民数記4章

きょうは民数記4章から学びます。まず1節から20節までをお読みします。

1.ケハテ族の奉仕(1-20)

「1 はモーセとアロンに告げて仰せられた。2 「レビ人のうち、ケハテ族の人口調査を、その氏族ごとに、父祖の家ごとにせよ。3 それは会見の天幕で務めにつき、仕事をすることのできる三十歳以上五十歳までのすべての者である。4 ケハテ族の会見の天幕での奉仕は、最も聖なるものにかかわることであって次のとおりである。5 宿営が進むときは、アロンとその子らは入って行って、仕切りの幕を降ろし、あかしの箱をそれでおおい、6 その上にじゅごんの皮のおおいを掛け、またその上に真っ青の布を延べ、かつぎ棒を通す。7 また、供えのパンの机の上に青色の布を延べ、その上に皿、ひしゃく、水差し、注ぎのささげ物のためのびんを載せ、またその上に常供のパンを置かなければならない。8 これらのものの上に緋色の撚り糸の布を延べ、じゅごんの皮のおおいでこれをおおい、かつぎ棒を通す。9 青色の布を取って、燭台とともしび皿、心切りばさみ、心取り皿およびそれに用いるすべての油のための器具をおおい、10 この燭台とそのすべての器具をじゅごんの皮のおおいの中に入れ、これをかつぎ台に載せる。11 また金の祭壇の上に青色の布を延べなければならない。それをじゅごんの皮のおおいでおおい、かつぎ棒を通す。12 聖所で務めに用いる用具をみな取り、青色の布の中に入れ、じゅごんの皮のおおいでそれをおおい、これをかつぎ台に載せ、13 祭壇から灰を除き、紫色の布をその上に延べる。14 その上に、祭壇で用いるすべての用器、すなわち火皿、肉刺し、十能、鉢、これら祭壇のすべての用具を載せ、じゅごんの皮のおおいをその上に延べ、かつぎ棒を通す。15 宿営が進むときは、アロンとその子らが聖なるものと聖所のすべての器具をおおい終わって、その後にケハテ族が入って来て、これらを運ばなければならない。彼らが聖なるものに触れて死なないためである。これらは会見の天幕で、ケハテ族のになうものである。16 祭司アロンの子エルアザルの責任は、ともしび用の油、かおりの高い香、常供の穀物のささげ物、そそぎの油についてであり、幕屋全体とその中にあるすべての聖なるものと、その用具についての責任である。」17 ついではモーセとアロンに告げて仰せられた。18 「あなたがたは、ケハテ人諸氏族の部族をレビ人のうちから絶えさせてはならない。19 あなたがたは、彼らに次のようにし、彼らが最も聖なるものに近づくときにも、死なずに生きているようにせよ。アロンとその子らが、入って行き、彼らにおのおのの奉仕と、そのになうものとを指定しなければならない。20 彼らが入って行って、一目でも聖なるものを見て死なないためである。」

ここにはレビ族たちの奉仕について書かれてあります。まずケハテ族です。レビ族の先祖はレビですが、レビには三つの種族がおりました。ゲルション、ケハテ、メラリです。彼らは祭司の家系をサポートする聖職者たちです。そのそれぞれの氏族の奉仕について記されてあるわけです。その最初がケハテです。まず3節には、仕事をすることが許されていたのは30歳から50歳までのすべての者とあります。イエス様も幼い頃から主にお仕えしておられましたが、メシヤとして公の生涯に入られたのはおおよそ30歳のころでした。またⅡサムエル5章4節を見ると、ダビデがイスラエルの王になったのも30歳の時であることがわかります。それが神によって定められた時であったのです。

では引退の年は何歳であったかというと、50歳です。50歳と聞いて、「若いなあ、まだまだできる」と思われる方も少なくないのではないでしょうか。なぜ50歳なのか?わかりません。しかし、この50という数字を考えると何となくわかるような気がします。これはヨベルの年として定められていた年数でもあります。それは大解放の年でした。職から解かれて自由になれる年、それが50歳だったのでしょう。しかし、50歳になったからといって引退というわけではなかったようです。民数記8章24~26節には、50歳になると奉仕の務めからは退きましたが、同族の者が任務を果たすのを助けることができました。つまり、現役は退いてもその後継者たちの育成はできたということです。ここには25歳から会見の天幕での奉仕ができたとありますが、これはインターンの期間、見習いの期間です。こうした後継者たちの育成に携わることができたのです。彼らのレビ人としてのキャリヤがこうした形で生かされたわけです。それで50歳という年が定められていたものと思われます。ちなみに、祭司には退職はなかったようです。生涯現役でした。ただその果たすべき役割が違うのです。私の知り合いの牧師に、バルナバ牧師がおられますが、これは聖書的であると言えるでしょう。いつまでも第一線で働くというのもいいですが、むしろそれは後継者にゆだねて、自分はバルナバとして若い牧師たちを支えていくという立場になるのが最もふさわしいのではないかと思います。そういう意味で、私は65歳まで第一線の牧師として主にバリバリ仕え、後はバルナバとして、後継者の育成において助けていれたらと願っているところです。

ところで、このケハテ族の奉仕はどんなことだったでしょうか。彼らの奉仕は、最も聖なるものにかかわることでした。まず宿営が進んで行く時に、モーセとその子らが幕屋に入って行き、仕切りの幕を卸し、それであかしの箱をおおいました。そのようにしておおわれた幕屋の道具を運ばなければなりませんでした。しかし、その前にはアロンとその子らによって、幕屋の器具がじゅごんの皮と真っ青の布によっておおわれました。

まず、あかしの箱が聖所と至聖所を仕切っていた幕によっておおわれました。この垂れ幕にはケルビムが織り込まれていましたが、それは青、紫、白、緋色の糸で織られていました。この四つの色の糸こそキリストご自身を表していたものです。キリストの神としての栄光の輝きです。その上にじゅごんの皮のおおいをかけました。これもキリストを表しています。これは人としてのキリストの姿です。じゅごんの皮はどす黒い色をしていて見た目にはあまりきれいではありませんが、人としてのイエスもそうでした。見た目ではあまりきれいではありませんが、しかし、その中身は神の栄光に満ちていました。そして、その上に真っ青の布を延べました。これは天国の象徴です。神の国です。神の国は一目ではみずぼらしいようでも、外側からは魅力を感じないかもしれませんが、中身すばらしいのです。中に入ると天国を味わうことができます。神を賛美し、祈り、神のことばにふれるとき、そこはさながら天国のすばらしさを味わうことができるのです。それが神の国、天国、です。そのように聖所の器具はじゅごんの皮と真っ青の布でおおわれました。

しかし、祭壇の器具だけは別の色の布が用いられました。13節を見ると、祭壇は青色の布ではなく紫色の布を使いました。なぜでしょうか。それは十字架を表していたからです。紫色と聞けば、私たちはすぐにピンときすね。それはイエス様が着せられた着物の色です。ヨハネ19章2節には、十字架につけられる時、イエス様は紫色の着物を着せられた、とあります。イエス様は私たちの罪のための供え物となって十字架で死んでくださいました。紫色の布はそれを表していたのです。

15節を見てください。このように、宿営が進むとき、アロンとその子らが聖なるものと聖所のすべての器具をおおいおわった後で、ケハテ族が入って来て、これらを運びました。彼らの奉仕は特に注意を要するものでした。聖所の用具に関することだったからです。なぜ、こんなに注意を要したのでしょうか。それは彼らが死なないためです。彼らが聖なるものに触れて死なないためなのです。もしそれらに触れたら死んでしまいます。

Ⅰ歴代誌13章9節、10節には、ウザが神の箱に触れて死んだことが書かれてあります。ダビデが神の箱をキルヤテ・エアリムから自分の町に運ぼうとしていたとき、牛がそれをひっくりかえそうとしたので、ウザが手を伸ばして、箱を押さえたのです。すると神の怒りが発せられ、ウザはその場で死んでしまいました。それほど神は聖なる方であり、私たちが勝手にふれることなどできない方なのです。ですから、この奉仕に当たる時には特に注意し、決して自分の思いつきで、勝手に行ってはなりませんでした。

このことから教えられることは、神の奉仕は決して自分の考えや自分の思いで行ってはならないということです。それは神の方法で行われなければならないのです。キリストを中心に行なわなければなりません。自分でよかれと思ってすることが、死を招いてしまうことにもなるからです。神の召しもないのに、あたかも召されたかのようにふるまうと大変なことになってしまいます。神の奉仕は、教会の奉仕は、いつもみことばに従って、キリスト中心に行われなければなりません。間違っても自分の思いで行ってはならないのです。

2. ゲルション族の奉仕(21-28)

次にゲルション族の奉仕について見ていきましょう。21節から28節までをご覧ください。

「21 ついではモーセに告げて仰せられた。22 「あなたはまた、ゲルション族の人口調査を、その父祖の家ごとに、その氏族ごとに行い、23 三十歳以上五十歳までの者で会見の天幕で務めを果たし、奉仕をすることのできる者をすべて登録しなければならない。24 ゲルション人諸氏族のなすべき奉仕とそのになうものに関しては次のとおりである。25 すなわち幕屋の幕、会見の天幕とそのおおい、その上に掛けるじゅごんの皮のおおい、会見の天幕の入口の垂れ幕を運び、26 また庭の掛け幕、幕屋と祭壇の周りを取り巻く庭の門の入口の垂れ幕、それらのひも、およびそれらに用いるすべての用具を運び、これらに関係するすべての奉仕をしなければならない。27 彼らのになうものと奉仕にかかわるゲルション族のすべての奉仕は、アロンとその子らの命令によらなければならない。あなたがたは、彼らに、任務として、彼らがになうものをすべて割り当てなければならない。28 以上がゲルション諸氏族の会見の天幕においての奉仕であって、彼らの任務は祭司アロンの子イタマルの監督のもとにある。」

ゲルション族の奉仕は25節と26節にありますが、幕屋の幕についての奉仕です。すなわち、幕屋の幕、会見の天幕とそのおおい、その上に掛けるじゅごんの皮のおおい、会見の天幕の入口の垂れ幕を運び、また庭の掛け幕、幕屋と祭壇の周りを取り巻く庭の門の入口の垂れ幕、それらのひも、およびそれらに用いるすべての用具を運び、これらに関係するすべての奉仕です。これをアロンの子イタマルが監督しました。

ここでのポイントは、まずアロンとその子らによって聖所の器具がおおわれ、その後でそれがケハテ族によって運ばれ、その後で彼らが幕を取り卸したということです。ここには一つの順序、一つの流れがあります。また、この奉仕のために監督者が立てられました。アロンの子イタマルです。彼らは勝手に奉仕したのではなくアロンとその子らの命により、イタマルという監督の指導のもとに行われました。

3.メラリ族の奉仕(29-33)

次にメラリ族の奉仕です。29節から33節までをご覧ください。「29 メラリ族について、あなたはその氏族ごとに、父祖の家ごとに、彼らを登録しなければならない。30 三十歳以上五十歳までの者で、務めにつき、会見の天幕の奉仕をすることのできる者たちすべてを登録しなければならない。
31 会見の天幕での彼らのすべての奉仕で、彼らがになう任務があるものは次のとおりである。幕屋の板、その横木、その柱とその台座、32 庭の回りの柱と、その台座、釘、ひも、これらの用具と、その奉仕に使うすべての物である。あなたがたは彼らがになう任務のある用具を名ざして割り当てなければならない。33 これが会見の天幕でのすべての奉仕に関するメラリ諸氏族の奉仕であって、これは祭司アロンの子イタマルの監督のもとにある。」

メラリ族もイタマルの監督の下で奉仕します。彼らの奉仕は、幕屋の板、横木、台座、釘などです。これはかなりの重労働でした。ですから44節を見るとわかりますが、彼らの人数が最も多かったのです。それだけ手がかかりました。釘1本、ひも1本の細かい作業も求められました。

このようにして神の幕屋の奉仕が行われたのです。まずアロンとその子らがもっとも重要な仕切りの幕をとりおろし、それで神の箱をおおい、また他の聖なる用具にもおおいをかけ、それをケハテ族に託します。そして、そしてアロンとその子らの命令によって、今度はゲルション族が幕をとりはずします。そして、幕が取り外されたところで、今度はメラリ族が板、横木、釘、などを取り外したのです。これらはすべて主の命令によって行われました。だれかが勝手に行えば、全体の作業に支障をきたしました。そこには互いのコンビネーションが求められます。

隣のセブンイレブンが新装オープンします。9月下旬に古い建物が取り壊されて以来、わずか2か月たらずで新しい建物が完成しました。私はそれをずっと見ていて感じたことは、その全体を統括している人がいて、その命に従って各部門が動いていたということです。もしその命に従わなかったら完成はもっと遅れたことでしょう。あるいは、作業がバラバラになって建て上げられなかったかもしれません。

これが神の奉仕です。この4章の至ところに「主の命によって」ということばがあるのにお気づきになられたでしょうか(37,41,45,49節)モーセを通して示された主の命令によって、それぞれの監督者たちが立てられ、その監督者たちの割り当てにしたがって、それぞれが奉仕してこそ神の家が建て上げられていくのです。

それは教会も同じです。教会の奉仕においても、このコンビネーションが求められます。神はおのおのに御霊の賜物を与えてくださいました。それは互いがいたわり合い、補い合い、助け合い、支え合って、キリストのからだを建て上げるためです。そこには分裂がなく、たがいにいたわりあうように、一つ一つの奉仕が割り当てられているのです。その調和が保たれる時、キリストのかだは力強く建て上げられていきますが、そうでないと、分裂してしまうことになるのです。エペソ4章1節から16節までのところには、このことについて言われています。

ですから、私たちはいつもこのことに敏感になり、自分に与えられている賜物が用いられ、その賜物がしっかりと組み合わされ、結び合わされることを求めていかなければなりません。その時キリストのからだである教会は成長して、愛のうちに建て上げられるのです。自分だけはという考えは許されません。

そして34節以降からは、30歳から50歳までのそれぞれの氏族の登録人数について書かれています。最後の節を読みます。「モーセを通して示された主の命令によって、彼は、おのおのその奉仕とそのになうものについて、彼らを登録した。主がモーセに命じたとおりに登録された者たちである。」モーセは主の命令にしたがって、これらのことを行ないました。
イスラエルが約束の地に向かって進んでいくために、神はイスラエルにこのような登録と割り当てを行いました。それは彼らが力強く前進していくためです。それは私たちも同じです。私たちもキリストの旗印を高くあげ、この世の旅路において敵に処理するために、十字架のキリストを見上げているでしょうか。神によって救われ、神の民とされた者として、神の命に従って、神に仕えておられるでしょうか。私たちは主によって前進し、主の命によって動く群れなのです。それは自分から出たものではありません。キリストのからだである教会の一員として登録され、互いに励まし、助け合い、結び合って、仕えていく群れなのです。私たちはそのために数えられているのです。それは神の恵みによるのです。あなたは神のイスラエルの宿営の中で自分に与えられた務めを全うしていくとき、群れ全体が生かされ、強められ、共に約束の地に向かって前進していくことができるのです。

創世記9章

きょうは、9章から学びたいと思います

1.新しい命令(1-7)

まず1節から7節までをご覧ください。箱舟から出たノアは、主のために祭壇を築き、その祭壇の上で全焼のいけにえをささげました。すると神は、そのなだめのかおりをかがれ、再びこの地をのろうことはしないと約束されました。それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、言われました。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。」

 

これは神がアダムを創造された時に与えられた祝福と同じことばです。しかし、その後にある動物の支配に関する命令は、初めの創造の時とは異なっていることがわかります。初めの創造の時には、「海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」とありましたが、ここでは、「野の獣、空の鳥、地の上を動くすべてのもの、それに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。」とあります。何が違うのかというと、動物たちが、人を恐れるようになると言われていることです。動物たちが本能的に人間に対して恐れを示すようになったことです。どういうことでしょうか?人間と動物の関係が根本的に変わったということです。どういうふうに?それまでは人の心をなごませ、いやし、友のような存在であった動物が、食用として食べられるようになったということです。この時になって初めて、人間が動物の肉を食べることが許されたのです。しかし、人が肉を食べる時には一つの決まりが定められました。何でしょうか?「肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。」(4)ということです。どういう意味でしょうか?血のあるままで食べてはならないというのは、生で食べてはならないということでしょう。人が動物の肉を食べる時には、血を適切に処理しなければなりませんでした。なぜでしょうか?人のいのちは血にあるからです。その血は、被造物のいのちを表していました。ですから、人が犠牲をささげるときには、この血が用いられたのです。(レビ17:11)いのちの象徴であるこの血を尊ぶことが求められたのです。ですから6節には、「人の血を流す者は、人によって血を流される。」とあるのです。人の血を流すこと、あるいは自分の血を流すことは、その中にある神のかたちを傷つけることであり、神に反逆することなのです。それゆえに自殺も殺人、神のみここにかなわない罪なのです。つまり、神が新しい人類に肉を食べるそのとき、血のあるままで食べてはならないと言われたのは、人のいのちの尊さを教えるためだったのです。ですから、これは単に生で食べてはならないという衛生的なことや、輸血をしてはならないといった医学的なことが言われていたのではなく、人のいのちに対する考え方を教えることが意図されていたのです。

2.契約のしるし(8-17)

続いて神はノアと、彼といっしょにいた息子たちに告げて言われました。「さあ、わたしはわたしの契約を立てよう。あなたがたと、そしてあなたがたの後の子孫と。」その契約の内容とはどんなものだったでしょうか?11節です。それは、「すべての肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」ということです。この神が立てられた契約の特徴は、万物をその範囲としていることと、すべての歴史をその時間としていることです。もはや二度と洪水でこの地上が滅ぼされることはない・・・と。そして神は、この契約を覚えさせるために、一つのしるしを与えてくれました。何でしょうか。虹です。神は雲の中に虹を立てることによって、それをご覧になられ、すべての息ある者との間に交わされた契約を思い出されるというのです。つまり神は、ご自分が立てられた契約を実証するために、虹によって署名捺印されたのです。これは、神のあふれる恵みの行いです。

聖書は、実に神の契約です。ですから、旧約・新約聖書と呼ぶわけです。この神の契約(救いについての契約、約束)が真実であることを、神は確証し、イエス・キリストを十字架の上で死なせ、さらに復活させられたのです。これが神の契約に対する書名捺印です。ノアの場合の契約はこれをさし示していたのです。あるいは、このように言うこともできます。神の契約はイエス・キリストの十字架による契約です。そのしるしとして神は聖餐式を制定されました。その聖餐を受ける度に、神が「私のために」その契約を覚えておられると確信することができます。したがって、ノアへの神の契約とそのしるしの虹は、この聖餐を指し示していたとも言えるでしょう。神はそれをご覧になる度に、永遠の契約を思いおこすと言われましたが、それと同様に、神は聖餐によって、私たちへの契約を思い起こされるのです。

ここで注意しておきたいことは、この契約のしるしとしての虹が雲の中に現れる時、永遠の契約を思い起こされるのは私たちではなく、神の側であるということです。すぐに物事を忘れてしまうような弱い私たち人間の記憶には、契約の土台のひとかけらも置かれていないのです。神が思い起こしてくださいます。これだけで十分ではないでしょうか。太陽と黒雲の交錯する中から、虹が輝き出す時、明るい神の愛が、どす黒いさばきに打ち勝った勝利の象徴として描き出されるのです。天から地へとかけられた美しい虹のかけ橋に、神が人間に対して平和のメッセンジャーを送って来られたかのようです。しかし現実には、視界をはるかに越えて、神の恵みの契約がすべてのものを包んでいることを宣言していたのです。

4.洪水後の人類の歴史の始まり(18-19)

次に18,19節をご覧ください。「箱舟から出て来たノアの息子たちは、セム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。この三人がノアの息子で、彼らから全世界の民は分かれ出た。」

ここから、洪水後の人類の歴史が始まります。最初の人間アダムによってすべての人間が始まったように、洪水後の人類は、ノアの息子たちによって始まり、全世界の民は彼らから分かれ出ました。それぞれの子孫については来週見ていきたいと思いますが、ここでは「ハムはカナンの父である」と付け加えられていることについて少し考えてみたいと思うのです。なぜここにいきなりカナンが出てくるのでしょうか。これは22節でもそうですし、25節にも記されてあることです。カナンとは、10章6節を見てもわかるように、ハムの四人の子供の末っ子ですが、ここからカナン人の諸氏族が分かれ出るようになります。おそらく、後にイスラエルがカナンを占領するようになった原因が、布石として、ここに記されてあるのではないかと思われます。それはハムの問題でしたが、同時に父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼす(民数記14:18)ということが表されているのではないかと思います。

5.ノアの失態(20-21)

さて、ノアはぶどう畑を作り始めた農夫でしたが、ぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていました。ぶどう酒を飲んで酔っぱらったり、天幕で裸になったりすることが問題なのではありません。問題は、彼が明らかに分別を失ってしまったことです。エペソ5章18節には、「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。」とあるのはそのためです。酒を飲むことが問題なのではなく、酒に飲まれてしまうのが問題なのです。裸になっていたというのはその現れでしょう。それにしても、いったいノアはどうして失敗を犯してしまったのでしょうか。かつて箱舟を作った信仰深いノアとは、全く別人のような印象を受けます。やはりそこには気のゆるみ、安心感といったものがあったのではないでしょうか。もう二度と洪水で滅ぼされることはないという神の約束をいただいて、安心しきっていたのかもしれません。そんな心の隙に悪魔が入り込み、お酒という手段を用いて誘惑してきたのです。そのお酒が分別を失わせてしまいました。信仰深いノアでしたが、お酒によって霊的な感覚を失ってしまい、その人生に大きな傷をもたらすことになってしまったのです。

6.ハムの罪(22-23)

さて、そのような父の姿を見た三人の子どもたちは、どのような態度を取ったでしょうか?まずハムです。彼は、父の裸を見て外にいる二人の兄弟たちにそのことを告げました。それでセムとヤペテは着物を取って、自分たち二人の肩に掛け、父の裸を見ないようにして、うしろ向きに歩いて行き、父の裸を覆ったのです。彼らは顔を背けて、父の裸を見ませんでした。この三人のした行為とは、いったいどういうことだったのでしょうか。この後でそのことでハムはのろわれ、セムとヤペテは祝福されています。ハムがのろわれてしまったのはいったいどうしてだったのでしょうか。

まずハムが父の裸を見て、それを外にいたふたりの兄弟に告げたとはどういうことなのでしょうか?このような彼の態度には、父に対する軽蔑(見下げた思いと態度)と、父親の失敗を他人に告げ、それを広げ、批判した(攻撃)したこと。さらには、彼が思っていた父親に対する不満に、兄弟の同調を求めたということが考えられます。それは罪です。出エジプト記20章12節には、「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。」とあります。また、21章17節にも、「自分の父または母をのろう者は、必ず殺されなければならない。」とあります。あるいは、ヤコブ4章11節には、「兄弟たち。互いに悪口を言い合ったりしてはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。」とあります。彼は尊敬し、愛すべきはずの父親の醜態を見たとき他の人にその恥ずかしい姿を見せないように、あるいは、風邪を引いたりしないように配慮してそれを覆うというようなことをしないで、その醜態を嘲笑し、それを兄弟に告げ口して傷口を広げたのでした。

このようなことは、時として私たちにもよくあるのではないでしょうか。他人の欠点、弱点をすぐにあばきたてようとする。人を責め立てるのです。自分の中には大きな梁があるのに、他人の中の小さな塵に目を留めようとする。ガラテヤ6章1節には何と書いてあるでしょうか。「もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人をただしてあげなさい。」とあります。「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」とあります。すなわち、神様がご覧になられるようにほかの人を見、神様が為さるように行動する。それが求められているのです。

それをしたのは他の兄弟セムとヤペテでした。彼らはうしろ向きに歩いて行って、父の裸を見ないように顔を背け、着物で覆ったのです。なぜ彼らはそのようにしたのでしょうか?父の弱さに同情したからです。「何だって父さんもこんな失敗しちゃったけど、回復するように祈ろう」という態度です。父の態度を見て行動したのではなく、神を仰ぎながら父親に近づいたのです。まさに愛はすべての罪を覆うとあるようにです。

7.のろいと祝福(24-27)

さて、そのような三人の息子たちの態度に対して、どのような結果がもたらされたでしょうか?酔いから覚めたノアは、そうした一連の出来事を聞いて、まずハムにいました。「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」

ノアは自分の気分や感情、体面からのろったのではありません。神から罪を赦されなければならない者が、ほかの罪人に対してこれを責めることなどできないからです。彼は、神のさばきを伝達する預言者として、ここでハムに神の御旨をとりついだのです。そして、その内容は、彼はのろわれ、しもべらのしもべとなるということでした。これは後にヨシュアがカナンを征服したとき、カナン人がイスラエルに服従したことや、ソロモンが彼らを奴隷の苦役に徴用したということによって成就しました。

しかし、これは民族としてのカナンというよりも、霊的な意味でのカナンととらえた方がよいと思います。このハムというのは今日の黒人の祖先たちとなった人たちですが、アジア・アフリカの人々の生活の低さというものが、ノアのこののろいから来ているということではありません。というのはこのカナンというのは民族としてのカナンのことではなく、霊的カナンのことだからです。すなわち、霊的なことを軽んじ、神に反逆する者は、神ののろいの中にいるということです。それは今日のヤペテの民族的子孫である白人たちの中にもいるし、逆に霊的ヤペテは、ハムの民族的子孫の中にもいるのです。つまり、こののろいは、神に反逆し、神を神として歩もうとしない人たちすべてに告げられているのろいなのです。 また、セムに対しても言いました。「ほめたたえよ。セムの神、主よ。カナンは彼らのしもべとなれ。」これはセムから後に救い主が誕生することの預言でもあります。このセム系の子孫からアブラハムが生まれ、イエス・キリストが生まれ、人類に救いの祝福がもたらされていくようになるのです。また、ヤペテには、「神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。」と言いました。このヤペテ系の民族から、神の福音を伝える働きをした欧米のキリスト教圏の人々が生み出されました。

このようにてみると、神に従う者への祝福と神に従わない者へののろいがどんなに大きいものかがわかります。始めはそれほど大きな違いがないようですが、三代、四代と続くその子孫の中で、それが大きな広がりをもって現れてくるのです。そういう意味では、この神の祝福の系図が今から広がっていくように、まず私たちがセムやヤペテのように、神のみことばに歩む、信仰の歩みを始めていきたいものです。

ところで、ここでハムではなくハムの子カナンがのろわれているのは、カナンが神の系統であるセムと密接なつながりがあるということと、(地理的、人種的に)末っ子であったハムの、そのまた末っ子であったカナンにまでのろいが相続したことで、カナンがハムの相続者であることが凶兆されているからではないかと思われます。

Ⅰテサロニケ4章13~18節 「祝福された望み」 

きょうはⅠテサロニケ4章13~18節までの箇所から死者の復活についてお話したいと思います。タイトルは、「祝福された望み」です。パウロは4章でテサロニケのクリスチャンたちに三つのことを勧めています。一つは聖くなること、二つ目に互いに愛し合うことです。そして三つ目のことは、互いに慰め合うことです。きょうのところには、三つ目の互いに慰め合うことについて勧められています。いったいクリスチャンにとっての慰めとは何なのでしょうか。18節には、「こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」とあります。これが慰めです。つまり、クリスチャンは死んで終わりではないということ、イエス・キリストが再び来られるとき死んだからだがよみがえり、朽ちることのない栄光のからだによみがえり、一挙に雲の中に引き上げられ、空中で主と会うようになるということ、そのようにして、いつまでも主とともにいるということです。これがクリスチャンの慰めなのです。私たちはこのことばをもって互いに慰め合わなければなりません。きょうはこのことについて三つのポイントお話をしたいと思います。

Ⅰ.知らないでいてもらいたくない(13)

まず13節をご覧ください。ここには「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。」とあります。

「眠った人々」というのは、イエスさまを信じて死んだ人たちのことです。今、この中に眠っている方がおられるでしょうか?その人のことではありません。イエス・キリストを信じて死んで人たちのことです。

ヨハネの福音書11章には、マルタとマリヤの弟ラザロが死んだとき、イエスさまは「彼は眠っている」と言われました(11:11)。また、使徒の働き7章60節でも最初の殉教者ステパノが死んだ時、彼は「眠りについた」と言われています。ですから、眠っている人々というのは、死んだ人々のことを言っているのです。パウロは、この眠った人々のことについて、知らないでほしくないと言いました。なぜでしょうか。なぜなら、他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。

皆さん、何をどう考えるかはとても重要なことです。なぜなら、それによって私たちの世界観が決まるからです。テサロニケのクリスチャンたちはイエスさまが間もなく再臨すると信じその日を迎えることに大きな確信と希望を抱いていましたが、パウロたちがテサロニケを去った後で何人かの兄弟姉妹が死んでしまった時、動揺を隠せませんでした。なぜなら、主の再臨を前にして死んだ人々は再臨の祝福とか、救いの完成にあずかることができないのではないかと思ったからです。しかし、それは彼らの誤解によるものでした。眠った人々のことについて彼らが正しく理解していたら、悲しみに沈むことはなかったのです。

それはテサロニケのクリスチャンたちだけに言えることではありません。私たちも死後のことを知らなかったり、誤解していると、悲しみに沈むことになってしまいます。ですから、聖書の教理を正しく知ることはとても重要なことなのです。私はあまり教理には興味がありませんと言う方もおられますが、もし知らなかったら、他の望みのない人々のように悲しみに沈むことになってしまうのです。そういうことがないように、私たちはこのことについての聖書の教理を正しく知らなければなりません。

特にこれはテサロニケのクリスチャンに向けて言われていることです。パウロはこのテサロニケに三つの安息日にわたって滞在しました。つまり、三週間程度しか滞在できませんでした。ユダヤ人の激しい迫害と妨害があって滞在することができなかたのです。そのような生まれたばかりのクリスチャンにとってどうしても必要な信仰の基礎しか話すことができなかったのです。そんな彼らに対して、眠った人々のことについては、知らないでいてほしくないと言いました。なぜならこれは救いに関する重要な教理だからです。知ってもいい、知らなくてもいいというレベルのことではなく、どうしても知っておかなければならない、キリスト教信仰の根幹に関わる重要な内容だったのです。皆さんは、このことについて知っておられるでしょうか。眠った人々がどうなるかについて、どのように受け止めて目おられるでしょうか。

私たちはイエスさまを信じれば救われるということを知っています。その人のすべての罪は赦されて永遠のいのちが与えられます。これを神学用語で「義認」(justification)と言います。そして、そのように罪が赦された人は、その罪の力から解放されます。それまでは罪の力に全く無力でしたが、罪が赦されたことによって徐々にその罪の支配から解放されて、罪に打ち勝てるようになりました。少しずつですが、イエスさまに似た者に変えられているのです。これを「聖化」(sanctification)と言います。このことはすべてのクリスチャンが経験していることです。しかし、救いはそれだけではありません。未来の側面もあります。やがてイエスさまが再臨される時どうなるかということです。そのときクリスチャンは、死んだ人も生き残っている人も栄光のからだによみがえり、一挙に雲の中に引き上げられ、空中で主と会うようになります。そのようにして、私たちは、いつまでも主とともにいるようになるのです。このことを何というかというと、「栄化」(glorification)と言います。これが救いの完成の時です。パウロがここで言っていることはこの救いの完成、glorificationのことです。そのことはピリピ3章20~21節でも言及されています。

「20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」

私たちはイエスさまを信じて、天に国籍を持つ者とされました。しかし、それだけではありません。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを待ち望んでいるのです。その時、キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださいます。もう二度と罪を犯すことのないからだ、病気になることのないからだ、死ぬことのないからだ、栄光のからだに変えられるのです。まずキリストにあって死んだ人が、次に、生き残っている人が、たちまち雲の中に引き上げられ、空中で主と会うのです。そのようにして、いつまでも主とともにいるようになるのです。これが救いの完成です。これが救いの全貌なのです。何だかビフォアー、アフターみたいですね。それでは全貌をご覧ください。これがその全貌です。だからイエスさまを信じて救われたというだけでは、まだ建物の土台と骨組、屋根、壁が完成して住めるようになったというようなもので、まだ完成はしていないのです。救いの完成はキリストが再臨される時にもたらされます。これがクリスチャンの希望です。そのことがわかるとき、あなたは悲しみに沈むことはありません。このことを知っていたら、現実の生活の様々な困難と苦しみの中にあっても、生きる希望と力が与えられるのです。

Ⅱ.イエスは死んで復活された(14)

では、その根拠は何でしょうか。なぜそのように言えるのでしょうか。なぜなら、聖書にそのように書いてあるからです。このようなことを言うと、中には「何バカなことを言っているんだ」とか、「あれからもう二千年が経っているというのに、キリストの再臨なんかないじゃないか」、「それは象徴にすぎないんだよ」という方がおられるのです。これがノンクリチャンならまだしも、イエスさまを信じているというクリスチャンの中にもそのように言われる方がおられるのです。そこでパウロは、これが実際に起こることであるという根拠、あるいはその保証をここで述べているのです。それは何でしょうか。それはイエスの復活です。14節をご覧ください。ここには、「私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。」とあります。

イエスさまが死んで復活されたのなら、そのイエスを信じるクリスチャンはキリストにつぎ合わされた者なのだから、キリストが復活したように、復活するというのです。「もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」というマルタに対して、イエスさまは、「あなたの兄弟ラザロはよみがえる」と言われました。いったいその根拠は何でしょうか。イエスさまはこのように言われました。ご一緒に読みましょう。ヨハネの福音書11章25節です。

「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)

イエスはよみがえりであり、いのちです。だから、イエスさまを信じる者は、死んでも生きるのです。これが根拠です。これが、私たちが生と死の中で生きなければならない不条理に対する究極の解決であり、慰めなのです。ラザロが死んで悲しみ、泣いているマリヤの姿を見て、また、彼女といっしょにいた人たちも泣いているのを見て、イエスさまは涙を流されました。英語ではたった二文字でこれを表しています。「Jesus wept」(John11:35)です。これは英語の聖書の中で一番短い聖句になっています。イエスさまはなぜ涙を流されたのでしょうか。人は、いろいろな時に涙を流すものです。悲しい時、同情した時、後悔した時、嬉しい時、いろいろな涙があります。しかしそこに共通していることは、人が涙を流す時には必ず何らかの感情が伴っている時であるということです。では、この時イエスさまはどんな感情を持っておられたのでしょうか。33節を見ると、「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて」とあります。イエスさまは、死んだラザロの墓の前で、姉妹のマリアが泣き、一緒に来ていたユダヤ人たちも泣いているのをご覧になられると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて涙を流されたのです。死という冷酷な事実の前に、人は全く無力であるということ、そして人間の愛は引き裂かれ、泣く以外にどうすることもできない存在であるという現実を前に、イエス様は憤りを覚え、心の動揺を感じて涙を流されたのです。つまり、イエス様が涙を流されたのは、人間的には同情の心から出たもののように見えますが実はそうではなく、それ以上に、死というものが、人間にこれほどまでの悲しみをもたらすものであるかを感じられたからなのです。

Ⅰコリント15章26節には、死は「最後の敵」とあります。この死に高らかに勝利したのが、ご自身の死と復活の出来事でした。その主を信じる者は同じように復活することを証明したのが、このラザロの復活という奇跡だったのです。イエス・キリストの死と復活を信じるなら、それを信じるクリスチャンの上にもそれと同じことが必ず実現するのです。

皆さんは、どうでしょうか。やがて朽ちることのないからだ、栄光のからだによみがえるという確信を持っておられるでしょうか。栄光のからだによみがえり、雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うという希望を持っておられるでしょうか。そう信じていても、いざそれが本当に自分の上にも起こるという確信を持てなくなる時があります。しかし、やがて起こるからだにの復活を、感情的にとらえてはなりません。それはただ不安を増大されることになるからです。そうではなく、死んでもよみがえることの保証をイエス・キリストの死と復活、そしてそれを信じる信仰の中に置かなければならないのです。それは変わることのない神のみことばによる約束だからです。

Ⅲ.こういうわけだから(15-18)

最後に、15節から18節までをご覧ください。15節には、「私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。」とあります。

これはパウロが作り出した話ではなく、また、人間が勝手にあみだした教理でもないのです。これは主が語られたことです。それは主のみことばにしっかりと打ち出されていることなのです。その主のみことばのとおりに言うならば、主が再び来られる時まで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。どういうことでしょうか?ここには復活の順序について語られています。主が再び来られるとき、まずキリストにある死者がはじめによみがえり、次に生き残っている人が、たちまち彼らと一緒に雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいるようになるのです。

ところでパウロはここで「生き残っている私たち」と言っています。彼は主の再臨が今すぐに、自分たちが生きている間に起こることとしてとらえていたのです。今この瞬間にも起こるかもしれないという切迫性をもって受け止めていたのです。皆さんはどうでしょうか。そのような切迫した思いでキリストが来られるのを待ち望んでいるでしょうか。もしそのように受け止めていれば、私たちの生活は一変するはずです。もし主が1時間後に来られるとしたらどうでしょうか?家に帰っていろいろ整理するかもしれませんね。これはいらないもの、これは必要なもの、でもやっぱりいらないか・・、と整理してみたら、何もいらなかったとか・・・。パウロはそのような切迫感をもって主を待ち望んでいたのです。

16節と17節をご覧ください。「16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」

主は号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下ってこられます。号令とは、兵士が上官から下される命令のことで、ここでは神の威厳と緊急性を表しています。また、御使いのかしらの声とは、天使長ミカエルの声とも考えられていますが、はっきりしたことはわかりません。それから、神のラッパの響きとは、Ⅰコリント15章52節にある「終わりのラッパ」のことです。このラッパの高らかな響きと共に、ご自身が天から下ってくると、一瞬のうちに、変えられるのです。まずキリストにある死者です。キリストにあって死んだ人たち初めによみがえり、次に、生き残っている人たちです。生き残っている人たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、いつまでも主とともにいることになるのです。

皆さん、これを想像してみてください。今までいっしょにいた人が急にいなくなるのです。「あれ、私の妻がいなくなった」「私の夫もよ」と大きな社会ニュースになりますが、いったいどこへ行ってしまったのかわからないのです。

全米でベストセラーになった小説で、映画にもなった「レフトビハインド」は、この出来事、つまり空中携挙といって、空中に引き上げられることを描いた映画です。ある日突然イエスさまを信じていた人々や幼い子供たちが姿を消してしまうのです。ジャンボジェットの機長をつとめるレイフォード・スティールは乗務員のハティーに夢中になっていました。彼には妻子がいましたが、妻のアイリーンはキリスト教信仰に深く傾倒していたので、彼はそんな妻を遠ざけていたのです。そんな彼がふと操縦室を出てハティーのもとに行くと、彼女が何かでおびえていました。彼女は慌ててレイフォードを調理室に引っ張っていくと、そこで突如として機内に起こった異常を告げたのです。何と乗っていた多くの乗客が、身につけていたものを残して消えてしまったのです。しかもこの現象は、機内に限らず全世界で起こっていました。いったい何が起こったのか・・。宇宙人による誘拐説などいろいろな説が入り混じる中、黙示録の予言が成就したのだということを見抜いた人もいました。その一人、ブルース・バーンズという牧師は携挙されませんでした。彼は牧師でありながら救われていなかったのです。しかし、この事で彼は自らの信仰を見つめ直し、人々にキリストを信じるようにと説得しました。一方、妻と息子を携挙で失ったレイフォードは牧師のブルースと出会い、信仰に生きるようになります。やがて反抗的であった娘も回心し、それ以外でも様々な人々が信仰に目覚めていったのです。

いったいなぜある人が突然いなくなってしまうのか。それは引き上げられるからです。イエスさまを信じた人はみな、死んだ人も、生き残っている人も一瞬のうちに朽ちないものによみがえり、空中に引き上げられるのです。これを「携挙」と言います。それで突然多くの人がいなくなってしまうのです。しかし、それは祝福された望みです。なぜなら、そのように引き上げられ、空中で主と会い、そのようにしていつまでも主とともにいるようになるからです。それはまさにイエスさまとの結婚式なのです。花婿なるキリストが、花嫁なる教会を迎えに来て、そこでふたりは固く結ばれます。もう二度と離れることはありません。ずっと待ち望んだイエスさまとの結婚式が実現するのです。ですから、それは最高の喜びの時でもあります。でも、地上はそうではありません。地上では神の怒りによるさばきの時を迎えます。彼らはイエスさまを信じなかったので、七年間にわたって患難がもたらされるのです。それは私たちが時々経験するような苦しみとか試練といったものではありません。それは神の怒りによる激しいさばきです。しかし、クリスチャンはこのさばきに会うことはありません。なぜなら、「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」(Ⅰテサロニケ5:9)ですから、クリスチャンはこのさばきに会うことはないのです。クリスチャンは引き上げられて、空中で主と会い、いつまでも主とともにいることになるのです。これは希望ではないでしょうか。パウロはこの希望のことを「祝福された望み」と言っています。テトス2章13節をお開きください。ここには、「祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現れを待ち望むようにと教えさとしたからです。」とあります。

皆さん、これはただの望みではありません。これは祝福された望みです。大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光の現れ、これはキリストの空中再臨のことですが、これは私たちにとって祝福された望みなのです。その時私たちは朽ちることのないからだによみがえって、一挙に引き上げられ、空中で主と会い、いつまでも主とともにいるようになるからです。その時私たちの救いは完成するのです。これが本当の望み、祝福された望みなのです。

皆さんも、たくさんの希望があると思います。将来はレスキュー隊に入り多くの命を救いたいとか、レントゲン技師になって、看護師になって多くの人を病気から救いたい、愛する人と結婚して幸せな家庭を築きたい、元気に赤ちゃんが生まれてきてほしい・・・。どれもすばらしい望みです。しかし、この望みは特別な望み、祝福された望みです。この希望は失望に終わることがありません。何があっても決して失われることのない希望、それがイエス・キリストの栄光ある現れ、携挙なのです。

クリスチャンにはこの希望が与えられています。この希望があることを知っていたら、あなたは悲しみに沈むことはありません。たとえ現実の生活の中に困難や苦難があっても、この希望のゆえに乗り越えることができるのです。この希望があなたの慰め、生きる力となるからです。

有名な賛美歌「いつくしみふかき」を書いたのは、ジョゼフ・スクラビンという19世紀のアイルランド人です。彼の生涯は、この世的には全く恵まれないものでした。大学卒業後に事業を営みますが、結婚式を目前にしてその婚約者を湖の事故で亡くします。事業においても失敗して破産するのです。その後アイルランドからカナダに渡り、教鞭を取りながら、不幸な人や貧しい方たちへの奉仕活動にその生涯を献げました。そんな活動の中で出会った女性と婚約しますが、その女性も結核を患い、帰らぬ人となるのです。彼は1度ならず2度までも愛する婚約者を失うのです。世をはかなみ、自分の人生をどれほど呪ったことでしょうか。神を恨んでも仕方がないと思えるような状況の中で、彼は郷里のアイルランドで病に苦しむ母を慰めるために、この讃美歌を書いたのです。神を呪いたくなるほどの試練と苦悩を味わいながらも、悩みと苦しみの中にある自分を慰め、力づけてくれたのは何だったのでしょうか。それはイエス・キリストでした。イエス・キリストによってもたらされる望みだったのです。

「1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:1-5)

こ の神の愛は、あなたの心にも注がれているのです。なぜなら、あなたも、神の栄光を望んで大いに喜んでいるからです。「このことばをもって互いに慰め合いなさい。」私たちはいつもここに希望を置き、このことばをもって互いに慰め合う者でありたいと思います。私たちには祝福された望みが与えられているのですから。

Ⅰテサロニケ4章1~12節 「主の召しにふさわしく」

きょうは、「主の召しにふさわしく」という題でお話します。「召し」とは「ご飯」のことではありません。呼び招くことです。クリスチャンは主に呼び招かれた者です。ですから、その召しにふさしく生きる者でなければなりません。きょうは、その召しにふさわしい歩みとはどのような者なのかについて学びたいと思います。

Ⅰ.クリスチャン生活の基準(1-2)

まず1節と2節をご覧ください。「1 終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します。あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。2 私たちが、主イエスによって、どんな命令をあなたがたに授けたかを、あなたがたは知っています。」

ここでパウロは、テサロニケの人たちにお願いし、勧告しています。これは3章13節のことばを受けての勧告です。3章13節には、「また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。」とあります。やがて主イエスが再び来られるのですから、その時に、私たちの神の御前で、聖く、責められるところがないように、しっかりとそれに備えておくようにということですが、そのための勧告であります。ここでは三つのことを勧めています。第一のことは聖くなること、第二のことは互いに愛し合うこと、そして第三のことは、互いに慰め合うことについてです。いったい何が慰めなのでしょうか。このことについては来週お話したいと思います。きょうは、最初のの二つの勧告を見ていきたいと思いますが、その前に、ここにはその前提が述べられています。それは、「あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。」ということです。

ここには「歩む」という言葉が強調されています。この「歩む」というのは何かというとクリスチャンライフのことです。私たちの信仰はただ聖書を頭で学ぶだけのものではありません。その学んだことを実際の生活に適用し、神に従うということを通して実践するわけです。それがクリスチャンの歩みです。その歩みのポイントは何かというと、どのようにして神を喜ばすことができるかということです。以前はそうではありませんでした。以前は、どのようにして自分を喜ばすことができるかということでした。しかし、神によって救われてクリスチャンになってからは、どのようにしたら神を喜ばすことができるかを考えて歩むようになりました。なぜなら、私たちは神によって造られ、神によって救われた者だからです。ですから、その造り主であり救い主である神の喜びは何か、何が良いことで神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえて生きるようになりました。ローマ12章1節、2節にそうあります。神の喜びは何かが、クリスチャン生活の基準なのです。

皆さんは、よくリストバンドなどにW.W.J.D.と印字されたものを見かけたことがあるでしょうか。あれはWhat would JESUS do?の頭文字をとったものです。意味は、イエス様ならどうするか?です。それまではいつも自分のしたいことをしていました。しかし、イエス様によって救われた今は違います。自分がしたいことではなく、イエス様が私たちにしてほしいと願っておられることを考えて歩むようになりました。それがクリスチャンです。それがクリスチャンの行動の基準なのです。

それはすでにこのテサロニケの教会の人たちが歩んでいたことです。しかし、パウロはここで「ますますそのように歩んでください」と言っています。クリスチャンにとってもう十分だということはありません。これで十分だと言ったとたんにバックスライドし始めます。クリスチャンが前に進んでいる限りにおいては大丈夫なのですが、もう十分ですそこに立ち止まった瞬間にバックスライド(後退)するのです。ですから、へブル人への手紙6章1節にはこう勧められているのです。

「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。」

皆さん、私たちは初歩の教えで満足するのではなく、常に成熟を目指して進む者でありたいと願わされます。もちろん、そうでないと救いから落ちるということではありません。それでも天国にはいけるので問題ないのですが、神のみこころは、私たちが成熟を目指して歩み続けることなのです。

テサロニケ4章に戻りまして、2節を見ると、「私たちが、主イエスによって、どんな命令をあなたがたに授けたかを、あなたがたは知っています。」とあります。1節にも「主イエスにあって、お願いし、また勧告します」とありました。どういうことかというと、これはパウロの個人的な意見ではないということです。これはパウロが主イエスから受けた命令なのです。それをパウロを通して語っているにすぎないのです。ですから、これを人の言葉として軽くあしらってはなりません。これは主イエスの勧告なのです。この天地万物を造られた創造主なる神の、王の王、主の主であられるイエスの言葉なのです。そう受け止めて、私たちは、ますますそのように歩む者でありたいと思います。

Ⅱ.神のみこころはきよくなること(3-8)

次に3節から8節までをご覧ください。「3 神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、4 各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、5 神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、6 また、このようなことで、兄弟たちを踏みつけたり、欺いたりしないことです。なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。これは、私たちが前もってあなたがたに話し、きびしく警告しておいたところです。」

私はよくクリスチャンの方から相談を受けることがあるのですが、その中で一番多い相談は、「神のみこころは何でしょうか」というものです。「神は私に何を望んでおられるのでしょうか」ということです。それが聖書に具体的に書いてある時は確信をもって「神のみこころは・・・です」と言うことができるのですが、時には微妙なケースもあります。微妙なケースというのは、聖書ではっきり言っていないことや、置かれた状況によってはどちらでもいい場合です。そういう時には返答に困ってしまう時があるのですが、ここには100パーセント、これは神のみこころだということが書かれてあります。それは何かというと、聖くなることです。ここには、「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。」とあります。

聖くなるとはどういうことでしょうか。この「聖い」と訳されている言葉はギリシャ語で「ハギオス」ということばですが、ある目的のために分けるという意味です。ここでは神の目的のために分けること、区別することを指しています。ですから、これを「聖別」とか、「聖化」とも言うのです。7節にも同じことばが使われていますが、ここでは「聖潔」と訳されています。聖潔の聖は、「清」ではなく「聖」ということばを使われています。これは単に清いということではなく、神のために区別されていることを示しているからです。Ⅰペテロ1:15-16には、「15 あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。16 それは、『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない』と書いてあるからです。」とあります。『』の部分はレビ記11章44節等からの引用ですが、神が私たちを召されたのは何のためか、それは私たちが神のようになるためです。それで、神は聖ですから、あなたがたも聖でなければならない、というのです。これが神のみこころなのです。

その具体的な一つのこととして、ここでは不品行を避けるということが語られています。不品行とは、性的な不道徳のことです。パウロが手紙を書き送っているテサロニケは異教の町で、異教的な習慣がはびこっていました。その一つは、妻の他にめかけがいたことのです。日本でも明治時代の前半までは、政治家や高級官僚、財界人と言われるようなクラスの経済人、大地主の多くは、こうしためかけがいたと言われています。それが普通の社会だったのです。ちゃんと働いて家族を養っていれば、めかけがいても問題ではないと思われていました。特にパウロはこの手紙をコリントという所で書いていましたが、コリントの町は性的不道徳がはびこっていた町で、教会の中でさえ、父の妻を妻とする者もいたほどで、そうしたコリントの人たちのふるまいを、「コリントのようにふるまう」と言われていたほどです。パウロはこのコリントの町にいて、テサロニケの人たちのことが心配だったのでしょう。異邦人の町ではこうしたことが当たり前のように行われているけれども、あなたがたの間ではそうであってはならない。神のみこころは、あなたがたが聖くなることであり、そうした異邦人の中にあっても情欲におぼれることなく、各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保つようにと書き送ったのです。

いったいなぜ神はこのように望んでおられるのでしょうか。ここに二つの理由が述べられています。一つは、私たちのからだは神から受けた聖霊の宮であるからです。4節には、「各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、」とありますが、この「からだ」と訳されたことばは「器」のことです。Ⅰコリント6章19-20節には、「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」とあります。私たちのからだは、神から受けた聖霊の宮なのです。大切な神の聖霊が住んでおられる器なのです。その器であるからだを不品行によって汚すようなことがあってはなりません。だから、不品行を避けなさい、と勧められているのです。

また、Ⅱコリント4章7節にもこの「器」ということばが使われていて、そこには、「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」とあります。この宝とは、文脈からイエス・キリストのことであるのがわかります。あるいは、イエスの御霊である聖霊のことであると言ってもいいでしょう。その宝を、この土の器の中に入れているのです。この土の器とは何でしょうか。それはからだのことです。この土の器のように落としたらすぐに壊れて砕き散ってしまうような器の中に、計り知れない宝を入れているのです。その器を、いったい何のために使おうとしているのでしょうか。それを自分の快楽のためにではなく、神の栄光のために使いなさい、と言われているのです。これまでは自分のからだは自分のものだと思って、自分の目的のために使っていました。自分の快楽のためとか、願望のために使っていたのです。しかし、これからはそうであってはなりません。これからは神が喜ばれるように、神の栄光のために用いなさい、というのです。

もう一つの理由は6節にあります。それは、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりすることになるからです。踏みつけるということばは限度を超えるという意味ですが、神の家族としての一線を越えることになるのです。そのようなことで神の家族を破壊し、主にある兄弟姉妹を傷つけてはならないのです。神のみこころは、私たちが生くなることです。私たちが不品行を避け、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことなのです。

Ⅲ.互いに愛し合うこと(9-12)

主の召しにふさわしい第二のことは、互いに愛し合うことです。9節と10節をご覧ください。「9 兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。10 実にマケドニヤ全土のすべての兄弟たちに対して、あなたがたはそれを実行しています。しかし、兄弟たち。あなたがたにお勧めします。どうか、さらにますますそうであってください。」

「兄弟愛」と訳されたことばギリシャ語でフィラデルティアという言葉ですが、これは主にある家族が兄弟姉妹として抱く愛のことです。ここでは、この愛については、何も書き送る必要がないと言われています。なぜでしょうか?なぜなら、彼らはこのことを神から教えられた人たちだからです。つまり、それをよく実践していた人たちであったということです。その具体的な例が10節にあります。実に彼らはマケドニヤ全土のすべての兄弟たちに対して、それを実行していました。彼らはマケドニヤ州全土にいる他のクリスチャンに対して、悩む者を慰め、貧しい人々に助けの手を差し伸べていたのです。後になってパウロはコリントの教会に宛てて、次のような手紙を書き送りました。Ⅱコリント8章1節から5節までを開いてみたいと思います。

「1 さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。2 苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。3 私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、4 聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。5 そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。」(Ⅱコリント8:1-5)

このマケドニヤの諸教会というのは、テサロニケの教会を中心とした諸教会のことですが、彼らはエルサレムの教会を助けようと、迫害の苦しみの中にあっても、また、極度の貧しさの中にあっても、自ら進んで、力に応じて、いや力以上にささげました。彼らは自分たちが経済的に余裕のない者であったにもかかわらず、他者への支援を惜しみませんでした。なぜ彼らはそのようなことができたのでしょうか。それは主イエス・キリストの恵みを知っていたからです。すなわち、主は富んでおられたのに、私たちのために貧しくなられました。それは、彼らがキリストの貧しさによって富む者となるためです。その恵みが満ちあふれる喜びとなって、あふれ出て、惜しみなく施す富となったのです。

「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」(Ⅰヨハネ4:11)

「神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら・・」神に深く愛された者だけが、兄弟姉妹を愛することができます。イエス様の足を涙でぬらし、それを髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油をぬった女もそうです。いったい彼女がなぜそこまでできたのか?それは彼女の多くの罪が赦されたからです。イエス様はこう言われました。「少ししか赦されない者は、少ししか愛せません。」(ルカ7:47)そうです、彼女の多くの罪は赦されたのでよけいに愛することができたのです。少ししか赦されない者は少ししか愛せません。私たちは主にどれだけ赦されたのか、どれだけ愛されたのかによって、互いに愛し合うことができるのです。それが互いに愛する原動力となります。ですから、私たちは互いの兄弟愛の足りなさを指摘する前に、もう一度、すべての愛の出発点であるこの神の愛から謙虚に学ばなければなりません。

それにしても、テサロニケの教会は受けるだけで満足する教会ではありませんでした。受けて、その満ちあふれる喜びが、惜しみなく施す富となってあふれ出ていたのです。そんなテサロニケの教会に対してパウロは、この兄弟愛については、もう何も書き送る必要はないと言いました。彼らに必要なのは、ますますそうであるようにということだったのです。私たちは時として自分のこととか、自分の教会のことにしか目がいかず、その枠の中での献金や奉仕で満足しがちですが、このマケドニヤの諸教会、テサロニケの教会のように、自分たちのことだけでなく、他者のことも顧みて、喜んでささげていく、そんな群れにさせていただきたいとものです。今日でも、まだ小さな群れであるにもかかわらず、海外宣教や対外援助に重荷を持って積極的にささげている教会の姿を見ることがありますが、そのような信仰の姿を見ると本当に励ましを受けます。私たちは、そのような教会になりたいと願っています。激しい戦いや極度の貧しさにもかかわらず、主に救われた喜びがあふれ出て、それが惜しみなく施す富となっていく教会、聖徒たちを支える交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に願う教会、そんな教会になりたいのです。来週も錦秋湖のキャンプ場からキャンプラリーブリでお越しになられますが、最大級のおもてなしをさせていただきたいと思うのです。また、先日もウォーク・ウィズ・ジーザスが行われましたが、そんなささやかなおもてなしが、彼らのこころとからだをいやすために用いられたとしたら、どんなに幸いかと思うのです。何よりも、誰よりも、そうした交わりの恵みに預かりたいと願い、祈り、ささげ、労する人たちが一番大きな恵みを受けるのではないでしょうか。私はそう思うのです。そして、この愛のわざは、これで十分ということはありません。「どうか、さらにますますそうであってください」とあるように、ますますそうありたいと願います。

11節と12節には、「11 また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。12 外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです。」とあります。互いに愛し合うことと、落ち着いた生活を志すこと、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働くことに、いったいどんな関係があるというのでしょうか?当時、このテサロニケの教会の中には、主の再臨について間違って理解している人たちがいました。確かに主はすぐにやって来ると言われましたが、だったら何をしたってむだだ、もう働く必要なんてないと、仕事を放棄している人たちがいたのです。しかしそれは極端な再臨の理解であり、不健全な信仰にほかなりません。落ち着いた生活を志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働いてこそ、主が来られるのを真剣に待ち望む者の姿なのです。

なぜなら、そのように自分の仕事に身を入れ、自分の手で働くことによって、外部の人々に対して良い証となるからです。また、自分にとっても乏しいことがなくなるからです。クリスチャンだと言いながら仕事が適当であったり、さぼりがちであったりしたら、まわりにいる人たちに対してあまりいい証にはなりません。クリスチャンだからといって学業をいい加減にしたり、さぼったりしていたら、それを見たまわりの人が「すばらしい」とか、「かっこいい」なんて言って、キリスト教の偉大さに心打たれることなどないでしょう。自分に与えられた仕事に身を入れ、人がやりたくないようなことでも熱心にやったりすることで、外部の人たちに対してもりっぱにふるまうことができるのです。

いったいなぜこんなことを書く必要があったのでしょうか。それはクリスチャンの中で互いに愛し合うということを間違って理解している人たちがいたからです。私たちの中にはどこか、この兄弟愛の意味をはき違えているところがあります。むやみに人を援助するだけでは、それが相手にとって本当の助けにはならないもあるのです。Ⅱテサロニケ3章8節には、テサロニケの教会に、人のパンをただで食べる人がいたことが指摘されていますが、ということは、教会内にそれを許している人たちがいたということです。もちろん、いろいろな事情があって働きたくても働けない人もいるでしょう。病気でからだが動かない人もおられます。そのような方々に対してはむしろ積極的に援助すべきです。しかし、そうでいない人たちに対しては、つまり、働けるのにそうしない人たちには、ただでパンをあげるということはふさわしくありません。それは決して兄弟愛でも何でもないのです。むしろ、その人をだめにしてしまいます。そのような人に必要なことは、自分の手で働くということです。そのことを教え、そのために援助すべきなのです。パウロは、健全な兄弟愛とは他の人を自立した生活へと導くことでもあるということを伝えたかったのです。

私たちはどうでしょうか。聖さにおいても、兄弟愛においても、神のみこころにかなった者となっているでしょうか。もしそうであるなら、さらにますますそうであるように求めていきましょう。もしそうでないなら、悔い改めて、神のみこころに歩めるように、ご聖霊の恵みに信頼したいと思います。あの姦淫の現場で捕えられ、イエス様のもとに連れて来られた女性に対して、主はこう言われました。「あなたを罪に定める人はいなかったのですか。わたしも、あなたを罪に定めない。今からは決して罪を犯してはなりません。」それは私たちに対する言葉でもあります。私たちも過去においては失敗や過ち、罪を犯して神のみこころにかなわない者であったかもしれません。兄弟愛についても、互いに愛し合うことよりも、人をさばくことがあったかもしれません。けれども、神が私たちを召されたのは、汚れを行わせるためではなく、聖潔を得させるためです。その召しにふさわしく歩めるように、イエス様がいつも祈っていてくださいます。その祈りに答えて、神が喜ばれるような歩みを、歩もうではありませんか。ますますそのように歩もうではありませんか。私たちはそのために召されたのですから。

民数記3章

きょうは民数記3章から学びます。まず1節から4節までをお読みします。

1.アロンの系図(1-4)

「1 がシナイ山でモーセと語られたときのアロンとモーセの系図は、次のとおりであった。2 アロンの子らの名は長子ナダブと、アビフと、エルアザルと、イタマルであった。3 これらはアロンの子らの名であって、彼らは油そそがれて祭司の職に任じられた祭司であった。4 しかしナダブとアビフは、シナイの荒野での前に異なった日をささげたとき、の前で死んだ。彼らには子どもがなかった。そこでエルアザルとイタマルは父アロンの生存中から祭司として仕えた。」

ここには、主がシナイ山でモーセに語られた時のアロンとモーセの系図が記されてあります。アロンの子らの名は長男がナダブで、次にアビフ、エルアザル、イタマルです。彼らは油注がれて祭司の職に任じられた祭司たちでした。モーセもアロンも皆レビ族の出身です。しかし、すべてが祭司なれるのではありません。祭司になれるのはアロンの家系だけです。その他のレビ族の人たちは、アロンの家系をアシストするために召されていました。

しかし、アダブとナビフは、シナイの荒野で異なった火をささげたので、主の前に死にました。これは、レビ記10章に出てきた内容です。彼らは異なった火をささげたので、主の前で息絶えました。この異なった火とは何かというと、彼らは大祭司しか入ることのできない至聖所に入っていけにえをささげたのです。レビ記16章1節には、「アロンのふたりの子の死後、すなわち、彼らが主の前に近づいてそのために死んで後、主はモーセに告げられた。主はモーセに仰せられた。「あなたの兄アロンに告げよ。かってな時に垂れ幕の内側の聖所にはいって、箱の上の『贖いのふた』の前に行ってはならない。死ぬことのないためである。」とある。すなわち、この二人の息子は、大祭司である父親のアロンしかできないことを、自分たちの手でやろうとしたのです。彼らは、自分たちにもできると思いました。彼らは主がしてはならないと命じられたことを勝手に行ったのです。それゆえに、彼らは火で焼き尽くされてしまいました。そこでエルアザルとイタマルが祭司として仕えました。

2. レビ部族を近寄らせ(5-10)

次に5節から10節までを見ていきましょう。ここには、「5 はモーセに告げて仰せられた。6 「レビ部族を近寄らせ、彼らを祭司アロンにつき添わせ、彼に仕えさせよ。7 彼らは会見の天幕の前で、アロンの任務と全会衆の任務を果たして、幕屋の奉仕をしなければならない。8 彼らは会見の天幕のすべての用具を守り、またイスラエル人の務めを守って、幕屋の奉仕をしなければならない。9 あなたは、レビ人をアロンとその子らにあてがいなさい。彼らはイスラエル人の中から、正式にアロンにあてがわれた者たちである。10 あなたは、アロンとその子らを任命して、その祭司の職を守らなければならない。ほかの人で近づく者は殺される。」とあります。

ここには他のレビ族の人たちの幕屋における奉仕について書かれてあります。彼らはアロンとその子らにあてがわれました。アロンとその子らの働きをサポートして、祭司たちがそれができるように助けたのです。聖所における奉仕はみな、アロンとその息子たちが行いましたが、それに付随する働きはレビ人たちが担ったのです。ですから、たとえレビ人といえども、聖所の中での奉仕をすることはできませんでした。それはアロンとその子たちだけに許されていたことであり、ほかの人で近づく者は殺されたのです。

3.レビ人はわたしのもの(11-13)

次に11節から13節です。「11 はモーセに告げて仰せられた。12 「わたしはイスラエル人のうちで最初に生まれたすべての初子の代わりに、今これからイスラエル人の中からレビ人を取ることにした。レビ人はわたしのものである。13 初子はすべてわたしのものだからである。エジプトの国でわたしがすべての初子を打ち殺した日に、わたしは、人間から始めて家畜に至るまでイスラエルのうちのすべての初子をわたしのものとして聖別した。彼らはわたしのものである。わたしはである。」

ここには、レビ人を初子の代わりとして聖別することが語られています。神は、イスラエル人のうちで最初に生まれたすべての初子の代わりに、レビ人をとることにした、と言われました。なぜなら、初子はすべて神のものだからです。イスラエルがエジプトの奴隷として仕えていたとき神はそこから彼らを救い出そうとされたとき、エジプト中の初子という初子を殺されました。それを殺して聖別されたのです。ですから、初子は神のものなのです。その初子の代わりに、神はレビ人をとられたのであります。つまり、その初子を自分のものとしたければお金を払って買い取らなければならなかったのですが、その身代金がレビ人であったわけです。

4.レビ族の登録(14-26)

そこで主は、レビ族をその氏族ごとに登録するようにと命じられました。14節から26節までをご覧ください。

「14 はシナイの荒野でモーセに告げて仰せられた。15 「レビ族をその父祖の家ごとに、その氏族ごとに登録せよ。あなたは一か月以上のすべての男子を登録しなければならない。」16 そこでモーセはの命により、命じられたとおりに彼らを登録した。17 レビ族の名は次のとおりである。ゲルションと、ケハテと、メラリ。18 ゲルション族の氏族名は次のとおりである。リブニとシムイ。19 ケハテ族の諸氏族はそれぞれ、アムライとイツハル、ヘブロンとウジエル。20 メラリ族の諸氏族は、それぞれ、マフリとムシ。これらがその父祖の家によるレビ人の諸氏族である。21 リブニ族とシムイ族はゲルションに属し、これらがゲルション人の諸氏族であった。22 数を数えて登録された者は、一か月以上のこれらすべての男子で、登録された者は、七千五百人であった。23 ゲルション人諸氏族は、幕屋のうしろ、すなわち西側に宿営しなければならなかった。24 ゲルション人の、一族の長は、ラエルの子エルヤサフであった。25 会見の天幕でのゲルション族の任務は、幕屋すなわち天幕と、そのおおい、会見の天幕の入口の垂れ幕、26 庭の掛け幕、それに幕屋と祭壇の回りを取り巻く庭の入口の垂れ幕、そのすべてに用いるひもについてである。」

そここで注目してほしいことは、一か月以上のすべての男子が登録されたということです。1章では荒野を進んで行くイスラエルは、20歳以上の男子が数えられましたが、レビ人は一ヶ月以上の男子が数えられています。なぜでしょうか?イスラエル人は軍務につくのですから、成人でなければその任務を行なうことはできませんが、レビ人は、神の働きに召された者だからです。もちろん、一歳にもならない赤ちゃんが、幕屋の奉仕をすることはできません。けれども、彼らは主が臨在しておられるその場所に小さい頃から置かれ、そこで親から神様のことをいろいろ教えてもらうことによって主に仕える備えがされていたのです。そのことがすでに主の前で奉仕として数えられているのです。

それは霊的には私たちのことを指しています。私たちはみなキリストによって贖われた神の民です。祭司であり、レビ人です。神の働きのために選ばれた者なのです。そのような者は生まれて一か月の時から神のもとに置かれているのです。生まれたばかりの霊的赤ん坊にとって幕屋で仕えるということはできないかもしれませんが、主のみそばのそばに置かれる必要があるのです。ただ主の愛と恵みの中に置かれ、そこから神のことを学び取っていかなければなりません。彼らにとって必要なことは奉仕をすることではなく、主の臨在に触れること、主のみことばを聞くという環境に身を置くことなのです。奉仕はその後でいいのです。それなのにすぐに奉仕をさせてしまうことがあります。しかし、みことばを聞くことが彼らにとっての奉仕なのです。もちろん、いつまでも聞くだけではいけません。聞いて、それを実行しなければなりません。しかし、初めは神の臨在に置かれるだけでいいのです。そこで神のことばを聞き、神の恵みに満たされること、後の働きに備えて、十分愛情をいただくだけでいいのです。

そして、レビ族はさらに氏族ごとに分けられ、おのおのの氏族ごとに数えられます。レビ族には三つの氏族がいます。ゲルション族とケハテ族とメラリ族です。まずゲルション族についてですが、

ゲルションの意味は「追放された者」です。人気グループに「EXILE」というグループがいますが、それがこのゲルションの意味です。ですから、ゲルションはEXILE、追放された者であります。その人数は7500人でした。彼らは幕屋のうしろ、すなわち、西側に宿営しました。彼らの天幕での任務は、幕屋すなわち天幕と、そのおおい、会見の天幕の入口の垂れ幕、庭の掛け幕、それに幕屋と祭壇の周りを取り巻く庭の入り口の垂れ幕、そのすべてに用いるひもについてでありました。

幕屋は主に三つのものによって成り立っていました。まず契約の箱と祭壇などの道具です。それから、それらを取り囲む板や、板をつなぐ棒などです。そしてもう一つはその上にかける幕です。ゲルション族の奉仕は、幕屋の幕を取り外し、それを運び、また取り付ける奉仕でした。これは地味な奉仕のようですが、天国における報いの大きい奉仕だと思います。これは霊的にはとりなしの祈りを表していると言ってもいいでしょう。幕によって覆うのです。それがとりなしの祈りです。ヤコブ5章19-20節には、「19 私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、20 罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということ、あなたがたは知っていなさい。」とあります。

またⅠペテロ4章7-8節にも、「7万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。8 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」とあります。愛は多くの罪を覆います。祈りによって心を備えなければなりません。主の再臨のために。

5.ケハテ族(27-32)

次に27節から32節までをご覧ください。ここにはケハテ族について書かれています。「27 アムラム族、イツハル族、ヘブロン族、ウジエル族はケハテに属し、これらがケハテ人の諸氏族であった。28 これらの一か月以上のすべての男子を数えると、八千六百人であった。彼らが聖所の任務を果たす者である。29 ケハテ諸氏族は、幕屋の南側に沿って宿営しなければならなかった。30 ケハテ諸氏族の、一族の長は、ウジエルの子エリツァファンであった。31 彼らの任務は、契約の箱、机、燭台、祭壇、およびこれらに用いる聖なる用具と垂れ幕と、それに関するすべての奉仕である。32 レビ人の長の長は祭司アロンの子エルアザルであって、聖所の任務を果たす者たちの監督であった。」

ケハテ族の人数は8600人であり、彼らは幕屋の南側に宿営しました。彼らの任務は、契約の箱、机、燭台、祭壇、およびこれらに用いる聖なる用具と垂れ幕と、それに関する奉仕でした。ケハテの意味は「集まり」です。モーセもアロンも、ミリヤムも、このケハテ族の出身でした。32節を見ると、レビ人の長の長は祭司アロンの子エルアザルであって、聖所の任務を果たす者たちの監督であった、とあります。ゲルションの長はエルヤサフ、ケハテの長はエリツァファンでした。けれども、その彼らを取りまとめる人がアロンの子エリアザルです。アロンの後継者です。彼は、聖所の任務を果たす者のところで監督しました。これらの用具は聖なるものであり、運搬にはとくに注意を要したからです。エルアザルの意味は「神は助ける」ですが、この聖所の任務には、特別な神の助けが求められたのでしょう。

6.メラリ族(33-39)

次はメラリ族です。33-39節をご覧ください。「33 マフリ族とムシ族はメラリに属し、これらがメラリの諸氏族であった。34 数を数えて登録された者は、一か月以上のすべての男子で、六千二百人であった。35 メラリ諸氏族の父の家の長は、アビハイルの子ツリエルであった。彼らは幕屋の北側に沿って宿営しなければならなかった。36 メラリ族に任じられた務めは、幕屋の板、その横木、その柱と台座、そのすべての用具およびそれに用いるすべてのもの、37 庭の回りの柱とその台座、その釘とそのひもについてである。38 幕屋の正面、すなわち会見の天幕の前方に当たる東側に宿営する者は、モーセとアロンまたその子らで、イスラエル人の任務に代わって、聖所の任務を果たす者たちであった。ほかの人でこれに近づく者は殺される。39 モーセとアロンがの命により、氏族ごとに登録した、すべての登録されたレビ人は、一か月以上のすべての男子で、二万二千人であった。」

メラリ族については、人数が6200人で、北側に宿営しました。彼らに任じられた務めは、幕屋の板、その横木、その柱と台座など、そして、庭の回りの柱とその台座、その釘とひもについての奉仕でした。これは幕屋の屋台骨を支えるような奉仕です。いわば縁の下の力持ちのような働きです。そればかりではありません。ここには、釘1本、ひも1本のような小さな奉仕でした。これでも主にお仕えできるのです。いや、こうした小さな奉仕が重要なのです。イエス様は、「小さい事に忠実な人は、大きいことにも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。」

(ルカ16:10)と言われました。小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実なのです。そういう人に主は、大きな働きをゆだねられるのです。

7.幕屋の正面(38-39)

そして最後に幕屋の正面です。38-39節です。「38 幕屋の正面、すなわち会見の天幕の前方に当たる東側に宿営する者は、モーセとアロンまたその子らで、イスラエル人の任務に代わって、聖所の任務を果たす者たちであった。ほかの人でこれに近づく者は殺される。39 モーセとアロンがの命により、氏族ごとに登録した、すべての登録されたレビ人は、一か月以上のすべての男子で、二万二千人であった。」

幕屋の正面、すなわち会見の天幕の前方に当たる東側に宿営する者は、モーセとアロンまたその子らで、イスラエル人の任務に代わって、聖所の任務を果たす者たちであった。ほかの人でこれに近づく者は殺されました。幕屋の東側というのは幕屋への入り口があった場所です。そこは聖所への通り道でもありました。ですから、聖なる神にもっとも近いところであり、仲介役のモーセ、そしてアロンしか近くに宿営することが許されませんでした。モーセとアロンが主の命により、氏族ごとに登録したレビ人は、一か月以上のすべての男子で、二万二千人でした。

8.イスラエル人の初子の贖いの代金(40-51)

最後に40節から51節を見て終わりたいと思います。ここにはイスラエル人の初子が数えられています。「40 はモーセに仰せられた。「イスラエル人のすべての一か月以上の男子の初子を登録し、その名を数えよ。41 あなたは、わたしのために、わたし自身、のために、イスラエル人のうちのすべての初子の代わりにレビ人を取り、またイスラエル人の家畜のうちのすべての初子の代わりに、レビ人の家畜を取りなさい。」42 モーセはが彼に命じられたとおりに、イスラエル人のうちのすべての初子を登録した。43 その登録による、名を数えられたすべての一か月以上の男子の初子は、二万二千二百七十三人であった。44 はモーセに告げて仰せられた。45 「レビ人をイスラエル人のうちのすべての初子の代わりに、またレビ人の家畜を彼らの家畜の代わりに取れ。レビ人はわたしのものでなければならない。わたしはである。46 レビ人の数より二百七十三人超過しているイスラエル人の初子の贖いの代金として、47 ひとり当たり五シェケルを取りなさい。これを聖所のシェケルで取らなければならない。一シェケルは二十ゲラである。48 そして、この代金を、超過した者たちの贖いの代金として、アロンとその子らに渡しなさい。」49 こうしてモーセはレビ人によって贖われた者より超過した者たちから、贖いの代金を取った。50 すなわちイスラエル人の初子から、聖所のシェケルで千三百六十五シェケルの代金を取り、51 モーセは、の命により、この贖いの代金を、がモーセに命じられたように、アロンとその子らに渡した。」

イスラエル人の初子を数えたところ22,273人でした。レビ人の人数は22,000人でしたので、273人超過したことになります。レビ人はイスラエルの初子の代わりでしたので、そうすると、273人分は、いつものように贖い金を支払わなければなりませんでした。そこでモーセは贖い金を徴収して、そのお金をアロンに手渡しました。それが40節から51節までの話です。 その代価は、一人あたり5シェケルでした。それはレビ記27章6節で見てきたことです。生まれて1か月から5際までの男子は一人あたり5シェケルの価値と定められていました。それでその273人分を支払ったのです。こうしてレビ人が数えられたのです。

それにしてもなぜレビ人が、他のイスラエル部族から取られて数えられ、主のもっとも近くに宿営し、幕屋の奉仕にあずかることができたのでしょうか。創世記49章5-7節を見ると、彼らは必ずしも良い性格の持ち主ではありませんでした。ヤコブがこのレビとシメオンについて次のように預言しました。

「シメオンとレビとは兄弟、彼らの剣は暴虐の道具。わがたましいよ。彼らの仲間に加わるな。わが心よ。彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りにまかせて人を殺し、ほしいままに牛の足の筋を切ったから。のろわれよ。彼らの激しい怒りと、彼らのはなはだしい憤りとは。私は彼らをヤコブの中で分け、イスラエルの中に散らそう。」

「散らす」というのは、相続地を持たないということです。ですから、彼らが約束の地に入ったとき、相続地を持てなかったのです。シメオンについてはヨシュア記19章を見るとわかるのですが、ユダ族の割り当て地の中に吸収されています。彼らはヤコブの預言のとおり、相続地を持つことができませんでした。イスラエルの中に散らされたのであります。なぜでしょうか?彼らのつるぎは暴虐の道具だったからです。彼らは怒りにまかせて人を殺し、ほしいままに牛の足の筋を切ったので、神に呪われたのです。それは創世記34章の出来事を指しています。彼らの直属の妹ディナがシェケムの異教徒の長の息子シェケムに強姦されたので、レイプされて破廉恥な行為をされたので黙っていることができず、その復讐に虐殺したのです。シェケムがディナを嫁にもらいたいと申し出たとき、自分たちは割礼のない民に嫁がせることはできないと言い彼らが割礼を受け、痛みで苦しんでいたとき、皆殺しにしたのです。このことをヤコブは思い出して、彼らの将来は、暴虐であると預言したのです。このような性格の部族が、今、幕屋の奉仕の務めとして取られたのです。それはいったいどうしてなのでしょうか?

出エジプト記32章を開いてください。32章21節から29節です。アロンが罪を犯し、金の子牛の像を作ってどんちゃん騒ぎをし、敵の笑ものになっていた時、モーセは「だれでも、主につく者は、わたしのところに」と言いました。するとレビ族だけがつきました。それでモーセは彼らに、剣で兄弟たちを殺すように命じました。それでその日、三千人ほどが倒れたのです。剣で失敗したレビが、今度はつるぎで主に従ったのです。過去においた失敗はしたが、その過去にしがみつくことをせず、ただ主に従うことを選び取りました。

それは私たちも同じです。私たちも過去において失敗するようなことがあります。自分なんて神に仕える資格なんてないと落ち込むこともあるでしょう。こんな者が神の奉仕に立てるのかと悩むこともあるかもしれません。しかし、神はそんな者でも新しく造り替えてくださり、神の働きのために用いてくださるのです。パウロはピリピ3章13-14節のところで、「13 兄弟たちよ。私は、すでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」と言っています。パウロも、かつてはイエス・キリストに敵対する者でした。イエスを信じる者をつかまえては投獄し、殺害していたのです。それはとても赦されないことでした。しかし、そんな者が神に捕えられたのです。神の福音を宣べ伝える器とされたのです。それで、彼はうしろのものにとらわれることをやめ、ひたむきに前に進んで行くことを学びました。それは私たちも同じです。私たちはクリスチャンを迫害するような者ではありませんでしたが、かつては神に敵対し、自分の思うままに生きていました。とても赦されるには値しないどうしようもない者だったのです。そんな者が神の働きに携わることが許されるのであれば、それはただ神の恵みによるのです。

彼らは確かにかつて神の呪いを受けるようなことをしました。それで相続地を受けることもできませんでした。しかし、神はそんなレビ人を新しく造り替え、たとえ相手から嫌われても、神のみこころに従うことによって、神の呪いを祝福に変えたのです。確かに過去を消すことはできません。自分の犯した罪の結果は刈り取らなければなりません。しかし、それで終わりではない。それでも悔い改めて神に向かうなら、神に従うなら、神はその人を新しく造り替え、ご自身の働きのために用いてくださるのです。呪いを祝福に変えてくださるのです。最も神の近くに置いてくださる。

1章ではイスラエル人が軍務につく者として数えられ、それがこの世との戦いにおけるクリスチャンの勝利を表しているとすれば、幕屋の奉仕に数えられたレビ人は、神の恵みによって奉仕をする者に変えられたクリスチャンの姿を表しているのです。ペテロは主であるイエスを三度も否みました。それは弟子としてふさわしい者ではありません。しかし、復活されたイエスはペテロにお姿を現されたとき、「わたしを愛しますか。」と三度聞かれて、「わたしの羊を飼いなさい。」と命じられました。ペテロは失敗したときに、主にお仕えするように呼び出されたのです。私たちも、そのままでは主にお仕えすることなどできる者ではありません。主に反逆し、主に罪を犯し、神の呪いを受けてもおかしくないような者なのに、主はそんな私たちを赦してくださいました。呪いを祝福に変えてくださいました。だから、私たちはただ神の恵みによって神のご奉仕にあずかることができるのです。この恵みに感謝したいと思います。そして、たとえ自分がそれにふさわしくないと思っていても、主が呼び出されるなら、その召しに答えて主に仕えさせていただきたいと思うのでするそれがレビ人として呼び出されたクリスチャンの姿なのです。

Ⅰテサロニケ3章1~13節 「クリスチャンの励まし」

きょうはⅠテサロニケ3章のみことばから「クリスチャンの励まし」について学びたいと思います。パウロはこの手紙においてずっと思い出すことに焦点を絞って語ってきました。彼ら自身の信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い出させ、また、パウロたちが激しい迫害の中でどのように主に仕えてきたのかを思い出させて、激しい苦闘の中にあっても、何とか主にとどまってほしいと願ったのです。その願いはこの3章においても続きます。しかし、ここでは思い出させることによってではなく、実際に同労者のテモテを彼らのところへ遣わして励まそうとします。ここにクリスチャンの励ましとはどのようなものなのかが教えられています。きょうはこのところからクリスチャンの励ましについて三つのポイントでお話したいと思います。

Ⅰ.パウロの励まし(1-5)

まず1節から5節までをご覧ください。

「1 そこで、私たちはもはやがまんできなくなり、私たちだけがアテネにとどまることにして、2 私たちの兄弟であり、キリストの福音において神の同労者であるテモテを遣わしたのです。それは、あなたがたの信仰についてあなたがたを強め励まし、3 このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。4 あなたがたのところにいたとき、私たちは苦難に会うようになる、と前もって言っておいたのですが、それが、ご承知のとおり、はたして事実となったのです。5 そういうわけで、私も、あれ以上はがまんできず、また誘惑者があなたがたを誘惑して、私たちの労苦がむだになるようなことがあってはいけないと思って、あなたがたの信仰を知るために、彼を遣わしたのです。」

「そこで」とは、2章17節を受けての「そこで」です。2章17節には、「兄弟たちよ。私たちは、しばらくの間あなたがたから引き離されたので――といっても、顔を見ないだけで、心においてではありませんが、――なおさらのこと、あなたがたの顔を見たいと切に願っていました。」とあります。パウロは彼らの顔をみたいと切に願っていたので、もはやがまんできなくなり、パウロたちだけがアテネにとどまり、テモテをテサロニケに遣わしたのでした。なぜそんなにも彼らの顔を見たいと思ったのでしょうか。彼らのことが心配だったからです。心配だったのでテモテを彼らのところへ遣わし、彼らが苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもいないように励まそうとしたのです。

私はここにクリスチャンの励ましとはどういうものなのかが教えられていると思います。それは、他の人たちの霊的状態に常に気を配り、彼らが様々なことで動揺し信仰から脱落することがないように励ますものであるということです。様々なこというのは、たとえばテサロニケの教会の場合はユダヤ人からの激しい迫害がありました。そうした苦難の中で信仰が動揺する人たちがいたのです。それは姿、形を変えて、現代の私たちクリスチャンも経験していることです。5節を見ると、「誘惑者があなたがたを誘惑して、私たちの労苦がむだになるようなことがあってはいけないと思い、あなたがたの信仰を知るために、彼を遣わしたのです」とありますが、パウロはちゃんと知っていたのです。彼らがそうした事態に直面したときどんなに気弱になるか、また、その弱さに付け込んで誘惑者であるサタンがどんなに巧妙に働きかけるのか・・・を。私たちは全能の神を信じる者として、神がいつもともにいて助けてくださるということを信じていますが、そうした事態に置かれるとすぐに躓いてしまうような弱い者なのです。特に、誘惑者であるサタンは、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを探し求めながら歩き回っています。私たちにはそうしたサタンの誘惑に勝利するだけの力はありません。神は力ある方だと信じていても、その神から離れてしまえば私たちには何の力もないのです。そのような時、いったい私たちはどうやって信仰に立ち続けていることができるのでしょうか。互いに励ますことによってです。クリスチャンは互いの信仰の状態や戦いについて無関心であってはなりません。互いの霊的状態に配慮しながら、動揺することがないように、信仰に堅く立ち続けることができるように励まし合わなければならないのです。

無理です!私は自分のことで精一杯なんですから・・。とても他の人のことまで配慮する余裕なんてありません。そう思っている方も少なくないと思います。しかし逆なんです。私たちが他の人のことを顧みて、その人が信仰に堅く立ち続けるように励ましいくなら逆に自分自身が恵まれ、自分自身が強められることになるのです。ですから、私たちは自分のことだけでなく他の人のことも常に顧み、パウロがテモテをテサロニケに遣わして励ましたように、具体的な行動をもって励ましていかなければならないのです。

信仰から離れていく人は、ある日突然そうなったのではありません。実はそれ以前から礼拝を休みがちになったり、クリスチャンとの交わりを避けるようになったりするなど、事前にそのシグナルを送っていたはずなのです。それを早期に発見し、手遅れにならないように励ましていれば、その中の相当数の方々は信仰にとどまっていることができたのではないでしょうか。ですから私たちは他のクリスチャンの霊的状態に常に気を配りながら、励ましていかなければならないのです。

3節を見ると、彼は「このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないように」テモテを遣わしたとあります。また、5節でも、「あなたがたの信仰を知るために、彼を遣わしたのです。」とあります。初代教会の交わりの豊かさは、このように実際に会って目に見える形での交わりにあずかりたいと熱心に願っていたことにあります。彼らはただメールでのやりとりや、「祈っています」といったお決まりの挨拶程度の交わりではなく、実際に会って顔と顔とを合わせ、手を握り合い、声を掛け合う交わりを求めていたのです。使徒ヨハネはその手紙の中でこう言っています。

「あなたがたに書くべきことがたくさんありますが、紙と墨でしたくはありません。あなたがたのところに行って、顔を合わせて語りたいと思います。私たちの喜びが全きものとなるためにです。」(Ⅱヨハネ12)

パウロもまた10節で、「私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。」と言っています。彼らの交わりは、顔と顔を合わせての交わりだったのです。私たちはメールやLINE、フェイスブックといった通信の便利な時代にあって、こうした交わりの原則を忘れがちになりがちですが、顔と顔を合わせての交わりの豊かさと祝福というものを大切にしていきたいものです。へブル人への手紙10章25節には、「いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」とありますが、なぜいっしょに集まることをやめたりしないのかというと、この顔と顔を合わせての交わりが重要だからなのではなでしょうか。

また、そればかりではなく、パウロはテサロニケの人たちにこう言っています。「あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。」

どういうことでしょうか。パウロははっきりと、クリスチャンの苦難は「定められている」ものであると断言しているのです。それは思いがけないことではなく、当然のことであるということです。また4節にあるように、それはまたテサロニケに滞在していた時にも前もって言っておいたことですが、それが今、果たしてその通りになっただけのことなのです。すなわち、こうした苦難は先刻承知のことなのですから、決してあわてふためいたり、信仰をぐらつかせたいしないでほしいということなのです。新しく信じた人や求道中の人に向かって私たちは、クリスチャン生活はすべてがバラ色であるかのような印象を与えやすいものですが、信仰を持ったことのために生じる困難もあるということを前もって語りながら、免疫をつけるというか、困難に対する心構えも同時に持つように勧めていく必要があります。その中で、キリスト教の救いがどんな確かで、苦難に勝ち得てあまりあるものであるかを力強くあかしして、励ましていかなければならないのです。

Ⅱ.パウロの生きがい(6-10)

次に6節から10節までをご覧ください。

「6 ところが、今テモテがあなたがたのところから私たちのもとに帰って来て、あなたがたの信仰と愛について良い知らせをもたらしてくれました。また、あなたがたが、いつも私たちのことを親切に考えていて、私たちがあなたがたに会いたいと思うように、あなたがたも、しきりに私たちに会いたがっていることを、知らせてくれました。7 このようなわけで、兄弟たち。私たちはあらゆる苦しみと患難のうちにも、あなたがたのことでは、その信仰によって、慰めを受けました。8 あなたがたが主にあって堅く立っていてくれるなら、私たちは今、生きがいがあります。9 私たちの神の御前にあって、あなたがたのことで喜んでいる私たちのこのすべての喜びのために、神にどんな感謝をささげたらよいでしょう。10 私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。」

テモテの報告をパウロたちが聞いたのは、彼らがコリントにいた時でした(使徒18:5)。そして、テモテの報告は実に喜ばしいものでした。テサロニケの教会は、パウロたちの予想をはるかに越えて、主にあって固く信仰に立っていました。そればかりではなく、彼らの互いの間に愛が満ち溢れていたのです。また将来の、キリストの再臨の希望を持っていました。「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。」(Ⅰコリント13:13)テサロニケの教会には、この信仰と希望と愛が溢れていました。

仮にパウロが、テサロニケには大勢のクリスチャンはいたけれども、パウロが宣べ伝えた福音とは異なるものを信じていた、と聞いたらどうだったでしょう。きっとその心は苦しみもだえたことと思います。あるいは、彼らの間に愛がなかったとしたら、悲しんだことでしょう。将来の、輝けるキリストの再臨の希望もなかったとしたら、残念に思ったに違いありません。けれども、今テモテが持ち帰った報告は、こうした心配や不安を一掃するほどのすばらしい喜びの知らせだったのです。

また、彼らはパウロたちのことをいつも考えていて、パウロたちが彼らに会いたいと思っているように、彼らもまた、しきりにパウロたちに会いたがっているということを聞いて、この上もない喜びを感じました。それは遠く離れてはいても、彼らもまた祈りの中でパウロたちのことを思い出してくれていたことを示しているからです。

このようなわけで、パウロはテサロニケの人たちの信仰によって、慰めを受けました。パウロの宣教の働きは苦しみの患難の連続でしたが、そうした押しつぶされそうになるプレッシャーやストレスとの戦いの中にあっても、こうした彼らの信仰はオアシスのような慰めをパウロにもたらしてくれたのです。

このことから、クリスチャンの励ましについてのもう一つの大切な原則が教えられます。それはクリスチャンの励ましは決して一方通行ではないということです。クリスチャンの交わりは、互いに良いものを分かち合う関係なのです。ちょうど愛情を注いで子供を育てると、その子供からも多くの喜びと慰めを受けるように、クリスチャンの交わりも互いに良い者を分かち合う関係なのです。パウロほどの人物であれば、直接神から慰めを十分受けているのだから、人間からの慰めや励ましなど必要なかったのではないかと考えられがちですが、決してそうではないのです。ピレモンに対しても彼は、「あなたの愛から多くの喜びと慰めを受けました。」(ピレモン7)と言っています。激しい霊的戦いの中に置かれ、大きな責任を持っている人ほど、その孤独で厳しい働きのゆえに他の人からの励ましと慰めを何よりも必要としているのです。

そして、こうしたテサロニケの人たちのような信仰の姿を見ることは、彼にとっての生きがいでもありました。8節には、「あなたがたが主にあって固く立っていてくれるなら、私たちは今、生きがいがあります。」とあります。パウロの生きがいは、人々が主にあって堅く立っているということでした。それは何にも代えがたいほどの力と励ましをパウロに与えてくれるものだったのです。パウロにとって他の兄弟姉妹の信仰の成長を見ることなしには、生きる目的も喜びもなかったのです。彼は自分だけの信仰が保たれ、神との交わりが満たされて満足するような信仰ではありませんでした。主にある人々とのよき信仰の分かち合いを離れては、クリスチャンとして存在理由を見いだせないと思うほど、他の兄弟姉妹のことを思い、彼らが主にあって堅く信仰に立っていてくれることを生きがいとしていたのです。

あなたの生きがいは何ですか。私たちはパウロの生きがいを生きがいとしたいものです。自分の喜びや満足ではなく、他の兄弟姉妹が信仰に堅く立っていてくれることを喜び、そのことを切に祈り求める者になりたいと思うのです。

Ⅲ.パウロの祈り(11-13)

 

第三に、パウロの祈りです。11節から13節までをご覧ください。

「11 どうか、私たちの父なる神であり、また私たちの主イエスである方ご自身が、私たちの道を開いて、あなたがたのところに行かせてくださいますように。12 また、私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように。13 また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。」

テモテの報告を聞き、テサロニケの人たちの信仰を知ったパウロは喜びにあふれ、神への感謝へと導かれました。しかし、それだけで終わってはいません。その感謝の祈りは新たな祈りへの導火線になっているのがわかります。試練の中にあるクリスチャンが一番危機に陥りやすいのは、試練の最中にある時ではなく、それを乗り越えたと思われる時であるからです。試練に直面している時は、多くのとりなしの祈りがささげられますが、解決の知らせが伝えられると、みな安心してさっと祈りの手を引っ込めてしまうからです。ですから、パウロは喜びの知らせを聞いたからこそ、なお一層テサロニケの人たちのために祈っているのです。

パウロはここで三つのことを祈っています。第一に、主イエスご自身が、道を開いて、彼らのところに行かせてくださるように。第二に、彼らの互いの間の愛が増しくわえられますように。そして第三に、キリストの再臨に備えて、彼らが主の前に聖い歩みをすることができるようにということです。

まずパウロたちがテサロニケに行くことができるように、主ご自身が道を開いてくださるようにと祈っています。これは2章18節のところで、パウロたちが彼らのところに行こうとしても行けないのはサタンがそれを妨げているからだと言っていますが、その障害を取り除いてくださるのは全能の神ご自身です。パウロは、人間のどのような熱意と願望をもってしても、神が道を開いてくださらなければそれは不可能であることを知っていました。また、逆に、それがどんなに難しい状況にあっても神が道を開いてくださるなら、必ず可能になると確信していました。すべては神のご計画と導きの内になされるのです。私たちも私たちの置かれている環境の中で、神が道を開いて導いてくださるならば必ずそうなるし、そうでなければ開かれることはないということを覚え、どんな小さなことでも祈りによって道が開かれることを求めていきたいと思います。

次にパウロは、彼らの互いの間の愛が増し加えられるようにと祈っています。苦難の中にある教会は、その問題が解決し良い方向へ動き出すと、兄弟姉妹相互の結束が深められ、これまでにない愛の一致を生み出されます。しかし、同時にそれは逆の作用を生み出すこともあるのです。たとえば、迫害する者に対して憎しみを持つことが正当化されたり、そうした苦しみの中で動揺する弱い信仰者をさばいてみたり、やっぱり自分が正しかったと片意地になった信仰に陥ってしまうこと等です。心にゆとりを与えないほどの困難な事態は、兄弟姉妹の間にさまざまなあつれきを引き起こしやすいのです。

だからパウロは、「あなたがたの互いの間の愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように。」と祈ったのです。苦しみだけが満ちて愛が失われた群れは悲惨ですが、苦難が増すにつれて愛が満ちていく教会は、決して動揺したり倒れたりすることなく、そこに神の栄光が豊かに現されていくからです。

そしてパウロは、キリストの再臨についても祈っています。真の愛に満ちたクリスチャン生活とは、主が再び来られる日に備えて、聖く、責められるところのない者として整えられていく生活だからです。主イエスは終末の前兆として、多くの人たちの愛が冷えることを預言しました(マタイ24:12)。またパウロは終わりの日にやってくる困難な時代には、自分を愛したり、金を愛したり、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者が出てくると言いました(Ⅱテモテ3:1-3)。まさに今はそのような時代ではないでしょうか。愛と聖さが急速に失われている時代にあって、私たちはこの二つの特質をしっかりと追い求め、キリストの再臨に備えて主にある信仰の友がしっかりと整えられるように祈り求めていかなければならないのです。

私たちはますます、主によって心を強めていただかなければなりません。苦難は必ず訪れます。しかし、たとえ苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないように励ましていく。それがクリスチャンの真の交わりなのです。

創世記8章

創世記8章を学びます。神様はノアに仰せられたように、ノアの生涯の600年目の第二の月に、天の水門を開かれ、この地上のすべての生き物を消し去られました。ただ箱舟に入ったノアとその家族、そして地上の動物で一つがいずつの動物たちが生き残りました。それから水は150日間、地の上に増え続けました。

1.心を留められる神(1-5)

まず1節から5節までをご覧ください。「1 神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた。それで、神が地の上に風を吹き過ぎさせると、水は引き始めた。2 また、大いなる水の源と天の水門が閉ざされ、天からの大雨が、とどめられた。3 そして、水は、しだいに地から引いていった。水は百五十日の終わりに減り始め、4 箱舟は、第七の月の十七日に、アララテの山の上にとどまった。5 水は第十の月まで、ますます減り続け、第十の月の一日に、山々の頂が現れた。」

そのとき神は、ノアと箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とに心を留められました。「心を留める」とは、神が約束でその心を一杯にしておられるということです。神は真実なお方ですから、ご自分が民との間に立てた契約に対して誠実で、懲らしめの中にもご自分の民を覚えておられたことを表しています。神が民との間に立てた契約とはどのようなものだったでしょうか?それは6章13節から21節までのところにあります。神はノアに箱舟を作り、その中に入るように言われました。その約束の通りに神は、この地上のすべての生き物を滅ぼされました。しかしそれは同時に、箱舟に入ったノアたちにとっては、やがて神が洪水の水を退けて、再び乾いた土地で生活することをゆるされるということでもありました。そして神は時至ってそのとおりにされたのです。それは神のあわれみによるものでした。神は、そうした洪水の苦しみの中でもご自分の民を覚えていてくださり、顧みておられたのです。神がいかに真実な方であるかが表されていると思います。

さて、神がそのように心を留めておられたので、地の上に風を送って水を引かせました。この「風」とは神の霊をも表しています。神は風をとおして、新しい創造を始められました。大いなる水の源と天からの大雨がとどめられると、水は、しだいに地から引いていき、150日の終わりに減り始め、ついに箱舟がアララテ山の上にとどまったのです。おそらく、この大洪水の水は、海へ流れ出たのではないかと思いますが、そのように水が海に流れ出れば、後は水かさが次第に減っていくだけです。そのようにして陸が現れ、箱舟も地にとどまったのです。

2.ノアの従順(6-14)

それでノアは陸地から水をひいたことを確かめます。6節から12節までをご覧ください。「6 四十日の終わりになって、ノアは、自分の造った箱舟の窓を開き、7 烏を放った。するとそれは、水が地からかわききるまで、出たり、戻ったりしていた。8 また、彼は水が地の面から引いたかどうかを見るために、鳩を彼のもとから放った。9 鳩は、その足を休める場所が見あたらなかったので、箱舟の彼のもとに帰ってきた。水が全地の面にあったからである。彼は手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の自分のところに入れた。10 それからなお七日待って、再び鳩を箱舟から放った。11 鳩は夕方になって、彼のもとに帰って来た。すると見よ。むしり取ったばかりのオリーブの若葉がそのくちばしにあるではないか。それで、ノアは水が地から引いたのを知った。12 それからなお、七日待って、彼は鳩を放った。鳩はもう彼のところに戻って来なかった。13 ノアの生涯の第六百一年の第一の月の一日になって、水は地上からかわき始めた。ノアが、箱舟のおおいを取り去って、ながめると、見よ、地の面は、かわいていた。14 第二の月の二十七日、地はかわききった。」

40日の終わりになって、ノアは、自分の造った箱舟の窓を開き、烏を放ちました。水が地の表から引いたかどうかを見るためです。ノアは、神が啓示されたさばきが行われている間に、窓を開いたりしませんでした。ロトの妻のように神のさばきを振り返って塩の柱になるような悲劇を求めず、飢えに耐えかねて長子の権利を売ったエサウのように軽々しい態度をとったりすることなく、神が言われることをしっかりと待ち望んだのです。彼は徹底して神のみことばに従い、真っ暗な箱舟の中で、40日間が過ぎてから窓を開けたのです。まだ神が箱舟から出るようにと言われていなかったので、鳥たちの助けを得て、水が引いたかどうかを調べたのでした。それは本当に慎重な信仰者の姿ではないでしょうか。時として私たちはこうした態度を忘れて、軽々しく行動してしまうことがあります。何かしないと悪いのではないかという焦りから、自分の思いで語ったり、動いたりしてしまいがちなのです。神が何を願っておられるのかを知り、そのために祈り、船底の暗闇の中にあってただ神を待ち望むことも必要なのです。いや、このバランスが必要なのです。

柏木哲夫先生の本に、動物と植物の名前の由来が書かれてありました。動物は動く物であるのに対して、植物は植えられる物。私たちの人生にはこの両面が必要だ・・・と。しかし、マルタではないけれども、どちらかというと動物的な面が強いのではないかと思います。そしてイライラしたりして・・・。そうではなく、時には船底の暗闇の中でじっと祈って待つことも必要です。孤独に思えるそのような中で、主が語ってくださることがあるのです。まさにノアはずっと神のさばきを待ち望み、神の時が来るまで慎重に行動したのでした。

それから七日経ったとき、ノアは再び鳩を箱舟から放ちました。するとむしり取ったばかりのオリーブの若葉がそのくちばしにあるのを見て、ノアは水が地から引いたのを知りました。そしてそれから七日経ってもう一度鳩を放ったところ、その鳩はもう彼のところには戻ってきませんでした。それでノアは箱舟のおおいを取って外を眺めてみると、地の表は乾いていたのです。

3.箱舟から出なさい(15-19)

そこで神はノアとその家族に、箱舟から出るようにと命じられました。15節から19節のところです。「15 そこで、神はノアに告げて仰せられた。16 「あなたは、あなたの妻と、あなたの息子たちと、息子たちの妻といっしょに箱舟から出なさい。17 あなたといっしょにいるすべての肉なるものの生き物、すなわち鳥や家畜や地をはうすべてのものを、あなたといっしょに連れ出しなさい。それらが地に群がり、地の上で生み、そしてふえるようにしなさい。」18 そこで、ノアは、息子たちや彼の妻や、息子たちの妻といっしょに外に出た。19 すべての獣、すべてのはうもの、すべての鳥、すべて地の上を動くものは、おのおのその種類にしたがって、箱舟から出て来た。」

実に40日ぶりにノアに示された神からの啓示です。ノアの生涯というのは、まず主の命令があり、それに従うというものでした。5章32節と6章13-22節のところで、彼が500歳になったとき、箱舟を造るようにと命じられました。次に啓示があったのは約100年後の彼が600歳になったときでした。(7:1-5)、そして、洪水があり、地上のすべての生き物が滅ぼされ、新しい創造の中で、いよいよ箱舟から出るようにとの啓示があって、彼は地に降り立ったのです。神の啓示が与えられる度ごとに、人生の大きな目印が立てられました。ですから私たちもいつもこの神からの啓示を受けるために、みことばを黙想する者でなければなりません。みことはを黙想する人の人生の方向性は実にはっきりとしていて、その確信の中で進んでいくことができるのです。

4.ノアの礼拝(20-22)

さて、箱舟から出たノアたちは、最初に何をしたでしょうか?20節から22節までをご覧ください。「主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちからいくつかを選び取って、祭壇の飢えで全焼のいけにえをさげた。21 は、そのなだめのかおりをかがれ、は心の中でこう仰せられた。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。22 地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。」

アダムの新しい創造であるノアは、礼拝によって新しい人生を始めました。ノアの心は、神が自分と自分の家族を守ってくれたことに対して、感謝の気持ちでいっぱいだったに違いありません。この「祭壇」についてしるされているのは、聖書の中でここが最初です。祭壇を築くということの中に、ノアの信仰がよく表現されていると思います。全焼のいけにえをささげるというのは、自分のすべてを神にささげることを表しています。つまり、ノアが箱舟から出て真っ先に行ったのは、神への礼拝だったのです。彼にとっては、確かに住居の問題や、衣服の問題、食物の問題、つまり生活の問題が差し迫っていたはずです。しかし、そうした中で彼は、神を礼拝することを第一にしたのです。

これは私たちの生活の中において何を第一にすべきかが教えられています。つまり、神の国とその義とを第一に求めていくことこそ、神が最も喜んでくださることなのです。私たちの生活の節目、節目に神を覚え、神に感謝して礼拝をささげていくこと、そのような信仰を神がどれほど喜ばれ、受け入れてくださることでしょうか。

事実、21節を見ると、「主は、そのなだめのかおりをかがれ、心の中でこう仰せられた・・・」とあります。もう決して再び人を滅ぼすまい・・と。すべての生き物に対する神のあわれみが約束されたのです。そしてこの神の約束は拡大され、一定の季節の移り変わりがもうけられ、人間や動物の食物を十分に保証すると言われたのです。神はこの約束を今日もなお守っておられることを考えますと、このときのノアの信仰、神礼拝というものが、いかに重要なことであるかがわかると思います。私たちも、私たちの生活の中に祈りの祭壇、礼拝の祭壇をもうけていつも神を覚え、神に感謝と礼拝をささげるものでありたと思います。そのとき神が働いてくださり、私たちに恵みを持って導いてくださるのです。

創世記7章

1.箱舟に入りなさい(1-5)

まず1節から5節までをご覧ください。

「1 はノアに仰せられた。「あなたとあなたの全家族とは、箱舟に入りなさい。あなたがこの時代にあって、わたしの前に正しいのを、わたしが見たからである。2 あなたは、すべてのきよい動物の中から雄と雌、七つがいずつ、きよくない動物の中から雄と雌、一つがいづつ、3 また空の鳥の中からも雄と雌、七つがいずつを取りなさい。それはその種類が全地の面で生き残るためである。4 それは、あと七日たつと、わたしは、地の上に四十日四十夜、雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面から消し去るからである。」5 ノアは、すべてが命じられたとおりにした。6 大洪水が起こり、大水が地の上にあったとき、ノアは六百歳であった。」

神の命令に従って箱舟を作ったノアに対して、神は箱舟の入るようにと命じられました。その際には、すべてのきよい動物の中から雄と雌、七つがいずつ、きよくない動物の中から一つがいずつ、また空の鳥の中からも雄と雌、七つがいずつを取らなければなりませんでした。それは、その種類が全地で生き残るためです。ここで七つがいという言葉が初めて出てきます。6章19-20節、それからこの後の9節と15節では雄と雌二匹ずつとあるのに、ここでは七つがいずつとなっているのはどういうことなのでしょうか。6章では、それらの動物が「生き残るために」とありますから、それらの動物の種が絶やされることがないために連れて来られたのです。では、ここで七つがいずつと言われているのはどういうことなのでしょうか。創造主訳聖書ではここを、「食用といけにえ用とするために、清い動物の中から七頭ずつ、また清くない動物は一つがいずつ、鳥は七羽ずつ入れなさい。これは、洪水後、あらゆる種類の生き物が、全地に生き残るためである。」(7:3-4)と訳しています。つまり、これは洪水の後に、人間が地上で新たな生活を始めるのに必要な食用の動物であり、また、その主にささげものをささげための動物であったというのです。雄と雌の二匹ずつではノアたちの食べ物がなくなってしまうので、それ以外に入れられたのでしょう。

ところで、4節には、「それは、あと七日たつと、わたしは、地の上に四十日四十夜、雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面から消し去るからである。」とあります。この七日とは何のための期間だったのでしょうか。これは最後の七日です。神様はそのさばきを遅らせようとしておられたのではなく、ノアとその家族が箱舟に入るために準備の期間を与えられたのです。いわばこれは神から与えられた最後のチャンスの時でもあったのです。やがてこの恵みの期間が終わり、入りたくても入れない時がやってきます。それが16節に記されていることです。「主は、彼のうしろの戸を閉ざされた。」ということです。これはその不信の世に与えられていた時が終了し、ノアとその家族の者たちがヤーウェイの守りのもとにおかれたことを示しています。ノアは多くの人々に来たるべき神のさばきと、罪を悔い改めて、神に喜ばれる生活をするようにと勧めてきましたが、その時代の人は誰もそれを聞き入れませんでした。ペテロの第一の手紙によると、大洪水が起こるまでノアが説教をしていたことが記されています(4:20)。人々は、箱舟が造られるのを見て、また、ノアの説教を聞いて、悔い改める機会が十分に与えられたのに、ひとりとして悔い改めませんでした。今の時代もノアの時代に似ています。聖書を読めば読むほど、聖書が定義している暴虐の行いを、現代社会で見る事ができます。救い主キリストを宣べ伝える者が現れても、それを空想話のようにしかとらえません。しかし、ノアの洪水と同じように、キリストがふたたび来られる時さばきが行われます。イエスは言われました。「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、嫁いだりしていました。そして、洪水が来てすべてのものをさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのもそのとおりです。」(マタイ24:37-39)

2.箱舟に入ったノアとその家族(7-10)

けれども、ノアとその家族は、神が命じられたとおりに箱舟に入りました。7節から10節までをご覧ください。

「7 ノアは、自分の息子たちや自分の妻、それに息子たちの妻といっしょに、大洪水の大水を避けるために箱舟に入った。8 きよい動物、きよくない動物、鳥、地をはうすべてのものの中から、9 神がノアに命じられたとおり、雄と雌二匹ずつが箱舟の中のノアのところに入って来た。10 それから七日たって大洪水の大水が地の上に起こった。」

彼は、次の神の御声を待ち、その神の命令に従って箱舟に入ったのです。この神の恵みの時に、箱舟にはいった敬虔な人たちは、ノアとその家族のわずか8人のみでした。それ以外の人は入りませんでした。やがて後ろの戸が閉められる時がやって来ます。Ⅱコリント6章1,2節には、「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」とあります。この終わりの時代にもこの七日が残されています。恵みの戸はまだだれに対しても開かれています。やがて神がその戸を閉ざされる前に、この箱舟に入らなければならないのです。この箱舟こそイエス・キリストであり、キリストのからだなる教会のことです。だれでもイエスを通って入るなら救われます。

3.大洪水(11-24)

その結果どういうことになったでしょうか?11節から24節までをご覧ください。

「11 ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、その日に、巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。12 そして、大雨は、四十日四十夜、地の上に降った。13 ちょうどその同じ日に、ノアは、ノアの息子たちセム、ハム、ヤペテ、またノアの妻と息子たちの三人の妻といっしょに箱舟に入った。14 彼らといっしょにあらゆる種類の獣、あらゆる種類の家畜、あらゆる種類の地をはうもの、あらゆる種類の鳥、翼のあるすべてのものがみな、入った。15 こうして、いのちの息のあるすべての肉なるものが、二匹ずつ箱舟の中のノアのところに入った。16 入ったものは、すべての肉なるものの雄と雌であって、神がノアに命じられたとおりであった。それから、は、彼のうしろの戸を閉ざされた。17 それから、大洪水が、四十日間、地の上にあった。水かさが増していき。箱舟を押し上げたので、それは地から浮かび上がった。18 水はみなぎり、地の上に大いに増し、箱舟は水面を漂った。19 水は、いよいよ地の上に増し加わり、天の下にあるどの高い山々も、すべておおわれた。20 水は、その上さらに十五キュビト増し加わったので、山々はおおわれてしまった。21 こうして地の上を動いていたすべての肉なるものは、鳥も家畜も獣も地に群生するすべてのものも、またすべての人も死に絶えた。22 いのちの息を吹き込まれたもので、かわいた地の上にいたものはみな死んだ。23 こうして、主は地上のすべての生き物を、人をはじめ、動物、はうもの、空の鳥に至るまで消し去った。それらは、地から消し去られた。ただノアと、彼といっしょに箱舟にいたものたちだけが残った。24 水は、百五十日間、地の上にふえ続けた。」

ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日に、巨大な大いなる水の源が、ことごことく張り裂け、天の水門が開かれました。「巨大な大いなる水の水源」とか「天の水門」というのは、創世記1章にある大空の上にある水のことです。神はこの時のために、大空の上にも水を用意しておられたのです。そして、大雨は四十日四十夜降り続きました。どしゃ降りの雨で、水かさが増していき、ついには箱舟が水面を漂うまでになりました。そして、水はいよいよ地の上に増し加わり、天の下にあるどの高い山々も、すべて覆われました。現在ヒマラヤ山脈に海洋生物の化石が発見されているのですから、これは本当に起こったのです。これは彼らの不信に対する神の審判の雨にほかなりませんでした。こうして地の上を動いていたすべての肉なるものは、鳥も家畜も獣も、またすべての人も死に絶えました。 現代の文献にはさまざまな地域で大洪水の記録が残されていますが、私たちの生きている世界は一も滅ぼされているのです。私たちは、現在自分がおかれている状態がずっと続くというような錯覚に陥りますが、世界は、神の直接の介入によって大異変を起こすようなもろいものなのです。この時、天の下にあるどの山々も、すべておおわれ、ただノアと、彼といっしょに箱舟にいたものたちだけが残ったのです。

これはまさに終末に起こることの型なのです。今の時代においてもこの終末的現実を読み通す洞察力をもっている人がどれだけいるでしょうか。ノアの洪水直前の末期的な様相が、そのまま今日の有様に通じることを覚えます。それはまさにⅡペテロ3章でペテロが警告していることです。彼らは、「自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」(3-4)しかし、やがて必ず終わりの時がやってきます。主の日は盗人のようにやって来て、その日には、天は大きな響きをたてて消え失せ、天の万象は焼けて崩れ落ち、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされるのです。

ですから、今の私たちに必要なことは、いつでも平安をもって御前に出られるように励むことです。主の忍耐は救いなのです。私たちの主であり救い主であられるイエス・キリストの恵みと知識において成長していけますように。

レビ記27章

いよいよレビ記の最後の学びとなりました。きょうは27章から学びたいと思います。まず1節から8までをお読みします。

1.自分を聖別しようと誓願を立てる場合(1-8)

「1 ついではモーセに告げて仰せられた。2 「イスラエル人に告げて言え。ある人があなたの人身評価にしたがってに特別な誓願を立てる場合には、3 その評価は、次のとおりにする。二十歳から六十歳までの男なら、その評価は聖所のシェケルで銀五十シェケル。4 女なら、その評価は三十シェケル。5 五歳から二十歳までなら、その男の評価は二十シェケル、女は十シェケル。6 一か月から五歳までなら、その男の評価は銀五シェケル、女の評価は銀三シェケル。
7 六十歳以上なら、男の評価は十五シェケル、女は十シェケル。8 もしその者が貧しくて、あなたの評価に達しないなら、その者は祭司の前に立たせられ、祭司が彼の評価をする。祭司は誓願をする者の能力に応じてその者の評価をしなければならない。」

ここには、ある人がその人の人身評価にしたがって、主に特別な誓願を立てる場合にはどうしたらよいかが教えられています。「誓願」とは、神や仏に誓いを立て、物事が成就するように願うことです。それを人身評価に従って行うわけです。どういうことかというと、創世記28章20節を見るとわかります。ここでヤコブは誓願を立てて、「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと切る着物を賜り、無地に父の家に帰らせてくださり、こうして主が私の神となられるなら、石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜る物の十分の一を必ずささげます。」と祈っています。これはヤコブが兄エサウから逃れて母の兄ラバンのもとへと向かう途上でのことです。いったいこの先どうなってしまうのかという不安と恐れの中で、彼は一つの夢を見ます。それは地に向けられて天からはしごが立てられているというものでした。その頂は天に届き、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていました。そのとき彼は、主が彼のかたわらに立っておられ、「決してあなたを捨てない」という御声を聞くのです。その時彼は眠りから覚め、そこに主がともにおられることに気が付くのです。そして、その場を「ベテル」神の家と呼びました。そして、その誓いを立てたのです。もし神がこの旅路を守ってくださり、無事に父の家に帰るようにしてくださるなら、主は私の神となられると・・・。ヤコブはもしそのようにしてくださるなら、自分を神にささげると誓ったのです。これを何というかというと、聖別すると言います。その代価がこの評価額なのです。

また、民数記3章44~47節には、イスラエルのうちのすべての初子は主のものですが、その初子の代わりに神のものとしたのがレビ人です。レビ人は主のものでなければなりませんでした。そのレビ人の数よりも初子の報が多かった場合は、それをシェケルで贖わなければなりませんでした。その場合の価格は、ひとりあたり5シェケルであると言われています。ですから、レビ記27章で言われている人身評価に従って主に特別な誓願を立てる場合というのは、彼らが主に誓願を立てるとき、その誓願がかなえられる時には自分を神にささげますという誓願を立てた場合に、その代価となる金額のことなのです。

それは年齢また性別によって異なりました。最も高いのは20歳から60歳までの男性で、銀50シェケルです。女の人なら30シェケル、5歳から20歳までなら、男なら20シェケル、女なら10シェケルです。生まれて1か月から5歳までなら、男なら銀5シェケル、女なら3シェケルです。60歳以上なら、男なら15シェケル、女なら10シェケルです。これを見て、「ああ、私は10シェケルしか価値がないんだ」とがっかりしないでください。これはあくまでも主に特別な誓願を立てる場合の、その代価の評価なのですから。なぜこのように年齢や性別によって評価が異なっていたかというと、労力に差があったからです。女より男のほうが、力があります。また老人より壮年や青年のほうが、力があります。興味深いのは、一歳から五歳までも評価があることです。もしその者が貧しくて、その評価に達しないなら、その者は祭司の前に立たせられ、祭司がその人の評価をしました。祭司は誓願する人の能力に応じて評価ししたのです。

いったいなぜこのようなことが教えられているのでしょうか。それは軽々しく誓願を立てないためです。箴言20章25節には、こう書いてあります。「軽々しく、聖なるささげ物をすると言い、誓願を立てて後に、それを考え直す者は、わなにかかっている人だ。」イエスさまが、誓ってはいけない、と言われたのは、このことを指しています。つまり、よく考えもしないで軽々しく、「私はこれこれをします。」と言ったりしますが、そのように言っておきながらもしそれをしないということがあったら、それは神の御名を汚すことになります(レビ19:12)。主に特別な誓願を立てる時には、それはきちんと果たされなければならないということです。

おもしろいことに、この誓いというのは決して強制的がなく、完全に自発的であるところに特徴があります。ささげることを全く行なわなくても、だれにも咎められたり、責められたりすることはありません。けれども、主が自分に成してくださったことを思うとき、感謝の思いからぜひささげてみたい、と願うようになります。だれに言われなくても、これは行ないたいという強い願いが与えられるのです。それに基づいてささげるのが、この誓願なのです。これはすばらしいことであり、奨励されるべきことであります。けれども、この誓願がいとも簡単に破られることがあるとしたら、それは主の御名が軽んじられ、汚されることになってしまいます。そういうことがあってはなりません。軽々しく誓ってはならないのです。誓いを立てる時には、それに伴う責任と自己犠牲というものをよく考えなければならないのです。

2.家畜をささげる場合(9~14)

次に9~14節をご覧ください。ここには、主へのささげ物として家畜をささげ場合どうなるかについて教えられています。その家畜がきよい動物であれば、それは礼拝に使ういけにえとなります。ですから、それらは「聖なるもの」、神のものになるわけです。後で自分が使いますので別の家畜にします、ということができません。もし他の家畜に替えようとするなら、元の家畜と代用の家畜のどちらも聖なるものとなり、主にささげられなければなりません。それは、「こっちの家畜のほうが価値が低いから取り換えよう」という欲を出さないようにするためです。

また、汚れた家畜、つまりひずめが分かれていなかったり、反芻をしない動物については、いけにえとしては捧げることはできませんが、買い戻すことができました。その場合、その家畜を祭司の前に立たせて評価し、その評価に五分の一を加えた金額で買い戻さなければなりませんでした。それはこうすることによって、「ああ、やっぱり自分でこの動物を使おう」と思わないようにするためです。

3.自分の家をささげる場合

次に14~25節までをご覧ください。

「14 人がもし、自分の家を主に聖なるものとして聖別するときは、祭司はそれを良いか悪いか評価する。祭司がそれを評価したとおり、そのようになる。15 もし家を聖別した者が、それを買い戻したければ、評価額に五分の一を加える。それは彼のものとなる。16人がもし、自分の所有の畑の一部を主に聖別する場合、評価はそこに蒔く種の量りによる。すなわち、大麦の種一ホメルごとに銀五十シェケルである。17 もし、彼がヨベルの年からその畑を聖別するなら、評価どおりである。18 しかし、もしヨベルの年の後に、その畑を聖別するなら、祭司はヨベルの年までにまだ残っている年数によって、その金額を計算する。そのようにして、評価額から差し引かれる。19 もしその畑を聖別した者がそれを買い戻したければ、評価額にその五分の一を加える。それは彼のものとして残る。20 もし彼がその畑を買い戻さず、またその畑が他の人に売られていれば、それをもはや買い戻すことはできない。21 その畑がヨベルの年に渡されるとき、それは聖絶された畑として主の聖なるものとなり、祭司の所有地となる。22 また、人がもしその買った畑で、自分の所有の畑の一部でないものを主に聖別する場合、23 祭司はヨベルの年までの評価の総額を計算し、その者はその日に、その評価の金額を主の聖なるものとしてささげなければならない。24 ヨベルの年には、その畑は、その売り主であるその地の所有主に返される。25 評価はすべて聖所のシェケルによらなければならない。そのシェケルは二十ゲラである。」

自分の家も主に聖なるものとしてささげることができます。そのときには祭司がその家を評価します。祭司が評価したとおりになりました。この場合祭司は不動産鑑定士みたいですね。家まで評価値するわけですから・・・。もし家を聖別した者が、それを買い戻したければ、家畜と同じように、評価額に五分の一を加えなければなりませんでした。それは、家であっても何であっても、主にささげるというときにはよく考えてささげなければならないということです。

土地も捧げることができました。けれども、土地の場合はヨベルの年に所有地に変換されることを覚えておかなければなりませんでした。その土地の評価は以前も学びましたが、ヨベルの年までの収穫量によって、その評価が決まりました。聖別したものを買い戻す時には、評価額の五分の一を加えて返さなければなりませんでした。もしその畑が他の人に売られていれば、それはもはや買い戻すことができませんでした。ヨベル年に渡されるとき、それは祭司の所有地となったのです。

4.義務的なささげもの(26~34)

 

最後に、26節から34節までのところを見て終わりたいと思います。25節までのところには進んでささげるささげもの、つまり、ささげてもよいし、ささげなくてもよい、自発的なささげものについて教えられていましたが、ここからはささげなければならないささげものについて語られています。

 

まず26~27節をご覧ください。

「26 しかし、家畜の初子は、主のものである。初子として生まれたのであるから、だれもこれを聖別してはならない。牛であっても、羊であっても、それは主のものである。27:27 もしそれが汚れた家畜のものであれば、評価にしたがって、人はそれを贖うとき、その五分の一を加える。しかし、買い戻されないなら、評価にしたがって、売られる。」

家畜の初子は、主におささげすることができません。なぜなら、すでにそれは主のものであるからです。主のものであるものを、主におささげすることはできません。覚えていますか、エジプトからイスラエルが出て行く時に、主がイスラエルの初子(長男)を救い出されました。ですから、初子は主のものなのです。主のものは、主にささげなければいけません。しかし、その家畜が汚れたものであれば、いけにえとしてささげることはできないので、その家畜の評価額に五分の一を加えた額を支払って買い戻すことができました。

次に聖絶のものについて語られています。28節と29節です。「28 しかし、人であっても、家畜であっても、自分の所有の畑であっても、人が自分の持っているすべてのもののうち主のために絶滅すべき聖絶のものは何でも、それを売ることはできない。また買い戻すこともできない。すべて聖絶のものは最も聖なるものであり、主のものである。29 人であって、聖絶されるべきものは、贖われることはできない。その者は必ず殺されなければならない。」

聖絶すべきものとは、主によって完全に滅ぼされるべきものです。あるいは、聖所にささげられるべきものです。ですから、自分のものとしてはいけません。この戒めを犯したのが、ヨシュア記に出てくるアカンです。主は、エリコの町のものは聖絶されたものだ。それを分捕物としてはならない、と命じられていたにも関わらず、彼は高価な品を盗み出してしまいました。それで彼は死刑になりました。

最後に十分の一のささげものです。30~34節をご覧ください。「31人がもし、その十分の一のいくらかを買い戻したいなら、それにその五分の一を加える。32 牛や羊の十分の一については、牧者の杖の下を十番目ごとに通るものが、主の聖なるものとなる。33 その良い悪いを見てはならない。またそれを取り替えてはならない。もしそれを替えるなら、それもその代わりのものも共に聖なるものとなる。それを買い戻すことはできない。」

地の十分の一は、それが産物であっても、木の実であっても、必ずささげなければなりませんでした。なぜなら、それは主のものであるからです。主の聖なるものなのです。具体的にはそれはレビ人に与えられました。そして、そのレビ人の中から十分の一を祭司にささけられました。それを取り戻したかったら、これまでの誓願のささげものと同じように五分の一を加えて支払わなければなりませんでした。

おもしろいことに、牛や羊の十分の一については、牧者の杖の下を十番目ごとに通るものが、主の聖なるものとなりました。良い羊だとか悪い羊だとか選り分けできませんでした。羊飼いの杖の下を十番目に通るものが、主の聖なるものとなったのです。羊飼いの杖を横にして、それを囲いの門のところで持ちます。その下を一匹ずつ羊を通らせるのですが、無条件で十番目の羊あるいは牛がささげられたのです。

十分の一のささげものという概念は、聖書全体に出てきます。アブラハムがメルキデゼクにささげ物をしましたが、それは十分の一でした。そして旧約聖書の最後のマラキ書には、こういう約束があります。「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。・・万軍の主は仰せられる。・・わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。(マラキ3:10)」これは、行うなら祝福があります。なぜなら、それは主のものだからです。本来であれば、私たちのすべては主のものなのです。主のものを主のものとしてお返しするのは当然ですが、そのすべてをお返しすることはできないので、その信仰の表明として十分の一をささげたのです。

私たちが献金をするとき、主から与えられたもののささげるとき、その収入の十分の一をささげるという根拠はここにあります。これは、イエス様もおろそかにしないよう戒められていることです。「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。」(マタイ23:23)律法学者たちの問題は、十分の一をささげていればそれで神に従っていると錯覚していたことです。大切なのはその意味を理解して、心から神を愛し、神に従うことです。彼らにはそれがありませんでした。イエス様はそのことを叱責しておられます。しかし、他のほうもおろそかにしてはいけません。それは主のものであり、主に従うことなのです。私たちは小さなことにおいても神に喜ばれる道を歩みたいと思います。それが聖とさせていただいた者としての歩みなのです。

民数記2章

きょうは民数記2章から学びたいと思います。まず1~2節をご覧ください。

1.旗じるしのもとに宿営しなければならない(1-2)

「1 はモーセとアロンに告げて仰せられた。2 「イスラエル人は、おのおのその旗のもと、その父祖の家の旗じるしのもとに宿営しなければならない。会見の天幕の回りに、距離をおいて宿営しなければならない。」

1章では20歳以上の者で、軍務につくことのできる者が登記されました。その数の総計は603,550人でした。それは、これから約束の地に向かって進む彼らにとって、戦いに備える必要があったからです。そのように軍隊が組織されてこそ、敵と戦っていくことができます。ですから、その最初は軍隊を整えることだったのです。きょうのところには、その配置について教えられています。ここには、その父祖の家の旗じるしのもとに宿営しなければならない、とあります。イスラエルの民は、自分の好きなところにどこでも良いから宿営するのではありませんでした。部族ごと、決められたところにテントを張ります。そして、そのしるしがこの旗でありました。旗しるしのもとに宿営することになっていました。この旗は、それぞれ幕屋の周りの東西南北の4方向に掲げられています。12部族は、それぞれの方角に3部族ずつ割り当てられ、それぞれに代表の部族がいました。

ここでの「旗」とは部隊としての「旗」(デゲル)で、旧約聖書の中には14回使われていますが、そのうち13回がこの民数記で使われています。これは「旗をかかげる」「際立たせる」「群れをなして集まる」という意味があります。イスラエルの民は自分の属する旗のもとに宿営したのです。全体としては、12部族が「会見の天幕」を中心にして互いに向き合い、互いに寄り添い合う形となっています。この「旗」は自分の持ち場を知って、そこで「共に生き」、「共に歩み」、「共に進み」、「共に敵と戦い」、「共に仕える」ことを意識させるシンボルでした。

それは新約聖書ではキリストご自身のことであり、キリストのことばを象徴しています。私たちはその旗じるしのもとに集められた者であり、「キリストの名」のもとに集まり、とどまらなければなりません。キリストは次のように言われました。

「4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せて集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」(ヨハネ15:4-9)

イエスを離れては、私たちは何もすることができないのです。イエスにとどまってこそ、私たちは敵に勝利することができます。ですから、私たちはキリストにとどまることを学ばなければならないのです。

こうしてイスラエル人で軍務につく者の人数が数えられました。次に、彼らが宿営においてどこに位置するのか、その配置について書かれています。

2.東側に宿営する者(3-9)

では、それぞれの配置を見ていきましょう。まず東側に宿営する者です。3-16節までをご覧ください。

「3 前方、すなわち東側に宿営する者は、軍団ごとにユダの宿営の旗の者でなければならない。ユダ族の族長はアミナダブの子ナフションである。4 彼の軍団は、登録された者が、七万四千六百人である。5 その隣に宿営する者は、イッサカル部族であり、イッサカル族の族長はツアルの子ネタヌエルである。6 彼の軍団は、登録された者が、五万四千四百人である。7 ついでゼブルン部族がおり、ゼブルン族の族長はヘロンの子エリアブである。8 彼の軍団は、登録された者が、五万七千四百人である。9 ユダの宿営に属し、その軍団ごとに登録された者の総数は、十八万六千四百人。彼らが先頭に進まなければならない。」

まず、東側から見ていきたいと思います。東側は宿営が前進していく方向です。そこにはユダ部族の旗が掲げられました。そして、この旗じるしのもとに右隣にイッサカル族が、左隣にゼブルン族が宿営しました。この三つの部族が幕屋の東に宿営したのです。その合計の人数は18万6400人です。後で他の方角の宿営地を見ますが、そのどれにもまさって、もっとも大きくなっています。9節後半をご覧ください。ここには、「彼らが先頭に進まなければならない。」とあります。これは、イスラエルが旅立つとき、東のユダ部族が先頭になって進んで行ったということです。いったいなぜでしょうか?それは、これがイエス・キリストを表していたからです。

創世記49章9~10節を開いてください。ここには、「9ユダは獅子の子。わが子よ。あなたは獲物によって成長する。雄獅子のように、また雌獅子のように、彼はうずくまり、身を伏せる。だれがこれを起こすことができようか。10 王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。」とあります。シロとは犬の名前ではありません。シロとはメシヤのことです。これは王なるメシヤがユダ族から出て諸国の民を従わせるという預言なのです。メシヤなる方は、このユダ族から起こります。イエス・キリストは「ユダの獅子」なのです。このイエスが先頭に立って進んでくださるのでイスラエルは勝利することができるのです。

それは幕屋の構造を見てもわかります。幕屋の入り口はどの方向にあったでしょうか?東側です。東から入って西へ、至聖所、神の臨在へと至るのです。イエスは言われました。「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」(ヨハネ10:9)イエスが門なのです。だれでもイエスを通って入るなら救われるのです。イエスこそ神に至る道であり、私たちを神と結びつけることのできる唯一の仲介者なのです。ですから、ユダ族が先頭に立って進まなければならなかったのです。

3.南側に宿営する者(10-17)

次に 10~17節 をご覧ください。ここには南側に宿営する者がどの部族であるかが記されてあります。

「10 南側にはルベンの宿営の旗の者が、軍団ごとにおり、ルベン族の族長はシェデウルの子エリツルである。11 彼の軍団は、登録された者が、四万六千五百人である。12 その隣に宿営する者はシメオン部族であり、シメオン族の族長はツリシャダイの子シェルミエルである。13 彼の軍団は、登録された者が、五万九千三百人である。14 ついでガド部族がおり、ガド族の族長はデウエルの子エルヤサフである。15 彼の軍団は、登録された者が、四万五千六百五十人である。16 ルベンの宿営に属し、その軍団ごとに登録された者の総数は、十五万一千四百五十人。彼らは二番目に進まなければならない。17 次に会見の天幕、すなわちレビ人の宿営は、これらの宿営の中央にあって進まなければならない。彼らが宿営する場合と同じように、おのおの自分の場所について彼らの旗に従って進まなければならない。」

南側にはルベン族が宿営し、ルベン族の旗が掲げられます。その右隣にはガド族がおり、左隣にはシメオン族がいます。その総数は151,450人です。イスラエルが旅立つときは、ユダ族に続いて、二番目にこの軍団が出発しなければなりませんでした。

そして17節をご覧ください。ここには、次に会見の天幕、すなわちレビ人の宿営について記されてあります。彼らはこれらの宿営の中央にあって進まなければなりませんでした。彼らが宿営する場合と同じように、おのおの自分の場所について彼らの旗に従って進まなければならなかったのです。

レビ人の宿営、つまり幕屋の用具や付属品を運んでいる人たちは、三番目に進みます。これは、前方からも後方からも軍がおり、幕屋が敵から守られるためです。彼らが宿営する真ん中に幕屋があり、彼らが進んでいる真ん中にも幕屋があります。これはすばらしいことです。彼らの真ん中には常に主なる神が住んでおられたのです。また、彼らは常に主なる神を中心に生活を営んでいました。

4.西側に宿営する者(18-24)

次に18~24節までをご覧ください。

「18 西側にはエフライムの宿営の旗の者が、その軍団ごとにおり、エフライム族の族長はアミフデの子エリシャマである。19 彼の軍団は、登録された者が、四万五百人である。20 その隣にマナセ部族がおり、マナセ族の族長はペダツルの子ガムリエルである。21 彼の軍団は、登録された者が、三万二千二百人である。22 ついでベニヤミン部族がおり、ベニヤミン族の族長はギデオニの子アビダンである。23 彼の軍団は、登録された者が、三万五千四百人である。24 エフライムの宿営に属し、その軍団ごとに登録された者の総数は、十万八千百人。彼らは三番目に進まなければならない。」

ここには西側に宿営した部族について書かれています。西側は東側の反対、それはちょうど幕屋の裏側になります。そこにエフライム族が宿営し、エフライム族の旗が掲げられます。そして幕屋に向かって右隣にマナセ族、左隣にベニヤミン族が宿営しました。マナセではなくエフライムが中心になっているのはおもしろいですね。マナセが兄でエフライムが弟です。それなのにマナセ、エフライムではなく、エフライム、マナセの順になっています。なぜでしょうか?それはヤコブの預言のとおりだからです(創世記48:13-14)。マナセが兄であったのも関わらず、ヤコブは腕を交差させて、エフライムに長子の祝福を行ないました。そして、弟が兄よりも強くなることを預言しました。はたして、そのとおりになったのです。

5.北側に宿営する者(25-32)

次に北側に宿営する者です。25-32節をご覧ください。

「25 北側にはダンの宿営の旗の者が、その軍団ごとにおり、ダン族の族長はアミシャダイの子アヒエゼルである。26 彼の軍団は、登録された者が、六万二千七百人である。27 その隣に宿営する者はアシェル部族であり、アシェル族の族長はオクランの子パグイエルである。28 彼の軍団は登録された者が、四万一千五百人である。29 ついでナフタリ部族がおり、ナフタリ族の族長はエナンの子アヒラである。30 彼の軍団は、登録された者が、五万三千四百人である。31 ダンの宿営に属する、登録された者の総数は、十五万七千六百人。彼らはその旗に従って最後に進まなければならない。32 以上がイスラエル人で、その父祖の家ごとに登録された者たちであり、全宿営の軍団ごとに登録された者の総数は、六十万三千五百五十人であった。」

北側にはダン部族が宿営し、ダンの旗が掲げられました。その右隣にアシュル族が、左隣にナフタリ族がいました。

こうして、東西南北の4つの方角に整然とイスラエルが宿営している姿は、遠くから見たら、ほんとうにすばらしい光景であったでしょう。それにしても、なぜ神はこのような配置を取らせたのでしょうか。ここで各方角に宿営した部族の総人数に着目してください。9節を見ると、東側の総数は186,400人と一番多いことがわかります。そして、南と北がそれぞれ15万人強で、大体同じ人数です。同じ方角のレビ人の人数を数えて足すと、南も北も同じような人数になりです。そして、西がもっとも少ない135,400人です。ということは、これを上空から眺めると、つまり鳥の目で見ると、それは十字架のかたちになります。これは十字架のフォーメーションだったのです。十字架こそ荒野を旅するイスラエルにとって勝利の秘訣であったということです。もちろん、その時点ではそんなことに気付かなかったでしょうが、これはイエス・キリストご自身を指し示していたのです。

ここで民数記24章5~6節を開いてみたいと思います。イスラエルを呪うように預言するように雇われたバラムは、この神の宿営を見てこう言いました。「なんと美しいことよ。ヤコブよ、あなたの天幕は。イスラエルよ、あなたの住まいは。それは、延び広がる谷間のように、川辺の園のように、主が植えたアロエのように、水辺の杉の木のように。」(民数記24:5-6)バラムは、まじないによってイスラエルを呪うようにバラク王に雇われたのに、その美しいフォーメーションを見たとき、祝福してしまったのです。思わず・・・。十字架を見てだれも呪うことなどできません。それはかつて処刑の道具として用いられたおぞましいもので、呪われたものなのに、それが祝福のシンボルに変えられたのです。それは十字架こそ神が私たちを救うために用いられた神の愛の象徴だからです。よくアクセサリーで十字架のものが付けられています。十字架のネックレスとか、十字架のイヤリングとか・・。十字架は神と私たちのアクセスになってくりたのでアクセサリーになったのです。だれも十字架を呪うことはできません。だれでもイエスの十字架のもとに行くなら罪から救われ、永遠のいのちという祝福を受けるのです。

ところで、最後になぜイスラエルの12部族を4つの旗のもとに、4つのグループに分けたのかを考えて終わりたいと思います。その4つというのはユダ族、ルペン族、エフライム族、ダン族であるというのは、さきほど見ました。そして、それぞれこの4つの紋章を見ると、一つのことに気が付きます。それは、これが天的な存在であるケルビムを表しているということです。

まずユダ族ですが、ユダ族の旗じるしはライオン、獅子でした。それからルペン族は人間です。またエフライム族は雄牛です。そしてダン族は鷲ですね。聖書の他の箇所で、この四つの動物が出てくる箇所があります。それはエゼキエル1章と黙示録4章です。エゼキエル1章10節には、人間の顔、獅子の顔、牛の顔、鷲の顔をもった生き物が当時用します。これは黙示録4章7-8節を見ると、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と神を賛美している天使であることがわかります。そう、それはケルビムとか、セラフィムと呼ばれる天使たちのことであり、その類の生き物なのです。つまり、この4つの旗じるしをと通して、天国のイメージを表していたのではないかということです。

それからこの4つの生き物ですが、これは4つの福音書を表しているのではないかということです。その最初はマタイの福音書です。マタイの福音書はユダヤ人の王として来られたイエス・キリストを表しています。ですから、王としての系図が記されてあるのです。マタイの福音書はユダヤ人のために書かれたのです。動物の王といったら何でしょうか。百獣の王ライオンです。それはユダの紋章でした。ですから、ユダ族に対応するのがマタイの福音書です。

それからマルコの福音書は、しもべとしてのキリストが描かれています。しもべとして仕えるために来られたキリストの姿です。ですから、マルコの福音書には系図がないのです。エフライム族の紋章は雄牛でした。それはしもべの象徴です。ですから、エフライム族に対応するのがマルコの福音書なのです。

そして、ルカの福音書は人間としてのキリストの姿が描かれています。人の子としてのキリストです。ですから、系図はアダムまで遡って記録されています。ルペン族の紋章は何だったでしょうか。それは人間でした。ですから、これはルカの福音書に対応します。

そして、ヨハネの福音書は神としてのキリストが強調されています。それはダン族によって現されています。鷲のように空高く飛ぶことができる。それはまさに天的な存在を表していたのです。。イエスこそ神の子であるということです。

ですから、このイスラエルの宿営はイエス・キリストご自身と、その十字架が描かれていたのです。神の子として、人の子としてこの世に来られたイエス・キリストを受け入れるなら、私たちは救われ、圧倒的な神の臨在の中で勝利が与えられるということです。そのことが現されているのが福音書です。この福音を理解して、福音に生きるなら、私たちも勝利のうちに約束の地に行くことができるのです。