ヘブル11章17~22節 「死を乗り越える信仰」

ヘブル人への手紙11章から学んでいます。ここには昔、信仰によって生きた人たちのことが紹介されています。前回は、アブラハムの信仰から学びましたが、今回は、アブラハムとその子イサク、そして孫のヤコブの信仰から学びたいと思います。きょうのタイトルは、「死を乗り越える信仰」です。

 

この世に生きている人は、だれでも皆死にます。そういう意味で、人間は皆、死によって限定されていると言えます。ですから、死の問題が解決されていなければ、いつも死におびやかされていて、死んだらすべてはおしまいだという思いに捕らわれていて、本当の意味での自由がないのです。そういうわけで、死の問題を解決しておくことは、極めて重要なことであると言えるでしょう。いったいどうしたら、人はこの死の問題を解決することができるのでしょうか。今日は、信仰によってこれを乗り越えた人たちのことを学びたいと思います。

 

Ⅰ.死を乗り越えたアブラハム(17-19)

 

まず、17~19節をご覧ください。ここにはアブラハムの信仰について書かれてあります。

「信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。」

 

これは、創世記22章に記されてあるアブラハムの生涯における最大の試練であった出来事です。それは、彼の最愛の子イサクを、神にささげるということでした。アブラハムにとってそれが特別に大きな試練であったのは、この命令が、以前神が語られた約束と矛盾するように思われたことでした。以前神は、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」と言われましたが、ここでは、そのイサクをささげよ、というのです。それでは、いったいどのようにして神が約束されたことが実現するというのでしょうか。無理です。この子をささげてしまったらあの約束さえも反故にされてしまいます。それに、たとえ神によって与えられた命令であったとしても、その人を殺してまで神にささげよというのは普通ではありません。というのは、創世記9章6節には、「人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。」とあるからです。そういうことを神があえてするようにと言われたとしたら、それはいったいどういうことなのかと悩んでしまいます。それなのに、神はイサクを完全に焼き尽くすいけにえとして、殺して、ささげるようにと言われたのです。その箇所を開いて確かめてみましょう。

 

創世記22章を開いてください。2節には、「神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に連れて行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」とあります。「全焼のいけにえ」とは、新共同訳聖書では「焼き尽くす献げ物」と訳されていますが、その名の通り煙になるまで焼き尽くすささげ物のことです。ヘブル語は「オーラー」と言いますが、もともとの意味は「上る」でした。それは、自分を神にささげ尽くす、献身を表明するささげ物だったのです。ですから、ここで神はアブラハムに、確かに彼の愛するひとり子を殺して、灰になるまで焼き尽くすようにと命じられたのです。

 

いったいなぜ神はこのようなことをアブラハムに命じられたのでしょうか。1節を見ると、「神はアブラハムを試練に会わせられた」とあります。これはテストだったんですね。ここには試練とありますが、試練とはテストのことです。私たちにもいろいろなテストがありますが、どうしても外せないテスト、それが信仰のテストです。どのような時でも神に従うかどうかのテストであり、そのことを通して信仰を磨き、称賛と光栄と名誉に至らしめるものなのです。ですから、ヤコブは、信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちていく金よりも尊いと言っているのです。そのために神はアブラハムを試されたのです。

 

そのテストに対してアブラハムはどのように応答したでしょうか。信仰によって、アブラハムは試練を受けた時、喜んでイサクをささげました。それがこの創世記22章3節以降に記されてあることです。3節には、「翌朝早く」とありますが、まず、彼はすぐに従いました。もちろん、彼とて血も涙もある人間です。どうして悩み苦しむことなしに、そのようなことができたでしょうか。相当悩んだはずです。しかし、聖書は彼がどんなに悩んだかということについては一切触れずに、彼がすぐに従ったことを強調しています。それは彼が全く悩まなかったということではなく、そうした悩みの中あっても神に従ったことを強調したかったからです。

 

いったい彼はなぜそのような中でも神に従うことができたのでしょうか。それは、「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考え」たからです。それは、創世記22章4、5節を見るとわかります。

「三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。それでアブラハムは若い者たちに、ここに残っていなさい。私と子どもはあそに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る」と言った。」

日本語では少しわかりづらいのですが、ここには、「私と子どもはあそに行き、礼拝をして、戻って来る」とありますが、原文では、「私たちは、戻ってくる」となっています。英語ではわかりやすく、はっきりと「We」という言葉が使われています。「We will worship and then we will come back to you」です。

私たちとはもちろんアブラハムとイサクのことです。イサクをささげてしまったらイサクはもういないのですから「私たち」というのは変です。「私は」となるはずですが、「私たちは戻ってくる」と言ったのは、アブラハムの中にたとえイサクを全焼のいけにえとしてささげても、イサクを連れて戻って来るという確信があったからです。死んでしまった人間がどうやって戻って来るというのでしょうか。よみがえるしかありません。まさか幽霊になって戻ってくるわけにはいかないでしょう。つまり、アブラハムは、たとえイサクを全焼のいけにえとしてささげたとしても、神はそのイサクを灰の中からでもよみがえらせることができると信じていたのです。つまり、神には矛盾はないのです。矛盾しているかのように思われる二つの神の御言葉が、このような神の奇跡的な御業によって解決されていくのです。アブラハムはそういう信仰を持っていました。これが信仰であり、彼の信仰がいかに大きなものであったかがわかります。

 

ところで、へブル人への手紙を見ると、「これは型です」とあります。いったい何の型だったのでしょう。それはイエス・キリストです。アブラハムが愛するひとり子を全焼のいけにえとしてささげようとしたモリヤの山は、その二千年後に神の愛するひとり子イエス・キリストが、十字架で全人類の罪を取り除くために全焼のいけにえとしてささげらたゴルゴタの丘があった場所でした。すなわち、これはやがて神のひとり子が私たちの罪の身代わりとして十字架につけられ、全焼のいけにえとして神にささげられることの型だったのです。創世記22章の出来事が映画の予告編みたいなものならば、本編はイエス・キリストであったわけです。

 

この「モリヤ」という地名は、「神は先を見られる」という意味があります。神は先を見ておられる方です。神はそこでどんなことが起こるのかを十分承知の上で、それを十分踏まえたうえで、この出来事を用意しておられたのです。これはその型だったのです。すなわち、神はイエスを私たちの罪の身代わりとして十字架で死なせましたが、それで終わりではなく、このイエスを死からよみがえらせました。そして、このイエスを信じる者に永遠のいのち、死んでも生きるいのちを与えてくださるということを示していたのです。アブラハムは、その信仰によって、死者の中からイサクを取り戻しましたが、私たちもイエスを信じることによって、死者の中から取り戻されるのです。神を信じる者はもはや、死に支配されることはありません。イエスを信じる者は死んでも生きるのです。信仰によって、私たちは、私たちのいのちも死もつかさどっておられる神によって、死の恐れから全く解放していただくことができるのです。

 

ヘブル2章14、15節にはこのようにあります。

「そこで、子どもたちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになられました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれていて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」

イエス様が死なれたのは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれていた私たちを解放するためだったのです。そのために、イエス様は死んでよみがえられました。この先のことを見ることができる人にとって、死は全く問題ではないのです。なぜなら、そのような人にとって死は終わりではないからです。死んでもよみがえるからです。神はその先を見ておられます。いのちも死も支配しておられる主は、あなたを死から取り戻すことができる方なのです。この信仰によって、あなたも死の恐怖から解放されるのです。

 

Ⅱ.信仰によって祝福したイサク(20)

 

次に、20節をご覧ください。ここには、「信仰によって、イサクは未来のことについて、ヤコブとエサウを祝福しました。」とあります。どういうことでしょうか。子どもを祝福することは、信仰によらなければできないということです。この出来事は創世記27章にありますので、ここも開いて確認したいと思います。

 

1節には、「イサクは年をとり、視力が衰えてみえなくなったとき、長男のエサウを呼び寄せて彼に、「息子よ」と言った。すると彼は、「はい。ここにいます」と答えた。」とあります。いったい何のためにイサクはエサウを呼び寄せたのでしょうか。彼を祝福するためです。そこでイサクは、彼のために獲物をしとめて、彼の好きなおいしい料理を作り、ここに持って来て食べさせてくれるようにと言いました。するとそれを聞いていた妻のリベカが双子の弟ヤコブに、「いま私は、あなたのお父さんが、あなたの兄エサウにこう言っているのを聞きました。」と言って、兄のエサウになりすまして、その祝福を奪うのです。結局、イサクは兄のエサウではなく、弟のヤコブを祝福しました。エサウに対しては別の形で祝福したのです。

 

このことからわかることは、人間はどんなに年をとってもやれることがあるということです。その中でも最も重要なことは、子供や孫を祝福するということです。これは親や祖父母にとって最も重要な信仰の働きの一つではないでしょうか。というのは、ここには、信仰によって、イサクはヤコブとエサウを祝福したとあるからです。これは、信仰によらないとできないことなのです。ではいイサクはどのようにヤコブとエサウを祝福したでしょうか。創世記27章を開いて確認していきましょう。

 

まず26、27節を見ると、「父イサクはヤコブに、「わが子よ。近寄って私に口づけしてくれ」と言ったので、ヤコブは近づいて、彼に口づけした。」(26、27)とあります。

イサクはまずヤコブに口づけしました。日本人の習慣には、親が子どもをギュと抱きしめたり、触れ合うというかじゃれ合うという習慣はあまりありません。まして口づけするということはほとんどないでしょう。でもイサクはヤコブに、近づいて、口づけしてくれと言って、口づけしました。その国、その国によって文化や習慣は違いますが、それがどのような形であれ子供を祝福する時の大切な原則の一つは、親密な愛情を伝達するということです。忙しいから子どもと遊べないとか、忙しいから代わりに何かを買い与えることによってその穴埋めをしようとすると、結局のところ、祝福を失ってしまうことになるのです。時にはじゃれ合ってみたり、ギュと抱きしめたり、スキンシップでも何でもいいですが、十分に時間を取って過ごすことによって子どもの心は落ち着き、愛情を身に着けていくことができるのです。

 

第二に、創世記27章27節には、「ヤコブの着物のかおりをかぎ、彼を祝福した。」とあります。どういうことでしょうか。着物のかおりをかいで祝福するとは・・・。これは、健全な評価を伝達してあげることです。あなたのかおりはこれだと言ってあげることです。そこがお前のいいところだと言ってあげることですね。子どもは親がどう考えているのかを聞きたいのです。これは「臭いな、最後に風呂に入ったのはいつだ?」と聞くことではありません。正しい評価をしてあげることです。大抵の場合、親は子供がいないところで子どものことを話しますが、しかし、親同士で話し合うだけでなく、子供に向き合うことも必要です。子どもと向き合って、子どもの目をしっかりと見て、直接伝えてあげることも必要なのです。しかも子どもの悪いところではなく、良いところを見てです。とかく親は子供の悪いところばかり見がちです。あらさがしが得意なのです。弱いところばかり、足りないところばかり見て「まったくうちの子は・・・」と言ってしまう。しかし、子供には可能性があることを伝えてあげなければなりません。正しい評価を伝えてあげる必要があるのです。特に、子供に何ができたかということよりも、子どもの品性をほめてやるべきです。たとえば、あなたはこんなひどい状況の中でもよく忍耐をもって接することができたねとか、あの子が水溜りで転んだとき、「大丈夫? 」と声をかけて助けてあげたね、偉いよ・・といったことです。

 

第三に、創世記27章28節と29節には、「神がおまえに天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しいぶどう酒をお与えになるように。国民の民はお前に仕え、・・・」とあります。ここでイサクはヤコブの将来について預言しています。子どもは将来のことを知りたがっています。自分は何のために生きているのか、そのために何をしたらいいのかといった人生の指針を求めているのです。ですから、おまえの生きる目的はこれだ、と示してあげなければなりません。

ここでイサクはヤコブが将来農業の分野で成功をおさめ、多くの人たちの指導者になることを預言して祝福していますが、そのように具体的に祝福することはできなくても、その方向性は示してあげることができます。「あなたが生まれたのは神を喜び、神の栄光のためよ。あなたは、神に愛されているの。だから、そのために用いられるように備えていこうね。」というように、その将来が、神の栄光のためであること、そしてそれがどのような道であっても、そのためには努力を惜しまないで祈り、一生懸命に努力しようと励ましてあげなければなりません。

 

子供に将来を伝えていくことは、決して自分のエゴを押し付けることでも、自分ができなかったことを子供によって実現してもらおうとすることでもありません。子どもの個性と資質をじっくりとみて、主のみこころは何かを祈り求めながら、その子の将来のためにできることをしてあげることです。

 

救世軍の創始者であるウイリアム・ブースは、そのお母さんがいつもこういうのを聞いて大きくなったと言われています。「ビル、世界はあなたを待っているよ。早く大きくなり、立派な人になって、世界のために働く人になってちょうだい。」それを聞いてかどうかわかりませんが、ウイリアム・ブースは、世界中の貧しい人たちのために活躍するようになりました。

 

第四に、創世記27章37節を見ると、イサクがエサウにこのように言っています。「ああ、私は彼をおまえの主とし、彼のすべての兄弟を、しもべとして彼に与えた。また穀物と新しいぶどう酒で、彼を養うようにした。それで、わが子よ。おまえのために、私はいったい何ができようか。」

イサクは、実の息子であるヤコブにだまされるというショッキングな経験をしました。もう何の祝福も残っていません。でもイサクはエサウに、私は、おまえのために、いったい何ができようか、と言っています。ヤコブにあざむかれても、何をされても、エサウに対する態度を変えませんでした。何があっても、最後まで、見捨てない、見離さないことは親にとってとても大切なことです。何があってもこどもの側に立ってあげること、何があっても子供の味方であり続けること、継続的にこどもをサポートしてあげること、最後まで子供のサイドに立ち続けること、これほど大きな励ましはありません。

 

でも、こどもは大きくなってしまったのでもう遅いと思っておられるあなた、大丈夫です。そんなあなたにもやることは残されているのです。そうです、こどもでは失敗したかもしれませんが、まだ孫がいますから、子供だけでなく孫に対してそのように接してあげたいものです。

 

イサクは、信仰によって、未来のことについて、ヤコブとエサウを祝福しました。年をとって、視力が衰え、目がかすむようになっても、まだやることがあります。信仰によって、イサクがヤコブとエサウを祝福したように、私たちも子供たちを、孫たちを、家族を、教会を祝福しなければなりません。もう年を取って、肉体的にも、精神的にも限界ですから、少し自由に生きさせてもいます、ではなくて、信仰によって子どもたちを祝福し続けていく働きが残されているのです。

 

Ⅲ.たとえ死の間際でも(21-22)

 

それは、ヨセフを見てもわかります。21節、22節にはこうあります。

「信仰によって、ヤコブは死ぬとき、ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福し、また自分の杖のかしらに寄りかかって礼拝しました。信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子孫の脱出を語り、自分の骨について指図しました。」

 

イサウはエサウを祝福しようとしましたが、ヤコブを祝福しました。神に選ばれたのはエサウではなくヤコブでした。そのヤコブが晩年、死ぬとき、ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福したとあります。これは創世記48章に記されてある出来事ですが、エジプトに下って行ったヤコブは、そこで十七年生きて、百四十七年の生涯を閉じます。その死の間際に、ヤコブはヨセフのふたりの息子マナセとエフライム、つまりヤコブの孫たちですが、信仰によって祝福しました。そのことを、ここでは、自分の杖のかしらに寄りかかって礼拝した、と言われています。杖とは神の権威の象徴です。つまり、彼は自分の知恵や力によってではなく、神の権威、神の力により頼んで祝福したのです。すっかり年をとって、もう肉体的にも、精神的にもボロボロどころか、死の間際でもそうしたのです。皆さん、私たちは年をとっても、いや死の間際であってもすることがあるのです。それは子供たちのために、孫たちのために祝福するということです。死の間際に、自分の生涯を振り返り、その恵みを数えて感謝することもすばらしいことですが、もっとすばらしいことは、死の間際でも、わが子を、孫を祝福することです。

 

どうしたら、そんな死に方ができるのでしょうか。ここでは、信仰によって、と言われています。皆が皆、そのように死んで行けるわけではありません。それは信仰によらなければできません。もう死が近づいたから、もうこんなに年をとったからとあきらめないでください。年をとっても大丈夫です。もうすぐ死ぬからと言っても悲観する必要はありません。あなたは信仰によって、祝福することができるのです。死の間際にあっても、まだ成すべきことがあるのです。

 

また、ヨセフも臨終のとき、イスラエルの子孫の脱出を語り、自分の骨について指図しました。そんなのどうでもいいじゃないですか。自分が死んだら、自分の骨をどうしようが、家族がどこに行こうが、残された家族決めればいいことです。それなのにヨセフは、イスラエルの子孫の脱出と、自分の骨について指図したのです。なぜでしようか。主がそのようにするようにと仰せられたからです。ヨセフは臨終のとき、何もできないと思えるような時でも、信仰によって、そのように言ったのです。

 

皆さん、私たちも年をとって、もう死が近づいて、人間的には何もできないと思うような時があるかもしれませんが、悲観することは全くありません。信仰によって生きる人にとっては、死ぬことさえも益なのですから。生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。死はもはやクリスチャンを支配することはできません。私たちも信仰を強められ、昔、生きた信仰者たちのように、信仰の殿堂入りを果たせるような生き方を目指したいと思います。

ヘブル11章8~16節 「神の約束に生きた人」

ヘブル人への手紙11章から、「信仰」について学んでいます。知者は、信仰とは何ぞやということを述べた後で、信仰に生きた人たちを紹介しています。前回はアベルとエノクとノアについて見てきましたが、きょうは、信仰の父と称されているアブラハムの信仰から学びたいと思います。

 

Ⅰ.みことばに従う信仰(8-10)

 

まず、8-10節をご覧ください。8節をお読みします。

「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」

 

ここにはアブラハム生涯について紹介されていますが、アブラハムの生涯について聖書が最初に告げているのは、彼の信仰についてであります。最近「自分史」を書く人々が増えてきておりますが、普通、自分史を書く時は、自分の生い立ちから始めるものですが、アブラハムの場合は自分の誕生からではなく、信仰から始まっているのは注目に値します。「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」

 

先ほども申し上げましたが、アブラハムは信仰の父と称されている人ですが、いつ、どのようにしてそのように呼ばれるようになったのかは定かではありません。しかし、ここにそのように呼ばれるようになったゆえんがあると思います。それは、彼が神から相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けた時、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行ったという点です。これはアブラハムがカルデヤのウルを出て、カランという地にいた時のことです。神はアブラハムにこう言われました。

「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地に行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福するものをわたしは祝福し、あなたをのろうものをわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記12:1~3)

 

これはアブラハムについて語るとき、とても有名な箇所です。アブラハムはカルデヤのウルというところに住んでいましたがそこから出てハランというところに住み着いていました。しかし、彼が75歳の時、神様から、「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地に行きなさい。」との召しを受けたのですが、彼はそこで得たすべての財産と、そこで加えられた人々を伴って、神が示される地、カナンに向かって出発しました。当時は部族社会で、部族の人数によってその勢力の優劣が判断された時代です。したがって故郷と父の家は、アブラハムにとっては家族を守る一種の砦(とりで)のようなものであり、そこから出ることは大変危険で、不安要素が多い選択でした。しかし、アブラハムは神から召しを受けたとき、その命令に従って出て行ったのです。ということは、どういうことかというと、彼にとって神の命令は絶対だったということです。

 

しかもここには、「どこに行くのかを知らないで、出て行きました」とあります。これは、行く先を知らないでということではなく、それがどういう所であるのかをよくわからないのに、という意味です。彼は神が示される地がどのような所かをよく知らないのに、出て行ったのです。

 

ここに、信仰とは何かということがよく教えられているのではいかと思います。つまり、信仰とは、人間の常識で行動することではなく、神の御言葉に従うことであるということです。多くの信仰者が信仰生活においてよく失敗するのは、神の言葉よりも自分の思いや常識を優先させてしまうところにあります。よくこのように言うのを聞くことがあるでしょう。「確かに聖書にはそう書いてあるけれども、現実はそうはいかないよね・・・」とか、「頭ではわかっているけどさ、そんなの無理に決まっているじゃない・・・」それは言い換えれば、聖書にはそう書いてあるけれども、実際の生活では無理だということです。現実の生活では、神様は働くことができないと言っているのです。つまり、信仰がないのです。頭ではわかっていても、それを実際の生活の中で働かせることができないのです。実際の生活においては神様よりも自分の考えの方が確かになるのです。もしからし種ほどの信仰があれば、この山に向かって、「動いて、海に入れ」と言えば、そうなるのです、とイエス様は言われました。問題は神様にはできないということではなく、私たちが信じられないということです。

 

これから先どうなっていくのかがわからないというのは不安なことですが、わかってから行動するというのは、信仰ではありません。信仰とは、これから先どうなるのかがわからなくても、神が行けと言われれば行くし、行くなと言われるなら行かないことです。つまり、自分の知識や経験を元にして造られた常識よりも、神が持っておられる知識の方がはるかに完全であると確信して従うことなのです。それこそ、信仰によって生きた人の根底にある考え方です。ですから、信仰によって生きるということは、危なっかしいものであるどころか、これ以上確かなものはないのです。いつまでも変わらない神の言葉に従って生きるのだから、これほど確かなものはないのです。アブラハムは、神から約束の地に行けとの命令を受けたとき、それに従い、そこがどういう所なのかわからなくても出て行きました。

 

さあ、神の約束に従って出て行ったアブラハムはどうなったでしょうか。9節を見ると、「信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。」とあります。あれっとぉもぃませんか。神の約束を信じて出て来たのに約束の地を所有することができるどころか、その地に天幕を張って住まなければなりませんでした。何ということでしょう。神が祝福するというのでそれに従って出て来たのに、定住することさえかなわなかったのです。ほら、見なさい、やっぱり無理じゃないですか・・・。考えてみると、これはおかしなことです。神が与えると約束された地に来たのであれば、どうしてその地に定住者として住むことができなかったのでしょうか。確かに、創世記を見てみると、12章では、あなたを祝福し、あなたの名を大いなる者にしようとは仰せられましたが、土地のことについては、それほどはっきれと言及されてはいませんでした。土地についてはっきりと言われているのは、その後アブラハムがエジプトに下り、そこから再び約束の地に戻ってからのことです。創世記13章14~17節にこうあります。

「ロトがアブラハムと別れて後、主はアブラハムに仰せられた。さあ、目を上げて、あなたがいるところから北と南、東と西を見渡しなさい。私は、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫に与えよう。わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることが出来よう。立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」

 

ここにはっきりと、「この地をあなたとあなたの子孫に与える」と言われているのですから、アブラハムはその地に定住することができたのです。しかし、それなのに彼は定住しませんでした。なぜでしょうか。それは10節にあるように、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都は神によって建てられた天の都です。アブラハムはこのように揺らぐことのない天の都を待ち望んでいたので、そのような天幕生活にも耐えることができたのです。

 

ある人たちはここから、クリスチャンは自分の土地とか家を持つべきではないと考える人たちがいます。アブラハムだって天の都を待ち望んでいたので、天幕生活をしたのだから、クリスチャンもそうすべきであって、一生涯借家生活をすべきだと言う人たちがいるのです。そういう生き方が決して悪いというわけではありませんが、それを他の人にまで強制し、そうでない人は信仰によって生きていないと言うのは、あまりにも極端な解釈だと言わざるをえません。確かにアブラハムやイサクやヤコブは、土地を取得したり、家を建てたりしないで、天幕生活をしていましたが、それは、家を建ててはならないということではないのです。現にイスラエルも、エジプトを出てからは約束の地に入り、その土地を自分たちのものとして所有しました。そして、そこに石造りの立派な家を建てて住んだからです。そして、そういう生き方をした人も、信仰の人として、後にその名前が出てくるからです。たとえば、ダビデはそうでしょう。彼は信仰の王様でしたが、立派な王宮を建てるようにと神様から命じられ、その子ソロモンが完成させました。ですから、この箇所からだけ、借家住まいこそ信仰的であるというのは、かなり偏った考え方だと言えるのです。

 

土地を持っていても、家を持っていてもいいのです。問題は、そこをあたかも永遠の住まいででもあるかのように思って生きることです。どんなに立派な家であっても、またどんなにみすぼらしい家であっても、また持ち家であっても借家であっても、私たちの永遠の住まいはこの地上にあるのではなく、天にあるのだということが一番重要なのであって、そのような考え方を持って生きていくのなら、それは信仰によって生きているのだということが言えるのです。

 

私たちの本当の住まいは天にあります。ここではそれを、「都」と呼んでいますが、それは神によって設計され、建設されたのですから、確かな住まいなのです。世界的に有名な建築家でも欠陥住宅を造ることがありますが、神が造られたものは完璧です。私は以前福島で会堂建設をしたことがあります。大きな立派な会堂です。その会堂を建設する際、私は一つのことだけ建築屋さんに頼んだことがあるのです。それは、絶対雨漏れしない建物を作ってくださいということでした、というのは、それまで私が住んでいた牧師館は雨漏れがしてひどかったのです。ですから、どうせ新しく造るなら絶対雨漏れだけはしんい建物にしてほしいと思ったのです。ところがです。できて数か月後に雨漏れがしたのです。新しく作ったばかりなのにどうして雨漏れがするのかと不思議に思ったというか、がっかりしましたが、人間がすることは、必ずどこかに欠陥があるのです。しかし、神が設計し、神が建設してくださった建物には欠陥はありません。それこそ、私たちが目指す所であります。

 

この世にあって、外国人のように天幕生活をしたということは、ある意味でいろいろな不便さや不都合さや困難があったということを意味しています。つまり、クリスチャンが旅人のようにこの地上で生活をしていこうとすれば、そこには必ず困難が伴うということです。しかし、それに耐えることができるのは、私たちの確かな住まいが天に用意されていることを知っているからです。その確かな住まいのことを、ここでは、「堅い基礎の上に建てられた都」と言っています。それは決して揺らぐことのない土台の上に建てられた住まいです。地震などによって壊れてしまうようなこの地上の住まいとは違い、この天にある住まいはどんなことがあっても決して壊れることがない確固たる住まいです。この地上において堅固な家に住もうと思えば、それこそかなりの資金が必要でしょう。けれども、この天にある確かな住まいは、そうした資金など全く必要なく、ただ信仰によって持つことができるのです。

 

アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。それは、必ずしも彼が望んでいたような安易な生活ではなかったかもしれませんが、彼にとってそんなことは全く問題ではありませんでした。状況がどうであれ、彼にとって神の命令は絶対でした。彼は自分の人生の方向と目標を立てるとき、自分の思いを捨てて、神の選択と意思に完全に従ったのです。これが信仰です。アブラハムが信仰の父と称されるゆえんは、ここにあります。それは神に従っていけば楽な生活をすることができるということではなく、でも、どんなことがあっても神が助け、守り、導いてくださるという信仰だったのです。

 

あなたはいかがですか。神様があなたに与えておられる召しは何ですか。もしそれが神からの召しであるなら、たとえどこに行くのかを知らなくても、たとえそこにどんなことが待ち構えているのかがわからなくてもこれに従うこと、それが信仰なのです。

 

Ⅱ.不可能を可能にする信仰(11-12)

 

次に11節と12節をご覧ください。ここには、「信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天に星のように、また海ベの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。」とあります。

 

ここには年老いたサラのことが語られています。サラが神から約束の子を授かると言われた時に、彼女は子供を宿すために必要なことが止まっていたので、それは人間的には考えられないことでしたでしたが、最後まで神の約束を信じ、子を宿す力が与えられました。どのくらい年老いていたのかというと、何と89歳になっていました。彼女が89歳の時、三人の使いが彼女のところに現れて、こういうのです。「あなたに子どもが授かります」そんなこと言われても本気に信じる人は信じないでしょう。サラも同様に信じることはできませんでした。それで心の中で笑ってこう言いました。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」(創世記18:12)それは彼女の不信仰による笑いでした。

 

しかし、その後、彼女は信じました。たとえ自分の年を過ぎた身であっても、神は約束したことを守られる真実な方であり、それを成就する力があると堅く信じて、疑いませんでした。なぜそのように言えるのかというと、このヘブル人への手紙でそう言っているからです。そして、その言葉のとおり、その一年後に約束の子イサクが生まれました。彼女は最初は信じられなくて笑いましたが、最後は、その笑いは喜びの笑いに変わりました。それは彼女が信仰によって、神には約束してくださった方は真実な方なので、必ずそうなると信じたからです。

 

それはアブラハムも同じでした。ローマ人への手紙4章19節を見ると、「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」とあります。だから、それが彼の義とみなされたのです。

アブラハムも初めは信じられませんでした。そして笑って、心の中で言いました。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」(創世記17:17)しかし、その後彼が100歳になったとき、彼は神を信じ、不信仰によって神を疑うようなことはせず、反対にますます信仰が強くなって、神には約束されたことを成就する力があると堅く信じました。そのようにして、彼はイサクを得たのです。これは一つの型でした。それは、信仰によって義と認められるということです。アブラハムは、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じたので、それが彼の義とみなされましたが、それは彼のためだけでなく、私たちのためでもありました。つまり、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。その信仰とは、神は死んだ人をもよみがえらせることができるという信仰です。つまり、神は不可能を可能にする方であるという信仰であります。その信仰のゆえに、12節にあるように、アブラハムから天の星のように、また海辺の砂のように、数えきれない多くの子孫が生まれたのです。

 

宗教改革者のマルチン・ルターは、「神様を神様たらしめよ」と言いました。私たちが陥りやすい過ちの一つは、神を小さくしてしまうことです。神様を自分の考えに閉じこめてしまい、小さなことだけを行われる方として制限してしまい、その全能の力を認めないのです。しかし、神様はこの天地万物をお言葉によって創造された方であり、私たちに命を与えてくださった全能者です。神にとって、不可能なことは一つもありません。ですから、たとえ私たちには考えられないことであっても、神にはどんなことでもできると信じ、神の約束を待ち望む者でありたいと思います。

 

Ⅲ.天の故郷にあこがれる信仰(13-16)

 

第三に、アブラハムの信仰は、天の故郷にあこがれる信仰でした。13~16節をご覧ください。

「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」

 

アブラハムとサラ、またイサクとヤコブの生涯を見ると、彼らに共通していたことは、彼らは約束のものを手に入れることはできなくとも、はるかにそれを見て喜び、この地上ではほんのしばらく過ごす旅人にすぎないことを自覚していたことです。それは、彼らが天の故郷を慕い求めていたからです。もしこれがこの地上の故郷のことであったなら、帰る機会はいくらでもあったでしょう。しかし、彼らは、さらにすぐれた故郷、天の故郷にあこがれていたので、なれない文化と習慣の中で、天幕生活を続けることができたのです。この地上での生活において嫌なことがあっても、じっと耐えることができました。このようにさらにすぐれた故郷、天の故郷にあこがれ、それを一点に見つめて離さない人は、この地上でどんなことがあっても感謝をもって生きられるのです。

 

昨年、寺山邦夫兄が天に召されましたが、その証には、76歳の8月11日に、医師から「胃癌と肝臓癌です。肝臓の周りにも腹水がたまっています」と告知されとき、一度も落ち込まなかったと言います。一度も落ち込むことなく、日々平安で、冗談を言いながら、笑いながら過ごすことができました。嘘でしょうと思われる方もいるかもしれませんが、そういう方は後で寺山姉にお聞きになられたらいいと思います。これは本当で、私がご自宅を訪問して一緒に祈った時も、満面の笑顔で、「もうすぐ天国に行けると思うとうれしくて・・」とおっしゃっておられました。どちらが病気なのかがわからないくらい、元気に見えました。いったいどうしてか?証にはこう綴られています。「永遠の命をイエス様から戴いて、主の御元に行くと分かっているからです。」死んでも永遠の命を頂いて、イエス様のもとに行くことができるということを、確信して疑わなかったからです。寺山兄は天の故郷にあこがれていたのです。

そこで「じゃ、祈りましょう」と祈っているとき、私がふと目を開けてみると、寺山兄は両手を手にあげ、涙を流しながら、「主よ。」と祈っておられました。それは決して悲しみの涙ではなかったはずです。これまでずっと慕い求めてきた天の御国、イエス様のもとにもうすぐ行くというその状況の中で、ご自分の思いのたけをすべて主に注いで祈っておられたからだと思います。私は、そんな寺山兄の姿を見て、「ああ、寺山さんは本当に天国を信じているんだぁ」と思わされました。

 

皆さん、この地上での歩みには実に様々なことがありますが、それは、神の永遠の目から見たらほんの点にすぎないのです。そのほんのわずかな期間に執着し、本当に大切なものを見失っているとしたら、それほど残念なことはありません。信仰によって生きる人は、この世ではなく永遠の御国に臨みを抱きます。世の財産や成功に執着するのではなく、御国の喜びと栄光に目を向けるなら、あらゆる試練を乗り越え、聖なる望みを実現するようになるのです。アブラハムやイサクやヤコブは、絶えず天の故郷を目指して進みました。足は地を踏んでいても、目はいつも天に向いていました。地上の富や栄光に執着せず、やがて帰るべき「さらにすぐれた故郷を見上げました。この世に心を奪われるより神に集中するとき、神の御国の相続者となれるのです。

 

16節には、「それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥じとなさいませんでした。」とあります。これは、本当に慰め深い言葉ではないでしょうか。信仰をもって生きる人を、神はこのように評価してくださるからです。

私たちは、これまで何度も何度も主に背き、主に怒りを抱かせるようなことをしてきたにもかかわらず、主を見上げ、主の御言葉を信じて生きて行こうとする人の神と呼ばれることを、神は恥じとはされないのです。

 

アブラハムも主の御心に背き、失敗をしました。約束の地カナンに入った時にききんに見舞われると、神の約束の地を離れ、さっさとエジプトに逃げて行ってしまいました。エジプトでは自分の妻サラを自分の妹であると偽り、自己保身的なことをしました。またゲラルでも懲りることなく同じ失敗を繰り返しました。サラを自分の妹だと偽ってアビメレクという王に召し入れたのです。

それにもかかわらず、彼らの生き方の根幹には、神の約束への御言葉への信仰がありました。だから、神は彼らの神と呼ばれることを、少しも恥じとされなかったのです。それは私たちも同じです。私たちも失敗を繰り返すような弱い者ですが、それでも、その生き方の根幹に神の約束の御言葉への信仰があれば、それでいいのです。神は私たちの神と呼ばれることを恥じとはされません。このことは、あなたにとっても大きな、慰めではないでしょうか。

申命記20章

 きょうは、申命記20章から学びます。まず1節から9節までをご覧ください。

 

 1.恐れてはならない(1-9

 

「あなたが敵と戦うために出て行くとき、馬や戦車や、あなたよりも多い軍勢を見ても、彼らを恐れてはならない。あなたをエジプトの地から導き上られたあなたの神、主が、あなたとともにおられる。あなたがたが戦いに臨む場合は、祭司は進み出て民に告げ、彼らに言いなさい。「聞け。イスラエルよ。あなたがたは、きょう、敵と戦おうとしている。弱気になってはならない。恐れてはならない。うろたえてはならない。彼らのことでおじけてはならない。共に行って、あなたがたのために、あなたがたの敵と戦い、勝利を得させてくださるのは、あなたがたの神、主である。つかさたちは、民に告げて言いなさい。「新しい家を建てて、まだそれを奉献しなかった者はいないか。その者は家へ帰らなければならない。彼が戦死して、ほかの者がそれを奉献するといけないから。ぶどう畑を作って、そこからまだ収穫していない者はいないか。その者は家へ帰らなければならない。彼が戦死して、ほかの者が収穫するといけないから。女と婚約して、まだその女と結婚していない者はいないか。その者は家へ帰らなければならない。彼が戦死して、ほかの者が彼女と結婚するといけないから。」つかさたちは、さらに民に告げて言わなければならない。「恐れて弱気になっている者はいないか。その者は家に帰れ。戦友たちの心が、彼の心のようにくじけるといけないから。」つかさたちが民に告げ終わったら、将軍たちが民の指揮をとりなさい。」

 

ここには、イスラエルが約束の地に入ってから現実に直面する一つの問題、すなわち、戦いについて言及されています。イスラエルが入って行こうとしている地は、彼らがエジプトで奴隷としている間に多くの民が住み着いていたので、そこに入りその地を所有しようとすれば、戦いは避けられませんでした。そこで、そのような戦争が起こったとき、彼らがどのように戦いに臨まなければならないのかが語られています。

 

それはまず、「あなたが敵と戦うために出て行くとき、馬や戦車や、あなたよりも多い軍勢を見ても、彼らを恐れてはならない。」ということでした。なぜなら、彼らをエジプトの地から導き上られた彼らの神、主が、彼らとともにおられるからです。エジプトで430年もの間奴隷として捕らえられ、苦役に服していた彼らにとってその中から救い出されることは人間的には全く考えられないことでした。しかし、全能の主が彼らとともにおられたので、彼らはその中から救い出され、約束の地へと導かれたのです。主が共におられるなら何も恐れることはありません。

 

私たちの問題は、すぐに恐れてしまうことです。仕事がうまくいかないので、このままでは倒れてしまうのではないか、職場をリストラになったが、この先どうやって生活していったらいいのだろう、職場や家庭、友達との関係に問題が生じたが、これから先どうなってしまうのだろう、最近、起きると半身がしびれるが、もしかしたら脳に腫瘍でもあるのではないか、そのように恐れるのです。戦いにおいて恐れは禁物です。恐れがあれば戦う前にすでに勝敗は決していると言ってもいいでしょう。ではどうしたら恐れに勝利することができるのでしょうか。

 

2節から4節までをご覧ください。「あなたがたが戦いに臨む場合は、祭司は進み出て民に告げ、彼らに言いなさい。

「聞け。イスラエルよ。あなたがたは、きょう、敵と戦おうとしている。弱気になってはならない。うろたえてはならない。共に行って、あなたがたのために、あなたがたの敵と戦い、勝利を得させてくださるのは、あなたがたの神、主である。」

ここでモーセは、イスラエルの兵士の士気を高めるために、彼らの目を主に向けさせました。向かってくる敵を見ておびえるのではなく、主を見て、主が自分たちのために戦ってくださることを信じて、勇敢に戦いなさい、というのです。

 

少し前に青年や学生たちとネヘミヤ記から学びましたが、ネヘミヤも同じでした。エルサレムの城壁再建に取り組むもそれに批判的であったホロン人サヌバラテとかアモン人トビヤといった者たちが、非常に憤慨して工事を妨げようとしました。しかし、イスラエルの民に働く気があったので工事は順調に進み、その高さの半分まで継ぎ合わされました。

すると反対者たちは非常に怒り、混乱を起こそうと陰謀を企てました。するとイスラエルの民はみな意気消沈してこう言いました。「荷を担う者の力は衰えているのに、ちりあくたは山をなしている。私たちは城壁を築くことはできない。」(ネヘミヤ4:10)これは言い換えるとこういうことです。「もう体力の限界にきているというのに問題だらけだ。これでは城壁を築くことはできない・・・」つまり、彼らは意気消沈したのです。これこそ敵の思うつぼでした。やる気を失わせたのです。

そこでネヘミヤが取った行動は、彼らの目を神に向けさせることでした。ネヘミヤはおもだった人々や、代表者たち、およびその他の人々にこう言いました。「彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、自分たちの兄弟、息子、娘、妻、また家のために戦いなさい。」(ネヘミヤ4:14)すると彼らは奮起され、片手で仕事をし、片手に投げやりを堅く握って工事を進めたので、わずか52日間で城壁工事を完成させることができたのです。

 

ここでも同じです。イスラエルが敵と戦うために出て行くとき、あなたよりも馬や戦車や多くの軍勢を見て、とても自分たちの力では戦えないと恐れてしまうこともあるかもしれない。しかし、彼らを恐れてはいけません。うろたえてはならないのです。あなたが敵と戦って勝利を得させてくださるのはあなたがたの神であり、その神があなたがたとともにおられるのだから。問題はどのように戦うのかではなく、だれが戦うのかです。私たちと戦ってくださるのは主であり、この主がともにおられることを覚えて、恐れたり、うろたえたり、おじけたりしてはならないのです。

 

5節から9節までをご覧ください。ここには、彼らが戦いに出て行くとき、つかさたちはこれらのことを民に告げるようにと言われています。これはどういうことでしょうか。これは自分の生活のことで心配事がある人は、戦いに行ってはならないということです。なぜなら、戦友たちの士気が下がってしまうからです。新しい家を買った者は、その家のことが気になって戦いに影響をきたします。ぶどう畑にたくさんぶどうの実が結ばれていたら、そのぶどうのことが気になって戦いに集中することができません。婚約している人は、彼女のことが気になってしょうがないため、戦うことができません。そして、悪いことにそうしたことが同じように戦っている兵士の士気を下げてしまうのです。

 

主イエスはこのように言われました。「さて、彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。『私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。』すると、イエスは彼に言われた。『狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。』イエスは別の人に、こう言われた。『わたしについて来なさい。』しかしその人は言った。『まず行って、私の父を葬ることを許してください。』すると彼に言われた。『死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。』別の人はこう言った。『主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。』するとイエスは彼に言われた。『だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。』」(ルカ9:57-62

 

主の弟子となるということは、主だけに思いを集中して従うということであり、他のことで思い煩わないということです。そうでないと、戦友の心までもくじけてしまうことになるからです。主の弟子として生きていく上には多くの戦いが生じますが、それがどのような戦いであっても共通して言えることは、恐れてはならないということです。なぜなら、主がともにおられ、主が勝利を得させてくださるからです。

 

2.聖絶しなさい(10-18

 

 次に10節から18節までをご覧ください。

 

「町を攻略しようと、あなたがその町に近づいたときには、まず降伏を勧めなさい。降伏に同意して門を開くなら、その中にいる民は、みな、あなたのために、苦役に服して働かなければならない。もし、あなたに降伏せず、戦おうとするなら、これを包囲しなさい。あなたの神、主が、それをあなたの手に渡されたなら、その町の男をみな、剣の刃で打ちなさい。しかし女、子ども、家畜、また町の中にあるすべてのもの、そのすべての略奪物を、戦利品として取ってよい。あなたの神、主があなたに与えられた敵からの略奪物を、あなたは利用することができる。非常に遠く離れていて、次に示す国々の町でない町々に対しては、すべてこのようにしなければならない。しかし、あなたの神、主が相続地として与えようとしておられる次の国々の民の町では、息のある者をひとりも生かしておいてはならない。すなわち、ヘテ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたとおり、必ず聖絶しなければならない。それは、彼らが、その神々に行なっていたすべての忌みきらうべきことをするようにあなたがたに教え、あなたがたが、あなたがたの神、主に対して罪を犯すことのないためである。」

 

ここでモーセは、どのように約束の地を攻略するかを語っています。そして、イスラエルが町を攻略しようと、その町に近づいたときには、まず降伏を勧めなければなりませんでした。そして、降伏に同意して敵が門を開くなら、その中にいる者は、みな、イスラエルのために、苦役に服しました。しかし、もし、敵が降伏せず、戦おうとするなら、これを包囲して戦い、その町の男をみな、剣の刃で打たなければなりません。しかし、女、子ども、家畜、またその町の中にあるすべてのもの、そのすべての略奪物を、戦利品として取ることができました。それを利用することができたのです。ここで女や子どもを殺さなかったというのは人道的な理由からであると考えられます。イスラエルの敵は彼らに襲い掛かってくる者たちであって、その妻や娘たち、子どもたちではないからです。そのような者たちは、ある意味でイスラエルのために仕えることができたからです。

 

しかし、16節をご覧ください。主が相続地として与えようとしておられる次の国々、すなわち、ヘテ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の町々では、必ず聖絶しなければなりませんでした。なぜてしょうか。18節にその理由が記されてあります。「それは、彼らが、その神々に行なっていたすべての忌みきらうべきことをするようにあなたがたに教え、あなたがたが、あなたがたの神、主に対して罪を犯すことのないためである。」

この場合の主に対する罪とは、異教の神々を拝む偶像礼拝の罪であり、主が忌みきらうべき異教的風習に生きることです。そのようにして、主に対して罪を犯すことがないように、必ず聖絶しなければなりませんでした。

 

「聖絶」とは、聖なる神の名のもとに敵を攻撃することですが、このような言葉を聞くと、多くの人は、「なぜ愛の神が、人々を殺すような戦争をするように命じられるのか。」という疑問を持ちます。イエスは、「敵をも愛しなさい」と言われたではないか・・・」と。その疑問に対する答えがここにあります。それは、一般的に言われている聖絶のとらえ方が間違っていることに起因しています。ここで言われていることは、もし彼らが主に対して罪を犯すようなものがあるなら、それを徹底的に取り除くべきであって決して妥協してはならないということであって、むやみやたらに異教徒と戦って彼らを滅ぼすことではないということです。つまり、ここで教えられていることは、私たちの魂に戦いを挑む肉の欲との戦いのことなのです。

 

Ⅰペテロ211節には、「愛する人たち、あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。」とあります。これがこの地上での生活を旅人として生きるクリスチャンに求められていることです。クリスチャンはこの世、この社会でどのように生きていけばいいのか、どのように振舞うべきなのか、それは、「たましい戦いを挑む肉の欲を避けなさい。」ということです。この肉の欲を避けるというのは、肉体の欲望を抑えて、禁欲的な生活をしなさいということではありません。この「肉」というのは、人間が持つあれこれの欲望のことを言っているのではなく、堕落した人間の罪の性質のことを指しています。すなわち、たましいに戦いを挑む肉の欲とは、人間の中にある罪そのもののことなのです。人間は様々な欲望を持ちますが、そのような罪の支配を避けることこそが肉の欲を避けるということです。この世の中で生きている私たちには、たましいに戦いを挑む肉の欲が次から次へと襲ってきます。そのような中で「たましいに戦いを挑む肉の欲」を避け、「立派に生活する」ことが求められているのです。欲望に負けることなく清い生活に励むことを目指すならこの世の生活から遠ざかって、自分たちと同じような考えを持つ人たちだけで閉鎖的な集団を形成する方が楽かもしれません。けれどもペテロは、そうではなくて、「異教徒の間で立派に生活しなさい。」と勧めています。それは、努力して自分の力で倫理的な、清い「立派な生活を行うこと」ではなく、主イエス・キリストによって目に見える事柄やこの世における幸福よりももっと大事なことを見つめて生きることです。

 

パウロは、「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」(コロサイ3:5と言いました。偶像礼拝は何も、目に見える偶像だけではありません。地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。これらのものこそ、たましいに戦いを挑む肉の欲なのです。ここでは、そうしたものに対して殺してしまいなさいと言われています。うまく共栄共存しなさいとは言われていません。殺してしまいなさい、と言われているのです。それらと分離しなければなりません。それが聖別という意味であり、その戦いこそが聖戦であり、聖絶なのです。

 

3.木を倒してはならない(19-20

 

 最後に、19節と20節を見て終わりたいと思います。

 

「長い間、町を包囲して、これを攻め取ろうとするとき、斧をふるって、そこの木を切り倒してはならない。その木から取って食べるのはよいが、切り倒してはならない。まさか野の木が包囲から逃げ出す人間でもあるまい。ただ、実を結ばないとわかっている木だけは、切り倒してもよい。それを切り倒して、あなたと戦っている町が陥落するまでその町に対して、それでとりでを築いてもよい。」

 

どういうことでしょうか。これは面白い教えです。彼らが町を攻め取るため包囲するときに、そこにある木をむやみに切り倒してはならないとうのです。どういうことかいうと、その町を攻略するのに何の益にもならないことをしてはならないということです。よく戦闘状態にあると興奮してしまい、やらなくてもいいことまでやってしまうのです。この場合は、木を切り倒してしまうということです。しかし、戦争だけでも荒廃をもたらすというのに、それ以上のことを行ったらどうなってしまうでしょうか。何もなくなってしまいます。まさか野の木が包囲から逃げ出すわけがないので、そうした無駄なことはしないようにという戒めなのです。そこには、人間の中にある過酷さを戒め、自然に対する優しさに配慮するようにという神の意図が表れています。

 

けれどもさらに面白いのは、実を結ばない木は切り倒してもよい、という命令です。神さまは非常に実際的な方であることがここで分かります。イエス様も、一度、実を結ばない木をのろわれて、枯らしてしまわれたことがありました。イエス様がベタニヤにおられたとき、お腹をすかして、いちじくの木に実がなっていないか見ておられたら、葉ばっかりで、全く実がないのを見て、「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」(マルコ11:12-25)と言われました。すると、翌朝、その木が根まで枯れていました。それは、外見ばかりで中身のない律法学者たちに対する警告だったわけですが、ここでも同じです。イスラエルは、外見では神を信じているようでも、もし中身がなければ切り倒されてしまうのです。

これは、私たちクリスチャンにも言えることです。イエスさまは、「わたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。・・・だれでも、わたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。」(ヨハネ15:5-6と言われました。神に対して実を結ぶことが、私たちに求められていることなのです。

ヘブル11章4~7節 「信仰によって生きた人」

きょうは、「信仰によって生きた人」というタイトルでお話します。これまで述べてきたことを受け、このヘブル人への手紙の著者は、前回のところで、信仰とは何かについて語りました。つまり、信仰とは望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。信仰によって、私たちは、この世界が目に見えるものによって造られたのではなく、目に見えないもの、つまり神のことばによって造られたということを悟るのです。

そこで、きょうの箇所では、昔の人々がどのように信仰に生きたのかという実例を取り上げ、信仰によって生きるとはどういうことなのかをさらに説明していきます。きょうはその中から三人の人を取り上げてお話したいと思います。それは、アベルとエノクとノアです。

 

Ⅰ.信仰によって神にいけにえをささげたアベル(4)

 

まず、4節をご覧ください。

「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。」

 

まず、最初に紹介されているのはアベルです。アベルは最初の人アダムとエバの子どもで、二人息子の弟です。ここには、信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得た、とあります。どういうことでしょうか。

 

この話は創世記4章に記されてありますので、そこを開いて確認したいと思います。1節から7節です。

「人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。」そこで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」(創世記4:1~7)

 

ここには、カインは土を耕す者となり、アベルは羊を飼う者になりましたが、ある時期になった時、彼らは神にささげ物をささげるためにやって来た、とあります。「ある時期」というのは、収穫の時期のことだと思われます。自分たちが一生懸命に働いて得たその収穫の一部を神にささげるためにやって来たのでしょう。そして、カインは土を耕す者でしたので、その作物の中から主へのささげ物を、一方のアベルは、羊を飼う者だったので、その羊の中から主にささげ物を持ってきました。しかし、主はアベルとそのささげ物には目を留められましたが、カインとそのささげ物には目を留められませんでした。なぜでしょうか。アベルは正しく行ったのに対して、カインはそうではなかったからです。どういう点でアベルは正しくて、カインは正しくなかったのでしょうか。それはささげ物をささげ姿勢です。アベルは羊を飼う者となり、その中から主へのささげ物を持ってきましたが、ただ持って来たというのではなく、羊の初子の中から、それも最上のものを持ってきました。同じ新改訳聖書でも第二版では、「それも最良のものを、それも自分自身の手で、もって来た。」とあります。つまり、彼は心からささげたのです。それに対してカインはというと、「地の作物から主へのささげ物を持って来た。」とあるだけで、それがどのようなものであったのかについては触れられていません。というとこは、アベルのように最良のもので、自分自身の手で持って来たものではなかったということです。アベルのように心から神にささげたのではなく、一種の儀式として形式的にささげたのです。

 

ここに彼らの信仰がよく表れていると思います。彼らは神の存在を信じ、神にささげ物をささげたという点ではどちらも同じで、宗教的であったと言えますが、しかし、宗教的であるということと信仰的であるということは必ずしも同じことではありません。神を礼拝し、神にささげ物をささげても、それが必ずしも、信仰的であるとは言えないのです。確かに二人とも神を礼拝していましたが信仰的であったのはカインではなく、アベルの方でした。そのささげ物によって、そのことが証明されたのです。

 

アベルが信仰によって生きていたことが証明されたのが、彼のささげ物をささげる姿勢、つまり礼拝の姿勢であったということは注目に値することです。というのは、礼拝の姿勢というものは、日ごろの生き方がそこに表れるのであって、いつも信仰に生きている人は、礼拝をする時もそのような姿勢になりますが、適当に信仰生活をしている人は、どんなに熱心に礼拝しているようでも、それは心から神を礼拝しているとは言えず、ただ形式的に礼拝しているにすぎません。そのような礼拝においては少しも神とお出会いすることができず、その結果、神に喜ばれる者に変えていただくことはできないのです。

 

しかし、ここでアベルが信仰によって神にいけにえをささげたというのは、そうした彼の礼拝の姿勢が正しかったというだけではなく、彼が神の方法によっていけにえをささげたからでもあります。その方法とは何でしょうか。それは、彼は羊をほふり、その血を注ぎ出して、神にささげたという点です。「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからです。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。」(レビ17:11)とあるからです。いのちとして贖いをするのは血です。これがささげ物をささげる時の神の方法でした。アベルは自分が罪人で、自分の力ではその罪を贖うことができないということを知っていたので、神が示された方法でいけにえをささげたのです。けれども、カインはそうではありませんでした。彼は自分の方法によっていけにえをささげました。それは、彼が自分の育てた作物の中からささげ物を持って来たということではありません。神は地を耕して育てた作物を好まれないということはないのです。彼が正しくなかったのは、彼が神に喜ばれる方法によって神を礼拝したのではなく、あくまでも自分の考えで、自分のやり方で、神に受け入れられようとしたことです。それが問題だったのです。だから、神は彼のささげものを退けられたのです。

 

それはアダムとエバが罪を犯したとき、いちじくの葉をつづり合わせたもので自分たちの腰のおおいを作ったのと同じです。そんなものはすぐに枯れて何の役にも立たないのに、彼らはそのようにすれば何とか自分たちの裸をおおうことができると考えました。しかし、いちじくの葉はすぐに枯れてしまったのでしょう。神は、彼らの罪をおおうために、皮の衣を作り、それを彼らに着せてくださいました。(創世記3:21)なぜ、皮の衣だったのでしょうか。皮の衣によらなければ、罪をおおうことができなかったからです。神は動物をほふり、その皮を剥ぎ取って、彼らに着せてくださったのです。それが神の方法でした。そうでなければ、神に受け入れられることはできなかったのです。

 

そして、これはやがて来られる神の小羊イエス・キリストを指し示していました。人はイエス・キリストによらなければ、だれも神に近づくことはできません。私たちは、だれか困っている人がいたら助けてあげたり、貧しい人がいれば施しをしたり、優しく、親切に生きれば神に受け入れられるのではないかと考えますが、そのような方法によっては神に受け入れられることはできません。確かにそのような業は善いことですが、そうしたことによって自分の罪を消すことはできないのです。私たちの罪は、ただ神が私たちのために用意してくださった小羊の血によってのみ赦されるのであって、それ以外の何をもってしても赦されることはありません。

 

「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

 

「信仰によって」とはそういうことです。アベルは、神の方法とはどのようなものなのかを知っていて、そのようにささげました。信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえをささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得たのです。

 

私たちも信仰によって、神にささげ物をささげましょう。あくまでも自分の思いや考えに従うのではなく、神のことばを聞き、神のみこころは何かを知り、それに従うものでありたいと思うのです。それが信仰なのです。

 

Ⅱ.神に喜ばれていたエノク(5-6)

 

次に5節と6節をご覧ください。ここには、「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」とあります。

 

信仰によって生きた人として次に取り上げられているのは、エノクです。エノクという人物は、創世記5章に記されているアダムの子孫の中に登場する人物です。そこにはアダムの系図が記録されていますが、それらは皆決まった形で紹介されています。すなわち、「・・の生涯は○○であった。こうして彼は死んだ。」です。たとえば、5節には、「アダムはは全部で九百三十年生きた。こうして彼は死んだ。」とあります。8節にはその子セツについて書かれてありますが、それも、「セツの一生は九百十二年であった。こうして彼は死んだ。」とあります。また、11節にはエノシュについて書かれてありますが、それも同じです。全員が同じように記録されていますが、エノクだけはそうではありません。24節を見ると、「神が彼を取り去られたので、彼はいなくなった。」とあります。神が彼を取り去られたので、彼はいなくなったとはどういうことなのか?ヘブル書にはそのことを次のように説明しています。「エノクは死を見ることがないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。」とあります。エノクが取り去られたのは、死を見ることがないように、神に取り去られたというのです。この箇所からほとんどの人は、らエノクは死を経験することなく天に引き上げられたのだと考えていますが、ある人たちは、いや、アダムが罪を犯したことで死が全人類に入って来たのだから、エノクと言えども死なずに天国に行ったのは考えられない、と言う人もいます。しかし、このヘブル人への手紙を見る限り、彼がいなくなったのは、彼が死を見る事がないように天に移されたとあるので、彼は死を経験しないで引き上げられたのだろうと思います。しかし真相はどうであろうと、確かなことは、彼の地上での生涯はそれで終わったということです。

 

創世記5章の系図を見ると、ほとんどの人が九百歳ぐらいまで生きたのに対して、エノクは三百六十五歳しか生きませんでした。彼は意外に短命であったことから、彼の一生は不幸な一生だったのではないかと考える人もいますが、そうではありません。確かに彼の生涯は当時の一般的な人たちと比べたら短いものでしたが、それは死を見ることがないように天に移された幸いな生涯だったのです。人の一生はその長さで測られるものではありません。人の一生の善し悪しは、その人がどのような生涯を送ったのかという中身で測られるものです。それが神とともに歩んだ生涯であるなら、たとえそれがどんなに短いものであっても、幸いな徹宵だったと言えるのです。エノクの一生は三百六十五年という短いものでしたが、それは神とともに生き歩み、神に喜ばれたものであることがあかしされるすばらしい一生だったのです。

 

それでは、彼はどのような点で神に喜ばれていたのでしょうか。それは、彼が信仰によって生きていたという点です。エノクが生きていた時代は、ノアの時代と同じように、人々の心が悪いことばかりに傾いているような時代でした。その中でも彼は、神がおられることを信じていました。神がおられることを信じていたので罪から離れた歩みをしていたばかりでなく、常に神を求めて生きていました。彼は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを信じていたのです。

 

God is not Deadという映画をみました。 日本語のタイトルでは「神は死んだか」というタイトルです。あるクリスチャンの大学生が大学の授業で哲学のクラスを受けるのですが、その授業を始める前に教授が生徒たちに「神はいない」と紙に書くよう に強制し、書かなければ単位をあげないというのです。単位が取れないことを危惧した生徒たちは言われるままに書いて提出するものの、納得できないジョシュだけは拒否します。それなら神の存在を証明するように、もしできなかったら落第だと告げられました。ジョッシュは悩みながらも必至で神が存在しているという説明を試みるも、それはかなりハードなことでした。しかし、彼は最後に教授にこう言うのです。「あなたが神を憎んでいるということ。それこそ神が存在している一番大きな事実です。もし神がいなかったら、どうして神を憎むということなどあるでしょうか。」それは大きなかけでもありました。もし証明できなければ大きなリスクを負ってしまうことになりますが、逆に、もしそれを証明することができたら、それこそ多くの人たちにとっての証となります。彼は神の存在を疑いませんでした。神がおられることと、神を求めるものには報いてくださる方であるということを信じたのです。

 

あなたはどうですか。この地上の歩みにおいて、エノクのように、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であるということを、信じているでしょうか。エノクは天に引き上げられましたが、今日も、キリストのうちにある者は、主が天から再び戻って来られるとき、空中に引き上げられるという約束が与えられています。その成就が限りなく近いことをつくづく感じます。それはもしかしたら、私たちが生きている時代に実現するかもしれません。そうすれば、私たちはエノクが経験したように、死を見ることなく天に移されるかもしれません。仮にそれが、私たちが死んだ後であっても、その一生は主とともに生きたすばらしい一生であったと証されることでしょう。そのような生涯を共に歩ませていただきたいものです。

 

Ⅲ.信仰によって箱舟を作ったノア(7)

 

信仰によって生きた人として三人目に取り上げられているのは、ノアです。7節にはこうあります。「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。」

 

ノアが生きていた時代がどのような時代であったかは、創世記6章に記されてあります。6章11節、12節を見ると、「地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。」とあります。しかし、ノアは、主の心にかなっていました。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人でした。つまり、彼は、いつも神とともに歩んだのです。

 

そこで、神はノアに対して、間もなく世界中の人々を滅ぼす洪水を起こされると言われました。しかし、ノアとその家族の者たちは救うので、大きな船を作るようにと命じられたのです。その船は、長さ百五十メートル、幅二十五メートル、高さ十五メートルの箱舟で、一万トン級の大きな船でした。彼はそれまでそんな大洪水を経験したことがなければ、船を作ったこともありませんでした。そんな一万トン級の船を作るということにでもなれば、この先何年かかるか、全くわかりません。気の遠くなるような話です。しかし彼はその御言葉を信じて受け入れたのです。今日のようにチェーンソーがあったわけではありません。どのようにして大木を切り倒したのでしょうか。ノアと三人の息子の四人だけで造ったとしても、おそらく百二十年はかかったでしょう。創世記6章3節には、「それで人の齢は、百二十年にしよう。」とありますが、これは人の寿命が百二十年に定められたというだけでなく、その日から大洪水が起こるまでの年数であったとも考えられます。それは気の遠くなるような大仕事でした。しかし、ノアは信仰によってそれに挑戦したのです。すなわち、ノアはたとえ常識では考えられないようなことでも、主によって命じられたことであれば、それをそのとおりに受け止めて実行したのです。それが信仰です。来る日も来る日も、彼らは山へ行き、何日もかかって木を伐採しました。それを見ていた回りの人たちは、どんなにバカにし、嘲笑ったことでしょう。「ノアもとうとう気が狂っちゃったんじゃないの」と思ったことでしょう。

 

皆さんさんだったらどうですか。全く雨が降らない時代に、神がこの地上のものを滅ぼすので、あなたは箱舟を造りなさいと言われて、「はいよ」と言って造るでしょうか。最近私は、一年前の母の日に娘が家内に贈ってきた小物入れのラックを組み立てました。それを組み立てるのに要した時間は約30分です。たった30分なのになかなか組み立てられませんでした。組み立てる気がなかったからです。だから、それを組み立てるのに一年もかかってしまいました。まして、ノアに与えられたプロジェクトは

120年もかかる大仕事でした。どんなに暇でも造る気にはなれないでしょう。

しかし、ノアにとって神のことばは絶対でした。彼は、神によって語られたことは必ず起こると信じていました。つまり、大洪水は必ず起こると信じていたのです。しかも、それは世の罪をさばくための神のさばきとしての大洪水です。ですから、創世記6章22節には、ノアは箱舟を作り、その中に入って救われるようにと神から言われた時、「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。」とあるのです。たとえ自分の常識の枠の中に納まらないことであっても、神の御言葉に従うのが信仰であり、それが神に喜ばれる道なのです。

 

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神のみもとに来る人はだれでも、神が存在することと、神を求める人には必ず報いてくださる方であるということを信じなければなりません。アベルやノアやエノクのような生き方こそ、神のみもとに来る人です。彼らは神が存在すること、つまり神が生きておられるということと、神に求めることには必ず答えてくださる方であるということを信じました。つまり、神は生きて働いておられる方であると信じ、そのことばに従ったのです。

 

私たちもそうありたいですね。聖書には天国があると書いてあるけど本当かなと疑ってみたり、信じようとしないのではなく、神の約束の言葉は必ず実現すると信じて、その言葉に自分の人生をかける者でありたいと思います。それが信仰です。義人は信仰によって生きる。神はそのような人を喜んでくださるのです。

申命記19章

きょうは、申命記19章から学びます。まず1節から7節までをご覧ください。

 

 1.のがれの町の制定(1-7

 

「あなたの神、主が、あなたに与えようとしておられる地の国々を、あなたの神、主が断ち滅ぼし、あなたがそれらを占領し、それらの町々や家々に住むようになったときに、あなたの神、主があなたに与えて所有させようとしておられるその地に、三つの町を取り分けなければならない。あなたは距離を測定し、あなたの神、主があなたに受け継がせる地域を三つに区分しなければならない。殺人者はだれでも、そこにのがれることができる。殺人者がそこにのがれて生きることができる場合は次のとおり。知らずに隣人を殺し、以前からその人を憎んでいなかった場合である。たとえば、木を切るため隣人といっしょに森にはいり、木を切るために斧を手にして振り上げたところ、その頭が柄から抜け、それが隣人に当たってその人が死んだ場合、その者はこれらの町の一つにのがれて生きることができる。血の復讐をする者が、憤りの心に燃え、その殺人者を追いかけ、道が遠いために、その人に追いついて、打ち殺すようなことがあってはならない。その人は、以前から相手を憎んでいたのではないから、死刑に当たらない。だから私はあなたに命じて、「三つの町を取り分けよ。」と言ったのである。」

 

ここには、イスラエルの民が約束の地を占領しそれらの町々や家々に住むようになったとき、その地に三つの町をとりわけなければならない、とあります。何のためでしょうか。殺人者がのがれることができるためです。つまり、ここにはのがれの町が制定されているのです。のがれの町とは何でしょうか。これはすでに民数記35章で学んだように、知らずに人を殺してしまった者が、のがれることができるように定められた町です。知らずに人を殺してしまった場合とはここに一つの事例が紹介されているように、たとえば、木を切るため隣人といっしょに森にはいり、木を切るために斧を手にして振り上げたところ、その頭が柄から抜け、それが隣人に当たってその人が死んだような場合です。このような場合、彼は故意に人を殺したわけではないので、殺された人の家族などが憤りに燃えその殺人者を追いかけ打ち殺すことがないように、のがれの町を用意されたのです。もしそれが故意の殺人であったならその者は必ず殺されなければなりませんでしたが、そうでなかったら、その人が殺されることがないように守らなければならなかったのです。なぜなら、殺された者の家族なり、親しい人が、それが故意によるものであろうとなかろうと関係なく、怒りと憎しみが燃え上がり復讐するようになるからです。そういうことがないように神はこれを定められたのです。

 

2.憎しみからの殺人(8-14

 

 次に8節から14節までをご覧ください。

 

「あなたの神、主が、あなたの先祖たちに誓われたとおり、あなたの領土を広げ、先祖たちに与えると約束された地を、ことごとくあなたに与えられたなら、・・私が、きょう、あなたに命じるこのすべての命令をあなたが守り行ない、あなたの神、主を愛し、いつまでもその道を歩むなら・・そのとき、この三つの町に、さらに三つの町を追加しなさい。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地で、罪のない者の血が流されることがなく、また、あなたが血の罪を負うことがないためである。しかし、もし人が自分の隣人を憎み、待ち伏せして襲いかかり、彼を打って、死なせ、これらの町の一つにのがれるようなことがあれば、彼の町の長老たちは、人をやって彼をそこから引き出し、血の復讐をする者の手に渡さなければならない。彼は死ななければならない。彼をあわれんではならない。罪のない者の血を流す罪は、イスラエルから除き去りなさい。それはあなたのためになる。あなたの神、主があなたに与えて所有させようとしておられる地のうち、あなたの受け継ぐ相続地で、あなたは、先代の人々の定めた隣人との地境を移してはならない。」

 

8節からの教えは、主が、イスラエルの先祖たちに与えると約束された地を、ことごとく彼らに与えられてからのことです。7節には、「だから私はあなたに命じて、「三つの町を取り分けよ」と言ったのである。」とありますので、これはヨルダン川の東側、もうすでに彼らが獲得し、ルベン人とガド人、そしてマナセ半部族が相続していた地でのことでした。それと同じように、これから入って行って、占領すべき地においても同じように三つののがれの町を設けるようにと命じています。なぜでしょうか。それは、「罪のない者の血が流されることがなく、また、あなたが血の罪を負うことがないため」です。

 

しかし、もし人が自分の隣人を憎み、待ち伏せして襲いかかり、彼を打って、死なせ、これらの町の一つにのがれるようなことがあれば、彼の町の長老たちは、人をやって彼をそこから引き出し、血の復讐をする者の手に渡さなければなりませんでした。彼は死ななければならなりませんでした。故意に人を殺してしまった場合は、殺してしまった者は、死をもって報いなければならなかったのです。たとえ彼が逃れの町に入っても、そこから引きずり出して、血の復讐をする者の手に渡さなければなりませんでした。

 

なぜでしょうか。それは殺人者への憎しみのためではありません。神の正義のゆえです。神は義なる方であり、その正義のゆえに、人を殺してしまった者に対してはその死をもって報いなければならないのです。この正義によるさばきと、憎しみのよる復讐とは、まったく別物であり、区別しなければなりません。新約聖書において、たとえば、ヤコブの手紙の中には次のように記されてあります。「人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」(1:20私たちが怒って行なったことは、神の正義を実現するものではありません。たとえば、日本において、死刑制度の是非がよく問われますが、それは被害者の家族の感情から主張されることが多いですが、そのような動機によって、人をさばいてはいけません。人はあくまでも、神の正義のゆえに、また神の秩序のゆえにさばかれなければならないのです。ここでは明らかに自分の隣人を憎み、計画的に人を殺しとあるので、情状酌量の余地はありません。そういう人は死ななければなりませんでした。そのようにしてイスラエルから悪を取り除かなければなりませんでした。それがあなたのためになったからです。そのような悪を取り除くことによって、それがパン種のようにイスラエル全体に広がることを防いだからです。もしこれを野放しにしたら、憎しみの連鎖がイスラエル全体に広がり、まったく神の秩序が保てなくなるでしょう。このようにして悪を取り除くことによって、彼らは神の正義をしっかりと保つことができたのです。

 

3.偽りの証言(15-21

 

 次に15節から21節までをご覧ください。

「どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。もし、ある人に不正な証言をするために悪意のある証人が立ったときには、相争うこの二組の者は、主の前に、その時の祭司たちとさばきつかさたちの前に立たなければならない。さばきつかさたちはよく調べたうえで、その証人が偽りの証人であり、自分の同胞に対して偽りの証言をしていたのであれば、あなたがたは、彼がその同胞にしようとたくらんでいたとおりに、彼になし、あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。ほかの人々も聞いて恐れ、このような悪を、あなたがたのうちで再び行なわないであろう。あわれみをかけてはならない。いのちにはいのち、目には目、歯には歯、手には手、足には足。」

 

17章で学んだように、どんな咎でも、どんな罪でも、すべての人が犯した罪は、ひとりの証人によって立証されてはなりませんでした。必ずふたりか三人の証言によって、そのことが立証されなければなりませんでした。もしその証言が食い違った場合は、どうしたら良いのでしょうか。そのような時には、相争うこの二組の者が主の前に出て、祭司たちとさばきつかさたちの前に立ち、調査をされなければなりませんでした。そして、偽りの証言者は、厳しく罰せられなければなりませんでした。彼にあわれみをかけてはなりませんでした。ここでこの有名なことばが出てきます。「いのちにはいのち、目には目、歯には歯、手には手、足には足。」

 

これがさばきをするときの基準です。加害者が、その与えた害と等しいものを刑罰として受ける、という原則です。目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足です。そしていのちにはいのちです。それ以上のものを要求することはできませんでした。人間は往々にして目を取られたら憎しみのあまり耳も、鼻も、手も、足も、いのちも奪おうとします。しかし、目には目なのです。そして、歯には歯です。それ以上は赦されていません。

 

しかし、イエス様はこう言われました。「目には目で、歯には歯で、と言われるのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打たれたら、左の頬も向けなさい。」(マタイ5:38-39どういう意味でしょうか?

これは、復讐に生きるのではなく、神の愛と神の義に生きるようにということです。それは人間の思いをはるかに超えた基準です。しかし、神の愛によって贖われた者は、その大いなる神のあわれみを経験した者として、この神の愛に生きることができる。それが神の民の生き方であり、そのように導くものが神のみことばとご聖霊の力なのです。

 

ところで、こののがれの町については、すでに民数記でも語られていましたが、それが指し示していたのは何だったのでしょうか。それは、イエス・キリストによる赦しです。民数記35:25-28には、次のようにありました。

「会衆は、その殺人者を、血の復讐をする者の手から救い出し、会衆は彼を、逃げ込んだそののがれの町に返してやらなければならない。彼は、聖なる油をそそがれた大祭司が死ぬまで、そこにいなければならない。もし、その殺人者が、自分が逃げ込んだのがれの町の境界から出て行き、血の復讐をする者が、そののがれの町の境界の外で彼を見つけて、その殺人者を殺しても、彼には血を流した罪はない。その者は、大祭司が死ぬまでは、そののがれの町に住んでいなければならないからである。大祭司の死後には、その殺人者は、自分の所有地に帰ることができる。これらのことは、あなたがたが住みつくすべての所で、代々にわたり、あなたがたのさばきのおきてとなる。」

 

それは、その殺人者を、血の復讐をする者の手から救い出し、やがて彼が、自分の所有地に帰ることができるようにするためでした。いつ自分の所有地に帰ることができたのでしょうか。それは大祭司が死んでからです。それまではそこにとどまっていなければなりませんでした。誤ってその境界から出てはなりませんでした。出るようなことがあれば、殺されても何も文句を言うことはできませんでした。ずっとそこにとどまり、やがて大祭司が死ねば、自分の所有地に戻ることができたのです。大祭司の死は、その在任中に殺された被害者の血を贖うのに十分なものだったからです。

 

つまりこののがれの町は、イエス・キリストを指し示していたのです。私たちは故意によってであっても、偶発的であっても、罪を犯す者でありますが、しかし、私たちの大祭司イエス・キリストの死によって、彼のもとに逃れて来た者たちが罪によって失われた約束を受けるに足る者となり、キリストが約束された永遠の住まいに帰ることができるようになったのです。このすばらしい神の恵みに感謝して、この恵みにしっかりととどまり続ける者でありたいと思います。

ヘブル11章1~3節 「信仰とは」

きょうは、へブル人への手紙11章前半の箇所から、「信仰とは」というタイトルでお話します。このヘブル書の著者は10章18節まで述べてきたことを受けて、三つのことを勧めました。それは、全き信仰をもって、真心から神に近づこうということ、そして、動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではないかということ、そして、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではないかということです。それは一言で言えば、義人は信仰によって生きるということです。キリストの血によって救われた者は、信仰によって生きなければなりません。恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者でなければならないのです。

そこで、それに続く今回の箇所には、それでは信仰とは何ですかというテーマを取り上げ、信仰によって生きた人を紹介しながら、信仰によって生きるとはどういうことなのかが述べられています。

 

Ⅰ.信仰とは(1)

 

まず、1節をご覧ください。

「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」

 

ここで著者は初めに、信仰とは何であるかを説明しています。そして、信仰とは望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものであると言っています。どういうことでしょうか?それはまず、「望んでいる事がらを保証する」ことです。「望んでいる事がら」というのは、自分が望んでいることではありません。それはこれまでも何度か出てきましたが、神ご自身、あるいはキリストご自身のこと、そして、神によってもたらされる天における報いことを意味していることがわかります。たとえば、 10章35節には、「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。」とありますが、それは信仰によって歩んだ人が天において受ける報いのことを指していることがわかります。天において受ける大きな報い、それこそ私たちの希望なのです。そしてその希望を保証するもの、それが信仰なのです。ですから、信仰とは無闇やたらに信じる盲信とは違い、確かな証拠があって、それを認識することにほかなりません。

 

この「保証する」という言葉は、「下から立たせる」という意味があります。たとえば、建物を建築する際には契約書を交わしますが、その条項など、物事を成り立たせるための根拠や実体のことです。建物はそれによって成り立っているわけです。したがって、信仰が望んでいる事がらの実体であるというのは、この天における報いは信仰をとおして成り立つものであり、信仰がなければまったく成り立たないものである、という意味です。信仰の反対語は疑いとか恐れですが、私たちが、神がおられること、また神が約束してくださっていることを、疑いながら聞いているとしたら、あるいは、そんなことを信じたら人に変に思われるのではないかという恐れを抱いているとしたら、それは私たちを支える希望ではなくなってしまいます。すなわち、天の希望は、信仰があってのみ、生きて働くものなのです。

 

次に、ここには、目に見えないものを確信させるものです、とあります。どういうことでしょうか?創造主訳聖書では、「将来に起こることを確かなものとしてつかむ手であり」と訳しています。とてもわかりやすい表現だと思います。私たちが希望として持っている事がらは、みな目に見えないものです。たとえば、神とか、キリストとか、そして天にあるものはみな、物理的に見ることはできません。それらは科学的に検証することもできません。しかし、私たちはやがてこの地上での生活を終えた後、天国へ行くことができると確信しています。それはどのようにしてかというと、信仰によってです。それをしっかりとつかむことができる手こそ信仰にほかなりません。

 

なぜそのように確信することができるのかというと、それは、私たち信じる側に何らかの根拠があるからではなく、信じている対象である神が確かな方であられるからです。科学的に物事を認識しようとする人は、目で見て、耳で聞いて、手で触れて確かめますが、信仰という目で見る人は、肉眼で見ることができないものでも、そこに確かな証拠を見ることができるのです。それは神の確かさです。それは、神が私たちを救ってくださったということによってわかります。なぜなら、神はそのためにひとり子さえも犠牲にして、本来、私たちが受けなければならない罪の身代わりとして十字架で死んでくださったほどに私たちを愛してくださった方だからです。その方が私たちのために約束してくださるのが、この聖書ですから、そこには確かな証拠があると言えるのです。将来起こることは目で見ることはできませんが、神が約束してくださったこの聖書によって確かなものとしてつかむことができるのです。

 

したがって、「信仰」とは、自分が願っているものを何回も自分に言い聞かせて、それがかなえられるようにと神に押し付けることではなく、神が言われたこと、また神が願っておられることを、そのまま自分の心に受け入れて、なんの疑いもせず、そのとおりになると確信することなのです。

 

そして、そのような信仰をもって生きるということがどれほど確かな生き方であるかは、その結果をみれば明らかです。この自然界とか、この世の現象しか信じない人は、今見ているものとか、手でさわることができるもの、あるいは耳で聞こえるものしか確かなものと思っていませんから、将来起こる事や超自然的な事については、何もわからないのです。ですから、そういう人は、いつも将来のことについて不安があり、思い煩わなければなりません。将来、何があるかなんてたれにもわからないのですから、いくら将来のことについて計画を立てても、自分にとって不都合なことはその中には入れていないので、いざそういうことが起こると、どうしていいかわからなってしまうのです。たとえば、何歳の時に大病するかとか、何歳になったら失業するかとか、何歳の時に家族の間に大きな問題が起こってくるかといったことは全くわかりません。わからないのですから、考えようがないわけです。ところが、私たちの人生には思いがけないことが起こってくるものです。

ある人が人生には三つの坂があると言いました。一つは上り坂、もう一つは下り坂、そして三つ目の坂はまさかです。そのまさかということが起こってくることがあるのです。そして、あわてふためくことになるわけです。そのような時に備えて、ある人は生命保険に入っていたり、損害保険に入っているから大丈夫だという人がいますが、そうしたものが心の問題までケアしてくれるでしょうか。

それでは、どんなことが起こっても大丈夫だという心備えはどのようにして出来るかというと、それこそ信仰によってなのです。私たちがこの地上での生活をしていく時、突然にして大きな問題が起こってくることがありますが、そのような時に、自分の知恵や力ではどうしようもないということが分かっていても、なおこの地上の何かを頼りにしていたのでは、生きる根底が揺らいでしまっている以上、どうしようもありません。ところが、信仰を持つということは、この有限の世界、相対の世界、自然界というものを越えた永遠で、無限で、絶対で、超自然の世界である神の国の確かさに立って生きるということですから、その人を生かす力は過ぎ行くこの世からではなく、動くことのない永遠の世界から来るということです。ですから、どんなことが起こっても、揺らぐことはないのです。

 

あなたはこの手を持っていますか。将来に起こることを確かなものとしてつかむ手です。どうかそのような手を持ってください。そして、どんなことがあっても揺り動かされることがない確かな人生を歩もうではありませんか。

 

Ⅱ.信仰によって称賛される(2)

 

次に2節をご覧ください。ここには、「昔の人々はこの信仰によって称賛されました。」とあります。

 

「昔の人々」とはだれのことでしょうか。これは神を信じて生きた昔の人々、つまり、旧約聖書の中で信仰に生きた人たちのことです。具体的にはこの後に列挙されています。4節にはアベルという人物のことが、5節にはエノク、7節にはノア、8節以降はアブラハム、20節にはイサク、21節ではヤコブ、23節にはモーセ、30節ではヨシュア、31節にはラハブ、そして32節には、「これ以上、何を言いましょうか。」と、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエルと続きます。これらの人々については次回から少しずつ見ていきたいと思いますが、ここではその総括として、次のように言われています。

「昔の人々はこの信仰によって称賛されました。」

 

「称賛」という言葉は、下の説明には※がついていて、直訳で「あかしを得たのです」とあります。信仰によって生きる人は、彼らがいかに生きたのかというあかしを残したということです。それほど良い評判を得ました。その良い評判とは、まず何よりも神からの良い評判であり、それはまた、人々からの良い評判でもありました。それは今日でも同じで、信仰によって生きる人は神からも、人からも良い評判を得るのです。

 

なぜ信仰に生きる人はこのような称賛を受けるのでしょうか。なぜなら、神によって生きる人は神のようになるからです。キリストにあって生きる人はキリストのようになるはずだからです。この世のように自分中心の生き方ではなく、キリストのように他の人のことを考え、自分を犠牲にしてまで他の人のために生きるので、多くの人の心を引き付けるのです。

 

ルカの福音書10章27節には、黄金律と呼ばれている聖書の言葉があります。それは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(ルカ10:27)という言葉です。

ある人がエルサレムからエリコに下る道で、強盗に襲われ、半殺しにされました。そこにたまたま、祭司がひとり、通りかかりましたが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行きました。

次にレビ人がそこを通りかかり、彼を見ましたが、同じように反対側を通り過ぎて行きました。

ところが、サマリヤ人といってそこに倒れている人と敵対関係にあった人がそこに来合わせると、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやりました。そして、翌日、彼はデナリ硬貨と言って1デナリは1日分の給料に相当しますから約5,000円くらいでしょうか、それを2枚取り出して、宿屋の主人に渡してこう言いました。「この人を介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」

さて、この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったでしょうか。その人にあわれみをかけてやった人です。

そこでイエス様はこう言われました。「あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカ10:37)

 

これが神を信じて生きる人の生き方です。キリストはそれを文字通りなされました。私たちのために自らの命を捨てて、十字架で死んでくださることによって、神の愛を明らかにしてくださいました。そのような人が人々から尊敬され、称賛を受けるのは当然のことです。

 

あの3.11の後で宮城県の沿岸地方や岩手県の三陸地方にいち早く入り復旧作業をしたのは、サマリタンパースというクリスチャンの団体でした。彼らは特に津波で流されたり、壊れた家屋を直したりするのを手伝いました。するとその地の住民はその愛の心と行動に感動し、彼らが働きを終えて帰国する時、教会にやって来て心からの感謝を表しました。それは、彼らが自分を犠牲にしても人々に仕える生き方の中に本物の愛を感じ取ったからです。キリストを信じ、キリストのように生きる人に人々の心は引き付けられ、称賛されるのです。

 

それならどうして多くの人たちがイエス様を信じないのでしょうか。そこには二つの理由が考えられます。一つは、多くの人たちは聖書の神を知らないからです。聖書の神がどんなにすばらしい方であるかがわかったら、そのような神を信じたいと思うはずです。しかし、日本人の多くは、さわらぬ神にたたりなしで、逆に宗教には関わらない方が良いと思っているために、こんなにすばらしい神様のことがわからないのです。

もう一つの理由は、イエス様を信じたらからといってすぐにキリストにある成人として成長していくかというとそうではなく、そのためには時間がかかるのです。そのためには自分をキリストに明け渡し、自分の心をキリストによって支配していただくように願い求め、それを日々の生活の中に適用していくという訓練が求められます。そのためには時間がかかるのです。しかし、どんなに時間がかかってもキリストのようになることを祈り求めるなら、必ずそのように変えられ、その信仰によって神からも、人からも、良い評判を得るようになるのです。

 

Ⅲ.神のことばを信じることから(3)

 

最後に、3節をご覧ください。

「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」

 

どういうことでしょうか?ここには、神が天地を創造された時、どのようにしてそれを成されたかが語られています。そして、それは神のことばによってです。神が「光よ。あれ。」と仰せられると、そのようになりました。この世界のすべてのものは、神の御言葉一つによって造られました。ということはどういうことかというと、この世界のすべてのものは、何も無いところから神が創造されたということです。目に見えるものはすべて、見えないものからできているのです。

 

このように神が創造者であられるということは、私たち人間を含めすべてのものが神の支え無しには生きていけない存在であるということを意味しています。このことが本当に分かれば、私たちはもっと神を恐れ、神に信頼して生きるようになるのではないでしょうか。

 

イエス様は、こう言われました。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)。神の国とその義とをまず第一に求めるなら、それに加えて、これらのもの、これらのものとは衣食住のことを指していますが、これらのものはすべて与えられるのです。

 

皆さん、私たちは優先するべきものを間違えてはいけません。何を食べるか、何を飲むか、何を着るかといったものは異邦人、つまり神を知らない人たちが切に求めているものです。しかし、天の神様は私たちがそれらのものを必要としている事をよく知っていらっしゃいます。だから神の国とその義とをまず第一に求めなければならないのです。イエス様は、その順序を間違えてはならないと教えて下さったのです。

 

もしかすると私たちは、この神の国の一員とされているということの意義をあまり深く認識していないかもしれません。「ああ、救われて良かった。天国に行けるようになった。」とそれを将来のことに限定してしまい、現在この地上にあっても神の恵みと力に与れるようにして下さっているということにそれほど気付いていないのかもしれません。しかし、神の国はあなたがたのただ中に来ました。私たちはこの神のご支配の中に生かされているのです。それはものすごい恵みであり、祝福なのです。しかし、そのことを知らなければ、何も出来ません。

 

アメリカでの話ですが、ある農家の方がいまして、土地がやせていて少しも儲からないので、ある日「あなたの土地を掘削させて下さい。」という人が訪問した時、「あそこは肥料をやっても何も育たないやせ衰えた土地だからどうぞ勝手にやって下さい」と言いました。日も経ずしてそこからは巨大な油が出てきたのです。一日にして、彼は億万長者になってしまいました。ずっと前からその祝福は与えられていたのですが、彼らはそれを知らなかったのです。だから貧しい生活に甘んじなければなりませんでした。

 

もしかしたら私たちもそのようなことがあるのではないでしょうか。神の国のすばらしい恵みと祝福を受けていてもそれを小さく考えてしまい、限定してしまっている為に、その恵みを十分に味わえないでいるということがあるのではないでしょうか。折角神様を知ったのですから、この神の国の豊かさに与っていく者でありたいと思います。本当に多くの方が悩み苦しみの中にあってもなお喜ぶ事が出来るそういうクリスチャンにならせていただく事が大切なのではないでしょうか。「どうしてクリスチャンの人たちってあのように平安でいられるのでしょうね?」と言われる者にならせていただきたいですね。

 

それは、神の国とその義とを第一に求めることから始まります。その順序を間違えてはなりません。もし私たちが心から神様にお従いするなら、そこはまさしく神の国となるのです。信じるという事はそこに従うという意味も含まれているのです。神様に心から「お従いします」という心の中において歩む人たちの中には神の国がそこに現われていきます。そして、そこには色々な形で神様の奇蹟が現れてくるのです。

 

キリストの弟子であったシモン・ペテロはどうだったでしょうか。彼はガリラヤ湖の漁師でした。ですから、ガリラヤ湖の事でしたら何でも知っていました。どこが浅くて、どこが深いか、いつ、どこに網を下ろせば魚をとることができるか。でも彼らは一晩中網を下ろしても一匹の魚も取れませんでした。その時イエス様が、「船の右側に網を下ろしてみなさい。」と言われました。皆さんならどうしますか?イエス様とはいえ、漁に関してはペテロの方がプロです。でもペテロはその時、「夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばとおりに、網をおろしてみましょう。」(ルカ5:5:)と言って網をおろしました。するとたくさんの魚が入り、網が破れそうになっただけでなく、二そうとも沈みそうになりました。これ神の御力です。

 

「また神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」(エペソ1章19節)

 

信じる者に働く神のすぐれた力が、あなたの内にも宿っています。イエス様を信じたことで神の国があなたのところにも来たのですから、あなたにもこの力が宿っているのです。問題はあなたがそのことを知って、信じるかどうかです。神様の御言葉に信頼し、その御言葉に従うかどうかという事なのです。

 

信仰はこの神の言葉を信じることから始まります。あなたが信仰に立つなら、神様はそこに御業をなされます。信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。どうか、将来起こることをつかむ手をもって神の約束をしっかりと握りしめてください。

申命記18章

きょうは、申命記18章から学びます。まず1節から8節までをご覧ください。

 

1.主ご自身が、彼らの相続地(1-8)

 

「レビ人の祭司たち、レビ部族全部は、イスラエルといっしょに、相続地の割り当てを受けてはならない。彼らは主への火によるささげ物を、自分への割り当て分として、食べていかなければならない。彼らは、その兄弟たちの部族の中で相続地を持ってはならない。主が約束されたとおり、主ご自身が、彼らの相続地である。祭司たちが民から、牛でも羊でも、いけにえをささげる者から、受けるべきものは次のとおりである。その人は、肩と両方の頬と胃とを祭司に与える。あなたの穀物や、新しいぶどう酒や、油などの初物、羊の毛の初物も彼に与えなければならない。彼とその子孫が、いつまでも、主の御名によって奉仕に立つために、あなたの神、主が、あなたの全部族の中から、彼を選ばれたのである。もし、ひとりのレビ人が、自分の住んでいたイスラエルのうちのどの町囲みのうちからでも出て、主の選ぶ場所に行きたいなら、望むままに行くことができる。彼は、その所で主の前に仕えている自分の同族レビ人と全く同じように、彼の神、主の御名によって奉仕することができる。彼の分け前は、相続財産を売った分は別として、彼らが食べる分け前と同じである。」

 

ここには、イスラエルの民が約束の地に着いてから、祭司たちの生活に対してどのように責任を果たさなければならないか、そして、祭司とレビ族は、イスラエルといっしょに相続地の割り当てを受けてはならない、とあります。彼らは、その兄弟たちの部族の中で相続地を持ってはなりませんでした。なぜでしょうか。 それは主が約束されたとおり、主ご自身が、彼らの相続地であったからです。これはどういうことでしょうか。

 

詩篇16章5節と6節のところで、ダビデは「主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。 測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。 」と告白しています。信仰者にとっての最高の分け前は、この地上的な分け前ではなく、永遠の分け前である主ご自身です。その神とのかかわりの中でいのちを掘り起こすべく務めがゆだねられているということはすばらしい特権なのです。そうした彼らの生活がちゃんと守られ支えられるように、イスラエルのそれぞれの部族から十分の一のささげものを受けて養われていました。さらに祭司はレビ人によってささげられた十分の一のものをもって養われていたのです。神の国とその義を第一にするなら、それに加えて、すべてのものが与えられます。

 

そればかりではありません。3節を見ると、祭司は、いけにえの肉の上質の部分、またぶどう酒や油の初物、羊の毛の初物など、上等な部分が割り当てられたことがわかります。最も良いものを受けたのです。

 

いったいなぜ彼らはそれだけ手厚く支えられたのでしょうか。それは、彼とその子孫が、いつまでも主の御名によって奉仕に立つことができるためでした。つまり、彼らの奉仕によって神のことばと福音宣教の働きが続けられていくためです。神のことばこそが最高の宝であり、このみことばに仕えるために全部族が一体となって彼らの生活を支えたのです。

 

2.忌みきらうべきならわしをまねてはならない(9-13)

 

次に9節から13節までをご覧ください。

 

「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地にはいったとき、あなたはその異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねてはならない。あなたのうちに自分の息子、娘に火の中を通らせる者があってはならない。占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならない。これらのことを行なう者はみな、主が忌みきらわれるからである。これらの忌みきらうべきことのために、あなたの神、主は、あなたの前から、彼らを追い払われる。あなたは、あなたの神、主に対して全き者でなければならない。」

 

イスラエルの民はこれから約束の地に入って行きますが、彼らがその地に入って行くとき、その地の住民の忌みきらうべきならわしをまねてはいけません。そこにはもう、これまでイスラエルを導いてきたモーセはいません。彼らが拠り頼むべき神のことばを聞くことができなくなるときそれをどのようにして補うのかというと、その地の住民が拠り所としている占い師やまじない、呪術に伺いを立てることによってです。それは私たちも同じで、私たちも霊的にダウンしていると、神のことばではなく、人のことばや人のアドバイス、人の考え、また占いのようなものに頼りたくなってしまいます。けれども、そうであってはいけません、主に対して全き者でなければならないのです。なぜでしょうか。それは、これらのことを行う者をみな、主が忌みきらわれるからです。私たちは、私たちの中からこれらのものを追い払わなければなりません。

 

3.私のようなひとりの預言者(14-22)

 

次に14節から22節をご覧ください。前の箇所では、彼らが約束の地に入って行くとき、その地の住民たちの忌みきらうべきならわしをまねてはならないと言いましたが、ここには、それではモーセがいなくなってしまたらどのようにして神のことばを聞くことができるかが書かれてあります。それは15節にあるように、「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる」ので、彼に聞き従わなければならないということです。「私のようなひとりの預言者」とは、いったいだれのことでしょうか。

 

イスラエルの歴史においてモーセの次のイスラエルの指導者、モーセの後継者はヨシュアでした。神はヨシュアをとおしてご自身のみことばを語り、イスラエルの民を導かれました。そしてその後士師たちの時代にも預言者としての働きをした者があり、最後の士師であったサムエルの時代には預言者学校のようなものがありました。そして王国時代にも預言者たちが存在し、その活動を活発化していきます。その代表がエリヤとエリシャでした。王も祭司もだれも神の律法を教えない暗黒の中で、神はエリヤとエリシャを立てて、神のことばを人々に語らせたのです。そうすることで、神に背くイスラエルを霊的に改革し、彼らを滅びから救おうとされたのです。

 

ですから、モーセのようなひとりの預言者とは、歴史的に言えばモーセの後継者であるヨシュアのことのように考えられますが、ここではヨシュア以上の、いや、ヨシュアが指し示していた完全な預言者のこと、そうです、それはイエス・キリストのことでした。というのは、確かにヨシュアはモーセの後継者でしたが、モーセのような預言者ではなかったからです。ヨシュアは他の預言者同様、夢や幻で神のみこころを知りましたが、モーセはそれとは違い直接神と語りました。あるとき、モーセの姉のミリヤムが彼をねたんで彼を訴えましたが、そのとき主は彼女とアロンとモーセを、ご自分の前に連れて来られて、こう言われました。

「わたしのことばを聞け。もし、あなたがたのひとりが預言者であるなら、主であるわたしは、幻の中でその者にわたしを知らせ、夢の中でその者に語る。しかしわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者である。彼とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、主の姿を仰ぎ見ている。なぜ、あなたがたは、わたしのしもべモーセを恐れずに非難するのか。」(民数12:6-8)

ですから、モーセのような預言者はほかにはいないのです。そのような預言者とは、究極の預言者であり、預言者の完成である第二のモーセとしてのイエス・キリストを指し示していたのです。

 

このモーセのようなひとりの預言者は、後の時代、特に自分たちの背信によって自分たちが滅びた後には、メシヤ的大預言者として考えられるようになりました。ですから、人々は自分たちを滅びから救い出してくれるひとりの預言者の劇的な出現を待ち望むようになっていたのです。それでイエス様が来られたときに、しばしば「あの預言者」と呼ばれるようになったのです。(ヨハネ1:21,6:14,7:40)つまりイエス・キリストこそ預言者の中の真の預言者であり、預言者たちが預言した「預言」そのもの、すなわち、神のことばそのものであったのです。

 

ヨハネによる福音書1章1節には、「はじめにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」と証言されています。イエスこそ神のことばであり、神そのものだったのです。また、ヨハネ1章17節には、「というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」とあります。モーセが律法を与えましたが、神の恵みとまことはイエス・キリストによって実現しました。イエス様は神を見たとか、神からことばを受けたというだけでなく、神そのものであり、神のことばをもっておられた方だったのです。イエスを見た者は父を見たのです。(ヨハネ14:9)私は今、多くのことばをもって神を説明していますが、でも、直接、神が来られたら、そんな無駄なことは必要ありません。神が直接語り、見せて、教えてくださるからです。それが神の子イエス・キリストだったのです。

 

モーセの時代にはモーセという預言者が立てられ、その預言者のことばを通して人々は神のことばを聞きました。それは、神がシナイ山に現れた時のように、雷鳴とともに神が現れたら、人々は恐怖に打たれて神のことばを聞くことができなかったからです。それで神は預言者なる人物を立ててご自身のことばを語らせましたが、その立てられた人が必ずしも忠実にみことばを語ったかというとそうではなく、その結果、滅びを招いてしまうことがありました。ですから、神は最終的に直接この世に来られ、私たちの間に住まわれて、ご自身のことばを語ってくださいました。私たちはこの生ける神のみことばであられるイエス様によっていのちを得ることができます。だからこの方のことばを聞かなければならないのです。

 

ここには、神に遣わされていないのに、自分が預言者だと自称している者も出る、とあります。そのような預言者は死ななければなりません。いったいどうやってそれを見分けるかができるのでしょうか。それは、その預言者が主の名によって語ってもそのことが起こらず実現しないなら、それは主が語られたことばではないということです。

 

その点、イエス様のことばはことごとく成就しました。イエス様が言われたことばは、何一つ実現しないで、地面に落ちることはありませんでした。このことばこそ、私たちが聞かなければならないことばなのです。モーセのような預言者、それは来るべきメシヤ、イエス・キリストことだったのです。

 

申命記17章

 きょうは、申命記17章から学びます。これは1618節からの続きです。1618節には、「あなたの神、主があなたに与えようとしておられるあなたのすべての町囲みのうちに、あなたの部族ごとに、さばきつかさと、つかさたちを任命しなければならない。彼らは正しいさばきをもって民をさばかなければならない。」とありました。これは、イスラエルの民が約束の地に入った後に、神に対して、また人に対して罪を犯した時、どのようにその人をさばかなければならないかということです。そして、そのような時にはその町囲みにさばきつかさを置き、正しくさばかなければなりません。わいろをもらったり、人をかたよってみたりして、さばきをまげてはならないのです。それが神に属する聖なる民としての歩みなのであります。そのことが17章においても続けて語られています。

 

 1.主へのいけにえ(1

 

 まず1節をご覧ください。ここには、「悪性の欠陥のある牛や羊を、あなたの神、主にいけにえとしてささげてはならない。それは、あなたの神、主の忌みきらわれるものだからである。」とあります。これはどういうことかというと、1621節と22節で語られたことを受けてのことです。そこには主の祭壇について語られていました。主の祭壇のそばにはどんな偶像も立ててもならないということでした。また、その主の祭壇にささげるいけにえは、悪性の欠陥のある牛や羊をささげてはいけないということです。欠陥品や残り物を主にささげてはいけないということです。主へのいけにえは完全で、最高のものでなければなりません。なぜなら、主は私たちに最高で、完全ないけにえイエス・キリストを与えてくださったからです。最高の愛に対する最高の応答は、心からの最高のいけにえをささげることによってなされなければならないのです。

 

2.二人か三人の証言によって(2-7

 

 次に2節から7節までをご覧ください。ここには、イスラエル中で、男であれ、女であれ、主の前に悪を行って、主の契約を破るような者がいた場合、どうしたらよいかが教えられています。そして、そのような者がいれば、その悪事を行った男または女を町の広場に連れ出して、彼らを石で打たなければなりません。ここでの悪事は、具体的には偶像礼拝の罪です。3節を見るとわかります。主以外のほかの神々に仕え、また、日や月や天の万象などを拝む者があったら、石打ちにしなければなりませんでした。

 

 ちょっと厳しすぎるのではないでしょうか。たとえそのようなことを行ったとしても、悔い改めるように何度か勧告し、少し様子を見てからでいいのではないですか。それなのに、そういう人がいると聞いたら有無を言わさずに石で打つというのは無情な感じがします。いったいなぜ主はそのように命じておられるのでしょうか。それは7節にあるように、彼らのうちから悪を除き去るためです。もしそのようにしなければ、それがイスラエルの民全体に広がっていってしまうからです。パウロはそれをパン種にたとえ、Ⅰコリント5913節で、不品行な者たちとは交際しないように、そのような者を教会から除きなさいと命じています。教会だから何でも許されるというのではありません。兄弟と呼ばれる者で、不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたら、そのような者とは付き合ってはいけないし、一緒に食事をしてもいけないのです。私たちはパン種の入らない、純粋で真実なパンで、祭りをしなければならないのです。(Ⅰコリント5:8

 

 しかし、その人が罪を行ったからといってすぐに取り除こうとしてはいけません。6節、7節には、「ふたりの証人または三人の証人の証言によって、死刑に処せられなければならない。ひとりの証言で死刑にしてはならない。」とあります。これはどういうことでしょうか。これはよく確かめてということです。また、その人が悔い改めるように、その手順を踏んでということです。

 

 このことについて主イエスはマタイ18章で、「もし、あなたの兄弟が罪を犯したら・・」どうしたらよいかについてこう語っています。(マタイ18:15-20)もし、兄弟が罪を犯したら、その兄弟のところに行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れなかったら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。それでもなお、いうことを聞き入れなければ、教会に告げなさい。それでも聞き入れなければ、その人を異邦人か取税人のように扱いなさい。・・・と。なぜなら、教会にはキリストがおられるからです。その方のいうことを聞かないというのであれば、それは聖霊を拒むことであり、それは決して許されないことだからです。

 

 ですから、ふたりか三人の証言によってというのは、こうした手順を踏んでということであって、よく調べ、確認して、その人が悔い改めるようにと何度も勧告してのことです。そして、その目的はその罪を犯した兄弟をさばくことではなく、兄弟を得るためです。それでも悔い改めなければ、そのような者を取り除かなければなりません。悪を除き去らなければならないのです。

 

 3.主の選ぶ場所で(8-13

 

 次に8節から13節をご覧ください。ここには、「もし、町囲みのうちで争い事が起こり、それが流血事件、権利の訴訟、暴力事件で、あなたのさばきかねるものであれば、」どうしたらよいかが教えられています。そのような時には、「あなたの神、主の選ぶ場所に上り、レビ人の祭司たち、あるいは、その時に立てられているさばきつかさのもとに行き、尋ね」なければなりません。彼らは、あなたに判決のことばを告げてくれるからです。主の選ぶ場所とは、主を礼拝するために祭壇が置かれていたところです。それは主の幕屋なり、神殿がある所です。そこには祭司やさばきつかさがいて、正しい判決のことばを告げてくれるのです。

 

祭司やさばきつかさは、主によって立てられた人であり、神に仕えている人です。したがって、彼らが下した判決には、従わなければいけません。もし聞き従わず、不遜なふるまいをするなら、その人は死ななければなりません。そうすることによって、イスラエルから悪を除き去ることができました。そのようにしてイスラエルの民が神を恐れ、不遜なふるまいをすることがなくなったからです。

 

今の時代、この役割をゆだねられているのは私たち一人一人のクリスチャンであり、キリストの教会です。なぜなら、私たちはみな神に対する祭司とされたからです。ですから、私たちは教会で起こっているさまざまな事柄について、祈りとみことばによって正しく判断し、神のみこころに従って正しくさばかなければなりません。そうであれば、なおさらのこと、神のみこころをよく知るために聖書をよく学び、聖書から検証する必要があります。パウロはテサロニケの人々に、「すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。」(1テサロニケ5:21)と言いました。

 

4.イスラエルの王(14-20

 

 次に14節から20節までをご覧ください。14節と15節には、「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地にはいって行って、それを占領し、そこに住むようになったとき、あなたが、「回りのすべての国々と同じく、私も自分の上に王を立てたい。と言うなら、あなたの神、主の選ぶ者を、必ず、あなたの上に王として立てなければならない。あなたの同胞の中から、あなたの上に王を立てなければならない。同胞でない外国の人を、あなたの上に立てることはできない。」とあります。

 

モーセは、イスラエルが、将来、自分たちの上に王を立たせたいと願うことを予見していました。Ⅰサムエル86節のところに、イスラエルの民がサムエルのところにやってきて、「私たちをさばく王を立ててください。」と言ったことが記されています。それまでイスラエルは、預言者から語られる神のことばと、祭司の務めによって与えられる、主のご臨在によって支配されていました。つまり、神が彼らの王となっている神政政治だったのです。しかし、周りの国々と同じように、自分たちを統治する王が欲しいと願い出るようになると預言していたのです。このことは神のみこころではありませんでしたが、神はイスラエルの上に王を立てることを許されました。

 

しかし、そのような時にはどうすべきかがここで語られています。一つのことは、同胞の中から王を立てなければならないということです。同胞でない外国人を、彼らの上に立てることは許されませんでした。

 

第二に、やがて立てられる王は、自分のために馬をふやしてはなりませんでした。どういうことでしょうか。馬をふやすためだといって民をエジプトに帰らせてはならなかったのです。これは軍事力を持ってはいけないということです。当時の世界では、軍事力として馬が用いられました。ですから、多くの馬を持つ者は勝利することができました。その馬を持ってはならないというのは、そうした人間的な力ではなく、神ご自身に信頼するようにという意味です。

 

第三に、多くの妻を持ってはなりませんでした。なぜなら、そうした妻の存在が偶像へと陥らせ、神から引き離されることになるからです。

 

そして第四のことは、自分のために金銀をふやしてはならないということです。なぜなら、多くの金銀を持つことによって心が高ぶり、自分を神だと錯覚するようになってしまうからです。その結果、神を神とせず、神に敵対することになってしまい、神のさばきを受けることになってしまうからです。

 

イスラエルの歴史の中でもとても豊かな王であったのはソロモンです。しかし、彼は神のあわれみによって王になったにもかかわらずそのことを忘れ、神の命令に聞き従わずに暴走し、最後は王国が分裂する原因を作ってしまいました。Ⅰ列王記1014節には、「一年間にソロモンのところにはいって来た金の重さは、金の目方で六百六十六タラントであった。」とあります。それをソロモンが住む宮殿に使い、宮殿を金でいっぱいにしました。

そして同じくⅠ列王の1026節には、「ソロモンは戦車と騎兵を集めたが、戦車一千四百台、騎兵一万二千人が彼のもとに集まった。そこで、彼はこれらを戦車の町々に配置し、また、エルサレムの王のもとにも置いた。」とあります。また、同じⅠ列王記1029節には、「エジプトから買い上げられ、輸入された戦車は銀六百、馬は銀百五十であった。同様に、ヘテ人のすべての王も、アラムの王たちも、彼らの仲買で輸入した。」とあります。

さらに、Ⅰ列王記11章に入ると、彼は多くの妻も持ちました。「ソロモン王は、パロの娘のほかに多くの外国の女、すなわちモアブ人の女、アモン人の女、エドム人の女、シドン人の女、ヘテ人の女を愛した。この女たちは、主がかつてイスラエル人に、『あなたがたは彼らの中にはいって行ってはならない。彼らをもあなたがたの中に入れてはならない。さもないと、彼らは必ずあなたがたの心を転じて彼らの神々に従わせる。』と言われたその国々の者であった。それなのに、ソロモンは彼女たちを愛して、離れなかった。彼には七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがあった。その妻たちが彼の心を転じた。」(11:1-3

ソロモンはここに書かれているように、多くの馬を持ってはならい、多くの妻を持ってはならない、そして多くの金銀を持ってはならないという神の命令に従わなかったので、彼自身が高ぶり、ほかの神々に心が寄せてしまい、神のさばきを招いてしまいました。

 

18節から20節までをご覧ください。ここには、逆に、王としてイスラエルの上に立てられた者がしなければならないことが記されてあります。それは、レビ人の祭司たちの前のものから、自分のために、このみおしえを書き写して、自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない、ということです。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学ぶためです。それは、王の心が自分の同胞の上に高ぶることがないため、また神の命令から、右にも左にもそれることがなく、彼とその子孫とがイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができるためです。

 

イスラエルの上に立つ王は、神のおきての中に身を置き、神のしもべとして生きることによって、初めてイスラエルを治めることができました。だから、祭司たちから、主のみ教えを書き写し、それを読まなければならなかったのです。神のみおしえから学び、それに従って歩まなければなりませんでした。このように、イスラエルは民であっても、人々を治め、またさばく王であっても、神の律法によって、正しい判断を下さなければなりませんでした。イスラエルの民はどんなものよりも、神のことばを第一として、神のことばによってさばかれていく人々でなければならなかったのです。

 

それは私たちも同じです。私たちクリスチャンも信徒であっても、牧師であっても、あるいはこの世において上に立つ者であっても、だれであっても、神のことばの下に自分を置き、神のみことばに従って歩み、神のみことばによって物事を判断していく習慣を身につけなければならないのです。

申命記16章

今日は申命記16章から学びたいと思います。

 

1.過越しの祭り(1-8

 

まず1節から8節までをご覧ください。1節には、「アビブの月を守り、あなたの神、主に過越のいけにえをささげなさい。アビブの月に、あなたの神、主が、夜のうちに、エジプトからあなたを連れ出されたからである。主が御名を住まわせるために選ぶ場所で、羊と牛を過越のいけにえとしてあなたの神、主にささげなさい。」とあります。

 

ここには「アビブの月を守り」とあります。アビブの月とはユダヤ人の暦で、正月にあたる「ニサンの月」のことです。この月は大麦の収穫の始まりを祝う月でもありますが、もっと重要なのは、この月が主に過越しのいけにえをささげる月であるということです。それは彼らが約束の地に入って行っても守らなければならない祭りでした。それは、主が、夜のうちに、エジプトから彼らを連れ出されたからです。そうです、過越しの祭りとはイスラエルがエジプトの奴隷であったところから解放されたことを記念して行うものです。彼らは430年もの間エジプトの奴隷として仕えていましたが、主は彼らの叫びを聞かれ、モーセという人物を立てて、そこから救い出されました。それは一方的な神のみわざでした。そのことを覚えるためにこの祭りを世々限りなく行うようにと命じられているのです。

 

その日は、主が御名を住まわせる場所で、羊と牛を過越しのいけにえとして、主にささげなければなりませんでした。「主が御名を住まわせる場所」とは、エルサレムの神殿のことを指します。イスラエルの民はどこに住んでいても、成人男子は皆このエルサレムの神殿に集まり、そこで過越しのいけにえをささげなければなりませんでした。それといっしょに、パン種の入っていないパンを食べなければなりませんでした。それは、彼らが急いでエジプトの国を出たからです。それは、過越しのいけにえをささげてから七日間続きました。このため、種なしのパンの祝いと過越の祭りはしばしば一緒に祝われました。そのようにして、彼らはエジプトの国から出た日のことを、一生の間、覚えていなければなりませんでした。

 

この過越しの祭りと種なしパンの祭りは何を表していたのでしょうか。それは罪のないイエス・キリストが十字架で死なれたことを指し示していました。神の小羊であられたキリストが、過越しの日にほふられたことによって私たちの罪が贖われました。ですから、この過越しの祭りは、キリストが十字架で死なれたことによって成就したのです。クリスチャンはイスラエルに過越しのいけにえと種なしパンの祭りを行うように命じられているように、キリストが私たちの罪のために十字架でかかって死んでくださったことを覚えなければなりません。

主の晩餐はそのために行われるものです。キリストは最後の晩餐のとき、「これは、あなたがたのためのわたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」と言われました。また、「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」とも言われました。それは御子イエスの贖いを予め表していたものだったのです。ですから、キリストが来られ罪の贖いを成し遂げられた今、私たちがしなければならないことは、私たちのためにご自身をささげられたキリストの十字架の贖いを覚えることです。

 

そして、この過越しの祭りと種なしパンの祭りとともに、初穂の祭りも行われました。それは大麦の収穫を祝って行われるものですが、キリストの復活を指し示すものでした。キリストは私たちの罪のために十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたことによって、私たちの罪の贖いを成し遂げてくださったのです。

 

2.七週の祭り(9-12

 

次に、9節から12節までをご覧ください。ここには、七週の祭りについて語られています。9節と10節にはこうあります。

「七週間をかぞえなければならない。かまを立穂に入れ始める時から、七週間を数え初めなければならない。あなたの神、主のために七週の祭りを行い、あなたの神、主が賜る祝福に応じ、進んでささげるささげ物をあなたの手でささげなさい。」

 

この七週の祭りについてはレビ記2315-22節に詳しく記されてありますが、これは初穂の祭りから50日目に小麦の収穫を祝って行われる祭りです。それは歴史的にはイスラエルがシナイ山で律法が与えられた日に対応しています。出エジプト19:1-13には、「エジプトの地を出たイスラエル人は、第三の月の新月のその日に、シナイの荒野にはいった。 ・・・」とあります。エジプトを出て50日目に、主はシナイ山で彼らと契約を結ばれ、律法を与えました。

 

それは使徒の働き2章を見るとわかりますが、ペンテコステでその成就を見ることができます。それは五旬節の日に起こった出来事でした。そしてこの日に、聖霊が弟子たちの上に降ったのです。このことによって教会が誕生しました。ですから、この七週の祭りは弟子たちの上に聖霊が降り教会が誕生したことによって成就したのです。ですから、これは教会が聖霊の降臨に感謝し、聖霊に満たされ、聖霊に導かれて生きることの重要性を覚える日なのです。

 

3.仮庵の祭り(13-17

 

そして次に、13節から17節までをご覧ください。13節、「あなたの打ち場とあなたの酒ぶねから、取り入れが済んだとき、七日間、仮庵の祭りをしなければならない。」

 

ここには、仮庵の祭りについて教えられています。これはあなたの打ち場と酒ぶねから、取り入れが済んだとき、とあるように、収穫が終わる10月ごろに行われる祭りです。秋の祭りですね。この祭りも、同じように選ばれた場所、すなわち、エルサレムの神の宮に行って行われました。そして、家族や、レビ人、在留異国人、みなしご、やもめ、すべての人がとも喜ぶのです。これは、イスラエルの民が荒野で生活し、仮庵をもって過ごしていたことを思い出す祭りです。まず1日に「ラッパを吹き鳴らす祭り」が行われ、続いて10日に「大贖罪日」があり、そして、14日の日没から七日間、仮庵の祭りが行われました。そして、その8日目は「大いなる日」で、「シムハット・トーラー(トーラー歓喜祭)」と呼ばれる祭りが行われます。ちなみに、この最後の喜びの日に歌われたのがマイム・マイムです。ですから仮庵の゜祭りは、このラッパを吹きならす祭り、大贖罪日、仮庵の祭りの三つの祭りの最後を締めくくる祭りだったのです。

 

旧約聖書では、仮庵の祭りについてレビ記2334-44節に詳しく書かれています。それは、イスラエルがエジプトを出た後、40年間荒野でテント暮らしをしていたことを記念する祭りで、人は肉体という「仮庵」に7090年間住むだけの存在であり、主の恵みなしには生きていくことはできないということを覚える一週間としてお祝いしました。

 

しかし、そればかりではなく、この仮庵の祭りは、キリストが肉体を取って誕生してくださったことによってその成就の一部を見ることができます。ヨハネによる福音書114節には、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」とありますが、この「住まわれた」というのは、「仮庵となられた」という言葉です。神はメシアであるイエスを地上に送って下さる事によって、神と人との和解をもたらしてくださいました。ですから、仮庵の祭りは和解の祭りでもあります。

 

しかし、そればかりでなく、これは来るべき千年王国を表すものでもありました。ヨハネの黙示録213節には 「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らと共に住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、とあります。この「神の幕屋」とは仮庵のことです。終わりの時、艱難時代の後にキリストが統治される千年王国が来ますが、その時、全世界の人々がこの仮庵の祭りを祝うために、エルサレムに集まってくるのです。

 

ゼカリヤ書1416節には、「エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上ってくる。」とあります。これは144節を見るとわかりますが、主がエルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つときに起こることです。これは主の地上再臨を預言しているもので、その後にこの仮庵の祭りを祝うために集まってくるわけですから、これは、その後にもたらされる千年王国を指し示しているのです。つまり、仮庵の祭りは、主の再臨を指し示す重要な鍵となっているのです。それは、この最初の日にラッパを吹きならす祭りが行われることからもわかります。このラッパの音とは何かというと、世の終わりを告げるラッパの音です。キリストが再臨することを告げるラッパの音なのです。これはⅠテサロニケ4章に書いてあります。これは世の終わりに起こることなのです。

 

そして、大贖罪の日がやってきます。これはユダヤ人が自分たちが十字架につけて殺したイエスをメシヤとして信じ、悔い改める日のことです。そのとき主にある者は死んだ者も、生きている者もたちまちのうちに空中に引き上げられます。これを空中携挙と言います。そのときこの地上は七年間の艱難時代を迎えます。後半の3年半は特に激しい艱難が続くので大患難時代ともいわれますが、この艱難の中でユダヤ人たちは胸をたたいて自分たちの罪を悲しみ、悔い改めるわけです。

 

そして、その七年間の艱難時代が終わるとき、主は地上に再臨されオリーブ山に立たれるのです。そして、千年間続く平和な時代がやってきます。これが主の救いのみわざの完成でもあります。それを祝うのが仮庵の祭りであり、救いの完成のクライマックスともいえるでしょう。

 

ヨハネの福音書737,38節のところでイエス様は、「さて、祭りの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」と言われましたが、この祭りこそ仮庵の祭りであり、その祭りの大いなる日が「シムハット・トーラー(トーラー歓喜祭)」と呼ばれる祭りで、その時にイエス様はこのように言われたのです。それは後になってから受ける御霊のことを言われたのですが、それがこの千年王国で完成するのです。

 

このように見てくると、私たちが今置かれている時代がどのような時代なのかが見えてきます。すなわち、キリストによる罪の贖いが成し遂げられて、その主の再臨が限りなく近い時代であるということです。私たちはそのような時代に生かされているのです。であれば、このような時代に生かされている私たちは、キリストの十字架を通して成し遂げられた神の救いの恵みに感謝し、神の聖霊に導かれて生きること、そして、やがて来られるキリストの再臨を待ち望むということが、その生き方の特質でなければなりません。私たちには常に肉との闘いがありますが、そうした肉の欲求によってではなく、またそうした知恵や力、思いによってではなく、御霊に導かれて進まなければならないのです。最近の傾向としてはこの世が複雑になってくることに比例してどうしてもクリスチャンも自分の思いや考えに支配されやすい傾向があるのではないでしょうか。神のみことばが何と言っているか、神の御霊がどのように導いているかよりも、自分はどう思うのか、どう感じているのかが行動の基準になりやすいということです。また、主の再臨を待ち望む必要があります。主の再臨を待ち望むよりも今さえ良ければよいというような、目先のことに振り回されてしまうと、信仰から離れてしまうことになってしまいます。。

 

私たちはいつも自分ではなく神のみこころに従い、自分を捨て、自分の十字架を負って、主に従う者でなければなりません。そのために必要なのがこの三つのことなのです。つまり、十字架と聖霊と再臨です。これは過去において主が私たちにどんなことをしてくださったのか、そして、今、主はどのように導いておられるのか、そして、将来において、どのような祝福をもたらしてくださるのかをしっかりと覚え、この神のみわざにとどまり続けなさいということでもあります。これが神によって罪贖われた神の民、聖なる国民のしるしでもあるのです。イスラエルが年に三度、過越しの祭りと、七週の祭り、仮庵の祭りのときに、主の選ぶ場所で、御前に出たように、私たちにもそれが求められているのです。

 

4.公正なさばき(18-22

 

最後に18節から22節までを見て終わりたいと思います。「あなたの神、主があなたに与えようとしておられるあなたのすべての町囲みのうちに、あなたの部族ごとに、さばきつかさと、つかさたちを任命しなければならない。彼らは正しいさばきをもって民をさばかなければならない。あなたはさばきを曲げてはならない。人をかたよって見てはならない。わいろを取ってはならない。わいろは知恵のある者の目をくらませ、正しい人の言い分をゆがめるからである。正義を、ただ正義を追い求めなければならない。そうすれば、あなたは生き、あなたの神、主が与えようとしておられる地を、自分の所有とすることができる。」

 

ここには、それぞれの部族においてさばきつかさとつかさたちを任命し、正しいさばきを行うようにと命じられています。当たり前のことなのに、いったいなぜわざわざここで命じられているのでしょうか。それは神が義なる方なので、彼らもまた正義を行うことが求められているのです。それが損なわれるような時があります。それはわいろを受ける時です。わいろは知恵のある人を盲目にし、正しい人の言い分をゆがめてしまう力があります。人をさばくときには、その人が貧しいとか、富んでいるとか、そのような見かけによって判断してはなりません。その人が人生でどんなに成功したかなどということは全く関係ありません。ただ神は何と言っているのか、それはどういう意味なのか、それをどのように適用していかなければならないのかということを考えて、正しく判断しなければなりません。しかし、わいろを受け取るとその判断を狂わしてしまうのです。

 

21,22節には、「あなたが築く、あなたの神、主の祭壇のそばに、どんな木のアシェラ像をも立ててはならない。あなたは、あなたの神、主の憎む石の柱を立ててはならない」とあります。なぜでしょうか。もちろん、神の戒めにそうあるからです。十戒の第一は、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」と書いてあります。そして、この申命記に、この戒めの中心となることが教えられていました。それは、「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたに神、主を愛しなさい。」(6:4-5)ということでした。もし主の祭壇のそばに、アシェラ像を始めとした偶像を置くことがあるとしたら、この神のみこころから離れてしまうことになるからです。私たちは離れやすいのです。まさに迷える子羊にすぎません。主を信じていますと言いながら、こうしたアシェラ像を平気でおいていることにも気づかないのです。そうなると私たちの信仰の中心となる軸を失うことになってしまいます。そういうことがないように、神以外のものを主の祭壇のそばに近づけてはならないのです。私たちは共に集まって主を礼拝し、キリストの十字架を仰いで、主に罪赦されたことを覚え、互いに赦し合い、愛し合わなければなりません。また、聖霊に満たされ、主の再臨を待ち望む、これらはすべて、主を神としてあがめている、その中心があるからなのです。私たちはこの信仰の中心軸を失うことなく、いつも主のみこころにかなった者となるように求めていきたいと思います。

 

ヘブル10章26~39節 「信仰によって生きる」

きょうは、へブル人への手紙10章26節から39節までの箇所から、「信仰によって生きる」というタイトルでお話します。このヘブル人への手紙の著者は、前回の10章19節から25節までのところで、これまで語ってきたことを受けて三つのことを勧めました。すなわち、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではないかということ、また、約束された方は真実な方ですから、動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではないかということ、そして、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではないかということです。それは一言でいうなら、信仰によって生きるということです。先ほど読んでいただいたみことばに「義人は信仰によって生きる」(38節)とありますが、イエスの血によって救われた者は、信仰によって生きることが求められています。きょうは、このことについて三つのことをお話します。

 

Ⅰ.主がその民をさばかれる(26-31)

 

まず26節から31節までをご覧ください。26節には、「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。」とあります。どういうことでしょうか。現代訳聖書には、「もし私たちが罪の赦しの福音を知ってから、故意に罪を犯し続けるなら、罪のためのいけにえはもはや残されていない」と訳されてあります。つまり、もし私たちがイエス様を信じた後で、故意に罪を犯し続けるようなことがあるなら、キリストの救いに預かることはできないということです。

 

この箇所からある人たちは、たとえ一度信仰をもってもその信仰から離れ、救いから落ちてしまうこともあると考えています。皆さん、一度信仰を持ったら、もう二度と信仰から離れることはないのでしょうか、それとも一度信仰を持っても、ここに書いてあるように、信仰から離れてしまうということがあるのでしょうか?

 

たとえば、ヨハネの福音書10章29節を見ると、そこにはこう書かれてあります。

「だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません」

それは、一度イエス様を信じて救われたのであれば、その人はどんなことがあっても救いから漏れることはないという意味です。神が救ってくださった人というのは、神が永遠の昔から救いの中に選んでいてくださった人ですから、どんなことがあっても見捨てられるようなことはないのです。一度救ってみたけれども、この人はどうもモノになりそうもないので捨ててしまいましょうというようなことは絶対にありません。

 

しかし一方で、私たち人間の側からすれば、もう救われたのだから何をしても構わないと、故意に罪を犯し続けるようなことがあれば、罪のためのいけにえは残されてはいないということ、つまり、救いを受けることはできないということも覚えておかなければなりません。確かに、神の側では一度救いに導かれた人はどんなことがあっても離すことはありませんが、人間の側から離れていくならば、そういうこともあり得るということです。

 

事実、あんなに信仰に熱心だった人がどうして信仰から離れてしまったのだろうかという場合がありますが、そういうことも起こってくるわけです。それはその人の信仰の理解や福音のとらえ方に問題があり、私たちの目では信仰を持っていたかのように見えても、神の目から見たら、実はそうではなかったということもあるからです。

 

Ⅰコリント15章2~4節にはこうあります。

「もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、」

 

皆さん、どうしたら救われるのでしょうか。この福音のことばをしっかり保つことによってです。その福音のことばとは、イエス・キリストに関することです。すなわち、キリストは、聖書が示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたことです。これが福音のことばです。このことばをしっかり保っていればあなたは救われるのです。これ以外の何もあなたを救うことはできません。だから私たちはこのことばをしっかり保っていなければなりません。本当に救われている人は、このことばにとどまっている人なのです。自分の感情がどうであれ、自分の置かれている状況がどうであれ、自分のために救いを成し遂げてくださった救い主イエスに信頼し、そこに希望を置くのです。

 

ところで、このようなことを聞くと、自分は大丈夫だろうかと不安になる方もいるかもしれません。しかし、もしそのように受け止めておられる方がいるとしたら、そういう人はどうぞ安心してください。そのように受け止めることができるということ自体がむしろ救いについて真剣に考えているということであって、そこに生きているという証拠でもありますから、そういう人が救いに漏れるということは絶対にないと言えます。この「真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるなら」というのは、罪の赦しによる救いの体験をしたにもかかわらず平気で罪を犯し続けるなら、という意味です。私たちは弱い者ですから、救われてからもしばしば罪を犯すことがあります。しかし、ここで言われていることは、救われてから罪を犯したかどうかということではなく、ことさらに罪を犯し続けることです。つまり、罪を犯しても悔い改めようとせず、平気で罪を犯し続ける人のことなのです。そういう人のためのいけにえはもはや残されてはいません。そういう人は、恐ろしい神の裁きを受けるしかないのです。

 

28節と29節をご覧ください。

「だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血をけがれたものとみなし、恵みの御霊を侮るものは、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。」

 

これは申命記17章6節に書かれてあることですが、だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三人の証人の証言に基づいて死刑に処せられました。そこには何のあわれみもなかったのです。律法に背いて罪を犯し、二、三人の証言があれば有無を言わさず死刑に処せられました。であれば、まして、神の新しい契約を侮る者があれば、なおさらのこと恐ろしいさばきに服さなければならないのは当然のことです。なぜなら、それは神の御子を踏みつけ、自分をきよめるためのキリストの血を、拒むことになるからです。そしてそれは恵みの御霊を侮ることになるからです。

 

ここでは「御霊」を、「恵みを与えてくださる方」であると言っています。この御霊とは三位一体の第三位格の聖霊なる神のことです。キリスト教では神は三つにして唯一なる神であると信じています。それが聖書で教えている神です。ものみの塔では、この聖霊は単なる神の力であると説きます。ただのモノにすぎないというのです。しかし、聖書を見ると聖霊は人格を持っていることがわかります。たとえば、ヨハネの福音書16章13節を見ると、「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。」とありますが、単なるモノであったら、「その方」というでしょうか。ものみの塔でさえ、「その者」と訳しています。「その者」とは「その物」ではなく、「その方」という人格を持った方としての表現です。その方は「助け主」とも言われています。

私たちは神の御子の大きな犠牲によって罪が赦され、救われた者であるとは言ってもまだヨチヨチ歩きで、すぐに躓いたり、罪を犯したりしがちです。そのことをご存知であられる神はこの聖霊様を送ってくださり、私たちが罪を犯さないように助けてくださったり、知らずに罪を犯してしまった時に、私たちの良心に働きかけて悔い改めに導いたりしてくださいます。あるいは、聖書を読む時に、何が神のみこころであるかを示してくださりその道に歩めるように助けてくださるのです。まさにこの方は恵みを与えてくださる方なのです。その中でも最大の恵みは、御子イエスの救いの中に導いてくださったということでしょう。その恵みの御霊の神を侮ることがあるとしたら、なおのさらのこと、重い処罰がもたらされるのは当然のことです。

 

多くの人は、神の厳しさについて誤解しています。それは、旧約の神は厳しい神だが、新約の神はそうではないというものです。新約聖書の神は優しい愛の神なのだから、人をさばくというようなことはないというのです。これは聖書を表面的に読んだ印象にすぎず、実際にはその反対です。これまで学んできたことを思い出してみるとわかるように、旧約聖書では人が神に近づくためにはやぎや羊、牛などの多くのいけにえをささげなければなりませんでしたが、それで完全に罪が赦されたかというとそうではなく、毎年、それを繰り返して行わなければならなりませんでした。いつも罪が思い出されたからです。けれども、神の御子のいけにえは完全なものでした。キリストは、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。もうこれ以上すぐれた解決法がない、永遠の、究極の、最終的な解決を与えてくださいました。しかも、これは私たちの行いや状態に関係なく神の真実に基づいた一方的な恵みによって与えられた契約でした。それを拒む者があるとしたら、それこそ永遠の滅びに入れられるのは当然のことなのです。旧約聖書にあるように、石を投げつけられて死ぬことは恐ろしいことですが、それよりも、もっと恐ろしいことは、死後の世界において永遠に死ぬことです。聖書ではこれを地獄と言っています。地獄とは永遠の滅びことなのです。ですから、新約のさばきの方が、旧約のそれよりももっとずっと厳しいさばきであると言えるのです。

 

ですから、神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いを信じる信仰によって救われた私たちは、回りの状況に振り回されたり、動揺したりしないで、堅く信仰に立たなければなりません。約束された方は真実な方ですから、動揺しないで、しっかりと希望を告白はなければならないのです。では、しっかりと希望を告白することができるのでしょうか。

 

Ⅱ.いつまでも残る財産に目を留める(32-34)

 

32節から34節までをご覧ください。

「あなたがたは、光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい。人々の目の前で、そしりと苦しみとを受けた者もあれば、このようなめにあった人々の仲間になった者もありました。あなたがたは、捕えられている人々を思いやり、また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。」

 

ここではそのために二つのことが勧められています。一つは32節にあるように、「思い起こす」ということ、そしてもう一つのことは、34節にあるように「知る」ということです。

まず「思い起こす」ということですが、何を思い起こすのでしょうか。それは苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころのことです。初代教会のクリスチャンの多くは、激しい迫害の中にあっても信仰を貫き通しました。ある人たちは、ローマの円形競技場で見世物としてはずかしめられたり、猛獣によって殺されたりしましたし、またある人たちは、罪をなすりつけられて財産を没収されたりもしたのです。しかし、彼らはそうした迫害の中でも信仰を守り抜きました。いったいなぜ彼らは守り抜くことができたのでしょうか。それはいつまでも残る財産を持っていることを知っていたからです。いつまでも残る財産とは、イエスを信じたことで後に天の御国で永遠の財産と報いのことです。彼らはその財産を受けること知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで耐え忍ぶことができたのです。

 

私たちの主イエスもそうでした。イエス様は十字架に付けられる前の晩、ゲッセマネの園で切に祈られました。それは汗が血のしずくのように地に滴り落ちたとあるように、激しい祈りの格闘でした。そして、こう祈られたのです。

「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取り除けてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。しかし、私の願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22:42)

なぜキリストは十字架という苦難に向かうことができたのでしょうか。それは、その後にもたらされる栄光がどれほどすばらしいものであるかを知っていたからです。ですから、この杯を飲み干すことは苦しいことでしたが、それを耐え忍ぶことができたのです。

 

使徒パウロは、それを「重い永遠の栄光」と言っています。Ⅱコリント4章17、18節には次のようにあります。

「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」

パウロが、この世の激しい迫害と患難を恐れずに、信仰によって生きることができたのは、彼が永遠の世界において受ける栄光と報いがどれほどすばらしいものであるかを知っていたからでした。それは一時的なものではなく、いつまでも続くものです。それに目を留めていたので、今の時の患難を軽いものとして受け止めることができ、乗り越えることができたのです。

 

リビングライフに書かれてあったコラムですが、ある韓国の牧師の運転手をしていた人は、テレビのニュースでしか見たことがないような大きな体つきで、腕には刺青と傷がありました。彼は神様の恵みによってクリスチャンになりましたが前科持ちであったため仕事に就くことが難しかったので、この牧師は彼に運転手として働いてみないかと提案したのです。牧師は、夏と冬ごとに青少年のリトトリートの講師としてあちこち回っていたため多くの時間をともに過ごすうちに、彼は神をとても愛するようになりました。

ある日、牧師は彼に証するように頼みました。悩んだ末、彼は学生たちの前で、今になってやっと意味のある人生とは何かがわかったと告白しました。集会が終わってから、一人の男子生徒が彼のもとにやって来て、暴力団と縁を切りたいが、なかなか難しいがどうしたらいいかと尋ねました。すると、彼はその学生にこう言いました。「ケジメはつけることになるだろうな。でも、その時はイエスのことを考えてみろ。イエスという新しい組に入る通過儀礼だと思えば、そう長い時間でもないだろうよ」

 

すごいですね。でもこれは的を得た答えではないでしょうか。確かにそれはかなりの苦しみが伴うことかもしれませんが、イエスによってもたらされる重い永遠の栄光に比べるなら、一時的なものでしかありません。永遠の価値のために一時的なものをあきらめることは、それほど難しいことではないのです。

 

17世紀から18世紀にかけてイギリスとアメリカで生きたウイリアム・ペン(William Penn, 1644-1718)”は、No  cross  no  crown ” と言いました。「十字架なくして、冠なし」です。意訳すれば、「艱難なくして、栄光なし」です。ウィリアム・ペンはキリスト教の一派であるクウェーカーに入信したことでイギリス国家から激しい迫害を受けると、約束されたこの世の栄光を捨てるという苦渋も、牢獄に繋がれるという苦難も甘んじて受け、 それを自分の十字架として背負って、この茨の道を歩んだのです。

やがてアメリカペンシルベニア州に渡り、そこで知事に就くと、歴史上初めて個人の信仰と良心が、国家の統制下に置くことができない不可侵の権利であると宣言する法律を制定しました。つまり信仰の自由を勝ち取ったのです。まさに、ペンは重い十字架を負うことによって、神から永遠の救いの冠を与えられただけではなく、後の人々からは民主主義の先駆者としての栄誉を与えられたのです。まさに、十字架なくして、冠なしです。

 

私たちの人生においては、初代教会のクリスチャンたちのような迫害や江戸時代にあったような迫害を受けるわけではありませんが、しかし、職場や学校において、また家庭において、いやあなたのすぐ近くにいる人があなたを侮辱したり、ありもしないことで悪口を浴びせたりして、あなたを苦しめるということがあるかもしれません。しかし、それはⅡテモテ3章12節に、「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」とあるように、あなたがキリスト・イエスにあって敬虔に生きている証拠でもあり、やがて天の御国で大きな報いを受けるという保証でもあるわけですから、むしろそれは喜ばしいことなのです。あなたより前にいた信仰者たちも、そのようにして耐え忍びました。

 

Ⅲ.必要なのは忍耐(35-39)

 

ですから、第三のことは、信仰によって忍耐しましょう、ということです。35節から39節をご覧ください。まず35節と36節です。

「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」

 

大切なのは、最初の確信を終わりまでしっかりと保つことです。3章

14にも、「もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。」とあります。これが信仰の戦いにおいて死守しなければならないものです。もしこの確信を保つことができないとどうなるかと、沖に流されていくボートのように、押し流されてしまうことになります。この確信を保つということは単純なことですが、実際には大変なことでもあります。というのは、私たちの人生には神に対して疑いを抱くような状況や出来事が多いからです。

 

たとえば、エジプトを出たイスラエルはどうだったでしょうか。すぐに水がない、食べ物がないと嘆きました。そして、カデシュ・バルネアという所に来たとき、約束の地を偵察すべくそこから12人のスパイを遣わすのですが、彼らが持ち帰った報告は、「だめだ。無理だ。その地の住民は大きくて、強い。自分たちが上って行こうものなら、たちまちに滅ぼされてしまう。」というものでした。それを聞いたイスラエルの民は、「なぜ神はこんなところに自分たちを連れてきたのだ」と言って不平を鳴らしたのです。彼らの心は常に迷い、神の道を悟ることができませんでした。そして、20歳以上の男子はヨシュアとカレブ以外はだれもその地に入ることができませんでした。

 

私たちの人生にも同じようなことが起こります。神がおられるならどうしてこのようなことが起こるのかというようなことがあるのです。けれども、たとえそのような状況になっても、最初の確信にとどまっていなければなりません。すなわち、この福音をしっかりと保っていなければならないのです。

 

いったいどうしたら信仰にとどまることができるのでしょうか。36節をご覧ください。ここには、「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」とあります。私はこのみことばが好きです。いつもこのみことばに教えられ、励まされています。

神の約束は棚ぼた式にもたらされるものではなく、忍耐することによって手に入れることができるものなのです。そして、神は私たちが忍耐することができるように、その力も与えてくださいます。それはⅠコリント10章13節にこのようにあるからです。

「あなたがたの試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせるせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」

 

何とすばらしい約束でしょうか。神は私たちが耐えられないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ耐えることができるように、試練とともに脱出の道を備えていてくださいます。そしてヤコブ書1章に書かれてあるとおり、試練によって生じる忍耐を完全に働かせることによって、何一つ欠けたところがない、成長を遂げた完全な者になることができるのです。

 

あの3.11から5年が経ちました。津波と原発事故ですべてを失った福島第一聖書バプテスト教会の佐藤彰先生は、当初、その現実を受け止めることができず「くそ」とつぶやいていました。しかし、苦しい荒野での生活を乗り越え、やがて福島県いわき市につばさの教会を建てると、次第にこの震災から見えてきたものがあると言います。それは、神の恵みでした。教会は「ガリラヤから世界へ」というビジョンを掲げ、小さな田舎の教会でも世界宣教を担う教会になることを目指して祈ってきました。そしてある国に宣教師を遣わすことができたとき、「ああ、これでビジョンが実現した」と思ったそうです。しかし、それはビジョンの実現の始まりにすぎませんでした。本当の実現はこの震災を通してもたらされたというのです。なぜなら、原発から一番近い教会の牧師というだけで世界中の国々から招かれて主を証することができるようになったからです。フランスでは国営テレビが2時間のドキュメント番組を製作して放映しました。また、ドイツや他の国からも呼ばれてインタビューを受け、主を証することができました。世界中の人たちから祈られたのです。このような教会が他にあるだろうかと思うと、確かに震災によって多くの苦難はあったけれども、それはまさに神の絵巻物語であったというのです。

神は耐えられない試練に合わせるようなことはなさらない。むしろ、それを通してもっとすばらしい人生を、もっと豊かな人生へと導いてくださることがわかったというのです。すべては神の御手の中にあって、神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のために、すべてを働かせて益としてくださるのです。私たちに必要なのは忍耐することです。そうすれば、主があなたを助けてくださいます。

 

というのは、37節に、「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。」とあるように、たとえ苦しみが長引いたとしても、神の時がおそくなることはないからです。だから、恐れ退いてはなりません。私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者だからです。たとえ試練があっても信仰によって前進するなら、必ずいのちを得ることができるのです。神とともに歩むなら、耐えられない試練はありません。主はおそくなることなく来られ、すべての涙をぬぐい、約束された永遠のいのちを与えてくださいます。そのことを信じなければなりません。義人は信仰によって生きるからです。

 

これは旧約聖書の預言者ハバククの言葉です。ハバククは、たとえ敵が押し寄せ、持っているものをすべて奪って行ったとしても、義人は信仰によって生きると宣言しました。神はどんな状況にあっても、信仰に立って生きる者を喜ばれます。信仰は苦難の中にあっても屈せず、天の希望を見上げさせます。クリスチャンの歩みを勝利させるのはこの世の力や権力ではありません。ただ主が与えてくださる信仰なのです。信仰によって生きるなら、どんな時にも勝利することができます。神は真実な方であって、約束されたことを必ず実現してくださる方だからです。ですから、信仰によって生きるなら、やがて大きな祝福を受けることになるのです。

 

あなたは何によって生きているでしょうか。何に目を留めていますか。いつまでも残るものを見ているでしょうか。どうかあなたの確信を投げ捨てないでください。最初の確信を終わりまでしっかりと保ちましょう。信仰によって生きる者にとりましょう。あなたがたが神のみこころを行って、約束したものを手に入れるために必要なのは忍耐なのです。