ヨハネ14章12~17節「イエスを信じる者に与えられる約束」

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ヨハネの福音書14章からお話ししています。ここを4回に分けてお話ししたいと思いますが、今回はその2回目です。きょうは12節から17節までのところから、主イエスを信じる者に与えられる3つの約束について学びたいと思います。すなわち、第一に、イエスを信じる者はイエスが行うわざを行い、さらに大きなわざを行うということです。第二に、イエスは、イエスを信じる者の祈りに応えてくださるということです。そして第三のことは、イエスを信じる者には、もう一人の助け主、聖霊が与えられるということです。

 

Ⅰ.イエスが行うわざを行う(12)

 

まず、12節をご覧ください。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」

 

十字架につけられる前夜、もうすぐ彼らのもとを去って行くとイエスが言われると、どこに行くのかわからなかった弟子たちは不安になりました。そんな彼らにイエスは、「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(1)と言われました。なぜなら、父の家には住む所がたくさんあるからです。その場所を用意したら、また来て、彼らを迎えてくださいます。だから、何も恐れる必要はありません。イエスは、ルカ12:32でこのように言われました。「小さな群れよ、恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです。」まさにこれです。イエスを信じた者には御国が与えられているのです。ですから、どんなに小さな者であっても恐れることはありません。この世を越えた天国の視点で物事を見たら、神の平安が心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。何とすばらしい約束でしょうか。これほど大きな慰めはありません。それは永遠に変わることのない神の約束です。このような主のみことばに信頼して歩めることは、ほんとうに感謝なことです。

 

それだけではありません。きょうの箇所には、イエスが父のもとに行かれることによってさらに三つのことを与えてくださると約束しています。その一つがこれです。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしのわざを行い、さらに大きなわざを行います。」どういうことでしょうか。

 

まず、ここにも「まことに、まことに」とあります。これはこれまで何回かお話ししてきたように、主イエスが大切なことを語られる時に使われた言葉です。何が大切なのかというと、ここではイエスを信じる者は、イエスのわざを行うとあります。イエスのわざとは何でしょうか。それは、イエスが成された奇跡の御業のことです。ここで奇跡と言っているのは、病気が癒されたり、悪霊が追い出されたり、死人が生き返ったりといったことだけでなく、神に背を向けていた人たちが、神を信じるようになることも含まれています。イエスが成された御業は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書に記録されてありますが、それは人にはできない神の奇跡的なわざでした。このヨハネの福音書には、イエスが神の子、救い主、メシアである証拠としての奇跡が7つ記されてあります。

 

まず2章には、カナの婚礼で水をぶどう酒に変えるという奇跡を行いました。ユダヤの結婚式ではぶどう酒はお祝いの象徴であり、喜びの象徴でした。そのぶどう酒がなくなるということは絶対にあってはならないことでしたが、そのぶどう酒がなくなってしまいました。そのときイエスは、水をぶどう酒に変えたのです。

4章には、王室の役人の息子が病気で死にかかっていましたが、「あなたの息子は治る」と言われると、その通りになりました。

5章には、ベテスダの池の回りで38年も病気で伏せていた人に、「起きて床を取り上げて歩きなさい」と言われると、彼は瞬間的に癒され、床を取り上げて歩き出すことができました。

6章には、5000人の給食の奇跡について記されてあります。5のパンと2匹の魚で、男だけで5000人の空腹を満たされました。しかも余ったパンくずを集めてみると、何と大かご12個にもなりました。

5番目の奇跡は、ガリラヤ湖の水の上を歩くという奇跡です。やはり6章にあります。弟子たちが舟でガリラヤ湖を渡っていたとき強風にあおられて進むことができないでいると、イエスが湖の上を歩いて弟子たちに近づかれたのです。しかも舟に近づかれると、イエスはそばを通り過ぎるおつもりであったとか。

さらに、9章に入ると、生まれつきの盲人の目を見えるようにされました。その方法がとてもユニークでした。地面につばきをして泥を作ると、それを盲人の目に塗り、「シロアムの池で洗いなさい」と言われました。盲人がそのとおりにすると、彼は見えるようになったのです。

そして、もう一つ、7番目の奇跡は、死んだラザロを生き返らせることでした。ラザロは死んでもう4日も経っていました。4日も経っていたというのは、完全に死んでいたということです。しかし、イエスはその死んでいたラザロを生き返らせました。

どれ一つとっても、それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。イエスはその神の子、メシア、救い主であるということを示すために、これらの御業を行われたのです。その御業を、今度はイエスを信じる者が行うようになるというのです。

 

それが実際に起こります。たとえば、使徒の働き3章を見ると、ペテロとヨハネが生まれつき足の不自由な人を癒したことが記されてあります。午後3時の祈りの時間に、彼らが宮に上って行くと、そこに生まれつき足の不自由な人が運ばれて来ました。この人は、宮に入ると、人々から施しを求めるために、毎日「美しの門」と呼ばれる門に置いてもらっていましたが、そこにペテロとヨハネが通りかかったのです。彼は何かもらえるのではないかと思って、施しを求めました。すると、ペテロは彼を見てこう言いました。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(使徒3:6)

すると、彼の足とくるぶしがたちまち強くなり、躍り上がって立ち上がり、歩き出したのです。いったいなぜペテロはこのようなことをすることができたのでしょうか。ここに、「わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い」とある通りです。彼は自分の力とか、敬虔さとかによって歩けるようにしたのではありません。彼は、十字架で死なれ、三日目によみがえられたイエス・キリストの御名によって、その名を信じる信仰のゆえに、この人を強くし、立たせることができたのです(使徒3:12~16)。イエスを信じる者は、イエスが行うわざを行うのです。

 

しかし、そればかりではありません。ここには、さらに大きなわざを行うとあります。どういうことでしょうか。イエスを信じる者は、イエスが行うわざよりもさらに大きなわざを行うようになります。この「さらに大きなわざ」とは質的なことではなく、その影響力の及ぶ範囲のことを示しています。それはイエスの復活後、弟子たちの働きが、地上でイエスがなされた働きよりも広範囲に及ぶようになることを意味しているのです。なぜなら、イエスの地上生涯の活動範囲はパレスチナに限られていましたが、また、宣教の対象もユダヤ人に限られていましたが、イエスを信じる者はその救いの福音を異邦人世界にまで、全世界にまでもたらし、これまでイエスを知らなかった多くの人々にまで宣べ伝えていくようになるからです。今日世界中に福音が宣べ伝えられ、多くの人々が主イエスを信じるようになったのも、また、こうして私たちもイエスを信じるように導かれたのも、この主の約束の成就にほかなりません。

 

いったいどうしてこのようなことになるのでしょうか。その理由を、主はその後のところでこのように言っておられます。12節後半、「わたしが父のもとに行くからです」。どういうことですか。イエスが父のもとに行くとなぜこのようなことが起こるのでしょうか。それは聖霊が降られるからです。聖霊が降り、彼らにそれを行う力を与えてくださるからなのです。使徒1:8をご覧ください。ここには、「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」とあります。

主イエスは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを40日間使徒たちに示されると、彼らが見ている前で天に昇って行かれました。その直前に語られたのがこのことばです。それは、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けるということでした。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、及び地の果てまで、わたしの証人となります。

 

それから10日後、すなわち、イエスが十字架で死なれてから50日目に、このことばの通り聖霊が降りました。それはユダヤ教の五旬節の日、ギリシャ語ではペンテコステと言いますが、その日に起こりました。彼らが同じ場所に集まっていたとき、天から突然、激しい風が吹いて来たかのような響きが起こると、彼らが座っていた家全体に響き渡ったのです。また、炎のような分かれた舌が現れ、一人ひとりの上にとどまると、皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のことばで話し始めました。いったい何が起こったのか。そこにいた人たちが驚き怪しんでいると、ペテロが立ち上がって説教しました。するとその日何と3000人の人が救われたのです。3000人ですよ。たった1回の説教で3000人もの人々が救われました。

さらに、先ほど紹介した生まれつき歩くことができなかった人が癒されたのを見た人たちが、ペテロの言葉を聞くと多くの人々がイエスを信じました。その数、男だけで5000人です。すると、徐々にエルサレムの教会に対する締め付けが厳しくなって行きました。そして、激しい迫害が起こると、使徒たち以外の者はみなユダヤとサマリアの諸地方に散らされて行ったのです。しかし、弟子たちはそこでも福音を宣べ伝えたので、福音はさらに広がって行きました。そして、使徒パウロが救われると、彼によって福音はマケドニア、ギリシャ、ローマへと、すなわち、ヨーロッパへと拡がって行きました。そして、やがて地の果てにまで及んだのです。

 

いったいどうしてこのようなことが起こったのでしょうか。聖霊が降られたからです。聖霊が降り彼らに臨んだので、彼らは力を受けました。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、及び地の果てまで、キリストの証人となったのです。聖霊によって、この約束が実現しました。その聖霊はどのようにして降ったのでしょうか。イエスが父のもとに行くことによってです。イエスが父のもとに行かれたので、父は約束の聖霊を遣わしてくださいました。全部イエス様が言われたわれたとおりでした。

 

弟子たちはイエスが去って行くということで不安になっていましたが、イエスが去って行くことは彼らにとって良いことだったのです。なぜなら、イエスが去って行くことでイエスは彼らのために場所を用意してくださり、その用意が出来たらまた来て、彼らを迎えてくださるからです。イエスがいるところに、彼らもいるようにするためです。そればかりではありません。イエスが父のもとに行くことで彼らの働きがストップしてしまうどころか、ますます大きくなって行のです。約束の聖霊が遣わされるからです。この方は16節に「もう一人の助け主」と言われていますが、この方の力によって爆発的な働きをするようになります。

 

ですから、私たちは心を騒がせてはなりません。私たちがすべきことは、信じることです。神を信じ、またイエスを信じなければなりません。信じるとは、信頼することです。それは単に頭で受け入れるということ以上のことです。それは人格的に、個人的にイエス様に信頼を寄せることです。イエスは「神を信じ、またわたしを信じなさい」と言われました。このことばに信頼しなければなりません。

ローマ8:28にはこうあります。「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」信じますか。すべてのことがともに働いて益となるのです。すべてのことです。今起こっているコロナウイルスの問題も、今あなたの生活に起こっている問題もすべてです。それは決して悲しいことではなく、そのこともまた主が支配しておられ、あなたのために働いて益となるということを信じなければならなりません。イエスを信じる者は、イエスが行うわざを行い、さらに大きなわざを行うようになるのです。

 

Ⅱ.イエスは祈りに応えてくださる(13-14)

 

第二に、イエスは、イエスを信じる者の祈りに応えてくださいます。13節と14節をご覧ください。「13またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。」

 

イエスはここで、「あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます」と言われました。どういうことでしょうか。イエスが私たちの祈りに応えてくださるということです。しかも「何でも」です。すごいですね。何でもです。ただ一つだけ条件があります。それは、「わたしの名によって求めるなら」(13)ということです。このことは、14節にも繰り返して言われています。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。どういうことでしょうか。

 

ある人は、私たちは父なる神に対して信用のない罪人なので神はその祈りを聞いてくださらないが、イエスは神の子であり全く罪のない方なので、父なる神に対して完全な信用があるので、この方の名で祈るなら聞き入れていただけると考えていますが、そういうことではありません。イエスの名によって求めるとは、イエスのみこころに従って求めるということです。「名は体を表す」ということわざがあるように、名はその人の性格とか人格、その人自身を表す言葉だからです。すなわち、私たちの願いがイエス・キリストにふさわしい願いなのかどうか、イエス・キリストが望んでおられること、神が望んでおられることと一致しているのかどうかということです。もしそれが一致しているなら、どんなことでも聞いてくださいます。

 

Ⅰヨハネ5:14には、「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」とあります。神に対して私たちが抱いている確信は何ですか。それは、何事でも神のみこころにしたがって祈るなら、神は聞いてくださるということです。これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。

 

イスラエルの歴史において栄華を極めたのはソロモンという王でした。ソロモンはダビデの子です。イスラエルは、ダビデ王の時代に統一王国となりました。そして、その子ソロモンの時代に繁栄を迎えたわけですが、そのソロモンが王になったとき、神は彼に言われました。「あなたに何を与えようか。願え。」(Ⅰ列王記3:5)このように言われたらあなたなら何と答えるでしょうか。ソロモンは善悪を判断し、聞き分ける心をください、と言いました。それは、神のみこころにかなう願いだったので、神はその願いを聞いてくださったばかりか、彼が願わなかったことまで、すなわち、富とか誉も与えてくださいました。彼は自分のために長寿を願わず、自分のために富を願わず、敵のいのちさえも願わず、むしろ自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、神は彼に知恵と判断力とともに、すべてのものを与えてくださったのです。これが「わたしの名によって求める」ということです。私たちがキリストの名によって求めるなら、キリストは何でもそれをしてくださいます。

 

どうして私たちがみこころにかなった願いをするなら、神は何でも聞いてくださるのでしょうか。13節後半にその理由が述べられています。それは、「父が子によって栄光をお受けになるためです。」神はすべての必要を満たすことができる方です。ですから、その祈りを御子が聞いてくださるとしたら、父がどれほど栄光に富んでおられる方であるかがわかります。そのことによって父は栄光をお受けになるのです。

 

ですから、私たちもキリストの名によって求めましょう。それがかなえられることで、父なる神が栄光をお受けになられるからです。あなたの願いは何ですか。それは神のみこころにかなったものでしょうか。それは神の栄光を求めたものでしょうか。人々の益になることでしょうか。もしあなたが神のみこころにかなった願いをするなら、神はどんなことでも聞いてくださるのです。

 

今、コロナウイルスで世界中が不安と混乱の中にありますが、アラスカの5歳の女の子がこのように祈りました。

愛するパパ神様 そこにいますよね? 「聞いている」ってママが言ったもの。わたしまだ小さいけど、今日はすみません、愛やオモチャのおねだりよりもっと大事なお願いをします。

今日はコロナウイルスの犠牲者のために祈ります。亡くなった人たちと残された人たちです。どうぞパパ神様。見守ってください。親を亡くした子供たちや、子どもを亡くしたお年寄りや家族1人2人亡くしたすべての人たちを、どうぞみんなを抱きしめてしっかり守ってください。

世界中の苦しんでいる人たちのために祈ります。みんなひとりぼっちで怖いのです。パパ神様 みんなを治してください。全てはじきによくなるって教えてあげてください。みんな、家で待ってる愛する人のもとに帰って、ハグをして、もう泣かないで済むように。

おうちのない人や、家族を養うお金のない人のために祈ります。どうぞ希望をなくさないよう祝福してあげてください。

命を救うために毎日できる全てをやって命の危険を冒しているお医者さんや、患者さんがよくなるのを助けるために休まずに働く看護師さんたちや、介助に全力を尽くす医療スタッフのために祈ります。パパ神様 皆さん 食べて休息をとるように促してください。

また、私たちが家の中にいて安全なように、日夜働いているお巡りさんのために祈ります。家にいる私たちのために外で働くので力をあげてください。この闘いで皆さんはスーパーヒーローです。皆さんを祝福してください。ヒーローになるのは大変なんです。パパ神様 この悪夢を止めるために一つになり互いに助け合うように導いてください。そうすれば皆、普通の生活に戻れます。そうすれば遠くにいた人もやっと家に戻り、家族と一緒になれます。

パパ神様 どうぞ世界を癒して、世界を救うために闘うすべての人を守ってください 希望は捨てません。あなたのみ名ですべてが良くなると信じていますから。アーメン。

 

何と純粋な祈りでしょうか。5歳の女の子です。彼女は神様をパパ神様と呼んで、愛にあふれた、思いやりのあるお祈りをしました。どうしてこんな祈りができるのでしょうか。神様は自分の祈りを聞いてくださると信じているからです。イエス様が、子どものようにならなければ、天の御国に入ることはできないと言われた意味が、分かるような気がします。

 

兵庫県尼崎市に、大橋秀夫という牧師先生がおられますが、今回のコロナウイルスの問題にあって、次のように祈られました。

今朝の祈り、愛する主よ。今朝も平安を感謝します。先日、世界の主にある兄弟姉妹たちと共にあなたが教えてくださった祈りを、共に捧げました。その時以来、言葉の一つ一つに込められている意味の深さを感じされられています。

まさに、御心が天で行われているように、地でも行われますように。私たちを試みにあわせず、悪より救い出してください。主よ、これが私の毎日の祈りとなりました。今日も祈ります。御心が天で行われているように、地でも行われますように。私たちを試みにあわせず、悪より救い出してください!

人は何と弱く、命は何と儚(はかな)いものでしょう。もしも、あなたを知ることがなかったら、私たちの一生は束の間に過ぎなかったのですね。

主よ。もう一度あなたに感謝を捧げます。アーメン。

 

これは、主が教えてくださった主の祈りです。これこそ、主の御名によって祈るということです。御心が天で行われるように、地でも行われますように。私たちを試みにあわせず、悪より救い出してください!「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。」

私たちは、この約束を握りしめこのコロナウイルスの問題のために祈ろうではありませんか。それが私たちクリスチャンに与えられている使命です。キリストの名によって求めるなら、キリストは何でもしてくださいます。父が子によって栄光をお受けになるためです。これこそ、神に対する私たちの確信なのです。

 

Ⅲ.もう一人の助け主を与えてくださる(15-17)

 

第三のことは、もう一人の助け主を与えてくださるということです。15節から17節までをご覧ください。「15 もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。16 そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。17 この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。」

 

私たちが主イエスの名によって求めるなら、主は何でもかなえてくださいます。ただし、そのために私たちに求められていることがあります。それは何ですか。それは、主イエスに対する愛です。ここには、「もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」とあります。それを可能にするのはイエスに対する愛なのです。そして、イエスを愛する人は、イエスのことば、イエスの戒めを守ります。イエスを愛していると言いながら、そのことばを守らないとしたら、その愛とはいったいどのようなものなのか首をかしげたくなります。イエスを愛する者は、イエスの戒めを守るはずだからです。そうすれば、自ずと主のみこころにかなった祈りができるようになるでしょう。それは自分の名誉ではなく、ただ主の栄光を求める思いになるからです。

 

では、どうやって主イエスの戒めを守ることができるのでしょうか。16節にはこうあります。「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」

ここには、主イエスが父にお願いすると、父はもう一人の助け主を与えてくださるとあります。「助け主」とは、ギリシャ語で「パラクレートス」と言います。意味は、助けるためにそばに呼ばれた者とか、寄り添う者、慰める者、励ます者、助言してくれる者、弁護者です。Ⅰヨハネ2:1には、「とりなしてくださる方」と訳されています。「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。」この「とりなしてくださる方」がバラクレートスです。これはイエス様について語られていますが、その同じ語が、この「助け主」である聖霊について用いられているのです。ですから、ここでは「もう一人の助け主」と言われているのです。「もう一人の」という言葉はギリシャ語で「アッロス」という語ですが、これは「全く同じ性質の」という意味です。別々の存在ですが、イエスと全く同じ性質を持った方のことです。その方が来て、助けてくださいます。

 

私たちの人生には、「どうしたら良いか」わからなくて悩むことがよくあります。しかし、そんな時「これが道だ。これに歩め」と言って導いてくださる方がいたら、どれほど大きな助けでしょう。その方が「もう一人の助け主」です。この方は「真理の御霊」です。この方は先ほどお話ししたように、イエスが父のもとに行くことによって父なる神によって遣わされる方です。先ほどのところでは、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けますと、力の面が強調されていましたが、ここではそばにいて助けてくださる方、励ましてくださる方、導いてくださる方であることが強調されています。昔イスラエルの民がエジプトを出て荒野に導かれたとき、どこに向かって進んでいったら良いかわからなかったとき、昼は雲の柱、夜は火の柱となって彼らを導いてくださったのは、この聖霊でした。私たちの人生も荒野です。どこに向かって進んで行ったら良いかわからない時がありますが、この方がいつも私たちともにいて助けてくださいます。いや、私たちのうちにいて導いてくださいます。

 

この時弟子たちは、イエスが父もとに行かれると聞いて不安になり、心を騒がせていました。しかし、そのことはむしろ彼らにとって良いことでした。なぜなら、イエスが去って行くことで「もう一人の助け主」が遣わされ、その方がいつも彼らとともにいるようにしてくださるからです。そればかりか、彼らのうちに住んでくださいます。イエスは、大宣教命令の中で「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と言われましたが、これはこの御霊、聖霊によって可能となったのです。

 

私たちの神は「インマヌエル」の神です。「インマヌエル」、神ともにいまし、です。私たちの神は、いつまでもともにおられる方です。イエスを信じる人の心には、いつも聖霊が住んでくださり、神のみこころに歩めるように助けてくださるのです。私たちは本当に弱く、神の戒めを守ることもできないような者ですが、この聖霊が助けてくださり、イエスを愛することができるように励ましてくださるのです。そして、私たちにもこのような使命が与えられています。

 

昨日の朝、英語礼拝部の姉妹から電話がありました。2,3日前から体がだるく、起きるとめまいと吐き気がするので立っていることができないということでした。熱はないし、咳もしないので、コロナではないと思うけど、ただ事ではない感じがするので病院に行きたいがどこへ行ったらいいかわからないし、職場の担当者に電話したところ「ああ、今すぐに通訳者をみつけることはできない」と言われて困っているということでした。そこで、病院に電話し症状を伝えると、病院でもかなり警戒していて、受け付けると言うまで15分もかかりましたが、「診察するので来てください」と言われたので行くことになりました。でもこのような時期ですから、私たちも悩みました。もし私たちが感染でもしたらと思うと、二の足を踏んだのです。しかし、彼女の苦しみを聞いたとき、「私は何のために存在しているんだろう」と心が探られる思いでした。私がここにいるのは本当に助けを必要としている人に寄り添うためではないか、それなのに、それを恐れている自分が情けなく思ったのです。

「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。」(Ⅰヨハネ4:18)

結局、家内が病院に行きいろいろと検査をしたところ、コロナではなく耳の奥に胆石のような石が出来ていることが原因であることがわかりました。しばらく投薬とリハビリを続けて治療することになりましたが、家内が一日中彼女に寄り添ってあげたことがよほどうれしかったのか、帰り際に涙を流しながら「ありがとう!」と言ったそうです。私にも後で、「今日は一日中自分のためにケアしてくれてありがとう。心から感謝します」とメールが来ましたが、彼女にとってどれほどの慰めだったかと思うのです。こういう時に、実際に役に立つのは家内ですが・・・。

 

寄り添ってくれる人がいるということは、本当に慰めです。そして、神はもう一人の助け主を送り、その方がいつまでも、私たちとともにいてくださるようにしてくださいました。イエスが地上から去って行かれることは、弟子たちにとって悲しいことであり、心を騒がせる事でした。しかし、たとえ主が去って行かれても恐れることはありません。イエスはあなたのために場所を備えに行かれたのですから。そして、イエスが去って行くことで、神はもうひとりの助け主を送ってくださいました。それは真理の御霊です。この方はいつまでも、あなたとともにいてくださいます。そしてイエスがおられた時のようなわざを、いや、さらに大きなわざを行うことができるようにしてくださいました。また、イエスの名によって求めるならば、何でも与えてくださいます。ですから、大切なことは、何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたの願い事を神に知っていただくことです。そうすれば、あなたのすべての考えにまさる神の平安が、心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。あなたに求められているのは、この方に信頼することです。神を信じ、またわたしを信じなさい。そう言われたイエスに信頼することなのです。

 

あなたはどうですか。恐れていることがありますか。それは健康のことですか、家族のことですか、仕事のことですか、人との関係のことですか、あるいは、この先どうなるかということでしょうか。それがどんなことであっても、キリスト・イエスにある神の愛からあなたを引き離すものは何もありません。あなたがイエスの名によって祈るなら、神は何でも聞いてくださいます。私たちの神は死んだ神ではありません。死から復活し、今も生きておられる神です。この方は、あなたの祈りに応えてくださいます。この方に信頼して祈りましょう。あなたのうちにはもう一人の助け主、神の聖霊がいつもともにいて助けてくださるのですから。

出エジプト記25章

出エジプト記25章から学びます。主なる神とイスラエルの民が血による契約を交わすと、イスラエルの民は、主との親しい交わりを持つことが出来ました。そして、主はモーセを呼ばれたので、モーセは神の山に登りました。モーセはそこに40日40夜とどまり、主のことばを受けました。それがきょうの箇所です。

1.幕屋のための奉納物(1-9)

まず、1節から9節までをご覧ください。

「1 主はモーセに告げられた。2 「わたしに奉納物を携えて来るように、イスラエルの子らに告げよ。あなたがたは、すべて、進んで献げる心のある人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。3 彼らから受け取る奉納物は次のものである。金、銀、青銅、4 青、紫、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、5 赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、6 ともしび用の油、注ぎの油と、香り高い香のための香料、7 エポデや胸当てにはめ込む、縞めのうや宝石である。8 彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。9 幕屋と幕屋のすべての備品は、わたしがあなたに示す型と全く同じように造らなければならない。」

まず、主がモーセに語られたのは、主への奉納物を携えで来るようにということでした。それで幕屋を作るためです。このような記事に関心のある人は、おそらく大工さんとか、土木作業とか建築関係に携わっている方ぐらいで、それ以外の人はあまり関心がないかもしれませんが、ここにも大切なことが教えられています。それは、主がどのようにイスラエルの民の中に住まわれるかということです。その方法が幕屋でした。幕屋が作られることによって、主が臨在される方法に変化がもたらされました。創世記3章では、アダムとエバが罪を犯して以降、人は神から遠く離れてしまいましたが、この幕屋が建設されることによって、神が彼らの中に住むことになったからです。新約の時代に生きている私たちにとって、幕屋は不要です。なぜなら、イエス・キリストがご自分の肉体を取ってこの地上に来てくださったからです。ヨハネ1:14には、「ことばは人となって私たちの間に住まわれた。」とありますが、この「住まわれた」ということばは、「幕屋を張られた」ということばと同じです。つまり、イエスが幕屋となられたのです。それによって私たちにインマヌエル、神ともにいまし、という神の臨在がもたらされました。つまり、この幕屋とはイエス・キリスト表すものであったのです。ですから、この幕屋のことを学べば、イエスがどのような方であるかがよくわかります。神とお会いするにはどうしたらいいのか、神に近づくにはどうしたらいいのかがわかるのです。

まず1節と2節をご覧ください。ここには、「1 主はモーセに告げられた。2 「わたしに奉納物を携えて来るように、イスラエルの子らに告げよ。あなたがたは、すべて、進んで献げる心のある人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。」とあります。

主はこの幕屋の建設のために、モーセを通してイスラエルに奉納物を携え来るようにと言われました。幕屋の建設のために携われるというのは大きな特権です。彼らは奉納物をささげることによってそれに携わることができました。しかし、荒野を旅していた彼らが、どのようにしてそれらの奉納物をささげることができたのでしょうか。12:35を見てください。ここには「イスラエルの子らはモーセのことばどおりに行い、エジプトに銀の飾り、金の飾り、そして衣服を求めた。」とあります。イスラエルの民がエジプトを出てくる時、エジプトに銀の飾りや、金の飾り、そして衣服を求めましたが、それらのものはこのためだったのです。そのために主はモーセを通して、それらのものをエジプトに求めるようにと言われたのです。

これらの奉納物はどのようにしてささげなければならなかったのでしょうか。2節には、「あなたがたは、すべて、進んで献げる心のある人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。」とあります。それは進んで献げる心のある人からでなければなりませんでした。義務感とか、何か奪い取られるといった気持ちからではなく、心から進んでささげられるものの中から、献げられなければならなかったのです。

パウロは献金についてⅡコリント9:6-7でこのように言っています。「6 私が伝えたいことは、こうです。わずかだけ蒔く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。7 一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。」

これが、聖書が教えている献金の心構えです。献金とは、いやいやながらではなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにささげられなければなりません。他の人と比較する必要などないのです。あの人はどれだけささげているとか、この人はあまりささげていないとか、みんなもっと献金すべきだなどというのは間違っています。それはいやいやながらではなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりに、喜んでささげられるものだからです。実際、イスラエルの民は心から進んでささげました。35:5、21、22、29を見ると、彼らは心から進んでささげたことがわかります。その結果、36:5~7にあるように、その献げものはあり余るほどになりました。心から進んで献げれば、あり余るほどになります。「5 モーセに告げて言った。「民は何度も持って来ます。主がせよと命じられた仕事のためには、あり余るほどのことです。」6 それでモーセは命じて、宿営中に告げ知らせた。「男も女も、聖所の奉納物のためにこれ以上の仕事を行わないように。」こうして民は持って来るのをやめた。7 手持ちの材料は、すべての仕事をするのに十分であり、あり余るほどであった。」すばらしいですね。彼らは喜んでささげたのであり余るほどになり、ついにはモーセが「もう持って来ないでください」と言うほどだったのです。

さて、3節から7節までをご覧ください。ここには、彼らから受け取る奉納物の種類について記されてあります。それは、「金、銀、青銅、 青、紫、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、ともしび用の油、注ぎの油と、香り高い香のための香料、エポデや胸当てにはめ込む、縞めのうや宝石」です。全部で15種類の建築資材です。亜麻布はエジプトの名産で、祭司の衣装に用いられました。やぎの毛は、天幕の材料として最適です。赤くなめした雄羊の皮は、幕屋のおおいとして使用されました。じゅごんというのは、海に住む哺乳動物です。紅海に住んでいました。アカシヤ材は、シナイ半島にある唯一の木です。根が地ちゅう深くに張ります。ともしび用の油とはオリーブ油のことです。

あなたには、どのような賜物が与えられているでしょうか。誰にでも少なくとも一つの賜物は与えられています。それを自分から進んで献げる人は幸いです。あなたに与えられている賜物が、主の働きにどのように用いられるかを考えましょう。

8節と9節をご覧ください。ここには、この幕屋を作る目的が記されてあります。それは、「彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。」ということです。これはすごいことですね。全能の神が彼らの中に住まれるのです。アブラハム・イサク・ヤコブには、「エル・シャダイ」、「全能の神」としてご自身を現わしてくださった神が、またモーセの時代には、「ヤハウェ」、「わたしはあるというものである」という自存の神として現われてくだった主が、彼らのただ中に住んでくださるというのです。神ご自身がともにおられます。ここに神の栄光が現されるのです。イエス・キリストの中に神はご自身の栄光を現されるのです。

Ⅱ.契約の箱(10-22)

次に、10~22節までをご覧ください。

「アカシヤ材の箱を作り、その長さを二キュビト半、幅を一キュビト半、高さを一キュビト半とする。11 それに純金をかぶせる。その内側と外側にかぶせ、その周りに金の飾り縁を作る。12 箱のために金の環を四つ鋳造し、その四隅の基部に取り付ける。一方の側に二つの環を、もう一方の側にもう二つの環を取り付ける。13 また、アカシヤ材で棒を作り、それに金をかぶせる。14 その箱を棒で担ぐために、その棒を箱の両側の環に通す。15 その棒は箱の環に差し込んだままにする。外してはならない。16 その箱に、わたしが与えるさとしの板を納める。17 また、純金で『宥めの蓋』を作り、その長さを二キュビト半、幅を一キュビト半とする。18 二つの金のケルビムを作る。槌で打って、『宥めの蓋』の両端に作る。19 一つを一方の端に、もう一つを他方の端に作る。『宥めの蓋』の一部として、ケルビムをその両端に作る。20 ケルビムは両翼を上の方に広げ、その翼で『宥めの蓋』をおおうようにする。互いに向かい合って、ケルビムの顔が『宥めの蓋』の方を向くようにする。21 その『宥めの蓋』を箱の上に載せる。箱の中には、わたしが与えるさとしの板を納める。22 わたしはそこであなたと会見し、イスラエルの子らに向けてあなたに与える命令を、その『宥めの蓋』の上から、あかしの箱の上の二つのケルビムの間から、ことごとくあなたに語る。」

この神の幕屋は、どのようにして作れば良いのでしょうか。ここには、幕屋建設のための具体的な指示が記されてあります。まずは契約の箱です。10節に「アカシヤ材の箱」とありますが、これが契約の箱です。その長さは2キュビト半で、幅は1キュビト半、高さは1キュビト半でした。1キュビトは約44㎝ですから、長さは110㎝、幅66㎝、高さは44㎝となります。不思議なことに、神はこの幕屋を建設するにあたり外側からではなく内側にあるもの、いわゆる家具とか調度品といったものから作られました。普通、家を建てる時にはまず建物本体から作り、その後で家具とか調度品とかを作りますが、神はまず内側のものから作られたのです。それは、これが幕屋の中心であり、最も重要なものだったからです。重要なものから始まり、そこから外側へと広がっていったのです。

契約の箱は、アカシヤ材で作らなければなりませんでした。なぜアカシヤ材が用いられたのかというと、アカシヤ材は腐食しにくい木材であったからです。つまり、それはイエス・キリストを象徴していました。イエスは腐食しにくい、つまり清廉潔白な(完全)人間でした。イエスは罪深い人間のような生身の身体をもって生まれてきましたが、彼には全く罪がありませんでした。このイエスの人間性を示すものとしてアカシヤが用いられたのです。それに純金をかぶせました。それは、その内側と外側とにかぶせなければなりませんでした。その回りには金の飾り縁を作ります。なぜ純金がかぶせられたのでしょうか。それは、この純金が神性を表していたからです。ですから、純金で覆われたアカシヤ材で作られた箱は、人として来られた神の御子イエス・キリストのことを象徴していたのです。

それにしても、契約の箱の内側と外側に純金がかぶせられていたら、どれほど豪華に輝いていたことでしょう。今日の価値にすれば何十億にも相当する豪華な飾りです。いったいなぜこれほど輝くようにしたのでしょうか。なぜなら、それはキリストの栄光、神の栄光の表れであったからです。

外側はみすぼらしい作りです。それはヤギの皮が用いられました。ヤギの皮ですよ。黒っぽい、何とも質素なふるまいです。けれども、その幕屋の内側は栄光の輝きです。それはまさにキリストのご性質そのものでした。イザヤ書53章には、キリストの姿を預言して「彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。」(53:2)とありますが、キリストは見た目には何の輝きもないかのように見えました。しかしその内側は神の栄光に輝いていました。私たちも、このような人になりたいですね。外側はともかくその内側が神の栄光で輝いているという人に。

12節をご覧ください。「箱のために金の環を四つ鋳造し、その四隅の基部に取り付ける。一方の側に二つの環を、もう一方の側にもう二つの環を取り付ける。」この箱の四隅には、金の環が取り付けられました。持ち運びすることできるようにするためです。そこに棒を通して担いだのです。誤って人が触れないようにするためです。契約の箱に触れてしまったために悲劇が起こったことを、聖書は告げています。ダビデが、契約の箱を自分の町に運ぼうとした時、それを新しい車に乗せて運びましたが、牛がよろめいて傾いたのでウザが手を伸ばして神の箱をつかむと、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、彼はその場で打たれて死んでしまいました(Ⅱサムエル6:6-7)。棒はアカシヤ材で作られ、それに金がかぶせられました。そして、その棒は箱の両側に通し、差し込んだままにしておかなければなりませんでした。外してはならなかったのです。

その箱に、神が与えるさとしの板を納めました。「さとし」とは十戒のことです。二枚の石の板に刻まれた十戒が収められたのです。なぜ十戒が収められる箱がこんなに豪華でなければならなかったのでしょうか。それは、この神のことばこそ神ご自身を表していたからです。神は霊ですから、神を見ることはできませんが、神はことばを通してご自身を現わしてくださいました。そうです、そのことばとは、イエス・キリストのことだったのです。ヨハネ1:1には、「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」とあります。勿論、このことばとはイエス・キリストのことです。神の御子イエス・キリストもご自身をことばとして表されました。ことばは神であった。これが神の本質です。私たちは、このことばによって神と交わることができます。ですから、神のことばこそ信仰の中心であり、本質なのです。神のことばを通して、神の栄光を見ることができるのです。

次に17節から22節までをご覧ください。ここには「宥めの蓋」を作るようにとあります。新改訳第三版では「贖いのふた」とあります。これは、契約の箱の上に乗せるふたのことです。大きさは、契約の箱のサイズと同じです。違うのは何かというと、その作り方です。契約の箱はアカシヤ材が用いられ、そのアカシヤ材の内と外に純金が塗られましたが、この宥めの蓋は、すべて純金で作られました。なぜなら、22節にあるように、そこで神が会見されるからです。いわば、ここが最も神聖な場所なのです。

このふたは「宥めの蓋」と呼ばれました。この「宥め」ということばは、ギリシャ語で「ヒラステーリオン」という言葉ですが、これは「宥めの供え物」を意味しています。Iヨハネ2:2には、「この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です。」とありますが、この「宥めのささげ物」のことです。これは神の怒りを宥めるためる蓋でした。いったい神は何に対して怒っておられたのでしょうか。それは人間の罪に対してです。その怒りをなだめるもの、それが「宥めの蓋」だったのです。それはイエス・キリストの十字架の血にほかなりません。ですから、これはイエス・キリストの十字架の贖いを表していたのです。私たちの罪に対する神の怒りがなだめられ、私たちが神に近づき、神にお会いする方法は、このイエス・キリストの十字架以外にはありません。

私たちは、自分の力では神に近づくことはできません。ですから、神のさとしの板がどこに置かれたかをご覧ください。それは箱の中でした。なぜ箱の中に置かれたのでしようか。それは私たちの力では守れないからです。ですから、私たちの目に見えないように、その箱に蓋がされたのです。その蓋こそキリストなのです。この戒めを完全に守られたイエス・キリストがその十戒の上を覆うようになって、私たちの罪とその罰をすべて引き受けて代わりに死んでくださったのです。死んでくださったというのは、血を流してくださったということです。これは血による契約です。血の注ぎかけがなければ罪の赦しはありません。キリストは、十字架で血を流してくださったので、この方を信じる者はだれでも救われるようにされたのです。

このキリストのおかげで、私たちは神にお会いし、神の前に立つことができるようになりました。他に何の条件もありません。たくさんささげなければならないとか、奉仕をしなければならないとか、そういった条件は何一つありません。ただ私たちの身代わりとなって十字架で死なれ、血を流してくださったイエス・キリストを信じるだけで救われるのです。神にお会いすることができるようになりました。ですから、主は22節で「わたしはそこであなたと会見し」と言っておられるのです。「そこ」とはどこですか。宥めの蓋の上です。血が注がれるその場所のことです。イエスが血を流してくださったそのところで会見すると言われたのです。これが福音です。救いはイエス・キリストです。イエス・キリスト以外に救われる道は他にありません(使徒4:12,Iテモテ2:4-5,ヨハネ14:6)。

ですから、この蓋は純金で作られたのです。また、その両端には二つの金のケルビムが置かれました。ケルビムは神の御使いです。ケルブとは、ヘブル語で単数形ですが、複数形になると「イム」を後ろにつけるので「ケルビム」となります。ケルビムは、神の御座の周りにいる御使いです。エデンの園からアダムとエバが追放されたとき、そこでいのちの木を守っていたのは、このケルビムでした。エゼキエル書1章にも不思議な生き物が出てきますが、彼らもケルビムでした。そして黙示録4章にも4人の生き物が出てきますが、彼らもケルビムであると考えられます。おそらくこのケルビムは神の御座にいて、しこの宥めの蓋を見守っていたのでしょう。神は、この二人のケルビムの間におられて、そこで会見し、そこから語られたからです。

ここに神の福音が余すところなく表されています。幕屋が重要であることの意味はここにあるのです。なぜなら、ここに神にお会いするにはどうしたらいいのか、どうしたら救われるのかがはっきりと示されているからです。

しかし、このように神の一方的な恵みにより、イエス・キリストを信じる信仰によって救われたにもかかわらず、信仰をもって歩んでいるうちに、再び過去の考えに戻ってしまうことがあります。すなわち、自分の力によって神に近づこうとすることがあるのです。神の祝福を受けるためにはもっと奉仕しなければならないとか、もっと献金しなければならない、もっと良い人でなければならないと、行いを強調してしまうことがあるのです。しかし、救いは一方的な主の恵みによります。キリストが私たちのために十字架で死んでくださり、神の怒りを宥めてくださったということを信じるだけで救われるのです。そこで神にお会いすることができるのです。

Ⅲ.臨在のパンを置く机と純金の燭台(23-40)
次に、23~30節までをご覧ください。

「23 また、アカシヤ材で机を作り、その長さを二キュビト、幅を一キュビト、高さを一キュビト半とする。24 これに純金をかぶせ、その周りに金の飾り縁を作り、25 その周りに一手幅の枠を作り、その枠の周りに金の飾り縁を作る。26 その机のために金の環を四つ作り、四本の脚のところの四隅にその環を取り付ける。27 環は枠の脇に付け、そこに机を担ぐ棒を入れる。28 アカシヤ材で机を担ぐための棒を作り、これに金をかぶせる。29 また、注ぎのささげ物を注ぐための皿、ひしゃく、瓶、水差しを作る。これらを純金で作る。30 机の上には臨在のパンを置き、絶えずわたしの前にあるようにする。」

ここには、机を作る規定が記されてあります。この机は、30節には「臨在のパンを置き」とありますが、パンを置くための机でした。第三版には、「供えのパンの机」とあります。供えのパンとは、神の前に供えたパンという意味です。これは、パン種が入っていない丸くて薄いパンですが、全部で12個置かれてありました。それはイスラエル12部族を表していました。それはイスラエル12部族が、常に神の御前に覚えられているということです。それと、29節にあるように、注ぎのささげ物、これはぶどう酒のことですが、それを注ぐための皿とひしゃく、瓶や水差しが置かれました。

この机も、アカシヤ材で作られ、その上に純金がかぶせられました。また、持ち運びできるように、金の環とかつぐ棒が作られました。サイズは、長さ2キュビト、幅1キュビト、高さ1キュビト半ですから、契約の箱よりも少し小さめでした。

この神の臨在のパンの机も、キリストを指し示していました。イエスは、「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ6:35)と言われました。イエスがいのちのパンです。イエスのもとに来るものは決して飢えることがなく、渇くことがありません。このイエスが、私たちの霊の糧となってくださるので、イエスのもとに来るなら、決して飢えることはないのです。それはキリストの臨在を体験することができるからです。これが臨在のパンの机と呼ばれているのは、そういう意味です。これは同時に聖餐を表していました。イエスは、「これはあなたがたのための、わたしのからだです。」(Iコリント11:23)と言われました。聖餐はキリストの裂かれた肉、流された血をいただくときですが、それはキリストの臨在を体験する時でもあります。神の恵みを味わうとき、それが聖餐であり、それがこの供えのパンが置かれていたことの意味なのです。

31~40節をご覧ください。それからこの机の真向かいには燭台が置かれていました。

「31 また、純金の燭台を作る。その燭台は槌で打って作る。それには、台座と支柱と、がくと節と花弁があるようにする。32 六本の枝がその脇の部分から、すなわち燭台の三本の枝が一方の脇から、燭台のもう三本の枝がもう一方の脇から出る。33 一方の枝に、アーモンドの花の形をした、節と花弁のある三つのがくを、また、もう一方の枝に、アーモンドの花の形をした、節と花弁のある三つのがくを付ける。燭台から出る六本の枝はみな、そのようにする。34 燭台そのものには、アーモンドの花の形をした、節と花弁のある四つのがくを付ける。35 それから出る一対の枝の下に一つの節、それから出る次の一対の枝の下に一つの節、それから出るその次の一対の枝の下に一つの節。このように六つの枝が燭台から出ていることになる。36 それらの節と枝とは燭台と一体にし、その全体は一つの純金を打って作る。37 また、ともしび皿を七つ作る。ともしび皿は、その前方を照らすように上にあげる。38 その芯切りばさみも芯取り皿も純金である。39 純金一タラントで、燭台とこれらのすべての器具を作る。40 よく注意して、山であなたに示された型どおりに作らなければならない。」

燭台はどのように作られたでしょうか。31節には「また、純金の燭台を作る。その燭台は槌で打って作る。それには、台座と支柱と、がくと節と花弁があるようにする。」とあります。これも純金で作られていました。契約の箱や供えのパンの机もそうでしたが、純金で作られているということは、キリストの神性を表していたということです。しかし、この燭台は槌で打って作られなければなりませんでした。槌とはハンマーのことです。ハンマーで打って作られました。金を溶かして、何か鋳物のような型にはめて作るのではなく、ハンマーでたたいて作らなければならなかったのです。このようにハンマーでたたいてということばを聞くと、皆さんの中には「ああ」と思う人がいるのではないでしょうか。そうです。このハンマーとは、イエス・キリストを十字架に釘付けしたあの時のハンマーのことです。ですから、そのハンマーで打ってというのは、キリストの十字架を表していたのです。ただハンマーに打たれて死んだだけでは意味がありません。イエスはその死からよみがえられました。ですから、この一連のことは、キリストの神性を表していたのです。それには、台座と支柱、がくと節、花弁がなければなりませんでした。がくとは花びらの外側にあるもので、節とは茎の中で、葉や芽が出る部分のことです。花弁とは花びらのことです。

32節をご覧ください。その燭台から左右3本ずつ枝が出ていました。一方の枝には、アーモンドの花の形をした、節と花弁のある3つのがくを、また、もう一方の枝にも、アーモンドの花の形をした、節と花弁のある3つのがくを付けました。そして、支柱と6つの枝の上に7つのともしび皿が載せられてありました。それらの節と枝とは燭台と一体にして、その全体を一つの純金で作らなければなりませんでした。その重さは1タラントです。約30㎏になります。純金30㎏というのは相当の価格です。

この燭台が指し示していたものとは何でしょうか。それはイエス・キリストです。キリストは、「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(ヨハネ8:12)言われました。暗やみの中の灯のように、イエス様が灯となって、私たちの進むべき道を照らしてくださいます。イエス様が私たちの光です。イエス様に従えば、決して道に迷うことなく、また空しくなることもなく、真実に生きることができるのです。私たちはその光を受けた者です。この世の光として、その光を輝かせなければなりません。

いったいどうしたら輝かすことができるのでしょうか?36節をご覧ください。この燭台は、支柱から出た6つの枝の節と枝と一体にして作らなければなりませんでした。それは、キリストと一つに結ばれていることを表しています。

イエス様はこう言われました。「5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。6 わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。」

つまり、キリストにとどまっていなければならないということです。キリストにとどまることによって、私たちはキリストと一つになることができます。そして、キリストのいのちにあずかることができるのです。キリストのように、キリストの光をこの世で輝かすことができるのです。しかし、そのためには二つのことが求められています。一つは、この燭台が槌で打って作られたように、キリストとともに打たれることを恐れてはならないということです。私たちはキリストの救いに与ったばかりでなく、その苦しみをも賜わりました(ピリピ1:29)。その苦しみこそ、私たちをご自身のように作り上げてくれる重要な要素なのです。

もう一つのことは、37節に「また、ともしび皿を七つ作る。ともしび皿は、その前方を照らすように上にあげる。」とあるように、油を絶やしてはならないということです。油とは何ですか。聖霊のことです。いつも聖霊に満たされ、その油によって、前方を照らさなければなりません。もし、その油の供給が弱い時には、芯切りばさみで芯を切ることも必要です。いつも主の前に悔い改め、聖霊の油を注いでいただき、前方を照らす者でありたいと思います。

ヨハネの福音書14章1~11節「心を騒がせてはなりません」

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 ヨハネの福音書14章に入ります。きょうのタイトルは、「心を騒がせてはなりません」です。今もそうですが、私たちの人生には心を騒がせることばかりです。そんな中にあってどうしたら心騒がせずにいられるのでしょうか。主からのメッセージをご一緒に聞きましょう。

 

 Ⅰ.心を騒がしてはなりません(1-3)

 

まず、1節から3節までをご覧ください。

「1あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。2 わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。3 わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」

 

最後の晩餐の席で、イスカリオテのユダはイエスからパン切れを受け取ると、すぐにその場を出て行きました。するとイエスは、「今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました。」(13:31)と言われました。なぜユダが出て行ったことが人の子にとっての栄光なのでしょうか。それは前回のところでお話ししたように、イエスが十字架で死なれるからです。それは最初の人アダムとエバが罪を犯した時から、全人類を救うために神が計画しておられたことでした。それが今、成し遂げられようとしていたのです。それは父なる神にとっても同じです。イエスが十字架で死なれることによって、神がどのような方であるかがはっきりと示されることになります。つまり、十字架によって神の愛と神の恵みが、すべての人に明らかになります。ですから、十字架は人の子が栄光を受け、神もまた人の子によって栄光を受けられる時なのです。

 

しかし、イエスがそのように言いますと、イエスは不思議なことを言われました。それは、13:33にあるように、イエスはもう少しの間彼らとともにいますが、その後いなくなり、彼らがイエスを捜しても見つけることができないということでした。彼らはそこに来ることができないからです。いったいそれはどういうことか。シモン・ペテロは弟子たちを代表してイエスに尋ねました。「主よ、どこにおいでになるのですか」、「なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。」するとイエスは彼にこう言われました。38節です。「わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

ペテロはイエスのためにいのちも捨てると言いましたが、そんなことできません。なぜなら、ペテロはイエスを裏切るようになるのですから。鶏が鳴く前に、彼は三度イエスを知らないと言うと預言されました。

これを聞いた弟子たちはますます不安になったことでしょう。これまで三年半の間ずっとイエスを信じてついて来たのに、いったいこれから先どうなってしまうのかと思うと心配でたまらなかったことと思います。

 

どんな人でも先が全く見えないと不安を感じるものです。この先どうなるのかが分かっていたら、だれも悩んだり、苦しんだりはしません。先が見えないからこそ不安になるのです。このような時、人はいろいろな方法で解決を模索します。ある人は、自暴自棄になりお酒などによって不安を紛らわそうとします。またある人は、考えても何の解決も見えないのだからできるだけ考えないようにしようとします。またある人は、それでも自分の力で何とか解決しようと必死になってもがきます。しかし、そこには何の解決もありません。なぜなら、そのようにして一時的に問題から逃れたとしても、依然としてそこに問題が残り続けるからです。ではどうしたら良いのでしょうか。どうしたら真の解決を得られるのでしょうか。神に信頼することです。神に信頼して、すべてを神にゆだねることなのです。なぜなら、神はすべてを支配しておられるお方だからです。その神を信じ、その神に避け所を求め、神によって解決を求めることです。そうすれば、問題それ自体と取り組んでも、自分の知恵や力によってではなく、全地全能の神の知恵と力によって解決をすることができるのです。

 

イエス様は、弟子たちが先行き不透明な中で不安に陥っていたとき、彼らにこのように言われました。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(1)

ここでイエスが言われた「心を騒がしてはなりません」という言葉は、このヨハネの福音書の中で何回も使われてきた言葉です。たとえば、11:33には、「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になった。そして、霊に憤りを覚え、心を騒がせて、」とありますが、この「心を騒がせて」がそれです。不思議なことに、ここで心を騒がせていたのはだれかというと、イエス様ご自身でした。愛する姉妹マルタとマリアの兄弟ラザロが死んで、彼らが泣いているのをご覧になられたイエスは、霊に憤りを感じ、心を騒がせました。この言葉は「タラッセッソー」というギリシャ語ですが、「悩ます」という意味の言葉です。イエスは死を支配している悪霊と対決しようとして心を騒がせたのです。また、13:21でもこの言葉が使われています。「イエスは、これらのことを話されたとき、心が騒いだ。」とあります。ここでも心を騒がせたのはイエス様でした。イエス様は、ご自分を裏切る者がいることを語られると、心を騒がせられたのです。3年余り自分のすぐそばにいてずっと親しく交わってきた者たちの中に自分を裏切る者がいるということは、どんな悲しかったことでしょう。そして何よりもそのことを悔い改めず、その結果永遠に滅びてしまうことを思うと、心を騒がせずにはいられなかったのです。

 

ここで「あなたがたは心を騒がせてはなりません」と言われたのは、イエス様ご自身です。それなのに、なぜイエス自身が心を騒がせたのでしょうか。そこに悪魔との戦いがあったからです。ラザロが死んだときは、死を支配している悪魔との戦いがありましたし、イスカリオテ・ユダの裏切りの背後にも、実は悪魔の働きがありました。確かにすべてのことが神のご支配にありますが、そうしたことの中には悪魔の働きがあるのです。ですから、私たちが心を騒がせる時というのは、そこに悪魔の力が働いている時なのです。どんな人でも悪魔が支配しているこの世にあっては、心を騒がせることで満ちているのです。

 

では、そのようなとき、私たちはどうしたら良いのでしょうか。ここには、「神を信じ、またわたしを信じなさい。」とあります。自分が当面している問題の背後に悪魔の力を感じ、その悪魔と対決しなければならないとき、それを自分ひとりでしなければならないとしたら、不安で、心細くて、どうしようもないでしょう。しかし、この悪魔との戦いにおいて、主が私たちに代わって戦ってくださると信じ、この主に信頼し、主に身を寄せるなら、主が平安を与えてくださるのです。しかし、残念ながら、私たちがどんなにイエス様を信じているとは言っても、いざ現実の生活において問題に直面すると、そうした信仰はすぐにどこかへ吹っ飛んで行ってしまうのです。つまり、イエスを信じていない人と全く変わらない状態になってしまうのです。確かに、イエス様を信じて罪から救われ永遠のいのちが与えられていますが、この世にあっては不安と恐れに苛まれながら生きることになるのです。この時の弟子たちはそうでした。彼らもイエスを信じていました。しかし、そんな彼らに対してイエスは、「心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」と言われました。それは、私たちが心を騒がせるような時、このことを一層はっきりと自覚する必要があったからです。自分ではイエス様を信じ、イエス様に信頼していると思っていても、実のところそうでないことがあるということを。日ごろイエス様に信頼している人でも、もう一度この原点に立ち返るとき、心の中から不安が消えていきます。これこそあらゆる問題の解決の原点なのです。

 

では、どうして神を信じ、またイエスを信じるなら不安や恐れが消え去るのでしょうか。ここが大切なポイントです。その理由が2節にあります。「わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。」

「わたしの父の家」とは神の国、天国のことです。イエス様は、「わたしの父の家には住むところがたくさんあります。」と言われました。そこに彼らのために場所を用意するために行かれると言われたのです。つまり、私たちが生きているこの世にあっては、そこは悪魔が支配している所である以上、心を騒がせなければならないことがたくさんありますが、それをこの世という視点で見るのではなく、この世を越えた視点、天国という視点で、また現在という時間を越えた永遠という視点で見るなら、今まで問題だと思っていたことが、全く問題ではなくなってしまうということです。不思議ですね。あれほどイライラしていた気持ちが、いざ天を見上げたとたんスーっと静まっていくのを感じることがあります。これが、イエスが教えてくださった解決です。天の御国を見よ・・・と。

 

お花の師匠さんから聞いたことですが、花を生けるときは、まず、天を決めるということです。天を決めてから、上下左右に、様々なバランスをとっていく、ということでした。これは、私たちの人生においても言えることではないでしょうか。まず天を決めるのです。そこから上下左右、様々なバランスをとってゆくなら、人生のすべてが神の平安で満たされるのです。

 

イエス様は、山上の説教の中でこのように言われました。「25ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。28 なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。30 今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。31 ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。32 これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。34 ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」(マタイ6:25-34)

イエス様は、「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」と言われました。まず天を決める、まず神の国とその義とを第一に求める。これが真の解決です。

 

時として、私たちの心を騒がせる問題は、住宅の悩みから来ることがあります。住む場所が狭かったり、物を置くスペースが足りなかったり、家中が物で溢れている、自分の居場所がないなどです。ある住宅メーカーのアンケートによると、現在の住まいで不満に思う点の1位は何だったかというと、男女ともにこれでした。「収納が足りない」38%です。2位以下は「庭・ベランダが活用できていない」31%、「狭い」30%、「キッチンの使い勝手が悪い」29%、「間取りが暮らしに合わない」27%となっています(SUVACOユーザ調査概要)。しかし、天国には、住む所がたくさんあります。その場所を備えるために、イエス様は父のもとに行くと言われたのです。そこはどのような所でしょうか?そこは、何か功績があった人や、特別に主と教会のために尽くした人だけが入ることができる場所ではありません。そこは、今この世のことで心を騒がしているような信仰の弱い者でも、ひとたび主の十字架の血によって罪を贖っていただいた者であれば、だれでも入ることができる所です。そのことを知ったらどうでしょう。本当に平安が与えられるのではないでしょうか。それこそ、この世の平安ではありません。神の平安、天から与えられる平安です。

 

そして主は、さらにこう言われました。3節、「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」

天国は、イエス様が私たちのために用意してくださる所であり、イエス様がともにおられる所です。どんなに天国が光り輝く所であり、快適な暮らしであったとしても、主がともにおられるのでなければ、私たちのたましいは、決して満足を得ることはできません。なぜなら、私たちのたましいは、場所や環境によって満足するものではなく、主イエスご自身がともにおられることによって与えられるものだからです。

 

イエス様は、この天国に行って、場所を用意したら、また来て、あなたがたを迎えてくださいます。これは、主がもう一度来られる再臨の時か、もしくは、私たちのこの世での人生が終わる時かのいずれかの時のことです。いずれにせよ、主は私たちをこの天の御国に導いてくださるために、もう一度来てくださいます。ですから、この世にあってどんな患難があっても恐れることはありません。心を騒がせてはならないのです。心を騒がせるようなことが起こったから、神を信じ、またイエスに信頼すればいいのです。これは、今、世界中の人たちが聞かなければならない聖書のみことばであり、神からのメッセージです。

 

Ⅱ.わたしが道であり、いのちであり、真理なのです(4-6)

 

次に、4節から6節までをご覧ください。

「4 わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」5 トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」

 

イエスは、ご自分がどこに行かれるのかを、すでに繰り返して、弟子たちに語って来られました。ですから、弟子たちはそのことを知っていたはずですが、これを聞いた弟子の一人のトマスは、イエスにこう言いました。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」

 

霊的な真理を語られたイエスに、トマスは「これからどこに行けばいいのかわからない」と言いました。ことばが噛み合っていません。トマスという名前を聞くと、皆さんがすぐに思い浮かぶのは、疑い深い人ということではないでしょうか。ヨハネ20章を見ると、イエスが復活したとき彼は、イエスが復活したということを他の弟子たちから聞いても信じることができませんでした。そしてこう言いました。「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れて見なければ、決して信じません。」(20:25)

随分現実的というか、疑い深い人ですね。そういうタイプの人がいます、というか、ほとんどの人がそうです。見ないと信じることができません。見ても信じない人もいます。ですから、トマスは私たちそのものなのです。イエス様が天国の話をしても、その意味を理解することができません。「主よ、どこに行ったらいいのですか。その道を教えてください。できれば地図に書いてもらえますか・・」。どちらかというと彼は、この世のことには長けていましたが、霊的なことには疎かったのです。

 

そこで、イエスはその道が何であるのかをはっきりと示されました。6節です。ご一緒に読みましょう。

「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」

私たちはしばしば救いについて誤解し、どの宗教も結局最後に到達するのは同じ神様なのだから、何を信じても同じだと考えがちですが、そうではありません。イエスは、そのような考えをきっぱりと否定されました。そしてはっきりと、ご自分が道であり、真理であり、いのちであり、ご自分を通してでなければ、だれも父のもとに行くことはできないと言われたのです。このようなことを言うと、特に断定的な言い方を極端に嫌う日本人には、なんと排他的なんだろうと思われるかもしれませんが、イエスはこのようにはっきりと言われました。なぜイエスはこのように言われたのでしょうか。それは、ほんとうにイエスこそ道であり、真理であり、いのちであられる方だからです。

 

古来多くの人々が道について語ったり、示したりしてきました。また、真理について教えてきました。いのちに至る方法について説いてもきました。しかし、それらのものはすべて人間によって定められた道であり、真理であり、いのちにすぎません。しかし、イエスの場合はそうではなく、ご自身が道そのものであり、真理そのものであり、いのちそのものなのです。だから、このように宣言することができたのです。イエスが父なる神のみともに至る唯一の道であられるのは、イエスご自身が真理そのものであり、いのちそのものであられるからです。もっと別の言い方をするならば、イエス・キリストは神であられるということです。ですから、天地万物を造られた神のみもとに行こうと思うなら、この神が定めた方法でなければ行くことはできないのです。その方法とは何ですか?その方法とは、イエス・キリストです。神はご自身の御子イエスをこの世に遣わされ、この方によってご自分のところに来る道を用意されました。それが十字架と復活だったのです。

 

「御名を掲げて」という賛美は、このことを歌った賛美です。1989年、アメリカのリック・ファウンズによって書かれました。ファウンズは、朝の祈りの時に聖書を読みながらこの曲を作曲したと言われています。

御名をかかげて あなたをたたえます 救いのために あなたは来られた 救いの道を与えに 天よりくだり 来られた 十字架により いのちあがない よみがえられた

 

キリストは、私たちを罪から救うために天から来られました。それは十字架による罪の贖いと、三日目によみがえられることによって完成されました。これが、私たちが救われるために神が計画しておられたことだったのです。ですから、使徒たちはこのように宣言したのです。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)私たちが救われるべき名は、すなわち、私たちが天国に入れていただくためには、この御名を信じなければならないのです。

 

あなたはこの御名を信じましたか。信じて、罪を赦していただきましたか。神の子どもとされましたか。イエスが道であり、真理であり、いのちなのです。この方以外には、だれによっても救いはありません。このイエスの御名を信じて、天の御国に入れていただきましょう。そうすれば、あなたも天国の視点で物事を見ることができるようになり、すべての不安と恐れは消え去るのです。

 

Ⅲ.わたしを見た人は、父を見たのです(7-11)

 

最後に、7節から11節までをご覧ください。7節と8節をお読みします。

「7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」8 ピリポはイエスに言った。「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」

 

今度は別の弟子のピリポです。イエス様が、「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」と言われると、その父を見せてくださいと言いました。そうすれば、満足しますと。おそらく、ピリポが想定したのは、かつてモーセが見たような神の栄光のことでしょう。神は霊ですから、肉眼で見ることはできません。ならば神の臨在の象徴である神の栄光を見せてくださいと言ったのです。そうすれば、満足します。そうすれば、確かに神がおられることを信じることができます。

 

私がイエス様を信じたのは18歳の時でした。今の妻に誘われて教会に導かれましたが、最初はなかなか信じることができませんでした。だって信仰って一生もんでしょう。そんな大切なことをそう簡単には決断できないと思ったのです。私にも将来がありました。前途が希望に満ちていました。その将来を輝かしいものとするために絶対に道を誤りたくないと思ったのです。ですから、当時通っていた教会の牧師に「イエス様を信じてください」と言われても、なかなか信じることができませんでした。でも教会に行き始めて半年くらい過ぎた頃、私はどちらの道に進むのかを決めなければならないと思いました。すなわち、イエス様を信じるのか、信じないのかということです。それで、ある晩布団に入った時ピリポのように祈りました。「主よ。私に父を見せてください。そうすれば満足します。」実際にこの眼で見たら信じられるのではないかと思ったのです。するとどうでしょう。障子越しに月の明かりが部屋の中を照らしました。まさにイエス様が現れるような雰囲気でした。私は心の中で祈り続けました。「イエス様、イエス様、今です。どうぞ来てください。ここに現われてください。」しかし、何分待っても現れませんでした。結局、残ったのは寝不足だけでした。よく考えてみたら、神は霊ですから、私たちが思っているような形で現れることはないのです。大切は見て信じるのではなく、見ないで信じることです。幸い、神はこんな肉にすぎない私に聖霊を通して信仰を与えてくださいました。そして、イエス様を信じますと告白した時から、実にたくさん、いろいろな時にご自身の栄光を見させてくださいました。特に、聖書のみことばを学ぶとき、そこにはっきりとご自身を現わしてくださいました。神は見ることができませんが、神を信じる者にご自身を見せてくださるのです。ですから、見ないと信じないというではなく、見ないでも信じる人は幸いです。見ないで信じる人に、主はご自身を見せてくださるからです。

 

そんなピリポに対して、主は何と言われましたか。9節から11節をご覧ください。

「イエスは彼に言われた。「9ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。10わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。11わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。」

イエス様はピリポの質問に驚かれました。こんなに長い間、彼らと一緒にいたのに、イエスを知らなかったからです。彼らはイエスとともに長い間生活し、イエスの教えを聞き、イエスの奇跡を見、イエスの人格に触れました。それなのに彼らはイエスを知らなかったのです。もし知っていたのなら、「私たちに父を見せてください」とは言わなかったでしょう。なぜなら、イエスを見た者は、父を見たのだからです。

 

ヘブル書1:3には、「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。」とあります。イエスは神の栄光の輝きであり、また神の本質の完全な現われなのです。ですから、この方を見た者は、父を見たのと同じなのです。

 

あなたがたは、神が分からないと言っているけれども、すごく簡単でしょう。なぜなら、あなたが見ているこのわたしが、神を現わしているのだから。ほら、わたしを見てごらん。ここに神がいるんですよ、そうおっしゃっているのです。私たちは、自分の経験をとおして、自分なりの勝手な神概念を持っていますが、でも本当にあなたが神を見たいと思うなら、イエスを見なければなりません。なぜなら、イエスこそ神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れだからです。イエスを見るなら、神がどのような方かを、はっきり見ることができます。

 

最後にイエスは、「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。」と言われました。

トマスやピリポのような人は、今でもたくさんいます。懐疑的で、自分の目で見なければ信じないという人たちです。でも、イエスを見る人は、父を見るのです。イエスこそ、道であり、真理であり、いのちです。天国に至る唯一の道なのです。この方を信じるなら、何を恐れたり、心配したりする必要があるでしょうか。この方は私たちを天の御国に導いてくださいます。私たちが信頼すべきお方、それは私たちの救い主イエス・キリストです。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」と言われる主イエスに信頼し、先が見えないこの不透明な時代にあっても、天から与えられる希望と平安をもって歩ませていただこうではありませんか。

Ⅰサムエル記17章41~58節

今回は、サムエル記第一17章後半から学びます。イスラエルの陣営に炒り麦とパン、そしてチーズを届けるように父エッサイから依頼されたダビデは、戦地でペリシテ人の巨人ゴリヤテが、イスラエル人を脅しているのを見ました。それを見たイスラエルの人々は、脅えて戦う意欲を失っていましたが、ダビデは「この無割礼のペリシテ人は何なのですか。生ける神をそしるとは。」と言って、信仰によって立ち向かいました。

 

Ⅰ.石投げを手にして(31-40)

 

まず、31~40節までをご覧ください。

「31 ダビデが言ったことは人々の耳に入り、サウルに告げられた。それで、サウルはダビデを呼び寄せた。32 ダビデはサウルに言った。「あの男のために、だれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦います。」33 サウルはダビデに言った。「おまえは、あのペリシテ人のところへ行って、あれと戦うことはできない。おまえはまだ若いし、あれは若いときから戦士だったのだから。」34 ダビデはサウルに言った。「しもべは、父のために羊の群れを飼ってきました。獅子や熊が来て、群れの羊を取って行くと、35 しもべはその後を追って出て、それを打ち殺し、その口から羊を救い出します。それがしもべに襲いかかるようなときは、そのひげをつかみ、それを打って殺してしまいます。36 しもべは、獅子でも熊でも打ち殺しました。この無割礼のペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をそしったのですから。」37 そして、ダビデは言った。「獅子や熊の爪からしもべを救い出してくださった主は、このペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」サウルはダビデに言った。「行きなさい。主がおまえとともにいてくださるように。」38 サウルはダビデに自分のよろいかぶとを着けさせた。頭に青銅のかぶとをかぶらせて、それから身によろいを着けさせたのである。39 ダビデは、そのよろいの上にサウルの剣を帯びた。慣れていなかったので、ためしに歩いてみた。ダビデはサウルに言った。「これらのものを着けては、歩くこともできません。慣れていませんから。」ダビデはそれを脱いだ。40 そして自分の杖を手に取り、川から五つの滑らかな石を選んで、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にし、そのペリシテ人に近づいて行った。」

 

ダビデが言ったことはサウルの耳に入り、彼はサウルに呼び寄せられました。そこでダビデが言ったことは、自分が出て行って、あのペリシテ人と戦うということでした。当然、サウルはダビデのことばを受け入れることはできませんでした。なぜなら、ダビデはまだ若く、戦いの経験もなかったからです。一方、ゴリヤテは若い時から戦士でした。いわゆる百戦錬磨です。そんな相手にどうやって戦うというのでしょう。無理だ、できない、というのがサウルの反応でした。

 

それに対してダビデはこう言いました。34節から36節までです。「34しもべは、父のために羊の群れを飼ってきました。獅子や熊が来て、群れの羊を取って行くと、35 しもべはその後を追って出て、それを打ち殺し、その口から羊を救い出します。それがしもべに襲いかかるようなときは、そのひげをつかみ、それを打って殺してしまいます。36 しもべは、獅子でも熊でも打ち殺しました。この無割礼のペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をそしったのですから。」

そして、こう言いました。「獅子や熊の爪からしもべを救い出してくださった主は、このペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」(37)

何という信仰でしょうか。彼はすでに主にあって戦ってきました。その戦いは、父の羊の群れを守るために、獅子や熊と戦いうというものでしたが、相手が獅子でも熊でも自分に襲いかかるようなときは、そのひげをつかみ、その口から羊を救い出しました。けれども、今回の戦いは、生ける神の陣をそしった無割礼のペリシテ人ゴリヤテとの戦いです。主が助けてくださらないわけがありません。獅子や熊の爪から救い出してくださった主は、このペリシテ人の手からも必ず救い出してくださいます。

ほんとうに、見上げた信仰です。ダビデは敵の大きさとか、強さなどを全く見ませんでした。彼が見たのは、これまでずっと自分を支え、救い出してくださった、真実な力ある主ご自身でした。人を見たら罠にかかります。しかし、主に信頼するものは守られます。

 

イエス様を乗せ舟でガリラヤ湖を渡っていた弟子たちが、突然、激しい嵐にあい、湖で転覆しそうなとき、彼らがパニックを起こしたのはなぜでしょうか。それは彼らが嵐の大きさに目を奪われてしまい、そこに嵐を静めることのできるお方がいることを見なかったからです。私たちの神、主は、どんな嵐をも静める力を持っておられる方です。この方が私たちともにおられるのです。であれば、何を恐れる必要があるでしょうか。私たちが見なければならないのは目の前の嵐ではなく、その嵐を静めることができる神ご自身なのです。

 

ダビデの話を聞いて納得したサウルは、ダビデを代表戦士として戦場に送ることに同意しました。ダビデの熱意に並々ならぬものを感じたのでしょう。それでサウルは自分のよろいかぶとと剣を与えました。しかし、武具に慣れていなかったダビデは、ためしに歩いてみましたが、まともに歩くことができなかったので、「これらのものを着けては、歩くことができません。」と言って、脱ぎました。そして自分の杖を手に取り、川から5つの滑らかな石を選び、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にして、ゴリヤテに近づいて行くことにしました。ここに教訓があります。つまり、借物では、戦うことができないということです。それがどんなに立派な武具でも人のもので戦うことはできないのです。自分の武器で戦わなければなりません。人にはみなそれぞれに合った戦い方があります。そのやり方で戦わなければ実力を発揮することができないのです。また、それが仮にどんなに質素なものであっても、自分の武器こそが最高に用いられます。むしろ武器が貧弱であればあるほど、勝利した時に神の御名が称えられることになります。あなたの武器は何ですか。主の御名の栄光のために、自分の武器を取り、信仰をもって戦おうではありませんか。

 

Ⅱ.万軍の主の御名によって(41-47)

 

次に、41節から47節までをご覧ください。

「41 そのペリシテ人は盾持ちを前に立て、ダビデの方にじりじりと進んで来た。42 ペリシテ人は、ダビデに目を留めて彼を見つめ、彼を蔑んだ。ダビデが血色の良い、姿の美しい少年だったからである。43 ペリシテ人はダビデに言った。「おれは犬か。杖を持って向かって来るとは。」ペリシテ人は自分の神々によってダビデを呪った。44 ペリシテ人はダビデに言った。「さあ、来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」45 ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と槍と投げ槍を持って私に向かって来るが、私は、おまえがそしったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かう。46 今日、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを殺しておまえの頭を胴体から離し、今日、ペリシテ人の軍勢の屍を、空の鳥、地の獣に与えてやる。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るだろう。47 ここに集まっているすべての者も、剣や槍がなくても、主が救いをもたらすことを知るだろう。この戦いは主の戦いだ。主は、おまえたちをわれわれの手に渡される。」

 

ペリシテ人ゴリヤテが盾持ちを前に立て、ダビデの方に近づいて来ると、ダビデに目を留め、彼を見つめて、蔑みました。ゴリヤテにとっては拍子抜けでした。紅顔の美少年が、しかも羊の番の格好でやってきたからです。そんなダビデにゴリヤテが言いました。「おれは犬か。」当時、「犬」ということばは人を侮辱することばとしても使われました。そして、自分の神々によってダビデをのろいました。自分たちの神々とは、ダゴンの神のことです。ダゴンとは、魚の下半身に人間の上半身をもった姿をしている神で、「魚の偶像」だとも「穀物の神」だともいわれており、豊穣の神としてペリシテ人に拝まれていました。その神々の名によってのろったのです。

 

一方、ダビデはどうだったでしょうか。彼はゴリヤテに、「45おまえは、剣と槍と投げ槍を持って私に向かって来るが、私は、おまえがそしったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かう。46 今日、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを殺しておまえの頭を胴体から離し、今日、ペリシテ人の軍勢の屍を、空の鳥、地の獣に与えてやる。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るだろう。47 ここに集まっているすべての者も、剣や槍がなくても、主が救いをもたらすことを知るだろう。この戦いは主の戦いだ。主は、おまえたちをわれわれの手に渡される。」(45-47)と言いました。ゴリヤテは、剣と槍と投げ槍をもって向かってくるが、ダビデの武器は、万軍の主の御名でした。彼は、この戦いが主の戦いであることを認識していたのです。つまり、これがペリシテ人の偶像とイスラエルの神との戦いであるということです。そして、主は必ず勝利を与えてくださいます。その結果、ゴリヤテの体は頭と胴体が切り離され、ペリシテ人の軍勢の屍は、空の鳥、地の獣の餌食となります。そして、すべての国は、イスラエルに神がおられるということを知ることになります。

 

詩篇20:7には、「ある者は戦車をある者は馬を求める。しかし私たちは私たちの神、主の御名を呼び求める。」とあります。まさにダビデの戦いがこれでした。彼は戦車や馬ではなく、主の御名を呼び求めました。万軍の主の御名によって戦ったのです。私たちに求められているのはこれでしょう。科学が進歩すると、あたかもそれがすべてであるかのように思われがちな現代にあって、実はそうしたものが逆に社会を混乱させていることも事実です。昭和、平成、令和と時代が進んでくる中で、どんなにITが進歩してきても、かえって社会がおかしくなってきたということを多くの人が感じているのではないでしょうか。ある者は戦車を、ある者は馬を求めますが、しかし私たちが求めるのは、私たちの神、主の御名なのです。これに勝る武具はありません。

 

パウロはエペソ人への手紙で、「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(6:12)と言っています。ダビデは自分の戦いが、剣や盾のような物質的なものによる戦いなのではなく、霊の戦いであることを認識していました。私たちの戦いも同じです。血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、天にいるもろもろの悪霊に対するものなのです。このことに気付いているかどうかです。自分がいま直面している問題が、物理的、肉体的なものではなく、霊的なものであることに気付き、それに対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取らなければなりません。それが真理であり、正義、平和の福音、信仰、救い、御霊の剣である神のことば、そして祈りなのです。すなわち、万軍の主の御名による戦いなのです。

 

Ⅲ.ダビデの勝利(48-58)

 

その結果、どうなったでしょうか。48節から58節までをご覧ください。

「48 そのとき、そのペリシテ人はダビデの方に近づき始めた。ダビデは、すばやく戦場を走って行き、ペリシテ人に立ち向かった。49 ダビデは手を袋の中に入れて、石を一つ取り、石投げでそれを放って、ペリシテ人の額を撃った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに地面に倒れた。50 ダビデは、石投げと石一つでこのペリシテ人に勝ち、このペリシテ人を撃って、彼を殺した。ダビデの手に剣はなかったが。51 ダビデは走って行ってペリシテ人の上に立ち、彼の剣を奪ってさやから抜き、とどめを刺して首をはねた。ペリシテ人たちは、自分たちの勇士が死んだのを見て逃げた。52 イスラエルとユダの人々は立ち上がり、ときの声をあげて、ペリシテ人をガイの谷間に至るまで、そしてエクロンの門まで追った。それでペリシテ人は、シャアライムの道に、ガテとエクロンに至るまで、刺し殺されて倒れていた。53 イスラエル人はペリシテ人追撃から引き返して、ペリシテ人の陣営を略奪した。54 ダビデは、あのペリシテ人の首を取ってエルサレムに持ち帰った。しかし、武具は自分の天幕に置いた。55 サウルは、ダビデがあのペリシテ人に向かって出て行くのを見たとき、軍の長アブネルに言った。「アブネル、あの若者はだれの息子か。」アブネルは言った。「王様、お誓いしますが、私は存じません。」56 そこで、王は命じた。「あなたは、あの少年がだれの息子かを調べなさい。」57 ダビデがペリシテ人を討ち取って帰って来たとき、アブネルは彼をサウルの前に連れて来た。ダビデはペリシテ人の首を手にしていた。58 サウルは彼に言った。「若者よ、おまえはだれの息子か。」ダビデは言った。「あなたのしもべ、ベツレヘム人エッサイの息子です。」

 

ペリシテ人ゴリヤテがダビデの方に近づいて来ると、ダビデはすばやく戦場を走って行き、ゴリヤテに立ち向かいました。彼は手を袋の中に入れ、石を一つ取り出すと、それを石投げの中に入れ、それを放って、ゴリヤテの額に命中させました。すると石は額に食い込み、ゴリヤテはうつぶせに地面に倒れました。完全武装していたゴリヤテも、顔だけは隠すことができませんでした。ダビデはゴリヤテのところに走って行くと、彼の上に立ち、彼の剣を奪ってさやから抜き、とどめを刺して首をはねました。ダビデは、石投げと石一つでこのペリシテ人ゴリヤテに勝ったのです。ペリシテ人たちは、自分たちの勇士が死んだのを見ると逃げ出しましたが、追って来たイスラエル人に打たれたので倒れ、空の鳥や野の獣のえじきとなりました。ダビデは、ゴリヤテの首を取ってエルサレムに持ち帰りましたが、武具は自分の天幕に置きました。

 

サウルは、将軍アブネルにダビデのことを尋ねています。それは、あのペリシテ人を倒した者には自分の娘を与え、その父の家には税を課さないと約束していたからです。彼は自分の将来の婿がどのような人物なのかを知ろうとしたのでしょう。しかし、アブネルはダビデについて詳しいことを知りませんでした。そこでアブネルがサウルの前に連れて来ると、ダビデはペリシテ人の首を手にしていました。

 

サウルはダビデに、「若者よ、おまえはだれの息子か」と尋ねました。だれの息子かって、もう何度も彼のそばで竪琴を弾いては、彼にわざわいをもたらす霊を静め、穏やかにしてきたではありませんか。それなのに、お前はだれの息子かと聞くのは変です。実のことろ、彼はダビデを音楽療法士として知ってはいましたが、さほどの関心を示していなかったのです。

 

新約聖書を見ると、イエス様も同じであったことがわかります。ナザレ人たちがイエスにつまずいたのは、彼らがあまりにもイエスの近くにいたからです。サウルはダビデがあまりにも近くにいたので、その賜物と人物を見抜くことができませんでした。私たちも主のみわざがあまりにも近くで行われているために、その祝福が見えなくなっていることがあります。そういうことがないように、いつも自分のそばで働いておられる主の恵みを数えて感謝しようではありませんか。

ヨハネの福音書20章1~18節 「なぜ泣いているのですか」

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イースターおめでとうございます。私たちは今日、特別の日を迎えました。イエス・キリストがよみがえられた日です。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために十字架で死なれ、葬られました。葬られたというのは、完全に死んだということです。しかし、キリストは聖書に書いてあるとおりに三日目に墓からよみがえられました。そして、それが事実であることを示すために、12人の弟子たちをはじめ、多くの人たちに現われてくださったのです。これが、最も大切なこととして聖書が私たちに教えていること、良い知らせ、福音です。今朝は、この復活のキリストについて、ヨハネの福音書から一緒に学びたいと思います。

 

Ⅰ.見て、信じた(1-10)

 

まず、1節から10節までをご覧ください。1,2節をお読みします。

「1 さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子のところに行って、こう言った。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」」

 

「週の初めの日」とは日曜日のことです。朝早くまだ薄暗いうちに、マグダラのマリアはイエスが葬られていた墓に行きました。他の福音書を見ると、他に2人の女たちが一緒であったことがわかります。彼女たちは、イエスが十字架につけられたときもずっと十字架のそばにいました。そして、イエスのからだが十字架につけられた場所の近くの墓に納められるのを確認すると、安息日が明けるのを待って墓に向かって行きました。いったいなぜ彼女たちは墓に行ったのでしょうか。マルコ16:1には、「イエスに油を塗りに行こうと思い」とあります。イエスが十字架で死なれた直後、イエスの身体には香料が塗られましたが、十分ではないと思ったのでしょう。その女たちの中で、ヨハネはマグダラのマリアにスポットを当てています。なぜ彼女にスポットを当てたのかはわかりません。おそらく、彼女はキリストと出会い、その人生が大きく変えられたからだと思います。

 

彼女は、かつて悲惨な人生を歩んでいました。ルカ8:2を見ると、彼女は七つの悪霊につかれていました。一つや二つではありません。七つです。尋常ではありません。そのため彼女は、非常に苦しい日々を過ごしていました。その彼女がイエス様によって悪霊を追い出してもらったのです。どれほどうれしかったことでしょう。彼女は悪霊から解放されるとイエスに従い、イエスに仕えました。彼女はだれよりもイエスを愛していました。というのは、だれよりも多く赦されたと感じていたからです。ルカの福音書7章には、イエスがパリサイ人シモンの家に招かれ食事をしたときのことが記されてあります。そこに一人の罪深い女が香油の入った石膏の壺を持ってイエスの足もとに近寄り、泣きながらイエスの足を涙でぬらし、髪の毛でぬぐいました。そして、その足に口づけして香油を塗ったのです。その罪深い女とはこのマグダラのマリアでした。パリサイ人シモンはそれを見て、心の中でこう思っていました。「この人がもし預言者だったら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるかを知っているはずだ。この女は罪深いのだから。」(ルカ7:39)すると、イエスはあの有名なたとえ話を語りました。500デナリを借りている人と50デナリを借りている人がいてどちらも返すことができなかったので、金貸しが二人とも借金を帳消しにしてやると、この二人のうちどちらが金貸しをより多く愛するようになるかという話でした。「より多く帳消しにしてもらった方だと思います」とシモンが答えると、イエスは彼に、「あなたの判断は正しい」と言われました。そして、彼女がこのようなことをしたのは、彼女の多くの罪が赦されたからだ、と言われたのです。なぜなら、多く赦された者は多く愛しますが、少ししか赦されない者は少ししか愛さないからです。すなわち、彼女は多く赦されたので、多く愛したのです。彼女は他の女たちと一緒に十字架でのイエスの死を最後まで見届けました。自分の愛する主が死んでしまったことで、彼女の心は悲しみで一杯でした。ですから彼女は、安息日が終わるやいなや墓に向かって行ったです。

 

墓に行ってみると、墓を塞いでいた大きな石が取りのけられているのを見ました。すると彼女は中を確認することもしないで、走って、シモン・ペテロとイエスが愛されたもう一人の弟子、これはこの福音書を書いているヨハネのことですが、彼らのところに行って、「だれかが墓から主を取って行きました」と告げました。彼女の頭の中にはイエスが復活したという考えはこれっぽっちもありませんでした。ふっかつの「ふ」の字もなかったのです。

 

3節から8節までをご覧ください。

「3 そこで、ペテロともう一人の弟子は外に出て、墓へ行った。4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。5 そして、身をかがめると、亜麻布が置いてあるのが見えたが、中に入らなかった。6 彼に続いてシモン・ペテロも来て、墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。7 イエスの頭を包んでいた布は亜麻布と一緒にはなく、離れたところに丸めてあった。8 そのとき、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来た。そして見て、信じた。」

 

そこで、ペテロともう一人の弟子のヨハネは外に出て、急いで墓に行きました。二人は一緒に走りましたが、ヨハネの方がペテロよりも速かったので先に墓に着きました。ヨハネの方が若かったからでしょう。この時ヨハネは20代、ペテロは30代後半ぐらいだったと思われます。30代も後半になると。息が切れて早く走ることができなくなります。思っているように走れないのです。それで、ヨハネの方が先に着きました。ヨハネは墓に着くと身をかがめて中を見ましたが、中には入りませんでした。なぜでしょう。ヨハネはそういう性格だったからです。そういう人がいます。石橋をたたいて渡るような人です。世の中にはいろいろな人がいます。石橋をたたいて渡る人、石橋をたたいても渡らない人、石橋をたたかずともさっさと渡る人です。ヨハネは石橋をたたいて渡る人でした。慎重に行動するタイプだったのです。だから、亜麻布が置いてあるのが見えましたが、中には入らなかったのです。

 

一方ペテロはというと、石橋をたたかずとも渡る人でした。彼はヨハネよりも遅れて墓に着きましたが、墓に着くなりさっさと中に入って行きました。慎重なタイプの人と突進するタイプの人がいるとしたら、彼は突進するタイプの人でした。私みたいな人間です。ペテロを見ていると自分を見ているような気がします。闘牛のように突進していきます。彼が中に入って行くとどうでしょう。そこには亜麻布が置いてありましたが、不思議なことに、イエスの頭を包んでいた布とイエスのからだを包んでいた布が、離れたところに置いてありました。しかも、きちんと丸めてです。いったいこれはどういうことか。このような番組がありますね。様々なミステリー事件の真相を、手がかりをもとに解明していく推理バラエティーです。「誰が?」「なぜ?」「どのように犯行を行ったのか?」という情報を基に、事件の解決に挑戦していくのです。ここでは、墓の中に入ってみるとイエスのからだがなく、そこにあったのは亜麻布だけ。しかも、その亜麻布は頭を包んでいた布と、からだを包んでいた布が離れたところにあった。しかも、それぞれの布はちゃんと丸めてありました。いったいこれはどういうことか?もし誰かがイエスのからだを盗んで行ったとしたら、こんな手のこんだことをするでしょうか。しません。からだに巻かれていた布は、香料や没薬が染み付いてベトベトになっていたはずです。それをわざわざほどいて、しかも丁寧に丸めて置いておくようなことをする人はいません。ただそのまま運べば良かったのですから。しかし、イエスの頭を包んでいた布とからだを包んでいた布とは、離れたところに別々に置いてありました。そこにあるはずのイエスのからだだけが消えて無くなっていたのです。いったいこれはどういうことでしょうか?

 

8節をご覧ください。そのとき、先に墓に着いていたヨハネも中に入りました。そして、見て、信じました。いったい何を信じたのでしょうか。ヨハネはその状況をつぶさに見て、イエスがよみがえられたと信じたのです。確かにそこにイエスのからだがありませんでした。マグダラのマリアは、だれかが墓から主を取って行ったと言うけれども、現場の状況から見てあり得ないことです。だって、イエスの頭を包んでいた布とからだを包んでいた布が別々に、離れたところに置いてあったんですから。しかも、丁寧に丸めて。もしマリアが言うようにだれかがイエスのからだを盗んで行ったとしたら、そんな手の込んだことはしないでしょう。しかも、墓を見守っていた番兵たちもいないのです。墓を塞いでいた大きな石は脇に転がしてありました。これらの物的証拠を検証すれば、導かれる結論は一つしかありません。それは、イエスはよみがえられたということです。ヨハネは、それを見て、信じたのです。ただ感情的にそう思ったのではなく、一つ一つの証拠を見て、そのように判断したのです。

 

皆さん、私たちが何かを見るという時、いろいろな見方があります。たとえば、ただ何となく見るということがあります。その場合は、ぼんやり見ています。そのように見ながら、「あ、ここにマイクがある」「ここに講壇がある」と認識しているのです。しかし、もう一つの見方があります。それはじっと見るとか、注意深く見るということです。それがどんなものなのかを観察するわけです。ヨハネが見たのはこれでした。彼はただぼんやりと見たのではなく、注意深く見ました。マグダラのマリアは、イエスのからだが無いのを見てだれかが取って行ったと思いましたが、ヨハネはその状況を注意深く見て、そうではないと判断したのです。そして、イエスはよみがえられたと結論付けたのです。でも確かなことはまだわかりません。彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書のことばを、まだ理解していなかったからです。

 

Ⅱ.なぜ泣いているのですか(11-16)

 

一方、マリアはどうだったでしょうか。11節から16節までをご覧ください。

「11一方、マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。12 すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた。13 彼らはマリアに言った。「女の方、なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。15イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」16 イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。」

ペテロとヨハネは、自分たちのところに帰って行きました。彼らはイエスがよみがえらなければならないという聖書のことばを、まだ理解していませんでした。一方、マグダラのマリアは墓の外にたたずんで泣いていました。彼女がどれだけイエスを思っていたのか、愛していたのかがわかります。愛する方が亡くなり、そのからだがないのです。いったいどこに行ってしまったのか。帰ろうにも帰れません。帰りたくない。そして泣きながら、からだをかがめて墓の中を覗き込んだのです。すると、イエスのからだが置かれてあった場所に、白い衣を着た二人の御使いが座っていました。一人は頭のところに、もう一人は足のところに。彼らはマリアに言いました。「女の方、なぜ泣いているのですか。」普通だったらその光景に驚いて「これは夢か幻か、あなたはだれですか。これは現実ですか」とか言ってもおかしくなかったでしょうが、彼女にとって天使なんてどうでも良いことでした。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわかりません。」(13)と、主のからだが無いという状況にただうろたえるばかりでした。

 

そのときです。彼女がこう言ってうしろを振り向くと、そこにイエスが立っているのを見ました。しかし、彼女にはそれがイエスであることがわかりませんでした。もしかすると、朝早かったので寝ぼけていたのかもしれません。あるいは、入口の方が明るくて、立っている人が黒く見えたのかもしれません。いや、涙で目が曇っていてはっきり見えなかったのでしょう。ただ一つはっきりと言えることは、彼女の悲しみは、そこにいる人がだれであるのかがわからないほどのものであったということです。

 

それで、イエスは彼女に言われました。15節です。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」イエスは決してマリアが泣いている理由がわからなかったわけではありません。イエスはマリアの気持ちを全部ご存知の上でこのように言われたのです。

 

マリアは、イエスのからだがだれかに盗まれたと思っていました。それで悲しんでいたのです。しかし、今は悲しむ時ではありません。今は喜ぶ時です。なぜなら、その主イエスがここにいるからです。主はよみがえりました。それなのに、なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。彼女が捜していたのは死んだイエスのからだでした。しかし、イエスはよみがえられたのです。よみがえられて、今、あなたの目の前に立っています。なぜ泣いているのですか。彼女はイエスが目の前に立っているにもかかわらず、イエスが復活したことを認めることができず、そこにいるのは園の管理人だと思っていたのでずっと泣いていたのです。そして、その人にこう言いました。

「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのかを教えてください。私が引き取ります。」

おじさん、頼みます。教えてください。あなたじゃないんですか、主のおからだを運び去ったのは・・。彼女の目は涙で曇っていたので、はっきり見ることができませんでした。

 

しかし、そんな彼女の目が開かれる時がやって来ます。それは、イエスが彼女の名前を呼ばれた時です。16節、「イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、へブル語で「ラボに。」、すなわち「先生」とイエスに言った。」

 

イエスは彼女の名前を呼ばれました。ヨハネ10:3には、「門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。」とあります。良い牧者は羊たちの名前を呼んで連れ出しますが、羊たちはその声を知っているのです。

先日、久しぶりに下の娘が家に戻りました。いつも忙しくてなかなか戻って来ないのですが、久しぶりに3~4日ゆっくりしていきました。しかし、今回は一人ではありませんでした。チワワという愛犬を連れて来たのです。名前は「ラブ」です。それがなかなかかわいいのです。でも「ラブ」なんて呼びたくなかったので、「チワ」と呼んだら全然反応してくれないのです。「チワ、こっちおいで。頼むから」と言っても来ない。でも娘が「ラブ」と呼ぶと、しっぽをふって喜んでついて行きます。どこまでも。トイレに行く時にもリビングから出ないようにドアを閉めると、「クーン、クーン」と泣くのです。娘を愛しているのです。そっちの主人よりも、こっちの主人の方がいいよ、と言っても見向きもしません。娘の話ではうるさい人は嫌いだそうで、かえって脅えるというのです。だから、静かに「チワちゃん」で呼んでみましたが、やはりだめでした。チワワは、主人の声を知っていたのです。同じように、羊たちは、牧者の声を聞き分けます。イエス様が「マリア」と呼ばれると、彼女はそれがイエス様だとすぐにわかりました。それで、「ラボニ」、すなわち「先生」と言ったのです。イエス様がマリアの名前を呼ばれたとき、マリアの心の眼が開かれたのです。当時、「マリア」という名前の人はたくさんいました。この朝イエスの墓に一緒に行ったのも、もう一人のマリアと一緒でした。ヤコブの母マリアですね。ですから、当時マリアという名前の人はたくさんいましたが、マグダラのマリアは「マリア」と呼ばれたとき、彼女はそれがイエス様だとすぐに気付いたのです。

 

イエス様はマリアの名前を呼ばれたように、あなたの名前も呼んでくださいます。私は時々イエス様が自分の名前を呼ばれる時のことを想像することがあります。「トミオ→」「トミオ↑」「トミオ↓」「トミオ 」イントネーションによって受け止め方も全然違いますね。きっとマリアを呼ばれた時は、優しく呼ばれたことでしょう。「マリア」。主は、私たちの名前も優しく呼んでくださいます。それによってどれほど慰められることでしょうか。どれほど勇気づけられることか。イザヤ42:1~5にこうあります。

「1 だが今、主はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。2 あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。3 わたしはあなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにする。5 恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。」(イザヤ43:1-5a)

あなたを創造され、あなたを形造られた主があなたの名前を呼び、「恐れるな」と言ってくださいます。「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」と言ってくださる。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と言ってくださるのです。私たちの人生には悲しみで涙するようなことがどれほどあるでしょう。しかし、私たちの救い主イエス・キリストは死からよみがえられ、あなたの名前を呼んでくださるのです。この主の御声を聞きながら歩めることはどんなに感謝なことでしょうか。

 

Ⅲ.すがりついてはいけません(17-18)

 

最後に、17節と18節を見て終わります。

「17イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」18 マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。」

 

マリアは、自分の名前を呼ばれるとそれがイエスであることがわかり、うれしくて、うれしくて、イエス様にすがりつこうとしました。するとイエスは言われました。「わたしにすがりついてはいけません」触れると汚れてしまうからではありません。事実、この後でイエス様は疑い深いトマスにご自身を現されたとき、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。」(27)と言っています。ですから、触れることが問題ではなかったのです。では何が問題だったのかというと、イエスがまだ父のもとに上っていなかったということです。父のもとに上って行かないと、神との和解が成立しないからです。天に上り、父なる神の右の座に着かれることによって、イエス様が私たちの罪のために十字架で死なれ、よみがえられたことが本当であることが証明されるのです。どうしてそれで召命されるのかというと、イエスが約束された聖霊が来られるからです。約束の聖霊が遣わされることによって、確かにイエスは罪の赦しのために十字架で死なれ、その死の中からよみがえられたということがわかるのです。つまり、イエスは確かに救いの御業を完成したことがわかるのです。ですから、イエス様は17節でこう言われたのです。

「わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」

 

このようにして、マグダラのマリアは、復活の最初の目撃者として弟子たちのところに遣わされました。イエス様が復活して最初にご自身を現されたのは、このマグダラのマリアだったのです。それは一番弟子のペテロでも、イエスに愛された弟子のヨハネでもなく、ましてや、イエス様を十字架につけた祭司長や律法学者たちでもなく、たった一人の罪深い女性、マグダラのマリアにご自身を現されたのです。イエスに敵対する者は、復活したイエスを見ることができませんでしたが、ただイエス様を心から愛する者にご自身を現されたのです。主の復活を見たのは、主を愛する者だけだったのです。

 

ヨハネ14:18~21を開いてください。ここには、「18わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。19 あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。20 その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。21 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。」」とあります。イエス様は、ご自身を愛する者にご自身を現してくださるのです。

 

マグダラのマリアは、イエスを失い、深い悲しみの中に沈んでいました。しかし、イエスが彼女に現われてくださいました。そのことがわかったとき、彼女の悲しみは飛び上がるほどの喜びに変えられました。当の本人は、イエス様が目の前にいるにもかかわらず、それがイエス様だとわかりませんでした。涙で心の目が曇っていたからです。しかし、イエス様に名前を呼ばれたとき、それがイエス様だとはっきりわかりました。

 

皆さんはどうですか。マリアが深い悲しみで涙していたように、不安や悲しみに押しつぶされてはいないでしょうか。でも、イエス様はよみがえられました。そして、こう言われます。

「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」

主は、あなたの名前を呼ばれます。イエス様は復活して、あなたのうしろに立っておられるのです。あなたがこの復活の主イエスを信じ、主があなたとともにおられることを信じるなら、確かに不安や恐れはあるでしょうが、主がその涙をすっかり拭ってくださいます。なぜなら、キリストは死からよみがえられたからです。主はあなたを捨てて、孤児とはしません。もはやあなたは1人ではありません。復活したイエス・キリストがいつまでもあなたとともにおられます。このことがわかれば、どのような問題も、どのような困難も、どのような悲しみも必ず乗り越えることができます。

今、国中が、いや全世界がコロナウイルスの脅威にさらされています。現状を見れば恐れ以外の何ものでもないでしょう。しかし、復活された主を見るなら、そこに希望を見いだすことができます。なぜなら、そこに真の解決があるからです。いずれ、この感染症も終息するでしょう。しかし、それは最終的な解決と希望ではありません。なぜなら、もっと困難な時代を迎えることになるからです。しかし、クリスチャンにとってどんなに困難な時代がやって来ても、恐れる必要はありません。最終的な希望がどこにあるのかを知っているからです。それはキリストの再臨です。イエス様は、ルカ21:28でこう言われました。

「これらのことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの贖いが近づいているからです。」

「これらのこと」とは、終末に起こるしるしのことです。これらのことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなければなりません。あなたがたの贖いが近づいているのですから。ですから、これらのことは、クリスチャンにとっては贖いが近づいているしるしなのです。それは救いの完成の時であり、クリスチャンにとっての希望の時です。その時が近づいているのです。最終的な希望がどこにあるのかを聖書から教えられ今を生きることができるというのは、何と幸いなことでしょうか。そこに希望を持つことができるからです。キリストはそのためによみがえられました。永遠のいのちが与えられている私たちは、この困難の先にある再臨の希望を確信して生きることができるのです。

沖縄にある「オリブ山病院」の理事長で、読谷(よみたん)バプテスト伝道所の牧師である田頭真一(たがみ・しんいち)先生は、このように言っておられます。「最大の問題は新型コロナウイルスで死ぬことではなく、イエス・キリストを知らずして死ぬことです。最大の希望は感染が終息することではなく、再臨のイエス・キリストをお迎えすることなのです。」アーメン。

「なぜ泣いているのですか」「だれを捜しているのですか」主はよみがえられました。あなたの名を呼んでおられます。その御声を聞き、主があなたと共におられることを信じてください。あなたもこの希望に生きることができますように。

出エジプト記24章

出エジプト記24章から学びます。エジプトから救い出されたイスラエルの民に対して主は、「もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。

あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」(19:5-6)と言われました。その神の声、神のことばとは何か。それが20章から23章まで語られた十戒めとそれに付加された定めです。神との契約における次のステップは何でしょうか。それは、イスラエルの民の応答です。もしそれに同意すれば、彼らは神との契約関係に入ることになります。

 

Ⅰ.遠く離れて伏し拝め(1-3)

 

まず、1節から3節までをご覧ください。  「1 主はモーセに言われた。「あなたとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は、主のもとへ上って来て、遠く離れて伏し拝め。2 モーセだけが主のもとに近づけ。ほかの者は近づいてはならない。民はモーセと一緒に上って来てはならない。」3 モーセは来て、主のすべてのことばと、すべての定めをことごとく民に告げた。すると、民はみな声を一つにして答えた。「主の言われたことはすべて行います。」  主はモーセに、彼とアロン、それにナダブとアビフ、それにイスラエルの長老70人と、主のもとに上って来て、遠く離れて伏し拝むようにと言われました。アロンはモーセの兄で、大祭司でした。ナダブとアビフはアロンの息子たちです。彼らも祭司でした。また、イスラエルの長老70人というのは、イスラエルをさばくために立てられたリーダーたちです。モーセ1人では250万人から300万人とも言われるイスラエルの民を治めるのは困難なので、神はモーセとともに民を治めるリーダーたちを立てられたのです。それがモーセの姑イテロによって与えられた助言でした。彼らを連れて主のところに上り、遠く離れて伏し拝むようにと言われたのです。

 

なぜ遠く離れて伏し拝まなければならなかったのでしょうか。それは、主は聖なる方であり、人間はだれ一人として近づくことができなかったからです。もし近づこうものなら、罪と汚れのためにたちまちに殺されてしまうことになります。19章には主が民全体の目の前でシナイ山に降りて来るという出来事が記されてありますが、その山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければなりませんでした(19:12)。そして、主が山から降りて来られた時、シナイ山全山に煙が立ち上り、激しく震えました。主は、それほど聖い方であり、だれも近づくことができない方なのです。

 

しかし、モーセだけは近づくことができました。神はモーセに、「主のもとに近づけ」と命じられました。ほかの者は近づくことはできません。ただモーセだけが近づくことを許されたのです。それで、モーセは、主のすべてのことばと、すべての定めをことごとく民に告げました。

すると、民はみな声を一つにして答えました。「主の言われたことはすべて行います。」彼らとしては、本気でそう思ったのでしょう。しかし、それはあまりにも浅はかで、軽いものでした。主が言われたことをすべて行うなどできるはずがありません。洗礼式の中で誓約を行いますが、その中には「あなたは、聖霊の恵みに信頼し、キリストのしもべとして、ふさわしく生きることを願いますか。」とか、「あなたは、自分の最善を尽くして、教会の礼拝を守り、教会員としての務めを果たし、あかしの生活をすることを願いますか」とあります。そこで「行いますか」ではなく「願いますか」とあるのは、それを完全に行うことはできないからです。できないけれども、そのように願うのです。

しかし、イスラエルの民は「主が言われたことをすべて行います」と答えました。彼らは自分たちの弱さや限界を理解していませんでした。もし律法が要求していることを正しく理解していないと、形式的な信仰に陥ってしまうことになります。イエス様の時代になって、イエス様が律法学者やパリサイ人たちを激しく糾弾されたのはそのためです。彼らは自分では神の律法を行っているつもりでしたが、それは中身のない形だけのものでした。そうした律法学者やパリサイ人たちの形式的な信仰の芽は、すでにこの時点で存在していたと言えます。メシアとして来られたイエス様は、こうした彼らの律法の解釈を正そうとされました。

 

こうした形式的な信仰は、私たちにも見られることがあります。しかし、主が求めておられることはこうした形式的な律法主義ではなく、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主を愛することです。私たちは神の聖さを知り、そこに自分の限界を悟りながら、主の恵みに拠り頼んで、心から主を愛する者でありたいと思います。それは、私たちの内側に真実な信仰と愛の実質が伴うことなのです。

 

2.契約の血(4-8)

 

次に4節から8節までをご覧ください。

「4 モーセは主のすべてのことばを書き記した。モーセは翌朝早く、山のふもとに祭壇を築き、また、イスラエルの十二部族にしたがって十二の石の柱を立てた。5 それから彼はイスラエルの若者たちを遣わしたので、彼らは全焼のささげ物を献げ、また、交わりのいけにえとして雄牛を主に献げた。6 モーセはその血の半分を取って鉢に入れ、残りの半分を祭壇に振りかけた。7 そして契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らは言った。「主の言われたことはすべて行います。聞き従います。」8 モーセはその血を取って、 民に振りかけ、 そして言った。 「見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、主があなたがたと結ばれる契約の血である。 」」 それで、モーセは主のことばをことごとく書き記しました。そして翌朝早く、山のふもとに祭壇を築き、イスラエルの12の部族にしたがって12の石の柱を立てました。祭壇は、主の臨在の象徴であり、12の石の柱は、イスラエル12部族を象徴していました。 それはこの12部族が主と契約を締結した記念のしるしであるばかりか、主が彼らとともにいてくださるということの象徴でもありました。

 

それからモーセはイスラエルの若者たちを遣わしたので、彼らは全焼のささげ物を献げ、また、交わりのいけにえとして雄牛を主に献げました。そしてその血の半分を取って鉢に入れ、残りの半分を祭壇に振りかけました。どういうことでしょうか。これは血によって結ばれる契約であるということです。アブラハムが神と契約を結んだ時にも、血が流されました(創世記15:9-21)。

 

そして契約の書を取り、民に読んで聞かせると、彼らは「主の言われたことはすべて行います。聞き従います。」と言ったので、モーセは鉢にとったもう半分の血を、民に振りかけました。これは、主が彼らと結ばれる契約の血です。この血によって契約は結ばれ、効力を持ちます。祭壇に注がれた血は主に対するものであり、民に注がれた血は、民が神と結ばれたことを意味するものでした。これはどういうことかというと、神との契約の土台となるのは、いけにえの血であるということです。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。

この血は、キリストが十字架で流された血潮を予表していました。私たちはキリストの流された血の振りかけを受けたことによって、罪の赦しという神との契約を結ぶことができたのです。そのことを、へブル9:15-22でこのように説明してあります。

「15 キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反から贖い出すための死が実現して、召された者たちが、約束された永遠の資産を受け継ぐためです。16 遺言には、遺言者の死亡証明が必要です。17 遺言は人が死んだとき初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間には、決して効力を持ちません。18 ですから、初めの契約も、血を抜きに成立したのではありません。19 モーセは、律法にしたがってすべての戒めを民全体に語った後、水と緋色の羊の毛とヒソプとともに、子牛と雄やぎの血を取って、契約の書自体にも民全体にも振りかけ、20 「これは、神があなたがたに対して命じられた契約の血である」と言いました。21 また彼は、幕屋と、礼拝に用いるすべての用具にも同様に血を振りかけました。22 律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。」

初めの契約とは、このシナイ契約のことです。初めの契約も、血を抜きに成立したのではありません。モーセは、律法にしたがってすべての戒めを語った後で、子牛や雄やぎの血を取って、それを祭壇と契約の書に、そして民全体に振りかけたのです。それはキリストによってもたらされる新しい契約を指し示していたのです。

 

主イエスは同じ表現を用いて、最後の晩餐の席でこう言われました。「26 また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」27 また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。28 これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」(マタイ26:26-28)

この杯は何を表していたのでしょうか。それは、多くの人のために、罪の赦しのために流される、主の契約の血です。この血の注ぎがなければ、罪の赦しはありません。しかし、主イエスがそのいけにえとなって死んでくださったことによって、その流された血の注ぎかけを受けたことで、私の罪は赦されたのです。

 

クリスチャンとは、このキリストの血による契約にサインをした人のことを言います。そのサインとは、キリストの血の注ぎかけを受けるということ、すなわち、キリストの十字架の贖いを信じるということです。あなたが信仰によってキリストの十字架の贖いを信じるなら、罪の赦しという神との契約を結ぶのです。

 

Ⅲ.神との平和(9-11)

 

9節から11節までをご覧ください。

「それからモーセとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は登って行った。10 彼らはイスラエルの神を見た。御足の下にはサファイアの敷石のようなものがあり、透き通っていて大空そのもののようであった。11 神はイスラエルの子らのおもだった者たちに、手を下されなかった。彼らは神ご自身を見て、 食べたり飲んだりした。」

 

それからモーセとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老70人は登って行きました。何のためでしょうか。神と共に食事をし、交わりを持つためです。ここには、「彼らはイスラエルの神を見た」とあります。神を見たとは言っても、神の姿を見たわけではありません。彼らが見たのは、神の臨在に伴う神の栄光でした。それは宝石のように輝いていました。御足の下にはサファイアの敷石のようなものがあり、透き通っていて大空そのもののようでした。神は聖なる方なので、だれも近づくことができません。まして、神を見るなどもってのほかです。神を見たなら死ぬというのが、イスラエル人の一般的な認識でした。しかし、神は彼らに手を下されませんでした。彼らは特別の恵みをいただいたのです。なぜなら、彼らの罪は赦され、聖められたからです。そればかりではありません。彼らは神を見て、食べたり飲んだりしました。親しい交わりを持つことができました。これは和解のいけにえ、交わりのいけにえを共に食べたということです。

 

これは、主の晩餐を表していました。主の晩餐は、主との新しい契約に入れていただいた者が、キリストの死を記念し、その再臨を覚えるために、私たちに与えられたものです。それは罪が赦された者が、主との親しい交わりを持つことを表しています。私たちはキリストの十字架の贖いによって、父なる神と交わることができるようになりました。それはキリストの血による新しい契約です。神との交わりを与えてくださった主に感謝しましょう。

 

Ⅳ.主のみことばを聞くために(12-18)

 

最後に、12節から18節までをご覧ください。

「12 主はモーセに言われた。 「山のわたしのところに上り、そこにとどまれ。わたしはあなたに石の板を授ける。 それは、彼らを教えるために、 わたしが書き記したおしえと命令である。 」13 そこで、モーセとその従者ヨシュアは立ち上がり、モーセは神の山に登った。14 彼は長老たちに言った。「私たちがあなたがたのところに戻って来るまで、私たちのために、ここにとどまりなさい。 見よ、 アロンとフルがあなたがたと一緒にいる。訴え事のある者はだれでも彼らのところに行きなさい。」15 モーセが山に登ると、雲が山をおおった。16 主の栄光はシナイ山の上にとどまり、雲は六日間、山をおおっていた。七日目に主は雲の中からモーセを呼ばれた。17 主の栄光の現れは、 イスラエルの子らの目には、 山の頂を焼き尽くす火のようであった。18 モーセは雲の中に入って行き、山に登った。そして、モーセは四十日四十夜、山にいた。」

 

主はモーセに、「山のわたしのところに上り、そこにとどまれ。」と言われました。それは、神から石の板を受けるためです。それは、主がイスラエルの民を教えるために、主ご自身が下記記された教えと命令です。

 

そこで、モーセとその従者ヨシュアが立ち上がり、モーセが神の山に登りました。ヨシュアは一緒に行きましたが頂上までではなく、途中で待機していました。モーセは、自分がいなくなった後をアロンとフルに任せました。彼らは、アマレクとの戦いの時に、モーセの両手を支えた人たちです(出17:12)。

モーセが山に登ると、どのようになったでしょうか。まず雲が山をおおいました。主の栄光はシナイ山の上にとどまり、雲は6日間、山をおおいました。そして7日目に、主はモーセを呼ばれました。山のふもとにいたイスラエルの民の眼には、主の栄光の現れは、山の上の頂を焼き尽くす火のようでした。モーセは雲の中に入って行き、そこで40日40夜、いました。その間彼は、断食していたことがわかります。申命記9:9には、「私が石の板、すなわち、主があなたがたと結んだ契約の板を受け取るために山に登ったとき、私は四十日四十夜、山にとどまり、パンも食べず水も飲まなかった。」とあるからです。それはモーセにとっても、決して楽な時間ではなかったでしょう。どうしてこれほどの時間がかかったのでしょうか。そこで主がご自身の教えを語られるからです。彼は主なる神との交わりの中で、神の声を聞き、それを民に伝えなければなりませんでした。その神の御声を聞かなければならなかったのです。

 

神の御声を聞くということは、楽なことではありません。時間がかかります。時にはこの時のモーセのように断食して聞くということもあるかもしれません。ですから、主のみことばを聞くためには、私たちも聖別して、忍耐をもって聞かなければならないのです。しかし、そのようにして主の御声を聞くなら、そこに主の栄光が現れるでしょう。主との交わりの中でこそ主の栄光を受け、真に輝いて生きることができるのです。あなたは、どのように主のみことばと取り組んでいますか。毎日の忙しい生活の中であなたの手と足を止め、山の中に入って行き、そこで主の御声を聞く時をしっかりと持ってください。

ヨハネ19章1~30節「十字架につけられたイエス」

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今週は受難週となります。ですから、いつもの講解説教をお休みしてヨハネが語る十字架の意味についてご一緒に学びたいと思います。十字架は、イエス・キリストの生涯のクライマックスです。キリストはなぜ十字架につけられなければならなかったのでしょうか。

 

Ⅰ.十字架につけろ(1-16a)

 

まず、1節から7節までをご覧ください。

「1 それでピラトは、イエスを捕らえてむちで打った。2 兵士たちは、茨で冠を編んでイエスの頭にかぶらせ、紫色の衣を着せた。3 彼らはイエスに近寄り、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、顔を平手でたたいた。4 ピラトは、再び外に出て来て彼らに言った。「さあ、あの人をおまえたちのところに連れて来る。そうすれば、私にはあの人に何の罪も見出せないことが、おまえたちに分かるだろう。」5 イエスは、茨の冠と紫色の衣を着けて、出て来られた。ピラトは彼らに言った。「見よ、この人だ。」6 祭司長たちと下役たちはイエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは彼らに言った。「おまえたちがこの人を引き取り、十字架につけよ。私にはこの人に罪を見出せない。」7 ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。その律法によれば、この人は死に当たります。自分を神の子としたのですから。」

 

「それでピラトは」の「それで」とは、その前の18章40節の言葉を受けてのことです。ピラトはイエスに何の罪も認められなかったのでイエスを釈放したいと思ったのですが、そのことをユダヤ人たちに尋ねると、彼らが大声で「その人ではなく、バラバを」と言ったので、ピラトは、仕方なくイエスを捕らえてむちで打ちました。

 

当時のむち打ちは、先端に動物の骨や金属がつけられた長い皮のひもで打たれたので、すぐに肉体が引き裂かれ、耐えがたい苦痛が全身に走りました。十字架につけられる前に息絶えてしまう人もいたほどです。キリストはなぜむちで打たれなければならなかったのでしょうか。そもそもイエスには罪がありませんでした。それなのに、なぜむちで打たれなければならなかったのか。それは、旧約聖書の預言が成就するためでした。イザヤ書53章には、来るべきメシアについてこのように預言されてありました。

「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」(イザヤ53:4-5)

これが来るべきメシアの姿です。キリストは、私たちの背きのために罰せられ、打たれ、苦しめられますが、その懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒されるのです。それは私たちの罪のためであったのです。このようにキリストがむちで打たれることによって、この方こそメシアであるということが明らかにされました。それは、2節と3節で、兵士たちがイエスの頭に茨の冠をかぶらせ、紫色の衣を着せて、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、平手で顔をたたいたのも同じです。考えられますか。救い主の顔で殴るんですよ。どれほど罪深いことか・・。それはメシアが苦難を受けるというこのみことばが成就するためでした。

 

4節と5節をご覧ください。「ピラトは、再び外に出て来て彼らに言った。「さあ、あの人をおまえたちのところに連れて来る。そうすれば、私にはあの人に何の罪も見出せないことが、おまえたちに分かるだろう。」

ピラトは、イエスに罪がないことがわかっていました。彼はそのことを3回も繰り返して言っています。ここと、6節、それと18章38節です。しかし、彼らがなかなか納得しなかったので、痛めつけたイエス様の姿を見れば怒りも収まるのではないかと、イエスを官邸の外に連れて来て、こう言いました。「見よ、この人だ。」

 

すると、祭司長と役人たちは何と言ったでしょうか。6節、彼らはイエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ。」と叫びました。どんなにピラトが、「私にはこの人に罪を見出せいせない。」と言っても、彼らの怒りは収まりませんでした。なぜでしょうか。その理由が7節にあります。「ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。その律法によれば、この人は死に当たります。自分を神の子としたのですから。」どういうことですか?イエスが自分を神の子と主張したということです。それは彼らの律法、つまり旧約聖書の教えに違反することでした。律法によれば、そのような者は石打ちにされなければなりませんでしたが、彼らはローマに支配下にあったので、ローマの処刑法である十字架を要求したのです。

 

8節をご覧ください。ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れを覚えました。なぜでしょうか。なぜなら、彼らの要求を受け入れなければ、民衆の暴動に発展するかもしれないと思ったからです。もしそんなことにでもなれば、今度は自分の身が危うくなります。また、マタイ27:19を見ると、この時彼の妻が夢を見て、「あの正しい人と関わらないでください」と告げられていたので、ただならぬことが起こっていると感じていたのです。

 

それでピラトは再び総督の官邸に入り、イエスに尋ねました。「あなたはどこから来たのか」どこから来たのかと言っても、別に出身地を聞いているわけではありません。いったいあなたは誰なんですか。どこから来たんですか。本当に神のもとから来たんですか、ということです。しかし、イエスは何も答えませんでした。答える必要がなかったからです。なぜなら、もう何度も語られたからです。あとは信じるだけです。それなのに最も肝心なことから逃げて回りくどい質問に繰り返して答えるのは意味がありません。するとピラトはイラッとしたのか、少し語気を強めて言いました。「私に話さないのか。私にはあなたを釈放する権威があり、十字架につける権威もあることを、知らないのか。」(10)

 

すると、イエスは答えて言われました。「上から与えられていなければ、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに引き渡した者に、もっと大きな罪があるのです。」(11)

ピラトは自分に権威があると思っていましたが、それは間違っていました。ほんとうの権威は神にあります。そして、神がこの地上を治めるためにその権威を彼に与えておられるのにすぎないのに、彼は自分に権威があると錯覚していました。ですから彼は神の権威を認めてイエスを釈放すべきだったのに、それをしませんでした。なぜでしょうか?人を恐れたからです。ユダヤ人たちを恐れたのです。自分の立場を守ろうとして正しいことを行いませんでした。そういう意味では彼も、罪を免れることはできません。この人には罪がないと認めていても、結局、彼も多勢にくみすることになってしまいました。

箴言29:25には、「人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は高い所にかくまわれる。」とあります。人を恐れるのではなく神を恐れ、神に信頼しましょう。

 

しかし11節でイエスは、こうも言っています。「ですから、わたしをあなたに引き渡した者に、もっと大きな罪があるのです。」どういうことでしょうか。「わたしをあなたに引き渡した者」とは、ユダヤ人たちのことです。彼らは聖書を知っていて、神のみこころが何であるのかを知っていたにもかかわらず、イエスを拒みました。いや、十字架に引き渡ししました。ですから、彼らにはもっと大きな罪があるのです。

 

12節から16節前半までをご覧ください。

「12 ピラトはイエスを釈放しようと努力したが、ユダヤ人たちは激しく叫んだ。「この人を釈放するのなら、あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とする者はみな、カエサルに背いています。」13 ピラトは、これらのことばを聞いて、イエスを外に連れ出し、敷石、ヘブル語でガバタと呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。14 その日は過越の備え日で、時はおよそ第六の時であった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「見よ、おまえたちの王だ。」15 彼らは叫んだ。「除け、除け、十字架につけろ。」ピラトは言った。「おまえたちの王を私が十字架につけるのか。」祭司長たちは答えた。「カエサルのほかには、私たちに王はありません。16 ピラトは、イエスを十字架につけるため彼らに引き渡した。」

 

ピラトはイエスを釈放しようと努力しましたが、ユダヤ人たちの激しい抵抗によってできませんでした。彼らはピラトに激しく言いました。「この人を釈放するなら、あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とする者はみな、カエサルに背いています。」

「カエサル」とは、ローマ皇帝の称号です。そんなことをするなら、あなたはカエサルの友でない、自分を王とする者はカエサルに背いているのだから、イエスを釈放するなんて考えられない、そんなことをするならカエサルに訴えるぞと、ピラトを脅しているのです。

結局、ピラトは彼らの脅しに負けて、イエスを外に連れ出し、へブル語で「ガバタ」と呼ばれる場所で、裁判を行うことにしました。そして、ユダヤ人たちに、「見よ、おまえたちの王だ。」と言うと、彼らはまたも激しく叫びました。「除け、除け、十字架につけろ。」このように叫んだ人たちの中には、ちょっと前にイエスがエルサレムに入場したときに、しゅろの木の枝を持って、「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。」と叫んだ人たちもいたでしょう。彼らは、イエスが自分たちの期待していたメシアではないと気づくと、手のひらを返したような態度を取ったのです。

一方、ピラトは何が正しいのかをよく知っていました。しかし彼は、ユダヤ人たちの激しい声に負け、イエスを十字架につけるために彼らに引き渡しました。彼は、自分の立場を守るためにイエスを彼らに引き渡したのです。

 

何ということでしょう。ユダヤ人もユダヤ人であれば、ピラトもピラトです。彼らは自分たちの立場とか、自分たちの考えとか、自分たちのことしか考えられませんでした。こうした人々の罪のために、キリストは十字架に引き渡されたのです。私たちはこの記事を読んで「何とひどいことを」と思うかもしれませんが、実は私たちも五十歩百歩、彼らと何も変わらない罪人なのです。聖書は、「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、」(ローマ3:23)と言っています。その罪のために、キリストは十字架につけられたのです。

 

クリスチャントゥデイに、こんなコラムがありました。幼い弟が、庭先で空に向かって棒を振り回していました。それを見た兄が「何をしているのか?」と聞くと「空の星を取るんだ」と言いました。すると兄が言いました。「そこでは届かない。屋根の上に登れ」

確かに庭先と屋根の上では高さに大きな差があります。しかし神の目から見ればその差などあってないに等しいものです。私たちは他人と比べてあの人より自分は正しいと思っているかもしれませんが、実はそうではないのです。私たちも彼らと同じ罪人であり、その罪のためにキリストは十字架に引き渡されたのです。

 

Ⅱ.十字架につけられたイエス(16b-24)

 

次に、16節後半から24節までをご覧ください。16節から18節をお読みします。

「16 彼らはイエスを引き取った。17 イエスは自分で十字架を負って、「どくろの場所」と呼ばれるところに出て行かれた。そこは、ヘブル語ではゴルゴタと呼ばれている。18彼らはその場所でイエスを十字架につけた。また、イエスを真ん中にして、こちら側とあちら側に、ほかの二人の者を一緒に十字架につけた。」

 

イエスは、自分で十字架を負って、「どくろの場所」と呼ばれるところに出て行かれました。「どくろの場所」とは、へブル語では「ゴルゴタ」、ラテン語では「カルバリ」と呼ばれている所です。イエスは、自分で十字架を負って、ゴルゴタに出て行かれたのです。前の晩からの不正な裁判で相当疲れもあったでしょう。また体も大分弱っていたに違いありません。ルカの福音書によると、イエスがゴルゴタに向かう途中、十字架を背負って歩くのが困難になったため代わりにクレネ人シモンという人が十字架を担いだとありますが、ヨハネはそのことについては一切触れていません。それは、イエスが自ら進んでいのちを捨てるために十字架に向かって行かれたことを強調したかったからでしょう。彼らはその場所でイエスを十字架につけました。また、イエスを真中にして、こちら側とあちら側に、ほかに二人の犯罪人を一緒に十字架につけました。ですから、そこには3本の十字架が立てられていたわけです。罪の無い方が、罪人の一人として数えられました。どうしてでしょうか?そのように旧約聖書に預言されてあったからです。イザヤ書53:12には、こうあります。「それゆえ、わたしは多くの人を彼に分け与え、彼は強者たちを戦勝品として分かち取る。彼が自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。」

この預言のとおりにイエスは自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたのです。

 

それにしてもヨハネは、十字架の苦しみについては全く語らず、ただその事実だけを伝えています。なぜでしょうか。それは当時の人たちが、十字架の苦しみというものがどれほどのものであったのかを、よく知っていたからです。彼らはその場所でイエスを十字架につけたというだけで十分でした。それだけでピンときました。しかし、イエスの苦しみは肉体の苦しみ以上に、霊的苦しみが伴うものでした。というのは、キリストは私たちすべての罪を背負って死なれたからです。罪を負われるということは、父なる神との関係が断たれることを意味していました。なぜなら、神は罪ある者と共にいることはできないからです。ですから、イエスが全人類の罪を負われたということは、その瞬間神との関係が断たれたのです。世が始まる前から、永遠の初めから持っておられた父なる神との親しい関係が、罪ある者とされた瞬間に断たれてしまったのです。このような霊的な苦しみの方が、はるかに辛いことでした。

 

19節をご覧ください。ピラトは罪状書も書いて、十字架の上に掲げました。それはその囚人がどんな罪を犯したのかを人々が見るためです。当時のローマの慣習では囚人の首にぶら下げることになっていましたが、イエスの罪状書きは、十字架の上に掲げられました。それは誰からもよく見えるようにするためでした。そこには何と書いてありましたか?そこには、「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」と書かれてありました。しかも、それはヘブル語とラテン語とギリシャ語で書かれてありました。すべての人が理解できるようにするためです。そこは都に近かったので、多くの人々が各地から集まっていました。へブル語はユダヤ人にわかるように、ラテン語は当時の公用語でローマ兵たちが使っていました。ギリシャ語は多くの人たちが使っていた言葉です。ですから、このようにへブル語とラテン語とギリシャ語で書かれてあったことで、すべての人が理解することができました。つまり、イエスはすべての人の罪のために死なれたということです。ピラトはユダヤ人たちを皮肉って書いたつもりでしたが、逆にそれが真実を示すことになりました。そうです、イエスはユダヤ人の王だけでなく、全世界の救い主なのです。

 

するとユダヤ人の祭司長たちはピラトに、「ユダヤ人の王と書かないで、この者はユダヤ人の王と自称したと書いてください。」と訴えました。しかし、ピラトはユダヤ人たちに対する腹いせもあったのでしょう、そんなの知ったことか、私が書いたものは、書いたままにしておけと言って、書き換えることをしませんでした。ピラトはイエスが無実であると3度も宣言して釈放しようとしたのに、彼らに脅されてできなかったからです。今さら強がって見ても無駄です。罪の無い方を死刑にしたという事実は変わりません。それゆえ、彼は責任を逃れることはできないのです。私たちは毎週礼拝で使徒信条を告白していますが、そこには「ポンテオ・ピラトのもとに十字架につけられ・・」とあります。不名誉にも、彼の名はこのような形で語り告げられることになってしまいました。実際はユダヤ人たちの方が悪いのに、ユダヤ人たちの陰謀によって十字架につけられたのに、このようにピラトの名が語り告げられるようになったのは、こうした彼の優柔不断さというか、ユダヤ人たちの脅しに負けて正義を曲げてしまったからであり、その罪から逃れることはできません。

 

23節ご覧ください。兵士たちはイエスを十字架につけると、その衣を取って四つに分け、各自に一つずつ渡るようにしました。また下着も取りましたが、それは上から全部一つに織った、縫い目のないものであったので、それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引くことにしました。いったいなぜこんな小さなことまで聖書にかかれてあるのでしょうか。これも旧約聖書のことばが成就するためでした。「彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします」

これは詩篇22:18にあるみことばですが、このみことばが成就するためだったのです。このような聖書の箇所を見ると、これは後で旧約聖書の預言と辻褄を合わせようしたのではないかと疑う人がいますが、そうではありません。だってこの兵士たちは敵でしょう。敵がわざわざ辻褄を合わせるようなことをするわけがありません。こういうことからも、聖書が真実であるということは明らかです。

 

Ⅲ.完了した(25-30)

 

最後に、25節から30節までをご覧ください。まず27節までをご覧ください。

「兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリアとマグダラのマリアが立っていた。イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。」

 

イエスの十字架のそばには、イエスの母マリアとその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていました。たくさんのマリアです。彼女たちはイエスを愛して最後までつき従って来た人たちです。そして、イエスは母とそばに立っている愛する弟子を見て、母にこう言われました。「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です。」

マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書を見ると、イエスは十字架の上で七つのことばを発せられたことがわかりますが、これはその最初の言葉です。愛する弟子とは、この福音書を書いているヨハネのことですが、「ここに、あなたの息子がいる」と言われました。そして、ヨハネには、「ご覧なさい。あなたの母です。」と言われました。つまり、イエスはヨハネに、母マリアの今後の世話を任せたのです。不思議ですね。マルコの福音書を見ると、イエスには他に4人の兄弟と2人の妹たちがいたことがわかります。であれば、その弟や妹たちに母の世話を任せるのが普通かと思いますが、それを弟子のヨハネにゆだねたのです。それは、この時点ではまだ弟たちが信仰を持っていなかったからでしょう。それで神の家族である弟子のヨハネにゆだねたのです。十字架の上の極限の苦しみの中でも、イエスはこのような形で母に対する愛と思いやりを示されました。それは、この方に信頼する者は、決して失望させられることがないことを示すためでもあったのです。

 

28節から30節までをご覧ください。

「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。そこには酸いぶどう酒のいっぱい入った入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。」

それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われました。この聖書の預言は、詩篇69:21のみことばです。そこには、「彼らは私の食物の代わりに、苦味を与え、私が渇いたときには酢を飲ませました。」とあります。このみことばが成就するために、このように言われたのです。この渇きは肉体的な渇きとともに霊的な渇きを意味していました。イエスは私たちが罪のゆえに、私たちが本来受けなければならない地獄の苦しみを代わりに負ってくださったのです。黙示録20:14には、それは「火の池」とあります。イエスは私たちの罪の身代わりとなって火の池で渇いてくださいったのです。それは私たちが永遠に渇くことがないためです。

 

そして、30節にはイエスの最後の言葉が記されてあります。それは「完了した」です。ギリシャ語では「テテレスタイ」です。これは勝利の宣言でもあります。すべてが終わった!神の救いのご計画はすべて完了しました。この「テテレスタイ」という言葉は、当時、商人たちの間で使われていた言葉で、完済したことを表しました。相手に支払わなければならない借金をすべて支払った時、「テテレスタイ」と宣言したのです。完了した!だから、私たちも住宅ローンを完済した時には「テテレスタイ」と宣言することができます。

 

またこの言葉は、奴隷たちが自分に与えられた仕事が終わったとき、その主人に報告する時にも使われました。「終わりました」「テテレスタイ」イエスは、従順な神のしもべとして父なる神から与えられた罪の贖いという仕事を完全に成し遂げられました。罪のない子羊が私たちの罪のためになだめの供え物として神にささげられたことで、私たちの罪の負債のすべてが支払われたのです。あなたの罪の借金、私の罪の借金はあまりにも莫大でとても負い切れるものではありませんでしたが、神ご自身が私たちの代わりに支払ってくださいました。それが子羊となって十字架で死なれたイエス・キリストです。イエス・キリストによって罪の負債がすべて支払われたのです。完了しました。テテレスタイ!イエス様は、そのように言われると、頭を垂れて父なる神に霊をゆだねられました。

 

この福音書を書いたヨハネは、この十字架のシーンを目撃しました。彼は3年半の間イエスのそばにいて、イエスの心臓の音を聞きながら、イエスの権威ある教えを聞き、その奇しい御業を見ました。そして最後にこの十字架のシーンを目撃してこれを書いたのです。いったいなぜイエスは十字架につけられたのでしょうか。それは、私たちを罪から救うためでした。私たちは、このままでは自分の罪のために滅びても仕方ない者でしたが、あわれみ豊かな神は、私たちに大きな愛を示してくださいました。それが十字架です。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

ヨハネが言いたかったことはこのことだったのです。キリストは、私とあなたの罪のために十字架にかかって死んでくださいました。この十字架につけられたキリストを信じるなら、どんな人でも永遠のいのちが与えられます。

 

ジェフリー・ダーマー(Jeffrey Lionel Dahmer、1960~1994)は、「ミルウォーキーの怪物」と言われた男です。彼は17人の青少年を殺し、彼のアパートから11の遺体が発見されました。彼は被害者の体をバラバラに切断し、頭蓋骨を冷蔵庫に保管し、心臓を貯蔵し、肉片の一部を食べたことも自供しました。

法廷でのダーマーの写真を見ると、どれも凍り付いたような表情をして微動だにせず座っています。自責の念も見られず、後悔している様子も全く見られません。遺族にしてみればそんな彼を何回死刑にしても満足することはないでしょう。アメリカ中の人々はジェフリー・ダーマーの異常な殺人に騒然としましたが、それ以上に人々を驚かせることがその後に起こりました。

彼が獄中でイエス・キリストを救い主と信じたのです。彼は、最期は囚人仲間の1人に殺されますが、その何か月か前に信仰を持ち、そして「私は本当にひどいことをしてしまった。自分のしたことを本当に申し訳なく思っている。遺族の方に心から詫びたい」と謝罪しました。そして彼は洗礼を受け、聖書を読み、刑務所内のチャペルに通うようになったのです。

彼は「自分の罪は神の前に赦され、天国への希望が与えられ、今はとても平安です」と告白しました。ある人たちは困惑しました。「あんな殺人鬼を神は救われるはずがない」と公言する人もいました。しかし思い出してください。二千年前イエス・キリストが十字架につけられたとき、同じように十字架刑に処せられた強盗の男がイエスに向かって言ったことを。

「イエス様、あなたが御国に入れられるときには、私を思い出してください。」(ルカ23:42)そのときイエスは何と言われましたか。イエスはその強盗に即座に言われました。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)

ジェフリー・ダーマーも同じことをしたのです。そして彼も同じ答えをイエス様からもらいました。それはジェフリー・ダーマーだけではありません。私たちも同じです。神は自分の罪を悔い改める者に、即座に罪の赦しと永遠のいのちを与えてくださるのです。あなたは自分がジェフリー・ダーマーや十字架の強盗と比べればはるかに良い人間だと言われますか。しかし、神の眼には同じです。義人はいません。一人もいません。すべての人が罪を犯しました。そもそも神を信じないことが罪だと聖書は言っています。本来であれば、私たちも十字架で死ななければならない者です。しかし、そんな私たちのためにキリストが身代わりに死んでくださいました。あなたも例外ではありません。キリストはあなたのために死んでくださいました。キリストは十字架の上で「完成した」と宣言してくださいました。あとは、あなたがこの知らせを聞いて、信じて受け入れるだけでいいのです。だから、この知らせは「福音」、「良い知らせ」なのです。あなたが何か良いことをしたからではなく、何かそのために修行したからでもなく、この十字架であなたの身代わりとなって死んでくださったキリストを信じるだけで、あなたの罪も赦されるのです。キリストが十字架で死なれたのはそのためだったのです。ここに神の愛があります。どうぞこの愛を受け取ってください。すでにこの愛を受け取った方は、いろいろな困難や試練、失敗に遭うかもしれません。しかし、最後までこの愛にとどまり続けましょう。この試練もまた、あなたの信仰が成長するために神から与えられた恵みなのです。

Ⅰサムエル記17章1~30節

サムエル記第一17章前半から学びます。ここには、ダビデがペリシテ人ゴリヤテを倒すという有名な話が記されてあります。これを前半と後半の二つに分けて学びたいと思います。

Ⅰ.ペリシテ人ゴリヤア(1-11)

まず、1~11節までをご覧ください。
「1 ペリシテ人は戦いのために軍隊を召集した。ユダのソコに集まり、ソコとアゼカの間にあるエフェス・ダミムに陣を敷いた。2 一方、サウルとイスラエル人は集まってエラの谷に陣を敷き、ペリシテ人に対する戦いの備えをした。3 ペリシテ人は向かい側の山の上に構え、イスラエル人は手前側の山の上に構えた。その間には谷があった。4 一人の代表戦士が、ペリシテ人の陣営から出て来た。その名はゴリヤテ。ガテの生まれで、その背の高さは六キュビト半。5 頭には青銅のかぶとをかぶり、鱗綴じのよろいを着けていた。胸当ての重さは青銅で五千シェケル。6 足には青銅のすね当てを着け、背には青銅の投げ槍を負っていた。7 槍の柄は機織りの巻き棒のようであり、槍の穂先は鉄で、六百シェケルあった。盾持ちが彼の前を歩いていた。8 ゴリヤテは突っ立って、イスラエル人の陣列に向かって叫んだ。「何のために、おまえらは出て来て、戦いの備えをするのか。おれはペリシテ人、おまえらはサウルの奴隷どもではないか。一人を選んで、おれのところによこせ。9 おれと戦っておれを殺せるなら、おれたちはおまえらの奴隷になる。だが、おれが勝ってそいつを殺したら、おまえらがおれたちの奴隷になって、おれたちに仕えるのだ。」10 そのペリシテ人は言った。「今日、この日、おれがイスラエルの陣を愚弄してやる。一人をよこせ。ひとつ勝負をしようではないか。」11 サウルと全イスラエルは、ペリシテ人のことばを聞き、気をくじかれて非常に恐れた。」

ペリシテ人は戦いのために軍隊を招集しました。彼らはいつもイスラエルを攻撃する機会をうかがっていましたが、その好機がやって来たと判断したのです。それでユダのソコという所に集まり、ソコとアゼカの間にあるエフェス・ダミムに陣を敷きました。一方イスラエルは、エラの谷に陣を敷き、ペリシテ人に対する戦いの備えをしました。両者の間には谷があったので、お互いにそう簡単には相手側に攻め込むことができませんでした。それで、対峙したまま膠着状態が続いていたのです。

そのとき、一人の代表戦士がペリシテ人の陣営から出て来て、一つの提案をしました。それは、「一人を選んで、おれたちのところによこせ」(8)ということでした。つまり、代表戦士同士の戦いによって決着をつけようというものです。その戦いで負けた方は、勝った方の奴隷となって仕えなければなりませんでした。これは当時よく行われていた習慣でした。しかし、ペリシテ人の陣営から出て来た代表戦士は、普通ではありませんでした。その名はゴリヤテで、ガテの生まれで、背の高さは6キュビト半もありました。1キュビトは約44センチですから、6キュビト半ということは2メートル86センチになります。今年NBAで活躍している八村塁選手は2メートル3センチですから、それよりも80センチも高い巨人です。しかも、この男が装備していた武具がすごいです。頭には青銅のかぶとをかぶり、鱗綴じのよろいを着けていました。胸当ての重さは青銅で五千シェケル(約57キロ)です。足には青銅のすね当てを着け、背中には青銅の投げ槍を負っていました。槍の穂先は手地で、600シェケル(約6.8キロ)もありました。完全武装です。このゴリヤテが、イスラエル人の前に立って、「今日、この日、おれがイスラエルの陣営を愚弄してやる。一人をよこせ。ひとつ勝負しようではないか。」(10)と言って来たのです。

このペリシテ人ゴリヤテのことばを聞いた時、サウルと全イスラエルはどのように反応したでしょうか。11節をご覧ください。
「サウルと全イスラエルは、ペリシテ人のことばを聞き、気をくじかれて非常に恐れた。」ゴリヤテの目的は、まさにここにありました。非常に大きな武器を身につけ、その巨体を
見せつけて、脅し文句を口から吐くことで、彼らに恐れを抱かせようとしたのです。戦いに
おける最大の敵は心の中の恐れです。これを相手に抱かせることができれば、勝利を手中に
収めたと言っても過言ではありません。案の定、サウルもイスラエルの兵士たちも、恐れの
ために縮み上がり、立ち向かうことができませんでした。彼らはまんまとゴリヤテの戦法に
はまってしまったのです。

今、世界中をコロナウイルスの猛威が吹き荒れています。確かに、この問題を軽く見てはいけないでしょう。しかし、私たちはこの敵を見て恐れてはなりません。この敵の攻撃でさえ神のご支配の中にあり、神がすべてを働かせて益としてくださると信じ、神に信頼しなければならないのです。

C・S・ルイスが、このように言っています。「サタンは、「人々に不安や恐れ、パニックを引き起こし、ビジネスを停止させ、学校や礼拝所、スポーツイベントを閉鎖し、経済を混乱させてやる。」と主張するが、ジーザスは、「人々を一つにし、家庭を回復させよう。食卓に食べ物を並べ、みんながペースを落とし、人生の中の本当に大切なものに目を向けられるよう助けよう。子供たちには、この世ではなく、お金や物でもなく、私に信頼することを教えよう。」と言われる。」

それにしても、いったい彼らはなぜ恐れてしまったのでしょうか。その原因はどこにあったのでしょうか。それは元をたどれば、サウルが主に背いたことで、主の霊が彼から去って行ったことです。その結果、彼は勇気をもってゴリヤテに対抗することができませんでした。恐れは人を身動きできない状態に陥れ、苦しめます。しかし、神が共におられるなら、たとえ敵がどのような巨人であっても、また罵声によって脅してきても恐れる必要はありません。神が戦ってくださるからです。

もしあなたが神を信じ、神の前に正しく歩んでいるなら、突如襲ってくる悲劇を恐れる必要はありません。神があなたとともにいて戦ってくださるからです。あるいはそれは、より大きな勝利をもたらし、父なる神に栄光を帰す機会となるかもしれません。ですから、私たちにとって最も大切なのは敵がどのような者であるかではなく、誰と共に歩むのかということです。私たちが経験する悲劇は、より大きな勝利をもたらすための戦場であることを覚え、いつも神を第一とし、神とともに歩むことを求めましょう。

Ⅱ.戦場に遣わされたダビデ(12-23)

次に、12節から23節までをご覧ください。
「12 さて、ダビデは、ユダのベツレヘム出身の、エッサイという名のエフラテ人の息子であった。エッサイには八人の息子がいた。この人はサウルの時代には、年をとって老人になっていた。13 エッサイの上の三人の息子たちは、サウルに従って戦いに出ていた。戦いに行っていた三人の息子の名は、長男エリアブ、次男アビナダブ、三男シャンマであった。
17:14 ダビデは末っ子で、上の三人がサウルに従って出ていたのである。15 ダビデは、サウルのところへ行ったり、帰ったりしていた。ベツレヘムの父の羊を世話するためであった。16 例のペリシテ人は、四十日間、朝早くと夕暮れに出て来て立ち構えた。17 エッサイは息子ダビデに言った。「さあ、兄さんたちのために、この炒り麦一エパと、このパン十個を取り、兄さんたちの陣営に急いで持って行きなさい。18 この十個のチーズは千人隊の長に届け、兄さんたちの安否を確認しなさい。そして、しるしを持って来なさい。19 サウルと兄さんたち、それにイスラエルの人はみな、エラの谷でペリシテ人と戦っているから。ダビデは翌朝早く、羊を番人に預け、エッサイが命じたとおりに、言われた物を持って出かけた。彼が野営地に来ると、軍勢はときの声をあげて陣地に向かうところであった。21 イスラエル人とペリシテ人は、向かい合って陣を敷いていた。22 ダビデは、父からことづかった物を武器を守る者に預け、陣地に走って来て、兄たちに安否を尋ねた。23 ダビデが彼らと話していると、なんと、そのとき、あの代表戦士が、ペリシテ人の陣地から上って来た。ガテ出身のゴリヤテという名のペリシテ人であった。彼は前と同じことを語った。ダビデはこれを聞いた。」

ベツレヘムのエッサイには8人の息子がいましたが、そのうちの上の3人の息子たちが、サウルに従って戦いに出ていました。長男エリアブ、次男アビナダブ、三男シャンマがそれです。ダビデは末っ子で若かったので、戦いに行くことはできませんでした。彼はサウルのところへ行ったり、帰ったりしていました。サウルのところへ行ったのは、サウルがわざわいの霊によっておびえるときに竪琴を弾いて心を穏やかにさせるためです。ベツレヘムの自分の家に帰ったのは、羊を世話するためでした。彼がそのように王宮と家との間を行ったり来たりしているとき、例のペリシテ人ゴリヤテは、四十日間、朝早くと夕暮れに出て来て、イスラエルの軍勢をあざけり、罵倒していました。しかしダビデは、イスラエルが非常な危機に直面していることを、まだ知りませんでした。

そんな時です。父エッサイから兄さんたちのために、炒り麦1エパと、パン10個を陣営に急いで持って行くようにと言われました。エッサイは老人になっていたので、自分で行くことができなかったので、ダビデを遣わすことにしたのです。遣わした目的は、3人の息子たちの安否を確かめることでした。入り麦とパンとチーズを千人隊長に届けたのは、息子たちの安否を確かめ、彼らを安全な所に置いてもらうように依頼するためだったのでしょう。そして、彼らが無事であるというしるし(証拠)を持ち変えるようにと命じました。

それでダビデは翌朝早く、父エッサイに言われたとおりに、羊を番人に預け、言われた物を持って出かけて行きました。それはちょうど軍勢が陣地に向かうところでした。ダビデは、父からことづかった物を武器を守る者に預け、陣地に向かって走って行き、兄たちに安否を尋ねると、なんと、ちょうどそのとき、ゴリヤテがペリシテ人の陣営から上って来たのです。それでダビデは、ゴリヤテの言葉を聞いたのです。

これは小さなことのようですが決して偶然のことではなく、主の導きによるものでした。ちょっとした出来事ですが、ここにも神の摂理の御手が働いているのを見ることができます。このことによってダビデはゴリヤテの罵声を聞くことになったからです。そして、このことが事態の転換点となりました。それは人間が計画したことではなく、神から出たことでした。父エッサイは息子たちの安否を気遣ってダビデを戦場に送りましたが、ダビデを戦場に送り、ゴリヤテと戦うように導かれたのは神です。私たちの人生にもこのようなことが起こります。自分の人生に起こっていることがどういうことなのかわからないことがありますが、すべては神の導きによるのです。神は私たちの計画を用いて、それよりもさらにすばらしいことを成さろうとしておられるのです。それゆえ、私たちにも求められていることは、そこに神の不思議な摂理の御手を認めることです。
「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。」(箴言3:5-6)
心を尽くして主に拠り頼むなら、主があなたの道もまっすぐにしてくださるのです。

Ⅲ.生ける神の陣(24-30)

その結果、どのようなことが起こったでしょうか。24節から30節までをご覧ください。
「24 イスラエルの人はみな、この男を見たとき、彼の前から逃げ、非常に恐れた。25 イスラエルの人々は言った。「この上って来た男を見たか。イスラエルをそしるために上って来たのだ。あれを討ち取る者がいれば、王はその人を大いに富ませ、その人に自分の娘を与え、その父の家にイスラエルでは何も義務を負わせないそうだ。」26 ダビデは、そばに立っている人たちに言った。「このペリシテ人を討ち取って、イスラエルの恥辱を取り除く者には、どうされるのですか。この無割礼のペリシテ人は何なのですか。生ける神の陣をそしるとは。」27 兵たちは、先のことばのように、彼を討ち取った者には、これこれをされる、と言った。28 兄のエリアブは、ダビデが人々と話しているのを聞いた。エリアブはダビデに怒りを燃やして言った。「いったい、おまえは、なぜやって来たのか。荒野にいるあのわずかな羊を、だれに預けて来たのか。私には、おまえのうぬぼれと心にある悪が分かっている。戦いを見にやって来たのではないのか。」29 ダビデは言った。「私が今、何をしたというのですか。一言、話しただけではありませんか。」30 ダビデは兄から別の人の方に向き直り、同じことを尋ねた。すると、兵たちは先ほどと同じ返事をした。」

ゴリヤテは上ってくると、イスラエル軍を罵倒しました。それを聞いたイスラエルの人はみな、非常に恐れ、彼の前から逃げ出しました。彼らは、ゴリヤテを討ち取る者がいれば、サウルがその者に多額の賞金を与え、自分の娘を妻として与え、その者の家の者には兵役や納税の義務を免除するということを聞いていましたが、だれもゴリヤテと戦おうとする者はいませんでした。

しかし、ダビデだけは例外でした。彼は生ける神の陣をそしるゴリヤテに対して、そばに立っている人たちに言いました。「このペリシテ人を討ち取って、イスラエルの恥辱を取り除く者には、どうされるのですか。この無割礼のペリシテ人は何なのですか。生ける神の陣をそしるとは。」(26)
すごいですね。自分の倍もあるような巨人を目の前にしても、ダビデにとってそんなことは全く関係ありませんでした。彼にとって重要だったことは、だれと共におられるのかということでした。確かに敵は強そうに見えましたが、彼は無割礼の者です。しかし、こちらには生ける神がついています。その生ける神の陣をそしるというのは、神ご自身をそしることであって、決して許されることではありません。ダビデは、この敵に義なる憤りを感じました。ここにダビデの信仰を見ることができます。

ダビデが人々と話しているのを見た兄のエリアブは、ダビデに怒りを燃やして言いました。「いったい、おまえは、なぜやって来たのか。荒野にいるあのわずかな羊を、だれに預けて来たのか。私には、おまえのうぬぼれと心にある悪が分かっている。戦いを見にやって来たのではないのか。」(28)
エリアブは、なぜダビデに怒りを燃やしたのでしょうか。ダビデの言動が生意気だと思ったからでしょう。確かに人間的に見れば、ダビデの言動は横柄に見えたかもしれません。しかし、問題はダビデの態度ではなく、エリアブがダビデのことを何も理解していなかったことです。彼は、ダビデが羊を置き去りにして勝手にやって来たかのように思ったようですが、そうではなく彼は父に頼まれて来たのです。しかも、羊はちゃんと番人に預けて来ました。ですから、ダビデはただの興味本位で来たわけではなく、自分に与えられた責任を果たすために来たのです。エッサイは、そのことを分かっていませんでした。

そんなエリアブに対してダビデは何と言ったでしょうか。「私が今、何をしたというのですか。一言、話しただけではありませんか。」彼は兄の無理解な態度に怒ることなく、丁重に反論しつつも、自分に与えられた使命をしっかりと果たしました。これがもしサウルだったらどうだったでしょうか。自分が悪く言われたことで、非常に怒って、そのことをずっと思っていたでしょう。これが、人を恐れる人と、神のことを思っている人の違いです。

このようなことが私たちの人生にもよくあります。主の働きに献身しようとするとき、あるいは意味のある働きを始めようとするとき、一番近くにいて応援してもらいたいと思っていた人たちから理解してもらえなかったり、蔑まれたりすることがあるのです。それでも、ダビデが、そのことで怒ったり、わめいたりせずに、丁寧に、冷静に対処していったように、私たちも信仰によって霊性に対処しなければなりません。

それは、私たちの主イエスに見られる態度です。「22キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」(Ⅰペテロ2:22-24)とあります。私たちも人から批判されることがあっても、そのような人たちの声によって失望する必要はありません。神のみこころを歩むなら、必ず道が開かれるからです。大切なのは、正しくさばかれる主にすべてをお任せすることなのです。