イザヤ55:6-13 レジュメ

「主を求めよ、お会いできる間に」                               No.88

Ⅰ.豊かに赦してくださるから(6-7) 

 主のしもべの救いのみわざに対する応答としての招きが語られている。「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。」(6)主のしもべによって成し遂げられた救いを受けたいと願うなら、いつも近くにおられるわけでもない。その期間は限られている。だから、お会いできる間に、近くにおられるうちに求めなければならない。そうすれば、主はあわれんでくださる。豊かに赦してくださるのである。私たちは、取り返しのつかない過ちを犯したら、それで人生が終わりだと考えるがそうではない。たとえ赦されたとしても、そう簡単に赦されるはずがないと思うがそうではない。神は豊かに赦してくださる。神にとって赦されない罪など一つもない。神を信じないということ以外には・・・。救い主イエスを信じるなら、どんな罪でも赦していただける。なぜなら、イエスはあなたのすべての罪を背負い十字架で死んでくださったからだ。だから、あなたがイエスを自分の人生の救い主として信じるなら、その瞬間に、あなたの過去、現在、未来のすべての罪が赦されるのである。

Ⅱ.私たちよりも高い神の道、神の思い(8-9)

いったいなぜそのようなことができるのだろうか?なぜなら、神の道、神の思いは私たちとは異なるからだ。天が地よりもはるかに高いように、神の道は、私たちの道よりも高く、神の思いは、私たちの思いよりも高い。そこには大きなギャップがある。私たちは有限であり、限られた知識しか持っていないが、神は全知全能であり、過去も、現在も、未来もすべて知っておられる。その神が、私たちの人生に完全な計画を持っておられるのだ。

であれば、この神を信じ、この神にすべてをゆだねることが最善である。私たちは自分のことは自分が一番よく知っていると思っているが、実はそうではない。あなたのことを一番よく知っておられるのは神である。なぜなら、神があなたを造られたからだ。あなたの将来がどのようになるのかも含めて、神はあなたのすべてを知っておられるのである。だから、この神にあなたのすべてをゆだね、あなたの思いではなく神の思いに焦点を合わせ、あなたの道ではなく、神の道に歩まなければならない。

Ⅲ.神のことばはむなしく帰ってこない(10~13)

その結果が、雨や雪にたとえられている。「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」(10-11)神のことばが語られるとすべてが変わる。これまで砂漠のように荒涼としていた心が緑となり、美しい花を咲かせるようになる。その結果、「あなたがたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。山と丘とは、あなたがたの前で喜びの歓声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。いばらの代わりにもみの木が、おどろの代わりにミルトスが生える。」(12-13)「もみの木」や「ミルトス」は常緑樹で、祝福の象徴である。のろいの象徴であるいばらやおどろの代わりに、もみの木やミルトスが生えるのである。イエス・キリストを信じることによってのろいが祝福に変えられる。過去の過ちも、過去の罪も、イエスを信じることによってすべてが益に変えられる。なんとすばらしい約束であろうか。この約束が私たちにも与えられている。あなたもこの祝福の人生を歩むことができる。

しかし、それはいつまでもということではない。主とお会いできる間に、主が近くにおられるうちに求めなければならない。今晩、あなたがどうなるかなどだれにもわからない。明日まで大丈夫であるとは限らない。だから、お会いできる間に、近くにおられるうちに、呼び求めなければならない。主を呼び求める者は、だれでも救われる。主があなたをあわれみ、豊かに赦してくださるからである。

イザヤ書55章6~13節 「主を求めよ。お会いできる間に」

きょうは55章6節からのみことばから、「主を求めよ、お会いできる間に」というタイトルでお話したいと思います。この55章には、神からの招きが語られています。53章のところで主のしもべによる救いの御業が語られ、54章では、その救いの御業によってすばらしい祝福、天の御国がもたらされると約束されました。その救いへと招かれているのです。1節には、「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。」と勧められています。

そして、きょうのところにも、「主を呼び求めよ。お会いできる間に」と語られています。どんなに神が近くにおられても、その神を個人的に呼び求めることがなければ、その祝福を受けることができません。主の御業に対する最もふさわしい応答は、主を求めることなのです。きょうは、このことについて三つのことをお話たいと思います。

Ⅰ.豊かに赦してくださるから(6-7)

まず第一のことは、なぜ主を求めなければならないのかについてです。なぜなら、主は赦してくださるからです。6節と7節をご覧ください。「主を求めよ。お会いできる間に、近くおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」

1節には、「渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のなす者も。」と驚くべき招きが語られていましたが、ここではさらに驚くべき招きが語られています。それは、主を求めるなら、たとえ悪者であっても、たとえ不法者であっても、赦してくださるということです。一般に「悪者」とか「不法者」というのは神から離れ、自分勝手な道を歩んでいるので、神から見離されても致し方ないように思いますが、神はそんな彼らの近くにおられ、あわれんでくださるのです。ですから、私たちはおのれの道を捨て、主を呼び求めなければなりません。

皆さんはいかがでしょうか。神の道ではなく己(おのれ)の道を歩んではいないでしょうか。神のはかりごと(計画)ではなく己のはかりごとにこだわってはいないでしょうか。イエス様を自分の救い主として信じても、まだ自分のやりたいようにやりたい、生きたいように生きたいという思いが強くないでしょうか。

イエス様はこう言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マルコ8:34)自分の考えをしっかりと持っていることは大切なことですが、それがあまりにも強くなりすぎると、神のことばが聞けなくなってしまいます。ですから、自分を捨てなければなりません。自分の道ではなく神の道を求め、自分のはかりごとではなく神のはかりごとに歩むまなければならないのです。人の目には愚かに見えても、神のことばを聞き、その通りに歩むなら、神が祝福してくださるからです。

主に立ち帰りましょう。そうすれば、主はあわれんでくださいます。私たちの神に帰りましょう。そうすれば、豊かに赦してくださるのです。豊かにです。私たちの神は豊かに赦してくださる方なのです。私たちは、取り返しのつかないことをしてまったらもうだめだと思いがちです。決して赦されることはないと考えますが、そうではありません。たとえ赦されることがあったとしても、そう簡単なことではないでしょう。難行苦行をして、お布施をたくさんしなければ赦されないと考えますが、違うのです。私たちの神は赦しの神なのです。豊かに赦してくださる方なのです。神にとって赦せない罪など一つもありません。一つの例外を除いては・・。何でしょうか。それは聖霊を冒涜することです。人はどんな罪でも赦していただけますが、聖霊を冒涜する罪だけは赦されません。(マルコ3:28-29)。なぜなら、せっかく聖霊が聖書のみことばを通して罪を示し、その罪からの救いがイエスであるということを語っても、それを拒絶して受け入れなければ、救われる道はないからです。そのような人は永遠に赦されることはありません。しかし、それ以外の罪はどんな罪でも赦されます。イエス・キリストが十字架で贖ってくださいました。このイエスが赦せない罪など一つもないのです。あなたがイエスを自分の救い主として受け入れ信じたその瞬間に、あなたの過去、現在、未来のすべての罪が赦されるのです。それがどれほど大きな罪であっても、あなたのすべての罪は赦されるのです。

Iヨハネ1章9節を開いてみましょう。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」  これが神の約束です。もし私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。これは驚くべき恵みではないでしょうか。人知をはるかに越えた赦し、これが神の赦しなのです。もしあなたが主を求めるなら、自分の思い、自分の考え、自分の価値観、自分の計画、自分のはかりごとを捨て、主に立ち帰るなら、主はあなたをあわんでくださいます。豊かに赦してくださるのです。

しかし、ここには一つだけ条件があります。それは「お会いできる間に」です。また「近くにおられるうちに」です。つまり、期限が限られているのです。いつまでもお会いできるとは限りません。いつまでも近くにおられるわけではないのです。やがてお会いしたくてもお会いできなくなる時がやって来ます。やがて遠くに行ってしまわれる時がやって来るのです。その時になってからでは遅いのです。ですからお会いできる間に、近くにおられるうちに求めなければなりません。あなたはいかがでしょうか。もしあなたがまだイエス様を信じていないのなら、信じるのを遅らせてはなりません。「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)今が信じるチャンスです。私たちがどんなに悪者でも、どんなに不法者でも、主は今、あなたの近くにおられます。ですから、その間に主を求めなければなりません。そのうちに、主を呼び求めなければならないのです。

Ⅱ.私たちよりも高い神の道、神の思い(8-9)

次に8~9節を見てください。いったいなぜそのようなことが言えるのでしょうか?なぜなら、神の道、神の思いは私たちとは異なり、はるかに高いからです。 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。―主の御告げ― 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」

確かに違います。私たちが考える赦しと神の赦しは全然違います。もう次元が違うんです。天が地よりも高いように、神の思いと私たちの思い、神の道と私たちの道は全く異なります。自分の考えと神の考えを比べてほしいと思います。そうすれば、全然違うことがわかるでしょう。そこには大きなギャップ(差)があります。なぜなら、私たちは神ではないからです。神は全知全能であられ、すべてを知っておられますが、私たちは有限であり、限られた知識しか持っていません。未来のことなど知る由もないのです。でも神は違います。神は過去も、現在も、未来もすべてを知っておられます。私たちは自分の人生は自分が一番よく知っていると思っていますが、実際はそうではありません。あなたのことを一番よく知っておられるのは神様なのです。なぜなら、神があなたを造られたからです。ですから、神はあなたの将来がどうなるのかも知っておられるのです。神はあなたが見えないものも見ておられ、知らないことも知っておられます。神は完全であられ、完全な計画を持っておられるのです。

であれば、神を信じて、すべてを神にゆだねて生きることこそ最も賢い選択だと言えるのではないでしょうか。あなたは自分で何でもわかっていると思っているかもしれませんが、限られた知識でしかないのです。自分ではベストだと思っているかもしれませんが、神はそれとは別の、全く違う計画を持っておられるのです。

かつてペルシャの王のもとにとついだエステルは、いったいなぜ自分が異国の王妃などにならなければならないのかさっぱりわかりませんでしたが、モルデカイのことでユダヤ人が絶滅の危機に陥ったとき、自分がこの国に来たのは、もしかするとこの時のためであるかもしれない。」(エステル記4:14)と悟ったように、神は完全な計画をもっておられるのです。  天が地よりも高いように、神の道は、私たちの道よりも高く、神の思いは、私たちの思いよりも高いのです。

であれば、自分であれこれと思い煩うのをやめて、すべてをこの神にゆだねて祈るべきではないでしょうか。イエス様はゲッセマネの園で、「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22:42)と祈られましたが、その祈りを私たちの祈りとしなければなりません。これがベストだからです。あなたの考えよりもはるかに高い神の偉大な計画が、あなたのために用意されているのです。この神の計画に信頼しなければなりません。神はあなたを愛して止まないので、あなたにとって最善の道を用意しておられます。なぜなら、神はあなたに一番大切なひとり子を与えてくださったからです。ですから、神の計画は最善であって、それ以下ではありません。その神の計画にすべてをゆだねなければなりません。イエスのように、みこころが天で行われるように、地でも行われますように。わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください、と祈らなければならないのです。

Ⅲ.神のことばはむなしく帰って来ない(10-13)

第三にその結果です。神を信じ、神にすべてをゆだねて生きるとき、どのようなことが起こるのでしょうか。それは神の祝福に満たされるということです。 10節と11節までをお読みします。 「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」

ここでは、神のことばが雨や雪にたとえられています。雨や雪が天から降るともとに戻らず、必ず地を潤して、そこに物を生えさせるように、神のことばも決してむなしく帰ってくることはありません。イスラエルには滅多に雨が降りません。イスラエルには雨期と乾期があって、雨期は冬ですが、その雨期が終わると植物は一気に芽を出します。これまで荒野だったところが緑となり、美しい花を咲かせます。同じように、神のことばが語られると、それを聞いた人々の心がどんなにカラカラに渇いていても豊かに潤され、きれいな花を咲かせるようになるのです。これまでしおれていたような人も、不毛の状態にあった人も、緑豊かな心へと変えられるのです。これがクリスチャンの人生です。神のことばがその人の心に蒔かれると、その心は生き生きしてきます。物の考え方、価値観が変わり、言うことややることも変えられます。性格も習慣もすっかり変わるのです。それは神のことばにそのような力があるからです。

ヘブル4章12節には、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」とあります。神のことばは生きていて、力があるので、人々にいのちを与えることができるのです。

1790年、イギリス政府が南洋群島の一つである、カイキというところにゴムの木の栽培のために人を100人ほど送ったことがあります。その船の名前は「バウンティ号」でした。  彼らがその島に到着すると、そこに熱帯植物のズースで作った酒を飲むようになりました。彼らの生活はしだいに堕落し、彼らの間での喧嘩がひどくなり、殺し合いが繰り返されました。そして最後にたった一人残ったのが、ジョン・アダムズという人でした。そこには西洋人はだれ一人いなくなり、多くの混血の子どもたちが生まれ育つようになりました。  それから30年が経った頃、そこを通りかかったアメリカの船が島に上陸すると、乗船していた人たちは、目の前の光景に驚かされました。そこには礼拝堂が建てられ、ジョン・アダムズという老人が牧師をしていたのです。彼はその島の王様で、父のような存在でもありました。彼を慕っていた青年たちはみな、黒人でも白人でもない混血児たちでした。この老人は、その島に何が起こったのかを目を輝かせながら説明してくれました。  仲間たちが、むなしい争いや殺し合いで死んでしまったある日、力が強かったがゆえに人を殺し、一人だけ生き残ったジョンは、破船した「バウンティ号」に戻ってみました。するとそこに一冊の聖書を見つけたのです。そしてその聖書を読んでいると、彼の目にいつの間にか涙があふれ、止まらなくなってしまいました。そして悔い改めが起こったのです。彼は神の人になりました。  その後聖霊の導きによって、子供たちを集めて時を教え、神のみことばである聖書を教えたのです。ジュウミンたちも彼を尊敬し、彼を王にし、彼に従いました。そしてその島は、まことのパラダイスになったのです。これは、ひとえに一冊の聖書の力によるものでした。

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。そのみことばが語られると、それは決してむなしく帰ってくることはありません。必ず、神の望む事を成し遂げ、神が言い送った事を成功させるのです。

とは言っても、クリスチャンじゃない人に神のことばを語っても、ウンともツンとも言わないじゃないですか。一生懸命伝道しても、相手からいい反応が返ってきたりしません。信仰とか、霊的なことに全く関心を示してくれません。神とか、キリストといったことに何の興味もないのです。話しても無駄です。効果がありません。そう思うかもしれません。しかし、あきらめてはいけません。がっかりしないでください。神のことばは決してむなしく帰ってくることはないからです。必ず、ご自身の望む事を成し遂げ、言い送った事を成功させてくださいます。人を救うのは神の働きであって、私たちのテクニックとは全く関係がないからです。神のことばが語られると、そのみことばが生きて働いて、その人を神の人へと変えてくださるのです。

その祝福がどれほどすばらしいものなのかが12節と13節にありますので、ご一緒に読みたいと思います。 「まことに、あなたがたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。これは主の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる。」

これが神のあなたに対する約束です。あなたの心に神のことばが蒔かれると、あなたは喜びをもって出て行くようになります。安らかに導かれて行きます。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らします。人間ばかりではありません。山や丘も、野の木々も、主を賛美するようになるのです。なぜなら、イエス様によって罪が贖われるからです。イエス様によって罪が贖われると、罪に汚染されていた人間だけでなく、そうした自然界も贖われるのです。

その様子が13節にあります。「いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。」「いばら」と「おどろ」は、のろいの象徴です。そのいばらとおどろが全部取り除かれてもみの木やミルトスになるのです。もみの木は皆さんもよくご存じだと思います。一年中緑で、生き生きしています。クリスマスツリーにもみの木が使われるのは、いのちの象徴である緑が絶えることなく、満ち溢れているからです。ミルトスの木はあまり見たことがないかと思います。ミルトスは、日本名ではギンバイカ(銀梅花)、英語ではマートルというそうですが、これも常緑樹で、春先になるとその名のとおり梅に似た白く輝く花を咲かせます。花言葉は「愛のささやき」です。この葉や実は強い香を放ち、入浴剤や鎮痛剤にも使われ、枝木は生垣にも使われるそうです。つまり、いつもいのちがみなぎっているということです。その祝福のシンボルがもみの木であり、ミルトスです。それが主の記念樹となり、絶えることのない永遠のしるしとなるのです。

荒廃しきったイスラエルが緑地化されて、絶えることのない緑で覆われるように、あなたが神を求め、神に立ち返るなら、主はあなたをあわれんでくださり、あなたの人生を祝福で満たしてくださいます。私たちは祝福される存在として、ここに置かれているのです。イエス・キリストを信じることによっていばらがもみの木に、おどろがミルトスに変えられます。のろいが祝福に変えられるのです。過去の過ちも、過去の失敗も、イエス様を信じることによってすべてが益に変えられるのです。なんとすばらしい約束でしょうか。これが良い知らせ、福音です。    今、あなたもイエスを信じるなら、この祝福があなたのものになるのです。今、聖霊の導きに素直に応答するなら、あなたもこの祝福の人生を歩むことができるのです。しかし、それはいつまでもということではありません。主とお会いできる間に、主が近くにおられるうちに、求めなければなりません。今晩、あなたがどのようになるかだれにもわかりません。来週まで、あなたがどのようになっているかなんてわからないのです。ですからお会いできる間に、どうか主を求めてください。近くにおられるうちに、主を呼び求めてください。そうすれば、主はあなたをあわれみ、豊かに赦してくださいます。そして、その人生と祝福してくださいます。既にイエス様を信じているという人も、改めて、イエスを主とするということがどういうことなのかを考えて、おのれの道を捨て、おのれのはかりごとを捨てて、主に立ち帰る者でありたいと思います。

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4月から月に一度親子で楽しく聖書を学ぶBible Adventurがスタートします。第一回目の4月19日(土)は、イースターについて学びます。参加費は無料です。こぞってご参加ください。

 

 

 

 

レビ記14章33~57節

きょうは、レビ記14章33節から終わりまでのところから学びたいと思います。14章前半のところには、どうしたらツァラアトの人がきよめられるのかについて教えられていましたが、ここには、どうしたら家がツァラアトからきよめられかについて教えられています。家がツァラアトからきよめられるというのは変です。ですから、ツァラアトは「らい病」と訳せないのです。これはらい病を含むあらゆる汚れを指している言葉だからです。ですから、衣服がツァラアトになる場合もあるし、このように家がツァラアトになる場合もあります。この場合のツァラアトとは、一種のカビのことです。

1.家にツァラアトの患部が生じたら(33-47)

まず33~36節までをご覧ください。もしその家の所有者が、祭司に、家にツァラアトの患部が現れたと言って、報告するときは、祭司はその患部を調べる前に、その家をあけるように命じなければなりませんでした。それは、この家にあるすべてのものが汚れることがないためです。つまり、家にある家具とかを外に出さなければならなかったのです。

次に、37~42節です。祭司がその患部を調べて、もしその患部がその家の壁に出ていて、それが緑がかっていたり、または赤みを帯びたくぼみがあって、その壁よりも低く見えたなら、祭司はその家から入口のところに出て来て、七日間その家を閉ざしておかなければなりませんでした。これは皮膚にツァラアトの患部のある人と同じように、その患部が広がるか広がらないかを調べるためです。

七日目に祭司が調べて、もしその患部が家の壁に広がっていたら、祭司はその患部の石を取り出し、町の外の汚れた場所に投げ捨てなければなりませんでした。このように石を取り出すのは、イスラエルの家が石で出来ていたからです。また、その家の内側の回りを削り落とし、その削り落とした土も、町の外の汚れた場所に捨てなければなりませんでした。そして別の石を取って、前の石の代わりに入れ、また別の石を取って、その家を塗り直しました。そこまで徹底します。これは13章に衣服にツァラアトの患部がついた時にはどうしたら良いかということを学びましたが、それと同じです。衣服の場合はその部分をちぎり取ったり、火で焼いたりしましたが、家の場合も、そのところをちぎり取るかのように石を取り出して捨て、そこに代わりに別の石を入れたのです。

43~45節をご覧ください。「もし彼が石を取り出し、家の壁を削り落とし、また塗り直して後に、再び患部が家にできたなら、祭司は、入って来て調べ、そして、もし患部が家に広がっているなら、それは家につく悪性のツァラアトであって、その家は汚れている。その家、すなわち、その石と材木と家の土全部を取りこわす。またそれを町の外の汚れた場所に運び出す。」

祭司が家にはいって行って、その患部が家の中に広がっているなら、それは家につく悪性のツアラアトであって、その家は汚れています。したがって、その家全部を取り壊さなければなりませんでした。

46節を見てください。その家が閉ざされている期間中にその家にはいる者は、夕方まで汚れました。その家で寝る者は、その衣服を洗わなければなりませんでしたし、その家で食事をする者も、その衣服を洗わなければなりませんでした。その家の持ち主は、隔離されている7日間生活しなければならないわけですから、その家の中で過ごさなければなりません。けれども、その中に入る人は、一日の間汚れ、また、衣服を洗わなければいけません。そのカビが移ってしまうかもしれないからでしょう。

 こうして家の中がきよめられなければいけないこと、祭司はその家に入って調べることについて述べられていますが、いったいこれはどんなことを教えているのでしょうか。エペソ3章17節を開いてください。

「キリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。」

 つまり、この家は、キリストが住まわれる私たちのからだを象徴していたのです。私たちのからだ、あるいは心の中に汚れがあるとき、そこに主はお住みになることができません。主は聖なる方であって、罪も、しみも、しわも、そのようなものが何一つない方です。ですから、そのような汚れがあるところに住むことはできないのです。とても居心地が悪いでしょう。というか、それ以前に水と油のように相いれることはありません。

 そこで、主は大祭司として、私たちの心の中を探られます。私たちの中に汚れた部分はないか、私たちがまだ主に明け渡していないことはないかを探られ、それをご自分にゆだねるようにと言われるのです。そうでなければ、きれいにすることができません。私たちは、主がお住みになることができる家を持っているでしょうか。主がお住みになることができないような、恥ずかしいものを私たちの心のうちに持っていないでしょうか。主に自分の心を探っていただく必要があります。そして、もしそのようなものがあれば、すべて取り除かなければならないのです。

 2.贖い(48-57)

 次に、その家がきよめられた時の教えです。49~53節をご覧ください。祭司が入って来て調べ、もしその家が塗り直されて後、その患部が家に広がっていないなら、祭司は、その家をきよいと宣言します。その患部が直ったからです。

 そこで祭司は、その家をきよめるために、小鳥二羽と杉の木と緋色の撚り糸とヒソプを取り、その小鳥のうちの一羽を土の器の中の湧き水の上でほふります。杉の木とヒソプと緋色の撚り糸と、生きている小鳥を取って、ほふられた小鳥の血の中と湧き水の中にそれらを浸し、その家に七たび振りかけます。祭司は小鳥の血と湧き水と生きた小鳥と杉の木とヒソプと緋色の撚り糸とによって、その家をきよめ、その生きている小鳥を町の外の野に放ちます。こうして、その家のための贖いをします。そのようにして、その家はきよめられるのです。

 これは前回学んだように、イエス・キリストの十字架の血による贖いと復活を表しています。イエス・キリストの十字架の血によって汚れが贖われ、きよめられます。そして、キリストが死からよみがえられたように、私たちもキリストの新しいいのちによみがえります。すなわち、キリストにつぎあわされ、キリストと一つにされることによって、私たちは汚れからきよめていただくことができるのです。私たちがきよめられるには、主イエスの十字架の血潮以外にはないのです。

 そして54~57節です。「以上は、ツァラアトのあらゆる患部、かいせん、衣服と家のツァラアト、はれもの、かさぶた、光る斑点についてのおしえである。これは、どんなときにそれが汚れているのか、またどんなときにそれがきよいのかを教えるためである。これが、ツァラアトについてのおしえである。」

これが、ツァラアトについての教えです。このように教えられている理由は、どんなときに汚れているのか、きよいのかを教えるためでした。私たちの肉体が滅びるとき、果たして私たちは神のおられる天国に入れていただくことができるでしょうか。その時私たちはツァラアトに冒された者のように汚れているでしょうか、それとも、きよめられた者となっているでしょうか。主イエスを信じ、その十字架の血によって罪が贖われた者はきよめられています。天の御国に受け入れられますが、イエスを信じない人はツァラアトに冒されているので、「汚れている。汚れている。」と叫ばなければなりません。そのような人は天国に入ることはできず、また、カビが消えない衣服や家のように燃やされ、打ち壊されます。けれども、イエス・キリストの十字架の死と復活によって、私たちはきよめられた人は、栄光の御国に入れられるのです。

 私たちは、主が来られるその時まで、このキリストのうちにとどまり、きよさを全うしていきたいと思います。日々の歩みの中で犯した罪について、ツァラアトに冒された人と同じように主の前に出て行きましょう。また、心を探られることを恐れず、かえって主に調べてもらうように願いましょう。主は私たちの大祭司です。医者です。私たちを罪からきよめ、傷をいやすために来られたのです。

レビ記からのメッセージをアップロードしました!

レビ記ののメッセージをアップロードしました。今回は14章33~57節の内容です。14章は長いので、2回に分けて学びます。13章から続くツァラアトに関する教えですが、ここにはツァラアトの患部のある家がきよめられるにはどうしたらいいかが教えられています。この内容を通して、私たちが神の家、神の神殿として、神がお住みになられるにふさわしい家となることを学びたいと思います。

Isaiah55:1-5 “Receive the free grace”

Today let’s start Isaiah 55. Verse 1 says, “Come, all who are thirsty, come to the waters: and you who have no money, come, buy, and eat! Come, buy wine and milk without money and without cost.” “Without money” (1), in other words, this is an invitation to receive the free grace.  In your life up until now how many invitations have you received? Among those invitations which one was the most valuable to you? Here God is inviting you, “Come, all who are thirsty.” (1) God is inviting us to receive the free grace. This is really the most valuable invitation.  Today let’s look at three aspects of God’s invitation.

  1. Come, all who are thirsty (Vs. 1)

First please look at verse 1.  Here it says, “Come, all who are thirsty, come to the waters; and you who have no money,” This is the response of the work of salvation accomplished by the Lord’s servant.  The Lord was put on the cross and died, and 3 days later rose again.  What blessing did that bring? In Isaiah 54:12 it says, “I will make… all your walls of precious stones.” By Jesus dying on the cross, to those who believe in his name the kingdom of heaven will come. There is an abundant peace. Nothing can separate them from the love of God in Christ. God is always with you pouring out the living water upon you.  Therefore, here it is inviting “all who are thirsty” (1) to “come to the waters”. (1)

Recently in Japan too the amount of people that buy water to drink is increasing, but even so there is an image that water is a free drink. In other words, there is an image that it is not something expensive, but in reality it is a very precious resource. It is said that there is 1,400,000,000 km3 of water on the earth. Of that water 97% is salt water, and fresh water is only 3% of it. Also of the fresh water we can use only .8% for our life. Therefore, you can see how precious a resource water is.  In Europe when you go to a restaurant and order, if you want water, you must order mineral water.  You have to pay money and buy it.  Moreover, there are places when water is more expensive than wine. In Israel and Egypt and the Near and Middle Eastern desert regions water is more precious.  For example, in the biggest producer of oil, Saudi Arabia, water is said to be more expensive than oil.  That is how precious water is.

Even so, here it says to drink for free. Not only is water received, but also food milk and wine.  Of course this doesn’t just mean material blessings.  Just as Jesus said, ”I am the bread of life”, it is a symbol of life. Wine is a sign of joy. Milk is the milk of the Word of God “so that by it you may grow up in your salvation.” (I Peter 2:2) It maintains life and is necessary for growth. Let’s come before God seeking such material and spiritual things that give us life, support our life, and bring joy to us.

The word “come” (1) is repeated three times. You have come here today. You came from somewhere.  I don’t know where, but you came. If you don’t come, nothing will begin. By coming you are able to receive. The number one thing God is saying to us is “come”. (1)The Lord Jesus said to many people who are troubled, “Come to me all you who are weary and burdened, and I will give you rest.” (Matt. 11:28)

Jesus didn’t say to watch him from a distance or to study him. He said, “Come to me.” (Matt. 11:28) If so, “I will give you rest.” (Matt. 11:28) Therefore, if you want to receive grace, you must come to Jesus. The word used for “Come” is a command in a strong form. This means that if you really want to receive God’s blessings, no matter what important business you have, no matter what you are doing, you must put it aside and come.

Here it says, “come to the waters”.(1) As I said before “water” is a symbol of life, but in the book of Isaiah it refers to God’s presence. Just like if man didn’t have water, he is not able to keep life in his body, if you don’t experience the reality of God’s presence at the deepest level of your spirit, then you can’t live. That is because man is made in the likeness and image of God.  If we are separated from the real creator God, no matter how good other things are, we are not satisfied in our hearts. It is the same as when there is no water, even if we drink juice and coca cola, later we get thirsty. In the end we want to drink water. In the same way, without water physical thirst is not satisfied, if God is not present in our spirit, our spiritual thirst will definitely not be satisfied. Blaise Pascal said, “There is a God shaped vacuum in the heart of every man which cannot be filled by any created thing, but only by God, the Creator, made known through Jesus.” Man is such a being.

Therefore, no matter how honored you are, no matter how much wealth you have, a life where God is left out of the picture is a thirsty life.  Man wants to flee from that and wants status and honor, wants to get wealth, and be authoritative, but such things can not fill the vacuum in the heart. To fill our spirit we must come to God and seek him. If so, we can receive freely.  You can buy food to nourish yourself and wine to for enjoyment, and milk to make you grow “without money and without cost.” (1)

When I was little my mother often said,” there is nothing more fearful than something that is free.” Something free is unthinkable. To give something for free, is to have a hidden scheme. However, God gives freely. This is called “grace”. It is the grace of God. Moreover, this is the one sided mercy of God. On our human side we can’t add any kind of help in receiving it. We don’t receive it because we did something like if we serve in the church or we pray hard or we do something devotedly. We receive it freely only by the one sided grace of God. It has no relationship to how much you have done before God. It depends only on whether we have come before God or not. It can be received only by coming before God. That is the grace of God. It is the salvation that is given by God. For God’s eyes we are all nothing. We have no value in and of ourselves. However God, by God’s grace says to those that are worthless, deep in sin, “Come, all you who are thirsty, come to the waters…come, buy and eat! Come, buy wine and milk without money and without cost.” (1)

  1. Eat what is good (Vs. 2)

Next, please look at verse 2. “Why spend money on what is not bread, and your labor on what does not satisfy? Listen, listen to me, and eat what is good, and your soul will delight in the riches of fare.”

Why spend money on what is not bread, and your labor on what does not satisfy?” (2) There are spiritual blessings that you can’t buy with money. Even though you can receive them freely, you don’t look at them even a little and why do you “Why spend money on what is not bread, and your labor on what” (2) you can’t take to heaven and what has no purpose in heaven? Of course, this does not mean that we must not enjoy life on this earth. Rather, it means to think about what we should invest in and what should be our priorities. We should spend money on and labor for and use our time for things that will last eternally.

About this, Jesus said, “Do not store up for yourselves treasures on earth, where moth and rust destroy, and where thieves break in and steal.  But store up for yourselves treasures in heaven, where moth and rust do not destroy, and where thieves do not break in and steal.  For where your treasure is, there your heart will be also.” (Matt. 6:19-21)

Even if we use the salary that we finally got by working with sweat to get rid of stress by brand items and luxury clothing our hearts can’t be fulfilled. From the moment we buy it, it is already old.  There are times that even before we wear it, a bug eats it and we get a hole or we gain weight and it gets too small. There are times when the car that we finally got a loan for and bought becomes scratched and rusted. Therefore, recently I don’t worry when the car gets hit here and there. Anything that has form gets destroyed,   Therefore, “store up for yourselves treasures in heaven, where moth and rust do not destroy, and where thieves do not break in and steal.” (Matt. 6:20) It is not necessary to buy expensive alcohol to ease oneself. If you listen to “God and eat what is good,” (2) then you can be free from stress and you will become overflowing in joy.

Here it says, “and your soul will delight in the riches of fare.” (2) If you listen to “God and eat what is good,” (2) then “your soul will delight in the riches of fare.” (2)

“What is good” (2) and “the riches of fare” (2) is the opposite of “what is not bread” (2) and “what does not satisfy”.  It is our food and what satisfies us.  That is God’s Word of salvation.  At this time Israel was captured by Babylon. In the midst of such a pagan life they searched for something to fill their hearts. However, there wasn’t anything that satisfied them. Even if they experienced a momentarily feeling of satisfaction, the next moment their stomachs were empty. What can really fill a person’s heart is only God and His Word. Jesus said, “Man does not live on bread alone, but on every word that comes from the mouth of God.” (Matt. 4:4) This is “what is good”(2) and what is the strength for Israel to overcome the hopeless situation they were put in.

That is the same for us. What do you “spend money on”? What do you labor for? Do you “spend money on what is not bread, and your labor on what does not satisfy?” (2) Listen to “God and eat what is good.” (2) Eat “every word that comes from the mouth of God”, (Matt. 4:4) and put your hope in them. If so, then “your soul will delight in the riches of fare.” (2) Jesus Christ will be your water of life, and your bread of life. He will also become you a wine (joy) and also your milk (nutrition for growth). Jesus Christ will be your all in all. If you eat him, in other words, live seeking him, fellowshipping with him, then your life will be overflowing with good things.

  1. You may live (Vs. 3-5)

The third point is the result. If you listen to God and come to God, then you will live.  Please look at verse 3.  Here it says, “Give ear and come to me; hear me, that your soul may live.”

You may think that you are alive, but that is a temporary thing.  You don’t know how much longer you will be living.  Here what this is talking about is eternal life. Even though you die, you will live. Jesus said, “I am the resurrection and the life.  He who believes in me will live, even though he dies.” (John 11:25) It is the life of living even though you are dead. This life is promised to Christians. Therefore, even if a Christian dies now, he is living. Those who are not Christians are different. If a non Christian dies tonight he will die again.  Death is 2 times, the physical death and the spiritual death. The spiritual death is called the second death and means that you are separated from God eternally. It is written about in Revelations 20:14 and 15. “Then death and Hades were thrown into the lake of fire.  The lake of fire is the second death.  If anyone’s name was not found written in the book of life, he was thrown into the lake of fire.”  This is in other words, hell. However, Christians only die once. Even though they die physically, they enter heaven and there live eternally with God.  That is eternal life. Life on this earth is 70 or 80 years, at the longest about 100 years. No matter how long you keep going, 120 years at the longest. Everyone always dies. That is 100% so. Then after dying we spiritually die. When a person dies, it is not the end.  After death too we continue to live in our spirit. It is eternally. The world after death is absolutely long. Our life on this earth is just a drop. In a flash it passes by, but your life after death is eternal. Where will you spend your eternal world? Will you spend it in heaven with God? Or will you spend it in Hell in the lake of fire where God does not exist? “Give ear and come to me; hear me, that your soul may live.” (2) If you come to God, listen to God and receive God’s salvation, “your soul may live.” (2)

There were 2 young men who made their living by picket pocking. One day when they passed by a church one of the men felt his heart sting. He thought he wanted to go inside and worship. Therefore, he said to his pal, “Let’s go in and see.” Then the friend turned down the offer.  Consequently the young man went inside and worshipped, but the other young man left.

Then after 20 years the young man who refused to go in the church and went his own way, was serving a sentence in prison for a felony offense.  One day while in the prison the news of the new American President came on the radio. While he heard the news tears came to his eyes. The person who became the new President was his companion that many years ago had worked picket pocketing with him. His friend that had wanted to go inside the church to worship came before God and accepted Christ and changed dramatically and became the president of the country. That person was America’s 20th President, James Garfield.

“For the wages of sin is death, but the gift of God is eternal life in Christ Jesus our Lord.” (Romans 6:23)

The Gospel changes everything. If anyone comes before the Lord, following the Lord, and eats “what is good” (2), he can experience an amazing life.

Please look at the end of verse 3.  Here it says, “I will make an everlasting covenant with you, my faithful love promised to David.” Here in order to show how certain the promise is it is recorded as God’s “faithful love promised to David.” (3) This is II Samuel 7;12-16. This is the prophecy that from the descendants of David the Savior Jesus Christ would be born, and by Him the kingdom would be established.  This would come by the one sided grace of God. David’s covenant was a covenant of grace. It is salvation only just by coming before God and receiving the grace that God gives. If we humble ourselves, just come before God and receive God’s salvation, anyone can be saved. That is the covenant of David.  That became a reality by Jesus Christ who was a descendant of David. Therefore, this is a certain salvation. It has completely no connection with what we do. It is salvation by the one sided grace of God.

“And this is the testimony: God has given us eternal life, and this life is in his Son.  He who has the Son has life; he who does not have the Son of God does not have life.” (I John 5:11,12)

“This life is in his Son. He who has the Son” (I John 5:11) in other words, those who believe in the Son, have life.”He who does not have the Son of God does not have life.”  (I John 5:12) This is by the Word of God’s promise. Our emotions have nothing to do about it. “He who has the Son has life;” (I John 5:11) It is free.

Do you accept and have assurance of God’s grace that you can experience “without cost”. (1)  According to the world’s economical theory, “without cost” (1) will definitely not obtain good results.  However, God is the most valuable, and he says he will give the best “without cost.” (1)  We only have to believe this truth, come before God, and enjoy this grace.  This is thought to be a very easy thing. However, for us who are used to being on good terms with this world’s thinking it is surprisingly difficult.  We question about God giving us grace without cost. We think that there is nothing more fearful than something that is free.  Then we often pay the price and use effort vainly and “spend money on what is not bread, and…labor on what does not satisfy.” (2)

However, God is saying to stop using such vain effort and to listen to God’s word.  If you “give ear and come to” (3) God, then “your soul may live.” (3) The nature of grace is that there is no cost, but in reality it was not completely without cost.  In reality for that God paid the price that we should have paid.  That was Jesus Christ. Jesus Christ died on the cross for us. That was because God loves us. Just like a mother who loves the child without conditions and raises him, God loves us, his children with no conditions and raises us up.  Then he fills us with the best things. The beginning of faith is to realize and experience God’s love. Are you coming before God and seeking this grace?

Lastly, let’s look at verse 5. “Surely you will summon nations you know not,and nations that you do not know you will hasten to you, because of the LORD your God,the Holy One of Israel, for he has endowed you with splendor.”

“Nations you know not” (5) are the Gentiles. In the course of time, even the Gentiles will come to Israel and wish that some of their blessings will rub off onto them.  This grace will be such an abundant salvation. You are invited too to such huge blessings.  Today this invitation has been sent to you.  How will you reply to this?

In Matt. 22 “the kingdom of heaven is like a king who prepared a wedding banquet for his son. He sent his servants to those who haven invited to the banquet to tell them to come, but they refused to come. …But they paid no attention and went off-one to his field, another to his business. The rest seized his servants, mistreated them and killed them.” (Matt. 22:2-6) Then he told his servants to “go to the street corners and invite to the banquet anyone” (Matt. 22:9) they could find.  “So the servants went out into the streets and gathered all the people they could find, both good and bad, and the wedding hall was filled with guests.” (Matt. 22:10)

Please don’t reject the invitation of the king. Come before God, and experience the blessings that God gives.  If so, then “your soul may live.” (3)

イザヤ55:1-5 レジュメ

イザヤ書55:1~5  「ただで恵みを受けよ」                  No.87

Ⅰ.渇いている者は出て来い(1) 

 主のしもべは十字架と復活によって救いの御業を成し遂げてくださった。ここでは、その御業に対する応答が求められている。その応答とは何か?「渇いている者はみな、水を求めて出て来い。」(1)という招きに応答して出て行くことである。ここでは水だけではない。穀物も、ぶどう酒も、乳も、金を払わないでただで受けよ、と言われている。それは霊的にも物質的にも私たちにいのちと喜びをもたらしてくれるものである。「来る」ことがなければ何も始まらない。神が私たちに向かって開口一番おっしゃられることは、「来なさい」ということである。それはただ遠くから見つめることではない。神について研究することでもない。もし、あなたが疲れているなら、重荷を負っているなら、主のもとに来なければならない。そうすれば、主があなたを休ませてくださる。あなたが本当の祝福にあずかりたいのならば、どんな用事があろうと、どんなことをしていても、ひとまずそれを脇に置いて、主のもとに来なければならないのである。

Ⅱ.良い物を食べよ(2)

それなのに、「なぜ、あなたがたは、食料にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか。わたしに聞き従い、良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう。」(2)「食料にもならない物」とか「腹を満たさない物」とは、神ご自身以外のものである。主のもとに出て行くのではなく、この世のもので満たされようと追い求めている。けれども、この世のものは決して私たちのお腹を満たすことはできない。だから、良い物を食べなければならない。「良い物」とは救いのみことばのことである。人はパンだけで生きているのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによって生きている。これこそ私たちを真に満たしてくれるものである。私たちはこの救いのみことばに信頼し、自分の置かれた絶望的な状況を乗り越えなければならない。そうすれば、あなたは脂肪で元気づくことになる。「脂肪」とは「最上のもの」という意味である。あなたが神とそのみことばに信頼するなら、神はあなたをすべての良いもので満ち溢れさせてくださる。

Ⅲ.あなたがたは生きる(3~5)

そればかりではない。ここには、「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。」(3a)とある。もし神のもとに出て、神のみことばに聞き従うなら、あなたは生きることになる。これは肉体的に生きるということではない。永遠のいのちが与えられるということである。もしあなたが神を信じるなら、永遠に生きることになる。たとえ肉体的に死んでも、その霊は永遠に生きる。しかし、クリスチャンでない人はそうではない。死んだらまた死ぬ。死が二回ある。肉体的な死と、霊的な死である。霊的な死とは第二の死とも言われ(黙示録20:14)、永遠に燃える火の池の中に投げ込まれることを指している。しかし、クリスチャンは一度しか死ぬことはない。そしてたとえ肉体的に死んでも永遠のいのちが与えられ、天国で主とともにいつまでも生きることになる(黙示録21:27)のである。

その保証は何か。それはダビデと結ばれた愛の契約である。「わたしはあなたがたととこしえの契約、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ。」(3b)それはダビデの行いによるものではなく、神の一方的な恵みの契約である。ただへりくだって神の前に出、神が与えてくださる恵みをうけることによってもたらされる救いである。それがダビデ契約であり、その子孫からお生まれになられたイエス・キリストによって実現した。これほど確かな保証がどこにあろうか。それは私たちの行いとは全く関係なく、一方的に神の恵みによって与えられるものだからである。

あなたは、このように価なしに味わうことができる神の恵みを、信仰をもって受け入れておられるだろうか。それともまだ食料にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労しているだろうか。もしあなたが神のもとに出て、神に聞き従うなら、あなたは生きる。あなたも神からの救いの招きに応答して、神がただで与えてくださる祝福を受けていただきたい。

イザヤ書55章1~5節 「ただで恵みを受けよ」

きょうはイザヤ書55章のみことばから、「ただで恵みを受けよ」というタイトルでお話します。1節を見ると、「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒を買え。」とあります。ここで神はただで恵みを受けるようにと招いておられます。

イザヤ書53章には、主のしもべによって成し遂げられた救いの御業が預言されていました。主は私たちにできないことをしてくださったのです。十字架にかかって死なれ、私たちの罪を赦してくださいました。その主の贖いを信じる者に、神はとてつもない回復を約束されました。それが54章にあることです。54章12節には、「あなたの城壁をすべて宝石にする」とありますが、主は天の御国を相続するようにしてくださったのです。

そして55章に入ります。ここには、そのようにして成し遂げられた祝福への招きが語られています。皆さんは、今までどれだけの招待を受けたことがあるでしょうか。その中で一番価値のある招待はどのようなものでしょうか。きょうのところで主は、「だれでも渇いているなら、わたしのところに来て飲みなさい」と招いておられます。ただで恵みを受けるようにというのです。これこそほんとうに価値ある招きではないでしょうか。きょうはこの神の招きについて、三つのポイントでお話をしたいと思います。

Ⅰ.渇いている者は出て来い(1)

まず1節をご覧ください。ここには「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。」とあります。水というと、日本ではただで飲めるというイメージがあってあまり価値のないもののように感じますが、そうではありません。調べてみると、この地球にはおよそ14億Km3の水があると言われていますが、そのうちの約97%は海水で、淡水はわずか3%しかありません。そしてこの淡水のうち私たちが生活に利用できる水はわずか0.8%しかないのです。ですから、水はとても貴重な資源なのです。ヨーロッパなどでは昔からレストランなどてで何かを注文する時、水が欲しかったら「ミネラル・ウォーター」といって注文しなければならないそうです。お金を払って買わなければならないのです。しかも水の方がぶどう酒よりも高いという所もあります。イスラエルやエジプト、中近東の砂漠地帯に行きますと水はもっと貴重で、たとえば最大の産油国であるサウジアラビアでは石油よりも水の方が高いと言われています。それほど水は貴重なものなのです。

それなのに、ここではその水をただで飲めと言われています。水だけではありません。穀物も、ぶどう酒も、乳もです。「さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。」もちろん、これは物質的な祝福だけのことではありません。物質的なものも含め、すべての良いものをを意味しています。「穀物」というのは、いのちの象徴でしょう。イエスは「わたしはいのちのパンです」と言われました。また、「ぶどう酒」は喜びを、「乳」は「みことばの乳」という言葉があるようにいのちを養い、成長させるうえで欠かせないものです。そのように物質的にも、霊的にも、私たちにいのちを与え、私たちの生活を支え、私たちに喜びをもたらすものを求めて、神のもとに出て来い、というのです。

「出て来い」という言葉は命令形で、非常に強いことばです。3節にも繰り返して出てきます。なぜこのように強く命じられているのでしょうか。なぜなら、来ることがなければ何も始まらないからです。来ることによって初めて受けることができます。ですから、神は私たちに向かって開口一番言われることは、来なさいということなのです。あなたがどんな用事があろうと、どんな状況であっても、あなたが神の祝福を受けたいと思うのであれば、そうしたものを脇に置いてでも来なければならないのです。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

ここでイエス様は、「わたしを遠くから見なさい」とか「わたしを研究しなさい」とは言いませんでした。「来なさい」と言われました。そうすれば、あなたがたを休ませてあげる・・と。ですから、もしあなたが恵みを受けたいのなら、イエスのもとに来なければなりません。

私が小さい頃、母がよく言ってたことがあります。それは「ただほど怖いものはない」ということです。ただなんてあり得ない。ただであげるというのは、何かたくらみがあるからだ。しかし、神はただで与えてくださるのです。これを何というかというと、「恵み」と言います。神の恵みです。しかもこれは神の一方的なあわれみによるものです。そこには私たち人間の側のどのような手のわざも加えることはできません。私が何かしたから、たとえば、私が奉仕したから、私が一生懸命に祈ったから、私が一生懸命に何かをしたから与えられるのではなく、ただ一方的な恵みによって与えられるものなのです。神の前には自分がどれだけやったかといったことは、全く関係ありません。ただ神の前に出て行くかどうかということだけなのです。神の前に出て行くことによってのみ受けることができるもの、それが神の恵みであり、神が私たちに与えてくださる救いなのです。神の目から見たら、私たち人間はみなナッシングです。何もない、何の価値もありません。しかし神は、そのように神の恵みに全くあずかる資格のない者や罪深い者に対して、「渇いているならわたしのもとに来て飲みなさい。穀物も、ぶどう酒も、乳も、金を払わないで買いなさい。ただであげよう」と言って招いておられるのです。

Ⅱ.良い物を食べよ(2)

次に2節をご覧ください。「なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか。わたしに聞き従い、良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう。」

それなのに、なぜ食料にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのでしょうか。お金では買えない霊的祝福があります。それらはただで受けることができるのにそうしたものにはちっとも目もくれず、心の糧にもならない物のためにお金を払い、天国には持っていけない物や天国では何の役にも立たないもののために労するのでしょうか。もちろん、それはこの地上の生活を楽しんではならないということではありません。むしろ、私たちが投資すべきものは何なのか、その優先順序をよく考えてみなさいということです。もっと永遠に残るもののためにお金を使い、労し、時間を使うべきだということです。

このことについて、イエス様はこのように言われました。「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(マタイ6:19-21)

一生懸命に汗水垂らして働いて、ようやくいただいたお給料で、たまったストレスを発散しようと、ブランドものを買ったり、高級な洋服を買ったりしても、そうしたものが私たちの心を満たすことはできません。買ったその瞬間から古くなってしまいます。エントロピーの法則といって、形あるものは滅びていくのです。中には一回も着ないのに虫に食われて穴が空いてしまったり、太って着れなくなってしまったということもあります。せっかくローンを組んで買った車が、きず物になったり、さびついてしまうこともあります。だから最近は車がその辺にぶつかっても気にしないことにしました。形あるものは壊れるのですから。ですから、自分の宝を地上にたくわえるのはやめて、天にたくわえるべきです。憂さを晴らそうと高いお酒を買う必要はありません。神に聞き従い、良い物を食べるなら、ストレスも解消でき、喜びに満ち溢れるようになるからです。

ここでは、「そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう」とあります。「脂肪」は現代では様々な病気の原因となっていてあまり歓迎されていませんが、聖書では芳ばしい香のする最上のものとして、神にささげられました。つまり、「脂肪」は最上のものを表しているわけです。神に聞き従い、良い物を食べるなら、あなたは最上のもので元気づくことができるのです。

では「良い物」とか「最上のもの」とは何でしょうか。ここではそれが「食料にもならない物」とか「腹を満たさない物」と対比されています。私たちの糧となり、私たちの腹を満たすものです。それは、神とその救いのみことばのことです。この時イスラエルはバビロンに捕らえられていましたが、そうした異教の生活の中に自分たちの心を満たすものを求めていたでしょうが、見つけられませんでした。そうした異教の社会の中には彼らを満たすものはありませんでした。一時的に満腹感を味わうことができても、次の瞬間はにはまたお腹が空いてしまうのです。真に人の心を満たすことができるのは、神とそのみことばだけです。イエス様はこう言われました。「人はパンだけで生きているのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」(マタイ4:4)これが良い物であり、イスラエルが置かれた絶望的な状況の中でそれを乗り越えていく力であったのです。

それは私たちも同じです。皆さんは何のためにお金を払い、何のために労しておられるでしょうか。食料にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労してはいないでしょうか。神に聞き従い、良い物を食べなければなりません。神の口から出る一つ一つのことばを食べて、そこに希望を置かなければならないのです。そうすれば、あなたは脂肪で元気づくことができます。イエス・キリストは、いのちの水になってくだるし、穀物(いのちのパン)にもなってもくださいます。またぶどう酒(喜び)にも、乳(成長の糧)にもなってくださいます。イエス・キリストは、あなたのすべてのすべてになってくださるのです。この方を食べるなら、すなわち、この方を求め、この方と交わりをもって生きるなら、あなたの一生は良いもので満たされるのです。

Ⅲ.あなたがたは生きる(3-5)

第三にその結果です。神に聞き、神のもとに出て行くなら、あなたがたは生きるということです。3節をご覧ください。ここには、「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。」とあります。

「私はちゃんと生きてますよ!」という方がおられるでしょうか。それは一時的なことで、あとどのくらい生きられるかわかりません。ここで言われているのは永遠のいのちのことです。死んでも生きるいのちです。イエス様は、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)と言われましたが、この死んでる生きるいのちのことなのです。 クリスチャンにはこのいのちが約束されています。ですから、クリスチャンは今死んでもまた生きます。クリスチャンでない人は違います。クリスチャンでない人は、今晩死んだらまた死にます。死が二回あるんです。肉体の死と、霊的な死です。霊的な死とは第二の死とも言われ、永遠に神から離れてしまうことを意味しています。黙示録20章14~15節に記されてあります。「それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この池に投げ込まれた。」これがいわゆる地獄のことです。しかし、クリスチャンは一度しか死ぬことがありません。そして肉体的に死んでも天国に入り、そこで永遠に神と生きるようにになります。これが永遠のいのちです。この地上でのいのちは70年か80年、長くても100年くらいです。どんなに頑張っても120年くらいでしょう。みんな必ず死にます。それは100パーセントです。そして死んだらどうなるのかというと、死んでも霊において生きるのです。人は死んだら終わりではないのです。死後も霊において生き続けるのです。永遠にです。死後の世界の方が圧倒的に長いのです。この地上でのいのちは点にすぎません。あっという間に過ぎ去りますが、死後の世界は永遠なのです。あなたはこの永遠の世界をあなたはどこで過ごされますか。神とともに天国で過ごされますか。それとも、神のいない燃える火の池である地獄でしょうか。「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたは生きる。」もしあなたが神のもとに行き、神に聞き従い、神の救いを受け入れるなら、あなたは生きるのです。

アメリカの企業家であったハワード・ヒューズは、映画、放送局、航空会社、ホテル、賭博場など、約50あまりの事業を手がける富豪で、若い頃はハリウッドのスターたちとも数多くのうわさがあった人です。                     しかし彼は、45歳になると対人恐怖症にかかかり、人を避け、一人で過ごすようになりました。病原菌を恐れ、自宅に無菌室を作り、食べ物に毒が入っていないかを心配して、チキンスープしか飲まずに生活しました。理容師が、かみそりやハサミで自分を殺しはしないかと恐れ、床屋にも行かず、手足のつめは切りませんでした。さらに彼は、仕事も電話とインターフォンを通してするようになりました。とうとう栄養失調にかかり、最後は飛行機で移動中に亡くなりましたが、死ぬ間際に、次のような言葉を残したと言います。「何もない。何もない。何もない!」つまり、「むなしい。むなしい。むなしい。!」と叫びながら死んだので す。                                            人が全世界を手に入れたとしても、まことのいのちを損じたら何の得があるでしょうか。私たちが常に感謝しなければならないのは、たとえこの世で楽しむことができなくても、一番尊い天国のいのちが約束されているからです。「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたは生きる。」とあるように、このいのちを受けたのです。

3節後半のところを見てください。ここには、「わたしはあなたがたにとこしえの契約、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ。」とあります。これはどういうことでしょうか。ここでは、この約束がどれほど確かなものであるかを示すために、ダビデへの変わらない愛の契約が記されてあるのです。これはⅡサムエル記7章12~16節にあるものです。ダビデの子孫から救い主イエス・キリストが生まれ、彼によって王国が確立されるという預言です。それはいったいどのようにしてもたらされるのでしょうか。それは一方的な恵みによってです。かつてシナイ山でモーセに与えられた十戒はそうではありませんでした。それは神がこうしなさいということに対してそれを行うことによって与えられる救いでしたが、ダビデ契約は違います。ダビデ契約は恵みの契約です。ただ神のもとに出て、神が与えてくださる恵みを受けることによって救われるのです。私たちがへりくだってただ神の前に出、神の救いを受け入れるなら、だれでも救われます。それがダビデ契約であり、それがその子孫から生まれたイエス・キリストによって実現したのです。ですからこれは確かな救いなのです。私たちの行いとは全く関係なく、一方的な神の恵みによる救いだからです。

「そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」(Iヨハネ5:11,12)    そのいのちは御子のうちにあります。御子を持つ者、すなわち御子を信じる者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。それは神の約束のみことばによるのです。私たちの感情とは全く関係ありません。御子を持つ者はいのちを持つことができるのです。お金をはらわなくても、代価を払わなくても、ただで・・・。

このように何の代価も払わないでと言いますと、何だかそれはとても安っぽいように感じますが、実はそうではなく、そこにはものすごい代価が払われているのです。神のひとり子のいのちという代価です。私たちは自分の罪の代価を支払うことができなかったので、神が代わりに支払ってくださいました。それが御子イエス・キリストです。イエス・キリストが私たちのために十字架にかかって死んでくださったので、この御子の代価のゆえに、私たちの罪は赦されたのです。

5節を見て終わります。「見よ。あなたの知らない国民をあなたが呼び寄せると、あなたを知らなかった国民が、あなたのところに走って来る。これは、あなたの神、主のため、また、あなたを輝かせたイスラエルの聖なる方のためである。」

「あなたを知らない国民」とは異邦人のことです。やがて異邦人までもあなたのところにやって来て、あなたの祝福にあやかりたいというようになるということです。この恵みはそれほど豊かな救いなのです。この大いなる祝福の中にあなたも招かれているのです。きょう、この招待状があなたにも送られました。あなたはどのように応じられますか。

マタイ22章には、天の御国は、王子のために結婚披露宴を設けた王にたとえることができるとあります。王は招待しておいた客を呼びに、しもべたちを遣わしましたが、彼らは来たがりませんでした。彼らは王が遣わしたしもべたのことを気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、ほかの者たちは、そのしもべたちをつかまえて恥をかかせ、殺してしまいました。  そしたら王は何と言ったでしようか。「宴会の用意は出来ているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。だから、大通りに行って、出会った者たちをみな宴会に招きなさい。」(9)それでしもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになったのです。

皆さんはどうか王である神の招待を拒むようなことはなさらないでください。神の前に出て、神がただで与えてくださる祝福を味わっていただきたいと思います。そうすれば、あなたは生きるのです。

イザヤ書55章1~5節のメッセージをアップロードします!

本日の礼拝で語られたみことば、イザヤ書55章1~5節のみことばからのメッセージをアップロードします。ここには、「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。」という神様からの招きのことばがあります。日本では水というとただで飲めるというイメージがあり、あまり価値があるもののようには感じませんが、実際にはとても貴重なものです。中東やヨーロッパなどではお金を払わなければ飲めないことも少なくありません。その水を求めて出て来るようにというのです。お金を払わないで飲むように。

私たちの人生にも渇きがあります。だれにも言えない心の苦しみがあります。いったいどうしたらいいのでしょうか。神のもとに水を求めて出て行くことです。耳を傾け、神のところに出て行くことです。そうすれば、あなたがたは生きます。あなたも、水を求めて神のもとに出て来てください。そうすれば、神はカラカラに渇いたあなたの心も子たしてくださるでしょう。

「祈りの確信」

基礎の学び2回目は、「祈りの確信」の学びでした。

「あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」(ヨハネ16:24)

私たちが信仰生活を続ける上で受けるもう一つの攻撃は、祈りの効果に疑いを持たせることです。祈っても無駄だ、祈っても何も変わらないと、神に祈ることを止めてしまいます。しかし、神に祈るなら神は答えてくださいます。なぜなら、神は私たちの父であられるからです。自分の子どもがパンを下さいと言うときに、石を与えるような父はいません。魚をくださいというのに、蛇を与えるような父もいません。父親は自分の子どものためには良い物を与えることを知っています。とすれば、なおのこと、天におられる父なる神が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょうか。必ず良いものを与えてくださいます。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけだし、たたく物には開かれます。」(マタイ7:7~8)

大胆に祈り求め、祈りが答えられるという喜びを体験していきましょう。