ヨハネの福音書7章25~36節「今が恵みの時、今が救いの日」

きょうは、ヨハネ7章25節から36節までの箇所から「今が恵みの時、今は救いの日」というタイトルでお話しします。伝道者の書3章1節には、「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みには時がある。」とありますが、その時を見逃すことがないようにということです。

 

Ⅰ.キリストはどこから来たのか(25-29)

 

まず25節から29節までをご覧ください。27節までをお読みします。

「さて、エルサレムのある人たちは、こう言い始めた。「この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか。見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。もしかしたら議員たちは、この人がキリストであると、本当に認めたのではないか。しかし、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。キリストが来られるときには、どこから来るのかだれも知らないはずだ。」

 

仮庵の祭りもすでに半ばになったころ、主イエスが宮に上って教えておられると、ユダヤ人たちは驚いて言いました。

「この人は正規に学んだこともないのに、どうして学問があるのか、どうして聖書のことをそんなに知っているのか。」

するとイエス様は、ご自分が神から出たので、神のことばを語るのだと言いました。でも、彼らはそれを受け入れることができませんでした。24節にあるように、うわべで人をさばいていたからです。

 

すると、エルサレムのある人たちは、「この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか。見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。もしかしたら議員たちは、この人がキリストであると、本当に認めたのではないか。」と言いました。

「彼ら」とはユダヤ人の指導者たちのことです。イエス様があまりにも毅然とした態度で語っていたので、ユダヤ人の指導者たちは、この人がメシヤであると認めたのではないかと思ったのです。

 

しかし、彼らはそれを打ち消すかのように言いました。27節です。「しかし、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。キリストが来られるときには、どこから来るのかだれも知らないはずだ。」

彼らも主が語られた言葉を聞いて、もしかしたらこの人がキリスト(メシヤ)ではないかと思いましたが、すぐにそれを否定したのです。なぜなら、彼らはイエスがどこから来たのかを知っていたからです。イエス様はどこから来ましたか?彼らが知っていたのは、イエスがガリラヤのナザレから来たということでした。イエスはそこで大工の仕事をしていました。彼らはそのことを知っていたのです。でもキリスト(メシヤ)はナザレから出るのではありません。ユダヤのベツレヘムです。聖書の預言にそう書かれてあるからです。ですから、イエスがメシヤであるはずがないと思ったのです。

確かに彼らはメシヤがどこから来るのかを知っていました。けれども、イエスがどこから来たのかを正確には知りませんでした。ただガリラヤのナザレで、大工をしていたということは知っていましたが、ユダヤのベツレヘムで生まれたことを知らなかったのです。また、イエス様の母マリヤも父ヨセフもダビデの家系であったことすら知りませんでした。ユダヤ人は系図や家系、血筋を大事にする民族ですから、よく調べさえすればそんなことくらいすぐにわかったことなのに、それさえもしませんでした。なぜでしょうか。彼らは最初から偏見でこり固まっていたからです。ガリラヤのナザレの出身であるイエスが、メシヤであるはずがないと最初から決めつけていたのです。

 

これは今日も同じです。一般に人々は、イエス様を偏見の目で見ています。イエスは偉大な人であったかもしれないが神様であるはずがないとか、釈迦や孔子と同じだと決めつけているのです。しかし釈迦や孔子とは明らかに違う点があります。釈迦や孔子は自分たちが神であるとか、神から遣わされて来たとは一言も言っていないのに、イエス様はそのように明言されたことです。何よりも、宗教はアヘンだと思っています。

 

28節と29節をご覧ください。

「イエスは宮で教えていたとき、大きな声で言われた。「あなたがたはわたしを知っており、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わされた方は真実です。その方を、あなたがたは知りません。わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わされたからです。」

 

ここにはイエス様が「大きな声で言われた」とあります。何ですか、大きな声で言われたとは・・?「大きな声で言われた」というのは、それがとても重要であったことを意味しています。確かに彼らは人間的な意味でイエス様がどこから来たかを知っていたかもしれませんが、霊的な意味では全く知りませんでした。つまり、イエスが父なる神から遣わされたメシヤであるということには目が閉ざされていて、理解していなかったのです。

 

人間はどこまでも頑なで、盲目です。ちょっとでも調べれさえすればすぐにわかるものをそれさえもしないので、ただナザレに住んでいたというだけで、大工のせがれだというだけで、ただの人だと決めつけていたのです。メシヤはユダヤのベツレヘムで生まれるということを知っていましたが、その預言を思い出すことさえしなかったのです。人間の記憶というのは本当に曖昧ですね。時として自分の思いに左右されて忘れてしまうことがあります。「そんなはずがない」と思っていると、記憶がどこかへ飛んで行ってしまうのです。そして意図的に盲目になっている人も少なくありません。聖書の中に明らかに示されている事実や教えすら見ようとしません。ですから、信じるようにと促されていてもそれを受け入れることができないのです。意図的に知ろうとしないからです。信じたくないことは信じません。したがって、真理を求めて聖書を読もうとしたり、話を聞こうとさえもしません。まして、そのことを真剣に考えたり、捜し求めようともしません。これは、ひどい霊の病です。この社会に最も広く蔓延している病の一つであります。見ようとしなければわからないのは当たり前ではないでしょうか。見ようとしない人ほど盲目な人はいません。ここに出てくる人たちは、こうした病に侵されていたのです。彼らの偏見は、こうした思いから生まれていたのです。

 

Ⅱ.イエスの時はまだ来ていない(30-31)

 

次に、30節と31節をご覧ください。ここには、「そこで人々はイエスを捕らえようとしたが、だれもイエスに手をかける者はいなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。群衆のうちにはイエスを信じる人が多くいて、「キリストが来られるとき、この方がなさったよりも多くのしるしを行うだろうか」と言い合った。自分から語る人は自分の栄誉を求めます。しかし、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。」とあります。

 

イエスが、ご自分が天の父から出た者であり、その方によって遣わされたと言うと、人々はイエスを捕らえようとしましたが、だれもイエスに手をかける者はいませんでした。イエスの時がまだ来ていなかったからです。この「イエスの時」については、7章6節でも説明しましたが、それはイエスが十字架につけられる時のことです。十字架につけられ、永遠の贖いの死を遂げられる時のことです。その時がまだ来ていなかったので、だれもイエスに手をかけることができなかったのです。それは、このように言うこともできるでしょう。そこにすべてを支配している神の御手があったので、彼らは手を出すことができなかったのである・・・と。

 

そうです、神のお許しがなければ、何一つ起こりません。主はこう言われました。

「二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。」(マタイ10:29-30)

1アサリオンというのは、1デナリの16分の1に相当する金額です。1デナリとは1日分の給料に相当しますから、仮に1日の給料が5,000円だとすれば、1アサリオンというのは大体300円くらいになります。二羽で300円ですから一羽だと150円です。それはあまり価値がないことを意味しています。そんな雀の一羽でさえも、父の許しがなければ地に落ちることはありません。いいですね、そんな雀の一羽でも、地に落ちることはない。天の神様がちゃんと見守っていてくださいますから、天の父のお許しがなければ決して地に落ちることはありません。

 

また、髪の毛一本一本に至るまですべて数えられています。あなたは、自分の髪の毛の数を数えたことがありますか。数えられません、あまりにも多くて。でも、天の父は、私たちの髪の毛さえも、すべて数えておられます。そこまであなたのことを気に留めておられるのです。ですから、私たちの人生のすべては、この天の神様の御手の中にあり、この方の許しがなければ何一つ起こりません。つまり、私たちの人生に起こるすべての出来事には、深い意味があるということです。

 

先日、あのマラソンの有森裕子選手や高橋尚子選手を育てた小出義雄監督が召されましたが、小出監督は常々、有森選手にこう話していたそうです。「なんで故障したんだろうと思うな。物事には意味のないものはない。どんなことが起きても「せっかく」と思え。どれだけ故障しても、それだけ意味がある」と。物事には意味のないものはありません。どんなことが起きても「せっかく」と思う。どれだけ故障しても、それだけ意味がある。すばらしい言葉です。なぜそう思うのか。私はこの小出監督の言葉にこう付け加えたい。「そこに神の許しと計画があるのだから。」

「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)

 

私たちの人生には「どうして・・・」と思うことが度々起こりますが、これらどれ一つとっても、神がよしとされない限り決して起こりません。もしこれらのことが起こるとしたら、それは神が深い計画を持って許しておられるからなのです。そういう意味ではどんなことが起きても「せっかく」と思うというのは大切なことです。どれだけ困難があっても、そこにはちゃんと意味があるのですから。

 

それは主が十字架で死なれたことにおいても言えることです。主が十字架で死なれた表面的にはユダヤ人たちのねたみによるものでしたが、本当の理由は、神が深いご計画をもってそのように導いておられたからです。それは、私たちの罪の身代わりとなられるためでした。ただ、まだその時が来ていませんでした。ですから、主が十字架につけられたのはそれを避けることができなかったからではなく、それこそが神のみこころであったからです。神の許しがなければ誰も主に手をかけることはできませんでした。彼らがしたことはすべて父なる神が許されたことで、神の永遠のご計画によって定められていたことだったのです。

 

このことを思う時、私たちの人生に起こるすべてのことも、深い神のご計画によるものであることがわかります。あなたが今ここに置かれているのも、今のパートナーと結婚したのも決して偶然ではなく、そこに神の御手があったからです。私はよく聞かれることがあります。「あなたはどうしてパットさんと結婚されたんですか」わかりません。なんで結婚したのか。地球上に女性も男性も約37億人もいるのに、その中からたった一人の相手ですよ。これはすごい確率でしょう。奇跡です。たまたま出会ったというのであればすごいことです。決して偶然ではありません。そこには、すべてを支配しておられる方の御手があったのです。そこに神の御手があると信じて、すべてをこの神にゆだねることができるかどうかです。

 

詩篇31篇15節には、「私の時は御手の中にあります。私を救い出してください。敵の手から、追い迫る者の手から。」とあります。皆さん、私の時は御手の中にあります。今この時も、この境遇にあるのも、このように導かれていることも、すべて神の導きによるものであると信じて、この方にすべてをおゆだねしようではありませんか。

 

Ⅲ.その時を逃さないように(32-36)

 

第三のことは、その時を逃さないようにということです。32節から36節までをご覧ください。

「パリサイ人たちは、群衆がイエスについて、このようなことを小声で話しているのを耳にした。それで祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスを捕らえようとして下役たちを遣わした。そこで、イエスは言われた。「もう少しの間、わたしはあなたがたとともにいて、それから、わたしを遣わされた方のもとに行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません。」すると、ユダヤ人たちは互いに言った。「私たちには見つからないとは、あの人はどこへ行くつもりなのか。まさか、ギリシア人の中に離散している人々のところに行って、ギリシア人を教えるつもりではあるまい。『あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません』とあの人が言ったこのことばは、どういう意味だろうか。」

 

それでも、群衆のうちにはイエスを信じる人たちが多くいて、彼らが、「キリストが来られるとき、この方がなさったよりも多くのしるしを行うだろうか」と言っているのを耳にした祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスを捕らえようとして、役人たちを遣わしました。すると主は、こう言われました。33節と34節です。

「もう少しの間、わたしはあなたがたとともにいて、それから、わたしを遣わされた方のもとに行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません。」

 

どういうことでしょうか?それを聞いたユダヤ人たちは、首をかしげました。「あなたがたはわたしを捜すが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません。」とはどういうことか、「まさか、ギリシア人たちの中に離散している人たちのところに行って、ギリシア人を教えるつもりではあるまい。」

彼らには、主が言われたことがどういうことかわかりませんでした。主がここで言われたことは、ご自身が十字架で死なれ、三日目によみがえられてから天に行かれることを預言していたのですが、彼らにはそのことがわからなかったのです。彼らがこのことに気付いたのは、ずっと後になってからのことでした。それは主が復活して天に昇って行かれてからのことです。その時になってやって思い出すことができました。でも、その時にはもう遅いのです。

 

このように、真理を見出した時にはもう遅いということがあります。私たちは、自分がやって来たことが間違いであったとか、愚かなことであったと気づかされることがありますが、その時にはもう遅いということがあります。それでもまだ人生の扉が開かれている内はやり直すこともできますが、その扉が閉ざされてからではどうすることもできないということがあるのです。

 

たとえば、創世記にノアの方舟の話があります。主はノアに仰せられました。「あなたとあなたの全家は、箱舟に入りなさい。」(創世記7:1)あと七日たつと、主は地の上に四十日四十夜、雨を降らせ、主が造られたすべての生けるものを大地から消し去るからです。それでノアは、彼の妻と彼の息子たち、息子たちの三人の妻とともに、箱舟に入りました。また、いのちの息のあるすべての肉なるものが、二匹ずつノアのいる箱舟の中に入りました。すると、「主は彼のうしろの戸を閉ざされた。」(7:16)それで、箱舟に入らなかったすべての息のあるもので、乾いた地の上にいたものは、みな死んでしまいました。ただノアと、彼とともに箱舟にいたものたちだけが生き残ったのです。うしろの戸が閉ざされてからでは遅いのです。その前に箱舟に入らなければなりません。

 

これは、ちょうどともしびを持って花婿を迎えに出る、十人の娘のようです。

「そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を持って来ていなかった。賢い娘たちは自分のともしびと一緒に、入れ物に油を入れて持っていた。花婿が来るのが遅くなったので、娘たちはみな眠くなり寝入ってしまった。ところが夜中になって、『さあ、花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで娘たちはみな起きて、自分のともしびを整えた。愚かな娘たちは賢い娘たちに言った。『私たちのともしびが消えそうなので、あなたがたの油を分けてください。』しかし、賢い娘たちは答えた。『いいえ、分けてあげるにはとても足りません。それより、店に行って自分の分を買ってください。』そこで娘たちが買いに行くと、その間に花婿が来た。用意ができていた娘たちは彼と一緒に婚礼の祝宴に入り、戸が閉じられた。その後で残りの娘たちも来て、『ご主人様、ご主人様、開けてください』と言った。しかし、主人は答えた。『まことに、あなたがたに言います。私はあなたがたを知りません。』(マタイ25:1~12)

 

その時になって求めても、時すでに遅しということがあります。五人の愚かな娘たちは、ともしびは持っていましたが、油は持っていませんでした。それで、「花婿だ」と声かしたので迎えに出ようと思ったら、何と夜中だったので迎えに出ることができませんでした。それで賢い娘たちに油を分けてもらおうとしましたが、分けてやるだけの分はありませんと断られ、仕方なく店に買いに行くと、その間に花婿が来てしまいました。油の用意ができていた花嫁たちは花婿と一緒に婚礼の祝宴に入ることができましたが、用意ができていなかった娘たちは、婚礼の祝宴の中に入れてもらうことができなかったのです。

 

「備えあれば憂いなし」ということわざがあります。日頃からしっかりと準備を整えておくと、万が一のことが起こっても慌てなくてすみます。あなたはどうですか。油の用意はできていますか。「いや、まだだべ」と用意するのを怠っていると、やがてその時が来たとき、その中に入ることができなくなってしまいます。それがいつなのかは誰にもわかりません。ですから、それがいつやって来てもよいようにしっかりと備えておかなければなりません。箴言にはこうあります。

「そのとき、わたしを呼んでも、わたしは答えない。わたしを捜し求めても、見出すことはできない。」(箴言1:28)

 

私たちは、このユダヤ人たちのように主イエスを救い主として求めた時にはすでに手遅れだったということがないように注意しなければなりません。

「見よ。今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)

今が恵みの時、今が救いの日です。この恵みの時である今、イエス・キリストを私たちの罪からの救い主として信じて、永遠の御国に備える者でありたいと思います。

 

またこれはイエス様を信じるということだけに限らず、私たちの生活のすべてにおいて言えることです。日々の忙しさにかまけて、本当にしなければならないことが後回しになっているということはないでしょうか。イエス様はマルタにこう言われました。

「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」(ルカ10:41-42)

どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。あなたは、その必要な一つのことを大切にしているでしょうか。

 

あるいは、イエス様を第一にしていると思っていても、いつの間にか違ったことに心が奪われていることも少なくありません。そのことにさえ気づいていないこともあります。そのような時には悔い改めて、主に立ち帰らなければなりません。そのためにもいつも主に向かい、主のみこころが何であるのか、何が良いことで完全であるのかをわきまえしるために、心の一新によって自分を変えなければなりません。遅すぎた!ということがないうちに。

 

「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:7-8)

あなたが主を求めるなら、必ず与えられます。探すなら、見つかります。たたくなら、開かれます。ただ遅すぎることがないように。そのとき、主を呼んでも、主は答えてくれません。主を捜し求めても、見出すことはできません。それは今でしょ。今が恵みの時、今が救いの日なのです。

ヨハネの福音書7章14~24節「正しい判断を下すために」

ヨハネの福音書7章から学んでおります。きょうは、正しい判断を下すにはどうしたら良いかというテーマでお話ししたいと思います。私たちは、いつも「どうしたら良いか」で悩みます。自分では正しい判断を下したつもりでも、必ずしもそれが正しくなかったという場合がたくさんあります。むしろ、そうでない場合の方が多いかもしれません。正しく判断することは、それほど難しいことです。いったいどうしたら正しい判断を下すことができるのでしょうか。きょうは、このことについて主の言葉から学びたいと思います。

 

Ⅰ.神のみこころを行おうと願うこと(14-17)

 

まず、14節から17節までをご覧ください。

「祭りもすでに半ばになったころ、イエスは宮に上って教え始められた。ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は学んだこともないのに、どうして学問があるのか。」そこで、イエスは彼らに答えられた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです。だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります。」

 

この祭りとは仮庵の祭りです。この祭りがすでに半ばになったころ、イエスは宮に上って教え始められました。すると、ユダヤ人たちは驚いて言いました。「この人は学んだこともないのに、どうして学問があるのか」。一般的に牧師が神学校で聖書を学ぶようにユダヤ教の指導者たちはラビの学校で学びますが、イエスはそこで正規に学んだことがないのに聖書をよく知っているのに驚いて、彼らは不思議に思ったのです。

 

それに対してイエスは、こう言われました。16節です。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです。だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります。」

イエス様の教えは、当時のラビたちの教えとは全く違うものでした。ラビたちの教えというのは、自分たちの教えを裏付けるために、有名なラビたちの言葉を引用するというものでしたが、イエス様の教えはそのような権威に裏付けられたものではなく、いわばオリジナルのものというか全く新しいものでした。しかもそれは、イエスを遣わされた方である神のみこころに適った教えでした。つまりそれは伝統に縛られた権威主義的なものではなく、また、自分の独自の考えに基づいたものでもなく、神のみこころに基づいたものであったということです。ユダヤ人の指導者たちは、そのことが理解できませんでした。ですから、自分たちの教えとは違う、全く新しい教えを聞いた時、「この人は学んだこともないのに、どうして学問があるのか。」と驚いたのです。

 

いったいどうしたら、それが神から出たものであるかがわかるのでしょうか。17節にこうあります。「だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります。」

そうです、だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人は、それが神から出た教えなのか、そうではないかがはっきりわかるのです。私たちが何かの教えを聞いた時、それが神からのものであるのかそうでないのかを判断するためには、それを聞いた私たちが神のみこころを行おうとしているかどうかで決まります。確かに、何が真理なのかを見分けることは難しいことですが、いつも神のみこころを行いたいと願っているなら、必ず見分けることができるのです。私たちがなかなか正しい判断を下すことができないのは、正しい情報を持っていないということもありますが、それよりも私たちの中に自分に都合のよいものは受け入れ、そうでないものは排除しようという働きがあるからです。でも、そうでなく、いつも神のみこころを行いたいと願っているなら、たとえそれが自分にとって都合が悪いことでも受け入れ、正しく判別することができるのです。

 

またここには、「神のみこころを行おうとするなら」とあるように、ただ神のみこころを知ろうとするだけでなく、それを行おうとすることが大切です。つまり、神のみこころを単に知識としてではなく、自分の生活の中に適用し実践していこうとする姿勢が求められるということです。

 

今年7月にさくらチャーチにアメリカカリフォルニア州フレズノ市からサマーチームが来会します。今回は7名のチームなので、それだけの人数が宿泊できる場所をどうやって確保しようかと祈っていたところ、ある方を通して車で35分くらいのところにかつて古民家で民宿を営んでおられたクリスチャンがいるということを知り、現場に行ってお会いしました。この方はまだ30歳代の若い青年で、父親が水道工事の会社を経営していることから、それを引き継いて水道の工事をしておられます。「若いのにすごいですね。どうやって覚えたんですか。」と尋ねると、こう言いました。「いや、自分は小学校の時から父親の跡をついて行って一緒にやっていましたから、実際この仕事を始めるようになってからは7~8年ですけれど、小学校の時からやっているので、結構できちゃうんですよ。」

なるほど、水道工事の知識も必要ですが、実際に小さい時から工事に携わってくる中で見えてきたことが大きいんですね。つまり、「行動」が「知識」をもたらすということは、ある意味で本当なのです。

 

「納得しなければ実行しない」という人がいますが、そういう態度ではいつまでも実行に移すことはできないでしょう。なぜなら、納得するかしないかはあなた次第だからです。大切なのは、あなたが納得できるかどうかではなく、納得できなくとも神のみこころは何かを知り、それを行おうとすることです。そうすれば、そのうちに納得できるようになります。

 

ホセア書6章3節に、「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。」とありますが、どうやったら知ることができるのでしょうか。主を知ることを切に追い求めることによってです。そうすれば、主のみこころが何かがはっきりと見えるようになります。

 

あなたは、主を知ることを切に追い求めておられるでしょうか。確かに、神のみこころを知ることは簡単なことではありませんが、もうすでにはっきり示されていることもたくさんありますから、まずそれを行いさらに深い真理を求めていくなら、神はじきに多くのものを判別する知恵を与えてくださることでしょう。

 

Ⅱ.神の栄誉を求める(18)

 

第二のことは、自分の栄誉ではなく、神の栄誉を求めるということです。18節をご覧ください。ここには「自分から語る人は自分の栄誉を求めます。しかし、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。」とあります。

 

誰でもよく考えればすぐに、このことばが教えていることがどういうことかわかると思います。自分から語る人は自分の栄誉を求めますが、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。つまり、その人が何を求めているかによって、その人がどういう人であるかがわかるということです。自分の栄誉を求めている人は、自分のことを語りますが、神の栄誉を求めている人は、神のことを語るからです。つまり、実を見て、木を知れ、というのです。イエス様は、どのようにして「偽預言者」を見分けたら良いかを、この木と実のたとえでお話ししてくださいました。

「偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。」(マタイ7:15-20)

偽預言者と本物の預言者とを見分けるのは難しいです。彼らは羊の衣を着てやって来ますが、内側は貪欲な狼です。「羊の衣を着て」というのは、見たところ無害で、ソフトな姿で近づいてくるということです。ですから、出会う人は警戒心を緩めて、かえって好感を抱いてしまうのです。

しかし、彼らの正体は見た目とは反対の「貪欲な狼」です。このような凶暴性を持った偽預言者たちによってもたらされる被害は大きく、神様との関係や兄弟姉妹との関係を取り返しがつかないほどに破壊してしまいます。こうした偽預言者に注意しなければなりません。どうしたら見分けることができるのでしょうか。何よりも見分けるポイントが大切です。つまり、実によって見分けるということです。茨からぶどうは採れないし、あざみからいちじくは採れません。良い木はみな良い実を結びますが、悪い木は悪い実を結びます。ですから、実によって判別するようにと教えられたのです。

 

ここでも同じことが言われています。自分から語る人は自分の栄誉を求めますが、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。まさに、イエス様はそのような方でした。ピリピ人への手紙2章6~11節にはこうあります。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」(ピリピ2:6-11)

キリストは、自分の栄誉ではなく、神の栄誉を求めました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになられたのです。

 

今の時代にあって誰が神の人であるのかを、どうやって見分けることができるでしょうか。それは、その人が言っている言葉を聞けばわかります。もしその人が「私を見てください、私はこれだけのことをやりました」と言うなら、そこには真理はありません。自分の栄誉を求めているからです。でも、もし「この人を見よ」と十字架のキリストを指し示すなら、その人は正しい人です。その人こそ神によって立てられた人だと言えるでしょう。十字架の陰に自らを隠そうとする人こそ、まことの牧者です。その人は、ただ神の栄誉を求めています。このような人こそ真実で、不正がありません。

 

先日、「1番だけが知っている」というテレビの番組で、ハンセン病国家賠償訴訟について報じていました。これは「らい予防法」という法律によって強制的に隔離された人たちが、その法律が間違っていたことを国が認め、国に賠償と謝罪を求めるというものでした。しかし、法律が間違っていたと国が認めることはあり得ないことで、その裁判は困難を着褒めましたが、徳田弁護士を中心とした137人の弁護団によって戦い、裁判から2年半後の1998年に「らい予防法」し違憲との判断が下され、国が控訴を断念したことから裁判が結審しました。それはアリが巨大な像を倒した瞬間でした。当時の首相であった小泉首相の会見後、原告団の記者会見が行われましたが、この晴れ舞台に弁護士の姿はありませんでした。主役は原告団であって、自分たちは脇役にすぎないと、表に出ることを避けたのです。弁護士であれば自分の手柄を誇りたいところでしょう。それなのに、自分たちの栄誉を求めようとしなかったこの弁護士は、本物だなぁと思いました。

 

私たちも、このような者になることを求めましょう。自分の栄誉ではなく、キリストを遣わされた方の栄誉を、神の栄光が現されることを求めましょう。そうすれば、見えるようになり、神のみこころが何なのかを正しく判断することができるようになるのです。

 

Ⅲ.うわべで人をさばかない(19-24)

 

第三のことは、うわべで人をさばかないということです。19節から24節までをご覧ください。19節には、「モーセはあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか。」とあります。

「あなたがた」とは「ユダヤ人たち」のことです。ここでイエス様はモーセの律法を取り上げ、彼らが神を敬っていないことを指摘しています。なぜなら、彼らはモーセの律法を一生懸命に守っていると言いながら、イエスを殺そうとしていたからです。律法には何と書いてありますか?律法には「殺してはならない」とあります。それなのに彼らはイエスを殺そうとしていました。どういうことですか。律法を守っていないということです。彼らは律法を守っているどころか守っていなかったのです。

 

すると、群衆が答えました。20節です。「あなたは悪霊につかれている。だれがあなたを殺そうとしているのか。」どういうことですか。群衆は、まさかユダヤ教の指導者たちがイエスを殺そうとしていることなど全く知らなかったので、「あなたがたは、なぜ私を殺そうとするのですか。」と言われたイエス様の言葉を聞いて、気が狂っていると思ったのです。「あなたは悪霊につかれている」と言いました。

 

するとイエス様は、それが間違った判断であることを示すために、21節でもう一つの律法を取り上げて説明しています。それは「安息日」の律法です。「わたしが一つのわざを行い、それで、あなたがたはみな驚いています。」というのは、5章で見たあのベテスダの池での出来事です。38年もの間病気で伏していた人が、「床を取り上げて歩きなさい。」と言われたイエスの言葉に従ってそのとおりにすると、その人はすぐに治って、床を取り上げて歩き出しました(5:1-9)。ところが、その日は安息日でした。つまり、安息日に病人をいやしたことが問題となったのです。ユダヤ人たちとの論争はそこから始まりました。ユダヤ人たちは、イエスが簡単に安息日の規定を破ったのを見て、驚いたのです。もっとも、イエス様は安息日の規定を破ったのではなく、あくまでも彼らがそのように思っていただけでした。彼らは、安息日律法そのものを間違って理解していたのです。

 

そのことを説明するために、今度は「割礼」のことを取り上げています。22節です。「モーセはあなたがたに割礼を与えました。それはモーセからではなく、父祖たちから始まったことです。そして、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。」

どういうことですか?「割礼」とは、モーセから始まったものではなく、父祖たちから始まったことでした。父祖たちとはモーセたちの時代よりも500年も古い時代です。つまり、律法が与えられる前からあったということです。それはアブラハムの時代のことでした。神はアブラハムに、彼らが神の民であるというしるしに、「割礼」を受けるように命じられたのです(創世記17:9)。それはその子が生まれて八日目に施すようになっていたため、それが安息日に当たっていたとしても、それをしなければなりませんでした。それは彼らが神の民のしるしですから、とても重要なことだったのです。であれば、イエスが安息日に病気で伏していた人を癒すことがどうして問題になるのでしょうか。おかしなじゃないですか。23節には、「モーセの律法を破らないようにと、人は安息日にも割礼を受けるのに、わたしが安息日に人の全身を健やかにしたということで、あなたがたはわたしに腹を立てるのですか。」とあります。だったら安息日には、何もしてはいけなかったはずです。それなのに、割礼は大丈夫だけれども、人の病気を癒すことは悪いというのは変な話です。論理に一貫性がありません。いったい何が問題だったのでしょうか。

 

24節をご覧ください。これが彼らの問題でした。ご一緒に読みましょう。「うわべで人をさばかないで、正しいさばきを行いなさい。」

群衆は、安息日の規定と割礼の規定とは矛盾しないものであることを知っていました。それなのに、イエス様が安息日に行ったいやしを認めることができなかったのは、指導者たちの言葉に影響されて、正しい目でイエスを見ることができなかったからです。いわゆる偏見です。彼らは最初から、正しい判断を下すことを放棄していたのです。

 

それは何も当時のユダヤ人たちだけのことではありません。私たちも、何かの判断を下さなければならないとき、こうした偏見によって判断に狂いが生じ、正しい判断を下すことができない時がありますが、うわべで人をさばいていることがあるのです。「うわべ」とは、「見かけ」のことです。「見かけ」で人をさばいてはいけません。なぜなら、「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(Ⅰサムエル16:7)からです。

 

これはとても有名な話です。主が最初のイスラエルの王であったサウルを退けた時、ベツレヘムにいるエッサイという人の息子の中から次の王を選ぶようにと言いました。サムエルは主が告げられたとおりにベツレヘムのエッサイのところにやって来ると、そのことを彼に告げました。そして、エッサイとその息子たちを祝宴に招くと、背が高くて、なかなかハンサムな息子がやって来ました。名前はエリヤブと言います。サムエルは彼を見たとき「彼だ!」と思いました。しかし、主はサムエルに言いました。「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」(Ⅰサムエル16:7)と言われました。

そこでエッサイはアビナダブという別の息子を呼んで、サムエルの前に進ませましたが、サムエルは、「この者も主は選んでおられない。」と言いました。じゃ次の息子の「シャンマ」かなぁと彼を進ませましたが、サムエルの答えは「No」でした。エッサイは7人の息子をサムエルの前に進ませましたが、サムエルは「この者たちではない」と言いました。「子どもたちはこれで全部ですか。」と言うと、エッサイが、「いや、まだ末の息子がいますが、今、羊の番をしているような息子ですよ。」と言うと、「その子を連れて来なさい。」と言われたので、エッサイは人を遣わして、彼を連れて来させました。その子は血色が良く、目が美しく、姿も立派でした。その時、主は言われました。「さあ、彼に油を注げ。この者がその人だ。」と。それでサムエルは油の角を取り、兄弟たちの真中で彼に油を注いだのです。それがイスラエルの二番目の王で、イスラエルの絶頂期を気付いたダビデ王です。彼は兄弟たちの中では一番小さな者でしたが、神が選んでおられたのは、何とその小さな息子のダビデだったのです。

 

私たちは時として、こうした「うわべ」で人を判断してしまうことがあります。でも表面的に立派であれば必ずしも立派であるかというとそうとは限りません。英語のことわざに、All that glitters is not gold.ということわざがあります。訳すと、「光るものすべて金ならず」です。光っているものがすべて金であるとは限りません。外面に気をとられて内面を見誤ってはなりません。この英語の「glitters」というのは、家内の説明では、子供たちがクラフトでよく使う金色のピカピカに光る粉のことだそうです。あれは後始末が大変で、どんなにコロコロを使って取ろうとしてもなかなか取れません。それが「glitters」です。それはただピカピカに見せているだけですが、それが必ずしも金であるわけではないのです。その人の人となりは、その人の隠れた行いなり、人の目にはふれない性格などに見られるのであって、うわべで判断してはいけないのです。

 

それとは反対に、どんなに表面的に光っていないような人でも、すべてが悪だと性急に決めつけてはなりません。見た目ではパッとしないような人でも、神のことばによっていのちが芽生え、聖霊の圧倒的な力によって変えられて、神に大きく用いられることもあります。私はそう信じています。だれでも、キリストにあるなら、その人は新しく造られた人です。古いものは過ぎ去って,見よ、すべてが新しくなりました。キリストによって、だれでも、新しく変えられます。

 

4年半前に、教会のO兄が天に召されました。それは突然のことでした。水曜日の祈祷会が終わって家に戻り、その晩に頭が痛いと救急車で病院に運ばれると、その日のうちに亡くなられました。翌々日の金曜日に奥様から電話があり、事情を聞いてびっくりしました。あんなに元気だったのに突然召されるなど考えられませんでした。その翌日の土曜日に宇都宮の駒生で行われた葬儀で司式をしましたが、私たちの教会にO兄を送ってくださった主に、心から感謝しました。

O兄は、なかなか周りに理解されにくいタイプの人でした。かつては大手の企業のチェーン店の店長を勤め、定年になるとそれを奥様に任せて自分は掘っ立て小屋みたいなところに住み、仙人のような生活をしていました。お酒が好きで小屋にはたくさんの酒瓶がありました。Oさんが教会に来たのも、コンビニにお酒を買いに来た時、目の前に私たちの教会があったのがきっかけでした。何日も風呂に入っていなかったのか、近くによるとかなりにおいがしました。「何だろう、この人は・・」と不思議に思いましたが、彼の聖書を見るとどこも赤線がびっしり引かれてありました。本当に不思議な人でした。何よりも聖書の話をじっと聞いていました。最後の祈祷会の話は、イスラエルが荒野を行軍した時の形でした。それは上空から見ると十字架の形でした。十字架こそ荒野を旅するイスラエルにとって勝利の秘訣だった。それはイエス・キリストご自身を指し示していたんですと話すと、興奮して「先生、それが一番強いんだよね。」と言われました。「何でこんなことを知っているのかなぁ」と思いましたが、その学びが最後でした。

しかし、O兄が教会に来て洗礼を受けてから、本当に変わったと思います。変わった人が変えられてもっと変わったのではなく、すばらしい人に変えられました。匂いは相変わらずでしたが、神に向かう姿勢が見事でした。毎週の礼拝と祈祷会には欠かさず出席しました。雨の日も雪の日も、自転車を引っ張って来ました。ある時は、大雪で来られないだろうと思っていたら、「いや、大変だった。自転車を引っ張って来たら1時間半もかかったよ。」と、自転車を引っ張って歩いて来られたのです。

それは私にとって大きな慰めでした。神の言葉を求めて、自転車を引っ張っても教会に来るというのは考えられないことだったからです。そんなことを葬式でお話しすると、O兄のお母さんが棺に手をかけて、「政行、聞いたよ。牧師さんから聞いた。随分、頑張ったんだね。」と言われました。O兄は、ご長男でしたが、家族の中でも変わり者で、ご両親やご兄弟からも相手にされないところがあったんですね。だから、お母さんがその話を聞いて、「そうだったんだ」と驚いておられたのです。

でも、これは本当です。イエス様を信じて、イエス様によって新しく生まれ変わりました。本当に新しい人に変えられました。何よりもうれしいことは、そのような彼を私たちの教会が受け入れ、愛をもって接してくれたことです。

 

うわべで人をさばかないで、正しいさばきをしなければなりません。常に神のみこころを求め、神の栄誉を求め、神の目をもって、正しい判断ができるように神の助けを仰ごうではありませんか。

ヨハネの福音書7章1~13節「わたしの時は来ていません」

ヨハネの福音書から学んでおりますが、きょうから7章に入ります。きょうは「わたしの時は来ていません」(6)とイエス様が言われた言葉から、「キリストに従う」というテーマでお話ししたいと思います。

Ⅰ.イエスを信じていなかった兄弟たち(1-5)

まず1節から5節までをご覧ください。

「その後、イエスはガリラヤを巡り続けられた。ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡ろうとはされなかったからである。時に、仮庵の祭りというユダヤ人の祭りが近づいていた。そこで、イエスの兄弟たちがイエスに言った。「ここを去ってユダヤに行きなさい。そうすれば、弟子たちもあなたがしている働きを見ることができます。自分で公の場に出ることを願いながら、隠れて事を行う人はいません。このようなことを行うのなら、自分を世に示しなさい。」兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。」

「その後」とは、6章の出来事があって後のことです。6章には、イエス様が、5つのパンと2匹の魚で男の人だけで五千人の人たちの空腹を満たされたという奇跡が記されてあります。それは6章4節に「ユダヤ人の祭りである過越しが近づいていた」とあるように、過越しの祭りが近づいていた頃のことでした。時期的には3月の終わり頃から4月の上旬にかけての頃です。その後、イエス様はガリラヤ地方を巡り続けておられました。なぜなら、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたからです。もしユダヤ(地方)に行けば、ユダヤ人に捕らえられ、殺されてしまいます。イエス様は、ユダヤ人に殺されることを恐れていたのではありませんが、まだその時が来ていなかったので、ユダヤには行かずガリラヤを巡り続けておられたのです。

それからしばらくして、仮庵の祭りというユダヤ人の祭りが近づいていました。これは秋の祭りです。ですから、6章の出来事から半年くらい後の事になります。イエスの兄弟たちがイエスにこう言いました。

「ここを去ってユダヤに行きなさい。そうすれば、弟子たちもあなたがしている働きを見ることができます。自分で公の場に出ることを願いながら、隠れて事を行う人はいません。このようなことを行うのなら、自分を世に示しなさい。」(3-4)

なぜイエスの兄弟たちはこのようなことを言ったのでしょうか。ある意味で、彼らが言っていることはもっともであるかのように見えます。もし自分を世に現したいとと願っているのであれば、隠れて事を行う必要はないからです。しかし、彼らは本当にイエス様のことを思ってそう言ったのではありませんでした。彼らがなぜこのように言ったのかを理解するためには、ユダヤ人にとって「仮庵の祭り」が何を意味していたのかを知る必要があります。

先ほども申し上げたように、仮庵の祭りは、過越しの祭り、五旬節、すなわち七週の祭りに並ぶユダヤの三大祭りの一つでした。それは、彼らの先祖がエジプトを出た時、仮の庵、仮庵に住んだことを覚えるために、七日間、仮小屋か木の枝を張って造った天幕に住み、主の前で喜ぶように定められていたものです(レビ3:39-43)。また、この祭りの最終日は聖なる贖いの日と呼ばれていて、この日は、アザゼルとして荒野に山羊が放たれ、年に一度大祭司が至聖所に入って特別な儀式を行いました。そして、何と言ってもこの祭りは、来るべきメシヤの再臨を示すものでした。ゼカリヤ書14章16~21節にこう書いてあるからです。

「エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。」(ゼカリヤ14:16)

すなわち、これはメシヤがエルサレムから全世界を支配するようになる時、異邦人たちはメシヤを礼拝するために、この祭りに上って来るということです。イエスの兄弟たちが、仮庵の祭りの期間にエルサレムに上り、自分をメシヤとして世に示すようにと言ったのは、こうした背景があったからです。

そういう意味では、彼らが言ったことは決して間違いではありませんでした。むしろ、日ごろからイエスが語っておられることを耳にしていた彼らにとって、この仮庵の祭りにイエスがエルサレムに行き、そこで驚くべき奇跡を行うなら、自分がメシヤであることを示す絶好の機会になるのではないかと考えるのは、むしろ当然と言えるでしょう。しかし、それは彼らがイエスをメシヤだと信じていたからではありませんでした。5節には、「兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。」とあります。彼らもイエス様を信じていませんでした。だから、イエスがメシヤであるというしるしを行えば、みんな信じるでしょう、そうしたらいいんじゃないかと、挑発したのです。それは神のみこころから遠く離れていたものでした。というのは、十字架抜きの救いというのは、結局のところ、人々を本当の救いを与えることはできないからです。その時はまだ来ていませんでした。悪魔は、いつも身近にいる人を通して、主のみこころとは違った、安易な道へと私たちを誘惑してきます。ですから、私たちは主のみこころは何なのか、何が良いことで完全であるのかをわきまえ知るために、いつも神の言葉を求めなければなりません。

それにしても、このことがイエス様の一番近くにいた兄弟たちから出たということは驚きです。家族であればいつも一緒にいてその言葉なり、行動というものをつぶさに見ています。ですから、彼らはイエス様のことを見て、よく知っていたはずなのに信じていなかったのです。普通であれば、一緒にいればポロも見えるはず。いいことばかりでなく、悪いことも、いろいろな欠点も見えてきますから信じられないというのは最もですが、イエス様の場合は完全で、しみも汚れも全くなかったわけですから信じても不思議ではなかったというか、信じるのが当然かと思いますが、そうではなかったのです。これはひどい話です。ご自身の民であったユダヤ人たちがイエス様を殺そうとしていたというのもひどい話ですが、イエス様の兄弟たちがイエス様を信じていなかったというのもそれと同じくらい、いやそれ以上にひどいことです。

このことを思う時、改めて6章44節でイエス様が言われた言葉を思い出します。それは、「わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。」という言葉です。神の恵みと導きがなければ、人はだれも主のもとに来ることはできません。どんなにイエス様の近くにいる人でも、神が引き寄せてくださらない限りだれもイエス様のもとに来ることはできないのです。

私たちはこのことをしっかりと覚えておかなければなりません。私たちはとかく、私たちの家族が信仰を持たないでいたりすると、つい自分を責めてしまうことがあります。自分の態度が悪いからだ、クリスチャンとしてふさわしい態度でないから、夫が、妻が、息子が、娘が、父が、母が信じてくれないのだと思いがちなのですが、必ずしもそうではないのです。何の落ち度もないイエス様が一緒にいても、その兄弟たちが信仰を持たなかったのだとしたら、どんなに私たちが信仰に熱心だからと言っても、必ずしも私たちの家族の者が信仰を持つとは限らないのです。むしろ、イエス様はこのことを経験された方として、そのように祈ってもなかなか信じてくれない家族のことで悩み、落ち込んでしまう私たちの心を知って、深く憐れんでくださるのです。ですから、私たちは何よりもこのことを覚えてこの主のあわれみによりすがり、主が私たちの家族をご自身のもとへ引き寄せてくれるようにと、あきらめないで祈り続けていかなければなりません。

Ⅱ.わたしの時はまだ来ていません(6-9)

第二のことは、多くの人がクリスチャンを憎む本当の理由は何であるかということです。6節から9節までをご覧ください。

「そこで、イエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも用意ができています。世はあなたがたを憎むことができないが、わたしのことは憎んでいます。わたしが世について、その行いが悪いことを証ししているからです。あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りに上って行きません。わたしの時はまだ満ちていないのです。」こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。」

「自分を世に示しなさい」という兄弟たちの言葉に対して、イエス様は、「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも用意ができています。世はあなたがたを憎むことができないが、わたしのことは憎んでいます。わたしが世について、その行いが悪いことを証ししているからです。」と言われました。どういうことでしょうか?

イエス様が福音書の中で「わたしの時」と言われる時、それはご自身が十字架に付けられ、永遠の贖いを成し遂げられる時のことを指しています。その時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ています。これはどういうことかというと、新改訳2017で訳されているように、「用意ができている」ということです。どのように用意ができているのかというと、7節にあるように、「世はあなたがたを憎むことができないが、わたしのことは憎んでいます。わたしが世について、その行いが悪いことを証ししているからです。」つまり、イエス様はこの世と同じ生き方をせず、この世の悪い行いを指摘するのでこの世から憎まれますが、イエスの兄弟たちは、この世と調子を合わせ、いつもこの世の流れに流された生き方をしていたので憎まれることはないということです。彼らはいつもこの世にどっぷりと浸かっていました。彼らの時はいつでも来ていたのです。

しかし、それは何もイエスの兄弟たちだけのことではありません。私たちもイエ様を信じて、イエス様に従って生きていこうとすれば、そこに多くの戦いが生じます。もし私たちがこの世から全く憎まれることがないとしたら、それこそこの世にどっぷりと浸かっている証拠であり、この世の人々と何ら変わりがないということを示しているのです。なぜなら、世はイエス様のことを憎んでいるからです。

現代では、特別な時がありません。昔なら、野菜や果物にしても、旬のものがありました。しかし、今は野菜や果物がビニール・ハウスで栽培されるので、いつでも同じ野菜や果物を食べることができるようになりました。季節感というものがなくなってきたのです。いつでも用意ができるようになりました。これは食べ物のことだけでなく、私たちの生活のすべてにおいて言えることです。つまり、この世のペースに巻き込まれて、クリスチャンとしての生き方を失い、この世に流されてしまう傾向があるということです。それが、イエス様が言われた「あなたがたの時はいつでも来ている」ということです。

しかし、イエス様の時は来ていません。イエス様がこの世から憎まれるのは、「世について、その行いが悪いことを証ししているからです。」つまり、この世の人々の罪を指摘したからです。罪を指摘すれば、当然憎まれます。これが、イエス様がユダヤ人指導者たちから憎まれた本当の理由です。それはイエス様がご自分をメシヤとして受け入れるようにと主張したからではなく、あるいは、イエス様が崇高な教えを説いたからでもなく、当時の人々の間にはびこっていた罪や過ちを指摘したからなのです。こういう人はいつの時代でも人々から煙たがれ、憎まれ、迫害されます。

もうすぐ「平成」が終わって「令和」になります。202年ぶりに生前退位が行われ、新しい天皇になるのです。天皇が生きている間に、その地位を譲るというのは考えられないことです。なぜなら、日本国憲法に定められている「皇室典範」の第1章に、皇位の継承は現天皇が崩御(死亡)する時と定められているからです。それ以外に重篤な病気がない限り譲位することは認められていません。そのことで政府はいろいろと議論を重ねましたが、結局、一時的な法律を作って生前退位することを認めました。なぜ、天皇が生前に退位することがそれほど問題なのかというと、明治政府以降、日本の政府は、天皇を神格化「現人神」(あらひとがみ)して、国民をまとめる国家戦略を持っているからです。しかし私たちは、唯一まことの神であるイエス・キリスト以外の存在を神としません。確かに、今の天皇は人格的に立派で、個人的には尊敬し、お慕い申し上げておりますが、しかし、神として敬うことは別です。戦後、天皇は国民の象徴としての天皇とは何かを模索してきました。そしてそれを見事に全うされましたが、それはあくまで象徴としての天皇であって、神としてではありません。私たちは、天皇が神格化されることによってあらゆる批判が封じられ、人権が抑圧され、天皇の名によって侵略戦争が正当化された過去を忘れてはいけません。しかし、そのように主張すれば、当然そこにこの世とのひずみが生じ、妨害が起こってくるのは必死です。

最近、LGTB、性的マイノリティーの方々をどのように受け入れるかが問題になっています。世界的には同性婚が受け入れられるようになりました。何と28の国々で認められています。そこまで認めていなくとも、パートナーシップ法のある国が19もあります。その権利を保証する国が5つあります。その中には日本も、何とイスラエルも含まれているのです。旧約聖書をみると、同性婚について厳しく戒められているにもかかわらず、そのイスラエルでも容認する傾向にあるのです。アメリカではこれが法律で定められていて同性婚を禁止したり認めないと、牧師が訴えられるというケースが数多く起こっています。そのような中で、もし我々が同性婚に反対しようものなら、この社会からたちまち非難されることになるでしょう。

ですから、クリスチャンがこの世から憎まれることがあってもちっとも不思議ではありません。それはあなたが間違っているからでも、あなたが悪い人だからでもなく、その生き方が聖いからなのです。そしてその生き方がこの世に対して常に証をしているので、世は不愉快になって受け入れることができないのです。それで世はクリスチャンを憎むのです。間違っても、この世が自分を憎むのは、自分がこの世と同じことをしないからだとか、もっとこの世に染まれば受け入れられるに違いないと、この世と調子を合わせようとしないでください。それこそ、悪魔の思うつぼですから。

イエス様はこう言われました。「人々がみな、あなたがたをほめるとき、あなたがたは哀れです。彼らの先祖たちも、偽預言者たちに同じことをしたのです。」(ルカ6:26) みんなから良く言われるのはその人がよい人だからである、というのがこの世の常ですが、これは大きな誤りです。それは、当時イエス様がこの世からどう思われていたかを見ればわかります。イエス様はみんなから愛されていたのではなく、逆に憎まれたのです。ですから、みんなから好かれているというほめ言葉が、必ずしも良いわけではありません。

私たちもこの世から好かれるかどうかではなく、この世から憎まれることがあっても、イエス様同様、この世に流されることなく、神の御心に従い、塩味のきいたピリッとした生き方を求めていかなければなりません。

Ⅲ.イエスを誰だと言いますか(10-13)

では、どうしたらいいのでしょうか。第三に、10節から13節までをご覧ください。

「しかし、兄弟たちが祭りに上って行った後で、イエスご自身も、表立ってではなく、いわば内密に上って行かれた。ユダヤ人たちは祭りの場で、「あの人はどこにいるのか」と言って、イエスを捜していた。 群衆はイエスについて、小声でいろいろと話をしていた。ある人たちは「良い人だ」と言い、別の人たちは「違う。群衆を惑わしているのだ」と言っていた。しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はだれもいなかった。」

兄弟たちが祭りに上って行った後で、主イエスご自身も、上って行かれました。なぜイエス様は兄弟たちと一緒に上って行かなかったのでしょうか。それは、ここに「表立ってではなく、いわば内密に上って行かれた」とあるように、兄弟たちと一緒に行くことによって目立つのを避けようとしたからです。兄弟たちは、人々の注目を主に向けさせることで、いかにも自分たちがその弟たちであることを誇ろうとしたのかもしれませんが、このような機会を与えないために、主は彼らと一緒に行かなかったのです。5つのパンと2匹の魚の奇跡を行った時も、人々は主を自分たちの王にするために連れて行こうとしましたが、主はそれを知って、ただ一人山に退かれました(6:15)。主はそのような人たちを避けたいと思っていたのです。

主イエスが祭りに上って行かれると、ユダヤ人たちはどのようにイエス様を迎えたでしょうか。11節には、「ユダヤ人たちは祭りの場で、「あの人はどこにいるのか」と言って、イエスを探していた。」とあります。何のために探していたのかわかりません。しかし、1節を見ると「ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていた」とありますから、殺そうとして探していたのかもしれません。彼らは、当然イエスも敬虔なすべてのユダヤ人同様、祭りのためにエルサレムに上ってくるだろうと考えていたので、その隙を狙っていたのでしょう。

一方、群衆はどうだったかというと、12節をご覧ください。群衆の間では、イエス様に対する評価が真っ二つに分かれました。「群衆はイエスについて、小声でいろいろと話をしていた。ある人たちは「良い人だ」と言い、別の人たちは「違う。群衆を惑わしているのだ」と言っていた。しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はだれもいなかった。」

ある人たちは「良い人だ」と言い、別の人たちは「違う。群衆を惑わしているのだ」と言いました。イエス様のことを「良い人だ」と言ったのは、自分たちの考えをはっきり持っていた、純粋で素直なユダヤ人たちでした。彼らの中には、主のお働きを一部始終見聞きしていたガリラヤの人たちも含まれていたことでしょう。一方、「違う。群衆を惑わしているのだ」と言った人たちは、真理について全く考えようともせず、ただユダヤ教の指導者たちを恐れ、その言いなりになっていた肉的な人たちでした。

しかし、このことからわかることは、キリストに対しての受け止め方は、驚くほど多くあるということです。人生いろいろ。キリストに対する受け取る方もいろいろです。

イエス様が生まれた時、年老いたシメオンが幼子イエスを腕に抱いて語ったことを覚えていますか。彼はイエスの母マリヤにこのように言いました。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」(ルカ2:34-35)彼の語ったことが、ここに成就したのを見ます。イエス様は、多くの人々が倒れたり立ちあがったりするために定められたのです。それは、多くの人の心の思いがあらわになるためです。

イエス様ご自身、どこに行っても、常に対立を引き起こす原因となりました。それは今もそうです。ある人にとってキリストは「いのち」に至らせる香りですが、ある人にとっては「死」に至らせる香りです(Ⅱコリント2:16)。キリストは、私たちの心の思いをあらわにされます。人々はキリストを好むか、好まないか、のどちらかです。福音が人々の心に入るとき、そこには当然意見の衝突や争いが起こります。それは福音に問題があるからではなく、人々の心にこうしたいろいろな思いがあるからです。太陽が湿地を照らすと毒の成分である毒気を発生しますが、それは太陽が悪いからではなく、地が悪いからです。同じ光が麦畑を肥沃にし、豊かな刈り入れをもたらします。

ですから、キリストを信じ、聞き従い、人々の前に信仰を告白する人が少ないからといって、これが正しくないとか、恥だとかと思わないでください。むしろ、これが真理だからこそこのような反応が起こるのです。大切なことは、そのような中で、あなたはイエスを誰だと言うかです。あなたは、他人の意見や圧力に影響を受けないで、自分の意見を堂々と述べることができますか、ということです。イエス様はこう言われました。「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16:33)

世に勝利されたイエス様が、あなたとともにおられます。私たちも、信仰のゆえに、世に憎まれることがあるますが、世に勝利されたイエス様に信頼して、他人の意見や圧力に屈することなく、イエス様に従う者とさせていただきましょう。

ヨハネの福音書6章60~71節「あなたがたも離れて行きたいのですか」

ヨハネの福音書6章から学んでおります。きょうは、60節から71節までの箇所から「あなたがたも離れて行きたいのですか」というタイトルでお話しします。ドキッとするタイトルですね。これは

12人の弟子たちに言われたことばです。イエス様から離れて行くということがあるのでしょうか。あるんです。実際にそういうことがありました。ですから、イエス様は12人の弟子たちに、「あなたがたも離れて行きたいのですか」と言われたのです。これは何も当時の弟子たちだけのことではありません。初代教会以来いつの時代でも、ずっと起こって来た現象です。いったいどうしてこのようなことが起こるのでしょうか。きょうは、このことについてご一緒に御言葉から学びたいと思います。

 

Ⅰ.離れて行った弟子たち(60-63)

 

まず60節から65節までをご覧ください。

「これを聞いて、弟子たちのうちの多くの者が言った。「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか。」しかしイエスは、弟子たちがこの話について、小声で文句を言っているのを知って、彼らに言われた。「わたしの話があなたがたをつまずかせるのか。それなら、人の子がかつていたところに上るのを見たら、どうなるのか。いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。」

 

「これを聞いて」とは、主イエスがその前で語られたことを聞いて、ということです。主は、どんなことを語られたのでしょうか。53節をご覧ください。「イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。」もちろんイエス様は比喩的に語られたわけですが、このことばを聞いた時、弟子たちのうちの多くの者が、「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろう。」と言って、イエス様の許を去って行きました。このように言ったのは一般の群衆たちではありません。「弟子たち」と呼ばれていた人々です。この「弟子たち」とは、イエス様の12弟子のことではありません。イエス様には、12弟子の外側に「70人の弟子たち」と呼ばれる人たちがいました。また、さらにその外側に、さらに多くのイエス様に付き従う人たちがいました。そういう人たちもキリストの弟子と呼ばれていたのです。この時イエス様のもとを去って行ったのは、12弟子以外の者たちです。彼らはイエス様が語られたことを理解することができませんでした。

 

それは何もこれらの弟子たちだけのことではありません。今日でも、イエス様が語られたことばを理解することができず、イエス様から離れ去ってしまう人がいます。耳障りのよい話をしている間は、喜んで聞いていても、一旦、罪とか、裁きとかについて話し始めると、「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか」と言って、離れ去ってしまいます。一般的に当たり障りのない話をしているうちはいいですが、あなたは罪人ですとか、そのあなたの罪のためにキリストは十字架にかかって死んでくださいましたと言うと、そっぽを向いてしまうのです。多くの人は楽しいことを求めます。それ自体は何も問題ではありませんが、私たちが本当に幸福になるためには、ただ楽しいだけでなく、自分の罪を認め、その罪を悔い改めて、神の赦しをいただかなければなりません。それを嫌がるのです。あなたはどうでしょうか。

 

それに対して、イエス様はこう言われました。「わたしの話があなたがたをつまずかせるのか。それなら、人の子がかつていたところに上るのを見たら、どうなるのか。」

「わたしの話」とは、この前のところでイエス様が語られた話のことです。イエス様は、ご自分の肉を食べ、血を飲まなければ、いのちはないと言われました。その話が彼らをつまずかせるというのであれば、キリストが十字架で死なれた後、三日目によみがえり、天に昇って行かれるのを見たなら、いったいどうなるというのでしょう。もっとつまずくことになるのではないでしょうか。

 

なぜなら、いのちを与えるのは御霊だからです。肉は何の益ももたらしません。イエス様が彼らに話されたのは霊であり、またいのちです。これは霊的なことなのです。いくら人の肉を食べ、血を飲んだからと言っても、そんなものは人にいのちを与えることはできません。人にいのちを与えるのは、神の御霊です。ですから、イエス様が肉を食べるとか、血を飲むと言われたのは、比喩的な言い方で、霊的なことを表していましたが、彼らはそのことが理解できませんでした。

 

私たちもそのようなことがあるのではないでしょうか。イエス様が語られたことを理解できず、つまずいてしまうということ・・・が。イエス様が霊的なことを語っておられるのにそれを間違って理解して、そんな話など聞いていられないと、イエス様が語られた言葉を受け入れられないということがあるのではないでしょうか。

 

Ⅱ.信じない者たち(64-65)

 

次に、64節と65節をご覧ください。

「けれども、あなたがたの中に信じない者たちがいます。」信じない者たちがだれか、ご自分を裏切る者がだれか、イエスは初めから知っておられたのである。そしてイエスは言われた。「ですから、わたしはあなたがたに、『父が与えてくださらないかぎり、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのです。」」

 

「けれども、あなたがたの中に信じない者たちがいます。」これはどういうことかというと、確かに彼らは主のもとに来て、主の弟子であると自称していますが、本当は、イエスをメシヤとして信じていないということです。主を本当に信じていないので、主が「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲まなければ、いのちはありません」と言われた言葉につまずいたのです。つまり、彼らがつぶやいた本当の理由は、彼らに信仰がなかったからです。表面上は信じているようでも、実際はそうではなかったのです。

 

ドキッとしますね。信じているようで、実際はそうではないということがあるというのは。自分が本当に信じているかどうかをどうやって知ることができるでしょうか。みんなイエス様を信じたので洗礼を受けたんじゃないのですか?確かに、イエス様を信じたので洗礼を受けました。しかし、どのように信じたのかが問題です。イエス様がただ私たちのすばらしい模範者であるとか、その教えに感動して信じたということがあります。しかし、それは救いに至る信仰ではありません。私たちが救われて神の御霊によって新しく生まれるためには、私たちの罪のためにイエス様が十字架の上で死んでくださり、私たちの罪を贖ってくださったと信じなければなりません。そうでないと、永遠のいのちは与えられないのです。それが新しく生まれるということです。その時、神のいのち、聖霊が私たちの心に住まわれ、支配するようになります。もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きるのです。私がどう思うかは関係ありません。キリストが何を言っておられるか、その御心は何かということです。イエス・キリストを救い主として信じて新しく生まれ変わった人はキリストがその心を支配するようになるので、キリストの言葉をもっと知りたいと思うようになるはずです。また、心から従いたいと思うようになります。それが、キリストの十字架の贖いを信じ、罪赦された人に見られる特徴です。私たちが救われているかどうかは、私たちがバプテスマ(洗礼)を受けているかとか、どれだけ教会に来ているかといったことと関係ないのです。この十字架のイエス・キリストを信じなければなりません。そうでないと、いのちはありません。

 

彼らはイエス様を信じていると思っていましたが、本当の意味で信じていませんでした。だから、イエス様の話を聞いたときつぶやいたのです。「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか」と。それは、イエス様の話に問題があったからではなく、彼らが理解できなかったからです。もっと言うなら、彼らが本当の意味で救われていなかったからです。それを求めようともしませんでした。理解できなければ、「主よ、それはどういう意味ですか。あなたは真理のことばを持っておられます。私は何とか理解したいと願っていますので、どうか悟らせてください。あなたの真理を教えてください。」と祈ることができたはずです。それなのに、「だれがこんな話を聞いていられるか」と言うのは、初めから信仰がなかったからです。それが根本的な原因なのです。

 

しかも、その後を見ると、「信じない者たちがだれか、ご自分を裏切る者がだれか、イエスは初めから知っておられたのである。」とあります。どういうことでしょうか。これは、主が、すべての人の心の思いを知っておられたということです。つまり、イエス様が神であられるということを示しいます。イエス様は、私たちのように、群衆や見せかけの人気に惑わされることは決してありませんでした。「初めから」というのは、恐らく、「主の公生涯の初めから」という意味でしょう。つまり、多くの不信仰な人々が、自分は主の弟子であると最初に言った時からということです。もちろん、イエス様は神として、世の初めからすべてのことを知っておられました。しかし、ここでは必ずしもそういう意味で言われたのではないと思います。

 

それにしても、イエス様は多くの人々が信じないし、信じようともしていなかったのに、すべての人を例外なく愛し、忍耐をもって神の国の福音を教えられたということには教えられます。もしこの人は信じないということを最初から知っていたのなら、「どうせ話しても無駄だから」とか、「もっと必要としている人のために時間を使おう」と考えてもおかしくないのに、そうでない人のためにも、同じように仕えられたのですから、本当に忍耐と謙遜がありました。私もそういう牧師になりたいと願わされます。

 

そして、もっとすごいのは、その次にあることです。ここには何と「ご自分を裏切る者がだれか、イエスは初めから知っておられたのである」とあります。これは、イスカリオテのユダのことを指しています。イエス様は、彼が裏切ろうとしていることを知っていながら、ご自分の近くにいることを許しておられたのです。いや、ご自分の近くにいるどころか、ご自分の弟子たちの中でもその中核を成していた12弟子であることを許しておられました。これは、考えられないことです。自分の最も近くにいる人たちは、自分の心を許している人たちです。だからこそ、本当に信用できない人を置くことはしないはずです。それなのに主は、その人を最初から知っていながらも、自分の最も近くにいることを許されたのです。

 

このことから私たちにどんなことが言えるでしょうか。もしイエス様が、ユダがご自分の近くにいることを許されたのではあれば、私たちは私たちの家族や兄弟姉妹たちに対して、どれほど忍耐と寛容を示さなければならないかということです。私たちは、「もうここまで!」と自分で限界を定めてしまうことがよくあります。しかし、主がそのことでどれほどの苦しみと悲しみに耐えられたのかを思う時、私たちに耐えられないことはありません。「堪忍袋の緒が切れそうになる」という言葉がありますが、主の苦しみを思う時、私たちはまだまだ耐え抜かなければならないことを教えられるのではないでしょうか。

 

65節をご覧ください。「そしてイエスは言われた。「ですから、わたしはあなたがたに、『父が与えてくださらないかぎり、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのです。」」

これは、44節のところでイエス様が言われたことの繰り返しです。これは、この前の節でイエス様が言われた言葉の結びでもあります。「あなたがたの中には信じない人がいます。ですから、わたしはあなたがたに言ったのです。「父が与えてくださらないかぎり、だれもわたしのもとに来ることはできない」と」。すなわち、彼らが信じないのは、父なる神が彼らに恵みをお与えになっていないからです。彼らを御許に引き寄せておられないからなのです。

 

ここでもう一度、私たちが信仰を持つことができるのは、天の父なる神様が引き寄せてくださったからであることがわかります。「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選びあなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。」(ヨハネ15:16)とあるとおりです。

ここに、私たちの信仰と救いの確かさがあります。私たちは自分で好きで信じたかのように思っているかもしれませんが、実はそうではなく、神が私たちを救いに選んでくださったのです。自分で好きで信じたのであれば、嫌になったら止めることもできるわけで、私たちに感情がある以上、そうした不安はいつもつきまといます。けれども、そうした中にあってどんなことがあっても、この方に信頼することができるのは私たちの中にそれだけの確信があるからではなく、神がそのように選んでくださったからです。神様はその確かさを次のように言って、私たちに約束しておられます。

「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません」(ヨハネ10:28-29)

なんと力強い約束でしょう。私たちは永遠に、決して滅びることはありません。私たちは神に愛されている者であり、神の御手の中にあるからです。だれも私たちを、父なる神の手から奪い去ることはできないのです。

 

今日でも十字架の言葉は、人々から歓迎されません。この歴史上最も偉大な人であったキリストの生き方を学び隣人愛を実践しなさいとか、この世の貧しい者たち、小さな者たちを大切にするようにといった教えは、何の抵抗もなく受け入れられるでしょう。でも、十字架で私たちの罪の身代わりとなって死んでくださったキリストを受け入れることはなかなかできません。この霊的真理を悟るためには、だれでも神の御霊に従順でなければなりません。霊的真理に目が開かれるように、御霊の神に助けを求めなければならないのです。そうすれば、父なる神は私たちをキリストのもとへて導いてくださいます。

 

Ⅲ.ペテロの信仰告白(66-71)

 

これに対して、12弟子たちはどのように応答したでしょうか。第三に、66節から71までをご覧ください。

「こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった。それで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいのですか」と言われた。すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています。」イエスは彼らに答えられた。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかし、あなたがたのうちの一人は悪魔です。」イエスはイスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのであった。このユダは十二人の一人であったが、イエスを裏切ろうとしていた。」

 

試練により、あるいは誘惑によって、教会から離れて行く人がどんなに多いことでしょうか。非常に残念なことです。しかし、試練や誘惑が必ずしも人を神から遠ざけるわけではありません。むしろ、そのような時こそ、本物の信仰があるかどうかが試される時でもあります。12弟子の中の

11人の弟子たちにとっては、この危機が、信仰と献身を再確認する時となりました。「あなたがたも離れて行きたいのですか」という主の言葉に対して、ペテロは、「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています。」と答えました。

 

彼はまず、「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか」と答えています。皆さん、私たちはイエス様以外に、だれのところに行けるでしょう。この方以外にだれを信頼することができるでしょうか。この方によって罪から救い出されたということが本当に分かったのなら、この方から離れて行くことなど決してできません。私たちを罪から救うことのできる方が、他にいるでしょうか。私たちの罪を背負ってその罪の刑罰を代わりに受け、罪を贖ってくれる方は他にはいません。キリストの十字架の意味が分かったなら、あっちに行ったり、こっちに行ったりしてふらついたり、信仰が分からなくなったと離れていくことなどできないのです。確かに、そこには試練と迫害が伴うでしょう。しかし、もしキリストを捨てるとしたら、私たちはいったいだれのところに行けると言うのでしょうか。不信仰になればいいんですか。日本の昔からの伝統的な宗教を信じればいいのでしょうか。それとも、そうした宗教的なことは一切捨て、この世的なことを求めればいいのでしょうか。そうしたものが何かよりよいものを与えてくれるのでしょうか。いいえ、これらのものは決して与えることはできません。私たちに本当のいのちを与えくれるのは、私たちのために十字架にかかって死なれたイエス・キリストだけなのです。

 

次に、ペテロは、「あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。」と言いました。つまり、キリストこそ、私たちに永遠のいのちを与える御言葉を持っておられるということです。イエス様は言われました。「わたしがいのちのパンです」(ヨハネ6:35)イエス様がいのちのパンです。いのちのパンであられるイエス様は、信じる者にいのちを与え、霊的満足を与えてくださいます。私たちを生かすいのちを与えるお方はイエス様以外にはいないのです。

 

そして、ペテロは最後にこのように言いました。「私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています。」

「神の聖者」とは、「神の御子」という意味です。ですからここは、「あなたは生ける神の御子キリストであると信じています」と訳しても良かったのです。英語ではそのように訳しています。

“Also we have come to believe and know that You are the Christ, the Son of the living God.”(NKJV)

これは、マタイの福音書16章16節で、ペテロが告白した内容と全く同じです。この時がどういう時であったのか、また、ユダヤ教の指導者たちのほとんどすべてに見られる不信仰を考えると、本当にすばらしい信仰告白であったと言えます。

 

ペテロはそのように信じていました。また、知っていました。普通はそのように知っているので、信じるのですが、ここでは逆です。信じているので、知っています。これが信仰です。信仰は知った上で信じるのではなく、信じることが先で、そうすると分かるようになります。頭で理解してから信じるというのであれば、理解できることしか信じられないでしょう。もちろん、ある程度キリストについて知る必要はあります。何も知らないで信じるというのであれば、それは鰯の頭も信心からで、妄想の類です。しかし、この方が信頼できると分かったら信じることです。そうすれば、この方がどういう方であるのかが分かるようになります。よく「まだこの聖書を全部読んでいないので信じられません。」という方がおられます。しかし、聖書を全部を読んだから信じられるというものではありません。読むことは大切なことですが、読んだから分かるというものでもないのです。でも、信じれば分かるようになります。ですから、ペテロのように、この方が私の罪の身代わりとして十字架にかかって死んでくださったことで私の罪が贖われたということを知ったのなら、それが神の救いであると信じて受け入れることです。そうすれば、分かるようになります。

 

イエス様は最後のところで弟子たちにこう言われました。70節、71節です。「イエスは彼らに答えられた。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかし、あなたがたのうちの一人は悪魔です。」イエスはイスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのであった。このユダは十二人の一人であったが、イエスを裏切ろうとしていた。」

イエス様はなぜわざわざこんなことを言われたのでしょうか。それは、彼らに自分を吟味してほしかったからです。信仰の自己吟味です。こんなことを言われたら、それ以後の12弟子のたちのグループは疑心暗鬼になって、お互いへの不信感が募らせても不思議ではありませんが、そうならなかったところに、主の弟子たち一人一人に対する愛と配慮があったことが分かります。また、もしもよくない思いを抱くような者があっても、悔い改めるようにと促す主の愛の訴えであったことが分かります。

 

それは、私たちに対する主の訴えでもあります。「あなたがたも離れて行きたいのですか。」私たちは別にバックスライドしたくてするわけではありませんが、時として困難や試練があるとイエス様から離れてしまうことがないわけではありません。そんな時に私たちが覚えておかなければならないことは、あの人がどう言っているか、この人がどういっているかではなく、ペテロのように、「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。あなたは、生ける神の御子キリストです。」と告白することです。あなたを愛し、あなたの罪の身代わりのために十字架で死んでくださったお方は、神の御子イエス・キリストだけです。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)

私たちはこの方から離れないで、いつまでもつながり、いのちを得る者とさせていただきましょう。

ヨハネの福音書6章41~59節「まことの食べ物、まことの飲み物」

きょうは、ヨハネの福音書6章41~59節までの箇所から「まことの食べ物、まことの飲み物」というタイトルでお話しします。

ヨハネは6章前半のところで、イエス様が5つのパンと2匹の魚をもって男だけで五千人の人々の空腹を満たされた奇跡を記しました。その後、長いスペースを割いて群衆や弟子たちに対してイエス様が語られた言葉を記録しています。前回は40節までのところでしたが、そこにはガリラヤ湖のほとりで群衆に対して語られた教えが記録されてありました。そして、きょうのところは、会堂でユダヤ人たちに対して語られた説教です。59節に「これが、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。」とあります。この中でイエス様は、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。」(53)と言われました。これはいったいどういう意味でしょうか。きょうは、このことについて三つのことをお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.引き寄せてくださる神の恵み(41-46)

 

まず41節から46節までをご覧ください。

「ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンです」と言われたので、イエスについて小声で文句を言い始めた。彼らは言った。「あれは、ヨセフの子イエスではないか。私たちは父親と母親を知っている。どうして今、『わたしは天から下って来た』と言ったりするのか。」イエスは彼らに答えられた。「自分たちの間で小声で文句を言うのはやめなさい。わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。預言者たちの書に、『彼らはみな、神によって教えられる』と書かれています。父から聞いて学んだ者はみな、わたしのもとに来ます。父を見た者はだれもいません。ただ神から出た者だけが、父を見たのです。」

 

ユダヤ人たちは、イエス様が「わたしは天から下って来たパンです」と言われたのを聞くと、イエス様について小声で文句を言い始めました。なぜ彼らは文句を言ったのでしょうか。42節には、「あれは、ヨセフの子イエスではないか。私たちは父親と母親を知っている。どうして今、『わたしは天から下って来た』と言ったりするのか。」とあります。つまり、彼らがつぶやいたのは、イエス様をヨセフとマリヤの息子だと考えていたからです。彼らが知っていたのは、イエス様の家柄や職業、あるいは社会的地位といった外見的なものでした。彼らはそうした偏見にとらわれていて、その本質を見ることができなかったのです。そして、神の御子に対して文句を言っていたのです。

 

主はそんな彼らにこう言われました。43節です。「自分たちの間で、小声で文句を言うのはやめなさい。」「文句」や「つぶやき」は、神に喜ばれるものではありません。このような「つぶやき」こそ、大きな罪を育てる種のようなものです。神への反抗は、こうしたつぶやきから始まるのです。つぶやきの種を植え付けておくと、どんな人でも神から離れていってしまうことになります。皆さんはどうでしょうか。文句やつぶやきといった種は蒔かれていないでしょうか。もし蒔かれているなら、聖霊によって取り除いていただくように求めなければなりません。

 

それに続いて主は、さらにこう言われました。44節、「わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。」どういうことでしょうか。この前の節とのつながりがよくわかりません。主はユダヤ人たちに対して、「自分たちの間で、小声で文句を言うのはやめなさい」と言われました。その後で、「わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。」と言われたのです。文と文が繫がっていないように感じます。

 

J・C・ライルという註解者が、ヨハネの福音書の注解書を書いていますが、彼はその中でこの節を補うことばとして次のように説明しています。

「あなたがたがお互いの間でつぶやいているのは、わたしが天から下って来たと言ったからです。あなたがたはわたしの外見上の生まれが低いものであることを、わたしを信じないことの理由としています。けれども、問題はわたしの言ったことにあるのではなく、あなたがたに恵みが欠けていて、あなたがたが不信仰であることにあるのです。それよりも深くて、重大な真理がありますが、あなたがたはそれについて全くわかっていないようです。それは、人がわたしを信じるようになるためには、神の恵みが必要である、ということです。あなたがたが自分自身の堕落を認めて、あなたがたの魂をわたしへ引き寄せてくださる恵みを求めるようにならない限り、決して信じることはありません。誰でも、わたしを信じるようになるためには、議論や推論以上のものが必要であるということを、わたしは知っているのです。あなたがたの不信仰やつぶやきに驚いたり、失望したりはしません。あなたがた、あるいは他の誰かが、わたしの父に引き寄せられることがなくても信じることがあるとは、思ってもいません。」

このように補うことばがあるとわかりやすいですね。おそらく、そうだと思います。すなわち、主を信じるということは、彼らが思っているほど簡単なことではないということです。そのためには神の恵みが必要なのです。自分自身の罪を認め、主の御前にへりくだり、罪の赦しを求めなければ赦されることはありません。彼らが文句を言っていたのはそれがなかったからです。イエス様は何とかそのことを悟ってほしいと、もう遅すぎるということがないように、このように彼らに語られたのです。

 

この「引き寄せる」と訳されている言葉ですが、これは「何か重い物を引きずるようにして引っ張ってくる」という意味があります。なかなか信じようとしない人たちを、神様が引きずるようにして引き寄せてくださるというのです。道徳的な忠告や説得だけでは、主のもとに来ることはできません。神様が働いてくださらなければ、神様が働いてその人の心が動かされ、神様の許に来ようという思いが与えられなければ、神の許に来ることはできないのです。

 

パウロは、コリント人への手紙第一12章3節で、「ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。」と言っています。「イエスは主です」と言うこと、それは要するにイエス・キリストを信じる信仰を公に言い表すことです。そのようにして、私たちはバプテスマ(洗礼)を受け、クリスチャンとなり、教会のメンバーとなります。つまりパウロはここで、私たちがクリスチャンになるのは聖霊の働きによるものであり、聖霊の賜物だと言っているのです。このことは、聖書の教える信仰とはどのようなものかを知るうえでとても大事なことです。信仰は、私たちが自分で獲得するものではないのです。勉強して、あるいは何らかの修行を積んである境地を得ることではないのです。信仰は、与えられるものです。それを与えてくれるのが聖霊なのです。クリスチャンとなるために私たちにできることは、この聖霊の働きを祈り求めることです。神様、私はあなたを信じる者になりたいのです。だから、「聖霊の働きを与えて下さい、聖霊によらなければ誰も語ることができない、「イエスは主です」という告白を私にも与えて下さい」と神様に祈るのです。そのような祈りに、神様は必ず応えて下さいます。聖霊を働かせて、聖霊の賜物である信仰を与えて下さるのです。ですから、バプテスマ(洗礼)を受けたクリスチャンは一人残らず、聖霊の賜物、霊的な賜物をいただいていると言えるのです。

 

けれども、このように「引き寄せられないかぎり」と言うとき、それは囚人を牢獄に引いて行ったり、牛を屠殺場に引いて行くように、力づくで引っ張って行くことではありません。つまり、その人の意志に反して引き寄せるということではないのです。神様は、無理矢理信じさせるようなことはなさいません。そうではなく、反抗し続けていた私たちの心に働いてくださり、その心を変え、心から喜んで信じることができるようにしてくださるのです。これは恵みではないでしょうか。そして、主はあなたをそのようにして引き寄せてくださいました。

 

ですから、主は預言者たちの書にある、「彼らはみな、神によって教えられる」という御言葉を引用してこう言われたのです。「父から聞いて学んだ者はみな、わたしのもとに来ます。」

だれがイエス様のもとに来るのでしょうか。父から聞いて学んだ者です。そういう人はみな、イエスのもとに来ます。これは、一人一人が神様から直接教えられなければならないということです。どんなに説得してもイエス様のもとに来ることはできません。その人がイエス様のもとに来るためには、神様から直接聞かなければならないのです。これが、この世の人々がキリストを信じることができない大きな理由の一つです。神様から聞かないで人の意見ばかりを気にしています。人が書いたもの、人の意見をいくら聞いても、そこには何の解決もありません。それらがキリストの許へ導くことはできないからです。

 

よくテレビで、池上彰さんがニュースを分かりやすく解説している番組があります。ある時、アメリカのケンタッキー州にあるノアの方舟の実物大テーマパーク「アーク・エンカウンター(Ark Encounter)」について解説していました。「キリスト教の人たちは、特に福音派と言われる人たちは、聖書に書いてあることは本当にあったことだと本気で信じているようです。」。すると、パックンが、「そうなんですよね。福音派の人たちはそう信じています。自分もそうでしたが、でも科学的ではないので止めました。」

それが科学的であるか、そうでないかとか、この世の有名な人が何と言っているかではなく、聖書は何と言っているかが重要です。神から聞き、神から学ぶ人は、主のもとに来ることができます。そこに神が働いてくださり、引き寄せてくださるからです。

 

皆さんは、何に聞いていますか。神様から聞いて学んでいるでしょうか。それは聖書を学び、神の御声を聞くということです。そうすれば、あなたも神様のもとに来ることができます。神が引き寄せてくださいますから。そんな神様の特別な恵みを無駄にすることがありませんように。あなたも神の御声を聞き、神のもとに来てください。

 

Ⅱ.わたしはいのちのパンです(47-51)

 

次に、47節から51節までをご覧ください。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。わたしはいのちのパンです。あなたがたの先祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがありません。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」」

 

ここで主は、40節までのところで語って来た「いのちのパン」について再び語られます。しかし、ここではこれまで語ってきたよりももっとはっきりと、またわかりやすく語っておられます。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。」

自分の罪を赦していただき、自分の魂を救っていただきたいと願う人は、キリストのもとに来なければなりません。私たちが罪から救われる唯一の条件は、ただ信じるということです。自分が罪人であると信じ、その罪を贖ってくださるためにキリストが身代わりになって十字架で死んでくださったこと、その神の救いの御業を信じて、神の聖霊が私の魂に入ってくださるとように願うだけでいいのです。そうすれば、永遠のいのちを持ちます。信じる者は永遠のいのちを持っています。

新聖歌182番に「ただ信ぜよ」という賛美があります。

「十字架にかかりたる 救い主を見よや こは汝が犯したる 罪のため

ただ信ぜよ ただ信ぜよ 信ずる者は誰も 皆救われん」

すばらしい賛美ですね。何がすばらしいかって、とても単純な点です。ただ信じるだけです。あれをしなければならないとか、これをしなければならないといったことは一切ありません。ただ信じるだけです。私たちが罪から救われるためには、私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださった主イエスを信じるだけです。信じる者は、永遠のいのちを持つのです。

 

ここで注目していただきたいことは、「信じる者は永遠のいのちを持っています」という言葉です。これは現在形で書かれてあります。いつ持つんですか?今でしょ、というわけです。いつか持つでしょうとか、終わりの日に持つでしょうということではなく、信じたその瞬間に持つのです。永遠のいのちは、今この時、この世界で、持っているのです。

 

多くの人々は、このことを誤解しています。罪が赦され、永遠のいのちが与えられるのは、死んでからのことだと考えているのです。確かに死んだら天国に行きますが、それはこの地上に生きている時から始まります。この地上に生きている時にイエス様を信じたその瞬間から、永遠のいのちが始まるのです。なぜなら、永遠のいのちとは神様との関係だからです。神様が共にいるという体験です。人類最初の人間アダムとエバは、神の命令に背き罪を犯したことで、神との関係が断絶してしまいました。その結果、人類は神様がいない孤独な一生を自分の力で生きなければならなくなりました。その行く着くところは死です。何の希望も、喜びも、目的もない、一生を生きなければならなかったのです。しかし、あわれみ豊かな神は、その大きなあわれみのゆえに、罪過と罪との中に死んでいた私たちを生かしてくださいました。それがイエス・キリストです。私たちがキリストを信じることによって、その関係が回復するようにしてくださったのです。つまり、死んでいた状態が生き返った状態に変えられるのです。それが永遠のいのちです。信じたその瞬間にこのいのちを持つことができるのです。そして、その関係は永遠に終わることがありません。たとえ肉体が滅んでも、この神との関係はずっと続きます。もう罪に定められることはありません。あなたがどんなに自覚していなくても、あなたの名前はいのちの書という書物に書き記されているのです。神との平和を持っています。死も、いのちも、御使いも、その他どんな被造物も、キリストにある神の愛からあなたを引き離すことはできません。

 

主はこう言われました。「わたしはいのちのパンです。」イエス様がそのいのちのパンです。イエス様はこのように宣言されました。それはユダヤ人の先祖たちが昔、荒野で食べたものとは違います。彼らは荒野で40年間マナというコエンドロのようなパンを食べました。その結果、荒野でも生きることができましたが、結局は死んでしまいました。しかし、このパンを食べる者は決して死ぬことがありません。このパンは天から下って来た生けるパンだからです。このパンを食べるなら、永遠に生きるのです。このパンを食べるとは、イエス様を信じるということです。イエス様を信じる者は、永遠に生きるのです。

 

そして、キリストが与えるパンは、世のいのちのための、キリストの肉です。どういうことでしょうか。これは十字架の死を預言した比喩的なことばです。これを理解できない人には、「えっ」と思うような言葉のように聞こえるかもしれません。しかし、これを理解できる人にとっては大きな恵みです。というのは、イエス様は私たちの罪のためにご自分の肉を割かれ、血を流してくださったからです。ここに愛があります。

「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:9-10)

 

あなたはこの愛を受け取りましたか。これが、神が私たちのためにしてくださった救いの御業です。神は、そのひとり子を世に遣わし、その方によっていのちを得させてくださいました。神は、私たちの罪のために、宥めのためのささげ物として御子を遣わされました。ここに愛があるのです。本来であれば、罪のために、私たちが受けなければならない神の怒りを、神の御子が代わりに受けてくださったのです。ここに愛があるのです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

神は、そのひとり子をお与えになるほどに、あなたを愛してくださいました。あなたの罪の身代わりとなって十字架にかかり、肉を割かれ、血を流してくださいました。それはあなたが滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。このパンを食べるなら、あなたも永遠に生きるのです。

 

Ⅲ.人の子の肉を食べ、その血を飲みなさい(52-59)

 

ですから、第三のことは、このパンを食べ、血を飲もうということです。52~59節までをご覧ください。52節をお読みします。

「それで、ユダヤ人たちは、「この人は、どうやって自分の肉を、私たちに与えて食べさせることができるのか」と互いに激しい議論を始めた。」

 

イエス様が「わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」と言うと、それを聞いていたユダヤ人たちは、「この人は、どうやって自分の肉を、私たちに与えて食べさせることができるのか」と言って、互いに激しい議論を始めました。どういうことなのかわからなかったのです。議論が噛み合いませんでした。彼らは、イエスという人の肉を食べ、血を飲むことだと思ったからです。しかし、旧約聖書の律法には、人の血はおろか、動物の血であっても、血を飲むことは堅く禁じられていました。ですから、それを聞いたユダヤ人たちはびっくりしたのです。それで53節から56節までのところで、イエス様はそのことをもう少し詳しく説明されます。

「イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。これは天から下って来たパンです。先祖が食べて、なお死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」これが、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。」

 

イエス様がここで、「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません」と言われたのは、明らかに十字架で私たちの罪の贖いとして死なれたキリストを信じなければいのちはないということです。この「食べる」という言葉ですが、これは原語のギリシャ語では「ファゲーテ」(φαγητε)と言う言葉で、1回限りの出来事を表す時制(不定過去形)が使われています。私たちが、私たちのうちにいのちを持つためには、私たちの罪を贖うために十字架で死んでくださったイエス・キリストを信じなければなりません。信じなければいのちはありません。これがいのちの源であり、救いのベースです。どれだけ教会に来ているかとか、洗礼を受けたかどうかということは全く関係ありません。十字架で死んでくださったキリストを信じて、新しく生まれ変えられたかということです。これがすべてです。もし新しく生まれ変わったという経験のない人がいれば、キリストの肉を食べ、その血を飲んでください。キリストの十字架の死は私のためであったと信じ、この神の聖霊が私の内に入ってくださるように祈っていただきたいと思います。

 

しかし、54、56、57、58節にある「食べる」という言葉は、53節の言葉とは違う言葉が使われています。それは「トゥローゴーン」(τλωγων)というギリシャ語です。これは53節の「ファゲーテ」とは違い、食欲旺盛な動物が餌をバリバリ食べる時に使われる言葉です。つまり、キリストの十字架の贖いを信じて新しく生まれ変わった者が、日々の生活において、キリストの血と肉をバリバリ食べるということです。それは具体的に次の二つのことを意味していると思われます。一つは、キリストの御言葉を積極的に食べることです。そしてもう一つは、主の晩餐に与ることです。聖餐式ですね。聖餐式とは何でしょうか。それは、主の肉を食べ、血を飲むこと、つまり、キリストと一つになることです。マタイの福音書26章26~28節にはこうあります。

「また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」

これは多くの人のために、罪の赦しのために流されるキリストの血と、割かれたキリストの肉を象徴しています。これを受けなければなりません。ただ聖餐式という儀式を受ければいいというのではなく、それが意味しているもの、つまり、キリストと一つになることを求めなければならないということです。キリストとともに死に、キリストともに生きるということです。今、私が生きているのは、私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった主を信じる信仰によるのです。そのように生きることです。私はキリストと共に死んだのに、まだ私が・・というのではキリストと一つになっていません。私ではなくキリストが、これがキリストと一つになることです。これが聖餐式の意味です。

 

キリストの肉を食べ、キリストの血を飲むことで、キリストの肉と血が、私たちの一部となるというのはとても神秘的なことです。しかし、その仕組みを知らなくても、私たちはパンを食べことで力を得ることを知っています。同じように、とても神秘的で、頭では理解できませんが、キリストの肉を食べ、血を飲むことによって、キリストのいのちを得ることができるのです。大切なのは理解できるかどうかではなく、理解できなくても、信仰によってキリストのいのちを受け取ることです。

 

熊本の第五高等学校の佐藤定吉工学博士は、クリスチャンだったので、ある時学生たちに信仰の話をしました。すると学生の一人が先生にこう質問しました。

「先生、人生に信仰が必要だということは分かりました。でも、私は理系の学生です。天地万物の創造者だという神様を私に見せてください。実験しないことには、信じてはいかんぞと先生に教えられてきたんですから。」

すると先生は、「よしわかった。じゃ見せてやるが、その前に私も見たいものがある。「君」を見せてくれないか。」

「どういうことですか。先生、ぼくをみせろというのですか。これがぼくですが・・」と学生は人差し指で鼻を指しました。

「それは君の鼻じゃないか。そうじゃなくて、「君」というものを見たいんだ。」

そこで学生は、今度は自分の胸をたたいて、「これです」と言いました。

「それは君の胸じゃないか。私は君というものを見たいんだ。」

するとその学生はこう言いました。

「先生、あるんですけど、見せられないのです。」

すると博士は、うなずいて言いました。

「そうだ、それを霊と言う。霊は、人間の肉眼や肉体では見ることができないが、実在している。神様も同じだよ。神様は霊なんだよ。」

同じですね。イエスの肉を食べ、血を飲む者、すなわち、イエスを信じるなら、それが私たちの血となり、肉となる。それによっていのちを持ちます。イエスの肉を食べ、血を飲まなければ、いのちはありません。

 

あなたはどうですか。キリストのいのちを持っていますか。また、そのいのちに溢れているでしょうか。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きているのです」と言えるそのようないのちに溢れたクリスチャンとなるためには、まずキリストの肉を食べ、キリストの血を飲まなければなりません。そして、日ごとにキリストの肉を食べ、血を飲み続けなければならないのです。イエス・キリストの肉はまことの食べ物、まことの血の飲み物だからです。

ヨハネの福音書6章22~40節「天から下って来たパン」

ヨハネの福音書から学んでおります。きょうは6章22節から40節までの箇所から、「天から下って来たパン」というタイトルでお話しします。

 

Ⅰ.いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい(22-27)

 

まず22節から27節までをご覧ください。

「その翌日、湖の向こう岸にとどまっていた群衆は、前にはそこに小舟が一艘しかなく、その舟にイエスは弟子たちと一緒には乗らずに、弟子たちが自分たちだけで立ち去ったことに気づいた。 すると、主が感謝をささげて人々がパンを食べた場所の近くに、ティベリアから小舟が数艘やって来た。群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないことを知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り込んで、イエスを捜しにカペナウムに向かった。そして、湖の反対側でイエスを見つけると、彼らはイエスに言った。「先生、いつここにおいでになったのですか。」イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」

 

22節の「その翌日」とは、イエス様が5つのパンと2匹の魚で男だけで五千人の人々の空腹を満たされた奇跡を行った翌日のことです。群衆は、イエス様の動きを観察していました。不思議なのは、弟子たちだけが舟に乗り込んで向こう岸に向かったはずなのに、そこにイエス様の姿がなかったことです。するとそこに、ティベリアから数隻の小舟がやって来たので、これ幸いとばかり、人々はその舟に乗り込み、イエスを探しにカペナウムに向かいました。

そして、湖の反対側でイエス様を見つけると、彼らはイエス様に言いました。「先生。いつここにおいでになったのですか。」

すると、イエス様は彼らに答えられました。26節、「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」

どういうことでしょうか。イエス様が「まことに、まことにあなたがたに告げます。」と言われる時は、極めて重要なことを語られる時です。イエス様は、人々の質問に対して「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」と言いました。 彼らはガリラヤ湖を渡ってわざわざイエス様を捜しに来たのは、イエス様がなさった奇跡を見て、イエス様を信じたので来たのではなく、パンを食べて満腹したからです。イエス様がなされた奇跡を見て信じることは本物の信仰とは言えませんが、それでも信仰の入口に導かれたという意味では評価できます。しかし、これらの群衆はまだそこまでにも達していませんでした。彼らがイエス様を捜していたのはイエス様がなさった奇跡を見て信じたからではなく、ただパンを食べて満足したからだったのです。つまり、彼らは救いを求めてイエスのもとに行ったのではなく、ただ自分の欲求が満たされるために行ったのです。何のためにイエスの許に行くのかとはとても重要なことです。私たちは何のために教会に来ているのでしょうか。何のために礼拝しているのでしょう。パンを食べて満足したからですか。ただ自分の心が満たされるためでしょうか。そのことを吟味しなければなりません。そして、永遠のいのちを求めてキリストの許に行く者でありたいと思います。

 

それに対してイエス様は何と言われましたか。27節です。とても有名なみことばですので、ご一緒に読んでみたいと思います。「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」

「なくなってしまう食べ物」とは、この地上の食べ物のことです。イエス様は、そうしたなくなってしまう食べ物ではなく、「いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい」と言われました。「いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物」とは何でしょうか。それは永遠のいのちです。この永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい、というのです。

 

皆さん、私たちは何のために働いているのでしょうか。私たちが勉強するのも、良い仕事に就くのも、またそこで一生懸命に働くのも、結局のところ、少しでも良い生活をするためというのがほとんどではないでしょうか。しかしイエス様を信じたことで永遠のいのちが与えられました。その永遠のいのちが養われ、成長するために、働かなければなりません。一生懸命に働くこと自体は大切なことです。私たちは働くために造られました。働くことによって、むしろ、生きがいを感じることさえできます。しかし、問題は何のために働くのかということです。私たちがどんなに一生懸命に働いても、また、そのことによって良い生活を送ることができたとしても、それらのものはやがて過ぎ去ってしまいます。そうした過ぎ行くものがあたかも究極的な事柄であるかのように思っているとしたら、それこそが問題なのです。確かに生きていくためには働かなければなりませんが、それが唯一の目的ではありません。私たちが働くのはただこの世で生きていくためではなく、霊的いのち、永遠のいのちに至るためなのです。イエス様を信じることで与えられた永遠のいのちを持ち、そのいのちを保ち、養うために働きなさいということだったのです。それは、この「働きなさい」という言葉からもわかります。この「働きなさい」という言葉は、「あることのために働く」とか、「努力する」という意味があります。つまり、永遠のいのちのために働きなさい、努力しなさい、ということです。私たちはこの世の朽ちて行くことのためには多くの時間とエネルギーを費やしても、霊的いのちのためにはそれほどでもないのではないでしょうか。その時間がほとんど残っていません。

 

先週、国連の関連団体が、「世界幸福度ランキング2019」を発表しましたが、それによると日本は昨年から4つ順位を下げて58位でした(156か国中)。これは意外でしたね。日本人の多くは、自分は幸せだと感じている人が多いのに、こんなに順位が低いとは思いませんでした。GDP、平均余命、寛大さ、社会的支援、自由度、腐敗度といった要素を元に幸福度を計るものです。確かに日本は平均寿命が長く、1人あたりのGDPも24位、政治やビジネスの腐敗のなさも39位と高いのですが、社会的支援が50位、社会の自由度が64位、他者への寛大さが92位と低迷しているのです。これはどんなことを表しているのかというと、仕事と経済が中心になっている国であるということです。心に余裕がありません。ほんとうに忙しく走り回っています。霊的いのちのために求める時間がないのです。

 

でも2,000年前に、ガリラヤ湖畔で語られたイエス様の言葉を見てください。2,000年の歳月を越えて、今もなお私たちの心に響いてきます。先週、大リーグマリナーズのイチロー選手が引退し、その会見で語った言葉には深いものがありました。これまで自分が打ち立てて来た記録をどう思いますか?記録自体は、それほど特別だとは思いません。それよりも、その時にファンの方であったり、球場に来られた方が喜んでくれることが特別だと思いますとか、4,000本という数字があるとしたら、その陰には8,000回の失敗があったということで、自分誇れるとしたらそれを乗り越えることができたというです、など、それを通った人ではないとわからない重みがありました。しかし、イエス様の言葉は、その比ではありません。時代と民族を越えて、すべての時代の、すべての人の心に響く言葉です。私たちが求めなければならないのは、この主イエスの言葉です。

霊的いのちは、放っておいて養われることはありません。毎朝晩聖書を読み、祈るには、大きな犠牲と戦いがあります。学校や職場に遅刻しないように努力するのに、永遠のいのちのためにはほとんど努力しないとしたら、どうやってこのいのちを養っていくことができるでしょうか。

 

先日、天に召されたY姉妹は、60歳で信仰に導かれ、85歳で天国に召されるまで、ひたすら聖書に向かいました。「聖書を読むだけではね」と先輩のクリスチャンから言われましたが、確かに聖書を読むだけでは変わらないかもしれません。しかし、聖書を通読することで聖書全体の流れを掴むことができただけでなく、もっと知りたいという意欲もでてきて、読み続けることができました。このいつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働いたのです。

 

それは、主が与えてくださる食べ物です。与えられた永遠のいのちが養われ、生ける神といつも生き生きとした関係を保つためには、その栄養分が必要です。「それは、人の子が与える食べ物です。」。ですから、私たちはいつもイエス様にとどまり、イエス様からその栄養分を求めていかなければなりません。なくなる食べ物ではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きましょう。

 

Ⅱ.天からのまことのパン(28-33)

 

次に、28節から33節までをご覧ください。

「すると、彼らはイエスに言った。「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか。」イエスは答えられた。「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」それで、彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じられるように、どんなしるしを行われるのですか。何をしてくださいますか。私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた』と書いてあるとおりです。」それで、イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。」」

 

イエス様が、「なくなる食物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。」と言われると、それを聞いていた人々は、「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか。」とイエスに聞きました。イエス様が言われた「永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい」と言うことばを、何かをすることによって得られるものと思ったのです。これが一般の人が考えることです。何か善いことをすれば天国に行けると思っているのです。しかし、どんなに善いことをしても、決して天国に行くことはできません。善いことをすることは悪いことではありません。むしろすばらしいことです。しかし、どんなに善いことをしても、それで神に受け入れられるとはないのです。なぜなら、自分でも気付かないうちにそこに不純な動機が入り込んだりして、善行が善行でなくなってしまうからです。私たちの本性は罪のために腐っているので、こうした善行が神に受け入れられることはないのです。では、どうしたらいいのでしょうか。

 

29節にこうあります。「イエス様はこう言われました。『神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。』」ここで人々が、「神のわざ」と言っているのは、旧約聖書にある律法のことです。それに対してイエス様は、神のわざとは律法を守ることではなく、神が遣わされた者を信じることであると言われました。これは信仰による救いを教えています。私たちが救われる道は、私たちが何か善いことをすることによってではなく、神が遣わされた御子イエスを救い主として信じる以外にはありません。もっと言うなら、私たちが救われるためには、私たちの罪のために十字架で死なれ、三日目によみがえられ、救いの御業を成し遂げてくださったイエス・キリストを信じるだけでいいのです。それを信じることこそ、神のわざなのです。ここでヨハネが言っていることは、神から遣わされた御子イエス・キリストを、生涯信じ続けるということです。それが神のわざです。考えてみると、そのように生涯を通してキリストを信じ続けるということは、自分の意思や力によってできることではありません。善い行いであれば、時間なり、体力なり、資金があればできるかもしれませんが、生涯にわたってイエス様を信じ続けることは、自分の力でできません。私たちは弱い者ですから、たとえば、大きな試練に直面したりすると、「イエス様を信じているのになんでこうなるの」と、信仰から離れてしまうことさえあります。そのような中でも信じ続けることができるとしたら、それは神の恵み以外の何ものでもありません。ですから、これこそ神のわざであり、神が喜んでくださるわざなのです。

 

すると彼らは、自分たちがイエスを信じるために、何をしてくれますかと言いました。どんなしるしを与えてくれるのかというのです。というのは、31節にあるように、彼らの先祖は、荒野でマナを食べたという経験をしたからです。「神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた」と書いてあるとおりです。」これは、出エジプト記にあることです。モーセの時代、彼らの先祖は荒野でマナを食べました。それは天からのパンとして、神が先祖たちに与えてくださったものです。それは彼らにとってのしるしでした。であれば、イエスは自分たちにどのようなしるしを見せてくれるのか、というのです。どのようなしるしを見せてくれるのかと言っても、彼らはたった今、五千人の給食の奇跡を見たばかりじゃないですか。それなのに、どんなしるしを見せてくれるのですかと言うのは変な話です。しるしとは、証拠としての奇跡です。それが本当に神からのものであるということを示す証拠ですね。それを求めたのです。

 

これは、いつの時代も同じです。人々はしるしを見ないと信じられません。だから、多くの人々は新興宗教に走って行くのです。しかしこの人々は、モーセが与えたパン以上のもっと大きなしるしを見たではありませんか。それは天からのまことのパンでした。それはモーセの時代に荒野で食べたマナではありません。天から下って来て、世にいのちを与えるものです。32節と33節にこうあります。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。」

ここでイエス様は、モーセの時代のマナと、今、父なる神によって与えられようとしているパン、すなわち、天からのまことのパンを対比しているのです。モーセの時代のマナは、確かに肉体の食べ物にはなりましたが、いのちを与えることはできませんでした。しかし、父なる神が与えてくださるパンは、天からのまことのパンであり、人々にいのちを与えてものです。これこそ最高のしるしではないでしょうか。なぜなら、このパンは信じる者のうちに働いて、驚くべき神の御業をなされるからです。このパンが私たちに与えられると御霊によっていのちが与えられ、全く新しい者に造り変えられます。

 

あのニコデモのことを思い出してください。ニコデモはそれまでユダヤ人を恐れ、ほっかぶりをして、ある夜、イエスの許にやって来ました。しかし、御霊によって新しく生まれると、全く別人のようになりました。彼はイエス様が十字架に付けられて息を引き取ったとき、それは午後3時頃のことでしたが、公然と十字架のイエスのもとに歩み寄りました。そして、遺体を引き取ると、没薬と香料を混ぜ合わせたものを30㎏ほどイエスに塗って、まだだれも葬られたことのない墓に葬りました。あれほどユダヤ人を恐れていた人が全く恐れずにイエスの許に歩み寄ることができたのです。それは、イエス様を信じて新しい人に造り変えられたからです。

 

サマリヤの女はどうですか。サマリヤの女は、5回も結婚し、今一緒にいるのも本当の夫ではありませんでした。彼女は男性こそ自分の心を満たしてくれると思っていましたが、どの男もみな同じ。だれも彼女の心を満たすことはできませんでした。そんな時、スカルという町の井戸に水を汲みに来たとき、イエス様と出会いました。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して変わることがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(4:14)

彼女はイエスに言いました。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」(4:15)

するとイエス様は彼女に言いました。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」(4:16)彼女は、自分のことを言い当てることができたこの方こそキリストであると信じました。すると彼女は、水を汲みに来たのに水がめをそこに置いて街に行き、「みなさ~ん、来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」と言いました。もはや、人と会いたくないとは思いませんでした。自分の心を神のいのちの水で満たしてくれたイエス様を、多くの人に伝えたいと思うようになったのです。

 

先日、仙台で行われたT&Mセミナーに参加しました。その中に15秒で証しするという時間がありました。自分が救われた喜びを15秒で証しするのです。イエス様を信じる前の私はこうでした。でもイエス様を信じてこうなりました。あなたもこうなりたいと思いませんか。15秒です。30秒は長いです。3分だったらだれも聞きません。最初に人と会って証しする時はインパクトが必要です。インパクトのある証しはコンパクトでなければなりません。だから15秒でまとめなければなりません。

私のロールプレイの相手は、かつて大学の教授をしていて、その後牧師になられたM先生でした。この先生はかつて教授だけあって話が長いのです。しかし、先生の証しはインパクトがありました。15秒でした。「私は、29歳まで荒野のような人生でした。ボロボロでした。しかし、イエス様を信じた時人生が全く変わりました。荒野に泉が湧いたのです。あなたもそうなりたいと思いませんか。」この経験が先生の信仰生活を支えているのです。それはまさに御霊なる神の働きです。これこそ、大きなしるしではないでしょうか。神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。

 

Ⅲ.わたしがいのちのパンです(34-40)

 

では、そのパンとは何でしょうか。それはイエス・キリストです。34節から40節までをご覧ください。34節と35節をご覧ください。

「そこで、彼らはイエスに言った。「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください。」イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」

 

イエス様が、「わたしの父は、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです」と言うと、それを聞いた人々は、「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください。」と言いました。この段階でも、彼らはイエス様が与えるパンは信仰によって与えられる霊的なパンであることを理解していませんでした。

それに対して、主はこのように言われました。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」

ヨハネの福音書の中には、「わたしは・・・です」という言い方が7回出てきます。その一つが、この「わたしはいのちのパンです。」です。そのほかに、

「わたしは世の光です。」(8:12)

「わたしは羊たちの門です。」(10:7)

「わたしは良い牧者です。」(10:11)

「わたしはよみがえりです。いのちです。」(11:25)

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(14:6)

「わたしはまことのぶどうの木です。」(15:1)

とあります。これは、6章20節で、主が「わたしだ」と言われたところを学んだ時にも申し上げましたが、イエス様が存在の根源であられるということです。つまり、イエス様は神ご自身であられることです。ヨハネはこのように表現することで、主がどのような方であるかを表そうとしたのです。そして、ここで主は、「わたしはいのちのパンです。」と言われました。「わたしはいのちのパンを与える」と言われたのではなく、いのちのパンそのものであると言われたのです。これはとても重要なことです。イエス様がいのちに至る食べ物を与えてくだいますが、そのいのちに至る食べ物とは、イエス・キリストが持っておられるものであるというのではなく、イエス・キリストそのものがそれであるということです。ですから、その後のことばにあるように、「わたしのもとに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんな時でも、決して渇くことが」ないのです。キリストのもとに行くなら決して飢えることはありません。渇くことがないのです。なぜなら、キリストこそいのちのパンであられるからです。キリストこそ、私たちにいのちを与え、本当の生きがいを与え、私たちの人生を生き生きとしたものにしてくださるのです。あのM牧師の証しにあるよう・・・に。

 

ところが、ユダヤ人たちは、その主の許に行こうとしませんでした。彼らはキリストを見たのに信じなかったのです。見ているのに信じなかったのです。これは、今日キリスト教のいろいろなものに触れながらも、信じようとしない人たちと同じです。見てはいますが信じません。ある人はクリスチャンホームに生まれ育ち、それを見ていても信じようとしません。またある人は、ミッション・スクールに行ったり、キリスト教の集会に行ったり、クリスチャンの友達から聖書の話を聞いたり、いろいろな本に触れたりと、何らかの形でキリスト教に触れていても、信じようとしません。これらの人たちは、自分の霊の飢え渇きすら感じていないのかもしれません。肉体的には十分に栄養を補給して肥えていても、霊的には貧弱で、今にも倒れそうになっていることに気付いていないのです。

 

しかし、「父がわたしに与えてくださっている者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来るものを、わたしは決して人に追い出したりはしません。」これは驚くべき宣言です。父なる神が御子に与えてくれるものでなければ、御子のもとに来ることはありません。つまり、信仰を持つことさえできないというのです。私たちがキリストを信じることができるようになったのは、神が私たちを救いに選んでいてくださり、キリストを信じるように働いていてくださったからなのです。

 

自分のことを考えてみてもそう思います。小さい時にキリスト教の保育園に預けられ、青年時代に妻と出会いました。自分は何のために生きているのかわからなかった時、教会に行ってイエス様を信じることができました。なんでそうなるの?わかりません。どんなに脚本を書こうとしてもそうはならなかったでしょう。しかし、神は私が生まれる前から、いや、この世界の基が置かれる前から、そのように選んでいてくださいました。聖書にそう書いてあります。私たちが救われたのは、一方的な神の恵みによるのです。だから、この救いは確かなのです。私が好きで信じたものであるなら、嫌いなったら離れてしまうということもあるでしょう。しかし、神がそのように選んでくださったので離れてしまうということはありません。神が掴んで離さないからです。「わたしのもとに来るものを、わたしは決して捨てません。」(現代訳)とあるとおりです。

 

それは39節と40節でも言われていることです。「わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」」これは何のことかというと、復活のいのちのことです。イエス様は27節で「永遠のいのち」について語られました。また、33節では「天からのパン」について語られました。ここでは、最後の時に天の御国に入れてくださる復活のいのちについて語っています。つまり、神が御子をこの世に遣わされたのは、私たちが御子にあって永遠のいのちを持ち、そのいのちに与ったすべての人を一人も失うことがないようにし、最後の時に天国に入れてくださるためだったのです。

 

私たちの人生は、肉体の死で終わるものではありません。その先には「復活のいのち」が用意されています。そのいのちに与ることができるように、イエス様は確実に導いてくださいます。それが神のみこころなのです。この世にあっては、悪魔の執拗な攻撃に、時に失敗したり、意気消沈したり、不安になったり、動揺したりすることがありますが、しかし、このキリストの御手から落ちることは決してありません。終わりの日に必ずよみがえらせていただけるのです。

 

それなのに、どうして私たちは、自分のような者はダメだと言って、落ち込んでいるのでしょうか。それはまさに悪魔の思うつぼです。たとえ神様でも自分のような者は救うことはできないだろうと思わせるからです。でも、キリストはあなたを救うことができないのでしょうか。たとえあなたが自分はダメな人間だと思っていても、キリストはあなたを救うことがおできになります。なぜなら、キリストはいのちのパンであられ、すべての存在の根源であられる神だからです。キリストの使命は、父なる神のみこころを行うことであり、父なる神のみこころは、御子に与えてくださった人を、ひとりも失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。神の御子であられるイエスは、その御心を確実に実行されます。ですから、私たちはこの方に信頼しなければなりません。キリストに信頼する者をキリストは決して捨てることはありません。みんな御国に入れてくださいます。この方にゆるぎない信頼を置く人は幸いです。私たちも自分を見て落ち込むのではなく、主イエスの約束に信頼し、そこから慰めと励ましをいただき、与えられた信仰の生涯を全うさせていただきましょう。

ヨハネの福音書6章16~21節「わたしだ。恐れることはない」

ヨハネの福音書6章から学んでおります。きょうは、16節から21節までの箇所から、「わたしだ。恐れることはない」というタイトルでお話ししたいと思います。私たちは、日々いろいろなことで恐れながら生きています。先週の水曜日の朝、私が仙台に向かっていた新幹線の中でM姉からお電話がありました。ご主人が脳梗塞のため今救急車で病院に運ばれて行きました。祈ってください、というものでした。その声には、どうしたら良いのかわからないというM妹の不安が見えました。ご自分も車椅子での生活のため、ご主人のために何もして差し上げられないという状況の中で、どれほど不安だったかと思うのです。私は仙台にいる間ずっとご主人と奥様のために祈っておりましたが、帰宅した翌日に病院のご主人の許を伺った時ご主人の左手、左足は動き、言葉も以前のように話すことができたので、主が支えてくださったと信じて感謝しました。ご主人とお話しして帰る際、私が、「いや、言葉をしゃべることができて良かったですよ。感謝です。」と言ったら、「口は災いのもとだがんね。」と冗談まで言うのです。「だから配慮が必要なんだね」と。

 

このようなことは突然起こります。そのような時、私たちは本当に無力な存在であることを思い知らされます。いったいどのようにしてそのような不安や恐れに打ち勝つことができるのでしょうか。きょうは、このことについてみことばから学びたいと思います。

 

Ⅰ.湖の上を歩かれたイエス(16-19)

 

まず16節から19節までをご覧ください。

「夕方になって、弟子たちは湖畔に下りて行った。そして、舟に乗り込み、カペナウムの方へと湖を渡って行った。すでにあたりは暗く、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。強風が吹いて湖は荒れ始めた。そして、二十五ないし三十スタディオンほど漕ぎ出したころ、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て恐れた。」

 

「夕方になって」とは、その日の夕方になってということです。その日何があったのでしょうか。その日、イエス様は5つのパンと2匹の魚をもって、男だけで五千人の人々の空腹を満たされました。その日の夕方のことです。イエス様が五千人の給食の奇跡を行われたのも夕食の出来事でしたから、時刻は6時か、7時頃になっていたのではないかと思います。

 

夕方になって、弟子たちは湖畔に下りて行きました。そして、舟に乗り込むと、カペナウムの方へと渡って行ったのです。マタイの福音書とマルコの福音書の並行箇所には、主は弟子たちを、「強いて」舟に乗り込ませた、とあります。強制的にそのようにしたのです。なぜでしょうか?それは弟子たちがまだ霊的には無知だったので、彼らの信仰を試そうとされたからです。あの5つのパンと2匹の魚の話もそうでしたね。6節には、イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであった、とあります。イエス様ご自身は、何をしようとしているのかを、ちゃんと知っておられましたが、弟子たちの霊的な目はまだ開かれていなかったので、これから起こる出来事を通して彼らに霊的真理を教えようとされたのです。それはどのようなものだったのでしょうか。

 

弟子たちが舟に乗り、カペナウムの方へと湖を渡って行くと、すでにあたりは暗くなっていました。弟子たちの心中いかばかりであったでしょうか。暗闇の中で湖の上を漂っていたのです。イエス様もいませんでした。どんなに不安であったかと思います。しかし、それに追い打ちをかけるかのように、不安はピークに達します。強風が吹いて湖は荒れ始めたのです。ガリラヤ湖は内陸にある湖ですが、このように湖が突然荒れるということがありました。というのは、ガリラヤ湖は海面の高さよりも200メートルも低い所にあって、しかも周囲が山で囲まれてすり鉢のようになっているため、時々こうした突風が吹いて来ることがあるのです。そうなると、プロの漁師でさえお手上げでした。弟子たちの中にはかつてこのガリラヤ湖で漁師をしていた人が4人もいましたが、それでもどうすることもできませんでした。19節を見ると、「25ないし30スタディオンほど漕ぎ出したころ」とありますが、これは距離にして約4~5キロメートルほどです。マルコの福音書には、「夜明けが近づいたころ」(6:48)とあります。これは今の時間でいうと午前3時~6時の間のことですから、彼らは既に9時間近くも湖の上で葛藤していたことになります。弟子たちは、自分たちがどれほど無力であるのかを痛感させられたことでしょう。

 

これはちょうど孤独な人生の戦いをしている私たちのようです。どんなに漕いでも前に進まず、先が見えないということがあります。自分一人で戦っているのではないかと思えるような孤独にさいなまれることがあるのです。そんな時自分の弱さというものを痛感させられます。どんなに強がってみたところで、所詮、人間は弱いのです。どうしたら良いかわからなくて悩む時があるのです。

 

その時です。イエス様が湖の上を歩いて舟に近づいて来られました。ところが、それを見た弟子たちは、恐れました。なぜ恐れたのでしょうか。幽霊だと思ったからです。マルコ6章49節にそのように記されてあります。彼らは、幽霊だと思って、叫び声を上げました。それもそのはずです。マルコの福音書には、イエス様は湖の上を歩いて彼らのところへ行かれましたが、そばを通り過ぎるおつもりであった、とあるからです。フェイントです。皆さん、想像してみてください。そんな真夜中に、白い服を来た人が湖の上を歩いて来たかと思ったら、スッーと通り過ぎようとしたんですよ。イエス様もイエス様ですよね。弟子たちの乗った舟にバァッと近づいて来て、「大丈夫か・・」と呼びかけてくれたのなら、「主よ。あなただったんですね。大丈夫です。ちょっとはビビったけど・・。」とか言えたと思いますが、スーでしょ。弟子たちが幽霊だと思って、叫び声を上げるのも無理もありません。しかし何と言ってもこの時彼らが恐れたのは、イエス様が水の上を歩いて来られたからです。人間が水の上を歩くなんて考えられません。それは自然の法則を超えています。人はみな何か超自然的でこの世のものではないようなものに突然出くわしたら、誰でも恐怖を感じるものです。特にそれが夜であれば、なおさらのことです。ですから、決してこの時の弟子たちを責めることはできません。

 

しかし、彼らが理解していなかったことが一つだけありました。それは、イエス様は単なる人間ではなかったということです。イエス様は人間以上の方でした。確かに普通の人間なら水の上を歩くことはできないでしょう。しかし、イエス様はただの人間ではありませんでした。人間の姿をとってこの世に来られた神でした。ですから、この方にとってできないことは一つもないのです。最初に水を創造された方にとってその上を歩くことは、それを創造なさるのと同じくらい簡単なことだったのです。むしろ、それができないという方がおかしいのです。

 

ある人たちは、いや、イエス様は実際には水の上を歩いたのではないと言います。ただ弟子たちが勘違いしただけだと言うのです。イエスは、舟に近い岸を歩いていただけだったのに弟子たちの恐怖心から来た迷信によって、そのように思い込んでしまったというのです。でも、そうではありません。イエス様は本当に水の上を歩かれました。それは、マタイの福音書にあるもう一つの事実を見るとわかります。マタイの福音書には、この時幽霊だと思った弟子たちに、主が「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われると、ペテロが、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください。」(14:28)と言ったことが記されてあります。それで、イエス様が「来なさい」と言うと、ペテロは舟から出て、湖の上を歩いてイエスの方に行きましたが、強風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫びました。(マタイ14:30)つまり、もしこれが本当に水の上でなかったら、ペテロが沈みかけるということはなかったということです。これは本当に水の上での出来事だったのです。また、もしイエス様が岸から4~5キロメートルも離れたところにいたのであれば、どうやって岸辺を歩いていたイエス様の姿を見ることができたでしょうか。できません。どんなに弟子たちが若かったとしても、4~5キロメートル先までは見えなかったでしょう。視力が8.0、10.0と言われているアフリカのマサイ族でさえ、そんなに遠くまでは見えません。ですから、イエス様が水の上を歩かれたというのは、本当に起こった出来事であり、主の力ある御業だったのです。

 

けれども、弟子たちは、それを見た時幽霊だと思いました。まさか人が水の上を歩くことができるとは思わなかったからです。彼らは、不安と恐れの中で信仰を働かせることができませんでした。彼らはほんの数時間前に驚くべき奇跡を体験していたにもかかわらずです。彼らは、5つのパンと2匹の魚で、男だけで五千人の人たちの空腹が満たされるという主の驚くべき奇跡を体験しました。しかもそれを主のみそば近くではっきりと見ました。その手で配りました。そして、残ったものを数えると12のかご一杯であったことも頭の中に焼き付けていました。それなのに、あたかも主のことを知らず、体験もしていない者と同じような反応をしたのです。せっかく間近で体験させていただいた奇跡が、彼らの信仰の中にちっとも生きていなかったのです。信仰はただ単に頭の中に記憶することでなく、キリストの言葉を実際の生活に適用することが大切なのです。

 

あなたはどうでしょうか。不安や恐れにさいなまれるような状況に置かれた時、どのように対応するでしょうか。目の前の状況に目が行ってしまい、イエス様から目を離してしまうということはないでしょうか。恐れに支配されているということはありませんか。しかし、大切なのは、イエス様を見ることです。そして、そこにすべてを支配しておられる主がおられることを認め、「主よ、助けてください。」と叫ぶことなのです。そうすれば、主が助けてくださいます。

 

Ⅱ.わたしだ。恐れることはない(20)

 

主はどのように助けてくださるのでしょうか。次に、そんな弟子たちに対するイエス様の対応を見たいと思います。20節をご覧ください。ご一緒に読んでみましょう。

「しかし、イエスは彼らに言われた。『わたしだ。恐れることはない。』」

イエス様は、幽霊だと思って恐れていた弟子たちに、「わたしだ。恐れることはない。」と言われました。イエス様は、弟子たちが恐れているのをご覧になると、まず彼らの心を静めようとされました。どのようにして静めようとされたのでしょうか。主は弟子たちに対して、「わたしだ。恐れることはない。」と言われ、彼らが見ているものは霊や幽霊ではなく、あるいは、敵や恐怖の対象でもなく、彼ら自身が愛してやまないイエス様ご自身であることを示されたのです。弟子たちは、すぐにそれがイエス様であることがわかりました。なぜなら、彼らはいつもイエス様の声を聞いていたからです。声って不思議ですね。見なくてもわかります。最近は「オレオレ詐欺」が流行っているようですが、自分の息子の声でも間違えることがあるんですね。もう息子だと思い込んで聞いていますから、そのように聞こえるのでしょう。それは注意しなければなりません。しかし、イエス様の声は間違えません。どんな声だったかわかりませんが、その声は、彼らの心を静めるのに十分でした。

 

皆さん、私たちも人の声を聞くと恐れてしまいます。あの人はこう言った、この人はこう言ったと、人の声に振り回されると恐れと不安に陥ってしまうのです。でも主の声を聞くなら、私たちを恐れさせる一切のものは消え去るでしょう。イエス様はこのように言われました。

「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。」(マタイ10:28-31)

主は、あなたは髪の毛の数さえすべて知っておられます。あなたの髪は何本ありますか?わからないでしょう。あなたでもわからないことでも、イエス様はすべて知っておられます。この主の言葉を常に聞き、すべてのことにおいて主を認めるなら、私たちを恐れさせるものは何もないのです。最も厚い雲と暗闇を貫いて、また、最もうるさい風や嵐を越えて、「わたしだ。恐れることはない。」という主の御声を聞くことができる人は何と幸いでしょうか。

 

ところで、この「わたしだ」という言葉ですが、これは原文のギリシャ語では「エゴー・エイミー」という言葉が使われています。これは、ユダヤ人によく知られていた神の御名です。昔、神がイスラエルをエジプトから救う時、そのためにモーセを遣わされましたが、モーセは一介の羊飼いにすぎない自分に何ができようかと断りました。その理由の一つは、自分がエジプトにいるイスラエル人たちのところへ行き、「あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた」と言っても、彼らは「その名は何か」と聞くでしょう。その時何と答えたら良いのか、というものでした。その時、神はモーセにこう仰せられました。

「わたしは『わたしはある』という者である。・・あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」(出エジプト記3:14)

これが永遠にわたる神の名です。それにしても不思議な名前です。どうして不思議に感じるのかというと、これは英語では、「I AM WHO I AM.」となっています。普通、I amの後には何らかの単語が来ますよ。たとえば、I am a student.(私は生徒です)とか、I am a doctor.(私は医師です)というように。 それなのに、ただ I am だけです。日本語に訳せば、「私は~である」です。この「~」がないのです。これはどういうことかというと、神様はほかの何にも依存しない方であるという意味です。自分自身で存在することができる方であられるということです。すべての存在の根源であられます。私たち人間はそうではありません。私たちは何かに依存しなければ生きていくことはできません。たとえば、私たちが生きていくためには水や空気がなければ生きることはできません。また、食べ物も必要です。小さな時は両親の手によって助けられ、自立してからもいつも周りの人に助けられながら生きてきました。年を取ると家族のお世話にならければなりません。人はみなだれかに助けられ、だれかに依存しながらでなければ生きていくことができないのです。けれども神はそうではありません。神は「わたしはある」という方です。ほかの何にも依存しない方、すべての存在の根源であられる方なのです。

 

そして、このヘブル語をギリシャ語に訳した時、そこで使われた言葉が「エゴー・エイミー」なのです。イエス様がここで言われた「わたしだ。恐れることはない」の「わたしだ」です。「It is I」です。イエス様こそ、すべての存在の根源であられる方であるということです。イエス様はこのことをご自分ではっきりと宣言されました。このヨハネの福音書8章58節です。

「イエスは彼らに言われた。『まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から「わたしはある」なのです。』」

イエス様は、「わたしはある」という方なのです。すべての存在の根源であられます。すべて存在の根源であり、すべてを創造された方が、私たちとともにおられるのです。であれば、私たちは何を恐れる必要があるでしょうか。何も恐れる必要はありません。この方がともにおられますから、何も恐れることはないのです。私たちにとって必要なのは、目の前の問題を見て恐れることではなく、「わたしだ」と言われる主の御声を聞いて、この方を舟の中に迎え入れることです。

 

先日、天国に召されたY姉妹の愛唱聖句は、イザヤ書41章9~10節でした。

「わたしはあなたを地の果てから連れ出し、地の隅々から呼び出して言った。『あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、退けなかった』と。恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」

何と力強いみことばでしょうか。葬式でもお話ししましたが、Y姉は、本当に平安のうちに天国に召されました。死を前にして恐れない人がいるでしょうか。どんなに強がって見ても、やはり死ぬことには恐れがあります。ご病気になられてからY姉を訪ねてご自宅を伺ったとき、Y姉はこう言われました。「先生、やはり死ぬことは怖いです。でも、信仰ってすばらしいですね。平安が与えられるんですから。イエス様のもとに行くということがわかっているから、平安があるんです。ただできるだけ苦しまないで行きたいですね。」その言葉通り、最後はあまり強い薬を服用することなく、静かに、眠るようにして、平安のうちに、イエス様の許へ旅立って行かれました。

 

皆さん、信仰ってすばらしいですね。このイエス様の御声をいつも聞いて歩めるのですから。聖書には「恐れるな」という言葉が365回書かれていると言われています。すなわち、一日に一回「恐れるな」と言っていることになります。しかし、もっと大切なことは、その前のイザヤ書41章9節の御言葉です。

「わたしはあなたを地の果てから連れ出し、地の隅々から呼び出して言った。『あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、退けなかった』と。

ここには、なぜ恐れないのか、その理由が書かれてあります。それは、イエス様が私を地の果てから連れ出し、地の隅々から呼び出し、「あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、退けなかった。」と言われたからです。つまり、イエス様が私たちを罪から贖い、ご自身の民としてくださったからです。本当に罪に汚れた小さな者を、神は選んで、退けませんでした。愛してくださったのです。だから、恐れないのです。神が私ともにいますから。たじろぎません。神は私の神だから。神は私を強くし、私を助け、その義の右の手で、私を守ってくださるからです。

 

詩篇56篇11節には、「神に信頼し私は何も恐れません。人が私に何をなし得るでしょう。」とあります。この詩篇の作者は、神様の力を知って、理解していたので、何が起こったとしても神様に信頼すると告白することができたのです。恐れに打ち勝つための鍵は、神様であられるイエス様に完全に信頼する事にあります。つまり、イエス様に信頼する事は恐れに支配される事を拒否する事であるとも言えるのです。神様に信頼するとは、つらくて、つらくてたまらない時にも神様を見上げ、神様が事を解決してくださると信じる事です。このような信頼は神様を知り、神様があなたを罪から贖ってくださった救い主であると信じる事から始まります。聖書に書かれている数々の艱難の中でも特筆されるほどに人生のどん底にいたヨブは、神が私を殺しても、私は神を待ち望む(ヨブ13章15節)と言いました。
神様に信頼する事を学んだなら、私たちを襲ってくる数々の事柄におびえる事はなくなるでしょう。詩篇5篇11節には、「どうかあなたに身を避ける者がみな喜びとこしえまでも喜び歌いますように。あなたが彼らをかばってくださり御名を愛する者たちがあなたを誇りますように。」とあります。私たちも主に身を避けるなら、どんなに恐れにさいなまれることがあっても、とこしえまでも喜び歌うようになれるのです。それは、主に身を避けることを知っている者にだけ与えられた、豊かな主の恵みなのです。

 

Ⅲ.すると、舟はすぐに目的地に着いた(21)

 

では、その結果、弟子たちはどうなったでしょうか。21節をご覧ください。

「それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。すると、舟はすぐに目的地に着いた。」

 

イエス様の御声を聞いた弟子たちは、喜んでイエスを舟の中に迎え入れました。すると、舟はほどなく目的地に着きました。イエス様抜きではどんなに努力しても徒労に終わってしまう者でも、イエス様を主として心の中に迎え入れる時、私たちはすぐに目的地に到達することができるということです。多くの人々は、イエス様なしでも十分やっていけると思っています。すべてが順調にいっている時は、それでもいいでしょう。しかし、いつもそうであるとは限りません。夫婦関係や親子関係、あるいは他の人との人間関係において、あるいは、職場や学校や家庭の台所で直面する様々な場面において、私たちは常に嵐に遭遇します。そのような時、人間の力というものがいかに弱く、もろいものであるかということを、私たちはこれまでの人生において幾度となく経験してきました。しかし、この方を心の舟に迎え入れ、この方とともに人生の舟を進めていくなら、必ず目的地に到着することができるのです。

 

イエス様は、水や風、嵐や暴風の主であり、最も深い暗闇に包まれた時に、湖の上を歩いて私たちのもとに来てくださる方です。私たちの人生にはガリラヤ湖の波よりも、はるかに大きな問題があります。最もきよいクリスチャンの信仰を試す、暗闇の日々があります。しかし、すべての存在の根源であられるイエス様が私たちを贖ってくださり、私の神となってくださったのなら、決して絶望してはなりません。この方を私たちの人生の主として迎え、この方に信頼して歩むなら、たとい小舟のような小さな者であっても、また、どんなに大きな人生の嵐に遭遇することがあったとしても、なんなくそれを乗り越えて、目的地に到達することができるからです。主は思いもよらない時に、また私たちが予期していなかった方法で、私たちを助けるために来てくださいます。そしてキリストが来られたなら、そこからすべてが始まるのです。あなたも喜んでイエス様を舟に迎えてください。そして、この人生の航路をイエス様とともに進んで行こうではありませんか。

ヨハネの福音書6章1~15節「5つのパンと2匹の魚」

ヨハネの福音書6章に入ります。きょうは、「5つのパンと2匹の魚」というタイトルでお話しします。イエス様が、五つのパンと二匹の魚をもって男の人だけで五千人の人々の空腹を満たされたという奇跡です。この奇跡は、四つの福音書すべてに記録されています。キリストの十字架の死と復活の出来事以外に、四つの福音書すべてに記録されているのはこの奇跡だけです。ですから、これはそれだけ重要な奇跡であったと言えます。これは、ヨハネが記す七つのしるしの第四番目のしるしです。最初のしるしは、ガリラヤのカナで水をぶどう酒に変えるという奇跡でした。二番目は、王室の役人の息子の病気を癒すという奇跡でした。そして三番目しるしは、38年も病気で横になっていた人を癒されるという奇跡でした。そして、これが四番目の奇跡です。

 

Ⅰ.信仰のテスト(1-6)

 

まず1節から6節までをご覧ください。

「その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、ティベリアの湖の向こう岸に行かれた。大勢の群衆がイエスについて行った。イエスが病人たちになさっていたしるしを見たからであった。イエスは山に登り、弟子たちとともにそこに座られた。ユダヤ人の祭りである過越が近づいていた。イエスは目を上げて、大勢の群衆がご自分の方に来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。」

 

「その後」とは、5章の出来事の後でということです。先ほども申し上げましたが、5章には過越しの祭りでエルサレムに行かれたイエスが、ベテスダと呼ばれる池で38年も病気だった人をいやされたことが記されてあります。そして、そのことがきっかけとなって、イエスはご自分がメシヤであるということを証明なさいました。「その後」です。その後、イエスはガリラヤ湖、すなわち、ティベリアの湖の向こう岸に行かれました。舞台がエルサレムからガリラヤへと移っています。しかも、4節を見ると、「ユダヤ人の祭りである過越しの祭りが近づいていた」とありますから、5章の出来事から1年近くが経っていたということになります。ヨハネは、この1年間に起こったほとんどすべての出来事を省略し、このガリラヤ湖、すなわちティベリア湖の向こう岸で起こった出来事を記しているのです。

 

ここに、「ガリラヤ湖、すなわち、ティベリア湖」とあるのは、ヨハネがこれを書いた当時、ガリラヤ湖という名称よりもティベリア湖という名称の方が人々によく知られていたからです。これが当時ガリラヤに住んでいた人たちにとってなじみのある呼び名だったのです。

 

イエス様は、なぜティベリアの湖の向こう岸へ行かれたのでしょうか。マルコ6章31節を見ると、イエスが弟子たちに、「あなたがただけで、寂しいところへ行って、しばらく休みなさい」とあります。出入りする人が多くて、食事をする暇さえなかったのです。それで弟子たちは舟で向こう岸に行ったのです。ところが、行ってみると、そこには大勢の群衆がイエスについて来ました。群衆は、湖の周りを回って、徒歩で駆け付けていたのでしょう。なぜそんなにも多くの人々がイエスについて来たのでしょうか。それは2節にあるように、「イエスが病人たちになさっていたしるしを見た」からです。何か特別な理由があったからではありません。イエス様のご人格やその教えに驚嘆したからでもないのです。しるしを見て驚いたからです。しるしとは、証拠としての奇跡のことです。イエス様は、ご自身がメシヤであることを示すために多くの奇跡を行いました。それで大勢の群衆がイエスについて来たのです。

これが、この世のほとんどの人が集まって来る理由です。一般に人は無力ですから、自分の人生に何か悩みや問題があるとどうしたらよいか分からなくなり、自分の力を越えた力にひきつけられていくのです。10節には、それは男だけで五千人であったとありますから、女の人や子供たちを合わせるとゆうに一万人は超えていたでしょう。それだけ大勢の人がついて行きました。

 

イエス様は、その大勢の群衆がご自分の方に来るのを見ると、ピリポにこう言われました。5節です。「どこからかパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」なぜこのように言われたのでしょうか。6節にその理由があります。「イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。」

イエス様がこのように言われたのは、ピリポを試すためでした。それはピリポがほかの弟子たちと違って、根性が曲がっているから直して上げようと思ったからではありません。このように言うことでピリポの霊的感覚を呼び覚まし、彼の信仰を訓練しようとされたのです。イエス様は、これから何をなさろうとしていたかを知っておられました。それなのに、あえてピリポにこのように言われたのは、彼を試すためだったのです。イエス様は霊的、精神的必要だけでなく、それに伴う実際的生活のすべての必要を満たされると方であるという信仰を持ってほしかったのです。

 

私たちもどこか、霊的、精神的な必要は信仰で、でも実際の生活は自分で何とかしなければならないと思っているところがあるのではないでしょうか。そのため、実際の生活で問題が起こると、それを信仰と切り離して考えようとするのです。そしてにっちもさっちも行かなくなると絶望して、落ち込んでしまうのです。そうではなく、主は私たちの魂の必要だけでなく、肉体の必要も、またそれに伴う実際的な必要もすべて満たしてくださる方であると信じて、天を仰ぎ、主が成してくださるみわざに期待しなければならないのです。

 

Ⅱ.ピリポとアンデレの対応(7-8)

 

それに対して、弟子たちはどのように答えたでしょうか。まずピリポです。7節をご覧ください。

「ピリポはイエスに答えた。『一人ひとりが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。』」

1デナリは、1日分の労働者の賃金に相当します。ですから、200デナリとは、労働者の賃金200日分に相当する金額です。仮に1日1万円の賃金だとすると200万円となります。ピリポは、めいめいが少しずつ取るにしても、200万円分のパンがあっても足りません、と答えました。ピリポはとても理性的、現実的な人でした。男だけで5千人、女の人や子供を合わせるとゆうに1万人は超えるので、このような数字を提示したのでしょう。彼の頭には計算機があって、ピッ、ポッ、パッとはじき出し、「だから無理です、不可能です。」と結論づけたのです。

 

常識的にはそうだったかもしれません。しかし、それが彼の欠点でもありました。彼は、現実的にしか物事を見ることができませんでした。しかし、イエス様が求めた答えはそのように人間の頭で計算して「だからだめだ」と結論付けるのではなく、そうした考えを超えて、神を求める者に、神はすべての必要を満たしてくださるという信仰を持つことでした。もしそこに信仰の目があれば可能な面を見ることができたはずです。主がおられるなら、主が何らかの解決を与えてくださると信じて祈り求めたことでしょう。でも彼は現実的にしか考えることができませんでした。それで「二百デナリのパンでは足りません」と答えたのです。私たちも、ピリポのように、自分の頭で考えて、「だからだめだ」と結論付けることがあるのではないでしょうか。

 

次に、シモン・ペテロの兄弟アンデレです。アンデレはイエス様にこう言いました。9節です。

「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」

アンデレの対応はピリポとは少し違いました。彼は、大麦のパン5つと、魚2匹を持っている少年をイエス様のもとに連れて来ました。もしかすると何とかなるかもしれないと思ったのかもしれません。しかし、結局のところ彼も、「でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」と結論付けています。彼も信仰を働かせることができませんでした。これっぽっちでは何の役にも立たないと勝手に決め込んで、あきらめていたのです。私たちもアンデレのような態度をすることがあります。「たったこれだけでいったい何になるというのか、無理だ、だめだ、できない」と、最後は否定的な言葉を口にしてしまうのです。

 

Ⅲ.余りは12かご(10-15)

 

それのような弟子たちに対して、イエス様はどのようにされたでしょうか。10節から15節までをご覧ください。

10節には、「イエスは言われた。「人々を座らせなさい。」その場所には草がたくさんあったので、男たちは座った。その数はおよそ五千人であった。」とあります。

イエス様はまず人々を座らせました。どうして座らせたのでしょうか。落ち着かせるためです。ルカの福音書には、50人ずつ組みにして座らせたとあります(9:15)。大勢の人々が集まる時はとても大切な配慮です。このようにすることで混乱を防ぎ、秩序を維持することができるからです。

そうして、イエス様はパンを取ると、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられました。(11)。 魚も同じようにして、彼らが望むだけ与えられました。イエス様は、父なる神への感謝を忘れませんでした。そして、弟子たちを用いて配られたのです。

 

するとどうなったでしょうか。12節と13節をご覧ください。

「彼らが十分食べたとき、イエスは弟子たちに言われた。「一つも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい。」そこで彼らが集めると、大麦のパン五つを食べて余ったパン切れで、十二のかごがいっぱいになった。」

「彼らが十分食べたとき」というのは、彼らが満腹したという意味です。これはこの奇跡が現実のものであったことをよく示しています。実際には食べてもいないのに食べたかのように思い込んだというのではなく、実際に食べて満腹したのです。どういうことでしょうか。この出来事を合理的に説明しようとする人たちは、実は大人たちも自分の弁当を持っていたのに、出さないでいたところ、子どもが自分の弁当を出したので、恥ずかしく思い、自分の弁当を出したので、みんな満腹したのだ、と考えます。しかし、これはそういうことではありません。これは奇跡なのです。本当にあったことなのです。その証拠に、余ったパン切れを集めると12のかごがいっぱいになりました。5つのパンと2匹の魚だけでは、一つのかごもいっぱいにはならないでしょう。それなのに、食事の後に余ったパン切れが12のかごいっぱいになるほどであったというのは、明らかに、それが配られている間に奇跡的にパンが増えたことを物語っています。この余ったパン切れだけでも、食事をする前にあった5つのパンの、おそらく50倍もの量であったでしょう。マルコは、パン切れだけでなく、かごに入れられた魚の残りもあったと述べています。したがって、パンとともに魚も奇跡的に増し加えられたのです。

 

いったいこれはどういうことでしょうか。14節をご覧ください。ここに、その結論がこう記されてあります。

「人々はイエスがなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。」

「人々」とは、この奇跡を目の当たりにした人々のことです。その人々は、イエスがなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言いました。「世に来られるはずの預言者」とは、申命記18章15節に約束されている、「モーセのような預言者」のことです。それは、来るべきメシヤ、救い主のことを指し示していました。

 

つまりこの奇跡は、イエスこそ旧約聖書が預言していたメシヤであるということを示す証拠だったのです。特にこの奇跡においては、イエス様が単に壊れたものを治したり、崩れたものを建て直したり、病んでいる人をいやしたり、弱い者を強めたりすることができるということだけでなく、それまで何も無かったところから新しい何かを造り出すことができる創造者であられるということが強調されています。主は、私たちの必要を十分に満たすことができる方なのです。余ったパン切れが12かごであったというのは、「12」という数字が「7」という数字と同じように完全数であることから、これが十分であるということ、完全であるということを表しています。皆さん、信じますか。主はあなたの必要を十分に満たすことができる方なのです。

 

先日の教会総会でビジョン2025について話し合いました。それは2025年までに新しい教会を生み出すというものです。現状を見るなら無理だと感じた方もおられたでしょう。私の中にも、「大丈夫だろうか、どうやってそれができるんだろう」という思いがあります。しかし、大切なのは私たちがどのような者であるかとか、どのような状況にあるのかということではなく、何を第一にしているかということです。神の国とその義とを第一にするなら、神はそれに加えてすべてのものを与えてくださいます。イエス様はこのように言われました

「ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」(マタイ6:25-34)

罪深いこの世界においては、目に見えるものがすべてです。食べ物、飲み物、着物、お金、そうしたものに縛られながら生きています。しかし、これらのものが私たちの罪を赦し、心を満たし、良心をきよめ、平安を与えることはできるでしょうか。できません。私たちの心も体も満たすことができるのは十字架につけられたイエス・キリストと、その死によって成し遂げられた贖いを信じる信仰だけです。神の国とその義とを第一に求めるなら、それに加えて、すべてのものは与えられるのです。

 

よく信仰は日常生活が心配のない、安定した人々がする趣味か娯楽のようなものだと考えている方おられますが、決してそうではありません。むしろ、そうした心配が尽きないこの世の現実の中にあって、神の国と神の義を第一に求めていくことで、神がこれらのすべてを与えてくださるという生ける神を体験することなのです。

 

パウロは、こう言っています。「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」(Ⅰコリント1:18)十字架のことば、キリストの福音は、すべての人の、すべての必要を満たすのに十分なのです。

 

であれば、私たちは、私たちにあるものを主に差し出そうではありませんか。それがたとい5つのパンと2匹の魚のようなわずかな者であっても、それを主が握られるとき、主はそれを何倍にも祝福してくださいます。このわずかな食べ物をイエス様のもとに持って来たのはアンデレでしたが、それは一人の子供のひとり分の弁当にすぎない本当に小さなものでした。しかし、それが主の御手に握られると、男だけで五千人の空腹を満たすことができました。私たちも何の力のない、本当に取るに足りない小さなものですが、それがイエス様の手に握られるなら、子供ひとり分の弁当のような存在でも、主は大きく用いてくださいます。大切なのは、私たちがどのような者であるかということではなく、誰に握られているかということです。

昔、モーセがエジプトに捕らえられていたイスラエルを救い出すために召されたとき、彼は「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」(出エジプト記3:11)

「彼らは自分の言うことを信じず、自分の声に耳を傾けないでしょう。むしろ、「主はあなたに現われなかった。」と言うでしょう。」(出エジプト記4:1)その時、自分はどうしたらいいんですか?

すると主は言われました。「あなたの手にあるものは何か」(出エジプト記4:2)

「杖です。」

主は、「それを地に投げよ。」と言われました。するとそれは蛇になりました。自分は何も持っていないと思っていたモーセでしたが、彼には神の杖があったのです。

私たちも自分には何もないと思っています。こんなわずかなものが何になるだろうと思っているかもしれません。でも、それがどんなにわずかなものでも、信仰をもって主に差し出すなら、主はそれを用いて大いなる御業を成してくださるのです。

私たちの手にあるものは何でしょうか。信仰によってそれを主に差し出しましょう。主は満たしてくださると信じて、主の御業を待ち望みましょう。イエス様が第四のしるしとしてこの奇跡を行ったのは、あなたがこの信仰に生きるためだったのです。

 

ヨハネの福音書5章30~47節「キリストを証しするもの」

ヨハネの福音書5章から学んでおります。イエス様はベテスダの池で38年間も病気で横になっていた人をいやされると、「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」と言われました。するとユダヤ人たちは、ますますイエス様を殺そうとしました。それはイエス様がご自分を神と等しくされたからです。

 

そこでイエス様は、確かにご自身が神の子であると証言されました。しかし、モーセの律法によると、あることを証明するためには二人または三人の証言が必要とされていたので(申命記17:6)、イエス様は、きょうの箇所で四つの証言を取り上げ、ご自身が神の子メシヤであることを証明されるのです。

 

Ⅰ.四つの証言(30-39)

 

まず、30節から35節までをご覧ください。

「わたしは、自分からは何も行うことができません。ただ聞いたとおりにさばきます。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたしは自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方のみこころを求めるからです。もしわたし自身について証しをするのがわたしだけなら、わたしの証言は真実ではありません。わたしについては、ほかにも証しをする方がおられます。そして、その方がわたしについて証しする証言が真実であることを、わたしは知っています。あなたがたはヨハネのところに人を遣わしました。そして彼は真理について証ししました。わたしは人からの証しを受けませんが、あなたがたが救われるために、これらのことを言うのです。ヨハネは燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で大いに喜ぼうとしました。」

 

まず、イエス様はバプテスマのヨハネの証言を取り上げます。彼の証しについては、既に1章19節からのところで見てきました。彼は、当時、キリストではないかと人々から思われていたほど偉大な人物でした。しかし、その彼が、「私はキリストではありません」(1:20)とはっきりと否定し、「私その私の方は私の後から来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません。」と証ししました(1:27)。イエス様はここで再びそのヨハネの証しを取り上げているのです

33節には、「あなたがたはヨハネのところに人を遣わしました。そして彼は真理について証ししました。」とあります。また35節には、「ヨハネは燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で大いに喜ぼうとしました」とあります。ここでヨハネのことが過去形で書かれてあるのは、おそらくイエス様がこのことを語られた時、すでに彼はヘロデ王に殺されていたからではないかと考えられます。しかしこの殉教者ヨハネの忠実な証しを、イエス様は決してお忘れにはなりませんでした。その証しを高く評価されたのです。私たちはこのことに心を留めたいと思います。私たちも、この世では何の評価も受けることのない小さな者に過ぎませんが、主はこのような者の証しを高く評価して用いてくださいます。いったいそれはどうしてでしょうか。

 

その理由が34節にあります。「わたしは人からの証しを受けませんが、あなたがたが救われるために、これらのことを言うのです。」新改訳第三版には、34節の冒頭に「といっても」という言葉があります。「といっても、わたしは人の証言を受けるのではありません。」確かにヨハネの証しは高く評価されるものですが、だからといって、イエスが神であるということを立証するために人からの証を必要としているわけではないということです。イエス様がここでヨハネの証言を取り上げ、これらのことを言ったのは、「あなたがたが救われるため」、すなわち、ユダヤ人たちが救われるためでした。彼らが救われるためにヨハネの証言が必要だったのです。彼らがバプテスマのヨハネが証ししていたことを思い出し、「ああ、そう言えば、あのバプテスマのヨハネも言っていた」と思い出し、救われるためです。つまり、私たちの証しは本当に小さなものですが、主はこのような小さな者の証しさえ人々の救いのために用いてくださるということです。

 

一昨日、さくらチャーチのY姉が天に召されました。昨年6月に末期の膵臓癌であることが判明してから8か月、神様に守られて実に安らかな日々を過ごされまた。ご主人の死をきっかけに教会に導かれキリストの信仰に導かれたのは60歳の時でした。数々の試練がありましたが、それでも毎朝早く起きて聖書に向かい、聖書通読に励みました。そのためか礼拝の中で祈っていただくと語られた聖書のことばを的確にとらえることができただけでなく、それをご自分の生活に適用することができました。先輩のクリスチャンからは「聖書を読むだけではね・・・」と言われましたが、確かに聖書を読むだけでは変わらないかもしれません。しかし、聖書全体の流れを掴むことができ、聖書が語っているイエス・キリストの恵みに生きることができました。回りの方が「悩んでいると「大丈夫だから、イエス様にゆだねればイエス様が解決してくれるから」と言って励まし、そのことばをご自分でも生きられました。そのため、病の中にあっても実に平安でした。それは死をも乗り越えていました。Y姉が書かれた証の最後には、このヨブ記のみことばが記されてありました。

「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1:21)

T姉の信仰は目立たない小さな証であるかのようでしたが、その証に多くの人々が励まされ、中には信仰に導かれた方もおられます。私たちもそのような者でありたいと思います。私たちも本当に小さな者にすぎませんが、主はこのような忠実な証を用いてくださるのです。

 

次にイエス様が取り上げておられる証言は、ご自身が行っているわざそのものです。36節をご覧ください。

「しかし、わたしにはヨハネの証しよりもすぐれた証しがあります。わたしが成し遂げるようにと父が与えてくださったわざが、すなわち、わたしが行っているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わされたことを証ししているのです。」

この「わざ」とは、具体的には奇跡のことです。これまでにイエス様は、水をぶどう酒に変えたり、王室の役人の息子をいやしたり、ベテスダの池で、38年間も病気で横になっていた人をいやされました。6章に入ると、 5つのパンと2匹の魚で男だけで五千人の人たちの空腹を満たされる奇跡を行われます。また、10章には死んだラザロを生き返らせる奇跡も行われます。いったいこれらの奇跡は何のために行われたのかというと、イエスが神の子、メシヤであることを証明するためでした。

 

当時のユダヤ人たちは、そのようなイエス様が行われたわざを否定することはしませんでしたが、それを見た人たちがイエス様を信じないようにその意味を変えました。つまり、イエスが行われた業は悪霊によって行われたと言って、ごまかそうとしたのです。

今日でも聖書の中に出てくる奇跡を受け入れることができない人がたくさんいます。そんなことは自然の法則では考えられないし、そんなものを受け入れたら自然法則そのものが破壊されてしまうと言うのです。しかし、奇跡を認めることは決して自然法則を無視することとではありません。なぜなら、奇跡というのは自然に反するものではなく、自然を超えていることだからです。神様は元々この天地万物を創造されましたが、それをどのように保っておられたのかというと自然の法則によってです。ですから、自然の法則そのものは与えられたものなのです。しかし、神は万物の主として、時として危機的な状況に思われる時や、特別にご自身のご介入が必要だと思わた時には、超自然的な御業行われたのです。ですから、奇跡は自然に反しているのではなく、自然を超えているのです。

 

ですから、それはむやみやたらと起こることではありません。確かにどの時代でも神の奇跡的なみわざが見られますが、聖書を見ると、奇跡が集中的に起こった時代が4回あったことがわかります。一つは、出エジプトの時です。それは紀元前1,400年頃のことですが、モーセを通してイスラエルがエジプトから救い出される時、神は様々な奇跡を通して圧倒的な力を見せられました。モーセが手を上げて祈ると紅海が二つに分かれ、目の前に乾いた所が現れてそこを通って救われました。彼らが荒野に導かれると食べ物や飲み物がなくて苦しん見ましたが、神は天からマナを降らせて養ってくださいました。パンだけでは足りない、肉も食べたいと言うと、今度はうずらも降らせました。水が無くて苦しい時は、岩から水がほとばしり出るようにされました。どうしてこのような奇跡が起こったのでしょうか。これはイスラエルの歴史において極めて重要な時だったからです。神のご計画はイスラエルを救い出し、約束の地へ導くことだったのです。それはやがて来られるキリストが、私たちを罪から救ってくたさることを示していたからです。

 

次にエリヤとエリシャどの預言者の時代です。紀元前900年頃です。その時代の特筆すべき出来事は、エリヤがバアルの預言者450人と戦ったことです。本当の神は火をもって答えてくださる神です。主こそ神であるということを示すために、主は火をもって答えてくださり、祭壇の上に用意した雄羊も、その上に注がれた水もすべてなめ尽くすように焼いてしまいました。これは当時のイスラエルが、バアル礼拝による本当の神礼拝の危機に直面していたからです。それで神は奇跡をもってご介入くださったのです。

 

第三は、イスラエルの民がバビロンに捕らえられていた時代です。紀元前580年頃のことです。ネブカデネザルの金の像を拝まなかったダニエルの三人の友だちシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは燃える炉の中に投げ込まれました。しかし、神は彼らをその炉の中から助け出してくださいました。それでネブカデネザル王は、ダニエルの神こそまことの神であることを知りました。この時代は生きておられるまことの神への信仰が、異教の地で危機に直面していたので、神は奇跡的なみわざをもってご介入くださったのです。

 

そして第四は、イエス様が生きておられた時代です。それは神が人となって来られた時です。神が人となって来られたことを証明するために、キリストは神としてのみわざを成されました。それが証拠としての奇跡です。

 

このように見てくると、奇跡がこうした四つの時代に集中したのは、神の奇跡的なご介入を必要としていたからであったことがわかります。それは、今日は奇跡が起こらないということではありません。いつの時代においても、神のご介入が必要な時には起こります。しかし、この奇跡の目的がイエスは神の子キリストであることを証明するためであったということを思うとき、むしろ聖書に記されてあるキリストのみわざを受け入れて信じることが重要であると言えます。

 

三つ目の証は何でしょうか。37節をご覧ください。ここには、「また、わたしを遣わされた父ご自身が、わたしについて証しをしてくださいました。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたことも、御姿を見たこともありません。」とあります。

三つ目の証しは、父なる神の証しです。父なる神ご自身が、キリストについて証しをしてくださいました。イエスがヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマを受けると、天から声がありました。「そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:17)これが、父なる神の証言です。

 

キリストを証しする第四のものは、聖書そのものです。聖書そのものがイエスについて証言しています。39節をご覧ください。ここに、「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。」とあります。ここでいう聖書とは、旧約聖書のことです。ユダヤ人たちは聖書の中に永遠のいのちがあると思って調べていましたが、その聖書は、実はイエス様のことを証ししていました。それなのに彼らは、その中心であるイエスに出会っていなかったというのは、なんという悲劇でしょうか。

 

私たちも、聖書を読むときに注意しなければなりません。もし聖書がただの人生訓として読んだ理、自分の教養を増やすためのものとして読むとしたら、聖書の本質をとらえることができなくなってしまいます。でも、イエス様は、「その聖書は、わたしについて証ししているのです」と言われました。聖書は、イエスについて証言しているのです。イエスこそ、私たちに罪の赦しと永遠のいのちを与えてくださる救い主である・・と。これは、決して動かしてはいけない聖書の軸です。このイエスの救いのみわざを通して読むときに、本当の意味で聖書を理解することができるようになるのです。

 

Ⅱ.キリストの証を受け入れない理由(40-44)

 

では、なぜ彼ら(ユダヤ人)はキリストの証しを受け入れることができなかったのでしょうか。40節から44節までをご覧ください。ここには、彼らがキリストの証しを受け入れることができなかった3つの理由が挙げられています。

 

第一に、彼らはキリストのもとに来ようとしませんでした。40節にこうあります。「それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」

彼らは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って聖書を調べていましたが、肝心のキリストのところに来ようとしませんでした。ここに、多くの人々がキリストを信じようとしない理由があります。それはキリストのもとに行こうとする意志がないということです。キリストのもとに行こうという気持ちもなければ、行きたいとも思っていません。本当に救われたいという思いがあるならば、その人は自ずとキリストのみもとに来るはずです。つまり、人が救われない本当の原因は、聖書が難しいからでも、毎日忙しくて時間がないからでもありません。また、聖書がある特定の一部の人たちだけのものだからでもありません。神から無条件に差し出されている救いの招きに対して、それを受け入れる意思がないからなのです。

 

先日、ある未信者のご婦人から電話の相談がありました。数年前に自分のへそくりで株を初めかなり儲けましたが、昨年大きな損失を出してしまい、寝ても覚めても株のことで頭が一杯になっているがどうしたら良いかということでした。当然、家族のことを顧みる余裕もありません。夫とはほとんど会話もなく、近くに住んでいる孫が来ても株のことが気になって、正直来てほしくないという気持ちになるのです。

「株をやることが問題ではありませんが、株に縛られているのが問題ですよ。もっと大切なものを求めた方がいいんじゃないです。」と言うと、「もっと大切なものって何ですか」と言われたので、「私は牧師なのではっきり言いますが、それはイエス・キリストです。永遠のいのちです。このまま株をやり続けたら破滅に至ります。でもイエス・キリストを信じるならいのちに至ります。」と言うと、「それってキリスト教になるということですか」と言われるので、どうしようかな、いろいろ説明しても混乱すると思ったので、「はい、そういうことです。しかし、キリスト教になるとかならないということではなく、それを求めることが必要です。どうぞ近くの教会に行ってみてください。」と勧めました。すると意外にも、「はい、わかりました。」と言って教会に行かれたのです。歩いても生けるところに福音的な教会があって、その教会では水曜日に水曜礼拝が行われていたので、それに行きました。

翌日、メールが来まして、こう書かれてありました。

「お金より大事なものって、結局何なのでしょうか・・・?大きなお金を失ってまで気づく大事な事はあるのでしょうか。今朝目をつけていて、でも買わなかった株が、今日一日で10万円以上上がっていて、買っておけばよかったと、まだ思ってしまい、、、。昨年の失敗をいい教訓に、これから慎重に銘柄を選んだり頑張れば少し取り戻すことはできるのではないかと、少し思いますが、時間はとられます。今、損をしたままやめてしまっても、このあとの人生、そういうものが見つかると思っていいのでしょうか?もし、分かりやすい言葉で、それが何か教えていただけるのであれば、教えていただきたいと思いまして、大変厚かましいのですが、メールをさせていただきました。」

そこで私は、星野富弘さんが書いた詩で「いのちよりも大切なもの」を紹介し、それがイエス・キリストであることと、それはお金を失ったとしても真に満足と平安を与えてくれるものです」と伝えると、「よく分かりました。頑張って、教会に通ってみたいと思います。星野さんがイエス・キリストに出会われていたことも知りませんでした。詩集も読んでみます。本当にありがとうございました。また、何かありましたら、よろしくお願いいたします。ありがとうございました。」と書いてありました。

私はそのメールを見てとてもうれしかったです。何のために生きているのかがわからなかった方が、イエス様を求めて教会に行くようになったのです。これってすごいことだと思うのです。どうして彼女は教会に行こうと思ったのでしょうか。それは彼女が求めていたからです。このままではいけない、何とかしなければならない、どうしたらいいのか、そこでイエス様のことを聞き、行きたいと思うようになったのです。私の知っている限り、その後日曜日に続いて行っておられます。どんなにお話ししても、その人の中に行きたいという思いがなければ行くことはできません。難しいからではありません。理解できないからでもないのです。行こうという意志があるかどうかです。もし行こうという意志があれば、もっと知りたいという思いがあれば、必ずわかるようになります。

 

ちなみに、彼女に送った星野富弘さんの「いのちよりも大切なもの」という詩は、このような詩です。

「いのちが一番大切だと思っていたころ生きるのが苦しかった。 いのちより大切なものがあると知った日生きているのが嬉しかった」

この「いのち」とは肉体のいのちのことです。また、お金や名誉や財産といったこの世のものを指しています。それが一番大切だと思っていたころは生きるのが苦しかった。でもいのちよりも大切なもの、これはイエス・キリストのことです。永遠のいのちのことです。それがあると知った日生きるのが嬉しくなりました。

あなたもこのいのちよりも大切なものを求めてみませんか。そうすれば、生きるのが嬉しくなりますから。

 

第二の理由は、神からの栄誉を求めないで、人からの栄誉を求めていることです。41節をご覧ください。ここには「わたしは人からの栄誉は受け入れません。」とあります。だれからの栄誉を受け入れるのですか。44節です。「唯一の神からの栄誉」です。イエス様は、人からの栄誉ではなく、神からの栄誉を求めました。しかし、ユダヤ人はというと、反対に神からの栄誉を求めないで、人からの栄誉を求めていました。そういう人が、どうして信じることができるでしょうか。確かに神の栄誉よりも人の栄誉を求めている間は、本当の信仰を持つことはできないでしょう。そうした名声や評判が障害になって、イエス様のもとに来るのを妨げてしまうからです。

 

第三の理由は、42節と43節にあります。「しかし、わたしは知っています。あなたがたのうちに神への愛がないことを。わたしは、わたしの父の名によって来たのに、あなたがたはわたしを受け入れません。もしほかの人がその人自身の名で来れば、あなたがたはその人を受け入れます。」

つまり、神への愛がないということです。彼らの関心は自分のことだけでした。ですから、キリストがほかの人の名で来たのであれば、受け入れたでしょう。たとえば、家内安全、商売繁盛の神だったら喜んで受け入れたでしょう。家内安全、商売繁盛を願うことが問題なのではありません。しかし、そのようなことを願うだけで真の神を求めていないとしたら問題です。それは神ではなく自分を愛しているだけです。彼らの関心はこの地上のことだけです。

 

パウロは、ピリピ2章21節でこう言っています。「みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいません。」こうした傾向は世の終わりが近づけば近づくほど顕著になっていくでしょう。なぜなら、世の終わりの最大のしるしは、「多くの人の愛が冷える」ことだからです。イエス様はマタイの福音書24章で、世の終わりが近くなると偽預言者が現れて、多くの人を惑わし、不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えて行くと言われました。だれもイエス・キリストのことを求めないで、自分が良ければいいという時代に入って行きます。いや、もうそのような時代に入っています。このような心で、どうして信じることができるでしょうか。

 

皆さんはどうですか?聖書からイエス・キリストについて学んでも、なかなか信じることができないという方がおられるでしょう。それは聖書が難しいからでも、神様のことがわからないからでもありません。それはあなたの心に問題があるからです。つまり、キリストのもとに行こうという気持ちがないこと、また、神からの栄誉ではなく人からの栄誉を求めていること、そして、神を愛しているのではなく自分を愛していることです。そのような状態でどうして信じることができるでしょうか。信仰とは、聖書が教えているキリストを虚心坦懐に受け入れ、この方に対して純粋な思いを持つことから始まります。自我が砕かれ、イエス様を救い主として受け入れることができるように求めましょう。

 

Ⅲ.聖書を信じる(45-47)

 

ですから結論は何かというと、聖書を信じましょう、ということです。45節から47節までをご覧ください。

「わたしが、父の前にあなたがたを訴えると思ってはなりません。あなたがたを訴えるのは、あなたがたが望みを置いているモーセです。もしも、あなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことなのですから。しかし、モーセが書いたものをあなたがたが信じていないのなら、どうしてわたしのことばを信じるでしょうか。」

 

ここに「モーセ」が出てきます。「モーセ」とは何でしょうか。モーセとはモーセが書いた書、つまりモーセ五書のことです。広い意味では旧約聖書全体のことを指しています。当時のユダヤ人はモーセの書を信じていました。であれば、キリストをも信じたはずです。なぜなら、モーセが書いたのはキリストのことであったからです。聖書を学べば学ぶほど、聖書を知れば知るほど、キリストのもとに来るようになるはずなのです。それなのに、そうでないとしたら、どこかおかしいのです。つまり、彼らは本当の意味で聖書を知らなかったということです。聖書読みの聖書知らずということが起こっていました。どうしてでしょうか。悪魔によって覆いが掛けられているからです。このことについてパウロはこう言っています。

「しかし、イスラエルの子らの理解は鈍くなりました。今日に至るまで、古い契約が朗読されるときには、同じ覆いが掛けられたままで、取りのけられていません。それはキリストによって取り除かれるものだからです。確かに今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:14~18)

どんなにモーセの書が読まれても、そこにキリストを見ない限り、その覆いが取り除かれることはありません。しかし、人が主に向くなら、その覆いは取り除かれます。今日、聖書に対する破壊的な批評や攻撃がなされるのは、この覆いが取り除かれないようにする、まぎれもない悪魔の攻撃があるからです。聖書の権威を否定し、聖書を人間の著作と少しも変わるところのないものとする考えが、幅を利かせているのです。それは、人々からこの覆いが取り除かれないようにしている悪魔の巧妙な策略です。ですから、私たちは聖書は神のことばであると信じ、もう一度聖書に立ち返り、キリストのみもとに来なければなりません。そうすれば、私たちの心から覆いが取り除かれ、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていきます。キリストに対する純粋な思いがあれば、キリストについての証を受け入れ、必ずや純粋な信仰を持つことができるようになるのです。

 

あなたもキリストを証しするこれらの証を受け入れてください。受け入れてキリストのもとに来てください。そして、永遠のいのちを受けてください。もう既にキリストを信じている人でもキリストから離れていることがあります。そういう人がいたら、キリストについてのこれらの証を受け入れ、ここにいのちがあるという確信を持ち、キリストに深く信頼して歩みましょう。

ヨハネの福音書5章19~29節「神と等しい方」

ヨハネの福音書5章から学んでおります。きょうは、イエスは神と等しい方であるということをお話しします。前回のところには、ベテスダと呼ばれる池の回りで38年も病気で横になっていた人を、イエスがいやされたことを学びました。しかし、その日が安息日であったことから、ユダヤ人たちは、「床を取り上げて歩け」と言ったのは誰かを問題にしました。そして、それがイエスであるとわかると、彼らはイエスを迫害し始めるようになりました。

すると、イエスは彼らに言われました。17節です。「私の父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」(4:17) 彼らはこの言葉を聞くとますます怒り、イエスを殺そうとするようになりました。なぜなら、イエスが安息日を破っただけでなく、ご自分を神と等しくされたからです。

このことは、とても重要なことです。つまり、イエスはどのような方であるかということです。そして、ここにははっきりと、イエスは神と等しい方であるということが記されてあります。きょうはその理由を、イエス様ご自身の言葉から三つのポイントでお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.父なる神がなさることを同様に行われた方(19-23)

 

まず、19節から23節までをご覧ください。

「イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。 父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。」

 

なぜイエスは神と等しい方であると言えるのでしょうか。その第一の理由は、イエスは父なる神がなさることと同様のことを行われる方であられるからです。19節、ここでイエス様は、「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。」と言っておられます。これはどういうことかというと、ご自分が神と等しい者であるということです。

 

ここで注目したいことは、イエス様がご自分のことを「子」であると言っておられることです。「子」であれば当然「父」がいるわけで、その「父」とはだれかというと「神」です。イエス様はご自分と神との関係を、父と子との関係で語られたのです。これは極めて重要なことです。なぜなら、イエスが父なる神と親密な関係であることを示しているからです。ただ親密であるというだけではありません。イエスは子なる神として、父なる神がなさる通りのことを行われるということです。それは、ちょうど子どもが親のまねをするようなものです。子どもが親のまねをして親が行うことを何でもしようとするように、子なる神も父なる神がなされるのを見て、それと同じ様になさるのです。いや、それ以外のことは、何もなさいません。すべて父がなさることを、同様に行うのです。ただ人間の子どもと違う点は、人間の子どもであれば親のまねをしようとしてもできないこともありますが、子なる神は、父なる神がなさることと、同様に行うことができるという点です。

 

なぜイエスは、父なる神が行われることだけを行われるのでしょうか。その理由が20節にあります。「それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。」どういうことでしょうか?この「父が子を愛し」の「愛」ですが、これは神の愛ですから当然「アガペー」の愛が使われているかと思いきや、そうではなく、「フィレオー」という言葉が使われています。これは、これは心情的な愛を表しています。「好き」とか、「いとしい」、「かわいい」などの気持ちが伴う愛です。自分にとって大切なものを愛し、いとおしむ愛のことです。これは、親子の間や、夫婦の愛、兄弟愛、師弟愛、恋愛、友情などに見られるような心情的な愛です。しかし、神の愛は好き嫌いの感情をも超えた愛です。相手が好きであろうと、嫌いであろうと、その人を愛します。その人に対して最善となるものは何であるかを考え、相手が誰であろうと善を行なうのです。この愛は、敵をも愛する愛です。これが「アガペー」の愛です。この愛が使われるのが自然だと思うのですが、そうではなく「フィレオー」の愛が使われているのです。いったいどうしなのか?

 

それは、親子の間に親密な関係が成り立つためには、この愛が必要であるということです。相手を愛おしむような温かさがなければ互いに親密になることはできません。それは親子の関係だけでなく、すべての関係において言えることです。「ラポール」という言葉があります。「心が通い合っている」「どんなことでも打明けられる」「言ったことが十分に理解される」と感じられる関係のことです。そこに信頼関係が築かれて行く。このような関係が必要であるということです。父なる神と子なる神との間にはこうした関係がありました。ですから、ご自分がすることをすべて、子にお示しになることができたのです。

 

そればかりではありません。ここには、「これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。」とあります。「これよりも大きなわざ」とは何でしょうか。それは21節にある内容です。すなわち、「父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。」ということです。これはどういうことかというと、22節にあるように、すべての人をさばく権威をキリストにゆだねられたということです。いのちを与えることとさばくことは、何よりも神のみわざです。旧約聖書には、神が最終的な裁き主であるとされています。そのさばきが、ここではキリストにゆだねられているのです。つまり、キリストこそ裁き主であり、神ご自身であられるということです。

 

これは驚くべきことではないでしょうか。イエス様はこの世界の創造主であられるというだけでなく、私たちのいのちを支配しておられる方であり、私たちを正しくさばかれる方です。いのちを与えたい者には与え、そうでない者には取られる権威を持っておられる。それは単にこの肉体のいのちだけでなく、霊のいのち、永遠のいのちにおいても言えることです。

 

このことからどんなことが言えるでしょうか。23節をご覧ください。ここには、「それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。」とあります。イエス様こそ神として敬われるべき方であるということです。ただ偉大な人間として敬われるというだけでなく、神として認められ、敬われるべきお方なのです。

 

この点で、ユダヤ人たちは大きな過ちを犯していました。彼らは、イエス様がご自分を神と等しくされたと殺そうとしましたが、それこそ大きな過ちでした。イエス様は神と等しい方であり、神として敬われるべき方です。それを人間のレベルまで引き下げることがあるとしたら、それこそ神を冒涜することになからです。

 

あなたはどうでしょうか。このユダヤ人たちのように、イエス様を偉大な人物の一人ぐらいにしか考えていないということはないでしょうか。神を恐れかしこむのと同じ心で、イエス様を恐れかしこんでいるでしょうか。イエス様がこのようにはっきりとご自分を父なる神と等しい方であることを語られたのは、私たちが驚くためであり、また、すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためです。このことばを受け入れ、イエス様を神として受け入れ、敬う者となりましょう。

 

Ⅱ.永遠のいのちを与えることができる方(24)

 

イエスはどうして神と等しい方であると言えるのでしょうか。その第二の理由は、イエス様は、永遠のいのちを与えることができる方であられるからです。24節をご覧ください。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」

ここにも、「まことに、まことに」とあります。これは「本当にその通りです」という意味です。これが

真実であるということを強調しているのです。では、何が真実なのでしょうか。キリストのことばを聞いて、キリストを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持つということです。これはすばらしい約束です。皆さんで声に出してもう一度読んでみましょう。

 

まことに、イエス様は永遠のいのちを与えることができる方なのです。この世界を造られ、この世界を支配しておられる方は、同時にこの世界をさばく権威を持っておられます。この方を、この世に救い主としてお遣わしになられた方を信じる人は、だれでも永遠のいのちが与えられ、さばきに会うことがなく、死からいのちに移されるのです。ここでは、「死からいのちに移っています」と現在形で書かれています。今、現に移っているのです。いつか移ります、きっとそうです、たぶんそうです、ではなく、移っているのです。「死からいのちに移っているのです」

 

この「死」とは、霊的死のことを指しています。霊的に死んでいるとはどういうことでしょうか。パウロは、このことをエペソ2章1~3節で、次のように言っています。

「さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」

ここでパウロは、あなたがたは自分の背きと罪との中に死んでいた者であった、と言っています。罪とは何でしょうか。罪とは、原語のギリシャ語で「ハマルティア」と言いますが、「的はずれ」を意味しています。的を外している状態のことです。人は本来、神によって造られ、神の栄光と神の喜びのために造られたわけですから、この神を信じて生きるはずなのに、その的から外れてしまいました。それが罪です。罪とは何か悪いことをすることではなく、それも罪ですが、神から離れている状態のことを指しています。その結果、人は悪いことをするのです。つまり、罪とは神を信じないことです。その結果、人はどのようになってしまったのでしょうか。

 

パウロはここで、「あなたがたは自分の背きと罪との中に死んでいた」と言っています。そして、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。その特徴は何かというと、自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らであったということです。どういうことかというと、自分でやっていることがわからないということです。自分がしたい善を行わないで、したくない悪を行ってしまうからです。

 

実は、これが私たちにとって一番大きな悩みです。善いことをしたいと思っているのに、したくない悪を行ってしまいます。その弱さのために悩むのです。中には、そんなことを悩んでも悩むだけ無駄なんだから悩むのをやめよう、と思っている人もいるでしょう。しかし、いくら打ち消そうとしてみたところで、私たちの良心の呵責を完全に否定することはできません。

 

しかし、ここに希望があります。イエス様はこう言われました。「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っているのです。」この方を遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ちます。そして、さばきに会うことがなく、その瞬間から、死からいのちに移されるのです。なぜなら、キリストは私たちを罪から完全に救うことができるからです。そうです、キリストは救い主であられるのです。

 

この「救い主」というのは、へブル語で「メシヤ」と言いますが、これは神ご自身を表すことばでした。ですから、あのサマリヤの女が、「私は、キリストと呼ばれるメシヤが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。」(4:25)と言った時、イエス様が「あなたと話しているこのわたしがそれです。」(4:26)と言われた言葉は、ものすごいことなのです。なぜなら、それはイエス様がご自分を神であると宣言されたということだからです。これまでに歴史上には多くの偉人と言われる人が現れては消えて行きましたが、「わたしがそれです」と言うことができた人は一人もいませんでした。もしそのように言う人がいたとしたら、その人は全くのペテン師か、頭がおかしい人だと言えるでしょう。そのように言うことができる人などいないからです。しかし、イエス様はそのように言うことができました。なぜなら、イエス様は本当に救い主、メシヤであられたからです。

 

あなたは、この方をメシヤ、救い主として信じ、受け入れておられるでしょうか。この方を通してこの方を遣わされた方を信じておられるでしょうか。この方のことばを聞いて、この方を遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移るのです。

 

Ⅲ.死人をよみがえらせることができる方(25-29)

 

なぜイエスは神と等しい方だと言えるのでしょうか。その第三の理由は、イエス様は死者をよみがえらせることができる方だからです。25節から29節までをご覧ください。25節と26節をお読みします。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。」

 

ここにも、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。」という言葉があります。「本当にその通りです」、「これは真実です」。何が真実なのでしょうか。それは、「死人が神の子の声を聞く時が来る」ということです。この「死人」とは、「霊的に死んだ人たち」のことです。具体的には「罪人」のことを指しています。霊的に死んでいる人たちがキリストのことばを聞く時が来ます。それを聞く者は生きるのです。霊的に死んだ状態からただちに救い出され、永遠のいのちが与えられるのです。そして、真に生きる者とされます。それはいつですか?今でしょ。今がその時です。なぜなら、その神の子であられるキリストが来られたからです。

 

私たちに必要なのは、この神の子の声を聞くことです。私たちは日々、いろいろなことで悩み、苦しみ、まさに死んだ人のようになっていますが、この神の御声を聞く時、たましいが生き返り、力強く歩み始めることができるようになります。

 

詩篇19篇7~8節には、「主のおしえは完全で たましいを生き返らせ 主の証しは確かで 浅はかな者を賢くする。主の戒めは真っ直ぐで 人の心を喜ばせ 主の仰せは清らかで 人の目を明るくする。」とあります。

主のみことばは 私たちを生かし、私たちを導き 私たちを照らします。主のみことばは力があります。私たちを励まし、私たちを満たすのです。それは、私たちが日々聖書のみことばを読む時、また礼拝や祈祷会での聖書のメッセージを聞く時、キリストが聖霊を通して神の声を私たちの心に語ってくださるからです。その神の子の声を信仰を持って聞く者は生きるのです。

 

それは、26節にあるように、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、いのちを持つようにしてくださったからです。私たちには自分のうちにはいのちがありません。いのちを持っていないのです。ではどこにいのちがあるのですか?ここにあります。神の御子のうちにあるのです。ですから、この御子から離れては、私たちにいのちはありません。それはちょうどぶどうの木のたとえにあるとおりです。

「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(ヨハネ15:5)

イエス様は根を張った一本の木のように、いのちを持っておられます。私たちはその枝にすぎません。ですから、キリストに結びついていない限り、いのちを持つことはできないのです。イエス様の御声を聞き、イエス様を信じるなら、イエス様に結びつけられ、いのちを持つことができるのです。

 

27~30節をご覧ください。ここには、「また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。」とあります。

 

この「さばき」とは最後のさばきのことです。そのさばきを行う権威を子に与えてくださいました。イエス様はさばき主であられます。どのようにさばかれるのでしょうか。28節、「このことに驚いてはいけません。墓の中にいる者がみな、キリストの声を聞く時が来るのです。」

これは、キリストの再臨のことです。キリストが再臨される時、墓の中にいる者がみな、子の声、キリストの声を聞きます。「そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出てきます。」これはどういうことかというと、そのとき、二種類の「よみがえり」が起こるということです。第一のよみがえりは、善を行った者のよみがえりです。善を行った者とは何か一生懸命にボランティアをしたとか、慈善事業をした人のことでなく、神の御子を信じた人のことです。その人はよみがえって永遠のいのちを受けるために出てきます。この「よみがえって」とは御霊のからだによみがえってという意味です。

 

人は死んだら終わりなのではありません。人は死ぬと、肉体から霊が離れ、肉体は地の塵に帰りますが、霊はそのまま存在し続けます。そして、キリストを信じた者の霊は、パラダイスに行き、そこでキリストと共にいて、体が復活するのを待つのです。そしてキリストが再臨する時、霊のからだが与えられ、霊のからだに復活し、永遠に天国で神の祝福のうちに生きるようになるのです。これが私たちの希望です。何が私たちの希望かって、これです。

「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」(Ⅰコリント15:58)

このように、私たちは死んで終わりではありません。死んでも生きるのです。

 

しかしここに、もう一つのよみがえりがあることが書かれてあります。それは、悪を行った者のよみがえりです。悪を行った者というのも何か悪いことをした人ということではなく、神の御子を信じなかった人ということです。その人たちはどのようになるのかというと、驚くなかれ、何とそのような人たちもよみがえるのです。しかし、何のためによみがえるのかが問題です。ここには、「悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出てきます。」とあります。このさばきとはどのようなものなのでしょうか。

 

ルカの福音書16章に「ラザロと金持ち」の話がありますが、それを見ると、キリストを信じなかった金持ちは、「炎の中で苦しくてたまりません。」と言っています。そこは「ハデス」と呼ばれているところです。彼はそこに落とされました。でもそこは地獄ではありません。地獄に行くまでにさばきを待っているところです。それはちょうど刑務所に入るために待っている留置場のようなところです。どちらも過酷な状態を強いられますが、最後のさばきは、ハデスの比どころではありません。それは永遠に燃え続ける火の池なのですから。それが地獄と呼ばれているところです。キリストが再臨されるとき、キリストを信じなかった人はハデスに行き、そこで最後のさばきを待つようになるのです。そしてキリストが再臨する時、その人たちもよみがえりますが、最終的に火の池に投げ入れられ、そこで永遠の祝福の基である神から完全に切り離されて、永遠に苦しみを味わい続けなければならないのです。これが第二の死と呼ばれているものです。

 

あなたはどちらのよみがえりのために生きていますか。「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」これは、今すぐに体験できる約束です。あなたがイエス様を信じた瞬間に、あなたもこの永遠のいのちを体験するのです。あなたは死んだ人のような毎日を過ごしていませんか。神の子の声を聞く者は生きます。そして、その行きつくところは永遠のいのちです。あなたも、イエス様の声を聞き、生きる力をいただいてください。イエス様は、あなたにいのちを与えることができる救い主であられるからです。