民数記14章

きょうは民数記14章から学びます。

1.  信仰と不信仰の狭間で(1-12)

まず1節から12節までをお読みします。

「1 全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。2 イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。3 なぜは、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。」4 そして互いに言った。「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。」5 そこで、モーセとアロンは、イスラエル人の会衆の全集会の集まっている前でひれ伏した。6 すると、その地を探って来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブとは自分たちの着物を引き裂いて、7 イスラエル人の全会衆に向かって次のように言った。「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。8 もし、私たちがの御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。9 ただ、にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかしが私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」10 しかし全会衆は、彼らを石で打ち殺そうと言い出した。そのとき、の栄光が会見の天幕からすべてのイスラエル人に現れた。11 はモーセに仰せられた。「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。12 わたしは疫病で彼らを打って滅ぼしてしまい、あなたを彼らよりも大いなる強い国民にしよう。」

イスラエルの全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かしました。なぜでしょうか。10人の偵察隊の報告を聞いたからです。彼らはそこに大きくて、強い敵がいることを知り、上っていくことはできないと判断したのです。彼らは彼らとともにおられる主の臨在を見ることができませんでした。そこでもう絶望してしまったのです。こんなことならエジプトを出てくるんじゃなかった。このまま進んで行っても結局殺されてしまい、妻子たちもさらわれてしまうなら、どうしようもない。エジプトに帰った方がいいに決まっている。しかし、エジプトではどれほど過酷な奴隷生活を虐げられていたかを知っていたはずです。主はそこから彼らを救い出し、約束の地に導くと約束されたのに、再びエジプトに戻ろうというのです。

これが神を忘れ、自分で何とかしようともがく人間の姿です。私たちが信仰を持った以上、必ず、自分自身では何もできないという道を歩まされるのです。行けども、行けども、自分の前には岩があり、自分を食い尽くす敵は必ずいるのです。そこで、自分とその問題を比べながら生きていこうとしている人は、必ず行き詰ってしまいます。引き下がれば、初めに出てきたときよりも悲惨になることは知っています。そのことも分かっているので、大抵は、今いる場所であたふたとしていることが多いのです。中にはクリスチャンになってからの方が、むしろ、生活が苦しくなったという人の話を聞くことがあります。それは、クリスチャンになったのに、まだクリスチャンではない法則で生きようとしているからなのです。そういう人はいつも「この世」というエジプトに戻りたがるので、問題が起こるたびに、このように泣き叫ぶのです。

それに対してモーセはどのように対処したでしょうか。「モーセとアロンは、イスラエル人の会衆の全集会の集まっている前でひれ伏した。」(5)どういうことでしょうか。こうやってイスラエル人をエジプトから連れ出したことを謝っているのでしょうか。そうではありません。彼らはただ主にひれ伏し、主が御業を行ってくださるようにと祈っているのです。

なかなかできることではありません。イスラエル人のモーセに対するリーダーシップを完全に無視したような発言にも、モーセとアロンは怒らず、地にひれ伏したのです。主に祈り叫んだのです。これが、主の奉仕者の姿です。

そのとき、その地を探って来た者たちのうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブとは自分たちの着物を引き裂いて、イスラエル人の全会衆に向かって次のように言いました。

「7 イスラエル人の全会衆に向かって次のように言った。「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。8 もし、私たちがの御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。9 ただ、にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかしが私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」

彼らはどこまでも信仰に立っていました。たとえイスラエルのすべてが右に流れようとも、自分たちは主のみこころに従うという覚悟、信仰があったのです。ここで彼らは、あの強い民のことを、自分たちのえじきになる、とまで言っているのです。いったいなぜ彼らはこのように言うことができたのでしょうか。それは彼らが信仰に立っていたからです。彼らは、自分たちには全能の主がともにおられ、主がその地を与えると約束してくださったので必ずできるという信仰がありました。だからこのように確信を持って言うことができたのです。このように、信仰に立ったときに見えてくる世界と、そして不信仰になったときに見えなくなる世界があるのです。

そのとき、イスラエルの全会衆が、彼らを石で打ち殺そうと言い出した。そのとき、主の栄光が会見の天幕からすべてのイスラエル人に現われました。そして、こう仰せになられました。11節、12節です。「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。12 わたしは疫病で彼らを打って滅ぼしてしまい、あなたを彼らよりも大いなる強い国民にしよう。」

いつまでも主に従おうとしないイスラエルに対して、主は疫病で彼らを打ち、滅ぼしてしまうと言われたのです。そして、モーセを彼らよりも大いなる国民にすると言われたのです。どういうことでしょうか。主は、やり直しのご計画として、モーセ個人からご自分の民をつくりだそうと提案されたのです。アブラハムに約束された「大いなる国民」のご計画を、今度はモーセをとおして再開されるというのです。しかし、モーセはこの提案を拒みました。

2.モーセのとりなし(13-25)

それに対してモーセは何と言ったでしょうか。13節から19節までをご覧ください。

「13 モーセはに申し上げた。「エジプトは、あなたが御力によって、彼らのうちからこの民を導き出されたことを聞いて、14 この地の住民に告げましょう。事実、彼らは、あなた、がこの民のうちにおられ、あなた、がまのあたりに現れて、あなたの雲が彼らの上に立ち、あなたが昼は雲の柱、夜は火の柱のうちにあって、彼らの前を歩んでおられるのを聞いているのです。15 そこでもし、あなたがこの民をひとり残らず殺すなら、あなたのうわさを聞いた異邦の民は次のように言うでしょう。16 『はこの民を、彼らに誓った地に導き入れることができなかったので、彼らを荒野で殺したのだ。』17 どうか今、わが主の大きな力を現してください。あなたは次のように約束されました。18 『は怒るのにおそく、恵み豊かである。咎とそむきを赦すが、罰すべき者は必ず罰して、父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼす。』と。19 あなたがこの民をエジプトから今に至るまで赦してくださったように、どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください。」

モーセはここで、イスラエルの咎を赦してくださいと懇願しました。その一つの理由は、主ご自身の栄誉のためです。もし主がご自身の導かれた民を滅ぼすようなことがあったら、異邦の民は、「主はこの民を彼らが誓った地に導き入れることができなかったので、途中で彼らを荒野で殺したというようになり、主の御名が汚されることになるからです。

もう一つのことは、「主は怒るのにおそく、恵み豊かである。咎とそむきを赦すが、罰すべき者は必ず罰して、父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼす。」であるということです。これは、主の約束のことばです。モーセはその約束のゆえに、そのことばを引用して祈っているのです。主は怒るのにおそく、恵み豊かである。咎とそむきを赦すが、罰すべき者は必ず罰して、父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼす。」方なので、どうか、その大いなる恵みによって赦してくださいと祈ったのです。

Ⅰヨハネ5章14節に、「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」とあるように、主のみことばと約束を引用することによって、主のみこころに適った祈りをすることができるということが、ここからわかります。

Ⅲ.神の答え(20-25)

それに対して主は、どのように答えられたでしょうか。20節から25節までをご覧ください。

「20 は仰せられた。「わたしはあなたのことばどおりに赦そう。21 しかしながら、わたしが生きており、の栄光が全地に満ちている以上、22 エジプトとこの荒野で、わたしの栄光とわたしの行ったしるしを見ながら、このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、みな、23 わたしが彼らの先祖たちに誓った地を見ることがない。わたしを侮った者も、みなそれを見ることがない。24 ただし、わたしのしもべカレブは、ほかの者と違った心を持っていて、わたしに従い通したので、わたしは彼が行って来た地に彼を導き入れる。彼の子孫はその地を所有するようになる。25 低地にはアマレク人とカナン人が住んでいるので、あなたがたは、あす、向きを変えて葦の海の道を通り、荒野へ出発せよ。」」

モーセの祈りを聞かれた主は、イスラエルを赦されました。けれども、その後でこうも言われました。「しかしながら、わたしが生きており、主の栄光が全地に満ちている以上、エジプトとこの荒野で、わたしの栄光とわたしの行なったしるしを見ながら、このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、みな、わたしが彼らの先祖たちに誓った地を見ることがない。わたしを侮った者も、みなそれを見ることがない。」
どういうことでしょうか。これでは赦していないということと同じことではないでしょうか。そうではありません。主は彼らの罪を赦されるのですが、それは彼らが自分たちの蒔いたものを何ら刈り取らないということではないということです。多くのクリスチャンは、罪が赦されるということを、罪の結果を負わないことであるかのように考えていますが、そうではありません。罪が赦されるということは、罪に対する咎めをまったく受けない、ということです。罪は赦され、きよめられ、忘れ去られ、遠くに追いやられ、海の深みに投げ込まれます。ですから、もはや罪の責めを負わなくてもよいのです。けれども、自分が行なったことに対しての結果は受けなければなりません。刈り取りはしなければならないのです。

たとえば、ダビデは、バテシェバとの姦淫によって夫のウリヤを殺してしまいましたが、それを主に告白したとき、主はその罪を赦してくださいました。けれども、その罪の結果は刈り取らなければなりませんでした。初めに生まれる子どもは死に、自分の息子たちの間には悲劇が重なりました。ダビデは、それを主によるものと認めましたが、決して自分がさばかれていると思いませんでした。むしろ、主のねたむほどの愛を、これらの出来事を見て、ますます知っていったことでしょう。彼の主への信仰と愛はますます精錬されました。そして、主はダビデのことを、「わたしの愛する者」と呼ばれました。同じように、この時のイスラエルも主に対する不信仰の罪は赦されましたが、その罪に対する報いは受けなければなりませんでした。
ただし、カレブは、ほかの者と違った心を持っていて、わたしに従い通したので、わたしは彼が行って来た地に彼を導き入れ、彼の子孫はその地を所有するようになる、と言われました。これが信仰による報いです。信じる者は、たとえ神の裁きがあろうとも滅びることなく、命を持つことができます。裁きから免れる道は、神とキリストを信じることなのです。

ところで、ここでおもしろいと思うことは、主はカレブが、「他の者と違った心」を持っていると言われたことです。主がカレブを喜こばれたのは、彼の行ないよりも、その心だったのです。なぜなら、その心が行動になって表われてくるからです。一時的に主に従っているかのような信仰ではなく、ずっと従い通す信仰、それは、そうした心から生まれてくるものなのです。主は私たちの一つ一つの行動よりも、主に対してどのような心をもって歩んでいるかを問うておられるのです。そして、次のように言われました。

「低地にはアマレク人とカナン人が住んでいるので、あなたがたは、あす、向きを変えて葦の海の道を通り、荒野へ出発せよ。」(25)

「葦の海」とは紅海のことです。それは彼らがいるカデシュ・バルネアからかなり後方にあります。しかし、ここでは葦の海まで行くようにと言っているのではなく、葦の海の道を通りとあるので、実際に葦の海まで後退したのではなく、その道まで後退したということです。なぜなら、低地にはアマレク人とカナン人が住んでいたからです。だから、カデシュ・バルネアから迂回させて、紅海の北端にあるところを通らせ、死海の東側、今のヨルダンのほうから回って北上するようにさせたのです。

Ⅳ.荒野での死(26-38)

最後に26節から終わりまでを見て終わりたいと思います。まず26節から38節までをお読みします。

「26 はモーセとアロンに告げて仰せられた。27 「いつまでこの悪い会衆は、わたしにつぶやいているのか。わたしはイスラエル人が、わたしにつぶやいているつぶやきを、もう聞いている。28 あなたは彼らに言え。これはの御告げである。わたしは生きている。わたしは必ずあなたがたに、わたしの耳に告げたそのとおりをしよう。29 この荒野であなたがたは死体となって倒れる。わたしにつぶやいた者で、二十歳以上の登録され数えられた者たちはみな倒れて死ぬ。30 ただエフネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは、あなたがたを住まわせるとわたしが誓った地に、だれも決して入ることはできない。31 さらわれてしまうと、あなたがたが言ったあなたがたの子どもたちを、わたしは導き入れよう。彼らはあなたがたが拒んだ地を知るようになる。32 しかし、あなたがたは死体となってこの荒野に倒れなければならない。33 あなたがたの子どもたちは、この荒野で四十年の間羊を飼う者となり、あなたがたが死体となってこの荒野で倒れてしまうまで、あなたがたの背信の罪を負わなければならない。34 あなたがたが、かの地を探った日数は四十日であった。その一日を一年と数えて、四十年の間あなたがたは自分の咎を負わなければならない。こうしてわたしへの反抗が何かを思い知ろう。35 であるわたしが言う。一つになってわたしに逆らったこの悪い会衆のすべてに対して、わたしは必ず次のことを行う。この荒野で彼らはひとり残らず死ななければならない。36 モーセがかの地を探らせるために遣わした者で、帰って来て、その地について悪く言いふらし、全会衆をモーセにつぶやかせた者たちも。」
37 こうして、その地をひどく悪く言いふらした者たちは、の前に、その疫病で死んだ。38 しかし、かの地を探りに行った者のうち、ヌンの子ヨシュアと、エフネの子カレブは生き残った。」

イスラエル人は、会見の天幕における主の栄光を見ても、ずっと、つぶやいていたようです。そこで主は次のように言われました。「これは主の御告げである。わたしは生きている。わたしは必ずあなたがたに、わたしの耳に告げたそのとおりをしよう。」(28)

イスラエル人は、「この荒野で死んだほうがましだ。」と言いました。また、「妻子がさらわれてしまう。」とも言いました。だから、彼らが言ったとおりのことをしよう、と言うのです。ここには、「わたしは生きている」とあります。主は生きておられます。ですから、主をないがしろにすることはできません。主の前で発したことは、必ずその実を刈り取ることになるのです。たとえそれが自分の不満から生じたことであっても、主の前で発したのであれば主は聞いておられるので、その実を刈り取ることになるので、注意しなければなりません。主は生きておられるのです。彼らは、この荒野で死体となって倒れ、主につぶやいた者で、二十歳以上の者たちはみな倒れて死ぬ、と仰せになられました。それ以下の子供たちが新しい世代として約束の地に入ることになります。けれども、信じ続けたヨシュアとカレブだけはそのまま約束の地に入ることができます。

コリント人への手紙第一2章と3章には、人間には三つの種類の人がいることを教えています。一つは、「生まれながらの人間」です。この種類の人たちは御霊による新生を体験していません。それは、エジプト(この世に属している)にいる人だと言い換えることができます。そしてもう一つは「御霊の人」です。御霊に導かれて生きている人です。神の約束の地に入った人たちと言うこともできるでしょう。それは、戦いがなくなる、ということではありません。約束の地に入っても敵との戦いがあります。けれども、主が戦ってくださることを知っているので、いつも主により頼んで、主によって勝利することができます。そして、もう一つの種類は、「肉に属する人」です。「キリストにある幼子」です。御霊によって新生はしたけれども、御霊によって生きることを知らない人です。肉の欲求が自分の行動に先行してしまうのです。ですから、罪に敗北します。平和よりも争いを好みます。ねたみによって人を裁きます。この時のイスラエルのようにこの世という荒野で少しでも嫌なことや苦しいことがあるとすぐに泣き叫び、神のみこころを痛めるだけでなく、そうでない人たちをも不信仰へといざないます。

しかし、こうした荒野での試みは、私たちの肉がそがれ、御霊の人へと導かれていくための訓練の時でもあるのです。私たちは御霊によって神の約束と祝福を得ることができますが、そのためには荒野の道を通らなければなりません。なぜなら、荒野の旅は、その約束に至るために肉の部分が削がれて、信仰によって生きていくことを学ぶことができるからです。私たちは、御霊に導かれることを知るために、しばしの間、肉の中でもがく時を神は許されるのです。自分自身で罪の問題を解決しようとします。けれども、できないために敗北を味わいますが、その間に、「自分」というものに死んでいなければいけないことに気がつきます。自分には何も良いものがなく、かえってキリストの愛に自分が満たされて、自分ではなくキリストが自分を通して働いてくださることを願います。信仰によって神の約束をそのまま信じて、主に働いていただく御霊の領域に入ることができるのです。

31節からのところをご覧ください。イスラエルが不信仰になったそのつけは、荒野でさまよい続け、最後は死に絶えるというものでした。そして、これが私たちクリスチャンの霊的現実でもあります。つまり、私たちがいつまでも自分にたより、信仰によって生きないのであれば、自分の肉が死ぬまで、いつまでも、同じところを巡回するような生き方をしなければいけなくなるのです。

神は、私たちにキリストのいのちを与えられました。私たちは罪を赦されただけではなく、罪に対して死んで、キリストに対して生きている者とされました。このいのちに生きるのに必要なのは信仰です。たとえ、自分の問題が、アナク人のように巨大に見えても、それをキリストにあって死んだものだとみなし、信仰によって前に踏み出ることが必要なのです。「この分野に入ると、私の肉が出てくるので、前に進むのはよそう。」と言って、主が示されているところに出て行くのを拒むのであれば、その時点で、自分はさまよう民となってしまうのです。前進もできず、後戻りもできないです。しかし、私たちのこの世における歩みは、自分の肉の領域、神にゆだねていない領域を聖霊によって示され、それを死んだものとみなし、御霊によって進むことです。カデシュ・バルネアまで来たら、やはり前に進むしかなかのです。

「モーセがかの地を探らせるために遣わした者で、帰って来て、その地について悪く言いふらし、全会衆をモーセにつぶやかせた者たちも。」こうして、その地をひどく悪く言いふらした者たちは、主の前に、疫病で死んだ。しかし、かの地を探りに行った者のうち、ヌンの子ヨシュアと、エフネの子カレブは生き残った。 あの悪く言いふらした10人のイスラエル人は、40年を待たずしてすぐに死にました。

「39 モーセがこれらのことばを、すべてのイスラエル人に告げたとき、民はひどく悲しんだ。40 翌朝早く、彼らは山地の峰のほうに上って行こうとして言った。「私たちは罪を犯したのだから、とにかくが言われた所へ上って行ってみよう。」41 するとモーセは言った。「あなたがたはなぜ、の命令にそむこうとしているのか。それは成功しない。42 上って行ってはならない。はあなたがたのうちにおられないのだ。あなたがたが敵に打ち負かされないように。43 そこにはアマレク人とカナン人とがあなたがたの前にいるから、あなたがたは剣で打ち倒されよう。あなたがたがにそむいて従わなかったのだから、はあなたがたとともにはおられない。」44 それでも、彼らはかまわずに山地の峰のほうに登って行った。しかし、の契約の箱とモーセとは、宿営の中から動かなかった。45 山地に住んでいたアマレク人とカナン人は、下って来て、彼らを打ち、ホルマまで彼らを追い散らした。」

どういうことでしょうか。彼らは「じゃ、山に上ればいいのか」と山に登って行こうとしました。しかし、問題は、彼らが山に登って行くかどうかということではありません。主に聞き従うかどうかということです。たとえ山に登ったとしても、それが主からの命令によるものでなければ、まったく意味がありません。大切なのは、主は何と言っておられるのかを聞き、それに従うことです。
ヘブル人への手紙には、「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかなくなにしてはならない。(4:15)」とあります。信仰というのは、御声に聞き従うことであります。御声を聞くそのときでなければ、私たちは後で従おうとしても、力が出てきません。なぜなら、それは信仰によるものではないからです。信仰とは、神の御声を従順な心で聞くことに他なりません。そのときに、自分ではなく神の力が自分のうちに働き、それで神のみわざが自分のうちに成されるのです。イエスさまによっていやされた人たちが、どのようにいやされたかを思い出してください。イエスさまが、「起き上がりなさい。」と言われたそのときに起き上がりました。「右手を伸ばしなさい。」といわれたそのときに、伸ばしました。みな、信仰をもって聞いたからです。

するとモーセは言った。「あなたがたはなぜ、主の命令にそむこうとしているのか。それは成功しない。上って行ってはならない。主はあなたがたのうちにおられないのだ。あなたがたが敵に打ち負かされないように。そこにはアマレク人とカナン人とがあなたがたの前にいるから、あなたがたは剣で打ち倒されよう。あなたがたが主にそむいて従わなかったのだから、主はあなたがたとともにはおられない。」

信仰のないところには、主がともにおられないので成功しないのです。それは敵に打ち負かされるだけのことです。

それでも、彼らはかまわずに山地の峰のほうに登って行った。しかし、主の契約の箱とモーセとは、宿営の中から動きませんでした。契約の箱は、主の臨在です。動かなかったということは、主がともに出て行かれなかったということです。山地に住んでいたアマレク人とカナン人は、下って来て、彼らを打ち、ホルマまで彼らを追い散らした。

こうして私たちは、生き残ったカレブとヨシュアの信仰と、荒野で死に絶えたイスラエル人の不信仰を見てきました。両者の違いはいったい何だったのでしょうか。それは、信仰によって見ていたかどうかということです。主にあって見ていたか、それとも自分の視点で見ていたかの違いでした。自分から出発して、「自分はこれだけのことができる。これだけのことができない。」と計算して、行動することは、人間の世界では通用しますが、霊の世界では通用しないことが分かります。ですから、主のみこころは何か、何が良いことで、完全であるのかをわきまえ知るために、自分自身を神にささげ、ただ神が仰せになられたことを信仰によって行っていく、そんな信仰者とならせていただきましょう。

民数記13章

きょうは民数記13章から学びます。これはイスラエルの歴史の中で最も悲しい出来事の一つが記されてあるところです。それは彼らが約束の地に入ることができなくなった原因となった出来事です。このことによってイスラエルは荒野を40年間もさまよわなければなりませんでした。それは彼らの不信仰が原因でした。いったいなぜ彼らは不信仰に陥ってしまったのでしょうか。きょうは13章からそのことについて確認していきたいと思います。

1.  約束の地への派遣(1-24)

まず1節から24節までを見ていきましょう。まず1節から16節までをお読みします。

「1 はモーセに告げて仰せられた。2 「人々を遣わして、わたしがイスラエル人に与えようとしているカナンの地を探らせよ。父祖の部族ごとにひとりずつ、みな、その族長を遣わさなければならない。」3 モーセはの命によって、パランの荒野から彼らを遣わした。彼らはみな、イスラエル人のかしらであった。4 彼らの名は次のとおりであった。ルベン部族からはザクルの子シャムア。5 シメオン部族からはホリの子シャファテ。6 ユダ部族からはエフネの子カレブ。7 イッサカル部族からはヨセフの子イグアル。8 エフライム部族からはヌンの子ホセア。9 ベニヤミン部族からはラフの子パルティ。10 ゼブルン部族からはソディの子ガディエル。11 ヨセフ部族、すなわちマナセ部族からはスシの子ガディ。12 ダン部族からはゲマリの子アミエル。13 アシェル部族からはミカエルの子セトル。14 ナフタリ部族からはボフシの子ナフビ。15 ガド部族からはマキの子ゲウエル。16 以上は、モーセがその地を探らせるために遣わした者の名であった。そのときモーセはヌンの子ホセアをヨシュアと名づけた。」

主はモーセに、人々を遣わして、主がイスラエル人に与えようとしているカナンの地を下がらせるようにと命じられました。いったいなぜ主はこのようなことを命じられたのでしょうか。ここで申命記1章19節から23節までをお開きください。

「19 私たちの神、が、私たちに命じられたとおりに、私たちはホレブを旅立ち、あなたがたが見た、あの大きな恐ろしい荒野を、エモリ人の山地への道をとって進み、カデシュ・バルネアまで来た。
20 そのとき、私はあなたがたに言った。「あなたがたは、私たちの神、が私たちに与えようとされるエモリ人の山地に来た。21 見よ。あなたの神、は、この地をあなたの手に渡されている。上れ。占領せよ。あなたの父祖の神、があなたに告げられたとおりに。恐れてはならない。おののいてはならない。22 すると、あなたがた全部が、私に近寄って来て、「私たちより先に人を遣わし、私たちのために、その地を探らせよう。私たちの上って行く道や、入って行く町々について、報告を持ち帰らせよう」と言った。23 私にとってこのことは良いと思われたので、私は各部族からひとりずつ、十二人をあなたがたの中から取った。」

このところを見ると、これは主がそのように命じたというよりも、イスラエルの民からの申し出であったことがわかります。彼らがパランの荒野のカデシュ・バルネアまで来たとき、主はモーセを通して「上れ。占領せよ。」と言ったのに、彼らは、その前に人を遣わして、その地を探らせてくださいと言ったのです。それでモーセは、そのことは彼にとっても良いことだと思われたので、各部族からひとりずつ、十二人を取って遣わしました。いったいなぜ彼らはその地を探らせようとしたのでしょうか。不安があったからです。自分たちに占領できるだろうか、自分たちの力で大丈夫かどうかと、その可能性を探ろうとしたのです。

それにしても、なぜ神はそのことを許されたのでしょうか。モーセはなぜそのことが良いことだと思われたのでしょうか。なぜなら、神の意図は別のところにあったからです。あとでヨシュアとカレブがこの偵察によって、ますます元気づいて、この地を占領しようと奮い立ちますが、神はそのために偵察することは良いことだと思われたのです。すなわち、その地をどのように占領すべきかを知るために、その準備として、先に人をやって偵察させようとしたのです。

それなのに、イスラエルの民の思惑は違っていました。彼らはその地を偵察して、自分たちの能力で彼らに勝利することができるかどうかを知ろうとして人を遣わしたかったのです。ですから、そこには大きな違いがあったことがわかります。

さて、彼らが遣わしたのは、イスラエル人のかしらたちでした。民数記1章にも、軍務につくことができる者たちが軍団ごとに数えられ、そのかしらたちが登録されていますが、ここに記録されているかしらたちとは異なる人たちです。それはおそらく、スパイ行為というかなり危険で、体力を使う特殊な任務であったため、比較的若い人が用いられたからではないかと思われます。

そのときモーセはヌンの子ホセアをヨシュアと名づけた。ヨシュアは、モーセによって名づけられた名前でした。その前は「ホセア」という名前で、意味は「救い」です。そしてヨシュアは「ヤハウェは救い」あるいは「主は救い」となります。このギリシヤ語名が、「イエス」なのです。つまり、ヨシュアは、単に人々を救い出す人物ではなく、全人類を罪から救い出すところのイエス・キリストを、あらかじめ指し示す人物であったということです。

2.  エシュコルの谷(17-24)

次に17節から24節までをご覧ください。

「17 モーセは彼らを、カナンの地を探りにやったときに、言った。「あちらに上って行ってネゲブに入り、山地に行って、18 その地がどんなであるか、そこに住んでいる民が強いか弱いか、あるいは少ないか多いかを調べなさい。19 また彼らが住んでいる土地はどうか、それが良いか悪いか、彼らが住んでいる町々はどうか、それらは宿営かそれとも城壁の町か。20 土地はどうか、それは肥えているか、やせているか。そこには木があるか、ないかを調べなさい。あなたがたは勇気を出し、その地のくだものを取って来なさい。」その季節は初ぶどうの熟すころであった。21 そこで、彼らは上って行き、ツィンの荒野からレボ・ハマテのレホブまで、その地を探った。22 彼らは上って行ってネゲブに入り、ヘブロンまで行った。そこにはアナクの子孫であるアヒマンと、シェシャイと、タルマイが住んでいた。ヘブロンはエジプトのツォアンより七年前に建てられた。23 彼らはエシュコルの谷まで来て、そこでぶどうが人ふさついた枝を切り取り、それをふたりが棒でかついだ。また、いくらかのざくろやいちじくも切り取った。24 イスラエル人がそこで切り取ったぶどうのふさのことから、その場所はエシュコルの谷と呼ばれた。」

モーセは、綿密にその土地と住民を調べてくるように指示しました。その地はどのような地形になっているか、そこに住んでいる民は強いか弱いか、あるいは多いか少ないか。その地質はどうなっているのか。また彼らが住んでいる町々は宿営の町なのか、それとも、外敵から守るための城壁があるのか。また、土壌はどうなっているか。作物を得るのに、適しているのかいないのか。肥えているか、やせているか、そして、みなを元気づけるために、そこのくだものを取ってきなさい、というものです。かなり綿密に調べるように命じました。

そこで彼らは上って行って、その地を偵察しました。偵察隊は、ツィンの荒野からレボ・ハマテのレホブに至るまでの地をゆきめぐりました。レボ・ハマテというのは、ダマスコよりもさらにはるか北にあり、ユーフラテス川の近くまで来ています。神さまが約束された土地の北端になっている町です。カナンの地の領土の広がりについては、34章1~12節に詳しく語られていますが、それは現在のイスラエルのほぼ全領土と、レバノン、シリヤ南部までを含んでいます。かなり広い領域を偵察しました。おそらく、12人が皆一緒に行動したというよりは、それぞれが分担の地域に分かれて偵察したのでしょう。

またここにはネゲブからヘブロンへとさりげなく書かれてはいますが、そこは彼らにとっては重要な歴史的スポットでした。ネゲブは神がアブラハムに現れたところであり、ヘブロンには、アブラハム、サラ、イサク、リベカ、レア、ヤコブが葬られた墓所がありました。しかしそこにはアナクの子孫が住んでいました。彼らは巨人のように体が大きく、ちょうどダビデが対峙したゴリアテのようでした。

しかし、そこは乳と蜜の流れる地であり、豊かないのちをもたらす土地でした。彼らはエシュコルの谷までやって来たとき、そこで、ぶどう一房ついた枝を切り取り、それをふたりが棒でかつぎました。これはイスラエル政府観光局のシンボルになっています。イスラエルに観光に行くと、必ず見るマークの一つです。それはこの地が豊かないのちをもたらす土地であることを表しています。

3.報告(25-33)

さて、その地の偵察から帰って来たスパイたちは、どんな報告をもたらしたでしょうか。最後に25節から33節を見てください。

「25 四十日がたって、彼らはその地の偵察から帰って来た。26 そして、ただちにパランの荒野のカデシュにいるモーセとアロンおよびイスラエルの全会衆のところに行き、ふたりと全会衆に報告をして、彼らにその地のくだものを見せた。27 彼らはモーセに告げて言った。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこのくだものです。28 しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。29 ネゲブの地方にはアマレク人が住み、山地にはヘテ人、エブス人、エモリ人が住んでおり、海岸とヨルダンの川岸にはカナン人が住んでいます。」30 そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」31 しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」32 彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。33 そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」」

四十日経って、彼らはその地の偵察から帰ってきました。これが後に、イスラエルが荒地で放浪する期間として定められた40年の根拠となります。彼らは偵察から帰ってくると、パランの荒野のカデシュ・バルネアにいたモーセとアロン、そしてイスラエルの全会衆のところに行き、その地で取ったくだものを見せて、自分たちが見たとおりのことを話しました。それは、その地は豊かな土地であるけれども、その地の住民は力強く、町々には城壁が張り巡らせてあり、そこにはアナクの子孫がいたということです。そればかりか、ネゲブの地方にはアマレク人が、山地にはヘテ人、エモリ人が住んでいるというものでした。

これは事実でした。彼らは自分たちが見たとおりのことを報告したのですからいいのですが、ここからが問題です。この調査をどのように受けとめ、そして、それにどのように対処していくかということです。31節をご覧ください。彼らはこの現実にこう結論しました。

「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」

ここで彼らは、自分たちと敵とを比べました。これが問題です。彼らは神ご自身と敵を比較したのではなく、自分自身と敵を比較しました。このようにもし自分と敵とを比較すると、そこには恐れ以外の何ものも生じることはありません。そしてその結論はゆがめられたものなってしまいます。彼らは自分たちが探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらしました。そこには非常に大きく、力強い民がいて、とてもじゃないが、勝てる相手ではない。彼らに比べたら、自分たちはいなごのように小さく、何の力もない者であるかのようだと言ったのです。彼らは心に植え付けられた恐れによって、物事を誇大解釈してしまったのです。

それに対してヨシュアとカレブはどうだったでしょうか。彼らの見方は違いました。30節には、そのような恐れにさいなまれた他のスパイのことばをさえぎり、こう言いました。

「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」

いったいこの違いは何でしょうか。同じものを見ても、その捉え方は全く違います。他のスパイたちは、そこには大きく、強い民がいるから上って行くことはできないと言ったのに対して、カレブは、「ぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。」と言ったのです。いったいこの違いは何なのか。

これは信仰によるか、そうでないかの違いです。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(へブル11:1)目に見えるものを信じ、それによって判断することは信仰ではありません。信仰とは目に見えるものがどうであっても、神が言われることを聞き、それに従うことです。そのみことばに基づいて、目に見えないものに対処する、これが信仰なのです。単に主がおられることを信じ、遠くにある約束を信じているだけではなく、実際に自分の前に立ちはだかる現実に対して、神ご自身とそのみことばを当てはめるのです。カレブはそのことを行なったのです。これは無謀とは違います。無謀とは、神が語っていないのに自分で勝手にそう思い込むことです。自分で、むりやりに、「これを信じます。信じます!」と言い聞かせるのです。しかし、信仰は違います。信仰は無理に言い聞かせることではなく、神が仰せになられことを信じることなのです。たとえ目に見えないことでも、たとえ、人間的には難しいことであっても。

特に、このような能力を神から与えられた人たちがいます。それを「信仰の賜物」と言います。神が与えてくださった賜物によって、人には不可能と思えることでも信仰によって信じることができるような能力を、御霊によって与えられているのです。自然にそのように信じることができ、必ずこのことは起こると確信することができます。この賜物を受け取るには、「自分が」ではなく、「神が」という姿勢が必要です。自分ができるかどうか、ではなく、神が何をなしてくださっているのかに目を留めなければなりません。

私たちのうちには、このカレブのような人も、また10人のイスラエルのスパイのような人も存在します。信仰によって、戦いの中に入っていくことができるときもあれば、恐れ退くときもあります。御霊によって、「これはきっとできる。」と思って前に進むこともあれば、思いもよらなかなった攻撃や試練によって、「これ以上前に進んだら、自分がだめになってしまう。」と思って、退いてしまうときがあります。しかし、私たちが、乳と蜜の流れる地に入りたいと思うなら、信じなければなりません。信じて、前進するしかないのです。たとえ現実的には難しいかのようであっても、主がそのように言われるのなら、そのように前進しなければならないのです。

ヘブル書には、「私たちは恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」(ヘブル10::39)」とあります。恐れ退いて、悲しみ、嘆き、さまよう人生ではなく、神が与えてくださった豊かないのちを受けるために、信じて前進していく者でありたいと思います。

民数記12章

きょうは民数記12章から学びたいと思います。

1.  モーセに対する非難(1-2)

まず1節と2節をご覧ください。

「1 そのとき、ミリヤムはアロンといっしょに、モーセがめとっていたクシュ人の女のことで彼を非難した。モーセがクシュ人の女をめとっていたからである。2 彼らは言った。「はただモーセとだけ話されたのでしょうか。私たちとも話されたのではないでしょうか。」はこれを聞かれた。」

ここに「そのとき」とあります。イスラエルの民は神の山シナイ山から旅立ち、まずタブエラへ進みました。そこで民はひどく不平を鳴らして主につぶやいたので、主は彼らに対して怒りを燃やされ、宿営をなめ尽くされました。また「ああ、肉が食べたい」という声に紛れてつぶやく民に対して、主は大量のうずらを降らせましたが、肉が彼らの歯の間にあるうちに、主の怒りが燃え上がり、彼らは激しい疫病で打たれて死にました。それがキブロテ・ハタワテという所での出来事です。イスラエルはそこからハツェロテに進み、そこにとどまりました。「そのとき」のことです。モーセの姉ミリヤムがアロンといっしょに、モーセがめとっていたクシュ人の女のことで彼を非難したのです。

このクシュ人の女が誰のことを指しているのかははっきりわかりません。モーセには、チッポラという妻がいました。彼女はミデヤン人イテロの娘です。このクシュ人がそのチッポラのことなのか、あるいはチッポラが死んだ後の二人目の妻なのかは分かりませんが、イスラエル人ではない異邦人であることは確かです。ミリアムは、この女のことでモーセを非難したのです。なぜでしょうか。ねたみがあったからです。自分はモーセの姉なのにモーセばかり用いられて自分は全く認められていないことにある種の不満があったのでしょう。しかし、このような妬みは地に属するものであり、肉に属し、悪霊に属するものです。

ヤコブ3章14-15節には、「14 しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。15 そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。」とあります。私たちは、自分たちの中にこうしたねたみがないかどうかを、しっかりと見張っていなければいけません。確かにモーセにも欠陥があったかもしれません。しかし、モーセは神によって立てられたしもべなのです。主がお立てになりました。そのモーセを非難して、彼の評判を傷つけるということは、それは神ご自身を傷つけることと同じです。ミリヤムはそのことを理解していませんでした。

ローマ13章1節には、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたのです。」とあります。私たちは平気で上に立てられた権威を非難したり、悪口を言ったり、さばいたりすることことがありますが、それは神ご自身を非難することであり、傷つけることであるということを覚えておかなければなりません。なぜなら、上に立つ権威は、すべて神によって立てられたものだからです。勿論、私たちはキリストにあって一つであり、上下の関係でありません。みな平等です。けれども、そこには秩序があるのです。神によって立てられた権威を非難することは神のみこころではありません。むしろそれを理解し、主にあって支え、守る責務を持っているのだということを覚えておかなければなりません。

2.神のしもべモーセ(3-8)

次に3節から8節までをご覧ください。

「3 さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。4 そこで、は突然、モーセとアロンとミリヤムに、「あなたがた三人は会見の天幕へ出よ」と言われたので、彼ら三人は出て行った。5 は雲の柱の中にあって降りて来られ、天幕の入口に立って、アロンとミリヤムを呼ばれた。ふたりが出て行くと、6 仰せられた。「わたしのことばを聞け。もし、あなたがたのひとりが預言者であるなら、であるわたしは、幻の中でその者にわたしを知らせ、夢の中でその者に語る。7 しかしわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者である。8 彼とは、わたしの口と口で語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、の姿を仰ぎ見ている。なぜ、あなたがたは、わたしのしもべモーセを恐れずに非難するのか。」

モーセは、ミリアムとアロンから非難されたとき、何も反発しませんでした。そのままにしていました。自分は、確かに足りない人間だと思ったのでしょう。「私に立てつくとはどういうことだ」というようなことを言いませんでした。ですからここには、モーセは、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった、と書いてあるのです。

そこで、モーセではなく主ご自身が三人に天幕の所に出て来るようにと言われました。モーセも傷ついていましたが、それ以上に傷つかれたのは神でした。ですから、神が黙っておられなかったのです。彼らが出て行くと、主は雲の柱の中にあって降りて来られ、こう仰せになられました。「「わたしのことばを聞け。もし、あなたがたのひとりが預言者であるなら、であるわたしは、幻の中でその者にわたしを知らせ、夢の中でその者に語る。7 しかしわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者である。8 彼とは、わたしの口と口で語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、の姿を仰ぎ見ている。なぜ、あなたがたは、わたしのしもべモーセを恐れずに非難するのか。」

「幻の中で知らせる」とか「夢の中で語る」というのは、誰かの解き証しが必要であるようなあやふやな語り方で語るということです。しかし、モーセに対してはそうではありません。モーセに対しては、口と口で語り、明らかに語って、なぞで話すことはしないのです。なぜなら、彼は全家を通して忠実な者だからです。どういう意味でしょうか。神の家全体のために忠実であるということです。ミリアムは、主の働きを履き違えていました。モーセが預言をし、不思議を行なっているのを見て、なんとすばらしいんだろうと興奮し、自分もそのような奉仕に携わりたい、と思ったかもしれませんが、モーセはそういうつもりで奉仕していたのではなく、ただ神に忠実であることに徹していたのです。神から与えられた使命を全うするために与えられていた賜物を用いて仕えて。彼は自分の分をよくわきまえて、与えられた奉仕に集中していたのです。

時に私たちも、そうした目ざましいわざや、興奮するような事を求める傾向がありますが、そうではなく、自分に与えられた使命を認識し、そのために与えられた賜物を用いて、忠実に与えられたを果たしていかなければなりません。他の賜物を持っている人を見てすばらしいと思い、自分もそれを持ちたいなあと思うことがあっても、そのために賜物が与えられるのではありません。しっかりと主に与えられた務めを行なうために、主にお仕えするために与えられているのです。そのことをわきまえなければなりません。それは地味で、きらびやかしたものではないかもしれませんが、主のしもべに求められていることは忠実であることなのです。

3.主の懲らしめ(9-16)

最後に、ミリヤムの高慢に対する主のさばきを見て終わりたいと思います。9節から16節までをご覧ください。

「9 の怒りが彼らに向かって燃え上がり、主は去って行かれた。10 雲が天幕の上から離れると、見よ、ミリヤムはツァラアトになり、雪のようになっていた。アロンがミリヤムのほうを降り向くと、見よ、彼女はツァラアトに冒されていた。11 アロンはモーセに言った。「わが主よ。私たちが愚かで犯しました罪の罰をどうか、私たちに負わせないでください。12 どうか、彼女を、その肉が半ば腐って母の胎から出て来る死人のようにしないでください。」13 それで、モーセは主に叫んで言った。「神よ。どうか、彼女をいやしてください。」14 しかしはモーセに言われた。「彼女の父が、彼女の顔につばきしてさえ、彼女は七日間、恥をかかせられたことになるではないか。彼女を七日間、宿営の外に締め出しておかなければならない。その後に彼女を連れ戻すことができる。」15 それでミリヤムは七日間、宿営の外に締め出された。民はミリヤムが連れ戻されるまで、旅立たなかった。16 その後、民はハツェロテから旅立ち、パランの荒野に宿営した。」はミリアムに罰を与えられます。」

主の怒りがミリヤムとアロンに向かって燃え上がると、主は天幕の上から離れ去って行きました。すると、ミリヤムはツァラートのようになり、雪のように白くなりました。すると、アロンがモーセに「わが主よ。私たちが愚かで犯しました罪の罰をどうか、私たちに負わせないでください。どうか、彼女を、その肉が半ば腐って母の胎から出て来る死人のようにしないでください。」と言いましたが、主は彼女を七日間宿営の外に締め出さなければならないと言われたので、そのようにしました。
モーセは、自分を非難したミリアムのために祈ることができました。彼には赦す心がありました。愛は、忍耐し、親切にする、とありますが、まさにモーセは愛をもって行動したのです。しかし、主は彼女を七日間、宿営外の外に締め出しておかなければならないと言われました。どういうことでしょうか。「つばきをかける」とは、はずかしめを受けるということです。死刑ではないけれども、このようにつばきをかけられて、はずかしめを受けるという刑が律法にありました。それと同じように、ミリヤムは神の懲らしめを受け、自分の罪を悲しみ、もう二度と同じことをしないという悔い改めの期間が求められました。それが七日間、宿営の外に締め出されるということです。

それでミリヤムは七日間、宿営の外に締め出されましたが、民はミリヤムが連れ戻されるまで、そこにとどまり、旅立ちませんでした。それはミリヤムだけでなくイスラエル全体が、このことを深く考え、主の戒めを考える時でもあったかもしれません。主の懲らしめを受けるのは、私たちにとっても必要なことです。それは、私たちに意地悪するのではなく、愛をもっておられるからです。へブル12章5~13節に次のようにあるとおりです。

「5 そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」7 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。8 もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。9 さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。10 なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。12 ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。13 また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。なえた足が関節をはずさないため、いやむしろ、いやされるためです。」

こうしてモーセたちは、パランの荒野に宿営しました。イスラエルの民は約束の地に向かう荒野の道中ですぐにつぶやき、激しい欲望にかられてその多くが滅び失せました。また、モーセの姉ミリヤムは主のしもべを非難して、主の懲らしめを受けました。これらのことはみな何に起因していたのでしょうか。それは、主のあわれみと真実から離れてしまったことです。主は私たちに良くしてくださっています。一見、いつもと同じことの繰り返しのようで、物足りないと感じるかもしれませんが、主のあわれみは朝ごとに新しいのです。つぶやきはこのことを忘れたところから出てきます。そして、非難も、主が立てておられる秩序に違反することから出てきます。秩序を乱すことや、平和を壊すことに、私たちは注意していなければいけません。慎み深くして、主とともに歩むことが、天に向かって進む私たちのこの荒野での歩みにおいて求められていることなのです。

民数記11章

きょうは、民数記11章から学びます。まず1節から9節までをご覧ください。

1.  イスラエルの民の不平、つぶやき(1-9)

「1 さて、民はひどく不平を鳴らしてにつぶやいた。はこれを聞いて怒りを燃やし、の火が彼らに向かって燃え上がり、宿営の端をなめ尽くした。2 すると民はモーセに向かってわめいた。それで、モーセがに祈ると、その火は消えた。3 の火が、彼らに向かって燃え上がったので、その場所の名をタブエラと呼んだ。4 また彼らのうちに混じってきていた者が、激しい欲望にかられ、そのうえ、イスラエル人もまた大声で泣いた、言った。「ああ、肉が食べたい。5 エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいかも、にら、たまねぎ、にんにくも。6 だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ。」7 マナは、コエンドロの種のようで、その色はベドラハのようであった。8 人々は歩き回って、それを集め、ひき臼でひくか、臼でついて、これをなべで煮て、パン菓子を作っていた。その味は、おいしいクリームの味のようであった。9 夜、宿営に露が降りるとき、マナもそれといっしょに降りた。」

イスラエルは神の山シナイ山のふもとから旅立ち、約束の地に向かって荒野の旅を始めました。彼らが宿営を出て進むとき、主の雲が彼らの上にあって彼らを導きました。主の雲が最初にとどまったのはパランの荒野でした。それはシナイ山の北にある荒野ですが、彼らが主の山を出て、三日の道のりを進んだところにありました。しかし、彼らがパランの荒野に着くまでの間に、大きな問題が起こりました。1節から3節までを見てください。彼らはひどく不平を鳴らして主につぶやいたのです。それで主はこれを聞いて怒りを燃やされ、宿営の端をなめ尽くしたのです。荒野の旅を始めてまだ三日だというのに、早くも不平やつぶやきが出たのです。いったいなぜ彼らはつぶいたのでしょうか。荒野は決して楽な場所ではなく、不便さと困難がつきものです。空腹や疲れもあったでしょう。そんな荒野での三日間続いた旅の後で、彼らは「もう嫌だ、こんな生活」と不平を言ってつぶやいたのです。何ということでしょう。この荒野の旅のために神さまからいろいろな準備をしていただいたにもかかわらず、わずか三日でつぶやいてしまったのです。それに対して主は怒りを燃やし、火をもって彼らを懲らしめられました。この火は神の裁きを表しています。イスラエルの宿営の中にきよさがなくなったので、神は火をもってその汚れを取り除こうされたのです。

すると民はモーセに向かってわめきました。モーセに向かって、「どうか、助けてください。何とかしてください。主に祈ってください。」とお願いしたのでしょう。それでモーセは主に祈ると、その火は消えました。それで、その所を「タブエラ」と名付けました。「燃える」という意味です。

つぶやきとか不平は、クリスチャンである私たちがいつも抱えている問題でもあります。イスラエルの荒野の旅は、クリスチャンにとって、この世での歩みです。この世は、クリスチャンにとって、実に住みにくいところです。すべてが自分の思いとは反対の方向へ進んでいるかのように見えます。もちろん、この世の人たちと同じような問題にも出くわします。たとえば病気であったり、交通事故であったり、仕事をしている人はその会社の経営状況が悪かったり、さまざまな嫌なことや苦しいことが起こります。そこで私たちは、イスラエルの民のように、不平を漏らしてしまうのです。神さまから、旅のためのいろいろな準備をしていただいたのにもかかわらずです。いざ不快なことが起こると、イスラエルのように不平を鳴らしてしまうのです。それは神を怒らせることなのです。

4節から7節までのところをご覧ください。また彼らのうちに混じっていた者が、激しい欲望にかられ、そのうえ、イスラエル人もまた大声で泣き叫びました。「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいかも、にら、たまねぎ、にんにくも。だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ。」

ここで彼らは激しい欲望にかられ、「ああ、肉が食べたい。魚も。きゅうりも、すいかも・・・」と、かつてエジプトにいた時のことを思い出して嘆いているのです。でもエジプトにいた時は本当にそんなに良かったのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。ここで彼らはエジプトでの生活が楽であったように言っていますが、実際は、激しい苦役であえぎ、叫んでいたのです。あの激しい労働を忘れていたのです。これが、私たちが陥ってしまう過ちの一つす。この世は楽しそうに見え、過去のほうが良かったように見えるときがあります。けれども、その時はきまって、自分が通ってきたむなしさ、苦しみ、悩み、暗やみを忘れてしまっているときです。そこから救い出された今こそが、最もすばらしい時であるということを見ることができないのです。

とこで、4節を見ると、ここに「また彼らのうちに混じってきていた者が・・」とあります。ここで気づかされることは、このつぶやきを初めに言ったのは、「イスラエルの中に混じってきた者」であるということです。これはいったい誰のことでしょうか?彼らはイスラエル人ではありません。イスラエルがエジプトを出るときに、「さらに、多くの入り混じって来た外国人も、彼らとともに上った。」と出エジプト記12章38節に書いてあります。イスラエルとの契約の中に入っていない者たちが、イスラエル人たちとともに旅をしていたのです。行動はともにしているのですが、異なる動機で、異なる価値観で生きていたのです。けれども、彼らがいたこと自体は問題ではありませんでした。問題は、イスラエル人自身が、彼らにつられて、つぶやいてしまったということです。宿営の中に、神の思いではなく、人の思い、肉の思いを入れてしまったところに問題があったのです。

このことは神の民の集まりである教会にも言えることです。教会は、主から与えられた幻を見て、ともに前進する共同体です。そこに必要なのは信仰であり、主のみことばによって、主を仰ぎ見ながら前進していくということです。しかし、信仰の共同体であるはずの教会が人のことばや人の考えに振り回されてしまうことがあります。そして、そのような人たちに影響されて、いっしょになってつぶやいてしまうことがあるのです。「彼らのうちに混じってきた者」がイスラエルとの契約の中に入っていない者であるように、神の救いにあずかっていない人であることが多いのです。教会は、あらゆる人々を受け入れるところでありますが、人々に影響される共同体ではありません。教会は、神の方法によって人々に影響を与えているところの共同体であるということをしっかりと覚えておきたいものです。

さて、この「マナ」は、イスラエルがエジプトを出て荒野に導かれた時、食べ物に飢えたイスラエルがモーセとアロンにつぶやいたので、彼らが食べることができるように、天から降らせたパンのことです。それは、コエンドロの種のようで、その色はベドラハのようでした。 人々は歩き回って、それを集め、ひき臼でひくか、臼でついて、これをなべで煮て、パン菓子を作っていたのですが、その味は、おいしいクリームの味のようでした。しかし、イスラエルはこのマナに食べ飽きたのです。肉が食べたい、魚が食べたい、美味しい野菜も・・・。そう言ってつぶやいたのです。これは注意しなければなりません。そんな荒野にいてもちゃんと食べることができるように神が日々与えてくださったのですから、本来であれば、それを感謝しなければならなかったのに、彼らは、この一見お決まりの食事がいやになってしまったのです。にんげってどこまでも欲足らずですね。

このことは、私たちクリスチャンも注意しなければなりません。というのは、この世における歩みは、荒野の旅のように、単調で、お決まりの日々が続くからです。必ずしも、自分たちの魂を満足させるような目新しいこと、刺激的なことが起こるわけではありません。この世においては、そのようなスリルを味わいたくて、私たちを刺激させるようなものをいろいろ提供してくれるのですが、信仰生活は違うのです。クリスチャンは、毎日与えられたマナを食べるような、単調に見える歩みではありますが、主の真実を知って、喜び感謝しなければなりません。

2.  モーセの嘆きと祈り(10-15)

次に10節から15節までをご覧ください。

「10 モーセは、民がその家族ごとに、それぞれ自分の天幕の入口で泣くのを聞いた。の怒りは激しく燃え上がり、モーセも腹立たしく思った。11 モーセはに申し上げた。「なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのでしょう。なぜ、私はあなたのご厚意をいただけないのでしょう。なぜ、このすべての民の重荷を私に負わされるのでしょう。12 私がこのすべての民をはらんだのでしょうか。それとも、私が彼らを生んだのでしょうか。それなのになぜ、あなたは私に、『うばが乳飲み子を抱きかかえるように、彼らをあなたの胸に抱き、わたしが彼らの先祖たちに誓った地に連れて行け』と言われるのでしょう。13 どこから私は肉を得て、この民全体に与えなければならないのでしょうか。彼らは私に泣き叫び、『私たちに肉を与えて食べさせてくれ』と言うのです。14 私だけでは、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます。15 私にこんなしうちをなさるなら、お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を苦しみに会わせないでください。」

イスラエルの民の不平とつぶやきに対するモーセの反応は、神に訴えることでした(11~14)。神に祈ることは、指導者であるモーセが問題を前にしてできる最も重要なことでした。しかし、モーセは民の絶え間ない不平とつぶやきに忍耐の限界を感じていました。モーセはイスラエルの民に対して、「このすべての民」(11)と呼んでいます。このような言い方は、自分とイスラエルの民との間に距離を置いた言い方です。神に自分の命を取り去ってほしいと叫ぶモーセの祈り(15)は、えにしだの木の下で嘆いていたエリヤの祈り(Ⅰ列王19章)を連想させます。モーセは指導者として直面する痛みと苦しみを、神の前に正直に吐き出したのです。時に私たちも率直に神の前に祈る必要があります。神は人間の限界を十分に理解されます。ゆだねられたたましいが重荷に感じられるとき、指導者として直面する心の痛みを主に告白して祈りたいものです。

3.70人の長老(16-30)

そんなモーセの祈りに主は答えてくださいました。16節から30節までのところをご覧ください。

「16 はモーセに仰せられた。「イスラエルの長老たちのうちから、あなたがよく知っている民の長老で、そのつかさである者七十人をわたしのために集め、彼らを会見の天幕に連れて来て、そこであなたのそばに立たせよ。17 わたしは降りて行って、その所であなたと語り、あなたの上にある霊のいくらかを取って彼らの上に置こう。それで彼らも民の重荷をあなたとともに負い、あなたはただひとりで負うことがないようになろう。18 あなたは民に言わなければならない。あすのために身をきよめなさい。あなたがたは肉が食べられるのだ。あなたがたが泣いて、『ああ肉が食べたい。エジプトでは良かった』とにつぶやいて言ったからだ。が肉を下さる。あなたがたは肉が食べられるのだ。19 あなたがたが食べるのは、一日や二日や五日や十日や二十日だけではなく、20 一か月もであって、ついにはあなたがたの鼻から出て来て、吐き気を催すほどになる。それはあなたがたのうちにおられるをないがしろにして、御前に泣き、『なぜ、こうして私たちはエジプトから出て来たのだろう』と言ったからだ。」21 しかしモーセは申し上げた。「私といっしょにいる民は徒歩の男子だけで六十万です。しかもあなたは、彼らに肉を与え、一月の間食べさせる、と言われます。22 彼らのために羊の群れ、牛の群れをほふっても、彼らに十分でしょうか。彼らのために海の魚を全部集めても、彼らに十分でしょうか。」23 はモーセに答えられた。「の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる。」24 ここでモーセは出て行って、のことばを民に告げた。そして彼は民の長老たちのうちから七十人を集め、彼らを天幕の回りに立たせた。25 するとは雲の中にあって降りて来られ、モーセと語り、彼の上にある霊を取って、その七十人の長老にも与えた。その霊が彼らの上にとどまったとき、彼らは預言した。しかし、それを重ねることはなかった。26 そのとき、ふたりの者が宿営に残っていた。ひとりの名はエルダデ、もうひとりの名はメダデであった。彼らの上にも霊がとどまった。―彼らは長老として登録された者たちであったが、天幕へは出て行かなかった―彼らは宿営の中で預言した。27 それで、ひとりの若者が走って来て、モーセに知らせて言った。「エルダデとメダデが宿営の中で預言しています。」28 若いときからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアも答えて言った。「わが主、モーセよ。彼らをやめさせてください。」29 しかしモーセは彼に言った。「あなたは私のためを思ってねたみを起こしているのか。の民がみな、預言者となればよいのに。が彼あの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」30 それからモーセとイスラエルの長老たちは、宿営に戻った。」

神は重荷をひとりで背負い、苦しむモーセに解決策を与えてくださいました。それは、イスラエルの長老たちのうちから70人を取り、モーセのそばに立たせるということです。つまり、モーセの重荷を分けられたのです。これによってイスラエルに新しい形の組織ができました。イスラエルは一つの国として備えるべき行政的組織を整備していったのです。神はモーセの祈りと嘆願を通して、危機をチャンスに変えてくださったのです。神はモーセに臨んだ同じ霊を70人の長老に注がれ、神の働きを力強くするようにされました。神が指導者を立てられるとき、同時に権威と力も備えてくださるのです。神の働きは聖霊の油注ぎが伴う聖霊の働きであり、信仰の人々共に成されていくものです。他の人の助けによってさらにスムーズらできることは何かを、真剣に祈り求めていかなければなりません。

さて、イスラエルの不満に対しては、主は何と言われたでしょうか。18節から23節までのところで、主は彼らに肉を食べさせると言われました。しかもただ食べさせてくるというのではないのです。それが鼻から出てくるほど嫌気がさすほど与えられるというのです。どういうことでしょうか。こんなに与えられたからと言って喜んではなりません。なぜなら、それは神が喜ばれることではなかったからです。食べたい肉を嫌というほど食べさせるというのは、一見神の答えであるかのように見えますが、実際には神の懲らしめでした。欲望のままに祈りが答えられたからと言っても、それは神がしかたなく許されたことであるかもしれないのです。この場合はまさにそうでした。祈りは私たちの願いではなく、神の願いを求めていかなければなりません。神のみこころを自分の考えに合わせて祈るのではなく、神のみこころに合わせて祈ること、それが本当の祈りなのです。個人的な欲望によって祈ることがないかを点検しなければなりません。

するとモーセは驚いて主に申し上げました。「「私といっしょにいる民は徒歩の男子だけで六十万です。しかもあなたは、彼らに肉を与え、一月の間食べさせる、と言われます。22 彼らのために羊の群れ、牛の群れをほふっても、彼らに十分でしょうか。彼らのために海の魚を全部集めても、彼らに十分でしょうか。」(21-22)

主は 70人の長老を立てることを約束してくださいまいましたが、何と一ヶ月もの間、肉を与えなければならないとしたら、どうやってそれができるでしょう。イスラエルの民は男だけで60万人もいるのですから・・。すると主は仰せられました。「主の手は短いだろうか。」主がこのことを成し遂げてくださいます。それはモーセやこの70人の長老によるのではありません。これを聞いて、モーセは気づいたかもしれません。「ああ、70人の長老が与えられても、それは、この肉の食べ物の問題には関係のなかったことなのだ。私は、的外れなお願いをしていたのだ。」と。主は、私たちがあまりにも切羽詰っていて、しきりにお願いするので、それを惜しまず与えられることがありますが、けれども、実は神はもっと違ったことを考えておられるのです。

そこでモーセは出て行って、主のことばを民に告げました(24)。そして彼は民の長老たちのうちから七十人を集め、彼らを天幕の回りに立たせました。すると主は雲の中にあって降りて来られ、モーセと語り、彼の上にある霊を取って、その長老たちも与えました。その礼が彼らの上にとどまったしるしとして、そのとき彼らは預言をしました。しかし、この時エルダデとメダテというたちりの者が宿営に残っていたので、天幕のモーセのところには行きませんでした。そして。宿営で預言していたのです。そこで、若者やヨシュアもびっくりして、彼らの預言をやめさせなければいけない、と思ってそのことをモーセに告げたのですが、モーセの答えはこうでした。29節です。

「あなたは私のためを思ってねたみを起こしているのか。の民がみな、預言者となればよいのに。が彼あの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」

どういうことでしょうか。彼は、このふたりが、自分が行なっていることと同じことをしていなくても、それをねたまずに、そのような働きがもっともっと起こされればよいのに、と言ったのです。モーセはすべての人に主の霊が臨むことを願ったのです。神はキリストを通して、私たちに聖霊の賜物を与えてくださいました。それは神の子としての権威であると同時に、神の共同体である教会に仕えるための力を与えてくださったということを意味しています。神はその賜物を通して、私たちが御国の建設のために仕えることを願っておられるのです。私たちは霊的リーダーとして聖霊の賜物が用いられることを求めていかなければならないのです。

この個所で興味深いのは、モーセのことばです。「主の民がみな、預言者となればよいのに。主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」(29)この当時、神は、特定の選ばれた者にのみ御霊を注がれました。そこで、モーセは「すべての人」に御霊が注がれるとよいのに、と言いました。実は、預言者ヨエルが、世の終わりにそのようになると預言しました。「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。」(ヨエル2:28-29)そして、この預言は成就しました。五旬節の日に、聖霊が弟子たちに降り、それだけではなく、サマリヤ人、異邦人コルネリオの家族にも降りました。イスラエルの長老たちにくだった霊が、汚れているとされていたイスラエルの契約とは無縁であるとされていた異邦人にさえ下ったのです。そして、その礼が私たちにも注がれているのです。

4.  欲望にかられた民(31-35)

最後に31節から35節までを見て終わりたいと思います。

「31 さて、のほうから風が吹き、海の向こうからうずらを運んで来て、宿営の上に落とした。それは宿営の回りに、こちら側に約一日の道のり、あちら側にも約一日の道のり、地上に約二キュビトの高さになった。32 民はその火は、終日終夜、その翌日も一日中出て行って、うずらを集め、―最も少なく集めた者でも、十ホメルほど集めた―彼らはそれらを、宿営の回りに広く広げた。33 肉が彼らの歯の間にあってまだかみ終わらないうちに、の怒りが民に向かって燃え上がり、は非常に激しい疫病で民を打った。34 こうして、欲望にかられた民を、彼らがそこに埋めたので、その場所の名をキブロテ・ハタアワと呼んだ。35 キブロテ・ハタアワから、民はハツェロテに進み、ハツェロテにとどまった。」

エジプトを出た日、主は一晩中東風で紅海を干上がらせましたが、今回はその主の風でうずらの群れを送られました。神は奇跡的な方法でイスラエルの民の要求を満たされ、これを通して人間の理性を越えて働かれる神の無現の力を現してくださいました(11:23)。風に乗って飛んできたうずら群れは、約90cmの高さにまで積もりました。それでイスラエルはそれぞれ2.2リットル以上の大量のうずらを集めることができたのです。しかし、肉が彼らの歯の間にあってまだかみ終わらないうちに、主の怒りが彼らの燃え上がり、主は非常に激しい疫病で彼らを打ったのです。これはどういうことでしょうか。科学的には、うずらに何らかのばい菌が入っていたのかもしれません。それを少しずつ除菌しながら食べればよかったのかもしれませんが、むさぼり食ったためにばい菌が体に蔓延して死んだのかもしれません。あるいは、そうしたむさぼりに対する神のさばきだったのかもしれません。

いずれにせよ、イスラエルはむさぼりのために滅んでしまいました。それは私たちにも言えます。肉の欲望は人を滅びに至らせるのです。私たちは欲望に駆り立てられているときに、そのことに気づきません。けれども、自分のからだ、いのちさえをも惜しんで、欲望を満たしたいと思うようになりそこで、病気になったり、交通事故にあったり、金がなくなったので盗みを働いたり、離婚をしなければいけなくなったり、さまざまな悲惨な結果を招くことになるのです。だからパウロはこのむさぼりを殺しなさい(コロサイ3:5)と言っているのです。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです、と。私たちはむさぼり殺し、神が与えてくださったものに満足し、感謝をもって日々歩んでいきましょう。

民数記10章

きょうは、民数記10章をご一緒に学びたいと思います。約束の地に向かって進むイスラエルのために、そのために必要なことを主はシナイの荒野で語っています。今回の箇所でイスラエルは実際に旅立ちます。

1.銀のラッパ(1-11)

まず1節から11節までをご覧ください。

「1 ついではモーセに告げて仰せられた。2 「銀のラッパを二本作らせよ。それを打ち物作りとし、あなたはそれで会衆を招集し、また宿営を出発させなければならない。3 この二つが長く吹き鳴らされると、全会衆が会見の天幕の入口の、あなたのところに集まる。4 もしその一つが吹き鳴らされると、イスラエルの分団のかしらである族長たちがあなたのところに集まる。5 また、あなたがたがそれを短く吹き鳴らすと、東側に宿っている宿営が出発する。6 あなたがたが二度目に短く吹き鳴らすと、南側に宿っている宿営が出発する。彼らが出発するには、短く吹き鳴らさなければならない。7 集会を召集するときには、長く吹き鳴らさなければならない。短く吹き鳴らしてはならない。8 祭司であるアロンの子らがラッパを吹かなければならない。これはあなたがたにとって、代々にわたる永遠の定めである。9 また、あなたがたの国で、あなたがたを襲う侵略者との戦いに出る場合は、ラッパを短く吹き鳴らす。あなたがたが、あなたがたの神、の前に覚えられ、あなたがたの敵から救われるためである。10 また、あなたがたの喜びの日、あなたがたの例祭と新月の日に、あなたがたの全焼のいけにえと、和解のいけにえの上に、ラッパを鳴り渡らせるなら、あなたがたは、あなたがたの神の前に覚えられる。わたしはあなたがたの神、である。」

1節と2節には、「ついではモーセに告げて仰せられた。 「銀のラッパを二本作らせよ。それを打ち物作りとし、あなたはそれで会衆を招集し、また宿営を出発させなければならない。」とあります。主はモーセに、会衆を招集したり、また宿営させるために、銀のラッパを二本作らせるようにと命じました。3節、この二本のラッパが長く吹き鳴らすと、全会衆が会見の入り口にいたモーセのところに集まりました。4節、もし一本のラッパだけなら、分団のかしらである族長たちだけが集まりました。5節、それを短く1回だけ吹き鳴らすと、東側に宿っていた宿営が出発します。6節、二度目に短く鳴らすと、南側の宿営が出発します。このように分団を招集するときには長く、出発するときには短くラッパを吹き鳴らしました。また9節を見てください。イスラエルの民は、絶えず敵からの襲撃の脅威にさらされていましたが、その時には、ラッパを短く吹き鳴らしました。彼らが彼らの神、主に覚えられ、敵から救われるためです。このように敵と戦い、敵に勝利してくださるのも主ご自身でした。敵と戦うとき、主に覚えらるために、ラッパを吹き鳴らしたのです。また10節には、彼らの喜びの日、すなわち、例祭と新月の日に、全焼のいけにえと、和解のいけにえの上に、ラッパを鳴り渡らせるなら、彼らの神の前に覚えられる、とあります。ですから、ラッパの音というのは、まさに神の音であったのです。

私たちが、この地上にいて聞くラッパの音があります。それは、主イエス・キリストが私たちのために再び戻ってきてくるときです。「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」 (Ⅰコリント15:52)。イスラエルの民の族長たちが、ラッパの音を聞いてモーセのところに集まってきたように、私たち教会も、終わりのラッパの音とともに一挙に引き上げられるのです。

それだけではありません。イエスさまがこの地上に戻られるとき、今度はイスラエルの民自身が、イスラエルの土地に集まってきます。イエスさまが言われました。「人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」(マタイ24:31)ラッパは私たちを集め、一つにしてくださる神のみわざなのです。また、イスラエルが戦いに出たときに、ラッパが吹き鳴らされたように、神が地上にさばきを下さるときにラッパが吹き鳴らされることがわかります。黙示録に出てくる七つのラッパの災害です。したがって、イスラエルの民がラッパによって集められたり、旅立ったり、戦ったり、祭りを行ったりしたというのは、私たちが神のラッパの合図によって行動するように、それをいつも待ち望まなければいけないことを表しているのです。

2.出発順序(11-28)

次に11節から28節までをご覧ください。いよいよイスラエルが約束の地に向かって旅立ちますが、ここにはその出発の順序が記されてあります。

「11 第二年目の第二月の二十日に、雲があかしの幕屋の上から離れて上った。12 それでイスラエル人はシナイの荒野を出て旅立ったが、雲はパランの荒野でとどまった。13 彼らは、モーセを通して示されたの命令によって初めて旅立ち、14 まず初めにユダ族の宿営の旗が、その軍団ごとに出発した。軍団長はアミナダブの子ナフション。15 イッサカル部族の軍団長はツアルの子ネタヌエル。16 ゼブルン部族の軍団長はへロンの子エリアブ。17 幕屋が取りはずされ、幕屋を運ぶゲルション族、メラリ族が出発。18 ルベンの宿営の旗が、その軍団ごとに出発。軍団長はシェデウルの子エリツル。19 シメオン部族の軍団長はツリシャダイの子シェルミエル。20 ガド部族の軍団長はデウエルの子エルヤサフ。21 聖なる物を運ぶケハテ人が出発。彼らが着くまでに、幕屋は建て終えられる。22 また、エフライム族の宿営の旗が、その軍団ごとに出発。軍団長はアミフデの子エリシャマ。23 マナセ部族の軍団長はペダツルの子ガムリエル。24 ベニヤミン部族の軍団長はギデオニの子アビダンであった。25 ダン部族の宿営の旗が、全宿営の後衛としてその軍団ごとに出発。軍団長はアミシャダイの子アヒエゼル。26 アシェル部族の軍団長はオクランの子パグイエル。27 ナフタリ部族の軍団長はエナンの子アヒラ。28 以上がイスラエル人の軍団ごとの出発順序であって、彼らはそのように出発した。」

イスラエルが出発したのは、第二年目の第二月の二十日のことでした。それは、神がイスラエルの民を登録するようにと命じてから二十日後のことでした(民数記1:1)。雲があかしの幕屋の上から離れていきました。それでイスラエル人はシナイの荒野を出て旅立ちましたが、雲はパランの荒野でとどまりました。そして、どのように出発したかが描かれています。

まず初めにユダ族の宿営の旗が、その軍団ごとに出発しました(14)。ユダの宿営にはユダ部族以外にイッサカル部族とゼブルン部族がいましたので、彼らがまず出発しました。

次は17節にあるように、レビ人が幕屋を取り外して、彼らの後に続いて出発します。彼らは、イスラエルの軍団と軍団の間に挟まれるようにして進みました。その次はルベンの宿営が出発しました。すなわち、南側に宿営していた部族です。ここにはルペン族以外にシメオン部族とガド部族がいました。次に、聖なる物を運ぶケハテ人が出発しました。レビ族です。彼らが着くまでに、幕屋は建て終えられていなければなりませんでした。なぜケハテ族はゲルション族とメラリ族の後に続かなかったのかと言うと、彼らが着くまでに、幕屋が建て終えられていなければならなかったからです。そこまで計算されていたのです。すごいですね。実に整然としています。次に進んだのは、エフライム族の宿営です。これは西側にいた部族でした。ここにはエフライム部族の他にマナセ部族、ベニヤミン部族がいました。最後に出発したのはダン部族の宿営、すなわち、北側に宿営していた部族です。ここにはダン部族の他にアシェル部族、ナフタリ部族がいました。彼らは全宿営の後衛に回りました。

以上がイスラエル人の軍団ごとの出発順序でした。これを上空から眺めると、東から動いて、次にあかしの幕屋が動き、そして南、西、北と円を描くようにして出発していたことがわかります。実に整然としています。それはどういうことかというと、神の民の共同体には、このような秩序と順序があるということです。どうでもよかったのではないのです。神は混乱の神ではなく、平和の神だからです(Ⅰコリント14:33)。それは私たちが集まるところにおいても同じです。神の教会にも平和と秩序があります。それを乱すことは神のみこころではありません。「ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行いな」(Ⅰコリント14:40)わなければならないのです。私たちは、どのように神が権威を人々に与えておられるのかを、見極めることが大切なのです。

3.主の契約の箱が出発するとき(29-36)

最後に29節から36節までを見て終わります。まず29節から32節までをご覧ください。

「29 さて、モーセは、彼のしゅうとミデヤン人レウエルの子ホバブに言った。「私たちは、があなたがたに与えると言われた場所へ出発するところです。私たちといっしょに行きましょう。私たちはあなたをしあわせにします。がイスラエルにしあわせを約束しておられるからです。」30 彼はモーセに答えた。「私は行きません。私の生まれ故郷に帰ります。」31 そこでモーセは言った。「どうか私たちを見捨てないでください。あなたは、私たちが荒野のどこで宿営したらよいかご存じであり、私たちにとって目なのですから。32 私たちといっしょに行ってくだされば、が私たちに下さるしあわせを、あなたにもおわかちしたいのです。」

彼のしゅうとミデヤン人レウエルの子ホハブとは、モーセのしゅうとレウエル、別名イテロの息子レウエルのことです。ここでモーセはレウエルに、自分たちの道案内人になってくれと頼んでいるのです。荒野を歩くことは死を意味するということをテレビで観たことがありますが、何の目印もない広大な荒野を旅することは方向感覚を失うことでもあり、それは一般的には不可能なことでした。ですからモーセはずっとミデヤンの荒野に住んでいた彼らなら、どこをどのように進んで行ったらいいのかをよく知っていましたから、自分たちの目になってほしいと頼んだのです。

しかし、私たちはこれまで民数記を学んでくる中で、主が荒野を旅するイスラエルをどのように整え、備えてきたかを見てきました。まず二十歳以上の男子が登録され、敵の攻撃に備えました。また、イスラエルの各部族は天幕の回りに宿営し上空から見れば十字架の形になって進んでいきました。また、外敵の攻撃ばかりでなく、内側も聖めました。なぜなら、そこには神が住まわれるからです。神が共におられるなら、どんな攻撃があっても大丈夫です。ですから彼らは内側を聖め、ささげ物をささげ、過越の祭りを行ないました。そして、彼らが迷うことがないように、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって導いてくださったのです。これほど確かな備えと導きが与えられていたにもかかわらず、いくらその地域を熟知しているからといっても、イテろの息子に道案内を頼むというのは不思議な話です。いったいモーセはなぜこのようなことをしたのでしょうか。

それはモーセが彼らの道案内を頼ったというよりも、これまで長らくお世話になったしゅうとのイテロとその家族に対する恩返しのためであり、彼らを幸せにしたいというモーセの願いがあったからでしょう。事実、約束の地に入った彼の子孫は、イスラエル人の中に住みました(士師1:16,4:11)。なぜそのように言えるのかというと、33節から終わりまでのところに、実際にイスラエルの荒野旅を導いたのはミデヤン人ホバブではなく、主ご自身であったことがわかるからです。ここにはこうあります。

「33 こうして、彼らはの山を出て、三日の道のりを進んだ。の契約の箱は三日の道のりの間、彼らの先頭に立って進み、彼らの休息の場所を捜した。34 彼らが宿営を出て進むとき、昼間はの雲が彼らの上にあった。35 契約の箱が出発するときには、モーセはこう言っていた。「よ。立ち上がってください。あなたの敵は散らされ、あなたを憎む者は、御前から逃げ去りますように。」36 またそれがとどまるときに、彼は言っていた。「よ。お帰りください。イスラエルの幾千万の民のもとに。」

旅の中では後ろのほうにあるはずの契約の箱が、ここでは先頭に立って進んでいることがわかります。すなわち、本当の道案内人は、ホバブではなく主ご自身であったのです。主が彼らの先頭に立って進み、彼らの休息の場所をもたらしたのです。

そして、その契約の箱が出発するときには、モーセはいつもこのように祈りました。「よ。立ち上がってください。あなたの敵は散らされ、あなたを憎む者は、御前から逃げ去りますように。」また、それがとどまるときには、「主よ。お帰りください。イスラエルの幾千万の民のもとに。」と祈りました。つまり、真にイスラエルの荒野の旅を導いていたのは、主ご自身であったということです。モーセは出発するときには、その主が立ち上がり、敵が逃げ去って行きますように、宿営するときには、主がとどまってくださるように祈ったのです。

この二つの祈りは単純な祈りですが、私たちにとっても大切な祈りです。私たちが、この世において歩むときにも、霊の戦いがあります(エペソ6章)。その戦いにおいて勝利することができるように、主が立ち上がり、敵と戦ってくださるように、そして、敵の手から、私たちを救い出してください、と祈らなければなりません。また、この世において歩んでいるところから立ち止って、礼拝をささげるとき、「主よ、お帰りください。私たちとともにいてください。」と祈ることが必要です。というのは、私たちの信仰の歩みにおいて最も重要なことは、この主が共にいてくださるかどうかであるからです。私たちの信仰の旅立ち、その行程において、主が共におられ、敵から救ってくださり、敵に勝利することができるように祈り求める者となりますように。

民数記9章

 きょうはレビ記9章から学びます。まず1~5節までをご覧ください。

「1 エジプトの国を出て第二年目の第一月に、はシナイの荒野でモーセに告げて仰せられた。2 「イスラエル人は、定められた時に、過越のいけにえをささげよ。3 あなたがたはこの月の十四日の夕暮れ、その定められた時にそれらをささげなければならない。そのすべてのおきてとすべての定めに従って、それをしなければならない。」4 そこでモーセはイスラエル人に、過越のいけにえをささげるように命じたので、5 彼らはシナイの荒野で第一月の十四日の夕暮れに過越のいけにえをささげた。イスラエル人はすべてがモーセに命じられらとおりに行った。」

1.過ぎ越しのいけにえをささげよ(1-5)

1節を見ると、時は、再び、第二年目の第一月にさかのぼっています。出エジプト記40章17節に戻っています。モーセが幕屋の建設を完成したのはエジプトを出て第二年目の第一の月でした。その月の第一日に幕屋は完成したのです。それから、主はモーセを呼び寄せ、会見の天幕から彼に告げて仰せられました。それがレビ記の内容です。ですから、この箇所の内容はその時まで遡っていることがわかります。

さて、その時主は(モーセに何を告げられたのでしょうか。イスラエル人に、定められた時に、過ぎ越しのいけにえをささげるようにと言われました。その月の十四日の夕暮れに、その定められた時に、それをするようにと言われたのです。過ぎ越しのいけにえとは、イスラエルがエジプトを出るときにささげたいけにえです。出エジプト記12章3~13節までにそのことが記されてあります。

「3 イスラエルの全会衆に告げて言え。この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。4 もし家族が羊一頭の分より少ないなら、その人はその家のすぐ隣の人と、人数に応じて一頭を取り、めいめいが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない。5 あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。6 あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、7 その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。8 その夜、その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。9 それを、生のままで、または、水で煮て食べてはならない。その頭も足も内臓も火で焼かなければならない。10 それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは、火で焼かなければならない。11 あなたがたは、このようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を引き締め、足に、くつをはき、手に杖を持ち、急いで食べなさい。これはへの過越のいけにえである。12 その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしはである。13 あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。」

ここには、この月の十日、すなわち、第一年の第一の月の十日のことです。おのおのその父祖の家ごとに羊一頭を用意し、それを十四日の夕暮れにほふり、その血を取って家々の門柱と、かもいにつけなければなりませんでした。そして、その夜にその肉を食べました。種を入れないパンと苦菜を添えて。腰には帯を締め、足にくつをはき、手には杖を持っていました。すぐに旅立てるように支度を整えて食事をしたのです。そして、その夜神はエジプトの地を行き巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、初子という初子はすべて打ちました。ただ門柱とかもいに羊の地が塗ってある家だけは、そのさばきを通り越したのです。そこには神の滅びのわざわいがもたらされることはありませんでした。

その一年後に、イスラエルがシナイの荒野で旅を始めるにあたり、主は同じように過越のいけにえをささげるようにと命じられたのです。いったいこれはどうしてでしょうか。それはイスラエルの民にとって過ぎ越しの小羊の血はエジプトから救い出されたときだけではなく、荒野の旅をするときにも必要だったということです。その旅は、エジプトでの救いと切り離されたものではなく、むしろ、贖いによって彼らは荒野の過酷な生活を耐え忍び、前に向かって進み出すことができます。荒野にひそむ危険やわなも、過越にある主の贖いによって避けることができるのです。

それは私たちクリスチャンも同じです。この過ぎ越しの小羊の血とはイエス・キリストの十字架の血潮を表していますが、それは私たちがイエスさまを信じて救われた時だけでなく、その後の信仰の歩みにおいても、常に必要なもののです。そうでなければ、荒野の旅を全うすることはできません。天の都に向かう私たちの信仰の旅においては、常にキリストの血潮に立ち返る必要があるのです。信仰をもってからどのような局面にいようとも、絶えず過去にキリストが成し遂げてくださった十字架のみわざを仰ぎ見ていくものでなければいけません。ですから、イエスさまは、聖餐式を行うようにと命じられたのです。聖餐のパンを裂き、ぶどう酒を飲むことによって、わたしのからだと血を思い出しなさいと言われたのです。それは、私たちが常に初めの愛に立ち返らなければならないからです。初めの愛に立ち返って、十字架の愛を思い出さなければならないのです。

2.もし死体によって身を汚したら(6-14)

次に6~14節までをご覧ください。

「6 しかし、人の死体によって身を汚し、その日に過越のいけにえをささげることができなかった人々がいた。彼らはその日、モーセとアロンの前に近づいた。7 その人々は彼に言った。「私たちは、人の死体によって身を汚しておりますが、なぜ定められた時にイスラエル人の中で、へのささげ物をささげることを禁じられているのでしょうか。」8 するとモーセは彼らに言った。「待っていなさい。私はがあなたがたについてどのように命じられるかを聞こう。」9 はモーセに告げて仰せられた。10 「イスラエル人に告げて言え。あなたがたの、またはあなたがたの子孫のうちでだれかが、もし死体によって身を汚しているか、遠い旅路にあるなら、その人はに過越のいけにえをささげなければならない。11 第二月の十四日の夕暮れに、それをささげなければならない。種を入れないパンと苦菜をいっしょにそれを食べなければならない。12 そのうちの少しでも朝まで残してはならない。またその骨を一本でも折ってはならない。すべて過越のいけにえのおきてに従ってそれをささげなければならない。13 身がきよく、また旅にも出ていない者が、過越のいけにえをささげることをやめたなら、その者はその民から断ち切られなければならない。その者は定められた時に、へのささげ物をささげなかったのであるから、自分の罪を負わなければならない。14 もし、あなたがたのところに異国人が在留していて、に過越のいけにえのおきてと、その定めに従ってささげなければならない。在留異国人にも、この国に生まれた者にも、あなたがたには、おきては一つである。」

しかし、もし人が死体によって身を汚し、その日に過ぎ越しのいけにえをささげることができなかったらどうしたらいいのでしょうか。死体によって身を汚していた人はどうしてその日にいけにえをささげることができなかたのかというと、宿営の外に追い出されていたからです。覚えていらっしゃいますか、5章2節のところで、ツァラアトの者、漏出を病む者、死体によって身を汚している者は、すべて宿営の外に追い出せとありました。ですから、そのような人は過ぎ越しのいけにえをささげることができなかったのです。そのような人たちはどうしたらいいのかということです。

するとモーセは彼らに言いました。8節です。「待っていなさい。私はがあなたがたについてどのように命じられるかを聞こう。」このことについてモーセは考えたこともなくわからなかったので、彼は主に伺いを立てました。ここにモーセの謙遜さが見られますね。「モーセと言う人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。」(民数記12:3)とありますが、彼は本当に謙遜な人でした。わからないことはわからないと正直に認めた上で、答えを知っておられる方に伺いをたてたのです。これが本当に謙遜な人の姿です。

ではその問いに対する神の答えはどういうものだったでしょうか。10~14節をご覧ください。それは一ヶ月遅れの、第二の月に過越の祭りを守るようにというものでした。なぜなら、それはとても重要なことだったからです。過ぎ越しのいけにえをやめるようなことがあったら、その者は民から断ち切られなければなりませんでした。過ぎ越しのいけにえのおきては、少しでもはぶいてはいけませんでした。すべて過ぎ越しのいけにえのおきてに従って捧げなければなりませんでした。

実際に一か月遅れで過ぎ越しのいけにえをささげたという例があります。Ⅱ歴代誌30章1~5節です。この時ユダの王ヒゼキヤはアッシリヤの攻撃に対して、まず宗教改革を行うのです。主に過ぎ越しののいけにえをささげることから始めました。それは第二の月の十四日のことです。なぜなら、身を聖別した祭司たちの数が十分ではなかったからです。そこで、イスラエルとユダの全会衆に呼び掛けてエルサレムに集まり、過ぎ越しのいけにえをささげるようにと手紙を書き送ったのです。その結果はご存知のとおりです。アッシリヤの王セナケリブがエルサレムを包囲するのですが、主は、アッシリヤの王の手からイスラエルを救い出されました。主はひとりの御使いを遣わし、アッシリヤの陣営にいたすべての勇士、隊長、主張を全滅されたのです(Ⅱ歴代誌32:21)。まさに十字架の血潮による勝利です。たとえそれが一か月遅れであっても、それははぶくことができない重要なことであり、それが神の命令に従ってささげられるとき、そこに偉大な神の力と勝利がもたらされるのです。それは最初の過ぎ越しの祭りに優とも劣らない神の祝福なのです。

このことから教えられることは、この過ぎ越しの祭りは聖餐式に相当するということを申し上げましたが、聖餐式では自分を吟味することが求められています(Ⅰコリント11:28)。それが偶発的かどうかとかかわりなく、死体に触れたままで、汚れたままで聖餐にあずかることは避けなければなりません。この場合の死体とは罪、汚れのことです。自分の中に罪、汚れがあるなら、聖餐をひかえるべきです。けれども、たとえその時に聖餐にあずかることができなくても、次の機会にはあずかることができるのです。その罪を悔い改めて、イエスの十字架の血によって聖めていただくことによってです。いや、その1分前でも、自分をよく吟味し、そこに汚れがあるなら、それを悔い改めて聖めていただくことによって、私たちはこの十字架の贖いにあずかることができるのです。

つまり、私たちは何度でもやり直しをすることができる、ということです。イスラエルの民が死体にさわって自分の身を汚したように、私たちも自分の身を汚すことがあります。それゆえ、主の集会の中にある恵みにあずかることができないことがあります。自分は失敗した。もうだめだ。教会に行っても、おとなしくしておこう。または、そんなにイエスさまに対して熱心になる必要はない。私はだめだ、と意気消沈することがありますが、神は完全なやり直しを与えてくださっているのです。私たちは神に立ち返って、新たにキリストの基準に従った生活をやり直すことができるのです。いや、やり直さないといけないのです。自分で勝手に、その基準を落として、キリストから少し距離を離しながら生きるのではなく、主が与えられた二回目のチャンスを精いっぱい生きることが求められているのです。

3.雲の柱火の柱(15-23)

次に15~23節までをご覧ください。

「9 はモーセに告げて仰せられた。10 「イスラエル人に告げて言え。あなたがたの、またはあなたがたの子孫のうちでだれかが、もし死体によって身を汚しているか、遠い旅路にあるなら、その人はに過越のいけにえをささげなければならない。11 第二月の十四日の夕暮れに、それをささげなければならない。種を入れないパンと苦菜をいっしょにそれを食べなければならない。12 そのうちの少しでも朝まで残してはならない。またその骨を一本でも折ってはならない。すべて過越のいけにえのおきてに従ってそれをささげなければならない。13 身がきよく、また旅にも出ていない者が、過越のいけにえをささげることをやめたなら、その者はその民から断ち切られなければならない。その者は定められた時に、へのささげ物をささげなかったのであるから、自分の罪を負わなければならない。14 もし、あなたがたのところに異国人が在留していて、に過越のいけにえのおきてと、その定めに従ってささげなければならない。在留異国人にも、この国に生まれた者にも、あなたがたには、おきては一つである。」15 幕屋を建てた日、雲があかしの天幕である幕屋をおおった。それは夕方には幕屋の上にあって火のようなものになり、朝まであった。16 いつもこのようであって、昼は雲がそれをおおい、夜は火のように見えた。17 雲が天幕を離れて上ると、すぐそのあとで、イスラエル人はいつも旅立った。そして、雲がとどまるその場所で、イスラエル人は宿営していた。18 の命令によって、イスラエル人は旅立ち、の命令によって宿営した。雲が幕屋の上にとどまっている間、彼らは宿営していた。19 長い間、雲が幕屋の上にとどまるときには、イスラエル人はの戒めを守って、旅立たなかった。20 また雲がわずかの間しか幕屋の上にとどまらないことがあっても、彼らはの命令によって宿営し、の命令によって旅立った。
21 雲が夕方から朝までとどまるようなときがあっても、朝になって雲が上れば、彼らはただちに旅立った。昼でも、夜でも、雲が上れば、彼らはいつも旅立った。22 二日でも、一月でも、あるいは一年でも、雲が幕屋の上にとどまって去らなければ、イスラエル人は宿営して旅立たなかった。ただ雲が上ったときだけ旅立った。23 彼らはの命令によって宿営し、の命令によって旅立った。彼らはモーセを通して示されたの命令によって、の戒めを守った。」

次に、イスラエルの民が旅立つときに、導き手となる雲の柱、火の柱について書いてあります。モーセが幕屋を建てた日から雲が幕屋をおおいました。夕方には幕屋の上に火の柱があって、それが朝までありました。いつもこのようであって、昼は雲がそれをおおい、夜は火のように見えた。雲が天幕を離れて上ると、すぐそのあとで、イスラエル人はいつも旅立ち、そして、雲がとどまるその場所で、イスラエル人は宿営していました。 雲が夕方から朝までとどまるようなときがあっても、朝になって雲が上れば、彼らはただちに旅立ちました。昼でも、夜でも、雲が上れば、彼らはいつも旅立ったのです。彼らとしては、突然雲が上がっても、まだ出発したくないという時もあったでしょうが、それでも、昼でも、夜でも、雲が上がれば、いつでも旅立ったのです。また、一日でも、二日でも、一月でも、あるいは一年でも、雲が幕屋の上にとどまって去らなければ、イスラエル人は宿営して旅立ちませんでした。ただ雲が上ったときだけ旅立ったのです。長い期間、宿営していたら退屈になってしまうかもしれませんが、それでも彼らは雲がとどまっている限り、宿営をつづけました。

これはどういうことでしょうか。それは、イスラエルが主の命令によって旅立ち、また主の命令によってとどまったように、私たちも主の導きに従って進まなければならないということです。私たちの生活は彼らの生活よりもずいぶん便利になりました。いつでも行きたい所に行き、泊まりたい所に泊まることができます。やりたいことをし、やりたくないことはしない、何でも自由にできます。けれども、そのような自由が必ずしも良いとは限りません。何の問題もないようでも、実はそこに大きな落とし穴があるのです。

ヤコブはこう言っています。「聞きなさい。『きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。』と言う人たち。あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。『主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。』(ヤコブ4:13-15)」

主のみこころなら、です。私たちのいのちは完全に、主によりかかっています。ですから、主のみこころのみを求めて、主のみこころが成し遂げられることを願い求めて、生きていかなければいけません。人生の行程に、突然の変化があるかもしれません。しかし、柔軟になるべきです。主がなされることを眺めていき、そしてその導きにしたがうべきです。

イスラエルに与えられていたのは雲の柱でした。それは神がそこにおられ、彼らを導いておられることを表していました。同じように、神は私たちに聖霊を与えて、私たちの歩みを導いておられます。中には、「イスラエルはいいなぁ、はっきりとした形で導かれて・・・。雲のように目に見えるものがあったらどんなにいいだろう。迷うことなく、思い煩うこともなく、安心して進んでいけたに違いない。」確かに彼らには目に見える形での道しるべが与えられていました。しかし、だからといってそれでよかったのかというとそうでもないのです。というのは、彼らはそのような確かな道しるべが与えられていたにもかかわらず、不平や不満を言って神の怒りを買っていたからです。彼らは目に見えるものがあっても文句を言っていたのです。大切なのは、それは目に見えるか見えないかというとこではなく、見えても見えなくても、従順に従うことです。

でも神様は私たちに新しい道しるべを与えてくださいました。それは目には見えませんが、私たちの中に住み、私たちを導いてくださる神の聖霊です。神は今、聖霊によって私たちを導いておられるのです。確かにそれは目には見えませんが、私たちの歩みを確かにしてくださる方です。なぜなら、それは私たちの内に住んでくださるからです。そのうちなる聖霊の声によって歩めるというのは何と幸いなことでしょうか。大切なのは、神がどのように導いておられるかを知るということともに、その導いてくださる神の御声に聴き従うことです。私たちに与えられたこの信仰の歩みを、神の聖霊の導きに従って歩んでいくものでありたいと思います。

民数記8章

民数記8章を学びます。まず1節から4節までをご覧ください。

1.燭台のともしび(1-4)

「1 はモーセに告げて仰せられた。2 「アロンに告げて言え。あなたがともしび皿を上げるときは、七つのともしび皿が燭台の前を照らすようにしなさい。」3 アロンはそのようにした。がモーセに命じられたとおりに、前に向けて燭台のともしび皿を、取りつけた。4 燭台の作り方は次のとおりであった。それは金の打ち物で、その台座から花弁に至るまで打ち物であった。がモーセに示された型のとおりに、この燭台は作られていた。」

主はモーセに、アロンに告げて言うようにと命じられました。七つのともしび皿が燭台の前を照らすように・・と。それでアロンは、主がモーセに命じられたとおりに、前に向けて燭台のともしび皿を、取りつけました。至聖所には神の臨在の栄光の輝きがありますが、聖所は真っ暗でした。この燭台のともし火によって中が明るくなります。主はこのようにして聖所の中に光があることを望まれました。それにしても、いったいなぜ急に燭台のともしびの話が出てくるのでしょうか。少し不思議な感じがします。しかし、その後の箇所を読むと、その意味が明らかになります。

2.レビ人のきよめ(5-13)

それでは次に5節から26節までを見ていきましょう。

「5 ついではモーセに告げて仰せられた。6 「レビ人をイスラエル人の中から取って、彼らをきよめよ。7 あなたは次のようにして彼らをきよめなければならない。罪のきよめの水を彼らに振りかける。彼らは全身にかみそりを当て、その衣服を洗い、身をきよめ、8 若い雄牛と油を混ぜた小麦粉の穀物のささげ物を取る。あなたも別の若い雄牛を罪のためのいけにえとして取らなければならない。9 あなたはレビ人を会見の天幕の前に近づかせ、イスラエル人の全会衆を集め、10 レビ人をの前に進ませる。イスラエル人はその手をレビ人の上に置く。11 アロンはレビ人を、イスラエル人からの奉献物としての前にささげる。これは彼らがの奉仕をするためである。12 レビ人は、その手を雄牛の頭の上に置き、レビ人の罪を贖うために、一頭の罪のためのいけにえとし、一頭を全焼のいけにえとしてにささげなければならない。13 あなたはレビ人をアロンとその子らの前に立たせ、彼らを奉献物としてにささげる。」

主は、レビ人を幕屋の奉仕を行なうためにささげるように、命じられます。聖所における奉仕は、アロンとその子孫が祭司として任命を受け、祭司たちが行ないます。また祭壇における奉仕も祭司が行ないます。しかしながら、彼らだけでは人数が足りなくてすべての務めを執り行なうことができません。そこで、主は、幕屋の中で奉仕するために、レビ人を取るように命じられています。

レビ人は、まず水によるきよめを受けなければいけません。どのようにきよめるのかが7節以降に記されてあります。まず罪のきよめの水をモーセがレビ人に振りかけます。そして、レビ人は全身の毛をそって、衣服を洗います。レビ人の奉献式は水の洗いから始まるのです。このことは、クリスチャンがどのようにきよめられるのかを教えています。クリスチャンは、イスラエル人のようにささげ物をするだけではなく、レビ人のように自分自身をささげる者ですが(ローマ12:1)、そのときに必要なのが、きよめるということです。クリスチャンはどうやってきよめられるのでしょうか?Ⅰヨハネ1章9節には、「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」とあります。私たちをきよめるのは御子イエスの血です。そして、そのようにイエスの血によってきよめられた者は、イエスの御姿に変えられていくために、神のみことばによってきよめられるのです。しかし、ここで注意しなければならないのは、多くのクリスチャンが自分をきよめるということを、自分の内側を見つめて、自分の肉と罪深さを探っていくことであると考え、自分は汚れた者で、主のわざを行なっていく資格はない、奉仕するような資格はない、と思ってしまうのですが、それは誤ったきよめです。主のきよめはそのようにして行われるのではなく、ただキリストの血と聖霊の恵みによって成されていくものなのです。

それが燭台の表していたことだったのです。ここで1節から4節までのところに記されてあった燭台のともしびが生きてきます。このレビ人のきよめの儀式の前に、燭台のともしびを整えるようにとの命令がありました。いったいなぜそんなことが必要なのでしょうか。あまりにも唐突な感じがしないわけでもありません。しかし、実はそれはこのレビ人のきよめの土台、前提であったということです。つまり、燭台のともしびこそ、イエス・キリストと聖霊を表すものだったのです。ヨハネ8章12節には、「イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」とあります。またゼカリヤ書4章をみると、ともしび皿の油は主の御霊である聖霊のことを指していることがわかります。御霊がキリストの栄光を照らし出し、私たち(教会)の心を明るくされるのです。この燭台の光があるからこその、水の洗いがあるのです。この順番が大切です。私たちが自分をきよめるということは、自分の考えで自分自身の内側を見つめるということではなく、聖霊によってキリストの光を照らしていただくことなのです。それによって私たちはきよめられるのです。ゼカリヤ書に「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と書かれてあるとおりです。私たちの働きは、教会の働きは、私たちの能力や力によって行われるのではなく、ただ神の力によって成されていくものなのです。燭台であられるキリストと、油であられるご聖霊の働きことが、レビ人のきよめに必要なものであり、その前提、土台にあるものなのです。

「あなたはレビ人を会見の天幕の前に近づかせ、イスラエル人の全会衆を集め、レビ人を主の前に進ませる。イスラエル人はその手をレビ人の上に置く。アロンはレビ人を、イスラエル人からの奉献物として主の前にささげる。これは彼らが主の奉仕をするためである。」(9-11)

モーセがレビ人を会見の天幕の前に近づかせると、イスラエルの全会衆を集め、レビ人の上にイスラエル人が手を置きます。これはどういうことかというと、レビ人がイスラエル全会衆を代表であったということです。イスラエルの代表として、その働きをゆだねられていたということです。それはレビ人だけのことではなく、イスラエル人のすべてもいっしょに奉仕をしていることを意味していました。つまり、イスラエル人は今、レビ人を自分たちのものとして、主の前にささげているのです。レビ人は、その手を雄牛の頭の上に置き、レビ人の罪を贖うために、一頭を罪のためのいけにえとし、一頭を全焼のいけにえとして主にささげます。このようにしてレビ人を奉献物として主にささげたのです。

3.レビ人の奉仕(14-22)

「14 あなたがレビ人をイスラエル人のうちから分けるなら、レビ人はわたしのものとなる。15 こうして後、レビ人は会見の天幕の奉仕をすることができる。あなたは彼らをきよめ、彼らを奉献物としてささげなければならない。16 彼らはイスラエル人のうちから正式にわたしのものとなったからである。すべてのイスラエル人のうちで、最初に生まれた初子の代わりに、わたしは彼らをわたしのものとして取ったのである。17 イスラエル人のうちでは、人でも家畜でも、すべての初子はわたしのものだからである。エジプトの地で、わたしがすべての初子を打ち殺した日に、わたしは彼らを聖別してわたしのものとした。18 わたしはイスラエル人のうちのすべての初子の代わりにレビ人を取った。19 わたしはイスラエル人のうちからレビ人をアロンとその子らに正式にあてがい、会見の天幕でイスラエル人の奉仕をし、イスラエル人のために贖いをするようにした。それは、イスラエル人が聖所に近づいて、彼らにわざわいが及ぶことのないためである。20 モーセとアロンとイスラエル人の全会衆は、すべてがレビ人についてモーセに命じられたところに従って、レビ人に対して行った。イスラエル人はそのとおりに彼らに行った。21 レビ人は罪の身をきよめ、その衣服を洗った。そうしてアロンは彼らを奉献物としての前にささげた。22 こうして後、レビ人は会見の天幕に入って、アロンとその子らの前で自分たちの奉仕をした。人々はがレビ人についてモーセに命じられたとおりに、レビ人に行った。」

このようにしてレビ人は主の奉仕に就くことができました。彼らはイスラエル人のうちから正式に主のものとなったからです。すべてのイスラエル人のうちで、最初に生まれた初子の代わりに、主は彼らをご自身のものとして取られました。イスラエル人のうちでは、人でも家畜でも、すべての初子は主のものです。エジプトの地で、主がすべての初子を打ち殺した日に、主は彼らを聖別してご自身のものとされました。主はそのイスラエル人のうちのすべての初子の代わりにレビ人を取ったのです。

それで主はイスラエル人のうちからレビ人をアロンとその子らに正式にあてがい、会見の天幕で奉仕ができるようになりました。ですから主の奉仕をするときに必要なことは、「私は主のものである。」という確信です。主が私をここにおいてくださり、主が私のことを握っておられるという確信なのです。私たちが奉仕をしていると、主が自分のことを気にしておられるのか、遠くから見ておられるだけではないのか、という気持ちになることがありますが、主はともにいてくださいます。そして、私は主のものとされているのです。この確信が必要なのです。モーセとアロンとイスラエル人の全会衆は、すべて主がレビ人についてモーセに命じられたところに従って、レビ人に対して行ないました。

4.レビ人の奉仕(23-26)

「ついで主はモーセに告げて仰せられた。「これはレビ人に関することである。二十五歳以上の者は会見の天幕の奉仕の務めを果たさなければならない。」

4章3節には、会見の天幕で務めにつき、仕事をすることができるのは30歳以上50歳までの男子であると言われていますが、ここでは25歳以上となっているのは、おそらくインターンの期間も含めてのことでしょう。インターンとして5年間奉仕し、30歳から50歳までフルに仕えるように定められていたのです。Ⅰテモテ3章には監督の資質が書かれてありますが、そこには「信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。」(3:6)とあります。25歳からでも奉仕できますが、実際にはよく経験を積んで30歳から奉仕するようになっていたのです。また、50歳からは奉仕の務めから退き、もう奉仕してはいけませんでした。その人はただ、会見の天幕で、自分の同族の者が任務を果たすのを助けることはできましたが、自分で奉仕することはできませんでした。50歳以上の人は、サポートする側、監督をする側に回り、実際の奉仕をすることはなかったのです。

民数記7章

きょうは民数記の7章から学びます。まず1節から9節までをお読みします。

1.ささげ物(1-9)

「1 モーセは幕屋を建て終わった日に、これに油をそそいで、聖別した。そのすべての器具と、祭壇およびそのすべての用具もそうした。彼がそれらに、油をそそいで聖別したとき、2 イスラエルの族長たち、すなわち彼らの父祖の家のかしらたち―彼らは部族の長たちで、登録を担当した者―がささげ物をした。3 彼らはささげ物をの前に持って来た。それはおおいのある車六両と雄牛十二頭で、族長ふたりにつき車一両、ひとりにつき牛一頭であった。彼らはこれを幕屋の前に連れて来た。4 するとはモーセに告げて仰せられた。5 「会見の天幕の奉仕に使うために彼らからこれらを受け取り、レビ人にそれぞれの奉仕に応じて渡せ。」6 そこでモーセは車と雄牛とを受け取り、それをレビ人に与えた。7 車二両と雄牛四頭をゲルション族にその奉仕に応じて与え、8 車四両と雄牛八頭をメラリ族に、祭司アロンの子イタマルの監督のもとにある彼らの奉仕に応じて与えた。9 しかしケハテ族には何も与えなかった。彼らの聖なるものにかかわる奉仕は、肩に負わなければならないからである。」

1節を見ると、「モーセは幕屋を建て終った日に」とあります。モーセが幕屋を建て終ったのは、イスラエルがエジプトを出てから二年目の、第一月の一日のことです。出エジプト記40章17節にそう記録されてあります。それから一か月間、主はモーセを呼び寄せ、会見の天幕から、彼に告げて仰せられました。それがレビ記の内容です。そして、その後で神はモーセに人口調査をするように命じられました。それが民数記の最初に記されてあることです。それは彼らがエジプトを出て二年目の第二の月の一日のことです。それなのにここでは「モーセが幕屋を建て終った日に」話がさかのぼっています。いったいなぜでしょうか?おそらく二つの理由があったと考えられます。

第一のことは、モーセは幕屋を完成させました。幕屋については、すべての必要が揃ったのです。しかし、これからイスラエルが約束の地に向かって進んでいく上で、何か足りないものを感じたのです。それは、イスラエルが旅をするときの運搬用具です。旅をするときには、幕屋を分解して運ばなければなりません。それを運ぶトラックが必要だったのです。そこで彼らは、必要な車とそれを引っ張る牛をささげます。それが7章に記されてある内容です。ですから、幕屋は完成して聖別したけれども、これから旅立つにあたって、今度はそれを運ぶトラックが必要になったことを、ここで振り返って記録しているのです。

それからもう一つの理由は、この7章はささげものについて記録されていると申し上げましたが、そのささげものについて記す前に、奉仕について記す前に、それに先行することがあったということです。それは何でしょうか?それは神の恵みであり、神の祝福です。6章の最後のところには、アロンによる神の祝福のことばが述べられていました。これはものすごい祝福です。それはイスラエルが何かをしたからではありません。彼らはただ自分を主にささげたので、主は彼らを祝福してくださいました。彼らが何かをしたから祝福されたのではなく、神が一方的に祝福したのです。これが神の祝福です。神は私たちが奉仕をしたから、献金をしたから祝福してくださるのではなく、その前に一方的に祝福してくださる方なのです。つまり、私たちの奉仕やささげものの前に神の恵みが先行するということです。そうした神の愛や恵み、祝福があるからそれに応答してささげる。それが私たちの奉仕であって、その逆ではないのです。ですから、ここに一か月さかのぼってイスラエルのささげ物について記されているのだと思います。

それでは2節から9節までをご覧ください。イスラエルの族長たち、すなわち彼らの父祖の家のかしらたちがささげ物をしました。それはおおいのある車六両と雄牛十二頭で、族長ふたりにつき車一両、ひとりにつき牛一頭でした。族長二人で車1台ですから、車は全部で6台、族長一人につき牛一頭ですから12頭になります。それを幕屋の前に連れてきました。すると主はモーセに告げて仰せられました。「会見の天幕の奉仕に使うために彼らからこれらを受け取り、レビ人にそれぞれの奉仕に応じて渡せ。」(5)そこでモーセは車と雄牛とを受け取り、それをレビ人に与えました。

レビ族には三つの氏族がいました。ゲルション族、メラリ族、ケハテ族です。まずゲルション族には車2両と雄牛4頭です。車は全部で6両、雄牛は全部で12頭ありましたので、それを三つに分ければ車2両と雄牛4頭というのは妥当な数です。しかし、メラリ族はそうではありませんでした。メラリ族には車4両と雄牛8頭です。つまり残りの車と雄牛がすべてメラリ族に与えられました。ということは、残りはゼロです。ですから、ケハテ族には何も与えられませんでした。これはいったいどういうことでしょうか? 私たちはこういう記事を読むと不公平ではないかと感じます。ある人たちはいいものをたくさん受けているのに自分たちはそうではないということに不公平感を抱きやすいのです。特に格差社会が広がっているような日本の社会においてはその傾向があります。しかし、これは本当に不公平なのでしょうか?

ここで鍵になる言葉は「奉仕に応じて」(5,7,8,)という言葉です。これは奉仕に応じて与えられたのです。民数記4章を見ると、彼らの奉仕が割り当てられていたかがわかります。まずゲルション族は幕屋の幕、会見の天幕とそのおおい、その上にかけるじゅごんの皮のおおい、会見の天幕の入り口の垂れ幕、・・およびこれらに関するすべての奉仕」でした(4:25,26)。それはかなりの重量がありました。ですから、人力で運ぶのは大変です。彼らの奉仕には車2両と牛4頭が必要だったのです。そしてメラリ族はというと、幕でおおうところの板、柱、釘、台座などを運ぶように任命されました(29-33)。彼らは幕屋の板や横木、台座といった重いものから釘1本、ひも1本に至る小さな奉仕に至るまで行いました。ですから、もっと人手が必要でしたし、当然、車や牛といった運搬用具も必要だったのです。それではケハテ族はどうだったのでしょうか。ケハテ族に割り当てられていた奉仕は最も聖なるものにかかわることであって、聖所のすべての器具を運ぶというものでした(4:15)。それに触れてもいけませんでした。それに触れて死ぬといけないからです。ですから、それにかつぎ棒を通し、肩にかついで運ばなければならなかったのです。

Ⅱサムエル6章には、これとは違った方法で運んだ結果、神の怒りに触れて死んだ人の事件が記されてあります。そうです、ウザです。彼はダビデの命令によってユダのバアラから自分の町に神の箱を運び入れようとしました。それで彼らは、神の箱を、新しい車に載せて、アビナダブの家から運び出したのです。しかし、ナコンの打ち場まで来たとき、牛がそれをひっくり返そうとしたので、ウザが手を伸ばして、神の箱を押さえました。それで主の怒りがウザに向かって燃え上がり、彼はそのかたわらで死んだのです。この事件での問題は何だったのでしょうか。それはこの民数記に書いてあるような方法によって運ばなかったことです。それは肩にかついで運ばなければなりませんでした。箱に触れて死なないためです。それなのに彼らはそれを新しい車に載せて運ぼうとしました。それが問題だったのです。

ですから、ケハテ族には車も牛も必要ありませんでした。幕屋の燭台以外はかつぎ棒を通して、肩にかついで運んだからです。それでは不公平ではないですかと思われるかもしれません。ゲルション族やメラリ族には車も牛も与えられたのに、ケハテ族には何も与えられなかったのですから・・・。しかし、そうではありません。彼らはそれを肩にかつぐことが許されていたのです。栄光の主に密着するかのようにして奉仕することができました。主の臨在をもとも近く感じることができたのです。それは何よりも特別な奉仕でした。そんなすばらしい特権は他にはありません。車、牛によってではなく、聖なるものに密着しながら歩めたのです。それは不公平どころかむしろ人もうらやむようなすばらしい恵みだったのです。

このところから教えられことは、私たちクリスチャンにとっての幸いは何かということです。私たちにとっての幸いはそうした物質やお金といったものではなく、主ご自身と共に歩むことです。マタイの福音書8章20節のところでイエス様は、「きつねには穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」と言いました。これがイエス様の生き方でした。イエス様は物質に振り回されるような生き方ではなく、神と親密な関係を求めてシンプルに生きられたのです。時としてそうした物が、お金が、神との親密な交わりを阻害することがあります。車や牛が与えられていてもいなくも、それを感謝して受け止める信仰が求められるのです。

2.祭壇奉献(10-11)

次に10節と11節をご覧ください。

「10 祭壇に油が注がれる日に、族長たちは祭壇奉献のためのささげ物をささげた、族長たちが自分たちのささげ物を祭壇の前にささげたとき、11 はモーセに言われた。「族長たちは一日にひとりずつの割りで、祭壇奉献のための彼らのささげ物をささげなければならない。」

幕屋が完成し祭壇に油が注がれる日に、族長たちは祭壇奉献のためのささげ物をささげました。それは12節から終わりのところまでに記されていることですが、それは運搬用具の車や牛だけではありませんでした。彼らは祭壇における奉仕のために必要なものをささげました。11節を見ると、族長たちは一日にひとりずつの割りで、部族ごとにささげるようにと命じられました。なぜ一度に急いで持ってくるようにと言わなかったのでしょうか?それは主が私たちのささげ物をしっかりと受け止めておられるからです。丁寧に、一日一日という間隔を空けて持って凝らせることによって、それを噛み締めるかのようにして受け取られたのです。私たちは効率主義の社会の中で動いていますが、そこでは一つの成果をあげるために、私たちの仕事がまるで機械のねじのように扱われています。しかし、神の方法は違います。「わたしの弟子だということで、この小さい物たちのひとりに、水いっぱいでも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」(マタイ10:42)。とあるように、私たちの一つ一つの小さな奉仕が、一滴のしずくのように感じるものでも、主はそれをしっかりと心に留めておられ、それにしたがって報いをお与えになられるのです。その一つ一つの奉仕を覚えるためです。

3.平等にささげる(12-89)

では、それぞれの部族はどのようにささげたのでしょうか。12節から終わりまでを見てください。ここには、各部族の長たちが何をささげたのかが記されてあります。第一にささげ物をささげたのは、ユダ部族のアミナダブの子ナフションです。そのささげ物は、銀の皿一つ、銀の鉢一つ、これらには穀物のささげ物として油を混ぜた小麦粉がいっぱい入れてありました。また香を満たした金のひしゃく、全焼のいけにえとして雄牛一頭、雄羊一頭、一歳の雄の子羊一頭、罪のためのいけにえとして雄山羊一頭、和解のいけにえとして雄牛二頭、雄羊五頭、雄山羊五頭、一歳の雄の子羊五頭です。そして、それが各部族が一日ずつ、順番に持ってくることが記されてあるのです。

このところを呼んで非常に驚くことは、それぞれの部族が携えてくるささげ物は、すべて同じものであるのにもかかわらず、いちいち繰り返してささげ物の内容が記されていることです。この章は、聖書の中で2番目に長い章であり89節もあります。一番長いのは詩篇119篇ですが、詩篇119篇にはみことばに関するさまざまな事について書かれてあり、私たちの魂を潤わせる内容となっていますが、この章は、ただささげ物の内容が12回繰り返されているだけです。いったいなぜ同じことが12回も繰り返して書かれてあるのでしょうか?いくつかの理由が考えられます。

第一に、主はささげることを大切にしておられるということです。主は、それぞれのささげ物を記録として残しておかれたいと願われたほど、彼らのささげ物に目を留めておられたのです。一日ごとに、それぞれのささげ物が省略されることなく列挙されています。神の目ではどんなに小さなささげものであっても、しっかりと記録されているのです。

第二のことは、各部族はそれぞれ人数が異なるのに、同じささげ物がささげられていることに注目してください。成年男子の人数は、ユダ部族が最も多くマナセ族がもっとも少ないのですが、それでもまったく同じささげものがささげられています。つまり、主の前にあって、どの部族がより多くの注目を集め、他の部族がそれほど注目に値しないということではなく、主の前では、どの部族も覚えられ、主に栄光が帰せられているのです。こうして平等となり、調和が保たれているのです。これは旧約のイスラエルの時代だけでなく、新約の時代も、あるいは今の時代にも適用できる原則でもあります。それが十分の一の原則です。十分の一とは何でしょうか。それは私たちに与えられている財産のすべては神のものであるという信仰の表明として、それを十分の一ささげることによって表したのです。新約の時代に生きる者としてこんな律法に縛られる必要はないと考える人がいますが、これは律法が制定される前にすでにあった神の原則です。創世記14章20節を見ると、アブラハムはサレムの王メルキデゼクに戦利品の十分の一をささげたとあります。それは律法が制定される以前の話です。神は私たちがどれだけささげたかということではなく、どのような割合でささげたのかをご覧になられます。レプタ銅貨2枚をささげたやもめには、彼女は他のだれよりも多くささげたと称賛しました。多く集めた人も少なく集めた人も余ることがなく、また足りないことがないように、神は十分の一という原則を定めてささげることを願っておられるのです。

 

パウロはこう言っています。「今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになるのです。こうして、平等になるのです。多く集めた物も余るところがなく、少し集めた物も足りないところがなかった」と書いてあるとおりです。」(Ⅱコリント8:14)

 

私たちも自分に与えられたものは神のものであって、それを神に喜んでお返しするために、いやいやながらではなく、強いられてでもなく、心に決めたとおりに、喜んで主にささげるものでありたいと思います。主は喜んでささげ人を愛してくださるのです。

民数記6章

きょうは、民数記6章から学びます。まず1節から12節までをお読みします。

1.ナジル人の誓願(1-12)

「1 はモーセに告げて仰せられた。2 「イスラエル人に告げて言え。男または女がのものとして身を聖別するため特別な誓いをして、ナジル人の誓願を立てる場合、3 ぶどう酒や強い酒を断たなければならない。ぶどう酒の酢や強い酒の酢を飲んではならない。ぶどう汁をいっさい飲んではならない。ぶどうの実の生のものも干したものも食べてはならない。4 彼のナジル人としての聖別の期間には、ぶどうの木から生じるものはすべて、種も皮も食べてはならない。5 彼がナジル人としての聖別の誓願を立てている間、頭にかみそりを当ててはならない。のものとして身を聖別している期間が満ちるまで、彼は聖なるものであって、頭の髪の毛をのばしておかなければならない。6 のものとして身を聖別している間は、死体に近づいてはならない。7 父、母、兄弟、姉妹が死んだ場合でも、彼らのため身を汚してはならない。その頭には神の聖別があるからである。
8 彼は、ナジル人としての聖別の期間は、に聖なるものである。9 もしだれかが突然、彼のそばで死んで、その聖別された頭を汚した場合、彼は、その身をきよめる日に頭をそる。すなわち七日目にそらなければならない。10 そして八日目に山鳩二羽か家鳩のひな二羽を会見の天幕の入口の祭司のところに持って来なければならない。11 祭司はその一羽を罪のためのいけにえとし、他の一羽を全焼のいけにえとしてささげ、死体によって招いた罪について彼のために贖いをし、彼はその日にその頭を聖なるものとし、12 ナジル人としての聖別の期間をあらためてのものとして聖別する。そして一歳の雄の子羊を携えて来て、罪過のためのいけにえとする。それ以前の日数は、彼の聖別が汚されたので無効になる。」

5章には、宿営の内側を聖めることについて教えられていました。なぜなら、そこに主が住まわれるからです。主が住まわれる宿営を汚さないように、ツァラートの者、漏出を病む者、死体によって身を汚している者をすべて追い出すようにと勧められていました。また、夫婦関係についても教えられていました。それは社会の最小単位であるからです。すべての関係の土台でもある夫婦関係が守られてこそ敵に勝利することができます。

そして、きょうのところにはナジル人の誓願について教えられています。「ナジル人」というのは2節にもあるように、「男または女が主のものとして身を聖別するための特別な誓い」のことです。意味は「聖め別たれた者」とか、「主に献げられた者」という意味です。つまり、自分を主に献げるという特別の誓いのことです。聖書には、すべての神の民に、自分を神にささげるようにと勧められています(ローマ12:1)。「こういうわけで」というのは、イエス・キリストに罪赦された者として、神の民とされていただいたので、ということです。そのように神の恵みによって聖なる者とされたクリスチャンは、自分を聖い生きた供え物としてささげなければならないのです。しかし、ここでは「特別な誓い」とあるように、何か特別な目的のために自分のものを主にささげるという人たちがいたのです。それがナジル人の誓願です。なぜこのような誓願をしたのかというと、神がそれを喜ばれ、そのような人に神の特別な力と御業が現されるからです。それは断食等の信仰の行いもそうです。ただ形式にやったからといってもあまり意味はありませんが、ある目的のために神の恵みとあわれみを求めて自分を聖別するなら、神はその信仰を特別に喜ばれ、御力を現してくださるのです。いわばこのナジル人の誓願はより積極的な面での聖めについての教えであると言えるでしょう。そのようにナジル人の誓願を立てる場合はどうしたらいいのでしょうか。

その場合はまず、彼は、または彼女はナジル人としてぶどう酒や強い酒を断たなければなりませんでした。ここには「ぶどう酒や強い酒を断たなければならない」(3)とあります。また、ぶどう酒と強い酒の他に、酢も飲んではいけませんでした。ぶどう汁もそうです。ぶどうの実の生のものも干したものも食べてはなりませんでした。ナジル人としての聖別の期間には、ぶどうの木から生じるものはすべて、種も皮も食べてはならなかったのです。なぜでしょうか?それはぶどうが心に喜びをもたらすもの、豊かさの象徴であったからです。神へのナジル人はそうした喜びや豊かさを断つことが求められたのです。なぜ喜びとか楽しみを断たなければならなかったのでしょうか。別に喜んではならないとか、楽しんではならないという意味ではありません。しかし、必然的にそうした事態に陥ることがあります。そうした時でもひたすら神を求め、神に祈り、神との交わりの中でその解決を求めていくことが必要だったからなのです。ナジル人にとってはこの世の楽しみよりも、主との交わりを最優先にしなければならなかったということです。

第二のことは、ナジル人がしなければならなかったことは、頭の髪をそってはならないということです(5)。なぜナジル人は髪の毛をそってはならなかったのでしょうか?それは、髪の毛が神の力を象徴していたからです。サムソンは、母の胎内にいるときから神へのナジル人でしたが、主の使いは父マノアに、「その子の頭にかみそりを当ててはならない。」(士師13:5)と言いました。それでサムソンは長髪だったのです。彼には御霊によって怪力が与えられ、何千人ものペリシテ人を殺すことができましたが、その力の源は何だったかというと、彼の髪の毛にありました。それでデリラは自分のひざの上にサムソンを眠らせると、人を呼んで彼の髪の毛をそり落としてしまいました。それで彼の力は彼を去っていったのです(士師16:19)。

サムソンだけではなく、サムエルもナジル人でした。ハンナが、主に祈って、激しく泣いた時、彼女は誓願を立ててこう言いました。「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」(Ⅰサムエル1:11)。サムエルは後に偉大な士師、預言者となり、霊的暗黒時代の中にいたイスラエルを復興させるための、神に用いられた器になりました。したがって、ナジル人の長髪は、神に用いられるところの力を象徴していたのです。主に自分のすべてをささげている人は、神の力を受けるのです。

ですから、イスラエルには、このようなナジル人の存在が必要でした。すべてを主に明け渡し、自分の思いを主に定め、右にも左にもそれない人が必要だったのです。神は、このような人たちを通して、ご自分のわざを行なわれるのです。それはキリストの教会においてもいえることです。教会もこのように自分を主にささげ、主のために生きるとコミットした人たちによって建て上げられていきます。そこに神のいのちと力が増し加えられ、ご自身のみわざが現されるからです。

第三に、主のものとして身を聖別している間は、死体に近づくことができませんでした(6)。父、母、兄弟、姉妹が死んだ場合でも、身を汚してはならなかったのです。なぜでしょうか?なぜなら、死体は罪、汚れの象徴だったからです。罪によって死がもたらされました。神のうちにはいのちがあるだけで、死は一切ありません。したがって、これらを避けることが主のみこころだったのです。

ところで、9節から12節までのところには、「もしだれかが突然、彼のそばで死んで、その聖別された頭を汚した場合」はどうしたらよいかが教えられています。つまり、自分の意志によってではなく、たまたまそれに巻き込まれた場合はどうしたらいいのかということです。その場合は12節にあるように、「ナジル人としての聖別の期間をあらためて主のものとして聖別」しなければなりませんでした。すなわち、ふりだしに戻らなければならないということです。その時には、まず七日目に頭をそり、八日目に山鳩二羽か家鳩のひな二羽を会見の天幕の入口の祭司のところに持って来ます。祭司はその一羽を罪のためのいけにえとし、他の一羽を全焼のいけにえとしてささげ、死体によって招いた罪について彼のために贖いをし、彼はその日にその頭を聖なるものとして、ナジル人としての聖別の期間をあらためて主のものとして聖別するのです。罪のいけにえは、罪を犯したときに、その赦しのためにささげられるいけにえで、全焼のいけにえは、神に自分自身をささげるためのいけにえです。私たちが罪を犯したときは、この二つのいけにえが必要です。罪の赦しをいただき、再び主に自分自身をささげることです。このようにして再びやり直すことができました。

けれども、自分の行為によって犯した過ちではないのに、なぜ、罪を犯した者として数えられてしまうのでしょうか。それは、ナジル人として主に自分を献げるということはそのように厳しさが伴うからです。たとえ自分がさわっていなくとも、死体のほうがふりかかってきても、その人は罪のいえにえと全焼のいけにえをささげなければならないのです。そして一歳の雄の子羊を携えて来て、罪過のためのいけにえとしなければなりませんでした。罪過のいけにえは、自分が他の人に危害を加えた場合にささげるものであります。このいけにえをささげたあと、聖別はふりもどしになり、またゼロから出発します。私たちも、ふと思いがけないことですべてのことがだめになってしまうことがありますが、神は、何度でもチャンスを与えてくださいます。これまで築き上げてきたものがゼロになっても、再びスタートすることができるのです。

2.ナジル人の期間が満ちた時(13-21)

次に13節から21節までをご覧ください。

「13 これがナジル人についてのおしえである。ナジル人としての聖別の期間が満ちたときは、彼を会見の天幕の入口に連れて来なければならない。14 彼はへのささげ物として、一歳の雄の子羊の傷のないもの一頭を全焼のいけにえとして、また一歳の雌の子羊の傷のないもの一頭を罪のためのいけにえとして、また傷のない雄羊一頭を和解のいけにえとして、15 また種を入れないパン一かご、油を混ぜた小麦粉の輪型のパン、油を塗った種を入れないせんべい、これらの穀物のささげ物と注ぎのささげ物を、ささげなければならない。16 祭司はこれらのものをの前にささげ、罪のためのいけにえと全焼のいけにえとをささげる。17 雄羊を和解のいけにえとして、一かごの種を入れないパンに添えてにささげ、さらに祭司は穀物のささげ物と注ぎのささげ物をささげる。18 ナジル人は会見の天幕の入口で、聖別した頭をそり、その聖別した頭の髪の毛を取って、和解のいけにえの下にある火にくべる。19 祭司は煮えた雄羊の肩と、かごの中の種を入れない輪型のパン一個と、種を入れないせんべい一個を取って、ナジル人がその聖別した髪の毛をそって後に、これらをその手の上に載せる。20 祭司はこれらを奉献物としてに向かって揺り動かす。これは聖なるものであって、奉献物の胸、奉献物のももとともに祭司のものとなる。その後に、このナジル人はぶどう酒を飲むことができる。21 これがナジル人についてのおしえである。ナジル人としての聖別に加えて、その人の及ぶ以上にへのささげ物を誓う者は、ナジル人としての聖別のおしえに加えて、その誓った誓いのことばどおりにしなければならない。」

ここには、ナジル人としての聖別の期間が満ちた時にはどうしたらよいかが教えられています。ナジル人としての聖別の期間が満ちたときは、彼を幕屋のところに連れて来て、いけにえをささげなければなりませんでした(13)。そのいけにえとは、まず全焼のいけにえです。一歳の雄の子羊の傷のないものでなければなりませんでした。また一歳の雌の子羊で傷のないもの一頭を罪のためのいけにえとして、また傷のない雄羊一頭を和解のいけにえとしてささげなければなりませんでした。和解のいけにえとは、平和のいけにえと訳すこともできますが、神との和解、神との平和が与えられたので、それを楽しむためのいけにえです。

そして、穀物のささげものがあります。種を入れないパン一かご、油を混ぜた小麦粉の輪型のパンと、油を塗った種を入れないせんべいです。パン種は罪の象徴なので、パンの中には種が入っていてはいけませんでした。また油は聖霊の象徴なので、その油を塗るとか混ぜるというのは、主の聖霊が私たちのうちに宿り、また主の油注ぎが私たちのうちにあることを表していました。このように、ナジル人の誓願によって身を聖別することによって、主との特別な交わり、御霊にある喜びを持つことができたのです。

18節には、ナジル人はこれまで伸ばしてきた髪の毛をここでそり、それを祭壇のところで和解のいけにえの下にある火にくべる、とあります。祭司は煮えた雄羊の肩と、かごの中の種を入れない輪型のパン一個と、種を入れないせんべい一個を取って、ナジル人がその聖別した髪の毛をそった後で、これらをその手の上に載せました。祭司はこれらを奉献物として主に向かって揺り動かします。これは聖なるものであって、奉献物の胸、奉納物のももとともに祭司のものとなりました。和解のいけにえは、このように、祭司によって、神の前で高くかかげられます。主に感謝して、主を賛美している姿です。その後で、ナジル人はぶどう酒を飲むことができました。それはどれほどの喜びをもたらしたことでしょう。その喜びがこの後の祝福となって表われます。

3.祝福(22-27)

22節から27節をご覧ください。ここにイスラエルに対する祝福が語られます。

「22 ついではモーセに仰せられた。23 「アロンとその子らに告げて言え。あなたがたはイスラエル人をこのように祝福して言いなさい。24 『があなたを祝福し、あなたを守られますように。
25 が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。26 が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』27 彼らがわたしの名でイスラエル人のために祈るなら、わたしは彼らを祝福しよう。」

これは礼拝の祝祷でも用いられる有名な祝福の祈りです。神はこの祝福の祈りをナジル人の教えの後で、アロンにするように命じられました。なぜでしょうか。これはナジル人の誓いと無関係ではないからです。なぜなら、神は自分自身を聖別する者を喜ばれ、祝福されるからです。ツァラートの者、漏出を病む者、死体で身を汚している者を追い出し、他人に害を加えた者が弁償を行ない、苦い水によってためされ、そしてナジル人の聖別などによって聖別し、内なる人が強められるところに、主はご自分の祝福を注がれるのです。神が願っておられることは、私たちが主に聖別された者として、自分自身を主にささげることです。そのところに神のいのちと力、祝福が現され、教会は外側からも内側からも崩れない堅固な教会として堅く立ち続けることができるのです。

先ほど、ナジル人としてささげられた人としての例としてサムソンとサムエルのことを取り上げましたが、実は新約聖書にもナジル人として自分自身を髪にささげた人がいます。その一人は、バプテスマのヨハネです。天使ガブリエルがザカリヤに対して、「彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、」(ルカ1:15)と言いました。そのように神にささげられたバプテスマのヨハネは、主イエスから「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」(マタイ11:11)と称賛されたほどです。彼はそれほど神の力に満ち溢れていました。

また、使徒パウロも一時、ナジル人の誓いを立てていたことが分かります。ケンクレヤというところで一つの誓いを立てたので、髪の毛を剃っています(使徒18:18)。パウロがケンクレヤで髪を剃った、というのは、その断食期間、その誓願期間に一つの区切りを迎えたということです。ナジル人として、一定期間誓願を立てていて、それに区切りをつけたということは、ケンクレヤで第二次伝道旅行は終わったということです。パウロは、コリントで腰を据えて伝道していました。18章11節に「そこでパウロは、1年半ここに腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた。」とあります。衰弱して、恐れを抱きながら、コリントに来たパウロですが、そこでアクラとプリスキラという、同じようにローマから避難してきた夫婦に出会い、話をしているうちに元気を回復し、そしてイエスさまから励ましのことばを受ける。これが10節です。「わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はいない。この町にも、わたしの民がたくさんいるから。」と、伝道の実りは大きいと主に励まされて、パウロはコリントに一年半滞在したのです。その伝道の働きが終わりました。それで、パウロはシリヤに向かって船出をします。それが18節に書いてあります。そしてケンクリヤに来た時に髪をそったのです。いったいパウロは何ためにナジル人としての誓願を立てたのでしょうか。それはおそらく第二次伝道旅行においてふりかかる数々の迫害の中にも神の恵みと力にあふれて、その御業を果たすことができるようにという願いだったのではないでしょうか。それが終わった。それから解かれたので、彼は髪の毛をそったのです。そのように神の働きにおいて、神の力ある御業が現されるようにと願ってナジル人としての誓願を立てる。自分を神にささげるということはとても大切なことであるということがわかります。

そして何よりもナジル人として生きられたのは、イエス様ご自身でした。イエス様は最後の晩餐の時にこう言われました。「あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。(ルカ22:18)」これはナジル人としての誓願です。イエス様が再び地上に来られる時まで、ぶどうの実で造られた物を飲むことはないと、自分をおささげになられたのです。神の国がもたらされるそのときに、その喜びの祝宴の中でぶどう酒を飲みます、と言われたのです。つまり、主イエス・キリストが切に願われたのは、ご自分の民であるユダヤ人がご自分を受け入れること、そして世界が元の通りに回復することです。それまでは、この喜びと楽しみの時が来るまでご自分を父にお任せしているのです。それほどご自分を父なる神にゆだねておられるのです。そのようなところに、神の救いのみわざがもたらされるからです。

みなさんはどうでしょうか?イエス様に自分のすべてをささげておられますか?主のものとなっておられるでしょうか。自分自身を主にささげておられますか。もしそうであれば、そこに主の御力とみわざがあらわれます。主があなたを祝福し、あなたを守られるからです。主があなたを照らし、あなたを恵まれるからです。主が御顔をあなたに向け、あなた平安を与えられるからです。私たちはそんな力ある主のみわざにあずかるために、自分自身を主におささげして歩む者でありたいと思います。

民数記5章

きょうは、民数記5章から学びます。1章から4章までのところには、イスラエル人の人口調査について記されてあります。イスラエルがこれからシナイ山を出発し約束の地に向かって進んで行く上で、体制を整えることはとても重要なことでした。そこで彼らはまずイスラエル人の人口を数えて登録しました。20歳以上の男子で軍務につくことのできる男子を登録し、また幕屋の器具を運ぶためにレビ人を登録しました。そして、宿営における部族ごとの配置も定めました。幕屋を中心として東西南北の方角ごとに位置したのです。その中心には神の幕屋がありました。神の幕屋を中心にした秩序を保って、約束の地へと向かって行ったのです。彼らはそのようにして自分たちがイスラエルの共同体の一員であることを自覚し、自分に課せられた任務をわきまえて、神を中心とした一枚岩となって前進して行ったのです。

それは神の教会も同じです。教会も自分たちがどの教会に属し、自分たちに託された使命や役割は何なのかを知ることによって、キリストを中心として一枚岩となって進んで行かなければなりません。イエス様は「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(マタイ16:18)と言われました。そのような教会はハデスの門も打ち勝つことができないほど強固で、この世の荒野を進んで行くことができるのです。

しかし、そのように戦闘態勢を整え、奉仕の体制を整えたら大丈夫かというとそうではありません。それを脅かすのがあります。それは宿営の外側からの脅威だけでなく、内側からのものです。それは罪の問題です。罪が宿営を破壊し、死をもたらす原因にもなります。ですから、この罪に対してしっかりと対処していかなければなりません。それがこの5章で取り扱われている内容ことです。それでは早速本文を見ていきましょう。まず1節から4節までをご覧ください。

1.  罪のきよめ(1-4)

「1ついではモーセに告げて仰せられた。2 「イスラエル人に命じて、ツァラアトの者、漏出を病む者、死体によって身を汚している者をすべて宿営から追い出せ。3 男でも女でも追い出し、彼らを宿営の外に追い出して、わたしがその中に住む宿営を汚さないようにしなければならない。」4 イスラエル人はそのようにして、彼らを宿営の外に追い出した。がモーセに告げられたとおりにイスラエル人は行った。」

ここには、ツァラートの者、漏出物を病む者、死体によって身を汚している者をすべて宿営から追い出せとあります。なぜでしょうか?このツァラアトについてはレビ記で見たとおり、らい病とは違います。というのは、ツァラアトは皮膚に現れるだけでなく、家の壁や衣服にも認められる現象であるからです。それが厳密に何を指しているかはいまだに明らかではありませんが、しかし,それは「何らかの原因により、人体や物の表面が冒された状態のことで、汚れたものであることは確かです。漏出を病むというのは性病のことで、それは伝染性のある有害なものでした。また、死体も腐敗するとばい菌がつき、それが伝染する危険性がありました。ですから、このようなものが宿営の中に蔓延すれば、イスラエルの民は滅んでしまいます。どんなに外的から守られるために軍務につく者を配置しても、内部から崩壊する危険があったのです。ですから、外からの攻撃から自分たちを守るだけではなく、内側にある汚れを取り除くことが、彼らが存続していくために不可欠なことだったのです。

しかし、ここではこうした衛生的なことだけでなく、もっと大切な理由がありました。それは3節に書かれてあります。「わたしがその中に住む」という言葉です。そこは、神が住んでおられるところだからです。聖なる主が宿営の中に住まわれているので、汚れた者が宿営の中にいることはできなかったのです。つまり、このツァラアトの者とか漏出を病む者、死体によって身を汚している者というのは、罪の象徴だったのです。そこに罪、汚れがあれば、神がお住みになることはできません。なぜなら、神は聖なる方だからです。聖なるものと汚れたものは相容れないのです。ですから、イスラエル人たちは、自分たちの間にある汚れを取り除かなければならなかったのです。

考えてみると、イスラエルの民がここまで進んでくることができのはなぜでしょうか?300万人にもなる群集を導くことができた力は何だったのでしょうか?それはモーセやアロンに指導力があったからではありません。イスラエルに特別な能力があったからでもないのです。そこに神がおられたからです。神が彼らの真ん中に住んでおられたので彼らは一つになることができ、力強く前進することができたのです。その神がいなかったらどうなるでしょうか。何もすることができません。神が共におられるということ、神がその中に住んでくださるということがイスラエルの強さの秘訣であり、神の民の本質であって、それがなかったら何もすることもできないのです。ですから、神は宿営の中から汚れを追い出すようにと命じられたのです。

このことは、神の共同体である教会にも言えることです。私たちの間にも聖さが保たれていなければなりません。だれかが罪を犯し、指摘しても悔い改めないのであれば、自分たちで取り除いていかなければならないのです。それは、共同体においては、一人の罪が全体の罪として数えられているからです。たとえば、ヨシュア記にアカンが罪を犯したときのことが記されてあります。アカンがアカンことをしたのです。彼は聖絶のものをいくらか取ったのです。聖絶のものは主のものなのに、彼はそれを盗んだのです。そのとき、神は何と言われたでしょうか。「イスラエルが罪を犯した。」(ヨシュア7:11)と言われました。それはアカン一人だけの問題ではありませんでした。イスラエル全体の問題だったのです。そこでヨシュアが率いるイスラエルは、アカンを石打ちによって殺し、自分たちの中から悪を取り除いたのです。教会の中に神のいのちがあるためには、聖めが必要です。教会が力をもって前進するためには、私たちの間にある汚れをきよめなければなりません。

2.  他人に罪を犯した場合(5-10)

次に、5節から10節までをご覧ください。ここには、他人に対して罪を犯した場合どうしたらよいかが教えられています。

「5 ついではモーセに告げて仰せられた。6 「イスラエル人に告げよ。男にせよ、女にせよ、に対して不信の罪を犯し、他人に何か一つでも罪を犯し、自分でその罪を認めたときは、7 自分の犯した罪を告白しなければならない。その者は罪過のために総額を弁償する。また、それにその五分の一を加えて、当の被害者に支払わなければならない。8 もしその人に、罪過のための弁償を受け取る権利のある親類がいなければ、その弁償された罪過のためのものはのものであり祭司のものとなる。そのほか、その者の罪の贖いをするための贖いの雄羊もそうなる。9 こうしてイスラエル人が祭司のところに持って来るすべての聖なる奉納物はみな、祭司のものとなる。10 すべての人の聖なるささげ物は祭司のものとなり、すべての人が祭司に与えるものは祭司のものとなる。」

他人との不和は争いの種になるので、きちんと処理しておくようにということです。そして、ここにはまず、仲間に対して犯した罪は、主に対して不信の罪を犯すことになると言われています。仲間が傷つけられることがあれば、それは主を傷つけることになるということです。私たちが迫害を受けることは、主も迫害を受けることです。ですから、クリスチャンを迫害していたパウロに主イエスが現されたとき、「サウロ、サウロ。どうしてわたしを迫害するのか。」(使徒9:1-5)と言われたのです。ですから、もし兄弟に対して罪を犯したなら、自分の犯した罪を告白してきちんと処理しなければなりません。

しかし、ここではただ告白するだけでなく、それ相応の償いが求められています。その者は罪過のためにその総額それにその五分の一を加えて、被害者に支払わなければなりませんでした。この五分の一、20%を加えなければならなかったのはなぜでしょうか。それは、被害者の受けた心の傷やしこりといったものに対する補償です。そのように弁済することによって真の和解が成立するのです。それほどに、イスラエルが宿営での生活を営んでいくときに、和解が重要であったことがわかります。お互いが敵対的になり、分裂し、孤立していくようになるなら、イスラエルが共同生活を営んでいく上で致命的となります。したがって、主は、危害を加えた者が、罪を告白して、弁償することを命じられたのです。このような関係の修復は、イスラエルだけではなく、教会にとっても必要不可欠なことなのです。

8節に注目してください。ここには、弁償を受け取る権利のある親類がいなければどうしたらいいかが書かれてあります。その場合は、それは主のものであり、祭司のものとなります。そのほか、その者の罪の贖いをするための贖いの雄羊もそうです。弁償を支払う相手がいなくとも、支払わなければいけません。主に対する罪なのですから、この罪が取り除かれなければいけないからです。そのときは、祭司のところに弁償を持ってきます。こうしてイスラエル人が祭司のところに持って来るすべての聖なる奉納物はみな、祭司のものとなるわけです。すべて人の聖なるささげ物は祭司のものとなり、すべて人が祭司に与えるものは祭司のもの、主のものになるのです。

3.姦淫の罪を犯した場合(11-31)

次に、もし妻が道をはずして夫に対して不信の罪を犯した場合はどうしたらよいかについて見たいと思います。少し長いですが、11節から31節まで見たいと思います。まず15節までをお読みします。

「11 ついではモーセに告げて仰せられた。12 「イスラエル人に告げて言え。もし人が妻が道をはずして夫に対して不信の罪を犯し、13 男が彼女と寝て交わったが、そのことが彼女の夫の目に隠れており、彼女は身を汚したが、発見されず、それに対する証人もなく、またその場で彼女が捕らえられもしなかった場合、14 妻が身を汚していて、夫にねたみの心が起こって妻をねたむか、あるいは妻が身を汚していないのに、夫にねたみの心が起こって妻をねたむかする場合、15 夫は妻を祭司のところに連れて行き、彼女のために大麦の粉十分の一エパをささげ物として携えて行きなさい。この上に油をそそいでも乳香を加えてもいけない。これはねたみのささげ物、咎を思い出す覚えの穀物のささげ物だからである。」

ここでは妻が道をはずして夫に対して不信の罪を犯し、男が女と寝て交わったが、そのことが彼女の夫の目に隠れていて、発見されず、そのことに対する証人もなく、またその場で彼女が捕えられもしなかった場合どうするかということです。そして、そのことで夫は疑いを抱いているわけです。夫は、もしかしたら他の男がいるかもしれない、と勘ぐっていますが、その証人はどこにもいません。現場で捕らえられることもありません。ただ夫が、そうではないかと疑っているのです。そのような時はどうしたらよいか。実に生々しい、具体的な問題です。そういう番組もありますね。しかし、ここにはそういう時にはどうしたらよいかの具体的な方法が示されています。

そのような時には、夫は妻を祭司のところに連れていきます。そして、大麦の粉十分の一エパをささげ物として携えて行きます。そこには油を注いでも乳香を加えてもいけません。なぜでしょうか?この油は聖霊のことを表しているからです。イエス・キリストを信じる者に与えられるいのちの御霊のことだからです。ですから、穀物のささげ物に油がまざっているということは、イエス・キリストを信じる者の中に聖霊が住んでおられることを表しているのです。しかし、これはねたみのささげ物、咎を思い出す覚えの穀物のささげ物なので、油を入れてはいけないのです。

ところで、なぜここに夫婦の問題が取り上げられているのでしょうか。それは、私たちのすべての関係の基本がここにあるからです。イスラエルの共同体において、部族、氏族という単位がありましたが、もっとも小さな単位はもちろん家族であり、その中でも夫婦が最小単位です。この夫婦の関係が土台であり、夫婦が一心同体になっていることがイスラエル共同体の大前提であったのです。それはちょうど原子が分裂したら、物質はそのままで存在することはできないように、夫婦に亀裂が生じたら、共同体全体が存続できなくなってしまいます。だから、主は、妻の不信の罪について、その疑いがあるだけでも、それを明らかにするように命じておられるのです。

ではなぜ妻だけの問題が取り上げられているのでしょうか。夫だって、姦淫の罪を犯すのではないでしょうか。むしろその方が多いかもしれません。それなのに、ここでは妻の問題だけが取り上げられているのです。いったいそれはどうしてなのでしょうか。ユダヤ教のラビ、教師は、これは男女相互に適用される、と解釈しています。それはそうでしょう。妻だけに適用されることだとしたら、問題になります。それにのになぜここには妻だけが取り上げられているのでしょうか。

ここで鍵になる言葉は「ねたむ」という言葉です。聖書には、主ご自身が、「わたしはねたむ神である」とおっしゃっておられます。だから、ほかの神を拝んではいけないのです。主だけを拝し、主だけに仕えなさい、と命じられています。そして、主はご自分を夫になぞらえて、イスラエルを妻にして、ご自分とイスラエルとの関係を表しておられるのです。そうです、ここには神とイスラエル、キリストと教会との関係が示されているのです。ですからここにはただの姦淫の罪ということではなく、霊的姦淫の罪について定められているのです。霊的に姦淫の罪を犯すということは、単に罪を犯すことよりも深刻な問題です。妻が夫に対してどのような罪を犯していても、夫が妻を愛しているなら、それを赦すことができますが、他の男に行ってしまったら、どうなってしまうでしょうか。それは関係そのものの一切が切れてしまいます。同じように、私たちが神に対していろいろな罪を犯しても、神は赦してくださいますが、他の神に移ってしまったら、もうそこで関係は切れてしまうのです。パウロはコリントの教会に対してこう言いました。「しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。(Ⅱコリント11:3)それはこのことを語っていたのです。コリントの教会は、偽使徒たちによって異なるイエス、異なる福音、異なる霊を受けていました。そこでパウロは、エバが蛇によって欺かれたように、キリストの花嫁であるあなたの思いも汚されているのではないか、と心配していたのです。

16節から22節までをご覧ください。「16 祭司は、その女を近寄らせ、の前に立たせる。
17 祭司はきよい水を土の器に取り、幕屋の床にあるちりを取ってその水に入れる。18 祭司は、の前に女を立たせて、その女の髪の毛を乱され、その手にねたみのささげ物である覚えの穀物のささげ物を与える。祭司の手にはのろいをもたらす苦い水がなければならない。19 祭司は女に誓わせ、これに言う。『もしも、他の男があなたと寝たことがなく、またあなたがた夫のもとにありながら道ならぬことをして汚れたことがなければ、あなたはこののろいをもたらす苦い水の害を受けないように。20 しかしあなたが、もし夫のもとにありながら道ならぬことを行って身を汚し、夫以外の男があなたと寝たのであれば、』21 ―そこで祭司はその女にのろいの誓いを誓わせ、これに言う―『があなたのももをやせ衰えさせ、あなたの腹をふくれさせ、あなたの民のうちにあってがあなたをのろいとし誓いとされるように。22 またこののろいをもたらす水があなたのからだに入って腹をふくれさせ、ももをやせ衰えさせるように。』その女は、『アーメン、アーメン』と言う。」

ここで彼らは不思議な方法でその疑いを晴らしました。夫が妻を祭司のもとに連れて行くと、祭司は、その女を近寄らせ、主の前に立たせます。そして、きよい水を土の器に取り、幕屋の床にあるちりを取ってその水に入れます。それはのろいをもたらす苦い水です。祭司は女に誓わせてその水を飲ませますが、もし女に汚れたことが何一つなければ女は何の害も受けず、もし女が道ならぬことを行って身を汚していたら、その水がからだに入るとき、腹をふくれさせ、ももをやせ衰えさせました。現代でいうとうそ発見器のようなものかと思いますが、それにしても、何とも奇妙な方法です。いったいこれはどういことなのでしょうか。

まずこの水とはみことばのことでしょう。エペソ5章26節には、「みことばにより、水の洗いをもって」とあります。みことばが水として表現されているのです。みことばが洗うのです。みことばが見極めるのです。その水の中に、幕屋の床にあるちりを取って入れます。これは創世記3章14節のところに、神は蛇に対して、「おまえは、…ちりを食べなければならない。」と言われましたが、のろいを表しているものと思われます。それは神のみことばの中にあるさばきであると言えます。というのは、ヘブル4章12、13節に、こう書いてあるからです。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」とありますが、実は次の言葉に続きます。「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。神のみことばによって、また、聖霊の働きによって、隠れたこともみな裸にされて、さらけ出されるのです。祭司はその女にのろいの誓いを誓わせるというのは、祭司が誓わせたことが女のことばになるということです。もし彼女が嘘を言っていたらのろいがもたらされ、本当だったら害を受けることがないということです。

それからどうなるでしょうか。23節から31節までを見ていきましょう。「23 祭司はこののろいを書き物に書き、それを苦い水の中に洗い落とす。24 こののろいをもたらす苦い水をその女に飲ませると、のろいをもたらす水が彼女の中に入って苦くなるであろう。25 祭司は女の手からねたみのささげ物を取り、この穀物のささげ物をに向かって揺り動かし、それを祭壇にささげる。26 祭司は、その穀物のささげ物から記念の部分をひとつかみ取って、それを祭壇で焼いて煙とする。その後に、女にその水を飲ませなければならない。27 その水を飲ませたときに、もし、その女が夫に対して不信の罪を犯して身を汚していれば、のろいをもたらす水はその女の中に入って苦くなり、その腹はふくれ、そのももはやせ衰える。その女は、その民の間でのろいとなる。28 しかし、もし女が身を汚しておらず、きよければ、害を受けず、子を宿すようになる。29 これがねたみの場合のおしえである。女が夫のもとにありながら道ならぬことをして身を汚したり、30 または人にねたみの心が起こって、自分の妻をねたむ場合には、その妻をの前に立たせる。そして祭司は女にこのおしえをすべて適用する。31 夫には咎がなく、その妻がその咎を負うのである。」

なんと今誓ったことを書物に書き、それを苦い水の中で洗い落とします。つまり、自分のことばが自分の腹の中に入って、自分のうちに実現するということです。ここで、真実が明らかにされます。姦淫の罪を犯していれば、女は子を宿すことができないようなからだになり、犯していなければ何の害も受けなくてもすみます。これは、本当に罪を犯していない人にとっては、この上もなくうれしいことです。夫から疑いをかけられていたけれども、今、潔白であることが証明されたからです。自分が罪を犯したとも、犯していないともわからないような状況でしたが、神は、この方法によって、彼女の純潔をためされたのです。

しかし、私たちはどうでしょうか。主に罪を探られたら、主の前に立っていることができるでしょうか。この苦い水を飲んだら、それがのろいとなって害を受けるような者なのではないでしょうか。しかし、私たちの代わりにのろいを受けてくださった方がおられます。苦い水を飲まれた方がおられるのです。だれでしょうか。そうです、私たちの救い主イエス・キリストです。キリストは私たちの代わりにのろいとなってくださいました。私たちのために苦い水を飲んでくださいました。酔いぶどう酒です。十字架の上で・・・。それは私たちがさばかれることなく、そのさばきを代わりに受けるためでした。私たちはこのイエス・キリストの十字架の身代わりによってのろいをうけない者にしていただけたのです。イエスは、姦淫の現場で捕えられた女に、こう言われました。「わたしもあなたを罪に定めなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8:10-11)私たちはキリストによってすべての罪が赦されました。私たちは神ののろいではなく、神の恵みによって聖い者にしていただけたのです。すべての罪が赦されて、身の潔白が証明された人は何と幸いなことでしょう。自分の疑いが晴らされて身の潔白を証明できた女が躍り上がるような喜びに満ち溢れたように、私たちも救い主イエス・キリストを信じる信仰によって義と認められ、このキリストの中にいることによって日々イエス様のように変えられ、やがてくる終わりの時にキリストの花嫁として、いつまでも主とともにいられるということはこの上もない喜びです。この喜びのゆえに、私たちはますます私たちの代わりに死んでくださったキリストに感謝し、この方に中にずっととどまっていたいと思います。たとえ道から外れることがあっても、そののろいを受けてくださったキリストの愛のゆえに、悔い改めて神に立ち返る者でありたいと思います。