イザヤ書59章1~21節 「救いは主の御手の中に」

きょうは、「救いは主の御手の中に」というタイトルでお話します。イザヤは、58章でイスラエルの問題について触れました。それは、彼らの信仰は形だけで中身がなかったということです。行動が伴っていませんでした。この59章ではその根本的な問題を取り上げています。それは罪の問題です。彼らが自分の信仰を具体的な行動に移さなかったのは、根本的に罪があったからなのです。いったいどうしたらこの罪の問題を解決することができるのでしょうか。それはただ神の御手の中にあります。

Ⅰ.神との仕切り(1-8)

まず1節から8節までをご覧ください。1節と2節をお読みします。 「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」

イスラエルは自分たちがバビロンに捕えられたのを神のせいにしていました。そして、神は自分たちを見捨ててしまったと嘆き、恨んでいたのです。しかし、神が彼らを見捨てたのではありません。彼らが神に背いたのです。彼らの咎が、彼らと神との仕切りとなり、彼らの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのです。彼らがそのようになったのは、すべて彼ら自身に原因があったのです。

私たちはしばしば、自分が罪を犯すと、神が怒られて、自分から遠ざかれたのではないかと考えますが、そうではありません。神が遠ざかれるのではなく、私たちの方が遠ざかるのです。私たちの咎が、神との間の仕切りとなり、御顔を隠させているのです。アダムのことを考えてみてください。アダムが罪を犯したとき、神は彼から遠ざかれたでしょうか。いいえ、神ではなく、アダムの方が遠ざかりました。食べてはならないと神が命じておられた木から取って食べたとき、彼は神の御顔を避けて、木と木の間に身を隠したのです。「アダム、あなたはどこにいるのか」と神が呼びかけても、彼は神の前に姿を見せようともしませんでした。神を恐れたからです。もともと人間は神によって造られ、神を愛し、神と交わるように造られたのに、その神から遠ざかってしまったのです。何が問題だったのでしょうか。罪です。アダムは罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができなくなってしまいました。主の御手が短くて救えないのではないのです。その耳が遠くて聞こえないのでもないのです。彼らの咎が、彼らと神との仕切りとなり、彼らの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのです。

その結果、人間はどうなってしまったでしょうか。3節から8節までをご覧ください。まず3節から6節までのところを読みます。 「実に、あなたがたの手で血で汚れ、指は咎で汚れ、あなたがたのくちびるは偽りを語り、舌は不正をつぶやく。正しい訴えをする者はなく、真実をもって弁護する者もなく、むなしいことにたより、うそを言い、害毒をはらみ、悪意を産む。 彼らはまむしの卵をかえし、くもの巣を織る。その卵を食べる者は死に、卵をつぶすと、毒蛇が飛び出す。そのくもの巣は着物にはならず、自分の作ったもので身をおおうこともできない。彼らのわざは不義のわざ、彼らの手のなすことは、ただ暴虐。」

ここには手と口の犯す罪にいつて書かれてあります。実に、手は血で汚れ、指は咎で汚れています。くちびるは偽りを語り、舌は不正をつぶやきます。正しい訴えをする者も、真実をもって弁護する者もなく、むなしいことにたより、うそを言います。人を陥れるような言動をし、事実、人を陥れるのです。それはまさにまむしの卵から毒蛇(まむし)をかえすようなものです。まさに毒舌ですね。また、「くもの巣を織る」とあるように、他の人をわなに陥れるようなことをするのです。

そして、7節と8節も読んでみましょう。 「彼らの足は悪に走り、罪のない者の血を流すのに速い。彼らの思いは不義の思い。破壊と破滅が彼らの大路にある。彼らは平和の道を知らず、その道筋には公義がない。彼らは自分の通り道を曲げ、そこを歩む者はだれも、平和を知らない。」

今度は彼らの足です。彼らの足はどうでしょうか。彼らの足は悪に走り、罪のない者の血を流すのに速いのです。彼らは平和の道を知らず、その道には公平がありません。彼らは自分たちの道を曲げ、そこを歩く者はだれも、平和を知らないのです。これが人間の姿です。

パウロはローマ人への手紙3章9~18節で、この箇所を引用してこう言っています。 「では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちの前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない。」「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」

パウロは、すべての人が罪の下にあることを示すために、この箇所を引用してこう述べたのです。最初の人アダムが罪を犯したので、すべての人が罪の下に置かれるようになってしまいました。それはユダヤ人も例外ではありません。すべての人です。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益なものとなってしまいました。それは私たちも同じです。私たちはそんなひどい人間じゃないと思うかもしれませんが、しかし、それはコップの下に沈んでいる泥のようなものであり、その水をかき混ぜると水全体が濁るように、いつでもこれらのことを起こしえる者なのです。

このような罪の問題を、いったいどうやって解決しろというのでしょうか。あなたの意志で断ち切ることができますか。断食という方法で解決できるでしょうか。できません。私はよくダイエットを決行するのですが、ただの一度さえ成功したことがないのです。人間の意志は強そうでも、意外ともろいものです。そのような意志でいったいどうやってこの罪を断ちきることができるというのでしょうか。パウロは、この罪を断ち切れない自分のみじめさをこう告白しています。

「私は、ほんとうにみじめな人間で。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるでしょうか。」(ローマ7:24)

これは罪に立ち向かった人間の赤裸々な告白です。だれもこの死の、からだから救うことができる人はいません。だれもこの罪の問題を解決できる人はいないのです。いったいどうすればいいのでしょうか。

Ⅱ.罪の告白(9-15)

9節から15節までをご覧ください。9節をご覧ください。 「それゆえ、公義は私たちから遠ざかり、義は私たちに追いつかない。私たちは光を待ち望んだが、見よ、やみ。輝きを待ち望んだが、暗やみの中を歩む。」    ここから主語が「私たち」に変わっています。これまでは「彼ら」が主語でしたが、ここからは「私たち」です。なぜでしょうか。ここから、罪の告白が始まるからです。これまで彼らは自分の罪の姿を嫌というほど見せつけられましたが、そのことに同意して、自分たちがそのように汚れたものであると認めているのです。つまり、この罪の解決は、自分の罪を認めることから始まるということです。 その罪を認め、それを告白することから始まるのです。

ここに「私たちは光を待ち望んだが、見よ、やみ。輝きを待ち望んだが、暗やみの中を歩む。」とあります。これが人類の営みではなかったでしょうか。人類は自分たちの英知と不断の努力によってもっといい社会を築くことができると躍起になってきましたが、実際はどうだったかというと、全く逆の結果でした。文明が発達して、争いや戦争のない平和な世界になったでしょうか。なっていません。光を待ち望んだのに、かえって闇の中を歩むようになりました。かえって昔の方が平和だったと、多くの人が気づき始めています。文明の発達は必ずしも幸福な世界へと導くことはできませんでした。

10節を見てください。それはまさに盲人のようです。真昼でも、たそがれ時のようにつまずき、やみの中にいる死人のようです。これからどういう方向に進んでいったらよいのか分からない状態です。また、熊のようにほえ、鳩のようにうめいても、そこに公義も救いもありません。まるで現代の世界を描いているかのようですね。問題が山積しいますが、それをどう処理したらいいかわからないまま、また次の問題が出て来ています。真の解決に近づくどころか、それはますます遠ざかっていくのです。

それはなぜでしょう。12節をご覧ください。 「それは、私たちがあなたの御前で多くのそむきの罪を犯し、私たちの罪が、私たちに不利な証言をするからです。私たちのそむきの罪は、私たちとともにあり、私たちは自分の咎を知っている。」    すばらしい告白です。「それは、私たちがあなたの御前で多くのそむきの罪を犯し、私たちの咎が、私たちに不利な証言をするからです。」と正直に認めています。そして、「私たちのそむきの罪は、私たちとともにあり、私たちは自分の咎を知っている。」と告白しています。私たちの罪は、単なる行為としての罪ではなく、常に自分にまとわりついている性質としての罪だと告白しているのです。パウロのことばで言うなら、「ほんとうに私はみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出すことができるでしょうか」というのと同じです。本当に罪深い者であり、もうどうしようもない人間なのです、と告白しているのです。

13節と14節をご覧ください。 「私たちは、そむいて、主を否み、私たちの神に従うことをやめ、しいたげと反逆を語り、心に偽りのことばを抱いて、つぶやいている。こうして公正は退けられ、正義は遠く離れて立っている。真理は広場でつまずき、正直は中に入ることもできない。」

これは、先程3節から8節までのところで、「あなたがたはこうだ」と神が言われたことに対して、「そうです、その通りです」と、それをそっくりそのまま認めている形になっています。主語が「私たち」に変わっただけです。しかし、ここから本当の救いが始まります。15節の終わりのところには何とあるでしょうか。「主はこれを見て、公義のないのに心を痛められた。」とあります。主はそれを見て心を動かされたのです。すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができないのを見られて、心を痛められたのです。

Ⅲ.主の救い(16-21)

ではどこに救いがあるのでしょうか。ここに救いがあります。救いは主の御の中にあります。16節をご覧ください。ここには、「主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。」とあります。

どういうことでしょうか。これは、主はこの罪から救うことのできる人がいないのを見て、とりなす者がいないのを見て驚かれたという意味です。かつてイスラエルがエジプトを出て荒野に導かれた時、金の子牛を拝み、神の怒りを招いて滅ぼされそうになりましたが、その時モーセは神と民との間に立って、こう祈りました。

「今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら―。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」(出エジプト32:32)

モーセは神と民の間に、その破れ口に立って祈ったのです。しかし、今の時代、そのように破れ口に立ってとりなす人はいません。人間の側には、この罪から救うことのできる人は誰もいないということです。

だからこそ、主が立ち上がってくださったのです。だから主はご自身の御腕によって救いをもたらしてくださるのです。神は今から二千年前にイエス・キリストをこの世に遣わし、その救いの御業を成し遂げてくださいました。罪から救うことのできる人はひとりもいないので、イエスさまがこの世に来られ、神と人の破れ口に立つかのようにして十字架にかかって死んでくださいました。そして、「父よ。彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか自分でわからないのですから。」と言ってとりなしてくださったのです。ですから、ここは、救い主としてイエス・キリストが来られるということの預言なのです。「ご自分の義を、ご自分のささえとされた」とは、ご自分のひとり子、罪を知らない方を基として義を確立されたということです。

17節をご覧ください。ここには、「主は義をよろいのように着、救いのかぶとを頭にかぶり、復讐の衣を身にまとい、ねたみを外套として身をおおわれた。」とあります。

ここでは義や救いが身につけるものとして表現されています。それは私たちがこの義を身につけることによって、神の前に認められるようになるという意味です。これが信仰による義です。パウロはⅡコリント5章21節でこう言っています。

「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(Ⅱコリント5:21)

また、ローマ人への手紙3章23~24節でも、こう言っています。 「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」

私たちはこの罪から自分を救うことなどできません。ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。ですから、神の救いであるイエスの衣を着なければなりません。一生懸命にいちじくの葉をつづり合わせて腰のおおい作るのではなく(創世記3:7)、神が用意してくださった皮の衣(同3:21)、義の衣を着なければならないのです。どんなにいちじくの葉を綴りあわせても、そんなのはすぐに枯れてしまうでしょう。そんなのはあなたを救うことなんてできません。あなたを救うことができるのは、神が用意してくださった皮の衣です。その皮の衣こそイエス・キリストであります。

あなたはこの義を身につけているでしょうか。神が用意してくださった皮の衣を着ておられるでしょうか。私たちが救われる唯一の道は、この義を着る以外にはありません。私たちはこの方にあってのみ、神の義と認めていただくことができるのです。

ところで、ここには「復讐の衣を身にまとい、ねたみを外套として身におおわれた」とあります。これはどういうことでしょうか。この「復讐」とか「ねたみ」とは、「しっと」という意味ではなく、「主の熱心」という意味です。神が、義と救いとさばきにおいて、熱心に働かれるということです。まさに救いは私たちの力ではなく、主の熱心によるのです。

18節と19節を見てください。 「主は彼らのしうちに応じて報い、その仇には憤りを報い、その敵には報復をし、島々にも報復をする。そうして、西のほうでは、主の御名が、日の上るほうでは、主の栄光が恐れられる。主は激しい流れのように来られ、その中で主の息が吹きまくっている。」

これはどういうことかというと、主は報復するために、激しい流れのように来られるということです。つまり、これは再臨の預言なのです。イザヤの時代にはまだメシヤ、救い主キリストが来ていなかったので、キリストの初臨と再臨が一つの山脈のように重なって見えているのです。しかし、実際にはそこには時間的なズレがあって、山と山の間のくぼみのようになっているのです。そして、私たちはまさにそのくぼみの中にいるわけです。もう救い主は来られました。しかし、主は再びやって来られます。その時に主は彼らのしうちに応じて報い、その仇には憤りを報い、その敵には報復をし、島々にも報復をされるのです。そして、西の方では、主の御名が、日の昇る方では、主の栄光が恐れられます。それはまるで激しい流れのようです。主は激しい流れのように来られ、その中で主の息が吹きまくるのです。私たちは今、それを待ち望んでいるのです。それは私たちにとっては救いの完成の時でもあるからです。

昨年、台風が次々に日本列島を襲い、各地に大きな被害をもたらしました。テレビでは京都の桂川の堤防が決壊し、川の水がものすごい勢いで観光地を呑み込んでいく映像を流していましたが、まさにそのような激しい流れのように、再び主がやって来られるのです。イエス様が最初に来られた時には主のしもべとして、ほんとうに見るべき麗しい姿もなく、私たちに仕えるために来られましたが、再び来られる時には、栄光の王として、キング・オブ・キングス(King of Kings)として、栄光のうちにやって来られるのです。このようなことを申し上げると、世の中の人は言います。「へ-え、イエス様がもう一回来るの?ウソだ!」と。また「聖書も教会もおもしくていいし、精神的にもいいこと言ってるんだけど、人が水の上を歩いただの、死んだ人が生き返ったとか、イエス様が再び来られるだの、そんなのはいただけないな。この時代に」という人もいます。けれども、そうではありせん。聖書には、私たちのいいなと思うところもあれば、どうかなぁと思うところもありますが、しかし私たちがどのように思おうが、キリストが再びおいでになられる時にはせき止められた堤防が決壊するような勢いでおいでになられるのです。

今は、「そんなのあるはずがない。あるなら、いつくるんだ」と全く信じられないようですが、それはちょうどノアの時代と同じです。ノアの時代もそのように言ってノアをバカにしていましたが、主はそのことばの通り洪水でこの地上を滅ぼされました。ただ箱舟に入ったノアとその家族だけが救われたのです。それと同じように、主のさばきの時、再び来られる日がやって来ます。それがまだ起こっていないのは、Ⅱペテロ3章にあるように、神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われるのを望んでおられるからなのです(Ⅱペテロ3:9)。しかし皆さん、その日は確実に近くなっています。ジワリジワリと水の量は増しています。やがてせきとめられた堤防が決壊するような形で、栄光の主がやって来られるのです。皆さんは、その時のための備えが出来ているでしょうか。イエス・キリストという救いの箱舟の中に入っておられるでしょうか。

最後に21節を見ておわります。 「これは、彼らと結ぶわたしの契約である」と主は仰せられる。「あなたの上にあるわたしの霊、わたしがあなたの口に置いたわたしのことばは、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、すえのすえの口からも、今よりとこしえに離れない」と主は仰せられる。」

これが神が私たちと結ぶ神の契約です。この契約のことばはいつまで経っても絶対に変更されることはありません。これが救いの道です。私たちが自分ではどうすることもできなかった、自分をがんじがらめに縛っていた罪の縄目から救われるために神が用意してくださった唯一の救いの方法なのです。救いはただ自分自身のために神に助けを呼び求める者に与えられます。自分の罪を正直に認め、神にあわれみを請う者に、とりなし手であられるイエス・キリストを通して与えられるものなのです。あなたはこの救いを受けておられるでしょうか。

最近、私はこの本を読みました。これはアメリカのNASAでも働いたこともある韓国の科学者キム・ヨンギルという人の証です。シントロピーというのはエントロピーの反対で、調和とか、秩序という意味です。彼の人生がどのようにエントロピー、すなわち無秩序と崩壊、混乱の人生から、シントロピー、調和と秩序ある人生に回復されたかということが証されています。結論から言うと、それはイエス・キリストを信じることによってです。この天地を造られたお方こそ、この世界と私たちの人生にシントロピーをもたらすことができるということです。それにしても彼は一流の科学者です。その彼がどうやってイエス様を信じることができたのでしょうか。この本によると、彼は神様についてもっと知りたいというチャレンジを受け、ヨハネの福音書から読み始めるのですが、早くも2章のところで躓きます。カナの婚礼で、イエス様が水をぶどう酒に変えたという奇跡です。水を運んでいる間に化学方程式がH2OからC2H5OHに一瞬にして変わるのです。科学を信奉していた彼にとって、到底受け入れることのできない出来事でした。元素を変化させる核融合反応は常温では起こりえないからです。奥さんは小さい頃からクリスチャンの家庭で育てられた敬虔なクリスチャンですが、その奥さんに、こんなナンセンスなことがあるのかと質問すると、奥さんの答えはいつも簡単です。「そうやって問い正さないで聖書の言葉をただ信じるのよ。そんな疑って問い詰めてばかりいたら神様も気分を害されるでしょ。だから、ただ信じなさい。」ですから、疑問はたくさんありましたが、その疑問を脇に置いておいて、最後まで読んでみようと決心し、読み続けると、今度は6章です。ガリラヤのテベリヤ湖の向こう岸の山に登られたイエス様は、ついてきた群衆が牧者のいない羊のようなのをみてあわれまれた。夕暮れ時だったので、イエス様は弟子たちに、彼らに夕食を食べさせるようにと命じられました。そんなの無理です。こんなへんぴな所で、店もないし、あったとしても、これだけの人たちにどうやって食べさせろと言うんですか、と言うと、そこに少年が差し出した大麦のパン五つと小さい魚二匹をとり、感謝をささげて五千人あまりの人々に分け与えられました。彼らが十分に食べた後も多くのパンと魚が残ったと、聖書は記しています。これは科学者にとって、水がぶどう酒に変わることよりももっと信じがたい出来事でした。なぜなら、エネルギーの総量が変化してしまい、科学の基本法則であるエネルギー保存の法則、つまり、熱力学第一の法則に反するからです。  それで彼は信じられなくなってしまうのです。そして、妻に、約束とおり教会には行くけど、聖書は到底信じられない、と言いました。 しかし、NASAの同僚のクリスチャンたちが彼のために断食をして祈ってくれたそうです。自分のために食事もしない人がいるなんて、こんな迷惑なことはないと思いながら、もう一度創世記から読み始めたのです。そして、そこに記されてあるイエス・キリストについての預言を確かめたのです。それは数百回以上記されてありました。これには驚きました。というのは、科学の世界では常に人間の知識と理性を土台に組み立てられているので、たった1秒後に何が起こるかを確信して、預言することすらできないからです。なのに聖書は、旧約時代の約千年にわたって記された預言が新約の時代にことごとく成就しているのです。それは、聖書の御言葉が人間の知識や知恵ではなく、神に啓示によって記されたことを証明していました。そうした聖書の黙想と科学的な知識の探求から、創造主は実在し、人の人生を治めておられるという結論に到達しました。そして、ハル・リンゼイという人が書いた「惑星地球の解放」という本を読んだとき、彼がこれまで抱いていた様々な疑問が解決して、これまで断片的に蓄えてきた聖書の知識が一気につながり始めました。まるであちこちに散らばっていたジクソーパズルのピースがあるべき位置に納まり、一つの絵が完成したかのようでした。

「神は、実に、そのひとり湖をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

この御言葉の中に、神が私たちを救われた理由、代価、方法、そして結果のすべてが記されていることがわかりました。神が私たちを救われたのは、神の愛のゆえなのだということが・・・。私たちを救うために、神はひとの子であられるイエス様のいのちを私たちの人間の罪の負債の代価として支払われました。このことを信じるなら、私たちは永遠の滅びから救われ、永遠のいのちが与えられるということがわかったのです。これが福音であり、恵みなのです。彼は長い霊的漂流生活を終え、創造主であり、救い主であるイエス・キリストを救い主として受け入れたのです。

「この方以外に救いはありません。世界中でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名としては、人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)

このイエス・キリストだけが救い主であり、このイエスを救い主として受け入れるとき、あなたも罪から救われ、これまで崩壊と混乱でしかなかったあなたの人生に、秩序と調和の回復が、シントロピーがもたらされるのです。

あなたはイエスを信じていますか。信じて救われていますか。救いはただ主の御手の中にあります。このイエスを信じて、あなたも人生のシントロピーを体験してください。

レビ記20章

1.  モレクに自分の子どもを与えるなら(1-5)

レビ記20章を学びます。まず1~5節までをお読みします。

「ついではモーセに告げて仰せられた。「あなたはイスラエル人に言わなければならない。イスラエル人、またはイスラエルにいる在留異国人のうちで、自分の子どもをモレクに与える者は、だれでも必ず殺さなければならない。この国の人々は彼を石で打ち殺さなければならない。わたしはその者からわたしの顔をそむけ、彼をその民の間から断つ。彼がモレクに子どもを与え、そのためわたしの聖所を汚し、わたしの聖なる名を汚すからである。人がモレクにその子どもを与えるとき、もしこの国の人々が、ことさらに目をつぶり、彼を殺さなかったなら、わたし自身は、その人とその家族から顔をそむけ、彼と、彼にならモレクを慕って、淫行を行うみだらな者をすべて、その民の間から断つ。」

ここには、もしイスラエルがモレクに自分の子どもを与えるようなことをした場合どうなるかが教えられています。モレクとはアモン人とモアブ人の信じていた神々、偶像のことです。その特徴は自分の子どもをいけにえとしてささげるということでした。望まずに出来た子どもをどのように処理したらいいか。彼らはそれをモレクの偶像にささげたのです。それは当時の堕胎処理の方法であったわけです。そのように自分の子どもをモレクに与えるものはどうなるか?だれでも必ず殺されなければなりませんでした。石で打たれなければならなかったのです。それは異教的な習慣であり、神が忌み嫌われることだったからです。それは神の聖なる御名を汚すことでもありました。ですから、そのようなことをする者は、殺されなければならなかったのです。もし殺さなかったらどうなるでしょうか。神はその人その家族から顔をそむけ、彼にならいモレクを慕って淫行を行うみだらな者すべてを、その民の間から断たれました。

2.  霊媒や口寄せ(6-8)

次に6~8節をご覧ください。

「霊媒や口寄せのところにおもむき、彼らを慕って淫行を行う者があれば、わたしはその者から顔をそむけ、その者をその民の間から断つ。あなたがたが自分の身を聖別するなら、あなたがたは聖なる者となる。わたしがあなたがたの神、であるからだ。あなたがたは、わたしのおきてを守るなら、それを行うであろう。わたしはあなたがたを聖なる者とする。である。」

霊媒と口寄せについては19章で学びました。「霊媒」とは、あたかも死者の声を取り次ぐように話すこと、「口寄せ」とは、未来のことを知ろうとすることです。つまり、神とか、キリストを介することなく霊の世界と交わることです。おがみやとか、占いやオカルト、超能力といった類のものです。これらはみな悪霊によるものであり、汚れたものです。もしそのようなところにおもむき、彼らを慕って淫行を行うようなことがあるとしたら、神はその者から顔を背け、その者をその民の間から断たれます。そのようにして自分の身を聖別しなければなりませんでした。

3.  両親への反抗(9)

9節にはこうあります。「だれでも自分の父あるいは母をのろう者は、必ず殺されなければならない。彼は自分の父あるいは母をのろった。その血の責任は彼にある。」

つまり、両親への執拗な反抗は、死刑に値するということです。なぜなら、両親は神の代理者であったからです。自分の父と母を敬うことは、神の第一の戒めなのです(エペソ6:2)。

4.姦通(10-21)

次に、10~21節までをご覧ください。

「人がもし、他人の妻と姦通するなら、すなわちその隣人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならない。人がもし、父の妻と寝るなら、父をはずかしめたのである。ふたりは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。人がもし、息子の嫁と寝るなら、ふたりは必ず殺されなければならない。彼らは道ならぬことをした。その血の責任は彼らにある。男がもし、女と寝るように男と寝るなら、ふたりは忌みきらうべきことをしたのである。彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。人がもし、女をその母といっしょにめとるなら、それは破廉恥なことである。かれも彼女らも共に火で焼かれなければならない。あなたがたの間で破廉恥な行為があってはならないためである。人がもし動物と寝れば、その者は必ず殺されなければならない。あなたがたはその動物も殺さなければならない。女がもし、どんな動物にでも、近づいて、それとともに臥すなら、あなたはその女と動物を殺さなければならない。彼らは必ず殺さなければならない。その血の責任は彼らにある。人がもし、自分の姉妹、すなわち父の娘、あるいは母の娘をめとり、その姉妹の裸を見、また女が彼の裸を見るなら、これは恥ずべきことである。同族の目の前で彼らは断ち切られる。彼はその姉妹を犯した。その咎を負わなければならない。人がもし、月のさわりのある女と寝て、これを犯すなら、男は女の泉をあばき、女はその血の泉を現したのである。ふたりはその民の間から断たれる。母の姉妹や父の姉妹を犯してはならない。これは、自分の肉親を犯したのである。彼らは咎を負わなければならない。人がもし、自分のおばと寝るなら、おじをはずかしめることになる。彼らはその罪を負わなければならない。彼らは子を残さずに死ななければならない。人がもし、自分の兄弟の妻をめとるなら、それは忌まわしいことだ。彼はその兄弟をはずかしめた。彼らは子のない者となる。」

ここに記されてあることは、既に19章に出てきたことです。一言で言えば、性的な汚れです。10節には、「他人の妻と姦通するなら」どうなるか、11節には「父の妻と寝るなら」どうなるか、これは必ずしも自分の母親ということではなくその背後に一夫多妻制の背景があることは前に説明したとおりです。12節、息子の嫁と関係を持った場合、13節には、同性同士の関係について語られています。14節には女を母といっしょにめとることについて、15節と16節では動物と関係を持つこと、17節では姉妹の裸を見ることについて、18節では生理中の女性との性行為する場合、19節、20節では叔父、叔母と関係を持ったらどうなるか、そして、21節では自分の兄弟の妻をめとるようなことをしたらどうなるかについてです。そして、このようなことを行う者はすべて殺される、あるいは、イスラエルの共同体から断ち切られるとあります。問題は、こうした処罰が現代の私たちにも適用されるかということです。それはありません。

の福音書8章1~11節までを開いてください。ここには、姦淫の現場で捕らえられた女がイエス様のところに連れて来られたことが書かれてあります。律法では、このような女は石打にするようにと命じていました。そこで彼らは彼女をイエスのもとに連れて来て、イエスがどのように言うかをためそうとしたのです。もし石打にすべきであると言えば、何とあわれみのない者かと言われるでしょうし、かといって石打にする必要はないと言えば、律法に背くことを言ったと言って捕らえることができたからです。それでイエス様はどうされたかというと、しばらくの間身をかがめて、地面に何やら書いておられました。けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、身を起こしてこう言われたのです。

「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」

そう言うと、もう一度身をかがめて、地面に書かれたのです。そして、だれも彼女に石を投げる人がいないのを見ると、女に言いました。「あの人たちはどこにいますか。あなたを罪に定める者はいなかったのですか。」「わたしもあなたを罪に定めない。」

皆さん、イエス様は私たちを罪に定められません。なぜでしょうか。イエス様がその罪に対する刑罰を受けてくださったからです。この律法の要求は、イエス様が十字架に架かって死なれることによって実現したからです。律法の要求がどうでもいいということではないのです。律法は律法として、ちゃんと実行されなければなりません。そして、その律法によれば私たちは死刑なのです。しかし、キリストが代わりにその刑罰を受けてくださったので、私たちは受ける必要がなくなったのです。

ということは、私たちは何をしてもいいということなのでしょうか。そうではありません。その国、その国において定められた法律があります。神は不信者であってもそのような支配権を行使されることをお許しになられました。その法によってさばかれることはあるのです。

しかし、仮に法律に違反していないことであっても、神の恵みを侮り、あくまでも罪を犯し続けているようなことがあれば、神はご自身の民から断ち切られることがあるのです。(Ⅰコリント6:9-10,ガラテヤ5:19-21,エペソ5:3-6)ですから、もし私たちがこのような神のみこころにかなわず、神の定めに反するようなことをしているとしたら、その罪を悔い改めて、救い主イエス・キリストを信じなければなりません。そうすれば、私たちのすべての罪は赦されるのです。イエス様が代わりに受けてくださったからです。また、イエス様を信じて罪を犯すようなことがあれば、というか、私たちは罪を犯さずには生きていけないような罪深い者ですから、その罪をいつも悔い改めなければなりません。あの律法学者やパリサイ人たちのように、イエス様から、「あなたがたの中で罪のない者から石を投げなさい」と言われたときに、石を置いて、一人また一人立ち去って行ったように、自分の罪深い心を見て、悔い改めなければならないのです。

5.えり分けられた民(22-27)

最後に22節から27節までを見て終わりたいと思います。

「あなたがたが、わたしのすべてのおきてと、すべての定めとを守り、これを行うなら、わたしがあなたがたを住まわせようと導き入れるその地は、あなたがたを吐き出さない。あなたがたは、わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている国民の風習に従って歩んではならない。彼らはこれらすべてのことを行ったので、わたしは彼らをはなはだしくきらった。それゆえ、あなたがたに言った。『あなたがたは彼らの土地を所有するようになる。わたしが乳と蜜の流れる地を、あなたがたに与えて、所有させよう。わたしは、あなたがたを国々の民からえり分けたあなたがたの神、である。あなたがたは、きよい動物と汚れた動物、また、汚れた鳥ときよい鳥を区別するようになる。わたしがあなたがたのために汚れているとして区別した動物や鳥や地をはうすべてのものによって、あなたがた自身を忌むべきものとしてはならない。あなたがたはわたしにとって聖なるものとなる。であるわたしは聖であり、あなたがたをわたしのものにしようと、国々の民からえり分けたからである。』男か女で、霊媒や口寄せがいるなら、その者は必ず殺されなければならない。彼らは石で打ち殺されなければならない。彼らの血の責任は彼らにある。」

この時イスラエルはまだシナイ山にいたのでまだカナンの土地に定住していませんでしたが、これから入って行こうとしていたカナンの土地の風習に従って歩んではならないと命じられます。それはなぜでしょうか。それは、彼らがえり分けられた民だからです(24,26)。神は彼らを国々の民からえり分けられました。ですから、彼らはその土地の風習やならわしをまねるのではなく、彼らを贖ってくださった神である主の戒めを守り行わなければならなかったのです。

その最初は食物の規定でした(25)。きよい動物と汚れた動物を区別しなければなりませんでした。それはいったい何のためだったのかというと、イスラエルが他の民族と区別されていることを示すためでした。26節にあるように、それは彼らが聖なるものとなるためでした。彼らはもはや自分自身のものではなく、神のものとなりました。代価を払って買い取られました。ですから、神のものとなるために、自らを聖別しなければならなかったのです。

それは私たちクリスチャンも同じです。Iコリント6:19-20には、「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まわれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価をもって買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」とあります。私たちは神のものとして、まず区別することが求められているのです。神の栄光のために、神が望んでおられることを行い、神のものとして生きることが求められているのです。

イザヤ58:1-14 レジュメ

「神に喜ばれる信仰」                No.92

イザヤ書58:1~14

Ⅰ.見せかけの信仰(1-5) 

 主はイザヤに、「せいいっぱい大声で叫べ。角笛のように、声をあげよ。」(1)と言われた。なぜだろうか。イスラエルにそむきの罪があったからである。その罪を彼らに告げなければならなかった。イスラエルは日ごとに神を求め、神の道を知ることを望んでいたのに、実際には神から遠く離れていた。確かに彼らは断食という宗教的な行為には熱心だったが、中身が伴っていなかった。断食の日に自分の好むことをし、労働者をみな、圧迫していた。彼らが断食するのは、争いとけんかをするためであり、不法にこぶしを打ち付けるためであった。そのような断食は神に認められるものではない。それはただの見せかけの、偽善的なものでしかない。どんなに熱心に断食しても、それが本来の目的にかなったものでなければ虚しく、すべてが空回りする。

Ⅱ.本物の信仰とは(6-7)

では、神が好まれる断食とはどのようなものなのだろうか。「わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くちびるのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。」(6-7)すなわち、困難の中にいる人、抑圧された人たちに助けの手を差し伸べ、貧しさにあえぐ人には必要なものを与えることである。なぜなら、分け与えることこそ神の本性であり、その愛によって私たちも救われたからである。神の愛によって救われた私たちは、この愛を分け与える者でなければならない。

Ⅲ.そのとき(8-14)

そのとき、どのような祝福がもたらされるのだろうか。8節には、そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。」とある。「すみやかにいやされる」とは、「すみやかに回復する」とも訳される。偽善によって腐り果てたたましいが、みことばを聞き、それに従うことによって、すぐに新しい回復が始まる。それは暁の光のようだ。たとえあなたの心が暗やみのように暗くても、真昼のように明るく輝いたものとなる。

そればかりではない。「あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。」とある。昼は雲の柱、夜は火の柱のように、主があなたの前を進み、あなたの道を導いてくださるだけでなく、あなたのしんがりとなって守ってくださる。

また、「そのとき、あなたが叫ぶと、主は答え、あなたが叫ぶと、「わたしはここにいる」と仰せられる。」(9)「神様!」と呼ぶと、即答してくださるというのだ。今まではそうではなかった。いくら呼んでも答えてくださらなかった。なぜなら、彼らの祈りは形式的なもので、自己満足の祈りにすぎなかったからである。しかし、今は違う。あなたが叫ぶと、主はすぐに答えてくださる。

また、11節には、「主は絶えず、あなたを導いて、焼け付く土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水の枯れない源のようになる。」とある。どんな状況でも、泉のように内側からいのちの水が流れ出るようになる。まさに「楽園」のようになるのだ。

何という祝福であろう。神のみこころに従って神が望む断食をするなら、神が私たちをこのように祝福してくださる。そんな幸いな人生を歩ませていただきたい。それはあなたが好むような断食ではなく、神が好む断食を求め、あなたの心が神と一つになって歩むことによってもたらされるのである。

Isaiah58:1-14 “Faith that pleases God”

Today I’d like to talk from Isaiah 58 about the faith that pleases God. Verse 3 says, “’Why have we fasted,’ they say,

‘and you have not seen it?

Why have we humbled ourselves,

And you have not noticed?’”

Israel was enthusiastic religiously. However, God was not pleased with their enthusiasm.  They could be said to be in the condition of fruitless spiritual activity, of being in a rat race. We too must be careful to not fall to the same mistake. Today I would like to talk about 3 aspects of a faith that pleases God.

 

  1. A made to look like faith (Vs.1-5)

First please look at verses 1 to 5. Here vain fasting is written about. I’ll read verses 1 and 2.  “Shout it aloud, do not hold back,

Raise your voice like a trumpet.

Declare to my people their rebellion

and to the descendants of Jacob their sins.

For day after day they seek me out;

they seem eager to know my ways,

as if they were a nation that does what is right

and has not forsaken the commands of its God.

They ask me for just decisions

and seem eager for God to come near them.

This was spoken by God to Israel. God says to “Shout it aloud…raise your voice like a trumpet” (1) and declare to Israel. That’s because God’s people, “the descendant of Jacob”, (1) Israel has sinned. This must be declared to them. “Day after day they seek” (2) God and they “seem eager to know”(2) God. However, in reality they were far from God.

Their problem is explained in verses 3 to 5. It says, “’Why have we fasted,’ they say, ‘and you have not seen it? Why have we humbled ourselves, and you have not noticed?’ Yet on the day of your fasting, you do as you please and exploit all your workers. Your fasting ends in quarreling and strife, and in striking each other with wicked fists. You cannot fast as you do today and expect your voice to be heard on high. Is this the kind of fast I have chosen, only a day for people to humble themselves? Is it only for bowing one’s head like a reed and for lying in sackcloth and ashes?  Is that what you call a fast, a day acceptable to the LORD?”

Certainly they were enthusiastic in the practice of fasting. However, their heart didn’t concretely accompany it. It seemed like they were seeking God’s righteousness, but in reality it was different.  In reality they sought to do as they pleased.  Here it says, “on the day of your fasting”. (3) This was the Day of Atonement. It is written in Lev. 16, but in Israel once a year the high priest was to slaughter a cow and goat as a sacrifice for sin. Its blood was sprinkled inside the tent, in other words on the mercy seat that was in holy of holies and all of Israel’s sin was atoned for. It was ordained that they must fast on that day. However, they didn’t fast just once a year. They fasted over and over again. For example, Zechariah 8:19 says, “This is what the LORD Almighty says: ‘The fasts of the fourth, fifth, seventh and tenth months will become joyful and glad occasions and happy festivals for Judah.  Therefore love truth and peace.“ They fasted on “the fourth, fifth, seventh and tenth months” (Zechariah 8:19) too. This was to repent to God. They fasted as a sign of repentance and sadness of sin that they had become captive to Babylon because they had committed sin.

That’s not all. Such religious enthusiasm gradually escalated and they began to fast twice a week, on Monday and Thursday. The scholars of the law and the Pharisees were like this. In the prayer of the tax collector and the Pharisee that appears in Luke 18:12, the Pharisee prays, “I fast twice a week…” is from this background.

However, no matter how much you humble yourself and fast, if it doesn’t fulfill its original purpose then it is completely meaningless. “On the day of fasting, (3) they did as they pleased and exploited all their workers. Their fasting ended “in quarreling and strife, and in striking each other with wicked fists.” (4) Even though they were enthusiastic religiously, in their concrete life the fruit of it couldn’t be seen. No matter how much you fast like this there is no possibility that God will be pleased.  The original purpose of fasting was to devote yourself to God and to become humble before God. If there isn’t that then even if you fast it will end in just being a fruitless activity. Also such a faith without realizing it becomes a hypocritical one.  Hypocrisy means acting, dramatizing, or pretending. It is made to look like faith, but religiously there is no substance to it.

Let’s open your Bibles to Luke chapter 14. In verse 3 Jesus asks the scholars of the law and the Pharisees, “Is it lawful to heal on the Sabbath or not?” That was because there was a person there that suffered from dropsy. Dropsy is a sickness where the body accumulates too much water and becomes bloated.  At that time it was thought that like leprosy dropsy was a sickness of a curse from God. Also the Jewish teachers, the Rabbi, that it was the result of fornication.

One Sabbath when Jesus entered a Pharisee leader’s house to eat a meal.  However the scholars of the law brought a person suffering from dropsy there. That was to trap Jesus. If Jesus healed the man on the Sabbath then they would accuse him of sinning by breaking the law.

However, Jesus knew what was in in their heart and questioned them, “Is it lawful to heal on the Sabbath or not?”  They were silent.  They couldn’t answer. If they said that it is o.k. to heal on the Sabbath it would be breaking the principles of the Sabbath.  However, if they answered that you mustn’t heal then it would mean that it was o.k. to ignore your neighbor’s suffering.  Either answer would not be good.  Therefore, they were silent. Then Jesus held the man suffering from dropsy, healed him, and sent him home. Then he said, “If one of you a child or an ox that falls into a well on the Sabbath day, you not immediately pull it out?” Luke 14:5

They couldn’t answer. That was because they didn’t understand the most important thing about the law. That is to love God and to love people. “All the Law and the Prophets hang on these two commandments.” (Matt. 22:40) Even so they didn’t understand this. Therefore if this is not understood, no matter how formally the law is followed, it is not what God desires and is just a religious right that is being performed.

This is what we too must be careful about. There are cases where you think that you do religious duties like going to the worship service, giving offerings, reading your Bibles occasionally at home and praying so that you are ok. while at the same time “you do as you please” (3) quarreling and having strife. There are cases where even if you conduct yourself piously at the worship, when you leave the church and the moment you get in the car, you fight with your wife or have hatred for your relatives, or you walk among people and without reserve slander others, and gossip about others. There are cases when we get stuck on something and are angry all day.  That is made to look like faith, but it isn’t.

The Lord Jesus’ brother Jacob said this, “What good is it, my brothers and sisters, if someone claims to have faith but has no deeds?  Can such faith save them? Suppose a brother or a sister is without clothes and daily food.  If one of you says to the, ‘Go in peace; keep warm and well fed,’ but does nothing about their physical needs, what good is it?  In the same way, faith by itself, if it is not accompanied by action, is dead.”(James 2:14-17)

“Faith by itself, if it is not accompanied by action, is dead.” (James 2:17)      It doesn’t mean that if you don’t have deeds then you are not saved.  Real faith is accompanied by deeds. If there are no deeds, then it is just a faith that is made to look like faith, but it really isn’t a faith.

  1. What real faith is like (Vs. 6,7)

Then what kind of fasting pleases God is written about in verses 6 and 7. “Is this not the kind of fasting I have chosen: to loose the chains of injustice and untie the cords of the yoke, to set the oppressed free and break every yoke?  Is it not to share your food with the hungry and to provide the poor wanderer with shelter- when you see the naked to clothe them, and not to turn away from you own flesh and blood.”

Here it teaches us what kind of fast pleases God. In other words, it is “to loose the chains of injustice and untie the cords of the yoke, to set the oppressed free and break every yoke”. (6) Also it is “to share your food with the hungry.” (7)  It is to welcome to your house the poor who have no house and provide him with a warm bed. It is to clothe the naked. It is also to take care of your poor relatives. In other words, it is to give a hand to those who are on the brink of difficulties and to those who are oppressed, and to give what is needed to those who are suffering from poverty.

This is in agreement with the letter of James that we read previously. Read faith is accompanied by substance. To be accompanied by substance means that if there are people suffering around you, to “untie the cords”. (6)  If there are people that are actually asking for help, to give responding to their needs. James said this. “If anyone considers himself religious and yet does not keep a tight rein on his tongue, he deceives himself and his religion is worthless.  Religion that God our Father accepts as pure and faultless is this: to look after orphans and widows in their distress and to keep oneself from being polluted by the world.” (James 1:26, 27)

“Religion that God our Father accepts as pure and faultless is this: to look after orphans and widows in their distress and to keep oneself from being polluted by the world.” (James 1:27) This doesn’t mean to be unconcerned about your brothers and sisters and neighbors, or to put up a front of being loving. Even if a person is religious and enthusiastically follows things of the law, if he is uninterested in the needs of the people around him or is uninterested in the needs of brothers and sisters in the church, that is not real faith. Real faith is to share concretely. That is because to share is concretely shown in God’s love.

“For God so loved the world that he gave his one and only Son, that whoever believes in him shall not perish but have eternal life.” (John 3:16)

God gave Jesus to this world because he “loved the world”. (John 3:16) That was so “that whoever believes in him shall not perish but have eternal life.” (John 3:16) “God is love.  This is how God showed his love among us; He sent his one and only Son into the world.” (I John 4:8, 9) There is a saying that “love freely takes”.  However in reality love is the opposite. It freely gives. We who were saved by love must become people that share.

During Golden Week any place you go is crowded so we didn’t go anywhere, but watched a DVD. The DVD was Schindler’s List. It is a true story of during World War II in the midst of the Jews being massacred by the German Nazis a German industrialist, Oskar Schindler saved over 1,100 Jews.

In August of 1939 Poland was captured by the German army. The stage of the movie is the Kraków Ghetto where the Germans move Polish Jews into as World War II begins. Oskar Schindler, an ethnic German, arrives in the city hoping to make use the war as a way to make his fortune. He acquired an enamelware factory and began business. In the course of time, a cruel lieutenant is sent to oversee the Krakow Ghetto and he began to murder Jew after Jew. Schindler who up until then had only been interested in making money witnesses the massacre and is profoundly affected. As time passes, Schindler’s focus shifts from making money to trying to save as many lives as possible. He bribes the lieutenant into allowing him to build a sub-camp for his workers so that he can better protect them.

As the Germans begin to lose the war, the lieutenant is ordered to ship the remaining Jews to Auschwitz concentration camp. Schindler asks the Lieutenant to allow him to move his workers to a new ammunitions factory he plans to build in his home town of Zwuttau-Brinnlitz. The Lieutenant agrees, but charges a huge bribe for each person that Schindler takes to his new factory. Schindler creates a list of people to be transferred from to Brinnlitz and thus saved from transport to Auschwitz. The list of “skilled workers” included children who were also hired. The list of Jews was “Schindler’s List”. It was called a list of life and there were more than 1,100 people on the list.  Schindler used all the money he had to buy as many Jew as he could and save them.

In the course of time when the war ended and the Jews were set free, he apologized to the Jews saying that if he had had more money he would have saved more Jews.

The Jews who were saved by him were very thankful for him desperately saving them. For his work during the war, in 1963 Schindler was named Righteous Among the Nations, an award bestowed by the State of Israel on non-Jews who took an active role to rescue Jews during the Holocaust.

This is love. Love gives oneself freely. Love does not take away, it gives. “For God so loved the world that he gave his one and only Son.” (John 3:16) To give our most important things is love. That is the fasting that pleases God.     It is not a made up faith, but a real faith.

How about you? Are you giving joyfully to your neighbor?  That is not something that can be done easily. We are really selfish and self centered and think only of ourselves. We think that its o.k. as long as we are getting the good end of it.  However, let’s remember that the fasting that God is pleased with is to joyfully share with our neighbors. In order to walk like this let’s seek the Lord who is the source of love.

 

  1. Then  (Vs. 8-14)

When we live as such a man of faith, what will happen? Lastly let’s look at the blessings God give to such people of faith.  Let’s look at verse 8 to the end of the chapter. Here the word “Then” appears 3 times in verses 8, 9, and 14. First of all let’s read together verse 8. “Then your light will break forth like the dawn,

and your healing will quickly appear;

then your righteousness will go before you,

and the glory of the LORD will be your rear guard.”

““Then your light will break forth like the dawn, and your healing will quickly appear.” (8) “Your healing will quickly appear” (8) means you will be restored quickly. Their spirits which rotted and died by hypocrisy when they listen and follow the Word of God will begin to be restored

Here it says, “your light will break forth”. (8) This is a strange expression.  Israel is not a light.  Their faith is rotten. Therefore, they don’t have any light at all.  Even so it says, “your light”. (8) This is not a light that they have, but it is the light they have received from God whom they believe in. This light is a light that shines in the darkness, and there is new power and recovery there. Jesus said, “I am the light of the world. Whoever follows me will never walk in darkness, but will have the light of life.” (John 8:12)

Also Job 11:17 says, “Life will be brighter than noonday,

And darkness will become like morning.”

Even if your heart is dark like darkness, it will become “brighter than noonday.” (Job 11:17) That light has that much power. By that light “your healing will quickly appear.” (8) How blessed it is to walk by that light!

That’s not all. The words that comes after it says, “then your righteousness will go before you, and the glory of the LORD will be your rear guard.” (8) This too is not the righteousness that you made, but the righteousness that you received and believed in.  That “righteousness will go before you, and the glory of the LORD will be your rear guard.” (8) In other words, just like Israel who was led in the desert after the Exodus by the cloud during the day and the fire at night, the Lord will take care of us in the wilderness of life and lead us to the kingdom of heaven.

Please look at verse 9. Here is the second “then”. “Then you will call, and the LORD will answer; you will cry for help, and he will say: Here am I.” (9) If you call, “God!”, God will answer immediately. God will answer, “Here am I”. (9) That is if you “untie the cords of the yoke “(6)  , stop gossiping, have concern for the poor, and satisfy the desires of those who are troubled.

Please look at verses 11 and 12.  Let’s read this together. “The LORD will guide you always; he will satisfy your needs in a sun scorched land and will strengthen your frame. You will be like a well-watered garden, like a spring whose waters never fail. Your people will rebuild the ancient ruins and will raise up the age-old foundations: you will be called Repairer of Broken Walls, Restorer of Streets with Dwellings.”

How wonderful! No matter what kind of soil you are, “the LORD will guide you always…You will be like a well-watered garden, like a spring whose waters never fail.” (11) Also some of the people will “rebuild the ancient ruins” (12) of the temple in God’s city, Jerusalem, that was destroyed by Babylon and they “will be called Repairer  of Broken Walls, Restorer of Streets with Dwellings.” (12) Those who receive the Lord’s blessings, the Lord’s guidance will not be called the destroyed, but the “Repairer”. (12)

Then verse 14 says, “Then you will find your joy in the LORD.”  In verse 13 it talks about the Sabbath again and this is the same thing. If you understand the meaning of the Sabbath, and give thankfulness and joy to the Lord for redeeming you, and worship the Lord from your hearts, then “you will find your joy in the LORD” (14) and enjoy plentiful food in the promised land.

Such blessings will be given. How about you? Do you desire the fasts that God desires? Are you seeking the faith that pleases God? On the outside it may seem like you are earnest faith, but it is possible that there is a gap of faith. Let’s seek to have a faith that pleases God.

Last week I went to the annual meeting of the Conservative Baptists.  There I attended a lecture by a Pastor that I am close to.  It was about a book that is now out of print, “The Emotionally Healthy Church” by Peter Scazzero. The pastor translated this book. As he translated this book he matured and was taught many things about the maturing of the church he was pastoring. That is in our hearts there are hurts that hamper our spiritual maturity. In many cases that is deeply connected that person’s upbringing. If the light of Gospel doesn’t shine on it, in other words, if we aren’t treated by the grace of the Gospel, no matter how much of the message of the Gospel we hear it just ends in knowledge. It doesn’t soak deep into the person’s heart. In other words, the faith is just on the surface. His faith doesn’t change. I Thess. 5:23 says, “May God himself, the God of peace, sanctify you through and through. May your whole spirit, soul and body be kept blameless at the coming of our Lord Jesus Christ.”  Sanctification doesn’t soak into spirit, soul, and body. To do it is necessary that the light of the gospel soaks deeply into the spirit, soul, and body.

In his talk he talked about a woman that is in the church that he is pastoring.  This woman has been a Christian for 40 years. It could be said that she was a grand Christian. She has always been single and worked as a nurse in a hospital. Of course she lives a disciplined Christian life. On the skin level she looks like a splendid Christian. However, she is cold. This Pastor went to college and seminary in America and so he spent a long time in America. She says things like, “Pastor you were in America for a long time so you don’t understand.”

This church has an early Morning Prayer meeting every Friday. One time this woman came to the prayer meeting.  The Pastor was thrilled and said,” Oh, I’m glad you came. Let’s pray together.” The woman replied, “No, I just came to observe to see what the prayer meeting is like.” She is always cold. The pastor was always distressed not knowing why she was like that.

However, after reading the book, he realized that she must have a wound in her heart.  That wound was hampering her from being meek and mild. The Pastor didn’t judge her, but listened from his heart to what she was saying. Then she said, “Pastor, you always talk about marriage and families, but I don’t understand it well.”  The Pastor realized that that she never married and had always been single so whenever she heard such talks, she couldn’t accept it.  However, by her opening up her heart to him about that and by the Pastor accepting how she felt she was changed.

In that church there was a young man from Mongol. He got hepatitis. She accepted him like her child and nursed him well. Of course, since she was a nurse that may seem natural, but what was different was it was not a superficial relationship. She payed for all his medical expenses.

She was changed this much because the grace of the Gospel wasn’t just a head knowledge, but soaked down deep into her spirit. The light of the Gospel had shown deep into her soul. As a result her faith was not superficial, but was really from her heart. She was really changed.

This is the kind of faith that pleases God. When we hear about the grace of the Gospel, we mustn’t listen to it as if it is for other people, but accept it into our hearts. If we actually put it into our life, God will definitely change you.  James said, “Do not merely listen to the word, and so deceive yourselves. Do what it says.” (James 1:22) How are you? Are you possibly just listening? Let’s obediently accept the Word of God hat has been given to us. Then we will become a person that pleases God. Let’s be a person that puts the Word of God into action. The Word of God can save your soul.

イザヤ書58章1~14節 「神に喜ばれる信仰」

きょうは、イザヤ書58章から「神に喜ばれる信仰」というタイトルでお話します。3節に、「なぜ、私たちが断食したのに、あなたはご覧にならなかったのですか。私たちが戒めたのに、どうしてそれを認めてくださらないのですか。」とあります。イスラエルは宗教的には熱心でしたが、その熱心は神に喜ばれるものではありませんでした。それは、いわば「霊的空回り状態」だったのです。私たちも注意しないと、同じような過ちに陥ってしまうことがあります。自分では熱心だと思っていてもその熱心が神のみこころからズレていると、イスラエルと同じように空回りしていることがあるのです。しかもそのことにさえも気付かないこともあります。  いったい神に喜ばれる信仰とはどのようなものなのでしょうか。きょうは、神に喜ばれる信仰について、3つのポイントお話したいと思います。

Ⅰ.見せかけの信仰(1-5)

まず第一に1~5節までをご覧ください。ここには、虚しい断食について記されてあります。1節と2節をお読みします。

「せいいっぱい大声で叫べ。角笛のように、声をあげよ。わたしの民に彼らのそむきの罪を告げ、ヤコブの家にその罪を告げよ。しかし、彼らは日ごとにわたしを求め、わたしの道を知ることを望んでいる。義を行い、神の定めを捨てたことのない国のように、彼らはわたしの正しいさばきをわたしに求め、神に近づくことを望んでいる。」    これは、主がイザヤに対して語っていることです。主はイザヤに、イスラエルに対してせいいっぱい大声で叫ぶように、また、角笛のように、声を上げるように、と言っています。なぜでしょうか?神の民であるイスラエルに、ヤコブの家であるイスラエルに、そむきの罪があったからです。それを彼らに告げなければなりませんでした。彼らは日ごとに神を求め、神を知ることを望んでいましたが、実際には、神から遠く離れていたのです。いったい何が問題だったのでしょうか。

3節から5節までところに、次のようにあります。 「なぜ、私たちが断食したのに、あなたはご覧にならなかったのですか。私たちが身を戒めたのに、どうしてそれを認めてくださらないのですか。」見よ。あなたがたは断食の日に自分の好むことをし、あなたがたの労働者をみな、圧迫する。見よ。あなたがたが断食をするのは、争いとけんかをするためであり、不法にこぶしを打ちつけるためだ。あなたがたは今、断食をしているが、あなたがたの声はいと高き所に届かない。わたしの好む断食、人が身を戒める日は、このようなものだろうか。葦のように頭を垂れ、荒布と灰を敷き広げることだけだろうか。これを、あなたがたは断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。」    確かに彼らは断食という行為そのものには熱心でしたが、そこに具体的な心が伴っていませんでした。神の義、神を求めているようでも、実際は自分の好むことを求めていたのです。たとえば3節後半に「断食の日」とありますが、これは「贖罪の日」と言って、イスラエルで年に一度行われていた罪が贖われる日のことです。レビ記16章に記されてありますが、この日には大祭司がいけにえの雄牛ややぎをほふり、その血を垂れ幕の内側、すなわち至聖所と呼ばれる所に携えて行き、罪の贖いをしました。その血を贖いのふたの上に、また回りに振りかけて自分自身とイスラエルのすべての民の罪を贖ったのです。そして、この日には断食することが定められていました(レビ16:29)。ところが彼らは年に一度どころじゃないのです。何回も、何回も断食しました。ゼカリヤ書8章19節には、「万軍の主はこう仰せられる。「第四の月の断食、第五の月の断食、第七の月の断食、第十の月の断食は、ユダの家にとっては、楽しみとなり、喜びとなり、うれしい礼祭となる。だから、真実と平和を愛せよ。」とあります。第四の月の断食、第五の月の断食、第七の月の断食、第十の月もです。なぜでしょうか?神のために悔い改めるためです。彼らは自分たちがバビロンの捕囚になったのは神に対して罪を犯したからだと、その罪を悲しみ、悔い改めるしるしとして断食をしたのです。

そればかりではありません。そうした宗教的な熱心さはどんどんエスカレートして、週に二度も断食するようになりました。月曜日と木曜日にです。律法学者やパリサイ人たちはそうでした。ルカの福音書18章12節に出てくる取税人とパリサイ人の祈りの中で、パリサイ人が「私は週に二度断食し・・・」と言っているのは、こうした背景があったからです。

しかし、どんなに身を戒めて断食しても、それが本来の目的にかなったものでなければ全く意味がありません。彼らは断食の日に自分の好むことをし、労働者を圧迫していました。彼らが断食するのは争いとけんかをするためであり、不法とこぶしを打ちつけるためでした。宗教的には熱心でも、具体的な生活においてその実を見ることができなかったのです。全く変化がありませんでした。救われていない人のように振る舞っていたのです。そのような断食をどんなにしても、主に喜ばれるはずがありません。断食の本来の目的は心砕かれて神の前にへりくだることなのですから・・。それがなかったらどんなに断食をしても、空回りに終わってしまいます。そればかりではない。そのような信仰は、いつしか偽善的なものに陥ってしまいます。「偽善」とは、演技とか、芝居、見せかけという意味です。そうした見せかけの信仰になってしまうのです。宗教的でも中身がない。

ここでルカの福音書14章を開いてみましょう。3節のところに、イエス様は律法の専門家やパリサイ人たちに「安息日に病気をいやすことは正しいことですか、それともよくないことですか」とあります。そこに水腫をわずらっている人がいたからです。水腫とは、体内に必要以上に水分が溜まってむくみを起こす病気のことですが、当時は神から呪われた病気だと考えられていました。  ところで、ある安息日にイエスが食事をしようとして、パイサイ派の指導者の家に入られた時、そこに律法の専門家たちがこの水腫をわずらっている人を連れて来たのです。イエスをわなに陥れるためです。もしイエス様が安息日にこの人をいやすようなことをしたら律法を破ったと訴えることができます。  けれども、イエス様はそんな彼らの心を見抜いて次のよう質問されました。「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それとも、よくないことですか」 彼らは黙っていました。答えることができなかったのです。もし安息日に病気を直しても良いと言えば安息日の規則を破ることになるし、直してはいけないと答えれば、隣人の苦しみを放っておいてもいいのかということになります。どっちに転んでもよくありません。だから黙っていたのです。するとイエスはその水腫をわずらっている人を抱き、いやして、帰されました。それからこう言われました。

「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。」(同14:5)

すると彼らは答えることができませんでした。なぜなら、彼らは律法の本意を理解していなかったからです。安息日に病気をいやすことが正しいことなのか、正しくないことなのかといった字面にとらわれて、それが意味しているところの本来の目的からズレていたのです。では安息日律法の目的は何だったのでしょうか。それは神を愛し、人を愛することです。律法全体はこの二つにかかっていると、イエスは教えられました(マタイ22:34~40)。いや、そんなのおかしい。イエスが間違っていると言われますか?イエス様は律法の完成であり、律法そのものが求めていた実体そのものです。それゆえイエス様は安息日の主とも言われていますが、そのイエス様がそう言うのですから、このイエスが言われることこそ正しいことであり、これが安息日の律法が定められた本来の目的だったのです。なのに彼らはそのことを理解していませんでした。自分たちは律法に忠実だとずっと思い込んでいた。しかしこのことを理解しないでどんなに律法を守っていたとしても、それは神の望むことではなく、彼らが作り出した宗教でしかありません。それは宗教という洋服を来た生まれながらの自分でしかないのです。そうした宗教はいつしか形骸化していき、単なる見せかけの偽善的なものに陥ってしまう危険性があるのです。

これは私たちも注意しなければならないことです。私はクリスチャンです。クリスチャンとしての務めをちゃんと義務を果たしています。ちゃんと礼拝に行っているし、献金もしている。家でもちゃんと聖書を読んで祈っています。だから自分はちゃんとしたクリスチャンだ!自分は大丈夫だ!といいながら、まだ自分の好むことをし、自分の思いのままに生きていることがあるのです。たとえば、礼拝に来ても別のことを考えていたり、礼拝ではいかにも敬虔そうに振る舞っていても、教会から一歩外に出た瞬間に夫婦ゲンカを始めてみたり、人の悪口を言って平気で歩き回ったり、他の人を批判したりとか、そういったことがあるのです。聖書を頭ではわかっていても心ではわからない。知識では理解していても霊的には理解していない。したがって、なかなか生活が変わらないのです。表面的にはクリスチャンだといっても中身が伴わないのです。もちろん、私たちは不完全な者であり、弱さを抱えている者ですから、神のみこころにかなった歩みなどできません。しかし、できなくてもそうしたいと心から願い求めるのが本当に救われた者、神の民の姿ではないでしょうか。なのにそうでないと、いつしかそれが見せかけの、偽善的な信仰に陥ってしまうのです。この律法学者やパリサイ人たちの問題はここにありました。

ヤコブ書2章14~17節をお開きください。ここには、「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは死んだものです。」(ヤコブ2:14-17) とあります。

信仰も、もし行いがなかったら、それだけでは、死んだものです。それは行いがなければ救われないということではありません。本当の信仰にはこうした行いが伴っているものであり、そのように願っているということです。それがないとしたら、それはただの見せかけの信仰になってしまいます。

Ⅱ.本物の信仰とは(6-7)

では、神の好む断食とはどのようなものなのでしょうか。6節と7節をご覧ください。

「わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これを着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。」

ここには、神の好む断食とは、どのようなものなのかが教えられています。すなわち、悪のきずなを解き、くびきの縄目をほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことです。また、飢えた人に自分の食べ物を分け与え、家のない貧しい人々を家に迎え入れて、その人に暖かい寝床を用意し、裸の人に服を着せ、貧しい親戚の世話をすることです。すなわち困難に瀕している人、抑圧された人たちに助けの手を差し伸べ、貧しさにあえぐ人には必要なものを与えることです。これが神が喜ばれる断食です。

これは、先程読んだヤコブの手紙と一致しています。本当の信仰とは中身が伴ったものです。どういうことですか、中身が伴っているというのは・・・。自分の回りに苦しんでいる人がいたらそのなわめをほどき、実際的な助けを求めている人がいたら、その必要に応えてあげることです。ヤコブはこう言っています。

「自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。」(ヤコブ1:26-27)

神の御前にきよく汚れのない宗教とは、孤児ややもめたちが困っているのを見たらその人たちの世話をし、この世から自分をきよく守ることです。兄弟姉妹や隣人に無関心であったり、表面的に愛そうとすることではありません。宗教的なお勤めとそれにまつわるさまざまなおきてを守ることには熱心でも、自分の回りの人々の必要、教会の兄弟姉妹に無関心であったとしたら、それは本当の信仰ではないということになります。本当の信仰とは具体的に分け与えることなのです。なぜなら、分け与えることこそ神の愛の具体的な現れだからです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

神がイエスをこの世の与えられたのは、この世を愛しておられたからです。それは、御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。神は愛です。その愛は、大切なひとり子をこの世にお与えになることによって表されました。「愛は惜しみなく奪う」ということばがありますが、本当の愛は逆です。惜しみなく与えるのです。その愛によって救われた私たちは、これを分け与える者でなければなりません。

ゴールデンウィークはどこに行っても混雑しているので、私はどこにも行かないで家でDVDを観ていました。「シンドーラーのリスト」というDVDです。これは第二次世界大戦時のナチス党政権下のドイツによるユダヤ人の虐殺の中、ドイツ人実業家オスカー・シンドラーが1,100人以上ものユダヤ人を救ったという実話です。  1939年9月、ドイツ軍によってポーランドが占領され、この映画の舞台となったクラクフもドイツ軍の占領下に置かれました。ナチス党のドイツ人実業家オスカー・シンドラーがこの町にやってくると、戦争を利用してひと儲けしようともくろみました。潰れた工場を買い取ってほうろう容器工場の経営を始めたのです。  やがてナチスから残虐な少尉がクラクフの強制収容所の所長として送られて来ると、彼は次々とユダヤ人を虐殺し始めました。それを見たシンドラーは、それまで金儲けにしか関心がありませんでしたが、心境に変化が生じてきました。そして、彼はあるリストを作りました。それはユダヤ人の子供や大学生を熟練の金属工と称して工場で働かせることです。  やがてソビエトの侵攻によって、クラクフ強制収容所の施設の解体を余儀なくされると、そこにいた20,000人以上のユダヤ人がアウシュビッツ収容所に移送されることになりました。そこでシンドラーは立ち上がり、故郷のチェコスロバキヤに工場を再開させ、そこに移送予定のユダヤ人を「労働力」として連れて行くことにしたのです。そのユダヤ人のリストがシンドラーのリストです。それは命のリストと呼ばれ、1,100人以上に上りました。しかし、そのために彼はユダヤ人を贖うために多額のお金を少尉に支払わなければなりませんでした。ユダヤ1人当たりいくらいくらという値段で。彼は自分の持てる財産のすべてを使って、懸命にユダヤ人を救ったのでした。  やがて戦争が終わりユダヤ人が解放された時、彼はユダヤ人にこう言うのです。「申し訳ない。自分にもっとお金があったら・・・。もっと救うことができたのに・・。」  救われたユダヤ人たちは彼が必死で自分たちを救ってくれたことを感謝し、やがてイスラエルの栄誉の賞を彼に授けました。杉原千畝氏とともに。

皆さん、これが愛です。愛は惜しみなく自分を与えることです。愛は惜しみなく奪うという言葉がありますが、本当の愛は違います。本当の愛は奪うのではなく与えるのです。神がそのひとり子をこの世にお与えになったほどに愛されたように、私たちの最も大切なものを与えること、それが愛です。これが神が好まれる断食であり、見せかけでない本物の信仰なのです。

皆さんはどうでしょうか。神の栄光のために、隣人のために、自らを喜んで与えておられるでしょうか。なかなかできることではありません。本当にわがままで、自己中心的な私たちは、自分のことしか考えないからです。自分さえよければいいという思いがあります。しかし、神の好まれる断食とは何か、それはこのように喜んで分け与えることであることを覚え、そのように歩めるように愛の源であられる主に求めていきたいと思います。

Ⅲ.そのとき(8-14)

さあ、最後にこのように中身伴った信仰者として生きるとき、どんなことが起こるのかを見て終わりたいと思います。8節から終わりまでを見てください。ここには「そのとき」ということばが3回出てきます。8節、9節、14節です。まず8節をご一緒に読みましょう。

「そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。」

そのとき、暁のようにあなたの光がさして、あなたの傷はすみやかにいやされます。「すみやかにいやされる」とは、「すみやかに回復される」という意味です。偽善によって腐り果てた魂が、みことばを聞きそれ従う時、すみやかな回復が始まります。

ところでここには「あなたの光がさしいで」とありますが、これは不思議な表現です。イスラエルには、私たちには光などありません。私たちの信仰は腐っているわけですから・・。いったいこれはどういうことなのでしょうか。これは彼らが持っている光ということではなく、彼らが信じ、神から受け取った光のことです。この光は暗闇を照らす光であり、そこには新しい力、回復があるのです。イエス様はこう言われました。

「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持ちのです。」(ヨハネ8:12)

またヨブ記11章17節には、「あなたの一生は真昼のように輝き、暗くても、それは朝のようになる。」とあります。たとえあなたの心が暗やみのように暗くても、真昼のように明るく輝いたものとなるのです。この光にはそれほどの力があるのです。その光によってあなたの傷はすみやかにいやされるのです。このような光によって歩めるということは何と幸いなことでしょうか。

それだけではありません。その後のところにはこうあります。「あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。」これはどういうことかというと、神がいつもあなたとともにいて、あなたの人生を導いてくださるということです。かつてイスラエルがエジプトを出た後で荒野に導かれました。どこに進んだらいいかわからないとき、昼は雲の柱が、夜は火の柱をもって彼らを導かれました。そのように神は人生の荒野を進む私たちの道を照らし、導いてくださるのです。  ここにも「あなたの義」とありますが、これもあなたが作り出す義のことではなく、あなたが信じて、受け取った義のことです。

9節をご覧ください。ここに第二の「そのとき」が出てきます。「そのとき、あなたが呼ぶと、主は答え、「わたしはここにいる」と仰せられる。」 あなたが「神様!」と呼ぶと、神様はすぐに答えてくださいます。いくら呼んでも答えてくださらないのではなく、主は答え、「わたしはここにいる」と言われるのです。 いったいなぜ主は答えてくださらないのでしょうか。あなたの中に罪があるからです。くびきをのぞこうとしない、人のうしろ指を指してみたり、つまらないおしゃべりに終始してしまう。そのような罪があるので答えてくださらないのです。もし私たちが飢えた人に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、主はすぐに答えてくださいます。

11節と12節をご覧ください。ここも一緒に読みたいと思います。 「主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。あなたのうちのある者は、昔の廃墟を建て直し、あなたは古代の礎を築き直し、「破れを繕う者、市街を住めるように回復する者」と呼ばれよう。」    すごいですね。あなたがどのような土地にいても、主は絶えず、あなたを導いて、潤された園のようにしてくださいます。水のかれない源のようにしてくださるのです。どんな状況でも、内側から泉のようにいのちの水が溢れ出るようになるのです。また、彼らのある者たちは、バビロンによって破壊された神の都エルサレムの神殿も建て直し、「破れを繕う者」、「市街をすめるように回復する者」と呼ばれるようになる、ということです。主の祝福、主の守りを受けた者は、破壊者ではなく、回復する者と呼ばれるようになるのです。

そして14節には、「そのとき、あなたは主をあなたの喜びとしよう」とあります。13節では再び安息日のことが語られていますが、これも同じ事です。この安息日の意味を理解して、自分たちを贖ってくださった主への感謝と喜びをささげ、心から主を礼拝するなら、主はあなたを喜びとし、ヤコブのゆずりの地で、あなたを養ってくださるというのです。

このような祝福がもたらされるのです。皆さんはどうでしょうか。神が望まれる断食、神が喜ばれる信仰を求めておられるでしょうか。表面的には信仰に熱心なようでも、実はその信仰がズレていることもあります。そうではなく、神に喜ばれる信仰を求めていきたいと思います。

先週、私は同盟の総会に行っておりましたが、そこで親しくさせていただいているある牧師のレクチャーを聞きました。それは今は絶版になっているそうですが、アメリカのピーター・スキャゼロという牧師が書いた「情緒的に健康な教会をめざして」という本についてでした。実は先生はこの本を翻訳されたわけですが、この本を翻訳する中でいろいろ考えさせられたというのです。私たちの中に信仰の成熟を妨げている心の傷があるということです。多くの場合、それはその人の生育歴と深く関わっているわけですが、そこに福音の光が当たらないと、つまり全人格的に福音の恵みによって取り扱いを受けないと、どんなに福音のメッセージをかたってもそれが単に知識だけのもので終わり、自分自身の中にみことばが深く入っていくことができないということです。つまり、信仰が表面的なものになってしまい、その人の生活が変わるところまではいかないのです。Ⅰテサロニケ5章23節には、「あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られるように。」とありますが、霊、たましい、からだといった全人格的なものにならないというのです。

その話の中で、先生が牧会しておられる教会のことを分かち合ってくださいました。その教会には病院の看護師として働いておられる型がいるのですが、この方は信仰をもって40年も経つな方で、忠実に信仰を守り、奉仕も熱心にされる方なのですが、どこか冷たいのです。たとえば、この牧師はアメリカでの生活が長いため日本の習慣がわからないことがあるんですが、そのようなことを見ると、「先生はアメリカでの生活が長いからわからないんですよね」と言われたり、あるいは、毎週金曜日に行われている早天祈祷会にいらっしゃったので、牧師うれしくて、「いや、よくいらっしゃいました。うれしいです。一緒に祈りましょう。」と言うと、「いや、ただどんな感じか観察に来ただけですから」と言われるのです。どこか人ごとなのです。神の懐の中になかなか飛び込んで来れない。いったいなぜだろうかとずっと悩んでいました。  ところが、このことについて学んでいたとき、気付かされました。もしかするとこの方の中に何か傷があって、それが邪魔をしてみことばが入っていけなくなっているのではないか・・・と。  それである時彼女を呼んでお話を聞いたのです。すると彼女はこんなことを言われました。 「先生。先生はよくお話の中で結婚とか家族の話をされますが、よくわからないんですよね。」  この方は結婚しないでずっと独身で来られたので、そのような話を聞く度にそれを受け入れることができなかったのです。しかし、彼女の方からそのように心を開いて打ち明けてくれたので、その気持ちをそっくりそのまま受け入れたとき、彼女が少しずつ変わり始めました。みことばを素直に受け入れることができるようになったのです。そして心から主に仕えることができるようになりました。  その教会にモンゴルから来ている若い青年がいるのですが、あるときこの青年がB型肝炎にかかりました。すると彼女は彼を我が子のように受け入れて、よく看病するようになりました。もちろん看護師としてずっと仕えてきたので当然といえば当然かもしれませんが、違うのはそれが表面的な関わりではなかったことです。彼の治療代を全部負担してまで看病してくれたのです。

いったいなぜ彼女はそこまで変わったのでしょうか。福音の恵みが単に頭だけでなく情緒的な面でも深く取り扱われたからです。その心の深いところに福音の光が照らされたからです。その結果、信仰が表面的なものではなく、本当に心からのものに変えられたのです。

それこそ神に喜ばれる信仰ではないでしょうか。私たちがこの福音の恵みを聞くときそれを人ごとのようにではなく自分のこととして、それを心で受け止める。それを自分の生活に実際に適用していくなら、神が必ずあなたを変えてくださいます。ヤコブは、「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(ヤコブ1:22)と言っていますが、皆さんどうでしょうか。ただ聞くだけの者になってはいなかったでしょうか。心に植え付けられたみことばを、すなおに受け入れましょう。そして、私たちが神に喜ばれる者になれるように、そのみことばを実行する者であれりたいと思います。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができるからです。

レビ記19章19~37節

きょうは、レビ記19章の後半部分から学びたいと思います。まず19節から25節までをご覧ください。

1.  神のおきて(19-25) 

「あなたがたは、わたしのおきてを守らなければならない。あなたの家畜を種類の異なった家畜と交わらせてはならない。あなたの畑に二種類の種を蒔いてはならない。また、二種類の糸で織った布地の衣服を身につけてはならない。男が女と寝て交わり、その女が別の男に決まっている女奴隷であって、まだ全然贖われておらず、自由を与えられていない場合は考慮する。女が自由の身でないので、彼らは殺されない。その男は、への罪過のためのいけにえとして、罪過のためのいけにえの雄羊を会見の天幕の入口の所に持って来る。祭司は、彼の犯した罪のために、その罪過のためのいけにえの雄羊によっての前で彼の贖いをする。彼はその犯した罪を赦される。あなたがたが、かの地に入って、どんな果樹でも植えるとき、その実はまだ割礼のないものとみなされなければならない。三年の間、それはあなたがたにとって割礼のないものとなる。食べてはならない。四年目にはその実はすべて聖となり、への賛美のささげ物となる。五年目には、あなたがたははその実を食べることができる。それはあなたがたの収穫を増すためである。わたしはあなたがたの神、である。」

19節には、「あなたの家畜を種類の異なった家畜と交わらせてはならない。あなたの畑に二種類の種を蒔いてはならない。また、二種類の糸で織った布地の衣服を身につけてはならない。」とあります。つまり、種類の異なったものを交わらせてはならないということです。創世記1章11節には、「神は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。」とあります。神はこの地上に植物を芽生えさせたとき、「種類にしたがって」、生じさせました(1:12,21,24,25)。この神の創造の秩序を乱してはならないということです。たとえば、ラバは雄のロバと雌のウマの交雑種の家畜ですが、そのように異なった種類の家畜を交わらせてはいけません。ただし、自然な結合の結果生まれた家畜はその限りではありません。(Ⅰ列王10:25)それらの家畜は利用されていたことがわかります。

また、この教えから考えると、行きすぎた遺伝子組み換え作業には問題あると言えます。というのは、遺伝子組換え作物(いでんしくみかえさくもつ)というのは、遺伝子組み換え技術を用いて作物の品種改良等を行うことによって、いわゆる種であるDNAまでも組み替えようという試みだからです。

また、18章22~23節に同性愛を禁じる戒めがありましたが、この点からも間違っていると言えます。それは、畑に二種類の種を蒔くことも同じです。二種類の種を蒔くとは、たとえば大豆とレンズ豆等を一つの畑に一緒に蒔くといったことですが、そうしたことが禁じられています。それは種を変えることになるからです。神は、その種類にしたがって、この地上に作物を生じさせました。その神の秩序を乱してはいけないのです。

それは二種類の糸で織った布地も同じです。いわゆる混紡が禁じられているのです。いったいどうしてでしょうか?ユダヤ人の学者によると、これは異教の祭司が偶像礼拝をする時に、このように二種類の糸で織った衣服を身にまとっていたからだと言います。たぶん、そういうことでしょう。つまり、こうした異教的なならわしや風習をまねてはいけないということが、その教えの根底にあるのです。

20節から22節をご覧ください。ここには、「男が女と寝て交わり、その女が別の男に決まっている女奴隷であって、まだ全然贖われておらず、自由を与えられていない場合は考慮する。女が自由の身でないので、彼らは殺されない。その男は、への罪過のためのいけにえとして、罪過のためのいけにえの雄羊を会見の天幕の入口の所に持って来る。祭司は、彼の犯した罪のために、その罪過のためのいけにえの雄羊によっての前で彼の贖いをする。彼はその犯した罪を赦される。」とあります。

どういうことでしょうか。ここでは、夫が決まっている女と寝て交わることは、神の秩序を乱すことになります。夫が決まっている女とは結婚が決まっている女、すなわち、婚約中にある女のことです。それは、「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」(創世記2:24)と定められた神の秩序に反することだからです。しかし、ここではただ単に別の女と寝て交わることが禁じられているのではなく、その女が別の男と結婚が決まっている女奴隷の場合はどうかということです。この「女奴隷」とは、他の男と婚約はしているが、まだ正式に結婚していない女奴隷のことです。その身がまだ完全に自由の身となっていないケースです。そのような場合は、考慮します。「考慮する」という言葉は直訳では「尋問する」ということで、それが彼女の意志によってしたのかどうかが調べられるわけです。それが彼女の意志によってなされた場合ならふたりとも石打による死刑(申22:23~)、そうでなければ、まだ女が自由の身でなかったので、仕方がないこととして、罰せられませんでした。しかし、男の方は違います。罪過のためのいけにえをささげ、祭司に罪を贖ってもらわなければなりませんでした。そのいけにえとは何でしょうか。雄羊です。つまり、最も高価な家畜をささげなければならなかったのです。なぜなら、主人の所有物を犯したからです。女奴隷は主人の所有物なので何をしてもかまわないと思われていた当時の社会にあって、このように女奴隷も神様にあって保護されていたことがわかります。

次に、23節から25節までをご覧ください。ここには、「あなたがたが、かの地に入って、どんな果樹でも植えるとき、その実はまだ割礼のないものとみなされなければならない。三年の間、それはあなたがたにとって割礼のないものとなる。食べてはならない。四年目にはその実はすべて聖となり、への賛美のささげ物となる。五年目には、あなたがたははその実を食べることができる。それはあなたがたの収穫を増すためである。わたしはあなたがたの神、である。」とあります。

ここには、作物の実である果実を、いつ食べることができるかということが記されてあります。3年間は食べることができません。なぜなら、その実はまだ割礼が施されていないからです。果実の実に割礼を施すとはどういうことでしょうか?「割礼」とは、男性の性器を覆っている包皮を切り取る儀式です。それはイスラエルにとって神の民としての契約でもありました。その割礼がないというのは、まだ切り取られていないということです。つまり、切り取らなければならないということです。それは具体的にはどういうことかというと、果実の実を摘み取るとか、花を摘み取ることです。そのようにしてこそ木はよく育ち、多くの実を結ぶことができるからです。

これは人間にも言えることです。実がなったからといってすぐに食べてはいけません。3年間は待たなければならないのです。その間、よく教え、よく学んで、霊的に十分成長してから取らなければならないのです。それは霊的な面ばかりでなく、私たちの生活のあらゆる面で言えることです。社会においても、会社においても、家庭においても、すぐに実を取ろうとすると、よく成長することができないのです。最初はちょっとそっとしておくような期間を設け、神様に十分養っていただいてから、それから奉仕をしていく。それが聖い生き方には欠かせないことなのです。

じゃ3年経ったから食べよう、ということにはいきません。何だ、ずっと我慢してきたのに、まだ食べられないのかと不満が出るかもしれませんが、これが神のおきてです。三年たったら、四年目はその実をかみにささげなければなりません。それは聖となるからです。私たちのすべては神のものであり、神に贖われた者として、常に神を敬い、神にささげていくことから始めなければならないのです。自分の最初の時間、最初の給料など、最初のものは聖いのです。それは神のものとして、神にささげていくこと。それが祝福の原則なのです。

いよいよ五年目になります。随分待ちました。まだ何かあるんですか?ありません。あなたは食べることができます。それは、あなたがたの収穫を増すためです。食べることによって収穫を増す?どういうことでしょうか?これは霊的にも同じです。私たちは神から与えられた賜物を使うことによって、収穫がますます増すのです。食べなければ、ささげなければ、増えていくことはありません。

2.  異教的行為の禁止(26-31)

次に26節から31節までのところをみていきましょう。

「あなたがたは血のついたままで何も食べてはならない。まじないをしてはならない。卜占をしてはならない。あなたがたの頭のびんの毛をそり落としてはならない。ひげの両端をそこなってはならない。あなたがたは死者のため、自分のからだを傷をつけてはならない。また自分の身を入墨をしてはならない。わたしはである。あなたの娘を汚して、みだらなことをさせてはならない。地がみだらになり、地が破廉恥な行為で満ちることのないために。あなたがたは、わたしの安息日を守り、わたしの聖所を恐れなければならない。わたしはである。あなたがたは霊媒や口寄せに心を移してはならない。彼らを求めて、彼らに汚されてはならない。わたしはあなたがたの神、である。」

血がついたままで何も食べてはならない、ということについては17章10節でも言われていたことです。なぜなら、いのちとして贖いをするのは血だからです。しかし、ここではそれがまじないや卜占といった異教の魔術的な行為との関係で禁じられています。異教の魔術的な行為に結びつけて、血と肉が混ぜて食べられることがあったからです。まじないは日本でもよく行われます。縁起をかついだり、おみくじをひいてみたり、一日の始まりや仕事の始まりを、そうしたものを基準にしたりすることは禁じられています。「卜占」とはあまり聞かないことばですが、占いのことです。日本でもいろいろな占いがありますね。テレビでは毎日のように「きょうの占い」と放映されています。星占い、手相とか、おみくじとか、本当にたくさんの占いがありますが、それらはすべて神を知らない異教的な風習であり、神の民がそのようなことをすることが禁じられています。

27節には、「あなたがたの頭のびんの毛をそり落としてはならない。ひげの両端をそこなってはならない。」とあります。へんな教えです。びんの毛、ひげは男性の特徴だからです。ですから、今でも正当派のユダヤ日とはこのおきてを守り、長いびんの毛になっている人が多いのです。あいさつをするときは、ひげを互いにつかみました(Ⅱサムエル20:9)。ひげをそったり、切ったりすることは恥ずかしいことであり、不名誉なことだと考えられていました(Ⅱサム10:4,イザヤ7:20)。こうした毛をそって神にささげるという異教的な習慣があったので、禁じられているのです。ですから、これも異教的な風習をまねてはいけないということであって、髪のスタイルやひげをそってはならないということではありません。

28節には、「あなたがたは死者のため、自分のからだを傷をつけてはならない。また自分の身を入墨をしてはならない。わたしはである。」とあります。

悲しみのしるしとして体に傷をつけるという風習があったようです。自分の息子、娘の死を前に悲しみをこらえきれない親の気持ちはわかります。それで命を絶つ人もいるくらいです。ですから、死者のために体を傷つけるという気持ちはわかりますが、そのようにしてはいけません。悲しみは悲しみとしてしっかりと受け止めつつ、死もいのちも支配しておられる全能の神にゆだねなければならないのです。

また、ここに自分の身に入れ墨をしてはならないとあります。なぜ人は入れ墨をするのでしょうか。それは古くはアルプスの氷河から発見された5300年前のアイスマンの体や、1993年に発掘された2500年前のアルタ王女のミイラにも見られます。それはあらゆる国のさまざまな人種に見られるしゆうかんです。入れ墨は容易には消えない特性を持っていることから、古代から現代に至まで身分・所属などを示す個体識別の手段として用いられてきました(ナチの親衛隊の血液型の入れ墨、アウシュビッツに収容された人々の腕に記された番号の入れ墨、漁師の身元判明のための入れ墨、戦国時代の雑兵の入れ墨、暴力団組織の構成員としての象徴としての入れ墨)。

アメリカでは1960年代に世界的に流行したヒッピーの文化に取り入れらね、それが最近ではファッションとして、アートとして取り入れられるようになっています。

しかし、こうした理由の他にも日常生活を助ける魔除けとしての入れ墨など、魔術や宗教的な意味でも行われていたのです。たとえば、たとえば、漁師たちは昔から伝承されていたさめから身を守る意味でドルフィンの入れ墨を入れたり、多くのアメリカの原住民たちは、自分の保護や防御のために動物たちの入れ墨を入れていました。その他、ヒーリングのお守りとして、それぞれの神々の入れ墨がなされるようになったのです。古くから異教的習慣として行われていたのです。

しかし、それがどんな理由であっても自分の身に入れ墨を入れたり、傷つけたりということは髪神のみこころではありません。なぜなら、それは神のものであって、神からいただいているからだをそのように傷つけることは、それを与えてくださった神を傷つけることになるからです。中には大切なのは心であって、心が正しければ外側は問題はない、と考える人もいますが、これが神のおきてであるということをわかっていながらすることはよくありません。しかし、既に入れ墨を入れているからといってそれでクリスチャンになりないということではありません。悔い改めて、神を信じるなら、そのような人であっても救われてクリスチャンになることができます。大切なのは、救われた人が神の民としてこれからどのように生きていくかということです。神に贖われた神の民として、私たちはこのような点においてもしっかりと区別していくことを求めていきたいものです。

次に29節をご覧ください。ここには、「あなたの娘を汚して、みだらなことをさせてはならない。地がみだらになり、地が破廉恥な行為で満ちることのないために。」とあります。娘を汚すとはどういうことでしょうか。当時は、自分の娘を神殿娼婦としてささげることがありました。たとえば、アシュタロテの神殿には多数の娼婦がいました(申23:17)。

30節には再び安息日を守ることが命じられています。異教的風習を排除する最良の方法は、まことの神を礼拝し、まことの神に仕えることです。神のみこころは何かを学び、その神に仕えることです。そうすれば、こうした異教的な風習からも解放されるでしょう。

31節には、「霊媒や口寄せに心を移してはならない」とあります。「霊媒」とはヘブル語で「オーブ」と言います。わきの下から出て来るような声で、あたかも死者の声を取り次ぐように話すことです。「口寄せ」とは、ヘブル語で「イッデオニー」です。未来のことを知ろうとする者のことです。つまり、こうした霊媒とか口寄せは、神が啓示されることではなく、神を介さずに、またキリストを介さずに、霊の世界と接触することです。そのようなことは汚れていることです。占いとか、オカルト、超能力といったものがそれです。そのようなことである程度、未来のことがわかるかもしれません。他人の真実についても見ることができます。しかし、そうしたことを見せているのは、教えているのは死者の霊でも、まして神の霊でもありません。それは悪霊によるのです。そのようなことを行っている人には聖さがありません。私たちはただキリストを通してのみ神に近づくことができるのであって、キリスト抜きにそうした世界に近づこうものなら、たちまちに滅ぼされてしまいます。キリストを通して語られた啓示の書、つまり聖書を通してこの世界を、また霊の世界を、未来のことを知ることが、私たちに許されているのであって、そうでないことは汚れているのです。

3.  老人や在留異国人への配慮(32-34)

次に32節から34節までをご覧ください。ここには老人と在留異国人に対してどうあるべきなのか、その配慮が記されてあります。

「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしはである。もしあなたがたの国に、あなたといっしょに在留異国人がいるなら、彼をしいたげてはならない。あなたがたといっしょの在留異国人は、あなたがたにとって、あなたがたの国で生まれたひとりのようにしなければならない。あなたは彼をあなた自身のように愛しなさい。あなたがたもかつてエジプトの地では在留異国人だったからである。わたしはあなたがたの神、である。」

最近、年老いた方々に対する不親切が、社会の中に広まっています。ご老人は力のない、役に立たない者のように扱われているのです。しかし、老人を敬い、神に接するかのように接しなければなりません。

また在留異国人をしいたげてはいけません。イスラエル人にとって、彼らもかつてはエジプトで在留異国人として過ごしていたので、その痛みや苦しみを知っていました。だからこそ、こうした在留異国人に対しては、特に親切でなければなりません。あなたの国で生まれたひとりのようにしなければなりません。

現在、在日外国人はどうでしょうか。彼らはまず選挙権がありません。基本的な人権が得られていないのです。もしこうした外国人に選挙権が与えられたら、国が転覆する恐れを抱く人もいるかもしれません。ですから、選挙権がどうのこうのということではなく、ではどうしたらこの国で生まれたひとりのように感じていただくことができるのかを、本気で考えなければなりません。外国人の犯罪が増えているので、こうした外国人への偏見や無関心も多く芽生えていますが、そうしたことがかえって在日外国人を苦しめていることでもあります。でも、私たちクリスチャンはそうであってはいけません。在日外国人に親切にし、彼らが喜んで生活できるように配慮しなければならないのです。それが神によって贖われ、神の民とさせていただいた者としての聖い歩みなのです。

4.  正しいはかり(35-36)

最後に、35節から37節までを見て終わりたいと思います。ここには、「あなたがたはさばきにおいても、ものさしにおいても、はかりにおいても、分量においても、不正をしてはならない。正しいてんびん、正しい重り石、正しいエパ、正しいヒンを使わなければならない。わたしは、あなたがたをエジプトの地から連れ出した。あなたがたの神、である。あなたがたは、わたしのすべてのおきてとすべての定めを守り、これらを行いなさい。わたしはである。」とあります。

「さばき」とははかりのことです。ますやものさし、はかり、分量において、不正をしてはならないということです。正しいてんびん、正しいおもり石、正しいはかり、ものさしを使わなければなりません。ごまかしはいけません。それが神によって贖われた者の、聖い歩みなのです。

Isaiah 57:15-21 “God’s self-introduction”

From Isaiah 57:15 on God’s self-introduction appears. In the Bible who God is is expressed in many ways, but there aren’t many places where God himself says what kind of a being he is.  However, here God himself clearly says what he is like.

  1. The One whose name is holy (Vs. 15,16)

The first point is that God is “high and exalted…lives forever” (15) and his “name is holy.” (15)  Please look at verse 15.

Verse 15

The first half of chapter 57 talked about what happened, the result, of Israel being separated and running to idols.  Here it shows how compared to idols what the real God is like. In other words the real God is  “high and exalted…lives forever” (15) and his “name is holy.” (15) That means that God is in a very high place and is completely far away from us. God is so far that even if we want to go near him we can’t. There is a saying “a being above the clouds” and truly God is a being above the clouds.  Here it says “whose name is holy. “ (15) This “holy” (15) means set apart. Of course God is completely without sin or filth, but more than this means that God is completely distinct from man. He surpasses and stands above man’s world. We are human so we say such things like “That person is really outstanding or remarkable”, but anyone as a long as they are the same human being has the possibility of making effort and obtaining the same level. However, in the case of comparing God and us humans, it’s a completely different dimension.  God is a completely different being from the creatures that he created. No matter what man does he can’t come near God.  That is the meaning here of the word “holy”. (15) Therefore, here “I live in a high and holy place” (15) means that we humans on this earth can’t be compared at all with God.

This word appears in Exodus 3:5. When Moses was taking care of sheep in Midian he came to God’s mountain, Mount Olive. There he saw a strange scene.  A bush was burning, but it wasn’t being burnt up. When he came close to see the great scene, God said this to Moses.

“Do not come any closer…Take off your sandals, for the place where you are standing is holy ground. “ (Exodus 3:5)     Moses was a shepherd so for the shepherd to take off his shoes from his feet meant in other words death. The shepherd’s shoes were like a sandal, but if he took them off he could not walk in the wilderness. There are rocks and wild thorns so even with shoes, to take care of the sheep in such a place was really a difficult thing. And without shoes he couldn’t go with the sheep so he wouldn’t be able to take care of the sheep.  If he couldn’t take care of the sheep, then the sheep couldn’t live. Therefore, for him to take off his shoes also meant death.  God said for him to take off those shoes.  That was because Moses came to a completely different sphere from where he had been until now. He had come before the Holy God.  That was for Moses death. The place where he was standing was holy ground.  Therefore, he had to take off his shoes. This was for Moses death. For a shepherd, life maybe equivalent to taking off his shoes. However, without such a sacrifice man can’t come near the Holy God. Here this shows that Moses was not a person that could go with footgear on, to continue the way he was, to the Holy God. He had to take off his shoes. That’s how holy God is.

Also in the age of King David there was this event.  When the symbol of God’s presence, the ark of the Covenant, was brought to the City of God, although they had to  according the ordained laws of holiness carry the ark on people’s shoulders like a mikoshi, (like a Shinto god is carried in a Japanese festival) some people loaded it on an oxcart and the ox pulled it to carry it to the city. However, the oxen stumbled. The oxcart tilted and the ark of covenant almost fell. Then Uzzah thought that it must not fall so he put out his hand to support the ark. Then God struck him and he died. Even though he did it out of perfect intentions, no matter what the intentions are, sinful man by his hand supported God’s ark so God’s wrath broke out. God’s holiness is this type of thing.  We can’t go near God, and can’t touch God. Without death we can’t go near God. This is the meaning of “holy”. (15)

However, this “high and exalted One…who lives…in a high and holy place” (15) is at the same time “with the one who is contrite and lowly in spirit, to revive the spirit of the lowly and to revive the heart of the contrite.” (15) This is really surprising! Here it says, “with the one who is contrite and lowly in spirit.” (15) The word here for “contrite” is the word for “dust” in Hebrew, and is expresses the condition of being made into dust.  That is the appearance of complete repentance. Also “lowly” (15) isn’t just being a servant, but expresses accepting the present misfortunes and agony and becoming “lowly”. In other words, it means to be slapped over and over again. God lives “in a high and holy place.” (15) No matter what man does he cannot come near God. However, God will live with the person whose heart is cut into shreds, whose assertion has been                                broken into the smallest fragment, and who is aware that he himself is the most wretched, and God will “revive the spirit” (15) of such a person, and “revive the heart” (15) of such a person.

Isaiah said this out of his own experience. When Isaiah was called to be a prophet is written about in chapter 6 .There he saw the vision of the Holy God on his throne. Then he heard the angels call to each other, “Holy, holy, holy is the LORD Almighty; the whole earth is full of his glory.” (6:3) Before God’s holiness he cried, ”Woe to me!…I am ruined!” (6:5) Before the Holy God he realized how filthy he was and what a shameful being he was. He understood that he was nothing more than dust. There is the phrase “as different as night and day”.  Isaiah realized that the difference between him and God was like night and day. He realized that he was a filthy person not living up to the will of God and if God noticed him, he would be nothing more than a perishing being. Just as it says, he was slapped and broken into dust.  It was the experience of his own being itself dying. That is the meaning of “contrite and…lowly” (15)

However, in the midst of this he looked to God.  He thought that he would be struck by God and that he was ruined, but at that time, the angels that had been singing up until then stopped singing, and from the burning fire of the altar for sacrifices brought a burning coal and touched Isaiah’s lips saying, “See this has touched your lips; your guilt is taken away and your sin atoned for.” (6:7) Isaiah thought that he was ruined, but not him, but God on his side touched him, and made him clean. Before God to really recognize your irresponsibility is a blessed thing, but like this when he was completely contrite, God forgave his sin, and lived with him, and revived his spirit.

What man does is immediately brag to other people, “I can do that. I can do this.” “I have that. I have this.” In such a person’s heart, God does not live. Those who say that they have come to church for so many years; that they know everything about the church; that they’ve studied the Bible so they don’t have to study anymore; that they have this gift and that gift, such people will not be used by the Lord. God uses people with a contrite and repentant heart. God will definitely not have contempt for people with a contrite and repentant heart. God will live “with the one who is contrite and lowly in spirit, to revive the spirit of the lowly and to revive the heart of the contrite.” (15)

Ever since the creation of the heavens and the earth, the most lowly, and there has never been anyone more lowly than him, was Jesus Christ. He was so lowly that the word humble can’t describe him enough. Christ Jesus “who, being in very nature God,” (Phil. 2:6) became man. He was unlimited, but he became limited. He had no sin, but he died on the cross. Therefore, there is no other way that we can become contrite except by believing in Jesus and becoming one with Jesus. No matter how much we try to be lowly, we can’t make real humbleness our own. However, if we become one with Jesus who gave up himself and was contrite to the point of being crucified on the cross, we can become like him. To be baptized is this. When we are baptized we go under the water it expresses that we are dying with Christ on the cross. Also when we come up out of the water it expresses that like Jesus rose from the dead we too are rising up to live a life with Christ. Now we are living in this world not for ourselves, but by the faith of

believing in God’s son who loves us and gave up himself for us. That is was this expresses. This is what a person who is contrite and lowly is like. The Lord is with such a person and revives his heart.

2.God who heals our sin  (Vs. 16-18)

The second point is that God heals our sin. Please look at verses 16 to 18. “I will not accuse them forever, nor will I always be angry, for then the spirit of man would grow faint before me-the breath of man that I have created.  I was enraged by his sinful greed; I punished him, and hid my face in anger, yet he kept on in his willful ways. I have seen his ways, but I will heal him; I will guide him and restore comfort to him.”

God does “not accuse…forever.” (16) God is not “always…angry” (16) forever. God temporarily “was enraged by his sinful greed…punished him, and hid” (17) his “face in anger”. (17)  Therefore, you’d think man would repent, but that was not so. “He kept on in his willful ways.” (17) Even so the Lord says the he will heal him, “guide him and restore comfort to him.”(18).

This is first specifically reveals the judgment of God by Babylon. Israel kept on in their selfish willful ways so God used the country of Babylon to destroy them. For 70 years they lived as captives. Even so God is not “always…angry” (16) forever.  God does not get angry and hide his face forever. God saw their ways, but he will heal them of their sins “and restore comfort to him.”(18).

What encouragement! It would not be strange for God to say, “Go your own selfish way!” and abandon them, but God not only didn’t do that, but intervened in                their wretched hopeless situation. Then God healed their hearts wounded by sin. He healed their hearts by taking upon himself, their sin. Let’s go back to chapter 53. Chapter 53:4-6 “Surely he took up our infirmities

and carried our sorrows,

yet we considered him stricken by God,

smitten by him, and afflicted.

But he was pierced for our transgressions,

he was crushed for our iniquities;

the punishment that brought us peace was upon him,

and by his wounds we are healed.

We all, like sheep, have gone astray,

each of us has turned to his own way;

and the LORD has laid on him

the iniquity of us all.

By our sins and iniquities being laid on the Lord’s servant, Jesus Christ, he heals of our infirmities that we have. Normally the punishment that we would have to receive for our sins so that we wouldn’t have to receive it Jesus took it upon himself in our stead.  We can see how amazing the grace is to become a child of God! We are really deep in sin, stupid and unable to live without sinning. The moment that we repent of sin and believe in the Savior Jesus Christ, we become a child of God and no matter what sin we commit after that, for all our life, that relationship will not change. All the sins that we commit from now on are forgiven. Jesus’ salvation is that huge. Therefore, this is a privilege.

“Yet to all who received him, to those who believed in his name, he gave the right to become children of God.” (John 1:12)

This is a privilege! This is a tremendous privilege! From the moment that you repent and believe in Jesus Christ, all your sins of the past, present, and future are forgiven. As a child of God, no matter what God will never leave you or abandon you. Until the end of the world, he is always with you.

In verse 16 it says, “I will not accuse them forever, nor will I always be angry.” This word, “accuse” (16) means “convict”. God won’t condemn our sins forever. Instead so that our spirit does not “grow faint” (16), he will encourage us.  Therefore, even if we go our willful ways, even if temporarily God is angry, he will not “always be angry”. (16) Even if Israel is captured by Assyria and Babylon, and punished by suffering, they will not be in that condition forever.  That is just like whipping a child. If a child does something bad, the parent will punish the child, but in the course of time will forgive and with both hands open wide hug the child, and so that the child will walk in the straight way will generously support him in every conceivable way.

In the same way God will not be angry with you forever. He “will not accuse” (16) you forever. If you repent and return to God, God will forgive you.

3.God who gives peace (Vs. 19-21)

The third point is that God gives us peace.  Please look at verse 19. “’creating praise on the lips of the mourners in Israel. Peace, peace, to those far and near,’ says the LORD. ‘And I will heal them.’”

“Praise on the lips” (19) are songs of thanksgiving and hymns. It is a prophecy that the people who as the result of their sins, because of God’s anger, are mourning, but  such people will be healed and will be singing songs of thankfulness and hymns. That’s not all. God will give peace “to those far and near.” (19) “Those near” (19) are the Jews in Jerusalem. “Those far”(19) are the dispersed Jews. Also it could be said that it is referring to us Christians who are God’s people by belief in Christ. God’s peace will be given “to those far” (19) and also to those near.  “Peace” (19) is “Shalom”. It is said to be the state where every aspect has no imperfections and the state is completely satisfying. God will bring peace, shalom “to those far and near.” (19)

Jesus said this. “Peace I leave with you; my peace I give to you.  I do not give to you as the world gives.  Do not let your hearts be troubled and do not be afraid.” (John 14:27)

Jesus gives peace. It is different than what the world gives. The living Bible translates the peace that the world gives as short-lived peace. Jesus doesn’t give a temporary peace that blooms today and tomorrow is withered, but a certain peace a certain peace that isn’t shaken at all in any situation.

An historian said, ”Up until now in all of history there has never been an age like now where people are so greatly attacked by fear and uncertainty.” In this insecure age what is desired the most is this kind of peace, isn’t it? God gives this type of peace to “him who is contrite and lowly in spirit” (15) in other words, to those who believe in Jesus.

However, the wicked are not so. Please look at verses 20 and 21. “But the wicked are like the tossing sea, which cannot rest, whose waves cast up mire and mud. ‘There is no peace,’ says my God, ‘for the wicked.’”

“The wicked” (20,21) means the people that don’t believe in Jesus more than it means people who are doing bad things. It is people who don’t believe in Jesus, believe in themselves, and go their own willful ways.  These people “are like the tossing sea.” (20) They are very anxious. They are never fulfilled. They are extremely anxious with inexpressible emptiness and guilt. Just as the “waves cast up mire and mud” (20) from their mouths come mud.  They swear and always with a high pressured manner yell in anger at people. That is the characteristic of the wicked.  They have no peace in their hearts so they always have to attack others. There is never any peace for the wicked. Even though they are successful in work, and no matter how much money they have, and even though they have everything they need for living, they don’t have peace. That’s because they don’t believe in the Savior Jesus. It is because they still have sin in their hearts.  As long as sin is not forgiven, there is no peace. That is “like the tossing sea, which cannot rest, whose waves cast up mire and mud.” (20)

How about you? Do you have peace? If not, pray to the Lord who creates praise on the lips to give you a peaceful heart that can sing songs of thanksgiving and hymns.  Go to Jesus and walk contritely and lowly. If so, you can obtain peace.

Jesus said, “Come to me, all you who are weary and burdened, and I will give you rest.  Take my yoke upon you and learn from me, for I am gentle and humble in heart, and you will find rest for your souls.  For my yoke is easy and my burden is light.”  (Matt. 11:28,29)

How you live depends upon your decision.  If you believe in Jesus, and are contrite and lowly then God will live with you and revive you. However, if you take lightly his voice and go your own willful way then you will be nothing but a tossing sea. May you receive God’s peace and encouragement. God is a God who will heal your sin, revive your heart, and give you peace.

レビ記19章1~18節

きょうは、レビ記19章から学びます。17章からレビ記の後半部分に入りましたが、その後半部分の最初で教えられていたことは、血を食べてはならないということでした。レビ記の後半部分は神に贖われた者の聖なる生き方が教えられているところです。その最初のところでこのように教えられているのは、それが神の民の生き方の土台になることだからです。すなわち、いのちとして贖いをするのが血です。その血をないがしろにしてはならないということです。もちろんこの血とは、私たちのために十字架で血を流してくださったイエス・キリストの血を表しています。その血をないがしろにすること、たとえば、善い行いをしなければ救われないとか、どんな罪を犯していても好く悪とかといった間違った考えに従うことによって、主の血をないがしろにしてはいけないのです。

そして18章では、異教的なならわしや風習でまねてはいけないということで、性についての正しいおしえが語られました。

きょうのところには再び十戒が出てきます。十戒については既に出エジプト記20章で学びましたが、ここではその具体的な適用が語られています。

1.  聖なる者となるため(1-2)

まず1,2節をご覧ください。ここには、「ついではモーセに告げて仰せられた。 「イスラエル人の全会衆に告げて言え。あなたがたの神、であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。」とあります。ここには、これから十戒を与える目的が語られています。それは、「主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。」ということです。主が私たちにこうした戒めを与えられるのは私たちを戒めで縛るためではありません。そうではなく、私たちが聖なる者になるため、つまり、聖なる神との交わりを保つためなのです。

そういう意味では、私たちは既に聖められているのです。御子イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったことにより、この主を信じ、主と一つにされたことによって、すべての罪が贖われ神の民とされました。私たちは自分の力によって聖くなることはできません。ただキリストにあってのみ聖くなることができるのであって、聖い生き方をしていくことができるのです。ですから、これから与えられる戒めも自分の肉によってではなく、ただ御霊によって導かれることによってのみ行うことができるわけです。このことを忘れてはいけません。

2.  神への畏敬(3-8)

それでは3節から8節までをご覧ください。ここには、神への畏敬が教えられています。

「おのおの、自分の母と父とを恐れなければならない。また、わたしの安息日を守らなければならない。わたしはあなたがたの神、である。あなたがたは偶像に心を移してはならない。また自分たちのために鋳物の神々を造ってはならない。わたしはあなたがたの神、である。あなたがたがに和解のいけにえをささげるときは、あなたがたが受け入れられるように、それをささげなければならない。それをささげる日と、その翌日に、それを食べなければならない。三日目までに残ったものは、火で焼かなければならない。もし三日目にそれを食べるようなことがあれば、それは汚れたものとなって、受け入れられない。それを食べる者は咎を負わなければならない。の聖なるものを汚したからである。その者はその民から断ち切られる。」

これをみてまず最初に「あれっ」と思うのは、神への恐れについて戒められているはずなのに、その第一にあるのは自分の父母への恐れであるということです。しかも、ここでは父母ではなく母父になっています。いったいこれはどういうことなのでしょうか。出エジプト記ではこの父母を敬わなければならないという教えは第五の戒めとして与えられていましたが、ここでは一番最初に出てきているのです。それは、父母が神の代理者であり、この父母を愛することが神の聖を現す具体的な方法となるからです。ですから、エペソ6章2節を見ると、この父母を敬うことが第一の戒めであると言われているのです。私たちが神を恐れることを学ぶのは、自分の親を通してであることを忘れてはなりません。そういう意味でこれが第一の戒めであり、最初の戒めとして語られているのです。

それにしてもここで「父と母を恐れなければならない」ではなく、「母と父を恐れなければならない」とあるのは不思議です。いったいなぜ母と父なのでしょうか?母の方が怖いから・・・ではありません。ユダヤ人の注解によると、一般的に父よりも母の方が軽んじられる傾向があったので、このように母を先に出すことによって父と母の両方の大切さのバランスを図ったのではないかと思われます。

神への畏敬(恐れ)という原理は、ここでは三つの命令によって示されています。それは、安息日を守らなければならないということ、それから、偶像に心を移してはならないということ、そして、自分たちのために鋳物の神々を造ってはならないということです。

まず安息日を守ることです。これも出エジプト記20章に出てきましたが、20章では第五の戒めとして語られていました。しかし、ここでは一番最初に出ています。それは安息日を覚えてこれを聖なる日とすることが、神を神とし、神によって贖われた事実を覚え、その神を礼拝することだからです。神を敬うことの本質が、この安息日を守るということに現われていると言ってもいいでしょう。ですから、イザヤ書56章には、正義と公正を守ることの具体的な現れが、この安息日を守るということだったのです。なのに、彼らはこれをないがしろにしました。その結果、偶像を拝み、偶像に仕えることになってしまったのです。それで神は怒られ、彼らをバビロンへと渡されました。もし彼らが安息日を守り、神を神として敬い、この神に仕えていたなら、そうした過ちに陥ることはなかったでしょう。でもそうではなかった。それが彼らの問題だったのです。神に贖われた者にとって大切な第一のことは、神を神として敬い、この神のみわざを覚えて礼拝することです。

次に言われていることは、偶像に心を移してはならないということです。心を移すとは、心を向けるということです。偶像に心を向けてはならない。また、偶像を造ってもなりません。まことの神を知らない異教社会においては必ずと言ってよいほどこの偶像との関わりがあります。それが昔からの伝統であるとか、ならわしであるのに、それを拒むということで、クリスチャンは愛がないとか、冷たい、配慮がないと批判されることがあるのです。

かつて私が住んでいた町内会でもこうした偶像との関わりが強く、町内会に祭事部というのがあって、各班から毎年推薦された人が神社の世話人をしていました。その世話人の仕事の一つに神社のお札をもって各家庭に配り歩くことがありました。教会の私たちの家にも来られ、「これお札ない。1,000円です。」なんて言うのです。これには参って、「実は私たちはクリスチャンでほんとうの神様を信じているのでお札はいらないのです」といって断るのですが、それでも変な顔をするのです。「付き合いが悪い人だなぁ」とか、「キリストさんって変な人だなぁ」といった感じで・・・。それで、ある時からこう言ってお断りすることにしました。「私たちはキリストを信じているのでそうしたお札は必要ありません。でも町内会の皆様のためにいつもお祈りしていますから、これは町内会のためにお役に立ててください」と言って1,000円差し出しました。お金を出すのが嫌なのではありません。偶像を拝むこと、偶像と関わりを持つことが嫌なのです。なぜなら、聖書にそのように書かれてあるからです。ですから、どんなに断っても偶像を拒めば愛がないとか、冷たい、配慮がないといった批判は出るでしょう。でも私たちはそこを曲げることはできません。なぜなら、私たちの神は主であって、私たちを罪から救い出してくださったからです。

そのことがその次に書かれてあります。「わたしはあながたの神、主である。」このことばは、ここに何回も繰り返して出てきます。おそらくこうした異教社会の中に起こるさまざまな批判の中にあってそれでも私たちがそのように生きるのは、主こそ神であり、私たちを贖ってくださった方であるということを思い起こさせるためであったからでしょう。

次に、主に和解のいけにえをささげる時の規定が記されてあります。これによると、主にいけにえをささげるときは、受け入れられるようにささげなければなりませんでした。具板的にいうと、それをささげる日と、その翌日に、それを食べなければなりませんでした。三日目まで残ったものは、火で焼かなければなりませんでした。なぜでしょうか?腐ってしまうからです。当時は冷蔵庫がありませんでしたから、三日目まで残しておけば腐ってしまいました。腐るというのは罪に蝕まれることの象徴的なことでしたから、そのようなことがあってはならなかったのです。私たちが罪にとどまること、私たちを汚し、神との交わりから、また他の兄弟たちとの交わりから断たれることを意味していたからです。和解のいけにえ、これは神と和解した者がささげるいけにえですが、この和解のいけにえは、主との正しい交わりにふさわしい方法でささげられなければならなかったのです。

3.  隣人への愛(9-18)

次に、隣人との関わりにおける戒めをみていきたいと思います。9節から18節までをご覧ください。まず9節と10節です。

「あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂を集めてはならない。またあなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑の落ちた実を集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、である。」

これは貧しい人たちへのあわれみです。土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはなりませんでした。また、収穫の落ち穂を集めてもなりませんでした。さらに、ぶどうの実を取り尽くしてはなりませんでしたし、ぶどう畑の落ちた実を集めてもいけませんでした。なぜなら、貧しい人と在留異国人のために、それらを残しておかなければならなかったからです。ルツ記2章2節のところで、ルツがナオミに「どうぞ、畑に行かせてください。・・落ち穂を拾い集めたいのです。」と言っていますが、これはこのレビ記の戒めがあってのことです。彼らのように貧しい人が食べていくことができるように、神があわれんでおられるのです。ある意味でこうした態度が貧しい人へのおもいやり、愛の具体的な形となってあらわれるのです。「もったいないから全部とっちゃう」とか「これらは全部自分たちのものだから、だれにも食べられないようにしよう」というようなせこい考えを持たないで、自分に与えられたものを喜んで分かち合うということを、このような形で表したのです。これはある意味で現代の福祉とか、社会保障のあり方とその目的は貧困者を救済するということです。私たちも畑の隅々を残すような者、収穫を集めないで分かち合えるような者になりたいと願います。いや、このような教えに従っていくなら、必ずそうなると信じます。これは私たちが神の祝福に生きる道でもあるからです。

盗んではならない。欺いてはならない。互いに偽ってはならない。というのは、出エジプト記では第八、第九の戒めとして出てきたことです。盗んではいけないというのはあたりまえのことですが、意外と私たちの多くは、この戒めを破っています。それは単に物を盗むというだけでなく、他人の所有権を侵すことだからです。たとえば、借りた物を返さないとか、税金の申告をごまかすとか、そういったこともこの教えに含まれているのです。また聖書では、地とそれに満ちているものは、主のもである(詩篇24:1)とありますから、それを主に返さないとしたら、実はそれも盗んでいることになるわけです。

いったいなぜ私たちはそうしたことを兵器で行ってしまうのでしょうか。それは、神が与えてくださったものを感謝せず、自分で自分の必要を満たそうとしているからです。神は私たちのために御子をさえも惜しみなく与えてくださいました。その恵みによって私たちは救われたのです。この恵みに感謝して神と人に仕えていこうとするなら、盗んだり、偽ったりということはなくなるはずです。

パウロはエペソ4章25~29節で、「25ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。26 怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。27 悪魔に機会を与えないようにしなさい。28 盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。29 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」と言っていますが、そうした行為というのは古い人の姿、まだ救われていない人、神のことを知らない人、キリストのことを聞いていない人の姿なのであることがわかります。しかし、キリストのことを聞き、神によって贖われた者ならば、それが悪いことであって、神のみこころでないことであるということがわかり、そこから解放されるはずです。仮に、そうした罪に陥ることがあっても、悔い改めて、そこから新しい人に、神にかたどり造り出された人に変えられるはずです。ですから、こうしたことはすべて救いの問題から発しているのです。

13節と14節には、「あなたの隣人をしいたげてはならない。かすめてはならない。日雇い人の賃金を朝まで、あなたのもとにとどめていてはならない。あなたは耳の聞こえない者を侮ってはならない。目の見えない者の前につまづく物を置いてはならない。あなたの神を恐れなさい。わたしはである。」とあります。

隣人をしいだけてはならないというのは、隣人を圧迫してはならないということです。たとえば、雇い主が、ある人にどんな賃金でも働く必要があるに違いないとみてとって、その必要を有利に利用し、正当な賃金以下で働かせたり、隣人に対して抵当をとっている人が、専門的な自分の権利を主張して畑や田んぼを手に入れようとして、あわれな負債者から不必要にお金を巻き上げようとする行為などがそうです。こうした隣人をしいたげる行為は、私たちの社会の中では無限の例を上げることができるでしょう。最近もある弁護士が来て話しをしていたら、こうしたことが弁護士の間でも日常茶飯事に行われていると嘆いていました。しかし、こうしたことは神の民にはふさわしくないことと禁じられています。

また、不当な労働賃金の遅延行為も同じです。ただ正当な賃金を払うというだけではだめで、それを即座に支払わなければなりません。そうでなければ日雇いの労働者は生活していくことができないからです。これはどちらかといえば富裕者の犯しやすい罪です。富裕者にとって少額の金の受け取りが少しくらい遅れたからといってあまり不便を感じないかもしれませんが、しかし貧しい人たちにとっては死活問題なのです。そのように賃金を送らせることによって彼らは、実際上、彼ら自身のものを彼らから盗んでいることになるのです。

それから耳の聞こえない人、目の見えない人に対して侮ってはならないと教えられています。これは弱さを抱えている人への配慮です。だれにでも弱さがあります。そうした人の弱さにつけこんで、その人をけがしたり、つまずかせたりすることは、神の民としてふさわしいことではありません。かえってそうした弱さに同情し、補っていかなければなりません。からかってみたり、言ってはならないようなことを言うことは、汚れたことなのです。

次に15節と16節をご覧ください。ここには、「不正な裁判をしてはならない。弱い者におもねり、また強い者にへつらってはならない。あなたの隣人を正しくさばかなければならない。人々の間を歩き回って、人を中傷してはならない。あなたの隣人の血を流そうとしてはならない。わたしはである。」とあります。

このことについては出23章2~-3節にも、「訴訟にあたっては、権力者にかたよって、不当な証言をしてはならない」とか、「貧しい人を特に重んじてもいけない。」とありました。公正な裁判が行われなければならないということです。それでここにも、「不正な裁判をしてはならない」とあります。たとえ弱い者であってもおもねることをしてはならず、強い者であってもへつらってはいけません。意外と私たちは弱い立場の人たちの訴えを受け入れ、強い立場の人たちからの訴えを毛嫌いする傾向があります。しかし、そうした偏見を抱いてはいけません。裁判においては真実でなければならないのです。

またここに、人々の間を歩き回って、人を中傷してはならないとあります。そんなことをする人がいるのでしょうか。います。特に最近は顔が見えないことをいいことに、インターネットで平気で他人を誹謗中傷して問題になっています。中にはそれで名誉毀損で訴えたり、訴えられたりということにまで発展するケースもあります。「中傷」という言葉はヘブル語で「ラキール」で、これはエゼキエ書26:12で「商品」(レクラー)という訳された言葉と同類語です。また、足を意味する「レゲル」という言葉とも同類語で、話を商品のように、あちこちと運び歩くことを言うのです。それは隣人の血を流そうとしていることと同じです。ある意味で、中傷や悪口は人の心に血を流す行為で、汚れたことです。人を中傷したかといって警察に捕まることはないし、法律でさばかれるということもありませんが、それは偶像礼拝や殺人よりも恐ろしいことなのです。なぜなら、それは悪口を言う者、言われる者、聞く者の3人を一度に殺すからです。(ベン・シラの知恵28:13-26)

次に17節と18節をご覧ください。ここには「心の中であなたの身内の者を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。そうすれば、彼のために罪を負うことはない。
復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしはである。」とあります。

「心の中で身内の者を憎んではならない。」ここに、「身内の者」とありますが、なぜ身内の者とあるのでしょうか。よく考えてみると、こうした憎しみというのは身内をはじめ、日頃関わりを持っている人の間で抱きやすいものだからです。全然関係のない人を憎むというのはほとんどありません。家族、親族、教会、職場、学校関係、サークル、何かがきっかけとなって知り合った人たち、そうした人たちとの間でさまざまな軋轢が生じるのです。だから「身内」と言われているのです。そうした身内の者を憎んではいけません。

心の中で憎しみを持たないこと、これが聖い歩みをする上で、とても大切なことです。なぜなら、こうした憎しみがきっかけとなってさまざまな悪しき行為が生まれてくるからです。たとえば、人を馬鹿者と言う者は人を殺しているとイエス様は言われましたが、そのような心にあることが実際の行動に表れてくるのです。

しかし、こうした憎しみは私たちを疲弊させ、私たちの心を汚し、主にある喜びや平安、愛を奪ってしまいます。ですからパウロは、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」と言っているのです。喜びや祈り、感謝と憎しみは共存できません。いつも心に喜びや感謝があれば、こうした憎しみに囚われることがなくなります。

では、もし兄弟に憎しみを抱くことがあればどうしたらいいのでしょうか?ここにはただ単に私たちの隣人を憎んではならないというだけでなく、あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない、とあります。これはどういうことかというと、あなたの隣人が悪を行ったらどうしたらよいかということです。

ガラテヤ6章1節のところでパウロは、「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。」と言っています。このことばは、このレビ記の戒めが背景にあります。もしあなたの隣人が罪に陥ったならば、御霊の人であるあなたは、柔和な心でその人を正してあげなければなりません。ねんごろに戒めなければならないのです。そうすれば、私たちが彼のために罪を負うことはありません。逆に、そうしなければ、罪を負うことになるのです。つまり、私たちが何らかの方法で隣人の罪を阻もうと努力しなければ、そうした彼の悪事によって、私たちも共犯者となってしまうというのです。しかし、たとえその人の罪を責めるにしても、ねたんだり、憎んだり、言い争ったりするのではなく、柔和な心で戒めなければなりません。彼を自分自身のように愛さなければならないのです。

そして18節には、「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしはである。」とあります。復讐してはなりません。恨んではなりません。ユダヤ教のラビたちは、「お前がしたように私もする」これが復讐で、「わたしはお前がしたようにはしない」これが恨みだと言いました。

ところで、その後のことばは有名です。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」イエス様は、律法全体は、神を愛せよと、この隣人を愛せよ、の二つの戒めにまとめられると言われました(マタイ19:19,22:39,ローマ13:9,ガラテヤ5:14)。これが律法基本なのです。単に憎んではならないとか、復讐してはならない、恨んではならない、中傷してはならないということではなく、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよというのが、律法の原点にある戒めなのです。

イザヤ57:15-21 レジュメ

「神の自己紹介」                                          No.91

 

Ⅰ.その名を聖ととなえられる方(15-16) 

 ここには神がどのような方かが語られている。第一に、神はいと高く、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方である。57章前半には、まことの神から離れ偶像に走って行ったイスラエルの姿が描かれていたが、ここにはそうした偶像とは対照的に、まことの神とはどのような方なのかが示されている。すなわち、神はいと高きところにおられ、永遠に生きておられる方であり、その名を聖ととなえられる方である。これはどういうことかというと、神はずっと高いところにおられる方であり、私たちが近づきたくても近づくことなどできない存在であるということだ。よく「雲の上の方」という表現があるが、まさに神は雲の上の方である。

ところが、このように高く、聖なる方が、同時に、心砕かれ、へりくだった人とともに住み、へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かしてくださる。これは全く驚くべきことである。「心砕かれる」とは粉々にされ、ちりのようになるということである。これは、完全に悔い改めた人の姿である。また、「へりくだる」とは単に謙遜になるということではなく、苦難を受け入れて低くされることを表している。つまり、めった打ちにされるということである。神はいと高く、聖なる方であられるが、その神が、心がズタズタに切り裂かれ、自分の主張などは微塵もないほどに打ちのめされ、最も惨めだと自覚できる人とともにあり、そういう人の霊を生かしてくださるのである。

人はすぐに「自分はあれができる、これができる。あれを持っている、これを持っている。」と自分を誇りたくなる。しかし、神はそのような人の心には住まわれない。ただ心砕かれて、へりくだった人とともにあり、へりくだった人の霊を生かしてくださるのである。

Ⅱ.罪をいやしてくださる方(17-18)

第二に、神は罪をいやしてくださる方である。イスラエルの苦しみは、彼らのむさぼりの罪のためであった。「彼のむさぼりの罪のために、わたしは、怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。」(17)しかし、それで彼らが悔い改めたかというとそうではなく、彼らはなおもそむいて、自分の思う道に向かって行った。それで神はどうされたかというと、「わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、慰めを報いよう。」(18)普通だったら捨てられてもおかしくないのに、神は彼らを捨てるどころか、彼らの罪を赦し、彼らの傷をいやされ、その悲しむ者たちに、慰めを報いようというのだ。神はいつまでも怒っておられる方ではない。自分勝手な道に向かって行ったイスラエルを一時的に懲らしめることはされたが、いつまでもそのような状態に置かれることはなさらない。ちょうど我が子が悪いことをすれば一時的に懲らしめても、やがて許し、両手いっぱいに抱きしめて、まっすぐに歩んでいけるようにありとあらゆる助けを与えてくれる父親のようである。神はいつまでも私たちを罪に定めようとはなさらない。むしろその罪を赦し、その傷をいやしてくださる方なのである。

Ⅲ.平安を与えてくださる方(19-21)

第三に、神は平安を与えてくださる方である。「わたしはくちびるの実を創造した者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう」と主は仰せられる。」(19)「くちぴるの実」とは、賛美と感謝の歌を表している。彼らは罪の結果、神の怒りによってうめく者であったが、神はそうした者をいやし(救い)、感謝と賛美をささげることができるようにしてくださる。そればかりか、遠くにいる者にも近くにいる者にも平安を与えてくださる。「平安」とはあらゆる面で欠けのない状態、完全に満たされた状態のことである。現代は、まさに大きな恐怖と不安に襲われている時代である。こうした不安な時代にあっても、決してゆり動かされることのない平安を与えてくださる。

「しかし悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。静まることができず、水が海草と泥を吐き出すからである。「悪者どもには平安がない」と私の神は仰せられる。」(20-21)

あなたはどちらを選択しますか。イエスさまを信じ、心砕かれて、へりくだって歩みますか。それとも、こうした神の御声をないがしろにし、あくまでも自分の道に向かって行きますか。そこには荒れ狂う海しかない。神の前に心砕かれて、へりくだって歩むことができますように。神はあなたの罪をいやし、あなたの心を生かし、あなたに平安を与えてくださるのである。

イザヤ書57章15~21節 「神の自己紹介」

きょうはイザヤ書57章15節からのみことばから、「神の自己紹介」というタイトルでお話したいと思います。聖書の中には「神はどのようなお方か」が、いろいろな言い方で表現されていますが、神ご自身から「私はこういう存在である」と語られているところはそんなに多くはありません。しかし、ここには神ご自身が自らについてどのような方なのかを、はっきりと語っておられます。

Ⅰ.その名を聖ととなえられる方(15)

まず第一に、神はいと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方です。15節ご覧ください。 「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」

57章前半には、イスラエルが走って行った偶像の姿が描かれていましたが、それは一言で言うと虚しいということでした。「風が、それらをみな運び去り、息がそれらを連れ去ってしまう」(13)ほどはかないもの、それが偶像です。しかし、まことの神は違います。まことの神は、いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方です。これはどういうことかというと、神は私たちとは全く次元の違うところにおられる方であるということです。全くかけ離れたところにおられる方なのです。私たちが近づきたくとも近づくことができないほど高いところにおられる方なのです。よく「雲の上の存在」ということばがありますが、まさに神は雲の上の存在なのです。その名を聖ととなえられる方なのです。  この「聖」というのは区別するという意味で、人間とは全く区別された方、この世界を超越した方であるということです。私たちは人間ですと、「あの人は非常に優秀だ」とか「偉い人だ」という言い方をしますが、そのように言うのは自分と比較して偉いということであり、努力さえすればそのようになり得る可能性があると思っているからです。しかし、神さまは違います。神様は比べようがありません。全く次元が違うからです。神はこの被造物とは全くかけ離れた存在であって、背伸びしても、逆立ちしても、何をしても、決して近づくことができない方なのです。それがここでいう「聖」という意味です。この地上の何をもってしても全く比べることができないのです。それほど高く、それほど聖い方なのです。

この言葉は、出エジプト記3章5節に出てきます。モーセがミデヤンの地で羊を飼っていたとき、神の山ホレブにやって来ました。そこで彼は不思議な光景を見ました。柴は燃えているのに、焼き尽きていなかったのです。この大いなる光景を見てみようとそこに近づいたとき、神がモーセにこう仰せられたのです。

「ここに近づいてはならない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」(出エジプト3:5)

モーセは羊飼いでしたから、その羊飼いが足から靴を脱ぐということは、すなわち死を意味することでした。羊飼いの靴とはサンダルのようなものですが、それを脱いだら荒野を歩くことはできません。ごつごつとした岩や荒れくれたトゲがあるので、靴があってもそういうところで羊を飼うことは大変なことだったのです。まして靴がなかったら羊と一緒に行くことができませんから、羊を飼うことなどできませんでした。羊を飼うことができなければ、羊飼いは生きることができません。ですから、彼にとって靴を脱ぐということは、すなわち、死を意味することでもあったのです。その靴を脱げ、と神は言われました。なぜでしょうか?なぜなら、モーセはこれまでと全く違った領域に来たからです。聖なる神の御前に来たのです。彼の立っている場所は聖なる地でした。だから、彼は靴を脱がなければならなかったのです。それはモーセにとっては死という、羊飼いにとってはいのちに等しい靴を捨てるということであったかもしれませんが、そうした犠牲なしに聖なる神に近づくことはできなかったのです。モーセが土足で、陸続きのままに行くことができるお方ではなかったというのが、ここに表されていたのです。靴を脱がなければならなかった。それほど聖なる方であるということです。

また、ダビデ王の時代にこんな事件がありました。神の臨在の象徴である契約の箱を神の都に迎え入れようとした時、本当はそのためにはある定められた聖めの儀式を行い、人々が肩に担いで、御神輿のようにして運ばなければならなかったのに、ある人々がこれを牛車に積んで、牛に引かせて都に運ぼうとしました。ところが牛車の車輪が道のくぼみに落ち込んで、牛車が傾き契約の箱が落ちそうになったのです。そこでウザという人が落としてはならないと思い、箱を手で押さえました。すると、彼は神に打たれて死んでしまったのです。彼は全くの善意でやったにもかかわらず、どんなに善意からであろうとも、罪人である人間がその手で神の箱を押さえたので、神が怒りを発せられたからです。神が聖であるということはこういうことなのです。神は私たちが近づくことも、ふれることもできない、死をもってでなければ近づくことができないお方なのです。それが「聖」という意味です。

ところが、このように高く、聖なる所に住んでおられる方が、同時に、心砕かれて、へりくだった人ともに住み、へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かしてくださるというのです。これは全く驚くべきことではないでしょうか。ここに「心砕かれて、へりくだった人とともに住む」とありますが、この「心砕かれる」という言葉は言語のヘブル語では「ちり」という言葉で、粉々にされた状態を言います。それは完全に悔い改めた姿のことです。また「へりくだる」とは単に謙遜になるということではなく、現在の災い、苦悩を受け入れて低くされることを表しています。つまり、めった打ちにされるという意味なのです。神は聖くて高い所に住んでおられる方で、私たちがどうやっても近づくことができない方ですが、その心がズタズタに切り裂かれて、自分の主張などは微塵にもないほどに打ちのめされて、最もみじめだと自分を自覚できる人、そういう人ともに住み、そういう人の霊を生かし、そういう人の心を生かしてくださるというのです。

イザヤがこのように言ったのは、自分の体験からでした。6章にはイザヤが預言者として召された時のことが書かれていますが、そこで彼は、聖なる神がみ座におられる幻を見ました。そして、御使いたちが、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」(同3節)と呼びかわしているのを聞きました。その神の聖さの前に出たとき彼は、「私は、もうだめだ。」(同6:5)と叫びました。この聖なる神の前に、自分がいかに汚れた者であり、醜い存在であるかを悟ったのです。この神の前には死ぬしかない存在であることがわかりました。本当にめった打ちにされたのです。自分は預言者であり、神の代弁者であり、神のメッセージを伝える者であると自負していた彼が、この聖なる神の前に立ったとき、自分はもう何者でもない、本当ににちりにすぎない存在だということがわかったのです。「月とスッポン」という言葉がありますが、自分は神のみこころにはかなわない汚れた者であり、神の目にとまったら、滅びるしかない存在にすぎないというのが、彼の実感だったのです。文字通りめった打ちにされて、粉々に砕かれました。もう自分の存在そのものさえもなくなってしまったかのような経験をしたのです。それが心砕かれて、へりくだるという意味です。

しかし、彼はそのような中から神を仰ぎました。自分は神に打たれ、もうだめかと思ったのですが、その時、今まで賛美していた御使いが賛美をやめ、神にいけにえをささげる祭壇のあかあかと燃えている火の中から、炭火を取りイザヤの口にふれて、「この火がお前の口にふれたのだから、お前の罪は赦された。」(同6:7)と言われたのです。イザヤは、自分はもうだめだと思いましたが、自分ではなく神の方から一方的に触れてくださり、聖めていただいたのです。ほんとうに神の前に自分のいい加減さ、自分のだめさ加減さを認めることは辛いことですが、そのように全く砕かれたとき、神がその罪をいやし、彼とともに住まわれ、彼を生かしてくださったのです。

人は何かというと、すぐに「私はあれができる。これができる。」「あれを持っている。これも持っている」と、他人に誇りたくなるものです。そういう人の心には、神はお住みにはなれません。私はクリスチャンになってもう何年になります、キリスト教の世界ならよく知っています、とすぐに自負しがちになりますが、そういう人の心にはお住みになれないのです。神がお住みになられるのは、砕かれて、へりくだった人の心です。そのような心を、神は決してさげすまれないのです。むしろへりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かしてくださるのです。

天地が創造されて以来、世界中で一番砕かれ、これ以上に砕かれた方はいないという人は誰でしょう。そうです、イエス・キリストです。彼は、謙遜といった言葉ではもう追いつかないほど砕かれました。だって神でありながら、人間となられたのですから・・・。無限の方なのに、有限となってくださいました。全く罪がなかったのに、十字架にかかって死んでくださいました。ですから、私たちはこのイエスさまを信じて、このイエスさまと一つになること以外に、砕かれる道はありません。私たちがどんなにへりくだってみたところで、真の謙虚さを自分のものにすることはできないのです。しかし、自分を捨てて、十字架にまで架けられて砕かれたイエスさまと一つにされるならば、私たちもこの方のようになることができるのではないでしょうか。イエス様はこう言われました。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイ11:28-29)

キリストのもとに行って荷を下ろし、代わりに、キリストのくびきを負って、キリストから学ぶ。そうすれば、たましいに安らぎが来ます。なぜなら、キリストは心優しく、へりくだっているからです。キリストだけがそのように言うことができます。このキリストから学ぶことによって、私たちもへりくだった者となることができる。そして、神はそのような者とともにいてくださるのです。

Ⅱ.罪をいやしてくださる方(16-18)

第二のことは、神は罪をいやしてくださる方であるということです。16節から18節までをご覧ください。 「わたしはいつまでも争わず、いつも怒ってはいない。わたしから出る霊と、わたしが造ったたましいが衰え果てるから。彼のむさぼりの罪のために、わたしは、怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。しかし、彼はなおもそむいて、自分の思う道を行った。わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、慰めを報いよう。」

どういうことでしょうか。神はいつまでも争っておられる方ではありません。いつまでも怒っておられる方ではありません。神は一時的に、彼らのむさぼりの罪のために彼らを打ち、顔を隠して怒られましたが、それで彼らは悔い改めたかというとそうでなく、なおもそむいて、自分の思う道に走って行きましたが、それでも主は彼らをいやしてくださるというのです。彼らを導き、その悲しむ者たちとともに、慰めを報いるというのです。

これは第一義的には、バビロンによる神のさばきを表しています。彼らは神にそむいて自分勝手な道に歩んだので、神はバビロンという国をもって彼らを滅ぼし、70年の間捕囚としての生活をさせましたが、かと言って、いつまでも怒ってはおられませんでした。神様は彼らのそのような歩みを見ましたが、彼らの罪をいやし、慰めを与えてくださるのです。

何という慰めでしょうか。「だったら勝手にしなさい」と言って捨てられても不思議ではないのに、神はそのようにはされるどころか、彼らの悲惨で絶望的な状況の中にご介入してくださるのです。そして、罪によって受ける心の傷をいやしてくださいます。どのようにいやしてくださるのでしょうか。その罪を代わりに受けることによってです。53章に戻ってください。53章4~6節までのところです。

「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」    主のしもべであられるイエス・キリストが、その罪、咎を代わりに負ってくださることによって、私たちが受ける痛みや苦しみをいやしてくださるというのです。本来なら、私たちが受けなければならない罪の刑罰を、受けなくてもいいように代わりに受けてくだったのです。神の子とされるということがどんなに大きな恵みであるかがわかるでしょう。私たちは本当に罪深い者で、罪を犯さずには生きていけないような愚かな者ですが、その罪を悔い改めて神の救いイエス・キリストを信じた瞬間に神の子とされ、これからどんなに罪を犯すことがあっても、一生、その関係は変わらないのです。これからも犯すであろう罪の一切を許してくださいました。イエスの救いというのはそのように大きなものなのです。だからこれは特権なのです。

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:12)

皆さん、これは特権です。ものすごい特権です。あなたが悔い改めてイエス・キリストを信じたその瞬間から、あなたの過去、現在、未来のすべての罪が赦されたのです。あなたが神の子となったことで、神はどんなことがあってもあなたを見離したり、捨てたりはなさいません。世の終わりまで、いつも、あなたとともにいてくださいます。

16節には、「わたしはいつまでも争わず、いつまでも怒ってはいない。」とありますが、この「争う」という言葉は「断罪する」という意味です。神はいつまでも私たちを罪に定めようなことはなさいません。むしろ、神は私たちのたましいが衰えることがないように、慰めてくださいます。ですから、神にそむいて、自分かってな道に向かって行くようなことがあっても、一時的に怒るようなことはあっても、いつまでも怒っておられることはないのです。アッシリヤやバビロンによって捕らえられ、苦しめられるという懲らしめを受けても、いつまでもそのような状態に置かれることはしないのです。それはちょうど我が子にムチを加えるようなものです。我が子が悪いことをしたら、親はその子に何らかの懲らしめを与えても、やがてその子を許し、両手いっぱいに抱きしめ、まっすぐに歩んでいけるようにありとあらゆる支援を惜しまないでしょう。

同じように神さまはいつまでもあなたを怒ってはおられません。いつまでも争ってはいないのです。あなたが悔い改めて神に立ち帰るなら、神は赦してくださるのです。

Ⅲ.平安を与えてくださる方(19-21)

第三のことは、神は私たちに平安を与えてくださる方であるということです。19節をご覧ください。 「わたしはくちびるの実を創造した者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう」と主は仰せられる。」

「くちびるの実」とは何でしょうか。これは感謝と賛美の歌のことです。彼らは罪の結果、神の怒りによってうめく者でしたが、そうした者がいやされ、感謝と賛美の歌をささげるようになるという預言です。そればかりではありません。遠くにいる者にも、近くの者にも、平安を与えてくださいます。近くの者とはエルサレムにいるユダヤ人のこと、遠くの者とは、離散しているユダヤ人たちのこと、あるいは、キリストを信じて神の民とされた私たちクリスチャンを指していると言ってもいいでしょう。そのように遠くにいる者にも、近くにいる者にも、神の平安が与えられるのです。「平安」とはシャロームという言葉ですが、それはあらゆる面で欠けのない状態、完全に満たされた状態のことを言います。神は遠くにいる者にも、近くにいる者にもこの平安、シャロームをもたらしてくださるのです。

イエスは、こう言われました。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)

イエスは平安を与えてくださいます。それはこの世が与えるものとは違います。この世が与える平安とはどのようなものでしょうか。リビングバイブルでは、「はかない平安」と訳しています。きょうはきれいに咲き誇っても、明日にはしぼんでいくような一時的で、はかない平安ではなく、確かな平安、どんな状況でも全く動揺することのない確かな平安を与えてくださるのです。

ある歴史家は、「人類がかくも大きな恐怖と不安に襲われた時代は、今までの全歴史においてなかった」と言っていますが、このような不安な時代にあって一番求められているのは、このような平安ではないでしょうか。そのような平安を、心砕かれて、へりくだった者、すなわち、イエスさまを信じる者に、神は与えてくださるのです。

しかし、悪者どもはそうではありません。20節、21節をご覧ください。 「しかし悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。静まることができず、水と海草と泥を吐き出すからである。「悪者どもには平安がない」と私の神は仰せられる。」

「悪者ども」とは悪いことをしている人たちということよりも、神を信じない人たちのことです。イエスさまを信じないで、自分を信じ、自分の思う道を進もうとしている人たちです。そういう人はあれ狂う海のようです。常にイライラしています。決して満たされることがありません。言い知れぬむなしさと罪悪感で、常に不安を抱えています。水が海草と泥を吐き出すとあるように、彼らの口から出るのは泥です。口汚くののしり、いつも高圧的な態度で人を怒鳴りつけます。それが悪者の特徴です。心に平安がないので、常に人を攻撃していないと気が済まないのです。悪者どもには決して平安がありません。仕事に成功して、どんなにお金があっても、何一つ足りないものがないほど満たされた生活でも平安がありません。救い主イエスを信じないからです。まだ心に罪があるからです。罪が赦されない限り、平安はありません。それは荒れ狂う海のようで、静まることがないのです。泥を吐き出すしかありません。

皆さんはどうでしょうか。皆さんには平安がありますか。もしないなら、くちびるの実を創造した主に、賛美と感謝をささげることができる平安な心を与えてくださるように祈ってください。イエスさまのもとへ行き、心砕かれ、へりくだって歩んでください。そうすれば、あなたも平安を得ることができるのです。

イエスさまは言われました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイ11:28-29)

皆さんがどう進むかは、皆さんの選択にゆだねられています。イエスさまを信じ、心砕かれて、へりくだるなら、神があなたとともに住み、あなたの心を生かしてくださいます。でも、その声をないがしろにし、あくまでも自分の道に進んで行こうとするなら、そこには荒れ狂う海しかありません。どうか神の平安と慰めを受けることができますように。神の前に心砕かれて、へりくだって歩むことができますように。神はあなたの罪をいやし、あなたの心を生かし、あなたに平安を与えてくださるお方だからです。