ヨハネの福音書9章35~41節「見える人と見えない人」

きょうは9章の最後の箇所から、「見える人と見えない人」というタイトルでお話したいと思います。自分は見えると思っている人は見えない。見えない人と思っていた人が見えるようになるということです。皆さんの目は見えているでしょうか。

 

Ⅰ.探し出してくださる主イエス(35)

 

まず35節をご覧ください

「イエスは、ユダヤ人たちが彼を外に追い出したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」

 

生まれつき目の見えなかった人が、イエス様によって癒され、見えるようになった話が続いています。目が見えるようになった人は、「あの方が私の目を開けてくださったのです。あの方こそ、神が遣わされた方です」と言うと、ユダヤ人たちは彼を、会堂の外に追い出してしまいました。会堂から追い出されたとは、ユダヤ教から破門されたということです。それはユダヤ教の共同体からも追放されたことを意味していました。この世の中、本当に冷たいものだなぁと感じることがあります。人と人の心が通いません。みんなてんでばらばらです。ユダヤ人たちは威圧的であり、彼の言っていることが自分たちの意に添わないと、彼を社会から追放してしまいました。親も親で、そんなユダヤ人たちの顔色を伺っては逃げ腰になり、20,21節にあるように、「これが私たちの息子で、盲目で生まれたことは知っています。しかし、どうして今見えるようになったのかは知りません。本人に聞いてください。もう大人です。自分のことは自分で話すでしょう。」と言いました。知らない訳がないでしょう。自分の子供ですよ。生まれながら目が見えなかった息子のことで、これまで両親はどれほど悩み苦しんで来たことでしょう。その息子の目が見えるようになったのであれば、普通だったら手放しで喜ぶはずです。それなのに彼らは、「私は知りません。あれに聞いてください」と他人事のように言いました。本当にこの世の中薄情というか、冷たいですね。最終的にみんな自分がかわいいのです。自分に不利なことは言いたくありません。そんな中でも彼は、人が何と言っても最後まで真実を貫いた結果、そこから追い出されてしまったのです。彼はまさに孤立無援状態となり、窮地に陥りました。

 

しかし、そのような時です。彼がユダヤ人たちから追い出されたと聞くと、イエス様は、彼を見つけ出してこう言われました。「あなたは人の子を信じますか」。

 

 

どちらの方から近寄られたのでしょうか。イエス様の方からです。イエス様の方から彼に近づいてくださいました。イエス様は、「わたしは良い牧者です」(10:11)と言われましたが、まさに良い牧者のように、失われた小羊を探してくださる方なのです。私たちは助けを求めて神を呼び求めることがありますが、実に神は、ご自分の方から苦しんでいる私たちに近づいてくださるのです。

 

Ⅱ.主よ、信じます(36-38)

 

そんなイエス様のことばに彼はどのように応答したでしょうか。36~38節をご覧ください。36節には、「その人は答えた。「主よ、私が信じることができるように教えてください。その人はどなたですか。」」とあります。

「人の子」とはメシヤ、救い主のことです。人々が待ち望んできたメシヤ、救い主のことです。ですからそれは、「あなたはわたしを信じますか」と言うことと同じですが、イエス様は「わたし」と言わないで「人の子」と言われたので、彼は「その人はどなたですか」と答えたのです。

 

この問答を見ていると、まだるっこい感じがしないわけでもありません。というのは、イエス様がそこにいるのに、「その人はどなたですか」とか、「その人を信じることができるように教えてください」と言っているからです。でも、彼は今まで目が見えませんでした。声は聞いていたかもしれません。でも実際に見てはいませんでした。だから今、目の前にいる人がだれなのか分かりませんでした。自分の目を開いた人はイエスだということは知っていましたが、そのイエスがだれなのかは分からなかったのです。それで彼は「その人はどなたですか」と聞いたのです。

 

するとイエス様は彼に言われました。「あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です。」(37)まさに「おったまげ」です。あなたの目の前にいて、あなたと話しているこのわたしが、その人だと言うのですから。

 

すると彼は、「主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝しました。これはどういうことかというと、彼の心の目が開かれたということです。ユダヤ人が人間を礼拝することなど考えられないことです。しかし、彼は心の目が開かれたので、イエス様がどのような方なのかがはっきりわかりました。「あなたはその方を見ています。あなたと話しているのが、その人です。」と聞いた時、それをそのまま受け入れることができたのです。これが信仰です。皆さんは信じるということを複雑に考えてはいないでしょうか。信じるというのは実に単純明快です。イエス様を信じるということは、イエス様が言われたことをそのまま受け入れることです。イエス様が、「あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です」と言われたその言葉をそのまま受けること、これが信仰です。その時、あなたの目も開かれ、心からイエス様を礼拝することができるようになるのです。

 

ところで、彼の心の目が開かれるようになるまでのプロセスを見ると、それなりに時間がかかったことがわかります。すぐに信じることができたわけではありません。最初は、イエス様の一行が道を歩いていた時に、声をかけられました。そして、唾で作られた泥を塗られたかと思ったら、「行って、シロアムの池で洗いなさい。」と言われたのでそのとおりにすると、見えるようになりました。すると彼は、そのことについて、ユダヤ人の指導者やパリサイ人たちからそのことについて問いただされます。彼の両親までも引っ張り出されて、その議論に巻き込まれました。彼の両親は我が身に害が及ぶことを恐れてその問題から身をひいてしまいましたが、この男性はイエスというお方が自分を癒してくれたという事実を曲げませんでした。そして、そのような自らの思いを、勇気を持って告白したのです。25節です。

「あの方が罪人かどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」

17節では、パリサイ人たちの質問に対し、「あの方は預言者です」と答えましたが、次第に「神から出ておられる」方だと言うようになり(33)、そしてついて「主よ、信じます」と信仰の告白に至り、主を礼拝するようになりました。

 

それは私たちも同じです。私たちもまたイエス様を信じ、イエス様を礼拝するようになるまでにはそれなりに時間がかかったり、多くのプロセスを通ったりします。しかし、どんなに時間がかかっても、どんなプロセスを通ろうとも、この目が開かれた人のように「主よ、信じます」と告白し、イエス様を礼拝する者になりたいと思うのです。どうしたらそのようになることができるのでしょうか。

 

この人の場合、会堂から追い出されたことが大きかったと思います。そして、そんな孤立無援となった彼に主が近づかれ、親しく語りかけてくださったことで、主の愛と慰めに触れることができました。それは私たちも同じです。この世にどっぷりと浸かっているうちは、救いの必要性を感じません。ピンとこないのです。家庭における暖かさ、職場での自分の能力が思う存分発揮できているような時、また学校でも成績がよく、みんなからチヤホヤされているような時、それ自体はとてもうれしく感謝なことですが、その中にどっぷりと浸かっていたりすると、なかなかそこから出て来ようという思いが出て来ないのです。そうした環境が悪いというではありません。なかなか気づきにくいということです。そうした人間関係の暖かさや生きていく上での快適さが、本当のものを求めるのを邪魔することがあるのです。しかし、何かのはずみでそうしたところからはみ出てしまったとか、苦難をなめる経験をする時、初めて本当の慰めと救いを求めるようになるのです。

 

先日、ケンさんご夫妻がバプテスマを受けられました。ケンさんは子供さんの健康のことから那須に移住することを決め、数年前に東京から引っ越して来られました。東京に住んでいた時はIT関係の仕事に携わり、仕事はいくらでもあり、それなりに稼ぐことができましたが、那須に来てからは環境が全く変わりました。IT関係の仕事は少なく、給料は激減しました。そうした状況に置かれたとき、初めて自分が高慢であったことに気付かされました。それまでは別に高慢だとは思っていませんでした。しかし、こうした状況に置かれて初めて気が付いたのです。快適な状況に浸かっていた時には全く気付きませんでした。それで教会に来るようになり、そこで聖書のみことばに触れました。すると、初めて自分が高慢だったことに気付かされたのです。これと同じです。ですから、この人もそうですが、そこから追い出されるという経験は辛く、悲しいことですが、そのようになって初めて気付かされるという世界があるのです。そして、それが契機となってイエス様に引き寄せられていくということを思うとき、それはある面で幸いなことでもあるのです。

 

まさにイエス様が山上の垂訓、山上の説教で言われとおりです。

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。

悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。

柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。

義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。

あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。

心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。

義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからで

す。

わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を

浴びせるとき、あなたがたは幸いです。

喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですか

ら。」(マタイ5:3-12)

 

あなたは、どうですか。心が貧しくされる経験をしておられるでしょうか。悲しんでおられますか。偽のために迫害されることがありますか。もしそのような中にあるなら幸いです。なぜなら、天の御国はその人のものだからです。その人は慰められます。そして、天において大きな報いを受けるようになるのです。イエス様はあなたがどのような中に置かれているのかをすべて知っておられます。そして、そんなあなたに近づいて、その心を真に慰めることがおできになるのです。人々があなたを見捨てるような時こそ、あなたが孤立無援の状態に置かれるときこそ、主が、「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」(イザヤ41:10)と言ってくださる時でもあります。ですから、私たちが弱いと感じるとき、苦しみの中にもがきあえぐような中に置かれているとき、感謝しようではありませんか。なぜなら、私たちが弱い時にこそ、私たちは強いからです。

 

Ⅲ.見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となる(39-41)

 

ですから、第三のことは、見える者が見えなくなり、見えない者が見えるようになるということです。39節から41節までをご覧ください。

「そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」パリサイ人の中でイエスとともにいた者たちが、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」」

 

目が見えるようになった人が信仰を告白し、主を礼拝すると、イエス様はこう言われました。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」どういうことでしょうか?

ここでイエス様は、「わたしはさばきのためにこの世に来ました。」と言っています。でも、3:17では「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」と言われました。一方には世を救うために来られとあり、もう一方にはさばくために来られたとあるのは矛盾しているのではないでしょうか。そうではありません。確かに、イエス様がこの世に来られたのは世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためです。しかし、イエス様がこの世に来られた結果として、人々の間にふるいにかけられるようになるのです。それをここでは「世をさばく」と言っているのです。それが「目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となる」ということです。

 

これはもちろん心の目、霊的目のことです。霊的に盲目であった人が開かれ、霊的な事柄がよく見えるようになるということであり、また、この世で何でも見えていると思っている人が、実は霊的事柄については何も見えないということがあるのです。まさに逆説的な真理です。痛烈な皮肉でもあります。というのは、40節にはパリサイ人の中のある人たちが、「私たちも盲目なのですか」と言うと、イエス様はこのように言われたからです。

「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」

もしあなた方が盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったが、今「私たちは見える」と言っています。だから、あなたがたの罪は残るのです。つまり、彼らが自分たちは盲目であると自覚していたら、まだ罪は軽かったというのです。しかし、自分たちは見えると思っているのですから、罪が残るのです。なぜなら、そう思っている限り、悔い改めることがないからです。ほらっ、自分は見えるのですから、自分には罪などないと言っているのですから・・。

 

それは私たちにも言えることです。自分の罪深い姿というものを本当に分かっている人は、その罪からの救い主であられるイエス・キリスト以外に頼るべきお方はないということがよくわかりますが、自分はよく見えると思っている人は、自分の罪深さが分からないので、この世の中で自分が少しでも認められたり、立身出世をしたりすると、自分は偉い人間だと思い上がり、イエス・キリストを求めようとするよりも、自分で何でもできると思い込んでしまうのです。それが、イエス様があの山上の説教の中で語っておられたことだったのです。ここに逆説的な真理があります。自分が見えると思う人は見えないのであり、自分は見えないと思っている人は見えるようになるのです。

 

では、どうしたらいいのでしょうか。私たちが見えるようになるためにはどうしたらいいのでしょうか。黙示録3:17~20を開いてください。

「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買い、あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい。わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」

 

これは、ラオデキヤの教会に宛てて書き送られた手紙です。彼らは、自分たちは富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと思っていました。つまり、自分たちは見えると思っていたのです。その結果、彼らは冷たくもなく、熱くもありませんでした。生ぬるい信仰でした。それで主は、むしろ冷たいか熱いかであってほしい、と忠告したのです。そのためにどうしたらいいのか。自分の本当の姿が見えるように、つまり、自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であるということを知るために、目に目薬を塗らなければなりません。そうすれば、自分の姿がはっきり見えて、悔い改めるようになります。私もよく目がかすみます。それで目薬をさすのですが、そうするとよく見えるようになります。あなたがよく見えているかどうかは、イエス様の招きにどのように応答するかでわかります。有名な主のみことばです。

「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」

主はあなたの心のドアを叩いておられます。あなたはこの主の招きにどう応答されますか。あなたが悔い改めてイエス様をあなたの心に迎え入れるなら、あなたはイエス様と食事をともにするようになります。主との麗しい交わりの中に、真の喜びの中に入れていただくことができるのです。

 

アメイジンググレースは、最も知られた讃美歌の一つです。1年間に1千万回演奏されると言われています。この讃美歌の歌詞は1779年、イギリス人のジョン・ニュートンによって書かれました。その歌詞を直訳すると、次のようになります。

「驚くべき恵み 何と愛らしい響きよ こんな悲惨な者が救われ

かつて迷い出ていたが、今は見出され かつて盲目であったが、今は見える

恵みにより畏れることを教えられ、恵みにより恐れから解放され

なんとすばらしいことだろう 私が最初に信じた時に 表されたその恵みは」

 

彼は船乗りで、言葉の汚いことで有名でした。特にその口汚さは船乗りたちの中でも並外れていたそうです。彼のニックネームは「偉大な冒涜者」というものでした。

ある時、彼は海で暴風に巻き込まれた際、神に憐みを祈り求めました。こうしてこの歌を生み出すほどに生き方を大きく転向させました。

人生の終盤に彼は友人たちにこう話しています。「私の記憶力はほとんど死んでしまったが、二つのことは覚えている。私が大罪人あるということと、イエス様はそんな大罪人をも救う大いなる救い主であるということだ。」

 

この歌は私たちが迷い出ている者であり、盲目であるということ、そしてその状況を恐るべきであるのに、それに気付いていないことを思い起こさせてくれます。しかし神様の恵みは私たちを見つけ、心の目を見えるようにし、神様を畏れさせ、最後には全てのことを正しくさせます。だから何も恐れる必要がないのです。

 

恵みは本来私たちが受ける資格のないほどの、良いものです。しかしながら神様は私たちをその良いもので溢れさせてくださいます。それは宝の山のようなもので、義と認めてくださるというものです。それゆえ、私たちもジョン・ニュートンのように告白しようではありません。「私の記憶力はほとんど死んでしまったが、二つのことは覚えている。私が大罪人あるということと、イエス様はそんな大罪人をも救う大いなる救い主であるということだ。」そのとき、あなたの目も見えるようになり、あなたは、この大いなる恵みの中で生きるようになるのです。

ヨハネの福音書9章13~34節「わたしたちが知っていること」

きょうは、ヨハネの福音書9章13~34節からお話したいと思います。今日の箇所は、前回の続きとなっています。前回は、生まれつき目が見えなかった人がイエス様によって癒され、見えるようになったことが記されてありました。きょうはその続きです。きょうの箇所には「知っている」という言葉が何回も繰り返して出てきます。イエス様によって目が開かれた盲人が知っていたこととはどんなことだったのでしょうか。ご一緒に見ていきたいと思います。

 

Ⅰ.あの方は預言者です(13-17)

 

まず13節から17節までをご覧ください

「人々は、前に目の見えなかったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。イエスが泥を作って彼の目を開けたのは、安息日であった。こういうわけで再び、パリサイ人たちも、どのようにして見えるようになったのか、彼に尋ねた。彼は、「あの方が私の目に泥を塗り、私が洗いました。それで今は見えるのです」と答えた。すると、パリサイ人のうちのある者たちは、「その人は安息日を守らないのだから、神のもとから来た者ではない」と言った。ほかの者たちは「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行うことができるだろうか」と言った。そして、彼らの間に分裂が生じた。そこで、彼らは再び、目の見えなかった人に言った。「おまえは、あの人についてどう思うか。あの人に目を開けてもらったのだから。」彼は「あの方は預言者です」と答えた。」

 

生まれつき目が見えなかった人が見えるようになると、それを見ていた人々は、彼をパリサイ人たちのところに連れて来ました。なぜ連れて来たのかはわかりません。ただ14節を見ると、「イエスが泥を作って彼の目を開けたのは、安息日であった。」とあるので、彼らはそのことを問題にしたのかもしれません。こういうわけでパリサイ人たちのところに連れて来られると、彼らも、どのようにして見えるようになったのかと彼に尋ねました。すると彼は、「あの方が私の目に泥を塗り、私が洗いました。それで今は見えるのです」と答えました。

すると、パリサイ人たちの間に分裂が生じました。彼らのうちのある者たちは、そんなことはあり得ない。その人は安息日を守らないのだから、神のもとから来た者であるはずがないと言い、ほかの者たちは、いや、罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行うことができるだろうかと言いました。

 

私たちも、往々にして、前者の人たちのように「そんなはずはない」と否定することがあるのではないでしょうか。それは、聖書を間違って解釈したり、その意味なり、目的なりを間違って理解していることに起因します。たとえば、ここでは安息日のことが問題なっていますが、そもそも安息日とは何でしょうか。何のために設けられたのでしょうか。モーセの十戒にはこうあります。

「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ。六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。」(出エジプト記20:8-11)

安息日とは、主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休まれたことを記念し、これを他の日と区別し、聖なる日とするようにと定められた日です。教会では、日曜日を聖日と呼ぶことがありますが、それはこのためです。これは聖なる日です。「聖なる」とは、他と区別された日という意味です。神のために他と区別された日です。これは土曜日にあたりますが、教会では、この安息が、イエス様が十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたことによって、イエス様を中心に考えるため、イエス様が復活された日曜日を安息日、聖日としているのです。ですから、この日に共に集まって主を礼拝し、互いに祈り、交わりの時を持っているのです。それはこの日が、仕事が休みだからというわけではありません。この日は主がよみがえられた日、主の日なので、私たちはこの日に集まって主を礼拝しているのです。

しかし、それはおかしいと、いう人たちがいます。安息日は土曜日なのだから、土曜日を安息日にしなければならないと。日曜日に礼拝をするのは間違っている、というのです。そればかりか、このパリサイ人たちのように、この日はいかなる仕事もしてはならないとあるのだから、何もしてはいけないのだ、というのです。

しかし、それはここにあるように必要なわざ、あわれみのわざを禁じているということではありません。ここでいうとそれは目が見えなかった人を癒すということですが、そういうことを禁じているわけではないのです。むしろ、生涯にわたってずっと苦痛にさいなまれ続けてきた人を癒すことこそ安息日にふさわしい行為だったのに、彼らにはそのことが理解できませんでした。私たちはこの安息日に関することだけでなく、私たちの信仰の歩みが神のみこころにかなったものであるために、いつもイエス様の目とイエス様の心を持って神のみことばを受け取らなければなりません。

 

ところで、彼らが再び、目の見えなかった人に「おまえは、あの人についてどう思うか。あの人に目を開けてもらったのだから。」と尋ねると、彼はこう言いました。「あの方は預言者です。」これは、旧約聖書で預言されていた「あの預言者」のことで、来るべきメシヤのことを意味しています。彼はパリサイ人たちの脅すような口調や、理由もわからずに呼ばれた法廷での威圧的な雰囲気の中でも、自分を癒してくださったイエス様についてこのように証言したのです。あなたならどうしたでしょうか。

 

Ⅱ.キリストのためにいのちを捨てる者はそれを見出す(18-23)

 

次に18節から23節までをご覧ください。

「ユダヤ人たちはこの人について、目が見えなかったのに見えるようになったことを信じず、ついには、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、尋ねた。「この人は、あなたがたの息子か。盲目で生まれたとあなたがたが言っている者か。そうだとしたら、どうして今は見えるのか。」そこで、両親は答えた。「これが私たちの息子で、盲目で生まれたことは知っています。しかし、どうして今見えているのかは知りません。だれが息子の目を開けてくれたのかも知りません。本人に聞いてください。もう大人です。自分のことは自分で話すでしょう。」彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者がいれば、会堂から追放すると決めていた。そのために彼の両親は、「もう大人ですから、息子に聞いてください」と言ったのである。」

 

イエス様によって目が開かれた人は、自分を癒してくださった方はメシヤであると大胆に告白しましたが、ユダヤ人たちはその証言をなかなか受け入れることができなかったので、今度は両親を呼び出して尋問します。「この人は、あなたがたの息子か。盲目で生まれたとあなたがたが行っている者か。そうだとしたら、どうして今は見えるのか。」(19)

そこで、両親は答えて言いました。「これが私たちの息子で、盲目で生まれたことは知っています。しかし、どうして今見えているのかは知りません。だれが息子の目を開けてくれたのかも知りません。本人に聞いてください。もう大人です。自分のことは自分で話すでしょう。」(20-21)

両親は、どうしてこのように答えたのでしょうか。22節にその理由があります。それは、ユダヤ人たちを恐れたからです。それはすでにユダヤ人たちが、イエスをキリスト(メシヤ)であると告白する者がいれば、会堂から追放すると決めていたからです。いわゆる村八分です。今でも、ユダヤ人はイエスをメシヤであると告白する者がいれば村八分にされるそうです。ある人は家族関係が断ち切られ、ある人は仕事を失います。つまり生きるすべを失ってしまうのです。救いは神の恵みであり、キリスト・イエスの贖いのゆえに値なしに与えられますが、キリストの弟子として歩むということには、それなりの犠牲も伴います。しかし、それこそが喜びなのではないでしょうか。なぜなら、苦しみなくて栄光はないし、困難なくして祝福はないからです。本当の喜びや祝福というのは、そうした苦難や困難から生まれてくるものなのです。

 

来年アメリカの邦人宣教に遣わされる笹川雅弘先生が、大田原の祈祷会でメッセージをしてくださいました。その中でとても印象的だったのは、クリスチャンは何のために生きるのかということでした。それは今までとは全く違います。今までは私のために生きてきましたが、イエス様を信じ罪から救われてからは、主のために生きる者になりました。これが真の祝福です。イエス様を信じても自分が平安であればそれでいいと思っている人は不思議に平安が奪われてしまいますが、苦労があっても主のために、主のみこころに従って生きる時、そこに祝福がもたらされるのです。イエス様が言われたとおりです。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。」(マタイ16:24-25)

本当に不思議ですが、自分を捨て、主のみこころに生きるなら、そのような中で主は必要な力を与えてくだるし、心の傷のいやされるのです。

笹川先生はその話の中で一人のクリスチャンの姉妹のことをお話ししてくださいました。この方は主の恵みによって信仰に導かれましたが、教会に来られている中でいろいろな方との軋轢が生じ心に傷を負ってしまい、それからというもの教会から遠のいてしまいました。しかし、ご主人の転勤で海外に行くようになり、慣れない環境や日本人同士の交わりへの渇望から再び教会に行くようになると、渇いたスポンジが水を吸収するように信仰が回復していきました。それからまた次の赴任地、次の赴任地と海外を転々とするうちに、どこへ行ってもそこが自分の遣わされた所と信じて、いろいろな葛藤や困難な環境の中でも心から主に仕えるようになると、そのような中でご主人も救われ、家族で主に仕えることができるようになりました。すると本当に不思議ですが、かつて負った心の傷がいつの間にか癒されていることに気付いたのです。まさに、自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、主のためにいのちを失う者はそれを見出すのです。

 

あなたはそのいのちを見出しましたか。キリストのしもべとして十字架を負うことを恐れてはいないでしょうか。でもあなたが犠牲を恐れないで、自分を捨て、自分の十字架を負ってキリストに従うなら、あなたは真の祝福を受けるようになるのです。

 

Ⅲ.私たちが知っていること(24-34)

 

最後にその結果を見て終わりたいと思います。24節から34節までをご覧ください。

「そこで彼らは、目の見えなかったその人をもう一度呼び出して言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」彼らは言った。「あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしておまえの目を開けたのか。」彼は答えた。「すでに話しましたが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのですか。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」彼らは彼をののしって言った。「おまえはあの者の弟子だが、私たちはモーセの弟子だ。神がモーセに語られたということを私たちは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らない。」その人は彼らに答えた。「これは驚きです。あの方がどこから来られたのか、あなたがたが知らないとは。あの方は私の目を開けてくださったのです。私たちは知っています。神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。盲目で生まれた者の目を開けた人がいるなどと、昔から聞いたことがありません。あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです。」彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。」

 

そこで彼らは、目の見えなかったその人をもう一度呼び出して言いました。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」彼らがこのように言ったのは、この人の目が開かれたということを否定できなかったので、たとえそれが事実であったとしても、イエスという男は安息日を破った男なのだから、そういう男のかたを持つのではなく、神に栄光を帰すべきだと言いたかったからです。

 

すると彼はこのように答えました。25節です。「あの方が罪人かどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」彼は、自分の目を開いてくれた方がどういう方であるかはわかりませんが、一つのことだけは知っていると言いました。その一つのこととは何でしょうか。それは、彼は盲目であったが、今は見えるようになったということです。彼はなぜこのように答えたのでしょうか。それは、彼がこのことを体験して知っていたからです。彼は、それがどのようにして起こったのかとか、それを行ったのがだれであるかということはわからなくとも、ただ自分の身に起こったことをそのまま伝えたのです。

 

すると、彼らはなおもしつこく問いただします。「あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしておまえの目を開けたのか。」彼らがあまりにもしつこく聞くものですから、彼はあきれてこう言いました。27節です。

「すでに話しましたが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのですか。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」

すると彼らは彼をののしって言いました。「おまえはあの者の弟子だが、私たちはモーセの弟子だ。神がモーセに語られたということを私たちは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らない。」

ここでは形成が逆転しています。この目を開かれたか弱い男の方が、ユダヤ人指導者たちに「あなたがたも、あの方の弟子になりたいのか」と、尋ねたほどです。余裕を感じます。いったいこの余裕はどこから来たのでしょうか。それは、次の彼のことばをみるとわかります。30節から33節です。

「これは驚きです。あの方がどこから来られたのか、あなたがたが知らないとは。あの方は私の目を開けてくださったのです。私たちは知っています。神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。盲目で生まれた者の目を開けた人がいるなどと、昔から聞いたことがありません。あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです。」

 

いったいなぜ彼はこんなにも堂々としていることができたのでしょうか。それは彼が知っていたからです。彼が盲目であったのに、今は見えるということを。それは、この方が神から遣わされた方であるということのまぎれもない事実です。そうでなかったら、このようなみわざを行うことなどできなかったはずです。それができるということは、この方こそ、神から出たお方であるということなのです。

 

クリスチャンにとってこれほど確かなことはありません。彼の知識はわずかであったかもしれません。また、その信仰は弱々しかったかもしれない。教理もさほど知らなかったと思います。しかし、彼はキリストが御霊をもって、自分の心に恵みのわざを成してくださったということを知っていました。「私は暗かった。しかし今は光を持っている。私は神を恐れていた。でも今は神を愛している。私は罪が好きだった。でも今は罪を憎んでいます。私は盲目だったが今は見えます。」この体験です。確かに感情は惑わされやすいかもしれませんし、それがすべてではありませんが、私たちが内側にこのような確信がなかったら、どんなに聖書を知っていたとしても証の力が出てこないでしょう。それは健全な信仰とは言えません。空腹な人は、食べることによって力がついたと感じます。渇いた人は、飲むことによって元気になったと感じるでしょう。同じように神の恵みを内に持っている人は、「私は神の恵みの力を感じる」と言うことができるはずであり、その事実がその人に何をも恐れない大胆さをもたらすのです。

 

先週、那須で小島さん夫妻がバプテスマを受けられました。すばらしいバプテスマ式でした。何がすばらしいかって、奥様の美紀さんが自分の救いを感謝して「アメージング・グレース」の賛美をしてくれました。自分が救われたのはまさにアメージング・グレースだ・・と。がむしゃらに自分の力で頑張ってきた頃は、自分がどう考えるのか、どうしたいのかが大事だと思っていました。しかし、その結果は人に認められ、人にどう思われるのかに焦点が当てられてしまい、結局のところ、事あるごとに一喜一憂したり、他人の活動が気になってしまったりして、疲れ果てていました。しかし、隠れたところで見ていてくださる神様が報いてくださることがわかったとき、神様を信じ、神様にすべてをゆだね、神様に従っていこうと思うようになりました。そして、イエス様が自分のために十字架で死んでくださったことがはっきりとわかったとき、このイエス様の導きに従って歌い、多くの人たちの一助になりたいと思うようになったとき、その心は空気にように軽くなり、自由になり、どんなことも肯定的に受け止められるようになりました。もうどのように歌うかなど、全く気にならなくなりました。それよりも、自分のために苦しみ、死んでくださったイエス様のために、何ができるのかと考えられるようになったのです。

 

それはちょうど初代教会において、使徒ペテロとヨハネがユダヤ人議会に連れて行かれた時に、彼らが取った態度に似ています。ユダヤ人議会が彼らに、今後一切イエスの名によって語ったり教えたりしてはならないと命じると、彼らはこう言いました。「しかし、ペテロとヨハネは彼らに答えた。「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません。」(使徒4:19-20)

ペテロとヨハネはなぜそんなにも大胆になることができたのでしょうか。それは、彼らがそれを実際に見、実際に聞いたことだったからです。つまり、彼らはキリストの恵みを体験していたのです。だから、人が何と言おうと、自分が見たこと、聞いたこと、つまり自分が体験したことを語らずにはいられなかったのです。このように、自分の体験に裏付けられた信仰は、たとえ権威や力によって抑えつけられることがあっても決して恐れることはなく、それに屈することはありません。

 

結局のところ、この男もついに会堂から追い出されることになります。会堂から追い出されるとは、ユダヤ教から追い出されること、村八分にされることです。でも彼は、そんなことに少しもめげませんでした。事実の上に立った体験、これこそ神が私たちに与えてくださるものであって、このような体験によって、私たちも力強くキリストを証しすることができるようになるのです。

 

「アメリカでもっとも愛されたゴスペル歌手」と称されたジョージ・ビバリー・シェーは、ビリー・グラハムクルセイドの初期から、クリフ・バローズが指揮するマスクワイアーをバックに、ソリストとして数多くの讃美歌やゴスペルを歌ってきた人ですが、彼は2011年、102歳で、グラミー賞功労賞を最高齢で受賞しました。彼が作曲した最も有名な歌は、新聖歌428番の「キリストには代えられません」でしょう。

①キリストには代えられません 世の宝もまた富も

このお方が私に代わって 死んだゆえです

世の楽しみよ 去れ 世の誉れよ 行け

キリストには代えられません 世の何ものも ②キリストには代えられません 有名な人になることも

人のほめる言葉も この心をひきません 世の楽しみよ 去れ 世の誉れよ 行け

キリストには代えられません 世の何ものも ③キリストには代えられません いかに美しいものも

このおかたで心の満たされてある今は 世の楽しみよ 去れ 世の誉れよ 行け

キリストには代えられません 世の何ものも

ビバリー・シェーもまた、ただ一つのこと、キリストの恵みによって捕らえられて

いたのです。もっと突きつめて言えば、その恵みの体験を通して、キリストを証ししていたのです。キリストにはかえられませんと。

 

そしてそれは、私たちも同じです。私たちも、かつては盲目でしたが、今は見えるようになりました。聖書のことはそれほど知りませんが、この一つのことは知っています。それゆえに、私たちも大胆に証しすることができます。これがキリストによって目が見えるようになった人なのです。そのことを忘れないでいただきたいのです。その恵みを体験した者としてこの目が開かれた人のように、私たちは知っています。私たちは盲目であったが、今は見えるようになったということをと、大胆に、そして勇敢に、証しする人になりたいと思います。これがキリストの恵みによって救われた人の姿なのです。

ヨハネの福音書9章1~12節「神のわざが現れるために」

きょうは、ヨハネの福音書9:1~12から、「神のみわざが現れるために」というタイトルでお話したいと思います。

 

Ⅰ.この人に神のわざが現れるためです(1-5)

 

まず1節から5節までをご覧ください

「さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。 弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」

 

イエス様は、仮庵の祭りでエルサレムに上っておられましたが、道を歩いていると、そこに生まれた時から目の見えない人がいるのをご覧になられました。

私たちは、毎日、いろいろなものを選び取って生活していますが、自分ではどうしても選ぶことができないことがあります。それは、どのように生まれてくるかということです。裕福な家に生まれる人がれば、貧しい家に生まれる人もいます。健康で生まれる人がいれば、病弱で生まれる人もいます。どのように生まれるかは、自分では選び取ることができないのです。それは生まれた時から決まっています。この人は生まれた時から目が見えませんでした。自分で選んで盲目になったのではありません。生まれた時からそうだったのです。そのために、いろいろな苦労がありました。8節には彼が物乞いをしていたとありますが、そのために彼は、物乞いをするほか生きる道がありませんでした。

 

すると、弟子たちがイエス様に尋ねました。2節、「先生。この人が盲目に生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」

これが一般の人たちの考え方です。一般に人は今負っている悩みや苦しみには必ず原因があると考え、すぐにその原因を探ろうとします。そして、このような不幸の原因はその人が何か悪いことをしたからであって、そのバチが当たっているのだと考えるのです。いわゆる「因果応報」です。つまり、その人の過去にその問題の原因なり、理由なりを求めてその説明をしたがるわけです。

 

しかし、イエス様はこのように答えられました。3節です。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」弟子たちが不幸の原因を尋ねたのに対して、イエス様はそのことには直接触れずに「神のわざが現れるためです」と、その意味なり、目的についてお答えになられたのです。

 

私たちも、何か辛いことや苦しいことがあると「何でだろう、何でだろう、何で、何でだろう」としばしば後ろを振り返っては、そこで立ち止まってしまうことがありますが、イエス様は、こうした苦難に遭うときに「何でだろう」と問うよりも、「何のために神様はこのような試練をお与えになったのか」を考えて、信仰をもって神の目的のために生きていくことが大切であることを教えてくださったのです。そして、それがどんなに大きな悩みや苦しみがあっても、神様がそのことを通して驚くべきみわざを成してくださるということが分かれば、私たちはもはやそうした悩みや苦しみの中に沈んでしまうのではなく、やがてそれを益に変えてくださる神に期待して生きることができるのではないでしょうか。

4節と5節をご覧ください。ここに不思議なことが書かれてあります。「わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」どういうことでしょうか。もちろん、私たちは人間ですから、神様のようなわざを行うことなどできません。では、「わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければならない」とはどういうことなのでしょうか。

 

ヨハネの福音書6章29節をご覧ください。ここには、「神を遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」とあります。つまり、神のわざとは、神が遣わした方を信じることです。私たちが過去に捉われて出口のないあきらめとむなしさの中で生きるのではなく、現実の苦しみの中にあっても、イエス様を信じて、イエス様が約束してくださった聖書の御言葉を信じて、神様が最善のことを成してくださると信じて生きていくことなのです。それが神のわざを行うということなのです。

 

ローマ人への手紙8章28節には、「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」とあります。

この「すべてのことがともに働いて」の「すべて」の中には、私たちにとってマイナスと思われるようなことも含めてすべてが含まれているのです。良いと思えることも、悪いと思えることも、すべてのことを含めて、神が働いてくださり益としてくださるのです。これを信じることが神のわざです。言い換えれば、すべてが恵みであると信じて受け止めることです。

 

また、コリント人への手紙第一10章13節には、「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」とあります。皆さんの中で、今、試練の中にある人がおられますか。もしそのような方がおられるなら、この御言葉を信じなければなりません。神は、あなたが耐えられないような試練を与えるようなさいません。むしろ、絶えることができるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださるということを。

 

また、エレミヤ書29章11節は、「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」とあります。とかく私たちは自分にとって良くないと思うことが起こると、自分は神に呪われているのではないかと思うことさえありますが、しかし、神の御言葉である聖書は何と言っているのかというと、神が私たちに立てている計画は将来と希望であることです。今はそのようには受け止められないかもしれません。しかし、私を愛し、私のためにご自身の御子をさえも惜しみなく与えてくださった主は、私たちのために最高の計画を持っておられるのです。それは将来と希望です。このことを信じなければなりません。これが神のわざです。

 

私たちは、少し前まで祈祷会でルツ記を学んでいましたが、そのことはルツとナオミの生涯を見てもわかります。ナオミは夫のエリメレクと、二人の息子マフロンとキルヨンと一緒にモアブの地へ行き、そこに一時滞在しました。それまで住んでいたベツレヘムが飢饉のため食べ物が少なかったからです。

しかし、そこで夫エリメレクは死に、何と二人の息子までも死んでしまいました。何と不幸な人生でしょう。ナオミはモアブの地からベツレヘムに帰ることにしましたが、そこで町の人たちは「あら、ナオミじゃないですか」というと、彼女は、「私をナオミとは呼ばないでください。マラと呼んでください」と言いました。「ナオミ」という名前は「快い」という意味ですが、どう見ても彼女の人生は快いものではありませんでした。それで「苦しむ」という意味の「マラ」と呼んでくださいと言ったのです。

しかし、そんなナオミを、神様は決して忘れてはいませんでした。彼女には息子の嫁の一人でモアブ人のルツがいました。ある日、畑に出て落ち穂を拾い集めると、そこははからずもエリメレク一族に属するボアズの畑でした。ボアズは正当な手続きを経てエリメレクの畑を買い戻すと、その嫁であったルツも買い戻したので、ルツはボアズの妻となりました。そして生まれたのがオベデです。オベデはダビデの父であるエッサイの父、すなわち、ダビデの祖父にあたります。そして、このダビデからこの人類を罪から救ってくださる救い主が誕生するのです。このようなことをいったいだれが想像することができたでしょうか。これが神のなさることです。神は、このような驚くべきことをなさいます。神を愛する人々のために、神がすべてのことを働かせて益としてくださるのです。このことを信じなければなりません。

 

先月、山形市のこひつじキリスト教会で献堂式が行われました。牧師の千葉先生は、同盟の伝道委員として3年間私たちの教会にも来てくださり、私が伝道委員だったとき会堂についていろいろお聞きしていましたので、ぜひ献堂式に出席したいと思っていました。

そこはちょうど蔵王めぐみ幼稚園という幼稚園の前にあるのですが、そこはかつてこのこひつじキリスト教会を開拓した蔵王キリスト教会が産声をあげた場所でもありました。この幼稚園はキリスト教系の幼稚園で、蔵王教会ではその一室を借りて日曜の礼拝が始まったのです。それから何年かして1996年に親教会ネットワークによってこひつじキリスト教会が誕生しました。あれから20年、教会は一軒家の借家で宣教の働きが進められてきました。2階に先生ご家族が住み、1階で集会が続けられてきましたが、こどもの伝道を中心に行っていたこともあって集会所のスペースは限界でした。それで先生は集会できるスペースを求めて祈っていたところ、とても良い物件が紹介されたのです。、それは国道13号線に面しているドライブインの跡地でした。土地と建物の広さも申し分なく、価格も格安でした。千葉先生は、それが神様の導きではないかと購入に向けて進もうとしたのですが、そこが山形市と上山市との境にあったこと、また、これまで行って来た子供たちの伝道には向いていないということで断念せざるを得なかったのです。千葉先生は本当にがっかりしました。やっといい物件が見つかったと思ったのに、話がまた振り出しに戻ったからです。

しかし、それからほどなくして示されたのがこの物件でした。それは車の整備工場の跡地でしたが、奇しくも、それが蔵王教会が産声をあげた幼稚園の前だったのです。場所的には最高の場所です。それをリフォームして献堂することができました。本当に神のなさることは不思議です。神はすべてのことを働かせて益としてくださいます。

 

それは、私たちも例外ではありません。神はこのような小さな者をもご自身の救いの計画の中にしっかりと組み込んでいてくださり、偉大な御業を成さろうとしておられるのです。そのことを信じなければなりません。すべてのことをつぶやかず、疑わずに行わなければならないのです。だれも働くことができない夜が来るからです。

 

Ⅱ.シロアムの池で洗いなさい(6-7)

 

では、神のわざが現れるためにどうしたらいいのでしょうか。それは、神のみことばに従うことです。6,7節をご覧ください。

「イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。」

 

イエス様は、神のわざを、昼の間に行わなければならないと言うと、地面に唾をして、その唾で泥を作り、それを彼の目に塗って、「行って、シロアムの池で洗いなさい」と言われました。いったいなぜこのように言われたのでしょうか。イエス様は他の時にも何度か盲人の目を癒しておられますが、その時にはこのようには言いませんでした。ただ一言「エパタ」(開け)と言って癒されたり、盲人の目に直接触れることによって癒されました。このように唾で作った泥を目に塗って、池に行って洗うといった方法は採られませんでした。いったいなぜこのように言われたのでしょうか。別に唾で作ったこの泥に何らかの効用があったからとは思えません。ただはっきりわかることは、イエス様はどんな方法でも盲人の目を癒すことができるということです。お言葉一つでこの天地万物を創られたお方は、「エパタ」と言われるだけで癒すこともできましたし、直接触れることによっても、また、このように神秘的な方法によっても癒すことができたのです。ただそれがどのような方法であっても、イエス様の言われることに応答し、その御言葉に従うことが求められました。

 

いったいなぜこの盲人はイエス様の言葉に従ったのでしょうか。イエス様の言葉を聞いて「なるほど」と納得したからでしょうか。そうではありません。美容パックじゃあるまいし、こんなの目に塗っていったい何になるというのでしょう。私だったらそう思います。でも彼はイエス様が言われた言葉に従いました。このように、たとえそれが自分の思いや理解を超えていることであっても、主が仰せられたことに従うとき、神のみわざが現れるのです。

 

たとえば、あのシリヤの将軍ナアマンはそうでした。彼は重い皮膚病で苦しんでいましたが、その家にいたイスラエル人の召使いであった少女からイスラエルには驚くべき奇跡を行うエリシャという預言者がいるということを聞くと、早速出かけて行きました。その手にはたくさんの贈り物を持ち、しかも国王からの親書も持っていました。

ところがエリシャのところに行ってみると、エリシャは彼を出迎えることもせず、ただ召使いを送ってこう言わせただけでした。「ヨルダン川に行って、その水の中に七度身を浸しなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻りきれいになります」

これを聞いたナアマンは激怒しました。「なんということだ。私は預言者エリシャが出て来て、私の前に立ち、主である神様の名前を呼んで、この悪い所の上で手を動かして治してくれるものと思っていたのに。ダマスコの川の方が、イスラエルの川よりもよっぽど綺麗ではないか。こんなうす汚い川で洗ったところで、どうやって治るというのか。」

こうして彼はさっさと自分の国に引き上げようとしたのですが、部下の一人がやって来て、必至に説得しました。「将軍様、どうしてそんなにお怒りになられるのですか。あの預言者がもっと難しいことをせよと言われたら、それをしなければならなかったでしょう。それなのに彼は将軍様に「ヨルダン川で体を洗いなさい」と言われただけではありませんか。」

するとナアマン将軍はようやく思い直し、エリシャの言ったとおりにヨルダン川に行き、七度水に体を浸しました。すると彼の体は赤ん坊のように綺麗になったのです。

 

キリストの弟子たちがガリラヤ湖で漁をしていた時も同じです。その日はどういうわけか、夜通し網を降ろしても一匹の魚もとれませんでした。ペトロたちは疲れ切って岸で網を繕っていました。そこにイエス様が来られ、「深みに漕ぎ出して、網を下して魚を捕りなさい。」(ルカ5:4)と言われたのです。おそらくペテロは、「いくらイエス様だって、漁のことについては俺たちの方がプロだ」と思ったことでしょう。しかし、それにも関わらず、彼はこう言ったのです。

「先生、私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下してみましょう。」(ルカ5:5)

これが信仰です。「でも、おことばですので、網を下してみましょう。」それが自分の思いや考えと違っても、でも、おことばですので、網を下ろすのです。そして、せっかく繕った網をもう一度舟に積み込んで、沖に出ていったのです。そして、イエス様が言われたとおりに網を降ろしてみますと、網がはち切れんばかりの魚がとれたのです。

 

皆さん、私たちも聖書に書いてある教えが非現実的であったり、非論理的に思えたり、あるいはまったく無意味なことのように思えたりすることがあるかもしれません。自分の経験や、知識や、良識などから判断すれば、どうしてそんなことをしなければならないのか、そんなことで本当に大丈夫なのかと、疑いや不安が募ることもあるでしょう。しかし、生まれつきの盲人が「シロアムの池に行って洗え」と言われた時も、ナアマン将軍が「ヨルダン川で身を浸せ」と言われたときも、ペテロが「もう一度沖に出て網をおろせ」と言われたときも、きっとそういう人間的な不安や疑問にかられたと思うのです。けれどもその時、彼らは自分の思いではなく、神の思いに従ったので、神のみわざを見ることができたのです。

 

これが信仰です。私たちはいつも人間的な見方をしては、「自分たちにできるだろうか」と思って否定的になってしまいますが、大切なのは私たちにできるかどうかではなく、それが神のみこころなのかどうかということです。神様が御言葉で何と言っておられるのか、そして、それがみこころならば、信じなければなりません。それが神のわざを行うということです。イエス様がいるうちは、イエス様が働いてくださいます。しかし、だれも働くことができない夜が来ます。その時では遅いのです。ですから、イエス様がいる間に、イエス様の御言葉を信じて、神のわざを行わなければなりません。それが自分の常識を超えていることであっても、主がこれをせよと仰せられるならそれに信仰によって従っていく。そこに偉大な神の御業が現れるのです。

 

Ⅲ.イエスという方が(8-11)

 

第三に、その結果です。そのようにして生まれつきの盲人の目が見えるようになり、帰って行くと、どのようになったでしょうか。8節から12節までをご覧ください。

「近所の人たちや、彼が物乞いであったのを前に見ていた人たちが言った。『これは座って物乞いをしていた人ではないか。』ある者たちは、『そうだ』と言い、ほかの者たちは『違う。似ているだけだ』と言った。当人は、『私がその人です』と言った。そこで、彼らは言った。『では、おまえの目はどのようにして開いたのか。』」

彼は答えた。「イエスという方が泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」 彼らが『その人はどこにいるのか』と言うと、彼は『知りません』と答えた。」

 

この見えるようになった人に対して、近所の人たちや彼のことを知っていた人たちが、「お前の目はどのようにして開いたのか。」と問うと、彼は自分が経験したことを、ありのままに語りました。それは、「イエスという方が泥を作って、私の目に塗り、「シロアムの池に行って洗いなさい。」と言われたので、その通りにすると、見えるようになったということです。すなわち、イエスという方が自分に何をしてくれたのかということです。つまり、イエスはだれであるかということです。そして、イエスはメシヤ、キリスト、救い主であられるということです。

 

これがこの話の中でヨハネが本当に伝えたかったことなのです。ヨハネの福音書の中にはイエス様がメシヤであるということを証明する七つの「しるし」が記録されてありますが、これは6番目のしるしです。「しるし」とは証拠としての奇跡のことです。これは、イエス様がメシヤであるということの証拠としての奇跡だったのです。私たちはどうしても、生まれつき盲人だった人の目が見えるようになったことに焦点がいきがちですが、ヨハネが一番伝えたかったことはそこではなく、イエス様がメシヤであられるということだったのです。つまり、イエス様は私たちの心の目を開くことができるお方であるということです。

 

それは、7節の「シロアム」ということばの後の注釈を見るとわかります。ここにはわざわざ「訳すと、遣わされた者」とあります。神から遣わされた者とはだれでしょうか。そうです、イエス・キリストです。つまり、シロアムの池に行って洗うと目が開かれるというのは、イエス様の言葉を信じ、イエス様のもとに行って洗うなら、目が開かれる、という救いのメッセージだったのです。

 

イエス様はそれを十字架と復活を通して成し遂げてくださいました。イエス様が十字架で流された血は、私たちをすべての罪からきよめることができます。そして、三日目によみがえられたイエス様は、私たちに永遠のいのちを与えることができるのです。これが神の救いのご計画でした。それは常識では考えられないこと、アンビリバボーです。しかし、その神のみこころを信じて従うとき、私たちの心の目も開かれるようになるのです。常識や理性で理解できないことは絶対に信じないと思っている人は、決して心の目、霊的な目を開けていただくことはできません。主が「これをせよ」と言われることに対して、信仰をもって従う人だけが開かれるのです。

そして、このように私たちを罪から救うことができる方は、私たちをすべての問題から解放することができます。

「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

いろいろなことで疲れ果て、落ち込んでいる私たちを真に救うことができるのは、私たちを様々な不幸の原因である罪から救うことができるイエス様だけです。あなたもこの方を救い主として信じ、この方が命じられることに従う時、そこに大いなる救いのみわざが現れるのです。

 

あなたはどうでしょうか。シロアムの池に行って洗いましたか。イエス様はあなたを救うことができます。あなたの悩みや問題のすべてを解決することができる方です。「何でだろう」と過ぎ去った過去を見てくよくよして生きるのではなく、イエス様を信じて、イエス様が与えてくださる将来と希望を見つめて、前に向かって進んで行こうではありませんか。そこに神のわざが現されるのです。

ヨハネの福音書8章47~59節 「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』なのです」

今日は、58節のイエス様のことば、「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」から、ご一緒に学びたいと思います。

 

Ⅰ.死を見ることがない人たち(48-51)

 

まず48節から51節までをご覧ください。48節には、「ユダヤ人たちはイエスに答えて言った。「あなたはサマリア人で悪霊につかれている、と私たちが言うのも当然ではないか。」とあります。

 

このヨハネの福音書8章は、姦淫の現場で捕らえられた女に対して、律法学者とパリサイ人がイエス様に、「モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じていますが、あなたは何と言われますか」と質問したのに対して、「わたしもあなたを罪に定めない」と言われたことから、彼らとの長い論争が続きます。

12節のところでイエス様は、「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」と言われました。しかし、彼らは、そのイエス様のことばを受け入れることができませんでした。なぜなら、真実な証言には二人の人以上の証言が必要とされていたからです。

そんな彼らに対してイエス様は、「わたしが「わたしはある」であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになる」(24)と言われました。なぜなら、イエス様を信じなければ、彼らの罪が残ることになるからです。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。しかし、真理はあなたがたを自由にします。イエス様こそその真理であり、そのみことばに従うことによって、私たちは本当の自由を得ることができるのです。

しかし、彼らはイエス様を受け入れることができませんでした。自分たちはアブラハムの子孫であって、何の奴隷でもない、と主張したのです。でも、もし彼らがアブラハムの子孫であるなら、アブラハムのわざを行うはずです。それなのに、彼らはイエス様を殺そうとしていました。それは、彼らがアブラハムの子孫ではなく、「悪魔から出た者」であり、悪魔の欲望を成し遂げたいと思っているからです。

 

するとそれを聞いていたユダヤ人たちは、「あなたはサマリア人で悪霊につかれている、と私たちが言うのも当然ではないか。」と言いました。どういうことでしょうか。これは、ひどい言葉です。おそらく、当時、考えられる限りの最悪の言葉だったでしょう。

「サマリア人」というのは本来サマリアに住んでいる人を指して使われる言葉でしたが、次第に、相手が誰であろうと関係なく軽蔑して言う時に使われるようになった言葉です。というのは、B.C.931年に、イスラエルは北王国イスラエルと南ユダ王国に分裂するのですが、B.C.722年にその北王国イスラエルがアッシリア帝国によって滅ぼされると、アッシリア帝国は多くの人々を捕虜して連れて行った代わりに他国の人々を連れて来て住まわせたため、彼らは混血族になってしまったからです。純血を重んじるユダヤ人にとって、それは考えられないことでした。それ以来、混血族になってしまったサマリア人を、神の祝福を受けられなくなってしまった人々として蔑視するようになったのです。それでユダヤ人はサマリア人を徹底的に嫌っていました。話もしなければ、その土地も通りませんでした。完全にシャットアウトしていたのです。そのサマリア人だと言ったのです。

 

また、悪魔というのは悪の霊のことです。それは神と正反対の存在で、神からもっとも遠く離れた存在です。神様がきよく正しい方であるならば、悪魔はもっとも汚れた不正な存在です。彼らはイエス様を、「お前はそのような悪魔に取りつかれたやからに違いない」と決めつけたのです。リビングバイブルでは、このところを次のように訳しています。「あんたはサマリア人だ!よそ者だ!悪魔だ!そうとも、やっぱり悪魔に取りつかれているんだ!」ユダヤ人の指導者たちはわめき立てました。」非常によく、その雰囲気を捉えているのではないでしょうか。神の子イエスを前にして、彼らは全く何も見えていなかったのです。何と驚くべきことでしょう。

 

それに対してイエス様はこのように答えられました。49節と50節です。「わたしは悪霊につかれてはいません。むしろ、わたしの父を敬っているのに、あなたがたはわたしを卑しめています。わたしは自分の栄光を求めません。それを求め、さばきをなさる方がおられます。」

そして、こう言われました。51節、「まことに、まことに、あなたがたに言います。だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません。」

イエス様はいつも重要なことを言われるとき、「まことに、まことに、あなたに告げます。」と前置きして言われますが、ここでもそうです。そしてその重要なことと

は何かというと、だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがないということでした。この「死」とは、もちろん「霊的死」のことです。霊的死とは、創造主なる神との関係が切れている状態を指します。人は神のかたちに造られ、神と関係を持って生きるように造られたので、それによって真の喜びと幸福を味わうことができるのに、それを永遠に味わうことができないとしたらどんなに不幸なことでしょう。その人の行き着く所は永遠の死です。これが聖書で言っている第二の死のことです(黙示録21:8)。しかし、イエス様を信じる者は、肉体的には死ななければならなくても、霊的に死ぬことはありません。その霊は永遠に生きるのです。イエス様は言われました「まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。」(ヨハネ6:47)

 

アメリカフロリダ州にある大きな長老教会の牧師で、「爆発する伝道」という世界的に用いられている伝道教材を作ったジェームズ・ケネディ牧師は、2007年に天に召されましたが、彼はクリスチャンの死生観について次のような言葉を残しています。

「いつか、私にも人生の終わりというものが来ます。私は箱に入れられ、教会の前のちょうどそのあたりに安置されるでしょう。周りには人が集まって、泣いている人もいるかもしれません。ただ、これまで言ってきたように、そうしないでいただきたい。皆さんに泣いてほしくないのです。告別式は、頌栄(神に栄光を帰する賛美歌)で始めて、ハレルヤコーラスで締めくくってください。私はそこにはいないし、死んでなんていないのですから。私は、今まで生きてきたどの時よりも生き生きとしていて、かわいそうな皆さんを上から眺めています。死にゆく世界にとどまっている皆さんは、生ける世界にいる私のもとにはまだ来ることができません。そして私は、私自身も、だれも経験したことがないほどの健康と、活力と、喜びにあふれ、いついつまでも生き続けるのです。」

何と希望に満ちた言葉でしょうか。人は皆、死に対して恐れや不安を持っていますが、このような希望が約束されていることがわかれば、私たちの死は確実に安らかなものとなるのではないでしょうか。仏教では、悪い行いを一切しないように努力し、できる限りよい行いをして功徳を積んでいれば、安らかな死を迎えることができると説きますが、悪い行いを一切しないで生きることができる人がいるでしょうか。いません。ですから、私たちは行いによっては決して罪が消えることはなく、いつも死に対して不安を抱えて生きなければなりませんが、キリストを信じ、キリストのことばに生きる人は、いつまでも決して死を見ることはありません。

 

教会では今、マクペラの墓に墓地を求めることになりました。この礼拝堂くらいの広さがあります。できれば、その入口に教会の名前とみことばの入った墓石を置きたいなぁと思っていますが、もし置くとしたら、どんなみことばがいいだろうと勝手創造しています。そして、このみことばがいいんじゃないかなぁと思うんです。それは、ルカの福音書24:6「ここにはおられません。よみがえられたのです。」です。私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません 眠ってなんかいません 千の風に なって、あの大きな空を 吹きわたっています、ではないですが、もうそんなところにはいない。今まで生きてきたどの時よりも生き生きとしていて、かわいそうな皆さんを上から眺めています、と言えるのは、本当にすばらしい希望です。

 

先週、さくらのNさんの義母様が召されました。もうダメだというとき、Nさんからメールをいただきました。これまでなかなか母に心を開くことができず、福音を語ることができなかったのですが、先週のメッセージで、赦すというのは感情の問題ではなく信仰の問題だとお聞きし、あれからイエス様に祈ってみたら、やって心を開くことができるようになりました。それで、明日の昼、ちょうど母と二人きりになる時間が与えられるので、母に福音を伝えたいのですがどのように伝えたらよいか端的に教えてください、ということでした。

それで私は、五つのポイントがあります。一つは、これまでお母さんに心を開けなかったことをお詫びし、二つ目に、お母さんにも天国に行ってほしいことを伝え、三つ目に、そのためにイエス様が十字架にかかって死んでくださったということ、そして、四つ目に、このイエスを信じるならすべての罪が赦されて永遠のいのちが与えられるということ、その約束のことば、ヨハネ6:47の「まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持っています。」を伝えること、最後に、この福音を信じるようにお勧めすることです。信じるなら、「アーメン」と言って応答するなり、首を縦に振って示してほしいということを伝えて、祈ってください、と伝えました。

後でメールが来ました。言われたとおりに福音を伝えることができました。しかし、すぐに昏睡状態に陥ったため、どのように受け止めたかはわかりませんということでした。でも、その後も何度も祈り、賛美する時間が与えられました、ということでした。

お母さんは、その三日後に召されましたが、結果はすべて神におゆだねし、この救いのみことばをはっきりと伝えることができたことに感謝することができました。先週の月曜日に行われたお別れの会は、急遽「感謝会」となり、お母さんを心から見送ることができました。「だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません。」私たちには、この救いのみことばがゆだねられているのです。

 

ところで、ここには「わたしのことばを守るなら」とあります。この「守る」という言葉は、宝物を保管して大事にするという意味があります。そのように主イエスのことばをいいかげんに扱うのではなく、それに心から従う態度で守るということです。つまり、信仰を持ってみことばを心から受け入れ、それを心にたくわえ、また自分自身の生活に適用し、そのみことばの意味しているところに従って生きるということです。ですから、守るということは、ほかの人が守っているかどうかを問題にすることではなく、自分がそのみことばに生きているということにほかなりません。このようにキリストのことばに生きる人は、いつまでも決して死を見ることがないのです。

 

Ⅱ.アブラハムよりも偉大なのか(52-56)

 

次に、52節から56節までをご覧ください。この主の言葉を聞いて、ユダヤ人は何のことを言っているのかさっぱりわからず、このように言いました。52節、53節です。

「あなたが悪霊につかれていることが、今分かった。アブラハムは死に、預言者たちも死んだ。それなのにあなたは、『だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を味わうことがない』と言う。あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのか。アブラハムは死んだ。預言者たちも死んだ。あなたは、自分を何者だと言うのか。」

 

彼らには、肉体の死と、霊的死、永遠の死の区別がつきませんでした。イエス様が「わたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません」と言われると、「何を言うか、自分たちの父祖であるアブラハムも、昔の預言者たちも神のことばを守っていたのに死んでしまったではないか。それなのにあなたは、「だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を味わうことがない」と言う。自分を何様だと思っているのか。父祖アブラハムよりも偉大な者であるとでも言うのか。」と反論しました。

 

するとイエス様はこう言われました。54節から56節です。

「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光は空しい。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。この方を、あなたがたは『私たちの神である』と言っています。あなたがたはこの方を知らないが、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしもあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っていて、そのみことばを守っています。あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見るようになることを、大いに喜んでいました。そして、それを見て、喜んだのです。」

 

ここでイエス様が言っておられることは、父なる神と御子イエスとの親しい関係です。しかもその関係というのは、父なる神が、御子イエスに栄光を与えられるという関係です。これはどういうことかというと、父なる神がイエスをはっきり御子として認めておられるということです。ですから、この御子イエスをどのように見るかということで、私たちが父なる神にどのように評価されるかが決まるのです。それはユダヤ人たちが信仰の父と仰ぐアブラハムが、主イエスをどのように見ていたかをみればわかるでしょう。「アブラハムは、わたしの日を見るようになることを、大いに喜んでいました。そして、それを見て、喜んだのです。」これはどういうことでしょうか。

 

これは大きく二つの解釈に分けられます。一つは、アブラハムは実際にメシヤを見たわけではなかったが、いつかその日が来るということを信仰によって見ていたということです。

もう一つは、創世記18章においてアブラハムのところに三人の御使いが現れたという出来事が記されてありますが、あの出来事のことを指していると考えています。あのマムレの樫の木のそばで三人の御使いがアブラハムに現れたあの出来事です。そのうちの一人は主ご自身でした。受肉前のキリストですね。アブラハムは、この時実際に主を見て喜んだというのです。

この中で最も適切だと思われる解釈は、先のものでしょう。というのは、主は、「アブラハムはわたしを見た」と言われたのではなく、「わたしの日を見た」と言っておられるからです。アブラハムにとっての喜びは、彼の子孫からメシヤ、救い主が出るという約束に対して、それを信仰によって遠くから見ることでした。アブラハムは、それを見て喜んでいたのです。

 

また、同じヨハネの福音書12章41節に、「イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであり、イエスについて語ったのである。」とありますが、ここでの言い方とこの表現とが調和していることから考えても、これは、アブラハムがやがて来られるメシヤの日を喜び、それを信仰によって見て、喜んでいたと解釈するのが自然です。

 

また、ここでイエス様がこのように言われたのは、アブラハムがわたしを見たのだということを告げることにあったとは思えません。そうではなく、むしろ、わたしはあなたがたの父祖アブラハムに約束された「その末」なるメシヤである、と告げることが目的だったのではないかと思われます。ユダヤ人たちが、「あなたはアブラハムよりも偉大なのか」と尋ねた時、主は「そうである」ということの根拠をここに示そうとしておられたのです。つまり、「わたしはそうである。わたしは、アブラハムがメシヤの日のことを聞いて喜び、信仰によってそれを遠くに見たそのメシヤそのものなのである。もしあなたがたがアブラハムのようであったなら、あなたがたもわたしを見て喜んだであろう。」と言いたかったのです。

 

このようにして見ると、イエス様の偉大さが際立っています。ユダヤ人たちは、あなたは、私たちの父祖アブラハムよりも偉大なのかと言いましたが、主はアブラハムとは比較にならないほど偉大な方なのです。なぜなら、主はそのアブラハムが信仰によって見ていたメシヤそのものであられるからです。そのことはアブラハムだけでなく、すべてのクリスチャンにとっても同じです。イエス・キリストこそ、私たちにとっての生きがいであり、喜びであり、希望そのものなのです。

 

あなたはどこに希望を置いていらっしゃいますか。あなたの生きがい、喜びは何でしょうか。信仰の父アブラハムが喜びとしたイエス・キリストこそ真の喜びであり、生きがい、希望ではないでしょうか。

 

Ⅲ.アブラハムが生まれる前から「わたしはある」なのです(57-59)

 

最後に、57節から59節までをご覧ください。57節には、「そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのに、アブラハムを見たのか。」とあります。

 

ユダヤ人たちにはまだイエス様が言っておられることの意味が分かっていませんでした。彼らは、目に見える肉体の姿で地上におられるイエス様だけを見ていたので、「あなたはまだ五十歳になっていないのに、アブラハムを見たのか」と言いました。そんなことあり得ません。なぜなら、アブラハムは二千年も前に生きていた人物だからです。そのアブラハムを見るなんてできるはずがないだろう、と詰め寄ったのです。

 

するとイエス様はこのように言われました。58節です。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」これは驚くべきことです。イエス様はイエス様の時代よりも二千年も前に生きていたアブラハムが生まれる前からおられたというのですから。それだけでなく、この「わたしはある」という表現は、ユダヤ人ならば誰でも思い出す旧約聖書の表現でした。

旧約聖書の出エジプト記3章14節に、神はモーセに、「わたしは『わたしはある』という者である。」と言われたことが記されてあります。これは聖書の神が他の何ものにも依存しないでも存在することができる方であるということ、すなわち、すべての存在の根源であることを示しています。そうです、聖書の神は、すべてのものを創られた創造主であられるのです。

 

そして、イエス様が「わたしはある」と言われるとき、それはイエス様がこの「わたしはある」という者であることを示しています。これはギリシャ語では「エゴー・エイミー」という言葉であることは以前お話ししたとおりです。ヨハネの福音書には、この「エゴー・エイミー」という言葉を何かと組み合わせてイエス様がこの世の救い主であることを示している箇所が7回出てきます。

「わたしは命のパンです。」(6:35,41,48,51)

「わたしは世の光です。」(8:12)

「わたしは門です。」(10:7,9)

「わたしは良い羊飼いです。」(10:11,14)

「わたしはよみがえりです。いのちです」(11:25)

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(14:6)

「わたしはまことのぶどうの木です。」(15:1,5)

つまり、イエス様が「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』なのです」と言われたのは、ご自身が神であり、永遠の存在者であるという宣言だったのです。ですから、それを聞いたユダヤ人たちは、イエス様に石を投げつけようとしたのです。イエス様がご自分を神に等しい方とされたからです。もしイエス様が実際にそうでなかったとしたら、それは神を冒涜することになり、石打ちにされても仕方ないでしょうが、しかし、イエス様はまことの神であり、神と同等であらる方なので、神を冒涜する罪は犯しませんでした。イエス様はまことの神であられ、アブラハムが生まれる前からおられた永遠なる神なのです。

 

イエス様はこの天地を創造された時にも、アブラハムの時代にも、モーセやイザヤの時代にも、いつの時代も存在しておられた方であり、今、この時も存在して、あなたの傍らにおられます。そして、あなたを無力さや失望から救い出してくださいます。なぜなら、すべての存在の根源であられるキリストがあなたの人生に目的と意味を与えてくださるからです。

 

この方を信じるとき、あなたはあらゆる虚しさや絶望から解放され、本当の生きがいを見いだすことができます。あなたを創造しどんな時もあなたとともにおられるキリストこそ、あなたに真の喜びと希望、そして生きがいを与えることができる方なのです。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」

ヨハネの福音書8章31~47節 「真理はあなたがたを自由にます」

今日は「真理はあなたがたを自由にします」というタイトルでお話しします。真理に従う時、私たちは自由になり、不思議な力が出てきます。では真理とは何でしょうか。今日は、その真理についてご一緒に学んでいきたいと思います。

 

Ⅰ.キリストの弟子とは(31)

 

まず31節をご覧ください。

「イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。」

 

「ご自分を信じたユダヤ人たち」とは、その前のところで、イエスを信じたユダヤ人たちのことです。彼らは、主が「わたしが「わたしはある」であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになる」(24)と言われた言葉を聞いて、イエスを信じました。そのユダヤ人たちに対して主は、「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。」と言われました。どうして主はこのように言われたのでしょうか。

 

その後のところを見ると、その理由がわかります。つまり、彼らの信仰が十分でなかったからです。確かに彼らはイエス様を信じましたが、その信仰というのはただ口先だけのものでした。というのは、33節を見るとわかりますが、イエスがこのように言うと、彼らはイエスの言葉に反発しています。「あなたがたは自由になる」とはどういうことか・・。自分たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともない。初めから自由人である自分たちに、「あなたがたは自由になる」と言うのはおかしいではないか。それははなはだ失礼なことである、そう言ったのです。彼らはイエス様のことばを受け止めることができませんでした。

 

また、44節を見ると、イエス様が彼らに向かって、「あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。」と言っています。「あなたがた」とはだれのことですか?ここでイエス様を信じたユダヤ人たちのことです。その彼らに向かって悪魔呼ばわりしているのです。そうです、確かに彼らはイエス様を信じましたが、その信仰というのはイエスに従う信仰ではなく、自分の思いを優先する信仰だったのです。自分の思いを優先する信仰、そういう信仰があるでしょうか。ありません。したがって、彼らの信仰は本当の信仰ではなかったのです。では本当の信仰とはどのようなものなのでしょうか。

 

イエス様はここでこう言っています。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。」「わたしの弟子」とはキリストの弟子のこと、すなわち、クリスチャンのことです。本当のクリスチャンとは、本当にキリストを信じるとは、キリストのことばを聞いて信じ、そのみことばにとどまっている人のことです。そうでなければ、信仰生活を続けることはできないでしょう。信仰生活において大切なことはそれを「始める」ことだけでなく、それを「続ける」ことです。そして、最後まで走り抜くことです。それが本当に恵みのうちにいるかどうかの試金石となるからです。最初に猛然と走り出す人ではなく、自分のスピードを保ちながら最後まで走り続ける人です。そういう人こそ「賞を受けられるように走る」人なのです。出発するとともに進み続ける人が、本当にキリストの弟子です。そしてそのためには、キリストのことばにとどまっていなければなりません。

 

主は、そのことをマタイの福音書7章21節でこのように教えられました。「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」どういうことですか?その日には多くの人が主に言うでしょう。「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。」でも、そのとき主は、彼らにはっきりとこう言われます。「わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。」(マタイ7:23)どういうことですか?

どんなにキリストの名を呼んでも、どんなにキリストの名によって奇跡を行っても、キリストの父のみこころを行うのでなければ、すなわち、キリストに従うというのでなければ、キリストの弟子ではないということです。

 

ですから、イエスのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。また、イエスのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。

岩の家に建てられた家と砂の家に建てられた家のたとえ話です。キリストのことばを聞くだけでは本当の弟子になることはできません。本当の弟子は、キリストのことばを聞いて信じ、そのことばにとどまる人です。そのことばに生きる人なのです。

 

Ⅱ.真理はあなたがたを自由にします(32-41)

 

なぜキリストのことばにとどまることが必要なのでしょうか。それは、32節にあるように、「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」からです。

 

真理とは何でしょうか。真理とは、イエス・キリストであり、イエス・キリストのことばです。イエス・キリストはこのように言われました。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)

人類は長い間この真理を捜し求めてきました、未だになお到達していません。しかし主はここで、もし人がご自身のことばにとどまるなら、その人は真理を知り、その真理があなたがたを自由にすると言われました。すなわち、キリストご自身が真理であり、ご自身のことばが真理のことばなのです。

人類の長い歴史の中で多くの学者たちが追及してきたのに到達できなかった真理が今、キリストのことばにとどまることによって到達することができるのです。なぜなら、イエス・キリストこそ真理そのものだからです。この真理とは哲学的な真理とか、科学的な真理といったものではなく、真理そのもののことです。真理の中の真理です。そしてこの真理が、あなたがたを自由にします。どういうことでしょうか?

 

私たちは別にイエス様に自由にしてもらわなくても自由ですよ。いつ寝ても自由だし、いつ起きても自由です。別に働いても、働かなくても自由です。勉強しても、しなくても自由、信じても、信じなくても自由、何をしても自由です。確かに今の日本ほど自由な国はありません。でも、それで本当に私たちは自由でしょうか。外面的には自由かもしれませんが、でも内面的にはどうかというと、必ずしもそうではありません。案外と不自由なのではないでしょうか。たとえば、私たちは私たちを取り巻く環境や人のうわさの奴隷になっているということはないでしょうか。また世間体やメンツ、名誉といったものの奴隷になっていることはないでしょうか。あるいは、欲望やお金の奴隷になってはいないでしょうか。さらには習慣や性格の奴隷になっているということはないでしょうか。パウロはローマ人への手紙の中で、「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:24)と嘆いていますが、したいと思う善を行わないで、したくない悪を行ってしまうということはないでしょうか。そうした罪の奴隷となっていることがあります。

 

たとえば、人を赦すことはどうでしょうか。私たちはなかなか人を赦すことができなくて苦しむことがあります。モーパッサンの作品に「ひも」という短編があります。主人公の男オーシュコロンは、ある日道を歩いていてひもを見つけ、それを拾ってポケットに入れました。

やがてその同じ道で財布を落とした人があらわれました。するとひとりの人が、「おれはオーシュコロンおっさんがポケットに入れるのを見た。」と言いました。

それで彼は疑われ、取り調べを受けることになりました。ポケットからひもを取り出して「拾ったのはこのひもだ」と説明してもなかなか信じてもらえません。

そうこうしているうちに、なくなったはずの財布が見つかるのです。「よかった。よかった。」とみんな喜び、人々はその出来事をすっかり忘れてしまいましたが、どうしても忘れられない人が1人だけいました。そうです、このオーシュコロンのおっさんです。彼は自分が疑われたことを、あちこちに行っては話し、とうとう田畑を耕すのを忘れて、寂しく死んでいきました。人を赦すというのは本当に難しいことです。どうしたら赦すことができるのでしょうか。

 

それは真理に従うことです。真理とはイエス様であり、イエス様のことばのことですから、そのことばに従うことによって赦すことができるのです。イエス様は何と言われたでしょうか。

あるとき、弟子のひとりのペテロがやって来て、イエス様にこのように尋ねました。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」(マタイ18:21)

すると、イエス様はこう言われました。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。」(マタイ18:22)

七回を七十倍するまでとは49回までということではありません。まあ、一日に49回も赦すというのはすごいことですが、ここではそういうことではなく「どこまでも」ということです。どこまでも赦すこと、それが真理であられるイエス様のことばです。このことばに従うことです。

また、イエス様はこうも言われました。

「『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません。『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:38-44)

「目には目を、歯には歯を。」それが人間の持っている自然の反応です。けれども、天の父である神の子どもは違います。右の頬を打つ者には左の頬も向ける。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせる。あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行くのです。求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません。『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。これが天の父である神の子に求められている姿です。これを実行するのです。

 

つまり、赦すというのは感情の問題ではなく、従順の問題なのです。たとえ赦すという感情がなくても赦せるのは、それがイエス様の命令であり、そのイエス様の命令に従うがゆえなのです。そして、このイエス様の命令、イエス様のことばに従うとき、初めて赦すことができるようになるのです。真理はあなたがたを自由にするからです。

 

しかし、当時のユダヤ人たちは、この真理のことばに従うことができませんでした。33節をご覧ください。彼らはイエスがそのように言うと、こう言いました。「私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません。どうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」

「アブラハムの子孫」というのは、彼らが持っていた確信とプライドを表現しています。つまり、彼らはだれの奴隷にもなったことがないということです。ですから、最初から自由人である自分たちに向かって、「真理はあなたがたを自由にする」というのはおかしいではないかと、と言ったのです。どこか私たち日本人に似ていると思いませんか?自分は何の奴隷にもなっていないし、すべてから解放されているのに、どうして自由にしてもらう必要などあるだろうか・・と。本当にそうでしょうか。

 

34節から36節までの箇所の中でイエス様は、彼らが本当に自由ではないことを次のように言って、次のように言って説明しています。

「イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。奴隷はいつまでも家にいるわけではありませんが、息子はいつまでもいます。ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。」

主はここで、彼らをそこから救い出したいと願っておられる奴隷の状態というものがどういうものなのか、そして、その自由というものがどのような意味での自由なのかを教えています。それは「罪の奴隷」であって、その罪から解放されること、霊的に自由にされることです。罪の奴隷は、神の家に住むことができません。それゆえ、真理によって解放してもらわなければなりません。真理とは何ですか。真理とはイエス・キリストです。ですから、「子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。」とあるのです。子であられるイエス・キリストを信じ、そのことばにとどまるなら、その真理が彼らを罪から解放し、自由にすることができるのです。

 

しかし、彼らは真理に従っていませんでした。というのは、彼らは自分たちこそアブラハムの子孫であると確信していたからです。そして、イエスを殺そうとしていました。37節でイエス様は、「わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていなかったからです。」と言われました。アブラハムの子であると主張していながら、アブラハムのわざを行っていないというのは自己矛盾です。アブラハムが義と認められたのは、主を信じたからです。「アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」(創世記15:6)とあるとおりです。「主」とはだれですか。イエス様でしょう。そのイエスを彼らは殺そうとしていたのです。神から聞いた真理を話していたイエスを殺そうとすることが、アブラハムのわざであるはずがありません。逆にイエスを信じることこそ、アブラハムのわざを行うことであり、そのような人こそアブラハムの子孫なのです。

 

つまり、彼らは真理のことばに従っていなかったのです。従っているようで、実のところ、そうではありませんでした。彼らはイエス様のことばに対して良いところは受け入れても、嫌なことは受け入れることができませんでした。結局のところ、イエス様のことばよりも自分の考えの方を優先していたのです。そのような心でどうやって真に自由になることができるでしょうか。なれません。なぜなら、真理があなたがたを自由にするのだからです。真理であられるイエス様が私たちを自由にし、その真理のことばにとどまることによってこそ、本当に自由になることができるのです。あなたはどうでしょうか。

 

アメリカの南北戦争の時、有名な将軍で小説家でもあったリュー・ウォレスは、「ベン・ハー」という小説を書きました。この小説は、もともと彼がキリスト教の神話を永遠になくすために書いた本でしたが、第二章の第1ページを書き始めたところで、イエス・キリストの復活の出来事の真実の前に、「あなたはわが主、わが神です」と信仰を告白したことで、キリストが真実であることを証しする本になりました。

この本の主人公であるベン・ハーは、自分の母親と妹をらい病へと追いやったローマの将軍メッサラを赦すことができず、彼と戦って勝利をおさめ、彼の命までも奪っても赦すことができませんでしたが、彼の妻がクリスチャンになったことで、キリストがどのように教えているのかを証しするのです。そんなの迷信の類だとなかなかキリストを受け入れることができなかったのですが、ゴルゴタの丘でキリストが十字架にかかられた時に、そこで発せられた言葉を聞くのです。それは、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23:34)ということばでした。敵のために祈られるキリストのことばを聞き、このキリストこそまことの救い主であると信じた彼は、そのことばに従い心から敵を赦すことができました。そのとき、らい病に冒されていた母親と妹がいやされたのです。

 

それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできるのです。神はそのみわざをご自身の御子イエス・キリストによってあらわしてくださいました。ですから、子があなたを自由にするなら、あなたは本当に自由になるのです。あなたもイエス様を信じてください。そうすれば、あなたはあなたの心を縛っていた罪の縄目から解放していただくことができます。そして、あなたがこのイエスをあなたの人生の主としてあなたの心の王座に迎え、このイエスのことばに従って生きるなら、あなたは真の自由を経験することができるのです。真理があなたを自由にするからです。

 

Ⅲ.真理に従うために(42-47)

 

では、真理に従うにはどうしたらいいのでしょうか。42節から47節までをご覧ください。

「あなたがたは、あなたがたの父がすることを行っているのです。」すると、彼らは言った。『私たちは淫らな行いによって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神がいます。』イエスは言われた。『神があなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。わたしは神のもとから来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わされたのです。あなたがたは、なぜわたしの話が分からないのですか。それは、わたしのことばに聞き従うことができないからです。あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。しかし、このわたしは真理を話しているので、あなたがたはわたしを信じません。あなたがたのうちのだれが、わたしに罪があると責めることができますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。』」

 

このイエス様のことばを、彼らはなかなか理解することができませんでした。そして彼らはイエス様にこう言いました。「私たちは淫らな行いによって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神がいます。」どういうことですか。自分たちは愚かな偶像の民ではない、唯一のまことの神を信じている者であって、正しい者であるということです。彼らはイエスを信じたはずなのに、もうイエス様のことばに反抗しています。

 

そこでイエス様は彼らがなぜご自分に従うことができないのか、その理由を語られます。それは彼らが悪魔から出た者たちだからです。

「あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。」(44)

彼らがイエス様の教えに耳を傾けることができなかったのは、悪魔によって目が閉ざされていたからです。皆さんは、福音のメッセージを聞いても、それをなかなか理解しようとしない人を見て不思議に思ったことはありませんか。使徒パウロは、その理由を次のように述べています。「彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。」(Ⅱコリント4:4)つまり、悪魔が未信者の顔におおいをかけているということです。悪魔は、人殺しであり、偽り者です。最初の嘘は悪魔が作り出したものです。また悪魔は、人類に罪を犯させて、人類に死をもたらしました。これが、彼らがイエス様を信じることができなかった本当の理由です。

 

46節でイエス様は、「あなたがたのうちのだれが、わたしに罪があると責めることができますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。」とチャレンジしています。なぜ信じないのでしょうか?それは、彼らが悪魔から出ていたからです。神から出た者は、神のことばに聞き従います。それは神のわざなのです。聖書を理解するということは、知的なことであるだけでなく、霊的なことでもあります。使徒パウロは、顔の覆いを取り除くことができるのは、聖霊のわざであると言っています。それは私たちが頑張ってとか、一生懸命に努力してできることではありません。それは御霊なる神の働きによるのです。

「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:18)

私たちが真理を知り、真理に従うためには、御霊なる神、聖霊によってこの覆いを取り除いてもらわなければなりません。今、聖霊によって、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えていただけるように祈りましょう。また霊の目が閉ざされている人々の目が開かれてイエス様を信じることができるように、そしてイエス様が自由にしてくださるという意味を理解し、イエス様のみことばに従って生きることができるように祈りましょう。そのとき、私たちは悪魔の支配から解放されて神の支配に移されます。そして真理を知り、真理が私たちを自由にします。それは御霊なる主の働きなのです。今、聖霊によって、この働きを受け入れましょう。そして、キリストのことばに従って生きる者とさせていただきましょう。

ヨハネの福音書8章21~30節「あなたはだれですか」

きょうは「あなたはだれですか」というタイトルでお話ししたいと思います。これはユダヤ人たちとの論争の中で、彼らがイエスに投げかけた質問です。25節に「そこで、彼らはイエスに言った。『あなたはだれなのですか』」とあります。

同じ一つの言葉でも、そこに込められているニュアンスが異なる場合があります。そのような大それたことを語るとは、あなたは一体何様だと思っているのか、という反発から出た言葉のようにも聞こえますし、このように大いなることを語られるとは、あなたは一体どなたなのですか、という素直な質問のようにも聞こえます。いずれにせよ、この質問はとても重要な質問です。それによって永遠のいのちが決まるからです。「あなたはだれなのですか」。きょうは、この質問に対する答えを、ご一緒に聖書から見ていきたいと思います。

 

Ⅰ.どのようにイエスを捜していますか(21)

 

まず21節をご覧ください。

「イエスは再び彼らに言われた。『わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、自分の罪の中で死にます。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。』」

 

イエスは姦淫の現場で捕らえられた女に、「わたしもあなたにさばきを下さない。」(11)と言われると、再び人々に語られました。12節です。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」

するとパリサイ人はイエスに言いました。「あなたの証しは真実ではない」と。それでイエスは、ご自分の証が真実であることを証明するために、ご自分がどこから来られたのかを話されました。

 

きょうの箇所では、イエスがどこへ行くのかということに論点が移っていきます。ここでイエスは再び彼らに言われました。彼らとはユダヤ人たち、パリサイ人たちのことです。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、自分の罪の中で死にます。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」どういう意味でしょうか?

 

「わたしは去って行きます」というのは、主が間もなくこの世を去って行こうとしているということです。主に与えられた使命は終わりに近づいていました。主が私たちの罪のために犠牲となって死なれるときが近づいていたのです。イエスがこのように語られたのは、ユダヤ人の心のうちをかきたてて、ご自身がどのような者であるのかを真剣に考えさせるためでした。それは、その後で語られたことばを見るとわかります。主はこのように言われました。

「あなたがたはわたしを捜しますが、自分の罪の中で死にます。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」

これは少しわかりづらいことばです。「あなたがたはわたしを捜しますが、自分の罪の中で死にます」。自分の罪の中に死ぬというのは霊的死のことです。永遠に神から切り離されてしまうことを指しています。したがって、「わたしが行くところに、あなたがたは来ることはできない」とは、天の御国に来ることはできないということです。それは永遠に続く住まいであって、世に来られる前に御子が御父とともにおられたところです。ここには罪がある者は来ることはできません。罪を悔い改めて赦された人だけが行くことができるのです。

 

でもちょっと待ってください。ここには「あなたがたはわたしを捜しますが」とあります。彼らがイエスを捜すのは救いを求めていたからでしょう。つまり、旧約聖書に約束されているメシヤに飢え渇いていたからです。それでイエスを捜していたのです。それなのに自分の罪の中に死ぬとはどういうことでしょうか。それは、彼らの求め方が正しくなかったということです。間違った動機で求めていたり、なかなか信じようとしないためイエスを見出すことはできないので、罪が残ることになります。それが「罪の中で死にます」ということです。結果、イエスが行かれる天の御国に行くことはできません。

 

先日、NHKの「逆転人生」という番組で、元ヤクザから牧師へと壮絶な転身を遂げた鈴木啓之(すずき ひろゆき)先生のドキュメンタリーが放映されました。人生につまずいた人の再出発を支える鈴木先生が主人公です。かつては暴力団員で名うての博打うち。多額の借金を背負い、死の淵まで追い詰められました。しかし裏切り続けた妻に救われ、生き方を180度変えることができました。今度は自分が拠り所のない人の支えになりたいと元受刑者などを受け入れ、再出発を応援するものの、再犯者が出るなど厳しい現実に直面しますが、それでも「人生は必ずやり直せる」という鈴木先生の人生を紹介したのでした。

私も鈴木先生とお会いしお話しを伺ったことがありますが、本当に先生をそのように変えてくださった主はすばらしい方です。でも、その番組では、NHKということもあったのでしょうが、イエス様の「イ」の字も出てきませんでした。人はどのようにしたらやり直すことができるのでしょうか。それはイエス様でしょ。イエス様が私たちを新しく造り変えてくださるのです。イエス様が私の罪のために十字架にかかって死んでくださいました。だから、この方を信じるすべての人の罪が赦され、新しい者に変えていただけるのです。それがなかったら、どんなに人生をやり直すことができたとしても本当の解決にはなりません。自分の罪の中で死んで行くことになるからです。本当のやり直しとは、これまで神を神ともせず自分勝手に生きて来た者が、それを罪と言いますが、その罪を悔い改め、イエス・キリストを自分の罪からの救い主として信じ、この方を中心に生きることによって可能になるのであって、そうでないとやり直すことはできません。どんなに求めても真の救いに至ることはできないのです。

 

同じように、私たちも様々なきっかけで主を捜し求めることがありますが、それがイエス・キリストにつながるものでなければ、何の意味もありません。私たちはよく、病気とか、突然の不幸、あるいは仕事や家族の問題、人間関係のこじれ、将来への不安、死への恐怖などに直面することがありますが、それが魂の渇きとなって主を求めるのでなければ、真に満たされることはできないのです。主イエスは、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」(7:37)と言われました。渇いているなら、キリストのもとに行って飲まなければなりません。そうすれば、その人の心の奥底に生ける水の川が流れ出るようになります。そうでなければ、どんなにキリストを捜しても、自分の罪の中で死ぬことになるのです。

 

そればかりではありません。キリストに対する根深い抵抗というのもあります。どんなにキリストを求めても最後まで抵抗し続け、気付いた時には遅かったということがあるのです。よく伝道しているとこういうことを言われる方がおられます。「キリストがいいのはわかっているけど、今はいらない。死ぬちょっと前でいい。その時はお願いします。」

 

私たちが福島で開拓伝道を始めたのは1983年のことでした。初めは6帖2間と4畳半の小さな借家で始めました。私は翌年から仙台の神学校で学ぶようになったため、自宅で英会話スクールを始めることにしましたが、そこに近くの卸業を営んでおられた会社の社長さんが来られました。当時65歳くらいだったかと思います。よく私たちの小さな学校で学んでくださったと感謝しておりましたら、この方の先妻の方がクリスチャンだったんですね。それで、教会は信用できるからと、教会の英語教室で学ぶようになったのです。私はクラスの後に交わりの時を持ち、そこでお茶を飲みながらイエス様のお話しをするのですが、随分関心がおありのようなので、「どうですか、イエス様を信じませんか」というと、決まってこう言いました。「いや、キリスト教は一番いいのはわかっている。でも、私はまだ清くないから、もうちょっと後にします。死ぬちょっと前がいいですね。その時にはよろしくお願いします。」

「死ぬちょっと前と言ったって、人間いつ死ぬかわからないじゃないですか。石川さん、今がその時ですよ。」

「いや、もう少し後でいいです。その時は信じますから。」

そんなことが随分続きました。そして20年の月日が流れました。それで私たちは大田原に移ることになったのですが、その時にもお勧めしました。「石川さん、私たちは大田原に行くのでこれでお別れになります。これまで本当にお世話になりました。どうですか。その前にイエス様を信じると決心なさいませんか。」

でも、答えはノーでした。もう85歳くらいになっていましたが、それでも、死ぬ前にお願いします、というのです。仕方なく、私たちは大田原に引っ越してきましたが、それから間もなくのことです。奥様からお葉書をいただき、ご主人が亡くなられたことを知りました。死ぬ前に・・・とおっしゃっていたのに、残念ながら、その死ぬ前に信仰を告白することができませんでした。少なくとも私たちの前では・・。

 

どんなにイエスを捜し求めていても、それが遅すぎることがあります。真実の悔い改めであるならば決して遅すぎるということはありませんが、ことさらにキリストを拒絶し、キリストを求めることを止めてしまうならば、キリストを捜し求めても自分の罪の中に死んでしまうということになるのです。

 

ですから、そういうことがないように、キリストを見出すことができるうちに真実な心をもって主を尋ね求め、誠実な心をもって主のもとに行かなければなりません。イエス様はこう言われました。

「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」(ヨハネ12:35-36)

私たちが大胆に確信できるのは、光があるうちに光を信じるなら、闇が襲うことはないということです。そのように尋ね求めるならば決してそれが徒労に終わることはありません。そのように尋ね求めた者が「罪の中に死んだ」とは、決して記録されることはないのです。本当にキリストのもとに来るなら、決して捨てられることはありません。

 

Ⅱ.「わたしはある」という方(22-24)

 

次に22節から24節までをご覧ください。

「そこで、ユダヤ人たちは言った。「『わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません』と言うが、まさか自殺するつもりではないだろう。」

イエスは彼らに言われた。「あなたがたは下から来た者ですが、わたしは上から来た者です。あなたがたはこの世の者ですが、わたしはこの世の者ではありません。それで、あなたがたは自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。わたしが『わたしはある』であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるからです。」」

 

イエス様が、「わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません」と言うと、ユダヤ人の指導者たちは、「まさか自殺するつもりではないだろう」と言いました。彼らは、イエス様が語った言葉の意味を全く理解することができませんでした。イエス様が死んであの世に行くと言っておられるに違いないと思ったのですが、どのようにしてあの世に行こうとしているのか、さっぱりわかりませんでした。それで、「まさか、自殺するつもりではあるまい」と言ったのです。しかし、それは彼らの全くの誤解でした。当時、ユダヤ人たちは、自殺を人殺しと同様、モーセの十戒を破るものと考えていました。イエス様がそんなことをするはずがないじゃないですか。彼らには、イエス様の心がさっぱりわからなかったのです。

 

そこでイエスは、そのことを説明して言われました。23節、「あなたがたは下から来た者ですが、わたしは上から来た者です。あなたがたはこの世の者ですが、わたしはこの世の者ではありません。それで、あなたがたは自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。わたしが『わたしはある』であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるからです。」

「上から」というのは「天から」ということであり、「下から」というのは「この世から」という意味です。それは神がおられる聖なる天と、罪に満ちたこの世のことを意味しています。ですから、「上から来た」とは神を意味し、「下から来た」とは「この世の者」、つまり人間を意味しています。人間は最初の人アダムが罪を犯して以来、罪を持った存在ですから、自分の罪の中に死ななければなりませんが、イエス様はそうではありません。イエスは天から来られた方です。この天と地を造られた創造主なる神なのです。

 

このことをもっともよく表されていることばが、24節の「わたしはある」という言葉です。これはすでに6章20節のところで、イエス様が「わたしだ」と言われた時に説明したように、原語のギリシャ語では「エゴー・エイミー」(εγω ειμι)という語で、出エジプトの時、モーセが神にその名を尋ねたところ、神が「わたしは、「わたしはある」という者である」(出エジプト3:14)と仰せになられた言葉と同じ(へブル語で「エーイェー」)言葉です。それは存在の根源であられる方であることを意味しています。聖書の神は、他の何ものにも依存することなく、それ自体で存在することができる方です。つまり、全能者であられます。私たち人間は違いますね。私たちは生きていくためには何かに依存しなければ生きていくことができません。空気とか、水とか、食べ物とか、飲み物など、何かに依存しなければ生きていくことはできません。しかし、創造主なる神は、そうした他の何物にも依存することなく、神ご自身だけで存在することができる自存者であられます。なぜなら、神は創造者であられるからです。この空も、海も、山も、水も、その他この地球にあるすべてのもの、いやこの宇宙も含めたすべてのものは、神によって造られました。神は創造主なる方であって、神だけで存在することができるのです。それが「わたしはある」という意味です。そして、イエス様はそのような方なのです。イエス様は「わたしはある」という方なのです。イエス様はこの世界のすべてをお創りになられました。イエス様はすべての存在の根源者であられます。つまりイエス様は神ご自身であられるのです。そのことを信じなければなりません。そのことを信じなければ、救いを受けることはできないのです。

 

ここでイエス様が言っておられることは分かりにくいことでしょうか。決してそうではありません。それなのに、多くの人々がこの単純なメッセージを信じないのはなぜでしょうか。それはイエス様が言っておられることが難しくて理解できないからではなく、信じたくないからです。それを信じるためには、自分の罪を認めなければならないからです。人はだれも自分の罪を認めたくありません。誰にも束縛されたくないのです。自分の思うように生きていきたいと思っています。

 

私もそうでした。小さい頃は早く大きくなって、自分の好きなように生きていきたい。勉強なんてしたくないし、お金持ちになって、自由に生きていきたいと思っていました。そして、高校生活も終わりに近づいたころ、神様は私を捕らえてくださいました。せっかく自由に生きていきたいと思っていたのに、神様に従わなければならないなんて嫌だ!と始めは抵抗しましたが、「真理はあなたがたを自由にする」(8:32)ということばになぜか納得し、「これが本当の自由なんだ」とわかってイエス様を信じました。これがわかるまでは、信仰ほど窮屈なものはないと思っていました。何にも束縛されないで、自由に生きていきたい。それが罪の本質です。神を信じたくないのはそのためです。もしかすると、自分のメンツが傷つけられると思っているからかもしれません。また、罪を告白し、そこから離れた生活をすると、今までの楽しい生活をすることができなくなってしまうのではないかと恐れているのかもしれません。あるいは、自分だけが信じて天国へ行っても、自分の愛する家族が別の所に行ってしまうのでは、あまりにも申し訳ないと思っているのかもしれません。

 

いずれにせよ、イエス様は、「わたしが、「わたしはある」であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるからです。」と言われました。イエス様が「わたしはある」という方です。イエス様が救い主であられるのです。救いはこのイエス様にあります。どうぞこのイエスを信じてください。そうでないと、あなたは自分の罪の中で死ぬことになるからです。

 

Ⅲ.イエスは神の子です(25-30)

 

第三のことは、だからイエス様を信じましょう、ということです。25節から30節までをご覧ください。

「そこで、彼らはイエスに言った。「あなたはだれなのですか。」イエスは言われた。「それこそ、初めからあなたがたに話していることではありませんか。わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わされた方は真実であって、わたしはその方から聞いたことを、そのまま世に対して語っているのです。」彼らは、イエスが父について語っておられることを理解していなかった。

そこで、イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが『わたしはある』であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたがたは知るようになります。 わたしを遣わした方は、わたしとともにおられます。わたしを一人残されることはありません。わたしは、その方が喜ばれることをいつも行うからです。」イエスがこれらのことを話されると、多くの者がイエスを信じた。」

 

そこで、彼らはイエス様に言いました。「あなたはだれなのですか。」だれなのですかって、それこそ、初めからイエス様が彼らに話していたことです。それなのに、彼らは全く聞こうとはしませんでした。彼らが知るようになるのはいつですか?28節をご覧ください。ここに、「あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが「わたしはある」であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたは知るようになります。」とあります。これは、イエス様が十字架に付けられる時のことを指しています。その時ユダヤ人たちは主こそメシヤであられ、父なる神によって遣わされた方であるということを知るようになります。イエス様が十字架に付けられた時、イエス様を十字架に付けたローマの百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言いました。「この方は本当に神の子であった。」(マタイ27:54)ここでイエス様が言われたとおりです。でも、その時では遅いのです。その前に、イエスは「わたしはある」であることを信じなければなりません。また、イエスは自分からは何もせず、すべてはイエスを遣わされた父なる神がいわれたとおりに言っておられるということを信じなければならないのです。つまり、イエスと父とは一つであるということを信じなければならないのです。それが29節にあることです。

「わたしを遣わした方は、わたしとともにおられます。わたしを一人残されることはありません。わたしは、その方が喜ばれることをいつも行うからです。」

イエス様は、イエス様を遣わされた方とともにおられ、この方が喜ばれることを行われます。この方が喜ばれることとは何でしょうか。それは、私たちが救われることです。私たちが救われてこの方の許に行くことです。そのために神はそのひとり子をこの世に送ってくださいました。あなたに与えてくださいました。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

あなたは、この方を信じましたか。信じて永遠のいのちを持っていますか。神は、あなたが滅びることがないように、ひとり子なるキリストを遣わしてくださいました。もしあなたがキリストを信じなければ、自分の罪の中で死ぬことになります。でも、もしあなたがこの方を信じるなら、決して滅びることなく、永遠のいのちを持つことができるのです。あなたもぜひこのイエスを信じてください。信じて、永遠のいのちを持っていただきたいのです。

 

さあ、これを聞いた人たちはどのように応答したでしょうか。30節です。「イエスがこれらのことを話されると、多くの者がイエスを信じた。」感謝ですね。だれも信じないかと思ったら、やっぱりちゃんといました。信じる人が・・。こうした論争の場にいると、何が真理なのかを考える以前に、もうそういうしたことには関わりたくないと思うものですが、そうした中にあっても彼らが信じることができたのはどうしてでしょうか。彼らが素直な人たちだったからでしょうか。人が良くて、物わかりの良い人たちだったからですか。そうではありません。どんなに素直でも、それだけではイエス様を信じることはできません。どんなに人が良くて、物わかりがよくても、イエスを信じることができないのです。ではどうしてこの人たちはイエスを信じることができたのでしょうか。

このことに関して、使徒パウロはこう言っています。 「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたが

たから出たことではなく、神の賜物です。」(エペソ2:8) 私たちがイエス様を信じることができるのは、この恵みのゆえに、です。私たちの

側に何か原因があったからではなく、神の側から注がれた恵みによって救われたので

す。私たちの救いは、私たちが素直であるとか、物わかりが良いとかによってではな

く、神様からの賜物なのです。この恵みはあなたにも注がれています。あなたが心を

開いて救いを求めるなら、あなたにも神の愛と恵みが豊かに注がれるのです。

 

先日、黒澤さんが山形のご実家に戻られた際、地元の教会に行かれたそうですが、

そこで国際ギデオン協会のメンバーの方が証をしてくださったそうです。この方は米沢で「相良堂」(さがらどう)という和菓子屋さんを営んでおられる方ですが、少しでもイエス様を証しできればと10年くらいでしょうか、長年、「和菓子作りと語らいの時」を持ってきました。しかし、信仰に導かれる人が少なく、洗礼に導かれたのはたった1人でしたが、それでも召される方の多くが、病床で、「私もイエス様のところに行きたい」とか、「私も救われたいです」。「イエス様のみそばにおいてください」「私の罪を告白します。イエス様を信じます。」と言われる方々がたくさん起こされたそうです。

イエス様を信じる方が少ないかと思っていましたが、そのようにして救いを求めていた方がおられたことに、慰められたとのことでした。

 

あなたはどうでしょうか。あなたもイエス様を捜しておられますか。どのように捜しておられますか。どうぞ光があるうちにイエス様を信じてください。遅かったということがないように。神の恵みは、そのように求めるあなたの上に豊かに注がれています。その恵みを無駄にすることがありませんように。また、既にイエス様を信じた私たちも、どのように信じたのかを点検させていただきながら、この神の恵みに感謝し、その恵みの中にしっかりととどまり続ける者でありたいと思います。イエス様こそ「わたしはある」という方なのです。

ヨハネの福音書8章12~20節「わたしは世の光です」

きょうは「わたしは世の光です」と言われたイエスの言葉から学びたいと思います。皆さんは、「もしも、光がなかったら」と考えたことがありますか。そうなったら、何も見えず、私たちはこの世界で、何が起こっているかを知ることができません。同様に、私たちの人生に霊的な光がなければ、私たちは、自分の人生の目的やその意味を知ることができず、闇の中を生きることになってしまいます。

 

見ることも、聞くことも、話すこもできなかったヘレン・ケラーは、その三重苦を乗り越え、多くの人々の「希望の光」となりました。彼女はこう言っています。「目に太陽が見えるか見えないかは問題ではありません。大切なのは、心に光をもつことです。」私たちは、心に光をもっているでしょうか。その光は、どこから来るのでしょうか。それはどんな光なのでしょうか。きょうはこの光であるキリストについてご一緒に考えたいと思います。

 

Ⅰ.世の光であられるキリスト(12)

 

まず、イエスは世の光であられるということについてです。12節をご覧ください。

「イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」

 

「イエスは再び人々に語られた」という言葉遣いは、その前の話とぴったり調和しています。イエスは、2節で宮に入られた時、集まって来た人々に教え始めました。その時、姦淫の現場で捕らえられた女が主イエスの前に連れて来られたために、話を一時的に中断しなければなりませんでしたが、事件の決着もつき、告訴人も告訴された者も立ち去った後で、主イエスは教えを再開されました。ですから、その前の姦淫の現場で捕らえられた女の人がイエス様のもとに連れて来られたという話は、実際にあった話なのです。

 

イエスが再び語られたこととはどんなことでしょうか。ここには、「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」とあります。ヨハネの福音書には、「わたしは・・です」という宣言が7回出てきますが、この「わたしは世の光です」というのは、その2回目です。1回目は6章35節、あるいは6章48節に出てきました。「わたしはいのちのパンです」という宣言です。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」ここでは「わたしは世の光です。」と言われました。「わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」これはイエス様ご自身が約束のメシヤであるという宣言です。すなわち、イエスが救い主であられるということです。

 

イエス様はなぜこのように言われたのでしょうか。ある註解者によると、7章で仮庵の祭りについての言及がありましたが、その祭りの大いなる日に、イエスは立ってこう言われました。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水が流れ出るようになります。」(7:37-38)

それは、この祭りのクライマックスとも言うべき祭りの最終日のことでした。その終わりの大いなる日に、シロアムの池から運ばれた水を、祭司が祭壇に注ぐという儀式がありましたが、それともう一つの儀式がありました。それは、神殿の中をいっぱいに埋めた祭司や民が、手に持った燭台のろうそくに一斉に火を灯したのです。それはまさに真昼のように、エルサレムの隅々を照らしました。ユダヤ教のラビたちはそれを「神の栄光の光」と呼びました。こうした儀式を背景に、イエスはご自分こそまことの神の栄光の光であると宣言されたのだ、というのです。

 

皆さん、この世は真っ暗闇です。この「闇」というのは、神について全く知らないという意味です。どこに行っても神を知ることができません。私たちの周りにはスマホをはじめとした文明の機器がたくさんありますが、どこを探しても光を見ることができません。どんなにテレビやネットの情報を見ても、それらのものが私たちの人生を照らしてくれるでしょうか。いいえ、そうしたものはとても便利なものですが、むしろ私たちを暗闇の中へと放り投げてしまいます。どこを探しても、私たちの人生を照らす光を見つけることができません。

 

しかし、イエスはここで、「私は世の光です」と言われました。私たちは、この光であるイエスによって照らされるまで真理を見ることができません。それはこの前に記された内容を見てもわかります。律法学者やパリサイ人たちは、姦淫の現場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、律法では、こういう女を石打ちにするようにと命じていますが、あなたは何と言われますかと、イエスに詰め寄りました。するとイエス様は何と言われたでしょうか。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」と言われました。

すると、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、その女とイエス様だけが残されました。イエス様の光に照らされた時、彼らは自分も罪人であり、死ななければならない存在であることが示されたのです。同じように、私たちもイエス様によって照らしてただかなければ、神の真理を知ることはできないのです。イエスは世の光です。イエスに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。

 

しかもその光はただの光ではありません。ここには「いのちの光」とあります。この「いのちの光」とは、私たち人間が人間として生きていく上で必要な光であるということです。それは霊的光のことであって、いのちを与える光です。どんな人でもイエス・キリストを信じるまでは霊的に死んでいますが、イエス・キリストのもとに来て、キリストを信じる時、このいのちが与えられます。こうして、神が私たちのために用意しておられる本当の人生を歩むことができるのです。

 

以前、NHKテレビで、「無縁社会~新たなつながりを求めて~」という番組を放映していました。かつては、人と人とが何らかの絆によって結ばれていたのに、現代ではそれが失われて来ています。家庭において、職場において、その他の人間関係において、人と人の結びつきが薄れてきている。人間関係のストレスから、部屋に閉じこもって、インターネットのつながりだけで生きている人々、人生に行き詰って自殺へと追い詰められた人々が増えています。そのような無縁社会と向き合って、辿り着いたところがここでした、と紹介されたのが、和歌山県白浜にある教会でした。この教会の近くにある三段壁という自殺の名所があって、一年中自殺者が絶えません。そこでこの教会ではそこに看板を立て、自殺する前にまず教会に連絡するようにと呼びかけました。その結果、この20年間に905人の自殺志願者を止まらせました。

それでNHKが今のこの無縁社会の問題の解決を捜し求めるうちに辿り着いたのが、この白浜に立っている十字架を掲げた教会だったというのです。このことは、この社会と私たちの人生の真実を深く物語っている象徴的な出来事ではないかと思います。つまり、暗闇の中で苦悩する私たちは、光であられるキリストのもとに引き寄せ去られて初めて安らぎが与えられ、人間らしい交わりを取り戻すことができるということです。キリストこそこの世の光です。この方に従う者は決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。

 

もし光がなかったらどうなるでしょうか。先月、北海道で、猛烈な砂嵐が発生し、高速道路ではバスやトラックなどが絡む多重事故が相次ぎ、計14人以上がけがをしました。原因は何かというと、その砂嵐のため視界が不良であったことです。視界ゼで周りが全く見えませんでした。そうなりますと、車のライトも役に立ちません。前方にも後方にも全く光が届かず、砂嵐の暗闇に閉じ込められてしまったのです。かろうじて、車の左側に白いペンキで引かれた道路の端の境界線がかすかに見えました。そのわずかに見える境界線をたどりながら、恐る恐る前進していくのですが、前進していくことができません。後ろから車が来たら、追突されてしまうかもしれませんから。早くサービスエリヤに逃げ込むしかないのです。

 

それは私たちの人生も同じで、もし光がなかったら、どこを、どのように進んで行ったら良いかがわからないため倒れてしまうことになります。その光がイエス・キリストです。キリストに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。

 

私はイエス様を信じて40年になりますが、もし、イエス様と出会っていなかったらどうなっていただろうと思うことがあります。おそらく、とんでもない人生を送っていたのではないかと思います。しかし、そんな者がキリストと出会い、キリストの光が与えられたことで、キリストに支えられながら、光の中を歩むことができたのは、本当に感謝なことです。

 

Ⅱ.キリストの証言の確かさ(13-18)

 

しかし、どうしてキリストが光だと言えるのでしょうか。第二に、キリストの証言の確かさです。すると、イエスの言葉を聞いたパリサイ人たちがイエスのもとにやって来てこう言いました。13節、「あなたは自分で自分のことを証ししています。だから、あなたの証しは真実ではありません。」

 

どういうことでしょうか。「自分で自分のことを証ししています」とは、「自分で自分の証言をしている」ということです。そんな証言を誰が信用することができでしょうか。そのようなものを信用するのは難しいでしょう、というのです。旧約聖書にも、「自分の口でではなく、ほかの者にあなたをほめさせよ。自分の唇でではなく、よその人によって。」(箴言27:2)とあります。また、モーセの律法にも、「二人の証人または三人の証人の証言によって、死刑に処さなければならない。一人の証言で死刑に処してはならない。」(申命記17:6)と、証言が真実であると認められるためには2人ないし3人の証言が必要とされていました。ですから、自分で自分のことを証言することはできないと言ったのです。

 

それに対してイエスは、それが真実であることを証明するためこう言いました。14節です。

「イエスは彼らに答えられた。「たとえ、わたしが自分自身について証しをしても、わたしの証しは真実です。わたしは自分がどこから来たのか、また、どこへ行くのかを知っているのですから。しかしあなたがたは、わたしがどこから来て、どこへ行くのかを知りません。」

この「自分がどこから来たのか、また、どこへ行くのか」というのは、その人の本質を表しています。つまり、イエスはここでご自分が父なる神から来られた神ご自身であると言っているのです。イエス様が彼らのところに来られ、彼らの前に立っておられるのは、一般の預言者やありふれた証人としてではなく、神から遣わされたメシヤとしてここにいるのだ・・・・と。それゆえ、ご自分の証言が信頼できるものであると言えるのです。彼らにはそのことがわかりませんでした。彼らはイエスが神であり、神から遣わされた方であるということを信じることもできなかったからです。

 

そればかりではありません。15節から18節までにはこうあります。

「あなたがたは肉によってさばきますが、わたしはだれもさばきません。 たとえ、わたしがさばくとしても、わたしのさばきは真実です。わたしは一人ではなく、わたしとわたしを遣わした父がさばくからです。あなたがたの律法にも、二人の人による証しは真実であると書かれています。わたしは自分について証しする者です。またわたしを遣わした父が、わたしについて証ししておられます。」」

 

「あなたがたは肉によってさばきますが」の「肉」とは、下の欄外の説明にもあるように「人間的判断」のことです。つまり、彼らは人間的判断にしたがって、外見や、この世の基準で判断していました。ですから、正しく判断することができなくなっていたのです。彼らは、自分たちの目に見えるところによってキリストを判断していたために、イエスのうちにある神としてのご性質を見ることができませんでした。だって、ただの大工の息子ですから・・・。そんな者をだれがメシヤだなんて認めることができるでしょうか。でもそれは人間的な判断でしかありませんでした。彼らの思いは肉的で、偏見に満ちていました。だから、イエスを正しい目で見ることができなかったのです。

 

しかし、イエス様の本質はそうではありませんでした。主はだれをもさばきません。これはどういうことかというと、だれもさばかないということです。たとえ最悪の罪人であっても、罪に定めるようなことはなさいません。それは、やがて終わりの日にそのような時があるでしょうが、今はそうではありません。今はさばいたり、罪に定めるようなことはしないのです。なぜなら、イエスは人々を罪に定めるために来たのではなく、罪人を救うために来たからです。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」(ルカ2:17)

 

しかし、たとえイエス様がさばくとしても、そのさばきは正しいのです。なぜなら、イエス様は一人でさばかくのではなく、イエスを遣わされた父がさばかれるからです。これは、主が今は審判者としての務めを果たされなくても、それはそのような資格がないからではなく、むしろその反対で、もし主が誰かの行為や意見をさばくとしたら、それは完全に正確で信頼できるものであるということです。なぜなら、主はひとりではないからです。主と、主を遣わされた父なる神との間には、分かつことのできない結びつきがあるので、そのさばきは確かなものなのです。

 

17節を見てください。それは、先ほども申し上げたとおり万人が認めるモーセの律法の中でも言われていることです。このように二人の証言が信頼に値するものであることを認めるなら、イエスの証言は真実であると言えます。18節、なぜなら、イエスご自身が神から来られた神であり、その遣わされた父なる神の二人の証人がいるからです。これ以上、どんな証言が必要だと言うのでしょう。これで十分なはずです。

 

ですから、イエスを認めることは父なる神を認めることであり、イエスを認めないことは、父なる神をも認めないことです。イエス様こそこの世の光であり、私たちを闇の中から救うことができるいのちの光なのです。あなたはこのことを認めますか。

 

Ⅲ.キリストを通して神を知る(19-20)

 

第三のことは、だから私たちは、このキリストを通して神を知ることができるということです。19節をご覧ください。

「彼らはイエスに言った。「あなたの父はどこにいるのですか。」イエスは答えられた。「あなたがたは、わたしも、わたしの父も知りません。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知っていたでしょう。」」

すると彼らはイエスに言いました。「あなたの父はどこにいるのですか。」おそらく、この質問は本当に神を知りたいという願いからというよりも、イエスに対してあざけりを込めた皮肉な質問だったのではないかと思います。

 

それに対してイエスはこう言われました。19節、「あなたがたは、わたしも、わたしの父も知りません。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知っていたでしょう。」

結局のところ、彼らは神について全く知りませんでした。彼らは聖書から神について教える立場にありながら、その神のことを全く理解していなかったのです。なぜでしょうか。キリストを知らなかったからです。もし、キリストを知っていたなら、父なる神のことも知っていたでしょう。しかし、彼らはキリストを受け入れることができませんでした。それで、神のことを知らなかったのです。

 

どうしたら神を知ることができるのでしょうか。それは、「キリストを通して」です。キリストについて無知でありながら、神について何事かを正しく知っていると思っている人は、全くの思い違いをしています。その人が知っているのは聖書の神ではなく、自分自身が考えている神であり、想像の産物なる神にすぎません。私たちが神を知るために必要なのは、このキリストを通してなのです。キリストは、神を説き明かすために来られたひとり子の神であり、この神のみもとに私たちを導くために、その御業を成し遂げてくださった方です。キリストはこう言われました。

「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)

キリストが道であり、真理であり、いのちです。だれも、キリストを通してでなければ父のみもとに行くことはできないし、父を知ることもできないのです。

 

このことはとても重要なことです。ある人たちは、「神を信じることは簡単にできるけれども、イエス・キリストが出てくると分からなくなる」と言います。でも、神を信じたいと思うなら、このキリストから始めなければなりません。キリストを自分の罪からの救い主であると知るなら、その人は神を知ることができるからです。でもキリストを退けるなら、ここに出てくるパリサイ人のように、どんなに知識があっても、神について全く無知であり、結局のところ、闇の中を歩むことになるでしょう。しかし、最も貧しく、最も卑しい人であっても、キリストを信じる人は、神を知ることができるようになるのです。なぜなら、キリストこそこの世の光だからです。この的を逃さないようにしましょう。最近は、人間が考え出した心理学や哲学といった学問によってキリスト教信仰を持とうとする人が少なくないわけではありません。確かにその方がわかりやすいかもしれませんが、そうしたものはあくまでも人間が考え出したものにすぎず、人を滅びに導くものでしかありません。私たちが神を知るためには、聖書が示しているイエス・キリストを通してのみなのです。なぜなら、キリストこそこの世の光であられるからです。

 

皆さんは、おたまじゃくしがカエルになるのを観察したことがありますか。おたまじゃくしは、数珠つながりになった受精卵から50日してカエルになりますが、おたまじゃくしからカエルになる時に光を受けないと、おたまじゃくしはずっとおたまじゃくしのままで、やがて十分な呼吸ができなくなってしまい死んでいくのだそうです。

それは私たちにも言えることです。私たちも、イエス様からいのちの光を受けなければ、おたまじゃくしと同じように、罪の泥沼の中に沈んでしまうことになります。聖書は、私たちが罪の暗やみの中に沈んでいる状態を「彼らは知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、頑なな心のゆえに、神のいのちから遠く離れています。」(エペソ4:18)と言っています。しかし、私たちもイエスの光を受けるなら、暗やみから光に変わり、光の子になることができるのです。エペソ5:8ではこう言っています。「あなたがたは、以前は闇でしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもとして歩みなさい。」あなたもイエスの光を受けているでしょうか。その光の中を歩いているでしょうか。

 

ルイ十四世といえば、「朕は国家なり」と言ってフランスに君臨した王でした。彼が死んだ時、遺言にしたがって彼のからだは、もっとも豪華な衣にまとわれ、黄金に輝く棺におさめられ大聖堂のまん中に安置されました。聖堂内のすべてのともし火は消され、ただ一本の大きなろうそくだけが棺の上にともされて、黄金の棺を照らしていました。それは、フランスの王だけが、栄光に輝く王であることを象徴するためでした。やがて、ヨーロッパ全土から集まった王侯貴族が参列して、厳かに葬儀がはじめられましたが、その司式にあたった司教は、葬儀のなかばで、突然、棺の上に一本だけともされていた、そのともし火をかき消しました。司教は、真っ暗になった会堂にひびきわたる声で言いました。「ただ神のみ偉大なるかな。」この司教は、この世の権力を誇り、神を見失っていた王侯貴族たちに、神のみが栄光に輝く王であり、世界の光であること示したのです。「世の光」であるイエス・キリストを見失った社会は暗やみです。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」イエスの招きのことばに、今こそ従いましょう。

ヨハネの福音書8章1~11節「わたしもあなたを罪に定めない」

きょうからヨハネの福音書8章に入ります。きょうのテーマは、罪に定めないイエスです。「わたしもあなたを罪に定めない」というテーマでお話しします。11節に、「わたしもあなたにさばきを下さない。」とあります。新改訳改訂第3版ではこのところを、「わたしもあなたを罪に定めない。」と訳しています。きょうのタイトルは、この第3版の訳から取りました。このところから、罪に定めないイエスについてご一緒に学びたいと思います。

 

Ⅰ.姦淫の場で捕らえられた女(1-6)

 

まず、1節から6節までをご覧ください。

「イエスはオリーブ山に行かれた。そして朝早く、イエスは再び宮に入られた。人々はみな、みもとに寄って来た。イエスは腰を下ろして、彼らに教え始められた。すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。」

 

きょうの箇所は7章の続きになっていますが、7章53節から8章11節までは括弧で閉じられています。それは下の欄外にあるように、古い写本のほとんどがこの部分を欠いているからです。それで古くからこの箇所の信憑性について議論されてきましたが、これが主イエス・キリストの出来事として本当にあったということについては議論の余地がありません。

 

さて、この箇所は7章の続きであると言いましたが、7章には主イエスが仮庵の祭りにエルサレムに行かれ、そこで人々と議論され、力強い御言葉を語られたことが記されてあります。その日一日が終わると、人々はそれぞれ自分の家へと帰って行きました。その翌日のことです。イエス様は朝早く再びエルサレムに来られ、エルサレムの神殿に入られました。そこは神殿の庭であったようです。すると、人々がみもとに近寄って来たので、腰を下ろして、彼らに教え始められました。

するとそこに、律法学者とパリサイ人が、姦淫の現場で捕らえたというひとりの女性を連れて来て、彼らの真中に立たせ、イエスにこう言いました。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」

彼らはなぜこのように言ったのでしょうか。そんなことくらいは聞かなくてもわかることだったでしょう。なぜなら、彼らは律法の専門家なのですから。律法には何とありますか。律法の中心である十戒の中にはこうあります。

「姦淫してはならない」(出エジプト記20:14)

そのような罪を犯した場合にどうなるのかについては、次のように定められていま

した。 「夫のある女と寝ている男が見つかった場合は、その女と寝ていた男もその女も、

二人とも死ななければならない。こうして、あなたはイスラエルの中からその悪い者を除き去りなさい。夫のある女と寝ている男が見つかった場合は、その女と寝ていた男もその女も、ふたりとも死ななければならない。」(申命記22:22)

つまり、姦淫の罪に対する刑罰は、死刑だったのです。これが律法で定められていたことでした。であれば、そのようにすればよかったのではないですか。それなのに、なぜわざわざイエスに質問したのでしょうか。それは、彼らの魂胆が別のところにあったからです。6節にあります。

「彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。」

彼らの魂胆は、イエスを告発することでした。もしもイエスがモーセの律法のとおりにこの女性を死刑にするようにと言ったなら、二つの点で問題がありました。一つはローマ帝国で定めていた法律を無視するということでした。ですから、ローマへの反逆罪で訴えられることになります。当時、ユダヤ人には死刑に対する決定権が与えられていませんでした。それはローマ帝国にありました。ですからその権利を無視して勝手に行使したということになれば、ローマに反逆したとみなされても仕方ありません。もう一つのことは、イエス日ごろから罪人たちの友であると言っておられました。なのに、もしこの女性を死刑にするようにと言えば、自分が行っておられたことに矛盾することになります。イエスは、取税人や売春婦に救いの手を差し伸べるために来たと自分で言っておられたのですから。

逆に、もしもイエスが「赦すべきだ」と言うものなら、モーセによって定められた律法を破る者として訴えられることになります。ですから、どちらに転んでも分が悪かったのです。これは彼らにとってイエスを訴えるための格好の材料であったわけです。彼らは初めからこの女性のことなどどうでも良かったのです。もし本当にこのことで知りたかったのであれば、この女性だけでなく男性も連れてきたことでしょう。なぜなら、律法には男も女も、ふたりとも死ななければならないとあるのですから。女だけを連れて来て、「さあ、どうする?」と言うこと自体が間違っていました。

 

それに対してイエス様はどうされたでしょうか。6節後半にはこうあります。

「だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。」

イエス様は、そんな彼らの問いかけには一言も答えられず、ただ身をかがめて、指で地面に何かを書いておられました。何を書いておられたのでしょうか。わかりません。そのことについて聖書は何も言っていませんから。大切なことは、何を書いていたかということではなく、彼らの質問には何も答えなかったということです。なぜでしょうか。答える必要がなかったからです。ただ本文を見ると、「指で」という言葉が強調されています。神がその指で書かれたものとは何でしょうか。十戒です。出エジプト記31章18節にこうあります。

「こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えたとき、さとしの板を二枚、すなわち神の指で書き記された石の板をモーセにお授けになった。」

十戒は、神がその指で書き記したものです。その十戒には何と書かれてありますか。その中にはこの「姦淫してはならない」という言葉が含まれていました。つまり、イエス様はその内容をよくご存知であられたということです。律法学者やパリサイ人たちは、その十戒をさらに細分化して613もの規定を作りましたが、それは人間が作り出したものにすぎず、人を闇の中へと突き落とすものでした。しかし、イエス様は律法を定められた方であって、その律法を意味することがどんなことであるのかを完全にご存知であられました。ですから、私たちに必要なのは律法に何と書かれてあるかということではなく、この律法を定められた方であるイエス様に従うことなのです。それなしに律法に従おうとすると、ここで律法学者やパリサイ人たちが陥った過ちに陥ることになってしまいます。

 

Ⅱ.あなたがたの中で罪のない者が(7-9)

 

するとどうなったでしょうか。7節から9節までをご覧ください。

「しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」そしてイエスは、再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられた。彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。」

 

しかし、彼らが問い続けて止めなかったので、イエスは身を起こして言われました。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」

このイエス様の言葉は、ちょうど静かな湖面に石を投げたときの波紋のように広がっていきました。大声を張り上げていた人々が次第に黙り始めたのです。それは思いがけないことばでした。彼らは、姦淫の女にひたすら注目していました。こいつは悪い女だ。とんでもないことをした。姦淫の罪は十戒でも禁じられている罪で、極刑に値する。それなのに、イエスは人々の心の流れをまったく思いがけないところへと導かました。この女に石を投げつけるがよい。しかし、一つだけ条件がある。それは、あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさいということです。人をさばくことができる人は、自らも罪のない者でなければなりません。自分の心にやましさがあるのにほかの人をさばくことなどできるでしょうか。できません。多くの場合自分が罪を持っているにもかかわらずそれを隠し、良心の呵責をごまかして平気で人をさばこうとしますが、実際にはそんなことができる人などだれもいないのです。だれにでも罪があるからです。つまり、イエス様は、その非難や怒りの流れを、自分自身に向き会うようにとされたのです。姦淫の女を見つめることから、自分自身を見つめることへと方向転換を迫られたのです。

 

これはとても大切なことです。人はほかの人の罪はよく見えても、自分の罪は見えないものです。それでこの時の律法学者はパリサイ人たちのように、この女はとんでもないことをした!と責め立てますが、自分の胸に手を置いてよく考えると、自分もこの人と同じ罪人にすぎず、五十歩百歩だということに気付かされるでしょう。

主イエスは言われました。「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。」(マタイ7:15)

梁とは裁縫で使う針のことではありません。家の柱と柱を結ぶ梁のことです。私たちは自分の中にそんな大きな梁があるのにもかかわらず、兄弟の目の中にある小さなちりを取り除こうとします。しかし、まず自分の中にある大きな梁を取り除かなければなりません。そうすればよく見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。

 

すると、どのようになったでしょうか。9節をご覧ください。「彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。」

年長者から始まりというのは、年を重ねて自分の姿がよくわかるようになっていたということでしょうか。彼らは、イエス様のひとことで、自分を振り返り、良心の呵責を感じたのでしょう。みな、その場から立ち去ってしまいました。まさに、聖書に「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。」(へブル4:12)とあるとおりです。

 

しかし、それは何も年長者だけの問題ではありません。ここには、「年長者から始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。」とあります。結局のところ、老人も若者も、男性も女性も、強い者も弱い者も、地位の高い者も低い者も、一人残らず、自分にはこの女性を罰する資格がないと思い知らされ、その場から去って行ったのです。

 

私たちが人生でキリストに出会うということは、こういうことなのではないでしょうか。思ってもみなかったような視点で物事を見ることを教えられるということです。神殿に集まった人々は、キリストに教えられなければ、あのような視点を持つことはできませんでした。今、ここにいる私たちも同じです。この視点がなければ、私たちもついつい高慢になって、自らを滅ぼし、人をも滅ぼしかねません。ですから、こうして日曜日に教会に集い、主の御言葉を通してキリストに出会うということは大切なことなのです。いつも、キリストに教えられていなければ、私たちは、物事を正しく見ることができないばかりか、そのことにさえ気付かないことが多いからです。自分では見えていると思っていてもそれはただ自分でそう思っているだけにすぎず、実際はそうでないというのがほとんどなのです。それは、9章41 節で、主が「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」とおっしゃっていることからもわかります。

私たちが見えるようになるためにはまず、キリストのもとに来ることです。そうすれば、見えるようになります。キリストに出会うことによって初めて、私にも罪があるということがわかるようになるからです。

 

Ⅲ.わたしもあなたを罪に定めない(10-11)

 

その結果どのようになったでしょうか。10節と11節をご覧ください。

「イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」

 

この女をさばくことができる人はだれもいませんでした。すると主は、「わたしもあなたにさばきを下さない。」と言われました。ここにいた人々の中で、人々を罪に定める権威を持っていたのはイエス様だけでしたが、そのイエス様が、彼女に罪の赦しを宣言されたのです。人の罪をさばく権威のない者が人をさばこうとし、人をさばく権威を持っておられた方はさばこうとされませんでした。ここに一つのコントラストが見られます。律法学者やパリサイ人たちは、誰からも一番よく見えるところにこの女性をひきずり出してその罪をさらしましたが、イエス様は、女性に背を向けて、彼女の罪を見ないようにされたのです。

 

どうしてでしょうか。それは、イエス様が彼女の罪を軽く扱っておられたからではありません。それは主がここで「これからは、決して罪を犯してはなりません」と言われたことからもわかります。主が彼女を罪に定めなかったのは彼女の罪を背負われ、彼女が受けなければならない刑罰を代わりに受けることによって彼女を赦してくださるからです。これが、イエス様が私たちに対して取ってくださることです。

 

彼女を訴える者がひとりもいなくなった時、彼女がその場から立ち去って行かなかったのはそのためです。もう誰もいなくなったのですから、彼女もその場から立ち去って良かったのにそうしませんでした。そこから一歩も動こうとしなかった。それは動けなかったからです。すべてをご存知であられる主が、こんなに罪深い者を赦してくださる。その主の愛に釘づけにされてしまったのです。主は、自分の罪を正直に認める者に対してこのように愛をもって接しくださいます。いや、主の御前に立つ時、私たちは自分の罪を正直に認めないわけにはいきません。でもその時主は、「わたしもあなたにさばきを下さない。これからは、決して罪を犯してはなりません。」と言ってくださるのです。

 

これが私たちの人生においてどうしても必要なものです。私たちが本当に生かされるために必要なのは、このイエス様の赦しの宣告なのです。聖書には、「罪から来る報酬は死である」と書かれています。人は皆、罪のために裁かれ罰せられなければならない存在ですが、イエス様は、私たちひとりひとりの罪を背負って、私たちの代わりに十字架に架かって、いっさいの罰を受けてくださいました。だからこそ、イエス様は、私たちに赦しを宣言することができるのです。私たちを罪に定めることのできる唯一の方が、私たちの罪を背負って自らを罪に定め、十字架についてくださったのです。イエス様の赦しは、ご自分のいのちと引き替えにもたらされるものなのです。

 

その赦しを、イエス様は、この女性にも宣言なさいました。そして、続けてこう言われました。「今からは決して罪を犯してはなりません。」それは、「元の虚しい生活に戻ることのないように注意して歩んで生きなさい」ということです。罪赦された者の生き方は、もはや、過去に縛られて生きる生き方ではありません。罪を赦してくださったイエス様とともに前に向かって歩んでいくものです。もちろんそこには困難があり、葛藤があり、罪の誘惑があり、いろいろなことが襲ってきます。でも、こんな私たちを愛し、赦してくださり、いつもともにいてくださるというイエス様の赦しの宣言が、私たちを生かしてくれるのです。

 

全米でベストセラーとなった本に、「アーミッシュの赦し」(亜紀書房)という本があります。2006年10月、ペンシルベニア州のアーミッシュの学校で、男が押し入り、女生徒5人を射殺し、さらに5人が重傷を負わせますが、犯人のチャールズ・カール・ロバーツは犯行後自殺しました。アーミッシュのコミュニティでこのような事件が起こったということに全米が大きな衝撃を受けましたが、その後に起こったことは、世間にもっと大きな衝撃をもたらしました。

何と被害者のアーミッシュの家族が、犯人の家族を赦したのです。事件が発生したその日に、アーミッシュの人々がすぐさま犯人の家族を訪ねて「あなたたちには何も悪い感情を持っていませんから」「私たちはあなたを赦します」と伝えたのです。

彼らはこう考えました。犯人の遺族(妻エイミーと子供たち)は自分たち以上に事件の犠牲者である。つまり、夫(父)を失った上に、プライバシーも暴かれて自分の家族が凶行を行なったという世間の非難の中を生きて行かなければならないということは、どんなに辛いことかと思ったのです。

事件の二日後に、被害者の遺族がいきなりレポーターからマイクを突きつけられて「犯人の家族に怒りの気持ちはありますか」と訊ねられた際に、「いいえ」とこたえました。

「もう赦しているのですか?」 「ええ、心のなかでは」 「どうしたら赦せるんですか?」 「神のお導きです」 「あの人たち(ロバーツの未亡人と子供たち)がこの土地にとどまってくれるといいんですが。友達は大勢いるし、支援もいっぱい得られる。」

殺された何人かの子の親たちは、ロバーツ家の人たちを娘の葬儀に招待しました。さらに人々を驚かせたのは、土曜日にジョージタウンメソジスト教会で行なわれたロバーツの埋葬に75人の参列者がありましたが、その半分以上がアーミッシュの人たちだったことです。

犯人のロバーツの葬儀の前日か前々日、我が子を埋葬したばかりのアーミッシュの親たちも何人かが墓地へ出向いて、エイミー(犯人の妻)にお悔やみを言い、抱擁しました。葬儀屋は、その感動的な瞬間をこう回想しています。

「殺されたアーミッシュの家族が墓地に来て、エイミー・ロバーツにお悔やみを言い、赦しを与えているところを見たんですが、あの瞬間は決して忘れられないですね。奇跡を見ているんじゃないかと思いましたよ。」

この「奇跡」をまぢかで見た犯人のロバーツの家族の一人は、こう言っています。 「35人から40人ぐらいのアーミッシュが来て、私たちの手を握りしめ、涙を流しました。それからエイミーと子供たちを抱きしめ、恨みも憎しみもないと言って、赦してくれました。どうしたらあんなふうになれるんでしょう。」(80~81pp)

 

どうしたらあんなふうになれるんでしょうか。なれません。これは奇跡なんです。アーミッシュの奇跡です。その奇跡を、主は私たちにももたらしてくださいました。私たちは神に背を向けながら自分勝手に生きているような者ですが、そんな罪深い私たちに、「私もあなたを罪に定めない」と宣言しておられるのです。人は赦されなければ生きていくことができません。この赦しの宣言を受け取りましょう。そして、この赦しの恵みに生かしていただきましょう。その恵みに溢れながら、前に向かって、イエス様とともに歩んでいく者でありたいと思います。

ヨハネの福音書7章40~53節「キリストに出会って」

ヨハネの福音書から学んでいます。きょうは、7章の最後の部分から「キリストに出会って」というタイトルでお話ししたいと思います。あなたは、キリストに出会ってどのように応答しますか、ということです。

 

Ⅰ.群衆たちの反応(40-44)

 

まず、40~44節をご覧ください。

「このことばを聞いて、群衆の中には、「この方は、確かにあの預言者だ」と言う人たちがいた。別の人たちは「この方はキリストだ」と言った。しかし、このように言う人たちもいた。「キリストはガリラヤから出るだろうか。キリストはダビデの子孫から、ダビデがいた村、ベツレヘムから出ると、聖書は言っているではないか。」こうして、イエスのことで群衆の間に分裂が生じた。彼らの中にはイエスを捕らえたいと思う人たちもいたが、だれもイエスに手をかける者はいなかった。」

 

「このことばを聞いて」とは、その前でイエスが語られたことばを聞いてということです。イエスは仮庵の祭りを祝うために、ガリラヤからエルサレムに上られました。その祭りは一週間ほど続きました。その祭りの終わりの大いなる日に、イエスは人々に向かって、こう叫ばれました。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(37-38)  すると、群衆の中に、さまざまな反応が起こりました。ある人たちは、「この方は、確かにあの預言者だ」と言い、別の人たちは、「この方はキリストだ」と言いました。また、このように言う人たちもいました。「キリストはガリラヤから出るだろうか。キリストはダビデの子孫から、ダビデがいた村、ベツレヘムから出ると、聖書は言っているではないか。」

 

まず、「この方は、確かにあの預言者だ」と言う人たちがいました。「あの預言者」とは、申命記18章15節に預言されていたモーセのような預言者のことで、来るべきメシヤのことを指しています。つまり、救い主を意味していました。それはモーセがイスラエルの民をエジプトから救い出したように、罪の奴隷として捕らえられている人たちを救い出す方であるという意味です。ですから申命記の中には、「あなたがたはその人に聞き従わなければならない。」とあるのです。その方こそメシヤ、救い主であられるからです。

 

また、別の人たちは「この方はキリストだ」と言いました。「キリスト」とは、「油注がれた者」という意味で、メシヤのことを指しています。ですから、「この方はキリストです」というのは、「確かにあの預言者だ」と言うのと、本質的には同じです。彼らはイエスのことばを聞いた時、イエスについてのうわさであるとか、だれか他の人から聞いたことばとかによって判断したのではなく、イエスが語られたことばそのものによってそのように受け止めたのです。

 

しかし、群衆の別の者たちはそうではありませんでした。彼らは「キリストはガリラヤから出るだろうか」と言いました。なぜなら、キリスト(メシヤ)はダビデの子孫であって、ダビデの町ベツレヘムから出ると、聖書にあるからです。彼らが言っていることはある意味で正しいです。旧約聖書のミカ書5章2節にはそのように預言されてありますから。でも彼らはイエスがダビデの町ベツレヘムで生まれたという事実を知りませんでした。

 

こうして、イエスのことで群衆たちの間に分裂が生じました。昔も今も、イエスは誰かということについて、人々の意見は分かれます。イエス・キリストの福音は、人々に一致をもたらすのではなく、このように分裂をもたらすのです。真理とは、そのような性質を持っています。いったい何が問題なのでしょうか。真理が問題なのではありません。その真理をどのように受け止めるのかという受け止め方に問題があるのです。彼らは偏見を持っていました。その偏見によって、真理がゆがめられていたために、正しく判断することができないのです。

 

ある註解者は、こうした群衆たちの中にメシヤに対する考え方の違いがあったことを指摘しています。つまり、やがて来るべきメシヤはダビデの王位を継ぐ政治的解放者として、イスラエルをローマの支配の支配から救い出し、イスラエル民族を中心とした世界を統一する王として期待していましたが、イエスはそのような王としてではなく、彼らの罪を赦し、悪魔とその支配から救い出すたましいの救い主として来られました。そうした違いがあったのです。そして、こうした誤解が真実を見る目というものを曇らせていたのです。

 

これは、私たちにもよくあることではないでしょうか。よくキリスト教についてこのように言う人たちがいます。「キリスト教は西洋の宗教じゃないか。日本には日本の宗教があるんだから、それを信じていればいいんだ。」どう思いますか?キリスト教は西洋の宗教であるという先入観です。でも私たちがキリストを信じるのは、それが西洋の宗教だからとか、日本の宗教だからということではなく、それが真理だからです。それは私たちが学校で数学や物理を学ぶのと同じで、私たちが数学や物理を学ぶのはそれが西洋から来たものだからではなく、真理そのものだからです。それに日本には日本の宗教があると言う人の多くが信じている仏教は、もともと外来の宗教であって、日本古来のものではありません。ですから、こうした誤解なり偏見なりといったものが取り去られない限り、本当のものを知ることはできないのです。

Ⅱ.役人たちと祭司長やパリサイ人たち(45-49)

 

このような偏見を持っていたのは、一般の群衆だけではありませんでした。もっとひどかったのは、祭司長やパリサイ人たちでした。45節から49節までをご覧ください。

「さて、祭司長たちとパリサイ人たちは、下役たちが自分たちのところに戻って来たとき、彼らに言った。「なぜあの人を連れて来なかったのか。」下役たちは答えた。「これまで、あの人のように話した人はいませんでした。」そこで、パリサイ人たちは答えた。「おまえたちまで惑わされているのか。議員やパリサイ人の中で、だれかイエスを信じた者がいたか。それにしても、律法を知らないこの群衆はのろわれている。」」

 

祭司長やパリサイ人たちは、役人たちが戻って来た時、彼らが「これまで、あの人のように話した人はいませんでした。」とありのままを告げると、「おまえたちまで惑わされているのか」と言いました。律法を知らない愚かな者だけが、イエスのことばに惑われている・・・と。その証拠に、議員やパリサイ人たちの中で、イエスを信じた者が誰かいるか。だれもいないだろう。それだけお前たちは惑わされているのだ。そう言ったのです。つまり、彼らはこの世の権力を笠に着て、役人たちを威圧したのです。いったいこの違いはどこから来たのでしょうか。キリストに対する受け止め方が、役人たちと祭司長やパリサイ人たちとでは大きく異なっていました。一方は肯定的であり、他方は否定的です。同じキリストとその語られた言葉に対して、このように人によって違いが生じたのです。

 

役人たちは、キリストに対してあまり偏見を持っていませんでした。祭司長やパリサイ人たちは、キリストを捕らえて殺そうというたくらみをもっていたので、「なぜあの人を連れて来なかったのか。」と問い詰めましたが、役人たちはそのような意図を持ってはいなかったので、「これまで、あの人のように話した人はいませんでした。」とありのままに答えることができたのです。イエスの言葉を聞くなら、これが自然の反応でしょう。

 

私は最近車を運転する時「聴く聖書」というCDを聞いています。新約聖書を朗読したCDです。マタイの福音書からずっと聴いていると、イエス様の言葉はすごいなぁと、改めて感じます。だれかこんなふうに話すことができる人がいるだろうか。どんなに考えても、人間には考え付かない言葉です。ですから、役人たちが、「これまで、あの人のように話した人はいませんでした。」と答えたのはもっともなことでしょう。彼らはほかの人がどう言うかということよりも、イエスが実際に語る言葉を聞いて、率直にそう思ったのです。この役人たちがイエスを信じたかどうかはわかりませんが、彼らは、自分の前にいる人物を間違いなく正しく見ることができる可能性を持っていました。それは、イエスに対する祭司長やパリサイ人のような偏見やたくらみがなかったからだです。それゆえに、イエスという存在を曇りのない目で見ることができたのです。

 

一方の祭司長やパリサイ人たちは、全く異なっていました。彼らはキリストをありのままに見ることができませんでした。それは彼らの中にねたみがあったからです。マルコの福音書15章10節を見ると、このように記されています。 「ピラトは、祭司長たちがねたみからイエスを引き渡したことを、知っていたのである。」

もしねたみをもってイエスを見るならば、イエスがどんなに素晴らしい方であっても、そのように受け止めることができなくなってしまいます。いいえ、素晴らしければ素晴らしいほど、かえってその思いは膨らんでいくでしょう。まさに、こうしたねたみが、イエスと向きあった時に、彼らの目を曇らせていたのです。

 

あなたはどうでしょうか。役人たちのように全く曇りのない目で、イエスを見ているでしょうか。それとも、祭司長やパリサイたちのように、ねたみや偏見に囚われて見ているということはないでしょうか。人と人との関係、そして神と人との関係は、いつでもそのことが問われていると思います。ねたみや偏見といった曇りのない目でイエスを見る者でありたいと思います。

 

Ⅲ.ニコデモの信仰(50-53)

 

最後に、そのような中にあっても勇気をもってイエスを告白したニコデモという人の姿を見たいと思います。50節から53節までをご覧ください。

「彼らのうちの一人で、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。 「私たちの律法は、まず本人から話を聞き、その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、さばくことをしないのではないか。」彼らはニコデモに答えて言った。「あなたもガリラヤの出なのか。よく調べなさい。ガリラヤから預言者は起こらないことが分かるだろう。」〔人々はそれぞれ家に帰って行った。〕

 

「彼らのうちで」とは、ユダヤ教の議員やパリサイ人たちのうちで、ということです。彼らは、いわばユダヤ人の社会におけるエリートたちでした。その中の一人で、以前イエスのもとに来たことのあるニコデモが、こう言いました。

「私たちの律法は、まず本人から話を聞き、その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、さばくことをしないのではないか。」

 

ニコデモは、ここで主イエスを弁護しています。覚えていらっしゃいますか。彼は、以前イエスのもとに夜こっそりとやって来た人物です。なぜ夜こっそりとイエスのもとにやって来たんですか?人から見られたくなかったからです。そのような立場にある自分がイエスのもとに行ったということが知られたら、大変なことになるでしょう。でも、どうしても知りたかったのです。人はどうしたら神の国を見ることができるのか、どうしたら神の国に入ることができるのか。

すると、イエスから「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。」と言われました。社会的な地位や名誉、立場が邪魔をしていたのか、ニコデモは霊的なことがあまりよくわかりませんでした。それほど鋭い人ではなかったのです。それでも真理を求め、自分の悩みをごまかすことをせず、イエスのもとにやって来ました。そして、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と言われ、神の救いについて、真理について、もっと深く求めるようになり、信仰が芽生えました。

しかし、48節の「議員やパリサイ人たちの中で、だれかイエスを信じた者がいたか。」という言葉から考えると、この時点ではまだ公に信仰を告白するまでには至っていなかったようです。しかし、彼のイエスに対する信仰は、確実に成長していました。彼は、「私たちの律法は、まず本人から話を聞き、その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、さばくことをしないのではないか。」と問題提起をしたのです。

 

「私たちの律法」とは、ユダヤ教の律法のこと、つまり、モーセ五書のことです。その律法には、まず本人から話を聞き、その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、さばくことをしないのではないか、なのに、何も聞かないで、何も知らないのに、イエスを殺そうというのはおかしいのではないか、と声を上げたのです。これはとても勇気のいることだったと思います。

 

それに対して、祭司長やパリサイ人たちはニコデモに言いました。「あなたもガリラヤの出なのか。よく調べなさい。ガリラヤから預言者は起こらないことが分かるだろう。」「ガリラヤの出」とは、「愚か者」という意味があります。あなたもガリラヤの出なのか、ガリラヤの出身なのか、そう言ってニコデモを軽蔑したのです。

 

信仰を告白するとか、公に表明することが得策ではないと思われる時、あなたはどのような態度を取るでしょうか。それでもニコデモのように勇気をもって、信仰の一歩を踏み出しますか。それとも、長い物に巻かれて黙り込んでしまうでしょうか。最初の一歩を踏み出すことには恐れも伴うでしょう。しかし、そうした一歩を踏み出すと、次の一歩がより易しくなります。この一歩が彼の信仰を大きく飛躍させました。彼はやがてイエスが十字架に付けられて、私たちの罪の贖いのために死なれた時、イエスの12弟子のほとんどが逃げて行ったにもかかわらず、アリマタヤのヨセフと一緒にイエスの遺体の下げ渡しを願い出ました。ヨハネの福音書19章38~41節にはこうあります。

「その後で、イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取り降ろすことをピラトに願い出た。ピラトは許可を与えた。そこで彼はやって来て、イエスのからだを取り降ろした。以前、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬と沈香を混ぜ合わせたものを、百リトラほど持ってやって来た。彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、香料と一緒に亜麻布で巻いた。イエスが十字架につけられた場所には園があり、そこに、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。」

彼は、目覚ましい信仰生活ではなかったかもしれませんが、最終的にそこに辿り着いたのです。

 

このニコデモの姿に、私たちは自分の信仰を見ます。六日間、神に背を向けた社会で過ごし、時には周囲のさまざまな圧迫に耐えながら、かろうじて信仰を保っているような者ですが、そして、そんな姿に情けない思いを抱きながら、毎週の礼拝に集ってくることが少なくありません。けれども、そんな私たちもニコデモのような信仰に辿り着くことができるのです。それは、主が私たちの信仰の戦いと苦悩をご存知であられ、受け入れておられるからです。この箇所を見る限り、聖書はニコデモの信仰の不徹底さを責めることを一切せず、むしろ受け入れていることがわかります。それは主がそこに信仰の芽をご覧になっておられたからです。私たちも今はか細い信仰かもしれませんが、勇気をもってその一歩を踏み出すとき、やがて大きな信仰の飛躍を遂げていくことになるのです。

 

アメリカの名門プリンストン大学の大学院に入学したコートニー・エリスというクリスチャンの証です。

彼は教会の中や友人たちの間では、自分がクリスチャンであることを大胆に証ししていましたが、大学では、沈黙を保ちました。なぜなら、大学院では、院生たちがイエスの御名をあざけるのを何度も聞いていたので、自分の評判が落ちるのではないかと恐れていたからです。大学院生のほとんどが、イエスについて無知であったり、中には、今まで一度もクリスチャンに出会ったことがないという人たちもいて、クリスチャンは教養のない、批判的な人たちだと思っていたのです。

時が経つにつれて、彼は罪責感を感じるようになりました。こんなに基本的な点で主に忠実でないとしたら、他の点でどのように神に仕えることができるだろうかと思うと、自分の信仰にはがゆさを感じていたのです。神は彼に、証の機会を与えてくれても、彼は恐れのために行動に移すことができなかったのです。

ある日、ひとりの院生がクラスの中で、「あなたはクリスチャンか」と尋ねてきました。彼は、どのように答えたらいいか決めなければなりませんでした。

そして、深呼吸をして、神の助けによって、震える声で言いました。

「そうだ」

質問をした院生は不思議そうな顔をしながら彼の顔を見つめて言いました。

「驚いたわ。クリスチャンというと、サーカスに出てくるような変人ばかりかと思っていたのに、あなたの場合そうじゃないわね。頭もいいし。」

それは彼にとって小さなステップでありましたが、大きな進歩でもありました。彼はこう思いました。神は自分たちに、自分の評価はどうなるかを気にするなと語っておられると。真理に立つ者は、必ず勝利できるからです。

 

最後に53 節をご覧ください。「人々はそれぞれ家に帰って行った。」

キリストに出会った人々は、それぞれ家に帰ってどうしたのでしょうか。聖書には何も記されていませんが、私なりに想像そうぞうするに、たとえば、役人は家に帰りその日にあったことを奥さんや家族の誰かに話したかもしれません。しかし、次の日からは忙しさや雑事に追われ、キリストとの出会いを忘れてしまったかもしれませんね。

祭司長やパリサイ人はどうでしょう。彼らは家に帰り、キリストに対するねたみがエスカレートしていったかもしれません。今のようにラインといったものはありませんでしたが仲間と連絡を取り合って、さらにキリストを追い詰めていく策を相談したかもしれません。

では、ニコデモはどうだったでしょうか。彼はひとり思い悩んでいたかもしれません。どうしたら良いだろうか・・と。しかし、行きつ戻りつしながらも、彼の心はキリストへと引き寄せられていったのではないでしょうか

 

あなたはどうでしょうか。それぞれがいろいろな反応を示しました。あなたはどのように応答しますか。これから私たちもそれぞれ自分の家に帰って行きます。帰って行ってどうなるでしょうか。キリストと出会いその言葉に感動しても、家に帰って瞬間に冷めていくでしょうか。あるいは、いくらキリストと出会っても自分の思い通りにならないということで嫌になり、キリストと縁を切ろうとするでしょうか。それとも、その出会いを大切にして、キリストへの愛がますます深めていくのでしょうか。

 

このニコデモのように、勇気をもって信仰の一歩を踏み出しましょう。それは小さな一歩かもしれませんが、やがて大きな結果へとつながっていくのです。

ヨハネの福音書7章37~39節「生ける水の川」

きょうは、「生ける水の川」というタイトルでお話しします。「生ける水の川」とは、39節にあるように、イエスを信じる者が受けることになる御霊のことです。イエスを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、この生ける水の川が流れ出るようになるのです。これが、私たちのいのちです。創世記を見ると、そもそも人は神のかたちに創造されました(創世記1:27)。この「神のかたち」とは、「霊」のことを意味しています。神は霊ですから、その神と交わりを持つことができるように、人は霊を持つものとして造られたのです。これが人のいのちです。ですから、私たちは神に祈り、神を礼拝するとき、「ああ、生きている」という感じることができるのです。これがないと、私たちはいったい何のために生きているのかもわからず、ただ目先のものに振り回されながら生きることになります。それは本当に空しいことです。人は神の御霊を受けることで生きることができ、それは生ける水の川のように、その人の心の底から流れ出るようになるのです。

どうしたらその生ける水を受けることができるのでしょうか。きょうはこのことについて、聖書のみことばから学びたいと思います。

 

Ⅰ.だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい(37)

 

まず37節をご覧ください。

「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」

 

この祭りとは「仮庵の祭り」です。イエス様は、兄弟たちがこの祭りに上って行った後で、ご自身も、表立ってではなく、いわば内密に上って行かれました(10)。そして、祭りも半ばになったころ、宮に上って教え始められました(14)。それから36節まで、ずっとユダヤ人たちとの間に議論が続きました。そして、この祭りの大いなる日に、イエスは立ちあがり、大きな声で言われたのです。この「祭りの大いなる日」とは、仮庵の祭りの最終日、つまり7日目のことです。この日は、祭りのクライマックスの日でした。それまでの6日間、祭司たちは行列を作ってシロアムの池まで出かけて行き、そこで黄金の器に水を汲んで神殿に戻ってくると、祭壇の周りを1度だけ回って水を注ぎました。しかし、祭りの最終日の7日目は、昔エリコの城壁の周りを7回回ったように、祭壇の周りを7回周り「ホザナ」と歌いながら祭壇に水を注ぎました。それは、主が雨を降らせ、豊かな収穫を与えてくださったことに感謝すると同時に、翌年の豊かな雨を祈願するためでした。その祭りが最高潮に達した時に、イエスは立ち上がって、大きな声でこう言われたのです。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」

前回の時にも申し上げたように、主が大声で語られるというのは非常に珍しいことです。これはそれだけ重要なことであることを表しています。それが「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」ということでした。これはどういうことでしょうか。

 

こ意味は一つしかありません。それはだれでも魂が渇いている人がいるなら、その渇きを癒すためにキリストのもとに来て飲みなさいということです。主がこのように言われたのは、この仮庵の祭りの時、シロアムの池から水が汲まれ、それが神殿に運ばれ祭壇に注がれるというタイミングでのことでした。主はかつてサマリヤの女に「決して渇くことにない永遠のいのちへの水」について語られましたが、その時井戸の水から話を進めて行ったように、この時もシロアムの池から汲まれてくる水を見て、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」と言われたのです。もちろん、イエス様がここで言及しておられるのは飲み水のことではなく、「霊的な水」のことです。ですから、ここで「渇いているなら」というのは、のどが渇いていることではなく心が渇いているなら、という意味です。人々の関心は、水と収穫、すなわち物質的なものに向けられていましたが、イエス様の関心は、霊的な水、霊的な渇きを満たすことだったのです。

 

では、心が渇くとはどういうことでしょうか。私たちはみな欲望を持っています。欲望それ時代は悪いものではありません。しかし、欲望が満たされればそれで幸福になれるかというとそうではありません。お金にしても、物にしても、地位にしても、名誉にしても、そうしたものを手に入れることで、一時的な満足は得られるかもしれませんが、それで本当の満足は得られないのです。

 

映画「風と共に去りぬ」の主演男優であったクラーク・ゲーブルは、ある朝、むなしく疲れ果て、自分のベッドで自殺死体として見つかりました。彼はオスカー賞を何度も取りました。幸せを求めて5回も結婚しました。彼にはお金もあり、恋もあり、名誉もあり、人気もありました。私たちから見れば、彼は自分が求めたこの世のすべての物を手にしたかのように見えましたが、そんな彼が、なぜ自殺しなければならなかったのでしょうか。飢え渇いたその魂を、この世のもので満たすことはできなかったのです。

 

私たち人間は、神のかたちにかたどって造られていますから、神のみもとに帰るまでは、決して満ち足りることはないのです。神のみもとから離れ罪の中にある人間は、自分の魂が満足するどころか、不安と苦悩でおののいています。罪の中にある人間は、その罪の赦しを経験することなしに魂の渇きが癒されることはないのです。

 

ですから、イエス様は「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」と言われたのです。ここで注目したいことは、主が招いておられる人はどのような人であるかということです。それは「だれでも渇いている人」です。つまり、魂が渇いている人です。それは自分の罪を自覚し、その罪の赦しを求め、魂の平安を切望している人のことです。渇いていなければだれも飲みたいと思いません。空腹でなければ食べたいとも思いません。自分が罪人であると自覚し、その罪から救われたいと本気願う人だけが、そのためにどうしたら良いのか求めるようになるのです。

 

もうすぐペンテコステですが、あのペンテコステの日にペテロの説教を聞いた人々はどうだったでしょうか。彼らは心を刺され、ペテロとほかの使徒たちにこう言いました。

「兄弟たち、私たちはどうしたら良いでしょうか。」(使徒2:37)

これが渇いている人のことばです。また、パウロとシラスがピリピの牢獄に入れられた時、真夜中に、神を賛美していたとき、突然大きな地震が起こり牢獄の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部開いて、囚人たちの鎖が外れてしまいました。目を覚ました看守は、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした時、パウロは大声でこう叫びました。「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」すると看守は、震えながらパウロとシラスの前にひれ伏してこう言いました。

「先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか。」(使徒16:30)

これが渇いた人のことばです。それでパウロとシラスが、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)と言うと、彼と彼の家族の者全員が、その言葉を受け入れてバプテスマを受けました。

このような渇きが、彼らをそこからの解放、すなわち、魂の救いへと向かわせたのです。「渇く」ということがなければ、満たされることはありません。

 

私たちが救われるために必要な第一のことは、私たちが渇くということです。私たちは罪を犯した、価値のない、貧しい罪人であるということを知ることです。私たちは失われた者であることを知るまでは、救いへの道を歩み出すことはしないからです。天国への第一歩は、私たちは地獄に行っても当然であるということを、はっきりと自覚することにほかなりません。罪の意識は、時として自分が救いようもない人間であるという思いを抱かせますが、実は、これが尊いことなのです。なぜなら、それこそ救いに向かう第一歩となるからです。私たちに律法が与えられたのはそのためでした。神の完全な律法が与えられそれと照らし合わせてみてはじめて、自分がどんなに罪深い人間であるかを知り、救いを求めるようになるでしょう。

イエス様は山上の説教の中でこう言われました。「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」(マタイ5:6)どういう人が満ち足りるようになるのでしょうか。義に飢え渇く者です。そういう人は満ち足りるようになるのです。

 

あなたは、義に飢え渇いていますか。もし飢え渇いているなら、イエスのもとに来てください。そして、イエスが与えてくださる水を飲んでください。キリストのもとに来て飲むとは、単純にキリストを信じるということです。キリストがあなたの罪を赦す力をもっておられ、あなたの魂の渇きを完全に癒すことができる方であると信じて、キリストにあなたのすべてをゆだねることなのです。これを「信仰」と言います。キリストに「来る」とは、キリストを信じることであり、キリストを「信じる」とは、キリストのもとに「来る」ことにほかなりません。これは実に単純なことです。あまりにも単純すぎるので本当でないかのように思えるかもしれませんが、これが本当のことです。これ以外に救いはありません。クリスチャンは、いつの時代でも、この信仰によってキリストのもとに来て、キリストの泉から飲み、罪から解放された人たちです。心から罪の意識を感じ、その罪から赦されること、つまり義に飢え渇いて、キリストのもとに行くことは、天国に至る大切なステップなのです。しかし、あまりにも多くの人が、このステップを踏もうとしません。このことを考える人が少ないのです。そして信じる人はもっと少ないというのは、本当に悲しいことです。

 

Ⅱ.生ける水の川が流れ出るようになる(38)

 

次に、38節をご覧ください。ここには、キリストのもとに来て飲むとどうなるのか、その結果が記されてあります。

「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」

 

キリストのもとに来て飲むとは、キリストを信じることだと申し上げましたが、ここでははっきりとそのように言われています。「わたしを信じる者は・・・」と。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

これは、もちろん比喩的な意味で用いられていますが、二つの意味があります。一つは、キリストを信じる者は、心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになるということ、つまり、魂の必要が豊かに満たされるということです。そしてもう一つは、そのように自分の魂の必要が満たされるというだけでなく、ほかの人を潤す祝福の泉となるということです。

 

まず、キリストを信じる者は、自分の魂の必要が豊かに満たされるということですが、これはキリストを信じて生きている多くのクリスチャンが実感していることではないでしょうか。キリストを信じるまでは、それがどのようなものなのかを想像することすらできませんでした。しかしキリストを信じたことで、魂の平安と喜び、希望や慰めを知りました。

 

既に召されましたがクリスチャン作家の三浦綾子さんは、直腸がんの手術を受ける前日、心臓病もあるので、ひょっとすると手術中に召されるかもしれないと思い、遺書を書くことにしました。ところがその時、人知を超えた不思議な平安に包まれ、死の恐れから全く解放されたそうです。

 

第二次世界大戦時、ナチスの強制収容所には、定員の三倍近くの囚人が詰め込まれていました。しかも最上階のベッドは天上にくっつきそうだったので、そこに座ることさえできませんでした。そのような環境の中であらゆる自由を奪われた若い婦人たちが、腹這いになり、神の導きについて話し合っていました。すると、その中の一人の姉妹が、このように言ったそうです。

「神様が私をここに導かれたのは、決して間違いであったとは思わない。私はここで初めて、本当に祈ることを学びました。ここでの精神的、肉体的な苦痛は私に、その人がすべてをイエスさまに明け渡さない限り事態は解決されないことを教えました。これまで私は、うわべでは敬虔そうな信仰生活を送ってきましたが、私の生活の中にイエス様を締め出していた部分があったのです。でもイエス様は今、私の生活のあらゆる部分で王となっておられます。私ははじめて、神の平安と愛で満たされる喜びを知ったのです。」

こうした試練に会うと神を呪ってもおかしくないのに、むしろ、そうした中ではじめて神の平安を知ったと言える、これは人間の思いをはるかに超えた思いではないでしょうか。

 

主イエスを知って、主イエスを信じたことによって、こうした魂の平安と慰めが与えられ、生きる希望が与えられるのです。時として私たちは、自分自身に失望することがありますが、キリストに失望することはありません。キリストを信じたことで与えられた神との平安、喜び、希望、慰めは、この世の何物とも取り変えることはできないからです。それは聖書の御言葉を読み、そこにある神の恵みの確かさを理解すればするほどそうなります。皆さんはどうでしょうか。まさかあのエサウのように、パンとレンズ豆の煮物と交換するような愚かなことはしたいとは思わないでしょう。

 

長い間世界的な伝道者ビリー・グラハムの伝道集会で特別賛美を歌ってきたBEVERLY SHEAは、その体験をこう歌いました。

「キリストには代えられません 世の宝も また富も

この御方がわたしに代わって死んだゆえです。

世の楽しみよされ、世の誉れよ行け

キリストには代えられません 世の何物も」

(新聖歌428「キリスト」には代えられません)

 

これがクリスチャンの実感でしょう。キリストを知れば知るほど、その思いは深くなっていきます。キリストを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水が流れ出るようになるのです。

 

しかし、そればかりではありません。キリストを信じる者は、自分の魂の必要が満たされるだけでなく、ほかの人を潤す祝福の泉となります。たとえば、パウロは、コロサイ人への手紙の中でこのように告白しています。

「私たちはこのキリストを宣べ伝え、あらゆる知恵をもって、すべての人を諭し、すべての人を教えています。すべての人を、キリストにあって成熟した者として立たせるためです。」(コロサイ1:28)

クリスチャンをキリストにある成人として立たせることはどんなにか労苦の伴う働きだったことでしょう。しかし、彼は、自分のうちに働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しました。その結果、こうした彼の奮闘は決して無駄にはならず、その恵みは多くのクリスチャンに伝わり、やがて世界中へと広がって行きました。それは彼の心の奥底だけでなく、彼の周りの人たちに、そして全世界に溢れ出たのです。

 

先ほども申し上げたクリスチャンの作家に三浦綾子さんは、信仰をテーマとした小説をたくさん残されましたが、それは今も世界中で伝えられ、「三浦綾子読書会」となって広がっています。三浦綾子さんの心の奥底に流れた生ける水の川は、溢れ出て、多くの人の魂を満たす水となっているのです。

 

あなたもキリストのもとに行き、その水を飲むなら、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになるのです。

 

Ⅲ.イエスを信じる者が受ける御霊(39)

 

いったいどうしてこのようなことが起こるのでしょうか。ヨハネは39節で、そのことを説明して次のように言っています。

「イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。」

 

これは、ヨハネの福音書によく出てくる説明的論評と世バルものです。それがどういうことなのかを説明しているのです。そして、ここには、イエスを信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである、とあります。しかし、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのです。つまり、この生ける水の川とは、この御霊のことを指して言われていたのです。御霊とは神の御霊、聖霊のことです。当時の人々は、旧約聖書における聖霊の働きしか知りませんでした。それはある一部の人に、しかも必要な期間しか与えられませんでしたが、イエスが約束された聖霊は、イエスの十字架と復活、そして昇天の出来事以降、イエスを信じるすべての人に注がるというものでした。それがペンテコステの出来事です。イエス・キリストを信じる者には、だれにでもこの御霊が注がれ、その人の心の奥底に生ける水の川となって流れ出るようになったのです。

 

それがどれほどすごいものなのかを、旧約の預言者エゼキエルはこのように預言しました。

「彼は私に言った。「この水は東の地域に流れて行き、アラバに下って海に入る。海に注ぎ込まれると、そこの水は良くなる。この川が流れて行くどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入るところでは、すべてのものが生きる。漁師たちは、そのほとりに立つ。エン・ゲディからエン・エグライムまでが網を干す場所になる。そこの魚は大海の魚のように、種類が非常に多くなる。」(エゼキエル47:8-10)

 

「この川が入るところでは、すべてのものが生きる」。これはエゼキエルという預言者が語った言葉です。エゼキエルは、非常に困難な時代を生きた預言者でした。彼はユダヤからバビロンに捕囚として連れて行かれた人々の中にいた人物です。そして彼が捕囚の地において、預言者として活動していた期間中に、彼の故郷であるエルサレムが最終的に破壊されてしまうという、悲惨な出来事が起こるのです。  なぜ、生ける真の神に仕えている神の民イスラエルがこのような苦しみに遭わなければならないのか。神からの答えは、イスラエルが神から離れて罪を犯したからだ、ということでした。人々は真の神に頼って生きることをせず、偶像礼拝に陥っていたのです。そのために、神の臨在がエルサレムから去ってしまいました。

 

神が去った後のエルサレムは悲惨でした。異邦人によって滅ぼされ、なすがままにされ、ついに神殿さえも破壊されてしまうことになります。けれども、エゼキエルの見た幻は、そこで終わりませんでした。どん底に落ちたイスラエルに、再び希望が語られるのです。廃墟になったエルサレムの街が再建され、神殿が再び建設されていくのです。

そして、彼は思いもかけない光景を目にすることになります。なんと、神殿の中から、しかもその中心部分である聖所から、水が流れ出ているのです。しかも、その流れが川となり、その川は遠くへ行けば行くほど水かさが増して、最後には渡ることのできないほどの大河になります。この川は、普通の川ではありません。超自然的な川です。なぜなら、聖所から流れ出ているからです。聖所というのは、神様がおられる場所です。つまり、このエゼキエルが見た川というのは、神様ご自身から流れ出ていた川でした。

そして、この川が流れ出るところはどのようになるでしょうか。これが先ほど読んだ御言葉です。神殿から流れ出た川は、そこから東向きに流れて行って、やがてアラバに下り、海に入ります。この「海」というのは、エルサレムから東に向かって行くとある海、そうです、「死海」のことを指しています。「死海」とは「死の海」と書くように、魚が生きることができません。死海の水は、普通の海の水の六倍もの塩分の濃度を持っているために、普通、海に住んでいるような魚でさえも生きることができないのです。けれども、この神殿から流れて来た水がこの死海に注ぎ込むとその水が一変して、この死んだ海が生き物で満ちるようになり、そこに多くの魚がいるようになります。なんとすばらしい驚くべき光景でしょうか。

 

いったいこのエゼキエルが見た幻は、何を意味していたのでしょうか。それは、神の神殿から流れ出るいのちの水です。この水が流れ出ると、死んだようなこの世が生きるものとなるということです。それは、聖霊のことです。聖霊が流れ出ると、死んでいるようなあなたが生きるようになります。実に、教会とはこのいのちの水が溢れている所です。なぜなら、神の聖霊を受けたクリスチャンが集まっている所だからです。その教会からいのちの川の水が流れ出て、この世のすべてのものを生かすようになっていくのです。何とすばらしい約束でしょうか。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

あなたは、心に渇きを覚えてキリストのみもとに来て、キリストが与える水を飲みましたか。キリストを信じるなら、あなたの心にも聖霊という生ける水の川が流れ出るようになります。それはあなたの周りの人々をも潤していく力となるのです。

 

キリストを信じたのに、心の奥底から、生ける水が流れているという実感がないという方がいますか。そのような方は、もしかしたら神とのパイプラインが詰まっているのかもしれません。そのような時には、詰まりを取り除かなければなりません。それを悔い改めると言います。障害物があれば、真摯に神に対して悔い改めなければなりません。

「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての不義きよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)

そして、渇いた心をもって主のもとに来て飲んでください。あなたのすべてを主に明け渡し、主の御言葉に従った信仰の歩みを始めてください。主に従うことが生ける水の川が流れ出るようになる秘訣です。

あなたの信仰のパイプラインは大丈夫ですか。神と直結しているでしょうか。接触が不十分であったり、詰まったり、曲がったり、細かったりしていませんか。十分に点検して聖霊に満たされた者とさせて頂きましょう。そうすれば、あなたの心の奥底からも、生ける水の川が流れ出るようになるのです。