ローマ人への手紙13章1~7節 「権威に従う」

きょうは「権威に従う」というタイトルでお話したいと思います。クリスチャンはイエス・キリストを信じたことで、天に国籍を持つ者、天国の市民とさせていただきました。しかし、一方では日本の国民であるように、この地上にあってはそれぞれ置かれた国民として生きている者として、その責任を果たしていかなければなりません。この両者の関係の中で、クリスチャンはいったいどのように生きていったらいいのでしょうか。きょうは、このことについて三つのことをお話したいと思います。

まず第一のことは、人はみな、上に立つ権威に従うべきであるということです。なぜなら、神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって建てられたものだからです。第二のことは、自分の良心のためにも従うべきです。神によって立てられた権威に従うということは神に従うことですから、そうすることによって、良心に自由と平安を受けることができるのです。第三のことは、クリスチャンがこの世において義務を果たすことは大切なことなのです。

Ⅰ.上に立つ権威に従いなさい(1-2)

まず第一に、人はみな、上に立つ権威に従うべきであるということについて見てたいたいと思います。1~2節をご覧ください。

「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。」

ここでパウロは、人はみな、上に立つ権威に従うべきであると言っています。なぜなら、存在している権威はすべて、神によって立てられたものだからです。 どういう意味でしょうか?これは、私たちがこの地上において生きるとき、それがどのような手段によって成り立ったものであったにせよ、その権威に従わなければならないということです。なぜなら、そうした権威でさえ、神の御許しによって立てられているからです。したがって、その権威に逆らうことがあるとしたら、それはそうした人たちに対して逆らっているのではなく、神に対して逆らっているということになるのです。であれば、そのさばきを自分自身の身に招くことになるのは当然のことでしょう。もちろん、どんな政府であれ、どんな組織であれ、この地上にあるかぎり、絶対であるとか、間違いがないなどということはありません。必ずどこかに欠陥があるものです。しかし、その欠陥の程度がどうであれ、それは神のによって存在しているのであって、神の許しなしにはあり得なかったものなのです。ですから、この地上の権威に従うということは神様に従うことなのです。ですから、この地上の権威に従うなら平和が与えられ、そうでなかったら混乱や争いが生じるのです。なぜなら、私たちの神様は、混乱の神ではなく秩序の神だからです。

昔、コラの一族がモーセに逆らったときどうなったでしょうか?彼らはモーセとアロンに逆らって、「あなたがたは分を越えている。自分たちはみんな聖なるものであって、あんたたちだけが特別ではない。なのに、なぜあんたたちが自分たちの上に立って指導するのか」とたてつきました。(民数記16:3)すると神様は激しく怒られ、彼らが立っていた地面が割れ、彼らとその家族、また彼らに属するすべてのものをのみこんでしまいました。指導者モーセに逆らった罪のゆえです。神様はお立てになった権威に逆らう者に、同じような裁きを下されるのです。    ダビデは、神が立てた権威にいつも従いました。どんな悪い王でも神の油を注がれた器である以上、それは神様が立てた権威だと認めていたからです。ですから、主君サウロを殺す機会があっても彼は決してサウルに手をかけるようなことをしませんでした。神様のさばきゆだね、神が裁いてくださるまでじっと待ったのです。ですから彼は神に祝福されたのです。    最近、ある著名な社会学者が「現代人が経験する混乱は、父親不在の社会になったために生まれたものである」と言いました。「父親不在の社会」とはどのような社会なのでしょうか?昔は家庭で父親が一言言えば、家の中の秩序が整いました。父親の言葉には威厳があったのです。父親が、「こら」と叱れば、「悪いことをしてはいけない」という思いが植え付けられました。けれども今はこの権威が失墜してしまいました。なぜ?妻が夫を軽んじているからです。父親が「こら」と言うと、脇で妻が「あんた何よ。いいじゃない」なんと言うので、こどもたちも本気で父親の言うことを聞かなくなってしまったのです。社会学者たちは、こうした混乱の根は、19世紀に自由主義が広がったためだと言っています。自由主義とは、既存の宗教的、社会的権威を一切排除して、理性と文化が人間を進歩させるという考えです。しかし、果たしてそうした人間の理性が社会を進歩させたでしょうか。権威崩壊の結果は、社会の進歩どころか社会の崩壊だったのです。

聖書はクリスチャンに、神が与えられたすべての権威に従うようにと言っています。この権威を回復しなければなりません。例えば家庭における一夫一婦制も親子の関係も、神の創造の時から設立された神の秩序です。神さまは人類をアダムとエバに創造されました。即ち、一人の男性と一人の女性を創造してくださったのです。そして、その二人は一心同体の夫婦となり、その夫婦によって子どもたちを与えてくださいました。親子の関係は最初からそのように神が定めたものなのです。家庭に権威を与えたのは神さまですから、子どもたちが自分の父と母に従うとき、それは神に従うことになるのです。また、子どもたちが親に逆らうとき、それは神に対して逆らうことになります。それは神が定めた秩序なので、子どもは親に従わなければならないのです。

もちろんそのために父と母は、子どもたちに対して不公平な裁きをしたり、虐待したり、悪いことをするなら、神の代表としての立場を汚し、子どもに対して罪を犯すことになります。そして、子どもはそのような親を見るとき、神に対して誤解を持ったり、疑ったり、神に逆らう者になったりします。父と母が正しくその権威を用いないなら、子どもを神に逆らう者となるように導くことになるでしょう。親が悪い支配をするとき、子どもたちを悪に導くことになるのです。エペソ人への手紙6章4節でパウロは、「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい」と命じています。その意味は、「悪い支配をするなら、支配の権威に立つ者は支配される者に悪い影響を与えることになる」ということです。

これは教会においても同じことです。教会の牧師、長老、役員といった組織は神が与えたものなので、教会員は自分の教会の牧師や長老たちに対して尊敬をもって従わなければなりません。教会の牧師や役員も失敗することがあるでしょう。どうしたらいいのかわからなくて悩むこともあります。あるいは間違った判断をしてしまうこともあるのです。しかし、それでも従うのは、それが神によって与えられた権威であり、神が定められた秩序だからなのです。

それは、私たちが国家に従うのも同じです。私たちが政府に従うのは政府が間違いのない正しい組織だからではありません。それは神が任命してくださった神の権威だからです。神が政府という組織をお造りになり、政府で働く人たちを備えてくれました。政治家たちや官僚たちは、みな神に仕えるしもべなのです。そういう認識をもっていつも仕えてもらえたら一番いいのですが、政府においてはそういう人は皆無に等しいのでなかなか期待することはできません。それでも私たちが従わなければならないのは、政府もまた神によって与えられた神の秩序だからなのです。パウロは、こうした人たちのために祈るようにと勧めているのはそのためです。

「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。」(Iテモテ2:1,2)

それはこの社会のすべての関係においても言えることです。大学生たちはよく自分の担当教授の悪口を言ったりしますが、クリスチャンの学生はそうした真似をしないで、逆に、先生を心から尊敬し、その権威を重んじなければなりません。社会人であれば、上司の悪口を言ったり、安易に逆らったりするのではなく、かえって上司のために祈り、よく聞き従わなければなりません。それが神のみこころであり、神が立てた秩序なのです。それは私たちが敬虔に、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすため、つまり、私たちの祝福のためでもあるのです。

Ⅱ.良心のためにも従いなさい(3-5)

次に3~5節をご覧ください。なぜ上に立つ権威に従わなければならないのでしょうか。ここにもう一つの理由がしるされてあります。それは、良心のためでもあるということです。

「支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者からほめられます。それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。」

「支配者を恐ろしいと思うときは良いことをするときではなく、悪を行うときです。」良いことをして怒られるというようなことはめったにありません。もっとも、いくつかの例外はあったとしても、一般的には良いことをする人はほめられるのです。なでしこジャパンはワールドカップで金メダルを獲ったということで総理大臣賞までいただきました。あのあきらめないプレーが、国民に勇気と力を与えてくれたというのがその理由です。良いことをすればクリスチャンであってもなくてもほめられるのです。逆に、悪いことをしたら怒りをもって報います。 なぜでしょうか?それは、彼らがあなたに益を与えるための、神のしもべだからです。彼らは神のしもべであって、悪を行う人には悪をもって報いるのです。ここには「神のしもべ」ということばが二回出てきます。つまり、パウロは上に立つ権威というのはすべて神から与えられたものであって、その権威に従うということは、神ご自身に従うことであり、神を恐れることであると受け止めていたのです。その権威に従わないということは神に従わないということであり、クリスチャンとしてふさわしいことではありません。これは神が与えた状態なので、神に信頼して、神を恐れて、神に対する感謝をもって、神が立てた権威者に従うということこそ、クリスチャンにとってふさわしい態度です。そうでなかったら、良心に責めを感じるようになるでしょう。罪責感を抱くようになってしまいます。私たちはいつも、神様の前に、責められることのない良心をもって歩むべきです。そのためにも私たちは、神様が立ててくださった権威に従わなければならないのです。

それにしてもこのパウロの信仰は大したものです。彼は、政府やその他の支配者もすべて神の御手の中にあると信じていました。摂理の神への信仰をもっていたのです。もちろんそれは、冒涜的な権威に対して無批判的に従ったということではありません。時としてはダニエル書に出てくる三人の少年シャデラク・メシャク・アベデネゴのようにいのちをかけて王の命令を拒絶しなければならないという局面もあったでしょう。しかし、そうした中にあっても、すべてのことが神の御手の中にあって、立てられた権威はすべて神によるものだと受け止めて従おうとした点は立派です。私たちクリスチャンは往々にしてこの社会を悪とみなし、社会の権威に対して敵対していこうという心が働きがちですが、このような摂理の信仰のゆえに、立てられた権威に従っていこうという姿勢は重要です。コロサイ人への手紙の中には、

「奴隷たちよ。すべてのことについて、地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。」(コロサイ3:22,23)

とあります。何事につけ、主に対してするように正しい心で忠誠を尽くす人がクリスチャンです。人が見ていれば熱心にやっているふりはするけれど、人が見ていなければ手を抜くぞというのは、要領のいい人であるかもしれませんが、神ののしもべとしてふさわしい姿ではありません。神のしもべは、だれが見てても見ていなくても、主に従うように、地上の主人に心から仕えることなのです。

現代建設(ヒュンダイ)会長を歴任した韓国のイ・ヨンバク大統領は、「現代の韓国を創った50人」に選ばれるなど、韓国におけるサラリーマン神話の代表的人物とされています。七人兄弟の五番目として生まれた彼は、極貧の少年時代を過ごすも、何とか高校、大学を卒業して当時90人しかいなかった現代建設に入社すると、29歳で取締役、36歳で社長、47歳で会長と出世街道を進みました。彼がそこまで昇進したのには理由がありました。それは、何事も主に対してするように真心から会社に仕えたということです。  彼のインタビューの中で、彼は次のように言っています。「私は上司のためにがんばろうと考えたことは一度もなく、この会社は私のものだ、私の仕事だ、私が成長するために忠誠を尽くそうという気持ちで命がけで走り回った」と言っています。誰かが見ているからではなく誰も見ていなくても、これは私の成すべきこととわきまえて一生懸命に仕えたので、結局、彼自身が成長し、多くの人々から尊敬され、認められる人になったのです。  人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみ、何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしたことが、その祝福へとつながっていったのです。それは、自分の置かれた状況の背後に神様がおられ、神様が導いておられるという摂理の信仰が働いていたからです。その信仰のゆえに、上に立つ権威に従うということは、私たちの良心のためにも必要なことなのです。

Ⅲ.義務を果たしなさい(6-7)

第三のことは、だれにでも義務をはたさなければならないということです。7,8節をご覧ください。ここには、

「同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。」

とあります。ここには「みつぎ」と「税」ということばが出てきますが、当時の世界では、それぞれ違った税を表していましたが、今日ではその両者を含めて税金全般のことだと言っていいでしょう。すなわち、ここでは納税の義務について教えられているのです。納税について聖書は何と教えているのでしょうか?みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納めなさいと命じています。

当時のユダヤ人は、このように異教徒に対して税や貢を納めるということは、神以外のものに仕えることになるのではないかということで毛嫌いしていました。ですから、税を取り立てる人、取税人は、罪人の代表であるかのように思われていたのです。しかし、それがローマ帝国であっても、異教徒であったとしても、それは納めなければならないものなのでするなぜ?義務だからです。「義務」というのは負債のことです。8節には、愛以外には何の借りがあってはならないと教えられていますが、すべての義務というのは、借金を返すように果たしていかなければならないのです。貢や税を納めることはその義務なのです。それは恐れなければならない者を恐れ、敬うべき者を敬うことなのです。それは形に表された権威者への服従なのです。

このことについてイエス様は何と言われたでしょうか?マタイの福音書17章24~27節を開いてみましょう。 「また、彼らがカペナウムに来たとき、宮の納入金を集める人たちが、ペテロのところに来て言った。「あなたがたの先生は、宮の納入金を納めないのですか。」 彼は、「納めます」と言って、家に入ると、先にイエスのほうからこう言い出された。「シモン。どう思いますか。世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか。自分の子どもたちからですか。それともほかの人たちからですか。」ペテロが「ほかの人たちからです」と言うと、イエスは言われた。「では、子どもたちにはその義務がないのです。しかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。」

このところでイエス様は、この世の王たちは自分の子どもたちからではなく、ほかの人たちから税を取り立てるので、子どもたちにはその義務はないけれども、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚の口から1枚のスタテル効果を取って、税金として納めるようにと言われたのです。

それは私たちクリスチャンにも言えることです。確かに私たちはイエス様を信じたことで神の国に属するものになりましたが、それはこの世の義務や責任をないがしろにしてもいいということではありません。だれにでも義務を果たさなければならないのです。正直に生きなければなりません。それがこの世におけるクリスチャンの姿です。それこそ神に服従している証であり、神が私たちに望んでおられる生き方なのです。

人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられた神の秩序だからです。天の御国を仰ぎ見ながら、この地上に生きる者として与えられた責任を十分に果たしていく者でありたいと思います。それは私たちが平安で静かな一生を過ごすため、私たちの祝福のためでもあるのです。

ローマ人への手紙12章14~21節 「十字架による勝利

きょうは、「十字架による勝利」というタイトルでお話したいと思います。今お読みした箇所には、自分に敵対する人に対してどのような態度を取ったらいいのかについて語られています。先週の所で私たちは、クリスチャンの基本的なあり方とは愛であるということを学びました。私たちは教会の兄弟姉妹に対して、兄弟愛をもって互いに愛し合わなければなりません。しかし、いざそれを実践しようと思うと、それは易しいことではありません。なぜなら、私たちの隣人には善良な人ばかりでなく悪意を抱いている人もいるからです。自分を愛し、自分に優しくしてくれる人を愛することはできても、自分に敵対し、悪意を抱いている人、悪口を言う人、陰口をたたく人、中傷する人、意地悪をするような人を愛することは、なかなかできることではありません。そのような人たちに対して、いったいクリスチャンはどのような態度を取ったらいいのでしょうか。14節と21節をご覧ください。

「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。」

「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」

これがクリスチャンの取るべき態度です。クリスチャンは自分に敵対し、迫害する人を祝福すべきであって、のろってはいけないのです。悪に対して悪をもって報いるのではなく、善をもって悪に打ち勝たなければなりません。言い換えるならば、クリスチャンは悪に対してキリストの十字架の愛をもって勝利しなければならないのです。きょうは、このことについて三つのことをお話したいと思います。    まず第一のことは、クリスチャンは自分の敵を愛し、迫害する者を祝福しなければなりません。第二のことは、とはいうものの、こちらがどんなに努力しても、相手の態度が一向に変わらない場合があります。そのようなときにはどうしたらいいのでしょうか。そのような時には、自分に関する限り、すべての人と平和を保つことを求めなさいということです。第三のことは、それでも相手が悪意をもって向かってくる時、私たちはいったいどうしたらいいのでしょうか。神の怒りに任せなさいということです。

Ⅰ.迫害する者を祝福しなさい(14~17)

まず14~17節までをご覧ください。ここには、クリスチャンの基本的な生き方がしるされてあります。それは、「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。」また、「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい」ということです。しかし、これは私たちの自然な姿に逆行するものです。というのは、私たちが迫害や悪を受けるようなときには、もっと大きな悪で復讐しようとする気持ちが働くからです。たとえば他人に頬を一発殴られようものなら、一発どころか二発も三発もやり返したくなります。いや二発や三発では怒りがおさまらず、殺してやりたいとまで思ってしまうこともあるでしょう。

旧約聖書を見ると、「目には目を、歯には歯を」(出21:24)という言葉が出てきます。目を潰されたらその相手の目をえぐり取るように、歯を折られたらその相手の歯を折るように、命を奪われたらその相手の命を取るようにという復讐法です。どうして神様はそのような律法を定められたのでしょうか。そこには愛のひとかけらも感じられません。しかし、これは決して残忍な戒めなのではないのです。最高のあわれみの戒めです。というのは、もし誰かが誰かの歯を折ったとしたら、折られた被害者は折ってしまった加害者の歯を折るだけでは気が収まらず、あばら骨まで打ち砕きたいとまで思うからです。自分の目が潰されたら、その潰した相手の目をくりぬくくらいでは収まらず、首まで切ってしまいたいと思うでしょう。これが人間なんです。そんな人間の復讐心を知っておられた神様は、悪に対してそれ以上の悪で返すことがないようにと、自分が受けた分だけ仕返しなさいとお定めになられたのです。ですからこの戒めは、旧約時代に現れた神様の愛の表現だったのです。

私たちはいつでも誰かに恨みを抱きながら生きています。自分に被害を与えた人が倒れてしまうようにのろい、願う、これが人間の本性なのです。しかしここには「あなたを迫害する者を祝福しなさい」と教えられています。「悪に対して悪をもって報いることをせず」というのです。イエス様は、「目には目で、歯には歯で」と言われたのをあなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。」(マタイ5:38~40)と言われました。そんなの無理です。自分に悪意をもって襲いかかってくる人を、自分に害を加えようとする人をどうやって赦すことなどできるでしょう。まして祝福するなどできることではありません。しかし、クリスチャンはそうすべきなのです。イエス・キリストの尊い血潮によってすべての罪を赦していただき、神の子どもとされた者は、自分の敵を愛し、迫害する者を祝福すべきなのです。それがクリスチャンの勝利の道なのです。マタイの福音書5章43~48節のところで、イエス様は次のように言われました。

「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」

自分を愛してくれる人を愛することはだれにでもできます。しかし、自分の敵を愛し、迫害する者のために祈ってこそ、天におられる父の子どもになれるのです。敵を赦す程度ではなく、迫害する者のために祈れ、祝福せよというのです。これが主のみこころであり、神様が私たちに願っておられることなのです。

皆さんは、淵田美津雄(ふちだ・みつお)という人のことを聞かれたことがあるでしようか。この人は元真珠湾攻撃隊長で、戦後クリスチャンになった人です。戦後クリスチャンになられましたが、自分がどのようにして救われたのかを「真珠湾からゴルゴダへ」(ともしび社、1954年)という本の中で証ししています。 そのころ彼は戦犯裁判の証人として、横浜の占領軍軍事法廷に喚問されていました。被告はC級戦犯の人たちで、連合軍の捕虜を虐殺した罪に問われていたのです。戦犯裁判は、国際正義の名において人道に反した者を裁くのだと言っていましたが、それは勝者が敗者に対して行う、法に名を借りた復讐であると見て、反感と憎悪で胸を燃やしていました。  するとそこへアメリカに捕らわれていた日本軍捕虜が送還されて、浦賀に帰って来ました。浦賀に出向いて、帰りついた日本軍捕虜からアメリカ側の取り扱いぶりを聞きただしましたが、そこであるキャンプにいた捕虜たちから次のような美しい話を聞き、心を打たれるのです。  この人々が捕らわれていたキャンプに、いつのころからか、一人のアメリカのお嬢さんが現れるようになって、いろいろと日本軍捕虜に親切を尽くしてくれるのです。まず病人への看護から始まりました。やがて二週間たち、三週間と経過しても、このお嬢さんのサービスには一点の邪意も認められなかったのです。やがて全員はしだいに心を打たれて、「お嬢さん、どうしてそんなに親切にしてくださるのですか」と尋ねました。お嬢さんは、初め返事をしぶっていましたが、皆があまり問いつめるので、やがて返事をなさいました。その返事はなんと意外でした。「私の両親が日本軍隊によって殺されましたから」というのです。両親が日本軍隊によって殺されたから日本軍捕虜に親切にしてやるというのでは、話は逆です。「詳しく聞かせてくれ」と彼は膝(ひざ)を乗り出しました。  話はこうでした。このお嬢さんの両親は宣教師で、フィリピンにいました。日本がフィリピンを占領したので、難を避けて山中に隠れていました。やがて三年、アメリカ軍の逆上陸となって、日本軍は山中に追い込まれて来ました。そしてある日、その隠れ家が発見されて、日本軍は、この両親をスパイだと言って斬(き)るというのです。「私たちはスパイではない。だがどうしても斬るというのなら仕方がない。せめて死ぬ支度をしたいから三十分の猶予(ゆうよ)をください」 そして与えられた三十分に、聖書を読み、神に祈って斬(ざん)につきました。 やがて、事の次第はアメリカで留守を守っていたお嬢さんのもとに伝えられました。お嬢さんは悲しみと憤(いきどお)りのため、眼は涙でいっぱいであったに違いありません。父や母がなぜ斬られなければならなかったのか。無法にして呪わしい日本軍隊、憎しみと怒りに胸は張り裂ける思いであったでしょう。だが静かな夜がお嬢さんを訪れたとき、両親が殺される前の三十分、その祈りは何であったかをお嬢さんは思いました。するとお嬢さんの気持ちは憎悪から人類愛へ転向したというのです。  彼はその美しい話を聞きましたが、まだよく分かっていなかったのです。しかし、やがて聖書を買ってチラチラと見ていたとき、ルカの福音書二十三章三十四節、「父よ、彼らを赦(ゆる)したまえ、その為(な)す所を知らざればなり」のところで、ハッと、あのアメリカのお嬢さんの話が頭にひらめいたのでした。 これは十字架上からキリストが、自分に槍(やり)をつけようとする兵士たちのために、天の父なる神さまにささげたとりなしの祈りです。敵を赦しうる博愛、今こそ彼はお嬢さんの話がはっきりと分かりました。斬られる前の、お父さんやお母さんの祈りに思い至ったのです。「神さま、いま日本軍隊の人々が私たちの首をはねようとするのですが、どうか、彼らを赦してあげてください。この人たちが悪いのではありません。地上に憎しみ争いが絶えないで、戦争など起こるから、このようなこともついてくるのです」彼はその場で目頭がジーンと熱くなるのを覚え、大粒の涙がポロポロと頬(ほお)を伝いました。そしてゴルゴダの十字架を仰ぎ見て、まっすぐにキリストに向き直ったのです。

自分の敵を赦し、迫害する者のために祈ること、それが天の神が私たちクリスチャンに求めておられることです。それはただゴルゴタの十字架の上で祈られたイエス・キリストの愛を知った者だけがなし得ることなのです。

ところで、ここにはそのために必要な二つのことが教えられています。もちろん、敵を赦し、迫害する者のための祈ることは、ただキリストの十字架の愛と赦しがなければ決してできません。その前提に立ちながら、ここにはそのためには二つの心が必要だと教えられています。それは何でしょうか。その一つは15節にあります。それは、

「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」

ということです。これはどういうことでしょうか?相手の身になって考えるということです。相手の身になって考える心から、そうしたあわれみの心が生まれてくるのです。クリスチャンは喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣くことが必要です。

ところで、泣く者といっしょに泣くことはできても、喜ぶ者といっしょに喜ぶことはなかなかできることではありません。悲しみの中にいる人とともに泣いてあげることはそんなに難しいことではありませんが、隣人がうまくいっているのを見て喜ぶことは、かなり難しいことです。親のいない子どもたちをみたり、身体に障害を抱えていてもそれに負けずに生きている人のドキュメントを観て、涙を流すことはそれほど難しくありませんが、誰か大きな祝福にあずかるのを見て、心から拍手をすることはやさしいことではないのです。

人類最初の殺人事件はなぜ起こったのでしょうか?嫉妬のためです。神様が弟アベルのいけにえは受け入れられたのに、兄のカインのいけにえは受け入れてくださらなかったので、カインは嫉妬心を起こして弟アベルを殺してしまったのです。それはカインばかりではないのです。私たちも同じです、私たちも他の人が祝福されているのを見るといっしょになって喜ぶどころか、嫉妬心を抱きやいのです。ですから、ここには喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしに泣きなさいとあるのです。兄弟姉妹のだれかがいい大学に合格できたら、「どの大学に入るかじゃない。何を勉強するかがたいせつだから」なんて言わないで、「やったね。よくがんばった」と一緒に喜んであげることがたいせつです。兄弟姉妹の家でその家族のだれかがいい仕事に就けたり、結婚に導かれたり、何か祝福されることがあったとしたら、「ほんとうに良かったですね」と心から喜んであげられたら、どんなにすばらしいでしょう。クリスチャンはひがんだり、ねたんだりしないでいっしょに喜び、いっしょに悲しんであげられる。相手の身になって考えられることがたいせつです。そうした心が迫害する者をも祝福するという態度へつながっていくのです。

もう一つのことは16節にあります。ここには、「互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い人に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。」とあります。威張ってみたい心、砕かれたくないとい心は誰にでもあります。自分をよく見せようと思えば、ついついうそをつくこともあります。ですからここには、「互いに一つ心になりなさい」と勧められているのです。これは英語の訳を見ると「Live in Harmony」となっています。つまり、調和をもって生きなさいということです。どういう人が調和をもって生きられるのでしょうか。謙遜な人、自分こそ知者だなどと思い込んでいない人です。心が高ぶった人は人と調和を持つことができません。自分こそ知者だなどと考えている人はなかなか砕かれることができないのです。自己主張だけをして、相手を尻に敷くような毒のようなことばばかり口にしてしまうので、すぐに調和が乱れてしまうのです。そういう人が行くところでではどこでも平和が全部崩れてしまうのです。逆に自らを低くし、へりくだった心で自分は知者ではないと思うならば、人々から認められ、愛され、平和に暮らすことができるのです。ガラテヤ人への手紙5章22,23節には、

「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」

とあります。これらは御霊の実なのです。決して私たちの力によって身につけられるものではありません。聖霊が私たちに油を注いでくださるとき、初めて愛することができ、喜ぶことができ、平安を享受することができ、忍耐することができるのです。親切、善意、柔和、自制といった実を保つことができるのです。

私たちの力では迫害する者を祝福したりすることはできません。私たちの力では自らを低くして、自分こそ知者だなどと思わない心を持つことはできないのです。ただ主の前にひざまずき、主が私のために成してくださったことを思いめぐらし、主が私の心を砕いてくださることによって初めて、迫害する者を祝福し、喜ぶ者といっしょに喜び、互いに一つ心になることができるのです。

Ⅱ.すべての人と平和を保ちなさい(18)

第二のことは、すべての人と平和を保ちなさいということです。私たちの側でどんなに悪意を捨てても、私たちのことを悪く思ったり、迫害したり、悪口を言ったりする人はいるものです。そういう人に対して、私たちはどのように対応したらいいのでしょうか。ここには、

「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」

とあります。「自分に関する限り」とは、「自分に出来ることにおいては完全に・・」という意味です。私たちがどれほど善意で接しても、私たちを悪く思ったり、私たちを迫害したり、私たちの悪口を言ったりする人はいるものです。しかし、ほかの人がどうであろうとも、私たちは自分に出来ることにおいては、すべての人と平和を保とうとする姿勢が必要なのです。相手があくまでも悪いことをすれば、二人の間には本当の平和はありませんが、せめて自分の側においては全き平和を保ち、平和でない責任は相手にあることが明らかであるようにしなければならないのです。これも実際の生活においては大変なことだと思います。日々の生活の中で平和が保てないとき、「あの人が悪かったのだ」「いや。あいつが悪い」と人のせいにしがちだからです。人はいつでもだれかのせいにしないと自分を保つことができないのです。しかし、そのような時でも、少なくとも、自分の中では平和を保つようにベストを尽くさなければならないのです。

まさにダビデはそうでした。サウルは、ねたみのゆえにダビデを殺そうとしていましたが、ダビデはそのサウルに対して彼を殺す機会があっても、自分から手を下すことは絶対にしませんでした。かえってダビデはサウルを祝福したのです。長年逃げ回らなければならない苦しみに遭いながらも、ペリシテ人の中に紛れ込んではきちがいを装わなければならないようなことがあっても、それでもダビデは、最後までサウルに対して平和を保ったのです。そのような状態は約十二年間も続きました。その中で特に激しかった期間が少なくとも五~六年はありました。生存すら危ぶまれる状態の中で、敵に対して悪をもって報いることをせずに、ダビデは、自分に関する限り平和を保ったのです。そのように私たちも自分に関するかぎり、すべての人と平和を保つことを心がけなければならないのです。

Ⅲ.神の怒りに任せなさい(19-20)

最後に、神の怒りに任せなさいということを見て終わりたいと思います。それでも一向に状態が改善せず、相手が悪意をもって行動する時、いったい私たちはどうしたらいいのでしょうか。19,20節をご覧ください。ここには、

「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。」

とあります。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなければならないのです。もちろん、私たちクリスチャンが不当な仕打ちを受けたり、間違ったことをされたりするときには、公の機関の訴えることもできます。訴えた方がいい場合もあるかもしれません。しかし、それでも一番たいせつで中心的なことは何かというと、神様にお任せすることです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いる」と主は言われるからです。復讐は私たちのすることではありません。それは神様がなさることなのです。神様は正しくさばかれる方です。その正しい神のさばきにゆだねなければならないのです。

そればかりではありません。20節には、「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせ、渇いたのなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。」とあります。飢えた敵に食べ物を与え、水を飲ませるというのは、愛の対応です。どうせ言っても無駄だからと無視するのではなく、愛によって対応しなさいというのです。そうすることによって、彼の頭に燃える炭火を積むことになるからです。彼の頭に燃える炭火を積むとはどういうことでしょうか?これは神のさばきを望むということではありません。これは敵に恥ずかしい思いをさせるという意味です。相手の悪い行為にもかかわらず、クリスチャンが親切をもって応対するので、良心にいたたまれないような痛みを覚え、恥ずかしい思いになるということです。何ということでしょう。これが神の勝利の道です。

イエス様がご自分を十字架につけた人たちのことを「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」と祈られたとき、その横にいた強盗が救われ、神の愛が立証されました。あのステパノが迫害されて、石に打たれながら死んだ時も、「彼らを赦してください」と祈って死んだとき、その祈りを通して、パウロが救いに導かれ、傑出した異邦人の使徒となりました。旧約聖書に出てくるヨセフも、自分をエジプトに売り渡した兄弟たちを赦し、神様はここに導かれたのですと告白したとき、彼は復讐したいという誘惑に打ち勝ち、勝利者としての人生を全うできました。私たちは祝福すべきであって、のろってはいけないのです。このみことばに生きるとき、私たちが神様からの恵みををいただき、祝福に満たされた、勝利ある人生を送ることができるのです。

アメリカのリバイバルリスト、D・L・ムーディーは、行く先々で祝福を祈ったと言われています。幼子に会っては祈り、アル中やマフィアのような人と会っても祈りました。マフィアの人にどのように祈ったんでしょうね。「あなたの人生が祝福されますように」でしょうか、「イエス・キリストを信じて祝福されなさい」でしょうか、とにかく祝福を祈りました。すると驚くことに、祝福された人は祈られたとおりに変わっていったというのです。幼子を祝福すると、その幼子は神様のみことばを語る牧師になりました。アル中やマフィアを祝福すると彼らは福音を証する者になったのです。ヤクザを祝福すると、教会の忠実な働き人になったのです。ですからムーディーは「リバイバルの一番の近道は、みことばのとおりに伝道して、みことばのとおりに語ることだ」と告白しました。みことばのとおりに生きること、それが祝福です。あなたを迫害する者を祝福すること、それがあなたの祝福に返ってくるのです。

この社会の中で、家庭の中で、周りの人たちに対して私たちはどう振る舞うべきなのでしょうか。当然ながら、教会の中も例外ではありません。ここでは、クリスチャンではない人たちと平和を保ちなさいと教えていますが、これはどんな人間関係においても適用される原則です。良い行ないを熱心に行ない、善を行なう機会が与えられたなら、喜んでそれを行なうようにしなさい。そのようにパウロは私たちに教えているのです。誰に対しても、すべての人が良いと思うことを図るようにしなければならないのです。このように私たちを憎む者に対して、あくまでも親切に、善をもって報いるなら、彼らはそれを見て自分の良心が痛むようになるのです。私たちはそのようにして彼らが救いに導かれることを求めるのです。これが十字架の勝利の原則なのです。

私たちは、自分に対して悪をもって向かってくる相手をなかなか赦すことができない弱い者ですが、この十字架の勝利の原則に従って勝利する者でありたいと思います。だれに対してでも、悪に悪をもって報いることをせず、すべての人が良いと思うことをしていきましょう。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝たなければなりません。これがパウロが私たちに教えている勝利の道なのです。

ローマ人への手紙12章9~13節 「本物の愛に生きる」

きょうは「本物の愛に生きる」というタイトルでお話したいと思います。ローマ人への手紙は1~11章までの教理的な部分と、12章から終わりまでの実践的な部分に分けられますが、その実践的な部分においてクリスチャン生活の原則について語ってきたパウロは、ここで教会の兄弟姉妹の基本的な関係のあり方について語ります。それは何でしょうか?愛です。9節をご覧ください。ここには、

「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。」

とあります。クリスチャンの生き方の基本は愛です。クリスチャンがキリストのからだである教会において一つになるとき、それがほんとうの意味でキリストのからだとなるのです。どんなにすばらしい賜物が与えられていても、もしそこに愛がなければ何の意味もありません。このように、賜物について教えた後で、愛について語られているというケースは、コリント人への第一の手紙13章と同じです。12章で賜物について語ったパウロは、続く13章のところで、次のように言いました。

「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」(Iコリント13:1-3)

愛こそ、すべての働きや賜物をその根底において支えるものであり、すべてを結ぶ帯なのです。きょうは、この「本物の愛に生きる」ということについて三つのことをお話したいと思います。まず第一のことは、愛には偽りがあってはいけないということです。クリスチャンは本物の愛で愛さなければなりません。第二のことは、クリスチャンは兄弟愛をもって心から互いに愛し合わなければなりません。第三のことは、そのためには望みを抱いて喜びましょうということです。望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みましょう。  I.本物の愛(9)

まず第一に、愛には偽りがあってはならないということについて見ていきたいと思います。9節をご覧ください。ここには、「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。」とあります。

パウロはまず、愛には偽りがないようにと勧めています。この「偽りがあってはなりません」という言葉は、役者が演技をするように愛してはならないという意味です。この世の中には演技の愛が何と多いことでしょうか。いかにもほんとうの愛であるかのように見せかけて、実際にはただ仮面をつけているだけという場合がたくさんあるのです。表面的にはなめらかであるようであっても、心の中ではそうでないケースがほとんどです。しかし、愛には偽りがあってはなりません。つまり、偽りのない本物の愛によって愛さなければならないのです。

では本物の愛とはどのようなものなのでしょうか。ここにはその一つの特質が描かれています。それは、「悪を憎み、善に親しみなさい」ということです。皆さん、本当の愛は、悪を憎み、善に親しみます。不正を喜ばずに真理を喜ぶのです。

ある時、一人のお母さんが、お子さんのことで相談に見えました。中学生になったばかりの娘さんが急に反抗的になったが、その理由がよく分からない、というのです。  今度は、そのお嬢さんを呼んでお話を伺うと、一つのことを話してくれました。小学校を卒業して、春休みがあり、中学生になっていきますが、その春休みの出来事でした。四月になって、お母さんの実家のおばあちゃんに会いに行こうと、二人で電車に乗って行くことになりました。そして切符を買う時にお母さんがこう言ったのです。「あんたはまだ小さいから小学生の料金で乗れるわよ」と。四月一日を過ぎれば自分はもう中学生だからと、「今日から私は、大人の料金」と思っていたのですが、お母さんが「あんたは小さいから子ども料金にして、聞かれたら小学生って言うのよ」と言って、子供料金で乗せられたのです。その時に、えらく彼女は傷ついたのです。「大人ってずるい」と思ったそうです。  その時にこのお母さんは、たった何百円かを節約するために、大切な娘の信頼を失ってしまったのです。本物の愛は、悪を憎み、善に親しむのです。

こうやって見ますと、聖書が教える愛と、この世で言う愛との間には、本当に大きなギャップがあることがわかります。聖書で言う愛はその動機に注目しますが、この世で言う愛は行いと結果に注目するからです。世の中では貧しい人たちにお金を与え、飢えている人たちに食べ物を分け与える人たちを、愛に満ちた道徳的な人だと考えますが、聖書で愛がある人というのはそうした行為や結果だけでなく、動機まで問われるのです。したがって、どんなに美しい行為をしたとしても、その動機が適切でなければ、それは愛とは言えないのです。聖書の観点から見るならば、本当の愛とは神様との関係の中で与えられる愛を動機として現れるものです。なぜなら、愛は神様にあるからです。

「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちのために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Iヨハネ4:9,10)

本当の愛は神様にだけあるのです。神様がそのひとり子をこの世に遣わしてくださり、私たちのためになだめの供え物としての御子を十字架に付けてくださったことの中にあるのです。ですから、この神様の愛に満たされることによってのみ、周りの人たちと喜びと悲しみを分かち合うことができるのです。そうでなかったら、その人が意識していても、していなくても、それはただ自己満足のための、打算的な愛になってしまうのです。そのような打算的な愛の中には、決して真の愛が芽生えることはありません。

Ⅱ.兄弟愛をもって互いに愛し合う(10)

第二のことは、兄弟愛をもって心から互いに愛し合いなさいということです。10節をご覧ください。ここでパウロは、

「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」

と言っています。「兄弟愛」というギリシャ語は「フィラデルフィア(Philadelphia)」です。これは9節に出てくる「愛」とは違います。9節に出てくる「愛」は「アガペー」という言葉で、私たちに対する神様の愛を表していますが、この10節に出てくる「兄弟愛」は、クリスチャン相互において現れる愛のことです。つまりここでパウロが言わんとしていることは、神様の一方的な恵みと愛を知ったクリスチャンは、その愛を確信して、それを教会の兄弟姉妹の中で兄弟愛として互いに愛し合わなければならないということです。この「互いに愛し合う」という言葉は、家族的な親しい愛を表わす言葉です。世のすべての人にとって家庭は祝福の源ではないでしょうか。なぜなら、そこには麗しい愛の交わりがあるからです。その愛で互いに愛し合わなければならないのです。それは教会が神の家族であり、クリスチャンが互いに兄弟姉妹だからです。

神様の愛を知らない人は、兄弟愛をもって互いに愛し合うことはできません。ローマ人への手紙1章29~32節には、神を神としてあがめず、神様に感謝もせず、自分では知者であると言いながら、愚かな者となっている人間の姿が描かれています。

「彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。」

これはどれも愛に反する思いや行為です。神から離れ、偶像を神として崇拝している社会では、みな自分勝手です。愛のひとかけらもありません。特に注目していただきたいのは、31節の「情け知らずの者」という言葉です。これは「アストロゴス」という言葉ですが、12章10節に出てくる「互いに愛し合い」という「ストロゴス」という言葉にそれを打ち消す「ア」という言葉が付いたものです。ですからこの「情け知らずの者」というのは、家族の愛を持っていない、家族的な愛と親しみを知らない人のことです。それは愛に反するこの長いリストの中で、一つの要素として取り上げられています。つまり、神様を知らない、罪深い人間の特徴というのは、本当の家族の愛を持つことができないということです。両親を敬わず、従おうともしません。悪意、陰口、争い、欺き、悪巧み、親に逆らい、自分勝手に生きようとする態度や行いが、彼らの家族関係の特徴となっているのです。

最初の人間アダムとエバが罪を犯した時、彼らの間の関係は破壊され、そこにあった麗しい交わりを失われたように、家族のような関係が破壊されてしまったのです。それが罪深い人類における人間関係なのです。しかし、クリスチャンはそうであってはいけません。クリスチャンは神様の愛、キリストの十字架によって罪購われた者として、互いに兄弟姉妹であり、神の家族なのですから、その愛をもって互いに兄弟姉妹として受け入れ、互いに愛し合わなければならないのです。兄弟愛のうちに互いに情け深さを示すべきなのです。

アフリカにイーク族という部族がいるそうです。この部族は互いに話をしません。話をするとしても、それは常に嘘でしかないのです。朝起きると、男たちは遠方に目を向けて座っています。互いに言葉は交わしません。そして誰かが獲物を見つけるといきなり立ち上がって走り出すのです。獲物の方に向かうのではありません。まず反対方向に蛇行しながら走って仲間の目を騙(だま)し、それから獲物に近づいていくのです。他人のために獲物を捕ることもしません。全部自分のためです。ですから獲物を獲って家に戻ると、まず自分が少し食べ、妻にも与えますが、4~5歳以上の子供には与えないので、子供が死ぬことも珍しいことではありません。死人を葬ることをせず、老人が死ぬと蹴飛ばして横の獣道みたいなところに放置して無視するのです。そこまで動物的になってしまう社会が実際に存在しているのです。

何と冷たい社会でしょうか。このような社会に誰が住みたいと思うでしょうか。このような教会に来たいと思う人がいるでしょうか。いないでしょう。教会に行ってみたら、だれも話しかけてもくれない。何しに来たの?というような目で見られるとしたら、ほんとうに寂しく感じます。

愛喜恵が大阪に引っ越していろいろな教会に行ってみましたが、結局、大阪オンヌリ教会に行くことにしました。ここは礼拝堂が3階にあってエレベーターもないのですが、初めて教会に行ったとき、そこで応対してくれたおばさんがとても温かいというか、温かいを越えて熱い方で、大歓迎で迎えてくれたそうです。「よく来ました。あなたは私たちの家族です。何の気兼ねもいりませんよ。」と言うと、「今、集団を連れてきましたから・・」と屈強な男たちが何人か来ると、愛喜恵を背負って3階まで運んでくれました。そうした熱心さは集会にも表れていて、全体的に熱いものを感じたそうです。それは本人だけでなくボランティアで一緒に行ってくれたヘルパーさんも同じでした。これまで別の教会にも一緒に行ったことのあるこのヘルパーさんは、「教会もいろいろあるんですね。」と言うと、「こういう教会なら来てみたい」と言われました。こういう教会なら来てみたいという、こういう教会というのは、家族愛に溢れた教会です。そういう教会にはだれでも行ってみたいと思うものです。

では、そのためにはどんなことが必要なのでしょうか?パウロは、その次のところで次のように言っています。「尊敬をもって互いに人を自分よりもまさっていると思いなさい。」どういう意味でしょうか?ピリピ人への手紙2章3~8節を開いてみましょう。

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。」

パウロはここで、「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」と勧めています。そして、その模範としてイエス様の姿を取り上げているのです。キリストは神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。そして自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われたのです。これが、人を自分よりもすぐれた者と思うということです。つまり、人を自分よりもすぐれた者と思うということは、自分と誰かを比較して、「あなたは私よりもすぐれている」と思うということではありません。イエス様はそのように思われたでしょうか。絶対にそんなことはありません。ある人はすべてのことにおいて私たちよりも優れているでしょうし、また別の人はある点においては私たちよりも優れていますが、別の点では私たちの方が優れていることがあります。ですから、ここで「互いに人を自分よりもすぐれていると思いなさい」というのは、誰が優れていて、誰が優れていないのかということを言っているのではなく、「人を自分よりも大切だと思いなさい」ということなのです。イエス様は私たちのことを大切な存在だと認めてくださったがゆえに、私たちのためにこの世に来てくださり、十字架にかかって死んでくださったのです。自分の方が大切だと思ったのなら、天から降りて来ることはしなかったでしょう。しかし、イエス様は天にあるご自分の栄光を惜しむことなく、かなぐり捨ててくださいました。私たちのことを御自分のことよりも大事だと思ってくださったからです。ですから、それまで持たれていた父なる神と聖霊なる神との麗しい交わりを捨ててこの世に来てくださり、私たちを罪と死から救うために私たちと同じ人間になってくださったのです。それは実に一方的な愛にほかなりませんでした。相手がすべてにおいて自分よりも優れた人であれば、自分のいのちを捨ててその人を生かすということも考えられないことはありません。もし私たちがアインシュタインのような科学的な頭脳を持っていて、バッハのような優れた音楽の天才で、カルヴアンのような神を恐れる心と神学を持っていて、パウロのような福音の力と情熱を持っていたなら、もしかしたらその人のために犠牲になろうということもあるかもしれません。しかし、イエス様はすべてのことにおいて私たちよりも遙かに遙かに無限に優れておられる方です。イエス様と比較しようものなら、私たちは優れていないどころか、全く汚れた者でしかないのです。私たちは、本当に罪深い、自己中心的な愚かものなのです。にもかかわらずイエス様は、そんな私たちを愛し、私たちを大切にしてくださり、私たちのために御自分を捨ててくださったのです。それが十字架であり、十字架の愛なのです。聖書では、その愛を「アガペー」という言葉を使って何度も何度も説明しているのです。「他の人のことを自分よりも大切だと思いなさい」というのは十字架の愛のことであって、イエス様が私たちに対して表してくださった愛なのです。この愛があって初めて、私たちにも愛が生まれ、兄弟愛をもって互いに愛し合うということが可能になるのです。教会では、その愛が基準でなければならないのです。

Ⅲ.望みを抱いて喜び(12)

ですから第三のことは、望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みましょうということです。この見える世界の現実を見たら、互いに愛し合うということなどできません。そこに見える様々な現象に振り回されては、怒ったり、すねたり、ひがんだりすることでしょう。なぜなら、この世は戦場だからです。戦場というのは戦いの場なのです。どこに行っても戦いがあります。いろいろな問題にぶつかるのです。しかし、そんな戦場にいても目を天に向けるなら、やがてもたらされる永遠の御国と永遠の祝福にあずかることができるという希望のゆえに、たましいの自由と喜びを体験することができるのです。

パウロは8章18節のところで、「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」と言いました。救い主イエス・キリストを信じる者に約束されている将来は勝利であり、栄光です。この栄光が約束されているのです。この栄光が約束されているがゆえに、私たちは大いに喜び、患難をも乗り越えることができるのです。私たちが喜べるのは今の状況が楽しいからではないのです。たとえ今はそうでなくても、やがてそのような栄光と祝福にあずかることができるという希望があるから喜ぶことができるのです。この望みのゆえに、私たちは苦手のような人であっても兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思うことができるのです。

先日、放映されたアンビリーバーは終戦記念スペシャルでしたが、ある中国人家族の奇跡のような愛のお話でした。それは、1946年、終戦から1年後のことでした。中国・河南省、最大の都市、南陽から北へ50㎞ほどの農村に住んでいたパンジュンさんは、負傷した日本兵が村人から暴力を受けていたのを目にしたことから始まります。河南省は日本軍との激戦が繰り広げられた地で、この村では身内に犠牲者が出た人も多く、日本人に対する憎しみは激しかったのです。この日本人は言葉もわからず、口もきけない様子でした。パンジュンさんは彼を村人からかばい、家に連れて帰ることにしました。しかし、彼の妻は日本兵を家に置くことには猛反対でした。というのは、その時代中国ではどの家でも食べて行くのがやっとの時代です。年老いた母親に加え、二人の子供を食べさせていくだけでやっとなのに、そのうえもう一人を養っていくだけの余裕がなかったのです。それに上、彼らの長男も日本人との戦いで命を落としていたのです。  それでもパンジュンさんは、「この人だって戦争の犠牲者だ。この人にだって彼を愛してやまない家族がきっといるはずだ」と妻を説得して、近所の人には遠縁の者だと話して、その日本兵が元気になるまで面倒を見ることにしたのです。 ところが、パンジュンさんがいくら土の耕し方を教えてもできず、言葉も一言もしゃべらないのです。どうも学習能力が極端に低いように思えました。その時ポンジュンさんは、彼の左耳の後ろに、小指大の凹んだ傷跡があるのを見つけました。もしかしたら彼は頭を撃たれ、その後遺症で全ての記憶を失ってしまったのではないかと思われました。さらに夜になると突然奇声を発したり、布団を引き裂くなど情緒不安定な行動をとりました。時には夜道をフラフラ彷徨うこともありました。  そんな矢先、恐れていたことがついてに発覚してしまったのです。村人たちに日本人をかばっていることがバレてしまったのです。村からも戦死者がでており、心情的に村人たちが日本兵を受け入れることは困難なことでした。そして、そのストレスがピークにさしかかった時、突然、日本兵が両足の痛みを訴えたのです。大きな病院に連れていくにも一家の蓄えだけではどうすることもできませんでした。それでパンジュンさんはどうしたかというと、村人の家に治療費を貸してくれるように頼んで回ったのです。初めはだれも貸してくれる人がいませんでしたが、パンジュンさんの必死の訴えに心打たれた人たちが貸してくれました。車も馬も持っていなかったパンジュンさんは、何とリヤカーに彼を乗せ50㎞離れた南陽市まで連れて行き、そこで治療を受けさせたのです。しかし、頭の凹みについてはもっと大きな病院に連れて行かないと治療できないということがわかり、仕方なくパンジュンさんは、彼を自宅で看病し続けることを決めました。  終戦から10年が経った1955年、中国政府は残留日本兵の帰還活動を開始すると、パンジュンさんは日本兵の事情を説明するため50㎞離れた政府の機関を尋ねましたが、日本兵は記憶を失っていて、名前も出身地も経歴もわからないため、手助けのしようができませんでした。  そんな時もう一つの事件が起こりました。息子のポジェさんが地元の名門高校を受験して見事合格したのですが、一家がこの日本兵をかばっているという理由で入学を取り消されてしまったのです。猛勉強を続けてきたポジェさんにとっては受け入れられないことで、ポジェさんお父さんにこう詰め寄るのです。「父さんは日さんと僕とどっちが大事なんですか?」すると、パンジュンさんは、妻にしか話していない秘密を語るのです。それは遡ること50年前、自分が捨て子であったという事実でした。彼を産んだ両親は極度の貧しさのため、彼を見捨て、パンジュンさんの家の前に捨てられていたのを、引き取られたのでした。パンジュンさんも日さん同様、命の炎が消えかけていたところを救われていたのです。ポジェさんは自分の過ちを父に詫びました。そして、日さんを心から家族として受け入れたのです。  その数日後に、パンジュンさんが倒れました。病魔が彼を蝕んでいたのです。家族全員が集められる中で、パンジュンさんはポジェさんに二つの遺言を語りました。一つは良い嫁をもらうこと。それからもう一つは これからも日さんの面倒を見ながら、彼の家族を捜し出してほしいということでした。  その遺言のとおり、ポジェさんは1967年に結婚、二人で日さんの面倒を見ていました。しかし、時は文化大革命の時代、厳しい弾圧や取り締まりによって、中国に留まっていた日本人にスパイ容疑がかけられたのです。記憶もなく、話もできない日さんに代わってポジェさんが取り調べを受け、激しい拷問を受けました。  1972年に日中国交が正常化すると、国交が途絶えていた日中関係にピリオドが打たれました。これで両国が自由に交流することができるようになったのです。早速ポジェさんは日さんの身元を調べるために政府機関や日本赤十字社に手紙を書き送りました。その頃日さんは一家の懸命な世話によって不自由なく食事ができるようになっていましたが、足の関節痛は残っていて、毎日のマッサージを欠かせない状態でした。彼が元気なうちに何とか家族に会わせてあげたいと手紙を送り続けると、1991年に、全国紙の朝刊に載った日さんの写真をみた人が、日さんは戦時中、河南省で日本軍の特務機関のメンバーとして行動を共にしていた部下にそっくりだというとで身元が判明、1912年に秋田県増田町で生まれた石田東四郎さんであることがわかりました。そして52年ぶりに日本に帰郷することができたのです。元日本兵と47年間も共に暮らしたポジェさんは、一緒に日本にやって来て三週間滞在して帰国する日、石田さんとの別れを前にあまりにも長く険しい道を振り返りながら、その数々の思い出に、涙が溢れて止まりませんでした。その四年後にポジェさんは50歳の若さでこの世を旅立ちましたが、石田さんは97歳まで生き、2007年にこの世を去ったのです。

それにしても、なかなかできることではありません。普通の状態ならば、ある程度は世話をすることもできるでしょう。しかし、脳に障害を抱え、記憶も全く失ってしまった日本人を47年間も世話し続けることは、人間の限界を超えたことです。なぜにパンジュンさんが、ポジェさんが、そこまで日本兵を愛することができたのでしょうか。それはパンジュンさん自身が、親に捨てられて、もう命の炎が消えかかったものを、救ってもらったという経験から生まれてきたのではないでしょうか。  私たちもかつては罪過と罪の中に死んでいたものです。そんな私たちが神の愛によって、イエス・キリストの十字架による贖いによって救われたのです。私たちの命は私たちのものではなく神様のものなのです。神様のみこころのとおりに生きる者でありたいのです。そのみこころとは何でしょうか。この神の愛に生きることです。

愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりもまさっていると思いなさい。愛による人間関係を求めていきましょう。それは私たちの目が移りゆく、失われゆくこの世に奪われるのではなく、天国という永遠の故郷に望みを置くことができるようにしてくださった神の愛に向けられることによって生まれるものなのです。

ローマ人への手紙12章3~8節 「与えられた恵みに従って」

きょうは「与えられた恵みに従って」というタイトルでお話したいと思います。このローマ人への手紙は1~11章までの部分と、12章から終わりまでの部分の二つに分けられます。パウロは1~11章までの部分で、人はいったいどうしたら救われるのかということについて明確に語ってきました。それは、信仰によってということです。人はただイエス・キリストを信じることによってのみ救われるのです。イエス様を信じる以外に救われる道はありません。ただイエス・キリストの十字架の贖いを信じることによってのみ救われるのです。これが福音です。では、そのようにして救われた人はどのように生きるべきでしょうか。パウロは続くこの12章から、クリスチャンの具体的な生き方について語るのです。前回は、その大前提となるべき献身について学びました。すなわち、キリストの救いの恵みにあずかった人は、当然のこととして自分を神様にささげるべきだということです。その献身を土台としてパウロは、その上に築き上げられていくべき具体的な生き方について語るのですが、その一つのことがきょうの箇所で教えられていることです。3節をご覧ください。ここには、

「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとり言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」

とあります。すなわち、クリスチャンは自分に与えられた恵みによって、キリストのからだである教会の中で、思うべき限度を越えて思い上がるのではなく、神がそれぞれに与えてくださった信仰の量り、その賜物に応じて慎み深く歩まなければならないのです。

きょうは、このキリストのからだである教会で仕えることについて三つのことをお話したいと思います。まず第一に、慎み深い考え方をするとはどういうことなのでしょうか。第二に、なぜクリスチャンはそのよううに考えるべきなのでしょうか。なぜなら、私たちはキリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官だからです。第三に、では私たちにはどんな恵みが与えられているのでしょうか。その与えられた恵みの賜物について見ていきたいと思います。

Ⅰ.慎み深い考え方をしなさい(3)

まず第一に、慎み深い考え方をするとはどういうことなのかについて見ていきたいと思います。3節をご覧ください。

「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」

パウロはここで、キリストを信じて救われたクリスチャンは、だれでも、思うべき限度を越えて思い上がるべきではなく、むしろ、信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさいと勧めています。いったいこれはどういう意味なのでしょうか?この「考え方をしなさい」という言葉は本来、心を意味する言葉と関係のある語で、人の持っている傾向性を表す言葉です。ですから、「慎み深い考え方をしなさい」というのは、健全な思いを持ちなさいということであって、消極的で、引っ込み思案な態度を持つようにということではありません。これはちょうど「思い上がる」という言葉と対照的な言葉です。どういう態度が思い上がった態度なのかというと、思うべき限度を越えた態度の時です。神様がそれぞれに分け与えてくださった信仰の量りを越えてしまうことが思うべき限度を越えた態度であり、傲慢な態度であり、不健全な姿なのです。クリスチャンとしての健康な姿というのは、ただ謙遜であるというだけでなく、信仰的な考え方を持つことです。これがいわゆる一般の社会で言われている謙遜な態度と少し違っている点でしょう。一般の社会でも謙遜であるようにと教えられていますが、聖書で言う謙遜というのはただ自分を低く考えるだけでなく、それに「信仰」という要素を加えなければならないのです。「信仰の量に応じて」、慎み深く考えなければなりません。

では、「信仰の量りに応じて」とは何でしょうか?「信仰の量り」とは、クリスチャンそれぞれに与えられた信仰の程度のことです。私たちはみな神様から与えられている賜物や程度が違うので、その程度に応じて奉仕しなければなりません。それは多く与えられている者が、少ししか与えられていない者よりも偉いということではありません。多く与えられた者も少しだけ与えられた者も、それが神様から与えられた恵みであると感謝して、キリストのからだである教会を建て上げていくためにその与えられたものを忠実に用いていかなければならないということです。

マタイの福音書25章14~30節のところには、タラントのたとえが書かれてあります。 「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりにはニタラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。 同様に、ニタラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算した。すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたのものです。』ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられるのです。」  この一タラントを預けられたしもべの問題点はどこにあったのでしょうか。忠実でなかったことです。彼は、預けられた一タラントを土の中に隠しておいて、それを用いようとしませんでした。神様の関心はどれだけのタラントを預けられているかではなく、その預けられたタラントをどのように用いたかです。ですから見てください。五タラントあずけられたしもべも、2タラント預けられたしもべも、その与えられたタラントに対して忠実であったとき、神様は彼らに同じ祝福の言葉を言っています。どれだけ与えられたかではなく、それをどのように用いるのかが問われている。信仰の量りに応じて、慎み深く考えるというのは、こういうことなのです。これが健全なクリスチャンの心、考え方なのです。

羽鳥明先生はこの箇所の注解において、次のように言っています。 「霊的奉仕のための第一の条件は、真実の謙遜である。これは自己卑下ではなく、各自に与えられた力、生涯についての神のみこころというものを、間違いなく評価することにかかわっている。与えられた力を過小評価することは、過大評価することとほとんど全く同じで、奉仕の実質的生涯にとって、致命的である。」 つまり、本当の謙遜とは、与えられた霊的賜物を用いて神と人に仕えることであるというのです。ですから、「慎み深い考え方」をするというのは、決して「自分はだめだ、できない」と考えることではなく、それら与えられた霊的賜物がみな神から与えられたものであることを感謝して用いることなのです。

考えてみますと、私たちは神様の恵み、イエス様の十字架と復活の力をほかにして、なんと小さな、なんと弱い、なんとみじめな者でしょうか。しかしそんな者を神様は愛して、選んで、きよめて、聖なる者としてくださいました。そして、信仰の程度に応じて、賜物を与えてくださったのです。私たちは人を支配し、人から偉く思われたり、人の上にあぐらをかくような思い上がった態度からではなく、与えられた賜物に応じて、信仰の程度にしたがって、互いに仕え合っていかなければならないのです。

パウロはここで、「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。」と言っていますが、これはそういう意味です。パウロは、自分がクリスチャンとして今こうして生かされているという現実を思う時、それはただ神の救いの恵み以外の何ものでもないという意識に立ちながら、そのような自分が指導者として、あるいは教師として立てられているのは、ただ神の恵みによって与えられた権威によるものであると自覚していたのです。教会においては、だれひとりとしてほかの人に要求できる資格のある人などいません。みんな赦された罪人にすぎないからです。しかし、そんな者であるにもかかわらず、そうした勧めができるとしたら、それは神様から一方的に与えられた恵みでしかないのです。そのことをわきまえながら、与えられた賜物を用いて互いに仕え合うこと、それが慎み深い態度であり、真に謙遜なクリスチャンの姿なのです。

私たちはこのことを忘れてはなりません。このことを忘れてしまうと、思い上がってしまいます。慎み深い、健全な考え方を持つことができず、傲慢になったり、不信仰になったり、ほかの人をさばいてしまったり、トラブルメーカーになってしまったりするのです。「私たちに与えられている賜物はすべて神からの恵みである」と思うこと、それが慎み深い考え方であり、信仰生活のすべてなのです。

Ⅱ.キリストにあって一つのからだ(4-5)

第二に、なぜクリスチャンはそのように考えるべきなのでしょうか。なぜなら、私たちはキリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官だからです。4,5節をご覧ください。

「一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。」

パウロはここで、教会を「一つのからだ」という言葉で表現しています。教会はキリストのからだなのです。教会がキリストのからだであるというのは、どういう意味でしょうか?それは第一に、キリストと教会は一体であるということです。つまり、教会はキリストのいのちによって成り立っているということです。ですから、キリストなしに教会は生きることはできないのです。

第二のことは、そこには多くの器官がありますが、一つに結びいているということです。一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きをしないのと同じように、大ぜいいる私たちもそれと同じなのです。からだのすべてが目だったらどうなるでしょうか?想像しただけでも気持ち悪いですが、見ることはできたとしても、ほかのことは全くできません。体の中には目もあれば耳もあり、口もあれば鼻もあり、手もあれば足もあります。そうした一つ一つの器官が一つとなってはじめてからだとしての健全な営みができるというか、機能していくわけです。それはちょうど目が見るという働きを、目だけのためにしているのではなく、耳や口や鼻や手、足など、からだのほかの部分のためにしているのだということです。それと同じように、私たちクリスチャンも、教会のほかの人々のために仕えるために存在しているのです。

右の手がかゆくなると、右の手ではかけません。そこでどうするかというと、左の手でかくわけです。知らず知らずのうちに動いてちゃんとかいているんですね。不思議です。左の手が、「私はかきません。私は私です」と言ったことがあるでしょうか。手がある時ストライキを起こして、「おれは口さんのためだけに存在している。おいしい食べ物を口に運ぶ時にだけ動くのであって、それ以外は動きたくない」なんて言うでしょうか?言いません。私たちはお互いを必要としているのであって、お互いのために働いているのです。靴のひもを結ぶ時には、身をかがめて結びます。私たちはキリストの体につながった一つのからだとして、ある人は手のようです。ある人は足のようです。ある人は口ばっかりのようです。ある人はあってもなくてもいいような爪のようです。しかし、そんな爪でもないと大変なんです。シールを剥がそうとしても剥がれません。また、爪を剥がそうとしたら痛いですよ。爪がなかったら大変なんです。盲腸はなくてもいいと昔からよく言われていますが、あれもないと困るらしいのです。私は昨年胆石が見つかって胆嚢摘出手術を受けようとしましたが、怖くなって入院した翌日に病院から逃げ出しました。医師は胆嚢はなくてもいいと簡単に言うのですが、なくてもいい臓器などあるのかと不安になり、まだしばらくそのままにしておくことにしたのです。幸いにも、あれから一年が経ちましたが、今のところ何の悪さもしないので大丈夫です。

皆さん、なくてもいい器官などありません。どんなに小さな器官でも必要とされています。それは教会におけるほかの人々のために、与えられた賜物をもって仕えるためです。このことが本当にわかったら、奉仕の喜びも増してくるはずですし、教会は一致して大きく前進していくのです。

Ⅲ.異なった賜物(6-8)

では私たちにはどのような賜物が与えられているのでしょうか。最後に、私たちに与えられている賜物のリストを見ていきたいと思います。6~8節をご覧ください。

「私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。」

私たちは与えられた恵みに従って、異なった賜物が与えられています。それはどういうことかと言いますと、人が生来持っている才能とは区別されるものであるということです。もちろん、生来の才能も聖霊によって用いられることもありますが、これはあくまでも恵みによって与えられている賜物であるということです。聖霊によって全く造り変えられた人が、超自然的なわざを行うために与えられる恵みの賜物なのです。神様は私たちひとりひとりに、それぞれ異なった賜物を与えておられるのです。ここにはその中のおもなものとして七つの賜物が挙げられています。

まず第一に「預言」です。「もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。」とあります。預言というのは、読んで字のごとく、神のことばを預かるということです。これは将来のことを予言することではありません。今のことばで言えば、これは説教の賜物と言えるでしょう。神様から預かったみことばを、わかりやすく伝える賜物のことです。これは賜物によるのです。

二つ目は「奉仕」です。別の訳には「仕える賜物」とあります。貧困者や病人を助けて、その人々に仕える働きとも考えられますが、むしろ、この賜物は他の人が主導する宣教の働きを助ける賜物のことでしょう。この賜物を受けた人は、一人でしなさいというと、うまくできませんが、指導者の下で働くと自分の持っている以上の力を発揮することができます。これは私たちが通常、スタッフとか、助け手、同労者、などと呼ばれる人たちが受けている賜物で、極めて重要なものです。

出エジプト記17章に出てくるアロンとフルもそうでした。その時イスラエルはアマレクと戦争をしていましたが、モーセが手をあげて祈るとイスラエルが優勢になり、手を下げると劣勢になります。ですからモーセはずっと両手を挙げていなければならないのですが、経験のある方はご存知のように、ずっと手を挙げているのは苦しいのです。モーセもそうでした。そして手が下りて来ると劣勢になるのでどうしようかと思っていたとき、その両手を支えたのがこのアロンとフルでした。彼らは一人がモーセの右の手を、もう一人がモーセの左の手を持って支えたので、イスラエルは勝利することができたのです。これが奉仕の賜物です。    この夏、神学校の同窓会がありましたが、何人かの先生がこちらで考えた内容を見事に準備して実行に移してくださいました。これらの先生はほんとうに奉仕の賜物が与えらている先生です。

三番目の賜物は「教える賜物」です。教える賜物とは、聖書の言わんとしていることを説き明かす賜物です。ある面で預言の賜物と似ていますが、預言の賜物との違いを強いて言うならば、預言の賜物が霊的力をもってみことばを語るのに対して、この教える賜物はみことばを理解させる力です。難解なみことばをわかりやすく語り理解させることができます。

四番目の賜物は、勧めの賜物です。「勧めをする人であれば勧め」とあります。この「勧める」ということばは、「慰め、励ます」という意味です。試練や苦しみに会って落ち込んでいる人がこの勧めの賜物を持った人に会うと勇気が与えられます。「死にそうだ」「苦しくて生きられない」という人が、この賜物を持った人と話して祈ってもらうとすぐに元気づけられます。逆に、この勧めの賜物とは全く逆のタイプの人もいます。元気づけるどころかかえって落ち込ませてしまうのです。そんなに重病でもない人を訪問して、「この病気は大変ですね。うちの親戚にも同じ病気にかかっていた人がいて、二ヶ月後には死んでしまいました」と言えば、その人がどんな気持ちになるるかわかるものです。にもかかわらず、相手の気持ちを考えないで自分の思いで語ってしまう・・・。それは「勧め」とは全く反対のことです。私たちの語る一つ一つの言葉で相手が勇気づけられもし、落胆する場合があることを考え、いつも人の徳を高めるような話に努めていきたいものです。伝道においては特にこのことに配慮していきましょう。

五番目に出てくるのは、「分け与える賜物」です。分け与える賜物というのは、自分の持っている財を喜んで主や主の教会のためにささげる賜物のことです。これはお金があるからできることではありません。それは賜物です。お金の多い少ないに関係なく、神様が恵みを下さるときにだけ与えることができるのです。

ヴァン・ダイクという作家の「大邸宅」という作品があります。その中にこのような意味深長な話が出てきます。ある金持ちが死んで天国に行きました。天国で自分の家に入ろうとしたら、そこは天井もろくにないぼろ家でした。それを見た金持ちが激怒して言いました。「なぜ私に、こんなぼろ家を下さるのか」そして横を見ると、とんでもない大邸宅がありました。その家の主人は、何と自分の家の隣に住んでいた貧しい医者ではありませんか。「神様、どうして私はぼろ家で、あの貧しい医者は大邸宅なんですか?」すると神様がこう言いました。「このすべての建築資材は、あなたが生きていた時に送ってきたものなのです。あなたが生きていた時には何の建築資材も送って来なかったけれど、あの医者は生きていた時、施しをし、献金をし、多くの人を助けて、あれほどの建築資材を送って来たのです。」これはもちろん作り話ですが、重要なメッセージがあると思います。

イエス様は、「与えなさい。そうすれば自分も与えられます。」と言われました。(ルカ6:38)井戸は使えば使うほどどんどんきれいな水が出てくるように、私たちも神様のために、また多くの人を生かすためにお金や時間を投資するなら、神様はますます満ち溢れる祝福で満たしてくださるでしょう。そして、喜んで分け与えられる人がいます。これは賜物です。財産をどれだけ持っているかではなく、この賜物が与えられている人はどれだけ与えられていても、それを喜んで分け与えることができるのです。

六番目は「指導の賜物」です。「指導する人は熱心に指導し」とあります。指導する賜物というのは、教会の群れを霊的に見守る賜物のことです。この指導する賜物を持った人が指導すると、平凡な器も有能な働き人に変えられます。特別な才能があるというわけでもないのに、あるいは特別な力があるわけでもないのに、このような指導者に指導されると、驚くべき力を発揮することができるのです。

ダビデは、このような賜物を持っていました。Ⅰサムエル22章を見ると、ダビデがアドラムの洞窟に逃げ込んでいると、そこに四百人ものならず者が集まって来た話があります。借金を踏み倒して来た人、詐欺を働いて逃げて来た人、奥さんを捨てて来た人、憎しみにかられた人などです。世に言うクズのような人たちが集まって来たのです。けれどもダビデはそういう人たちを訓練して、全イスラエルを統一するために用いたのです。ダビデは、この指導する賜物がありました。

ここに出てくる最後の賜物は「慈善を行う賜物」です。この賜物は「あわれみの賜物」です。すなわちほかの人が苦しみにあるとき、この苦しみを自分のものと考える賜物です。ほかの人々の重荷を代わりに背負う心、苦しんでいる人をよく面倒みる姿勢のことです。しかし、これらがすべてではありません。聖書にはこれらを含めて27以上の賜物が挙げられています。

ここに挙げられた賜物は、決して生まれながら持っている能力のことではありません。これは、教会が建て上げられ、成長していくために必要なものとして、主が教会に与えてくださったものです。それは主が恵みとして与えてくださったものですから、私たちはどのような賜物が与えられているのを見極め、あるいは、これらの賜物を切に求めながら、へりくだって、教会の兄弟姉妹に仕えるために用いていかなければなりません。神がおのおのに与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。自分に与えられた恵みの賜物をキリストのからだてある教会の兄弟姉妹のために用いること、それこそ慎み深い考え方、健全なクリスチャンの心なのです。そのような人を神様はさらに祝福し、さらに大きく用いてくださるのです。

ローマ人への手紙12章1~2節 「神に喜ばれる信仰生活」

きょうは、「神に喜ばれる信仰生活」というタイトルでお話したいと思います。ローマ人への手紙は大きく分けると二つの部分に分けられます。一つは、1~11章までの部分で、もう一つは、12章から終わりまでの部分です。1~11章までのところには、人はいったいどうしたら救われるのかということについて教えられてきました。すなわち、人はただ神が用意してくださった救いの道であるイエス・キリストを信じることによってのみ救われるということです。それ以外に救われる道はありません。ただイエス様の十字架の贖いを信じることによってのみ救われるのです。これが福音です。では、そのようにして救われた人はどのように生きるべきなのでしょうか。パウロはこの12章からのところで、そのようにして救われたクリスチャンの生き方について語ります。きょうのところには、その土台というか、前提になることがしるされてあります。それは、献身と自己変革です。1節と2節には、

「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」

とあります。パウロはここでクリスチャンの基本的な生き方には、献身と自己変革という二つの前提があるというのです。この献身と自己変革こそが、神様に喜ばれる信仰を送っていくための土台となるのです。

きょうはこの献身と自己変革について三つのことをお話したいと思います。まず第一のことは、クリスチャンは自分自身を神様にささげなければならないということです。第二のことは、自己変革についてですが、まず、この世と調子を合わせてはいけないということについてです。第三に自己変革の積極的な面についてですが、心の一新によって自分を変えなさい、ということについてです。

Ⅰ.あなたがたのからだをささげなさい(1)

まず第一に、クリスチャンは自分自身を神にささげなければならないということについて見ていきたいと思います。1節には、「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた備え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」とあります。

「そういうわけですから」というのは、これまでパウロが語ってきたことを受けてということです。パウロはこれまでどんなことを語ってきたのでしょうか。十字架の救いです。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるということについて語ってきたのです。小さな人間の小さな計らいや、すべてのことを越えて、ただ十字架の血潮によってのみ罪が赦されるという神様の深い恵みとあわれみです。それゆえにパウロは、あなたがたにお願いしているのです。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげるように・・・と。クリスチャンというのは、神様のあわれみによって救いに導かれた者なのですから、そこには、救ってくださった方のためにいきたいという思いが出てくるのは当然のことです。パウロは、ガラテヤ人への手紙2章20節で、

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

と言っています。彼はイエス・キリストを信じたとき、古い自分はもう死んで、新しい自分になったと告白しましたるその新しい自分とは、キリストにある自分です。彼は、この世にあって生きているのは自分の喜びや満足のためではなく、自分を愛し、自分のためにいのちまでもお捨てになられた神の御子を信じる信仰によってであると確信していました。これを献身と言います。献身とは仏教で言う出家することではなく、このように、神のために生かされていることを覚え、神にすべてをささげ、神のために生きると告白することです。クリスチャンはみなそのように告白した者なのです。献身こそ、私たちが神様に対してなすべき最も基本的な行為であり、最も大切な行為です。これがなかったら何も始まりませんし、何の変化も生まれてこないのです。まさに豚に真珠です。私は神様によって贖われた者であり、神様のために生かされている者ですから、そのすべてはあなたのものであり、あなたにささげますという献身があるからこそ、私たちは神様のみこころにかなった歩みができるのです。

昔、イスラエルが荒野を行軍したとき、その陣営の真ん中に何が置かれていたかおわかりでしょうか?イスラエルが荒野を行軍したとき、その真ん中には契約の箱がありました。それは何を象徴していたかといいますと、礼拝が彼らの中心であったということです。イスラエルの民にとって神様が、神礼拝がいのちでした。ですから、東西南北におのおの三つの部族が取り囲み、12の部族が契約の箱を見ながら行軍したのです。彼らはいつも契約の箱を見ながら進みました。契約の箱が出発するとイスラエルも出発し、契約の箱が止まるとイスラエルも止まりました。そして止まっているその場で、契約の箱を中心に礼拝をささげたのです。彼らの中心は礼拝だったのです。それは彼らが、自分たちは神様によって贖われた民であり、神のものであるということを示すものでした。

それは私たちも同じことで、私たちのすべての人生は、神様中心に、神礼拝を中心に形成されなければなりません。「私たちを神様にささげます」という礼拝こそが、クリスチャンの生活の中心でなければならないのです。そうでないと、肉としては生きていても、内面は死んだようになって、何の力もない、弱々しい民になるしかありません。イエス様を十年も、二十年も信じている人でも、一ヶ月間礼拝をしなかったら、自分が何のために生きているのか、神様がいるのかどうどうかさえもわからなくなってしまいます。生きた礼拝をささげることができない人は、枯れていく植木鉢のように日ごとに魂がしおれていくのです。つまり、礼拝こそ私たちの生命線であり、最も基本的で、重要なものなのです。ですから私たちは、私たちのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた備え物としてささげなければなりません。

ところで、ここには、あなたがたのからだを、神に受け入れられる、生きた供え物としてささげなさいとあります。普通は「心をささげなさい」と言うのではないでしょうか。心が人間の中心です。しかしパウロは「からだをささげなさい」と言いました。からだをささげるとはどういうことなのでしょうか。共同訳では、「あなたがた自身」をささげなさいと訳されてあります。そうです、それは、私たちの全存在をささげるということです。ある先生が、「奥さん、この頃あまり教会においでになっていないようですね。」と言ったら、この奥さんは、「ええ、私、いつでも心は教会に来てるんですけれども、忙しくてからだは来れないんです。」と答えたそうです。するとこの牧師はこう思いました。「そうか、教会には幽霊ばかり多くなったんだ」と。しかし、私たちが本当にささげるというのは、からだを、私たちの存在のすべてをささげることなのです。

しかもここには、「神に受け入れられる、聖い、生きた、備え物としてささげなさい」とあります。旧約聖書ではいけにえをささげるとき、まず動物を殺して、規定どおりにささげました。そのようにしてささげるなら、そのささげものは神様に受け入れられ、罪があがなわれ、その結果神様との交わりが回復することができました。しかし、ここでは死んだいけにえではなく、生きた備え物としてささげるようにと勧められています。クリスチャンがささげるいけにえは死んだ動物ではなく生きている自分自身であって、自分の存在のすべて、自分の生活そのものが、神様へのいけにえだというのです。

D・L・ムーディは、ある時神様の迫りを感じた時に、その献金の皿の上に、「D・L・ムーディ」と書いた紙切れを置きました。つまり、自分自身を献金としてささげたいという思いです。彼はその中に横になりたい気持ちだったのでしょう。 私たちのからだをささげるとは、そういうことなのです。

ある人は、聖会でみことばを聞いたとき、神様の御霊が激しく働き、御霊に満たされた時、肌身離さず持っていた、金メダルを献金の皿の上に置いたそうです。その人はオリンピックの金メダリストでした。今まで10ドル献金していた人が100ドルささげたというならわかりますが、金メダルをささげたとは聞いたことがありません。その人にとっては、自分の人生において最も大切だと思われる金メダルをささげることによって、自分の気持ちを表したのでしょう。

そう言えば、那須の開拓をスタートした時、東京バプテスト教会の方々が来られてその第一回目の礼拝をともにささげましたが、その時に一つの腕時計が献金袋の中に入っていました。それは特別高価なものというよりは普段だれもが使っているようなものですが、そういう腕時計がささげられたのです。これをささげた人はいったいどういう気持ちでささげたんだろうと思いましたが、まさにこのみことばのように、自分自身をささげたいという思いだったのではないでしょうか。

神様が受け入れられるもの、神様が喜んでくださるいけにえとは、このような心なのです。私たち自身を、聖い、生きた備え物としてささげることを、神様は望んでおられるのです。それこそ霊的な礼拝なのです。

Ⅱ.この世と調子を合わせてはいけません(2)

クリスチャンの基本的な生き方の前提となるもう一つのことは、自己変革です。2節には、「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」とあります。これは1節で勧められてきた「あなたがたのからだをささげなさい」という献身の結果もたらされるものでもあります。ここでは「この世と調子を合わせてはいけませんという消極的な側面と、心の一新によって自分を変えなさいという積極的な側面から勧められています。まず、「この世と調子を合わせてはいけない」という消極的な面から見ていきましょう。

神様の恵みによって救いに導かれたクリスチャンは神様のものであって、その存在のすべてを神様にささげた者です。国が違えばそれぞれの支配原理(憲法)が違うように、クリスチャンの生活原理も、神の国のそれであって、この世のそれではありません。パウロが言っている「この世」とは、神様を無視し、神様に背いている、この世のことで、利己的で自己中心的な生き方がその特徴です。昔からそうですが、今も、この世はなんと自分本位なのでしょうか。神を神としてあがめず、感謝もしなくなってしまった結果、その思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなってしまいました。自転車を盗むのは当たり前、人の傘を使うのも当然、万引きするのも当たり前で、むしろしない方がバカじゃないかと思われるそんな時代なのです。ある中学生が先生に聞いたそうです。「先生、どうしてカンニングしちゃいけないんですか。」「先生も知らないけど、学校じゃしないことになっているからしないでくれよな。」と言ったそうです。「大人になったら何でもごまかしていいから」と。これが「この世」です。どこに行っても神を神としない、人を人ともしない結果、してはならないことを平気でするようになっているのです。パウロはそうした「この世と調子を合わせてはいけない」と言ったのです。

人間の弱い性質の一つは、この世と調子を合わせてしまうということではないでしょうか。学校に行っても、社会に出ても、どこに行っても、人と同じことをしていないと安心できません。若者たちは、そうやって神のない時代の流れに押し流されていくのです。いのちのないものは、大きな丸太でもどんどん流されていくように、神のいのちがないと、この世の流行に押し流され、この世の肉欲のスタイルに押し流され、エペソ2章1~3節にあるように、悪魔の言う通りに押し流されてしまうのです。しかし、小さなハヤでも、いのちがあれば激しい流れを遡ることができるように、神のいのちがあれば、この世に逆行しても生きることができるのです。

この世と調子を合わせてはいけないというのは、決してこの世から離れたり、隔離することではありません。この世と調子を合わせてはいけないというのは、神に属する者とされたクリスチャンが、この世の考え方に支配されたり、利己的な動機から物事をしたり、あるいは罪深い衝動にかられて何かをするようなことがあってはならないということです。「みんなごまかして、適当に脱税しても、私は正確に税金を納める」。このように決心して実行することです。「世の人々がみんな不正を働いたとしても、自分だけは神様のみことばの前に立とう」ということです。

私たちの問題点は何でしょうか。教会では礼拝をささげておいて、外では礼拝と関係のない生き方をしてしまうことです。こういうのを何というかというと二元論的と言います。霊と肉を分けてとらえるのです。人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによるとあるように、パン(物質的領域)と神の言葉(霊的領域)を別々の領域のものと考えてしまうのです。物質の問題は霊の問題とは関係ない、というのです。

ある教会でリバイバル聖会がありました。聖会の最終日に、ある役員の夫人が教会に布団を持って来てこう言いました。「うちの夫は教会にいるときは天使ですけど、家に帰ってくると悪魔になります。だから教会で暮らそうと思います。」これは冗談みたいな話ですがわかります。私たちの生き方の問題点を象徴しているのではないでしょうか。教会内では天使なのに、外にでると野獣に変わる。まさにこれが私たちの姿なのです。教会にいても、教会の外にいても、神様のみこころにかなった歩みを選び取っていくこと、それこそこの世と調子を合わせないという生き方なのです。

Ⅲ.心の一新によって自分を変える(2)

第三のことは、自己変革の積極的な側面です。ここには、心の一新によって自分を変えなさい、とあります。心の一新によって自分を変えなさいと言っても、なかなか自分を変えるということは難しいのではないでしょうか。私は牧師をしていて、一番多く受ける質問は、「どうして私は変わることができないのか」ということです。「変わりたいけど変われない。どうしたら変われるのか分からない。」「自分には変わる力がないんです」というものです。私たちは自分を変えてくれるようなセミナーや集会に行ってどんなにいい話を聞いても、二週間をすぎればすぐに元通りの自分に戻ってしまうのです。そこでは何をすべきかを教えてくれても、それを実行する力を与えてはくれないのです。いったいどうしたら自分を変えることができるのでしょうか?

ここにすばらしい知らせがあります。それはイエス・キリストです。エペソ人への手紙1章19~21節のところででパウロは、次のように言っています。

「また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。」

パウロはここで、「力」と訳されている言葉に、ギリシャ語の「デュナミス」(dunamis)という言葉を使っていますが、これは英語の「ダイナマイト」(dynamite)の語源になっている言葉です。つまり、私たちの人生を変えることのできるダイナマイトのような力を、私たちに与えておられるというのです。それは何でしょうか。そうです。二千年前にイエス・キリストを死からよみがえらせたあの復活の力です。この復活の力によって、過去を帳消し、問題に打ち勝ち、私たちの人格をも新しく変えてくださるというのです。そして、この復活の力を聖霊によって与えてくださると約束してくださったのです。私たちはキリストを信じることによってその御霊が内に住んでくださいました。その聖霊の力によって、変えていただくことができるのです。

しかし、ここではそのために一つの条件が必要です。それは「心の一新によってむということです。心の一新によってとはどういうことでしょうか?この「心」と訳された言葉は「思い」とか「思考」とも訳される言葉です。つまり、私たちの思いや思考を一新させることによって自分を変えるようにというのです。コンピューターの用語にGIGOという語があります。これはガービッジ・イン、ガービッジ・アウトの略です。ガービッジとはゴミ、つまり不正確な情報のことです。ゴミを入れるとゴミが出る、つまり、コンピューターに入力した情報が不正確であれば、出てくる情報も当然不正確だという意味です。私たちは自分のコンピューターにどんなものを入力しているでしょうか。自分はだめだというようなゴミを入れれば、出てくるのはやはりゴミのような人生です。

デカルトは「われ思う。ゆえにわれあり。」と言いました。パスカルも言いました。「人間は考える葦である。」と。人間のユニークさはこの考える、思うというところにあるのです。人に悪口を言われても、「これはひどい」と思えば怒りも出てくるでしょうが、でも「かわいそうな人だ」と思えば、それほど怒りの感情も出てこないでしょう。マルクス・アウレリウスが、「感情は、環境の産物ではなく、考えによって決まる」と言ったとおりです。

ですからパウロは、「いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」と言っているのです。これは自分を変える目的とも捉えることが出来ますが、むしろ、そのように変えるための手段であると言えるでしょう。いつも神のみこころが何であるのか、何が良いことで神に受けられ、完全であるのかをわきまえ知ることが必要なのです。そうした思いや考えを持つことによって、内住の聖霊が働いてくださる。そして私たちは自分を変えることができるのです。

最後に、チャールズ・スゥインドルが書いた「三歩前進二歩後退」という本の中に書かれてあったある青年のお話をして終わりたいと思います。  この青年は生まれた時から、顔の両側に赤味を帯びた跡がありました。それは明らかに醜い跡で、額から鼻へと下り、さらに口の大部分から首筋へと伸びていました。ところがこの青年は、とても生き生きと生活していました。ある人が思い切ってその理由を尋ねてみました。  「それは父のおかげです」と彼は答えました。「記憶の糸をたぐってみると、私の顔の大部分は、私が生まれる前に天使が口つけした所だと、父が教えてくれたのです。父は「よく覚えておいで。このしるしはお父さんのためにあるんだ。それによって、おまえが私の子だと分かるんだ。おまえが私の息子だと私に思い出させるために、神はおまえにしるしをつけられたのだ」と言いました。小さいとき、私はずっと父に、「おまえはこの世界で最も大切な、特別な子どもだよ」と言い聞かされて育ったのです。本心を明かすなら・・・・顔の両側に生まれつきあざを持っていない人たちに申し訳ないような気持ちにさえなったものです」

障害が人を不幸にするのではなく、障害に対するその人の考え方が、その人を幸福にも、不幸にもするのです。私たちは神様によって愛され、イエス様の尊い血潮によって罪赦され、神の子どもとさせていただいたものです。ですから、私たちはこの世の標準によって生きるのではなく、この神様のみこころに従って生きるのです。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、何がよいことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなければならないのです。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなければなりません。

ウエストミンスター信仰告白の最初の質問に、「人の造られた主な目的は何か」とあります。言い換えるなら、これは、「人生の第一の目的は何か」ということでしょう。その答えはこうです。「神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶことである。」私たちの人生が神の栄光を現し、神に喜ばれたものとなりますように。それは神様への献身と聖別から始まるのです。

ローマ人への手紙11章25~36節 「このすばらしい奥義」

パウロは、このローマ人への手紙9~11章のところで、イスラエルの救いの問題について語ってきました。神様によって選ばれたはずのイスラエルが、唯一の救い主であるイエス様を信じないのはどういうことなのか?神様はイスラエルをお捨てになられたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。神様は残りの民を通して彼らを救おうとしていたのであって、彼らの不信仰になったのは、そのことによって救いが異邦人に及ぶためだったのです。それが神の計画でした。きょうのところでパウロは、そのイスラエルの救いに関する最終的な結論を「奥義」として語ります。

きょうは「この素晴らしい奥義」について三つのポイントでお話したいと思います。まず第一に、その奥義とは何でしょうか。その奥義とは、こうして、イスラエルはみな救われるということです。第二のことは、その理由です。それは、神の賜物と召命とは変わることがないからです。第三のことは、このようなご計画を持っておられる神様にすべてをゆだね、感謝と賛美をもって歩んでまいりましょうということです。

Ⅰ.この奥義とは(25-27)

まず第一に、この奥義について見ていきたいと思います。25-27節までをご覧ください。

「兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。 これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」

イスラエルの救いに関する神の計画について語ってきたパウロは、ここで、「兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていただきたい。」と語ります。この「奥義」という言葉は、ギリシャ語の「μυστηριον:ミュステーリオン」という言葉ですが、この言葉から英語の「mystery」という言葉が派生しました。しかし、意味は非常に異なっています。英語でミステリーという場合、人間の理性では知り得ない不思議なこととか、秘め事を意味しますが、ギリシャ語の「奥義」という言葉はそうではなく、過去において隠されていたことが、神様によって特別に啓示された秘密のことを表しています。それは神様からの特別な啓示があって初めて明らかにされたことなのです。その奥義とは何でしょうか?25節後半から26節前半に書かれてあることです。

「その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。」

どういう意味でしょうか?ここに「イスラエルの一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり」とありますが、この「異邦人の完成のなる時」とは何を指しているのでしょうか。ラルフ・スミスという聖書学者などは、この異邦人の完成なる時とは、紀元70年のエルサレム神殿が破壊された時だと解釈していますが、この「異邦人の完成のなる時」というギリシャ語は「異邦人の満ちる時」という意味ですから、そういう意味ではないでしょう。では、この「異邦人の完成なる時」とはいつの時を指しているのでしょうか。

尾山令仁先生が訳された現代訳聖書では、このところを「異邦人の救いについての神のご計画が成就する時まで」と訳されてあります。つまり、これは神が定めておられる救いのご計画の中で、救われるようにと定められている異邦人がすべて救われ、神の教会の中に占めるべき異邦人の数が満たされる時のことを意味しているのです。イスラエル民族の一部がかたくなになったため、福音が異邦人に伝えられるようになり、その数が満ちて異邦人の救いの計画が完成する時のことです。その時、イスラエルはみな救われるのです。

ところで、この「こうして、イスラエルはみな救われる」とはどういう意味なのでしょうか。そのためには、「イスラエルはみな」の「イスラエル」とは何か、また、「みな」とはどういう意味なのかを理解する必要があります。カルヴァンなどは、この「イスラエル」を霊的な意味で、ユダヤ人も異邦人もすべてイエス・キリストの救いにあずかった者のことを指していると解釈しています。確かにパウロはこのような意味で「イスラエル」という言葉をいろいろな箇所で使っていますが(たとえばガラテヤ6:16など)、ここではどうもそのような意味で使っているのではなく、民族としてのイスラエルという意味で使っていることがわかります。というのは、パウロはこの9~11章までのところでイスラエル民族の救いに関して語っているのであって、この中では「イスラエル」という言葉が13回使われていて、そのすべてが民族としてのイスラエルを表しているからです。ですから、この「イスラエル」とは、ユダヤ人そのものを指していることがわかります。

では、「イスラエルはみな救われる」の「みな」とはとのような意味なのでしょうか?サンデー・ヘッドラムといった学者たちは、この「みな」という言葉を文字通り解釈し、イスラエル人のすべての人ととらえています。すなわち、キリストが再臨される前に、異邦人の中から救われるべき者の数が満ちる時、イスラエル人は民族ぐるみで、みんな一人残らずキリストを救い主として信じるようになるというのです。しかし、ここで言っている「みな」とは、そのような意味なのでしょうか?    そうではありません。この「みな」というのはイスラエル人が一人残らずという意味ではなく、民族全体としてのイスラエルのことを表しているのです。すなわち、世の終わりに、全世界に福音が宣べ伝えられ、救われるようにと神に選ばれれていた異邦人がみな救われると、それまでかたくなだったイスラエル人たちがこぞってイエス様を信じるようになり、こうして、イスラエルはみな救われるようになるということなのです。おそらくそれは、「残された民」のことを指しているのでしょう。この「残された者」については11章5節にも出てきました。神様は、今も、恵みによって残された者を選んでおられますが、この世の終わり時にはもっと多くのイスラエルがイエス様を信じて救われるようになるのです。 こうして、イスラエルはみな救われるのです。

何ということでしょう。誰がこのような主のみわざを知ることができるというのでしょうか。私たちはこのような神様の知恵、知識に、ただ驚嘆するばかりです。33節のところでパウロは、「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。」と言っていますが、まことに神様の知恵と知識との富みは、底知れず深いのです。その道は測り知れないほど完全なのです。私たちは、このような計り知れない完全なご計画を持っておられる神様の前に、ただひれ伏すばかりです。私たちは「ああだ」、「こうだ」と自分の意見や考えこそ正しくて絶対だと思いがちですが、神様には神様の深いご計画があるのです。私たちはこのような奥義、このようなご計画を持っておられる神様の前にひれ伏しながら、ただ「みこころが天で行われますように、地でも行われますように」と祈る者でなければなりません。人間的に右往左往するのではなく、完全な計画をもって導いておられる神様にすべてをゆだね、神様が成してくださることを待ち望む者でなければならないのです。

Ⅱ.変わらない神の召し(28-32)

第二のことは、このようにイスラエルがみな救われるというのは、神様の変わらない約束に基づいているからであるということについて見ていきたいと思います。28-32節までをご覧ください。

「彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、父祖たちのゆえに、愛されている者なのです。神の賜物と召命とは変わることがありません。ちょうどあなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。」

ここでは、「彼ら」であるイスラエルと、「あなたがた」である異邦人が対比されて描かれています。すなわち、「彼ら」であるイスラエルは、今は福音に対して敵対し神に不従順な状態ですが、神の約束によるならば、彼らの父祖たちに対して与えられた祝福のゆえに、神に愛されている者なのです。神はアブラハムを選び、「あなたがたを祝福する者を、わたしは祝福する」と約束されました。「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記12:3)と約束されましたが、その約束に変わりはないというのです。神の賜物と召命とはどんなことがあっても変わることがないのです。

これが、イスラエルの救いについてパウロが語ってきたことの結論です。神様は、一度交わされた契約を変えることはありません。なぜなら、神様はどこまでも真実な方だからです。私たち人間はそうではありません。私たちはその置かれて状況によっていつも変わるのです。「君といつまでも」と誓っても、ちょっとしたことで「もうイヤ」とすぐにそっぽを向いてしまう。それが人間です。しかし、神様はどんなことがあってもご自分の約束を変えられることはなさいません。旧約聖書、イザヤ書54章10節に、こうあります。

「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」とあなたをあわれむ主は仰せられる。」

人は変わり、街は変わっても、山は変わらない。「ふるさとの山はありがたきかな」と石川啄木は歌いましたが、しかし、山が変わり丘が動くことがあるのです。天変地異という言葉どおり、太陽も地球も変わります。しかし、そんなすべてが変わる世の中で、人生にあって、いつまでも変わらないもの、動かないものがあると聖書は言うのです。それが「神の愛」「神の救いの約束」です。お母さんの目が、いつも幼子に注がれていることが、その子の安全と幸せであるように、神様の目がいつも私たちの上に注がれているということは、私たちにとってどれほど安全で幸せなことでしょう。イスラエルの民は、時に神に背いては罪を犯し、金の子牛を拝むような反逆行為を行いましたが、それで彼らが断たれてしまうということはありませんでした。なぜ?選びによるなら、父祖たちのゆえに、神に愛されている者だからです。

むしろ神様は、イスラエルの罪の行為である「不従順」をさえ用いて、救済のわざを展開しておられたのです。30-32節には、「不従順」ということばが四回も出てきます。不従順は、神様に対する罪です。それは、神の救いのご計画さえ破壊するかのように見えます。しかし、すべての主権者であられる神様は、サタンのそのような仕業さえも逆手に取って、全人類の救いの道を拓くために用いられたのです。たとえば、異邦人の救いはそうでしょう。それはイスラエルの不従順の結果、もたらされたものです。彼らの不従順のゆえに、異邦人が神のあわれみを受けたのです。私たちの神様は、逆転の神様です。そうした不従順さえも用いて救いのみわざを行ってくださる。それは、私たちが神様によって選ばれているからです。救い主イエスを私の罪からの救い主と告白したその時から、神の子として、あのアブラハム契約の中に入れていたたいた。神の子としての特権にあずかり、祝福を受け継ぐ者とさせていただいたのです。私たちは、このみことばの約束のゆえに、神様に愛されている者なのです。

時として私たちは自分の罪で、「ああ、神様は自分を捨てられたのではないだろうか」と思い悩むことがあるかもしれません。もう出口のない袋小路の中に追いやられたかのように感じることもあるでしょう。しかし、神様は決して私たちを捨てられるようなことはなさいません。私たちが罪に悩み、苦しむ中で、悔い改めることができるように、あわれみを注いでくださるのです。時には、大きな患難の中で、行く手がはばまれ、暗闇に陥ることもあるでしょうが、それもまた祝福なのです。その暗闇や長いトンネルを通り過ぎた時、天からの光を受けて、神様が用意しておられる救いを受け取ることができるように、従順な者に造り変えられている自分を発見することができるからです。神の賜物と召命とは変わることがないというみことばの約束に信頼し、そこに安らぎと希望を見いだしていきたい思います。

Ⅲ.すべてを神にゆだねて(33-36)

最後に、このイスラエルの救いに関する神様のご計画を思い、パウロが発した賛美を見て終わりたいと思います。33-36節までのところです。

「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」

パウロは、9章からずっとイスラエルの救いについて語ってきました。イスラエルが神の唯一の救いであるイエス・キリストを信じないのはどうしてなのか?神はイスラエルをお捨てになられたのか?絶対にそんなことはありません。神様は残された民を用意しておられ、彼らを通してイスラエルを救おうと計画しておられたばかりか、そのようにイスラエルがかたくなになったことで、何と救いが異邦人にまで及びました。しかし、やがて異邦人の完成の時がやってきます。そのときには、イスラエルがこぞって主を求めるようになり、こうして、イスラエルはみな救われるようになるのです。このすばらしい奥義が明らかに示されたとき彼はその神の知恵と知識の深さに驚嘆し、「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。」と神をほめたたえずにはいられませんでした。

このように神様を高く見上げている人の心には、賛美と感謝が溢れてまいります。しかし、そうではなく、いつもほかの人と自分とを比較して、自分の思いや考えで物事を判断しようとする人の心からは、つぶやきや不平、不満、ほかの人をさばいたりすることしか生まれてきません。正しい信仰生活とは、いつも神様を見上げ、この神様に信頼してすべてをゆだねるところから始まるのです。

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩篇37:5)

私たちの人生にはいろいろな事が起こります。自分では願っていなかったことが起こったり、こんなことが果たして自分の人生にとってどれだけプラスなのかと思うような事も起こります。しかし、神様の目から見るとき、その中の一つ一つとして不要なものはなく、すべては永遠のご計画の中に位置づけてられているものなのです。それはちょうど、あのペルシャの豪華なじゅうたんを裏側から見て、一体これは何の模様なんだろうと考えこんでしまうようなものです。少しも意味のある模様にはなっていません。しかし、それをひっくり返して見る時、そこには美しい模様が織り成されています。ちょうどそれと同じように、私たちの側から見て、わからないことはいくらでもあります。それは、私たちが有限の存在なのだからであって、いつも時間の中でしか物事を見ることができないからです。けれども、神の側から見る時、そこには実にすばらしい意味と目的があるのです。そうした一つ一つの事も、神様の永遠のご計画の中に位置付けられているのです。「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至からです。」この神にすべてをゆだねて、感謝と賛美の信仰の生涯を歩んでまいりたいと思います。

ローマ人への手紙11章11~24節 「神のいつくしみときびしさ」

きょうは、「神のいつくしみときびしさ」についてお話したいと思います。ローマ人への手紙11章は、イスラエルの救いの問題を取り扱っています。イスラエルの民は本来、神様に選ばれた民です。他の異邦人たちには味わえない、霊的な特権を数多く味わった民なのです。にもかかわらず、そのイスラエルの民が、唯一の救いであるイエス・キリストを信じようとしないのは、いったいどうしてなのでしょうか。それは神様がイスラエルをお捨てになられたということなのでしょうか?絶対にそんなことはありません。神様の賜物と召命は変わることがないからです。ではどういうことだったのでしょうか。私たちは先週、その理由を学びました。それは神様が「残りの民」を通してイスラエルを救おうと計画しておられたからであり、そのことによって救いが異邦人にまで及ぶためだったのです。神様の計画は何と深く偉大なのでしょうか。

きょうのところには、そのようにして救われた異邦人はどうあるべきなのかについてしるされてあります。まず第一のことは、そのようにして異邦人にまで救いが及んでいったのはどうしてかということについてです。それは、彼らの中にねたみを引き起こさせれるためでした。第二のことは、誇ってはいけないということです。異邦人が救われたのはちょうど野生種のオリーブがつぎ合わされたようなものだからです。異邦人が根をささえているのではなく、根が異邦人をささえているのです。第三のことは、神様のいつくしみにとどっていましょう、ということです。そうでないと、せっかくつぎ合わされたものが切り落とされることになってしまうからです。

Ⅰ.ねたみを引き起こさせるため(11-16)

まず11-16節までのところに注目してみたいと思います。

「では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。そして、それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。」

11,12節は先週のメッセージでも取り上げたところです。イスラエルがつまずいたのはいったいどうしてだったのでしょうか?それは彼らの違反によって、救いが異邦人に及ぶためでした。もしもイスラエルが福音を受け入れていたとしたら、ペテロやパウロは、あえて異邦人伝道に出かけて行ったでしょうか?行かなかったはずです。そうでなかったから彼らは、「これからは異邦人の方に行く」と言って、出かけて行ったのです。もしイスラエルの民がみんな福音を受け入れていたら、おそらくキリスト教は、ユダヤ人の民族宗教にとどまっていたでしょう。イスラエルがつまずいたことによって、福音が異邦人にまで及んだのです。

しかし、それは異邦人のためばかりではありませんでした。ここには、それによってイスラエルにねたみが引き起こされ、彼らの幾人かが信じるようになるためでもあったというのです。どういうことでしょうか?

アメリカのある教会で一人の牧師が青年担当牧師として招聘されました。するとそこに口ばかり達者な大学生たちが結構いたそうです。そんな学生に限って「自分は小さい時から日曜学校に通っていて聖書のことは何でも知っている」とか「教会のことは何でも知っている」というような態度をしたそうです。とはいうものの、ではどんなに立派な信仰者かと思って見ていたら、信仰生活は適当だし、さっぱり伝道もしないのです。そこでどうしようかとこの牧師が悩みました。そして決めました。彼らを説得するのはやめよう。むしろ、信じたばかりの学生たちを教えることに集中し、そのために時間を費やそう・・・と。するとどうなったでしょうか?神様の祝福が彼らの上に臨んだので、みんな生き生きしたクリスチャンに変えられていき、熱心に伝道するようになりました。すると気が気じゃなかったのは先に救われていた学生たちです。長い間クリスチャンだと豪語していた彼らの中にねたみが引き起こされ、彼らもその働きに参加するようになったのです。そして二年も経った頃には、教会全体のだれもが例外なく、忠実に仕えるクリスチャンに変えられていったのです。イスラエルの中にねたみが引き起こされて、彼らの幾人かが信じるようになるためというのはこういうことです。    今、お隣の中国や韓国では大きなきなリバイバルが起こり、教会はものすごい勢いで前進しています。問題は、こうした中国や韓国のリバイバルはいったい何のために起こったのかということです。それは私たち日本人のためでもあるのです。そうした中国や韓国のリバイバルの知らせを聞いて私たち日本人が大いに奮起させられ、この国にも必ずリバイバルがやって来ると信じて、熱心に仕えるためなのです。それはだから日本人はだめなんだと、自分を責める材料にしてはいけないのです。神様が韓国や中国で成したくださったようなみわざをこの国でもしてくださると信じて、私たちがへりくだって仕えるために、してくださっているのだと受け止めなければならないのです。

そうした比較で物事をとらえるのは次元が低いと思われる方もいるかもしれませんが、それは事実なのです。むしろ、こうした話を聞いても自分の世界に閉じこもり少しも心を動かさないでいるとしたら、それこそ異常なのです。何事にも動かされなくなった心は成熟した心なのではなく、すでに老化していると言わざるを得ません。若い人々は何事に対しても感動し、素直に心を動かすものです。きれいな花をみれば「わぁ、メッチャきれい」とか、美味しいものを食べると「マジ、ヤバイ、うめ~」とか、感動の連続です。信仰生活においては、素直に感動する青年のような心こそ、実は神様に喜ばれるものなのです。救いが異邦人に及んだのは何のためだったのか?それはイスラエルにねたみを起こさせるためだったのです。

パウロは、異邦人への使徒として召されても、同胞ユダヤ人が救われることを切に願い求めていました。そして、イスラエルの民が決して捨てられてしまったのではないことを確信して、次のように言ったのです。16節です。

「初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。」

これはどういう意味でしょうか?これはイスラエルが聖いということを表しているものです。「初物が聖ければ、粉全部が聖いのです。」「初物」とは「練り粉の最初のもの」のことです。練り粉の最初のものが聖ければ、練り粉全部が聖くなります。その最初の練り粉とはイスラエルの先祖アブラハムのことを指しています。アブラハムが神に聖別され、神に属する者であったのなら、その子孫であるイスラエルの民も聖別されているのであって、必ず救われるようになるのです。また、「根が聖ければ、枝も聖いのです。」これも最初の比喩と同様、イスラエルの最初の根とも言うべきアブラハムが聖別され、神に属す者であったのだから、その根から出ているイスラエルの民も聖別されているというのです。イスラエルは捨てられたわけではない。神の選びによるならば、神に愛されている者なのです。たとえ一時的に不信仰になって、キリストを退けるようなことがあっても、やがて彼らもキリストに立ち返り、その本来の性格を表す時がやってくるのです。神の賜物と召命とは変わることはないからです。それはまさに奇跡です。15節でパウロが言っているように、彼らが受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。それは死者の中から生き返るようなものなのです。神様はイスラエルの救いに関して、そのようなご計画を持っておられたのです。

Ⅱ.誇ってはいけない(17-21)

第二のことは、ですからそのようにして救われた異邦人は誇ってはなりません。17-21節までをご覧ください。

「もしも、枝の中にあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。枝が折られたのは、私がつぎ合わされるためだ、とあなたは言うでしょう。そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。」

パウロは、イスラエルがつまずき異邦人が救われるようになったという現実を、接ぎ木のたとえで説明しています。つまり、信じないイスラエルの民を「折られて」と言い、それは、異邦人という野生種のオリーブの枝が接ぎ合わされるためだったと言うのです。信じないイスラエルは枝から折られ、その折られたところに異邦人を接ぎ木して、神様の民としてお救いになられたということです。これが神様の救いの方法です。つまり、イスラエルの不従順を通して異邦人が救われるようになったのです。

接ぎ木とは、果樹を育てるときによく用いられる方法です。日本には西洋人が大変好む「たむらりんご」という奇跡のりんごがありますが、これはどのようにして作られたかというと、梨の木にりんごの枝を接ぎ木して作ったものです。りんごの外観をもちながらも、梨のような強い甘みを持つリンゴで、世界中を探しても北海道の七飯町(ななえちょう)にしか見られない大変珍しいりんごです。

神様は、不従順なイスラエルの元の枝を折ってしまって、その折られた枝の代わりに、異邦人という野生の枝を折って接ぎ木なさいました。それによって、異邦人がアブラハムの子孫になり、神様の救いの民となるようにしてくださったのです。これが世の基が据えられる前から定められていた神様の知恵です。何と深い知恵でしょう。このような神様の知恵を思うとき、私たちは11章33節にあるような賛美をささげずにはおられません。

「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いのでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。」

神様は私たちが到底考えつかない驚くべき方法をとおして、異邦人までもお救いになられたのです。

それゆえに私たちは、こうした神様の知識から学ばなければなりません。このように私たち異邦人が折られた枝に接ぎ木された者であるのならば、私たちは誇ってはいけないのです。なぜ?17,18節にあるように、枝である異邦人が根をささえているのではなく、根が枝をささえているからです。

私たちは、この「ささえられている」という事実を見落としてはなりません。私たちが今日このようにして生かされているのは、多くの人たちにささえられているからであって、自分一人の力によるのではありません。まして私たちが信仰を持つようになった背後には、どれだけ多くの方々の祈りと犠牲があったことでしょう。あるいは何でもないかのように私たちはこうやって毎週の礼拝をささげていますが、それさえも奇跡なのです。多くの人々のささえがあってこそ可能なのであって、自分一人でできることではありません。神様はそのような人々を備え、ささえてくださることによって今の自分の人生、信仰生活があるのです。だからすべては恵みなのです。なのに私たちはすぐに傲慢になってこの事実を忘れては自分一人で成長してきたかのように錯覚してしまい、「だれがあんたに産んでほしいとお願いした?」みたいなことを言うのです。自分にできないことは何一つないといった傲慢に陥ってしまいます。みんなにささえられてこそ今の自分があるのだ、神様にささえられてこそ今の自分があるのだということが本当の意味でわかるとき、私たちの中からつぶやきや不満など出てくるはずがありません。感謝と喜びをもって謙遜に神様に向かうことができるようになるのです。

サッカーのなでしこジャパンは日本中を感動の渦に巻き込みました。まさか日本がドイツやアメリカを破って優勝するなど誰が予想することができたでしょうか。なぜ優勝できたのか?多くの海外のメディアは、何かが彼女たちを後押ししていたと評しました。本当に何かが彼女たちを後押ししてたかのようです。あれだけ押されてもあきらめずに同点に追いついたかと思うと、最後にはそれを逆転して勝利したのですから・・。でも最大の勝利の要因はこの「ささえられている」という感謝の気持ちではなかったかと思います。それは勝利後のインタビューに表れていました。ドイツ戦の延長で貴重なゴールをあげた丸山桂里奈選手は試合後のインタビューで、自分の決めた決勝ゴールを、「チームみんなで決めた点だと思う。ずっとやってきた形」と言いました。あの得点が自分一人であげた得点ではなく、チームのみんなにささえられて、チームのみんなでもぎとった1点であると強調したのがとても印象的でした。

私たちの救いも同じです。私たちの救いはイスラエルが折られた後に接ぎ木されてもたらされたものなのです。そんなイスラエルにささえられているのであって、高ぶってはならないのです。19節には、その高ぶった思いから発せられる代表的なことばがしるされてあります。つまり、「枝が折られたのは、私がつぎ合わされるためだ」という思いです。つまり、神様は異邦人を救われるために、不信仰なイスラエルの民を折られたのだという考えです。確かに、イスラエルの民が退けられたのは異邦人が救われるためでしたが、しかし、それは異邦人がそのことを誇るためではなく、感謝する以外の何ものでもありません。滅ぼされても仕方ないような私が救われたのは神様の一方的にあわれみでしかなく、多くの人々の祈りと犠牲によってささえられたからだ・・と、ただ神様に感謝するだけなのです。なのにもし私たちが「枝が折られたのは、私がつぎ合わされるためだ」というような主張することがあるとしたら、それは自分が置かれていた立場をすっかり見失い傲慢になっているからであって、そういう人はイスラエルのように切り落とされてしまうことも覚悟しなければなりません。私たちに求められているのは、高ぶらないで、神様に感謝して生きることです。多くの人たちにささえられて今の自分があるとへりくだって生きることなのです。

Ⅲ.神のいつくしみときびしさ(22-24)

ですから第三のことは、神の恵みにとどまりましょう、ということです。22-24節をご覧ください。

「見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。彼らであっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです。もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につがれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです。」

神様の前に高ぶり、自分を誇るような者は、イスラエルであろうと、異邦人であろうと、切り落とされることになってしまいます。神様の恵みを拒み、信仰を放棄したイスラエルはどうなったでしょうか。このパウロの時代からすぐ後のA.D.70年にエルサレムが陥落すると、彼らは流浪の民として全世界に散らされてしまいました。彼らは国なき民として世界を流浪しなければならなかったのです。1948年には世界中からユダヤ人が帰還し祖国パレスチナに「イスラエル共和国」を建国しましたが、以後、今日までずっと流血の惨事が繰り返して起こっています。これはまさに神様のきびしさです。神様の救いを信じないで自己流の生き方を貫く彼らの上にあるのは、きびしさなのです。しかし、神のいつくしみの中にとどまる者に対してはそうではありません。そこにあるのは、神のいつくしみです。信仰にとどまり、神のいつくしみの中にとどまっているかぎり、神のいつくしみと恵みは注がれ続けるのです。

それは、かつて不信仰によって信仰を拒んだイスラエルに対しても言えることです。彼らが不信仰にとどまり続けずに、神の慈愛によって神に立ち返るなら、神は赦してくださいます。彼らもまた救われるのです。そのことをパウロは次のように言っています。23,24節、

「彼らであっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです。もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につがれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです。」    ここにイスラエルの希望があります。一度失敗したらそれで終わりではありません。神様は再びつぎ合わすことがおできになるのです。しかし、そのためには一つだけ条件があります。それは「もし不信仰を続けなければ」です。もし不信仰を続けなければ、神は、彼らを再びつぎ合わすことができる。言い換えるなら、悔い改めて、神様に立ち返るならということです。悔い改めて神に立ち返り、自分の義ではなく、神が用意してくださったイエス・キリストによって示された救いを信じるなら、一度折られた枝であっても、もう一度つぎ合わせられるのです。何という希望でしょうか。

アメリカにロバート・ファンクさんという、アメリカ最大の牧畜業を営んでいた方がおられます。彼はプロのホッケーチームも所有しているばかりか、アメリカ最大の人材派遣会社の社長もしています。  そんなファンクさんのお母さんは非常に熱心なクリスチャンなので、彼は小さい頃にはよく教会にも行っていましたが、学校を卒業してビジネスの世界に入った途端に、仕事が忙しくなって教会に行かなくなってしまいました。でも彼は小さい時からずっと教会に通い、洗礼も受けていたので、自分ではクリスチャンだとおもっていたそうです。  ところが、友人に誘われてビリー・グラハムの伝道集会に行ったとき、そこでビリー・グラハムの語ったことばを聞いて、彼は強い衝撃を受けました。というのは、ビリー・グラハムが次のように行ったからです。 「本当の信仰とは、聖書をどれだけ知っているか、何年間教会に通ったかではなく、生ける神様との個人的な関係を持っているかどうかです。あなたはそのような関係を神様と持っていますか?」  それを聞いたファンクさんは、個人的な関係といったらない。それが本当の信仰だというのなら、自分にはそういう信仰はないと、招きに応じて前に出て、イエス・キリストを個人的な救い主として受け入れたのです。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

だれでもキリストを信じるなら、新しく造られた者となるのです。それが「不信仰を続けなければ」ということです。神のキリストを信じてください。信じて、この恵みにとどまっていてください。そうすれば、私たちも再びつき合わせていただくことができるのです。何度つまずいても悔い改めて立ち返る。それが神のいのちを受ける唯一の道です。キリストの十字架の血潮には、それをなし得る力があるのです。

ローマ人への手紙11章1~12節 「イスラエルの救い」

きょうは、「イスラエルの救い」についてお話したいと思います。聖書を見ると、神はユダヤ人を特別な民として選ばれたということがしるされてあります。にもかかわらず、そのユダヤ人は、事もあろうにキリストがこの世に来られた時、キリストを受け入れるどころか、十字架につけて殺してしまいました。あれから二千年が経った今日でも、彼らはキリストを受け入れようとはしません。ということは、イスラエルが神によって選ばれたというみことばは無効になってしまったということなのでしょうか?神は彼らを退けられたのでしょうか?絶対にそんなことはありません。神様はみことばの約束のとおりに、彼らを救ってくださるのです。ではいったい神はイスラエルをどのように救ってくださるのでしょうか。    きょうのところでパウロは、このことについて三つのポイントで語っています。第一のことは、神様は残された民を通して救ってくださるということです。第二のことは、それにしてもイスラエルがキリストを受け入れないのはどうしてなのでしょうか。それは彼らが自分たちの考えに囚われてかたくなになっているからです。残りの民のしるし、それは、神のみことばに対して従順であることです。第三のことは、それでも神はそんなイスラエルの失敗をも用いてご自身の救いのご計画を成し遂げてくださいます。

Ⅰ.残された者(1-6)

まず第一に、残された者がいるということについて見ていきたいと思います。1~6節までをご覧ください。

「すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身です。神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。それともあなたがたは、聖書がエリヤに関する個所で言っていることを、知らないのですか。彼はイスラエルを神に訴えてこう言いました。「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。」ところが彼に対して何とお答えになりましたか。「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。」それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。もし恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。」

「すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのでしょうか。」という質問に対して、パウロは「絶対にそんなことはありません」と、強い語調でそれを否定しています。その証拠にパウロは、「私を見なさい」と言うのです。「この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身です。」イスラエル人である自分が信じているのであれば、イスラエル人が捨てられたわけではないことがわかるというのです。パウロの主張には説得力があります。確かに大部分のユダヤ人はイエス・キリストを捨てましたが、その一方で、少人数ながらもイエス様を信じて従っている人たちもいたのです。その一人がこの私だというのですから・・。いや、それは自分だけではありません。聖書をみると、神様はイスラエル全体をとおしてではなくその中から選ばれた幾人かを通して、みわざを成しておられたことがわかります。その一つの例がエリヤです。

アハブ王の時代、イスラエルは最悪の闇黒時代を迎えていました。神様を敬う人々は激しい弾圧を受け、国中が神様から離れて、バアルとアシェラという偶像を拝んでいたのです。福音を伝え続けて疲れ果てたエリヤは、神様の御前にこのように嘆きました。3節、

「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。」(11:3)

エリヤはどのような嘆きを神様にぶつけたでしょうか。彼は、神様に選ばれた民はみんな殺されて、私だけが残されました。」と嘆いたのです。すると神様は何と言われたでしょうか。

「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。」 (11:4)

どういうことでしょうか?神様はイスラエルと結ばれた約束を捨てられなかったということです。選ばれた民を維持するために、今も七千人を残しておき、わたしの思いを成し遂げるためのわたしの器たちを、しっかりと備えておいたというのです。それと同じように、今も、恵みによって残された者がいます。たとえば、イエス様の十二弟子たちはそうでしょう。彼らもみなユダヤ人でした。また復活の証人であった五百人余りの兄弟たちも皆ユダヤ人でした。それはほんの一握りであったかもしれませんが、神様はこうした人たちを残しておられ、彼らを通してイスラエルを救おうと計画しておられたのです。

それはパウロの時代ばかりでなく、私たちが生きている現代にも言えることです。私たちはすぐ隣の韓国や中国において、どんどん人が救われ、驚くべき主の御業がなされているのをみると、そうでない日本の現状を嘆き、もしかしたら神様は日本人を捨てられたのではないだろうかと思ってしまうことがあります。しかし、そうではありません。現に、私たちが救われたではありませんか。ほんの一握りかもしれませんが、少数でも救われた者がいるという事実を知るならば、神様は決して日本人を捨ててしまわれたわけではないことを知ることができるのです。いやむしろ神様は、こうした少数の残りの者をとおして、ご自分のみわざを成し遂げてくださるのです。私たちはその残りの民として、最後まで信仰を保っていかなければなりません。

黙示録を見ると、当時小アジヤには七つの教会がありました。その中にはいわゆる大教会もありましたが、そうではない教会もありました。そしてイエス様が認められた教会とはどういう教会であったかというと決して大きな教会ではありませんでした。神様の御前に信仰を守り通した小さな教会でした。その一つがフィラデルフィアの教会です。彼らは小さな群れでしたが、神のことばを守り、最後までその信仰を捨てませんでした。数が問題なのではありません。私たちの中に神が認めてくれる信仰があるかどうか、そしてその信仰を最後まで堅く握りしめているかどうかなのです。どんなに少人数でも、これを握っているなら、神様はその人を通してみわざを行ってくださるのです。私たちも終わりの時に、「残りの民」として神様の御前に認めていただける聖徒になりたいものです。

Ⅱ.かたくなにならないで(7-11)

ではどうして大部分のイスラエルは信じなかったのでしょうか。ここに恵みを受けられなかった人の特徴がしるされてあります。それは、彼らがかたくなであったことです。7~10節までをご覧ください。

「では、どうなるのでしょう。イスラエルは追い求めていたものを獲得できませんでした。選ばれた者は獲得しましたが、他の者は、かたくなにされたのです。 こう書かれているとおりです。「神は、彼らに鈍い心と見えない目と聞こえない耳を与えられた。今日に至るまで。」ダビデもこう言います。「彼らの食卓は、彼らにとってわなとなり、網となり、つまずきとなり、報いとなれ。その目はくらんで見えなくなり、その背はいつまでもかがんでおれ。」

ここに、「選ばれた者は獲得しましたが、他の者は、かたくなにされたのです。」とあります。恵みによって、残されたなかった人たちの特徴は何であったかというと、かたくなであったということです。「かたくなである」とはギリシャ語で「ポロホー」と言います。本来の意味は「固まる」ということです。心が凝り固まっていたので、どんなにみことばを聞いても、賛美をしても、少しも感動がなく、悟ることができませんでした。それはこう書かれてあるとおりです。

「神は、彼らに鈍い心と見えない目と聞こえない耳を与えられた。今日に至るまで。」

かたくなな人の特徴は、みことばを見ることができず、聞くことができないということです。ダビデもこう言っています。「彼らの食卓は、彼らにとってわなとなり、網となり、つまずきとなり、報いとなれ。その目はくらんで見えなくなり、その背はいつまでもかがんでおれ。」これはどういうことかというと、「神様。彼らをひどく苦しめなさいでください。うまくいくようにしてください。彼らがむなしいものを追求して、死んでしまうようにしてください。」という祈りです。悟ることがないためです。

皆さん、私たちの人生で最も恐ろしいのろいとは何でしょうか?それは、病気になったり、大学に落ちたり、事業に失敗するというようなことではありません。最も恐ろしいのろいは、みことばを悟れないということなのです。みことばを悟れなくて、むなしいものを追い求めていくことです。イエス・キリストを信じていないのに、事業が成功し、健康で、やることが何でも思いどおりになることが祝福でしょうか。いいえ、それはのろいです。本当の祝福はイエス・キリストにあるからです。神様のみことばを悟り、神様の御前に、祈りの場に出るということが、最も大きな祝福であるということを覚えておかなければなりません。

イエス様は、終末に関する教えの中で次のように言われました。マタイの福音書24章38~39節です。

「洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」

洪水前にどんなさばきがあったでしょうか。人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていましたが、洪水が来てすべてのものをさらってしまうまで、わからなかったということです。飲んだり、食べたり、結婚したりすることが問題なのではありません。問題は、それしか見えなかったということです。それがすべてだと思って生きていた。つまり、悟れなかったのです。。そこに洪水がやって来て、すべてのものをさらって行ったのです。これがかたくなな人の姿です。本当に神様の恵みが臨んだ人というのは、「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』(マタイ4:4)ということを確信して生きることができます。悟りがあるということが恵みです。悔い改める心、柔和な心、それが祝福です。イエス様は、「耳のある人は聞きなさい。」と言われましたが、これはどういうことかというと、聞く耳をもちなさいということです。イエス様のみことばを聞くことができる人、イエス様のみこころを悟れる人こそまことに祝福された人であり、神の恵みによって残された人なのです。 そのためには柔らかい心、素直な心、従順な心を持っていなければなりません。「ポロホー」凝り固まった心では悟れないのです。

ロシアの文豪トルストイは、六十歳過ぎまでイエス様を知らずに過ごしていました。彼は大変な金持ちでした。莫大な遺産を譲り受け、貧しさを全く知りませんでした。しかし、そうした多くの財産にもかかわらず、彼は人生の意味や目的を見いだすことかできず、ただ虚しく生きていました。しかしそんなとき森の中を歩いたいると、自分を不幸から救ってくださる方はイエス・キリスト以外にはないということを悟りました。キリストを信じてからの彼の文学は、ものすごい霊感と恵みに満ちたものです。また、それまでに成し遂げたどんな仕事よりも、もっと多くの作品を書くことができました。彼は八十二歳で亡くなりましたが、残りの二十年という短い人生が、それ以前のむなしい六十年よりも、さらに価値ある人生になったのです。

本当の祝福は、このことを悟れるかどうかです。私たちはかたくなにならないで、キリストのことばに素直に心を開くものでありたいと思います。それが残された者のしるしなのです。

Ⅲ.失敗さえも用いられる(11-12)

第三のことは、神はそんなイスラエルの失敗さえをも用いられるということです。11~12節をご覧ください。

「では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。」

イスラエルの一部は恵みによって選ばれ残された民として信仰を持ちましたが、大部分の人たちはつまずいてしまいました。それは彼らが倒れるためだったのでしょうか?絶対にそんなことはありません。彼らがつまずいたのは、そうした彼らのかたくなな心によって、救いが異邦人に及ぶためであったのです。何ということでしょうか。そうした彼らの失敗が、異邦人が救われていくという神様の救いのご計画として用いられていたというのです。

パウロは異邦人への使徒でしたが、どの町に行っても、まずはユダヤ教の会堂に行って、そこでユダヤ人に福音を語りました。しかし、ユダヤ人はその心がかたくなだったのでパウロの語る福音を聞こうとはしませんでした。そこでパウロはどうしたかというと、やむなく異邦人へと向かって行きました。ところが異邦人はというと、ユダヤ人たちとは違い、福音のことばを聞くとそれを素直に受け入れ、みるみるうちに彼らの中で実を結んでいきました。福音が彼らの生活を変え、それが力となって世界中に広がって行ったのです。それは異邦人にとっては大きな恵みでした。イスラエルがつまずいたのは、彼らが倒れるためではなく、救いが異邦人へと及ぶためだったのです。何と彼らの失敗が異邦人たちの救いのために用いられたのです。

皆さん、私たちにとって「違反」や「失敗」は好ましいことではなく、そうしたすべての失敗をマイナスにとらえがちですが、神様はそうした失敗さえも用いてご自身のみわざを成し遂げておられるのです。もちろん、罪とか違反がそのまま容認されるのではなく、それはそれなりにきちんと取り扱われる必要がありますが、しかし、そうした違反や失敗といったことがただそれだけで終わってしまうものなのではなく、神様はそうした失敗さえもご自分のみわざのために用いてくださる方であり、私たちのためにすべてを働かせて益としてくださる方であることを信じなければならないのです。

創世記に登場するヨセフの物語はまさにそうではないでしょう。ヨセフは十二人兄弟の下から二番目でしたが、父親からの寵愛を受けていたことで兄弟たちから激しい嫉妬心を抱かれると、兄たちによってエジプトの行商人に売り渡されてしまいました。それでヨセフはエジプトで奴隷として生きることを余儀なくされたのです。そればかりではありません。さらに悪いことに、ヨセフを奴隷として買い取った妻に言い寄られた時に彼が拒んだことで、彼女は強姦されそうになったと嘘の訴えを起こしたのです。お陰でヨセフは牢屋に入れられてしまいました。彼は孤独で惨めでした。「なぜ私が?」ということができる人がいるとしたら、それはヨセフその人だったことでしょう。  けれども、このような悲劇的な出来事から何年か経ったとき、兄たちの再会を果たした彼は、これまでの一連の出来事を思い出しながら、こう言ったのです。

「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」(創世記50:20)

つまりヨセフはこう言いたかったのです。「お兄さんたちが悪意でやったことを、神は良いことへと変えてくださいました。神はその出来事を用いて、私の人生、お兄さんたちの人生、そして多くの人たちの人生の益としてくださったのです。」と。

ヨセフは、神が事の成り行きを究極的にコントロールとしておられることを信じていました。彼は、自分の回りの人たちが自分に対して犯したすべての罪を神様が取り扱われ、それらを好転させて、「悪いことを」「良いこと」へと変えてくださったと言ったのです。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。」(ローマ8:28)

神にゆだねるとは、どんな状況のときでも神に信頼することです。いつも主に信頼していたヨセフは、人生の終盤で「あなたがたが私を傷つけるためにしたことを、神は益としてくださった」と言うことができました。だれかを恨みたいという誘惑に駆られたとき、ヨセフはその思いを主にゆだねました。彼は、神への信仰と希望を持ち続け、最終的には神がすべてのことを働かせて益としてくださると信じて、信仰に立ち続けたのです。

それは私たちも同じです。私たちの人生にも本当に不条理なことがたくさん起こりますが、しかしそうした出来事の背後にも神様が働いておられ、すべてを益に変えようとしておられるのです。大切なのは、神様が私たちの人生をより良いものへと変えてくださること、そして私の人生に働こうとしておられると信じることです。イエス様が私のために特別な計画をもっておられ、すべての混乱と苦しみ、いら立ちさえも、造り変えて良いことのために用いてくださると信じることです。そのように信じて、すべてを神様ゆだねることです。もしそのように神様にゆだねることができるなら、私たちもその人生を振り返った時にこう言うことができるでしょう。「私をひどく苦しめてきたそれらのものを、神は良いことのために用いてくださいました。神は、私の人生に起こった悪い出来事を用いて、私を建て上げ、私を練り直してくださいました。私はそのことを心から感謝しています。」と。神へのゆるがない信仰によって、そんな将来と希望に溢れた生涯を歩ませていただきたいものです。

ローマ人への手紙10章13~21節 「信仰は聞くことから始まる」

きょうは、「信仰は聞くことから始まる」というタイトルでお話したいと思います。パウロは10章前半のところで、信仰による救いについて語りました。すなわち、信仰は熱心なだけではだめだということです。信仰において重要なのはその方向性であります。イスラエルは神に対して確かに熱心でありましたがその方向性が間違っていました。彼らの熱心は聖書の知識に基づくものではなく自己流だったのです。彼らは神の義ではなく、自分自身の義を立てようとしていました。それが問題だった。では正しいベクトル、正しい方向とはどのような方向なのでしょうか。イエス・キリストです。キリストは律法を終わらせたので、信じる者はみな義と認められるのです。もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるのです。では、どうしたらそのような信仰が生まれてくるのでしょうか?パウロはきょうの箇所で、そのことについて説明しています。14節、15節をご覧ください。

「しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」

これは倒置法といって、ある一つの事柄を強調して表現する時に、普通の順序とは逆に表現する方法が取られています。ですから、この文を理解するためには後ろからさかのぼって理解すればいいのです。すなわち、遣わされる人がいるなら、宣べ伝えることができます。宣べ伝える人がいるなら、聞くことができます。聞くことができるなら、呼び求めることができます。呼び求めることができるなら、信じることができます。というようになります。ここには、信じるためには次の三つのことが必要であると言われているのです。第一に、みことばを聞くことです。第二に、みことばを宣べ伝える人です。第三に、遣わされることです。きょうは、この三つのことについてお話したいと思います。

Ⅰ.信仰は聞くことから(14)

まず第一に、信じるためにはみことばを聞かなければなりません。17節には、 「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」とあります。信仰は聞くことから生まれるのです。何を聞くのでしょうか?イエス・キリストについてのみことばです。ノンクリスチャンの方がイエス様を信じて信仰を持つ秘訣は何でしょうか?それはあらゆる手段と方法を使って、キリストについてのみことばを聞かせることです。美しい夜空を眺めていたら、突然イエス様を信じるようになったというようなことがあるでしょうか?ありません。美味しい食事をしていたら、気持ちよくなってイエス様を信じようと思ったというようなことがあるでしょうか?ありません。その感情が一時的に盛り上がるということはあるかもしれませんが、それが信仰に結びつくことはありません。なぜなら、信仰はイエス・キリストの十字架と復活という事実に基づいているからです。イエス様を信じるためには、イエス様についてのことば、福音を聞かなければなりません。信仰はただ、キリストについてのみことばを聞くことから生まれるのです。神様のみことばに出会うなら、そのとき信仰が生まれます。教会で伝道集会をする理由は何でしょうか?ノンクリスチャンの方に何とかして神様のみことばを聞いてもらうためです。そういう意味では、ノンクリスチャンの方々に何とかして神様のみことばを聞いてもらう機会を作らなければなりません。

アメリカに住んでいたある信仰深いおばあさんが、思わぬ病気で1年近く入院しました。この人は健康な時も伝道熱心でしたが、病気で入院しても、どうしたら伝道できるかなぁと一生懸命に考えていました。そして祈っているうちに、神様はこのおばあちゃんにすばらしい知恵を与えてくれました。  このおばあちゃんはアルバイトの大学生を雇うことにしたのです。そして、一日三時間から四時間聖書を読んで聞かせてくださいと頼みました。「私は病気になって聖書を読めないから、私の横で読んでおくれ。そうすれば、一週間で幾ら幾ら、一ヶ月で幾ら幾らあげるから」と言って雇ったのです。お安いご用ですよおばあちゃんと、ある学生が読んでやることになりました。マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネと、聖書を順番に読んでいきました。すると、重要なみことばが出てきます。たとえば、ヨハネ3章16節とか、使徒16章31節のようにです。 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16) 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)  するとこのおばあちゃん、わざと聞こえないふりをして、「ちょっと学生さん、よく聞こえないわね。そのところもう一度読んでくれるかしら」とかと言って、もう一度読んでもらうのです。初めのうちは何も起こらなかったのですが、これが二,三回ち続くうちに、その大学生はみことばを読んで感動し、聖霊の促しによって悔い改めへと導かれ、主を信じるようになったというのです。このおばあちゃんはこの方法で、一年間に十人以上の学生を救いに導いたと言います。日本は置かれている状況は違いますが、原則は変わりません。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」よく口先だけで福音を語っても意味がない、自分の行動や生き方を通して模範を示すことこそ大切であって、みことばを語ることではないと言われますが、これは違います。確かにクリスチャンの生き方は大切です。けれども、そうした生き方とともに唇を通してみことばを語ることが必要なのです。というのは、正しい人などだれもいないからです。神様は、「宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められた」(Iコリント1:21)からです。

Ⅱ.宣べ伝える人(14)

第二のことは、宣べ伝える人が必要です。14節に「宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう」とあります。みことばを聞くためにはそれを宣べ伝える人が必要なのです。

イエス様はマタイの福音書9章37節のところで、「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」と言われました。収穫のために必要なのは何でしょうか。人です。働き人です。イエス様は収穫のために鎌が必要ですとか、コンバインが必要ですとか、トラクターが必要です、とは言われませんでした。働き手が必要です、と言われたのです。イエス様の愛に結ばれて、福音のためならどんなことでもするという、そして何とかしてみことばを伝えたいという愛と情熱の人が必要ですと言われたのです。これは不思議なことではないでしょうか。神様はこの天地万物を造られた全能者です。「わたしは、わたしはあるというものである。」と言われた方、すなわち、他のものには一切依存しなくてもそれだけで存在することができる自存の神です。そのお方が、この福音のことばを伝えるために人を求めておられるのです。バプテスマのヨハネは、「神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」(マタイ3:9)と言いました。また別のところでイエス様は、「もしこの人たちが黙れば、石が叫びます」(ルカ19:40)と言われました。その神様が、この救いのみことばを宣べ伝えるために働き人を求めていらっしゃるのです。

日本で「世の光」というラジオ放送が始まってちょうど60年が経ちました。(1951年スタート)当時、駆け出しの牧師として働いておられた羽鳥明先生のところに何人かの宣教師たちがやって来て、何とか日本のすべての人にキリストのことばを聞いてもらえるようにラジオで福音を放送したいんだけど、羽鳥さんやってくれませんか、と頼まれたのです。「ラジオ伝道は悪いことではないけれど、金と暇がある人がやればいい」と最初はお断りしたそうです。お金を出して電波を買い、機械に流して電波に乗せて放送したら全部が救われるかといったらそうじゃないだろうと思ったからです。イエス様は血潮によって救ってくださったんだから血潮にふさわしい伝道によってこそ人々は救われると思っていたのです。しかし、だれかがやらなければならない。羽鳥先生は、自分はそのために神様によって選ばれていたのかもしれないと思うようになり、このラジオ伝道が始まったのです。あれから60年、テレビによる放送も始まりました。今では、聞こうと思えば全国の96%の人たちが聞けるようになりました。そのために30人くらいの人がスタッフで働いています。多額の費用もかかりますが、今日までずっと続けてくることができました。なぜでしょうか?羽鳥先生はこう言っておられます。それは、この放送伝道のために、五千人もの人たちが、血が出るような、汗が出るような献金をしていてくださるからです。伝道はあくまでも、教会の、イエス様に身をささげた人たちの働きによるものなのです。放送伝道はそうした教会の働きを助ける一つの方法でしかありません。いつの時代にあっても神様は、この福音宣教のために私たち一人一人の人を用いようとしておられるのです。

Ⅲ.遣わされなくては(15)

第三のことは、そのためには遣わされなくてはならないということです。15節に、「遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。」とあります。

イエス・キリストの福音を語ることは、並大抵のことではありません。だれが「あなたは罪人です」なんて言いたいでしょうか。言いたくありません。できればその人にとっていいことを言ってあげたいと思うものです。キリストは死んでよみがえったんです。そのキリストがあなたの救い主です、なんて言いたいでしょうか?大橋さんも、とうとうきたかと思われるのが嫌で、言いたくないでしょう。私たちの肉なる思いは、全力をあげてそれを拒否するのです。パウロは、「福音を恥とは思いません。」と言いましたが(ローマ1:16)、なぜそんなことを言ったのでしょうか?福音が恥ずかしいという思いがあったからではないでしょうか。そのように肉なる思いは、なるべく福音を語らせないようするのです。誰にも会わないで自分の殻に閉じこもっていさせようとするのです。確かに伝道することは楽しいことです。伝道して人が救われた時には、もう天にも昇るような思いになります。

私が最初にこのような体験をしたのは今から28年前のことです。毎週金曜日の夜に家庭を開放してフライデーナイトという聖書研究会を行っていましたが、その帰り道、そこに参加していた一人の姉妹を家まで送って行く帰り道でのことでした。「イエス様を信じたいけれど回りの人から変な人だと思われるのが嫌で、なかなか決心できない」ということでした。何と答えたらいいか心の中で祈りながら、このようなことを言いました。「まあ、どうせ変なんだからいいんじゃないですか。心配しなくても」するとその方が「そうですね。じゃ信じます。」と言われたのです。そして車の中で信仰告白に導かれました。そのときの興奮を今でも忘れることができません。いたって冷静を装っていましたが、心の中はもう天にも昇るような気持ちでした。家に帰ってから家内に、「いやね、今送って行く途中で姉妹が信じたんだよ」と言うと、一緒に喜んでくれました。その姉妹が最初に洗礼に導かれ教会開拓へと進んでいきました。伝道して人が救われた時の喜びは、本当に大きなものがあります。それは今でも変わりません。うれしい。

しかし、じゃイエス様のことを語ろうと、電車の隣に乗っている人に、公園のベンチに座っているおじさんに、道ばたを歩いているおばさんに伝道しようと思うと、やめておこうという気持ちになってしまうのです。肉なる思いはなるべく福音を語らせないようにとするのです。

しかし、イエス様は何と言われたでしょうか?イエス様は次のように言われました。ヨハネの福音書20章21~23節、

「イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」

イエス様は、「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」と言われました。私たちは福音を恥とするような弱い者です。知識や経験もありません。しかしイエス様は、そのことを全部承知の上で、「わたしはあなたがたを遣わします。」と言われるのです。わたしがいっしょに行きますから、わたしが天の父から与えられた全権をあなたがたに与えますから、あなたがたが語ることばは聖霊がちゃんと教えてくれますから、聖霊があなたを励まし、力を与えてくれますから、行きなさいと言われるのです。世の基の置かれる前からあなたがたを選び、あなたがたを愛しました。わたしはあなたをこの地上でも天国でもすばらしい喜びと栄光を持つようにしましたが、この地上にはまだ福音を知らない人たちがたくさんいるのです。だからわたしはあなたを遣わします、と言われるのです。天の父なる神様がわたしを遣わしてくださったように、神の臨在と力をもって遣わします。行ってくれますか。行ってくれますか。行ってくれますか。そう言われるのです。

それは、神様が本当に願っておられることです。パウロはこの後の15節後半のところで、旧約聖書のみことばを引用して、次のように言いました。「良いことの知らせを伝える人の足は、なんとりっぱでしょう。」  この福音の知らせ、良いことの知らせを伝える人の足はなんとりっぱでしょう。私の足は小さくて、臭くて、醜い足です。時々気になってデオドラントスプレーをするほどです。それに加えて痛風もあって時々痛むのです。先日かかとを見たらいつの間にか硬くなっていて、ひびが入っていました。昔はつるつるで、すらっとしていたのに、いつの間にはカパカパになってしまいました。とてもかっこいい足とは言えません。けれども主は、そのような足でも、良いことの知らせを伝える足なら、りっぱだと言ってくれるのです。それは皆が牧師、皆が教師、皆が伝道者にならなければならないということではありません。もしそうだとしたら、だれがこの社会で主を証するのでしょうか。ですから、これはみんなが牧師にならなければならないということではないのです。しかし、私たちすべての人に求められていることがあります。それは、イエス様に、「行ってくれますか」と言われたら、「はい」「行きます」と答えることです。行って何をするのでしょうか。それは一人一人違うでしょう。ある人は水をくむことであったり、またある人はマリヤのように香油を注ぐだけのことかもしれません。しかしそれがどのようなことであったとしても、「行ってくれますか」とイエス様に言われたならば、「はい。行きます」と答えること、それが求められているのです。

かつて神の山ホレブで羊を飼っていたモーセのところに神様が現れて言われました。「行ってくれますか?」「わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出すように」と。しかし、モーセは神に言いました。「私はいったい何ものですか。そんなことできるはずがないじゃないですか」それに、「あながたの父祖の神が、私をあなだたのところに遣わしたのだ」と言っても、「その名は何ですか」と言うでしょう。そんなの無理です。無理。無理。すると神様は言われました。 「神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。」(出エジプト3:14)「わたしはあるという者である」と言われる方がともにいてくたさり、この方が私を遣わしてくださった。それで十分です。これほど力強いことがあるでしょうか。そのことばに従ってモーセは出て行ったのです。

エレミヤはどうだったでしょうか。南王国ユダがバビロンに捕らえられる前のこと、神様はエレミヤに言われました。「行ってくれますか」「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」(エレミヤ1:5)するとエレミヤは一度は断りました。「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」(同1:6)彼が断った理由は、彼があまりにも若いということでした。若くて、何を語ったらいいかわからない。私もかつてそうでした。すると、主はエレミヤに仰せられました。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。―主の御告げ―」エレミヤが若いとか若くないとか関係ない。大切なのは神様がともにいてくださるかどうかなのです。

イザヤの場合はどうだったでしょうか。やはり南王国ユダのウジヤ王が死んだ年ですから、大体紀元前740年頃でしょうか、彼もまた神様に呼ばれました。それはあまりにも荘厳な神殿での幻でした。神の臨在が満ち溢れ、セラフィムがその上に立って、「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」と叫ぶと、その神様の聖さに神殿の敷居は揺れ、宮は煙で満たされるほどでした。そのような時に、神様から御声があったのです。「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」(イザヤ6:8)イザヤはあまりもの聖さに打ちのめされ、「ああ、私は、もうだめだ。私の唇は汚れている。足は汚れたもので、くちびるの汚れた民の間に住んでいる」と言いました。そんなイザヤに対して神様は、祭壇の上から取ってきた燃えさかる炭で彼の口に触れて不義を取り去ってくださいました。ですからイザヤはこう言ったのです。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」(イザヤ6:8)

「ここに私がおります。私を遣わしてください。」これこそ主の召しに答える者の言葉ではないでしょうか。「主よ。ここに私がおります。私を遣わしてください。」人間的に見れば本当に弱く、足りないような者でも、あるいは年が若くて何を語ったらいいかわからないような者でも、逆に年を重ねてもう体が動かないような者でも、また、罪に汚れ、神様の働きにはふさわしくないと思えるような者であっても、「主よ。ここに私がおります。私を遣わしてください」と答えてほしいのです。主はそのためにあなたを遣わしておられるのです。そのようなあなたの小さな信仰によって福音のことばが宣べ伝えられ、多くの人たちがそのことばを聞いて信じるようになるためです。主はそのためにあなたを用いたいのです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」なぜなら、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのことばによるからです。

ローマ人への手紙10章1~13節 「救いの道」

きょうは「救いの道」というタイトルでお話したいと思います。神様のみこころは、すべての人がイエス・キリストを信じて救われることです。パウロは、そのために必要なのは信仰だということを、繰り返して強調します。そこに福音の核心、人類の救いがあるからです。

きょうは、この信仰による救いについて三つのことをお話したいと思います。第一のことは、熱心であるだけでは救われないということです。神様に対して熱心であることはすばらしいことですが、それが聖書という正しい認識に基づいたものでなければ、それはいつの間にか自分中心の熱心となってしまい、自己主張に陥ってしまう危険があります。第二のことは、救いはイエス・キリストにあるということです。キリストは律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるからです。ですから第三のことは、イエス・キリストを信じるなら、あなたも救われるということです。もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

Ⅰ.熱心の方向性を点検して(1-3)

まず第一に、熱心であるだけでは救われないということについて見ていきましょう。1~3節をご覧ください。

「兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。」

パウロは、同胞イスラエル民族が救われることを切に願い求めていました。彼らは神に対して熱心であることは間違いはありませんでしたが、残念ながらその熱心は正しい知識に基づいたものではありませんでした。言い換えると、その熱心は神様の知識に基づいたものではなく、自分なりの熱心だったのです。

信仰生活において熱心であることはとても重要なことです。それは自動車のエンジンのようなもので、エンジンに火がついていなければ何も動かないように、信仰にも熱心さがないと、その人生に何の変化も生まれません。聖書にも、熱心であることの重要性は至るところにしるされてあります。たとえば、このローマ人への手紙12章11節のところには、「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」とあります。また、黙示録3章15節のところには、冷たくも熱くもなかったラオデキヤの教会に対して、イエス様が次のように言われました。 「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。」冷たいか、熱いかであってほしいと言われました。信仰の原点に返ってほしいという主の願いです。信仰を持った当初はだれにも熱いものがあったのに、その情熱が知らず知らずのうちに薄れてしまいます。熱は、熱さを伝えるがゆえに他に影響を及ぼしていくのです。その熱がいつしか冷めてしまうことがある。だから、熱心になって悔い改めるように、絶えず私たちの信仰をリセットするようにと言われるのです。

問題はその方向性です。イスラエルの民は確かに熱心でしたが、その方向が間違っていました。彼らは神様に対して熱心ではありましたが、その熱心は正しい知識に基づいたものではなかったのです。神様のみことばを基盤としていなかったからです。ですから、熱心ではあったものの、気がついてみたら全く的外れな所に立っていました。神様のみこころどころか、それとは全くかけ離れた所にいたのです。  たとえば、パウロはそうでした。彼は、救われる以前、本当に熱心でした。彼がどれほど熱心だったかについて聖書は、イエス様を信じる人々を捕まえては牢屋にぶち込んでいたほどであったと紹介しています。木にかけられた者はのろわれた者であって、救い主であるはずがない。そんなことを信じるヤツらは神を冒涜しているのだと思っていたからです。彼はそのためにダマスコまで出かけて行きました。今でいうと、自分の国だけでなく、外国にまで出かけて行って、クリスチャンを迫害しに行くようなものです。神様のためにと思ってやっていたことが、かえって神様に敵対し、神の国を妨げてしまう障害になっていたのです。これは生かす熱心ではなく、殺す熱心です。神様のための熱心ではなく、自分なりの熱心なのです。熱心であることはすばらしいことですが、その熱心がみことばに根拠を置いていないと、このようなことにもなりかねません。こうした傾向は、私たちの誰にでもあるのではないでしょうか。ですからイエス様はマルタにこのように言われたのです。

「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(ルカ10:41-42)

私たちは熱心になって突っ走る前に、あのマリヤの姿勢から学ばなければなりません。マルタはイエス様をもてなそうと、慌ただしく走り回っていました。逆にマリヤはイエス様の足下に座り込んで、みことばを聞いていたのです。そのうちにだんだんと気が落ち着かず、イライラしてきたマルタは、イエス様のみもとにやって来て言うのです。「イエス様。妹があなたのお話を聞くことに夢中になって、ちっとも私のことを手伝ってくれないのです。何とか言ってくださいませ・・・。」そのマルタにイエス様が言われたことがこうでした。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかなんですよ。いや、一つだけです。マリヤはその良い方を選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」マリヤが選んだ良い方とは何だったのでしょうか。それは、主のみことばを聞くということでした。私たちはまず神様のみことばを聞き、その次に走るべきです。祈りとみことばを第一にして、まず神様のみこころが何かを悟って、みことばに耳を傾けて、熱心に奉仕のわざに励むべきです。礼拝と祈祷会を最優先にする中で、その土台の上に私たちの信仰生活、私たちの人生を築き上げていくべきです。これがマリヤの選んだことであり、イエス様が求めておられることでした。私たちの熱心は、方向が正しいときにこそ意味があるのです。

Ⅱ.キリストが救い(3-7)

では、正しい方向とはどの方向なのでしょうか。第二に、それはイエス・キリストです。3~7節をご覧ください。

「というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。モーセは、律法による義を行う人は、その義によって生きる、と書いています。しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降ろすことです。また、「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げることなのです。」

イスラエルの熱心は、その方向がなぜ間違っていたのでしょうか。3節、「というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。」神の義は、旧新約聖書を通して一貫して流れている聖書の重要なテーマです。それは、どうしたら神様が私たち人間を受け入れてくださるかということであり、言い換えるなら、どうしたら救われるのかということです。彼らは神様が用意してくださった救いを知らず、自分自身で救いを勝ち取ろうとして、神の救いに従いませんでした。しかし、聖書は、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」(ローマ3:23)と断言しています。人間は生まれながらに罪人であり、口を開けば、のろいと苦々しいことばを語り、まさにまむしの毒のようなものをまき散らすのです。他人が血を流して倒れていても、何とも思いません。むしろ他人の不幸を喜ぶ自分があるのです。なぜでしょう?罪があるからです。これが人間の姿であり、人間の本質なのです。これが私たち人間に対して聖書が語っていることなのです。このような人間が、いったいどうやって神の要求を満たすことができるというのでしょうか。できません。たとえ私たちが形式的に律法を守っているかのようであっても、心と思いを見通される神様にとっては、受け入れることなどできないからです。

ではどうしたらいいのでしょうか?自分の義を立てようとするのではなく、神の義に従えばいいのです。それがイエス・キリストでした。4節、「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」どんなに強い意志も、どんなに高尚な道徳も、どんなに鋼鉄のような力をもってしても解決できなかった罪の力が、イエス様が十字架に釘付けされたことによって砕かれました。これが神様が備えてくださった方法だったのです。世の方法では不可能なので、神様は十字架という特別な方法を備えてくださったのです。神様は、ご自分のひとり子を十字架で死なせることによって、私たち一人ひとりの罪の代価を身代わりとして負われました。ですから、私たちは、ただその十字架で死なれたイエス様が私の救い主であると信じて、この方に頼って生きればいいのです。これが、神様がこの世に与えてくださった唯一の救いの道なのです。ですから、キリストの弟子達は、行く先々で次のように叫びました。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒4:12)

イエス様以外に道はありません。イエス様だけが、十字架だけが、唯一の救いの道です。それはイエス様ご自身も証ししておられることです。

「わたしが道であり、真理であり、いのちです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはできません。」(ヨハネ14:6)

それなのに人々は、愚かにもむなしい解決策を考えます。十字架の道を歩くことこそ生きる道なのに、全く見当外れな道に行くのです。その代表的なものは「比較することです。「あの人が救われるなら、私は絶対に救われる。私の方がましな人間だから」「世の人たちは多くの罪を犯しているが、私はそれほど多くの罪は犯していないのだから、きっと天国に行けるに違いない」と言うふうにです。しかし天国は、相対的な評価で行けるところではありません。百人中二十人までが合格で残りの八十人は失格するようなものではないのです。信じて従うならすべての人が天国に行けるし、罪を悔い改めないでイエス・キリストを信じないなら、すべての人が地獄に行ってしまうのです。

また、ある人たちは、何か善いことをしたら天国に行けると考えます。たとえ自分が10の悪いことをしても、100の善いことをしたら、自分がした悪いことは帳消しになるに違いないというのです。善いことをすることはすばらしいことですが、しかし、たとえ善いことをしても、それによって悪いことが帳消しになるというわけではないのです。というのは、聖書には「罪みの報酬は死です。」(ローマ6:23)とあるからです。私たちが犯してしまうどんな小さな罪であっても、その行き着くところは死でしかないのです。ちょっとした善行でそれがカバーてきるというものではありません。しかし、神のひとり子であられるイエス様が十字架で死んでくださったみとによって、私たちが受けなければならない刑罰のすべてを受けてくださいました。ですから、私たちの罪が許されるためには、私たちの身代わりとなって十字架にかかって死んでくださったイエス様を信じるだけていいのです。

日本人は勤勉で切実な民族だと言われます。より努力してパーフェクトを目指すという特性があります。けれども、そこに福音が入ったらどうでしょう。ややもすると、福音を努力して達成する、頑張って救いを完成しようとする落とし穴があるのではないでしょうか。長所はまた弱点でもあります。足りないままで主にすがるとか、欠けがあるから信じるというのではなく、もっと自分でやるべきことをやってからではないと申し訳ないとか、こんな自分では主にお願いする資格もないのではないかと思ってしまうのです。

佐藤彰先生が書かれて「順風もよし、逆境もまたよし」という著書の中に、長らく韓国に住み、教会で奉仕をした方の言葉が紹介されています。日本人と同じようにはしを使い、白菜を食べ、靴を脱いで家の中に入る、すぐそばにいる韓国の人が、こんなにもメンタリティが違うのかと思うような出来事に遭遇したというのです。それは早天祈祷会に参加した帰りのことでした。主よ、主よと熱心に祈った後で、祈祷会に参加した何人かが出口のところで激しく口論していたというのです。日本人の感性からすると、祈祷会の後で口論するなんて場違いではないかと思われる光景です。けれども、その疑問を率直にぶつけてみると、こういう答えがかえってきたそうです。そういう自分だからこそ、神様が必要なんだ。主よ、主よと信仰をもって祈らなければならないんだ・・・と。

なるほど、口論なんてしない聖人君子になったから祈るのではなくて、そうじゃないから祈りが必要なんだ、信仰が必要なんだという発想です。そのとき、その人はそこまで単純に割り切れない自分自身を意識させられたと言います。何事においても度を越すのは問題です。しかし、そのような場面においてはしばしば落胆し、自分を責め、こんな自分でもクリスチャンなのかと自問自答し、かえってなえてしまうのが日本人には多いのではないでしょうか。  もともと欠けがあるから救いを必要とし、クリスチャンになったのではありませんか。そこから単純に、主よと御顔を慕い求める信仰に転換したらどうでしょうか。自分で頑張ってみてから主のもとに行こうとか、まだ自分の側で努力すべきだなどと一呼吸置かないで、その時々のありのままの姿でみもとに近づく信仰を主は求めておられるのではないでしょうか。

Ⅲ.主イエスに信頼して(8-13)

ですから第三のことは、主イエスに信頼しましょうということです。8~13節をご覧ください。

「では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。」

ではどうしたらいいのでしょうか。この信仰のことばを信じればいいのです。なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。私たちが天国に行くために必要なことは、自分であくせくと労することではなく、このキリストに焦点を合わせ、キリストの救いの福音を、心で信じ、口で告白することです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるからです。「心に信じる」とは、この福音、つまりこの神が用意してくださったキリストの救いを、自分の心に受け入れることです。「口で告白する」とは、それを包み隠すことなく、はばかることなく、自分が信じていることをはっきりと表明することです。洗礼はその一つでしょう。つまり、このキリストの十字架の福音に全人格を賭けることなのです。それは単に口先だけで、自分がクリスチャンだとふれ回ることではなく、キリストがいのちを賭けて用意してくださったその救いに対して、こちらも全存在を賭けて答えていくことなのです。これが信仰です。この信仰の道こそ、神がキリストによって私たちに与えてくださった唯一の救いの道にほかなりません。そこには、ユダヤ人とかギリシャ人といった区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。この主を呼び求める者は、だれでも救われるからです。

55歳で胃ガンの宣告を受けられた姉妹が天に召されました。生前、彼女が通う教会の牧師のもとを訪れて、「胃ガンの宣告を受けました。あと半年とのことです。」と、あまりにも穏やな表情で淡々と話されたのに驚いた牧師が、逆に尋ねました。「どうしてそんなに平静でいられるのですか。」彼女の答えはこうでした。「先生、私は特別な信仰者ではありません。ごく普通の信仰者です。でも、このときほどクリスチャンでよかった、信仰を持っていてよかったと思ったことはありません。」事実は、彼女は医師からの厳しい告知を受け止め、何ら動揺することない自分自身に驚いたと言います。  翌週の日曜日の礼拝で、教会員にその事実を告げると、みんなで涙の祈りの時を持ちました。するとどうでしょう。あんな平静としていた彼女の目からも大粒の涙がこぼれていたのです。そしてマイクの前でこう話されました。「皆さん、私は悲しくて泣いているのではありません。うれしくて泣いているのです。こんなに多くの人に祈られて、何と幸いなんだろう」と。  医師はあの時点で余命半年を告げましたが、現実にはそれから約二年の歳月が流れました。その間、彼女は本当に大切なものとそうでないものとを峻別し、神様の前に出ては祈り、喜々として 教会に通われました。  息を引き取られる三日前に病床で撮られたビデオメッセージが、召された後の日曜日の礼拝で流されました。そこには「私は本当に幸せでした。ありがとう」と語る本人のメッセージが収められていました。彼女は死に呑まれたのではなく、死を乗り越えたのです。病が彼女の命を取ったのではなく、彼女をこれ以上苦しむことがないようにと、神様が病を断たれたのでした。「私はごく普通のクリスチャンです」から始まって、天国の住人にふさわしく聖化の道をたどり、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられて、天国の階段を上っていかれた姉妹の姿に、クリスチャンの真骨頂を見る思いがしたと、その牧師は語っています。

それは、この姉妹だけではありません。主の御名を呼び求めるすべての人も同じです。主の御名を呼び求める者は、だれでも救われるのです。これまで皆さんはどこを見て生きていらっしゃったでしょうか。何に対して熱心であられたでしょうか。イエス・キリスト、この方こそ神が用意してくださった救い主であり、私たちを天国へと導いてくださる方です。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:1)というみことばがありますが、私たちはこの主イエスから目を離すことなく、この方に焦点を合わせながら、天国までの階段を一歩一歩駆け上がって行きたいものです。