ヘブル3章7~19節 「神の安息に入るために」

 きょうは、ヘブル3章7節から19節までのみことばから、「神の安息に入るために」というタイトルでお話したいと思います。 

 よく私たちの人生は旅のようなものであると言われます。旅にもいろいろあって、名所旧跡を訪ねる旅もあれば、道なき道をかき分けて行く冒険のような旅もあります。すでにだれかが作ってくれた道を行くのであれば、比較的安心して行くことができますが、原生林や荒野を旅する場合は、そんなに楽な旅ではありません。 

 それは、私たちの信仰の旅も同じです。聖書にはよく旧約時代のイスラエルの民がエジプトを出てから約束の地に入るまでのことを、私たちの信仰生活になぞらえて教えられていますが、それはまさに荒野の旅でもあり、そこには多くの戦いがありました。そして、その荒野の旅において彼らは、神が約束してくださった地に入ることができませんでした。いったいなぜ入ることができなかったのでしょうか。きょうはイスラエルの失敗から、どうしたら神の安息に入ることができるのかを学びたいと思います。 

Ⅰ.心をかたくなにしてはならない(7~11) 

 まず、第一のことは、心をかたくなにしてはならないということです。7節から11節までをご覧ください。「ですから、聖霊が言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試みて証拠を求め、四十年の間、わたしのわざを見た。だから、わたしはその時代を憤って言った。彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」

 「ですから」というのは、これまで語られてきた内容を受けてのことです。3章1節から6節までのところにはイエスのことを考えなさいと、勧められてありました。なぜなら、イエスこそ信仰の使徒であり、大祭司であられる方だからです。人は何を考えるかによってその行動が決まります。仕事のことばかり考えている人は仕事を中心とした生活になり、健康のことばかり考えている人は、自分の健康にいいと思うことをいろいろ試してみようとあちらこちらに奔走します。でもイエスのことを考える人は天国のことを考えます。目の前に様々な問題があっても主が必ず解決してくださると信じ、すべてをゆだねて祈るのです。だから、イエスのことを考えなければなりません。 

 そして、このイエスがどんなに偉大な方であるかを、モーセと比較して語られました。すなわち、モーセは神の家に仕える者でしたが、イエスはその神の家を建てた方であり、それを治めておられる方です。だから、私たちがこのイエスに最後までしっかりと確信と希望を持ち続けるならば、私たちが神の家となるのです。「ですから」です。「ですから」何でしょうか。 

 「ですから、聖霊がこう言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」 

 どういうことでしょうか?これは詩篇95篇8節からの引用です。この手紙の著者はイスラエルの先祖たちの不信仰を取り上げて、あの荒野での試みの日に、心をかたくなにして、神の御怒りを引き起こすようなことがあってはならないと警告しているのです。いったい「荒野での試みの日に」何があったのでしょうか。実は、詩篇95篇を見ると、この荒野の試みの日がどのようなものであったのかがもっと具体的に記されてあります。

「メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」(詩篇95:8)

ここにはメリバでのときのように、また荒野のマサの日のようにとあります。いったいメリバで何があったのでしょうか。マサで何が起こったのでしょうか。これは出エジプト記17章に書かれている内容です。少し長いですが読んでみたいと思います。1~7節までです。

「イスラエル人の全会衆は、主の命により、シンの荒野から旅立ち、旅を重ねて、レフィディムで宿営した。そこには民の飲む水がなかった。それで、民はモーセと争い、「私たちに飲む水を下さい。」と言った。モーセは彼らに、「あなたがたはなぜ私と争うのですか。なぜ主を試みるのですか。」と言った。民はその所で水に渇いた。それで民はモーセにつぶやいて言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」そこでモーセは主に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。もう少しで私を石で打ち殺そうとしています。」主はモーセに仰せられた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを幾人か連れ、あなたがナイルを打ったあの杖を手に取って出て行け。さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。それで、彼はその所をマサ、またはメリバと名づけた。それは、イスラエル人が争ったからであり、また彼らが、「主は私たちの中におられるのか、おられないのか。」と言って、主を試みたからである。」 

 これはイスラエルがエジプトを出て荒野に導かれたときに起こった出来事です。イスラエルは430年間エジプトの奴隷として仕えていましたが、その苦しみの中で彼らが主に助けを求めると、主はモーセというひとりの人物を立て、そこから救い出してくださいました。それは人間的には全く考えられないことでしたが、主は力強い御手をもって彼らをエジプトから連れ出されたのです。エジプトから出た彼らはどうなったでしょうか。彼らが導かれたのは荒野でした。荒野というと皆さんはどのような所を想像するでしょうか。それは荒れた野と書きますから、それが厳しい環境であることは間違いありません。その中でも水がないというのは重大な問題でした。それはイコール死を意味していたからです。そこで彼らはモーセと争いました。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」これにはモーセもどう答えたらよいかわかりませんでした。それでモーセは主に叫ぶのです。すると主は、民の前を通り、イスラエルの長老たちを幾人か連れて、ナイルを打ったあの杖で、ホレブの岩を打つようにと命じられました。それでモーセがそのとおりにすると、岩から水がほとばしり出たので、彼らはそれを飲んだのです。いったい何が問題だったのでしょうか。彼らの心がかたくなだったことです。彼らはこれまで何度も主のみわざを体験したにもかかわらず、信じることができませんでした。少しでも状況が不利になるとすぐにつぶやいて、神と争ったのです。それで主は怒りをもって誓ったように、彼らを神の安息に入れない、言われたのです。 

 これは私たちも同じです。私たちも神の救いのみわざを経験し、何度も神の恵みを体験しても、イスラエルのように心をかたくなし、常に心が迷い、神の道を悟ることがないと、神の安息に入ることができないこともあるのです。 

聖書は、神のご性質についてこう言っています。

「主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。」(詩篇103:8) 

 これが私たちの神です。主は、あわれみ深く、情け深い方です。私たちが何度も何度もつぶやき、主に対して不平不満を言っても、主は私たちを赦してくださいます。怒るのにおそく、あわれみ深い方なのです。しかし、いつまでも心をかたくなにして、常に心が迷い、神の道を悟らなければ、最終的には神の怒りが下るのです。ですから、そういうことがないように、イスラエルのように心をかたくなにしないで、心を柔らかくして、神のことばを素直に受け入れなければなりません。 

 私たちの人生には辛いこと、苦しいこと、また、なかなか受け入れられないことが起こりますが、それは私たちの信仰が試される時でもあります。そしてそのような時こそ、信仰が強められる時でもあるのです。それなのに、私たちはどちらかというとそのように受け止めることができず、すぐにつぶやいたり、疑ってみたり、不平不満を漏らしたりして、不信仰になってしまいますが、そうではなく、神の約束を信じなければならないのです。神を愛する人々、すなわち、神のご計画にしたがって召された人々のためには、神はすべてのことを働いて益としてくださると信じなければならないのです。 

 Ⅱ.日々互いに励まし合って(12-15) 

 次に12節から15節までをご覧ください。

「兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。」

 ここでこの手紙の著者はイスラエルの不信仰を事例に、この手紙の受取人であるユダヤ人クリスチャンに警告を与えています。というのは、彼らの中にはイエス・キリストを信じて神の救い、永遠のいのちを受けたにもかかわらず、その信仰のゆえに迫害や困難に遭うと、古い契約、モーセの律法に戻ろうとする人たちがいたからです。だから、彼らのように不信仰の心になって生ける神から離れることがないようにと警告しているのです。12節の「悪い不信仰の心」というのは神を信じない心のことです。神を信じていると言っても、悪い不信仰の心になると、生ける神から離れてしまい、その身に滅びを招くことになります。モーセの言うことを信じなかった人たちは、みな荒野で滅びてしまいました。であれば、ましてやモーセよりもはるかに偉大な神の御子イエス・キリストを信じなかったどうなるでしょうか。イエスを信じなければ罪が残っているということなので、永遠のいのちを受けることができなくなってしまいます。だから、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れることがないように気をつけなければなりません。そして、「きょう」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなければなりません。 

 ところで、この手紙では「きょう」という言葉が繰り返し使われています。このように同じことばが繰り返して使われている時はそのことが強調されていることを表していると以前申し上げましたが、ここでもそうです。「きょう」が強調されているのです。なぜなら、私たちに明日があるかどうかはわからないからです。明日があるかどうかは誰にもわかりません。私たちが生きることができるのは、「きょう」だけであって、明日がどのようになるかはわかりません。しかも、今、この瞬間しかありません。次の瞬間にはどうなるかわからないのです。私たちが生きることかできるのは、今、この瞬間しかないのです。私たちは過去に生きることはできないし、未来に生きることもできません。明日があるかどうかはわからないのです。 私たちは自分で生きていると思っていますが、実は生かされているのです。そして神がよしとするときに、神の許に、天の御国に召されるのです。それがいつなのかはだれにもわかりません。もしかするとそれは明日かもしれません。だから「きょう」御声を聞くならば、心をかたくなにしないで、イエスを信じなければならないのです。 

 まだイエス様を信じていない方がおられるでしょうか。きょう初めて教会に来られたという方もおられるかもしれません。そういう方はどうか「きょう」イエスさまを信じてください。イエスさまはどんな悩みがあっても解決を与えてくださいます。イエスさまを信じれば、あなたの罪が赦され、あなたの心に神のいのちが与えられます。それは一時的なものではなく永遠のいのちです。これが神の恵みの福音なのです。 そして、もうすでにイエスを信じておられる方は、どうか、ここにあるように、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしてください。だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れることがないように気を付けてください。 

 そのためにはどうしたらいいのでしょうか。ここにはそのために必要なことが勧められています。それは「日々互いに励まし合って」という言葉です。日々、互いに励まし合って、だれも罪に惑わされないようにしなければなりません。聖書には至るところで「互いに」という言葉が使われています。互いに愛し合いなさい。互いに慰め合いなさい。互いに励まし合いなさい。互いに労り合いなさい。互いに赦し合いなさい。互いに受け入れ合いなさい。というようにです。なぜでしょうか。なぜなら、私たちの信仰はひとりで守ることはできないからです。イエス様を信じたからあとは自分で信仰を守っていくから大丈夫だということはありません。互いに励まし合う必要があるのです。それは生まれたばかりの赤ん坊を見てもわかります。赤ん坊は一人で生きることはできません。ミルクをあげたり、おむつを交換したり、何かあったら世話をしたりして守ってあげる人が必要です。そういうケアがあってこそ健全に育っていくことができるのです。それと同じように、私たちの信仰も互いに励まし合ってこそ健全に成長していくことができるのです。 

 ですから、神様が教会を与えてくださったということは本当に感謝なことなのです。教会がなかったらどうなるでしょうか。教会がなかったら自分で聖書を読み、自分で祈り、自分で信仰を守らなければなりません。確かに一人でも聖書を読み、堅く信仰に立って歩める人もいるかもしれませんが、ほとんどの人はこの世の影響を受けて、生ける神から離れてしまうことでしょう。教会はキリストのからだであり、私たちはその器官であると言われていますが、肝臓が肝臓だけで存在することができるでしょうか。腎臓が腎臓だけで生きることはできません。私たちはキリストのからだの各機関としてそれぞれしっかりと組み合わされ、結び合わされて、成長して、愛のうちに建てられるのです。

「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、供えられたあらゆる結び目によって、しっかり組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」(エペソ4:16) 

 確かに目に見える教会は完全ではありません。問題もあるでしょう。でも教会はキリストのからだであって、私たち一人一人がこのキリストにしっかりと結び合わされ、組み合わされて、成長して、愛のうちに建てられているのです。だから、平安があるのです。教会に来ると慰められ、励まされます。心が元気になります。なぜでしょうか?頭(かしら)がしっかりしているからです。教会のかしらは牧師ではありません。教会のかしらはイエスさまです。イエスさまがしっかりしているので守られ、養われるのです。だから、教会ってものすごいところなのです。どんなに小さな教会でも、教会にはキリストのいのちが溢れているのです。その教会で互いに励まし合ってこそ、私たちはしっかりと信仰に立ち続けることができるのであって、そうでなかったら、この世の流れに流されて、生ける神から離れ、罪に惑わされてしまうことになります。だからそういうことがないように、日々互いに励まし合い、最初の確信を終わりまでしっかりと保ち、キリストにあずかる者、つまり、共に神の安息に入る者とさせていただきたいと思います。 

Ⅲ.不従順にならないで(16-19) 

 第三のことは、だから不従順にならないでということです。16節から19節までをご覧ください。

「聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。」 

 ここで著者は再び、モーセの時代のイスラエルの話に戻っています。つまり、イスラエルはなぜ約束の地に入ることができなかったのかということです。ここにはそれを決定的にした原因が書かれてあります。それはカデシュ・バルネアでの出来事です。民数記13章と14章に記されてあります。彼らはエジプトを出て約1年数か月後に、もう約束の地までは目と鼻の先という所まで来ました。そのとき、12人の偵察隊を送り、その地がどんな地であるかを探らせるのです。そこに住んでいる人は強いか弱いか、あるいは多いか少ないか、その土地はどうか、それが良いか悪いか、彼らが住んでいる町はどうか、宿営か、それとも城壁の町かといったことを調べさせました。 

 ところが、偵察から帰って来た人のうち10人は、モーセとイスラエルの全会衆に否定的な報告をもたらしました。確かにそこは乳と蜜の流れる良い地だったが、とても上って行くことはできない。そこにはアナク人の子孫や、アマレク人など、とても大きくて、強そうな人ばかりいるので、行こうものなら滅ぼされてしまうだろう、と告げたのです。それを聞いたイスラエルの全会衆は大声をあげて泣きました。いったいなぜモーセは自分たちをこんなところに連れてきたのか。こんなことならエジプトで死んでいた方がましだった。できれば、荒野で死んでいればよかった・・・。

 それで主は怒られイスラエルを滅ぼそうとしましたが、モーセの必死のとりなしによって赦しを請うことができたものの、このように十度も主を試みたということで、彼らは約束の地に入ることはできない、と宣言されたのです。彼らがその地を巡った一日を一年として、四十年間荒野をさまようになると言われたのです。これが、彼らが神の安息に入れなかった決定的な原因でした。つまり、彼らは不信仰だったので、安息の地に入れなかったのです。 

 しかし、こうした不信仰の中でも主に信頼し、それとは違った応答をした人たちがいました。ヨシュアとカレブです。彼らは他の10人と全く同じものを見たにもかかわらず、その応答は正反対でした。彼らはこう言いました。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」(民数記13:30) そこはすばらしいところで、神が自分たちに与えてくださると約束してくださったところですから、神は絶対に与えてくださいます。ぜひとも上っていきましょう、と言ったのです。 

 皆さん、この違いは何でしょうか。信仰です。現状がどうであれ、ヨシュアとカレブは神の約束を信じていたのでそのように受け止めることができました。神の安息に入るには、信仰がなければならないのです。 

 私はかつて福島の教会で会堂建設に取り組んだことがあります。教会は土地代を献金して建物の建築費は銀行から融資を受けようと計画したのですが、銀行から受けられる融資の額は私たちが予定していた額よりも一千万円低い金額でした。教会には若者が多く、お金を持っている人などほとんどいなかったので、これが銀行で融資できる精一杯の金額ですと言われたのです。それで私たちは礼拝後にみんなで集まってどうしようかと話し合いました。銀行で貸してくれないというのだから当初予定していた建物の規模を小さくしようと話がまとまったとき、一人の女性が「はい」と手を上げたのです。その方はご主人の仕事の関係で北海道から引っ越してきたばかりの韓国人の姉妹で、私たちの教会には2~3回しか参加していませんでした。その方が手をあげてこう言われたのです。「日本人はいつでも小さく考えますが、それが神様のみこころだったら神様は与えてくださるのではないでしょうか。」一瞬、みんなの顔が凍り付いたのがわかりました。それは私も同じでした。ここ数年土地代をささげるためにどれほど大変だったかを知っていたので、さらに一千万円をささげることは人間的には困難であることをだれもが感じていたのです。でも、神のみこころなら与えられるというのは正しいことなので、一年後までに与えられるように祈りましょう、ということになりました。               それから2,3か月経った頃のことです。東北電力から電話があり、教会の前の車のタイヤを作る工場で電気を引きたいので鉄塔を立てるのですが電線がちょうど教会の土地の一部に引っかかるので許可をいただきたいと言って来たのです。その工場には地域の多くの方が働いていたので「だめです」なんて言えなかったので「いいですよ」というと、それじゃ線下保証金といって、そのために土地の評価が低くなってしまうので、その保証のためのお金を支払いますと、約六百万円が与えられたのです。そしてあの話し合いからちょうど一年後の1998年9月末にささげられた金額は999万円だったのです。私は信じられないというかうれしさと驚きとともに主に感謝しました。そして、ポケットに手を入れたらちょうど1万円があったのでそれをささげることができ、必要が完全に満たされたのです。       あの姉妹が言ったとおり、神は私たちの必要を満たしてくださったのです。あのときもし信じなかったら、今の会堂はなかったでしょう。それが私たちにとってどんなに難しいことでも、神にとって大きすぎることはありません。神様は全能者であって、どんなことでもおできになる方なのです。ただそれが神のみこころなのかどうかということが重要なことであり、それが神のみこころなら、信じなければならないのです。 

 皆さん、信仰とは何でしょうか。ヘブル11章1節にはこうあります。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」

 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものなのです。目に見えるものを信じることは信仰ではありません。目に見えないことでもそれが神の約束してくださったことなら、それは必ず与えられると信じること、それが信仰なのです。ヨシュアとカレブは神の約束のことばを信じました。だから、彼らは約束のものを受けることができたのです。しかし、信じなかった人たちは受けることができませんでした。神の安息に入ることができなかったのです。 

 ですから、どうか信じない者にならないで、信じる者になってください。キリストのことばを聞いて、それを信じて受け入れ、そのことばに従って生きる者でありますように。きょう、あなたも神のことばを聞きました。あとは信じるだけです。信じて従うだけなのです。私たちの人生は荒野かもしれません。しかし、それがどんな荒野であっても、最初の確信を終わりまでしっかりと保ちさえすれば、あなたもキリストにあずかる者となるのです。神の安息に入ることができるのです。だから、心をかたくなにして、御怒りを引き起こしたときのようになってはいけません。きょう、もし御声を聞くならば、そのことばを信じて、そのことばに従って歩み続けていきましょう。

申命記1章

 きょうから申命記の学びに入ります。まず1節から8節までをご覧ください。 

 Ⅰ.向きを変えて、出発せよ(1-8) 

「これは、モーセがヨルダンの向こうの地、パランと、トフェル、ラバン、ハツェロテ、ディ・ザハブとの間の、スフの前にあるアラバの荒野で、イスラエルのすべての民に告げたことばである。ホレブから、セイル山を経てカデシュ・バルネアに至るのには十一日かかる。第四十年の第十一月の一日にモーセは、主がイスラエル人のために彼に命じられたことを、ことごとく彼らに告げた。モーセが、ヘシュボンに住んでいたエモリ人の王シホン、およびアシュタロテに住んでいたバシャンの王オグをエデレイで打ち破って後のことである。」 

 「申命記」というタイトルは、日本語では「命令」を、「申した」、「記録」となっていますが、これは、これは中国の漢訳聖書から取られたものです。その意味は「繰り返して述べる」であります。ですから、これは神のことばが繰り返し、繰り返し、述べられている書であると言えます。この「申命記」という書名の元々の名前は、「エーレハデバリーム」と言います。ヘブル語です。直訳すると、「これはことばである」です。何のことばであるのかというと、もちろん、神のことばです。ですから、「これは神のことばである」というのが原語のタイトルなのです。ヘブル語をギリシャ語に訳した「七十人訳聖書」、「セプチュアギンタ」と言いますが、この七十人訳聖書では何というタイトルがつけられているかというと、「Deutonomion」です。実は英語の聖書では申命記を「Deuteronomy」と言いますが、これはこのギリシャ語訳からとられたものです。その意味は「第二の律法」です。第一の律法は何かというと創世記から申命記までの五つの書のことですが、そこで語られたことを繰り返して述べられています。ですから、申命記は第二の律法と言えるのです。なぜ繰り返して述べられているのでしょうか。それは、私たちは忘れやすいものだからです。創世記からずっと語られてきたことを振り返ることによって神がどのような方であるのか、イスラエルがどのように失敗したのかを学び、そこから教訓を学ぼうとしているのです。過去の歴史を学ぶということはそのような益を受けることができるのです。そして、それを今の自分の生活に適用することができます。ちなみに、イエスさはこの申命記から最も多く引用されました。いわば、これはイエスさまの愛読書であったと言っても過言ではありません。申命記はそれほど重要な書なのです。

 ホレブというのは十戒が与えられたシナイ山のことです。そこからカデシュ・バルネア、すなわち、約束の地に入るための入口となる町までの道のりはたった11日でした。それなのに彼らは、そこにやって来るまで40年もかかってしまいました。なぜでしょうか。信じなかったからです。エジプトを出て荒野に導かれてからの彼らの旅路は困難の連絡でしたが、主はそのたびに彼らをあわれみ、みわざを現わしてくださったのに、信じませんでした。そして、カデシュ・バルネアでの出来事を通して、約束の地に入れないということが決定的になってしまったのです。40年というのは一世代を指します。すなわち、エジプトを出た最初の世代のうち二十歳以上の者はだれも入ることができなかったのです。 

 この時モーセはどんな気持ちだったでしょうか。なぜあの時従うことができなかったのだろう、なぜあんなことをしてしまったのか、なぜこんなことも・・・と後悔していたことでしょう。私たちも天国を前にして、モーセと同じような心境になるかもしれません。あのときちゃんと信じていればよかった。あの時牧師が語っていることを額面通り信じて受け入れていればよかったと、後悔するようになるかもしれません。そういうことがないように、私たちはこのイスラエルの失敗から学ぶべきです。これまでのことは仕方ないにしても、後ろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進むべきです。これからの残された生涯を、それがどれだけあるかは別として、後悔しないように、神のみことばに従って生きていきたいと思うのです。 

 では次に5節から8節までをご覧ください。「ヨルダンの向こうの地、モアブの地で、モーセは、このみおしえを説明し始めて言った。私たちの神、主は、ホレブで私たちに告げて仰せられた。「あなたがたはこの山に長くとどまっていた。向きを変えて、出発せよ。そしてエモリ人の山地に行き、その近隣のすべての地、アラバ、山地、低地、ネゲブ、海辺、カナン人の地、レバノン、さらにあの大河ユ一フラテス川にまで行け。見よ。わたしはその地をあなたがたの手に渡している。行け。その地を所有せよ。これは、主があなたがたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓って、彼らとその後の子孫に与えると言われた地である。」 

 イスラエルは第一年の第三の月の第一日(出19:1-3)から第二年の第二の月の第二十日(民数記10:11)まで約1年間、ホレブの山にとどまっていました。そこで主はイスラエルに、「向きを変えて、出発せよ。」と命じられました。なぜなら、主はその広大な地を彼らの手に渡しているからです。だから、彼らは行って、その地を所有しなければなりませんでした。「渡している」という言葉はヘブル語では完了形になっています。これはアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、彼らとその子孫に与えると言われた時から、もう既にイスラエルのものとなっているものです。しかし、いくらそれがイスラエルのものであっても、彼らがそこにとどまっているのなら、それを所有することはできません。それを自分たちのものにするためには、そこに出て行って、実際にその地を所有しなければならなかったのです。向きを変えて、出発しなければなりません。向きを変えるとは、悔い改めるということです。方向転換をしなければなりません。不信仰だったこれまでの生き方を悔い改め、神が仰せになられることは何でもしますという方向に転換しなければなりません。そこには想像を絶するほどの祝福が待ち構えているからです。 

  Ⅱ.リーダーたちの任命(9-18) 

 次に9節から18節までをご覧ください。「私はあの時、あなたがたにこう言った。「私だけではあなたがたの重荷を負うことはできない。あなたがたの神、主が、あなたがたをふやされたので、見よ、あなたがたは、きょう、空の星のように多い。・・どうかあなたがたの父祖の神、主が、あなたがたを今の千倍にふやしてくださるように。そしてあなたがたに約束されたとおり、あなたがたを祝福してくださるように。・・私ひとりで、どうして、あなたがたのもめごとと重荷と争いを背負いきれよう。あなたがたは、部族ごとに、知恵があり、悟りがあり、経験のある人々を出しなさい。彼らを、あなたがたのかしらとして立てよう。すると、あなたがたは私に答えて、「あなたが、しようと言われることは良い。」と言った。そこで私は、あなたがたの部族のかしらで、知恵があり、経験のある者たちを取り、彼らをあなたがたの上に置き、かしらとした。千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長、また、あなたがたの部族のつかさである。またそのとき、私はあなたがたのさばきつかさたちに命じて言った。「あなたがたの身内の者たちの間の事をよく聞きなさい。ある人と身内の者たちとの間、また在留異国人との間を正しくさばきなさい。さばきをするとき、人をかたよって見てはならない。身分の低い人にも高い人にもみな、同じように聞かなければならない。人を恐れてはならない。さばきは神のものである。あなたがたにとってむずかしすぎる事は、私のところに持って来なさい。私がそれを聞こう。」私はまた、そのとき、あなたがたのなすべきすべてのことを命じた。」  「あの時」とは、どの時のことでしょうか。これは出エジプト記18章に記されてあるイテロが助言した時のことでしょう。エジプトを出てまだ二か月も経っていませんでしたが、モーセはひとりで大勢の民を治め、さばくことに疲れ果てていました。いったいどうやってその大勢のイスラエルの民を約束の地まで導くことができるでしょう。それでモーセはイスラエルの民に率直に言うのです。「私ひとりで、どうして、あなたがたのもめごとと重荷と争いを背負いきれよう。」モーセにとってイスラエルの民のもめごとは重荷でした。不従順な民はリーダーの重荷となるのです。牧師がその能力と賜物を発揮できないのは牧師の弱さにもありますが、実はこうした重荷が原因である場合が多いのです。一人一人が主に従っていれば、もめごとなんて起こりません。起こったとしても互いに赦し合い、愛し合って、解決できるはずです。それなのにもめごとになってしまうのは、主に従っていないからです。すべては主との関係で決まるのです。一人一人がしっかりと主につながり、主のみこころに歩んでいれば、そこには愛と一致が生まれ、麗しい調和、ハーモニーが奏でられるのです。そうすれば牧師の荷は軽くなり、その力をもっと発揮することができるようになるでしょう。それがないと指導者は疲れ果て、倒れてしまいます。結局、モーセも共倒れになってしまいました。モーセほど偉大な指導者はいないと思いますが、そのモーセでも300万人もの人たちをさばくことはできなかったのです。そうしたもめごとで完全に足が引っ張られたのです。 

 それで、部族ごとに、知恵があり、悟りがあり、経験のある人々を出すようにと言いました。すると、彼らは、「あなたが、しようと言われることは良い。」と言ったので、モーセは、彼らの部族のかしらで、知恵があり、経験のある者たちを取り、彼らの上に置きました。その結果、モーセは荷を軽くして、前進していくことができたのです。 

 これは教会においても言えることです。教会も牧師一人ではすべての重荷を負うことはできません。そんなことをしたら倒れてしまいます。どんなに能力があっても、どんなに若くてエネルギーがあっても、それは不可能なことなのです。最初のうちはできるかもしれませんが、10人、20人と人数が増えてくるに従い、一人ではできなくなるのです。だから、リーダーが立てられ、重荷を負い合って、それぞれの荷を軽くしなければならないのです。

 また、出エジプト記18章19-20節には、こうあります。「あなたは民に代わって神の前にいて、事件を神のところに持って行きなさい。あなたは彼らにおきてとおしえとを与えて、彼らの歩むべき道と、なすべきわざを彼らに知らせなさい。」(出18:19-20)

 いったいなぜ、かしらが立てられなければならなかったのでしょうか。それはモーセが民に代わって神の前にいるためです。神の前にいて、神から彼らが歩むべき道を聞き、それを民に示すためです。これが、モーセのしなければならなかった最優先のことだったのです。それなのに、もし彼がさまざまな重荷で疲れ果ててしまったら、彼が本来しなければならないことができなくなってしまいます。それはイスラエル全体にとっても大きな損失です。なぜなら、それこそ彼らが前進していくために最も重要なことだったからです。このように指導者が神の前に出て神からのおきてを授かり、神とじっくりと交わるためには、指導者の荷を軽くしなければならなかったのです。 

 ところで、ここではどのような人がリーダーが立てられているでしょうか。ここには、「知恵があり、悟りがあり、経験のある人々を出しなさい。」とあります。どういう意味でしょうか。リーダーは人々の中から出されなければならないということです。日曜日だけ礼拝に来ていればいいのかというとそうではありません。リーダーはいつも人々の中にいる人でなければならないのです。人々とともに考え、分かち合い、祈り、行動を共にしてこそ、その痛みを理解することができるからです。主イエスは「わたしは良い羊飼いです。」と言われましたが、まさにリーダーは小羊飼いです。羊とともにいて、彼らの世話をすることが求められています。だから、その中から選ばれなければならなかったのです。 

 Ⅲ.イスラエルの不信仰の結果(19-46)  

 そして、次にモーセはカデシュ・バルネアでの出来事について語ります。19節から40節までをご覧ください。まず19節から26節までをお読みします。「私たちの神、主が、私たちに命じられたとおりに、私たちはホレブを旅立ち、あなたがたが見た、あの大きな恐ろしい荒野を、エモリ人の山地への道をとって進み、カデシュ・バルネアまで来た。そのとき、私はあなたがたに言った。「あなたがたは、私たちの神、主が私たちに与えようとされるエモリ人の山地に来た。見よ。あなたの神、主は、この地をあなたの手に渡されている。上れ。占領せよ。あなたの父祖の神、主があなたに告げられたとおりに。恐れてはならない。おののいてはならない。」すると、あなたがた全部が、私に近寄って来て、「私たちより先に人を遣わし、私たちのために、その地を探らせよう。私たちの上って行く道や、はいって行く町々について、報告を持ち帰らせよう。」と言った。私にとってこのことは良いと思われたので、私は各部族からひとりずつ、十二人をあなたがたの中から取った。彼らは山地に向かって登って行き、エシュコルの谷まで行き、そこを探り、また、その地のくだものを手に入れ、私たちのもとに持って下って来た。そして報告をもたらし、「私たちの神、主が、私たちに与えようとしておられる地は良い地です。」と言った。」

 これは、イスラエルがカデシュ・バルネアでの出来事です。これは荒野を行くイスラエルにとって最大、かつ最悪な出来事でした。なぜなら、このことによってイスラエルの民は荒野で死に絶えてしまうことになるからです。その出来事というのは、これから占領しようとしていた土地へ偵察隊を遣わしその地がどのような所であるかを探らせようというものでした。それで各部族から一人ずつ12人を選び出し遣わしたのです。 

 ところで、ここにはこのことがどのようにして行われたのかが記録されています。主は「上れ。占領せよ。あなたの父祖の神、主があなたに告げられたとおりに。恐れてはならない。おののいてはならない。」と命じられたのに、イスラエルの民はモーセのところにやって来て、その地に人を遣わして、その地を探らせようと言ったのです。すなわち、これは主から出たことではなく、イスラエルの民たちから出たことだったのです。なぜ彼らはこのようなことを言ったのでしようか。不安があったからです。恐れがあったからです。自分たちがこれから入っていく地がどういうところかわからないのに行って滅ぼされてしまったら大変なので、そういうことがないように、事前に調べさせようというのです。

 これは人間的にみたら一見慎重で、賢い態度のように見えるかもしれませんが、これが間違っていたことは明白です。なぜなら、しゅは「上れ。占領せよ。」と命じておられたからです。ですから、彼らがそのように言ったのは、それは彼らが主が語られたことを信じることができなかったから、すなわち、彼らが不信仰だったからなのです。 

 このようなことは、私たちの中にもあるのではないでしょうか。物事を慎重に考えることは大切なことです。しかし、それよりも大切なことは、主が何と言っておられるのかを知り、それに従うことです。そうでないなら、それは慎重なのではなく、不信仰以外の何ものでもないからです。 

 さて、偵察に行った人たちは帰って来てどんな報告をしたでしょうか。26節から33節までをご覧ください。「しかし、あなたがたは登って行こうとせず、あなたがたの神、主の命令に逆らった。彼らは主の命令に逆らいました。そしてあなたがたの天幕の中でつぶやいて言った。「主は私たちを憎んでおられるので、私たちをエジプトの地から連れ出してエモリ人の手に渡し、私たちを根絶やしにしようとしておられる。私たちはどこへ上って行くのか。私たちの身内の者たちは、『その民は私たちよりも大きくて背が高い。町々は大きく城壁は高く天にそびえている。しかも、そこでアナク人を見た。』と言って、私たちの心をくじいた。」それで、私はあなたがたに言った。「おののいてはならない。彼らを恐れてはならない。あなたがたに先立って行かれるあなたがたの神、主が、エジプトにおいて、あなたがたの目の前で、あなたがたのためにしてくださったそのとおりに、あなたがたのために戦われるのだ。また、荒野では、あなたがたがこの所に来るまでの、全道中、人がその子を抱くように、あなたの神、主が、あなたを抱かれたのを見ているのだ。このようなことによってもまだ、あなたがたはあなたがたの神、主を信じていない。」主は、あなたがたが宿営する場所を捜すために、道中あなたがたの先に立って行かれ、夜は火のうち、昼は雲のうちにあって、あなたがたの進んで行く道を示されるのだ。」 

 12人のうちヨシュアとカレ部以外の10人たちは、否定的な報告をしました。確かにその地は乳と蜜の流れるすばらしい地だが、上って行くことはできない。そこにはエモリ人やアナク人といった大男がいるので、入って行こうものなら根絶やしにされてしまう。と言ったのです。その報告を聞いたイスラエルの民はどうなったでしょうか。彼らは大声をあげて叫び、民は、その夜、泣き明かしました(民数記14:1)。彼らは自分たちが見た通りのことを語ったのは良かったのですが、それがどういうことなのかを正しく理解していませんでした。それで、間違った結論を出してしまいました。モーセはそのことを28節で、「私たちの心をくじいた」と言っています。そのような否定的な報告は、それを聞いたイスラエルの人々の心をくじくのです。それがつぶやきの一番おそろしいことです。あなたが不平不満を言い、あなたが恐れていると、回りの人をくじけさせます。あなたの不平不満があなただけでとどまっているのではなく、他の人にも伝染するのです。よく、自分の弱さはさらけだすべきだということを聞くことがありますが、それは間違っています。自分の弱さをさらけ出せばいいというのではなく、そこに働いておられる主の力を信じて、主の恵みを証しなければなりません。パウロはエペソ4章29節で、「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを離し、聞く人に恵みを与えなさい。」と言っています。悪いことばとは不信仰のことばです。そのようなことばは人の心をくじきますが、良いことば、信仰から出たことばは人の徳を養います。そのようなことばを語らなければならないのです。

 

そのようなイスラエルの不信仰の結果、どのような結果がもたらされたでしょうか。34節から40節までをご覧ください。「主は、あなたがたの不平を言う声を聞いて怒り、誓って言われた。「この悪い世代のこれらの者のうちには、わたしが、あなたがたの先祖たちに与えると誓ったあの良い地を見る者は、ひとりもいない。ただエフネの子カレブだけがそれを見ることができる。彼が踏んだ地を、わたしは彼とその子孫に与えよう。彼は主に従い通したからだ。」主はあなたがたのために、この私に対しても怒って言われた。「あなたも、そこに、はいれない。あなたに仕えているヌンの子ヨシュアが、そこに、はいるのだ。彼を力づけよ。彼がそこをイスラエルに受け継がせるからだ。あなたがたが、略奪されるだろうと言ったあなたがたの幼子たち、今はまだ善悪のわきまえのないあなたがたの子どもたちが、そこに、はいる。わたしは彼らにそこを与えよう。彼らはそれを所有するようになる。あなたがたは向きを変え、葦の海への道を荒野に向かって旅立て。」 

 主はイスラエルの不平を聞いて怒られ、ヨシュアとカレブ以外、モーセを始めとして、「この悪い時代のこれらの物のうちには、わたしが、あなたがたの先祖たちに与えると誓ったあの良い地を見る者はひとりもいない」(35節)と断言されたのです。主はこれまでもずっと反逆してきたイスラエルを赦してこられましたが、このことが決定的な原因となって、イスラエルの第一世代の人たちは、主が与えると言われた約束の地に入ることができませんでした。 

「すると、あなたがたは私に答えて言った。「私たちは主に向かって罪を犯した。私たちの神、主が命じられたとおりに、私たちは上って行って、戦おう。」そして、おのおの武具を身に帯びて、向こう見ずに山地に登って行こうとした。たしかに主は命じられました。しかし、語られたときに彼らは聞き従いませんでした。それで主は私に言われた。「彼らに言え。『上ってはならない。戦ってはならない。わたしがあなたがたのうちにはいないからだ。あなたがたは敵に打ち負かされてはならない。』」私が、あなたがたにこう告げたのに、あなたがたは聞き従わず、主の命令に逆らい、不遜にも山地に登って行った。すると、その山地に住んでいたエモリ人が出て来て、あなたがたを迎え撃ち、蜂が追うようにあなたがたを追いかけ、あなたがたをセイルのホルマにまで追い散らした。あなたがたは帰って来て、主の前で泣いたが、主はあなたがたの声を聞き入れず、あなたがたに耳を傾けられなかった。こうしてあなたがたは、あなたがたがとどまった期間だけの長い間カデシュにとどまった。」(41-46)

 すると彼らはどのような態度を取ったでしょうか。彼らは主に対して罪を犯したと言って、主が命じられたことを行おうと、上って行こうとしました。しかし、それが信仰から出たことではなかったことは明らかです。なぜなら、その後で主は「上ってはならない。」と命じているのに、それでも上ろうとしたからです。彼らの行動はあくまでも自分たちの思いに基づいたものだったのです。こういうのを何というのでしょうか。あまのじゃくとか、すれ違いとでもいうでしょうか。「上って行け」と言われると「いやです」と答え、「上って行くな」と言われると、「いや、上っていく」というのです。不信仰な人はいつもこのような行動をします。 

 その結果はどうだったでしょうか。彼らは出てきたエモリ人たちの迎え撃ちに会い、セイル山まで追い散らされてしまいました。それは悲惨なものでした。そして、みことばに従わず、自分勝手なことをしておきながら、失敗して嘆き訴えても、主は聞いてくださいませんでした。彼らに求められていたことは自分の罪を悔い改めて、ただ神のみこころに従うことだったのです。自己中心的に解決しようとするのではなく、神のみこころに歩むこと、それが求められていたのです。今からでも遅くはありません。私たちもこのイスラエルと同じような失敗を繰り返す者ですが、このところから学び、同じ失敗を繰り返さないように、すなわち、自分自身がどうであれ、主のみこころは何かを悟り、それに従う者でなければなりません。聞いたみことばを信仰によって心に結び付けていきたいと思います。これが繰り返して神が語っておられることなのです。

民数記36章

きょうは民数記36章から学びます。まず1節から4節までをご覧ください。 

Ⅰ.ヨセフ族の訴え(1-4) 

「ヨセフ族の一つ、マナセの子マキルの子ギルアデの氏族に属する諸家族のかしらたちが進み出て、モーセとイスラエル人の諸家族のかしらである家長たちに訴えて、言った。「主は、あの土地をくじによってイスラエル人に相続地として与えるように、あなたに命じられました。そしてまた、私たちの親類ツェロフハデの相続地を、彼の娘たちに与えるように、あなたは主に命じられています。もし彼女たちが、イスラエル人の他の部族の息子たちにとついだなら、彼女たちの相続地は、私たちの父祖の相続地から差し引かれて、彼女たちがとつぐ部族の相続地に加えられましょう。こうして私たちの相続の地所は減ることになります。イスラエル人のヨベルの年になれば、彼女たちの相続地は、彼女たちのとつぐ部族の相続地に加えられ、彼女たちの相続地は、私たちの父祖の部族の相続地から差し引かれることになります。」

ここには、マナセ族の一つの氏族のかしらたちが進み出て、モーセとイスラエル人の諸家族のかしらである家長たちに何やら訴えたことが記されています。その訴えの内容は、マナセ族のツェロフハデの相続地に関することです。彼らが他の部族の人と結婚してとついで行ったなら、その土地はその部族の土地に加えられるため、自分たちの相続地が減ることになるのではないか、というものです。 

思い出せるでしょうか、27章1節から11節までのところには、ヨセフ族のツェロフハデには男の子がなく5人の娘たちばかりだったので、この5人の娘たちが、自分たちに父の相続地が与えられないのはおかしいと、モーセに訴えたのでした。それでモーセがこれを主の前に出して祈ったところ、主はその訴えはもっともであると言われ、彼女たちにも父の相続地を渡すように仰せになられました。

しかし、ここでまた新たな問題が生じました。そのように彼女たちが父の相続地を受けるのは構わないけれども、もし彼女たちが別の部族の人と結婚するようなことがあれば、その土地はその部族の相続地に加えられることになり、自分たちの相続地が減ってしまうのではないかということです。そこでマナセ族のかしらたちがやって来て、モーセに訴えたのです。 

Ⅱ.主のみこころ(5-9)

そのことに対する主の答えはどのようなものだったでしょうか。5節から9節までをご覧ください。

「そこでモーセは、主の命により、イスラエル人に命じて言った。「ヨセフ部族の訴えはもっともである。主がツェロフハデの娘たちについて命じて仰せられたことは次のとおりである。『彼女たちは、その心にかなう人にとついでよい。ただし、彼女たちの父の部族に属する氏族にとつがなければならない。イスラエル人の相続地は、一つの部族から他の部族に移してはならない。イスラエル人は、おのおのその父祖の部族の相続地を堅く守らなければならないからである。イスラエル人の部族のうち、相続地を受け継ぐ娘はみな、その父の部族に属する氏族のひとりにとつがなければならない。イスラエル人が、おのおのその父祖の相続地を受け継ぐためである。こうして相続地は、一つの部族から他の部族に移してはならない。イスラエル人の部族は、おのおのその相続地を堅く守らなければならないからである。』」  主は、このヨセフ部族の訴えはもっともであると言われ、彼女たちは父の部族に属する氏族、すなわち、ヨセフ族の人たちのところにとつがなければならない、と言われました。なぜでしょうか。イスラエル人は、おのおの父祖の部族の相続地を堅く守らなければならないからです。神から与えられた相続地は、他の部族へ移してはなりませんでした。イスラエルの各部族は、おのおのその相続地を堅く守らなければならなかったのです。 

いったいなぜ神はこのように命じられたのでしょうか。いったいなぜこのことが民数記の最後のところに記されてあるのでしょうか。このことは私たちクリスチャンにどんなことを教えているのでしょうか。それは、私たちクリスチャンに与えられた相続地も変わらないということです。それは不変であり、不動のものなのです。私たちの行いにかかわらず、神が私たちに与えてくださった相続地はいつまでも変わることがないのです。 

ペテロはこう言いました。「また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。」(Ⅰペテロ1:4) 

私たちに与えられている相続地は、朽ちることも汚れることも、消えていくこともないものです。それが天にたくわえられているのです。そして、やがてそのような資産を受け継ぐようになると思うとき、たとえ今、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければならないようなことがあったとしても、喜びを持つことができます。たましいの救い、永遠のいのちを得ているからです。これはすばらしい約束ではないでしょうか。 

 また、ここには、「イスラエル人は、おのおのその相続地を堅く守らなければならないからである。」ということが強調されています。ということは、私たちが守らなければならない相続地があるということです。私たちには神からすばらしい相続地が与えられていながら、いろいろなことでそれを失ってしまうことがあります。その一つが試練でありましょう。私たちはこの地上にあってさまざまに試練にあうたびに信仰が試されることがありますが、どのようなことがあっても、神から与えられた相続地を堅く守っていかなければならないのです。 

Ⅲ.ツァロフハデの娘たちの応答(10-13) 

 さて、このように語られた主のことばに対して、ツァロフハデの娘たちはどのように応答したでしょうか。10節から13節までをご覧ください。

「ツェロフハデの娘たちは、主がモーセに命じられたとおりに行なった。ツェロフハデの娘たち、マフラ、ティルツァ、ホグラ、ミルカおよびノアは、そのおじの息子たちにとついだ。彼女たちは、ヨセフの子マナセの子孫の氏族にとついだので、彼女たちの相続地は、彼女たちの父の氏族の部族に残った。」 

ツァロフハデの五人の娘たちは、主がモーセに命じられたとおりに行い、そのおじの息子たち、すなわち、従兄弟のところにとつぎました。彼女たちがそのようにしたので、彼女たちの相続地は、彼女たちの父の氏族の部族に残ったのです。 

「これらは、エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原で、主がモーセを通してイスラエル人に命じた命令と定めである。」 

 これらが、エリコに近いモアブの草原で、主がモーセを通してイスラエル人に命じたことでした。特にこの民数記の26章からは、イスラエルが約束の地に入ってからどうあるべきなのかについて語られましたが、それは私たちの信仰生活そのものでもあります。私たちは神の恵みにより、イエス・キリストを信じる信仰によって救いの中に入れられました。神の相続地に入れさせていただきました。そこでは堅く守らなければならないものがたくさんあることに気付かされます。神の相続を受けたからもう大丈夫だというのではなく、神の相続地を受けたからこそそれを堅く守り、神のみことばに従順に聞き従う者でなければなりません。それが神の恵みによって救われた者としてのふさわしい応答なのです。

ヘブル3章1~6節 「モーセよりもすぐれたキリスト」

 きょうは、「モーセよりもすぐれたキリスト」というタイトルでお話します。この手紙はユダヤ人クリスチャンに宛てて書かれた手紙です。彼らはイエス・キリストを救い主として信じましたが、度重なる激しい迫害に耐えかねてかつての古い教えに戻ろうとしていたので、イエス・キリストが旧約聖書に出てくるどのような人よりも、どのようなものよりもすぐれた方であるということ証明し、励まそうとしたのです。そのためこの手紙の著者は、イエス・キリストをいろいろなものと比較しています。 

 まず1章では預言者たちと比較しました。神は、昔、預言者たちを通して、多くの部分に分け、いろいろな方法によって語られましたが、終わりの時には、御子によって語られました。神は御子によってご自分のすべてのものを現してくださったのです。神の御子イエスをみれば、神がどのような方であるかがわかります。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであって、そうした預言者たちとは全く比較にならない偉大な方なのです。 

 それから、1章後半から2章にかけては、御使いたちと比較しました。なぜなら、御使いはユダヤ人にとって特別な存在だったからです。けれども神は御使いに対して「わたしの子」と呼んだことは一度もありませんでした。ただ御子に対してだけをそのように呼ばれたのです。御使いは被造物であって、神に仕える者でしたが、御子は万物の創造者であられ、仕えられる方です。御使いは神の前にひれ伏し、伏し拝む者、すなわち、礼拝をささげる者ですが、御子は礼拝を受けられる方です。だからイエス・キリストは御使いよりもはるかにすぐれた方なのです。 

 そしてきょうのところではモーセと比較されています。なぜモーセなのでしょうか。モーセは偉大な預言者であり、ユダヤ人が最も尊敬していた人物だったからです。律法はこのモーセを通して与えられました。この偉大なモーセと比較して、イエスがどれほどすぐれた方であるのかを証明しているのです。 

 Ⅰ.イエスのことを考えなさい(1) 

 まず1節をご覧ください。

「そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。」

 「そういうわけですから」とは、これまで語られてきたことを受けてということです。特に2章9節以降のところには、キリストはなぜ人となって来られたのかについて語られてきました。それはすべての人のためでした。神はすべての人を救うためにご自分の御子をこの世に遣わし、十字架におかけになって、罪の贖いを成し遂げてくださいました。すべての人はこの罪のために死ななければなりませんでした。一生涯死の恐怖につながれていたのです。そんな死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放するためにキリストは来られ、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼしてくださいました。そればかりでなく三日目によみがえられました。それゆえに、この方を信じる者はこの方が死からよみがえられたように、やがて死からよみがえるのです。もはや死は何の力もありません。それは栄光の御国への入り口になりました。こんなにすばらしい救いがあるでしょうか。私たちはこの神の御子イエス・キリストを救い主と信じたことによって、この救いを受ける者となったのです。ハレルヤ!「そういうわけですから」です。 

「そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。」 

 人は何を考えるかによってその生活が決まります。ビジネスのことばかり考えている人は、いつもビジネスのことばかり口にします。どうしたら仕事がうまくいくか、どうしたらもっと利益をあげることができるかといったことを語り、そのための情報を集めるためにアンテナを高くあげて、あちらこちらに奔走するのです。だからあまり落ち着きがありません。恋愛に関心のある人はいつも恋愛のことばかり考えています。寝ても覚めても彼氏や彼女のことばかりです。健康に関心のある人は、健康のことばかり考えています。何を食べればダイエットに効果があるか、どうしたら腸の動きを活発にすることができるか、そういったことに敏感に反応するのです。ではクリスチャンは何を考えるのでしょうか?クリスチャンが考えるのはイエス・キリストのことです。なぜなら、クリスチャンは天の召しにあずかっている者だからです。これはどういうことかというと、天国に行くように召された者であるからということです。皆さん、クリスチャンは天国に行くように召された者なのです。だから天国のことを考えるのです。 

 これまではそんなこと考えたことがありませんでした。天国に行くのはずっと先のことだし、天国のことを考えるよりも、今をどう生きるかということを考えることの方がよっぽど大切だと思っていました。だからいつもこの地上のことばかり考えながら生きてきたのです。今をどう生きるかが最大の関心事だったのです。だから教会に誘われても、「そんなこと考えている暇なんてないよ。毎日忙しくて」と、目の前のことばかりに追われていたのです。どうしたら豊かになれるのか、どうしたら成功することができるのかということで一杯だったわけです。 

 しかし、イエスを信じた今は違います。確かにこの地上のことも大切です。でもイエスを信じてからは、それは一時的なものだということがわかりました。この地上では旅人であり、寄留者にすぎないことがわかったのです。それは永遠に続くものではありません。永遠に続くものは何でしょうか。いつまでも続くものは、信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。ですから、いつまでも神の愛とその御国です。私たちはやがてそこに帰るのです。だから私たちはこれを目標に、天の召しにあずかっている聖なる者、神の者として、神の栄光が現されるように生きるのです。 

 ですから、クリスチャンが求めなければならないことは、その信仰の中心であるイエスのことを深く心に留めることなのです。なぜあなたに喜びがないのでしょうか。自分のことにこだわっているからです。自分の思いに執着して、なかなかそれを手放すことができないでいるからです。あなたの目を神に向け、あなたのすべてを神にゆだねてください。そうすれば、自分自身から解放されて、キリストにある平安を持つことができます。それは聖書にこう書いてあるからです。 

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6~7) 

 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもって祈りと願いをもって、あなたがたの願い事を神に知っていただけばいいのです。自分を見るのではなくイエスを見なければなりません。イエスのことを考えるなら、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたの心と思いをキリスト・イエスにあって守っていただけるのです。なぜなら、イエスはあなたの告白する信仰の使徒であり、大祭司であられる方だからです。どういうことでしょうか? 

 「使徒」とは「遣わされた者」という意味です。イエスは父なる神によって遣わされた者でした。何のために遣わされたのかというと、父なる神のみこころを伝え、そのみわざを行い、私たちを罪から救うためです。「大祭司」とは逆に、人々の代表として神にとりなしをする人のことです。仲介者ですね。イエスは私たちの罪の身代わりとして十字架にかかって死なれ、墓に葬られ、最も深い所である「よみ」という所へ下られました。しかし三日目によみがえられて、神の御住まいである天に昇られて、神の右の座に着座されました。私たちの罪の贖いは完全に成し遂げられました。だから私たちはこの方に全く信頼し、すべてをゆだねることができるのです。私たちが見つめなければならないのはこのイエスです。イエスのことを考えなければならないのです。 

あなたは何を考えているでしょうか。仕事のことや学校のこと、家庭のこと、将来のこと、健康のことで頭が一杯になってはいないでしょうか。どうぞ、イエスのことを考えてください。 

Ⅱ.すべてのものを造られた神(2-4) 

 次に2節から4節までをご覧ください。ここには、そのイエスはどのような方なのかが語られています。

「モーセが神の家全体のために忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実なのです。家よりも、家を建てる者が大きな栄誉を持つのと同様に、イエスはモーセよりも大きな栄光を受けるのにふさわしいとされました。家はそれぞれ、だれかが建てるのですが、すべてのものを造られた方は、神です。」

 

 ここでこの手紙の著者は、イエスがどれほど偉大な方であるかを証明するためにモーセと比較しています。なぜモーセなのでしょうか。それは先ほども述べたように、ユダヤ人にとってモーセほど偉大な人物はいなかったからです。祈祷会では民数記を学んできましたが、今週でその学びが終わります。それは神がモーセを立て、神の民であるイスラエルを約束の地まで導き入れるようにされた歴史です。彼の働きによって、旧約聖書の最初の五つの書が書き記されました。だから旧約聖書の最初の五つの書を「モーセ五書」と言うのです。彼はイスラエルのすべての土台を据えた人でした。したがって、モーセは旧約の預言者の中でも最も偉大な預言者であり、この地上には、彼ほど偉大な預言者はいませんでした。 

 そしてこのモーセの特徴は何かというと、神の家であるイスラエル全体のために忠実に仕えたということです。彼がすぐれていたのは何か目ざましいことを行なったからではなく、いつでも、どこでも忠実に、神が命じられたとおりのことを行ったということなのです。皆さん、忠実であるとはどういうことでしょうか。忠実であるとは、主が命じられたことを、そのとおりに行うことです。モーセはそのような人でした。 

 それに対してイエスはどうだったでしょうか。イエスも同様に、ご自分を立てた方に対して忠実でした。モーセ同様に、イエスも父なる神に対して忠実だったのです。イエスは、いつでも、どこでも、父なる神がお語りになった通りのことを語り、そのとおりに行われました。父から離れて勝手に行動したことは一度もありませんでした。ヨハネ6章38節にはこうあります。 

「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。」

イエスが来たのは自分の思いを行うためではなく、自分を遣わした方、すなわち、天の父なる神のみこころを行うためでした。そして、イエスはそれを完全に行われました。ですからモーセが神の家全体のために忠実であったように、イエスもご自分を立てた父なる神に対して忠実だったのです。 

では、イエスとモーセは同じレベルの人物であったということなのでしょうか。違います。イエスもモーセも神に対して忠実であったという点では同じですが、根本的に違う点があります。それが3節と4節に書かれてあります。

「家よりも、家を建てる者が大きな栄誉を持つのと同様に、イエスはモーセよりも大きな栄光を受けるのにふさわしいとされました。家はそれぞれ、だれかが建てるのですが、すべてのものを造られた方は、神です。」 

 どういうことでしょうか。皆さん、家とその家を建てる者ではどちらが偉いのでしょうか。何億円もするような豪華な家を見ると、「すごい家だなぁ」と感動しますが、実はすごいのは、その家そのものよりもその家を建てた人なのです。 

 この夏アメリカに行ったとき、カリフォルニア州サンシメオンという街にあるハースト・キャッスルと呼ばれる豪邸を見に行きまた。これは1900年代前半に新聞産業で財を成したウィリアム・ランドルフ・ハーストという人が作った自分の家で、現在はカリフォルニア州の州立公園として管理されていますが、8,400㎡という広大な敷地に6,000㎡のお城と、3つのゲストハウス、それに屋外プール、屋内プール、遊技場、エアポートまでついているという豪華な家です。きょうはこの後でさくらチャペルの起工式がありますが、その土地は124㎡ですので、67倍もある大きな敷地です。それは敷地だけの面積で、実際に彼が所有していた土地はものすごい広さで、おそらく栃木県全部の面積に匹敵するほどの広さです。もっとすごいのは、その豪華絢爛な建物です。ダイニングルームやプライベートシアター、巨大なライブラリーやハースト夫妻の寝室など、建物の細かい彫刻や壁画、絵画、デコレーションなど120の部屋があり、そのすべてが贅沢でため息が出るほどです。それは山の上に建てられていて、そこから海が一望できるすばらしいロケーションになっています。しかし、それがどれほど豪華なお城であっても、もっとすごいのはその家を建てた人なのです。 

 ある中学生が友達を誘って教会に来ました。「何で来たの」と尋ねると、友達と偶像の話になり、「何で木や石で造ったものを拝むのか」という話になったそうです。「木や石で作ったというのは、作った人の方が偉いということじゃないの?それなのに、どうして作った人が作られた物を拝むのか、おかしいじゃないか」という話になり、「ホントだ。おかしい。」「何かおもしろい」「何だか感動した」「ぼくも教会に行ってみたい」と言って、教会に来たというのです。 

 皆さん、よく考えてみてください。どっちが偉いんですか。造った人ですか、造られた物ですか。もちろん、造った人です。モーセは神の民であるイスラエル全体のために忠実に仕え、彼らを約束の地へと導きましたが、その神の家であるイスラエルを造られたのはだれでしょうか。イエスさまです。イエスは創造主であられるのに対して、モーセは被造物の一つにすぎません。すべてを造られたのは神です。この神の方がはるかに偉大なのであって、その神こそ万物の創造者であられるイエス・キリストなのです。ですから、イエスはモーセとは比較にならないほど偉大な方なのです。 

 Ⅲ.神の御子イエス・キリスト(5-6) 

 なぜイエスはモーセよりも偉大な方であると言えるのでしょうか。もう一つの理由は、モーセは神のしもべであったのに対して、イエスは神の御子であられるからです。5,6節をご覧ください。

「モーセは、しもべとして神の家全体のために忠実でした。それは、後に語られる事をあかしするためでした。しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。」 

 ここではモーセとイエスのどちらが偉いのかということを、立場の違いをもって説明しています。すなわちモーセはしもべと呼ばれているのに対して、イエスは御子と呼ばれているということです。モーセは神のしもべとして神の家のために忠実に仕えましたが、イエスは神の御子として神の家を忠実に治めておられる方なのです。立場が全然違います。しもべは主人に仕える者ですが、御子はその家の所有者、オーナーなのです。イエスは神の御子として、神の家を治められる方なのです。モーセは後に語られる事をあかしするために立てられました。それは天にある神の幕屋のことですが、その天の幕屋を治めておられるのがイエスなのです。イエスこそモーセが指し示していた神の幕屋の実態であり、目的であられる方だったのです。それゆえ、イエスがどれほど偉大な方であるかがわかると思います。 

 ですから、結論は何かというと、6節後半のみことばです。ご一緒に読みましょう。「もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。」 どういうことですか?イエスはこのような方なので、最後までこの方に確信と希望を持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。すなわち、そこに神のいのち、救いがあるということです。 

 パピニというイタリアの詩人が、こんな言葉を書いています。「人間の生活に絶対必要なものが三つある。食物と健康と、それに希望である。」確かに、その通りだと思います。でも、今の世の中で、いったいどこに希望を見つけることができるのでしょうか。どこにも見つけることができません。しかし、イエス・キリストを信じる人には、すばらしい希望が与えられるのです。イエスはこう言われました。「わたしは、よみかえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)死んでも生きるいのちがある。これこそ真の希望ではないでしょうか。この希望はキリストを信じる者に与えられるのです。 

 先週はウイリアム・ウッド先生が来会してメッセージを語ってくださいましたが、そのウッド先生が書かれた著書「あなたを元気にする100のミニ・メッセージ」がカウンターにあります。その本の中にベレッタ・クラムリーというアメリカ人女性の体験談が紹介されています。彼女は旧約聖書のヨブを思わせる壮絶な試練を経験しました。長男のダニエルは、二歳の時に、白血病で亡くなりました。初めは、「どうしてですか」と神に抗議の祈りをしましたが、その大きな苦しみの中で、人間にとって最も大切なことは、「わたしはよみがえりであり、命です。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」と言われたお方を知ることだと、確信させられました。                                                                            そしてその二年後に、今度は夫のヘンリーが癌だと分かりました。その時には二男のリヨンに続いて、長女のローリーが生まれていました。夫のヘンリーは海外宣教に使命を感じていたので、彼は、残りの日々を、海外宣教のために使おうと、決意しました。病気を押して夫婦は南米、ギリシャ、インド、日本、韓国、台湾へと宣教の旅に出ました。帰国して一週間後、夫のヘンリーは天に召されました。葬儀の午後のことを、ベレッタさんは、こう語っています。「突然、私の心に夫の幻が現れ、彼のよみがえった体は勝利を得て、もう二度と苦しまず、早く主のもとに急いで昇って行きたいように見えました。両腕を伸ばしたイエス様がヘンリーに呼び掛けて「良い忠実なしもべだ。よくやった」と言ってくださると確信しました。                                        三度目の試練は、突然でした。17歳になった二男リヨンと妹のローリーが乗っていた車が事故に遭ったのです。二人の死を告げる警察官の言葉にベレッタさんは、「突然高い崖から荒れている海に突き落とされたかのような気がしました」と言いました。しかし次の瞬間、聖霊に強く包まれ、優しく、平安な、天の父なる神の温かい臨在を感じたと言います。そして警察官に向かって、落ち着いた声でこう言いました。「うちの子供は天国の神様のところに行きましたのね。」ベレッタさんはその後、宣教師として台湾で奉仕し、多くの人々をキリストに導いておられるそうです。夫と長男を病気で失い、二男と長女を交通事故で失うという失意の中でも、彼女は死んでも生きるいのち、永遠のいのちの約束をしっかりと握りしめ、その希望を持って歩み続けておられるのです。

 皆さん、私たちの人生には実に多くのことが起こります。しかし、それがどのようなものであっても、キリストにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。なぜなら、キリストは神の御子であられ、すべてのものを創造された方であり、またそれを支配しておられる方だからです。また、キリストは死んで、よみがえられました。あなたのために救いのみわざを完全に成し遂げてくださいました。ですから、あなたが最後まで確信と希望を持ち続けるなら、あなたは神の家になるのです。 

「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。・・しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべての中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さ、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ローマ8章35~38節) 

 このイエスに終わりまでしっかりととどまりましょう。いつもイエスのことを考えましょう。イエスがあなたの希望です。イエスはモーセよりもはるかにすぐれたお方なのです。

民数記35章

きょうは民数記35章から学びます。

Ⅰ.レビ人の相続地(1-8)

「エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原で、主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に命じて、その所有となる相続地の一部を、レビ人に住むための町々として与えさせなさい。彼らはその町々の回りの放牧地をレビ人に与えなければならない。町々は彼らが住むためであり、その放牧地は彼らの家畜や群れや、すべての獣のためである。あなたがたがレビ人に与える町々の放牧地は、町の城壁から外側に、回り一千キュビトでなければならない。町の外側に、町を真中として東側に二千キュビト、南側に二千キュビト、西側に二千キュビト、北側に二千キュビトを測れ。これが彼らの町々の放牧地である。主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に命じて、彼らに言え。あなたがたがカナンの地にはいるとき、あなたがたの相続地となる国、カナンの地の境界は次のとおりである。」

まず1節から5節までをご覧ください。ここにはレビ人が受ける相続地について記されてあります。イスラエルの12部族には相続地が割り当てられましたが、レビ人にはありませんでした。それは18章20節に、主ご自身が彼らの相続地であるとあるからです。それで主はモーセを通して、レビ人が住むための町々、また、彼らの家畜の群れや、すべての獣のための放牧地つきの48の町を、イスラエルの所有地のうちからレビ人に与えるようにと命じられました。

彼らに与えられる町と放牧地は、町の城壁から外側に、回り一千キュビトです。1キュビトは約44センチなので、千キュビトは約450メートルになります。5節がどのような意味がよくわかりませんが、これが4節の言い換えと考えれば、以下のように、町自体の城壁の幅+その外側に一千キュビトということになります。               

次に6節から8節までをご覧ください。

「あなたがたが、レビ人に与える町々、すなわち、人を殺した者がそこにのがれるために与える六つの、のがれの町と、そのほかに、四十二の町を与えなければならない。あなたがたがレビ人に与える町は、全部で四十八の町で、放牧地つきである。あなたがたがイスラエル人の所有地のうちから与える町々は、大きい部族からは多く、小さい部族からは少なくしなければならない。おのおの自分の相続した相続地に応じて、自分の町々からレビ人に与えなければならない。」すから、東西南北それぞれ900メートルの正方形になります。ヨシュア記21章には、彼らがカナンの地を占領したとき、ここに記されてある通りにレビ人に放牧地つきの48の町が与えられたことがわかります。 」

4節と5節で示された放牧地の町を48レビ人に与えなければなりません。そのうちの6つは、人を殺した者が逃れるための、逃れの町です。のがれの町については11節以降で見ていきたいと思いますが、ここでは、それらの町々はイスラエルの所有地のうちから与えられるということと、大きい部族からは多く、小さい部族からは少なくしなければならないことあります。

ここで興味深いことは、レビ人の町はイスラエル十二部族全体に散らされるような形で置かれたということです。これはどういうことでしょうか。そのようにレビ人がイスラエル全体に散らされることによって、彼らが主に贖われた主の民であることを絶えず思い起こさせ、彼らのうちに主への恐れと敬虔を呼びさましたということです。このことからも、主が、イスラエル全体が祭司の国、つまり神ご自身の国であることを示しておられたのです。

Ⅱ.のがれの町(9-15)

最後に9節から15節までをご覧ください。

「主はモーセに告げて仰せられた。 「イスラエル人に告げて、彼らに言え。あなたがたがヨルダンを渡ってカナンの地にはいるとき、 あなたがたは町々を定めなさい。それをあなたがたのために、のがれの町とし、あやまって人を打ち殺した殺人者がそこにのがれることができるようにしなければならない。この町々は、あなたがたが復讐する者から、のがれる所で、殺人者が、さばきのために会衆の前に立つ前に、死ぬことのないためである。あなたがたが与える町々は、あなたがたのために六つの、のがれの町としなければならない。ヨルダンのこちら側に三つの町を与え、カナンの地に三つの町を与えて、あなたがたののがれの町としなければならない。これらの六つの町はイスラエル人、または彼らの間の在住異国人のための、のがれの場所としなければならない。すべてあやまって人を殺した者が、そこにのがれるためである。」

 のがれの町とは、あやまって人を殺した者がそこに逃れることができるようにと定められた町です。この町々は、彼らが復讐する者からのがれるところで、殺人者が、さばきのために会衆の前に立つ前に、死ぬことがないようにと定められた町々です。律法には、「人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない。」(出21:12)とあります。しかし、彼に殺意がなく、神が御手によって事を起こさせた場合、のがれる場所が用意されました(出21:13)。

この「復讐をする者」とは、19節以下の「血の復讐をする者」のことで、ヘブル語で「ゴーエール」という原語が用いられています。この語は、ルツ記で、「買戻しの権利のある親類」(ルツ3:9)と訳されてあるように、奴隷となった親類や、相続地の権利等を買い戻す権利、あるいは、その義務のある当事者に最も近い親類を指す語です。ここでは、殺された者の親類で、殺された者の血を贖う者(出21:23)、報復する義務のある者を指しています。彼らは、相手から事情を聞く前に手を下すことが大いにあり得たので、あやまって人を殺した者を守る必要があったのです。それで、ヨルダン川の東側と西側にそれぞれ三つずつ、北から南まで満遍なく広がった形で置かれました。

 Ⅲ.殺人者に対する規定(16-34)

 最後に16節から終わりまでを見ていきましょう。ここには、殺人者に対する規定が記されてあります。まず16節から21節までをご覧ください。

「人がもし鉄の器具で人を打って死なせたなら、その者は殺人者である。その殺人者は必ず殺されなければならない。もし、人を殺せるほどの石の道具で人を打って死なせたなら、その者は殺人者である。殺人者は必ず殺されなければならない。あるいは、人を殺せるほどの木製の器具で、人を打って死なせたなら、その者は殺人者である。殺人者は必ず殺されなければならない。血の復讐をする者は、自分でその殺人者を殺してもよい。彼と出会ったときに、彼を殺してもよい。もし、人が憎しみをもって人を突くか、あるいは悪意をもって人に物を投げつけて死なせるなら、あるいは、敵意をもって人を手で打って死なせるなら、その打った者は必ず殺されなければならない。彼は殺人者である。その血の復讐をする者は、彼と出会ったときに、その殺人者を殺してもよい。」

不慮の事故であったのか、それとも故意の殺人であったのかは、手段と動機で計られます。「人がもし鉄の器具で人を打って死なせたら」、それは故意の殺人であって、その者は必ず殺されなければなりません。「人を殺せるほどの石の道具」の場合も同様です。また、人を殺せるほどの木製の器具で、人を打って死なせた」場合も同じです。それは故意による殺人で、その者は、必ず殺されなければなりませんでした。血の復讐をする者は、自分でその殺人者を殺してもよいし、彼と出会ったときに、彼を殺しても構いませんでした。

次に動機です。「憎しみ」「悪意」「敵意」をもって死なせるなら、それは故意の殺人であって、その者は必ず殺されなければなりませんでした。その血の復讐をする者は、彼と出会った時に殺しても構いませんでした。たとえ逃れの町にのがれたとしても、そこから追い出して、血の復讐をする者に引き渡すことができたのです。

次に22節から29節までをご覧ください。

「もし敵意もなく人を突き、あるいは悪意なしに何か物を投げつけ、または気がつかないで、人を死なせるほどの石を人の上に落とし、それによって死なせた場合、しかもその人が自分の敵でもなく、傷つけようとしたのでもなければ、会衆は、打ち殺した者と、その血の復讐をする者との間を、これらのおきてに基づいてさばかなければならない。会衆は、その殺人者を、血の復讐をする者の手から救い出し、会衆は彼を、逃げ込んだそののがれの町に返してやらなければならない。彼は、聖なる油をそそがれた大祭司が死ぬまで、そこにいなければならない。もし、その殺人者が、自分が逃げ込んだのがれの町の境界から出て行き、血の復讐をする者が、そののがれの町の境界の外で彼を見つけて、その殺人者を殺しても、彼には血を流した罪はない。その者は、大祭司が死ぬまでは、そののがれの町に住んでいなければならないからである。大祭司の死後には、その殺人者は、自分の所有地に帰ることができる。これらのことは、あなたがたが住みつくすべての所で、代々にわたり、あなたがたのさばきのおきてとなる。」

 ここでは、過失致死の場合の取り扱いについて語られています。すなわち、もし敵意なく人を突き、あるいは悪意なしに何か物を投げつけ、または気がつかないで、人を死なせるほどの石を人の上に落とし、それによって死なせた場合、しかもその人が自分の敵でもなく、傷つけようとしたのでなければ、その人をどうするかということです。これは、たとえば、一緒に木こりの仕事をしていて、斧の頭が取れて同僚の頭にぶつかり、死んでしまった、といった場合です。その場合は、会衆が、殺人者とその血の復讐をする者の間に入って、それが故意によるものなのか、過失によるものなのかを前述の規定に従って判断し、もしそれが過失による殺人の場合であれば、彼をその復讐する者の手から救い出し、彼が逃げ込んだその逃れの町に返してやらなければなりません。彼は聖なる油をそそがれた大祭司が死ぬまで、そこにいなければなりませんでした。これはどういうことかというと、確かにそれは意図的なものでなく、偶発的なものであったとしても、血を流したことに対しては贖いが求められたということです。大祭司の死は、その在任中に殺された被害者の血を贖うに十分なものだったのです。

なぜ大祭司の死がその贖いのために十分だったのかというと、この大祭司は大いなる大祭司であられるイエス・キリストの型であったからです。すなわち、それはイエス・キリストの死を表していたからなのです。イエス・キリストは大いなる大祭司として、永遠の御霊によって、全く汚れのないご自分を神にささげ、その死によって世の罪のためのなだめの供え物となられました。ちょうど大祭司の死によって、あやまって人を殺した者の罪の贖いがなされ、自分の所有の地に帰ることができたように、私たちの大祭司イエス・キリストの死によって、彼のもとに逃れて来たものたちが、罪によって失われた嗣業を受けるに足る者とされ、キリストが約束された永遠の住まいに帰ることができるようになったのです。従って、あやまって人を殺した場合は、聖なる油が注がれた大祭司の死まで、自分の家族から離れて、亡命の状態にとどまることが要求されたのです。

従って、もしあやまって人を殺した者が、自分が逃げ込んだのがれの町の境界の外に出て行ったために、血の復讐者が彼を見つけて殺しても、血の復讐者にはその罪は帰せられません。なぜなら、あやまって人を殺した者は、大祭司が死ぬまでのがれの町にとどまっていなければならなかったのに、勝手にそこから出てしまうことをしたからです。ただ大祭司の死後は、自分の町に帰ることができました。彼の罪が贖われたからです。

次に30節から34節までをご覧ください。

「もしだれかが人を殺したなら、証人の証言によってその殺人者を、殺さなければならない。しかし、ただひとりの証人の証言だけでは、死刑にするには十分でない。あなたがたは、死刑に当たる悪を行なった殺人者のいのちのために贖い金を受け取ってはならない。彼は必ず殺されなければならない。のがれの町に逃げ込んだ者のために、贖い金を受け取り、祭司が死ぬ前に、国に帰らせて住まわせてはならない。あなたがたは、自分たちのいる土地を汚してはならない。血は土地を汚すからである。土地に流された血についてその土地を贖うには、その土地に血を流させた者の血による以外はない。あなたがたは、自分たちの住む土地、すなわち、わたし自身がそのうちに宿る土地を汚してはならない。主であるわたしが、イスラエル人の真中に宿るからである。」

殺人者を死刑に定めるには、証人の証言がなければなりませんでした。しかもその証言は複数でなければなりませんでした。ここには何人とは書いてありませんが、申命記17章6節には、「ふたりの証人または三人の証人の証言」とあります。どんな咎でも、どんな罪でも、ひとりの人の証言によっては罪に定めることはできませんでした。また、その証言は偽りの証言をしてもなりませんでした。

また死刑にあたる罪を行った殺人者の場合、殺人者のいのちのための贖い金を受け取って、彼を赦してはなりませんでした。それは必ず殺されなければならなかったのです。なぜなら、33節にあるように、血は土地を汚すからです。すなわち、血を流す罪、殺人が行われた時に、血は汚されたのです。その土地が贖われるには、その血を流した者の血が流され、贖われなければならなかったのです。イスラエルは、自分たちの住む土地、すなわち、主がそのうちに宿る土地を汚してはならなかったのです。主である神が、その真ん中に宿るからです。

このことは、私たちにも言えることです。ヘブル書9章22節には、「律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」とあるように、私たちの心の汚れは、イエス・キリストの血によってしかきよめられることはできません。イエス・キリスの血だけが、私たちをすべての悪からきよめてくださり、神がともに宿ることを実現させてくださったのです。

また、一度救われて主の御住まいとなった者が、その霊肉を罪で汚してはならず、もしあやまって罪を犯したならば、罪を言い表してきよめていただかなければならないのです。神は真実で、正しい方ですから、もし私たちが自分の罪を言い表すなら、すべての悪からきよめてくださるのです。

約束の地を前にして、神がモーセを通してこれらのことを語られたのは、彼らが受け継ぐ地を汚すことがでないように、そして、もしあやまって汚すようなことがあったら、このようにしてきよめられることを教えるためだったのです。

民数記34章

きょうは民数記34章から学びます。

Ⅰ.相続となる地カナンの境界線(1-15)

「主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に命じて、彼らに言え。あなたがたがカナンの地にはいるとき、あなたがたの相続地となる国、カナンの地の境界は次のとおりである。」

1節と2節をご覧ください。主は、イスラエルが約束の地に入って行ってから彼らに与えられる相続地の境界が示されました。まず南側の境界が3節から5節までに記されてあります。

「あなたがたの南側は、エドムに接するツィンの荒野に始まる。南の境界線は、東のほうの塩の海の端に始まる。その境界線は、アクラビムの坂の南から回ってツィンのほうに進み、その終わりはカデシュ・バルネアの南である。またハツァル・アダルを出て、アツモンに進む。その境界線は、アツモンから回ってエジプト川に向かい、その終わりは海である。」

南側の境界は、エドムに接するツィンの荒野、すなわち、塩の海の端に始まります。そしてアクラビムの丘陵地帯の南側から回ってツィンの荒野の方に進み、その終わりはカデシュ・バネアの南です。それからエジプト川まで続き、地中海に達します。これが南の境界線です。

6節には西の境界線が記されてあります。それは地中海とその沿岸です。何もありませんので、これはよくわかります。

では北側の境界線はどうでしょうか。7節から9節にあります。

「あなたがたの北の境界線は、次のとおりにしなければならない。大海からホル山まで線を引き、 さらにホル山からレボ・ハマテまで線を引き、その境界線の終わりはツェダデである。ついでその境界線は、ジフロンに延び、その終わりはハツァル・エナンである。これがあなたがたの北の境界線である。」

ホル山やツェダデがどこなのかその位置が明確ではありません。ただハツァル・エナンの場所はある程度特定されているので知ることができますが、それは驚くことに今のレバノンの北、そしてシリヤのところにまで及んでいるのがわかります。イスラエルに約束された地は、かなりの領域にわたっていたことがわかります。

そして東の境界線については10節から12節までにあります。

「あなたがたの東の境界線としては、ハツァル・エナンからシェファムまで線を引け。その境界線は、シェファムからアインの東方のリブラに下り、さらに境界線は、そこから下ってキネレテの海の東の傾斜地に達し、さらにその境界線は、ヨルダンに下り、その終わりは塩の海である。以上が周囲の境界線によるあなたがたの地である。」

キネレテの海とはガリラヤのヘブル語です。ですから、これはガリラヤ湖のことです。そこからヨルダン川を下り、その終わりが塩の海までの領域です。ヨルダンの東側については既にガド族とルベン族、マナセの半部族が相続していたので、それを除く残りの9部族と半部族が受け継ぐべき地が示されているものと思われます。それは次の箇所にこう記されてあるからです。13節から15節までをご覧ください。

「モーセはイスラエル人に命じて言った。「これが、あなたがたがくじを引いて相続地とする土地である。主はこれを九部族と半部族に与えよと命じておられる。ルベン部族は、その父祖の家ごとに、ガド部族も、その父祖の家ごとに相続地を取っており、マナセの半部族も、受けているからである。 この二部族と半部族は、ヨルダンのエリコをのぞむ対岸、東の、日の出るほうに彼らの相続地を取っている。」

イスラエルに約束された相続地は、くじによって決められました。これは箴言16:33にあるように、そのすべての決定は主から来るとあるからです。彼らは自分たちによって決定するのではなく、その決定のすべてを主にゆだねたのです。

ここで創世記15章18節から21節までを開いてください。ここには神がアブラハムに与えると言われた土地が記されています。そして、何とここにはエジプト川からユーフラテス川までとあります。ユーフラテス川というのはアラビヤ半島へ注ぎ込むユーフラテス川の上流域のことです。それはこの相続地の北の境界線にありました。ですから、彼らはアブラハムに約束された地のほとんどを相続するようになったのです。

Ⅱ.土地分配の仕方(16-29)

最後に、16節から29節までをご覧ください。

「主はモーセに告げて仰せられた。 「この地をあなたがたのための相続地とする者の名は次のとおり、祭司エルアザルとヌンの子ヨシュアである。あなたがたは、この地を相続地とするため、おのおのの部族から族長ひとりずつを取らなければならない。」

ここには、この地をどのように相続すべきかのもう一つの点が記されています。それは。相続地とする者が選ばれ、彼らを通して割り当てがなされていったということです。今でいうと遺言執行人のような役割を果たした人です。それが祭司エルアザルとヌンの子ヨシュアでした。彼らの下にイスラエルのそれぞれの部族から族長をひとりずつ取り、割り当てられました。日本でもそうですが、遺産相続をめぐっては本当に多くの問題が起こります。そのことが原因で家族がいがみ合って、憎み合って、もう口も利かないというケースにも発展することも少なくありません。そういうことがないように、遺言執行人を定め、公正に遺産を相続するようにしていますが、ここでも祭司エリアザルとヌンの子ヨシュアという遺言執行人を立て、彼らを通してそれぞれの部族に相続したのです。

 さて、このようにして神が約束してくださった地の相続が行われたわけですが、ここで私たちが覚えておかなければならないことは、私たちにも神からの割り当て地が与えられているということです。それは想像を絶するような霊的遺産です。それは天の御国です。それが私たちに約束されているのです。であれば、ガド族やルベン族のように、ここは居心地がいいからここに留まっていようとしたり、この地上のものに執着し、神が約束してくださったものを手に入れることができないというようなことがないように注意すべきです。いつも与えられた約束の地を見て、そこを目指してただ前進していかなければなりません。もし目の前に石像や鋳造があれば、あるいは高き所があれば粉砕し、ただひたむきに約束の地を目指して進まなければならないのです。パウロはこう言いました。

「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどとは考えていません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。」(ピリピ3:13-14)

主はあなたを約束の地、天の御国に必ず導いてくださいます。そこに入って行くことができるのです。想像を超えたこの御国を、相続する者とさせていただく者として、ひたむきに前のものに向かって進み、目標目指して一心に走る者でありたいと思います。

ヘブル2章10~18節 「人となられたイエス・キリスト」

  きょうは、2章10節から18節のみことばから、「人となられたイエス・キリスト」というタイトルでお話したいと思います。前回は、特に2章9節のみことばから、御使いよりも、しばらくの間、低くなられたイエスについてお話しました。ユダヤ人は、御使いは人間よりも高い地位にあると理解していたので、イエスが人となられたということはその御使いよりも低くされたことを意味していました。いったいなぜ、キリストは、御使いよりも、低くされなければならなかったのでしょうか。それは私たちを罪から救うためでした。9節には、イエスは苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになられました、とあります。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものだったのです。イエスが人となられ、十字架で死んでくださったことによって、すべての人の罪が贖われたのです。ですから、このイエスを信じる者は、だれでも救われるのです。これが福音です。 

そして、10節のところを見ると、それは万物の存在の目的であり、また原因である方として、ふさわしいことであったとあります。万物の存在の目的であり、また原因である方というのは父なる神のことです。それは父なる神にとってふさわしいことでした。なぜなら、神は万物の存在の目的であり、また原因でもあられるからです。すべてのものはこの方によって造られました。ですから、神は万物の存在の目的であり、原因であられる方なのです。すべてはこの神の栄光のために存在しているのです。それは人間も例外ではありません。私たち人間も神によって造られました。ですから、私たちは神の喜びと栄光のために生きているのです。このことがわからないと何をしても喜びがありません。いくら頑張って、真面目に生きたとしても、たとえすべての物を手に入れたとしても虚しいのです。心はいつもカラカラに渇いて平安がありません。

ですから、昔の聖人パスカルはこう言いました。「私の心には、本当の神以外には満たすことかのできない、真空がある。」また中世の偉大な神学者であり、哲学者であったアウグスティヌスもこう言いました。「神よ。私の心には、あなたの中で休むときまで揺れ動いています。」人はまことの神の出会い、神の救いを受け、神の栄光と喜びのために生きることがなければ虚しいのです。そのために神はご自分の御子を十字架につけてくださいました。その苦しみを通して、救いの道が開かれたのです。ですから、イエスが救いの創始者です。イエスが道であり、真理であり、いのちです。イエスを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。私たちは、ただこのイエスを救い主と信じるだけで救われるのです。

では、この神の恵みによって、いったい何がもたらされたのでしょうか。きょうは、このことについて三つのポイントでお話します。 

 Ⅰ.兄弟と呼んでくださる(10-13) 

 第一に、そのことによって神の家族の一員に加えられました。11節から13節までをご覧ください。

「聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」またさらに、「わたしは彼に信頼する。」またさらに、「見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子たちは。」と言われます。」

 「聖とする方」とはイエスさまのことです。また、「聖とされる者たち」とは、私たちのことです。「すべて元は一つです」というのは、父なる神のことを示しています。ですから、これは、「聖めてくださるイエスも、聖められる私たち」も、皆一人の父である神を持っています。」という意味です。それで、主イエスは私たちを兄弟と呼ぶことを恥じとしないで、私たちとともに神を賛美しようというのです。これはものすごいことではないでしょうか。私たちがイエスを救い主と信じたことで、イエスさまが私たちのことを兄弟と呼んでくださるのです。また、それを恥じとなさいません。 

先日、ノーベル賞の発表があり、ノーベル医学生理学賞に山梨県韮崎市出身の大村智さんが選ばれました。大村さんは5人兄弟の2番目の子供さんですが、メディヤはその喜びを伝えるために、早速実家のある韮崎市に生き、お姉さんの山田敦子さんにインタビューしました。すると山田さんはその喜びをこう言いました。「昨夜は、自宅で夕飯の支度をしていたら、テレビを見ていた夫が『智さんがノーベル賞を受賞したよ』といったので『えー』と台所から飛んできて見入りました。智には、おめでとう、よくやったねと言いたいです。弟は、小学生のころは、やんちゃなところがあり、近所の友達と、けんかしていたこともありました。ただ、いつも思うのは、弟が、ひとりで、ここまできたのではなく、周りの人に恵まれたことが、最高に幸せだったのではないかと思います。これからも、皆さんに感謝しながらがんばってほしい。」大村さんがノーベル賞を受賞したことで、お姉さんはそのノーベル賞を受賞した大村さんのお姉さんと呼ばれるようになったのです。別にお姉さんが何かしたわけではありませんが、大村さんのお姉さんということで、その栄誉の一員に加えられたわけです。それは私たちも同じで、私たちは神の子イエス・キリストを信じたことでイエスさまを長男とするその兄弟に、ノーベル賞どころかこの天地万物を造られた神の御子の兄弟、神の家族の一員に加えられたのです。 

信じられません。全くおこがましい限りです。私たちはしばしば自分たちがイエスさまを信じていることさえ恥じたりすることがありますが、そんな私たちを、イエスさまは「兄弟」と呼んでくださるのです。そして、それを恥とはなさいません。何という恵みでしょうか。造り主と造られた者ではレベルが違います。また、救い主と救われる者とでは立場が違います。聖とする方と聖とされる者とでは全く質が違います。それなのに、主は私たちをご自身と同じ「兄弟」と呼んでくださるのです。それは恵みではないでしょうか。 

 Ⅱ.死の恐怖から解放してくださった(14-16) 

 第二のことは、そのようにイエスさまが人となって来られ、十字架にかかって死んでくださったことによって、死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださったということです。14節と15節をご覧ください。

「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」

 十字架の苦しみと復活によって、なんとすばらしい結果がもたらされたことでしょう。それによって死が滅ぼされました。人にはいろいろな恐れがありますが、その中でも最も恐ろしいのは死ではないでしょうか。死は人からすべてのものを奪ってしまいます。家族を奪い、友人を奪い、これまで積み上げてきた地位や名誉や財産のすべてを奪います。しかもそれは何の予告もなしに、ある日突然やってくるのです。だれもそれから逃れることはできません。私たちの人生にはいろいろな問題がありますが、この死の問題こそ究極の問題であり、最大の問題です。そして、この死の問題に明確な解決を持っていなければ、何のために生きているのか、その生の意味さえも見えてこないわけです。結局のところ、死んでしまえばすべてが終わりなのですから。泡となって消えてしまいます。ですから、いつも死に怯えていなければならないのです。 

 しかし、神はこの死の問題に解決を与えてくださいました。神の御子が私たちと同じように肉体を持った人となって来られることによって、その死によって、悪魔という死の力を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださったのです。ここにキリストが私たちと同じ肉体をもって生まれた理由があるのです。それは、キリストが十字架で死なれ、そして三日目によみがえることによって、悪魔が握っていた死の力を完全に打ち破るためだったのです。ですから、クリスチャンにとっては、死はもはやのろいではなく、天国への入り口になりました。クリスチャンといえども造られた者にすぎませんから、肉体の死を免れることはできませんが、その死の意味が全く変わりました。もはや罪の刑罰という意味での死は取り除かれ、天の御国で永遠に主とともに生きる時に変えられたのです。もはや死ぬことは少しもこわくはないのです。一般的には「死」ということばさえ忌み嫌われ、考えたくもないし、会話にもしたくないことですが、クリスチャンにとっては、むしろそれは天国でイエスにお会いできるという喜びの時となったのです。これはものすごいことではないでしょうか。

今年8月1日に全日本リバイバルミッションの滝元明先生が召天しました。85歳でした。その葬儀が8月14日に、凱旋式・リバイバル感謝聖会として新城市文化会館で行われましたが、その中で、1993年に行われた甲子園ミッションで滝元先生が語られたメッセージが上映されました。先生はそのメッセージの中で、こう言われました。「私は19歳で教会に行き2回目で信じました。洗礼の時に、伝道者になって世界中に行きたいと祈り、神様はその祈りを聞いてくださり、痔(じ)も癒やされました。他の宗教でも癒やしはあります。しかし、罪の赦しはキリスト教だけです。神様はあなたの家庭を祝福し、あなたを千代まで祝福すると言います」「イエス様を信じる者は永遠の命を与えられます。それまで死ぬことが怖かったですが、この言葉で怖くなくなりました。私の父も母もイエス様を信じて天国に帰りました。このキリストを信じましょう」すばらしいですね。死はもはや滅ぼされました。確かに肉体は滅んでも、そのたましいは主のもとにあげられ、そこで永遠に主とともに生きているのです。 

大沢バイブルチャーチの関根辰雄先生が、聖書学校を出て最初に赴任した足利の教会の隣に、お寺が管理している墓地がありました。そしてその墓地の中に、一際目立った大きなお墓があったそうです。それはその町の名士であったらしい人のお墓のようでしたが、その墓標にはこう辞世が記されてありました。辞世というのはこの世を去る時に読む詩のことですね。 

「行く先の知れぬ旅路や 衣替え」 

さあ、これから衣を着替えて新しい旅に出かけようというのに、どこに行くのかがわからないのです。行く先の知らない旅に出ることほど不安なことはありません。おそらくこの方は家族のために尽くし、社会のために貢献し、その人なりに生きられたのでしょう。でもその人生の終わりが来たとき、どこに行くのかがわからないとしたら、それこそ虚しいのではないでしょうか。関根先生はしばらくそこに立ち止ってじっと眺めていましたが、何とも寂しく、はかなさを感じたそうです。 

しかし、そのお墓のすぐ近くにもう一つの墓碑があったそうです。それはどうやらクリスチャンの墓のようで、そこにはこう記されてありました。 

「我らの国籍は天にあり」 

ハレルヤ!!!自分は死んで終わりではない。よみがえるのだ。私のたましいは、私を造られた主のもとに帰るのであって、消えて、無くなのではない。私の国籍は天にあるのだ。そのように告白して歩める人は、どんなに幸いなことでしょう。それは、死に完全に勝利した人の姿です。イエス・キリストを信じる者は、死んでも生きるのです。死はもはやキリストにある者を縛ることはできません。キリストが死んで、三日目によみがえられたことによって、悪魔という死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれていた人々を解放してくださったからです。あなたも天から恵みを頂いて、このような人生の最後を飾ってください。 

Ⅲ.あわれみ深い大祭司となるため(16-18) 

キリストはなぜ人となって来られたのでしょうか。第三に、それはあわれみ深い大祭司となられるためです。17節と18節をご覧ください。

「主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」

 大祭司とは、民に代わって、神にとりなしをする人のことです。イエスは、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、すべての点で私たちと同じようになられました。それは私たちの罪のために、なだめがなされるためです。大祭司は、年に一度、至聖所と呼ばれる所に入って、契約の箱の贖いの蓋の上に、血をふりかけて、イスラエルの民の罪のなだめを行ないました。神が人の罪に対して怒っておられるからです。その怒りがなだめられるように、そこで動物のいけにえの血が振り注がれたのです。イエスがそのなだめの供え物となられました。御子イエスが私たちの罪のために、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださったので、私たちに対する神の怒りは完全に取り除かれたのです。ですから、もう神は怒っておられません。あたなが自分の罪を悔い改め、神の御子を救い主と信じたことで、あなたは神の子とされたからです。もうあなたは神の怒りの対象ではなく、愛の対象へと変えられたのです。いったいなぜイエスが人となって生まれなければならなかったのでしょうか。このなだめがなされるためでした。そのためにイエスは、私たちと同じように、罪深い肉と同じ姿にならなければならなかったのです。 

ではキリストはどのような大祭司なのでしょうか。ここには、あわれみ深い、忠実な大祭司とあります。キリストは、あわれみ深い、忠実な大祭司となられるために、すべての点で私たちと同じようにならなければならなかったのです。それは、キリストが私たちと同じように肉体に弱さを持っておられたことを意味しています。私たちと同じように肉体の疲れや痛みを経験されました。また、心の苦しみ、叫び、悲しみも経験されました。イエスさまがベタニヤ村のマルタとマリヤの家に行ったとき、弟ラザロが死に、マリヤと人々が泣いているのをご覧になったとき、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、涙を流されたとあります(ヨハネ10:35)。イエスさまは、罪は犯されませんでしたが、すべての点で私たちと同じようになられたのです。 

ですから、私たちが受けている誘惑、または試練といったものを、イエスさまが知らないものは何一つありません。私たちが日々の生活の中で、「このことは、だれにもわかってもらえない。」という苦しみがあるでしょう。けれども、主はそのすべてを知っておられます。なぜなら、人となられたときに、その試みのすべてを経験されたからです。ですから、すべてのことを知っておられるイエスさまに、力をいただくため、大胆に神の恵みに御座に近づくことができるのです。 

私たちが日々の生活の中でいろいろな苦しみに遭い、その重圧に押しつぶされてしまいそうになるとき、自分だけが苦しい目に遭っているわけではないということを知ることは大切なことです。自分だけが特別に苦しい目に遭っていると思うと、耐えがたさを感じるでしょう。しかし、それが自分だけでなく、イエスさまも同じように試みを受けて苦しまれたということがわかるとき、心に励ましを受けます。なぜなら、この方は私たちと同じようになられたので、同じような試みにある人を助けることができるからです。 

昨日スーパーキッズがあって、2階でお母さんたちのバイブルスタディーがありましたが、その中に先天性の脳の病気を抱えたお子さんを持つお母さんが参加されました。この方の赤ちゃんは3歳になりますが、生まれてからほとんど成長できず、立つことも、話すこともできないでいましたが、1か月前に気管支炎にかかり病院に入院してから体調が悪化し、眠ろうとするとパニックになるので眠ることもできず、もうどうしたらいいかわからないで苦しんでおられました。自ら命を断とうとさえ思ったほどです。ところがそこに、同じような苦しみを経験された人がいて、涙ながらにそのこと話してくれると、その方はこれまで抱えていた肩の荷が降ろされたというか、とても慰められたかのようでした。それは「私だけじゃないんだ」「みんな同じような苦しみを通っているんだ」ということがわかったからです。

このように、自分だけじゃないということがわかるとき、心に大きな慰めを受けるのです。イエスさまは私たちと同じようになられたので、私たちの弱さを十分理解することがおできになるのです。 

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることができないような試練に遭われることはなさいません。試練とともに脱出の道を備えてくださいます。」(Ⅰコリント10:13) 

私たちは、自分だけが特別に苦しい目に遭っていると思うと耐えがたさを感じるかもしれません。しかし、私たちの大祭司であられるイエスさまも、私たちと同じ苦しみを体験されたのです。その方がいま、私たちの大祭司として、天でとりなしていてくださいます。ただ天にいて、下界を「どれどれ」と眺めているのではありません。すべての点で私たちと同じようになられ、同じ試みに遭われ、同じ苦しみをなめられたそのお方が、今、天において私たち一人一人のために、その名を挙げてとりなしの祈りをしてくださっているのです。なんと驚くべき恵みでしょうか。もし御使いを助けるのであれば、わざわざ肉体を取られることはなかったでしょう。しかし主は御使いを助けるためではなく、アブラハムの子孫、これは私たちクリスチャンのことですが、私たちを助けるために来られたので、私たちと同じようになられたのです。それは私たちが経験するすべての苦しみを理解することができ、またそのように試みられている人たちを助けるためです。 

人間の大祭司なら落ち度もあり、失敗もあるでしょう。しかし、神の大祭司はあわれみ深い方です。また忠実なお方です。忠実ということは、本当に信頼できるということです。このようなお方が私たちのすぐそばにいて、私たちを助けてくださることを思うと、本当に励まされるのではないでしょうか。私たちにどのような問題があっても、この方はどんな問題でも、すべての問題に解決を与えることができる方なのです。こんなすばらしい救い主がほかにいるでしょうか。 

 ですから、使徒の働き4章12節にはこうあるのです。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」

 あなたが助けを求める方はこの方です。この方以外には、だれによっても救いはありません。この御名のほかに、私たちが救われるべき名は与えられていないからです。あなたは、この方に信頼していますか。この方を信じて救われていますか。もしまだでしたら、今日信じていただきたいと思います。信じて救われ、死の恐怖から解放されてください。そして、どのような苦しみからも救い出し、助けることができるキリストの力を体験してください。もう既に信じている方は、どうかこの確信にしっかりと留まってください。押し流されませんように。この方から目を離さないで、この方に信頼して歩み続けてください。そうであれば、どのような問題があっても勝利ある歩みをしていくことができるからです。キリストが人となってこの世に来てくださったのは、あなたを十分理解し、あなたを助け、あなたを救うためだったのです。

民数記33章

きょうは民数記33章から学びます。

Ⅰ.イスラエル人の旅程(1-49)

 1. 出エジプト(1-4)

まず1節から4節までをご覧ください。

「モーセとアロンの指導のもとに、その軍団ごとに、エジプトの地から出て来たイスラエル人の旅程は次のとおりである。モーセは主の命により、彼らの旅程の出発地点を書きしるした。その旅程は、出発地点によると次のとおりである。エジプトは、彼らの間で主が打ち殺されたすべての初子を埋葬していた。主は彼らの神々にさばきを下された。」

ここには、イスラエルがエジプトを出てから今の時点、すなわちヨルダン川のエリコの向かいにあるモアブの草原までどのように導かれてきたかの旅程が記されてあります。まず4節までのところには、彼らがエジプトを出た時のことがまとめられています。まずイスラエルはモーセとアロンの指導のもとに、軍団ごとにエジプトから出発しました。それは1年後にシナイの荒野で整備されたような整えられたものではありませんでしたが、ある程度の秩序を保っていたことがわかります。そうでないと約60万人の男子と、女子、こどもを加えて200万人を超える人たちと、多くの家畜を引き連れて一夜のうちに旅立つことは困難だったからです。ここで強調されていることは、彼らは「全エジプトが見ている前を臆することなく出て行った。」ということです。それは主が力強い御手によって連れ出されたからです(出エジプト13:9,14,16)。

2. 第一段階~エジプトからシナイの荒野まで~(5-15)

次に、5節から15節までをご覧ください。ここにはエジプトを出てからシナイ山までの旅程が記されてあります。ここではまず8節の「ピ・ハヒロテから旅立って海の真ん中を通って荒野に向かい」ということばが強調されています。これは出エジプト記14章にある出来事ですが、イスラエルがエジプトを出た後、背後からエジプト軍が追ってきましたが、目の前間は紅海で全く逃げ場を失うという絶対絶命のピンチの中で、主が奇跡的なみわざによって海の真ん中に乾いた道を作られ、それを通って救われましたことが書かれてあります。

それから9節の、「エリムには12の泉と、70本のなつめやしの木があり、そこに宿営した」ということも強調されています。そこではどんなことがあったでしょうか。これは出エジプト15章にある出来事ですが、彼らは荒野の旅の中で水がなく苦しんでいたときマラという所に来て水を見つけましたが、その水は苦くて飲むことができませんでした。それでモーセが主に叫ぶと、主が1本の木を示されたのでそれを水の中に投げ入れました。するとそれは甘くなり、飲むことができるようになりました。それで彼らはエリムに到着することができました。それは、彼らが主の命令に聞き従うなら主は彼らをいやし、なつめやしの木のように潤してくださることを教えるためのものでした。

そして、14節の「レフィデム」に宿営したことについて、それぞれ簡単な出来事が記録されています。そこでも彼らは、飲み水がなく大変苦しみました。しかし、モーセがホレブの岩の上に立ち岩を打つと、そこから水が流れ出ました。彼らは主を信じることができず主と争ったため、そこはマラ(争う)と名付けられましたが、大切なことはどんな時でも主の御声に従うことであるということを学びました。そして、レフィデムではもう一つの大切な出来事がありました。それはアマレクとの戦いです。ヨシュアが戦い、モーセが祈りの手を上げて祈ったことで、彼らは勝利することができました。

3. 第二段階~シナイの荒野からリマテまで~(16-18)

次に16節から18節までをご覧ください。ここにはシナイの荒野からリマテまでの旅程が記されてあります。ここから民数記に記録されてある内容です。彼らはシナイの荒野で律法が与えられ、幕屋が与えられ、また大掛かりな人口調査が行われ、軍隊が編成されて、神の民として整えられてシナイの荒野からカナンの地に向かって出発しました。それはエジプトを出た第二年目の第二の月の二十日のことでした(民数記10:11)。

キブロテ・ハタアワでは、イスラエルの民が食べ物のことでつぶやいたので、うずらが与えられましたが、主は彼らの欲望に対して怒りを燃やし、激しい疫病で民を打たれたので、欲望にかられた民はそこで死に絶えました。ここで印象的なみことばは民数記11:23の「主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今にわかる。」というみことばです。主の御手が短いことはありません。主はどんなことでもおできになる方です。私たちに求められていることは、この主にただ従ことなのです。

ハツェロテでは、ミリヤムとアロンがモーセに逆らったのでミリヤムは神に打たれてらい病になりました。

そして18節にはリテマに宿営したとありますが、このリテマとはどこにあるのかがよくわかりません。そして、ハツェロテの後で、この荒野の旅程で最も悲劇的な事件が起こりましたが、そのことについてここには全く記録されていないのが不思議です。それはカデシュ・バルネアでの出来事でした。約束の地まで間もなくというところにやって来たとき、イスラエルはその地を偵察すべく12人のスパイを送るのですが、そのうちの10人は否定的な情報をもたらし、そのことを信じたイスラエルの民は嘆き悲しみました。彼らは主のみことばに従いませんでした。主は「上って行って、そこを占領せよ。」と言われたのに、彼らは民のことばを信じておびえてしまったのです。それでイスラエルはその後38年間も荒野をさまよってしまうことになりました。ただヌンの子ヨシュアとカレブだけが主に従い通したので、後に約束の地に入ることができましたが、その他の20歳以上の男子はみな荒野で死に絶えてしまいました。あの最大の事件がここに出ていないのです。なぜでしょうか。民数記12:16には、「ハツェロテから旅立ち、パランの荒野に宿営した」とあり、13:26には、「パランの荒野のカデシュ」とあることから、この二つの荒野の近くにあったのがこのリテマではないかと考えられているからです。つまり、このリテマこそがカデシュ・バルネアではないかと考えられているのです。

  1. 第三段階~リテマからホル山~(19-40)

次に、19節から40節までをご覧ください。ここにはそのリテマからホル山までの旅程が記されてあります。これがいつの出来事なのかははっきりしていませんが、おそらくカデシュ・パルネアでの出来事の後の38年に及ぶ旅程ではないかと思われます。エジプトを出てから40年目の第五の月の一日に、アロンはこのホル山で死にました。それはメリバの水の事件(民数記20:11)で、モーセとアロンは主に従わなかったからです。それで彼らは約束の地に入ることができませんでした。

  1. 第四段階~ホル山からモアブの草原まで~(41-49)

イスラエルの旅程の最後はホル山からモアブの草原までの道のりです。41節から49節までをご覧ください。彼らはホル山からエドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立った(民数記21:4)ので、まず南に下り、エツヨン・ゲベルまで南下して、次いでエドムを避けながらプノンまで北上したものと思われます。そしてやっとの思いで今、約束の地に入る手前まで来たのです。

 

それにしても、いったいなぜここで40年間の荒野の旅路を書き記す必要があったのでしょうか。これは主の命令であったとありますから、そこには何らかの主の意図があったものと思われます。おそらくそれは、それが力強い主の御手によって導かれたことを示すねらいがあったのでしょう。それは「旅立って、宿営した」という言葉が何回も繰り返されていることからもわかります。彼らは雲の柱と火の柱によって導かれました。彼らはその時は、雲しか見えなかったかもしれません。夜は火の柱しか見えません。けれども、振りかえれば、主が行なわれた道を辿ることができたのです。アメリカのカルバリーチャペル牧師チャック・スミスはこう言っています。

「イエス・キリストの愛の御手に自分の永遠の運命を信仰によってお任せしたら、神が働かれているのを確かに見ることができるでしょう。そしてあなたの人生の出来事や状況を、麗しいモザイクに形づくられているのを知ります。それは、あなたの周りにいる人々にご自分の御子を明らかにするためです。あなたが生まれた時以来、この方の御手があなたの上にあります。」

私たちも今はわからないことがありますが、確かに主は雲の柱と火の柱をもって私たちを導いておられるのです。主の御手がいつも私たちの上に置かれているのを見て、信仰をもってそれにすべてをゆだねつつ、信仰の旅路を歩ませていただきたいと思います。

Ⅱ.カナンの地に入るとき(50-56)

 最後に50節から56節までをご覧ください。

「エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原で、主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて彼らに言え。あなたがたがヨルダンを渡ってカナンの地にはいるときには、その地の住民をことごとくあなたがたの前から追い払い、彼らの石像をすべて粉砕し、彼らの鋳造をすべて粉砕し、彼らの高き所をみな、こぼたなければならない。あなたがたはその地を自分の所有とし、そこに住みなさい。あなたがたが所有するように、わたしがそれを与えたからである。あなたがたは、氏族ごとに、くじを引いて、その地を相続地としなさい。大きい部族には、その相続地を多くし、小さい部族には、その相続地を少なくしなければならない。くじが当たったその場所が、その部族のものとなる。あなたがたは、自分の父祖の部族ごとに相続地を受けなければならない。もしその地の住民をあなたがたの前から追い払わなければ、あなたがたが残しておく者たちは、あなたがたの目のとげとなり、わき腹のいばらとなり、彼らはあなたがたの住むその土地であなたがたを悩ますようになる。そしてわたしは、彼らに対してしようと計ったとおりをあなたがたにしよう。」

ここには、カナンの地に入る時に守るべき事柄が語られています。それは、その地の住民をことごとく彼らの前から追い払うようにということです。彼らの石像をすべて粉砕し、彼らの鋳造もすべて粉砕し、彼らの高き所をみな、こぼたなければならないのです。なぜでしょうか?それは主の土地であって、彼らが所有するように、主が彼らに与えてくださったものだからです。すなわち、それは主の聖なるところだからです。そこには他の神々があってはならないのです。だから、それらを徹底的に粉砕しなければなりませんでした。そうでないと、その偶像が彼ら自身を悩ますようになります。事実、ヨシュアの死後、彼らはその地の住民を追い払わなかった結果、彼らは偶像礼拝に引きずり込まれる結果となりました(士師2:11,12)。敵に苦しめられ、神にさばきつかさが与えられますが、やがてまた偶像に引かれていくことを繰り返すようになったのです。それは特に士師の時代に著しいですが、イスラエルが偶像と全く縁を切ることができなかったことはその歴史が証明しています。

私たちの住むこの日本にもこうした異教的な風習がたくさんありますが、主に贖われたものとして、聖なる者として、そうしたものに心が奪われることがないように、それらを取り除いていくことが求められています。このくらいはいいだろうと妥協せず、汚れから離れ、何が良いことで、神に受け入れられるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えましょう。(ローマ12:2Ⅱコリント6:14-18)。

ヘブル2章1~9節 「こんなにすばらしい救い」

 きょうは、2章1~9節のみことばから、「こんなにすばらしい救い」というタイトルでお話します。こんなにすばらしい救いです。どんなにすばらしい救いでしょう。ご一緒に見ていきましょう。まず1節をご覧ください。 

 Ⅰ.押し流されないように(1) 

「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。」 

この2章は、「ですから」ということばで始まっています。「ですから」というのは、1章で語られた内容を受けてということです。1章ではどんなことが語られたでしょうか。1章では、神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法によって語られましたが、この終わりの時には御子によって語られた、とありました。神は、お語りになられる方です。そのようにしてご自身を現してくださいました。ではどのようにお語りになられたのでしょうか。神は、むかし預言者たちを通して、多くの部分に分け、またいろいろな方法によって語られましたが、この終わりの時には、御子によって、語ってくださいました。御子は、神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れです。ですから、御子を見た者は父を見たのです。神がどのような方であるかは、御子を見ればわかります。御子は万物の相続者であり、創造者であられます。そしてその力あるみことばによって今も万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い方の右の座に着かれました。この方は王の王、主の主であられるのです。他の何ものにも比べることができないほど偉大な神なのです。では神の御使いはどうでしょうか。御使いは霊的な存在で超自然的なことができますが、それらはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるために、これは私たちクリスチャンのことですが、遣わされたものにすぎません。しかし、御子は、その御使いに拝まれる対象なのです。全く比べものになりません。「ですから」です。「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかりと心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。」 

この手紙の受取人はヘブル人でしたね。ヘブル人というのはユダヤ人のことです。ヘブル人、ユダヤ人、イスラエル人はほとんど同じ意味です。ユダヤ人というのはユダヤ教を信じていますが、そのユダヤ教から回心してクリスチャンになった人たちです。彼らはユダヤ人でしたがキリストの福音を聞いて、イエスこそ約束のメシヤとして信じました。ところが、彼らがイエスを信じているということでユダヤ人たちから迫害を受けると、自分たちが信じているイエスさまから離れ、ユダヤ教に逆戻りする人たちがいたのです。折角、過去の古いしきたりから解放されたというのに、再びそこに逆戻りしたのです。それは船が潮の流れに流された状態と同じです。とても危険なのです。 

2013年9月、イタリアの豪華客船コスタ・コンコルディア(Costa Concordia)が座礁して沈没、多くの尊い命が奪われる事故が起こったことは記憶に新しいかと思います。あの事故はどうして起こったのかというと、船がコースを外れて運航し浅瀬に乗り上げてしまったことが原因でした。。船長が乗客を喜ばせようとして無理に陸地に近づこうとしてコースを外れ、岩礁にぶつかつてしまったのです。まさにこの手紙の受取人もそのような危険がありました。それでパウロはそういうことがないように、聞いたことをしっかりと心に留めて、押し流されないようにしなければならない、と警告したのです。彼らは確かに聞いてはいましたが、実際には聞いていませんでした。それはただ頭だけのことであって、心に結び付けられていなかったのです。キリストのことばを表面的に聞いていても、それが心の深い部分に留まっていませんでした。

イエスさまは、「だから、聞き方に注意しなさい。」と言われました。「だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。」(ルカ8:18)

みことばを聞いても、聞いていないことがよくあります。みことばを聞いても、「ああそれは知っている」とか、「ああそれは何回も聞いた」いうレベルにとどまったり、心に結びつけるところまでいかないことがあるのです。でも不思議なことに、みことばは何回聞いてもその時その時に教えられることが違います。ですから、聞いたみことばを自分にあてはめ、植え付けるようにして聞く事が大切です。表面的に「分かった」というところにとどまらないで、本当にイエスさまと深い部分において触れ合っていくことが大切ではないでしょうか。 

Ⅱ.こんなにすばらしい救い(2-4) 

次に、2~4節までをご覧ください。

「もし、御使いたちを通して語られたみことばでさえ、堅く立てられて動くことがなく、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたとすれば、私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができましょう。この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。」 

「御使いたちを通して語られたみことば」とは、モーセの律法、旧約聖書のことです。モーセの律法は、神から御使いたちに与えられ、それがモーセに伝えられました。そのみことばでさえ、堅く立てられて動くことがなく、すべての違反と不従順に対して当然の処罰がもたらされたのであれば、御子によって与えられたこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうして処罰をのがれることができるでしょうか、できませんよ、というのです。「違反」とは、「これこれをしてはいけない」というルールを破ることです。また、「不従順」とは、「これこれのことをしなければならない」という決まりをやらないことです。この御使いを通して語られた律法でさえ、それに違反したり、それに不従順であれば、当然の処罰を受けたのです。であれば、ましてや神の御子によって伝えられた救いをないがしろにすれば、神の処罰を免れることは当然のことです。なぜなら、これはすばらしい救いだからです。 

聖書は、私たちが救われるために神が用意してくださったものを「福音」と呼んでいます。それは「良い知らせ」という意味ですが、イエス・キリストに関することです。神の御子イエス・キリストが、私たちの救いのために何をしてくださったのかということであります。神は、初め私たちを罪から救うためにご自身の律法を与えてくださいました。それはさきほど申し上げたように、これをすれば救われるとか、これをしなければ救われないというものですが、残念ながらこの律法の基準を満たすことができる人はひとりもいませんでした。むしろ、律法を守ろうとすればするほど、自分がいかに罪深い者であるのかを知るのでした。そうです、神の律法が与えられた目的は私たちを救うことではなく、私たちに罪の意識を植え付けることだったのです。すべての人が罪人であるということを明らかにすることでした。ではいったいだれが私たちを救ってくれるのでしょうか。イエス・キリストです。神は、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされた神の義、救いの道を用意してくださいました。それがイエス・キリストです。このキリストを信じる者は、だれでも神の前に義と認められるということ、すなわち救われるということ、それが福音です。では、イエス・キリストとはどのような方でしょうか。この方はどのようにして私たちを救ってくださったのでしょうか。 

キリストは神の御子であられます。この方は、天地万物を造られた創造主です。それなのに、私たちをその罪から救うために天から下って来られました。そして、私たちのすべての違反、不従順、罪を背負って、身代わりに十字架で死んでくださいました。罪の支払う報酬は死であるとあるように、本来なら私たちが死ななければならなかったのに、キリストが身代わりに死んでくださったのです。そして、三日目によみがえられました。それは私たちが義と認められるためです。もし死んだままであったらキリストは私たちと同じ人間だということであり、私たちを救うことはできないからです。しかし、キリストはよみがえられました。ですから、この方を信じる者は、だれでも救われるのです。これが福音です。 

どうですか、ほんとうにすばらしい救いではないでしょうか。この神がしてくださったことを受け入れるだけでいいのです。そうすれば、あなたも救われます。あなたの努力や行いによるのではありません。難行苦行をしなければならないというのではないのです。ただこの神の救いのみわざを信じて受け入れるだけでいいのです。自分の努力によっては全く救われるはずのない者が救われるのであれば、これは恵み以外の何ものでもありません。だからここには、「こんなにすばらしい救い」と言われているのです。こんなにすばらしい救いはどこにもありません。それなのに、これを無視することがあるとしたら、あるいは、これをないがしろにして過去の生活に、律法主義に逆戻りするようなことがあるとしたら、どうやって神の処罰を逃れることができるでしょう。そこには永遠の滅びしか残っていないのです。 

これは尾山令仁先生が書かれた本にあったお話ですが、先生が1958年に石川県の金沢市にある北陸学院というミッション・スクールの夏期学校に講師として行ったとき、ある教会の夕拝で説教されました。その中にこのような経験をされたご婦人がいました。それはその時よりもさらに15年ほども前のことですが、その方は、ある冬の日、玄関で赤ん坊が泣く声で目が覚めました。その朝は大雪で、軒近くまで雪が積もっており、その玄関の軒先に赤ん坊が置かれていました。すぐに玄関をあけ、その赤ん坊を抱いた時、その赤ん坊がだれの子であるかはすぐに見当がつきました。ちょっと前に近所の奥さんが赤ん坊を置いて家出をしたと聞いていたので、おそらくその人の子供だろうと思いました。きっと育てることができなかったので、ここに置いて行ったのだろうと思い、であれば、自分が育てなければならないと、この時決心しました。しかし、自分が産んだ子供ではありませんから、お乳が出ないわけです。そこで、人工栄養で育てるしかないと粉ミルクを買おうとしましたが、それが結構お金がかかり、ちょっとした内職程度ではミルク代をかせぐことができないわけです。そこでやむなく男たちに交じって道路工事の仕事をすることにしました。

ところが、ある日のこと、仕事をしていると、人がやって来て、その子がトラックにはねられた、と知らせに来てくれました。取るものも取りあえず病院に飛んでいくと、幸いにして一命を取り止めることができました。しかし、だんだんよくなってくると、欲が出るもので、その子のからだのいたるところにできた傷を何とか直してやりたいと思うようになりました。その子が女の子であれば、なおさらのことです。病院のお医者さんに相談すると、「それは難しいですよ」ということでしたが、とうとう意を決して、自分の皮膚を取って、その子に移植しました。無事手術も終わり、日ましによくなり、そのうちにその女の子の傷跡はすっかりなくなってしまいました。しかし、母親のおなかには、大きな傷跡が残ってしまったのです。そして、その子が中学生になり、ミッション・スクールの北陸学院の生徒になったころ、母親と一緒に風呂屋へ行くことを嫌がるようになったのです。母親には、その理由がすぐにわかりました。一緒に風呂屋へ行くと、小さな子供たちが母親の近くに来て、「あのおばちゃんおなかの所おかしいよ」と言っては、じろじろと眺めるものですから、中学生になったその子にとってはとても恥ずかしく、耐えられない苦痛だったのです。

そこで、ある日のこと、その母親は、その子にこう言いました。「今日は、あなたにお話ししたいことがあります。そこにお座んなさい。」すると母親は、自分の醜いおなかのことを話す前に、その子が自分のおなかを痛めて産んだ子ではないことを話しました。さすがに拾った子供だとは言えなかったので、ある人からもらったのだと言いました。そして、「このことはほかの人から聞くよりも私から話しておいた方がいいと思ったから、私から話したの。あなたはどう思う。」と言うと、彼女は少しも動じることなく、「産みの親は産みの親、育ての親は育ての親と言うでしょ。別にどうってことないわ」というので、「それじゃ、あなたにこのこともお話しておくわ」と、自分の醜いおなかのわけを話しました。するとそれをじっと聞いていた娘さんは、「お母さん、ごめんなさい、私はお母さんのおなかのことが恥ずかしくて、一緒にお風呂に行かなかったの。」と言って、その場に泣き崩れてしまいました。そのことがあってから、この娘さんは、学校で聖書の時間や礼拝の時に聞いたイエスさまのことがよくわかるようになりました。イエスさまが自分のために身代わりとして十字架にかかってくださり、私を罪から救ってくださったということがよくわかり、周りにいる人たちにこの福音をよく伝えたそうです。 

私たちが救われた福音とは、実にこのようなものです。いや、これ以上のものです。この娘さんは母親の身代わりによって癒されたのです。それなのに、その母親の愛の行為を恥ずかしいと思ったりすることがあれば、それはほんとうに悲しいことではないでしょうか。同じように、神が私たちを愛してくださったその大きな愛によって私たちが罪から救われたのに、その救いをないがしろにするとしたら、すなわち、その救いの道から離れたり、以前の生活に逆戻りするようなことがあるとしたら、神はどれほど悲しまれることでしょう。この福音こそ、私たちを罪から救い出し、新しく生まれ変わらせることができるのです。ですから、この福音に、あなたが聞いたこの福音の真理に堅く立ち、ますますしっかりと心に留めて、この世の流れに押し流されないようにしなければなりません。それが生まれ変わったクリスチャンの生き方なのです。 

Ⅲ.すべての人のために死なれたイエス(5-9) 

ところで、いったいなぜ神は私たちのためにこんなにすばらしい救いを与えてくださったのでしょうか。それは、神は私たちを愛しておられるからです。5節から9節までをご覧ください。

「神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。 むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、万物をその足の下に従わせられました。」万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。 ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。」 

 どういうことでしょうか。5節にある「後の世」とは千年王国のことです。神は、この後の世を御使いたちに従わせることをなさらず、私たち人間の手にゆだねられました。神の御子イエス・キリストを信じる者を、キリストとともに共同相続人として、千年王国を支配する者としてくださったのです。何ゆえに神は、このような特権を与えてくださったのでしょうか。この手紙の著者は、ダビデが語ったことばを引用して、驚きをもってこう語っています。6節、

「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。」

「これ」というのは人間のことです。人間が何者だというので、神はこんなちっぽけな人間に目を留めておられるのでしょうか。それは人を特別な存在としてお造りになられたからです。創世記1章26節、27節を見ると、神が人を造られたとき、神のかたちに、神に似せて造られたとあります。神のかたちに造られたということは、神の霊を持つものとして造られたということです。神は人を霊を持ち、神と交わりを持つ者として造られました。そのように造られたものは人間だけです。この世界には多くの被造物が存在していますが、神に似せて造られたのは人間だけなのです。いや、神が造られた被造物のすべては人間が生きていくために造られたのです。そういう意味で、人は特別な存在なのです。ですから神は、その造られたすべてのものを人間が支配するようにしたのです。つまり、人間にはこの世を支配するという特権がゆだねられたのです。 

それなのに、8節にあるように、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見ていません。実際にこの世を支配しているのは人間ではなく悪魔です。悪魔とか天使という言葉を聞くとどこかおとぎ話のような感じがするかもしれませんが、悪魔は実際に存在しているのです。存在しているだけでなく、実際にこの世を支配しているのです。そして、私たちにいろいろと戦いを挑み、悪い影響を及ぼしているのです。Ⅰヨハネ5章19節には、「私たちは神からのものであり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています。」とあります。この世全体は悪い者の支配下にあるのです。悪霊崇拝やオカルト(魔術)といったものから、クリスチャンの成長を妨げてしまうようなさまざまな思考パターン、習慣、罪深い行動、怒り、怒り、憎しみ、極度の落ち込みなど、いろいろな形で表われています。私たちはそうしたものに捕われながらなかなか克服することができず、絶望的な日々を送っているのではないでしょうか。それは悪魔がこの世を支配しているからです。悪魔は惑わす霊であり、偽りの父です。その結果、全世界が悪い者の支配下にあるのです。 

 エペソ2章1、2節には、次のようにあります。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順らの子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」この「不従順らの子らの中に働いている霊」とは悪霊のことです。悪魔、悪霊は、空中の権威を持つ支配者として、今も不従順らの子らの中で働いているのです。私たちはキリストを信じるまでこの悪魔の支配の中で生きていました。本来であれば人間がすべてのものを支配するはずだったのに、最初の人アダムが罪を犯したことで、罪の奴隷となりました。そしてこの悪魔の支配下の中で生きることになってしまったのです。その結果、何とも不自由な生き方を余儀なくされてしまいました。パウロはそんな自分の姿をこのように嘆いてこう言っています。

「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょう。」(ローマ7:24)

罪に捕われた自分の姿を、このように告白せざるを得なかったのです。それは私たちも同じです。私たちもこうしたさまざまなものに捕われながら、本当に不自由な生き方をしているのではないでしょうか 

いったいだれが、この死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。パウロは続くローマ人への手紙7章25 節からのところでこう言っています。「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。というのは、キリスト・イエスにある者が罪に定められることはないからです。キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」神はどのようにして私たちをこの罪から解放してくださったのでしょうか。イエス・キリストによってです。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それが9節にあることです。ご一緒に読んでみたいと思います。

「ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。」

「御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエス」とは、イエスが人となってこの世に来られたことを意味しています。キリストは神の栄光の輝き、神の本質の完全な現れ、神ご自身であられたのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。そればかりか、キリストは自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それが御使いよりも、しばらくの間、低くされたということです。 

 でも、神が人になるなんて信じられません。そんなことあり得ないからです。当時のユダヤ人もそのように考えていました。遠い地平線を見ると天と地が一つに重なってみえても実際にはどこまでも重なることがないように、神と人間が重なることはありません。どこまでいっても神は神であり人間は人間です。神が人になったり、人が神になったりするなんてあり得ない、と考えていたのです。けれども神は、そうした人間の考えを超えて働いてくださいました。どこまでも交わることのないはずの神が、人となってくださったのです。しかも、十字架にかかって死んでくださいました。なぜでしょうか。9節の最後のところにこうあります。「その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。」 

それはすべての人のためでした。ユダヤ人だけでなく、ギリシャ人も、また私たち日本人も、すべての人です。すべての人種、すべての民族のためです。それはあなたも例外ではありません。キリストはあなたのために十字架で死んでくださいました。それはあなたの罪を贖い、本来あなたに与えられていた支配権をサタンから奪い取り、やがてキリストとの共同相続人となって、後の世を支配するようになるためです。最初の人アダムは罪を犯したので、神から与えられたこの祝福を失ってしまいましたが、最後のアダム(キリスト)はその失った支配権をサタンから奪い取るために、人類の代表として死を味わわれたのです。キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。キリストを受け入れるまで私たちは罪の奴隷でしたが、キリストが十字架で死なれたことによって、私たちに対する罪の力は破られたのであります。ですから、悪魔は私たちに対して、いささかの力も持っていないのです。あなたはキリストにあって自由とされたのです。ガラテヤ5章1節にこうあります。 

「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」 

もうあなたを縛るものはありません。敵である悪魔は完全に打ち破られました。キリストが十字架であなたの罪の身代わりとなって死んでくださったので、あなたに対する罪の力は破られたのです。あなたは救い主イエスを信じたことで神の子としての特権を受けたのです。あの最初の人に与えられた支配権を回復したのです。やがてもたらされる千年王国でそれは明らかにされるでしょう。あなたはキリストとともに千年間王となって御国を治めるようになるのです。 

ですから、あなたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなければなりません。ということは、私たちはその自由を失って、またと奴隷のくびきを負うこともあり得るということです。それは、この1節でパウロが警告していることでもあります。ですから、聞いたことを、ますますしっかりと心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。あなたは、こんなにすばらしい救いを受けたのですから・・・。キリストは、あなたを救うために天から下って来られ、十字架で死んでくださいました。ここに私たちの唯一の希望があるのです。

民数記32章

きょうは民数記32章から学びます。まず1節から5節までをご覧ください。

Ⅰ.ルベン族とガド族の願い(1-15)

「ルベン族とガド族は、非常に多くの家畜を持っていた。彼らがヤゼルの地とギルアデの地を見ると、その場所はほんとうに家畜に適した場所であったので、ガド族とルベン族は、モーセと祭司エルアザルおよび会衆の上に立つ者たちのところに来て、次のように言った。「アタロテ、ディボン、ヤゼル、ニムラ、ヘシュボン、エルアレ、セバム、ネボ、ベオン。これら主がイスラエルの会衆のために打ち滅ぼされた地は、家畜に適した地です。そして、あなたのしもべどもは家畜を持っているのです。」また彼らは言った。「もし、私たちの願いがかないますなら、どうかこの地をあなたのしもべどもに所有地として与えてください。私たちにヨルダンを渡らせないでください。」

26章から、イスラエルが約束の地に入るための備えが語られていますが、そのような時、「ルベン族とガド族」から、モーセと祭司エリアザルに一つの願いが出されました。それは、ヨルダンの東側にあったヤゼルの地とギルアデの地を見るとその場所は家畜に適した場所だったので、その地を自分たちに与えてほしいということでした。そして、自分たちがヨルダン川を渡ることがないようにしてほしいというのです。なぜなら、彼らは非常に多くの家畜を持っていたからです。ミデヤン人たちからの戦利品としての家畜も加わり、たいへん多くなっていました。「ヤゼルの地とギルアデの地」は、彼らがエモリ人シホンを打ち破った時に占領したところです。モアブの地であるアルノン川からヤボク川までがヤゼル、ヤボク川からガリラヤ湖の南端へ走っているヤムルク川までがギルアデの地です。

それに対してモーセは何と答えたでしょうか。6節から15節までをご覧ください。

「モーセはガド族とルベン族に答えた。「あなたがたの兄弟たちは戦いに行くのに、あなたがたは、ここにとどまろうとするのか。どうしてあなたがたは、イスラエル人の意気をくじいて、主が彼らに与えた地へ渡らせないようにするのか。私がカデシュ・バルネアからその地を調べるためにあなたがたの父たちを遣わしたときにも、彼らはこのようにふるまった。彼らはエシュコルの谷まで上って行き、その地を見て、主が彼らに与えられた地にはいって行かないようにイスラエル人の意気をくじいた。その日、主の怒りが燃え上がり、誓って言われた。『エジプトから上って来た者たちで二十歳以上の者はだれも、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った地を見ることはできない。彼らはわたしに従い通さなかった。ただ、ケナズ人エフネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアは別である。彼らは主に従い通したからである。』主の怒りはイスラエルに向かって燃え上がったのだ。それで主の目の前に悪を行なったその世代の者がみな死に絶えてしまうまで彼らを四十年の間、荒野にさまよわされた。そして今、あなたがた罪人の子らは、あなたがたの父たちに代わって立ち上がり、イスラエルに対する主の燃える怒りをさらに増し加えようとしている。あなたがたが、もしそむいて主に従わなければ、主はまたこの民をこの荒野に見捨てられる。そしてあなたがたはこの民すべてに滅びをもたらすことになる。」

モーセは怒って言いました。彼らの兄弟たちは戦いに行くというのに、彼らはそこにとどまろうとするのか。どうしてそのようにイスラエル人の意気をくじいて、主が彼らに与えられた地へ渡らせないようにするのか。それはかつてイスラエルがカデシュ・バルネアからその地をさぐらせるために遣わしたときにふるまったことと同じではないか。神が、上って行って、そこを占領せよ、と仰せられたのに、彼らは従わなかったので、主の怒りを招くこととなり、四十年間荒野をさまようことになってしまいました。それと同じことだというのです。そして、もし主のみことばに背いて主に従わなければ、主はまたこの民を見捨てられると言いました。それは全く自己中心的な願いであると言ったのです。

主がヨルダン川東岸の民を追い出されたのは、そこにイスラエルが定住するためではありませんでした。それは彼らがイスラエルに敵対し、戦いを挑んできたからに過ぎません。また主が彼らの家畜を増やされたのもそこに住むためではなく、彼らが約束の地で生活するためでした。彼らが住むところはあくまでもヨルダン川を渡ったカナン人の地なのに、たまたま住むのに良さそうだからという理由で、これらのものを自分のものにしようとするのはよくありません。   これは、私たちクリスチャンにもよくあることです。私たちはよく、 「私たちの願いがかないますなら」 と言って、自分の願い、自分の思いを満たすことを神の教会に求めてしまうことがありますが、それは間違っています。教会は自分の願いをかなえるところではなく、神の願い、神のみこころを行うために集められた所です。それなのに、自分の都合だけを考えて満足を得ようとするのは、このルベン族やガド族が抱いていた思いと同じことです。今の状態のままでいたい、これから前進しなくてもいい、このままの状態で留まっていたいと願うのは、ここでルベン族とガド族が言っていることと同じことなのです。私たちはもう一度考えなければなりません。自分が救われたのは何のためか、何のために教会に集められたのか・・・を。それは自分の願いをかなえるためではなく、神のみこころを行うためなのです。

Ⅱ.ルベン族とガド族の誓い(16-32)

それに対して、彼らは何と言ったでしょうか。16節から19節までをご覧ください。

「彼らはモーセに近づいて言った。「私たちはここに家畜のために羊の囲い場を作り、子どもたちのために町々を建てます。しかし、私たちは、イスラエル人をその場所に導き入れるまで、武装して彼らの先頭に立って急ぎます。私たちの子どもたちは、この地の住民の前で城壁のある町々に住みます。私たちは、イスラエル人がおのおのその相続地を受け継ぐまで、私たちの家に帰りません。私たちは、ヨルダンを越えた向こうでは、彼らとともに相続地を持ちはしません。私たちの相続地は、ヨルダンのこちらの側、東のほうになっているからです。」

それを聞いた彼らは、自分たちはイスラエルが約束の地に入るまで、武装して、先頭に立って戦うと言いました。イスラエル人がおのおのその相続地を受けるまで、自分たちの家には帰らないと明言したのです。これは一見、主のみこころに従って、自分の分を果たしているかのように思えますが、しかし、根本的にはやはり自分の願いを通しているにすぎません。結局、ヨルダン川東岸を自分の土地にするということには変わりがないからです。自分たちを完全に明け渡していないのです。こうするから、こうしてくださいという、条件付きの従順です。それは主が求めておられることではありません。主が求めておられることは無条件で従うことです。その後のことは主が最善に導いてくださると信じて主にゆだねることなのです。

時々、私たちも、主のみこころに自分自身を明け渡すこのではなく、このように条件を付けて、少し距離を取りながら、自分の願いをかなえられようとしていることはないでしょうか?そして、付け足しのように、お手伝いをして、自分も主に仕えているかのように振る舞っていることはないでしょうか。心の深いところにある動機を聖霊によって探っていただく必要があります。そして、純粋に主に従う者でありたいと思います。

それでモーセはどうしたでしょうか。20節から32節までをご覧ください。

「モーセは彼らに言った。「もしあなたがたがそのようにし、もし主の前に戦いのため武装をし、あなたがたのうちの武装した者がみな、主の前でヨルダンを渡り、ついに主がその敵を御前から追い払い、その地が主の前に征服され、その後あなたがたが帰って来るのであれば、あなたがたは主に対しても、イスラエルに対しても責任が解除される。そして、この地は主の前であなたがたの所有地となる。しかし、もしそのようにしないなら、今や、あなたがたは主に対して罪を犯したのだ。あなたがたの罪の罰があることを思い知りなさい。あなたがたの子どもたちのために町々を建て、その羊のために囲い場を作りなさい。あなたがたの口から出たことは実行しなければならない。」ガド族とルベン族はモーセに答えて言った。「あなたのしもべどもは、あなたの命じるとおりにします。私たちの子どもたちや妻たち、家畜とすべての獣は、そこのギルアデの町々にとどまります。 しかし、あなたのしもべたち、いくさのために武装した者はみな、あなたが命じられたとおり、渡って行って、主の前に戦います。」 そこで、モーセは彼らについて、祭司エルアザル、ヌンの子ヨシュア、イスラエル人の部族の諸氏族のかしらたちに命令を下した。モーセは彼らに言った。「もし、ガド族とルベン族の戦いのために武装した者がみな、あなたがたとともにヨルダンを渡り、主の前に戦い、その地があなたがたの前に征服されたなら、あなたがたはギルアデの地を所有地として彼らに与えなさい。もし彼らが武装し、あなたがたとともに渡って行かなければ、彼らはカナンの地であなたがたの間に所有地を得なければならない。」ガド族とルベン族は答えて言った。「主があなたのしもべたちについて言われたとおりに、私たちはいたします。私たちは武装して主の前にカナンの地に渡って行きます。それで私たちの相続の所有地はヨルダンのこちら側にありますように。」

それでモーセは、もし彼らが主の前に戦いの武装をし、ヨルダン川を渡って、その敵を御前から追い払い、その地が主の前に征服された後に帰るのであればいいと、それを許しました。その結果どうなったでしょうか。32節から42節までをご覧ください。

 

Ⅲ.新しい名を付けたガド族とルベン族 (33-42)

「そこでモーセは、ガド族と、ルベン族と、ヨセフの子マナセの半部族とに、エモリ人の王シホンの王国と、バシャンの王オグの王国、すなわちその町々のある国と、周辺の地の町々のある領土とを与えた。そこでガド族は、ディボン、アタロテ、アロエル、アテロテ・ショファン、ヤゼル、ヨグボハ、ベテ・ニムラ、ベテ・ハランを城壁のある町々として、または羊の囲い場として建て直した。また、ルベン族は、ヘシュボン、エルアレ、キルヤタイム、ネボ、バアル・メオン・・ある名は改められる。・・またシブマを建て直した。彼らは、建て直した町々に新しい名をつけた。マナセの子マキルの子らはギルアデに行ってそこを攻め取り、そこにいたエモリ人を追い出した。それでモーセは、ギルアデをマナセの子マキルに与えたので、彼はそこに住みついた。マナセの子ヤイルは行って、彼らの村々を攻め取り、それらをハボテ・ヤイルと名づけた。ノバフは行って、ケナテとそれに属する村落を攻め取り、自分の名にちなんで、それをノバフと名づけた。」  ここにヨセフの子マナセの半部族も加わっていることがわかります。モーセは、ガド族とルベン族とマナセの半部族とに、エモリ人の王シホンの王国と、バシャンの王オグの王国、すなわちその町々のある国と、周辺の地の町々のある領土を与えました。彼らは自分たちのために町を建て、その建て直した町々に新しい名をつけましたが、それはすべて自分たちの名前にちなんでつけました。神ではなく自分の名前です。ここに彼らの本心が表れているのではないでしょうか。主のみこころを求めず、自分のことで満足しているならば、結局それは自分自身を求めていることなのです。

そうした自分中心の信仰には、やがて必ず主の正しいさばきがあることを覚えておかなければなりません。彼らはモーセに約束したように、確かにヨルダン川を渡って、他の部族とともに戦いました。そして、ヨルダン川の東側を自分たちの所有としました。しかし、その後歴史はどうなったでしょうか。イスラエルがカナンを占領して後、ダビデの時代に統一王国となりますが、その後、国は二分され、ついに外国によって滅ぼされることになります。その時最初に滅ぼされたのはガド族とルベン族でした。彼らはアッシリヤ帝国によって最初の捕囚の民となりました。そして、主イエスの時代には、そこはデカポリスという異邦人の地になっていました。マルコの福音書5章には、イエスさまがゲラサ人の地に行ったとき、そこで汚れた霊につかれた人から霊を追い出し、それを豚に乗り移させたという記事がありますが、それがこのデカポリス地方、ゲラサ人の地、ガダラ人の地だったのです。この「ガダラ人の地」とはガド族の人々の土地という意味で、そこは悪霊がたくさんいました。そこはユダヤ人が豚を飼うほど異教化していたのです。

ですから、私たちの信仰生活においても、自分の満足を求めるだけで神のみこころに歩もうとしなければ、このガド族やルベン族が歩んだのと同じ道を歩むことになることを覚え、ますます主のみこころに歩んでいきたいと思います。