ヘブル7章1~10節「こんなに偉大な祭司」

きょうはヘブル書7章から、「こんなに偉大な祭司」というテーマでお話します。もちろん、この祭司とはイエス・キリストのことです。ですから、イエス・キリストはどんなに偉大な祭司なのかということについてお話したいと思うのです。

「祭司」という言葉は私たち日本人にはあまり馴染みのない言葉ですが、

ユダヤ人にとってはだれでもよく知っている言葉でした。そして、とても重要な立場にある存在だったのです。なぜなら、祭司こそ自分たちが神に近づき、神の前に出るためにどうしても必要な存在だったからです。それは神と人との仲介者です。それが祭司でした。そしてここでは、イエス・キリストこそその祭司であることが語られているのです。

 

実は、このテーマについて5章で取り上げられていました。5章6節には詩篇の言葉を引用して、イエス・キリストについて、「あなたは、とこしえに、メルキデゼクの位に等しい祭司である。」と語られましたが、しかし、彼らの耳が鈍くなっていたので、説き明かすことができませんでした。彼らというのはユダヤ人クリスチャンのことです。ユダヤ教からキリスト教に回心したクリスチャンたちのことです。彼らはいろいろな事情でキリストを捨てて、かつての律法中心の生活に戻ろうとしていたので、著者は最後までこの信仰にとどまっているようにと励ますためにこの手紙を書いていたのですが、どうもその耳が鈍くなっていたのです。心が閉ざされていたわけです。

そこでこのヘブル書の著者は、ちょっとその前に・・・と、「キリストの成熟」ということについて語りました。それが5章11節から6章の終わりまでの箇所です。私たちがイエス・キリストを信じるだけで救われたということはすごい恵みです。今までは死んだらどうなるのか、毎日生きていてもその意味がわからない、だから生きる喜びや力なども沸いてこなかったのに、イエス様を信じたことで罪が赦され、神の子とされ、死んでも生きる永遠のいのちが与えられました。そればかりか、神の聖霊が心に宿ったことで、神との交じりが与えられました。それで確かに人生にはいろいろな問題はありますが、しかし、その中にあっても平安と希望を持って生きることができるようになったのです。前回の箇所には、それは「錨の役を果たし」とありましたね。これは希望の錨です。どんな嵐があってもびくともしない希望の錨です。こんなにすばらしい救いは世界中どこをさがしてもありません。これはほんとうにすばらしい恵みです。しかし、この恵みをもっと深く味わうためには、いつまでもキリストについての初歩の教えに留まっているのではなく、それをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか、と励ましてきたのです。

 

そして、ここからまた祭司の話に戻ります。これが10章まで続くのです。イエス・キリストがどんなに偉大な方であるのかということが、祭司の話を通して説明しようとしているのです。きょうはここからキリストがどんなに偉大な祭司であるのかということを、三つのポイントでお話したいと思います。

 

Ⅰ.義と平和の王(1-2)

 

第一に、キリストは義と平和の王です。1節と2節をご覧ください。

「このメルキゼデクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。またアブラハムは彼に、すべての戦利品の十分の一を分けました。まず彼は、その名を訳すと義の王であり、次に、サレムの王、すなわち平和の王です。」

 

ここに「メルキゼデク」という人物が出てきます。この人物については5章にも出ていましたが、キリストのひな型として描かれています。メルキデゼクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でしたが、イエス・キリストもそのような方であるということです。どのような点でキリストはメルキゼデクのようだったのでしょうか。

 

ここには、「このメルキゼデクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でしたが」とあります。サレムとはエルサレムのことです。意味は2節に出てきますが「平和」という意味です。「エル」は神という意味ですから、エルサレムというのは平和の神という意味になります。しかし、彼はただエルサレムの王というだけでなく、すぐれた高い祭司でした。

 

旧約聖書には、王であり、かつ祭司であったというのはこのメルキゼデク以外にはいません。ダビデ王は王であり、預言者でもありましたが祭司ではありませんでした。アロンは逆に祭司でしたが、王ではありませんでした。王であり、また祭司であったのはこのメルキゼデクだけなのです。

 

そればかりではありません。ここには、「アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えました」とも紹介されています。彼はアブラハムの時代に生きていた祭司で、アブラハムが王たちを打ち破って帰って来たとき出迎え、彼を祝福しました。これは創世記14章に書かれてある出来事ですが、アブラハムがカルデヤのウルから神が示してくださったカナンの地に来てから、神が彼を祝福してくださったので、彼は多くの家畜、財産を持つようになりました。するとそこに一つの問題が生じるのです。家畜があまりにも多くなってしまったので場所が狭くなり、甥のロトのしもべたちとの間にいさかいが生じるようになったのです。仕方なく彼らは別々の所に住むようになりました。甥のロトが選んだのはヨルダンの低地でとても潤った土地でした。ソドムという町です。ところが、ある時四人の王たちの連合軍が襲って来て、その町を略奪したのです。そこにはロトとその家族、財産も含まれていました。

それを聞いたアブラハムはどうしたかというと、318人のしもべを引き連れて敵を追跡して打ち破り、ロトとその財産、またロトの家族を取り戻しました。アブラハムが王たちを打ち破ったというのはその出来事のことです。その時アブラハムを出迎え、彼を祝福したのがこのメルキゼデクなでした。

彼らついては、それ以後全く出てきません。ダビデが詩篇の中で、「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」と、やはりキリストがメルキゼデクの位に等しい大祭司であると言及されている以外は、他には出てこないのです。颯(はやて)のように現れて、颯(はやて)のように去って行く月光仮面のような存在です。ところで、皆さんは「颯」という言葉の意味をご存知でしたか。颯というのは風が立つと書きますが、風が吹いてくる音を表しているそうです。そのきびきびとした様子から「颯爽」という言葉が出たようですけれども、いづれにしても、このメルキゼテクはサッと現れてサッと去って行く風のような存在であったわけです。なぜそのような人のことがこんなに大きく取り上げられているのでしょうか。それは神のメシヤが彼のような方であったからです。どういう点で彼のような存在なのでしょうか。

 

2節をご覧ください。ここには、「まず彼は、その名を訳すと義の王であり、次に、サレムの王、すなわち平和の王です。」まず彼の名前を見てくださいというのです。彼の名前は「メルキゼデク」ですが、その意味は「義の王」です。メルキゼデクという名前は、「メルク」と言葉と「ツァデク」という言葉が合わさった名前ですが、「メルク」は王という意味で、「ツァデク」は義という意味です。ですからメルキゼデクという名前は、正義の王という意味になります。それから、先ほども申し上げたように、彼はサレムの王でした。サレムとはエルサレムのこと、意味は「平和」でしたね。その王でもありましたから、平和の王でもあったわけです。つまり、メルキゼデクは私たちに義(救い)を与える王であり、平和を与える王であるということです。これが私たちの主イエス・キリストです。

 

ゼカリヤ9章9節にこうあります。「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」

 

これはやがて来られるメシヤについての預言ですが、やがてあなたのところに来られる王はどのような方でしょうか。この方は正しい方で、救いを与える方です。また、この方は柔和な方、へりくだった方、平和の方で、ろばに乗って来られる方です。しかも、雌ろばの子のろばにです。力強く、颯爽と走り、敵と戦うために用いられる馬ではなく、雌ろばの子のろばといったらもっともか弱い動物の代表でしょう。私たちの救い主はそのようなろばに乗ってこられる方なのです。そして、この預言のとおりに、イエス様が十字架にかかるために最後にエルサレムに入場した時には、ろばに乗って入られました。群集は、「ホザナ、祝福あれ、主の名によって来られる方に‼」と大歓声で迎えましたが、その数日後には、「十字架につけろ、十字架につけろ」という罵声に変わるんですね。人の心はいつもころころ変わるから心というそうですが、しかし、あなたのところにやって来られる救い主は違います。あなたのところに来られる王はあなたに救いを与える方であり、あなたにほんとうの平安を与えてくださる方です。

 

キリストを知るまではほんとうの平安がありませんでした。いつも不安で、何かに怯えているような者でした。楽しいことがあれば喜べても、次の瞬間にはすぐに吹っ飛んでしまうような、吹けば飛ぶような、表面的な喜びでした。どんなに美味しいものを食べても、どんなにいい仕事をしていても、何をしても、心の深い部分で得られるような平安ではありませんでした。しかし、キリストが来られ、私たちの罪、私たちの咎の身代わりとして十字架で死なれ、三日目によみがえってくださったことによって、彼を信じるすべての人に神の救いが、神の平安が与えられたのです。

 

ローマ人への手紙5章1節にはこうあります。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」

イエス・キリストを信じて罪赦された人は、神との平和を持っています。持つかもしれないとか、たぶん持つでしょうと言っているのではないのです。神との平和を持っているのです。イエス・キリストによってこの救いと平和が与えられるのです。それは、環境の変化によって崩れるようなこの世の平安ではなく、何事が起ころうとも微動だにしない超自然的な心の平安です。

 

クリスチャン作家の三浦綾子さんは、直腸ガンの手術を受ける前日のもようを綴っておられます。心臓病もあるので、ひょっとすると術中に召されるかもしれないと思い、遺書を書くことになりました。ところがその時、人知を超えた不思議な平安に包まれ、死の恐れから全く解放されたそうです。イエス・キリストによって与えられる平安はこういう平安です。

 

イエスさまを信じたけど、まだ平安があって・・・・という方はおられますか?心配しないでください。私たちがこの地上にいる限り決して問題が絶えることはないので、そうした問題の渦の中に巻き込まれることがありますが、それでも私たちはこの神との平安が与えられているのです。そして今は祈りによってこれを体験することができます。どんなに心騒ぐことがあっても、心静めて祈るとき、あなたの心に住んでおられる聖霊によって、この神の愛と平安があなたの心を満たしてくださるのです。

ピリピ4章6節と7節にこうあります。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」

 

何とすばらしい約束でしょう。クリスチャンでも悩むことがありますが、問題で心騒ぐこともありますが、それでも祈りによって神の平安を持ち続けることができるのです。キリストは私たちと神との架け橋となってくださいました。ですから、いつでも、どんな時でも、この主を信頼して祈り神の救いと、神の平和を受けようではありませんか。

 

Ⅱ.永遠の祭司(3)

 

第二に、キリストは永遠の祭司です。3節をご覧ください。

「父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。」

 

これはどういうことでしょうか。ここにはメルキゼデクのもう一つの不思議が記されてあります。それは父もなく、母もなく、系図もないという点です。人間であれば父がいたでしょう。母もいたはずです。まあ、いたけど捨てられたということはあったかもしれませんが、ここには父もなく、母もなく、系図もないとあるのは、彼が一般の祭司とは決定的に違う祭司であったということなのです。

一般の祭司なら父がないとか、母がない、系図がないということはあり得ないことでした。なぜなら、律法によれば、祭司はレビ族から出ることが決まっていたからです。他の部族の者が祭司になることはできませんでした。それがはっきりと記されていたのが系図です。その系図がないということは、彼は一般の祭司とは別の次元の祭司だったということなのです。ではどういう次元の祭司だったのでしょうか。すぐれて高い神の祭司です。律法を超えていたのです。彼はアブラハムの時代の人物であり、律法はそれから600年も後に与えられたものですから、そもそも彼の時代には神の律法がありませんでした。そうした律法とは別の、律法よりもはるかにすぐれた祭司がこのメルキゼデクだったのです。

 

そればかりではありません。ここには、「その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司として留まっているのです。」とあります。どういうことでしょうか。メルキゼデクも実在した人であった以上、誕生もし、死にもしたでしょう。それなのに、ここにはそうした記録が全く記されていないのです。それは彼が誕生しなかったとか、死ななかったということではなく、そういうことについて書く必要がなかったということです。なぜなら、彼は神の御子イエス・キリストのひな型として描かれていたからです。つまり、キリストは永遠に、いつまでも、祭司としてとどまっておられる方であるということです。

祭司は普通、死ぬとその働きは終わり次の祭司に引き継がれますが、キリストは死んで終わりませんでした。キリストは死んで三日目によみがえり、天に昇られ、神の右の座に着座されました。そして、今も生きて、私たちのためにとりなしていてくださるのです。キリストは永遠に生きておられる神の祭司なのです。

 

ローマ8章34節には、「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」とあります。

私たちはイエスさまを信じてからもいろいろなことがありますね。家庭の中で、職場の人間関係、この社会の人たちとの関係、教会での人間関係もそうです。突然、小石が飛んできて車のフロントガラスが割れるとか、考えられないことまで起こります。いろいろな問題の中で自分の無力さを感じたり、弱さを感じることもあるでしょう。心が萎えてしまうこともあります。しかし、どんな患難や苦難があっても、何もキリストにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。なぜなら、私たちのために死んでくださった方、いや、よみがえられた主イエスが、天で私たちのために今もとりなしていてくださるからです。私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。だから私たちはこの方によっていつも希望を持って歩むことができるのです。

 

皆さんが辛く、苦しいと感じるとき、どうか思い出してください。皆さんは決して一人ではないということを。イエス様が皆さんとともにいてくださいます。皆さんが倒れないようにととりなしていてくださいます。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、恵みの御座に、イエス・キリストのもとに近づこうではありませんか。

 

Ⅲ.偉大な祭司(4-10)

 

第三に、キリストは偉大な祭司です。4節から10節までをご覧ください。4節には、「その人がどんなに偉大であるかを、よく考えてごらんなさい。族長であるアブラハムでさえ、彼に一番良い戦利品の十分の一を与えたのです。」とあります。メルキゼデクが偉大な人物であったということは、アブラハムが彼に一番良い戦利品の十分の一を与えたことからわかります。アブラハムといったらユダヤ人の始祖です。彼によってユダヤ民族が始まりました。ですから、ユダヤ人にとってアブラハムは民族の父であり、信仰の父でもあるわけです。そのアブラハムがメルキゼデクに十分の一をささげたということは、しかも自分の持っていた戦利品の中から一番良いものをささげたということは、それだけメルキゼデクと言う人物が偉大な者であったということです。

 

ところで、ここには十分の一とか、レビ族といった言葉が出てきますが、これは何のことかというと、イスラエルの民が約束の地に入ったとき、それぞれ12の部族に領地が与えられましたが、レビ族には与えられませんでした。なせなら、彼らの仕事は神に仕え、イスラエルの人々のために祈ることだったからです。そのために12部族のうち1つの部族がその働きに専念したのです。どれだけの人がいたでしょう。かなり大勢の人たちがこの仕事に当たっていたことでしょう。それで、レビ族は領地を持たず、農作物などの収入もなかったので、そのレビ族を支えるために他のイスラエル11の部族がそれぞれ収入の十分の一をささげ物として持って来てささげ、彼らの生活を支えたのです。それほどイスラエルは神に仕えるということを極めて重大な働きと考え、この神を中心に生きていたのです。

しかし、きょうの箇所を見ると、そのイスラエルの始祖であったアブラハムがメルキゼデクに十分の一をささげたとあります。そしてレビ族はそのアブラハムの孫の子どもたちですから、アブラハムがささげたということは彼ら自身もささげたということになるのです。なぜなら、その時点ではまだ彼らは生まれてはいませんでしたが、すでにアブラハムの腰の中にいたからです。ですから、イスラエルの民から十分の一を受ける立場のレビ族でさえもささげたということは、いったいこのメルキゼデクはどんな人物なのか・・・となるわけです。少なくともレビ系の祭司よりも優れていたことがわかります。

 

そればかりではありません。6節と7節を見てください。ここには、レビ系の系図にないはずのメルキゼデクが、神の約束を受けたアブラハムを祝福したのです。いうまでもなく、下位の者が上位の者から祝福されるのです。ということは、ここでアブラハムがメルキゼデクから祝福されたということは、アブラハムよりもメルキゼデクの方が上位の者であったということを意味しているのです。

 

皆さん、祝福するというのは、その祝福がそこにあることを宣言するわけです。よく手紙などに、「あなたのご健康を祈っています」と書いてありながらも、実際には一度も祈ったことがないというのとは全く違います。祝福するというのは、その祝福がそこにあるということの宣言なのです。この礼拝の最後にも祝祷がありますが、それもただの形式ではありません。そこに神の祝福があるという宣言なのであって、とても重いことなのです。私たちは神の祝福がなければ生きることができません。神の祝福があるからこそ、まともに生きることができるのです。私たちは自分の力で頑張って生きているようですが、実際には自分の力というのは微々たるもので、すべては神の祝福によって支えられているのです。私たちがこうやって毎週、週の初めに礼拝のために教会に集まって来るのはその神に近づき、神からの祝福を頂くためです。私たちを罪から救ってくださった主の尊い恵みを覚え、その神に感謝して、その神を礼拝して、その神が私たちを祝福して下さるようにと祈るために集まっているのです。だから神の祝福がなかったら何も始まらないのです。

 

もうすぐさくら市での開拓がはじまりますが、そこでも神の祝福がなかったら何も始まりません。3/12には教会の案内が約4万枚さくら市を中心に新聞折り込みされます。オープニングのコンサートやさまざまなイベントも用意されています。でも、神の祝福がなかったら何の意味もありません。ですから、今度の開所式と献堂式で一番重要なことは何かというと、この神の祝福を求めて祈ることです。どれだけ立派な式をやるかとか、どれだけいいものを提供するかとか、どんなに親切にもてなすかとかといったことではなく、そこに神の祝福があるように、神がさくら市での働きを祝福して多くの人たちを救いに導き、その人たちを通してさらに福音が広がっていき、やがてその地域全体に神の福音が満たされ、神の祝福が満ち溢れるようにと祈るためにするのです。このことをぜひ忘れないで、その奉仕に臨みたいと思うのです。足りないところも多々あるでしょう。うまくいかないことも多いかと思いますが、この神の祝福の祈りの中に、ぜひあなたにも加わっていただきたいのです。

当日は米沢から千田次郎先生が来て記念メッセージをしてくださいます。そこで先生がどんなメッセージをしてくださるかはわかりませんが、私にとって感謝なことは先生がわざわざ来てくださって、神の祝福を祈ってくださるということです。それが一番重要なことだからです。

ちなみに、千田先生は私がまだ20代の時からずっと私たちのために祈って支えてくださっている先生です。この教会の開所式の時にも来てくださいました。その時、私はどれほど慰められ、励まされたかと思うのです。私からみたら先生はメルキゼデクのような人です。そんな先生が来て祈ってくださるということは、どんなに幸いなことでしょうか。ぜひこの中に皆さんも加わって、この神の祝福を共に祈ろうではありませんか。

 

アブラハムはメルキゼデクに十分の一をささげ、このメルキゼデクによって祝福されました。レビ系の祭司のトップといってもいいでしょうアブラハムよりもはるかにすぐれた祭司、それがメルキゼデクでした。そして、これはイエス・キリストのひな型だということを申し上げましたが、ですから、イエス・キリストは旧約聖書の中に出てくるレビ系の祭司よりもはるかにすぐれた方なのです。

 

キリストはあなたのためにこの世に来られ、ご自分の命を犠牲にして、永遠の贖いを成し遂げてくださいました。そして、今も生きてあなたのためにとりなしをしておられます。あなたの祝福を祈っておられます。あなたにどんなことがあろうとも、あなたが倒れることがないようにいつも支えていてくだいます。こんなにすばらしい救い主が他にあるでしょうか。いません。あなたの救い主は、あなたのためにご自分の命さえも捨ててあなたを愛してくださったイエス・キリストだけなのです。この方がいつもあなたとともにいて、あなたを助け、あなたを励まし、あなたを守ってくださいます。このイエスから目を離さないで、しっかりととどまっていましょう。キリストはこんなに偉大な祭司なのです。

申命記13章

今日は申命記13章から学びたいと思います。イスラエルの民はエジプトを出て約40年間荒野をさまよいましたが、ようやく約束の地の入り口まで導かれました。ここからヨルダン川を渡って約束の地に入ります。そこでモーセは、イスラエルが約束に地に入るにあたり、そこでどうあるべきかをくどいと思われるくらい何回も語るわけですが、5章から11章までにはその原則的なことを、つまり、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよということでしたが、前の章からはそのことについてのもっと具体的なことが教えられています。

 

1.預言者、夢見る者(1-5

「あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現われ、あなたに何かのしるしや不思議を示し、あなたに告げたそのしるしと不思議が実現して、「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう。」と言っても、その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。あなたがたの神、主は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、あなたがたの神、主を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられるからである。あなたがたの神、主に従って歩み、主を恐れなければならない。主の命令を守り、御声に聞き従い、主に仕え、主にすがらなければならない。その預言者、あるいは、夢見る者は殺されなければならない。その者は、あなたがたをエジプトの国から連れ出し、奴隷の家から贖い出された、あなたがたの神、主に、あなたがたを反逆させようとそそのかし、あなたの神、主があなたに歩めと命じた道から、あなたを迷い出させようとするからである。あなたがたのうちからこの悪を除き去りなさい。」

 

まず1節から5節までをご覧ください。12章の終わりのところには、彼らが約束の地に入って行ったら、その地の偶像を粉々にするようにというだけでなく、その偶像がどんなものかと興味をもって「私もそうしてみよう」などということがないように、わなにかけられないように注意しなさいとありました。けれともここでは、その地の偶像ではなく、自分たちの中から偶像へと誘い込もうとする悪しき働きに注意するようにと警告されています。それは何かというと、「預言者」と「夢見る者」の存在です。預言者とは、神のことばを語る者ですが、神のことばではなく自分のことば、自分の思い、自分の考えを語る者が出て来て人々を惑わすというのです。それを何というかというと「偽預言者」と言います。あるいは、「夢見る者」とも言われます。彼らは神が語ってもいないことを勝手に語り、人々を神の道から惑わすようなことをするわけです。そんな話に惑われるなんてバカじゃないかと思うかもしれませんが、彼らは羊の身なりをしてやってくる狼なので、なかなかその正体に気付きにくいのです。特に、何かのしるしや不思議を示すので、人々は「この人はほんとうの預言者だ」とだまされてしまうのです。それだけ人は見えるものに弱いんですね。何だか特別な力があるかのように感じてしまいます。何を言っているかわからない聖書を学ぶより、目に見える不思議なことや、心にぐっとくるものを求めがちなのです。そして、ヤハウェなるまことの神ではなく、他の神々へと、他の道へと、偶像礼拝へと人々を導こうとするのです。

 

それは神の教会の中でも同じです。偽預言者や偽教師が現れては超自然的なことや顕著な働きをして、人々を神のみこころから遠ざけてしまうのです。とはどちらかというと魅力的なことに心が奪われやすいですから、どうしてもそっちの方に傾きやすいのです。しかし、ここが勝負です。なんらしるしもないただ神様を信じ続けることは忍耐が試されますが、そのときこそ、自分が本当に主を愛しているかどうかがわかるのです。たとえ自分の思いとは違っても、たとえ他の人が自分と違うことをしていても、それでも神のみこころは何かを判別し、そこに立ち続けていかなければなりません。心を尽くし、精神を尽くして、あなたの神である主を愛さなければならないのです。

 

5節には、そのような者たちに対する厳しい処罰が記されてあります。なぜそんなに厳しく言われているのでしょうか。なぜなら、これがイスラエルのいのちにかかわることだからです。彼らが神からそれて別の神に向かうなら、彼らは滅んでしまうからです。

 

そういう意味では、このことは私たちも注意しなければなりません。私たちは偶像を拝むということはしないかもしれませんが、本当の神以外のものを神にしてしまうこと、すなわち、そういう意味での偶像があるのではないでしょうか。聖書が何と言っているかというよりも、あの人はこう言ったとか、この本にはこう書いてあったとか、自分はこう思うと言って、神の道からそれていることがあるのです。自分でも気づかないうちに・・・。これがキリスト教だと思いこんでいることがあります。気を付けたいものです。

 

2.家族が誘っても(6-11

 

次に節から11節までをご覧ください。

「あなたと母を同じくするあなたの兄弟、あるいはあなたの息子、娘、またはあなたの愛妻、またはあなたの無二の親友が、ひそかにあなたをそそのかして、「さあ、ほかの神々に仕えよう。」と言うかもしれない。これは、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった神々で、地の果てから果てまで、あなたの近くにいる、あるいはあなたから遠く離れている、あなたがたの回りの国々の民の神である。あなたは、そういう者に同意したり、耳を貸したりしてはならない。このような者にあわれみをかけたり、同情したり、彼をかばったりしてはならない。必ず彼を殺さなければならない。彼を殺すには、まず、あなたが彼に手を下し、その後、民がみな、その手を下すようにしなさい。彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。彼は、エジプトの地、奴隷の家からあなたを連れ出したあなたの神、主から、あなたを迷い出させようとしたからである。イスラエルはみな、聞いて恐れ、重ねてこのような悪を、あなたがたのうちで行なわないであろう。」

 

今度は、家族の者たち、あるいは非常に身近な者が、あなたを他の神々へと誘い込むときの場合にはどうしたらいいかということです。たとえあなたの家族や無二の親友があなたを誘っても、そういう者に同意したり、耳を貸したりしてはいけないとあります。あわれみをかけてもなりません。同情してもだめです。その人をかばったりすることもゆるされません。なんとここには、必ず殺されなければならないとあります。まずあなたが手を下し、その後で、民がみな、その手を下すようにしなければなりません。えっ、そこまでしなければならないんですか。本当に驚きを隠せません。いったいどうしてそこまでしなければならないのでしょうか。その理由が10節にあります。「彼は、エジプトの地、奴隷の家からあなたを連れ出したあなたの神、主から、あなたを迷い出させようとしたからである。」

すなわち、主はその家族をエジプトの地、奴隷の家から解放してくださった神だからです。いわば家族の家族と言ってもいいでしょう。今日家族がこうして幸せに暮らせるのは、それは主が彼らをエジプトの奴隷の家から解放してくださったからです。その救い主を捨てるようなことがあるとしたら、それこそ家族をないがしろにすることであって、ゆるされることではありません。

 

イエスさまは、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(マタイ10:37と言われました。これは家族がどうでもいいということでなく、優先順序の問題です。キリストよりも家族を愛する者はキリストの弟子にふさわしいものではありません。家族以外にも、私たちは教会や仕事、趣味といった生活していく上で欠かすことができない大切なことがたくさんありますが、その中にあっても神を第一としなければならないのです。ではその他のことはどうでもいいということではなく、どれも大切なことでありますが、時によっては家族よりも仕事を、仕事よりも教会を、教会よりも家族を優先にしなければならないことがありますが、どんなことがあっても神を第一とし、家族や仕事よりももっと強く、もっと堅く、もって熱く、結びついたものでなければならないのです。その中にはたとえ家族といえども入り込むことはてきないのです。

 

3.町の住民を惑わせたら(12-18

 

最後に12節から18節までをご覧ください。

「もし、あなたの神、主があなたに与えて住まわせる町の一つで、よこしまな者たちが、あなたがたのうちから出て、「さあ、あなたがたの知らなかったほかの神々に仕えよう。」と言って、町の住民を迷わせたと聞いたなら、あなたは、調べ、探り、よく問いたださなければならない。もし、そのような忌みきらうべきことがあなたがたのうちで行なわれたことが、事実で確かなら、あなたは必ず、その町の住民を剣の刃で打たなければならない。その町とそこにいるすべての者、その家畜も、剣の刃で聖絶しなさい。そのすべての略奪物を広場の中央に集め、その町と略奪物のすべてを、あなたの神、主への焼き尽くすこの聖絶のものは何一つ自分のものにしてはならない。主が燃える怒りをおさめ、あなたにあわれみを施し、あなたをいつくしみ、あなたの先祖たちに誓ったとおり、あなたをふやすためである。いけにえとして、火で焼かなければならない。その町は永久に廃墟となり、再建されることはない。あなたは、必ずあなたの神、主の御声に聞き従い、私が、きょう、あなたに命じるすべての主の命令を守り、あなたの神、主が正しいと見られることを行なわなければならない。」

 

ここには、イスラエルの民がその町のすべての住人をそそのかした場合どうしたらよいかを語っています。をあげています。その町全体が偶像崇拝に陥ってしまたケースです。その場合は、まずよく調べ、探り、問いたださなければなりませんが、そのようなことが実際に行われていたとしたら、その町の住民のすべてを剣の刃で打たなければなりません。その町とそこにいるすべての物、その家畜もです。徹底的にそれを取り除かなければならないというのです。

 

 いったいなぜそこまでしなければならないのでしょうか。一つの理由は、それは、主がイスラエルをエジプトの奴隷の状態から救い出された方だからです。今のイスラエルがあるのは、彼らを救ってくださった主のおかげです。それなのに主を捨てて他の神々に走るようなことがあるとしたら、どれほど主は悲しまれることでしょう。

 

 もう一つの理由は。そのようにしなければイスラエルに祝福はないからです。1126-28には、主は彼らの前に、祝福とのろいを置くと言われました。主に従うなら祝福を、従わなければのろいを置くと言われたのです。ですから、彼らが他の神々に走るなら、そこにはのろいしかありません。そののろいを受けることがないように、聖絶しなければならないのです。この主がともにおられるということが、イスラエルにとっての祝福の源であり、最高の喜びです。その主を捨てて、他の神々に走って行くようなことがあるとしたら、そこには滅び以外の何ものもありません。そうしたものは一切、取り除かなければならないのです。主との密接な関係を壊すような要因をすべて破壊するように、というのです。

 

 それは、イエス・キリストによって罪が贖わられた私たちにとっても同じではないでしょうか。私たちにとっての幸せと成功、祝福のかぎはイエス・キリストであって、この方を離れては何の実を結ぶこともできません。私たちが豊かな実を結ぶのはただ主につながっている時だけであって、それがなかったらそこには滅び以外の何ものもないのです。そうした要因は取り除かなければなりません。そして、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、神を愛さなければならないのです。

 

今度のさくらチャペルの開所式で、「尽きせぬ愛をあなたに」(Just Let Me Say)を賛美します。私はこの賛美が好きです。天地が滅びようとも 変わらず、赦しと恵みの中で 主は私たちを神の子としてくださいました。そしてとこしえに変わらない愛で私たちを包んでいてくださいました。この主だけに心を向け、この主だけを見上げて歩みたいと思うのです。


「尽きせぬ愛をあなたに」(Just Let Me Say)

 

尽きせぬ愛をあなたに 恵み憐れみうけ、
麗しいあなたのみもとで 御顔拝させよ

天地が滅びようとも わが言葉は変わらず
ただ主よ 愛します わが友 救い主

さやかなみ声聞かせよ やさしく我を呼ぶ
拝させよ 栄光と力 御霊の炎を

荒野が園になるまで わが心は求める
ただ主よ 従います わが友 救い主

せつなき心われに あつく燃ゆる思い
とこしえに変わらぬ主の愛 ついにわれは知る

赦しと恵みの中で 神の子とされた身を
ただ主よ 感謝します わが友 救い主

 

この主の愛と恵みから迷い出ることがなにいように、心を尽くして主だけを愛しましょう。

申命記12章

今日は申命記12章から学びたいと思います。ここには、5章から11章までに語られた原則的なことを、具体的な場面に適用させています。つまり、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛するにはどうしたらいいかということについて教えられているわけです。これは26章まで続きますが、きょうは、その最初の部分を見ていきたいと思います。

 

1.主がしてくださったあなたがたの手のわざを喜びなさい(1-7

 

「これは、あなたの父祖の神、主が、あなたに与えて所有させようとしておられる地で、あなたがたが生きるかぎり、守り行なわなければならないおきてと定めである。あなたがたが所有する異邦の民が、その神々に仕えた場所は、高い山の上であっても、丘の上であっても、また青々と茂ったどの木の下であっても、それをことごとく必ず破壊しなければならない。彼らの祭壇をこわし、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を火で焼き、彼らの神々の彫像を粉砕して、それらの名をその場所から消し去りなさい。あなたがたの神、主に対して、このようにしてはならない。ただあなたがたの神、主がご自分の住まいとして御名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ぶ場所を尋ねて、そこへ行かなければならない。あなたがたは全焼のいけにえや、ほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、誓願のささげ物、進んでささげるささげ物、あなたがたの牛や羊の初子を、そこに携えて行きなさい。その所であなたがたは家族の者とともに、あなたがたの神、主の前で祝宴を張り、あなたの神、主が祝福してくださったあなたがたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい。」

 

まず第一のことは、偶像を打ち砕くことです。2節には、「それをことごとく必ず破壊しなければならない」とか、3節には、神々の彫像を粉砕して、それらの名をその場所から消し去りなさい、とあります。ただ、主が選んだ場所を尋ね、そこにささげものを携え、主が祝福してくださった彼らの手のわざを喜び楽しまなければなりません。

 

主ご自分の住まいとして御名を置くために、彼らの全部族のうちから選ぶ場所とはどこですか。これは聖なる所、主の幕屋です。そこには主が住んでおられます。そこに行かなければなりません。

 

どのように?6節をご覧ください。ここには、「あなたがたは全焼のいけにえや、ほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、誓願のささげ物、進んでささげるささげ物、あなたがたの牛や羊の初子を、そこに携えて行きなさい。」とあります。これは主へのささげものを表しています。全焼のいけにえは主への献身を、また収穫物の十分の一をささげるとありますが、これはすべてが主のものであり、主の恵みによって与えられたことへの感謝のしるしです。そして奉納物とは幕屋の奉仕に必要なものを指しています。誓願のささげ物は、何か自分が志を立てて、一つのことを、責任を持って行なうことを示すささげものです。すなわち、これらはすべて主への感謝のささげものです。しかもここには、進んでささげるささげ物とあります。ささげ物で大切なことは、人に言われたからささげるのではなく、自ら進んでささげること、神への自発的な応答としてささげることなのです。牛や羊は初子をささげるようにと言われています。これは「初物」のことですね。それは最上のささげものを意味しています。余った物とか、無残ったものをささげるのではなく、初物を取っておき、それを喜んで主にさささげることに意味があるのです。主イエスはレプタ銅貨2枚をささげたやもめは、他のだれよりも多く献金をしたとありますが、それは彼女のささげものに、このような要素が含まれていたからです。

 

2.主が選ぶ場所で(8-14

 

次に8節から14節までをご覧ください。「あなたがたは、私たちがきょう、ここでしているようにしてはならない。おのおのが自分の正しいと見ることを何でもしている。あなたがたがまだ、あなたの神、主のあなたに与えようとしておられる相続の安住地に行っていないからである。あなたがたは、ヨルダンを渡り、あなたがたの神、主があなたがたに受け継がせようとしておられる地に住み、主があなたがたの回りの敵をことごとく取り除いてあなたがたを休ませ、あなたがたが安らかに住むようになるなら、あなたがたの神、主が、御名を住まわせるために選ぶ場所へ、私があなたがたに命じるすべての物を持って行かなければならない。あなたがたの全焼のいけにえとそのほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、それにあなたがたが主に誓う最良の誓願のささげ物とである。あなたがたは、息子、娘、男奴隷、女奴隷とともに、あなたがたの神、主の前で喜び楽しみなさい。また、あなたがたの町囲みのうちにいるレビ人とも、そうしなさい。レビ人にはあなたがたにあるような相続地の割り当てがないからである。全焼のいけにえを、かって気ままな場所でささげないように気をつけなさい。ただ主があなたの部族の一つのうちに選ぶその場所で、あなたの全焼のいけにえをささげ、その所で私が命じるすべてのことをしなければならない。」

 

ここでも、同じことが教えられています。彼らが約束の地に入ったら、主が御名を住まわせる場所へ、主が命じられるものを持って行かなければならない、とあります。しかし、その前、モーセはここでとても大切なことを語っています。それは、イスラエルは、「おのおのが自分の正しいと見ることを何でもしている。」ということです。自分が良かれと思っていることをしている。神が言われることではなく、自分の思いと、自分の考えで、正しいだろうと判断して生きているのです。それは彼らがまだ主が彼らに与えようとしている地に行っていないからである。もし彼らがヨルダン川を渡り、主が与えてくだる地に入ったなら、そうであってはいけません。かって気ままな場所で全焼のいけにえをささげてはいけないのです。自分勝手な考えで、自分の思いで礼拝をささげてはいけないのです。神を信じ、神に従って生きる人は自分が正しいと思うかどうかではなく、神が正しいと思っておられるかどうか、神が願っておられることは何かを知り、それに従って行動しなければなりません。たとえそれが自分の頭で理解できないことであっても神がそう言われるから従う、これが信仰者の生きる基準なのです。

 

10節には、彼らが約束の地に入ることができたらどうすべきかが教えられています。11節を見ると、御名を住まわせる場所へ、主が命じられる物をもって行かなければならないと言われています。御名を住まわせるために選ばれた場所とはどこでしょうか。それは神が臨在しておられるところ、つまり、神の幕屋です。なぜ神の幕屋に行かなければならないのでしょうか。それは私たちの信仰は個人的なものではないからです。ある意味で一人一人の神との関係が最も重要ですが、かといって一人で神を礼拝するだけが望ましいことではありません。むしろ、神のみこころを知れば知るほど、そこには「互いに」ということがどれほど重要であるかがわかります。主イエスも、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:20)と言われました。私たちは、いつでも、どこでも、主を礼拝することができますが、そのように主を礼拝する人は、主の御名において集まるところで礼拝をささげることがいかに重要であるかに気付くはずなのです。また、もし共に集まって礼拝することがなければ、すなわち、ここに書かれてあるように、「おのおのが自分で正しいと見えることを行っているならば、自分では主を礼拝しているようなつもりでも、実は自分が正しいと思うようなことをしているにしかすぎないのです。それは悪い意味での個人主義です。私たち互いに集まって、主イエス・キリストを礼拝することによって、互いに責任関係が生まれてくるのです。互いに集まり、互いに祈り、互いに仕え合い、互いに交わることによって、自分が正しいと思うことではなく、主が正しいと思われていることは何かを求めることができるのです。「鉄が鉄を研ぐ」という御言葉がありますが、主にあって集まるところにこそ、自分の思いが、自分勝手なものから主へのものへときよめられていくのです。

 

そのことは13節でも言われています。ここには、「かって気ままな場所でささげないように気をつけなさい」とあります。かって気ままな場所で礼拝するというのは、自分勝手な礼拝、という意味です。自分に都合が良い時に、都合が場所で、都合がいい方法で礼拝をささげるというのはかって気ままな礼拝と言えるでしょう。神をあがめているようで、実はあくまでも自分が中心の礼拝です。自分の好きな方法で礼拝をささげようとするところに偶像が生まれます。自分だけの世界、自分だけの宮ができ、そこに祭司を雇うという、士師記に出て来るミカのようになるのです。(士師記17章)主はこれを忌み嫌われます。そうではなく、私たちは主のみこころを聞いていかなければなりません。それぞれおのおのが正しいと思うことではなく、主が語っておられることを共に聞き、共に受けとめ、共に果たしていく者でなければなりません。それを聞いていくのが一人一人に課せられている使命なのです。そして、それは普通教会の指導者に与えられ、牧師が主によって導かれることによって教会が導かれていきます。ですから、牧師の役割はとても重要です。主のみこころは何かをいつも聞いていかなければならないからです。

 

3.血は食べてはならない(15-19

 

「しかしあなたの神、主があなたに賜わった祝福にしたがって、いつでも自分の欲するとき、あなたのどの町囲みのうちでも、獣をほふってその肉を食べることができる。汚れた人も、きよい人も、かもしかや、鹿と同じように、それを食べることができる。ただし、血は食べてはならない。それを地面に水のように注ぎ出さなければならない。あなたの穀物や新しいぶどう酒や油の十分の一、あるいは牛や羊の初子、または、あなたが誓うすべての誓願のささげ物や進んでささげるささげ物、あるいは、あなたの奉納物を、あなたの町囲みのうちで食べることはできない。ただ、あなたの神、主が選ぶ場所で、あなたの息子、娘、男奴隷、女奴隷、およびあなたの町囲みのうちにいるレビ人とともに、あなたの神、主の前でそれらを食べなければならない。あなたの神、主の前で、あなたの手のすべてのわざを喜び楽しみなさい。あなたは一生、あなたの地で、レビ人をないがしろにしないように気をつけなさい。」


ここでは肉を食べることについて語られています。彼らがささげた家畜、牛や羊以外のきよい動

物は、すべて食べることができました。しかし、ただし、血は食べてはなりませんでした。それは地面に水のように注ぎ出さなければならなかったのです。なぜでしょうか。レビ記17:11にその理由が記されてあります。それは、「肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。」

 

 これはどういうことでしょうか。ここには、なぜ血を食べてはならないのかというと、人のいのちは血の中にあるからです。だから、その血をもって贖いが行なわれるのです。旧約聖書ではそのために動物の血が流されました。その血が犠牲にされることによって、人々の罪の身代わりとなって死ぬことによって、人々の罪が赦されたのです。まして、動物ではない、神のひとり子の血によって罪が贖われたとしたら、その罪はどんなに清められることでしょう。私たちはイエス様の血によって完全な罪の赦しを受けることができたのです。いのちはみな尊いものですが、御子のいのちほどに高価で尊いものはありません。けれども、この方を犠牲にすることにより、私たちがキリストにあって完全に贖われるため、永遠に救われるようにされたのです。ペテロは言いました。「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。(Ⅰペテロ1:18-19)」私たちは、キリストの尊い血によって贖い出されました。それゆえに主は、「あなたがたはだれも血を食べてはならない。あなたがたの間の在留異国人もまた、だれも血を食べてはならない。と言われたのです。

 

17節から19節までのところにはおもしろいことが命じられています。ここでは、神へのささげものでない獣は、どこでも食べることができましたが、神へのささげものに関する食事、聖なる食事は、主が選ばれる一つの場所でしか食べることができませんでした。そして、それは息子、娘、男奴隷、女奴隷、レビ人と共に食べなければならなかったのです。特にここではレビ人とともにとか、レビ人をないがしろにしてはならないとあるので、これはレビ人に相続財産として与えられるべき分のことが語られているものと思われます。レビ人をないがしろにしてはならない。十分の一をもって、主の聖なるもの、牛や羊の初子などを、主のささげものとしてささげ、それをレビ人たちが受け、食べたのでしょう。それをみんなで喜ぶ。それがイスラエルが約束の地に行って行うべきことだったのです。

 

4..主が良いとみられること(20-28

 

「あなたの神、主が、あなたに告げたように、あなたの領土を広くされるなら、あなたが肉を食べたくなったとき、「肉を食べたい。」と言ってよい。あなたは食べたいだけ、肉を食べることができる。 もし、あなたの神、主が御名を置くために選ぶ場所が遠く離れているなら、私があなたに命じたように、あなたは主が与えられた牛と羊をほふり、あなたの町囲みのうちで、食べたいだけ食べてよい。かもしかや、鹿を食べるように、それを食べてよい。汚れた人もきよい人もいっしょにそれを食べることができる。ただ、血は絶対に食べてはならない。血はいのちだからである。肉とともにいのちを食べてはならない。血を食べてはならない。それを水のように地面に注ぎ出さなければならない。血を食べてはならない。あなたも、後の子孫もしあわせになるためである。あなたは主が正しいと見られることを行なわなければならない。ただし、あなたがささげようとする聖なるものと誓願のささげ物とは、主の選ぶ場所へ携えて行かなければならない。あなたの全焼のいけにえはその肉と血とを、あなたの神、主の祭壇の上にささげなさい。あなたの、ほかのいけにえの血は、あなたの神、主の祭壇の上に注ぎ出さなければならない。その肉は食べてよい。気をつけて、私が命じるこれらのすべてのことばに聞き従いなさい。それは、あなたの神、主がよいと見、正しいと見られることをあなたが行ない、あなたも後の子孫も永久にしあわせになるためである。」

 

主が良いとみられることが続きます。これまでの荒野の旅とは異なり、広大な土地にイスラエルの民は住みます。幕屋や神殿があるところに行くには何日もかけなければいけない人々も出て来ます。ゆえに、食べたいものはそこで食べることができます。

 けれども、血を食べてはいけないことが強く戒められています。23節に、「血はいのちだからである」とあります。血を食べることは命を奪うことになります。命は神にのみに属しているものであり、他の何ものも奪うことはできません。したがってこのいのちの象徴である血を食べないことによって、それは自分が主のものであり、主の定めに従っていることを表していたのです。

 

もしこれを現代のクリスチャンに当てはめるならどうなるでしょうか。互いにキリストにあって一人ひとりの命を大切にする、ということでしょう。相手をキリストにあって配慮し、祈り、仕え、キリストがその人のために死なれたことを認めることです。言い換えれば、キリストの贖いをないがしろにしない、キリストの贖いに生きる、キリストのみこころに従って生きるということでしょう。

 

5.わなにかけられないように(29-32

 

「あなたが、はいって行って、所有しようとしている国々を、あなたの神、主が、あなたの前から断ち滅ぼし、あなたがそれらを所有して、その地に住むようになったら、よく気をつけ、彼らがあなたの前から根絶やしにされて後に、彼らにならって、わなにかけられないようにしなさい。彼らの神々を求めて、「これらの異邦の民は、どのように神々に仕えたのだろう。私もそうしてみよう。」と言わないようにしなさい。あなたの神、主に対して、このようにしてはならない。彼らは、主が憎むあらゆる忌みきらうべきことを、その神々に行ない、自分たちの息子、娘を自分たちの神々のために、火で焼くことさえしたのである。12:32 あなたがたは、私があなたがたに命じるすべてのことを、守り行なわなければならない。これにつけ加えてはならない。減らしてはならない。」

 

ここには、彼らが約束の地に入って行ったときに、気を付けなければならないことが記されてあります。それは、わなにかけられないように、ということです。そこにはどんなわながあったのでしょうか。彼らの神々を求めて、この地の異邦の民はどんな神々に仕えていたのだろうか、自分もそうしてみようと、思うことです。

 

こんなことがあるのでしょうか。あるのです。サタンは私たちの心の隙間を狙って、いつも戦いを挑んできます。心に余裕ができたそのとき、これまで考えもしなかったことをしてみたいと思うことが起こるのです。その一つがこれでしょう。この地の住民はどんな神を拝んでいたのかを知ろうとしているうちに、いつしか自分がそれを拝んでいるということがあります。私たちが主かせら目をそらした瞬間、全く別の神があなたの心を支配してしまうことがあるのです。どんなに長く信仰生活を送っていても・・・。しかも、とても恐ろしいと思うことは、そのことになかなか気づかないということです。ヘブル書にはあなたの耳が鈍くなってとありますが、あなたの心に覆いかかるため、そのことにすら全く気付けないのです。ですから、みことばの学びはとても重要です。そうした私たちの心を主に向けさせ、主のみこころは何であるかを示してくださるからです。主が命じるすべてのことを守り行いなさい、とあったも、その命令がわからなければ、どうして主に従うことができるでしょうか。それこそおのおのの信仰、自分勝手な信仰になってしまいます。そういうことがないように、主が明治らておられることは何かを学び、従順な心、聖霊の助けによってこの道を進んでいかなければなりません。それが、私たちがほんとうの意味で祝福を受ける道なのです。

申命記11章

今日は申命記11章から学びたいと思います。まず1節から7節までをご覧ください。

 

1.主の偉大さ(1-7)

 

「あなたはあなたの神、主を愛し、いつも、主の戒めと、おきてと、定めと、命令とを守りなさい。 きょう、知りなさい。私が語るのは、あなたがたの子どもたちにではない。彼らはあなたがたの神、主の訓練、主の偉大さ、その力強い御手、伸べられた腕、そのしるしとみわざを経験も、目撃もしなかった。これらはエジプトで、エジプトの王パロとその全土に対してなさったこと、また、エジプトの軍勢とその馬と戦車とに対してなさったことである。・・彼らがあなたがたのあとを追って来たとき、葦の海の水を彼らの上にあふれさせ、主はこれを滅ぼして、今日に至っている。・・また、あなたがたがこの所に来るまで、荒野であなたがたのためになさったこと、また、ルベンの子エリアブの子であるダタンとアビラムに対してなさったことである。イスラエルのすべての人々のただ中で、地はその口をあけ、彼らとその家族、その天幕、また彼らにつくすべての生き物をのみこんだ。これら主がなされた偉大なみわざのすべてをその目で見たのは、あなたがたである。」

 

モーセは今、約束の地に入って行こうとしているイスラエルに、これまでの過去の歴史を振り返りながら、神の定めとおきてを語っています。「申命記」というタイトルの意味は、「繰り返して語る」です。ですからモーセは、神の民であるイスラエルにとって必要なことを繰り返し、繰り返し語っているわけですが、その中心は何かというと、10章12,13節でしたね。つまり、心を尽くして、神を愛することです。ただ、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くして神を愛すること、これこそ、神が彼らに求めておられることであり、彼らが約束の地に入ってからも守り行わなければならない中心的なことでした。

 

そして、この11章でも、モーセはそのことをイスラエルの民に繰り返して語ります。1節です。なぜでしょう。2節7節までのところに、その理由が語られています。それは主が偉大な方であり、主こそ神であられるからです。ここではその主の偉大な出来事のいくつかのことが取り上げられています。まず3節と4節には、主が彼らをエジプトから連れ出されたこと、そして5節には、彼らがここに来るまで、主が荒野でなされた数々の御業です。食べ物がないといえば空からマナを降らせ、水がないと言えば岩から水をほとばしり出させました。肉を食べたいと言えばうずらの大群を運んできました。また、そこには大きくて、強い敵がたくさん立ちはだかりましたが、主はそうした敵も打ち破り、40年の荒野の旅を守ってくださいました。それは一言で言えば、8章4節にあるように、「あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった」ということです。

そればかりではありません。6節には、荒野であった一つの恐ろしい出来事が書かれてあります。それはルベンの子エリアブの子であるダタンとアビラムに対して、主が成されたことです。それは、彼らがモーセに反抗し、「あなたがただけが特別なのではない」と逆らったため、地が割れて、生きたままそこに突き落とされたという出来事です。ほんとうに主は生きておられる偉大な方なのです。そして、これは彼らの先祖たちの時代に起こったことではなく、彼らの時代に起こった出来事でした。そのとき彼らはまだ幼い子供か10代であったため、こうしてまだ生き残ってはいましたが、確かに彼らもそうした主の数々の出来事を見たのです。主はそのように偉大な方なのです。彼らはそのことを知らなければなりません。

 

2.天の雨に潤されて(8-25)

 

次に8節から25節までを見たいと思いますが、15節までをご覧ください。

「あなたがたは、私が、きょう、あなたに命じるすべての命令を守りなさい。そうすれば、あなたがたは、強くなり、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地を所有することができ、 また、主があなたがたの先祖たちに誓って、彼らとその子孫に与えると言われた地、乳と蜜の流れる国で、長生きすることができる。なぜなら、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地は、あなたがたが出て来たエジプトの地のようではないからである。あそこでは、野菜畑のように、自分で種を蒔き、自分の力で水をやらなければならなかった。しかし、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地は、山と谷の地であり、天の雨で潤っている。そこはあなたの神、主が求められる地で、年の初めから年の終わりまで、あなたの神、主が、絶えずその上に目を留めておられる地である。もし、私が、きょう、あなたがたに命じる命令に、あなたがたがよく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くして仕えるなら、「わたしは季節にしたがって、あなたがたの地に雨、先の雨と後の雨を与えよう。あなたは、あなたの穀物と新しいぶどう酒と油を集めよう。また、わたしは、あなたの家畜のため野に草を与えよう。あなたは食べて満ち足りよう。」

 

ここでも繰り返して、モーセを通して語られる主の命令を守るようにと勧められています。なぜでしょうか。なぜなら、そうすれば、彼らは強くなり、その地を所有することができるからです。また、主が先祖たちに誓ったとおり、その地で長生きすることができるからです。というのは、彼らが入っていこうとしている地は、彼らが出て来たエジプトの地のようではないからです。そこでは野菜でも何でも自分で種を蒔き、自分で水をやり、自分の力で育てなければなりませんでしたが、彼らが入って行こうとしている地には天の雨で潤っているからです。そこでは主が、絶えずその上に目を留めていてくださいます。エジプトは肥沃な地であり、イスラエルよりも何倍も豊かな地でした。そのエジプトでは自分で種を蒔き、自分で水をやり、自分の力で何とかしならなかったのに、約束の地ではその必要が全くないのです。何が違うのでしょうか。そこに主がおられることです。そこに主の目があります。主が共におられるので、主が祝福してくださるのです。

 

これはまさにこの世界と信仰の世界、霊的世界の違いではないでしょうか。この社会は自力の世界です。自分の知恵と、自分の力で一生懸命耕やかさなければなりません。しかし、それとは違う世界があります。それは信仰の世界であり、そこには主の恵みが満ち溢れています。主ご自身が働いてくださいます。そこには天の雨が潤っています。その雨が豊かな収穫をもたらしてくくれるのです。13節と14節をご一緒に読みたいと思います。

 

「もし、私が、きょう、あなたがたに命じる命令に、あなたがたがよく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くして仕えるなら、「わたしは季節にしたがって、あなたがたの地に雨、先の雨と後の雨を与えよう。あなたは、あなたの穀物と新しいぶどう酒と油を集めよう。また、わたしは、あなたの家畜のため野に草を与えよう。あなたは食べて満ち足りよう。」

 

もし主が命じる命令に従うなら、主が季節にしたがって、先の雨と後の雨を与えてくださいます。先の雨とは秋の雨のことで、10月後半から12月の前半まで降る雨のことです。これは夏の干ばつで固くなった地を柔らかくするために降る雨で、この時期に大麦と小麦の種蒔きがなされるので、土地が豊かに潤されるためにとても大切な雨となります。ヘブル語では「ヨーレー」(יוֹרֶה)といって、旧約聖書に3回使われています。(申命11:14、エレミヤ5:24, 24)。

それに対して後の雨は春の雨のことで、3月から4月の収穫の前に降る大切な雨です。この雨が大麦や小麦などの農作物や牧草のために必要な雨とされています。ヘブル語では「マルコ―シュ」(מַלְקוֹשׁ)と言って、旧約聖書では8回使われています。(申命11:14、ヨブ29:23、箴言16:15、エレ3:3/5:24、ホセア6:3、ヨエル2:23、ゼカリヤ10:1) これらはみな季節にかなって降る「祝福の雨」(エゼキエル34:26)です。です。

 

ヨエル 2章23節には、「シオンの子らよ。あなたがたの神、主にあって、楽しみ喜べ。主は、あなたがたを義とするために、初めの雨を賜り、大雨を降らせ、前のように、初めの雨と後の雨とを降らせてくださるからだ。」とあります。これはペンテコステと、この世の終わりに降る大いなるリバイバルの預言ではないかと言われています。初めの雨(秋の雨)」はすでに二千年前のペンテコステに降りました。しかし大収穫の「後の雨」である(春の雨)」はまだです。これが降るときは第二のペンテコステということができます。大艱難時代の終わり頃に、第二のペンテコステによってイスラエルの民は民族的に覚醒して救われ、その後にキリストの再臨がなされて千年王国がやってきます。その前には、すでに主にあるクリスチャンたちは空中に携挙されていますが、ユダヤ人の民族的救いの実現なしには異邦人クリスチャンの救いの完成もないのですから、無関心でいることはできません。私たちもまたこの後の雨のために祈らなければなりません。

 

しかし、ここではこの初めの雨と後の雨、神の祝福の雨を注ぐと言われています。私たちは世の終わりの前にもそのような神の祝福を受けるのです。もし、私たちが、神が命じる命令に、よく聞き従って、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして主を愛するならば・・・。

 

だから聖書はこう告げるのです。16節と17節をご覧ください。

「気をつけなさい。あなたがたの心が迷い、横道にそれて、ほかの神々に仕え、それを拝むことのないように。主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、主が天を閉ざされないように。そうなると、雨は降らず、地はその産物を出さず、あなたがたは、主が与えようとしておられるその良い地から、すぐに滅び去ってしまおう。」

 

だから、気をつけなければなりません。私たちの心が迷い、横道にそれて、ほかの神々に仕え、それを拝むようなことがないように。そんなことあるはずないじゃないですか・・・。しかし、人の心はコロコロ変わるから心というそうです。豊かになると人はすぐに高ぶり、横道にそれてしまうのです。ほかの神々に仕えるようになります。これは必ずしも偶像崇拝のことではなく、まことの神以外のものを神とすることを指しています。時には、自分が神になってしまうこともあります。自分の力がこれをしたのだ・・・と。しかし、そのように心が迷い、横道にそれてしまうとどうなるでしょうか。主が天を無度差してしまわれます。その結果、雨が降らず、その地は産物を出さず、すぐに滅びてしまうことになってしまいます。だからそういうことがないように注意しなければなりません。どのように注意したらいいのでしょうか。

 

18節から25節までをご覧ください。

「あなたがたは、私のこのことばを心とたましいに刻みつけ、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。それをあなたがたの子どもたちに教えなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、それを唱えるように。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。それは、主があなたがたの先祖たちに、与えると誓われた地で、あなたがたの日数と、あなたがたの子孫の日数が、天が地をおおう日数のように長くなるためである。」

 

ここには、このことばをあなたの心とたましいに刻み付け、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい、とあります。どういうことでしょうか。このみことばから離れることがないように、しっかりと心に刻み付けるようにということです。そればかりではありません。それをあなたの子供たちにも教えなければなりません。そして、いつもこれを唱えるように、門と門柱に書き記すようにというのです。もうみことば漬けですね。なぜここまでしなければならないのでしょうか。それはあなたがたの子孫の引かずが、天が地を覆う日数のように長くなるため、すなわち、長く生きるためです。これは後の雨の後にもたらされる千年王国で実現することになります。

 

そればかりではありません。もしこのようにして主にすがるなら、たとえ敵があなたがたよりも大きくて、強くても、主が彼らをあなたの目の前から追い払われ、その地を占領することができるからです。あなたがたが足の裏で踏む所は、ことごとくあなたがたのものとなる。信じますか。信じましょう。あなたがたの足の裏で踏むところは、ことごとくあなたがたのものとなる。この教会の土地も、そのようにして与えられます。私たちではなく、ただ主が、そのことをしてくださると信じて、私たちはただ主よりすがり、ことごとく足の裏で踏んでいかなければなりません。

 

3.祝福とのろい(26-32)

 

最後に、26節から32節までをご覧ください。

「見よ。私は、きょう、あなたがたの前に、祝福とのろいを置く。もし、私が、きょう、あなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令に聞き従うなら、祝福を、もし、あなたがたの神、主の命令に聞き従わず、私が、きょう、あなたがたに命じる道から離れ、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら、のろいを与える。あなたが、はいって行って、所有しようとしている地に、あなたの神、主があなたを導き入れたなら、あなたはゲリジム山には祝福を、エバル山にはのろいを置かなければならない。それらの山は、ヨルダンの向こう、日の入るほうの、アラバに住むカナン人の地にあり、ギルガルの前方、モレの樫の木の付近にあるではないか。あなたがたは、ヨルダンを渡り、あなたがたの神、主があなたがたに与えようとしておられる地にはいって、それを所有しようとしている。あなたがたがそこを所有し、そこに住みつくとき、私がきょう、あなたがたの前に与えるすべてのおきてと定めを守り行なわなければならない。」

 

ここで主はイスラエルの前に、祝福とのろいを置くと言われました。もし、主の命令に従うなら祝福を、逆に、もし、主の命令に聞き従わず、主の命じる道から離れ、他の神々に従って行くのなら、のろいを与えるというのです。まさに二者択一です。私たちは、どちらかというとこの立場をあいまいにします。あまり熱心にならず、またあまり不熱心にもならず、その中間くらいがちょうどいいのではないかと思うのです。けれども、信仰に中立というのはありません。従うのか、従わないのか、のどちらかなのです。信じて命を持つか、あるいはそのままでいて神の裁きを受けているかのどちらかです。

 

しかし、ぜひ誤解しないでください。私たちは主に従うとは言っても従うことなどできない汚れた者なのです。だからこそ、キリストが呪われた者となって、私たちののろいを受けてくださったのです。そしてこのキリストを信じる信仰によって、私たちは神の祝福に預かることができるようになりました。だから、私たちはみんな従えない者なのですが、神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いによって義と認めていただいたのです。だから従えば祝福であり、従わなければのろいであるということではなく、もともとのろいを受けなければならなかった者を、神がその呪いを代わりに受けてくださったがゆえに、祝福された者としてくださった。それなのであれば、私たちには中途半端な態度は逆に赦されないのではないでしょうか。ご自分のいのちを捨てて私たちを救ってくださった主に対してふさわしい応答は、ローマ12:1-2にあるように、私たち自身を神にささげることであって、神が命゛知ることに対して全身全霊をもって応えていくことなのではないでしょうか。それが神が私たちに求めておられることなのです。