ヘブル10章19~25節 「新しい生ける道」

きょうはこのへブル人への手紙10章19節から25節までの箇所から、「新しい生ける道」というタイトルでお話しします。この箇所はヘブル人への手紙の中で最もすぐれた黄金の勧告と言われている箇所です。黄金の勧告とは、内容が深遠で、人生にとって この上なく有益な教訓のことです。聖書には黄金律と呼ばれているみことばがあります。それはキリストの山上の説教の一節で、マタイ7章12節のみことばです。

「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」

これはいつの時代でも、どのような状況でも変わりなく、人としての重要な生き方を示していることばなので「黄金律」と呼ばれているのです。。それと同じように、ここにはクリスチャンとしてどのように生きるべきなのか、その大切な勧めが三つのポイントで語られています。きょうはこの黄金の三つの勧告を学びたいと思います。

 

Ⅰ.全き信仰をもって神に近づきなさい(19-22)

 

第一のことは、全き信仰をもって神に近づきなさいということです。

19節から22節までをご覧ください。

「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」

 

19節は、「こういうわけですから・・」ということばで始まっています。ヘブル人への手紙全体を通して読むと、この10章19節が分岐点となって、流れが大きく変わっていることに気づきます。これまでは、神の御子キリストがいかにすぐれた方であるかについて説明されてきました。キリストは御使いよりもすぐれた方であり、すぐれた救いの道を備えられ、またアロンの祭司職よりも偉大な、メルキゼデクの祭司となられたことについて述べられてきました。そして、モーセを通して与えられた神との契約は、新しい契約によって取って代えられ、この契約が古い契約よりもすぐれていることが述べられてきたのです。このように、キリストがいかにすぐれた方であり、いかにすぐれた仲介者であるかを述べた後で、ここから、これを知った人たちがどのようにして応答していくのか、すなわち「勧め」の部分に入るのです。

 

その勧めとはどんなことかというと、「まことの聖所に入ることができる」というものです。まことの聖所にはいることができる、天国の神に近づき、神との親密で深い交わりの中に入ることができるということです。

 

それはイエスの血によってです。なぜなら、前回学んだように、「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない」からです。(9:22)神に近づくことは、私たちの行ないによっては絶対に無理なのであって、ただ私たちの罪の身代わりとなって十字架で死なれ、その尊い血を注ぎ出してくださった神の御子イエス・キリストを信じることによってのみもたらされるものなのです。イエスが十字架で死なれたのは愛の模範を示すためではなく、血を注ぎ出すためだったのです。ですから、私たちは大胆に神に近づくことができるのです。

 

この「大胆に」という言葉は、英語では、We have boldnessとか、We have confidenceと訳されています。「確信を持っている」とか「自信をもっている」という意味です。つまり、私たちはまことの聖所に入ることができるという確信があるということです。なぜなら、イエスが十字架で血を流して死んでくださったからです。私たちがどのような人であるからとか、どのようなことをしたかということではなく、神の御子イエス・キリストの血が流されたので、その方の血の注ぎを受けているので、まことの聖所に入ることができるという確信があるということなのです。

 

20節ではそのことを別の形で表現しています。それは、「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」ということです。この「垂れ幕」というのは、聖所の中にある、聖所と至聖所を分けていた幕のことです。この幕が、イエスが十字架につけられていたときに、上から下に、真っ二つに引き裂かれました。この幕は厚さが10cm以上もあり、その両端を数頭の馬が反対方向に引っ張っても破れないほど丈夫なものであったと言われています。その幕が、イエスが十字架で死なれたときに、上から下に、真っ二つに裂けたのです。それはキリストが十字架の上でご自分のからだを引き裂いてくださったことによって神と人とを隔てていた壁が引き裂かれ、神の御許に行くことができるようになったということを表しています。このようにして、キリストはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの生ける新しい道を設けてくださったのです。ですから、このイエスを信じるならだれでも神の御許に行くことができるのです。イエスを信じるなら、だれでも救われるのです。

 

そればかりではありません。21節を見ると、「また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。」とあります。ここも英語ではWe have high priest になっていて、Haveという言葉が繰り返して使われています。持っているとか、あるという意味です。何を持っているのかというと、偉大な祭司です。もちろん、この偉大な祭司とはイエス・キリストのことですが、この祭司をもっているので、私たちは絶対にまことの聖所に入ることができるというのです。なぜなら、この祭司は神の家をつかさどっておられる偉大な方だからです。神の家をつかさどっているということは、神の家を支配しておられるという意味です。そういう方がついておられるのなら、神に近づくことができるというのはなおさらのことなのです。「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎ受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」と勧められているのです。

 

この新改訳聖書では19節から22節までが幾つかの文章になっていますが、原文では19節から22節までが一つに文章になっています。つまり、私たちはイエスの血の注ぎを受けているのですから、イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのですから、また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司がいるのですから、私たちは、全き信仰をもって、神に近づこうでないかというのです。「神に近づく」というのは場所的、時間的なことというよりも、人格的なものです。神を深く知って、このお方のようになっていこうということなのです。これがキリスト教の本質なのです。

 

先日、さくらチャーチで行われているみんなのカフェにNさんというご婦人が初めて参加されました。この方は宗教に造詣が深く、いろいろなことを知っておられる方ですが、パットがアメリカから来たということで、「キリスト教とはどういう宗教ですか」と尋ねられました。するとパットはこう言いました。「私はキリスト教を宗教として考えていません。これは神との関係です。神がどのような方かを知って、この方のようにされていくこと、それがキリスト教です。」と。私は、それを聞いていて、なるほどと思いました。宗教を何かの形で考えることは間違っていて、神との関係として捉えなければわからないということです。だから、神に近づくことを求めていかなければなりません。どうしたらもっと神に近づくことができるのでしょうか。

 

ここには、「全き信仰をもって・・」とあります。皆さん、全き信仰とはどういう信仰なのでしょうか。それは強い信仰とか、弱い信仰ということではありません。たくさん信じるとか、ちょっとだけ信じるというようなことでもありません。全き信仰とは、神につながっている信仰のことなのです。

 

それは、たとえば電気のスイッチのことを考えたらわかると思います。どうしたら電球に明りがつくのでしょうか。電気のスイッチを入れればいいのです。それだけでいいのです。電気をつけるのに力を入れてステッチを押す必要はありません。力を入れてスイッチを押せば明るくつくとか、さわるように、撫でるように、優しく押すだけでは弱い明りしかつかないということはありません。強く押しても、弱く押しても明りの強さは同じです。大切なのはスイッチを入れることです。

 

それは信仰も同じで、強い信仰とか、弱い信仰というのがあるのではなく、あるのは神につながっているかどうかということです。神につながっていれば、神が働いてくださいます。すなわち、信じるということはこちらの側の信じ方ではなく、信仰の対象であるイエスとつながっているかどうか、結ばれているかどうかということなのです。イエス様を信頼して、イエス様を見上げていれば、信仰は確かなものとなっていきます。自分の知恵と力を尽くして信じる過信ではなく、半分だけ信じる半信でもなく、また、全く信じられないという不信でもなく、単純にイエスに信頼していであるべきです。イエス様にとつながっていればいいのです。そうすれば電気はつくのです。それが全き信仰です。

 

アフリカ伝道隊の総裁をしていたJ・B・B・フレンドという人は、信仰を持つことをバケツの水にたとえてはならないと言いました。日本では恵まれた信仰をバケツに水がいっぱいに満たされた状態にたとえることがありますが、信仰をそのようにとらえてはいけないというのです。そのようにとらえてしまうと、バケツの水を使って無くなったらやっとの思いで礼拝にやって来て満たされるといった誤ったイメージを抱きやすくなってしまいます。そうではなく、むしろ、信仰生活は水道管のパイプのようなもので、もしあなたがたっぷりと満たされた貯水池につながっているなら、あとは栓をひねるだけでいつでもザーと水が出てきます。信じればザーです。パイプが細いか太いかは関係ありません。信じればザーなのです。信仰とは栓をひねるだけのことなのです。

 

ただ注意しなければならないことは、パイプを詰まらせないようにしなければならないということです。それゆえに、ここに、「全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」とあるのです。これは、パイプを詰まらせてはならないという意味です。いつもイエスさまと親しい交わりを保つようにしなければなりません。もしそのパイプに何か詰まっていればそれを取り除いて、いつも神のいのちが流れるようにしなければなりません。私たちの信仰生活では、よく詰まらせてしまうことがあります。トイレットペーハーを大量に使って詰まらせたり、異物を混入させて詰まってしまうことがあるように、あまりにも多くのことに心が奪われて神との関係を詰まらせてしまうことがあるのです。そういうことがないように、いつも主につながり、主と親しい交わりを保っているかどうかを確認しなければなりません。

 

とても評判の良いレストランにはある一つの共通点があるそうです。それはあまりいろいろなことに手を出さないということです。得意なメニュー集中するのだそうです。それを極めるために努力に努力を重ねます。それで「美味しい店」になれるのです。一方で、あまり美味しくないレストランというのは、とにかくメニューがいっぱいあります。全部やろうとすると、全部まずくなってしまうのです。

 

同じように、私たちはイエス様に集中しなければなりません。あれも、これもではなく、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないようにしなければなりません。そして、このイエスにしっかりとどまっていなければなりません。主イエスは言われました。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)このような信仰をもって神に近づくなら、神はそのような人を受け入れ、多くの実を結ばせてくださいます。

 

Ⅱ.しっかり希望を告白する(23)

 

第二のことは、しっかりと希望を告白することです。23節をご一緒にお読みしましょう。

「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。」

 

ここでは、希望を持つことが勧められています。私たちの信仰生活には失望することが何と多いことでしょうか。それは悪魔が何とかしてあなたから信仰を奪おうとしているからです。悪魔はほえたける獅子のように、食い尽くすべき獲物を探し求めながら、歩きまわっています。そのために一番効果的なのは、あなたから希望を奪い取ることです。そうすれば、信仰にとどまることができなくなってしまうからです。人は希望がなければ生きることがでません。この希望を奪うことによって、信仰から遠ざけようとするのです。ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しなければなりません。

 

いったいどうしたら希望を持ち続けることができるのでしょうか。ここには、「約束された方は真実な方ですから」とあります。皆さん、私たちの信じている神は真実な方です。どういう点で真実であるかというと、約束されたことを一つも違わず成就してくださるという点においてです。聖書の中には神の約束が沢山ありますが、それは、信じる人に実現する約束なのです。その神の約束は必ず実現するわけですから、それを信じて歩むことが大切です。その約束の中でも最大のものは、私たち信じる者たちが天国へ行くことができるということでしょう。これは必ず実現します。なぜなら、すでに見てきたように、そのためにイエスの血が流さたからです。だから私たちは必ず天国に行くことができるのです。

 

であれば、この地上においてどんなに厳しい状況にあっても、もうだめだと失望することがあっても、そういうことで動揺しないで、しっかりと希望を告白することができるのではないでしょうか。それが天国に向かって歩んでいる人の姿なのであります。

 

Ⅲ.愛と善行を促す(24-25)

 

第三のことは、愛と善行を促すように注意しましょうということです。24-25節をご覧ください。ここには、「また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょ集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」とあります。

 

「愛と善行を促すように注意し合おうではないか」とはどういうことでしょうか。現代訳聖書では、「どのようにしたらほかの人を愛し、助けることができるかということについて、心を配ろうではないか」と訳されています。すなわち、キリストの恵みによって救われたクリスチャンは、愛という霊的な面と、ほかの人を助けるという具体的な両面が必要だということです。愛しているといってもそれが具体的な行動によって現されるものでなければ、本当に愛しているとは言えません。愛しているなら、それが必ず具体的な面で表されてくるはずだからです。

特に教会の中では「互いに重荷を負い合う」ということが強調されています。ガラテヤ6章2節には、「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」とあります。もしキリストによって救われ、あなたの中にキリストの愛が満ち溢れているなら、それは必ず互いに重荷を負い合うという具体的な形で現れてきます。もし現れてこないとしたら、その人は果たして本当にイエス様を愛しているのか、魂を愛しているのかということを吟味してみる必要があります。イエス様の愛によって救われているのなら、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合わなければなりません。特定の人にだけ重荷を負わせ、犠牲を強いるというようなことがあってはいけないのです。もちろん、皆が同じように愛を実行できるということではありませんが、自分のできる範囲で、心を配るということが求められているのです。

 

そのためには、いっしょに集まることをやめたりしないということが大切です。クリスチャンが一人で信仰生活をしていくと、どうしても独り善がりになり、偏った考え方に陥ってしまいがちです。ですから、どうしてもクリスチャンには交わりが必要で、その中で最も大切な交わりは教会の交わりであると言えるでしょう。なぜなら、教会は神の家族であるからです。家族であれば一緒に生活するわけで、一緒に生活していれば必ずぶつかり合うこともあります。しかし、そのようなぶつかり合いの中でこそ自分の信仰が鍛えられ、健全に成長していくものなのです。

 

このように見てきますと、イエスの血によってきよめられ、この新しい生ける道を歩むようになったクリスチャンに求められていることは、次の三つのことであることがわかります。すなわち、信仰と希望と愛です。どこかで聞いたことがありますね。信仰と希望と愛。パウロはⅠコリント

13章13節で、次のように言っています。

 

「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」

 

いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。それは自分自身から出てくるものではなく、イエスの血によって救われ、この新しい生ける道を歩むようになった者にもたらされるものです。全き信仰はイエス様を見上げ、イエスにとどまることによって与えられます。しっかりと希望を告白するためには、イエスを見続けることが必要です。そして、愛と善行に励むためには、イエス様と交わることが求められます。その結果として信仰と希望と愛が生まれてくるのです。

 

皆さんはどうですか。皆さんのために血を流し、救いの御業を成し遂げてくださった主イエスをしっかり見ているでしょうか。また、このイエスにとどまり、このイエスと交わりをもっておられますか。かの日は近づいています。イエス様が再び来られる日、救いが完成する日が近づいているのですから、私たちはますますそうしようではありませんか。それが新しい生ける道を歩むクリスチャンに求められていることなのです。

ヘブル9章15~28節 「成し遂げられた救いのみわざ」

きょうはヘブル書9章後半の箇所から、「成し遂げられた救いのみわざ」というタイトルでお話しします。

 

Ⅰ.新しい契約の仲介者(15~22)

 

まず15~22節までをご覧ください。15節にはこうあります。

「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産を受けることができるためなのです。」

 

「こういうわけで」というのは、14節までのところで述べられてきたことを受けてということです。そこでは、キリストは、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました、とありました。こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者となられました。

 

それは、いったい何のためでしょうか。このヘブル書の著者は、続いてこう述べています。「それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。」

どういうことでしょうか?初めの契約とはモーセによって与えられた律法のことですが、その初めの契約のときの違反を贖うための死が実現するためであったというのです。その初めの契約ではどちらか一方がその契約に違反すればその契約は成立しませんでした。しかし、イエス・キリストが血を流して死んでくださったことによって、新しい契約が成立しました。ですから、イエスさまが新しい契約の仲介者です。そして、この死は新しい契約を成立させるというだけでなく、古い契約における要求をも満たすものだったのです。律法に違反すれば死ななければならなかったのですが、イエスさまが十字架で死んでくださったことによって、その律法の要求をも完全に満たしてくださったのです。ですから、もはや罪の咎めを受ける必要はありません。私たちに残されているのは、永遠の資産を受け継ぐ約束だけなのです。

 

この神の契約は、人間でいえば遺言のような意味と性格をもっています。そこで16節には、「遺言には、遺言者の死亡証明が必要です。」とあるのです。この契約は遺言と同じ性質をもっているということです。どういう点で同じなのかというと、まず遺言は遺言を書いた人の一方的な意思によって決まりますが、それと同じように、この神が与えてくださった契約も神の一方的な意思によって決まるという点です。この新しい契約においては、私たちの行いがどうであるかということは全く関係ないのです。たとえあなたの罪が緋のように赤くても、雪のようにしてくださいます。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようにしてくださるのです。なぜなら、神の御子イエス・キリストがあなたの身代わりとなって十字架でその刑罰を受けてくださったからです。だから、イエスさまを信じる人はどんな罪でも赦されるのです。私たちの状態とは関係なく、神がどうしたいのかということによって決まるのです。

 

もう一つの特徴は17節にあるように、「遺言は人が死んだとき初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は、決して効力は」ないということです。

これはどういうことかというと、キリストが十字架で死なれることによって、この神の救いの契約が効力を発したということです。それは初めの契約も同じでした。あの初めの契約では、人の罪はどのようにして赦されたのかというと、動物の犠牲によってでした。動物をほふって得られた血を至聖所に置かれた契約の箱のふたに振りかけることによって赦されるとあったのです。なぜなら、人のいのちは血にあるからです。ですから、血が注ぎ出されることがなければ罪の赦しはなかったのです。このことは何を表していたのかというと、それはやがて来るべき神の御子イエス・キリストが十字架で死なれることによって、はじめて罪が赦されるという効力があるということです。イエス・キリストが十字架に掛かって死なれたことによって、私たちの罪を取り除いてくださったということなのです。それは血が注ぎ出されることがなければ、罪の赦しはなかったからです。このゴールデンウイークの間、「サン・オブ・ゴッド」という映画でDVDで観ましたが、キリストが十字架に付けられた場面は実に凄惨でした。イエスさまの全身が血だらけでした。なぜキリストは血だらけにならなければならなかったのか、なぜ十字架にかからなければならなかったのか、それはここに書いてあるように、すべてのものは血によってきよめられからです。血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはなかったからなのです。

 

このように言うと、中には「キリスト教って血生臭い宗教なんですね」とか、「何だってむごいことをするのでしょう」と思われる方がおられますが、実はその血生臭さこそ、私たちの罪の血生臭さであり、そのむごさこそ、私たちの罪のむごさであったということです。罪が赦されるためには、いのちの代価としての血が求められたからです。そうでなければ、私たち自身が死ななければなりませんでした。私たちが罪をもっていても死ななくても済むのは、キリストが私たちの代わりに死んでくださったからなのです。キリストが死んでくださったので、この神の契約は有効になりました。

 

ですから、この契約は遺言と同じなのです。実際に、15節の「契約」ということばと、16節の「遺言」、17節の「遺言」、20節の「契約」という言葉は、原語のギリシャ語ではどれも同じことばが用いられています。それはこのヘブル書の著者が、神の契約は遺言と同じであるということを強調したかったからです。それは神の真実において一方的な契約であり、イエスさまが十字架で死んでくださったことによって成立した契約であったということあって、私たちの行動とか、私たちの行いとは一切関係ないということです。たとえあなたがどんなに弱くとも、たとえ、あなたが神との契約を守ることができなくとも、あなたがイエスさまを信じるなら、あなたが十字架につけられたイエスさまを仰ぎ見るなら、あなたはすべての罪から救われるのです。

 

皆さん、これはすばらしい知らせではないでしょうか。だからこれが「福音」というのです。「福音」とは良い知らせ、グッド・ニュースです。なぜこれがグッド・ニュースなのかというと、これは神の真実にかけて結ばれた契約だからであって、私たちの行いとは全く関係ないからです。

 

先日、宣教師訓練センター後援会主催の聖会があり、そこで有賀喜一先生がお話をしてくださいましたが、有賀先生はそのお話の中でご自分がイエス様を信じたときの証をしてくださいました。先生が14歳のとき友人が亡くなりましたが、人は死んだらどこに行くのかわからなかったのでいろいろな人に尋ねるのです。「すみません。死んだらどこに行くのですか」返ってきた答えは「そんなの死んでみないとわからない」というものでした。死んでみないとわからないというのなら死んでみようと思い、遺書を書いて列車に飛び込むのです。けれども、当時の列車は車体が高く飛び込んだ先生の体の上を通り過ぎていったため死ぬことも叶いませんでした。自分は死に神からも見放されたかと思っていたとき、友人に誘われて教会に行くと、そこでスウーデンから来た宣教師がヨハネ伝3章からニコデモの話をしていました。

「人は、どうしたら神の国を見ることができるのか」

「人は、新しく生まれなければ神の国を見ることはできません」

「どうしたら新しく生まれることができましょう。」

「水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」

こうしたイエス様とニコデモとの会話から、新しく生まれなければ、神の国に入ることはできないことを知らされるのです。一方では、死んでみないとわからないと言われ、一方では、新しく生まれるなら入ることができるとはっきり告げられ、その晩、有賀先生は自分の罪を告白してイエス・キリストを救い主として信じて救われたのです。

それまで、自分では良い人間だと思っていました。自分には罪など関係ないと思っていたのが、当時、教会の役員だった方に促されて罪を告白すると、本当に罪深い人間だということが示され、それを全部告白して、救われたのです。

 

皆さん、死ななくてもいいのです。死んだらどこに行くのかということは、死んでみないとわからないのではありません。死ななくてもわかります。皆さんの罪の身代わりとなって死んでくださった神の御子イエス・キリストを信じるだけでいいのです。信じる者は救われるのです。何という恵みでしょうか。これが、神がキリストによって与えてくださった救いの約束です。本来ならば、自分の罪のために、神の怒りとさばきを受けなければならなかったのに、神の一方的な恵みによって救われたのです。

 

Ⅱ.完全な救い(23~26)

 

では、そのような神の救いのみわざはどのようにして成し遂げられたのでしょうか。23節から26節までをご覧ください。

「ですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません。キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現われてくださるのです。それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所にはいる大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。」

 

ここには、旧約聖書に出てくるあの地上の幕屋と天の幕屋との対比を通して、地上の幕屋が血によってきよめられたのは、罪ある人間が神に受け入れられ神に近づくことができるようにするためでしたが、それは天にある幕屋、天国のひな型であったということ言われています。そして、天国の神に近づくためには、動物のいけにえよりももっとすぐれたいけにえでなければならなかったということが言われているのですが、それはもちろんイエス・キリストのことであって、これまで説明してきたとおりです。それでは、このキリストの犠牲とはどのようなものだったのであったのかを、二つのことばをもって協調しています。それは26節にあるように、「ただ一度」ということと、「今の世の終わりに」という言葉です。

 

これはどういうことでしょうか。キリストはただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために来られました。旧約における大祭司は年に一度、動物のいけにえの血を携えて聖所に入りました。しかも、それを毎年繰り返して行っていましたが、キリストは、ただ一度だけ、ご自身をささげられました。つまり、これが神の私たち人間を救う最終解決であったということです。神は最初の人間アダムが罪を犯した瞬間から、人類を罪から救う永遠の計画をもっておられましたが、その完全な贖いがイエス・キリストを十字架につけることによって完了したということです。キリストが十字架につけられたとき「完了した」と言われましたが、何が完了したのかというと、この神の永遠の救いのみわざが完了したということです。これが神のファイナルアンサーでした。これ以上、他に何かしたり、何すを付け足したりする必要はありません。私たちの罪の贖いはキリストの十字架によってすべて完了したのです。それは完全な救いだったのです。

 

リビングライフのコラムにこんなことが書かれてありました。ある夏の日、一人の子どもが庭で遊んでいたら、突然、大きな蜂がやって来て、子どもの頭上をブンブン飛び回りました。逃げようとすればするほど、さらに襲いかかってくるので、蜂が怖くて、子どもは泣きながら母親のところに走って行って抱きつきました。子どもの驚いた表情を見た母親は、急いでスカートで子どものからだを覆い、両手で子どもの顔を隠しました。その瞬間、怒った蜂は今度はその母親の手を力いっぱい刺し、大きな蜂の毒針は、抜くことができないほど深く突き刺さってしまいました。針が抜けた蜂は、飛んでいくこともできず、母親の手の上をはいずり回っていました。母親は痛みをこらえながら、おびえている子どもに言いました。「もう怖がらなくていいのよ。お母さんがあなたの代わりに刺されたから、もう大丈夫。この蜂は私を刺したから、もうあなた指すことはできないわよ。」「蜂の一刺し」という言葉がありますが、蜂は一度指したら死んでしまうのです。もう刺すことはありません。

 

キリストも、ただ一度だけ、十字架で刺されて死なれました。だから、私たちはもう刺されることはありません。キリストは、すでに私たちのために罪を贖って死なれ、三日目によみがえられることによって死に勝利され、今、天国のまことの聖所で私たちのために、あなたのために働いておられるのです。

 

さくらでの伝道が始まって一か月が経ちましたが、あまり反応がないのでどうしたんだろうと思い、教会の回りの家を訪問することにしました。すると、驚いたことに、中には家の中にいるということがわかっているのに玄関にも出て来なかったり、いぶかしい顔で対応する人もいました。いったいどうしてだろうかと思いながらある方のお宅へ行ったところ、その方が、「きょうは五回目ですよ」というです。「えっ、何が・・」と尋ねると、「エホバの証人の方が何回も何回も回ってくるのです」と言われました。「オタクとは違うんですか」というので、「えっ、違いますよ。一番違うのは十字架があるかないかということです。伝統的なキリスト教には必ず十字架がありますが、エホバの証人の方には十字架がありません。それが一番大きな違いです。」というと、「ああ、そうなんですか。私はオタクも同じかと思っていました」と言われました。

エホバの証人の方が一生懸命に伝道しているのはすばらしいことだと思うのですが、なぜそこまでして伝道するのかというと、そうしないと救われないと思っているからです。自分が救われているかどうかがわからないのです。だから、救われるためにそうやって必至で伝道しているのです。

けれども、聖書はなんといっているでしょうか。キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られました。このイエスを信じる者は、だれでも救われるのです。神はキリストを通してその救いの御業を完成してくださいました。このイエスを信じるならだれでも救われます。これが、聖書が約束していることです。これは感謝なことではないでしょうか。そして、このすばらしい救いに預かったのなら、こんなにすばらしい恵みを受けたのであれば、その喜びがあふれてくるはずで、エホバの証人どころではない熱心さが生まれてくるはずです。

 

Ⅲ.キリストを待ち望んで(27~28)

 

であれば、私たちはどうあるべきなのでしょうか。27~28節をご覧ください。「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自分をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々のために来られるのです。」

 

これはとても厳粛な箇所です。このヘブル人への手紙の著者は、「ただ一度」という言葉を、人間にもあてはめています。人は、何度も死ぬわけではありません。死ぬのはたった一度だけです。そしてそれは確実にやってきます。すべての人は皆、死ぬのです。しかしそればかりでなく、死んだらそこでさばきを受けることが定まっているのです。日本人の中には死んだらまた他の人となって生まれ変わるとか、死んだら無になると考えている人がいますが、そうではありません。人は死ぬことと、死んだらそこで必ず神のさばきを受けるのです。このさばきというのは、キリストを信じた者は天国へ、信じなかった者は地獄へ行くという最後のさばきのことです。なぜそのようなことが言えるのかというと、これまで何度も語ってきたように、キリストを信じた者はキリストが十字架にかかってその人の罪の身代わりとして死んでくださったので、もうさばかれることがないからです。ヨハネの福音書3章16~18節にこう書かれてあります。

 

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者がひとりも滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」

 

御子を信じる者はさばかれません。なぜなら、御子が代わりにさばかれたからです。これこそ神が用意してくださった救いであります。神はこのすばらしい救いを私たちに提供してくださいました。あなたはこの救いを受け取られましたか。あなたの罪の救い主イエスを信じて救われていますか。信じる者は信じる者は救われるのです。

 

ところで、ここには、人は一度死ぬことと死後にさばきを受けるということだけでなく、キリストが再び来られるということも書かれてあります。キリストは多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいるすべての人々の救いのために来られるのです。

 

いったいなぜここにキリストが二度目に来られること、すなわち、キリストの再臨について語られているのでしょうか。それは、キリストによって罪赦された者がどのようにあるべきなのかを語るためです。すなわち、私たちは、今をどのようにとらえているかということであります。ここには、今は世の終わりの時であると言われています。この終わりの時をどのようにとらえ、どのように生きているかということによって私たちのきょうの生き方は変わってくるのです。

ペテロはこう言っています。「万物の終わりが近づいてきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。それぞが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」(Ⅰペテロ4:7~10)

 

なぜ祈りのために、身を慎むのでしょうか。なぜ何よりも、互いに熱心に愛し合うのでしょうか。なぜつぶやかないで、互いに親切にもてなし合い、その賜物を用いて、互いに仕え合うのでしょうか。万物の終わりが近づいているからです。このように、キリストの再臨の望みが、きょうの私たちの生き方を変えるのです。

 

あるクリスチャンの方がガンと診断され、余命6か月と宣告されました。この人は人生を整理することにしました。それまで自分が神様に対して行った過ちを紙にすべて書き出しました。数日間、身動きもせず、祈りながらすべてを書き出したのです。そして、書き出した罪の項目を一つ一つ消去しながら、神様の御前で悔い改めました。人に間違ったことをしたなら、訪ねて行ってお金を返し、謝り、食事をするなどして、人生を整理したのです。しかし、6か月経っても体調が悪くならないので、別の病院に行って診察してもらうと、最初の病院が誤診したようだと言われました。そこで彼の友人が、それはひどいと言って、その病院を訴えるよう勧めましたが、その聖徒は顔を上げることができませんでした。それは、その6か月間、自分はとても幸せで、生きがいを感じたためです。ですから、その残りの人生もそのように生きたいと思ったからなのです。

 

神様は、私たちが霊的に目覚め、このような心境で生きることを望んでおられます。まるで来月にでもイエスさまが来られるかのように、来月私がこの世を去ってしまうかのように、悔い改め、赦し、愛しながら生きることを望んでおられるのです。

あなたは、今がどのような時であるかを意識していますか。今が終わりの時であることを知り、あなたのために救いの御業を成し遂げてくださった主の恵みに感謝し、そこにしっかりととどまりながら、キリストが再び来られることを待ち望んでいるでしょうか。もちろん、私たちがこの世で与えられている務めはいろいろありますが、それは「キリストが死なれたのは、昨日のように思う」といったルターのように、キリストの愛に駆り立てられてのことなのであって、キリストを日々待ち望みながらのことなのです。

 

この手紙の読者たちはユダヤ人クリスチャンで、日々激しい迫害の中に置かれていました。生きる希望もなかったでしょう。しかし、ここに希望があります。それはやがてキリストが再び来られ、その救いを完成してくださるという望みです。キリストは、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られます。そこに希望を置きながら、きょうという日を感謝して歩んでいきたいと思います。それが神の恵みによって救われた私たちに求められていることなのです。

ヘブル9章1~14節 「永遠の救い」

きょうはヘブル書9章前半の箇所から、「永遠の救い」というタイトルでお話ししたいと思います。この手紙の著者は8章において、初めの契約と新しい契約がどのように違うのかについて述べました。すなわち、初めの契約、これはイスラエルがエジプトから導かれた後にシナイ山で結ばれた十戒のことですが、その契約には欠点があったのです。どういう点で欠けがあったのかというと、それは一種の双務契約のようなもので、一方がその契約に違反すれば、たちどころに反故になってしまうという点においてです。しかし、神の契約を守ることができる人などだれもいないわけですから、結局のところ、あの初めの契約で救われることはできる人は一人もいなかったわけです。じゃいったい何のためにそんな契約を与えたのでしょうか。それは私たちが罪人であるということを自覚させ、本当に救いを求めるように導くためでした。その本当の救いとはイエス・キリストによって与えられた新しい契約です。この新しい契約の特徴は、たとえ私たちが神との契約を守ることができなくとも、イエス・キリストを信じることによってそのすべての罪が赦され、救われるということでした。私たちの行いとは全く関係がなく、神の一方的な恵みによって救われるからです。私たちの罪がたとえ緋のように赤くても、雪のように白くしてくださる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようにしてくだるのです。キリストの血によって・・。これが福音、良い知らせです。神はこの新しい契約を私たちに与えてくださいました。きょうのところには、そのことがもう少し詳しく説明されています。

 

Ⅰ.初めの契約(1-10)

 

まず1節から10節までをご覧ください。1節と2節をお読みします。

「初めの契約にも礼拝の規定と地上の聖所とがありました。幕屋が設けられ、その前部の所には、燭台と机と供えのパンがありました。聖所と呼ばれるところです。」

 

前回見たように、キリストは私たちの罪の贖いを成し遂げて天の神の御座の右に着座されました。そこで何をしておられるのかというと、仕えておられるということでしたね。これは礼拝の務めをするということで、祭司として、私たちが神に礼拝をささげられるように仕えておられるということでした。

 

ではその聖所とはどういう所なのでしょうか。2節を見ると、その前部の所、そこは聖所と呼ばれていた所ですが、そこには燭台と机と供えのパンがありました。これらはすべてイエス様ご自身を表していたものです。イエス様は言われました。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。(ヨハネ8:12)ですから、これは「世の光」であるキリストを表していたのです。また、供えのパンですが、これもキリストを象徴していました。キリストは、「わたしがいのちのパンです。わたしに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときでも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ6:35)と言われました。また、「このパンを食べる者は永遠に生きます。」(ヨハネ6:58)とも言われました。ですから、この聖所の細部に至るまで、イエス様のことが表されていたわけです。

 

そして、3節を見ると、幕屋の中は垂れ幕で仕切られていました。奥の部分は至聖所と呼ばれていましたが、そこには金の香壇と、全面が金で覆われた契約の箱がありました。中には、マナの入ったつぼと、芽を出したアロンの杖、十戒を記した二枚の石の板が収められていました。また、箱の上には、栄光に輝くケルビムがその翼で箱を覆うようにしていました。そこは幕屋の中でももっともきよい場所でした。なぜなら、そこには神が臨在しておられたからです。あまりにもきよい場所なので、祭司といえどもふだんは入ることができず、ただ大祭司だけが、一年に一度だけ、入ることができました。なんのためでしょう。7節には、「そのとき、血を携えずに入るようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。」とあります。そうです、イスラエルの罪と、自分の罪を赦してもらうためです。そのために、動物のいけにえの血を携えて入ったのです。なぜなら、この9章22節を見るとわかりますが、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないからです。ですから、大祭司はこの至聖所に入って行ったわけですが、それはいのちがけのことだったのです。なぜなら、大祭司に少しでも穢れあれば、その場で打たれて死んでしまうこともあったからです。だから、大祭司は着物のすそに鈴のついた特別の服を着ました。歩くと鈴がなるのです。もし神に打たれて死んでしまったら鈴の音は聞こえなくなります。その時には他の祭司たちがロープで引きずり出しました。それほどの慎重さをもって、またいのちがけで、大祭司は至聖所に入って行ったわけですが、罪の贖いをして帰ってくると、「神はあなたの罪を赦された」と宣言するのです。イスラエルの民はこのときをどれほど喜び、待ち望んでいたことでしょう。それゆえ、この日にはイスラエル中から人々がエルサレムに上ってきたのです。

 

それはイスラエルの民にとってばかりでなく、私たちにとっても同じではないでしょうか。主に罪が赦されるということ、そして、主が共にいてくださるというほどの幸いはありません。ダビデは詩篇32篇1,2節でこう言っています。

「幸いなことよ。そのそむきの罪を赦され、罪を覆われた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、その霊に欺きのない人は。」

ダビデはバテ・シェバという女性と姦淫を行ったとき、それをずっと黙っていたときには、一日中、うめいて、骨々が疲れ果てたといっています。それは、主の御手が昼も夜も彼の上に重くのしかかり、彼の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。しかし、彼がそのそむきの罪を主に告白して赦しを請うたとき、主は彼を赦してくださいました。それがいかに幸いであるかを、彼はこのように歌ったのでした。そして、彼は続けてこうも言っています。

「悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼するものには、恵みが、その人を取り囲む。」(詩篇32:10)

だから、主に罪赦され、神がともにいるという経験は、何にもまさって幸いなことなのです。

 

しかし、この幕屋での行為は、彼らの罪の赦しにおいて完全なものではありませんでした。なぜなら、それらは彼らの良心を完全にきよめることができなかったからです。また罪が思い出されたからです。せっかく赦されたと思ったのにまた罪を犯してしまうことによって、良心の呵責がなくなってしまうことがなかったのです。それは後に来るものの比喩であって、本当の罪の赦しは得られなかったのです。では本当の罪の赦しはいったいどのようにして得られるのでしょうか。

 

Ⅱ.永遠の贖い(11-12)

 

ですから、次に11節と12節をご覧ください。

「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い換えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではないく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」

 

旧約時代、祭司たちは初めの契約の律法に従っていけにえを捧げ、動物の血を流し、神の前に出て、民のために罪の赦しを請いました。神はそのつど、祭司や大祭司を通して罪の赦しを宣言してきたのです。しかしそれはあくまでもひな型にすぎませんでした。完全なものではなかったのです。どんなやっても罪が思い出されました。彼らの良心を完全にきよめることができなかったのです。本当の罪の赦しのためには、イエス・キリストを待たなければなりませんでした。やぎと子牛との血によってではなく、まことの神の子であるイエス・キリストが十字架にかかって流された血を携えて、天にあるまことの聖所に入り、罪の贖いをする必要がありました。その血によって、私たちは神の前に完全な罪の赦しときよめを受けることができるのでした。それは何度も何度も罪が思い出されるような不完全なものではなく、もう二度と思い出されることがない永遠の贖いです。詩篇 103:12には、「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く 離される。」とあります。私たちのそむきの罪を遠く離されるのです。東から西が遠く離れているようにというのは、もう決して交わることがないという意味です。そのような完全な罪の赦しが与えられるのです。なんという幸いでしょうか。これが本物の救いです。それゆえ本物の救いを知っている私たちは本物の贖いによって赦され、本物できよめられたのです。なぜこれが本物だといえるのでしょうか。なぜなら、イエス様は十字架につけられて死なれただけでなく三日目によみがえり、天において本物の幕屋で今もとりなしていてくださるからです。

 

ある村での出来事です。一そうの漁船が沖合で嵐に会いました。ようやく岸の近くまで戻ってきたのですが、そこには岩が多く、とうとう岩礁に乗り上げてしまいました。それを知った村人たちが驚いてやってきました。彼らは船の人を助けようとしましたが、波が高くてとても危険でした。しかしだからといってそのまま見殺しにすることもできません。そこで屈強な者たちが集められ、危険を承知で船を出しました。そして死闘を繰り返すようにして、荒波を越え、漁船の所へ行きました。ところが救命用に用意した船には一度にはたくさんの人が乗れませんでした。そこで何回かに分けて運ぶことにしたのですが、一回行き、二回行き、三回目行きましたが、それでも全員乗り切れず最後に一人だけ残ってしまいました。

そうこうしているうちに嵐はいっそう激しくなっていき、もはや助けに行ったとしても、とても無事に戻って来られそうもありませんでした。ところがその時、一人の勇気ある若者が「ぼくが行く」と言いました。もちろん止められました。それでも行くと、振り切ると、今度は母親が止めました。彼の父親がやはり嵐で遭難しており、その母親に残されたのは彼を含めた二人の息子たちだけだったからです。しかし彼はなお「行く」と言い張りました。というのも、実は最後に残ったたった一人というのは、彼のお兄さんだったからです。彼は言いました。「兄さんは他の人を先にやっておいて自分はあとに残ったんだ。ぼくが行かないで誰が行くんですか」

こうして彼は人々を振り切るようにして船を出しました。そしてお兄さんを無事に救出して帰って来たそうです。

 

イエス様は私たちを兄弟と呼ぶことを恥となさいませんでした。私たちを弟、妹のように思ってくださいます。そして、ちょうどいのちがけで兄を助けに行った弟のように、いのちがけで私たちを救ってくださったのです。十字架の上で。イエス様の愛は何と驚くべきものでしょう。イエス様はご自分のいのちをかけて救ってくださるのです。

 

しかも聖所でのイエス様の救いは実に見事です。12節には、「ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」とあります。毎日、毎日、何回も繰り返して、いつまでも続けられなければならない旧約時代の贖いと違い、たった一度だけで、永遠の贖いを成し遂げてくださいました。イエス様の贖いのわざは完全です。ですから、どんな人でも救うことができるのです。どんな汚れた人でも、どんなに皮膚の色が違っても、その人にどんな過去、背景があったとしても、どんな人でも救うことができるのです。イエス様は確信をもって、たった一度だけ、永遠の救いをしてくださいました。

 

毎年秋になるとプロ野球の日本シリーズが行われ、日本中のファンを楽しませてくれますが、1994年10月8日に行われた巨人と中日のリーグ優勝をかけた戦いは、いまでも語り継がれている名勝負です。この試合に勝った方が日本シリーズに行くということで、だれもが注目していたゲームでした。その大切な試合のセーブを任せられたのは桑田投手です。彼は7回からマウンドに立つと魂がこもった投球をして、最後のバッターも三振に抑え、見事に巨人を優勝に導くのです。最大で13.5も引き離れていたペナントレースを見事に逆転して優勝するのです。この年に流行語になった言葉が「メイクドラマ」です。ドラマみたいなホントの話、ドラマを作るという意味で「メイクドラマ」と呼ばれたのでした。

これは野球の好きな人ならだれでも知っている名場面ですが、しかし、イエス様がなさったセーブはそんなものではありません。それは完全なみわざであり、永遠の救いだったのです。イエスの血によってあなたは、完全な救いを得ることができるのです。

 

Ⅲ.生ける神に仕える者(13-14)

 

ではイエス様はいったい何のためにそのようなみわざをなさったのでしょうか。13節と14節にこうあります。

「もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰をけがれた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよめいものにするとしたら、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」

 

イエス様がそのようなみわざをなさったのは、私たちをきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とするためでした。

皆さん、死んだ行いとはどういう行いのことでしょうか。死んだ行いとは、命のない行い、命を生み出さない行いのこと、つまり、自己中心な行いのことです。それは、霊的に死んだ状態から出て来て、さらなる死の状態へと導き、やがては永遠の滅びへと至らせるのです。生ごみや臭いモノにたかるハエって どんなに追い払ってもすぐまた戻ってくるように、自己中心や自分の欲に従う生き方は霊的に死んだ状態で腐っているので、どんなに追い払っても戻ってくるのです。それを完全に追い払うにはどうすればいいのかというと、その元を取り除いて綺麗にすればいいわけです。それがイエス・キリストの血によるみわざでした。

 

主イエスが来られて、十字架の上で永遠の贖いを成し遂げられたのは、まさにそのためだったのです。そのようにして私たちを生きた行いへと向かわせ、いのちの実を結ばせるためだったのです。

 

もう一度13節を見てください。ここには、「もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば」とあります。動物の血は、それが人々にかけられることによって、彼らの肉体、つまり、外側をきよいものにすることがでたのであれば、私たちのためにささげられた御子イエスの血は、どんなにか私たちの心をきよめて生ける神様に仕える者とすることができるというのです。

 

私たちが日々、主の十字架を仰ぎ見る理由がここにあります。私たちはそこで流された御子の血によって自分の罪が赦されていることを覚えます。しかし、それが十字架の意味のすべてではありません。私たちはその御子の血を自分自身のうちに受けているのです。つまり、十字架で裂かれたキリストのからだと流された血を、パンとぶどう酒を通して食することで、私たちはこの方と一つにされているのです。それはこの信仰に生きるためです。つまり、そのことによって私たちは主と一つにされ、自分を中心として生きていた以前の古い自分が、キリストとともに十字架で死に、また、キリストの復活のいのちにあずかることで、私たちは神の子どもとして新しく生まれ変わるのです。ですから、信仰者はみなキリストのいのちを宿す者であり、彼のうちにあって、彼によって生かされるのです。それは御霊なる主の働きによるものです。

 

ガラ手や人への手紙5章16~18節には、こうあります。「 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。」

 

御霊によって歩むなら、私たちは自分の肉の欲を満たそうとする死んだ行いから解放されます。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。そのどちらかしかありません。主イエスは、この御霊によって、十字架の杯を取り除けてほしいというご自分の願いを退け、父なる神様の御心としての十字架の道を進んで行かれました。そのようにして、主は生ける神様に仕えられたのです。

 

同じように、私たちも神の御霊によって生ける神に仕えることができるのです。私たちは御子の血によって、犯した罪に対する赦しを受けているだけでなく、御子のいのちをうちに宿すことで、罪の力から解放され、生ける神様に仕える者とされるのです。もう二度とあなたにハエがたかることはありません。

 

皆さんの心はどうでしょうか。このイエスの血によって聖められているでしょうか。このイエスのいのちをいただいて、罪の束縛から解放され、神に仕える者とされているでしょうか。

 

箴言にこういうことばがあります。「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」(箴言4:23)私たちはよっぽど気を付けていないと、そう、力の限り心を見張っていないと、自分知らないうちに自分の思いにどっぷりと浸かってしまうことがあるのです。「ああ、めんどうくさい」とか、「あの人ってさあ、・・・だよね」といった悪いことでないにしても、他の人のことを話題にしてしまうことがあります。そういうのは神様が喜ばれることではなく、自分の肉の思いから出ていることですから、注意が必要です。そうでないと、ほら、ハエがたかりますから・・・。「信仰からでていないことは、みな罪です。」(ローマ14:23)愛から出ていないことは、みな罪であって、死んだ行いでしかないのです。ですから、そういうことがないように、私たちは力の限り、見張って、私たちの心を見守らなければなりません。

 

英国にジョン・ウェスレーという伝道者がいました。彼は広く伝道し、多くの書物を書き、すぐれた学者でもありましたが、そのウェスレーが死に臨んだ時、彼はこう言ったそうです。「私は天国に入る何の資格もない」

その場にいた弟子たちはみんなびっくりしました。ウェスレー先生ともあろう人が、不信仰になってしまったのだろうか、先生を信頼してついてきたのに、土壇場になってこんなことを言って、と思ったかもしれません。

しかしその時、ウェスレーは続いてこう言いました。「イエス様が私のために死んでくださったので、私は天国に入れる。」と。

 

これだけの学者であっても、自分の力では天国に入る資格はありません。天国に入るためには、御子イエスを信じなければなりません。信じて、罪を赦してもらわなければならないのです。また、このイエスの血によって神の御霊をいただき、死んだ行いから離れ、生ける神に仕える者とされるのです。

 

あなたは御子イエスの血によって罪が赦されていますか。その御子のいのちを宿すことによって、罪の力から解放され、生ける神に仕えておられるでしょうか。力あるイエスの血を受けてください。そして、あなたも罪から救われ、生ける神に仕える者となってください。お祈りします。

申命記15章

今日は申命記15章から学びたいと思います。イスラエルの民はエジプトを出て約40年間荒野をさまよいましたが、ようやく約束の地の入り口まで導かれました。ここからヨルダン川を渡って約束の地に入ります。そこでモーセは、イスラエルが約束に地に入るにあたり、そこでどうあるべきかをくどいと思われるくらい何回も語るわけですが、5章から11章までにはその原則的なことを、つまり、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよということでしたが、12章からはその具体的なことが教えられています。この15章では、貧しい人、負債のある人、また奴隷に対して、どうあるべきかが語られます。

 

1.負債のある人に対して(1-11

 

まず1節から11節までをご覧ください。ここには、負債のある人たちに対してどうあるべきかが語られています。そして1節には、「七年の終わりごとに、負債の免除をしなければならない。」とあります。どのように免除したらいいのでしょうか。2節には、「貸し主はみな、その隣人に貸したものを免除する。その隣人やその兄弟から取り立ててはならない。」とあります。これは主の命令です。外国人に対しては取り立てることはできますが、同胞であるイスラエル人に対しては、貸しているものを免除しなければなりません。なぜでしょうか。4節をご覧ください。なぜなら、そうすることによって、イスラエルの民の中に貧しい者がなくなるからです。こうすることによって、自分が損をするどころか、主が彼らを豊かに祝福してくださいるのです。

 

これはいったいどういうことでしょうか。これを新約聖書の光に照らしてみると、罪の赦しについて語られていることがわかります。負債を負っているということが、罪を犯したことにおいて語られているからです。もちろん、新約聖書においても、貧しい人に対する施しが勧められていますが、もっと中心的に教えられているのは、罪を犯すことにともなう負債なのです。兄弟があなたに対して罪を犯したなら、あなたはその兄弟の罪を赦してあげなければならないということです。そうすれば、あなたは祝福を受けるのです。

 

マタイ72135節には、もし兄弟が自分に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきかが教えられていますが、主は、七を七十倍するまで赦しなさい、と言われました。もし、心から兄弟を赦さなければ、天の父は、その人を獄吏に引き渡すと言っています。それは、自分自身の罪が主に赦していただいたのにもかかわらず、同じように負債のある兄弟を赦してやらなかったからです。すなわち、このように教えられている背景にあるのは、神の深いあわれみなのです。神があなたを赦してくださったのだから、あなたがたも互いに赦し合わなければならないのです。それができないとしたら、その人は自分がいかに罪深いのかを知らないのであって、その罪を赦していただいたという恵みさえもわからないのです。赦していただいたからこそ、互いに赦し合うことができるのであって、それができないということは、本当の意味で赦されてはいないのです。主が赦してくださったように、互いに赦し合うとき、主は、必ずその人を祝福してくださるのです。それがどのくらいの祝福なのかは、5節と6節に期されてあります。彼らがそのように兄弟の負債を免除するなら、彼らは多くの国々に貸すが、借りることはありません。また彼らは多くの国々を支配しますが、支配されることはないのです。

 

7節から11節までをご覧ください。ここには、貧しい兄弟に対して、心を閉ざしてはならない。またその手を閉じてはならないとあります。心に邪念を抱き、第七年目が来た、すなわち、免除の年が来たと言って、貧しい兄弟に物惜しみして、何も与えないというようなことがないように気を付けなければなりません。進んでその手を開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならないのです。心に未練をもってはなりません。このことのために、主は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださるからです。別にそれはお金だけのことではありません。私たちの生き方そのものなのです。このみことばに従って、私たちが心を開き、手を開いて、惜しみなく与えるなら、主は必ず祝福してくださるのです。

 

今回のさくらの会堂建設を通して、私はそのことをとても強く示されました。昨年の夏にアメリカに行ったとき、ある結婚してまだ23年しか経っていない若い夫婦の家に泊めてもらいました。彼らとは以前から知っていましたが、それほど親しくしているわけではありませんでした。しかし、私たちが教会を訪問したとき、私たちのためにその家を開放してくれただけでなく、あとで、結構多額の献金をしてくれました。こんなに献金して大丈夫だろうかと心配したほどです。

すると、私たちが帰国してから彼からメールがあり、こんなことが書いてありました。私たちのためにささげることができたことを感謝しています。そして、主は本当に忠実な方です。あの後で会社の上司からオフィスに来るようにと言われたので行ってみると、「君はよく仕事をしていて、成績もいいので、ボーナスをあげる」と言われました。それが何と私たちに献金した額とちょうど同じ額だったのです。彼はそれを聞いて、本当に主はすばらしいとほめたたえましたが、そうした彼らの生き方を、主が祝福してくださったのでした。

 

それから1月末にどうして足りない時に、私たちは祈っていました。このままでは会堂も立ちませんから、主よ、私たちをあわれんでください。必要を満たしてくださいと祈っていたのです。すると、ある方からメールがあって、彼のために、わざわざ本を送ってくれてありがとう。実は、少し前に兄弟がなくなってその遺産を相続したことで自分の借金を全部支払うことができました。残りはさくらの会堂のためにささげますと言って、送ってくださったのです。それが、私たちが必要と祈っていた金額とちょうど同じだったのです。うそみたいなホントの話です。

「あれっ」私たちは彼のために何をしたかなぁと振り返ってみたら、私たちがアメリカに行ったとき、彼の妻のお母さんが日本人で、どのように伝道したらいいかわからないので教えてほしいと言われたので、三浦綾子さんの本を読むといいと思うとアドバイスしました。そして帰国後、私は彼のことを思い出し、アマゾンで三浦綾子さんの本を3冊注文して送ったのでした。まさか、そんなことで献金してくれるなんて思ってもいませんでした。でも、その手を開き、その心を開いて、貧しい人に施すなら、神は豊かなに祝福してくださるのです。

実は、これには続きがありまして、献堂式のニュースレターを送ったところ、そのお母さんが行っているかどうかはっきりわかりませんが、二人の孫がローリングヒルズ日本人教会に行くようになったととても喜んでいました。これは奇跡だ!、これは奇跡だ!・・と。そうです、それは奇跡です。それは彼が心を開いて惜しみなく施したので、主はそのような彼の祈りに答えてくださったのです。

ですから、これはお金だけのことではないのです。私たちの信仰、私たちの生き方が問われているのです。私たちの心を開き、その手を開いて、惜しみなく施すなら、惜しみなく赦すなら、主は必ず祝福してくださるのです。それは主が私たちを赦し、ご自身の尊いいのちを与えてくださったからです。

 

2.ヘブル人の奴隷の解放(12-18

 

次に12節から18節までをご覧ください。ここには、ヘブル人の奴隷を解放するように命じられています。12節には、「もし、あなたの同胞、ヘブル人の男あるいは女が、あなたのところに売られてきて六年間あなたに仕えたなら、七年目にはあなたは彼を自由の身にしてやらなければならない。」とあります。しかも、「彼を自由の身にしてやるときは、何も持たせずに去らせてはならない。必ず、あなたの羊の群れと打ち場と酒ぶねのうちから取って、彼にあてがってやらなければならない。あなたの神、主があなたに祝福として与えられたものを、彼に与えなければならない。」(13-14なぜでしょうか?その理由が15節に書いてあります。それは、彼らがエジプトの地で奴隷であったことを彼らが思い出し、そうした状態から解放されたことを覚えるためです。これはいったいどういうことでしょうか。

 

この奴隷であったとか贖い出されたということも、新約聖書においては罪との関係で語られていることがわかります。最初の人が悪魔の誘惑に陥って罪を犯して以来、人は悪魔の奴隷となってしまったということ、そしてその罪の支配下の中にいると、聖書では教えています。罪を犯さなければならないという、罪の奴隷となっているのです。しかし、キリストが十字架につけられ、よみがえられたゆえに、キリストに結びつけられた私たちも、罪に対して死に、キリストに対して生きる者とされました。ですから、もはや罪に従う必要はなくなり、罪から自由にされたのです。ですから、私たちは、罪を赦された者だけではなく、罪の力からも解放された者なのです。

 

 私たちが聖なる民として生きるときに、このことはとても重要なことです。私たちは互いに赦し合わなければなりません。罪の赦しがなければならないのです。また、罪の力に支配されることなく、御霊によって支配されていなければなりません。霊的に、罪の負い目を持っていたり、罪の支配下にあってはならないのです。確かに罪を犯さずには生きていくことはできませんが、だからといって罪を犯そうというのではなく、御霊の力によって、罪から自由にされていなければならないのです。それが神の民の特徴であり、この世とは異なる、この世とは分離された、クリスチャンの姿でもあるのです。

 

3.牛と羊の初子について(19-23

 

次に19節から終わりまでをご覧ください。こうして、奴隷を解放しなければいけないという教えに続いて、牛と羊の初子はどうしたらよいかが教えられています。19節と20節には、「あなたの牛の群れや羊の群れに生まれた雄の初子はみな、あなたの神、主にささげなければならない。牛の初子を使って働いてはならない。羊の初子の毛を刈ってはならない。主が選ぶ場所で、あなたは家族とともに、毎年、あなたの神、主の前で、それを食べなければならない。」とあります。これはどういうことでしょうか。

 

神は常に、「初めのもの」をご自分にささげるようにと命じておられます。アベルは、初子の子羊を主にささげ、それが受け入れられました。そして出エジプト記で、ここにあるように、家畜の初子は、主のものであると宣言されています。レビ人は、これら初子の代わりに取られたものであると、民数記には書かれています。収穫も初物を主におささげします。なぜ初めのものかというと、それはもっとも大切なもの、優先されるものだからです。彼らが主を自分たちの神としているかどうかの指標は、彼らのものの中で初めのものを主におささげしているかどうかで測られます。口ではどんなに、「私は主を愛しています」と言っても、残りものを主にささげるのであれば、その言葉には真実さがありません。なぜなら、第一のものを第一にしていないからです。

 

私の家はもともとキリスト教ではなく仏教なはずですが、どういうわけか、給料を初めてもらったときに母は、「いいがい。初物は神にささげんだよ。」と言いました。別にささげても、ささげなくてもどうでもいいんじゃないかと思いましたが、言われるままにしました。それは、神を神として敬うことの表れだったんだなぁと、あとで思うようになりました。だから、初物を神にささげるという行為は、自分の最も大事なものを主にささげることでもあるのです。それが命じられているのです。なぜでしょうか。

 

なぜなら、主は最も大切なものを私たちにおささげになったからです。それはご自分のひとり子イエス・キリストです。キリストは、コロサイ書1章15節から読みますと、万物の前におられた初めの方であり、この方によってすべてが造られ、この方のためにすべての物が造られました。また、死者の復活においても、この方が初めであり、すべてのことにおいて「初め」の方、長子であられる方なのです。その方をささげてくださいました。キリストは神にとって初物なのです。

 

だからここに、牛の初子を働かせたり、羊の初子の毛を刈ってはならないと命じられているのです。また、この初子をもって礼拝し、家族とともに食べなさいと命じられているのです。この初物こそまさに神の御子イエス・キリストだからです。このお方をないがしろにせず、礼拝の対象にしていきなさい、という意味なのです。私たちがこの方を教会のかしらとし、この方と交わりを持つことが、もっとも大切なことなのです。余ったものではだめです。自分の思いや、自分の考えを最初にありきではだめなのです。まず神の御子をもって礼拝し、この方を仰がなければなりません。これが、私たちが神の民、聖なる国民であるゆえんです。キリストを礼拝しているのか、そうでないかによって、人が聖なるものかそうでないかが区別されます。ですから、私たちの間に、罪の赦しがあり、罪の力からの解放があり、そして主イエス・キリストが礼拝されている、中心になっていることが、教会の姿であり、聖なる民であると言うことができるのです。

 

21節をご覧ください。初物に欠陥があってはなりませんでした。これは、神に受け入れられるささげものは完全でなければいけないという意味です。すなわち、神の御子イエス・キリストだけが、罪の供え物として完全な方なのです。私たちはこの方にあって罪の赦しをいただき、互いに赦し合うことができます。この方にあって罪の奴隷から解放されました。この方にあって、自ら進んでしもべとなることができます。この方だけが神の初物であり、完全な神のいけにえなのです。私たちはこのイエス・キリストにあって、イエス・キリストを中心として生きるとき、神に喜ばれた歩みがまっとうできるのです。

ヘブル8章1~13節 「新しい契約」

きょうは、ヘブル人への手紙8章から学びます。タイトルは、「新しい契約」です。聖書では「契約」ということをとても重んじています。私たちの持っている聖書も「旧約聖書」と「新約聖書」という神との契約から成り立っています。しかし、きょうの箇所に出てくる「初めの契約」とか「古い契約」というのは旧約聖書のことではありませんから、注意が必要です。きょうの箇所に出てくる「古い契約」とは9節に、「それは、わたしが彼らの手を引いて、彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約のようなものではない。」とあるように、彼らがエジプトから導き出された後にあのシナイ山で結んだ契約のことであり、律法のことです。それは一種の双務契約のようなもので、一方がその契約に違反すれば、たちどころに反故になってしまう性質を持っていますが、新しい契約はそのようなものとは違います。新しい契約は、たとえ私たちが神との契約を守ることができなくとも、イエス・キリストを信じることによって、そのすべての罪が赦され、救われるというものです。これが福音です。良い知らせです。なぜこれが良い知らせなのかというと、私たちの行いとは全く関係なく神の一方的な恵みによって救われるからです。ですから、この新しい契約というのは、私たちと神様との根本的な関係の変革を意味するとても重要な内容なのです。きょうは、この新しい契約について三つのポイントでお話したいと思います。

まずこの契約の仲介者であられるイエス・キリストについてです。第二のことは、古い契約とはどのようなものかということ、そして第三のことは、では新しい契約とはどのようなものかについてです。

 

Ⅰ.さらにすぐれた契約の仲介者(1-6)

 

まず1節から6節までをご覧ください。1節と2節をお読みします。

「以上述べたことの要点はこうです。すなわち、私たちの大祭司は天におられる大能者の御座の右に着座された方であり、人間が設けたのではなくて、主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方です。」

 

「以上述べたこと」とは7章で語られていたことで、イエス・キリストはメルキデゼクに等しい大祭司であるということです。どういう点で等しかったのでしょうか。まず、「メルキデゼク」という名前の意味ですが、これは「義の王」という意味でした。義、救い与えることができる方、救い主という意味です。そして、彼はサレムの王でしたね。サレムというのはエルサレムのことで、それは「平和の神」という意味でした。だから、メルキデゼクは義なる方であり、私たちに救いをもたらすことができる方です。そして、その結果として、私たちの心に真の平和を与えることができる方です。そればかりではありません。彼には母もなく、系図もありませんでした。その生涯の初めもなく、いのちの終わりもありませんでした。本当はメルキデゼクには母もいて、系図もあって、その生涯の初めも、終わりもありました。でもそれを書く必要がなかったのです。なぜなら、このメルキデゼクという人物はイエス・キリストのひな型だったからです。イエス・キリストがどういう方であるのかを表していたからです。一般の祭司ならイスラエル12部族の中のレビ族から選ばれましたがイエスはユダ族の出身ですから、キリストはそうした一般の祭司とは次元の違うもっとすぐれた祭司なのです。また、キリストは死んで終わりませんでした。キリストは死んで三日目によみがえりました。そして、天に昇られ、神の右の座に着座されたのです。ですから、今も生きて、私たちのためにとりなしていてくださるのです。キリストは永遠に生きておられる神の祭司なのであります。

 

これが7章で語られていた要点です。すなわち、私たちの大祭司であられるキリストは天におられる大能者の右の座に着座された方であり、人間が設けたのではない、主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方なのです。主が設けられた真実の幕屋とは天国のことです。皆さん、これが天国の姿です。天国では大能者である神の右の座に神の子であるキリストが座って仕えておられるというのです。この「仕えておられる」という言葉は「レイトゥールゴス」というギリシャ語で、「礼拝の務めをする」という意味です。10章11節には「礼拝の務めをなし」と訳されています。昔、イスラエルの祭司たちが幕屋である聖所で礼拝の務めをしていたように、キリストは天国で大祭司としてまことの礼拝の務めをしておられるのです。私たちは時々、天国ってどういうところかなぁとか、天国に行ったら何をするんだろうと想像することがありますが、ここにはっきりと天国がどういう所なのか、そこでどんなことをするのかが書かれてあります。つまり、天国は礼拝が行われているのです。しかも私たちが毎週日曜日に行っているような1時間そこそこの礼拝ではなく、いつも、いつまでも、ずっと続く礼拝です。いくらすばらしい礼拝でもそんなに長かったら疲れるんじゃないですか?と思う人もおられるかもしれませんが、天国での礼拝は疲れるどころかもっと喜びと平安に満ち溢れます。なぜなら、そこに神がおられるからです。神に造られた人間にとって最もすばらしいこと神とともにいるときです。天国では永遠に神が共におられます。だから疲れることも、たゆむこともないのです。人間のすることは、必ず初めがあって終わりがあり、いくらすばらしい行事でも長すぎれば疲れてしまいますが、この天における礼拝はそういうものではありません。それは、私たちがこの地上でもよく体験していることでもあります。一人で主の前に祈っているときや、何千、何万人の人たちと賛美する時に、もう何もいらないと思うような思いになることがあります。

 

私は数年前にアメリカコロラド州にあるコロラドスプリングにある大きな教会に行ったとき、そこには五千人くらいでしょうか、もっといたかもしれません。大勢人たちが声を合わせて賛美している中にいたとき、震えるほど感動したのを覚えています。たった五千人でもそうなのですから、万の幾万倍もの人たちが一緒に礼拝したら、それはどんなにすばらしい礼拝かと思います。もうそこから離れたいと思えないくらいの感動で心が満たされるのではないでしょうか。でもそれはこの天国の礼拝の前味にすぎません。天国ではもっとすばらしい礼拝がいつもささげられているのです。

 

使徒ヨハネはこの天国の様子を神の聖霊によって啓示が与えられ、このように語っています。黙示録5章11~14節です。

「また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。」

そこでは、天と地と、地の下と、海の上のすべての被造物が、神と、小羊、これはキリストのことですが、「賛美と栄光と力がとこしえにあるように。」というと、四つの生き物がアーメン、アーメンと何度も言い、長老たちはひれ伏して拝んでいました。そこにはあらゆる国々の、あらゆる時代の、万の幾万倍というクリスチャンたちが声を合わせて主を賛美しているのです。もう感動で震えることでしょう。そこから離れたいなんて思うこともないのです。そのためにキリストは大祭司として、とりなしの祈りをささげておられるのです。これが天国です。

 

そのことから教えられることは、礼拝ということがどんなに大切であるかということです。私たちは礼拝をどれだけ重要なものと位置づけているでしょうか。もちろん、それは日曜日に持たれている礼拝ばかりでなく、個人礼拝ともいうべき毎日のディヴーションを含めてのことです。そして何よりも私たちが毎日、この主を礼拝するという姿勢で生きることの重要性です。礼拝というのは何よりも神中心であり、神をあがめるわけですから、毎日の生活において、私たちがどれだけ神を意識して生活しているかが問われていると言うことができるでしょう。

 

このように言うと、中には、「牧師はいいですよ。毎日神様のことだけを考えて生活しているわけですから。でも我々のように毎日この世にどっぷりと浸かっているものにとって、神様のことを考えていたら仕事になりませんよ。」と言う方がおられます。本当にそうでしょうか。逆です。もしあなたが神の前にひれ伏し、神を礼拝するなら、神から恵みを受けることができるのです。それなのに、もし信仰というものをこのように二元論的に捉えてしまうなら、せっかくのすばらしい神の恵みや力を体験することができなくなってしまいます。ただ頭だけの、ただ知識だけの信仰にとどまってしまうわけです。しかし、私たちはみなこの地上においては世俗的なものの中に生きていますが、その生きる力は決してこの世のものから来るのではなく、永遠の神の国、つまり、この天国から来るのです。もう一度言います。私たちの生きる力はこの世のものから来るのではなく、永遠の神の国、天国から来るのです。ですから、神の国とその義とを第一にしなければなりません。そうすれば、それに加えてすべてのものは与えられます。この神の力によらないで、自分の力、自分の考え、自分の思いで生きるなら、あなたはいつまでも失敗したり、敗北したりするでしょう。しかし、そのようにならないようにいつも祈っていて下さる方がいます。それが主イエス・キリストです。キリストは永遠に祭司の務めをしておられるからです。ですから、この方を無視して、勝利ある人生を歩もうと思ったら、それは全く意味のないことであり、何の力もありません。イエス様を通して神を礼拝することによって、私たちには計り知れない神の恵みと力が与えられるのです。それが6節で言われていることです。

 

あなたは何を拠りどころとして生きておられますか。天の神を仰ぎ、この神を礼拝して、神の力を求めておられますか。それとも、この地上のものに振り回されてはいないでしょうか。「天の神ご自身が私たちを成功させてくださる。」とみことばにあります。この神を礼拝し、この神から力をいただいて、日々歩ませていただきたいものです。

 

Ⅱ.初めの契約(7-9)

 

次に、7節から9節をご覧ください。ここにはなぜイエス・キリストなのかということが述べられています。そしてそれは、あの初めの契約に欠けがあったからです。もし欠けがなかったら後のものは必要なかったのです。あの初めの契約とは何でしょうか。それは先ほども述べたように、イスラエルがエジプトから解放された後にシナイ山で与えられた律法のことです。あの律法には欠けがあったんです。どういう点で欠けがあったのかというと、それを守らなければ契約は成立しないということです。なぜなら、それは一種の双務契約のようなもので、一方がその契約に違反すれば、たちどころに反故になってしまうという性質のものだったからです。でもどうでしょう。彼らはそれを守ることができたかというとそうではなく、どんなに守ろうと努力しても守ることができませんでした。それは彼らが罪人であったからです。それは彼らだけではありません。私たちもそうです。人はみな罪人であり、神の律法を守り行うことなどできないのです。それはローマ3章10節以下のところにこのように書かれてあるとおりです。

「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10-12)

 

それならば、なぜ神は彼らとそんな契約を結ばれたのでしょうか。それは、このような律法を与えることによって、自分たちはそれを守ることができない罪人であるということを悟らせるためでした。つまり罪を自覚させるためだったのです。このことがわからないと救いがわかりません。神の恵みがどういうものかがわかりません。ですから、神は最初からそのことをご存じで、預言者を通して新しい契約を結ぶということを語っておられたのです。それが8節と9節のことばです。ここに引用されているのは旧約聖書にあるエレミヤの預言です。ここで主は預言者エレミヤを通して、主がイスラエルと新しい契約を結ぶ日が来ると言われました。それはかつて彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだあのシナイ契約のようなものではありません。そのような契約を結んでも、彼らは守ることができないので何の意味もないからです。ただ自分は神の律法を守ることができないという罪責感に悩むだけです。でも必要なのは、その罪が赦されることです。ではどうしたら罪が赦されるのでしょうか。そのために神が与えてくださったのが新しい契約です。

 

Ⅲ.新しい契約(10-13)

 

10節から13節をご覧ください。ここには、この新しい契約がどのようなものなのかが三つの点で説明されています。

 

第一に、それは神の律法が私たちの心に書き記されるということです。10節にはこうあります。「わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。」彼らの心に律法を書きつけるとはどういうことでしょうか。モーセが神の律法をイスラエルの民に語ったとき、その教えは石の板に書きしるされました。イスラエル人はこの石の板に刻まれた神のみことばを自分の行いによって守ろうとしましたが、それを守ろうとすればするほど守れない自分にジレンマを抱えていました。

 

しかし、新しい契約は違います。新しい契約は、私たちがキリストを信じることによって、私たちの罪がキリストの血によって聖められ、神の御霊が注がれるというものです。イエス・キリストを信じることで、神ご自身の聖霊が私たちの内に入ってくださるのです。それでこの聖霊が私たちのうちにとどまっておられ、聖霊が私たちに語りかけてくださるのです。そして、この聖霊によって神のみことばを悟り、それを行うことができるようになるのです。これが神の律法を彼らの心に書きつけるということです。ですから、人はこの新しい心が与えられることによって救われるのです。それは救い主イエスを信じる信仰によってなのです。

 

昨日、さくらでオープン記念のコンサートが行われました。ものすごい感動でした。何が感動したかって、蜷川さんの全身から溢れる魂の演奏にです。いったいどこからそんな力が出てくるんだろうと思っていたら、ご自身が救われた時の証をしてくださいました。高校の音楽科、音大を出てフランスへ留学したのですが、自分がどんなに一生懸命に演奏しても全然先生に認めてもらえないのです。どうしてだろうと悩んでいた時、ある方から一枚のトラクトをもらうのです。そこにはイエス・キリストが私のために十字架にかかって死なれたこと、三日目によみがえられたこと、そして天に昇り神の右の座に着かれ、今も生きてとりなしておられることが書かれてありました。そして、教会に行って話をきくうちに、自分から音楽を取ったら何があるんだろう、いったい何のために音楽をしているんだろうと考えていくうちに、それは自分のために十字架に死んでくださり、自分の罪を取り除いてくださった神様のためだということがわかるんですね。それが、彼女が演奏をする目的であり土台になったのです。それが昨日の演奏に表われていたんですね。昨日は20~30人の新来者がおられましたがが、本当にみんな感動していました。その中にコリーナ矢板というところの山奥から来られた方かせおられましたが、「もうお話を聞いていてとても感動しました。私、一人なんです。親戚もだれもいなくて孤独なんです。いるのは2匹のねこちゃんだけで、チラシを見てきょうは楽しみにしていたのですが、ほんとうに良かったです。」と言われ、きょうの礼拝にも来ますと言って、帰って行かれました。

 

これが私たちの信仰です。これまでは石の上に刻まれた律法に捉われて生きてきたのですが、イエス様を信じたら、イエス様を信じて聖霊が与えられたら、この神の聖霊の恵みと力によって生きるようになったのです。それは心の奥底からあふれ出る喜びです。

 

第二に、新しい契約はすべての人が神を知るようになるということです。11節には、「また彼らが、おのおのその町の者に、また、おのおのその兄弟に教えて、「主を知れ」ということは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。」

とあります。どういう意味でしょうか。彼らは自分の隣人に、また、それぞれその同胞に、「主を知れ」と言って、教えることは無くなるということです。なぜなら、どんな人でも、神を知るようになるからです。

 

私は牧師として、こうして毎週みことばを語らせていただいておりますが、人々に神を知ってもらうということは本当に難しいことだなぁと感じることがあります。神についての知識をただ伝えるだけであれば、それほど難しくないかもしれませんが、本当に神を知るということは知識ではないからです。それはたとえば、毎週礼拝に出席し、信仰生活に熱心に励んでいるような人でも、ちょっとした生活上の問題や何らかの躓きによって信仰から離れてしまったり、「神がいるなら、なんで自分がこんな苦しい目に遭わなければならないのか」と言ってつぶやいたり、嘆いたりすることからもわかります。本当に神を知っているなら、そのようなことはないからです。もちろんそれは人間の弱さから来ているのは確かですが、根本的な原因は神をどれだけ知っているかということなのです。

 

しかし、神が人に新しい心を与えてくださると、小さい者から大きい者まで、みんな神を知るようになります。そして神がその人の心を新しくしてくださり、神のみこころに歩み、自分で何かを一生懸命にしようとするよりも、神の御業を期待するようになるのです。

 

新しい契約の第三の特徴は、罪を拭い去ってくださるということです。12節には、「なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」とあります。完全な罪の赦しの宣言です。罪を思い出さない、と主は言われます。皆さんの中で、過去の罪で思い悩んでいる方はいますか。主はその罪を赦してくださいます。赦してくださるというだけではありません。ここには、彼らの罪を思い出さない、とあります。なぜでしょうか。なぜなら、キリストが十字架につけられとき、あなたのすべての罪を身代わりとなって負ってくださったからです。その十字架の死によって、信じる人々の罪を赦してくださいました。あなたがイエス様をあなたの罪からの救い主として信じるなら、あなたの過去罪も、現在の罪も、未来の罪もすべて赦されているのです。初めの契約ではそうではありませんでした。いつも罪が思い出されました。年に一度、贖罪の日があって、たくさんの動物がいけにえとしてささげられ、その動物の犠牲によって罪が赦されました。しかし、またすぐに罪を犯してしまうのです。ですから、いつも罪が思い出されました。そして、毎年、毎年、罪が赦されるための動物がいけにえとしてささげられていたのです。

 

しかし、キリストはあなたの身代わりとして十字架で死んでくださいました。やぎや羊の血が人々の罪を聖めることができるなら、まして神の子であるキリストの血はどんなにか人々の罪を聖めることができることでしょう。そうです。あなたがイエス様を救い主と信じるなら、その罪はもう二度と思い出されないのです。

 

しばらく前に「私の頭の中の消しゴム」という韓国の映画が放映されました。これは若年性アルツハイマーにかかった女性とその夫の話です。年をとってから物忘れをするというのはよくあることですが、若くして物忘れがひどくなる病気は大変辛いものがあります。ご主人のことさえも忘れてしまうのです。「あれっ、あなただれだっけ」となる。その時彼女がこうつぶやくのです。「私の頭の中には、消しゴムがあるんだって・・。」

この映画の基調は「赦し」だそうです。自分を捨てた母親を赦せないで苦しんでいた夫にこの若い妻が赦しのメッセージを語るのです。この作品を製作した監督はクリスチャンで、この映画を通して、赦しの大切さを伝えたかったのでしょう。そして、イエス様はそれをしてくださいました。イエス様が十字架にかかって死んでくださることによって、十字架で、「父よ、彼らを赦してください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」と祈られることによって、私たちの罪を全部忘れてくださったのです。

 

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

 

神様はそのひとり子をこの世に送り、十字架につけることによって、その約束を完璧に行ってくださいました。それほどに私たちを愛してくださったのです。あなたがイエス様を信じるなら、あなたがたとえ神との契約を守れないようなものでも、守れなくてすぐに罪を犯してしまうような弱い者でも、神はあなたを赦してくださるのです。これが新しい契約、神の福音です。新しい契約の大きな特徴はここにあります。最初に言いましたが、古い契約はいわば双務契約だと言いましたが、新しい契約は双務契約ではなく、神の愛と真実に基づく一方的な祝福の約束なのです。これは遺言と同じで、一方的なもので、双方の合意に基づくものではありません。しかも、それを受ける人にとって不利になるものは無効ですから、有利になるものだけが有効となります。キリストは十字架で死なれることによって有利どころかすばらしい祝福の約束、罪からの救いを与えてくださいました。それはキリストが十字架で流された血によって署名捺印された遺言状なのです。だから信じる人はその遺言状の通りに救われ、罪が赦され、永遠のいのちを得ることができるのです。

 

ですから、もう律法を守らなければというあの古い契約に戻らないようにしましょう。また天国に行くためにもっと善いことをして、天国への階段を上っていこうなどという考えを捨てて、神の恵みによって用意されたキリストの十字架の死と復活を通して成し遂げられたキリストの救いを受け入れ、今も生きておられるキリストの恵みによって生きる者でありたいと思います。

 

皆さんはどうですか。この神の恵みから離れ、いつしか律法という古い契約に戻っていることはないでしょうか。自分の思い、自分の考えが優先されて、そこに逆戻りしていることはないでしょうか。キリストの十字架以外にあなたを救うことができるものは何もないのです。

申命記14章

今日は申命記14章から学び思います。申命記は英語でDEUTERONOMYと言いますが、「二度語る」という意味です。神はモーセを通して、これから約束の地に入るイスラエルに対して彼らが守るべき教えと定めを二度語るのです。いいえ、何度でも繰り返して語っています。それはなぜでしょうか。私たちはすぐに忘れやすい存在だからですね。だから、忘れないように、こうして何度もなんども語っているわけです。そしてその中心は何だったかというと、6章4-5節にあったように、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神であると主を愛しなさい、ということでした。それが11章まで語られて、12章からは、それを妨げる要因にどんなものがあるのかを具体的に語っています。12章はついて、主が選ばれた場所で礼拝をささげるようにと勧められていました。主が選ばれし場所には主の御名が置かれているからです。ですから、主を愛し、主を礼拝する者は、主の御名が置かれている場所に集まって共に主を礼拝することが求めてられているのです。人数が問題なのではありません。主は、二人でも、三人でも、私の名によって集まるところに私はいると言われました。二人でも、三人でも、主の名が置かれた所、当時、それは主の幕屋でしたが、そこで礼拝をささげなければなりませんでした。

そして前回の13章には、彼らは、自分たちのうちから他の神々に仕えるようにそそのかす者があったらどうしたらよいかということが教えられていました。そして、そのような者がいたら、必ず処罰しなければならないということが教えられていました。それがたとえあなたの兄弟、しまい

娘、愛妻、無二の親友であってもです。あるいは、その町の者全員がそうなってもです。その場合はその町とそこにいるすべてのものを剣の刃で聖絶しなければならないとありました。なぜなら、彼らは主によってエジプトの奴隷の状態から救われた者であり、主に従うこと、主を愛することが、彼らの祝福だからです。そうでなければ祝福はないからです。だから、自分たちにとってどうかということてはなく、主にとってどうか、主にとって良いことで、正しいとこであるならば、その主の教えに従って生きなければならない、ということが語られてきたのです。ですから、きょうの14章も、主を愛するという戒めの中で、語られている命令なのです。

 

1.死人のために自分の身に傷つけてはならない(1-2)

 

まず1節と2節をご覧ください。

「あなたがたは、あなたがたの神、主の子どもである。死人のために自分の身に傷をつけたり、また額をそり上げたりしてはならない。あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。」

 

死人のために自分の身に傷をつけたり、額をそり上げたりというようなことが、異教的な風習として行われていたようです。自分の息子、娘の死を前に悲しみをこらえきれない親の気持ちはわかります。それで命を絶つ人もいるくらいです。ですから、死者のために体を傷つけるという気持ちがわからないわけではありませんが、そのようにしてはいけません。なぜなら、彼らは、主の聖なる民とされたからです。主は彼らを地の面のすべての国々の民のうちから、彼らを選んでご自分の宝の民とされました。その神に従わなければならないからです。悲しみは悲しみとしてしっかりと受け止めつつ、死もいのちも支配しておられる全能の神にゆだねなければならないのです。

 

2.忌みきらうべきものを、いっさい食べてはならない(3-20)

 

次に3節から20節までをごらんください。

「あなたは忌みきらうべきものを、いっさい食べてはならない。あなたがたが食べることのできる獣は、牛、羊、やぎ、鹿、かもしか、のろじか、野やぎ、くじか、おおじか、野羊。および、ひづめが分かれ、完全に二つに割れているもので、反芻するものは、すべて食べることができる。反芻するもの、または、ひづめの分かれたもののうち、らくだ、野うさぎ、岩だぬきは、食べてはならない。これらは反芻するが、ひづめが分かれていない。それは、あなたがたには汚れたものである。豚もそうである。ひづめは分かれているが、反芻しないから、あなたがたには汚れたものである。その肉を食べてはならない。またその死体にも触れてはならない。すべて水の中にいるもののうち、次のものをあなたがたは食べることができる。すべて、ひれとうろこのあるものは食べることができる。ひれとうろこのないものは何も食べてはならない。それは、あなたがたには汚れたものである。すべて、きよい鳥は食べることができる。食べてならないものは、はげわし、はげたか、黒はげたか、黒とび、はやぶさ、とびの類、烏の類全部、だちょう、よたか、かもめ、たかの類、ふくろう、みみずく、白ふくろう、ペリカン、野がん、う、こうのとり、さぎの類、やつがしら、こうもり。羽があって群生するものは、すべてあなたがたには汚れたものである。羽のあるきよいものはどれも食べることができる。あなたがたは自然に死んだものを、いっさい食べてはならない。あなたの町囲みのうちにいる在留異国人にそれを与えて、彼がそれを食べるのはよい。あるいは、外国人に売りなさい。あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。」

 

ここには食べることができるものとそうでないものの区別が記されてあります。食べて良いものはどのようなものでしょうか。牛、羊、やぎ、死か、かもしか、野やぎ、くじか、おおじか、野羊、およびひづめが分かれて、反芻するものです。つまり、足の裏がふくらんでいるもので、例えば、犬や猫は足の裏がふくらんでいますが、ひづめがないため食べることはできません。また、反芻しない動物とは、肉食動物のことです。反芻するのは、草食動物だけです。しかし、反芻するもの、あるいはひづめが分かれているものでも、次のものは、食べてはいけないとされていました。すなわち、らくだです。これは反芻しますが、そのひづめが分かれていないので、汚れたものとされていました。また、岩だぬき、野うさぎ、豚です。これは、ひづめが分かれており、ひづめが完全に割れたものですが、反芻しないので、汚れたものとされました。

 

それでは、ここで言わんとしていることはどういうことなのでしょうか。というのは、イエスさまは、すべての動物はきよい、と言われたからです。また、神はペテロに、「神がきよいと言われたものを、きよくないから食べないと言ってはならない」と言われました。イエスは律法の目的であり、それを成就された方ですから、私たちはイエス様のことばに従わなければなりません。つまり、神がきよいとされたものをきよくないと言ってはならないということです。それは水の中にいるものも、空を飛ぶものも同じです。いったいこれはどういうことなのでしょうか。

 

このように地上の動物の中で食べてよいものと汚れているもの、また、水の中の生き物の中で食べてよいものと汚れたもの、空中を飛ぶものの中で食べてよいものと汚れているものの区別を見ると、なぜ神がそのように言われたかがわかります。それは衛生的な理由もありますが、それ以上にもっと大切な霊的な意味があったからです。それはこの3つに分類された動物について、汚れた動物の共通点を探してみるとわかります。

 

第一に、地上の動物は肉食が汚れているとされている点でん。そして、空の鳥では猛禽類(肉食)が、汚れています。なぜでしょうか?人のいのちは血にあるからです。ですから、神は初めに人を創造されたとき、人も含め、この地上のすべての動物は草食動物だったのです。つまり、神は、どの動物も肉を食べないように創造されたのです。実は、イエスさまが再臨されてからの千年王国においても、熊やライオンが草を食べると預言されています(イザヤ11:6-7)。だから、これが理想の状態なのですが、人が肉を食べるようになったのはノアの洪水後のことです。しかし、そこには一つだけ条件がついていて、それは、「肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。」(創世9:4)ということでした。これは、律法において定められたことですが、たとえ動物を食べるときにも、いのちを尊重しなければならないということです。したがって、神は生き物のいのちをとても大切にされており、ご自分のかたちに造られた人のいのちは、何ものにもまさって尊いものであるということです。

 

ですから、イスラエル人が肉食動物を食べないのは、神が人間や生き物を大切にしているように、自分たちもいのちを大切にしていることの現われなのです。もっと広い意味でいえば人を大切にするということでもあるでしょう。神を畏れかしこんで、人を自分よりも優れたものとみなし、慎み深く生きることでもあります。高ぶったり、無慈悲になったり、そしったり、陰口を言ったりするというのは、それは相手を傷をつけることであり、いわば「血を流す」ことでもあるのです。私たちの社会ではそうしたことが日常茶判事に起こっていますが、でもクリスチャンの間ではそうであってはなりません。そのように相手を食い物にし、相手の心を突き刺すような価値観を持ってはいけません。それを汚れたものとみなし、忌み嫌わなければならないのです。

 

第二のことは、これらの動物はすべて地上に、あるいは水に、直接、接していることです。どういうことかというと、地上の動物で、ひづめが割れているものがきよいとされたのは、足が直接、地面に接していないものです。それに対して、足の裏のふくらみで歩くものは、地面に接しているので汚れているとされました。同様に、水の中の生き物でうろこやひれがないものは、直接水に接するので汚れているとされました。あるいは、水底に接しているものもそうです。四つ足の這うものは、もちろん地面に接していますが、はね足のある者は、基本的に地の上ではねているだけで、這うことはないので、汚れてはいません。つまり、汚れているかどうかは、地に属しているかどうかで区別されているのです。

 

コロサイ人への手紙3章には、こうあります。「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。…ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。」(3:1-2,5)不品行、汚れ、情欲は地に属するものです。そうではなく、クリスチャンは天にあるものを求めなければなりません。

 

また、ヤコブはこう言っています。「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。…しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」(ヤコブ3:14-17)

 

ねたみや敵対心は地に属しているが、純真、平和、寛容、温順は上からの知恵です。ですから、私たちは、何が汚れているかを見分け、そこから袂(たもと)を断つという決断を、常に行なっていかなければならないのです。パウロは、こう言っています。

 

「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」(Ⅱコリント6:14~18)

 

あなたはどこに属していますか。この地上でしょうか、それとも天でしょうか?私たちは、神の一方的な恵みによってこの世から救い出された者、神の民、聖なる者です。ですから、この世に属するものではなく神に属するものとして、自らを聖別しなければなりません。彼らの中から出て行かなければならないのです。食べてよいきよい動物と汚れた動物の区別の規定が意味していたのは、まさにこのことだったのです。

 

また、ここに「子やぎを、その母の乳で煮てはならない」とあります。これはどういう意味でしょうか。肉と乳製品を一緒に食べてはならないということです。だからユダヤ人はハンバーガーを食べますが、チーズバーガーは食べません。肉と乳製品が一緒だからです。厳格なユダヤ教徒の家では肉料理用の鍋と、乳製品用の料理用の鍋が分けられているそうです。厳格なユダヤ人だとそこまでいつちゃんうんですね。

 

しかし、これはそういう意味ではありません。これは、子やぎをその母の乳で煮て食べると多産になるという異教的な習慣があって、そうした異教の習慣と関わりを持つことがないようにという意味です。実際に、イシュタロテとか、アシュタロテ、バアルといった偶像崇拝においてはこのようなことが行われていました。こうした異教的な習慣ではなく、ただ神の教えと守り、神を愛し、心を尽くして、神に従わなければならないことが言われているのです。

 

3.十分の一をささげる(22-29)

 

最後に22節から29節までを見て終わりたいと思います。

「あなたが種を蒔いて、畑から得るすべての収穫の十分の一を必ず毎年ささげなければならない。主が御名を住まわせるために選ぶ場所、あなたの神、主の前で、あなたの穀物や新しいぶどう酒や油の十分の一と、それに牛や羊の初子を食べなさい。あなたが、いつも、あなたの神、主を恐れることを学ぶために。もし、道のりがあまりに遠すぎ、持って行くことができないなら、もし、あなたの神、主が御名を置くために選ぶ場所が遠く離れているなら、あなたの神、主があなたを祝福される場合、あなたはそれを金に換え、その金を手に結びつけ、あなたの神、主の選ぶ場所に行きなさい。あなたは、そこでその金をすべてあなたの望むもの、牛、羊、ぶどう酒、強い酒、また何であれ、あなたの願うものに換えなさい。あなたの神、主の前で食べ、あなたの家族とともに喜びなさい。あなたの町囲みのうちにいるレビ人をないがしろにしてはならない。彼には、あなたのうちにあって相続地の割り当てがないからである。三年の終わりごとに、その年の収穫の十分の一を全部持ち出し、あなたの町囲みのうちに置いておかなければならない。あなたのうちにあって相続地の割り当てのないレビ人や、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人や、みなしごや、やもめは来て、食べ、満ち足りるであろう。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。」

 

ここには、収穫の十分の一を毎年主にささげるようにと勧められています。なぜでしょうか。それは、彼らが、いつも、彼らの神、主を恐れることを学ぶためです。私たちは自分の大切だと思っていることに時間とお金を費やします。その中で主こそ私たちを罪から救い出してくださった方であり、私たちにとって第一のお方であることを認め、この方を敬い、この方に従っていくことのしるしとして十分の一をささげるのです。ですから、これは決して義務でも、義理でもなく、神がなしてくださったことへの感謝の表われであり、この方によって生かされていることを示す信仰の表明なのです。もしそれが遠くて持っていくことが大変であれば、それをお金に代えてささげることができました。

 

いったいなぜイスラエルに、このようなことが求められていたのでしょうか。それは主への感謝というのはもちろんですが、そのことを通して主と交わりを持つためです。主は何も欠けたところがなく、私たちのささげ物を必要とされていません。神が、これらのささげ物を通して望まれているのは、私たちの「交わり」なのです。つまり、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神を愛しなさい、と言われた、あの命令に従い、神を愛することを求めておられるのです。ささげものはそのための手段にすぎません。その本質は神ご自身を喜ぶことです。私たちはとかく、自分の信仰を霊的、精神的なものだから、このようなささげものは特に必要ではないと考えがちですが、その信仰が本物であれば、喜んで自分を神にささげるようになるのです。時間も、お金もすべてを。私たちはよく霊的な事柄について口で語ることができても、実際の生活の中で、たとえば自分の収入や時間を主におささげしていなければ、それはただ表面的な信仰にすぎないと言えます。このように自分の生活に密着したところにまで、主がおられることを認め、このような実際の事柄について、自分をささげることによって、その信仰が本当に主に喜ばれる生きたものとなるのです。ある意味でこれは神との深い交わりの表われでもあるのです。

 

またここには、あなたの町囲みのうちにいるレビ人をないがしろにしてはならない、とあります。彼らには相続地の割り当てがなかったからです。彼らは主への奉仕に専念するために、その収入となるべき相続地が与えられていませんでした。ですから、他のイスラエル人たちが支えなければならなかったのです。これは新約聖書にも貫かれている教えであり、福音の働きに専念している者たちを、その他の人たちが支えるべきであることが命じられていますが、神の群れがこのみことばに聞き従うなら、どれだけ祝福されるでしょう。そして、教会は10組のクリスチャンがいればこれはそれほど難しいことではないはずです。

 

三年の終わりごとに、その年の収穫の十分の一を全部持ち出し、あなたの町囲みのうちに置いておかなければならない。とあります。それは彼らのうちにあって相続地の割り当てのないレビ人や、彼らの町囲みのうちにいる在留異国人や、みなしごや、やもめは来て、食べ、満ち足りるためです。神は、貧しい者、小さい者にあわれみを施すことを求めておられます。イエス様は、「この小さい者にしたのは、わたしにしたのである。」と言われました。また、「あなたがたも、この子どものようでなければ、神の国に入ることはてきません。」と言われました。この社会の中で貧しい者たち、小さい者たち、弱い者たちを心から受け入れ、彼らのために何ができめかを考えて取り組まなければなりません。なぜなら、そうするなら、「あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。」

ヘブル7章1~10節「こんなに偉大な祭司」

きょうはヘブル書7章から、「こんなに偉大な祭司」というテーマでお話します。もちろん、この祭司とはイエス・キリストのことです。ですから、イエス・キリストはどんなに偉大な祭司なのかということについてお話したいと思うのです。

「祭司」という言葉は私たち日本人にはあまり馴染みのない言葉ですが、

ユダヤ人にとってはだれでもよく知っている言葉でした。そして、とても重要な立場にある存在だったのです。なぜなら、祭司こそ自分たちが神に近づき、神の前に出るためにどうしても必要な存在だったからです。それは神と人との仲介者です。それが祭司でした。そしてここでは、イエス・キリストこそその祭司であることが語られているのです。

 

実は、このテーマについて5章で取り上げられていました。5章6節には詩篇の言葉を引用して、イエス・キリストについて、「あなたは、とこしえに、メルキデゼクの位に等しい祭司である。」と語られましたが、しかし、彼らの耳が鈍くなっていたので、説き明かすことができませんでした。彼らというのはユダヤ人クリスチャンのことです。ユダヤ教からキリスト教に回心したクリスチャンたちのことです。彼らはいろいろな事情でキリストを捨てて、かつての律法中心の生活に戻ろうとしていたので、著者は最後までこの信仰にとどまっているようにと励ますためにこの手紙を書いていたのですが、どうもその耳が鈍くなっていたのです。心が閉ざされていたわけです。

そこでこのヘブル書の著者は、ちょっとその前に・・・と、「キリストの成熟」ということについて語りました。それが5章11節から6章の終わりまでの箇所です。私たちがイエス・キリストを信じるだけで救われたということはすごい恵みです。今までは死んだらどうなるのか、毎日生きていてもその意味がわからない、だから生きる喜びや力なども沸いてこなかったのに、イエス様を信じたことで罪が赦され、神の子とされ、死んでも生きる永遠のいのちが与えられました。そればかりか、神の聖霊が心に宿ったことで、神との交じりが与えられました。それで確かに人生にはいろいろな問題はありますが、しかし、その中にあっても平安と希望を持って生きることができるようになったのです。前回の箇所には、それは「錨の役を果たし」とありましたね。これは希望の錨です。どんな嵐があってもびくともしない希望の錨です。こんなにすばらしい救いは世界中どこをさがしてもありません。これはほんとうにすばらしい恵みです。しかし、この恵みをもっと深く味わうためには、いつまでもキリストについての初歩の教えに留まっているのではなく、それをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか、と励ましてきたのです。

 

そして、ここからまた祭司の話に戻ります。これが10章まで続くのです。イエス・キリストがどんなに偉大な方であるのかということが、祭司の話を通して説明しようとしているのです。きょうはここからキリストがどんなに偉大な祭司であるのかということを、三つのポイントでお話したいと思います。

 

Ⅰ.義と平和の王(1-2)

 

第一に、キリストは義と平和の王です。1節と2節をご覧ください。

「このメルキゼデクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。またアブラハムは彼に、すべての戦利品の十分の一を分けました。まず彼は、その名を訳すと義の王であり、次に、サレムの王、すなわち平和の王です。」

 

ここに「メルキゼデク」という人物が出てきます。この人物については5章にも出ていましたが、キリストのひな型として描かれています。メルキデゼクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でしたが、イエス・キリストもそのような方であるということです。どのような点でキリストはメルキゼデクのようだったのでしょうか。

 

ここには、「このメルキゼデクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でしたが」とあります。サレムとはエルサレムのことです。意味は2節に出てきますが「平和」という意味です。「エル」は神という意味ですから、エルサレムというのは平和の神という意味になります。しかし、彼はただエルサレムの王というだけでなく、すぐれた高い祭司でした。

 

旧約聖書には、王であり、かつ祭司であったというのはこのメルキゼデク以外にはいません。ダビデ王は王であり、預言者でもありましたが祭司ではありませんでした。アロンは逆に祭司でしたが、王ではありませんでした。王であり、また祭司であったのはこのメルキゼデクだけなのです。

 

そればかりではありません。ここには、「アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えました」とも紹介されています。彼はアブラハムの時代に生きていた祭司で、アブラハムが王たちを打ち破って帰って来たとき出迎え、彼を祝福しました。これは創世記14章に書かれてある出来事ですが、アブラハムがカルデヤのウルから神が示してくださったカナンの地に来てから、神が彼を祝福してくださったので、彼は多くの家畜、財産を持つようになりました。するとそこに一つの問題が生じるのです。家畜があまりにも多くなってしまったので場所が狭くなり、甥のロトのしもべたちとの間にいさかいが生じるようになったのです。仕方なく彼らは別々の所に住むようになりました。甥のロトが選んだのはヨルダンの低地でとても潤った土地でした。ソドムという町です。ところが、ある時四人の王たちの連合軍が襲って来て、その町を略奪したのです。そこにはロトとその家族、財産も含まれていました。

それを聞いたアブラハムはどうしたかというと、318人のしもべを引き連れて敵を追跡して打ち破り、ロトとその財産、またロトの家族を取り戻しました。アブラハムが王たちを打ち破ったというのはその出来事のことです。その時アブラハムを出迎え、彼を祝福したのがこのメルキゼデクなでした。

彼らついては、それ以後全く出てきません。ダビデが詩篇の中で、「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」と、やはりキリストがメルキゼデクの位に等しい大祭司であると言及されている以外は、他には出てこないのです。颯(はやて)のように現れて、颯(はやて)のように去って行く月光仮面のような存在です。ところで、皆さんは「颯」という言葉の意味をご存知でしたか。颯というのは風が立つと書きますが、風が吹いてくる音を表しているそうです。そのきびきびとした様子から「颯爽」という言葉が出たようですけれども、いづれにしても、このメルキゼテクはサッと現れてサッと去って行く風のような存在であったわけです。なぜそのような人のことがこんなに大きく取り上げられているのでしょうか。それは神のメシヤが彼のような方であったからです。どういう点で彼のような存在なのでしょうか。

 

2節をご覧ください。ここには、「まず彼は、その名を訳すと義の王であり、次に、サレムの王、すなわち平和の王です。」まず彼の名前を見てくださいというのです。彼の名前は「メルキゼデク」ですが、その意味は「義の王」です。メルキゼデクという名前は、「メルク」と言葉と「ツァデク」という言葉が合わさった名前ですが、「メルク」は王という意味で、「ツァデク」は義という意味です。ですからメルキゼデクという名前は、正義の王という意味になります。それから、先ほども申し上げたように、彼はサレムの王でした。サレムとはエルサレムのこと、意味は「平和」でしたね。その王でもありましたから、平和の王でもあったわけです。つまり、メルキゼデクは私たちに義(救い)を与える王であり、平和を与える王であるということです。これが私たちの主イエス・キリストです。

 

ゼカリヤ9章9節にこうあります。「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」

 

これはやがて来られるメシヤについての預言ですが、やがてあなたのところに来られる王はどのような方でしょうか。この方は正しい方で、救いを与える方です。また、この方は柔和な方、へりくだった方、平和の方で、ろばに乗って来られる方です。しかも、雌ろばの子のろばにです。力強く、颯爽と走り、敵と戦うために用いられる馬ではなく、雌ろばの子のろばといったらもっともか弱い動物の代表でしょう。私たちの救い主はそのようなろばに乗ってこられる方なのです。そして、この預言のとおりに、イエス様が十字架にかかるために最後にエルサレムに入場した時には、ろばに乗って入られました。群集は、「ホザナ、祝福あれ、主の名によって来られる方に‼」と大歓声で迎えましたが、その数日後には、「十字架につけろ、十字架につけろ」という罵声に変わるんですね。人の心はいつもころころ変わるから心というそうですが、しかし、あなたのところにやって来られる救い主は違います。あなたのところに来られる王はあなたに救いを与える方であり、あなたにほんとうの平安を与えてくださる方です。

 

キリストを知るまではほんとうの平安がありませんでした。いつも不安で、何かに怯えているような者でした。楽しいことがあれば喜べても、次の瞬間にはすぐに吹っ飛んでしまうような、吹けば飛ぶような、表面的な喜びでした。どんなに美味しいものを食べても、どんなにいい仕事をしていても、何をしても、心の深い部分で得られるような平安ではありませんでした。しかし、キリストが来られ、私たちの罪、私たちの咎の身代わりとして十字架で死なれ、三日目によみがえってくださったことによって、彼を信じるすべての人に神の救いが、神の平安が与えられたのです。

 

ローマ人への手紙5章1節にはこうあります。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」

イエス・キリストを信じて罪赦された人は、神との平和を持っています。持つかもしれないとか、たぶん持つでしょうと言っているのではないのです。神との平和を持っているのです。イエス・キリストによってこの救いと平和が与えられるのです。それは、環境の変化によって崩れるようなこの世の平安ではなく、何事が起ころうとも微動だにしない超自然的な心の平安です。

 

クリスチャン作家の三浦綾子さんは、直腸ガンの手術を受ける前日のもようを綴っておられます。心臓病もあるので、ひょっとすると術中に召されるかもしれないと思い、遺書を書くことになりました。ところがその時、人知を超えた不思議な平安に包まれ、死の恐れから全く解放されたそうです。イエス・キリストによって与えられる平安はこういう平安です。

 

イエスさまを信じたけど、まだ平安があって・・・・という方はおられますか?心配しないでください。私たちがこの地上にいる限り決して問題が絶えることはないので、そうした問題の渦の中に巻き込まれることがありますが、それでも私たちはこの神との平安が与えられているのです。そして今は祈りによってこれを体験することができます。どんなに心騒ぐことがあっても、心静めて祈るとき、あなたの心に住んでおられる聖霊によって、この神の愛と平安があなたの心を満たしてくださるのです。

ピリピ4章6節と7節にこうあります。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」

 

何とすばらしい約束でしょう。クリスチャンでも悩むことがありますが、問題で心騒ぐこともありますが、それでも祈りによって神の平安を持ち続けることができるのです。キリストは私たちと神との架け橋となってくださいました。ですから、いつでも、どんな時でも、この主を信頼して祈り神の救いと、神の平和を受けようではありませんか。

 

Ⅱ.永遠の祭司(3)

 

第二に、キリストは永遠の祭司です。3節をご覧ください。

「父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。」

 

これはどういうことでしょうか。ここにはメルキゼデクのもう一つの不思議が記されてあります。それは父もなく、母もなく、系図もないという点です。人間であれば父がいたでしょう。母もいたはずです。まあ、いたけど捨てられたということはあったかもしれませんが、ここには父もなく、母もなく、系図もないとあるのは、彼が一般の祭司とは決定的に違う祭司であったということなのです。

一般の祭司なら父がないとか、母がない、系図がないということはあり得ないことでした。なぜなら、律法によれば、祭司はレビ族から出ることが決まっていたからです。他の部族の者が祭司になることはできませんでした。それがはっきりと記されていたのが系図です。その系図がないということは、彼は一般の祭司とは別の次元の祭司だったということなのです。ではどういう次元の祭司だったのでしょうか。すぐれて高い神の祭司です。律法を超えていたのです。彼はアブラハムの時代の人物であり、律法はそれから600年も後に与えられたものですから、そもそも彼の時代には神の律法がありませんでした。そうした律法とは別の、律法よりもはるかにすぐれた祭司がこのメルキゼデクだったのです。

 

そればかりではありません。ここには、「その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司として留まっているのです。」とあります。どういうことでしょうか。メルキゼデクも実在した人であった以上、誕生もし、死にもしたでしょう。それなのに、ここにはそうした記録が全く記されていないのです。それは彼が誕生しなかったとか、死ななかったということではなく、そういうことについて書く必要がなかったということです。なぜなら、彼は神の御子イエス・キリストのひな型として描かれていたからです。つまり、キリストは永遠に、いつまでも、祭司としてとどまっておられる方であるということです。

祭司は普通、死ぬとその働きは終わり次の祭司に引き継がれますが、キリストは死んで終わりませんでした。キリストは死んで三日目によみがえり、天に昇られ、神の右の座に着座されました。そして、今も生きて、私たちのためにとりなしていてくださるのです。キリストは永遠に生きておられる神の祭司なのです。

 

ローマ8章34節には、「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」とあります。

私たちはイエスさまを信じてからもいろいろなことがありますね。家庭の中で、職場の人間関係、この社会の人たちとの関係、教会での人間関係もそうです。突然、小石が飛んできて車のフロントガラスが割れるとか、考えられないことまで起こります。いろいろな問題の中で自分の無力さを感じたり、弱さを感じることもあるでしょう。心が萎えてしまうこともあります。しかし、どんな患難や苦難があっても、何もキリストにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。なぜなら、私たちのために死んでくださった方、いや、よみがえられた主イエスが、天で私たちのために今もとりなしていてくださるからです。私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。だから私たちはこの方によっていつも希望を持って歩むことができるのです。

 

皆さんが辛く、苦しいと感じるとき、どうか思い出してください。皆さんは決して一人ではないということを。イエス様が皆さんとともにいてくださいます。皆さんが倒れないようにととりなしていてくださいます。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、恵みの御座に、イエス・キリストのもとに近づこうではありませんか。

 

Ⅲ.偉大な祭司(4-10)

 

第三に、キリストは偉大な祭司です。4節から10節までをご覧ください。4節には、「その人がどんなに偉大であるかを、よく考えてごらんなさい。族長であるアブラハムでさえ、彼に一番良い戦利品の十分の一を与えたのです。」とあります。メルキゼデクが偉大な人物であったということは、アブラハムが彼に一番良い戦利品の十分の一を与えたことからわかります。アブラハムといったらユダヤ人の始祖です。彼によってユダヤ民族が始まりました。ですから、ユダヤ人にとってアブラハムは民族の父であり、信仰の父でもあるわけです。そのアブラハムがメルキゼデクに十分の一をささげたということは、しかも自分の持っていた戦利品の中から一番良いものをささげたということは、それだけメルキゼデクと言う人物が偉大な者であったということです。

 

ところで、ここには十分の一とか、レビ族といった言葉が出てきますが、これは何のことかというと、イスラエルの民が約束の地に入ったとき、それぞれ12の部族に領地が与えられましたが、レビ族には与えられませんでした。なせなら、彼らの仕事は神に仕え、イスラエルの人々のために祈ることだったからです。そのために12部族のうち1つの部族がその働きに専念したのです。どれだけの人がいたでしょう。かなり大勢の人たちがこの仕事に当たっていたことでしょう。それで、レビ族は領地を持たず、農作物などの収入もなかったので、そのレビ族を支えるために他のイスラエル11の部族がそれぞれ収入の十分の一をささげ物として持って来てささげ、彼らの生活を支えたのです。それほどイスラエルは神に仕えるということを極めて重大な働きと考え、この神を中心に生きていたのです。

しかし、きょうの箇所を見ると、そのイスラエルの始祖であったアブラハムがメルキゼデクに十分の一をささげたとあります。そしてレビ族はそのアブラハムの孫の子どもたちですから、アブラハムがささげたということは彼ら自身もささげたということになるのです。なぜなら、その時点ではまだ彼らは生まれてはいませんでしたが、すでにアブラハムの腰の中にいたからです。ですから、イスラエルの民から十分の一を受ける立場のレビ族でさえもささげたということは、いったいこのメルキゼデクはどんな人物なのか・・・となるわけです。少なくともレビ系の祭司よりも優れていたことがわかります。

 

そればかりではありません。6節と7節を見てください。ここには、レビ系の系図にないはずのメルキゼデクが、神の約束を受けたアブラハムを祝福したのです。いうまでもなく、下位の者が上位の者から祝福されるのです。ということは、ここでアブラハムがメルキゼデクから祝福されたということは、アブラハムよりもメルキゼデクの方が上位の者であったということを意味しているのです。

 

皆さん、祝福するというのは、その祝福がそこにあることを宣言するわけです。よく手紙などに、「あなたのご健康を祈っています」と書いてありながらも、実際には一度も祈ったことがないというのとは全く違います。祝福するというのは、その祝福がそこにあるということの宣言なのです。この礼拝の最後にも祝祷がありますが、それもただの形式ではありません。そこに神の祝福があるという宣言なのであって、とても重いことなのです。私たちは神の祝福がなければ生きることができません。神の祝福があるからこそ、まともに生きることができるのです。私たちは自分の力で頑張って生きているようですが、実際には自分の力というのは微々たるもので、すべては神の祝福によって支えられているのです。私たちがこうやって毎週、週の初めに礼拝のために教会に集まって来るのはその神に近づき、神からの祝福を頂くためです。私たちを罪から救ってくださった主の尊い恵みを覚え、その神に感謝して、その神を礼拝して、その神が私たちを祝福して下さるようにと祈るために集まっているのです。だから神の祝福がなかったら何も始まらないのです。

 

もうすぐさくら市での開拓がはじまりますが、そこでも神の祝福がなかったら何も始まりません。3/12には教会の案内が約4万枚さくら市を中心に新聞折り込みされます。オープニングのコンサートやさまざまなイベントも用意されています。でも、神の祝福がなかったら何の意味もありません。ですから、今度の開所式と献堂式で一番重要なことは何かというと、この神の祝福を求めて祈ることです。どれだけ立派な式をやるかとか、どれだけいいものを提供するかとか、どんなに親切にもてなすかとかといったことではなく、そこに神の祝福があるように、神がさくら市での働きを祝福して多くの人たちを救いに導き、その人たちを通してさらに福音が広がっていき、やがてその地域全体に神の福音が満たされ、神の祝福が満ち溢れるようにと祈るためにするのです。このことをぜひ忘れないで、その奉仕に臨みたいと思うのです。足りないところも多々あるでしょう。うまくいかないことも多いかと思いますが、この神の祝福の祈りの中に、ぜひあなたにも加わっていただきたいのです。

当日は米沢から千田次郎先生が来て記念メッセージをしてくださいます。そこで先生がどんなメッセージをしてくださるかはわかりませんが、私にとって感謝なことは先生がわざわざ来てくださって、神の祝福を祈ってくださるということです。それが一番重要なことだからです。

ちなみに、千田先生は私がまだ20代の時からずっと私たちのために祈って支えてくださっている先生です。この教会の開所式の時にも来てくださいました。その時、私はどれほど慰められ、励まされたかと思うのです。私からみたら先生はメルキゼデクのような人です。そんな先生が来て祈ってくださるということは、どんなに幸いなことでしょうか。ぜひこの中に皆さんも加わって、この神の祝福を共に祈ろうではありませんか。

 

アブラハムはメルキゼデクに十分の一をささげ、このメルキゼデクによって祝福されました。レビ系の祭司のトップといってもいいでしょうアブラハムよりもはるかにすぐれた祭司、それがメルキゼデクでした。そして、これはイエス・キリストのひな型だということを申し上げましたが、ですから、イエス・キリストは旧約聖書の中に出てくるレビ系の祭司よりもはるかにすぐれた方なのです。

 

キリストはあなたのためにこの世に来られ、ご自分の命を犠牲にして、永遠の贖いを成し遂げてくださいました。そして、今も生きてあなたのためにとりなしをしておられます。あなたの祝福を祈っておられます。あなたにどんなことがあろうとも、あなたが倒れることがないようにいつも支えていてくだいます。こんなにすばらしい救い主が他にあるでしょうか。いません。あなたの救い主は、あなたのためにご自分の命さえも捨ててあなたを愛してくださったイエス・キリストだけなのです。この方がいつもあなたとともにいて、あなたを助け、あなたを励まし、あなたを守ってくださいます。このイエスから目を離さないで、しっかりととどまっていましょう。キリストはこんなに偉大な祭司なのです。

申命記13章

今日は申命記13章から学びたいと思います。イスラエルの民はエジプトを出て約40年間荒野をさまよいましたが、ようやく約束の地の入り口まで導かれました。ここからヨルダン川を渡って約束の地に入ります。そこでモーセは、イスラエルが約束に地に入るにあたり、そこでどうあるべきかをくどいと思われるくらい何回も語るわけですが、5章から11章までにはその原則的なことを、つまり、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよということでしたが、前の章からはそのことについてのもっと具体的なことが教えられています。

 

1.預言者、夢見る者(1-5

「あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現われ、あなたに何かのしるしや不思議を示し、あなたに告げたそのしるしと不思議が実現して、「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう。」と言っても、その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。あなたがたの神、主は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、あなたがたの神、主を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられるからである。あなたがたの神、主に従って歩み、主を恐れなければならない。主の命令を守り、御声に聞き従い、主に仕え、主にすがらなければならない。その預言者、あるいは、夢見る者は殺されなければならない。その者は、あなたがたをエジプトの国から連れ出し、奴隷の家から贖い出された、あなたがたの神、主に、あなたがたを反逆させようとそそのかし、あなたの神、主があなたに歩めと命じた道から、あなたを迷い出させようとするからである。あなたがたのうちからこの悪を除き去りなさい。」

 

まず1節から5節までをご覧ください。12章の終わりのところには、彼らが約束の地に入って行ったら、その地の偶像を粉々にするようにというだけでなく、その偶像がどんなものかと興味をもって「私もそうしてみよう」などということがないように、わなにかけられないように注意しなさいとありました。けれともここでは、その地の偶像ではなく、自分たちの中から偶像へと誘い込もうとする悪しき働きに注意するようにと警告されています。それは何かというと、「預言者」と「夢見る者」の存在です。預言者とは、神のことばを語る者ですが、神のことばではなく自分のことば、自分の思い、自分の考えを語る者が出て来て人々を惑わすというのです。それを何というかというと「偽預言者」と言います。あるいは、「夢見る者」とも言われます。彼らは神が語ってもいないことを勝手に語り、人々を神の道から惑わすようなことをするわけです。そんな話に惑われるなんてバカじゃないかと思うかもしれませんが、彼らは羊の身なりをしてやってくる狼なので、なかなかその正体に気付きにくいのです。特に、何かのしるしや不思議を示すので、人々は「この人はほんとうの預言者だ」とだまされてしまうのです。それだけ人は見えるものに弱いんですね。何だか特別な力があるかのように感じてしまいます。何を言っているかわからない聖書を学ぶより、目に見える不思議なことや、心にぐっとくるものを求めがちなのです。そして、ヤハウェなるまことの神ではなく、他の神々へと、他の道へと、偶像礼拝へと人々を導こうとするのです。

 

それは神の教会の中でも同じです。偽預言者や偽教師が現れては超自然的なことや顕著な働きをして、人々を神のみこころから遠ざけてしまうのです。とはどちらかというと魅力的なことに心が奪われやすいですから、どうしてもそっちの方に傾きやすいのです。しかし、ここが勝負です。なんらしるしもないただ神様を信じ続けることは忍耐が試されますが、そのときこそ、自分が本当に主を愛しているかどうかがわかるのです。たとえ自分の思いとは違っても、たとえ他の人が自分と違うことをしていても、それでも神のみこころは何かを判別し、そこに立ち続けていかなければなりません。心を尽くし、精神を尽くして、あなたの神である主を愛さなければならないのです。

 

5節には、そのような者たちに対する厳しい処罰が記されてあります。なぜそんなに厳しく言われているのでしょうか。なぜなら、これがイスラエルのいのちにかかわることだからです。彼らが神からそれて別の神に向かうなら、彼らは滅んでしまうからです。

 

そういう意味では、このことは私たちも注意しなければなりません。私たちは偶像を拝むということはしないかもしれませんが、本当の神以外のものを神にしてしまうこと、すなわち、そういう意味での偶像があるのではないでしょうか。聖書が何と言っているかというよりも、あの人はこう言ったとか、この本にはこう書いてあったとか、自分はこう思うと言って、神の道からそれていることがあるのです。自分でも気づかないうちに・・・。これがキリスト教だと思いこんでいることがあります。気を付けたいものです。

 

2.家族が誘っても(6-11

 

次に節から11節までをご覧ください。

「あなたと母を同じくするあなたの兄弟、あるいはあなたの息子、娘、またはあなたの愛妻、またはあなたの無二の親友が、ひそかにあなたをそそのかして、「さあ、ほかの神々に仕えよう。」と言うかもしれない。これは、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった神々で、地の果てから果てまで、あなたの近くにいる、あるいはあなたから遠く離れている、あなたがたの回りの国々の民の神である。あなたは、そういう者に同意したり、耳を貸したりしてはならない。このような者にあわれみをかけたり、同情したり、彼をかばったりしてはならない。必ず彼を殺さなければならない。彼を殺すには、まず、あなたが彼に手を下し、その後、民がみな、その手を下すようにしなさい。彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。彼は、エジプトの地、奴隷の家からあなたを連れ出したあなたの神、主から、あなたを迷い出させようとしたからである。イスラエルはみな、聞いて恐れ、重ねてこのような悪を、あなたがたのうちで行なわないであろう。」

 

今度は、家族の者たち、あるいは非常に身近な者が、あなたを他の神々へと誘い込むときの場合にはどうしたらいいかということです。たとえあなたの家族や無二の親友があなたを誘っても、そういう者に同意したり、耳を貸したりしてはいけないとあります。あわれみをかけてもなりません。同情してもだめです。その人をかばったりすることもゆるされません。なんとここには、必ず殺されなければならないとあります。まずあなたが手を下し、その後で、民がみな、その手を下すようにしなければなりません。えっ、そこまでしなければならないんですか。本当に驚きを隠せません。いったいどうしてそこまでしなければならないのでしょうか。その理由が10節にあります。「彼は、エジプトの地、奴隷の家からあなたを連れ出したあなたの神、主から、あなたを迷い出させようとしたからである。」

すなわち、主はその家族をエジプトの地、奴隷の家から解放してくださった神だからです。いわば家族の家族と言ってもいいでしょう。今日家族がこうして幸せに暮らせるのは、それは主が彼らをエジプトの奴隷の家から解放してくださったからです。その救い主を捨てるようなことがあるとしたら、それこそ家族をないがしろにすることであって、ゆるされることではありません。

 

イエスさまは、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(マタイ10:37と言われました。これは家族がどうでもいいということでなく、優先順序の問題です。キリストよりも家族を愛する者はキリストの弟子にふさわしいものではありません。家族以外にも、私たちは教会や仕事、趣味といった生活していく上で欠かすことができない大切なことがたくさんありますが、その中にあっても神を第一としなければならないのです。ではその他のことはどうでもいいということではなく、どれも大切なことでありますが、時によっては家族よりも仕事を、仕事よりも教会を、教会よりも家族を優先にしなければならないことがありますが、どんなことがあっても神を第一とし、家族や仕事よりももっと強く、もっと堅く、もって熱く、結びついたものでなければならないのです。その中にはたとえ家族といえども入り込むことはてきないのです。

 

3.町の住民を惑わせたら(12-18

 

最後に12節から18節までをご覧ください。

「もし、あなたの神、主があなたに与えて住まわせる町の一つで、よこしまな者たちが、あなたがたのうちから出て、「さあ、あなたがたの知らなかったほかの神々に仕えよう。」と言って、町の住民を迷わせたと聞いたなら、あなたは、調べ、探り、よく問いたださなければならない。もし、そのような忌みきらうべきことがあなたがたのうちで行なわれたことが、事実で確かなら、あなたは必ず、その町の住民を剣の刃で打たなければならない。その町とそこにいるすべての者、その家畜も、剣の刃で聖絶しなさい。そのすべての略奪物を広場の中央に集め、その町と略奪物のすべてを、あなたの神、主への焼き尽くすこの聖絶のものは何一つ自分のものにしてはならない。主が燃える怒りをおさめ、あなたにあわれみを施し、あなたをいつくしみ、あなたの先祖たちに誓ったとおり、あなたをふやすためである。いけにえとして、火で焼かなければならない。その町は永久に廃墟となり、再建されることはない。あなたは、必ずあなたの神、主の御声に聞き従い、私が、きょう、あなたに命じるすべての主の命令を守り、あなたの神、主が正しいと見られることを行なわなければならない。」

 

ここには、イスラエルの民がその町のすべての住人をそそのかした場合どうしたらよいかを語っています。をあげています。その町全体が偶像崇拝に陥ってしまたケースです。その場合は、まずよく調べ、探り、問いたださなければなりませんが、そのようなことが実際に行われていたとしたら、その町の住民のすべてを剣の刃で打たなければなりません。その町とそこにいるすべての物、その家畜もです。徹底的にそれを取り除かなければならないというのです。

 

 いったいなぜそこまでしなければならないのでしょうか。一つの理由は、それは、主がイスラエルをエジプトの奴隷の状態から救い出された方だからです。今のイスラエルがあるのは、彼らを救ってくださった主のおかげです。それなのに主を捨てて他の神々に走るようなことがあるとしたら、どれほど主は悲しまれることでしょう。

 

 もう一つの理由は。そのようにしなければイスラエルに祝福はないからです。1126-28には、主は彼らの前に、祝福とのろいを置くと言われました。主に従うなら祝福を、従わなければのろいを置くと言われたのです。ですから、彼らが他の神々に走るなら、そこにはのろいしかありません。そののろいを受けることがないように、聖絶しなければならないのです。この主がともにおられるということが、イスラエルにとっての祝福の源であり、最高の喜びです。その主を捨てて、他の神々に走って行くようなことがあるとしたら、そこには滅び以外の何ものもありません。そうしたものは一切、取り除かなければならないのです。主との密接な関係を壊すような要因をすべて破壊するように、というのです。

 

 それは、イエス・キリストによって罪が贖わられた私たちにとっても同じではないでしょうか。私たちにとっての幸せと成功、祝福のかぎはイエス・キリストであって、この方を離れては何の実を結ぶこともできません。私たちが豊かな実を結ぶのはただ主につながっている時だけであって、それがなかったらそこには滅び以外の何ものもないのです。そうした要因は取り除かなければなりません。そして、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、神を愛さなければならないのです。

 

今度のさくらチャペルの開所式で、「尽きせぬ愛をあなたに」(Just Let Me Say)を賛美します。私はこの賛美が好きです。天地が滅びようとも 変わらず、赦しと恵みの中で 主は私たちを神の子としてくださいました。そしてとこしえに変わらない愛で私たちを包んでいてくださいました。この主だけに心を向け、この主だけを見上げて歩みたいと思うのです。


「尽きせぬ愛をあなたに」(Just Let Me Say)

 

尽きせぬ愛をあなたに 恵み憐れみうけ、
麗しいあなたのみもとで 御顔拝させよ

天地が滅びようとも わが言葉は変わらず
ただ主よ 愛します わが友 救い主

さやかなみ声聞かせよ やさしく我を呼ぶ
拝させよ 栄光と力 御霊の炎を

荒野が園になるまで わが心は求める
ただ主よ 従います わが友 救い主

せつなき心われに あつく燃ゆる思い
とこしえに変わらぬ主の愛 ついにわれは知る

赦しと恵みの中で 神の子とされた身を
ただ主よ 感謝します わが友 救い主

 

この主の愛と恵みから迷い出ることがなにいように、心を尽くして主だけを愛しましょう。

申命記12章

今日は申命記12章から学びたいと思います。ここには、5章から11章までに語られた原則的なことを、具体的な場面に適用させています。つまり、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛するにはどうしたらいいかということについて教えられているわけです。これは26章まで続きますが、きょうは、その最初の部分を見ていきたいと思います。

 

1.主がしてくださったあなたがたの手のわざを喜びなさい(1-7

 

「これは、あなたの父祖の神、主が、あなたに与えて所有させようとしておられる地で、あなたがたが生きるかぎり、守り行なわなければならないおきてと定めである。あなたがたが所有する異邦の民が、その神々に仕えた場所は、高い山の上であっても、丘の上であっても、また青々と茂ったどの木の下であっても、それをことごとく必ず破壊しなければならない。彼らの祭壇をこわし、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を火で焼き、彼らの神々の彫像を粉砕して、それらの名をその場所から消し去りなさい。あなたがたの神、主に対して、このようにしてはならない。ただあなたがたの神、主がご自分の住まいとして御名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ぶ場所を尋ねて、そこへ行かなければならない。あなたがたは全焼のいけにえや、ほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、誓願のささげ物、進んでささげるささげ物、あなたがたの牛や羊の初子を、そこに携えて行きなさい。その所であなたがたは家族の者とともに、あなたがたの神、主の前で祝宴を張り、あなたの神、主が祝福してくださったあなたがたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい。」

 

まず第一のことは、偶像を打ち砕くことです。2節には、「それをことごとく必ず破壊しなければならない」とか、3節には、神々の彫像を粉砕して、それらの名をその場所から消し去りなさい、とあります。ただ、主が選んだ場所を尋ね、そこにささげものを携え、主が祝福してくださった彼らの手のわざを喜び楽しまなければなりません。

 

主ご自分の住まいとして御名を置くために、彼らの全部族のうちから選ぶ場所とはどこですか。これは聖なる所、主の幕屋です。そこには主が住んでおられます。そこに行かなければなりません。

 

どのように?6節をご覧ください。ここには、「あなたがたは全焼のいけにえや、ほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、誓願のささげ物、進んでささげるささげ物、あなたがたの牛や羊の初子を、そこに携えて行きなさい。」とあります。これは主へのささげものを表しています。全焼のいけにえは主への献身を、また収穫物の十分の一をささげるとありますが、これはすべてが主のものであり、主の恵みによって与えられたことへの感謝のしるしです。そして奉納物とは幕屋の奉仕に必要なものを指しています。誓願のささげ物は、何か自分が志を立てて、一つのことを、責任を持って行なうことを示すささげものです。すなわち、これらはすべて主への感謝のささげものです。しかもここには、進んでささげるささげ物とあります。ささげ物で大切なことは、人に言われたからささげるのではなく、自ら進んでささげること、神への自発的な応答としてささげることなのです。牛や羊は初子をささげるようにと言われています。これは「初物」のことですね。それは最上のささげものを意味しています。余った物とか、無残ったものをささげるのではなく、初物を取っておき、それを喜んで主にさささげることに意味があるのです。主イエスはレプタ銅貨2枚をささげたやもめは、他のだれよりも多く献金をしたとありますが、それは彼女のささげものに、このような要素が含まれていたからです。

 

2.主が選ぶ場所で(8-14

 

次に8節から14節までをご覧ください。「あなたがたは、私たちがきょう、ここでしているようにしてはならない。おのおのが自分の正しいと見ることを何でもしている。あなたがたがまだ、あなたの神、主のあなたに与えようとしておられる相続の安住地に行っていないからである。あなたがたは、ヨルダンを渡り、あなたがたの神、主があなたがたに受け継がせようとしておられる地に住み、主があなたがたの回りの敵をことごとく取り除いてあなたがたを休ませ、あなたがたが安らかに住むようになるなら、あなたがたの神、主が、御名を住まわせるために選ぶ場所へ、私があなたがたに命じるすべての物を持って行かなければならない。あなたがたの全焼のいけにえとそのほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、それにあなたがたが主に誓う最良の誓願のささげ物とである。あなたがたは、息子、娘、男奴隷、女奴隷とともに、あなたがたの神、主の前で喜び楽しみなさい。また、あなたがたの町囲みのうちにいるレビ人とも、そうしなさい。レビ人にはあなたがたにあるような相続地の割り当てがないからである。全焼のいけにえを、かって気ままな場所でささげないように気をつけなさい。ただ主があなたの部族の一つのうちに選ぶその場所で、あなたの全焼のいけにえをささげ、その所で私が命じるすべてのことをしなければならない。」

 

ここでも、同じことが教えられています。彼らが約束の地に入ったら、主が御名を住まわせる場所へ、主が命じられるものを持って行かなければならない、とあります。しかし、その前、モーセはここでとても大切なことを語っています。それは、イスラエルは、「おのおのが自分の正しいと見ることを何でもしている。」ということです。自分が良かれと思っていることをしている。神が言われることではなく、自分の思いと、自分の考えで、正しいだろうと判断して生きているのです。それは彼らがまだ主が彼らに与えようとしている地に行っていないからである。もし彼らがヨルダン川を渡り、主が与えてくだる地に入ったなら、そうであってはいけません。かって気ままな場所で全焼のいけにえをささげてはいけないのです。自分勝手な考えで、自分の思いで礼拝をささげてはいけないのです。神を信じ、神に従って生きる人は自分が正しいと思うかどうかではなく、神が正しいと思っておられるかどうか、神が願っておられることは何かを知り、それに従って行動しなければなりません。たとえそれが自分の頭で理解できないことであっても神がそう言われるから従う、これが信仰者の生きる基準なのです。

 

10節には、彼らが約束の地に入ることができたらどうすべきかが教えられています。11節を見ると、御名を住まわせる場所へ、主が命じられる物をもって行かなければならないと言われています。御名を住まわせるために選ばれた場所とはどこでしょうか。それは神が臨在しておられるところ、つまり、神の幕屋です。なぜ神の幕屋に行かなければならないのでしょうか。それは私たちの信仰は個人的なものではないからです。ある意味で一人一人の神との関係が最も重要ですが、かといって一人で神を礼拝するだけが望ましいことではありません。むしろ、神のみこころを知れば知るほど、そこには「互いに」ということがどれほど重要であるかがわかります。主イエスも、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:20)と言われました。私たちは、いつでも、どこでも、主を礼拝することができますが、そのように主を礼拝する人は、主の御名において集まるところで礼拝をささげることがいかに重要であるかに気付くはずなのです。また、もし共に集まって礼拝することがなければ、すなわち、ここに書かれてあるように、「おのおのが自分で正しいと見えることを行っているならば、自分では主を礼拝しているようなつもりでも、実は自分が正しいと思うようなことをしているにしかすぎないのです。それは悪い意味での個人主義です。私たち互いに集まって、主イエス・キリストを礼拝することによって、互いに責任関係が生まれてくるのです。互いに集まり、互いに祈り、互いに仕え合い、互いに交わることによって、自分が正しいと思うことではなく、主が正しいと思われていることは何かを求めることができるのです。「鉄が鉄を研ぐ」という御言葉がありますが、主にあって集まるところにこそ、自分の思いが、自分勝手なものから主へのものへときよめられていくのです。

 

そのことは13節でも言われています。ここには、「かって気ままな場所でささげないように気をつけなさい」とあります。かって気ままな場所で礼拝するというのは、自分勝手な礼拝、という意味です。自分に都合が良い時に、都合が場所で、都合がいい方法で礼拝をささげるというのはかって気ままな礼拝と言えるでしょう。神をあがめているようで、実はあくまでも自分が中心の礼拝です。自分の好きな方法で礼拝をささげようとするところに偶像が生まれます。自分だけの世界、自分だけの宮ができ、そこに祭司を雇うという、士師記に出て来るミカのようになるのです。(士師記17章)主はこれを忌み嫌われます。そうではなく、私たちは主のみこころを聞いていかなければなりません。それぞれおのおのが正しいと思うことではなく、主が語っておられることを共に聞き、共に受けとめ、共に果たしていく者でなければなりません。それを聞いていくのが一人一人に課せられている使命なのです。そして、それは普通教会の指導者に与えられ、牧師が主によって導かれることによって教会が導かれていきます。ですから、牧師の役割はとても重要です。主のみこころは何かをいつも聞いていかなければならないからです。

 

3.血は食べてはならない(15-19

 

「しかしあなたの神、主があなたに賜わった祝福にしたがって、いつでも自分の欲するとき、あなたのどの町囲みのうちでも、獣をほふってその肉を食べることができる。汚れた人も、きよい人も、かもしかや、鹿と同じように、それを食べることができる。ただし、血は食べてはならない。それを地面に水のように注ぎ出さなければならない。あなたの穀物や新しいぶどう酒や油の十分の一、あるいは牛や羊の初子、または、あなたが誓うすべての誓願のささげ物や進んでささげるささげ物、あるいは、あなたの奉納物を、あなたの町囲みのうちで食べることはできない。ただ、あなたの神、主が選ぶ場所で、あなたの息子、娘、男奴隷、女奴隷、およびあなたの町囲みのうちにいるレビ人とともに、あなたの神、主の前でそれらを食べなければならない。あなたの神、主の前で、あなたの手のすべてのわざを喜び楽しみなさい。あなたは一生、あなたの地で、レビ人をないがしろにしないように気をつけなさい。」


ここでは肉を食べることについて語られています。彼らがささげた家畜、牛や羊以外のきよい動

物は、すべて食べることができました。しかし、ただし、血は食べてはなりませんでした。それは地面に水のように注ぎ出さなければならなかったのです。なぜでしょうか。レビ記17:11にその理由が記されてあります。それは、「肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。」

 

 これはどういうことでしょうか。ここには、なぜ血を食べてはならないのかというと、人のいのちは血の中にあるからです。だから、その血をもって贖いが行なわれるのです。旧約聖書ではそのために動物の血が流されました。その血が犠牲にされることによって、人々の罪の身代わりとなって死ぬことによって、人々の罪が赦されたのです。まして、動物ではない、神のひとり子の血によって罪が贖われたとしたら、その罪はどんなに清められることでしょう。私たちはイエス様の血によって完全な罪の赦しを受けることができたのです。いのちはみな尊いものですが、御子のいのちほどに高価で尊いものはありません。けれども、この方を犠牲にすることにより、私たちがキリストにあって完全に贖われるため、永遠に救われるようにされたのです。ペテロは言いました。「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。(Ⅰペテロ1:18-19)」私たちは、キリストの尊い血によって贖い出されました。それゆえに主は、「あなたがたはだれも血を食べてはならない。あなたがたの間の在留異国人もまた、だれも血を食べてはならない。と言われたのです。

 

17節から19節までのところにはおもしろいことが命じられています。ここでは、神へのささげものでない獣は、どこでも食べることができましたが、神へのささげものに関する食事、聖なる食事は、主が選ばれる一つの場所でしか食べることができませんでした。そして、それは息子、娘、男奴隷、女奴隷、レビ人と共に食べなければならなかったのです。特にここではレビ人とともにとか、レビ人をないがしろにしてはならないとあるので、これはレビ人に相続財産として与えられるべき分のことが語られているものと思われます。レビ人をないがしろにしてはならない。十分の一をもって、主の聖なるもの、牛や羊の初子などを、主のささげものとしてささげ、それをレビ人たちが受け、食べたのでしょう。それをみんなで喜ぶ。それがイスラエルが約束の地に行って行うべきことだったのです。

 

4..主が良いとみられること(20-28

 

「あなたの神、主が、あなたに告げたように、あなたの領土を広くされるなら、あなたが肉を食べたくなったとき、「肉を食べたい。」と言ってよい。あなたは食べたいだけ、肉を食べることができる。 もし、あなたの神、主が御名を置くために選ぶ場所が遠く離れているなら、私があなたに命じたように、あなたは主が与えられた牛と羊をほふり、あなたの町囲みのうちで、食べたいだけ食べてよい。かもしかや、鹿を食べるように、それを食べてよい。汚れた人もきよい人もいっしょにそれを食べることができる。ただ、血は絶対に食べてはならない。血はいのちだからである。肉とともにいのちを食べてはならない。血を食べてはならない。それを水のように地面に注ぎ出さなければならない。血を食べてはならない。あなたも、後の子孫もしあわせになるためである。あなたは主が正しいと見られることを行なわなければならない。ただし、あなたがささげようとする聖なるものと誓願のささげ物とは、主の選ぶ場所へ携えて行かなければならない。あなたの全焼のいけにえはその肉と血とを、あなたの神、主の祭壇の上にささげなさい。あなたの、ほかのいけにえの血は、あなたの神、主の祭壇の上に注ぎ出さなければならない。その肉は食べてよい。気をつけて、私が命じるこれらのすべてのことばに聞き従いなさい。それは、あなたの神、主がよいと見、正しいと見られることをあなたが行ない、あなたも後の子孫も永久にしあわせになるためである。」

 

主が良いとみられることが続きます。これまでの荒野の旅とは異なり、広大な土地にイスラエルの民は住みます。幕屋や神殿があるところに行くには何日もかけなければいけない人々も出て来ます。ゆえに、食べたいものはそこで食べることができます。

 けれども、血を食べてはいけないことが強く戒められています。23節に、「血はいのちだからである」とあります。血を食べることは命を奪うことになります。命は神にのみに属しているものであり、他の何ものも奪うことはできません。したがってこのいのちの象徴である血を食べないことによって、それは自分が主のものであり、主の定めに従っていることを表していたのです。

 

もしこれを現代のクリスチャンに当てはめるならどうなるでしょうか。互いにキリストにあって一人ひとりの命を大切にする、ということでしょう。相手をキリストにあって配慮し、祈り、仕え、キリストがその人のために死なれたことを認めることです。言い換えれば、キリストの贖いをないがしろにしない、キリストの贖いに生きる、キリストのみこころに従って生きるということでしょう。

 

5.わなにかけられないように(29-32

 

「あなたが、はいって行って、所有しようとしている国々を、あなたの神、主が、あなたの前から断ち滅ぼし、あなたがそれらを所有して、その地に住むようになったら、よく気をつけ、彼らがあなたの前から根絶やしにされて後に、彼らにならって、わなにかけられないようにしなさい。彼らの神々を求めて、「これらの異邦の民は、どのように神々に仕えたのだろう。私もそうしてみよう。」と言わないようにしなさい。あなたの神、主に対して、このようにしてはならない。彼らは、主が憎むあらゆる忌みきらうべきことを、その神々に行ない、自分たちの息子、娘を自分たちの神々のために、火で焼くことさえしたのである。12:32 あなたがたは、私があなたがたに命じるすべてのことを、守り行なわなければならない。これにつけ加えてはならない。減らしてはならない。」

 

ここには、彼らが約束の地に入って行ったときに、気を付けなければならないことが記されてあります。それは、わなにかけられないように、ということです。そこにはどんなわながあったのでしょうか。彼らの神々を求めて、この地の異邦の民はどんな神々に仕えていたのだろうか、自分もそうしてみようと、思うことです。

 

こんなことがあるのでしょうか。あるのです。サタンは私たちの心の隙間を狙って、いつも戦いを挑んできます。心に余裕ができたそのとき、これまで考えもしなかったことをしてみたいと思うことが起こるのです。その一つがこれでしょう。この地の住民はどんな神を拝んでいたのかを知ろうとしているうちに、いつしか自分がそれを拝んでいるということがあります。私たちが主かせら目をそらした瞬間、全く別の神があなたの心を支配してしまうことがあるのです。どんなに長く信仰生活を送っていても・・・。しかも、とても恐ろしいと思うことは、そのことになかなか気づかないということです。ヘブル書にはあなたの耳が鈍くなってとありますが、あなたの心に覆いかかるため、そのことにすら全く気付けないのです。ですから、みことばの学びはとても重要です。そうした私たちの心を主に向けさせ、主のみこころは何であるかを示してくださるからです。主が命じるすべてのことを守り行いなさい、とあったも、その命令がわからなければ、どうして主に従うことができるでしょうか。それこそおのおのの信仰、自分勝手な信仰になってしまいます。そういうことがないように、主が明治らておられることは何かを学び、従順な心、聖霊の助けによってこの道を進んでいかなければなりません。それが、私たちがほんとうの意味で祝福を受ける道なのです。

申命記11章

今日は申命記11章から学びたいと思います。まず1節から7節までをご覧ください。

 

1.主の偉大さ(1-7)

 

「あなたはあなたの神、主を愛し、いつも、主の戒めと、おきてと、定めと、命令とを守りなさい。 きょう、知りなさい。私が語るのは、あなたがたの子どもたちにではない。彼らはあなたがたの神、主の訓練、主の偉大さ、その力強い御手、伸べられた腕、そのしるしとみわざを経験も、目撃もしなかった。これらはエジプトで、エジプトの王パロとその全土に対してなさったこと、また、エジプトの軍勢とその馬と戦車とに対してなさったことである。・・彼らがあなたがたのあとを追って来たとき、葦の海の水を彼らの上にあふれさせ、主はこれを滅ぼして、今日に至っている。・・また、あなたがたがこの所に来るまで、荒野であなたがたのためになさったこと、また、ルベンの子エリアブの子であるダタンとアビラムに対してなさったことである。イスラエルのすべての人々のただ中で、地はその口をあけ、彼らとその家族、その天幕、また彼らにつくすべての生き物をのみこんだ。これら主がなされた偉大なみわざのすべてをその目で見たのは、あなたがたである。」

 

モーセは今、約束の地に入って行こうとしているイスラエルに、これまでの過去の歴史を振り返りながら、神の定めとおきてを語っています。「申命記」というタイトルの意味は、「繰り返して語る」です。ですからモーセは、神の民であるイスラエルにとって必要なことを繰り返し、繰り返し語っているわけですが、その中心は何かというと、10章12,13節でしたね。つまり、心を尽くして、神を愛することです。ただ、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くして神を愛すること、これこそ、神が彼らに求めておられることであり、彼らが約束の地に入ってからも守り行わなければならない中心的なことでした。

 

そして、この11章でも、モーセはそのことをイスラエルの民に繰り返して語ります。1節です。なぜでしょう。2節7節までのところに、その理由が語られています。それは主が偉大な方であり、主こそ神であられるからです。ここではその主の偉大な出来事のいくつかのことが取り上げられています。まず3節と4節には、主が彼らをエジプトから連れ出されたこと、そして5節には、彼らがここに来るまで、主が荒野でなされた数々の御業です。食べ物がないといえば空からマナを降らせ、水がないと言えば岩から水をほとばしり出させました。肉を食べたいと言えばうずらの大群を運んできました。また、そこには大きくて、強い敵がたくさん立ちはだかりましたが、主はそうした敵も打ち破り、40年の荒野の旅を守ってくださいました。それは一言で言えば、8章4節にあるように、「あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった」ということです。

そればかりではありません。6節には、荒野であった一つの恐ろしい出来事が書かれてあります。それはルベンの子エリアブの子であるダタンとアビラムに対して、主が成されたことです。それは、彼らがモーセに反抗し、「あなたがただけが特別なのではない」と逆らったため、地が割れて、生きたままそこに突き落とされたという出来事です。ほんとうに主は生きておられる偉大な方なのです。そして、これは彼らの先祖たちの時代に起こったことではなく、彼らの時代に起こった出来事でした。そのとき彼らはまだ幼い子供か10代であったため、こうしてまだ生き残ってはいましたが、確かに彼らもそうした主の数々の出来事を見たのです。主はそのように偉大な方なのです。彼らはそのことを知らなければなりません。

 

2.天の雨に潤されて(8-25)

 

次に8節から25節までを見たいと思いますが、15節までをご覧ください。

「あなたがたは、私が、きょう、あなたに命じるすべての命令を守りなさい。そうすれば、あなたがたは、強くなり、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地を所有することができ、 また、主があなたがたの先祖たちに誓って、彼らとその子孫に与えると言われた地、乳と蜜の流れる国で、長生きすることができる。なぜなら、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地は、あなたがたが出て来たエジプトの地のようではないからである。あそこでは、野菜畑のように、自分で種を蒔き、自分の力で水をやらなければならなかった。しかし、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地は、山と谷の地であり、天の雨で潤っている。そこはあなたの神、主が求められる地で、年の初めから年の終わりまで、あなたの神、主が、絶えずその上に目を留めておられる地である。もし、私が、きょう、あなたがたに命じる命令に、あなたがたがよく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くして仕えるなら、「わたしは季節にしたがって、あなたがたの地に雨、先の雨と後の雨を与えよう。あなたは、あなたの穀物と新しいぶどう酒と油を集めよう。また、わたしは、あなたの家畜のため野に草を与えよう。あなたは食べて満ち足りよう。」

 

ここでも繰り返して、モーセを通して語られる主の命令を守るようにと勧められています。なぜでしょうか。なぜなら、そうすれば、彼らは強くなり、その地を所有することができるからです。また、主が先祖たちに誓ったとおり、その地で長生きすることができるからです。というのは、彼らが入っていこうとしている地は、彼らが出て来たエジプトの地のようではないからです。そこでは野菜でも何でも自分で種を蒔き、自分で水をやり、自分の力で育てなければなりませんでしたが、彼らが入って行こうとしている地には天の雨で潤っているからです。そこでは主が、絶えずその上に目を留めていてくださいます。エジプトは肥沃な地であり、イスラエルよりも何倍も豊かな地でした。そのエジプトでは自分で種を蒔き、自分で水をやり、自分の力で何とかしならなかったのに、約束の地ではその必要が全くないのです。何が違うのでしょうか。そこに主がおられることです。そこに主の目があります。主が共におられるので、主が祝福してくださるのです。

 

これはまさにこの世界と信仰の世界、霊的世界の違いではないでしょうか。この社会は自力の世界です。自分の知恵と、自分の力で一生懸命耕やかさなければなりません。しかし、それとは違う世界があります。それは信仰の世界であり、そこには主の恵みが満ち溢れています。主ご自身が働いてくださいます。そこには天の雨が潤っています。その雨が豊かな収穫をもたらしてくくれるのです。13節と14節をご一緒に読みたいと思います。

 

「もし、私が、きょう、あなたがたに命じる命令に、あなたがたがよく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くして仕えるなら、「わたしは季節にしたがって、あなたがたの地に雨、先の雨と後の雨を与えよう。あなたは、あなたの穀物と新しいぶどう酒と油を集めよう。また、わたしは、あなたの家畜のため野に草を与えよう。あなたは食べて満ち足りよう。」

 

もし主が命じる命令に従うなら、主が季節にしたがって、先の雨と後の雨を与えてくださいます。先の雨とは秋の雨のことで、10月後半から12月の前半まで降る雨のことです。これは夏の干ばつで固くなった地を柔らかくするために降る雨で、この時期に大麦と小麦の種蒔きがなされるので、土地が豊かに潤されるためにとても大切な雨となります。ヘブル語では「ヨーレー」(יוֹרֶה)といって、旧約聖書に3回使われています。(申命11:14、エレミヤ5:24, 24)。

それに対して後の雨は春の雨のことで、3月から4月の収穫の前に降る大切な雨です。この雨が大麦や小麦などの農作物や牧草のために必要な雨とされています。ヘブル語では「マルコ―シュ」(מַלְקוֹשׁ)と言って、旧約聖書では8回使われています。(申命11:14、ヨブ29:23、箴言16:15、エレ3:3/5:24、ホセア6:3、ヨエル2:23、ゼカリヤ10:1) これらはみな季節にかなって降る「祝福の雨」(エゼキエル34:26)です。です。

 

ヨエル 2章23節には、「シオンの子らよ。あなたがたの神、主にあって、楽しみ喜べ。主は、あなたがたを義とするために、初めの雨を賜り、大雨を降らせ、前のように、初めの雨と後の雨とを降らせてくださるからだ。」とあります。これはペンテコステと、この世の終わりに降る大いなるリバイバルの預言ではないかと言われています。初めの雨(秋の雨)」はすでに二千年前のペンテコステに降りました。しかし大収穫の「後の雨」である(春の雨)」はまだです。これが降るときは第二のペンテコステということができます。大艱難時代の終わり頃に、第二のペンテコステによってイスラエルの民は民族的に覚醒して救われ、その後にキリストの再臨がなされて千年王国がやってきます。その前には、すでに主にあるクリスチャンたちは空中に携挙されていますが、ユダヤ人の民族的救いの実現なしには異邦人クリスチャンの救いの完成もないのですから、無関心でいることはできません。私たちもまたこの後の雨のために祈らなければなりません。

 

しかし、ここではこの初めの雨と後の雨、神の祝福の雨を注ぐと言われています。私たちは世の終わりの前にもそのような神の祝福を受けるのです。もし、私たちが、神が命じる命令に、よく聞き従って、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして主を愛するならば・・・。

 

だから聖書はこう告げるのです。16節と17節をご覧ください。

「気をつけなさい。あなたがたの心が迷い、横道にそれて、ほかの神々に仕え、それを拝むことのないように。主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、主が天を閉ざされないように。そうなると、雨は降らず、地はその産物を出さず、あなたがたは、主が与えようとしておられるその良い地から、すぐに滅び去ってしまおう。」

 

だから、気をつけなければなりません。私たちの心が迷い、横道にそれて、ほかの神々に仕え、それを拝むようなことがないように。そんなことあるはずないじゃないですか・・・。しかし、人の心はコロコロ変わるから心というそうです。豊かになると人はすぐに高ぶり、横道にそれてしまうのです。ほかの神々に仕えるようになります。これは必ずしも偶像崇拝のことではなく、まことの神以外のものを神とすることを指しています。時には、自分が神になってしまうこともあります。自分の力がこれをしたのだ・・・と。しかし、そのように心が迷い、横道にそれてしまうとどうなるでしょうか。主が天を無度差してしまわれます。その結果、雨が降らず、その地は産物を出さず、すぐに滅びてしまうことになってしまいます。だからそういうことがないように注意しなければなりません。どのように注意したらいいのでしょうか。

 

18節から25節までをご覧ください。

「あなたがたは、私のこのことばを心とたましいに刻みつけ、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。それをあなたがたの子どもたちに教えなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、それを唱えるように。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。それは、主があなたがたの先祖たちに、与えると誓われた地で、あなたがたの日数と、あなたがたの子孫の日数が、天が地をおおう日数のように長くなるためである。」

 

ここには、このことばをあなたの心とたましいに刻み付け、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい、とあります。どういうことでしょうか。このみことばから離れることがないように、しっかりと心に刻み付けるようにということです。そればかりではありません。それをあなたの子供たちにも教えなければなりません。そして、いつもこれを唱えるように、門と門柱に書き記すようにというのです。もうみことば漬けですね。なぜここまでしなければならないのでしょうか。それはあなたがたの子孫の引かずが、天が地を覆う日数のように長くなるため、すなわち、長く生きるためです。これは後の雨の後にもたらされる千年王国で実現することになります。

 

そればかりではありません。もしこのようにして主にすがるなら、たとえ敵があなたがたよりも大きくて、強くても、主が彼らをあなたの目の前から追い払われ、その地を占領することができるからです。あなたがたが足の裏で踏む所は、ことごとくあなたがたのものとなる。信じますか。信じましょう。あなたがたの足の裏で踏むところは、ことごとくあなたがたのものとなる。この教会の土地も、そのようにして与えられます。私たちではなく、ただ主が、そのことをしてくださると信じて、私たちはただ主よりすがり、ことごとく足の裏で踏んでいかなければなりません。

 

3.祝福とのろい(26-32)

 

最後に、26節から32節までをご覧ください。

「見よ。私は、きょう、あなたがたの前に、祝福とのろいを置く。もし、私が、きょう、あなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令に聞き従うなら、祝福を、もし、あなたがたの神、主の命令に聞き従わず、私が、きょう、あなたがたに命じる道から離れ、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら、のろいを与える。あなたが、はいって行って、所有しようとしている地に、あなたの神、主があなたを導き入れたなら、あなたはゲリジム山には祝福を、エバル山にはのろいを置かなければならない。それらの山は、ヨルダンの向こう、日の入るほうの、アラバに住むカナン人の地にあり、ギルガルの前方、モレの樫の木の付近にあるではないか。あなたがたは、ヨルダンを渡り、あなたがたの神、主があなたがたに与えようとしておられる地にはいって、それを所有しようとしている。あなたがたがそこを所有し、そこに住みつくとき、私がきょう、あなたがたの前に与えるすべてのおきてと定めを守り行なわなければならない。」

 

ここで主はイスラエルの前に、祝福とのろいを置くと言われました。もし、主の命令に従うなら祝福を、逆に、もし、主の命令に聞き従わず、主の命じる道から離れ、他の神々に従って行くのなら、のろいを与えるというのです。まさに二者択一です。私たちは、どちらかというとこの立場をあいまいにします。あまり熱心にならず、またあまり不熱心にもならず、その中間くらいがちょうどいいのではないかと思うのです。けれども、信仰に中立というのはありません。従うのか、従わないのか、のどちらかなのです。信じて命を持つか、あるいはそのままでいて神の裁きを受けているかのどちらかです。

 

しかし、ぜひ誤解しないでください。私たちは主に従うとは言っても従うことなどできない汚れた者なのです。だからこそ、キリストが呪われた者となって、私たちののろいを受けてくださったのです。そしてこのキリストを信じる信仰によって、私たちは神の祝福に預かることができるようになりました。だから、私たちはみんな従えない者なのですが、神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いによって義と認めていただいたのです。だから従えば祝福であり、従わなければのろいであるということではなく、もともとのろいを受けなければならなかった者を、神がその呪いを代わりに受けてくださったがゆえに、祝福された者としてくださった。それなのであれば、私たちには中途半端な態度は逆に赦されないのではないでしょうか。ご自分のいのちを捨てて私たちを救ってくださった主に対してふさわしい応答は、ローマ12:1-2にあるように、私たち自身を神にささげることであって、神が命゛知ることに対して全身全霊をもって応えていくことなのではないでしょうか。それが神が私たちに求めておられることなのです。