今回は、サムエル記第一12章から学びます。
Ⅰ.非難されるところがなかったサムエルの生涯(1-6)
まず、1~6節までをご覧ください。
「サムエルは全イスラエルに言った。「見よ、あなたがたが私に言ったことを、私はことごとく聞き入れ、あなたがたの上に王を立てた。今、見なさい。王はあなたがたの先に立って歩んでいる。私は年をとり、髪も白くなった。そして、私の息子たちは、あなたがたとともにいる。私は若いときから今日まで、あなたがたの先に立って歩んできた。さあ今、主と主に油注がれた者の前で、私を訴えなさい。私はだれかの牛を取っただろうか。だれかのろばを取っただろうか。だれかを虐げ、だれかを打ちたたいただろうか。だれかの手から賄賂を受け取って自分の目をくらましただろうか。もしそうなら、あなたがたにお返しする。」彼らは言った。「あなたは私たちを虐げたことも、踏みにじったことも、人の手から何かを取ったこともありません。」サムエルは彼らに言った。「あなたがたが私の手に何も見出さなかったことについては、今日、あなたがたの間で主が証人であり、主に油注がれた者が証人である。」そこで、ある人が「証人は」と言うと、サムエルは「主である。モーセとアロンを立てて、あなたがたの先祖をエジプトの地から上らせた方である」と民に告げた。
11章の終わりに、「サムエルは民に言った。「さあ、われわれはギルガルに行って、そこで王政を樹立しよう。」民はみなギルガルに行き、ギルガルで、主の前にサウルを王とした。彼らはそこで、主の前に交わりのいけにえを献げた。サウルとイスラエルのすべての者は、そこで大いに喜んだ。」(11:14-15)とありますが、サウルの王政が樹立した段階で、サムエルの士師としての役割は終わりを告げました。そこでサムエルは告別説教をします。この箇所はその冒頭部分にあたります。
サムエルがここで言っていることは、第一に、自分はイスラエルの要求を受け入れて、イスラエルの民の上に王を立てたということ(1)、第二に、そればかりか、若い時から今日まで、彼らの先頭に立って歩んできたが、その士師としての生活の中で、何か一つでも不当にその地位を利用して悪事を行うことがあったか、あったのなら、それを主と主に油注がれた者の前に出して、訴えてほしいということ(3)でした。たとえば、だれかの牛を取ったとか、だれかのろばを取ったり、だれかを虐げたり、だれかの手から賄賂を受け取って、自分の目をたくらませたりしたとかです。すると、イスラエルの民は、そういう事実はただの一つもない、と言いました。
権力の座について、それでいてなおかつ、それを乱用せずに生き抜くことはとても難しいことです。自分が置かれている立場を利用する誘惑はいっぱいあるからです。けれども、サムエルは最後の最後まで、非難されるべきところがなく生きてきました。最後まで主にお従いすることは、本当に栄誉あることです。
するとサムエルは言いました。「あなたがたが私の手に何も見出さなかったことについては、今日、あなたがたの間で主が証人であり、主に油注がれた者が証人である。」(5)
「油注がれた者」とはサウルのことです。サムエルに非がないことは、主と主に油注がれた者であるサウル王が証人である、ということです。5節のその後のところに、「そこで、ある人が「証人は」と言うと、」とありますが、新改訳第三版では、「すると彼らは言った。「その方が証人です。」となっています。この方がわかりやすいかと思います。つまり、彼らは、サムエルの言うとおり、主と、主に油注がれた方が証人であると認めたということです。
Ⅱ.サムエルの告別説教(7-18)
次に、7~18節までをご覧ください。
「さあ、立ちなさい。私は、主があなたがたと、あなたがたの先祖に行われたすべての正義のみわざを、主の前であなたがたに説き明かそう。ヤコブがエジプトに行ったとき、あなたがたの先祖は主に叫んだ。主はモーセとアロンを遣わし、彼らはあなたがたの先祖をエジプトから導き出し、この場所に住まわせた。しかし、先祖たちは自分たちの神、主を忘れたので、主は彼らをハツォルの軍の長シセラの手、ペリシテ人の手、モアブの王の手に売り渡された。それで先祖たちは彼らと戦うことになったのだ。先祖たちは主に叫んで、『私たちは主を捨て、バアルやアシュタロテの神々に仕えて罪を犯しました。今、私たちがあなたに仕えるため、敵の手から救い出してください』と言った。すると主は、エルバアルとバラクとエフタとサムエルを遣わし、あなたがたを周囲の敵の手から救い出してくださった。それで、あなたがたは安らかに住んだのだ。しかし、アンモン人の王ナハシュがあなたがたに向かって来るのを見たとき、あなたがたの神、主があなたがたの王であるのに、『いや、王が私たちを治めるのだ』と私に言った。今、見なさい。あなたがたが求め、選んだ王だ。見なさい。主はあなたがたの上に王を置かれた。もし、あなたがたが主を恐れ、主に仕え、主の御声に聞き従い、主の命令に逆らわず、また、あなたがたも、あなたがたを治める王も、自分たちの神、主の後に従うなら、それでよい。しかし、もし、あなたがたが主の御声に聞き従わず、主の命令に逆らうなら、主の手が、あなたがたとあなたがたの先祖の上に下る。今、しっかり立って、主があなたがたの目の前で行われる、この大きなみわざを見なさい。今は小麦の刈り入れ時ではないか。主が雷と雨を下されるようにと、私は主を呼び求める。あなたがたは王を求めることで、主の目の前に犯した悪が大きかったことを認めて、心に留めなさい。そしてサムエルは主を呼び求めた。すると、主はその日、雷と雨を下された。民はみな、主とサムエルを非常に恐れた。」
そこで、サムエルは告別説教を語り始めます。彼はまず、イスラエルの歴史から語ります。彼がこのようにイスラエルの歴史から語るのは、主が、ご自分の民にどのように働かれたのかを思い起こさせるためです。その中心は、神がモーセとアロンを立てて、イスラエルの先祖をエジプトの地から導き出された方であるということです。
それにもかかわらず、彼らの先祖たちは自分たちの神、主を忘れたので、主は彼らをハツォルの軍の長、シセラの手に、またペリシテ人の手、モアブの王の手に渡されました。しかし、彼らが悔い改めて主に叫んだので、主は士師たちを起こし、彼らを助け出されました。エルバアルとはギデオンのことです。また、バラクやエフタ、サムエルなどです。それで、彼らは安らかに住むことができました。
これらのことからわかることは、イスラエルの民を解放したのは人間ではなく、士師たちを遣わされた主ご自身であるということです。私たちも今、自らの歩みを振り返り、ここまでの歩みを支えてくださったのが誰であるのかを思い起こし、この主イエス・キリストの父なる神に感謝して、ますます主に信頼して歩ませていただきたいと思います。
しかし、アンモン人の王ナハシュがイスラエルに向かって攻めて来たとき、彼らはどうしたでしょうか。イスラエルの神、主こそ彼らをその窮地から救い出してくださる方なのに、彼らはその主に助けを求めたのではなく、人間の王を求めました。「いや、王が私たちを治めるのだ。」と言って。それがサウルでした。
サムエルは、主が王として民を救ってくださるのに、人間の王が欲しいと言い張ったのは罪であったことを指摘した上で、主は民の上に王を置くことを許されたのだということを説明します。それは明らかに彼らの罪でした。けれども主は、彼らが落ちていったそのレベルにまで降りてくださり、人間の王が統治する中で彼らを見守ることに決められました。そして、彼らがそれ以上落ちることがないように、主の律法に忠実に歩むようにと、サムエルはこう勧めるのです。14~16節です。
「もし、あなたがたが主を恐れ、主に仕え、主の御声に聞き従い、主の命令に逆らわず、また、あなたがたも、あなたがたを治める王も、自分たちの神、主の後に従うなら、それでよい。しかし、もし、あなたがたが主の御声に聞き従わず、主の命令に逆らうなら、主の手が、あなたがたとあなたがたの先祖の上に下る。」
そして、「今、しっかり立って、主があなたがたの目の前で行われる、この大きなみわざを見なさい。」(14-16)と言いました。それは、小麦の刈り入れの時に、サムエルが主に、雷と雨を下されるようにと祈ると、主はその祈りに応えてくださるので、それを見て、彼らが主の前に犯した悪がいかに大きかったかを認めて、心に留めるように、と言うのです。小麦の刈り入れ時期は、普通6月中旬から末にかけてです。雨は5月には止んでおり、6月は乾季に入りますから、その時期に雨が降るとしたら、それはサムエルの祈りに主が応えてくださったということになります。
そして、サムエルがそのように主に祈ると、主は彼の祈りに応えてくださり、その日に、雷と雨を下されたので、民はみな、主とサムエルを非常に恐れました。これ以外の方法では、自らの罪を実感できなかった民が大勢いたでしょう。私たちが頑なに一つのことを求めるなら、主はそのことを与えてくださる場合があります。しかし、それは神がただ許容されただけであって、実際には悲しませることになります。にもかかわらず、私たちはそれが叶うと、あたかも自分が正しい者であるかのように錯覚してしまいます。私たちは、自分の思いによって神を動かそうとする愚かな罪を犯していないかどうかを吟味しなければなりません。そして、いつも柔和な心で神の御声を聞き、主に従わなければなりません。
Ⅲ.ただ主を恐れて(19-25)
最後に、19~25節までをご覧ください。
「民はみなサムエルに言った。「私たちが死なないように、しもべどものために、あなたの神、主に祈ってください。私たちは、王を求めることによって、私たちのあらゆる罪の上に悪を加えてしまったからです。」サムエルは民に言った。「恐れてはならない。あなたがたは、このすべての悪を行った。しかし主に従う道から外れず、心を尽くして主に仕えなさい。役にも立たず、救い出すこともできない、空しいものを追う道へ外れてはならない。それらは、空しいものだ。主は、ご自分の大いなる御名のために、ご自分の民を捨て去りはしない。主は、あなたがたをご自分の民とすることを良しとされたからだ。私もまた、あなたがたのために祈るのをやめ、主の前に罪ある者となることなど、とてもできない。私はあなたがたに、良い正しい道を教えよう。ただ主を恐れ、心を尽くして、誠実に主に仕えなさい。主がどれほど大いなることをあなたがたになさったかを、よく見なさい。 あなたがたが悪を重ねるなら、あなたがたも、あなたがたの王も滅ぼし尽くされる。」
すると民の心に主への恐れが生じ、彼らはサムエルに、自分たちが死なないように、主に祈ってほしいと、言いました。
それに対してサムエルは、彼らに「恐れてはならない」ということ、そして、主に従う道から外れないで、心を尽くして主に仕えるようにと言いました。主の恵みと選びとは変わることはありません。主は、ご自分の大いなる御名のために、ご自分の民を捨てたりなさらないからです。これは主の契約に基づく不変の愛です。すばらしいですね。勿論、サムエルも彼らのために祈ることをやめたりしません。彼らに真理を伝えることを止めたりはしないのです。だから、王政になったとしても、主を恐れ、誠実に主に仕えるようにと勧めたのです。もし、彼らが悪を重ねるなら、彼らも彼らの王も滅ぼし尽くされることになります。
すばらしいですね。主の賜物と召命とは、変わることがありません(ローマ11:29)。私たちは、そのような不変の愛で愛されているのです。だからと言って、どう生きてもいいというわけではありません。神の愛は不変であり、私たちの救いは確かなものであるがゆえに、私たちは主を恐れ、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主を愛し、主に仕えなければならないのです。それは私たちが愛されるためではなく愛されたから、神の大いなる愛を経験しているからです。