きょうは、イザヤ書9章8節から10章4節までの箇所から学びたいと思います。タイトルは「ヤコブに落ちた主のことば」です。8節に、「主がヤコブに一つのことばを送られた。それはイスラエルに落ちた」とあります。このイスラエルとは北イスラエルのことです。これまでイザヤはユダに対して、ユダの王アハズに対して語ってきましたが、ここから10章4節までのところは、この北イスラエルに対して語られたことばです。9節には「この民、エフライムとサマリヤに住む者たちはみな」とありますが、この「エフライム」とは北イスラエルの代表的な部族のことです。また、「サマリヤ」というのは、北イスラエルの首都であります。ですから、このエフライムとサマリヤというのは北イスラエルを指していることがわかります。。そのイスラエルに神のことばが落ちました。これまでも北イスラエルには何人かの預言者が神のことばを語ってきました。たとえば、エリヤであり、エリシャとか、ホセアです。そうした名だたる預言者が語ってきたにもかかわらず、彼らはそのことばを受け入れませんでした。高ぶっていたからです。思い上がっていたからです。そのイスラエルに主のことばが落ちました。
それはどのようなことばだったのでしょうか。ここには、その内容を物語っていることば、繰り返して何回も出てくることばがあります。それは、「なおも、御手は伸ばされている」ということばです。12節、17節、21節、そして10章4節に出てきます。きょうはこのことばを中心に、イスラエルに落ちた主のことばを学んでいきたいと思います。
Ⅰ.その敵たちをあおりたてる(9-12)
まず第一に9節から12節までをご覧ください。9節には、イスラエルに落ちたことばに対して、彼らが高ぶり、思い上がったとあります。どのように高ぶったのでしょうか?10節に「れんがが落ちたから、切り石で立て直そう。いちじく桑の木が切り倒されたから、杉の木でこれに代えよう。」とあります。イスラエルに落ちた神のことばというのは、「あなたがたが神に背いたら、このようなことが起こる」という神様からの警告でした。「れんがが落ちた」「いちじく桑の木が切り倒された」という内容です。けれども、これに対して彼らは何と言ったかというと、「切り石でこれを立て直そう」とか、「杉の木でこれに代えよう」と言ったのです。これはどういうことでしょうか?れんがに対して切石はもっと高価なものです。また、桑の木に対して杉の木も、もっと高価な木であります。それで建て直そうというのです。つまり、神によって倒されても大丈夫。自分たちはもっともっと別のもので建て直そうという思い上がった態度です。自分たちにはまたまだ力があって立て直すことができるというのです。もし仮に何かを損なったとしても、代わりに補充すれば何とかなるから問題ないという高ぶった態度であります。
南ユダではウジヤという王が長い間治めていましたが、その間北イスラエルはどうであったかというと、王様が何人も代わりました。統治期間が非常に短いのです。二年間とか、ひどい王様ですと数ヶ月という時もあります。日本の総理大臣に似ていますね。すぐに代わってしまうのです。それはどうしてかというと、こうした思いがあったからです。ですから、王の側近や部下たちが王を暗殺して自分が王になると、その数年後には、数ヶ月後には、今度は自分の側近に殺されるということが繰り返されました。他のものに取り替えたらいいじゃないかといった思いがあったのです。まさに「れんがが落ちたから、切石で立て直そう。いちじく桑の木が切り倒されたから、杉の木でこれに代えよう」という態度です。神様ではなく自分たちの力で何とかできるから大丈夫、という思いです。
あのバベルの塔を思い出します。ノアの箱舟以降、シヌアルの地に住みついた人類は、そこで石の代わりにれんがを、アスファルトを用いるようになると、「さあ、われわれは町を建て、頂が天にまで届く塔を建てて、名をあげよう。」と言いました。自分たちが神にでもなったかのように、いや、もう神を越えているのです。そして、自分たちの名をあげようとしました。その結果、神は人々のことばを混乱させ、そこから全地に散らされたのです。同じように、神は彼らを散らされました。どのように?その敵たちをあおりたてることによってです。11節と12節をご覧ください。ここには、「そこで主は、レツィンに仇する者たちをのし上がらせ、その敵たちをあおりたてる。東からはアラムが、西からはペリシテ人が、イスラエルをほうばって食らう。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。」とあります。
レツィンとは、アラム(シリヤ)の王です。そして、このレツィンに仇する者たちをのしあがらせる、とありますが、これはアッシリヤのことです。このアッシリヤをのし上がらせ、敵たちをあおりたてる、というのです。その敵たちというのがアラムであり、ペリシテ人たちです。アラムというのは同盟を結んでユダを攻撃した友好国であるはずなのに、このアラムからも攻められることになるといわけです。なぜかというと、アラムとイスラエルはもともと敵なんです。敵なんですが、ちょうど北からアッシリヤが攻めて来ていたのでこれに対抗するためにくっついたにすぎないのです。ですから、結局はこうした相手からも攻撃されることになるわけです。
これが神を拒んでいる人たちに対するさばきです。神により頼めばいいのに、神に頼まないで他のものに頼ろうとするので、そうしたものによって逆に自分自身が痛められる結果になってしまいます。たとえば、寂しい時に神に頼めばいいのに、神を求めればいいのに、神を求めないで他のもので心を満たそうとするので、逆にそれで縛られることになってしまいます。たとえば、お酒であったり、快楽であったり、友人であったり、占いであったり、買い物であったり・・・です。こうしたものは一時的な助けを与えてくれるかもしれませんが、結局、それが問題で今度は自分を苦しめることになってしまうのです。それがイスラエルの生活パターンでした。
あなたはピンチの時に誰に助けを求めるでしょうか?何に助けを求めますか?それが神様ではなく他のものであると、それが返ってトラブルの原因になってしまい、自分自身が苦しむことになってしまいます。あなたが助けを求めなければならないのはこの天地を造られたまことの神様ではないでしょうか。でなくて、他のものに助けを求めていくので、まあいいや、何か別のものを代わりにしようと言って高ぶり、緒も上がっていると、神の御怒りの御手が伸ばされます。ここには、「それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている」とあります。これは、かつて主がイスラエルをエジプトから救い出すためにエジプトに伸ばされた御腕と同じです。「イスラエルを去らせよ」という神のことばを拒みなかなか去らせなかったエジプトの王パロに対して、神は御腕を伸ばされて災いを下されました。その御手のことです。何度言ってもパロはかたくになってモーセのことばを受け入れませんでした。そうすると、なおも、神の御手は伸ばされるます。この「御手」とは怒りの御手のことです。神のことばを拒みいつまでも悔い改めないでいると、神の御手が伸ばされて、もっと削がれることになるのです。
いつになったら神を認めて、神に従っていくのでしょうか?この問題はイスラエルだけの問題ではなく、私たちにも共通の問題です。いつまでも心をかたくなにしていると、私たちがへりくだることができるようにと、神様は私たちの持っているものを一つ一つ削いでいかれますが、それでも、「まだ大丈夫だ」と言ってると、もっと多くのものを神様は取り上げてしまうのです。
Ⅱ.かしらも尾も切り取られる(13-17)
神のみことばを聞いても悔い改めようとしないイスラエルに、主は何と言われるでしょうか。13節から17節までのところを見ていきましょう。13節から16節には、「しかし、この民は、自分を打った方に帰らず、万軍の主を求めなかった。そこで、主はイスラエルから、かしらも尾も、なつめやしの葉も葦も、ただ一日で切り取られた。そのかしらとは、長老や身分の高い者。その尾とは、偽りを教える預言者。この民の指導者は迷わす者となり、彼らに導かれる者は惑わされる。」とあります。
イスラエルの民は、外敵がやって来ても、万軍の主を求めませんでした。そこで、主はイスラエルから、かしらと尾も、なつめやしの葉も葦も、ただ一日で切り取られました。かしらとか尾、なつめやしの葉と葦とは何でしょうか?15節にその説明が書かれてあります。「そのかしらとは、長老や身分の高い者。その尾とは、偽りを教える預言者」のことです。かしらとは、いわゆる政治的な指導者のことです。また、尾とは預言者のことです。霊的・精神的な指導者たちのことです。ここには、「この」民の指導者は惑わす者となり、彼らに導かれる者は惑わされてる」とありますから、これは偽預言者のことです。このこういう指導者たちを切り取ってしまわれるというのです。たった一日のうちに、素早くです。なぜなら、彼らが偽りを教えていたからです。彼らは神の警告を無視して偽りを教えて民を迷わし、誤った道に導いて惑わしたからです。彼らは、イスラエルが神に逆らっていると神のさばきがあるという教えないで、違うことを教えていました。民が聞きやすいようなことば、受け入れやすいようなことばだけを語り、神の言葉を語りませんでした。だれもさばきのことばなんて聞きたくないんです。できれば、おもしろおかしな話、お涙ちょうだいみたいな話が聞きたいんです。自己を実現するためにはどうしたらいいかといった話に耳を傾けようとします。「なおも、御手は伸ばされている」なんて聞きたくありません。「えっ、ちょっと待ってください。」と言いたくなります。だから、平安じゃないのに、「平安だ。平安だ」と語ってしまう。神のことばではなく、人が気にいるような話をしたいという誘惑にかられるわけです。
おもしろいことに、ここにはこの偽りの預言者がどのように表されているでしょうか?「尾」です。「尾」とは「しっぽ」のことですね。人々を神様の方に導いていく舵取り、頭ではなく、人々のおしりについて回り、みんなが喜ぶようなことだけを言うしっぽです。今の時代、政治家も、預言者も、学校の教師も、職場の上司も、人々の人気取りに躍起になってしまい、国の将来を、教会の将来を、神が望んでおられる方向に舵取りをしていないというのです。もちろん、聖書には温かいことば、優しいことば、励まされることばがたくさん出てきます。しかし、それは人間の罪の現実とそれに対する神の怒り、さばきがあるということを知り、そのような人間を一方的に愛し、赦してくださる神の恵みによるのだということがわかって初めてもたらされるものであって、それを避けて通ることはできないのです。
「というのは、不義を真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正とに対して、神の怒りが天から啓示されているからです。」(ローマ1:18)
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:23,24)
これが福音です。こうした福音のことば、聖書の真理のみことばを教えないで、偽りを教える預言者がいると、一日で切り取られてしまうことになります。
しかし、こうした偽りの指導者が出てくるのはいったいどうしてなのかという理由が、原因が17節にあります。「それゆえ、主はその若い男たちを喜ばず、そのみなしごをも、やもめをもあわれまない。みなが神を敬わず、悪を行い、すべての口が恥ずべきことを語っているからだ。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。」
これはどういうことかというと、イスラエルのすべての民が神を敬わず、悪を行ったということです。指導者だけの問題ではありません。その原因は自分たちにあったというのです。すなわち、民が自分たちにとって都合のいいことばを聞きたい、都合のいいリーダーを求めていたので、そうなったというわけです。よく政治のリーダーや教会の指導者を非難する人がいますが、その原因を作っているのはだれかというと、実は自分自身だというわけです。そういう指導者をのさばらせている。民がそれを許している。それが問題なのです。もし偽の預言を聞く人がいなかったら、偽預言者が出てくることはないのです。なのにそういう話を聞きたいという人がいるので、そのような預言者が出てくる。それを決めるのはあなたです。テモテ第二の手紙4章3節と4節を開いてみましょう。ここには、「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」とあります。
昔からそうですが、特に今はこのような時代なのです。自分に都合の良いことを言ってもらいたいという、気ままな願いをもって、教師たちを次々と自分たちの方に寄せ集めようとするのです。そうでないと聞こうとしません。ですから、健全な教えではなくなってしまうのです。真理からだんだんとそれていくわけです。そのようになっていても気付きません。そういう時代になるのです。教会もわがまま、気まま、になるというわけです。
そうした体質があると、このような偽りの預言も出てまいります。自分が聞きたいことではなく、主のことばを聞く。主のことばを語る。そうでないと、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされることになるのです。
Ⅲ.互いにいたわり合わない(18-21) 次に、18節から21節までをご覧ください。「悪は火のように燃えさかり、いばらとおどろをなめ尽くし、林の茂みに燃えついて、煙となって巻き上がる。万軍の主の激しい怒りによって地は焼かれ、民は火のえじきのようになり、だれも互いにいたわり合わない。」(18-19)
ここにはアッシリヤが攻めて来た後のことが書かれてあります。アッシリヤが火のようにあらゆるものを焼き尽くします。万軍の主の激しい怒りによって地は焼かれ、民は火のえじきのようになるのです。けれども、だれも互いにいたわり合うことをしません。人々はみな自分のことだけを考えて行動するのです。その結果どういうことになるのでしょうか。20節、「右にかぶりついても、飢え、左に食いついても、満ち足りず、おのおの自分の腕の肉を食べる。」これはどういうことかというと、共食いをするようになるということです。外敵によってイスラエルは焼かれ、民は滅び、自分の兄弟さえもいたわらないばかりか、ついには同胞の肉を食べるまでになるのです。そして、おのおの自分の腕の肉まで食べるようになるというのです。それほどまでに飢えるのです。
ガラテヤ書5章15節を開いてみましょう。ここには、「もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。」とあります。ここでは霊的な意味での共食いについて戒められています。肉の力で生きていこうとしていた人たちの間で起こっていたのが、かみ合ったり、食い合ったりというこだったのです。なぜかというと、霊的にお腹が満たされていないからです。栄養失調状態です。だから、キリストにある仲間を批判したり、引き落としたり、かんでいくといったことが起こるのです。霊的に窮乏状態にあるとこうしたことに走っていくようになります。キリストにあって満たされてない人が仲間を食べていくのです。
ですから、21節にこうあるのです。「マナセはエフライムとともに、エフライムはマナセとともに、彼らはいっしょにユダを襲う。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。」マナセとエフライムというのは北イスラエルのことです。北イスラエルが南ユダを襲ったということがアハズの時にありましたが、その他にも何度かありました。その原因は何だったのか?霊的な窮乏状態だったことです。だから兄弟であるユダを食った、かみ合った、すなわち、襲ったのです。確かにユダも神様に逆らって堕落していましたが、それでも比較的善い王が出て、神に立ち返ろうとする残りの者たちがいたので、そこにはまだ神のいのち、霊の力がありました。そういう人たちに霊的に窮乏状態の人が迫害を加えていくわけです。霊的にいのちのない人が霊的にいのちを持っている人を迫害するということが、実際に起こっていくわけです。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされていました。つまり、これでも彼らはわかっていませんでした。
Ⅳ.助けと救いキリストにあり(10:1-4)
それで10章に入るのです。1節と2節です。「ああ。不義のおきてを制定する者、わざわいを引き起こす判決を書いている者たち。彼らは、寄るべのない者の正しい訴えを退け、わたしの民のうちの悩む者の権利をかすめ、やもめを自分のとりこにし、みなしごたちをかすめ奪っている。」 もともと法律は、善を行うため、あるいは、悪を抑制するためにあるわけですが、ここでは、これを悪を行うために制定されています。こういうことが行われると、一番被害を受けるのはどういう立場にある人かというと、いつも社会の底辺にいる人たちです。よるべのない人であったり、悩む者たちです。こういう人たちの訴えが退けられ、権利がかすめ奪われるということが起こるのです。
そしてその結果が3節と4節にあります。「刑罰の日、遠くからあらしが来るときに、あなたがたはどうするのか。だれに助けを求めて逃げ、どこに自分の栄光を残すのか。ただ、捕らわれ人の足もとにひざをつき、殺された者たちのそばに倒れるだけだ。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。」
神の刑罰の日、遠くから嵐が来るときというのはアッシリヤのことを指しています。アッシリヤが攻めて来るときあなたはどうやってそのさばきから逃れようとするのか、だれに助けを求めるのか、どこに自分の業績や名誉、富といった栄光を保つことができるというのか?ただそのように捕らわれ人の足もとにひざまずくようになり、殺された者たちのそばに倒れるという状態になるだけではないか。そういう卑しい状態になるだけではないのか。
何にも、だれにも、どこにも、この神のさばきを逃れる道はないのです。それまでの高い地位も、人々からの栄誉も尊敬もなんの役にも立たず、征服され、捕らわれて、倒されて、恥を負うだけになってしまうのです。しかも、そのような状態になっても彼らには悔い改めは見られないので、神の激しいさばきはやむことなく、神のさばきの御手は、彼らの上に伸ばされるのです。神の怒りが終わらないでその人に臨むのです。
ではどうしたらいいのでしょうか?この神の怒りの御手から逃れる道があるのでしょうか?ローマ人への手紙5章9節をご覧ください。
「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらです。」(ローマ5:9)
キリストの血によって義と認められた私たちが、キリストによって神の怒りから救われるのはなおさらのことなのです。このキリストにあって、私たちは罪の赦しと永遠のいのちを受けるのです。たとい、私たちの罪が緋のように赤くても、雪のように白く、たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになるのです。なおも伸ばされていた御手は、もはや伸ばされることはありません。イエス・キリストだけが唯一の救いなのです。
ですから、私たちはみことばを通して語りかけておられる神の警告を無視することなく、この世と調子を合わせるあまりに神のみこころから離れていることに気付かされたら、十字架のキリストを見上げ、神に立ち返らなければならないのです。そして、神様第一、信仰一筋の道を歩めるように、祈り求めなければなりません。それがなおも伸ばされている神の御手から救われる道なのです。
あなたは何を求めておられますか?だれに助けを求めていますか?あなたが求める方はあなたのためにじゅゃうじかにかかって死なれ三日目によみがえられたイエス・キリストです。イエス・キリストが救い主であり、イエスに信頼する者は失望させられることはありません。イエスの十字架の地が、あなたを聖め、あなたを助け、あなたを励ましてくださるのです。このイエスにとどまり、このイエスの恵みによって、神に怒りではない、神の愛と喜びに生きる者でありたいと思います。そこに本当の喜びと希望があるからです。