イザヤ書16章1~14節 「涙であなたを潤す」

きょうは、イザヤ書16章のみことばからご一緒に学んでいきたいと思います。タイトルは「涙であなたを潤す」です。9節に、「わたしはわたしの涙であなたを潤す」とあります。先週からモアブに対する神の宣告のことばを語られていますが、きょうのところはその続きです。きょうはこのモアブに対する宣告のことばから、三つのポイントから学びたいと思います。

Ⅰ.小羊を送れ(1-5)

まず第一のことは、へりくだって主に信頼せよということです。1節から5節までのところに注目してください。1節をお読みします。「子羊を、この国の支配者に送れ。セラから荒野を経てシオンの娘の山に。モアブの娘たちはアルノンの渡し場で、逃げ惑う鳥、投げ出された巣のようになる。」

どういうことでしょうか?「この国の支配者」とはイスラエル、具体的には南ユダ王国のことです。今モアブはアッシリヤからの攻撃を受けて、多くの人たちが国外へ逃れようとしています。そこで主はモアブに、シオンの娘の山、エルサレムに助けを求めるようにと呼びかけておられるのです。「子羊」とは、そのためにモアブが貢ぎ物として納めていたものです。アッシリヤの攻撃を受けて彼らがしなければならなかったことはイスラエルに貢ぎ物を送り、へりくだって彼らに助けを求めることでしたが、なかなか決断することができないでいたのです。それが彼らが生き延びることができる唯一の方法だということはわかっていても、素直に認められなかった、いや、認めたくなかったのです。まだ自分たちの力でできるという思いがあったのです。

しかし、2節には、「モアブの娘たちはアルノンの渡し場で、逃げ惑う鳥、投げ出された巣のようになる。」とあります。彼らの思いとは裏腹に、状況はますますひどいものになっていきました。彼らは逃げまどう鳥のように、投げ出された巣のようになったのです。

そこで、やっとのことでモアブはユダに助けを求めることを決めます。3節の「助言を与え、事を決めよ。」とは、モアブの使者たちがユダの王に助言と助けを求め、どうしたらいいか事を決めるように求めています。彼らは、自分たちの緊迫した状況を次のような比喩をもって説明しています。「昼のさなかにも、あなたの影を夜のようにせよ。」つまり、自分たちは太陽に照らされた強い日差しのもとにさらされているような状態なので、日陰にかくまわれる必要があるとい るというのです。だから、「散らされた者をかくまい、のがれて来る者を渡すな。」 つまり、ユダの地に散らされた者をかくまい、彼らを敵に引き渡すことがないようにと求めているのです。4節の「あなたの中に」とは、イスラエルのこと、南ユダのことです。あなたの中に、モアブの散らされた者を宿らせ、荒らす者からのがれて来る者の隠れ家となるように、というのです。

私たちの周りにも、こうした状況からのがれて、各地に散らされながら、さまよっている方々がおられます。先日、同盟の総会で福島第一聖書バプテスト教会の佐藤先生から、原発事故から一年間、どのように日本各地をさまよい続けて来られたかのお話がありました。米沢で数日間過ごしてから東京の奥多摩にあるキャンプ場で1年を過ごしました。そのキャンプ場の責任を持っておられたドイツ人の宣教師が、すべての予約をキャンセルして教会の皆様を受け入れてくださったそうです。ドイツの本国からは退避命令が出されるなか、それに反するとクビになるかもしれないという状況の中で、クビを覚悟して約六十名の方々を受け入れました。その間、主にある家族が天に召されたり、また、他の場所へと移り住んでいくという別れを余儀なくされましたが神様の恵みとあわれみによって、この3月に福島県いわき市にアパートを建て、この秋には新しい教会堂も完成し、新しい歩みをすることができるようになりました。  それにしても、そのような状況にある方々を受け入れることにはかなりの決断も必要だったかと思いますが、このドイツ人宣教師が「荒らす者からのがれて来る者の隠れ家となれ」とのみことばに応答するかのごとく、かくまい、支えてくださったのは見事です。  そうした使命が私たちにも与えられています。私たちは、のがれて来る者の隠れ家となって、この神のみこころに応えていく者でありたいと願います。

ところで、こうしたモアブの使者たちの要請に対して、イザヤは何と答えたでしょうか。4節の後半から5節にかけて、次のようにあります。「しいたげる者が死に、破壊も終わり、踏みつける者が地から消えうせるとき、一つの王座が恵みによって堅く立てられ、さばきをなし、公正を求め、正義をすみやかに行う者が、ダビデの天幕で、真実をもって、そこにすわる。」

「しいたげる者」とはアッシリヤのことです。「しいたげる者が死に、破壊も終わり、踏みつける者が地から消えうせるとき」、イザヤはまず現在の危機が過ぎ去ることを預言すると、次のような不思議なことを言いました。それは、「一つの王座が恵みによって堅く立てられ、さばきをなし、公正を求め、正義をすみやかに行う者が、ダビデの天幕で、真実をもって、そこにすわる。」ということです。どういうことでしょうか?ダビデの王座が堅く立てられるということです。もちろん、これはメシヤ預言です。イエス・キリストのことです。つまり、モアブが将来において安全で、安心した生活をしたいと思うなら、ダビデに対する主の約束の安全性の中に身を置かなければならないということです。現実の厳しさと不安定の中から逃れる唯一の道は、イエス・キリストに対する信仰と希望の静かな確実性の中に逃れ場を求めるべきであるということです。なぜなら、それは恵みによって堅く立てられた王国なので、どんなことがあっても揺れ動くことのないものだからです。人間が作ったものはそうではありません。人間が作ったものは絶対はないのです。ゆえに、それらのものはいつも揺れ動く不安定なものです。しかし、これは恵みによって堅く立てられた王国なので、決して揺れることはありません。第二に、この王座に着座しておられる方が比類のない王だからです。この方はダビデの系図から生まれ、統治の権利を持ち、何よりもダビデに与えられた約束を受け継いでおられる方です。単なる気まぐれで治めるのではなく、真実をもって、これを行うのです。ペテロ第一2章6節に、「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることはない。」とあるとおりです。

あなたが信頼を置いているものは何ですか。何に信頼しているでしょうか。だれに助けを求めておられるでしょうか。「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。」(詩篇91:1)主に身を避ける人は幸いです。そのような人はどのような困難の中にあっても、主の平安の中に真の安息を得ることができるのです。

Ⅱ.涙であなたを潤す(6-16)

このイザヤのことばに対して、モアブはどのように応答したでしょうか?6節から12節までに注目してください。まず6節です。「われわれはモアブの高ぶりを聞いた。彼は実に高慢だ。その誇りと高ぶりとおごり、その自慢話は正しくない。」

モアブは、主が設けてくださった逃れの道を拒みました。長年のことイスラエルにへつらい、ようやくのことそのくびきから解放されたというのに、どうしてまたイスラエルに対して身を低くしなければならないのかというのです。ここには「高ぶり」、「高慢」、「誇りと高ぶり」、「自慢話」ということばが何度も繰り返して出ています。いったい彼らは何を自慢していたのでしょうか。7節、8節には、「それゆえ、モアブは、モアブ自身のために泣きわめく。みなが泣きわめく。あなたがたは打ちのめされて、キル・ハレセテの干しぶどうの菓子のために嘆く。ヘシュボンの畑も、シブマのぶどうの木も、しおれてしまった。国々の支配者たちがそのふさを打ったからだ。それらはヤゼルまで届き、荒野をさまよい、そのつるは伸びて海を越えた。」とあります。

モアブは、ぶどうをはじめとする農作物で豊かなところでした。そこにはたくさんのワイナリーがありました。彼らはそれを自慢していたのです。そこには偶像の神殿が祭られていました。それらはすべて彼らが誇りとしていたものです。自慢していたものです。そうしたすべてのものが破壊されるのです。

人ごとと思ってはなりません。私たちは何を誇りとしているでしょうか。何を自慢しているでしょうか。このモアブの姿は、まさに私たち日本人の姿でもあります。モアブはぶどうの農作物によって豊かになり安定した社会を築き上げたことで高ぶりましたが、日本もまた、戦後の高度経済成長を成し遂げ、経済大国になったことで高ぶりました。

かつて日本にも不安定な時代がありました。戦国時代です。室町時代が終わり、戦国時代に入ると、明日はどうなるかわからないという不安定な社会の中で、人々はこぞって天を仰ぎました。そのときにやって来たのがキリスト教です。1549年(以後、よく来るキリスト教)フランシスコ・ザビエルが最初に来日して福音を伝えたとき、まさに渇いた砂が水を吸収するように多くの人々が救い主を求めました。当時の宣教師であり、歴史家でもあったルイス・フロイスは、「このままいくと、あと数年で日本はキリスト教国となるであろう」と書き記したほどです。それほどに人々は飢え渇いていました。信者が急増したのです。まさにイエスが「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」といわれた通りです。日本のキリスト教の歴史の中で、その時ほど霊的に覚醒された時はありません。私たちの生活の中に不便が生じ、変化を強いられ、もみくちゃにされるという辛い経験は苦しいことですが、実は幸せなことなのです。そのことによって主を求め、主に従うことができるようになるからです。そのことによって新鮮な命が芽生えるからです。

第二次世界大戦後もそうでした。戦争に破れて、国全体が低くされたとき、人々は主に助けを求めました。しかし、その後経済が成長し、再び安定した社会を取り戻すと、この国は再び高ぶってしまいました。そうした高ぶりは砕かれるのです。プイドは必ず打ち砕かれます。もし私たちが自分の持ち物なり、自分の経済力なりを自慢し、神以外のものにすがっていれば、神は必ず砕かれるのです。

12節には、「モアブが高き所にもうでて身を疲れさせても、祈るためにその聖所に入って行っても、もうむだだ。」とあります。高きところにもうでるとは、偶像礼拝を表しています。たいてい、偶像の宮は高いところにありました。そうした偶像に頼ってもむだなのです。何の応えもありません。これさえあれば、お金さえあれば、とすがっても、もうむだなのです。健康だけがとりえです。健康第一ですと、自分が健康であることを自慢していても、いつかそれらが取り去られる日がやって来るのです。

ところで、ここには不思議な言葉があります。9節と11節です。「それゆえ、わたしはヤゼルのために、シブマのぶどうの木のために、涙を流して泣く。ヘシュボンとエルアレ。わたしはわたしの涙であなたを潤す。あなたの夏のくだものと刈り入れとを喜ぶ声がやんでしまったからだ。」

ここで主はモアブのために泣いておられるのです。涙であなたを潤すとあります。これまであなたに嫌な思いをさせてきた人がいるでしょうか。この人のせいで私は大変な思いをしてきたとか、あの人のせいで私は本当に悩み苦しんできたということがあるでしょうか。もしそのような人が不幸な目に会い、大変な思いをしている時に、あなたはどのような反応をされますか?「ざまあ見ろ」と言って喜びますか?けれども神はそのような方ではありません。神はその不幸を非常に悲しまれ、涙を流して泣かれるのです。「わたしはわたしの涙であなたを潤す」というのです。

11節には、もっと激しい神の嘆きが描かれています。「それゆえ、わたしのはらわたはモアブのために、わたしの内臓はキル・ヘレスのために立琴のようにわななく。」とあります。「はらわた」とか「内蔵」というのは感情の中心を表しています。その人の心の一番深いところです。それがわななくのです。この「わななく」ということばは、「痛む」という意味のことばです。ここから「神の痛みの神学」という言葉が生まれました。北森嘉蔵(きたもりかぞう)、日本を代表する神学者の一人です。彼は、これを「神の痛みの神学」と呼びました。イスラエルとしばしば敵対関係にあったモアブのために、神のはらわたはわななき、痛むのです。いったいなぜ神はこれほどまでに痛まれているのでしょうか。先週のところで見てきました。それは神はひとも滅びることを願わず、かべての人が救われて真理を知るようになることを願っておられるからです。また、このモアブという民族は、特にイスラエルと深い関係のある民族でした。創世記19章37節を見ると、モアブ人の先祖はモアブで、それはアブラハムの甥ロトとその娘との間に生まれた子どもです。ある意味でイスラエルと遠い親戚にあたります。あのルツはモアブ人でした。ですから、ダビデにはこのモアブ人の血が流れていたことになります。そして、その子孫であるイエス・キリストの中にも、このモアブ人の血がわずかばかり流れていたのです。そうしたモアブが滅びることを神はとても悲しまれました。神のはらわたは、内蔵はわなないたのです。

「断腸の思い」ということばがありますね。断腸の思いとは、腸がちぎれるほど、悲しくつらい思いのことです。昔、晋(しん)の時代、武将桓温(かんおん)が舟で三峡を渡ったとき、従者が猿の子を捕らえて舟にのせました。それを見ていた母猿が悲しい泣き声をたてながら岸沿いにどこまでも追ってきて、ついに舟に跳び移ることができましたが悶死(もんし:もだえ苦しむこと)してしまいました。その母猱の腹をさいてみると、腸がずたずたであったという故事から、この断腸の思いということばが生まれました。まさに神は滅んでいく人間の姿を、断腸の思いで見ておられるのです。腸がずたずたにちぎれるような悲しい思いで見ておられるのです。

あなたには、この神の思いが届いていますか。その目の涙が見えますか。どうか神が痛むことがないように、わななくことがないように、涙を流すことかせないように、悲しまれるとこがないように、へりくださって神のみことばに聞く者でありたいと思います。

Ⅲ.神に聞き従う(13-14)

ですから、第三のことは主に聞き従いましょう、ということです。13節と14節をご覧ください。「これが、以前から主がモアブに対して語っておられたみことばである。今や、主は次のように告げられる。「雇い人の年期のように、三年のうちに、モアブの栄光は、そのおびただしい群衆とともに軽んじられ、残りの者もしばらくすれば、力がなくなる。」

ここに「以前から」とあります。モアブに対するさばきのことばは以前から語られていました。前もって語られていたのです。民数記24章17節を開いてください。ここには、「私は見る。しかし今ではない。私は見つめる。しかし間近ではない。ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから一本の杖が起こり、モアブのこめかみと、すべての騒ぎ立つ者の脳天を打ち砕く。」とあります。これは偽預言者バラムがモアブについて預言したことばです。偽預言者でもメシヤ預言を語ります。不思議なことです。「ヤコブから一つの欲しが上がり」とは、イエスのことです。「イスラエルから一本の杖が起こり」、これもイエスのことです。同時に、バラムはモアブについても預言しました。「モアブのこめかみと、すべての騒ぎ立つ者の脳天を打ち砕く」これが以前からモアブに対して主が語っておられたことばです。突然宣告のことばがあったのではありません。以前から、ずっと以前から語られ、警告されていたのです。なのに彼らはそれを聞きませんでした。それが問題なのです。主は前もって語っておられるのに聞く耳を持たないのです。それで主はこのように言われるのです。

「雇い人の年期のように、三年のうちに、モアブの栄光は、そのおびただしい群衆とともに軽んじられ、残りの者もしばらくすれば、力がなくなる。」

雇いの期間とは、きわめてはっきりした期間のことです。同じように主はこのモアブを滅ぼすための期間をはっきりと定めておられます。その期間とはどのくらいでしょうか。3年です。3年のうちに、モアブの栄光は、そのおびただしい群衆とともに軽んじられ、残りの者もしばらくすれば、力がなくなるのです。

同じように、この世の終わりの時も、父なる神によってはっきりと定められています。その日がいつなのかを私たちにはわかりませんが、それは神によってはっきりと定められているのです。あなたはその時の準備ができているでしょうか。主はすでにあたなに語られました。そのみことばは必ず成就します。一点一画も決してすたれることなく、全部が成就します。問題はあなたがそれを信じるかどうかです。信じて受け入れるかどうかなのです。モアブは受け入れなかったために滅ぼされました。そういことがないように、私たちは神のことばを信じて受け入れ、そのことばに従って生きる人生を選択しようではありませんか。

イザヤ書15章1~9節 「わたしの心は叫ぶ」

きょうは、イザヤ書15章から学びます。タイトルは、「わたしの心は叫ぶ」です。イザヤは、13章からイスラエルを取り囲む周辺諸国に対する神からの警告のことばが語っています。その筆頭にあげられていたのはバビロンでした。バビロンはまだこの時点では台頭してはいませんでしたが、まずバビロンから語らなければなりませんでした。それは、バビロンが単に一つの国としてのバビロンではなく、神に敵対する勢力としてのバビロンを表していたからです。そして次にアッシリヤに対して、そしてペリシテに対して語られました。きょうは、それに続くところです。モアブに対して語られています。  きょうは、このモアブに対する神のさばきの警告から、三つのポイントで学んでいきたいと思います。

Ⅰ.一夜のうちに起こるさばき(1-4)

まず第一のことは、神のさばきは突然にして起こるということです。1節をご覧ください。ここには、「モアブに対する宣告。ああ、一夜のうちにアルは荒らされ、モアブは滅びうせた。ああ、一夜のうちにキル・モアブは荒らされ、滅びうせた。」とあります。

「アル」とか、「キル・モアブ」というのは、モアブにあった町の名前です。巻末の地図を見ていただくとわかりますが、モアブという国は死海の東側にある国ですが、そこにこのアルとキル・モアブいう町の名が記されてあります。それらの町々が荒らされ、滅びうせるというのです。聖書の預言は曖昧ではありません。抽象的ではないのです。具体的に町の名前があげられ、それらの町がどうなるのかを明確に語ります。そして、アルは荒らされ、キル・モアブは滅び失せるのです。果たせるかな、このみことばが文字通り実現します。モアブはアッシリヤによって滅ぼされてしまいます。その後、アッシリヤが滅亡すると一時的に回復を果たしますが、やがてまたバビロンの王ネブカデネザルに征服されることになるのです。そしてB.C.1世紀に、マカベア家アレクサンドロス・ヤンエウスという人物によって完全に滅びることになるのです。

それはどのようにして起こるのでしょうか。ここには、「一夜のうちに」とあります。このことばが二回も繰り返して使われています。一夜のうちにアルは荒らされ、一夜のうちにキル・モアブは滅び失せる・・・と。真夜中に敵の奇襲を受けて、一夜にして滅びてしまうというのです。考えられません。まさに想定外です。しかし、私たちの人生にはまさかと思うようなことが起こるのです。人生には三つの坂があるそうてだす。上り坂、下り坂、そして、まさかです。そのまさかと思われる出来事が起こったのです。人生にはこのような想定外のことが起こるのです。

ルカの福音書12章20節を開いてみましょう。ここには、「しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』」とあります。 ある金持ちの身に起こった悲劇です。たくさん貯め込んで、これからだ、老後の蓄えも十分だ、安泰だ、安心だと、今からは好きなようにおもしろ、おかしく、暮らしていこうと思っていたとき、突然神が言われました。「愚か者。おまえのたましいは、今夜、おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、だれのものになるのか」と。

その日は突然やって来ます。昨日まであんなに元気だったのに、まだまだ長生きすると思っていたのに、まだ若いのに、余命3ヶ月ですとか、または車の事故とかで、突然いのちを失ってしまうことが起こるのです。あるいは、昨年のような災害によって、一瞬にしていのちが奪われてしまうようなこともあります。一夜にして死んでしまうということが起こるのです。これは決して他人事ではありません。いつあなたの身に起こるかわかりません。それはモアブにだけ起こった特殊な出来事ではなく、だれにでも起こりうることなのです。もしかしたら、今晩、あなたの身にも起こるかもしれません。あるいは、あなたの愛する人の上に起こるかもしれません。きのうまで元気だったお父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃんに、何があるかはだれにも予想できないのです。人生にはまさかと思うこと、想定外のことが起こるのです。そのようなことが突然起こっても大丈夫でしょうか。彼らは福音を聞いているでしょうか。聞いて、イエス・キリストを個人的な救い主として受け入れているでしょうか。

もう一箇所ですが、第一テサロニケ5章2、3節もお開きいただきたいと思います。ここには、「主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦の産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。」とあります。  皆さん、主の日は盗人のようにくるということをご存知でしょうか。イエス・キリストが再臨され、私たちを迎えに来るのは、盗人のように、真夜中に突然来るのです。人々が「平和だ。安心だ」と言っているそのような時に、突如として滅びが彼らに襲います。それはちょうど妊婦の産みの苦しみが臨むようなものです。それを逃れることはできません。私たちはイエス様がいつ来られてもいいように、いつでも備えておきたいと思います。今度イエスが来られる時には世を救うために来られるのではありません。世をさばくために来られるのです。もちろん、イエスを信じて救われた人は暗闇の中にはいないので、そのさばきの対象ではありません。4節には、「しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。」とあります。イエスを信じて光の中に歩む者は、このさばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。しかし、信じない者はさばかれます。こんなことはあまり言いたくありません。しかし、これは事実なのです。救いはイエスにあります。この神の御子であられるイエスを信じなければ、そのさばきが襲うようになります。それは突如としてやってきます。ですから、その前に、さばきが襲うことがないように備えておかなければなりません。あなたはどうでしょうか。キリストが突然にして来られても大丈夫でしょうか。その準備はできているでしょうか。まだまだ先だと、自分はまだまだ長生きするから大丈夫だと、そう思っていませんか。しかし、それは違います。それは一夜のうちに起こるのです。こんなはずじゃなかった、想定外だったと言って、後で泣いて歯ぎしりすることがないように、今、その準備をしていただきたいのです。

2節から4節までのところには、そうした神の突然のさばきがやって来たとき、彼らがどのような状況になったかが記されてあります。「モアブは宮に、ディボンは高き所に、泣くために上る。ネボとメデバのことで、モアブは泣きわめく。頭をみなそり落とし、ひげもみな切り取って。そのちまたでは、荒布を腰にまとい、その屋上や広場では、みな涙を流して泣きわめく。ヘシュボンとエルアレは叫び、その叫び声がヤハツまで聞こえる。それで、モアブの武装した者たちはわめく。そのたましいはわななく。」

「宮」というのは、モアブの神ケモシュが祭られていた宮のことです。それはディボンという町の高き所に置かれていました。大抵、そうした偶像の宮は高い所に祭られているわけですが、このケモシュという偶像も高い所にありました。突然、アッシリヤが襲って来たとき、彼らは自分たちの神ケモシュに助けを求めるために宮に上るのですが、その偶像は救ってくれません。何の助けもしてくれないのです。それまで自分たちが拠り頼んでいたものは全く頼りにならないのです。全く頼りにならないということを知った人たちは愕然とし、ただ泣きわめくしかありません。

ネボとメデバもモアブにあった町の名前です。かつてモーセは、このネボ山から約束の地を見てその生涯を終えました。(申34章)そのネボ山から南東に6キロほど離れたところにあった町がメデバです。このネボやメデバが攻められたということを聞いたモアブの民は、そうした偶像の宮や高き所に上って嘆きます。ここには「頭をみなそり落とし、ひげもみな切り取って。」とあります。これは、嘆きや悲しみを表すときに行った行為です。当時、髪をたくわえ、ひげを伸ばすというのが男の人の尊厳、身だしなみでした。そうした髪をそり落とし、ひげを切り取るというのはとても屈辱的で、耐え難い苦しみでした。それほど悲しく、辛いことだったのです。「そのちまたでは、荒布を腰にまとい、その屋上や広場では、みな涙を流して泣きわめく。」とあります。これは喪に服す行為ですが、アッシリヤによって、その残忍な方法によってそれらの町々が攻め落とされたとき、彼らはまさに喪に服すような嘆き、悲しんだのです。

4節のヘシュボン、エルアレ、ヤハツといった町々は、かつてヨシュアの時代にイスラエルが占領した町々ですが(民21:27)、その町々をこのイザヤの時代にはモアブが支配していました。つまり、モアブ人によって占領されていたわけです。モアブは常にイスラエルを脅かす存在でした。その町々を今度はアッシリヤが攻めます。アッシリヤがやって来て、ヘシュボンとエルアレを打ち破ったという知らせが遠く30㎞以上離れた遠方のヤハツにまで聞こえたとき、モアブの丙子たちに恐れと恐怖に包まれ、全く士気を失い、泣きわめいたのです。

神のさばきは突然にしてやって来ます。まさかと思うような時に、一瞬にして起こります。夜中に盗人がやって来るように起こるのです。ですから、私たちはそれがいつ来てもいいように備えておかなければなりません。そうでないと、かつてモアブが泣きわめいたような嘆きに、悲しみに襲われるようになるのです。

Ⅱ.わたしの心は叫ぶ(5-6)

第二のことは、神はひとりの人も滅びることを願わず、すべての人が救われることを願っておられるということです。5節をご覧ください。「わたしの心はモアブのために叫ぶ。その逃げ延びる者はツォアルまで、エグラテ・シェリシヤまでのがれる。ああ、彼らはルヒテの坂を泣きながら上り、ホロナイムの道で、破滅の叫びをあげる。」

ここに不思議なことが記されてあります。「わたしの心はモアブのために叫ぶ。」ということです。私とはもちろん神です。その神がモアブのために嘆くというのです。その後のところに、「その逃げ延びる者はツォアルまで、エグラテ・シェアリムまで逃れる」とあります。彼らはルヒテの茶菓を泣きながら上り、ホロナイムの道で、破滅の叫びをあげる。」とあります。アッシリヤの攻撃を受けて逃げ惑うモアブの姿を見て泣いておられるのです。ケモシュという偶像を礼拝していたモアブは滅ばされても当然なのに、そうしたモアブの姿を見て泣いておられるのです。叫んでいるのです。これはいったいどういうことでしょうか。

それは、たとえ彼らが契約の民ではなくとも、神が造られた、神がこよなく愛しておられる人間だからです。決して誤解しないでください。確かに神は罪を罰せられる義なる方、聖なる方です。しかし、それは神は滅びる者を見て何とも思わない冷徹な方であるということではありません。神は義であるというご性質のゆえに罪をさばかなければならない方ですが、それは本当に辛く、苦しいことなのです。泣きながら、さばいておられるのです。なぜなら、神はすべての人が救われて真理を知るようになることを願っておられるからです。Ⅱペテロ3章9節を開いてみましょう。

「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」

神は、ひとりでも滅びることを望んでおられません。神は、すべての人が救われることを願っておられるのです。それはモアブに対しても同じです。自分に背を向け、自分に逆らう者を容赦なく、何の痛みも覚えずに、どんどん地獄に投げ込む、それが私たちの神ではありません。神はひとりも滅びることを望んではおられないのです。ですから、悔い改めないがゆえに、滅ぼさざるを得ないそうした人たちを見て、泣いておられるのです。

聖書にヨナ書という書があります。預言者ヨナは、アッシリヤのニネベという町へ遣わされました。そこでヨナは悔い改めのメッセージを語りました。すると、ニネベの人たちは一斉に悔い改めました。でもヨナは本当はそれをしたくなかったのです。なぜなら、アッシリヤがイスラエルに対してどんなひどいことをしたかを知っていたからです。ですからヨナは逆に復讐を望んでいました。神に滅ぼしてもらいたかったんです。だから行きたくないとごねて、タルシシュという最果ての国に逃亡しようとしました。その後のストーリーは皆さんもよくご存じです。嵐が船を襲います。その原因はヨナにありました。ヨナが神様に従わなかったので、神が怒られたのです。そこで彼は海の中に投げ込まれました。大きな魚にのみ込まれ、そのお腹の中で三日三晩いて、悔い改めました。そしてニネベに行って、神のことばを伝えるのです。「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる」と。するとどうでしょう。ニネベの人々は神を信じ、身分の高い人から低い人まで悔い改めました。  ところが、そのことがヨナを非常に不愉快にさせました。だから言ったことじゃない。神様は情け深く、あわれみ深い方であり、怒るのに遅く、恵み豊かな方だから、彼らに対するわざわいを思い直されることを知っていたのです。イスラエルの敵であるニネベなんて、アッシリヤなんて、滅んで当然、ざまぁみろ、と思っていたのに、救われてしまったのです。  その時神は一本のとうごまを備え、ヨナの上を覆うように生えさせました。それは頭の上の陰となったのでヨナは非常に喜びました。しかし、神はその翌日に一匹の虫を備えられました。そしてその虫がとうごまをかんだので、とうごまは枯れてしまいました。太陽が昇ったとき、太陽がヨナの頭に照りつけたので、彼は衰え、「私は生きているより、死んだ方がましだ」と言いました。すると神はヨナにこう仰せられたのです。

「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」(ヨナ4:10-11)

たとえ神に敵対しているような人間であっても、神は愛しておられるのです。そして、その人も滅びることなく、すべての人が救われることを願っておられるのです。それが神の心であります。

それだけではありません。「わたし心はモアブのために叫ぶ」このモアブというのは、単に、神が造られた民であるというだけでなく、神の民であるユダヤ人ととても深い関係にある人たちなんです。このモアブ人のことをよく調べてみると、その祖先はアブラハムの甥ロトなんですね。創世記19章37,38節に、「姉は男の子を産んで、その子をモアブと名づけた。彼は今日のモアブ人の先祖である。妹もまた、男の子を産んで、その子をベン・アミと名づけた。彼は今日のアモン人の先祖である。」とあります。モアブは、ロトとロトの娘との間に生まれたこどもです。姉との間に生まれたのがモアブで、妹との間に生まれたのがアモンです。そして、イスラエルの王ダビデにはこのモアブ人の血が八分の一流れています。ダビデの曾おばあちゃんがモアブ人のルツだったからです。ですから、このモアブ人というのはイスラエルの敵でもありましたが、実はユダヤ人と深い関係のある、ユダヤ人のすぐ近くにいた民族なのです。そういうモアブに主はあわれみの心を持っておられたのです。

ということはどういうことかというと、私たちの回りにもこうしたモアブ人がたくさんいるということです。まだイエス様を信じてはいないけれども、イエス様を既に信じているクリスチャンのすぐ近くにいるのです。たとえば、まだ信じていない家族などです。そのような人は家族の中にだれかクリスチャンがいるというだけで、いつでも神を求めることができる特別な所にいるのです。特別に神に愛されていると言ってもいいでしょう。求めさえすれば、神の救いに預かることができるのです。誰でもそのような環境に置かれているかというとそうではありません。ある人は神から遠く離れた所にいて、救いとは全く関係のない所に置かれている人もいます。もちろん、そういう人でさえ神の恵みから漏れることはありませんが、クリスチャンがすぐ近くにいる人に比べたら、簡単なことではないのです。ですから、近くにクリスチャンがいる、知っているということは、大きな恵みなのです。そういう人はこのモアブ人と同じです。神は、そのような方が主イエスを信じて救われるようにと、涙して折られるのです。

Ⅲ.のがれた者と残りの者とに獅子を向ける(7-9)

第三のことは、それでも悔いらためないならどうなるかというとこです。それでも悔い改めないなら、神の容赦ないさばきが臨むということです。7節から9節までをご覧ください。

「それゆえ彼らは、残していた物や、たくわえていた物を、アラビム川を越えて運んで行く。ああ、叫ぶ声がモアブの領土に響き渡り、その泣き声がエグライムまで、その泣き声がベエル・エリムまで届いた。ああ、ディモンの水は血で満ちた。わたしはさらにディモンにわざわいを増し加え、モアブののがれた者と、その土地の残りの者とに獅子を向けよう。」

「ディモンの水は血で満ちた」というのは、殺された人がどれだけ多かったかを表しています。しかし、モアブへの神のさばきはそれだけでは終わりません。神はのがれた者と、その土地の残りの者たちに獅子を送られるのです。この獅子とはアッシリヤのことですが、それを送られるのは神様です。神は、神のさばきの道具としてアッシリヤを用いているだけです。ここでのポイントは、神はいつまでも神に敵対し、悔い改めない人に対して獅子を送り、徹底的にさばかれるということです。

これはさきほど見てきた神のあわれみと矛盾するものではありません。これは神の聖なる怒りなのです。神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられます。そのために神は、忍耐深くあられるのです。今も、私たちが悔い改めるようにと待っておられます。しかし、そこには限りがあることも覚えておかなければなりません。時が満ちる時がやってきます。そのときまでに悔い改めないと、神はモアブに対してさばかれたようなさばきを行われるのです。神様はそのあわれみのご性質のゆえに、その滅びをとても悲しまれます。しかし、神はご自分の聖なるご性質のゆえに、滅ぼさなければならないものを滅ぼされるのです。けれどもそのさばきを喜んでおられるのではなく、むしろ悲しんでおられます。それが神の心です。その心を私たちは知らなければなりません。その心を知って、私たちは神に立ち返らなければなりません。

ノアの箱舟を思い出してください。主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になって、ノアに「あなたとあなたの家族とは、箱舟に入りなさい。」と言われました。当時の人々があざける中、ノアは神が命じられたとおりに箱舟に入ると、主は、「彼のうしろの戸を閉ざされました。」(創世記7:16)もう二度と入ることができない戸が閉じられたのです。これは人生にとって最も厳粛な時です。そのとき、私たちは初めて事の重大性に気付かされることでしょう。しかし、その時では遅いのです。うしろの戸が閉ざされる前に入らなければなりません。あなたも、あなたの家族と一緒に箱舟の中に入ってください。入って、救われてください。それが神の心、神の叫びなのです。

イザヤ書14章24節~32節 「主に身を避けて」

きょうは、イザヤ書14章の後半部分からお話したいと思います。タイトルは、「主に身を避けて」です。イザヤ書は、13章から新しい段落に入りました。13章から23章まで、イスラエルを取り囲む周辺諸国への宣告を語っています。その筆頭に上げられたのはバビロンでした。それはバビロンが単に一つの国としてバビロンではなく、神に敵対する勢力としてのバビロンを象徴していたからです。 きょうのところは、そのバビロンの次にアッシリヤとペリシテに対してさばきの宣告が告げられているところです。きょうはこのところから主に身を避けることの幸いについて、三つのポイントで学んでみたいと思います。

Ⅰ.主の計ったとおりに成就する(24-27)

まず第一に、主が計画されたことは必ず成るということです。24節から27節までをご覧ください。「万軍の主は誓って仰せられた。「必ず、わたしの考えたとおりに事は成り、わたしの計ったとおりに成就する。わたしはアッシリヤをわたしの国で打ち破り、わたしの山で踏みつける。アッシリヤのくびきは彼らの肩から除かれる。これが、全地に対して立てられたはかりごと、これが、万国に対して伸ばされた御手。万軍の主が立てられたことを、だれが破りえよう。御手が伸ばされた。だれがそれを戻しえよう。」

これはアッシリヤに対する宣告です。アッシリヤに対しては10章のところでも語られていました。そこでは、イスラエルを懲らしめるための神の道具としてのアッシリヤの姿が画かれていました。神の道具にすぎないアッシリヤがその立場をわきまえず、高ぶってイスラエルを滅ぼそうとしたので、神はそのような枯れらの高ぶりを罰しました。そして、ここに再びそのアッシリヤに対するさばきが語られています。

25節には、「わたしはアッシリヤをわたしの国で打ち破り、わたしの山で踏みつける。」とあります。「わたしの国」とは、イスラエル、南ユダ王国のことです。であれば、「わたしの山」とはシオン、エルサレムのことになります。これはいったい何を指しているのでしょうか。

これは、36章と37章に出てくる出来事を指しています。つまり、B.C.722年に北イスラエルを滅ぼしたアッシリヤはその勢いで今度は南ユダ王国に迫っていくわけですが、ヒゼキヤ王の必死の祈りによって、アッシリヤの兵士十八万五千人が殺されたという出来事です。それは神の奇跡でした。主がヒゼキヤの祈りに応えてくださったのです。ここに書いてあるとおりに、主はアッシリヤをわたしの国で打ち破り、わたしの山で踏みつけられたのです。そしてB.C.605年に、アッシリヤはついにバビロンの王ネブカデネザルによって滅ぼされることになるのです。このようにして、アッシリヤのくびきは彼らの上から除かれ、その重荷は彼らの肩から除かれるのです。主が言われたとおりになるのです。

これが、全地に対して立てられた主のはかりごとであり、これが、万国に対して伸ばされた御手なのです。それはアッシリヤだけでなく、バビロンであろうと、世界中のどの国であろうとも同じです。主が立てられたはかり事は必ず成り、必ず、主が考えたとおりに事はなるのです。

箴言19章21節には、「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。」とあります。私たちは今起っている出来事に心を捕らわれるのではなく、神様のご計画に心を留めていたいものです。そして、私たちの思いや予想を遥かに超えてなされる神様の御心に従っていこうではありませんか。

だいぶ前に出席した集会で、一人の先生が言われました。「聖書とはこの宇宙に含まれている全ての物をお造りになられた創造の神、全知全能の神様と人間の歴史です。その歴史の中に私たち一人一人のストーリーも含まれているのです。」なるほど、この歴史というのは、この宇宙に含まれている全ての物をお造りになられた創造の神と私たち人間の歴史なのです。その歴史の中に私たち一人一人のストーリーも含まれているのです。私たちのすべての歴史が、この神様の御手に握られているのです。    兄弟に妬まれ、エジプトに売られたヨセフが、やがてエジプトで第二の地位に就くことなど、いったいだれが想像することができたでしょう。しかし、神はイスラエルのいのちを救うために、家族より先にヨセフをエジプトに遣わしてくださいました。それはイスラエルのために残りの者を残してくださり、また、大いなる救いによってイスラエルを生きながらえさせるためだったのです。それが神の計画でした。そのような大きな神さまのご計画の中で導かれているのが私たちの人生であり、私たちの歴史なのです。であれば、私たちはこの神の御手を信じて、私たちの想像や思いをはるかに越えて働いておられる神に、すべてをゆだねなければなりません。

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。-主の御告げ-それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ29:11)

主は私たちに対して完全な計画を持っておられます。それはわざわいではなく、平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものです。ですから、私たちは自分の人生をこの方にゆだねることができるのです。私たちが神の御言葉を疑うのは、神の力を認めず、確信していないからです。これがまさに私たちが不信仰に陥る二つの原因でもあります。しかし、このように神の御言葉は必ず成るということを知るとき、私たちは神が真実な方であり、力ある方であることを確信し、この方にすべてのことをゆだねることができるのです。

あなたは、神がなさるすべてのことが最善であると信じていますか?主のはかりごとは必ず成るのです。そう信じて、私たちは何が神のはかりごとなのかを知り、この方にすべてをゆだねて歩む者でありたいと思います。

Ⅱ.喜ぶな、ペリシテの全土よ(28-31)

次にペリシテに対する主の宣告を見ていきたいと思います。28節と29節をご覧ください。「アハズ王が死んだ年、この宣告があった。「喜ぶな。ペリシテの全土よ。おまえを打った杖が折られたからと言って。蛇の子孫からまむしが出、その子は飛びかける燃える蛇となるからだ。」

アハズ王が死んだ年は、B.C.715年です。その年に、イザヤはこれを預言しました。「喜ぶな、ペリシテの全土よ。おまえを打った杖が折られたからと言って。」「おまえを打った杖」とは、イスラエルのことです。昔からペリシテ人はいつもイスラエルの敵でした。彼らはイスラエルを叩くことしか考えていませんでした。しかし、ペリシテは基本的に小さな国だったので、力関係ではいつもイスラエルに負けていたのです。しかし、そのイスラエルが打たれました。いつも戦いに負けていた彼らにとって、宿敵イスラエルが折られたことはこの上もない喜びであって、手をたたいて喜んでいたわけです。ちょうど、喧嘩の強い相手が、もっと強い相手にやっつけられているのを見て喜んでいるのと同じです。「ヤッター。ざまあ見ろ!」と憎しみを込めた喜びの叫びを上げていたわけです。しかし、喜ぶのはまだ早いのです。なぜなら、蛇の子孫からまむしが出、その子は飛びかける蛇となるからです。どういうことかというと、イスラエルは打たれましたが、その代わりにもっと残虐な者が出て、彼らを苦しめることになるからです。それがアッシリヤでした。そう、アッシリヤは、木から木へと飛ぶように移動する荒野の蛇のように、ペリシテに飛びかかるというのです。

その結果どうなるのでしょうか?30節と31節です。「寄るべのない者たちの初子は養われ、貧しい者は安らかに伏す。しかし、わたしは、おまえの子孫を飢えで、死なせる。おまえの残りの者は殺される。門よ、泣きわめけ。町よ、叫べ。ペリシテの全土は、震えおののけ。北から煙が上がり、その編隊から抜ける者がないからだ。」

「寄るべのない者たちの初子」は、何を意味しているのかよくわかりません。ただ「寄るべのない者たち」とは「貧しい者たち」のことを指しているので、アッシリヤやバビロンによって滅ぼされて衰え、貧しくされ、弱くなっていたイスラエルのことを指しているのではないかと思われます。確かにイスラエルは罪を犯し、神に背いたので、神からの懲らしめを受けましたが、神は枯れらをあわれんで、緑の牧場に導かれ、安らかに伏すようにされるのです。

それに対してペリシテはそうではありません。ペリシテに対しては、このように言われます。「わたしは、おまえの子孫を飢えで、死なせる。おまえの残りの者は殺される。」ここには明らかに違いが見られます。イスラエルに対しては懲らしめを与えますが、やがて安らかに伏させてくださる、神の救いの中に入れてくださいますが、ペリシテの場合はそうではありません。ペリシテの場合は、完全に滅ぼされることになるのです。この預言の通りに、ペリシテはB.C.701年にアッシリヤによって滅ぼされてしまいました。そしてB.C.6世紀にはエジプトの支配下に入り、B.C.332年にはアレクサンドロス大王に攻略されるのです。そして、ペリシテ人は歴史上から姿を消しました。この聖書の言葉の通りになったわけです。

興味深いことに、民族的には違いますが、今でもこの名前を使っている人々がいます。誰ですか?パレスチナ人です。「パレスチナ」という言葉は、「フィリスチナ」つまりこの「ペリシテ」に由来しているのです。彼らはペリシテ人が昔住んでいたガザ地区に今も住んでいます。もともとペリシテ人はエーゲ海にある島々、クレテ島やキプロス島から渡って来た白人で、海の巨人として恐れられていました。あのゴリヤテもペリシテ人ですが、白人の大巨人です。今のパレスチナ人はアラブ人ですから民族的には違います。けれども、今も民族を変えてイスラエルを脅かす勢力として存在しているのがパレスチナ、ペリシテ人なのです。おもしろいですね。ということはどういうことかというと、この聖書の預言にあるように歴史は動いていくということです。ここでペリシテ人がたどった運命を、今のパレスチナもたどるようになるのです。

Ⅲ.主に身を避けて(32)

ではどうしたらいいのでしょうか。ですから第三のことは、主に身を避けてということです。32節をご一緒に読んでみましょう。「異邦の使者たちに何と答えようか。『主はシオンの礎を据えられた。主の民の悩む者たちは、これに身を避ける。』」

そのアッシリヤに抵抗するために周辺諸国の間では、互いに連合してこれに対抗としようとする動きが起こっていました。当然ペリシテはイスラエルに敵対していましたが、北の大国アッシリヤに抵抗するために何らかの対策を考えなければなりませんでした。それで南ユダ王国と同盟を結ぼうとしたのです。これが人間の考えることです。人は窮地に追い込まれると、このように誰か人に頼ろうとします。目に見えない神さまではなく、目に見える物に頼ろうとするのです。それは信仰者でも同じです。目に見えない神を信じていても、いざとなると目に見える物に頼ろうとするのです。そのような時になぜ祈らないのでしょうか。なぜ神に叫ばないのでしょうか。なぜ神にその解決を求めないのでしょうか。    幸い北イスラエルは滅ぼされたし、これまで南ユダを治めていたアハズ王は死にました。ですからペリシテは、ここはアハズの子ヒゼキヤに友好同盟を結ぶことでアッシリヤに対処しようとしたのです。南ユダ王国もアッシリヤに攻め込まれ崩壊寸前のところまで来ていたので、ヒゼキヤ王もきっとこの話に乗ってくるだろうと思ったのです。そこで使者を送り一緒にこれと戦おうと申し出ました。何だか国の政治に似ていますね。そこにはいつも与党と野党の駆け引きがあります。国民のことを考えるよりも、自分たちの立場、利益だけを求めていく姿があります。ヒゼキヤはきっぱりとこれを断りました。彼はこのように言いました。「主はシオンの礎を据えられた。主の民の悩む者たちは、これに身を避ける。」と。

このような危機を乗り越えることができるのは人と人との同盟によってではなく、あるいは国と国との同盟によってでもなく、ただ主ご自身に身を避けることによってだと言ったのです。主こそが礎であり、避け所なので、主に身を避けると答えたのです。これはものずこい告白です。というのは、この当時、アッシリヤが支配していた地域はかなりの範囲に及んでいたからです。ユダの西にあるペリシテの地域、東にあったモアブ、南のアラビヤ、さらにはエジプトとエチオピアに至る地域にまで及んでいました。アッシリヤの地図を見ると非常に興味深いのですが、この時アッシリヤが支配した地域はちょうどパン粉を膨らませたようにユダの周辺諸国にまで膨らんでいましたが、その中にあってユダの地域だけが、エルサレムだけがその支配を受けておらず、大海の孤島のようにぽつんと残っているような状況だったのです。

なぜこのようなことが起こるのでしょうか?主がユダを、エルサレムを守っておられたからです。「主はシオンの礎を据えられた。主の民の悩む者たちは、これに身を避ける。」というヒゼキヤの信仰に、主が答えてくださったからです。

主に身を避ける人は幸いです。なぜなら、主がその人を守ってくださるからです。あなたはどこに礎を置いていますか?何を避け所としておられますか?主があなたの避け所であり、そこに主がともに住んでくださるので、あらゆる災いから守ってくださるのです。ややもすると私たちはそのような状況に置かれると、主に身を避けるのではなく、人に信頼したり、物に、お金に、この世のものに頼りがちになりますが、私たちが本当に頼りとしなければならないのは、主なのだということをしっかりと覚えておきたいと思うのです。

ところで、この旧新約聖書66巻全体のちょうど真ん中にある聖句は何かご存知ですか?ヘンリー・H・ハーレイ著作(聖書図書出版)の「聖書ハンドブック」によると、聖書の真ん中の節は詩篇118篇8節です。聖書の真ん中が詩篇であるということは、これが私たちの信仰生活の中心でもあるということです。開いてみましょう。

「主に身を避けることは、人に信頼するよりよい。」

主に身を避けることは、人に信頼するよりもいいのです。その次の9節には、「主に身を避けることは、君主たちに信頼するよりもよい。」とあります。これが聖書の真ん中に書かれてあることです。それは、これが私たちの信仰生活の中心でなければならないということなのです。

イエス様は、「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からたのことで、何を着ようかと心配してはいけません。いのちは食べ物よりもたいせつなもの、からだは着物よりもたいせつなものではありませんか。」(マタイ6:25)と。「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。」(マタイ6:26-30)   きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのですから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがないのです。主イエスは、「なぜあなたは心配しているのか。神があなたの人生を悲劇で終わらせるだろうか」と言っておられるのです。

私たちは一輪の花よりも、一羽の雀よりも、尊い存在です。私たちは神の子どもであり、御使いもうらやむほどのものを与えられているのです。であれば、どうして神が養ってくださらないということがあるでしょうか。そのように思うのは、私たちが神を信じていないからです。不信仰の問題なのです。神が私の人生を満たしてくださらないかもしれないと考えて、自分で自分の人生を満たそうとするのです。

ローマ人への手紙8章32節には、神の私たちに対する関心がよく記されています。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」

これが神の私たちに対する関心なのです。神は、ご自分の御子をさえ死に渡してくださいました。であれば、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことはないのです。

私たちは自分の生活を見ると、なかなか問題が解決されないことがあります。こじれにこじれて、困難ばかりが重なってくるように感じるてしまうのです。「神が約束してくださったのに、いったいなぜこんなことになるのだろうか。なぜ私の人生はこんなにみじめなのだろうか。なぜ私の人生は悩みでいったぱいなんだろうか」と思うことがあるのです。しかし、聖書を通して、しっかりと応えを得てください。すなわち、それは神が私たちに関心がないからではなく、私たちが神を信頼していないからなのです。人は、自分が神を信頼していないとは考えないで、神が自分を助けてくださらないとばかり不満を抱くのですが、そうではないのです。    今、この瞬間から、神を信頼してください。だれでも信じる価値のあるものは信じられます。しかし、信じられないことを信じるのが信仰です。エリコの城壁を六回回った時までは、何の変化もありませんでした。それが信仰の現実です。しかし、七度目に回ると、城壁が崩れ落ちたのです。ツァラートに犯されていたナアマン将軍は、ヨルダン川で七度身を洗いなさいと言われたとき、六度までは何の変化もありませんでした。そのとき、人は不安になり、心配し、恐れます。しかし、七度目に入ったとき、神は約束とおりのことをしてくださいました。それが信仰です。そして、そのような信仰が奇跡を起こすのです。

あなたは何に信頼していますか。かつてヒゼキヤが緊迫した状況の中で主に身を避けたことで、すばらしい主の奇跡を体験したように、あなたもその苦しみの中で主に身を避けることによって、どうか主のすばらしい奇跡を体験してください。主に身を避けることは、人に信頼するよりも良いのです。主があなたにもすばらしい計画を持っておられることを信じ、この方に信頼して歩んでいこうではありませんか。

イザヤ書14:1~23節 「いこわせてくださる神」

きょうはイザヤ書14章の御言葉からご一緒に学びたいと思います。タイトルは、「いこわせてくださる神」です。1節に「まことに、主はヤコブをあわれみ、再びイスラエルを選び、彼らを自分たちの土地にいこわせる。」とあります。イザヤ書は13章から新しい段落に入りました。ここからイスラエルを取り囲む周辺諸国に対する宣告が語られています。その筆頭に登場したのがバビロンでした。なぜバビロンなのか。それはバビロンというのが単に一つの国を越えた神に敵対する勢力を表しているからです。いわゆる「大バビロン」のことです。そのバビロンに対する裁きの宣告が13章ときょうの箇所に記されてあるわけです。  そして1節には、神がバビロンをさばかれる理由が記されてあります。それは神がイスラエルを選ばれたからです。神がイスラエルを選ばれたので、その約束のとおりにバビロンから解放と自分たちの土地にいこわしてくださるのです。   きょうは、このことについて三つのポイントでお話したいと思います。

Ⅰ.いこわせてくださる神(1-8)

まず第一のことは、神は私たちをいこわせてくださる方であるということを覚えておきたいと思います。1節から8節までのところですが、もう一度1節を見てください。「まことに、主はヤコブをあわれみ、再びイスラエルを選び、彼らを自分たちの土地にいこわせる。在留異国人も彼らに連なり、ヤコブの家に加わる。」    ここに「再び」とあります。「再びイスラエルを選び、彼らを自分たちの土地にいこわせる」のです。それは、前にもこのようなことがあったということを表しています。それは出エジプトの出来事です。イスラエルはかつて430年もの間エジプトの奴隷として捕らわれていましたが、神はご自身のしもべモーセを立ててその中から解放してくださいました。その時と同じように、バビロンに捕らえられていたイスラエルを再び選び、彼らを自分たちの土地にいこわせてくださるというのです。果たせるかな、それがこのイザヤが預言した時(B.C.715年)から176年の後に(B.C.539年)に成就しました。神はペルシャの王クロスによって彼らをバビロンの手から解放し、祖国エルサレムへと帰還させてくださったのです。イザヤがこれを預言したのはB.C.715年です。28節に「アハズ王が死んだ年、この宣告があった」とあることからわかります。アハズ王が死んだのは、B.C.715年のことでした。また、ペルシャの王クロスがバビロンからイスラエルを解放したのがB.C.539年です。ですから、イザヤがこれを預言した時から176年後にこれが実現したことになります。

その時、どのようなことが起こるのでしょうか。2節を見ると「国々の民は彼らを迎え、彼らの所に導き入れる。イスラエルの家は主の土地でこの異国人を奴隷、女奴隷として所有し、自分たちをとりこにした者をとりこにし、自分たちをしいたげた者を支配するようになる。」とあります。かつてイスラエルをしいたげ、彼らをとりこにした国々の民が、逆に、イスラエルの支配下で生きることを求めるようになるというのです。なぜそのようなことになるのでしょうか?3節、それは「主が、あなたの痛み、あなたへの激しい怒りを除き、あなたに負わせた過酷な労役を解いてあなたをいこわせ」てくださるからです。

ここに「いこわせる」とあります。この言葉は1節と7節にも出てきます。「いこう」いい言葉ですね。からだや心を休めること。休息すること。くつろぐことです。英語では「rest」とか「relaxation」です。たばこの銘柄ではありません。休息することです。主が、彼らの痛み、激しい怒りを除き、彼らに負わせた過酷な労役を解いていこいを与えてくださるからです。

その時あなたはバビロンの王について、このようなあざけりの歌を歌うでしょう。4節から8節です。「しいたげる者はどのようにして果てたのか。横暴はどのようにして終わったのか。主が悪者の杖と、支配者の笏とを折られたのだ。彼は憤って、国々の民を打ち、絶え間なく打ち、怒って、国々を容赦なくしいたげて支配したのだが。全地は安らかにいこい、喜びの歌声をあげている。もみの木も、レバノンの杉も、あなたのことを喜んで、言う。『あなたが倒れ伏したので、もう、私たちを切る者は上って来ない。』」

8節の「あなたが倒れ伏したので」の「あなたは」は、バビロンのことです。もみの木もレバノンの杉も、喜びの歌声を、歓声をあげています。もみの木やレバノンの杉が喜びの歌声をあげるのには理由があります。それは、かつてバビロンがもみの木や杉を切り倒したのは必要な木材を得るためではなく、暴力的になぎ倒していたからです。命ある自然を暴力的に破壊することを、自然界がどれほど悲しんでいたことでしょう。そのバビロンが滅んだので、そうした破壊がなくなったので、もみの木もレバノンの杉も喜びの歌声をあげるのです。

いったいどのようにして暴力的で破壊的なバビロンは倒れたのでしょうか。主が悪者の杖と、支配者のしゃくとを折られたからです。主がバビロンをさばき、その圧政の下でうめき苦しんでいたイスラエルを救われたからなのです。主があわれんで、再びイスラエルを選び、彼らを自分たちの土地にいこわせてくださいました。

ダビデは、「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」(詩篇23:1-2)と告白しました。    皆さん、主は、あなたの羊飼いです。羊飼いであられる主は、あなたを緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとり、いこいのみぎわに伴われます。この羊飼いによってあなたはいのちを得、またそれを豊に持つことができます。主はあなたをあわれんで、真の安息を与えてくださいます。かつてご自分の民であるイスラエルをバビロンから解放して約束の地にいこわせたように、私たちを罪のなわめから解放し、いこいの水のほとりに伴ってくださることを覚えましょう。

Ⅱ.どうして天から落ちたのか(9-15)

第二に、敵である悪魔の問題は何だったのかについて見ていきたいと思います。9節から15節までのところに注目してみましょう。まず9節から11節をご覧ください。「下界のよみは、あなたの来るのを迎えようとざわめき、死者の霊たち、地のすべての指導者たちを揺り起こし、国々のすべての王を、その王座から立ち上がらせる。

「下界のよみ」とか「死者の霊たち」というのは、霊的な世界のことです。死後の世界です。神のさばきが行われる所で、そこにバビロンの王が落ちて行きました。すると、死者の霊たちはみな、バビロンの王に告げて言うのです。「『あなたもまた、私たちのように弱くされ、私たちに似た者になってしまった。』あなたの誇り、あなたの琴の音はよみに落とされ、あなたの下には、うじが敷かれ、虫けらが、あなたのおおいとなる。」

ひどい描写です。かつては大帝国の絶対的な権力者であったバビロンは死んで、下界のよみ、死者の霊たちがさまよい苦しんでいる世界に落ちました。栄光を極めた者が、そこに落ちたわけです。誇りもプライドも何もかも打ち砕かれました。すべてそぎ落とされ、すべて失いました。そこにはうじが敷かれていて、虫けらが体を蝕(むしば)んでいきます。イエスもこの下界のことを次のように言いました。マルコの福音書9章48節です。「そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。」「そこ」とは前の節を見ていただくとわかりますが、「ゲヘナ」のことです。「ゲヘナ」とは地獄のことです。「火の池」とも呼ばれています。そこにはうじがわいていて、彼らを食ううじは尽きることはありません。ずっとうじに食われ続けるのです。それが下界のよみ、ゲヘナ、地獄です。

そして、12節から15節までのところを見てください。「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。」

ここにも、バビロンがよみの穴の底に落とされることが書かれてあります。しかし、このところをよく見ると、これはバビロンの王というよりも、その背後で働いていた霊のこと、その背後でバビロンの王を動かしていた張本人のことであるのがわかります。それが「暁の子、明けの明星」です。「明けの明星」と訳された言葉は、ヘブル語で「ヘーレル」です。この言葉は旧約聖書ではここにしか用いられていないため、正確な意味はわかりませんが、これが「輝く」を意味する「ハーラル」という言葉から派生したので、夜空にいちばん明るく輝く星の一つである金星を表している考えられてきました。それで「明けの明星」と訳されているわけです。これはラテン語では「ルシファー」と言います。「ルシファー」の「ルシ」は「光」、「ファー」は「運ぶ者」という意味なので、これは、「光を運ぶ者」とか、「輝く者」と考えられています。ですから、この明けの明星とは輝く天使のことです。天使たちの最高位に位置していた天使長、それがルシファーです。このルシファーが堕落しました。神に反逆したので天から落ちたのです。それがサタン、悪魔です。悪魔の起源はこれです。よく、神さまは天地万物を造られたのならば、悪魔も造られたということですか?という質問を受けることがありますが、それは違います。神さまが悪魔を造ったのではありません。神さまは良い天使たちを造られました。神さまが造られたものはすべて非常に良かったのです。しかし、神さまは天使を人間と同じように自由意志を持つものとして造られました。そして、ルシファーは何を血迷ったのか天に上ろう、いと高き方のようになろうと高ぶりました。神に反逆したのでよみに落とされてしまいました。暁の子、明けの明星であった天使長ルシファーは、堕落して天から落ちたのです。

このルシファーがどれほとの輝きを放っていたのかについて、エゼキエル書28章12節から17節までのところに次のように記されてあります。ルシファーについて言及されているのは、イザヤ書とこのエゼキエル書の二箇所だけです。「人の子よ。ツロの王について哀歌を唱えて、彼に言え。神である主はこう仰せられる。あなたは全きものの典型であった。知恵に満ち、美の極みであった。あなたは神の園、エデンにいて、あらゆる宝石があなたをおおっていた。赤めのう、トパーズ、ダイヤモンド、緑柱石、しまめのう、碧玉、サファイヤ、トルコ玉、エメラルド。あなたのタンバリンと笛とは金で作られ、これらはあなたが造られた日に整えられていた。わたしはあなたを油そそがれた守護者ケルブとともに、神の聖なる山に置いた。あなたは火の石の間を歩いていた。あなたの行いは、あなたが造られた日からあなたに不正が見いだされるまでは、完全だった。あなたの商いが繁盛すると、あなたのうちに暴虐が満ち、あなたは罪を犯した。そこで、わたしはあなたを汚れたものとして神の山から追い出し、守護者ケルブが火の石の間からあなたを消えうせさせた。あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。そこで、わたしはあなたを地に投げ出し、王たちの前に見せものとした。」

ここで「あなた」というのは、ツロの王のことですが、正確に言うと、ツロの王の背後で働いていたサタンのことです。13節に「あなたは神の園、エデンにいて」とあるのを見てもわかります。神が天地を創造された時からいました。このルシファーについてここでは何と言われているかというと、「あなたは全き者の典型であった」とか、「知恵に満ち、美の極みであった」とあります。「あらゆる宝石があなたをおおっていた。」これが堕落する前のルシファーの姿です。ルシファーは光を運ぶ者、輝く者、まるで宝石の塊であるかのように美しい存在でした。全き者の典型、美の極みでありました。彼には生まれつきタンバリンと笛とが与えられていました。すなわち、ルシファーは生まれながらの賛美リーダーで、賛美の父でした。天の聖歌隊のリーダーだったわけです。彼は油注がれた守護者ケルブとともに、神の聖なる山に置かれていました。この守護者ケルブも御使いです。最高位の御使いの一人です。ですから、これはツロの王のことではないことがわかります。あなたの行いは、あなたが造られた日からあなたに不正が見い出されるまでは、完全だった。そのルシファーが罪を犯したのです。堕落したのです。明けの明星であるルシファーはもともと金星のように輝いていましたが、罪を犯したことで天から落とされたのです。    何が問題だったのでしょうか?もう一度13節と14節を見てみましょう。「あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』」

彼が天から落ちのは彼が高ぶったからです。彼は心の中で言いました。「私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。」ルシファーは神のようになろうとしました。神のようになろうとすること自体は問題ではありません。イエスも、マタイの福音書5章48節のところで、このように言われました。「天の父が完全なように、完全でありなさい」天の父が完全であられるように、あなたがたも完全でありなさい、と言われたのです。また、「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。」(Ⅰペテロ1:16)」とあります。神のように完全であること、神のように聖であること、神のようになることは大切なことです。問題は何のために神のようになるのかということです。そこがポイントです。その動機が問われます。ルシファーは神を神として敬い、神に従う者として神のようになることではなく、自分が神の座に着き、神のようになろうとしたことが問題だったのです。

かつて悪魔がエバを誘惑した時、何と言って誘惑したか覚えていますか?「あなたがこれを食べるその時、あなたの目が開け、あなたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3:5)これはどういうことでしょうか。これは、あなたがこれを食べるその時あなたは神のようになり、神から何の指図を受けることもなく、何でも自分で自由に判断し、自由に行動することができるということです。つまり、神から独立して、自分の判断で、自分の知恵で動けるようになるということだったのです。そういう意味で神のようになると言ったわけです。それが問題でした。なぜなら、本来人間は神のかたちに造られ、神を敬い、神を信じ、神に従い、神と交わりわ持って生きるように造られているからです。なのにその神に聞こうとしないで、自分勝手に生きるとしたら、その本来の目的が失われさまよい歩いてしまうことになるからです。これが罪の本質なのです。神さまなんていらない。私は自分を信じて、自分で判断して、自分の思うように生きていく、自分で納得できる人生を生きていくから大丈夫。自分が神さまになっているのです。イエス様を信じている人と信じていない人の違いはここにあります。イエス様を信じていない人は、自分が神のようになっているのです。それはこのルシファーと同じです。それはそのまま悪魔から来ている考えなのです。

この13節と14節の御言葉ですが、実はここに訳されていない言葉があります。それは「私」という言葉ですね。「私は天に上ろう。私は神の星々のはるか上に私の王座を上げ、私は北の果てにある会合の山にすわろう。私は密雲の頂に上り、私はいと高き方のようになろう」「私」という言葉が5回も使われていますが、それが訳されていません。しかし、これこそが罪の本質であり、宝石のような輝きを放っていたルシファーがよみに落とされた理由なのです。

昔、ある教会で行われていた英語のクラスのチャペルタイムでお話してほしいと招かれたことがあります。英語のクラスなので、何か英語の単語からお話できないかと思いました。そして、「Sin」という単語を思いつきました。罪です。このsinという単語は、罪とは何かを端的に表しています。それはその真ん中に何があるかです。真ん中にあるのはです。つまり「私」なんです。自分が中心であることが罪の本質なのです。神が中心ではなく自分が中心であること、常に自分のことばかり考え、自分が注目されたい、自分が感謝されたい、自分がほめられたい、自分が認められたいという思い、それが罪なのです。ですから、自分の思うように事が進まないと憤るわけです。ふて腐れます。自分がけなされたり、自分の権利が侵害されたりすると頭にくるわけです。常に自分が中心だからです。自分を捨てることができないので、すぐに嫌になってしまうのです。

これに似た言葉に「誇り」とか「高ぶり」があります。これを英語で何というかというと、「Pride」です。「P.r.i.d.e」真ん中にある文字は何ですか。やはりIですね。それが高ぶっていることです。神さま中心ではなく、自分が中心になっていること、それが罪であり、誇りであり、高慢です。

イエスは、そのような私たちを罪から解放してくださるために来て下さいました。そして、十字架にかかって死んでくださったのです。ピリピ人への手紙2章6節から8節までのところに次のようにあります。

「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。」

キリストは自分中心ではありませんでした。むしろ自分を捨てられました。自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。いや、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。これが罪から解放された者の姿であり、そのような人たちが目指すべき心構えです。ですから、パウロはこのように言っているのです。

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけでなく、他の人のことも顧みなさい。」(ピリピ2:3-4)

自分が中心になるのではなく、虚栄を張ったりするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思うこと、自分のことだけでなく、他の人のことも顧みること、それが罪から解放された者が歩む道なのです。

そのためには、私たちは自分を捨てなければなりません。イエスは言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(ルカ9:23)自分を捨てなさい。自分の十字架を負いなさい。自分の十字架を負って、わたしについて来なさい。イエスはそのように言われたのです。自分はもういいのです。自分はイエスが十字架につけられた時にいっしょにつけられました。自分もうはないのです。使い物になりません。私が今生きているのは、私を愛し、私のためにご自分のいのちをお捨てになられた神の御子を信じる信仰によるのです。あなたの道を歩ませてください。あなたに従います。あなたを愛します。そう告白して、神を神として生きることが、あなたの人生の真の祝福へとつながっていくのです。それは自分を卑下することではありません。自分はだめだとひげすることではなく、神に信頼してい切ること、すべての栄光を神にお返しして生きる姿です。

もしあなたの心の中にルシファーのように「私は天に上ろう」とか、「私は神のようになろう」という思いがあるなら、悔い改めてください。それは神への反逆です。神はそのような高ぶりを必ず砕かれます。神はバビロンの王を動かしその背後にあって働いていた悪魔をよみに落とされたように、高ぶる者を退けられるのです。

Ⅲ.勝利の神(16-23)

第三のことは、神は敵である悪魔に勝利してくださるということです。16節から23節までのところを見てください。まず16節から21節です。「あなたを見る者は、あなたを見つめ、あなたを見きわめる。『この者が、地を震わせ、王国を震え上がらせ、世界を荒野のようにし、町々を絶滅し、捕虜たちを家に帰さなかった者なのか。』すべての国の王たちはみな、おのおの自分の墓で、尊ばれて眠っている。しかし、あなたは、忌みきらわれる若枝のように墓の外に投げ出された。剣で刺し殺されて墓穴に降る者でおおわれ、踏みつけられるしかばねのようだ。あなたは墓の中で彼らとともになることはない。あなたは自分の国を滅ぼし、自分の民を虐殺したからだ。悪を行う者どもの子孫については永久に語られない。先祖の咎のゆえに、彼らの子らのために、ほふり場を備えよ。彼らが立って地を占領し、世界の面を彼らの町々で満たさないためだ。」

どんなに地を震わせ、どんなに王国を震え上がらせても、どんなに世界を荒野のようにし、町々を絶滅し、捕虜たちを家に帰さなかった者であっても、最終的には墓の外に投げ出されます。剣で刺し殺されて墓穴に下る者でおおわれ、踏みつけられるしかばねのようになるのです。これはバビロンの王のことについて語られているようですが、その背後に存在していたサタンのことが言われています。悪魔は必ず滅ぼされます。天から地に落とされ、地から地獄に落とされます。それがサタンの宿命です。19節を見ると、「忌み嫌われる若枝のように墓の外に投げ出された」とあります。「若枝」というのは前にも出てきましたが、メシヤの称号でした。イエス・キリストの肩書きでもあります。「ネイツァー」ナザレの語源でもありました。しかし、ここでは単なる若枝ではなく「忌み嫌われる若枝」です。これは実をつけない、花もつけない、ただ樹液だけを吸い取って木を衰えさせる枝のことです。何の役にも立たないで、ただ労力だけを吸い上げる枝のことです。実を結ばない不要の枝です。忌み嫌われる若枝です。これは「反キリスト」のことです。反キリストとは、「アンティキリスト」と言いますが、この「アンティ」とは「取って変わる」という意味なのです。キリストに取って変わる存在、神にとって変わろうとする存在、それが反キリストです。一見キリストにも似ていて、キリストではないかと思われますが実のところは反キリストです。そのように見せかけて人を騙します。そして、自分の思うように人を操るわけです。神に取って変わろうとする存在、キリストに取って変わろうとする存在。それが反キリストです。忌み嫌われている若枝の正体です。しかし、そうした忌み嫌われる若枝は、墓の外に投げ出されます。必ず滅ぼされるのです。

22節と23節には、そのさばきの様子が次のように描写されています。「わたしは彼らに向かって立ち上がる。―万軍の主の御告げ―わたしはバビロンからその名と、残りの者、および、後に生まれる子孫とを絶ち滅ぼす。―主の御告げ― わたしはこれを針ねずみの領地、水のある沢とし、滅びのほうきで一掃する。―万軍の主の御告げ―」

すごいですね。ここでは滅びのほうきとあります。神はバビロンの王と彼に属するすべてのものを滅びのほうきで一掃されます。現代では掃除機がありますから、掃除機で吸い取るというところでしょうか。あるいは、お掃除ロボットくんで部屋の隅から隅まできれいにするでしょうか。あまりピンときません。滅びのほうきで一掃するです。滅びのほうきで一掃し、そこを針ねずみの領地とするのです。完全に廃墟と化するということです。

これが神がバビロンに、また、その背後で働いている悪魔になさることです。神はヤコブをあわれんでおられるので、再び彼らを集め、彼らを自分たちの土地にいこわせてくださいます。それを妨げるすべての勢力に神は立ち向かい、完全に滅ぼしてくださいます。

最後に、黙示録12章9節から11節を開いてみたいと思います。「こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あのふるい蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」

「彼の使いども」というのは悪霊たちのことです。12章4節をみると、彼に付き従った天使たちの三分の一もいっしょに堕落したとあります。その三分の一の天使たちが悪霊となりました。その悪霊たちのかしらが悪魔です。悪魔=悪霊ではありません。悪魔はサタンとも呼ばれます。ですから悪霊も元天使なわけです。その悪霊どもも悪魔とともに投げ落とされました。そのとき、こう告げる声があります「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。」

「私たちの兄弟たちの告白者」というのもサタンの肩書きです。サタンは日夜私たちを告発します。「あなたはまた同じことを言った。」「同じことをやった」「また同じ罪を繰り返した。」そのように告発します。誘惑した上で罪を犯させたかと思うと、罪を犯したとたんに責め立てるわけです。嫌らしいやつですね。クリスチャンに一生懸命に罪を犯させようと日夜働いているのです。私たちを堕落させようと、ありとあらゆる誘惑を講じてくるわけです。そして罪を犯したとたんに、今度は責めまくります。どうしようもない相手です。それがサタンです。そんなサタンに対してどうやって戦ったらいいのでしょうか。11節です。

「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」

兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝ったとあります。サタンに打ち勝つ方法は、小羊の血とあかしのことば、神のことばです。神の言葉の約束のゆえに、小羊の血にすがることによって、サタンに打ち勝つことができるのです。どんなにサタンがあなたの耳元でささやいて、「おまえはとんでもないやつだ。それでもクリスチャンか」「おまえはそれでも教会に行くつもりなのか」「もう教会に来る資格などない」「それで奉仕などできるのか」「とんでもない」「よくぞそんな平気な顔でクリスチャンたちと交わりができるものだ」と、サタンはいろいろなことを言って私たちを責め立て、神から引き離そうとしますが、それに対して私たちはサタンにこう言い返すことができます。「おまえが私の罪を責めるのはもっともかもしれない。確かに私は罪を犯した。罪深い者であるのは間違いない。でもおまえは私のすべての罪を知ってはいないじゃないか。もし知っていたらすごく驚くだろう。なぜなら、私の罪はそんなものじゃないからだ。私はおまえが思う以上にもっと最悪な人間だ。もっと最低で、もっと汚い、もっとひどい人間だ。こんなおぞましい者は他にいないだろう。間違いなく罪人のかしらだ。でもそんな私の罪の代価をイエス・キリストが十字架の上ですべて支払ってくださった。過去も、現在も、未来にも、もっともっと犯すであろう罪の一切を、イエス・キリストが十字架で血を流して洗い清めてくださったのだ。そんな私を神はあわれみ、恵みをくださったのだ」と。小羊の血がその恵みです。私たちはこの小羊の血によってサタンに勝利することができるのです。

神はあなたをあわれんでくださいました。神は小羊なるキリストの血によってあなたを贖ってくださいました。あなたは神に愛されているのです。どんなにサタンがあなたの罪を責め立てても、あなたをキリストにある神の愛から引き離すことはできません。あなたは小羊の血によってサタンに勝利することができるのです。神は、あなたがこの神に信頼し、神の御前にへりくだって生きることを求めておられます。それが神の恵み、神のあわれみに答えて生きるクリスチャンの姿なのです。

イザヤ書13章1節~22節 「バビロンは滅びる」

きょうは、イザヤ書13章全体から学びたいと思います。タイトルは、「バビロンは滅びる」です。1節を見ると、「アモツの子イザヤの見たバビロンに対する宣告」とあります。これまでイザヤは南ユダ王国を中心に神の言葉を語ってきましたが、この13章から23章までは、イスラエルを取り囲んでいた周辺諸国に対する神の宣告の言葉を語っています。その最初に登場するのがバビロンです。なぜバビロンが最初なのでしょうか?当時、世界を支配していたのはアッシリやでした。バビロンはまだ台頭していませんでした。なのにアッシリやではなくバビロンに対する宣告から語られているのです。  それは、バビロンが単に一つの国としてのバビロンではなく、神に敵対する勢力の象徴であったからです。黙示録17章と18章には出てくるあの「大バビロン」です。イザヤは、ただ自分の時代におけるバビロンだけでなく、神に敵対するサタンの代表者としてのバビロンが必ず滅びるという終末的な視点から、諸国に対するさばきのメッセージを始めなければならなかったのです。  きょうは、このバビロンに対する神のさばきの宣告から、三つのことをお話したいと思います。

Ⅰ.神はあらゆるものを用いられる(1-5)

まず第一のことは、神はあらゆるものを用いられるということです。まず1節から5節までのところに注目してください。2節をお読みします。

「はげ山の上に旗を掲げ、彼らに向かって声をあげ、手を振って、彼らを貴族の門に、入らせよ。」

どういうことでしょうか。「はげ山の上に旗を掲げ」というのは、戦いの開始の旗が良く見えるように、はげ山の上に主の旗を高く掲げよという意味です。「彼らに向かって声を上げ」の彼らとは、神の全軍のことです。ここではクロス王率いるメディヤとペルシャの連合軍のことです。4節に「寄り合った王国」とありますから、これはバビロンの次に台頭した連合軍、そう、メディヤとペルシャのことです。手を振って、彼らを貴族の門に、入らせよというのです。もちろん、この貴族の門とはバビロンのことです。豪華絢爛、難攻不落と言われたバビロンの城壁に入り、これを攻め落とせというのです。バビロンの城壁は高くそびえ立っていたのでだれも侵入できないであろうと思われていました。しかし、驚くべきことが起こったのです。ペルシャのクロス王が、この難攻不落と言われたバビロンを、絶対に落ちることはない、滅びることはないと思われていたバビロンを滅ぼしてしまったのです。どうやって?その高くそびえた城壁を破壊してではありません。何と水路を使ってそこから入り込み、まんまとバビロンを落としてしまったのです。手を振ってとは、そのことを表しています。絶対に滅ぶことがないと思われていたバビロンが、いとも簡単に滅びました。皆さん、「絶対」はありません。絶対は神だけです。他に絶対はありません。絶対大丈夫と思われていた高速道路の橋桁も、絶対安心だと言われていた原発も、もろくも崩れ落ちました。絶対神話は崩れたのです。絶対はありません。アメリカという超大国が滅びることは絶対にないのでしょうか。違います。歴史を見ればわかりますが、どんなに偉大な国でも滅びます。栄枯盛衰の繰り返しです。それはこのバビロンも例外ではありませんでした。絶対に滅びるはずがないと思われていたバビロンも滅んだのです。

そして、そのために用いられたのがクロス王でした。3節をご覧ください。「わたしは怒りを晴らすために、わたしに聖別された者たちに命じ、またわたしの勇士、わたしの勝利を誇る者たちを呼び集めた。」

これは、ペルシャの王クロスのことです。45章1節に、「主は油注がれた者クロスに」とあります。主は、かつて北イスラエルを懲らしめるためにアッシリヤを用いたように、高慢なバビロンをさばくためにペルシャの王クロスを用いたのです。異教徒の王であっても神のしもべとして、神の道具として用いられるのです。このクロスは元々異教徒でした。偶像崇拝者です。にもかかわらず、主の道具として、バビロンをさばくために用いられました。そして、ただバビロンを滅ぼしただけでなく、神の民を解放しました。70年間のバビロンに捕えられていたイスラエルを解放しました。彼らを祖国エルサレムに帰らせてくれました。解放者となったわけです。

それだけではありません。5節をごらんください。「彼らは遠い国、天の果てからやって来る。彼らは全世界を滅ぼすための、主とその憤りの器だ。」 ここには、「彼らは遠い国、天の果てからやって来る」とあります。あれ・と思いませんか。彼らとはメディヤ・ペルシャの連合軍のことかと思いますが、ここでは別の者たちのことが言われていることがわかります。というのは、メディヤ、ペルシャは遠い国ではなく、このバビロンに隣接していた国であったからです。ではこの遠い国からやってくる者たちとはだれのことなのでしょうか。6節を見ると「泣きわめけ。主の日は近い。」とありますが、これは、日曜日のことではありません。これは、終末の神のさばきの日のことです。世の終わりの患難時代のことです。神のさばきがキリストを拒絶した世界に、その怒りが注がれる時のことを指しているわけです。その日、どんなことが起こるのでしょうか。全能者からの破壊が来ます。その時に神が用いられるのが何かというと、何と獣と呼ばれている反キリストなんです。黙示録17章16節、17節にこうあります。

「あなたが見た十本の角と、あの獣とは、その淫婦を憎み、彼女を荒廃させ、裸にし、その肉を食い、彼女を火で焼き尽くすようになります。それは、神が、みことばの成就するときまで、神のみこころを行う思いを彼らの心に起こさせ、彼らが心を一つにして、その支配権を獣に与えるようにされたからです。」

何と神はその支配権を反キリストに、獣に、一時的に与えます。それによってイスラエルはこの方こそメシヤ、キリストだと信じますが、やがて手を返したかのようにユダヤ人を激しく迫害し始めるのです。それによって多くのユダヤ人は患難を通のですが、そのような中で彼らは悔い改め、まことの救い主である主を信じるようになるのです。こうしてイスラエルはみな救われるという聖書の約束が実現するのです。そのために神は、反キリストさえも用いられるのです。

神はクリスチャンしか用いられないというのは大間違いです。ノンクリスチャンをも用います。この人は異教徒だから、偶像崇拝者だから神になんて用いられないということはありません。ノンクリスチャンの言うことなんて何の意味もない、役に立たない、相手にもならないということではないのです。そのように言って見下してはなりません。神は、時に、ノンクリスチャンでさえ用いるのです。神のみこころを成し遂げるために、あえて神はそのような人たちを道具として使うことがあるのです。

ということは、あなたや私も神に用いていただけるということです。異教徒でも、ノンクリスチャンでも用いられるのであれば、なおさらのこと、ご自身のしもべであるクリスチャンを用いてくださるのは当然のことです。たとえあなたがろばのように鈍感でも、石のような堅い頭でも、絶対に用いていただけるのです。 私たちは神の道具として用いられるために、へりくだって、神に従うべきです。

Ⅱ.神は罪人たちを根絶やしにされる(6-16)

第二に、神はどのように悪をさばかれるのか、バビロンをさばかれるのかについて見ていきましょう。神は、罪人たちを根絶やしにされます。6節から16節までのところに注目してください。まず6節から8節までをお読みします。

「泣きわめけ。主の日は近い。全能者から破壊が来る。それゆえ、すべての者は気力を失い、すべての者の心がしなえる。彼らはおじ惑い、子を産む女が身もだえするように、苦しみと、ひどい痛みが彼らを襲う。彼らは驚き、燃える顔で互いを見る。」

先ほど申し上げましたように、この「主の日」というのは世の終わりの患艱時代のことです。神のさばきがキリストを拒絶した世界に、その怒りが注がれる時のことを指しているわけです。その日、どんなことが起こるのでしょうか。全能者からの破壊が来ます。それゆえ、すべての者は気力を失い、すべての者の心がしなえます。彼らはおじ惑い、子を産む女が身もだえするように、苦しみと、ひどい痛みが彼らを襲うのです。

それは9節にも描かれています。9節から12節までです。「彼らはおじ惑い、子を産む女が身もだえするように、苦しみと、ひどい痛みが彼らを襲う。彼らは驚き、燃える顔で互いを見る。見よ。主の日が来る。残酷な日だ。憤りと燃える怒りをもって、地を荒れすたらせ、罪人たちをそこから根絶やしにする。天の星、天のオリオン座は光を放たず、太陽は日の出から暗く、月も光を放たない。わたしは、その悪のために世を罰し、その罪のために悪者を罰する。不遜な者の誇りをやめさせ、横暴な者の高ぶりを低くする。わたしは、人間を純金よりもまれにし、人をオフィルの金よりも少なくする。」

これらはすべて、世の終わりの患難時代に起こることです。特に、後半の3年半を大患難時代と言いますが、その時には激しい神の怒りと憤りがこの世に臨みます。それは残酷な日です。しかし、神はそのように怒りと憤りによって地を荒れすたらせ、罪人たちをそこから根絶やしにされます。その悪のために世を罰し、その罪のために悪者を罰するのです。神が愛に満ちておられる方ならば、いったいどうしてそのような恐ろしいことをされるのでしょうか?そんな恐ろしいことをするなんて考えられないと思われるかもしれません。しかし、神の愛は神の義、あるいは全く聖なる方であるというご性質から発しているのです。神は全く正しく、聖い方であらるので、不義、汚れをそのままにしておくはできません。それを正しく裁かれるのです。しかし、裁かれることがないように、神はそのひとり子をこの世に送ってくださったことの中に、ご自身の愛を現してくださいました。ですから、聖書は「ここに愛がある」と言うのです。ですから、神は不義をいつまでもそのままにしてはおかれません。必ずそれを裁かれる時がくるのです。それは主イエスご自身も言われたことでした。

「その日、哀れなのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。この地に大きな苦難が臨み、この民に御怒りが臨むからです。人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。そして、日と月と星には、前兆が現れ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。」(ルカ21:23-27)    天の万象が揺り動かされます。まさに天変地異が起こるのです。天の星は光を放たず、太陽も月も光を失い、暗くなります。その時、人の子が輝かしい栄光を帯びてやって来るのです。つまり、これはイエスが地上に再臨される直前に起こることなのです。イザヤはその時のことを預言していたのです。その時、このようなことが文字通り起こります。いったいそれは何のためですか?罪人たちをそこから根絶やしにするためです。キリストに敵対する者の誇りをやめさせ、横暴な者の高ぶりを低くするためです。

ですから、12節をご覧ください。「わたしは、人間を純金よりもまれにし、人をオフィルの金よりも少なくする。」とあります。人間を純金よりもまれにするとか、オフィルの金より少なくするというのは、全世界の人口が少なくなるということです。その患難時代の始まりに、地上の四分の一の人が剣とききんと死病で殺されます。(黙示録6:8)川の水の三分の一が苦よもぎのように苦くなって、多くの人が死んでいきます。(黙示録8:11)そして、恐ろしい軍隊がやって来て、人類の三分の一が殺されます。(9:18)また、激しい太陽光線によって焼かれ、多くの人が死にます。(16:8)このようにして、全世界の人口が減少するのです。純金よりも、オフェルの金よりも少なくなるのです。ユダヤ人もこの中を通ります。エレミヤはこれを「ヤコブの苦難」と言っています。ユダヤ人はこの苦難の中で、自分が槍で突き刺した方を仰ぎ見るようになります。その苦しみの中で彼らは悔い改め、主に立ち返るようになるのです。ナザレのイエスこそメシヤであると受け入れるようになるのです。こうして、ユダヤ人はみな救われるという聖書のみことばが成就するのです。

神はいつまでも悪を放置される方ではありません。正しくさばかれる時がやって来るのです。その神の怒りから救われる道は、ただ神が遣わされた方を信じる以外にはありません。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5:24)

ここには、さばきに会うことがないと約束されてあります。キリストのことばを聞いて、神が遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移るのです。信じた瞬間に神の義、神の赦しをいただいて、神の恐ろしいさばきに会うことがないように守っていただけるというのです。

何とすばらしい約束でしょうか。あなたは、この救いを受けていますか?神が遣わしてくださった救い主イエス・キリストを信じていますか。神のさばきではなく、神の怒り、憤りではなく、神の救い、永遠のいのちを受けていますか。

13節には、「それゆえ、わたしは天を震わせる。万軍の主の怒りによって、その燃える怒りの日に、大地はその基から揺れ動く。」とあります。しかし、主イエスを信じた人には、決して揺り動かされることのない御国が与えられるのです。あなたもこの御国をいただいてください。ここにあなたの安心の保障を置いていただきたいのです。

Ⅲ.主のほかに神はいない(17-22)

ですから第三のことは、この方を仰ぎ見て救われよということです。17節から19節をご覧ください。神のさばきが臨んだ結果、バビロンはどのようになってしまうのでしょうか。ここには、「見よ。わたしは彼らに対して、メディヤ人を奮い立たせる。彼らは銀をものともせず、金をも喜ばず、その弓は若者たちをなぎ倒す。彼らの胎児もあわれまず、子どもたちを見ても惜しまない。こうして、王国の誉れ、カルデヤ人の誇らかな栄えであるバビロンは、神がソドム、ゴモラを滅ぼした時のようになる。」とあります。

これはバビロンがメディヤとペルシャの連合軍によって滅ぼされることを預言しています。果たしてそれがB.C.539年に実現しました。しかし、ちょっと待ってくださいよ。イザヤがこれを預言したのはアハズ王が死んだ年のB.C.715年のことです。14章28節を見るとわかります。ということは、イザヤは176年も先のことを正確に預言していたことになります。日本で言えば、江戸時代の人が平成時代のことを預言するようなものです。それを正確に預言していたことになります。考えられません。しかも45章1節を見てください。ここには、その時のペルシャの王様の名前まで記されてあるのです。「主は、油そそがれた者クロスに、こう仰せられた。」

もちろん、クロス王はこの時にはまだ生まれていません。176年も前のことですから・・・。まだ生まれていないのに、イザヤはクロスという名前を告げているのです。そんなことがあるはずがないと、ある人たちは、これは誰かが後から書き加えたのではないかと疑いますが、そうではありません。第二イザヤ、第三イザヤむしろ、このように先のことをはっきりと告げられたということは、この方こそ神であり、神には何でもおできになる方であるということの証明なのです。神は全知全能者です。すべてのことを知っておられ、何でもおできになられるのです。これこそ聖書が神のことばである理由なのです。証拠なのです。イザヤ41章23節を開いてみましょう。

「後に起ころうとする事を告げよ。そうすれば、われわれは、あなたがたが神であることを知ろう。良いことでも、悪いことでもしてみよ。そうすれば、われわれは共に見て驚こう。」

後の起こることを告げることができるのは、神だけです。そのことによって神は、ご自分こそがまことの神であることを示しておられるのです。

また、45章21節、22節も開いてください。ここには、「告げよ。証拠を出せ。共に相談せよ。だれが、これを昔から聞かせ、以前からこれを告げたのか。わたし、主ではなかったか。わたしのほかに神はいない。正義の神、救い主、わたしをおいてはほかにはいない。地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」とあります。

他の宗教書にもいいことがたくさん書いてあります。真理かと思えるようなことも書いてあります。しかし、預言は書かれてありません。しかし、聖書にははっきり書いてあります。これが聖書のユニークさです。神でなければ未来のことを正確に知ることができないからです。その預言が外れれば、それは真理ではありません。信じるに値しない、価値のないものだということです。ノストラダムスの大予言のようにいかようにもとれるというのは、いかにもうさん臭いのです。いかがわしい占いのようなものです。聖書はいかようにもとれない、もう「クロス」とはっきりと書いてあるわけです。そのように未来のことを先取りしてあらかじめ語ることができるようなものは、聖書の神以外には、イスラエルの神以外にはいないのです。

イザヤ46章9節、10節も見てみましょう。「遠い大昔のことを思い出せ。わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神はいない。わたしは、終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、『わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる』と言う。」

これが私たちの信じている神です。この神にすべてをお任せしようではありませんか。すべてはこの方の御手の中にあります。あなたの過去も、あなたの現在も、あなたの未来も、すべてこの方の御手の中にあります。だから、私たちはこの方にすべてをゆだねることができるのです。何でも知っておられ、何でもできるからです。これから先何が起こるのか、神は知っておられます。先見の目を持っておられます。その神さまに、私の人生を、あなたの人生をお任せするのです。将来がよくわからない、先が見えないことほど不安なことはありません。そういう時に私たちは心配します。思い煩います。でも先がわかっている、何もかもすべてわかっている方がおられるなら、その方にすべてをお任せしたいと思うのは当然ではないでしょうか。先行きどうなるかわかりません。経済的にも不安です。でも神さまは何もかも知っておられるのです。この神さまにすべてお任せすることが、私たちに確かな平安をもたらすのです。

そして、19節から終わりのところまでを見てください。「こうして、王国の誉れ、カルデヤ人の誇らかな栄えであるバビロンは、神がソドム、ゴモラを滅ぼした時のようになる。そこには永久に住む者もなく、代々にわたり、住みつく者もなく、アラビヤ人も、そこには天幕を張らず、牧者たちも、そこには群れを伏させない。そこには荒野の獣が伏し、そこの家々にはみみずくが満ち、そこにはだちょうが住み、野やぎがそこにとびはねる。山犬は、そこのとりでで、ジャッカルは、豪華な宮殿で、ほえかわす。その時が来るのは近く、その日はもう延ばされない。」

これはどういうことかというと、バビロンは完全に滅ぼされるということです。ここには「永久に住む者もなく」と言われています。永久に廃墟になることが預言されているのです。そこにはアラビヤ人も天幕を張らず、牧者たちも、群れを伏させません。荒野の獣が伏すようになります。それほど荒廃するという預言です。この預言のとおり、バビロンは少しずつ荒廃していき紀元後3世紀には完全な廃墟となりました。キリストに敵対する者は、完全に倒れ、人を寄せ付けないほどに荒廃するのです。

「倒れた。大バビロンが倒れた。そして、悪霊の住まい、あらゆる汚れた霊どもの巣くつ、あらゆる汚れた、憎むべき鳥どもの巣くつとなった。」(黙示録18:2)

であれば、私たちはどうあるべきなのでしょうか。「わたしのほかに神はいない」と言われる方を信じ、恐れかしこんで生きることです。この神の御前にへりくだって生きることです。どんなに隆盛を極めたバビロンでも滅びました。私たちが信じ、私たちが拠り所とし、私たちが見つめて離さないのは、どんなことがあっても滅びることのないまことの神であり、この方が約束してくださった天の御国なのです。どんなことがあっても、決して揺り動かされることのない御国をいただき、ここにすべての安心の保障を置いて生きること。それがあなたに求められているのです。

イザヤ書12章1節~6節 「救いの泉」

きょうは、イザヤ書12章から学びたいと思います。タイトルは「救いの泉」です。イザヤは、2節で救われた者の賛美を次のように語っています。「見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。」神は私の救いです。  きょうは、この賛美から三つのことをお話したいと思います。第一のことは、神は私たちの救いであるということ、第二に、救われた者の喜びです。そして第三のことは、そのように救われた者は、その救いを全世界に語り告げるようになるということです。

Ⅰ.神は私の救い(1-2)

まず第一に1節と2節をご覧ください。「その日、あなたは言おう。「主よ。感謝します。あなたは、私を怒られたのに、あなたの怒りは去り、私を慰めてくださいました。」見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。」

このところも「その日」ということばで語られています。「その日」とはイザヤ書におけるキーワードの一つであるということは、何度もお話していることです。それはイザヤの時代に起こることと同時に、終末の時代に起こることの両方のことが預言されてあるわけです。「その日」どんなことが起こるのでしょうか。ここには、「主よ。感謝します。あなたは、私を怒られたのに、あなたの怒りは去り、私を慰めてくださいました。」とあります。

これは神への賛美です。主は彼らを怒られたのに、その怒り去って、彼らを慰めてくださいました。これはイザヤの時代においてはバビロン捕囚のことが預言されています。イスラエルは神に背き自分勝手な道に歩んだので、神はバビロンという国を送り彼らを滅ぼしました。前586年ことです。イザヤがこれを預言したのは前720年の頃ですから、その後約150年後にこれが実際に起こることになります。神のみことばは真理なので、その通りに実現します。既に北イスラエルはアッシリヤに滅ぼされていました。前722年のことです。このイザヤの時代に北イスラエルは滅ぼされましたが南ユダ王国は比較的に良い王様がいたので、もう少し長く生きながらえました。しかし、その南王国も高ぶって神に背いたので、遂には滅んで行くことになったのです。しかし、それはイスラエルを懲らしめるための神のさばきでした。その中で彼らが悔い改め、神に立ち返るようにとの神の愛のムチであったわけです。ヘブル人への手紙12章7節と8節には、「訓練と思って堪え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。」とありますが、それはイスラエルを愛するがための神からの懲らしめだったのです。ですから、彼らがその苦しみの中で悔い改めて神に立ち返ったとき、神は彼らを慰めてくださいました。捕囚となってから70年後に、ペルシャの王クロスによってエルサレムへの帰還を果たすことができたのです。神の怒りが去って、慰めを与えてくださいました。

それは遠い未来のことで言うなら、終末のことで言うなら、患難時代の出来事を預言しています。イスラエルはなかなか悔い改めず、神の救いを受け入れなかったので、神は反キリストとその勢力によって彼らを苦しめられます。いわゆる患難時代のことです。それはかつてなかったような苦しみで、それがあまりにもひどい苦しみなので、自分の死を願うほどでした。その中で多くの者が滅んでいきますが、残される者もいます。「残りの民」です。彼らはその苦しみの中でイエスをメシヤとして、救い主として受け入れるのです。こうして、イスラエルはみな救われるという聖書のみことばが実現するわけです。イスラエルが慰められる時がやって来るのです。神が怒られたのは彼らを滅ぼすためではなく、彼らを救うためでした。神は彼らをねたむほど愛しておられたので、彼らを救うために怒られましたが、その怒りが去り、慰められるのです。第二コリント人への手紙7章9節から10節を開いてみましょう。

「今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」

パウロはコリントの人たちが悔い改めるようにと、少々きつい言葉で手紙を書きました。その手紙を読んだコリントの人たちはとても悲しみましたが、そのことによって彼らが悔い改めに導かれたので、今はそれを喜んでいると言ったのです。神のみこころに添った悲しみは、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみはそうではありません。世の悲しみは死をもたらすのです。皆さん、悲しみには二種類の悲しみがあります。神のみこころにそった悲しみと、世の悲しみです。神のみこころにそった悲しみは悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。イザヤ書で語られている慰めは、この神のみこころに添った悲しみです。そこから生じた慰めなのです。神は神に背いていたイスラエルを悲しまれ、彼らを懲らしめるために懲らしめを送られましたが、その怒りが去り、彼らを慰めてくださったのです。

神はあなたをも慰めてくださいます。神のみこころに従おうとせず、自分の思いや自分の考えをどこまでも通そうとすることで痛い目にあったり、悲しい思いをすることがありますが、そのことによって悔い改めが生じ、真の慰めを受けるようになるのです。

そのときあなたはこう言うでしょう。2節、「見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。」

「見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。」この「私の救い」はヘブル語で「ヨシュア」(イェホーシュア)です。意味は「ヤハウェは救い」になります。そしてこのギリシャ語がイエスなのです。ですから、イエス・キリストのイエスは「ヤハウェは救い」という意味です。イエスが救いです。イエスは主です。メシヤです。キリストです。「わたしはあるというものである」とご自身を現された創造主なる神なのです。救いはこのイエスに信頼することから生まれます。主に信頼するので恐れることはありません。心配もいりません。不安もありません。不平、不満もありません。イエスが救いとなられたからです。イエスが救いとなって、ただ地獄の底に滅びなければならなかった者を十字架にかかって贖い出してくださったので、この方に信頼するなら、何も恐れることはないのです。

「信頼する」とはヘブル語で「バタハー」と言います。意味は「大の字になってゴロンと横になる」です。信頼するというのは、大の字になってゴロンと横になることです。日本的に言えば、「まな板の鯉になる」ということでしょうか。完全に神の御手にゆだねることです。煮ても、焼いても、何をしてもいいです。あなたの好きなようにしてくださいと、自分のすべてをあなたに明け渡すことです。それが「信頼する」ということなのです。そしてこの信頼があれば、何も恐れることはありません。あなたには、この主への信頼があるでしょうか。  F・B・マイヤーは「信仰はバケツだ」と言いました。信仰がバケツのようにイエスの泉から水を汲み取ってくれるのです。救いの泉から信仰というバケツをもって汲み取るので、もう何も恐れることがありません。

「ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。」「ヤハ」とは、あいさつではありません。「やあ」・・・。これは「ヤハウェ」の省略形です。もっと短い表現では、ただの「ヤ」と表現する時もあります。これは神への賛美です。主の怒りが去り、慰めてくださったので、主が救いとなってくださったので、私は主をほめたたえますという歓喜が溢れているのです。

皆さん、イエスは私の救い、あなたの救いとなられました。罪のためにもう滅びるしかなかった私の身代わりとなって十字架にかかり死んでくださいました。この十字架の死によって、罪の贖いを成し遂げてくださったのです。十字架の贖いによって神の怒りは去り、私たちを慰めてくださいました。信じる者を赦してくださったのです。イエスが救いです。私たちの救いの源は、十字架にかかって死なれたイエスにあるのです。そのイエスの救いを受けた者は恐れることはありません。賛美と感謝に溢れるようになるのです。あなたが主なる神にすべてを明け渡し、信頼するなら、主はあなたの救いにもなられるのです。

Ⅱ.救いの泉(3)

次に、救われた者の喜びを見ていきたいと思います。3節をご覧ください。ここに、「あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。」とあります。この神の救いを体験すると、そこに喜びが溢れるのです。

このみことばは、ユダヤ教の三大祭りの一つである仮庵の祭で歌われました。仮庵の祭りは、イスラエルの民が出エジプトをしてから荒野を旅していていた間、天幕を張っていた時、神の守りと恵みがあったことを思い出し、その感謝を表すもので、イスラエルの民はみなエルサレムに上り、これをお祝いしました。右手にルーラーブと呼ばれる木の枝の束を持ち、左手にはモスログと呼ばれる収穫を表すものを持って、エルサレムにやって来るのです。そこでゼカリヤ書14章8節のみことばが朗読されると、巡礼者の行列はシロアムの池に向かいました。そこでひとりの祭司がその水を汲み、その水を神殿の祭壇に注ぐのですが、その神殿に向かう間人々は、このイザヤ書のみことばを合唱したのです。ただ合唱したのではありません。跳んだり、跳ねたりして喜びを体一杯に表しながら合唱したのです。

よくキャンプのフォークダンスで踊る「マイム・マイム」は、この時の踊りです。マイム・マイムの歌詞は、このイザヤ書12章3節のことばそのものです。「マイム・マイム・マイム・マイム・ベッサソン」「マイム」とは「水」のことです。「さばくの まん中 ふしぎなはなし みんなが集まる 命の水だ」と歌っているのですが、それは荒野を旅していたイスラエルが、その砂漠で水をみつけた嬉しさを歌った歌なのです。日本的に言えば、「ヒャッハー!水だぁー!」「新鮮な水だー!」。といった歓喜の歌です。それを日本ではキャンプファイヤーで踊るわけです。水ではなく火を囲みながら、「水、水、水、新鮮な水」と踊るのです。おもしろいですね。

しかし、これはもともとイスラエルが荒野を旅してる間、水がなくなった時に、岩を裂いて水をあえたくださった神の奇跡を歌った歌なのです。荒野での旅路において水がどれほど貴重なものであったかは、だれもが用意に想像することができると思います。神さまはその水を与えてくださったのです。それは彼らにとってどれほどの救い、助け、喜びであったことでしょう。そのことを表しているのです。シロアムの池に行って水を汲み、それを互いに讃美しながら神殿に持って行き、そこで祭壇の周りを一巡してそれを注ぎました。七日目には、かつてエリコの城を七回巡ったとと同じように、祭壇の周りを七回繰り、「ホサナ」と歌いながら注ぎました。それは歓喜の歌だったのです。詩篇78篇15節と16節には、「荒野では岩を割り、深い水からのように豊かに飲ませられた。また、岩から数々の流れを出し、水を川のように流された。」とあります。それは彼らにとって決して忘れてはならない、いや忘れられない大いなる恵みだったのです。それで、彼らはこの歌を歌いながら、喜び踊りながら、シロアムの池から水を汲んで主の祭壇に注いだのです。

ところで、ここには「救いの泉から水を汲む」とあります。この「救い」というのは先ほども申し上げたように「イェホーシュア」です。「ヨシュア」、つまり、イエスのことです。イエスは救いの泉です。彼らはイエスの泉から水を汲んだのです。私たちはイエスから、救いの水を汲むことができるのです。

そのことを表しているのがヨハネの福音書7章37節~39節にあるイエスのことばです。開いてみましょう。「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」

この祭りとは、先ほど言ったように仮庵の祭りのことです。その祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、お声で言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」と。 この祭の終わりの大いなる日というのがいつなのかははっきりわかりません。七日目なのか、八日目なのか、学者によって意見が分かれているからです。七日目であるとすると、金曜日の最後の日ということになりますが、八日目だとすると、その祭りの最終日が安息日と重なることになります。おそらく八日目のことでしょう。レビ記23章34節をみると、八日目も聖なる会合を開かなければならないとあるからです。その日が安息日と重なったので「大いなる日」と呼ばれていたのです。その日に、イエスは立って、大声でそのように言われました。立って、大声で言われたというのは、それがそれほどに重要な内容であったからです。それがこのことばでした。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

この祭りの大いなる日、八日目の安息日にはシロアムの池から水を汲むことはしませんでした。空のままで神殿に行き、そこでいけにえをささげたのです。なぜなら、もうその必要がなくなったからです。荒野での旅を終えたイスラエルは、神が約束してくださった地カナンに入りました。荒野での旅路が終わったので、 超自然的な水の供給を受けなくてもよくなったのです。約束の地には水がふんだんにあるので水の供給は必要なくなりました。イエス・キリストこそ真の安息なのです。荒野にいたとき神が岩を裂き超自然的な方法で水を与えてくださったのは、このイエス・キリストのことを指し示していたのです。Iコリントにそのように書いてあります。10章4節です。「みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。」その岩とはキリストのことだったのです。しかし、約束の地に入ってからは、その岩は必要なくなりました。真の岩なるキリストが直接与えてくださるようになったからです。そのキリストが与えてくださる水がこれなのです。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」

この水は、生ける水です。Living Waterです。それは心の奥底から流れ出る水の川です。それは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことです。この水を飲む者は決して渇くことはありません。この水は単にのどの渇きや肉体の渇きを癒すだけでなく、私たちの心の渇きをも癒し潤してくださるからです。私たちはイエスの泉から水を汲むことによって、真の癒しと満たしを受けることができるのです。それはメシヤにしかできないことでした。そのメシヤが到来され私たちの心の渇きも何もかもいやしてくださる。そのメシヤこそイエスだったのです。

イエスは私たちの渇きをいやされる方です。かつてサマリヤの女に対してイエスは、このように言われました。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲むものはだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:13-14)

物質世界は常に私たちに渇きをもたらします。いろいろな宣伝広告をして購買意欲を駆り立てて、そして商品を買わせます。しかし、どんなに買っても心は満たされません。一時的な満足は与えてくれても、またすぐに渇くのです。多くの人は欲望が満たされれば、それで幸福になれる考えていますが、そうではありません。お金にしても、物にしても、地位や名誉にしても、そうしたものを手に入れ、欲望が一応満たされることによって、私たちの心が本当に満たされるかというとそうではありません。欲望が満たされても、魂が飢え渇いていることを感じるのです。

かつてアーサー・ホーランドという巡回伝道者の証を三回聞いたことがあります。その中で先生は、この世のありとあらゆる遊びを経験したけれども、決して満たされることはなかったと言いました。一時的な満足は得られても、また渇くことになった・・・と。それはこの世のいかなるものをもってしても満たされることはできません。ただ神にかたどって造られた魂が、その造り主であられる神のみもとに帰ることによってのみ、満たされるのです。

あなたがいま渇いているなら、イエスのもとに来ることです。イエスは二度と渇くことのない生ける水を与えてくださいます。もう渇きたくないならば、いつも不平不満ばっかり言っている、そんな人生から解放されたいと思っているなら、イエスのところに来て飲まなければなりません。キリストのもとに来るとは、キリストを単純に信頼することです。キリストにあなたの魂を投げ出せばよいのです。だれか他の人に、他のものを代わりにすることではなく、キリストのところに来て、キリストにすべてを任せればいいのです。そうすればあなたの心にも、聖書が言っているとおりに、生ける水の川が流れ出るようになるのです。そればかりではありません。主の救いの泉から水を汲む人は、その渇きが癒されるだけでなく、ほかの人を潤す祝福の泉にもなるのです。それがその次に記されてあることです。

Ⅲ.そのみわざを語り告げよ(4-6)

4節から6節までをご覧ください。「その日、あなたがたは言う。「主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。そのみわざを、国々の民の中に知らせよ。御名があがめられていることを語り告げよ。主をほめ歌え。主はすばらしいことをされた。これを、全世界に知らせよ。シオンに住む者。大声をあげて、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は、あなたの中におられる、大いなる方。」

「その日」ということばがここでも使われています。「その日、あなたがたは言う。その御名を呼び求めよ。そのみわざを、国々の民の中に知らせよ。」と。1節では「その日、あなたは言おう」と個人の賛美でしたが、ここでは「あなたがたは言う」と集団の賛美へと展開しています。個人の賛美では「主よ。私は感謝します」となるのですが、集団の賛美では「主に感謝せよ」となります。あなたがたは感謝せよ、あなたがたは呼び求めよ、あなたがたは知らせよ、あなたがたは語り告げよ、となるわけです。

主に感謝する人は、必ずそれを他の人に伝えずにはいられなくなります。国々の民の中に知らせるようになるわけです。教会に行ってただ賛美歌を歌って「ハレルヤ、主を賛美します」というだけが賛美ではありません。歌は主をほめたたえるための一つの手段にすぎません。歌を歌えないときでも賛美することができるわけです。言葉にならない時でも賛美できます。歌によって主をほめたたえることはすばらしいことですが、あなたのふるまいによっても主をほめたたえることができます。時には無言のふるまいによっても主をほめたたえることができます。祈りによって主をほめたたえることができます。証すること、伝道することによっても主をほめたたえることができます。教会に集って礼拝のプログラムに参加することだけが賛美ではありません。感謝することも、その御名を呼び求めることも、国々の民に知らせることも、主をほめたたえることなのです。

私たちは実際に宣教地に行って伝道することはできないかもしれませんが、そのために祈り、捧げることによって世界宣教の恵みに預かれることができます。直接的に伝道はできないかもしれませんが、その人たちのために祈り、ささげることによって同じ恵みに預かることができるのです。私たちはいろいろな方法で賛美することができます。感謝を表すことができます。ここではその賛美を、全世界に知らせることによって表すようにと勧められているのです。

皆さん、主をほめたたえる者は黙ってはいられません。そのすばらしさを一人でも多くの人に伝たいと思うようになるのです。ハレルヤ、あなたがたは主を賛美せよ、と言いたくなるのです。主の救いの泉から水を汲む人は、その渇きが癒されるだけでなく、ほかの人を潤す祝福の泉にもなるのです。主はすばらしい方、主はあなたのためにどんなにすばらしいことをしてくださったのか、それを国々の民の中に知らせよ。そうすれば、あなたは私とともに主をほめたたえる者になります。それがここで言われていることです。

その日が必ずやってきます。今はその気はありません。今は賛美する気にならないのですという人も、その日が来ると賛美したくなります。全ての口がイエスを主と告白し、ひざをかかめてほめたたえる日がやって来ます。その日は世の終わりのことを預言していると言いましたが、それが遠い未来のこととは私には思えません。その日がもうそこまで来ているように感じます。イエス・キリストはいつ戻って来ても不思議ではありません。私たちはそういう時代に生きているのです。それは今晩かもしれません。明日かもしれません。今年中にそれがあるかもしれません。それはそう遠くはありません。あなたにはその準備が出来ていますか?あなたは、このように言うことができますか。「主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。そのみわざを、国々の民の中に告げ知らせよ。御名があがめられるていることを語り告げよ。主をほめ歌え。主はすばらしいことをされた。これを、全世界に知らせよ。シオンに住む者。大声をあげて、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は、あなたの中におられる。大いなる方。」「ハレルヤ」と。

主はあなたの救いとなられました。あなたは喜びながら救いの泉から水を汲みました。このすばらしい方をほめうたい、国々の民の中で語り告げましょう。

イザヤ書11章10節~16節 「再び集められる主」

きょうはイザヤ書11章の後半部分から学びたいと思います。タイトルは、「再び集められる主」です。11章の前半部分では、エッサイの根株から出る新芽がどのような方であるのか語られていました。一言で言うなら、それは主の霊、聖霊に満たされた方であるということでした。主の霊に満たされた方として完全な王国をもたらしてくださいます。

きょうのところには、主の再臨の時に起こるもう一つの大きな出来事が預言されています。それは、イスラエルのエルサレム帰還です。全世界に散らされたいるユダヤ人がエルサレムに集められるということです。そういうことが起こります。そういうことが起これば、世の終わりが近いことがわかります。きょうはこのことについて三つのポイントでお話したいと思います。

Ⅰ.全世界の王キリスト(10)

まず10節をご覧ください。ここには、「その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く。」とあります。

「その日」というのはイザヤの時代のことと、はるか先の世の終わりの時の両方を指しています。その日どんなことが起こるのでしょうか。エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝きます。「エッサイの根」とは、1節にも出てきましたがメシヤの称号のことで、イエス・キリストのことです。その日、イエス・キリストは国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝くようになるのです。どういうことでしょうか。実は、この箇所をパウロは引用しています。ローマ人への手紙15章12節です。

「さらにまた、イザヤがこう言っています。『エッサイの根が起こる。異邦人を治めるために立ち上がる方である。異邦人はこの方に望みをかける。』」

ここには、「異邦人を治めるために立ち上がる」とあります。パウロはここで異邦人の救いについて言及しているのです。ユダヤ人だけではありません。異邦人も、神のあわれみのゆえに、救われるようになり、ユダヤ人とともに心を一つにして、声をあわせて、イエス・キリストの父なる神をほめたたえるようになります。つまり、やがて来られるメシヤは、ユダヤ人だけでなく異邦人も含めた全世界の救い主となられるということです。全世界の王となられるのです。それが「国々の民の旗として立ち」という意味です。「その日」にはこういうことが起こります。この世の終わりの最後の七年間にわたる患難時代を経て、キリストがこの地上に降り立つ時、王の王、主の主として、千年間にわたる王国を治めるようになるのです。ここでは、その王国は「いこいの場所」と呼ばれています。キリストはユダヤ人ばかりでなく、全世界の民にとっていこいの場所なのです。全世界の人々が、キリストを避け所、いこいの場所、栄光とするのです。

あなたにとってのいこいの場所はどこですか?あなたは何を栄光としていますか?何に希望を置いていますか?この方がいこいの場所です。この方が栄光、希望なのです。あなたが求めるべきお方は、国々の民の旗として立たれるメシヤ、キリスト、救い主なのだということを覚えておきたいと思います。

Ⅱ.再び集められる主(11-13)

次に11節から12節までを見ていきましょう。「その日、主は再び御手を伸ばし、ご自分の民の残りを買い取られる。残っている者をアッシリヤ、エジプト、パテロス、クシュ、エラム、シヌアル、ハマテ、海の島々から買い取られる。主は、国々のために旗を揚げ、イスラエルの散らされた者を取り集め、ユダの追い散らされた者を地の四隅から集められる。」

ここにも「その日」という言葉が出ています。これは先ほども申し上げたように、イザヤが生きていた時代と世の終わりの両方のことを指しています。その日、主は再び御手を伸ばし、ご自分の民の残りを買い取られます。ここには「再び」とあります。これは以前にもそのようなことがあったということです。それは何でしょうか?それは出エジプトの出来事です。かつてイスラエルは430年もの間エジプトで奴隷の状態で捕らえられていましたが、主は力強い御手を伸ばし、そこから救い出されました。それと同じように、捕らわれているイスラエルを買い取ってくださるというのです。救い出してくださるというのです。

これはイザヤの時代においてはどんなことを指していたのかというと、バビロン捕囚のことです。イザヤの時代、アッシリヤという国が脅威でした。アッシリヤが攻めてくるのでどうするか、というのが最大のテーマでした。そして北イスラエルは神に頼らないでアラムの王レツィンと組んでこれに対抗しようとしたので、アッシリヤに滅ぼされてしまいました。B.C.722年のことです。しかし、南ユダ王国はどうだったかというと、ユダの王ヒゼキヤはイザヤの助言を受けてただ神に信頼して祈ったので、その危機を乗り越えることができました。主はヒゼキヤの祈りに答えて奇跡を起こし、一晩で十八万五千人ものアッシリヤの兵士を打ったのです。しかし、その後に興ったバビロニヤ帝国によって滅ぼされてしまいます。バビロンの王ネブカデネザルがエルサレムにやって来てエルサレムの神殿を完全に破壊しました。B.C.586年のことです。そしてユダの民を捕囚としてバビロンに連れて行ったわけです。イザヤはそのことを預言しているのです。その時に散らされたのが、ここにある「アッシリヤ、エジプト、クシュ、エラム、シヌアル、ハマテ、海の島々」です。けれども主は70年の捕囚の後にユダをあわれみ、彼らを再び祖国エルサレムへ戻されます。

しかし、ここで言われていることは、それだけではありません。世の終わりにおいても同じようなことが起こるのです。主は、国々のために旗を揚げ、イスラエルの散らされた者を集め、ユダの追い散らされた者を地の隅から集められます。それまで世界中に離散していたユダヤ人が集められ、エルサレムに戻ってくるということが起こるのです。図らずも、それがこの私たちが生きているこの時代に起こりました。1948年にイスラエル共和国が樹立したのです。A.D.70年にローマ帝国によってエルサレムは破壊されると、そこに住んでいたユダヤ人は全世界に散らされましたが、神はこの預言の通りに地の四隅から彼らを集め、エルサレムに戻されました。いわゆるシオニズム運動です。全世界に住んでいたユダヤ人がパレスチナに戻るという運きが起こったのです。それで誕生したのがイスラエル共和国です。1948年5月14日、それが正式に国連で承認されて独立宣言をしました。1900年もの間、国を失い流浪していた民が再び集められることがあるでしょうか?考えられないことです。しかし、そのように考えられないことが実際に起こったのです。そのきっかけになったのが、第二次世界大戦でナチスドイツが600万人にものぼるユダヤ人を虐殺したという事件だと言われています。それで世界中からの同情を得たイスラエルは、国として独立することかできたのです。でもそれはここに書いてあるように、聖書の預言がそのとおりになったからなのです。神が語られたことは必ず実現するのです。私たちはこうした現実を見るとき、神のみことばである聖書は確かだなぁということがわかります。主イエスは言われました。

「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせないかぎり、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」(マタイ5:18)

「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。」(マタイ24:35)

天地が滅んでも、神の言葉は決して滅びることはありません。全部が成就します。私たちが本当に信頼できるのは、いつまでも変わることがなく必ず実現する神の言葉である聖書だということを覚えましょう。あなたは何に信頼を置いていますか。どんなにすばらしい人の言葉でも、どんなに魅力的な考えであっても、それは変わります。草はしおれ、花は散るのです。しかし、主の言葉はとこしえに変わることはありません。私たちが本当に信頼を置くことができるのは、神とこの真理の御言葉だけなのです。

ところで、この12節の「地の四隅から集められる」ということばですが、これはマタイの福音書24章31節で主イエスが引用しておられる言葉です。「人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」これは、世の終わりの前兆について、主イエスが言われたことです。世の終わりにはどのようなことが起こるのでしょうか。どのようなしるしがあるのでしょうか。世の終わりには、天の果てから果てまで、四方から選びの民が集められるのです。この「選びの民」のことをクリスチャンのことだ、教会のことだと解釈する人がいますが、そうではありません。それはユダヤ人のことを指しています。イスラエルの散らされた者たちのことです。それはここに「イスラエルの散らされた者を取り集め、ユダの追い散らされた者を地の四隅から集められる」とあるからです。世の終わりには、イスラエルの散らされた者たちが地の隅から集められるのです。

ということは、これは既に成就したということなのでしょうか?先ほどイスラエルの散らされた者たちが世界中から集められ、1948年にイスラエル共和国ができたということをお話しましたが、そのことによって実現したのでしょうか?そうではありません。確かにそのことによってこの預言の成就が始まったと言えますが、まだ完全に実現してはいません。この完全な成就は、世の終わりまで待たなければならないのです。その日になると、世界中に散らされていたユダヤ人が再び集められるようになります。今も多くのユダヤ人がエルサレムに帰還していますが、同時にまた散らされてもいるのも事実です。中東情勢が不安定なのでせっかく祖国に戻って来ても、また逆戻りしていくというケースも少なくありません。しかしその時になると、世界中に散らされているユダヤ人が再び集められます。そのときにはもっと広大な土地を所有するようになるでしょう。なぜなら、神が約束された地はもっと広い土地だからです。それはまだ完成していません。けれども、既にそれが始まっています。その日が近いということを私たちは知ることができるのです。

主イエスは、いちじくの木の枝が柔らかくなって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかると言われました。(マタイ24:32)かつて私が住んでいた家の駐車場にいちじくの木が植えてあって、車を駐車するのに邪魔なので何度か抜こうとしましたが抜けませんでした。根がかなり張っていたので、そう簡単には抜けなかったのです。しょうがないのでそのいちじくの木を何回か切りましたが、夏が近くなると枝が伸びて、葉が茂のです。主イエスが言われた通りです。今まさに枝が柔らかくなっている時期なのです。葉が出てきています。もう夏は近いのです。主が来られる日が本当に近いのです。あなたはその準備が出来ていますか?主がいつ来られてもいいように準備が整っているでしょうか。

マタイの福音書25章の中で、主イエスはこの再臨の主を待ち望む者のたとえとして、花婿を出迎える十人の娘の話をなさいました。そのうちの五人は愚かで、五人は賢いでした。愚かな娘たちは、ともしびは持っていましたが、油を用意しておきませんでした。賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていました。花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めました。その時です。夜中になって声がしました。「花婿だ。迎えに出よ。」娘たちはみな起きて、自分のともしびを整えました。ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言いました。「油を少し分けてください。私たちのともしびは消えそうです。」しかし、賢い娘たちは言いました。「いえいえ、あなたがたに分けてあげだけはありません。それよりも店に行って、自分のをお買いになりなさい。」そこで、買い行くと、その間に花婿が来て、油の用意の出来ていた五人の娘たちと婚礼の祝宴に出かけて行った後で、もう戸が閉めらていました。  あなたは花婿であられるイエスを迎える準備が出来ていますか?ともしびとは信仰の光、油とは聖霊のことです。クリスチャンは、主イエスを救い主と信じる信仰とともに、この信仰を絶えず燃やし続ける聖霊の油を持ち、この聖霊に満たされていなければなりません。主の再臨を前に、すべてのクリスチャンは、聖霊を持ち、聖霊で満たされていなければならないのです。  花婿の到来はいつでしたか?夜中でした。主イエス・キリストの来臨も、クリスチャンが眠りこけているときかもしれません。サタンは必死に働いてクリスチャンを惑わそうとしています。教会は活気を失い、なまぬるくなるようにし向けます。「だから目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」(マタイ25:13)私たちも自覚して、ともしびとともに、聖霊の油を携えて、賢明に励みつつ、花婿なるキリストの来臨を待つべきです。

Ⅲ.大路が備えられる(13-16)

最後に13節から16節を見て終わりたいと思います。「エフライムのねたみは去り、ユダに敵対する者は断ち切られる。エフライムはユダをねたまず、ユダもエフライムを敵としない。彼らは、西の方、ペリシテ人の肩に飛びかかり、共に東の人々をかすめ奪う。彼らはエドムとモアブにも手を伸ばし、アモン人も彼らに従う。主はエジプトの海の入江を干上がらせ、また、その焼けつく風の中に御手を川に向かって振り動かし、それを打って、七つの水無し川とし、くつばきのままで歩けるようにする。残される御民の残りの者のためにアッシリヤからの大路が備えられる。イスラエルがエジプトの国から上って来た日に、イスラエルのために備えられたように。」

「エフライム」とは北イスラエルのことです。北イスラエルには12部族のうち10部族が属していましたが、そのうち一番大きな部族がエフライム部族でしたので、北イスラエルを指す言葉として「エフライム」を使っています。一方、「ユダ」とは南ユダ王国のことです。南ユダ王国には、ユダ部族の他にベニヤミン部族が属していましたが、その代表がユダ部族なので南ユダ王国のことを指して、「ユダ」と表しているのです。そのエフライムのねたみは去り、ユダに敵する者は断ち切られます。つまり、イスラエルの南北王国が統一されるということです。ソロモンの死後以来北と南に分裂していたイスラエルが、互いに敵対していた王国が、キリストが来られることによって統一されるのです。今、私たちが見ているイスラエルは、この預言の前ぶれです。世界中からユダヤ人がエルサレムに帰り、イスラエル共和国を作りました。その国は分裂していません。一つになった国です。しかし、その完全な実現はまだ見ていません。それはキリストが再臨された時に見るようになります。

彼らは、西の方、ペリシテ人の肩に飛びかかり、共に東の人々をかすめ奪います。彼らはエドムともアブにも手を伸ばし、アモン人も彼らに従います。ここに列挙された国々はかつてイスラエルを脅かした宿敵ですが、そうした国々が、ユダヤ人に従うようになるというのです。

今もイスラエルを脅かしている勢力があります。周辺にあるイスラムのアラブ諸国です。しかし、彼らもイスラエルに服し、イスラエルに協力するようになるのです。もはや誰もイスラエルの行く手を阻む者はありません。誰にも邪魔されることなく、エルサレムに戻ることができるのです。

15節と16節には、残りの民のエジプトとアッシリヤからの帰還が述べられています。15節「主はエジプトの海の入江を干上がらせ、また、その焼けつく風の中に御手を川に向かって振り動かし、それを打って、七つの水無し川とし、くつばきのままで歩けるようにする。」「エジプトの海の入江」とはエジプトの東の湿地帯のことです。エジプトはこれで守られていました。川はユーフラテス川です。メソポタミヤはこの川で守られましたが、その日、イスラエルの残りの民が帰還するとき、神は川であったユーフラテス川を七つの水無し川とし、くつばきのままで渡って来られるようにしてくださいます。

16節「残される御民の残りのもののためにアッシリヤからの大路が備えられる。イスラエルの地でエジプトのくにから上って来た日に、イスラエルのために備えられたように。」イスラエルがエジプトの国から上って来た日に、どんな道が備えられたでしょうか?主は紅海の水を真っ二つに分け、そこに乾いた道を作り、その道を通ららました。そうしてイスラエルは救い出されたのです。そのような道を備え、大路を備えられるのです。だれにも妨げられることなく戻ることができます。そのように主は道を備えてくださるのです。

問題は、あなたがその道を通るかどうかです。エジプトで奴隷であったイスラエルが、主の力強い御力によって解放されたように、再び、まことの救い主によって、罪の滅びの穴から救い出される者たちが集められます。私たちはエジプトを出なければなりません。罪の奴隷状態であるエジプトから解放されなくてはなりません。この大路を通らなければならないのです。まさに神の招きに応じて、一歩を踏み出さなくてはなりません。主が与えると言われる新しい秩序の御国の住人となるために、信仰の一歩を踏み出さなくてはならないのです。しかし、私たちをなかなか手放そうとしないこの世の秩序があるでしょう。古いしがらみがあり、古い誘惑があり、古い慣れ親しんだ罪の生活パターンが私たちを捕らえ離そうとしないことでしょう。

しかし、主は、「大路を備えられる。」(16節)。大切なのは、私たちの知らない祝福、今までこの世ではいかにしても与えられることもなく、しかし心のどこかで真に願い求めていた平和と平安の祝福を備えてくださる神を信じて、その大路を踏み出すかどうかにあるのです。主が備えられる大路を、あなたも信仰をもって踏み出してください。主があなたをも集めておられるからです。

イザヤ書11章1節~9節 「エッサイの根株から新芽が生え」

今日は、アドヘント(待降節)の第1週です。キリストはある日突然生まれたのではなく、その誕生は昔から旧約聖書の中に預言されていました。たとえば、預言者イザヤは、紀元前700年ごろに活躍した預言者ですが、キリストの誕生を700年も前に預言していました。キリストの誕生以前にどこで生まれるのか、どのようにして生まれるのか、どこから出てくるのか、その名は何かなど、全ての事を詳しく預言していたのです。そして、その一つが今日の個所です。今日はこのイザヤ書11章からご一緒に学びたいと思います。

Ⅰ.若枝から出るメシヤ(1)

まず1節をご覧ください。ここには、「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」とあります。

イザヤは、やがて来られるメシヤはエッサイの根株から出ると預言しました。エッサイとは、ダビデの父親の名前です。息子のダビデは非常に有名な王様でしたが、エッサイはそうではありませんでした。エッサイという名前を聞いて「おお、あれがあのエッサイか」と感動する人は、おそらく一人もいなかったでしょう。せいぜいご近所の人が知っているという程度でした。「ダビデのことは知っているけれども、エッサイのことはえっさい(一切)知らない」という感じでした。それなのに預言者イザヤは、そのエッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶと言いました。どういうことでしょうか?これには二つの意味があります。

一つは、やがて来られるメシヤはへりくだった救い主であるということです。エッサイの仕事は羊飼いでした。当時、羊飼いというのは社会的に身分の低い人たちの仕事と考えられていました。ですから、エッサイの根株から新芽が生えというのは、多少なりとも見下げられた表現だったのです。しかし、イザヤはダビデの根株から新芽が生えとは言わないで、エッサイの根株から新芽が生え、と言いました。どうせなら有名な人の名前を使った方が効果的なのに、そうではなく名もない羊飼いのエッサイの名前を使いました。それは、やがて来られるメシヤがダビデの家系から生まれるみどり子でありながら、そのようにへりくだった状態で生まれて来られるということを示すためだったのです。

もう一つの理由は、エッサイがダビデの父親の名前だと申し上げましたが、やがて来られるメシヤはダビデの家系から生まれることを伝えたかったからです。エッサイの子であるダビデ王が築いたユダ王国はその後子孫によって受け継がれて行きますが、やがて神の審判によってダビデ王朝は切り倒されて根株のようになりますが、その根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ、すなわち、メシア(救い主)が生まれるというのが、この1節で語られている預言が意味していることです。

ダビデ王朝について言えば、実はその国は永遠に続くという約束が神から与えられていました。Ⅱサムエル記7章16節にこうあります。「あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」

しかし、実際の歴史はそうではありませんでした。ダビデの家と王国はB.C.586年にバビロンによって滅ぼされてしまいます。

では、ダビデに告げられた約束は嘘だったのでしょうか?神はダビデに約束してくだったことを反故にされてしまったのでしょうか?そうではありません。確かに目に見えるダビデ王朝は滅ぼされましたが、この神の約束はダビデの血を引くメシヤ、イエス・キリストによって成就したのです。それはエレミヤ書22章で学んだ通りです。神はヨセフの系図からではなくマリヤの系図を通して、このダビデの血を引くメシヤの誕生を実現してくださいました。それがイエス・キリストです。ですから、あなたの家とあなたの王国は、あなたの前に確かなものとなり、あなたの王座はとこしえに堅く立つという神の約束は、イエス・キリストによって成就することになるのです。すばらしいですね。このことから、神は約束に忠実な方であるということを知ることができます。

ところで、イザヤはそのエッサイの家から新芽が生え、とは言いませんでした。そうではなく彼は、「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」と言いました。これはどういうことでしょうか。

「根株」とは「切株」のことです。このことをよく表現しているのが10章33,34節です。ここには、「見よ、万軍の主、主が恐ろしい勢いで枝を切り払われる。丈の高いものは切り倒され、そびえたものは低くなる。主は林の茂みを鉄の斧で切り倒し、レバノンは力強い方によって倒される。」(10:33-34)とあります。

これは、当時世界を治めていたアッシリア帝国に対するさばきの預言です。アッシリアは、周囲の国を次々と征服し、大帝国として栄えていました。それは神の道具として神がそのように用いたからなのに、何を血迷ったのか道具としての自分の立場を忘れ、高ぶってしまったので、神はアッシリアよりも強力な国バビロン帝国を興してアッシリアをも滅ぼそうとしたのです。万軍の主が、恐ろしい勢いで枝を切り払われます。主は林の茂みを鉄の斧で切り倒し、レバノンは力強い方によって倒されます。まさに切り倒された株、切株です。それはアッシリアだけでなくユダも同じです。主に背き続けたユダもアッシリア同様切り倒されることになります。しかし、違いがあります。それは何かというと、神はそこに「残りの者」を残してくださるということです。その残りの者は、力ある神に立ち返るようになるということです。それが10章20~22節で言われていることです。「その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家の逃れの者は、もう二度と自分を打つ者に頼らず、イスラエルの聖なる方、主に真実をもって頼る。残りの者、ヤコブの残りの者は、力ある神に立ち返る。たとえ、あなたの民イスラエルが海の砂のようであっても、その中の残りの者だけが帰って来る。壊滅は定められ、義があふれようとしている。」そしてそのような人達の末裔からメシヤが生まれるのです。それがここで言われていることです。神はエッサイの根株から新芽を生えさせ、その根から若枝が出て実を結ぶようにしてくださるのです。

皆さん、ここに希望があります。切り倒されて切株しか残っていないような中で、だれもが絶望している時に、誰もが期待していないような中で、神の救いが現れるのです。もう何の望みもないと思われるような中に、神の救いが始まるのです。それが新芽であり、若枝なるメシヤ、救い主イエス・キリストです。

ところで、この「若枝」という言葉ですが、これはやがて来られるメシヤのことを表しています。これはヘブル語では「ネイツァー」と言いますが、「ナザレ」の語源になった言葉です。マタイ2章23節に「そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「彼はナザレ人と呼ばれる」と語られたことが成就するためであった。」とありますが、これはこのイザヤ11章1節の預言が成就したということを示しているのです。この預言がナザレのイエスによって成就したのです。来るべきメシヤはエッサイの根株から生える若枝として実を結ぶのです。メシヤはナザレ人と呼ばれるのです。そこには四つの意味があります。

第一に、それは王として来られるメシヤを表していました。エレミヤ23章5節に、「見よ、その時代が来る。─主のことば─そのとき、わたしはダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この地に公正と義を行う。」とありますが、これはやがて来るメシヤが王であられることを示しています。その「若枝」、メシヤは、王となって治めるのです。

第二に、それはしもべとして来られるメシヤを表しています。ゼカリヤ3章8節には、「聞け、大祭司ヨシュアよ。あなたも、あなたの前に座している同僚たちも。彼らはしるしとなる人たちだ。見よ、わたしはわたしのしもべ、若枝を来させる。」ここでは「若枝」のことが「しもべ」と言われています。神はご自身のしもべ、若枝を来させるのです。

第三に、それは人としてのメシヤです。ゼカリヤ6章12節にこうあります。「彼にこう言え。『万軍の主はこう言われる。見よ、一人の人を。その名は若枝。彼は自分のいるところから芽を出し、主の神殿を建てる。」ここでは、この「若枝」のことが「一人の人」と言われています。

第四に、それは神としてのメシヤです。イザヤ4章2節には「その日、主の若枝は麗しいものとなり、栄光となる。地の果実はイスラエルの逃れの者にとって、誇りとなり、輝きとなる。」とあります。ここでは、この「若枝」のことが「主の若枝」と言われています。それは神としての若枝のことです。それは麗しいものとなり、栄光となります。地の果実はイスラエルの逃れの者にとって、誇りとなり、輝きとなるのです。

このように主の若枝には四つの意味があります。それはちょうど新約聖書にある四つの福音書が、それぞれマタイの福音書が王としてのイエスを、マルコの福音書はしもべとしてのイエスを、ルカの福音書は人としてのイエスを、そしてヨハネの福音書が神としてのイエスを表しているように、やがて来られるメシヤは王の王として、人々に仕えるしもべとなって人間の姿をとり十字架で死なれるまことの神であることを表しているのです。それは私たちを罪から救うためでした。全く罪のない神ご自身が、人となられ十字架に掛かって死んでくださいました。キリストは、エッサイの根株から出る新芽として、その根から出た若枝としてこの世に来てくださったのです。

皆さん、ここに救いがあります。もしかするとあなたの人生は切り倒され、何も残っていないかのような根株のような状態かもしれません。しかし、神はその根株からも新芽を生えさせ、若枝を出させ、実を結ぶようにしてくださいました。どんなに切り倒され、さげすまれても、神は決してあなたを見捨てるようなことはなさいません。必ず回復させてくださるのです。

Ⅱ.若枝にとどまる主の霊(2-5)

次に、この若枝の性質について見ていきたいと思います。2~5節をご覧ください。2節には、「2 その上に主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、主を恐れる、知識の霊である。」とあります。「主の霊」とは神の霊のこと、聖霊のことです。「それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、主を恐れる、知識の霊である」とあるように、「七つの霊」として表現されています。それは主の霊であり、知恵と悟りの霊であり、思慮と力の霊であり、主を恐れる、知識の霊です。これは七つの霊があるということではなく、一つの聖霊に七つの働きがあるということです。「七」というのは聖書では完全数を表していますから、御霊は完全な方であるということを表していることもわかります。そして、イエス・キリスト、救い主、メシヤには、この主の霊、神の御霊に待たされた方でした。

イエスはルカ4章18~19節で、このように言われました。「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために。」

また、ヨハネ3章34節には、「神が遣わした方は、神のことばを語られる。神が御霊を限りなくお与えになるからである。」と言われました。イエスは神の霊に満たされたお方でした。

また、この方には「知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、主を恐れる、知識の霊」がありました。それは3~5節に「この方は主を恐れることを喜びとし、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって弱い者をさばき、公正をもって地の貧しい者のために判決を下す。口のむちで地を打ち、唇の息で悪しき者を殺す。 正義がその腰の帯となり、真実がその胴の帯となる。」とある通りです。

人間は目に見えるところによってしばしば判断し、内に隠された問題や真理を見失ってしまう間違いを犯しますが、主はそのような方ではありません。表面に現れたものではなく、私たちの心を見られるからのです。また、聞きかじりの知識ではなくて、物事の本質によって判断されるからです。

たとえば、イエスのもとに姦淫の現場で捕らえられた女が連れて来られたとき、律法学者とパリサイ人は、モーセの律法には、こういう女を石打にするように命じているが、あなたは何と言われますか、という問いに、イエスはこう言われました。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」(ヨハネ8:7)

すると、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、女とイエスだけが残されたとき、イエスは彼女にこう言われました。「わたしもあなたにさばきをくださない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8:11)

イエスはなぜそのように言われたのでしょうか?それはその女の心を見られたからです。人はうわべを見るが、主は心を見られます。この女は自分の罪にうちひしがれ、もうさばかれても当然、とんでもないことをしてしまった、取り返しのつかないことをしてしまった、罪に定められ石で打ち殺されてもしょうがないという思いを持っていたでしょう。それを十分承知のうえで、彼女は必死になって主のあわれみを求めたのです。主はその心を見られたのです。イエスは、その目の見えるところでさばかず、その耳の聞こえるところで判決を下されませんでした。それが私たちの主イエス・キリストです。

その一方で、いつまでも踏みにじられている人たち、弱い者、地の貧しい者たち、しいたげられている人たちがいますが、そういう人たちには、正義と公正をもって正しくさばいてくださいます。主が来られる時、主はこれを実現してくださいます。これこそ、ほんとうの希望ではないでしょうか。

Ⅲ.メシヤの支配(6-9)

最後に、このメシヤによってもたらされる王国がどのようなものであるかを見て終わりたいと思います。6~9節までをご覧ください。「6 狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追って行く。7 雌牛と熊は草をはみ、その子たちはともに伏し、獅子も牛のように藁を食う。8 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。9 わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼさない。【主】を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである。」

ここにメシヤによってもたらされる王国がどのようなものであるかが描写されています。それは一言でいえば「平和な世界」です。羊と狼、子やぎと豹が共に戯れ、小さな子どもが牛やライオンを追って行きます。乳飲み子がコブラと戯れ、まむしの巣に手を伸ばすのです。そんなことをしたら危ないじゃないですか、と心配される方がおられるかもしれませんが、大丈夫です。主が支配する王国は、このような平和の国ですから。まるで地球全体がエデンの園のような状態に回復されるのです。この時代には弱肉強食の動物界に完全な平和が訪れることになります。そもそもアダムとエバが罪を犯す前は、弱肉強食などありませんでした。動物たちはみな草を食べていたのです。牛も、熊も、獅子も、みんな草を食べていました。草を食べるのはうさぎだけではありません。大きな熊もそうです。今でもパンダは竹を食べていますが、それは今に始まったことではありません。ずっと昔からそうなのです。それが変わったのは人間が罪を犯し、その罪の影響が人類ばかりではなく、こうした動物界をはじめ自然界全体に及んだからです。そうした世界に、完全な平和がもたらされるのです。

これは文字通りにはキリストが再臨された後の千年王国の時に実現するものです。しかしその本質である愛が支配する世界は、私たちがこの平和の王であられる主イエスを信じるとき、その瞬間に、私たちの中に始まるのです。どうしてですか?それは9節にあるように、主を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからです。9節をご一緒に読みましょう。「主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。」(9)

すばらしい御言葉ですね。「主を知ることが、海をおおう水のように地を満たすからである。」主を知ることとは、主を信じることと言っても良いでしょう。主を知ることが、主を信じる人たちが、海をおおう水のようにこの地を満たすとき、このような平和が訪れるのです。

ですから、大切なのは「主を知る」ということです。これは今年の教会の年間テーマでしたね。主を知るとは表面的に知るということではなく、主がどのような方なのかを深く知るということです。やがて世の終わりにもたらされる千年王国では、この主を知る知識がこの地を満たします。主が支配される千年間の平和な時代がやってくるのです。

しかし、それは千年王国においでだけではありません。それは既にもたらされているのです。もしあなたが主を知るなら、このメシヤによって支配される目に見えない千年王国が、私たちの心を支配し、神の平和があなたの心を満たすようになります。ルカ17章20~21には、パリサイ人たちが神の国はいつ来るのかという質問に対して、イエスはこう言われました。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」

神の国はあなたがたのただ中にあるのです。ですから、イエス・キリストがいつ来られるかということよりも、いつ来られても大丈夫なように、このメシヤなるキリストを信じて、罪を赦していただき、主の再臨に備えておくことが大切なのです。それが主を知るということです。その時、神の平和があなたの心と思いを満たすでしょう。

あなたは、このエッサイの根株から出る新芽、その根から出る若枝を迎える準備が出来ていますか。主はあなたを罪から救うために今から約二千年前にこの世に来てくださいました。そして十字架で死なれ、三日目によみがえられ、天に昇り、全能の父なる神の右に着座されました。あなたの救いの御業を完成してくださったのです。あなたがこのイエスを救い主として信じて受け入れるなら、神の国はあなたの中にあります。あなたは主のご支配の中で完全な愛と平和を受けることができます。そして、主が再び来られるとき、文字通り千年王国において、この愛と平和を生きることになるのです。あなたも、あなたのために来られたメシヤ、救い主、イエス・キリストを信じて、主の来臨に備えてください。これこそ本当のクリスマスの喜びと希望なのです。

イザヤ書10章5節~27節 「ただ主にたよれ」

きょうは、イザヤ書10章5節からのみことばからお話したいと思います。タイトルは「主にたよれ」です。前回は9章8節から10章4節までのところで北イスラエルに対して語られた主のことばを学びました。きょうのところはイスラエルではなく、アッシリヤに対して語られています。アッシリヤという国は、アラムとイスラエルの連合軍を打ち破り、南王国ユダにまで迫って来た国ですが、そのアッシリヤに対して語られているのです。

きょうは、このアッシリヤに対して語られた主のことばから、三つのことを学びたいと思います。まず第一のことは、高ぶってはいけないということです。斧が、それを使って切る人に向かって高ぶることができないように、あるいは、のこぎりが、それをひく人に向かっておごることができないように、神に向かって高ぶってはなりません。神の道具としての立場をわきまえ、それに徹していなければならないということです。第二のことは、高ぶる者に対する神のさばきです。第三のことは、だから主にたよれということです。

Ⅰ.高ぶらないで(5-15)

まず第一に、アッシリヤの高ぶりについて見ていきたいと思います。5節から15 節までをご覧ください。まず5節と6節です。「ああ。アッシリヤ、わたしの怒りの杖。彼らの手にあるわたしの憤りのむち。わたしはこれを神を敬わない国に送り、わたしの激しい怒りの民を襲えと、これに命じ、物を分捕らせ、獲物を奪わせ、ちまたの泥のように、これを踏みにじらせる。」

主はアッシリヤに向けて「ああ」という言葉を発しておられます。この「ああ」という言葉は、5章のところで何回も繰り返して出て来た言葉です。そこでは、神に背くイスラエルに対して「災いなるかな」と、災いを宣告するために使われましたが、それと同じ言葉がアッシリヤに対しても使われているのです。いったいアッシリヤは何が問題だったのでしょうか。それは彼らは単なる神の道具であるのにかかわらず、その立場を逸脱して思い上がったことです。ここには、「アッシリヤ、わたしの怒りの杖。彼らの手にあるわたしのむち。」とあります。ここでは「わたしの」という言葉が強調されています。つまり、アッシリヤは神の道具でしかなかったわけです。神に従わないイスラエルを懲らしめ、彼らを悔い改めるための道具です。それが「怒りの杖」であり、「憤りのむち」でした。神は神に従わないイスラエルを懲らしめるためにアッシリヤを用い、彼らによってイスラエルの民を襲い、物を分捕らせ、獲物を奪わせ、ちまたの泥のように、これを踏みにじらせました。それによってイスラエルが悔い改めるためです。そのための道具でしかなかったのです。なのにアッシリヤはあたかもそれを自分たちの手で成し遂げたかのように高ぶりました。自分たちの力で強大な国を作り上げたのだと勘違いしました。自分たちの立場を超えて思い上がってしまったのです。

7節をご覧ください。ここには彼らの高ぶりがどのようなものであったかが描かれています。「しかし、彼自身はそうとは思わず、彼の心もそうは考えない。彼の心にあるのは、滅ぼすこと、多くの国々を断ち滅ぼすことだ。」

「そうとは思わず」とは、自分たちが神の道具であるとは思わず、ということです。彼らの心にあったのは、滅ぼすことでした。もう懲らしめるというレベルではありません。それを越えていたのです。滅ぼそうとしたのです。イスラエルだけでなく多くの国々を滅ぼして、自分たちの属国にしようとしました。徹底的に滅ぼそうとしたのです。アッシリヤの残虐さは有名で、彼らは敵の目をえぐり取ったり、鼻を削いだり、耳を削いだり、あるいは舌にフックをかけて引っ張ったり、生きたまま穴に埋めたり、さらに生首を持って来てそれをやりで突き刺し、「アッシリヤに従わない者は皆、このようになる」とみせしめにするようなことをしました。それは彼らが自分たちの立場をわきまえず、自分たちが絶対者であるかのように思い込んでいたからです。

8節から11節にはこのようにあります。「なぜなら、彼はこう思っている。「私の高官たちはみな、王ではないか。カルノもカルケミシュのよう、ハマテもアルパデのようではないか。サマリヤもダマスコのようではないか。エルサレム、サマリヤにまさる刻んだ像を持つ偽りの神々の王国を私が手に入れたように、サマリヤとその偽りの神々に私がしたように、エルサレムとその多くの偶像にも私が同じようにしないだろうか」と。」

これはどういうことかというと、これまでの戦いの大勝利がすべて自らの強さ、戦闘能力の高さ、占領政策の巧みさによるもので、万軍の主のご計画によるものではないと言っているのです。カルノというのはアラムの北にある町ですが、そこは前738年に滅ぼされました。次がカルケミシュです。そこは前717年に陥落しました。ハマテは前720年、アルパデは前740年、サマリヤは前722年、ダマスコは732年に落ちました。これまで戦った都市、国はみなそれぞれに守護神を持っていたけれども、どれもアッシリヤの攻撃から守ることができなかった。エルサレムの神も同様に、アッシリヤに抵抗できるはずがないと豪語しているのです。真の神を、人間が造り上げた偶像と同一視しているだけでなく、そのイスラエルの神、万軍の主がアッシリヤの手から守ることができないと高ぶっているわけです。

そうした彼らの高ぶった態度は、12節から14節までのところにも書かれてあります。「主はシオンの山、エルサレムで、ご自分のすべてのわざを成し遂げられるとき、アッシリヤの王の高慢の実、その誇らしげな高ぶりを罰する。それは、彼がこう言ったからである。「私は自分の手の力でやった。私の知恵でやった。私は賢いからだ。」「私が、国々の民の境を除き、彼らのたくわえを奪い、全能者のように、住民をおとしめた。私の手は国々の民の財宝を巣のようにつかみ、また私は、捨てられた卵を集めるように、すべての国々を集めたが、翼を動かす者も、くちばしを大きく開く者も、さえずる者もいなかった。」

ここを注意して見ると、「私」という言葉が連発していることに気付きます。「私」「私」「私」、「自分」「自分」「自分」です。今ある繁栄は、今ある祝福は、今ある勝利は、すべて自分の力でやった、私の知恵によるもの、私が賢いから、私が強いから、私がすごいから、自分に能力があるから、というのです。自分の力を誇っているのです。しかし、それは滑稽なことです。あわれなことなのです。なぜなら、アッシリヤはただの道具でしかないからです。ただの道具でしかないのに、あたかもそれを自分の力でやったかのように思い込んでいるからです。彼らのそうした高ぶった思いをたとえるならば、次のようにまとめることでができるでしょう。15節です。

「斧は、それを使って切る人に向かって高ぶることができようか。のこぎりは、それをひく人に向かっておごることができようか。それは棒が、それを振り上げる人を動かし、杖が、木でない人を持ち上げるようなものではないか。」

斧やのこぎりは、あくまでも道具にすきせません。それなのに、それを使っている人を動かそうとしたり、指図するとしたら滑稽ではありませんか。斧が、もっと右に切れとか、もっと左だなんて言うとしたら、それを使う人はこう言うでしょう。「Oh, No.」それは滑稽です。なのにアッシリヤはそういうことをしていました。彼らはただの道具でしかなかったのに、あたかも自分の知恵、自分の力ですべてを動かしているように錯覚して、自分たちには能力があり、自分たちはすごいと思っていたのです。

そういうことが私たちにもあります。私たちもこのような高ぶってしまうことがあるのです。今あなたが享受しているもの、仕事、財産、家族、健康、あるいは、あなたの今の繁栄、それらのものはだれによってもたらされたものとお思いでしょうか?私は自分の手の力でやった、一生懸命に勉強していい学校に入り、それなりの会社に就職し、それなりの昇進をして、それなりの給料を得て、それなりの地位を得てきたんだという思いはないでしょうか。自分が頑張ったから、自分の知恵によって、賢さによって、能力によって出来たんだと思ってはいないでしょうか。アッシリヤも私たちと何ら変わらない罪人の集団であります。罪深い人間はいつもこのように考えるのです。自分の立場を忘れ、すぐに自分の力でやったと自分を誇ってしまいます。アッシリヤ同様、神の道具にすぎないということを忘れてはなりません。ただの道具なんです。イチローのバットを持てば、だれでもイチローのように打てるかというとそうではありません。最近はあまりぱっとしませんが、タイガーウッズのドライバーを持てばいくらでもとばせるかというとそうではありません。バットやドライバーはただの道具にすぎません。道具がすごいのではなく、その道具を使う人がすごいのです。ですから、道具が誇ってはなりません。誇るのではれば、私たちは主を誇るべきであります。第一コリント1章を開いてみましょう。26節から31節までをお読みします。

「兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。まさしく、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。」

ここに「誇る者は主を誇れ」とあります。伝道の働きで成功したならば、ビジネスにおいて成功したならば、個人生活、家庭生活でうまくいったなら、それはすべて神様のお陰です。私たちは自分自身のことで何も誇るものはありません。一生懸命聖書を学んだから、神学校に行ったから、だから成功したんだとか、いい学校に入って、いい仕事に入ったから、資格があるから、だから高収入なのではありません。すべての祝福は主の恵みによるのです。主があなたに健康を与え、あなたに必要な能力を与え、あなたにチャンスを与え、あなたが活躍できる場を与えてくださったのです。私たちは主の御手によって使われるただの道具でしかありません。道具として用いられ、主の栄光を現すことができたのであれば、そのことを喜ぶべきです。こんな私を使ってくださったということを喜びとすべきなのです。主が用いられるならばイチローのバットでなくても、その辺のスポーツ用品店で売っているバットでも、十分ヒットが打つことができます。タイガーウッズのドライバーを使わなくても、完璧にショットを打つことができるのです。私たちが主の御手に握られるならば、私たちがどんなにみすぼらしい道具であっても、いかようにも使っていただき、驚くべき働きを担うことが許されるのです。ですから、主に用いられたければ、自分が神の道具であるという自覚を持たなければなりません。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりです。

カール・ヒルティーという人が、こういう言葉を残しています。「人間の力の秘密は、神の道具であるという性質にある。なぜなら、すべての永続的な真実の力は神のものであって、人間のものではないからである。」

私たちには限界があります。しかし、時に私たちは自分の能力の限界を超えて驚くべきことを成さしめていただくことがあります。それは間違いなく神の恵みによるのであって、私のような者でも、そのように使っていただけるからなのです。それは自分から出たことではなく、神から出たことが明らかにされるためです。それはひとえに神の働きでしかないということが現されるためです。

イエス様は、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」と言われました。イエス様が私たちのまことのぶどうの木で、私たちはただの枝にすぎません。枝自体が実を結ぶことはできません。イエス様につながって初めて実を結ぶことができるのです。そのことを忘れてはなりません。

Ⅱ.高ぶる者は罰せられる(16-19)

しかし、アッシリヤは高ぶってしまいました。自分たちの道具としての立場をわきまえずに、不遜にも神に反逆して高ぶりました。そんなアッシリヤに対して神のさばきが下されます。16節から19節までをご覧ください。「それゆえ、万軍の主、主は、その最もがんじょうな者たちのうちにやつれを送り、その栄光のもとで、火が燃えるように、それを燃やしてしまう。イスラエルの光は火となり、その聖なる方は炎となる。燃え上がって、そのおどろといばらを一日のうちになめ尽くす。主はその美しい林も、果樹園も、また、たましいも、からだも滅ぼし尽くす。それは病人がやせ衰えるようになる。その林の木の残りは数えるほどになり、子どもでもそれらを書き留められる。」

ここに書かれてある一つ一つのことは、文字通りアッシリヤに起こりました。 17節の「イスラエルの光は火となり、その聖なる方は炎となる。燃え上がって、そのおどろといばらを一日のうちになめ尽くす。」というのは、アッシリヤがエルサレムを包囲した時の出来事です。アッシリヤは既に北イスラエルを滅ぼして、その勢いは南ユダにまで迫っていました。アッシリヤはセナケリブという王が、またラブシャケという将軍が不遜な言葉をはきます。イスラエルの神をあからさまにののしるわけです。さきほど読んだように、他の国と同じようにエルサレムも侵略し、他の国々の神をことごとく打ち倒してきたように、イスラエルの神も自分たちの手でみな滅ぼし尽くしてやると豪語したのです。そこで苦境に立たせられたヒゼキヤ王は主の前にひざまずき、そして心から祈るのです。すると驚くべきことが起こりました。「イスラエルの光は火となり、その聖なる方は炎となって燃え上がり、そのおどろといばらを一日のうちになめ尽くたのです。「おどろといばら」とはアッシリヤのことです。これを一日のうちになめ尽くしたのです。エルサレムを取り囲む十八万五千人のアッシリヤ軍が、主の使いによって一夜のうちに滅んだわけです。18節の「美しい林も、果樹園」というのもアッシリヤのことです。19節の「林の木の残り」というのもアッシリヤのことです。それが数えるほどになるのです。一夜のうちに大打撃を受けたのです。イスラエルの光は火となり、その聖なる方は炎となって燃え上がり、一日のうちになめ尽くしました。当時世界最強と言われた軍隊が日本の四国ほどの面積もない小さなユダに滅ぼされて敗走しました。その後、アッシリヤの王セナケリブは自分の国に帰ると、そこで息子に暗殺されてしまいます。そして、その息子によって率いられたアッシリヤは弱体化してやせ衰え、ついにはバビロンに破れ、完全に滅んでいくことになるのです。あれだけ勝ち誇ったかのように豪語していたアッシリヤは、完全に滅ぼされたのです。

それは神のさはぎです。神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになります。ですから、あなたは、神の力強い御手の下にへりくだらなければなりません。神が、ちょうど良い時に、あなたを高くしてくださるためです。

Ⅲ.ただ主にたよれ(20–34)

ですから第三のことは、主にたよれということです。20節をご覧ください。「その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家ののがれた者は、もう再び、自分を打つ者にたよらず、イスラエルの聖なる方、主に、まことをもって、たよる。」

「その日」というのは、イザヤ書のキーワードの一つです。それはアッシリヤがエルサレムの回りで倒れた日のことだけではありません。確かにエルサレムの町の住民がこの主の御業を見て神に立ち返る人もいますが、そのことだけではないのです。これは世の終わりの日のことも指しています。具体的には、世の終わりにおける最後の7年間の患難時代のことです。それは神の怒りが注がれるさばきの日のこともあります。詳しくは黙示録6章から19章に描かれている内容のことであります。

その日になると、どんなことが起こるのでしょうか?イスラエルの残りの者は、もう再び、自分を打つ者にはたよらず、イスラエルの聖なる方、主に、まことをもって、たよるようになります。「自分を打つ者」とはアッシリヤのことです。アッシリヤとか、アラムといった周辺諸国にたよることはしません。イスラエルの聖なる方にたよるようになるのです。

それと同じようなことがこの世の終わりにも起こります。イスラエルはかつて自分を打つ者にたよっていたわけです。それは具体的には反キリストです。聖書には反キリストのことがいろいろな呼び名で表されていますが、その一つの名が「アッシリヤ」なんです。この世の終わりにはかつてイスラエルを打ったアッシリヤのような存在が現れます。それが反キリストです。彼は彗星のごとくヨーロッパにリーダーとして現れると、だれもが成し得なかった和平を中東にもたらし、パレスチナ問題を一気に解決するのです。エルサレムにある今の嘆きの壁はもともと神殿があった場所ですが、そこに神殿が再建されます。すると皆が「この方こそ来るべきメシヤだ」と言います。今のユダヤ人たちに聞いてみてください。メシヤが来られるときどんなことが起こるのか・・・と。すると彼らはこう言います。メシヤが来られる時には、我々の神殿を再建してくださると。再建してくれる人こそ我々のメシヤであると思っているで、そこに神殿が建つのを見ると、この方こそメシヤだと信じてしまうわけです。

ところが、7年間のちょうど真ん中である3年半が経つと、状況がガラッと変わります。今までメシヤだと思っていた人物が豹変して本性を現わすのです。半キリストのことを黙示録には「獣」と表現されていますが、まさに「獣」のようにユダヤ人たちを食い尽くすようなことをするのです。不遜にも自分が再建した聖なる所に立って、自分を拝めと言うのです。その結果、騙されたと思ったユダヤ人は必死に逃げようとするのですが、反キリストは彼らを追い回し、弾圧して、虐殺するのです。あのヒトラーがユダヤ人たちを虐殺した時よりももっと酷いことを、もっと恐ろしいことをします。ですから、そこで数多くのユダヤ人が殺されるのです。その時イスラエルの残りの者たちは目が覚めて、自分を打つ者にたよらず、イスラエルの聖なる神に立ち返るようになるのです。21節から23節に書いてあるようなことになるわけです。

「残りの者、ヤコブの残りの者は、力ある神に立ち返る。たとい、あなたの民イスラエルが海辺の砂のようであっても、その中の残りの者だけが立ち返る。壊滅は定められており、義があふれようとしている。すでに定められた全滅を、万軍の神、主が、全世界のただ中で行おうとしておられるからだ。」

その中でイスラエルの残りの者が、まことの神、本当の救い主であるイエス・キリストに立ち返ってくるわけです。そうして、イスラエルはすべて救われるというあの聖書の約束が実現するのです。

「主よ。いつまでですか」と、イザヤはイスラエルのかたくなさを嘆きながらも叫びました。その答えがこれです。この時までなんです。この時になったら、かたくなだった民の心がようやく砕かれて、神に立ち返って来る日がやって来ます。

それゆえに、万軍の神、主は、こう仰せられます。24節から27節です。「シオンに住むわたしの民よ。アッシリヤを恐れるな。彼がむちであなたを打ち、エジプトがしたように杖をあなたに振り上げても。もうしばらくすれば、憤りは終わり、わたしの怒りが彼らを滅ぼしてしまうから。オレブの岩でミデヤンを打ったときのように、万軍の主がアッシリヤにむちを振り上げる。杖を海にかざして、エジプトにしたように、それを上げる。その日になると、彼の重荷はあなたの肩から、彼のくびきはあなたの首から除かれる。くびきはあなたの肩からもぎ取られる。」

ここにアッシリヤを恐れるなとありますが、これはイザヤの時代には文字通りとらえるべきです。しかし、これを遠い未来でみるならば、この「アッシリヤ」というのが反キリストのことなんです。しかし、ここでは文字通りのアッシリヤという国です。それを恐れるてはなりません。オレブの岩でミデヤンを打ったときのように、万軍の主がアッシリヤにむちを上げ、杖を海にかざして、エジプトにしたように、主が彼らを滅ぼされるからです。杖を海にかざして、エジプトにしたようにというのは、イスラエルがエジプトを出て行く際、エジプトが執拗にも追いかけてきた時、モーセが紅海の上に手をかざすと、それが真っ二つに分かれた出来事のことです。それで彼らはその分かれた道を通して救われました。そのようにアッシリヤからの大いなる勝利がもたらされ、奴隷状態からも解放されるのです。そのようにしてアッシリヤからも、反キリストからも、主はご自分の民を守ってくださいます。

主はそのような方なのです。過去のイスラエルの歴史において、オレブの岩でミデヤンを打ったときのように、杖をエジプトにかざして、エジプトにしたように、ご自分の民を守ってくださいます。また、遠い未来においても、やがて現れるであろうアッシリヤ、獣、反キリストに対しても驚くべき御業をもって救い出してくださいます。それが私たちの主です。万軍の神なのです。

であれば、私たちはいったい何を脅える必要があるでしょうか?自分の過去の歴史において、あのときも、このときも、驚くべき御業をもって助けてくれた主は、今、あなたの目の前にどんな問題があっても必ず助け出してくださるのです。あなたが不安になっていることは何ですか?あなたが思い煩っていることは何でしょう?あなたが心配して夜も眠れないでいることは何ですか?あなたが勝手にあきらめていることは何ですか?その支払いがどれだけだというのでしょう?その病がどれほどのものだというのでしょうか?それがどれほどのものでも、地獄と等しいほど大きな問題ではありません。主はあなたを地獄の滅びから救い出してくださいました。その主はあなたの人生に責任をもって臨んでくださいます。あなたの人生の重荷をその肩から取り除かれ、あなたがこの世を力強く歩むことができるように助けてくださいます。

ですから、イスラエルの聖なる方、主に、まことをもって、たよろうではありませんか。そのあなたの真実な心が、あなたの信仰が、あなたを救うのです。

 

イザヤ書9章8節~10章4節 「ヤコブに落ちた主のことば」

きょうは、イザヤ書9章8節から10章4節までの箇所から学びたいと思います。タイトルは「ヤコブに落ちた主のことば」です。8節に、「主がヤコブに一つのことばを送られた。それはイスラエルに落ちた」とあります。このイスラエルとは北イスラエルのことです。これまでイザヤはユダに対して、ユダの王アハズに対して語ってきましたが、ここから10章4節までのところは、この北イスラエルに対して語られたことばです。9節には「この民、エフライムとサマリヤに住む者たちはみな」とありますが、この「エフライム」とは北イスラエルの代表的な部族のことです。また、「サマリヤ」というのは、北イスラエルの首都であります。ですから、このエフライムとサマリヤというのは北イスラエルを指していることがわかります。。そのイスラエルに神のことばが落ちました。これまでも北イスラエルには何人かの預言者が神のことばを語ってきました。たとえば、エリヤであり、エリシャとか、ホセアです。そうした名だたる預言者が語ってきたにもかかわらず、彼らはそのことばを受け入れませんでした。高ぶっていたからです。思い上がっていたからです。そのイスラエルに主のことばが落ちました。

それはどのようなことばだったのでしょうか。ここには、その内容を物語っていることば、繰り返して何回も出てくることばがあります。それは、「なおも、御手は伸ばされている」ということばです。12節、17節、21節、そして10章4節に出てきます。きょうはこのことばを中心に、イスラエルに落ちた主のことばを学んでいきたいと思います。

Ⅰ.その敵たちをあおりたてる(9-12)

まず第一に9節から12節までをご覧ください。9節には、イスラエルに落ちたことばに対して、彼らが高ぶり、思い上がったとあります。どのように高ぶったのでしょうか?10節に「れんがが落ちたから、切り石で立て直そう。いちじく桑の木が切り倒されたから、杉の木でこれに代えよう。」とあります。イスラエルに落ちた神のことばというのは、「あなたがたが神に背いたら、このようなことが起こる」という神様からの警告でした。「れんがが落ちた」「いちじく桑の木が切り倒された」という内容です。けれども、これに対して彼らは何と言ったかというと、「切り石でこれを立て直そう」とか、「杉の木でこれに代えよう」と言ったのです。これはどういうことでしょうか?れんがに対して切石はもっと高価なものです。また、桑の木に対して杉の木も、もっと高価な木であります。それで建て直そうというのです。つまり、神によって倒されても大丈夫。自分たちはもっともっと別のもので建て直そうという思い上がった態度です。自分たちにはまたまだ力があって立て直すことができるというのです。もし仮に何かを損なったとしても、代わりに補充すれば何とかなるから問題ないという高ぶった態度であります。

南ユダではウジヤという王が長い間治めていましたが、その間北イスラエルはどうであったかというと、王様が何人も代わりました。統治期間が非常に短いのです。二年間とか、ひどい王様ですと数ヶ月という時もあります。日本の総理大臣に似ていますね。すぐに代わってしまうのです。それはどうしてかというと、こうした思いがあったからです。ですから、王の側近や部下たちが王を暗殺して自分が王になると、その数年後には、数ヶ月後には、今度は自分の側近に殺されるということが繰り返されました。他のものに取り替えたらいいじゃないかといった思いがあったのです。まさに「れんがが落ちたから、切石で立て直そう。いちじく桑の木が切り倒されたから、杉の木でこれに代えよう」という態度です。神様ではなく自分たちの力で何とかできるから大丈夫、という思いです。

あのバベルの塔を思い出します。ノアの箱舟以降、シヌアルの地に住みついた人類は、そこで石の代わりにれんがを、アスファルトを用いるようになると、「さあ、われわれは町を建て、頂が天にまで届く塔を建てて、名をあげよう。」と言いました。自分たちが神にでもなったかのように、いや、もう神を越えているのです。そして、自分たちの名をあげようとしました。その結果、神は人々のことばを混乱させ、そこから全地に散らされたのです。同じように、神は彼らを散らされました。どのように?その敵たちをあおりたてることによってです。11節と12節をご覧ください。ここには、「そこで主は、レツィンに仇する者たちをのし上がらせ、その敵たちをあおりたてる。東からはアラムが、西からはペリシテ人が、イスラエルをほうばって食らう。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。」とあります。

レツィンとは、アラム(シリヤ)の王です。そして、このレツィンに仇する者たちをのしあがらせる、とありますが、これはアッシリヤのことです。このアッシリヤをのし上がらせ、敵たちをあおりたてる、というのです。その敵たちというのがアラムであり、ペリシテ人たちです。アラムというのは同盟を結んでユダを攻撃した友好国であるはずなのに、このアラムからも攻められることになるといわけです。なぜかというと、アラムとイスラエルはもともと敵なんです。敵なんですが、ちょうど北からアッシリヤが攻めて来ていたのでこれに対抗するためにくっついたにすぎないのです。ですから、結局はこうした相手からも攻撃されることになるわけです。

これが神を拒んでいる人たちに対するさばきです。神により頼めばいいのに、神に頼まないで他のものに頼ろうとするので、そうしたものによって逆に自分自身が痛められる結果になってしまいます。たとえば、寂しい時に神に頼めばいいのに、神を求めればいいのに、神を求めないで他のもので心を満たそうとするので、逆にそれで縛られることになってしまいます。たとえば、お酒であったり、快楽であったり、友人であったり、占いであったり、買い物であったり・・・です。こうしたものは一時的な助けを与えてくれるかもしれませんが、結局、それが問題で今度は自分を苦しめることになってしまうのです。それがイスラエルの生活パターンでした。

あなたはピンチの時に誰に助けを求めるでしょうか?何に助けを求めますか?それが神様ではなく他のものであると、それが返ってトラブルの原因になってしまい、自分自身が苦しむことになってしまいます。あなたが助けを求めなければならないのはこの天地を造られたまことの神様ではないでしょうか。でなくて、他のものに助けを求めていくので、まあいいや、何か別のものを代わりにしようと言って高ぶり、緒も上がっていると、神の御怒りの御手が伸ばされます。ここには、「それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている」とあります。これは、かつて主がイスラエルをエジプトから救い出すためにエジプトに伸ばされた御腕と同じです。「イスラエルを去らせよ」という神のことばを拒みなかなか去らせなかったエジプトの王パロに対して、神は御腕を伸ばされて災いを下されました。その御手のことです。何度言ってもパロはかたくになってモーセのことばを受け入れませんでした。そうすると、なおも、神の御手は伸ばされるます。この「御手」とは怒りの御手のことです。神のことばを拒みいつまでも悔い改めないでいると、神の御手が伸ばされて、もっと削がれることになるのです。

いつになったら神を認めて、神に従っていくのでしょうか?この問題はイスラエルだけの問題ではなく、私たちにも共通の問題です。いつまでも心をかたくなにしていると、私たちがへりくだることができるようにと、神様は私たちの持っているものを一つ一つ削いでいかれますが、それでも、「まだ大丈夫だ」と言ってると、もっと多くのものを神様は取り上げてしまうのです。

Ⅱ.かしらも尾も切り取られる(13-17)

神のみことばを聞いても悔い改めようとしないイスラエルに、主は何と言われるでしょうか。13節から17節までのところを見ていきましょう。13節から16節には、「しかし、この民は、自分を打った方に帰らず、万軍の主を求めなかった。そこで、主はイスラエルから、かしらも尾も、なつめやしの葉も葦も、ただ一日で切り取られた。そのかしらとは、長老や身分の高い者。その尾とは、偽りを教える預言者。この民の指導者は迷わす者となり、彼らに導かれる者は惑わされる。」とあります。

イスラエルの民は、外敵がやって来ても、万軍の主を求めませんでした。そこで、主はイスラエルから、かしらと尾も、なつめやしの葉も葦も、ただ一日で切り取られました。かしらとか尾、なつめやしの葉と葦とは何でしょうか?15節にその説明が書かれてあります。「そのかしらとは、長老や身分の高い者。その尾とは、偽りを教える預言者」のことです。かしらとは、いわゆる政治的な指導者のことです。また、尾とは預言者のことです。霊的・精神的な指導者たちのことです。ここには、「この」民の指導者は惑わす者となり、彼らに導かれる者は惑わされてる」とありますから、これは偽預言者のことです。このこういう指導者たちを切り取ってしまわれるというのです。たった一日のうちに、素早くです。なぜなら、彼らが偽りを教えていたからです。彼らは神の警告を無視して偽りを教えて民を迷わし、誤った道に導いて惑わしたからです。彼らは、イスラエルが神に逆らっていると神のさばきがあるという教えないで、違うことを教えていました。民が聞きやすいようなことば、受け入れやすいようなことばだけを語り、神の言葉を語りませんでした。だれもさばきのことばなんて聞きたくないんです。できれば、おもしろおかしな話、お涙ちょうだいみたいな話が聞きたいんです。自己を実現するためにはどうしたらいいかといった話に耳を傾けようとします。「なおも、御手は伸ばされている」なんて聞きたくありません。「えっ、ちょっと待ってください。」と言いたくなります。だから、平安じゃないのに、「平安だ。平安だ」と語ってしまう。神のことばではなく、人が気にいるような話をしたいという誘惑にかられるわけです。

おもしろいことに、ここにはこの偽りの預言者がどのように表されているでしょうか?「尾」です。「尾」とは「しっぽ」のことですね。人々を神様の方に導いていく舵取り、頭ではなく、人々のおしりについて回り、みんなが喜ぶようなことだけを言うしっぽです。今の時代、政治家も、預言者も、学校の教師も、職場の上司も、人々の人気取りに躍起になってしまい、国の将来を、教会の将来を、神が望んでおられる方向に舵取りをしていないというのです。もちろん、聖書には温かいことば、優しいことば、励まされることばがたくさん出てきます。しかし、それは人間の罪の現実とそれに対する神の怒り、さばきがあるということを知り、そのような人間を一方的に愛し、赦してくださる神の恵みによるのだということがわかって初めてもたらされるものであって、それを避けて通ることはできないのです。

「というのは、不義を真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正とに対して、神の怒りが天から啓示されているからです。」(ローマ1:18)

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:23,24)

これが福音です。こうした福音のことば、聖書の真理のみことばを教えないで、偽りを教える預言者がいると、一日で切り取られてしまうことになります。

しかし、こうした偽りの指導者が出てくるのはいったいどうしてなのかという理由が、原因が17節にあります。「それゆえ、主はその若い男たちを喜ばず、そのみなしごをも、やもめをもあわれまない。みなが神を敬わず、悪を行い、すべての口が恥ずべきことを語っているからだ。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。」

これはどういうことかというと、イスラエルのすべての民が神を敬わず、悪を行ったということです。指導者だけの問題ではありません。その原因は自分たちにあったというのです。すなわち、民が自分たちにとって都合のいいことばを聞きたい、都合のいいリーダーを求めていたので、そうなったというわけです。よく政治のリーダーや教会の指導者を非難する人がいますが、その原因を作っているのはだれかというと、実は自分自身だというわけです。そういう指導者をのさばらせている。民がそれを許している。それが問題なのです。もし偽の預言を聞く人がいなかったら、偽預言者が出てくることはないのです。なのにそういう話を聞きたいという人がいるので、そのような預言者が出てくる。それを決めるのはあなたです。テモテ第二の手紙4章3節と4節を開いてみましょう。ここには、「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」とあります。

昔からそうですが、特に今はこのような時代なのです。自分に都合の良いことを言ってもらいたいという、気ままな願いをもって、教師たちを次々と自分たちの方に寄せ集めようとするのです。そうでないと聞こうとしません。ですから、健全な教えではなくなってしまうのです。真理からだんだんとそれていくわけです。そのようになっていても気付きません。そういう時代になるのです。教会もわがまま、気まま、になるというわけです。

そうした体質があると、このような偽りの預言も出てまいります。自分が聞きたいことではなく、主のことばを聞く。主のことばを語る。そうでないと、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされることになるのです。

Ⅲ.互いにいたわり合わない(18-21)     次に、18節から21節までをご覧ください。「悪は火のように燃えさかり、いばらとおどろをなめ尽くし、林の茂みに燃えついて、煙となって巻き上がる。万軍の主の激しい怒りによって地は焼かれ、民は火のえじきのようになり、だれも互いにいたわり合わない。」(18-19)

ここにはアッシリヤが攻めて来た後のことが書かれてあります。アッシリヤが火のようにあらゆるものを焼き尽くします。万軍の主の激しい怒りによって地は焼かれ、民は火のえじきのようになるのです。けれども、だれも互いにいたわり合うことをしません。人々はみな自分のことだけを考えて行動するのです。その結果どういうことになるのでしょうか。20節、「右にかぶりついても、飢え、左に食いついても、満ち足りず、おのおの自分の腕の肉を食べる。」これはどういうことかというと、共食いをするようになるということです。外敵によってイスラエルは焼かれ、民は滅び、自分の兄弟さえもいたわらないばかりか、ついには同胞の肉を食べるまでになるのです。そして、おのおの自分の腕の肉まで食べるようになるというのです。それほどまでに飢えるのです。

ガラテヤ書5章15節を開いてみましょう。ここには、「もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。」とあります。ここでは霊的な意味での共食いについて戒められています。肉の力で生きていこうとしていた人たちの間で起こっていたのが、かみ合ったり、食い合ったりというこだったのです。なぜかというと、霊的にお腹が満たされていないからです。栄養失調状態です。だから、キリストにある仲間を批判したり、引き落としたり、かんでいくといったことが起こるのです。霊的に窮乏状態にあるとこうしたことに走っていくようになります。キリストにあって満たされてない人が仲間を食べていくのです。

ですから、21節にこうあるのです。「マナセはエフライムとともに、エフライムはマナセとともに、彼らはいっしょにユダを襲う。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。」マナセとエフライムというのは北イスラエルのことです。北イスラエルが南ユダを襲ったということがアハズの時にありましたが、その他にも何度かありました。その原因は何だったのか?霊的な窮乏状態だったことです。だから兄弟であるユダを食った、かみ合った、すなわち、襲ったのです。確かにユダも神様に逆らって堕落していましたが、それでも比較的善い王が出て、神に立ち返ろうとする残りの者たちがいたので、そこにはまだ神のいのち、霊の力がありました。そういう人たちに霊的に窮乏状態の人が迫害を加えていくわけです。霊的にいのちのない人が霊的にいのちを持っている人を迫害するということが、実際に起こっていくわけです。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされていました。つまり、これでも彼らはわかっていませんでした。

Ⅳ.助けと救いキリストにあり(10:1-4)

それで10章に入るのです。1節と2節です。「ああ。不義のおきてを制定する者、わざわいを引き起こす判決を書いている者たち。彼らは、寄るべのない者の正しい訴えを退け、わたしの民のうちの悩む者の権利をかすめ、やもめを自分のとりこにし、みなしごたちをかすめ奪っている。」    もともと法律は、善を行うため、あるいは、悪を抑制するためにあるわけですが、ここでは、これを悪を行うために制定されています。こういうことが行われると、一番被害を受けるのはどういう立場にある人かというと、いつも社会の底辺にいる人たちです。よるべのない人であったり、悩む者たちです。こういう人たちの訴えが退けられ、権利がかすめ奪われるということが起こるのです。

そしてその結果が3節と4節にあります。「刑罰の日、遠くからあらしが来るときに、あなたがたはどうするのか。だれに助けを求めて逃げ、どこに自分の栄光を残すのか。ただ、捕らわれ人の足もとにひざをつき、殺された者たちのそばに倒れるだけだ。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。」

神の刑罰の日、遠くから嵐が来るときというのはアッシリヤのことを指しています。アッシリヤが攻めて来るときあなたはどうやってそのさばきから逃れようとするのか、だれに助けを求めるのか、どこに自分の業績や名誉、富といった栄光を保つことができるというのか?ただそのように捕らわれ人の足もとにひざまずくようになり、殺された者たちのそばに倒れるという状態になるだけではないか。そういう卑しい状態になるだけではないのか。

何にも、だれにも、どこにも、この神のさばきを逃れる道はないのです。それまでの高い地位も、人々からの栄誉も尊敬もなんの役にも立たず、征服され、捕らわれて、倒されて、恥を負うだけになってしまうのです。しかも、そのような状態になっても彼らには悔い改めは見られないので、神の激しいさばきはやむことなく、神のさばきの御手は、彼らの上に伸ばされるのです。神の怒りが終わらないでその人に臨むのです。

ではどうしたらいいのでしょうか?この神の怒りの御手から逃れる道があるのでしょうか?ローマ人への手紙5章9節をご覧ください。

「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらです。」(ローマ5:9)

キリストの血によって義と認められた私たちが、キリストによって神の怒りから救われるのはなおさらのことなのです。このキリストにあって、私たちは罪の赦しと永遠のいのちを受けるのです。たとい、私たちの罪が緋のように赤くても、雪のように白く、たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになるのです。なおも伸ばされていた御手は、もはや伸ばされることはありません。イエス・キリストだけが唯一の救いなのです。

ですから、私たちはみことばを通して語りかけておられる神の警告を無視することなく、この世と調子を合わせるあまりに神のみこころから離れていることに気付かされたら、十字架のキリストを見上げ、神に立ち返らなければならないのです。そして、神様第一、信仰一筋の道を歩めるように、祈り求めなければなりません。それがなおも伸ばされている神の御手から救われる道なのです。

あなたは何を求めておられますか?だれに助けを求めていますか?あなたが求める方はあなたのためにじゅゃうじかにかかって死なれ三日目によみがえられたイエス・キリストです。イエス・キリストが救い主であり、イエスに信頼する者は失望させられることはありません。イエスの十字架の地が、あなたを聖め、あなたを助け、あなたを励ましてくださるのです。このイエスにとどまり、このイエスの恵みによって、神に怒りではない、神の愛と喜びに生きる者でありたいと思います。そこに本当の喜びと希望があるからです。