ルカの福音書1章5~23節 「あなたの願いは聞かれた」

きょうはアドベント第三週です。もうすぐキリストの降誕を迎えますが、聖書はイエスの誕生の前にもうひとりの人の誕生のことを詳しく記しています。それはバプテスマのヨハネという人の誕生です。ヨハネとは「主は恵み深い」という意味です。きょうはこのヨハネの誕生の経緯を通して、主がいかに恵み深い方なのかをご一緒に見ていきましょう。

 

Ⅰ.神が働かれるとき(5-7)

 

まず、5節から7節までをご覧ください。ルカは、イエスの誕生に先駆けてヨハネの誕生から物語を書き始めています。時代は、ユダヤの王ヘロデの時です。このヘロデとはヘロデ大王のことで、紀元前37年から紀元後4年までユダヤ全体を支配していた王でしたが、この王はとんでもない王で、ユダヤに別の王が生まれたと聞くと、それが霊的な王であることも知らずに、非常に恐れその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させたほどです。このようにヘロデの時代はイスラエルの歴史において最も悲劇的な時代でした。そのような時代にイエスが生まれたのです。そしてその六か月ほど前に、その先駆者であるヨハネが生まれました。その経緯はこうです。

 

ザカリヤは神に仕える祭司で、「アビヤの組」に所属していました。アビヤの組というのは、その昔ダビデが祭司を組織するためにそれを二十四組に編成したその組の一つで(Ⅰ歴代誌24:10)、祭司たちは、このような組織によってその務めを行っていたのです。

 

一方、妻のエリサベツもアロンの子孫でした。アロンの子孫ということは祭司の子孫ですから、彼らは同じアロンの子孫同志で結婚したことになります。そうすることによって、祭司職の尊厳さを保ち、その純潔さを汚さないようにと考えたのでしょう。

 

ルカは、この二人がどのような者であったのかその人となりを6節で次のように言っています。「ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落ち度なく踏み行っていた。」主のすべての戒めと定めとは神の御言葉のことです。彼らは御言葉をよく学び、御言葉に従って生きていたのです。

 

しかし、そんな二人ではありましたが、彼らにも問題がなかったわけではありません。エリサベツは不妊の女で、ふたりとも年をとっていましたが、子どもがありませんでした。「年をとっていた」の直訳は、「腰が曲がっていた」になります。もう腰は曲がり、髪の毛は白髪になっている状態でした。今でこそ、子どもがいなくてもあまり問題ではありませんが、当時のユダヤ人の社会では大変なことでした。ユダヤでは子どもに恵まれないのはその両親に何か責められるところがあるからだと考えられていたからです。ふたりは神の前に正しく、主のすべての戒めと定めとを落ち度無く踏み行っていたのに、普通の人たちに与えられるはずの子どもが与えられていなかったということで、どんなに辛い思いをしていたことかと思います。人に対して、どこか恥ずかしい思いがあったかもしれません。それで子どもが与えられるようにと熱心に神に祈ってきたのでした。

 

他の人以上に、熱心に神を信じ、神に仕えていながら普通の人には与えられている普通の恵みが与えられないことで、辛い思いをしている人は少なくありません。そこにも神のご計画があるとしたら、いったいそれはどんな計画なのでしょうか。しかし、そんなふたりを通して、人類の歴史を二分するイエス・キリストの道を備える神の器、バプテスマのヨハネが誕生したということを思うとき、確かにそこにも深い神のご計画があったことを知ることができます。神様はそのような状況のすべてを支配し、ご自身の栄光のために用いておられたのです。

ヨハネの福音書1章5節には、「光はやみの中に輝いている」とあります。まさに光はやみの中に輝いているのです。やみが暗くなればなれほど光は輝きを増します。私たちの周りがどうであろうと、また、私たち自身にどんなやみがあろうとも、光はそのやみの中で輝いているのです。どうかこのことを忘れないでください。どんなに神に祈っても答えられないような沈黙の時にも、光は輝いているのです。

 

ノートルダム清心女学院の渡辺和子さんは、「置かれた場所で咲きなさい」という本を書かれましたが、それがどのような場所であっても、置かれた場所で咲くことが大切だと言っています。結婚しても、就職しても、子育てをしても、「こんなはずじゃなかった」と思うことが、次から次に出てきますが、そんな時でも、その状況の中で「咲く」努力をしてほしいというのです。雨風が強い時、日照り続きでどうしても咲けない時には無理に咲こうとしなくてもいいのです。そういう時には、下へ下へと根を降ろし、次に咲く花が、より大きく、美しいものとなるように備えればいいのです。神のなさることには全く無駄なことはなく、一つ一つのことが覚えられているのです。

 

まさにザカリヤとエリサベツ夫妻は、置かれた所で咲きました。「こんなはずじゃなかった」と思えるような現実の中でも、神を信じ、神の道に歩んだのです。

 

Ⅱ.祈りは聞かれた(8-17)

 

イエスの誕生より六か月先に生まれたヨハネは、イエスの道を備えるという使命をもって生まれてきました。その誕生の経緯はこうです。8節から17節までをご覧ください。

 

ザカリヤは祭司だったので、自分の組が当番に当たると、神殿に入ってその務めをしました。当時は、2万人くらいの祭司がいたので、組ごとに、順番に、神殿で奉仕をすることになっていましたが、それは年に2週間の周期で回ってきました。そして、神殿の奉仕においてだれが、何をするかはくじで決められていました。ザカリヤがくじを引いたところ、彼は神殿に入って香をたくことになりました。これは、とても名誉ある奉仕です。というのは、それは、民に代わって、神に祈りをささげることを象徴していたからです。ですから、ザカリヤが香をたく間、大ぜいの民もみな、外で祈っていました。実に、神の民は祈りの民です。神にささげられる最も大いなる奉仕は、神への祈りなのです。その祈りの中で、神はご自身を表してくださるからです。

 

ザカリヤの場合はどうだったでしょうか。11節をご覧ください。彼が神殿で祈っていたとき、主の使いが彼に現れて、香壇の右に立ちました。この主の使いとは19節を見ると、「ガブリエル」という名の御使いであったことがわかります。「ガブリエル」とは「メッセンジャーボーイ」という意味で、神からのメッセージを伝える働きをする御使いのことです。この御使いが現われると、ザカリヤにこう言いました。

 

「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、多くの人もその誕生を喜びます・・」(13節)

 

この時、いったい彼は何を恐れていたのでしょうか。どんなことで不安を覚えていたのでしょうか。恐らく自分の身に何が起こっているのかを理解することができず不安を覚えていたのでしょう。ザカリヤは神の御前に正しく、また非難されることのない者でしたが、それでも自分に何か落ち度があると思ったのかもしれません。そんなザカリヤに対して御使いはこのように言いました。

「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。」

 

皆さんの中で不安を覚えていらっしゃる方はいらっしゃいますか。恐怖に襲われている方はおられるでしょうか。そういう方はどうぞ安心ください。主があなたの願いを聞かれたのです。ザカリヤの願いとはどのようなものだったでしょうか。それは子どもが与えられることです。彼らは若い時から「子どもを下さい」、「子どもが欲しいです」と祈っていたにもかかわらず、与えられませんでした。1年経っても、2年経っても、何年経ってもエリサベツのお腹に子どもが身ごもることはありませんでした。でも彼らはあきらめずにずっと祈り続けていたのです。祈りは信仰の現われです。彼らは不信仰な世の中に生きていても、祈り続ける祈りの人でした。彼は一生涯一つの祈りの課題のためにずっと祈り続けていたのです。人間は本質的によく忘れるものです。もし、何も忘れないとしたら、過去の不幸な記憶やいやな記憶がいつもよみがえってストレスがたまって死んでしまうでしょう。だから忘れることもいいのです。なかなか名前を思い出せないという方も、心配しないでください。しかし、ザカリヤは一生涯忘れませんでした。彼は自分に子どもを与えてくださいとずっと祈り続けてきたのです。そして、神はその祈りを聞いてくださいました。「枯れた木に花が咲く」ということわざがありますが、この老夫婦が子どもを求めて祈った祈りが聞かれたのです。そして、その子は産まれる前から男の子であるとわかっており、名前もヨハネと決められていました。ヨハネとは、主は恵み深いです。まさに主は恵み深い方なのです。

 

こんなことが本当にあるのか、これは単なる昔話ではないか、と思われても仕方がないような話です。しかし、人には不可能に見えることであっても、神にはどんなことでもできます。神は全能者であられるからです。聖書の神こそ、いのちの源なる方であると信じている人にとっては、この話はそのまま受け取れるわけです。人には無理だ、不可能だと思えことが、現実となっている話は聖書に数多く記されてあります。そして、聖書以外にも、生きた信仰の証として多くのクリスチャンが体験していることでもあるのです。

 

19世紀にイギリスに生きたジョージ・ミュラーは、まだ救われていない人のために何年も祈り続けたと言われています。

1866年のことですが、彼がずっと祈ってきた人の中で6人の人が救われたそうです。そしてその中の一人の方のためには20年以上も祈り続けていました。その祈ってきた6人の人たちが、1866年の最初の六週間のうちに次から次にイエス様を信じて救われたのです。  また他にも、彼はまだ救われていない人のために祈っていました。健康な時でも、病の床に伏している時でも、旅をしている時でも祈り続けました。どんなに説教の依頼が山積みになっている時でも、この祈りを忘れたことは一日もなかったそうです。  すると、この5人のうち、一年半後に最初の人が救われ、次の人が救われたのは何と5年後のことだったそうです。そしてそのことを神に感謝し、さらに残る3人のために祈り続けると、さらに6年後に3人目の人が救われました。彼はそのことを心から神に感謝して賛美しながら、さらに残る2人が救われるために祈り続けましたが、この二人はなかなか霊的に頑固でイエス様を信じる気配がありませんでした。ミューラーが祈り始めてから36年が経っても、二人はまだ救われていませんでした。しかしミュラーは、「祈りの力」という本の中にこう書いているのです。「しかしそれでもなお私は神に望みを置いて祈り続けているのです。」  そして、その本を書いた後、残る2人の内の1人は、ミュラーの死の直前に救われ、最後の1人が救われたのは、何とミュラーの死後のことだったそうです。しかし、このようにして彼が祈った祈りはすべて答えられたのです。だからおそれることはありません。神はあなたの祈りを聞いてくださるからです。

 

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」

(Ⅰヨハネ5:14)

 

神様はあなたの願いも忘れることはありません。何事でも神のみこころにかなった願いをするなら、神は必ずその願いを聞いてくださるということ、それこそ、私たちの神に対する確信なのです。

 

ところで、このヨハネは何のために生まれてくるのかが14節から18節までに記されてあります。

「その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。彼は主の御前にすぐれた者となるのです。男の子だけでなく、神に用いられるすぐれた器となります。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、そしてイスラエルの子らを、彼の神である主に立ち返らせます。彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子に向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」

 

自分は何のためにこんな辛い思いをしなければならないのか。自分は何ために生まれてきたのか。そんなことを思ったことはありませんか。何のために、何のためにと、なぜ人はそのように問うのでしょうか。そういう疑問が沸いてくるのは、そこに何らかの理由があるからです。何らかの理由があるからこそ、そういう漠然とした思いが時折起こってくるのだと思います。

そして、ここで考えてみたいことは、このバプテスマのヨハネは何のために生まれてきたのかということです。彼はまだエリサベツのお腹にも宿っていない段階で、その性別のこと、名前のこと、その子はどういう使命をもって生まれてくるのかについて、かなり詳しく知らされていました。

皆さんはどうでしょう。皆さんが生まれることについて、どこまで自分の選択や意志決定があったでしょうか。自分はあの親から生まれよう、この親の方がいいと、いろいろ考えて親を選んで生まれてきた人はいません。どの国で生まれようか、あの国にしようか、この国にしようかと、国籍を自分で選ぶこともできませんでした。男に生まれよう、女に生まれようと、自分で決めた人もいないのです。

自分に関する極めて重要なそれらのことについて、すべては偶然であり、たまたまのことだったのでしょうか。とすれば、この人生にいったいどんな意味があるというのでしょう。この人生に意味や目的があると思っている人たちと、そうではなく、これは偶然のことであって、何の意味もないと思っている人たちとでは、その生き方に大きな違いが出てきます。

ヨハネの誕生から教えられることは、神は、生まれる前からヨハネのことを知っておられただけでなく、何のために生まれてくるのか、その人生の使命や目的についても知っておられたということです。これはすごいことだと思います。あなたや私の場合はどうでしょうか。そこにも神の使命や目的があるはずです。それを知っているなら、あなたの人生もただ何となくではなく、その使命や目的に向かって大きく前進していくのではないでしょうか。

 

ヨハネはイエスの半年ほど前に生まれましたが、彼にはイエスのために道を備えるという使命が与えられていました。そして、その使命を全うして、彼は死んでいきました。「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」と、彼はその使命を全うして死んでいったのです。彼にとって大切なのは自分ではなく、あの方でした。彼が指し示したお方、イエス・キリストだったのです。ですから、彼は衰えても、彼は殺されても、全く問題ではありませんでした。なぜなら、彼の人生の目的はイエス・キリストだったからです。何と幸いな生き方でしょうか。私たちは時として、自分自身に執着するあまり、自分の思うように物事が進まないと、イライラして人を呪ってみたり、悲観的になったりしがちですが、彼は自分の人生の使命をちゃんと知っていたので、その使命に生きることができたのです。

 

あなたも私も、自分の命やこの人生を自分の力と努力によって手に入れたわけではありません。もし、あなたの人生が誰かから与えられたものであるなら、与えてくださった方の側に何かの目的や計画があるのです。その目的や計画は、ひとりひとり違いますが、それがどのような目的であるにせよ、大切なのはキリストであることを覚え、ヨハネのような人生を全うさせていただきたいと思うのです。

Ⅲ.その時が来れば実現する(18-23)

 

最後に、18節から23節までをご覧ください。主の宮で祈っていたザカリヤに主の使いが現われると、驚くようなメッセージを告げました。するとザカリヤは何と言ったでしょうか。「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」

 

どういうことでしょうか。ザカリヤは祈りの人でした。彼は神様が歴史の中で主権的に働いておられることを信じていました。しかし、彼は祈りが聞かれた時、あまりにもうれしかったのか、あるいは、よく考えてみたらそんなことが起こるはずがないと人間的になってしまったのか、信じられませんでした。子どもが生まれるのには、自分たち夫婦はもう年を取りすぎていると言っているのです。何ですか、今まで必至にそのために祈ってきたのに、いざ祈りがかなえられると、「うっそお」なんて言うのです。

 

たとえば、初代教会でもそういうことがありました。牢に捕らえられていたペテロのために教会は熱心に祈っていたのに、主の奇跡によって彼がそこから解放され、自分のために祈っていた仲間たちの所に行って戸をたたくと、ロダという女中が出て来て、「あなたはだれですか」と言うので、「ペテロです。」と答えると、「うそっ」なんて言って、戸を開けるのも忘れて、奥へ駆け込み、ペテロが門の外に立っていることを仲間に知らせたのです。そのために祈っていたはずなのに。

 

主が言われることは、普通の常識からすれば、まったく非常識なことでした。主に仕えるザカリヤにとって、神のみことばを信じて受け取ることは、自分の長年身につけてきた知識や人生経験のすべてが否定されると思えるほどのことだったのです。

 

皆さん、信仰とはどういうことでしょうか。神を信じるといっても、そう簡単ではありません。けれども、学歴や家柄、年齢やお金の有る無しに関わらず、子供でも大人でも単純に神の言われることを信じるという、この信仰を持つことはできるのです。

 

ザカリヤは信じなかったので、これらのことが起こるまで、すなわち、ヨハネが生まれるまで、ものが言えず、話せなくなりました。それは、神のことばを信じなかったザカリヤに対する神のさばきでもあります。年老いた夫婦から子どもが生まれることについて私たちは信じられません。しかし、そのことについて神が約束しておられることばは信じなければなりません。それは私たちが主なる神を信じているからです。

 

信仰について学ぶ人には、この違いは重要です。聖書の信仰とは何でも疑わずに信じるということではありません。聖書を通して語られている神のみことばを信じることが求められているのです。神が語られたことばは、時が来れば、必ず実現するのです。

 

その後、妻エリサベツはみごもり、五か月の間引きこもっていました。この五ヶ月間の隠遁生活を通して神様は全能の方であるという結論に至り、こう言いました。「主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました。」  高齢出産と言っても、エリサベツほどの年で子どもを産んだ人がいるでしょうか。彼女は身ごもって五か月間、身を隠すかのようにしていました。これは本当に人の力ではないことは、ザカリヤとエリサベツ夫婦が一番わかっていたことでしょう。それだけにエリサベツは、主が自分のことを心にかけてくださった、長い年月の恥を取り去ってくださったと言ったのです。ほぼあきらめていた彼女にとって、それはどんなに大きな喜びとなり、慰めとなったことでしょう。

 

主なる神は、あなたのことも覚えておられます。ザカリヤという名前は、「主は覚えておられる」という意味です。何歳になっても、主は彼との約束を覚えておられたように、あなたのことも覚え、気にかけてくださっておられるのです。問題は、それが早いか、遅いかということであって、主のことばは、その時が来れば必ず実現します。やがてザカリヤは御使いが言われたとおり、その名は「ヨハネ」だと板に書き記した瞬間、元のようにしゃべることができましたが、そのとき彼は、「ああ、主はわたしのような者にも目を留めてくださった」と心から感謝することができたことでしょう。あなたにもそのように言える時が必ず訪れるのです。

申命記28章

申命記28章から学びます。まず1節から14節までをご覧ください。モーセは、27章において、イスラエルの12部族のうち6つの部族をイスラエルの民を祝福するためにゲリジム山に立たせて、残る6つの部族をイスラエルの民をのろうためにエバル山に立たせました。そして、どのような者が呪われるのかを述べた後で、ここから逆に、どのような者が祝福されるのかを語っています。

 

 1.あなたは祝福される(1-14

 

「もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行なうなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。あなたは、町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。あなたの身から生まれる者も、地の産物も、家畜の産むもの、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も祝福される。あなたのかごも、こね鉢も祝福される。あなたは、はいるときも祝福され、出て行くときにも祝福される。」

 

まず1節から6節までをご覧ください。1節と2節には、「もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行なうなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。」とあります。ここには、神の祝福を受ける条件が述べられています。それは、「あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行なうなら、」であり、また、「あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので」ということです。主の命令に従うなら、主は、地のすべての国々の上に彼らを高く上げ(1)、彼らがどこにいても(3)祝福されます。それは彼らの子孫ばかりか、地の産物も、家畜も、すべてが祝福されるのです(4-5)。6節の「あなたは、入るときも祝福され、出て行く時も祝福される。」とは、日常の生活のどんな時においてもという意味です。いつも祝福されるのです。

 

次に7節から14節までをご覧ください。

「主は、あなたに立ち向かって来る敵を、あなたの前で敗走させる。彼らは、一つの道からあなたを攻撃し、あなたの前から七つの道に逃げ去ろう。主は、あなたのために、あなたの穀物倉とあなたのすべての手のわざを祝福してくださることを定めておられる。あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたを祝福される。あなたが、あなたの神、主の命令を守り、主の道を歩むなら、主はあなたに誓われたとおり、あなたを、ご自身の聖なる民として立ててくださる。地上のすべての国々の民は、あなたに主の名がつけられているのを見て、あなたを恐れよう。主が、あなたに与えるとあなたの先祖たちに誓われたその地で、主は、あなたの身から生まれる者や家畜の産むものや地の産物を、豊かに恵んでくださる。主は、その恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それであなたは多くの国々に貸すであろうが、借りることはない。私が、きょう、あなたに命じるあなたの神、主の命令にあなたが聞き従い、守り行なうなら、主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない。ただ上におらせ、下へは下されない。あなたは、私が、きょう、あなたがたに命じるこのすべてのことばを離れて右や左にそれ、ほかの神々に従い、それに仕えてはならない。」

 

引き続き、神の民が享受する祝福が述べられています。7節では、戦争における勝利が、8節では、すべての手のわざが祝福されるとあります。9節と13節では再び祝福の条件として、主の命令を守り、主の道を歩むなら、また、主の命令に聞き従い、それを守り行うなら・・・とあります。このように何度も繰り返して条件が述べられているのは、それがとても重要なことだからです。これを抜きに祝福はありません。しかし、これを守り行うなら、彼らが想像していた以上の祝福が彼らに臨むというのです。10節をご覧ください。あらゆる民族は、イスラエルの民には神の名がつけられているのを見て、恐れるようになるとあります。イスラエルは四国ほどの面積しかない小さな国ですが、世界に及ぼしている影響を考えると、まさしくこの預言が成就していると言えます。そして、イスラエルの民は、豊かな神の祝福の中で、多くの国々に貸すことはあっても、借りる必要がない豊かな民族となると述べられています。あなたもこのような祝福を受けたいと思いませんか。神のみことばに従うなら、あなたにもこのような祝福が臨むのです。

 

2.契約を破った時の呪い(15-48

 

次に、15節から48節までをご覧ください。まず15節から19節までをご覧ください。

「もし、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行なわないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。あなたは町にあってものろわれ、野にあってものろわれる。あなたのかごも、こね鉢ものろわれる。あなたの身から生まれる者も、地の産物も、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊ものろわれる。あなたは、はいるときものろわれ、出て行くときにものろわれる。

 

もし、イスラエルが神の御声に聞き従わず、命令とおきてとを守らなければ、神ののろいが彼らに臨みます。その神ののろいとは、ちょうど祝福の時と対照的です。36節と1619節を比べてみてください。ちょうど対照的にのろいが臨むと言われています。

モーセは、神の律法が守られない場合、祝福の六倍も多いのろいの項目を列挙しています。すなわち、神の怒りが不従順なイスラエルの民の上に臨むのです。国家的なことであれ、個人的なことであれ、神の命令に従わなければ神ののろいを招くことになるのです。

 

次に、20節から24節をご覧ください。ここには、神に従わない者に対する多様な神ののろいが挙げられています。

「主は、あなたのなすすべての手のわざに、のろいと恐慌と懲らしめとを送り、ついにあなたは根絶やしにされて、すみやかに滅びてしまう。これはわたしを捨てて、あなたが悪を行なったからである。主は、疫病をあなたの身にまといつかせ、ついには、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地から、あなたを絶滅される。主は、肺病と熱病と高熱病と悪性熱病と、水枯れと、立ち枯れと、黒穂病とで、あなたを打たれる。これらのものは、あなたが滅びうせるまで、あなたを追いかける。またあなたの頭の上の天は青銅となり、あなたの下の地は鉄となる。主は、あなたの地の雨をほこりとされる。それで砂ほこりが天から降って来て、ついにはあなたは根絶やしにされる。」

 

神ののろいはまず肉体的な病気として現れるということが、21節と22節前半で述べられています。ヨハネの福音書9章で、弟子たちが生まれつき目が見えない人がそのようにして生まれてきたのはだれの罪のせいかとイエスに問うたのは、このような背景があったからです。しかし、幸いなことは、たとえ罪の結果そのような病を受けても、主はそれをご自身の栄光に変えて下さるということを思うとき、たとえ病気になっても主に従うことの大切さを覚えます。そうすれば、罪のゆえに受けた不幸さえも、神の栄光が現される機会として用いられることがわかります。

 

人間の罪はこうした病気ばかりでなく、地の産物にも影響を及ぼします。22節の「水枯れ」と「立枯れ」とは、地の産物に現れる災害としての慣用句です(Ⅰ列王8:37、Ⅱ歴代6::28、アモス4:9、ハガイ2:17)。これらは砂漠から吹き込む熱くて乾いた東風の結果であり、反対に黒穂病とは、高温多湿の熱い気候によって腐る災害です。どちらにしても、地が産物を生産しなくなることを表しています。

 

次に25節から37節までをご覧ください。

「主は、あなたを敵の前で敗走させる。あなたは一つの道から攻撃するが、その前から七つの道に逃げ去ろう。あなたのことは、地上のすべての王国のおののきとなる。あなたの死体は、空のすべての鳥と、地の獣とのえじきとなり、これをおどかして追い払う者もいない。主は、エジプトの腫物と、はれものと、湿疹と、かいせんとをもって、あなたを打ち、あなたはいやされることができない。主はあなたを打って気を狂わせ、盲目にし、気を錯乱させる。あなたは、盲人が暗やみで手さぐりするように、真昼に手さぐりするようになる。あなたは自分のやることで繁栄することがなく、いつまでも、しいたげられ、略奪されるだけである。あなたを救う者はいない。あなたが女の人と婚約しても、他の男が彼女と寝る。家を建てても、その中に住むことができない。ぶどう畑を作っても、その収穫をすることができない。あなたの牛が目の前でほふられても、あなたはそれを食べることができない。あなたのろばが目の前から略奪されても、それはあなたに返されない。あなたの羊が敵の手に渡されても、あなたを救う者はいない。あなたの息子と娘があなたの見ているうちに他国の人に渡され、あなたの目は絶えず彼らを慕って衰えるが、あなたはどうすることもできない。地の産物およびあなたの勤労の実はみな、あなたの知らない民が食べるであろう。あなたはいつまでも、しいたげられ、踏みにじられるだけである。あなたは、目に見ることで気を狂わされる。主は、あなたのひざとももとを悪性の不治の腫物で打たれる。足の裏から頭の頂まで。主は、あなたと、あなたが自分の上に立てた王とを、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった国に行かせよう。あなたは、そこで木や石のほかの神々に仕えよう。主があなたを追い入れるすべての国々の民の中で、あなたは恐怖となり、物笑いの種となり、なぶりものとなろう。

 

神の命令を守らない結果、戦争に敗北するのろいを受けます。彼らが神の命令を守った時に与えられた祝福は勝利でしたが、守らない時には正反対の結果がもたらされます。ここで言われている七つの道に逃げ去るとは、完全な敗走を意味しています。また、彼らの死体は葬式を執り行うことも出来ず、空の鳥と地の獣のえじきとなります。これは最も恥ずべき死を意味しています。27節の「エジプトの腫物と、はれもの」とは、エジプトでよく知られていたらい病ではないかと考えられています。28節には、「気を狂わせる」とか、「気を錯乱させる」とありますが、精神的におかしくなることを意味しています。結局のところ、盲人が暗やみで手探りするように、進むべき方向性を見失い、解決策がないまま、彷徨いながら生きることになるのです。

 

30節からは、人間が体験するのろいの項目が列挙されています。婚約した女が取られる。建てた家が住めなくなる。ぶどう畑を作っても、収穫がない。自分の家畜がほふられても、自分は食べることができない。自分で労苦しても、報いどころかマイナスになるというのです。しかも、このようになってもだれも助ける者がなく、自分でもどうすることもできません。常に略奪と圧制が行われるのです。それに加えて足の裏から頭のてっぺんまで、悪性の腫物で打たれます。あたかも、ヨブが体験した疾病を想起させます(ヨブ2:7)。神ののろいは、「これでもか、これでもか」と、徹底的に臨むのです。

 

36節と37節は、イスラエルの民が離散することの預言です。イスラエル人たちが、異邦人の国に住み、その中で、彼らが恐怖となり、物笑いとなり、なぶりものとなります。これは、文字通り、祖国を失い離散の民となったユダヤ人において、実現しました。ユダヤ人がいるところに、どこにでも反ユダヤ主義がありました。ユダヤ人であるという理由で、憎まれ、あざけりを受け、また脅威に見られました。これは、彼らが神の命令に聞き従わなかったからです。

 

次に38節から44節までをご覧ください。

「畑に多くの種を持って出ても、あなたは少ししか収穫できない。いなごが食い尽くすからである。ぶどう畑を作り、耕しても、あなたはそのぶどう酒を飲むことも、集めることもできない。虫がそれを食べるからである。あなたの領土の至る所にオリーブの木があっても、あなたは身に油を塗ることができない。オリーブの実が落ちてしまうからである。息子や娘が生まれても、あなたのものとはならない。彼らは捕えられて行くからである。こおろぎは、あなたのすべての木と、地の産物とを取り上げてしまう。あなたのうちの在留異国人は、あなたの上にますます高く上って行き、あなたはますます低く下って行く。彼はあなたに貸すが、あなたは彼に貸すことができない。彼はかしらとなり、あなたは尾となる。」

 

ここでも彼らの罪によって、地がのろいを受けるようになると警告しています。彼らが畑に多くの種を蒔いても、少ししか収穫できず、ぶどう畑を耕しても、ぶどう酒を飲むことも、集めることもできません。いなごが、虫がそれを食べてしまうからです。彼らの領土の至るところにオリーブの木があっても、油を取ることもできません。オリーブの実が落ちてしまうからです。彼らはすべての国々の尾となり、彼らから借りることはあっても、貸すことはありません。

 

45節から48節です。

「これらすべてののろいが、あなたに臨み、あなたを追いかけ、あなたに追いつき、ついには、あなたを根絶やしにする。あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、主が命じられた命令とおきてとを守らないからである。これらのことは、あなたとあなたの子孫に対して、いつまでも、しるしとなり、また不思議となる。あなたがすべてのものに豊かになっても、あなたの神、主に、心から喜び楽しんで仕えようとしないので、あなたは、飢えて渇き、裸となって、あらゆるものに欠乏して、主があなたに差し向ける敵に仕えることになる。主は、あなたの首に鉄のくびきを置き、ついには、あなたを根絶やしにされる。」

 

これらのすべてののろいが彼らに臨みます。それは彼らを根絶やしにするまで追いかけて行くのです。それは、彼らが、主が命じられた命令とおきてとを守らないからです。しかも、そののろいは、不従順な世代だけでなく、彼らの子孫までも及ぶのです。事実、イスラエルは、苦難と悲惨の歴史として人々に知られるようになりました。

 

.捕囚(49-57

 

次に49節から57節までをご覧ください。

「主は、遠く地の果てから、わしが飛びかかるように、一つの国民にあなたを襲わせる。その話すことばがあなたにはわからない国民である。その国民は横柄で、老人を顧みず、幼い者をあわれまず、あなたの家畜の産むものや、地の産物を食い尽くし、ついには、あなたを根絶やしにする。彼らは、穀物も、新しいぶどう酒も、油も、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も、あなたには少しも残さず、ついに、あなたを滅ぼしてしまう。その国民は、あなたの国中のすべての町囲みの中にあなたを包囲し、ついには、あなたが頼みとする高く堅固な城壁を打ち倒す。彼らが、あなたの神、主の与えられた国中のすべての町囲みの中にあなたを包囲するとき、あなたは、包囲と、敵がもたらす窮乏とのために、あなたの身から生まれた者、あなたの神、主が与えてくださった息子や娘の肉を食べるようになる。あなたのうちの最も優しく、上品な男が、自分の兄弟や、自分の愛する妻や、まだ残っている子どもたちに対してさえ物惜しみをし、自分が食べている子どもの肉を、全然、だれにも分け与えようとはしないであろう。あなたのすべての町囲みのうちには、包囲と、敵がもたらした窮乏とのために、何も残されてはいないからである。あなたがたのうちの、優しく、上品な女で、あまりにも上品で優しいために足の裏を地面につけようともしない者が、自分の愛する夫や、息子や、娘に、物惜しみをし、自分の足の間から出た後産や、自分が産んだ子どもさえ、何もかも欠乏しているので、ひそかに、それを食べるであろう。あなたの町囲みのうちは、包囲と、敵がもたらした窮乏との中にあるからである。」

 

49節以下のみことばは、将来、神がイスラエルをさばくために、どのような民族が、どのようにイスラエルを包囲し、どのような方法で破滅し、その時、イスラエルの民がどのような目に遭うかを描写しています。49節の、「遠くの地の果てから、鷲が飛びかかるように、一つの国民にあなたを襲わせる。」とは、アッシリヤのことを指しています。ホセア書8章1節に、アッシリヤが「鷲」として喩えられていることからもわかります。事実、北イスラエル王国は、B.C.722年にアッシリアに滅ぼされました。また、南王国ユダもB.C.586年にバビロンによって滅ぼされ、捕囚として連れて行かれました。そして、敵に包囲され、攻撃される時、両親が子供を殺して食べる悲劇が起こると預言されていますが(53,55,57)、歴史的事実となりました。

 

.神ののろいの結論(58-68

 

最後に、58節から68節までを見て終わりたいと思います。

「もし、あなたが、この光栄ある恐るべき御名、あなたの神、主を恐れて、この書物に書かれてあるこのみおしえのすべてのことばを守り行なわないなら、主は、あなたへの災害、あなたの子孫への災害を下される。大きな長く続く災害、長く続く悪性の病気である。主は、あなたが恐れたエジプトのあらゆる病気をあなたにもたらされる。それはあなたにまといつこう。主は、このみおしえの書にしるされていない、あらゆる病気、あらゆる災害をもあなたの上に臨ませ、ついにはあなたは根絶やしにされる。あなたがたは空の星のように多かったが、あなたの神、主の御声に聞き従わなかったので、少人数しか残されない。かつて主があなたがたをしあわせにし、あなたがたをふやすことを喜ばれたように、主は、あなたがたを滅ぼし、あなたがたを根絶やしにすることを喜ばれよう。あなたがたは、あなたがはいって行って、所有しようとしている地から引き抜かれる。主は、地の果てから果てまでのすべての国々の民の中に、あなたを散らす。あなたはその所で、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった木や石のほかの神々に仕える。これら異邦の民の中にあって、あなたは休息することもできず、足の裏を休めることもできない。主は、その所で、あなたの心をおののかせ、目を衰えさせ、精神を弱らせる。あなたのいのちは、危険にさらされ、あなたは夜も昼もおびえて、自分が生きることさえおぼつかなくなる。あなたは、朝には、「ああ夕方であればよいのに。」と言い、夕方には、「ああ朝であればよいのに。」と言う。あなたの心が恐れる恐れと、あなたの目が見る光景とのためである。」私がかつて「あなたはもう二度とこれを見ないだろう。」と言った道を通って、主は、あなたを舟で、再びエジプトに帰らせる。あなたがたは、そこで自分を男奴隷や女奴隷として、敵に身売りしようとしても、だれも買う者はいまい。」

 

ここでは、神ののろいを再び要約し、結論付けています。神ののろいを引き起こす原因は、神の律法を守り行わないことです。神の律法に反することは、栄光の御名を敬わないことと同じです。それは神の御名が、神の本質と品性を現し、真実な契約の神を表しているからです。彼らの不従順は、神が下したエジプトにおけるもっとも恐ろしい病気をもたらします(58-60)。それだけでなく、このみおしえの書に記されていない、あらゆる病気、あらゆる災害をもたらし、ついには彼らを滅ぼしてしまうのです。この問題の解決は、神のみことばに従うことだけです。

 

62節から最後までをご覧ください。国家として急成長したイスラエルであっても、神ののろいが臨めば、一瞬にして滅んでしまいます。アブラハム、イサク、ヤコブのもとで、空の星のように増え広がった民も少人数しか残されなくなります。その民もすべての国民の中に散らされてしまうことになります。その場所で彼らは、これまで知りもしなかった偶像の神をあがめるようになるのです。約束の地で安息と平安を失い、心配と恐れの中で生きるようになるのです。あなたは祝福の中にいますか、それとも、のろいの中にいるでしょうか。祝福とのろいを分けるたった一つの基準、それは、神のみおしえに従うかどうかなのです。

 

ある本に、天国と地獄の電話番号があるとありました。ちなみに、天国の電話番号は66-3927で、地獄の電話番号は11-1111だそうです。その理由は、天国の電話番号は、旧約と新約の巻数で、地獄の電話番号は、自分が最高であるという意識と、自分だけが一番であるという思いが合わさっているからだと言います。

そうしますと、天国の電話番号よりも地獄の電話番号の方がずっと、簡単で覚えやすく、その座席数もずっと多いことがわかります。天国の座席を予約するには聖書を一生懸命に学び、その教えに聞き従わなければならず、地獄の座席を予約するには自分が最高だと言い続けていれば良いということが癒えます。そうすれば当然、天国の座席を予約するのは難しく、地獄の座席を予約するのはやさしいと言えるのではないかというのです。

 

確かに、神のみことばに従うよりも自分の思いに生きた方がやさしいですが、そこには神の祝福はありません。そこにあるのはただ神ののろいだけです。それはやがて滅びと地獄につながります。私たちが神の祝福を受ける唯一の道、それは神を信じ、私たちののろいを一身に受けてくださったイエス・キリストの贖いを受け入れ、へりくだって、神のみおしえに聞き従うことなのです。

申命記27章

 申命記27章から学びます。まず1節から10節までをご覧ください。

 

 1.律法が書き記された石(1-10

 

「ついでモーセとイスラエルの長老たちとは、民に命じて言った。私が、きょう、あなたがたに命じるすべての命令を守りなさい。あなたがたが、あなたの神、主が与えようとしておられる地に向かってヨルダンを渡る日には、大きな石を立て、それらに石灰を塗りなさい。あなたが渡ってから、それらの上に、このみおしえのすべてのことばを書きしるしなさい。それはあなたの父祖の神、主が約束されたとおり、あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地、乳と蜜の流れる地にあなたがはいるためである。あなたがたがヨルダンを渡ったなら、私が、きょう、あなたがたに命じるこれらの石をエバル山に立て、それに石灰を塗らなければならない。そこに、あなたの神、主のために祭壇、石の祭壇を築きなさい。それに鉄の道具を当ててはならない。自然のままの石で、あなたの神、主の祭壇を築かなければならない。その上で、あなたの神、主に全焼のいけにえをささげなさい。またそこで和解のいけにえをささげて、それを食べ、あなたの神、主の前で喜びなさい。それらの石の上に、このみおしえのことばすべてをはっきりと書きしるしなさい。ついで、モーセとレビ人の祭司たちとは、すべてのイスラエル人に告げて言った。静まりなさい。イスラエルよ。聞きなさい。きょう、あなたは、あなたの神、主の民となった。あなたの神、主の御声に聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主の命令とおきてとを行ないなさい。」

 

1節には、モーセだけでなくイスラエルの長老たちも一緒になって、民に命じています。このようなことは、申命記においてはここだけに記されてあることです。いったいなぜここで長老たちも一緒になって民に語っているのでしょうか。それは、モーセは約束の地に入って行くことができないからです。その務めは長老たちが担うことになります。そこでモーセに代わる権威として長老たちが立てられたのだと思います。

 

その内容は何でしょうか。イスラエルの民がヨルダン川を渡って約束の地に入って行くとき、ヨルダン川から大きな石を取り、その石に神の戒めを記し、それをエバル山に立てよ、ということでした。その石の上には石灰を塗らなければなりませんでした。石灰を塗ったのは、神の戒めを書き記すためだったのでしょう。

 

エバル山はイスラエルのほぼ真中に位置し、ヨルダン川を渡ってすぐのところにありました。それはシェケムにあります。そこはかつてアブラハムが祭壇を築いた所です。そこで主は彼に、「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と告げられました(創世12:7)。そこに石の祭壇を築き、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげ、それを食べ、主の御前で喜ばなければなりませんでした。その祭壇の石は自然のままの石で築かなければなりませんでした。それは人為的な礼拝ではなく、ただ主の御霊によって行われるものにするためです。それはやがて神の御霊によってキリストが私たちのうちに住まわれて、聖霊によって神のみことばが心に焼き付けられるようになることを示していました。預言者エレミヤはそのことをこう予言していました。「彼らの時代の後に、わたしがイスラエルと結ぶ契約はこうだ。主の御告げ。わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレミヤ31:33)イスラエル人たちは、石に刻まれた文字を見て、それを守り行なえと教えましたが、新約において、神の御霊が人々に注がれ、その神の御霊によって神のみことばが心に焼き付けられるようになったのです。とはいえ、神との関係は神が語られたみことばに服従することによって成り立つという点では、同じです。彼らは一方的な神の恵みによって神の民とされました。それゆえに彼らは神の御声を聞き、それに従わなければならなかったのです。

 

2.祝福と呪い(11-14

 

 次に11節から14節までをご覧ください。

「その日、モーセは民に命じて言った。あなたがたがヨルダンを渡ったとき、次の者たちは民を祝福するために、ゲリジム山に立たなければならない。シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ヨセフ、ベニヤミン。また次の者たちはのろいのために、エバル山に立たなければならない。ルベン、ガド、アシェル、ゼブルン、ダン、ナフタリ。レビ人はイスラエルのすべての人々に大声で宣言しなさい。」

 

モーセは、民にヨルダン川を渡らせた後、六つの部族を、民を祝福させるためにゲルジム山に立たせ、他の六つの部族は呪いのためにエバル山に立つように命じました。ゲリジム山に立つ部族は、ヤコブの二人の妻レアとラケルの子たちの子孫であり、エバル山に立つ部族はレアの二人の息子ルベンとゼブルンを含んだ女奴隷ジルパとビルハが生んだ子たちの子孫でした。

 

ここで私たちは、神の契約に関する二つの結果を見ることができます。それは、神のみこころに従った者には祝福が与えられ、従わなかった者には呪いがもたらされるということです。神の契約の民として、あなたはどちらの山に立たされていますか。

 

312種類の呪い(15-26

 

まず呪いです。モーセはまず、レビ人に12種類の呪いを朗読させ、民にアーメンと言って、応答するようにさせました。

「職人の手のわざである、主の忌みきらわれる彫像や鋳像を造り、これをひそかに安置する者はのろわれる。」民はみな、答えて、アーメンと言いなさい。「自分の父や母を侮辱する者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。「隣人の地境を移す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。「盲人にまちがった道を教える者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。「在留異国人、みなしご、やもめの権利を侵す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。「父の妻と寝る者は、自分の父の恥をさらすのであるから、のろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。「どんな獣とも寝る者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。「父の娘であれ、母の娘であれ、自分の姉妹と寝る者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。「自分の妻の母と寝る者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。「ひそかに隣人を打ち殺す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。「わいろを受け取り、人を打ち殺して罪のない者の血を流す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。「このみおしえのことばを守ろうとせず、これを実行しない者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。」

 

これらの呪いにはどんな人々が呪われ、なぜ呪われるのかが明らかにされていきます。最初の呪いはイスラエルと神との関係を扱っています。この呪いは偶像を造って、ひそかに安置する者は呪われると言っています。たとえ、他の人たちは気付かなくても、神はすべてをご存知であられるので、そのようにする者を呪われるのです。次は自分の父母を侮辱したり、大切にしない者たちに臨む呪いです。三番目の呪いは、土地の分配に関することです。各自に割り当てられた土地は、尊重しなければなりません。四番目と五番目の呪いは、不具者や不遇な人たちに対して不親切であったり、権利を搾取する者たちに臨む呪いです。神は公義が実現することを望んでおられるからです。(出22:21-24,23:9,レビ19:33-34,申命10:17-19,24:17

 

20節から23節までは、性的な堕落に対する呪いです。父の妻とは継母のことです。継母と性的関係を持つことは、自分の父の恥をさらすことであり、父の結婚関係を破壊する行為です。獣と寝ることも禁じられています。これはカナンの地で、こうした行為が行われていたことを示しています。また、自分の姉妹と練ることや、義母と寝ることも禁じられています。このようなことをする者にも神の呪いが臨むのです。

 

24節からには人を殺す者たちに臨む呪いが書かれてあります。ひそかに隣人を打ち殺す者、殺人を請け負って、罪のない者を殺す者にも神の呪いが臨みます。最後に12番目の呪いは、これまで語られて来たことがまとめられています。すなわち、これまで語られてきたことは、その実例としてのいくつかのことでしかありません。私たちは、神の律法のすべてを守らなければなりません。しかし、イエス・キリスト以外に、完全に守ることができる者はいません。ということは、私たちはみな、神の呪いの下にある存在だと言えます。パウロは、「というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。『律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。』(ガラテヤ3:10」と言いました。キリストが律法ののろいを受けてくださったことによって、私たちは信仰によってアブラハムの祝福を受け継ぐ者となったと、言っているのです。したがって、私たちは、律法の行ないではなく、キリストが行なってくださった十字架のみわざによって神の呪いから解放していただくことができるのです。キリストが私たちのために行なってくださったことを信仰によって受け入れることによって、神の御霊が私たちのうちに働くのです。ですから、律法を行なうのではなく、律法の要求を完全に成し遂げられたイエス・キリストを信じ、御霊によって生きることが求められるのです。

ヘブル人への手紙手紙13章17~25節 「完全な者にしてくださるように」

ずっとヘブル人への手紙を学んできましたが、きょうはその最後の箇所です。パウロの手紙でもそうですが、この手紙でもその最後は祈りによって結ばれています。きょうは、その祈りからご一緒に学びたいと思います。

 

Ⅰ.もっと祈ってください(17-19)

 

まず、17節から19節までをご覧ください。「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。私たちのために祈ってください。私たちは、正しい良心を持っていると確信しており、何事についても正しく行動しようと願っているからです。また、もっと祈ってくださるよう特にお願いします。それだけ、私があなたがたのところに早く帰れるようになるからです。」

 

この手紙の著者は、最後のところに来て、教会の指導者と信徒の関係について教えています。そしてその関係というのは、「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。」ということです。また、「この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることがないようにしなさい。」ということです。どうしてここに来て、指導者と信徒の関係について語っているのでしょうか。それは7節でも言われていたことですが、異なった教えに迷わされないように、神のことばにしっかりと立続けるためです。そのためには、神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを思い起こし、彼らの言うことを聞くことが必要です。そのことをここでは、この人たちは神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです、と言われています。どのようにして見張りをしているのかというと、神のことばによってです。だから、神のことばをもって指導している指導者たちの言うことに従うことが必要であって、それは、自分自身の益のためにもなることなのです。

 

けれども、ここでこの手紙の著者が指導者に服従するようにと言っている最も大きな理由は、その後の18節にあるように、指導者のためにも祈ってほしいということを伝えたかったからです。ここには指導者と信徒との関係は単に指導する者とされる者という関係以上のものであることが示されています。つまり、指導者と信徒の関係は祈りの関係であるということです。手紙の著者は18節で、「私たちのために祈ってください。」と懇願しています。また、19節には、「もっと祈ってくださるよう特にお願いします。」とあります。ここでは教会の指導者たちが信徒のために祈るというのではなく、むしろ教会の信徒が指導者たちのために祈ってほしいと言っているのです。もちろん、牧師は神の祭司として信徒のためにとりなして祈る務めが与えられていますが、その祈りは一方通行ではなく互いになされるものなのです。牧師が信徒のために祈るというだけでなく、信徒もまた牧師のために祈るという相互の祈りが求められているのです。そのようにしてこそ牧師と信徒の信頼関係が構築され、深められて、キリストのからだである教会が、キリストの御丈にまで達することができるのです。

 

尾山令仁先生は、ヘブル書の注解書の中でそのことについて次のように言っておられます。

「この祈り祈られる関係が成り立つ時、牧師と信徒の関係はすばらしい愛と信頼の関係になります。牧師が霊的権威を振りかざしたり、信徒が牧師に対して不平、不満やつぶやきを口にするのでは、教会は決して健康な状態とは言えません。牧師も、いくら教えてもその通りにしない信徒がいると、心の中に不満がたまってくるでしょう。それをためておかないで、祈りの中で神にそのことを申し上げるのです。一方、信徒は信徒で、牧師に対して不平や不満を持っているかもしれません。そんな時、それを祈りの中で申し上げるのです。お互いに不平、不満を相手にぶつけるのではなく、祈りの中で相手の欠けを神が補ってくださるように願うなら、神がそうした問題を解決してくださいます。」

 

祈りの中で神に相手の欠けを補ってくださるように願うというのはすばらしいですね。というのは、その問題を真に解決できるのは神しかいないからです。真の解決とは祈りの中でその人自身が変えられることだからです。イエス様は、「教会は、祈りの家でなければならない。」と言われました。なぜなら、教会は祈りの中から生まれたからです。皆さん、教会はどのようにして誕生したのでしょうか。ペンテコステというユダヤ教のお祭りの時、キリストの最初の弟子たちがたぶんマルコの母マリヤの家に集まり、心を合わせ、祈りに専念していたとき、突然、天から、激しい風が吹いてくるように聖霊が降ることによって誕生したのです。その日、三千人ほどが彼らの仲間に加えられました。ですから、教会は祈りの家でなければならないのです。教会が祈らなかったら教会ではなくなってしまいます。教会は祈りを通して神にすべてをゆだね、神が働いてくださることによって、すべての問題が解決されていくところなのです。

 

この手紙の著者はここで、「私たちは、正しい良心を持っていると確信しており、何事についても正しく行動しようと願っているからです。」と言っています。なぜ指導者のために祈らなければならないのでしょうか。それは指導者が正しい良心、純粋な良心を持って、何事についても正しく行動しようと願っているからです。教会の指導者がそのように生きているのなら、そのような指導者の言うことに従い、彼らのために祈るというのは、むしろ望むところではないでしょうか。

 

皆さんも、私のために祈っていてくださると思いますが、ぜひ祈ってください。ある人は、牧師のために祈るということはそれだけ牧師が無能であるということを意味するのではないか、牧師のために祈るということが、その牧師をかえってはずかしめることになるのではないかという人もいますが、そうではありません。確かに牧師にとって自分から、「祈ってください」と言えば、自分の弱さや無能さを露呈するかのようでなかなか言いにくいこともありますが、本当にへりくだった人とは、「私には祈りが必要です。どうか、私のために祈ってください。」と言える人なのです。

 

たとえば、パウロはローマ15章30節で次のように言っています。「兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によって切にお願いします。私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。」この「力を尽くして」ということばは、スポーツ選手がベストを尽くす時に使われることばです。それはかなりのハードワーク、重労働です。そのような力を尽くして祈ってほしいと言ったのです。偉大な人であっても祈りを必要としています。パウロは自分の知恵や力によって神の働きをすることはできないということをよく自覚していました。パウロが他の人たちよりも多く働くことができたのは、彼がそのような器として神に選ばれていたことは確かですが、と同時に、他の人たちよりも多く祈られていたからでもあるのです。偉大な牧師は、偉大な信徒によって作られると言っても過言ではありません。

 

19世紀に、イギリスに当時世界で一番大きな教会がありました。それはメトロポタンタバナクルという教会で、チャールズ・ハットン・スポルジョンという牧師が牧会していました。その教会には6,000人収容できる会堂がありましたが、当時、ロンドンのすべての教会の座席数を足しても15,000席であったということを考えても、この教会がいかに大きな教会であったかがわかるかと思います。

この教会には世界中から多くの人々が視察にやって来ていましたが、ある視察団が礼拝を終えてホールに出ると、そこにオーバーオールを着た男性がいたので、その人はきっとこの教会の用務員さんに違いないと思って、これだけ大きい教会をどのようにして温めているのかを聞きました。

「これだけ大けれども、いったいどのような発電システムなのかを見せてもらえませんか。」

するとその人は、「わかりました。それでは今、あなたたちをそこに案内します」と言って、彼らを地下室に連れて行きました。そして、彼らに、「ここがこの教会の発電システムです。」と言いました。そこには四百人もの男性がひざまずいて祈っていました。午前中の礼拝が終わり、夜の礼拝を迎えるにあたり、四百人もの男性がそのためにひざまずいて祈っていたのです。それがこのメトロポリタンタバナクルの成長の秘訣でした。スポルジョンの教会が世界最大の教会になったのは、彼が偉大であったからではなく、また彼の説教のせいでもありませんでした。それはこうした祈りがあったからなのです。

 

このヘブル人の手紙の著者も、「私たちのために祈ってください。」と言いました。いや、「もっと祈ってください。」とお願いしました。これはどういうことでしょうか。私たちは時々「祈ってください」とか、「祈っています」というのが口癖になっていることがあります。どこか社交辞令になりさがっていることがあります。そうした常套句としての祈りの要請ではなく、本気で祈ってほしいと懇願しているのです。これが祈りに生きている人の姿です。私たちも互いのために本気で祈り合うべきです。もっと祈ってくださるようお願いします。それだけ、私があなたがたのところに早く帰れるようになるからです。祈り祈られる関係、それこそ神が私たちの教会に望んでおられることなのです。

 

Ⅱ.完全な者としてくださるように(20-21)

 

次に20節と21節をご覧ください。「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が、イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行ない、あなたがたがみこころを行なうことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。どうか、キリストに栄光が世々限りなくありますように。アーメン。」

 

今度は、この手紙の読者たち、信徒たちのための祈りです。ここで著者は、平和の神がイエス・キリストによって、みこころにかなうことを彼らのうちにしてくださるように、また、彼らがみこころにかなったことを行うことができるように、あらゆる良いものを備えて、彼らを完全な者にしてくださるようにと祈っています。そして、この平和の神がどのような神なのかというと、「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された方」です。

 

まずこの「永遠の契約の血による羊の大牧者」ということから見ていきましょう。これは父なる神のことであり、また、私たちの主イエス・キリストのことです。イエスは偉大な大牧者です。牧者というのは羊飼いのことですから、イエスは偉大な羊飼いであられるということです。イエスはこのように言われました。「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)

イエスは私たちのためにご自身のいのちを捨ててくださいました。それは、羊である私たちがこの方にあって永遠のいのちを持つためです。まことにイエスは私たちの永遠の大牧者であられるのです。心配事で不安にさいなまれる時、主は共にいて助けてくださいます。人生に疲れ果てもう立ち上がれないと思う時、主は励ましを与えてくださいます。病気で苦しむ時には、いやしを与え、死の陰の谷を歩くような時には、あなたの前を歩いてくださいます。だから私たちは何も恐れることはありません。この方が永遠にあなたの大牧者であられるからです。

 

しかも、それは今だけのことではなく、今も、これから後もずっと、永遠にです。イエスがあなたの羊飼いでなくなることはありません。なぜなら、この方は永遠の契約の血によって、あなたを贖ってくださったからです。これはどういうことかというと、イエスが十字架の上であなたのために血を流してくださったということです。血を流すことがなければ、罪の赦しはないからです。イエスが流された血は、私たちの罪を贖う永遠の神の契約のあかしでした。まさにイエス様は良い羊飼いとなって、あなたのためにいのちを捨ててくださったのです。あなたはそれほどまでに愛されているのです。であれば、この方があなたを見捨てたり、見離したりすることがあるでしょうか。ありません。13章5節を見てください。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」とあります。イエス様は決してあなたを見捨てたりはしないのです。イエス様はあなたの永遠の大牧者なのです。

 

そのイエスを死者の中からよみがえらせた神は「平和の神」です。この時この手紙を受け取ったヘブル人クリスチャンたちは迫害の苦しみの中にありました。彼らは同胞ユダヤ人からも、ローマ帝国からも激しい迫害を受けていました。彼らは目の上のたんこぶで、邪魔者扱いされていました。家を失い、財産を失い、仕事を失い、家族を失うという苦しみの中で、相当辛い思いをしていたのです。しかし、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。この神は主イエスを死からよみがえらせてくださった神です。この神はどんな迫害の苦しみの中にあってもあなたを助け、あなたを守り、あなたに平安を与えて、その苦しみを乗り越えさせてくださる。この平和の神が、主イエスを死者の中からよみがえらせてくださったように、どんな状況からもあなたを救ってくださるのです。このことは、迫害で苦しんでいた彼らにとって何よりも大きな励ましだったに違いありません。その平和の神が彼らのうちに働いて、彼らを完全な者にしてくださるようにと祈っているのです。これがこの祝福の祈りのハイライトです。

 

では、完全な者になるとはどういうことでしょうか。これは何の欠点もない完全無欠な聖人君子になるようにということではありません。この「完全な者にする」というギリシャ語の言葉(ギリシャ語はカタルキゾウ)には、物事を適切な状態にするという意味があります。たとえば、この言葉はマタイの福音書4章21節にも使われています。

「そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。」この「網を繕う」の「繕う」が「カタルキゾウ」です。すなわち、穴が開いた網を繕って正常なすることという意味なのです。

 

また、ガラテヤ6章1節には、「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。」とありますが、この「正してあげる」が「カルキゾウ」です。すなわち、間違った状態を正してあげることを言うのです。

 

また、Ⅰテサロニケ3章10節には、「私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。」とありますが、この「補いたい」という言葉が「カタルキゾウ」です。不足しているものを補給するとか、補うという意味です。

 

そして、Ⅰコリント1章10節には、「さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。」とありますが、この「完全に保つ」が「カタルキゾウ」です。本来であれば、クリスチャンは一致していなければなりませんが、そうでないことがあるわけです。そういう状態を修復し、同じ心、同じ判断を完全に保つことができるようにすることを示しているのです。

 

このように、完全な者とするとは物事を適切な状態にすることです。間違ったところが正され、足りないところは補われ、破れたところが修復されて、神が望まれる状態に整えられることを言うのです。

 

私たちはどうでしょうか。私たちも魚の網が破れるように人生に敗れを生じているのではないでしょうか。羊のように目先のことに捕らわれて、道に迷ってはいるのではないでしょうか。霊的、精神的に、また肉体的、物質的に不足を感じているのではないでしょうか。人間関係においても壊れかけているのではないでしょうか。夫婦の間で、親子の間で、職場においても、友人との関係においても、壊れかけていませんか。壊れかけたラジオのように、壊れかけているのです。イエスはそうした壊れかけたものを修復し、正常な状態に回復してくださいます。足りないところを補って満たしてくださいます。なぜなら、イエスは十字架で敵意を廃棄されたからです。(エペソ2:16)キリストの十字架の血によって、こうした破れた人生が正常な状態になるようにと祈っているのです。

 

このように、平和の神はイエス・キリストによって物質的にも、肉体的にも、霊的、精神的にも、関係においても、社会的にも、ありとあらゆる面であなたの必要を満たしてくださり、あなたを完全な者としてくださるのです。このようなものはセミナーに行けば満たされるというようなものではありません。何らかの勉強会やワークショップに行けば解決するというようなものでもありません。これらのものはすべてイエスの血によって満たされるのです。このイエス・キリストの血によって、平和の神ご自身が、あなたがたが神のみこころを行うために、すべてのことについて、あなたがたを完全な者としてくださるのです。

 

このような神がいったいどこにいるでしょうか。私たちが今まで理解していた神は、自分の欲望を満たすために利用していたにすぎない神であって、自分が作った偶像にすぎませんでした。しかし、そのようなものが果たして本当に私たちを救うことができるでしょうか。できません。私たちを救うことができるのは、私たちのために十字架で死なれ、三日目によみがえって、私たちを罪の中から救い出してくださった救い主イエス・キリスト、平和の君です。この方があなたのすべての必要を満たし、あなたを完全な者にしてくださるのです。であれば、私たちはこの神を信じ、この神にすべてをゆだねなければなりません。あなたがたを完全な者としてくださいますようにという祈りの中に、あなた自身を置かなければならないのです。

 

Ⅲ.恵みがありますように(22-25)

 

最後に22節から25節までをご覧ください。22節には、「兄弟たち。このような勧めのことばを受けてください。私はただ手短に書きました。」とあります。「このような勧めのことば」とは、この手紙のことを指しています。著者は、ただ手短に書いたと言っていますが、手短に書いたにしてはかなり長いてがみです。ですから、ここでこの勧めのことばを「受けてください」と言っているのです。この「受けてください」という言葉は、下の欄外にもありますが「こらえてください」という意味のギリシャ語です。この勧めのことばをこらえて聞いてほしい、忍耐して聞いてほしい、というのです。

 

ということは、当時のクリスチャンたちの中にも今日の私たちと同様、忍耐に欠けている人たちが少なからずいたということです。そうでなければ、わざわざこんなことは言わなかったでしょう。ちょっと安心しますね。いつの時代でも忍耐することは簡単なことではありませんが、大切な真理を身に着けるにはこらえることが、忍耐が必要であることがわかります。

 

23節には、「兄弟テモテが釈放されたことをお知らせします。」とあります。テモテはパウロの第二次伝道旅行の時、ルステラでパウロに出会い、それ以後、パウロの手元において訓練した結果、すばらしい働き人として成長していました。パウロが獄中から手紙を書いた時、そのテモテもパウロと一緒に獄中にいたようで、その彼が釈放されたことを伝えています。このことから多くの学者は、この手紙はパウロによって書かれたのではないかと考えていますが、はっきりしたことはわかりません。しかし、このことから言えることは、テモテがこの手紙の著者と親しい関係であったということです。クリスチャン同士、喜びも悲しみも共に共有できることは大きな特権であると言えます。

 

24節と25節には、あいさつと心からの祝禱をもって終わります。「恵みが、あなたがたすべてとともにありますように。」

恵みは、このヘブル人の手紙における強調点の一つでした。なぜなら、彼らがキリストから離れてかつてのユダヤ教に戻って行ったのは、この恵みを忘れていたからです。だから最後に恵みをもう一度強調しているのです。

 

それは私たちも同じで、恵みを忘れてしまうと信仰のバランスを崩してしまうことになります。というのは、恵みを忘れると行いに走ってしまうからです。行いに走っていけば律法主義に陥ってしまいます。律法主義に陥ると人をさばくようになります。自分と同じようにしていない人に対して苦々しい思いを抱くようになるのです。自分はクリスチャンとしてクリチャンとしてちゃんと生きているのに、どうしてあの人はしないのだろうと人をさばくようになるのです。恵みを忘れているからです。恵みとは受けるに値しない者が受けることです。神の恵みを受けるにはふさわしい者ではないのに、神がキリストを与えて救ってくださいました。これが恵みです。それはあなたが立派な人だから、何か特別なことができるから、ちゃんとまじめに生きているからではなく、そうでないにもかかわらず、神はあなたを愛してくださいました。これまでずっと自分が捕われていたことから解放していただいた、であれば、もう人はどうでもいいのです。自分もどうでもいいのです。大切なのは、神があなたのことをどのように思っておられるかということです。そうすれば、すべてのものから解放されます。そして、どんな問題も乗り越えることができるのです。

 

先日、アンビリーバボーという番組で、ある男に暴行されたジェニファーという一人の女性が、犯人はロナルドであると証言したことで、彼は裁判で終身刑プラス50年の刑が言い渡され、無実の罪でノースカロライナの刑務所に収監されました。しかし、事件から11年後の1995年、O・J・シンプソンの事件の裁判で、当時最先端だったDNA鑑定が事件の解明に用いられた事を知り、最後の賭けとしてDNA鑑定を依頼した結果、彼は無罪であることが判明したのです。実は、彼にそっくりの男が真犯人だったのですが、彼女は間違って彼が犯人だと思っていたのです。自分の勘違いから事件と関係のない男性を11年間も服役させてしまった彼女は自責の念にかられ、また、いつ復讐されるかと思うと生きた心地がしませんでした。そして、ロナルドが釈放されてから1年後の1996年に、目撃者が何故過ちを犯してしまうのかを検証するドキュメンタリー番組への出演依頼がきっかけとなって、彼女は彼と会って謝罪し、自分の気持ちを正直にロナルドに話さなければならないと思い、そのように決意しました。大学の敷地内に置かれた礼拝堂で会った時、ジェニファーは自分の勘違いとは言え、とりかえしのつかないことをしてしまったことを詫びると、彼は、「私はあなたを赦します」と宣言したのです。その時彼女は、「長い間壊れていた心や魂がまるで氷が解けるように癒やされていくのを感じました。体の中で壊れた部分がもう一度もとに戻ろうとしている感じでした。」と言いました。会ってから2時間彼らは話しては泣き、話しては泣きを繰り返しました。お互いがどのような時間を過ごしていたか知りたがっていたしあの最悪の11年間は一体何だったのか?という思いを共有することができたのです。ロナルドはこのように言っています。「人間は間違いを犯します。完璧な人間なんてこの地球には存在しません。怒りを持ち続けるより許したいと思いました。許せば解放されるけど怒りを持ち続ければどこに行ってもそれを握りしめて苦しむ事になります。怒りを手放せば楽になれます。楽観的に考え始めれば前向きに良い人生が送れます。僕はハッピーで自由な人生を送りたいんです」ジェニファーは、とりかえしのつかないことをして、とても許される者ではなかったのに許されました。それが恵みです。その恵みは彼らの後の人生にどれほどの喜びと解放をもたらしたことでしょう。

 

同じように神は、許されるには値しない私たちにイエス・キリストを与えてくださいました。私たちが救われたのはただ神の恵みによるのです。この恵みがあれば、どんな迫害があっても、どんな問題が起ころうとも、必ず乗り越えることができます。すべては恵みです。私たちはこの恵みの中でしか生きることはできませんし、この恵みの中でしか成長することができません。ですから、この恵みを強調しすぎるということはありません。すべてを忘れてもこの恵みだけは忘れないでください。この恵みが、あなたがたすべてとともにありますように。神の恵みのうちにこのヘブル人への手紙を終えることができることを感謝したいと思います。

ヘブル人への手紙13章7~16節 「賛美のいけにえをささげよう」

イエス様を救い主として信じ、救いの喜びに与った人の最大のしるしは何でしょうか。それは生き方が変わるということです。そういう人は、自分の思いや考えではなく神のみこころに歩むことを求め、苦難の中にあっても最後まで忍耐して、天の御国を目指して最後まで信仰のレースを走り抜きます。たとえこの世に心が奪われることがあっても、イエス・キリストにしっかりととどまります。そして、兄弟愛をもって互いに愛し合い、旅人をもてなし、牢につながれている人や苦しめられている人たちを思いやるのです。また、金銭を愛する生活ではなく、いま持っているもので満足します。つまり、イエス・キリストの愛に生きるのです。その愛を軸にした生き方がきょうの箇所でも勧められています。それは神に喜ばれるいけにえをささげるという生き方です。

 

Ⅰ.恵みによって心を強める(7-9)

 

まず、7節から9節までご覧ください。ここには、「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼の生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。さまざまの異なった教えによって惑わされてはなりません。食物によってではなく、恵みによって心を強めるのは良いことです。食物に気を取られた者は益を得ませんでした。」とあります。

 

この手紙の著者は6節で、「主が私の助け手です。私は恐れません。人間は私に対して何ができましょう。」と言って、いよいよこの手紙を終えようとした時ふと思い出したかのように、ここで一つのことを書き加えています。それは教会の指導者たちのことです。神のみことばを彼らに話した指導者たちのことを思い出し、その生活の結末をよく見て、その信仰にならうようにと勧めました。いったいなぜここで教会の指導者たちのことを取り上げたのでしょうか。おそらく彼らが信仰に堅く立ち続けるためにどうしても必要であることを述べたかったからでしょう。それは神のみことばです。教会が教会であるために最も重要なことは神のみことばを正しく教え、宣べ伝えることです。みことばが正しく教えられなければ、信仰に堅く立ち続けることはできません。ですから神のことばを彼らに話した指導者たちのことを思い出し、その信仰の結末をよく見て、その信仰にならうようにと勧められているのです。

 

しかし、どんなにすぐれた指導者でもやがては過ぎ去ります。確かに、彼らの姿は記憶され書き留められることによって後代の人々に影響を及ぼすことができますが、いつまでも生きていて指導することはできません。ですから、そのように指導者たちの教えを思い出し、彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいながらも、最終的にはいつまでも変わることがない方に目を留めなければなりません。それはイエス・キリストご自身です。なぜなら、イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じだからです。この方が、私たちの本当の指導者であられるということは、何と幸いなことでしょうか。人はどんなに立派な指導者であっても、やがて死にこの世から去って行かなければなりませんが、私たちの主イエス・キリストは永遠に生きておられ、いつまでも変わることなく、私たちを助け、慰め、励まし、力づけてくださいます。この方がいつも私たちのすぐそばにいてくださるということが分かれば、何も恐れることはありません。だれがいなくてもこの方がともにいてくださるなら、千人力、万人力だからです。

 

ですから、9節にあるように、「さまざまな異なった教えによって惑わされてはなりません。」ここで言われているさまざまな異なった教えとはどのような教えのことでしょうか。この後に「食物によってではなく、恵みによって心を強めるのは良いことです。」とあることから、それは旧約聖書で教えられている食物や飲み物についての教えのことです。この手紙が書かれたころ初代教会では、禁欲を重んじるユダヤ教の一派であるエッセネ派の影響が強かったらしく、ある種の食べ物や飲み物を禁じる異端の教えがはびこっていたようです。それは、コロサイの教会にも入ろうとしていたようで、パウロはコロサイの教会への手紙の中で、「そういうわけで、食べ物や飲み物、あるいは、祭りや新月や安息日を、何か救いに必要なものと考えてはならない。」(コロサイ2:16)と言及しています。こうした異端的な教えは、このような律法を守っていないと救われないと教えていました。すなわち、信仰だけではだめで、信仰にプラスして何らかの行いが必要だと教えていたのです。こうした教えがこのヘブル人クリスチャンたちの間にも忍び込んでいました。

 

しかし、私たちが救われるために必要なすべての御業は完了しました。十字架によって。イエス様は、十字架の上で「完了した」と言われました。ですから、私たちはそのイエスの御業に感謝して、イエスを信じるだけでいいのです。どちらかというと日本人は「ただほど怖いものはない」とただで受けることに抵抗があり、何らかのお返しをしなければならないと思いがちですが、聖書で言っている救いとはそうしたことを一切必要とせず、ただ感謝して受け取るだけでいいのです。だから、「恵み」と言われているのです。それは神からの一方的な神からの賜物なのです。だからその恵みにいつも心を留めていなければなりません。そうでないと、振り回されてしまうことになります。この「迷わされてはなりません」の「迷わされる」という言葉は、「振り回される」とか、「吹き回される」という意味です。英語では「Driven」という言葉が使われています。流れに運ばれるとか、動かされるという意味になります。この言葉は、エペソ人への手紙4章14節にも使われていて、そこでは「吹き回される」と訳されています。「それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪だくみや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく・・」それはまさに風に吹き回されたような状態のことを言うのです。風はこっちから吹いていたかと思ったら次の瞬間にはあっちの方から吹いてきます。ある時は強く吹いているかと思ったら、次の瞬間はパタッと止んだりします。つまり一定ではないのです。いつもコロコロしていて安定していません。どこに吹き飛ばされてしまうかわからないのです。神の恵みにとどまっていないと、そのように吹き飛ばされてします。

 

ですから、恵みによって心を強めるのは良いことなのです。多くの人は恵みではなく、自分の行いによって心を強めようとします。一生懸命に伝道したり、熱心に奉仕をしたり、たくさん献金すれば心が強くなり、信仰が安定するだろうと考えているのです。伝道したり、奉仕したり、献金すること自体はすばらしいことですが、そうしなければ救われないとなると大変なことになります。そうしなければ救われないとか、そうすることによって心が強くなると思ってするのは間違っています。そうではなく、私たちは神に恵みによって救っていただいたので、その喜びから溢れてするのです。イエス様が十字架で完了してくださった救いの御業に信頼しその恵みの中に身を置くなら、あなたの心は強められるのです。

 

皆さんはどうでしょうか。ちょっとしたことですぐに不安になるのです、いつも心が揺れ動いて落ち着かないのです、という方はおられますか。そのような方は、どうぞイエス様のもとに来てください。イエス様はあなたのために十字架で死んでくださいました。あなたの救いのために必要なすべての代価を支払ってくださいました。ですから、もしあなたがイエスのもとに行くなら、あなたは何も悩む必要はないのです。あなたはそれを感謝して受け取るだけでいいのです。そうすれば、あなたは救われるからです。イエス様の恵みの中にあなた自身を置いてください。そうすれば、恵みによって心を強めていただくことができます。どんなことがあってもびくともしない深い平安を得ることができるのです。

 

皆さんはニック・ブイチチという方をご存知ですか。この方は生まれながら両手両脚がない障害を持って生まれました。彼は自分の状況に絶望し、8歳のころから三度も自殺を試みましたが、信仰深いクリスチャンである両親の全面的な支援と愛を受けて立派に育ちました。その彼がロサンゼルスでの講演を終えたあと、ひとりの女性が赤ちゃんを抱いて彼のもとにやって来ました。驚いたことに、その赤ちゃんはニックと同じように両手両脚がありませんでした。その母親は、子供の障害を何とか直そうと、多くの病院を巡り、神様に奇跡を現してくださるようにと祈りましたが、そのようなことは起こりませんでした。しかし、ニック・ブイチチの講演を聞いたその母親はこう言いました。

「神様は、きょうになって、ようやく奇跡を現してくださいました。私は今まで、子ともの手足が伸びて、完全な肉体を持った正常な人になれるように祈ってきましたが、きょうあなたを見て、手足がなくても幸せになれるということを知りました。そして、それこそが奇跡だということも。」

時には、苦しみを受けることが神のみこころであることがあります。その苦しみの中で神様に信頼し、あきらめないで歩んでいくとき、苦しみを許された神の意図を見いだすことができるのです。ですから、どんな苦しみの中にあってもキリストのもとに来て、キリストにすべてをゆだねるなら、キリストの恵みによってそのような苦しみの中にあっても心を強められ、びくともしない確かな人生を歩むことができるのです。

 

Ⅱ.宿営の外に出て(10-14)

 

第二のことは、宿営の外に出ようということです。10節から14節までをご覧ください。「私たちには一つの祭壇があります。幕屋で仕える者たちは、この祭壇から食べる権利がありません。動物の血は、罪のための供え物として、大祭司によって聖所の中まで持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるからです。ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。」どういうことでしょうか。

 

こここには旧約聖書における罪が贖われるための儀式とキリストの十字架の贖いの御業を比較して、宿営の外に出ることが勧められています。旧約聖書では、年に一度、民が犯したすべての罪が赦されるために、大祭司が雄牛と山羊を殺して、その血を取って、天幕の中に携えて行きました。天幕の中の一番奥のある至聖所と呼ばれる所に入って行き、そこに置かれた契約の箱の上にその血を振りかけたのです。血を取られた動物のからだはどうされたかというと、幕屋の門の外へ持って行き、そこで焼かれました。その体は汚れていたからです。それらの動物はイスラエルの罪を身代わりに負ったので、汚れているとされたのです。汚れたものは宿営の中に置くことができなかったので、宿営の外、幕屋の外へ持って行かれたのです。

 

ところで、ここには、「イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。」とあります。これはどういうことかと言うと、イエス様もあの殺されたいけにえの動物と同じように、エルサレムの町の郊外にあった十字架で死なれたという意味です。それはゴルゴタと呼ばれていた場所でした。なぜなら、イエスはあのいけにえの動物と同じように、人々の罪を身代わりに負われたからです。もともとイエスは神の子として全く罪のないお方でしたが、私たちの罪のために汚れた者となって死んでくださったのです。ということはどういうことかというと、神の恵みは宿営の中にあるのではなく、宿営の外にあるということです。神殿の中の祭壇や儀式にあるのではなく、十字架で成し遂げられた救いの御業の中にあるということなのです。であれば、そうした神殿の中にとどまっているのではなく、そこから出て、キリストのみもとに出て行かなければなりません。

 

何度も申し上げているように、この手紙は迫害の中にあったユダヤ人クリスチャンたちに宛てて書かれました。彼らは、かつてのユダヤ教から回心しイエス・キリストを救い主として受け入れましたが、そこには多くの苦難がありました。それまでのユダヤ人のコミュニティから追い出されるというだけでなく、時にはいのちを狙われることもありました。そうした中にあって彼らは、こんなことならクリスチャンとしてあまり目立った行動をせずに、神殿を中心としたかつてのユダヤ教の儀式にとどまっていた方が安全ではないかと考えていたのです。しかし、そこには救いはありません。イエス様はそのようなユダヤ教の伝統やしきたりから彼らを解放するために十字架にかかってくださいました。ですから、そんな彼らに求められていたことは思い切って宿営の外に出て、神のみもとに出て行くことだったのです。勿論、宿営から外に出るということは簡単なことではありません。元来、町というのは、外敵から守るために城壁がめぐらされていました。ですから、その城壁の内側にいれば安全です。そこから出るということは危険であることを意味していました。そこには罪を犯した人や汚れた人が住んでいました。普通の人が住めるような場所ではなかったのです。しかしキリストはそのような所から出て、罪人として死なれました。であれば、キリストの弟子である私たちも、そこから出て行かなければなりません。

 

「今の所から出る」ことは、確かに一つの大きな決断がいるでしょう。生まれながらの人間はいつも安定を求めますから、これまでの生活から出ようとしないのです。しかし、そこには救いはありません。救いは宿営の外に出たイエスの中にあるのですから。イエスはこう言われました。

「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その門は狭く、それを見い出す者はまれです。」(マタイ7:13-14)

いのちに至る門は小さく、その門は狭いのです。それを見い出す者はまれですが、そこにいのちがあるのです。迫害や苦しみはあるかもしれませんが、それを覚悟でその安住の場所から出て、主とともに生きる道を選ぶなら、あなたもいのちに至るのです。いや、そのような苦難の中にあっても、その中に主がともにいてくださり、それを乗り越えることができるように助けと力を与えてくだいます。

 

あなたにとっての恐れは何ですか。あなたにとっての十字架は何でしょうか。どうぞ恐れないで、あなたの十字架を負って、イエスのもとに出て行ってください。そうすれば、あなたも必ずいのちを得ることができますから。

 

14節には、「私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。」とあります。これがクリスチャンの生き方です。クリスチャンはこの地上に永遠の住まいを持っているかのようにではなく、天の都を求めているのです。なぜなら、この地上のものは一時的であり、天の都は永遠に続くからです。パウロは、Ⅱコリント4章18節で、「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」と言っています。また、同じⅡコリント5章7節では、「確かに、私たちは見えるところによってではなく、信仰によって歩んでいます。」と言っています。私たちは目に見えるこの地上の一時的なものだけでなく、目に見えないいつまでも続く天の都を持っているのですから、その都を求めて生きるべきなのです。

 

Ⅲ.賛美のいけにえをささげよう(15-16)

 

ですから、第三のことは、賛美のいけにえをささげようということです。15節をご覧ください。「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの過日を、神に絶えずささげようではありませんか。」

 

旧約聖書には、イスラエルの民が神を礼拝する時には動物のいけにえをささげることが求められていましたが、キリストが私たちのためにご自分のいのちという最高のいけにえをささげてくださったので、クリスチャンにはそのような動物のいけにえではなく、神が喜ばれる霊的ないけにえをげようというのです。そのいけにえとはどのようなものでしょうか。一つは賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実です。くちびるを通してささげられる賛美と感謝です。賛美というと、多くの人は讃美歌や聖歌、あるいはブレイズソングを歌うことであると思うかもしれませんが、ここで言われている賛美というのはただ口先だけで歌うのとは違い、主に向かってささげられる心からの賛美のことです。ですからそれは歌を歌っている時もそうですが、祈っている時にも、いつもくちびるからほとばしり出てくるものです。特にここには「絶えずささげようではありませんか」と言われています。いいことやうれしいことがあった時だけでなく、嫌なことや苦しいことがあっても、どうも歌うような気分になれない時も、体調が悪くうなだれているような時でも、毎日忙しくて賛美などしていられないというような時でもいつもです。いったいどうしたらそのようなことが可能なのでしょうか。ですからここには、「キリストを通して」とあるのです。キリストを通してでなければ、絶えず賛美することなどできません。でもイエス様を見上げるなら、どんな時でも賛美をささげることができます。

 

先週、私たちの結婚式を導いてくださった牧師婦人が召され葬式に参列しました。礼拝堂の前に置かれた棺の上には、この牧師婦人が書かれた紙が2枚置かれてありました。そこには、感謝、喜び、祈りと自筆で書かれてありました。1996年に乳がんを患ってから20年間、いつ天に召されるかわからない恐怖の中で、先生は主イエスにあって心からの賛美と感謝をささげることができたのです。イエスを見上げるなら、あなたもいつでも、どんな状況にあっても賛美のいけにえをささげることができるのです。なぜなら、イエスはあなたを愛して、あなたのためにいのちを捨ててくださいました。あたが一番苦しい時にでも、イエスはあなたを離れず、あなたを捨てませんでした。あなたのためにこれほどまでの痛みに耐え、最後までその愛の中に置いてくださったことを思う時、賛美が自然とあふれてくるのです。

 

パウロとシラスがピリピで伝道していたとき、占いの霊につかれていた若い女奴隷から占いの霊を追い出すと、もうける望みがなくなった主人から訴えられて、彼らは牢に入れられ、足かせを掛けられてしまいました。そのとき彼らはどうしたでしょうか。真夜中に、ふたりは神に祈りつつ賛美の歌を歌っていたと聖書に記録されています。すると突然大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部あいて、みなの鎖が解けてしまいました。目を覚ました看守は逃げられたと思い、「もうだめだ」と自害しようと思ったとき、パウロは大声で言いました。「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」助かったと思った看守はパウロとシラスのところに駆け込んでくると、ひれ伏して言いました。「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」するとふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:30)と言うと、彼とその家族は主イエスを信じ、その夜、その家の者全部がバプテスマを受けたのです。ハレルヤ!パウロとシラスはそのような状況でも主を賛美しました。なぜなら、主は賛美を受けるにふさわしいお方だからです。主は、私たちがいつでも、どんな時でも、主を賛美することを願っておられるのです。

 

詩篇34篇1節を開いてください。これはダビデの賛美です。

「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。」

これはダビデが敵であったペリシテの王に捕まえ、そこから脱出した時に歌った詩です。この時ダビデはサウル王から逃れペリシテの町に行きましたが、ペリシテまたイスラエルに手は対していた民族です。それがダビデであることはすぐにばれてしまいました。いったいどうしようか悩んだ末に、彼はペリシテの王アビメレクの前で気が狂った人のふりをして、この危機を逃れたのです。彼は、門の扉に傷をつけたり、ひげによだれを垂らしたりして気違いを装ったのです。するとアビメレクはそれを見て、「こんな気の狂った人間に用はない。さっさと私の前から連れて行け」と家来に命じたので、ダビデはやっとの思いで危険から脱出したのです。その時に歌った詩なのです。

ダビデにとってどんなに屈辱的であったかわかりません。それでも彼は賛美しました。あらゆる時に主を賛美したのです。

 

クリスチャンの信仰生活には、信仰によって困難を乗り越えて前進する時もあれば、ダビデのようにペリシテの王の前で気が狂ったかのような真似をしなければ自分を守れないようなときもあります。しかし、あらゆる時に主を賛美しなければなりません。なぜなら、そこにも神の守りと助けがあるからです。いやむしろ、そうした中にこそ、もっと深い神の恵みがあるのです。ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえを、神に絶えずささげることができるのです。

 

それから善を行うことと、持ち物を人に分けることも怠ってはいけない、とあります。これはどういうことかというと、賛美は歌ったり、祈ったりといたくちびるによってささげられるものだけでなく、善を行ったり、持ち物を分け与えたりといった行いによっても表すことができるもので、そうしたいけにえを神は喜ばれるということです。それは神の恵みによってキリストのいのちを受けた人にとっては、むしろ自然の流れであると言えるでしょう。

 

だからパウロはこう言ったのです。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)

「そういうわけですから」とは、パウロがそれまで語ってきたことを受けてということですが、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められたので、ということです。そういうわけで、その深い神の恵みを受けたのであれば、今度は自分自身を神様にささげて生きるべきであるというのです。それが善行であり、持ち物を分け合うということによって表れてくるのです。それが、「あなたがたのからだを、神に受け入れられる生きた供え物としてささげなさい。」ということです。あなたがたのからだをささげるというのはおもしろい表現です。普通ならば「心をささげなさい」と言うのではないかと思いますが、パウロは「からだをささげなさい」と言いました。からだをささげるとは自分のすべてをささげるという意味です。クリスチャンがささげるいけにえは死んだ動物ではなく生きている自分自身であって、自分の存在のすべて、自分の生活そのものが、神様へのいけにえだというのです。

 

18世紀のアメリカを代表する伝道者であったD・L・ムーディは、ある時神様の迫りを感じ礼拝に回ってきた献金の皿の上に、「D・L・ムーディ」と書いた紙切れを置いたと言われています。彼は自分自身を神へのいけにえとしてささげたのです。その皿の中で横になりたい気持だったのでしょう。私たちのからだをささげるとは、そういうことなのです。

 

ある人は、聖会で神のことばを聞いたとき、神の御霊が激しく彼に臨み、肌身離さず持っていた金メダルを献金の皿の上に置きました。それはオリンピックで獲得した金メダルでした。今まで10ドル献金していた人が100ドルささげたというならわかりますが、金メダルをささげたとは聞いたことがありません。その人にとっては、自分の人生において最も大切なものをささげることによって、自分の気持ちを表したのでしょう。

 

神様が喜んでくださるいけにえとは、このようないけにえです。神は私たちを、聖い、生きた供え物としてささげることを望んでおられるのです。それこそ霊的な礼拝なのです。私たちもこのようないけにえを神にささげようではありませんか。それは神がまず私たちをあわれんで、罪の中から救ってくださったからなのです。

ヘブル人への手紙13章1~6節 「主は私の助け手です」

いよいよヘブル人への手紙の最終章に入ります。この手紙の著者は、迫害の中にあったユダヤ人クリスチャンたちに対して、彼らがなぜキリストの恵みにとどまり、信仰のマラソンを最後まで走り続けなければならないのかについて述べてきました。そしてそれは、彼らには揺り動かされない御国に入るという約束が与えられているからです。であれば、そのような特権に与ったクリスチャンはどうあるべきなのでしょうか。そこでこの手紙の著者は最後に、それにふさわしい生き方とはどのようなものなのかを語ってこの手紙を結ぶのです。その第一回目の今回は「主は私の助け手です」というテーマでお話ししたいと思います。

 

皆さん、私たちの生活は何を信じるかによって決まります。つまらないものを信じていればつまらない生活となり、すばらしいものを信じていればすばらしい生活になります。もし「この世の中は金次第だ」と思っていれば、人生はお金の奴隷のようなものになり、そこには何の潤いもない、すべはお金という尺度で測られるような生活になってしまいます。その結果家族の間には心の交流はなくなり、お金がすべてといった生活になってしまうのです。ですから、私たちが何を信じて生きるのかということは、私たちの生活を左右するとても重要なことなのです。

 

それは信仰生活も同じで、私たちが何をどのように信じているかによって、その生活のスタイルが決まります。ですから、この手紙の著者は、私たちが信じている信仰の内容とはどのようなものかを述べた後で、いよいよその信仰から出てくる生活について勧めるのです。そしてその中で最も大切な愛について語っています。

 

Ⅰ.兄弟愛をいつも持っていなさい(1-3)

 

まず、第一のことは、兄弟愛をいつも持っていなさいということです。1節から3節までをご覧ください。1節には、「兄弟愛をいつも持っていなさい。」とあります。

 

このヘブル人への手紙をはじめ、聖書全体でクリスチャンに対して強く言われていることは、互いに愛し合いなさいということです。この手紙の読者であったユダヤ人クリスチャンたちは、クリスチャンに回心したことで、これまでのようにユダヤ人としてその共同体の中で生きていくことが困難になっていました。そのような時に彼らに必要だったことは何かというと、互いに愛と善行を促すことです。ですから、10章24節には、「また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。」と勧められ、また、続く25節にも「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」勧められていました。そういう状況であったからこそ、ますます熱く愛し合うことが必要だったのです。

 

そして、ここには「いつも」と強調されています。調子がいい時だけでなくいつもです。以前は熱心に愛し合っていたけど、今は冷めてしまいましたというのではなく、いつもです。6章10節には、「神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。」とあります。彼らはかつて熱心に愛し合っていました。しかし、クリスチャンとしての歩みの中で迫害や苦難に会うと、いつしかその愛が冷めてしまっていたのです。

 

これは私たちにも言えることではないでしょうか。イエス様を信じて救われた時は喜びにあふれていました。何をしてもうれしいのです。教会に集まって一緒に賛美したり祈ったりすることが楽しくて、できるだけみんなと交わりたいと思っていました。しかし、長い信仰生活の中で人間関係に疲れたり、様々な問題に直面すると、いつしかそのような関わりを避け、自分の殻に閉じこもるようになります。それはちょうどガソリンスタンドで給油するようなものです。一週間の中でいろいろなことエネルギーを使い果たした人がガソリンスタンドにやって来て、そこでたまたま知り合いの人でガソリンの給油にやって来る人がいると、「あっ、お元気ですか。毎日大変ですね。」と言ってその場を去っていくようなものなのです。そこには他の人との関わりはありません。しかし聖書が教える教会とは、自分の好みや利益のために集まるような所ではなく、神が招き、共に生きるように導かれた信仰の共同体であり、神の家族なのです。ですから、イエス様はこの共同体を実現するためにこのように言われたのです。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:35)ですから、教会は私と神様という個人的な関係だけでなく、私たちと神様という関係であり、そうした関わりが求められるのです。

 

イエス様はアジアにある七つの教会に手紙を書き送りましたが、その中にラオデキヤの教会に対して次のように書き送りました。「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、暑くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」(黙示録3:15-16)

ラオデキヤの教会はどういう点で熱くもなく、冷たくもなかったのでしょうか。自分のことしか考えていなかったという点においてです。「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることを知らない。」(黙示録3:17)

彼らは自分の姿が見えませんでした。自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、他の兄弟たちのことが見ていませんでした。ですから、彼らに必要だったのは、他の兄弟が見えるようになるために、目に塗る目薬を買うということだったのです。

 

それは私たちも同じです。自分のことだけに向きがちな関心を、他の兄弟に向けなければなりません。パウロも、「自分のことだけでなく、他の人のことも顧みなさい。」(ピリピ2:4)と勧めています。兄弟愛をいつも持っていることは、神の愛によって救われたクリスチャンがまず第一に求めていかなければならないことなのです。

 

次に2節をご覧ください。ここには、「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました。」とあります。このような互いの愛は、具体的な行動になって表れてきます。その一つが、旅人をもてなすことです。

 

旅人をもてなすということは、当時の社会において非常に重要なことでした。というのは、当時は今のように宿泊施設が整っているわけではなかったからです。ですから、巡回伝道者や預言者、あるいは仕事で旅行しなければならなかったクリスチャンにとっては、何よりもありがたいことだったのです。

 

「ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました。」とは、アブラハムのことです。アブラハムは三人の人が自分の天幕を通り過ぎようとした時、この見知らぬ人々を心からもてなしました。彼らは御使いで、そのうちの一人は主の使い、すなわち、受肉前のキリストでしたが、アブラハムは彼らを見ると地にひれ伏して礼をし、上等の小麦粉でパンを作り、また美味しそうな子牛を取って料理して、彼らをもてなしました。彼は、それが神の御使いだと知らずにもてなしました。それはアブラハムにとって特別のことではなく、板についていたというか、習慣になっていたのです。旅人をもてなすことは時間も労力もお金もかかるためかなりの犠牲を強いられますが、だからこそ私たちのためにご自身のいのちを犠牲にして愛してくださった主の愛にふさわしい応答でもあるのです。

 

特に外国の方々をもてなしましょう。言葉や文化が違う所で生活することは私たちの想像を超える困難があります。そのような中で温かく迎えてもらえることは本当に助かります。

私は今年の夏中国へ行きましたが、そこで受けたもてなしにとても感動しました。行く所、行く所、どこでも喜んで歓迎してくれました。「これはにわとり足ですがおいしいです。どうぞ食べてください。」「これは近くの川で今朝とった魚ですがおいしいです。どうぞ食べてください。」と、たくさんのお料理がテーブルに並べられてもてなしていただきました。中国の教会が成長しているのは、こうした生きた神の愛といのちが脈々と流れているからだということを強く示されました。

 

また、昨年の夏にアメリカのサンディエゴにいるスティーブ・ウィラー先生のお宅を訪問したときも、その心からのおもてなしに強く心が打たれました。ウィーラー先生のお宅には私たちのようなゲストが来ても泊まれるようにゲストルームが用意されてあり、そこにはトイレやシャワールームも完備されているので気兼ねなく泊まれるようになっています。また、広々としたガーデンを見渡せるデッキで食事ができるようになっていて、ゆっくりとくつろぐことができます。特に私たちが日本の教会の開拓に携わっているということで気を使ってくださり、滞在中はサンディエゴズーやサファリ―パーク、市内の観光にも連れて行ってくれました。本当に申し訳ないと思うほどのもてなしをしていただいて恐縮ではありましたが、キリストにある愛の深さを強く感じることができました。

 

中国でのもてなしにしても、アメリカでのもてなしにしても、それぞれ文化の違いもあり一様に同じではありませんでしたが、そこに流れていた精神は同じでした。それは兄弟愛をいつも持っていなさい。旅人をもてなすことを忘れはいけません、ということです。ややもすると私たちは完璧なもてなしを求めるあまり言葉が通じなかったり、文化の違いがあるとどのように接したらいいかわからないと不安になり、接触を避ける傾向がありますが、本当の愛はどのようにもてなすかということではなく、兄弟愛をもって愛すること、旅人をもてなすということを実践することなのです。

 

もう一つのことは、牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやり、また、自分も肉体を持っているのですから、苦しめられている人々を思いやりなさい、ということです。これはどういうことかというと、信仰のために投獄されている人々を自分のことのように思うということです。この牢につながれている人々というのはキリストの名のゆえに投獄されている人々のことです。日本では、信仰のために投獄されている人はほとんどいないだろうと思いますが、世界には今でもそのような人たちがたくさんいます。先にも述べたように、当時クリスチャンは信仰のゆえにしばしば投獄され重い刑罰を科せられました。このような時、クリスチャンは祈ることはもちろんのこと、自分も牢にいる気持ちで思いやり、時には訪問したり、何かを差し入れたりして、具体的に助け合うことが求められました。なぜかというと、その人たちは同じキリストのからだである教会に属している器官だからです。「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が喜べば、すべての部分がともに喜ぶのです。」(Ⅰコリント12:26)私たちはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。私たちはそれぞれ一つのからだにつながっているので、一つの器官が苦しめば、すべての器官がともに苦しむのは当然のことなのです。

 

Ⅱ.結婚がすべての人に尊ばれるように(5)

 

第二のことは、結婚がすべての人に尊ばれるようにすることです。5節をご覧ください。「結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行う者とをさばかれるからです。」

 

皆さん、本来、結婚は尊ばれるものです。すべての人に、クリスチャンの人にも、ノンクリスチャンの人にも、すべての人に尊ばれるものなのです。それなのに、結婚はあまり尊ばれていません。結婚することにどんな意味があるのか、結婚して束縛されるのならもっと自由でいた方がいいと、あまり結婚したがらないのです。しかし、結婚は本来神が制定されたものであって、人類の幸福と繁栄のために与えられたものです。その結婚が尊ばれなくなってしまいました。なぜなら、それを破壊するものがあるからです。それが不品行であり、姦淫です。不品行とは性的なすべての罪のこと、姦淫とは、結婚関係以外に性的関係を持つことです。ですからここに、寝床を汚してはいけません、とあるのです。性的関係は夫婦の枠組みの中では尊いものであり、夫婦の関係を緊密にするものですが、その枠組みから離れたところで行われると喜びが台無しになってしまうどころか、汚れたものになってしまうのです。それはちょうど花壇の花のようです。花壇にはふわふわした柔らかな土がまかれ、そこに花が咲くととてもきれいですが、花壇の外に、たとえばリビングに柔らかな土をまいて花を咲かせても、それはきれいではありません。むしろ汚い限りです。花はやわらかな土が置かれた花壇に咲くときれいですが、それ以外のところにまかれると汚れてしまうのです。それと同じように性的な関係も夫婦という枠組みの中で行われると喜びであり、二人の関係が緊密にしますが、それ以外の枠組みで行われると汚れてしまうのです。

 

創世記2章24節には、結婚の奥義について次のように言われています。「それゆえ男は父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」

皆さん、二人はどうしたら一心同体になるのでしょうか。父母を離れ、つまりふたりは結婚して、妻あるいは夫と結ばれ、すなわち、性的な関係が持つことによって一心同体になるのです。この順序が重要です。男と女は結婚して、妻と結ばれ、そうした性的結合が持たれることによって、一心同体となる、すなわち、より親密な関係になるのであって、結ばれる前に関係を持つと、あるいは結婚してからその枠の外で関係を持つと、逆に自分自身を、夫婦の関係が滅ぼしてしまうことになるのです。

 

箴言6章27~29節、32~33節をご覧ください。

「人は火をふところにかき込んで、その着物が焼けないだろうか。また人が、熱い火を踏んで、その足が焼けないだろうか。隣の人の妻と貫通する者は、これと同じこと、その女に触れた者はだれでも罰を免れない。」

「女と貫通する者は思慮に欠けている。これを行う者は自分自身を滅ぼす。彼は傷と恥辱とを受けて、そのそしりを消し去ることはできない。」

 

火というのは隣人の妻のことです。そのような者と貫通すると、罰を免れません。それどころか、自分自身を滅ぼし、そのそしりを消し去ることはできません。たとえば、ダビデがバテシェバと姦淫を行ったとき、その罪責感でのたうちまわった、その心はカラカラに渇ききっていたと告白しています。(詩篇32:3-4)ですからパウロは、Ⅰコリント6章18節のところで、「不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を犯す者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。」と言っているのです。自分のからだに対して罪を犯すとはどういうことかというと、このように自分自身を滅ぼすということ、それがずっと消えないということです。だから不品行を避けなければならないのです。それが結婚の前であっても、後であっても、結婚という枠組みの外で行われるなら、それが自分を傷つけ、その傷がいつまでも残り、自分自身を滅ぼすことになってしまうのです。そして、夫婦関係を、家族関係を破壊することになるのです。そしてその結果、地域社会、社会全体が破壊しまうことになります。それはこの社会を見ればわかるでしょう。社会全体が病んでいます。

 

それでは、どうしたらいいのでしょうか。もしそのような関係にあるならば、私たちはどうしたらいいのでしょうか。幸いなことに、私たちが罪を犯したからといって神は狼狽することはありません。もう神は受け入れてくださらないということはありません。傷は一生残るかもしれませんが、神は回復させてくださいます。もう一度麗しい関係を持たせてくださるのです。もう赦されないということはありません。ではそのためにどうしたらいいのでしょうか。聖書は悔い改めと実りある人生のために、次の四つのステップを踏むことを勧めています。

第一に、罪を告白して悔い改めることです。Ⅰヨハネ1章9節には、「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」とあります。私たちが罪を犯したならばそれが罪であったと認めて、悔い改めることです。それが砕かれるということです。自分が間違ったことをしたと認めることが砕かれるということです。これが最初にすべきことです。

第二のことは、その罪を捨てること、罪から離れることです。箴言28章13節には、「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。」とあります。どういう人があわれみを受けるのでしょうか。それを告白して、それを捨てる人です。自分のそむきの罪を隠す者は成功しません。

第三のことは、神の聖さを求めることです。詩篇51篇10節に、「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。」とあります。これはダビデのマスキールですが、彼はナタンによって罪が示されたときその罪の赦しを求めただけでなく、きよめられることを求めました。

そして第四のことは、悪魔の誘惑を避けることです。パウロは若き伝道者テモテに次のように書き送りました。「それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」(Ⅱテモテ2:22)罪から離れても、再び悪魔が誘惑してきます。誘惑自体は罪でも悪でもありません。問題はその誘惑に落ちてしまうことです。どうした誘惑に勝利することができるのでしょうか。ここでは二つのことが言われています。一つは情欲を避けるということ、そしてもう一つのことは、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めるということです。そうすれば守られるのです。

 

バテシェバと姦淫して後悔と憂鬱の中に疲れきっていたダビデは、主に罪を告白し、悔い改めて、その罪を赦していただきました。その時彼はどのように告白したでしょうか。詩篇32篇1-2節です。彼はこのように賛美しました。「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、その霊に欺きのない人は。」これは彼が罪を犯して悔い改め、その罪を捨て、離れることによって、罪をきよめていただいたダビデが歌った詩なのです。彼は、「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。」と高らかに賛美することができました。この「幸い」はHappyです。皆さんはHappyですか。その罪を赦していただきましたか。罪が赦され、罪がおおわれた人は何とHappyでしょうか。確かに自分の犯した罪に苦しむことはあっても、主がその罪を赦してくださったと言える人は本当にHappyなのです。そればかりか、詩篇51篇13節に、「私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。」とあるように、その経験が、同じような罪で苦しんでいる人の助けとして用いられることもあるのです。ですから、罪を犯したからもう終わりだとあきらめないでください。神様はその罪を赦してくださいます。そして、あなたをきよめて、ご自身のご栄光のために用いてくださるのです。

 

Ⅲ.金銭を愛する生活をしてはいけません(5-6)

 

第三のことは、金銭を愛する生活をしてはいけないということです。5節と6節をご覧ください。「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしはけっしてあなたを離れず、また、あなたを捨てなさい。そこで、私たちは確信してこう言います。「主は私の助けです。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」

 

金銭を愛することは、神を愛することに逆行することです。イエス様も、「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:24)と言われました。神を愛するのではなく、金銭を愛することが問題です。Ⅰテモテ6章9節にも、「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。」と言われています。金銭そのものが問題ではなく、金銭を愛することが問題です。この金銭を愛することがあらゆる悪の根だからです。ですから、争いごとの多くは大抵お金が絡んでいるのです。人はお金があれば幸せになれると思っていますが、実際にはお金を愛することで自分自身を亡ぼすことになってしまうのです。

 

以前、イタリアでもひとりの男の死が話題になりました。彼は公営の賭博で3億円を当て、かつては「イタリアで一番幸福な男」と言われた人物でしたが、「一度当たって二度当たらぬはずがない」とその後ギャンブルに手を染め、ついには一文無しになってしまったのです。

彼の最期は悲劇でした。子どもたちに里帰りの列車の指定席代も払ってやることができなかった彼は、自由席を確保しようと、ミラノ駅構内でまだ止まりきらない列車に飛び乗りました。そして線路に落ち、列車の下敷きになって死んでしまったのです。

彼の死は国中で話題になりました。大金を手にして金に目がくらみ、最後は一番大切ないのちまでも失った彼の人生は、はたして本当に「イタリアで一番幸福」だったのでしょうか。

 

ですから、金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなければなりません。なぜなら、主ご自身がこう言われるからです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てなさい。」これがどのみことばからの引用なのかはわかりません。イエス様は、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と言われましたが、「あなたを離れず、あなたを捨てなさい。」と言われたとは書かれていないからです。おそらくこれは旧約聖書からの引用でしょう。申命記31章6節やヨシュア記1章5節にそのような約束のことばがあります。しかし、ここで重要なことはどこからの引用であるかということではなく、この金銭を愛する生活をしてはいけないということが、このことと深いつながりがあるということです。すなわち、もしあなたがイエス様としっかりつながっていて、イエス様と親しい関係にあれば、あなたはもう不満足であるということはないということです。でももしあなたがイエス様から離れていて、イエス様との関係がなければ、何をしても不満であり、いつまでも満足することはできないということです。だから不満になるとお金やモノで心を埋めようとするのです。あなたがイエス・キリストに近ければ近いほど、あなたの心は満たされるのです。イエス様との関係が、あなたの心の満たしのバロメーターになるということです。主は決してあなたから離れず、あなたを捨てないと約束しておられます。にもかかわらずその主から離れてしまうと、人との関係やビジネスとの関係を優先してしまうのです。そうすると、いつまでも心が満たされることはありません。イエス様がいれば十分満足なはずだからです。

 

それはちょうど新婚時代のようです。新婚時代のことを思い起こしてください。皆さんにも新婚の時代があったはずです。それははるか昔、もう忘れてしまったわという方もおられるかもしれませんが、その感覚は覚えているでしょう。もう何も無くても幸せでした。あなたと二人、同じ屋根の下に一緒にいるだけで幸せだったはずです。別に高級な車がなくても、大きな家に住んでいなくても、そんなに贅沢な暮らしなんてできなくても、もう十分満足でした。それなのに結婚してしばらくすると、ちょっとしたことでも嫌になって文句を言うようになります。その愛から離れているからです。愛があれば必ず満足することができるのです。

 

ですから、聖書は確信に満ちてこういうのです。6節の「」のことばをご一緒に読みましょう。「主は私たちの助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」このような確信はどこから与えられるのでしょうか。聖書のみことばです。聖書のみことばを通して、私たちは確信に満ちてこういうことができるのです。聖書のみことばをベースにして生きるなら、たとえ問題があっても、たとえ不安なことがあっても、私たちはこういうことができるのです。「主は私たちの助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」

 

皆さん、人を恐れるとわなにかかります。しかし、主を恐れる者は守られるのです。主は私の助け手です。人間は、私に対して何もすることができません。だから何も恐れる必要はありません。あれがない、これがない、今月の支払いが間に合わない、リストラされたらどうしよう、パートの時間が減らされた、子供の学費をどうしようと心配するのはやめましょう。そういうのは神様を信じていない人です。神様を信じている人は、神が私の助け手ですと確信に満ちているので、何も恐れる必要がないのです。現代は不安の時代だと言われています。先が見えなくてみんな不安になっています。それはこの確信がないからです。心配すれば恐怖で暗くなりますが、この確信に満たされていれば、心がパッと明るくなり、安心感を持つことができます。

 

この手紙の受取人であったユダヤ人クリスチャンたちは、迫害によって財産までも奪われていました。彼らは、すべてを彼らは失ってしまったのです。けれども、彼らには信仰がありました。それは、主が彼らとともにおられるということです。彼らはすべてを失いましたが、一番大事なものを持っていました。それはイエス・キリストでした。イエス・キリストを持っているということはすべてを持っているということだからです。なぜなら、それは永遠のいのちを持っているということだからです。その一方でこの地上ですべてのものを持っていたとしても、もしいちばん大切なもの、永遠のいのち、イエス・キリストを持っていなのならば悲惨です。なぜならこの地上のものはすべて一時的なものであって、どんなものでもすべて過ぎ去ってしまうからです。この主がともにおられることこそ、私たちが勝利ある人生を歩んでいく秘訣なのです。

 

星野富広さんの詩の中に、「いのちよりも大切なもの」という詩があります。

「いのちが一番大切だと 思っていたころ

生きるのが苦しかった

いのちより大切なものがあると知った日

生きているのが嬉しかった」

ここで星野さんが言っている「いのちよりも大切なもの」とは何でしょうか。よく人間にとって一番大切なものは「いのち」だと言われますが、そのいのちよりも大切なものがあるというのです。それはイエス・キリストであり、イエス・キリストを信じることによってもたらされる永遠のいのちです。星野さんはかつて中学校の体育の教師として健康な肉体と、体育の能力にもすぐれた人でしたが、それらを一瞬のうちに失い、絶望の淵に落ちました。その苦しみと試練は過酷でありましたが、入院中に聖書に出会い、そこから本当の生きる希望と喜びを見出だしたのです。

 

あなたはこのイエス様を信じていますか。そして、イエス様にしっかりつながっておられるでしょうか。イエス様があなたとともにおられるなら、あなたはそれで十分です。イエス様があなたを助けてくださるからです。

これが、クリスチャンの人生観の根底にあるものです。ですから、私たちはどんな思い煩いからも解放され、何が真の満足であるかを悟りながら、この世を旅することができるのです。このようないのちを与えてくださった主に感謝します。そして、いつも主がともにおられることを信じて、主とともに歩んでまいりましょう。

ヘブル人への手紙12章18~29節 「揺り動かされない御国」

きょうは、「揺り動かされない御国」というタイトルでお話したいと思います。御国とは天国のことです。私たちにはこんなにすばらしい天国が約束されているのですから、感謝をもって歩もうではありませんかということです。

 

私たちの信仰生活はマラソンのようなものだということをお話ししてきましたが、長いマラソン競争の中にはいろいろなことが起こってきます。しかしそれがどんなことがあっても弱り果ててしまうことがなく最後まで走り続けるために、この手紙の著者はいろいろな勧めをしてきました。前回の箇所ではその一つがすべての人との平和を追い求めなさいということであり、聖い生活を追い求めなさいということでした。また、この世のものにしか関心がなく、信仰のことにはまったく関心がなかったエサウのようにならないように注意しなければならないということでした。

 

今日、私たちが学ぼうとしている箇所には、その理由が述べられています。新改訳聖書には訳されていませんが、実は18節の文章の最初には、原文で「なぜなら」という言葉があって、その理由が述べられているのです。なぜ平和を追い求めなければならないのか、なぜ聖い生活を追い求めなければならないのか、なぜエサウのようにこの世のことばかりに関心を持っていてはならないのか、なぜなら、私たちにはほんとうにすばらしい天の御国に入るという特権が与えられているからです。私たちがマラソンをする上で重要なことはどこに向かって走っていくのかということです。それがわかっていればどんなに苦しくてもそれを乗り越えて進んで行くことができますが、そうでないとちょっとした困難にぶつかっても「や~めた」と言って途中でリタイヤすることになってしまいます。そこでこの手紙の著者は、私たちの信仰のゴールである天国がどれほどすばらしいものであるかを見せることによって、その信仰にしっかりと留まるように励ましているのです。それでは、天国とはどういうところでしょうか。

 

Ⅰ.すばらしい天国(18-24)

 

まず、18節から24節までをご覧ください。ここには旧約聖書に出てくるシナイ山と比較して、天国はそのようなものとは全く違うものであると述べられています。18節と19節には、「あなた方は、手でさわられる山、燃える火、黒い雲、暗やみ、あらし、ラッパの響き、ことばのとどろきに近づいているのではありません。このとどきは、これを聞いた者たちが、それ以上一言も加えてもらいたくないと願ったものです。」とあります。

 

これはどういうことかというと、昔イスラエルがエジプトを出てから十戒が与えられたあのシナイ山に近づいた時のことを指しています。神が臨在していると言われていたシナイ山に近づこうとしていた時、それはどのようなものだったでしょうか。「たとい、獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない」という命令に耐えることができず、その光景があまりにも恐ろしかったので、イスラエルの民は皆、震えおののいていました。つまり、あの十戒はどのようにして与えられたのかというと、恐れの中で与えられたのです。神様はあまりにも聖いお方なので、罪に汚れた人間が近づこうものならばたちまち滅ぼされてしまったのです。

 

それは人間の罪がいかに恐ろしいものであるかを教えるためには必要なことでした。神は全く聖い方なので、少しでも罪を持っていたり汚れた人間が近づくことはできませんでした。すなわち、神の律法がモーセによって与えられたのは、人間がいかに罪深い者であり、自分の力では到底律法には従えない存在であることを自覚させるためだったのです。ですから、それが与えられた時の状況も、当然それにふさわしい雰囲気であったわけです。厳かな感じです。軽くありません。日本の国家はそんな感じですね。とても厳かです。あまりにも厳かすぎて沈みそうになります。十戒が与えられたのはそのような厳かな雰囲気の中で、神に近づこうものならたちまち打たれてしまうような恐ろしさがあったのです。

 

しかし、私たちが行こうとしている天国は、決してそのような所ではありません。それは、私たちの罪がイエス様の十字架の死によって取り除かれたからです。ですから、神は全く聖く、威厳のある方ですが、私たちは何の恐れもなく大胆に神に近づくことができるのです。22節から24節までをご覧ください。ここには、「しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルよりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。」とあります。

 

これが神の恵みよって、クリスチャンに与えられている行き先です。それはシナイにある山ではなく、シオンにある山です。地上のエルサレムではなく、天にあるエルサレムです。そこは、生ける神が臨在しているところなのです。それはこの書の11章に出てきたアブラハムやイサク、ヤコブといった信仰に生きた人たちが待ち望んでいた都でした。ヨハネの黙示録21章に出てくる幻は、まさにこの神の都、天国の光景だったのです。

 

その神の都、天のエルサレムの特徴は、シナイ山における恐ろしいさばきではなく、無数の御使いたちによる大祝会です。イエス様は、「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」(ルカ15:10)と言われましたが、そうした無数の天使たちの喜びが沸き起こっているところ、それが天国なのです。この天国が私たちに近づいているのです。やがて私たちはこの天のエルサレム、永遠の都に住むようになるのです。

 

そして、そこには天に名が登録されているすべての聖徒たちがいます。パウロやペテロといった聖書に登場している人もいれば、最近死んだクリスチャンの肉親や友人たちもいます。そこにはイエス様を信じて、天に名が書き記されたすべての聖徒たちがいて、主をほめたたえているのです。

 

私が初めて韓国の教会を訪問したのは1993年のことでしたが、ホーリネス教会では世界で一番大きいと言われている光林教会での礼拝を今でも忘れることができません。そこには何千人もの礼拝者がいましたが、礼拝が始まると礼拝堂の両脇のカーテンが自動的に閉まると、何百人で構成されたオーケストラが讃美歌を奏でたのです。するとこれまた何百人の聖歌隊が現れて、一緒に「来る朝ごとに」という讃美歌を歌いました。体が震えるほどの荘厳さと感動を覚えました。でも、天国での賛美はそんなものではありません。無数の御使いたちとともに何千、何万の聖徒たちが賛美をささげているのですから、ものすごい喜びと感動にあふれていることでしょう。

 

そればかりではありません。そこには私たちをそこに入ることができるようにしてくださった新しい契約の仲介者であられるイエス様がおられます。天国が恐ろしいところではなく喜びに満ち溢れた所であるのは、もっぱらそのイエス様がおられるからなのです。なぜなら、イエス様はその血によって私たちの罪を贖ってくださった方だからです。イエス様の血によって私たちのすべての罪が赦されました。もはやあなたの罪が思い出されることはありません。ですから、あなたは何も恐れることなく大胆に神のみもとである天国に行くことができるのです。

 

この「近づいている」という言葉は、そのことを表しています。原文では完了形といって、もうすでに起こった決定的なことを意味しています。そうです、イエス様が十字架で私たちのために死なれ、私たちのために血を流してくださったので、私たちの罪は取り除かれ、大胆に神のみもとに行けるようになりました。確かに今はまだこの地上にあってさまざまな問題で悩みで苦しまなければなりませんが、神の聖霊が私たちの心の中に住んでおられるので、この聖霊によって、そうした問題に悩まされることがあっても、さながら天国のような喜びにあずかることができるのです。そのことをペテロはこう言っています。

「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いまは見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことができない、栄に満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(Ⅰペテロ1:8-9)

何とすばらしい約束でしょうか。私たちはイエス・キリストを見たことはないけれども、このイエスを信じたことで、その中に入れていただきました。そして、ことばに尽くすことができない栄えに満ちた喜びに踊っているのです。

 

皆さんは、この喜びに踊っていますか。皆さんが近づいているのは恐ろしいシナイの山でしょうか、喜びにあふれたシオンの山でしょうか。だれでもイエス・キリストを信じるなら、この天国に名が書き記されるのです。そして何の恐れもなく、大胆に神のもとに近づくことができるのです。私たちが見なければならないのはこの天の御国です。天国を見れば希望が与えられます。そして、目の前にどんな問題があってもそれを乗り越えて走り続けることができるのです。

 

Ⅱ.天国の一員として(25-27)

 

第二のことは、天国がそれほどすばらしいところであるならば、その一員としての自覚と責任を持たなければならないということです。25節から27節までをご覧ください。

「語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。」

 

どんな場合でも、すばらしい特権にあずかれば、必ずそれに伴った責任があります。それは、どのような場合でも同じです。多くの子どもたちは早く大人になりたいと思っています。大人になれば何でも自由で、自分の思うように出来ると思っているからです。しかし、大人になれば自分の思うように出来ると同時に、自分のすることに対して責任を持たなければなりません。最近では必ずしもそうではないようですが、しかし多くのサラリーマンは社長になりたいと思っています。社長になればあれも出来る、これも出来ると、何でも出来ると思っているからです。送り迎えは運転手付きの車で、混雑した通勤電車に乗らなくても済みます。しかし、社長ほど大変な立場はないのです。というのは、社長には大きな責任があって、自分が下す決断いかんによっては、社員とその家族の生活がかかっているわけで、まかり間違うと、彼らを路頭に迷わしかねません。そういうことを考えると、オチオチ眠ってなどいられないのです。

 

それは私たちクリスチャンも同じで、クリスチャンにも大きな特権が与えられていて、その特権というのは大人になるとか社長になるといったものとは比べものにならないくらいすばらしいものです。神が永遠に共におられる天国へ行くことができるのですから。これほどすばらしい特権はありません。天国のすばらしいさがわからない人にとっては、それは絵に描いた餅のようなものでしかないかもしれませんが、そのすばらしさが少しでもわかっている人にとっては、道草を食ったりしないで、一目散に天国へ向かって行きたいと思うほどです。

 

しかし、そのような特権にあずかっているのに道草を食っている人がいるので、この手紙の著者はこのように語りかけているのです。「語っている方を拒まないように注意しまさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。」

 

どういうことでしょうか。イスラエルの民は、エジプトを出てから荒野を旅している間、モーセを通して神のことばを聞いていましたが、彼らは繰り返し、繰り返しそれに従わず、つぶやいたり、不平不満を言って神に逆らったがために、エジプトを出た時に成人していた六十万人の中で約束の地に入ることができたのはたった二人しかいなかったのです。それはヨシュアとカレブという人だけで、他の人たちはみな、荒野で死ななければなりませんでした。約束の地に入ることができなかったのです。それは、彼らが神の仰せに従わなかったからです。であれば、神そのものであられるイエス様が仰せになられたことに従わなかったら、どれほど大きな罰を受けるかは明らかなことです。昔イスラエルが約束の地に入ることができなかったように、神が約束してくださった天の御国に入ることはできないのです。それが、天国へ行く私たちクリスチャンに与えられている責任なのです。昨日の信仰があすの信仰を保証するわけではありません。神の前ではきょう真実であることが重要なのです。ですから、語っておられる方を拒まないように注意しなければなりません。

 

「ですから、聖霊が言われるとおりです。『きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試みて証拠を求め、四十年の間、わたしのわざを見た。だから、わたしはその時代を憤って言った。彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。』兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。」(ヘブル3:7-14)

 

「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)

 

皆さんはいかがでしょうか。イエス様の御声を聞いて、それに従っておられるでしょうか。それとも、悪い不信仰の心になって生ける神から離れているということはないでしょうか。「きょう」が大切です。「きょう」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないように注意しましょう。そして、もし神から離れているなら、神に立ち返らなければなりません。それが悔い改めるということです。悔い改めてもう一度、あなたの人生の主人としてイエス様をお迎えすればいいのです。そうすれば、主はあなたを赦してくださいます。この確信を最後までしっかりと保ちたいと思います。そうすれば、私たちはキリストにあずかる者となるのです。

 

26節と27節をご覧ください。「あのときは、その声が地を揺り動かしましたが、このたびは約束をもって、こう言われます。「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。」この「もう一度」ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。」どういうことでしょうか。

 

「あのとき」というのは、あのシナイ山で神が語られた時のことです。あのときは、神の御声が全地を揺り動かしましたが、今度は、地だけでなく、天も揺り動かすと、神は言われます。何のためでしょうか。決して揺り動かされることのないものが残るためです。これは何のことを言っているのかというと、この世の終わりのことです。聖書はこの世には終わりの時があって、その時にはすべてのものが滅ぼし尽くされると書かれてあります。天地万物のものがふるいにかけられるのです。ペテロ第二の手紙3章をご覧ください。1節から14節に次のように記されてあります。

「愛する人たち。・・・当時の世界は、その水により、洪水に覆われて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。・・しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象はくずれて去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。・・・しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいます。そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。」

 

このように聖霊はペテロを通してお語りになりました。万物が揺り動かされる時が来るのです。ペテロは個人的にも揺り動かされました。神殿も揺り動かされて壊れました。なぜでしょうか。本物が残るためです。本物が残るためにすべてのものが揺り動かされて、ふるい落とされるのです。

それが近くなればなるほど悪がはびこります。今、ほんとうに悪がはびこっています。それは、主がもう近くまで来ているという証拠でもあります。私たちが見ているものはすべて崩れ去ってしまいます。しかし、これらすべてが揺り動かされても、決して揺り動かされないものがあります。決して滅びないものがあるのです。それが天の御国です。神は私たちのために新しい天と新しい地とを用意しておられるのです。そして、私たちクリスチャンは、この神の国の一員とされている者なのです。何とすばらしい特権でありましょう。

 

Ⅲ.揺り動かされない御国を受けているのですから(28-29)

 

ですから、結論は何かというと、28節です。

「こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。」

 

すべてのものが揺り動かされ、崩れ落ちる日が来ます。それはちょうどノアの日のようだとイエス様は言われました。人々が平和だ、平和だと言っているような時に、突然、盗人のように襲ってくるのです。しかし、私たちには盗人のようにはきません。私たちはそのことをすでに神の言葉を通して知っています。そして私たちは、その恐ろしい日に会うことはありません。どうぞ安心してください。キリストを信じている人はさばきに会うことがなく、死から命へ移っているからです。私たちは決して揺り動かされることのない神の国に入れられ、キリストとともに共同相続人とされているからです。ですから、私たちは感謝しようではありませんか。恐ろしいところに近づいているのなら感謝などできません。そこにあるのはただ恐れだけでしょう。しかし、私たちは恵みに近づいているのです。神の国に近づいているのです。そここそ、私たちのゴールなんです。やがてそこから主が来られます。だから私たちは感謝しようではないか、というのです。

 

元々罪人であった私たちは、最後の日に万物がふるいにかけられるときには、到底それには耐えられない者でした。ただ恐れて、震えるしかない者でした。しかしそんな私たちが決して揺り動かされることがないように、神はご自身の御国に入れてくださいました。それは本当に感謝なことです。

 

そして、慎みと恐れをもって、神に喜ばれるように奉仕することができるのです。私たちは救い主イエス・キリストを信じる信仰によって救われました。良い行いによるのではありません。信じるだけで救われました。私たちが救われたのはただ神の恵みによるのです。すべての人にこの恵みが提供されています。でもこの恵みを拒み続けるならば、最後のところに書いてあるように、私たちの神は焼き尽くす火です。罪が残れば、その罪のゆえにさばかれてしまいます。神の前に隠すことは誰も、何もできません。でも神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを願っておられます。

 

ですから滅びることがないように、神は私たちを愛して御子を遣わしてくださったのです。神が御子を世に遣わされたのは世をさばくためではなく、御子イエス・キリストによって世が、あなたが救われるためです。そのようにヨハネの福音書3章17節に書かれてあります。神は私たちを救いたいのです。御子を与えてくださったほどに愛してくださいました。このキリストを信じるようにというのが、聖書のメッセージなんです。そして信じた者は、この神の愛から引き離そうとする者に気をつけなさいということを、この手紙の著者は繰り返し、繰り返して言っています。罪の誘惑があります。苦難もあります。迫害もあるでしょう。そうしたものを私たちは避けて通れません。だから、信仰の先達者たちを見なければなりません。彼らはそのような中にあっても最後まで信仰の道を走り通しました。何よりも私たちが見なければならないものは、信仰の創始者であり完成者であるイエス様です。この方を見なければなりません。この方から目を離してはなりません。そこには苦難はたくさんありましたが、みな栄光のゴールに入りました。キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すものは何もありません。患難も、苦しみも、迫害も、飢えも、危険も、このキリスト・イエスにある神の愛から引き離すものはないのです。私たちはしっかりとイエス・キリストにとどまり続けましょう。

申命記26章

 

 申命記26章から学びます。まず1節から4節までをご覧ください。

 

 1.初物のいくらかを捧げなさい(1-4

 

「あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地にはいって行き、それを占領し、そこに住むようになったときは、あなたの神、主が与えようとしておられる地から収穫するその地のすべての産物の初物をいくらか取って、かごに入れ、あなたの神、主が御名を住まわせるために選ぶ場所へ行かなければならない。そのとき、任務についている祭司のもとに行って、「私は、主が私たちに与えると先祖たちに誓われた地にはいりました。きょう、あなたの神、主に報告いたします。」と言いなさい。祭司は、あなたの手からそのかごを受け取り、あなたの神、主の祭壇の前に供えなさい。」

 

モーセはこれまで、イスラエルが約束の地に入ってからどうあるべきかについて具体的に語ってきました。まず5章から11章までのところで神に対する基本的なあり方として、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主を愛することが語られ、12章からはその具体的な適用について詳細に語られてきました。今回の箇所は、その最後の部分となります。

 

イスラエルの民は今、ヨルダン川の東側にいますが、もうすぐ神が約束してくださった相続地に入ります。そして約束の地に入れば、これまでの荒野での生活とは異なり、その土地からの産物を収穫できるようになります。そうしたら収穫するその地のすべての産物の初穂をいくらか取って、かごに入れ、主の御名が置かれた場所、これは神の祭壇のことですが、そこへ持って行かなければなりませんでした。なぜでしょうか。主の祭壇に供えるためです。それは主にささげる礼拝の供え物としてささげられました。神はこのようにして、イスラエルの民が神の恵みに感謝するようにされたのです。3節の報告は、カナンの地に入ってから、最初の収穫を得たことへの神に捧げる感謝の告白とともに、最上のものを主にささげるという信仰の表明でもあったのです。というのは、初穂は最上のものだからです。(出エジプト23:19,34:26)私たちも、私たちの持っている一番良い物で、神に感謝をささげましょう。すべてのものに、神を第一とする訓練を積みたいものです。

 

2.神を知ること(5-11

 

 次に5節から11節までをご覧ください。

「あなたは、あなたの神、主の前で、次にように唱えなさい。「私の父は、さすらいのアラム人でしたが、わずかな人数を連れてエジプトに下り、そこに寄留しました。しかし、そこで、大きくて強い、人数の多い国民になりました。エジプト人は、私たちを虐待し、苦しめ、私たちに過酷な労働を課しました。私たちが、私たちの父祖の神、主に叫びますと、主は私たちの声を聞き、私たちの窮状と労苦と圧迫をご覧になりました。そこで、主は力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力と、しるしと、不思議とをもって、私たちをエジプトから連れ出し、この所に導き入れ、乳と蜜の流れる地、この地を私たちに下さいました。今、ここに私は、主、あなたが私に与えられた地の産物の初物を持ってまいりました。」あなたは、あなたの神、主の前にそれを供え、あなたの神、主の前に礼拝しなければならない。」

 

ここには、初物を捧げる時に唱えなければならない内容が記述されています。それは極めて簡略化されたイスラエルの歴史として、エジプトに下ったヤコブから始まり、神が、どのようにしてエジプトの奴隷生活から解放してくださり、約束の地カナンに導いてくださったのかということです。それは神の一方的な恵みによるものでした。彼らが主に叫ぶと、主はその声を聞いてくださり、彼らの窮状と労苦と圧迫をご覧になられ、その力強い御手と、恐ろしい力、しるしと、不思議をもって、彼らをエジプトから連れ出し、この約束の地カナンへと導いてくださいました。それをその地の産物の初穂とともに主の前に供えて礼拝しなければなりませんでした。そのように唱えることによって神がいかに真実な方であり、恵み深い方であるかを思い起こし、その神を喜び、礼拝したのです。

 

私たちはどれほど神によって与えられた恵みと奇跡を思い起こしているでしょうか。神に願う時には必至に祈っても、それがかなえられた瞬間に「ああ、良かった」と思いとともに、神様のことをすっかり忘れているということが多いのではないでしょうか。それは神を求めているからではなく、自分の祝福を求めているからです。しかし、イスラエルが神から祝福されたのはその祝福のためではなく、その祝福によって、神がいかに真実な方であり、恵み深い方であるかを知るためでした。私たちは自分が祝福されるために神を求めるのではなく、神を求めるならば神は祝福してくださるということを信じて、神を知ることを求めて行かなければなりません。

 

3.十分の一をささげなさい(12-15

 

次に12節から15節までをご覧ください。

「あなたの神、主が、あなたとあなたの家とに与えられたすべての恵みを、あなたは、レビ人およびあなたがたのうちの在留異国人とともに喜びなさい。第三年目の十分の一を納める年に、あなたの収穫の十分の一を全部納め終わり、これをレビ人、在留異国人、みなしご、やもめに与えて、彼らがあなたの町囲みのうちで食べて満ち足りたとき、あなたは、あなたの神、主の前で言わなければならない。「私は聖なるささげ物を、家から取り出し、あなたが私に下された命令のとおり、それをレビ人、在留異国人、みなしご、やもめに与えました。私はあなたの命令にそむかず、また忘れもしませんでした。私は喪のときに、それを食べず、また汚れているときに、そのいくらかをも取り出しませんでした。またそのいくらかでも死人に供えたこともありません。私は、私の神、主の御声に聞き従い、すべてあなたが私に命じられたとおりにいたしました。あなたの聖なる住まいの天から見おろして、御民イスラエルとこの地を祝福してください。これは、私たちの先祖に誓われたとおり私たちに下さった地、乳と蜜の流れる地です。」

 

神は、初物を捧げるだけでなく、レビ人、在留異国人、やもめに与えるために、その収穫の十分の一をささげるように命じられました。この十分の一は、各自が住んでいる町に集められ、在留異国人、みなしご、やもめに分け与えられました。それは「贈り物」と呼ばれ、主の前に区別してささげられました。そのようにして十分の一をことごとく主の前に持って来た者は、15節にあるように、「御民イスラエルとこの地を祝福してください。」と大胆に祈ることができました。感謝と喜びをもって神の命令に従うとき、私たちは神の恵みと祝福を期待することができるのです。

 

また14には「そのいくらかでも死人に供えたこともありません。」とありますが、当時カナンの地でも日本と同じように、死者に供え物をする習慣があったようです。生きている時に家族を大切にするのではなく、死んでから死者のためにたくさんのお金をかけます。しかし、聖書の神は、生きている者の神であり、生きている人々を大切にされます。死んだ人についてはすべて神の御手の中にあるので神にゆだね、生きている人々に慈善を行なうことが求められているのです。

 

このように神への礼拝は、他の人々への思いやり、愛の業となって表れます。神を礼拝するということは神のいのちに生きることによって、そのいのちを人々に分かち合うことでもあるのです。神の愛がその人のうちにとどまっていなければ、その礼拝は形式だけのものであり、死んだものです。礼拝をとおしてキリストの愛に駆り立てられて、それが具体的な行いへと向かっていくのです。勿論、この順序は大切です。まず神への礼拝があって、そこから隣人への愛の業が生まれます。私たちの礼拝はどうでしょうか。キリストの愛に駆り立てられて、それが困っている人々への思いやりとなって表れているでしょうか。

 

 4.主の宝の民、聖なる民(16-19

 

 最後に、16節から19節をご覧ください。

「あなたの神、主は、きょう、これらのおきてと定めとを行なうように、あなたに命じておられる。あなたは心を尽くし、精神を尽くして、それを守り行なおうとしている。きょう、あなたは、主が、あなたの神であり、あなたは、主の道に歩み、主のおきてと、命令と、定めとを守り、御声に聞き従うと断言した。きょう、主は、こう明言された。あなたに約束したとおり、あなたは主の宝の民であり、あなたが主のすべての命令を守るなら、主は、賛美と名声と栄光とを与えて、あなたを主が造られたすべての国々の上に高くあげる。そして、約束のとおり、あなたは、あなたの神、主の聖なる民となる。」

 

ここには、「きょう」という言葉が3回も繰り返されています。これは、モーセがヨルダン川の東側モアブの荒野でイスラエルに語ったみことばですが、そこで語られた日のことを指しています。それはモーセを通して語られた神のおきてと定めとを守り行うと彼らが宣言した日のことです。その応答に対して神は彼らを「主の宝の民」、「主の聖なる民」であると宣言してくださいました。つまり、イスラエルは、主のすべての命令を守り行うと誓うことによって主の宝の民とされ、主の所有とされているということです。これは旧約時代のイスラエルだけでなく、新約時代におけるクリスチャンにも言えることです。イエス様はこう言われました。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(ヨハネ15:7私たちがイエス様にとどまり、イエス様のことばが、私たちのうちにとどまっているなら、何でもほしいものを求めなさい・・・と。それがかなえられるのは、私たちがイエス様にとどまっていることによって、イエス様のいのちと祝福に与ることができるのであって、そうでなかったらそれらを期待することはできません。

 

イスラエルは主のいましめと定めとを守り行うと宣言したことで、主の宝の民、聖なる民となりました。私たちも神の定めとおきてである聖書にとどまり、これを守り行うとき、主の聖なる民、宝の民になるのです。私たちが主に愛され、罪から救われたことがわかるなら、それはもはや義務ではなく、心からの喜びとなるはずです。

 

ペテロはこう言いました。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」(Ⅰペテロ2:9-10私たちは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。そのことがわかると、神のみことばに従うことは喜びとなるのです。

ヘブル12章12~17節「神の恵みから落ちないように」

きょうは、「神の恵みから落ちないように」というタイトルでお話したいと思います。信仰生活はよく長いマラソンのレースにたとえられますが、その長いレースの途中にはほんとうに苦しいことが多く、最後まで走り続けることはそんなに楽なことではありません。この手紙の受取人であったユダヤ人クリスチャンたちも度重なる迫害や困難の中で、霊的にかなり疲れが出ていました。マラソンの場合そうですが、出発する時はだれもが元気一杯に勢いよく飛び出すものですが、やがて二十キロ地点、三十キロ地点になりますと先頭集団との間にかなりの距離が出きて来て、もうついてはいけない思い脱落していくように、彼らも霊的にかなり疲れ、衰弱していました。手は弱り、ひざは衰えて、ついには集会に出席することさえ止めるようになっていたのです。それはマラソンでいうなら途中棄権の一歩手前という状態です。そこでこの手紙の著者はそんな彼らを励まし、だれも神の恵みから落ちることがないようにと勧めるのです。いったいどうしたら最後まで走り抜くことができるのでしょうか。きょうはそのために必要な三つのことをお話したいと思います。

 

Ⅰ.まっすぐにしなさい(12-13)

 

まず、第一のことは、まっすぐにしなさいということです。何をまっすぐにするのでしょうか。弱った手と衰えたひざです。また、自分の前に置かれた走路、道ですね、それをまっすぐにしなければなりません。12節と13節をご覧ください。「ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道をつくりなさい。なえた足が関節をはずさないため、いやむしろ、いやされるためです。」

 

この手紙の受取人であったユダヤ人クリスチャンたちは相当疲れ果てていました。手は弱り、ひざは衰え、足はなえて関節をはずす一歩手前になっていました。どうして彼らはそれほどまでに弱り果てていたのでしょうか。それは、彼らを弱める者がいたからです。それは悪魔であり、その手下である悪霊どもです。悪魔はほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。彼らにいろいろな困難が起こるようにして、彼らの霊的力を弱めようとしていたのです。しかし、彼らの手足が弱り果てていたのはそうした悪魔の巧妙な働きもさることながら、この文脈から考えると、特に二つの原因があったことがわかります。一つは、1節に「いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて」とあるように、そうした重荷や罪とを捨てることができなかったことです。そのため彼らの手足は完全に麻痺し、だらけてしまったのです。もう一つの理由は、5節に「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。」とありますが、それを神の懲らしめとして受け止めることができなかったことです。それで彼らはいつまでもいじいじして、立ち上がることができないでいました。

 

そのような彼らに必要だったのはどういうことでしたか。ここには、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにすることでした。また、彼らの足のためには、まっすぐな道を作るということでした。なぜかとうと、そのようにすることによって、彼らのなえた足が関節をはずさないため、いやむしろ、いやされるからです。

 

これはとても大切なポイントではないかと思います。普通、私たちはだれかが霊的に疲れているとか、いろいろなことで落ち込んでいるとき、どうやってその人を励まそうとするかというと、その人に同情することによって励まそうとすることが多いのではないかと思います。「それは大変ですね、しばらくゆっくり休んでください」とか、「気分転換に自分の好きな事でもしてみたらどうですか」というふうにしてです。勿論、時にはそのようにして相手の気持ちに寄り添ってあげることは大切ですが、必ずしもそのようにすることによっていやされるかというとそうでもなく、そのようにすることによってかえって深い溝にはまってしまうことも少なくありません。では聖書はそのような時にどのようにするようにと勧めているかというと、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにするようにと勧めています。つまり、あなたが疲れ果てているなら、もうだめだと思うなら、その弱った手と衰えたひざとをまっすぐにするようにと言うのです。あなたのなえた足が関節をはずさないため、いやむしろいやされるためです。実際のところ、何もしないでいることが問題をもっと悪化させたり、回復をもっと遅らせてしまうことがあります。それはもっと弱らせてしまうことになるからです。手足が衰えた時、心が落ち込んだ時に必要なことは、そうした手足をまっすぐにすることです。そうでないと歩くことがおっくうになってきて、そのうちに本当に歩けなくなってしまうことにもなりかねません。

 

私は、今年始まってすぐに胆のうを摘出しました。胆石が悪さをしてしばしば発作を起こすので、一番の解決は胆のうを摘出することだと医者から言われ、そうすることにしたのです。数年前に一度手術をする予定でしたが病院の都合で手術が延期となったので、これはしばらく様子をみなさいということだと勝手に思い込み、というか手術がこわかったので、病院から抜け出しましたがその後も何度か発作に見舞われたので、これはしょうがないなぁと観念して手術を受けることにしたのです。医師の説明によると、これは腹腔鏡によって行われるので楽ですよと言われたのですが、実際は思っていたよりもひどく、麻酔がきれる頃は熱で意識がもうろうとしたほどです。それに身体中に点滴の管とか、血栓予防のマッサージなども取り付けられて身動きできない状態で、一日がとても長く感じられまた。その時、医者が信じられないことを私に言いました。「大橋さん、明日には歩けるようになりますからね。」明日には歩けるようになりますからと言われても、こんな状態でどうやって歩けというのか、無理でしょう、と思いましたが、医師の説明によると、最近の医学では、手術後、できるだけ早くリハビリした方が回復も早いということで、翌日には歩くようにしているということでした。何もしないでじっとしている方が、むしろ身体には悪いというのです。なるほど、じっとしていた方が身体にはやさしいのではないかと思われがちですが、実際には逆で、身体を動かした方がいいのです。

 

それは霊的にも言えることで、私たちの心が疲れ果ててもう立ち上がれないというときや、霊的に落ち込んだときに、もうだめなんですとじっとしていると逆に筋肉が硬くなって、なかなか立ち上がれなくなってしまいます。そのような時にしなければならないことは何かというと、その弱った手と衰えたひざをまっすぐにすることなのです。

 

それでは、その弱った手と衰えたひざとをまっすぐにするとはどういうことでしょうか。このまっすぐにするということばはルカの福音書13章13節にも使われていますが、そこでは「腰が伸びて」と訳されています。18年もの間、腰が曲がったままであった女性がイエス様のところに行くと、イエス様は彼女に、「あなたの病気はいやされました」と言って、手を置かれると、彼女の腰はたちどころに伸びたのです。彼女はどのようにして腰が伸びたのでしょうか。それはイエス様のところへ行ったからです。彼女はイエス様に呼び寄せられたとき、そのことばに従ってみもとに行ったので、いやされたのです。イエス様はこう言われました。

 

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのころに来なさい。わたしがあなたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

 

いやされるために必要なことは何もしないでいることではなく、イエス様のもとに行くことです。そうすればイエス様がいやしてくださいます。イエスのもとに行くなら、イエスがあなたの弱った手と足をいやし、強めてくださるのです。

詩篇103篇3~5節にはこうあります。主はあなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされるからです。あなたの若さは鷲のように、新しくなるからです。(詩篇103:3-5

また、イザヤ書53章4~5節にはこうあります。イエス様はあなたの病を負い、あなたの痛みをになったからです。彼は私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれました。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼のうち傷によって、私たちはいやされたからです。(イザヤ53:4-5)

ですから、イエス様のもとに行くなら、だれでもいやされるのです。

 

あなたはイエスのもとに行って、あなたの重荷をおろしていますか。あなたの弱った手と衰えたひざとをまっすぐにしているでしょうか。だったらどうしてこんなに苦しまなければならないのでしょうか。どうしていつまでも困難や苦しみが続くのでしょうか。それはあなたがイエス様のところに行っていないからです。イエス様を信じますと言いながらも、実際にはイエス様のことばよりも他の人のことばを頼りにしているからです。それは短い毛布のようで、あなたを温めることはできません。あなたが真にいやされたいと願うなら、イエス様のところに行かなければなりません。イエスのもとに行ってイエス様をほめたたえ、イエス様に祈り、イエス様のみことばをいただくなら、あなたはいやされるのです。

 

また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作らなければなりません。これは、あなたの道を整えなさいということです。信仰のマラソン競争をする上で障害となるもの、つまずきとなるもの、誘惑となるもの、足を引っ張るものがあるならそれらを取り除いて、まっすぐな道を整えなさいということです。これがないと困るんです、私にはそれが必要なんですと、長年執着してきたものに未練を残してはいけません。不要なものは一切捨てなければならないのです。そうでないと、あなたはいつも後ろ髪を引かれるようになかなか前に進んでいくことができないからです。

 

Ⅱ.平和と聖さを追い求めなさい(14)

 

第二のことは、平和と聖さを追い求めなさい、ということです。14節をご覧ください。ここには、「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」とあります。これは、どういうことでしょうか。

 

信仰のレースにおいて邪魔になるもの、重荷になるものは捨てなければなりませんが、逆に良いものは取り入れなければなりません。ここにはその取り入れるべき二つの良いものが取り上げられています。それはすべての人と平和を保つこと、そして聖められるということです。

 

まず、すべての人との平和を追い求めなさいとあります。一部の人とか気の合う人とだけでなく、すべての人との平和を求めなければなりません。信仰生活において疲れ果ててしまう大きな原因の一つに、人間関係がうまくいっていないことがあります。ですから、すべての人と平和であることは大切なことで、それを追い求めるようにと勧められているのです。信仰生活がマラソンの競争にたとえられているからといっても、そこに競争があるわけではありません。競争があるとお互いに勝ち負けを争うようになり、敵対関係を作ることになってしまいます。そういう生き方には安心感とか喜びといったものはなく、いつも孤独と不安にさいなまれることになってしまいます。しかし、信仰生活における原理は競争ではなく共生であり、ほかの人を蹴落とすことではなく、ほかの人と一緒に生き、天国を目指してお互いに助け合うものです。ですから、すべての人との平和を追い求めていく必要があるのです。

 

どうしても赦すことができない人とどこかでばったり顔を合わせた時に、そこから逃げ出したくなるような生き方に、本当の自由や喜びがあるでしょうか。パウロは、「自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」(ローマ12:18)と言っていますが、少なくても自分に出来ることにおいては、すべての人と平和を保つことを求めていかなければなりません。

自分はそのつもりでいても必ずしも相手がそれに応じようとしない場合もありますからうまくいかない場合もありますが、自分にできないことは神様にゆだねて、自分にできることとして、自分にできる限りは平和を保つようにベストを尽くすことが求められるのです。勿論、信仰に関することは妥協してはいけませんが、意外とそうでないところで自分を主張して争っていることがあるのではないでしょうか。そのような態度は百害あって一利なしで、何の益ももたらしません。イエス様も、「平和をつくる者は幸いです。」(マタイ5:9)と言われました。私たちは無用な争いを避け、平和をつくることを求めていかなければならないのです。そのためには、聖霊の力をいただかなければなりません。それは自分の力ではどうすることもできないことだからです。ですから、イエス様が平和を備えてくださいました。キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、敵意を廃棄してくださいました。このイエスを見上げるなら、聖霊の神がそれを可能にしてくださいます。

 

それからもう一つのことは、「聖められることを追い求めなさい」とあります。聖められることとはどういうことでしょうか。この「聖い」という言葉は、「清い」と少し違います。「清い」とは、よごれ、にごりなどがなく美しいこと、心に不純なところがないこと、清廉潔白を意味しますが、「聖い」とは、「区別する」という意味があります。英語ではHolyです。CleanとかPureではなくHolyなのです。この書物が何ゆえに「聖書」と呼ばれるのかというと、それはこの世の書とは異なっている書だからです。区別された書だからなのです。聖書は人が考え出した本ではなく、神ご自身が自らを啓示された書という意味で、区別されているのです。ですから、普通に私たちが本を読むように読んでも理解できません。なぜなら、聖書は神の息吹によって書き記されたので、同じ神の息吹(聖霊)を受けなければ理解できないからです。たとえ、大学の教授であっても、神の息吹を受けていなければ、トンチンカンな理解しかできません。それは光がなくて読むようなものです。ですから、あてずっぽうで、的を射てはいません。神がそのようにしたのです。

 

被造物と区別された聖なる神が、人やモノとかかわりを持たれる時、はじめてそれらが「聖なるものとなる」ということが可能になります。つまりこのヘブル12章14節の「聖なるものとなることを追い求めなさい」というのは、聖なる神とかかわった私たちが、そのかかわりにふさわしく生きることを意味しているのです。それを別な言葉で表現するなら、「聖別」ということばで表わされます。それは神の聖にならった倫理的生活のことで、きよい生活、この世にありながら、この世のものではない生き方、神のみことばに従った生活を意味しています。

 

たとえば、私たちは今こうして礼拝をささげていますが、なぜ礼拝をささげるのでしょうか。それは神を最優先にして生きているからです。この世にあってはいろいろな用事で日々忙しく走り回っていますが、その中にあって神を神として認め、この神を中心にして生きているという信仰の表明として礼拝をささげているのです。だれも暇なひとなどいないでしょう。みんな忙しくしています。しかし、その忙しさの中にあっても神を神として敬っているからこそ礼拝をささげるのです。だからこれを「聖別」というのです。この世と区別するのです。私たちは神に贖われた者として、神のものとして生きているので、この時間を神にささげるのです。もし余った時間、疲れて消耗しきった時間だけを神にささげて、「神さま。どうぞ言いたいことがあったら言ってください。」というのであれば、どんなに神様が語りたくても語りたくなくなります。自分のためには多くの時間を使いながら、神との時間のためには、わずかな時間しか割り当てられないとしたら、神からの良いものを得ることは期待できるはずはありません。

 

この世とのかかわり方においてはどうでしょうか。神から贖われたもの、神の所有の民として、神が願っておられるように生きているでしょうか。この世の価値観ではなく、神の価値観を持って生きているでしょうか。神の価値観が社会の風潮と相反するものだと分かっても、その価値観をしっかりと握って生きているでしょうか。

 

たとえば、ザーカイは取税人で金持ちでしたが、当時取税人というのはイスラエル人でありながらローマに協力して税金を取り立てていました。多くの場合、不正をして必要以上に税を取り立て、ローマに渡す以外のお金を自分たちで着服し、金持ちになっていました。ですからその不正直さとローマに協力したという理由でイスラエル人から嫌われていました。そのようなところにイエス様がやって来られると、いちじく桑の木に登って見ていたザーカイに向かって、「ザーカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」と言われました。私はこれってものすごいことだなぁと思いました。もちろん、ザーカイと名前を呼ばれたということもすごいことですが、それよりも、このザーカイが取税人でみんなから嫌われていたことを百も承知のうえで彼の名前を呼ばれ、彼のところに行って客となられたことです。案の定、それを見ていた人々はつぶやいて言いました。「あの方は罪人のところに行って客となられた」

皆さんだったら行きますか。みんなから白い眼で見られ、みんなから嫌われている人の友となることをされるでしょうか。しないと思います。そんなことをしたら自分も白い眼で見られ、自分の立場が悪くなるだけです。けれども、イエス様はそうされました。イエス様は罪人の友となられたのです。本当に救いが必要な人というのはこのような人であることを示されたのです。私たちはむしろこういう人たちを受け入れ、こういう人たちのところに行って友とならなければならないのです。それはこの世の見方、考え方とは全く逆かもしれません。しかし、この世がどのように見ようとも、私たちはこの世の見方ではなく、神の見方、イエス様の見方で物事を見なければならないのです。それが聖であるということです。

 

神の民とされた私たちは、海の上に浮かぶ小さな船のようなものです。水の上に浮いて限りは大丈夫ですが、ひとたび船の中に水が入ってくるならば、沈むのは時間の問題です。もし私たちの舟の中にこの世の水を入れるなら、その船は沈むしかありません。私たちはこの世にあって、この世のものではないという生き方が求められているのです。その生き方がどのようなものか、私たちは聖書の歴史を通して学ばなければなりません。聖書はこの世とは区別された書、聖なる書であるからです。

 

なぜ私たちは聖められることを追い求めなければならないのでしょうか。それは、聖くなければ、だれも主を見ることができないからです。イエス様もこう言われました。「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るから。」(マタイ5:8)神を見るためには、心がきよくなければならないのです。

 

イスラエルが40年の荒野の放浪生活が終え、いよいよ約束の地カナンに入っていく時を迎えていた時、イスラエルは南のシナイ半島の荒野からカナンの地に入るために、ヨルダン川の東の方に移動していきました。そしてエモリ人の王シホンとバシャンの王オグを打ち破ると、それを聞いたモアブの王バラクは恐ろしくなり、あることを思いつきました。それは預言者バラムを雇いイスラエルを呪わせるということでした。そこでバラムが出かけて行こうとすると、その途中で、ロバの前に御使いが立ちはだかりました。それが見えたロバは驚いて、駆け出したり、乗っているバラムを石垣に押し付けたり、道にうずくまってしまいました。そこでバラムがロバに鞭をあてて打つと、ロバが口を開いて言いました。「どうして三度もぶつんですか。これまでに、私が一度でもこんなことをしたでしょうか。」そのとき、主がバラムの目のおおいを除かれたので、彼は主の使いがそこに立っているのを見ることができたのです。

 

いったいバラムがなぜバラクのところに行こうとしたのか。それは彼の心の奥深くに利得を求める心があったからです。そのためにバラムは神が見えなくなっていました。それが破滅をもたらすことだったので、神は御使いを遣わして止めようとしたのです。ロバはその御使いを見ることができたのに、預言者バラムは見えなませんでした。そのためにロバを三度も打ったのです。これが神が見えていない人の姿です。

 

私たちも同じではないでしょうか。神が見えていない状態の時には、自分の思うどおりにならないことが起こると、同じようになってしまいます。預言者バラムはどうして神が見えなかったのでしょう。それは利得に目がくらんでしまったからです。私たちも気をつけなければなりません。神が語られることの中に生きるようにと私たちは召されたのです。それが「聖別」されること、つまり、「聖められること」なのです。

 

Ⅲ.神の恵みから落ちないように(15-17)

 

では、そのためにどうしたらいいのでしょうか。15節から17節までをご覧ください。「そのためには、あなたがたは良く監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されることかのないように、また、不品行の者や、一杯の食物と引き換えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。」

 

ここには、だれも神の恵みから落ちないようにとあります。私たちは、神の恵みによって救われました。私たちが何かをしたから、できたから救われたのではなく、救われるためには私たちができることは何もなかったのに、イエス・キリストを信じるだけで救われたのです。

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:23-24)

であれば、私たちはこの恵みにとどまっていなければなりません。だれもこの神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して、これによって多くの人が汚されたりすることがないように注意しなければなりません。

 

この一つの事例としてとりあげられているのがエサウです。エサウはイサクとリベカの息子で、双子の兄弟のお兄さんの方でしたが、ここに書いてあるように俗悪な者でした。彼は霊的なことよりも物質的なことにいつも心が奪われていました。ある日、彼が猟から帰って来ると、そこにとてもいい匂いがしたので何だろうと思って見てみると、弟のヤコブが煮物を煮ていたのです。彼は猟で疲れていたし、お腹もペコペコだったので、ヤコブに言いました。「どうか、その赤いのを、その赤い物を私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから。」

するとヤコブは言いました。「じゃ、今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい。」長子の権利をゆずるなら、これをあげましょう。するとエサウは、「長子の権利なんて、どうでもいい。そんなの今の私に何にもならない。そんなのお前にあげてやる。それよりもその赤いのを食べさせてくれ。俺は腹がへって死にそうなのだから。」と言って、それをヤコブに売ってしまったのです。それは神の特別な祝福でした。それなのに彼はその神の祝福を一杯の食物と引き換えに売ってしまったのです。彼は神の祝福よりも、自分の欲を満たすことにしか関心がなかったのです。彼は腹を満たすために神の祝福を捨てたのです。彼は四十歳になったとき、ヘテ人エリ娘エフディナとヘテ人エロンの娘バセマテという神を信じていない二人の女性と結婚しましたが、彼女たちはイサクとリベカにとって悩みの種であっと書かれてあります。(創世記26:35)

神の恵みから離れて不信仰になると、貪欲な者、俗悪な者となり、多くの人に悪い影響を及ぼすようになります。そして、後になって祝福を相続したいと思っても後の祭りで、祝福されるどころか、彼の心を変えてもらうことさえできず、むしろ弟のヤコブを憎むようになり、殺そうとまで思うようになったのです。

 

だから、神の恵みから落ちないように、また、不信仰という苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることがないように注意しなければなりません。

 

あなたの信仰生活というマラソンは今どのような状態でしょうか。二十キロ地点、三十キロ地点に差し掛かり、疲れ果てていないでしょうか。腕はだらんとなって振る力がなくなり、ひざは衰えてがくがくしてはいないでしょうか。足はなえて関節をはずしそうにはなっていませんか。弱った手と衰えたひざとをまっすぐにしなさい。また、あなたの足のためには、まっすぐに道を作りなさい。なえた足が関節をはずさないため、いやむしろ、いやされるためです。そして、神の恵みの中を最後まで走り続けようではありませんか。

申命記25章

 申命記25章から学びます。まず1節から4節までをご覧ください。

 

 1.正しい判決に従う(1-4

 

「人と人との間で争いがあり、彼らが裁判に出頭し、正しいほうを正しいとし、悪いほうを悪いとする判決が下されるとき、もし、その悪い者が、むち打ちにすべき者なら、さばきつかさは彼を伏させ、自分の前で、その罪に応じて数を数え、むち打ちにしなければならない。四十までは彼をむち打ってよいが、それ以上はいけない。それ以上多くむち打たれて、あなたの兄弟が、あなたの目の前で卑しめられないためである。脱穀をしている牛にくつこを掛けてはならない。」

 

人と人との間に争いがあった場合、彼らは裁判に出廷し、判決を受けなければなりませんでした。そして、悪い方を悪いとする判決が下さるとき、その罪に相当する刑罰(むち打ち)を受けさせなければなりませんでした。そうでないと、人々が罪を犯すことをためらわなくなるからです。この単純で明瞭なことが人のかたくなさによって無視されることで、社会の秩序がどれほど崩されていることでしょう。

しかし、このように公義が行われる時でも、憐みを忘れてはなりませんでした。どんなにむちを打つ場合でも、四十を越えて打ってはなりませんでした。それは非人道的な処置となるからです。公義が行われる時でも、憐みを忘れない神の姿は、私たちにとっても必要なことなことです。

 

4節には、「脱穀をしている牛にくつこを掛けてはならない。」とあります。くつことは、牛や馬の口にはめる「かご」のことです。これをつけることによって、牛や馬が食べられないようにしたのです。脱穀の作業というのは、なかなかの重労働で、重い石臼を引いてえんえんと回るわけですから疲れます。それは牛とか馬といったたとえ引く力の強い動物であっても同様で、喉が渇いたり、おなかがすいたりするわけです。それで脱穀でこぼれた麦を食べようとするのですが、そのこぼれた麦でさえ食べないようにと、その口にくつこをかけたのです。

しかし、ここでは、そのように脱穀をしている牛にくつこを掛けてはならないと命じられています。たとえ家畜であっても、そうした冷酷な扱い方をしてはならないのです。たとえ動物であっても一生懸命、汗だくで働いてくれるからこそ自分たちは食べることができるのであって、せめて落ちた小麦ぐらいは牛に食べさせてあげなさい、くつこをといてあげなさい、というのです。

 

パウロは、この箇所を引用して、主の働き人がその働きによって報酬を得るのは当然である、と語っています。(Ⅰコリント9:9、Ⅰテモテ5:18)霊の働きに携わる牧師や長老が、金銭的な報酬を得るのは当然のことだというのです。牧師は金銭的な報酬のために働いているわけではないので、それが当然だと考えることが正しいかどうかわかりませんが、少なくとも神の民であるクリスチャンがそのような認識を持つことは大切なことだと思います。なぜなら、そのような考えをしっかりと持つことによって自覚と責任が生まれ、神に喜ばれるような信仰へと成長していくことができるからです。

 

2.家系の継承(5-12

 

 次に5節から10節までをご覧ください。「兄弟がいっしょに住んでいて、そのうちのひとりが死に、彼に子がない場合、死んだ者の妻は、家族以外のよそ者にとついではならない。その夫の兄弟がその女のところに、はいり、これをめとって妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。そして彼女が産む初めの男の子に、死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。しかし、もしその人が兄弟の、やもめになった妻をめとりたくない場合は、その兄弟のやもめになった妻は、町の門の長老たちのところに行って言わなければならない。「私の夫の兄弟は、自分の兄弟のためにその名をイスラエルのうちに残そうとはせず、夫の兄弟としての義務を私に果たそうとしません。」町の長老たちは彼を呼び寄せ、彼に告げなさい。もし、彼が、「私は彼女をめとりたくない。」と言い張るなら、その兄弟のやもめになった妻は、長老たちの目の前で、彼に近寄り、彼の足からくつを脱がせ、彼の顔につばきして、彼に答えて言わなければならない。「兄弟の家を立てない男は、このようにされる。」彼の名は、イスラエルの中で、「くつを脱がされた者の家」と呼ばれる。」

 

 これはレビラート婚というユダヤ人の特殊な婚姻法です。これは、当時の社会的な状況を考えなければ理解することができません。当時、家系を継承させるということはとても重要なことでした。なぜなら、各家系単位に、相続地が割り当てられていたからです。ですから子孫がなければ土地を相続することができなくなり、したがって、生計の手段を失うことになったのです。このような措置が命じられている理由は、後継ぎを生むことなく夫を失った妻を保護するための神のあわれみのためでした。ですから、兄の妻を妻として受け入れないなら弟は訴えられ、公衆の面前で「兄弟の名をイスラエルの中に残すのを拒む者」と呼ばれ、兄嫁から顔に唾をかけられ、靴を脱がされて、弟の子孫も「靴を脱がされた者の家」と呼ばれたのです。

 

「ふたりの者が互いに相争っているとき、一方の者の妻が近づき、自分の夫を、打つ者の手から救おうとして、その手を伸ばし、相手の隠しどころをつかんだ場合は、その女の手を切り落としなさい。容赦してはならない。」とは、ありふれた行動ではないにしても、時々このような事件が起こったのでしょう。そして、このような行為に対して容赦のない処罰が下されたのは、先の、イスラエルの名を残さなければならないことと関係があったからだと思われます。つまり、隠しどころをつかむことは、その男が子孫を残すことを阻むことを意味しているということです。したがって、その罰は厳しく、手を切り落とさなければならないほどでした。

 

3.正しい秤(13-16

 

  次に13節から16節までをご覧ください。

「あなたは袋に大小異なる重り石を持っていてはならない。あなたは家に大小異なる枡を持っていてはならない。あなたは完全に正しい重り石を持ち、完全に正しい枡を持っていなければならない。あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生きるためである。すべてこのようなことをなし、不正をする者を、あなたの神、主は忌みきらわれる。」

 

 ここには、物を売買する時、正しい重り石と枡を使用するようにと命じられています。なぜなら、神は正しい売買を喜ばれ、そのようにする者たちを祝福し、反対に不正を忌み嫌われるからです。それは、レビ記192節に、「あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。」とあるとおりです。主は全く聖なる方であるので、そのような不正を嫌われるのです。私たちは、大小異なる天秤をよく手にしているのではないでしょうか。たとえば、人には厳しいはかりを持っていて、自分には優しいはかりを持っていることです。人をさばくことを、私たちはしばしばします。けれども、神は公正な方です。へこひいきをされずに、人をさばかれるのです。イエス様も、「あなたがたは、人を量る計りで、自分の量り返してもらうからです。」と言っているように、私たちがどのような量りで量るかが重要なのです。

 

 4.アマレクの記憶を天の下から消し去らなければならない(17-19

 

 最後に17節から終わりまでをご覧ください。

「あなたがたがエジプトから出て、その道中で、アマレクがあなたにした事を忘れないこと。彼は、神を恐れることなく、道であなたを襲い、あなたが疲れて弱っているときに、あなたのうしろの落後者をみな、切り倒したのである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えて所有させようとしておられる地で、あなたの神、主が、周囲のすべての敵からあなたを解放して、休息を与えられるようになったときには、あなたはアマレクの記憶を天の下から消し去らなければならない。これを忘れてはならない。」

 

アマレク人は、イスラエル人がエジプトを出てから、レフィデムに留まっていた時、攻撃してイスラエルと戦いました。その時モーセはヨシュアを呼び寄せ、イスラエルの中から幾人かを選び、アマレクと戦うようにと命じました。その時モーセは丘の頂に立ち、神の杖を持って祈るからです。ヨシュアはモーセが言ったとおりに出て行き、モーセとアロンとフルは丘の頂に登りました。そして、モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になりました。それで、モーセの手が下がらないようにと、片方の手をアロンが、もう片方の手をフルが支えたので、イスラエルはアマレクに勝利することができました。そのとき主がモーセに言いました。「このことを記録として、書き物に記し、ヨシュアに読んで聞かせよ。わたしはアマレクの記憶を天の下から完全に消し去ってしまう。」(出エジプト17:14

 

しかし、その後イスラエルがカデシュ・バルネアで、神の命令に逆らって約束の地に上っていかなかったとき、彼らは向きを変えて出発しなければなりませんでした。長い40年の荒野の旅の始まりです。しかしその中に、自分たちは罪を犯したのだからとにかく主が言われた所へ上って行ってみようという人たちがいて、それに対してモーセは「上って行ってはならない」と言っても、彼らは従いませんでした。そして、上って行った結果、このアマレク人とカナン人に打ち倒されてしまいました。(民数記14:43)ですから、このアマレクを絶滅し、その記憶を天の下から消し去らなければならないのです。

 

つまり、アマレクはイスラエルにとって食うか食われるかの相手であって、根絶やしにしなければ絶えず彼らを脅かし、襲いかかってくるのです。それで、主はサムエルをとおして、サウルに、アマレクを徹底的に打ち滅ぼすように命じましたが、サウルは、アマレク人を打ち倒したものの、家畜が欲しくなって生かしたままにしておき、またアマレク人の王を殺しませんでした。結局、このことがサウルをイスラエルの王位から退かせる原因にもなったのですが、そのようにアマレクは絶えず神の民に戦いを挑んでくるのです。そういう相手を完全に根絶やしにしなければなりません。

 

それが悪魔の策略なのです。アマレクがイスラエルの弱いところに攻撃してきたように、悪魔は絶えず私たちの弱いところに襲いかかってきます。そのような敵である悪魔に勝利するための一番良い方法は、根絶やしにするということです。そのためにキリストは十字架で死なれ、三日目によみがえってくださいました。イエス様は完全に悪魔に勝利されました。この神の力をもって悪魔に立ち向かっていかなければなりません。私たちにとって必要なのは、罪に対しては死んだものとみなすことです。生かしておいてはいけません。根絶やしにしなければならないのです。そうでないと、悪魔がたえずやって来てあなたのいのちを脅かしてしまうからです。そのためには、神に従わなければなりません。自分の思いや考えに頼るのではなく、神に従い、悪魔に立ち向かわなければなりません。それこそが、神の民であるクリスチャンが約束の地で勝利ある人生を送るための最大の秘訣なのです。