イザヤ45:1-13 レジュメ  

「神の御心のままに」                                    N069

Ⅰ.油そそがれた者クロス(1-3) 

主は、油そそがれた者クロスに、「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前にとびらを開いて、その門を閉じないようにする」(1)と言われた。クロスとはメド・ペルシャの王クロスのことである。主は彼を用いてバビロンに捕らえられていたイスラエルを解放するというのだ。彼はメド・ペルシャの王であって異教徒である。なのになぜ神はそんなクロスを用いられるのか。それは、主こそ神であり、イスラエルの創造主であることを彼が知るためである。そのために主は、異教徒の王まで用いられる。何も神はご自分の計画を推し進めるために神の民だけを用いられるのではない。場合によってはこのように異教徒でも用いられることがある。神が用いようと思えば何でも用いることができる。なぜなら、神はすべてを支配しておられる創造主であられるからだ。

それにしても、クロスはこのことを知ってどんな驚いたことであろう。エズラ記1章を見ると、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシャの王クロスの霊を奮い立たせたので、王国中におふれを出して、エルサレムに宮を建てるように命じたとある。ユダヤ人の歴史家でヨセフスの「ユダヤ古代誌」によると、このときクロスが読んだ内容というのがイザヤ書44-45章であった。そこに自分の名が記されてあるのを見て、彼はどれほど驚いたことかわからない。彼の時代のはるか150年も前に、神は既にそのようにされることを告げておられることを知って奮い立ち、イスラエルにそこまで寛容な政策をとったのである。

神はこの歴史を支配し導いておられる。このことを知るなら、あなたもクロスのように奮い立ち、神の栄光と目的のために用いられるようになる。

Ⅱ.すべての主権者であられる神(4-8)

ここで主はクロスに肩書きを与えると言われた。その肩書きとは「油そそがれた者」である。それは日の上る方からその沈むところまでご自分のほかには神はいないということを、すべての人に知らしめるためである。そのことによって主がすべてを支配しておられるということを、知るようになる。ペルシャの宗教ゾロアスター教では光を造られた神とやみを造られた神がいてその神の対立によってこの世界が造られたと考えているが、その光とやみを造られたのは神である。すべてを造られたのは創造主なる神なのである。

ここでおもしろいと思うのは、ここに「光を造り出し、やみを創造し」とあることだ。これはやみを創造したというよりも、やみを許されたといった方が正確である。神は決してやみを造られる方ではない。それを造りそれ支配しているのは神であるが、そうしたサタンの働きをあえて許されることがある。それは神がすべてを支配しておられるからであって、そのことさえもまた神の栄光のために用いられることがあるからだ。だから私たちはそうした主権的な神のお取り扱いを受け入れ、「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのとおりにしてください」と祈らなければならない。

Ⅲ.神の御心のままに(9-13)

このように申し上げると、中にはそんな神のやり方に対して抗議する人もいるかもしれない。そのような人は陶器が自分を造った者に抗議するようなものである。けれども、陶器は陶器師の手の中にあってはじめて価値があるのであって、それ自体には何の価値もないことを覚えておかなければならない。陶器である私たちはまさに土くれにすぎない。その陶器がもっとも輝く時は陶器師の手によって練られ、ろくろで回されている時である。わたしたちを愛してやまない主はわたしたちのために最善のことをしてくださると信じて、すべてを神にゆだねなければならないのである。

(自分に適用してみましょう!)

・あなたの生活の中で、ナオミのように信仰の確信を揺るがしている出来事は何ですか?

・神があなたの人生をも支配しておられ導いておられるという確信を持つために必要なことはどんなことですか?

Ⅰテモテ6章11~21節 「神の人として」

いよいよテモテへの第一の手紙も結びの部分に入ります。きょうは、この結びの部分から、「神の人として歩もう」というタイトルでお話したいと思います。パウロはこの結びのところでテモテを、「しかし、神の人よ」と呼んでいます。聖書の中でこのように「神の人」と呼ばれている人は稀です。旧約聖書ではモーセ(申33:1)やエリヤ(Ⅰ列王17:18)、またその弟子であったエリシャ(Ⅱ列王4:16)などが神の人と呼ばれました。またあの有名なダビデもそのように呼ばれました(Ⅱ歴代8:14)。その他、預言者でシェマヤ(Ⅰ列王12:22)という人や、イグダルヤの子ハナン(エレミヤ35:4)もそのように呼ばれました。他にそのように呼ばれた人はいません。新約聖書でこのように呼ばれているのはテモテだけです。パウロはこの「神の人」という言葉をテモテに用いました。それは牧会で苦労していたテモテにとって、どんなに大きな励ましであったことでしょう。

しかし、それはテモテだけのことではありません。だれでもテモテのように神の人になることができます。Ⅱテモテ3章17節を見ると、「それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」とあるように、すべてのクリスチャンにも共通して言えることなのです。ではどのような人が神の人と呼ばれるにふさわしいのでしょうか。

Ⅰ.信仰の戦いを戦い(11-12)

まず11節と12節をご覧ください。

「11 しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。12 信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。」

パウロはここで、神の人のあり方について消極的な面と積極的な面の二つの面から述べています。まず消極的な面ではどんなことかというと、それは避ける人のことです。11節には、「しかし、神の人よ。あなたは、あなたはこれらのことを避け」とあります。これらのこととは何でしょうか?それは前の節までのところで述べられてきたことですが、金銭を追い求める生活、あるいは、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑いといったものが生じる生活のことです。そういう生活を避けなさいというのです。避けるということは臆病なように見えるかもしれませんが、しかしもっとも効果のある勝利の道でもあるのです。エジプトに奴隷として売られたヨセフは、主人の妻に誘惑された時、外へ出て逃げました(創世39:12)。そのことで彼は、一時、投獄されましたが、やがて彼はエジプトの第二の地位にまで上り詰めることができました。それは彼が誘惑を避けたからです。真正面から対決することだけがいつも最善とは限りません。むしろそうすることでますます深みにはまって、過ちを犯してしまうこともあります。そうした悪に対しては、避けることが最も賢明な勝利に至る道なのです。

次に、神の人が追い求める積極的な面とは何でしょうか。それは、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和といったものを求めることです。正しさとは神との関係において正しく生きることであり、敬虔とは、その神を恐れて生きることです。その結果、信仰、愛、忍耐、柔和といった徳がもたらされます。これらのものは、神の御霊である聖霊が結ばせてくださる実でもあります。これは自分の力によってもたらされるものではなく、聖霊に信頼し、聖霊に導かれることによって得られるものなのです。

イエス様は、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)と言われました。枝が木につながっていなければ実を結ぶことはできません。主の働き人はとかく目に見える結果にとらわれがちですが、最も大切なことは、目に見えない部分、すなわち、神との関係を第一に求めなければなりません。それによってこそ大きな力を発揮することができるからです。

ある美しくて大きく、立派な一本の木がありました。しかし、すべてが見た目通りとは限りません。その木の内側はだんだん枯れて、弱っていきました。強い風が吹くと倒れそうになり、枝が折れる音も聞こえてきました。そこで、新しい枝を伸ばして、その弱さを補おうとしました。すると、思った通り少しは強く、今までよりしっかりしたように見えました。しかし、ある日暴風が吹き、根が地面から丸ごと抜けてしまいました。隣の木がなければ完全に地面に倒れてしまうところでした。その後、幸いに時間が経つにつれて、再び根を下ろすことができました。その時ふと、隣の木に興味を持つようになったのです。隣の木は暴風にも負けず、しっかりと立っていたからです。その木は隣の木に、「どうして君は地面にしっかり立っていられただけでなく、ぼくのことまで支えることができたんだい。」と尋ねてみました。すると、隣の木はこう答えました。「それは、君が新しい枝を伸ばしている間、ぼくは根をより深いところに伸ばしていたからだよ。」

私たちは、より深いところまで根を下ろさなければなりません。外見ではなく、内面の人格を整えなければならないのです。それは神との関係が深められることによってこうした徳がもたらされるからです。私たちは祈りと神の御言葉によって神との関係を深め、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和という実を結ばせていただきましょう。

では、神の人が求めなければならない積極的な面とは何でしょうか。それは戦うということです。12節をご覧ください。ここには、「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。」とあります。神の人は、11節にあるようなクリスチャンの徳を身につけるだけでは十分ではありません。信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなければなりません。この「戦う」という言葉は、オリンピックの競技や、兵士の戦いに使われた言葉です。ですからそれは、いのちがけの戦いを意味しているのです。しかもこの言葉は継続を表している形になっています。すなわち、すでに始められている戦いを継続して戦えということです。なぜでしょうか?永遠のいのちを獲得するためです。どういうことでしょうか?救い主イエスを信じた人にはすでに永遠のいのちが与えられているのではないでしょうか?実はこの「永遠のいのち」には二面性があります。それは既にという面とこれからという面です。クリスチャンはイエス・キリストを信じたことによって既に永遠のいのちが与えられました。けれども、それはまだ完成していません。それはやがてキリストが再臨する時に関税します。ですから、そのためにしっかりと準備しなければならないのです。

キリスト教系の新聞によると、我が国でのクリスチャン信仰の平均寿命は2.5年だそうです。3年も持たないのです。多くの人がイエス様を信じますが、信仰生活から離れていくケースも多いのです。しかし、長いこと信仰を持っている人でも、あまりにも多くの人たちが救いの喜びを失っているということがあるのではないでしょうか。まだ救われていなかった時の以前の生活に逆戻りしているというケースも少なくありません。また、ずっと教会に通っていても、主と生き生きした関係をずっと保つことは、簡単なようで実はとても難しいことなのです。なぜなら、イエス様を信じて生きるということは、多くの人々が認めない真理に従って生きることだからです。そこには多くの「信仰の戦い」があります。クリスチャンはこの戦いを避けてはいけません。この戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなければならないのです。

Ⅱ.主イエス・キリストの現れ(13-16)

第二に、13~16節までを見ていきたいと思います。

「13 私は、すべてのものにいのちを与える神と、ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもってあかしされたキリスト・イエスとの御前で、あなたに命じます。14 私たちの主イエス・キリストの現れの時まで、あなたは命令を守り、傷のない、非難されるところのない者でありなさい。15 その現れを、神はご自分の良しとする時に示してくださいます。神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、16 ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。」

次にパウロは、神とキリストとの前で、テモテに命じています。イエス・キリストの現れの時まで、傷のない、非難されるところのない者であるように・・・と。ところで、ここでは単に神とキリストの前でと言われているのではなく、すべてのものにいのちを与える神と、ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもってあかしされたキリスト・イエスとの前でとあるのです。これはパウロの普通の表現と少々異なります。普通なら、たとえばこの手紙の冒頭にあるように「私たちの救い主である神と私たちの望みなるキリスト・イエス」とあるように、父なる神と望みなるキリスト・イエスというのに、ここでは「すべてのものにいのちを与える神と、ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもって証されたキリスト・イエスの御前で」と、普通見られない表現が使われているのです。いったいパウロはなぜこのように言ったのでしょうか。「すべてのものにいのちを与える神」というのは、神はすべてのもののいのちの根源であるということを意味するばかりでなく、神はすべての危険と迫害から守ってくださる方であるという信仰が含まれています。初代教会ではバプテスマを受けることは、皇帝崇拝を拒否することが含まれていました。そのことはまた、死をも意味していたわけです。皇帝崇拝を拒絶すれば処刑されていたからです。それゆえに、初代教会ではバプテスマを受ける時の信仰告白の際、キリストの告白を思い出させました。キリストはどのように告白したのでしょうか。キリストは、ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもって証されました。すなわち、キリストは自らが十字架の死に直面していても、自らがメシヤであることを主張して一歩も譲られませんでした。マタイの福音書27章11節には、ピラトがイエスに「あなたは、ユダヤ人の王ですか」と尋ねると、イエスは彼に「そのとおりです」と言われたことが記録されています。ポンテオ・ピラトに対してのすばらしい告白とはこのことです。

それはイエス様だけではありません。おそらくテモテもバプテスマを受けた時、この告白をしたのでしょう。12節にも、テモテがした「りっぱな告白」が出てきました。神の人であるクリスチャンは、たとい周りがどうであろうとも、このような告白をする者たちです。かつてダニエルはこのような告白をしたがゆえにライオンのいる穴の中に入れられました。しかし、そこに神がともにおられたので、ダニエルは全く傷を負うことなく守られました。むしろ、彼はダニエルをライオンの中に投げ入れたダリヨス王の下で大きく用いられました。

その神とキリストの御前で、パウロはテモテに命令を送りました。それは、私たちの主イエス・キリストの現れの時まで、あなたは神のすべてのいましめを守り、非難されるところのない者でありなさい、ということです。主イエス・キリストの現れの時というのは、再臨のことを指しています。そして「傷のない、非難されるところがなく」というのは、全く罪を犯さない完全な人になることではなく、教会の外の人たちにそしられることがないような敬虔さを保つようにということです。

キリストは、今、天において神の右の座におられ、私たちのためにとりなしの祈りをしておられます。私たちは今、この方を見ることはできませんが、やがて定められた時が来たら、その時はとても近いようにも感じますが、その時には、この目ではっきりと見ることができます。Ⅰコリント13章12節には、「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります」とあるとおりです。その現れは、神が良しとする時に示してくださいます。なぜなら、神は祝福に満ちた唯一の主権者であられ、王の王、主の主であられる方だからです。そればかりではありません。神はただひとり死のない方であり、だれも近づくこともできない光の中に住んでおられる方だからです。この「死のない方」というギリシャ語(アフサルトス)は1章17節にも使われていますが、そこでは「滅びることなく」と訳されています。またⅠコリント15章53,54節では、それぞれ「朽ちない者もの」「不死」と訳されています。そうです、神は決して死なない方、永遠に生きておられる方なのです。このような神が他にいるでしょうか。いません。この世のすべての宗教はみな死んだ教祖を拝んでいますが、聖書の神はそういう方ではありません。聖書の神は死のない方なのです。永遠に生きておられる方、それが本当の神です。それはただひとりしかおられません。この方はだれも近づくことができない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことがない、いや見ることができない方なのです。もし見ることができたとしても、その人はすぐにその場で死んでしまうでしょう。あまりの聖さと栄光の輝きのために。

しかし、この方の栄光をすべて見た方がおられます。いいえ、この方とずっと昔から、永遠の昔からずっといっしょにおられた方がいるのです。それが神のひとり子イエス・キリストです。キリストは言われました。「わたしと父とは一つです。」(ヨハネ10:30)

このように、信仰の戦いを勇敢に戦うとき、人々を支えるのは何かというと、この主イエス・キリストの再臨なのです。私たちは自分のやっていることがうまくいかず、なかなか目に見える形で成果を見る事が出来ず落胆することがあります。また多くの反対にあって、疲れはててしまうこともあります。けれども、それでも耐え抜くことができるのは、祝福に満ちた唯一の主権者であられ、王の王、主の主であられる方、また、ただひとり死ぬことがなく、人間のだれひとり近づくこともできない光の中に住んでおられる神が、主イエス・キリストにあって現れてくださることを知っているからなのです。その時はどんなに大きな喜びでしょう。よく勝利者が感極まって涙を流しますが、やがて私たちが勝利するとき、その何倍もの涙を流すことでしょう。ここから目を離さないとき、私たちは希望に伴う忍耐が与えられ、主の愛と恵みの中にいつまでもとどまることができるのです。そして、信仰の戦いを勇敢に戦い抜くことができるのです。

Ⅲ.神に望みを置いて(17-19)

神の人としてのあり方の第三のことは、何に望みを置くのかということです。たよりにならない富みに望みを置くのではなく、神に望みを置くようにということです。17節から19節までをご覧ください。

「17 この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。18 また、人の益を計り、良い行いに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。19 また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。」

パウロは6節から10節のところでも金銭を追い求める人たちのことについて述べましたが、ここで再び「富」について語っています。ただ違うのは、6節からのところでは金持ちになりたがる人たちについての警告でしたが、ここではすでに富んでいる人たちに対して勧められていることです。エペソ教会には富める人たちが多かったのでしょう。そういう人たちに対して語られているのです。その内容は、「高ぶらないように」ということです。また、たよりにならない富みに望みを置かないようにということです。お金は人を高ぶらせます。お金持ちの人は、自分は何でもできる者であるかのような錯覚を抱きがちになるのです。また、お金は安心感を与えます。あの金持ちの畑が豊作だったとき、彼は自分のたましいに何と言いましたか。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」(ルカ12:19)しかし神は何と言われたでしょう。神は彼にこう言われました。「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」(ルカ12:20)ですからそれは、偽りの安心感にすぎないのです。そのような富は何のたよりにもなりません。本当の安心感は主から来ます。主が備えてくださるという信仰から来るのです。ですから、たよりにならない富に望みを置くのではなく、私たちすべての物を豊に与えて楽しませてくださる神に望みを置かなければならないのです。神は私たちに全ての物を与えて楽しませてくださいます。神が造られた大自然をみるとき、「ああ神様ってすごいなぁ」と、私たちの心を楽しませてくれます。かわいい孫のちょっとしたしぐさを見るたびに、「本当にかわいいなぁ」と感動を与えてくださいます。神は私たちにすべてのものを与えて楽しませてくださるのです。自分にないものではなくあるものに目を留め、それを喜び、楽しまなければなりません。それが神の人の歩みです。

また、人の益を計り、良い行いに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えましょう。ある時イエス様のもとに富める役人が来て尋ねました。「どうしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるか」と。するとイエス様は、「あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人たちに分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を積むことになります。」と言われました。すると、その青年は悲しんで、去って行きました。たいへんな金持ちだったからです。この金持ちが貧しい人たちに分け与えることができなかったのは、彼が自分の益のみを求めて行動していたからです。富める人たちはしばしばそのような傾向があります。けれども、その富が与えられている目的は自分の益のためではなく、いろいろな人を助けるためであり、それによって良い行いをするためです。また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分のために築き上げるためなのです。それが、天に宝を積むということです。富んでいる人はそれを御国のために用いていかなければならないのです。これが富める人の生き方、神の人のあり方なのです。

 

このイエス様のことばを20世紀初めに受け入れた人がいます。アンドリュー・カーネギーという人です。貧しい生い立ちから世界一の鉄鋼王となった彼は、66歳のとき、一つの決断をします。彼は一切の権利を売り払い、その資産で有名なカーネギーホールをはじめとする文化施設や福祉施設を建て、世界各国に2,811か所もの図書館を贈り続け、その生涯を終えるのです。アンドリュー・カーネギー、彼は天に富を積むというイエスの教えを実践した、時を超えたイエスの弟子の一人であり、神の人としてこの世を生きたのです。

 

最後に20節と21節を見て終わりたいと思います。ここでパウロは「テモテよ。ゆだねられたものを守りなさい。」と勧めています。ゆだねられたものとは何でしょうか。それは、パウロからゆだねられたイエス・キリストの福音、啓示のことです。パウロはそれをテモテにゆだねました。テモテはそれを守らなければなりません。それは取捨選択できるようなものではなく絶対的な真理なのです。そしてこれはテモテばかりでなく、今の私たち、キリストの教会のすべての牧会者、ならびにクリスチャンにも言われていることなのです。教会はこのゆだねられたものを守り、そこにとどまっていなければなりません。それ以外のもの、それ以外の教え、それ以外の考え、それ以外の主張があれば、そういうものに心奪われるようなことがあってはなりません。そういうことがないように注意しなければなりません。なぜなら、そうした教えの風によって信仰から離れていくということが起こってくるからです。世の終わりが近くなると愛が冷えるとありますが、ますますそのような傾向が強くなってきます。今はまさにそういう時代ではないでしょうか。そういうことがないように、注意しなければなりません。そして神からゆだねられたものを守り、そこにしっかりととどまっていたいと思います。それが神の人としてのあり方なのです。神の恵みが、あなたがたとともにありますように。そこに神の恵みが豊かに注がれるのです。

民数記21章

Ⅰ.カナン人アラデの王との戦い(1-3)

きょうは民数記21章から学びます。まず1-3節をご覧ください。

「1 ネゲブに住んでいたカナン人アラデの王は、イスラエルがアタリムの道を進んで来ると聞いて、イスラエルと戦い、その何人かを捕虜として捕らえて行った。2 そこでイスラエルはに誓願をして言った。「もし、確かにあなたが私の手に、この民を渡してくださるなら、私は彼らの町々を聖絶いたします。」3 はイスラエルの願いを聞き入れ、カナン人を渡されたので、彼らはカナン人と彼らの町々を聖絶した。そしてその所の名をホルマと呼んだ。」

イスラエルの民は、カデシュ・バルネアから出発し、少し北上しました。ホル山でアロンが死に、そこで彼を葬りましたが、そこは神がアブラハムに約束された、カナン人の土地に近いところでした。ネゲブとはカナン人の地の南方の地域のことです。その最大の都市はベエル・シェバという町ですが、そこから東に約35㎞のところにアラデという町がありました。そのアラデの王は、イスラエルがアタリムの道を進んで来ると聞いて、イスラエルと戦い、何人かを捕虜として捕らえて行きました。そこで主に祈りました。彼らに勝利しその民を渡してくださいと懇願したのです。すると、主はそのイスラエルの願いを聞き入れ、彼らを渡されたので、彼らに勝利することができたました。

かつて、イスラエルの民がカデシュ・バルネアからカナンの地を偵察させた時、彼らは不信仰になって約束の地に入ろうとしなかったので、主は40年間イスラエルを荒野でさまよわせると言われましたが、その時彼らは手のひらを返したかのように、今度は、「とにかく主が言われた所へ上って行ってみよう」(14:40)と言ったのですが、その時の主の答えは「上っていってはならない。」ということでした。なぜなら、主は彼らのうちにおられないからです。もし上って行くようなことがあったら、あなたがたが敵に打ち負かされるであろう、と警告したのです。それでも彼らは言うことを聞かず、上っていきましたが、案の定、山地に住んでいたカナン人が彼らを打ち、このホルマまで追い散らしたのです。もう39年も前の話です。しかし、今度は違います。今度は彼らの願いを聞き入れて、彼らの町々を聖絶することができました。一方では彼らの願いは聞かれず、他方では祈りが聞かれています。いったいこれはどういうことなのでしょうか。

それは、神がともにおられるかどうかということです。彼らは自分たちの思いで、「とにかく上って行ってみよう」と行った時には、主が彼らとともにはおられませんでした。なぜなら、主のみこころは「上って行ってはならない」ということだったからです。しかし、あれから40年、肉の欲望にかられ、不信仰に陥り、さらに反逆までしたイスラエルの民はみな死に絶えてしまいました。そこには新しい民の姿がありました。そんな新しいイスラエルが主に誓願を立てているのです。主に向かって祈りました。そこに主がともにおられました。ですから、主は彼らに勝利を与えてくださったのです。かつてだめだったから今度もだめだということはありません。かつてだめだった原因は何だったのかを見極め、それを悔い改めて、主に立ち返るなら、主は勝利を与えてくださるのです。

Ⅱ.燃える蛇と青銅の蛇(4-9)

次に4節から9節までをご覧ください。

「4 彼らはホル山から、エドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中でがまんできなくなり、5 民は神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」6 そこでは民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。7 民はモーセのところに来て言った。「私たちはとあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、に祈ってください。」モーセは民のために祈った。8 すると、はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」9 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。」

イスラエルの民はホル山から、エドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立ったとき、途中で我慢できなくなり、神とモーセに逆らって言いました。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」(5)またここにイスラエルの民の不満が噴出しました。彼らはちょっとでも嫌なことがあると全く我慢することができず、すぐにこうして不満を噴出させたのです。何が問題だったのでしょうか。「葦の海の道」とは、紅海への道のことです。せっかくもう少しでカナン人の地に入ることができるというところまで来ていたのに、また葦の海の道まで戻り、迂回しなければならなかったのです。彼らは葦の海の道を、砂漠を南下して行かなければならなかったのです。その砂漠の旅に耐えるということは困難なことでした。それで彼らは不満を漏らしたのです。

それで主はどうされたでしょうか。そこで主は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人が死にました。この「燃える蛇」とは、どのような蛇だったのかはわかりません。おそらく、かまれると焼けつくような痛みと激しい毒のゆえにこのように呼ばれていたのではないかと思われます。この蛇は複数形で書かれているので、何匹もうじゃうじやしていたのだと思います。それが民にかみついたので、多くの人々が死んだのです。

それでイスラエルの民は、それが神の罰であるのを見て、自分たちの非を認め、モーセに助けを求めました。そして、モーセが民のために祈ると、主はモーセに興味深いことを仰せられました。それは、青銅の燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ、ということでした。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる、というのです。モーセは命じられた通りにしました。すると、もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きたのです。いったいこれはどういうことでしょうか。これは、信仰の従順による癒しと救いです。これは青銅の蛇自体に救い力があったということではなく、神の約束を信じてこれを仰ぎ見た者だけが、死の毒を免れて救われることができるということです。

この出来事について、イエス様はニコデモに対して語られました。ヨハネの福音書3章14-15節です。彼はイスラエルの指導者です。ユダヤ人の教師です。ですからこの話を十分に知っていました。そしてこう言われたのです。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネ3:14-15)

人の子が上げられる、というのは、十字架につけられることを表しています。ヨハネ12章32-33節に、イエス様が言われたことをヨハネが説明しています。「『わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。』イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。」イエス様は、モーセが荒野で上げた青銅の蛇のように、十字架に上げられることを示していたのです。

まず蛇が彼らに死をもたらしたことに注目しましょう。エバを惑わしたのも蛇でした。また、黙示録12章9節によると、蛇は悪魔であったことが分かります。そして主は、蛇に対してその子孫のかしらが、女の子孫によって打ち砕かれると約束されました(3:15)。蛇の子孫は女の子孫のかかとをかみつくが、女の子孫は蛇の頭を打ち砕きます。それが十字架と復活によってキリストが行なわれたことです。「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」(ヘブル2:14-15)

つまり、蛇が死をもたらしたのは、罪が死をもたらしたと言い換えることができるのです。そして青銅で蛇を作りなさいというのは、その罪に対する神のさばきを表していました。覚えていますか、祭壇が青銅で作られていたのを・・。そこで罪のためのいけにえが焼かれました。それは、罪に対する神の裁きを表していました。つまり、罪が裁かれたことを表していたのです。しかもそれが、旗ざおという木の上で裁かれたのです。キリストは十字架にかけられ、青銅の蛇となって、全人類の罪のさばきをその身に負われたのです。そのキリストを仰ぎ見る者が救われるのです。それが信じることであり、ニコデモにイエス様が語られた「御霊によって新しく生まれなければならない」ということだったのです。

Ⅲ.ホル山からピスガまで(10-20)

次に10節から20節までをご覧ください。

「10 イスラエル人は旅立って、オボテで宿営した。11 彼らはオボテから旅立って、日の上る方、モアブに面した荒野にあるイエ・ハアバリムに宿営した。12 そこから旅立って、ゼレデの谷に宿営し、13 さらにそこから旅立って、エモリ人の国境から広がっている荒野にあるアルノン川の向こう側に宿営した。アルノン川がモアブとエモリ人との間の、モアブの国境であるためである。14 それで、「の戦いの書」にこう言われている。「スパのワヘブとアルノンの谷川とともに、15 谷川の支流は、アルの定住地に達し、モアブの領土をささえている。」16 彼らはそこからベエルに向かった。それはがモーセに、「民を集めよ。わたしが彼らに水を与える」と言われた井戸である。17 そのとき、イスラエルはこの歌を歌った。「わきいでよ。井戸。―このために歌え―18 笏をもって、杖をもって、つかさたちがうがち、民の尊き者たちが掘ったその井戸に。」彼らは荒野からマタナに進み、19 マタナからナハリエルに、ナハリエルからバモテに、20 バモテからモアブの野にある谷に行き、荒地を見おろすピスガの頂に着いた。」

10節には、「イスラエルは旅立って」とありますが、どこから旅立ったのでしょうか。ここはには書いてないのでわかりませんが、おそらく、エドムを迂回して南下し、次いでモアブの草原に向かって北上して行った途中の地点であったので、その地点か、あるいはその周辺のどこか宿営していた所から旅立ったのでしょう。そして、オボテまでやって来ました。このオボテは地中海の南方、エドムとの境界にある町です。そこからさらにイエ・ハアバリム、ゼレデの谷に宿営し、エモリ人の国境から広がっている荒野にあるアルノン川の向こう側に宿営しました。それはアルノン川がモアブ人とエモリ人との間の、モアブの国境であったからです。すなわち、彼らはアルノン川の北のエモリ人の地に宿営したのです。

それから彼らはベエルに向かいました(16)。「ベエル」がどこにあるのかはわかりませんが、主がモーセに「民を集めよ。わたしが彼らに水を与える」と言われたので、その井戸を求めていたからでしょう。その井戸についての歌が17節と18節にあります。乾燥地帯の砂漠にあってこうした井戸に巡り合わせられたことは、彼らにとってどれほど大きないやしと励ましとなったことでしょう。彼らはそこで主に感謝の歌をささげました。すばらしいですね。不平を鳴らすのではなく、感謝の歌を歌うのです。私たちも聖霊によって生きるなら、感謝の歌をささげるようになります。そして彼らはピスガの頂にまでやってきました。後にモーセがそこに立って、約束の地を見下ろし、死にます。

Ⅳ.勝利ある人生(21-35)

次に21節から35節までをご覧ください。

「21 イスラエルはエモリ人の王シホンに使者たちを送って言った。22 「あなたの国を通らせてください。私たちは畑にもぶどう畑にも曲がって入ることをせず、井戸の水も飲みません。あなたの領土を通過するまで、私たちは王の道を通ります。」23 しかし、シホンはイスラエルが自分の領土を通ることを許さなかった。シホンはその民をみな集めて、イスラエルを迎え撃つために荒野に出て来た。そしてヤハツに来て、イスラエルと戦った。24 イスラエルは剣の刃で彼を打ち、その地をアルノンからヤボクまで、アモン人の国境まで占領した。アモン人の国境は堅固だったからである。25 イスラエルはこれらの町々をすべて取った。そしてイスラエルはエモリ人のすべての町々、ヘシュボンとそれに属するすべての村落に住みついた。26 ヘシュボンはエモリ人の王、シホンの町であった。彼はモアブの以前の王と戦って、その手からその全土をアルノンまで取っていた。27 それで、ことわざを唱える者たちが歌っている。「来たれ、ヘシュボンに。シホンの町は建てられ、堅くされている。28 ヘシュボンから火が出、シホンの町から炎が出て、モアブのアルを焼き尽くしたからだ。29 モアブよ。おまえはわざわいだ。ケモシュの民よ。おまえは滅びうせる。その息子たちは逃亡者、娘たちは捕らわれの身である。エモリ人の王シホンによって。30 しかしわれわれは彼らを投げ倒した。ヘシュボンからディボンに至るまで滅びうせた。われわれはノファフまでも荒らし、それはメデバにまで及んだ。」31 こうしてイスラエルはエモリ人の地に住んだ。32 そのとき、モーセはまた人をやって、ヤゼルを探らせ、ついにそれに属する村落を攻め取り、そこにいたエモリ人を追い出した。33 さらに彼らは進んでバシャンへの道を上って行ったが、バシャンの王オグはそのすべての民とともに出て来た。彼らを迎え撃ち、エデレイで戦うためであった。34 しかし、はモーセに言われた。「彼を恐れてはならない。わたしは彼とそのすべての民とその地とをあなたの手のうちに与えた。あなたがヘシュボンに住んでいたエモリ人の王シホンに対して行ったように、彼に対しても行え。」35 そこで彼らは彼とその子らとそのすべての民とを打ち殺し、ひとりの生存者も残さなかった。こうして彼らはその地を占領した。」

ピスガの頂まで来たとき、イスラエルはエモリ人の王シホンに使者たちを送りました。そこにエモリ人が住んでいたからです。それでモーセたちはエドム人に対するのと同じように、ただ通過させてほしいと頼んだのです。ところがシホンは、イスラエルが自分たちの領土を通ることを許しませんでした。それどころか、イスラエルと戦うために出てきたのです。いったい彼らはなぜモーセの依頼を冷たく断ったのでしょうか。彼らはイスラエルに敵対していたからです。後に北イスラエルを滅ぼしたアッシリア帝国の人々は、ハムの子カナンの子孫であるエモリ人でした(創世記10:16)。彼らはアッシリア一帯を征服し、そこの支配者となったのです。このようにエモリ人は常にイスラエルに敵対する民でした。それでイスラエルが通ることを許さなかったのです。それどころか彼らが攻撃してきたので仕方なくイスラエルは応戦し、その結果、彼らを打ち破り、アルノンからヤボクまでを占領したのです。

こうやって見ると、神の民にはいつでも戦いがあることがわかります。こちらが平和的な解決を望んでいても、必ずしも相手もそうだとは限りません。このように戦いを挑んでくることがあるのです。それはこの世が悪魔に支配されているからであり、神の進展を好まないからです。ですから、ありとあらゆる形で妨害し、それを拒もうとするわけです。しかし、主はわたしたちとともにいて戦ってくださいます。そしてそのことによってかえってご自分のみわざを進められるのです。主は、悪魔が行なう仕業をも飲み込み、ご自分の勝利に変えてくださるのです。

その大勝利の歌が27-30節までにあります。「へシュボン」はエモリ人の王、シホンの町でした。彼らは以前、モアブの王と戦って、その全土を取っていました。けれども今、そのヘシュボンはイスラエルによって投げ倒されたのです。主は勝利を治めてくださいました。この歌はそっくりそのままイスラエルの勝利の歌となったのです。

さらに彼らはバシャンへの道を上って行きました。つまり、そのまま北上していったということです。それでバシャンの王オグはそのすべての民とともに出てきました。それはイスラエルを迎え撃ち、エデレイで戦うためです。しかし、主はモーセに言われました。「恐れてはならない。彼とそのすべての民とその地をあなたがたに与える」と。あのエモリ人の王シホンに対してしたように、彼らに対してもする・・と。そこでイスラエルは彼らとその子らとすべての民とを打ち殺し、その地を占領しました。

このようにして、主はすでに約束の地に入る前に、約束の地における主の勝利を見せてくださいました。彼らは不平によって燃える蛇を送られ、死に絶えるという神のさばきを受けましたが、悔い改め、神が言われたとおりにすることによって、つまり、旗さおに掲げられた青銅の蛇を仰ぎ見ることによって救われると、たとえ行く手にどんなに強力な敵がいようとも、破竹の勢いで前進していくことができたのです。そこに主がともにおられたからです。

それは私たちも同じです。私たちも自分の罪を悔い改め、神が仰せられた救いを受け入れる時、その罪が赦され、永遠のいのちが与えられるだけでなく、たとえ目の前にどんな敵がいても勝利することができるのです。神がともにおられるからです。まだ約束の地には入っていなくても、それは確実にもたらされます。私たちの信仰の歩みはまさにイスラエルの荒野の旅と同じですが、大切なのはそれをどのように進んでいくかということではなく、だれとともに行くのかということです。神がともにおられるなら、何も怖くありません。必ず勝利することができます。イエス・キリストによって与えられた神の恵みを受け入れ、信仰をもってこの旅路を進んでいきたいと思います。

ⅠTimothy6:1-10 “The means to great gain”

Today I would like to at the means to great gain from the Word of God in I Timothy 6. It is often said that Christianity is not a religion that brings profit. However in today’s passage it talks about the means to great gain. In other words in Christianity too there is profit. However this profit does not mean that it is a guarantee that there will be no sickness or disasters or that the whole family can live safely. Nor does it mean that business will prosper. What is called profit in Christianity is rather to believe that God works all things for the good and you can receive with thanksgiving all that God gives. That is “godliness with contentment is great gain.” (6) This is real profit or gain, isn’t it?  A famous evangelist, Takimoto Akira, published a book entitled “There is no place that has this huge of a profit”. Truly there is no other place that has this huge of a profit or gain. This is truly the means “to great gain” (6) Today I want to talk about the “means”. (5)

  1. Respect your master (Vs. 1 & 2)

First, I would like to look at the profits you receive by serving your masters at work. Please look at verses 1 and 2. “All who are under the yoke of slavery should consider their masters worthy of full respect, so that God’s name and our teaching may not be slandered.  Those who have believing masters are not to show less respect for them because they are brothers.  Instead, they are to serve them even better, because those who benefit from their service are believers, and dear to them.  These are the things you are to teach and urge on them.”

“All who are under the yoke of slavery” (1) are Christians that are working for non-Christian masters. At that time half of the Roman society was slaves. Surprisingly the Gospel permeated even among these slaves too and many became believers. This is teaching the Christian slaves that believed how they should serve their unbelieving masters. Here it says, “All who are under the yoke of slavery should consider their masters worthy of full respect.” (1) Even if your employer is an unbeliever, you should fully respect your boss. The reason is “so that God’s name and our teaching may not be slandered.” (1) According to Romans 13 all order and authorities in society are ordained by God.  Even if your boss is an unbeliever, you must recognize that his position and authority was ordained by God, rejoice, and obey him. By doing that God’s name will honored. How Christians serve at work is the greatest testimony of faith. If a Christian is seen working seriously and earnestly he gives a good impression、then that is in and of itself a wonderful testimony

The greatest preacher of the 20th century, Lloyd-Jones, said that Christians by being Christian automatically influence society.  Christians by serving as a Christian in the work place in and of itself is a testimony and makes a huge influence.

I read the testimony of Rev. Ari from Simon’s original church、J’sTable Christian church. I was interested how Rev. Ari who was born and brought up in Iran as a Moslem became a Christian.

After Rev. Ari graduated from High School, he entered the army. There he met an Armenian soldier. On the battle field even if you are friends each person is earnest to survive so you think only about yourself. It’s a self-centered world. However, the Armenian was different. He gave his belongings to people who needed it.  Moreover, not reluctantly, but he looked like he was joyfully giving. Also not only things, but he also showed concern for others. Even at the battlefield which is a severe environment and in an ill afford situation, it looked like he listened to what everyone was saying, and did whatever he could do the best he could.

Rev. Ari thought that was not usual. He was different from any person that Rev. Ari had ever met. Rev. Ari wanted to know where his power came from and how he could do the things he did. Rev. Ari finally found the courage to ask him.

He kindly answered that he was a Christian and so it was not his strength. He could do it because he believes in the God of the Bible.  In other words, it is by the power of Jesus Christ.

Honestly, when Rev. Ari heard this he was disappointed. He had already given up on god and religion. He thought he didn’t want to have any contact with such things again.  However, he couldn’t ignore this power that the Armenian had. Then he met Jesus Christ and became a Christ. That’s because he wanted to become like the Armenian. The Armenian soldier’s presence in and of itself led Rev. Ari to salvation.

The Armenian soldier’s presence influenced a Moslem to convert. By Christians fully respecting their bosses at their work, God’s name will be honored.

In verse 2, next it teaches about how a person should serve his believing master. It says, “Those who have believing masters are not to show less respect for them because they are brothers.  Instead, they are to serve them even better.” (2) In the case of your boss being a Christian a mistake that is easy to fall into is developing too cozy of a relationship, and conduct yourself at ease, and tend to not give the other person the respect that he deserves. It is wonderful to have a relationship of brothers and sisters in Christ, but we must not forget our manners and be polite. That’s because love ”is not rude.” (I Cor. 13:5) We must think highly of our masters who are Christian brothers and “serve them even better.” (2)

The reason for doing so is stated after this. That is “because those who benefit from their service are believers, and dear to them.” (2) This means that by the Christian servant doing a good service or job the master who is also a Christian will benefit. For a brother in Christ to receive some benefit is for other brothers and sisters in Christ a huge joy. That’s because the love of the brothers and sisters in Christ pleases God. Also that too becomes a large allotment of benefits as a blessing that is returned to you.

  1. To those who teach false doctrines (Vs. 3-5)

Next please look at verses 3 to 5. Here it says, “If anyone teaches false doctrines and does not agree to the sound instruction of our Lord Jesus Christ and to godly teaching, he is conceited and understands nothing.  He has an unhealthy interest in controversies and quarrels about words that result in envy, strife, malicious talk, evil suspicions and constant friction between men of corrupt mind, who have been robbed of the truth and who think that godliness is a means to financial gain.”

Anyone who “teaches false doctrines and does not agree to the sound instruction of our Lord Jesus Christ and to godly teaching” (3) In other words, more than what is written in the Bible, they push their own thinking. They argue as if what they say is the truth, but it “does not agree to the sound instruction of our Lord Jesus Christ and to godly teaching.” (3)

It talked about these “false doctrines” (3) also in 1:3. In the Ephesian church there were people who taught false doctrines and devoted “themselves to myths and endless genealogies.” (1:3) As a result the church became confused. Such teaching only causes “controversies rather than God’s work-which is by faith.” (1:4) Therefore, “have nothing to do with” (4:7) such people.

What are the characteristics of such people?

①                 They are “conceited”. (4) The Greek word for “conceited” (4) is very interesting.  It means “to be caught up in the smoke” or to be “infatuated”. When you are caught up smoke, you can’t see anything. You can’t see what’s around you.  A conceited person is in such a condition. A conceited person can’t see himself so even then he is egoistic and self-satisfied. Such people more than the teaching of the Bible, they value their own thinking.

②                 They understand nothing. This is to have no knowledge or no understanding. While they say they know “the law, but they do not know what they are talking about.” (1:7) Also, even when they hear God’s Word, they can’t understand. Even though if they would understand the Word of God correctly and accept it, then they would know how wonderful the Word of God is! However, their conceit is a barrier so they understand nothing. This vicious circle will be repeated over and over again forever.   

③                 They have “an unhealthy interest in controversies and quarrels about words.” (4) This can be seen especially in people who have knowledge to some extent or have had such training, but nothing good comes out of it. It only results “in envy, strife, malicious talk, evil suspicions and constant friction.” (4,5) Only negative results occur. Even though God’s family, the church, should be one of mind and co-operate for the salvation of people, the resulting situation is completely contrary to this goal. This is not the work of the Holy Spirit. This is truly a “spirit of deception”, the work of Satan. It undermines and corrodes the body of Christ, the church, a little at a time.

④                 They “think that godliness is a means to financial gain. (5) In other words, they are using religion as “a means to financial gain.” (5) They are thinking of trying to make money through Christianity. They demanded payment for their professional services. They wanted “financial gain” (5) so they fell ”into temptation and a trap” (9) and plunged “into ruin and destruction”. (9) They had once known the truth but because of their desire for financial gain they were “robbed of the truth”. (5) Their teaching became “a means to financial gain” (5) “rather than God’s work.” (1:4)

Therefore we must be very careful to not “abandon the faith and follow” (4:1) such teachers and teachings. We also must be careful that we ourselves don’t “fall into temptation” (9) to be become rich or have “an unhealthy interest in controversies and quarrels about words.” (4) We also must be careful that that even though we study the Bible or have been a Christian for many years that we don’t become “conceited” (4) thinking that we know everything, when in reality we understand “nothing”. (4)  Let’s “flee from all this, and pursue righteousness, godliness, faith, love, endurance and gentleness.” (11)

  1. Godliness with contentment (Vs.6-10)

Next let’s look at what brings us great gain. Please look at verses 6 to 10. Verse 6 says, “But godliness with contentment is great gain.”

False teachers “think that godliness is a means to financial gain (5), but here it is saying that that is not so. It is not that if you believe in God, you will prosper or you will succeed, but it is really by “godliness with contentment” (6) that is the means to great gain. That means that the real means to having a great gain is to believe in God who saved us from our sin, be content with what God gives, and to live being thankful to God.

There is no other great gain except this. No matter how many of the things you want becomes yours, if you are not content thinking “I want more!” “More!” and only complain, then there will be no joy. There is no benefit.  However, if you are content with what God has given you, are joyful, and can be thankful, there is great gain. This is the kind of gain that the Bible talks about.

Why can Christians be content with and be thankful for what God has given them?

①           Because God loves us and gave his son for us that we might have eternal life.

“For God so loved the world that he gave his only begotten son that whoever has believed in him may not perish, but have eternal life.” (John 3:16)

In the Bible it is written that whoever believes in God’s son Jesus Christ will have eternal life. Eternal life is a great gain! We all for less than 100 years on this earth study and work hard. 100 years and eternity are completely different. Rather they can’t be compared.  It is said that the first emperor of China because of his desired wish for perennial youth and long life, he promised to give those who looked for medicine for perennial youth and long life whatever they desired. He had them look throughout the world, but his wish was not granted. However, we through Jesus Christ have been given eternal life. There is no other god like Jesus.  Even if you search throughout the world, such a Savior cannot be found in any other religion. That is an awesome gain! The Christian faith doesn’t necessarily promise profit in this life, but it promises benefits in the next world. The next world is the world after death, heaven. Even if we die we will be given living eternal life.  It is not necessary to have mixed feeling of joy and sorrow about our life on this earth. We are able to be thankful for what God has given us.

②              Because we believe that God “who did not spare his own Son, but gave him up for us all… along with him, graciously give us all things.” (Romans 8:32) In Romans 8:32 it says, “He who did not spare his own Son, but gave him up for us all-how will he not also, along with him, graciously give us all things?”

In other words, those who believe in Christ, not only have received God’s eternal life, but God also gives all things in creation that he has created. This is natural logically. That’s because all of creation was made by Christ and for Christ. God who gave us Christ, gives us all that was created by Christ. By believing in Christ and becoming one with Christ, we become joint heirs with Christ.

Psalms 84:11 says, “For the LORD God is a sun and shield;

the LORD bestows favor and honor;

no good thing does he withhold

from those whose walk is blameless.”

God does not withhold good things. If it is good for you, then God will definitely give it to you. If something is withheld from you, then it is not good for you. God is going to give you something more important. God will give you everything that you need. God does not withhold good things “from those whose walk is blameless.” (Psalm 84:11) “He who did not spare his own Son, but gave him up for us all-how will he not also, along with him, graciously give us all things?” (Romans 8:32)

Christians know this so they can peacefully depend on God.  If you don’t know this you are always complaining that you don’t have this or that and are very nervous.

③              They “know that in all things God works for the good of those who love him. (Romans 8:28)  In Romans 8:28 it says, “And we know that in all things God works for the good of those who love him, who have been called according to his purposes.”

This is not on the level where you are given everything thing that you want. It is “for the good of those who love” (Romans 8:28) Christ. Even things that seem bad, God uses them “for the good”. (Romans 8:28)

One person that made a huge influence in the history of evangelism in Japan is Ayako Miura. Ayako Miura wrote “Shiokari Pass” and other novels based upon faith.

When Ayako Miura got married, her husband, Mitsuo‘s, salary was very low. They were struggling so they opened a little store and began a business. They had an honest and kind business so the customers were increasing and increasing. Every day the truck would bring stock, but every day they sold out.

However, one day when her husband came home, he said worriedly that because of their shop, other shops were going out of business. Today the shop across the street closed.

When Ayako Miura heard that, her heart hurt. She thought that it was wrong for them to be putting other stores out of business. Therefore, from the next day on she started cutting down on the amount of stock she was buying and chose only a small amount of items to sell. When customers came to buy something they were out of, she would send the customers to a different store. As a result she had more time on her hands and could do reading and writing that she liked. She was able to enter the Asahi Newspaper Company Novel prize money contest that was seeking contestants at that time. The prize money was \10,000,000 which was in that age an exceptional amount of prize money. In this way the famous novel, “Freezing point”, was born.

In the midst of the problem of other stores going out of business because of their store the Miuras were troubled over what they should do.  In the end they made their store smaller so that other stores would not be effected. However, as a result it opened the door for Ayako Miura as a novelist.

“We know that in all things God works for the good of those who love him.” (Romans 8:28) We believe in God’s concern for us.

Then even if we have a problem, it is not a problem anymore. If we don’t make a problem a problem then we should be able to easily solve it. That’s because we can peacefully put all in the hands of the Almighty God and we can work on the solution. All problems are in the hand of God who is the creator of creation. God is Almighty so there isn’t even one problem that God can’t solve.  All problems will be solved in God’s time and by God’s way. This is a great benefit, isn’t it? “Those who love” (Romans 8:28) have this great benefit!

Verse 7 and 8 say, “For we brought nothing into the world, and we can take nothing out of it.  But if we have food and clothing, we will be content with that.”

This is the truth. We are born naked “and we can take nothing” (7) when we leave this world. I have thought as I have done funerals many times, no matter how much a person leaves on this earth, he “can take nothing” (7) with him. All becomes ashes.

Therefore, “if we have food and clothing, we will be content with that.” (8) This is actually written as a command. It is “Be content with that.” You mustn’t complain. If you complain, you are breaking the command. We tend to look at what we don’t have and complain, but let’s look at what we have and be thankful. “If we have food and clothing” (8) let’s be content.

Even so, what happens to those who seek profit in this world and want more and more riches can be seen in verses 9 and 10.  Here it says, “People who want to get rich fall into temptation and a trap and into many foolish and harmful desires that plunge men into ruin and destruction. For the love of money is a root of all kinds of evil. Some people, eager for money, have wandered from the faith and pierced themselves with many griefs.”

The end of such people is “ruin”. “Some people, eager for money, have wandered from the faith and pierced themselves with many griefs.” (10) “People who want to get rich fall into temptation and a trap and into many foolish and harmful desires that plunge men into ruin and destruction.” (9) Paul is saying here that “the love of money is a root of all kinds of evil.” (9) Money in and of itself is not evil. The problem is “the love of money,” (9) or being controlled by money. There are some people for whom money is power. However, when you consider that such desires cause problems not only in the political world and financial world, but in various places of society, truly it is just as the Bible says. Therefore, what the Bible says is really the truth.

That is something that Christians must be careful about. Christians too by loving money “have wandered from the faith” (9) and caused grief not only to themselves, but to others too. As a fearful result, they fell into destruction. In other words, when you love money, money becomes everything and you begin serving money. However, we should love God and God should be everything and we should be serving God. We must love God, not money. What Christians aim for is not becoming rich, but being full of God. That is the means to great gain.

To do that let’s pray the prayer of Psalm 30:7 to 9. “Two things I ask of you, O LORD; do not refuse me before I die: Keep falsehood and lies far from me; give me neither poverty nor riches, but give me only my daily bread. Otherwise, I may have too much and disown you and say, ‘Who is the LORD?’ Or I may become poor and steal, and dishonor the name of my God.”

“Give me neither poverty nor riches, but give me only my daily bread. Otherwise, I may have too much and disown you and say, ‘Who is the LORD?’ Or I may become poor and steal, and dishonor the name of my God.” (8, 9) Then let’s depend on God more and more, and receive that great gain. Truly “godliness with contentment” (6) is the “means to” (5) “great gain.” (6)

Ⅰテモテ6章1~10節 「大きな利益を受ける道」

きょうはⅠテモテ6章の御言葉から、「大きな利益を受ける道」というタイトルでお話したいと思います。よくキリスト教はご利益宗教ではないと言われますが、きょうの聖書の箇所には「大きな利益を受ける道です」とあります。つまり、キリスト教にもご利益があるということです。ただそのご利益というのは、病気や災いがないということではなく、あるいは、商売が繁盛することでもありません。聖書の言うご利益とは、むしろ問題があっても神がすべてのことを働かせて益としてくださるということを信じ、神が与えてくださるものを感謝して受け止めることができるということです。それが、満ち足りる心を伴う敬虔です。これこそ、本当のご利益ではないでしょうか。滝元明という有名な伝道者が「こんな大きなご利益どこにもない」という本を出版されましたが、まさにこんな大きなご利益はどこにもありません。これこそ、私たちが大きな利益を受ける道なのです。きょうは、この道についてお話したいと思います。

Ⅰ.自分の主人を尊敬しなさい(1-2)

まず、1節と2節をご覧ください。

「1くびきの下にある奴隷は、自分の主人を十分に尊敬すべき人だと考えなさい。それは神の御名と教えとがそしられないためです。2 信者である主人を持つ人は、主人が兄弟だからといって軽く見ず、むしろ、ますますよく仕えなさい。なぜなら、その良い奉仕から益を受けるのは信者であり、愛されている人だからです。あなたは、これらのことを教え、また勧めなさい。」

ここには、仕事の主人に仕えることによって得られる益について語られています。くびきの下にある奴隷とは、主人がノンクリスチャンである場合の労働者の立場にあるクリスチャンのことです。当時のローマ社会はその半数が奴隷だったと言われていますが、驚くべきことに、そうした奴隷たちの間にも福音がかなり浸透していたようで、信仰を持つ人が数多く起こされていたのです。そうした中にあって、信仰を持ったクリスチャンはノンクリスチャンである主人にどのように仕えたらいいのでしょうか。「くびきの下にある奴隷は、自分の主人を十分に尊敬すべき人だと考えなさい。」たとえ雇用主がノンクリスチャンであっても、その上司を十分に尊敬すべきだというのです。なぜでしょうか?神の御名と教えとがそしられないためです。ローマ書13章によると、この社会のすべての秩序や権威は神によるものだとありますから、たとえ上司がノンクリスチャンであってもその秩序や権威が神によるものであると認め、それを喜び、それに従わなければならないのです。そうでないと、神の御名がそしられることになるからです。職場でクリスチャンがどのように仕えるかが最大の信仰の証であり、ミニストリーでもあるのです。真面目で熱心に働くクリスチャンを見て好感が持たれるようであれば、それ自体がすばらしい信仰の証になります。

20世紀最大の説教者の一人と言われているD.M.ロイドジョーンズは、次のように言いました。「クリスチャンは、クリスチャンであることによって自動的に社会に影響を及ぼすのである。」クリスチャンがクリスチャンとして職場で仕えるならば、それだけでよい証となり、大きな影響を及ぼすことになるというのです。

識文兄の母教会J’s Table キリスト教会のアリ先生の証を読みました。アリ先生はイラン人の方ですが、イラン人のほとんどはイスラム教徒で、小さい頃からイスラム教の中で生れ育ちます。そのアリ先生がどうしてクリスチャンになったのか、以前から関心がありましたが、先生の証を読むと、どうもある一人のクリスチャンとの出会いがきっかけであったようです。アリ先生は高校卒業後軍隊に入隊しましたが、そこで一人のアルメニヤ人兵士に出会うのです。戦場では、たとえ仲間同士であってもそれぞれが生きることに必死で、自分のことしか考えない自己中心の世界なのだそうですが、そのアルメニヤ人兵士は違っていたというのです。彼は大切な自分の持ち物を必要としている人に配っていたのです。しかも嫌々ながらではなく、喜んでしているかのようにさえ見えました。それは物質だけでなく心も配っていました。戦場という厳しい環境で余裕のない状況なのに、みんなの話をよく聞いて、自分にできることを精一杯しているように見えたのです。それは普通ではないと思いました。彼は、アリ先生が今までの人生で会ったことがない人でした。一体、そのパワーはどこからくるのか?どうしてそんなことができるのか?知りたくなって、思い切って本人に尋ねると、彼は優しくこう答えてくれました。

「これは僕の力じゃないよ。僕はクリスチャンなんだ。僕にできるのは、僕の信じている聖書の神、つまりイエス・キリストのおかげだよ。」

正直、アリ先生はそういう宗教の話は聞きたくありませんでした。宗教や神などは彼の中で完全に捨てたつもりだったので、もう関わりたくないと思っていたからです。でもこのアルメニヤ人の持っている力を無視することはできませんでした。そして彼はイエス・キリストに出会い、クリスチャンになったのです。彼のようになりたいと思ったからです。このアルメニヤ人兵士の存在そのものがアリ先生を救いへと導いたのです。その後、日本に来て教会に導かれ、聖書の学びへと進み、牧師になりました。すごいですね。そのアルメニヤ人兵士の証はイスラム教徒さえも回心させる影響力があったのです。クリスチャンが自分の職場でノンクリスチャンの上司を十分に尊敬するなら、そのことによって、神の御名があがめられるようになるのです。

2節には、今度は信者である主人を持つ人は、どのように仕えていったらよいかが教えられています。その人は、主人が兄弟だからといって軽く見ず、むしろ、ますますよく仕えなければなりません。上司がクリスチャンの場合、クリスチャンであるしもべが陥りやすい過ちは、なあなあになってしまうことです。人は親しくなるとなれなれしくなり、相手を正当に評価しなくなる傾向があるのです。主にあって兄弟姉妹の関係になることはすばらしいことですが、「親しき仲にも礼儀あり」という言葉があるように、礼儀に反してはいけません。なぜなら、愛は礼儀に反しないからです。Ⅰコリント13章5節には、「愛は、礼儀に反することをせず、」とあります。愛は礼儀に反することをしません。兄弟である主人を重んじ、ますますよく仕えなければならないのです。

なぜでしょうか?その後のところに理由が述べられています。それは、「その良い奉仕から益を受けるのは信者であり、愛されている人だからです。」どういうことでしょうか?そのようにクリスチャンのしもべが良い奉仕をすることによって益を受けるのは、同じクリスチャンの主人であるからです。主にあって愛する兄弟が益を受けるのであれば、それは同じ主にある兄弟にとっても大きな喜びであるはずです。なぜなら、兄弟を愛することは神の喜びでもあるからです。そしてそれはまた、少なからず利益の分配となって自分自身の祝福となって返ってくることになるでしょう。

Ⅱ.違ったことを教える人たちに対して(3-5)

次に、3節から5節までをご覧ください。ここには次のようにあります。

「3違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない人がいるなら、4 その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、5 また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです。」

「違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない人」とは、この文脈から見ると、この社会におけるクリスチャンの労働のあり方に同意しない人のことだと言えます。くびきの下にある奴隷は、自分の主人に対してどうあるべきか、あるいは、主人がクリスチャンの場合はどうすべきであるかということを教えられても、それに従おうとしない人たちです。「上司にも変な人が多いから、そういう人には適当に接していればいいんだよ」とか、「嫌だったらすぐに辞めればいい」と言って、従おうとしないのです。つまり、聖書に書かれてあることよりも自分の考えを押し通すような人たちのことです。そういう人たちがエペソ教会にいたのです。そのような人たちは、主人に対してどのように仕えるかということだけでなく、ありとあらゆる事において聖書の教えよりも自分の考えに生きていたのです。

そのような人たちについてはすでに1章3節のところでも語られていました。このエペソ教会には、違った教えを説いたり、果てしのない空想話と系図とに心を奪われている人たちがいたのです。それで教会が混乱していました。そうした教えは無益な議論を引き起こすだけで、信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすものではありません。ですから、そういう人たちを避けなさいというのです。

教会で注意しなければならないのは、弱い人や力のない人、信仰の薄い人ではなく、このような人たちです。彼らは能力があり、信仰もあり、知識もあると自負していながら、違ったことを教えて人々を惑わしていました。私たちは、こういう人たちを注意しなければなりません。

このような人たちにはどのような特徴が見られるでしょうか?第一に彼らは高慢になっています。この「高慢」ということばは「煙に巻かれている」という意味のことばで、煙に取り巻かれた人のように自分も周囲も見えないのです。それで自分を誇り、自分の考えこそ正しいと錯覚しているのです。

第二の特徴は、何一つ悟らないということです。これは「無知」とか「無理解」であるということです。律法を知っていると言いながらその意味を全く理解していないのです。主のことばを聞いても正しく理解することができないのです。

第三の特徴は、彼らは疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっていることです。これは病気なんです。これは知的な病気と言います。この病気はある程度の知識を持っているか、あるいはそういう訓練を受けている人に多く見られる病気なんです。しかし、そこからは何のいいものも生まれてきません。そこから生じてくるのは、ねたみとか争い、そしり、悪意の疑いといったものしか生まれてこないのです。互いに愛し合って、一つ心となって、人々の救いのために一致協力して労すべき神の家族の中に、その目標とは全く相容れないものが生み出されてくるのです。それはもう聖霊のみわざとは言えません。これはまさに「惑わす霊」、悪霊のしわざであり、キリストのからだである教会を少しずつむしばんでいくものなのです。

第四に、彼らは敬虔を利得の手段と考えています。どういうことですか?この「敬虔」という言葉ですが、口語訳と新共同訳では「信心」と訳しています。信心、すなわち、宗教を利得の手段としているのです。キリスト教を通してそれでお金儲けをしようと考えているということです。

ですからも違ったことを教え、主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えに同意しない人がいるなら、そういう人には注意しなければなりません。

Ⅲ.満ち足りる心の伴う敬虔(6-10)

では私たちに大きな利益をもたらしてくれるものは何でしょうか。6節から10節までをご覧ください。6節にはこうあります。「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」

どういうことでしょうか。偽教師たちは信仰を自分の利得の手段と考えていましたが、ここではそうではないと言っているのです。神を信じれば繁栄するとか、成功するということではなく、満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を受ける道だというのです。これはどういう意味でしょうか?これは、私たちを愛し、私たちを罪から救ってくださった神を信じ、その神が与えてくださるもので満足し、その神に感謝して生きるということ、これこそ大きな利益を受ける道であるということです。

こんな大きなご利益は他にはありません。いくら欲しいものを手に入れても満足できず、もっと欲しい!もっと欲しい!と、不満ばかり漏らしていたら、そこには何の喜びもありません。ご利益など一つもないのです。しかし、神が与えてくださったもので満足し、喜び、感謝することができるなら、それこそ大きなご利益ではないでしょうか。聖書が言っているご利益とはこういうものなのです。

いったいなぜクリスチャンは神が与えてくださるものを満足し、感謝して受けとめることができるのでしょうか?なぜなら、神は私たちを愛し、私たちのために御子イエスを与え、永遠のいのちを持つようにしてくださったからです。神はそれほどまでにあなたを愛しておられるからです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

聖書には、神の御子イエス・キリストを信じる者は、「永遠の命」を持つと書かれています。こんなに大きな御利益があるでしょうか。「永遠の命」ですよ。私たちは皆、この世における100年足らずの命のために勉強したり、あくせくと働いているんです。百年と永遠とではケタ違いです。いや、比較になりません。秦の始皇帝は、「不老長寿」を念願して、「不老長寿の薬」を探した者にはなんでも望むものを与えると約束して、世界中を探させたと言われています。しかし、その願いはかなえられませんでした。けれども、私たちはその永遠のいのちをイエス・キリストによって与えられたのです。このような神がいったい他にいるでしょうか。世界中どこを探しても、このような神はいません。これはものすごいご利益です。キリスト教信仰は必ずしも現世利益を約束するものではありませんが、来世利益を確約するものなのです。来世とは死後の世界のことで、天国のことです。私たちには死んでも生きる永遠のいのちが与えられているので、この地上でのいのちのことで一喜一憂する必要はありません。神が与えてくださるものを、感謝して受けとめる心の余裕があるのです。

なぜクリスチャンは神が与えてくださるものを満足して受け止めることができるのでしょうか?第二、それはご自身のひとり子さえも惜しまずに死に渡された方は、御子といっしょにすべてのものを与えてくださると信じているからです。ローマ人への手紙8章32節には、次のように書かれています。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」

要するに、キリストを信じる者には、神の永遠の命が与えられるばかりでなく、神の創られた天地万物をも与えてくださるということです。これは論理的にも当然のことです。なぜなら、天地万物はキリストによって、キリストのために創られたものですから(ヨハネ1:3;ヘブル1:2;コロサイ1:16)、私たちにキリストを与えて下さった神は、キリストによって創られた被造物のすべてを、私たちに与えて下さらないはずがないのです。私たちはキリストを信じてキリストと一体となることによって、キリストとの共同相続人とされているのです。

それなのに、与えられないことがあるとしたら、それはいったいどういうことなのでしょうか?それは私たちにとって本当に必要なものではないということです。必要であれば、神は必ず与えてくださるのです。なぜ神は宝くじを当ててくれないのでしょうか。必要ないからです。そんなのに当たったら、あなたの人生はくるってしまうでしょう。もっと高慢になって自分が神にでもなったかのように思い込み、信仰から離れてしまうようになるかもしれません。だから、神は当ててくれないのです。本当に必要だったら必ず与えてくださいます。アーメン。詩篇84篇11節にはこうあります。「まことに、神なるは太陽です。盾です。は恵みと栄光を授け、正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません。」。

私たちの神は良い物を拒まれません。あなたにとって良い物であれば、神は必ずあなたに与えてくださいます。神は、正しく歩む者たちに、良いものを拒まれないのです。私たちに御子を与えてくださった方は、御子といっしょに、すべてのものを与えてくださるのです。そのことを知っているので、クリスチャンは安心して神に信頼することができます。これがわからないと、与えられない、与えられないといつも不満を漏らし、イライラするようになるのです。

いったいなぜクリスチャンは神が与えてくださるものを満足し、感謝して受けとめることができるのでしょうか?その第三の理由は、神を愛する人々のために、神はすべてのことを働かせて益としてくださることを、知っているからです。

ローマ人への手紙8章28節には、こうあります。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

ここには欲しいものが与えられるかどうかというレベルではなく、すべてのことを益としてくださるとあります。それは良いことばかりではありません。どうしてこのようなことがと思えることさえも、神はすべてを働かせて益としてくださるのです。

日本のプロテスタント宣教の歴史の中で大きな影響を与えた人のひとりに、三浦綾子さんがおられます。三浦綾子さんは、塩狩峠をはじめ、信仰をベースにした小説を書きましたが、なぜ三浦さんは小説を書くようになったのでしょうか。実は三浦さんが結婚した当初、夫の光世さんの給料が少なかったため、生活が苦しかったそうです。それで小さな店を開いて商売を始めたのですが、正直で親切な商売をするので客はどんどん増え、毎日トラックで品物を積んできても売り切れてしまうほどだったそうです。ところがある日、夫が帰って来て、「どうしたものかな。私たちの店のせいで、他の店がつぶれてしまった。今日、あの向かいの店も閉じてしまったそうだ。」と心配して言いました。それを聞いて三浦さんは心を痛めるんですね。どうしましょう、自分たちのせいで他の人たちを苦しめるようなことがあってはいけないわ。それで次の日から大量に仕入れていた品物を大幅に減らして何種類かだけを選んで置き、客が品物を買いに来たら、他の店に行くように勧めたのです。するとどうなったでしょうか。商売あがったり・・というところですが、そのことで逆に時間に余裕ができ、好きだった読書や文章を書くことができるようになり、当時募集していた朝日新聞社の懸賞金付き小説に応募することができたのです。それは1,000万円という当時としては破格の懸賞金でした。それに選ばれたのです。こうした生まれた小説が、あの有名な「氷点」です。自分たちの店のために他の店がつぶれてしまうという問題の中で、いったいどうしたらいいかと悩みつつ、結局、自分たちの店を縮小してでも他の店に影響が及ぼすことがないようにとしたことが、三浦さんの小説家としての道を切り拓く結果となったのです。神を愛する人たちのために、神はすべてのことを働かせて益としてくださるのです。私たちは、そうした神のご配慮を信じているのです。

そうすると、たとえそこに問題があっても、もはやそれは問題ではないということがわかります。私たちが、問題を問題としないならば、問題を解決することも容易になってくるはずです。その問題を安心して全知全能の神にゆだねつつ、その解決に取り組むことができるようになるからです。あらゆる問題は、天地万物の創造主なる神の御手の中にあります。神は全知全能ですから、解決できないような問題は何一つありません。あらゆる問題は神の時に神の方法によって解決されるのです。これはものすごいご利益ではないでしょうか。神を愛する人々は、こんなも大きなご利益を受けるのです。

7節と8節にはこうあります。「7 私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。8 衣食があれば、それで満足すべきです。」

これは真理です。私たちは裸で生まれて、裸一貫でこの世を去っていきます。だれも服を着て生まれた人はいないし、死ぬ時には何も持っていくことはできません。私は何度も葬儀をして思いますが、どんなにこの地上に残しても、最後は何も持っていくことはできないんだなぁということを、つくづく教えられます。

だから、衣食があればそれで満足すべきです。実はこれは命令形で書かれているんです。満足しなさい、ということです。不平不満を言ってはいけません。不平不満を言ったら命令違反ということになります。ある人が言いました。「足のない人を見るまでは、靴のないのをこぼしていたものだ」と。とかく私たちはないものを見て不平不満をこぼしがちですが、与えられたものを見て感謝する者でありたいと思います。衣食があれば、それで満足しましょう。あなたは不平を言ってはいませんか?

それでもこの世での利得を求め、もっと!もっと!と欲しがる人はどのようになるでしょうか。9節と10節をご覧ください。ここには、「9 金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。10 金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」とあります。

そのような人の最後は滅びです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、おろかで、有害な多くの欲に陥るのです。パウロはここで、「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。」と言っています。金銭そのものが悪なのではありません。金銭を愛することが問題です。金銭に支配されることが問題なのです。「金は力なり」という人がいますが、しかし、そうした欲望が政界や財界だけでなく、社会のさまざまなところで問題を引き起こしていることを考えると、まさに聖書に書かれていることは本当に真理なのです。

それはクリスチャンも注意しなければならないことです。クリスチャンも金銭を愛することで信仰から離れ、結局は自分自身のみならず、他の人たちをも苦痛と破滅に陥らせるという恐ろしい結果を招くことになるからです。つまり、金を愛すると金がすべてになり、金に仕えるようになるといことです。でも神を愛すると神がすべてとなり、神に仕えるようになるのです。私たちは金をではなく神を愛する者でなければなりません。クリスチャンが目指すのは金持ちではなく、神持ちです。それこそ大きな利益を受ける道なのです。

そのために、詩篇30章7節から9節にある祈りをささげたいと思います。「7 二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。8 不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。9 私が食べ飽きて、あなたを否み、「とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。」

貧しさも富みも私に与えず、私に定められた分の食料で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、神の御名を汚すことがないために。そして私たちは、ますます神に信頼し、この大きなご利益を受ける者でありたいと願います。満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道だからです。

民数記20章

きょうは民数記20章から学びます。

Ⅰ.イスラエル人のつぶやき(1-6)

まず1-6節までをご覧ください。

「1 イスラエル人の全会衆は、第一の月にツィンの荒野に着いた。そこで民はカデシュにとどまった。ミリヤムはそこで死んで葬られた。2 ところが会衆のためには水がなかったので、彼らは集まってモーセとアロンとに逆らった。3 民はモーセと争って言った。「ああ、私たちの兄弟たちがの前で死んだとき、私たちも死んでいたのなら。4 なぜ、あなたがたはの集会をこの荒野に引き入れて、私たちと、私たちの家畜をここで死なせようとするのか。5 なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、この悪い所に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような所ではない。そのうえ、飲み水さえない。」6 モーセとアロンは集会の前から去り、会見の天幕の入口に行ってひれ伏した。するとの栄光が彼らに現れた。

イスラエルの全会衆は、第一の月にツィンの荒野に着きました。ツィンの荒野とは、あの12人のスパイたちをカナン偵察のために遣わした地のことです。そこに戻ってきたわけです。ですから、1節の「第一の月」というのは、あの時以来のことになります。実は、あれから38年後のことなのです。なぜなら33章38節を見ると、そこにエジプトを出てから第四十年目とあるからです。その時アロンが死にました。ここにもアロンの死のことがあります。ですから、これはエジプトを出てから40年目の第1の月のことなのです。以前、カデシュ・バルネアで彼らが約束の地に入れなかった時、すでにエジプトから出て1年以上が経っていました。ですから、彼らが荒野で放浪したのは実際には38年になります。そして彼らはこの「ツィンの荒野」に戻ってきたのです。

そこで、モーセの姉「ミリヤム」が死にました。彼女はすでに133歳になっていたことと思われます。というのは、モーセが生まれたときに彼女は13歳でしたので、モーセは120歳で死にましたから、彼女はこの時133歳であったろうと考えられます。その他の人々はほとんどが新しい世代の人たちです。古い世代の人たちはみな死に絶えてしまいました。

そこで一つの事件が起こりました。それは、イスラエルがモーセとアロンに逆らったのです。いったい彼らはなぜ逆らったのでしょうか?そこに水がなかったからです。水がなかったので、穀物やくだものが育たないというだけでなく、彼らの家畜にも飲ませる水がありませんでした。それで彼らはモーセとアロンにつぶやいたのです。ここで興味深いことは、彼らのつぶやきは、かつてカデシュ・バルネアからスパイを遣わした際、その偵察から帰ってきた10人の悪い報告を聞いたイスラエル人の親の世代と同じあることです(14:1~)。また、コラの事件があったとき、あのダタンとアビラムが言ったこととも同じです(16:12~)。人間の心というのは、いつの時代も同じであることを思います。そこに水がなかったので、彼らはそれを契機にこのような不平を鳴らしたのです。おそらく、ミリヤムが死んだという悲しみがあったでしょうし、かつてここから偵察を遣わしたという記憶もよみがえったのではないかと思います。私たちは平素では希望を持っていても、いざ状況が悪くなるとすぐに不満を漏らしやすいものなのです。それでモーセとアロンは集会の前から去り、会見の天幕の入口に行ってひれ伏した。するとの栄光が彼らに現れたのです。モーセとアロンはいつもと同じように、主の前にひれ伏しました。

Ⅱ.メリバの水(7-20)

「7 はモーセに告げて仰せられた。8 「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。」9 そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、の前から杖を取った。10 そしてモーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」11 モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。12 しかし、はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」13 これがメリバの水、イスラエル人がと争ったことによるもので、主がこれによってご自身を、聖なる者として示されたのである。」

すると主は何と仰せになられたでしょうか?杖を取って、彼らの目の前で岩に命じるようにと言われました。そうすれば、岩は水を出す、と言われたのです。そり水を会衆とその家畜とに飲ませるようにと言われたのです。そこでモーセは、主が命じられたとおりに、主の前から杖を取って、岩の前に召集したイスラエル人に、「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」と言い、杖で岩を二度打ちました。すると、岩からたくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲みました。

しかし、そのとき主はモーセとアロンにこう言われました。12節です。 「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」

いったいどういうことでしょうか?彼らは神に命じられたとおりにしたかのようでしたが、実はそうではありませんでした。モーセは岩に命じればよかったのに、岩を打ってしまいました。しかも、二度も、です。いったいなぜモーセは岩を二度打ってしまったのでしょうか。それはモーセに怒りがあったからです。モーセはその怒りを抑えることができませんでした。それでついつい岩を打ってしまったのです。それでも主は民をあわれみ、水をわき出るようにされましたが、それは主のみこころを損なわせたので、モーセとアロンはこの集会を約束の地に導き入れることはできないと言われたのです。このことが原因で彼らは約束の地に入ることができなかったのです。この出来事はそれだけ重要な出来事でした。

いったいこのことは私たちにどんなことを教えているのでしょうか。どういうことでしょうか?Ⅰコリント10章4節には、この岩がキリストを表していると語られています。「(私たちの先祖は)みな、同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。」この岩とはキリストのことでした。その岩から水を飲むとは、キリストにあるいのちを受けることを指しています。そのためには、その岩に向かってただ命じればよかったのです。すなわち、神の命令に従えばよかったのです。それなのにモーセは岩を打ってしまいました。モーセとアロンは、主が仰せになられたことに従わなかったのです。つまり、主のことばを信じなかったことです。モーセは自分の思い、自分の感情、自分の方法に従いました。それは信仰ではありません。信仰とは、神のことばに従うことです。そうでなければ救われることはありません。私たちが救われるのはただ神のみことばを信じて受け入れること、すなわち、御霊の岩であるイエスを信じる以外にはないのです。彼らは神と争い、神の方法ではなく自分の方法によって水を得ようとしたのです。それでこの水はメリバの水と呼ばれました。意味は争うです。彼らは神に従ったのではなく、神と争ったのです。

私たちはここから、神に従うことの大切さを学びます。そして、そのためには自分の感情をコントロールすることの必要性を感じます。自分の感情に流されて神に従うことができないということがよくあります。たとえ自分の感情がどうであれ、御霊によって歩み、御霊に導かれて歩まなければなりません。そうすれば、肉に支配されることはないからです。

Ⅲ.エドムの反抗(14-21)

「14 さて、モーセはカデシュからエドムの王のもとに使者たちを送った。「あなたの兄弟、イスラエルはこう申します。あなたは私たちに降りかかったすべての困難をご存じです。15 私たちの先祖たちはエジプトに下り、私たちはエジプトに長年住んでいました。しかしエジプトは私たちや先祖たちを、虐待しました。16 そこで、私たちがに叫ぶと、主は私たちの声を聞いて、ひとりの御使いを遣わし、私たちをエジプトから連れ出されました。今、私たちはあなたの領土の境にある町、カデシュにおります。17 どうか、あなたの国を通らせてください。私たちは、畑もぶどう畑も通りません。井戸の水も飲みません。私たちは王の道を行き、あなたの領土を通過するまでは右にも左にも曲がりません。」18 しかし、エドムはモーセに言った。「私のところを通ってはならない。さもないと、私は剣をもっておまえを迎え撃とう。」19 イスラエル人は彼に言った。「私たちは公道を上って行きます。私たちと私たちの家畜があなたの水を飲むことがあれば、その代価を払います。ただ、歩いて通り過ぎるだけです。」20 しかし、エドムは、「通ってはならない」と言って、強力な大軍勢を率いて彼らを迎え撃つために出て来た。21 こうして、エドムはイスラエルにその領土を通らせようとしなかったので、イスラエルは彼の所から方向を変えて去った。」

カデシュから直接、約束の地に入ることが御心ではないことを知っていたモーセは、ヨルダン川の東から、ヨルダン川を渡って入ることを考えていました。ゆえに死海を迂回して、死海の北にあるヨルダン川に行こうとしました。しかし、そこにはエドムの地が広がっていました。それでモーセはカデシュからエドムの王のもとに使者たちを送り、彼らの地を通らせてほしいと願いましたが、彼らの答えは「ノー」でした。「通ってはならない」と、頑なに拒んだのです。なぜでしょうか?

エドムとはもともと、ヤコブの兄エサウの子孫で、イスラエルの兄弟です。それゆえ、主はモーセに対してエドム人と争ってはいけないという命令を出していました。それは、「彼は同族であるから」です。ヤコブの兄であったので、戦ってはいけない、と言われたのです。それでモーセは平和的な解決を求めてエドムの王に通行許可を願いましたが、彼らはそれを受け入れませんでした。それどころか、戦争も辞さない姿勢で向かってきたのです。

それは、彼らがイスラエルの神に畏れを抱きながらも、最終的には自分たちの思いを優先していたからです。あのエサウが一杯のレンズ豆と引き換えに長子の権利をヤコブに譲ったように、霊的なことに目が開かれることなく、いつも肉的に考えていたからなのです。それはこの時からずっと続きました。彼らはイスラエルに決して服することをせず、何かがあれば、イスラエルに敵対しました。イスラエルが苦しめられていても何のお構いなしで、彼らを助けようとせず、自分たち中心に行動したのです。その結果、このエドムには永遠の廃墟という預言が与えられました。いつまでも悔い改めず、神に敵対する者がどうなってしまうのかを、この箇所はよく教えていると思います。

Ⅳ.アロンの死(22-29)

「22 こうしてイスラエル人の全会衆は、カデシュから旅立ってホル山に着いた。23 は、エドムの国の領土にあるホル山で、モーセとアロンに告げて仰せられた。24 「アロンは民に加えられる。しかし彼は、わたしがイスラエル人に与えた地に入ることはできない。それはメリバの水のことで、あなたがたがわたしの命令に逆らったからである。25 あなたはアロンと、その子エルアザルを連れてホル山に登れ。26 アロンにその衣服を脱がせ、これをその子エルアザルに着せよ。アロンは先祖の民に加えられ、そこで死ぬ。」27 モーセは、が命じられたとおりに行った。全会衆の見ている前で、彼らはホル山に登って行った。28 モーセはアロンにその衣服を脱がせ、それをその子エルアザルに着せた。そしてアロンはその山の頂で死んだ。モーセとエルアザルが山から降りて来たとき、29 全会衆はアロンが息絶えたのを知った。そのためイスラエルの全家は三十日の間、アロンのために泣き悲しんだ。」

こうしてイスラエル人の全会衆は、カデシュから旅立ってホル山に着きました。ホル山はエドム領にあるとありますが、明らかに直線の道を通らずに、エドムの領土を廻っていく形で道を進んでいます。そのホル山で、主はモーセとアロンに仰せられました。そこでアロンは死ぬと。それで、そこでアロンの子エルアザルに大祭司の装束を着せて、それで引き継ぎが行なわれ、彼はそこで死にました。その理由は、先ほどのメリバの水のことで、主の命令に逆らったからです。

アロンはこうして、ホル山において息を引き取りました。厳しい現実です。しかし、このことをとおして、主はいかに、キリストのわざを示しておられるかがわかります。すなわち、主のわざこそ完全であって、それが私たちを完全に救うことができるということです。それ以外に救いはありません。もし、それを妨げるものがあれば、こうした厳しいさばきを受けることになるのです。たとえば、自分の行為によって生きていこうとすることです。それは私たちを救うことはできません。ただ神が要求されることは、私たちが神の贖いを受け入れること以外にはないのです。

Ⅰテモテ5章17~25節 「長老を敬う」

きょうは、Ⅰテモテ5章後半の箇所から、「長老を敬う」というテーマでお話をしたいと思います。パウロは5章で教会の様々な人たちに対してどうあるべきかについて述べてきましたが、きょうのところでは、教会の長老に対してどうあるべきかについて語っています。長老というのは、初代教会では監督、牧師と同じ職分を表す名称でした。その選出については3章で見たとおりですが、人格的で道徳的な品性を持ち、キリスト者らしい生き方を通して教会や社会に仕えていた人です。彼らは教会の教育と牧会の働きをしました。また、慈善や救援の働きを管理し、病人を見舞い、監督者となって教会をしっかりと管理していました。また、御言葉によって信徒を励まし、慰め、正して、福音にしっかり立ち続けるように勧めました。ですから、今日の牧師と同じ働きをしていたのです。もし牧師と違う点があるとしたら、それは年配者であったということくらいです。初代教会ではユダヤ教のように、年配者で尊敬される人を長老として立てたのです。ですから、ここでは長老とありますが、それは監督、牧師も含めた教会の指導者のことであり、そういう人たちに対してどうあるべきかが教えられているのです。

Ⅰ.二重の尊敬(17-18)

まず17節と18節をご覧ください。17節には、「よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。」とあります。

よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとあります。みことばと教えのためにほねをおっている長老は、特にそうです。なぜなら、みことばの教えによって私たちの信仰生活が決まるからです。教会において最も重要なことは、このみことばと教えることです。このみことばと教えにほねをおり、よく指導の任に当たっている長老は、尊敬に値する者であり、二重に尊敬を受けるにふさわしいのです。

ある人たちは、クリスチャンは「万人祭司」だから、牧師だけが特別なのではない、言います。勿論、そうです。教会は牧師の教会ではなく、神の教会であり、そこに集められた人たちのものです。ですから神は、その教会を建て上げるために、それぞれ御霊の賜物を与えてくださったのです。しかし、それは皆が同じということではありません。ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、またある人には同じ御霊によって知識のことばが与えられていますが、ある人には預言の賜物、教える賜物が与えられているのです。こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全に大人になって、キリストの身たけにまで達するためです。それが、神が教会に与えてくださった秩序です。その秩序に従って、それぞれが慎み深い考え方をしなければなりません。それなのに、あのモーセに逆らったコラたちのように、「全会衆残らず聖なる者であって、主がその中におられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか。」(民数記16:3)「分を越えている。」(同)と言うことがあるとしたら、そこに神のさばきがあるのは当然です。ですから、よく指導の任に当たっている長老は、二重の尊敬を受けるにふさわしいのです。

では、「二重に尊敬を受ける」とはどういうことでしょうか。新共同訳聖書ではこれを、「二倍の報酬を受けるにふさわしい」と訳しています。また、バークレーという聖書注解者も「二倍の給与」を意味すると考えていますがそういうことでしょうか?これは二倍の給与を受けるべきだということではありません。十分な尊敬と十分な報酬を受けるにふさわしいという意味です。態度においても尊敬すべきですが、報酬の面でも十分受けられるようにすべきであるということです。なぜそのように言えるのかというと、18節にこうあるからです。

「18聖書に「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない」、また「働き手が報酬を受けることは当然である」と言われているからです。」

「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」ということばは、旧約聖書の申命記25章4節からの引用です。「くつこ」というのは牛や馬の口にかぶせるかごのことです。牛や馬は収穫した穀物を食べる習性があるため、それを食べないように口にかごを掛けておいたのですが、そういうことはするなというのです。なぜでしょうか?牛や馬が働いてくれたお陰で田畑を耕せたり、穀物をこなしたりできたわけです。穀物をこなすとは、穀物を粉(こな)にするという意味で、製粉作業のことです。そのように働いてくれた牛に食べさせないようにするなんてとんでもない。そうした牛や馬がちゃんと食べられるように食べ物を与えるべきだというのです。それは長老も牧師も同じです。牧師は牛なんです。牧師は教会のために霊の穀物であるみことばをこなします。その牧師の口にくつこをかけてはいけないのです。生活のことで心配せずみことばの奉仕に専念できるように支えていかなければならないというのです。

それから、その後の「働き手が報酬を受けることは当然である」ということばですが、これはイエス様ご自身のことば(マタイ10:10,ルカ10:7)ですが、主のために労している働き人が、そこから報酬を受けることは当然のことであるということです。

それは、古代イスラエルにおいてもそうでした。神はイスラエル12部族の中からレビ族を取り、彼らがフルタイムで神に仕えるようにさせました。その彼らの生活はどのようにして支えられたかというと、イスラエル12部族からそれぞれ1/10を受け取って、それを彼らの生活の支えとしたのです。ということは、レビ人は他の部族よりも多く受けていたということです。彼らは約束の地で相続地を受けなかったので、その分このような形で報酬を得ていたのです。そのようにして彼らは、フルタイムで神に仕えることができました。主イエスはご自身を中心とする新しいイスラエル、神の教会においてもその原則が適用されると言われたのです。

それは、パウロも何回も言及してきたことです。ここでもそうですが、たとえば、Ⅰコリント9章14節には、「同じように、主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます」とあります。

パウロは、神に仕える者がその働きの中から生活の支えを受けることは決して悪いことではなく、むしろそうすべきだと言ったのです。ただパウロはそうしませんでした。彼は天幕作りをしながら福音を宣べ伝えたのです。いわゆる自給伝道です。なぜでしょうか。彼はそのようにする権利があったし、そうしても良かったのですが、あえてそのようにはしませんでした。それは、教会に負担をかけないようにするためでした。彼は開拓伝道者でしたから、始まったばかりの教会にそこまで要求したらどうなるかということをよく知っていたのです。それは教会にとって負担となり、伝道の足かせになってしまうと思いました。そのようにならないために彼は、労苦して仕えたのです。

もう一つの理由は、教会に誤解を与えないためでした。パウロの時代には偽教師たちが横行していて、彼らは教会からお金をだまし取るようなことをしていました。その偽教師たちと同じように見られないために、あえてそのような教会からは一切お金を受け取らないようにしたのです。たとえばコリントの教会からは一切報酬を受け取りませんでした。なぜなら、コリントの教会の中にパウロは使途ではないとか非難する者たちがいたからです。そういう教会からは謝儀を受け取ったらどういうことになるでしょう。また別の誤解を生むことになってしまいます。ですから、そういう誤解を受けないために、報酬を一切受け取らず、身を粉にして働いたのです。しかし、それは当たり前のことでありません。例外的なことです。働き手が報酬を受けることは当然のことなのです。

日本では教職者がお金のことを口にするのは汚いと考える人が少なくありません。神に仕える者は質素に生きるべきで、衣服があれば十分だというのです。でもそういう考え方は本来の聖書の教えではありません。勿論、牧師が豊かでなければ証にならないと報酬を要求するのも間違っていますし、必ずしも余裕のない教会では、パウロのように牧師が天幕作りをしながら伝道する場合もありますが、それが当たり前ではないということです。最初のうちは小さくて牧師を十分にサポートすることができないこともあるでしょうが、いつまでもそれに甘んじているのではなく、やがて牧師が生活のことで心配することなく、牧会に専念することができるように十分配慮すべきなのです。それは教会にとっても大きな恵みと祝福につながるからです。そのようにして、みことばと教えにほねをおる人がいてこそ教会は霊的に養われ、健全に成長していくことができるのです。

Ⅱ.長老に対する訴え(19-21)

次に19節から21節までをご覧ください。長老に対する接し方の第二のことは、長老に対して何か訴えがある時にはどうしたらよいかということです。

「19 長老に対する訴えは、ふたりか三人の証人がなければ、受理してはいけません。20 罪を犯している者をすべての人の前で責めなさい。ほかの人をも恐れさせるためです。21 私は、神とキリスト・イエスと選ばれた御使いたちとの前で、あなたにおごそかに命じます。これらのことを偏見なしに守り、何事もかたよらないで行いなさい。」

まず長老に対する訴えは、ふたりか三人の証人がなければ、受理してはいけません。なぜでしょうか。教会の指導者に対する悪いうわさは、教会に大きなダメージを与えるからです。教会はキリストのからだですから、キリストご自身を傷つけてしまうことになるということです。牧師や長老に対する陰口、告げ口、うわさ話は、教会に大きな影響を及ぼすのです。ですから、牧師、長老に対する訴えは慎重でなければいけないのです。

牧師は人前に立つことが多い性質上、人からの非難を受けやすいのです。これはどの政治的な指導者も同じであり、避けることが難しいことです。イエス様でさえ非難されました。ルカ7章34節には、「人の子が来て、食べもし、飲みもすると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言われたかと思うと、バプテスマのヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まないでいると、「あれは悪霊につかれている」と言われたのです。食べても、食べなくても、非難されるのです。じゃ、どうすればいいの、という感じですが、イエス様の場合はひどいことに、「彼は、ベルゼブルに取りつかれている」とも言われたのです。(マルコ3:22)。「ベルゼブル」というのは「悪霊どものかしら」のことですが、悪霊にとりつかれているとまで言われたのです。本当にひどいことです。

なぜ教会の牧師、長老、指導者がそのように悪く言われるのでしょうか?ま、牧師にも問題があるのは確かですが、それ以上にというか、本当の原因は、サタンがそのように企てているからなんです。サタンは、どうしたら教会をつぶすことができるのかをよく知っているんです。そのためには教会の指導者を倒せばいいのです。教会の指導者が倒れたら、そのとたんに教会は簡単に倒れてしまいます。だからサタンは必死になって教会の指導者をつぶそうとするのです。そのためには指導者の悪口を言えばいいのです。だから訴えられたり、悪口を言われたりするのです。

「悪口を言う」ということばは3章11節にも出てきましたが、これはギリシャ語で「ディアボロス」と言って、実は悪魔のことを指す言葉です。ですから、悪口を言うということは悪魔的な罪なのですが、そういうことが平気で行われています。別に大した罪じゃないと、噂話が絶えないのです。でもそれはディアボロス、悪魔的な罪であって、神が忌み嫌われることなのです。

箴言26章20節には、次のような教えがあります。「たきぎがなければ火が消えるように、陰口をたたく者がなければ争いはやむ。」「陰口をたたく」とはうわさ話をするとか、悪口を言うということです。そのように陰口をたたく者がいなければ争いはやむのです。それはたきぎのようです。たき木があればもっと燃え上がります。だから、陰口をたたく人も問題ですが、それを聞く人も問題なのす。たきぎになってもっと盛り上がるか、たきぎにならないようにするかは、それを聞く人の態度で決まるのです。聞かなければ、火は小さくなってくすぶって消えます。たきぎがなければ火は消えるのです。ですから、一緒になって悪口を言ったり、陰口を言ったりしてサタンの企てに協力することがないように注意しましょう。

では、教会の牧師や長老に対する訴えはどのようにしてなされなければならないのでしょうか?ここには、ふたりか三人の証言がなければ、受理してはいけません、とあります。そのことはイエス様も教えられました。マタイの福音書18章15節から17節を見るとこうあります。

「15 また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。16 もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。17 それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」

これは牧師、長老に対する訴えだけでなく、すべての人に対する訴えも同じです。まずその人のところに行って、ふたりだけのところで責めます。もし相手が聞き入れたなら、あなたは兄弟を得たことになります。でも、もし聞き入れないなら、ほかにふたりか三人をいっしょに連れて行かなければなりません。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるからです。それでもなお聞き入れようとしないなら、教会に告げなければなりません。すなわち、すべての人の前で責めなければならないということです。それでも言うことを聞かないような時はどうしたらいいでしょうか。彼を異邦人か取税人のように扱いなさい、すなわち、教会から除名しなさいというのです。

いったいなぜそこまでしなければならないのでしょうか。それはほかの人をも恐れさせるためです。どういうことでしょうか?このことによってほかの人たちが、教会とは何かを知るためであるということです。教会は真理の柱また土台です。弱さに対してはこの上ない愛と寛容を示しますが、罪に対しては厳格な処置がとられるところであるということを、ほかの人たちが知るためにそうするのです。それは罪を犯した人をさばくためではなく救うためであり、教会をきよめるためでもあるのです。

21節には、このことを「おごそかに命じます。」とあります。パウロはこのことをテモテにおごそかに命じました。それはテモテが牧会していたエペソの教会の中にそういう人たちがいたからです。違った教えを説いたり、果てしのない空想話によって人々を惑わしている人たちがいたのです。いったいそのような人たちにどのように対処していったらよいのか?教会の長老だからといって大目にみるとか、見ないふりをするというようなことがあってはいけません。罪を犯している人がいれば、このようにして責めなければなりません。そして、その人が悔い改めたなら、あなたは兄弟を得たことになります。しかし、もし悔い改めないなら、他にふたりか三人によって確かめられ、ついにはすべての人の前で責めなければなりません。そうすることによって教会は聖さを保ち、世の光として、また地の塩としての役割を果たしていくことができるからなのです。

Ⅲ.軽々しく按手してはいけません(22-25)

第三に、では牧師、長老をどのように任命したらいいのでしょうか。そうです、牧師や長老には大きな責任が伴いますので、軽々しく按手してはいけません。22節から25節までをご覧ください。「22 また、だれにでも軽々しく按手をしてはいけません。また、他人の罪にかかわりを持ってはいけません。自分を清く保ちなさい。23 これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい。24 ある人たちの罪は、それがさばきを受ける前から、だれの目にも明らかですが、ある人たちの罪は、あとで明らかになります。25 同じように、良い行いは、だれの目にも明らかですが、そうでない場合でも、いつまでも隠れたままでいることはありません。」

22節には、「だれにでも軽々しく按手をしてはいけません」とあります。「按手」とは、牧師や長老など、教会の働きをするのにふさわしいと認め、その人に権威を与えて祝福することです。これはこの文脈から判断すると、長老に対する按手と解釈するのがいいと思います。ほかに、罪を犯した者が信仰を回復し、再び教会の交わりの中に加える時にも按手をして祈ったこともありますが、ここでは牧師、長老のことについて語られていますので、彼らに対する按手のことと理解するのがいいと思います。それを軽々しく行ってはいけないというのです。なぜでしょうか?他人の罪にかかわりを持たないためです。へたに按手を授けると、按手を授けた人も罪にかかわりを持つことになってしまいます。牧師や長老に任命される人に罪があり、その人が按手を受ける時には隠れていてそのまま残っているようなことがあったとしたら、按手を授けた人もその責任を負うことになってしまうのです。ですから、按手をささげる時には、軽々しくささげてはいけないのです。

この「軽々しく」という言葉は、新共同訳聖書では「性急に」と訳しています。性急に、あわてて、軽率に授けてはなりません。むしろ、じっくりと、よく吟味して、時間をかけて、慎重に授けなければなりません。もしふさわしくない者がリーダーとして立てられるようなことがあれば、教会に葛藤が生じ、さらには分裂をもたらすことになってしまうからです。イエス様もご自分の12弟子を選ばれた時には、夜を徹して祈られました。長い間祈られたあとに弟子たちを選ばれたのです。えっ、と驚かれる方もおられるかもしれません。夜を徹して祈ったのに、あんな弟子たちを選ばれたんですか・・・と。でも、イエス様の選択は完全でした。あのような弟子たちだったからこそ、ご自分の救いの御業が達成したのですから。であれば、私たちも自分たちの指導者を選ぶ時にはよく祈って、慎重に選ばなければなりません。

最後に23節のことばを見て終わりたいと思います。ここには、「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい。」とあります。ここにパウロは急にお酒の話が出てきています。テモテの胃腸のことを気にかけたパウロが、これからはあまり水ばかり飲まないで、胃のために、またたびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いるように・・・と。どういうことでしょうか?

どうもテモテは虚弱体質であったようです。ここに「胃のために」とありますから、テモテは胃腸を患っていたのでしょう。また、「たびたび起こる病気のためにも」とありますから、しょっちゅう体調を崩していたのかもしれませんね、詳細は不明ですが、若い牧会者のテモテにとってエペソ教会での伝道と牧会は相当のストレスがあったようで、心身共にまいっていたようです。多くの病気をいやし、死んだ人をもよみがえらせることができたパウロでも、このテモテの病気だけはいやすことができませんでした。そこでパウロはテモテに、これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のために、少量のぶどう酒を飲みなさい、と勧めたのです。

これは酒を飲めということではありません。健康のために少量のぶどう酒を飲みなさいと言っているのです。今であれば太田胃散とかキャベジン、養命酒といった薬がありますが、当時はそのような薬が無かったので、少量のぶどう酒を飲んで健康にも留意するようにと勧めたのです。

多くの学者は、この文脈の中でなぜパウロがこんなことを言ったのかわからないと言いますが、ここをずっと読んでくると、その意味がわかるような気がします。それは、時に教会の指導者にも不十分で弱いところを見つけることがあるかもしれませんが、神の家族としての教会は、温かい尊敬と愛の心をもって互いに接しなければならないということです。だれも完全な指導者はいません。最初からりっぱな信徒もいないのです。そうした中にあって私たちに求められていることは、それでも互いに温かい愛と尊敬をもって受け入れ合うということです。それは指導者に対してだけではありません。私たちは神の家族として、いつも互いにそうあるべきなのです。牧師も信徒も皆弱さを抱えています。でも、ここに書いてあるように互いに敬い、互いに愛し合うなら、教会はさながら天国のようなところになるでしょう。私たちが目指す教会はそのような教会ではないでしょうか。そのためにここに書かれてある聖書の原則から離れれることなく、牧師や長老といった教会の指導者に対して自分はどうあるべきなのかをもう一度吟味する必要があるのではないでしょうか。

ⅠTimothy5:17-25 “Honor the elders”

Paul from chapter 5 is stating how we should act towards various people in the church. In today’s passage it talks about how we should act towards “the elders”. (17) “The elders” (1) was a title in the first church that expressed the same duties as an overseer or pastor.  We looked in chapter 3 at how they were selected. They were respectable both in character and morally and served society in the church through Christ like living. Their duties were to teach and preach. Also they managed the work of charity and relief, visited the sick, and managed the affairs of the church as an overseer. Also by the Word of God encouraged, comforted, corrected and advised the believers to continue to stand firmly on the Gospel. Thus, they did the same work as the pastors of today. They were normally men of experience and maturity. The first church like the Jewish faith made respectable elderly elders. Here it says “the elders” (17) but they are the church leaders including the overseers, pastors. It is teaching us how we should be towards such people.

Double honor (Vs. 17 & 18)

First please look at verses 17 and 18. Verse 17 says, “The elders who direct the affairs of the church well are worthy of double honor, especially those whose work is preaching and teaching.”

“The elders who direct the affairs of the church well are worthy of double honor.” (17) Especially those elders “whose work is preaching and teaching” (17) were “worthy of double honor.” (17) That is because by the teaching of the Word of God our Christian life is determined. The most important thing in the church is the teaching of the Word of God. The elders “whose work is preaching and teaching” (17) and “who direct the affairs of the church well” (17) are valuable and “are worthy of double honor.” (17)

Some people say that Christians are a “priesthood of all believers”. They say that the pastor is not special. They are like Korah, Dathan, Abiram, and the 250 Israelite men who opposed Moses saying, “You have gone too far! The whole community is holy, every one of them, and the LORD is with them. Why then do you set yourselves above the LORD’s assembly?” (Numbers 16:3) However, in the “priesthood of all believers” which God has ordained everyone is not in the same position. Some are called to teach, others to follow. That doesn’t mean that someone is high-ranking. It is the order that God has given for the building up of the church. For that purpose God has given each person gifts “in accordance with the measure of faith (the gift) God has given” (Romans 12:3) him. Since “God has given,” (Romans 12:3) the gift comes from God, God is the source. Therefore there can be no basis for a superior attitude or self-righteousness. Often the church falls into confusion because it doesn’t realize this.  Such people oppose God’s blessings of order. It makes them miss God’s blessings for them. According to God’s order, it is saying that those “whose work is preaching and teaching” (17) are worthy of respect.

Here is says, “are worthy of double honor.” (17) It means that they are worthy of honorable respect and financial honorable support. That his honor should include financial support can be seen by the two illustrations that follow.

Verse 18 says, “For the Scripture says, ‘Do not muzzle the ox while is treading out the grain,’ and ‘The worker deserves his wages.’”

“Do not muzzle the ox while is treading out the grain” (18) is a quotation from the Old Testament from Deut. 25:4. Sometimes oxen were muzzled so they could not eat the grain while they were treading it into flour. The Mosaic Law, however, is teaching that the oxen labor for their owners so they should be given food to eat. That is a principle that is to be applied to pastors and elders too. The pastor is the same as an ox. He treads out the spiritual grain for the church. “Do not muzzle the” (18) pastor. The church should give the pastor wages so he can eat. In other words, more than for the ox the pastor must be honored and his needs provided. This Mosaic Law has greater weight when applied to Pastors rather than to oxen.

Then it says, “The worker deserves his wages.” (18) These words are quoted from Jesus’ words in Matthew 10:10 and Luke 10:7. It is only natural that those who work for the Lord should receive his wages.

That was the same in ancient Israel too. God picked the Levites from the 12 tribes of Israel to serve God full time. The way their lives were supported was they received the tithes from the other 11 tribes. This means that the Levites received more than the other tribes. They did not receive an inheritance in the promise land so in this way they received a reward for their services. By this they were able to serve God full time. It is said that the same principle applies to the new Israel with the Lord Jesus at its center, the church.

Many times Paul too mentions that. Here he does too, but for example in I Cor. 9:14 it says, “In the same way, the Lord has commanded that those who preach the gospel should receive their living from the gospel.” Paul is saying that it is definitely not wrong for “those who preach to the gospel” (I Cor. 9:14) to receive support from their ministry. In fact they “should receive their living from the gospel.” (I Cor. 9:14)  However, Paul didn’t do that. He made tents while spreading the Gospel. He was what is called a self-supported evangelist. He had the right and it would good to do so, but he didn’t venture to do so. That was because he didn’t want to be a burden on the church.

He was a church planter so he knew well what would happen if he requested this from a church that had just begun. It would be a burden on the church and would put a burden on evangelism. So that wouldn’t happen he worked for his living.

Another reason was so that it would not cause misunderstanding in the church. At the time of Paul false teachers were rampant and they deceived the church taking money from church. So that Paul wouldn’t be seen as the same of these false teachers he didn’t venture to receive any money from the Corinthian church. That’s because in the Corinthian church there were people that were suspicious about Paul’s apostleship. They made accusations that Paul was not an apostle. If he receive a pastor’s salary from  such a church then it would cause other misunderstanding. Therefore, he didn’t receive any offerings from the church at all, but while working earnestly served the Lord. However, that was not ordinary. It was an exception. It was right and proper for “those who preach the gospel” (I Cor. 9:14) to “receive their living from the gospel.” (I Cor. 9:14)

In Japan there are a lot of people that think that for teachers to speak about money is completely unacceptable.  More unacceptable is to talk about your own salary or pay.  It’s o.k. for a pastor to be poor. There are still people left who strongly think that if the pastor has food and clothing that that is enough. However, what the Bible fundamentally says is not this. It teaches that “The worker deserves his wages.” (18)

Of course, in churches that don’t have enough money there are cases where a pastor, like Paul, while evangelizing is a tentmaker. That is a great joy, but that is not ordinary.  There are cases where at the beginning the church is small and can’t support the pastor fully, but it shouldn’t be content in doing so forever. If so, the church won’t grow healthy and won’t desire to develop. That is a sad situation for the church. By having people in the church who “whose work is preaching and teaching,” (17) the church is fed spiritually and by that the church as a church can grow healthy.

  1. Accusations against an elder (vs. 19-21)

Next please look at verses 19 to 21. Here it teaches about accusations against an elder. “Do not entertain an accusation against an elder unless it is brought by two or three witnesses.  Those who sin are to be rebuked publicly, so that the others may take warning.  I charge you, in the sight of God and Christ Jesus and the elect angels, to keep these instructions without partiality, and to do nothing out of favoritism.”

That’s because bad gossip about leaders in the church causes huge damage to the church. Even if it is known that it is a mistake, there is no way of keeping the authority that is given to the elders from being cut. Therefore, discretion must be used in bringing accusations against a pastor or an elder.

The nature of a pastor is that he stands before people a lot so he receives criticism from people a lot.  All leaders are the same. Whether it is political leaders or other kinds of leaders, those who stand in front of people are the center of criticism. Even Jesus was criticized. Luke 7:34 says, “The Son of Man came eating and drinking, and you say, ‘Here is a glutton and a drunkard, a friend of tax collectors and sinners.’” They said that Jesus was “a glutton and a drunkard”. (Luke 7:34) Moreover, they said, “He is possessed by Beelzebub!” (Mark 3:22) “Beelzebub” was “the prince of demons.” (Mark 3:22) They went to the extent to say that Jesus was possessed by demons.

The reason bad things are said about the church leaders is that Satan is plotting it. Satan knows how he can crush the church. That is by knocking down the church leaders. If the church leaders are knocked down, then immediately the church will be knocked down. That is an extremely joyous thing for Satan. Therefore, Satan is desperately trying to crush the church. To do that all that is needed is to say bad things about the leader. Therefore, accusations, bad rumors are said.

“Malicious talkers” appeared in 3:11. The Greek word that is used for “malicious talkers” (3:11) is a word that also refers to Satan. Therefore, to gossip is a Satanic sin. These words were spoken about the wives of deacons or deaconesses because especially women have this tendency. It’s strange but the Bible doesn’t say much about men and gossiping.  Men are advised not to speak with a double tongue. They are advised to have a more honest attitude. The Bible doesn’t say much to men about gossiping. If anything it is a weakness and tendency of women.

Proverbs 26:20 teaches us the following, “Without wood a fire goes out; without gossip a quarrel dies down.” If there is no one gossiping or speaking ill of others then fighting will stop.  It is like wood.  If there is no wood (gossiping) then the fire will go out. However, if there is wood (gossiping) then it will flame up. Therefore, the problem is people who gossip.  The person who listens to the gossip is also the problem. The attitude of the person who listens determines whether it becomes wood and builds the fire up or it doesn’t become wood and the “fire goes out.” (Proverbs 26:20) If he doesn’t listen then the fire will become small and go out. That’s because “without wood a fire goes out.” (Proverbs 26:20)  Therefore, we must be careful not to join in gossiping or speaking ill of others and helping the plot of Satan.

Then, if you have an accusation against the church pastor or elder, what must you do? Here it says, “Do not entertain an accusation against an elder unless it is  brought by two or three witnesses.” (19) Matt. 18:15 to 17, says, “If your brother sins against you, go and show him his fault, just between the two of you.  If he listens to you, you have won your brother over.  But if he will not listen, take one or two others along,

 

so that ‘every matter may be established by the testimony of two or three witnesses.’ If he refuses to listen to them, tell it to the church; and if he refuses to listen even to the church, treat him as you would a pagan or a tax collector.”

There is an order.

①    First go to the pastor “and show him his fault, just between the two of you. If he listens to you, you have won your brother over.” (Matt. 18:15)

②    “But if he will not listen, take one or two others along, so that ‘every matter may be established by the testimony of two or three witnesses.’” (Matt. 18:16)

③    “If he refuses to listen to them, tell it to the church.” (Matt. 18:17) In other words, his fault must be brought before all the members of the church.

④    “If he refuses to listen even to the church, treat him as you would a pagan or a tax collector.” (Matt. 18:17) It is to excommunicate him from the church.

The reason why his fault is “to be rebuked publicly” (20) is “so that the others may take warning.” (20) It is so that other people will know what the church is. It is to show other people that the church as “the pillar and foundation of the truth” (3:15) shows the utmost love and patience towards weaknesses, but towards sin there are cases where the punishment is strict and severe. That is not to judge the person, but to save him and to purify the church.

In verse 21 it says “I charge you”. Paul is charging Timothy. That was because in the Ephesian church where Paul was pastoring, there were such people. There were people who by teaching false doctrines and devoting “themselves to myths” (1:4) confused and deceived people. Just because the person was a church elder they must not overlook it or pretend like they didn’t see it. The person who is accusing the elder must “show him his fault, just between the two of” (Matt. 18:15) them.  “But if he will not listen” (Matt. 18:16), the accuser should “take one or two others along, so that ‘every matter may be established by the testimony of two or three witnesses.’ If he refuses to listen to them, tell it to the church.” (Matt. 16,17)  His fault must be brought before all the members of the church. By doing this there is no favoritism.  That is a very grave and serious thing. However, by doing such a thing the church can keep holiness and fulfill its role as the salt of the earth.

  1. Do not be hasty in the laying on of hands (Vs. 22-25)

Thirdly is concerning the laying on of hands on elders. Please look at verses 22 to 25. “Do not be hasty in the laying on of hands, and do not share in the sins of others .  Keep yourself pure. Stop drinking only water, and use a little wine because of your stomach and your frequent illnesses. The sins of some men are obvious, reaching the place of judgment ahead of them, the sins of others trail behind them. In the same way, good deeds are obvious, and even those that are not cannot be hidden.

Verse 22 says, “Do not be hasty in the laying on of hands.”  “The laying on of hands” (22) is to recognize that a pastor or an elder is suitable for the work of the church and to lay hands on him giving the person authority and blessing him.  Paul is speaking about the ordination of elders. They must “not be hasty in the laying on of hands.” (22) That was so they will “not share in the sins of others.” (22) If a person who was ordained before he had time to prove himself and the person sins then the person who ordained him shares in the sin.  “The sins of some men are obvious, reaching the place of judgment ahead of them, the sins of others trail behind them. In the same way, good deeds are obvious, and even those that are not cannot be hidden.” Here Paul is advising to be alert to hidden sins as well as to good deeds in the lives of candidates for ordination. If a candidate has sins trailing behind him and he is ordained then the person who ordained him shares in the sin. Therefore, “Do not be hasty in the laying on of hands.” (22)

Ordination should not be done until candidates have had time to prove themselves. If a person unworthy of the office of elder is ordained then dissension will occur in the church and in addition it will bring divisions. Jesus too before he chose his 12 disciples spent the whole night praying. After praying for a long time he chose his disciples. Jesus chose perfectly. Through those disciples God’s work of salvation was completed. Therefore, we too when we choose our leaders, we must pray well and carefully choose them.

Finally let’s look at verse 23. Here it says, “Stop drinking only water, and use a little wine because of your stomach and your frequent illnesses.” Here Paul suddenly brings up the subject of alcohol. Paul who was worried about Timothy’s stomach said, “Stop drinking only water, and use a little wine because of your stomach and your frequent illnesses.” (23)

Timothy was inclined to infirmities. Paul says “stomach” so he must have had stomach problems. Also Paul says “frequent illnesses” so he must have been sick a lot.  Therefore, for his health Paul advises to “stop drinking only water, and use a little wine.” Paul may also have said this because at that time safe drinking water was hard to find so in order to eliminate stomach problems from water to drink a little wine.

Many scholars for the text it is in can’t understand why Paul says this. If you read this through I feel like you can understand the meaning. That is at times our eyes may fall on church leaders who are inadequate and weak. However, God’s family, the church, must treat each other with warm respect and a heart of love. There are no perfect leaders. Also there are no grand laymen from the beginning. In the midst of this what God desires is that we have warm respect and a heart of love. That is not only towards the elders. We as the family of God should always be like that. Pastor and laymen too have weaknesses. However, if like it is here, always respect and love each other then the church will become like heaven. Let’s make that the goal of our church.  To do that let’s not move away from the principles of the Bible that are written here. It is necessary to think once again about how we should be towards the leaders in the church.

創世記13章

きょうは創世記13章から学びたいと思います。タイトルは「信仰による選択」です。

1.信仰者の場所(1-7)

アブラハムは、ききんのためエジプトに下りましたが、神様のご介入によってもとの地ネゲブに戻ってきました。こここそが、神様の約束の地だったからです。彼は神様から目を離し人間的になってしまったのでエジプトに下って行きましたが、もう一度もとの場所、神様のもとに戻って来たのです。信仰は一度失敗すると、失敗した最初のところにもどって来てこそ、ようやく回復されるのです。アブラハムも彼が出た最初のところに戻ってきました。そこはどのようなところだったのでしょうか。4節を見ると、

「そこは彼が以前に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、主の名によって祈った。」

とあります。そこには主の祭壇があり、主の名による祈りがあります。そこはかつて下って行ったエジプトのような豊かな地ではないかもしれませんが、主がともにおられるところです。そこで主を礼拝し、主の名によって祈るのです。それこそ、信仰者がいるべき所なのです。アブラハムはその場所に戻ったのです。

2.アブラハムとロトの間に起こった問題(6-7)

 

ところで、その地に戻って住んでみると、一つの問題が起こりました。それは場所が狭いという問題です。彼らの持ち物が多すぎて、いっしょに住むことができなかったのです。ですから、アブラムの家畜の牧者たちと、おいのロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こりました。

問題はいつでもささいなところから生じます。財産が少なくて喧嘩になったのではなく、多くて喧嘩になりました。現代風に言えば、遺産相続の争いをしているようなものです。相続する遺産がなければ喧嘩にもなりませんが、多いために兄弟が互いに憎しみ合うこともあります。しかも、彼らの牧者たちとの間にも争いが起こりました。いったい何が問題だったのでしょうか。もし財産が多くて喧嘩になったのであれば、ロトは財産をアブラハムにそっくりあげればよかったはずです。もともと彼の財産はアブラハムによって与えられたものなのですから・・・・。また、そのような争いが起こってもきちんと話し合えば解決できたはずです。にもかかわらず彼らは、カナン人やペリジ人が住んでいる前で醜い争いを繰り広げました。ということは、こうした争いというのは表面的なことであって、本質的な問題は別なところにあったということです。では、その本当の問題とは何だったのでしょうか?

3.信仰による選択(8-13)

8節からのところを見ると、その争いの本質的な原因が見えてくると思います。8,9節を見ると、アブラハムはロトに一つの提案をしたことがわかります。それは、自分から別れてほしいということです。そして、もし彼が右に行けば左に、左に行けば右に行くと言ったのです。なぜアブラハムはこのような提案をしたのでしょうか?おそらく彼の中にはこのような思いがあったことでしょう。テモテ第二の手紙2章24~25節です。

「主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しく、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。」

主のしもべが争うことは、神様のみこころではありません。主のしもべはすべての人に優しく、忍耐して、反対する人たちを柔和な心で訓戒すべきです。そうした思いがあったに違いありません。ですから彼は何とかしてこの問題を解決したいと思ったのです。そしてその解決のカギは、ロトにその選択の優先権を与えるということでした。元々そのあたり一帯は、アブラハムが神様から賜った土地です。その土地をどうしようとそれは彼の自由であったはずなのです。そして、彼とて、よく潤っていた低地全体に心がひかれたことでしょう。しかし彼は自分自身の思いにまかせることをせず、まずロトに好きな土地を選ばせ、自分は残りの土地を受けることにしたのです。どうしてでしょうか。詩篇16篇6節をご覧ください。

「測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。」

一般には測りなわがどこに落ちるかが大きな問題のようですが、しかし、信仰によるならばそうではありません。どこに落ちるかではなく、だれが落とすのか、投げるのかです。神様が投げられるのであれば、そこがどのような地であっても、好ましいところとなるのです。アブラハムはそのような信仰を持っていたのです。つまり彼は、神様に信頼したのです。

それに対してロトはどうだったでしょうか。彼はアブラハムのようではありませんてでした。彼が低地全体を見渡すとそこが主の園のようにどこも潤っていたので、その地を選び取りました。彼は、自分が欲するところを手に入れようとしたのです。自分の選択を神様にまかせることをしませんでした。なぜでしょうか?信仰に生きていなかったからです。これが問題の本質です。問題は財産が多いか少ないかということではなく、どこを見て生きていたのかということだったのです。アブラハムは神を見て神に信頼して生きていたのに対して、ロトは自分の欲に従い自分の思い、自分の考えを基準に生きていました。これが問題だったのです。

何年か前に、当時聖書宣教会の教師であった内田先生を迎えて修養会を行いましたが、その時、教会に起こる問題の根底には救いの問題があると言われました。イエス様を信じて救われているようでも、本当の意味で救われていないと、問題は解決できないと言われたのです。もし教会にいる人がみな救われ御霊によって生きていたら、たとえ問題が起こっても御霊によって解決できるはずです。しかし、実際にそのようにならないのは、本当の意味で神に従いたいと思っていないからです。まだ自分が中心になっているからです。すなわち、肉の思いが御霊の思いを妨げているのです。それが問題の根底にあるのです。

まさにロトの問題はここにあったのです。そして、問題の根底にこのような要因があると解決するのが非常に困難ですが、アブラハムはそれを見事に乗り越えました。どのようにしたのでしょうか。彼は主の前にへりくだり、自分に執着することを捨てたのです。謙遜になってロトにその選択の優先権を与えのでした。これこそ、私たちが求めていかなければならない態度です。自分を捨て、主にすべてをゆだねるのです。そうすれば、主が最善に導いてくださいます。

4.神の祝福(14-18)

さて、ロトとアブラハムは別れて、それぞれどうなったでしょうか?ロトについては後にこのソドムとゴモラが滅ぼされることになっていくことがわかります。自分の欲に従い自分の思いで人間的に判断した彼は、神のさばきを受けなければなりませんでした。一方のアブラハムはどうなったかというと、14節からのところにあるように、神様の祝福を受けました。この地を全部アブラハムとその子孫に与えると約束してくださったのです。そればかりではありません。彼の子孫を地のちりのようにならせると言われました。このとき、彼にはまだ子どもがありませんでした。そのアブラハムに、地のちりのように子孫を与えるというのは、本当に大きな慰めです。

そこでアブラハムは天幕を移し、ヘブロンの樫の木のそばに来て住み、そこに主のための祭壇を築きました。どこにいても、神が祝福してくださるところが最善です。ですから、アブラハムはどこにいても、神のために祭壇を築き、そこで主の名によって祈ったのです。

それにしてもアブラハムは、どうしてこのような信仰に生きることができたのでしょうか?12章の後半を見る限り、そこには信仰の「し」の字もないかのような彼の生き様が描かれていたのですが、ここにはあの信仰の人アブラハムが復活したかのようです。おそらく彼は、あのエジプトでの失敗から学んだのではないでしょうか。信仰者とて完全な人はいません。ですから、時には失敗して痛い目に遭うこともありますが、大切なのはそこから学ぶことです。彼は、どんな時でも神に信頼することを学びました。ですから、この問題も信仰によって乗り越えることができたのです。私たちの信仰生活にもいろいろな問題が起こりますが、そうした問題が問題なのではなく、私たちがどこを見てむ歩むか、誰とともに歩むのかが重要です。神とともに歩むなら、そこが山地のでこぼこしたような所であっても祝福となりますが、自分の思いや考えによって生きようとするなら、絶えず問題にさいなまれるばかりか、結果的に近視眼的な判断をしてしまうことになるのまです。ですから私たちは、いつでも、どんなときでも、神のみこころを求め、この神のみこころに歩む者でありたいと思います。

民数記19章

きょうは民数記19章から学びます。ここでのテーマは「完全に赤い雌牛」です。まず19章全体を読んでみましょう。ここで主はモーセとアロンに、完全な赤い雌牛によって灰を作るように命じています。何のためでしょうか?その灰によってきよめの水をつくり、それを死体に触れて汚れた人たちに振りかけるためです。そうすれば死体にふれて汚れた者がきよめられるというのです。

まず、この箇所の背景ですが、この時イスラエルの民は、四十年間荒野をさまよっていました。そのときコラたちがモーセとアロンに反逆し、生きたままよみに投げ入れられるという神のさばきを受けると、それに同情したイスラエルの民もモーセに反抗して罪を犯したためそれに対する神罰が下り、彼らの中からもたくさんの死者が出たのです。コラの事件の他に何と14,700人が死にました。けれども、レビ記にあるように死者に触れる者は汚れました。そこで主は、死体に触れた者が清められるために特別な方法を示されたのです。それがこの「完全に赤い雌牛」であり、この雌牛の灰によって作られた水を注ぎかけるという儀式だったのです。

いったいこれはどんなことを教えていたのでしょうか?これまでも人の死体に触れた場合の戒めは幾度か取り上げられていました(レビ記21:1-4、11、民数記6:6-12、9:6-12)。しかし、それを取り除く具体的な方法は示されていませんでした。16章のコラの反逆の結果、多くの人が一度に死んだことで人の死の汚れをどのように取り除くべきかは、最も深刻な問題となったのです。誰でも死体や人間の骨や墓に触れるなら、あるいは、死人の天幕に入るならば汚れ(14-16)、その汚れは伝染しました(22)。宿営の中で誰かが死ぬと、宿営の中のすべての人が汚れ、何らかの対応をしないと、主の幕屋を汚す恐れがあったのです。

いったいどうすればいいのでしょうか?赤い雌牛をほふり、その灰によってきよめの水を作り、それを汚れた人に注ぎかけるのです。そうすれば、死体によって汚れた人のすべてがいやされるのです。

その水の作り方ですが、まずくびきの置かれたことのない赤い雌牛が犠牲にされ、灰が用いられました。「傷がなく」というのは、全く欠陥がない(罪がない)ということです。そして、「くびきの置かれたことのない」というのは、罪のくびき(罪の奴隷)が置かれたことがないという意味です。「赤い雌牛」の「赤」は血といのちを表していました。「雌牛」は新しいいのちを産み出す象徴なのです。つまりこれは、やがて来られるイエス・キリストのことを指し示していたのです。祭司エルアザルは指でその血を取り、会見の天幕に向かって七たび振りかけました。「七度」は完全数です。

そしてその雌牛は彼の目の前で焼かれました。また、その皮、肉、血をその汚物とともに焼かなければなりませんでした。宿営の外で・・。そして6節にあるように、祭司は杉の木と、ヒソプと、緋色の糸を取り、それを雌牛の焼けている中に投げ入れました。

この杉の木とヒソプ、緋色の糸がそれぞれ何を象徴しているのかはっきりわかりません。ある注解者は、杉の木は十字架の象徴、ヒソプは罪のきよめの象徴、そして緋色の糸はキリストの血を表していると考えていますが、果たしてそうでしょうか。確かに、ヒソプはイスラエル人がエジプトで,過ぎ越しのいけにえの血を自分たちの家の2本の戸柱と戸口の上部に塗った時に用いられました。(出12:21-22)また,以前にらい病にかかっていた人や家を清める儀式や(レビ14:2-7,48-53),「清めの水」に使われる灰を準備する際に使われ,その水を特定の物や人にそそぎかけるときにも用いられました。(民19:6,9,18)ですから、ダビデが,ヒソプをもって罪から浄めてください、と祈ったのです。(詩篇51:7)。また、緋色についても、それはキリストの血を表すものとして出エジプト記の中の幕屋の垂れ幕や大祭司の服に刺繍されていました。

けれども、ここにはそれを火の中に投げ入れたのです。それをもって血を塗るとか、何かをするというのではなく、それを雌牛と一緒に焼いたのです。ですから、それは十字架やきよめ、血の象徴としてではなく全く逆の意味として使われているのです。そしてよく調べてみると、杉の木は力の象徴、富、権力、栄光の象徴として用いられていることがわかります。そしてⅠ列王記第4章33節には、ソロモンが草木のことを論じた際に、「杉の木からヒソプにまで及んだ」と言っています。ヒソプというのはとても低い草なのだそうですが、杉木のように高くて大きな木からヒソプのように低くて小さな草に至るまでという意味です。それは植物全体を意味しています。すべての草木を表徴してそういったのです。言い換えると、それらは全世界を予表しているということになります。緋色の糸は何を表していたのでしょうか? この言葉は、イザヤ書第1章18節において「緋」とも翻訳されており、それはこう言っています、「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる」。このことから、緋色の糸はわたしたちの罪を表徴します。すなわちこの三つは、大きな罪から小さな罪まで、全ての罪を象徴していたのです。それを火の中に投げ入れ成した。ですから、杉の木、ヒソプ、緋色の糸が一緒に焼かれることは、赤い雌牛を神にささげた時、全世界の罪が赤い雌牛と一緒にされて、それらがすべて共に焼かれたことを意味しているのです。

その灰を集め、湧き水と混ぜ合わされて「きよい水」を作ります。その水がすべての汚れをきよめるのです。その水を死体にふれて汚れた人にきよめられると、だれでもきよめられました。ここには三日目と七日目とあります。三日目は復活を、七日目は完全を表していたと思われます。

いったいこれは何を表していたのでしょうか。ヘブル人への手紙9章13-14節にはこうあります。「もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」

そうです、これはキリストの十字架の血によるきよめを表していたのです。この灰を死体にふれた人々に注ぎかけるということは、十字架につけらえたキリストの血を、罪の中に死んでいる人々に注ぎかけることを象徴していました。そうすれば汚れはなくなり、罪はみなきよめられ、完全なきよめが果たされるのです。それだけ、キリストの血には力があるのです。しかも、この赤い雌牛の犠牲は、これ以前にもこれ以降にも一度限りです。完全な一度限りのいけにえです。イエスのいけにえも、全人類のための完全な一度限りの犠牲であり、いけにです。イエスの死によって、私たちは、神の怒りから解放され、罪の赦しを得、罪の支配からも解放されたのです。実に、このように雌牛が人の罪を赦し、きよいものとするならば、尊いイエスの犠牲はいかばかりであろうか、というのです。

ここには、キリストの血がどれほど力があるのかを、三つの点で語られています。第一に、良心をきよめる力です。「どんなにか私たちの良心をきよめて」とあります。

人間の良心は、罪によって汚されており、汚れた良心は、人にとって負い目となります。パウロは自らの中にある罪を認めてこう言いました。「私には自分のしていることがわかりません。私には自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分の憎むことをしているからです。」(ローマ7:15)とあるように、人は無意識的にそうした良心の咎めを持っています。どんなに、言い訳、弁解、仕事、趣味、宗教、善行等で繕おうと務めてもその「良心の呵責」があれば真の自由を得ることはできません。しかしキリストの血はそのような「良心の呵責」から完全に解放してくれるのです。

第二に、生き方を変える力があります。ここには、「死んだ行いから離れさせ」とあります。キリストの血潮は、人を縛っている罪のくびきから解放することができます。ザアカイはその一人です。彼はキリストと出会ったその日から新しい人に変えられました。人の心に罪が支配している間は、人は「死んだ行いの奴隷です。人は「新しく生まれなければ、神の国を見ることができません。キリストの血潮と御霊による新生は人を全く新しい人に造り変えます。使徒ペテロもこう語っています。「あんたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、・・傷もなく、汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(Ⅰペテロ1:19)

第三に、キリストの血は人を生かす力です。ここにはまた、「生ける神に仕える者とする」とあります。

キリストの血は神から離れた人を神に連れ戻すだけでなく、新しい歩みをさせる力を与えます。「古い生き方」から解放され罪を離れるならば、「神に仕える」という新しい目標、真の生きがいをもつようになります。「死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」(ローマ6:13)とパウロは勧めました。主の死にあずかるならば、主のよみがえりの力にもあずかることができ、そのような人は神の前に立つことができ(ささげて)、神のために実を結ぶ生涯へと導かれるのです(ローマ6:5, 22)

このようにキリストの血の力を知ることは、私たちをして、責められることなく、臆することなく、大胆に、神の前に立つことができ、破格の恵みによって歩くことのできる力を与えられるのです。