創世記4章1~16節

きょうは創世記4章から人類で最初に起こった殺人事件について学びたいと思います。アダムとエバの最初の子であったカインが、その弟アベルを殺したという出来事です。

 Ⅰ.カインとアベルのささげもの(1-7)

まず1節~5節をご覧ください。

「人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た」と言った。彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。ある時期になって、カインは、値の作物から主へのささげ物を持って来たが、アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た、主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。」

アダムとエバに最初の子どもが与えられました。名前は「カイン」です。意味は、「わたしは得た」です。アダムとエバが神に背いて罪を犯し、エデンの園を追放された時、神は彼らに「女の子孫」から救い主を与えると約束してくださいました(3:15)。ですから、彼らに長男が生まれたとき「得た」と思ったのでしょう。しかしながら、それが間違っていたことがわかると、次に生まれた子どもを「アベル」と名付けました。意味は「空虚」です。神の救いがないことは本当に虚しいことだと悟ったのです。

さて、そのカインとアベルが成長して大人になった時、カインは土を耕す者に、アベルは羊を飼う者になりました。日が経って、神にささげ物をささげる時期になった時、カインは地の作物の中から主へのささげ物を持ってきましたが、アベルは羊を飼うものとして、彼の羊の中から、しかも羊の初子の中から、最上のものを持ってきました。すると神様は、アベルとそのささげ物に目を留められましたが、カインとそのささげ物には目を留められませんでした。いったいなぜ神様はアベルとそのささげ物には目を留められたのに、カインとそのささげ物には目を留められなかったのでしょうか。

その後で、そのことで怒り、顔を伏せていたカインに、神様は「あなたが正しく行ったのであれば受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口に待ち伏せしていて、あなたを恋い慕っている。」と言われました。すなわち、彼は正しく行なわなかったのです。いったいどういう点で彼は正しく行っていなかったのでしょうか。

このところをよく見ると、彼は土を耕す者になったのですから、その収穫の中から主へのささげ物を持って来たことは問題ではないかのように感じます。そこで多くの人はそのささげる態度に問題があったのではないかと考えます。アベル場合は最上のものを持ってきたのに対して、カインはそうではなかった。つまり彼は適当にささげたというのです。しかし、問題はささげ物の質で決まるのではありません。結果としてはそれも原因の一つであったかもしれませんが、ここでの問題は別のところにありました。それは、彼らがささげた物が何であったのかということです。つまり、血による犠牲であったかどうかが問われているのです。アベルは血による犠牲をささげたのに対して、カインは血のないささげ物をささげました。彼らはアダムとエバの子どもとし、神が受け入れられるささげ物とはどのような物であるのかを聞いて、それを知っていたはずです。すなわち、神が受け入れられるささげ物とは罪を贖うべきものであり、そこには動物の血が流される必要があったということです。なぜなら、罪の支払うべき報酬は死であり、命は血の中にあるからです。レビ記17:11とヘブル9:22に、次のように記されてあります。

「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。」(レビ17:11)

「それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」(ヘブル9:22)

血を注ぐことがなければ、罪の赦しはありません。彼らはそれをアダムとエバから聞いてちゃんと知っていたはずなのです。なぜなら、アダムとエバが罪を犯したとき、自分たちが裸であることを知り、それで神の前に出るのが恥ずかしいと思いいちじくの葉で腰の覆いを作って着ましたが、その着物は神の御前には何の役にも立たず、そのために神様は別の着物を着せてくださいました。どういう着物だったでしょうか?そうです、「皮の衣」(3:21)です。それは動物の血の犠牲が伴うものでした。彼らはそのことを知っていたのです。アベルはそのことをわきまえて血の犠牲としてささげ物をささげましたが、カインはそうではありませんでした。それが問題でした。彼らはともに堕落したアダムとエバの子どもとしてエデンの園の外で生まれましたから、ともに罪人であるという点では同じでした。しかし、その罪の赦しを請うために、すなわち、神に受け入れられるための手段、方法は違っていました。アベルは神の方法に従って、神のあわれみによりすがり、血の犠牲をささげたのに対して、カインは罪の赦しを受けることなしに、自分の手のわざをささげたのです。しかし、自分のわざによっては神に近づくことはできません。ただ神のあわれみによらなければ、神に近づくことも、罪の赦しも受けることはできないのです。このことをわきまえないで、自分のわざによって神に受け入れられようとすることは、神の御前には傲慢以外の何ものでもありません。

このことは、神の小羊であられるイエス・キリストを信じる信仰を表していたことは明らかです。神はイエス・キリストの十字架で流された血潮によって、その名を信じる者を義としてくだり、はばかることなく、大胆に恵みの座に近づくことができるようにしてくだったのです(ヘブル4:16)。

神がアベルのささげ物を顧みてくださりカインのささげ物に目を留められなかったのは、そういう点でカインが正しく行っていなかったからであって、決して神が人をかたよって見ておられたからではありませんでした。神はかたよって見られる方ではないからです(ローマ2:11)。そういう意味では、ささげ物が受け入れられなかったとしてもその責任は神様にあるのではなくささげた側にあるのだから、神に対して憤ったり、顔を伏せたりすべきではないのに、カインは自分の罪をわきまえずにやたら腹を立て、ついには弟を殺してしまいました。罪深い人間の本性が、ここによく表れているのではないかと思います。

 Ⅱ.カイン、アベルを殺す(8-14)

では、その人類最初の殺人事件を見ていきましょう。8節から14節です。

「しかし、カインはアベルに話しかけた、「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」そこで、仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。今や、あなたはその土地にのろわれてりう。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」カインは主に申し上げた。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」

ささげ物が受け入れられなかった責任は自分にあり、そのことを示されたカインは、神の言われることに耳を傾けるどころかアベルに嫉妬し、彼に襲いかかって、殺してしまいました。ここに最初の殺人事件が起こったのです。神に背き、神の言われることを拒んでいる罪人は、みなこのカインのようです。他の人を傷つけてしまうのです。それがこのような暴力的な犯罪につながることがあれば、暴力として表れなくても、苦々しい態度や、わがままな行動になってあらわれることもあります。しかし、それは結果的には悲惨的で、誰かを傷つけてしまうことになるのです。そして、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問われても、そうした殺人の責任をとろうとするどころか、「知りません。私は弟の番人なのでしょうか」とうそぶいくことになるのです。カインは、神様が自分の罪のすべてを知っておられることがわかっていても、あるいは、その罰からのがれられないことがわかっていても、それでもなお悔い改めて赦しを得ようとしませんでした。むしろ自己憐憫から、自分の運命をのろい、神の罰が厳しいと言って、不平を述べているのです。そして、罰からのがれられないと見てとると、今度は深く絶望してしまいます。今度は、アベルを殺した報復として、だれかが自分を殺しはしないかと思い、心配しているのです。まさにこれが罪人の姿です。どこまでも頑ななのです。神は、ひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われることを望んでおられます(Iテモテ2:4)。ですから、どんな罪を犯したとしても、ただ神の前に悔い改め、へりくだって歩めばいいのに、なかなかそれができないのです。そして、もっと、もっと意固地になって神をのろい、不平を並び立てながら、自分の人生をのろうのです。それが罪深い人間の姿なのです。

 Ⅲ.一つのしるし(15-16)

そんなカインに対して、神はどうされたでしょうか。15節と16節をご覧ください。

「主は彼に仰せられた。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。それで、カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。」

 

なんと、そのようなカインの嘆きに対して、神様は「それだから・・」と、だれも彼を殺すことがないように一つのしるしを下さいました。このしるしが何であるかはわかりませんが、いったいなぜ神様はこのようなしるしを彼に与え、彼を守ろうとされたのでしょうか。それは、神様はあくまでも彼が悔い改めることを願っておられたからです。そのために彼を守られる手段を講じてくださったのです。にもかかわらず彼は、そんな神様の愛の思いを悟ることができず、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住み着きました。「ノデ」とは「動揺」という意味です。神を離れてからのカインの毎日は、動揺にほかなりませんでした。それはさすらいであり、さまよいです。くる日もくる日も不安な動揺に終始しなければならない生活は、どんなに悲惨であったかがかります。

スタインベック原作の映画「エデンの東」は、ここにその名のルーツがあります。厳格な父に受け入れてもらえないジェームス・ディーン扮する主人公が、父に受け入れてもらうことを願いつつも、かえって背を向けて葛藤する様を描いています。

殺人の罪を犯しても、カインは真に悔い改めることをしませんでした。ところが、そんな彼の上にも、神様は「保護」という恵みを与えられました。神様はそれほどに人類が悔い改めて神に立ち返ることを願っておられるのです。私たちはカインの道、すなわち神様から離れた自己中心の道ではなく、アベルの道、すなわち、自分の罪を悟り、そのままの姿では聖なる神様の御前には出ることができないことを知り、信仰によって身代わりの犠牲をささげる。つまり、来るべき救い主イエス・キリストに信頼する道、信仰の道を歩む者でありたいと願います。

レビ記25章1~22節

きょうは、レビ記25章前半の部分から学びたいと思います。まず1節から7節までをご覧ください。

1.安息年(1-7)

「25:1 ついで主はシナイ山でモーセに告げて仰せられた。2 「イスラエル人に告げて言え。わたしが与えようとしている地にあなたがたがはいったとき、その地は主の安息を守らなければならない。3 六年間あなたの畑に種を蒔き、六年間ぶどう畑の枝をおろして、収穫しなければならない。4 七年目は、地の全き休みの安息、すなわち主の安息となる。あなたの畑に種を蒔いたり、ぶどう畑の枝をおろしたりしてはならない。5 あなたの落ち穂から生えたものを刈り入れてはならない。あなたが手入れをしなかったぶどうの木のぶどうも集めてはならない。地の全き休みの年である。6 地を安息させるならあなたがたの食糧のためになる。すなわち、あなたと、あなたの男奴隷と女奴隷、あなたの雇い人と、あなたのところに在留している居留者のため、7 また、あなたの家畜とあなたの地にいる獣とのため、その地の収穫はみな食物となる。」

ここには安息年に関することが教えられています。2節には、「わたしが与えようとしている地にあなたがたがはいったとき、その地は主の安息を守らなければならない。」とあります。「六年間あなたの畑に種を蒔き、六年間ぶどう畑の枝をおろして、収穫しなければならない。4 七年目は、地の全き休みの安息、すなわち主の安息となる。あなたの畑に種を蒔いたり、ぶどう畑の枝をおろしたりしてはならない。」

安息日については十戒めで教えられていました。「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。」(出エジプト20:8-10)ここでは安息日ではなく安息年です。つまり、六年間畑に種を蒔き、収穫しなければなりませんが、七年目は、地の全き休みの安息として、種を蒔いたり、ぶどうの枝をおろしたり、刈り入れをしてはならないというのです。いったいなぜ主はこのようなことを命じられたのでしょうか。

それがその土地のためになるからです。6節を見ると、「あなたの食糧のためになる」とあります。私は農業の経験はありませんが、これは一般的にも通用する原則だそうです。連作をするとその土地が痩せると言われています。ですから、他の作物を植えたりして連作を避けるそうですが、イスラエルの場合は一切の耕作を休みます。それはさらに豊かになるための神の知恵なのです。収穫を得るために休むのです。

私たちはどうして、こんなにひっきりなしに働くのでしょうか?それは不安だからです。働かないでいられません。働かなかったらと収入が減るのではないか、他の人たちに追い越されてしまうのではないかと心配するので、その心配が私たちを労働へと駆り立てるのです。もう一つの理由は、私たちにある貪欲さです。もっとお金がほしい、もっと成績を伸ばしたい、といった欲望が休むことを止めさせます。けれども、そこにあるのは神が働かれる余地を除外することに他なりません。神が実を結ばせてくださり、神がすべての営みの源であるということを忘れて、自分たちの手で、自分たちの力で何とかしようという思いが働くのです。

しかし、神は、私たちの助けがなくても働くことがおできになります。すべての良いものは神から来ていることを知るには、そこに立ち止まらなければなりません。すべての手のわざをやめて、神の教えに耳を傾け、それに聞き従わなければならないのです。

それにしてもなぜこんなにも主が休むことを強調しているのかと言いますと、それはイスラエルがエジプトで奴隷だったことと関係があります。イスラエルはかつてエジプトで430年間奴隷として過ごしていたわけですが、奴隷は休むことができません。休むということは、奴隷状態から解放されて自由人になったことを表しています。ですから、彼らがこうして休むというのは、彼らが神によって贖われて神の民となり、自由になったことを意味していたのです。

また、もっと元をたどれば、働くことは最初の人アダムとエバが罪を犯したことによってもたらされた神ののろいでした。アダムとエバは神の命令に背き、食べてはならないと命じられていた木から取って食べたので、その結果、額に汗して働かなければならなくなったのです。それまで彼らは神が与えてくださったエデンの園で自由に生きることができました。しかし、罪を犯した結果、奴隷のように働かなければならなくなってしまったのです。神を認めないで、自分の知恵で生きることを選んだ者は、自分で働かなければならないという結果が生じてしまいました。

けれども、そんな罪の重荷から神は私たちを解き放ってくださいました。神はその子イエス・キリストをこの世にお遣わしになり、罪にとらえられていた私たちを解放してくださいました。ですから、この安息年の示していたことは、こうした罪の重荷から解放して私たちの心に全き安息をもたらしてくださったイエス・キリストであったのです。まさにキリストは安息日の主であられましたが、この安息年の主でもあられるのです。

ところで、イスラエルはこの戒めをずっと守りませんでした。守らなかった結果どのようになってしまったでしょうか。バビロンに捕え移されるという悲惨な結果を招くことになってしまったのです。Ⅱ歴代誌36章21節をお開きください。ここにはこうあります。

「これは、エレミヤにより告げられた主のことばが成就して、この地が安息を取り戻すためであった。この荒れ果てた時代を通じて、この地は七十年が満ちるまで安息を得た。」(Ⅱ歴代誌36:21)」

「これは」とは、イスラエルがバビロンに捕え移されたのは、ということです。それは彼らが、彼らに与えられたこの主の戒めを守らなかったからなのです。彼らが守らなかったので、主はこの安息を取り戻すため、バビロンを通してこの地を休ませたのです。その期間は70年でした。主は強制的にその土地を休ませるために、バビロンを用いて彼らを取り除いたのです。

私たちは神の命令を重荷であると思って、それを退けることができると思っても、実は退けられるのは神の命令ではなく、私たちの方であることをここで知らなければなりません。そして、それが自分たちにとってどうであるかということを自分たちで判断しないで、ただ神の仰せられたことに聞き従わなければならないのです。

2.ヨベルの年(8-17)

「8 あなたは、安息の年を七たび、つまり、七年の七倍を数える。安息の年の七たびは四十九年である。9 あなたはその第七月の十日に角笛を鳴り響かせなければならない。贖罪の日に、あなたがたの全土に角笛を鳴り響かせなければならない。10 あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰らなければならない。11 この第五十年目は、あなたがたのヨベルの年である。種を蒔いてはならないし、落ち穂から生えたものを刈り入れてもならない。また手入れをしなかったぶどうの木の実を集めてはならない。12 これはヨベルの年であって、あなたがたには聖である。あなたがたは畑の収穫物を食べなければならない。13 このヨベルの年には、あなたがたは、それぞれ自分の所有地に帰らなければならない。14 もし、あなたがたが、隣人に土地を売るとか、隣人から買うとかするときは、互いに害を与えないようにしなさい。15 ヨベルの後の年数にしたがって、あなたの隣人から買い、収穫年数にしたがって、相手もあなたに売らなければならない。16 年数が多ければ、それに応じて、あなたはその買い値を増し、年数が少なければ、それに応じて、その買い値を減らさなければならない。彼があなたに売るのは収穫の回数だからである。17 あなたがたは互いに害を与えてはならない。あなたの神を恐れなさい。わたしはあなたがたの神、主である。」

次に8節から17節までを見ていきましょう。ここには「ヨベルの年」について記されてあります。安息の年を七たび、つまり、七年の七倍を数えた年が「ヨベルの年」です。この日は角笛を吹き鳴らさなければなりません。「ヨベル」とは、「雄羊の角笛」という意味です。安息年と同じように、完全に土地を休ませます。したがってヨベルの年の目的の一つは安息年と似ており、「疲れたものを休ませ、回復させ、新たな始まりを与える」ことにあります。10節には、「国中のすべての住民に解放を宣言する」とあります。しかし、安息年とは違う特徴がこのヨベルの年にはあります。それは、このヨベルの年には、それぞれが自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰ることができたということです。

これはどういうことかというと、主の恵みの完全な回復です。創世記12章には神がアブラハムにカナンの地を与えると約束してくださいました。そしてヨシュアの時代にイスラエルはこのカナンを占領し、それぞれの部族ごとに割り当てました。こうしてイスラエルの各部族に自分たちの所有する土地が与えられたのです。

ところが、時間の経過とともに経済的事情が生じ、ある人は貧しくなって自分の土地を手放さなければならないという状況に陥ってしまうこともありました。ところが五十年目には、それら全ての土地の譲渡がリセットされて原状回復されるのです。必ず、元の所有者の所に戻されるのです。このようにして神は、代々、初めに定められた相続地を誰かに売り渡されることのないようにしてくださったのです。これはまさに主の恵みの大解放です。

そこで土地の売買のやり方を見ると、それは次のヨベルの年までにどれだけ収穫することができるかでその評価額が決まりました。たとえば40年先にヨベルの年があるのであれば40回の収穫があるということですから40回の収穫に応じた価値があるとされ、10年後にヨベルの年があるならば10回の収穫数に応じた価値があるということで土地の評価額が決まりました。今読んだところは、それを無視して土地の売買をするとのないようにという戒めです。「神を恐れなさい」とあります。人の思惑によって神が初めに与えられた土地の約束が次第に損なわれていきますが、それによって神が定めた計画が損なわれることがないように、神は七年の七周期という時を定めて、新たな始まりの時を設けてくださっているのです。

ところで、神は、このヨベルの年の原則をこの人類の救済の歴史において大体的に行なわれました。そうです、主イエス・キリストにおける大解放です。私たちはキリストにあって、罪から解放されて自由になりました。キリストにあってその人生をリセットすることができるのです。ルカ4章18節と19節には、このことが記録されてあります。ここに「主の恵みの年を告げ知らせるために」とあります。この主の恵みの年こそ、このヨベルの年のことだったのです。主イエスはこの恵みの年を告げ知らせるために来てくださったのです。それまで罪に囚われ、虐げられていた人が、イエス・キリストによって罪から解放され、全く自由にされるのです。ですから、このヨベルの年は、キリストによる罪からの解放のひな型であったわけです。

しかしそれだけではありません。それは単に罪からの解放というだけでなく、やがてキリストが再臨されることによってもたらされる主の千年王国の預言でもありました。24章ではユダヤ教の例祭について学びましたが、「ラッパの吹き鳴らす会合」とか「贖罪の日、「仮庵の祭り」という秋に行われる収穫祭、後半の三つの祭りは終末に起こることの預言でもあるとお話しました。ラッパが吹き鳴らされるのは、主が再臨される時の合図だったのです。

使徒の働き3章19-21節を見ると、ペテロは、ここでこのヨベルの年のことを思いながら、こう説教しました。「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。」

ここに「回復の時」とありますが、これが主イエス・キリストの再臨される時のことです。その時キリストは万物を回復させてくださいます。主の千年王国をこの地に樹立してくださるのです。それはかつて主が人類を創造された時のエデンの園の回復です。神はこの地上を滅ぼされる前に、あのエデンの園をもう一度回復し、そこに私たちを住まわせることを計画されました。万物が改まって輝けるエデンの園が回復されます。その御国を受け継ぐことができるようにしてくださるのです。それは主の恵みの年の大解放、ヨベルの年の完全な実現です。

ですから、このヨベルの年はかつてのイスラエルの時代における恵みの回復でしたが、それが救い主イエス・キリストによる罪からの大解放を示していたのであり、そしてそれは同時に世の終わりの万物が改まる時にもたらされる主の千年王国の預言でもあったのです。

3.3年間の収穫(18-22)

「18 あなたがたは、わたしのおきてを行ない、わたしの定めを守らなければならない。それを行ないなさい。安らかにその地に住みなさい。19 その地が実を結ぶなら、あなたがたは満ち足りるまで食べ、安らかにそこに住むことができる。20 あなたがたが、『もし、種を蒔かず、また収穫も集めないのなら、私たちは七年目に何を食べればよいのか。』と言うなら、25:21 わたしは、六年目に、あなたがたのため、わたしの祝福を命じ、三年間のための収穫を生じさせる。25:22 あなたがたが八年目に種を蒔くときにも、古い収穫をなお食べていよう。九年目まで、その収穫があるまで、なお古いものを食べることができる。」

最後に18節から22節までを見て終わりたいと思います。ここではどんなことが教えられているのかというと、安息年またヨベルの年に土地を休ませるなら自分たちの生活はどうなるかということです。一年間まるごと土地を休ませ耕作しなかったら、食べる物がありません。そして安息年の翌年に種を植えることができても、収穫は次の年になります。したがって三年分の収穫が、安息年の前の年に必要なのです。そこで主は、9年目に3年間の収穫を生じされるというのです。そのことを約束してくださっているのです。

かつてイスラエルが荒野を放浪していたとき、主は安息日にマナを集めてはならないと命じられました。では安息日の食糧はどうすればいいのか。何とその前の日に二日分のマナを与えると約束されたのです。それでも安息日に集めに行った人がいましたが、七日目に集めに出た人は、何も見つかりませんでした(出エジプト16:27)。それじゃ、無くならないようにといっぱい集め、翌日まで取っておいた人はどうなったかというと、それに虫がわき、悪臭を放ったため、食べることができませんでした(出エジプト16:20)。人間って、どこまでも貪欲なんですね。明日のことを心配ばかりしています。明日食べるものをどうしようか・・・と。しかし、神は心配するなと言われます。それが神の命令ならば、必ず神が祝福してくださいます。彼らがちゃんと食べることができるように三年間の収穫を生じさせるというのです。

マタイの福音書6章25節から34節までをお開きください。ここには「25 だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。28 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。30 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」とあります。

イエス様は、「自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。」(マタイ6:25)と言われました。それは異邦人が切に求めているものです。神に贖われた神の民が求めなければならないのは、神の国とその義です。それを第一に求めなければなりません。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。たとえば、空の鳥を見なさい。種まきもせず、刈り入れもしませんが、天の父がちゃんと養っていてくださいます。あるいは。野のゆりを見てください。働きもせず、紡ぎもしないのに、きれいに着飾っています。天の父が養っていてくださるからです。あなたがたは鳥よりも、のの花よりももっとすぐれたものではありませんか。あなたがたは神に贖われた神の民なのです。だから、神がちゃんと養ってくださいます。あなたにとって必要なことは心配することではなく、神に信頼することなのです。神の国とその義とを第一にしなければなりません。そうすれば、神が祝福してくださいます。

ですから、安息日を守ること、そして七年ごとの安息年を守ること、また、ヨベルの年を守ることは、神が養ってくださることを信じることに他なりません。言い換えれば、食べ物も飲み物も、着る物も財産も、そのすべてが神からの恵みであることを認め、この神に信頼しなければ何一つ持つことができないものであるということを認めることでもあるのです。すべて自分が行なっているのだ、という思いは養い、備えてくださる神を無視した、傲慢な態度に他ならないのです。

イザヤ66:1-5 レジュメ

「主のことばにおののく者」

イザヤ66:1-5

 Ⅰ.天はわたしの王座、地はわたしの足台(1)

 65章に続き、祈りの応答が語られる。「主はこう仰せられる。『天はわたしの王座、地はわたしの足台。わたしのために、あなたがたの立てる家は、いったいどこにあるのか。わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。』」(1)

 これはイスラエルに対する最後のチャレンジである。神のために彼らが建てる家はどこにあるのか?どこにもない。たとえどんなに立派な神殿を建てようとも、この天地を創造された神を入れることなどできない。いったなぜ神はこんなことを言われたのだろうか。それは当時のイスラエルの中に神殿を大切にし、そこで行われている宗教儀式を守っていれば救われるという間違った考えを持っている人たちがいたからである。しかし、神のために建てる家などどこにもない。実体は神殿にではなく、天にある御座にある。それこそ大事にしなければならないものなのに、彼らはそれを忘れていた。

 Ⅱ.わたしが目を留める者(2)

 「これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。」(2a)「これらすべて」とは、神が造られたすべてのものである。神はこれらすべてのものを造られた。それゆえ、すべてのものは神のもの。だからたくさんのものを神に献げれば神が喜ばれるかというとそうではない。神のために立派な神殿を建てれば、神が満足されるかというとそうでもない。神はすべてのものを造られ、すべw

のものを持っておられる。それゆえ、神が我々に求めておられるものはそのような物ではなく、私たち自身、私たちの心なのである。それゆえ神はこう仰せられる。「―主の御告げ―わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」(2b)神が目を留める者は、へりくだって心砕かれ、神のことばにおののく者である。「へりくだって心くだかれ」とは、単に謙遜になることではない。自分の心が悲しみと絶望で打ちひしがれた状態になることを指す。また、「おののく」とはただ恐ろしさに震えるということよりも、神のことばに圧倒され、ひれ伏さずにはいられないような畏怖の念を持つことである。神のことばがなければ生きていくことはできない、神のことばだけが自分の生きる支えですと、神のことばを救いの唯一の希望とする人のことである。神は、このような者に目を留めてくださる。

 Ⅲ.自分勝手な道を選ぶ者(3-5)

 それとは逆に、自分勝手な道を選ぶ者がいる。そのような者は「牛をほふる者は、人を殺す者。羊をいけにえとする者は、犬をくびり殺す者。穀物のささげ物をささげる者は、豚の血をささげる者。乳香をささげる者は、偶像をほめたたえる者。」(3)である。どういうことか?彼らは表面的には敬虔にふるまっているようだが、その実は偶像をほめたたえる者であったということ。なぜなら、彼らは自分勝手な道を選び、その心は忌むべき物を喜んでいたからである。彼らは神に喜ばれることよりも自分の考えを優先させ、あくまでも自分の考えに従っていけにえをささげていた。彼らは神のみことばに従っているようでも、実際には自分の選択を優先させていたのである。それは偶像礼拝と同じことだ。

 このようなことは、私たちの信仰生活にも言える。もしへりくだって心砕かれることなく、神のことばにも聞き従おうとせず、自分勝手な道を選ぶなら、どんなに熱心に信仰生活をしていても全く意味がない。それは見せかけの信仰であり、偽善的な信仰にすぎず、神が最も忌み嫌われることなのである。神が私たちに願っておられることは、へりくだって心砕かれ、神のことばにおののくことである。神のことばを聞いて、それに従うことである。

 あなたは神のことばにおののいておられるだろうか。私たちの人生には二つの道がある。一つはへりくだって心砕かれ、神のことばにおののく道であり、もう一つの道は自分勝手に歩む道である。どちらの道を歩むかは自分で決めなければならない。しかし、もしあなたがへりくだって心砕かれ、神のことばにおののくなら、神はあなたに目を留めてくださる。あなたは神の御国を相続するようになるのだ。私たちはそのような道を歩む者でありたい。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13,1

イザヤ書66章1~5節 「主のことばにおののく者」

きょうからイザヤ書の最後の章に入ります。この章は64章12節のイザヤの祈り、あるいはイザヤの叫びに対する神の答えと同時に、このイザヤ書全体の結論となっています。  イザヤはバビロンによって滅ぼされ、荒れ果てた神の都エルサレムを見て、「主よ。これでもあなたはじっとこらえ、黙って、私たちをこんなにも悩まされるのですか。」(64:12)と祈りました。その祈りに対する神の答えは、驚くべき内容のものでした。

「わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。わたしは、わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、わたしはここだ、わたしはここだ」と言った。」(65:1)

つまり、そのことによってそれまで神を呼び求めなった異邦人たちに、神の救いがもたらされるようになったということです。いったいだれがそんなことを考えることができたでしょう。だれもできません。ただ神だけが永遠の計画をもって導いておられたのです。

そればかりではありません。65章17節には、「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。」とあります。初めに神が天と地を創造したように、まったく新しい秩序をもって新しい天と新しい地を創造されると言われたのです。先の事は思い出されず、心に上ることもありません。罪によってもたらされる悲しみや叫びは消え去ります。そういう新しい天と新しい地を創造するというのです。これこそ真の希望であり、慰めです。この時イスラエルはバビロンによって滅ぼされるという歴史的なクライシス、危機に直面していましたが、神はそのような時に真の慰めと希望を語ってくださったのです。

このイザヤ書は40章から後半部分が始まりました。それは「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」(40:1)という語りかけをもって始まりました。いったい何が慰めなのでしょうか。それは、この新しい天と新しい地がもたらされるということだったのです。古い天と地は過ぎ去り、先の苦難は忘れられ、心に上ることもありません。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない、そういう世界がもたらされる。それこそ本当の慰めです。

そしてこの66章にも65章同様、神のさばきと祝福が網を編むかのように交互に語られながら、神の民に対する深い神のご計画が明らかにされて行くのです。

Ⅰ.天はわたしの王座、地はわたしの足台(1)

まず1節をご覧ください。ここには、「主はこう仰せられる。「天はわたしの王座、地はわたしの足台。わたしのために、あなたがたの建てる家は、いったいどこにあるのか。わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。」とあります。

主のイスラエルに対する最後の問いかけ、チャレンジです。それは「あなたの建てる家はどこにあるのか。わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。」です。これはいったいどういうことなのでしょうか。「あなたがたの建てる家」とはエルサレムの神殿のことです。彼らはエルサレムの神殿こそ神がおられ、神の霊が満ちておられるところと信じていました。しかしここで神は、わたしのために建てる家はどこにあるのか。どこにわたしにとってのいこいの場があるというのか、と言うのです。そのような家はどこにもありません。なぜなら、「天はわたしの王座、地はわたしの足台。」だからです。そんなちっぽけな神殿にこの天地万物を創造された方をお入れすることなどできません。

イスラエルの王ソロモンは、エルサレムに神殿を建てその奉献の日にこのように祈りました。Ⅰ列王記8章27節です。

「それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。」(Ⅰ列王記8:27)

この天地を造られた創造者なる神を入れることができるものなどない。どんなに立派な神殿を建てようとも、いやこの天の天でさえも、この神をお入れすることなどできないと言ったのです。

いったいなぜ神はこんなことを言われたのでしょうか。それは当時のイスラエルの中に神殿を中心とした宗教儀式を行っていれば神に認められるといった間違った考えを持っている人たちがいたからです。それがいかに重要な位置を占めていたかは、バビロン捕囚後に帰還したイスラエル人たちが真っ先に取り組んだのが、この神殿の再建工事であったことからもわかります。エルサレムの神殿はユダヤ教の信仰にとって中心的なことであり、そこでの宗教的な務めを行うことが最も重要なことだったのです。ですから、それさえ行っていれば神に認められると思っていたというのも納得できます。それは今日のクリスチャンが日曜日の礼拝を守っていれば救われていると誤解したり、献金をしたり、奉仕をすれば神に認められると勘違いしているのに似ています。こうした宗教的な行いが悪いのではありません。むしろ、こうした行いはクリスチャンとして当然のことでしょう。しかしこうしたことをしていれば自分が聖められていると考えているとしたら、それは違うということです。そうしたことで聖められることはできません。

私たちの神はこうした神殿にお住みになられる方ではないからです。「天はわたしの王座、地はわたしの足台。」と言われる神は、人間の手でこしらえた家などでゆっくりと休まれる方ではないのです。こうしたものは天にあるもののひな型にすぎません。実体は神殿という建物にあるのではなく、天にある神の御座にあるのです。ですから私たちはこうした外見的なことに惑わされないで、神の喜ばれることはどんなことなのかを正しく理解し、それを求めていかなければならないのです。

Ⅱ.わたしが目を留める者(2)

では、神が求めておられることはどんなことでしょうか。2節をご覧ください。 「これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。―主の御告げ―わたしが目を留める者は、へりくだって心を砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」

「これらすべて」とは、神が造られたすべてのものを指しています。「これらすべてはわたしのものだ」この「わたしのもの」には※がついています。下の欄外の説明には、七十人訳、シリヤ語による、とあります。七十人訳聖書とはヘブル語をギリシャ語に訳した聖書ですが、それをシリヤ語に訳したものという意味です。その訳からこれを「これはすべてわたしのものだ」と訳したのです。しかし、原語のヘブル後ではこれは「ある」ということばが使われているのです。つまりヘブル語では「これらすべてはある」なのです。「これらすべてはある」ではどういう意味なのかさっぱりわからないので、七十人訳の、シリヤ語の訳を参考に「これはすべてわたしのものだ」と訳したのです。  新共同訳聖書ではこれを、「これらすべて、それゆえに存在すると主は言われる」と訳しています。こちらの方がよく訳していると思います。「ある」を「存在する」と訳したのです。「これらすべて、わたしの手で造り、これらすべて、それゆえに存在すると主は言われる。」(新共同訳)主はこれらすべてを造られました。それゆえにすべてのものが存在しているのです。これらすべてのものは神のものであるという意味です。

ですから、たくさんのものを神にささげればそれで神が喜ばれるかというとそうではなく、神のために立派な神殿を建てればそこに神が住まわれるのかというとそうでもないのです。すべてのものを造られ、すべてのものはこの方のものなのであり、すべてのものの根源であられる神が求めておられるものはそういうものではなく、私たちの心、私たち自身です。そのわたしたちとはどのような私たちなのかというと、ここにはこうあります。

「―主の御告げ―わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」

皆さん、神が目を留める者は、へりくだって心砕かれ、神のことばにおののく者です。「へりくだって心砕かれる」とは、単に謙遜になることではありません。自分の心が悲しみと絶望で打ちひしがれ、粉々に砕かれた状態になることです。自分が本当に罪深い人間であることを思い知らされ、神の前にある自分の魂が砕かれることなのです。それがへりくだるということです。そのようなへりくだった心で神の言葉を聴くからこそ、神のことばにおののくことになります。

ダビデはバテ・シェバという女性と姦淫を行い、その罪を預言者ナタンに示されたとき、へりくだって心砕かれ、神の前に悔い改めました。詩篇51篇には、そんなダビデの悔い改めの歌が記されてありますが、彼は、「1 神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。」と祈りました。「2 どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。」と心から主に求めました。「3 まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。4 私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました。」と正直に罪を認めました。そして、「7 ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。」と罪の赦しを求めました。また、「10神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。」と祈りました。そして、「16たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを望まれません。17 神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」と神のご恩寵にすがったのです。これがへりくだって心砕かれ、神のことばにおののく者の姿です。

「おののく」という単に恐ろしいということではなく、「ものすごい」といった畏怖の念が含まれた言葉です。生きておられる神が語られる言葉を、神の言葉として聴く時、そこにこうした怖れが生まれるのは当然のことです。

神が目を留める者は、へりくだって心砕かれ、神のことばにおののく者です。 神様助けてください。もうみことばがないと生きていけません。私には神のことばが必要です。神のことばによらずして生きることなどできません。あなたのみことばだけが私の生きる支えです、と神のみことばを救いの唯一の希望とする人です。神は、このような者を決してさげすまれることはされないのです。

Ⅲ.自分かってな道を選ぶ者(3-5)

第三のことは、それとは逆に神のことばを聴かないで自分かってな道を選ぶ者です。3節から5節を見てください。3節をお読みします。 「牛をほふる者は、人を打ち殺す者。羊をいけにえにする者は、犬をくびり殺す者。穀物のささげ物をささげる者は、豚の血をささげる者。乳香をささげる者は、偶像をほめたたえる者。実に彼らは自分かってな道を選び、その心は忌むべき物を喜ぶ。」

どういうことでしょうか。これは牛をほふる人は、人を打ち殺しているということではありません。羊をいけにえにする人は、犬を絞め殺しているということでもないのです。穀物のささげものをしながら、豚の血をささげているわけでもありません。乳香をささげながら、偶像をほめたたえているということでもないのです。そうではなく宗教的な敬虔さを誇る者たちが形だけ、外見だけを重要視して、霊的な礼拝とそれにふさわしい信仰の歩みの重要性を忘れている人たちを非難していることばなのです。そのような人がいくら律法が命じているところのいけにえをささげたとしても、それは偶像礼拝にすぎないのです。なぜなら、彼らは自分勝手な道を選び、その心は忌むべき物を喜んでいるからです。彼らは神が喜ばれることよりも自分の考えを優先させ、あくまでも自分の考えに従っていけにえをささげていました。彼らは神のみことば(教え)に従うことを求めていたのではなく、自分を優先させていたのです。ですから、どんなに外見では敬虔を装っていても、その実は偶像崇拝そのものだったのです。

それは私たちも注意しなければならないことです。もし私たちがへりくだって、心砕かれることなく、神のことばに聞き従おうとせず、あくまでも自分の思い、自分の考えで進もうとするなら、どんなに熱心に集会に集っても、どんなに一生懸命に奉仕をしても、どんなに多額の献金をささげても、決して神に喜ばれることはないのです。立派な神殿を建てれば神は喜んでくださると思ったら大間違いです。それは人を打ち殺し、犬を絞め殺し、豚の血をささげ、偶像をほめたたえていることと何ら変わりません。それは偽善であり、神が最も忌み嫌われることなのです。イエス様はそんな偽善者たちを厳しく戒められました。「白く塗った墓」(マタイ23:27)と。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。そのように、彼らの外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいなのです。

もちろん、それは神殿なんていらないということではありません。神を礼拝する場所なんてどうでもいいと言っているのではないのです。礼拝なんて行かなくてもいいとか、献金なんて必要ない、と言っているのではないのです。こうしたことも大切なことですが、それが信仰の結果として生まれたものでなければ、全く意味がないのです。それが目的になり、神に従うことがないがしろにされているとしたら、そうしたことは全く意味がないばかりか、偽善的なものとして神に忌み嫌われることになってしまうのです。

イスラエルの王として最初に立てられたのはサウル王は、預言者サムエルを通して語られた神のことばに従いませんでした。彼は、行って、アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよと言われたにもかかわらず、牛や羊で最も良いものは聖絶せず、ただ値うちのないものだけを聖絶したのです。あるとき、サムエルがサウル王のところに行ってみると、何やら羊の声や牛の声が聞こえてくるではありませんか。メェヱ、メェエ。「いったいこれはどういうことですか」と尋ねると、サウルはこう答えました。 「アマレク人のところから連れて来ました。民は羊と牛の最も良いものを惜しんだのです。あなたの神、主に、いけにえをささげるためです。そのほかの物は聖絶しました。」(Ⅰサムエル15:15)  一見、理屈が通っているかのように聞こえますが、それは全くの誤解です。サウルは自分では主の声に従っているつもりでしたが、実際には自分の思いに従って行動していたのです。

こういうことって、実は私たちの中にもよくあるのです。神に従っていますよ、と言いながら、実際には自分に都合がいいように受け止めて行動しているということが・・・。しかし、それは神が喜ばれることではありません。それゆえに神は、そういう人を座から降ろされてしまうのです。サムエルはサウルにこう言いました。

「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(Ⅰサムエル15:22)

皆さん、聞き従うことはいけにえにまさります。耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさるのです。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。」いくら全焼のいけにえをささげても、それが神に聞き従うことに優るわけではないのです。大事なのは、自分の考えや判断、善し悪しに従って判断するのではなく、神のことばに従うことです。ただへりくだって、心砕かれ、神のことばにおののくこと、神のことばに聞き従うことなのです。そうでないと神の命令を行っているようでも、その実は、ほとんど自分の考えに基づいた信仰になってしまいます。

5節には、「主のことばにおののく者たちよ。主のことばを聞け。「あなたがたを憎み、わたしの名のためにあなたがたを押しのける、あなたがたの同胞は言った。『主に栄光を現させよ。そうすれば、あなたがたの楽しみを見てやろう。』しかし、彼らは恥を見る。」とあります。

ここには、ただ宗教的に熱心になるとどうなるかが語られています。そういう人はまことの信者を馬鹿にしたり、あざ笑ったり、迫害したりします。「あなたがたを憎み、わたしの名のためにあなたがたを押しのける、あなたがたの同胞は言った。『主に栄光を現させよ。そうすれば、あなたがたの楽しみを見てやろう。』」 これはどういうことかというと、ユダヤ人が、主のことばに真剣に聞き入る同じユダヤ人を押しのけるということです。彼らは同じユダヤ人たちにこう言ってあざ笑うのです。「主に栄光を現させよ。そうすれば、あなたがたの楽しみを見てやろう。」

主のみことばにおののき、神のみことばに聞き入るユダヤ人たちは終わりの日にもたらされる神の栄光を喜びをもって待ち望みますが、偽善者たちはそうではありません。彼らはそうした姿を見てあざ笑い、ののしり、迫害するのです。しかし、そのような偽善者の最後はどうなるでしょうか。「しかし、彼らは恥を見る。」そうした人たちは、最後に恥を見るようになるのです。

皆さん、神が私たちに願っておられることは、私たちが神のことばを聞いておののくことです。神のみことばに耳を傾けることなくただ宗教的な行いに熱心になるのではなく、へりくだって心砕かれ、神のことばにおののくことなのです。皆さんはどうでしょうか。神のことばにおののいておられるでしょうか。

私たちの人生には二つの道があります。一つはへりくだって心砕かれ、神のことばにおののく道であり、もう一つの道は自分勝手な道です。この二つの道を同時に歩くことはできません。どちらかの道を選ばなければならないのです。しかしどちらの道を選ぶかによって、その人にとって正反対の結果がもたらされることになります。へりくだって心砕かれ、神のことばにおののく人には神が目を留めてくださる、つまり、神の祝福がもたらされます。その人には新しい天と新しい地を受け継ぐようになるのです。しかし、もう一つの道である自分勝手な道を歩む人には恐怖がもたらされます。その人が行き着くところは永遠の滅びです。彼らにとって自分自身が神なのです。彼らは神のことばに聞き従うよりも、自分の思いを優先します。彼らの心は偶像崇拝で満ちていて、自分の欲が満たされることを喜び、自分が正しいと思う通りに歩むので、その結果、自分の身に滅びを招くことになるのです。あなたはどちらの道を選びますか。

イエスさまはこう言われました。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13-14)

私たちにはいつも自分勝手な道を歩もうとする誘惑があります。その道は広く、そこから入って行く人が多いのです。みんなと同じことをしていた方が安全で楽なように見えます。しかし、それは滅びに至る道なのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。しかし、その行き着くところは永遠のいのちです。その道だけが天国に通じる道なのです。その狭い門から入ってください。いのちに至る道を歩んでください。その道は狭く、それを見いだす者はまれですが、それこそ私たちを永遠のいのちへと導き、永遠の輝きをもたらす道なのです。「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」

神が私たちに願っておられることは、ただへりくだって心砕かれ、神のことばに聞き従う者です。私たちはそういう者にさせていただきたいと思います。そういう人にはやがて神の栄光がもたらされることになるのです。

Isaiah66:1-5 “Those who tremble at the Lord’s Word”

From today we enter into the last chapter of Isaiah. This chapter is God’s  answer to Isaiah’s prayer of 66:1-5. At the same time it is the conclusion to the whole book of Isaiah.

Isaiah saw Jerusalem destroyed by Babylon and fallen into ruins and he prayed, “After all this, O LORD, will you hold yourself back? Will you keep silent and punish us beyond measure?” (64:12) God answered his prayer with surprising words, “I revealed myself to those who did not ask for me; I was found by those who did not seek me. To a nation that did not call on my name. I said, ‘Here am I, here am I.’” (65:1)

In other words, by this to the Gentiles who until now “did not ask for” (65:1) God, the salvation of God will come.  That is unthinkable. This is only by the leading according to God’s eternal plan.

That’s not all. In 65:17 it says, “Behold, I will create new heavens and a new earth.” God is saying that like when in the beginning God created the heavens and the earth, God will create anew by a completely new order a new heaven and a new earth. “The former things will not be remembered, nor will they come to mind.” (65:17) Sadness and crying will disappear. God is saying the He will create such a new heaven and new earth. This is real hope and encouragement. At that time Israel was in a historical crisis of being destroyed by Babylon. Israel was facing a crisis, but God at such a time spoke words of true encouragement and hope.

The last half of the book of Isaiah begins from Isaiah chapter 40. It begins with God speaking, “Comfort. Comfort my people.” (40:1) What the comfort is that a new heaven and earth will come. The old heaven and earth will pass. “The former things will not be remembered, nor will they come to mind.” (65:17) “There will be no more death or mourning or crying or pain.” (Rev. 21:14) Such a world will come. This is the real hope.

Then in this chapter 66 as in chapter 65 God’s judgment and blessing are spoken interchangeably like an interwoven net so God’s plan for God’s people becomes clear.

 

  1. Heaven is my throne, and the earth is my footstool (Vs. 1)

First please look at verse 1. Here it says, “Heaven is my throne,

and the earth is my footstool.

Where is the house you will build for me?

Where will my resting place be?”

 

This is the last question from the Lord to Israel. It is a challenge. It is “Where is the house you will build for me? Where will my resting place be?” (1) “The house you will build for me” (1) is the temple in Jerusalem.  They believed the temple in Jerusalem was where God was really at and it was filled with God’s Spirit. But here God is saying, “Where is the house you will build for me? Where will my resting place be?” (1) There is no such house anywhere. That’s because “Heaven is my throne, and the earth is my footstool.” (1) You can’t put the creator of the heavens and the earth in such a tiny temple.

On the day the King Solomon dedicated the temple of Israel he prayed in I Kings 8:27, “But will God really dwell on earth? The heavens, even the highest heaven, cannot contain you.  How much less this temple I have built!” There is nothing that the creator that created the heaven and earth can fit into. He is saying that no matter how splendid a temple is built, “even the highest heaven, cannot contain” (I Kings 8:27) God.

The reason God is saying this is because at that time among the Israelites there were some people that had the wrong thinking that if they performed the religious rites revolving around the temple, then they would be recognized by God. It can be seen that it held such an important position in the fact that after the Israelites returned from captivity in Babylon the first thing that they did was rebuild the temple. The Jerusalem temple was the central thing in the Jewish faith. To do religious duties was the most important thing. Therefore, it is understandable that they thought that if they did such things, then they would be recognized by God. This is similar to present day Christians that have the misunderstanding that if they attend Sunday worship, they are saved or mistakenly think that if they tithe, and serve in the church they will be recognized by God. Such religious acts are not bad. Rather such acts are natural for Christians.  However, if you think you do such acts, then you are holy, that is wrong. Such things can’t make you holy.

Our God does not live in such a temple. God who said, “Heaven is my throne, and the earth is my footstool” (1) does not rest in a house built by human hands. Such things are nothing more just a model of heavenly things. The real thing is not the temple building, but the throne of God in heaven. Therefore, let’s not be deluded by such outward things. We need to understand what things please God and seek those things.

 

  1. The ones I look on with favor (Vs. 2)

Then what does God desire? Please look at verse 2. “’Has not my hand made all these things, and so they came into being?’ declares the LORD. ‘These are the ones I look on with favor: those who are humble and contrite in spirit, and who tremble at my word.’” (2)

“All these things” (2) are everything that God has created. “Has not my hand made all these things, and so they came into being?” (2) so “all these things” (2) belong to God.

Therefore, if we give a lot of things to God that doesn’t necessarily mean that God will be pleased. If we build a splendid temple for God it doesn’t necessarily mean that God will live there. God’s “hand made all these things” (2) and all things belong to God. God who is the source of all things doesn’t desire such things, but desires our hearts, ourselves.  Here, in verse 2, it tells us what kind of person God desires.

“These are the ones I look on with favor:

those who are humble and contrite in spirit,

and who tremble at my word.” (2)

Those whom God looks “on with favor” (2) are “those who are humble and contrite in spirit, and who tremble at” (2) God’s Word. “Humble and contrite in spirit” (2) is not just being humble. It is to be truly contrite for sin, penitent for it, and in pain to get it pardoned. This is what it means to be “humble and contrite in spirit” (2) Because if you listen to God’s Word with such a humble heart, you really tremble at His word.

When the prophet, Nathan, pointed out to David his sin of adultery with Bathsheba, David humbled himself before God and repented. In Psalm 51 his song of repentance is recorded. He prayed, “Have mercy on me, O God,

according to your unfailing love;

according to your great compassion

blot out my transgressions.

Wash away all my iniquity

and cleanse me from my sin.

For I know my transgressions,

and my sin is always before me.

Against you, you only, have I sinned

and done what is evil in your sight;

so you are right in our verdict

and justified when you judge.

Surely I was sinful at birth,

sinful from the time my mother conceived me.

Yet you desired faithfulness even in the womb;

you taught me wisdom in that secret place.

Cleanse me with hyssop, and I will be clean;

wash me and I will be whiter than snow.

 

Let me hear joy and gladness;

let the bones you have crushed rejoice.

Hide you face from my sins

and blot out all my iniquity,

Create in me a pure heart, O God,

and renew a steadfast spirit within me.

Do not cast me from your presence

or take the Holy Spirit from me.

Restore to me the joy of your salvation

and grant me a willing spirit, to sustain me.

You do not delight in sacrifice, or I would bring it;

you do not take pleasure in burnt offerings.

My sacrifice, O God, is a broken spirit;

a broken and contrite heart

you, God, will not despise.”

(Psalms51:1-12, 16,17)

David held on to the grace of God. This is the appearance of “those who are humble and contrite in spirit, and who tremble” (2) at God’s word.

“Tremble” (2) means not just to tremble at something fearful; but is trembling in awe of something great. When we listen to the word as the Word of God, it is natural for such a fear or trembling to be born.

God looks with favor on “those who are humble and contrite in spirit, and who tremble at ” (2) His word. They can’t live without the Word of God. They think that they need the Word of God. They have to have the Word of God in order to live.                                    The Word of God only is their living support. They think that God’s Word is the one and only hope. God will definitely not scorn such people.

 

  1. Those who have chosen their own way (Vs. 3-5)

The third point is the opposite, about those that don’t listen to God’s Word and chose their own way. Please look at verses 3 to 5.  First I will read verse 3. “But whoever sacrifices a bull is like one who kills a person, and whoever offers a lamb is like one who breaks a dog’s neck; whoever makes a grain offering is like one who presents pig’s blood, and whoever burns memorial incense is like one who worships an idol. They have chosen their own ways, and they delight in their abominations.”

These words are criticizing those that have pride in their religious piety and who emphasize the form only, and surficial things and forget spiritual worship and the importance of a proper spiritual walk.  No matter how many sacrifices like the Old Testament commands such people make it is nothing more than idol worship. That is because “they have chosen their own ways, and they delight in their abominations.” (3) What they think is more important than what God desires. They insistently follow their own thinking and make sacrifices. They don’t seek to follow the Word of God, but put themselves first. Therefore, no matter how much they dress themselves with                  piety on the surface, in reality it is idol worship.

This is something that we must be careful about.  If we do not humble ourselves and aren’t contrite and don’t follow God’s Word, and insistently follow our own thinking and make our own way by our own thinking, then no matter how zealously we assemble at Christian gatherings, no matter how hard we serve in the church, no matter how much money we give as offerings, God will never be delighted.  If we think that if we build a huge church building, then the Lord will be delighted, then that is a big mistake.  It is no different from “one who kills a person…breaks a dog’s neck…presents pig’s blood… worships an idol.” (3) That is hypocrisy. That is what God hates the most. Jesus strongly warned the hypocrites. He called them “white washed tombs”. (Matt. 23:27) Even if the outside of the tomb looks beautiful, the inside is full with dead people’s bones and all kinds of filth. Likewise, even though their outsides looked like they were right to other people, their insides were full of hypocrisy and lawlessness.

Of course, this does not mean that they didn’t need the temple.  It isn’t saying that the place that we worship the Lord in isn’t important at all. It isn’t saying that we don’t need Sunday worship or we don’t need to give offerings. Such things are important. If they are born as a result of faith, then they are wonderful. When it becomes the goal and following God is slighted, then not only does it have completely no meaning, but you will become the hypocrite that God hates.

Saul who was the first king of Israel didn’t follow God’s Word that was spoken through the prophet Samuel.  Samuel was told, “Go attack the Amalekites and totally destroy everything that belongs to them.  Do not spare them; put to death men and women, children and infants, cattle and sheep, camels and donkeys” (I Samuel 15:3) One day Samuel went to King Saul’s. He heard the bleating of sheep and the lowing of cattle. When Samuel asked Saul, “What then is the bleating of sheep in my ears? What is the lowing of cattle that I hear?” (I Samuel 15:14) Saul answered like this. “The soldiers brought them from the Amalekites; they spared the best of the sheep and cattle to sacrifice to the LORD your God, but we totally destroyed the rest.” (I Samuel 15:15)

At a single glance it sounds like its logical, but that was a complete misunderstanding. Saul intended to follow the Lord’s voice but in reality he was following his own thinking.

 

This is in reality often in us too. While saying that we are following God in reality we act according to what’s good for us. However, that is not what pleases God. Hence, God deprives such people of their throne. Samuel said this to Saul, “Does the LORD delight in burnt offerings and sacrifices as much as in obeying the voice of the LORD? To obey is better than sacrifice, and to heed is better than the fat of rams.” (I Samuel 15:22)

“To obey is better than sacrifice, and to heed is better than the fat of rams.” (I Samuel 15:22) “Does the LORD delight in burnt offerings and sacrifices as much as in obeying the voice of the LORD?” (I Samuel 15:22) No matter how many sacrifices you make, it is not superior to obeying God. The important thing is not to make conclusions by your own thinking and judgment, not by what is right or wrong, but by following God’s word. Only just be humble and contrite in spirit, and … tremble at ” (2) God’s Word and obey God’s Word.  If not, even if it seems that you are performing God’s commission, in reality your faith is based upon your own thinking.

Verse 5 says, “Hear the word of the LORD,

you who tremble at his word:

Your brothers who hate you,

and exclude you because of my name, have said,

‘Let the LORD be glorified,

that we may see your joy!’

Yet they will be put to shame.”

Here it is talking about what happens when you become just religiously enthusiastic. Such people insult, ridicule, and persecute the real believers. “Your brothers who hate you, and exclude you because of my name, have said, ‘Let the LORD be glorified, that we may see your joy!’” (5) This means that the Jews will exclude their “brothers,” (5) Jews, who earnestly listen to the Lord’s Word. They will ridicule these Jews saying, “Let the LORD be glorified, that we may see your joy!”

The Jews who “Hear the word of the LORD… who tremble at his word” will  joyfully look forward to the Lord’s glory which the last days will bring. However, the hypocrites will not be like that. They will see such things and insult, ridicule, and persecute. However, in the end such hypocrites “will be put to shame.” (5)

What God desires of you is that you “hear the word of the LORD,” (5) and “tremble at his word”. (5) We mustn’t not listen to God’s Word and just zealously perform religious activity, but “be humble and contrite in spirit, and … tremble at ” (2) God’s Word and obey God’s Word. How about you, are you trembling at God’s Word?

 

 

In our life there are two roads. One road is the road of being humble and contrite in spirit, ” (2) and trembling at God’s Word. The other road is your own selfish road. You can’t walk on both of these two roads at the same time. You have to choose one of these two roads.  However, depending on which of the two roads you choose, it will for that person bring exactly opposite results. The person that is “humble and contrite in spirit, and … trembles at ” (2) God’s Word, God will settle his eyes on him. In other words, God’s blessings will come. That person will inherit the new heaven and the new earth. However, fear will come to those who walk on the other road, the road of selfishness. The place that these people will arrive at is eternal doom. For them they themselves are god. More than listening and obeying God’s Word, they put their own thinking first. Their hearts are full of idol worship, they enjoy filling their own desires, and they walk in the way that they think is right for them so as a result they invite doom upon themselves.  Which road will you choose?

Jesus said this, “Enter through the narrow gate. For wide is the gate and broad is the road that leads to destruction, and many enter through it.  But small is the gate and narrow the road that leads to life, and only a few find it.” (Matt. 7:13,14)

We always have the temptation to walk on our own selfish road.  That road is “broad… and many enter through it.” (Matt. 7:13) Everyone is doing the same things so it seems like it is safer and more enjoyable. However, it “leads to destruction.” (Matt. 7:13) “But small is the gate and narrow the road that leads to life, and only a few find it.” (Matt. 7:14) However, that road is really the road that leads us to eternal life, the road that brings to eternal glory. ‘These are the ones I look on with favor: those who are humble and contrite in spirit, and who tremble at my word.” (2)

What God desires of us is only that we be “humble and contrite in spirit,” (2) and listen and obey God’s Word. Let’s be such a person. In the course of time God’s glory will come to such a person

Isaiah65:13-25 “A new heaven and a new earth”

Today from the latter half of Isaiah chapter 65 I would like to talk about the new heaven and earth.  The Lord answered Isaiah’s prayer, “After all this, O LORD, will you hold yourself back? Will you keep silent and punish us beyond measure?” (64:12) with surprising words, “I revealed myself to those who did not ask for me;

I was found by those who did not seek me.

To a nation that did not call on my name.

I said, ‘Here am I, here am I.’” (1) In other words, this was so that by Israel rejecting God, salvation will come to the Gentiles. This was not so they would stumble and fall. Then by the Gentiles being saved, Israel will become jealous and from among the Israelites a few people will be saved.  This is the remnant of Israel. By this, all of Israel will be saved. “Oh the depth of the riches of the wisdom and knowledge of God! How unsearchable his judgments, and his paths beyond tracing out!” (Roman 11:33) God’s plan of salvation is really amazing!

However, that is not all.  In today’s passage it speaks about God’s plan of salvation being fulfilled by the form of a new heaven and a new earth. It isn’t just being freed from earthly suffering, being freed from Babylon, but beyond that it is the real solution that is brought by the creation of a new heaven and a new earth. In reality God’s people being restored from Babylon is a pattern that God’s people who have been redeemed of their sin will live in a new heaven and earth.

 

  1. The creation of a new people of God (Vs. 13-16)

First of all please look at verses 13 to 16. Verse 13 to 14 say, “My servants will eat, but you will go hungry; my servants will drink, but you will go thirsty; my servants will rejoice, but you will be put to shame.  My servants will sing out of the joy of their hearts, but you will cry out from anguish of heart and wail in brokenness of spirit.”

“My servants” (13) are those people who have had their sin redeemed by God. They are the people that responded to God’s call and received and accepted God’s salvation. These are not the Jews that were living in Jerusalem. They rebelled against God so it caused God to rage up in anger. The retribution for such people is as verse 12 says is God’s judgment.  They will be slaughtered and fall. However in the midst of this those who receive God’s salvation will be called “my servants” (13). They are the remnant.  They will receive blessings. They “will eat…drink…rejoice…sing out of the joy of their hearts”. (13, 14) They are “his servants he will give another name”. (15) The name that they will be given is “Christian”. They will be called Christians. Please open your Bibles to Acts 11:25 and 26. “Then Barnabas went to Tarsus to look for Saul, and when he found him, he brought him to Antioch.  So for a whole year Barnabas and Saul met with the church and taught great numbers of people.  The disciples were called Christians first at Antioch.”

It was at this time that those who believed in Jesus were first called Christians. “The disciples were called Christians first at Antioch.” (Acts 11:26) Until then they were called “the way”. This came from the teaching of Jesus that he is “the way”, “the truth”, and “the life”. Among themselves Christians called each other “brothers and sisters”, but ordinarily they were called “the way”. After they came to Antioch they came to be called “Christians”. That’s because they were always talking about Christ. They brought every conversation to the topic of Christ. Everything they said and listened to was about Christ.

This was a nick name.  It was a nick name meaning “Crazy for Christ” or “Stupid for Christ”. They talked about Christ everywhere so they began to be called “Crazy for Christ”, “Christian”. In other words, in everyone’s eyes they had a visible lifestyle. That is a Christian.

How about us? There are some people who are visibly Christian from the beginning, but in most cases we don’t actively make it clear by ourselves. We hate for other people to be surprised that we a Christian.  However, a Christian is “Crazy for Christ”. They live for Christ. They talk about Christ all the time. They can’t be silent.  If you know the wonderful salvation of God, if you know the amazing grace, then then you can’t be silent.

In the NHK drama, the strategic Kanbe too believed in Jesus Christ and became a Christian. On his chest was always a cross necklace.  Of course, the Christian Daimyo Ukon Takayama was also so.  When they became a Christian they had a completely different way of living than before.  In everyone’s eyes, he had a lifestyle that everyone would know that he was a Christian. How about you?

Among Christians there are some that even though they don’t say anything people think they must be Christians because in their daily life they always reflect what Jesus would say or do.  This is splendid. Whether you say you are a Christian or not, if through your life you witness to Christ, how splendid. However, there are a lot of splendid non-Christians. Rather, unless you put into words how wonderful God is who saved you, people won’t understand. May we too be called a Christian, crazy for Christ.

Please look at verse 16. “Whoever invokes a blessing in the land

will do so by the one true God;

whoever takes an oath in the land

will swear by the one true God.

For the past troubles will be forgotten

and hidden from my eyes.”

Here “the one true God” (16) is being stressed. “The one true God” in Hebrew is “the Amen God”. “The Amen God”, “The one true God”, (16) is written about in Rev. 3:14. “To the angel of the church in Laodicea write; These are the words of the Amen, the faithful and true witness, the ruler of God’s creation.” The words of Jesus Christ are being sent “To the angel of the church in Laodicea.” (Rev. 3:14) It is clear if you look at Rev. 1:17 and 18. “I am the First and the Last. I am the Living One; I was dead, and now look, I am alive for ever and ever! And I hold the keys of death and Hades.” That is Jesus Christ. This Jesus Christ is “the Amen, the faithful and true witness, the ruler of God’s creation.” (Rev. 3:14) Jesus Christ is “the one true God” (16), “the Amen God”.

If you look at I John 5:20, this can be seen here too. “We know also that the Son of God has come and has given us understanding, so that we may know him who is true.  And we are in him who is true by being in his Son Jesus Christ.  He is the true God and eternal life.”

“He is the true God and eternal life.” (I John 5:20) Christians are blessed by Jesus Christ, “the one true God”. (16) By Jesus Christ former struggles are dismissed from our minds. Before we knew Christ we were full of baggage: sin, concerns, struggles, hurts, pains, sadness, etc. However, when we believed in Christ, “the former things will not be remembered, nor will they come to mind.” (17) By the blood of Christ we are washed clean. We don’t have to be tortured by past guilt and feelings of wrongdoing. We don’t have to feel defeated forever. Christ redeemed you of your sin. You by Christ have been created anew as God’s servant, a Christian. “If anyone is in Christ, the new creation has come: The old has gone, the new is here!” (II Cor. 5:17)

“If anyone is in Christ, the new creation has come: The old has gone, the new is here!” (II Cor. 5:17) That is a new creation. It is a new creation in Christ. “The former things will not be remembered, nor will they come to mind.” (17) “The new is here!” (II Cor. 5:17) That’s a wonderful promise, isn’t it? We often think that it would be nice if we had a reset button to redo our lives. We think how nice it would be if we could erase and rid ourselves of all our past sins, dirt, struggles, and hurts and redo our lives on a clean slate. God through Jesus Christ opened a way for you to start a new and redo your life. If you are in Christ daily you can walk anew. God can change your insides into a new creation.

 

 

  1. A new heaven and a new earth (Vs. 17)

The second point is that the work of God’s new creation is the creation of a new heaven and a new earth.  Please look at verse 17. “Behold, I will create

new heavens and a new earth.

The former things will not be

remembered,

nor will they come to mind.”

Here God is through Isaiah promising “new heavens and a new earth.” (17) In contrast to the “new earth”, now the universe that we are living in that is earth centered is the “old earth”. We don’t know exactly how many years ago, but as it says in Genesis 1:1, “In the beginning God created the heavens and the earth,” it was created by God. This old heaven and earth will be gone and a completely new heaven and earth will be created.

This word, “create” (17) is used for creating something completely out of nothing and expresses a creation out of nothing. A different word is used for creating things out of materials. To make things out of material even man can do. However, to make something completely new out of nothing only God can do. God is saying that he is going to “create new heavens and a new earth” (17) that is completely different from this heaven and earth.

We tend to think that the heaven and earth that we are living in now will continue forever, but that is not so.  This earth will be destroyed by the filth of sin, and a time will come when it will be exchanged for a completely new heaven and earth. It is a little long, but let’s look at II Peter 3:7-13.

“By the same word the present heavens and earth are reserved for fire, being kept for the day of judgment and destruction of ungodly men. But do not forget this one thing, dear friends; With the Lord a day is like a thousand years, and a thousand years are like a day.  The Lord is not slow in keeping his promise, as some understand slowness.  He is patient with you, not wanting anyone to perish, but everyone to come to repentance. But the day of the Lord will come like a thief. The heavens will disappear with a roar; the elements will be destroyed by fire, and the earth and everything in it will be laid bare. Since everything will be destroyed in this way, what kind of people ought you to be! You ought to live holy and godly lives as you forward to the day of God and speed its coming. That day will bring about the destruction of the heavens by fire, and the elements will melt in the heat.  But in keeping with his promise we are looking forward to a new heaven and a new earth, the home of righteousness.”

 

Here it says, “the destruction of the heavens by fire, and the elements will melt in the heat.” (II Peter 3:12) All substances down to the atom will all melt away. The heavens will be completely destroyed. All traces of it will disappear. However, for the children of God that believed in God and were saved “a new heaven and a new earth, the home of righteousness” (II Peter 3:13) is prepared for them. This is heaven.

Verse 17 said, “The former things will not be remembered,

nor will they come to mind.”

That is because the former things have passed away. There God “will live with them…He will wipe every tear from their eyes.  There will be no more death or mourning or crying or pain.” (Rev. 21:14) All the various mourning, crying, pain and troubles that we have experienced on this earth “will not be remembered nor will they come to mind.” (17) That is because the former things have passed away. Everything will be completely different from what we have experienced up until now. A world of a different dimension will come. This is for Christians a really huge encouragement!

For those who have repented and believed in Jesus Christ, living in this world may in some ways be difficult. We are thankful that we can walk knowing that God is with us, but on the other hand, it is a reality that the more we believe we run into troubles, trying times, and things that we can’t accept. Persecution, others disapprove of us, and many pressures occur. However, God does not leave Christians in the same situation forever. In the course of time, we can live in a new heaven and a new earth. Therefore, let’s put our hope here and live a life that is tied to that hope. If our lives end only with the negative thoughts of our troubles, then it is really sad. No matter what surrounds us, no matter what happens, let’s walk confessing that in the course of time, in the end we have the hope. This is what God wanted to tell Israel, rather us mankind, through Isaiah.

Recently we were able to send Mrs. Fukuda to heaven. Also there are many other people who are struggling with sickness.  When I go to such people and pray and sing, I think in the end this is all there is: even if you die, living life, eternal life, is really our ultimate hope.

 

  1. The new blessings of creation (Vs. 18-25)

Lastly, let’s look at verses 18 to the end of the chapter. Verse 18 says, “But be glad and rejoice forever in what I will create, for I will create Jerusalem to be a delight and its people a joy.”

 

Here it says, “I will create Jerusalem to be a delight and its people a joy.” (18) “Jerusalem” (18) is the holy city of the “new heavens and a new earth” (17) that I previously spoke about. This is the Jerusalem of heaven. Rev. 21:2 says, “I see the Holy City, the new Jerusalem, coming down out of heaven from God, prepared as a bride beautifully dressed for her husband.” “Jerusalem” (18) is this “Holy City, the new Jerusalem.” (Rev. 21:2) There “the sound of weeping and of crying will be heard in it no more.” (19) “Never again will there be in it an infant who lives but a few days, or an old man who does not live out his years; he who dies at a hundred will be thought a mere youth; he who fails to reach a hundred will be considered accursed.” (20) “They will build houses and dwell in them; they will plant vineyards and eat their fruit.” (21) “No longer will they build houses and others live in them, or plant and others eat.” (22) In this world there are cases of no matter how much you sweat working, you are exploited. However, in the New Jerusalem this will not be.  If you work, then you will receive payment for the amount you work. “No longer will they build houses and others live in them, or plant and others eat.” (22)

Verse 24 says, “Before they call I will answer;

while they are still speaking I will hear.”  This is wonderful. While we are saying, “Jesus”, the answer, “What?” will come.  The Lord who knows all about us is always next to us and quickly answers us.  Until then we had sin so the Lord’s answer was sometimes slow in coming. “Surely the arm of the LORD is not

too short to save,

nor his ear too dull to hear.

But your iniquities have separated

you from your God;

your sins have hidden his face from you,

so that he will not hear.” (59:1, 2) That sin will all be removed and you will enter into intimate fellowship with God so when you call out “God” he will answer immediately.

Then in verse 25, “’the wolf and the lamb will feed together,

and the lion will eat straw like the ox,

but dust will be the serpent’s food.

They will neither harm nor destroy

on all my holy mountain,’

says the LORD.”

There will be no meat eaters. They “will feed together” (25) eating grass and straw. Such a peaceful world will come.

In the New Jerusalem there is supposed to “be no more death or mourning or crying or pain.” (Rev. 21:14) Even so if you look at verse 20 it says, “he who dies at a hundred will be thought a mere youth; he who fails to reach a hundred will be considered accursed.” To live a long life and “no more death” (Rev. 21:14) are two different things.

In reality the contents of up until verse 19 and the contents after verse 20 are the same prophecy of the end times, but they are describing different ages. The contents up until verse 19 are scenes of the new heaven and new earth that will come after the heavens and earth perish. From verse 20 on is a prophecy of the Millennium which will occur before that. Isaiah is looking at two scenes of the Millennium and the new heaven and earth that will come after that without distinguishing between the two.  That is just like when we are looking at two things in the distance. For example, if we look at Osaka and Hiroshima from here, in reality they are quite a ways apart, but they look like they are in the same spot. When Isaiah saw the vision for the end of the world, it reality there was actually a huge time difference between the Millennium and the New Jerusalem, but he saw them as being in the same age at the end of the world.

In the New Testament, it is described a little more clearly. When Christ returns again those in Christ “will be caught up…in the clouds to meet the Lord in the air.” (I Thess. 4:17) After that with Christ we will rule with Christ for a peaceful 1000 years. Then we will enter into the new heaven and new earth and God’s Holy Jerusalem. “And so we will be with the Lord forever.” (I Thess. 4:17) This is our hope.

This is definitely not nonsense. That is because it is based on the reality of the Lord Jesus Christ’s cross and resurrection. Before Christ was crucified, he said to his disciples, “Do not let your hearts be troubled.  Trust in God, trust also in me.  In my Father’s house are many rooms; if it were not so, I would have told you.  I am going there to prepare a place for you.  And if I go and prepare a place for you, I will come back and take you to be with me that you also may be where I am.” (John 14:1-3)

This place is really heaven. Jesus ascended into heaven to prepare that place. When the place is prepared, he will come back to get us. That day is close.

Therefore, we let’s realize the hope that is promised to us and even if our actual life has hardships and struggles and we think we can’t bear it any longer, even so let’s put our hope here and while holding on to God, let’s walk with praise and thanksgiving. In the course of time you will enter a new heaven and a new earth. You will forget former troubles, and God will wipe every tear from your eyes. You will receive encouragement from God.  Let’s depend upon God’s promises.

レビ記24章

きょうはレビ記24章全体から学びたいと思います。まず1~4節までをお読みします。

1.日ごとに、週ごとに(1-9)

「1 ついではモーセに告げて仰せられた。2 「あなたはイスラエル人に命じて、ともしびを絶えずともしておくために、燈火用の質の良い純粋なオリーブ油を持って来させよ。3 アロンは会見の天幕の中、あかしの箱の垂れ幕の外側で、夕方から朝までの前に絶えず、そのともしびを整えておかなければならない。これは、あなたがたが代々守るべき永遠のおきてである。4 彼は純金の燭台の上に、そのともしびを絶えずの前に整えておかなければならない。」

これは既に出エジプト記27章20-21節において、主がモーセに語られた内容と同じです。主はモーセにイスラエル人たちに命じて、ともしびを絶えずともしておくために、燈火用の質の良い純粋なオリーブ油を持って来させ、祭司アロンはそれを会見の天幕の中の、あかしの箱の垂れ幕の外側、つまり聖所でそれをともしておかなければなりませんでした。夕方から朝まで。

ご存知のように、この油は聖霊を象徴しています。聖所のともしびを絶えずともしておくために油を用意しておかなければならなかったように、私たちはいつも聖霊に満たされていなければならないということです。

次に5節から9節までをご覧ください。

「5 あなたは小麦粉を取り、それで輪型のパン十二個を焼く、一つの輪型のパンは十分のニエパである。6 それをの前の純金の机の上に、一並び六個ずつ、ニ並びに置く。7 それぞれの並びに純粋な乳香を添え、への火によるささげ物として、これをパンの記念の部分とする。8 彼は安息日ごとに、絶えずこれをの前に、整えておかなければならない。これはイスラエル人からのものであって永遠の契約である。9 これはアロンとその子らのものとなり、彼らはこれを聖なる所で食べる。これは最も聖なるものであり、への火によるささげ物のうちから、彼の受け取る永遠の分け前である。」

これも既に出エジプト記で語られたことです(出エジプト25:30)。聖所に入ると右側にこの備えのパンがありました。机はアカシヤという材木によって作られていましたが、すべて純金でおおわれていました。その上に12個のパンが2列に6個ずつ置かれていました。この12個のパンはイスラエルの12部族を表しています。それは安息日ごとに、絶えず主の前に、整えておかなければなりませんでした。このパンは何を表していたのかというとキリストのいのちです。神のみことばです。それを週ごとに絶えず、整えておかなければならなかったのです。乳香を添えて・・。乳香は祈りを表していましたね。すなわち、このパンと乳香は、祈りとみことばによって神との交わりを絶やしてはいけないということを教えていたのです。これらはいわば私たちの日常的な奉仕と言えるでしょう。ともしびの油といい、このパン、乳香といい、前にも語ったことをなぜここでもう一度語られているのでしようか。

それはレビ記全体を見るとわかります。この前の23章では主の例祭について教えられていました。それは過越の祭りから始まり、種なしパンの祝い、初穂の祭り、そして五旬節があります。これらは春の祭りです。そして秋には、ラッパを吹き鳴らす会合、贖罪の日、そして仮庵の祭りでクライマックスを迎えます。イスラエル人は今、シナイの荒野にいますが、約束の地に入ったとき、彼らは農作業によって食物を得ます。収穫の時期に沿って、このような盛大な祭りをして、主を礼拝するのわけです。そして私たちはこれら一つ一つの祭りには意味があって、それはキリストの十字架と復活、聖霊の降臨、そして携挙、再臨、千年王国という主イエス・キリストのみわざを表しているということを知りました。この例祭について教えられているそのあとで、、このともしびやパン、乳香について語られているのは、しかも、これらは以前、主がモーセにすでに教えられたことなのに、ここで繰り返して教えられているのは、そうしたイスラエル全体の祭りの中にあって、日々の小さな務めをないがしろにしてはならないということなのです。日ごとの、あるいは週ごとの、そうした小さな務めを忘れてはならないし、むしろ、そうした小さな務めの中に、そうした全体的なことがある、あるいは、そうした全体的なことの中にこうした小さな積み重ねがあるということを教えたかったのではないでしょうか。これらのことは日ごとに、あるいは週ごとに、絶えず主の前に行われなければならないことなのです。

私は昨日まで同盟の働きで仙台と岩手の北上に行ってきました。今はそういう時期なのかなあと思って、自分なりに与えられた務めを忠実に果たしていこうと思っていますが、こうしたことに取り組んでいて思うことは、こうしたことで振り回されて日々の働きをおろそかになってしまうというか、見失ってしまう危険性があるということです。あっちに行って、こっちに行って、あれをやって、これ をやってといううちに、日々の小さな務め、絶えず主の前に備えていかなければならない奉仕が忘れられてしまうということです。

それは僕だけに限らず、私たちクリスチャンのすべてにいえることではないでしょうか。あっちで聖会があり、こっちで聖会がありと走り回るのは構いませんが、それによって毎日の、あるいは週ごとの務めが忘れられてしまう。神がご自身の血をもって買い取ってくださった神の教会こそが私たちの信仰生活の土台であるはずなのに、その土台をしっかりと築かないで全体的なことで走り回ってしまう。そういうことがあるのではないでしょうか。やはり私たちは日ごとの糧を、日ごとに神の前に出て祈ること、つまり祈りとみことばによって祭壇を築き、いつも聖霊に満たされることを求めていかなければなりません。

2.律法が適用される範囲(10-14)

次に10節から14節までをご覧ください。

「10 さて、イスラエルの女を母とし、エジプト人を父とする者が、イスラエル人のうちに出たが、このイスラエルの女の息子と、あるイスラエル人とが宿営の中で争った。11 そのとき、イスラエルの女の息子が、御名を冒涜してのろったので、人々はこの者をモーセのところに連れて来た。その母の名はシェロミテで、ダンの部族のディブリの娘であった。12 人々はの命令をまって彼らにはっきりと示すため、この者を監禁しておいた。13 そこで、はモーセに告げて仰せられた。14 「あの、のろった者を宿営の外に連れ出し、それを聞いた者はすべてその者の頭の上に手を置き、全会衆はその者に石を投げて殺せ。」

ここでポイントとなるのは、イスラエルの女を母とし、エジプト人を父とする者が、イスラエル人のうちから出るようになったが、その息子が御名を冒涜したことについて、どのような処罰が下されたかということです。

十戒の中には、「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。(出エジプト20:7)」とあります。そして具体的に、「神をのろってはならない。また、民の上に立つ者をのろってはならない。(同22:28)」という定めもあります。この律法が果たしてイスラエル以外の外国人にも適用になるのかということです。

ここには、「イスラエルの女を母としても、エジプト人を父とする者」とあります。イスラエル人のうちにこういう人たちが出ていました。出エジプト12章38節を見ると、イスラエルがエジプトを出てきた時に、多くの外国人も出て来たとあります。こうした外国人がイスラエル人と結婚することによって、このような人たちが大勢いたのです。

聖書では、父がイスラエル人であれば母が異邦人でも子供はイスラエル人ですが、その反対はイスラエル人にはなりません。それでイスラエル人ではない者に、イスラエルに対して与えられた神の律法が適用されるのかどうかが分からなかったので、人々は主の命令を待ちました。それで主からの答えはどういうものであったかというと、「石で打ち殺しなさい」というものでした。つまり、イスラエルの宿営にいる限り、異国人であってもイスラエルの律法が適用されるということです。

それはこの旧約聖書の律法が、そのままイスラエル以外の全人類に適用されるということなのでしょうか。そうです、それはイスラエルに限らず私たち全人類に対する神のみこころが示されたものです。しかし、その解釈は必ずしも文字通りではないということです。たとえば、律法では姦淫の罪を犯す者は石打ちに定められていました。しかし、イエス様は姦淫の現場で捕えられた女の罪を赦されました。イエス様は、「あなたがたの中で罪のない人からこの人に石を投げなさい」と言うたので、「わたしもあなたを罪に定めなさい」と言われ、彼女を赦されたのです。それは、義人はいない、一人もいないからです。聖書はすべての人が罪を犯したので神からの栄誉を受けることができない、とあります。姦淫についても実際に姦淫を犯したかどうかではなく、だれでも情欲を抱いて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯していると言われました(マタイ5:27)。兄弟に向かって「能なし」とか「ばか者」7というような者は人を殺していると言われました(同5:22)。そのような者は燃えるゲヘナに投げ込まれるのです。そういう意味ではだれも正しい人などいません。私たちに求められているのはただ悔い改め、神のみこころに歩もうとすることです。ですから、旧約の律法はすべての人に適用されますが、その意味、もしくは解釈は慎重になされなければならないということです。もしもし通りそれを解釈するならば、本来の神のみこころとはき全く違った方向に行ってしまうのです。ですから重要なことは肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって産まれることです。ヨハネ1章13節を開いてください。ここには、

「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」

とあります。もっぱら神によって生まれたのでない限り、血筋によっても、自分の人間的な頑張りによっても、また他の人が認知するにしても、決して神の子供になれません。

けれども、神の御霊によって生まれた経験を持たずして、あたかも神の家族の中に属しているように振舞ったらどうなるのでしょうか?普段は、それらしく振舞うことができても、いざその人の根幹に関わる事項で確執が起こった時に、その人はこれまで表向き信じていたという化けの皮が剥がれてしまいます。その時に、主ご自身を呪う言葉、あるいは言葉に表さなくても明らかに呪っている行動に出てくるのです。それがこのイスラエルの女を母とし、エジプト人を父とする息子の根本的な問題だったのです。

真に御霊による新生を体験している人は、どんなことをしても神を呪うことはできません。呪ったとしても、悔い改めに導かれるだけでしょう。イスラエルの宿営の中にいたそのエジプト人は、そのように表向きイスラエル人のように生きていただけであって、神によって生まれ変わってはいなかったのです。

私たちは、神はえこひいきをされる方ではないことを知っています。「患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうすべての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。神にはえこひいきなどはないからです。(ローマ2:9-11)」エジプト人だからと言って、異なる律法ではなく一つの定めしかなかったように、聖書や教会から遠く離れている人々に対して、神はご自分の聖さを引き下げることはなさいません。やはり罪人として裁かれます。したがって私たちは、全ての人に対してその人が罪から救われるように祈っていかなければならないのです。

3.目には目。歯には歯(15-23)

最後に15節から23節までをご覧ください。

「15 あなたはイスラエル人に告げて言え。自分の神をのろう者はだれでも、その罪の罰を受ける。16 の御名を冒涜する者は必ず殺されなければならない。在留異国人でも、この国に生まれた者でも、御名を冒涜するなら、殺される。17 かりそめにも人を打ち殺す者は、必ず殺される。
18 動物を打ち殺す者は、いのちにはいのちをもって償わなければならない。19 もし人がその隣人に傷を負わせるなら、その人は自分がしたと同じようにされなければならない。20 骨折には骨折。目には目。歯には歯。人に傷を負わせたように人は自分もそうされなければならない。21 動物を打ち殺す者の償いをしなければならず、人を打ち殺す者は殺されなければならない。22 あなたがたは、在留異国人にも、この国に生まれた者にも、一つのさばきをしなければならない。わたしはあなたがたの神、である。」23 モーセがこのようにイスラエル人に告げたので、彼らはのろった者を宿営の外に連れ出し、彼に石を投げて殺した。こうしてイスラエル人は、がモーセに命じられたとおりに行った。」

ここには、神を呪うものは、だれであっても、その罪の罰を受けなければならない、とあります。。たとえ、それが異国人であってもです。主の御名を冒涜する者は殺されなければなりません。そこにはイスラエル人と異国人の間に差別はありません。

りそめにも人を打ち殺す者があれば、その人は必ず殺されなければなりません。動物を打ち殺す者は、いのちにはいのちをもって償わなければなりません。もし人がその隣人に傷を負わせるなら、その人は自分がしたと同じようにされなければなりません。骨折には骨折。目には目。歯には歯。人に傷を負わせたように人は自分もそうされなければならないのです。動物を打ち殺す者は償いをしなければならず、人を打ち殺す者は殺されなければならない。自分がした行ないにしたがって、それと同じ報いを受けるように主は定めておられます。人のいのちを取るのならば、自分のいのちが取られます。目には目、歯には歯、傷には傷です。それが聖書の原則です。

神は、罪を犯した者に対して、そのさばきを曲げるようなことはなさいません。これは新約聖書でも同じです、ユダヤ人でもギリシヤ人でも、すべての人が罪を犯し、すべての人が神の前で有罪とされている、とパウロは言っています。しかし、イエスはこれとは違うことを教えられました。マタイの福音書5章38-48節です。

「38 『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。41 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょにニミリオン行きなさい。42 求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。46 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。48 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」

これはいったいどういうことでしょうか。イエス様はここで、この旧約聖書の真意がどういうことなのかを教えてくださったのです。すなわち、それは敵を愛するということです。もし私たちが人を憎いと思ったら、『殺してはならない』という律法を実際に犯してしまうことになります。また、情欲を持って女性を見たならば、それは実際に姦淫を犯したのと同じです。その同じ文脈の中でイエス様はこう言われたのです。「『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。41 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょにニミリオン行きなさい。42 求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。」

これはなかなかできることではありません。というか、できないでしょう。どうですか。私の知っているアーサー・ホーランドという伝道者は、『右の頬を打たれたら、左の頬も向けなさ いなんて、俺にはできない。俺は殴られたら何倍にもして返して、ボコボコにしてから、神よ彼を哀れみたまえって祈る』と言っています。でも、それが本音ではないでしょうか。だって、普通に考えても、右の頬を打たれたら、反射的に殴り返そうとするのが普通です。皆さんも小さい頃によくけんかをしたことがあるかと思いますが、ケンカをして泣きながら家に帰ると親は何と言いましたか。「いいから、殴り返してらっしゃい !」って言われませんでしょうか? また、すごく強い復讐心を持っている方もまれにいますよね。「自分がこんな風になったのは例えば、親のせいだ!」と思って、いつか復讐してやると心に誓って生きている人って少なくありません。やられたらやり返す。二倍にして。そう、倍返しです。それが現実の私たちの姿だと思います。

実は神様もそういう方です。そういうと皆さんびっくりするかもしれませんが、神様の原則のひとつに『刈り取りの原則』があります。種を蒔けばその実を刈り取るという原則です。 

「人は種を捲けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、 肉から滅びを刈り取り、」(ガラテヤ6:7b‐8a)

「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23a)

しかしこれら二つのことばはここで終わってはいません。続きはなんと言っているかというと、こうです。

「人は種を捲けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、 肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」ガラテヤ6:7b‐8

「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は私たちの主キリスト・イェスに ある永遠のいのちです。」ローマ6:23a 

これら二つの聖書のことばは何を言っているのでしょうか? それは、わたしたちは自分の罪の刈り取り、神からの復讐を受けなくてはならない存在なのに、 神はイエス・キリストの十字架での死によって、私たちが受けなければならない刑罰のすべてを身代わりに受けてくださり、私たちの代わりとしてくださったということです。ただそのことを信じるだけで、永遠のいのちを与えられるようになったということです。神はそのひとり子であるイエスを犠牲にしてまで私たちを愛し、救いを用意してくださったのです。神の愛はそこまで深く、完全なのです。

だから、あえて神はわたしたちに自分で復讐をするなといっているのです。復習は神に任せなさい・・・と。「愛する人たち。自分で復讐してはいけません 。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」 (ローマ12:19)

神は復讐されるべきあなたを自分の御子を犠牲にするほどの愛で愛してくださっているのだから、復讐はしなくてもいいだろう?とわたしたちの語っているのです 。別の箇所で次のように言っています。

神が復讐よりも私たちに求めておられることは愛することなのです。神と同じ完全な愛で他人を愛することだったのです。自分を愛する者を愛することは誰にでもできます。そんなのは神を信じていない異邦人でもできます。しかし、神が完全であるように私たちも完全でなければなりません。つまり、自分に敵対する者を愛し、迫害する者のために祈ってこそ天の父の子どもだと言えるのです。

ですから、旧約の律法で「目には目を・・」とありますが、神が私たちに求めておられることは、天の父と同じように完全であることです。復讐は神に任せて、自分の敵を愛すること、迫害する者のために祈ること、それが神の求めておられることなのです。確かに、私たちは自分のした行為に応じて報いを受けなければならない者です。しかし、そんな者を神は赦してくださいました。神は御子イエス・キリストによって、私たちにいのちを与えてくださいました。ですから、私たちは目には目をという原則を聞いていますが、それよりもはるかにまさる神の愛に生きることこそ、神が私たちに求めておられることなのです。

レビ記23章23~44節

きょうはレビ記23章後半部分からお話します。23章には、イスラエルが守るべき主の例祭について教えられています。全部で七つあります。それは、過ぎ越しの祭り、種を入れないパンの祭り、初穂の祭り、七週の祭り(ペンテコステ)、ラッパを吹き鳴らす聖なる会合、贖罪の日、仮庵の祭りです。前回はこのうち最初の四つの祭りについて学びました。これらはいったい何を表していたのでしょうか。過ぎ越しはキリストの十字架の贖いを表していました。また、種なしパンの祭りは罪なきキリストご自身、あるいは、キリストによって罪が取り除かれたことの感謝を、初穂の祭りは復活の初穂としてのキリストです。そして七週の祭り、五旬節は聖霊降臨でした。それらはすべて春の収穫を祝う祭りですが、キリストがこの歴史に現れたことによってすでに成就した出来事です。

コロサイ2章16~17節には、「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」とありますが、これらの祭りはすべてイエス・キリストを指し示すものであって、次に来るものの影だったのです。

そしてきょうは残りの三つの祭りについて学びます。すなわち、ラッパを吹き鳴らす聖なる会合、贖罪の日、仮庵の祭りです。先の四つの祭りは春の収穫を祝う祭りであったのに対して、残りの三つの祭りは秋の収穫を祝う祭り、秋の祭りです。それは「第七の月」つまり九月から十月にかけて行われる祭りなのです。そして、春の祭りがキリストが初めに来られた時に成就した出来事を示していたのに対して、この秋の祭りはキリストが再び来られる時に成就する出来事を示しています。ですから、私たちは今、ちょうどその中間地点にいるわけです。その間主は農夫と同じように、秋の収穫のために実が結ぶのをじっと待っておられます。そして、実が結ぶようにと、細心の注意を払って作物を育てておられるのです。私たちは、キリストが戻って来られる日に備えて、自分の生活において実を結んでいるかどうかを吟味し、主がいつ戻って来られてもいいようによく備えておかなければなりません。

1.ラッパを吹き鳴らす日(23-25)

それでは23節から25節までをご覧ください。

「ついではモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。第七月の第一日は、あなたがたの全き休みの日、ラッパを吹き鳴らして記念する聖なる会合である。どんな労働の仕事もしてはならない。火によるささげ物をにささげなさい。」

秋の祭りは、ラッパを吹き鳴らして記念する聖なる会合から始まります。このラッパを吹き鳴らす日とはいつのことを指しているのでしょうか。ラッパは、大抵、雄羊の角で作られていましたが、それはイスラエルの民が一箇所に集まったり、荒野の旅において出発したり、あるいは戦争を始めたりした時に吹き鳴らされました。しかし、ここで最も重要なことは、これが世の終わりに吹き鳴らされるラッパであるということです。ヨエル2章1~3節をご覧ください。

「シオンで角笛を吹き鳴らし、わたしの聖なる山でときの声をあげよ。この地に住むすべての者は、わななけ。主の日が来るからだ。その日は近い。やみと、暗黒の日。雲と、暗やみの日。山々に広がる暁の光のように数多く強い民。このようなことは昔から起こったことがなく、これから後の代々の時代にも再び起こらない。彼らの前では、火が焼き尽くし、彼らのうしろでは、炎がなめ尽くす。彼らの来る前には、この国はエデンの園のようであるが、彼らの去ったあとでは、荒れ果てた荒野となる。これからのがれるものは一つもない。」(ヨエル2章1節-3節)

これは世の終わりを預言したヨエルの預言です。それは「主の日」という言葉で表されています。その日が近い・・・と。それはやみと、暗黒の日、雲と、暗やみの日です。これから後にこのようなことは起こりません。これからのがれるものは何一つないのです。それは世の終わりの神のさばきの日だからです。その日が来る時、角笛を吹き鳴らさなければならないのです。

これは明らかにテサロニケ人への手紙にある「最後のラッパ」とつながりがあります。Ⅰテサロニケ4章16-17には、「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下ってこられます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」とあります。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。つまり、これはキリストの『空中再臨』(携挙)という出来事において成就することなのです。

また、Ⅰコリント15章51-52節には、「復活(終わり)のラッパ」について語られています。「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」終わりのラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

また、これは、エリコ陥落の際に吹かれた角笛と同じです。ヨシュア6章3~4節には、「あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。」とあります。

この時吹かれた角笛(ラッパ)は、後に起こることの『影』でした。本体は、黙示録11:15にあります。「第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」

「そこで、民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴らした。民が角笛の音を聞いて、大声でときの声をあげるや、城壁がくずれ落ちた。そこで民はひとり残らず、まっすぐ町へ上って行き、その町を攻め取った。」(ヨシュア6:20)

民がラッパを吹き鳴らしたとき、城壁が崩れ落ちたように、神の御使いがラッパを吹き鳴らすと、空中の権威を持つ支配者(エペソ2:1)、暗やみの世界の支配者たち(エペソ6:12)の陥落し、この世の国はキリストのものとなるのです。

ですから、このラッパは、キリストが花婿として花嫁(教会)を迎えに来る時(空中再臨)に、「いってらっしゃい。/今、迎えに出ましたよ。」の合図として、花婿の父(御父)が吹くラッパなのです。Ⅰテサロニケ4:16のラッパは、まだ『携挙』は起きてないのでまだ吹かれていませんが、その日が刻一刻と近づいています。私たちはみな、いつこの角笛が、ラッパが鳴ってもいいように、準備していなければなりません。

2.贖罪の日(26-32)

次に、贖罪の日についてみていきたいと思います。26節から32節をご覧ください。

「ついではモーセに告げて仰せられた。 「特にこの第七月の十日は贖罪の日、あなたがたのための聖なる会合となる。あなたがたは身を戒めて、火によるささげ物をにささげなければならない。その日のうちは、いっさいの仕事をしてはならない。その日は贖罪の日であり、あなたがたの神、の前で、あなたがたの贖いがなされるからである。その日に身を戒めない者はだれでも、その民から断ち切られる。その日のうちに仕事を少しでもする者はだれでも、わたしはその者を、彼の民の間から滅ぼす。どんな仕事もしてはならない。これは、あなたがたがどこに住んでいても、代々守るべき永遠のおきてである。これは、あなたがたの全き休みの安息である。あなたがたは身を戒める。すなわち、その月の九日の夕方には、その夕方から次の夕方まで、あなたがたの安息を守らなければならない。」

第七の月の十日は大祭司が年に一度、至聖所に入って務めを果たす特別な日です。それは「贖罪の日」(ヨム・キプール)と呼ばれています。この贖罪の日については、すでに16章で学びました。最初に大祭司が自分の罪のためのいけにえとして雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをします。次にアロンは二頭の山羊を取り、一頭は主のため、もう一頭はアザゼルのためとし、主のためのやぎはほふられて、雄牛と同じようにその血を至聖所に携えて行き、イスラエルの罪の贖いとして贖いのふたに注がれました。大祭司はいけにえの雄牛とやぎを順番に殺し、それぞれの血を持って神殿の一番奥の至聖所に入り、モーゼの十戒が納められていた聖なる箱の上の「贖いのふた」の上に七回ずつ振りかけます。最後に大祭司は身代わりのやぎの頭に手を置いて全ユダヤ人の罪を告白します。身代わりのやぎは荒野へ放されます。これが「スケープゴート」の語源です。

いったいこれは何を表していたのでしょうか。これは私たちの罪が天の御座において永遠に赦されていることを示すものです。この箇所では、「身を戒める」ことが強調されています。これは断食のことです。主から罪の赦しと清めをいただくために、彼らは自分の罪を深く悔い改めることが求められました。それを断食という形で表したのです。また、この日にはいっさいの仕事をしてはいけませんでした。これは、キリストの救いの完成を表しているからです。救われるために私たちが行なうべきことは何一つありません。それを全き安息によって表しているのです。

それにしても、なぜ雄牛の血と山羊の血が流されなければならなかったのでしょうか?出エジプト記12章の過ぎ越しにおいて用いられたものは一歳の雄の羊でした。しかも全く傷のない・・。しかし、ここでは羊ではなく雄牛であり、雄やぎです。なぜ羊ではなかったのでしょうか。へブル9章7節を見てみましょう。ここには、『第二の幕屋 [至聖所] には、大祭司だけが年に一度だけ入ります。そのとき、血を携えずに入るようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪(burut)のためにささげるものです。』とあります。キリストの血は私たちのすべての罪を洗い流します。自分で知っている罪も知らないで犯した罪もです。

調べてみると、ヘブライ語では罪を表す単語が三つあります。一つは“ペシャ(pesha)”で、もう一つは“ケット(chet)”、そして三番目は“ブルット(burut)”です。ペシャは、ギリシア語でこれに相当する言葉は“ハマルティア(hamartema)”です。意味は的外れです。それに対し“ケットは、“行き過ぎる”という意味です。つまり、罪の行為を表しています。それに対して“ブルット(burut)”は、知らずに犯した罪”を表しています。そしてこのへブル9章7節の「民が知らずに犯した罪」ということばは、このブルット(burut)が使われているのです。つまり、大祭司が年に一度だけ至聖所に入り罪の贖いをしたのは、知っていながら犯した罪と、知らずに犯してしまった罪のすべてのためであったということです。もちろん、子羊の血が流されたことによって、その血を受け、それをかもいと門柱に塗られているということの前提(救われる前の罪が赦されたということ)があってのことですが・・・。ですから、子羊の血、雄牛の血、雄山の血はそれぞれ、私たちの罪のすべてが神の前に洗い聖められたことを表しているのです。イエスの血はその両方の罪をも私たちを神から遠ざけ、てくださいました。イエスの血はすべてのものに有効なのです。このために子羊の血と山羊の血がささげられなければならなかったのです。こうして贖罪の日には、キリストの血が私たちのすべての罪を清めてくれたことを表しているのです。ちなみに、雄牛の血がささげられたのは、強いものが弱いもののために死ぬことを表していました。

そしてこれはイスラエルの救いだけでなく、キリストの再臨と大きく関係があります。救われていない人たちに子羊の血について知らせる必要があるのは事実です。しかし山羊の血についても同様に知らせなければなりません。私たちはみな山羊の血も必要としています。イエスの血は犯したすべての罪だけでなく、知らずに犯したすべての罪からも私たちをきよめてくださるのです。イエスの再臨に備えるために、ただ未信者が悔い改める必要があるというだけでなく、私たちも悔い改める必要があるのです。

3.仮庵の祭り(33-44)

最後に仮庵の祭りを見ていきたいと思います。

「ついではモーセに告げて仰せられた。 「イスラエル人に告げて言え。この第七月の十五日には、七日間にわたるの仮庵の祭りが始まる。最初の日は聖なる会合であって、あなたがたは、労働の仕事はいっさいしてはならない。七日間、あなたがたは火によるささげ物をにささげなければならない。八日目も、あなたがたは聖なる会合を開かなければならない。あなたがたは火によるささげ物をにささげる。これはきよめの集会で、労働の仕事はいっさいしてはならない。以上がの例祭である。あなたがたは聖なる会合を召集して、火によるささげ物、すなわち全焼のいけにえ、穀物のささげ物、和解のいけにえ、注ぎのささげ物を、それぞれ定められた日に、にささげなければならない。このほか、の安息日、また、あなたがたがにささげる献上物、あらゆる誓願のささげ物、進んでささげるあらゆるささげ物がある。特に、あなたがたがその土地の収穫をし終わった第七月の十五日には、七日間にわたるの祭りを祝わなければならない。最初の日は全き休みの日であり、八日目も全き休みの日である。最初の日に、あなたがたは自分たちのために、美しい木の実、なつめやしの葉と茂り合った木の大枝、また川縁の柳を取り、七日間、あなたがたの神、の前で喜ぶ。年に七日間、の祭りとしてこれを祝う。これはあなたがたが代々守るべき永遠のおきてとして、第七月にこれを祝わなければならない。あなたがたは七日間、仮庵に住まなければならない。イスラエルで生まれた者はみな、仮庵に住まなければならない。これは、わたしが、エジプトの国からイスラエル人を連れ出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたがたの後の世代が知るためである。わたしはあなたがたの神、である。」こうしてモーセはイスラエル人にの例祭について告げた。について次に9-14節をご覧ください。ここには、初穂の祭りについて記されてあります。」

仮庵の祭りは、43節にあるように、イスラエル人がエジプトを出た後の40年間を荒野で過ごしたことを思い出し、無事に約束の地に入ることができたことを仮の住まいに住むことによって思い出しました。それは同時に、人は肉体という「仮庵」に70~90年間住むだけの存在であり、主の恵みなしには生きていくことはできないということを覚える時でもあります。

また、仮庵の祭りは、主イエスが地上に来られた事を象徴する祭りでもあります。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネによる福音書1章14節)

この「住まわれた」は、「仮庵となられた」ということを意味します。神はメシアであるイエスを地上に送って下さる事により、神と人との和解をもたらされました。ですから、仮庵の祭りは、和解の祭りでもあります。神と人、ユダヤ人と異邦人の和解を祈り願うことも大切です。

そればかりではなく、仮庵の祭りは、その年のすべての収穫の完了を祝う祭りでもあります。救いの完成の型でもあるのです。ヨハネの黙示録21章3節には 「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らと共に住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、…」 とあります。

この「神の幕屋」とは仮庵のことです。終わりの時、艱難時代の後にキリストが統治される千年王国が来ますが、その時、全世界の人々が仮庵の祭りを祝うために、エルサレムに代表を送るとあります。(ゼカリヤ書14章16節)つまり、仮庵の祭りとは、再臨を指し示す重要な鍵となっているのです。

神様は旧約の時代から、繰り返し、繰り返し、様々な方法で終わりの時代の事を示してくださっています。エジプトで仮庵(テント)で暮らしたことから始まり、この地で歩まれたキリスト、そして千年王国の到来の喜び。すべてがつながっています。そのすべての喜びを、この祭りによって祝うのです。それが40節にある内容です。この仮庵の祭りが、春の過越の祭りから始まる一連の主の例祭の締めくくりとなるのです。

ところで、イエス様は、この仮庵の祭りの最終日に、有名な言葉を言われました。ヨハネ7章37節~39節です。

「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」(37-39節)

この祭りとは仮庵の祭りです。この祭りの終わりの多いなる日にというのは、この祭りの終わりの日の最高潮に達する日、祭りが最も盛大な時に、イエス様はこういわれたのです。この祭りの終わりの日にはどんなことが行われたのでしょうか。この日には「水取りの儀式」というのがあったようです。イスラエルの民が荒野で40年間放浪の旅をしたとき、神がにがい水を甘い水に変えてくださったことや、モーセをとおして岩から水を出してくださった出来事を思い出しながら、かつて神が神の民の渇きをいやしてくださったことを思い起こし、そのことに感謝しながら、神の救いの完成を待ち望みながら、大祭司がきれいな祭服を着て金の柄杓をもってシロアムの池から汲んだ水を神殿に向かって運びました。行列になって・・・。イエスはそれを群集とご覧になりながら、「聖書のことばにあるように」とあるように、旧約聖書のある歌を引用してこう言ったのです。そのことばとは、イザヤ書イザヤ12章3節のみことばです。そこには、こう歌われています。「あなたがたは喜びながら、救いの泉(井戸の水)から水を汲む。その日あなたがたは言う。主に感謝せよ。・・」有名な「マイム・マイム」の歌です。キリストはこの「水を捧げる祭り」と、「生ける水の川」とを重ね合わせながら、真の生ける水は、後に与えられる聖霊であると証されたのです。 この水を捧げる祭りについては、大変な歓喜が伴ったようで、ユダヤ教の口伝律法の一つであるミシュナーにも「水を汲み出すこの祭りを見ていない者は、人生の喜びを知らない者である。」と述べているほどです。この仮庵の祭りの中で行われる行事は別名「シムハット・ベイト・ハ・ショエイヴァー」(水を汲み出す場所での喜び)とも言われています。(Wikipedia “Simchat Beit HaShoeivah”より引用)

これは千年王国の時に、御霊がこの地上に豊かに注がれることを預言しています。「わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。(イザヤ44:3)」御霊が注がれると、荒地が潤いを取り戻すという約束ですが、イエス様はこの約束を御霊の初穂である、私たち信じる者に対して与えておられます。

終わりの日には主がこの地に御霊を注がれ、この地を回復されますが、その前に私たちの心の奥底に、生ける水の川として、その潤いをほとばしる形で与えてくださると約束しておられるのです。私たちが心の中に与えておられる祝福を、私たちは後の世では全世界的に見ることができるようになるのです。私たちはその日がやってくることを信じ、それを待ち望む者でありたいと思います。

イザヤ65:13-25 レジュメ

「新しい天と新しい地」

イザヤ65:13-25

 Ⅰ.新しい神の民の創造(13-16)

 「主よ。これでも、あなたはじっとこらえ、黙って、私たちをこんなにも悩まされるのですか。」(64:12)というイザヤの祈りに対して、神は驚くべき救いの計画を語られた。それは「わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。」(1)ということである。神の民であるイスラエルが神に反逆したので、神の救いは異邦人に向けられた。そればかりではない。そのことによってイスラエルにねたみを起こされ、彼らが救われるようにされた。これが神の計画である。だれがそのようなことを考えることができただろう。本当に驚くべき神の計画である。しかし、そればかりではない。神はこの救いを新しい天と新しい地の創造をもって完成させてくださるように計画された。「ご自分のしもべたちを、ほかの名で呼ばれるようにされる。」(15)その名は「クリスチャン」である。クリスチャンはまことの神であるイエス・キリストによって祝福される。イエス・キリストによって先の苦難が忘れ去られる。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)私たちはイエス・キリストにあって新しく造られた者なのである。

 Ⅱ.新しい天と新しい地の創造(17)

 「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。」(17)この「創造する」という言葉は全く何もないところから何かを造り出す時に使われる言葉で、無からの創造のことである。神は今の天と地とは違う全く新しい天と地を創造される。そこでは、先の事は思い出されず、心に上ることもない。以前のものが過ぎ去るからである。そこには神がともにおられ、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。これこそクリスチャンにとっての真の慰めではないだろうか。クリスチャンにとってイエス・キリストを信じて救われても、この世はある意味で住みにくい所である。信じれば信じるほど辛いことや、苦しいことが起こる。様々な迫害があったり、人々から認められないこともある。けれども神はクリスチャンにこの世とは違う全く新しい天と新しい地を備えてくださり、そこで暮らすことができるように計画してくださった。私たちはそのことを知り、そこに希望を置かなければならない。この地上のことで、「滑った、転んだ、思うようにいった、いかなかった」ということで生涯を終えてしまうとしたらとても残念である。周囲がどのような態度を取るにせよ、「私たちはやがて、最後にはこういう希望があるんだ!」と告白して歩む者でありたい。

 Ⅲ.新しい祝福の創造(18-25)

 そのように歩む者を神は豊かに祝福してくださる。「だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。」(18)「そこにはもう、鳴き声も叫び声も聞かれない。」(19)そればかりか、「彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。」(24)と言われる。これまではどんなに祈っても答えられなかった。それは主の御手が短いからでも、主も耳が遠いからでもない。彼らの咎が彼らと神との仕切りとなり、彼らの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたからである。しかし、今は違う。今は罪が赦され神との親しい交わりの中に入れられたので「神様!」と呼ぶと、すぐに答えられる。

 神の恵みによって神の民とされた私たちは、この新しい天と新しい地を待ち望むことができるようになった。私たちはやがて神が創造された新しい天と地に入ることができるがゆえに、今の時を忍耐をもって歩まなければならない。現在の困難を見て落胆したりせず、やがてもたらされる美しい将来を見て、そこに希望を置かなければならない。そういう人はこの地上の生活においても主から新しい力をいただいて、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

イザヤ書65章13~25節 「新しい天と新しい地」

きょうは、イザヤ書65章後半のみことばからお話します。65章前半のところには、「主よ。これでも、あなたはじっとこらえ、黙って、私たちをこんなにも悩まされるのですか。」(64:12)というイザヤの祈りに対する、主の驚くべき答えが示されました。それは、「わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。わたしは、わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、『わたしはここだ、わたしはここだ』と言った。」(65:1)ということです。つまり、イスラエルが神に逆らってバビロンに滅ぼされることになったのは、それによって救いが異邦人にもたらされるようになるためであったということです。しかも、それはユダヤ人がつまずき倒れるためではありません。かえってそのことによって、イスラエルが救われるためです。異邦人が救われることを見たイスラエルにねたみが引き起こされ、今度は彼らが主を呼び求めるようになるためです。そのようにしてイスラエルの中の幾人かが救われるためだったのです。何という神の知恵でしょう。神の知恵は底知れず深く、私たちはそんな神の計画をはかり知ることはできません。

そして、この箇所には、エルサレムが荒れ果ててしまったもう一つの理由が記されてあります。それは神の新しい創造です。新しい天と新しい地の創造です。先のことは思い出されず、心に上ることもありません。神は新しい天と新しい地を創造してくださるのです。この古い天と地は滅びます。地上のエルサレムは消えて無くなります。しかし、新しいエルサレムは決して滅びることはありません。私たちはそこに希望を置かなければならないのです。  きょうは、この新しい天と新しい地について三つのポイントでお話したいと思います。

Ⅰ.新しい民の創造(13-16)

まず13節から16節までをご覧ください。13節と14節です。 「それゆえ、神である主はこう仰せられる。「見よ。わたしのしもべたちは食べる。しかし、あなたがたは飢える。見よ。わたしのしもべたちは飲む。しかし、あなたがたは渇く。見よ。わたしのしもべたちは喜ぶ。しかし、あなたがたは恥を見る。見よ。わたしのしもべたちは心の楽しみによって喜び歌う。しかし、あなたがたは心の痛みによって叫び、たましいの傷によって泣きわめく。」

「わたしのしもべたち」とは神の救いを受け入れ、神の民とされた人たちのことです。また、「あなたがた」とは、逆に、差し出された神の御手を拒み、神に反逆し続けていた人たちのことです。彼らは神の呼びかけに応じず、神の目の前に悪を行い続けます。そのような人たちには神のさばきが下ります。神のしもべたちが食べても、彼らは飢え、神のしもべたちが飲んでも、渇き、神のしもべたちが喜んでも、恥を見、神のしもべたちが心の楽しみによって喜び歌っても、心の痛みによって叫び、たましいの傷によって泣きわめくようになるのです。

15節後半を見ると、神はご自分のしもべたちを「ほかの名」で呼ばれるようにされるとあります。それはどのような名でしょうか。「クリスチャン」です。神の民はクリスチャンという名で呼ばれるようになります。使徒の働き11章25節から26節までを開いてみましょう。

「バルナバはサウロを捜しにタルソへ行き、彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」

イエスを信じる人たちが「クリスチャン」と呼ばれるようになったのは、彼らがアンテオケに来てからのことです。それまでは「この道の者」(使徒9:2)と呼ばれていました。それはイエス様がご自身のことを「わたしは道であり、真理であり、いのちです」と教えておられたからです。ですから、信者同士では兄弟姉妹と呼び合っていましたが、一般では「この道の者」と呼ばれていたのです。それがアンテオケに来てからは「クリスティアノス」「クリスチャン」と呼ばれるようになりました。なぜでしょう?彼らがいつもイエス・キリストのことを口にしていたからです。何でもかんでもイエス・キリストです。「クリスティアノス」とはキリストきちがい、キリストバカという意味です。これはキリストを信じる者たちにつけられたあだ名なのです。いつでも、どこでも、イエス・キリスト、イエス・キリストと言っていたので、こいつらはキリストきちがいだと、「クリスチィアノス」、「キリスト者」と呼ばれるようになったのです。つまり、彼らはイエス様を信じてからは、だれの目にも明らかなライフスタイルを送っていたということです。それがクリスチャンです。

皆さんはどうでしょうか。クリスティアノスになっているでしょうか。イエス様でいつもいっぱいです、いつもイエス様のことを考えています。口を開いたらイエス様、寝ても覚めてもイエス様、そのようになっているでしょうか。いつもイエス様を愛し、イエス様に喜ばれる道を歩んでおられるでしょうか。いや、私は自分がクリスチャンだということはあまり言いませんが、自分の生活を通して証していますという方がおられます。それも立派です。しかし、私たちは立派だからクリスチャンになれたのではありません。本当に愚かで罪深い者であるにもかかわらず、神の恵みによって選ばれ、救いの中に入れていただきました。神様って何とすばらしいのでしょう。ハレルヤ!と証できたら、どんなにすばらしいかと思います。立派な人はこの世にはたくさんいます。しかし、立派じゃなくても救っていただける。そして、神に喜ばれるような生き方に変えられると証できれば、本当にすばらしいと思うのです。

大河ドラマの軍師官兵衛もイエス・キリストを信じて洗礼を受けましたが、洗礼を受けてからは、その胸にいつも十字架の首飾りをつけるようになりました。もちろん、クリスチャン大名の高山右近もそうです。官兵衛はこの高山右近に影響されてクリスチャンになりました。「キリシタンは人が苦しい時こそ助けてあげるのですよ。あなたの前にも門が開かれています」という右近の勧めで、彼は「私にも門が開かれているでしょうか」と言ってキリシタンになるのです。あの時代キリシタンとして生きていくことは並大抵のことではなかったと思いますが、そうした右近の証によって彼はキリシタンの道を歩むようになったのです。そして、それからは以前のそれとは全く違う生き方となりました。誰の目にも、この人はクリスチャンだとわかるようなライフスタイルになったのです。皆さんはどうでしょうか。

16節をご覧ください。「この世にあって祝福される者は、まことの神によって祝福され、この世にあって誓う者は、まことの神によって誓う。先の苦難は忘れられ、わたしの目から隠されるからだ。」

皆さん、クリスチャンはまことの神によって祝福されます。この「まことの神」とは誰でしょうか。まことの神とはヘブル語で「アーメンの神」です。それはイエス・キリストのことであります。黙示録3章14節にはこうあります。

「また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。」

1章17節と18節を見れると、これはイエス・キリストが書き送っている手紙であることがわかります。この方が「アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方」と言っているのです。イエス・キリストこそまことの神であり、アーメンの神なのです。クリスチャンはこの神によって祝福されるのです。

Ⅰヨハネ5章20節にも、「しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。」 とあります。この方こそまことの神、永遠のいのちです。イエス・キリストこそまことの神であり、クリスチャンはこのまことの神によって祝福されるのです。

そして、この方によって先の苦難が忘れ去られます。キリストを知る前は様々な罪、悩み、苦しみ、傷、痛み、悲しみ、重荷でいっぱいでしたが、キリストを信じたことによって、先の苦難が忘れ去られました。キリストの血潮によって洗い聖めていただいたのです。過去の罪悪感、罪責感にさいなまれなくてもいいのです。敗北感にいつまでもしたっていなくてもいいのです。キリストがあなたの罪を贖ってくださいました。あなたはキリストによって神のしもべ、クリスチャンとして新しく造られたのです。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなります。それは新しい創造です。キリストにある新しい創造です。先の苦難は忘れ去られ、すべてが新しくされるのです。私たちはよく人生をやり直せるリセットボタンがあったらいいなあ、と思うことがあります。過去の失敗、罪や汚れ、苦しみ、傷のすべてを消し去り新しくやり直すことができたら、どんなにいいだろうと思うのです。そして、神はイエス・キリストにあってあなたの人生も新しくやり直せる道を開いてくださいました。あなたがキリストを信じるなら新しく造られます。あなたがキリストのうちにあるなら、新しく造り変えられ、古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなるのです。

Ⅱ.新しい天と新しい地の創造(17)

第二に、神の新しい創造のみわざは新しい天と新しい地の創造です。17節をご覧ください。 「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。」

ここで神はイザヤを通して、「新しい天と新しい地を創造する」と約束されました。今、私たちが住んでいるこの地球を中心とする世界は、「新しい創造」に対して「古い創造」に属しているものです。それが何年前であったかははっきりわかりませんが、創世記1章1節に「初めに、神が天と地を創造した」とあるように、神によって創造されたものです。しかし、この古い天と地は過ぎ去ります。そして、神は新しい天と地を創造してくださるのです。    この「創造する」という言葉は、全く何もないところから何かを造り出す時に使われる「バーラー」ということばです。これは無からの創造を表わしています。それに対して、すでに在るものを使って何かを作るときは「アーサー」という言葉を使います。これはすでにある素材を使ってそこから何か別の新しいものを作ることで、人間にもできることです。ここでは「パーラー」です。神は今の転と地とは全く違う違う新しい天と地を創造するのです。

皆さん、私たちは今住んでいる世界がまるで永遠に続いていくように思いがちですが、そうではないのです。この罪によって汚れた天地は滅ぼされ、全く新しい天と地に造り変えられる時がやって来るのです。少し長いですがⅡペテロ3章7節から13節までをご覧いただきたいと思います。

「しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。 このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」(Ⅱペテロ3:7-13)

ここには、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまう、とあります。すべての物質、原子に至るまですべて溶け去ってしまうのです。天の万象が完全に崩壊して、見る影もなくなってしまいます。しかしながら、神を信じて救い出された神の子どもたちのためには、義の住む新しい天と新しい地とが備えられています。それは何でしょうか。そうです、天国です。

そこでは、先の事は思い出されず、心に上ることもありません。以前のものが過ぎ去ったからです。そこには神がともにおられ、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくざいます。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもありません(黙示録21:4)。この地上で経験した様々な悲しみや嘆き、痛みや苦しみのすべてが思い出されることがなく、心に上ることもないのです。なぜなら、以前のものは過ぎ去るからです。これまでのものとは全く違う、別の次元の世界がもたらされるのです。それはクリスチャンにとって本当に大きな慰めではないでしょうか。

罪を悔い改めてイエス・キリストを信じた者にとって、この世はある意味で住みにくい所かもしれません。神が共におられるということを感じながら歩めるということは感謝なことですが、一方で、信じれば信じるほど辛いことや、苦しいこと、受け入れられないようなことにぶつかるのも事実です。迫害があったり、人々から認められなかったり、多くの軋轢(プレッシャー)なども起こります。しかし神はいつまでもクリスチャンをそのままにしておくことはなさいません。やがて新しい天と新しい地で暮らすことができるようにしてくださいます。ですから私たちはここに希望を置き、この希望に結びつくような生涯を送らなければなりません。この地上の目の前のことで「スッテン、バッテン、滑った、転んだ、思うようにいった、いかなかった」といったことだけで生涯を終えてしまうとしたら、何と残念なことでしょう。周囲がどうであれ、どんなことが起ころうとも、「私たちはやがて、最後にはこういう希望があるんだ」と告白して歩むものでありたいと思います。これが、神がイザヤを通してイスラエルに、いや私たち人類に伝えたかったことなのではないでしょうか。

最近、福田姉を天に送らせていただきましたが、他にもたくさんの方が病気で苦しんでおられます。そうした方々のところに行って賛美したり、祈ったりして思うことは、私たちにとって最後はこれしかないんだなぁ、ということです。死んでも生きるいのち、永遠のいのちこそ、私たちにとっての究極の望みなのです。

Ⅲ.新しい祝福の創造(18-25)

最後に18節から終わりまでを見て終わりたいと思います。18節をご覧ください。 「だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。」

ここで神は「エルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする」と言っておられます。このエルサレムとは何のことでしょうか。これは先ほど申し上げた新しい天と新しい地の聖なる都のことです。天のエルサレムのことです。黙示録21章2節には、「わたしはまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るの見た。」とあります。この「聖なる都、新しいエルサレム」のことです。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれません(19)。数日しか生きられない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もなく、百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされます(20)。彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べるようになります(21)。彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはありません(22)。この世では自分がどんなに汗水流して働いても搾取されるということがありますが、新しいエルサレムではそういうことはありません。働いたら働いた分だけ報いを受けることができます。彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが飢えて他人が食べることはないのです。

24節には、「彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。」とあります。すばらしいですね。「イエス様」を呼ばないうちに「何だい」という答えがかえってきます。私たちのことをすべてご存じであられる主がいつもそばにいて、すぐに答えてくださるからです。今まではそうではありませんでした。「主よ、聞いてください。」と祈ってもウンともツンともでした。罪があったからです。主の御手が短くて救えないのではありません。その耳が遠いので聞こえないのでもないのです。あなたがたの咎が、あなたがたと神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしていました。その罪が全部取り除かれて、神と非常に親しい交わりの中に入れられたので、「神様」と呼ぶとすぐに答えてくださるのです。

そして25節には、狼と子羊が共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食い、蛇は、ちりをその食べ物とし、神の聖なる山のどこにおいても、これらが害を加えることはなく、そこなわれることはありません。そこには弱肉強食はありません。一緒になって草やわらを食べるようになります。そういう平和な世界がやってくるのです。

ところで、新しいエルサレムにはもはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない(黙示録21:4)はずなのに、20節を見ると、「百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳でならないで死ぬ者は、のろわれたものとされる」とあるのはどういうことでしょうか。寿命が伸びて長生きすることと、死がないというのは全く違います。

実はこの19節までと20節以降の内容は、同じ終末の預言でもちょっと違う時代のことを描いています。19節までの内容はこの天地が滅び失せた後にもたらされる新しい天と新しい地の光景ですが、20節からのところは、その前にもたらされるこの地上の千年王国の預言です。イザヤはこの千年王国とその後にもたらされる新しい天と地という二つの光景を区別せずに見ていたのです。それはちょうど私たちが遠くを見るときと同じです。たとえば、こちらから大阪と広島の方を見ると実際にはそこにはかなりの距離がありますが、だいたい同じ位置関係に見えるのと同じです。イザヤも世の終わりの幻を見たとき、実際には千年王国と新しいエルサレムの間にはかなりの時間的な差がありますが同じ終わりの時代に起こることとして見えていたのです。

新約聖書のヨハネの黙示録では、それがもう少しはっきり描かれています。キリスト再臨されるとき、キリストにある者は一挙に雲の中に引き上げられ、空中で主と会います。その後、キリストとともにこの地上の平和な千年間を治めた後、新しい天と新しい地、聖なる神のエルサレムに入ります。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになるのです。これは希望ではないでしょうか。

これは決してたわごとではありません。主イエス・キリストの十字架と復活という事実に基づいたものだからです。キリストは、弟子たちにこう言われました。 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたのために場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもおらせるためです。」(ヨハネ14:1-3)  その場所こそ天国です。イエス様はその場所を備えるために天に昇られました。その場所を備えたら、私たちを迎えに来てくださいます。そして、その日は近いのです。

ですから、私たちはこのような希望が約束されていることを知り、たとえ現実の生活において辛いことや苦しいこと、耐えられないと思うようなことがあってもここに希望を置き、神にすがりながら、讃美と感謝をもって歩んでいきたいと思うのです。あなたはやがて新しい天と新しい地に入るのです。先の苦難は忘れられ、あなたの目の涙はすっかりぬぐい取られます。あなたは神の慰めを受けるようになるのです。神の約束に信頼しましょう。