申命記24章

 

 申命記24章です。まず1節から5節までをご覧ください。

 

 1.結婚、離婚、再婚について(1-5

 

「人が妻をめとり夫となり、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなり、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ、彼女がその家を出て、行って、ほかの人の妻となり、次の夫が彼女をきらい、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせた場合、あるいはまた、彼女を妻としてめとったあとの夫が死んだ場合、彼女を出した最初の夫は、その女を再び自分の妻としてめとることはできない。彼女は汚されているからである。これは、主の前に忌みきらうべきことである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に、罪をもたらしてはならない。」

 

ここには、人が妻をめとり、その妻に何か恥ずべき事を発見して、気にいらなくなり、離婚した場合、どうしたら良いかが教えられています。まずここには「妻に何か恥ずべき事を発見したため」とありますが、この恥ずべき事とはいったいどんな事でしょうか。多くの学者は、これは姦淫のことではないかと考えていますが、これは決して姦淫ではないことは明らかです。なぜなら、姦淫を行った者は、離婚ではなく死をもって償わなければならなかったからです。ですから、それ以外の何かで、夫が気にいらない事があった場合ということなのでしょう。そのような場合は、夫は離婚上を書いて彼女を家から去らせることができました。

 

あれっ、ちょっと待ってくださいよ。妻が気に入らなくなった場合、勝手に離婚しても良かったのですか?このことについてイエス様はこう言っています。マタイの福音書193節から9節です。ここではパリサイ人がイエス様のところにやって来て、「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」と尋ねます。それに対してイエス様はこう言われました。「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。それで、もはやふたりはではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」(マタイ19:4-6そして、「だれでも、不貞のためではなくて、その妻を離別し、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです。」(マタイ19:9と言われたのです。つまり、妻を離別することは、神のみこころではないということです。それならばなぜここで、妻が気に入らなくなったら、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせなさいとあるのでしょうか。それはイエス様も言われたように、人々の心がかたくななので、その妻を離別することを許したのです。つまり、離別することは神のみこころではなく、罪なのですが、自己中心的な人間はそういうことをするので、そういうことをする場合は、そのようにしなさいと言われたのであって、初めからそういうわけではなかったのです。

 

しかし、ここで問題になっているのは離婚しても良いかどうかということよりも、そのように離別された妻が、ほかの人の妻となり、次の夫も彼女をきらい、離婚状を書いてその女を去らせた場合、あるいはまた、その夫が何らかの理由で死んだ場合、最初の夫は、その女を再び自分の妻としてめとることができるかということです。できません。彼女は汚されているからです。それは主の忌みきらうことであります。そのようなことをして主の相続地を汚してはならないのです。

 

これはどういうことでしょうか。ここで、彼女は汚れていると言われていますが、彼女は好きで汚れたのではありません。それはすべて男の身勝手な思いによってそうさせられたのであって、彼女には何の罪もないのです。ですから、ここで問題になっているのは彼女が汚れているかどうかということではなく、最初の夫の身勝手な行動が戒められているのです。嫌になったから別れたいとか、やっぱりあなたがいいから戻って来てという不誠実な態度を、主は忌み嫌われるということなのです。ですから、この女性がほかの男性と再婚することは禁じられていないのです。そのように一方的に夫から離婚させられ、家から去らせられても、再婚は許されていました。女の権限が全くなかった古代社会で、離婚と再婚が許されていたことは、妻により大きな傷を与えないための神の方法だったのです。

 

このことは、男と女の関係だけのことではなく、キリストと私たちの間にも当てはまることです。私たちは神の恵みにより、キリスト・イエスを信じることで神の子とされました。それはある意味でキリストとの婚姻関係に入ったことを意味しています。しかし、現実の生活は厳しくて、このまま信仰を続けていくことは困難なのでもう信仰を捨てよう、そして、もう少し落ち着いたら、人生を精一杯満喫して、もういいです、もう何の未練もないです、という時に再び信仰生活を始めようというのであれば、それはこの最初の夫がしていることと同じことです。もちろん、信仰から離れていた者が再び戻ってくるということは神のあわれみによって行なわれるかもしれませんが、しかし初めからそのようなことを考えて信仰から離れるということがあるとしたら、それは汚れることであり、再び戻ることはできないということを覚えておかなければなりません。

 

ところで5節を見ると、ここには、新しく結婚して1年間は、その夫を戦場に送ったり、他の社会的な義務を負わせてはならない、と命じられています。なぜでしょうか。なぜなら、もし、彼が戦争に出て死亡した場合、子孫もなく、妻を未亡人にしてしまうからです。夫は、自分の家のために自由の身になって、めとった妻を喜ばせなければなりません。このことからも、神はあわれみ深い方であり、結婚を通して私たちに喜びを与えてくださる方であるかがわかります。

 

2.貧しい者、弱い者たちに対する配慮(6-16

 

次に6節から15節までをご覧ください。6節には、「ひき臼、あるいは、その上石を質に取ってはならない。いのちそのものを質に取ることになるからである。」とあります。ひき臼は、家族のための日ごとのパンを作るのに、必要不可欠な道具でした。毎朝、女たちがひき臼を回して穀粒ををひき、その日のパンのための粉にしました。従って、ひき臼、あるいは上石を質に取られてしまうなら、家族が食べることができなくなり、いのちそのものが取られることになってしまいます。それで、ひき臼を質に取ることが禁じられているのです。朝ごとにひきうすの音が聞こえるのは、平和と幸せのしるしだったのです。

 

7節には、「あなたの同族イスラエル人のうちのひとりをさらって行き、これを奴隷として扱い、あるいは売りとばす者が見つかったなら、その人さらいは死ななければならない。あなたがたのうちからこの悪を除き去りなさい。」とあります。人をさらい、奴隷として外国に売り飛ばすといったことの禁止です。このようなことは主が忌みきらわれることであり、主の相続の地においてはあってはならないものなのです。

 

また、ツァラートの患部には気を付けて、レビ記にあったように、祭司が教えるとおりにしなければなりませんでした。祭司はそれをよく調べ、それがツァラートであると判断したら、隔離してもう一度調べなければなりませんでした。そして、きよめられた者だけが宿営に戻ってくることができました。なぜ、そのように慎重にしなければならなかったのでしょうか。なぜなら、9節にあるように、それが神からの罰であったかもしれないからです。モーセはここでイスラエル人に、ミリヤムのことを思い起こさせていますが、それはミリヤムがモーセを非難したために、主の前に連れて来られ、その罪のためにツァラートなりました。彼女は七日間、宿営の外にとどまっていなければなりませんでした。そのように、それが神からの刑罰であるかもしれないのです。

 

10節から13節には、担保を取ることに関する規定が記されてあります。すでにひき臼や上石を担保として取ることについては6節で禁止されていましたが、それ以外の担保を取って金を貸す場合のことです。10,11節には、担保を取るために、その家に入ってはならないと言われています。外に立っていなければなりませんでした。どうしてでしょうか。お金を貸す者がその家に入っていけば、その人の家に何があるかと注意深く見て回り、担保物件として取ってしまう危険があったからです。担保物件の設定は、あくまでもお金を借りる者が決めなければなりませんでした。ここにも、貧しい者への神のあわれみが示されています。

 

また、12節には、もしその人が貧しい人であるなら、その担保を取ったままで寝てはならないと命じられています。日没のころには、その担保を必ず返さなければなりませんでした。なぜなら、その上着は夕方になって寝るとき、彼の身体を寒さから守る唯一の物であったからです。ですから、彼がそれを着て寝ることができれば、彼はあなたを祝福するだろうし、また、それは神の前に喜ばれることなので、結局のところ、あなた自身が祝福されることになるというのです。そのことがここでは「義」となるとまで言われています。それは神の前に義なる行為として認められるということです。神によって贖われた私たちにふさわしい態度は、この神にならってあわれみ深くあることであり、貧しい人たちを顧みることなのです。

 

14節は、貧しい雇い人を働かせる場合の規定です。貧しい雇い人を働かせる場合は、日没前までに、賃金を払わなければなりませんでした。この定めは、それが同胞イスラエル人であっても、在留異国人であっても、同じように適用されました。彼らは貧しいことで、その日の収入で、その日を食べていかなければならないため、賃金を先送りされては、生きていくことができなかったからです。ですから、賃金を先送りすることは、彼らをしいたげることであり、罪なのです。このことを見ても、神が貧しい人たちのことをどれほど顧みておられる方であり、あわれみ深い方であるかがわかります。

 

16節には、各個人が自分の罪の結果として死刑になる以外に、親が子どもの罪のために殺されたり、子どもが親の罪のために死刑にされるようなことがあってはならないと教えられています。家族が罪を犯すと、多かれ少なかれ、その親や子どもが影響を受けることになりますが、あくまでもそれはその罪を犯した本人の問題であり、家族がその責任を受けるということがあってはならないのです。

 

3.在留異国人やみなしごに対して(17-22

 

最後に17節から22節を見て終わりたいと思います。17節には、「在留異国人や、みなしごの権利を侵してはならない。やもめの着物を質に取ってはならない。思い起こしなさい。あなたがエジプトで奴隷であったことを。そしてあなたの神、主が、そこからあなたを贖い出されたことを。だから、私はあなたにこのことをせよと命じる。」とあります。在留異国人やみなしごの権利を侵してはいけません。なぜなら、彼らもかつてはエジプトで奴隷だったからです。そのような彼らを、神はあわれみをもって救い出してくださいました。であれば、今度は彼らがそのような不遇な人たちに対してあわれみ深くなければなりません。

 

19節から21節には、「あなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。あなたがオリーブの実を打ち落とすときは、後になってまた枝を打ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。ぶどう畑のぶどうを収穫するときは、後になってまたそれを摘み取ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。」とあります。

 

レビ記19:9や、23:22には、「畑の隅々まで刈ってはならない。収穫の落穂を集めてはならない。」と述べられていました。農作物を収穫する時に、完全に収穫するのではなく、わざわざ一部を残しておかなければならなかったのです。それは、在留異国人や、みなしご、やもめたちが、残っている未収穫分を食べて生きることができるためです。ここにも在留異国人やみなしご、やもめに対する配慮が語られています。そのようにすることによって、主があなたのすべての手のわざを祝福してくださるためです。

 

今日の社会では、文字通り適用することは難しいかもしれませんが、しかし、その精神は継承され、実践されなければならない大切な信仰の基準です。不遇な隣人たちに対してどのように思いやり、彼らの必要に対してどのように支援できるかを、より具体的に実践する必要があります。それは必ずしも経済的な支援に限らず、霊的、精神的な支援も含みます。今日の社会では、どれほど多くの人たちが生活に困窮していることでしょう。

 

先日さくらチャペルで行われたキッズの集会の時、ふたりのお母さんとヨハネの福音書9章から聖書の学びの時を持ちました。生まれつき目が見えない盲人に対して、弟子たちが、「この人がこのように生まれたのはこの人が罪を犯したからですか、それとも、この人の両親が罪を犯したからですか。」と尋ねると、イエス様は、「この人が罪を犯したからではなく、この人の両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」(ヨハネ9:3と言われました。すると、このふたりのお母さんは、それぞれ自分の子どものことで悩みを打ち明けられたのです。はた目では何の問題もないかのようでも、みんな何らかの問題を抱えておられるんだなぁと思ったとき、そのような問題に取り組むことは、こうした在留異国人やみなしご、やもめたちのために労することでもあるということを思わされました。

 

ジョージ・ミューラーは1805917日、ドイツ領プロセインで生まれ、英国に長く暮らしました。彼はA.H.フランケの生涯を読んで深く感銘を受け、30歳の時、英国ブリストルで孤児院を始めました。彼が初めて孤児院を始めた時、準備したものはもらいものの皿3枚とフォーク4つ、そして野菜をおろすおろしがね1枚だけでした。それから62年間、750万ドル以上がその孤児院に送られてきましたが、彼は一度も人に頼んだり、訴えたりしたことはありませんでした。

英国の地に足を踏み入れてから、彼はその日誌にこう書き記しています。「私の残りの人生すべてを生きておられる神にささげる。」彼は聖書のみことばに基づいた原理にそって生きました。そして彼の人生は死ぬまで一貫していました。彼はだれにも助けを求めたり、それをほのめかしたりしませんでした。

晩年、彼は42か国にわたりほぼ20万マイルを回り、300万人のたましいに福音を伝えました。このように神に仕えた後、18983月10日の早朝、93歳でこの世を去りましたが、彼の生涯は、ただ神に祈り、神が導かれた孤児院の子どもたちにあわれみを示すということでした。それは彼のヒューマニズムから出たことではなく、この神の教えから示されてのことだったのです。

 

イエス様は、「あなたも行って、同じようにしなさい。」(ルカ10:37と言われました。私たちに示されていることは違うかもしれませんが、原則は同じです。すなわち、在留異国人やみなしご、やもめたちをあわれむことです。天の父があわれみ深いように、私たちもあわれみ深い者でありたいと思います。それがエジプトから救い出された者としての、罪の奴隷の中から贖われた者にとって、ふさわしいあり方なのです。

申命記23章

 きょうは、申命記23章から学びます。まず1節と2節をご覧ください。

 

 1.主の集会に加わることができない者(1-8

 

「こうがんのつぶれた者、陰茎を切り取られた者は、主の集会に加わってはならない。不倫の子は主の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、主の集会に加わることはできない。」

 

「こうがんがつぶれた者」とか、「陰茎を切り取られた者」とは、男性の性器をとった者のこと、つまり、去勢した男性のことです。そのような者は、主の集会に加わることができませんでした。また、不倫の子も集会に加わることができませんでした。その十代目の子孫であってもです。なぜ主の集会に加わることができなかったのでしょうか。なぜなら、主は完全な方であり、欠けたところが何一つない方だからです。そして、なによりも、神は、イスラエルの子孫からキリストをお送りになられました。キリストは、「女の子孫」とも呼ばれていますが、この子孫とは、「種」、つまり精子とも訳すことができる言葉で、生殖器官に欠陥があったり、不倫などの汚れを持っているとすれば、そのような中から救い主がお生まれになるということはふさわしくなかったのです。ですから、そうした者が主の集会に加わることができませんでした。

 

しかし、このような箇所を見ると、いかにも神は排他的であり、人を差別しているかのように感じます。人にはいろいろな事情があるし、それぞれの置かれた背景はみな違います。中には自分が望まなかったのにそのようにして生まれてきた人もいるでしょう。それなのに、どうして主はそうした人たちが主の集会に加わることができないと命じたのでしょうか。しかし、ここではそのようなことを言っているのではなく、あくまでも主は完全な方であり、律法も聖なるものであるということを示しているのであって、そのような主の集会に加えられる者も完全でなければならないということを示しているのです。ですから、そういう意味では私たちはみなこうがんがつぶれた者であり、不倫の子でしかないのです。というのは、聖書には「義人はいない。ひとりもいない。」とあるからです。そのような者が神の集会に加えられることがあるとしたら、それは神のあわれみでしかありません。

 

「肉においては無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求を全うされるためなのです。」(ローマ8:3-4

 

つまり、神は肉においては無力な者を、ご自分の御子によって、ご自分の御子を信じる者を義としてくだり、ご自身の集会に加わることができるようにしてくださったのです。すなわち、救いは神の一方的な恵みによるということです。ですから、ここで神は決して人を差別しておられるのではなく、ご自分の聖さ、完全さをお示しになることによって、不完全な私たちがどのようにしてご自分に近づくことができるのかを示しておられるのです。

 

次に3節から6節までをご覧ください。ここには、アモン人とモアブ人は主の集会に加わることができない、とあります。なぜでしょうか。なぜなら、彼らはイスラエルがヨルダン川の東側を北上しているときに、イスラエルにパンと水を与えることを拒んだからです。また、モアブの王バラクは、ベオルの子バラムを雇いイスラエルを呪わせようとしたからです。勿論、神はそんなバラムの呪いを聞こうとはされませんでした。その呪いを祝福に変えてくださいました。神はイスラエルを愛しておられるからです。その神が愛してやまないイスラエルに敵対したり、呪ったりするなどもってのほかであって、そのような者が主の集会に加わることはふさわしいことではなく、そんな彼らのためには決して平安も、しあわせも残されてはいないのです。かつて主はアブラハムに、「あなたを祝福する者は祝福され、あなたをのろう者はのろわれる。」(創世記12:3と言われましたが、モアブ人たちにそのとおりのことが起こったのです。

 

ところで、このあとに登場するモアブ人ルツは、イスラエルの集会に加えられただけでなく、救い主の系図の中にも出てくる敬虔で、美しい女性です。もしモアブ人を主の集会に加えてはならないというのであれば、ルツがそのように救い主の系図に加えられていることはおかしいことになりますが、そのように彼女が救い主の系図にも出てきているということはモアブ人だから一概にだめだということではなく、イスラエルに敵対する人たちを加えてはならないということなのです。たとえモアブ人であってもルツのようにイスラエルの神を求める者であれば、イスラエルの中に加えていただくことができたのです。

 

次に7節と8節をご覧ください。ここには、「エドム人を忌み嫌ってはならない。」とあります。なぜなら、彼らは「あなたの親類だから」です。また、「エジプト人を忌みきらってはならない。」とあります。なぜなら、イスラエルはエジプトで在留異国人だったからです。

 

エドム人は、ヤコブの兄でした。兄弟であるのだから、親類なのだから、忌みきらってはいけないのです。しかし、エジプト人を忌みきらってはならない、というのは不思議な命令です。というのは、イスラエルはかつてエジプトの奴隷としてしいたげられていたからです。そのエジプトを忌みきらってはいけないというのは、彼らがそこで「在留異国人」だったからでしょう。つまり、イスラエルは、自分にされた仕打ちを仕返しするのではなく、彼らは今、自分たちのところで在留異国人になっているのだから、優しくしてあげなければならないということなのです。イエス様は、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44と言われましたが、ゆるしの原則、また敵を愛する原則がここに見られます。だったら、なぜアモン人やモアブ人にもそのようにしないのかと不思議に思いますが、恐らく、彼らはイスラエルを呪うようなことをしたからでしょう。

 

2.陣営をきよく保つこと(9-14

 

次に9節から14節までをご覧ください。「あなたが敵に対して出陣しているときには、すべての汚れたことから身を守らなければならない。もし、あなたのうちに、夜、精を漏らして、身を汚した者があれば、その者は陣営の外に出なければならない。陣営の中にはいって来てはならない。夕暮れ近くになったら、水を浴び、日没後、陣営の中に戻ることができる。また、陣営の外に一つの場所を設け、そこへ出て行って用をたすようにしなければならない。武器とともに小さなくわを持ち、外でかがむときは、それで穴を掘り、用をたしてから、排泄物をおおわなければならない。あなたの神、主が、あなたを救い出し、敵をあなたに渡すために、あなたの陣営の中を歩まれるからである。あなたの陣営はきよい。主が、あなたの中で、醜いものを見て、あなたから離れ去ることのないようにしなければならない。」

 

ここには、イスラエルの陣営をきよく保つことが命じられています。すなわち、彼らが戦いのために出陣している時には、すべての汚れたことから身を守らなければなりませんでした。たとえば、彼らの中で、夜、射精して身を汚した者がいれば、その者を陣営の外に行かせなければなりませんでした。その者は、日が暮れるころ、水を浴び、身をきよめてからでないと、陣営の中に戻ることができませんでした。 また、お便所は陣営の外に設けなければなりませんでした。そこに小さな穴を掘り、そこで用を足したら、土をかけてそれを覆わなければならなかったのです。なぜなら、神が、彼らの陣営を歩まれるからです。主がその中で汚れたものを見て、彼らから離れることがないようにしなければならなかったのです。これはどういうことかというと、その戦いは主の戦いであるということです。神がともにおられるなら、敵がどのような者であっても勝利することができますが、神がともにおられないなら、人間的にどんな戦術を施しても勝利することはできません。彼らにとって最大の勝利の秘訣は、勝利者であられる主がともにおられるかどうかということだったのです。そのために、彼らから汚れを取り除かなければならなかったのです。

 

 それは私たちも同じです。私たちにとって最大の勝利の秘訣は、主がともにおられるかどうかであって、私たちの力とは全く関係ありません。その主が私たちとともに歩いてくださるために、いつも汚れを取り除き、自分自身をきよく保たなければなりません。それはまさに御霊なる主の働きによるものですから、私たちはいつも自分自身を主に明け渡し、心を尽くし、思いを尽くして、力を尽くして、私たちの神である主を愛する者でありたいと思います。

 

3.神のあわれみを示すこと(15-16

 

次に15節と16節をご覧ください。「主人のもとからあなたのところに逃げて来た奴隷を、その主人に引き渡してはならない。あなたがたのうちに、あなたの町囲みのうちのどこでも彼の好むままに選んだ場所に、あなたとともに住まわせなければならない。彼をしいたげてはならない。」

 

当時、逃げてきた奴隷はその主人に引き渡すことが慣例となっていましたが、主はそれに反し、そのように逃げて来た奴隷を、その主人に引き渡してしならず、その奴隷を、彼らの町囲みのうちのどこでも望む場所に住まわせてやり、決して虐待してはならないと命じられました。なぜでしょうか。それは、イスラエルもかつては奴隷であったからです。彼らもその苦しみを知っています。だから、彼らは自分たちが奴隷の時に受けた苦しみを彼らに与えるのではなく、逆に助けることによって慰めてやらなければならなかったのです。これはその苦しみを経験した者でなければわからないことです。主はそんな彼らをあわれみ、その中から救い出してくださいました。ですから、彼らもまた奴隷して苦しんでいる人をあわれみ、そこから助けてやらなければならないのです。

 

17節と18節をご覧ください。神殿娼婦とか神殿男娼というのは、異教の宮で売春をしていた女性、男性のことです。異教の宮ではこのようなことが平気で行われていました。しかし、主は聖なる方であって、その神殿に汚れたものを入れることを忌みきらわれます。こうしたものを取り除かなければなりませんでした。そればかりでなく、そのようなことによって得たお金を、主の宮に持って行って、捧げてはならないと命じられました。それは主が忌みきらわれることです。なぜなら、その手段が汚れているからです。神を礼拝するという目的のためであるならどんな手段であっても構わないというわけにはいきません。たとえ目的が良くてもその手段が悪ければ、主を喜ばせることにはならないのです。

 

次に19節と20節をご覧ください。ここには、お金や物を貸したときの利子を取ることについて教えられています。そして、外国人からは利子をとってもいいが、同胞から取ってはならないと命じられています。なぜでしょうか。なぜなら、彼らが入って行って、所有しようとしている地で、彼らの神、主が、彼らの手のすべてを祝福されるからです。これは、すばらしい約束ではないでしょうか。神の国とその義とを第一に求めるなら、それに加えて、すべてのものは与えられるのです。

 

このことについては、既にレビ記2535節から38節までのところで学んだとおりです。「もし、あなたの兄弟が貧しくなり、あなたのもとで暮らしが立たなくなったなら、あなたは彼を在住異国人として扶養し、あなたのもとで彼が生活できるようにしなさい。彼から利息も利得も取らないようにしなさい。あなたの神を恐れなさい。そうすればあなたの兄弟があなたのもとで生活できるようになる。あなたは彼に金を貸して利息を取ってはならない。また食物を与えて利得を得てはならない。わたしはあなたがたの神、である。わたしはあなたがたにカナンの地を与え、あなたがたの神となるためにあなたがたをエジプトの地から連れ出したのである。」とあります。

 

もし、あなたの兄弟が貧しくなり、あなたのもとで暮らしが立たなくなったなら、彼を在留異国人として扶養しなければなりませんでした。在留異国人として扱うというのは、異邦人として扱うということではなく、土地を持たない寄留者のように、旅人のようにもてなすということです。生活が成り立たなくなった人が奴隷としてではなく旅人のように、寄留者のように扱うというのは、まさに神のあわれみなのです。なぜそのように扱わなければならないのかというと、それは、主がエジプトからイスラエル人を連れ出してくださったからです。主がイスラエルを奴隷の中から解放してくださったのに再び奴隷になるようなことがあるとしたら、それこそ、神の恵みに泥を塗るようなことです。彼らに求められていたことは、神を敬うことでした。神の命令に従うことだったのです。そうすれば、主が彼らを祝福してくださるからです。

 

5.主に誓願をするとき(21-23

 

次に21節から23節までをご覧ください。「あなたの神、主に誓願をするとき、それを遅れずに果たさなければならない。あなたの神、主は、必ずあなたにそれを求め、あなたの罪とされるからである。もし誓願をやめるなら、罪にはならない。あなたのくちびるから出たことを守り、あなたの口で約束して、自分から進んであなたの神、主に誓願したとおりに行なわなければならない。」

 

もし主に誓願をするなら、それを果たさなければなりません。誓願をしてもそれを果たさないとしたら、それは罪とされるからです。約束は破るためにあるのではなく、誠実に果たすためにあるのです。最初から果たせないような誓約はしないことです。それでも私たちが誓約をするのは、誓約をしてでも自分の祈りを主に聞いてほしいという願いがあるからです。ですから、もし誓約をするなら、それを果たさなければなりません。

 

士師記の登場するエフタは、アモン人との戦いにおいて、もし主が敵に勝利させてくださるなら、敵に勝利して無事に家に帰ったとき、戸口から自分を迎えに出てくる、その者を主のものといたします、と誓ったら、何とそれは自分の娘でした。彼は非常に悩み、苦しみましたが、それが主への誓いであり、どんなことがあっても守らなければならないと信じ、そのようしました。ヘブル書11章にはこのエフタが信仰の勇者として紹介されていますが、何ゆえに彼が信仰の勇者として数えられているのかというと、このように主への誓いを誠実に果たしたという点で、彼は称賛されているのです。

 

イエス様は、「決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地をさして誓ってもいけません。そこは神の足代だからです。」(マタイ5:34-35と言われましたが、それはここに書かれてあることを否定しているのではなく、むしろ補強しているのです。誓うというのは、簡単に言うと、「自分で言ったことは実行する」ということです。「私は、これこれのことをします。」と言っておきながら、それを行なわなければ、それは偽りの罪になります。ですから、行なわないなら、行ないません、と正直にはっきりと言ったほうが良いのであって、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」と言いなさい、と言われたのです。

 

6.隣人のぶどう畑について(24-25

 

最後に24節と25節を見て終わります。「隣人のぶどう畑にはいったとき、あなたは思う存分、満ち足りるまでぶどうを食べてもよいが、あなたのかごに入れてはならない。隣人の麦畑の中にはいったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑でかまを使ってはならない。」

 

これはどういうことかというと、だれかが食べるものがなく困っており、ひもじい思いになっているとき、隣人のぶどう畑、もしくは麦畑に入って食べても良いということです。しかし、かごに入れてはいけません。かまを使ってはいけません。それはお持ち帰りということであって、盗むことになるからです。お腹がすいてどうしようもないときに隣人の畑に入って食べることは許されていたのです。たとえば、マルコ2章を見ると、イエスの弟子たちが麦畑を通って行ったとき、道々穂を摘み始めたとあります。お腹がすいたからです。そのような時に麦畑に入り、麦の穂を摘むことは問題ではありませんでした。そこで食べることはできたのです。でもかまを使ってはいけません。かごに入れてはいけません。

 

ここには神のあわれみというか、神の惜しみなさが示されています。神はお腹を空かせて苦しんでいる人が、ぶどう畑や麦畑に入って食べることをいちいち禁止してはいないのです。盗むのは禁じられていますが、そのように飢えで苦しんでいる人に対しては、むしろあわれんでやらなければならないのです。

 

イエス様は、「与えなさい。そうすれば与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」(ルカ6:38と言われました。日本人はとかく、義理人情の世界で、受け取ったものをお返しする習慣の中に生きています。ですから、自分から与えるということが、苦手なのです。ただで何かを与えるとなると、ただほど怖いものはないと言って警戒されたり、それじゃいくらいくらと言うと、あまりいい顔をしません。自分が価値を見出したものにはいくらお金を出しても惜しいとも思わないのですが、そうでないことに自分から与えるということはあまりしません。それはこの神がいかにあわれみ深い方であるかを知らないからです。私たちの神は与える方であり、その愛はご自身のひとり子をこの世に与えることによって表してくださいました。神はご自身の愛を惜しみなく注いでくださいました。神はそのような方なのです。であれば、その神を信じ、その神の民とされた私たちもまた喜んで与える者でなければなりません。それは神がいかにあわれみ深く、ご自分を与える方であるかを知ることによって生まれてくる性質なのです。この神によって贖われ、神の民とされた私たちも、隣人をあわれみ、惜しみなく与える者でありたいと願います。

申命記22章

 きょうは、申命記22章から学びます。まず1節から4節までをご覧ください。

 

 1.知らぬふりをしてはならない(1-4

 

「あなたの同族の者の牛または羊が迷っているのを見て、知らぬふりをしていてはならない。あなたの同族の者のところへそれを必ず連れ戻さなければならない。もし同族の者が近くの者でなく、あなたはその人を知らないなら、それを自分の家に連れて来て、同族の者が捜している間、あなたのところに置いて、それを彼に返しなさい。彼のろばについても同じようにしなければならない。彼の着物についても同じようにしなければならない。すべてあなたの同族の者がなくしたものを、あなたが見つけたなら、同じようにしなければならない。知らぬふりをしていることはできない。あなたの同族の者のろば、または牛が道で倒れているのを見て、知らぬふりをしていてはならない。必ず、その者を助けて、それを起こさなければならない。」

 

ここには、同族の者の牛または羊が迷っているのを見て、知らぬふりをしてはならない、と教えられています。そのような牛や羊を見たら、その所有者のところに連れ戻さなければなりません。その所有者が近くの者でなく、それがだれのものであるかがわからない時には、それを自分の家に連れて来て、その人が捜している間、自分のところに置いて、保護しておかなければなりません。そして、所有者が見つかったら、彼に返してやらなければなりません。それは牛や羊だけでなく、ろばであっても、着物であっても同じです。つまり、隣人が自分の物を見失った時、見てみぬふりをしてはならず、その人のためになることをするように努めなければならないのです。

 

これは私たち日本人にはとても大切な教えです。というのは、日本人はどちらかというと自分のことばかり考えて、他の人のことを顧みることが苦手だからです。自分さえよければ良いという風潮の中にあって他の人が困っているのを見たら率先して助けてやることが、神の民にとってとても重要なことだからです。

 

先月、中国の教会を訪問したとき、どこでも盛大なもてなしをしていただきました。中には貧しい農家の方もおられましたが、出された食事はものすごく豪華なものでした。私が王さんに、「これは普通ですか」と尋ねると、中国では他の人のために自分を犠牲にして尽くしたいという思いがあるのでみんな同じようにしますと言いました。日本では自分の都合が悪いとできないとかとよく言いますが、中国では自分の都合が悪ければそれをキャンセルしてでもその人のために尽くすというのです。それは神の愛を受けた者にとって当然のことでしょう。神は私たち罪人をご覧になり、見て見ぬふりをせず、その救いのために御子をこの世に遣わしてくださいました。ここに神の愛が豊かに示されたのです。その愛を受けた私たちは、今度は同じように迷っている人のために尽くすのは当然ではないでしょうか。イエス様は、「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。」(ルカ6:31)と言われました。自分にしてもらいたいと望むとおりに、人にもそのようにすることが神のみこころであり、救われた私たちに求められていることなのです。

 

Ⅱ.混ぜ物をしてはならない(5-12

 

次に5節から12節までをご覧ください。

「女は男の衣装を身に着けてはならない。また男は女の着物を着てはならない。すべてこのようなことをする者を、あなたの神、主は忌みきらわれる。たまたまあなたが道で、木の上、または地面に鳥の巣を見つけ、それにひなか卵がはいっていて、母鳥がひなまたは卵を抱いているなら、その母鳥を子といっしょに取ってはならない。必ず母鳥を去らせて、子を取らなければならない。それは、あなたがしあわせになり、長く生きるためである。新しい家を建てるときは、屋上に手すりをつけなさい。万一、だれかがそこから落ちても、あなたの家は血の罪を負うことがないために。ぶどう畑に二種類の種を蒔いてはならない。あなたが蒔いた種、ぶどう畑の収穫が、みな汚れたものとならないために。牛とろばとを組にして耕してはならない。羊毛と亜麻糸とを混ぜて織った着物を着てはならない。身にまとう着物の四隅に、ふさを作らなければならない。」

 

どういうことでしょうか。女は男の衣装を身に着けてはならない。また男は女の着物を着てはならない。すべてこのようなことをする者を、あなたの神、主は忌みきらわれる。創世記1章には、神が人を造られた経緯が記されてありますが、神が人を造られた時、男と女とに造られました。それは男と女は違うように造られたという意味です。人間としては同等であり、同質ですが、それぞれ与えられた役割に違いがあるということです。人は神のかたちに造られ、神の栄光を現すために造られましたが、人がひとりでいるのは良くないと、神はアダムの助け手としてエバを造られました。そのようにして二人が互いに助け合って神の栄光を現すためです。ですから、男と女は同等、同質ですが、根本的な違いがあるのであって、その違いを認めつつも、それを混同してはならないのです。

 

それは男と女だけのことではありません。その後のところにはぶどう畑に二種類の種を蒔いてはいけないことや、牛とろばを組みにして耕してはならないとか、羊毛と亜麻糸を混ぜて織った着物を着てはならない、とあることからもわかります。これらを一言で言えば、「神が与えられた区別や種類を尊重しなさい。」ということです。創世記を読むと、神は区別をされる神であることが分かります。「神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。」(創世1:4とあります。「こうして神は、大空を造り、大空の下にある水と、大空の上にある水とを区別された。するとそのようになった。」(創世記1:7それぞれに区別があることによって、神の創造の秩序を見ることができ、秩序があるところに神の栄光が現われるのです。神は混乱の神ではなく、平和の神だからです。

 

ですから、ここでモーセが禁じているのも、そうした神の創造の秩序が基になっているのです。つまり、この創造の秩序を重んじ、男は男として与えられた秩序に従って歩み、女は女として与えられた秩序に従って歩まなければならないということです。パウロは、「すべてのおとこのかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。」(Ⅰコリント11:3と言っていますが、この秩序はとても大事です。男と女は一つであり、同等であり同質ですが、男が女のかしらになるように造られました。したがって、女が男のように見えたり、男が女のように見えたりするのは、神が忌みきらわれることなのです。最近では、男が女っぽくなってきたり、女が男みたいになることがもてはやされていますが、そのようなことはこうした区別することをないがしろにすることであり、神が忌みきらわれることなのです。

 

6節から8節までの勧めはユニークです。木の上に鳥の巣を見つけ、そこにひなか卵が入っていてそれを取ろうとする時には、母鳥がいないときにとるようにしなさいとあります。なぜでしょうか。もし母鳥が見たら悲しむことになるからです。そのような残酷なことをせず、ちょっとした配慮をすることは、たとえそれが動物であったとしても大切なことなのです。

同じように、新しい家を建てるときは、屋上に手すりをつけるようにとあります。万一、だれかがそこから落ちても、あなたの家は血の罪を負うことがないためにです。中東の家は屋上が平らの家屋になっているので、屋上にあがることがたくさんあるのですが、その時に手すりをつけなさいと落ちてしまう危険があります。そういうことがないように、ちゃんと手すりをつけなさいということですが、それが周りの人々に対する配慮でもあり、そうしたことを怠ってはならないのです。

 

また、ぶどう畑に二種類の種を蒔いてはならない、とあります。あなたが蒔いた種、ぶどう畑の収穫が、みな汚れたものとならないためにです。牛とろばとを組にして耕してはならないし、羊毛と亜麻糸とを混ぜて織った着物を着てはなりません。牛とろばを組にして耕してはならないというのは、同じくびきをかけてはならない、ということです。パウロはここから、「不信者とつり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。」(Ⅱコリント6:14と言っています。私たちはこのような原則を守り、神のみこころにかなった者、聖なる者となることを求めていかなければなりません。

 

また、 身にまとう着物の四隅には、ふさを作らなければならない、とあります。民数記15章を見ると、これは、主の命令を思い起こし、それを行うためであり、神の聖なるものとなるためでした。すべての民が着る着物のすその四隅にあるふさを互いに見ながら、自分たちが神の民であることを思い起こし、神の恵みを思い起こすことができることはどんなに幸なことでしょう。これは現代でいう聖餐式を行う目的でもありますが、私たち常に神の民であることを思いお越し、神が私たちに成してくださった恵みを思い起こすものでありたいと思います。

 

Ⅲ.姦淫の罪に対する処置(13-30

 

次に13節から終わりまでをご覧ください。まず13節から19節までの箇所です。

「もし、人が妻をめとり、彼女のところにはいり、彼女をきらい、口実を構え、悪口を言いふらし、「私はこの女をめとって、近づいたが、処女のしるしを見なかった。」と言う場合、その女の父と母は、その女の処女のしるしを取り、門のところにいる町の長老たちのもとにそれを持って行きなさい。その女の父は長老たちに、「私は娘をこの人に、妻として与えましたが、この人は娘をきらいました。ご覧ください。彼は口実を構えて、『あなたの娘に処女のしるしを見なかった。』と言いました。しかし、これが私の娘の処女のしるしです。」と言い、町の長老たちの前にその着物をひろげなさい。その町の長老たちは、この男を捕えて、むち打ちにし、銀百シェケルの罰金を科し、これをその女の父に与えなければならない。彼がイスラエルのひとりの処女の悪口を言いふらしたからである。彼女はその男の妻としてとどまり、その男は一生、その女を離縁することはできない。」

 

人が妻をめとり、彼女のところに入るとは、結婚して男女が性的関係に入ることです。ところが、結婚した後に彼女をきらうようになり、いろいろと口実を設けて男が女の悪口を言いふらした場合、どうしたら良いかが教えられています。男がその欲望から結婚しても、それがつまらないため離縁しようとしたケースは、聖書の他の箇所にもあります。たとえば、ダビデの息子アムノンは、ダビデの別の妻の娘であり、タマルのことが欲しくて、彼女を力づくで恥ずかしめ寝てしまいましたが、その後で、彼女を熱烈に恋したその恋よりも憎しみの方が大きかったとあります。アムノンは、「さあ、出て行け。」と言いましたが、タマルは、「それはなりません。私を追い出すことなど、あなたが私にしたあのことより、なおいっそう悪いことです。」(Ⅱサムエル13:16)」と言いましたが、彼は力づくで彼女を追い出しました。このような時、男は往往にして自分を正当化するために女の悪口を言いふらしてしまうことがあります。ここではそれが、この女と結婚したが、彼女に処女のしるしを見なかったというものです。つまり、離縁するために正当な理由付けを見つけようとするのです。もし彼女が本当に処女ではなかったら、死刑に処せられます。ですから、主は、そのような状況から彼女を守るために、彼女の両親が、その寝床のシーツを持ってきて、処女であるしるしを持って来て、それを町の長老たちの前にその着物を広げて証明するのです。そしてそれがこの男の嘘だということがわかったら男から罰金を取り、一生、その女と離縁することができないように定めました。

 

しかし、そのことが真実であり、その女に処女のしるしが見つからなかったとしたらどうしたかというと、その女を父の家の入口のところに連れ出し、その女の町の人々は石で彼女を打たなければなりませんでした。彼女は死ななければなりません。その女は父の家で淫行をして、イスラエルの中で恥辱になる事をしたからです。そのようにして、彼らのうちから悪を除き去らなければなりませんでした。これは婚前交渉も罪であるということです。夫のある女と寝ることも罪ですが、結婚する前に寝ることも罪です。それは神のみこころにかなわないことであり、それが判明した時には女と寝ていた男もその女も、ふたりとも死ななければなりませんでした。

 

23節と24節をご覧ください。「ある人と婚約中の処女の女がおり、他の男が町で彼女を見かけて、これといっしょに寝た場合は、あなたがたは、そのふたりをその町の門のところに連れ出し、石で彼らを打たなければならない。彼らは死ななければならない。これはその女が町の中におりながら叫ばなかったからであり、その男は隣人の妻をはずかしめたからである。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。」

ユダヤ人の中では、婚約は結婚と同じように拘束力があったので、この時に罪を犯したら、それは姦淫の罪と同じように罰せられました。

 

「もし男が、野で、婚約中の女を見かけ、その女をつかまえて、これといっしょに寝た場合は、女と寝たその男だけが死ななければならない。その女には何もしてはならない。その女には死刑に当たる罪はない。この場合は、ある人が隣人に襲いかかりいのちを奪ったのと同じである。この男が野で彼女を見かけ、婚約中のその女が叫んだが、救う者がいなかったからである。」

これは強姦された時のケースです。その場合は、男だけが死ななければなりませんでした。女には死刑にあたる罪はありません。それは、ある人が隣人に襲いかかり、いのちを奪ったのと同じだからです。その女がどんなに叫んでもだれも助けてくれる人がいなかったとしたら、彼女にはどうすることもできないからです。不品行を犯すことは神にとっては重大な罪ですが、しかし、どうしようもないことまでも理不尽にさばくことは決してなさいません。

 

「もしある男が、まだ婚約していない処女の女を見かけ、捕えてこれといっしょに寝て、ふたりが見つけられた場合、女と寝たその男は、この女の父に銀五十シェケルを渡さなければならない。彼女は彼の妻となる。彼は彼女をはずかしめたのであるから、彼は一生、この女を離縁することはできない。」

 もし、まだ婚約していない女を見つけ、これとネタ場合、男はその責任を取って女を妻としなければなりませんでした。そうした肉体関係を持ってしまった責任を結婚することによって果たすことになるからです。また、「だれも自分の父の妻をめとり、自分の父の恥をさらしてはならない。」これは、自分の母ではない父の妻がいて、その母をめとることによって父をはずかしめてはならないということです。

 

このように、イスラエルが約束の地に入りそこに定住するようになるといろいろな問題が起こることが予想されますが、ここではそうした問題一つ一つにどのように対処しなければならないかを教えています。そして、ここに貫かれていることは「聖」であるということです。こうしたことは異教社会では当たり前のように行われていたことかもしれませんが、神に贖い出され、神の民とされた者にとってそうしたものに妥協することなく、神のみ教えに従って歩まなければならないということです。この世と妥協してはなりません。彼らから出て行き、彼らと分離しなければなりません。そうすれば、神は私たちを受け入れてくださり、神の民として生きることができます。それこそ、どこにいても、勝利ある人生を生きる力となるのです。

また、このような聖なる者となるのは私たちの行いによるのではなく、神の子イエス・キリストの贖いによるということを忘れてはなりません。ヨハネの福音書8章には、姦淫の現場で捕らえられた女何と言われるかとの律法学者とパリサイ人たちの問いに、イエス様はこう言われました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(ヨハネ8:7)すると、年長者たちから初めて、ひとりひとり出て行きました。するとイエスはその女に言いました。「婦人よ。あのひとたちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はいなかったのですか。」「わたしもあなたを罪に定めなさい。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(同8:10-11

私たちはだれひとり罪に定められることはありません。イエス・キリストが私たちのすべての罪を贖ってくださいました。イエス様はその罪の罰のすべてを受けてくださいました。そのうち傷のゆえに、私たちは許されたのです。このイエス様の赦しがなければ、私たちはここに立ち続けることはできません。しかし、イエス様が私たちのために死んでくださったので、私たちは今もここにいることができるのです。このイエスの愛によって、私たちは神のものとなり、その歩みを続けていくことができるのです。ですから、このことをいつも思い起こし、こんな罪深い者が赦されたことを感謝して、ますます聖なる者としての歩みを続けさせていただきたいと思うのです。

申命記21章

 

 きょうは、申命記21章から学びます。まず1節から9節までをご覧ください。

 

 1.だれが殺したのかわからないとき(1-9

 

「あなたの神、主があなたに与えて所有させようとしておられる地で、刺し殺されて野に倒れている人が見つかり、だれが殺したのかわからないときは、あなたの長老たちとさばきつかさたちは出て行って、刺し殺された者の回りの町々への距離を測りなさい。そして、刺し殺された者に最も近い町がわかれば、その町の長老たちは、まだ使役されず、まだくびきを負って引いたことのない群れのうちの雌の子牛を取り、その町の長老たちは、その雌の子牛を、まだ耕されたことも種を蒔かれたこともない、いつも水の流れている谷へ連れて下り、その谷で雌の子牛の首を折りなさい。そこでレビ族の祭司たちが進み出なさい。彼らは、あなたの神、主が、ご自身に仕えさせ、また主の御名によって祝福を宣言するために選ばれた者であり、どんな争いも、どんな暴行事件も、彼らの判決によるからである。刺し殺された者に最も近い、その町の長老たちはみな、谷で首を折られた雌の子牛の上で手を洗い、証言して言いなさい。「私たちの手は、この血を流さず、私たちの目はそれを見なかった。主よ。あなたが贖い出された御民イスラエルをお赦しください。罪のない者の血を流す罪を、御民イスラエルのうちに負わせないでください。」彼らは血の罪を赦される。あなたは、罪のない者の血を流す罪をあなたがたのうちから除き去らなければならない。主が正しいと見られることをあなたは行なわなければならないからである。」

 

1)罪に対する責任(1-5

ここには、イスラエルの民が約束の地に入ったとき、そこで殺人事件が起こるも、だれが殺したのかわからないときどうしたらよいかにいて教えられています。その場合、その死体から一番近い町が、一時的な責任を負わなければなりませんでした。その長老たちは、まだくびきを負ったことがない雌の子牛を連れて来て、その雌の子牛を、まだ耕されたことも種を蒔かれたこともない、いつも水が流れている谷へ連れて行き、そこで首を折らなければなりませんでした。いったいなぜそのようなことが必要だったのでしょうか。

それは、一人の犯した罪に対して、その個人だけでなく、イスラエル全体がその責任を負わなければならなかったからです。罪を犯した人は勿論のこと、他の人にも、その罪に対する責任がないとは言えません。その罪に対する責任を痛感することが必要なのです。これが罪の処理における最初のステップです。

 

今年は戦後71年を迎えますが、この71年はいったいどのような時だったのでしょうか。それはちょうどイスラエルがバビロンに捕らえられて70年を過ごしたような、捕らわれの時だったのではないかと思うのです。勿論、主イエスによって罪から救われ罪の束縛から解放していただきましたが、戦時中にクリスチャンが犯した罪に対しては本当の意味で悔い改めがなされてこなかったのではないかと思います。それはあくまでもその時代に生きていたクリスチャンの責任であり、彼らが悔い改めなければならないことではありますが、それは彼らだけのことではなく、私たちの責任でもあるのです。

それは、たとえばネヘミヤ記1章に出てくる彼の祈りを見てもわかります。彼はエルサレムの惨状を耳にしたとき神の前にひれ伏してこう祈りました。

「どうぞ、あなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください。私は今、あなたのしもべイスラエル人のために、昼も夜も御前に祈り、私たちがあなたに対して犯した、イスラエル人の罪を告白しています。まことに、私も父の家も罪を犯しました。・・」(ネヘミヤ1:6-11

ネヘミヤはイスラエルの罪を自分の罪として告白して悔い改めました。それは先祖たちが勝手に犯した罪であって自分とは関係ないこととして考えていたのではなく、自分のこととして受け止めて悔い改めたのです。

この箇所で教えられていることも同じで、それはだれが犯したのかわからなくても、それを自分の罪として、自分たち全体の問題として受け止めなければならないということなのです。

 

そればかりではありません。6節から9節までをご覧ください。ここには、その罪の贖いのために

まだ使役されず、まだくびきを負って引いたことのない群れのうち雌の子牛を取って、まだ多賀谷貸されたことも種を蒔かれたこともない、きれいな水の流れている谷へ連れて行き、そこでほふるようにと教えられています。何のためでしょうか。その罪を贖うためです。だれが殺したのかわからない罪であってもそれを自分のこととして受け止め、贖罪がなされなければなりませんでした。そのとき彼らは、自分たちがその血を流さなかったことを証言し、罪の赦しを祈りました。そのようにすることによって罪が赦されたのです。

 

これはやがて完全な神の御子イエス・キリストの贖いを示すものでした。イエス様が私たちの罪の身代わりとして十字架で死んでくださったので、その流された血によって私たちのすべての罪を赦してくださったのです。ですから、罪が赦されるためには神の小羊であられるイエス・キリストを信じなければなりません。あなたがイエス様を信じるなら、あなたのすべての罪は赦され、雪のように白くされるのです。そのようにしてイスラエルから罪を除き去らなければなりませんでした。そのようにして私たちも、私たちの群れから罪や汚れを除き去らなければならないのです。

 

Ⅱ.健全な家庭生活(10-21

 

次に10節から21節までをご覧ください。10節から14節には次のようにあります。

「あなたが敵との戦いに出て、あなたの神、主が、その敵をあなたの手に渡し、あなたがそれを捕虜として捕えて行くとき、その捕虜の中に、姿の美しい女性を見、その女を恋い慕い、妻にめとろうとするなら、その女をあなたの家に連れて行きなさい。女は髪をそり、爪を切り、捕虜の着物を脱ぎ、あなたの家にいて、自分の父と母のため、一か月の間、泣き悲しまなければならない。その後、あなたは彼女のところにはいり、彼女の夫となることができる。彼女はあなたの妻となる。もしあなたが彼女を好まなくなったなら、彼女を自由の身にしなさい。決して金で売ってはならない。あなたは、すでに彼女を意のままにしたのであるから、彼女を奴隷として扱ってはならない。」

 

ここには、イスラエルの兵士が戦争中捕虜の中に美しい女性を見つけ、その女性と結婚したいと思うなら、その女を自分の家に連れて行き、そこで女は髪をそり、爪を切って、自分の父と母のために、一か月の間、泣き悲しまなければならないとあります。その後で、彼は彼女のところに入り、彼女と結婚することができました。どうしてでしょうか。それは、たとえ捕虜であってもその女性の人格を尊重し、彼女の悲しみや憂いを大切に取り扱わなければならなかったからです。また、そのようにすることによって、イスラエルの道徳的純潔を守らなければならなかったからです。兵士が心から願うなら、そのような手続きを踏まなければなりませんでした。この1か月の間、女性が感情的な問題を解決し、同時に兵士が、この結婚をより真剣に考える機会としたのです。それが健全な家庭の基礎となるからです。

 

ですから、結婚して嫌になったからと言って簡単に離婚することは許されませんでした。もし離婚したい時には、彼女を自由の身にしなければなりませんでした。決して金で売ってはならないし、彼女を奴隷として扱ってはいけませんでした。なぜなら、彼女はすでに彼によってはずかしめられたからです。それほど彼は結婚について慎重に祈り求める必要があったのです。

 

そればかりではありません。次に15節から17節をご覧ください。

「ある人がふたりの妻を持ち、ひとりは愛され、ひとりはきらわれており、愛されている者も、きらわれている者も、その人に男の子を産み、長子はきらわれている妻の子である場合、その人が自分の息子たちに財産を譲る日に、長子である、そのきらわれている者の子をさしおいて、愛されている者の子を長子として扱うことはできない。きらわれている妻の子を長子として認め、自分の全財産の中から、二倍の分け前を彼に与えなければならない。彼は、その人の力の初めであるから、長子の権利は、彼のものである」

 

聖書は一貫して一夫一婦制を原則としています。一夫多妻制にはいろいろな問題が生じます。ある妻は夫からの愛情を十分に受け、一方の妻はそうでなければ、そこには憎しみが生じます。そればかりではなく、その憎まれている妻から長男が生まれれば、問題は一層複雑になります。というのは、当時、長子は二倍の遺産を受け継ぐことになっていたからです。けれども、父親というのは、自分が愛した妻から生まれた長男に、より多くの愛情を注ぎたくなるものです。この問題は、遺産相続の時に、より一層露骨に現われます。しかし、この問題に対して神は、感情にとらわれず、憎まれている妻が生んだ長子であっても原則を守るようにと、みことばをもって明らかにしてくださいました。私たちの家庭生活においても、私たちの感情ではなく、神のみことばに従うことが優先されなければならないのです。

 

Ⅲ.厳しい警告(18-23

 

次に18節から21節までをご覧ください。

「かたくなで、逆らう子がおり、父の言うことも、母の言うことも聞かず、父母に懲らしめられても、父母に従わないときは、その父と母は、彼を捕え、町の門にいる町の長老たちのところへその子を連れて行き、町の長老たちに、「私たちのこの息子は、かたくなで、逆らいます。私たちの言うことを聞きません。放蕩して、大酒飲みです。」と言いなさい。町の人はみな、彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。イスラエルがみな、聞いて恐れるために。」

 

ここには、かたくなで、両親に逆らう子に対してどのように対処すべきかが教えられています。その場合は、両親は彼を捕まえて、町の長老たちの所へ連れて行き、「私たちの息子は放蕩して、大酒のみです。」と言わなければなりませんでした。両親が扱うことができないことを認め、特別な対処を求めたのです。するとその息子は、町の長老たちから裁きを受けました。そして、町人たちはみな、彼に向かって石を投げ、死刑にしたのです。

 

何と恐ろしいことでしょうか。両親に逆らったくらいで石投げにされるというのではたまったものではありません。いったいこれはどういうことなのでしょうか。それは、このように一つの家庭で起こっていることはその家庭の問題だけでなく、イスラエルの共同体全体の問題として扱われたからです。彼が両親に逆らう息子であることが証明されたなら、彼は死ななければなりませんでした。それは神に対する罪でもあったからです。なぜなら、聖書には、「あなたの父と母を敬え」(申命記5:16)とあるからです。父母に対する反逆は殺人の罪と同じくらい怖い罪なのです。

 

今日、この神の命令をないがしろにされています。子供は親の言うことなど聞こうともしません。子供が親に従うのではなく、親が子供に従うというような逆転した状態になっています。やりたい放題で、歯止めが利かなくなっています。その結果、社会全体がおかくなっています。そのようなことはふさわしいことではありません。子どもを愛することと、子供に好きなようにされるのは全く違います。親は神のみこころを知り、子どもを訓練し、愛して、しつけなければなりません。そのようにしてイスラエルの中から悪を除き去らなければならないのです。それは、イスラエルがみな、聞いて恐れるためです。このような断固とした対応が、イスラエル全体の聖さを保つことになるのです。

 

最後に22節、23節を見て終わりたいと思います。

「もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。」

 

ここでは、死刑にされた人のその死体に取り扱いについて語られています。死刑になった者の死体は、しばらくの間、木の上につるして置かなければなりませんでした。それは、その死体を見ることによって罪を畏れるようにするためです。聖書は、私たちに、罪と罪の本質について生々しい結果を見せてくれています。私たちは自ら犯した罪が、どのくらい醜いものであるのか、覚えなければなりません。罪が人をどれほど悲惨にさせるのか、私たちはいくらでも見ることができます。これらすべてのものは、私たちに対する厳しい神の警告でもあります。私たちは、罪を軽々しく考えてはならないのです。

 

ところで、パウロはこのみことばを引用して、イエス様が、この神ののろいを受けてくださったことを語っています。

「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである。』と書いてあるからです。」(ガラテヤ3:13

いったいなぜキリストは神にのろわれたものとなって十字架で死なれたのでしょうか。それは、私たちのためでした。私たちは神にそむき、父母にそむき、自分勝手に生きるものでした。その結果、木につるされなければならなかったのです。それを見れば私たちがいかに醜いものであり、汚れた者であったかがわかります。しかし、イエス様はその汚れてのすべてを身代わりに受けて死んでくださいました。神ののろいとなってくださったのです。私たちは、このキリストにあって罪の贖い、永遠のいのちを受けることができました。であれば、私たちは律法によって義と認められようとする愚かなことがあってはなりません。御霊で始まった私たちの救いを、肉によって完成させるようなことがあってはならないのです。

 

このような真理をどのように理解し、受け止めているかが大切です。私たちも時として御霊で始められた救いを肉によって完成してようとしていることがあるのではないでしょうか。ペテロは、異邦人コルネリオをなかなか受け入れることができませんでした。しかし、夢を通して、「神が聖めたものをけがれていると言ってはならない。」日と示され、やっと受け入れることができました。それはペンテコステから約10年が経過してのことです。私たちに求められていることは、御霊によって始められた救いのわざを、御霊によって完成していくこと、すなわち、福音の正しい理解に立って、その中を生きることなのです。

申命記20章

 きょうは、申命記20章から学びます。まず1節から9節までをご覧ください。

 

 1.恐れてはならない(1-9

 

「あなたが敵と戦うために出て行くとき、馬や戦車や、あなたよりも多い軍勢を見ても、彼らを恐れてはならない。あなたをエジプトの地から導き上られたあなたの神、主が、あなたとともにおられる。あなたがたが戦いに臨む場合は、祭司は進み出て民に告げ、彼らに言いなさい。「聞け。イスラエルよ。あなたがたは、きょう、敵と戦おうとしている。弱気になってはならない。恐れてはならない。うろたえてはならない。彼らのことでおじけてはならない。共に行って、あなたがたのために、あなたがたの敵と戦い、勝利を得させてくださるのは、あなたがたの神、主である。つかさたちは、民に告げて言いなさい。「新しい家を建てて、まだそれを奉献しなかった者はいないか。その者は家へ帰らなければならない。彼が戦死して、ほかの者がそれを奉献するといけないから。ぶどう畑を作って、そこからまだ収穫していない者はいないか。その者は家へ帰らなければならない。彼が戦死して、ほかの者が収穫するといけないから。女と婚約して、まだその女と結婚していない者はいないか。その者は家へ帰らなければならない。彼が戦死して、ほかの者が彼女と結婚するといけないから。」つかさたちは、さらに民に告げて言わなければならない。「恐れて弱気になっている者はいないか。その者は家に帰れ。戦友たちの心が、彼の心のようにくじけるといけないから。」つかさたちが民に告げ終わったら、将軍たちが民の指揮をとりなさい。」

 

ここには、イスラエルが約束の地に入ってから現実に直面する一つの問題、すなわち、戦いについて言及されています。イスラエルが入って行こうとしている地は、彼らがエジプトで奴隷としている間に多くの民が住み着いていたので、そこに入りその地を所有しようとすれば、戦いは避けられませんでした。そこで、そのような戦争が起こったとき、彼らがどのように戦いに臨まなければならないのかが語られています。

 

それはまず、「あなたが敵と戦うために出て行くとき、馬や戦車や、あなたよりも多い軍勢を見ても、彼らを恐れてはならない。」ということでした。なぜなら、彼らをエジプトの地から導き上られた彼らの神、主が、彼らとともにおられるからです。エジプトで430年もの間奴隷として捕らえられ、苦役に服していた彼らにとってその中から救い出されることは人間的には全く考えられないことでした。しかし、全能の主が彼らとともにおられたので、彼らはその中から救い出され、約束の地へと導かれたのです。主が共におられるなら何も恐れることはありません。

 

私たちの問題は、すぐに恐れてしまうことです。仕事がうまくいかないので、このままでは倒れてしまうのではないか、職場をリストラになったが、この先どうやって生活していったらいいのだろう、職場や家庭、友達との関係に問題が生じたが、これから先どうなってしまうのだろう、最近、起きると半身がしびれるが、もしかしたら脳に腫瘍でもあるのではないか、そのように恐れるのです。戦いにおいて恐れは禁物です。恐れがあれば戦う前にすでに勝敗は決していると言ってもいいでしょう。ではどうしたら恐れに勝利することができるのでしょうか。

 

2節から4節までをご覧ください。「あなたがたが戦いに臨む場合は、祭司は進み出て民に告げ、彼らに言いなさい。

「聞け。イスラエルよ。あなたがたは、きょう、敵と戦おうとしている。弱気になってはならない。うろたえてはならない。共に行って、あなたがたのために、あなたがたの敵と戦い、勝利を得させてくださるのは、あなたがたの神、主である。」

ここでモーセは、イスラエルの兵士の士気を高めるために、彼らの目を主に向けさせました。向かってくる敵を見ておびえるのではなく、主を見て、主が自分たちのために戦ってくださることを信じて、勇敢に戦いなさい、というのです。

 

少し前に青年や学生たちとネヘミヤ記から学びましたが、ネヘミヤも同じでした。エルサレムの城壁再建に取り組むもそれに批判的であったホロン人サヌバラテとかアモン人トビヤといった者たちが、非常に憤慨して工事を妨げようとしました。しかし、イスラエルの民に働く気があったので工事は順調に進み、その高さの半分まで継ぎ合わされました。

すると反対者たちは非常に怒り、混乱を起こそうと陰謀を企てました。するとイスラエルの民はみな意気消沈してこう言いました。「荷を担う者の力は衰えているのに、ちりあくたは山をなしている。私たちは城壁を築くことはできない。」(ネヘミヤ4:10)これは言い換えるとこういうことです。「もう体力の限界にきているというのに問題だらけだ。これでは城壁を築くことはできない・・・」つまり、彼らは意気消沈したのです。これこそ敵の思うつぼでした。やる気を失わせたのです。

そこでネヘミヤが取った行動は、彼らの目を神に向けさせることでした。ネヘミヤはおもだった人々や、代表者たち、およびその他の人々にこう言いました。「彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、自分たちの兄弟、息子、娘、妻、また家のために戦いなさい。」(ネヘミヤ4:14)すると彼らは奮起され、片手で仕事をし、片手に投げやりを堅く握って工事を進めたので、わずか52日間で城壁工事を完成させることができたのです。

 

ここでも同じです。イスラエルが敵と戦うために出て行くとき、あなたよりも馬や戦車や多くの軍勢を見て、とても自分たちの力では戦えないと恐れてしまうこともあるかもしれない。しかし、彼らを恐れてはいけません。うろたえてはならないのです。あなたが敵と戦って勝利を得させてくださるのはあなたがたの神であり、その神があなたがたとともにおられるのだから。問題はどのように戦うのかではなく、だれが戦うのかです。私たちと戦ってくださるのは主であり、この主がともにおられることを覚えて、恐れたり、うろたえたり、おじけたりしてはならないのです。

 

5節から9節までをご覧ください。ここには、彼らが戦いに出て行くとき、つかさたちはこれらのことを民に告げるようにと言われています。これはどういうことでしょうか。これは自分の生活のことで心配事がある人は、戦いに行ってはならないということです。なぜなら、戦友たちの士気が下がってしまうからです。新しい家を買った者は、その家のことが気になって戦いに影響をきたします。ぶどう畑にたくさんぶどうの実が結ばれていたら、そのぶどうのことが気になって戦いに集中することができません。婚約している人は、彼女のことが気になってしょうがないため、戦うことができません。そして、悪いことにそうしたことが同じように戦っている兵士の士気を下げてしまうのです。

 

主イエスはこのように言われました。「さて、彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。『私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。』すると、イエスは彼に言われた。『狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。』イエスは別の人に、こう言われた。『わたしについて来なさい。』しかしその人は言った。『まず行って、私の父を葬ることを許してください。』すると彼に言われた。『死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。』別の人はこう言った。『主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。』するとイエスは彼に言われた。『だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。』」(ルカ9:57-62

 

主の弟子となるということは、主だけに思いを集中して従うということであり、他のことで思い煩わないということです。そうでないと、戦友の心までもくじけてしまうことになるからです。主の弟子として生きていく上には多くの戦いが生じますが、それがどのような戦いであっても共通して言えることは、恐れてはならないということです。なぜなら、主がともにおられ、主が勝利を得させてくださるからです。

 

2.聖絶しなさい(10-18

 

 次に10節から18節までをご覧ください。

 

「町を攻略しようと、あなたがその町に近づいたときには、まず降伏を勧めなさい。降伏に同意して門を開くなら、その中にいる民は、みな、あなたのために、苦役に服して働かなければならない。もし、あなたに降伏せず、戦おうとするなら、これを包囲しなさい。あなたの神、主が、それをあなたの手に渡されたなら、その町の男をみな、剣の刃で打ちなさい。しかし女、子ども、家畜、また町の中にあるすべてのもの、そのすべての略奪物を、戦利品として取ってよい。あなたの神、主があなたに与えられた敵からの略奪物を、あなたは利用することができる。非常に遠く離れていて、次に示す国々の町でない町々に対しては、すべてこのようにしなければならない。しかし、あなたの神、主が相続地として与えようとしておられる次の国々の民の町では、息のある者をひとりも生かしておいてはならない。すなわち、ヘテ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたとおり、必ず聖絶しなければならない。それは、彼らが、その神々に行なっていたすべての忌みきらうべきことをするようにあなたがたに教え、あなたがたが、あなたがたの神、主に対して罪を犯すことのないためである。」

 

ここでモーセは、どのように約束の地を攻略するかを語っています。そして、イスラエルが町を攻略しようと、その町に近づいたときには、まず降伏を勧めなければなりませんでした。そして、降伏に同意して敵が門を開くなら、その中にいる者は、みな、イスラエルのために、苦役に服しました。しかし、もし、敵が降伏せず、戦おうとするなら、これを包囲して戦い、その町の男をみな、剣の刃で打たなければなりません。しかし、女、子ども、家畜、またその町の中にあるすべてのもの、そのすべての略奪物を、戦利品として取ることができました。それを利用することができたのです。ここで女や子どもを殺さなかったというのは人道的な理由からであると考えられます。イスラエルの敵は彼らに襲い掛かってくる者たちであって、その妻や娘たち、子どもたちではないからです。そのような者たちは、ある意味でイスラエルのために仕えることができたからです。

 

しかし、16節をご覧ください。主が相続地として与えようとしておられる次の国々、すなわち、ヘテ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の町々では、必ず聖絶しなければなりませんでした。なぜてしょうか。18節にその理由が記されてあります。「それは、彼らが、その神々に行なっていたすべての忌みきらうべきことをするようにあなたがたに教え、あなたがたが、あなたがたの神、主に対して罪を犯すことのないためである。」

この場合の主に対する罪とは、異教の神々を拝む偶像礼拝の罪であり、主が忌みきらうべき異教的風習に生きることです。そのようにして、主に対して罪を犯すことがないように、必ず聖絶しなければなりませんでした。

 

「聖絶」とは、聖なる神の名のもとに敵を攻撃することですが、このような言葉を聞くと、多くの人は、「なぜ愛の神が、人々を殺すような戦争をするように命じられるのか。」という疑問を持ちます。イエスは、「敵をも愛しなさい」と言われたではないか・・・」と。その疑問に対する答えがここにあります。それは、一般的に言われている聖絶のとらえ方が間違っていることに起因しています。ここで言われていることは、もし彼らが主に対して罪を犯すようなものがあるなら、それを徹底的に取り除くべきであって決して妥協してはならないということであって、むやみやたらに異教徒と戦って彼らを滅ぼすことではないということです。つまり、ここで教えられていることは、私たちの魂に戦いを挑む肉の欲との戦いのことなのです。

 

Ⅰペテロ211節には、「愛する人たち、あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。」とあります。これがこの地上での生活を旅人として生きるクリスチャンに求められていることです。クリスチャンはこの世、この社会でどのように生きていけばいいのか、どのように振舞うべきなのか、それは、「たましい戦いを挑む肉の欲を避けなさい。」ということです。この肉の欲を避けるというのは、肉体の欲望を抑えて、禁欲的な生活をしなさいということではありません。この「肉」というのは、人間が持つあれこれの欲望のことを言っているのではなく、堕落した人間の罪の性質のことを指しています。すなわち、たましいに戦いを挑む肉の欲とは、人間の中にある罪そのもののことなのです。人間は様々な欲望を持ちますが、そのような罪の支配を避けることこそが肉の欲を避けるということです。この世の中で生きている私たちには、たましいに戦いを挑む肉の欲が次から次へと襲ってきます。そのような中で「たましいに戦いを挑む肉の欲」を避け、「立派に生活する」ことが求められているのです。欲望に負けることなく清い生活に励むことを目指すならこの世の生活から遠ざかって、自分たちと同じような考えを持つ人たちだけで閉鎖的な集団を形成する方が楽かもしれません。けれどもペテロは、そうではなくて、「異教徒の間で立派に生活しなさい。」と勧めています。それは、努力して自分の力で倫理的な、清い「立派な生活を行うこと」ではなく、主イエス・キリストによって目に見える事柄やこの世における幸福よりももっと大事なことを見つめて生きることです。

 

パウロは、「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」(コロサイ3:5と言いました。偶像礼拝は何も、目に見える偶像だけではありません。地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。これらのものこそ、たましいに戦いを挑む肉の欲なのです。ここでは、そうしたものに対して殺してしまいなさいと言われています。うまく共栄共存しなさいとは言われていません。殺してしまいなさい、と言われているのです。それらと分離しなければなりません。それが聖別という意味であり、その戦いこそが聖戦であり、聖絶なのです。

 

3.木を倒してはならない(19-20

 

 最後に、19節と20節を見て終わりたいと思います。

 

「長い間、町を包囲して、これを攻め取ろうとするとき、斧をふるって、そこの木を切り倒してはならない。その木から取って食べるのはよいが、切り倒してはならない。まさか野の木が包囲から逃げ出す人間でもあるまい。ただ、実を結ばないとわかっている木だけは、切り倒してもよい。それを切り倒して、あなたと戦っている町が陥落するまでその町に対して、それでとりでを築いてもよい。」

 

どういうことでしょうか。これは面白い教えです。彼らが町を攻め取るため包囲するときに、そこにある木をむやみに切り倒してはならないとうのです。どういうことかいうと、その町を攻略するのに何の益にもならないことをしてはならないということです。よく戦闘状態にあると興奮してしまい、やらなくてもいいことまでやってしまうのです。この場合は、木を切り倒してしまうということです。しかし、戦争だけでも荒廃をもたらすというのに、それ以上のことを行ったらどうなってしまうでしょうか。何もなくなってしまいます。まさか野の木が包囲から逃げ出すわけがないので、そうした無駄なことはしないようにという戒めなのです。そこには、人間の中にある過酷さを戒め、自然に対する優しさに配慮するようにという神の意図が表れています。

 

けれどもさらに面白いのは、実を結ばない木は切り倒してもよい、という命令です。神さまは非常に実際的な方であることがここで分かります。イエス様も、一度、実を結ばない木をのろわれて、枯らしてしまわれたことがありました。イエス様がベタニヤにおられたとき、お腹をすかして、いちじくの木に実がなっていないか見ておられたら、葉ばっかりで、全く実がないのを見て、「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」(マルコ11:12-25)と言われました。すると、翌朝、その木が根まで枯れていました。それは、外見ばかりで中身のない律法学者たちに対する警告だったわけですが、ここでも同じです。イスラエルは、外見では神を信じているようでも、もし中身がなければ切り倒されてしまうのです。

これは、私たちクリスチャンにも言えることです。イエスさまは、「わたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。・・・だれでも、わたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。」(ヨハネ15:5-6と言われました。神に対して実を結ぶことが、私たちに求められていることなのです。

申命記19章

きょうは、申命記19章から学びます。まず1節から7節までをご覧ください。

 

 1.のがれの町の制定(1-7

 

「あなたの神、主が、あなたに与えようとしておられる地の国々を、あなたの神、主が断ち滅ぼし、あなたがそれらを占領し、それらの町々や家々に住むようになったときに、あなたの神、主があなたに与えて所有させようとしておられるその地に、三つの町を取り分けなければならない。あなたは距離を測定し、あなたの神、主があなたに受け継がせる地域を三つに区分しなければならない。殺人者はだれでも、そこにのがれることができる。殺人者がそこにのがれて生きることができる場合は次のとおり。知らずに隣人を殺し、以前からその人を憎んでいなかった場合である。たとえば、木を切るため隣人といっしょに森にはいり、木を切るために斧を手にして振り上げたところ、その頭が柄から抜け、それが隣人に当たってその人が死んだ場合、その者はこれらの町の一つにのがれて生きることができる。血の復讐をする者が、憤りの心に燃え、その殺人者を追いかけ、道が遠いために、その人に追いついて、打ち殺すようなことがあってはならない。その人は、以前から相手を憎んでいたのではないから、死刑に当たらない。だから私はあなたに命じて、「三つの町を取り分けよ。」と言ったのである。」

 

ここには、イスラエルの民が約束の地を占領しそれらの町々や家々に住むようになったとき、その地に三つの町をとりわけなければならない、とあります。何のためでしょうか。殺人者がのがれることができるためです。つまり、ここにはのがれの町が制定されているのです。のがれの町とは何でしょうか。これはすでに民数記35章で学んだように、知らずに人を殺してしまった者が、のがれることができるように定められた町です。知らずに人を殺してしまった場合とはここに一つの事例が紹介されているように、たとえば、木を切るため隣人といっしょに森にはいり、木を切るために斧を手にして振り上げたところ、その頭が柄から抜け、それが隣人に当たってその人が死んだような場合です。このような場合、彼は故意に人を殺したわけではないので、殺された人の家族などが憤りに燃えその殺人者を追いかけ打ち殺すことがないように、のがれの町を用意されたのです。もしそれが故意の殺人であったならその者は必ず殺されなければなりませんでしたが、そうでなかったら、その人が殺されることがないように守らなければならなかったのです。なぜなら、殺された者の家族なり、親しい人が、それが故意によるものであろうとなかろうと関係なく、怒りと憎しみが燃え上がり復讐するようになるからです。そういうことがないように神はこれを定められたのです。

 

2.憎しみからの殺人(8-14

 

 次に8節から14節までをご覧ください。

 

「あなたの神、主が、あなたの先祖たちに誓われたとおり、あなたの領土を広げ、先祖たちに与えると約束された地を、ことごとくあなたに与えられたなら、・・私が、きょう、あなたに命じるこのすべての命令をあなたが守り行ない、あなたの神、主を愛し、いつまでもその道を歩むなら・・そのとき、この三つの町に、さらに三つの町を追加しなさい。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地で、罪のない者の血が流されることがなく、また、あなたが血の罪を負うことがないためである。しかし、もし人が自分の隣人を憎み、待ち伏せして襲いかかり、彼を打って、死なせ、これらの町の一つにのがれるようなことがあれば、彼の町の長老たちは、人をやって彼をそこから引き出し、血の復讐をする者の手に渡さなければならない。彼は死ななければならない。彼をあわれんではならない。罪のない者の血を流す罪は、イスラエルから除き去りなさい。それはあなたのためになる。あなたの神、主があなたに与えて所有させようとしておられる地のうち、あなたの受け継ぐ相続地で、あなたは、先代の人々の定めた隣人との地境を移してはならない。」

 

8節からの教えは、主が、イスラエルの先祖たちに与えると約束された地を、ことごとく彼らに与えられてからのことです。7節には、「だから私はあなたに命じて、「三つの町を取り分けよ」と言ったのである。」とありますので、これはヨルダン川の東側、もうすでに彼らが獲得し、ルベン人とガド人、そしてマナセ半部族が相続していた地でのことでした。それと同じように、これから入って行って、占領すべき地においても同じように三つののがれの町を設けるようにと命じています。なぜでしょうか。それは、「罪のない者の血が流されることがなく、また、あなたが血の罪を負うことがないため」です。

 

しかし、もし人が自分の隣人を憎み、待ち伏せして襲いかかり、彼を打って、死なせ、これらの町の一つにのがれるようなことがあれば、彼の町の長老たちは、人をやって彼をそこから引き出し、血の復讐をする者の手に渡さなければなりませんでした。彼は死ななければならなりませんでした。故意に人を殺してしまった場合は、殺してしまった者は、死をもって報いなければならなかったのです。たとえ彼が逃れの町に入っても、そこから引きずり出して、血の復讐をする者の手に渡さなければなりませんでした。

 

なぜでしょうか。それは殺人者への憎しみのためではありません。神の正義のゆえです。神は義なる方であり、その正義のゆえに、人を殺してしまった者に対してはその死をもって報いなければならないのです。この正義によるさばきと、憎しみのよる復讐とは、まったく別物であり、区別しなければなりません。新約聖書において、たとえば、ヤコブの手紙の中には次のように記されてあります。「人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」(1:20私たちが怒って行なったことは、神の正義を実現するものではありません。たとえば、日本において、死刑制度の是非がよく問われますが、それは被害者の家族の感情から主張されることが多いですが、そのような動機によって、人をさばいてはいけません。人はあくまでも、神の正義のゆえに、また神の秩序のゆえにさばかれなければならないのです。ここでは明らかに自分の隣人を憎み、計画的に人を殺しとあるので、情状酌量の余地はありません。そういう人は死ななければなりませんでした。そのようにしてイスラエルから悪を取り除かなければなりませんでした。それがあなたのためになったからです。そのような悪を取り除くことによって、それがパン種のようにイスラエル全体に広がることを防いだからです。もしこれを野放しにしたら、憎しみの連鎖がイスラエル全体に広がり、まったく神の秩序が保てなくなるでしょう。このようにして悪を取り除くことによって、彼らは神の正義をしっかりと保つことができたのです。

 

3.偽りの証言(15-21

 

 次に15節から21節までをご覧ください。

「どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。もし、ある人に不正な証言をするために悪意のある証人が立ったときには、相争うこの二組の者は、主の前に、その時の祭司たちとさばきつかさたちの前に立たなければならない。さばきつかさたちはよく調べたうえで、その証人が偽りの証人であり、自分の同胞に対して偽りの証言をしていたのであれば、あなたがたは、彼がその同胞にしようとたくらんでいたとおりに、彼になし、あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。ほかの人々も聞いて恐れ、このような悪を、あなたがたのうちで再び行なわないであろう。あわれみをかけてはならない。いのちにはいのち、目には目、歯には歯、手には手、足には足。」

 

17章で学んだように、どんな咎でも、どんな罪でも、すべての人が犯した罪は、ひとりの証人によって立証されてはなりませんでした。必ずふたりか三人の証言によって、そのことが立証されなければなりませんでした。もしその証言が食い違った場合は、どうしたら良いのでしょうか。そのような時には、相争うこの二組の者が主の前に出て、祭司たちとさばきつかさたちの前に立ち、調査をされなければなりませんでした。そして、偽りの証言者は、厳しく罰せられなければなりませんでした。彼にあわれみをかけてはなりませんでした。ここでこの有名なことばが出てきます。「いのちにはいのち、目には目、歯には歯、手には手、足には足。」

 

これがさばきをするときの基準です。加害者が、その与えた害と等しいものを刑罰として受ける、という原則です。目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足です。そしていのちにはいのちです。それ以上のものを要求することはできませんでした。人間は往々にして目を取られたら憎しみのあまり耳も、鼻も、手も、足も、いのちも奪おうとします。しかし、目には目なのです。そして、歯には歯です。それ以上は赦されていません。

 

しかし、イエス様はこう言われました。「目には目で、歯には歯で、と言われるのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打たれたら、左の頬も向けなさい。」(マタイ5:38-39どういう意味でしょうか?

これは、復讐に生きるのではなく、神の愛と神の義に生きるようにということです。それは人間の思いをはるかに超えた基準です。しかし、神の愛によって贖われた者は、その大いなる神のあわれみを経験した者として、この神の愛に生きることができる。それが神の民の生き方であり、そのように導くものが神のみことばとご聖霊の力なのです。

 

ところで、こののがれの町については、すでに民数記でも語られていましたが、それが指し示していたのは何だったのでしょうか。それは、イエス・キリストによる赦しです。民数記35:25-28には、次のようにありました。

「会衆は、その殺人者を、血の復讐をする者の手から救い出し、会衆は彼を、逃げ込んだそののがれの町に返してやらなければならない。彼は、聖なる油をそそがれた大祭司が死ぬまで、そこにいなければならない。もし、その殺人者が、自分が逃げ込んだのがれの町の境界から出て行き、血の復讐をする者が、そののがれの町の境界の外で彼を見つけて、その殺人者を殺しても、彼には血を流した罪はない。その者は、大祭司が死ぬまでは、そののがれの町に住んでいなければならないからである。大祭司の死後には、その殺人者は、自分の所有地に帰ることができる。これらのことは、あなたがたが住みつくすべての所で、代々にわたり、あなたがたのさばきのおきてとなる。」

 

それは、その殺人者を、血の復讐をする者の手から救い出し、やがて彼が、自分の所有地に帰ることができるようにするためでした。いつ自分の所有地に帰ることができたのでしょうか。それは大祭司が死んでからです。それまではそこにとどまっていなければなりませんでした。誤ってその境界から出てはなりませんでした。出るようなことがあれば、殺されても何も文句を言うことはできませんでした。ずっとそこにとどまり、やがて大祭司が死ねば、自分の所有地に戻ることができたのです。大祭司の死は、その在任中に殺された被害者の血を贖うのに十分なものだったからです。

 

つまりこののがれの町は、イエス・キリストを指し示していたのです。私たちは故意によってであっても、偶発的であっても、罪を犯す者でありますが、しかし、私たちの大祭司イエス・キリストの死によって、彼のもとに逃れて来た者たちが罪によって失われた約束を受けるに足る者となり、キリストが約束された永遠の住まいに帰ることができるようになったのです。このすばらしい神の恵みに感謝して、この恵みにしっかりととどまり続ける者でありたいと思います。

申命記18章

きょうは、申命記18章から学びます。まず1節から8節までをご覧ください。

 

1.主ご自身が、彼らの相続地(1-8)

 

「レビ人の祭司たち、レビ部族全部は、イスラエルといっしょに、相続地の割り当てを受けてはならない。彼らは主への火によるささげ物を、自分への割り当て分として、食べていかなければならない。彼らは、その兄弟たちの部族の中で相続地を持ってはならない。主が約束されたとおり、主ご自身が、彼らの相続地である。祭司たちが民から、牛でも羊でも、いけにえをささげる者から、受けるべきものは次のとおりである。その人は、肩と両方の頬と胃とを祭司に与える。あなたの穀物や、新しいぶどう酒や、油などの初物、羊の毛の初物も彼に与えなければならない。彼とその子孫が、いつまでも、主の御名によって奉仕に立つために、あなたの神、主が、あなたの全部族の中から、彼を選ばれたのである。もし、ひとりのレビ人が、自分の住んでいたイスラエルのうちのどの町囲みのうちからでも出て、主の選ぶ場所に行きたいなら、望むままに行くことができる。彼は、その所で主の前に仕えている自分の同族レビ人と全く同じように、彼の神、主の御名によって奉仕することができる。彼の分け前は、相続財産を売った分は別として、彼らが食べる分け前と同じである。」

 

ここには、イスラエルの民が約束の地に着いてから、祭司たちの生活に対してどのように責任を果たさなければならないか、そして、祭司とレビ族は、イスラエルといっしょに相続地の割り当てを受けてはならない、とあります。彼らは、その兄弟たちの部族の中で相続地を持ってはなりませんでした。なぜでしょうか。 それは主が約束されたとおり、主ご自身が、彼らの相続地であったからです。これはどういうことでしょうか。

 

詩篇16章5節と6節のところで、ダビデは「主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。 測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。 」と告白しています。信仰者にとっての最高の分け前は、この地上的な分け前ではなく、永遠の分け前である主ご自身です。その神とのかかわりの中でいのちを掘り起こすべく務めがゆだねられているということはすばらしい特権なのです。そうした彼らの生活がちゃんと守られ支えられるように、イスラエルのそれぞれの部族から十分の一のささげものを受けて養われていました。さらに祭司はレビ人によってささげられた十分の一のものをもって養われていたのです。神の国とその義を第一にするなら、それに加えて、すべてのものが与えられます。

 

そればかりではありません。3節を見ると、祭司は、いけにえの肉の上質の部分、またぶどう酒や油の初物、羊の毛の初物など、上等な部分が割り当てられたことがわかります。最も良いものを受けたのです。

 

いったいなぜ彼らはそれだけ手厚く支えられたのでしょうか。それは、彼とその子孫が、いつまでも主の御名によって奉仕に立つことができるためでした。つまり、彼らの奉仕によって神のことばと福音宣教の働きが続けられていくためです。神のことばこそが最高の宝であり、このみことばに仕えるために全部族が一体となって彼らの生活を支えたのです。

 

2.忌みきらうべきならわしをまねてはならない(9-13)

 

次に9節から13節までをご覧ください。

 

「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地にはいったとき、あなたはその異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねてはならない。あなたのうちに自分の息子、娘に火の中を通らせる者があってはならない。占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならない。これらのことを行なう者はみな、主が忌みきらわれるからである。これらの忌みきらうべきことのために、あなたの神、主は、あなたの前から、彼らを追い払われる。あなたは、あなたの神、主に対して全き者でなければならない。」

 

イスラエルの民はこれから約束の地に入って行きますが、彼らがその地に入って行くとき、その地の住民の忌みきらうべきならわしをまねてはいけません。そこにはもう、これまでイスラエルを導いてきたモーセはいません。彼らが拠り頼むべき神のことばを聞くことができなくなるときそれをどのようにして補うのかというと、その地の住民が拠り所としている占い師やまじない、呪術に伺いを立てることによってです。それは私たちも同じで、私たちも霊的にダウンしていると、神のことばではなく、人のことばや人のアドバイス、人の考え、また占いのようなものに頼りたくなってしまいます。けれども、そうであってはいけません、主に対して全き者でなければならないのです。なぜでしょうか。それは、これらのことを行う者をみな、主が忌みきらわれるからです。私たちは、私たちの中からこれらのものを追い払わなければなりません。

 

3.私のようなひとりの預言者(14-22)

 

次に14節から22節をご覧ください。前の箇所では、彼らが約束の地に入って行くとき、その地の住民たちの忌みきらうべきならわしをまねてはならないと言いましたが、ここには、それではモーセがいなくなってしまたらどのようにして神のことばを聞くことができるかが書かれてあります。それは15節にあるように、「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる」ので、彼に聞き従わなければならないということです。「私のようなひとりの預言者」とは、いったいだれのことでしょうか。

 

イスラエルの歴史においてモーセの次のイスラエルの指導者、モーセの後継者はヨシュアでした。神はヨシュアをとおしてご自身のみことばを語り、イスラエルの民を導かれました。そしてその後士師たちの時代にも預言者としての働きをした者があり、最後の士師であったサムエルの時代には預言者学校のようなものがありました。そして王国時代にも預言者たちが存在し、その活動を活発化していきます。その代表がエリヤとエリシャでした。王も祭司もだれも神の律法を教えない暗黒の中で、神はエリヤとエリシャを立てて、神のことばを人々に語らせたのです。そうすることで、神に背くイスラエルを霊的に改革し、彼らを滅びから救おうとされたのです。

 

ですから、モーセのようなひとりの預言者とは、歴史的に言えばモーセの後継者であるヨシュアのことのように考えられますが、ここではヨシュア以上の、いや、ヨシュアが指し示していた完全な預言者のこと、そうです、それはイエス・キリストのことでした。というのは、確かにヨシュアはモーセの後継者でしたが、モーセのような預言者ではなかったからです。ヨシュアは他の預言者同様、夢や幻で神のみこころを知りましたが、モーセはそれとは違い直接神と語りました。あるとき、モーセの姉のミリヤムが彼をねたんで彼を訴えましたが、そのとき主は彼女とアロンとモーセを、ご自分の前に連れて来られて、こう言われました。

「わたしのことばを聞け。もし、あなたがたのひとりが預言者であるなら、主であるわたしは、幻の中でその者にわたしを知らせ、夢の中でその者に語る。しかしわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者である。彼とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、主の姿を仰ぎ見ている。なぜ、あなたがたは、わたしのしもべモーセを恐れずに非難するのか。」(民数12:6-8)

ですから、モーセのような預言者はほかにはいないのです。そのような預言者とは、究極の預言者であり、預言者の完成である第二のモーセとしてのイエス・キリストを指し示していたのです。

 

このモーセのようなひとりの預言者は、後の時代、特に自分たちの背信によって自分たちが滅びた後には、メシヤ的大預言者として考えられるようになりました。ですから、人々は自分たちを滅びから救い出してくれるひとりの預言者の劇的な出現を待ち望むようになっていたのです。それでイエス様が来られたときに、しばしば「あの預言者」と呼ばれるようになったのです。(ヨハネ1:21,6:14,7:40)つまりイエス・キリストこそ預言者の中の真の預言者であり、預言者たちが預言した「預言」そのもの、すなわち、神のことばそのものであったのです。

 

ヨハネによる福音書1章1節には、「はじめにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」と証言されています。イエスこそ神のことばであり、神そのものだったのです。また、ヨハネ1章17節には、「というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」とあります。モーセが律法を与えましたが、神の恵みとまことはイエス・キリストによって実現しました。イエス様は神を見たとか、神からことばを受けたというだけでなく、神そのものであり、神のことばをもっておられた方だったのです。イエスを見た者は父を見たのです。(ヨハネ14:9)私は今、多くのことばをもって神を説明していますが、でも、直接、神が来られたら、そんな無駄なことは必要ありません。神が直接語り、見せて、教えてくださるからです。それが神の子イエス・キリストだったのです。

 

モーセの時代にはモーセという預言者が立てられ、その預言者のことばを通して人々は神のことばを聞きました。それは、神がシナイ山に現れた時のように、雷鳴とともに神が現れたら、人々は恐怖に打たれて神のことばを聞くことができなかったからです。それで神は預言者なる人物を立ててご自身のことばを語らせましたが、その立てられた人が必ずしも忠実にみことばを語ったかというとそうではなく、その結果、滅びを招いてしまうことがありました。ですから、神は最終的に直接この世に来られ、私たちの間に住まわれて、ご自身のことばを語ってくださいました。私たちはこの生ける神のみことばであられるイエス様によっていのちを得ることができます。だからこの方のことばを聞かなければならないのです。

 

ここには、神に遣わされていないのに、自分が預言者だと自称している者も出る、とあります。そのような預言者は死ななければなりません。いったいどうやってそれを見分けるかができるのでしょうか。それは、その預言者が主の名によって語ってもそのことが起こらず実現しないなら、それは主が語られたことばではないということです。

 

その点、イエス様のことばはことごとく成就しました。イエス様が言われたことばは、何一つ実現しないで、地面に落ちることはありませんでした。このことばこそ、私たちが聞かなければならないことばなのです。モーセのような預言者、それは来るべきメシヤ、イエス・キリストことだったのです。

 

申命記17章

 きょうは、申命記17章から学びます。これは1618節からの続きです。1618節には、「あなたの神、主があなたに与えようとしておられるあなたのすべての町囲みのうちに、あなたの部族ごとに、さばきつかさと、つかさたちを任命しなければならない。彼らは正しいさばきをもって民をさばかなければならない。」とありました。これは、イスラエルの民が約束の地に入った後に、神に対して、また人に対して罪を犯した時、どのようにその人をさばかなければならないかということです。そして、そのような時にはその町囲みにさばきつかさを置き、正しくさばかなければなりません。わいろをもらったり、人をかたよってみたりして、さばきをまげてはならないのです。それが神に属する聖なる民としての歩みなのであります。そのことが17章においても続けて語られています。

 

 1.主へのいけにえ(1

 

 まず1節をご覧ください。ここには、「悪性の欠陥のある牛や羊を、あなたの神、主にいけにえとしてささげてはならない。それは、あなたの神、主の忌みきらわれるものだからである。」とあります。これはどういうことかというと、1621節と22節で語られたことを受けてのことです。そこには主の祭壇について語られていました。主の祭壇のそばにはどんな偶像も立ててもならないということでした。また、その主の祭壇にささげるいけにえは、悪性の欠陥のある牛や羊をささげてはいけないということです。欠陥品や残り物を主にささげてはいけないということです。主へのいけにえは完全で、最高のものでなければなりません。なぜなら、主は私たちに最高で、完全ないけにえイエス・キリストを与えてくださったからです。最高の愛に対する最高の応答は、心からの最高のいけにえをささげることによってなされなければならないのです。

 

2.二人か三人の証言によって(2-7

 

 次に2節から7節までをご覧ください。ここには、イスラエル中で、男であれ、女であれ、主の前に悪を行って、主の契約を破るような者がいた場合、どうしたらよいかが教えられています。そして、そのような者がいれば、その悪事を行った男または女を町の広場に連れ出して、彼らを石で打たなければなりません。ここでの悪事は、具体的には偶像礼拝の罪です。3節を見るとわかります。主以外のほかの神々に仕え、また、日や月や天の万象などを拝む者があったら、石打ちにしなければなりませんでした。

 

 ちょっと厳しすぎるのではないでしょうか。たとえそのようなことを行ったとしても、悔い改めるように何度か勧告し、少し様子を見てからでいいのではないですか。それなのに、そういう人がいると聞いたら有無を言わさずに石で打つというのは無情な感じがします。いったいなぜ主はそのように命じておられるのでしょうか。それは7節にあるように、彼らのうちから悪を除き去るためです。もしそのようにしなければ、それがイスラエルの民全体に広がっていってしまうからです。パウロはそれをパン種にたとえ、Ⅰコリント5913節で、不品行な者たちとは交際しないように、そのような者を教会から除きなさいと命じています。教会だから何でも許されるというのではありません。兄弟と呼ばれる者で、不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたら、そのような者とは付き合ってはいけないし、一緒に食事をしてもいけないのです。私たちはパン種の入らない、純粋で真実なパンで、祭りをしなければならないのです。(Ⅰコリント5:8

 

 しかし、その人が罪を行ったからといってすぐに取り除こうとしてはいけません。6節、7節には、「ふたりの証人または三人の証人の証言によって、死刑に処せられなければならない。ひとりの証言で死刑にしてはならない。」とあります。これはどういうことでしょうか。これはよく確かめてということです。また、その人が悔い改めるように、その手順を踏んでということです。

 

 このことについて主イエスはマタイ18章で、「もし、あなたの兄弟が罪を犯したら・・」どうしたらよいかについてこう語っています。(マタイ18:15-20)もし、兄弟が罪を犯したら、その兄弟のところに行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れなかったら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。それでもなお、いうことを聞き入れなければ、教会に告げなさい。それでも聞き入れなければ、その人を異邦人か取税人のように扱いなさい。・・・と。なぜなら、教会にはキリストがおられるからです。その方のいうことを聞かないというのであれば、それは聖霊を拒むことであり、それは決して許されないことだからです。

 

 ですから、ふたりか三人の証言によってというのは、こうした手順を踏んでということであって、よく調べ、確認して、その人が悔い改めるようにと何度も勧告してのことです。そして、その目的はその罪を犯した兄弟をさばくことではなく、兄弟を得るためです。それでも悔い改めなければ、そのような者を取り除かなければなりません。悪を除き去らなければならないのです。

 

 3.主の選ぶ場所で(8-13

 

 次に8節から13節をご覧ください。ここには、「もし、町囲みのうちで争い事が起こり、それが流血事件、権利の訴訟、暴力事件で、あなたのさばきかねるものであれば、」どうしたらよいかが教えられています。そのような時には、「あなたの神、主の選ぶ場所に上り、レビ人の祭司たち、あるいは、その時に立てられているさばきつかさのもとに行き、尋ね」なければなりません。彼らは、あなたに判決のことばを告げてくれるからです。主の選ぶ場所とは、主を礼拝するために祭壇が置かれていたところです。それは主の幕屋なり、神殿がある所です。そこには祭司やさばきつかさがいて、正しい判決のことばを告げてくれるのです。

 

祭司やさばきつかさは、主によって立てられた人であり、神に仕えている人です。したがって、彼らが下した判決には、従わなければいけません。もし聞き従わず、不遜なふるまいをするなら、その人は死ななければなりません。そうすることによって、イスラエルから悪を除き去ることができました。そのようにしてイスラエルの民が神を恐れ、不遜なふるまいをすることがなくなったからです。

 

今の時代、この役割をゆだねられているのは私たち一人一人のクリスチャンであり、キリストの教会です。なぜなら、私たちはみな神に対する祭司とされたからです。ですから、私たちは教会で起こっているさまざまな事柄について、祈りとみことばによって正しく判断し、神のみこころに従って正しくさばかなければなりません。そうであれば、なおさらのこと、神のみこころをよく知るために聖書をよく学び、聖書から検証する必要があります。パウロはテサロニケの人々に、「すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。」(1テサロニケ5:21)と言いました。

 

4.イスラエルの王(14-20

 

 次に14節から20節までをご覧ください。14節と15節には、「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地にはいって行って、それを占領し、そこに住むようになったとき、あなたが、「回りのすべての国々と同じく、私も自分の上に王を立てたい。と言うなら、あなたの神、主の選ぶ者を、必ず、あなたの上に王として立てなければならない。あなたの同胞の中から、あなたの上に王を立てなければならない。同胞でない外国の人を、あなたの上に立てることはできない。」とあります。

 

モーセは、イスラエルが、将来、自分たちの上に王を立たせたいと願うことを予見していました。Ⅰサムエル86節のところに、イスラエルの民がサムエルのところにやってきて、「私たちをさばく王を立ててください。」と言ったことが記されています。それまでイスラエルは、預言者から語られる神のことばと、祭司の務めによって与えられる、主のご臨在によって支配されていました。つまり、神が彼らの王となっている神政政治だったのです。しかし、周りの国々と同じように、自分たちを統治する王が欲しいと願い出るようになると預言していたのです。このことは神のみこころではありませんでしたが、神はイスラエルの上に王を立てることを許されました。

 

しかし、そのような時にはどうすべきかがここで語られています。一つのことは、同胞の中から王を立てなければならないということです。同胞でない外国人を、彼らの上に立てることは許されませんでした。

 

第二に、やがて立てられる王は、自分のために馬をふやしてはなりませんでした。どういうことでしょうか。馬をふやすためだといって民をエジプトに帰らせてはならなかったのです。これは軍事力を持ってはいけないということです。当時の世界では、軍事力として馬が用いられました。ですから、多くの馬を持つ者は勝利することができました。その馬を持ってはならないというのは、そうした人間的な力ではなく、神ご自身に信頼するようにという意味です。

 

第三に、多くの妻を持ってはなりませんでした。なぜなら、そうした妻の存在が偶像へと陥らせ、神から引き離されることになるからです。

 

そして第四のことは、自分のために金銀をふやしてはならないということです。なぜなら、多くの金銀を持つことによって心が高ぶり、自分を神だと錯覚するようになってしまうからです。その結果、神を神とせず、神に敵対することになってしまい、神のさばきを受けることになってしまうからです。

 

イスラエルの歴史の中でもとても豊かな王であったのはソロモンです。しかし、彼は神のあわれみによって王になったにもかかわらずそのことを忘れ、神の命令に聞き従わずに暴走し、最後は王国が分裂する原因を作ってしまいました。Ⅰ列王記1014節には、「一年間にソロモンのところにはいって来た金の重さは、金の目方で六百六十六タラントであった。」とあります。それをソロモンが住む宮殿に使い、宮殿を金でいっぱいにしました。

そして同じくⅠ列王の1026節には、「ソロモンは戦車と騎兵を集めたが、戦車一千四百台、騎兵一万二千人が彼のもとに集まった。そこで、彼はこれらを戦車の町々に配置し、また、エルサレムの王のもとにも置いた。」とあります。また、同じⅠ列王記1029節には、「エジプトから買い上げられ、輸入された戦車は銀六百、馬は銀百五十であった。同様に、ヘテ人のすべての王も、アラムの王たちも、彼らの仲買で輸入した。」とあります。

さらに、Ⅰ列王記11章に入ると、彼は多くの妻も持ちました。「ソロモン王は、パロの娘のほかに多くの外国の女、すなわちモアブ人の女、アモン人の女、エドム人の女、シドン人の女、ヘテ人の女を愛した。この女たちは、主がかつてイスラエル人に、『あなたがたは彼らの中にはいって行ってはならない。彼らをもあなたがたの中に入れてはならない。さもないと、彼らは必ずあなたがたの心を転じて彼らの神々に従わせる。』と言われたその国々の者であった。それなのに、ソロモンは彼女たちを愛して、離れなかった。彼には七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがあった。その妻たちが彼の心を転じた。」(11:1-3

ソロモンはここに書かれているように、多くの馬を持ってはならい、多くの妻を持ってはならない、そして多くの金銀を持ってはならないという神の命令に従わなかったので、彼自身が高ぶり、ほかの神々に心が寄せてしまい、神のさばきを招いてしまいました。

 

18節から20節までをご覧ください。ここには、逆に、王としてイスラエルの上に立てられた者がしなければならないことが記されてあります。それは、レビ人の祭司たちの前のものから、自分のために、このみおしえを書き写して、自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない、ということです。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学ぶためです。それは、王の心が自分の同胞の上に高ぶることがないため、また神の命令から、右にも左にもそれることがなく、彼とその子孫とがイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができるためです。

 

イスラエルの上に立つ王は、神のおきての中に身を置き、神のしもべとして生きることによって、初めてイスラエルを治めることができました。だから、祭司たちから、主のみ教えを書き写し、それを読まなければならなかったのです。神のみおしえから学び、それに従って歩まなければなりませんでした。このように、イスラエルは民であっても、人々を治め、またさばく王であっても、神の律法によって、正しい判断を下さなければなりませんでした。イスラエルの民はどんなものよりも、神のことばを第一として、神のことばによってさばかれていく人々でなければならなかったのです。

 

それは私たちも同じです。私たちクリスチャンも信徒であっても、牧師であっても、あるいはこの世において上に立つ者であっても、だれであっても、神のことばの下に自分を置き、神のみことばに従って歩み、神のみことばによって物事を判断していく習慣を身につけなければならないのです。

申命記16章

今日は申命記16章から学びたいと思います。

 

1.過越しの祭り(1-8

 

まず1節から8節までをご覧ください。1節には、「アビブの月を守り、あなたの神、主に過越のいけにえをささげなさい。アビブの月に、あなたの神、主が、夜のうちに、エジプトからあなたを連れ出されたからである。主が御名を住まわせるために選ぶ場所で、羊と牛を過越のいけにえとしてあなたの神、主にささげなさい。」とあります。

 

ここには「アビブの月を守り」とあります。アビブの月とはユダヤ人の暦で、正月にあたる「ニサンの月」のことです。この月は大麦の収穫の始まりを祝う月でもありますが、もっと重要なのは、この月が主に過越しのいけにえをささげる月であるということです。それは彼らが約束の地に入って行っても守らなければならない祭りでした。それは、主が、夜のうちに、エジプトから彼らを連れ出されたからです。そうです、過越しの祭りとはイスラエルがエジプトの奴隷であったところから解放されたことを記念して行うものです。彼らは430年もの間エジプトの奴隷として仕えていましたが、主は彼らの叫びを聞かれ、モーセという人物を立てて、そこから救い出されました。それは一方的な神のみわざでした。そのことを覚えるためにこの祭りを世々限りなく行うようにと命じられているのです。

 

その日は、主が御名を住まわせる場所で、羊と牛を過越しのいけにえとして、主にささげなければなりませんでした。「主が御名を住まわせる場所」とは、エルサレムの神殿のことを指します。イスラエルの民はどこに住んでいても、成人男子は皆このエルサレムの神殿に集まり、そこで過越しのいけにえをささげなければなりませんでした。それといっしょに、パン種の入っていないパンを食べなければなりませんでした。それは、彼らが急いでエジプトの国を出たからです。それは、過越しのいけにえをささげてから七日間続きました。このため、種なしのパンの祝いと過越の祭りはしばしば一緒に祝われました。そのようにして、彼らはエジプトの国から出た日のことを、一生の間、覚えていなければなりませんでした。

 

この過越しの祭りと種なしパンの祭りは何を表していたのでしょうか。それは罪のないイエス・キリストが十字架で死なれたことを指し示していました。神の小羊であられたキリストが、過越しの日にほふられたことによって私たちの罪が贖われました。ですから、この過越しの祭りは、キリストが十字架で死なれたことによって成就したのです。クリスチャンはイスラエルに過越しのいけにえと種なしパンの祭りを行うように命じられているように、キリストが私たちの罪のために十字架でかかって死んでくださったことを覚えなければなりません。

主の晩餐はそのために行われるものです。キリストは最後の晩餐のとき、「これは、あなたがたのためのわたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」と言われました。また、「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」とも言われました。それは御子イエスの贖いを予め表していたものだったのです。ですから、キリストが来られ罪の贖いを成し遂げられた今、私たちがしなければならないことは、私たちのためにご自身をささげられたキリストの十字架の贖いを覚えることです。

 

そして、この過越しの祭りと種なしパンの祭りとともに、初穂の祭りも行われました。それは大麦の収穫を祝って行われるものですが、キリストの復活を指し示すものでした。キリストは私たちの罪のために十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたことによって、私たちの罪の贖いを成し遂げてくださったのです。

 

2.七週の祭り(9-12

 

次に、9節から12節までをご覧ください。ここには、七週の祭りについて語られています。9節と10節にはこうあります。

「七週間をかぞえなければならない。かまを立穂に入れ始める時から、七週間を数え初めなければならない。あなたの神、主のために七週の祭りを行い、あなたの神、主が賜る祝福に応じ、進んでささげるささげ物をあなたの手でささげなさい。」

 

この七週の祭りについてはレビ記2315-22節に詳しく記されてありますが、これは初穂の祭りから50日目に小麦の収穫を祝って行われる祭りです。それは歴史的にはイスラエルがシナイ山で律法が与えられた日に対応しています。出エジプト19:1-13には、「エジプトの地を出たイスラエル人は、第三の月の新月のその日に、シナイの荒野にはいった。 ・・・」とあります。エジプトを出て50日目に、主はシナイ山で彼らと契約を結ばれ、律法を与えました。

 

それは使徒の働き2章を見るとわかりますが、ペンテコステでその成就を見ることができます。それは五旬節の日に起こった出来事でした。そしてこの日に、聖霊が弟子たちの上に降ったのです。このことによって教会が誕生しました。ですから、この七週の祭りは弟子たちの上に聖霊が降り教会が誕生したことによって成就したのです。ですから、これは教会が聖霊の降臨に感謝し、聖霊に満たされ、聖霊に導かれて生きることの重要性を覚える日なのです。

 

3.仮庵の祭り(13-17

 

そして次に、13節から17節までをご覧ください。13節、「あなたの打ち場とあなたの酒ぶねから、取り入れが済んだとき、七日間、仮庵の祭りをしなければならない。」

 

ここには、仮庵の祭りについて教えられています。これはあなたの打ち場と酒ぶねから、取り入れが済んだとき、とあるように、収穫が終わる10月ごろに行われる祭りです。秋の祭りですね。この祭りも、同じように選ばれた場所、すなわち、エルサレムの神の宮に行って行われました。そして、家族や、レビ人、在留異国人、みなしご、やもめ、すべての人がとも喜ぶのです。これは、イスラエルの民が荒野で生活し、仮庵をもって過ごしていたことを思い出す祭りです。まず1日に「ラッパを吹き鳴らす祭り」が行われ、続いて10日に「大贖罪日」があり、そして、14日の日没から七日間、仮庵の祭りが行われました。そして、その8日目は「大いなる日」で、「シムハット・トーラー(トーラー歓喜祭)」と呼ばれる祭りが行われます。ちなみに、この最後の喜びの日に歌われたのがマイム・マイムです。ですから仮庵の゜祭りは、このラッパを吹きならす祭り、大贖罪日、仮庵の祭りの三つの祭りの最後を締めくくる祭りだったのです。

 

旧約聖書では、仮庵の祭りについてレビ記2334-44節に詳しく書かれています。それは、イスラエルがエジプトを出た後、40年間荒野でテント暮らしをしていたことを記念する祭りで、人は肉体という「仮庵」に7090年間住むだけの存在であり、主の恵みなしには生きていくことはできないということを覚える一週間としてお祝いしました。

 

しかし、そればかりではなく、この仮庵の祭りは、キリストが肉体を取って誕生してくださったことによってその成就の一部を見ることができます。ヨハネによる福音書114節には、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」とありますが、この「住まわれた」というのは、「仮庵となられた」という言葉です。神はメシアであるイエスを地上に送って下さる事によって、神と人との和解をもたらしてくださいました。ですから、仮庵の祭りは和解の祭りでもあります。

 

しかし、そればかりでなく、これは来るべき千年王国を表すものでもありました。ヨハネの黙示録213節には 「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らと共に住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、とあります。この「神の幕屋」とは仮庵のことです。終わりの時、艱難時代の後にキリストが統治される千年王国が来ますが、その時、全世界の人々がこの仮庵の祭りを祝うために、エルサレムに集まってくるのです。

 

ゼカリヤ書1416節には、「エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上ってくる。」とあります。これは144節を見るとわかりますが、主がエルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つときに起こることです。これは主の地上再臨を預言しているもので、その後にこの仮庵の祭りを祝うために集まってくるわけですから、これは、その後にもたらされる千年王国を指し示しているのです。つまり、仮庵の祭りは、主の再臨を指し示す重要な鍵となっているのです。それは、この最初の日にラッパを吹きならす祭りが行われることからもわかります。このラッパの音とは何かというと、世の終わりを告げるラッパの音です。キリストが再臨することを告げるラッパの音なのです。これはⅠテサロニケ4章に書いてあります。これは世の終わりに起こることなのです。

 

そして、大贖罪の日がやってきます。これはユダヤ人が自分たちが十字架につけて殺したイエスをメシヤとして信じ、悔い改める日のことです。そのとき主にある者は死んだ者も、生きている者もたちまちのうちに空中に引き上げられます。これを空中携挙と言います。そのときこの地上は七年間の艱難時代を迎えます。後半の3年半は特に激しい艱難が続くので大患難時代ともいわれますが、この艱難の中でユダヤ人たちは胸をたたいて自分たちの罪を悲しみ、悔い改めるわけです。

 

そして、その七年間の艱難時代が終わるとき、主は地上に再臨されオリーブ山に立たれるのです。そして、千年間続く平和な時代がやってきます。これが主の救いのみわざの完成でもあります。それを祝うのが仮庵の祭りであり、救いの完成のクライマックスともいえるでしょう。

 

ヨハネの福音書737,38節のところでイエス様は、「さて、祭りの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」と言われましたが、この祭りこそ仮庵の祭りであり、その祭りの大いなる日が「シムハット・トーラー(トーラー歓喜祭)」と呼ばれる祭りで、その時にイエス様はこのように言われたのです。それは後になってから受ける御霊のことを言われたのですが、それがこの千年王国で完成するのです。

 

このように見てくると、私たちが今置かれている時代がどのような時代なのかが見えてきます。すなわち、キリストによる罪の贖いが成し遂げられて、その主の再臨が限りなく近い時代であるということです。私たちはそのような時代に生かされているのです。であれば、このような時代に生かされている私たちは、キリストの十字架を通して成し遂げられた神の救いの恵みに感謝し、神の聖霊に導かれて生きること、そして、やがて来られるキリストの再臨を待ち望むということが、その生き方の特質でなければなりません。私たちには常に肉との闘いがありますが、そうした肉の欲求によってではなく、またそうした知恵や力、思いによってではなく、御霊に導かれて進まなければならないのです。最近の傾向としてはこの世が複雑になってくることに比例してどうしてもクリスチャンも自分の思いや考えに支配されやすい傾向があるのではないでしょうか。神のみことばが何と言っているか、神の御霊がどのように導いているかよりも、自分はどう思うのか、どう感じているのかが行動の基準になりやすいということです。また、主の再臨を待ち望む必要があります。主の再臨を待ち望むよりも今さえ良ければよいというような、目先のことに振り回されてしまうと、信仰から離れてしまうことになってしまいます。。

 

私たちはいつも自分ではなく神のみこころに従い、自分を捨て、自分の十字架を負って、主に従う者でなければなりません。そのために必要なのがこの三つのことなのです。つまり、十字架と聖霊と再臨です。これは過去において主が私たちにどんなことをしてくださったのか、そして、今、主はどのように導いておられるのか、そして、将来において、どのような祝福をもたらしてくださるのかをしっかりと覚え、この神のみわざにとどまり続けなさいということでもあります。これが神によって罪贖われた神の民、聖なる国民のしるしでもあるのです。イスラエルが年に三度、過越しの祭りと、七週の祭り、仮庵の祭りのときに、主の選ぶ場所で、御前に出たように、私たちにもそれが求められているのです。

 

4.公正なさばき(18-22

 

最後に18節から22節までを見て終わりたいと思います。「あなたの神、主があなたに与えようとしておられるあなたのすべての町囲みのうちに、あなたの部族ごとに、さばきつかさと、つかさたちを任命しなければならない。彼らは正しいさばきをもって民をさばかなければならない。あなたはさばきを曲げてはならない。人をかたよって見てはならない。わいろを取ってはならない。わいろは知恵のある者の目をくらませ、正しい人の言い分をゆがめるからである。正義を、ただ正義を追い求めなければならない。そうすれば、あなたは生き、あなたの神、主が与えようとしておられる地を、自分の所有とすることができる。」

 

ここには、それぞれの部族においてさばきつかさとつかさたちを任命し、正しいさばきを行うようにと命じられています。当たり前のことなのに、いったいなぜわざわざここで命じられているのでしょうか。それは神が義なる方なので、彼らもまた正義を行うことが求められているのです。それが損なわれるような時があります。それはわいろを受ける時です。わいろは知恵のある人を盲目にし、正しい人の言い分をゆがめてしまう力があります。人をさばくときには、その人が貧しいとか、富んでいるとか、そのような見かけによって判断してはなりません。その人が人生でどんなに成功したかなどということは全く関係ありません。ただ神は何と言っているのか、それはどういう意味なのか、それをどのように適用していかなければならないのかということを考えて、正しく判断しなければなりません。しかし、わいろを受け取るとその判断を狂わしてしまうのです。

 

21,22節には、「あなたが築く、あなたの神、主の祭壇のそばに、どんな木のアシェラ像をも立ててはならない。あなたは、あなたの神、主の憎む石の柱を立ててはならない」とあります。なぜでしょうか。もちろん、神の戒めにそうあるからです。十戒の第一は、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」と書いてあります。そして、この申命記に、この戒めの中心となることが教えられていました。それは、「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたに神、主を愛しなさい。」(6:4-5)ということでした。もし主の祭壇のそばに、アシェラ像を始めとした偶像を置くことがあるとしたら、この神のみこころから離れてしまうことになるからです。私たちは離れやすいのです。まさに迷える子羊にすぎません。主を信じていますと言いながら、こうしたアシェラ像を平気でおいていることにも気づかないのです。そうなると私たちの信仰の中心となる軸を失うことになってしまいます。そういうことがないように、神以外のものを主の祭壇のそばに近づけてはならないのです。私たちは共に集まって主を礼拝し、キリストの十字架を仰いで、主に罪赦されたことを覚え、互いに赦し合い、愛し合わなければなりません。また、聖霊に満たされ、主の再臨を待ち望む、これらはすべて、主を神としてあがめている、その中心があるからなのです。私たちはこの信仰の中心軸を失うことなく、いつも主のみこころにかなった者となるように求めていきたいと思います。

 

申命記15章

今日は申命記15章から学びたいと思います。イスラエルの民はエジプトを出て約40年間荒野をさまよいましたが、ようやく約束の地の入り口まで導かれました。ここからヨルダン川を渡って約束の地に入ります。そこでモーセは、イスラエルが約束に地に入るにあたり、そこでどうあるべきかをくどいと思われるくらい何回も語るわけですが、5章から11章までにはその原則的なことを、つまり、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよということでしたが、12章からはその具体的なことが教えられています。この15章では、貧しい人、負債のある人、また奴隷に対して、どうあるべきかが語られます。

 

1.負債のある人に対して(1-11

 

まず1節から11節までをご覧ください。ここには、負債のある人たちに対してどうあるべきかが語られています。そして1節には、「七年の終わりごとに、負債の免除をしなければならない。」とあります。どのように免除したらいいのでしょうか。2節には、「貸し主はみな、その隣人に貸したものを免除する。その隣人やその兄弟から取り立ててはならない。」とあります。これは主の命令です。外国人に対しては取り立てることはできますが、同胞であるイスラエル人に対しては、貸しているものを免除しなければなりません。なぜでしょうか。4節をご覧ください。なぜなら、そうすることによって、イスラエルの民の中に貧しい者がなくなるからです。こうすることによって、自分が損をするどころか、主が彼らを豊かに祝福してくださいるのです。

 

これはいったいどういうことでしょうか。これを新約聖書の光に照らしてみると、罪の赦しについて語られていることがわかります。負債を負っているということが、罪を犯したことにおいて語られているからです。もちろん、新約聖書においても、貧しい人に対する施しが勧められていますが、もっと中心的に教えられているのは、罪を犯すことにともなう負債なのです。兄弟があなたに対して罪を犯したなら、あなたはその兄弟の罪を赦してあげなければならないということです。そうすれば、あなたは祝福を受けるのです。

 

マタイ72135節には、もし兄弟が自分に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきかが教えられていますが、主は、七を七十倍するまで赦しなさい、と言われました。もし、心から兄弟を赦さなければ、天の父は、その人を獄吏に引き渡すと言っています。それは、自分自身の罪が主に赦していただいたのにもかかわらず、同じように負債のある兄弟を赦してやらなかったからです。すなわち、このように教えられている背景にあるのは、神の深いあわれみなのです。神があなたを赦してくださったのだから、あなたがたも互いに赦し合わなければならないのです。それができないとしたら、その人は自分がいかに罪深いのかを知らないのであって、その罪を赦していただいたという恵みさえもわからないのです。赦していただいたからこそ、互いに赦し合うことができるのであって、それができないということは、本当の意味で赦されてはいないのです。主が赦してくださったように、互いに赦し合うとき、主は、必ずその人を祝福してくださるのです。それがどのくらいの祝福なのかは、5節と6節に期されてあります。彼らがそのように兄弟の負債を免除するなら、彼らは多くの国々に貸すが、借りることはありません。また彼らは多くの国々を支配しますが、支配されることはないのです。

 

7節から11節までをご覧ください。ここには、貧しい兄弟に対して、心を閉ざしてはならない。またその手を閉じてはならないとあります。心に邪念を抱き、第七年目が来た、すなわち、免除の年が来たと言って、貧しい兄弟に物惜しみして、何も与えないというようなことがないように気を付けなければなりません。進んでその手を開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならないのです。心に未練をもってはなりません。このことのために、主は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださるからです。別にそれはお金だけのことではありません。私たちの生き方そのものなのです。このみことばに従って、私たちが心を開き、手を開いて、惜しみなく与えるなら、主は必ず祝福してくださるのです。

 

今回のさくらの会堂建設を通して、私はそのことをとても強く示されました。昨年の夏にアメリカに行ったとき、ある結婚してまだ23年しか経っていない若い夫婦の家に泊めてもらいました。彼らとは以前から知っていましたが、それほど親しくしているわけではありませんでした。しかし、私たちが教会を訪問したとき、私たちのためにその家を開放してくれただけでなく、あとで、結構多額の献金をしてくれました。こんなに献金して大丈夫だろうかと心配したほどです。

すると、私たちが帰国してから彼からメールがあり、こんなことが書いてありました。私たちのためにささげることができたことを感謝しています。そして、主は本当に忠実な方です。あの後で会社の上司からオフィスに来るようにと言われたので行ってみると、「君はよく仕事をしていて、成績もいいので、ボーナスをあげる」と言われました。それが何と私たちに献金した額とちょうど同じ額だったのです。彼はそれを聞いて、本当に主はすばらしいとほめたたえましたが、そうした彼らの生き方を、主が祝福してくださったのでした。

 

それから1月末にどうして足りない時に、私たちは祈っていました。このままでは会堂も立ちませんから、主よ、私たちをあわれんでください。必要を満たしてくださいと祈っていたのです。すると、ある方からメールがあって、彼のために、わざわざ本を送ってくれてありがとう。実は、少し前に兄弟がなくなってその遺産を相続したことで自分の借金を全部支払うことができました。残りはさくらの会堂のためにささげますと言って、送ってくださったのです。それが、私たちが必要と祈っていた金額とちょうど同じだったのです。うそみたいなホントの話です。

「あれっ」私たちは彼のために何をしたかなぁと振り返ってみたら、私たちがアメリカに行ったとき、彼の妻のお母さんが日本人で、どのように伝道したらいいかわからないので教えてほしいと言われたので、三浦綾子さんの本を読むといいと思うとアドバイスしました。そして帰国後、私は彼のことを思い出し、アマゾンで三浦綾子さんの本を3冊注文して送ったのでした。まさか、そんなことで献金してくれるなんて思ってもいませんでした。でも、その手を開き、その心を開いて、貧しい人に施すなら、神は豊かなに祝福してくださるのです。

実は、これには続きがありまして、献堂式のニュースレターを送ったところ、そのお母さんが行っているかどうかはっきりわかりませんが、二人の孫がローリングヒルズ日本人教会に行くようになったととても喜んでいました。これは奇跡だ!、これは奇跡だ!・・と。そうです、それは奇跡です。それは彼が心を開いて惜しみなく施したので、主はそのような彼の祈りに答えてくださったのです。

ですから、これはお金だけのことではないのです。私たちの信仰、私たちの生き方が問われているのです。私たちの心を開き、その手を開いて、惜しみなく施すなら、惜しみなく赦すなら、主は必ず祝福してくださるのです。それは主が私たちを赦し、ご自身の尊いいのちを与えてくださったからです。

 

2.ヘブル人の奴隷の解放(12-18

 

次に12節から18節までをご覧ください。ここには、ヘブル人の奴隷を解放するように命じられています。12節には、「もし、あなたの同胞、ヘブル人の男あるいは女が、あなたのところに売られてきて六年間あなたに仕えたなら、七年目にはあなたは彼を自由の身にしてやらなければならない。」とあります。しかも、「彼を自由の身にしてやるときは、何も持たせずに去らせてはならない。必ず、あなたの羊の群れと打ち場と酒ぶねのうちから取って、彼にあてがってやらなければならない。あなたの神、主があなたに祝福として与えられたものを、彼に与えなければならない。」(13-14なぜでしょうか?その理由が15節に書いてあります。それは、彼らがエジプトの地で奴隷であったことを彼らが思い出し、そうした状態から解放されたことを覚えるためです。これはいったいどういうことでしょうか。

 

この奴隷であったとか贖い出されたということも、新約聖書においては罪との関係で語られていることがわかります。最初の人が悪魔の誘惑に陥って罪を犯して以来、人は悪魔の奴隷となってしまったということ、そしてその罪の支配下の中にいると、聖書では教えています。罪を犯さなければならないという、罪の奴隷となっているのです。しかし、キリストが十字架につけられ、よみがえられたゆえに、キリストに結びつけられた私たちも、罪に対して死に、キリストに対して生きる者とされました。ですから、もはや罪に従う必要はなくなり、罪から自由にされたのです。ですから、私たちは、罪を赦された者だけではなく、罪の力からも解放された者なのです。

 

 私たちが聖なる民として生きるときに、このことはとても重要なことです。私たちは互いに赦し合わなければなりません。罪の赦しがなければならないのです。また、罪の力に支配されることなく、御霊によって支配されていなければなりません。霊的に、罪の負い目を持っていたり、罪の支配下にあってはならないのです。確かに罪を犯さずには生きていくことはできませんが、だからといって罪を犯そうというのではなく、御霊の力によって、罪から自由にされていなければならないのです。それが神の民の特徴であり、この世とは異なる、この世とは分離された、クリスチャンの姿でもあるのです。

 

3.牛と羊の初子について(19-23

 

次に19節から終わりまでをご覧ください。こうして、奴隷を解放しなければいけないという教えに続いて、牛と羊の初子はどうしたらよいかが教えられています。19節と20節には、「あなたの牛の群れや羊の群れに生まれた雄の初子はみな、あなたの神、主にささげなければならない。牛の初子を使って働いてはならない。羊の初子の毛を刈ってはならない。主が選ぶ場所で、あなたは家族とともに、毎年、あなたの神、主の前で、それを食べなければならない。」とあります。これはどういうことでしょうか。

 

神は常に、「初めのもの」をご自分にささげるようにと命じておられます。アベルは、初子の子羊を主にささげ、それが受け入れられました。そして出エジプト記で、ここにあるように、家畜の初子は、主のものであると宣言されています。レビ人は、これら初子の代わりに取られたものであると、民数記には書かれています。収穫も初物を主におささげします。なぜ初めのものかというと、それはもっとも大切なもの、優先されるものだからです。彼らが主を自分たちの神としているかどうかの指標は、彼らのものの中で初めのものを主におささげしているかどうかで測られます。口ではどんなに、「私は主を愛しています」と言っても、残りものを主にささげるのであれば、その言葉には真実さがありません。なぜなら、第一のものを第一にしていないからです。

 

私の家はもともとキリスト教ではなく仏教なはずですが、どういうわけか、給料を初めてもらったときに母は、「いいがい。初物は神にささげんだよ。」と言いました。別にささげても、ささげなくてもどうでもいいんじゃないかと思いましたが、言われるままにしました。それは、神を神として敬うことの表れだったんだなぁと、あとで思うようになりました。だから、初物を神にささげるという行為は、自分の最も大事なものを主にささげることでもあるのです。それが命じられているのです。なぜでしょうか。

 

なぜなら、主は最も大切なものを私たちにおささげになったからです。それはご自分のひとり子イエス・キリストです。キリストは、コロサイ書1章15節から読みますと、万物の前におられた初めの方であり、この方によってすべてが造られ、この方のためにすべての物が造られました。また、死者の復活においても、この方が初めであり、すべてのことにおいて「初め」の方、長子であられる方なのです。その方をささげてくださいました。キリストは神にとって初物なのです。

 

だからここに、牛の初子を働かせたり、羊の初子の毛を刈ってはならないと命じられているのです。また、この初子をもって礼拝し、家族とともに食べなさいと命じられているのです。この初物こそまさに神の御子イエス・キリストだからです。このお方をないがしろにせず、礼拝の対象にしていきなさい、という意味なのです。私たちがこの方を教会のかしらとし、この方と交わりを持つことが、もっとも大切なことなのです。余ったものではだめです。自分の思いや、自分の考えを最初にありきではだめなのです。まず神の御子をもって礼拝し、この方を仰がなければなりません。これが、私たちが神の民、聖なる国民であるゆえんです。キリストを礼拝しているのか、そうでないかによって、人が聖なるものかそうでないかが区別されます。ですから、私たちの間に、罪の赦しがあり、罪の力からの解放があり、そして主イエス・キリストが礼拝されている、中心になっていることが、教会の姿であり、聖なる民であると言うことができるのです。

 

21節をご覧ください。初物に欠陥があってはなりませんでした。これは、神に受け入れられるささげものは完全でなければいけないという意味です。すなわち、神の御子イエス・キリストだけが、罪の供え物として完全な方なのです。私たちはこの方にあって罪の赦しをいただき、互いに赦し合うことができます。この方にあって罪の奴隷から解放されました。この方にあって、自ら進んでしもべとなることができます。この方だけが神の初物であり、完全な神のいけにえなのです。私たちはこのイエス・キリストにあって、イエス・キリストを中心として生きるとき、神に喜ばれた歩みがまっとうできるのです。