創世記15章

1.神様の約束(1-5)

1節を見ると、「これらの出来事の後、主のことばが幻のうちに亜プラムに臨み・・・」とあります。「これらの出来事」とは何でしょうか。そのすぐ前の章には、アブラハムが諸王を破って帰還して後、ソドムの王がこの世の財宝を差し出しましたが、アブラハムはそれを拒んだという内容が記されてありました。その出来事の後でということです。その時に神様が語られたのは、「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは大きい。」ということでした。これは神様が、ご自分が恵み深い方として彼を守り、彼に報いを与えという約束です。ソドムの王が提示した物質的な財宝を拒んだアブラハムに、神様が慰めを与えてくださったのでしょう。

これに対してアブラハムは何と答えたでしょうか?彼は恵み深い神様の語りかけに対して、「神、主よ。私に何を私にお与えくださるのですか。私には子がありません。私の家の相続人は、あのダマス子のエリエゼルになるのでしょうか。」(2)と言いました。まさに打てば響くとはこのことです。アブラハムは「あなたの受ける報いは大きい」と言われた主の約束に対して、「じゃ、何を与えてくださるのですか」と答えたのです。ここに神様の報いに期待していた彼の信仰が読み取れます。そして、彼が最も心配していたことは、彼の跡取りに関することでした。ですから、彼はすぐにこう言ったのです。「私には子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」12章3節、13章15~16節で語られた神の約束が全く実現する雰囲気が感じられず、絶望の中にいたのです。アブラハムもサラも年をとっていて、もう新しいいのちを生み出す力がなくなっていました。ですから、ダマスコのエリエゼルを養子にしてでも、その子孫をと考えざるをえなかったのです。

すると主は言われました。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出る者が、あなたの跡を継がなければならない。」えっ、ウソでしょう。人間的に考えたら、普通の常識で考えたなら無理です。なぜ?その時期はもうとっくにすぎていたからです。ローマ4章19節には、「自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることを認めても」とあります。もう胎は「死んでいた」のです。ですから、これからいのちを生み出すなどということは全く考えられない状態でした。にもかかわらず神は、「ただ」、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」と言われたのです。

そして神は、アブラハムを外に連れ出して言われました。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」

あなたの子孫はこのようになる、とビジュアル的に示してくださいました。これほどわかりやすいことはありません。「ああ、こうなるのか」とアブラハムは思ったでしょう。でも、現実的に考えると、それは全く不可能なことでした。

2.神の約束を信じたアブラハム(6)

それに対して、アブラハムはどのように応答したでしょうか。6節をご覧ください。ここには、「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」とあります。どういうことでしょうか?彼は、自分のからだは死んだも同然だけれども、神にはできないことはないと信じたのです。すなわち、自分のからだのことや人間的な考えで判断することをやめ、天地万物を創造された全能の神様を、イエス・キリストを死者の中から復活させることのできる全能の神様を信じたのです。そして、その力がこどもを宿す力である以上、神様の約束は必ず実現すると信じたのです。

このような信仰を持つことが重要です。なぜなら、このような神への信仰が私たちの心を満たされる時、その人は真の自由を得るからです。そこには全く限界はありません。この神様がどんなことでもしてくださるという喜びが溢れます。反対に人間的になって限界もうけるとむると、心配が募り、顔色が悪くなってしまいます。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」(詩篇37:5)とあります。私たちは、私たちの力や思いではなく、すべてをこの神様にゆだねなければなりません。死人をよみがえらせることができる方は、どんなことでもすることができるお方だからです。そうでしょ。もし、今、皆さんに心配や悩みがあるなら、この全能の神に信頼してください。信仰とはそういうことなのです。すなわち、「望み得ない時に望みを抱いて信じ」(ローマ4:18)、「死者を生かし、無から有を呼び出される神(ローマ4:17)と信じることです。アブラハムは復活の力をもっておられる神様を待ち望み、いのちの源でいます神が、自由にいのちを与えられる方であるということを信じたのです。信仰とは、神が神でいますこと、人間は人間でしかないことを、そののまま認めることなのです。神様は、神様であられるがゆえに、人の思いをはるかに越えたことをなされるのです。

この6節のみことばは、聖書の中で最も重要な聖句の一つです。新約聖書には、この聖句を引用して、アブラハムの信仰について教えている箇所が三箇所あります。(ローマ4:3,ガラテヤ3:6,ヤコブ2:23)聖書において、人が義と認められる方法は、旧約、新約を通してただ一つだけです。それは、「信仰による」ということです。信仰以外にはありません。

ダビデも信仰によって義と認められる人の幸いについて語っています。(詩篇32:1,2、ローマ4:7,8)ハバククも「義人はその信仰によって生きる」ことを語っています。(ハバクク2:4,ローマ1:17,ガラテヤ3:11,ヘブル10:38) パウロも徹頭徹尾、この教理に貫かれていました。 聖書のどこを見ても、人間の功績が救いにあずかる力とはなり得ないことを教えています。たとえ人間が難行・苦行をしても、どんなに信仰心が深くでも、どんなにあわれみ深く慈善事業を行ったとしても、信仰によらなければ義と認められることはできません。それははアブラハムが信じていなかったときのように、死んだからだのようで、何の役にも立たないのです。その心が新しく生まれ変わらなければならないのです。それは人間によるのではなく、神によらなければならないのです。アブラハムが自分のからだは死んでいても、神にはどんなことでもできると信じて新しく生まれ変わったように、聖霊によって、新しく生まれかわらなければならないのです。自分の力ではどうにもならないのです。ただ神に信頼するしかないのです。このように、自分の罪に対する人間性への絶望があってのみ、初めて神への信頼が生まれてくるのです。これが神の義と認められる信仰なのです。

ついで神は土地についての約束をされました。7節と8節です。「また彼に仰せられた。・・・・カルデヤのウルから連れ出した主である。」アブラハムがカルデヤのウルから連れ出され、カナンに着いた時、神は「この地を与える」(12:7)と約束されました。あれから何年になるでしょうか。約束を与えたままで、それがなかなか実現しない現実に、アブラハムもどれだけまだるっこい思いが拭えなかったかと思います。彼は、その確証を求めていました。それで、「神、主よ。それが私の所有であることを、どうやって知ることができるでしょうか。」と問うているのです。

3.神様の約束(9-21)

すると、神は言われました。9節と10節をご覧ください。「すると彼に仰せられた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持って来なさい。」彼はそれら全部を持って来て、それらを真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。しかし鳥は切り裂かなかった。」

これは契約を結ぶ時のセレモニーです。真っ二つに切り裂かれた動物を互いに向かい合わせ、契約を交わした両者がその間を通ることによって、契約が締結されました(エレミヤ34:18)。鳥が切り裂かれなかったのは、小さかったからでしょう。犠牲の家畜を二つに裂き、血を流し、それを両側に一つずつおき、その間を契約した両者が通るということは、その「間」を埋めることであり、二つのものを一つにすることを表していました。そうやって契約が結ばれたのです。これは、神が私たち人間と契約を結ばれた時と同じです。神はそのひとり子イエス・キリストを十字架で引き裂かれ、血を流されることによって、埋めてくださいましたるそれで神と私たちの契約を成し遂げてくださったのです。

17節には、「煙の立つかまど」と「燃えているたいまつ」が、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎたとあります。これは神の臨在の象徴です。神の跡にアブラハムが通ったというのは、この契約が神様の全くの恵みによるものであることを表しています。人間はそのために何もせず、努力も協力もしなかったのに、神様だけがすべてをしてくださいました。人間はその受益者にすぎません。救いは神様の一方的な賜物なのです。

11節を見ると、「猛禽がその死体の上に下りて来た」とありますが、この「猛禽」とは、アブラハムの子孫がその約束の地を受け継ぐ前に経験しなければならない試練や困難を表しています。その具体的なことは、13~16節までに記されてあることです。それはエジプトでの400年間にわたる奴隷としての生活を指しています。けれども神様は、その四代目の者たちによって再び帰ることも預言されました。これはモーセとヨシュアの時代のことです。ここにイスラエルのエジプト滞在について預言されていることは、実に驚くべきことです。本当に、神様の約束の実現までには多くの困難や苦しみがありますが、しかし、神が語られたことは必ず実現するのです。私たちはただ神様が約束してくださったことを信じて、神の御国に向かって前進していく者でありたいと思います。「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なことは忍耐です。」(ヘブル10:36)

創世記14章

1.選択の結果(1-12)

前の章において、アブラハムとロトが、それぞれ自分の信仰のはかりにしたがって、山地と平地とを選択したことを見ました。きょうところには、その結果、彼らがどうなってしまったかが記録されています。北東の四人の王と死海近くにいた五人の王との間に行われた戦争によって、ソドムとゴモラの王が戦いに敗れ洞穴に逃げ込んだとき、その四人の王はソドムとゴモラの全財産と食料全部を奪って逃げて行きました。ということは、ロトも捕らえられてしまったということです。12節に「彼らはまた、アブラハムのおいのロトとその財産をも奪い去った。」とあります。ロトはソドムに住んでいたからです。主の園のようによく潤っていたこの地が、まさか戦いに敗れて敵に奪われてしまうというようなことを、いったいだれが想像することができたでしょうか。しかし、これが現実なのです。自分の欲望にしたがって肥沃な平地を選んだロトは、この戦いに巻き込まれて悲惨な事態を招くことになってしまったのです。信仰によってではなく、自分の欲望にしたがって歩む者には、このような結果が待ち受けていることを覚えておかなければなりません。

2.ロトを助けたアブラハム(13-16)

問題はその後です。13-16節までをご覧ください。そのことがアブラハムのもとに知らされると、アブラハムはどのような行動を取ったでしょうか?「フン、いい気味だ。欲望によって選択したからそうなったんだ」と言ったでしょうか。アブラハムはその知らせを聞くと、彼の家で生まれた318人のしもべを召集して、ダンまで追跡し、彼らと戦って打ち破り、すべての財産を取り戻しました。いったいなぜアブラハムはそのような行動をとったのでしょうか?もしかしたら自分の家族が巻き込まれて大きな損害を受けるかもしれません。にもかかわらず彼は追跡して、彼らと戦ったのです。14節には、「アブラハムは自分の親類の者がとりこになったことを聞き・・・」とあります。一度は別れたものの、ロトと親類関係にあったアブラハムは、ロトと無関係ではありえませんでした。ただ兄弟に対する愛のゆえに、ロトを助けようとして、追いかけて行ったのです。

本当の信仰とは、人を独立させはしても、決して他人のことに無頓着ではありません。ほかの人が困苦にあえいでいる時に、どうして知らぬふりをしていられるでしょうか。自分だけがよければいいという思いは信仰から出た思いではありません。

ルカ10:30~37のところでイエス様は、良きサマリヤ人のたとえを話されました。ある人がエルサレムから絵里子に下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取って、殴りつけ、半殺しにして逃げていきました。そこへ祭司が、レビ人が通りかかりましたが、彼らは見て、見ぬふりをして通りすぎて行きました。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中で通りかかったのです。彼はどうしたかというと、かわいそうに思って、オリーブ油を注いで、ほうたいをして、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してあげました。この三人の中で、だれがこの人の隣人になったでしょうか?このサマリヤ人です。するとイエス様は言われました。「あなたも行って、同じようにしなさい。」と。あなたの隣人をあなた自身のように愛することを、実行しなさいというのです。 これが信仰者の態度です。もちろん、救われるためにするのではありません。救われた者として、神様のみこころに歩む者は、このような歩みは当然のことなのです。それを実行しなさいと言われたのです。

アブラハムは、この神様のみこころに従っただけです。アブラハムは兄弟への愛をあらわし、ついには勝利をはくしたのです。

3.シャレムの王メルキデゼク(17-24)

さて、18節を見ると、そのようにして勝利したアブラハムを迎えたのは、シャレムの王メルキデゼクでした。彼はいと高き神の祭司でもありました。彼はアブラハムを祝福して言ったのです。

「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」

いったいこれはどういうことなのでしょうか?このシャレムの王メルキデゼクについては、ヘブル5-7章に言及されていますが、7:3にしるしてあるように、彼がどこの出なのか、どのような人なのかについては明らかではありませんが、彼がイエス・キリストの型であることは間違いありません。そのメルキデゼクがアブラハムを祝福したとき、アブラハムは彼に自分のすべての持ち物の中からその十分の一をささげたのです。これが十分の一献金の起源です。アブラハムは創造主なる神からの祝福を受けたとき、彼はその全ての持ち物が神から与えられたものであることを認めて、その十分の一をささげました。すなわち、十分の一献金とは何かというと、私たちに与えられたすべてのものは神様のものであって、神様からの祝福であるということを認め、その一部を神様にお返しする信仰の表明なのです。すなわち、これはアブラハムの神への礼拝だったのです。ですから、ここにこのメルキデゼクがいと高き神の祭司であり、「パンとぶどう酒を持ってきた」とあるのです。神からの祝福をいただき、神への信仰を十分の一献金という形で表したのです。

それにしても、なぜここにメルキデゼクが登場し、このような礼拝をささげる必要があったのでしょうか?それは続く21節にあるソドムの王とのやりとりをみるとわかります。ここにはソドムの王が現れて、アブラハムに、「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください」とあります。どういうことでしょうか?これは、「財産はあんたにやるから」ということでしょう。すなわち、自分が財産をアブラハムにやったので、アブラハムは富む者となったというのです。そのときアブラハムは何と言ったでしょうか。22,23節には、彼が、糸一本でも取らないと言いました。それは、アブラハムを富ませたのは私だとソドムの王に言わせないためです。すなわち、アブラハムはこの世の力によって支配されることを恐れたのです。彼にとって神様だけで十分でした。神様がおられれば、神様が祝福してくだいます。人間的にいろいろな小細工をしなくても、最終的に神様が祝福し、神様が責任を持って下さる。その信仰の表れだったのです。

そのような信仰に立つためには、神様を見上げなければなりません。それがシャレムの王メルキデゼクを通しての礼拝だったのです。このところをよく見ると、このシャレムの王メルキデゼクが表れたのは、17節で、ソドムの王がアブラハムを迎えに出て来たときでした。そのような外敵を打ち破ったときこそより深刻な内的な戦いがあることがわかります。それがこうした物質的な誘惑だったのです。そうした誘惑に勝利するために必要だったのは何でしょうか?そうです。神礼拝だったのです。礼拝を通して自分がどのような者であり、自分がよって立っているのは何なのかを確信して、自分を神様にささげること、それが必要だったのです。アブラハムの信仰は、そうした神礼拝に支えられていたのです。

考えてみると、彼がいたところにはいつも主のための祭壇があり、彼はいつも主の御名によって祈りました。(12:7,13:4,13:18)アブラハムの信仰は、そうした神礼拝によって支えられていたのです。ここに私たちの信仰の原点があります。それは、私たちは礼拝から始めていかなければならないということです。私たちが礼拝をささげるとき、神様が私たちの人生を守り、導いてくださいます。そうでないと本質を見失って失敗してしまうということです。礼拝が私たちの信仰生活の生命線なのです。アブラハムはそのことを知っていました。ですから、そうした物質的な誘惑が襲ってきたとき、彼はまず神様を礼拝し、自分をささげ、自分の持っているものをささげて、自分が何によって生きているのかを確認したのです。それが十分の一献金だったのです。

それは私たちも同じです。私たちもいつも神への礼拝を通して、神様がすべてであり、神様だけで十分であること、神様がともにおられるならば、神様が祝福してくださり、その必要のすべてを満たしてくださるということを確信しながら生きていかなければなりません。そうでないと、私たちもまたこの世の流れにながされて、いつも揺り動かされながら生きることになってしまうのです。人生の節目節目に、日々の歩みの節目節目に、神様を礼拝すること、それが私たちの生きる力となり、誘惑に勝利する力となるのです。アブラハムがささげた礼拝は、まさにそのためだったのです。

Ⅱテモテ2章1~7節 「キリストの恵みによって強くなりなさい」

Ⅱテモテ2章に入ります。きょうのタイトルは、「キリストにある恵みによって強くなりなさい」です。この手紙は使徒パウロによって書かれた彼の最後の手紙です。パウロは福音のゆえに再び捕えられ、ローマの地下牢に入れられました。いつ処刑されるかわからないという不安な状況の中で若いテモテに手紙を書き送ったのです。それは当時エペソの教会を牧会していたテモテが、教会にくすぶっていた問題の対応で疲れ、弱り果てていたからです。そんなテモテに対してパウロは、神から与えられた賜物を再び燃え立たせよと勧めました。なぜなら、神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊だからです。だから、この神の力によって、福音のために苦しみをともにしてほしい。そう勧めたのです。その良い模範がオネシポロという人でしたね。彼はパウロが捕えられたと聞くと多くの人たちがパウロから離れて行く中でも、むしろ、パウロが鎖につながれていることを恥じとも思わず、自分の命の危険をも顧みずに、ローマにいたパウロを捜してくれました。そのことでパウロはどれほど慰められたことでしょう。そのように、神の力によって、苦しみをともにしてほしいと願ったのです。

きょうのところでもパウロは、意気消沈していたテモテに対して、「キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい」と勧め、どうしたら強くなれるのかを具体的な三つのたとえを用いてわかりやすく説明しています。私たちも日々、さまざまな苦しみの中で弱さを感じることがありますが、そのような時、いったいどうしたら強くなることができるのか。きょうはこのことについてご一緒に学びたいと思います。

Ⅰ.キリスト・イエスの恵みによって(1-2)

まず1節と2節をご覧ください。1節を読みます。

「そこで、わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。」

パウロはⅠテモテ1章2節でも、テモテのことを「信仰による真実のわが子テモテ」と呼びましたが、ここで再び彼を「わが子よ」と呼んでいます。テモテはパウロによって救われた霊的な子どもでした。そんなわが子に対して霊的父親であったパウロが言いたかったことは、「強くなりなさい」ということでした。わが子に強くあってほしいと願うのはどの親も同じです。どんな困難な中にもめげないでほしい、むしろ困難な中にあればあるほどたくましくあってほしい、強くあってほしいと願うものですが、霊的父親であったパウロもそのように願っていたのです。いったいどうやったら強くなれるのでしょうか。

ここでパウロは、「キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。」と言っています。キリスト・イエスにある恵みによって強くなるとはどういうことでしょうか。

エペソ2章8節と9節には、私たちが救われたのは神の恵みによるということが書かれてあります。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」とあります。

私たちは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。私たちが何か良い行いをしたから救われたのではなく、救いは神の恵みによって与えられたものです。それは神の賜物なのです。賜物というのはプレゼントということですよね。プレゼントは与える人の一方的な好意によってなされるものであって、その人がしたいからするのであって、したくなければしなくてもいいのです。でも神様はそのプレゼントを私たちに与えてくださいました。それは、神はあなたを愛しておられるからです。だから神は、したくて、したくてしょうがなかったのです。それがイエス・キリストであり、イエス・キリストが十字架につけられて死なれるということでした。このイエスを信じる者は誰でも救われます。それが信仰です。だから、私たちが救われたのは私たちの行いによるのではなく、神の恵みによるのです。それは、私たちが何か頑張って獲得したものではありません。もし自分の力で頑張って獲得したものであれば恵みではありません。それは自力本願と言います。でもこうした自力の世界は頑張ることができるうちはいいのですが、頑張ることができなくなったとたんに不安になってしまいます。ですから、私たちはキリスト・イエスにある恵みにとどまっていれば強くなれますが、この恵みの外に出るととたんに不安になってしまうわけです。だからテモテはこの恵みによって強くなりなさいと言ったのです。

だからこれは「恵みによって強くなりなさい」ということではなく、恵みによって強くされなさいということなのです。実際にこの「強くなりなさい」ということばは、原語では受動態になっています。つまり「強くされなさい」ということです。自分の力で頑張って強くなりなさいということではなく、外側からの力によって、キリスト・イエスにある神の恵みによって強くされなさいということです。

使徒の働き1章8節には、「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」とあります。聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けるのです。その力によって、エルサレム、ユダヤ、サマリやの全土、および地の果てまで、キリストの証人になることができるのです。私たちがキリストを証することができるのは、自分の力によるのではなく、聖霊の力を受けることによってであって、その時にそのようになれるのです。

そのことをパウロは、エペソ人への手紙3章20節でこう言っています。「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、」私たちの力ではなく、私たちの内に働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことができる方、それが私たちの神であり、神の力なる聖霊なのです。

ピリピ4章13節には、こうあります。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」私たちができると言えるのは、私たちを強くしてくださる方によってです。その方こそイエス・キリストであり、イエス・キリストの恵みとあわれみによるのです。この方が御霊を通して私たちのうちに働いて、私たちはどんなことでもできるのです。私たちは、私たちを強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

ステラさんのためにお祈りありがとうございます。ステラさんは先週の火曜日に377gの赤ちゃんを出産されました。妊娠中毒症でこのままだと赤ちゃんのいのちもステラさんの命も危ないということで、妊娠26週でしたが、手術で出産しました。低体重に超がつくほどの超低体重児で、いろいろな障害が心配されましたが、今のところ奇跡的に守られ、少しずつですが、順調に生育しています。皆さんのお祈りを本当に感謝します。そして何よりも神様の恵みに感謝します。それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできるのです。私たちは、イエス・キリストにある神のめぐみによって強くなれるのです。

小さな赤ちゃんという点では、1982年にオーストラリアと生まれたニック・ブイチチ(Nick Vujicic)さんも同じでした。彼は、両手・両足のない赤ちゃんとして生まれました。生まれたとき上半身は肩から先がなく、下半身は2本の指を残して脚がありませんでした。原因は不明です。両親は牧師で、いつもイエス様のことは聞いていたので、神が愛であることは知っていました。そして、何度も手足をくださいと祈りましたが、応えられませんでした。やがて、自分は神に愛されていないのではないか、間違って生まれたのだと思うようになりました。将来、まともな職に就けないだろう。結婚もできないかもしれない。もしできても、生まれてきた子どもを抱くことすらできない。ニックさんは、少年時代から人生の希望を失っていました。学校では、できないことは山ほどありました。からかわれ、泣いた彼を両親は抱きしめてくれましたが、本当に心の痛みを知ることはできなかったでしょう。神がこの痛みを取り去ってくれないなら自分で・・と、10歳の時、風呂場で自殺を試みたほどです。でも、自分が死んだら両親がすごく悲しむことに気づき、思いとどまりました。しかし、今、ニックさんは「生きていることがとてもうれしい」と、言っています。「私を見てください。私は大学を卒業し、2つの学士を取得しました。不動産業の仕事にも就きました。各地に招かれて講演もしています」。小さな足で歩くことができる。水泳もできる。2本の足の指で、ピースサインはもちろん、1分間に43の単語が入力でき、字も書けます。
「真理が、私を自由にしたのです」。と晴れやかに言います。15 歳の時、ヨハネの福音書9章に出会いました。「盲人が盲目に生まれたのは、罪を犯したからではなく、神のわざが現れるため。」この個所を読んだとき、なぜ自分がこのようにして生まれてきたのかがわかりました。それは神の栄光のためです。神はご自分の栄光のために、自分にすべての人以上の計画をもっておられたのです。手足が与えられなくても、神を信じますと祈ったとき、神は状況ではなく心を変えてくださいました。そして、この神にあってどんなことでもできるという確信を持つことができるようになったのです。今、彼はキリスト教の伝道師として世界中を飛び回り、キリストの愛を至るところで語っています。先日も東京のビッグ・サイトで大きな集会がありました。そして、3年前には結婚して、今2歳になるこどもさんもおられるのです。すごいですね。彼は彼を強くしてくださる方によって今も力強く生き続けているのです。

私は、私を強くしてくださる方によってどんなことでもできる。これはニックさんだけでなく、神の恵みによって救われたすべての人に言えることです。私たちは弱い者ですが、しかし、私たちのうちにおられるイエス・キリストの恵みによって、どんなことでもできるのです。

イエス様はヨハネの福音書15章でこう言われました。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(15:5)イエス様がぶどうの木で、私たちは枝です。枝が木につながっていれば実を結ぶことができます。離れていては結ぶことはできません。非常にシンプルです。イエス様は自然界の真理をもってお語りくださいました。当たり前のことです。そしてそれは霊的にも言えることなのです。キリストはまことのぶどうの木で、私たちは枝です。私たちがこの方につながるならば、とどまるならば、多くの実を結びます。その方によって強くされるからです。

だからパウロは弱っていたテモテに言ったのです。テモテはいろいろな問題で心が塞ぎ、沈んでいましたが、しかし、わが子テモテよ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。キリスト・イエスを見なさい。その恵みにとどまるように。そうすればあなたは強くされるのです・・と。

2節をご覧ください。2節には、「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」とあります。

どういうことでしょうか。「私から聞いたこと」とは福音のことです。それを他の教える力のある忠実な人たちにゆだねなければなりません。テモテはパウロからこの福音のことばをゆだねられました。それを今度は他の教える力のある人たちに、次の世代の人たちにゆだねていかなければならないのです。なぜなら、そのように先に福音を信じた人がそれを他の人にゆだねて行くことによって、本当の意味で福音が広がり、霊的なリバイバルが持続されていくからです。これがキリストにある恵みによってあなたが強くされる理由であり、目的です。あなたはなぜ強くされなければならないのでしょうか。それはこの福音を他の人にゆだねていくためです。それはあなたのためではないのです。この福音のため、この福音が全世界に広がっていくために、あなたは強くされなければならないのです。

この時テモテはいろいろな問題に押しつぶされて、自分のことしか見えなくなっていました。そんなテモテにパウロはもっと広い視野で神様のみこころを示しているのです。あなたにゆだねられたこの福音が他の人たちにもゆだねられるために、あなたはキリストにある恵みによってほしいということだったのです。

Ⅱ.兵士のように、アスリートのように、農夫のように(3-6)

次に3節から6節までをご覧ください。パウロはここでキリストにある恵みによって強くされる人とはどういう人なのかを、三つのたとえを用いて説明しています。「キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者を喜ばせるためです。また、競技をするときも、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません。労苦した農夫こそ、まず第一に収穫の分け前にあずかるべきです。」

第一に、それは兵士のような人です。りっぱな兵士は勇敢です。彼らは自己犠牲の覚悟ができています。国を守るため、家族を守るため、どんな苦しみにも耐えて、いのちをかけて勇敢に戦うのです。しかし、一人で戦っているのではありません。私と苦しみをともにしてくださいとあるように、みんなで苦しみをともにするのです。みんなでその戦いの最前線に立って戦います。また戦っている最中は日常生活のことについて考えている暇などありません。24時間365日戦いに集中しています。彼らは司令官を喜ばせるために、自分に与えられた任務を最後まで全うするのです。

エペソ6章を見ると、クリスチャンにも戦いがあると言われています。それは霊的な戦いです。ですから、クリスチャンは霊的な戦いを戦っている兵士です。そうした戦いがあることを覚えていなければなりません。しかし、一人で戦っているのではありません。いっしょに戦っているのです。そして、司令官であるイエス・キリストを喜ばせるために、自分に与えられた任務を最後まで全うしなければなりません。

第二にパウロは、恵みによって強くされた人は兵士だけでなく、アスリートのようなものであると言っています。アスリートは、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません。2011年韓国の大邱(テグ)で行われた世界陸上男子100メートルの決勝で、ウサイン・ボルト選手がまさかのフライングで一発退場になりました。彼の走りをみたかった私はとても残念でしたが、それが競技というものです。どんなに速くても、競技はルールに従って走らなければ栄冠を得ることできません。

当時のギリシャのオリンピックには3つの規定があったそうです。一つは、競技者は純粋なギリシャ人でなければなりませんでした。二つ目に、オリンピックに出場する人は10カ月間の練習に参加しなければなりませんでした。三つ目のことは、当日の競技は、規定に従って行わなければならないということです。これを守らなければ失格となったのです。

ですから、優秀なアスリートは自己鍛錬を怠りませんでした。どんなに才能があっても日々の練習を怠るのであれば当然良い結果は期待することができないからです。長い期間、厳しいトレーニングを繰り返し、繰り返し行うのです。また自分に害のあるものを避けていきます。こうした苦しみを乗り越えるのは栄冠を得るという目標があるからです。

同じように私たちクリスチャンも、栄冠を目指して走るアスリートのようなものです。栄冠を得るためには日々、敬虔のための鍛錬が求められます。Ⅰテモテでそれを学びました。肉体の鍛錬もいくらかの益にはなりますが、敬虔のための鍛錬は今の世ばかりでなく、永遠に私たちにとって益となるのです。

パウロはピリピ3章でこのように言いました。「兄弟たちよ。私は、すでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。」(13-15)

そしてローマ皇帝ネロによって処刑されようとしている今、この世での生涯を終えようとしている今、彼はこのように言っているのです。Ⅱテモテ4章6節から8節のところです。

「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」(Ⅱテモテ4:6-8)

注ぎの供え物となるとは殉教することを指しています。もうすぐパウロは殉教します。そのような時にパウロが言ったことは、「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」ということでした。目標を目指して一心に走っていたパウロは、そのように言うことができました。彼は勇敢に戦い、走るべき行程を走り終えたのです。すばらしいことばです。私が死んだときにもし墓があるとしたら、このみことばを墓石に刻んでほしいくらいです。「走るべき道のりを走り終え・・・」今からは義の栄冠が用意されています。それはパウロだけに用意されているものではなく、主の現れを慕っているすべての人に約束されていることです。私たちもイエス・キリストから、「よくやった。良い忠実なしもべだ」と言われるように、栄冠を目指して、走り続けていきたいものです。

第三に、パウロはここで恵みによって強くされた人は、農夫のようだと言っています。兵士だけでなく、またアスリートのようであるだけでなく、農夫のような者でもあるのです。農夫のようであるとはどういうことでしょうか。農夫は労苦することを惜しみません。朝早くから夜遅くまで一生懸命に働きます。暑さにも寒さにも耐えて、汗水流しながら働くのです。アスリートはみんなから注目されますが、農夫が注目されることはありません。すごく地味ですよね。そして決まりきった毎日の作業をたんたんと繰り返し、繰り返しこなしているだけですが、でも根気強くそれを続けていけばどうなるかということをよく知っています。まず第一に収穫の分け前にあずかるということです。だれも注目しない、華やかでもない、エキサイトするような仕事でもありませんが、毎日たんたんと根気よく続けていけば、必ず収穫にあずかるのです。だから労苦を惜しまないのです。

私たちも農夫のような者です。福音のために労苦を惜しまなければ、必ず収穫にあずかれる時がやってきます。詩篇の作者はこう歌っています。「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。」(詩篇126:5-6)

涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取るのです。必ず刈り取りのとき、収穫の時が来るので、農夫は労苦を惜しまないですることができるのです。

Ⅲ.よく考えなさい(7)

最後に7節を見て終わりたいと思います。「私が言っていることをよく考えなさい。主はすべてのことについて、理解する力をあなたに必ず与えてくださいます。」

ここは、きょうの箇所のまとめの箇所です。パウロはテモテを励ますためにこの手紙を書きました。テモテは教会の内部の問題、そして、外からの迫害による苦しみによって、その信仰が弱まっていました。しかし、わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。あなたは私から学んだことを他の人たちにも教えなさい。あなたは福音のために戦う兵士のようです。あなたは栄冠を目指して走るアスリートです。あなたは収穫のために労苦する農夫です。そしてここで、テモテよ、あなたは私があなたに言っていることをよく考えなさい、深く考えるようにと言うのです。そして、主が理解できるように、すべてのことについて理解する力を与えてくださるようにと祈っています。

私たちはどうでしょうか。パウロが言っていることを理解しているでしょうか。恵みが何であるかを本当に理解しているでしょうか。そして神のことばを他の人たちにゆだねていくことの大切さを理解しているでしょうか。あなたは自分が兵士であることをしっていましたか。アスリートであることを知っていますか。農夫であることを理解していましたか。「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。」ということを知っていますか。そうした収穫の喜びは労苦の後にもたらされるということを知っていたでしょうか。そのことをよく考えなければなりません。そうすれば、困難に耐えることができます。福音のための苦しみをともにすることができるのです。

私たちの信仰生活は戦いの連続です。アスリートですから、それは競技場でもあります。農夫ですから、それは畑ですね。そこには労苦が伴いますが、しかし、やがて必ず勝利を、栄冠を、収穫を得ることになります。福音のために戦い続け、最後まで走り続け、労苦し続けるなら、必ず勝利と永遠と収穫を得るようになるのです。でもそれは私たちの力によるのではありません。聖書は何と言っていますか。キリスト・イエスにある恵みによってと言っています。キリスト・イエスにある恵みによって強められるのです。神の愛、神の恵み、神の力に満たされて、私たちも信仰の戦いを戦いつづけ、走り続け、収穫を得るために働き続け、神が与えてくださる栄冠を得させていただく者でありたいと思います。

民数記22章

きょうは民数記22章から学んでいきたいと思います。ここにはあの有名なバラクとバラムの話が出てきます。まず1節から6節までをご覧ください。

Ⅰ.恐れが引き起こす弊害(1-6)

「1 イスラエル人はさらに進んで、ヨルダンのエリコをのぞむ対岸のモアブの草原に宿営した。2 さてツィポルの子バラクは、イスラエルがエモリ人に行ったすべてのことを見た。3 モアブはイスラエルの民が多数であったので非常に恐れた。それでモアブはイスラエル人に恐怖をいだいた。4 そこでモアブはミデヤンの長老たちに言った。「今、この集団は、牛が野の青草をなめ尽くすように、私たちの回りのすべてのものをなめ尽くそうとしている。」ツィポルの子バラクは当時、モアブの王であった。5 そこで彼は、同族の国にあるユーフラテス河畔のペトルにいるベオルの子バラムを招こうとして使者たちを遣わして、言わせた。「今ここに、一つの民がエジプトから出て来ている。今や、彼らは地の面をおおって、私のすぐそばにとどまっている。6 どうかいま来て、私のためにこの民をのろってもらいたい。この民は私より強い。そうしてくれれば、たぶん私は彼らを打って、この地から追い出すことができよう。私は、あなたが祝福する者は祝福され、あなたがのろう者はのろわれることを知っている。」

ホルマでカナン人アラデの王に勝利したイスラエルは、そのまま約束の地にカナンに入るのかと思ったらそうではなく、ホル山からエドムの地を迂回して、葦の海の道に立ちました(21:4)。そこは厳しい荒野で、パンもなく、水もない状況で、その苦しみに耐えかねた民は神とモーセに逆らった結果、燃える蛇にかまれて多くの民が死に絶えるという悲惨な出来事がありました。けれども、神が示された救いの道、青銅の蛇を旗さおにかけ、それを仰ぎ見た者たちは救われ、破竹の勢いで前進していきました。そしてエモリ人の王シホンに勝利し、バシャンの王オグも打ち破ると、さらに進んで、ヨルダンのエリコをのぞむ対岸のモアブの草原にまで来ることができました。この「エリコ」はヨルダン川の西岸にある町で、死海の北端から少し北にある町です。ヨシュア記において、ヨシュア率いるイスラエルが初めに占領する町です。

そのモアブの地までやって来たとき、ツィポルの子バラク、これはこのモアブの王ですが、イスラエルがエモリ人に行ったことを見て、彼らが多数であるのを恐れ、ユーフラテス河畔のペトルにいたベオルの子バラクを招こうと、彼に使者たちを送りました。イスラエルをのろってもらうためです。彼が祝福する者は祝福され、彼がのろう者はのろわれるということを知っていたからです。

しかし、モアブの王バラクは、恐れる必要などなかったのです。なぜなら、申命記を見ると、イスラエルはエドム人やアモン人と同じようにモアブ人とも戦ってはならないと命じられていたからです。なぜなら、エドムはイスラエルの先祖ヤコブの兄弟エサウの子孫であり、アモン人とモアブ人はアブラハムの甥ロトの二人の娘の子孫だったからです。アブラハムのゆえにロトはソドムとゴモラから救い出されました。そのロトのふたりの娘の子供たちがアモン人とモアブです。ですから、彼らもまたこのアブラハムの約束のゆえに、神の祝福の中にいたのです。実際、モアブ人はイスラエルの歴史に関わり、イスラエルを堕落させたり、堕落したイスラエルをヤハウェが罰するときに用いられたりしますが、モアブ人の女の一人を、キリストであるイエスの先祖とするのです。だから、モアブ人は恐れる必要はなかったのです。それなのに彼らが恐れてしまったのは、神の約束ではなく、自分を守ろうとしたからです。自分で自分を守ろうとすると、私たちは恐れを抱きます。そして、恐れを抱くと反対に攻撃的になってしまいます。ですから、主が守っておられることを覚え、主にすべてをおゆだねすることが必要なのです。

ところで、バラクがイスラエルをのろうために使いを送ったバラムとはどのような人物だったのでしょうか。ここには、「ユーフラテス河畔のペトル」とありますが、申命記23章4節を見ると、そこには、「アラム・ナハライムのペトル」とあります。これはかつてヤコブのおじのラバンが住んでいたところです。創世記11章にあるテラの歴史の中に、テラは、その息子アブラハムと、ハランの子で自分の孫のロトと、アブラハムの妻である嫁のサライとを伴い、カルデヤのウルからハランまで来て、そこに住み着いたとありますが(創世記11:31)、そのハランのあたりにあれります。そこにはアブラハムの親戚が住んでいました。ですから後にアブラハムの子イサクが結婚する際に、そこに住んでいたアブラハムの兄弟であったナホルの家族から嫁をめとるようにと、その娘リべカと結婚するのです。そして、やがてヤコブがエサウから逃れて行ったのは、このリベカの兄弟、すなわちおじのラバンのところでした。

このハランのもう一つの特徴は、占いといった偶像崇拝がはびこっていたということです。ですから創世記31章で、ヤコブがラバンのもとを出てきたとき、ラケルはテラフィムを盗み出したのです。それは占いで使っていた偶像です。すなわち、そこは、ヤハウェなるイスラエルの神を知りつつも、他の偶像も拝んでいた地でありました。ですから、バラムもおそらくそのような人であったと考えられます。ヤハウェなる神は知っていましたが、他の神々とも交流する占い師だったのです。

しかし、そこはこのモアブの地から650キロも離れていることから、バラムがやってくるにはかなり距離があるため、それはエモリ人の境を流れていたアルノン川付近のことを指しているのではないかという考えもあります。はっきりしたことは言えませんが、そこがアラム・ナハライムのペトルであるとしたら、やはりバラムはハランの地域に住んでいた者とかんがえることができます。

Ⅱ.不義の報酬を愛したベオルの子バラム(7-20)

さて、バラクの使いたちが行ったとき、バラムはどのように応じたでしょうか。7節から20節までを見ていきましょう。

「7 占いに通じているモアブの長老たちとミデヤンの長老たちとは、バラムのところに行き、彼にバラクのことづけを告げた。8 するとバラムは彼らに言った。「今夜はここに泊まりなさい。が私に告げられるとおりのことをあなたがたに答えましょう。」そこでモアブのつかさたちはバラムのもとにとどまった。9 神はバラムのところに来て言われた。「あなたといっしょにいるこの者たちは何者か。」10 バラムは神に申し上げた。「モアブの王ツィポルの子バラクが、私のところに使いをよこしました。11 『今ここに、エジプトから出て来た民がいて、地の面をおおっている。いま来て、私のためにこの民をのろってくれ。そうしたら、たぶん私は彼らと戦って、追い出すことができよう。』」12 神はバラムに言われた。「あなたは彼らといっしょに行ってはならない。またその民をのろってもいけない。その民は祝福されているからだ。」13 朝になると、バラムは起きてバラクのつかさたちに言った。「あなたがたの国に帰りなさい。は私をあなたがたといっしょに行かせようとはなさらないから。」14 モアブのつかさたちは立ってバラクのところに帰り、そして言った。「バラムは私たちといっしょに来ようとはしませんでした。」15 バラクはもう一度、前の者より大ぜいの、しかも位の高いつかさたちを遣わした。16 彼らはバラムのところに来て彼に言った。「ツィポルの子バラクはこう申しました。『どうか私のところに来るのを拒まないでください。17 私はあなたを手厚くもてなします。また、あなたが私に言いつけられることは何でもします。どうぞ来て、私のためにこの民をのろってください。』」18 しかしバラムはバラクの家臣たちに答えて言った。「たといバラクが私に銀や金の満ちた彼の家をくれても、私は私の神、のことばにそむいて、事の大小にかかわらず、何もすることはできません。19 それであなたがたもまた、今晩ここにとどまりなさい。が私に何かほかのことをお告げになるかどうか確かめましょう。」20 その夜、神はバラムのところに来て、彼に言われた。「この者たちがあなたを招きに来たのなら、立って彼らとともに行け。だが、あなたはただ、わたしがあなたに告げることだけを行え。」」

7節には、モアブの長老たちだけでなくミデヤンの長老たちもバラムのところに行ったとあります。ここに急にミデヤン人が登場してきます。ミデヤンというのはエドムのずっと南方にあるアラビヤ半島の地域の民族です。モーセがエジプトの王パロから逃れたのがこのミデヤンの地でした。そしてその長老の娘チッポラと結婚して子供ももうけました。そのミデヤンの長老も一緒に出掛けて行ったというのは、そうしたイスラエルの快進撃にミデヤン人も恐れをなしたということです。彼らはアラビヤ半島から今のヨルダンにかける南北の広範囲に住んでいたようですが、後に、ヨルダン川の西側のイスラエルの相続地にも入ってきて、ギデオンが生きていた時代にはイスラエルを苦しめたりしていましたことからもわかります。

8節でバラムは、「主が私に告げられたとおりのことをあなたがたに応えましょう。」と言っていますが、この主とは神の個人名である「ヤハウェ」です。新改訳聖書の太字の「」はそれを表しています。つまり、バラムはイスラエルの神と交流していたのです。また9節の神もイスラエルの神を意味するヘブル語の「エロヒーム」ですから、彼はイスラエルの神と交流を持っていたことがわかります。その神が、「彼らといっしょに行ってはならない。またその民をのろってもいけない。その民は祝福されているのだから。」(12)と言われたので、バラムと彼らと一緒に行くことはしませんでした。

ところが、バラクの使いたちがそのことを帰ってバラクに告げると、バラクは前よりももっと大ぜいの、しかも位の高いつかさたちを遣わしました。もっと大勢の、もっと位の高いつかさたちを遣わしたということは、それだけたくさんの金銀も積まれたということです。ですからバラムは「たといバラクが私に銀や金の満ちた彼の家をくれても・・・」と言っているのです。たとえそれだけの金銀を積まれても、自分は神のことばにそむいて、何もすることはできません、ときっぱりと断りました。

ここだけを見ると、彼は立派です。しかし、19節を見ると、「それであなたがたもまた、今晩ここにとどまりなさい。主が私に何かほかのことをお告げになるかどうか確かめましょう。」と言っているのです。なぜ彼はこんなことを言ったのでしょうか。主のことばにそむいて、何もすることはしないと言うのならその時点できっぱりと断ればいいのに、今晩ここにとどまりなさい、と言っているのです。なぜでしょうか。未練があったからです。表面的には「どんなに金銀を積まれても・・・」みたいなことを言っていますが、まだどこか期待していたところがあったのです。ですから彼は19節で、「もしかすると、主が別のことを語られるかもしれませんから・・・。」と告げているのです。これはどちらかというと、それを期待しているかのようなニュアンスです。

なぜこのように言えるかというと、新約聖書にこの時のバラムの気持ちが語られているからです。Ⅱペテロ2章15節と16節にはこうあります。「15 彼らは正しい道を捨ててさまよっています。不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従ったのです。16 しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の狂った振る舞いをはばんだのです。」

「彼ら」とは、イスラエルの中から出たにせ預言者のことですが、彼らは正しい道を捨てて貪欲に走りました。そして、その一つの実例としてこのバラムのことが取り上げられているのです。バラムは口では実にすばらしいことを言っているようですが、その心はこのことに対する報酬をむさぼっていたのです。これが不義の報酬です。だからバラムは自分の罪をとがめられ、ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の狂った振る舞いをはばんだのです。

だったら、20節で神はなぜ「彼らとともに行きなさい」と言われたのでしょうか。行ってほしくなければ「行け」と言わなかったのではないでしょうか。違います。神は、あくまでも行ってほしくなかったのですが、神がそのように言ってもバラムは受け入れようとしなかったので、仕方なくそう言われたのです。つまり、これはバラムを突き放している言葉なのです。

このようなことは、私たちにもよく見られるのではないでしょうか。表面的には神に従っているようでも、あくまでも自分の思いを通したいということがあります。神様はみこころをはっきり示しているのにそれに従うよりも、どこまでも自分の思いを通したいのです。そのような時神は私たちをそのように突き放してしまわれます。突き放す中で、ご自分のみこころを示されるのです。それがその後に出てくるろばが人間のことばを話すという出来事なのです。

Ⅲ.ろばのことばを通して語られる主(21-30)

さて、次に21節から30節までをご覧ください。22節には、彼が出かけて行くと、主の怒りが燃え上がったとあります。なぜでしょうか。彼が出かけて行くことは主のみこころではなかったからです。主の使いが彼に敵対して道をふさいだので、ろばは道からそれて畑の中に行きました。その主の使いが抜き身の剣を手にもって道をふさいでいたからです。するとバラムはろばを打って道にもどそうとしました。彼はそれが神からの警告であることも知らずに、自分の意志を貫こうとしたのです。しかし、主の使いは、両側に石垣のあるぶどう畑の間の狭い道に立っていたので、石垣に身を押し付け、バラムの足を押し付けたので、バラムはまた、ろばを打ちました。すると、主の使いは、さらに進んで、右にも左にもよける余地のない狭い所に立ったので、ろばは、主の使いを見て、バラムを背にしてしてうずくまってしまったのです。そこでバラムは怒って、杖でろばを打ちました。するとどうでしょう。主はろばの口を開かれたので、ろばがしゃべったのです。

「私があなたに何をしたというのですか。私を三度も打つとは。」

バラムはびっくりしたと思います。ろばが人間のことばをしゃべったのですから。しかし、彼はろばにいいました。

「おまえが私をばかにしたからだ。もしつるぎを持っていたら殺すところだった。」と。

するとろばはまたバラムに言いました。

「わたしはあなたがきょうのこの日まで、ずっと乗ってこられたあなたのろばではありませんか。私がかつてあなたにこんなことをしたことがあったでしょうか。」

いったいろばが人のことばを話すということがあるのでしょうか。普通はありません。聖書の中で動物が人間のことばを話したというのは、ここと創世記の蛇だけです。しかし、神にはどんなことでもできるのです。これは事実、その通り起こったことです。ペテロは第二の手紙で、「しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の気違いざたをはばんだのです。」(2:16)」と説明しています。もちろん、ろばは当然、普通の状態であれば人の言葉を話せませんが、全能者であられる神は、このようにして、バラムの罪を示したのです。神はこのような特殊で、異様な光景を通して、バラムが自分のしていることがどういうことなのかを悟らせようとしたのです。

Ⅳ.神のみこころを悟ったバラム(31-41)

31節からのところをご覧ください。主はバラムがロバに対して語った言葉、「もし私の手に剣があれば、今、おまえを殺してしまうところだ。」と使って、反対に主がバラムを殺すつもりだったことを明かにされました。主は三度、ろばを通して警告を発せましたが、それでも止めることはなかったので、ろばの口を通して語られたのに、それでも彼は聞こうとしなかったのです。

しかし、主がバラムの目のおおいを除かれたので、彼はそれを悟ことができました。34節を見ると、バラムはこう言っています。「私は罪を犯しました。」と悔い改めています。そして、今、もし神のお気に召さないことであれば、引き返します」彼ははっきりと神のみこころを悟ったので、もう金銀には未練がありませんでした。神が行けと言えば行くし、行くなと言えば行かないということができました。彼はろばが人間のことばを語るという神のみわざを通して砕かれ、悔い改めることができたのです。

ですから、彼がバラクのところに行ったとき、バラクが「なぜ、すぐに来てくた゜さらなかったのですか。」といったとき、「神が私の口に置かれることばを語らなければなりません。」と答えたのです。不義の報酬を愛したバラムですが、ろばが人間のことばを話すことによって砕かれ、教えられ、神の道に立つことができたのでしょう。

私たちも不義を愛するバラムのような者ですが、そんな私たちを何とか正そうとして、神はあの手この手を使ってみこころを示しておられます。時にはバラムしたように、ろばのことばをとおして語らせることもあります。ですから、私たちはいつも柔和な心で神のみことばを聞き、神のみこころに従う者でありたいと思います。

Ⅱテモテ1章8~18節 「恥じてはいけません」

テモテへの手紙第二1章8節からのみことばです。きょうのタイトルは、「恥じてはいけません」です。これは、パウロによって書かれた最後の手紙です。使徒の働き28章30節を見ると、パウロは福音のゆえに二年間ローマで軟禁状態にありましたが、その後釈放されてマケドニヤ地方に行き、そしてスペインに行ったと言われています。その後スペインから戻って来ると再び捕えられ、今度はローマの地下牢に入れられました。そこでこの手紙を書くのです。なぜなら、エペソで牧会していたテモテが教会の問題で疲れ果て、弱っていたからです。先週のところには、「それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。」と勧めました。テモテは神から与えられた賜物を用いることができないほど弱っていたのです。そんなテモテを励ますために、パウロはこの手紙を書いたのです。

きょうのところでもパウロは、続いて彼を励ましてこう言っています。8節です。「ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。」

ここには「恥じてはいけません」とあります。この言葉はきょうの箇所に3回も繰り返して使われています。8節と12節と16節です。このように同じ言葉が繰り返して使われているということは、そのことが強調されているということです。そして、このことがこの箇所を貫いているテーマであると言ってもいいでしょう。いったい何を「恥じてはいけない」のでしょうか。それは、私たちの主をあかしすることや、パウロが囚人であることです。昔も今もそうですが、このように誰か自分の知り合いが捕えられたりすると、「あいつは犯罪者の知り合いだ」と言われるのが嫌で、それを恥じ、そこから去って行く人たちがいます。しかし、恥じてはいけません。

きょうはこのことについて三つのポイントでお話したいと思います。第一にその力です。いったいどうしたら苦しみをともにすることができるのでしょうか。それは神の力によってです。第二のことは、ではパウロはどうしてこのような苦しみを恥じなかったのでしょうか。それは自分の信じて来た方がどのような方であるかをよく知っていたからです。第三のことは、パウロのように恥じなかった人の模範です。その人はオネシポロという人です。この人の模範から学びたいと思います。

Ⅰ.神の力によって(8-10)

まず8節から10節までをご覧ください。8節をご一緒に読みましょう。「ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。」

「ですから」というのは、その前のところで語られてきたことを受けてということです。すなわち、神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。先ほども述べたように、昔も今も、誰か自分の知り合いが捕えられたということになると、そういう人とは関わりを持ちたくないと去って行く人が少なくありません。現にパウロが捕えられると、それを恥じて、彼から去って行く人たちがいました。しかしテモテよ、あなたはそうであってはいけないというのです。なぜなら、パウロが捕えられたのはローマの囚人としてではなく、主の囚人としてであるからです。つまり、何か罪を犯したからではなく、イエス・キリストのために、福音のために捕えられたのだからです。福音のために捕えられて、いったい何を恥じる必要があるでしょう。恥じることなど全く必要ありません。なぜなら、イエス・キリストを信じる者が福音のために苦しみを受けることは当たり前のことだからです。たとえば、3章12節を開いてみてください。ここには何と書かれてありますか。ここには、「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」とあります。

確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けるのです。ですから今パウロがこのような苦しみを受けているのは彼が敬虔に生きていたからであり、正しいことなのです。また、ピリピ1章29節にはこうあります。「あなたがたは、キリストのため、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。」

私たちは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。霊的祝福だけを受けたのではなく、それと共に苦しみをも受けました。ですから、聖書が教えていることは、イエス様を信じればすべてがうまくいくということではなく、苦しみも受けるということです。でもそれは幸いなことでもあります。なぜなら、福音のために迫害を受けるということは、神の側に立つことができたという証でもあるからです。イエス様はそのように言われました。マタイの福音書5章10節から12節までをご一緒に読みましょう。

「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。」

義のために迫害されている人は幸いです。主のために人々からののしられたり、迫害されたり、ありもしないことで悪口雑言を浴びせられるとき、幸いなのです。なぜなら、天の御国はその人のものだからです。一般的にはこういう人は最悪で、不幸な人のように思いますが、イエス様はこのように主のために迫害される人は幸いだと言われたのです。そういう人は天で大きな報い受けます。だから、喜びなさい。喜び踊りなさいと言われたのです。主の囚人であることを恥じことなど必要ありません。ではどうしたらいいのでしょうか。ここには、「むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください」とあります。福音のために苦しみをともにしてほしい。でも自分の力で苦しみに耐えることはできません。そんなことをしたら疲れ果ててしまうでしょう。だからパウロはここで、「神の力によって」と言っているのです。神の力によって、福音のために私と苦しみをしてください。そういうのです。神が私たちに与えてくださったものは何でしょうか。それはおくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。ですから私たちは、その神の力によって強められて、苦しみを担っていかなければならないのです。私たちが何とかがんばって耐えるのではなく、日々、御霊に満たされるなら、神がその苦しみに耐える力を与えてくださるのです。

では、神が与えてくださる力とはどのようなものなのでしょうか。9節と10節をご覧ください。

「神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。」

パウロはここで、私たちがどのようにして救われたのかを語っています。私たちが救われたのは私たちの力によるのではなく、神が私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいました。「聖」というのは選び別けるという意味で、この世と分離することを言います。この世と分離してどうなるのかというと、イエス様と同じ姿に変えられるわけです。それは御霊なる主の働きによるのです。このように私たちを救い、私たちをご自身と同じ姿に変えてくださるのは、私たちの働きによるのではなく、神のご計画と恵みによるのです。

そしてこの恵みはいつ与えられたのでしょうか。いつこの計画が立てられたのでしょうか。ここでパウロは「永遠の昔に与えられた」と言っています。エペソ1章4節には、「世界の基の置かれる前から」とあります。「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」世界の置かれる前からキリストにあってあなたを選び、ご自身の子にしようとあらかじめ定めておられたのです。すごいですね。自分ではある日たまたま教会に来て、何となくイエス・キリストを信じたかのように思っていましたが、そうではなく、神が選んでおられたのです。その神の選びに私たちが応答したのです。

ヨハネ15章16節にもありますね。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(ヨハネ15:16)イエス・キリストが、真の神が、あなたを選んでくださった。これほど確かな保障はありません。神があなたを救ってくださったのです。あなたが救われたのは神のご計画と恵みによるのです。

それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされました。神様の救いと恵みは永遠の昔、この世界の基の置かれる前に定められたものですが、それが今、イエス・キリストがこの地上に来られたことによって明らかにされたということです。神の約束のことばが現実のものとなりました。見えない神が見える形で来られたのです。この方がイエス・キリストです。イエス・キリストが現れたことによって、その救いの計画と恵みが明らかになったのです。キリストが来られ、私たちの罪のために十字架で死なれ、死んだだけでなくに三日目によみがえられたことによって、死の力を滅ぼされました。ですから、このキリストを信じる者は死んでも生きるのです。死の力は何の効力ももありません。それは私たちが死なないということではなく、確かに肉体は滅びますが、魂は永遠に生きるということです。キリストを信じる者にはこのような希望が与えられているのです。これが福音です。グッド・ニュースなのです。この福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。だからもう何も恐れることなどありません。パウロを支えていたのは、この死に高らかに勝利されたイエス・キリストの福音だったのです。それがもし私たちの力によるものであったのならどうでしょう。もやしのようにすぐに萎れてしまうでしょう。だから私の力によってではなく神の力によってなのです。私たちは困難な時代になればなるほど、この世のものではなく、将来に約束された永遠のいのちの希望を支えにしなければなりません。この希望を与えてくださった神の力によって、福音のために苦しみをもともにすることができるのだと、パウロはテモテに勧めたのです。

Ⅱ.神は真実ですから(11-14)

次に11節から14節までをご覧ください。続いてパウロはこう述べています。11節と12節をご一緒に読みましょう。

「私は、この福音のために、宣教者、使徒、また教師として任命されたのです。そのために、私はこのような苦しみにも会っています。しかし、私はそれを恥とは思っていません。というのは、私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。」

パウロは、この福音のために、宣教者、使徒、また教師として任命されました。宣教者というのは、イエスが救い主であることを公に宣べ伝える人のことです。まだイエス・キリストを信じていない人たちに対して、働きかけることです。私たちはみな罪人で、このままでは滅んでしまいます。でも神はあなたを愛しています。そのために神はイエス・キリストをこの世に与えてくださいました。そしてイエスがあなたの身代わりに十字架にかかってくださったので、あなたが罪を悔い改めてこのイエスを救い主として信じて受け入れるなら救われます。その福音を宣べ伝えることが宣教の働きです。

教師というのは、すでに救われた人たちがどのように歩むべきか、ただ救われるだけでなく神のみこころに従ってどのように歩むべきかを教える働きです。私たちは救われても神のことばを学ばなければ、霊的に、信仰的に成長していきません。ですから、神のことばを学ぶことはとても大切なことです。ですから、私たちの教会ではできるだけ1章1節ずつ、神のことばが何を教えているのかを学んでいるのです。イエス様は、「わたしは、この岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(マタイ16:18)と言われました。「この岩」とはイエス・キリストのことであり、イエスが神の御子であるという信仰の告白のことです。イエス様のことばと言ってもいいでしょう。イエスのことば、神のことばの上に立っている教会は絶対に倒れることはありません。それはハデスの門も打ち破ることができないのです。だから最初はチンプンカンプンかもしれませんが、忍耐して学び続けるなら、必ずわかるようになります。

ですから、まだイエス様のことを知らない人には、ぜひ福音を伝えてください。神が愛であること、罪人は滅んでしまうこと、だから神はイエス・キリストをこの世に与えてくださったということ、イエス・キリストがあなたの身代わりとして十字架にかかって死んでくださったということ、そして、三日目によみがえられたということ、そして悔い改めてこのイエスを信じるなら罪から救われ、永遠のいのちが与えられるということです。このことをぜひ伝えてください。そして、そのようにして救われた人は、神のみこころに歩むことができるように、神のことばを学んでください。教会ではそれを学ぶことができるのであって、パウロはそのために召されたのです。

そして使徒というのは遣わされた者たちのことです。これは狭い意味ではイエス様が直接任命した12名の弟子たちとパウロのことを指しますが、広い意味では主によって遣わされた者たちのことを言います。

パウロは、この福音のために召されたのです。そのために、このような苦しみに会っています。このような苦しみというのは、この時パウロは鎖につながれてローマの地下牢にいましたが、食べ物、飲み物もろくに与えられず、寒さに凍え、いつ処刑されるのかわからないという不安の中にいたわけです。でも彼の心は打ちひしがれてはいませんでした。彼はこう言っています。12節、「私はそれを恥とは思っていません。」なぜパウロはこのように言うことができたのでしょうか。その理由が、その次のところにあります。

「とういうのは、私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。」

というのは、彼は自分が信じて来た方がどういう方であるかをよく知っていたからです。また、その方は私のお任せになったものを、かの日のために守ってくださることができると確信していたからです。どういうことでしょうか。パウロは、神がどのような方であるのかをよく知っていました。ただ単に頭で知っていたというだけでなく、その生活の中で体験として知っていたのです。たとえば、彼は今投獄され、鎖につながれていましたが、これまでもそのような状態に置かれることが度々ありました。その度に神がどのようにしてくださったかを経験してきたのです。あのピリピで投獄された時はどうだったでしょうか。それは真夜中のことでした。パウロとシラスは神に祈りつつ賛美の詩を歌っていると、突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動いたかと思ったら、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまいました。囚人を逃がしたらその責任を負って処刑されなければならない看守はもうだめだと思って自害しようとしたら、奥の方が声が聞こえてきました。それはパウロの声でした。「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」すると看守ははあかりを取り、駆け込んできて、パウロとシラスの前に震えながらいうのです。「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」するとふたりは落ち着いた声で、しかもはっきりとこう言いました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」そしてその夜、看守とその家の者全部がバプテスマを受けたのです。ハレルヤ!たとえパウロたちが囚われても、神は囚われるどころか、そのようなところでも働いて救いのみわざ、神の栄光を現してくださいました。

ローマで囚われた時はどうでしたか。パウロがローマにやって来た時は自費で借りた家に住むことが許されましたが、ローマの兵士に24時間監視されていました。いわば軟禁状態だったわけです。しかし、ピリピ人の1章を見ると、このことがローマの兵士たち全員に知れ渡ったので、彼らの中からも救われる人たちが起こされたばかりか、このことで勇気と確信が与えられた兄弟たちが、ますます大胆に神のことばを語るようになった、と言われています。まさに災い転じて福となすです。

だから、今回もこのようにローマの地下牢に閉じ込められてはいるが、これまでの経験から言えることは、たとえどんなことがあっても神は最善に導いてくださると確信することができたのです。仮にたとえこのことによって死ぬことがあったとしても、愛の神はそれさえも用いてくださると信じていたのです。それは私たちに対する神の約束でもあります。

Ⅰコリント10章13節にはこうあります。「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」

すばらしい約束です。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えることのできないような試練に遭わせることはなさいません。むしろ、耐えることができるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。あなたにはこの確信があるでしょうか。もしそうならば、あなたも何も恐れる必要はありません。あなたには、すでに脱出の道が備えられているからです。

そればかりではありません。パウロはここで、「その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。」と言っています。どういうことでしょうか。「私のお任せしたもの」は新共同訳では、「私にゆだねられているもの」と訳しています。それは福音のことです。それをかの日まで、かの日とはキリストの再臨の日のことですが、その日まで守ってくださるという確信がありました。パウロは、たとえ肉体が滅んでも、神が永遠のいのちを保証してくださるという確信があったのです。また、神が彼に託された福音は、たとえ彼が殺されたとしても守られる、むしろ広がっていくと確信していたのです。

だから何も心配することはありませんでした。すべてを神にゆだねることができたのです。自分が信じていることの確信がある人は、どんな状況にあっても揺らぐことはありません。パウロは確信のある人でした。自分が信じている方がどういう方かをよく知っていたのです。だから彼はどんな状況にあっても揺らぐことはなかったのです。あなたはどうですか。このような確信がありますか。

だからあなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私から聞いた健全なことばを手本としなければなりません。そして、あなたにゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって、守らなければならなないのです。この健全なことばとか、良いものというのは、神のことば、福音のことです。テモテの回りには偽教師たちがたくさんいて、違ったことを教えていたので、何が真実なのかがわからなくなってしまうことがありました。ですから、彼が手本にし、彼が立たなければならなかったのは、彼がパウロから聞いた健全なことば、神からゆだねられた福音のことばだったのです。それを聖霊によって守らなければなりません。なぜなら、聖書の真の著者は聖霊ご自身ですから、それと違ったことを教えると、聖霊ご自身が「ちょっとおかしいなぁ」と気づかせてくれるからです。ですから、私たちは聖書が教えていることを正しく学び続けていく必要があるのです。

Ⅲ.福音を恥じと思わなかったオネシポロ(15-18)

最後に、福音を恥じと思わなかったオネシポロという信仰者の模範を見て終わりたいと思います。15節から18節までをご一緒に読みましょう。

「あなたの知っているとおり、アジヤにいる人々はみな、私を離れて行きました。その中には、フゲロとヘルモゲネがいます。オネシポロの家族を主があわれんでくださるように。彼はたびたび私を元気づけてくれ、また私が鎖につながれていることを恥とも思わず、ローマに着いたときには、熱心に私を捜して見つけ出してくれたのです。―かの日には、主があわれみを彼に示してくださいますように―彼がエペソで、どれほど私に仕えてくれたかは、あなたが一番よく知っています。」

パウロはこのエペソの町で3年間神のことばを教えました。特にツラノの講堂では2年間毎日教えて、アジヤにいる人たちはみな主のことばを聞いたと言われたほどでした。今でいうとトルコ地方です。すべての人が主のことばを聞いたのです。

ところが数年後、パウロが捕えられると、その人たちはみな残念ながら彼から離れていきました。その中には、フゲロとヘルモゲネがいますと名指しで言われています。おそらく彼らは長老だったのでしょう。罪を犯している長老はすべての人の前で責めなさいとありますから(Ⅰテモテ5:20)とありますから。彼らは自分たちに都合が悪くなるとパウロから離れていきました。

しかし、その人たちとは逆に、パウロが苦しかった時に助けてくれた人たちもいました。オネシポロの家族です。16節を見ると、彼はたびたびパウロを元気づけてくれ、またパウロが鎖につながれていることを恥じとも思わず、ローマについた時には、熱心にパウロを捜し出してくれました。

パウロが捕えられるとアジヤにいた人たちはみなパウロから離れ去って行きました。しかし、このオネシポロだけはそうではありませんでした。彼はエペソの教会の長老であり、ビジネスマンではなかったかと言われていますが、彼は主に仕えるということがどういうことかをよく理解していました。主に仕えるようにパウロに仕えました。そして、長老としてふさわしい行動をとったのです。物事が順調な時だけでなく、困難な時、苦しい時にどうするかでその人の真価が問われます。彼はみなが去って行く中、

自らパウロのところへ行ったのです。そしてパウロを元気づけました。おそらく食糧もなかったでしょうから、食糧を届けたことでしょう。そして、鎖につながれていたパウロを恥じとも思いませんでした。熱心にパウロを捜して見つけ出してくれました。パウロの仲間だと知れると、ローマに捕えられる危険性がありましたが、彼はその危険も顧みずにパウロを熱心に捜して見つけ出し、そして食糧も与えて元気づけて、パウロを励ましてくれたのです。パウロはどれほど慰められたことかと思います。

箴言17章17節をお開きください。

「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。」

苦しい時にひとりで苦しみを負うのは大変です。だれかがそばにいてくれるだけでその苦しみは和らぎます。その苦しみを分け合うために兄弟は存在しているのです。パウロは苦しい状況の中にいました。肉体的にも、精神的にも、霊的にも、いろいろなプレッシャーがある中で苦しんでいました。そして一番の苦しみは、そのような苦しみの中で去って行く人がいたことです。そんな中で苦しみや痛みを分かち合ってくれる兄弟、信仰の友、信仰の家族、仲間がいるといこうとは大きな慰めであり、支えです。それがオネシポロでした。だから、オネシポロのことを思ったとき、もう祈らずにはいられませんでした。主よ、かの日には、主があわれみを彼に示してくださいますように。その労苦に十分に報いてくださるように。そう祈らずにはいられませんでした。

オネシポロのような人が主に喜ばれる人です。私たちも神の力によって、主のために、また福音のために、苦しみをともにできる人でありたいですね。いい時だけでなくて、どんな時でも、主のために、福音のために苦しみをともにできる。そして福音を恥じとしない。パウロはあなたの力によって頑張りなさいとは勧めているのではありません。そこを勘違いなさらないでください。あくまでも神の力によってです。神の力によって、福音のために、私と苦しみをともにしてください。そのようにパウロはテモテに勧めました。私たちも主のために、福音のために、祝福と同時に、神の力によって苦しみもともにしてまいりましょう。

ⅡTimothy1:1-7 “Fan into flame the gift of God”

From today on let’s look at the second letter to Timothy. This is the last letter that Paul wrote. It is thought that he probably wrote it around 66 A.D. just before Paul’s martyrdom. At this time Paul was shut up in the Roman underground prison. If you look at Acts 28:30 and 31, Paul who had come to Rome “for two whole years…stayed there in his own rented house and welcomed all who came to see him. Boldly and without hindrance he preached the kingdom of God and taught about the Lord Jesus Christ.” After this he was temporarily set free and he went as far as Spain preaching the Gospel. Then when he returned again to Rome, he was arrested by the Roman emperor Nero and was shut up in the Roman underground prison. The place was a poor environment made of carved out rock and no sunlight came in at all. Under such conditions Paul who knew that his time of death was near wrote this letter to his disciple, Timothy.  He really wanted to talk to him in person, but in his situation that didn’t seem possible so he wrote this letter telling what he really wanted to say. These last words of Paul were written with his death right before his eyes so they really carry considerable weight. He wrote what he really wanted to say badly. What was it that Paul really wanted to say?

Already we have seen some things in the first letter that he wrote to Timothy. In today’s passage Paul is advising not to become timid. Please look at chapter 1 verse 6. Here it says, “For this reason I remind you to fan into flame the gift of God, which is in you through the laying on of my hands.” Apparently Timothy was timid and lacked confidence.  This may have come from him being young and so he may have lacked confidence in his relationships with the elders. It also may have come from the troubles and anxiety of dealing with false teachers. Even though the reason is not clear, it is apparent that a lack of confidence was a serious problem for Timothy.  The flame of “the gift of God” is about to go out. Paul is warning Timothy that that must not happen. “The gift of God which is in” (6) Timothy “through the laying on of” (6) Paul’s hands must not become cold. It must be fanned into a flame again. That is because “God did not give us a spirit of timidity, but a spirit of power, of love and of self-discipline.” (7)  Today let’s look at three aspects of how we can overcome fear and “fan into flame the gift of God.” (6)

 

  1. The promise of life has been given (Vs. 1,2)

First please look at verses 1 and 2. “Paul, an apostle of Christ Jesus by the will of God, according to the promise of life that is in Christ Jesus,

To Timothy, my dear son:

Grace, mercy and peace from God the Father and Christ Jesus our Lord.”

 

Here Paul says, “Paul, an apostle of Christ Jesus by the will of God, according to the promise of life that is in Christ Jesus.” (1) He didn’t become an apostle because he thought he would become or wanted to be an apostle. He became “an apostle of Christ Jesus by the will of God.” (1) Everything is “by the will of God.” (1) If we know that then we don’t fall into complaining and dissatisfaction or self-pity.  For Timothy the pastorship of the Ephesian church was extremely difficult. However, it was “by the will of God” (2) that he became the Ephesian Church pastor. If you know that what you are doing is “by the will of God” (1) then you can certainly overcome the difficulties and moreover, you can be thankful.

Also here it says that Paul became an apostle “according to the promise of life that is in Christ Jesus.” (1) This is according to the promise of eternal “life that is in Christ Jesus.” (1) Those who believe in Jesus Christ are promised eternal life. If we believe that then there is no need to fear anything. We go this way and that way according to what is before us because we think that the things of this world are everything.  However, if we look to heaven, “according to the promise of life” we can overcome all difficulties.

Paul says the following in II Corinthians 4:16 to 5:9: “Therefore we do not lose heart.  Though outwardly we are wasting away, yet inwardly we are being renewed day by day.  For our light and momentary troubles are achieving for us an eternal glory that far outweighs them all. So we fix our eyes not on what is seen, but on what is unseen.  For what is seen is temporary, but what is unseen is eternal.

Now we know that if the earthly tent we live in is destroyed we have a building from God, an eternal house in heaven, not built by human hands.  Meanwhile we groan, longing to be clothed with our heavenly dwelling, because when we are clothed, we will not be found naked.  For while we are in this tent, we groan and are burdened. Because we do not wish to be unclothed but to be clothed with our heavenly dwelling, so that what is mortal may be swallowed up by life.  Now it is God who has made us for this very purpose and has given us the Spirit as a deposit, guaranteeing what is to come.

Therefore we are always confident and know that as long as we are at home in the body we are away from the Lord.  We live by faith, not by sight. We are confident, I say, and would prefer to be away from the body and at home with the Lord. So we make it our goal to please him, whether we are at home in the body or away from it.”

Paul says here, “our light and momentary troubles”. (II Cor. 4:17) Really they are not “light and momentary troubles”. (II Cor. 4:17) They are very heavy! However, when they are seen from the perspective of eternity, these difficulties diminish in importance and weight. The eternal glory “far outweighs them all.” (II Cor. 4:17) Those who believe in the Savior Jesus Christ are promised this “eternal glory that far outweighs them all.” (II Cor. 4:17) That is “an eternal house in heaven, not built by human hands.” (II Cor. 5:1) Now certainly on this earth while we are in this earthly body we carry many kinds of loads and groan, but when in the course of time there will come a time when our physical body will perish and at that time we will enter into our “eternal house in heaven”. (II Cor. 5:1)

Paul accepted this at face value. Therefore, no matter what happened he was not moved. Even though he was tortured from all sides, he never reached the end of his rope. That was because he believed that even if he died, living life, eternal life, would be given to him.

Anyone who believes in Jesus Christ, who is in Christ, will live, even though he dies. Of course Christian’s bodies will perish, but their souls will definitely not die.  For Christians death is like moving.  We move from this earth to heaven. This is a much more wonderful place than this earth. It’s more wonderful than Hawaii! It is so much more wonderful that it is incomparable. That is the eternal kingdom in heaven. In the course of time when Christ comes again we will receive an unperishable spiritual body and for eternity praise and worship the Lord. Our physical body becomes tired, sick, commits sin, and groans a lot from being far from perfect. However, the body that we will receive in the course of time is imperishable, a perfect body. We will receive such a body.  Therefore, for Christians death is something to look forward to, something that we can hardly wait for. Of course, there is the loneliness of being temporarily away from our families on this earth, but we know that in the course of time we will be able to meet again in heaven so we can overcome that sadness.

In general when we say that a person has died, we say that “he passed away”. However, for Christians he hasn’t “passed away”, but he has only just “moved away”. He has moved from this earth to heaven.  Now he is living in heaven. For Christians death is only the entrance to the glorious heaven. On this earth the last moment is linked to the first moment in heaven. When we close our eyes for the last time on this earth, in the next moment when we open our eyes we will see Jesus’ face. That is Paradise. Therefore, it is only natural that we would want to go to heaven. Paul said, “I desire to depart and be with Christ.” (Phil. 1:23) I can understand his feelings. This promise of life is given to all Christians.

We want a better life, to be richer, to have fun, to enjoy life, a life without any inconveniences. We want to be healthier, more beautiful, and have a more enjoyable life. Of course, to think like this is not bad, but if you obsessed with it, you uselessly waste money, time and strength. However, if we know not only about life on this earth, but also that eternal life has been given to us, it is no longer necessary for us to dwell upon such a manner of living. At the time Paul wrote this letter he was shut up in the Roman underground prison. Even though he was in such a poor environment, he was thankful from his heart to the Lord. That was because he believed in the promise of eternal life. All is in the will of God. To live and to die is all in the hands of God. If we know that even if we die that a living life has been given to us, then that is also gain. Therefore, we can put all in God’s hand. “To live is Christ and to die is gain.” (Phil. 1:21) Therefore, it is not necessary for Christians to worry about anything. To be alive in this world in and of itself is thankfulness. To die is also Hallelujah! That’s because we know we are going to heaven. Paul is trying to tell Timothy this.

 

  1. Night and day you are remembered in prayer (vs. 3,4)

The second point is about prayer.  Please look at verses 3 and 4. “I thank God, whom I serve, as my forefathers did, with a clear conscience, as night and day I constantly remember you in my prayers.  Recalling your tears, I long to see you, so that I may be filled with joy.”

Paul constantly remembered Timothy in his prayers both at night and day. Paul was in an underground prison so he may not have known when it was day or when it was night. However, in any case, he was always praying for Timothy. For Christians there is no greater encouragement than intercessory prayer. Paul knew well Timothy’s personality and also the situation he was in so it wasn’t just customary prayer, but he could pray from his heart seeking God’s help. Even though he was in the prison, even if he was tied by chains, he could pray. Not only that, but Paul’s personal prayers were night and day, 24 hours a day. He constantly remembered Timothy. How great an encouragement that was for Timothy!

Now he is in heaven, but Rev. Kuester who was the pastor of the Calvary Baptist church of Gardena that sent out my wife to Japan in 1979 always remembered us in prayer. Several years after Rev. Kuester retired when we visited in his home in Oakhurst near Yosemite. Rev. Kuester brought out a really worn out paper asking whether or not any of the prayers requests had been answered or not and if we had any new requests. The paper was a monthly prayer calendar that my wife had made many years ago when we gave a report at Calvary Baptist church of Gardena when Rev. Kuester was still pastoring there. Rev. Kuester had been praying for us every day with that calendar for years! We realized how much we were supported by prayer! That was such an encouragement for us!

However, what we must not forget that more importantly Jesus Christ is praying for us. Please open your Bibles to Romans 8:34. “Who is he that condemns? Christ Jesus, who died-more than that, who was raised to life-is at the right hand of God and is also interceding for us.” Jesus Christ is sitting “at the right hand of God and is also interceding for” (Romans 8:34) you.

Also let’s open our Bibles to Hebrews 7:24 and 25. Here it says, “But because Jesus lives forever, he has a permanent priesthood. Therefore he is able to save completely those who come to God through him, because he always lives to intercede for them.” A priest is a person that intercedes for us. Christ as a priest that “lives forever” (Hebrews 7:24) and is alive now too, lives to intercede for us.

Verse 4 says, “Recalling your tears.” Jesus recalls your tears. Just as Paul knew Timothy so well, rather more than that, Jesus knows you well and “Recalling your tears” intercedes for you.

In ancient Christianity there was a great theologian named St. Augustine. Until he was saved at the age of 33 he led a pretty terrible life. His mother was a Christian, but to her dismay Augustine left the church and became an active follower of a pagan religion called Manichaeanism. At about the age of 19, Augustine began an affair with a young woman in Carthage. The woman remained his lover for over thirteen years and gave birth to his son, Adeodatus. The person whose heart ached over this was his mother, Monica, who was a Christian. She prayed endlessly for her son. She prayed, and prayed, and prayed.  She was greatly encouraged by a certain holy bishop. He saw Monica praying with tears and consoled her with the now famous words, “the child of those tears shall never perish.” Monica ultimately had the joy of seeing Augustine convert to Christianity after 17 years of resistance. He was baptized in April when he was 33 years old.  His mother, Monica, died that year in the Fall. Truly because of his mother’s prayers the great theologian of the ancient church, St. Augustine was born.

Jesus Christ recalls your tears. He knows you well and even now is praying for you. There is no greater encouragement than this.

There is a Japanese Christian song called “Don’t forget”. The words of the song are: Don’t forget that always Jesus is watching over you. Therefore always keep a smile in your heart.

However, someday a violent storm will blow away your smile. Therefore always let the Word of God slip out from your heart.

Don’t forget that the night of sadness will change to the hope of morning to quickly get back your constant smile.

Don’t forget that Jesus is praying for you. If so then you will receive courage and strength and no matter how violent of a storm comes upon you, you will be able to overcome and can have joy and peace in your heart. If the Word of God doesn’t slip out of your heart, the night of sadness will change to the hope of morning.

 

  1. You have been given a sincere faith (Vs. 5-7)

The third point is to remember that you have been given a sincere faith. Please look at verse 5. “I have been reminded of your sincere faith, which first lived in your grandmother Lois and in your mother Eunice and I am persuaded now lives in you also.

Here Paul is reminded of Timothy’s faith.  The reason that Paul is reminded of Timothy’s faith is as verse 6 says, “fan into flame the gift of God, which is in you through the laying on of my hands,” by being reminded of his faith Paul wanted to encourage Timothy to “fan into flame the gift of God” (6) once again. Then Paul says that Timothy’s faith is a “sincere faith.” (5) This “sincere faith” (6) is a real faith. Paul is saying that therefore, Timothy must stand on that faith. That is because this faith will help him overcome his difficulties. There is a saying, “Remember your original intention.” When we walk in faith various unimportant things get stuck on our faith and without notice we become separated from this pure faith. Our pure faith falls into impure faith. However, if we stand in pure faith we can “fan into flame the gift of God” (6) again. We won’t have to worry about the various voices around us, and just stand firmly on the pure faith that the Lord has given us.

Let’s look at how Timothy was given pure faith.  Here it says, “I am reminded of your sincere faith, which first lived in your grandmother Lois and in your mother Eunice and, I am persuaded now lives in you also.” (5) It lived in his grandmother and mother and that faith was passed down to Timothy. Probably they entered into the faith when Paul went to Lystra on his first missionary trip. The family was brought up and supported well by that faith. Therefore when Paul visited Lystra the second time Timothy joined the ministry. Timothy’s mother, Eunice was a Jewish Christian and his father a pagan Greek. Even in the midst of this he made the Gospel of Christ an important part of his life. “Lois” means “a person that gives a good feeling” and “Eunice” means “a good victory”. Timothy’s family through the Gospel of Jesus Christ was given a good feeling and victory. From this a pure faith grew up.

From this we can see how important it is to pass down the faith. So that a pure faith like Timothy is grown up we need to think once more about what faith in the family should be like. Then since such a pure faith is given we must continue to stand on it. If so, we will not be shaken up by circumstances, but by receiving God’s help and power we can rise up.

Please look at verse 6. Here Paul says, “For this reason I remind you.” “For this reason” (6) is referring to the contents of verse 1 and on. In other words, it is that the promise of eternal life has been given to Timothy. It is also that Timothy is being prayed for day and night. Also he has been given a pure faith.  Therefore, he must “fan into flame the gift of God” (6) again. The flame is about to go out because Timothy had forgotten to fan it. He had been depending on his own knowledge and power rather than God’s knowledge and power. Rather than being God centered he had been pastoring by human opinion. The real solution can be brought by God only. “For God did not give us a spirit of timidity, but a spirit of power, of love and of self-discipline.” (7) By God’s Spirit we can “fan into flame the gift of God” (6) and can work with confidence and power.

In what areas do you lack confidence? Work? Health? Human relationships? Financial? We have many kinds of fear. However, such fears cause the “gift of God” (6) to burn out. Who you must fear is God who has power to throw your soul into hell. We must fear God. If you fear God, then there is nothing to be fearful of on this earth. Paul wasn’t fearful before the Roman emperor Nero. That’s because he knew what God had given him. That was not “a spirit of timidity, but a spirit of power, of love and of self-discipline.” (7) “Self-discipline” (7) includes an ability to make calm decisions. Here Paul says, “For God did not give us.” (7) “Us” (7) also includes Paul himself. Such things were given to Paul so he was not fearful.

This can be said of us too. We too have been given “a spirit of power, of love and of self-discipline.” (7) Therefore, it is not necessary to be fearful of anything. Rather, let’s pray seeking the power from above and that the flame of love will burn more and more. Also then while examining all of our actions by a calm knowledge, let’s “fan into flame the gift of God” (6) This is what Paul with martyrdom right in front of his eyes wanted to say so badly.

Ⅱテモテ1章1~7節 「神の賜物を燃え立たたせよ」

きょうから、第二テモテから学びたいと思います。この手紙は、パウロが書いた最後の手紙です。使徒の働き28章30節を見ると、パウロはローマで自費で借りた家に満二年間住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝えることができましたが、その後彼は釈放されてスペインまで出かけて行きました。しかし、ローマに戻って来た彼は再び捕えられ、今度はローマの地下牢に入れられました。それは岩を掘ったような所で、全く陽の光が入らない劣悪な環境にありました。そこで彼は打ち首にされるのを待っていたのですが、そのような中にあって彼はエペソの教会で牧会していたテモテに手紙を書き送るのです。それはテモテが牧会で疲れ果て、弱っていたからです。教会には違った教えをしたり、果てしのない空想話や系図などに心が奪われている人たちがいました。また、テモテを見下げる高慢な者やことばの争いをする病気にかかっている人たちがいて、その対応にとても苦慮していたのです。そんなテモテを励ますためにパウロは、この手紙を書いたのです。

その内容については既に第一の手紙で見てきましたが、ここにはもっと力強い励ましがなされています。1章6節をご覧ください。ここには、「それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。」とあります。先ほど申し上げたように、この時テモテはかなり不安と恐れがあり、おくびょうになっていました。それで彼は、神から与えられた賜物を用いないでいたのです。そこでパウロはテモテに注意を与えました。パウロが按手をもってテモテのうちに与えられた神の賜物をくすぶらせるようなことがないように、それを再び燃え立たせるように、と勧めたのです。なぜなら、神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊だからです。いったいどうしたら不安と恐れを克服し、神から与えられた賜物を燃え立たせることができるのでしょうか。きょうはこのことについて三つのことをお話したいと思います。

Ⅰ.いのちの約束が与えられている(1-2)

まず1節と2節をご覧ください。「 神のみこころにより、キリスト・イエスにあるいのちの約束によって、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、 愛する子テモテへ。父なる神および私たちの主キリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安がありますように。」

ここでパウロは、「神のみこころにより、キリスト・イエスにあるいのちの約束によって、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、」と言っています。彼が使徒となったのは自分でそのようになろうと思ってなったのではなく、神のみこころによってであるというのです。すべては神のみこころによるのです。このことがわかっていれば不平不満や自己憐憫に陥ることはありません。テモテにとってエペソでの牧会は困難を極めるものでしたが、それもまた神のみこころによるのです。神のみこころによるということがわかれば、そうした困難も必ず乗り越えることができます。むしろ、感謝することさえできるのです。

また、パウロはここで、キリスト・イエスにあるいのちの約束によって、使徒となったと言っていますが、これはどういうことでしょうか。これは、キリスト・イエスにある永遠のいのちの約束によってということです。イエス・キリストを信じる者には永遠のいのちが約束されています。このことを信じているなら、いったい何を恐れる必要があるでしょうか。いったいなぜ私たちは目の前のことで右往左往するのでしょうか。それは、この地上のことがすべてだと思っているからです。でも天を見上げるなら、私たちに与えられている永遠のいのちの約束のゆえに、この地上のすべての困難に勝利することができるのです。

Ⅱコリント4章16節から18節を開いてください。ここには、「16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」とあります。パウロはここで、「今の時の軽い患難は」と言っています。本当は軽くなどありませんでした。かなりヘビーだったはずです。それなのに今の時の患難を軽い患難と言えたのは、やがてもたらされる永遠の栄光がどれほど重いものであるかを知っていたからです。救い主イエス・キリストを信じる者には、この重い永遠の栄光が約束されているのです。それは人の手によらない天にある永遠の家です。確かに今、この地上にあって肉体の中にいる間は、様々な重荷を負ってうめいていますが、やがてこの肉体が滅びる時がやって来ます。その時イエス・キリストにある者は、天にある永遠の家に入るのです。

パウロはこれを額面通り受け入れていました。ですから、どんなことがあろうとも動じることがなかったのです。四方八方から苦しめられても、窮することがなく、途方に暮れても、行きづまることがなく、迫害されても、見捨てられることなく、倒されても、滅びませんでした。なぜでしょうか?死んでも生きるいのち、永遠のいのちが与えられるということを信じていたからです。

皆さん、イエス・キリストを信じ、キリストの中にある者は、死んでも生きるということを知っていますか。クリスチャンは、確かに肉体は滅びますがその霊は決して死ぬことはありません。クリスチャンにとって死は引っ越しをするようなものです。この地上から天国への引っ越しです。そこはこの地上よりもはるかにすばらしい所です。以前ハワイのマウイ島に行った時、「ああ、こんなところに引っ越して来られたらなぁ」と思いましたが、天国はハワイどころではないのです。それとは比較にならない、もっとすばらしい所です。それは天にある永遠の御国です。そこでやがてキリストが再臨される時、朽ちることがない霊のからだをいただき、永遠に主を賛美し、主をほめたたえることができるのです。この肉体は疲れたり、病気になったり、罪を犯したりと、本当に不完全でうめき苦しむことが多いですが、やがて与えられるからだは朽ちることのない、完全なからだです。それをいただくのです。だから、クリスチャンにとって死は楽しみで、楽しみで仕方ないのです。勿論、この地上の家族との一時的な別れの寂しさはありますが、やがて天で再会できるということがわかっているので、その悲しみも乗り越えることができるのです。クリスチャンにとって死は、栄光の天国への入り口にすぎません。この地上での最後の一息は、天国での最初の一息につながるのです。この地上で最後に息をつく時、その直後に息をするのは天国です。この地上で最後に目を閉じた時、次の瞬間に目を開けて見るのはイエス様の御顔なのです。そこはもうパラダイスです。だから、早く天国に行きたいと思うのは自然のことなのです。パウロが、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています、という気持ちがよくわかります。このいのちの約束がすべてのクリスチャンに与えられているのです。

いったいなぜ私たちはこの世のことにそんなに執着しているのでしょうか。もっといい生活がしたい、もっとリッチで、もっと楽で、もっと快適な、何一つ不自由のない生活がしたい。より健康で、より美しく、より楽しい生活がしたい。勿論、そう思って悪いわけではありませんが、でもそれに執着しすぎると、あまり捕らわれすぎると、いたずらにそこに時間とお金と労力を空費してしまうことになります。しかし、私たちはこの世のいのちだけではなく、永遠のいのちが与えられているということを知るなら、もはやそうした生き様にこだわる必要はありません。この時パウロはローマの地下牢に閉じ込められていましたが、たとえそのような劣悪な環境に置かれていても、心から主に感謝することができました。それは永遠のいのちの約束を信じていたからです。すべては神のみこころであり、生きるも死ぬもすべては神の御手の中にあります。そして、死んでも生きるいのちが与えられているということを知れば、それもまた益であると神にゆだねることができるのです。生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。だからクリスチャンは何も悩む必要がないのです。この世に生かされていること自体が感謝であり、死んでもハレルヤです。だって天国に行くことがわかっているのですから。パウロはこのことをテモテに伝えようとしたのです。

Ⅱ.夜昼、祈られている(3-4)

第二のことは祈りです。3節と4節をご覧ください。「 私は、夜昼、祈りの中であなたのことを絶えず思い起こしては、先祖以来きよい良心をもって仕えている神に感謝しています。 私は、あなたの涙を覚えているので、あなたに会って、喜びに満たされたいと願っています。」

パウロは、夜昼と、テモテのことを絶えず思い起こして祈っていました。日が入らない地下牢ですから、いつ夜で、いつ昼なのかわからなかったかもしれませんが、とにかく、彼はテモテのためにいつも祈っていました。クリスチャンにとって何が励ましになると言って、とりなしの祈り以上の励ましはありません。パウロは、テモテの性格も、また置かれた状況もよく知っていたので、おきまりの祈りではなく、神の助けを求めて、心から祈ることができました。たとえ牢獄にいても、たとえ鎖につながれていても、祈ることはできました。このようなパウロの個人的な祈りは、しかも、夜昼と24時間、いつも思い出して祈る祈りは、テモテにとってどれほど大きな励ましであったことでしょう。

今はもう天国に行きましたが、1979年に家内が来日した時、家内を遣わした時にアメリカの教会の牧師だったキースター先生は、いつも私たちのことを覚えて祈っていました。キースター先生が退職して数年後のことですが、ヨセミテの近くにあるオーカーストという町がありますが、その町に住んでいたキースター先生の家を訪ねたことがありました。その時、キースター先生はボロボロになった1枚の用紙を持って来て、「この祈りの課題で答えられたことがありますか。他に祈ることがありますか。」と言いました。それは家内がその数年前に作った祈りのリクエストでした。キースター先生はその紙に書かれて祈りのリクエストを見て朝晩と祈ってくれていたのです。どれだけ祈られていたかは、そのボロボロになった1枚の紙が物語っていました。それまで私は、自分が頑張って伝道していると思っていましたが、それを見た時、そうじゃないということに気付かされました。そうではなく、こうした祈りに支えられて、一つ一つの神のみわざがなされたんだと思い、本当に慰められました。

しかし、私たちが忘れてはならないことは、あのパウロよりももっと偉大なイエス・キリストが、私たちのために祈っていてくださるということです。ローマ人への手紙8章34節を開いてください。ここには、「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしてくださるのです。」とあります。イエス・キリストは、神の右の座に着いて、あなたのためにとりなしておられるのです。

またヘブル人への手紙7章24節と25節も開きたいと思います。ここには、「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。25 したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」とあります。祭司とは、私たちに代わって神にとりなしをする人ですが、キリストは永遠に存在しておられる祭司として、今も生きて、私たちのために、とりなしてしておられるのです。

4節には、「あなたの涙を覚えているので」とあります。皆さん、イエス様はあなたの涙を覚えているのです。パウロがテモテのことをよく知っていたように、いやそれ以上にあなたのことをよく知っておられるイエス様が、あなたの涙を覚えて祈っていてくださるのです。

古代キリスト教の偉大な神学者にアウグスチヌスという人がいますが、彼は三十三歳で救われるまで、すさんだ生活をしていました。十代でアフリカに渡りマニ教という異端にはまると、二十歳にならないうちに同棲して子供が生まれました。それで心を痛めていたのはクリスチャンの母モニカです。彼女は息子のためにずっと祈りました。祈って、祈って、祈ったのです。そんなモニカを支えたのは、当時ミラノの司教だったアンブロシウスという人でした。彼は教父でしたが、涙して祈るモニカの姿を見てこう言いました。「安心して行きなさい。涙の子は決して滅びることはない。」その結果、彼は悔い改めて回心したのです。彼は三十三歳の年の四月に洗礼を受けましたが、母モニカはその年の秋に召されたのです。けれども、その母の祈りがあったからこそ、古代教会最大の聖徒、アウグスチヌスが誕生したのです。このときのことを振り返って、アウグスチヌスはその著「告白」の中でこう言っています。「母は涙を流して、夜も昼も私のために神に犠牲を捧げた。大地を濡らした、あふれるような母の涙は、私が洗礼を受けて濡れた時に、ようやく乾いたのだ。」

イエス・キリストは、あなたの涙を覚えておられます。あなたのことを十分知ったうえで、あなたのために今も祈っておられるのです。これほど大きな励ましはありません。「友よ歌おう」という賛美集の中に、「忘れないで」という歌があります。

「忘れないで いつもイエスさまは 君のことを みつめている
だからいつも 絶やさないで 胸の中の ほほえみを

だけどいつか 激しい嵐が 君のほほえみ 吹き消すでしょう
だからいつも 離さないで 胸の中の みことばを

忘れないで 悲しみの夜は 希望の朝に かわることを
だからすぐに とりもどして いつものきみの ほほえみを

どうかイエス様があなたのために祈っておられることを忘れないでください。そうすれば、あなたは勇気と力を受けて、どんな激しい嵐が襲ってきてもそれを乗り越え、心に喜びと平安を受けることができます。あなたがイエス様のみことばを離さないなら、悲しみの夜は希望の明日に変わるのです。

Ⅲ.純粋な信仰が与えられている(5-7)

第三のことは、純粋な信仰が与えられていることを思い起こすということです。5節をご覧ください。「私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。」

ここでパウロはテモテの信仰を思い起こしています。なぜパウロはテモテもの信仰を思い起こしているのでしょうか。なぜなら、その後の6節のところに「私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください」とあるように、彼の信仰を思い起こすことによって、彼に与えられた神の賜物を、再び燃え立たせるよう励ましたかったからです。そしてパウロはテモテの信仰を、「純粋な信仰」と言いました。この「純粋な信仰」は、Ⅰテモテ1章5節では「偽りのない信仰」と訳されています。テモテに与えられた信仰は偽りのない信仰、純粋な信仰、本物の信仰でした。だから、あなたはこの信仰に立たなければなりません。なぜなら、この信仰があなたの難儀を乗り越えさせてくれるからです。「初心忘れべからず」ということわざがありますが、私たちは信仰に歩む中で様々なおひれがついてしまい、いつしかこの純粋な信仰から離れてしまうことがあります。そして、ああでもない、こうでもないと不満の渦の中に埋没してしまうことがあるのです。純粋な信仰が、いつしか不純な信仰に陥ってしまうのです。しかし、純粋な信仰に立つなら、神に与えられた賜物を、再び燃え立たせることができます。周りの様々な声に振り回されるのではなく、ただ主から与えられた純粋な信仰に堅く立たなければならないのです。

ところで、そのようなテモテの純粋な信仰はどのようにして与えられたのでしょうか。ここには、「そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っている」とあります。そう、それは祖母ロイスと母ユニケのうちに宿っていたものですが、その信仰をテモテが継承したのです。おそらく、彼らはパウロが第一伝道旅行でルステラを訪問したとき、パウロが語った福音を聞いて信仰を持ったのでしょう。その信仰によって一家がしっかりと養われていたのです。それでパウロが第二回目にルステラを訪問したときに、テモテをその働きに加えました。テモテの母ユニケはユダヤ人でしたが、父はギリシャ人で異教徒でした。そのような中でもキリストの福音を大切にして生きていたのです。ロイスとは「感じのいい人」という意味で、ユニケとは「良い勝利」という意味です。テモテの家庭はイエス・キリストの福音によって感じのいい、良い勝利がもたらされた家庭でした。そこからこうした純粋な信仰が育まれていったのです。

こうしてみると、信仰の継承がいかに大切であるかがわかります。テモテのように純粋な信仰が育まれるために、家庭における信仰の在り方というものをもう一度見つめなおす必要があるのではないでしょうか。そして、こうした純粋な信仰が与えられているのですから、そこに立ち続けなければなりません。そうすれば、状況に振り回されることなく、神の助けと力を受けて立ち上がることができるのです。

6節をご覧ください。パウロはここで、「それですから、私はあなたに注意したいのです。」と言っています。「それですから」というのは、1節からの内容を受けてのことです。つまり、テモテにはイエス・キリストにある永遠のいのちが約束されているのですから、また、夜昼と祈られているのですから、そして、純粋な信仰が与えられているのですからということです。だから、神の賜物を、再び、燃え立たせなければなりません。再び、燃え立たせるということは、以前は燃えていたが、今は冷え切っていたということです。なぜ冷え切ってしまったのでしょうか。このことを忘れていたからです。そして、いつの間にか人間的になっていました。神の知恵、神の考えではなく、人間の考え、人間の思いで、人間の力で牧会を展開しようとしていたのです。これではどんなにキャベジンを飲んでも問題を解決することはできません。問題の真の解決はただ神によってもたらされるからです。神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。7節をご一緒に読みましょう。この神の霊によって、私たちは神の賜物を、燃え立たせ、大胆に、力強く、働くことができるのです。

あなたが恐れていることは何でしょうか。私たちにはいろいろな恐れがあります。仕事を失ったらどうしよう、健康を損なったらどうしよう、人間関係が壊れたらどうしよう、お金が無くなったらどうしよう、自分の評判が悪くなったらどうしよう、学校の単位を落としたらどうしよう、試験に落ちたらどうしよう・・・、本当にいろいろな恐れがあります。でも、こうした恐れは神から与えられた賜物を冷え切らせてしまうことになります。あなたが恐れなければならないのは、あなたのたましいをゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方です。この方を恐れなければなりません。そして、この方を恐れているなら、この地上の何をも恐れることはありません。パウロはローマ皇帝ネロを前にしても恐れませんでした。なぜなら、神が与えてくださったものを知っていたからです。それは、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。慎みというのは自制心という意味ですが、冷静な判断力のことです。ここでパウロは「神が私たちに与えてくださったものは」と言っています。私たちにというのは、パウロ自身も含めてのことです。パウロは、こうしたものが与えられているので、恐れなかったのです。

それは私たちにも言えることです。私たちにもこの力と愛と慎みとの霊が与えられています。だから、何も恐れる必要はありません。むしろ、上からの力を求め、ますます愛の炎が燃え上がるように祈りましょう。そして、そのすべての行動が冷静な知恵によって吟味しながら、神によって与えられた賜物を燃え立たせていきたいと思います。それが殉教を目の前にしたパウロが、どうしても伝えたかったことだったのです。

イザヤ45:1-13 レジュメ  

「神の御心のままに」                                    N069

Ⅰ.油そそがれた者クロス(1-3) 

主は、油そそがれた者クロスに、「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前にとびらを開いて、その門を閉じないようにする」(1)と言われた。クロスとはメド・ペルシャの王クロスのことである。主は彼を用いてバビロンに捕らえられていたイスラエルを解放するというのだ。彼はメド・ペルシャの王であって異教徒である。なのになぜ神はそんなクロスを用いられるのか。それは、主こそ神であり、イスラエルの創造主であることを彼が知るためである。そのために主は、異教徒の王まで用いられる。何も神はご自分の計画を推し進めるために神の民だけを用いられるのではない。場合によってはこのように異教徒でも用いられることがある。神が用いようと思えば何でも用いることができる。なぜなら、神はすべてを支配しておられる創造主であられるからだ。

それにしても、クロスはこのことを知ってどんな驚いたことであろう。エズラ記1章を見ると、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシャの王クロスの霊を奮い立たせたので、王国中におふれを出して、エルサレムに宮を建てるように命じたとある。ユダヤ人の歴史家でヨセフスの「ユダヤ古代誌」によると、このときクロスが読んだ内容というのがイザヤ書44-45章であった。そこに自分の名が記されてあるのを見て、彼はどれほど驚いたことかわからない。彼の時代のはるか150年も前に、神は既にそのようにされることを告げておられることを知って奮い立ち、イスラエルにそこまで寛容な政策をとったのである。

神はこの歴史を支配し導いておられる。このことを知るなら、あなたもクロスのように奮い立ち、神の栄光と目的のために用いられるようになる。

Ⅱ.すべての主権者であられる神(4-8)

ここで主はクロスに肩書きを与えると言われた。その肩書きとは「油そそがれた者」である。それは日の上る方からその沈むところまでご自分のほかには神はいないということを、すべての人に知らしめるためである。そのことによって主がすべてを支配しておられるということを、知るようになる。ペルシャの宗教ゾロアスター教では光を造られた神とやみを造られた神がいてその神の対立によってこの世界が造られたと考えているが、その光とやみを造られたのは神である。すべてを造られたのは創造主なる神なのである。

ここでおもしろいと思うのは、ここに「光を造り出し、やみを創造し」とあることだ。これはやみを創造したというよりも、やみを許されたといった方が正確である。神は決してやみを造られる方ではない。それを造りそれ支配しているのは神であるが、そうしたサタンの働きをあえて許されることがある。それは神がすべてを支配しておられるからであって、そのことさえもまた神の栄光のために用いられることがあるからだ。だから私たちはそうした主権的な神のお取り扱いを受け入れ、「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのとおりにしてください」と祈らなければならない。

Ⅲ.神の御心のままに(9-13)

このように申し上げると、中にはそんな神のやり方に対して抗議する人もいるかもしれない。そのような人は陶器が自分を造った者に抗議するようなものである。けれども、陶器は陶器師の手の中にあってはじめて価値があるのであって、それ自体には何の価値もないことを覚えておかなければならない。陶器である私たちはまさに土くれにすぎない。その陶器がもっとも輝く時は陶器師の手によって練られ、ろくろで回されている時である。わたしたちを愛してやまない主はわたしたちのために最善のことをしてくださると信じて、すべてを神にゆだねなければならないのである。

(自分に適用してみましょう!)

・あなたの生活の中で、ナオミのように信仰の確信を揺るがしている出来事は何ですか?

・神があなたの人生をも支配しておられ導いておられるという確信を持つために必要なことはどんなことですか?

Ⅰテモテ6章11~21節 「神の人として」

いよいよテモテへの第一の手紙も結びの部分に入ります。きょうは、この結びの部分から、「神の人として歩もう」というタイトルでお話したいと思います。パウロはこの結びのところでテモテを、「しかし、神の人よ」と呼んでいます。聖書の中でこのように「神の人」と呼ばれている人は稀です。旧約聖書ではモーセ(申33:1)やエリヤ(Ⅰ列王17:18)、またその弟子であったエリシャ(Ⅱ列王4:16)などが神の人と呼ばれました。またあの有名なダビデもそのように呼ばれました(Ⅱ歴代8:14)。その他、預言者でシェマヤ(Ⅰ列王12:22)という人や、イグダルヤの子ハナン(エレミヤ35:4)もそのように呼ばれました。他にそのように呼ばれた人はいません。新約聖書でこのように呼ばれているのはテモテだけです。パウロはこの「神の人」という言葉をテモテに用いました。それは牧会で苦労していたテモテにとって、どんなに大きな励ましであったことでしょう。

しかし、それはテモテだけのことではありません。だれでもテモテのように神の人になることができます。Ⅱテモテ3章17節を見ると、「それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」とあるように、すべてのクリスチャンにも共通して言えることなのです。ではどのような人が神の人と呼ばれるにふさわしいのでしょうか。

Ⅰ.信仰の戦いを戦い(11-12)

まず11節と12節をご覧ください。

「11 しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。12 信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。」

パウロはここで、神の人のあり方について消極的な面と積極的な面の二つの面から述べています。まず消極的な面ではどんなことかというと、それは避ける人のことです。11節には、「しかし、神の人よ。あなたは、あなたはこれらのことを避け」とあります。これらのこととは何でしょうか?それは前の節までのところで述べられてきたことですが、金銭を追い求める生活、あるいは、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑いといったものが生じる生活のことです。そういう生活を避けなさいというのです。避けるということは臆病なように見えるかもしれませんが、しかしもっとも効果のある勝利の道でもあるのです。エジプトに奴隷として売られたヨセフは、主人の妻に誘惑された時、外へ出て逃げました(創世39:12)。そのことで彼は、一時、投獄されましたが、やがて彼はエジプトの第二の地位にまで上り詰めることができました。それは彼が誘惑を避けたからです。真正面から対決することだけがいつも最善とは限りません。むしろそうすることでますます深みにはまって、過ちを犯してしまうこともあります。そうした悪に対しては、避けることが最も賢明な勝利に至る道なのです。

次に、神の人が追い求める積極的な面とは何でしょうか。それは、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和といったものを求めることです。正しさとは神との関係において正しく生きることであり、敬虔とは、その神を恐れて生きることです。その結果、信仰、愛、忍耐、柔和といった徳がもたらされます。これらのものは、神の御霊である聖霊が結ばせてくださる実でもあります。これは自分の力によってもたらされるものではなく、聖霊に信頼し、聖霊に導かれることによって得られるものなのです。

イエス様は、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)と言われました。枝が木につながっていなければ実を結ぶことはできません。主の働き人はとかく目に見える結果にとらわれがちですが、最も大切なことは、目に見えない部分、すなわち、神との関係を第一に求めなければなりません。それによってこそ大きな力を発揮することができるからです。

ある美しくて大きく、立派な一本の木がありました。しかし、すべてが見た目通りとは限りません。その木の内側はだんだん枯れて、弱っていきました。強い風が吹くと倒れそうになり、枝が折れる音も聞こえてきました。そこで、新しい枝を伸ばして、その弱さを補おうとしました。すると、思った通り少しは強く、今までよりしっかりしたように見えました。しかし、ある日暴風が吹き、根が地面から丸ごと抜けてしまいました。隣の木がなければ完全に地面に倒れてしまうところでした。その後、幸いに時間が経つにつれて、再び根を下ろすことができました。その時ふと、隣の木に興味を持つようになったのです。隣の木は暴風にも負けず、しっかりと立っていたからです。その木は隣の木に、「どうして君は地面にしっかり立っていられただけでなく、ぼくのことまで支えることができたんだい。」と尋ねてみました。すると、隣の木はこう答えました。「それは、君が新しい枝を伸ばしている間、ぼくは根をより深いところに伸ばしていたからだよ。」

私たちは、より深いところまで根を下ろさなければなりません。外見ではなく、内面の人格を整えなければならないのです。それは神との関係が深められることによってこうした徳がもたらされるからです。私たちは祈りと神の御言葉によって神との関係を深め、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和という実を結ばせていただきましょう。

では、神の人が求めなければならない積極的な面とは何でしょうか。それは戦うということです。12節をご覧ください。ここには、「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。」とあります。神の人は、11節にあるようなクリスチャンの徳を身につけるだけでは十分ではありません。信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなければなりません。この「戦う」という言葉は、オリンピックの競技や、兵士の戦いに使われた言葉です。ですからそれは、いのちがけの戦いを意味しているのです。しかもこの言葉は継続を表している形になっています。すなわち、すでに始められている戦いを継続して戦えということです。なぜでしょうか?永遠のいのちを獲得するためです。どういうことでしょうか?救い主イエスを信じた人にはすでに永遠のいのちが与えられているのではないでしょうか?実はこの「永遠のいのち」には二面性があります。それは既にという面とこれからという面です。クリスチャンはイエス・キリストを信じたことによって既に永遠のいのちが与えられました。けれども、それはまだ完成していません。それはやがてキリストが再臨する時に関税します。ですから、そのためにしっかりと準備しなければならないのです。

キリスト教系の新聞によると、我が国でのクリスチャン信仰の平均寿命は2.5年だそうです。3年も持たないのです。多くの人がイエス様を信じますが、信仰生活から離れていくケースも多いのです。しかし、長いこと信仰を持っている人でも、あまりにも多くの人たちが救いの喜びを失っているということがあるのではないでしょうか。まだ救われていなかった時の以前の生活に逆戻りしているというケースも少なくありません。また、ずっと教会に通っていても、主と生き生きした関係をずっと保つことは、簡単なようで実はとても難しいことなのです。なぜなら、イエス様を信じて生きるということは、多くの人々が認めない真理に従って生きることだからです。そこには多くの「信仰の戦い」があります。クリスチャンはこの戦いを避けてはいけません。この戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなければならないのです。

Ⅱ.主イエス・キリストの現れ(13-16)

第二に、13~16節までを見ていきたいと思います。

「13 私は、すべてのものにいのちを与える神と、ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもってあかしされたキリスト・イエスとの御前で、あなたに命じます。14 私たちの主イエス・キリストの現れの時まで、あなたは命令を守り、傷のない、非難されるところのない者でありなさい。15 その現れを、神はご自分の良しとする時に示してくださいます。神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、16 ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。」

次にパウロは、神とキリストとの前で、テモテに命じています。イエス・キリストの現れの時まで、傷のない、非難されるところのない者であるように・・・と。ところで、ここでは単に神とキリストの前でと言われているのではなく、すべてのものにいのちを与える神と、ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもってあかしされたキリスト・イエスとの前でとあるのです。これはパウロの普通の表現と少々異なります。普通なら、たとえばこの手紙の冒頭にあるように「私たちの救い主である神と私たちの望みなるキリスト・イエス」とあるように、父なる神と望みなるキリスト・イエスというのに、ここでは「すべてのものにいのちを与える神と、ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもって証されたキリスト・イエスの御前で」と、普通見られない表現が使われているのです。いったいパウロはなぜこのように言ったのでしょうか。「すべてのものにいのちを与える神」というのは、神はすべてのもののいのちの根源であるということを意味するばかりでなく、神はすべての危険と迫害から守ってくださる方であるという信仰が含まれています。初代教会ではバプテスマを受けることは、皇帝崇拝を拒否することが含まれていました。そのことはまた、死をも意味していたわけです。皇帝崇拝を拒絶すれば処刑されていたからです。それゆえに、初代教会ではバプテスマを受ける時の信仰告白の際、キリストの告白を思い出させました。キリストはどのように告白したのでしょうか。キリストは、ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもって証されました。すなわち、キリストは自らが十字架の死に直面していても、自らがメシヤであることを主張して一歩も譲られませんでした。マタイの福音書27章11節には、ピラトがイエスに「あなたは、ユダヤ人の王ですか」と尋ねると、イエスは彼に「そのとおりです」と言われたことが記録されています。ポンテオ・ピラトに対してのすばらしい告白とはこのことです。

それはイエス様だけではありません。おそらくテモテもバプテスマを受けた時、この告白をしたのでしょう。12節にも、テモテがした「りっぱな告白」が出てきました。神の人であるクリスチャンは、たとい周りがどうであろうとも、このような告白をする者たちです。かつてダニエルはこのような告白をしたがゆえにライオンのいる穴の中に入れられました。しかし、そこに神がともにおられたので、ダニエルは全く傷を負うことなく守られました。むしろ、彼はダニエルをライオンの中に投げ入れたダリヨス王の下で大きく用いられました。

その神とキリストの御前で、パウロはテモテに命令を送りました。それは、私たちの主イエス・キリストの現れの時まで、あなたは神のすべてのいましめを守り、非難されるところのない者でありなさい、ということです。主イエス・キリストの現れの時というのは、再臨のことを指しています。そして「傷のない、非難されるところがなく」というのは、全く罪を犯さない完全な人になることではなく、教会の外の人たちにそしられることがないような敬虔さを保つようにということです。

キリストは、今、天において神の右の座におられ、私たちのためにとりなしの祈りをしておられます。私たちは今、この方を見ることはできませんが、やがて定められた時が来たら、その時はとても近いようにも感じますが、その時には、この目ではっきりと見ることができます。Ⅰコリント13章12節には、「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります」とあるとおりです。その現れは、神が良しとする時に示してくださいます。なぜなら、神は祝福に満ちた唯一の主権者であられ、王の王、主の主であられる方だからです。そればかりではありません。神はただひとり死のない方であり、だれも近づくこともできない光の中に住んでおられる方だからです。この「死のない方」というギリシャ語(アフサルトス)は1章17節にも使われていますが、そこでは「滅びることなく」と訳されています。またⅠコリント15章53,54節では、それぞれ「朽ちない者もの」「不死」と訳されています。そうです、神は決して死なない方、永遠に生きておられる方なのです。このような神が他にいるでしょうか。いません。この世のすべての宗教はみな死んだ教祖を拝んでいますが、聖書の神はそういう方ではありません。聖書の神は死のない方なのです。永遠に生きておられる方、それが本当の神です。それはただひとりしかおられません。この方はだれも近づくことができない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことがない、いや見ることができない方なのです。もし見ることができたとしても、その人はすぐにその場で死んでしまうでしょう。あまりの聖さと栄光の輝きのために。

しかし、この方の栄光をすべて見た方がおられます。いいえ、この方とずっと昔から、永遠の昔からずっといっしょにおられた方がいるのです。それが神のひとり子イエス・キリストです。キリストは言われました。「わたしと父とは一つです。」(ヨハネ10:30)

このように、信仰の戦いを勇敢に戦うとき、人々を支えるのは何かというと、この主イエス・キリストの再臨なのです。私たちは自分のやっていることがうまくいかず、なかなか目に見える形で成果を見る事が出来ず落胆することがあります。また多くの反対にあって、疲れはててしまうこともあります。けれども、それでも耐え抜くことができるのは、祝福に満ちた唯一の主権者であられ、王の王、主の主であられる方、また、ただひとり死ぬことがなく、人間のだれひとり近づくこともできない光の中に住んでおられる神が、主イエス・キリストにあって現れてくださることを知っているからなのです。その時はどんなに大きな喜びでしょう。よく勝利者が感極まって涙を流しますが、やがて私たちが勝利するとき、その何倍もの涙を流すことでしょう。ここから目を離さないとき、私たちは希望に伴う忍耐が与えられ、主の愛と恵みの中にいつまでもとどまることができるのです。そして、信仰の戦いを勇敢に戦い抜くことができるのです。

Ⅲ.神に望みを置いて(17-19)

神の人としてのあり方の第三のことは、何に望みを置くのかということです。たよりにならない富みに望みを置くのではなく、神に望みを置くようにということです。17節から19節までをご覧ください。

「17 この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。18 また、人の益を計り、良い行いに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。19 また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。」

パウロは6節から10節のところでも金銭を追い求める人たちのことについて述べましたが、ここで再び「富」について語っています。ただ違うのは、6節からのところでは金持ちになりたがる人たちについての警告でしたが、ここではすでに富んでいる人たちに対して勧められていることです。エペソ教会には富める人たちが多かったのでしょう。そういう人たちに対して語られているのです。その内容は、「高ぶらないように」ということです。また、たよりにならない富みに望みを置かないようにということです。お金は人を高ぶらせます。お金持ちの人は、自分は何でもできる者であるかのような錯覚を抱きがちになるのです。また、お金は安心感を与えます。あの金持ちの畑が豊作だったとき、彼は自分のたましいに何と言いましたか。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」(ルカ12:19)しかし神は何と言われたでしょう。神は彼にこう言われました。「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」(ルカ12:20)ですからそれは、偽りの安心感にすぎないのです。そのような富は何のたよりにもなりません。本当の安心感は主から来ます。主が備えてくださるという信仰から来るのです。ですから、たよりにならない富に望みを置くのではなく、私たちすべての物を豊に与えて楽しませてくださる神に望みを置かなければならないのです。神は私たちに全ての物を与えて楽しませてくださいます。神が造られた大自然をみるとき、「ああ神様ってすごいなぁ」と、私たちの心を楽しませてくれます。かわいい孫のちょっとしたしぐさを見るたびに、「本当にかわいいなぁ」と感動を与えてくださいます。神は私たちにすべてのものを与えて楽しませてくださるのです。自分にないものではなくあるものに目を留め、それを喜び、楽しまなければなりません。それが神の人の歩みです。

また、人の益を計り、良い行いに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えましょう。ある時イエス様のもとに富める役人が来て尋ねました。「どうしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるか」と。するとイエス様は、「あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人たちに分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を積むことになります。」と言われました。すると、その青年は悲しんで、去って行きました。たいへんな金持ちだったからです。この金持ちが貧しい人たちに分け与えることができなかったのは、彼が自分の益のみを求めて行動していたからです。富める人たちはしばしばそのような傾向があります。けれども、その富が与えられている目的は自分の益のためではなく、いろいろな人を助けるためであり、それによって良い行いをするためです。また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分のために築き上げるためなのです。それが、天に宝を積むということです。富んでいる人はそれを御国のために用いていかなければならないのです。これが富める人の生き方、神の人のあり方なのです。

 

このイエス様のことばを20世紀初めに受け入れた人がいます。アンドリュー・カーネギーという人です。貧しい生い立ちから世界一の鉄鋼王となった彼は、66歳のとき、一つの決断をします。彼は一切の権利を売り払い、その資産で有名なカーネギーホールをはじめとする文化施設や福祉施設を建て、世界各国に2,811か所もの図書館を贈り続け、その生涯を終えるのです。アンドリュー・カーネギー、彼は天に富を積むというイエスの教えを実践した、時を超えたイエスの弟子の一人であり、神の人としてこの世を生きたのです。

 

最後に20節と21節を見て終わりたいと思います。ここでパウロは「テモテよ。ゆだねられたものを守りなさい。」と勧めています。ゆだねられたものとは何でしょうか。それは、パウロからゆだねられたイエス・キリストの福音、啓示のことです。パウロはそれをテモテにゆだねました。テモテはそれを守らなければなりません。それは取捨選択できるようなものではなく絶対的な真理なのです。そしてこれはテモテばかりでなく、今の私たち、キリストの教会のすべての牧会者、ならびにクリスチャンにも言われていることなのです。教会はこのゆだねられたものを守り、そこにとどまっていなければなりません。それ以外のもの、それ以外の教え、それ以外の考え、それ以外の主張があれば、そういうものに心奪われるようなことがあってはなりません。そういうことがないように注意しなければなりません。なぜなら、そうした教えの風によって信仰から離れていくということが起こってくるからです。世の終わりが近くなると愛が冷えるとありますが、ますますそのような傾向が強くなってきます。今はまさにそういう時代ではないでしょうか。そういうことがないように、注意しなければなりません。そして神からゆだねられたものを守り、そこにしっかりととどまっていたいと思います。それが神の人としてのあり方なのです。神の恵みが、あなたがたとともにありますように。そこに神の恵みが豊かに注がれるのです。

民数記21章

Ⅰ.カナン人アラデの王との戦い(1-3)

きょうは民数記21章から学びます。まず1-3節をご覧ください。

「1 ネゲブに住んでいたカナン人アラデの王は、イスラエルがアタリムの道を進んで来ると聞いて、イスラエルと戦い、その何人かを捕虜として捕らえて行った。2 そこでイスラエルはに誓願をして言った。「もし、確かにあなたが私の手に、この民を渡してくださるなら、私は彼らの町々を聖絶いたします。」3 はイスラエルの願いを聞き入れ、カナン人を渡されたので、彼らはカナン人と彼らの町々を聖絶した。そしてその所の名をホルマと呼んだ。」

イスラエルの民は、カデシュ・バルネアから出発し、少し北上しました。ホル山でアロンが死に、そこで彼を葬りましたが、そこは神がアブラハムに約束された、カナン人の土地に近いところでした。ネゲブとはカナン人の地の南方の地域のことです。その最大の都市はベエル・シェバという町ですが、そこから東に約35㎞のところにアラデという町がありました。そのアラデの王は、イスラエルがアタリムの道を進んで来ると聞いて、イスラエルと戦い、何人かを捕虜として捕らえて行きました。そこで主に祈りました。彼らに勝利しその民を渡してくださいと懇願したのです。すると、主はそのイスラエルの願いを聞き入れ、彼らを渡されたので、彼らに勝利することができたました。

かつて、イスラエルの民がカデシュ・バルネアからカナンの地を偵察させた時、彼らは不信仰になって約束の地に入ろうとしなかったので、主は40年間イスラエルを荒野でさまよわせると言われましたが、その時彼らは手のひらを返したかのように、今度は、「とにかく主が言われた所へ上って行ってみよう」(14:40)と言ったのですが、その時の主の答えは「上っていってはならない。」ということでした。なぜなら、主は彼らのうちにおられないからです。もし上って行くようなことがあったら、あなたがたが敵に打ち負かされるであろう、と警告したのです。それでも彼らは言うことを聞かず、上っていきましたが、案の定、山地に住んでいたカナン人が彼らを打ち、このホルマまで追い散らしたのです。もう39年も前の話です。しかし、今度は違います。今度は彼らの願いを聞き入れて、彼らの町々を聖絶することができました。一方では彼らの願いは聞かれず、他方では祈りが聞かれています。いったいこれはどういうことなのでしょうか。

それは、神がともにおられるかどうかということです。彼らは自分たちの思いで、「とにかく上って行ってみよう」と行った時には、主が彼らとともにはおられませんでした。なぜなら、主のみこころは「上って行ってはならない」ということだったからです。しかし、あれから40年、肉の欲望にかられ、不信仰に陥り、さらに反逆までしたイスラエルの民はみな死に絶えてしまいました。そこには新しい民の姿がありました。そんな新しいイスラエルが主に誓願を立てているのです。主に向かって祈りました。そこに主がともにおられました。ですから、主は彼らに勝利を与えてくださったのです。かつてだめだったから今度もだめだということはありません。かつてだめだった原因は何だったのかを見極め、それを悔い改めて、主に立ち返るなら、主は勝利を与えてくださるのです。

Ⅱ.燃える蛇と青銅の蛇(4-9)

次に4節から9節までをご覧ください。

「4 彼らはホル山から、エドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中でがまんできなくなり、5 民は神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」6 そこでは民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。7 民はモーセのところに来て言った。「私たちはとあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、に祈ってください。」モーセは民のために祈った。8 すると、はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」9 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。」

イスラエルの民はホル山から、エドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立ったとき、途中で我慢できなくなり、神とモーセに逆らって言いました。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」(5)またここにイスラエルの民の不満が噴出しました。彼らはちょっとでも嫌なことがあると全く我慢することができず、すぐにこうして不満を噴出させたのです。何が問題だったのでしょうか。「葦の海の道」とは、紅海への道のことです。せっかくもう少しでカナン人の地に入ることができるというところまで来ていたのに、また葦の海の道まで戻り、迂回しなければならなかったのです。彼らは葦の海の道を、砂漠を南下して行かなければならなかったのです。その砂漠の旅に耐えるということは困難なことでした。それで彼らは不満を漏らしたのです。

それで主はどうされたでしょうか。そこで主は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人が死にました。この「燃える蛇」とは、どのような蛇だったのかはわかりません。おそらく、かまれると焼けつくような痛みと激しい毒のゆえにこのように呼ばれていたのではないかと思われます。この蛇は複数形で書かれているので、何匹もうじゃうじやしていたのだと思います。それが民にかみついたので、多くの人々が死んだのです。

それでイスラエルの民は、それが神の罰であるのを見て、自分たちの非を認め、モーセに助けを求めました。そして、モーセが民のために祈ると、主はモーセに興味深いことを仰せられました。それは、青銅の燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ、ということでした。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる、というのです。モーセは命じられた通りにしました。すると、もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きたのです。いったいこれはどういうことでしょうか。これは、信仰の従順による癒しと救いです。これは青銅の蛇自体に救い力があったということではなく、神の約束を信じてこれを仰ぎ見た者だけが、死の毒を免れて救われることができるということです。

この出来事について、イエス様はニコデモに対して語られました。ヨハネの福音書3章14-15節です。彼はイスラエルの指導者です。ユダヤ人の教師です。ですからこの話を十分に知っていました。そしてこう言われたのです。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネ3:14-15)

人の子が上げられる、というのは、十字架につけられることを表しています。ヨハネ12章32-33節に、イエス様が言われたことをヨハネが説明しています。「『わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。』イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。」イエス様は、モーセが荒野で上げた青銅の蛇のように、十字架に上げられることを示していたのです。

まず蛇が彼らに死をもたらしたことに注目しましょう。エバを惑わしたのも蛇でした。また、黙示録12章9節によると、蛇は悪魔であったことが分かります。そして主は、蛇に対してその子孫のかしらが、女の子孫によって打ち砕かれると約束されました(3:15)。蛇の子孫は女の子孫のかかとをかみつくが、女の子孫は蛇の頭を打ち砕きます。それが十字架と復活によってキリストが行なわれたことです。「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」(ヘブル2:14-15)

つまり、蛇が死をもたらしたのは、罪が死をもたらしたと言い換えることができるのです。そして青銅で蛇を作りなさいというのは、その罪に対する神のさばきを表していました。覚えていますか、祭壇が青銅で作られていたのを・・。そこで罪のためのいけにえが焼かれました。それは、罪に対する神の裁きを表していました。つまり、罪が裁かれたことを表していたのです。しかもそれが、旗ざおという木の上で裁かれたのです。キリストは十字架にかけられ、青銅の蛇となって、全人類の罪のさばきをその身に負われたのです。そのキリストを仰ぎ見る者が救われるのです。それが信じることであり、ニコデモにイエス様が語られた「御霊によって新しく生まれなければならない」ということだったのです。

Ⅲ.ホル山からピスガまで(10-20)

次に10節から20節までをご覧ください。

「10 イスラエル人は旅立って、オボテで宿営した。11 彼らはオボテから旅立って、日の上る方、モアブに面した荒野にあるイエ・ハアバリムに宿営した。12 そこから旅立って、ゼレデの谷に宿営し、13 さらにそこから旅立って、エモリ人の国境から広がっている荒野にあるアルノン川の向こう側に宿営した。アルノン川がモアブとエモリ人との間の、モアブの国境であるためである。14 それで、「の戦いの書」にこう言われている。「スパのワヘブとアルノンの谷川とともに、15 谷川の支流は、アルの定住地に達し、モアブの領土をささえている。」16 彼らはそこからベエルに向かった。それはがモーセに、「民を集めよ。わたしが彼らに水を与える」と言われた井戸である。17 そのとき、イスラエルはこの歌を歌った。「わきいでよ。井戸。―このために歌え―18 笏をもって、杖をもって、つかさたちがうがち、民の尊き者たちが掘ったその井戸に。」彼らは荒野からマタナに進み、19 マタナからナハリエルに、ナハリエルからバモテに、20 バモテからモアブの野にある谷に行き、荒地を見おろすピスガの頂に着いた。」

10節には、「イスラエルは旅立って」とありますが、どこから旅立ったのでしょうか。ここはには書いてないのでわかりませんが、おそらく、エドムを迂回して南下し、次いでモアブの草原に向かって北上して行った途中の地点であったので、その地点か、あるいはその周辺のどこか宿営していた所から旅立ったのでしょう。そして、オボテまでやって来ました。このオボテは地中海の南方、エドムとの境界にある町です。そこからさらにイエ・ハアバリム、ゼレデの谷に宿営し、エモリ人の国境から広がっている荒野にあるアルノン川の向こう側に宿営しました。それはアルノン川がモアブ人とエモリ人との間の、モアブの国境であったからです。すなわち、彼らはアルノン川の北のエモリ人の地に宿営したのです。

それから彼らはベエルに向かいました(16)。「ベエル」がどこにあるのかはわかりませんが、主がモーセに「民を集めよ。わたしが彼らに水を与える」と言われたので、その井戸を求めていたからでしょう。その井戸についての歌が17節と18節にあります。乾燥地帯の砂漠にあってこうした井戸に巡り合わせられたことは、彼らにとってどれほど大きないやしと励ましとなったことでしょう。彼らはそこで主に感謝の歌をささげました。すばらしいですね。不平を鳴らすのではなく、感謝の歌を歌うのです。私たちも聖霊によって生きるなら、感謝の歌をささげるようになります。そして彼らはピスガの頂にまでやってきました。後にモーセがそこに立って、約束の地を見下ろし、死にます。

Ⅳ.勝利ある人生(21-35)

次に21節から35節までをご覧ください。

「21 イスラエルはエモリ人の王シホンに使者たちを送って言った。22 「あなたの国を通らせてください。私たちは畑にもぶどう畑にも曲がって入ることをせず、井戸の水も飲みません。あなたの領土を通過するまで、私たちは王の道を通ります。」23 しかし、シホンはイスラエルが自分の領土を通ることを許さなかった。シホンはその民をみな集めて、イスラエルを迎え撃つために荒野に出て来た。そしてヤハツに来て、イスラエルと戦った。24 イスラエルは剣の刃で彼を打ち、その地をアルノンからヤボクまで、アモン人の国境まで占領した。アモン人の国境は堅固だったからである。25 イスラエルはこれらの町々をすべて取った。そしてイスラエルはエモリ人のすべての町々、ヘシュボンとそれに属するすべての村落に住みついた。26 ヘシュボンはエモリ人の王、シホンの町であった。彼はモアブの以前の王と戦って、その手からその全土をアルノンまで取っていた。27 それで、ことわざを唱える者たちが歌っている。「来たれ、ヘシュボンに。シホンの町は建てられ、堅くされている。28 ヘシュボンから火が出、シホンの町から炎が出て、モアブのアルを焼き尽くしたからだ。29 モアブよ。おまえはわざわいだ。ケモシュの民よ。おまえは滅びうせる。その息子たちは逃亡者、娘たちは捕らわれの身である。エモリ人の王シホンによって。30 しかしわれわれは彼らを投げ倒した。ヘシュボンからディボンに至るまで滅びうせた。われわれはノファフまでも荒らし、それはメデバにまで及んだ。」31 こうしてイスラエルはエモリ人の地に住んだ。32 そのとき、モーセはまた人をやって、ヤゼルを探らせ、ついにそれに属する村落を攻め取り、そこにいたエモリ人を追い出した。33 さらに彼らは進んでバシャンへの道を上って行ったが、バシャンの王オグはそのすべての民とともに出て来た。彼らを迎え撃ち、エデレイで戦うためであった。34 しかし、はモーセに言われた。「彼を恐れてはならない。わたしは彼とそのすべての民とその地とをあなたの手のうちに与えた。あなたがヘシュボンに住んでいたエモリ人の王シホンに対して行ったように、彼に対しても行え。」35 そこで彼らは彼とその子らとそのすべての民とを打ち殺し、ひとりの生存者も残さなかった。こうして彼らはその地を占領した。」

ピスガの頂まで来たとき、イスラエルはエモリ人の王シホンに使者たちを送りました。そこにエモリ人が住んでいたからです。それでモーセたちはエドム人に対するのと同じように、ただ通過させてほしいと頼んだのです。ところがシホンは、イスラエルが自分たちの領土を通ることを許しませんでした。それどころか、イスラエルと戦うために出てきたのです。いったい彼らはなぜモーセの依頼を冷たく断ったのでしょうか。彼らはイスラエルに敵対していたからです。後に北イスラエルを滅ぼしたアッシリア帝国の人々は、ハムの子カナンの子孫であるエモリ人でした(創世記10:16)。彼らはアッシリア一帯を征服し、そこの支配者となったのです。このようにエモリ人は常にイスラエルに敵対する民でした。それでイスラエルが通ることを許さなかったのです。それどころか彼らが攻撃してきたので仕方なくイスラエルは応戦し、その結果、彼らを打ち破り、アルノンからヤボクまでを占領したのです。

こうやって見ると、神の民にはいつでも戦いがあることがわかります。こちらが平和的な解決を望んでいても、必ずしも相手もそうだとは限りません。このように戦いを挑んでくることがあるのです。それはこの世が悪魔に支配されているからであり、神の進展を好まないからです。ですから、ありとあらゆる形で妨害し、それを拒もうとするわけです。しかし、主はわたしたちとともにいて戦ってくださいます。そしてそのことによってかえってご自分のみわざを進められるのです。主は、悪魔が行なう仕業をも飲み込み、ご自分の勝利に変えてくださるのです。

その大勝利の歌が27-30節までにあります。「へシュボン」はエモリ人の王、シホンの町でした。彼らは以前、モアブの王と戦って、その全土を取っていました。けれども今、そのヘシュボンはイスラエルによって投げ倒されたのです。主は勝利を治めてくださいました。この歌はそっくりそのままイスラエルの勝利の歌となったのです。

さらに彼らはバシャンへの道を上って行きました。つまり、そのまま北上していったということです。それでバシャンの王オグはそのすべての民とともに出てきました。それはイスラエルを迎え撃ち、エデレイで戦うためです。しかし、主はモーセに言われました。「恐れてはならない。彼とそのすべての民とその地をあなたがたに与える」と。あのエモリ人の王シホンに対してしたように、彼らに対してもする・・と。そこでイスラエルは彼らとその子らとすべての民とを打ち殺し、その地を占領しました。

このようにして、主はすでに約束の地に入る前に、約束の地における主の勝利を見せてくださいました。彼らは不平によって燃える蛇を送られ、死に絶えるという神のさばきを受けましたが、悔い改め、神が言われたとおりにすることによって、つまり、旗さおに掲げられた青銅の蛇を仰ぎ見ることによって救われると、たとえ行く手にどんなに強力な敵がいようとも、破竹の勢いで前進していくことができたのです。そこに主がともにおられたからです。

それは私たちも同じです。私たちも自分の罪を悔い改め、神が仰せられた救いを受け入れる時、その罪が赦され、永遠のいのちが与えられるだけでなく、たとえ目の前にどんな敵がいても勝利することができるのです。神がともにおられるからです。まだ約束の地には入っていなくても、それは確実にもたらされます。私たちの信仰の歩みはまさにイスラエルの荒野の旅と同じですが、大切なのはそれをどのように進んでいくかということではなく、だれとともに行くのかということです。神がともにおられるなら、何も怖くありません。必ず勝利することができます。イエス・キリストによって与えられた神の恵みを受け入れ、信仰をもってこの旅路を進んでいきたいと思います。