない。彼女の父が彼女に禁じるのであるから、主は彼女を赦される。もし彼女が、自分の誓願、あるいは、物断ちをするのに無思慮に言ったことが、まだその身にかかっているうちにとつぐ場合、夫がそれを聞き、聞いた日に彼女に何も言わなければ、彼女の誓願は有効である。彼女の物断ちも有効でなければならない。もし彼女の夫がそれを聞いた日に彼女に禁じるなら、彼は、彼女がかけている誓願や、物断ちをするのに無思慮に言ったことを破棄することになる。そして主は彼女を赦される。やもめや離婚された女の誓願で、物断ちをするものはすべて有効としなければならない。もし女が夫の家で誓願をし、あるいは、誓って物断ちをする場合、夫がそれを聞いて、彼女に何も言わず、しかも彼女に禁じないならば、彼女の誓願はすべて有効となる。彼女の物断ちもすべて有効としなければならない。もし夫が、そのことを聞いた日にそれらを破棄してしまうなら、その誓願も、物断ちも、彼女の口から出たすべてのことは無効としなければならない。彼女の夫がそれを破棄したので、主は彼女を赦される。すべての誓願も、身を戒めるための物断ちの誓いもみな、彼女の夫がそれを有効にすることができ、彼女の夫がそれを破棄することができる。身を戒めるとは、断食のことです。もし夫が日々、その妻に全く何も言わなければ、夫は彼女のすべての誓願、あるいは、すべての物断ちを有効にする。彼がそれを聞いた日に彼女に何も言わなかったので、彼はそれを有効にしたのである。もし夫がそれを聞いて後、それを破棄してしまうなら、夫が彼女の咎を負う。」以上は主がモーセに命じられたおきてであって、夫とその妻、父と父の家にいるまだ婚約していないその娘との間に関するものである。」

ここで教えられている規定によると、男性が女性の立てた誓願の責任を負うということです。まず、若い未婚の娘の誓願は父親が破棄することができました。また、妻の誓願は夫が破棄することができました。父親や夫が何も言わなかった時だけ、その誓願が有効になったのです。ただし父親や夫が娘または妻の誓願を無効にすることができたのは、それを聞いた最初の日、すなわち、誓願を立てた最初の日に限られていました。9節にはやもめや離婚された女の誓願について語られていますが、それはすべて有効としなければなりませんでした。どんな神への誓いも守られなければならなかったのです。

いったいこのことは私たちに何を教えているのでしょうか。ここで、この誓願を立てている人に注目したいと思います。すなわち、ここで誓願を立てている人はみな女性であるということです。この30章では、誓願の中でも女性の人が立てる誓願について語られているのです。つまりイスラエル全体は最小単位である夫婦、家族から始まり、それが氏族、部族、そしてイスラエルの家全体へと広がっているということです。イスラエルは、それぞれの部族が共同体を形成しており、それぞれが一つになって物事を管理していかなければいけません。その最小単位が夫婦であり、家族だったのです。その夫婦や家族がどうあるべきなのか、そのことが教えられているのでするそれが民全体へと広がっていくからです。

それはイスラエル民族に限らずすべての組織に言えることではないでしょうか。たとえば、Ⅰテモテ3章4,5節には教会の監督の資格について語られていますが、その一つとしてあげられていることは自分の家庭をよく治めている人であるということです。「自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもたちも従わせている人です。自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。」

教会のことについて教えられているのになぜ自分の家庭のことが出てくるのか。それは家庭が教会の最小単位だからです。それが地域教会、さらには神の国全体へと広がっていくのです。だから、家庭がどのように治められるかはとても重要なことなのです。この国全体の建て上げを考えても、実はそれぞれの家族がどうあるべきなのかがその鍵を握っていると言えるでしょう。

では家族はどうあるべきなのでしょうか。ここにはその秩序が教えられています。すなわち、家族のリーダーは父親であり、夫婦のリーダーは夫であり、その権威に従わなければならないということです。それは父親が必ずしも正しいとか、絶対であるという意味ではありません。また、夫が必ずしも優しく親切であるということではないのです。それは神が立てた秩序であって、その秩序に従って歩むことによって、家族全体が神の祝福の中で平和に過ごすことができるようになるということです。家の中で、もしある人が一つのことを決意して、他の人が別のことを決意して、その両方を同時に行なうことができないものであれば、どちらかを破棄しなければいけません。そこで、今読んだような定めがあるのです。娘が誓願を立て、父親が、それが家全体にとって良くないことであると判断したのならば、その誓願を禁じなければいけません。けれども、娘が誓願を立てていたことを聞いたその日に、それを禁じなければ、その誓願は有効としなければらないのです。

それは神の家族である教会にも言えることです。神は家族としての教会に指導者を立ててくださいました。使徒、預言者、伝道者、牧師、教師です。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全に大人になって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです(エペソ4:10-13)。それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがないためです。ですから、教会にこうした指導者が与えられていることは本当に感謝なことなのです。もしこうした指導者がいなかったらどうでしょうか。神の教会がまとまることはないでしょう。各自、自分が思うことを主張するようになり、やりたいことをするので決してまとまることはありません。ですから、無牧の教会は悲惨なのです。牧者がいないのですから、どこに行ったらいいか、何をしたらいいか、わかりません。各自が自分の思った通りに行動します。それは楽でいいようですが不幸なことです。食べ物に預かることができず、やがて死を迎えることになることでしょう。だから神の家族である教会には年齢や性別、育った環境、置かれている状況など多種多様な人たちが集まっていますが、そうした中にあってこうした秩序を重んじ、それに従って一致して行動することが求められているのです。

それは、女だから口を出すな、ということはありません。黙っていればいいのね、黙っていれば・・ということでもないのです。女性であっても志を立てることはすばらしいことです。しかし、それが家族全体にとってどうなのかをよく吟味するためによく祈らなければなりません。そして教会の指導者たちの意見を聞き、その指導に従わなければならないのです。

また、男は、怒ったり言い争ったりせず、聖い手をあげて祈らなければなりません。そうすれば、妻や子どもに対してどうあるべきかが見えてくるでしょう。つまり、自分が家の主だかと言って傲慢にふるまうのではなく、自分の妻や娘の意見をよく聞いて、判断しなければならないということです。自分の妻が今何を考え、何を行なっているのかを見て、聞いて、彼女の意志を尊重しなければならないのです。ペテロは、「夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐものとして尊敬しなさい。」(Ⅰペテロ3:7)と勧めていますが、このことをわきまえて、妻とともに生活することが求められているのです。つまりキリストが夫婦の関係に求めた愛と服従の関係が、神の家族である教会の中でも、さらにありとあらゆる関係の中に求められているのです。

創世記17章

 1.アブラムからアブラハムへ(1-8)

きょうは創世記17章から学びたいと思います。1節を見ると、「アブラムが99歳になったとき主はアブラムに現れ、こう仰せられた。」とあります。アブラムが不信仰によって失敗した出来事から早13年が経過していました。13年前にどんな出来事があったのでしょうか?アブラハムがカナンに来てから10年後に、彼はサライの女奴隷を通して彼女の中に入り子どもを儲けてしまいました。イシュマエルです。

神は、アブラハムが75歳の時、「あなたの生まれ故郷、あなたの家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」(創世記12:1)と命じられました。「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」(創世記12:2)と言われました。そして、「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族はあなたによって祝福される。」(創世記12:3)と約束されました。

けれども、それから10年経っても何の実現の兆しも見えない中で、アブラハムは神様を疑ってしまったのです。そしてイシュマエルをもうけてしまったのです。それはアブラハムが86歳の時でした。それから13年、アブラハムは今99歳になっていました。そのとき主はアブラムに現れて仰せられたのです。

「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」

 いったいなぜ神はこのように言われたのでしょうか。これは15章で語られた内容と同じものです。それは、これが人間的なものではなく、神の御業によるものであり、その成就すべき時がきたことを示すためでした。それにしても、あの出来事からすでに13年が経過していました。神が最初にアブラハムを召してから実に24年が経過していました。にもかかわらず、神の約束は一向に実現しようとはしていませんでした。神は全く沈黙しておられたのです。おそらくアブラハムの中には、もうダメだろうという思いがあったと思います。そのような時に神はこのように語られたのです。それは人間的には不可能なことでも、神にとっては可能であることを示すためでした。

 ここで神は、ご自身を「全能の神」「エル・シャダイ」であると言われました。「エル・シャダイ」の「エル」はヘブル語で神、「シャダイ」は「シャダット」、つまり「破壊する」「力を持つ」という意味のことばです。神は力の神、全能の神なのです。この全能の神という御名は、たとえ自然の秩序において、神の約束が成就される見込みが全くなく、また自然の力では約束を成就されることが保証できないときでも、神は、それを成就する力をもっておられることを示しているものです。神は、この重要な局面でその約束を成就する力をもっておられることを示されたのです。

 

 しかし、神がどんな力をもった「エル・シャダイ」であっても、それを受ける人間が信じなければ意味がありません。そこで神様はアブラハムに、「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」と言われました。「全き者」とはどういう者のことでしょうか。これは創世記6章9節で神がノアに対して言われた言葉と同じです。ノアはその時代にあって全き人でした。それは彼が何の失敗もしない完全な人であったということではなく、神を信じ、神のことばに忠実に歩みました。彼はそのような意味で「全き人」であったのです。それと同じことがアブラハムに求められました。確かに彼は人間的には弱さがありました。失敗もしました。しかし、それでも彼の心が神様に向けられ、神のことばに信頼し、そのことばに生きることが求められたのです。つまり、信仰によって歩むようにということです。もちろん、不信仰による失敗もたくさんありました。それでも神に信頼していく。それが求められたのです。

 この契約において神は、それが確かなものであることの保証として二つのしるしを与えました。一つはアブラムとサライに新しい名前を与えたことです。そしてもう一つは割礼です。まず神様は、「あなたの名はアブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。」と仰せになられました。「アブラム」とは「高貴な父」という意味です。おそらく「高貴な族長」という意味でしょう。それが「アブラハム」と変えられました。意味は「多くの国民の父」です。よく名は体を表すとありますが、ここでアブラハムに新しい名前が与えられたということは、これまで語られたた約束(12:1-3,15:4-5)がいよいよもって実現する時がきたことを表しているものと思われます。

2.割礼を受けなさい(9-14)

 そんなアブラハムに対して、神はその契約が確かなものであることを示すために、そのしるしとして割礼を受けるようにと命じられました。それは彼だけでなく、彼に与えられた契約に預かるすべての子孫においても同じです。つまり神はこの契約のもとで、人々が肉体にしるしをつけることを望まれたのです。この「割礼」とは、男性の生殖器からその包皮の一部を切り取る儀式です。このような行為は早くからエチオピアやアラビヤなどで行われていましたが、それらは衛生を目的としたものでした。しかしここで命じられた割礼とは衛生を目的としたことではなくあくまでも宗教的な儀式でした。実際には衛生面もかねていたと思われますが、それが第一義的な目的ではなく、神の選民であるすべてのユダヤ人が、神の契約が代々にわたって続いていることを、思い出させるためだったのです。

 この契約がのちにイエス・キリストの贖いによって成就したとき不要なものとなりました。それはあくまでも神の選民であることの外的なしるしであって、神の恵を思い出させるためだったので、大切なのはそうした外的なしるしではなく、心に割礼を受けることでした。パウロはそれをこう言っています。「割礼を受けているかいないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」(ガラテヤ6:15)しかし、ユダヤ人はあくまでもこの割礼にこだわり、割礼を受けていないものは救われないと説いたので、パウロとバルナバはそのことについてユダヤ主義的クリスチャンたちと戦わなければなりませんでした。救いのしるしとしての割礼ではなく、大切なのは心の割礼だということを受け入れることはほんとうに大変なことだったかと思いますが、それが神様のみこころだったのです。私たちも霊的にいつも柔軟でないと、こうした神様のみこころを理解できなくなって、自分の信仰に陥ってしまいます。大切なのは、神のみこころは何なのか、何が神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えることなのです。

 ところで、イスラエルは生まれて八日目に割礼を受けさせましたが、それは本人の信仰というよりは親の信仰告白に基づくものでした。それは両親の信仰告白でもあったのです。これが新約時代における幼児洗礼を授ける根拠にもなりました。私たちは幼児洗礼を否定します。信仰は親の信仰告白に基づくものではなく、あくまでも本人の信仰告白に基づくものだからです。しかし、この両親の信仰告白というのは重要です。それは両親の祈りとも言えるでしょう。そういう意味では幼児洗礼を授けるまでしなくとも、その子がやがて自分で信仰を告白することができるように育てていくという責任がゆだねられていることを覚え、そのように両親の神への信仰としてしっかりと信仰に歩めるように育てていかなければなりません。両親の信仰と祈りがその子の信仰に大きな影響をもたらすことは確かなことだと思います。

 3.サライからサラへ(15-21)

 さて、15節からのところには、サライもまた改名を命じられたことがしるされてあります。「サライ」は「サラ」と呼ばれるようになりました。「サライ」という名前は「わたしの女王」という意味ですが、それが「サラ」、女王になるのです。それは、国々の民の母となるからです。「わたし」に限定されないすべての国々の女王になるという意味です。

 しかし、17節を見ると、この時アブラハムは笑い、心の中で、「百歳の者に子どもが生まれようか。また、九十歳の女が子どもを産むことができようか」と言ったとあります。信仰の父ともあろう彼がいったいなぜこのようなことを言ったのでしょうか。それはアブラハムが不信仰であったからというよりも、それが彼の持っていた信仰の限界であったということでしょう。しかし、選ばれた者を最後まで忍耐し鍛錬される神は、そうした彼をやさしく取り扱い、彼らの考えを正しく正されました。ここには神のやさしさが感じられます。どんなに信仰の父と呼ばれるような者でも、所詮人間であることには変わりありません。しかし、そうした中にあっても神は私たちの手を取って助け、導かれる方なのです。そうした私たちに求められていることは、限界の中にあっても神に従うということです。

 23節を見ると、アブラハムは、その子イシュマエルと家で生まれたしもべ、また金で買い取ったすべての者に割礼を授けました。なかなか信じることができないという人間の弱さがあっても、彼は神に従ったのです。それが彼の義とみなされたのです。信仰と不信仰のはざまにあってもためらうことなく神のみことばに従うこと、それが、神が喜ばれる全き者の姿なのです。全き者というのは、このように神のみことばに従順な者のことなのです。それが神のあふれんばかりの祝福を得られる秘訣なのです。

 私たちもなかなか神のことばを信じることのできない弱さがありますが、その中にあってもただ神が語られることに従順に従う者でありたいと思います。それがアブラハム、サラの信仰に歩む者の姿であり、神が求めておられる全き者の姿なのです。

ヘブル人1章1~3節 「神の御子イエス・キリスト」

 きょうからヘブル人への手紙に入ります。この手紙はだれによって書かれたのかはわかりません。通常の手紙ですと、手紙の冒頭のところに、だれによって書き送られたのかが明記されていますが、この手紙にはそれがないからです。ある人は、これはパウロによって書かれたに違いないと言い、また、ある人はおそらくアポロによって書かれたものでしょうと言いますが、実際にはだれによって書かれたのかははっきりわからないのです。でもわからないからこそ、なお一層のことこの手紙が聖霊に動かされた人たちによって書かれた手紙であるということがクローズアップされているのではないでしょうか。そうです、この手紙の著者は聖霊なる神ご自身なのです 

 では受取人はだれでしょうか。これも書かれてありませんが、この手紙のタイトルを見ると「ヘブル人への手紙」とあるので、これはユダヤ人クリスチャンに宛てて書かれた手紙であることがわかります。いったいなぜ書かれたのでしょうか?彼らはユダヤ教からキリスト教に回心した人たちでした。そこには相当の迫害や困難があったであろうということは容易に想像することができます。そうした苦難や困難に遭うことで、中には過去の生活に逆戻りする人たちもいたのです。そこで、そうした人たちを励ますために、そして、この信仰にしっかりととどまっているためにこの手紙が書かれました。 

 そうした人たちにとって、いったい何が励ましになったのでしょうか。それは主イエス・キリストご自身です。キリストがどのような方なのかを知り、この方をしっかりと見つめることが、そうした困難を乗り越える力となったのです。それゆえ、この手紙の著者はこう勧めるのです。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから、目を離さないようなしなさい。」(ヘブル12:2)それは、私たちにも言えることではないでしょうか。私たちも日々の生活の中で多くの問題に直面して苦しむことがありますが、そのような時でもキリストがどれほどすばらしい方であるのかを思い出し、この方を見つめるなら、大きな励ましを受けるのです。きょうは、この方がどれほど偉大な方であるのかをご一緒に見ていきたいと思います。 

Ⅰ.神は、預言者たちを通して語られた(1)

 

 まず1節をご覧ください。「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、」 

 この手紙は、いきなり「神は、」で始まります。「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られました」皆さん、まことの神は語られる方です。しかし、偶像はそうではありません。偶像は口があっても語ることができません。偶像は目があっても見ることができず、口があっても語ることができず、耳があっても聞くことができません。鼻があっても嗅ぐこともできないのです。詩篇115篇2~8節にはこうあります。

「2 なぜ、国々は言うのか。「彼らの神は、いったいどこにいるのか。」と。3 私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行なわれる。4 彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。5 口があっても語れず、目があっても見えない。6 耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。7 手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。8 これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。」 

偶像は語ることができませんが、まことの神は語ることができる方です。目を造られた方は見ることができるように、口を造られた方は語ることができるのです。神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法によって語られました。 

いったいなぜ神は語られたのでしょうか。それはご自身を現しすためです。もし神が語ってくださらなければ、どうやって神を知ることができるでしょう。もし神を知ることができなければ、どうやって神を信じることができるでしょうか。人間の知恵によっては神を知ることはできません。この世の宗教はそれを物語っているのではないでしょうか。この世の宗教は自分の知恵や力でがんばって神を知ろうしますが、どんなにがんばっても知ることはできません。自分の努力や、難行、苦行によって悟りを開こうとしても、開くことはできません。ただ神の側から近づいてくださらなければ、神が語ってくださらなければ、神を知ることはできないのです。だから、神は語ってくださったのです。 

いったい神はどのようにして語られたのでしょうか。ここには、「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して語られました。」とあります。「預言者たち」というのは、神のみこころを代弁して語る人たちのことです。神はご自分の語りたいことを、ある人たちを選んで語られました。それが預言者と言われる人たちのことです。預言とは遠い未来のことを予言する「予言」だけでなく、そのことも含んだ神のことば全体を預かり、それを語る人たちのことです。

また、「多くの部分に分け」というのは、部分的に、断片的に、段階的という意味です。神は、むかし先祖たちにご自分のみこころを、段階的に、断片的に語られました。それが旧約聖書です。旧約聖書は創世記からマラキ書まで全部で39巻ありますが、それは1,400年という歳月をかけ、いろいろな人たちによって語られたことがまとめられました。その中には農夫や漁師、羊飼いといった無学だと言われていた人々もいれば、学者や法律家のような学識者たちもいました。このように、旧約聖書は、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法によって語られたのです。ですから、ペテロはⅡペテロ1章21節でこう言っています。

「なぜなら、聖書は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」

 聖書は、決して人間の意志の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったものなのです。それゆえに聖書は神のことばであり、私たちがよって立つべき唯一の道しるべであると言えるのです。あなたはそのようにうけとめておられたでしょうか。 

 しかし、神は預言者たちを通してそのすべてを語ったのかというとそうではありません。それは部分的であり、また断片的なものであり、神の啓示のすべてではありませんでした。それは正しいものですが、それで完結していたのではありません。その完成のためにはある方の到来を待たなければなりませんでした。それが神の御子イエス・キリストです。 

 Ⅱ.神は御子によって語られた(2a) 

 そのことが2節の冒頭のところに述べられています。ここには、「この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」とあります。神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して語られましたが、この終わりの時には、御子によって語られました。御子とは神の御子イエス・キリストのことです。神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して語られましたが、この終わりの時には御子によって語られたのです。「終わりの時」というのは、救い主イエスが到来した時から始まった時代のことです。ですから、今はこの終わりの時でもあります。この終わりの時には御子によって語られました。どういうことでしょうか?つまり、神は初めご自分のみこころを部分的、断片的に見せてくださいましたが、この終わりの時には御子によってはっきりと示してくださったということです。

神の救いの計画は、最初の人アダムとエバが罪を犯した直後にすでに示されていました。創世記3章15節を見ると、神である主は蛇にこう仰せられました。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼はおまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

神は、女の子孫から出てくる方によって、敵である悪魔の頭を完全に踏み砕くと言われたのです。これが何を意味しているのはその時にははっきりわかりませんでした。しかし、やがて女子孫から生まれた神の御子イエス・キリストが十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたことによって、このみことばが成就したことがわかったのです。おまえは彼のかかとにかみつくということが十字架の預言であり、彼はおまえの頭を踏み砕くというのが復活の預言です。こうしてキリストは敵である悪魔に完全に勝利すると言われたこのことばが実現したのです。 

神はこれをもっと具体的に展開していきます。創世記12章に入ると、そのために神はアブラハムという一人の人物を選びこう告げるのです。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなる者としよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(12:1~3)

つまり、神はアブラハムの子孫から救い主を起こすと約束されたのです。地上のすべての民族は、彼によって祝福されるのです。 

そして、それはさらにダビデ王の子孫としてお生まれになる方だと告げられました。また、その方はユダヤのベツレヘムでお生まれになるとも語られました。そのようにしてお生まれになられた方こそ救い主がイエス・キリストだったのです。ですから、神は、むかし預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法によって語られましたが、この終わりの時には御子によって完全に語られたのです。御子は完全な神のかたちであり、神のことばの完全な現れだったのです。それゆえ、弟子のヨハネはこう証言しました。「わたしを見た者は、父を見たのです。」(ヨハネ14:9)イエスを見た者は、父を見たのです。イエスは見えない神かたちであり、神の栄光の現れです。イエスを見た者は目で見ることができなかい神を見たことと同じことなのです。 

 ですから、真の神がどのような方であるのかを知るには、このイエス・キリストがどのような方であるのかを知らなければなりません。キリストがどのような方であるのかを知れば、神がどのような方であるかがわかるのです。なぜなら、神は、御子によって私たちに語られたからです。 

 では、キリストはどのような方なのでしょうか。ある人は、キリストは偉大な教師だと言います。確かにそうです。けれども、キリストはそれだけにとどまりません。それ以上の方です。ある人は、いや、キリストは立派な道徳家だと言います。宗教家の一人だとも言います。そういう面もあるでしょう。けれども、キリストはそれ以上の方なのです。 

 Ⅲ.御子は神の栄光の輝き(2b-3) 

 ですから第三に、このキリストはどのような方なのかを見ていきたいと思います。2節後半から3節をご覧ください。ここには、「神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」

ここには、キリストがどのような方であるのか、その7つの特質が教えられています。

 第一に、キリストは、万物の相続者であります。ここには、「神は、御子を万物の相続者とし」とあります。子であれば親の財産を相続する特権にあずかっています。キリストは神の御子なので、父なる神の財産を相続する権利を持っておられるのです。

5節には、こうあります。「神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」これは詩篇2篇7節からの引用ですが、この「あなた」というのは、イエスさまにことです。イエスがヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた時、天が開け、神の御霊が鳩のように下り、天からこう告げる声が聞こえました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:17)イエスは神の子であり、父なる神のすべてのものを相続する権利が与えられているのです。 

そして、そればかりではなく、このキリストを信じて神の子とされたクリスチャンもまた神の子とせられ、キリストとの共同相続人になったと言われています。ローマ人の手紙8章16~17節にはこうあります。「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」 

皆さん、私たちはキリストを信じたことで神の子としての特権をいただき、キリストとともに神の財産を相続する者とされたのです。すごい特権ではないでしょうか。私たちは以前まことの神を知りませんでした。ですから、普通に何でも拝んでいたわけです。八百万の神と言って、日本には八百万の神がいて、いくつもの神を掛け持ちで拝んでいました。きょうはこっちの神かと思ったら、明日はあっちの神です。自分にご利益を与えてくれるものなら何でも構わなかったのです。「鰯(いわし)の頭も信心から」ということわざがありますが、つまらないものでも、信仰の対象となれば有り難いと思われるような存在だと、何でも拝んでいたのです。私たちはかつて、そうやって生きていたのです。しかし、神のことばである聖書によってイエスが神の御子、キリスト、救い主であると信じた瞬間に、私たちは神の子とされました。そして神の子としての特権が与えられたのです。神の民でなかった者が神の子とされ、キリストとともに万物を相続する者となったのです。 

第二に、キリストは万物の創造者です。ここに、「また御子によって世界を造られました」とあります。皆さん、この世界は御子によって造られました。聖書の一番初めの創世記1章1節には、「初めに、神が天と地を創造した。」とあります。これはとても有名なみことばで、このみことばを読んだだけで聖書の神を信じたという方も少なくありませんが、この神とはイエス・キリストのことだったのです。いやもっと正確に言うなら、イエス・キリストを含む三位一体の神であったということです。すなわち、父なる神、子なる神、聖霊なる神です。この三位一体の神がこの世界を造られたのです。 

それはヨハネの福音書1章1~3節を見てもわかります。「初めに、ことばかあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」キリストは万物の創造者です。すべてのものは、この方によって造られたのです。 

第三に、キリストは神の栄光の輝き、神ご自身であるということです。どういうことでしょうか。キリストは神であるということです。

ある時、イエスがペテロとヨハネとヤコブの3人の弟子を連れて非常に高い山に上られた時、彼らの目の前で御姿が変わったという出来事がありました。御顔は太陽のように輝き、その衣は光のようになりました(マタイ17:1~2)。ペテロはそれを見て何を思ったのか、黙っていることができず、イエスさまにこう言ったのです。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、よろしければ、私が、ここに三つの幕屋を作ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」(マタイ17:4)

そのとき、モーセとエリヤが現れて何やらイエスと話し合っているのを見て、彼はここに三つの幕屋を作ると言ったのでした。けれどもそれは彼の間違いでした。このとき彼はイエスさまをモーセやエリヤと同じレベルにまで引き下げてしまったのです。確かにモーセもエリヤも旧約聖書の偉大な聖徒たちでした。モーセは律法の代表であり、エリヤは預言者の代表です。しかし、彼らがどんなに偉大な信仰者であっても所詮人間の域を出ることはできず、イエスさまと比べものにはならないのです。イエスは神ご自身であり、神の栄光そのものであられる方だからです。 

私たちも同じ失敗をしてしまうことがあります。イエスさまをこの歴史上の偉人たちの一人のように考えてしまうことがあるのです。アブラハム・リンカーやジョージ・ワシントンのようなレベルにまで引き下げてしまう危険性があるのです。しかし、キリストは彼らとは全く比較にならないお方です。次元が違います。キリストは神ご自身であり、神の栄光の輝きそのものだからです。 

第四に、キリストは神の本質の完全な現れです。どういうことでしょうか?これは、キリストは神ご自身であるということです。キリストは神の御子であると同時に、父なる神と等しい方なのです。

ヨハネの福音書10章30節をご覧ください、ここには、「わたしと父とは一つです」とあります。イエスを見れば、父なる神がどのような方であるかがわかります。なぜなら、イエスは神の本質の完全な現れであるからです。 

第五に、キリストは万物を保っておられます。キリストは万物を造られただけでなく、それを保っておられる方です。どのようにしてでしょうか。その力あるみことばによってです。皆さん、キリストのことばには力があります。キリストが、「光よ、あれ」と言うと、光が出来ました。嵐に向かって、「黙れ、静まれ。」と命じると、風はやみ、大なぎになります。汚れた霊に向かって、「この人から出て行け」と命じると、出て行きました。また、会堂管理者ヤイロの娘が死んだとき、「タリタ・クミ」、少女よ、あなたに言う起きなさいという意味ですが、そのように言うと、少女は生き返られました。キリストがことばを発せられると、すべてのものはそれに服従するのです。この権威あるみことばを聞いた当時の人たちはこう言いました。「いったいこの方はどういう方なのだろう」

その答えは何か、その答えはこうです。この方は神の御子キリストです。この方は神なので、すべてのものはこの方のみことばに従うのです。キリストはその力あるみことばによって、万物を保っておられるのです。 

第六のことは、キリストは罪のきよめを成し遂げられた方であるということです。どういうことでしょうか。キリストがこの世に来られたのは、私たちの罪の身代わりとして十字架で死ぬためであり、キリストはその御業を成し遂げられたということです。 

皆さん、人はどうしたら罪が赦されるのでしょうか。聖書には、血を流すことがなければ罪の赦しはないと教えられています。それで旧約聖書の時代には自分の罪の身代わりとして、多くの動物がほふられました。祭司がその動物のいけにえの血を携えて至聖所の神の臨在のもとに行き、それを契約の箱のふたに注ぎかけることによって、赦されるとされました。それでイスラエルの民はたくさんの動物のいけにえをほふり、その血を取って神にささげたのです。 

けれども、そこには問題がありました。それはどんなに動物の血をささげても、また罪が思い出されるということです。人間は不完全な者なのでいつも罪を犯してしまうため、何度も何度も繰り返して動物のいけにえをほふらなければならなかったのです。それは完全なものではなく不完全なものでした。本体ではなく影にすぎませんでした。ではその本体とは何でしょうか?それはイエス・キリストです。動物のいけにえは神の完全ないけにえであるイエス・キリストを指し示すものでした。神は私たちの罪を赦すために動物の血ではなく神ご自身の血、神のひとり子を十字架につけることによってその救いの御業を完成してくださったのです。神はひとり子キリストをこの世に送り、私たちの身代わりに罪として十字架につけてくださることによって、私たちが支払わなければならない罪の代価を支払ってくださったのです。そのことによって私たちの罪を贖ってくださいました。それは私たちの過去の罪だけではありません。現在の罪も、これから未来に犯すであろう罪のすべてを、十字架の上で贖ってくださったのです。ですから、あなたがこのイエスをあなたの罪の救い主と信じた瞬間に、あなたのすべての罪は赦され、あなたは神のみとに大胆に近づくことができるのです。 

それはキリストが十字架で息を引き取る直前こう発せられたことばからもわかります。キリストは十字架で最後にこう言われました。「テテレスタイ」。意味は、「完了した」です。あなたの罪のきよめは完了しました。あなたの罪は赦されました。キリストがあなたの身代わりとなって十字架で死んでくださり、罪のきよめを成し遂げてくださったからです。このイエスを信じる者は誰でも救われるのです。 

第七番目のことは、キリストはすぐれて高いところの大能者の右の座に着かれました。どういうことでしょうか。座ったというのは仕事が終わったということです。キリストは罪のきよめを成し遂げて、神の右の座、神の権威の座に着かれました。このキリスト以外に、あなたを救うことができるものはありません。このキリスト以外に他のいかなるものも付け加えてはいけないのです。この方を信じることによってのみ、私たちは救われるのです。キリストは神の御子であられ、王の王、主の主であられる方なのです。 

あなたは、この神の御子イエス・キリストを見ているでしょうか?もし見ているなら、あなたの生き方が変わるはずです。あなたの人生にはいろいろな問題が起こるかもしれませんが、もはや何も恐れる必要はなくなるのです。私たちはいつもいろいろなことを思い煩って心配します。何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと、いつも心配がつきません。でも大切なことはあなたが心配することではなく、イエス・キリストがどのような方であるのかをよく知り、この方に信頼して、すべてをゆだねることです。そうすれば、人の考えにまさる神の平安が、あなたの心と思いをキリスト・イエスにあって守っていただけるはずです。

あなたは何を見ているでしょうか。この栄光の神の御子イエス・キリストを見てください。この方は万物の相続者であり、創造者であり、栄光の輝き、神の本質の完全なあらわれです。万物の保持者であり、罪のきよめを成し遂げられた方であり、万物の主権者であられます。この方をよく見てください。この方はあなたとともにおられます。そして、この方は決してあなたを見離さず、見捨てることはなさいません。そのように約束してくださいましたから。このイエスを見て、このイエスを神の御子と認め、いつもこの方のことを思い、この方にすべてをゆだねたいと思います。そうすれば、あなたは何も心配することなく、日々安心して過ごすことができるでしょう。この神の御子イエスを、きょう聖霊によって見させていただきましょう。神の祝福があなたに豊に注がれますように祈ります。

民数記29章

きょうは民数記29章から学びます。

Ⅰ.ラッパが吹き鳴らされる日(1-11)

「第七月には、その月の一日にあなたがたは聖なる会合を開かなければならない。あなたがたはどんな労役の仕事もしてはならない。これをあなたがたにとってラッパが吹き鳴らされる日としなければならない。」

28章からイスラエルの民が約束の地に入ってささげなければならないささげものの規定が記されてあります。これはすでに以前にも語られたことですが、ここでもう一度取り上げられているのは、約束の地に入る直前に新しい世代となったイスラエルの民に対して語られているからです。そして28章には常供のいけにえの他に、新月ごとにささげられるいけにえ、そして春の祭り、すなわち過ぎ越しの祭り、種なしパンの祭り、初穂の祭り、七週の祭りにおいてささげられるものについて語られました。この29章では、その例祭の続きですが、ここでは秋の祭りにおいてささげられるいけにえについて教えられています。それはラッパの祭り、贖いの日、仮庵の祭りの三つです。そしてこれらの祭りは何を表しているかというと、キリストの再臨とそれに伴う解放、そしてそれに続く千年王国です。そのときにささげられるいけにえはどのようなもなののでしょうか。

1節を見ると、七月の一日には聖なる会合を開かなければならないとあります。イスラエルのお祭りは全部で七つありますが、それは過ぎ越しの祭りからスタートしました。なぜ過ぎ越しの祭りからスタートするのでしょうか。それは、過ぎ越しの祭りが贖いを表していたからです。私たちの信仰のスタートは過ぎ越しの祭り、すなわち、キリストの十字架の贖いからスタートしなければなりません。そしてその年の七月の一日にはラッパが吹き鳴らされます。これは何を表しているのかというと、キリストの再臨です。その時には神のラッパが吹き鳴らされます。Ⅰテサロニケ4章16節には、「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下ってこられます。」とあります。神のラッパが吹き鳴らされるとき、キリストが天から下って来られるのです。その時にも、同じように全焼のいけにえをささげられます。

7節には、「この第七月の十日には、あなたがたは聖なる会合を開き、身を戒めなければならない。どんな仕事もしてはならない。」とあります。この日は贖罪日(『ヨム・キプール』(レビ記23:26~32)と言って、年に一度大祭司が至聖所に入って行き、イスラエルの民のために贖いをします。この日は戒める、すなわち、断食をしなければなりません。そして全焼のいけにえと穀物のささげもの、注ぎのささげものをささげます。

 

このラッパを吹き鳴らされる日は、キリストが教会のために再臨することを示しています。終わりのラッパとともに、私たちが一瞬のうちに変えられて、引き上げられて、空中で主と会うのです。そして贖罪日は、イスラエルが悔い改めて、その罪がきよめられる日です。教会が携挙されると、神は再びイスラエルに働きかけられます。イスラエルは、この地上で、これまでにないほどの苦難を受けますが、主が再び地上に戻ってきてくださり、イスラエルのために戦ってくださいます。そのとき彼らは、イエスこそが、待ち望んでいたキリストであることを知り、嘆いて悔い改めるのです。このときにイスラエルの贖いが成し遂げられ、「贖罪日」が実現するのです。

Ⅱ.仮庵の祭り(12-40)

 次に12節から40節までをご覧ください。ここには仮庵の祭りにおいてささげられるいけにえについて記されてあります。

「第七月の十五日には、あなたがたは聖なる会合を開かなければならない。どんな労役の仕事もしてはならない。あなたがたは七日間、主の祭りを祝いなさい。」

仮庵の祭りはもともと、イスラエルが約束の地に入るまで、神が彼らを守ってくださったことを祝う祭りです。この期間中、彼らは仮庵の中に住み、イスラエルを守られた神のことを思い起こすのです。けれども、ここにも預言的な意味があります。主が再び来られ、そして神の国を立てられて、この地上に至福の千年王国を樹立されるのです。仮庵の祭りは、この神の国を指し示しています。この祭りでは、一日ごとにたくさんのいけにえがささげられます。  「あなたがたは、主へのなだめのかおりの火によるささげ物として、全焼のいけにえ、すなわち、若い雄牛十三頭、雄羊二頭、一歳の雄の子羊十四頭をささげなさい。これらは傷のないものでなければならない。それにつく穀物のささげ物としては、油を混ぜた小麦粉を、雄牛十三頭のため、雄牛一頭につき十分の三エパ、雄羊二頭のため、雄羊一頭につき十分の二エパ、子羊十四頭のため、子羊一頭につき十分の一エパとする。罪のためのいけにえは雄やぎ一頭とする。これらは常供の全焼のいけにえと、その穀物のささげ物、および注ぎのささげ物以外のものである。」(13-16)  最初の日に全焼のいけにえとして雄牛13頭ささげられますが、二日目になると12頭になります。(17)そして七日目には、7頭の雄牛がささげられます。これは、最後の7に合わせて調整していたのかもしれません。35節を見ると、8日目には「きよめの集会」を開かなければならない、とあります。仮庵の祭りの初めの七日間は、祭司が水を流して、ハレル詩篇を歌います。けれども8日目には水を流しません。荒野の生活を終えてすでに約束の地に入ったからです。約束の地に入り、そこで神が与えてくださるすべての恵みを享受することができました

ヨハネの福音書7章37-38節を見ると、「さて、祭りの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の腹から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:38)とありますが、これは、この仮庵の祭りの8日目のことです。この大いなる日に、イエスは立って、このように言われたのです。この生ける水の川とは、聖霊のことを指しています。キリストを信じる者には、生ける水の川が流れ出るようになるのです。イエスを信じた瞬間に神の聖霊が注がれ、神の恵みが注がれます。そしてやがてキリストが樹立する千年王国において、この約束が完全に成就するのです。  こうして仮庵の祭りには、いけにえがいつもよりも数多くささげられますが、いったいなぜでしょうか。それは仮庵の祭りが神の国を表しているからです。神の国では多くのいけにえがささげられるからです。つまり、神の国は、絶え間なく神を礼拝するところなのです。この地上においても私たちはこうして集まって主を礼拝していますが、やがてもたらされる栄光の神の国ではいつも神への礼拝がささげられます。黙示録7章には神に贖われた神の民の姿が慧可が枯れていますが、彼らは、神と小羊との前に立って、大声で叫んでこういうのです。

「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にあり。」

「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。」

天国は絶え間なく、神への礼拝がささげられるところなのです。ですから、礼拝したくないという人は天国に入ることはできないのです。入っても苦痛に感じるでしょう。けれども、神に贖われたクリスチャンにとってはそうではありません。神に与えられた聖霊によって、私たちは喜びと感謝をもって、私たちの救い主なる神に感謝し、賛美をささげるのです。私たちの持っているすべてをもって神をほめたたえるのです。それがやがて来る神の国で私たちが行うことなのです。仮庵の祭りでそれほど多くのささげものがささげられるのは、そのことを表していたからです。

このように、イスラエルは約束の地にはいり、相続地を得ても、いや得ているからこそ主を礼拝しなければなりません。これは私たちクリスチャンも同じです。私たちはすでに約束のものを手にしているのですから、積極的に自分を主におゆだねすることによって、それを自分のものとして本当に楽しむことができるのです。ささげることなしに、この霊的交わりは起こりません。イスラエルのように、私たちも大胆に、主におささげしましょう。

ピレモンへの手紙1~25節

 きょうからピレモンへの手紙を学びたいと思います。といっても、きょうで終わります。このピレモンへの手紙はパウロからピレモンに宛てて書かれた手紙です。これはパウロの手紙の中では一番短い手紙です。使徒の働き28章の最後のところに、パウロはローマで2年間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、主イエスのことを教えたとありますが、その時に書かれました。なぜ書かれたのかというと、コロサイという町に住んでいたピレモンに、オネシモという奴隷のことで赦しを請うためです。オネシモはピレモンの奴隷でしたが彼のものを盗んでローマに逃げて行きました。しかし、どういうわけかそのローマでパウロに出会い、クリスチャンになったのです。たとえクリスチャンになったといえども、彼は奴隷の逃亡者です。当時のローマ社会には奴隷は多く、こうした反逆行為をした奴隷に対しては厳罰が課せられ、場合によっては処刑されることもあったのです。そこでパウロは、ピレモンの下から逃亡したオネシモを赦し、彼を受け入れてくれるようにと手紙を書きました。ですから、この手紙の中には聖書の大きなテーマの一つである「赦し」というものがどのようなものなのかが教えられているのです。きょうはこのピレモンへの手紙を通して、神の赦しについてご一緒に学びたいと思います。 

Ⅰ.ピレモンの信仰と愛(1-7) 

まず、1節から7節までをご覧ください。まず3節までをお読みします。 

「キリスト・イエスの囚人であるパウロ、および兄弟テモテから、私たちの愛する同労者ピレモンへ。また、姉妹アピヤ、私たちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」

この手紙はパウロとテモテから、ピレモンに宛てて書かれた手紙ですが、パウロは彼のことを「私たちの愛する同労者ピレモン」と呼んでいます。また、「姉妹アピヤ」と、「戦友アルキポ」はそれぞれピレモンの妻と息子の名前ですが、こういう言い方をしているのです。普通だったら、奥さんのアピヤさんによろしくとか、息子のアルキポさんによろしくと書くと思いますが、姉妹アピヤとか、戦友アルキポというような言い方をしているのです。

それはおそらく彼の家がただのクリスチャンファミリーというだけでなく、そこが家の教会だったからでしょう。コロサイの教会はエパフラスという人によって始められましたが、同じコロサイに住んでいたピレモンは信仰に導かれると自分の家を開放し、家の教会を始めていたのです。初代教会には会堂がなかったため、こうした家々で集会や交わりが持たれていたのですが、ピレモンの家はそのために用いられていたのです。彼だけでなく彼の妻も、息子も一家そろってその働きの中心を担っていたのです。だから姉妹アピヤとか、戦友アルキポといった表現が使われているのです。彼らは自分たちの生活を守って満足するのではなく、キリストの教会のために自分の家を開放し、さらにそのことに付随するすべての犠牲を喜んで払っていたのです。これからの日本の福音伝道を考えると、こうしたクリスチャンファミリーが、自分たちのできる範囲で、工夫と信仰を持って、このような「家の教会」を生み出していくことが求められているのではないでしょうか。そういう意味でピレモンは、パウロの同労者だったのです。

次に4~7節までをご覧ください。ここには、パウロのピレモンに対する感謝が書かれてあります。

「私は、祈りのうちにあなたのことを覚え、いつも私の神に感謝しています。それは、主イエスに対してあなたが抱いている信仰と、すべての聖徒に対するあなたの愛とについて聞いているからです。私たちの間でキリストのためになされているすべての良い行ないをよく知ることによって、あなたの信仰の交わりが生きて働くものとなりますように。私はあなたの愛から多くの喜びと慰めとを受けました。それは、聖徒たちの心が、兄弟よ、あなたによって力づけられたからです。」

パウロは、祈りのうちにピレモンのことを覚えて神に感謝しました。なぜなら、主イエスに対して彼が抱いている信仰と、すべての聖徒に対する彼の愛とについて聞いていたからです。このことをパウロに報告したのはおそらくエパフラスでしょう。この時彼はローマのパウロのもとにいましたが、同じコロサイにある教会のメンバーとして、ピレモンがいかに心から主に仕えているか見ていて、それをつぶさにパウロに報告していたのです。それにしても、このことを聞いたパウロはどんなにうれしかったことでしょう。伝道者にとって、自分が信仰に導いた人の良い信仰の評判を聞くことほどうれしいことはありません。それは親が自分の子どもの良い評判を聞いてうれしく思うのと同じです。パウロはそれをわがことのように喜びました。 

さて、パウロが聞いたピレモンについての良い評判ですが、それはまず主イエスに対する彼の信仰でした。彼がどのように信仰を持つようになったのかはわかりませんが、多分パウロがエペソで伝道していたとき、何らかのきっかけで主イエスの福音を聞き、信仰を持つようになったのではないかと思います。そして自分の奥さんも信仰に導き、さらには子供たちも信仰に導きました。ただ信仰に導いたというだけでなく、コロサイ4章17節を見ると、このアルキポはコロサイの教会で熱心に主に仕えていたことがわかります。ピレモンとその家族は熱心に主に仕え、人々からとても良い評判を得ていたのです。 

さらにピレモンは信仰ばかりでなく、愛においてもすばらしい人でした。それはすべての聖徒たちに対する愛で、イエス・キリストを信じることによって受けた神の愛です。自分のことだけでなく他の人のことも顧みる犠牲的な愛です。

イエス・キリストを信じると、その結果、神を愛するように変えられます。そして、神を愛するように変えられると、今度は兄弟を愛するように変えられるのです。以前は神に敵対し、自分のことしか考えられなかった者が、主イエスを信じたことによって神の愛を知り、自分のことばかりでなく、他の人のことも考えることができるようになるのです。 

今から約60年前の9月26日に、非常に大きな台風が日本を襲いました。そして青森と函館を結ぶ青函連絡船洞爺丸が沈没して、乗っていた乗客1,011人が亡くなるという大惨事が起こったのです。その中に二人のアメリカ人宣教師も入っていました。ストーンとリーバー宣教師です。船の中にどんどん水が入って来て沈みそうになったとき、乗っていた人たちは身近にあった救命道具を身に着け、海に飛び込み始めました。この二人の宣教師たちも、側にあった救命道具を身に着けて、飛び込もうとした時、若いカップルがパニックになっているのを見たのです。男性の方は救命道具がなく、女性の方は救命道具を持ってはいたのですが、壊れて使い物になりませんでした。そこで彼らはパニックになり、泣き叫んでいたのです。この二人を見た二人の宣教師は、自分たちの身に着けていた救命道具をすぐに脱いで、二人のカップルに差し出しました。それを手渡すとき、彼らはこう言いました。「これからの日本は、あなたがた若い人たちが作り上げていくべきです。そして、もしあなたがたが助かったなら教会に行ってください!」

どこの誰だかも知らない初めて会った人たちに、宣教師たちは、とっさに自分の来ていた救命道具を脱いで渡したのです。そうすれば、彼ら自身の命が助からないと知りながらです。なぜ彼らはそんなことをしたのでしょうか。別にしなくても良かったのです。彼らにも家族がいました。まだ小さな子どもたちがいたのです。アメリカからやって来て、やっと日本語を覚えて、これから神のために働こうとしていた矢先でした。まだ死ぬには早すぎます。でも彼らは自分たちのいのちを与えました。なぜそこまでしたのでしょうか。それは、彼らがカルバリの十字架で自分たちのためにしてくれた神の愛を知っていたからです。これがアガペーの愛です。自分を与える愛です。だからイエスがもしそこにいたとしたら、たぶんイエスがなされたであろうことをしただけなのです。そこには何の見返りもありませんでした。ここで、これをすれば、自分たちの名前が後世に残されるだろうなどということは全く考えませんでした。なぜなら、この若者たちだって死ぬ可能性があったし、たとえ助かったとしても、彼らが教会に行くかどうかなんてわからなかったからです。そうなれば、このうるわしい愛の物語も誰も知らないで終わってしまっていたはずです。だから、そうした見返りを期待したのではなく、ただイエス様だったらどうされるのかを考えて、しただけなのです。 

そして、それは彼らたけのことではありません。カルバリのあの十字架で死なれた主イエスの愛を知った人ならば、同じようにはできなくても、少なくとも、そのようにしたいという思いが起こされてくるのは当然のことではないでしょうか。ピレモンには、この神の愛が溢れていました。そしてパウロはこのピレモンの愛から多くの喜びと慰めを受けました。いいえ、それはパウロだけではありません。多くの聖徒たちの心が、彼によって力づけられたのです。彼の存在は、パウロばかりでなく、多くの聖徒たちにとっての喜びであり、慰めであり、励ましであったのです。あなたの存在はどうでしょうか。多くの聖徒たちにとって喜びとなっているでしょうか。慰めとなっているでしょうか。励ましとなっているでしょうか。そのような存在に聖霊を通して私たちもさせていただきたいと心から願う者であります。 

Ⅱ.ピレモンへの願い(8-17) 

 次に、この手紙を書き送った目的である本題に入ります。こうしたピレモンの信仰と愛を前提に、パウロは彼にオネシモのことで次のように書き送っています。8~17節までをご覧ください。まず12節までをお読みします。

「私は、あなたのなすべきことを、キリストにあって少しもはばからず命じることができるのですが、こういうわけですから、むしろ愛によって、あなたにお願いしたいと思います。年老いて、今はまたキリスト・イエスの囚人となっている私パウロが、獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています。そのオネシモを、あなたのもとに送り返します。彼は私の心そのものです。」

 

パウロのピレモンに対する願いとは何でしょうか。ここでパウロは、獄中で生んだわが子オネシモのことをピレモンに願っています。獄中で生んだといっても、パウロが出産したというわけではありません。パウロによって救いに導かれ、新しく生まれたということです。彼は、以前ピレモンにとって役に立たない者でしたが、今は、役に立つ者となりました。どういうことでしょうか?このオネシモはピレモンのところにいた奴隷でした。主人であったピレモンは良い人でしたが、オネシモは役に立たない者でした。役に立たないどころか、主人に損害を与えるようなことをしました。彼は主人ピレモンの物を盗み、おまけに逃亡を企てたのです。どこに?ローマにです。ローマに行けばそこにはたくさんの人がいるので、その雑踏の中で身を潜めていることができると思ったのでしょう。でもそのローマで何とパウロに出会ってしまったのです。どのようにしてであったのかはわかりません。だれかに誘われてパウロのもとに行きそこでイエス様の話を聞いたのか、あるいは、逃亡生活に疲れ果て、むなしくなって、自主でもするかのように自分からパウロのもとを訪れたのか、どのようにしてかはわかりませんが、不思議な神の導きによって、あの大都会のローマでパウロに出会ったのです。本当に不思議ですね。私たちだってこの小さな町に住んでいて、教会の外でバッタリ出会うというのは稀です。たまにスーパーなどでであったりすると、「あら、何、やだ、」なんて言って驚きを隠せません。毎週礼拝で会っているのに外で会うというのは意外とないのです。それなのにオネシモは今でいうと東京みたいな大都会でパウロにばったり出会ったのです。そして、信仰に導かれました。本当に不思議なことです。そしてすばらしいことは、彼は以前「役に立たたない者」でしたが、今は、「役に立つ者」に変えられたことです。

 

オネシモという名前の意味は「役に立つ者」です。しかし、彼は以前は役に立たない者でしたが、今は、その名前のごとく役に立つ者になりました。なぜでしょうか?なぜなら、彼は自分の罪を悔い改め、イエス・キリストを救い主として信じたからです。彼はキリストにあって新しく生まれ変わりました。「だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

オネシモは、キリストにあって新しく生まれ変わったのです。以前の彼は役に立たないどころか、むしろ害を与えるような人間でしたが、しかし、福音のすばらしさは、そんなオネシモさえも「役に立つ者」に造り変えることができるということです。彼は悔い改めて救われ、主に仕えていたことで、彼の信仰が本物であったことがわかります。パウロは彼を「彼は私の心そのものです」と言っています。いい言葉ですね。「心そのものです」あなたは、私の心そのものです、なんて言われたら、どんなにうれしいことでしょう。そんなふうに言われてみたいものですが、パウロはオネシモをそのように言いました。彼はそれほどまでに変えられていたのです。 

このオネシモの姿は、私たち自身の姿でもあります。私たちもかつては罪の中に死んでいて、全く役に立たない者でした。けれども、あわれみ豊かな神は、その大きなあわれみによって、罪過の中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。かつては害虫のような者だった私たちを、キリストとともに生かし、新しい人に、役に立つ者に変えてくださいました。福音にはそれほどの力があります。福音は人を全く新しく造り替えることができるのです。私たちもオネシモのように神の役に立つ者とさせていただきたいと願うものです。 

ところで12節を見ると、パウロはここでこのオネシモを、ピレモンのもとに送り返すと言っています。本当は自分のところにとどめておき、ピレモンに代わって自分に仕えてもらいたいとも考えましたが、そのようにすることはしないで、主人ピレモンのもとに送り返すことにしたのです。なぜでしょうか?14節にその理由が記されてあります。それは、「あなたの同意なしには何一つすまいと思いました。それは、あなたがしてくれる親切は強制されてではなく、自発的でなければいけないからです。」 

ピレモンがオネシモを赦して、受け入れることは、強制されてすることではなく、自発的なものでなければいけないからです。当時のローマの奴隷制度では、奴隷が主人から逃げたとき、捕まえたら主人は奴隷を死刑にすることができました。奴隷は当時六千万人いたとされ、自由人よりもはるかに多かったのです。ですから、奴隷の反乱を押さえるためにも、逃亡には厳しい処置が取られていました。ですから、当時の常識からすると、ピレモンがオネシモをそのまま赦すことは考えられないことでした。彼にとっても自分に損害を与えたオネシモの名前は聞きたくなかったでしょう。けれども、パウロは今、ピレモンが奴隷を持つ主人である前に、キリストにある兄弟であり、同労者であり、キリストの愛を持っている人であることを前提に、オネシモを赦してくれるように嘆願しているのです。 

8節にあるように、本来であれば、パウロはそのことを主の命令としてピレモンに命じることもできたのです。でも仮に形式的に赦したとしてもそれが自発的なものでなければ意味がありません。聖書には、自ら進んでささげるささげ物について何度も強調させていますが、ピレモンがオネシモを赦すことも、自発的でなければならなかったのです。 

15~17節をご覧ください。ここでパウロは、オネシモが行った過去の不幸な出来事がどういうことだったのかを、神の永遠のご計画によるものであったと指摘しています。すなわち、オネシモがしばらくの間ピレモンから離されたのは、彼を永久に取り戻すための神のご計画であったということです。そこにも神の目的と計画があったのです。すごいですね。パウロはこのことをローマ8章28節でこのように言っています。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

私たちの人生にも本当にいろいろなことが起こります。信仰を持ったからすべてがバラ色になるということはありません。信仰を持ったらいつもいいことばかりではないのです。そうではないこともあるのです。いや、そうでないことの方が多いかもしれません。しかし、たとえそうであっても、神がすべてのことを働かせて益としてくださるのです。神を信じている人たち、すなわち、クリスチャンはこのことを知っているので、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝することができるのです。 

それはこのオネシモについても言えることでした。オネシモか逃げたことは主人のピレモンにとっては大きな損失でしたが、神はそれをさらに大きな利益に変えてくださいました。そのことによってオネシモは救われ、新しい人に変えられ、主の役に立つ者になったのです。 

そのオネシモをピレモンのもとに送り返すのです。もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、すなわち、愛する兄弟として、彼を迎えてほしいというのです。それはオネシモが奴隷でなくなるということではありません。立場上は奴隷であっても、主にあって愛する兄弟姉妹となったということです。社会的な立場は変わりませんが、主にあって愛する兄弟姉妹となったのです。そのように受け入れてほしいと願ったのです。 

Ⅲ.ピレモンの赦し(18-25) 

さて、このようなパウロの願いに対してピレモンはどのように応答したでしょうか。ここには、ピレモンの取った行動がどのようなものであったかは書かれていませんが、確かに彼はパウロの願いを喜んで受け入れ、オネシモを心から赦したことでしょう。それは18節から22節までのパウロの言葉を見るとわかります。

「もし彼があなたに対して損害をかけたか、負債を負っているのでしたら、その請求は私にしてください。この手紙は私の自筆です。私がそれを支払います。・・あなたが今のようになれたのもまた、私によるのですが、そのことについては何も言いません。・・そうです。兄弟よ。私は、主にあって、あなたから益を受けたいのです。私の心をキリストにあって、元気づけてください。私はあなたの従順を確信して、あなたにこの手紙を書きました。私の言う以上のことをしてくださるあなたであると、知っているからです。それにまた、私の宿の用意もしておいてください。あなたがたの祈りによって、私もあなたがたのところに行けることと思っています。」

ここまで言われたら、「嫌です」とか、「ダメです」なんて言えたでしょうか。「しょうがないなぁ。本当は赦したくはないけれど、パウロ先生がそこまで言うのなら赦してあげましょう。」というような態度を取れたでしょうか。取れなかったと思います。特に19節には、「あなたが今のようになれたのもまた、私によるのですが、そのことについては何も言いません。」とありますが、ピレモンの今があるのはパウロの働きがあってのことでした。パウロが伝えてくれたので、彼はキリストの救いにあずかることができたのです。その命の恩人ともいえる人の願いを無下に断ることなどできなかったでしょう。きっと彼は涙を流し、主が自分のためにしてくださった救いの御業に感謝して、心からオネシモを赦したに違いありません。私たちが他の人に対して赦す根拠はここにあります。それは人にはできないことです。しかし、私のために自分のいのちまでも投げ出して救ってくださった主の十字架の愛と恵みを思うとき、初めて人を赦すことができるのです。 

しかも、何よりも、ピレモンはキリストの心を心としていました。ピレモンはパウロを通してキリストの福音を聞いたとき、その愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを知りました。その愛の大きさに比べたら、自分のことなんてどうでもいいように思えたことでしょう。

パウロは18節で、「もし彼があなたに対して損害をかけたか、負債を負っているのでしたら、その請求は私にしてください。」と言っています。いったいオネシモは主人ピレモンにどれだの損害を与えたのでしょうか。当時優秀な奴隷は500デナリの価値があったと言われています。オネシモがどれだけ優秀であったかわかりませんが、仮にオネシモが優秀な奴隷であって、その彼を損失したのであれば、彼は500デナリ相当の損害を受けたことになります。1デナリは1日分の日当ですから、500デナリというのは500日分の給料になります。約2年分の年収です。パウロはそれを支払うと言っているのです。年老いたパウロがどうやって支払うことができるでしょう。これは私の自筆ですと言って、絶対に支払いますと言っているのです。これを聞いたピレモンはどんな気持ちになったでしょうね。

「パウロ先生、もう十分です。損害だなんて、イエス様が私のために身代わりとなって十字架で支払ってくださったものは2年分の給料どころか、一生かかっても払いきれるような負債ではありませんでした。その負債を私は赦していただいたのです。だったら、そんな損害を請求する権利など私にあるでしょうか。ありません。私が今のようになれたのも、ただ神の一方的な恵みによるのです。そのような者にしてくださった神に心から感謝します。オネシモのことはパウロ先生、あなたにすべてお任せします。」そう言ったのではないでしょうか。 

私たちはみな、父なる神の御前に大きな借金を抱えていたような者です。それは罪の借金と言います。それは私たちが自分でどんなに頑張っても支払うことができるようなものではありませんでした。しかし、あわれみ豊かな神は私たちを愛してくださり、ひとり子イエス・キリストをこの世に遣わして、私たちの借金の身代わりとして十字架にかかって死んでくださいました。そして、だれでもこのイエスを救い主として信じるなら救われます。すなわち、その借金のすべてを免除していただけるのです。私たちが救われたのは、ただ神の恵みです。であれば、私たちはいったい何を主張することができるでしょうか。何もできません。私たちにできることは、主が私たちを赦してくださったように、私たちも互いに赦し合うことです。コロサイ3章13節を開いてください。ご一緒に読みましょう。

「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」 

 これが、神が私たちに願っておられることです。あなたがだれかに不満を抱くようなことがあっても、あなたがだれかに損害を受けるようなことがあっても、主があなたを赦してくださったように、あなたもそのように赦してあげなければなりません。 

 皆さんは、コルベという宣教師のことをご存じでしょうか?彼は1919年にアメリカから日本にやって来た宣教師ですが、しだいに軍国主義化していく日本では、いろいろな面で圧力が加えられ、ついに1939年に日本を追われ、フィリピンへ行かざるを得ませんでした。ところがフィリピンで日本兵に捕えられ、処刑されてしまうのです。日本兵の隊長は彼らに、「これからお前たちを処刑するが、30分だけ時間を与える。だから、最後の別れを惜しむがよい」と言ったそうです。それで、コルベ宣教師夫妻は聖書を取り出して、新約聖書のマタイの福音書5章から7章まで1節ずつ交読しました。15分くらいかかって読み終えた後、二人で一心に祈りました。「よし、やめい」という隊長の号令とともに、二人は日本刀で首を切られてしまいました。

 この知らせを聞いた二人の娘マーガレットとアリスは、悲しみに打ちひしがれてしまいました。彼女たちは勉学のためアメリカに帰国していたので難を逃れましたが、あまりにも悲しくて、そのように両親を殺した日本人を絶対に赦せないと思いました。しかし、ある日、祈っている時、ふと、「でも、あのとき、両親はどんな気持ちだったのだろう」と思いました。そして、きっと自分たちを殺した日本人の救いのために祈っていたのではないかと思わされたのです。

 それでマーガレットはその日本人のために愛を示したいと思うようになりました。そして、捕虜収容所に日本の軍人がいることを耳にし、そこでボランティアとして彼らの身の回りの世話をすることにしました。「いったいあの女性は何者なんだろう。本当に親切にしてくれて・・」と日本兵の間で話題になりました。それで、ある軍人が尋ねたのです。「あなたはどうしてこんなに親切にしてくれるのですか」と。すると彼女は事の成り行きを話しましたが、日本人の捕虜たちにはさっぱり理解できませんでした。日本の軍人たちは「親の仇は子が打て。子が打てない仇は孫が打て」と聞いて育ちましたから、彼女たちの気持ちがわからなかったのです。

 そして、いよいよ終戦後、捕虜たちが捕虜交換船で日本に帰って来ました。これを出迎えた人々の中に、かつて太平洋戦争勃発のとき、真珠湾攻撃の爆撃隊長だった淵田美津雄という元海軍大佐がいました。彼はこの話を捕虜から聞くのですが、やはりその意味がさっぱりわからなかったので、マーガレットの人生を変えたという聖書を手にして読み始めました。そして、ルカの福音書23章34節のところまで来たとき、彼は電気に打たれたような衝撃を受けました。そこには、自分を殺そうとしていた人たちのために、十字架で祈られたイエスがこう祈られたことが書いてあったからです。

 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

 彼は、この聖書の言葉に捕えられてイエス・キリストを信じ、余生をクリスチャンとして過ごしました。また、コルベ宣教師のもう一人の娘のアリスは、自分が働いて得た一年分の給料を日本の伝道のためにささげました。彼らは自分の両親を殺した日本人への憎しみを、大きな悲しい損失を、神の愛によって赦し、その日本人の救いのためにささげたのです。

 

 「あなたもそうしなさい。」これは私たちにも求められている神のみこころです。いやいやながらではなく、強いられてでもなく、喜んで、心から、そのように人を赦す者でありたいと思います。それは、主があなたのために何をしてくださったのか、主があなたをどれほど愛し、あなたを赦してくださったのかということをあなたがどれだけ受け止めているかによって決まるのです。

Ⅱテモテ4章9~22節 「最後まで忘れられない名前」

きょうは、第二テモテの最後の箇所、これはこの地上におけるパウロの最後の手紙ですので、パウロの最後の言葉となります。この最後の言葉からご一緒に学びたいと思います。

パウロの手紙の最後には、よく親しい人たちに向けてのあいさつが書かれていることが多いですが、ここにも同じようにあいさつが書かれています。しかし、ただ親しい人たちに向けてのあいさつばかりではなく、不名誉ながら、パウロを苦しめた人たちの名前も記録されています。いい意味でも、悪い意味でも、彼らはパウロにとって最後まで忘れられない名前でした。しかし、どうせ残るなら、いい意味で記憶に残る者でありたいと思います。きょうは、いい意味で最後まで忘れられなかった人たちとはどういう人たちだったのかを見ていきたいと思います。

Ⅰ.最後までパウロのそばにいた人たち(9-13)

まず9節から13節までをご覧ください。

「あなたは、何とかして、早く私のところに来てください。デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまい、また、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマテヤに行ったからです。ルカだけは私とともにおります。マルコを伴って、いっしょに来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。私はテキコをエペソに遣わしました。あなたが来るときは、トロアスでカルポのところに残しておいた上着を持って来てください。また、書物を、特に羊皮紙の物を持って来てください。」

ここには、最後までパウロのそばにいた人たちの名前が記されてあります。パウロはここでテモテに、「何とかして、早く私のところに来てください。」と言っています。それは21節でも繰り返して書かれてあります。しかも「何とかして」とか、「早く」とあるように、その思いが強く表れているのです。いったいなぜパウロはそんなにテモテに会いたかったのでしょうか。それは、自分の死期が近いことを感じていたからです。だれでも自分の死が近づくと、「あの人に会いたいなぁ」とか、「この人に会いたいなぁ」と思う人がいるものです。普段はなかなか会えない人でも、最後の時だから何とかして会いたいと思うものなのです。パウロにとってテモテはそういう人でした。パウロはテモテを「信仰によるわが子」と呼んでいますが、彼は実際の家族以上のつながりを持っていたのです。これまでずっと忠実に主に従ってきたテモテに、自分の最期の時をともにいてほしいと思ったのです。だれかの死が近づいたとき、あなたに会いたいと願う人がいるでしょうか。そのような存在になるためには、どうしたらいいのでしょうか。考えさせられますね。

10節をご覧ください。10節にはデマスという人について語られています。「デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまい」ました。ピレモンへの手紙24節を見ると、ここには「私の同労者たちであるマルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくと言っています。」と書いてあって、彼は「同労者」と呼ばれていましたほどの人であったことがわかります。あれからわずか6~7年の間に、彼は信仰から脱落してしまいました。最後まで信仰の道を走りぬくことができなかったのです。なぜでしょうか?ここには、「デマスは今の世を愛し」とあります。彼は、キリストに対する愛をこの世に向けてしまったのです。キリストに対する愛をこの世に向けてしまうと、このように悲しい結果になってしまいます。しかしながらそれはデマスだけのことでしょうか。私たちも同じような弱さを抱えているのではないでしょうか。だから私たちは互いに集まることを止めたりしないで、かの日が近づいていることを知り、ますますそうしようではないかと勧められているのです。そうしようではないかというのは、互いに励まし合い、助け合おうではないかということです。私たちは強いようでも、実際は本当に弱い者であることを覚えておかなければなりません。一人では信仰を保つことさえもできないのです。だから互いに集まって、助け合い、励まし合うことが必要なのです。どんなに初めが良くても、最後が悪ければ、それまでのすべての行程が悪くなってしまいます。

次に出てくるのは「クレメンス」と「テトス」です。彼らはそれぞれガラテヤとダルマテヤ、これは今のユーゴスラビアのことですが、そこに行きました。この「行った」というのはデマスのようにパウロを見捨てて行ったということではなく、パウロに遣わされて行ったということです。なぜそこへ行ったのかはわかりませんが、テトスは次のテトスへの手紙の受取人ですので、彼はテモテと同じように、問題のある教会に遣わされてその立て直しのために尽力したのでしょう。

そして11節をご覧ください。ここには感動的な二人の名前が出てきます。一人はルカで、もう一人はマルコです。まずルカについてですが、ここには、「ルカだけは私とともにおります。」とあります。いったいルカはなぜパウロとともにいたのでしょうか?それは、彼は片時もパウロから離れたくないと思っていたからです。ここからルカがどういう人であったかがわかります。彼はパウロの最も愛すべき人物のひとりでした。というのは、この時パウロはローマの地下牢に捕えられ間もなく打ち首にされようとしていましたが、それでも彼はパウロから離れないで、使徒の働き27章1節を見ると、「さて、私たちが船でイタリヤへ行くことが決まったとき、パウロはほかの数人の囚人は、ユリアスという親衛隊の百人隊長に引き渡された。」とあります。ここに「私たち」とあるのは、この時ルカも一緒だったということです。というのは、この使徒の働きはルカによって書かれたからです。パウロが囚人としてローマに行ったとき、ルカも同行したのです。当時はこのように逮捕された囚人がローマで裁判を受けるために送られるときには、二人の奴隷が同行することが許されていましたが、その一人がルカ自身だったのです。すなわち、彼はローマの獄中にパウロに同行するために自分を奴隷として登録したのです。だからパウロがこのルカのことを感動的な愛をもって語っているのも無理はありません。確かにこれ以上の献身はあり得ないからです。ルカはパウロから離れるよりもむしろ彼の奴隷となり、彼に仕えたいと願ったのです。

このルカについて新約聖書の中ではっきりと言及されている箇所は、他に二つしかありません。一つはコロサイ人への手紙4章14節ですが、そこには、「愛する医者」として紹介されています。ルカは医者でした。パウロは何らかの病気を抱えていてそれで苦しんでいましたが、そんなパウロを看護したのがこのルカだったのです。そして、パウロの苦痛を少しでも和らげるために、その持てる技術を駆使したのです。そうした看護のおかげで、パウロは働きを続けることができました。ルカは、ほんとうに親切な人でした。彼は大説教者でも大伝道者でもありませんでしたが、個人的奉仕という点から貢献した人だったのです。彼は医師として自分に与えられた賜物を通して主に仕えました。こうした親切心は、特に心に残るものがあります。雄弁は忘れられても、こうした親切心はいつまでも人々の心の中にしっかりと生き続けるからです。

私たちは明後日から渡米しますが、滞在する先はほとんど以前来日して交わりのあった人たちです。私たちは特に何かしたわけでもないのに多くの方々が「ぜひうちに来て泊まってください」と言っていただけるのはほんとうに感謝なことです。それはその人たちの中に、そのようなことを通して私たちと共に主にお仕えしたいという思いがあるからです。ピレモンへの手紙24節を見ると、パウロは彼を「同労者」と呼んでいますが、まさに彼はパウロの同労者だったのです。

ルカについてのもう一つの言及はⅡコリント8章18節と19にあります。そこには、「また私たちは、テトスといっしょに、ひとりの兄弟を送ります。この人は、福音の働きによって、すべての教会で称賛されていますが、そればかりでなく、この恵みのわざに携わっている私たちに同伴するよう諸教会かの任命を受けたのです。」とあります。この兄弟がだれのことなのかははっきり書かれてありませんが、これはルカのことでしょう。なぜなら彼はパウロに同行し、パウロの働きを助けていたからです。彼は、この福音の働きによって、すべての教会で称賛されていたのです。彼は誰からも慕われる存在でした。彼は死に至るまで忠実なパウロの友だったのです。そのルカについてパウロはここで言及しているのです。「ルカだけは私とともにいます。」

あなたはだれのそばにいますか。だれのそばにいて、その労苦を分かち合おうとしておられるでしょうか。ルカのようにパウロとともにいて、パウロの友となり、パウロの働きを担い、その奉仕に献身したいと思うような、そんな人になりたいとは思わないでしょうか。彼のように親切な心をもって主の働き人を支えていくような、そんな人になりたいとは思わないでしょうか。そういう人は、誰からも良く思われるようなすばらしい生涯を送ることができるのです。

11節には、もう一人感動的な人の名前が記されてあります。それはマルコです。このマルコはマルコの福音書を書いたマルコです。このマルコについてパウロは、彼を伴って、いっしょに来てください、とテモテに頼んでいます。彼はパウロの働きに役に立つからです。しかし、これまでの経緯を知っている人なら、パウロがこのように言うことに驚きを隠せないでしょう。というのは、マルコはパウロの第一次伝道旅行に同行しましたが、どういうわけか途中で働きを止め、さっさと家に帰ってしまったからです(使徒13:13)。思ったよりも大変だったのか、その危険と苦難に耐えられなかったのか、その理由ははっきりわかりません。しかし、数年後にもう一度伝道旅行に出かけることになった時、バルナバはこのマルコを連れて行こうとしましたが、パウロは働きの途中で仕事を投げ出してしまうような者は神の働きにふさわしくないと、断固として反対したのです。それでバルナバとパウロは激しい反目となり、結局バルナバはマルコを連れて、パウロはシラスを連れて出かけて行くことになり、彼らは別々の道を行くことになったのです。あの時は「あいつは役に立たない」と言ったパウロですが、今は違います。ここには、「彼は私の務めのために役に立つからです。」と言っているのです。

これは私たちにとっても励ましではないでしょうか。かつては自分のわがままでその働きを途中でやめてしまうような中途半端な者でも、やがて立ち直って主のお役に立つ者となれるのです。過去においてどんなに失敗しても、それで終わりということはありません。失敗しても希望があるのです。この人がマルコの福音書を書いたマルコになりました。

次に12節をご覧ください。ここには「テキコ」という人のことが紹介されています。パウロはこのテキコをエペソに遣わしました。つまりエペソにいたテモテにこの手紙を届けさせたということです。彼はコロサイの教会にも手紙を届けました(コロサイ4:7)が、それは、それだけ彼がパウロに信頼されていたということです。信頼されていなかったら、自分の大事なものを託すことはしないでしょう。

そして13節には、「あなたが来るときには、トロアスでカルポのところに残しておいた上着を持って来てください。また、書物を、特に羊皮紙の物を持って来てください。」とあります。パウロは、テモテが来るときは、トロアスに残しておいた上着を持って来てほしいと頼んでいます。多くの学者はこの記述から、パウロはローマの軟禁生活から解放されイスパニヤにまで行ったあと、このトロアスに戻って来たときに再び捕えられたのではないかと考えているのです。だから急いでいたので、上着を持って来ることができなかったのだろうというのです。しかし、もうすぐ冬になるのでその前に何とか上着を持って来てほしいと頼んでいるのです。

それから書物も持ってくるようにと頼んでいます。この書物が何であったかはわかりませんが、おそらく旧約聖書だったのではないかと考えられています。というのは、ここに「特に羊皮紙の物を持って来てください」とあるからです。当時、羊皮紙に書かれたものは大切な文書か、神聖な書物であったからです。死を前にした彼は神のことばを読み、栄光の天の御国に思いを馳せたかったのでしょう。

パウロが、その人生の最期の瞬間に会いたいと願っていたのはこのような人たちでした。このような人がずっとパウロのそばにいて助けてくれた人たちでした。彼らはパウロの喜びだったのです。私たちもそのような人になりたいですね。ですから、最後まで信仰の道を走り続ける者でありたいと願います。

Ⅱ.パウロを助けてくれた主(14-18)

次に14節から18節までをご覧ください。まず16節までをお読みします。

「銅細工人のアレキサンデルが私をひどく苦しめました。そのしわざに応じて主が彼に報いられます。あなたも彼を警戒しなさい。彼は私たちのことばに激しく逆らったからです。私の最初の弁明の際には、私を支持する者はだれもなく、みな私を見捨ててしまいました。どうか、彼らがそのためにさばかれることのありませんように。」

パウロはその生涯の終わりに、自分に仕え、支えてくれた人たちばかりでなく、逆に自分を苦しめた人たちの名前もあげています。そのひとりがアレキサンデルです。彼についてはⅠテモテ1章20節にも、信仰の破船にあった人と紹介されていました。彼は違った教えを説いて、パウロに激しく敵対しました。しかしパウロは、そんなアレキサンデルに対して個人的に恨むようなことをせず、神の怒りに任せました。「そのしわざに応じて主が彼に報いられます。」と言っています。そして、彼のことを警戒するようにとテモテに勧めています。

その他にもアレキサンデルのようにパウロを裏切り、彼を見捨ててしまった人はたくさんいました。16節には、「私の最初の弁明の最には、私を支持する者はだれもなく、みな私を見捨ててしまいました。」とあります。彼らはみな、パウロを見捨ててしまいました。けれども、パウロは、彼らが神によってさばかれることがないようにと祈っています。ここがパウロのすごいところです。人に恨まれても自分が恨むようなことはしませんでした。むしろ、そうした神のさばきから免れるようにと、罪の赦しのための祈りをささげているのです。なぜでしょうか?それは、彼も経験したことだからです。パウロはかつて主イエスを信じる人たちを迫害する者でした。そして、主の弟子であったステパノを殺す時には賛成もしたのです。そして、人々がステパノに向かって一斉に石を投げつけたとき、ステパノが祈った祈りを聞きました。ステパノはひざまずいて、こう叫びました。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」(使徒7:60)しかし、パウロはそんな声をかき消すかのように、その後ますます激しく迫害していくのですが、彼がダマスコに向かっていた時、復活の主イエスと出会いました。「あなたはどなたですか」「わたしはあなたが迫害しているイエスである。」それを聞いたとき、彼はあのステパノの祈りを思い出したのです。

しかし、それは主イエスの祈りでもありました。主イエスは十字架に付けられたとき、その十字架の上でこう祈られました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でもわからないのです。」(ルカ23:34)ここでパウロも同じ祈りをしているのです。これは私たちの祈りでもあるべきです。人々があなたをさげすみ、あなたにひどいことをしたり、あなたを裏切って見捨てて行ってしまうとき、あなたは何を言うでしょうか。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でもわからないのです。」それでこそ、父なる神の子どもになれるのです。

また、そのように同労者に見捨てかられても、彼らのためにパウロが祈ることができたのは、真に助けてくださる方に信頼していたからです。17節と18節のところでパウロはこう言っています。

「しかし、主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。それは、私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。私はししの口から助け出されました。主は私を、すべての悪のわざから助け出し、天の御国に救い入れてくださいます。主に、御栄えがとこしえにありますように。アーメン。」

すべての人がパウロを見捨ててしまった。一番助けてほしい、一番証言してほしい、そのような時に助けてくれるどころかみな去ってしまった。「しかし、主は」これはパウロが好んで使う表現です。「しかし、あなたは」「しかし、テモテよ」という表現がたくさん出てきます。状況はこうであっても、確かにそれで苦しいことがあっても、しかし、主は、パウロを見捨てることはしませんでした。パウロと一緒に立つ人はいなかったかもしれませんが、しかし、主は、ともに立ってくださり、力を与えてくださいました。それはパウロを通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。現に、この時パウロはローマ皇帝ネロの前に立ち、主を証することができました。彼は大胆に福音を語ることができたのです。主は彼をすべての悪のわざわいから助け出し、天の御国に入れてくださるという確信がありました。たとえこの地上の裁判の判決がどうであれ、たとえそれによって打ち首にされようとも、主は栄光の天の御国に入れてくださるということを思うと、もう賛美せずにはいられませんでした。彼は勝利の思いに満たされてこう賛美しました。「主に、御栄がとこしえにありますように。アーメン。」

これが信仰者の姿です。たとえあなたを苦しめる人がいても、あなたを見捨てて去って行く人がいたとしても、あなたはそのことでがっかりする必要はありません。しかし、主は、あなたとともに立ち、あなたに力を与えてくださり、すべての悪のわざわいから助け出して、天の御国に救い入れてくださるのですから、大いに喜び、賛美することができるのです。むしろ、あなたはそうした人たちのためにとりなし祈ることができるのです。何ということでしょうか。このことを思うとき、あなたは勝利の雄叫びを上げることができるのです。

あなたはどうでしょうか。あなたをひどく苦しめる人がいますか。あなたのことばに激しく逆らい、あなたを口汚くののしる人がいるでしょうか。もしそのような人がいるなら幸いです。喜びなさい。喜び踊りなさい。天において、あなたの受ける報いは大きいからです。神はあなたのためにすべてを働かせて益としてくださす。この神に感謝し、賛美しようではありませんか。

Ⅲ.すべては主の恵み(19-22)

最後に19節から22節までを見て終わりたいと思います。

「プリスカとアクラによろしく。また、オネシポロの家族によろしく。エラストはコリントにとどまり、トロピモは病気のためにミレトに残して来ました。何とかして、冬になる前に来てください。ユブロ、プデス、リノス、クラウデヤ、またすべての兄弟たちが、あなたによろしくと言っています。主があなたの霊とともにおられますように。恵みが、あなたがたとともにありますように。 」

ここには、パウロの最後の挨拶が記されてあります。ブリスカとアクラは、パウロが行くところどこにでも行って、パウロの働きを助けてくれた夫婦です。そのパウロが捕えられて、彼らは今どこにいるかというと、この手紙を送っているテモテが牧会していたエペソにいました。パウロがいなくなった今、彼らはエペソにいてテモテを助けていたのです。そのプリスカとアクラによろしくとあいさつを送っています。

つぎはオネシポロの家族によろしくと言っています。オネシポロについては1章16節にも出てきましたが、そこには、彼はローマにいたパウロを捜して見つけ出し、パウロが鎖につながれていることなど何のその、恥とも思わず、パウロに仕え、パウロを励ましてくれた、とあります。そして、パウロはそのことをとても感謝し、「かの日には、主があわれみを彼に示してくださいますように。」と言っているのです。おそらくこの時オネシポロはすでに召されていたのでしょう。でもその栄誉に報い、そのオネシポロの家族によろしくと言っているのだと思います。

そしてエラストにもあいさつを送っています。エラストはコリントの町の収入役でした(ローマ16:23-24)。彼はパウロの働きをよく助けてくれました。そんな彼をパウロはコリントにとどまらせていたのです

トロピモへの挨拶もあります。トロピモは病気のためにミレトに残してきました。パウロにはいやしの賜物が与えられていて、彼の前かけに触れただけで多くの人々がいやされましたが、トロピモはいやされませんでした。信仰があればすべての病気がいやされるわけではありません。いやされることもあれば、いやされないこともあります。でもいやされないからといって、必ずしもそれが不信仰だというわけではないのです。いやされるのは主ご自身であり、主が必要に応じてご自身の御業を行ってくださるので、その主にすべてをゆだねて祈ることが大切です。

その他、21節には、ユブロ、プデス、リノス、クラウデヤ、またすべての兄弟たちが、あなたによろしくと言っています。彼らも最後までパウロに従い、パウロにとってかけがえのない信仰の友でした。

そして、パウロの最後のことばです。22節をご一緒に読みましょう。「主があなたの霊とともにおられますように。恵みが、あなたがたとともにありますように。」

これがパウロの最後のことばです。最後にパウロはテモテの内側が強められるように祈りました。主があなたの霊とともにおられますように。神が彼に与えてくださったのは臆病の霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。その霊があなたとともにありますように。それはテモテばかりではありません。あなたも同じです。私たちの人生にもいろいろな問題が起こり、その度に、心が弱くなり臆病になってしまいがちですが、力と愛と慎みとの霊が、あなたとともにあって、あなたの心が強められるようにと祈っているのです。

そして、主の恵みが、あなたがたとともにありますようにと祈っています。すべては主の恵みです。主の恵みによって私たちは救われました。また、主の恵みによって主の働きをすることができます。すべては主の恵みなのです。主の恵みに始まり、最後までこの恵みの中を歩ませていただきましょう。そしてこの地上での生涯を賛美と感謝をもって全うさせていただきたいと思います。そういう人こそ最後まで忘れられない人なのです。

民数記28章

きょうは、民数記28章を学びます。

Ⅰ.主へのなだめのかおりの火によるささげもの(1-8)

まず1節から8節までをご覧ください。

「1 主はモーセに告げて仰せられた。28:2 「イスラエル人に命じて彼らに言え。あなたがたは、わたしへのなだめのかおりの火によるささげ物として、わたしへの食物のささげ物を、定められた時に、気をつけてわたしにささげなければならない。28:3 彼らに言え。これがあなたがたが主にささげる火によるささげ物である。一歳の傷のない雄の子羊を常供の全焼のいけにえとして、毎日二頭。28:4 一頭の子羊を朝ささげ、他の一頭の子羊を夕暮れにささげなければならない。28:5 穀物のささげ物としては、上質のオリーブ油四分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の一エパとする。28:6 これはシナイ山で定められた常供の全焼のいけにえであって、主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。28:7 それにつく注ぎのささげ物は子羊一頭につき四分の一ヒンとする。聖所で、主への注ぎのささげ物として強い酒を注ぎなさい。28:8 他の一頭の子羊は夕暮れにささげなければならない。これに朝の穀物のささげ物や、注ぎのささげ物と同じものを添えてささげなければならない。これは主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。」

ここには、イスラエルの民が約束の地に入ってから、ささげなければならない火によるささげものの規定が記されてあります。このささげものの規定については15章でも語られたばかりですが、ここで再び語られていす。なぜそんなに繰り返して記されてあるのでしょうか?なぜなら、このことはそれほど重要な内容だからです。イスラエルが約束に地に入ってからもどうしても忘れてはならなかったこと、それは彼らをエジプトから贖い出してくださった神を覚えることでした。私たちはすぐに忘れがちな者ですが、そのような中にあっても忘れることがないように、何度も何度も繰り返して語られているのです。しかも、ここでは語られている対象が変わっています。エジプトから出た20歳以上の男子はみなヨシュアとカレブ以外全員死にました。彼らは神のみことばに従わなかったので荒野で息絶えてしまったのです。今そこにいたのは新しい世代でした。以前はまだ小さくて聞いたことのなかった子どもたちが大きく成長していました。彼らが約束の地に入るのです。そんなさかれらが忘れてはならなかったのは、彼らの父祖たちが経験した神の恵みを忘れないことだったのです。

ここで主は、かおりの火によるささげものとして、神への食物のささげ物をささげるようにとあります。かおりの火によるささげものには、三つの種類がありました。一つは、全焼のいけにえ、もう一つは、穀物のささげもの、そしてもう一つが、注ぎのささげ物です。全焼のいけにえは、小羊をすべて祭壇の上で焼きます。穀物のささげものは、油をまぜた小麦粉です。それから、注ぎのささげ物は、ぶどう酒です。全焼のいけにえをささげて、このいけにえに、穀物のささげものと注ぎのささげものを供えます。これらは常供のいけにえです。常供のいけにえとは、日ごとにささげるいけにえのことで、それは毎日、朝と夕暮れにささげなければなりませんでした。

それにしても、ここには、「わたしへの食物のささげ物を、定められた時に、気をつけてささげなければならない」とあります。どういうことでしょうか?主はこのささげ物を食べるというのでしょうか?主は私たちからのこのようなささげ物を必要としているということなのでしょうか?そういうことではありません。それは、神によって罪の中から贖い出された者としてこの恵みに応答し、感謝して生きなさいということです。

パウロはローマ書12章1節でこのように言っています。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」

「そういうわけですから」というのは、それ以前のところで語られてきたことを受けてのことです。そこには、神の恵みにより、キリスト・イエスを信じる信仰によって、価なしに義と認められたということが語られてきました。そのように罪から救われたクリスチャンに求められていることは、自分を神にささげることです。これこそ、霊的な礼拝なのです。神の喜びのために生きるということであります。神が求めておられるのは私たちの何かではなく、私たち自身です。私たちのすべてなのです。私たち自身が神と一つとなり、私たちを通して主の栄光があがめられること、それが主の喜びなのです。そして、それが現される手段が礼拝であり、ささげ物なのです。その時、私たち自身にも究極的な喜びがもたらされるのです。

今週の礼拝のメッセージはテモテ第二の手紙4章からでしたが、その中でパウロは、「私は今や注ぎの供え物となります。」(4:6)言っています。彼はそのように生きていたということです。彼の生涯は、自分のすべてを主にささげる生涯でした。彼は全く主に自分をささげていたのです。これを献身というのです。主が求めておられたのはこの献身だったのです。イスラエルは今神が約束してくださった地に入ろうとしていました。そんな彼らに求められていたことは、主に自分自身をささげるということだったのです。

Ⅱ.安息日ごとのささげもの(9-10)

次に9節と10節をご覧ください。

「9 安息日には、一歳の傷のない雄の子羊二頭と、穀物のささげ物として油を混ぜた小麦粉十分の二エパと、それにつく注ぎのささげ物とする。10 これは、常供の全焼のいけにえとその注ぎのささげ物とに加えられる、安息日ごとの全焼のいけにえである。」

ここには安息日ごとのささげものについて記されてあります。安息日ごとのささげものは、常供のいけにえの他に加えてささげられます。ここで大切なのは「加えて」ということです。プラスしてです。私たちは日毎に、主の前に出ていかねばなりませんが、主の日にはそれにブラスして主の前に出て行かなければなりません。毎日礼拝していれば別に主の日だからといって礼拝する必要はないというのではなく、毎日礼拝していればなおのこと、主の日を大切にして、それに加えて主の前に出て行かなければなりません。あるいは、毎日忙しいので日曜日だけは礼拝するというのも違います。主の日が常供のささげものを代用することはできないのです。ですから、主の日に礼拝すれば自分の務めを果たしているとは言うことはできず、それは日ごとの礼拝の他にささげられる物で、むしろ日毎の礼拝の延長に、他の信者と集まっての礼拝があると言えるでしょう。

Ⅲ.新月の祭り(11-15)

次に、新月の祭りについてです。11節から15節までをご覧ください。

「11 あなたがたは月の第一日に、主への全焼のいけにえとして若い雄牛二頭、雄羊一頭、一歳の傷のない雄の子羊七頭をささげなければならない。28:12 雄牛一頭については、穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉十分の三エパ。雄羊一頭については、穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉十分の二エパとする。28:13 子羊一頭については、穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉十分の一エパ。これらはなだめのかおりの全焼のいけにえであって、主への火によるささげ物である。28:14 それにつく注ぎのささげ物は、雄牛一頭については二分の一ヒン、雄羊一頭については三分の一ヒン、子羊一頭については四分の一ヒンのぶどう酒でなければならない。これは一年を通して毎月の、新月祭の全焼のいけにえである。28:15 常供の全焼のいけにえとその注ぎのささげ物に加えて、雄やぎ一頭が、主への罪のためのいけにえとしてささげられなければならない。」

今度は、月の第一日、つまり新月にも供え物をするようにと命じられています。これは、民数記で新しく出てきた規定です。新月のささげものは全焼のいけにえが中心ですが、罪のためのいけにえもささげられます。しかしそれは全焼のいけにえと比べると非常に少ないことがわかります。この後のところに、例年行う祭りのささげ物の規定が出てきますが、そこでも同じです。罪のためのいけにえは全焼のいけにえと比べれば圧倒的に少なくなっています。これはいったいどうしてなのでしょうか?

それは、礼拝とは、「悔い改めにいくところ」ではないということです。毎日の生活で罪を犯してしまうので、その罪が赦されるために礼拝にいかなければいけない、ということではないのです。勿論、悔い改めるは重要なことですが、それが礼拝の中心ではありません。礼拝とは、自分自身を主にささげることであり、そこにある喜びと平和、そして聖霊による神の臨在を楽しむところなのです。イスラエルの民は新しく入るそのところで、自分たちを愛し、そのように導いてくださった主を覚え、日ごとに、週ごとに、そして月ごとに、すなわち、いつも主と交わり、主が良くしてくださったことを覚えて、主に心からの感謝をささげなければならなかったのです。

Ⅳ.春の祭り(16-31)

最後に、春の祭りの規定を見ておわりたいと思います。16節から31節までをご覧ください。まず16節から25節までをご覧ください。

「16 第一の月の十四日は、過越のいけにえを主にささげなさい。17 この月の十五日は祭りである。七日間、種を入れないパンを食べなければならない。18 その最初の日には、聖なる会合を開き、どんな労役の仕事もしてはならない。19 あなたがたは、主への火によるささげ物、全焼のいけにえとして、若い雄牛二頭、雄羊一頭、一歳の雄の子羊七頭をささげなければならない。それはあなたがたにとって傷のないものでなければならない。20 それにつく穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉を、雄牛一頭につき十分の三エパ、雄羊一頭につき十分の二エパをささげなければならない。21 子羊七頭には、一頭につき十分の一エパをささげなければならない。22 あなたがたの贖いのためには、罪のためのいけにえとして、雄やぎ一頭とする。23 あなたがたは、常供の全焼のいけにえである朝の全焼のいけにえのほかに、これらの物をささげなければならない。24 このように七日間、毎日主へのなだめのかおりの火によるささげ物を食物としてささげなければならない。これは常供の全焼のいけにえとその注ぎのささげ物とに加えてささげられなければならない。25 七日目にあなたがたは聖なる会合を開かなければならない。どんな労役の仕事もしてはならない。」

例祭、すなわち、毎年恒例の祭りは、過越の祭りからはじまりました。これがユダヤ人にとってのスタートだったのです。なぜ過越の祭りから恥じるのでしょうか?それは、これが贖いを表していたからです。私たちの信仰は贖いから始まります。だから、過ぎ越しの小羊を覚え、それを感謝しなければなりません。それは十字架に付けられたイエス・キリストを示していたからです。ペテロは、「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(1ペテロ1:18-19)と言いました。これが私たちの信仰土台です。それは新しいイスラエルの民が、新しい約束の地に入ってからも変わりません。彼らはこれまでと同じように、まず過ぎ越しの祭りから始めなければなりませんでした。

そして、この過ぎ越しの祭りに続いて、種なしパンの祭りが行われました。その時彼らは種を入れないパンを食べなければなりませんでした。なぜでしょうか?罪が赦されたからです。キリストの血によって罪が赦され、罪が取り除かれました。もうパン種がなくなったのです。だから、古いパン種で祭りをしたりしないで、パン種の入らないパンで祭りをしなければなりません。それが種を入れないパンの祭りです。すなわちそれは、キリストによって罪が取り除かれたことを祝う祭りのことだったのです。

次は、初穂の祭り、すなわち、七週の祭りです。26節から31節です。

「26初穂の日、すなわち七週の祭りに新しい穀物のささげ物を主にささげるとき、あなたがたは聖なる会合を開かなければならない。どんな労役の仕事もしてはならない。27 あなたがたは、主へのなだめのかおりとして、全焼のいけにえ、すなわち、若い雄牛二頭、雄羊一頭、一歳の雄の子羊七頭をささげなさい。28 それにつく穀物のささげ物としては、油を混ぜた小麦粉を、雄牛一頭につき十分の三エパ、雄羊一頭につき十分の二エパとする。29 七頭の子羊には、一頭につき十分の一エパとする。30 あなたがたの贖いのためには、雄やぎ一頭とする。31 あなたがたは、常供の全焼のいけにえとその穀物のささげ物のほかに、これらのものと・・これらは傷のないものでなければならない。・・・・それらにつく注ぎのささげ物とをささげなければならない。」

初穂の祭りは、過ぎ越しの祭りの三日目、つまり過ぎ越しの祭りの後の最初の日曜日に行われました。これはキリストの復活を表していました。キリストは過越の祭りの時に十字架で死なれ、墓に葬られました。そして、安息日が終わった翌日の日曜日に復活されました。日曜日の朝早く女たちが、イエスに香料を塗ろうと墓にやって来くると、墓の石は取り除かれていました。そこに御使いがいて、女たちにこう言いました。「この方はここにはおられません。よみがえられたのです。」そうです、初穂の祭りは、イエス・キリストの復活を表していたのです。使徒パウロはこう言いました。コリント人への手紙第一15章20節です。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」キリストは、私たちのために死んでくださり、その血によって罪を赦し、きよめてくださっただけではなく、よみがえってくださいました。よみがえって、今も生きておられます。そのことを覚えて、主に感謝のいけにえをささげるのです。それは全焼のいけにえ、穀物のささげもの、そして注ぎのささげ物です。

それは初穂の日だけではありません。ここには七週の祭り、すなわち、ペンテコステにもささげ物をささげるようにと命じられています。それは聖霊が下られたことを記念する祭りです。もちろん、ユダヤ人にとってはこれが何を意味しているのかはわからなかったと思いますが・・・。

このように、イスラエルが約束の地に入っからも忘れずに行わなければならなかったことは、火による全焼のいけにえ、穀物のささげ物、そして注ぎのささげ物をささげなければなりませんでした。それは神への献身、神への感謝を表すものです。

これが、イスラエルが約束の地に入る備えでした。約束の地に入るイスラエルにとって求められていたことは、神へのいけにえをささげることによっていつも神を礼拝し、神と交わり、神に感謝し、神の恵みを忘れないだけでなく、その神の恵みに応答して、自分のすべてを主におささげすることだったのです。日ごとに、朝ごとに、そして夕ごとに。また、週ごとに、新しい月ごとに、その節目、節目に、主が成してくださったことを覚えて感謝し、その方を礼拝することが求められていたのです。

私たちはどうでしょうか?新しい地に導かれた者として、いつも主を礼拝し、主に心からの礼拝をささげているでしょうか?神があなたのためにしてくださった奇しい御業を覚えて、いつも主に感謝し、心からの礼拝をささげましょう。