ローマ人への手紙8章1~11節 「キリスト・イエスにある者」

きょうは「キリスト・イエスにある者」というタイトルで三つのことをお話したいと思います。第一のことは、キリスト・イエスにある者は決して罪に定められることはないということです。第二のことは、キリスト・イエスにある者とはキリストの御霊を持っている人のことです。第三のことは、このキリスト・イエスにあって歩んでまいりましょうということです。

Ⅰ.救いの確かさ(1-4)

まず第一に1~4節をご覧ください。

「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」

パウロは、これまで語ってきたことを受けて、「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」と宣言しています。クリスチャンでも罪に悩むことがあります。自分の中には善をしたいという思いがあるのに、かえって、したくない悪を行ってしまうという闘いがあるのです。言わなければ良いことを言ってしまったり、言わなければならないことを言えなかったりと、自分の弱さ、足りなさに思い悩み、落ち込むことがあるのです。それはほんとうにみじめな姿です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。それはただイエス・キリストだけです。神はご自分の御子を、私たちの罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、その肉体によって私たちの罪を処罰してくださいました。「こういうわけでです」こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してないのです。

何と力強い宣言でしょうか。たとえ罪に思い悩むようなことがあっても、たとえイエス様から離れてしまうようなことがあったとしても、イエス様が見捨てたり、見放したりすることは決してない。イエス・キリストにあるならば、決して罪に定められることはないというのです。なぜなら、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。この「解放した」ということばは、過去において一回限りの出来事を現す時に用いられる用法です。つまり、私たちが二度と罪に定められることがないのは、イエス様が十字架にかかって死んでくださり、その罪から解放してくださったからなのです。それまではというと、私たちは裁かれなければならない存在でした。神様から与えられた律法に対してそれを行おうとしても、自分の中にある罪がそれを利用して、かえって多くのむさぼりを引き起こしてしまう。それが人間の現実なのです。律法を行おうと思えば思うほど、それができない弱さに気づかされ、かえって死に導かれてしまう。いったいどうしたらいいのでしょうか。イエス・キリストです。イエス・キリストが解放してくださいました。肉によっては無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。キリストを十字架につけることによって・・・。私たちは、ただ神様の御前に頭を垂れ、悔い改めて、この救いを受けるだけでいいのです。そうすれば、この神のいのちの御霊が働いて、罪と死の原理から、私たちを全く解放してくださるのです。これが福音です。

それはちょうど法定に引き出される囚人のようです。私たちは自分の罪のためにいつもビクビクしていなければならないような者です。法定で審判を受けるときどんな判決を言い渡されることか。罪から来る報酬は死ですから、私たちに言い渡される審判は死刑なのです。ところが神は、その最期の審判において判決を下すとき、何と無罪と宣言してくださるというのです。アメージングです。おっどろきです。自分が今までしてきたことを思えば、当然、さばかれても仕方ない者なのに、何と無罪と宣言してくださるというのですから。全く自分の耳を疑いたくなるような事態が起こるというのです。なぜ?キリスト・イエスにあるいのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。

肉によって無力になったため、律法にはできないことを、神はしてくださいました。これは神様の一方的なみわざなのであって、私たちの力によるのではありません。私たちには神様の律法を行う力など全くないのです。ただ神の御霊が私たちの内側で働いてくださるとき、私たちにできないことでもできるようにしてくださるのです。たとえば、私たちは自分の力では大空高く飛ぶことができませが、飛べる方法が一つだけあります。大空高く飛ぶことができる鳥にぶら下がっていればいいのです。そうすればその鳥と一緒に飛ぶことが出来る。それと同じように、私たちの力ではどうあがいても神が求める律法の要求を満たすことはできませんでしたが、神の御霊である聖霊様にくっついていればできるのです。聖霊様が私たちの中でみわざをなさると、すべてのことを簡単に行うことができるのです。

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)

私たちの力では世界宣教を担う事はできませんが、聖霊様が働かれ、力を与えられますと、私たちは力強い証人になることができます。たとえ雄弁な舌をもっていても、人を変えることはできませんが、けれども聖霊が働かれると、一度のメッセージで三千人、五千人が悔い改めるようになるのです。今、日本には神様が働いておられないように感じますが、聖霊様が働かれるとこの国は一瞬にして主のものになるのです。

クリスチャンの人生とは、この聖霊を受け、聖霊に頼る人生です。「聖霊が私たちに力をくださるなら、その方にあってできないことはありません」と告白して生きるのがクリスチャンの人生なのです。ですから私たちは、「権力によらず、能力によらず、私の霊によって」(ゼカリヤ4:6)という主のみことばに励まされながら、進んでいくのです。歯を食いしばって頑張っても無駄です。主が聖霊を注いでくださってはじめて、すべてのことは成し遂げられるからです。

肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してないのです。たとえ私たちが罪を犯すようなことがあっても、神から離れるようなことがあったとしても、それでクリスチャンでなくなったりするようなことは決してありません。それは一方的な神の恵みなのです。神の救いは、私たちの状況によって消えてしまったり溶けて無くなったりしまうようなもろいものでありません。いつまでも変わることがない神の約束のことばに基づいたものなのです。ですから救いの確信というのは、自分の感情や気分、だれかの言ったことば、置かれた状況によって左右されるものではなく、この神様の約束のことばに根ざしているのです。そうでなかったら、私たちの信仰はジェットコースターのようにいつも上がったり下がったりして不安定なものになってしまうでしょう。しかし、この神の約束に信頼するなら、どんなことがあっても揺すぶられることがなく、確かな信仰を持ち続けることができるのです。

Ⅱ.キリスト・イエスにある者(9-11)

第二のことは、ではキリスト・イエスにある者とはどういう人のことを言うのでしょうか?9~11節をご覧ください。

「けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」

一般的にクリスチャンというのは、洗礼を受けて教会に加わり、教会のために一生懸命に活動している人というイメージがありますが、必ずしもそうではありません。ここには、「神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。」とか、「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」とあります。「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。」「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」すなわち、クリスチャンというのは、キリストの御霊を持っているかどうかなのです。Iコリント12章13節を開いてみましょう。

「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」

これは聖霊のバプテスマについて記されているところです。聖霊のバプテスマついては新約聖書の中に何か所か出てきますが、その内容について語られているのはこの箇所だけです。すなわち、聖霊のバプテスマとは頭であられるキリストのからだに結び合わされ、そのからだである教会の一員になることであって、それ以外の何ものでもありません。よく第二の恵みとしての聖霊のバプテスマという意味で使われる方がおられますが、それは聖霊に満たされることであって、聖霊のバプテスマではありません。聖霊のバプテスマとは聖霊によってキリストと一つになることです。イエス様が十字架にかかって死なれたように自分に死に、イエス様がその死からよみがえられたようにキリストのいのちにあって生きる人、それがクリスチャンです。イエス様はそのことをぶどうの木のたとえで、次のように教えられました。ヨハネの福音書15章5節です。

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」

皆さんはNHKの大河ドラマ「江~戦国たちの姫たち~」を観てますか。別に観なくてもいいのですが、前回の放映の中に戦国時代に生きた細川ガラシャというキリシタンの女性が出ていました。彼女は織田信長に謀反を起こし、本能寺の変で主君信長を倒した明智光秀の娘ですが、後に山崎の戦いで豊臣秀吉が明智光秀に勝利すると、秀吉は当時細川忠興の妻となっていたこのガラシヤ夫人こと「たま」を離縁させ、京都の山里に幽閉さるのです。その間約二年の間、彼女は二人の子供を連れて過酷な状況を生き抜くのですが、そんな彼女を支えたのがキリシタン信仰でした。彼女に仕えていた侍女に清原マリアというキリシタンがいて、彼女をとおしてイエス・キリストを信じる信仰に導かれるのです。やがて秀吉の配慮によって忠興との復縁が許され大阪の屋敷に戻されるも、秀吉のキリシタン禁令が発布される中、彼女は必死で信仰に生きました。  やがて秀吉の死後、石田三成と徳川家康が天下分け目の関ヶ原の戦いを交えると、家康側についた細川家から人質に取ろうと石田三成が屋敷にやって来ると、たまは断固としてそれを拒み、家老に胸を突かせて死にました。自害することは神のおぼしめしではないという教えを知っていたからです。そのときにたまが最期に詠んだ詩というのがこれです。

「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」

これは人生にはすべて神の時があって、その神のみこころのままに生きることが幸いな人生であることを歌った歌です。なぜに彼女はこのように歌うことができたのでしょうか。その信仰に生きていたからです。生きることはキリスト、死ぬこともまた益です、とパウロが告白したように、彼女はキリストともに死に、キリストとともに生きる、その信仰に生きていたのです。クリスチャンというのは形ではありません。神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるかどうか、キリストの御霊を持っておられるかどうかなのです。もしイエスを死者の中からよみがえらせてくださった方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、その御霊によって、私たちの死ぬべきからだも生かしていただける。あの罪と死の原理から、解放していただけるのです。ですから私たちにとって最も重要なことは、神の御霊によって、キリスト・イエスに結び合わされているかどうか、キリスト・イエスのうちにあるかどうかということなのです。もしキリスト・イエスにあるならば、もう罪に悩む必要はありません。キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。決して罪に定められることはありません。

Ⅲ.御霊に従って歩もう(5-8)

ですから第三のことは、御霊に従って歩みましょうということです。5~7節をご覧ください。

「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。」

ここには「肉に従う者」とか「御霊に従う者」という二種類の人について記されてありますが、これはそれぞれどういう人のことでしょうか?ここで使われている「肉」という言葉は「サルクス」というギリシャ語で、生まれながらの人間を指す場合に用いられる言葉です。たとえば、ヨハネの福音書3章6節には、

「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」

とありますが、この「肉」こそ「サルクス」です。つまり、肉体的誕生しかしていない人のこと、生まれながらの人のことです。それに対して御霊の人とは、御霊による超自然的な霊的誕生をした人で、本当の意味で生まれ変わった人のことです。それはただ単に宗教に関心があるとか、宗教的な活動にかかわっている、参加している人のことではありません。あるいは、神学に興味があってそうした本を熱心に研究している人のことでもありません。別にクリスチャンでなくても神学に興味をもったり、宗教的な活動に参加することができるからです。あるいはまた、宗教的な現象、たとえば奇跡とか、病気の癒しとかといった神秘的な体験を求めることでもないのです。御霊に従う人というのは、そうした外見的なこととは全く関係なく、御霊によって新しく生まれ変わり、御霊の原理、御霊の生活方針によって生きようとしているかどうかということです。ここで注意していただきたいことは、たとえその人が信仰的に誤った理解を持っていたり、間違ったことをするようなことがあったとしても、その人が救われていないと判断することはできないということです。よく私たちは信仰的でない人をみると、「あの人、あれでもクリスチャン?」言ってしまうことがありますが、その方がクリスチャンであるかどうかを私たちが軽率に判断してはいけないのです。それは神様の領域であって、神様がお決めになることです。ただ神の約束のことばによるならば、もしキリストの御霊を持っていないならば、その人はキリストのものではありませんが、もしキリストの御霊を持っているならば、その人はキリストのものであるということです。たとえ今はそうでなくても、キリストの御霊を持っていれば、その人はやがて立派なクリスチャンになることでしょう。それはここに、「肉にある者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます」とあるからです。なのに表面的な言動を見て、あの人は救われているとか、いないと判断するとしたら、それこそみことばを逸脱したことばであって、厳に戒められなければならないことなのです。

ところで、このような人間観は一般的に考えられているものとは違います。一般的には肉に従っているかとか御霊に従っているかといったことを全然問題にしません。一般的には、人は修行を積むことによって自分自身を向上させていき、やがて天国に入ることができる人格者になっていくと考えられています。自分の努力や力によって自分の品性や意志を聖め、また高めようとするわけです。しかし聖書が教えていることは、肉に従うのか御霊に従うのかどっちなのかということであって、これが基本だと説きます。そうでないと、それがただの小手先の改革になってしまうからです。ただ小手先に、表面的に改革をしてみたところで、死からいのちに移すことはできません。人間がいくら自分の意志や思いを訓練し、修行を積み重ねても、肉に縛られているかぎり、それは悪魔の手中に陥っているのであって、その行き着くところは死でしかないからです。その死の支配から解放されいのちと平安を持つためには、御霊によらなければなりません。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安だからです。肉にある者は神を喜ばせることはできません。御霊に従うこと、御霊の思いに満たされること、それがいのちと平安です。

であるとすれば、私たちの信仰生活において最も重要なことは何かをするということではなくて、祈りとみことばを通して神と交わり、神の御霊に従って生きることです。祈りとみことばによって神のいのちに生きるなら、神がしてくださるでしょう。神が私たちの人格を変えて、神に似た者のようにしてくださいます。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の実を実らせてくださいます。クリスチャンの生涯はこうした実を追い求めていく人生ではありません。こうした恵みが追ってくる人生なのです。なぜ?神と交わり、御霊のいのちが働いてくださるからです。同じようなことをしているようでも、その出所が全く違います。パウロは、エペソ人への手紙1章19節で、

「また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」

と祈っていますが、信じる者に、信じてみことばに従い、聖い神の御前に進み出る者に、この神の全能の力が働き、日々、満ち満ちたみわざを現してくださるのです。これこそ神を信じ、御霊に従って生きる者に注がれる神の祝福なのです。どうかこの神の恵みにとどまり、御霊に従う者となり、御霊に属することをひたすら求めてまいりましょう。ちょっとしたことでは決して動じないみことばの約束に基づいて、この確かな救いを握りしめてまいりましょう。

 

ローマ人への手紙7章14~25節 「勝利ある人生をめざして」

きょうは「勝利ある人生をめざして」というタイトルでお話したいと思います。24節のところでパウロは、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるでしょうか。」と言っています。彼は、7章1節からのところで語ってきた律法との関係の中で、ほんとうに自分はみじめな人間ですと告白したのです。問題は、彼がこのように語ったのはいつであったかということです。この解釈については大きく分けて三つの解釈があります。第一は、これは彼がまだ生まれ変わっていない時の、未信者の状態の時について言及しているというものです。第二は、これは彼が新しく生まれ変わってからの状態、つまりクリスチャンになってからの姿について言及しているというものです。そして第三の解釈は、これは彼が生まれ変わったばかりの状態ではあるけれども、まだ第二の恵みを受けていない時の姿であるということです。

興味深いことに、キリスト教の歴史を見てみますと、最初の3世紀の間は、第一の解釈がとられていました。つまり、これは彼がまだ生まれ変わっていない時の状態についてしるされてあるという立場です。有名な神学者で紀元400年ころに活躍したアウグスチヌスも、最初のころは、この解釈にしたがっていました。しかし、彼はのちにその考えを改めて、第二の解釈でなければならないと主張するようになりました。その後、宗教改革やピューリタンの指導者たちは、この第二の解釈を採用し、これが生まれ変わった人の状態についてしるしていると解釈するようになったのです。ところが、ある人は生まれ変わったクリスチャンがこんなみじめな状態にあるはずがないと、第三の考えを主張する人も現れるようになったのです。

いったいどれが正しいのでしょうか。きょうはこの聖書の箇所を正しく解釈しながら、私たち人間とはどのような者なのかについてよく理解しながら、クリスチャンとして真に勝利ある人生を歩んでいきたいと思うのです。きょうは、このことについて三つのことをお話します。第一のことは、パウロの葛藤についてです。第二に、そのパウロの葛藤の原因であった二つの原理を見ていきましょう。第三のことは、そうしたみじめな人間を救う力、イエス・キリストについてです。

Ⅰ.パウロの葛藤(14-20)

まず第一に、パウロの葛藤を見てみましょう。14~20節までをご覧ください。まず14~15節です。

「私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。」

パウロは7節のところで、「律法は罪なのか」という問題提起をしてから、「絶対にそんなことはありません」と言って、律法の与えられた目的について語ってきました。それは律法によって、自分たちが罪深い者であることに気づくためでした。ではどうして、こんなに良いものが、私たちに死をもたらすのでしょうか。それは律法が問題なのではありません。問題なのは罪です。罪がこの律法を利用して、私たちがもっと罪深い者であるようにとし向けたのです。その説明がこの14節にしるされていることです。このところをよく見ると、パウロは「私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です」と現在形で書かれてあります。これまではそうではありませんでした。これまでは過去形で書かれてありました。たとえば、9節には、「私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。」とあります。戒めが来るまでは律法は関係ありませんでしたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死んだのです。にもかわわらずここでは、「私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です」と現在形で書かれてあるのです。どういうことかと言いますと、14節のところに書かれてあることは救われる前の状態のことではなく、救われてからのことであるということです。このようなみじめな人間の姿というのは、救われる前ではなく救われた後のことなのです。救われて罪深い自分の姿に直面したパウロは、「ああ、私はほんとうにみじめな人間です」と告白せざるを得なかったのです。アウグスチヌスが、これがパウロが救われる以前の状態のことを言っているのではなく、救われた後の、クリスチャンになってからの赤裸々な告白であるという解釈に変わったのは、それゆえです。

皆さん、救われて信仰に生きたパウロでさえ、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから私を救い出してくれるのでしょうか」と告白せざるを得ないほどの葛藤に置かれていたのです。皆さん、信仰のしっかりした人は決して状況に揺さぶられないのでしょうか。そんなことはありません。どんなに信仰があつい人であっても、倒れてしまうときもあるのです。あのエリヤもそうでした。列王記第一18章を見ると、神様の預言者エリヤが、カルメル山でバアルとアシェラの預言者850人と戦って勝利した話が出てきます。このときのエリヤの姿はあたかもほえたける獅子のようで、勢いのある預言者でした。しかしその次の瞬間、アハブの妻イゼベルが登場し、エリヤを殺してやると宣言すると、彼は恐れて逃げ、エニシダの木の陰に座り、「主よ。もう十分です。私の命を取ってください。」と泣きつくのです。ちょっと前まではあんなに威勢の良かったエリヤが、「主よ、もう十分だから命を取ってください」と嘆く。いったいどちらが本当のエリヤの姿なのでしょうか。「主よ、もう十分です。どうか命を取ってください」と言った、あの姿こそ、本当の彼の姿なのではないでしょうか。人間は虚栄をはって、いかにも強そうに見せても、しょせん人間なのです。みんな弱い器にすぎません。

宗教改革者のマルチン・ルターは強靱な人物でした。当時のカトリックの勢力との戦いを一身に担った男です。しかしある日、急に無力感に襲われました。それを見ていた彼の妻が、喪服を着てルターの前に現れたのです。びっくりしたルターが、「いったいどうしたのか?身内の者でも死んだのか?」と尋ねると、妻が答えて言いました。「だって、神様はすべてのことを統べ治めておられる方なのに、あなたがシュンと落ち込んでいるから、神様はお亡くなりになられたかと思ったのです。」そのことばに奮起したルターは再び力を得て、改革の旗印をいよいよ高く掲げていったのです。

どんな信仰の勇士でも、動揺し、落胆することがあるのです。「ただ信仰によって」とあれほど叫んでいたルターでさえも、落胆しました。これが人間の姿なのです。クリスチャンになったからといって、もう信じて何年にもなるから落ち込まないということはありません。どんなに強い勇士のような人でも、あるときは落胆して苦しむ、弱い人間の姿をさらすこともあるのです。

使徒パウロも同じです。15節を見ると、「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。」と告白しています。Ⅱコリント1章8節を見ると、彼は非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受けていたと告白しています。それがどのようなプレッシャーだったのかはわかりません。しかし、それは耐えられないほどのプレッシャーでした。キリストの福音を伝えたあのパウロでさえ、そうした弱さがあったのです。自分の願うことではなく、かえって憎むことを、罪を犯してしまうということが、どうしてもありました。18,19節でも同じようなことを言っています。パウロの葛藤は、自分の中には善をしたいという願いがあるにもかかわらず、悪を行ってしまうという矛盾した自分というか、弱い自分があったのです。

これがパウロの率直な告白でした。この告白は何を意味しているのかというと、使徒パウロほどになれば、悩みや問題、葛藤といったことは一切なく、日々確信に満ちて、口さえ開けば「ハレルヤ!」とほとばしり、どんな試みや患難がやって来ても揺らぐことなどないかというとそうではなく、その内側にはいつも神様のみこころに従えないという悩みがあり、その内面は葛藤で満ちていたということです。であれば、普通の聖徒である私たちにはなおさら、そうした葛藤はつきものなのではないでしょうか。

ある病気との闘いの中にある方とお話したことがあります。この方はその病気と闘っていたとき、自分はクリスチャンなのにどうしてすぐに心を騒がせる弱い人間なんだろうと思ったそうです。しかし、私と話しているうちに、私が「自分にもそうして落ち込むことがありましたよ。あのとき、神様は自分を見捨てられたのではないかと思ったくらい、「神様どうしてですか」と嘆いて落ち込んだんです」と言ったら、その方がこう言われました。「先生。励まされました。先生でも落ち込まれることがあるんですね。それを聞いて励まされました」と。その方はどうも私という人間は落ち込むことを知らない人間なんじゃないかと思っていたらしいのです。とんでもない。そんなに強い人間などどこにもいません。みんなそうやって悩み、苦しみ、もがきながら、闘っているのです。それが人間の、クリスチャンの姿なのです。

Ⅱ.葛藤の原因(21-23)

では、いったいどうしてクリスチャンには、こんなに闘いがあるのでしょうか。次にその原因について考えて行きたいと思いますが、それはクリスチャンには二つの原理があるからです。21~23節をご覧ください。

「そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。」

この二つの律法とは内なる人である心の律法に対して、外なる人である肉の律法のことです。8章2節のことばで表現するなら、いのちの御霊の原理に対する罪と死の原理です。この罪と死の原理がいのちの御霊の原理に闘いを挑むので、こうした葛藤が生じるのです。ですから、イエス様を信じていない人々が、こうした葛藤や悩みを抱えることはありません。イエス様を信じていない人は、罪と死の原理という一つの原理に完全に支配されているからです。外なる人も内なる人も同じ律法に支配されているので、両者の間に葛藤が生じることがないのです。イエス様を信じていない人が「祈らなかった」と言って悩んだりすることはありません。けれども、いったんイエス様を信じ、心に迎え入れた人たちはそうではありません。イエス様を信じた人たちにはいのちの御霊が与えられているので、信仰が大きいとか小さいとかにかかわらず、このいのちの御霊の原理に罪と死の原理が闘いを挑むので、葛藤が生じるのです。しかし、心配には及びません。こうした葛藤があるということ自体、そこにいのちがあることを意味しているからです。いのちが植え付けているので、少しでも神の律法に背いたりすると、不安になったり、恐れが生じたりするのです。もしいのちがなかったら、いのちの原理が全く働いていないなら、不安などは生じません。私たちが不安になるのは、私たちの内にいのちの種が蒔かれたからなのです。ですから、罪の勢力といのちの勢力の闘いが、ここから始まるわけです。そしてこの闘いは、いのちの勢力が圧倒的な勝利を治めるまで続けられます。パウロは、Ⅱテモテ3章12節で、

「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」

と言っています。確かに、キリスト・イエスにあって生きようと思うなら、そう決心したその瞬間から、この罪と死の勢力との闘いが始まるわけです。信じているような信じていないような、ふらふらした状態で生きていたときには何の闘いもなかった人が、主のみこころに従って歩んでいこうと決心した瞬間に、その人の中に大きな変化が起こるのです。その結果、いったい何のために信じたのかさえも見失ってしまうほどの混乱が生じるのです。これまで何でもないと思っていたことができなくなったり、あたりまえだと思っていた常識がそうでなくなったりして戸惑ったりするのです。それはその人の中にいのちが芽生えたからなのです。いのちの御霊の原理が、罪と死の原理と闘っているからなのです。

使徒の働きの17章を見ると、パウロがテサロニケという町で伝道していると、その町の人たちがクリスチャンの人たちを「世界中を騒がせて来た者たち」と呼びました。いったいクリスチャンが何をしたというのでしょうか。何もしていません。ただ全世界の唯一の救い主であるイエス・キリストを信じ、この方の御名を宣べ伝えていただけです。しかし、テサロニケの人たちの目には、このクリスチャンたちの存在が、世界をひっくり返す人たちのように映ったのです。イエス様を本当にまっすぐに信じる人たちの所には、こうした革命的な変化が自ずと現れるのです。

イエス様は、マタイの福音書10章34~36節のところで、このようなことを言われました。「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。」  どういう意味でしょうか。私たちが本気でみことばに従おうとすると、家庭内の平和は崩れるということです。一方にはこの世の原理で生きようとする人がいて、もう一方ではみことばに従って生きようとする人たちがいて、ぶつかり合うからです。いのちのみわざがなされるところには、いつも罪と死の勢力があがいて暴れるからです。ですから見てください。イエス様が現れた所には、悪魔につかれた人たちが声を出して発狂しながら出て行きました。いのちそのものであられるイエス様が来られると、死の勢力はもはや隠れていることはできなかったのです。教会に葛藤が生じるのも同じです。このいのちの御霊の原理に罪と死の原理が闘いを挑むので、平和が崩れてしまうのです。ですから教会は、いつもいのちの御霊の原理に支配されるように、いつも神様の視点で物事をとらえ、神様のみこころにかなった歩みができるように祈らなければなりません。

Ⅲ.主イエス・キリストにあって(24-25)

ではどうしたらいいのでしょうか。どうしたらこの罪と死の原理に勝利することかできるのでしょうか。それはただ主イエス・キリストにあってであるということです。24~25節をご覧ください。

「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」

いったいどういうことでしょうか?パウロたる人間が、「私、ほんとうにみじめな人間です。」と嘆くゆえんは何なのでしょうか。それは彼の中には、この罪と死の原理に打ち勝つ力がないということです。彼には善を行いという思いがあっても、その善を行う力がないというのです。そして、からだの中にある罪の律法のとりこにされているというのです。みことばに従いたくても従えないというのです。これがパウロが直面した挫折感でした。そしてこれはパウロばかりではなく、すべてのクリスチャンに言えることなのです。私たちはこの罪に打ち勝つ力などないのです。ほんとうにみじめな人間でしかない。いったいどうしたらこの罪と死の原理から解放され、いのちの御霊の原理が働くのでしょうか。

パウロは、その答えがわかりました。それは全く私の中にあるものではなく、神の恵みによるものでした。25節で彼はこう言っています。「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」彼は、それはただ神様の恵みでしかないということがわかったのです。自分がいかに罪深い者であり、自分の中にはこの罪に打ち勝つ力など全くないのにもかかわらず、神がイエス・キリストによってその罪の贖いをしてくださいました。私たちはただ神様の御前に頭を垂れ、悔い改めて、神に立ち返り、神の恵みによりすがるだけでいい。そうすれば、イエス・キリストにある神の義と力が、この罪と死に完全に勝利することができる。パウロはその原理がわかったのです。この嘆息こそ祝福です。これこそ、神の恵みに深く入れられた者の告白です。信仰のない人に、このような嘆息はありません。信仰のない人には、自分の弱さ、醜さが見えないからです。人はまことの神様の恵みの光、力の光に照らされて、初めて自分がどれほど罪深い存在なのかがわかるのです。主にあって自分の弱さと足りなさを知った人だけが、この告白をすることができる。ですから、パウロの手紙などを見てみると、彼がキリストにあって歩めば歩むほど、低くされていることがわかります。比較的初期の頃に書かれたコリント人への手紙では、彼は自分のことを「使徒の中では最も小さい者」(Ⅰコリント15:9)と言っていたのに、中期に書かれたエペソ人への手紙では、「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私」(エペソ3:8)と読んでいるのです。そして、末期に書かれたテモテ第一の手紙では、「私はその罪人のかしらです」(Ⅰテモテ1:15)と言っています。完全に最低のところまで低く見ています。これが彼の福音理解でした。まさに「実るほど 頭を垂れる稲穂かな」です。それは霊的な世界でも同じ事なのです。

ある人々は自分はしっかりした器だと思っています。特に悪いことはやっていないし、主の日の礼拝もちゃんと守っている。自分は立派な信仰者だと錯覚しているので、変わっていない自分の姿を見ても、「私は何てあわれな者だ」と胸を打って、悲しむことがないのです。これは災いです。「ああ、ほんとうに私はみじめな人間だ。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と叫び、悔い改めなければなりません。この「死のからだ」ですが、これは当時の処刑の方法に「死体の抱き合わせ」というのがあって、生きている死刑囚と死体とを一緒に縛りつけるというものでしたが、その体のことです。死体が腐るときに発生する病原菌が、生きている死刑囚の体に移り、死に至るのです。普通は死ぬにの1~2ヶ月かかったと言われています。その体のことです。私たちの体はまさに死のからだなのです。いったいだれがこの死のからだから、私を解放してくれるのでしょうか。

ただイエス様だけです。この24節と25節の間には、がらっと雰囲気が変わっています。まるで今泣いたカラスがもう笑ったかのようです。大きなギャップがあります。なぜでしょうか。それは、私たちはそうした嘆き、絶望に長くとどまっていてはいけないからです。自分のみじめな状態を見るとき、私たちは、「ああ、私はほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから私を救い出してくれるのでしょうか。」と叫ばずにはいられないでしょう。がしかし、いつまでもそこにしがみついていてはいけません。私たちはそうした絶望の淵から飛び上がらなければならないのです。どうやって?イエス・キリストによってです。「イエス・キリストのゆえに」これがキーワードです。自分の力によってではなく、イエス様を仰ぎ見たら、力が湧いた、希望に溢れたというのです。私たちに救いを与えてくださるイエス様は、死に定められた状態にずっととどまり続けた存在ではありませんでした。三日目によみがえられたのです。死の力を完全に打ち破って、復活されました。ここに希望があります。イエス様は天と地のすべての権威を持っておられ、悪魔の力を完全に打ち破ることができるお方なのです。自分の内には全く希望がなくても、このイエス様によって勝利することができる。これがパウロの勝利の力でした。

ですから私たちは、いつまでも失望や落胆の中にとどまっていてはいけないのです。クリスチャンでも落ち込むことがあります。どんなに偉大なクリスチャンでもみな失望、落胆を経験したのです。ただ違うのは、その中で何を見つめたのかです。「主イエス・キリストのゆえに」ここに私たちの希望があるのです。私たちは罪と死の原理に悩み、負けそうになっては落ち込んだりする弱い者ですが、主イエス様はこうした支配を完全に打ち破る力を持っておられる方であることを覚え、ただこの方の恵みによりすがり、信仰によって、勝利ある人生を歩む者でありたいと思うのです。これが私たちの進む道なのです。

ローマ人への手紙7章7~12節 「律法は罪ですか」

きょうは、「律法は罪ですか」というタイトルでお話したいと思います。パウロは、この律法について7章1~6節までのところで論じてきました。それによるとクリスチャンというのはこの律法から解放され、キリストの花嫁として、キリストの愛と恵みのご支配に生きる者とされたということでした。このように言うと、いかにも律法が悪いものであるかのように聞こえるので、パウロは「律法は罪なのでしょうか」と問いかけることによって、律法と罪との関係について説明を加えようとしたのです。それがこの箇所です。

律法とは神の戒めのことです。それは、狭い意味で言うなら出エジプト記20章に記されているモーセの十戒のことであり、広い意味で言うなら旧約聖書全体を指します。つまり「このようにしてはいけない」とか、「こうしなさい」という神のおきてのことです。この律法をどのように見るかということは、私たちクリスチャンにとって、極めて重要なことです。というのは、これを正しく理解していませんと福音がボケてしまうからです。そして、極端な律法主義に陥ってしまったり、逆に律法など必要ないという律法不要論を称えたりして、いつしか聖書の教えている福音からズレてしまうことにもなりかねません。

きょうはこの律法について三つのことをお話したいと思います。まず第一のことは、律法が与えられたのは罪を知るためであったということです。第二のことは、この律法によって私たちの内にある罪が働き、あらゆるむさぼりを引き起こすということ。そして第三のことは、その結果私たちをいのちに導くはずの律法が、かえって死に導くものとなってしまったということです。

Ⅰ.律法によって罪を知る(7)

まず第一に、律法が与えられのは罪を知るためであったということについて見ていきましょう。7節をご覧ください。

「それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。」

パウロは、1節から語ってきたことを受けて、「それではどういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか」と問いかけます。それに対してパウロは、絶対にそんなことはないと断言します。12節にあるように、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。ではなぜ神様は律法を与えられたのでしょうか。それは罪を知るためです。律法によらないでは、罪を知ることができないからです。律法が「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知りませんでした。むさぼりとは、「欲深く物をほしがること。欲ばること。」(国語辞書)です。聖書の脚注には、「悪い欲望」とありますが、これは神様が禁じておられることを、あえてしようという願望のことです。パウロがなぜこの戒めを取り上げたのかというと、十戒の中でもこの戒めが、他の戒めと違う点があったからです。他の九つの戒めはすべて体の外に現れる罪であるのに対して、このむさぼりだけは心の中で犯す罪であったという点です。たとえば、「あなたは偶像を造ってはならない」とか、「それを拝んではない」「殺してはならない」「姦淫してはならない」といった戒めはすべて外側に現れる罪ですが、「むさぼってはならない」というのは、そういう形では現れてきません。それは心の中の隠れた罪なのです。

パウロは、イエス様を信じるまでは律法に厳格なパリサイ人として、そのおきてに忠実に従っていると思っていました。しかし、この「むさぼってはならない」という戒めを受けたとき、これまで抱いてきた罪に対する理解が打ち砕かれ、自分が罪人であることに気づかされたのです。まさか心に思うことまで見透かされ、そこまで光を当てられるとするならば、自分は正しい者だと主張できる人などだれもいないでしょう。だれもが神の戒めを受けるまでは、罪とは法を破ることであって、法律さえ守っていれば、自分はまともな人間だと思っているのです。私もかつてはそうでした。社会のルールを守って、温かい心、優しい心、思いやりの心があれば、なかなかいい人間じゃないかと思っていたのです。最近の宣伝で、「人の思いは見えないけれど、思いやりは見える」ということばがあります。電車に乗っていた時にお年寄りがやって来て、その方に席をお譲りする。立派なことです。そうした思いやりが見えるとき、自分って何ていい人間なんだろうと思うのです。しかし、その見えない思いが問題です。その思いを、たとえばプロジェクターなどで写してみようものなら、恥ずかしくて顔を覆いたくなるのではないでしょうか。そうした私たちの思いを写しだし、私たちがどんなに罪深い者なのかを知らせてくれるのがこの律法なのです。

実は、律法が与えられた目的は、そこにあったのです。イエス様はマタイの福音書5章21~28節のところで、このことを教えられました。普通ユダヤ人は、「殺してはならない」という戒めを、手を下して人を殺すことだと考えていましたが、イエス様はそれだけが殺人なのではなく、自分の兄弟に対して腹を立てたり、「ばか者」というようなことがあったとしたら、それもまた殺人を犯したことと同じなのだ言われました。また、姦淫についても、実際に行為としての姦淫だけに限ったことではなく、心の中で情欲を抱いて女を見る者は、すでに姦淫を犯したのです、と言われました。つまり、律法というのは本来心の問題を取り扱っていたのであって、そういう面から見たら、だれも罪を犯していないなどと言える者はいないのです。すべての人が迷い出て、みな無益な者となってしまった。そのことを知らせるために律法が与えられたのです。

それは、救いというのはこうした罪の自覚から始まるからです。人が罪についての正しい自覚を持つことなしに、救いに入れられることはありません。その罪をいかんなく示し、そのままでいることができないように、時には不安を与えることはあっても、救われたいという思いを起こさせるものが律法なのです。

Ⅱ.律法を利用する罪(8)

では何が問題なのでしょうか。問題は律法ではなく、私たちの中にある罪です。8節をご覧ください。

「しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。」

「機会をとらえ」というのは、攻撃の拠点として利用することです。律法そのものはすばらしいものであり、正しく、良いものですが、罪が、私たちの内にある罪がこの律法を利用して、攻撃してくるのです。それはちょうど「てこ」のようなものです。てこというのは、重くてなかなか動きそうもない大きな石などを動かす時に使われるものですが、支点と呼ばれるものを利用して、長い棒を使って動かすと、重くてなかなか動かない石でも容易く動かすことかできます。たとえば、罪は「むさぼるな」という律法をてこにして、私たちのうちにあらゆるむさぼりを引き起こすのです。人は禁止されると、逆に行いたくなるものです。禁じられると、逆に欲望が燃え上がり、罪は生き生きと生き始め、誰もそれを押さえることができなくなって、悩み苦しむのです。

たとえば、自動車を運転していて制限速度の表示を見ると、もっとスピードを出したくなるのは私だけでしょうか。制限速度が40キロとか50キロとか出ていると、もっとスピードを出したくなって、ほとんど人が50キロとか60キロで走ってしまうのではないでしょうか。10キロくらいだったら捕まらないだろう・・・と。ちょうどそれと同じように、律法がそこにあると、それを破りたいという思いが私たちの内側に起こってくるのです。それは私たちの中にある罪がその律法をてこにして働きかけ、ありとあらゆるむさぼりを生み出すからです。

ですから、今日の世の中を見てください。その頽廃(たいはい:風俗・気風がくずれ不健全になること。くずれ 衰えること。こわれ荒れること。)ぶりは恐ろしいほどです。まさにソドムとゴモラのように、不品行、汚れ、情欲に満ち溢れています。道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行いをむさぼるようになったのです。(エペソ4:19)それは、生まれながらにして私たちの中にある罪が、戒めを利用して、私たちの中にありとあらゆるむさぼりを生み出したからなのです。いくら道徳的なことを教えたとしても、それでその人が自分の力でそれを守れるかというとそうではなく、かえってありとあらゆるむさぼりを生み出すようになります。罪はそれほどまでに力があるのです。そういう意味では、そうした道徳的な教えや戒め、律法は全く無力でしかありません。

ですから、神様は罪人である私たちが救われるためには、そうした律法を守ることを要求しないのです。そんなことはできないことだからです。ではどうしたらいいのでしょうか。神の救いを信じることです。神様は、その大きなあわれみによって、このように自分では律法を守ることができない無力な人間を救うために、ご自身のひとり子イエス・キリストをこの世にお与えになりました。イエス様を十字架に付けてくださり、私たちの罪の身代わりとなってその贖いを成し遂げてくださることによって、私たちを罪から救う道を用意してくださったのです。私たちはただ自分の罪を認め、悔い改めて、イエス・キリストを罪からの救い主と信じればいいのです。そうすれば、神の完全な義が私たちに臨み、私たちはすべての罪が赦され、その支配から解放されるのです。5章20~21節に「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」というみことばがありますが、私たちがキリストの十字架のもとに行った時、はじめてその真意がわかるようになるのです。

Ⅲ.死に導く律法(9-11)

このように、私たちの内にある罪が律法を利用して、ありとあらゆるむさぼりを引き起こすようになったのだとしたら、私たちはいったいどうなってしまうのでしょうか。死に導かれます。9~11節をご覧ください。

「私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。それは、戒めによって機会を捕らえた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。」

律法自体は聖なるものであり、正しく、良いものですが、その律法が与えられたことによって、罪がそれを利用し、さまざまなむさぼりを引き起こした結果、人は死んでしまいました。いのちに導くはずの神の戒めが、かえって死に導くものであることを、パウロは知ったのです。パウロは神の律法を行うことにおいてはきわめて熱心な者であって、その律法による義については、非難されるところのない者でした。しかし、それは律法が本当に言わんとしていたことを正しく理解していなかったからであり、それが本当の意味でわかったとき、自分がどれほど罪深い者であるかに気がついたのです。それはまさに目から鱗でした。

今日、どれだけ多くの人々が回心以前のパウロのようでしょうか。いかにも自分が正しい者であるかのように思い込み、自分の義を誇り、他の人を非難してしまうのです。一般的に道徳的であると思われている人ほどそうです。それはまさに、祈るために宮に上ったあのパリサイ人のようではないでしょうか。彼は立って、心の中でこう祈りました。

「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫をする者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」(ルカ18:11~12)

これは罪がわからない人の姿なのです。本当の意味で自分がどんなに罪深い者であるかがわかるなら、他の人のことをあれこれと言うようなことなどできないからです。本当に罪がわかる人というのは、一方の取税人のようです。彼は目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいでこう祈りました。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』(同18:13)と。

いったいこの二人のうちでどちらが義と認められたでしょうかす。パリサイ人ではありません。取税人の方でした。「なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(同18:14)    私たちに律法が与えられたのは、私たちがどんなに弱く、罪深い者であるかに気づかせるためです。神様のさばきの前には全く滅ぶべき者にすぎないということを知らせるためだったのです。それが「死んだ」という意味です。この死んだ人だけが、キリストの福音によって生きることができます。自分の力で何かができると考えているうちはキリストの恵みがわかりません。私たちにあるのは罪だけです。もう死んでいるのです。そのことがわかる人だけが、キリストの救いに入れられ、神のいのち、永遠のいのちが与えられ、本当に生き生きとした人生に入れられるのです。それが福音なのです。

今、日本に必要なのはこの福音ではないでしょうか。それは砂地に建てられた見せかけだけの立派な家のようではありません。堅固な岩の上に建てられた家のようです。雨が降って、風が吹き付けられても、その家は倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。確かな土台の上に建てられた家です。神様は、そのように真の生き生きしたいのちを、人生を、私たちにも与えたいのです。

先週はイースターでしたが、その前日の土曜日に、私はルカの福音書23章39~43節のみことばを読みました。それはちょうどイエス様と一緒に二人の強盗が十字架につけたられた話でした。十字架にかかった二人の罪人は、最後の瞬間に全く違う選択をしました。一人はイエス様に向かって悪口を言ってのろい、非難しました。しかし、もう一人の強盗は、イエスを神の子であると信じました。自分は当然死ぬべき罪人であるが、イエス様は罪のない方でありながらも、不当な処罰を受けて死んで行かれることを知っていました。そのような中で彼は、そんな自分のような罪人でも救われますかと尋ねたのです。イエス様は何と言われたでしょうか。

「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)

と言われました。彼は最後の瞬間に永遠のいのちを得て、パラダイスに入れられたのです。大切なことは、悔い改めて、イエス・キリストを信じることです。ジョン・ピルドは、その著「恵みの上に恵み(下)」の中で次のように言っています。 「悔い改めなしには、救いもありません。神の御前で悔い改めるとき、赦されない罪人はいません。悔い改めは、罪の赦しを受ける唯一の道です。イエスが悔い改める強盗に救いの道を開いてくださったことは、どんな罪人でも悔い改めれば救われることを私たちに示すためでした。まことの悔い改めは、神を喜ばせ、救いの祝福を受ける、最も価値ある行いであることを覚えてください。」

律法を守ろうとすることは大切なことです。しかし、律法を守ることによっては救われないのです。律法を守ろうとすればするほど罪の意識が生じるからです。そこにあるのは「死」です。「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」(ローマ3:21~23)

イエス・キリストの十字架によらなければ、この罪の力を打ち砕くことはできません。どんなに強い意志、どんなに高尚な道徳、鋼鉄のような律法をもってしても防げなかった罪の力が、イエス様が十字架に釘付けられたことによって砕かれたのです。イエス・キリストの十字架だけが、罪と死の権勢から私たちを救ってくれる唯一の道なのです。このイエスを信じる信仰による義。それが私たちに与えられた新しい希望なのです。

地上においた船をどれだけ動かそうとしても、屈強な男たちが何十人いても、一隻の船さえ動かすのは容易なことではありません。しかし潮が満ちて船が浮くと、幼い子供がちょっと押しただけでも船は動くようになります。これが神様のみわざです。自分の力で律法を行おうとするのではなく、律法を完全に行われ、私たちの罪を贖ってくださったイエス・キリストを信じ、この方にすべての重荷をゆだねるとき、取るに足りない私たちの力でも、悠々と船を動かすことができる、驚くべき不思議な人生が展開していくのです。

ローマ人への手紙7章1~6節 「キリストの花嫁として」

きょうは、「キリストの花嫁として」というタイトルでお話したいと思います。パウロは6章の中で、クリスチャンとはどのような存在なのかについて語りました。それは、キリストに結びついた者であるということでした。パウロは、そのことをわかりやすく教えるために、主人と奴隷のたとえを使って説明してきました。つまり、クリスチャンというのは罪の奴隷から解放されて、神の奴隷となったということです。きょうのところでは、それを結婚のたとえを使ってさらに説明を加えようとしています。つまり、クリスチャンとはキリストと結ばれ、キリストと結婚した、キリストの花嫁であるということです。それまでは律法という夫に結ばれていたので律法に縛られていましたが、その古い夫である律法が死んでしまったので、新しい夫であるキリストと結ばれ、この方のために生きるようにされたというのです。

きょうは、このキリストとの結婚についてついて三つのことをお話したいと思います。まず第一に、古い夫について見ていきましょう。古い夫とは律法のことです。私たちは、この古い夫である律法と結婚していた時にはその支配の下にありましたが、その夫が死んでしまった以上、もはやその支配から解放されました。第二のことは、新しい夫についてです。その新しい夫はだれのことでしょうか。そうです、キリストのことです。クリスチャンは古い夫である律法と死別した後に、キリストと結ばれて、キリストの花嫁となりました。ですから第三のことは、キリストの花嫁として生きるということです。

Ⅰ.古い夫、律法(1-3)

まず古い夫について見ていきましょう。1~3節までをご覧ください。 「それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか―私は律法を知っている人々に言っているのです。―夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。」

このローマ人への手紙7章は、実際には6章14節の説明です。パウロは、6章14節で「というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。」と宣言しましたが、この短い聖句を説明するために、主人と奴隷の関係を例にして説明した後に、今度は婚姻関係を例に取り上げて説明を加えようとしているのです。そしてそのポイントは何かというと、法律における婚姻関係というのはその人が生きている間だけの期間であって、その人が死んでしまえば、その法律から解放される、すなわち、その後であれば、だれと結婚しても自由であるということです。

では、これまで私たちが結婚していた相手とは、どのような人だったのでしょうか。ここには、それは律法であったとしるされてあります。法の下のあったということはどういうことかと言いますと、犯罪者であったということです。なぜなら、法というのは犯罪した人にだけ適用され、意味を持つからです。私たちは、律法の前ではそのような者なのです。たとえば、十戒を見ると、その最初の戒めに、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」(出エジプト20:3)とあります。これはどういう意味でしょうか。もちろん、造り主なる神様以外に神があってはならないということですが、コロサイ3章5節を見ると、この中でパウロは、「このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」と言っています。むさぼることが偶像礼拝だとしたら、この戒めを守っていると言える人がいったいいるでしょうか。だれもいません。私たちはあれも欲しい、これも欲しいとむさぼる者だからです。「殺してはならない」という戒めもあります。しかし、イエス様は兄弟に向かって腹を立てる者、「能なし」と言うような者、「ばか者」と言うような者はすでに心の中で人を殺したと言っています。そうであれば、私たちの中で人を殺したことのない人などいるでしょうか?「姦淫してはならない」という戒めを私たちは聞いています。しかし、イエス様は、女性を見て情欲を抱く者はすでに姦淫を犯していると言われました。それならば、姦淫などしたことないなどと、胸を張って言える人などだれもいないのです。私たちはみな、これらの律法の前には、罪ある者でしかないのです。ですからパウロは、このローマ書3章10~11節のところで、「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」と言っているのです。私たちはみな、この律法の前には罪人であり、その束縛の下に暮らしているのです。

パウロはこのことを、夫と妻の関係をとおして説明しています。1節、「それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか。」2節、「夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に縛られています。」私たちは以前、この妻のように、律法という夫に縛られていました。この夫といっしょにいれば罪に定められてばかりいるので、そこから解放されたいと別れようとしても別れることができませんでした。このパウロの時代は、女性の側から離婚を要求することは考えられませんでした。結局、この奥さんは夫の束縛から脱出できないのです。

しかし聖書は、こうした夫の束縛から抜け出す方法が一つだけあるというのです。何でしょうか。それは死ぬことです。結婚している女性でも、夫が死んだ場合には、その結婚関係は解消され、夫から解放され自由になり、別の男性と結婚しても差し支えなくなるのです。死ねば、すべての関係は終わるのです。ではどうしたら律法は死ぬのでしょうか。「早く死んでください」とお願いしても、律法は死にません。なぜなら、「天地が滅び失せない限り、律法の中の一点一画も決してすたれることはありません」(マタイ5:18)とあるからです。律法は神様の原則ですから、なくなることも、変わることもありません。結婚の場合は夫が死ぬことによってその関係が解消されますが、律法の場合はそういうわけにはいかないのです。ではどうしたらいいのでしょうか。自分が死ぬばいいのです。夫が律法であり、妻が自分であるなら、この両者の関係を断つには、自分自身が死ぬしかないのです。ですから聖書はこう言うのです。6章4節、「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです」皆さん、福音の確信は、私たちが死ぬところから始まるのです。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)

私たちがキリストにあって新しいいのちを得、律法のすべてのくびきから解放されるためには、死ななければなりません。死ねば自由になるというのが福音です。十字架なしには決して解放の喜びを体験することはできません。私たちの人生のすべてにおいて、一度死にさえすれば、そのときからすべての束縛から解放されるのです。私たちが死んだと宣言するなら、そのとき私たちは生きるのですが、逆に、私たちは生きると思うと、死ぬのです。

どういうことかというと、こういうことです。かつてビリー・グラハムという有名な伝道者が、こんな話をされました。カエルたちの会議です。カエルたちが集まって会議をしていました。そのとき一羽の鶴が彼らのそばから飛び立ちました。それを見ていたカエルたちは、いったいどうしたらあんなふうに飛べるのかと、鶴に訪ねて聞きました。そして名案を思いつきました。それは、長めの棒切れの両端を互いにくわえていれば飛べるのではないか、ということでした。鶴も、「それはいい考えだ」と賛成して、やってみることにしました。カエルが棒切れの片方を、鶴がもう片方を口にくわえ、格好よく飛び立ちました。カエルはもう夢か幻かわからないほどの興奮と喜びに包まれました。下にいた仲間のカエルたちはそれを見て、「おお、すばらしい!カエルでもあんなふうに飛べるのか!」と驚きました。そこで飛んでいるカエルに叫びました。「お~い、誰がそんなすごい考えを思いついたんだ?」すると飛んでいたカエルは、得意げに答えました。「おれだよ!」そう言った瞬間に、そのカエルは下に落ちて死んでしまいました。    私たちも同じです。「俺がやった。私の力、私の才能だ」と自慢した瞬間に、私たちは死にますが、私は死んだ。キリストともに十字架にかかって葬られたと言うなら、そのとき生き返るのです。死んだ者にはことばはなく、自分の栄光もありません。死んだ者は自我を失い、ただ忠誠を尽くす心だけが残っているからです。この点において、私たちは注意深く今回の大地震のことを思い巡らさなければなりません。今回の大地震はいったいどういうことだったのでしょうか。それはまさに、私たちは死んだということだったのではないでしょうか。この自然の猛威の前には、私たちは何のなす術もない無力な者であるということを悟り、この天地の造り主であられるまことの神様におすがりしなければならないということなのに、そのことに気づかず、まだ「私がやる」「日本には力がある」などと言っているとしたら、本当の意味でこの地震の教訓を生かすことができないのではないかと思うのです。原子力事故による災害はその最たるものでしょう。どんな災害が襲ってきても日本の原子力発電所の電源は絶対に大丈夫だと豪語していたのに、それがたった一瞬の大津波によって、すべてが動かなくなってしまいました。今こそ私たちは死ぬべきです。私たちは、どんなに小さなことでも成し遂げると高慢になるものですが、そうではなく、それはただ神の恵みですと、神に栄光を期する者でなければならないのです。

私の尊敬しているニュース解説者の方が、ある日テレビの番組で、「私たちの知らなかったアメリカ」を解説していました。アメリカという国は、キリスト教が基盤になっている・・・と。そのキリスト教が信じている聖書には、神様がすべてのものを造ったと書いてあるのですが、私たちの常識ではなかなか考えられないことです。と言っていました。どこまでも科学こそが真実であるかのような解説をしておられましたが、人間の知識にどれだけ優れたところがあるというのでしょうか。パウロは、「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(Iコリント1:25)と言っていますが、本当に私たちの賢さというものは、神の愚かさにも届かないのです。私たち人間にとって必要なのは、自分に死ぬことです。この天地を造られた神様の前にへりくだって歩むことなのです。

また逆に、自分はだめだという意識も持たないことです。私たちは少しでもうまくいかないと落ち込みます。自分は無能だとという意識にとらわれているからです。しかし、そのような意識を持ってしまうのは自分がやったと考えているからであって、死んでいるなら、そのような感覚さえ起こらないのです。そうでしょ。ですから、高慢も罪ですが、挫折も罪です。自我が死んでいる人は高慢にもならず、挫折もしません。神のしもべには、本来、誇りもなければ、落胆もないのです。あるのは何でしょうか。あるのは忠誠を尽くすことのみです。成すべき事を淡々と、忠実に成し遂げていくことだけです。人生のすべてを神様にゆだね、主のみこころだけを淡々と行っていくこと。これこそ神のしもべの人生であり、十字架に釘付けされた者の人生なのです。

Ⅱ.新しい夫、キリスト(4)

次に、新しい夫について見ていきましょう。4節をご覧ください。

「私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。」

ここでパウロは、「あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいる」と言っています。私たちは、もうキリストの死によって、死んだのです。ゆえに、律法との夫婦関係も根本的に解消されました。そして、他の人と結ばれたのです。他の人とは誰でしょうか。イエス様です。イエス様と結ばれて、神のために実を結ぶようになったのです。イエス様が夫で、私たちはその妻であり、その花嫁です。ということはどういうことかというと、律法はもはや私たちを支配しないということです。新しい夫であるイエス様だけが、私たちを支配なさるのです。もちろんそれは、実際の旦那さんをないがしろにしてもいいということではありません。イエス様に支配されるなら、実際の夫にも、もっと仕えていきたいと思うようになるはずだからです。ここで言わんとしていることは、結婚関係において夫や自分が死ねばその婚姻関係が解消されるように、私たちは律法との婚姻関係が解消し、その支配から解放され、新しい夫のもとで、その支配の中で生かされるようになったということです。

では、それはどのような支配なのでしょうか。一言で言うなら、それは愛です。パウロは、私たちクリスチャンとキリストとの関係を次のように言っています。

「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」(エペソ5:25)

ここでパウロは、夫に関する勧めの中で、「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」と言いました。キリストはご自分のいのちをささげられるほど、私たちを愛してくださいました。私たちが母親に特別な愛を感じるのは、母親にはこのような愛があるからではないでしょうか。母親は、我が子にだまされても、裏切られても、何があっても、すべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを堪え忍びます。懐が広いというか、深いのです。私も中学生の頃には反抗期があって、母親によく反抗したものです。母親にはお金がないということがわかっていても、それをむしり取るかのようにしてもらい、自分の欲望のために使っていても平気でした。母親はこんな私をどんなに憎らしかったことか、どんなに悔しかったことかと思うんです。親の心、子知らずということわざがありますが、子は親になるまでその痛み、苦しみというものを、なかなか理解できないものなのです。しかし、自分が親になってみて、初めて、「ああ、あのとき母親がどんな気持ちだったのか」ということが痛いほどわかるような気がします。それでも母親は赦してくれました。たぶん・・。それでも母親はだまされてくれました。なぜ?愛していたからです。母親には、そのような愛があるのです。イエス様も同じです。イエス様はそのようないのちがけの愛で、私たちを愛してくださるのです。

クリスチャンの人生とは、このような人生なのです。私たちが罪を犯し、あるいは倒れたとしても、恵み深い私たちの夫であられるイエス様は私たちを赦し、抱きしめてくださいます。それだけでなく、新しい道を示し、そちらの道に導いてくださいます。掃除をやっていないからと言って、鬼のように鉄の棒を持って仁王立ちしているような方ではないのです。私たちの夫は、そんな暴君ではありません。すべてを愛と恵みで満たしてくださる方なのです。それゆえ、古い夫である律法と決別し、新しい夫と結ばれた私たちは、異邦人のように、何を食べるか、何を飲むか、何を着るかなどと言って、心配する必要はないのです。そういうものはみな、異邦人が切に求めているものです。しかし、私たちの天の父は、恵み深い主イエスは、それがみな私たちに必要であることを知っておられ、それに加えて、すべてのものを与えてくださるのです。

Ⅲ.恵みに生きる(5-6)

ですから第三のことは、この恵みに生きましょうということです。5~6節をご覧ください。

「私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」

ここに、「しかし、今は」とあります。クリスチャンは、古い生活と決別し、全く新しい生活に入れられました。それはキリストと結ばれた、キリストの花嫁としての、キリストの愛と恵みに満ち溢れた生活です。それは古い文字に捕らわれた、通り一遍の、外見的な生き方ではなく、御霊によって導かれる、バランスのとれた、愛と恵みに満ち溢れた生活です。そのような生活へと導かれたのであれば、私たちはその行く先々で、律法ではなく、恵みが感じられるような人生を歩んでいかなければなりません。恵みが支配するところには豊かな祝福が溢れ、いのちのみわざが起こり、多くの人々が押し寄せて来るようになります。教会は、律法と正義をもって構えていてはいけませんが、互いが「こうすべきだ」「ああすべきだ」と主張して言い争ったりするのではなく、「本当に罪深く、足りない者なのに、ただ神様のあわれみによって救われたて感謝!」と、「こんな者が主の教会に連ならされていただいて、感謝です」と、へりくだった思いが必要です。

家庭でも、互いにさばき合ったりするのではなく、神のみことばが恵みの中で生かされるように求めるべきです。みことばが律法として機能してしまい「こうすべきだ」「ああすべきだ」と互いに主張すると、恵みは消え失せてしまいます。律法が支配すると家庭には平和がやってきません。恵みが支配することによって、家庭にも祝福が溢れるようになるのです。「聖書には妻を愛せと書かれているのに、いつも愛の足りない自分を赦してくれ」言う夫に、「そうよ」なんて言わないで、「いいえ、あなた。従いなさいとあるのに、従っていない私が悪いのよ」という家庭では、みことばが恵みとして機能するのです。「はい」と言うと「はい」、「いいえ」というと、「いいえ」、「ごめんね」というと、「ごめんね」と返ってきます。神様のみことばは律法として用いることも、恵みとして用いることもできるのですが、恵みとして用いましょう、というのです。神様のみことばを自分に適用すると恵みになりますが、他の人に適用すると、人を責め立てる律法になってしまうのです。    子育てにおいても、律法が支配する家庭では、こどもが曲がったひねくれた道に進んでしまうケース多くなりますが、恵みが支配する家庭では、こどもたちは健全に育っていきます。家の決まりが多すぎて、「これを破ったらむち打ち10回、二度断食」という具合にやると、父親は裁判官みたいな、母親がこん棒を持ったイメージしか残らず、かえってこどもは家に帰らたがらないで、夜の街を歩き回るようになるのです。「自分は一度も人様に迷惑をかけたこともなく、かけられたこともない」というのは、クリスチャンにとっては誇りにはなりません。貧しい人を助けて、少々踏み倒されるくらいがちょうどいいのです。刀のように鋭い人は、隣人に恵みを施す機会をそれだけ逃しているかもしれないのです。

昔イスラエルでは、稲の収穫をするときには、稲をすっかり刈り取ることはしませんでした。畝(うね)一つ残しておくようにしたのです。そして穀物を刈り取りながら、わざと少し落としておいたのです。なぜなら、貧しい人たちがそれを集めることができるようにするためです。そういう配慮からでした。それから、動物たちが食べるためでした。

これが恵みの生活です。それは決して、生真面目なばかりの生活ではありません。時にははしゃいでみるのもいいでしょう。普段からたくさん与え、日々余裕をもって多くの人を広い心で包み込み、恵みを注ぎ続ける。そんなライフスタイルです。神様は、そのような人をますます祝福し、多くの恵みを注いでくださるのです。キリストの花嫁として私たちがこの世で味わう祝福は、そうした神の恵みの現れなのです。

ローマ人への手紙6章15~23節 「神の奴隷として生きる」

きょうは、「神の奴隷として生きる」というタイトルでお話したいと思います。23節のところに、「しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり」とあります。もとは罪の奴隷でしたが、今は神の奴隷となったのですから、神の奴隷として生きなさいというのです。現代人は、「奴隷」ということばに違和感を感じます。奴隷というのは、何の自由もない、束縛された状態にある人のことを指しているのではないかと考えているからです。

しかし、聖書をみるとパウロは、自分が神の奴隷とされたこと、神の奴隷として生きるということに、言うことのできない喜びと、感謝と、誇りを持っていたことがわかります。パウロは他の人に比べて一番多くの書簡を聖書の中に残した人ですが、そのパウロは、自分が使徒であることを主張しなければならない時には、明確に、「キリスト・イエスの使徒パウロ」という言い方をしておりますが、そうでない時に彼が自分のことを表す際に用いた表現は、「キリストの奴隷」でした。自分はキリストの奴隷である・・・と。彼は、自分が使徒であることを主張しなくてもよい時には、いつもこの「キリストの奴隷パウロ」と書いたのです。

それはパウロばかりではありません。ペテロもヤコブもそうでした。たとえば、ペテロはイエス・キリストによって罪から解放され、自由にされた者として、「あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。」(Iペテロ2:16)と言っています。ペテロはいつでも弟子たちの中で自分がナンバーワンでないと気が済まない性格の人間でした。おれがおれがと出しゃばりました。そのようなペテロが、イエス様の奴隷であることを喜びとし、光栄とし、感謝し、誇りとしていたのです。

パウロも同じでした。彼はもとは罪の奴隷でしたが、今は義の奴隷とされたことを感謝していると言いました。それはパウロばかりでなく、同じように罪の奴隷から解放された私たち一人ひとりのクリスチャンにも言えることです。

きょうは、この「神の奴隷として生きる」ということについて三つのことをお話したいと思います。第一のことは、私たちは罪から解放されて、義の奴隷となったということについてです。第二のことは、そのように義の奴隷となったのであれば、義の奴隷として、清潔に進みなさいということです。そして第三のことは、その行き着くところです。罪の行き着くところは死です。しかし、神の奴隷として、清潔の行き着くところは永遠のいのちです。

Ⅰ.罪の奴隷から義の奴隷へ(15-18)

まず第一に、クリスチャンは罪の奴隷から解放されて、義の奴隷となったということを見ていきたいと思います。15~18節までのところですが、まず15節をご覧ください。

「それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。」

パウロは、6章1節からのところで、罪が増し加わるところに恵みがまし加わるのならば、罪の中にとどまっているべきかということに対して、絶対にそんなことはないと語ってきました。罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおもその中に生きていられるだろうか。いられません。キリストにつぎ合わされて一つとされた私たちは、もはや罪の下にではなく、恵みの下にあるからです。では恵みのもとにあるなら罪を犯そうとなるのでしょうか。なりません。なぜでしょうか。パウロはその理由を15~18節までのところで述べているのですが、それは、クリスチャンというのは罪から解放されて、義の奴隷となったからです。

「あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」

ここには、クリスチャンとはどういう人なのかが示されています。そして、クリスチャンというのは罪から解放されて、神の奴隷となった者であるということです。クリスチャンは、もともと罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準、これは「福音」のことでありますが、この福音によって、罪から解放され、義の奴隷となったのです。義の奴隷とは何でしょうか。22節を見ると、ここには「しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり」とありますから、これは神の奴隷のことであることがわかります。生まれながらの人間はだれもみな、罪の奴隷です。生まれながら神の奴隷であるという人はいません。またこのどちらでもない中立の立場という人もいません。みんな罪人であり、罪の奴隷なのです。そのように、罪の奴隷であった者たちが、神の御子イエス・キリストの十字架の贖いによって、神のものとされたのです。そのことについて、エペソ2章1節からのところで、次のように語られています。

「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです―」(エペソ2:1~5)

また、Ⅰコリント6章20節には、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」ともあります。私たちは、イエス様の十字架という代価によって、買い取られたのです。イエス・キリストを信じる人は、皆、神様のもの、神様の所有となったのです。

現代人は、この「奴隷」ということばに引っかかります。奴隷というのは、自分の意志に反して、嫌でも何でもこき使われる。お金で売買されるというイメージがあるからです。罪から解放されて、神の奴隷になったということは、神に束縛される不自由な状態に置かれるのではないかと考えてしまうのです。この当時、ローマ帝国には600万人の奴隷がいたそうです。その中には主人に愛され、豊かな生活をしている奴隷もあったでしょうが、大部分の人は牛馬のようにこき使われ、牛馬のようにお金で取引されました。ことに船底で年がら年中オールで船を進めるために漕いでいたガロースレイプと言われる人たちは大変でした。疲れて少しでも休むと、金属の長いむちを持った人にビシッと打ちたたかれ、休む暇もなく、交代するまで漕いで、いつも船底の暗い所に生きていなければなりませんでした。

しかし、パウロが言っている神の奴隷というのは、決してそのような奴隷のことではありません。本当の意味での自由の中を生きる人のことでした。というのは、本当の自由というのは神にあるからです。昔、栄華を極めたソロモンは、「空の空。すべては空」(伝道者の書1:2)だと言いました。「日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。」(同1:3)と言ったのです。神を抜きにしたものは、たとい学問でも、快楽でも、事業も、芸術も、すべてむなしいのです。それらのものは、それなりに一時的な喜びや満足感や幸福感を与えてくれるかもしれませんが、それははかない罪の楽しみにすぎません。ですから、現代には、心に休らぎがないのです。今よりももっと良い暮らしを求めてせかせかと働き、その忙しさの中に、せめてもの楽しみをお酒や映画やテレビに求めても、それによって本当の安息は得られません。人によって流行を追い求め、現代を生きていると思い込んで満足しようとしますが、そのようなことで、私たちの心は満たされることはできないのです。神から離れ、キリストから離れた生活には、決して本当の自由と平安、喜びと満足はありません。イエス様は、「人の子は安息日の主です」(マルコ2:28)と言われましたが、イエス・キリストこそ真の安息であって、イエス・キリストにあってこそ真の自由を得られるのです。

それは罪が赦されて、罪から解放された自由です。もはや罪は私たちに何の所有権を持っていません。だれが私を訴えるのですか。だれが私を罪に定めるのですか。だれもいません。神のひとり子イエス・キリストが、私たちのために死んでくださり、そして今、よみがえって神の右の座に座して、私たちのためにとりなしていてくださいます。私たちはこのキリストにあって、罪のペナルティー、罪のさばきから全く解放されたのです。イエス様の十字架の贖いによって、ちょうど大海の底に沈め込まれたように、風によって雲や霧が吹き飛ばされたように、私たちの罪が全く取り去られ、もはや再びそれを覚えないと言うのです。天国に行ったとき、「あなたは、こういう罪を犯したなあ、ああいう事もやった。なんてひどい人生だった」とみんなから責められ、小さくなっていなければならなくても、神の右の座におられる方が、「父よ。この人を赦してください。この人の罪は、十字架で全く清められています」と、とりなしてくださるのです。私たちの人生に深く深く刻み込まれた罪が、イエス様の血潮によって洗い清められ、あたかも罪を犯さなかった者のようにしてくださるのです。それが義認ということです。私たちの人生で何が苦しいかって、罪を責められることほどつらいことはありません。多くの人が、この罪の呵責(Guilty consciousness)に苦しんでいるのです。しかし、イエス様はこの罪のさばきから、罪の傷跡から、罪の呵責から解放してくだいました。そればかりではありません。罪の力からも解放しくださいました。

ある人たちは、自分たちはそんな罪からの救いなど必要ないと言います。そんなものがなくても、十分りっぱな人格者として生きていくことができると言うのです。しかし、果たしてうでしょうか。自分は自由であり、主体性をもって毎日生きているし、人格者だと思っている人でも、いざという時にはそうではないのです。いざという時には、人は必ず利己的な考え方をし、利己的な行動をとるものです。それがこの罪の世の現実なのです。つまり、私たちは、何が正しいか、何が間違っているのかという判断を、自分の都合によってしているということです。ですから、どんなに自分でりっぱな人格者として生きていこうと思っていても、そこには限界がありますし、全く無力にすぎないのです。まして単なる考え方が変わるだけでなく、感情や道徳も含めて全人格的に変わることなどできるわけがないのです。人間は罪のゆえに全く無力にすぎません。しかし、福音には力があります。「福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力」(ローマ1:16)だからです。

このように、神の奴隷となったということは、罪の支配、罪の奴隷から解放され、真の自由と平安、喜びと満足を与えてくださる神の力、神の支配に生きるようにされたということです。いつでもどんな時でも神様の前に出て、自由にお祈りすることができますし、祈ったことは聞いていただける。慰めが必要な時には慰めが、励ましが必要な時には励ましが、赦しやきよめが必要な時には赦しやきよめが、導きが必要な時には導きが、忍耐が必要な時には忍耐が、愛が必要な時には愛が、知恵が必要な時には知恵が、全部私たちのものとして与えられるのです。それはむしろ、すばらしい特権なのです。

出エジプト記21章5~6節には、「しかし、もし、その奴隷が、『私は、私の主人と、私の妻と、私の子どもたちを愛しています。自由の身となって去りたくありません』と、はっきり言うなら、その主人は、彼を神のもとに連れて行き、戸または戸口の柱のところに連れて行き、彼の耳をきりで刺し通さなければならない。彼はいつまでも主人に仕えることができる。」とあります。昔、イスラエルでは奴隷とされても6年後には解放されるという習わしがありましたが、中には奴隷がご主人様の愛を感じ、「自由になりたくない。あなたのそばにいて、一生涯、いつまでもあなた様に仕えたい。」と言うと、その人はずっと奴隷としていることができました。そのときには家の戸口の柱の所に連れて行かれ、その柱の前に立って、きりで耳に穴を開けられたといいます。それが自ら進んで奴隷となったしるしだったのです。そうまでしても奴隷でいたかった。まさに、神の奴隷であるということは、そうしたいと望むほどのすばらしい立場に変えられることなのです。

パウロは、ガラテヤ人への手紙の中で、「私は、この身に、イエスの焼き印を帯びている」(6:17)と言いました。その焼き印とは、所有者の印です。牧場などに行ってみると、よく牛や馬の体に、所有者の焼き印が押されているのを見ることがありますが、パウロは、自分の身にはイエスの焼き印を帯びていて、自分はイエス様のもの、イエス様の所有であると告白したのでした。頭のてっぺんから足のつま先に至るまで、すべてあなたのものです、あなたの所有です、と告白したのです。私たちも同じです。私たちは罪から解放されて、神の奴隷となりました。私たちはイエス様の十字架の贖いによって、神に買い取られ、神の奴隷、義の奴隷とされたのです。

Ⅱ.神の奴隷として生きる(19)

第二のことは、そのように神によって買い取られ、神の奴隷とされたのであれば、その神の奴隷として生きましょうということです。19節をご覧ください。

「あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。」

このところでパウロは、そのように罪の奴隷から解放されて義の奴隷、神の奴隷となったのであれば、その手足を神の奴隷としてささげて、清潔に歩みなさいと勧めています。

ところで、パウロはこのところで、「あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています」と述べていますが、この「人間的な弱さ」とはいったいどういう意味でしょうか。もちろん、生まれながらの人間は、霊的には盲目ですから、そういう意味での弱さを持っていますが、ここでの「肉の弱さというのはそういうことではありません。ここでパウロが言っているところの「肉の弱さ」というのは、キリストを信じてすでに救われていながらも、霊的な理解力において持っている弱さのことです。ヘブル人への手紙5章12節には、

「あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。」

とありますが、そういう意味での弱さです。つまり、クリスチャンではあっても、まだ十分に霊的に成長していないため、霊的理解力に欠けている人々ということです。ですから、パウロはクリスチャンとは罪から解放されて義の奴隷となったということを理解できるように、こういう言い方をしているのです。こういう言い方とは何でしょうか。奴隷の例です。先程も申し上げましたように、人はだれも奴隷などにはなりたくありません。けれども、その奴隷の意味は違っても、私たちが罪から解放されて義とされたということは、全く神の奴隷とされたということと同じことなのです。であれば私たちはどうしたらいいのでしょうか。義の奴隷として、神の奴隷として、清潔に進まなければならないのです。「その手足を」というのは、心も身体もすべてをという意味です。私たちは、私たちを愛して、御子イエス・キリストを十字架の死にまでも渡され私たちを買い取ってくださった神に、すべてをささげなければなりません。「清潔に進む」とは、そういうことです。ここで誤解しないでいただきたいことは、これは完全に聖くなることではありません。そんなことは罪深い人間にできることではありません。ですから、たとえ罪を犯して悲しむことがあったとしても、そのことで悩む必要はないのです。大切なのは悔い改めることです。そうすれば、神は真実で正しい方ですから、すべての悪から私たちを聖めでくださいます。ここで言われている清潔に歩むとは、聖くなっていく歩みをしていくということであって、全く罪を犯さない完全な人になることとは違うのです。福音が本当にわかっている人は、罪の中にとどまりたいとは考えません。何度も何度も罪を犯すような者でも、それでも、神に喜ばれるような聖い歩みをしたいと願い、そのように進んでいくものです。

今は天に召されましたが、日本を代表する伝道者の一人に、本田弘慈という先生がおられましたが、この本田弘慈先生のモットーは、「いつでもとこでも何でもはい」でした。神様が「本田」と召されたら、いつでも、どこにいても、何でも「はい」と言って従う。それが本田先生のモットーだったというのです。

旧約聖書に出てくるダビデには、立派な兵隊がいましたが、中でもすぐれた三人の勇士は、「ダビデ三勇士」と呼ばれていました。彼らは、ダビデが「ああ、あのベツレヘムの水が飲みたいなぁ」というと、そのダビデ王のために、「いつでもどこでも何でもはい」でした。そこにどんなに強力な敵兵がいても、その敵兵の陣営をくぐり抜けて、敵の陣営の向こう側にあったベツレヘムの井戸から、いのちがけで、たた一杯の水を持ってきたのです。ダビデもダビデで、そうやって彼らが持ってきた水を、「彼らがいのちをかけて持ってきたこの水を、私がどうして飲めるだろうか」と言って、その水を神にささげるように地に注いだというのです。神の奴隷として生きるということは、こういうことなのではないでしょうか。ダビデの三勇士は、むだなようなことでもいのちをかけました。一杯の水を持ってきたのにその水を飲んでもらえないで地にかけられたときには、「ああ、むだだった」と思ったことでしょう。しかし、むだだと思えるようなことにまでいのちをかけて、ダビデを喜ばせようとしたあの三勇士のように、私たちがイエス様の血潮がこの地に注がれるために駆け出して行くことを、神はどんなに感動の心をもってご覧になっているかと思うのです。

戦前、日本にやって来た宣教団体の一つに、「セントラル・ジャパン・パイオニア・ミッション」(中央日本開拓伝道団)という団体がありますが、その団体が1925年に群馬、埼玉、栃木で伝道を開始したときのモットーは、「キリストの愛我に迫れり」でした。それはコリント人への手紙第二5章14~15節のみことばからとったものです。

「というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」

キリストの愛が私を取り囲んでいる。キリストがすべての人のために死なれたのは、それは生きている人たちが、もはや自分のためではなく、自分のために死んでよみがえってくださった方のために生きるためなのです。このキリストの愛が分かるとき、私たちはもうすべてをささげて、この方のために生きたいと思うようになるのは、当然のことなのではないでしょうか。

戦前、信仰を持たれたあるクリスチャンがおられました。その人は、信仰のゆえに家を追い出されて苦労しましたが、やがてクリスチャンの旦那さんと結婚しました。しかし結婚して二年半で戦死されて、残された二人の子供さんを骨をきしませて育てました。職業婦人として苦労なさいましたが、彼女は壮絶なほどに厳しい人でもありました。彼女はキリストのために身をささげ、キリストの愛に生きました。彼女が亡くなってしばらくして、あちらこちらで、「私は、Bさんによってイエス様に導かれました。」という人がたくさん出てきたのです。そのBさんの墓石にしるされた詩がありまして、次のようなものです。

「ひとりの愁い(うれ)をいやし得ば、ひとりの涙を拭きいえば、弱りし一羽の小鳥をば、助けてその巣に帰しえば、わが生涯はむだにならず。」

なんという思いでしょう。ひとりの愁いとか、ひとりの涙、弱りし一羽の小鳥とかというのは、まさに罪に滅び行く魂のことですが、そのような弱りし一羽の小鳥をば、助けてその巣に帰しえば、わが生涯はむだにならずとは、まさに神に、キリストに、すべてをささけ尽くした人の言葉ではないかと思うのです。イエス様は、ひとりを追い求め、そのひとりのたましいが放っておかれ、弱り果てて倒れていくことがやりきれないのです。ひとりのその人のために祈り、愛の労苦をする人を、イエス様はどんなにか求めておられるのではないでしょうか。

Ⅲ.死か永遠のいのちか(20~23)

第三のことは、その結果です。その行き着くところはどこかということであります。20~23節をご覧ください。

「罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」

ここには、信仰を持っていない人々と、信仰を持って神の奴隷として生きる人の、二種類の人の姿、その運命について記されてあります。一般にこの世の人々は、その運命がどれほど重大な違いがあるかを知っていませんが、それは国籍の違いや男女の違い、あるいはこの社会的なさまざまな違いといったもの以上に重大な違いです。なぜなら、これによって永遠が決まるからです。罪の中にある人たち、罪の中に死んでいる人たちの行き着くところはどこでしょうか?その行き着くところは永遠の死です。この死とは単なる肉体の死のことではなく、霊的死のことです。黙示録では「第二の死」(20:14)と呼ばれているもので、祝福の源であられる神様から、永遠に引き離されてしまうことです。  それに対して、神の奴隷の最後は何かというと、「永遠のいのち」です。永遠に神様の祝福のうちに、あり続けることです。私たちのいのちは、決してこの地上だけのものではありません。この肉体は滅んでも、たましいは永遠に続くのです。その第二の人生をいったいどこで送られるでしょうか。神とともに、神の祝福のうちにですか。それとも、神から引き離された、のろいのうちにでしょうか。

「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」

この世のどこを探しても、永遠のいのちはありません。永遠のいのちは、ただイエス・キリストにあるのです。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は、人には与えられていないからです。大震災の後で原発の問題もなかなか解決に向かっていかない今、この国の多くの人々が不安と混乱の中にありますが、まことのいのちと希望は、このイエス・キリストにあるのです。「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)このキリストの御名が、この国の至るところに宣べ伝えられるように、私たちはイエス様の心を心とし、イエス様の思いを思いして、「イエス様、あなたのことならどんなむだになるようなことでも喜んでさせていただきます」という覚悟で、全生涯を主におささげしていたきたいと思うのです。それが、私たちを愛し、私たちのために死んでよみがえってくださった方に応える生き方なのではないでょうか。神の奴隷としての生涯は、まことに実りの多い、喜びと力と報いのある、天国に行ったら、本当にすばらしい栄冠を神様からいただけるような生涯なのです。

ローマ人への手紙6章1~14節 「キリストとともに生きる」

きょうは「キリストとともに生きる」というタイトルでお話したいと思います。パウロは1~5章までのところで、イエス・キリストを信じる信仰による義について語ってきました。すなわち、すべての人は罪人なので神からの栄誉を受けることができず、ただ神の恵みにより、イエス・キリストを信じる信仰によってのみ、値なしに義と認められるということです。しかし、きょうのところから新しいテーマに入ります。それは、信仰によって義と認められた人はどのように歩まなければならないか、いわゆる聖化についてです。

きょうはこのことについて三つのことをお話したいと思います。第一のことは、罪が増し加わるところに恵みも満ちあふれるのであるならば、そのままずっと罪の中にとどまっているべきかということについてです。絶対にそんなことはありません。第二のことは、その理由です。どうして罪にとどまるべきではないのでしょうか。なぜなら、クリスチャンはキリストにつぎ合わされた者だからです。第三のことは、ではどうしたらいのでしょうか。自分の手足を不義の器として罪にささげるのではなく、義の器として神にささげなさいということてす。

Ⅰ.恵みが増し加わるために罪の中にとどまるべきか?(1-2a)

まず第一に、恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきかということについ見ていきたいと思います。1,2節をご覧ください。

「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」

パウロは5章の後半のところで罪にもまさる神の恵みについて語りましたが、そこに一つの大きな誤解が生じました。罪が増し加わるところに恵みも満ちあふれならば、私たちは罪の中にずっととどまっているべきかという疑問です。これは5章20節でパウロが語ったことを間違って理解したことによって生じた誤解でした。パウロは5章20節で、「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」と言いましたが、すると中には、それではその恵みが満ちあふれるために、もっと罪を犯して、恵みが増し加わるようにしたらいいんじゃないかという考える人たちが出てきたのです。これはとんでもない誤解です。本末転倒とはこのことです。パウロが言いたかったことはそういうことではありませでした。彼が言いたかったことは、どんなに大きな罪でもその罪に打ち勝てない恵みはなく、神の恵みは罪の力にまさるほど大きなものであるということです。私たちの罪がどんなに大きく、根深いもので、世の人々から見捨てられるうなものだとしも、神の恵みはそれ以上なのです。神の恵みの十字架のあがないにとって、赦すことのできない罪はありません。たとえ私たちが人を殺してしまったとしても、人様に迷惑をかけてしまうようなことがあったとしても、人間的に見たらこんなことは赦されないのではないかと思うような罪でも、神は赦すことができるのです。神の恵みはそれほどに大きいのです。十字架の恵みは、そのような罪を覆ってあまりあるほどです。どんなに大きな罪に支配されていたとしても、神の恵みの川かわ押し寄せてくると、すべてがたやすく変えられていくのです。

それなのに彼らは、パウロが言わんとしていたことを曲解していました。自分たちに都合がいいように解釈していたのです。今でも、彼らのようにこのみことばを誤解し、悪用する人たちがいます。神様の恵みの祝福を論争の種にしようとするのです。1節にあるように、「恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。」とめちゃくちゃなことを言う人がいるのです。罪が多いところには恵みも増し加わるのだから、たくさん恵まれるために、もっとたくさん悪いことをしようと言う人がいるのです。それは大きな誤解です。こうした誤解は、聖書が語っている強調点を誤ってとらえていることに起因するものです。    たとえば、ローマ・カトリック教会は長い間、天動説を支持してきました。なぜなら、ヨシュア記10章に記されてある事件を誤って理解したからです。ヨシュア記10章12,13節に、「主がエモリ人をイスラエル人の前に渡したその日、ヨシュアは主に語り、イスラエルの見ている前で言った。「日よ。ギブオンの上で動くな。月よ。アヤロンの谷で。」民がその敵に復讐するまで、日は動かず、月はとどまった。これは、ヤシャルの書にしるされているではないか。こうして、日は天のまなかにとどまって、まる一日ほど出て来ることを急がなかった。」とありますが、ここでヨシュアが太陽に向かって「太陽よ、止まれ」と命じたら、まる一日太陽が動かなかったということから、やっぱりい動いているのは太陽であって地球ではないと主張し、そのように主張した人(地動説)たちを処刑したり殺したりしたのです。ガリレオのような学者たちには強制的に天動説を支持させたりしました。「それでも地球は、まわっている」という彼の言葉は有名です。  いったいこうした過ちはどこから生じたのでしょうか?聖書の間違った解釈からです。聖書が本当に言わんとしている強調点、すなわち、その柱となるメッセージに従って理解しなかったことです。この箇所は、もともともともと地動説か天動説かを主張している箇所ではありません。神様の力によって明るい昼がずっと続き、その戦いが自分たちに有利に動くようにというヨシュアの祈りに神様が答えてくださり、エモリ人を絶滅させることができたという奇跡を記録しているのです。ですから、この聖句をもって地動説か天動説かを議論すること自体が全くナンセンスなのです。

恵みが増し加わるために、罪の中にとどまっているべきではないかと主張していた人たちの問題はここにありました。彼らはパウロが言っていた神の恵みの大きさを全く理解していなかったどころか、それを悪用して自分たちに都合のいいよに受け止めようとしたのです。そんな彼らの主張に対して、パウロは何と言っているでしょうか。「絶対にそんなことはありません。」断じてそういうことはないのです。神の恵みが増し加わるために、ずっと罪にとどまるべきであるという考えはおかしいのであり、間違っているのです。

Ⅱ.クリスチャンはキリストにつぎ合わされた者(2b-11)

なぜそれが間違っていると言えるのでしょうか。ですから第二のことはその理由です。クリスチャンはなぜ罪の中にとどまるべきではないのでしょうか?パウロはその理由をその後のところで語っています。2節の後半の部分をご覧ください。

「罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」

「罪に対して死んだ私たち」とはどういう意味でしょうか。ある人たちはその後に続く、「どうして、なおもその中に生きていられるでしょうか」という言葉から、クリスチャンは罪の力、罪の影響力から完全に解放されていると考えています。すなわち、クリスチャンは罪を犯すことのない完全な者にされたというのですが、そういうことではありません。11節には、「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと思いなさい。」とありますから、クリスチャンはこのような完全主義、つまり、全く罪を犯さない存在になったということではないのです。ではこれはどういう意味でしょうか。3~5節までをご覧ください。

「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちあ、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」

ここでパウロは、「あなたがたは知らないのですか」と言っています。それはどういうことを表しているかというと、クリスチャンならば当然知っているはずの常識的なことを知っているのかということです。神の恵みが増し加わるために、もっと罪の中にどまっていようというのは、その常識的なことをちゃん理解していないからだと言うわけです。ではその常識的なこととは何でしょうか。それは、クリスチャンとはどのような存在であるかということです。いわゆる、クリスチャンのアイデンティティーの問題です。そしてここでパウロが言っていることは、それは一言で言うなら、クリスチャンとはイエス・キリストにつぎ合わされた存在であるということです。キリストとつぎ合わされて一つとされた存在であるということです。イエス様と同じように考え、同じように歩み、同じ原理原則で生きる者であるということです。それはこの3~8節の中に、「キリスト・イエスにつく」とか、「キリストとともに」、「キリストにつぎ合わされて」という表現が6回も出ていることからもわかります。いわば、私たちは小さなキリストなのです。私たちはキリストとつぎ合わされて一つにされたがゆえに、キリストと同じようになり、同じような体験をするようになったのです。どういう体験でしょうか。十字架と復活です。6、7節には、

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」

とあります。はは~ん、これですね。罪に対して死んだ・・・・というのは。キリストとつぎ合わされ、キリストと同じようにされた私たちはまず、キリストと同じように、十字架の死を味わいます。イエス様は、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ16:24)と言われました。私たちの人生にはそれぞれ、負わなければならない十字架がありす。迫害や苦痛があるのです。イエス様がこの地上を歩まれたとき、ある人たちはイエス様に向かって「ベルゼブルにとりつかれている」、つまり「悪魔に取り憑かれている」言いましたが、同じようなことをクリスチャンに向かって言うことでしょう。イエス様を信じるがゆえに、この世で私たちが迫害や苦しみを受けるのは、少しも不思議なことではないのです。問題はそのような時に私たちがどのような態度を取るかです。イエス様につぎ合わされてイエス様と同じようにされたのなら、イエス様のように十字架を負っていかなければなりません。なぜなら、イエス様とともに十字架につけられたとき、私たちの罪のからだが滅びて、罪から解放されたからです。もう罪に対しては死んでしまったのです。この「罪のからだが滅びて」の「滅びて」という言葉は、「使い物にならない」「無力である」という意味です。たとえば、車を買って運転しようとしても、エンジンが壊れていたとしたら使い物にはなりません。それでも車はまだそこにあるのです。同じように、イエス様とともに十字架にかかって死んだ私たちは古い自分に死んだのです。からだはまだそこにありますが、使い物にはならないのであって、以前のように使うべきではないということです。からだが死んでいるのであれば、そのようなことは、起こるはずはありません。私たちはもはや、罪の奴隷ではないのです。私たちはキリストが十字架にかかられて死なれたように、古い自分に死んだのです。しかし、キリストともに死んだのであれば、それは同時に、キリストとともに復活し、キリストとともに生きるということであもあります。なぜなら、私たちはキリストにつぎ合わされた者だからです。8~10節をご覧ください。

「もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。」

もしキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることでもあります。キリストとともに生きるとはどういうことでしょうか。それはキリストの力によって生きるということです。キリストの力によって生きるなら、もはや罪が支配しないのは当然です。キリストは死の力を打ち破って勝利された方であり、罪の大きさにもまさる恵みを注いでくださる方だからです。私たちの力では決して罪に勝つことができません。どれほど歯を食いしばっても、自分の力では無理なのです。「いや~自分は大丈夫。自分は罪に打ち勝てるし、勝ってみせる」という人は、罪の力がどれほど強力であるかを知らないからです。アルコールや麻薬で苦しんでいる人がそれを断ち切ろうとしても、自分の力では無理です。賭博をする人も自分の中に他の力が働いているのを感じています。やめたい、やめたいと思っていてもなかなかやめられないのはそのためです。うそをつく人も、悪口を言う人も、何か得体の知れない力にひかれてそうするのです。自分はやめたいと思っていても、ついつい言ってしまう。罪にはそれほどの力があるのです。 しかし、死からよみがえられたキリストは、その罪の力に完全に勝利することができるのです。いま、クリスチャンにはこの力が与えられています。どのように?聖霊によってです。「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。」(使徒1:8)とイエス様が言われたのは、この力のことだったのです。イエス様が復活された後に昇天されたのはこのためでした。イエス様は十字架につけられる前に、弟子たちのために次のように祈られました。

「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」

この「助け主」こそ聖霊様です。キリストはこの聖霊様をとおして、いつまでも私たちとともにいてくださり、助けてくださいます。ですから、この聖霊が内住していることを知っているクリスチャンは、誘惑されて失敗することがあったとしても、必ずそれに打ち勝つことがきます。聖霊にはそれ以上の力があるからです。ですから、聖霊の力かあれば完全に罪に打ち勝つことができるのです。イエス様を信じると、今までお酒がおいしくてやめられないと思っていた人も、もうおいしくなくなり、罪の中に遊ぶことが大好きでやめられないという人も、そんなことがつまらないと感じるようになり、やめれない、やりたくないともがき苦しんでいた人が、その中から解放されるようになるのです。

パウロはイエス・キリストを信じるまでは、「私には、自分のしていることがわかりません。」と告白しています。「自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っていた」のです。「それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪」でした。その罪のゆえに、「善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがない」「自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行って」しまう。自分の内なる人は神の律法を喜んでいるのに、自分のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだしていたのです。彼は、自分が「ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と告白せざるを得ませんでした。しかし、この罪に打ち勝つ秘訣を知りました。それがイエス・キリストです。聖霊をとおして注がれるイエス・キリストの力です。ですから彼は、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」と言うことができたのです。(ローマ7:15~25)

「だれでも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古い人は過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

この聖霊の力と助けによってのみ、私たちは罪に勝つことができるのです。14節に、「というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです」とあるとおりです。

Ⅲ.イエス・キリストにあって生きる(11-14)

ではどうしたらいいのでしょうか。ですから第三のことは、このキリストにあって生きましょうということです。11~14節をご覧ください。

「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。」

ローマ人への手紙の中で、ここに初めて適用が記されてあります。これまではずっと信仰によって救われるという教理が語られてきましたが、ここにきてそうした教理の上に立って、具体的、実際的な適用が語られています。それは、自分が罪に対しては死んだ者であり、神に対しては、キリスト・イエスにあって生きている者であると思いなさいということです。ここで大切なのは、「思いなさい」という言葉です。このことばは「みなす」とか「認める」という意味の言葉です。そのことを強く意識いなければなりません。なぜなら、そこにキリストの十字架の死と復活という事実があり、そのキリストに私たちは結び合わされた者だからです。だからそのようにみなすことができるのです。それは決して私たちの信念や感情に基づくものではありません。私たちの信念や感情がどうであれ、神のみことばである聖書がそのように約束しておられるので、そのように信じて従うのです。それが信仰です。たとい私たちの心理状態がどうであれ、私たちの感情がどうであれ、それに従っていく、それが信仰です。

それは昔イスラエルがエジプトを出た時も同じでした。主は彼らにかもいと二本の門柱に小羊の血を塗るようにと命じられました。エジプト中の初子という初子を打つとき、主がそのしるしを見て、さばきを過ぎ越すためです。「そんなことをしたところでどんな意味があるのか」「わざわざそんなことをしなくてもいいではないか」と言う人もいたかもしれまん。しかし、誰がどう思い、どう感じようとも、神が言われたとおりに従った人だけが救われました。それは私たちも同じです。私たちに必要なのは、私たちがどう思い、どう感じるかということではなく、神様が言われたことに従うかどうかなのです。「思いなさい」というのはそういうことです。私たちはかつて罪と死の領域にいましたが、今はもうその中にはいません。今はもうキリストとともにいるのです。キリストともに天の領域、天の座に着いているのです。コロサイ人への手紙1章13節に、

「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」

とあるとおりです。このことがわかると、私たちはもはや律法の下にはいなことになり、罪も死も支配することがなくなり、死に対する恐れから解放されることになるのです。

かつてアメリカで南北戦争が行われたことがありました。それは、奴隷解放をめぐっての戦いでした。この戦争の結果、奴隷解放を訴えていた北部が勝利し、奴隷が解放されることになりました。ところが、何人かの奴隷は、その自分たちの立場の変化がまだわからず、なおも奴隷のような生活に甘んじていたのです。しかし、その立場をよく理解した奴隷たちは、自由に行動することができました。ちょうどそれと同じように、自分がどのような立場に変化したのかをよく理解する時に、クリスチャンも真の自由人として行動することができるようになるのです。罪はもう二度と私たちを奴隷にすることはできせん。キリストとつぎ合わされたこによって、愛する御子のご支配の中に移されたのです。それが「罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」という意味です。

それは、もう二度と罪を犯さないということではありません。常習的に罪を犯すことがないという意味です。罪の奴隷のように罪を犯すことかないということです。なぜなら、クリスチャンは罪の領域から解放されているからです。ですから、クリスチャンはたとい罪を犯すことがあったとしても、罪の領域から解放された者として罪を犯すのであって、罪の領域の中にあって、常習的に罪を犯すことはないのです。私たちは現実の生活の中では罪を犯すことのある弱い者ですが、しかし、もうすでにそうした罪の支配の中にはいないのです。ですからそのことをよく理解し、神の恵みの中で、キリストとともに生きる者でなければなりません。具体的には、私たちの手足を不義の器として罪の支配にゆだねた生き方ではなく、義の器として神にささげなければなりません。お酒に満ちていたカップを持っていた手が、聖書を持つ手に変えられ、汚い言葉を発していた口が、神を賛美し、福音を語る口になるように祈らなければなりません。ヤコブ書にかかれてあるように、賛美とのろいが同じ口から出るようなことがあってはならないのです。泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせることがないように、あるいは、いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの水を同じ穴ならせたりすることがないように、賛美とのろいが同じ口から出ることがないようにしなけばなりません。キリストのご支配に移された人、聖霊がその内に住んでいる人、古い自分が死んだ人は、ガラテヤ5章24節にあるように、「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲と欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」キリストにある新しい人として、勝利ある人生を歩ませていただきましょう。

世の終わりが近づいていることを感じる今、私たちは、心騒がせることなく、キリストにあって天の座に着かせていただけたことを喜び、感謝して、この世にあっては、ご聖霊の助けによって、ますます神のみこころに生きる者でありたいと思います。

ローマ人への手紙5章12~21節 「罪よりも大きな神の恵み」

きょうは「罪よりも大きな神の恵み」というタイトルでお話をしたいと思います。パウロはこのローマ人への手紙の中で、すべての人は罪人なので神からの栄誉を受けることができず、ただ神の恵みにより、イエス・キリストを信じる信仰によって、価なしに義と認められるということを語ってきましたが、この5章に入って、ではそのようにして罪から救われた人はどのようになるのかについて語りました。すなわち1節にあるように、信仰によって義と認められた私たちは、神との平和を持つことができるということです。いやそればかりではありません。患難さえも喜ぶことができるようになりました。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すことを知っているからです。この希望は失望に終わることはありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

きょうの箇所はこれまで語ってきたことのまとめです。12節には、「そういうわけで」とあります。「そういうわけで」というのはどういうわけでかというと、これまで述べてきたように、すべての人は生まれながらに罪を持っており、その罪のゆえに神の怒りを受けて滅びるしかない者でしたが、あわれみ豊かな神様は、ひとり子イエス・キリストによって救われる道を用意してくだり、その御子を信じる信仰によって、義と認めてくださったということです。きょうのところには、その神の恵みがどれほど大きなものなのかがしるされてあります。

きょうは、この神の恵みについて三つのことをお話したいと思います。第一のことは、最初の人、アダムの罪の大きさについてです。アダムが神の命令に背いてしまったことで罪が世界に入り、その罪が全人類に広がってしまいました。第二のことは、その罪にもまさる神の恵みです。第三のことは、その恵みを受けるにはどうしたらいいのでしょうか。イエス・キリストを信じなさいということです。

Ⅰ.ひとりの人によって全人類に死が(12-14a)

まず第一に、アダムの罪の大きさについて見ていきたいと思います。12~14節をご覧ください。

「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、―それというのも全人類が罪を犯したからです。というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。」

ここには、最初の人アダムの罪がこの人類にもたらした影響がいかに大きいものであったかが述べられています。ひとりの人アダムによって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がりました。いや、これはアダムだけの問題ではありません。私たち全人類の問題なのです。なぜなら、アダムは人類の代表者だからです。アダムが罪を犯したということは、私たち全人類が罪を犯したことになるのです。これがいわゆる「原罪」と言われているものです。現代の人は、人は生まれながらに罪を持っているということをなかなか受け入れることができません。アダムという自分とは関係のない人が行った罪の責任を、どうして自分が引き受けなければならないのかというのです。特に知識人たちは、これを「非合理でばかばかしい話だ」と言って顔を背けます。パスカルはその著「パンセ」において、「原罪は人間の目で見ればとてもこっけいなものだ。理性でこの原罪を理解することはできない。なぜなら原罪という教えは理性に背くものだからだ。理性は、自分の方法で原罪を考え出すことはできない」と言いました。

しかし、聖書は繰り返し繰り返し、このアダムが罪を犯したことで、全世界に罪が入り、それがすべての人に及ぶようになったと言っています。そのことは、15~19節の中で「ひとりの違反によって多くの人が死んだ」という表現が5回も述べられていることからもわかります。あのアダムの罪が、私たちひとりひとりの個々の罪につながっているのです。言い方を変えますと、アダムにあって、全人類は罪を犯したのです。それは神学者のシェッドやストロングが言ってるように、遺伝的な伝わるのか、あるいはホッジという神学者が言っているように、転嫁によるのかはわかりませんが、はっきり言えることは、聖書は、母の胎に存在したときから私たちは、罪を持っているということです。

私たちが置かれている状況や環境の大部分は、自分の意志とは関係なく一方的に与えられたものです。たとえば、私たちは日本人に生まれたくてそうなったのではなく、生まれた時から日本人でした。また、お金持ちの家に生まれたくてそうなったのではなく、あるいは貧乏人の家に生まれたくてそうなったのでもありません。こうした環境や状況といったことは、自分とは全く関係のないところで起こったことなのです。同じように、私たちが罪を持って生まれたきたというのも私たちがそうしたいからそのようになったということではなく、生まれたときからそうだったのです。これは認めようが認めまいが事実なのです。それが12節で言ってることです。人類の始祖であるアダムが、神様の御前に不従順の罪を犯したことで、全人類が堕落し、その罪が転嫁されました。人類はアダムにあって一つの運命にほかならないのです。

それは、たとえばサッカーのワールドカップで、自分の国が勝った時に発する言葉を聞いてもわかるでしょう。私たちは自分の国が他の国と試合をして勝ったとき何と言うでしょうか。「私たちは勝った!」と言わないでしょうか?私たちが試合をしたわけでもないのに、「私たちは勝った」と言います。なぜなら、11 人のイレブンは、自分たちの国を代表して勝ったからです。これが代表性の原理と言われるものです。

霊的な世界において、この代表性の原理を理解することはとても重要なことです。一人の人の罪によって皆死ぬことがある一方、一人の人の従順によって全人類が救われることもあるからです。ですから、この全体の代表である一人が重要なのです。イスラエルの歴史をみるとどういう時代が祝福されたかというと、優れた指導者が統率した時代でした。すなわち、ダビデのように神様を畏れ、神様のみこころにかなった王様が指導した時は国の状態も良くなりましたが、神様のみこころにかなわない悪い王様が統率した時は、ひどい状態になりました。

これは一般の歴史においても言えることです。指導者が国を左右するのです。西洋のことわざに「獅子が統率する羊の部隊は、羊の統率する獅子の部隊よりも強い」とありますが、まさにそのとおりです。指導者で決まります。いくら獅子の隊員がしっかりしていても、指導者が羊ならば弱くなりますし、逆に、指導者が獅子のように勇敢で、野性味に溢れているなら、羊の部隊を率いてもたやすく勝利することができるのです。それは家庭でも同じです。家庭で家長がみことばに立ち、絶えず祈り、霊的にまっすぐに立っていればその家には神様の恵みに溢れるようになりますが、そうでないと、倒れてしまいます。それは教会においても同じです。教会でも牧師が神様の前に直ぐな気持ちで立って、祈りに徹し、みことばに従い、忠実に仕えるなら教会全体に祝福が臨みますが、そうでないと、教会は決して祝福されません。その鍵を握っているのが牧師なのです。これは会社の指導者であれ、地域の指導者であれ、国の指導者であれ、共同体を導く立場におられるすべての人に言えることです。立つも倒れるも指導者いかんで決まるのです。ですから私たちは、そうした指導者たちのために祈らなければなりませんし、私のためにも祈っていただきたいのです。

最初の人間アダムは、私たち人類の代表でした。アダムにあって人類は一体なのです。そのアダムが罪を犯したので罪が全世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がりました。私たちはだれひとり例外なしに、この原罪を持っているために、たとい恐るべき罪を具体的に犯していないとしても、罪人であり、死ぬべき者にすぎないのです。

Ⅱ.罪よりも大きな神の恵み(14b-21)

ではどうしたらいいのでしょうか。神様は、このような人類をあわれんでくださいました。それがイエス・キリストの恵みです。14の後半をご覧ください。ここには、「アダムはきたるべき方のひな型です」とあります。「きたるべき方」とはだれでしょうか。そうです、イエス・キリストのことです。このところでパウロはキリストを第二のアダムとして描き、この両者を対比させることによって、この神の恵みの大きさを説明しています。すなわち、アダムにあって全人類が罪に陥ったのと同じように、イエス・キリストにあって全人類が救いに至るようになったということです。アダムひとりによって全人類に死が臨みましたが、今は第二のアダムであるイエス・キリストによって、信じるすべての人に救いといのちが与えられたのです。

しかし、最初のアダムと第二のアダムとの間には、大きな違いがあります。それは、第二のアダムであるイエス・キリストの恵みは、満ち溢れているということです。15~17節をご覧ください。

「ただし、恵みには違反の場合とは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。また、賜物には、罪を犯したひとりによる場合と違った点があります。さばきの場合は、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです。もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」

ここにはその満ち溢れた神の恵みが強調されています。15節には、「それにもまして、・・多くの人々に満ちあふれるのです」とありますし、17節にも、「なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々」とあります。20節にも「恵みも満ちあふれました」とあります。ここではアダムの違反と比べて神の恵みがどれほど大きいかが表されています。それが「それにもまして」とか「なおさらのこと」です。アダムによって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。また、ひとりの違反によって死が支配するようになったのだとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、イエス・キリストによっていのちが支配するのです。ちょうど光のようにです。光が差し込んでくればやみが追放されるように、どんなに死に支配されようが、イエス・キリストを信じるならば、やみが消え去るのです。なぜなら、キリストは三日目に死人の中からよみがえられて、今も生きておられるからです。このイエス・キリストにあって、なおさらのこと、いのちが支配するようになるのです。この「それにもまして」とか「なおさらのこと」という言葉はギリシャ語で「ポロー・マロン」という言葉ですが、救いのすばらしさを表すのに使われている言葉です。たとえば、同じ言葉がこの5章9節と10節でも使われています。

「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。」

すばらしいじゃないですか。私たちは罪によって神の敵でありましたが、キリストの血によって義と認められ、神と和解させられたのならば、このキリストのいのちによって救われ、大胆に神に近づくことができるのは、なおさらのことなのです。神の恵みはそれ以上なのです。もっと大きいのです。同じようにここでも、最初の人であったアダムが犯した罪というのはたった一つの罪で、それによって全人類が罪に定められましたが、神のひとり子であられたイエス様が十字架で成し遂げられた救いの御業は、アダムが犯した罪、原罪ばかりでなく、私たちが日々犯している数々の罪までも洗いきよめ、すべての罪から救い出してくださるというのです。なんと大きな恵みでしょうか。私たちのすべての罪は、キリストの十字架の上に置かれ、キリストがその身代わりとなって償いをしてくださることによって、過去の罪だけでなく、現在の罪も、いや未来に犯すであろう罪のすべての罪が赦されたのです。それが16節にしるされてある「一つの違反」と「多くの違反」の対比です。神の恵みはそれほどまでに溢れているのです。満ちあふれることが、神様が下さる恵みの特徴の一つです。特に神の恵みが最も多く記されているエペソ人への手紙の中には、この恵みについて次のようにしるされてあります。

「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」(1:7)

「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、」(3:20)

神様の恵みがどれほど大きいかがわかるでしょう。私たちは、「こんなことでも聞いてくださるのだろうか」と疑いながら祈ることもありますが、神様は恵みは、私たちの予想や期待をはるかに超えて、あふれるばかりに注いでくださるのです。ダビデは詩篇23篇で、

「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。」(23:5~6)

と歌いました。また、ヨハネの福音書2章をみると、カナの婚礼においてイエス様の母マリヤが「ぶどう酒がありません」と言うと、イエス様は、80~120リットルの水がめに水を満たし、その水をぶどう酒に、しかも最良のぶどう酒に変えてくださいました。

また、ヨハネの福音書6章には、五つのパンと二匹の魚の奇跡が記されてありますが、男だけで五千人もの人たちが空腹であったとき、イエス様は彼らの空腹を満たしてくださいました。しかもかろうじて満たしたという程度ではありませんでした。余りが大きなかごで12もあったほどです。あまりは12かごです。全員がお腹いっぱい食べてもなお12のかごが残るほどに恵みを注いでくださいました。これが神の恵みです。神様の恵みはあまりにも大きいので、あふれ出るのです。

Ⅲ.イエス・キリストの恵みによる賜物(14b-21)

ではどうしたらいいのでしょうか。ですら第三のことは、主イエス・キリストを信じなさいということです。15~21節のところをもう一度見てみましょう。このところでパウロは、キリストを第二のアダムとして最初のアダムと比較させ、その救いの恵みの大きさを語っていると言いましたが、それと同時に、ここではどうしたらその恵みを受けることができるのかということについても述べています。それは主イエス・キリストを信じることによってです。アダムの場合はアダム一人が罪を犯したことで、自動的にすべての人に罪が入りましたが、キリストによる神の恵みの賜物は、自動的にもたらされるものではありません。神の恵みはすべての人に差し出されていますが、それはアダムのように自動的にもたらされるのではなく、それを受け取らなければなりません。それが「信仰」です。ここに「賜物」とあるのはそういう意味です。これは神からの賜物、プレゼントです。どんなにすばらしいプレゼントでも、それを受け取らなければ自分のものにならないように、このキリストの恵みによる賜物も、すべての人に差し出されていますが、受け取らなければそれを自分のものにすることはできません。ここにアダムの代表性とキリストの代表性の違いがあります。すなわち、アダムの代表性は自動的に私たちの上に臨みますが、イエス・キリストの代表性は、信じるときにのみその効力があるということです。ですからヨハネの福音書1章12節には、

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」

とあるのです。誰に神の子としての特権が与えられるのでしょうか。「この方を受け入れた人々」「すなわち、その名を信じた人々」にです。イエス・キリストの十字架以外に救いはありません。この御名のほかに、私たちが救われるべき名としては、人間に与えられていないからです。それは一方的な神からの恵みによる賜物でした。私たちは、それを信じさえすればいいのです。信じる者は救われます。しかし、信じない人は罪に定められます。せっかく神様が恵んでくださったのに、それを受け取らなかったとしたら、罪に定められたとしても仕方ないでしょう。  昔、荒野でイスラエルが蛇にかまれたとき、神様はモーセに「青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上にかかげるように」と言いました。それを仰ぎ見る者が救われるためです。仰ぎ見ることが難しいことでしょうか。簡単なことです。首をちょっと上げるだけのことです。いや首を上げなくても、目を向けるだけです。何も難しいことはありません。  また、神様は昔ノアに箱舟を造り、その中に入るようにと言われました。舟の中に入ることが難しいことでしょうか。簡単なことです。スロープもついていますから・・・。  なのに多くの人々は、こんなに簡単なことをしないのです。私たちがそんなに簡単に救われたのでは申し訳ないと、あえて自分からハードルを高くして難しくしているのです。それが人間の姿です。人はやさしい道を拒み、難しい道を行こうとする傾向があるのです。ですから、到底ついて行けないようなことを要求する新興宗教に、多くの人々が列をなして入っていくのです。しかし、救いは難しいものではありません。神様の恵みの賜物を、ただ受け取りさえすればいいのです。

皆さんは、イエス・キリストが人生の主人であり、たましいの船長だと正直に告白することができるでしょうか。皆さんを天国に導くことができる方は、イエス・キリストであると信じてください。皆さんを天国に導くことができるのは、皆さんの成功や、名誉や、財産によるのではありません。私たちが救われるために、私たちができることは何もありません。私たちができることはただ信じることです。私たちの罪のために十字架にかかって死なれ、三日目によみがえって救いの御業を成し遂げてくださったイエス・キリストを信じる以外にはないのです。それ以上でも、それ以下でもありません。天国に入ることができるのは、ただ一つ、「恵み」のゆえなのです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

日本では今、巨大地震・巨大津波・原発事故の被害で、戦後、最大の危機を迎えています。しかし、それがどんなに大きな災害でも、神の恵みはそれ以上です。神様は必ずこの国を復興してくださいます。神の恵みははるかに大きなものだからです。私たちが属している保守バプテスト同盟のいくつかの教会が、今回の地震で被災しましたが、その中に全教会員200名とその家族がすべて、退避命令が出て、山形や会津などに避難している、福島の福島第一聖書バプテスト教会があります。その教会の牧師である佐藤先生のメールには、次のような内容が記されてありました。「なによりの奇跡は,誰からも「どうして神は私たちをこんなめに遭わせるんだ」とか、「神はいない、もう信じない」とのことばが聞こえてこないことです。所在の確認がとれたた160名の兄弟姉妹からは口々に,「主はすばらしい」とか「これからはもっと,神を信頼して歩んでいきたい」との報告が届いています。彼らはいつから,こんなに信仰が強くなったのでしょう。また、「昨日はともに旅をしている方の3名の方が涙とともに,信仰告白をし,イエス様を受け入れました。ハレルヤ。天でどれほどの喜びが起こったことでしょう。重苦しい震災の中で見る,何よりの実です。」とありました。

何と大きな恵みでしょう。この恵みが私たちを生かすのです。私たちはますますこの神の恵みに信頼して歩む者でありたいと思います。

ローマ人への手紙5章1~11節 「神との平和」

きょうは「神との平和」というタイトルでお話したいと思います。これまでパウロは、人は信仰によって義と認められるというテーマで語ってきました。すなわち、人はイエス・キリストの十字架の血潮を信じることで、悪魔と罪の支配から解放されるということです。これがローマ人への手紙の全体のテーマです。  ところで、このようにイエス様を信じて救われた人は、その後、いったいどのようになるのでしょうか。それがきょうのテーマです。きょうはこのことについて三つのポイントお話をしたいと思います。第一のことは、信仰によって義と認められた人は、神との平和を持つようになります。第二のことは、それだけではなく、患難さえも喜ぶ力が与えられるということです。そして第三ことは、その根拠です。それは、信じる者に与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

Ⅰ.神との平和(1-2)

まず第一に、1節と2節をご覧ください。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」

これまでパウロは、信仰によって義と認められるということを語ってきましたが、これまで述べてきたことを受けて、この5章ではその結果について語っています。信仰によって義と認められるとき、私たちの人生の中に、どのような実が現れるのでしょうか。ここには、「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」とあります。これまで全くなかった神との平和が、イエス・キリストを信じることによってもたらされるのです。逆の言い方をすると、私たちは10節にあるとおり「神の敵」であったわけですが、神のひとり子であられるキリストが私たちの罪を贖うために十字架にかかって死なれたことで、神様と私たちの間にあった敵意が取り除かれ、和解が実現したのです。

もし敵対関係のままであったとしたらどうなるでしょうか。それは人間関係に置き換えてみるとよくわかると思います。たとえば夫婦の間に亀裂が生じますと、お互いにイライラするばかりで平安がないばかりか、やがて離婚するしかなくなってしまいます。家庭においてはどうでしょうか。家庭に平和がないと地獄になってしまいます。なぜなら本来やすらぎを感じるはずの家庭に、やすらぎがなくなってしまうからです。これが国家間の関係になるとどうでしょうか。国家間に平和がないと戦争が起こり、世界中が大混乱になってしまいます。職場での最も多いトラブルは何かというと、給料の額の問題ではなく人間関係のトラブルです。それは実に耐え難いものがあります。いつも嫌な人の顔を見て仕事をしなければならないことに耐えきれず、辞めてしまうことさえあるのです。それは教会でも同じです。教会に平和がないと恵みも力もなくなり、争いが絶えないようになります。平和は人間が生きていく上で最も重要な原理です。その平和をもたらしてくださるのが神様です。この神との平和が基になってこの社会のさまざまな関係においても平和が生まれてくるのです。そしてこの神との平和は、私たちの主イエス・イエスキリストによって、与えられたのです。

それまで人間は神に対してどういう立場にあったのかというと、10節にあるように「敵」でした。神様との間に平和が無かったのです。いわば神様に敵対しているような状態だったのです。そういう人間が神様の前に出ようものなら、死ぬしかありませんでした。そのため旧約聖書の時代には、神に仕えていた祭司長ですら、御前に進み出ることができませんでした。神に近づくことのできる唯一の方法は、年に一度、過ぎ越しの祭りという祭りの大贖罪日に小羊の血をもって進み出ることでした。大祭司はその血を携えて、至聖所という奥の部屋に置いてあった契約の箱の上にその血を注ぎかけたのです。その血の注ぎによって、神の怒りがなだめられるためです。その際に大祭司は、二つの物を身につけて至聖所に入って行っきました。一つは腰に結びつけたひもで、もう一つが服に下げた鈴です。なぜこのようなものを身につけたかというと、かつてそのようにして至聖所に入って行った祭司たちの中であまりにも聖い神の御前に出ることができず、死んでいった人たちがいたからです。聖い神様の御前に出ることは、まさに命がけだったのです。そこでもし鈴がならなかったら、「あっ、死んだな」とわかりました。それでも人が中に入って行くことができませんから、ひもをつかんで引っ張り出したのです。そのひもと鈴です。神に敵対した罪深い人間にとって、神様の御前に進み出るということは、それほどそれほど恐ろしいことだったのです。

しかし、このイエス・キリストの血潮によって、この神様との間に平和が与えられました。大胆に神様の御前に進み出ることができるようになったのです。ヘブル人への手紙10章19節には次のようにあります。

「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。」

イエス様が十字架で死んでくださったことによって、そのような恐れから解放され、大胆に御前に出ることができるようになったのです。そのことは、イエス様が十字架につけられた時、神殿の幕が真っ二つに裂けたという出来事によってもわかります。マタイ27章51節です。

「すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」

それまで神様と私たちとの間を隔てていた壁が完全に取り除かれたのです。このイエスの血によって、大胆にまことの聖所に入り、神様のみもとに行くことができるようになったのです。

パウロはこの事実を、2節のところで次のように言っています。「またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」「いま私たちの立っているこの恵み」とは何のことでしょうか。このことです。神様の御前に恐れなく、大胆に進み出ることができるようになったということ。それまではまったく恐れの対象でしかなかった神が、幼子が「おとうちゃん」と言って父親の胸元に飛び込んで行くように、大胆に近づくことができるようになったことです。この「導き入れられた」ということばは「プロサゴーゲー」というギリシャ語ですが、「近づく」という意味のことばです。「連れて行って紹介する」という意味もあります。罪のために、聖い神様との関係が断絶している私たちの手を取って、父なる神様のみもとに連れて行って紹介し、父なる神様に近づくことができるようにしてくだったという意味です。その方法というか、手段が、私たちのために十字架にかかって、罪を贖ってくださった救い主イエス・キリストを信じる信仰だったのです。

何という恵みでしょうか。私たちはイエス様によって、この恵みの中に導き入れられました。私たちが何かをしたから、できるから、ということではなく、何もできないにもかかわらず、ただ信じることによってその道を開いてくださったのです。それゆえに私たちは、今、イエス・キリストの御名によって大胆に神の御前に進み出て、祈ることができるようになったのです。

Ⅱ.患難さえも喜ぶ(3-5a)

第二のことは、そればかりではなく、患難さえも喜ぶことができるようになりました。3~5節をご覧ください。

「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。」

キリスト教信仰とほかの宗教、いわゆるご利益宗教と言われている新興宗教との大きな違いは、ここにあるのではないでしょうか。すなわち、一般的に言われている宗教では、患難、苦難を悪いものと見て、それから逃れる道だけを説きますが、キリスト教では必ずしもそうではないということです。キリスト教では、患難を必ずしも悪いものとして見てはいません。むしろ歓迎すべきものとして見ています。いや、ここでは患難そのものを喜んでいるとしるされてあります。なぜでしょうか。「それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」そして、この希望は失望に終わることがありません。失望に終わることのない希望とは何でしょうか?それは、やがて世の終わりの時にもたらされる天の御国のことです。イエス・キリストを信じる者には、この天国が約束されています。それは確実にもたらされるものなので、失望に終わることがないのです。

よくテレビやドキュメントレポートの中で会社のために自分の一生を捧げ尽くした人の姿が映し出されることがありますが、にもかかわらず晩年に会社に裏切られたとか、自らの歩みを振り返って虚しくなったと言われる方が少なくありません。そうだとしたら、それはなんと惨めなことかと思うのです。しかし、この希望は失望に終わることがありません。

そのような希望はいったいどのようにしてもたらされるのでしょうか。患難です。患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出していくのです。だから患難さえも喜ぶことができるのです。苦しみはできたら避けて通りたいものですが、しかし、そうした苦しみが精錬された金のように私たちを一回りも二回りも大きく成長させ、やがて天国へと導いてくれるのであれば、むしろそれは喜ぶべきものなのです。ですからヤコブは次のように言っているのです。

「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」(ヤコブ1:2-4)

信仰が試されると忍耐が生じます。その忍耐を完全に働かせることによって、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となることができるのです。 いわば練られた品性が生み出されるのです。もしいま、練られた品性を備えられた人を見ることが出来るなら、私たちは憧れと尊敬の眼差しで見ることでしょう。この「練られた品性」ということばは「試験済みの」という意味のことばです。、それは、テストに合格した状態の、円熟した性質、練達した人柄のことを指しています。ある人は鍛錬された名刀のようなものだとも言いました。その工程を見るならうなずけるに違いありません。火によって引き出され、真っ赤に熱せられた鉄は打ち付けられ、また火の中に入れられ熱せられ叩き延ばされます。何度も何度も繰り返すことによって、真の硬さと粘り強さが引き出されます。人が神によってそのように取り扱われるなら、円熟した品性が生み出されるのです。

聖書には、このような神の取り扱いを受けた多くの聖徒たちが登場していますが、そのひとりが創世記に登場しているヤコブでしょう。彼は生まれながらにずる賢い性格で、生まれた時にも双子の兄エサウのかかとをつかんで生まれたきたほどです。そしてその生涯も自らの利益のためには他者をだましてそれを奪い取るという醜いものでした。そんなヤコブを神様は何度も何度も取り扱われました。父と兄をだまし、家を去り、それ故に叔父のラバンの下に身を寄せましたが、今度はラバンからだまされます。そのような彼の前途には多くの苦しみが待ち受けていました。そうした人生の苦しみを通して彼は、神を求め、何度も何度も苦難を通らされることによって、霊的な鋭さと円熟した性格を持つに至ったのです。そこには練られた品性がありました。それがイスラエルです。彼はラバンのもとから帰る途中でヤボクの渡しというところを通ったとき、そこで一晩中神と格闘し、そのもものつがいを打って足を引きずらなくてはなりませんでしたが、そうした格闘を通して彼は、イスラエル、すなわち神こそ勝利であることを悟ったのです。  それは彼がラバンの下から出て行くときに見られます。難産の子を妻ラケルは「ベン・オニ」(私の苦しみの子)という名で呼びました。彼女が死に臨み、そのたましいが離れ去ろうとしていたからです。しかし、ヤコブは何と名付けたでしょうか。「ベニヤミン」です。「(私の)右手の子」という意味です。  苦しみのさなか、誰の目から見ても耐えがたい苦しみに面していると認められるときでも彼は希望を見出したのです。そのような人こそ、熟練された人です。最愛のラケルの死は、ヤコブにとって打ちのめされる出来事でしたが、その中でもヤコブはラケルの死にあって尚希望を見出したのです。そこには神に取り扱われた者の姿がありました。  このような姿を見るとき私たちは、「練られた品性が希望を生み出す」ということに対して、アーメンと言えるのではないでしょうか。

口に筆をくわえて詩と絵を描いておられる星野富弘さんは、中学の体育の教師として赴任したばかりの頃、鉄棒の実演中に頭から地面に落ちて首の骨を折り、首から下が全く動かなくなりましたが、その療養中にイエス様を信じました。その時の様子を、「いのちよりも大切なもの」という本の中で紹介しておられます。  元々、体力には自信があって、いつの間にか、体を動かすことによって何でもできると錯覚していたためか、怪我をして、まったく動けなくなり、気管切開をして、口もきけなくなった時、そういう日が、幾日も幾日も続いた時、自分の弱さと言うものを、しみじみと知らされました。鍛えたはずの根性と忍耐は、けがをして一週間くらいで、どこかに行ってしまいました。  そんなある日、星野さんの治療にあたっていた看護婦さんが悲しそうな顔をして星野さんにこう言いました。「星野さん、ちくしょうなんて、言わないでね。」 「えっ、俺、ちくしょうなんて、言いましたか?」「あら、今も言ったわよ。星野さん、よく言っているわよ。」  星野さんのことを、いつもとても心配してくれている看護婦さんだったので、それからは、自分の言葉に、少し気をつけてみることにしました。すると、どうでしょう。しょっちゅう「ちきしょう」と、言っている事に気づきました。「今日は天気がいいな、ちきしょう。」「ちきしょう、腹が減った。」「今朝は、いい気分だ、ちきしょう。」などと、朝から晩まで、自分でも気づかないうちに、「ちきしょう」を口走っていたのです。  幸せな人を見れば、憎らしくなり、大けがをして病室に担ぎ込まれて来る人がいれば、仲間が出来たような気がして、ホッとしたり、眠れない夜は、自分だけが起きているのがしゃくにさわって、お母さんを起こしたり・・。熱が出れば大騒ぎをして、自分の周りに、医者や看護婦さんがたくさん集まって来るのにさえ、優越感を感じるような、情けない自分と向き合わせの毎日だったのです。  その様な時にふと聖書を開いてみると、こんな言葉が目に入りました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、私のところに来なさい。私があなた方を休ませてあげます。私は心優しく、へりくだっているから、あなた方も私のくびきを負って、私から学びなさい。そうすれば魂に安らぎが来ます。私のくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11章28~30節)  生まれてから、怪我をするまで、どのくらい嬉しい事があったか。うれしくて、うれしくて仕方がない時、その喜びを、誰に感謝していただろうか。反対に、辛い事も沢山あっても、そのつらさや苦しみを、誰に打ち明けていたか。誰にも言えないでいたことがたくさんありました。そんな自分に「重荷を負ったそのままで、私のところに来なさい。」と言ってくださるイエス様が、何よりも、誰よりも、大きな存在であると思い、このイエス様を信じたのです。  それからというもの、星野さんの心が少しずつ変えられていきました。見方、考え方が180度変わりました。そして、神様のために詩と絵を描くようになったのです。「ことばの雫」という本の中で、星野さんは次のようなことを言っています。

「苦しむ者は、苦しみの中から真実を見つける目が養われ、動けない者には、動くものや変わりゆくものが良く見えるようになり、変わらない神の存在を信じるようになる。十字架に架けられたキリストは、動けない者の苦しみを知っておられるのだろう。」

まさに、練られた品性から生み出されたことばです。詩篇の作者は、「苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)と語りましたが、同じような心境に至ったのでしょう。これが福音の力です。人間の本当の強さとはこういうところにあるのではないでしょうか。ほかの人々が耐えられないことを耐え忍び、ほかの人々がしたくないことを静かに行える。患難さえも喜べる力、それこそ本当の力です。主イエスを信じる者には、このような力が与えられるのです。

Ⅲ.神の愛が注がれているから(5b-11)

第三のことは、その根拠です。どうしてこの希望は失望に終わることはないのでしょうか。なぜなら、「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」5節後半のところにそのようにしるされてあります。このことは、私たちが大きな患難に直面したとき、それに対してどのように自分の感情をコントロールしたらよいかということを、この箇所が教えているのではないということを示しています。最近では、このような心理学的なアプローチを、あたかも聖書の教えであるかのように語る人がいますが、それは福音ではありません。私たちが患難を喜ぶことができるのはそのように考え方の問題ではなく、聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているという事実に基づいているのです。聖霊によって神の愛が私たちの心に満たされるとき、平安と喜びと希望に満ち溢れ、どんな患難が襲って来ようとも、それさえも喜ぶことができるようになるのです。では、その神の愛とはどのようなものなのでしょうか。パウロはここで、その神の愛がどのようなものなのかということについて語っています。6~8節です。

「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

ここでパウロが語っている神の愛の大きさは、全く愛されるに値しない者に注がれたことによって明らかにされました。パウロはここで、全く愛されるに値とない者を表すことばとして、三つのことばを使っています。一つは「弱かったとき」ということばで、もう一つは「不敬虔な者」、そしてもう一つが「罪人」です。まず「弱かった」ということばですが、これは、力の欠如を表していることばです。つまり、霊的無能力であったということです。たとえば、パウロはエペソの人たちに、「あなたがたは、自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって・・」(エペソ2:1)と言っておりますが、そういう意味での弱さです。ですから、この「弱かったとき」というのは、からだが弱かったとか、意志が弱かったとか、立場が弱かったということではなく、人間として霊的本質的に欠陥があったということなのです。このような欠陥があると人間はどうなるかというと、いつでも外的なものでそれをごまかそうとします。たとえば地位とか権力といったもので自分を飾ろうとするのです。そうした弱さが私たちの中にはあるわけです。

もう一つの不敬虔な者というのは、神を敬う心が欠如している人たちのことです。人は神によって造られたとき、神のかたちに造られましたが、罪に陥ったことで、それを失ってしまいました。1章のところで見てきたように、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなりました。不敬虔な者とはそういうことです。    それから罪人ということばですが、これはもともと「的をはずした」人のことです。人は神がお造りになられた本来の姿からそれてしまい、してはならないことをするようになってしまいました。自分の思いのままに生きるようになったのです。これが罪人の姿です。

このような人間には、神の怒りが天から啓示されているということについては先に述べてきたとおりですが、ここではそのような人に対して、キリストが死んでくださったことによって、ご自分の愛を明らかにしてくださったというのです。神は罪を憎まれますが、同時に罪人を愛されるのです。そしてどんなに深く罪人を愛しておられるかということは、その尊いひとり子を犠牲にされたことによって、表してくださいました。「キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

人間は、正しい人を尊敬します。権力とか財力に屈しない正しい人を英雄視するのです。しかし、だからと言って、その人のために死んであげるという人などいません。けれども、私たちのために何かをしてくれた慈善家のためなら、死んでもいいという人も、中にはいないわけではありません。しかし、正しい人でもなく、まして慈善家でもない、むしろ神に敵対し、神の戒めを少しも聞こうとしない罪人のために、死んでくれる人などいるわけがありません。がしかし、いたのです。それが神の御子イエス・キリストでした。そしてこのキリストの愛は、絶対に変わることがありません。その変わることのない神の愛が、聖霊によっていま、私たちの心に注がれているのです。であれば、この希望が失望に終わるということがあるでしょうか。絶対にないのです。心はコロコロ変わるから「心」だと言った人がいますが、神の愛は人の心のようにコロコロ変わるようなものではありません。ですからパウロはこう言うのです。9~11節です。

「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」

ここで注目すべきことばは「なおさらのことです」ということばです。ここでは二回も繰り返して使われています。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことなのです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことなのです。聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。私たちはそれほどまでに愛されているのですから、私たちの希望は決して失望に終わることがないばかりか、この神を大いに喜ぶことができるのです。

私たちは時としてジレンマに陥ることがあります。「イエス様を信じてもちっとも変わらないじゃないか」「信仰によって救われたとは言っても、実際の生活の中にその力が全然見られないではないか」・・・と。しかし、実のところ私たちには、これほどの力が与えられているのです。信仰によって義と認められた私たちは神との平和をいただいているばかりか、患難さえも喜ぶことができるのです。聖霊によって、神の愛が、私たちの心に注がれているからです。この愛が私たちを生かすのです。

秋田の松山裕先生は、「あなたを生かすこの愛」という本を買いおられますが、まさにこの愛が私たちを生かすのです。そして、この愛こそこれから復興に向かうこの国にとって最も必要なものではないでしょうか。なぜなら、この希望こそ失望に終わることがないからです。この国がこの確かに希望によって、新しい一歩を歩んでいくことを願ってなりません。

ローマ人への手紙4章1~25節 「アブラハムの信仰」

きょうは、「アブラハムの信仰」についてご一緒に学んでいきたいと思います。これまでパウロは異邦人の罪とユダヤ人の罪を取り上げ、すべての人が神の前に罪を犯したので、神からの栄誉を受けることはできないと語ってきました。神様の御前ではだれも、何一つ誇れるものはありません。人は、救われるためにいろいろな方法を試してみたりしますが、こうした試みは、人間の罪を解決する上で何の助けにもならないのです。人間の力では決して神様のみもとに行くことはできないからです。従って人間に残されているものは絶望と落胆しかありません。しかしあわれみ豊かな神様は、そんな人間が救われるために一つの道を用意してくださいました。それがイエス・キリストです。3章21節には、「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました」と語られました。神様は、イエス・キリストの十字架を信じることによって義としてくださると約束してくださったのです。  このように信仰によって義と認められることを、「信仰義認」(Justification by faith)と言います。つまり、信仰によって義とされ、救われたと見なされる、という意味です。しかし、人々はこのことを理解できないと言って、なかなか信じようとしません。救いがただで与えられるということがピンとこないのです。「ただ」ということに慣れていないからです。私たち日本人にとっては特にそうでしょう。「ただほど怖いものはない」というように、「ただ」で受けることに抵抗感を持っています。ですから「お返し」という習慣があるのです。何か自分の体を動かして、一生懸命に努力して受け取ることで、安心します。それが人間の本性なのです。

しかし、聖書では、ただ神の恵みにより、信仰によってのみ救われると教えられています。その一つの例がアブラハムです。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(3:23~24)とパウロが語ると、ユダヤ人のある人たちから、「そんなことはない。アブラハムは行いによって義と認められたではないか」という疑問が起こりました。そこでパウロはこのアブラハムの例を取り上げながら、救いはただ一つ、イエス・キリストを信じる信仰によってのみ与えられるということを論証するのです。

きょうはこのことについて三つのことをお話したいと思います。まず第一のことは、アブラハムが義と認められたのは彼が神を信じたからであって、割礼やその他何らかの行いをしたからではありません。第二のことは、ではそのアブラハムの信仰とはどのような信仰だったのでしょうか。それは死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる神を信じる信仰、あるいは、望み得ないときに望みを抱いて信じる信仰でした。第三のことは、その信仰とは主イエス・キリストを信じる信仰であったということです。

Ⅰ.神を信じたアブラハム(1-16)

まず第一に、アブラハムが義と認められたのは神を信じたからであって、何らかの行いをしたからではないということについてみていきたいと思います。1~16節までのところに注目したいと思いますが、まず1~3節までのところをご覧ください。

「それでは、肉による私たちの父祖アブラハムの場合は、どうでしょうか。もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」

ここでパウロは、自分たちの先祖アブラハムはどうだったのかについて取り上そのています。なぜなら、アブラハムこそ自分たちの民族の源だと考えていたからです。そのアブラハムが義と認められたのはいつのことだったのか?彼が神の命令を行ったときなのか、それとも神をただ信じたときだったのか?もしアブラハムが行いによって義と認められたのであれば誇ることもできますが、実はそうではありませんでした。なぜなら、聖書には、「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあるからです。これは創世記15章6節のみことばです。アブラハムは約束の地カナンに入って15年が経っており、だいたい90歳になっていましたが、彼にはこどもがありませんでした。「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(12:3)と約束されたのに、まだこともが与えられていなかったのです。妻のサラも80歳を越えていました。一体あの約束は何だったのでしょうか。そんなことを考えながら絶望の淵にいたアブラハムに、ある夜、主が臨まれました。神様は彼を外に連れ出してこのように言われたのです。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになる。」(創世記15:5)人間的にはどう考えても実現しがたい約束でした。にもかかわらず、アブラハムはこのことばを信じました。そして、主はそれを彼の義と認めててくださったのです。つまり、アブラハムの信仰が神様の心を動かし、その信仰のゆえに彼は義と認められたのです。

ユダヤ人たちは、救いは信仰によって得られるということを聞いたときにひどく反発しました。なぜなら、アブラハムは行いによって義と認められたと思っていたからです。割礼を受けなさいと命じられたときに割礼を受け、モリヤの山でイサクをささげなさいと言われたときにも、本気で彼をほふろうとした。彼はそのように行ったからこそ救われたのであって、厳しい従順の行為こそが義と認められる根拠であると信じていたのです。そんな彼らに対してパウロは、ここで、「誤解しなさんな」と言っています。聖書の順序をよく見なさいと言うのです。彼らが割礼を受けた時やモリヤの山でイサクをささげようとしたのはいつだったのか?それは創世記17章と22章にしるされてある出来事です。つまり、アブラハムが神を信じて義と認められたという出来事の後で起こったことなのです。まず信仰によって義とされてから、その検証として割礼を受けたり、イサクをささげたのです。ですからアブラハムは行いによって救われたのではなく、信仰によって救われたということになるのです。その結果、信仰の行為が生まれたのです。この順序が大切です。旧約聖書でも新約聖書でも、救いの原理はただ一つです。それは信仰によって救われるということなのです。

それはダビデを例にとっても言えることです。6~8節をご覧ください。ここには、「ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」とあります。ダビデ王とは旧約聖書を代表する人物で、救い主は彼の子孫から生まれると預言されていた重要な人物です。いわば旧約聖書のキーマンとも言える人物なのです。そのダビデが罪が赦される者の幸いについて、このように告白したのでした。これはバテシェバとの罪のことで苦悩していたダビデが、神の御前には隠すことができるものなど何一つないことを知り、その罪を告白した時に体験したことです。彼の罪が赦されたのは、彼が何か善行を積んだり、償いをしたからではなく、神の御前に自分の罪を認め、告白したことによってでした。その時神がその罪を赦し、義と認めてくださいました。ただ悔い改めて、神の恵みに信頼しただけです。つまり、ダビデもまた信仰によって義と認められたのです。

ということはどういうことなのでしょうか。結論は16節です。「そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。」

そういうわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に保証されるためなのです。

新聖歌233番の曲は、「おどろくばかりの」という賛美歌です。英語では、「Amazing Grace」です。「Amazing」とは「あっとおどろくばかりの」という意味です。これを書いたジョン・ニュートンは、かつて奴隷船の船長でした。アフリカから英国に奴隷を運んでいました。人間のくずのような仕事です。しかしその船で帰る途上大嵐に会い、いのちからがら助け出されたとき、そこに神の不思議な御手を感じました。イギリスに戻ってから教会に行くようになり、自分の罪の大きさとその罪をも赦してくださる神の恵みに触れたとき彼は、「Amazing Grace!」と叫んだのです。こんな者でも赦してくださる神の恵みを体験したのです。私たちが救われるのは、私たちの中に何か少しでも徳があるからではありません。そういうものとは全く関係なく、ただ神の恵みにより、キリスト・イエスを信じる信仰によってのみ義と認められるのです。

人間にはじっと我慢していることができないという性質があります。ですから、何かをしてこそ、あるいは何かをがんばってこそ、安心するのです。たとえば、ここに重病の患者さんがいたとします。この方に医者が、「あなたは何もする必要はありませんよ。ただじっとしていたらいいんです。じっとしていたら治ります」とでも言うものなら、この患者さんはひどく落胆するのではないでしょうか。「ああ死ぬ時が来たんだ。だから医者はそんなことを言うんだ。もう望みはないんだ」と。その結果、病状がかえってひどくなってしまうこともあるのです。ところが治らない病気でも、消化剤を与えられ、「これで全快しますよ」と言われると、一生懸命飲んで治ろうとします。不思議なことに、治らないと思われていた病気が、それで治ってしまうということさえあるのです。それが人間の姿なのではないでしょうか。人はやさしい道を拒み、難しい道を行こうとする傾向があるのです。ですから、到底ついて行けないことを要求する宗教に、多くの人々が列をなして入って行くのです。

しかし、本当の宗教は「ただ」なんです。ただ、信じれば救われるのです。それはこの救いが神様からの一方的な恵みによるためであり、すべての人が受けることができるためなのです。昔、イスラエルが荒野で不平不満を言ったとき、それを怒られた神は蛇を送られたので、多くの人たちが蛇にかまれて死にました。そのとき神様はどうされたでしょうか。高価な薬を飲まないと救われないと言ったでしょうか?お百度参りをしたら治してやろうと言われたでしょうか?いいえ、ただ青銅の蛇を一つ造り、それを仰ぎ見なさいと言われました。そうしたら救われる・・・と。仰ぎ見ることが骨の折れることでしょうか。いいえ、簡単なことです。だれにでもできます。そして、信仰をもって仰ぎ見たすべての人が、救われました。これが信仰なのです。この信仰によって人は義と認められるのであって、自分の努力や行いによるのではありません。そのようなものによっては、私たちは神の御前に正しいとは見なされないのです。ただ神を信じること、それ以外に道はないのです。

Ⅱ.アブラハムの信仰(17-22)

では、そのアブラハムの信仰とはどのようなものだったのでしょうか。17~22節までをご覧ください。

「このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」といわれていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱まりませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」

ここにアブラハムの信仰がよく説明されていると思います。ここには、彼の信じた神は、死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方、としるされてあります。そう、アブラハムは、神はどんなことでもおできになられる全能の方であると信じていたのです。

私たちの信仰は、その人がどんな神様を信じているかで左右されます。死んだ神様を信じている人は、その信仰も死んだものであり、生きておられる神様を信じている人は、その人の中に生きておられる神様のみわざがどんどん現れてきます。皆さんは自分が信じている神様が全能者であると信じていますか?今も生きておられ、できないことは何一つない方であると信じていますか。もしそうならば、何も落ち込む必要はありません。神様がともにいてくださるなら、すべてのことが可能となるからです。宗教改革者のマルチン・ルターは「神様を神様たらしめよ」と言いました。私たちが犯しがちな罪の中でも最も大きな罪は、神を小さくしてしまうことです。神様を自分の考えに閉じこめてしまい、小さなことだけを行われる方として制限してしまい、その全能のお力を認めないのです。

私たちはしばしばこのような錯覚に陥ってしまうことがあります。「神様にも難しいことはあるだろう」本当にそうでしょうか。神様にも難しいことがあるでしょうか。たとえば、神様にとって、風邪を治すことはできても、がんを治すことは難しいことなのでしょうか。いいえ。神様にとっては、風邪を治すこともがんを治すことも朝飯前のことです。簡単なことなのです。私たちの目では、風邪がいやされることよりも、がんがいやされることの方がはるかに難しいように見えますが、神様にとってはどちらも簡単なことなのです。イエス様が死人を生き返らせた時には相当長く祈られたのではないかと思いがちですが、実際はそうではありませんでした。イエス様は簡単に死人を生き返らせました。イエス様にとって死人を生き返らせることなど簡単なことだったのです。なぜなら、イエス様はこの世のすべてのものを造られた創造主だからです。目に見えるものも、見えないものも、王座も主権も支配も権威も、すべてイエス様によって造られ、イエス様のために造られたのです。(コロサイ1:16)ですから、イエス様にとってできないことは何もありません。

であれば私たちは、神様にはできないことはないと信じて、いつでも大胆に主に頼って進み出ることが必要です。私たちの周りに、どんなにかたくなな人がいたとしても、全能の神様を信じて進み出るとき、神様はその魂を救ってくださると信じることが大切です。18節を見ると、アブラハムは「望み得ないときに望みを抱いて信じた」とあります。彼はおよそ100歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があると堅く信じたのです。

ルカの福音書5章には、夜通し漁をしても全く魚が捕れなかったペテロに対して、イエス様が「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」(5:4)と言われたことが出ています。このイエス様のおことばは、人間の理屈には合わないことでした。第一に、そのときは網を投じる時間帯ではありませんでした。第二に、網をおろす場所が間違っています。魚は普通、プランクトンがたくさんいる浅瀬にいるのであって、深みに網をおろしてはいけないのす。第三に、このときはもう漁が終わり、網を片付けているときでした。そんな時にもう一度舟を出すことが、どんなに面倒くさいことだったかわかりません。第四に、ペテロはイエス様に指示される立場ではありませんでした。彼は漁師でした。漁のプロで、魚を捕る専門家でした。なぜに大工であったイエス様に「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚を捕りなさい」と言われなければならないのでしょうか。大工が漁師に漁について指図するというのは見当違いに思われました。しかし、ペテロは「でもおことばですから、網をおろしてみましょう」と答えました。するとどうでしょうか。網が破れそうになるほどの魚が捕れたのです。

これが信仰です。信仰とは、望んでいることがらを保証し、目に見えないものを確信するものです。(ヘブル11:1)神様が言われたことは必ずなると信じることなのです。アブラハムは信じました。神には約束されたことを成就する力があると堅く信じたのです。それが自分の感情や理屈に合わなくてもです。100歳にもなって、自分のからだはもう死んだも同然であり、サラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。この「死んだも同然」ということばは現在完了形で現されていて、「すでに死んだ」という意味です。つまりもう死んでいて、その体には生産能力はありませんでしたが、それでも、その信仰は弱まらなかったのです。この信仰が重要です。「神様のみことばを聞いていると心は熱くなるけれども、周りを見たらもう大変で、何にもならない。すべて夢のようだ」と落胆する時がありますが、アブラハムはそのような絶望的な状態を見ても、その信仰は弱まるどころか、反対にますます強くなって、神には約束されたことを成就する地ががあると堅く信じたのです。

ロサンゼルスに、有名なおばあさんがいました。このおばあさんは道を歩くとき、いつもぶづふつ言いながら歩きました。不思議に思った人が尋ねました。「おばあさん。あなたはどうしてそういうふうにぶつぶつ言いながら歩いているんですか?」するとそのおばあんが、こう答えたそうです。「あたしゃもう年をとって、神様のお仕事をすることはできないし、子孫のためにできることもないのよ。でもヨシュア記1章3節に、「あなたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている」ってあるから、そのまま信じて従っているの」。不思議なことに、この方が足で踏んで歩いた所には、ユダヤ人の店が立ち並び、ユダヤ人たちが不動産を取得しているそうです。

「そのまま信じて従うこと」です。自分の理屈や常識に合わなくても従うことが求められているのです。なぜなら、神様の前では、理屈や常識は無用だからです。神様が用いられるのに難しい人というのは、常識を主張する人です。「それは常識的に可能でしょうか」といつも聞く人です。また何かをしようとすると、自分の経験ばかり言う人もいます。「やったこともないのにどうしようと言うのですか」と。しかし神様は、経験のあることを私たちにしろと言っておられるのではありません。全くやったことのないことや、まだ未知の領域のことでも信仰を持って出て行き、開拓するようにと呼んでおられるのではないでしょうか。パスカルは言いました。「信仰とは理性を十字架につけることだ」と。汚染されるだけ汚染されてしまった理性を十字架に付けて、みことばどおりに信じ、従う人にならなければなりません。アブラハムはまさに、そのような信仰を持っていたのです。

Ⅲ.イエス・キリストを信じる信仰(23-25)

そして第三のことは、このアブラハムの信仰とは、イエス・キリストを信じる信仰であったということです。23~25節をご覧ください。

「しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、 また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」

アブラハムの信仰とは、神は約束されたことを成就する力があると堅く信じる信仰でしたが、それは同時に、イエス・キリストを信じる信仰でもありました。というのはここに、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、私たちのためでもあったとあるからです。どういうことかいうと、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちもまた、その信仰によって救われるということです。つまり、アブラハムが信じた神とは、死人を生かし、無から有をお造りになることのできる方、すなわち、復活の主であったということです。キリストの十字架と復活を信じる信仰こそ、私たちの罪が赦され、神に義と認められるために必要な唯一の信仰であるという意味です。ですからパウロはコリント人への手紙の中で、これが私たちが救われるべき福音であると、次のように言ったのです。

「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。」(Ⅰコリント15:1~5)

私たちが救われるべき福音のことばとは、十字架と復活のことばです。キリストの十字架と復活なしに、私たちの救いはあり得ません。この福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのであって、それ以外に道はないのです。キリストの十字架と復活こそ、私たちが救われるべき方法として、神が示してくださった道なのです。なぜなら、キリストが十字架で死なれたのは、私たちの罪の身代わりのためであり、キリストが復活されたのは、この十字架上で成し遂げられた御業を、父なる神様が完全に受け入れられたということの宣言にほかならないからです。アブラハムはこの信仰を持っていたのです。

一昨日、東日本を中心に大地震が起こりました。私は那須で行われていた聖書入門講座から帰り自宅にいましたが、激しい揺れに世の終わりが来たかと思ったほどです。後でテレビの報道で特に福島、宮城、岩手沿岸に大津波が襲いかかり、多くの方々が犠牲になられたことを知って、本当に悲しみで胸が痛みました。涙が出ました。そして、この福音を知らずして亡くなられた方々のことを思うと、心が痛みます。何とかしてこの福音を宣べ伝えなければならないと思いました。そのためにも私たちは、この福音のことばをしっかり保っていなければなりません。この国の人々が福音を信じて救われますように。この国の回復と復興が、福音を信じる信仰によって、神の恵みと全能の力によって為されていきますように。心からお祈り致します。

 

ローマ人への手紙3章9~31節 「救いの道」

きょうは「救いの道」についてお話したいと思います。私たち人間にとっての永遠の命題の一つは、「人間はいかにしたら救われるか」ということではないでしょうか。もちろん、この場合の救いとは貧乏からの解放とか病気の治癒、人間関係をはじめとしたさまざまな問題の解決といったことではなく、それらの問題の根本的な問題である罪からの救いのことです。人類最初の人間であったアダムが罪を犯して以来、人類はその罪の下に置かれ、罪の力に支配されるようになってしまいました。これは奴隷をつなぐ鎖のように強力なので、この鎖から解き放たれることは並大抵ではありません。いったいどうしたらこの罪の力から解放されることができるのでしょうか。

きょうはこのことについて三つのポイントでお話したいと思います。まず第一のことは、すべての人は罪人であるということです。義人はいない。ひとりもいません。すべての人が迷い出て、みな、無益な者となってしまいました。第二のことは、では救いはどこにあるのでしょうか。イエス・キリストです。ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。ですから第三のことは、このイエス・キリストを信じ、十字架だけを誇りとして歩みましょうということです。

Ⅰ.すべての人は罪人(9-20)

まず第一に、すべての人は罪人であるということについて見ていきましょう。9~20節までに注目してください。まず9節をお読みします。

「では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちの前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。」    1節からのところでパウロは、ユダヤ人のすぐれたところについて語ってきました。ユダヤ人のすぐれたところは、彼らには神のことばが与えられていたということです。そこでパウロは、そうした優越性というものを一応認めたものの、それは彼らが何をしても構わないということではないと釘を打ったところで、ではどういうことなのかをここで述べます。それは、ユダヤ人もまた罪人であるということです。

パウロはここで、1章18節から異邦人の罪について、そして2章からはユダヤ人の罪を取り上げ、ここでその結論を語っているのです。すなわち、すべての人が罪人であるということです。ひとりとして例外はありません。この地上に生きた人で、この罪の下になかったのはひとりもいないのです。ただ神のひとり子であられ、聖霊によってお生まれになられたイエス・キリストだけは違います。キリストは聖霊の力によって生まれた「いと高き方の子」(ルカ1:35)であられたので、全く罪を持っていませんでした。しかし、キリスト以外のすべての人は、別です。異邦人であれ、ユダヤ人であれ、みな罪の下にあるのです。パウロはそのことを旧約聖書のことばを引用して裏付けています。10~18節です。

「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。」

本当にそうではないでしょうか。人が口を開けば毒のようなことを言って殺します。それはまさに開いた墓です。また、偽りや欺き、のろいや苦々しさで満ちています。他人が血を流して倒れているのを見ても悲しむどころか、むしろそれを見て喜んでいたりしているのです。これが人間の姿です。どうして人はこんなひどいことを言ったり、やったりするのでしょうか。罪を持っているからです。人は罪を犯したから罪人になるのではなく、罪人だから罪を犯してしまうのです。ダビデはこのように告白しました。

「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」(詩篇51:5)

ダビデは、自分が母の胎にいた時から罪人だったと言っています。母の胎にいた時から罪を持っていて、罪人として生まれてきたので、罪ある人生を送るようになったのだ・・・と。私たちはよく人の悪を見ては、「なぜあの人はあんなことをしたのだろう」とか、「この」人は本当にひどい人だ」と言いますが、それは日常的なことであり、だれにでも起こり得ることなのです。なぜなら、「義人はいない。ひとりもいない」からです。

よく教会に行くとすぐ「罪」「罪」って罪のことばかり言われるから行きたくないのと言われる方がおられますが、そのような方は「罪」ということばから犯罪を連想し、罪人イコール犯罪人のこどてあり、自分はそんなにひどい人間だと思っていないからなのです。しかし、この世の法律を破った人が犯罪人であるならば、神の法律を破ってしまった人間は、この世の犯罪人以下であるはずがないのです。私たちはみな罪人なのです。

「罪」ということばはギリシャ語で「ハマルティア」と言いますが、それは的外れを意味します。神によって造られた人間は、神をあがめ、神の栄光のために生きるはずなのに、その神から離れ自分勝手に生きるようになってしまいました。これが罪なのです。ですから、すべての人が罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができなくなってしまったと聖書は言うのです。聖書の言う救いとはこの罪からの救いあって、単なる前向きで、肯定的な生き方のことではないのです。この罪から解放されることによってもたらされる喜びと心の平安のことなのです。

Ⅱ.イエス・キリストを信じる信仰による神の義(21-26)

ではどうしたらいいのでしょうか。罪ある者として生まれてきた私たちには、何の希望もないのでしょうか。いいえ、まだ希望があります。それがイエス・キリストです。律法によっては、だれひとり神の前に義と認められることのない私たちに、律法とは別の、いや、律法が本当の意味であかししていた神の義が示されたのです。21~24節をご覧ください。

「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」

ここには「律法とは別に」とありますから、これが旧約聖書に書かれてあったこととは別の義(救い)であるかのように錯覚しがちですが、そういうことではありません。ですからその後のところに、「しかも律法と預言者によってあかしされて」とあるのです。これは旧約聖書の時代から律法と預言者によってずっとあかしされていた救いなのです。それが「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」です。えっ、旧約聖書の時代にはまだイエス・キリストが登場していないのに、その旧約聖書であかしされていたとはどういうことなのでしょうか。預言です。預言という形であかしされていたのです。その時代にはまだキリストは誕生していませんでしたが、キリストを信じる信仰によって救われるということが預言という形でちゃんと示されていたのです。

たとえば、創世記3章15節などはその一つです。ここには、「わたしは、おまえと女との間に、また、お前の子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、お前の頭を砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」ということばがありますが、これは人類最初の人であったアダムを誘惑して堕落させた蛇であるサタンに神様が語られたことばです。ここで神は蛇であるサタンに、その勢力が地を這って歩くようになり、やがて蛇の頭、すなわち、サタンを粉々に打ち砕いて勝利すると宣言されました。これはイエス様が十字架で死なれ、三日目によみがえられたことによって成就しました。これはイエス・キリストの十字架と復活の型だったのです。

また、出エジプト記12章を見ると、ここにはイスラエルがエジプトから脱出した時の様子がしるされてありますが、その時神はイスラエルに不思議なことを命じました。12章5~7節です。一歳の雄の小羊をほふり、その血を取って、イスラエルの家々の二本の門柱とかもいに塗るようにというのです。いったい何のためでしょうか。しるしのためです。それは主への過越のいけにえでした。神がそのしるしを見て、滅びのわざわいを過ぎ越すためです。それは、やがて十字架に付けられて死なれたキリストを指し示すものでした。神のさばきは小羊の血を塗った家を過ぎ越していったように、イエス様の血を信じた者の上を過ぎ越されるという預言だったのです。

このように旧約聖書の時代にはまだキリストは生まれていませんでしたが、預言という形であかしされていたのです。このような預言は少なくとも350カ所、間接的な預言も含めると450カ所にも上ると言われています。A.D.400年頃のの有名な神学者と哲学者であったアウグスチヌス(Aurelius Augustinus)、「旧約は新約の中に現され、新約は旧約の中に隠されている」と言いましたが、まさにそのとおりです。旧約と新約は全然別々のものではなく、相互に結びついているものなのです。イエス・キリストを信じる信仰による神の義は律法とは別のものですが、律法と預言者によってあかしされていたものだったのです。ですから23~24節にあるように、

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」

皆さん、イエス・キリストの血潮の力がなければ、罪を断ち切ることはできません。自分の意志や力では到底断ち切ることはできないのです。人間は罪を犯して以来、罪の奴隷として生きるようになり、罪の報酬である死を味わい、滅びるしかない存在となってしまったのです。それが私たち人間の姿であり、そこには絶望以外のなにものもないのです。それを認めなければなりません。しかし、この罪の力を打ち砕き、全く望みのない人間をその絶望と暗闇から救い出してくださる唯一の道が示されました。それがイエス・キリストを信じる信仰による救いです。罪のために全く無力になってしまった人間には何の為す術もありませんでしたが、そんな人間をあわれんで、神の方から一方的にその道を示してくださったのです。どんなに強い意志も、どんなに高尚な道徳も、鋼鉄のような律法をもってしても防げなかった罪の力が、イエス・キリストが十字架に釘付けされたことによって粉々に砕かれたのです。これが私たちが救われる唯一の道なのです。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒4:12)

「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

先日、テレビでおもしろい番組がありました。『たけしのIQ200~世界の天才が日本を救う~』!!という番組です。そこでは実質的に破綻しそうな国家予算から、外交問題、少子化、若者の就職難などの山積している現代の日本の問題を、「世界中の頭のいい人々」に解決してもらおうというもので、 今回、”世界の頭脳”の代表として登場したのが、「ハーバード白熱教室」で話題のマイケル・サンデル教授でした。そのスタジオで、ビートたけしはじめ、日本の芸能人・文化人を相手に初の授業が行われたのですが、その内容は今問題となっている相撲の八百長問題から始まり、北朝鮮の拉致問題など、多岐に渡りました。「大相撲の八百長」は悪いことなのかという問いに対して、初めは悪いと思っていた17人のゲストが少しずつ変わり、必ずしもそうとは言えないというふうに変わっていくのです。いろいろな視点から考えるということは大切だなぁと思いましたが、サンデル教授が最後に言ったことばがとても印象的でした。サンデル教授は最後にこう言って講義を締めくくったのです。「これが哲学だ。哲学には答えがないのだ。それを考えるのが大切なのだ」と。

なるほど、考えることは大切なのです。しかし、そこには答えがありません。それが哲学なのです。どんなにIQが200以上あっても、罪によって山積されたこの世の問題を解決することはできないのです。しかし、イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と言われました。ここに答えがあるのです。私たちの人類の問題の根本であるところの罪の赦しは、神の恵みによって私たちに賜ったイエス・キリストにあるのです。

Ⅲ.十字架を誇りとして(27-31)

ですから、結論は何かというと、このイエス・キリストを、十字架だけを誇りとしましょうということです。27節と28節をご覧ください。

「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」

それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。どこにもありません。なぜなら、私たちが義と認められるのは、律法の行いによってではなく、信仰によってだからです。私たちはだれひとりとして、自分の善行や性格の良さ、頭の良さ、家柄や身分、社会的地位や財産の多さによって救われるのではありません。あるいは、難行苦行をしたり、あわれみ深い行いをしたから救われるのでもないのです。そのような行いの原理はすでに取り除かれました。では何があるのでしょうか。信仰の原理です。ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められる。これが信仰の原理です。私たちが救われるためには、神の賜物であるイエス・キリストを信じる以外に道はないのです。私たちの救いも、すべての仕事も、今置かれている境遇も、これまで成し遂げてきた業も、すべてが神の恵みであって、私たちが誇れるものなど何一つないのです。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:8~9)

であれば私たちはが誇りとするものは、イエス・キリストの十字架以外にはありません。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追求します。ローマ人はその帝国の民であることを誇るでしょう。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを誇ります。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、ユダヤ人であっても、ギリシャ人であっても、キリストは神の力、神の知恵なのです。十字架だけを誇り、十字架だけに頼り、十字架だけに生かされていく信仰、それが私たちの信仰なのです。それはちょうど光と影のようです。私たちが光から遠くなればなるほど影はだんだん大きくなり、逆に光に近づけば近づくほど、影は小さくなるように、キリストから遠く離れれば離れるほど、自分の誇りが大きくなり、光に近づけば近づくほど、自分の誇りはなくなっていくのです。

臨終を目の前にした人を見ると、私たちは皆恐れます。死とはそれほど恐ろしいものなのです。そのため私たちは、臨終を迎えようとする人に、心が安らかであるようにと話かけます。「あなたのように多くの仕事をした人はいません」「あなたは立派な方です」「どれほど多くの方があなたを称えるでしょう」そう言って慰めようとするのですが、そのようなことばが本当にその人を安心させることができるでしょうか。私はできないと思うのです。その人が何を、どれだけやったのかということは、その人の平安のよりどころにはならないからです。その人が本当に安らかになれるのは、神によって罪の赦しをいただいているという確信を持てる時ではないでしょうか。ですから、もし私がだれかの臨終に立ち会うことが許されるとしたら、こう言ってお慰めしたいと思っています。

「兄弟姉妹、イエス様があなたのために死なれました。そしてあなたのすべての罪は赦されました。今は主の懐の内に安らかに抱かれてください。」

イエス様だけが救いです。すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。「地の果てすべての人よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」(イザヤ45:22)ただ神を仰ぎ、キリストの十字架を誇りとして歩む者でありたいと思います。