きょうはイザヤ書42章10節のみことばから、「主に向かって新しい歌を歌え」というタイトルでお話をしたいと思います。先週は、42章1節から9節までの箇所からお話しましたが、そこにはやがて来られるメシヤ、イエス・キリストがどのような方かが語られました。主は神の霊を無限に受けておられる方で、いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心も消すことのない優しい方です。この方は国々に救いの光をもたらしてくださる方です。私たちが見なければなせないのはこの方であるということでした。 きょうのところには、その主を見た者はどうあるべきなのかが語られています。すなわち、その主に向かって新しい歌を歌えということです。
Ⅰ.すべての者は主を賛美せよ(10-12)
まず最初に、10節から12節までをご覧ください。「主に向かって新しい歌を歌え、その栄誉を地の果てから。海に下る者、そこを渡るすべての者、島々とそこに住む者よ。荒野とその町々、ケダル人の住む村々よ。声をあげよ。セラに住む者は喜び歌え。山々の頂から声高らかに叫べ。主に栄光を帰し、島々にその栄誉を告げ知らせよ。」
ここに「主に向かって新しい歌を歌え」とあります。主によってすばらしい救いの御業がなされたので、その御業を体験した人は、その主に向かって新しい歌を歌えというのです。この「新しい歌」は、新しく作られた歌とも言えますし、新しい思いで歌えという意味でもあります。古い歌でも新しい思いで、新鮮な思いで歌えということです。主の救いの御業に対する感動を表現した歌、それが新しい歌です。
それはだれに対して語られているのでしょうか。ここには「その栄誉を地の果てから。海に下る者、そこを渡るすべての者、島々に」とあります。また、荒野とその町々、ケダル人の住む村々、セラに住む者、山々の頂からもです。すなわち、世界中の至るところで、ほめたたえよというのです。
ここに「ケダル人の住む村々」とか、「セラの住む者」とありますが、ケダル人とはアラブ人のこと、セラとは現在のヨルダンにあるペトラという地域のことです。そこは今世界遺産にもなっているところですが、そのように海に住んでいる人だけでなく、荒野に住んでいる人も、砂漠に住んでいる人もみな主を賛美するようにというのです。
特に「ケダル人」というのは創世記25章13節を見ると、その先祖はイシュマエルであったことがわかります。サラの女奴隷ハガルがアブラハムに産んだこども、それがイシュマエルで、そのこどもケダルです。彼からアラブ人が、そしてイスラム教を開いたムハンマドが出てきまきた。ムハンマドはこのケダル人の子孫なのです。このケダル人について聖書は何と言ってるかというと、詩篇120篇5節から7節のところで、次のように言っています。
「ああ、哀れな私よ。メシェクに寄留し、ケダルの天幕で暮らすとは。6 私は、久しく、平和を憎む者とともに住んでいた。7 私は平和を―、私が話すと、彼らは戦いを望むのだ。」(詩篇120:5-7)
これはダビデによって書かれてものと思われますが、ダビデはケダル人について、彼らは戦いを望むと言いました。ダビデとはユダヤ人のことですが、彼らが話すとケダル人は戦いを望むのです。そのように言いました。それはダビデの時代に始まったことではありません。こうした対立関係は、すでにイシュマエルとイサクとの間にありました。それはずっと昔から聖書に預言されていたことなのです。私たちはどうして中東でイスラエルとパレスチナがいつもケンカばっかりしているのかさっぱり理解できませんが、そしてその理由を、後から入ってきたイスラエル人がパレスチナ人たちをいじめているのではないかと思われがちですが、実はそうではないのです。ずっと昔からあったことなのです。
しかし、未来においてはそうではありません。未来においてはケダル人の村々も、一緒になって主をほめたたえるようになります。やがて彼らもコーランの神アラーではなく聖書の神主イエスを信じるようになり、主に向かって賛美をささげるようになるのです。少し長いですが、エペソ人への手紙2章11節から19節までをお読みします。
「11ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、12そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。13しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。14キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、15ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人を造り上げて、平和を実現するためであり、16また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。 17それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。18私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」
皆さん、すばらしいと思いませんか。敵意はキリストによって廃棄されたのです。やがていつの日か、その敵対関係が取り除かれ、一つの御霊によって、父なる神のみもとに近づくようになるのです。一緒に賛美する時がやって来るのです。
イギリスの作家ジェフェリー・アーチャーが「ケインとアベル」という小説を書きました。銀行の頭取ケインとアメリカのホテル王であったアベルが、ふとしたことで反目し合い、憎しみながら生活するようになりましたが、このケインの娘とアベルの息子が愛し合い、親の反対を押し切って結婚してこどもが生まれました。それがウィリアム・アベル・ケインです。この子の誕生をきっかけに長らく続いていた憎しみと復讐心の歩みに終止符が打たれ、真の和解がもたらされました。
同じように、キリストは神との断絶した関係を修復し和解をもたらすために生まれてくださいました。そしてその和解は神との和解だけででなく、私たち人間同士の間にあった憎しみと隔ての壁を取り除いてくださいました。キリストにあって敵意は廃棄されたのです。そしてやがて心を一つにして主を賛美する時がやって来るのです。
本当にすばらしいですね。事実、アラブ人の中に、イスラム教徒の人たちの中に、イエス・キリストを信じる人たちが増えてきています。これはこの預言が確実にその実現に向かって進んでいることのしるしです。どんなに敵対している者同士であっても、やがて心を一つにして主を賛美する時がやってくるのです。
Ⅱ.敵を打ち砕かれた主を賛美せよ(13-17)
次に13節から17節までをご覧ください。ここには、主を賛美する理由が記されてあります。13節には、「主は勇士のようにいで立ち、戦士のように激しく奮い立ち、ときの声をあげて叫び、敵に向かって威力を現す。」とあります。
確かに主は、心優しく、へりくだっておられる方ですが、敵に対しては勇士のようにいで立ち、激しく奮い立ち、ときの声をあげて、威力を現してくださいます。主イエスは、偽善の律法学者やパリサイ人たちに対して、「おまえたちは白く塗った墓」(マタイ23:27)だと言われました。また、エルサレムの神殿で商売をし、まるで強盗の巣のようにしている人たちに対しても、すべてそれを排除するかのように宮きよめをされました。主は黙って毛を刈られる小羊のように、私たちの罪を取り除くために死んでいかれる方ですが、同時に、敵に向かっては獅子(ライオン)のように、勇士のように、戦士のように激しく奮い立って、立ち向かい、威力を現すのです。
私たちの回りには、たましいに戦いを挑む敵であるサタンの攻撃が何と多いことでしょうか。敵であるサタンは、事あるごとに私たちのたましいに戦いを挑んできます。けれども、恐れる必要はありません。主が私たちの勇士となり、戦士となられ、そうした敵に向かって激しく奮い立ち、威力を現してくださるからです。どのように御力を現してくださるのでしょうか?
14節には、「わたしは久しく黙っていた。静かに自分を押さえていた。今は、子を産む女のようにうめき、激しい息づかいであえぐ。」とあります。これは、イスラエルがバビロンに捕らえられていた時のことを描いています。イスラエルがバビロンに捕らえられている間は、まさに忍耐の時でした。主がずっと沈黙しておられました。しかし、定めの時がきたとき、主は勇士のように出て行かれ、戦士のように奮い立ってバビロンを激しく打たれました。15節にあるように、主は山や丘を荒らし、そのすべての青草を枯らし、川をかわいた地とし、沢をからしました。そのように主は立ち上がり、敵を打ち砕いてくださるのです。
そればかりではありません。16節に、「わたしは目の見えない者に、彼らの知らない道を歩ませ、彼らの知らない通り道を行かせる。彼らの前でやみを光に、でこぼこの地を平らにする。これらのことをわたしがして、彼らを見捨てない。」とあるように、たとえイスラエルが目の見えないような者であっても、主は決して彼らを捨てるようなことはされません。むしろ、彼らの思いにまさる救いの道に導いてくださるのです。
私たちには、日々、多くの選択しなければならないことや決断しなければならないことがありますが、その決定においては、本当にどうしたらいいかと悩むものです。またこれから先のことを予想することもできません。まさに霊的盲人なのです。しかし、主はそんな見えない私たちを母親が幼いわが子の手を取って導くように、優しく導いてくださいます。私たちが知らない、想像もできない新しい道へと導いてくださるのです。
このような主をどうして賛美せずにいられるでしょうか。人が造った偶像に拠り頼むことは愚かなことです。そのような者は恥を見ます。あなたのために戦ってくださる主、あなたの人生を確かな道へ導いてくださる主をあなたは賛美せずにはいられなくなるはずです。
Ⅲ.罪から立ち返って主を賛美せよ(18-25)
ではどのようにし主を賛美したらいいのでしょうか。最後に18節から25節までを見て終わりたいと思います。まず18節から20節までをお読みします。「耳の聞こえない者たちよ、聞け。目の見えない者たちよ、目をこらして見よ。19わたしのしもべほどの盲目の者が、だれかほかにいようか。わたしの送る使者のような耳の聞こえない者が、ほかにいようか。わたしに買い取られた者のような盲目の者、主のしもべのような盲目の者が、だれかほかにいようか。20あなたは多くのことを見ながら、心に留めず、耳を開きながら、聞こうとしない。」
「耳の聞こえない者たち」とか、「目の見えない者たち」というのは、イスラエルの民のことです。19節の「わたしのしもべ」とはイスラエルのことです。彼らには神によって贖われ、神のしもべとされたにもかかわらず、神のことを心に留めようともしませんでした。神に聞こうともしませんでした。彼らは霊的に盲目であり、霊的に耳の聞こえない者でした。そんな彼らのことを主は驚いておられるのです。異邦人ならば見えないのも当然です。彼らには神の真理が伝えられていないのですから・・・。しかし、神に買い取られ、神のしもべであるはずの人たちが見えないということはあり得ないはずです。実際に、神はイスラエルに対して偉大な御業を見せてくださいました。エジプトから出るときには数々の奇跡としるしを行い、彼らの目の前で紅海が真っ二つに分けてくださいました。荒野では四十年間もマナをもって養われ、岩からはほしばしり出るほどの水を与えてくださいました。そして約束の地カナンへと導かれると、その地の住民を追い払い、約束のとおりに彼らに乳と蜜の流れる地を与えてくださいました。神は彼らを特別に取り扱ってくださったのです。それは、そのことによって彼らが、この方こそまことの神であり、全宇宙を造られた創造主であることを知るためです。そのような多くのことを見たにもかかわらず、見ても見ないふり、聞いても聞かないふりをして、心をかたくなにしました。そんな彼らを主は何と呼ばれたかというと、「うなじのこわい民」です。うなじとは首の後ろの部分です。馬の手綱を引く人はその部分を引いて言うことを聞かせるのですが、いくら引いてもウンともツンともいわないことを「うなじのこわい民」と言うのです。頑固な者のことです。イスラエルはまさに頑固な者でした。どんなに主が多くのことを見せても心に停めることをせず、多くのことを聞いても、聞き従おうとしませんでした。そんなイスラエルの民を見て主は驚いておにれるのです。
しかしそれはイスラエルだけでなく私たちも同じです。多くのことを見ながらも心に留めず、耳を開きながらも聞こうとしません。神はあなたのためにたくさんのことをしてくださいました。たくさんのことを聞かせてくださいました。なのにあなたは聞こうとせず、心に留めようとしていません。あってはならないことですが、そのような罪に、そのような不信仰に私たちも陥ってしまうことがあるのです。そのような不信仰を見て神は、同じように嘆いておられるのです。
いったいどうしたらいいのでしょうか。神に立ち返って、神に赦しを求めることです。自分たちの罪によって目が見えなくなり、耳が聞こえなくなったことに気づき、主のもとに帰らなければなりません。24節と25節をご覧ください。 「24だれが、ヤコブを、奪い取る者に渡し、イスラエルを、かすめ奪う者に渡したのか。それは主ではないか。この方に、私たちは罪を犯し、主の道に歩むことを望まず、そのおしえに聞き従わなかった。25そこで主は、燃える怒りをこれに注ぎ、激しい戦いをこれに向けた。それがあたりを焼き尽くしても、彼は悟らず、自分に燃えついても、心に留めなかった。」
皆さん、だれがヤコブを、奪い取る者に渡し、イスラエルをかすめ奪う者に渡したのでしょうか。それは主です。イスラエルは主に聞き従わなかったので、主は燃える怒りを彼らに注いだのです。イスラエルがバビロンに捕らえられるようになったのは、神が彼らをバビロンに渡されたからなのです。それはイスラエルが神の道に歩むことを願わず、そのみおしえに従わなかったからです。時に私たちが受ける苦しみというのは、私たちが罪を犯したために起こるものですから、その時には罪を悔い改め、神に立ち返らなければなりません。神がさばかれたことを認め、その神に立ち返るなら、そこに希望があるのです。
自分に起こった出来事が決して偶然ではなく、それが神からの警告であると受け止めて回心に導かれた人がいます。アドニラム・ジャドソン(Adoniram Judson)という人です。彼はやがてビルマ、今のミャンマーですが、そこへ最初の外国人宣教師として赴いて行った人ですが、最初からそうであったわけではありません。彼はイスラエルのように「うなじのこわい民」でした。彼はアメリカマサチューセッツ州プリマスにある教会の牧師のこどもとして生まれましたが、小さい頃からとても頭が良いこどもでした。彼はたった3歳で本を読むことができたほどで、子供時代に父親の書斎にあった本を全て読破しました。10歳になったとき、彼はすでに数学者となり、基礎的名ギリシャ語とラテン語も学んでいました。父親は彼がやがて偉大な人物になることを期待し、名前は同じですが、「アドニラム、あなたは非常に賢い少年だ。私はあなたが偉大な人となることを聞いたしている」と、言い聞かせていたそうです。 彼は、16歳で大学に入ることかできました。ハーバード大学は自宅から50マイルしか離れていませんでしたが、その大学はすでにリベラル(自由主義神学)になりつつあったので、彼の父親は彼をハーバードではなくプレビデンスのロードアイランド大学(後にブラウン大学となる)に送りました。その学校は聖書信仰に堅く立つ大学だと思っていたからです。彼は、入学したときすでにラテン語、ギリシャ語、数学、天文学、論理学、弁証論学ならびに倫理を知っていたので、新入生としてではなく、二年生として入学しました。 ところが、彼はそこで友人たちの影響を受けて次第に信仰から離れていきます。一歳年上のジェイコブ・イアメスという人と知り合いになりましたが、彼も秀才でとても評判のよい学生でしたが、無神論者で、クリスチャンではなかったのです。アドニラム・ジャドソンは彼と大変親密になるうちに彼の影響を多分に受け、イアメス同様、無神論者になってしまいました。もし父親がこのことを知ったら、すぐさま彼を学校から引き離したでしょうが、父親はまさか息子の友人のジェイコブ・イアメスが、自分の息子をそのような不信仰の道に引き込むなんて全く想像することができませんでした。 ジェイコブ・イアメスは、アドニラムの友達の中でリーダー的な存在でした。彼らは一緒に勉強をしたり、若い女の子とよくパーティーに行ったり、一緒に遊んだりする間柄でした。彼らはキリスト教に対する関心が全くありませんでした。彼らの関心は、偉大な作家になること、演劇家になること、俳優になることで、そういうことに話の花を咲かせていました。彼らはアメリカという新世界で、シェークスピアやゴールドスミスになることを夢見ていました。アドニラムの父親が注意を払って教えた聖書信仰は、完全に泡と消えました。ジェイコブ・イアメスは、アドニラムを彼の父親の古い信仰から解放し、富と名声の世界に彼を引き連れたのです。 いよいよ彼が大学を卒業する日、彼はクラスで主席になり、卒業生の総代に選ばれました。そして、式の後、最も名誉な席で、彼は卒業生を代表してスピーチをしました。聴衆席では彼の両親が温かく彼を見守っていまた。どんなに誇りにおもっていたこでしょう。 卒業後、彼には今後の人生を歩む準備はできていましたが、何をすべきかがわかりませんでした。それで彼は家に帰り、毎週日曜日に両親と教会へ行きましたが、そういう自分が何だか偽善者であるように感じました。父親は彼に牧師になる勉強をしてくれるように頼みましたが、彼はそのことを聞いたとき、両親に真実を話しました。両親の神は自分の神ではないこと、自分は聖書を全く信じていないこと、イエスが神の子であることを信じていないことを、話しました。 両親は、どれほどショックだったかと思います。まさかそのように代わっていたなんて、全く想像できませんでした。両親は彼を説得しましたが、彼は聞き入れませんでした。そして、馬にまたがってニューヨークへ向けて出かけて行きました。 しかし、そこに着いたとき、彼は夢に描いていた世界とは違うことに気づきました。ニューヨークは彼を温かく迎えることもなく、また仕事もありませんでした。彼はそこに数週間留まっただけで、そこを去りました。 日没前に、彼は小さな村にたどり着きました。そこに宿屋を見付け、馬を休ませ、空き部屋があるかどうか尋ねました。しかし、その宿はほとんど満杯でした。一部屋だけが残っていました。しかし、その部屋の隣は非常に病気で、今にも死にそうな若者が泊まっていると、宿屋の主人は告げました。「別に問題ない」とアドニラムは答え、ぐっすり眠れるでしょうと主人に言いました。簡単な食事をすませ、彼は床に入り、眠ろうとしました。しかし、彼はなかなか眠れませんでした。隣の部屋から、足音とか、床がきしむ音、低い話し声、うめき声、あえぎが聞こえてきたのです。彼はこれらの音にはさほど気に掛けませんでした。人が死ぬことは普通のことだと思っていたからです。 しかし、あることを考えたのです。隣の部屋の人は果たして死ぬ準備ができているだろうかという思いです。自分自身、その準備ができているだろうか?そのことを考えて眠れなかったのです。彼は自分は死に対してどのように立ち向かって行くのか?彼にとって死は、底なしの穴への、暗やみに通じる扉で、悪く言えば、死体の棺桶を覆いかぶさる土の重さが、終わり無く続き、その中で肉体が少しずつ腐っていくだけです。 同時に彼は学校の友達のことを考えました。いったい友達は何というか?結局のところ、彼らはこんな思いを笑い飛ばすだろう。そう思うと、彼は自分を恥ずかしく感じました。 太陽が窓から差し込んで、彼は目が覚めました。暗やみの中での彼の恐怖は消え失せました。彼は自分がそんなにも弱く、恐怖に怯えることに、信じがたかった。彼は着替えて朝食を取るために下に降りて行きました。彼は宿屋の主人を見付けて支払いを済ませ、隣の若者は元気になったかどうか尋ねてみました。すると主人は「その若者が死んだ」ことを告げました。その若者はどこの人か知ってるかと尋ねると、主人は「もちろんさ」と言って、彼がブラウン大学の学生で、名前はイアメス、ジェイコブ・イアメスだと答えました。彼は、最も久しい友人のジェイコブ・イアメスで、前の晩に隣の部屋で亡くなったのでした。 アドニラムは、その後数時間をどのように過ごしたのかを思い出すことができませんでした。ただ彼が思い出すことができることは、その宿をしばらく出ることが出来なかったということです。ついに彼は立って、馬に乗って走り出しました。彼の思いには一言「失われた」が駆け巡りました。死に臨んで、ジェイコブ・イアメスは失われていました。完全に失われていました。失われたままで死ぬこと。友からの死、この世界からの死、将来からの死、空中に消えていく煙のように。もしイアメスが間違っていたら、彼は永久に滅びてしまうことになる。逆に、もと聖書が文字通り真実で、神が真実であったなら、イアメスは永久に失われたままになってしまう。そしてその瞬間、アドニラムは自分が間違っていたことに気づきました。イメアスは救われるための全ての機会が失われたのです。これらの思いが、アドニラムの動揺した思いの中を駆けめぐりました。アドニラムは、彼の最も親しかった友人が自分の隣の部屋で死んだのは、決して偶然なことではないと考えました。彼は、神がこれらのことを事前に準備されたのだと悟ったのでした。 突然、彼は、聖書の神は真の神であると感じました。そして、馬の向きを変え、家に向かいました。彼の旅はたった五週間続いただけでしたが、その五週間の間に、彼のたましいを揺すぶる激変を体験したのです。彼は心の加藤の中で、自分自身のたましいと向かい合いました。彼は家に着いたときには、覚醒した罪人でした。こうして彼は回心したのです。 そして、その回心が彼をビルマへの最初の外国宣教師へと導いたのです。それまでだれ一人として訪れたことがなかった未開の地へ宣教師として行きました。そのビルマで厳しい困難の中、投獄されたり、二人の妻と数人の子供たちをなくすといった悲劇もありましたが、それでも彼は決して失われている者をキリストに導く使命、また、聖書をビルマ語に翻訳する使命を捨てませんでした。それは、彼が若い時に経験した回心の出来事があったからです。友人のジェイコブ・ イアメスの死を神からの警告として受け止め、神に立ち返ったあの経験があったからです。
あなたはどうですか。神がずっと悔い改めを求めておられるのに、平気で無視していることはないですか。まだ時間は十分あるといって、それを先延ばしにしているということはないでしょうか。どうか「立ち返れ」という神の叫びに心を傾けてください。そして、一緒に主に向かって新しい歌を歌おうではありませんか。その栄誉を心からほめたたえようではありませんか。主があなたのために、すばらしいことをしてくださったからです。あなたのためにひとり子のいのちを与えてくださいました。その救いの御業に対する応答としてもっともふさわしい態度は、その救いを受け入れて神に立ち返り、この方に向かって新しい歌を歌うことです。やがて全世界が主を賛美するようになります。どうぞあなたもその賛美の中に加わってください。