レビ記17章

このレビ記は、大きく分けると二つに分けられます。前半部分は1章から16章までのところで、ここには、神に近づくにはどうしたらいいかについて書かれてあります。そして、聖なる神に近づくためには、罪を贖ういけにえが求められました。いけにえをもってのみ近づくことができるのです。そのことについてのさまざまな規定が記されてありました。

そして後半部分はというと、この17章から始まります。17章から終わりまでのところに、今度に神に近づけられた者はどのように歩まなければならないのか、が語られます。つまり、「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。」という言葉の具体的な生き方が示されるわけです。

そしてきょうの部分は、その導入部分となります。イスラエルは神のものとされたわけですから、彼らはこの世の汚れから離れなければなりません。どのようにして、この世の汚れから離れることができるでしょうか。

1.  たった一つの唯一の道(1-9)

まず、1-7節までを見ていきましょう。「ついではモーセに告げて仰せられた。「アロンとその子ら、またすべてのイスラエル人に告げて言え。が命じて仰せられたことは次のとおりである。イスラエルの家の者のだれかが、牛か子羊かやぎを宿営の中でほふり、あるいは宿営の外でそれをほふって、の幕屋の前にへのささげ物としてささげるために、それを会見の天幕の入口の所に持って来ないなら、血はその人に帰せられる。その人は血を流した。その人はその民の間から断たれる。これは、イスラエル人が、野外でささげていたそのいけにえを持って来るようにするため、また会見の天幕の入口の祭司のところで、に持って来て、への和解のいけにえとして、それらをささげるためである。また、祭司が、その血を会見の天幕の入口にあるの祭壇に注ぎかけ、その脂肪をへのなだめのかおりとして焼いて煙にするため、また、彼らが慕って、淫行をしていたやぎの偶像に、彼らが二度といけにえをささげなくなるためである。これは彼らにとって、代々守るべき永遠のおきてとなる。」

これはどういうことでしょうか?私たちはこれまで神に近づくためには、牛や羊、またやぎといった動物をいけにえとしてささげなければならないということを見てきました。にもかかわらず、ここでは、そうした牛や羊ややぎを主の幕屋の前に、主へささげものとしてささげない場合、つまり、これらの家畜を祭壇に持ってくるのではなく、それ以外のところに持っていく場合、その人は罰せられる、と言われています。なぜこのように命じられているのでしょうか。5節、6節をご覧ください。それは、彼らがそうしたいけにえを主のもとに持って来るため、主への和解のいけにえとして、それらを主にささげるためです。また、祭司が、その血を会見の天幕の入口にある主の祭壇に注ぎかけ、その脂肪を主へのなだめのかおりとして焼いて煙にするためです。

いったい、そうしたいけにえを主のもとに持っていかないというようなケースがあったのでしょうか。ありました。彼らは自分勝手に動物をほふり、そして偶像礼拝をしていたのです。7節に、「彼らが慕って、淫行をしていたやぎの偶像に、彼らが二度といけにえをささげなくなるためである。」とあります。やぎの偶像と淫行をしていたというのは偶像礼拝のことです。彼らは主にいけにえをささげるためではなく、自分たちが偶像礼拝をするために勝手に動物をほふっていたのです。しかし、いけにえは主への和解のいけにえとして、主のもとに持って来なければなりませでした。主にささげなければならないのです。5節には、そのことが強調されています。「主に持って来て、主への和解のいけにえとして、主への祭壇に注ぎかけ、主へのなだめのかおりとして焼いて煙にするため・・・」と、何回も何回も、主ご自身にお会いするためにいけにえを持って来ることが強調されているのです。イスラエルは自分がよかれという方法によって神を礼拝するのではなく、神がお定めになった方法によってのみ、神に近づくことができるのであって、神を自分に合わせようとするのではなく、自分が神に合わせるようにしなければならないのです。

このようなことは、私たちにもあるのではないでしょうか。自分では神に従っているようでも、結局のところ、自分が神となっている場合があります。自分が神に会わせているのではなく、自分の考えの信仰、自分勝手な歩みになっている時があるのです。そうではなく、あくまでも私たちが神に合わせなければなりません。神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなければならないのです(ローマ12:2)。それは、礼拝も同じです。私たちに与えられている礼拝も、一つしかありません。それは、イエス・キリストを通してささげられなければならないということです。イエス・キリストを通してしてなされた救いのみわざを認め、これを受け入れ、この方を礼拝することです。イエスさまは、「わたしは道です。真理です。命です。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)と言われました。祭壇はまさに、主が私たちの罪のために血を流され、死なれたところです。この方を通してでなければ、私たちは決して礼拝を行うことはできないし、したとしても、自分勝手な、独りよがりの礼拝になってしまいます。教会は、ただ一つの目的であるイエス・キリストとその救いのみわざを思い出し、この方を通して神を礼拝しなければならないのです。

それは、和解のいけにえだけではありません。8節と9節を見ると、和解のいけにえだけでなく、全焼のいけにえや、その他のいけにえをささげる場合も同じであることが語られています。それを主にささげるために会見の天幕の入口に持って行かないなら、その者は、その民から断ち切られます。つまり、簡単にいうと地獄に行くということです。主イエス以外に神に近づこうとするならば、どのような宗教的な行為を行ったとしても、その人は滅ぼされることになってしまうのです。私たちが救われ、神に近づく唯一の道は、主イエス・キリスト以外にはないのです。

2.  血を食べてはならない(10-13)

次に10節から16節までをご覧ください。10節には、「どんな血でも食べるなら、わたしはその血を食べる者から、わたしの顔を背け、その者をその民の間から断つ。」とあります。異邦人の中には動物の血を食べたり、飲んだりする習慣がありました。しかし、神の民であるイスラエル人はどんな血でも食べることが禁じられました。なぜでしょうか?11節を見てください。ここには、「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。」とあります。つまり、その第一の理由は、肉のいのちは血の中にあるからです。血はいのちを表すものであり、いのちの源であるからです。

第二の理由は、血はいのちであって、人間のいのちを贖う手段として用いられるものだからです。ヘブル9:22には、「それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」とあります。特に贖いに関しては、「祭壇の上で」なされるとき、神は動物の血を、人のいのちとして認められるのです。人はそのいのちを贖われなければならない罪人です。ですから、その罪を贖うために用いられる血を食べてはならないのです。つまり、血は、神との交わりのためにのみ用いられるものだからであって、祭壇に注がれ、神と民とを一つにするための贖いのために用いられるものだからなのです。3:17と7:26にも、脂肪とともに血を食べることの禁止が教えられていたのです。

この尊いいのちが犠牲となって私たちが神に受け入れられるようになるということは、いかに偉大なことであるかがわかると思います。ものすごく大きな代償が支払われて私たちの罪が贖われるのです。動物がほふられたとき、神はその動物を粗末に扱われていたのではなく、むしろ高価で尊いものと考えておられ、そのいのちがほふられることを何よりも悲しんでおられたのは神ご自身であられました。けれども、私たちをご自分のみもとに引き寄せるために、そのことを切に願っておられた主は、動物が血を流すことを選ばれたのです。しかし、神は動物ではなく、ご自身のひとり子のいのちを犠牲にされました。いのちはみな尊いのですが、御子のいのちほどに高価で貴いものはありません。けれども、この方を犠牲にすることによって、私たちの罪が完全に贖われるために、あえてそのようにされたのです。

「ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(Iペテロ1:18-19)

それゆえに、神はイスラエル人に、だれでも血を食べてはならない、と命じられたのです。血を食べるということは、いのちを取るということに他なりません。また、血による贖いをないがしろにすることになるのです。ヘブル10:29-30には、御子の血をないがしろにすることについて、次のように警告されています。

「まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする」、また、「主がその民をさばかれる」と言われる方を知っています。」

ですから、血を食べるということは主の血を踏みつけ、ないがしろにすることなのです。私たちが、ことさらに罪を犯し続けることによって、主の血をないがしろにすることがあります。また、自分の行いか功績かによって救われようとして、主の血をないがしろにすることがあるのです。その一方でイエス様は、ご自分の肉を食べ、ご自分を血を飲むようにと言われました。ヨハネ6:53-56です。

「イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。」

私たちが食べ、私たちが飲まなければならないのは、主の肉であり、主の血潮です。まさに聖餐式にあずかるというのは、このことを表しているのです。聖餐式とは主ご自身の血を飲み、肉を食べることであり、キリストのいのちにあずかることなのです。ですから、血を食べてはならないと言われたことの意味は、主のいのちにあって生きるべきであるということであり、主の血とからだに対して罪を犯してはならないということなのです。

彼らの中の在留異国人のだれかが、食べることのできる獣や鳥を捕らえるなら、その者はその血を注ぎだし、それを土でおおわなければなりませんでした。

3.自然に死んだものを食べるなら(14-16)

でも、自然に死んだものとか、野獣にひき殺されたものについてはどうでしょうか。生きた獣はいのちがあるので、その血はいのちであることが分かります。しかし、死んだ獣の場合はどうなるのでしょうか。血を注ぎ出しても、もともと死んでいる獣を食べるときは、その人は汚れます。罪に問われることはありませんが、汚れるのです。ですから、水を浴びなければなりません。その衣服を洗わず、その身に水を浴びなければ、その者は自分の咎を負わなければならないのです。血によってきよめられているのですが、水の洗いがなければ、罪ある者となってしまうのです。これはどういうことかというと、私たちは主の血潮によってきよめられた者ですが、みことばによる水の洗いがなければ、罪ある者となっしまうということです。つまり、主イエスの血によってきよめられた者でも、日々の歩みの中で汚れてしまうことがあれば、みことばを読み、それを心に蓄え、聖霊の促しに答えて悔い改めることがなければ、咎を負ってしまうことになるということです。Iヨハネ1:9には、

「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

とあります。私たちの日々の歩みにおいては、この悔い改めを通して、聖霊の洗いを受けなければなりません。日々のきよめが必要なのです。イエス様の尊い血によって罪から救い出された私たちは、その血によって歩み続けること。それが求められているのです。これが、神が私たちのきよめのために求めておられる道なのです。

レビ記16章

きょうはレビ記16章全体から学びたいと思います。ここには、イスラエルの例祭の一つである「贖罪の日」の規定について記されてあります。例祭とは毎年恒例として行われているお祭りのことです。イスラエルには七つの例祭がありますが、その一つがこの「贖罪の日」です。これはヘブル語で「ヨム・キプール」と言います。「ヨム」とは「日」のこと、「キプール」とは「贖罪」という意味です。この贖罪の日は祭日ではありますが祝日ではありません。普通祭日というと何かをお祝いするというイメージがありますが、この贖罪の日はそれとは逆で、苦しみを体験する日です。29節には「身を戒めなければならない」とありますが、身を戒めるとは断食のこと。祭日に断食することなどありませんが、この贖罪の日には断食します。具体的には五つの自己否定をもって苦しみを体験すると言われています。(1.飲み食いをしない。2.風呂に入らない。風呂は体に心地よいことなので、そうした心地よい事を避けるという意味で。3.体に油を塗らない。4.革靴やサンダルを履かない。贅沢品を避けるという意味で。5.夫婦関係を持たない。そのため部屋のカーテンはオープンにし、寝室にはろうそくの明かりを灯した。)それは、私たちの罪をきよめるために、神が贖いをしてくださったから。そのことを覚えて身を戒めるのである。

1.  垂れ幕の内側の聖所に入って(1~2節)

それではまず第一に、1~10節までにあるいけにえの準備について見ていきたい。1節と2をご覧いただきたい。

「1 アロンのふたりの子の死後、すなわち、彼らがに近づいてそのために死んで後、はモーセに告げられた。
2 はモーセに仰せられた。「あなたの兄アロンに告げよ。かってな時に垂れ幕の内側の聖所に入って、箱の上の『贖いのふた』の前に行ってはならない、死ぬことのないためである。わたしが『贖いのふた』の上の雲の中に現れるからである。

アロンのふたりの子の死とは、レビ記10章で起こったアロンのふたりの子ナダブとアビブの死のことである。彼らは異なった火をささげたために神に打たれて死んだ。異なった火をささげたとはどういうことか?2節をみると、ここに「かってな時に垂れ幕の内側の聖所にはいって、箱の上の『贖いのふた』の前に行ってはならない。死ぬことのないためである。」とあることから、おそらく、この二人の息子は、大祭司である父親のアロンしかできないことを、自分たちの手でやろうとしたのではないかと考えられる。大祭司アロンにしかできないこととは、垂れ幕の内側の聖所に入ることである。それは至聖所のことで、ここには大祭司が年に一度、この贖罪の日にしか入ることができなかったのに、彼らはその至聖所に勝手に入って行った。いったいなぜ彼らはこんな勝手なことをしたのか?それは自分たちに栄光が帰されることを求めたからだである。10章3節には、「わたしに近づく者によって、わたしは自分の聖を現し、すべての民の前でわたしは自分の栄光を現す」とあるが、その栄光を自分によって現したいと思ったのであろう。おそらく、この二人は、主の前から火が出てきたことを見てこれはすばらしいと思い、自分たちもそれをまねて、火を出してみせようと思ったのだろう。自分によって、そうした偉大なことができると思ったのだ。彼らは自分たちに栄光が帰せられることを求めたのである。しかし、それは罪である。栄光は主のものであって、祭司はその主に仕える者にすぎない。したがって、祭司の務めは主の栄光を現わすことである。自分の栄光ではない。主に栄光が帰せられることを求めなければならない。なのに、彼らは自分たちの栄光を求めたので、神のさばきの火が彼らを焼き尽くしたのである。

これは主に仕える祭司が注意しなければならないことである。祭司は主の栄光が現されるために、命じられたとおりに仕えなければならない。この務めに慣れてくると、いつしか自分の栄光を求めようとする誘惑が生じる。しかし、祭司は自分の栄光などどうでもいいことであって、ただ神に栄光が帰せられることを求めていかなければならない。そのために必要なことは、かってな時に垂れ幕の内側に入り、「贖いのふた」の前に行ってはならないということ。そこに行くことができるのは大祭司だけであり、しかも年に一度贖罪の日だけに限られていた。そこで大祭司は主と会見する。どこで会うのかということが2節にある。「贖いのふた」の上の雲の中に現れる。このような特権は大祭司のみに許されている。しかもその大祭司でさえも、そのためにちゃんと備えていなければ死ぬこともある。

このようなことを申し上げると恐ろしい感じもするが、しかし私たちは恐れる必要はない。なぜなら、私たちはもうすでにこの至聖所の中にいるのだから。まことの大祭司であられるイエス・キリストが贖罪のみわざを成し遂げてくださったので、そのみわざを信じることによって、私たちは大胆にこのこの垂れ幕の内側の聖所に入ることができるようになった。このことがヘブル人への手紙9章11~12節に記されてある。

「11 しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、
12 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」

この箇所を見ると、この幕屋というのは天国の模型であったことがわかる。実体は天国である。そしてこの贖罪の日になされることは大祭司が至聖所に入って、罪の贖いをすること。その大祭司とはイエス・キリストを現していた。キリストは偉大な大祭司として父なる神が座しておられるまことの至聖所に入り、罪の贖いをされた。しかもやぎや小羊といった動物の血によってではなく、ご自分の血を携えていかれた。やぎや小羊の血でさえも人々の罪をきよめることができるとするならば、神の子であられるキリストの流された血はどんなにか私たちの良心をきよめることができるだろう。完全にきよめることができる。私たちはこのキリストの血によってきよめられたので、大胆に至聖所の神の前に出ることができるようになった。それゆえ私たちはこのイスラエルの大祭司と同じ特権に与っている。いや、それ以上の特権に与っている。それ以上のというのは、イスラエルの大祭司は年に一度しか入ることが許されていなかったが、私たちはいつでも、どこでも、神の前に入っていくことが許されている。これはほんとうに大きな特権ではないだろうか。

2.  聖所に入るために(3~10)

次に、3~10節までを見ていただきたい。ここには、大祭司はどのようにして聖所に入らなければならなかったのかが記されてある。その準備についてである。

「3 アロンは次のようにして聖所に入らなければならない。罪のためのいけにえとして若い雄牛、また全焼のいけにえとして雄羊を携え、
4 聖なる亜麻布の長服を着、亜麻布のももひきをはき、亜麻布の飾り帯を締め、亜麻布のかぶり物をかぶらなければならない。これらが聖なる装束であって、彼はからだに水を浴び、それらを着ける。
5 彼はまた、イスラエル人の会衆から、罪のためのいけにえとして雄やぎ二頭、全焼のいけにえとして雄羊一頭を取らなければならない。
6 アロンは自分のための罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。
7 二頭のやぎを取り、それをの前、会見の天幕の入口の所に立たせる。
8 アロンは二頭のやぎのためにくじを引き、一つのくじはのため、一つのくじはアザゼルのためとする。
9 アロンは、のくじに当たったやぎをささげて、それを罪のためのいけにえとする。
10 アザゼルのためのくじが当たったやぎは、の前に生きたままで立たせておかなければならない。これは、それによって贖いをするために、アザゼルとして荒野に放つためである。

彼はまず、自分と自分の家族のために贖いをしなければならなかった。そのために必要であったのが若い雄牛であり、また全焼のいけにえとしての雄羊であった。それをいけにえとして携えて行かなければならなかった。その後で、イスラエルのためのいけにえをささげる。なぜなら、彼はこれから至聖所に入って行かなければならなかったから。彼自身に罪があれば、滅ぼされてしまうことになる。民のために罪の贖いをするためには、まず自分自身が全き者として神の前に出なければならなかったのである。

このことはと゜んなことを表していたのかというと、キリストの罪なき姿である。偉大な大祭司であられたキリストが、神と人との仲介者であられる主が他の人々の罪の贖いをするためには、キリスト自身の中に罪があってはならなかった。もし罪があれば自分自身のために血を流さなければならないということになり、私たちに代わって罪を贖うことができないことになる。それゆえ、キリストは聖霊によって身ごもり、処女マリヤからお生まれになられた。それは、キリストはアダムが犯した罪の性質を受け継いでおられないということであり、初めから罪の性質を持っていなかったことを示している。キリストは私たちと同じような肉体を持ってお生まれになられ、あらゆる誘惑を受けられたが、けれども罪は犯されなかった。それゆえ彼は私たちの罪を贖うことがおできになられたのである。

次に大祭司は衣服を着替えた。いつもの栄光と美を現していたエポデを脱ぎ捨てた。その代わりに亜麻布を身にまとった。長服も、飾り帯も、かぶり物もすべて亜麻布であった。いったいなぜ衣服を着替えなければならなかったのか。それは、イエスが天におられた栄光をかなぐり捨てて、私たちと同じような肉体を取られて卑しくなられたことを意味していたから。ピリピ2章6~8節には、「6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。」とある。

そして次に、イスラエルの民のために罪の贖いをする。そのために必要なのは二頭のやぎ。一頭はいつものようにほふり、その血をアロンが至聖所に携えていく。しかしもう一頭は、生きたままにしておく。これはあとで荒野に放たれる。これは罪が赦されることだけを意味しているのではなく、荒野に放たれたやぎによって、罪が取り除かれたことを表すため。キリストが行われた贖罪は、私たちの罪を大目に見るということではなく、私たちの罪が全くないようにみなすということ。罪は覆われたのではなく、全く取り除かれ、どこかに追いやられ、吹き飛んで行ったということ。このアザゼルのやぎは、そのことを表していた。

3.  贖罪(11~19)

次に11~19節を見ていただきたい。ここには、実際に罪の贖いがどのように行われたのかが記されてある。11~14節にはこうある。

「11 アロンは自分の罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。彼は自分の罪のためのいけにえの雄牛をほふる。
12 の前の祭壇から、火皿いっぱいの炭火と、両手いっぱいの粉にしたかおりの高い香とを取り、垂れ幕の内側に持って入る。
13 その香をの前の火にくべ、香から出る雲があかしの箱の上の『贖いのふた』をおおうようにする。彼が死ぬことのないためである。
14 彼は雄牛の血を取り、指で『贖いのふた』の東側に振りかけ、また指で七たびその血を『贖いのふた』の前に振りかけなければならない。」

いけにえは、外庭の青銅の祭壇でほふられた。そこにあった炭火を火皿に入れ、かおりの高い香を取って聖所に入る。そしてその香を炭火に入れて焚き、煙にして垂れ幕の内側、すなわち、至聖所に入る。これは何を表しているかというと、彼自身の罪が祭壇で贖われたことを祈りをもって、神に伝える行為である。

それから彼は雄牛の血を取り、指で「贖いのふた」の東側に振りかけ、また指で七たびその血を「贖いのふた」の前に振りかける。これが「血によるきよめ」である。この「贖いのふた」はギリシャ語では「なだめの備え物」と訳されている。神の怒りのすべてがそこで完全になだめられる、ということ。この贖いのふたの前で血が振りかけられたというのは、私たちの罪に対する神の怒りが、この血にあって完全に贖われたということを意味している。

「15 アロンは民のための罪のためのいけにえのやぎをほふり、その血を垂れ幕の内側に持って入り、あの雄牛の血にしたようにこの血にして、それを『贖いのふた』の上と『贖いのふた』の前に振りかける。
16 彼はイスラエル人の汚れと、そのそむき、すなわちそのすべての罪のために、聖所の贖いをする。彼らの汚れの中に彼らとともにある会見の天幕にも、このようにしなければならない。
17 彼が贖いをするために聖所に入って、再び出て来るまで、だれも会見の天幕の中にいてはならない。彼は自分と、自分の家族、それにイスラエルの全集会のために贖いをする。
18 の前にある祭壇のところに出て行き、その贖いをする。彼はその雄牛の血と、そのやぎの血を取り、それを祭壇の回りにある角に塗る。
19 その残りの血を、その祭壇の上に指で七たび振りかける。彼はそれをきよめ、イスラエル人の汚れからそれを聖別する。」

アロンは、今度はイスラエルの民のためにも、同じように罪の贖いをする。彼は、罪のためのいけにえのやぎをほふり、その血を至聖所に持って行き、雄牛の血をしたようにこの血もする。すなわち、贖いのふたの上と前に振りかける。それだけでなく彼は、イスラエル人の汚れと、そのそむきの罪のために、聖所の贖いもする。残りの血は、外庭にある祭壇の角に塗り、祭壇の上にも振りかけられた。このようにして、イスラエルの罪の贖いが成し遂げられた。

このようにして大祭司アロンは自分の罪とイスラエルの民の罪の贖いをした。そして、これと同じように、私たちの大祭司であられるキリストも同じようにして罪を贖う。しかし、違うことは、こうした雄牛ややぎの血が彼らの罪を贖うことができたのならば、神の血によって成された贖いはどれだけ私たちの罪をきよめることができるかということである。完全にきよめることができるということだ。

先程もみたが、ヘブル人への手紙9章11~14節にはこのようにある。

「11 しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、
12 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。
13 もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、
14 まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離させ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」

ここでのポイントは、もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離させ、生ける神に仕える者とすることか、ということ。キリストの血は、私たちの罪を完全に贖い、その良心を完全にきよめることができるのである。

4.  アザゼルのやぎ(20~28)

さて、それではもう一匹のやぎについて見ていこう。すなわち、生きているアザゼルのやぎである。20~28節にこうある。

「20 彼は聖所と会見の天幕と祭壇との贖いをし終え、先の生きているやぎをささげる。
21 アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪があっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ。
22 そのやぎは、かれらのすべての咎をその上に負って、不毛の地へ行く、彼はそのやぎを荒野に放つ。
23 アロンは会見の天幕に入り、聖所に入ったときに着けていた亜麻布の装束を脱ぎ、それをそこに残しておく。
24 彼は聖なる所でそのからだに水を浴び、自分の衣服を着て外に出て、自分の全焼のいけにえと民の全焼のいけにえとをささげ、自分のため、民のために贖いをする。
25 罪のためのいけにえの脂肪は、祭壇の上で焼いて煙にしなければならない。
26 アザゼルのやぎを放った者は、その衣服を洗い、そのからだに水を浴びる。そうして後に、彼は宿営に入ることができる。
27 罪のためのいけにえの雄牛と、罪のためのいけにえのやぎで、その血が贖いのために聖所に持って行かれたものは、宿営の外に持ち出し、その皮と肉と汚物を火で焼かなければならない。
28 これを焼く者は、その衣服を洗わなければならない。そのからだに水を浴びる。こうして後に宿営に入ることができる。」

20節の「生きているやぎ」とはアザゼルのこと。アロンは生きているそのやぎの頭の上に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、それがどんな罪であっても、これを全部その上に告白して、係りの者の手でこれを荒野に放つ。そのやぎは、彼らのすべての咎をその上に負って、不毛の地へ行く。

これはいったいどういうことか?このヤギは英語で「スケープゴート」と言う。民衆の不平や憎悪を他にそらすための身代わりとして使われる言葉である。すべてのイスラエルの罪を背負って荒野に放たれることからそのように使われているのだと考えられる。けれどもヘブル語の「アザエル」というのは身代わりというよりも「出て行く」とか「追放される」、「取り除く」という意味がある。イスラエルのすべての罪を背負い、出ていくという意味。このやぎは、彼らのすべての咎をその上に負って、不毛の地へと出て行く。罪が遠くに追いやられたのである。もう戻ってくることはない。完全に追いやられる。つまり、主が贖罪の日に意図していたことはただ単に罪を覆い隠すということではなく、罪を取り除くこと。永遠の贖い(ヘブル9:12)のことである。キリストが成された贖いはこの永遠の贖いである。キリストがただ一度、血を流されたことによって、過去、現在、未来のすべての罪が贖われた。

「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。」(詩篇103:12)

「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」(イザヤ43:25)

「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」(エレミヤ31:34)

私たちの過去の罪が赦されただけではない。私たちの一切の罪が赦された。あなたの罪は一切ない。取り除かれた。もちろん、私たちはまた罪を犯す。けれども、そのことによって神と私たちの関係は変わらない。ただ、神の赦しを、悔い改めをもって受け入れるにしか過ぎないのである。

それから大祭司は会見の天幕に入り、以前身につけていた大祭司の装束を身につけた。それはキリストが死の中にとどまっているのではなく、よみがえられたことを表している。よみがえられただけでなく、天に昇られた。その栄光の姿、神の栄光を再び受けられる。アザエルのやぎを放った者はその汚れを負ったため、宿営に入るには水の洗いをする。それはアザエルだけではない。罪のためのいけにえの雄牛ややぎの、その血が贖いのために聖所に持って行かれたものも、宿営の外で火で焼かなければならなかった。

5.  全き安息(29~34)

最後に29~34節を見て終わりたい。29節には、第七の月の十日には、「身を戒めなければならない」とある。これは普通、断食と解釈される。断食とは、罪を悔い改める、その嘆きを表している。なぜ身を戒めなければならないのか。なぜなら、この日に、彼らの罪がきよめられるために、贖いがなされたからである。であればうれしいはずなのになぜ嘆きなのか?それは、そのために彼らは自分たちがヤーウェなる神、イエス・キリストを突き刺したことを知るからです。(ゼカリヤ12:10)

そして、この日は全き安息の日となる。なぜ?なぜなら、キリストが一切の罪を取り除いてくださった、贖いの完成を示しているから。キリストは永遠の贖いを成し遂げてくださったので、もうこれ以上、私たちが救われるためにしなければならないことは何もない。すでに贖いは完成した。これ以上、なにもすることはない。私たちにできることは、そのような贖いを成し遂げてくださった主のみわざに感謝し、賛美すること。そして、喜んで主に仕えること。自分の義を達成するためにこれらのことを行うのではなく、すでに達成されたから行う。そして、大胆に恵みの御座に近づくことができるのである。ヘブル4章16節には、「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」とある。神様は私たちに、おりにかなった助けを与えようとしておられる。そのために、私たちは恵みの御座に近づかなければならない。私たちにはそれができる。なぜなら、まことの大祭司であられるイエスが、罪の贖いを成し遂げてくださったから。だから、「こんな自分なんて」とか、「全く罪に汚れた自分は」などと言って縮こまるのではなく、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づかなければならない。

レビ記15章

きょうはレビ記15章から学びたいと思います。私たちはこれまで、汚れたものときよいものとの区別について学んできました。それは食物の規定から始まり、出産によって出てくる血による汚れ、さらにツァラアトによる汚れと続きました。そしてこの15章には、男女の漏出物について教えられています。

 

1.  漏出物がある場合(1-12)

まず1節から12節までをご覧ください。2節には、「だれでも、隠しどころに漏出物がある場合、その漏出物は汚れている。」とあります。この隠しどころにある漏出物は何でしょうか?16節には「精を漏らした時には・・・」とありますから、これは精液の漏出とは区別されたものであることがわかります。

新共同訳聖書ではここを、「もし、尿道による炎症による漏出があるならば、その人は汚れている。漏出による汚れは以下のとおりである。尿道から膿が出ている場合と尿道にたまっている場合、以上が汚れである。」と訳して、性病の一種である淋病(りんびょう)の症状と似ていることから、この病気のことではないかと考えているようです。淋病とは「淋」という字からもわかるように、雨の林の中で木々の葉からポタポタと雨がしたたり落ちるイメージを表現していますが、それと同じように、尿道の強い炎症のために尿の勢いが低下し、排尿がポタポタと漏れていた症状を現しているのではないかというのです。創造訳聖書ではこれを「男性の性器から病的な漏出がある場合は・・」と訳し、病的な漏出のことだと考えています。

問題は「隠しどころ」です。これは男性の性器、生殖器のことを表していて、このあとに出てくる女性の生理のことも含めて、そうした「隠しどころ」から漏出したもののカテゴリーの一つとしてとらえたるのがいいと思います。

このような隠しどころから漏出を病む人はどうなるのでしょうか。すべて汚れます。そしてそれは、その病にかかっている人だけでなく、それに触れる人に伝染します。その例が12節まで続きます。まず5節には、「また、だれでもその床に触れる者は自分の衣服を洗い、水を浴びなければならない。その者は夕方まで汚れる。」とあります。その人が寝た床はすべて汚れているので、それに触れた人は自分の衣服を洗い、水を浴びなければなりませんでした。

次は6節です。その人がすわった物の上にすわる物も汚れました。その人も自分の衣服を洗い、水を浴びなければなりませんでした。

次は7節です。「また、漏出を病む人の隠しどころにさわる者」、すなわち、性器にさわる人も汚れます。新共同訳では「漏出にある人に直接触れた人」となっています。その人が寝た床、すわったところに触れただけで汚れるわけですから、その人にさわっただけで汚れるのはわかります。

8節には、その漏出を病む者が、きよい人につばをかけるなら、その人は汚れるとあります。果たしてつばをかけるというようなことがあるのでしょうか。もしかすると嫌がらせ言われ、それが嫌でつばをかるというようなことがあったのかもしれません。

9節には、漏出を病む人が乗った鞍はみな汚れるとあります。ですから、病人が乗ったろばの鞍は取り替えなければなりませんでした。

そして10節には、どんな物であれ、その者の下にあった物にさわる者はみな、汚れるとあります。それらの物を運ぶ者も汚れるので、その衣服を洗わなければなりませんでした。

11節には、漏出を病む者が、水で手を洗わずに、だれかにさわるなら、その人は汚れるとあります。隠しどころだけでなく、手で触れただけで汚れるのです。

また12節には、漏出を病む人がさわった土の器も汚れるとあります。その器はこわされなければなりませんでした。木の器は、水で洗います。

このように漏出物によって汚れることがないように、徹底的に教えられているのです。でもいったいなぜ、主はそこまで言われるのでしょうか。女の出産の汚れについてもそうでしたが、ツァラアトの時もそうでした。でもこの性器から出てくる漏出物などだれも読みたくないでしょう。なのに主はわざわざそのことによる汚れについて語っておられるのです。なぜでしょうか?それは、私たちがどれほど汚れたものであるのかを示すためです。主はそれをこの漏出物によって明らかにしておられるのです。

マタイの福音書15章18-20節にはこうあります。「しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。」

また、パウロはローマ人への手紙7:18で、「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。」と告白しています。またイザヤ書のみことばを引用してこのようにも行っています。ローマ3:10-18です。「それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない。」「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」

また、エレミヤもこう言いました。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。(17:9)」

これが私たち人間の姿なのです。聖書はまさにそうした人間の赤裸々な姿を描いているのです。「聖書」というくらいですから、よっぽど聖いことが書かれてあるのかと思えば、こうした性器からの漏出物とか、生理のこと、あるいはカインがアベルを殺したとか、ノアの時代の人々がかなり乱れていたこと、バベルの塔の時代には高ぶって神に反抗していたことなど、本当にひどい人間の姿が描かれています。それは、人間とはこういうものだということをはっきりと示すためです。

2.漏出からきよくなるとき(13-15)

次に13~15節をご覧ください。ここには、漏出を病む者がその漏出からきよくなったらどうしたらいいかが記されてあります。その人は自分のきよめのために清めの機関として七日を経て、自分の衣服を洗い、自分のからだに湧き水を浴びなければなりませんでした湧き水を浴びるとは新鮮な水を浴びるということでしょう。そうするときよくなります。

そして八日目には、自分のために、山鳩二羽か家鳩のひな二羽を取り、それを主の前、会見の天幕の入口のところに来て、祭司に渡しました。祭司はそれを取り、一羽を罪のためのいけにえとし、他のもう一羽を全焼のためのいけにえとしてささげ、その漏出物のために、主の前で贖いをしました。

これはイエス・キリストの十字架の贖いと御霊のきよめを表しています。彼は自分のきよめのために七日を数え、自分の衣服を洗い、自分のからだに湧き水を浴びました。この湧き水、新鮮な水こそ御霊のことです。古きは過ぎ去ってすべては新しくなりました。イエス・キリストの十字架の血によって贖われた人は、御霊のきよめによって新しい人を着たのです。その人はきよいのです。全く新しい人になりました。

3.精の漏出があったならば(16-18)

次に16~18節までをご覧ください。ここには「もし人に、精の漏出があったときはどうしたらいいかが教えられています。精を漏らすというのは、精液を漏らすということです。その人は全身に水を浴びなければなりませんでした。また、精液のついた衣服と皮はすべて、水で洗わなければなりませんでした。男が女と寝て交わったなら、ふたり共水を浴びなければなりませんでした。

精液が漏れた時の規定は淋病のようなきびしいものではありませんが、それでも汚れるので、水であらわなければなりませんでした。おそらくこれは、隠しどころの漏出という点で、私たちが汚れた者であるということを教えようとしていたものと思われます。

4.女に漏出がある場合(19-24)

次に19~24節までをご覧ください。ここには、「女に漏出があって、その漏出物がからだの血であるならば、彼女は七日間、月のさわりの状態になる。だれでも彼女に触れる者は、夕方まで汚れる。」(19)

この女の漏出とは何のことでしょうか。新共同訳聖書には、「女性の生理が始まったならば、七日間は月経の期間であり、この期間に彼女に触れた人はすべて夕方まで汚れている。」とあります。つまり、女性の生理のことです。この期間は汚れます。これは生理そのものが汚れているということではなく、その生理が表している人間の汚れのことです。ですから、このところからその人に触れると汚れるということはないので安心してください。

そして、この漏出物は男性の漏出物と同じように、その汚れが移ると言われています。20節には、その女の月のさわりのときに使った寝床が汚れると言われています。また21節には、その女の床に触れる者も汚れます。その人は衣服洗い、水を浴びなければなりませんでした。また22節には、何であれ、その女のすわった物に触れる者はみな汚れるので、その衣服を洗い、水を浴びなければならないとあります。また24節には、もし男がその女と寝るなら、その女のさわりが彼に移り、彼も七日間汚れると言われています。

ということは、男性よりも女性の方が汚れているということなのでしょうか。そうではありません。神は私たちの心が汚れているということを教えるためにこの生理の話をされたにすぎないのであって、男性よりも女性の方が汚れているということではないのです。

ではこの生理の話の中で神が伝えたかった真意とは何だったのでしょうか。それは七日間汚れるということです。生理による出血は長く続きます。同じように、私たちが悪い思いを長く持ち続けると、それは人々に伝染していくのです。自分だけでなく他の人をも汚すことになります。「一生感謝」という本の2/26に、「あるユダヤ人の母の日課」という内容で次のようにありました。

教養のない平凡なユダヤ人母親がいた。ところがこの母親は、子どもを実に立派に育てた。その秘訣は何かと人々が聞いたところ、母親は、ただ三つのことだけを教えたと答えた。

1つ目、「どんな境遇であれ、すべてのことについて感謝すること。小さなことでも大きなことでも感謝する人になりなさい。困難に遭っても恨んだり不平を言ったりせず、ただ感謝しなさい。いつも感謝しなさい。」すなわち、感謝を習慣化させたのである。

2つ目は、「恨み事を言う人と付き合うな。」恨み事や不平は影響を受けるからだ。成功する人生を生きたいのなら、文句を言う人と付き合ってはいけないということだ。

3つ目は、「感謝する人親しくなりなさい。感謝する人といっしょにいなさい。」

このように、感謝にまつわる三つの教訓をもって故どもたちを立派に育てたのです。恨み事や不平、感謝は他の人に大きな影響を与えます。恨み事や不平は悪い影響を、感謝は逆に良い影響を与えるのです。

ですから、私たちが悪い思いを持ったなら、すぐにそれを主に告白し、悔い改めて、きよめてもらうようにしなければなりません。そうしないと、その影響が広がって他の人にも害を及ぼしてしまうことになるからです。ですから、この生理の話はそのように長い期間の汚れを示しているのです。

5.月のさわりではない血の漏出(25-33)

最後に、25~33節までを見て終わりたいと思います。ここには、月のさわりの間ではないのに、長い日数にわたって血の漏出がある場合、あるいは、月のさわりの間が過ぎても漏出がある場合について教えられています。生理の時は七日間だけ汚れ、他の人から隔離されて暮らさなければなりませんが、長い日数にわたって血の漏出があるというのは、そういう状態がずっと続くことを意味しています。七日間でも大変なのに、そうした状態がずっと続くというのは絶え難い苦しみではないかと思います。これは霊的にはどういうことを表しているかというと、ほんとうに汚れてしまっている人、自分自身を滅ぼそうとしている人に当てはまるでしょう。しかし、罪が増し加わるところには、恵みも満ち溢れます。ローマ人への手紙5章20節をご覧ください。ここには、「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」とあります。主のあわれみは尽きることはありません。罪が増し加わるところには、恵みもまた満ちあふれるのです。

ここで長血をわずらった女の話を見ていきましょう。マルコの福音書5章25~34節にあります。この女はこのレビ記の規定によって人々に決して触れてはいけない女でした。けれども彼女は、「イエスの着物にさわることができれば、きっと直る」と考え、群衆の中に紛れ込み、イエスの着物にさわりました。イエスはこのことに気付かれ、「だれがわたしにさわったのか」と言われました。それを聞いたこの女は恐ろしくなりました。律法では他の人を汚すことであり、イエスを汚すことになるからです。そこで彼女は、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実をあますところなく打ち明けました。するとイエス様は驚くべきことを言われました。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。」何と希望と慰めに満ちたことばでしょう。彼女がイエス様を汚したのではなく、イエス様が彼女をきよめられました。彼女はイエス様に触れることによって、救われたのです。

私たちも同じです。私たちのあふれでる悪い思い、汚れ、そうしたものがイエス様を汚すのではなく、逆にイエス様に触れることによってきよめられるのです。私たちが罪、汚れからきよめられるには、このイエス様に触れていただくことによってのみなのです。イエス様に触れていただくことによって、私たちのすべての汚れがきよめられ、きよい良心を保ち続けることができるのです。

28~30節には、きよめられ時の儀式について書かれています。それは隠しどころに漏出がある人が清められるときと同じ儀式です。八日目は新しい始まり。主が死からよみがえられたように、私たちも主のいのちによって新しい歩みをすることができるのです。

イザヤ書56章1~12節からのメッセージをアップロードしました!

本日の礼拝で語られたイザヤ書56章1~12節からのメッセージをアップロードしました。タイトルは「近づいている救い」です。「主はこう仰せられる。「公正を守り、正義を行え。わたしの救いが来るのは近く、わたしの義が現れるのも近いからだ。」(56:1)主の再臨が近づいている今、私たちクリスチャンに求められていることはどんなことでしょうか。それは、公正を守り、正義を行うということです。私たちは主の救いの御業によってユダヤ人のように、大胆に恵みの御座に近づくことができるようになりました。そのような私たちに求められていることは、私たち自身が祈りの家となることです。自分の満足のためではなく、神の栄光のために生きること。もし今、そのようになっていなければ、悔い改めて、神に立ち帰らなければなりません。そうすれば主は赦してくださり、新しい道へと導いてくださいます。あなたの罪がどんなに大きくても、主はあなたを赦してくださる。それが福音です。この福音のいのちに生きることを、主は望んでおられるのです。

Isaiah56:1-12 “The close at hand salvation”

Up until now Isaiah has prophesized about the salvation that will come by the Lord’s servant’s cross. Also he speaks about how we must respond to this salvation. In today’s passage he speaks about how we should look forward to this salvation which is close at hand.

  1. Maintain justice, do what is right (Vs. 1,2)

The first point is that we must “maintain justice and do what is right.” (1) Please look at verses 1 and 2. Verse 1 says, “This is what the Lord says,

‘Maintain justice

and do what is right,

for my salvation is close at hand

and my righteousness will soon be revealed.’”

“Maintain justice” (1) means to obey the Word of God and do the will of God. “Do what is right” (1) is to have a right relationship with God. In other words, it is to believe in the Lord’s salvation, and to live prepared for the Lord’s second coming so that whenever he returns it’ll be o.k. God said to Israel to “Maintain justice and do what is right.” (1) That is because God’s “salvation is close at hand” (1) and his “righteousness will soon be revealed.” (1) If Jesus was coming this evening, how would you prepare? Probably you would go home and desperately try to clean. You will prepare the everything and get dressed, won’t you?  Won’t you stop your life covered with sin and get ready so that you’re o.k. no matter when the Lord comes? All those who look forward to the Lord’s salvation, the Lord’s second coming, keep themselves pure. This is what Christians living in the end times should really be like.

Paul said about this salvation which “is close at hand” in Romans 13:11 to 14, “Do this, understanding the present time.  The hour has come for you to wake up from your slumber, because our salvation is nearer now than when we first believed.  The night is nearly over; the day is almost here.  So let us put aside the deeds of darkness and put on the armor of light.  Let us behave decently as in the daytime, not in orgies and drunkenness, not in sexual immorality and debauchery, not in dissension and jealousy. Rather, clothe yourselves with the Lord Jesus Christ, and do not think about how to gratify the desires of the sinful nature.”

Now the Lord’s “salvation is nearer now” (Romans 13:11) so “put aside the deeds of darkness and put on the armor of light.” (Roman 13:12) We must “behave decently.” (Romans 13:13)  If you think about it, 2000 years have passed since Paul wrote this.

In other words, the Lord’s “salvation is nearer now” (Romans 13:11) than when Paul wrote this. If so, we must purify ourselves and “behave decently as in the daytime.” (Romans 13:13)

 

Concretely how we should live is recorded in verse 2. “Blessed is the man who does this, the man who holds it fast, who keeps the Sabbath without desecrating it, and keeps his hand from doing any evil.”

As an example of maintaining justice and doing what is right here it talks about keeping the Sabbath day. That is because one of the reasons that Israel was captured and deported by Babylon was because they hadn’t kept the Sabbath.  The Sabbath started from sun down on Friday until sun down on Saturday. This day was the Lord’s holy day of complete rest and they weren’t allowed to do any job of any kind. If someone did any work on that day he had to be killed. That was the eternal covenant between God and Israel. It was the unique and special symbol that Israel was the people of God, but they didn’t keep the Sabbath. Therefore, God had them captured by and deported to Babylon. Therefore, for the Jews who were promised that they would return to Jerusalem the number one priority for doing what is right is to keep the Sabbath.

What does this mean for us Christians?  Paul in Col. 2:16-17 says, “Therefore do not let anyone judge you by what you eat or drink, or with regard to a religious festival, a New Moon celebration or a Sabbath day. They are a shadow of the things that were to come; the reality, however, is found in Christ.”

The Sabbath is a pattern of Christ. In other words, it is not necessary to concern oneself with the Sabbath. What we need to be concerned about is Christ himself.  To be concerned about Sabbath is like talking to a shadow. It is a false teaching. It is a wrong teaching that causes people to become separated from the truth. We must not be confused by such teachings. That is because the reality, Christ, is coming.  This Jesus Christ is really the Lord of the Sabbath, what the law was aiming at. Therefore, no matter how earnest you are for the law, if there is a gap between it and Christ, then you  have totally missed the mark so you have misplaced your priorities.  Because Christ is the reality we must do what Christ desires.

What Christ desires is what the rules of the Sabbath were aiming at: to set aside one day of the week as the Lord’s Day and make it holy. That day is to be a rest from all work, and to remember the Lord and for worship.  That is the purpose of Sunday worship.  We gather and worship every Sunday to remember the Savior who has atoned for our sin and rejoice in him, and give praise and thankfulness to him from our heart.  It is dangerous if we fall to legalism and we just stress gathering and worshiping in form on Sunday. The Lord saved us from sin. By the Son, Jesus Christ’s blood he redeemed us from the knot of sin that we could not get out of on our own. We remember this work of salvation and give thanks and worship to the Lord. This is the purpose of Sunday Worship. To do that we separate ourselves from all things of this world and concentrate on the Lord so that we don’t get so busy that we forget the Lord. If not, we can’t concentrate on the Lord. We are easily influenced. So on Sunday, as a memorial to Christ’s resurrection from the dead, we gather together, and worship the risen Lord. This is what is meant by setting the day aside. We make the day as theLord’s Day.  We set the day apart, and cut off all our relationships with this world and the things of the world and look to the Lord. To establish such a life style is what the Sabbath is aiming at.

Of course, not just Sunday is the Sabbath. For Christians every day is the Lord’s Day.  However, if every day is the Lord’s Day, of course, naturally you will want to make this day the Lord’s Day and set it apart to worship together with your loving brothers and sisters in Christ.

By obeying the Sabbath, while having the assurance that we are the Lord’s, by putting all our burdens at the feet of the Lord, we obtain peace and physically and spiritually receive strength. We can be energetic and healthy. This is the secret to the blessing that the Lord has ordained. It’s not good just to work haphazardly.  Work hard 6 days and rest one day and worship God. This is the principle ordained by God for a blessed life. If not, not only will we miss the blessings, we will fall into the condition of being prisoners to something.

In the Living life devotional there was an article by Don Mahban. In the age of the opening of the West in America, a horse carriage left St. Louis in the midland for Oregon. The party was all devoted Christians so the Lord’s Day they stopped moving and rested.  Of course, they rested and worshipped.  However, gradually winter closed in on them. Some of the people became anxious that they would not arrive before the snowstorms came so they suggested that they continue running without resting on the Sabbath.

They weren’t able to unify their opinions so they divided into 2 groups and continued their trip. One group rested completely on the Sabbath and the other continued to travel on the Sabbath.  The group that rested arrived at their goal, Oregon, the earliest. They rested on the Sabbath and were fully rested so they were reenergized and could continue running strong the other 6 days. Don Mahban summed up his conclusion with, “God esteems those who esteem his commands.”

This is what is desired of Christians living in this age. The Lord says, “Maintain justice and do what is right…Blessed is the man who does this, the man who holds it fast, who keeps the Sabbath without desecrating it, and keeps his hand

from doing any evil.” (1,2) God will bless such a person. Now the Lord’s “salvation is close at hand” (2) so let’s obey God’s Word more and more and walk the road that pleases the Lord.

  1. A house of prayer for all nations (Vs. 3-8)

Next let’s consider verses 3 to 8.  Verse 3 says, ”Let no foreigner who has bound

himself to the LORD say,

‘The LORD will surely exclude me

from his people.’

And let not any eunuch complain,

‘I am only a dry tree.’”

“Foreigner” (3) is the Gentiles and “eunuchs” (3) were men whose testicles had been cut off.   Foreigners were outside the blessings of Israel and they thought that they could not receive those blessings. However, the work of the servant of the Lord would change this. God’s blessings would not only be for the Israelites, but would extend to the Gentiles.  Therefore, ”Let no foreigner who has bound himself to the LORD say,

‘The LORD will surely exclude me from his people.’” (3) Also Eunuchs were excluded from the assembly of the Lord. In Deut. 23:1 it says, “No one who has been emasculated by crushing or cutting may enter the assembly of the LORD.”  Therefore, they were truly like “only a dry tree.” (3) It was though that as a human they were completely without worth. However, such eunuchs were not to say, “I am only a dry tree.” (3) That is because as it says in verse 4 and 5, “To the eunuchs who keep my Sabbaths, who choose what pleases me and hold fast to my covenant-to them I will give within my temple and its walls a memorial and a name better than sons and daughters. This means that they will be given the same grace as Israel.  That is because in the course of time the Savior, the Lord Jesus Christ will destroy the barrier that gave them feelings of alienation.

Ephesians 2:11-16 says, “Therefore. Remember that formerly you who are Gentiles by birth and called ‘uncircumcised’ by those who call themselves ‘the circumcision’ (that done in the body by the hands of men) remember that at that time you were separate from Christ, excluded from citizenship in Israel and foreigners to the covenants of the promise, without hope and without God in the world.  But now in Christ Jesus you who were far away have been brought near through the blood of Christ. For he himself is our peace, now has made the two one and has destroyed the barrier, the dividing wall of hostility, but abolishing in his flesh the law with its commandments and regulations.  His purpose was to create in himself one new man out of the two, thus making peace, and in this one body to reconcile both of them to God through the cross, by which he put to death their hostility.”

The Gentiles (eunuchs) “were separate from Christ, excluded from citizenship in Israel and foreigners to the covenants of the promise, without hope and without God in the world.” (Eph. 2:12) However, even such people by being in Jesus Christ “have been brought near.” (Eph. 2:13) That is because Christ was put on the cross and by his body did away with the hostility. Hostility was put to death by the cross.

The same was for the “foreigner who has bound himself to the LORD.” (3) As it says in verses 6 and 7, the “foreigners who bind themselves to the LORD to serve him, to love the name of the LORD…all who keep the Sabbath without desecrating it and hold fast to” (6) God’s covenant, the Lord will bring to the Lord’s “holy mountain and give them joy in” (7) God’s house.  “My holy mountain” (7) and “my house of prayer” (7) is Jerusalem. Jerusalem is God’s temple. God will bring them there and “give them joy”. (7) This is really a surprising prophecy for those who know about the temple courts. That’s because any one including Gentiles could enter the courts, but foreigners could not enter into the temple. However, in God’s kingdom Gentiles and Jews can enter into the same temple and pray. “Their burnt offerings and sacrifices will be accepted on” (7) the Lord’s altar.  That’s because as it says in the end of verse 7, “my house will be called a house of prayer for all nations.” It is not just for the Jews. It is “a house of prayer” (7) for all those who believe in Christ. People from all over the world can worship God. Gentiles too, Eunuchs too, those who until now have been separated far from God too, anyone if they believe in Jesus, can center the temple and worship anytime. The benefit of worship is that you will be blessed.

That is because Jesus is really the real temple. Jesus said, “Destroy this temple, and I will raise it again in three days.” (John 2:19) This temple was the body of Jesus. The temple is the place where God and man meet. There is no one else except Jesus Christ who died on the cross for our sins and then rose on the third day that can really offer us that meeting. In the temple of Jesus’ body all people can worship God. They can receive God’s blessings. However, that is not all. It is said that the body of those who believe in Jesus “is a temple of the Holy Spirit” (I Cor. 6:19) whom they “have           received from God.” (I Cor. 6:19) This means that we ourselves are the temple and we can worship God anytime and anywhere. We don’t have to go out of our way to go to the Jerusalem temple. We don’t have to go the splendid St. Peter’s Cathedral. We can go boldly before God, fall down and worship him and receive grace anytime and anywhere. Anyone can.

Jesus quoted this passage, “my house will be called a house of prayer for all nations” (8) when he cleansed the temple. “My house will be called a house of prayer, but you are making it a den of robbers.” (Matt. 21:13) Then Jesus “drove out all who were buying and selling” (Matt. 21:12) in the temple overturning “the tables of the money changers and the benches of those selling doves.” (Matt. 21:12)

Intrinsically, the temple must be a house of prayer. It was to be a house of prayer for all nations, a place where they will be given joy, but at such a place religious business was being performed. Jesus was enraged over it.

How about us? Our body is the temple of the Holy Spirit whom we received and it must be a house of prayer, but even so aren’t we making it into a den of robbers? Are we not using it for our own pleasure rather than for God’s glory?

Please look at verse 8. The Lord says, “I will gather still others to them besides those already gathered.”  “Those already gathered” (8) are the Jews. Those that the Lord will gather besides those already gathered are the Gentiles. In the last days of the world both the Gentiles and the Jews without discrimination will receive God’s blessings.  Such a day will come.  We too who are Gentiles by the blood of Jesus will be brought near. We are the temple of the Holy Spirit whom we received. Let’s remember this grace and may our bodies “be called a house of prayer for all nations.” (8)

  1.  Don’t hold God in contempt (Vs. 9-12)

The third point is to not hold God in contempt. Let’s look at verse 9 to the end of the chapter. Verse 9 says, “Come, all you beasts of the field,

come and devour, all you beasts of the forest!”

“Beasts” (9) are a symbol that is used for God’s judgment. For example, Babylon was a beast. Babylon like a beast ate the people of God, Israel.  God is saying to all the beasts of the field to “come and devour.” (9) The reason is in verse 10. “Israel’s watchmen are blind, they all lack knowledge; they are all mute dogs, they cannot bark; they lie around and dream, they love to sleep.”

“Watchmen” (10) are the people who stand up on the wall and keep watch. If the enemy comes, they announce it without delay.  However these people who are supposed to be “watchmen are blind, they all lack knowledge.” (10) The leaders should be watching to see what condition their people are in, but they haven’t realized at all what is happening now

That is really like “mute dogs…they lie around and dream, they love to sleep”. (10) Even if the enemy comes, they don’t bark, but just sleep. The watch dog does not fulfill his role as a watch dog at all.  “They are shepherds who lack understanding; they all turn to their own way, each seeks his own gain.” (11) Then they say in that verse 12, “’Come’ each one cries, ‘let me get wine!

Let us drink our fill of beer!

And tomorrow will be like today, or even far better.’”

Surely “tomorrow will be like today, or even far better” (12) so “let us drink our fill of beer!” (12) In other words, they weren’t concerned at all about the coming judgment of God upon them. They though they didn’t have to worry about sinning. They thought worrying about it wouldn’t change anything. They thought they should enjoy life, have fun and be amused. They thought it was best to do what they wanted to do.  They said this and they didn’t try to change their attitude nor change the direction they were going.

However, God is not doing anything because he is being patient. He is being patient and giving us a chance to repent. If we think that our sin is a good thing and continue to sin, then it is natural that God’s judgment will come. God will say, “Come, all you beasts of the field, come and devour,” (9) and the beasts will come.

The disciples saw the magnificent temple of Jerusalem and thought that it would never be destroyed, but Jesus said to them, “Not one stone here will be left on another, everyone will be thrown down.” (Matt. 24:2)  As the prophecy says, the Jerusalem temple was destroyed to dust in 70 A.D. by the Roman Empire.

Therefore, don’t look at the situations that you can see with your eyes and think that its o.k. and all will go well and become prideful. You mustn’t take a defiant attitude thinking that you’re not bothering anyone so its o.k. to do anything you want. We must not hold God in contempt. That’s because God’s “salvation is close at hand and” (1) his “righteousness will soon be revealed.” (1) Let’s once more check to see if your thoughts are separated from Lord’s will or not and if so humbly repent and return to the Lord Jesus Christ.  If so, the Lord will forgive us. He will lead you to a new road of life. No matter how large your sin is, even “though your sins are like scarlet, they shall be as white as snow.” (1:18) That is the Gospel, the good news.  Let’s be like those who live in the life of the Gospel. This is really what the Christian life is like for those who wait expectantly for the salvation of God.

イザヤ56:1-12 レジュメ

「近づいている救い」                                      No.89

Ⅰ.公正を守り、正義を行え(1-2)

 

 これまで主のしもべの苦難を通して救いがもたらされるという預言が語られてきた。その救いに対して、われわれはどのようにそれを待ち望まなければならないのだろうか。第一のことは、公正を守り、正義を行え、ということである。どうせすぐに救われるのだから何をしても構わないというのではなく、だからこそ公正を守り、正義を行えというのだ。パウロはローマ13:11-12で、「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行いなさい。」といい、「やみのわざをうち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。」と勧めている。

その具体的なことの一つが、安息日を守るということである。これはユダヤ人にとっては義を行うことの最優先事項であった。それこそが彼らが神の民であることの特別なしるしであったからだ。なのに彼らはこの安息日を守らなかった。それで神は彼らをバビロンへと連れて行かれたのである(Ⅱ歴代誌36:21)。

このことは、われわれクリスチャンにとってはどのようなことなのだろうか。というのは、われわれはこうした律法から解放され、むしろこのようなものには縛られないで、神の恵みに生きるべきだからである。この安息日の規定が目指していたことは、週に1日は主の日として聖別し、この日には一切の仕事を休み、主を覚えて礼拝するということである。それが日曜日に行われている主日礼拝の目指していることだ。毎日の忙しさにかまけて主を忘れることがないように、週に一日を聖別して礼拝をささげ、主に感謝し賛美をささげて、主との交わりをかかさないようにすることである。そのことによってわれわれは主のものであることを確認し、主のもとにすべての重荷をおろして安らぎを得、肉体的にも、精神的にも、霊的にも力を受けて、健康的に生きることができるのである。

 

Ⅱ.すべての民の祈りの家(3-8)

 

第二のことは、あなたのからだを神から受けた聖霊の宮としなさい、ということである。3節にすばらしい約束がある。それは「主に連なる外国人は言ってはならない。「主はきっと、私をその民から切り離される」と。宦官も言ってはならない。「ああ、私は枯れ木だ」と。なぜなら、そうした外国人や宦官たちにもユダヤ人同様、絶えることのない永遠の名が与えられるからだ(5)。主は彼らを聖なる山シオンに連れて行き、祈りの家で彼らを楽しませてくださる。というのは、「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」(7)イエスこそ神殿そのものである。イエスによってすべての人が神と出会い、神を礼拝し、神のすべての祝福にあずかることができる。いや、そればかりではない。このイエスを信じるすべてのクリスチャンは、神から受けた聖霊の宮、すなわち、神殿なのである。われわれは神の神殿となっていつでも神と出会い、神を礼拝し、その恩恵にあずかることができるのである。

問題は、その神殿を何のために用いているかである。かつてイエスは神殿で物の売り買いをし、まるで強盗の巣のようにしていたユダヤ人たちに激怒され、宮きよめを行った。同じように、われわれが神から受けた聖霊の宮である自分自身のからだを自分の満足のために使っても神の栄光のために使うことがなかったら、イエスは宮きよめされる。われわれにもたらされた祝福の大きさを覚えつつ、いつも感謝をもって、心から主を礼拝する者でありたい。

 

Ⅲ.神を侮ってはならない(9-12)

 

第三のことは、神を侮ってはならないということである。9節には、「野のすべての獣、林の中のすべての獣よ。食べに来い。」とある。見張り人であるはずの者の目が見えず、番犬であるはずの犬が吠えないからだ。彼らは悟ることも、知ることも知らない者たちで、自分勝手な道に向かっている。

しかし、そのような者たちに対して、神が黙っておられることはない。野のすべての獣に命じて、林のすべての獣に命じて、食べに来るようにと言う。神が今、あえてそのようになさらないのは忍耐しておられるからである。忍耐して、悔い改める機会を与えておられのだ。にもかかわらず、それをよいことにいつまでも悔い改めないとしたら、神のさばきがやって来るのは当然であろう。

だから、目に見える現象を見て、「まだ大丈夫だ。これくらい何とかなる。」と高をくくってはならない。「だれにも迷惑をかけるわけじゃないのだから、何をしても勝手だ。」と開き直ってはいけない。「明日もきょうと同じだろう」と、神を侮ってはならない。神の救いが来るのは近く、神の義が現れるのも近い。この神のことばに信頼して公正を守り、正義を行う者でありたい。それこそ、近づいている救いに対して求められる応答なのである。

イザヤ書56章1~12節 「近づいている救い」

きょうは、イザヤ書56章のみことばから「近づいている救い」というタイトルでお話したいと思います。このイザヤ書の56章には、主の救いを受けた人たちがどのように歩むべきかが語られています。主のしもべによって成された救いの御業、それに対する招きに応答して救われた人は、いったいどのように歩むべきなのでしょうか。それは一言で言うならば、主を待ち望んで生きるということです。

Ⅰ.公正を守り、正義を行え(1-2)

まず第一のことは、公正を守り、正義を行いなさいということです。1節と2節をご覧ください。1節にこうあります。「主はこう仰せられる。「公正を守り、正義を行え。わたしの救いが来るのは近く、わたしの義が現れるのも近いからだ。」

公正とは何でしょうか。公正とは、神のみことばに従って正しい歩みをすることです。また、正義とは、神との正しい関係を持つことです。神はイスラエルに、公正を守り、正義を行えと言われました。なぜでしょうか。なぜなら、神の救いが来るのは近く、神の義が現れるのも近いからです。再臨が近いからです。もし今晩イエス様がやって来られるとしたらどうでしょう。皆さんはそれにどのように備えられるでしょうか?おそらく家に帰って必死になって掃除をしてきれいにし、環境を整えて、身支度するのではないでしょうか。罪にまみえた生活も止めて、いつ主が来られてもいいように準備するのではないでしょうか。そのように、主がいつ来られてもいいように、主の救いを信じ、主の再臨に備えた生き方をするようにということです。

ローマ13章11~14節にこうあります。「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行いなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」

パウロは、主の再臨が近づいていると感じていました。救いが完成する時が近づいていると思っていたのです。ですから、やみのわざを打ち捨てて、昼間らしい、正しい生き方をするようにと勧めました。今は、このパウロの時代よりももっと主が再臨される時が近づいています。ですから、もっと自分を清く保ち、昼間らしい、正しい生き方をしなければならないのです。

それは具体的にはどのような生き方なのでしょうか?2節をご覧ください。「幸いなことよ。安息日を守ってこれを汚さず、どんな悪事にもその手を出さない、このように行う人、これを堅く保つ人の子は。」

公正を守り、正義を行うことの一例として、ここには安息日を守ることが語られています。なぜ安息日なのでしょうか。それはイスラエルがバビロンに捕らえ移されたその理由の一つが、この安息日を守っていなかったことにあったからです。安息日とは金曜日の日没から土曜日の日没までのことですが、この日は主の聖なる全き休みの日として、いかなる仕事をすることも許されていませんでした。もしこの日に仕事をすれば、だれでも必ず殺されなければならなかったのです。それは神とイスラエルの間の永遠の契約であり、イスラエルが神の民であることの特別なしるしだったのです。(出エジプト31:13~17)ところが彼らはこの安息日を守りませんでした。それで神は彼らをバビロンへと捕らえ移されたのです(Ⅱ歴代誌36:21)。ですから、エルサレムに帰還することを約束されていたユダヤ人にとって安息日を守ることは、義を行うことの最優先事項の一つであったわけです。

では、このことは私たちクリスチャンにとってはどのようなことなのでしょうか。コロサイ2章16~17節を開いてください。ここには、「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」

とあります。パウロは旧約聖書に精通していたユダヤ教の学者でしたが、そのパウロが、食べ物や飲み物、祭りや新月、安息日のことについて批評させてはならないと言っているのです。これはどういうことかというと、安息日を守るということについてその本質をしっかりと理解するようにということです。安息日の律法を守ればいいということではなく、その意味していることを守るようにということです。その本質とは何でしょうか。キリストです。安息日は影にすぎず、その本体はキリストにあるのです。この本体を見失うことがないようにと語っているのです。あまりにも安息日を守ることにこだわり、本来その意味していることを見失ってはならないのです。私たちがこだわらなければならないのは、私たちの主イエス・キリストそのものなのです。安息日にこだわっているのはちょうど影に対して語りかけるようなもので、本人が目の前にいるのにその本人に対してではなく影に対して一生懸命に語りかけるようなものなのです。それは偽りの教えであって、人々を信仰から遠ざける誤った教えです。そのような教えに惑わされてはなりません。もう本体であられるイエス・キリストが来られたからです。このイエス・キリストこそ安息日の主であって、律法そのものが目指していたものだったのです。ですから、いくら律法に熱心であってもそれがキリストからズレているなら、それは全くの的外れ、本末転倒になってしまいます。キリストこそ本体なのですから、キリストが願わんとすることを聞かなければなりません。ではこの安息日についてキリストが願っておられたことはどのようなことだったのでしょうか。

それは週に1日を主の日として聖別し、この日には一切の仕事を休み、主を覚えて礼拝するということです。それがこの日曜礼拝の目的です。皆さん、私たちはなぜ毎週日曜日に集まって礼拝をするのでしょうか。それは私たちの罪の贖うために十字架にかかって死なれ、三日目にふみがえられて救いの御業を完成してくださった主の恵みを覚え、この方を喜び、心からの感謝と賛美をささげるためです。自分ではどうすることもない罪の問題を、イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださることによって成し遂げてくださいました。この主の救いを覚え、心からの感謝と礼拝をささげるのです。これが日曜礼拝の目的です。決して安息日を守らなくても言いということではありません。安息日の規定が目指していた目的を理解して、それを行うことです。それは、主に感謝と賛美をささげるためにこの世の一切の事柄から離れ、主に集中することです。それを何というかというと「聖別する」と言います。聖別するというのは、この日を主の日、主のものとして取っておくということです。私たちにとっては毎日が主の日であり、毎日が主のものでありますが、そのことの表明として、週に一日を主にささげるのです。このような生活のスタイルを確立することが、この安息日の目指していたそれが安息日の規定が本来目指していたことなのです。

皆さんはいかがでしょうか。皆さんを罪から救ってくださった主に感謝し、週に一日を主にささげ、主に感謝と賛美をささげておられるでしょうか。「いや、仕事が忙しくて礼拝に行けません」「授業のレポートを提出しなければならないんです」「家族の用事があって」と、日々の忙しさに流されてはいないでしょうか。しかし、この安息日を守り、私たちは主のものであるということを確認しながら主のもとにすべての重荷をおろすことによって私たちは真の安らぎを受け、肉体的にも、精神的にも、霊的にも力が与えられて、健康的に、エネルギッシュに生きることができるのです。それは主が定めてくださった祝福の原則なのです。やみくもに働けばいいというものではありません。六日間はしっかり働き1日は主の日として主にささげ、主を礼拝する。これが祝福された人生のために神が定めてくださった法則なのです。

リビングライフの中にマーバ・ドーンという人の書いた著書の話がありました。アメリカ西部開拓時代に、ある馬車の群れが、中部のセントルイスを発ってオレゴンに向かいました。一行は敬虔なクリスチャンだったので、聖日には移動を止めて休みました。もちろん、休んで礼拝したわけです。しかし、だんだん冬が近づいたので、一部の人たちは吹雪が来る前に目的地に到着できないかもしれないという不安から、安息日にも休まずに走り続けることを提案しました。  意見が一致しないまま、彼らは二つのチームに分かれて旅を続けることにしました。安息日にしっかりと休むチームと安息日にも走り続けるチームとにです。結果はどうなっでしょうか。言うまでもなく、安息日に休んだチームの方が早く目的地のオレゴンに到着したのです。安息日に休んで十分に休息を取ったので活力が与えられ、残りの六日間を力強く走り続けることができたのです。マーバ・ドーンは話の結論でこのように語りました。 「神はご自分の戒めを尊重する者を尊重される。」

これは今の時代を生きるクリスチャンに求められていることです。主はこう仰せられます。「公正を守り、正義を行え。」「幸いなことよ。安息日を守ってこれを汚さず、どんな悪事にもその手を出さない、このように行う人、これを堅く保つ人の子は。」神はこのような人を祝福してくださいます。主の救いが近い今、私たちはますます主のことばに従い、主が喜ばれる道を歩みたいと思います。

Ⅱ.すべての民の祈りの家(3-8)

次に3~8節までに注目してください。3節には、「主に連なる外国人は言ってはならない。「主はきっと、私をその民から切り離される」と。宦官も言ってはならない。「ああ、私は枯れ木だ」と。」とあります。

「外国人」とはユダヤ人以外の異邦人のこと、「宦官」とは男性の生殖器を切り落とされた人たちのことです。異邦人は、自分たちはイスラエルの祝福の外にいる者であり、イスラエルの祝福にはあずかれないと思っていましたが、神の祝福はイスラエルだけでなく異邦人にも及ぶので、主につらなる外国人は、「主はきっと、私をその民から切り離される」と言ってはならないのです。また、宦官も生殖器を切り取られていますから子孫を残すことはできないと思っていました。申命記23章1節をみると、そのように生殖器を切り取られた者は「主の集会に加わってはならない」とあります。まさに枯れ木扱いです。人間として全く価値がないと思われていました。しかし、そんな宦官も「ああ、私は枯れ木だ」と言ってはならないのです。なぜなら、4節と5節にあるように、「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶ事を選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる分け前と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。」からです。これはどういうことかというと、イスラエルと同じ恵みが与えられるということです。なぜなら、やがて来られる救い主が隔ての壁を取り除いてくださるからです。

エペソ2章11~16節のところに次のようにあります。 「ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人を造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました」

異邦人(宦官)は、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあっては何の望みもない者たちでしたが、そんな者でもキリスト・イエスの中にあることによって、神に近い者となりました。なぜなら、キリストが十字架にかかって、ご自分の肉において、敵意を廃棄してくださったからです。敵意は十字架によって葬り去られたのです。

それは主に連なる外国人も同じです。6節と7節にあるように、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった外国人もみな、安息日を守ってこれを汚さず、神の契約を堅く保つなら、主は彼らを、主の聖なる山に連れて行き、神の家で彼らを楽しませてくださいます。この「わたしの聖なる山」とか、「わたしの祈りの家」というのはエルサレムの神殿のことです。そこに連れて行って、楽しませてくださるというのです。これは神殿のことを知っている人にとっては本当に驚くべき預言です。というのは、外庭には異邦人を含む誰でも入ることができましたが、神殿(聖所)の中には外国人は入ることができなかったからです。しかし神の国においてはそうではありません。異邦人もユダヤ人と同じように聖所に入って祈ることができます。いや、神殿の内側である至聖所に入って、大胆に恵みの御座に近づくことができるのです。全焼のいけにえや他のいけにえをささげることができるのです。これまでは大祭司が年に一度しか入ることが許されていなかった主の御座に入って行くことができるのです。何という特権でしょうか。それは7節の最後のところにあるように、「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」それはユダヤ人ばかりのものではありません。キリストを信じるすべての人にとっての祈りの家だからです。全世界の人が神を礼拝することができます。異邦人も、宦官も、これまで神から遠く離れていた人も、だれでもイエスを信じるなら、この神殿に入って、いつでも礼拝することができるのです。

というのは、イエス・キリストこそ真の神殿であられるからです。イエスは、「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」(ヨハネ2:19)と言われました。その神殿とは何のことを言っていたのかというと、イエスのからだのことでした。神殿とは神と人が出会う所です。その出会いを真に提供できるのは私たちの罪のために十字架で死なれ、三日目によみがえられたイエス・キリスト以外にはいません。イエスのからだという神殿において、すべての人が神と出会い、神を礼拝することができるのです。神の祝福にあずかることができるのです。

そればかりではありません。イエスを信じる者のからだは、神から受けた聖霊の宮であると言われています。(Ⅰコリント6:19)ということは、私たち自身が神殿となって、いつでも、どこでも、神を礼拝できるのです。わざわざエルサレムの神殿に行かなくても大丈夫です。立派なサンピエトロ寺院に行かなくてもいいんです。いつでも、どこでも、大胆に神のもとに出ていき、ひれ伏して礼拝をささげ、その恩恵に与ることができるのです。だれでも・・・。

ところで、この「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」ということばを引用して、イエスは宮きよめをされました。(マタイ21:13)「わたしの家は祈りの家と呼ばれる。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」と。そして、イエスは宮の中で売り買いしている者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒されたのです。いったいどうしてそのようなことをされたのでしょうか?本来、神殿は祈りの家でなければならないのに、そのようなところで宗教ビジネスが行われていたからです。すべての民が神を礼拝して、神を喜ぶ所なのに、それを強盗の巣にしていた。イエス様はそのことに対して激しく怒られたのです。

私たちはどうでしょうか。私たちのからだは神から受けた聖霊の宮であって、それは祈りの家でなければなりません。なのにそのからだを強盗の巣にしているということはないでしょうか?神の栄光のためではなく、自分の満足のために使ってはいないでしょうか。

8節をご覧ください。主はこう言われます。「わたしは、すでに集められた者たちに、さらに集めて加えよう。」すでに集められた者たちとはユダヤ人のことです。さらに集めて加えるとは、異邦人のことですね。この世の終わりの日には、ユダヤ人も異邦人も分け隔てなく主の祝福にあずかれるようになります。もうその日が来ています。異邦人であった私たちもイエスの血によって神に近い者とされました。神から受けた聖霊の宮となりました。この恵みを覚えて、私たちのからだがすべての民の祈りの家と呼ばれるようになりたいと思います。

Ⅲ.神を侮ってはならない(9-12)

第三のことは、神を侮ってはならないということです。9節から終わりまでのところです。9節には、「野のすべての獣、林の中のすべての獣よ。食べに来い。」とあります。

「獣」とは、神のさばきのために用いられる象徴です。たとえば、バビロンはそうです。バビロンは獣のように神の民であるイスラエルを食らいます。そうした野のすべての獣に対して、食べに来るようにというのです。どうしてでしょうか。10節をご覧ください。「見張り人はみな目が見えず、知ることがない。彼らはみな口のきけない犬、ほえることもできない。あえいで、横になり、眠りをむさぼる。」

見張り人とは、城壁の上に立って見張っている人たちのことです。もし敵がやって来たらそのことをいち早く伝えます。しかし、その見張り人であるはずの者がみな目が見えず、知ることがないのです。自分たちの民がどのような状態になつているのかを見張るべきはずの指導者たちが、今起ころうとしていることに全く気付いていないのです。

それはまさに口のきけない犬のようです。あえいで、横になり、眠りをむさぼっています。敵がやって来てもほえることをせず、フ~ンなんてつぶやいて眠りこけるわけです。番犬が番犬の役割を全くはたしません。彼らは、悟ることも知らない牧者で、みな、自分勝手な道に向かい、自分の利得に向かって行くのです。 そしてこのように言うわけです。12節です。「やって来い。ぶどう酒を持って来るから、強い酒を浴びるほど飲もう。あすもきょうと同じだろう。もっと、すばらしいかもしれない。」    どうせ明日もきょうと同じだ。いや、もっとすばらしいかもしれない。だから、いっしょに酒でも飲もう。強い酒を、浴びるほど・・・。つまり、彼らは自分たちに迫り来る神のさばきを全く気にしないのです。罪を犯したって心配いらいない。心配したとこで何にも変わらないんだから。人生楽しく行こうゼ!おもしろおかしく行こうじゃないか。あなたのやりたいようにするのが一番いい。そう言って全く態度を改めようとせず、進んでいる方向も変えようとしないのです。もしそのようにのんきに構えていることがあれば、野の獣がやって来て、あなたを食べに来るのです。イスラエルがバビロンに滅ぼされたように。だから、もし公義を守り、正義を行っていないと気付いたなら、熱心に悔い改めなければなりません。神があえて何もされないのは、それは忍耐しておられるからです。神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知ることを望んでおられます。神があえてさばきをなさらないのは、それは私が、あなたが悔い改める機会を与えておられるからなのです。  にもかかわず、それをよいことになおも罪を犯し続けているとしたら、神のさばきがやって来るのは当然のことです。

荘厳なエルサレムの神殿を見て、弟子たちは口々に言いました。「これだけ大きな石が積まれているんだから、この神殿が破壊されることは絶対にないだろう」すると、イエスは彼らに言われました。「この石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」(マタイ24:2)その預言のとおりに、エルサレム神殿はA.D.70年にローマ帝国によって粉々に破壊されました。

ですから、目に見える現象を見て「まだ大丈夫、これくらい何とかなる」と言って高をくくってはなりません。「だれにも迷惑かけるわけじゃないんだから、何をしたっていいじゃないか」と開き直ってはいけません。「明日もきょうと同じだろう」と、神を侮ってはいけないのです。神の救いが来るのは近く、神の義が現れるのも近いからです。私たちはもう一度自分の思いが神のみこころからかけ離れていないかどうかを点検し、もしそうであるなら謙虚に悔い改めて救い主イエス・キリストに立ち帰りたいと思います。そうすれば、主は赦してくださいます。あなたを新しいいのちの道へと導いてくださいます。あなたの罪がどんなに大きくても、それがたとえ紅のように紅くても、雪のように白くしてくださいます。これが福音、グッド・ニュースです。このような福音のいのちに生きる者でありたいと思います。これこそ、神の救いを待ち望んで生きるクリスチャンの生き方なのです。

Isaiah55:6-13 “Seek the Lord while he may be found”

Today’s message title, “Seek the Lord while he may be found“ is taken from Isaiah 55:6. This chapter 55 is talking about God’s invitation. Chapter 53 speaks about the work of salvation by the Lord’s servant.  Chapter 54 is about the blessing and the heavenly kingdom that will be brought about by the work of salvation. Verse 1 says, “Come, all you who are thirsty,

come to the waters;

and you who have no money,

come, buy and eat!

Come, buy wine and milk

without money and without cost.”                           “

Then in today’s passage it says, “Seek the Lord while he may be found.”  (6) No matter how close God is, if you don’t personally seek God, you can’t receive those blessings.  The most fitting response to the Lord’s work is to seek the Lord. Today I would like to talk about three aspects of this.

1.The Lord will freely pardon (Vs. 6,7)

The first thing is why we must seek the Lord.  That is because the Lord has forgiven.  Please look at verses 6 and 7. “Seek the Lord while he may be found;

call on him while he is near.

Let the wicked forsake their ways

and the unrighteous their thoughts.

Let them turn to the Lord,

and he will have mercy on them,

and to our God, for he will freely pardon.”

Verse 1 says,” “Come, all you who are thirsty,

come to the waters;

and you who have no money,“  It isn’t just water. Food, wine and milk too will be received by free grace without paying money or paying the cost.  This is really an amazing invitation! It is unthinkable in our society to buy something without paying any money. However, here a more amazing invitation is being spoken about. That is if a person seeks the Lord, even if he is “wicked” (7), even if he is “unrighteous” (7), the Lord “will have mercy on them, and… freely pardon.” (7) Generally, the “wicked” (7) and “unrighteous” (7) are separated from God and walking their own selfish way so it seems like they would be abandoned by God, but that is not so. God is near to such wicked people, and “will have mercy on them.” (7) God is next to the “unrighteous” (7) and “he will freely pardon” (7) them.  Therefore, we must forsake our ways, and “seek the Lord”. (6)

How about you? Are you walking your own way, rather than the way of God? Are your thoughts yours or God’s? Even though you believe in Jesus as your Savior, do you strongly want to do as you want to do and live as you want to live?

Jesus said this. “Whoever wants to be my disciple must deny themselves and take up their cross and follow me.” (Mark 8:34) It is important to have your own firm opinions, but if they are too strong, then you won’t be able to listen to the Word of God.  Therefore, you must deny yourself. You must seek God’s way, not your own way. You must walk not by your own thoughts, but by God’s thoughts. Even if it looks foolish in man’s eyes, by listening to God’s Word and walking according to it, you will be the happiest person.

Let’s return to the Lord.  If so, the Lord “will have mercy on” (7) us.  Let’s return to the Lord. If so, the Lord “will freely pardon” (7) us. “Freely”! Our God freely pardons. If we commit a sin that can’t be made up for, we tend to think that we can’t be forgiven, but that is not so. Even if we are forgiven, we think that we can’t be forgiven easily and think that we must do penance or lots of charity in order to be forgiven, but that is wrong. God “will freely pardon.” (7) There is not one sin that God will not pardon. There is only one exception. That is to blaspheme the Holy Spirit. “People can be forgiven all their sins… but whoever blasphemes against the Holy Spirit will never be forgiven.” (Mark 3:28, 29) That is because even though the Holy Spirit shows sin through the words of the Bible, and says that salvation from that sin is through Jesus, if a person refuses to receive it, there is no way that he can be saved. That person will eternally not be forgiven. However, except for that sin, any kind of sin will be forgiven. Jesus Christ on the cross made atonement. There is not one sin that Jesus will not forgive. The moment you receive and believe in Jesus as your own Savior, all your past sins, present sins, and future sins are forgiven.

Please open your Bibles to I John 1:9. “If we confess our sins, he is faithful and just and will forgive us our sins and purify us from all unrighteousness.” (I John 1:9)

This is the promise of God. “If we confess our sins, he is faithful and just and will forgive us of our sins and purify us from all unrighteousness.” (I John 1:9) This is amazing grace! This forgiveness is higher than human intellect. This is God’s forgiveness. If you seek the Lord; if you forsake your ways, your thoughts, your values, your plans, and return to the Lord, then the Lord “will have mercy on” (7) you. The Lord “will freely pardon” (7) you.

However, there is just one condition.  That is “while he may be found;…while he is near.” (6) In other words, there is a limited time limit.  He can’t be found forever. He won’t be near forever. In the course of time a time will come when even though you want to find him, you won’t be able to. In the course of time there will come a time when he will go far away. At that time it will be too late. Therefore, “while he may be found…while he is near” (6) we must “seek the Lord.” (6)  How about you? If you still haven’t believed in Jesus, you must not put off doing so. “I tell you, now is the time of God’s favor, now is the day of salvation.” (II Cor. 6:2) Now is the chance to believe. No matter how wicked we are, no matter how unrighteous we are, the Lord is near you now. Therefore, we must “seek the Lord while he may be found.” (6)  In time, we won’t be able to seek the Lord.

2.God’s way and God’s thoughts are higher than yours (Vs. 8,9)

The reason this can be said is because God’s way and God’s thoughts are not ours and they are much higher.  Please look at verses 8 and 9. “’For my thoughts are not your thoughts, neither are your ways my ways,’ says the Lord. ‘As the heavens are higher than the earth, so are my ways higher than your ways and my thoughts than your thoughts.’”

They are certainly different. The forgiveness that we think of and God’s forgiveness is completely different. The dimension is different. “As the heavens are higher than the earth,” (9) so are God’s ways and our ways and God’s thoughts and our thoughts are completely different. Please compare your thoughts with God’s thoughts. If so, you will realize that they are totally different. That is because we are not God. God is omniscience and omnipotent, knowing everything.  However, we have limitations and limited knowledge. We don’t know the future. However, God knows everything: the past, present, and also the future.  We think that we know our own life the best, but in reality it is not so. Who knows you the best is God. That is because God made you. Therefore, God knows what your future will be. He can see what you can’t see. He knows what you don’t know.  God is perfect and has a perfect plan.

If so, the wisest thing to do is to believe in God and live putting all in God’s hands. You may believe in yourself, but there are limitations and you are doing nothing more that believing in your limited self. You may think that you know everything, but it is a limited knowledge. You may think that you know what is best, but God may have a completely different plan.

Last summer, the missionaries to Turkey, Mr. & Mrs. Suetomi came and gave their testimony from this passage. They were sent out to Turkey for 6 years doing a good work in Istanbul, Izmir, and Ankara and then they returned to Japan last year. No one planned it, but for the past 6 years the couple were led from one center of Turkish culture, economics, and politics to another.  In Istanbul and Izmir not only were they led to a good cooperative relationship with the church leaders, but through Koto concerts they shared the Gospel with the people they met and led many people to the church.  Even so, 2 years they were led to the capital city, Ankara. They didn’t know at all why they were in Ankara.  Last year when Prime Minister Abe visited Turkey, they were invited to a welcoming dinner that the Prime Minister Erdogan gave. They were given the opportunity to play the koto there. They were able to give a testimony to Prime Minister Abe by hand giving him their CD and a letter. Who could have ever dreamed of that! God knew everything.  God has a perfect plan. He sent the missionary couple to Ankara in advance.  God’s ways are higher than our ways and God’s thoughts are higher than our thoughts.

If so, we should stop being troubled about thoughts of this and that, and we should pray putting all in God’s hands.  Jesus prayed in the garden of Gethsemane, “Father, if you are willing, take this cup from me; yet not my will, but yours be done.” (Luke 22:42) We must make this prayer our prayer.  This is what is best.  There is a grand plan of God prepared for you that is higher than your thoughts. You must rely upon this plan.  God loves you so he will prepare the best way for you. That’s because God gave his most important only son. Therefore, God’s plan is the best. We must put leave everything to that plan. We must pray like Jesus, “Your will be done, on earth, as it is in heaven.”

 3.God’s word will not return empty (Vs. 10-13)

The third point is the result. When we believe in God and live leaving everything in God’s hands, we will be filled with God’s blessings. Please read verses 10 and 11. “As the rain and the snow come down from heaven, and do not return to it without watering the earth and making it bud flourish, so that it yields seed for the sower and bread for the eater, so is my word that goes out from my mouth: It will not return to me empty, but will accomplish what I desire and achieve the purpose for which I sent it.”

Here God’s Word is being spoken figuratively as rain and snow. “As the rain and the snow come down from heaven, and do not return to it without watering the earth” (10) and brings life to the things that are there, God’s Word too will definitely not return empty. In Israel rain rarely falls. Israel has a rainy season and a dry season. The rainy season is in the winter. When the rainy season is over, the plants all sprout at once. The desert becomes green, and beautiful flowers bloom.  In the same way when God’s Word is spoken, no matter how dry the hearts of the people who hear it are, they will be watered and a beautiful flower will bloom. Even a person, who has been withered up until then, even an unproductive person too, will be changed into an abundant green heart. This is the Christian life. When God’s Word is planted in his heart, he becomes more and more alive. His thinking, and values change. What he says and does changes. His personality and habits completely change. God’s Word has that kind of power.

 Hebrews 4:12 says, “For the word of God is alive and active. Sharper than any double-edged sword, it penetrates even to dividing soul and spirit, joints and marrow, it judges the thought and attitudes of the heart.” God’s Word is alive and has power so it can give man life.

In 1787 the English government sent 100 people to the Pacific island of Tahiti to pick up breadfruit plants and transport them to the West Indies. The name of the ship was called the Bounty.

After they reached the island, they made alcohol drinks from a native plant. They began drinking excessively and making life miserable for the women. The men also fought continuously and gradually killed each other off.  Finally only one man was left, John Adams. However, there we many children who had been born from the relationships between the English men and the native women.

About 30 years later an American ship visited on the island. The crew was surprised by the scene before their eyes. There was a church and John Adams, an old man, was the pastor. He was the king of the island, and like a father to everyone. He was surrounded by children of mixed blood. He explained to the crew what had happened on the island.

After all of his companions had killed each other off, John who was powerful and the only person left returned to the Bounty.  There he found a Bible. When he read the Bible, his eyes were filled with tears that wouldn’t stop. He repented.  He became a man of God.

After that by the leading of the Holy Spirit, he gathered the children together and taught the Word of God. The people respected him and made him king and followed him. Then the island became a read paradise. This was the power of 1 Bible.

 “For the word of God is alive and active. Sharper than any double-edged sword, it penetrates even to dividing soul and spirit, joints and marrow, it judges the thought and attitudes of the heart.” (Hebrews 4:12) When the Word of God is preached, “it will not return…empty.” (11) It “will accomplish what” (11) God desires” and achieve the purpose for which “ (11) God sent it.

Even so we may think that there is no meaning in in preaching the Gospel because the other person doesn’t respond and shows no interest in faith or spiritual things. You may think there are no results. However, don’t give up. God’s Word will definitely not return empty.  It will definitely accomplish what God desires “and achieve the purpose for which” (11) God sent it.  To save people is the work of God. It has completely no relationship to our technique. When we speak the Word of God, the Word is alive working and changes that person into a person of God.

How wonderful that blessing is in verses 12 and 13. Let’s read this together. “You will go out in joy and be led forth in peace; the mountains and hills will burst into song before you, and all the trees of the field will clap their hands.  Instead of the thornbush will grow the juniper, and instead of briers the myrtle will grow. This will be for the Lord’s renown, for an everlasting sign, that will endure forever.”

 This is God’s promise for you. When you plant the Word of God, “you will go out in joy and be led forth in peace; the mountains and hills will burst into song before you, and all the trees of the field will clap their hands.” (12) It is not just man. “The mountains and hills… and all the trees of the field” (12) too will sing to the Lord.  That is because by Jesus sin has been atoned. When sin is atoned by Jesus not only man who is stained with sin, but all of the natural world will be redeemed too.

Verse 13 is what it is like. “Instead of the thornbush will grow the juniper, and instead of briers the myrtle will grow.” “Thornbush” (13) and “briers” (13) are symbols of curse. The “thornbush” (13) and “briers” (13) will all be removed and instead juniper and myrtle will grow.  I think you know Junipers. They are green and alive all year round. Most junipers offer at least some level of drought resistance. They are a sign of life. Maybe you haven’t seen a myrtle tree. The plant is an evergreen shrub or small tree. The star-like flower has five petals and sepals, and numerous stamens. Petals are usually white. The leaf is very fragrant. Its fragrant oil is used in bath oils and pain killers. It is often used as a hedge plant. In other words, life is powerfully out of it. The juniper and myrtle are symbols of blessings. “This will be for the Lord’s renown, for an everlasting sign, that will endure forever.” (13)

Like desolated Israel that is afforested and is covered with unceasing green, if you seek the Lord “and turn to the Lord, and he will have mercy on” (7) you. Your life will be full with blessings. We were put here to be blessed. By believing in Jesus Christ “instead of the thornbush will grow the juniper, and instead of briers the myrtle will grow.” (13) The mistakes of our past and the failures of our past will by believing in Jesus will all be changed for our good. What a wonderful promise” That is good news, the Gospel.

Now if you believe in Jesus this blessing will become yours.  If you will respond to the Holy Spirit’s leading, then you too can live a blessed life. However, you can’t have that chance forever. We must “seek the Lord while he may be found; call on him while he is near.” (6) No one knows what will happen to you tonight.  No one knows what will happen to you next week. Therefore, please “seek the Lord while he may be found; call on him while he is near.” If so, the Lord “will have mercy on” (7) you and “he will freely pardon.” (7) Then he will bless your life. Those people who have already believed in Jesus too, think anew about what it is to make Jesus your Lord, and forsake your ways and forsake your thoughts and “turn to the Lord”. (7)

イザヤ書55章6~13節のメッセージをアップロードしました。

イザヤ書55章6~13節のメッセージをアップロードしました。「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(55:9)たとえ今の置かれている状況に何の意味も見いだせないようでも、神はあなたに完全な計画を持っておられると信じて、すべてを主にゆだねたいと思います。