ローマ人への手紙6章1~14節 「キリストとともに生きる」

きょうは「キリストとともに生きる」というタイトルでお話したいと思います。パウロは1~5章までのところで、イエス・キリストを信じる信仰による義について語ってきました。すなわち、すべての人は罪人なので神からの栄誉を受けることができず、ただ神の恵みにより、イエス・キリストを信じる信仰によってのみ、値なしに義と認められるということです。しかし、きょうのところから新しいテーマに入ります。それは、信仰によって義と認められた人はどのように歩まなければならないか、いわゆる聖化についてです。

きょうはこのことについて三つのことをお話したいと思います。第一のことは、罪が増し加わるところに恵みも満ちあふれるのであるならば、そのままずっと罪の中にとどまっているべきかということについてです。絶対にそんなことはありません。第二のことは、その理由です。どうして罪にとどまるべきではないのでしょうか。なぜなら、クリスチャンはキリストにつぎ合わされた者だからです。第三のことは、ではどうしたらいのでしょうか。自分の手足を不義の器として罪にささげるのではなく、義の器として神にささげなさいということてす。

Ⅰ.恵みが増し加わるために罪の中にとどまるべきか?(1-2a)

まず第一に、恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきかということについ見ていきたいと思います。1,2節をご覧ください。

「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」

パウロは5章の後半のところで罪にもまさる神の恵みについて語りましたが、そこに一つの大きな誤解が生じました。罪が増し加わるところに恵みも満ちあふれならば、私たちは罪の中にずっととどまっているべきかという疑問です。これは5章20節でパウロが語ったことを間違って理解したことによって生じた誤解でした。パウロは5章20節で、「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」と言いましたが、すると中には、それではその恵みが満ちあふれるために、もっと罪を犯して、恵みが増し加わるようにしたらいいんじゃないかという考える人たちが出てきたのです。これはとんでもない誤解です。本末転倒とはこのことです。パウロが言いたかったことはそういうことではありませでした。彼が言いたかったことは、どんなに大きな罪でもその罪に打ち勝てない恵みはなく、神の恵みは罪の力にまさるほど大きなものであるということです。私たちの罪がどんなに大きく、根深いもので、世の人々から見捨てられるうなものだとしも、神の恵みはそれ以上なのです。神の恵みの十字架のあがないにとって、赦すことのできない罪はありません。たとえ私たちが人を殺してしまったとしても、人様に迷惑をかけてしまうようなことがあったとしても、人間的に見たらこんなことは赦されないのではないかと思うような罪でも、神は赦すことができるのです。神の恵みはそれほどに大きいのです。十字架の恵みは、そのような罪を覆ってあまりあるほどです。どんなに大きな罪に支配されていたとしても、神の恵みの川かわ押し寄せてくると、すべてがたやすく変えられていくのです。

それなのに彼らは、パウロが言わんとしていたことを曲解していました。自分たちに都合がいいように解釈していたのです。今でも、彼らのようにこのみことばを誤解し、悪用する人たちがいます。神様の恵みの祝福を論争の種にしようとするのです。1節にあるように、「恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。」とめちゃくちゃなことを言う人がいるのです。罪が多いところには恵みも増し加わるのだから、たくさん恵まれるために、もっとたくさん悪いことをしようと言う人がいるのです。それは大きな誤解です。こうした誤解は、聖書が語っている強調点を誤ってとらえていることに起因するものです。    たとえば、ローマ・カトリック教会は長い間、天動説を支持してきました。なぜなら、ヨシュア記10章に記されてある事件を誤って理解したからです。ヨシュア記10章12,13節に、「主がエモリ人をイスラエル人の前に渡したその日、ヨシュアは主に語り、イスラエルの見ている前で言った。「日よ。ギブオンの上で動くな。月よ。アヤロンの谷で。」民がその敵に復讐するまで、日は動かず、月はとどまった。これは、ヤシャルの書にしるされているではないか。こうして、日は天のまなかにとどまって、まる一日ほど出て来ることを急がなかった。」とありますが、ここでヨシュアが太陽に向かって「太陽よ、止まれ」と命じたら、まる一日太陽が動かなかったということから、やっぱりい動いているのは太陽であって地球ではないと主張し、そのように主張した人(地動説)たちを処刑したり殺したりしたのです。ガリレオのような学者たちには強制的に天動説を支持させたりしました。「それでも地球は、まわっている」という彼の言葉は有名です。  いったいこうした過ちはどこから生じたのでしょうか?聖書の間違った解釈からです。聖書が本当に言わんとしている強調点、すなわち、その柱となるメッセージに従って理解しなかったことです。この箇所は、もともともともと地動説か天動説かを主張している箇所ではありません。神様の力によって明るい昼がずっと続き、その戦いが自分たちに有利に動くようにというヨシュアの祈りに神様が答えてくださり、エモリ人を絶滅させることができたという奇跡を記録しているのです。ですから、この聖句をもって地動説か天動説かを議論すること自体が全くナンセンスなのです。

恵みが増し加わるために、罪の中にとどまっているべきではないかと主張していた人たちの問題はここにありました。彼らはパウロが言っていた神の恵みの大きさを全く理解していなかったどころか、それを悪用して自分たちに都合のいいよに受け止めようとしたのです。そんな彼らの主張に対して、パウロは何と言っているでしょうか。「絶対にそんなことはありません。」断じてそういうことはないのです。神の恵みが増し加わるために、ずっと罪にとどまるべきであるという考えはおかしいのであり、間違っているのです。

Ⅱ.クリスチャンはキリストにつぎ合わされた者(2b-11)

なぜそれが間違っていると言えるのでしょうか。ですから第二のことはその理由です。クリスチャンはなぜ罪の中にとどまるべきではないのでしょうか?パウロはその理由をその後のところで語っています。2節の後半の部分をご覧ください。

「罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」

「罪に対して死んだ私たち」とはどういう意味でしょうか。ある人たちはその後に続く、「どうして、なおもその中に生きていられるでしょうか」という言葉から、クリスチャンは罪の力、罪の影響力から完全に解放されていると考えています。すなわち、クリスチャンは罪を犯すことのない完全な者にされたというのですが、そういうことではありません。11節には、「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと思いなさい。」とありますから、クリスチャンはこのような完全主義、つまり、全く罪を犯さない存在になったということではないのです。ではこれはどういう意味でしょうか。3~5節までをご覧ください。

「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちあ、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」

ここでパウロは、「あなたがたは知らないのですか」と言っています。それはどういうことを表しているかというと、クリスチャンならば当然知っているはずの常識的なことを知っているのかということです。神の恵みが増し加わるために、もっと罪の中にどまっていようというのは、その常識的なことをちゃん理解していないからだと言うわけです。ではその常識的なこととは何でしょうか。それは、クリスチャンとはどのような存在であるかということです。いわゆる、クリスチャンのアイデンティティーの問題です。そしてここでパウロが言っていることは、それは一言で言うなら、クリスチャンとはイエス・キリストにつぎ合わされた存在であるということです。キリストとつぎ合わされて一つとされた存在であるということです。イエス様と同じように考え、同じように歩み、同じ原理原則で生きる者であるということです。それはこの3~8節の中に、「キリスト・イエスにつく」とか、「キリストとともに」、「キリストにつぎ合わされて」という表現が6回も出ていることからもわかります。いわば、私たちは小さなキリストなのです。私たちはキリストとつぎ合わされて一つにされたがゆえに、キリストと同じようになり、同じような体験をするようになったのです。どういう体験でしょうか。十字架と復活です。6、7節には、

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」

とあります。はは~ん、これですね。罪に対して死んだ・・・・というのは。キリストとつぎ合わされ、キリストと同じようにされた私たちはまず、キリストと同じように、十字架の死を味わいます。イエス様は、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ16:24)と言われました。私たちの人生にはそれぞれ、負わなければならない十字架がありす。迫害や苦痛があるのです。イエス様がこの地上を歩まれたとき、ある人たちはイエス様に向かって「ベルゼブルにとりつかれている」、つまり「悪魔に取り憑かれている」言いましたが、同じようなことをクリスチャンに向かって言うことでしょう。イエス様を信じるがゆえに、この世で私たちが迫害や苦しみを受けるのは、少しも不思議なことではないのです。問題はそのような時に私たちがどのような態度を取るかです。イエス様につぎ合わされてイエス様と同じようにされたのなら、イエス様のように十字架を負っていかなければなりません。なぜなら、イエス様とともに十字架につけられたとき、私たちの罪のからだが滅びて、罪から解放されたからです。もう罪に対しては死んでしまったのです。この「罪のからだが滅びて」の「滅びて」という言葉は、「使い物にならない」「無力である」という意味です。たとえば、車を買って運転しようとしても、エンジンが壊れていたとしたら使い物にはなりません。それでも車はまだそこにあるのです。同じように、イエス様とともに十字架にかかって死んだ私たちは古い自分に死んだのです。からだはまだそこにありますが、使い物にはならないのであって、以前のように使うべきではないということです。からだが死んでいるのであれば、そのようなことは、起こるはずはありません。私たちはもはや、罪の奴隷ではないのです。私たちはキリストが十字架にかかられて死なれたように、古い自分に死んだのです。しかし、キリストともに死んだのであれば、それは同時に、キリストとともに復活し、キリストとともに生きるということであもあります。なぜなら、私たちはキリストにつぎ合わされた者だからです。8~10節をご覧ください。

「もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。」

もしキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることでもあります。キリストとともに生きるとはどういうことでしょうか。それはキリストの力によって生きるということです。キリストの力によって生きるなら、もはや罪が支配しないのは当然です。キリストは死の力を打ち破って勝利された方であり、罪の大きさにもまさる恵みを注いでくださる方だからです。私たちの力では決して罪に勝つことができません。どれほど歯を食いしばっても、自分の力では無理なのです。「いや~自分は大丈夫。自分は罪に打ち勝てるし、勝ってみせる」という人は、罪の力がどれほど強力であるかを知らないからです。アルコールや麻薬で苦しんでいる人がそれを断ち切ろうとしても、自分の力では無理です。賭博をする人も自分の中に他の力が働いているのを感じています。やめたい、やめたいと思っていてもなかなかやめられないのはそのためです。うそをつく人も、悪口を言う人も、何か得体の知れない力にひかれてそうするのです。自分はやめたいと思っていても、ついつい言ってしまう。罪にはそれほどの力があるのです。 しかし、死からよみがえられたキリストは、その罪の力に完全に勝利することができるのです。いま、クリスチャンにはこの力が与えられています。どのように?聖霊によってです。「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。」(使徒1:8)とイエス様が言われたのは、この力のことだったのです。イエス様が復活された後に昇天されたのはこのためでした。イエス様は十字架につけられる前に、弟子たちのために次のように祈られました。

「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」

この「助け主」こそ聖霊様です。キリストはこの聖霊様をとおして、いつまでも私たちとともにいてくださり、助けてくださいます。ですから、この聖霊が内住していることを知っているクリスチャンは、誘惑されて失敗することがあったとしても、必ずそれに打ち勝つことがきます。聖霊にはそれ以上の力があるからです。ですから、聖霊の力かあれば完全に罪に打ち勝つことができるのです。イエス様を信じると、今までお酒がおいしくてやめられないと思っていた人も、もうおいしくなくなり、罪の中に遊ぶことが大好きでやめられないという人も、そんなことがつまらないと感じるようになり、やめれない、やりたくないともがき苦しんでいた人が、その中から解放されるようになるのです。

パウロはイエス・キリストを信じるまでは、「私には、自分のしていることがわかりません。」と告白しています。「自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っていた」のです。「それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪」でした。その罪のゆえに、「善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがない」「自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行って」しまう。自分の内なる人は神の律法を喜んでいるのに、自分のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだしていたのです。彼は、自分が「ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と告白せざるを得ませんでした。しかし、この罪に打ち勝つ秘訣を知りました。それがイエス・キリストです。聖霊をとおして注がれるイエス・キリストの力です。ですから彼は、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」と言うことができたのです。(ローマ7:15~25)

「だれでも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古い人は過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

この聖霊の力と助けによってのみ、私たちは罪に勝つことができるのです。14節に、「というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです」とあるとおりです。

Ⅲ.イエス・キリストにあって生きる(11-14)

ではどうしたらいいのでしょうか。ですから第三のことは、このキリストにあって生きましょうということです。11~14節をご覧ください。

「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。」

ローマ人への手紙の中で、ここに初めて適用が記されてあります。これまではずっと信仰によって救われるという教理が語られてきましたが、ここにきてそうした教理の上に立って、具体的、実際的な適用が語られています。それは、自分が罪に対しては死んだ者であり、神に対しては、キリスト・イエスにあって生きている者であると思いなさいということです。ここで大切なのは、「思いなさい」という言葉です。このことばは「みなす」とか「認める」という意味の言葉です。そのことを強く意識いなければなりません。なぜなら、そこにキリストの十字架の死と復活という事実があり、そのキリストに私たちは結び合わされた者だからです。だからそのようにみなすことができるのです。それは決して私たちの信念や感情に基づくものではありません。私たちの信念や感情がどうであれ、神のみことばである聖書がそのように約束しておられるので、そのように信じて従うのです。それが信仰です。たとい私たちの心理状態がどうであれ、私たちの感情がどうであれ、それに従っていく、それが信仰です。

それは昔イスラエルがエジプトを出た時も同じでした。主は彼らにかもいと二本の門柱に小羊の血を塗るようにと命じられました。エジプト中の初子という初子を打つとき、主がそのしるしを見て、さばきを過ぎ越すためです。「そんなことをしたところでどんな意味があるのか」「わざわざそんなことをしなくてもいいではないか」と言う人もいたかもしれまん。しかし、誰がどう思い、どう感じようとも、神が言われたとおりに従った人だけが救われました。それは私たちも同じです。私たちに必要なのは、私たちがどう思い、どう感じるかということではなく、神様が言われたことに従うかどうかなのです。「思いなさい」というのはそういうことです。私たちはかつて罪と死の領域にいましたが、今はもうその中にはいません。今はもうキリストとともにいるのです。キリストともに天の領域、天の座に着いているのです。コロサイ人への手紙1章13節に、

「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」

とあるとおりです。このことがわかると、私たちはもはや律法の下にはいなことになり、罪も死も支配することがなくなり、死に対する恐れから解放されることになるのです。

かつてアメリカで南北戦争が行われたことがありました。それは、奴隷解放をめぐっての戦いでした。この戦争の結果、奴隷解放を訴えていた北部が勝利し、奴隷が解放されることになりました。ところが、何人かの奴隷は、その自分たちの立場の変化がまだわからず、なおも奴隷のような生活に甘んじていたのです。しかし、その立場をよく理解した奴隷たちは、自由に行動することができました。ちょうどそれと同じように、自分がどのような立場に変化したのかをよく理解する時に、クリスチャンも真の自由人として行動することができるようになるのです。罪はもう二度と私たちを奴隷にすることはできせん。キリストとつぎ合わされたこによって、愛する御子のご支配の中に移されたのです。それが「罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」という意味です。

それは、もう二度と罪を犯さないということではありません。常習的に罪を犯すことがないという意味です。罪の奴隷のように罪を犯すことかないということです。なぜなら、クリスチャンは罪の領域から解放されているからです。ですから、クリスチャンはたとい罪を犯すことがあったとしても、罪の領域から解放された者として罪を犯すのであって、罪の領域の中にあって、常習的に罪を犯すことはないのです。私たちは現実の生活の中では罪を犯すことのある弱い者ですが、しかし、もうすでにそうした罪の支配の中にはいないのです。ですからそのことをよく理解し、神の恵みの中で、キリストとともに生きる者でなければなりません。具体的には、私たちの手足を不義の器として罪の支配にゆだねた生き方ではなく、義の器として神にささげなければなりません。お酒に満ちていたカップを持っていた手が、聖書を持つ手に変えられ、汚い言葉を発していた口が、神を賛美し、福音を語る口になるように祈らなければなりません。ヤコブ書にかかれてあるように、賛美とのろいが同じ口から出るようなことがあってはならないのです。泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせることがないように、あるいは、いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの水を同じ穴ならせたりすることがないように、賛美とのろいが同じ口から出ることがないようにしなけばなりません。キリストのご支配に移された人、聖霊がその内に住んでいる人、古い自分が死んだ人は、ガラテヤ5章24節にあるように、「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲と欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」キリストにある新しい人として、勝利ある人生を歩ませていただきましょう。

世の終わりが近づいていることを感じる今、私たちは、心騒がせることなく、キリストにあって天の座に着かせていただけたことを喜び、感謝して、この世にあっては、ご聖霊の助けによって、ますます神のみこころに生きる者でありたいと思います。

ローマ人への手紙5章12~21節 「罪よりも大きな神の恵み」

きょうは「罪よりも大きな神の恵み」というタイトルでお話をしたいと思います。パウロはこのローマ人への手紙の中で、すべての人は罪人なので神からの栄誉を受けることができず、ただ神の恵みにより、イエス・キリストを信じる信仰によって、価なしに義と認められるということを語ってきましたが、この5章に入って、ではそのようにして罪から救われた人はどのようになるのかについて語りました。すなわち1節にあるように、信仰によって義と認められた私たちは、神との平和を持つことができるということです。いやそればかりではありません。患難さえも喜ぶことができるようになりました。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すことを知っているからです。この希望は失望に終わることはありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

きょうの箇所はこれまで語ってきたことのまとめです。12節には、「そういうわけで」とあります。「そういうわけで」というのはどういうわけでかというと、これまで述べてきたように、すべての人は生まれながらに罪を持っており、その罪のゆえに神の怒りを受けて滅びるしかない者でしたが、あわれみ豊かな神様は、ひとり子イエス・キリストによって救われる道を用意してくだり、その御子を信じる信仰によって、義と認めてくださったということです。きょうのところには、その神の恵みがどれほど大きなものなのかがしるされてあります。

きょうは、この神の恵みについて三つのことをお話したいと思います。第一のことは、最初の人、アダムの罪の大きさについてです。アダムが神の命令に背いてしまったことで罪が世界に入り、その罪が全人類に広がってしまいました。第二のことは、その罪にもまさる神の恵みです。第三のことは、その恵みを受けるにはどうしたらいいのでしょうか。イエス・キリストを信じなさいということです。

Ⅰ.ひとりの人によって全人類に死が(12-14a)

まず第一に、アダムの罪の大きさについて見ていきたいと思います。12~14節をご覧ください。

「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、―それというのも全人類が罪を犯したからです。というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。」

ここには、最初の人アダムの罪がこの人類にもたらした影響がいかに大きいものであったかが述べられています。ひとりの人アダムによって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がりました。いや、これはアダムだけの問題ではありません。私たち全人類の問題なのです。なぜなら、アダムは人類の代表者だからです。アダムが罪を犯したということは、私たち全人類が罪を犯したことになるのです。これがいわゆる「原罪」と言われているものです。現代の人は、人は生まれながらに罪を持っているということをなかなか受け入れることができません。アダムという自分とは関係のない人が行った罪の責任を、どうして自分が引き受けなければならないのかというのです。特に知識人たちは、これを「非合理でばかばかしい話だ」と言って顔を背けます。パスカルはその著「パンセ」において、「原罪は人間の目で見ればとてもこっけいなものだ。理性でこの原罪を理解することはできない。なぜなら原罪という教えは理性に背くものだからだ。理性は、自分の方法で原罪を考え出すことはできない」と言いました。

しかし、聖書は繰り返し繰り返し、このアダムが罪を犯したことで、全世界に罪が入り、それがすべての人に及ぶようになったと言っています。そのことは、15~19節の中で「ひとりの違反によって多くの人が死んだ」という表現が5回も述べられていることからもわかります。あのアダムの罪が、私たちひとりひとりの個々の罪につながっているのです。言い方を変えますと、アダムにあって、全人類は罪を犯したのです。それは神学者のシェッドやストロングが言ってるように、遺伝的な伝わるのか、あるいはホッジという神学者が言っているように、転嫁によるのかはわかりませんが、はっきり言えることは、聖書は、母の胎に存在したときから私たちは、罪を持っているということです。

私たちが置かれている状況や環境の大部分は、自分の意志とは関係なく一方的に与えられたものです。たとえば、私たちは日本人に生まれたくてそうなったのではなく、生まれた時から日本人でした。また、お金持ちの家に生まれたくてそうなったのではなく、あるいは貧乏人の家に生まれたくてそうなったのでもありません。こうした環境や状況といったことは、自分とは全く関係のないところで起こったことなのです。同じように、私たちが罪を持って生まれたきたというのも私たちがそうしたいからそのようになったということではなく、生まれたときからそうだったのです。これは認めようが認めまいが事実なのです。それが12節で言ってることです。人類の始祖であるアダムが、神様の御前に不従順の罪を犯したことで、全人類が堕落し、その罪が転嫁されました。人類はアダムにあって一つの運命にほかならないのです。

それは、たとえばサッカーのワールドカップで、自分の国が勝った時に発する言葉を聞いてもわかるでしょう。私たちは自分の国が他の国と試合をして勝ったとき何と言うでしょうか。「私たちは勝った!」と言わないでしょうか?私たちが試合をしたわけでもないのに、「私たちは勝った」と言います。なぜなら、11 人のイレブンは、自分たちの国を代表して勝ったからです。これが代表性の原理と言われるものです。

霊的な世界において、この代表性の原理を理解することはとても重要なことです。一人の人の罪によって皆死ぬことがある一方、一人の人の従順によって全人類が救われることもあるからです。ですから、この全体の代表である一人が重要なのです。イスラエルの歴史をみるとどういう時代が祝福されたかというと、優れた指導者が統率した時代でした。すなわち、ダビデのように神様を畏れ、神様のみこころにかなった王様が指導した時は国の状態も良くなりましたが、神様のみこころにかなわない悪い王様が統率した時は、ひどい状態になりました。

これは一般の歴史においても言えることです。指導者が国を左右するのです。西洋のことわざに「獅子が統率する羊の部隊は、羊の統率する獅子の部隊よりも強い」とありますが、まさにそのとおりです。指導者で決まります。いくら獅子の隊員がしっかりしていても、指導者が羊ならば弱くなりますし、逆に、指導者が獅子のように勇敢で、野性味に溢れているなら、羊の部隊を率いてもたやすく勝利することができるのです。それは家庭でも同じです。家庭で家長がみことばに立ち、絶えず祈り、霊的にまっすぐに立っていればその家には神様の恵みに溢れるようになりますが、そうでないと、倒れてしまいます。それは教会においても同じです。教会でも牧師が神様の前に直ぐな気持ちで立って、祈りに徹し、みことばに従い、忠実に仕えるなら教会全体に祝福が臨みますが、そうでないと、教会は決して祝福されません。その鍵を握っているのが牧師なのです。これは会社の指導者であれ、地域の指導者であれ、国の指導者であれ、共同体を導く立場におられるすべての人に言えることです。立つも倒れるも指導者いかんで決まるのです。ですから私たちは、そうした指導者たちのために祈らなければなりませんし、私のためにも祈っていただきたいのです。

最初の人間アダムは、私たち人類の代表でした。アダムにあって人類は一体なのです。そのアダムが罪を犯したので罪が全世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がりました。私たちはだれひとり例外なしに、この原罪を持っているために、たとい恐るべき罪を具体的に犯していないとしても、罪人であり、死ぬべき者にすぎないのです。

Ⅱ.罪よりも大きな神の恵み(14b-21)

ではどうしたらいいのでしょうか。神様は、このような人類をあわれんでくださいました。それがイエス・キリストの恵みです。14の後半をご覧ください。ここには、「アダムはきたるべき方のひな型です」とあります。「きたるべき方」とはだれでしょうか。そうです、イエス・キリストのことです。このところでパウロはキリストを第二のアダムとして描き、この両者を対比させることによって、この神の恵みの大きさを説明しています。すなわち、アダムにあって全人類が罪に陥ったのと同じように、イエス・キリストにあって全人類が救いに至るようになったということです。アダムひとりによって全人類に死が臨みましたが、今は第二のアダムであるイエス・キリストによって、信じるすべての人に救いといのちが与えられたのです。

しかし、最初のアダムと第二のアダムとの間には、大きな違いがあります。それは、第二のアダムであるイエス・キリストの恵みは、満ち溢れているということです。15~17節をご覧ください。

「ただし、恵みには違反の場合とは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。また、賜物には、罪を犯したひとりによる場合と違った点があります。さばきの場合は、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです。もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」

ここにはその満ち溢れた神の恵みが強調されています。15節には、「それにもまして、・・多くの人々に満ちあふれるのです」とありますし、17節にも、「なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々」とあります。20節にも「恵みも満ちあふれました」とあります。ここではアダムの違反と比べて神の恵みがどれほど大きいかが表されています。それが「それにもまして」とか「なおさらのこと」です。アダムによって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。また、ひとりの違反によって死が支配するようになったのだとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、イエス・キリストによっていのちが支配するのです。ちょうど光のようにです。光が差し込んでくればやみが追放されるように、どんなに死に支配されようが、イエス・キリストを信じるならば、やみが消え去るのです。なぜなら、キリストは三日目に死人の中からよみがえられて、今も生きておられるからです。このイエス・キリストにあって、なおさらのこと、いのちが支配するようになるのです。この「それにもまして」とか「なおさらのこと」という言葉はギリシャ語で「ポロー・マロン」という言葉ですが、救いのすばらしさを表すのに使われている言葉です。たとえば、同じ言葉がこの5章9節と10節でも使われています。

「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。」

すばらしいじゃないですか。私たちは罪によって神の敵でありましたが、キリストの血によって義と認められ、神と和解させられたのならば、このキリストのいのちによって救われ、大胆に神に近づくことができるのは、なおさらのことなのです。神の恵みはそれ以上なのです。もっと大きいのです。同じようにここでも、最初の人であったアダムが犯した罪というのはたった一つの罪で、それによって全人類が罪に定められましたが、神のひとり子であられたイエス様が十字架で成し遂げられた救いの御業は、アダムが犯した罪、原罪ばかりでなく、私たちが日々犯している数々の罪までも洗いきよめ、すべての罪から救い出してくださるというのです。なんと大きな恵みでしょうか。私たちのすべての罪は、キリストの十字架の上に置かれ、キリストがその身代わりとなって償いをしてくださることによって、過去の罪だけでなく、現在の罪も、いや未来に犯すであろう罪のすべての罪が赦されたのです。それが16節にしるされてある「一つの違反」と「多くの違反」の対比です。神の恵みはそれほどまでに溢れているのです。満ちあふれることが、神様が下さる恵みの特徴の一つです。特に神の恵みが最も多く記されているエペソ人への手紙の中には、この恵みについて次のようにしるされてあります。

「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」(1:7)

「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、」(3:20)

神様の恵みがどれほど大きいかがわかるでしょう。私たちは、「こんなことでも聞いてくださるのだろうか」と疑いながら祈ることもありますが、神様は恵みは、私たちの予想や期待をはるかに超えて、あふれるばかりに注いでくださるのです。ダビデは詩篇23篇で、

「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。」(23:5~6)

と歌いました。また、ヨハネの福音書2章をみると、カナの婚礼においてイエス様の母マリヤが「ぶどう酒がありません」と言うと、イエス様は、80~120リットルの水がめに水を満たし、その水をぶどう酒に、しかも最良のぶどう酒に変えてくださいました。

また、ヨハネの福音書6章には、五つのパンと二匹の魚の奇跡が記されてありますが、男だけで五千人もの人たちが空腹であったとき、イエス様は彼らの空腹を満たしてくださいました。しかもかろうじて満たしたという程度ではありませんでした。余りが大きなかごで12もあったほどです。あまりは12かごです。全員がお腹いっぱい食べてもなお12のかごが残るほどに恵みを注いでくださいました。これが神の恵みです。神様の恵みはあまりにも大きいので、あふれ出るのです。

Ⅲ.イエス・キリストの恵みによる賜物(14b-21)

ではどうしたらいいのでしょうか。ですら第三のことは、主イエス・キリストを信じなさいということです。15~21節のところをもう一度見てみましょう。このところでパウロは、キリストを第二のアダムとして最初のアダムと比較させ、その救いの恵みの大きさを語っていると言いましたが、それと同時に、ここではどうしたらその恵みを受けることができるのかということについても述べています。それは主イエス・キリストを信じることによってです。アダムの場合はアダム一人が罪を犯したことで、自動的にすべての人に罪が入りましたが、キリストによる神の恵みの賜物は、自動的にもたらされるものではありません。神の恵みはすべての人に差し出されていますが、それはアダムのように自動的にもたらされるのではなく、それを受け取らなければなりません。それが「信仰」です。ここに「賜物」とあるのはそういう意味です。これは神からの賜物、プレゼントです。どんなにすばらしいプレゼントでも、それを受け取らなければ自分のものにならないように、このキリストの恵みによる賜物も、すべての人に差し出されていますが、受け取らなければそれを自分のものにすることはできません。ここにアダムの代表性とキリストの代表性の違いがあります。すなわち、アダムの代表性は自動的に私たちの上に臨みますが、イエス・キリストの代表性は、信じるときにのみその効力があるということです。ですからヨハネの福音書1章12節には、

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」

とあるのです。誰に神の子としての特権が与えられるのでしょうか。「この方を受け入れた人々」「すなわち、その名を信じた人々」にです。イエス・キリストの十字架以外に救いはありません。この御名のほかに、私たちが救われるべき名としては、人間に与えられていないからです。それは一方的な神からの恵みによる賜物でした。私たちは、それを信じさえすればいいのです。信じる者は救われます。しかし、信じない人は罪に定められます。せっかく神様が恵んでくださったのに、それを受け取らなかったとしたら、罪に定められたとしても仕方ないでしょう。  昔、荒野でイスラエルが蛇にかまれたとき、神様はモーセに「青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上にかかげるように」と言いました。それを仰ぎ見る者が救われるためです。仰ぎ見ることが難しいことでしょうか。簡単なことです。首をちょっと上げるだけのことです。いや首を上げなくても、目を向けるだけです。何も難しいことはありません。  また、神様は昔ノアに箱舟を造り、その中に入るようにと言われました。舟の中に入ることが難しいことでしょうか。簡単なことです。スロープもついていますから・・・。  なのに多くの人々は、こんなに簡単なことをしないのです。私たちがそんなに簡単に救われたのでは申し訳ないと、あえて自分からハードルを高くして難しくしているのです。それが人間の姿です。人はやさしい道を拒み、難しい道を行こうとする傾向があるのです。ですから、到底ついて行けないようなことを要求する新興宗教に、多くの人々が列をなして入っていくのです。しかし、救いは難しいものではありません。神様の恵みの賜物を、ただ受け取りさえすればいいのです。

皆さんは、イエス・キリストが人生の主人であり、たましいの船長だと正直に告白することができるでしょうか。皆さんを天国に導くことができる方は、イエス・キリストであると信じてください。皆さんを天国に導くことができるのは、皆さんの成功や、名誉や、財産によるのではありません。私たちが救われるために、私たちができることは何もありません。私たちができることはただ信じることです。私たちの罪のために十字架にかかって死なれ、三日目によみがえって救いの御業を成し遂げてくださったイエス・キリストを信じる以外にはないのです。それ以上でも、それ以下でもありません。天国に入ることができるのは、ただ一つ、「恵み」のゆえなのです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

日本では今、巨大地震・巨大津波・原発事故の被害で、戦後、最大の危機を迎えています。しかし、それがどんなに大きな災害でも、神の恵みはそれ以上です。神様は必ずこの国を復興してくださいます。神の恵みははるかに大きなものだからです。私たちが属している保守バプテスト同盟のいくつかの教会が、今回の地震で被災しましたが、その中に全教会員200名とその家族がすべて、退避命令が出て、山形や会津などに避難している、福島の福島第一聖書バプテスト教会があります。その教会の牧師である佐藤先生のメールには、次のような内容が記されてありました。「なによりの奇跡は,誰からも「どうして神は私たちをこんなめに遭わせるんだ」とか、「神はいない、もう信じない」とのことばが聞こえてこないことです。所在の確認がとれたた160名の兄弟姉妹からは口々に,「主はすばらしい」とか「これからはもっと,神を信頼して歩んでいきたい」との報告が届いています。彼らはいつから,こんなに信仰が強くなったのでしょう。また、「昨日はともに旅をしている方の3名の方が涙とともに,信仰告白をし,イエス様を受け入れました。ハレルヤ。天でどれほどの喜びが起こったことでしょう。重苦しい震災の中で見る,何よりの実です。」とありました。

何と大きな恵みでしょう。この恵みが私たちを生かすのです。私たちはますますこの神の恵みに信頼して歩む者でありたいと思います。

ローマ人への手紙5章1~11節 「神との平和」

きょうは「神との平和」というタイトルでお話したいと思います。これまでパウロは、人は信仰によって義と認められるというテーマで語ってきました。すなわち、人はイエス・キリストの十字架の血潮を信じることで、悪魔と罪の支配から解放されるということです。これがローマ人への手紙の全体のテーマです。  ところで、このようにイエス様を信じて救われた人は、その後、いったいどのようになるのでしょうか。それがきょうのテーマです。きょうはこのことについて三つのポイントお話をしたいと思います。第一のことは、信仰によって義と認められた人は、神との平和を持つようになります。第二のことは、それだけではなく、患難さえも喜ぶ力が与えられるということです。そして第三ことは、その根拠です。それは、信じる者に与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

Ⅰ.神との平和(1-2)

まず第一に、1節と2節をご覧ください。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」

これまでパウロは、信仰によって義と認められるということを語ってきましたが、これまで述べてきたことを受けて、この5章ではその結果について語っています。信仰によって義と認められるとき、私たちの人生の中に、どのような実が現れるのでしょうか。ここには、「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」とあります。これまで全くなかった神との平和が、イエス・キリストを信じることによってもたらされるのです。逆の言い方をすると、私たちは10節にあるとおり「神の敵」であったわけですが、神のひとり子であられるキリストが私たちの罪を贖うために十字架にかかって死なれたことで、神様と私たちの間にあった敵意が取り除かれ、和解が実現したのです。

もし敵対関係のままであったとしたらどうなるでしょうか。それは人間関係に置き換えてみるとよくわかると思います。たとえば夫婦の間に亀裂が生じますと、お互いにイライラするばかりで平安がないばかりか、やがて離婚するしかなくなってしまいます。家庭においてはどうでしょうか。家庭に平和がないと地獄になってしまいます。なぜなら本来やすらぎを感じるはずの家庭に、やすらぎがなくなってしまうからです。これが国家間の関係になるとどうでしょうか。国家間に平和がないと戦争が起こり、世界中が大混乱になってしまいます。職場での最も多いトラブルは何かというと、給料の額の問題ではなく人間関係のトラブルです。それは実に耐え難いものがあります。いつも嫌な人の顔を見て仕事をしなければならないことに耐えきれず、辞めてしまうことさえあるのです。それは教会でも同じです。教会に平和がないと恵みも力もなくなり、争いが絶えないようになります。平和は人間が生きていく上で最も重要な原理です。その平和をもたらしてくださるのが神様です。この神との平和が基になってこの社会のさまざまな関係においても平和が生まれてくるのです。そしてこの神との平和は、私たちの主イエス・イエスキリストによって、与えられたのです。

それまで人間は神に対してどういう立場にあったのかというと、10節にあるように「敵」でした。神様との間に平和が無かったのです。いわば神様に敵対しているような状態だったのです。そういう人間が神様の前に出ようものなら、死ぬしかありませんでした。そのため旧約聖書の時代には、神に仕えていた祭司長ですら、御前に進み出ることができませんでした。神に近づくことのできる唯一の方法は、年に一度、過ぎ越しの祭りという祭りの大贖罪日に小羊の血をもって進み出ることでした。大祭司はその血を携えて、至聖所という奥の部屋に置いてあった契約の箱の上にその血を注ぎかけたのです。その血の注ぎによって、神の怒りがなだめられるためです。その際に大祭司は、二つの物を身につけて至聖所に入って行っきました。一つは腰に結びつけたひもで、もう一つが服に下げた鈴です。なぜこのようなものを身につけたかというと、かつてそのようにして至聖所に入って行った祭司たちの中であまりにも聖い神の御前に出ることができず、死んでいった人たちがいたからです。聖い神様の御前に出ることは、まさに命がけだったのです。そこでもし鈴がならなかったら、「あっ、死んだな」とわかりました。それでも人が中に入って行くことができませんから、ひもをつかんで引っ張り出したのです。そのひもと鈴です。神に敵対した罪深い人間にとって、神様の御前に進み出るということは、それほどそれほど恐ろしいことだったのです。

しかし、このイエス・キリストの血潮によって、この神様との間に平和が与えられました。大胆に神様の御前に進み出ることができるようになったのです。ヘブル人への手紙10章19節には次のようにあります。

「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。」

イエス様が十字架で死んでくださったことによって、そのような恐れから解放され、大胆に御前に出ることができるようになったのです。そのことは、イエス様が十字架につけられた時、神殿の幕が真っ二つに裂けたという出来事によってもわかります。マタイ27章51節です。

「すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」

それまで神様と私たちとの間を隔てていた壁が完全に取り除かれたのです。このイエスの血によって、大胆にまことの聖所に入り、神様のみもとに行くことができるようになったのです。

パウロはこの事実を、2節のところで次のように言っています。「またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」「いま私たちの立っているこの恵み」とは何のことでしょうか。このことです。神様の御前に恐れなく、大胆に進み出ることができるようになったということ。それまではまったく恐れの対象でしかなかった神が、幼子が「おとうちゃん」と言って父親の胸元に飛び込んで行くように、大胆に近づくことができるようになったことです。この「導き入れられた」ということばは「プロサゴーゲー」というギリシャ語ですが、「近づく」という意味のことばです。「連れて行って紹介する」という意味もあります。罪のために、聖い神様との関係が断絶している私たちの手を取って、父なる神様のみもとに連れて行って紹介し、父なる神様に近づくことができるようにしてくだったという意味です。その方法というか、手段が、私たちのために十字架にかかって、罪を贖ってくださった救い主イエス・キリストを信じる信仰だったのです。

何という恵みでしょうか。私たちはイエス様によって、この恵みの中に導き入れられました。私たちが何かをしたから、できるから、ということではなく、何もできないにもかかわらず、ただ信じることによってその道を開いてくださったのです。それゆえに私たちは、今、イエス・キリストの御名によって大胆に神の御前に進み出て、祈ることができるようになったのです。

Ⅱ.患難さえも喜ぶ(3-5a)

第二のことは、そればかりではなく、患難さえも喜ぶことができるようになりました。3~5節をご覧ください。

「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。」

キリスト教信仰とほかの宗教、いわゆるご利益宗教と言われている新興宗教との大きな違いは、ここにあるのではないでしょうか。すなわち、一般的に言われている宗教では、患難、苦難を悪いものと見て、それから逃れる道だけを説きますが、キリスト教では必ずしもそうではないということです。キリスト教では、患難を必ずしも悪いものとして見てはいません。むしろ歓迎すべきものとして見ています。いや、ここでは患難そのものを喜んでいるとしるされてあります。なぜでしょうか。「それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」そして、この希望は失望に終わることがありません。失望に終わることのない希望とは何でしょうか?それは、やがて世の終わりの時にもたらされる天の御国のことです。イエス・キリストを信じる者には、この天国が約束されています。それは確実にもたらされるものなので、失望に終わることがないのです。

よくテレビやドキュメントレポートの中で会社のために自分の一生を捧げ尽くした人の姿が映し出されることがありますが、にもかかわらず晩年に会社に裏切られたとか、自らの歩みを振り返って虚しくなったと言われる方が少なくありません。そうだとしたら、それはなんと惨めなことかと思うのです。しかし、この希望は失望に終わることがありません。

そのような希望はいったいどのようにしてもたらされるのでしょうか。患難です。患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出していくのです。だから患難さえも喜ぶことができるのです。苦しみはできたら避けて通りたいものですが、しかし、そうした苦しみが精錬された金のように私たちを一回りも二回りも大きく成長させ、やがて天国へと導いてくれるのであれば、むしろそれは喜ぶべきものなのです。ですからヤコブは次のように言っているのです。

「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」(ヤコブ1:2-4)

信仰が試されると忍耐が生じます。その忍耐を完全に働かせることによって、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となることができるのです。 いわば練られた品性が生み出されるのです。もしいま、練られた品性を備えられた人を見ることが出来るなら、私たちは憧れと尊敬の眼差しで見ることでしょう。この「練られた品性」ということばは「試験済みの」という意味のことばです。、それは、テストに合格した状態の、円熟した性質、練達した人柄のことを指しています。ある人は鍛錬された名刀のようなものだとも言いました。その工程を見るならうなずけるに違いありません。火によって引き出され、真っ赤に熱せられた鉄は打ち付けられ、また火の中に入れられ熱せられ叩き延ばされます。何度も何度も繰り返すことによって、真の硬さと粘り強さが引き出されます。人が神によってそのように取り扱われるなら、円熟した品性が生み出されるのです。

聖書には、このような神の取り扱いを受けた多くの聖徒たちが登場していますが、そのひとりが創世記に登場しているヤコブでしょう。彼は生まれながらにずる賢い性格で、生まれた時にも双子の兄エサウのかかとをつかんで生まれたきたほどです。そしてその生涯も自らの利益のためには他者をだましてそれを奪い取るという醜いものでした。そんなヤコブを神様は何度も何度も取り扱われました。父と兄をだまし、家を去り、それ故に叔父のラバンの下に身を寄せましたが、今度はラバンからだまされます。そのような彼の前途には多くの苦しみが待ち受けていました。そうした人生の苦しみを通して彼は、神を求め、何度も何度も苦難を通らされることによって、霊的な鋭さと円熟した性格を持つに至ったのです。そこには練られた品性がありました。それがイスラエルです。彼はラバンのもとから帰る途中でヤボクの渡しというところを通ったとき、そこで一晩中神と格闘し、そのもものつがいを打って足を引きずらなくてはなりませんでしたが、そうした格闘を通して彼は、イスラエル、すなわち神こそ勝利であることを悟ったのです。  それは彼がラバンの下から出て行くときに見られます。難産の子を妻ラケルは「ベン・オニ」(私の苦しみの子)という名で呼びました。彼女が死に臨み、そのたましいが離れ去ろうとしていたからです。しかし、ヤコブは何と名付けたでしょうか。「ベニヤミン」です。「(私の)右手の子」という意味です。  苦しみのさなか、誰の目から見ても耐えがたい苦しみに面していると認められるときでも彼は希望を見出したのです。そのような人こそ、熟練された人です。最愛のラケルの死は、ヤコブにとって打ちのめされる出来事でしたが、その中でもヤコブはラケルの死にあって尚希望を見出したのです。そこには神に取り扱われた者の姿がありました。  このような姿を見るとき私たちは、「練られた品性が希望を生み出す」ということに対して、アーメンと言えるのではないでしょうか。

口に筆をくわえて詩と絵を描いておられる星野富弘さんは、中学の体育の教師として赴任したばかりの頃、鉄棒の実演中に頭から地面に落ちて首の骨を折り、首から下が全く動かなくなりましたが、その療養中にイエス様を信じました。その時の様子を、「いのちよりも大切なもの」という本の中で紹介しておられます。  元々、体力には自信があって、いつの間にか、体を動かすことによって何でもできると錯覚していたためか、怪我をして、まったく動けなくなり、気管切開をして、口もきけなくなった時、そういう日が、幾日も幾日も続いた時、自分の弱さと言うものを、しみじみと知らされました。鍛えたはずの根性と忍耐は、けがをして一週間くらいで、どこかに行ってしまいました。  そんなある日、星野さんの治療にあたっていた看護婦さんが悲しそうな顔をして星野さんにこう言いました。「星野さん、ちくしょうなんて、言わないでね。」 「えっ、俺、ちくしょうなんて、言いましたか?」「あら、今も言ったわよ。星野さん、よく言っているわよ。」  星野さんのことを、いつもとても心配してくれている看護婦さんだったので、それからは、自分の言葉に、少し気をつけてみることにしました。すると、どうでしょう。しょっちゅう「ちきしょう」と、言っている事に気づきました。「今日は天気がいいな、ちきしょう。」「ちきしょう、腹が減った。」「今朝は、いい気分だ、ちきしょう。」などと、朝から晩まで、自分でも気づかないうちに、「ちきしょう」を口走っていたのです。  幸せな人を見れば、憎らしくなり、大けがをして病室に担ぎ込まれて来る人がいれば、仲間が出来たような気がして、ホッとしたり、眠れない夜は、自分だけが起きているのがしゃくにさわって、お母さんを起こしたり・・。熱が出れば大騒ぎをして、自分の周りに、医者や看護婦さんがたくさん集まって来るのにさえ、優越感を感じるような、情けない自分と向き合わせの毎日だったのです。  その様な時にふと聖書を開いてみると、こんな言葉が目に入りました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、私のところに来なさい。私があなた方を休ませてあげます。私は心優しく、へりくだっているから、あなた方も私のくびきを負って、私から学びなさい。そうすれば魂に安らぎが来ます。私のくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11章28~30節)  生まれてから、怪我をするまで、どのくらい嬉しい事があったか。うれしくて、うれしくて仕方がない時、その喜びを、誰に感謝していただろうか。反対に、辛い事も沢山あっても、そのつらさや苦しみを、誰に打ち明けていたか。誰にも言えないでいたことがたくさんありました。そんな自分に「重荷を負ったそのままで、私のところに来なさい。」と言ってくださるイエス様が、何よりも、誰よりも、大きな存在であると思い、このイエス様を信じたのです。  それからというもの、星野さんの心が少しずつ変えられていきました。見方、考え方が180度変わりました。そして、神様のために詩と絵を描くようになったのです。「ことばの雫」という本の中で、星野さんは次のようなことを言っています。

「苦しむ者は、苦しみの中から真実を見つける目が養われ、動けない者には、動くものや変わりゆくものが良く見えるようになり、変わらない神の存在を信じるようになる。十字架に架けられたキリストは、動けない者の苦しみを知っておられるのだろう。」

まさに、練られた品性から生み出されたことばです。詩篇の作者は、「苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)と語りましたが、同じような心境に至ったのでしょう。これが福音の力です。人間の本当の強さとはこういうところにあるのではないでしょうか。ほかの人々が耐えられないことを耐え忍び、ほかの人々がしたくないことを静かに行える。患難さえも喜べる力、それこそ本当の力です。主イエスを信じる者には、このような力が与えられるのです。

Ⅲ.神の愛が注がれているから(5b-11)

第三のことは、その根拠です。どうしてこの希望は失望に終わることはないのでしょうか。なぜなら、「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」5節後半のところにそのようにしるされてあります。このことは、私たちが大きな患難に直面したとき、それに対してどのように自分の感情をコントロールしたらよいかということを、この箇所が教えているのではないということを示しています。最近では、このような心理学的なアプローチを、あたかも聖書の教えであるかのように語る人がいますが、それは福音ではありません。私たちが患難を喜ぶことができるのはそのように考え方の問題ではなく、聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているという事実に基づいているのです。聖霊によって神の愛が私たちの心に満たされるとき、平安と喜びと希望に満ち溢れ、どんな患難が襲って来ようとも、それさえも喜ぶことができるようになるのです。では、その神の愛とはどのようなものなのでしょうか。パウロはここで、その神の愛がどのようなものなのかということについて語っています。6~8節です。

「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

ここでパウロが語っている神の愛の大きさは、全く愛されるに値しない者に注がれたことによって明らかにされました。パウロはここで、全く愛されるに値とない者を表すことばとして、三つのことばを使っています。一つは「弱かったとき」ということばで、もう一つは「不敬虔な者」、そしてもう一つが「罪人」です。まず「弱かった」ということばですが、これは、力の欠如を表していることばです。つまり、霊的無能力であったということです。たとえば、パウロはエペソの人たちに、「あなたがたは、自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって・・」(エペソ2:1)と言っておりますが、そういう意味での弱さです。ですから、この「弱かったとき」というのは、からだが弱かったとか、意志が弱かったとか、立場が弱かったということではなく、人間として霊的本質的に欠陥があったということなのです。このような欠陥があると人間はどうなるかというと、いつでも外的なものでそれをごまかそうとします。たとえば地位とか権力といったもので自分を飾ろうとするのです。そうした弱さが私たちの中にはあるわけです。

もう一つの不敬虔な者というのは、神を敬う心が欠如している人たちのことです。人は神によって造られたとき、神のかたちに造られましたが、罪に陥ったことで、それを失ってしまいました。1章のところで見てきたように、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなりました。不敬虔な者とはそういうことです。    それから罪人ということばですが、これはもともと「的をはずした」人のことです。人は神がお造りになられた本来の姿からそれてしまい、してはならないことをするようになってしまいました。自分の思いのままに生きるようになったのです。これが罪人の姿です。

このような人間には、神の怒りが天から啓示されているということについては先に述べてきたとおりですが、ここではそのような人に対して、キリストが死んでくださったことによって、ご自分の愛を明らかにしてくださったというのです。神は罪を憎まれますが、同時に罪人を愛されるのです。そしてどんなに深く罪人を愛しておられるかということは、その尊いひとり子を犠牲にされたことによって、表してくださいました。「キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

人間は、正しい人を尊敬します。権力とか財力に屈しない正しい人を英雄視するのです。しかし、だからと言って、その人のために死んであげるという人などいません。けれども、私たちのために何かをしてくれた慈善家のためなら、死んでもいいという人も、中にはいないわけではありません。しかし、正しい人でもなく、まして慈善家でもない、むしろ神に敵対し、神の戒めを少しも聞こうとしない罪人のために、死んでくれる人などいるわけがありません。がしかし、いたのです。それが神の御子イエス・キリストでした。そしてこのキリストの愛は、絶対に変わることがありません。その変わることのない神の愛が、聖霊によっていま、私たちの心に注がれているのです。であれば、この希望が失望に終わるということがあるでしょうか。絶対にないのです。心はコロコロ変わるから「心」だと言った人がいますが、神の愛は人の心のようにコロコロ変わるようなものではありません。ですからパウロはこう言うのです。9~11節です。

「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」

ここで注目すべきことばは「なおさらのことです」ということばです。ここでは二回も繰り返して使われています。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことなのです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことなのです。聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。私たちはそれほどまでに愛されているのですから、私たちの希望は決して失望に終わることがないばかりか、この神を大いに喜ぶことができるのです。

私たちは時としてジレンマに陥ることがあります。「イエス様を信じてもちっとも変わらないじゃないか」「信仰によって救われたとは言っても、実際の生活の中にその力が全然見られないではないか」・・・と。しかし、実のところ私たちには、これほどの力が与えられているのです。信仰によって義と認められた私たちは神との平和をいただいているばかりか、患難さえも喜ぶことができるのです。聖霊によって、神の愛が、私たちの心に注がれているからです。この愛が私たちを生かすのです。

秋田の松山裕先生は、「あなたを生かすこの愛」という本を買いおられますが、まさにこの愛が私たちを生かすのです。そして、この愛こそこれから復興に向かうこの国にとって最も必要なものではないでしょうか。なぜなら、この希望こそ失望に終わることがないからです。この国がこの確かに希望によって、新しい一歩を歩んでいくことを願ってなりません。

ローマ人への手紙4章1~25節 「アブラハムの信仰」

きょうは、「アブラハムの信仰」についてご一緒に学んでいきたいと思います。これまでパウロは異邦人の罪とユダヤ人の罪を取り上げ、すべての人が神の前に罪を犯したので、神からの栄誉を受けることはできないと語ってきました。神様の御前ではだれも、何一つ誇れるものはありません。人は、救われるためにいろいろな方法を試してみたりしますが、こうした試みは、人間の罪を解決する上で何の助けにもならないのです。人間の力では決して神様のみもとに行くことはできないからです。従って人間に残されているものは絶望と落胆しかありません。しかしあわれみ豊かな神様は、そんな人間が救われるために一つの道を用意してくださいました。それがイエス・キリストです。3章21節には、「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました」と語られました。神様は、イエス・キリストの十字架を信じることによって義としてくださると約束してくださったのです。  このように信仰によって義と認められることを、「信仰義認」(Justification by faith)と言います。つまり、信仰によって義とされ、救われたと見なされる、という意味です。しかし、人々はこのことを理解できないと言って、なかなか信じようとしません。救いがただで与えられるということがピンとこないのです。「ただ」ということに慣れていないからです。私たち日本人にとっては特にそうでしょう。「ただほど怖いものはない」というように、「ただ」で受けることに抵抗感を持っています。ですから「お返し」という習慣があるのです。何か自分の体を動かして、一生懸命に努力して受け取ることで、安心します。それが人間の本性なのです。

しかし、聖書では、ただ神の恵みにより、信仰によってのみ救われると教えられています。その一つの例がアブラハムです。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(3:23~24)とパウロが語ると、ユダヤ人のある人たちから、「そんなことはない。アブラハムは行いによって義と認められたではないか」という疑問が起こりました。そこでパウロはこのアブラハムの例を取り上げながら、救いはただ一つ、イエス・キリストを信じる信仰によってのみ与えられるということを論証するのです。

きょうはこのことについて三つのことをお話したいと思います。まず第一のことは、アブラハムが義と認められたのは彼が神を信じたからであって、割礼やその他何らかの行いをしたからではありません。第二のことは、ではそのアブラハムの信仰とはどのような信仰だったのでしょうか。それは死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる神を信じる信仰、あるいは、望み得ないときに望みを抱いて信じる信仰でした。第三のことは、その信仰とは主イエス・キリストを信じる信仰であったということです。

Ⅰ.神を信じたアブラハム(1-16)

まず第一に、アブラハムが義と認められたのは神を信じたからであって、何らかの行いをしたからではないということについてみていきたいと思います。1~16節までのところに注目したいと思いますが、まず1~3節までのところをご覧ください。

「それでは、肉による私たちの父祖アブラハムの場合は、どうでしょうか。もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」

ここでパウロは、自分たちの先祖アブラハムはどうだったのかについて取り上そのています。なぜなら、アブラハムこそ自分たちの民族の源だと考えていたからです。そのアブラハムが義と認められたのはいつのことだったのか?彼が神の命令を行ったときなのか、それとも神をただ信じたときだったのか?もしアブラハムが行いによって義と認められたのであれば誇ることもできますが、実はそうではありませんでした。なぜなら、聖書には、「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあるからです。これは創世記15章6節のみことばです。アブラハムは約束の地カナンに入って15年が経っており、だいたい90歳になっていましたが、彼にはこどもがありませんでした。「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(12:3)と約束されたのに、まだこともが与えられていなかったのです。妻のサラも80歳を越えていました。一体あの約束は何だったのでしょうか。そんなことを考えながら絶望の淵にいたアブラハムに、ある夜、主が臨まれました。神様は彼を外に連れ出してこのように言われたのです。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになる。」(創世記15:5)人間的にはどう考えても実現しがたい約束でした。にもかかわらず、アブラハムはこのことばを信じました。そして、主はそれを彼の義と認めててくださったのです。つまり、アブラハムの信仰が神様の心を動かし、その信仰のゆえに彼は義と認められたのです。

ユダヤ人たちは、救いは信仰によって得られるということを聞いたときにひどく反発しました。なぜなら、アブラハムは行いによって義と認められたと思っていたからです。割礼を受けなさいと命じられたときに割礼を受け、モリヤの山でイサクをささげなさいと言われたときにも、本気で彼をほふろうとした。彼はそのように行ったからこそ救われたのであって、厳しい従順の行為こそが義と認められる根拠であると信じていたのです。そんな彼らに対してパウロは、ここで、「誤解しなさんな」と言っています。聖書の順序をよく見なさいと言うのです。彼らが割礼を受けた時やモリヤの山でイサクをささげようとしたのはいつだったのか?それは創世記17章と22章にしるされてある出来事です。つまり、アブラハムが神を信じて義と認められたという出来事の後で起こったことなのです。まず信仰によって義とされてから、その検証として割礼を受けたり、イサクをささげたのです。ですからアブラハムは行いによって救われたのではなく、信仰によって救われたということになるのです。その結果、信仰の行為が生まれたのです。この順序が大切です。旧約聖書でも新約聖書でも、救いの原理はただ一つです。それは信仰によって救われるということなのです。

それはダビデを例にとっても言えることです。6~8節をご覧ください。ここには、「ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」とあります。ダビデ王とは旧約聖書を代表する人物で、救い主は彼の子孫から生まれると預言されていた重要な人物です。いわば旧約聖書のキーマンとも言える人物なのです。そのダビデが罪が赦される者の幸いについて、このように告白したのでした。これはバテシェバとの罪のことで苦悩していたダビデが、神の御前には隠すことができるものなど何一つないことを知り、その罪を告白した時に体験したことです。彼の罪が赦されたのは、彼が何か善行を積んだり、償いをしたからではなく、神の御前に自分の罪を認め、告白したことによってでした。その時神がその罪を赦し、義と認めてくださいました。ただ悔い改めて、神の恵みに信頼しただけです。つまり、ダビデもまた信仰によって義と認められたのです。

ということはどういうことなのでしょうか。結論は16節です。「そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。」

そういうわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に保証されるためなのです。

新聖歌233番の曲は、「おどろくばかりの」という賛美歌です。英語では、「Amazing Grace」です。「Amazing」とは「あっとおどろくばかりの」という意味です。これを書いたジョン・ニュートンは、かつて奴隷船の船長でした。アフリカから英国に奴隷を運んでいました。人間のくずのような仕事です。しかしその船で帰る途上大嵐に会い、いのちからがら助け出されたとき、そこに神の不思議な御手を感じました。イギリスに戻ってから教会に行くようになり、自分の罪の大きさとその罪をも赦してくださる神の恵みに触れたとき彼は、「Amazing Grace!」と叫んだのです。こんな者でも赦してくださる神の恵みを体験したのです。私たちが救われるのは、私たちの中に何か少しでも徳があるからではありません。そういうものとは全く関係なく、ただ神の恵みにより、キリスト・イエスを信じる信仰によってのみ義と認められるのです。

人間にはじっと我慢していることができないという性質があります。ですから、何かをしてこそ、あるいは何かをがんばってこそ、安心するのです。たとえば、ここに重病の患者さんがいたとします。この方に医者が、「あなたは何もする必要はありませんよ。ただじっとしていたらいいんです。じっとしていたら治ります」とでも言うものなら、この患者さんはひどく落胆するのではないでしょうか。「ああ死ぬ時が来たんだ。だから医者はそんなことを言うんだ。もう望みはないんだ」と。その結果、病状がかえってひどくなってしまうこともあるのです。ところが治らない病気でも、消化剤を与えられ、「これで全快しますよ」と言われると、一生懸命飲んで治ろうとします。不思議なことに、治らないと思われていた病気が、それで治ってしまうということさえあるのです。それが人間の姿なのではないでしょうか。人はやさしい道を拒み、難しい道を行こうとする傾向があるのです。ですから、到底ついて行けないことを要求する宗教に、多くの人々が列をなして入って行くのです。

しかし、本当の宗教は「ただ」なんです。ただ、信じれば救われるのです。それはこの救いが神様からの一方的な恵みによるためであり、すべての人が受けることができるためなのです。昔、イスラエルが荒野で不平不満を言ったとき、それを怒られた神は蛇を送られたので、多くの人たちが蛇にかまれて死にました。そのとき神様はどうされたでしょうか。高価な薬を飲まないと救われないと言ったでしょうか?お百度参りをしたら治してやろうと言われたでしょうか?いいえ、ただ青銅の蛇を一つ造り、それを仰ぎ見なさいと言われました。そうしたら救われる・・・と。仰ぎ見ることが骨の折れることでしょうか。いいえ、簡単なことです。だれにでもできます。そして、信仰をもって仰ぎ見たすべての人が、救われました。これが信仰なのです。この信仰によって人は義と認められるのであって、自分の努力や行いによるのではありません。そのようなものによっては、私たちは神の御前に正しいとは見なされないのです。ただ神を信じること、それ以外に道はないのです。

Ⅱ.アブラハムの信仰(17-22)

では、そのアブラハムの信仰とはどのようなものだったのでしょうか。17~22節までをご覧ください。

「このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」といわれていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱まりませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」

ここにアブラハムの信仰がよく説明されていると思います。ここには、彼の信じた神は、死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方、としるされてあります。そう、アブラハムは、神はどんなことでもおできになられる全能の方であると信じていたのです。

私たちの信仰は、その人がどんな神様を信じているかで左右されます。死んだ神様を信じている人は、その信仰も死んだものであり、生きておられる神様を信じている人は、その人の中に生きておられる神様のみわざがどんどん現れてきます。皆さんは自分が信じている神様が全能者であると信じていますか?今も生きておられ、できないことは何一つない方であると信じていますか。もしそうならば、何も落ち込む必要はありません。神様がともにいてくださるなら、すべてのことが可能となるからです。宗教改革者のマルチン・ルターは「神様を神様たらしめよ」と言いました。私たちが犯しがちな罪の中でも最も大きな罪は、神を小さくしてしまうことです。神様を自分の考えに閉じこめてしまい、小さなことだけを行われる方として制限してしまい、その全能のお力を認めないのです。

私たちはしばしばこのような錯覚に陥ってしまうことがあります。「神様にも難しいことはあるだろう」本当にそうでしょうか。神様にも難しいことがあるでしょうか。たとえば、神様にとって、風邪を治すことはできても、がんを治すことは難しいことなのでしょうか。いいえ。神様にとっては、風邪を治すこともがんを治すことも朝飯前のことです。簡単なことなのです。私たちの目では、風邪がいやされることよりも、がんがいやされることの方がはるかに難しいように見えますが、神様にとってはどちらも簡単なことなのです。イエス様が死人を生き返らせた時には相当長く祈られたのではないかと思いがちですが、実際はそうではありませんでした。イエス様は簡単に死人を生き返らせました。イエス様にとって死人を生き返らせることなど簡単なことだったのです。なぜなら、イエス様はこの世のすべてのものを造られた創造主だからです。目に見えるものも、見えないものも、王座も主権も支配も権威も、すべてイエス様によって造られ、イエス様のために造られたのです。(コロサイ1:16)ですから、イエス様にとってできないことは何もありません。

であれば私たちは、神様にはできないことはないと信じて、いつでも大胆に主に頼って進み出ることが必要です。私たちの周りに、どんなにかたくなな人がいたとしても、全能の神様を信じて進み出るとき、神様はその魂を救ってくださると信じることが大切です。18節を見ると、アブラハムは「望み得ないときに望みを抱いて信じた」とあります。彼はおよそ100歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があると堅く信じたのです。

ルカの福音書5章には、夜通し漁をしても全く魚が捕れなかったペテロに対して、イエス様が「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」(5:4)と言われたことが出ています。このイエス様のおことばは、人間の理屈には合わないことでした。第一に、そのときは網を投じる時間帯ではありませんでした。第二に、網をおろす場所が間違っています。魚は普通、プランクトンがたくさんいる浅瀬にいるのであって、深みに網をおろしてはいけないのす。第三に、このときはもう漁が終わり、網を片付けているときでした。そんな時にもう一度舟を出すことが、どんなに面倒くさいことだったかわかりません。第四に、ペテロはイエス様に指示される立場ではありませんでした。彼は漁師でした。漁のプロで、魚を捕る専門家でした。なぜに大工であったイエス様に「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚を捕りなさい」と言われなければならないのでしょうか。大工が漁師に漁について指図するというのは見当違いに思われました。しかし、ペテロは「でもおことばですから、網をおろしてみましょう」と答えました。するとどうでしょうか。網が破れそうになるほどの魚が捕れたのです。

これが信仰です。信仰とは、望んでいることがらを保証し、目に見えないものを確信するものです。(ヘブル11:1)神様が言われたことは必ずなると信じることなのです。アブラハムは信じました。神には約束されたことを成就する力があると堅く信じたのです。それが自分の感情や理屈に合わなくてもです。100歳にもなって、自分のからだはもう死んだも同然であり、サラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。この「死んだも同然」ということばは現在完了形で現されていて、「すでに死んだ」という意味です。つまりもう死んでいて、その体には生産能力はありませんでしたが、それでも、その信仰は弱まらなかったのです。この信仰が重要です。「神様のみことばを聞いていると心は熱くなるけれども、周りを見たらもう大変で、何にもならない。すべて夢のようだ」と落胆する時がありますが、アブラハムはそのような絶望的な状態を見ても、その信仰は弱まるどころか、反対にますます強くなって、神には約束されたことを成就する地ががあると堅く信じたのです。

ロサンゼルスに、有名なおばあさんがいました。このおばあさんは道を歩くとき、いつもぶづふつ言いながら歩きました。不思議に思った人が尋ねました。「おばあさん。あなたはどうしてそういうふうにぶつぶつ言いながら歩いているんですか?」するとそのおばあんが、こう答えたそうです。「あたしゃもう年をとって、神様のお仕事をすることはできないし、子孫のためにできることもないのよ。でもヨシュア記1章3節に、「あなたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている」ってあるから、そのまま信じて従っているの」。不思議なことに、この方が足で踏んで歩いた所には、ユダヤ人の店が立ち並び、ユダヤ人たちが不動産を取得しているそうです。

「そのまま信じて従うこと」です。自分の理屈や常識に合わなくても従うことが求められているのです。なぜなら、神様の前では、理屈や常識は無用だからです。神様が用いられるのに難しい人というのは、常識を主張する人です。「それは常識的に可能でしょうか」といつも聞く人です。また何かをしようとすると、自分の経験ばかり言う人もいます。「やったこともないのにどうしようと言うのですか」と。しかし神様は、経験のあることを私たちにしろと言っておられるのではありません。全くやったことのないことや、まだ未知の領域のことでも信仰を持って出て行き、開拓するようにと呼んでおられるのではないでしょうか。パスカルは言いました。「信仰とは理性を十字架につけることだ」と。汚染されるだけ汚染されてしまった理性を十字架に付けて、みことばどおりに信じ、従う人にならなければなりません。アブラハムはまさに、そのような信仰を持っていたのです。

Ⅲ.イエス・キリストを信じる信仰(23-25)

そして第三のことは、このアブラハムの信仰とは、イエス・キリストを信じる信仰であったということです。23~25節をご覧ください。

「しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、 また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」

アブラハムの信仰とは、神は約束されたことを成就する力があると堅く信じる信仰でしたが、それは同時に、イエス・キリストを信じる信仰でもありました。というのはここに、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、私たちのためでもあったとあるからです。どういうことかいうと、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちもまた、その信仰によって救われるということです。つまり、アブラハムが信じた神とは、死人を生かし、無から有をお造りになることのできる方、すなわち、復活の主であったということです。キリストの十字架と復活を信じる信仰こそ、私たちの罪が赦され、神に義と認められるために必要な唯一の信仰であるという意味です。ですからパウロはコリント人への手紙の中で、これが私たちが救われるべき福音であると、次のように言ったのです。

「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。」(Ⅰコリント15:1~5)

私たちが救われるべき福音のことばとは、十字架と復活のことばです。キリストの十字架と復活なしに、私たちの救いはあり得ません。この福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのであって、それ以外に道はないのです。キリストの十字架と復活こそ、私たちが救われるべき方法として、神が示してくださった道なのです。なぜなら、キリストが十字架で死なれたのは、私たちの罪の身代わりのためであり、キリストが復活されたのは、この十字架上で成し遂げられた御業を、父なる神様が完全に受け入れられたということの宣言にほかならないからです。アブラハムはこの信仰を持っていたのです。

一昨日、東日本を中心に大地震が起こりました。私は那須で行われていた聖書入門講座から帰り自宅にいましたが、激しい揺れに世の終わりが来たかと思ったほどです。後でテレビの報道で特に福島、宮城、岩手沿岸に大津波が襲いかかり、多くの方々が犠牲になられたことを知って、本当に悲しみで胸が痛みました。涙が出ました。そして、この福音を知らずして亡くなられた方々のことを思うと、心が痛みます。何とかしてこの福音を宣べ伝えなければならないと思いました。そのためにも私たちは、この福音のことばをしっかり保っていなければなりません。この国の人々が福音を信じて救われますように。この国の回復と復興が、福音を信じる信仰によって、神の恵みと全能の力によって為されていきますように。心からお祈り致します。

 

ローマ人への手紙3章9~31節 「救いの道」

きょうは「救いの道」についてお話したいと思います。私たち人間にとっての永遠の命題の一つは、「人間はいかにしたら救われるか」ということではないでしょうか。もちろん、この場合の救いとは貧乏からの解放とか病気の治癒、人間関係をはじめとしたさまざまな問題の解決といったことではなく、それらの問題の根本的な問題である罪からの救いのことです。人類最初の人間であったアダムが罪を犯して以来、人類はその罪の下に置かれ、罪の力に支配されるようになってしまいました。これは奴隷をつなぐ鎖のように強力なので、この鎖から解き放たれることは並大抵ではありません。いったいどうしたらこの罪の力から解放されることができるのでしょうか。

きょうはこのことについて三つのポイントでお話したいと思います。まず第一のことは、すべての人は罪人であるということです。義人はいない。ひとりもいません。すべての人が迷い出て、みな、無益な者となってしまいました。第二のことは、では救いはどこにあるのでしょうか。イエス・キリストです。ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。ですから第三のことは、このイエス・キリストを信じ、十字架だけを誇りとして歩みましょうということです。

Ⅰ.すべての人は罪人(9-20)

まず第一に、すべての人は罪人であるということについて見ていきましょう。9~20節までに注目してください。まず9節をお読みします。

「では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちの前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。」    1節からのところでパウロは、ユダヤ人のすぐれたところについて語ってきました。ユダヤ人のすぐれたところは、彼らには神のことばが与えられていたということです。そこでパウロは、そうした優越性というものを一応認めたものの、それは彼らが何をしても構わないということではないと釘を打ったところで、ではどういうことなのかをここで述べます。それは、ユダヤ人もまた罪人であるということです。

パウロはここで、1章18節から異邦人の罪について、そして2章からはユダヤ人の罪を取り上げ、ここでその結論を語っているのです。すなわち、すべての人が罪人であるということです。ひとりとして例外はありません。この地上に生きた人で、この罪の下になかったのはひとりもいないのです。ただ神のひとり子であられ、聖霊によってお生まれになられたイエス・キリストだけは違います。キリストは聖霊の力によって生まれた「いと高き方の子」(ルカ1:35)であられたので、全く罪を持っていませんでした。しかし、キリスト以外のすべての人は、別です。異邦人であれ、ユダヤ人であれ、みな罪の下にあるのです。パウロはそのことを旧約聖書のことばを引用して裏付けています。10~18節です。

「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。」

本当にそうではないでしょうか。人が口を開けば毒のようなことを言って殺します。それはまさに開いた墓です。また、偽りや欺き、のろいや苦々しさで満ちています。他人が血を流して倒れているのを見ても悲しむどころか、むしろそれを見て喜んでいたりしているのです。これが人間の姿です。どうして人はこんなひどいことを言ったり、やったりするのでしょうか。罪を持っているからです。人は罪を犯したから罪人になるのではなく、罪人だから罪を犯してしまうのです。ダビデはこのように告白しました。

「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」(詩篇51:5)

ダビデは、自分が母の胎にいた時から罪人だったと言っています。母の胎にいた時から罪を持っていて、罪人として生まれてきたので、罪ある人生を送るようになったのだ・・・と。私たちはよく人の悪を見ては、「なぜあの人はあんなことをしたのだろう」とか、「この」人は本当にひどい人だ」と言いますが、それは日常的なことであり、だれにでも起こり得ることなのです。なぜなら、「義人はいない。ひとりもいない」からです。

よく教会に行くとすぐ「罪」「罪」って罪のことばかり言われるから行きたくないのと言われる方がおられますが、そのような方は「罪」ということばから犯罪を連想し、罪人イコール犯罪人のこどてあり、自分はそんなにひどい人間だと思っていないからなのです。しかし、この世の法律を破った人が犯罪人であるならば、神の法律を破ってしまった人間は、この世の犯罪人以下であるはずがないのです。私たちはみな罪人なのです。

「罪」ということばはギリシャ語で「ハマルティア」と言いますが、それは的外れを意味します。神によって造られた人間は、神をあがめ、神の栄光のために生きるはずなのに、その神から離れ自分勝手に生きるようになってしまいました。これが罪なのです。ですから、すべての人が罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができなくなってしまったと聖書は言うのです。聖書の言う救いとはこの罪からの救いあって、単なる前向きで、肯定的な生き方のことではないのです。この罪から解放されることによってもたらされる喜びと心の平安のことなのです。

Ⅱ.イエス・キリストを信じる信仰による神の義(21-26)

ではどうしたらいいのでしょうか。罪ある者として生まれてきた私たちには、何の希望もないのでしょうか。いいえ、まだ希望があります。それがイエス・キリストです。律法によっては、だれひとり神の前に義と認められることのない私たちに、律法とは別の、いや、律法が本当の意味であかししていた神の義が示されたのです。21~24節をご覧ください。

「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」

ここには「律法とは別に」とありますから、これが旧約聖書に書かれてあったこととは別の義(救い)であるかのように錯覚しがちですが、そういうことではありません。ですからその後のところに、「しかも律法と預言者によってあかしされて」とあるのです。これは旧約聖書の時代から律法と預言者によってずっとあかしされていた救いなのです。それが「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」です。えっ、旧約聖書の時代にはまだイエス・キリストが登場していないのに、その旧約聖書であかしされていたとはどういうことなのでしょうか。預言です。預言という形であかしされていたのです。その時代にはまだキリストは誕生していませんでしたが、キリストを信じる信仰によって救われるということが預言という形でちゃんと示されていたのです。

たとえば、創世記3章15節などはその一つです。ここには、「わたしは、おまえと女との間に、また、お前の子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、お前の頭を砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」ということばがありますが、これは人類最初の人であったアダムを誘惑して堕落させた蛇であるサタンに神様が語られたことばです。ここで神は蛇であるサタンに、その勢力が地を這って歩くようになり、やがて蛇の頭、すなわち、サタンを粉々に打ち砕いて勝利すると宣言されました。これはイエス様が十字架で死なれ、三日目によみがえられたことによって成就しました。これはイエス・キリストの十字架と復活の型だったのです。

また、出エジプト記12章を見ると、ここにはイスラエルがエジプトから脱出した時の様子がしるされてありますが、その時神はイスラエルに不思議なことを命じました。12章5~7節です。一歳の雄の小羊をほふり、その血を取って、イスラエルの家々の二本の門柱とかもいに塗るようにというのです。いったい何のためでしょうか。しるしのためです。それは主への過越のいけにえでした。神がそのしるしを見て、滅びのわざわいを過ぎ越すためです。それは、やがて十字架に付けられて死なれたキリストを指し示すものでした。神のさばきは小羊の血を塗った家を過ぎ越していったように、イエス様の血を信じた者の上を過ぎ越されるという預言だったのです。

このように旧約聖書の時代にはまだキリストは生まれていませんでしたが、預言という形であかしされていたのです。このような預言は少なくとも350カ所、間接的な預言も含めると450カ所にも上ると言われています。A.D.400年頃のの有名な神学者と哲学者であったアウグスチヌス(Aurelius Augustinus)、「旧約は新約の中に現され、新約は旧約の中に隠されている」と言いましたが、まさにそのとおりです。旧約と新約は全然別々のものではなく、相互に結びついているものなのです。イエス・キリストを信じる信仰による神の義は律法とは別のものですが、律法と預言者によってあかしされていたものだったのです。ですから23~24節にあるように、

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」

皆さん、イエス・キリストの血潮の力がなければ、罪を断ち切ることはできません。自分の意志や力では到底断ち切ることはできないのです。人間は罪を犯して以来、罪の奴隷として生きるようになり、罪の報酬である死を味わい、滅びるしかない存在となってしまったのです。それが私たち人間の姿であり、そこには絶望以外のなにものもないのです。それを認めなければなりません。しかし、この罪の力を打ち砕き、全く望みのない人間をその絶望と暗闇から救い出してくださる唯一の道が示されました。それがイエス・キリストを信じる信仰による救いです。罪のために全く無力になってしまった人間には何の為す術もありませんでしたが、そんな人間をあわれんで、神の方から一方的にその道を示してくださったのです。どんなに強い意志も、どんなに高尚な道徳も、鋼鉄のような律法をもってしても防げなかった罪の力が、イエス・キリストが十字架に釘付けされたことによって粉々に砕かれたのです。これが私たちが救われる唯一の道なのです。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒4:12)

「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

先日、テレビでおもしろい番組がありました。『たけしのIQ200~世界の天才が日本を救う~』!!という番組です。そこでは実質的に破綻しそうな国家予算から、外交問題、少子化、若者の就職難などの山積している現代の日本の問題を、「世界中の頭のいい人々」に解決してもらおうというもので、 今回、”世界の頭脳”の代表として登場したのが、「ハーバード白熱教室」で話題のマイケル・サンデル教授でした。そのスタジオで、ビートたけしはじめ、日本の芸能人・文化人を相手に初の授業が行われたのですが、その内容は今問題となっている相撲の八百長問題から始まり、北朝鮮の拉致問題など、多岐に渡りました。「大相撲の八百長」は悪いことなのかという問いに対して、初めは悪いと思っていた17人のゲストが少しずつ変わり、必ずしもそうとは言えないというふうに変わっていくのです。いろいろな視点から考えるということは大切だなぁと思いましたが、サンデル教授が最後に言ったことばがとても印象的でした。サンデル教授は最後にこう言って講義を締めくくったのです。「これが哲学だ。哲学には答えがないのだ。それを考えるのが大切なのだ」と。

なるほど、考えることは大切なのです。しかし、そこには答えがありません。それが哲学なのです。どんなにIQが200以上あっても、罪によって山積されたこの世の問題を解決することはできないのです。しかし、イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と言われました。ここに答えがあるのです。私たちの人類の問題の根本であるところの罪の赦しは、神の恵みによって私たちに賜ったイエス・キリストにあるのです。

Ⅲ.十字架を誇りとして(27-31)

ですから、結論は何かというと、このイエス・キリストを、十字架だけを誇りとしましょうということです。27節と28節をご覧ください。

「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」

それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。どこにもありません。なぜなら、私たちが義と認められるのは、律法の行いによってではなく、信仰によってだからです。私たちはだれひとりとして、自分の善行や性格の良さ、頭の良さ、家柄や身分、社会的地位や財産の多さによって救われるのではありません。あるいは、難行苦行をしたり、あわれみ深い行いをしたから救われるのでもないのです。そのような行いの原理はすでに取り除かれました。では何があるのでしょうか。信仰の原理です。ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められる。これが信仰の原理です。私たちが救われるためには、神の賜物であるイエス・キリストを信じる以外に道はないのです。私たちの救いも、すべての仕事も、今置かれている境遇も、これまで成し遂げてきた業も、すべてが神の恵みであって、私たちが誇れるものなど何一つないのです。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:8~9)

であれば私たちはが誇りとするものは、イエス・キリストの十字架以外にはありません。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追求します。ローマ人はその帝国の民であることを誇るでしょう。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを誇ります。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、ユダヤ人であっても、ギリシャ人であっても、キリストは神の力、神の知恵なのです。十字架だけを誇り、十字架だけに頼り、十字架だけに生かされていく信仰、それが私たちの信仰なのです。それはちょうど光と影のようです。私たちが光から遠くなればなるほど影はだんだん大きくなり、逆に光に近づけば近づくほど、影は小さくなるように、キリストから遠く離れれば離れるほど、自分の誇りが大きくなり、光に近づけば近づくほど、自分の誇りはなくなっていくのです。

臨終を目の前にした人を見ると、私たちは皆恐れます。死とはそれほど恐ろしいものなのです。そのため私たちは、臨終を迎えようとする人に、心が安らかであるようにと話かけます。「あなたのように多くの仕事をした人はいません」「あなたは立派な方です」「どれほど多くの方があなたを称えるでしょう」そう言って慰めようとするのですが、そのようなことばが本当にその人を安心させることができるでしょうか。私はできないと思うのです。その人が何を、どれだけやったのかということは、その人の平安のよりどころにはならないからです。その人が本当に安らかになれるのは、神によって罪の赦しをいただいているという確信を持てる時ではないでしょうか。ですから、もし私がだれかの臨終に立ち会うことが許されるとしたら、こう言ってお慰めしたいと思っています。

「兄弟姉妹、イエス様があなたのために死なれました。そしてあなたのすべての罪は赦されました。今は主の懐の内に安らかに抱かれてください。」

イエス様だけが救いです。すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。「地の果てすべての人よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」(イザヤ45:22)ただ神を仰ぎ、キリストの十字架を誇りとして歩む者でありたいと思います。

ローマ人への手紙3章1~8節 「神は真実な方です」

きょうは「神は真実な方です」というタイトルでお話したいと思います。これまでパウロは異邦人の罪とユダヤ人の罪について語ってきました。神を知っていながらも、その神を神としてあがめないばかりか、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、無知な心が暗くなった結果、してはならないことをするようになってしまった異邦人に対して、そんな異邦人をさばきながらもそれと同じようなことをしていたユダヤ人たち。彼らは自分たちが神によって特別に選ばれた者であるという誇りから形式的な律法に仕えていましたが、そんなユダヤ人たちに対してパウロは、外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではなく、かえって人目に隠れたユダヤ人こそ本当のユダヤ人であり、御霊による、心の割礼こそが割礼なのだと、バッサリと斬り捨てるのでした。このようにしてパウロは、異邦人もユダヤ人もみんな罪人なのだと論じていくわけですが、その前に彼は、ではユダヤ人のすぐれたところは何なのかという価値に関する疑問を取り上げながら、神がいかに真実な方であるかを語るのです。  きょうは、この神の真実について三つのことをお話したいと思います。第一のことは、ユダヤ人のすぐれたところについてです。第二のことは、そのようなユダヤ人の不真実に対する神の真実についてです。第三のことは、であれば、私たちは神の真実に答えて歩んでまいりましょうということです。

Ⅰ.ユダヤ人のすぐれたところ(1-2)

まず第一に、では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何かということについて見ていきたいと思います。1~2節をご覧ください。

「では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか。それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。」

パウロは2章のところで、ユダヤ人も異邦人同様に罪を犯していると述べ、ユダヤ人の場合は律法を知りながらそれを破っているのだから、律法を知らずに罪を犯している異邦人よりももっと悪いと言うと、ではユダヤ人のすぐれたところは何なのか、すなわちユダヤ人の優越性についての疑問が生じてきます。ここではその疑問について答えているのです。このように自問自答する話法をディアトリベーというそうですが、ユダヤ教の教理問答ではよく行われていたようです。

これに対してパウロは何と答えているかというと、「大いにあります」と答えています。どういう点で?それは、彼らには神のことばがゆだねられているという点においてです。これはシナイ山で神がイスラエルに十戒を与えた出来事を表しています。申命記4章12節を見ると、「主は火の中から、あなたがたに語られた。」とあります。神ご自身がイスラエルに語られたのです。このような民は他にはありません。これは、イスラエルにとって何よりも大きな特権でした。彼らには約束の地カナンが与えられましたし、またソロモンの時代には世界で最も栄え、数々の建物を造ましたが、彼らにとって最もすばらしい特権と祝福は何だったかというと、この神のことばがゆだねられていたことです。これは他のどの祝福にも優ったすばらしい賜物です。ですからここには「第一に・・・」と言われていながら、第二がないのです。「第一に・・・」しかありません。これが最高の祝福だからです。この特権は、他の国にはゆだねられませんでした。他の国々はイスラエルを通してみことばを聞かなければならなかったのです。そういう意味でイスラエルは、神と人とを橋渡しする祭司の特権が与えられていたのでした。どうしてこれが特権なのかというと、祭司だけが神に近づくことが許されていたからです。神はその祭司であるイスラエルにご自身のことばを与えてくださったのです。彼らにはバビロンやペルシャのような大帝国になったり、ローマのような強力な軍隊を持つような力はありませんでしたが、そのようなものよりもはるかに力がある神のことばが与えられていたのです。

イスラエルの長い歴史の中で、彼らの祝福を一言でまとめることができるとしたら、それはこの神のことばを受けた国であるということに尽きるのです。永遠のまことの神を知ること以上に大いなる祝福はないのですから、イスラエルほど祝福された国民はないのです。神ご自身に関する知識は他のいかなる真理よりも明るく輝くのであれば、イスラエルはギリシャの哲学やローマの法学、中国の政治の知恵よりもはるかに優って富んだ宝を所有していたと言えるのです。端的に言うならば、イスラエルは全ての国々の上に高く上げられた民族なのです。これほど偉大な特権と祝福をいただいている民は他にはいません。

そして、実は私たちにもその神のことばが与えられているのです。この聖書です。「聖書はすべて神の霊感によるもので、・・・」(Ⅱテモテ3:16)とあるように、聖書は神のことばなのです。その神のことばが与えられているのです。今から150年前、200年前はそうではありませんでした。いや、その頃にも確かにありましたがまだ日本語に訳されていなかったので、ラテン語とか、英語で読まなければなりませんでした。今の日本語の翻訳にはまだまだ足りない点や問題点もありますが、それでもラテン語やギリシャ語で読むよりはずっとわかりやすいはずです。皆が自由にみことばを読めるということは、本当に大きな祝福なのです。

1450年頃までにはヨーロッパにも印刷機がありませんでしたので、書物はどれもみな大変貴重なものでした。教会には聖書がありましたが、信者はそれを自由に持つことはできませんでした。博物館にある聖書を見たことのある人もおられると思いますが当時の聖書は非常に大きな書物で、すべて手書きで書かれてあり、それに鎖までかけられていました。盗まれないようにするためです。教会に来て何を盗むかって?昔は聖書でした。今では「どうぞ聖書を読んでください」とただで配っても、「い~らない」なんて言って、ゴミ箱に捨てる人もいますが、昔では考えられないことでした。盗まれないように鎖をかけて、宝のように大切に保管しておいたのです。それでクリスチャンはいつ聖書が読めたかというと、普通は日曜日の礼拝でしか聞けなかったのです。ですから、礼拝では牧師はみことばを長く朗読しました。今でも昔の伝統を守っている教会に行きますと、毎週旧約聖書と新約聖書の読む箇所が決まっていて、牧師がそれを拝読するのです。教会員には聖書がなく、他の時には聞く機会がなかったので、日曜日にみことばそのものをたくさん読んであげなければならなかったのです。そのようにして、信者たちはみことばを聞くことができたのです。それほど貴重でした。ですから、昔の教会ではみことばが朗読される時には会衆は全員立って聞いていたそうです。礼拝は2~3時間続けられましたが、彼らは礼拝のために教会に入った時から終わって出て行く時まで、ずっと立ちっぱなしで礼拝したのです。座る場所はありませんでした。石材で作った建物なので冬はかなり冷える会堂でしたが、ずっと立ったままで礼拝を守ったのです。それほどにみことばを慕い求めていたのです。みことばが少ない時代、信者たちのみことばを求める心は非常に強かったと言えると思います。

私たちは、いつでも聖書を読むことができます。家には何冊も聖書があるでしょう。一冊しかないというのではなく何冊も、しかも日本語だけでなく英語や他の訳のものもあるでしょう。そうした恵まれた時代に生かされているのです。であれば私たちは、このような恵みに感謝して、これをむさぼり読みながら、神のみこころを求め、神に聞き従う者でありたいと思うのです。ユダヤ人のすぐれたところは、この神のことばが与えられていたことでした。

Ⅱ.神は真実な方です(3-4)

次に3~4節をご覧ください。ここには、「では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。」とあります。

ユダヤ人にはそのように神のことばが与えられていたとしてももしそれに従わなかったとしたらどうなるのて゜しょうか。結局のところ、無駄になってしまうのでしょうか。絶対にそんなことはありません。なぜなら、たとえすべてのユダヤ人が不真実であっても、神は常に真実な方であられるからです。神は彼らにみことばを与え、もしのみことばに聞き従うなら、神の宝の民となるという約束をしてくださいました(出エジプト19:5~6)が、イスラエルはこの神のみことばに聞き従ったかというとそうではありませんでした。これを破り続けてきたのです。ではこの約束は全く意味がなかったのでしょうか。絶対にそんなことはないのです。なぜ?彼らが不真実でも、神は常に真実な方だからです。人間の場合はそうではありません。平気で約束が破られ、裏切ります。「ブルータス、お前もか」ということばは有名ですが、シーザーは愛する養子の背信に直面して、「ブルータス、お前もか」と叫ばすにはいられませんでした。世の中はそういうものなのです。血を分けた、すべてを与えた人であっても、最後には裏切って離れていくこともあるのです。これがこの世であり、人間の姿なのです。しかし、神はそうではありません。神はどんなことがあっても約束を破られる方ではありません。そこに神との契約の確実性があるのです。ですからそれは一方的な神の祝福の約束であって、私たち人間の不信仰や不真実によって無効になることはないのです。イエス様は次のように言われました。

「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。」(マタイ24:35)

キリストのことば、神のことばは、滅びることがありません。必ず成就するのです。また、イザヤ書46章3~4節にも、次のような約束が記されてあります。

「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」

胎内いる時からになわれているだけでなく、年をとっても、いや、しらがになって、背負われるというのです。これが神の約束です。ここに神の真実が表れています。神の真実は、私たちの不真実によって無効になるようなものではないのです。神の賜物と召命とは変わることがないからです。(ローマ11:29)

何度か紹介しましたが、マーガレット・パワーズという人が書いた「あしあと」(フット プリント)という詩は、このことを私たちに思い起こさせてくれます。 ある夜、わたしは夢を見た。 わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。 暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。 どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。 ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。 これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、 わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。 そこには一つのあしあとしかなかった。 それは、わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。 このことがいつもわたしの心を乱していたので、 わたしはその悩みについて主にお尋ねした。 「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、  あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、  わたしと語り合ってくださると約束されました。  それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、  ひとりのあしあとしかなかったのです。  いちばんあなたを必要としたときに、  あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、  わたしにはわかりません。」 主は、ささやかれた。 「わたしの大切な子よ。  わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。  ましてや、苦しみや試みの時に。  あしあとがひとつだったとき、  わたしはあなたを背負って歩いていた。」

二組のあしあとがずっとあったのに、途中で一組しかない。考えてみるとそれは自分の人生の中で最も辛く、悲しく、苦しい時でした。最も神を必要としていた時に限って、一組しかないのです。「主よ。なぜあなたはその時にいてくださらなかったのですが。」それは、いてくださらなかったのではないのです。むしろ一緒におられたのです。そして、ずっと一緒に歩いていてくださった。あしあとが一つしかなかったのは、それは主があなたを背負っていたからだ・・と。

本当に感動的な詩です。私たちは何度も何度も背負われて来たのだと思います。そして、これからも同じことをしてくださるのです。激しい試練に遭うとき、もう神に見捨てられたのではないかと思うような時でも、主は私たちの側にいてくださるのです。主は決してあなたを裏切るようなことはなさらないのです。あなたが不真実でも、主は常に真実であられます。ですから、決して人生をあきらめてはなりません。決して失望してはならないのです。

Ⅲ.神の真実に答えて(5-8)

ではどういうことなのでしょうか。ですから第三のことは、この神の真実に答えて歩んでまいりましょうということです。5~8節です。

「しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。「善を現すために、悪をしようではないか」と言ってはいけないのでしょうか―私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが。―もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。」

このようなことを申し上げると、中には、「そのように、もし私たちの不真実が神の義を明らかにするのであれば、その神の栄光を現すために、どんど悪いことをしようではないか」と言う方がおられます。そのことに対してパウロは、絶対にそんなことはないと答えています。このような浅はかな考え方は、神を人間と同じ世界に引き下げているものであって、神が絶対者であって、さばき主であるということがわかっていないからなのです。私たちの神様はこの世界を造られただけでなく、この世界を動かしておられる方です。そして最後に、この世界をさばかれる方でもあられます。このさばき主の前には、このような論理は通用しないのです。いや、それは人間の社会においても、決して通用しないものでしょう。たとえば、泥棒がいることによって警察官は成り立っているのだから、警察官は泥棒を逮捕すべきではないし、むしろ感謝すべきだといった主張が通用するはずがありません。同じことです。であれば、このような神の真実によって、その一方的な恵みによって救われたのではあれば、この神の真実、神の恵みに答えるような生き方を求めていかなければなりません。キリストの恵みによって救われたのだから、どんな生活をしても構わないのだと考え、なおも罪深い生活を続けるようなことがあるとしたら、そこにはもはや神の恵みは残されてはいません。そのように論じる人が罪に定められるのは当然なのです。もし神の私たちに対する真実、その恵みがどれほどのものであるかを本当に理解していたら、そんなことは決してできないはすですから・・。ローマ人への手紙5章15節に、

「ただし、恵みには違反の場合とは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。」

とあります。皆さん、神の下さる恵みは、多くの人々に満ちあふれるているのです。神様の恵みがどれほど大きいかがわかるでしょう。私たちは、「こんなことも助けてくださるんだろうか?」と疑いながら祈ることもあるでしょう。にもかかわらず神様は、私たちの思いや期待をはるかに超えて、溢れるばかりに恵みを注いでくださいます。ダビデは詩篇23篇でその恵みを、「私の杯は溢れています。」(23:5)と表現しました。ペテロは夜通し漁をしても一匹の魚も捕れなかったとき、主から「深みに漕ぎだして網を降ろしなさい」と言われその通りに降ろしてみると、網が破れるほど多くの魚を捕ることができました。(ルカ5章)ヨハネの福音書2章には、カナという所で行われた結婚式の記事が出てきます。そこでイエス様は、一本や二本のぶどう酒をお造りになられだのでしょうか。いえいえ、庭にあった大きな石がめ六つに、溢れるばかりにぶどう酒で満たしてくださいました。ヨハネの福音書6章には、五つのパンと二匹の魚の奇跡が記されてありますが、大群衆の腹ぺこのお腹が、かろうじて満たされる、飢えをしのぐ程度にしか満たされなかったでしょうか。いいえ。男だけ五千人にもの人たちがお腹いっぱい食べてもなお十二のかごが残るほどに恵みを注いでくださったのです。これが神様の恵みです。イエス・キリストを信じて、その恵みの中にいる人たちは、どこに行っても、その杯は溢れるのです。神様が注いでくださる恵みがあまりにも大きいのです。であれば私たちは、「だったらもっと罪を犯そう」ではなくて、恐れとおののきをもって、この主の真実に答える者でありたいと思うのです。

ある中国の家の教会の指導者の証です。私はこの方の説教を二度聞いたことがありますが、まさに火を吐くようなメッセージでした。 「私は、1948年に17歳で主の召しを受け聖書学校に入りました。卒業後は華東地区という地区の教会で伝道者として奉仕していました。しかし、1955年に教会が国が支配する教会に加入しなければならなくなってしまったため、主の導きにお従って辞職し教会を離れました。そして、自由な立場の伝道者として仕え始めました。そのため3年後には「反革命活動」の現行犯として逮捕され、労働改造農場で23年間過ごしました。  1981年に、海外への出国申請が認められたため、労働改造所を出ることが許され、1982年にはアメリカへ移住。その後まもなくして、人民裁判所により名誉回復通知書を正式に受け取りました。  アメリカに移住後は仕事をしながら神学を学び、並行して2教会で奉仕を続けました。1988年に神学校を卒業し、フルタイムの奉仕に入りました。中国の家の教会に仕える働きです。思い返すにつけ、父なる神の導きは実に不思議なものです。それはまさに、 「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」(詩篇30:5b)「彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。」(詩篇84:6) とみことばで語られている通りの体験でした。神様に感謝しました。  あっという間に私も80歳の老人の列に加わるようになりました。ガンの末期という重い病気にもかかりましたが、神様の恵みは至れり尽せりです。十分な治療の機会を与えてくださり、病を癒して、命を留めてくださいました。 「息のあるものはみな、主をほめたたえよ。ハレルヤ。」(詩篇150:6)  私の救い主、わが神、いのちの主よ。あなたの道とお心を私は知っています。 「 あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、私のくちびるは、あなたを賛美します。」(詩篇63:3)  選ばれた民に主はこう語っておられます。 「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」(イザヤ46:3~4)  愛する主よ。私はこの事を特にあなたにお祈りします。 「年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者につげ知らせます。」(詩篇71:18) 「この方こそまさしく神。世々限りなくわれらの神であられる。神は私たちをとこしえに導かれる。」(詩篇48:14)  「生きる限り、必ずや前線に立ち続けよう」と、かつての盟友と励まし合いました。主よ。私たちはあなたのご真実ご慈愛を仰ぎます。  残り少なくなった私たちこの世代の働き人のために、どうぞお祈りください。信仰と愛と忠実さをしっかりと持ち続けて、清い晩年を全うし、主にまみえることのできますように、神よ、私たちをお守りください。アーメン!」

これぞ主のご真実に答えた生き方ではないでしょうか。主の恵みは溢れているのです。主はどんなことがあってもあなたを裏切ることは決してありません。この主のご真実の前に、息ある限り、信仰と愛と忠実さをもって仕えていく。それが私たちに求められていることなのです。

 

ローマ人への手紙2章17~29節 「本当のユダヤ人」

きょうは「本当のユダヤ人」というタイトルでお話したいと思います。パウロは1章の後半部分から、人間の罪について語ってきました。それは神を知っていながらも、その神を神としてあがめようとしないばかりか、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心が暗くなって、してはならないようなことをするようになったということです。そうした人間の不敬虔と不義とに対して、神の怒りが天から啓示されるようになりました。    では、一方のユダヤ人はどうかというと、彼らはそうした異邦人を見下し、裁いていましたが、実は彼らも、そのようにさばきながら、自分たちもそれと同じようなことを行っていたのです。彼らは神に選ばれた民であることを良いことに、その特権と恵みに甘んじて、多少の問題があっても神は大目に見てくれるだろうと錯覚していたのです。そうしたユダヤ人たちに対してパウロは、そんなにこと断じてない、神はえこひいきなどしない方であり、その終わりの日に、その人の行いに応じて報いをお与えになられると言ったのです。

きょうのところはその続きでありますが、このところにもユダヤ人の罪が暴露されています。パウロはこれまでもユダヤの罪を取り上げて語ってきましたが、それまではあからさまに「ユダヤ人は・・」という言い方をしないで、「すべて他人をさばく人よ」(2:1)とか、「艱難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも・・」(2:9)というように、一般化して語ってきました。しかし、ここからははっきりとそれがユダヤ人に対してであるということがわかるように名指しでその罪を指摘し、彼らがどういう点で間違っていたのかを示すのです。すなわち、彼らは自分たちは神に選ばれたユダヤ人だと自負してはいるが、本当のユダヤ人ではないということです。では本当のユダヤ人とはどういう人のことを言うのでしょうか。

きょうはこのことについて三つの点でお話したいと思います。まず第一のことは、ユダヤ人たちの誇り、プライドについてです。第二のことは、そうしたユダヤ人たちの問題についてです。ですから第三のことは、本当のユダヤ人というのは外見上のユダヤ人のことではなく、心から神に従って生きる人たちのことであるということです。

Ⅰ.ユダヤ人たちの誇り(17-20)

まず第一に、ユダヤ人たちの誇りについて見ていきましょう。17~20節までをご覧ください。

「もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、 みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、」

ここにはユダヤ人たちの誇りがしるされてあります。彼らの誇りは中途半端なものではありませんでした。なぜなら、第一に、彼らには律法が与えられていたからです。神様は彼らに啓示をなさり、みことばを下さり、他の多くの民族にみこころを証する使命を下さいました。第二に、18節にあるように、みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法によって教えられわきまえていました。ユダヤ人たちは、神様からみことばが与えられていただけでなく、そのみことばによって教訓を受けていました。彼らは小さな頃からみことばの養育を受けていて、成人式を行う12歳前には、すでにモーセ五書といって聖書の最初の五つの書を暗記していたほどです、神様のみことばによって考え、判断する訓練が小さい頃から身に付いていたのです。他の人が外側しか見れない時でも、ユダヤ人だけは本質を見ることができました。それはそうした神のことばによって訓練されているからです。ノーベル賞受賞者の23%がユダヤ人だと言われていますが、それはまさに、幼いときからみことばによって訓練を受けてきたことによる祝福なのです。小さい時からみことばによって訓練されるということはすばらしいことなのです。よく「私はクリスチャンホームに生まれ育って息苦しかった」と言われる方がいますが、とんでもない、それは最も大きな祝福なのです。ユダヤ人は神から律法が与えられ、幼い頃からそれを学んできたので、神様のみこころは何か、なすべきことが何であるかを知っていたのです。それゆえに彼らは、そうしたことを知らない霊的盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自認していたのです。

おそらく、この世に存在する民族の中で、もっとも誇り高き民族はユダヤ人でしょう。彼らは、自分たちは神様から特別に選ばれた民であって、いつも世界の歴史の中心にいると考えていました。そういう選民意識の虜になっていたのです。そしてそうでない人たち、異邦人を一段低い者と見なしていました。それは異邦人を「犬」と呼んでいたことからもわかります。当時のラビと呼ばれていた教師たちが書いた文章を見ると、「なぜ神様はこの地に異邦人を置かれたのか?それは地獄の燃料のためだ」と記されているほどです。時折、ユダヤ人たちが真っ赤な色の奇妙な帽子をかぶっているのをテレビなどで見ることがありますが、この帽子は自分たちが神様の選民であるという身分表示だからなのです。この帽子にどれほどのプライドをもっていたかというと、戦争が起きても鉄かぶとの下にその帽子をかぶって行軍したほどです。

人はそれぞれ誇りを持って生きています。誇りを持っていない人などいません。みんな何らかの誇りを持って生きているのです。そして、正当な誇りというのは私たちの人生に益をもたらしてくれます。そのような誇りは、時には自信を与え、所属意識を持たせてくれるからです。私は保護司をしてますが、ちゃんとバッジと身分証明書があります。今まで一度たりとも使ったことがありませんが、なぜこんなものを作って渡すのかというと、それは所属意識を持たせるためなのです。保護師としての自覚と責任をしっかりと持ちましょうということなのでしょう。会社ではロゴのついて制服の着用を義務づけますが、それも所属意識を持たせるためです。このような正当な誇りは私たちの人生において良い役割をもたらしますが、しかしこのような誇りが、時として自分の果たす役割を邪魔したり、将来をダメにしてしまうことも少なくありません。    たとえば、過去の学歴や経歴を誇るあまりに、職場で少しでも気にくわない処遇を受けたりすると、「おれを誰だと思ってるんだ!」とか、「何でおれがこんなところで働いていなければならないんだ」といぶかり、すぐに会社を辞めてしまう人がおられるということを聞いたことがあります。それはこの誇りが邪魔をしているからなのです。自分の知ってる人がテレビにでも出ようものなら、「おれはあいつのことを知ってるが、昔は大した人間じゃなかったんだ」とか、「あいつは学生時代は全然勉強ではなかったのに」とかと言って、豪語したりするのです。じゃ本人はというと、そうしたプライドが邪魔をしてなかなか前に進めずもがき苦しんでいたりしているのです。

このような誇りはむなしいものであり、人を生かすものではなく殺します。プライドが強くなりすぎると病的な高慢に陥るのです。こういう誇りは何の助けにもならないどころか、人生をだめにしてしまうのです。まさにユダヤ人の誇りはむなしく、腐ったものでした。どういう点で、彼らの誇りは腐っていたのでしょうか。

Ⅱ.ユダヤ人たちの問題(21-24)

21~24節をご覧ください。ここには、「どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている」と書いてあるとおりです。」とあります。

彼らの問題は、神から律法が与えられ、何をすべきかを知っていながら、それを行っていなかったことです。人に盗むなと説いておきながら盗み、姦淫するなと言いながら姦淫し、偶像を忌み嫌いながら、神殿のものをかすめ取っていたのです。律法を誇りとしていながら、その律法に違反していたわけです。

これは、イエス様を長い間信じているクリスチャンの問題にも通じます。よく「あなたはイエス様を信じているんですか」と尋ねると、「うちの父親は牧師でです」という人がおられます。「そうじゃなくて、あなたはイエス様を信じているんですか」と聞き直すと、「親戚にクリスチャンが多いんです」とかとチンプンカンプンな答えをされる方がおられるのです。「そうでゃなくて、あなたはどうなんですかということを聞いてるんです。あなたはイエス様を信じているんですか」すると、「信じていない」と答えます。これが問題です。このような人は、イエス・キリストの十字架の血潮を信じて救われているのではありません。親戚にどれだけクリスチャンがいるかとか、両親が熱心なクリスチャンであるかどうかで、その人が救われるのではありません。私たちが救われるのは、イエス・キリストを信じているかどうかなのであって、そのような外見上のことが問題なのではないのです。

ユダヤ人たちが持っていた最高の誇りは、自分たちがアブラハムの子孫であるということでした。しかし、そんな彼ら対してイエス様は次のように言われました。ルカの福音書3章8節です。

「それならそれで、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの父はアブラハムだ』などと心の中で言い始めてはいけません。よく言っておくが、神は、こんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」

この意味は、血統など信じないで、心から神様を信じなさいということです。皆さん、今なおこのような外見上のものに頼って、誤った確信を持っている方がおられるのです。しかし、大切なのはそうした血筋や父母の信仰ではなく、自分自身がイエス様を信じているかどうかです。ヨハネの福音書1章13節に、

「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」

とあります。イエス様を信じ聖霊によって証印を押されるまでは、どんな人であっても救いを得ることはできないのです。父母の信仰の遺産をよく受け継ぐなら、それは自分の財産になります。それはいくらでも誇れるでしょう。「私の家は三代にわたって主に仕え、今も熱心に仕えている。」これはすばらしい恵みです。しかし、その血統に頼り、信仰の中身がないとしたら問題です。ユダヤ人たちは盗むなと言いながら盗み、姦淫するなと言いながら姦淫し、偶像を忌み嫌うと言いながら偶像崇拝のようなことをしていたのです。中身がありませんでした。彼らの宗教は外見だけの宗教だったのです。

今はすべての権威が崩れ行く時代です。ある家で、あまりにも勉強しない息子に父親がこう言いました。「おい。少しくらいは勉強したらどうだ。リンカーンはおまえの年で独学で弁護士になったんだぞ」すると息子は何と言ったでしょうか。「何言ってんだよ。リンカーンはお父さんの年に大統領になったんだよ」。訓戒を与えようとする父親に対して、あんたなんかにそんなこと言われたくないと言って反発するのです。何が問題なのでしょうか。中身がないことです。口先だけで生きていることです。親が本気になってその生き方を見せるときだけ、語ることばに力を持つのです。これは親だけでなく学校の教師でも誰でも、人を指導する立場にあるすへての人に言えることでしょう。子どもたちに、「神様のみことばは重要だ」と何百回言っても、自分がそのみことばに生きていなければ力がありません。子どもたちは両親が何を重んじているかをちゃんと見ているのです。教会学校の聖書クイズで一番になったと報告しても、親は特に反応はしないでしょう。しかし、学校のテストで成績が一番になったと聞いたら、もう大騒ぎです。友達や親戚中に話して回るのではないでしょうか。そうすると知らず知らずのうちに子どもの心に、「お父さんとお母さんは、神様を信じて従うことが一番大切だとは言うけれども、実際は学校の成績が一番になることを喜ぶんだな!」と思うようになるのです。そして、礼拝や教会のことは放っておいてもいいから、学校で一番になって両親を喜ばせなくちゃという意識が宿るようになるのです。私たちが何を言うかではなく、どのように行うかという実際の生き方が子どもたちに植え付けられるのです。

重要なのは聖書をどれだけ知っているかということではありません。重要なのは、それをどれだけ行っているかです。その生き方なのです。ユダヤ人は神から律法が与えられ、神のみこころは何なのか、何をなすべきなのかということを知っていながら、あるいはそれを教えていながら、自分ではそれを行っていませんでした。それが問題だったのです。そのようにして彼らは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の間でけがされている」というみことばのとおりになってしまいました。

Ⅲ.本当のユダヤ人とは(25-29)

ではどうしたらいいのでしょうか。ですから第三のことは、心から神を信じ、御霊によって生きましょうということです。25~29節をご覧ください。

「もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は、無割礼になったのです。もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」

パウロはここで、割礼の問題を取り上げています。割礼とは、男子の性器の先端の皮を切り取ることです。それは神の民であるユダヤ人のしるしであり、救いのしるしでした。割礼のない者は地獄に行くと、ユダヤ教のラビたちが教えていました。それほど、割礼は、ユダヤ人たちにとって重要なものだったのです。その割礼についてパウロはここで何と言っているでしょうか。パウロはこう言うのです。割礼を受けているかいないかが重要なのではなく、律法を守っているかどうかが重要なのだ・・・と。すなわち、外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではない。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人なのであり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼なのです。どういうことかというと、信仰というのは、内面性が重要であるということです。信仰が堕落すると、外的、儀式的なことが強調されるようになり、それに力を入れ始めるようになるのです。しかし、信仰において重要なのはその内容であって、御霊によって、心から神を信じ、神に仕えていく生き方なのです。

しかし、それはユダヤ人だけのことではありません。私たちもややもするとこうしたユダヤ人たちと同じような傾向に陥ってしまう危険性があるのではないでしょうか。たとえば、洗礼を受けさえすれば救われるといった考えです。洗礼を受けることは大切なことです。なぜなら、それは神のみこころだからです。しかし、洗礼を受けるということが天国に行けるという保証ではないのです。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」(マルコ16:17)と聖書にあるように、信じることが重要なのです。それは継続を表しています。信じ続けること、何があってもイエス様にとどまり、イエス様に従って歩んで行きますという決心です。すなわち、信仰の内面性なのです。心の中まで見通される神の前に立ち、へりくだって神を仰ぎ、神を慕い求め、神のみこころにかなった歩みをしていきたいと願う心です。その時、その誉れは、人からではなく、神から来るのです。

アメリカにロバート・ファンクさんというアメリカ最大の牧畜業を営んでおられる方がおられます。この方はプロのホッケーチームのオーナーもしておられる方ですが、とても熱心なクリスチャンです。しかし、最初から熱心だったのかというと、そうではありません。  この方はお母さんがクリスチャンであったことから、小さい頃からいつも教会に連れて行かれました。ところが学校を卒業してビジネスに入ったとたんに、仕事が忙しくなって教会に行かなくなってしまいました。それでも彼は、20年以上も教会に通っていたのだから、自分ではクリスチャンだと思っていました。そして、聖書のこともよく知っていると自慢していたのです。  そんなある日、仕事の仲間に誘われてビリー・グラハムという有名な伝道者の集会に出かけて行きました。その集会には何万人も集まって来るので普通の建物ではなく、野球場で行われていました。何万人という多くの人々の中の一人として、彼は聖書の話なら大抵知っているという思いで聞いていたのです。  ところが、ビリー・グラハムの語る一つ一つの言葉が、彼の心に新鮮な響きをもって響いてきました。そして、自分は今までクリスチャンだと思っていたけれども、もしかすると違うのではないかと思うようになりました。というのは、ビリー・グラハムが次のように言われたからです。 「本当の信仰とは、何年教会に通っているとか、聖書をどれだけ知っているかということではなく、生ける神と個人的な関係が築かれているかどうです。」  そのとき彼は考えました。神様との個人的な関係?考えてみたら、自分は何年も教会に行って、聖書のこともよく知っているけれども、神様と個人的な関係を持っているだろうか?もしそれが本当の信仰だと言うのなら、自分にはそれがないのではないか・・・と。そして、何千人の人たちともに、イエス・キリストを主として信じて受け入れ、イエス・キリストを中心とした生き方が始まったのでした。

Ⅱコリント5章17節に、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。」というみことばがあります。この「だれでもキリストのうちにあるなら」ということばを、モファットという聖書学者は、「だれでもキリストに信頼するなら」と訳しています。つまり、たとえクリスチャンでも、キリストに信頼しないなら、キリストに信頼することを忘れていたら、新しく造られたものとしての人生を歩むことはできないのです。「新しく造られた者」とは、十字架につけられたイエス・キリストを信じて、神の子として新しく生まれることであり、その御霊によって、御霊に信頼して、日々、生ける神と個人的な関係を持って歩む人のことなのです。どんなにみことばを知って、暗唱していても、そのみことばにあるように、イエス様を信じ、御霊に従って、謙遜に歩む者でなければ意味がないのです。

大切なのは、新しい創造です。それこそ真のイスラエルなのです。どうか、自分の知識、経験、能力といった外見だけのむなしい誇りを捨てて、イエス・キリストを信じ、その御霊によって、日々、神に従って歩んでください。そのとき、主が驚くべきみわざを成してくださることでしょう。この基準に従って進む人こそ神のイスラエル、本当のユダヤ人なのです。神はこのような人を求めておられるのです。

 

ローマ人への手紙2章1~16節 「神のさばきの日に備えて」

きょうは「神のさばきの日に備えて」というタイトルでお話したいと思います。1章後半のところでパウロは、神を神としてあがめず、感謝もしない人々に対して、神の怒りが天から啓示されていると語りました。それは特に異邦人に対してでありましたが、それは異邦人だけでなく、神の選民であるユダヤ人に対しても同じです。きょうのところには、そのユダヤ人の罪に対する神のさばきについて述べられています。きょうはこのユダヤ人に対する神のさばきについて、三つのポイントでお話ししたいと思います。第一のことは、神は正しくさばかれる方であるということです。第二のことはその理由です。なぜなら、神にはえこひいきなどないからです。第三のことは、ですから神のさばきの日に備え、悔い改めてイエス・キリストを信じ、神のみこころにかなった歩みをしましょうということです。

Ⅰ.神は正しくさばかれる(1-5)

まず第一に、神は正しくさばかれる方であるということについて見ていきたいと思います。ここにはユダヤ人の罪に対する神のさばきが述べられています。それは他人をさばいてしまうことです。1~5節までのところに注目してください。まず1節です。

「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。」

異邦人の場合は、自分が罪を犯しているだけでなく、罪を犯している人の姿をみて、それを行っている人に心から同意しているのですが、では選民ユダヤ人はどうかというと、そのように罪を犯している人をさばきながら、自分自身も同じこと(罪)を行っていました。いわゆる「善人意識」です。彼らは、自分は正しい者だと思い込み、他の人をさばいたのです。他のことばで言うと、みことばを自分に適用するのではなく、他人に適用していたわけです。

自分が正しいと思っている人は、罪の話をしてもなかなかその心に響きません。自分には関係ないと思っているからです。1章に出てきた神の怒りと刑罰について聞いても、目の色一つ変えないでしょう。なぜなら、そのみことばは罪人たちに語られたことばであって、自分に対してではないと考えてしまうからです。善人意識をもっている人の問題はここにあります。罪の話は全部他人のことだと思うので、有罪宣告をなさる神の前に膝をかがめることができないのです。ですから、そのような人の信仰生活には悔い改めがありません。その結果、信仰が実に淡々としたものとなってしまい、罪が赦されという感激がないのです。私たちの信仰が成長していくために必要なことは悔い改めです。罪の自覚と悔い改めがあるところに神の聖霊が臨み、信仰的に、人格的に成長していくことができるのできるのですが、悔い改めがないと、なかなか成長していくことができません。

よく説教をしていると、その語ったみことばに対して反応を示してくださる方がおられます。牧師として、語ったみことばに対してそのような反応があるというのはうれしいことです。語ってもうんともつんともないと、「あれっ、きょうの説教はあまり響かなかったかな」とか思って悩むこともあるのですが、後で何らかの反応があると、少なくともその人の心には届いていたんだと安心するのです。ところが、中にそのみことばを自分にではなく、他の方に適用される方がおられます。「先生、今日のお話はとても恵まれました。今日の説教は○○さんにぜひとも聞いてほしかったですね。来られなくて残念です。」と。この方にとってみことばは、自分に適用するものとしてではなく、他の人に適用するものとして聞いていたのです。このようなことは意外と多いのです。たとえば「妻は夫に従い、夫は妻を愛しなさい」と説教すると、それを自分に適用しないで、相手に適用してしまうのです。「ねえ、あなた聞いた?今日牧師さんが、夫は妻を愛しなさいと言ったでしょ。なのにあなたは一体何よ」と食ってかかるのです。すると夫も夫で、「おまえこそ、妻は夫に従えとあっただろう。なのに服従のかけらさえないじゃないか」と言い返すのです。神のみことばが夫婦喧嘩の火種になってしまうこともあるのです。それを自分にではなく他の人に適用してしまうからです。

皆さん、みことばは他人に適用するものではなく、自分に向かうもの、自分を変えるものとならなければなりません。祝福とは何でしょうか。祝福とは、神のみことばを聞くとき、それによって自分の心に悔い改めの心が生じることです。心が刺されるという思いをすることなのです。ペンテコステの時、ペテロが説教を聞いた人たちは、どんな態度をしたでしょうか。

「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。」(使徒2:37)

彼らは心を刺され、「兄弟たち、私たちはどうしたらいいのでしょうか」と言ったのです。それを他の人に適用するようなことはしませんでした。「そうだ。祭司長たちは悔い改めるべきだ」とか「これはパリサイ人たちに必要なことだ」とか、そのようには言わず、これを聞いて心を刺され、みことばの前に自分の罪を告白したのです。そのとき、ペテロもはっきりと言いました。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。(同2:38)それゆえに、彼らは悔い改めて、イエス・キリストを信じて救われたのです。     しかし、善人意識にとらわれている人は、それを他人に適用するので、他人をさばいてしまうのです。このような人は、自分自身のあやまちには寛大ですが、他人のあやまちに対しては敏感で、それを大きく見る傾向があります。自分の罪は見ないで、いつも他人の罪ばかり見て、それを問題にするのです。イエス様はこのような人に対して、次のように言われました。

「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」(マタイ7:3~5)

ルカの福音書18章には、祈るために宮に行ったパリサイ人と取税人の姿が出ています。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをささげました。「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。」一方、取税人はというと、彼は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言いました。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」どちらが義と認められて家に帰ったでしょうか。パリサイ人ではありません。この取税人の方でした。なぜなら、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者が高くされるからです。パリサイ人は、自分の罪を見ないで他人の罪を見ました。ですから彼には恵みがなかったのです。一方の取税人は、自分の罪を持って神様の御前に出、その罪を嘆いて、神様の恵みにおすがりしました。ですから彼は罪の赦しと恵みを受けたのです。皆さん、最高の恵みは、すべてのみことばが自分に向けられているとように聞こえることなのです。そして、そのように信じることこそ祝福なのです。

いったいユダヤ人はなぜそのように受け止めていたのでしょうか。それは自分たちの中に、神様によって特別に選ばれた者であるという特権意識があったからです。4節をご覧ください、

「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」

彼らは、自分たちが神によって特別に選ばれた神の民なのだから、その慈愛と寛容と忍耐によって、自分たちは異邦人たちのようにはさばかれるようなことはないだろうと考えていました。しかし、それはとんでもない誤解でした。神は正しい方であって、そのさばきはそのようなことを行っている人々に必ず下るのです。もし神がそのさばきを控えておられるとしたら、それこそ慈愛と忍耐と寛容によるものであって、悔い改めの機会が与えられているからなのです。決して神のさばきから逃れられることではありません。神は正しくさばかれる方だからです。

しかし、それはこのユダヤ人だけのことではありません。すでにイエス様を信じて神の子とされた私たちクリスチャンも言えることです。私たちは主イエス・キリストによって神の子とされ、神の特別の恵みを受けました。まさに慈愛と忍耐と寛容です。しかし、それは何をしても神様は許してくださるということではありません。彼らのように、他人をさばいて自分も同じようなことをしているとしたら、そこには異邦人同様、神の怒りが下るのです。恵みによって救われた以上、どんな生活をしても構わないのだという考え方は、少なくとも聖書の中にはありません。聖書ははっきりと、わたしたちの行いに対してさばきがあるということを示しているのです。それは行いだけでなく、ことばと思いをも含めたすべての面においてです。であれば私たちは、自分たちは結構善い人間だという意識を捨て、神の前にさばかれてもしょうがないほど汚れた者であるということを認め、あの取税人のように、胸をたたいて「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」と言うような、へりくだった者でなければならないのです。

Ⅱ.神にはえこひいきなどない(6-11)

第二のことはその理由です。なぜ神様はそのようにさばかれるのでしょうか。なぜなら、神にはえこひいきなどないからです。6~11節までですが、6節をご覧ください。ここには、

「神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。」

とあります。ユダヤ人だからとか、ギリシャ人だからといった区別はありません。ユダヤ人であっても、ギリシャ人であっても、どんな人であっても、神は、ひとりひとりに、その行いに従って報いをお与えになるのです。これはどういうことでしょうか。これは何回読んでも難解な聖句です。パウロはここで、救われるためには、善いわざが必要だと言っているのではありません。もしそうだとしたら、信仰によって義と認められるという福音の中心的な真理が損なわれてしまうことになります。いったいこれはどういう意味なのでしょうか。おそらく、ここでは信仰によって救われるとか、福音の恵みとか、そういうことを論じているのではなく、ひとりひとりの行いに従って報いがあるという一般的な原則が述べられているのす。つまり、

「忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行うすべての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行うすべての者の上にあります。」(7~10)

ということです。このような原則は、聖書の他の箇所にも見られます。たとえば、マタイの福音書16章27節には、「人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行いに応じて報いをします。」とありますし、Ⅱコリント5章10節にも、「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」とあります。また、ガラテヤ6章7~9節にも、「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」とあります。

ですから、このようにパウロが言いたかったのは行いによって救われるということではなく、善を行えば、時期が来て、その刈り取りをするようになるという原則についてだったのです。パウロが信じていたことは、人は行いによっては救われず、ただ神の義であるイエス・キリストを信じる信仰によってのみ救われるということであり、福音のうちにこそその神の義が啓示されているということでした。ただ、終わりの日に受ける報いについては、ユダヤ人やギリシャ人といったことと関係なく、その人の行いに従って報いが与えられるということでした。それは神にはえこひいきがないからであり、その報いは、善を行うか、それとも悪を行うかによって決まるからです。

Ⅲ.神のさばきの日に備えて(12-16)

ですから第三のことは、この神のさばきに備えましょうということです。とはいえ、何が善で、何が悪であるかということを、いったいどうやって知ることができるのでしょうか。ユダヤ人ならば律法が与えられていましたから、その律法によって善悪の判断を下すことができましたが、異邦人の場合はそういうわけにはいきません。彼らは神の律法など持っていないからです。では、異邦人が善を行うということはできないのでしょうか。いいえ、できます。14、15節には、

「―律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行いをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明しあったりしています。」

とあります。確かに異邦人は律法を持たない者ですが、しかし、律法の命じる行いができるのです。どうやって?良心によってです。異邦人はユダヤ人のように神の律法を持っていませんが、心の中の良心によって何が善であり、何が悪なのかといった判断ができるだけでなく、悪に対してはそれを退けようとする働きがあるのです。「良心が痛む」という表現がありますが、人間は紛れもなく道徳的な存在であり、神がその良心をとおして私たちの心の中であかししておられるのです。14節の「自分自身が自分に対する律法なのです」というのは、そういう意味です。しかし、罪深い人間の良心はゆがめられ、その判断力は必ずしも正しいものではありません。たとえば、殺人を犯せばだれでも良心が痛みますが、偶像礼拝に対してそうではないというのは、罪によって良心がゆがんでしまった結果なのです。良心はある面で「神の声のエコー」ですが、人間の罪によってそれがはっきり聞こえなくなっているのです。とは言え、それでもこの良心によって異邦人にも律法の知識があるのは明らかですから、すべての人はその善を行うことができるのであって、その行いによってさばかれるのです。ですから結論は何かというと、16節です。

「私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠されたことをさばかれる日に、行われるのです。」

ここには神のさばきについてはっきりと言及されています。神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠されたことをさばかれる日に、行われるのです。それが明らかにされるのはいつかというと、終わりの日です。ですから、このさばきの日に備えて、イエス・キリストによって私たちの心の隠れた事柄がさばかれても大丈夫なように、備えていなければなりません。ユダヤ人であっても、異邦人であっても、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正とに対して、神の怒りが天から啓示されているのです。ですから、神のさばきに対して、永遠のいのちをはじめ、栄光と誉れと、平和を得るために、悔い改めて、イエス・キリストを信じ、神の義にお頼りしながら、神に喜ばれる歩みを求めていかなけれはなりません。

アメリカにミッキー・クロスというヤクザ出身のリバイバリストがいました。彼はその昔、ニューヨークの暗黒街のボスでした。警察が肝を冷やす(きもをひやす:驚き恐れてひやりとすること)ほどの淫行、放火、殺人、強盗をしました。彼が手にできなかったものは一つもありませんでした。お金、お酒、女性、とにかく彼が欲しいすべてのものを手に入れました。それにもかかわらず、彼には平安がありませんでした。夜寝る時には部屋には鍵を幾つもかけ、枕の下にはいつも拳銃を置いて眠り、いつも部下の裏切りを監視せずにはいられませんでした。いつも絶えることのない不安と恐怖の中で暮らしていたのです。夜更けに一人でいるとき、涙で枕をぬらしたことも数え切れないほどありました。心の孤独と悲しみ、つらさに、来る日も来る日も身震いしながら暮らしていたそうです。平安がなかったのです。イザヤ書48章22節にあるように、まさに「悪者どもには平安がない」のです。

数年前、韓国である人が罪を犯して逃亡しました。その人が侵した罪は6年で時効でしたが、この人は計算を間違えて、三日ほど早く自首してしまい、捕まってしまいました。普通なら、「しくじった」「何ということをしたのか」「本当についてない」と言うところでしょうが、逮捕されたこの人が言ったのは、「ああ、すっきりした。本当にすっきりした」でした。「この間、俺がどれほど不安だったことか。捕まったんだから、しっかり罰を受けてゆっくり眠ろう」と言ったのです。逃亡中、彼に安息はありませんでした。

終わりの日に受けるであろう神のさばき。神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に対する、明確な解決を持っていない人はみんな同じです。このさばきに対するしっかりとした備えがないために、不安を抱えながら生きているのです。しかし、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、善を行うすべての者の上にあるのです。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイ11:28)

皆さんは、このさばきに備えておられますか。イエス・キリストを信じて救われていますか。キリストのくびきを負って、キリストから学んでおられるでしょうか。キリストのところに来てください。そうすればたましいに安らぎが来ます。どんなさばきがあろうとも何の恐れもないのです。忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りをくだされるのです。艱難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、悪を行うすべての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、善を行うすべての者の上にあるからです。

 

ローマ人への手紙1章18~32節 「天から啓示されている神の怒り」

きょうは、「天から啓示されている神の怒り」というタイトルでお話したいと思います。パウロは、16~17節のところで、この手紙の主題について述べました。それは、福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力であるということです。なぜなら、この福音の中にこそ神の義が啓示されているのであって、人間の力や行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって救われるからです。  きょうのところには、「というのは」ということばで始まっています。実は、ここからローマ人への手紙全体の本論に入るわけですが、「というのは」という接続詞で始まっているということは、これがその前の節とのかかわりの中で語られていることを表しています。つまり、ここには私たち人類が神の義を必要としている理由が記されてあるわけです。いったいなぜ私たちは神の義が必要なのでしょうか。それは、全人類が罪を犯し、神の怒りの下にあるからです。18節をご覧ください。

「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。」

神が私たちを救ってくださるのは、私たちがみな神の裁きの下にあるからで、つまり救いを必要としている存在だからなのです。神が求めておられるのは、あくまでも義なのであって、その義にかなわない人間のあらゆる不敬虔と不義とに対して、神の怒りが啓示されているからなのです。

しばらく前に、みことばに対する深い瞑想のないままの「可能性思考」とか「積極的思考」というものがはやりました。イエス様を信じることは人生に豊かさをもたらすことであり、すべてが思いのままになる祝福をもたらすはしごであるという考えです。ある面ではそうですが、しかし聖書の語っている祝福とはそのような表面的で薄っぺらなものではなく、もっと深いところからにじみ出てくるものです。罪深い人間に必要なのは、そうした自負心を刺激する積極的な思考ではなく、自分がいかに罪深い者であることを知り、悔い改めることです。罪の深刻さを指摘され、罪にまみれた恐ろしい自分の姿に気づかされ、その中から救いを叫ぶことなのです。罪について赤裸々に語ることなしに、イエス様の福音がどんなに必要であるかはわかりません。

私たちの人生において、神様に深い感謝を覚えるのはどんなときでしょうか。逆境を克服したときです。まことの感謝は、私たちが困難にぶつかり、その深い困難から抜け出した経験があってこそ生まれるものなのです。私たちは知らず知らずのうちに、すべてが自分の思い通りになる、何の試みもない平坦な人生こそ、最も幸いな人生であるかのように思い込んでいますが、実はそうではなく、人生最大の危機にまで落ち込んで、その後で上ってくる経験の中にこそ、まことの感謝と喜びがあるのです。同じように、私たちが救いの喜びと感激というものを切実に感じるためには、イエス・キリストを信じる以前の自分の姿がどのようなものであったのかを悟る必要があるのです。

きょうは、このイエス・キリストを信じる以前の人間の姿について三つのポイントでお話したいと思います。第一のことは、神の怒りの原因である罪についてです。罪とは、神を知っていながら、その神を神としてあがめないことです。第二のことは、その罪の結果です。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。第三のことは、罪の結果のもう一つの面です。それは、彼らを良くない思いに引き渡されたので、してはならないことをするようになったということです。

Ⅰ.神を神としてあがめず(18-23)

まず第一に、神の怒りの原因である罪について見ていきたいと思います。18~23節に注目してください。パウロはここで、どういう人に神の怒りが啓示されているかを述べています。それは、「不義によって真理をはばんでいる人」に対してです。「不義によって真理をはばんでいる」とはどういうことでしょうか。この「真理」とは19節を見ると明らかですが、それは神に関する真理であることがわかります。ここには「神について知られることは、彼らに明らかです」とあります。創世記1章27節を見ると、神は人をご自身のかたちとして創造されました。神のかたちというのは、神を慕う心、神と交わる部分、つまり霊のことです。私たちは霊的な存在として造られたのです。にもかかわらず、自分たちの持っている罪のゆえに、神に関する真理をはばんでいるのです。その顕著な例が「不敬虔」と「不正」です。「不敬虔」とは、神を神としてあがめようとしない神に対する罪で、「不正」とは、その結果生じている人間の悪い思い、道徳的な乱れ、罪の行為のことです。これが罪の二大局面です。この二つは切り離すことはできません。つまり、人は神のかたちに造られ、神を慕い求め、神をあがめるように造られたにもかかわらず、神を神としてあがめようとしない罪の結果、この世において様々な悪いことをするようになったのです。  坂本九さんの大ヒット曲に「上を向いて歩こう」という歌がありますが、人というのはギリシャ語で「アンスローポス」と言います。意味は、「上を向いている者」です。人間は本来、上を向いて生きる者なのです。なのに私たちは、ついつい日常の事柄に心の目が奪われてしまい、上を向く心を失ってしまいました。そして、「神なんていない」、「信じられるのは自分だけだ」なんて、織田信長のようなことを言うようになってしまったのです。  しかし、本当に「神なんていない」のでしょうか。いいえ、そうではありません。確かに神は私たちの目で見ることはできませんが、神がおられることと、この方がどれほど偉大な方であるかは、はっきりと示されているのです。どのように?神の創造のみわざを通してです。20節をご覧ください。

「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」

確かに、神様は目に見えないお方ですが、その力と神性は、創造のみわざをとおしてはっきりと現されているのです。ですから、もし私たちが神を探り求めることでもあるなら、見いだすことができるのです。神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはいません。私たちは、神の中に生き、動き、存在しているのです。にもかかわらず、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。それだけではありません。この神の代わりに偶像を作り、それを拝むようになってしまったのです。22~23節、

「彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。」

皆さん、人はなぜ偶像を求めるのでしょうか。偶像を造る人たちは、神様は目に見えない存在だから、その目に見えない神を見える形で表すものであると言い、人は力ある神に偶像を通してでなければ近づくことが出来ないからだと言いますが、本当はそうではありません。人間は神のかたちに似せて造られていますから、生けるまことの神から離れるとき、何かを神としないではいられなくなるからなのです。ですから、まことの神の代わりに、被造物を神としてしまうのです。また偶像礼拝は、このような宗教的な対象として像を拝むことだけではありません。ピリピ3章19節でパウロは、彼に反対する人たちに対して、「彼らの神は彼らの欲望であり・・」と言っているように、こうした欲望を具現化したものも偶像崇拝なのです。  しかし、それは本当に愚かなことではないでしょうか。神様に対抗している人の多くは自分が知者だと思い込んでいるようですが、実は、それは愚かなことなのです。そのような偶像が人を救うことなどできないからです。人を救うことができるのはただこの天と、地と、海と、その中に住むすべてのものを造られたまことの神しかいないのです。なのに、その生けるまことの神様を信じようとしない。そうした人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているのです。    この「啓示されている」ということばは現在形で書かれてあります。すなわち、今もずっと、罪があるところには神様の怒りがとどまっているということです。神様は、そのご性質上、罪をそのまま容認なさることはしません。ハバクク書1章13節に、「あなたの目はあまりにきよくて、悪を見ず、」と言われているとおりです。神様は決して罪を我慢できない方なのです。

皆さん、イエス様を信じる前の私たちはどんな状態にあったのでしょうか。それは一言で言うなら、滅ぶべき罪人でした。この罪のゆえに、神の怒りが天から啓示されていたのです。全く望みというものを見いだすことができない惨めな存在でした。ローマ人への手紙6章23節には、「罪から来る報酬は死です」とありますが、まさにこの罪のゆえに、神様の怒りから逃れられず、地獄行きの運命が定まっていたのです。

Ⅱ.汚れに引き渡され(24-27)

第二のことは、その結果です。神を神としてあがめず、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えた結果、どうなってしまったでしょうか。24節をご覧ください。

「それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。」

神を神として認めようとしない人に対する神の怒りは、世の終わりにおいてだけでなく、すでに始まっているのです。どのようにでしょうか。ここには、「それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました」とあります。この「引き渡され」ということばは、26節と28節にも繰り返されていますが、これは「見放す」とか「見捨てる」という意味のことばです。神の怒りの絶頂は、罪を犯した人間をその心の欲望のままに汚れに引き渡すことです。そのまま放置することなのです。ある人はこう言うでしょう。「俺は神様とは関係なく生きて来たけれども、大満足の人生だった」と。それは、この人が神の裁きとのろいのまっただ中にいることの証拠なのです。

たとえば、親の言うことを聞かない子供がいるとしましょう。すると親は正しく育てようと、いろいろと訓戒します。時にはむち打つこともあるかもしれません。けれどもその子がなかなか言うことを聞こうとしないと、親はその子に何と言うでしょうか。「じゃ、勝手にしなさい」これは子供に自由を与えるという意味ではなく、親として発し得る最も恐ろしい怒りの表現なのです。「勝手にしなさい」ですから、信仰を持たない人たちが、その恐ろしい罪にもかかわらず人生がうまくいっているように見えても、何もうらやましがる必要はないのです。それこそ恐ろしい神の裁きの現れだからです。神様に見放され、見捨てられている人は大忙しで、礼拝をささげる時間もありません。あくせくと的外れな努力をして、結局は地獄に行ってしまうことになるのです。

皆さん、私たちは神様の前で好き放題に生きられる存在でしょうか。決してそうではありません。そんなことをしたら必ず後でつけが回ってきます。ですから神様は私たちを放ったらかしにはなさらないのです。少しでも高慢になると、大きな病気やその他の方法でそれを扱われます。みこころにかなわないことをしようとすると、試みや艱難が来て練られます。少しでも祈りを怠ると、火のような試みを通して心を引き締めさせてくださるのです。でも、これこそ神様の祝福であり、恵みなのです。なぜなら、箴言3章12節には、「父がかわいがる子をしかるように、主は愛する者をしかる。」とか、ヘブル人への手紙12章7~8節に、「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。」とあるように、それこそ神が私たちを愛しておられることの証拠だからです。その心の欲望のままに引き渡されることこそ、神の怒りの表れであります。

では、その心の欲望のままに汚れに渡された人間は、どのようになったでしょうか。ここには、「彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました」とあります。神との関係における霊的倒錯は、人間関係における性的混乱を引き起こすようになりました。パウロがこの手紙を書いていた時代にも、たとえばコリントには、アフロデトと呼ばれる神殿があり、そこには巫女と称する神殿娼婦がたくさんいました。それは、巫女たちと肉体的に交わることによって、アフロデトの女神と一体になれると教えられていたからです。また、26,27節には、

「こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。」

とあるように、同性愛が広まりました。当時のローマの世界では、レスビアンとかホモセクチャルなどは普通のことでした。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。パウロはこれらのことを評して、「その誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです」と言っていますが、それは、神様が創造の秩序として立てられたものを無視し、それを誤用、乱用して放縦に走った結果招いた荒廃だったのです。

Ⅲ.良くない思いに引き渡され(28-32)

そればかりではありません。第三に彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。29~32節をご覧ください。

ここには長い罪のリストが記されてあります。このリストは、人間社会のすべての悪を取り上げているわけではありませんが、これを見ていくと、罪の恐るべき力について十分知ることができると思います。まず、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意です。これは罪の一般的な表現でしょう。次は、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみです。これは内面的な悪意のことです。そして、具体的な悪口の数々が列挙されていくわけですが、ここで注目したいことは、神を知ろうとしたがらない人間は、こうした悪の思いに満ち溢れるようになったということです。彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡されたとは、こういうことです。神を知ろうとしない人間の内側は、実に、みにくい罪と悪なのです。それらは、私たちすべての人の姿であり、私たちの内面の思いなのです。

そして、そこからさまざまな罪の現実が生まれていきます。まず陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。ここには私たちが行う悪の数々が語られているわけですが、それは、毎日の新聞やテレビのニュースを見れば明らかです。何の事件も起きない日など一日もありません。毎日、毎日、さまざまな悪事が行われています。私たちは文字通り罪の中に生き、悪を行っているのです。

ロシヤの文豪ドストエフスキーは、「もし人が、神は存在しないという確信さえ持つならば、できないことはない。」と言いました。これは恐ろしい言葉ですが事実です。人々が悪いことをしながらも、それでもある程度自分自身を節制するのは、「こんなことをしたら罰があたるかもしれない」という何らかの神に対する意識が働いているからですが、しかし人間が神はいないと確信するなら、そこにはすさましい光景が広がることでしょう。まともに目を開けてなど見られないはずです。ここに取り上げられているのは、人間社会のすべての悪ではありませんが、本当に罪の恐ろしさがまざまざと描かれているのではないでしょうか。それは、彼らが神を知ろうとしたがらない罪のゆえなのです。神を知っていながらも、その神を神としてあがめようとしないためなのです。それゆえに神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。良くない思いに引き渡され、そのために彼らは、してはならないことを平気でするようになってしまったのです。 いやそればかりではなく、それを行う者たちに心から同意さえしているのです。こうした罪に対して、神の怒りがどれほどのものであるかを想像することはそれほど難しいことではないでしょう。こうした不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正とに対して、神の怒りが天から啓示されているのです。

いったいどうしたら、この罪の現実から、救われることができるのでしょうか。このような人間の罪と悪は、身を修める修身教育や道徳教育くらいで解決できるものではありません。四国八十八箇所を巡礼したくらいで解決できるものではないのです。こうした罪と悪からきよめられ、神様の怒りを逃れることのできる唯一の道は、神の義であるイエス・キリストの血潮以外にはありません。ローマ人への手紙5章9節をご覧ください。

「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらです。」

私たちが罪に対する神の怒りから逃れる道は、イエス・キリストの血潮の他にはありません。ただ福音において啓示されている神の義だけが、私たちを罪の道、滅びの道から連れ戻す力を持っているのです。ですから、私たちはこのキリストの福音を信じなければなりません。

私たちは口癖のように「神様の恵みによって、死ぬしかなかった罪人が救われた」と言います。「驚くばかりの恵みなりき この身の汚れをしれる我に」と賛美します。イエス・キリストの十字架のゆえに罪が贖われて、神の子どもとされた感激をいつも味わいながら生きていますと、証して回りますが、しかし、これがことばだけであることが多いのです。多くのクリスチャンが、救われた後、自分がどれほどすばらしい身分に変えられたのかを知らずに過ごしているのです。それは、イエス様を信じる以前の自分がどれほど悲惨な者であったかを知らないことに起因しています。イエス様を信じる前の自分は、こうした罪のゆえに、神の御怒りによって滅ぶしかなかった者であったことがわかると、その救いの喜びと感謝を切実に感じるようになるのです。

あるクリスチャン夫婦の証を読みました。この夫婦は、非常に仲むつまじく、子供たちも健やかに育っていました。しかし、ある日夫人が体調を崩して、病院で診察を受けました。医師は病名を教えてくれず、ただ「家族を連れて来なさい」とだけ告げました。不安を抱えて夫とともに再度病院に行ってみると、がんにかかっていて回復の見込みは薄いことを告げられました。それはまさに青天の霹靂(せいてんのへきれき:急に起きる変動・大事件。また、突然うけた衝撃)でした。幸福な家庭に暗雲が立ち込めたのです。ご主人の居ても立ってもいられない姿が痛々しく見えました。子どもたちも勉強が手に着かない様子でした。しかしあるとき、家族が信仰をもって祈り始めました。みんなで早天祈祷会に出席して、神様に切に祈る家庭になりました。そこで涙とともに祈る姿は、すべての聖徒たちを感動させました。そして数日後、夫人は別の病院で再度診断を受けました。するとどうでしょう。何と誤診だったのです。夫人はがんではなく、単なる消化不良だったのです。  この出来事を契機に、この家庭はすっかり変わりました。いつでもすべてのことについて、神様に感謝し、家族を挙げて神様に献身するようになりました。いつも口を開きさえすれば神様の恵みを誇る家庭となりました。神様はすべてを働かせて益としてくださる方です。彼らはがんという死刑宣告をとおして、感謝と賛美に満ち溢れる信仰の家庭に変えられたのです。

私たちも、私たちの罪の現実の姿を見ることは、痛く、苦しいことでもありますが、こうした惨めな姿に直面してこそ、救いの喜びが大きくなるのです。不義をもって真理をはばんでいた人々のあらゆる不敬虔と不正とに対して神の怒りが天から啓示されていますが、神はイエス・キリストの血潮によって、そこから逃れる道を用意してくださったのです。これが福音です。であれば、私たちはこの福音を信じなければなりません。罪を悔い改めて、神に立ち返り、イエス・キリストの十字架の血潮を信じなければならないのです。そして、人間の本来の姿である上を向いて生きる生活、神を神としてあがめ、神を中心とした生活を始めていこうではありませんか。そのとき私たちはこの天から啓示されている神の怒りから救われ、感謝と賛美に満ち溢れた生涯を歩むことができるのです。

ローマ人への手紙1章16~17節 「救いを得させる神の力」

きょうは「救いを得させる神の力」というタイトルでお話したいと思います。きょうのところには、ローマ人への手紙全体の中心テーマが記されてあります。それは、救いを得させる神の力としての福音です。福音とは、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。きょうはこのことについて三つのポイントでお話したいと思います。まず第一のことは、福音は救いを得させる力であるということについてです。第二のことは、それを受ける手段についてです。それは信仰です。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力なのです。第三のことはその理由です。それは、この福音のうちに神の義が啓示されているからです。

Ⅰ.救いを得させる神の力(16)

まず第一に、福音は、救いを得させる神の力であるということについて見ていきたいと思います。16節のところでパウロは、「私は福音を恥とは思いません。」と言っています。この前のところで彼は、「私は、ギリシャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています」と、この福音のあまりものすばらしさのゆえに、この恵みはどうしても返さなければならない負債だと語ったのに、ここに来て、「私は福音を恥とは思いません」と、一見弱々しいように宣言しているのはどうしてなのでしょうか。彼の中に福音に対してどこか恥と感じるようなことがあったのでしょうか。そうではありません。実は、このように「福音を恥とは思いません」という言い方は、一見否定的に見えるような言い方ですが、実はこれは、逆に誇っている表現なのです。このように否定的に表現することによって、逆の事柄を強調しようとしたのです。たとえば、マルコの福音書12章34節には「あなたは神の国から遠くない」とありますが、これは、神の国にごく近いところにいるということを強調しているのです。同じようにパウロがここで、「私は福音を恥じとは思わない」と言ったのは、彼が福音をどんなに高く評価し、それを誇りとしていたかの表れであったわけです。これまで福音を語ったために彼がどんなにひどい目に遭ってきたかを思うとき、このローマ帝国の首都において福音を語ることがどんな苦難が伴うことなのかくらい十分承知していたはずです。それは軽蔑以外の何ものでもなかったでしょう。皇帝崇拝が盛んに行われ、皇帝の権力があらゆる形で誇示されていたこのローマでは、それに対抗しうるものなど何一つないかのように感じたことと思います。そのようなローマで福音を語ることはある意味で人を気おくれさせ、恐れおののかせ、気恥ずかしい思いを抱かせたことでしょう。しかしそうした中にあってパウロは、「私は福音を恥とは思いません」と言って、福音を誇ったのでした。いったいパウロはなぜそのように言うことができたのでしょうか。それはこの世の政治、経済、文化がどれほど偉大であり、光り輝いたものであっても、福音にはそれにまさる価値があることを、彼がよく理解していたからです。それは、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力だからです。ここに福音の価値がいかんなく言い表されていると思うのです。それは、この福音は神の力であるということです。それは単なる教訓とか、哲学、倫理ではなく、力なのです。それは、救いを得させる神の力です。

それにしても、パウロはなぜここで福音を力だと言ったのでしょうか。それは、この救いは罪からの救いのことだったからです。一般的に人は「救い」という言葉を聞くとき、それが病気や経済的なことからの救い、あるいは、その他私たちの人生において直面している問題からの救いであるかのように錯覚しがちですが、ここで言われている救いとは、そうした問題からの救いのことではなく、そうした問題も含めたあらゆる問題の根源である罪からの救いのことだったのです。そしてこの罪からの救いは、私たちの力でできるようなことではありません。悪魔の支配下に置かれている人間は、どんなに跳んだり跳ねたりしても、あるいは力をふりしぼって頑張っても、徹夜で本を読んで勉強しても、その縄目から自分を救い出すことはできないのです。人が罪から救われるためには、悪魔よりもはるかに強い力がある方に解放していただかなければなりません。それは神です。そのような罪の中にいる人間を救うことができるのは全能の神以外にはいないからです。皆さん、考えてみてください。人を動かすのは山を動かすよりも難しいと言われますが、自分でどんなに変わろう、変わろうと思っても、なかなか変わられないというのが現実なのではないでしょうか。

私はもう何年も牧師をしていますが、最も多く受ける質問は、「どうして私は変わることができないのか」というものです。「変わりたいと思っていても、どうしたら変わることができるかわからない。変わる力がない」ということなのです。皆さんにもそのような経験がおありでしょうか。私たちはよくセミナーや大きな集会に出かけて行き、自分の人生をその場で変えてくれるような方法を探しますが、それをしてもなかなか変わりません。私は健康維持のためにふと思い立って散歩を始めたりするのですが、二週間も経つと最初の決意はどこかへ消えてしまい、いつの間にか元通りになってしまいます。今、はまっているのはラジオ体操です。外に出るのは寒いので何かいい方法はないかと考えていたとき、どなたかがラジオ体操をやっていると聞いて、早速インターネットのユーチューブからダウンロードして時間の合間にやっています。これならどこにも行かなくても、自分の家で、好きな時にできるのでいなぁと思っているのですが、これだっていつまで続くかわかりません。すぐに元通りになってしまうかもしれません。変わるということは本当に難しいのです。時々、自己啓発の本を読んでみたりすることもありますが、問題は、そのような自己啓発の本は「何をすべきか」は教えてくれても、それを「実行する力」を与えてくれないことです。それらの本には「悪習慣を断ち切り、前向きになりなさい。否定的にならない」と教えられていますが、ではどうやったらそれができるかは教えてくれないのです。いったいどうしたら自分を変えることができるのでしょうか。どうしたら今の自分の殻を突き破ることができるのでしょうか。

ここにすばらしい知らせがあります。それは「福音」です。福音は、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力なのです。私たちが必要としているのはこの「力」ではないでしょうか。新約聖書の中には、この「力」という言葉は57回出てまいります。この言葉は、歴史上最も力強い出来事、そうです、イエス・キリストの復活の出来事を現すために使われています。人生において最も大切なことは、キリストを知り、キリストの復活の力を体験することです。この復活の力について、パウロは次のように言っています。

「また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。」(エペソ1:19~21)

この「力」と訳された言葉は、ギリシャ語の「デュナミス」(dunamis)という語ですが、これは英語の「ダイナマイト」(dynamite)の語源になっている言葉です。神の力は、今から二千年前にイエス・キリストを死の中からよみがえらせた復活の力であり、悪魔の要塞を完全に打ち破ることのできる力なのです。この神の力が私たちを悪魔とその罪の支配から救い出すことができるのであって、この神の力があらゆる問題に打ち勝つ力を与えてくださり、その人格を全く新しいものに造り変えることができるのです。この救いを得させる神の力が、私たちに差し出されているのです。それが福音です。

Ⅱ.信じるすべての人に(16)

ではどうしたらこのすばらしい神の力をいただくことができるのでしょうか。第二のことは、それは信仰によってであるということです。もう一度16節に注目してください。ここには、「福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」とあります。

ここで重要なのは、この神の力は、「信じるすべての人に」差し出されているということです。福音がどんなに力があっても、これを信じなければ救われることはできません。ある人はこう言うでしょう。「他宗教における救いの可能性も排除してはいけない」と。「分け登る 麓の道は多かれど、同じ高嶺の月を見るかな」ってあるように・・・。どの宗教を信じたって、結局、行き着くところはみな同じだというのです。しかしこれは大うそです。十字架につけられて死なれ、三日目によみがえられたイエス・キリストを信じること以外に救いはありません。このメッセージを放棄してはいけないのです。もしこれを放棄したら、それはもうキリスト教とは言えないからです。何を信じても同じだというのは一見、心が広い人であるかのように見えますが、それは真理ではありません。なぜなら、聖書は次のようにはっきりと言っているからです。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒4:12) 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

あるいは、このように言われる方もおられるでしょう。「あの人が救われるのなら、私はあの人よりももっとましな人間だから絶対救われるはずだ。」と。あるいは、「世の中の人たちはみんな罪を犯しているが、私はそんなに大きな罪を犯しているわけではないから、天国に行けるはずだ。私が行けなかったとしたら、あと誰が行けると言うのだ・・・。」と。しかし、誤解しないでください。天国は、相対的なものではありません。他の人と比較してどうなのかではなく、絶対的な神様の目で見てどうなのかということです。ほかの人と比較して少々善良であってもなくても、それは沈んでいく船の客室で、大きく揺れる絵の額を見比べて、どれが一番傾いているかを論じるのと同じで、全く的外れなことです。沈没するのは同じなのです。百人中二十人が天国に行けて、八十人は落第して地獄に行くというものではありません。信じて従うならすべての人が天国に行けるし、罪を悔い改めないでイエス・キリストを信じないなら、すべての人が地獄に行ってしまうのです。

あるいは、私たちの中には、一生懸命に良いことをしたら天国に行けると思っている人も少なくありません。つまり、自分がたとえ40くらいの罪を犯しても、60くらいの功績を積めば20ポイントもプラスなんだから、天国に行けるはずだと考えてしまうのです。しかし、これも間違いです。神様は、私たちがどれだけ良いことをしたかではなく、私たちの罪が清められているかによって決められるのです。もし少しでも罪があるなら、全く聖い神様は、私たちを受け入れることはできないのです。そうでしょ。たとえば、きれいに透き通っていて、どんなに美味しそうな水でも、そこにほんの少しだけねずみの糞が入っていたら飲めますか。99%清くても、1%汚れているだけで全部捨てるように、ある程度清いから天国に行けるということではないのです。

ならば、いったいだれが天国に行くことができるでしょうか。だれもいません。私たちは生まれながらに罪人であって、不完全な者なのだから、完全に聖くなることなどできないからです。しかしあわれみ豊かな神様は、その罪を赦し、全く罪のない者としてくださるために、ひとり子イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。この方を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。この方が私たちの罪を背負って十字架で死んでくださったことにより、この方を信じる者の罪はすべて洗い流されるのです。

「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ1:18)

「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」(イザヤ4:22)

皆さん、私たちがキリストを信じたそのとき、それまでかすみのようにかかっていた罪がすっかりぬぐいさられるのです。神様がキリストによってその罪を贖ってくださるからです。私たちの罪が赦され、天国に行くことができるのは、ただこの救い主イエス・キリストを信じる以外にはありません。イエス・キリストを信じるなら、だれでも、どんな人でも救われるのです。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力なのです。ですから、聖書は一貫して、「ただ信ぜよ。さらば救われる」と言っているのです。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)ただ信仰によって、この救いを受けることができるのです。

Ⅲ.神の義は福音のうちに(17)

ではなぜ福音を信じるだけで救われるのでしょうか。それは神の義がこの福音の中に啓示されているからです。最後にこのことについて見ていきましょう。17節をご覧ください。

「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」

ここで注目したいことは、この福音の中に「神の義」が啓示されているということです。福音のうちに神の義が啓示されているとは、どういうことなのでしょうか。実は、この「神の義」こそ聖書全体の重大なテーマであって、これを曖昧にすると、聖書で本当に言わんとしていることがつかめなくなってしまいます。それほど重大な事柄です。これがすべての根底にあるといってもいいでしょう。たとえば、皆さんは神はどのようなお方ですかと尋ねられたとしたら、いったい何と答えるでしょうか。神は愛ですと答えるでしょう。しかし、その愛とは、実は、この義に基づいたものであって、私たちが考えるようなセンチメンタルなものではありません。ですから、神はどのようなお方ですかと問われたら、その第一のご性質は「義なる方」となるのです。神は義なる方、全く正しい方です。ここからすべてが発しているのです。ですから、救いということを考える時にも、単に肉体の癒しとか、問題の解決といった御利益が中心なのではなく、罪からの救いということが中心になるわけです。

ところで、ここで「神の義が啓示される」とありますが、これはどういう意味なのでしょうか。これは神が定められた律法の要求に対する人間の正しい関係を意味しています。人はだれも自分の力によって義と認められません。神が要求している律法を完全に行う人など一人もいないからです。ではどうしたらいいのでしょうか。ですから、神様はこの世にキリストを送ってくださったのです。それは私たちの義ではなく、この神のひとり子であられるキリストの完全な服従に基づいた義をいただくためです。神の律法の要求を完全に行うことができるキリストが、私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかって死んでくださったことによって、この方を信じるなら、私たちの中にその神の義が全うされるようになったというのです。私たちはこのキリストによって、神と正しい関係を持つことができるわけです。

では、「その義は、信仰に始まり信仰に進ませる」とはどういうことなのでしょうか。これは神との正しい関係が、信仰によって始まり、信仰によって完成されるという意味です。これは今に始まった新しい教えではなく、実は、旧約聖書の時代から一貫して流れていた真理でした。その一つの例が、「義人は信仰によって生きる」ということばです。これは旧約聖書のハバクク書2章4節からの引用ですが、イスラエルにカルデヤ人が侵略してきた時、そのような国家的危機の中で、預言者ハバククが語った言葉です。彼はその時何と言ったかというと、主に拠り頼む者は勝利を得ると言いました。一生懸命に武器を作り、どうしたら勝てるかと戦略を練れば勝利できるのではなく、主に拠り頼むことによってのみ勝利することができると言ったのです。義人は信仰によって生きるとはそういう意味です。神との正しい関係はこの信仰によってのみ得ることができ、また信仰によって全うすることができるのです。

皆さん、私たちは自分はできると思いがちです。そして、救われるために自分で何とかしようともがきます。ある面でそれは大切なことでしょう。しかし、このような努力やがんばりだけでは、私たちの人生を破壊し、破滅に陥れるこの罪から救い出すことはできません。この罪の前には、私たちは何もすることができないのです。全く無力なのです。私たちができることはただ一つ。それは受けることです。十字架で死なれ、三日目によみがえられて、死に勝利された復活の力を受ける以外にないのです。

ある家族が賭博で無一文になってしまいました。家中の財産をすっかり失ってしまったのです。賭博というのはどうも伝染するのか、この家はおじいちゃんが賭博で破滅しかと思ったら、お父さんも賭博師として家を潰してしまったのにもかかわらず、息子まで賭博をするようになったのです。息子自身もそのことをよく知っていて、「祖父は賭博で破滅した。親父も賭博のために人生を棒にふった」と言っていたそうです。それなのに賭博をやめることができませんでした。この息子は教会に通い始めると、悲壮な覚悟を決め、牧師の前で何と斧で手の指を全部切手しまったそうです。「これで二度と賭博はしない」と雄々しく決心したのですが、その覚悟も長続きはせず、彼は再び賭博を始めてしましいました。指のない手でどうやってしたのか?何と足の指に花札をはさんで賭博をしたのです。これが罪の力です。これほどの罪の力を、いったいどうやって断ち切ることができるのでしょうか。イエス・キリストです。私たちにはできないことを神はしてくださいました。神はキリストをこの世に送り、十字架につけてくださって、この方を信じる者をみな、許してくださると約束してくださったのです。このイエス・キリストの血潮がなければ、誰一人、罪の力を断ち切ることはできません。私たちはただその十字架で死なれたイエス様が自分の救い主であると信じ、この方にお頼りして、忠実に生きさえすればよいのです。福音こそ、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力だからです。

地上においた船をどんなに動かそうとしても、動かすことはできません。屈強な男たちが十人か二十人かかっても、1トンの船さえ動かすのは用意なことではありません。しかし潮が満ちて船が浮くと、幼子がちょっと押しただけでも動くようになります。神様が御業を行われる方法とは、まさにこのようなものです。自分の力、才覚でやろうとするのではなく、「神様、どうぞ恵みの水を送ってください。そしてこの困難を乗り越えさせてください」と主にしがみついて、重荷をゆだねるとき、私たちの取るに足らない力でも悠々と船を動かすことができる、驚くべき不思議に人生が転回し始めるのです。義人は信仰によって生きる。皆さんもキリストを信じる信仰によって、そのような世界を生きることができますように。