ヘブル11章4~7節 「信仰によって生きた人」

きょうは、「信仰によって生きた人」というタイトルでお話します。これまで述べてきたことを受け、このヘブル人への手紙の著者は、前回のところで、信仰とは何かについて語りました。つまり、信仰とは望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。信仰によって、私たちは、この世界が目に見えるものによって造られたのではなく、目に見えないもの、つまり神のことばによって造られたということを悟るのです。

そこで、きょうの箇所では、昔の人々がどのように信仰に生きたのかという実例を取り上げ、信仰によって生きるとはどういうことなのかをさらに説明していきます。きょうはその中から三人の人を取り上げてお話したいと思います。それは、アベルとエノクとノアです。

 

Ⅰ.信仰によって神にいけにえをささげたアベル(4)

 

まず、4節をご覧ください。

「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。」

 

まず、最初に紹介されているのはアベルです。アベルは最初の人アダムとエバの子どもで、二人息子の弟です。ここには、信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得た、とあります。どういうことでしょうか。

 

この話は創世記4章に記されてありますので、そこを開いて確認したいと思います。1節から7節です。

「人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。」そこで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」(創世記4:1~7)

 

ここには、カインは土を耕す者となり、アベルは羊を飼う者になりましたが、ある時期になった時、彼らは神にささげ物をささげるためにやって来た、とあります。「ある時期」というのは、収穫の時期のことだと思われます。自分たちが一生懸命に働いて得たその収穫の一部を神にささげるためにやって来たのでしょう。そして、カインは土を耕す者でしたので、その作物の中から主へのささげ物を、一方のアベルは、羊を飼う者だったので、その羊の中から主にささげ物を持ってきました。しかし、主はアベルとそのささげ物には目を留められましたが、カインとそのささげ物には目を留められませんでした。なぜでしょうか。アベルは正しく行ったのに対して、カインはそうではなかったからです。どういう点でアベルは正しくて、カインは正しくなかったのでしょうか。それはささげ物をささげ姿勢です。アベルは羊を飼う者となり、その中から主へのささげ物を持ってきましたが、ただ持って来たというのではなく、羊の初子の中から、それも最上のものを持ってきました。同じ新改訳聖書でも第二版では、「それも最良のものを、それも自分自身の手で、もって来た。」とあります。つまり、彼は心からささげたのです。それに対してカインはというと、「地の作物から主へのささげ物を持って来た。」とあるだけで、それがどのようなものであったのかについては触れられていません。というとこは、アベルのように最良のもので、自分自身の手で持って来たものではなかったということです。アベルのように心から神にささげたのではなく、一種の儀式として形式的にささげたのです。

 

ここに彼らの信仰がよく表れていると思います。彼らは神の存在を信じ、神にささげ物をささげたという点ではどちらも同じで、宗教的であったと言えますが、しかし、宗教的であるということと信仰的であるということは必ずしも同じことではありません。神を礼拝し、神にささげ物をささげても、それが必ずしも、信仰的であるとは言えないのです。確かに二人とも神を礼拝していましたが信仰的であったのはカインではなく、アベルの方でした。そのささげ物によって、そのことが証明されたのです。

 

アベルが信仰によって生きていたことが証明されたのが、彼のささげ物をささげる姿勢、つまり礼拝の姿勢であったということは注目に値することです。というのは、礼拝の姿勢というものは、日ごろの生き方がそこに表れるのであって、いつも信仰に生きている人は、礼拝をする時もそのような姿勢になりますが、適当に信仰生活をしている人は、どんなに熱心に礼拝しているようでも、それは心から神を礼拝しているとは言えず、ただ形式的に礼拝しているにすぎません。そのような礼拝においては少しも神とお出会いすることができず、その結果、神に喜ばれる者に変えていただくことはできないのです。

 

しかし、ここでアベルが信仰によって神にいけにえをささげたというのは、そうした彼の礼拝の姿勢が正しかったというだけではなく、彼が神の方法によっていけにえをささげたからでもあります。その方法とは何でしょうか。それは、彼は羊をほふり、その血を注ぎ出して、神にささげたという点です。「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからです。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。」(レビ17:11)とあるからです。いのちとして贖いをするのは血です。これがささげ物をささげる時の神の方法でした。アベルは自分が罪人で、自分の力ではその罪を贖うことができないということを知っていたので、神が示された方法でいけにえをささげたのです。けれども、カインはそうではありませんでした。彼は自分の方法によっていけにえをささげました。それは、彼が自分の育てた作物の中からささげ物を持って来たということではありません。神は地を耕して育てた作物を好まれないということはないのです。彼が正しくなかったのは、彼が神に喜ばれる方法によって神を礼拝したのではなく、あくまでも自分の考えで、自分のやり方で、神に受け入れられようとしたことです。それが問題だったのです。だから、神は彼のささげものを退けられたのです。

 

それはアダムとエバが罪を犯したとき、いちじくの葉をつづり合わせたもので自分たちの腰のおおいを作ったのと同じです。そんなものはすぐに枯れて何の役にも立たないのに、彼らはそのようにすれば何とか自分たちの裸をおおうことができると考えました。しかし、いちじくの葉はすぐに枯れてしまったのでしょう。神は、彼らの罪をおおうために、皮の衣を作り、それを彼らに着せてくださいました。(創世記3:21)なぜ、皮の衣だったのでしょうか。皮の衣によらなければ、罪をおおうことができなかったからです。神は動物をほふり、その皮を剥ぎ取って、彼らに着せてくださったのです。それが神の方法でした。そうでなければ、神に受け入れられることはできなかったのです。

 

そして、これはやがて来られる神の小羊イエス・キリストを指し示していました。人はイエス・キリストによらなければ、だれも神に近づくことはできません。私たちは、だれか困っている人がいたら助けてあげたり、貧しい人がいれば施しをしたり、優しく、親切に生きれば神に受け入れられるのではないかと考えますが、そのような方法によっては神に受け入れられることはできません。確かにそのような業は善いことですが、そうしたことによって自分の罪を消すことはできないのです。私たちの罪は、ただ神が私たちのために用意してくださった小羊の血によってのみ赦されるのであって、それ以外の何をもってしても赦されることはありません。

 

「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

 

「信仰によって」とはそういうことです。アベルは、神の方法とはどのようなものなのかを知っていて、そのようにささげました。信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえをささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得たのです。

 

私たちも信仰によって、神にささげ物をささげましょう。あくまでも自分の思いや考えに従うのではなく、神のことばを聞き、神のみこころは何かを知り、それに従うものでありたいと思うのです。それが信仰なのです。

 

Ⅱ.神に喜ばれていたエノク(5-6)

 

次に5節と6節をご覧ください。ここには、「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」とあります。

 

信仰によって生きた人として次に取り上げられているのは、エノクです。エノクという人物は、創世記5章に記されているアダムの子孫の中に登場する人物です。そこにはアダムの系図が記録されていますが、それらは皆決まった形で紹介されています。すなわち、「・・の生涯は○○であった。こうして彼は死んだ。」です。たとえば、5節には、「アダムはは全部で九百三十年生きた。こうして彼は死んだ。」とあります。8節にはその子セツについて書かれてありますが、それも、「セツの一生は九百十二年であった。こうして彼は死んだ。」とあります。また、11節にはエノシュについて書かれてありますが、それも同じです。全員が同じように記録されていますが、エノクだけはそうではありません。24節を見ると、「神が彼を取り去られたので、彼はいなくなった。」とあります。神が彼を取り去られたので、彼はいなくなったとはどういうことなのか?ヘブル書にはそのことを次のように説明しています。「エノクは死を見ることがないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。」とあります。エノクが取り去られたのは、死を見ることがないように、神に取り去られたというのです。この箇所からほとんどの人は、らエノクは死を経験することなく天に引き上げられたのだと考えていますが、ある人たちは、いや、アダムが罪を犯したことで死が全人類に入って来たのだから、エノクと言えども死なずに天国に行ったのは考えられない、と言う人もいます。しかし、このヘブル人への手紙を見る限り、彼がいなくなったのは、彼が死を見る事がないように天に移されたとあるので、彼は死を経験しないで引き上げられたのだろうと思います。しかし真相はどうであろうと、確かなことは、彼の地上での生涯はそれで終わったということです。

 

創世記5章の系図を見ると、ほとんどの人が九百歳ぐらいまで生きたのに対して、エノクは三百六十五歳しか生きませんでした。彼は意外に短命であったことから、彼の一生は不幸な一生だったのではないかと考える人もいますが、そうではありません。確かに彼の生涯は当時の一般的な人たちと比べたら短いものでしたが、それは死を見ることがないように天に移された幸いな生涯だったのです。人の一生はその長さで測られるものではありません。人の一生の善し悪しは、その人がどのような生涯を送ったのかという中身で測られるものです。それが神とともに歩んだ生涯であるなら、たとえそれがどんなに短いものであっても、幸いな徹宵だったと言えるのです。エノクの一生は三百六十五年という短いものでしたが、それは神とともに生き歩み、神に喜ばれたものであることがあかしされるすばらしい一生だったのです。

 

それでは、彼はどのような点で神に喜ばれていたのでしょうか。それは、彼が信仰によって生きていたという点です。エノクが生きていた時代は、ノアの時代と同じように、人々の心が悪いことばかりに傾いているような時代でした。その中でも彼は、神がおられることを信じていました。神がおられることを信じていたので罪から離れた歩みをしていたばかりでなく、常に神を求めて生きていました。彼は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを信じていたのです。

 

God is not Deadという映画をみました。 日本語のタイトルでは「神は死んだか」というタイトルです。あるクリスチャンの大学生が大学の授業で哲学のクラスを受けるのですが、その授業を始める前に教授が生徒たちに「神はいない」と紙に書くよう に強制し、書かなければ単位をあげないというのです。単位が取れないことを危惧した生徒たちは言われるままに書いて提出するものの、納得できないジョシュだけは拒否します。それなら神の存在を証明するように、もしできなかったら落第だと告げられました。ジョッシュは悩みながらも必至で神が存在しているという説明を試みるも、それはかなりハードなことでした。しかし、彼は最後に教授にこう言うのです。「あなたが神を憎んでいるということ。それこそ神が存在している一番大きな事実です。もし神がいなかったら、どうして神を憎むということなどあるでしょうか。」それは大きなかけでもありました。もし証明できなければ大きなリスクを負ってしまうことになりますが、逆に、もしそれを証明することができたら、それこそ多くの人たちにとっての証となります。彼は神の存在を疑いませんでした。神がおられることと、神を求めるものには報いてくださる方であるということを信じたのです。

 

あなたはどうですか。この地上の歩みにおいて、エノクのように、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であるということを、信じているでしょうか。エノクは天に引き上げられましたが、今日も、キリストのうちにある者は、主が天から再び戻って来られるとき、空中に引き上げられるという約束が与えられています。その成就が限りなく近いことをつくづく感じます。それはもしかしたら、私たちが生きている時代に実現するかもしれません。そうすれば、私たちはエノクが経験したように、死を見ることなく天に移されるかもしれません。仮にそれが、私たちが死んだ後であっても、その一生は主とともに生きたすばらしい一生であったと証されることでしょう。そのような生涯を共に歩ませていただきたいものです。

 

Ⅲ.信仰によって箱舟を作ったノア(7)

 

信仰によって生きた人として三人目に取り上げられているのは、ノアです。7節にはこうあります。「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。」

 

ノアが生きていた時代がどのような時代であったかは、創世記6章に記されてあります。6章11節、12節を見ると、「地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。」とあります。しかし、ノアは、主の心にかなっていました。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人でした。つまり、彼は、いつも神とともに歩んだのです。

 

そこで、神はノアに対して、間もなく世界中の人々を滅ぼす洪水を起こされると言われました。しかし、ノアとその家族の者たちは救うので、大きな船を作るようにと命じられたのです。その船は、長さ百五十メートル、幅二十五メートル、高さ十五メートルの箱舟で、一万トン級の大きな船でした。彼はそれまでそんな大洪水を経験したことがなければ、船を作ったこともありませんでした。そんな一万トン級の船を作るということにでもなれば、この先何年かかるか、全くわかりません。気の遠くなるような話です。しかし彼はその御言葉を信じて受け入れたのです。今日のようにチェーンソーがあったわけではありません。どのようにして大木を切り倒したのでしょうか。ノアと三人の息子の四人だけで造ったとしても、おそらく百二十年はかかったでしょう。創世記6章3節には、「それで人の齢は、百二十年にしよう。」とありますが、これは人の寿命が百二十年に定められたというだけでなく、その日から大洪水が起こるまでの年数であったとも考えられます。それは気の遠くなるような大仕事でした。しかし、ノアは信仰によってそれに挑戦したのです。すなわち、ノアはたとえ常識では考えられないようなことでも、主によって命じられたことであれば、それをそのとおりに受け止めて実行したのです。それが信仰です。来る日も来る日も、彼らは山へ行き、何日もかかって木を伐採しました。それを見ていた回りの人たちは、どんなにバカにし、嘲笑ったことでしょう。「ノアもとうとう気が狂っちゃったんじゃないの」と思ったことでしょう。

 

皆さんさんだったらどうですか。全く雨が降らない時代に、神がこの地上のものを滅ぼすので、あなたは箱舟を造りなさいと言われて、「はいよ」と言って造るでしょうか。最近私は、一年前の母の日に娘が家内に贈ってきた小物入れのラックを組み立てました。それを組み立てるのに要した時間は約30分です。たった30分なのになかなか組み立てられませんでした。組み立てる気がなかったからです。だから、それを組み立てるのに一年もかかってしまいました。まして、ノアに与えられたプロジェクトは

120年もかかる大仕事でした。どんなに暇でも造る気にはなれないでしょう。

しかし、ノアにとって神のことばは絶対でした。彼は、神によって語られたことは必ず起こると信じていました。つまり、大洪水は必ず起こると信じていたのです。しかも、それは世の罪をさばくための神のさばきとしての大洪水です。ですから、創世記6章22節には、ノアは箱舟を作り、その中に入って救われるようにと神から言われた時、「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。」とあるのです。たとえ自分の常識の枠の中に納まらないことであっても、神の御言葉に従うのが信仰であり、それが神に喜ばれる道なのです。

 

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神のみもとに来る人はだれでも、神が存在することと、神を求める人には必ず報いてくださる方であるということを信じなければなりません。アベルやノアやエノクのような生き方こそ、神のみもとに来る人です。彼らは神が存在すること、つまり神が生きておられるということと、神に求めることには必ず答えてくださる方であるということを信じました。つまり、神は生きて働いておられる方であると信じ、そのことばに従ったのです。

 

私たちもそうありたいですね。聖書には天国があると書いてあるけど本当かなと疑ってみたり、信じようとしないのではなく、神の約束の言葉は必ず実現すると信じて、その言葉に自分の人生をかける者でありたいと思います。それが信仰です。義人は信仰によって生きる。神はそのような人を喜んでくださるのです。

申命記19章

きょうは、申命記19章から学びます。まず1節から7節までをご覧ください。

 

 1.のがれの町の制定(1-7

 

「あなたの神、主が、あなたに与えようとしておられる地の国々を、あなたの神、主が断ち滅ぼし、あなたがそれらを占領し、それらの町々や家々に住むようになったときに、あなたの神、主があなたに与えて所有させようとしておられるその地に、三つの町を取り分けなければならない。あなたは距離を測定し、あなたの神、主があなたに受け継がせる地域を三つに区分しなければならない。殺人者はだれでも、そこにのがれることができる。殺人者がそこにのがれて生きることができる場合は次のとおり。知らずに隣人を殺し、以前からその人を憎んでいなかった場合である。たとえば、木を切るため隣人といっしょに森にはいり、木を切るために斧を手にして振り上げたところ、その頭が柄から抜け、それが隣人に当たってその人が死んだ場合、その者はこれらの町の一つにのがれて生きることができる。血の復讐をする者が、憤りの心に燃え、その殺人者を追いかけ、道が遠いために、その人に追いついて、打ち殺すようなことがあってはならない。その人は、以前から相手を憎んでいたのではないから、死刑に当たらない。だから私はあなたに命じて、「三つの町を取り分けよ。」と言ったのである。」

 

ここには、イスラエルの民が約束の地を占領しそれらの町々や家々に住むようになったとき、その地に三つの町をとりわけなければならない、とあります。何のためでしょうか。殺人者がのがれることができるためです。つまり、ここにはのがれの町が制定されているのです。のがれの町とは何でしょうか。これはすでに民数記35章で学んだように、知らずに人を殺してしまった者が、のがれることができるように定められた町です。知らずに人を殺してしまった場合とはここに一つの事例が紹介されているように、たとえば、木を切るため隣人といっしょに森にはいり、木を切るために斧を手にして振り上げたところ、その頭が柄から抜け、それが隣人に当たってその人が死んだような場合です。このような場合、彼は故意に人を殺したわけではないので、殺された人の家族などが憤りに燃えその殺人者を追いかけ打ち殺すことがないように、のがれの町を用意されたのです。もしそれが故意の殺人であったならその者は必ず殺されなければなりませんでしたが、そうでなかったら、その人が殺されることがないように守らなければならなかったのです。なぜなら、殺された者の家族なり、親しい人が、それが故意によるものであろうとなかろうと関係なく、怒りと憎しみが燃え上がり復讐するようになるからです。そういうことがないように神はこれを定められたのです。

 

2.憎しみからの殺人(8-14

 

 次に8節から14節までをご覧ください。

 

「あなたの神、主が、あなたの先祖たちに誓われたとおり、あなたの領土を広げ、先祖たちに与えると約束された地を、ことごとくあなたに与えられたなら、・・私が、きょう、あなたに命じるこのすべての命令をあなたが守り行ない、あなたの神、主を愛し、いつまでもその道を歩むなら・・そのとき、この三つの町に、さらに三つの町を追加しなさい。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地で、罪のない者の血が流されることがなく、また、あなたが血の罪を負うことがないためである。しかし、もし人が自分の隣人を憎み、待ち伏せして襲いかかり、彼を打って、死なせ、これらの町の一つにのがれるようなことがあれば、彼の町の長老たちは、人をやって彼をそこから引き出し、血の復讐をする者の手に渡さなければならない。彼は死ななければならない。彼をあわれんではならない。罪のない者の血を流す罪は、イスラエルから除き去りなさい。それはあなたのためになる。あなたの神、主があなたに与えて所有させようとしておられる地のうち、あなたの受け継ぐ相続地で、あなたは、先代の人々の定めた隣人との地境を移してはならない。」

 

8節からの教えは、主が、イスラエルの先祖たちに与えると約束された地を、ことごとく彼らに与えられてからのことです。7節には、「だから私はあなたに命じて、「三つの町を取り分けよ」と言ったのである。」とありますので、これはヨルダン川の東側、もうすでに彼らが獲得し、ルベン人とガド人、そしてマナセ半部族が相続していた地でのことでした。それと同じように、これから入って行って、占領すべき地においても同じように三つののがれの町を設けるようにと命じています。なぜでしょうか。それは、「罪のない者の血が流されることがなく、また、あなたが血の罪を負うことがないため」です。

 

しかし、もし人が自分の隣人を憎み、待ち伏せして襲いかかり、彼を打って、死なせ、これらの町の一つにのがれるようなことがあれば、彼の町の長老たちは、人をやって彼をそこから引き出し、血の復讐をする者の手に渡さなければなりませんでした。彼は死ななければならなりませんでした。故意に人を殺してしまった場合は、殺してしまった者は、死をもって報いなければならなかったのです。たとえ彼が逃れの町に入っても、そこから引きずり出して、血の復讐をする者の手に渡さなければなりませんでした。

 

なぜでしょうか。それは殺人者への憎しみのためではありません。神の正義のゆえです。神は義なる方であり、その正義のゆえに、人を殺してしまった者に対してはその死をもって報いなければならないのです。この正義によるさばきと、憎しみのよる復讐とは、まったく別物であり、区別しなければなりません。新約聖書において、たとえば、ヤコブの手紙の中には次のように記されてあります。「人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」(1:20私たちが怒って行なったことは、神の正義を実現するものではありません。たとえば、日本において、死刑制度の是非がよく問われますが、それは被害者の家族の感情から主張されることが多いですが、そのような動機によって、人をさばいてはいけません。人はあくまでも、神の正義のゆえに、また神の秩序のゆえにさばかれなければならないのです。ここでは明らかに自分の隣人を憎み、計画的に人を殺しとあるので、情状酌量の余地はありません。そういう人は死ななければなりませんでした。そのようにしてイスラエルから悪を取り除かなければなりませんでした。それがあなたのためになったからです。そのような悪を取り除くことによって、それがパン種のようにイスラエル全体に広がることを防いだからです。もしこれを野放しにしたら、憎しみの連鎖がイスラエル全体に広がり、まったく神の秩序が保てなくなるでしょう。このようにして悪を取り除くことによって、彼らは神の正義をしっかりと保つことができたのです。

 

3.偽りの証言(15-21

 

 次に15節から21節までをご覧ください。

「どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。もし、ある人に不正な証言をするために悪意のある証人が立ったときには、相争うこの二組の者は、主の前に、その時の祭司たちとさばきつかさたちの前に立たなければならない。さばきつかさたちはよく調べたうえで、その証人が偽りの証人であり、自分の同胞に対して偽りの証言をしていたのであれば、あなたがたは、彼がその同胞にしようとたくらんでいたとおりに、彼になし、あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。ほかの人々も聞いて恐れ、このような悪を、あなたがたのうちで再び行なわないであろう。あわれみをかけてはならない。いのちにはいのち、目には目、歯には歯、手には手、足には足。」

 

17章で学んだように、どんな咎でも、どんな罪でも、すべての人が犯した罪は、ひとりの証人によって立証されてはなりませんでした。必ずふたりか三人の証言によって、そのことが立証されなければなりませんでした。もしその証言が食い違った場合は、どうしたら良いのでしょうか。そのような時には、相争うこの二組の者が主の前に出て、祭司たちとさばきつかさたちの前に立ち、調査をされなければなりませんでした。そして、偽りの証言者は、厳しく罰せられなければなりませんでした。彼にあわれみをかけてはなりませんでした。ここでこの有名なことばが出てきます。「いのちにはいのち、目には目、歯には歯、手には手、足には足。」

 

これがさばきをするときの基準です。加害者が、その与えた害と等しいものを刑罰として受ける、という原則です。目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足です。そしていのちにはいのちです。それ以上のものを要求することはできませんでした。人間は往々にして目を取られたら憎しみのあまり耳も、鼻も、手も、足も、いのちも奪おうとします。しかし、目には目なのです。そして、歯には歯です。それ以上は赦されていません。

 

しかし、イエス様はこう言われました。「目には目で、歯には歯で、と言われるのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打たれたら、左の頬も向けなさい。」(マタイ5:38-39どういう意味でしょうか?

これは、復讐に生きるのではなく、神の愛と神の義に生きるようにということです。それは人間の思いをはるかに超えた基準です。しかし、神の愛によって贖われた者は、その大いなる神のあわれみを経験した者として、この神の愛に生きることができる。それが神の民の生き方であり、そのように導くものが神のみことばとご聖霊の力なのです。

 

ところで、こののがれの町については、すでに民数記でも語られていましたが、それが指し示していたのは何だったのでしょうか。それは、イエス・キリストによる赦しです。民数記35:25-28には、次のようにありました。

「会衆は、その殺人者を、血の復讐をする者の手から救い出し、会衆は彼を、逃げ込んだそののがれの町に返してやらなければならない。彼は、聖なる油をそそがれた大祭司が死ぬまで、そこにいなければならない。もし、その殺人者が、自分が逃げ込んだのがれの町の境界から出て行き、血の復讐をする者が、そののがれの町の境界の外で彼を見つけて、その殺人者を殺しても、彼には血を流した罪はない。その者は、大祭司が死ぬまでは、そののがれの町に住んでいなければならないからである。大祭司の死後には、その殺人者は、自分の所有地に帰ることができる。これらのことは、あなたがたが住みつくすべての所で、代々にわたり、あなたがたのさばきのおきてとなる。」

 

それは、その殺人者を、血の復讐をする者の手から救い出し、やがて彼が、自分の所有地に帰ることができるようにするためでした。いつ自分の所有地に帰ることができたのでしょうか。それは大祭司が死んでからです。それまではそこにとどまっていなければなりませんでした。誤ってその境界から出てはなりませんでした。出るようなことがあれば、殺されても何も文句を言うことはできませんでした。ずっとそこにとどまり、やがて大祭司が死ねば、自分の所有地に戻ることができたのです。大祭司の死は、その在任中に殺された被害者の血を贖うのに十分なものだったからです。

 

つまりこののがれの町は、イエス・キリストを指し示していたのです。私たちは故意によってであっても、偶発的であっても、罪を犯す者でありますが、しかし、私たちの大祭司イエス・キリストの死によって、彼のもとに逃れて来た者たちが罪によって失われた約束を受けるに足る者となり、キリストが約束された永遠の住まいに帰ることができるようになったのです。このすばらしい神の恵みに感謝して、この恵みにしっかりととどまり続ける者でありたいと思います。

ヘブル11章1~3節 「信仰とは」

きょうは、へブル人への手紙11章前半の箇所から、「信仰とは」というタイトルでお話します。このヘブル書の著者は10章18節まで述べてきたことを受けて、三つのことを勧めました。それは、全き信仰をもって、真心から神に近づこうということ、そして、動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではないかということ、そして、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではないかということです。それは一言で言えば、義人は信仰によって生きるということです。キリストの血によって救われた者は、信仰によって生きなければなりません。恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者でなければならないのです。

そこで、それに続く今回の箇所には、それでは信仰とは何ですかというテーマを取り上げ、信仰によって生きた人を紹介しながら、信仰によって生きるとはどういうことなのかが述べられています。

 

Ⅰ.信仰とは(1)

 

まず、1節をご覧ください。

「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」

 

ここで著者は初めに、信仰とは何であるかを説明しています。そして、信仰とは望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものであると言っています。どういうことでしょうか?それはまず、「望んでいる事がらを保証する」ことです。「望んでいる事がら」というのは、自分が望んでいることではありません。それはこれまでも何度か出てきましたが、神ご自身、あるいはキリストご自身のこと、そして、神によってもたらされる天における報いことを意味していることがわかります。たとえば、 10章35節には、「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。」とありますが、それは信仰によって歩んだ人が天において受ける報いのことを指していることがわかります。天において受ける大きな報い、それこそ私たちの希望なのです。そしてその希望を保証するもの、それが信仰なのです。ですから、信仰とは無闇やたらに信じる盲信とは違い、確かな証拠があって、それを認識することにほかなりません。

 

この「保証する」という言葉は、「下から立たせる」という意味があります。たとえば、建物を建築する際には契約書を交わしますが、その条項など、物事を成り立たせるための根拠や実体のことです。建物はそれによって成り立っているわけです。したがって、信仰が望んでいる事がらの実体であるというのは、この天における報いは信仰をとおして成り立つものであり、信仰がなければまったく成り立たないものである、という意味です。信仰の反対語は疑いとか恐れですが、私たちが、神がおられること、また神が約束してくださっていることを、疑いながら聞いているとしたら、あるいは、そんなことを信じたら人に変に思われるのではないかという恐れを抱いているとしたら、それは私たちを支える希望ではなくなってしまいます。すなわち、天の希望は、信仰があってのみ、生きて働くものなのです。

 

次に、ここには、目に見えないものを確信させるものです、とあります。どういうことでしょうか?創造主訳聖書では、「将来に起こることを確かなものとしてつかむ手であり」と訳しています。とてもわかりやすい表現だと思います。私たちが希望として持っている事がらは、みな目に見えないものです。たとえば、神とか、キリストとか、そして天にあるものはみな、物理的に見ることはできません。それらは科学的に検証することもできません。しかし、私たちはやがてこの地上での生活を終えた後、天国へ行くことができると確信しています。それはどのようにしてかというと、信仰によってです。それをしっかりとつかむことができる手こそ信仰にほかなりません。

 

なぜそのように確信することができるのかというと、それは、私たち信じる側に何らかの根拠があるからではなく、信じている対象である神が確かな方であられるからです。科学的に物事を認識しようとする人は、目で見て、耳で聞いて、手で触れて確かめますが、信仰という目で見る人は、肉眼で見ることができないものでも、そこに確かな証拠を見ることができるのです。それは神の確かさです。それは、神が私たちを救ってくださったということによってわかります。なぜなら、神はそのためにひとり子さえも犠牲にして、本来、私たちが受けなければならない罪の身代わりとして十字架で死んでくださったほどに私たちを愛してくださった方だからです。その方が私たちのために約束してくださるのが、この聖書ですから、そこには確かな証拠があると言えるのです。将来起こることは目で見ることはできませんが、神が約束してくださったこの聖書によって確かなものとしてつかむことができるのです。

 

したがって、「信仰」とは、自分が願っているものを何回も自分に言い聞かせて、それがかなえられるようにと神に押し付けることではなく、神が言われたこと、また神が願っておられることを、そのまま自分の心に受け入れて、なんの疑いもせず、そのとおりになると確信することなのです。

 

そして、そのような信仰をもって生きるということがどれほど確かな生き方であるかは、その結果をみれば明らかです。この自然界とか、この世の現象しか信じない人は、今見ているものとか、手でさわることができるもの、あるいは耳で聞こえるものしか確かなものと思っていませんから、将来起こる事や超自然的な事については、何もわからないのです。ですから、そういう人は、いつも将来のことについて不安があり、思い煩わなければなりません。将来、何があるかなんてたれにもわからないのですから、いくら将来のことについて計画を立てても、自分にとって不都合なことはその中には入れていないので、いざそういうことが起こると、どうしていいかわからなってしまうのです。たとえば、何歳の時に大病するかとか、何歳になったら失業するかとか、何歳の時に家族の間に大きな問題が起こってくるかといったことは全くわかりません。わからないのですから、考えようがないわけです。ところが、私たちの人生には思いがけないことが起こってくるものです。

ある人が人生には三つの坂があると言いました。一つは上り坂、もう一つは下り坂、そして三つ目の坂はまさかです。そのまさかということが起こってくることがあるのです。そして、あわてふためくことになるわけです。そのような時に備えて、ある人は生命保険に入っていたり、損害保険に入っているから大丈夫だという人がいますが、そうしたものが心の問題までケアしてくれるでしょうか。

それでは、どんなことが起こっても大丈夫だという心備えはどのようにして出来るかというと、それこそ信仰によってなのです。私たちがこの地上での生活をしていく時、突然にして大きな問題が起こってくることがありますが、そのような時に、自分の知恵や力ではどうしようもないということが分かっていても、なおこの地上の何かを頼りにしていたのでは、生きる根底が揺らいでしまっている以上、どうしようもありません。ところが、信仰を持つということは、この有限の世界、相対の世界、自然界というものを越えた永遠で、無限で、絶対で、超自然の世界である神の国の確かさに立って生きるということですから、その人を生かす力は過ぎ行くこの世からではなく、動くことのない永遠の世界から来るということです。ですから、どんなことが起こっても、揺らぐことはないのです。

 

あなたはこの手を持っていますか。将来に起こることを確かなものとしてつかむ手です。どうかそのような手を持ってください。そして、どんなことがあっても揺り動かされることがない確かな人生を歩もうではありませんか。

 

Ⅱ.信仰によって称賛される(2)

 

次に2節をご覧ください。ここには、「昔の人々はこの信仰によって称賛されました。」とあります。

 

「昔の人々」とはだれのことでしょうか。これは神を信じて生きた昔の人々、つまり、旧約聖書の中で信仰に生きた人たちのことです。具体的にはこの後に列挙されています。4節にはアベルという人物のことが、5節にはエノク、7節にはノア、8節以降はアブラハム、20節にはイサク、21節ではヤコブ、23節にはモーセ、30節ではヨシュア、31節にはラハブ、そして32節には、「これ以上、何を言いましょうか。」と、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエルと続きます。これらの人々については次回から少しずつ見ていきたいと思いますが、ここではその総括として、次のように言われています。

「昔の人々はこの信仰によって称賛されました。」

 

「称賛」という言葉は、下の説明には※がついていて、直訳で「あかしを得たのです」とあります。信仰によって生きる人は、彼らがいかに生きたのかというあかしを残したということです。それほど良い評判を得ました。その良い評判とは、まず何よりも神からの良い評判であり、それはまた、人々からの良い評判でもありました。それは今日でも同じで、信仰によって生きる人は神からも、人からも良い評判を得るのです。

 

なぜ信仰に生きる人はこのような称賛を受けるのでしょうか。なぜなら、神によって生きる人は神のようになるからです。キリストにあって生きる人はキリストのようになるはずだからです。この世のように自分中心の生き方ではなく、キリストのように他の人のことを考え、自分を犠牲にしてまで他の人のために生きるので、多くの人の心を引き付けるのです。

 

ルカの福音書10章27節には、黄金律と呼ばれている聖書の言葉があります。それは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(ルカ10:27)という言葉です。

ある人がエルサレムからエリコに下る道で、強盗に襲われ、半殺しにされました。そこにたまたま、祭司がひとり、通りかかりましたが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行きました。

次にレビ人がそこを通りかかり、彼を見ましたが、同じように反対側を通り過ぎて行きました。

ところが、サマリヤ人といってそこに倒れている人と敵対関係にあった人がそこに来合わせると、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやりました。そして、翌日、彼はデナリ硬貨と言って1デナリは1日分の給料に相当しますから約5,000円くらいでしょうか、それを2枚取り出して、宿屋の主人に渡してこう言いました。「この人を介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」

さて、この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったでしょうか。その人にあわれみをかけてやった人です。

そこでイエス様はこう言われました。「あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカ10:37)

 

これが神を信じて生きる人の生き方です。キリストはそれを文字通りなされました。私たちのために自らの命を捨てて、十字架で死んでくださることによって、神の愛を明らかにしてくださいました。そのような人が人々から尊敬され、称賛を受けるのは当然のことです。

 

あの3.11の後で宮城県の沿岸地方や岩手県の三陸地方にいち早く入り復旧作業をしたのは、サマリタンパースというクリスチャンの団体でした。彼らは特に津波で流されたり、壊れた家屋を直したりするのを手伝いました。するとその地の住民はその愛の心と行動に感動し、彼らが働きを終えて帰国する時、教会にやって来て心からの感謝を表しました。それは、彼らが自分を犠牲にしても人々に仕える生き方の中に本物の愛を感じ取ったからです。キリストを信じ、キリストのように生きる人に人々の心は引き付けられ、称賛されるのです。

 

それならどうして多くの人たちがイエス様を信じないのでしょうか。そこには二つの理由が考えられます。一つは、多くの人たちは聖書の神を知らないからです。聖書の神がどんなにすばらしい方であるかがわかったら、そのような神を信じたいと思うはずです。しかし、日本人の多くは、さわらぬ神にたたりなしで、逆に宗教には関わらない方が良いと思っているために、こんなにすばらしい神様のことがわからないのです。

もう一つの理由は、イエス様を信じたらからといってすぐにキリストにある成人として成長していくかというとそうではなく、そのためには時間がかかるのです。そのためには自分をキリストに明け渡し、自分の心をキリストによって支配していただくように願い求め、それを日々の生活の中に適用していくという訓練が求められます。そのためには時間がかかるのです。しかし、どんなに時間がかかってもキリストのようになることを祈り求めるなら、必ずそのように変えられ、その信仰によって神からも、人からも、良い評判を得るようになるのです。

 

Ⅲ.神のことばを信じることから(3)

 

最後に、3節をご覧ください。

「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」

 

どういうことでしょうか?ここには、神が天地を創造された時、どのようにしてそれを成されたかが語られています。そして、それは神のことばによってです。神が「光よ。あれ。」と仰せられると、そのようになりました。この世界のすべてのものは、神の御言葉一つによって造られました。ということはどういうことかというと、この世界のすべてのものは、何も無いところから神が創造されたということです。目に見えるものはすべて、見えないものからできているのです。

 

このように神が創造者であられるということは、私たち人間を含めすべてのものが神の支え無しには生きていけない存在であるということを意味しています。このことが本当に分かれば、私たちはもっと神を恐れ、神に信頼して生きるようになるのではないでしょうか。

 

イエス様は、こう言われました。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)。神の国とその義とをまず第一に求めるなら、それに加えて、これらのもの、これらのものとは衣食住のことを指していますが、これらのものはすべて与えられるのです。

 

皆さん、私たちは優先するべきものを間違えてはいけません。何を食べるか、何を飲むか、何を着るかといったものは異邦人、つまり神を知らない人たちが切に求めているものです。しかし、天の神様は私たちがそれらのものを必要としている事をよく知っていらっしゃいます。だから神の国とその義とをまず第一に求めなければならないのです。イエス様は、その順序を間違えてはならないと教えて下さったのです。

 

もしかすると私たちは、この神の国の一員とされているということの意義をあまり深く認識していないかもしれません。「ああ、救われて良かった。天国に行けるようになった。」とそれを将来のことに限定してしまい、現在この地上にあっても神の恵みと力に与れるようにして下さっているということにそれほど気付いていないのかもしれません。しかし、神の国はあなたがたのただ中に来ました。私たちはこの神のご支配の中に生かされているのです。それはものすごい恵みであり、祝福なのです。しかし、そのことを知らなければ、何も出来ません。

 

アメリカでの話ですが、ある農家の方がいまして、土地がやせていて少しも儲からないので、ある日「あなたの土地を掘削させて下さい。」という人が訪問した時、「あそこは肥料をやっても何も育たないやせ衰えた土地だからどうぞ勝手にやって下さい」と言いました。日も経ずしてそこからは巨大な油が出てきたのです。一日にして、彼は億万長者になってしまいました。ずっと前からその祝福は与えられていたのですが、彼らはそれを知らなかったのです。だから貧しい生活に甘んじなければなりませんでした。

 

もしかしたら私たちもそのようなことがあるのではないでしょうか。神の国のすばらしい恵みと祝福を受けていてもそれを小さく考えてしまい、限定してしまっている為に、その恵みを十分に味わえないでいるということがあるのではないでしょうか。折角神様を知ったのですから、この神の国の豊かさに与っていく者でありたいと思います。本当に多くの方が悩み苦しみの中にあってもなお喜ぶ事が出来るそういうクリスチャンにならせていただく事が大切なのではないでしょうか。「どうしてクリスチャンの人たちってあのように平安でいられるのでしょうね?」と言われる者にならせていただきたいですね。

 

それは、神の国とその義とを第一に求めることから始まります。その順序を間違えてはなりません。もし私たちが心から神様にお従いするなら、そこはまさしく神の国となるのです。信じるという事はそこに従うという意味も含まれているのです。神様に心から「お従いします」という心の中において歩む人たちの中には神の国がそこに現われていきます。そして、そこには色々な形で神様の奇蹟が現れてくるのです。

 

キリストの弟子であったシモン・ペテロはどうだったでしょうか。彼はガリラヤ湖の漁師でした。ですから、ガリラヤ湖の事でしたら何でも知っていました。どこが浅くて、どこが深いか、いつ、どこに網を下ろせば魚をとることができるか。でも彼らは一晩中網を下ろしても一匹の魚も取れませんでした。その時イエス様が、「船の右側に網を下ろしてみなさい。」と言われました。皆さんならどうしますか?イエス様とはいえ、漁に関してはペテロの方がプロです。でもペテロはその時、「夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばとおりに、網をおろしてみましょう。」(ルカ5:5:)と言って網をおろしました。するとたくさんの魚が入り、網が破れそうになっただけでなく、二そうとも沈みそうになりました。これ神の御力です。

 

「また神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」(エペソ1章19節)

 

信じる者に働く神のすぐれた力が、あなたの内にも宿っています。イエス様を信じたことで神の国があなたのところにも来たのですから、あなたにもこの力が宿っているのです。問題はあなたがそのことを知って、信じるかどうかです。神様の御言葉に信頼し、その御言葉に従うかどうかという事なのです。

 

信仰はこの神の言葉を信じることから始まります。あなたが信仰に立つなら、神様はそこに御業をなされます。信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。どうか、将来起こることをつかむ手をもって神の約束をしっかりと握りしめてください。

申命記18章

きょうは、申命記18章から学びます。まず1節から8節までをご覧ください。

 

1.主ご自身が、彼らの相続地(1-8)

 

「レビ人の祭司たち、レビ部族全部は、イスラエルといっしょに、相続地の割り当てを受けてはならない。彼らは主への火によるささげ物を、自分への割り当て分として、食べていかなければならない。彼らは、その兄弟たちの部族の中で相続地を持ってはならない。主が約束されたとおり、主ご自身が、彼らの相続地である。祭司たちが民から、牛でも羊でも、いけにえをささげる者から、受けるべきものは次のとおりである。その人は、肩と両方の頬と胃とを祭司に与える。あなたの穀物や、新しいぶどう酒や、油などの初物、羊の毛の初物も彼に与えなければならない。彼とその子孫が、いつまでも、主の御名によって奉仕に立つために、あなたの神、主が、あなたの全部族の中から、彼を選ばれたのである。もし、ひとりのレビ人が、自分の住んでいたイスラエルのうちのどの町囲みのうちからでも出て、主の選ぶ場所に行きたいなら、望むままに行くことができる。彼は、その所で主の前に仕えている自分の同族レビ人と全く同じように、彼の神、主の御名によって奉仕することができる。彼の分け前は、相続財産を売った分は別として、彼らが食べる分け前と同じである。」

 

ここには、イスラエルの民が約束の地に着いてから、祭司たちの生活に対してどのように責任を果たさなければならないか、そして、祭司とレビ族は、イスラエルといっしょに相続地の割り当てを受けてはならない、とあります。彼らは、その兄弟たちの部族の中で相続地を持ってはなりませんでした。なぜでしょうか。 それは主が約束されたとおり、主ご自身が、彼らの相続地であったからです。これはどういうことでしょうか。

 

詩篇16章5節と6節のところで、ダビデは「主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。 測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。 」と告白しています。信仰者にとっての最高の分け前は、この地上的な分け前ではなく、永遠の分け前である主ご自身です。その神とのかかわりの中でいのちを掘り起こすべく務めがゆだねられているということはすばらしい特権なのです。そうした彼らの生活がちゃんと守られ支えられるように、イスラエルのそれぞれの部族から十分の一のささげものを受けて養われていました。さらに祭司はレビ人によってささげられた十分の一のものをもって養われていたのです。神の国とその義を第一にするなら、それに加えて、すべてのものが与えられます。

 

そればかりではありません。3節を見ると、祭司は、いけにえの肉の上質の部分、またぶどう酒や油の初物、羊の毛の初物など、上等な部分が割り当てられたことがわかります。最も良いものを受けたのです。

 

いったいなぜ彼らはそれだけ手厚く支えられたのでしょうか。それは、彼とその子孫が、いつまでも主の御名によって奉仕に立つことができるためでした。つまり、彼らの奉仕によって神のことばと福音宣教の働きが続けられていくためです。神のことばこそが最高の宝であり、このみことばに仕えるために全部族が一体となって彼らの生活を支えたのです。

 

2.忌みきらうべきならわしをまねてはならない(9-13)

 

次に9節から13節までをご覧ください。

 

「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地にはいったとき、あなたはその異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねてはならない。あなたのうちに自分の息子、娘に火の中を通らせる者があってはならない。占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならない。これらのことを行なう者はみな、主が忌みきらわれるからである。これらの忌みきらうべきことのために、あなたの神、主は、あなたの前から、彼らを追い払われる。あなたは、あなたの神、主に対して全き者でなければならない。」

 

イスラエルの民はこれから約束の地に入って行きますが、彼らがその地に入って行くとき、その地の住民の忌みきらうべきならわしをまねてはいけません。そこにはもう、これまでイスラエルを導いてきたモーセはいません。彼らが拠り頼むべき神のことばを聞くことができなくなるときそれをどのようにして補うのかというと、その地の住民が拠り所としている占い師やまじない、呪術に伺いを立てることによってです。それは私たちも同じで、私たちも霊的にダウンしていると、神のことばではなく、人のことばや人のアドバイス、人の考え、また占いのようなものに頼りたくなってしまいます。けれども、そうであってはいけません、主に対して全き者でなければならないのです。なぜでしょうか。それは、これらのことを行う者をみな、主が忌みきらわれるからです。私たちは、私たちの中からこれらのものを追い払わなければなりません。

 

3.私のようなひとりの預言者(14-22)

 

次に14節から22節をご覧ください。前の箇所では、彼らが約束の地に入って行くとき、その地の住民たちの忌みきらうべきならわしをまねてはならないと言いましたが、ここには、それではモーセがいなくなってしまたらどのようにして神のことばを聞くことができるかが書かれてあります。それは15節にあるように、「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる」ので、彼に聞き従わなければならないということです。「私のようなひとりの預言者」とは、いったいだれのことでしょうか。

 

イスラエルの歴史においてモーセの次のイスラエルの指導者、モーセの後継者はヨシュアでした。神はヨシュアをとおしてご自身のみことばを語り、イスラエルの民を導かれました。そしてその後士師たちの時代にも預言者としての働きをした者があり、最後の士師であったサムエルの時代には預言者学校のようなものがありました。そして王国時代にも預言者たちが存在し、その活動を活発化していきます。その代表がエリヤとエリシャでした。王も祭司もだれも神の律法を教えない暗黒の中で、神はエリヤとエリシャを立てて、神のことばを人々に語らせたのです。そうすることで、神に背くイスラエルを霊的に改革し、彼らを滅びから救おうとされたのです。

 

ですから、モーセのようなひとりの預言者とは、歴史的に言えばモーセの後継者であるヨシュアのことのように考えられますが、ここではヨシュア以上の、いや、ヨシュアが指し示していた完全な預言者のこと、そうです、それはイエス・キリストのことでした。というのは、確かにヨシュアはモーセの後継者でしたが、モーセのような預言者ではなかったからです。ヨシュアは他の預言者同様、夢や幻で神のみこころを知りましたが、モーセはそれとは違い直接神と語りました。あるとき、モーセの姉のミリヤムが彼をねたんで彼を訴えましたが、そのとき主は彼女とアロンとモーセを、ご自分の前に連れて来られて、こう言われました。

「わたしのことばを聞け。もし、あなたがたのひとりが預言者であるなら、主であるわたしは、幻の中でその者にわたしを知らせ、夢の中でその者に語る。しかしわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者である。彼とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、主の姿を仰ぎ見ている。なぜ、あなたがたは、わたしのしもべモーセを恐れずに非難するのか。」(民数12:6-8)

ですから、モーセのような預言者はほかにはいないのです。そのような預言者とは、究極の預言者であり、預言者の完成である第二のモーセとしてのイエス・キリストを指し示していたのです。

 

このモーセのようなひとりの預言者は、後の時代、特に自分たちの背信によって自分たちが滅びた後には、メシヤ的大預言者として考えられるようになりました。ですから、人々は自分たちを滅びから救い出してくれるひとりの預言者の劇的な出現を待ち望むようになっていたのです。それでイエス様が来られたときに、しばしば「あの預言者」と呼ばれるようになったのです。(ヨハネ1:21,6:14,7:40)つまりイエス・キリストこそ預言者の中の真の預言者であり、預言者たちが預言した「預言」そのもの、すなわち、神のことばそのものであったのです。

 

ヨハネによる福音書1章1節には、「はじめにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」と証言されています。イエスこそ神のことばであり、神そのものだったのです。また、ヨハネ1章17節には、「というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」とあります。モーセが律法を与えましたが、神の恵みとまことはイエス・キリストによって実現しました。イエス様は神を見たとか、神からことばを受けたというだけでなく、神そのものであり、神のことばをもっておられた方だったのです。イエスを見た者は父を見たのです。(ヨハネ14:9)私は今、多くのことばをもって神を説明していますが、でも、直接、神が来られたら、そんな無駄なことは必要ありません。神が直接語り、見せて、教えてくださるからです。それが神の子イエス・キリストだったのです。

 

モーセの時代にはモーセという預言者が立てられ、その預言者のことばを通して人々は神のことばを聞きました。それは、神がシナイ山に現れた時のように、雷鳴とともに神が現れたら、人々は恐怖に打たれて神のことばを聞くことができなかったからです。それで神は預言者なる人物を立ててご自身のことばを語らせましたが、その立てられた人が必ずしも忠実にみことばを語ったかというとそうではなく、その結果、滅びを招いてしまうことがありました。ですから、神は最終的に直接この世に来られ、私たちの間に住まわれて、ご自身のことばを語ってくださいました。私たちはこの生ける神のみことばであられるイエス様によっていのちを得ることができます。だからこの方のことばを聞かなければならないのです。

 

ここには、神に遣わされていないのに、自分が預言者だと自称している者も出る、とあります。そのような預言者は死ななければなりません。いったいどうやってそれを見分けるかができるのでしょうか。それは、その預言者が主の名によって語ってもそのことが起こらず実現しないなら、それは主が語られたことばではないということです。

 

その点、イエス様のことばはことごとく成就しました。イエス様が言われたことばは、何一つ実現しないで、地面に落ちることはありませんでした。このことばこそ、私たちが聞かなければならないことばなのです。モーセのような預言者、それは来るべきメシヤ、イエス・キリストことだったのです。

 

申命記17章

 きょうは、申命記17章から学びます。これは1618節からの続きです。1618節には、「あなたの神、主があなたに与えようとしておられるあなたのすべての町囲みのうちに、あなたの部族ごとに、さばきつかさと、つかさたちを任命しなければならない。彼らは正しいさばきをもって民をさばかなければならない。」とありました。これは、イスラエルの民が約束の地に入った後に、神に対して、また人に対して罪を犯した時、どのようにその人をさばかなければならないかということです。そして、そのような時にはその町囲みにさばきつかさを置き、正しくさばかなければなりません。わいろをもらったり、人をかたよってみたりして、さばきをまげてはならないのです。それが神に属する聖なる民としての歩みなのであります。そのことが17章においても続けて語られています。

 

 1.主へのいけにえ(1

 

 まず1節をご覧ください。ここには、「悪性の欠陥のある牛や羊を、あなたの神、主にいけにえとしてささげてはならない。それは、あなたの神、主の忌みきらわれるものだからである。」とあります。これはどういうことかというと、1621節と22節で語られたことを受けてのことです。そこには主の祭壇について語られていました。主の祭壇のそばにはどんな偶像も立ててもならないということでした。また、その主の祭壇にささげるいけにえは、悪性の欠陥のある牛や羊をささげてはいけないということです。欠陥品や残り物を主にささげてはいけないということです。主へのいけにえは完全で、最高のものでなければなりません。なぜなら、主は私たちに最高で、完全ないけにえイエス・キリストを与えてくださったからです。最高の愛に対する最高の応答は、心からの最高のいけにえをささげることによってなされなければならないのです。

 

2.二人か三人の証言によって(2-7

 

 次に2節から7節までをご覧ください。ここには、イスラエル中で、男であれ、女であれ、主の前に悪を行って、主の契約を破るような者がいた場合、どうしたらよいかが教えられています。そして、そのような者がいれば、その悪事を行った男または女を町の広場に連れ出して、彼らを石で打たなければなりません。ここでの悪事は、具体的には偶像礼拝の罪です。3節を見るとわかります。主以外のほかの神々に仕え、また、日や月や天の万象などを拝む者があったら、石打ちにしなければなりませんでした。

 

 ちょっと厳しすぎるのではないでしょうか。たとえそのようなことを行ったとしても、悔い改めるように何度か勧告し、少し様子を見てからでいいのではないですか。それなのに、そういう人がいると聞いたら有無を言わさずに石で打つというのは無情な感じがします。いったいなぜ主はそのように命じておられるのでしょうか。それは7節にあるように、彼らのうちから悪を除き去るためです。もしそのようにしなければ、それがイスラエルの民全体に広がっていってしまうからです。パウロはそれをパン種にたとえ、Ⅰコリント5913節で、不品行な者たちとは交際しないように、そのような者を教会から除きなさいと命じています。教会だから何でも許されるというのではありません。兄弟と呼ばれる者で、不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたら、そのような者とは付き合ってはいけないし、一緒に食事をしてもいけないのです。私たちはパン種の入らない、純粋で真実なパンで、祭りをしなければならないのです。(Ⅰコリント5:8

 

 しかし、その人が罪を行ったからといってすぐに取り除こうとしてはいけません。6節、7節には、「ふたりの証人または三人の証人の証言によって、死刑に処せられなければならない。ひとりの証言で死刑にしてはならない。」とあります。これはどういうことでしょうか。これはよく確かめてということです。また、その人が悔い改めるように、その手順を踏んでということです。

 

 このことについて主イエスはマタイ18章で、「もし、あなたの兄弟が罪を犯したら・・」どうしたらよいかについてこう語っています。(マタイ18:15-20)もし、兄弟が罪を犯したら、その兄弟のところに行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れなかったら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。それでもなお、いうことを聞き入れなければ、教会に告げなさい。それでも聞き入れなければ、その人を異邦人か取税人のように扱いなさい。・・・と。なぜなら、教会にはキリストがおられるからです。その方のいうことを聞かないというのであれば、それは聖霊を拒むことであり、それは決して許されないことだからです。

 

 ですから、ふたりか三人の証言によってというのは、こうした手順を踏んでということであって、よく調べ、確認して、その人が悔い改めるようにと何度も勧告してのことです。そして、その目的はその罪を犯した兄弟をさばくことではなく、兄弟を得るためです。それでも悔い改めなければ、そのような者を取り除かなければなりません。悪を除き去らなければならないのです。

 

 3.主の選ぶ場所で(8-13

 

 次に8節から13節をご覧ください。ここには、「もし、町囲みのうちで争い事が起こり、それが流血事件、権利の訴訟、暴力事件で、あなたのさばきかねるものであれば、」どうしたらよいかが教えられています。そのような時には、「あなたの神、主の選ぶ場所に上り、レビ人の祭司たち、あるいは、その時に立てられているさばきつかさのもとに行き、尋ね」なければなりません。彼らは、あなたに判決のことばを告げてくれるからです。主の選ぶ場所とは、主を礼拝するために祭壇が置かれていたところです。それは主の幕屋なり、神殿がある所です。そこには祭司やさばきつかさがいて、正しい判決のことばを告げてくれるのです。

 

祭司やさばきつかさは、主によって立てられた人であり、神に仕えている人です。したがって、彼らが下した判決には、従わなければいけません。もし聞き従わず、不遜なふるまいをするなら、その人は死ななければなりません。そうすることによって、イスラエルから悪を除き去ることができました。そのようにしてイスラエルの民が神を恐れ、不遜なふるまいをすることがなくなったからです。

 

今の時代、この役割をゆだねられているのは私たち一人一人のクリスチャンであり、キリストの教会です。なぜなら、私たちはみな神に対する祭司とされたからです。ですから、私たちは教会で起こっているさまざまな事柄について、祈りとみことばによって正しく判断し、神のみこころに従って正しくさばかなければなりません。そうであれば、なおさらのこと、神のみこころをよく知るために聖書をよく学び、聖書から検証する必要があります。パウロはテサロニケの人々に、「すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。」(1テサロニケ5:21)と言いました。

 

4.イスラエルの王(14-20

 

 次に14節から20節までをご覧ください。14節と15節には、「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地にはいって行って、それを占領し、そこに住むようになったとき、あなたが、「回りのすべての国々と同じく、私も自分の上に王を立てたい。と言うなら、あなたの神、主の選ぶ者を、必ず、あなたの上に王として立てなければならない。あなたの同胞の中から、あなたの上に王を立てなければならない。同胞でない外国の人を、あなたの上に立てることはできない。」とあります。

 

モーセは、イスラエルが、将来、自分たちの上に王を立たせたいと願うことを予見していました。Ⅰサムエル86節のところに、イスラエルの民がサムエルのところにやってきて、「私たちをさばく王を立ててください。」と言ったことが記されています。それまでイスラエルは、預言者から語られる神のことばと、祭司の務めによって与えられる、主のご臨在によって支配されていました。つまり、神が彼らの王となっている神政政治だったのです。しかし、周りの国々と同じように、自分たちを統治する王が欲しいと願い出るようになると預言していたのです。このことは神のみこころではありませんでしたが、神はイスラエルの上に王を立てることを許されました。

 

しかし、そのような時にはどうすべきかがここで語られています。一つのことは、同胞の中から王を立てなければならないということです。同胞でない外国人を、彼らの上に立てることは許されませんでした。

 

第二に、やがて立てられる王は、自分のために馬をふやしてはなりませんでした。どういうことでしょうか。馬をふやすためだといって民をエジプトに帰らせてはならなかったのです。これは軍事力を持ってはいけないということです。当時の世界では、軍事力として馬が用いられました。ですから、多くの馬を持つ者は勝利することができました。その馬を持ってはならないというのは、そうした人間的な力ではなく、神ご自身に信頼するようにという意味です。

 

第三に、多くの妻を持ってはなりませんでした。なぜなら、そうした妻の存在が偶像へと陥らせ、神から引き離されることになるからです。

 

そして第四のことは、自分のために金銀をふやしてはならないということです。なぜなら、多くの金銀を持つことによって心が高ぶり、自分を神だと錯覚するようになってしまうからです。その結果、神を神とせず、神に敵対することになってしまい、神のさばきを受けることになってしまうからです。

 

イスラエルの歴史の中でもとても豊かな王であったのはソロモンです。しかし、彼は神のあわれみによって王になったにもかかわらずそのことを忘れ、神の命令に聞き従わずに暴走し、最後は王国が分裂する原因を作ってしまいました。Ⅰ列王記1014節には、「一年間にソロモンのところにはいって来た金の重さは、金の目方で六百六十六タラントであった。」とあります。それをソロモンが住む宮殿に使い、宮殿を金でいっぱいにしました。

そして同じくⅠ列王の1026節には、「ソロモンは戦車と騎兵を集めたが、戦車一千四百台、騎兵一万二千人が彼のもとに集まった。そこで、彼はこれらを戦車の町々に配置し、また、エルサレムの王のもとにも置いた。」とあります。また、同じⅠ列王記1029節には、「エジプトから買い上げられ、輸入された戦車は銀六百、馬は銀百五十であった。同様に、ヘテ人のすべての王も、アラムの王たちも、彼らの仲買で輸入した。」とあります。

さらに、Ⅰ列王記11章に入ると、彼は多くの妻も持ちました。「ソロモン王は、パロの娘のほかに多くの外国の女、すなわちモアブ人の女、アモン人の女、エドム人の女、シドン人の女、ヘテ人の女を愛した。この女たちは、主がかつてイスラエル人に、『あなたがたは彼らの中にはいって行ってはならない。彼らをもあなたがたの中に入れてはならない。さもないと、彼らは必ずあなたがたの心を転じて彼らの神々に従わせる。』と言われたその国々の者であった。それなのに、ソロモンは彼女たちを愛して、離れなかった。彼には七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがあった。その妻たちが彼の心を転じた。」(11:1-3

ソロモンはここに書かれているように、多くの馬を持ってはならい、多くの妻を持ってはならない、そして多くの金銀を持ってはならないという神の命令に従わなかったので、彼自身が高ぶり、ほかの神々に心が寄せてしまい、神のさばきを招いてしまいました。

 

18節から20節までをご覧ください。ここには、逆に、王としてイスラエルの上に立てられた者がしなければならないことが記されてあります。それは、レビ人の祭司たちの前のものから、自分のために、このみおしえを書き写して、自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない、ということです。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学ぶためです。それは、王の心が自分の同胞の上に高ぶることがないため、また神の命令から、右にも左にもそれることがなく、彼とその子孫とがイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができるためです。

 

イスラエルの上に立つ王は、神のおきての中に身を置き、神のしもべとして生きることによって、初めてイスラエルを治めることができました。だから、祭司たちから、主のみ教えを書き写し、それを読まなければならなかったのです。神のみおしえから学び、それに従って歩まなければなりませんでした。このように、イスラエルは民であっても、人々を治め、またさばく王であっても、神の律法によって、正しい判断を下さなければなりませんでした。イスラエルの民はどんなものよりも、神のことばを第一として、神のことばによってさばかれていく人々でなければならなかったのです。

 

それは私たちも同じです。私たちクリスチャンも信徒であっても、牧師であっても、あるいはこの世において上に立つ者であっても、だれであっても、神のことばの下に自分を置き、神のみことばに従って歩み、神のみことばによって物事を判断していく習慣を身につけなければならないのです。

申命記16章

今日は申命記16章から学びたいと思います。

 

1.過越しの祭り(1-8

 

まず1節から8節までをご覧ください。1節には、「アビブの月を守り、あなたの神、主に過越のいけにえをささげなさい。アビブの月に、あなたの神、主が、夜のうちに、エジプトからあなたを連れ出されたからである。主が御名を住まわせるために選ぶ場所で、羊と牛を過越のいけにえとしてあなたの神、主にささげなさい。」とあります。

 

ここには「アビブの月を守り」とあります。アビブの月とはユダヤ人の暦で、正月にあたる「ニサンの月」のことです。この月は大麦の収穫の始まりを祝う月でもありますが、もっと重要なのは、この月が主に過越しのいけにえをささげる月であるということです。それは彼らが約束の地に入って行っても守らなければならない祭りでした。それは、主が、夜のうちに、エジプトから彼らを連れ出されたからです。そうです、過越しの祭りとはイスラエルがエジプトの奴隷であったところから解放されたことを記念して行うものです。彼らは430年もの間エジプトの奴隷として仕えていましたが、主は彼らの叫びを聞かれ、モーセという人物を立てて、そこから救い出されました。それは一方的な神のみわざでした。そのことを覚えるためにこの祭りを世々限りなく行うようにと命じられているのです。

 

その日は、主が御名を住まわせる場所で、羊と牛を過越しのいけにえとして、主にささげなければなりませんでした。「主が御名を住まわせる場所」とは、エルサレムの神殿のことを指します。イスラエルの民はどこに住んでいても、成人男子は皆このエルサレムの神殿に集まり、そこで過越しのいけにえをささげなければなりませんでした。それといっしょに、パン種の入っていないパンを食べなければなりませんでした。それは、彼らが急いでエジプトの国を出たからです。それは、過越しのいけにえをささげてから七日間続きました。このため、種なしのパンの祝いと過越の祭りはしばしば一緒に祝われました。そのようにして、彼らはエジプトの国から出た日のことを、一生の間、覚えていなければなりませんでした。

 

この過越しの祭りと種なしパンの祭りは何を表していたのでしょうか。それは罪のないイエス・キリストが十字架で死なれたことを指し示していました。神の小羊であられたキリストが、過越しの日にほふられたことによって私たちの罪が贖われました。ですから、この過越しの祭りは、キリストが十字架で死なれたことによって成就したのです。クリスチャンはイスラエルに過越しのいけにえと種なしパンの祭りを行うように命じられているように、キリストが私たちの罪のために十字架でかかって死んでくださったことを覚えなければなりません。

主の晩餐はそのために行われるものです。キリストは最後の晩餐のとき、「これは、あなたがたのためのわたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」と言われました。また、「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」とも言われました。それは御子イエスの贖いを予め表していたものだったのです。ですから、キリストが来られ罪の贖いを成し遂げられた今、私たちがしなければならないことは、私たちのためにご自身をささげられたキリストの十字架の贖いを覚えることです。

 

そして、この過越しの祭りと種なしパンの祭りとともに、初穂の祭りも行われました。それは大麦の収穫を祝って行われるものですが、キリストの復活を指し示すものでした。キリストは私たちの罪のために十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたことによって、私たちの罪の贖いを成し遂げてくださったのです。

 

2.七週の祭り(9-12

 

次に、9節から12節までをご覧ください。ここには、七週の祭りについて語られています。9節と10節にはこうあります。

「七週間をかぞえなければならない。かまを立穂に入れ始める時から、七週間を数え初めなければならない。あなたの神、主のために七週の祭りを行い、あなたの神、主が賜る祝福に応じ、進んでささげるささげ物をあなたの手でささげなさい。」

 

この七週の祭りについてはレビ記2315-22節に詳しく記されてありますが、これは初穂の祭りから50日目に小麦の収穫を祝って行われる祭りです。それは歴史的にはイスラエルがシナイ山で律法が与えられた日に対応しています。出エジプト19:1-13には、「エジプトの地を出たイスラエル人は、第三の月の新月のその日に、シナイの荒野にはいった。 ・・・」とあります。エジプトを出て50日目に、主はシナイ山で彼らと契約を結ばれ、律法を与えました。

 

それは使徒の働き2章を見るとわかりますが、ペンテコステでその成就を見ることができます。それは五旬節の日に起こった出来事でした。そしてこの日に、聖霊が弟子たちの上に降ったのです。このことによって教会が誕生しました。ですから、この七週の祭りは弟子たちの上に聖霊が降り教会が誕生したことによって成就したのです。ですから、これは教会が聖霊の降臨に感謝し、聖霊に満たされ、聖霊に導かれて生きることの重要性を覚える日なのです。

 

3.仮庵の祭り(13-17

 

そして次に、13節から17節までをご覧ください。13節、「あなたの打ち場とあなたの酒ぶねから、取り入れが済んだとき、七日間、仮庵の祭りをしなければならない。」

 

ここには、仮庵の祭りについて教えられています。これはあなたの打ち場と酒ぶねから、取り入れが済んだとき、とあるように、収穫が終わる10月ごろに行われる祭りです。秋の祭りですね。この祭りも、同じように選ばれた場所、すなわち、エルサレムの神の宮に行って行われました。そして、家族や、レビ人、在留異国人、みなしご、やもめ、すべての人がとも喜ぶのです。これは、イスラエルの民が荒野で生活し、仮庵をもって過ごしていたことを思い出す祭りです。まず1日に「ラッパを吹き鳴らす祭り」が行われ、続いて10日に「大贖罪日」があり、そして、14日の日没から七日間、仮庵の祭りが行われました。そして、その8日目は「大いなる日」で、「シムハット・トーラー(トーラー歓喜祭)」と呼ばれる祭りが行われます。ちなみに、この最後の喜びの日に歌われたのがマイム・マイムです。ですから仮庵の゜祭りは、このラッパを吹きならす祭り、大贖罪日、仮庵の祭りの三つの祭りの最後を締めくくる祭りだったのです。

 

旧約聖書では、仮庵の祭りについてレビ記2334-44節に詳しく書かれています。それは、イスラエルがエジプトを出た後、40年間荒野でテント暮らしをしていたことを記念する祭りで、人は肉体という「仮庵」に7090年間住むだけの存在であり、主の恵みなしには生きていくことはできないということを覚える一週間としてお祝いしました。

 

しかし、そればかりではなく、この仮庵の祭りは、キリストが肉体を取って誕生してくださったことによってその成就の一部を見ることができます。ヨハネによる福音書114節には、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」とありますが、この「住まわれた」というのは、「仮庵となられた」という言葉です。神はメシアであるイエスを地上に送って下さる事によって、神と人との和解をもたらしてくださいました。ですから、仮庵の祭りは和解の祭りでもあります。

 

しかし、そればかりでなく、これは来るべき千年王国を表すものでもありました。ヨハネの黙示録213節には 「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らと共に住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、とあります。この「神の幕屋」とは仮庵のことです。終わりの時、艱難時代の後にキリストが統治される千年王国が来ますが、その時、全世界の人々がこの仮庵の祭りを祝うために、エルサレムに集まってくるのです。

 

ゼカリヤ書1416節には、「エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上ってくる。」とあります。これは144節を見るとわかりますが、主がエルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つときに起こることです。これは主の地上再臨を預言しているもので、その後にこの仮庵の祭りを祝うために集まってくるわけですから、これは、その後にもたらされる千年王国を指し示しているのです。つまり、仮庵の祭りは、主の再臨を指し示す重要な鍵となっているのです。それは、この最初の日にラッパを吹きならす祭りが行われることからもわかります。このラッパの音とは何かというと、世の終わりを告げるラッパの音です。キリストが再臨することを告げるラッパの音なのです。これはⅠテサロニケ4章に書いてあります。これは世の終わりに起こることなのです。

 

そして、大贖罪の日がやってきます。これはユダヤ人が自分たちが十字架につけて殺したイエスをメシヤとして信じ、悔い改める日のことです。そのとき主にある者は死んだ者も、生きている者もたちまちのうちに空中に引き上げられます。これを空中携挙と言います。そのときこの地上は七年間の艱難時代を迎えます。後半の3年半は特に激しい艱難が続くので大患難時代ともいわれますが、この艱難の中でユダヤ人たちは胸をたたいて自分たちの罪を悲しみ、悔い改めるわけです。

 

そして、その七年間の艱難時代が終わるとき、主は地上に再臨されオリーブ山に立たれるのです。そして、千年間続く平和な時代がやってきます。これが主の救いのみわざの完成でもあります。それを祝うのが仮庵の祭りであり、救いの完成のクライマックスともいえるでしょう。

 

ヨハネの福音書737,38節のところでイエス様は、「さて、祭りの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」と言われましたが、この祭りこそ仮庵の祭りであり、その祭りの大いなる日が「シムハット・トーラー(トーラー歓喜祭)」と呼ばれる祭りで、その時にイエス様はこのように言われたのです。それは後になってから受ける御霊のことを言われたのですが、それがこの千年王国で完成するのです。

 

このように見てくると、私たちが今置かれている時代がどのような時代なのかが見えてきます。すなわち、キリストによる罪の贖いが成し遂げられて、その主の再臨が限りなく近い時代であるということです。私たちはそのような時代に生かされているのです。であれば、このような時代に生かされている私たちは、キリストの十字架を通して成し遂げられた神の救いの恵みに感謝し、神の聖霊に導かれて生きること、そして、やがて来られるキリストの再臨を待ち望むということが、その生き方の特質でなければなりません。私たちには常に肉との闘いがありますが、そうした肉の欲求によってではなく、またそうした知恵や力、思いによってではなく、御霊に導かれて進まなければならないのです。最近の傾向としてはこの世が複雑になってくることに比例してどうしてもクリスチャンも自分の思いや考えに支配されやすい傾向があるのではないでしょうか。神のみことばが何と言っているか、神の御霊がどのように導いているかよりも、自分はどう思うのか、どう感じているのかが行動の基準になりやすいということです。また、主の再臨を待ち望む必要があります。主の再臨を待ち望むよりも今さえ良ければよいというような、目先のことに振り回されてしまうと、信仰から離れてしまうことになってしまいます。。

 

私たちはいつも自分ではなく神のみこころに従い、自分を捨て、自分の十字架を負って、主に従う者でなければなりません。そのために必要なのがこの三つのことなのです。つまり、十字架と聖霊と再臨です。これは過去において主が私たちにどんなことをしてくださったのか、そして、今、主はどのように導いておられるのか、そして、将来において、どのような祝福をもたらしてくださるのかをしっかりと覚え、この神のみわざにとどまり続けなさいということでもあります。これが神によって罪贖われた神の民、聖なる国民のしるしでもあるのです。イスラエルが年に三度、過越しの祭りと、七週の祭り、仮庵の祭りのときに、主の選ぶ場所で、御前に出たように、私たちにもそれが求められているのです。

 

4.公正なさばき(18-22

 

最後に18節から22節までを見て終わりたいと思います。「あなたの神、主があなたに与えようとしておられるあなたのすべての町囲みのうちに、あなたの部族ごとに、さばきつかさと、つかさたちを任命しなければならない。彼らは正しいさばきをもって民をさばかなければならない。あなたはさばきを曲げてはならない。人をかたよって見てはならない。わいろを取ってはならない。わいろは知恵のある者の目をくらませ、正しい人の言い分をゆがめるからである。正義を、ただ正義を追い求めなければならない。そうすれば、あなたは生き、あなたの神、主が与えようとしておられる地を、自分の所有とすることができる。」

 

ここには、それぞれの部族においてさばきつかさとつかさたちを任命し、正しいさばきを行うようにと命じられています。当たり前のことなのに、いったいなぜわざわざここで命じられているのでしょうか。それは神が義なる方なので、彼らもまた正義を行うことが求められているのです。それが損なわれるような時があります。それはわいろを受ける時です。わいろは知恵のある人を盲目にし、正しい人の言い分をゆがめてしまう力があります。人をさばくときには、その人が貧しいとか、富んでいるとか、そのような見かけによって判断してはなりません。その人が人生でどんなに成功したかなどということは全く関係ありません。ただ神は何と言っているのか、それはどういう意味なのか、それをどのように適用していかなければならないのかということを考えて、正しく判断しなければなりません。しかし、わいろを受け取るとその判断を狂わしてしまうのです。

 

21,22節には、「あなたが築く、あなたの神、主の祭壇のそばに、どんな木のアシェラ像をも立ててはならない。あなたは、あなたの神、主の憎む石の柱を立ててはならない」とあります。なぜでしょうか。もちろん、神の戒めにそうあるからです。十戒の第一は、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」と書いてあります。そして、この申命記に、この戒めの中心となることが教えられていました。それは、「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたに神、主を愛しなさい。」(6:4-5)ということでした。もし主の祭壇のそばに、アシェラ像を始めとした偶像を置くことがあるとしたら、この神のみこころから離れてしまうことになるからです。私たちは離れやすいのです。まさに迷える子羊にすぎません。主を信じていますと言いながら、こうしたアシェラ像を平気でおいていることにも気づかないのです。そうなると私たちの信仰の中心となる軸を失うことになってしまいます。そういうことがないように、神以外のものを主の祭壇のそばに近づけてはならないのです。私たちは共に集まって主を礼拝し、キリストの十字架を仰いで、主に罪赦されたことを覚え、互いに赦し合い、愛し合わなければなりません。また、聖霊に満たされ、主の再臨を待ち望む、これらはすべて、主を神としてあがめている、その中心があるからなのです。私たちはこの信仰の中心軸を失うことなく、いつも主のみこころにかなった者となるように求めていきたいと思います。

 

ヘブル10章26~39節 「信仰によって生きる」

きょうは、へブル人への手紙10章26節から39節までの箇所から、「信仰によって生きる」というタイトルでお話します。このヘブル人への手紙の著者は、前回の10章19節から25節までのところで、これまで語ってきたことを受けて三つのことを勧めました。すなわち、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではないかということ、また、約束された方は真実な方ですから、動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではないかということ、そして、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではないかということです。それは一言でいうなら、信仰によって生きるということです。先ほど読んでいただいたみことばに「義人は信仰によって生きる」(38節)とありますが、イエスの血によって救われた者は、信仰によって生きることが求められています。きょうは、このことについて三つのことをお話します。

 

Ⅰ.主がその民をさばかれる(26-31)

 

まず26節から31節までをご覧ください。26節には、「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。」とあります。どういうことでしょうか。現代訳聖書には、「もし私たちが罪の赦しの福音を知ってから、故意に罪を犯し続けるなら、罪のためのいけにえはもはや残されていない」と訳されてあります。つまり、もし私たちがイエス様を信じた後で、故意に罪を犯し続けるようなことがあるなら、キリストの救いに預かることはできないということです。

 

この箇所からある人たちは、たとえ一度信仰をもってもその信仰から離れ、救いから落ちてしまうこともあると考えています。皆さん、一度信仰を持ったら、もう二度と信仰から離れることはないのでしょうか、それとも一度信仰を持っても、ここに書いてあるように、信仰から離れてしまうということがあるのでしょうか?

 

たとえば、ヨハネの福音書10章29節を見ると、そこにはこう書かれてあります。

「だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません」

それは、一度イエス様を信じて救われたのであれば、その人はどんなことがあっても救いから漏れることはないという意味です。神が救ってくださった人というのは、神が永遠の昔から救いの中に選んでいてくださった人ですから、どんなことがあっても見捨てられるようなことはないのです。一度救ってみたけれども、この人はどうもモノになりそうもないので捨ててしまいましょうというようなことは絶対にありません。

 

しかし一方で、私たち人間の側からすれば、もう救われたのだから何をしても構わないと、故意に罪を犯し続けるようなことがあれば、罪のためのいけにえは残されてはいないということ、つまり、救いを受けることはできないということも覚えておかなければなりません。確かに、神の側では一度救いに導かれた人はどんなことがあっても離すことはありませんが、人間の側から離れていくならば、そういうこともあり得るということです。

 

事実、あんなに信仰に熱心だった人がどうして信仰から離れてしまったのだろうかという場合がありますが、そういうことも起こってくるわけです。それはその人の信仰の理解や福音のとらえ方に問題があり、私たちの目では信仰を持っていたかのように見えても、神の目から見たら、実はそうではなかったということもあるからです。

 

Ⅰコリント15章2~4節にはこうあります。

「もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、」

 

皆さん、どうしたら救われるのでしょうか。この福音のことばをしっかり保つことによってです。その福音のことばとは、イエス・キリストに関することです。すなわち、キリストは、聖書が示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたことです。これが福音のことばです。このことばをしっかり保っていればあなたは救われるのです。これ以外の何もあなたを救うことはできません。だから私たちはこのことばをしっかり保っていなければなりません。本当に救われている人は、このことばにとどまっている人なのです。自分の感情がどうであれ、自分の置かれている状況がどうであれ、自分のために救いを成し遂げてくださった救い主イエスに信頼し、そこに希望を置くのです。

 

ところで、このようなことを聞くと、自分は大丈夫だろうかと不安になる方もいるかもしれません。しかし、もしそのように受け止めておられる方がいるとしたら、そういう人はどうぞ安心してください。そのように受け止めることができるということ自体がむしろ救いについて真剣に考えているということであって、そこに生きているという証拠でもありますから、そういう人が救いに漏れるということは絶対にないと言えます。この「真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるなら」というのは、罪の赦しによる救いの体験をしたにもかかわらず平気で罪を犯し続けるなら、という意味です。私たちは弱い者ですから、救われてからもしばしば罪を犯すことがあります。しかし、ここで言われていることは、救われてから罪を犯したかどうかということではなく、ことさらに罪を犯し続けることです。つまり、罪を犯しても悔い改めようとせず、平気で罪を犯し続ける人のことなのです。そういう人のためのいけにえはもはや残されてはいません。そういう人は、恐ろしい神の裁きを受けるしかないのです。

 

28節と29節をご覧ください。

「だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血をけがれたものとみなし、恵みの御霊を侮るものは、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。」

 

これは申命記17章6節に書かれてあることですが、だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三人の証人の証言に基づいて死刑に処せられました。そこには何のあわれみもなかったのです。律法に背いて罪を犯し、二、三人の証言があれば有無を言わさず死刑に処せられました。であれば、まして、神の新しい契約を侮る者があれば、なおさらのこと恐ろしいさばきに服さなければならないのは当然のことです。なぜなら、それは神の御子を踏みつけ、自分をきよめるためのキリストの血を、拒むことになるからです。そしてそれは恵みの御霊を侮ることになるからです。

 

ここでは「御霊」を、「恵みを与えてくださる方」であると言っています。この御霊とは三位一体の第三位格の聖霊なる神のことです。キリスト教では神は三つにして唯一なる神であると信じています。それが聖書で教えている神です。ものみの塔では、この聖霊は単なる神の力であると説きます。ただのモノにすぎないというのです。しかし、聖書を見ると聖霊は人格を持っていることがわかります。たとえば、ヨハネの福音書16章13節を見ると、「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。」とありますが、単なるモノであったら、「その方」というでしょうか。ものみの塔でさえ、「その者」と訳しています。「その者」とは「その物」ではなく、「その方」という人格を持った方としての表現です。その方は「助け主」とも言われています。

私たちは神の御子の大きな犠牲によって罪が赦され、救われた者であるとは言ってもまだヨチヨチ歩きで、すぐに躓いたり、罪を犯したりしがちです。そのことをご存知であられる神はこの聖霊様を送ってくださり、私たちが罪を犯さないように助けてくださったり、知らずに罪を犯してしまった時に、私たちの良心に働きかけて悔い改めに導いたりしてくださいます。あるいは、聖書を読む時に、何が神のみこころであるかを示してくださりその道に歩めるように助けてくださるのです。まさにこの方は恵みを与えてくださる方なのです。その中でも最大の恵みは、御子イエスの救いの中に導いてくださったということでしょう。その恵みの御霊の神を侮ることがあるとしたら、なおのさらのこと、重い処罰がもたらされるのは当然のことです。

 

多くの人は、神の厳しさについて誤解しています。それは、旧約の神は厳しい神だが、新約の神はそうではないというものです。新約聖書の神は優しい愛の神なのだから、人をさばくというようなことはないというのです。これは聖書を表面的に読んだ印象にすぎず、実際にはその反対です。これまで学んできたことを思い出してみるとわかるように、旧約聖書では人が神に近づくためにはやぎや羊、牛などの多くのいけにえをささげなければなりませんでしたが、それで完全に罪が赦されたかというとそうではなく、毎年、それを繰り返して行わなければならなりませんでした。いつも罪が思い出されたからです。けれども、神の御子のいけにえは完全なものでした。キリストは、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。もうこれ以上すぐれた解決法がない、永遠の、究極の、最終的な解決を与えてくださいました。しかも、これは私たちの行いや状態に関係なく神の真実に基づいた一方的な恵みによって与えられた契約でした。それを拒む者があるとしたら、それこそ永遠の滅びに入れられるのは当然のことなのです。旧約聖書にあるように、石を投げつけられて死ぬことは恐ろしいことですが、それよりも、もっと恐ろしいことは、死後の世界において永遠に死ぬことです。聖書ではこれを地獄と言っています。地獄とは永遠の滅びことなのです。ですから、新約のさばきの方が、旧約のそれよりももっとずっと厳しいさばきであると言えるのです。

 

ですから、神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いを信じる信仰によって救われた私たちは、回りの状況に振り回されたり、動揺したりしないで、堅く信仰に立たなければなりません。約束された方は真実な方ですから、動揺しないで、しっかりと希望を告白はなければならないのです。では、しっかりと希望を告白することができるのでしょうか。

 

Ⅱ.いつまでも残る財産に目を留める(32-34)

 

32節から34節までをご覧ください。

「あなたがたは、光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい。人々の目の前で、そしりと苦しみとを受けた者もあれば、このようなめにあった人々の仲間になった者もありました。あなたがたは、捕えられている人々を思いやり、また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。」

 

ここではそのために二つのことが勧められています。一つは32節にあるように、「思い起こす」ということ、そしてもう一つのことは、34節にあるように「知る」ということです。

まず「思い起こす」ということですが、何を思い起こすのでしょうか。それは苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころのことです。初代教会のクリスチャンの多くは、激しい迫害の中にあっても信仰を貫き通しました。ある人たちは、ローマの円形競技場で見世物としてはずかしめられたり、猛獣によって殺されたりしましたし、またある人たちは、罪をなすりつけられて財産を没収されたりもしたのです。しかし、彼らはそうした迫害の中でも信仰を守り抜きました。いったいなぜ彼らは守り抜くことができたのでしょうか。それはいつまでも残る財産を持っていることを知っていたからです。いつまでも残る財産とは、イエスを信じたことで後に天の御国で永遠の財産と報いのことです。彼らはその財産を受けること知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで耐え忍ぶことができたのです。

 

私たちの主イエスもそうでした。イエス様は十字架に付けられる前の晩、ゲッセマネの園で切に祈られました。それは汗が血のしずくのように地に滴り落ちたとあるように、激しい祈りの格闘でした。そして、こう祈られたのです。

「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取り除けてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。しかし、私の願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22:42)

なぜキリストは十字架という苦難に向かうことができたのでしょうか。それは、その後にもたらされる栄光がどれほどすばらしいものであるかを知っていたからです。ですから、この杯を飲み干すことは苦しいことでしたが、それを耐え忍ぶことができたのです。

 

使徒パウロは、それを「重い永遠の栄光」と言っています。Ⅱコリント4章17、18節には次のようにあります。

「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」

パウロが、この世の激しい迫害と患難を恐れずに、信仰によって生きることができたのは、彼が永遠の世界において受ける栄光と報いがどれほどすばらしいものであるかを知っていたからでした。それは一時的なものではなく、いつまでも続くものです。それに目を留めていたので、今の時の患難を軽いものとして受け止めることができ、乗り越えることができたのです。

 

リビングライフに書かれてあったコラムですが、ある韓国の牧師の運転手をしていた人は、テレビのニュースでしか見たことがないような大きな体つきで、腕には刺青と傷がありました。彼は神様の恵みによってクリスチャンになりましたが前科持ちであったため仕事に就くことが難しかったので、この牧師は彼に運転手として働いてみないかと提案したのです。牧師は、夏と冬ごとに青少年のリトトリートの講師としてあちこち回っていたため多くの時間をともに過ごすうちに、彼は神をとても愛するようになりました。

ある日、牧師は彼に証するように頼みました。悩んだ末、彼は学生たちの前で、今になってやっと意味のある人生とは何かがわかったと告白しました。集会が終わってから、一人の男子生徒が彼のもとにやって来て、暴力団と縁を切りたいが、なかなか難しいがどうしたらいいかと尋ねました。すると、彼はその学生にこう言いました。「ケジメはつけることになるだろうな。でも、その時はイエスのことを考えてみろ。イエスという新しい組に入る通過儀礼だと思えば、そう長い時間でもないだろうよ」

 

すごいですね。でもこれは的を得た答えではないでしょうか。確かにそれはかなりの苦しみが伴うことかもしれませんが、イエスによってもたらされる重い永遠の栄光に比べるなら、一時的なものでしかありません。永遠の価値のために一時的なものをあきらめることは、それほど難しいことではないのです。

 

17世紀から18世紀にかけてイギリスとアメリカで生きたウイリアム・ペン(William Penn, 1644-1718)”は、No  cross  no  crown ” と言いました。「十字架なくして、冠なし」です。意訳すれば、「艱難なくして、栄光なし」です。ウィリアム・ペンはキリスト教の一派であるクウェーカーに入信したことでイギリス国家から激しい迫害を受けると、約束されたこの世の栄光を捨てるという苦渋も、牢獄に繋がれるという苦難も甘んじて受け、 それを自分の十字架として背負って、この茨の道を歩んだのです。

やがてアメリカペンシルベニア州に渡り、そこで知事に就くと、歴史上初めて個人の信仰と良心が、国家の統制下に置くことができない不可侵の権利であると宣言する法律を制定しました。つまり信仰の自由を勝ち取ったのです。まさに、ペンは重い十字架を負うことによって、神から永遠の救いの冠を与えられただけではなく、後の人々からは民主主義の先駆者としての栄誉を与えられたのです。まさに、十字架なくして、冠なしです。

 

私たちの人生においては、初代教会のクリスチャンたちのような迫害や江戸時代にあったような迫害を受けるわけではありませんが、しかし、職場や学校において、また家庭において、いやあなたのすぐ近くにいる人があなたを侮辱したり、ありもしないことで悪口を浴びせたりして、あなたを苦しめるということがあるかもしれません。しかし、それはⅡテモテ3章12節に、「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」とあるように、あなたがキリスト・イエスにあって敬虔に生きている証拠でもあり、やがて天の御国で大きな報いを受けるという保証でもあるわけですから、むしろそれは喜ばしいことなのです。あなたより前にいた信仰者たちも、そのようにして耐え忍びました。

 

Ⅲ.必要なのは忍耐(35-39)

 

ですから、第三のことは、信仰によって忍耐しましょう、ということです。35節から39節をご覧ください。まず35節と36節です。

「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」

 

大切なのは、最初の確信を終わりまでしっかりと保つことです。3章

14にも、「もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。」とあります。これが信仰の戦いにおいて死守しなければならないものです。もしこの確信を保つことができないとどうなるかと、沖に流されていくボートのように、押し流されてしまうことになります。この確信を保つということは単純なことですが、実際には大変なことでもあります。というのは、私たちの人生には神に対して疑いを抱くような状況や出来事が多いからです。

 

たとえば、エジプトを出たイスラエルはどうだったでしょうか。すぐに水がない、食べ物がないと嘆きました。そして、カデシュ・バルネアという所に来たとき、約束の地を偵察すべくそこから12人のスパイを遣わすのですが、彼らが持ち帰った報告は、「だめだ。無理だ。その地の住民は大きくて、強い。自分たちが上って行こうものなら、たちまちに滅ぼされてしまう。」というものでした。それを聞いたイスラエルの民は、「なぜ神はこんなところに自分たちを連れてきたのだ」と言って不平を鳴らしたのです。彼らの心は常に迷い、神の道を悟ることができませんでした。そして、20歳以上の男子はヨシュアとカレブ以外はだれもその地に入ることができませんでした。

 

私たちの人生にも同じようなことが起こります。神がおられるならどうしてこのようなことが起こるのかというようなことがあるのです。けれども、たとえそのような状況になっても、最初の確信にとどまっていなければなりません。すなわち、この福音をしっかりと保っていなければならないのです。

 

いったいどうしたら信仰にとどまることができるのでしょうか。36節をご覧ください。ここには、「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」とあります。私はこのみことばが好きです。いつもこのみことばに教えられ、励まされています。

神の約束は棚ぼた式にもたらされるものではなく、忍耐することによって手に入れることができるものなのです。そして、神は私たちが忍耐することができるように、その力も与えてくださいます。それはⅠコリント10章13節にこのようにあるからです。

「あなたがたの試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせるせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」

 

何とすばらしい約束でしょうか。神は私たちが耐えられないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ耐えることができるように、試練とともに脱出の道を備えていてくださいます。そしてヤコブ書1章に書かれてあるとおり、試練によって生じる忍耐を完全に働かせることによって、何一つ欠けたところがない、成長を遂げた完全な者になることができるのです。

 

あの3.11から5年が経ちました。津波と原発事故ですべてを失った福島第一聖書バプテスト教会の佐藤彰先生は、当初、その現実を受け止めることができず「くそ」とつぶやいていました。しかし、苦しい荒野での生活を乗り越え、やがて福島県いわき市につばさの教会を建てると、次第にこの震災から見えてきたものがあると言います。それは、神の恵みでした。教会は「ガリラヤから世界へ」というビジョンを掲げ、小さな田舎の教会でも世界宣教を担う教会になることを目指して祈ってきました。そしてある国に宣教師を遣わすことができたとき、「ああ、これでビジョンが実現した」と思ったそうです。しかし、それはビジョンの実現の始まりにすぎませんでした。本当の実現はこの震災を通してもたらされたというのです。なぜなら、原発から一番近い教会の牧師というだけで世界中の国々から招かれて主を証することができるようになったからです。フランスでは国営テレビが2時間のドキュメント番組を製作して放映しました。また、ドイツや他の国からも呼ばれてインタビューを受け、主を証することができました。世界中の人たちから祈られたのです。このような教会が他にあるだろうかと思うと、確かに震災によって多くの苦難はあったけれども、それはまさに神の絵巻物語であったというのです。

神は耐えられない試練に合わせるようなことはなさらない。むしろ、それを通してもっとすばらしい人生を、もっと豊かな人生へと導いてくださることがわかったというのです。すべては神の御手の中にあって、神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のために、すべてを働かせて益としてくださるのです。私たちに必要なのは忍耐することです。そうすれば、主があなたを助けてくださいます。

 

というのは、37節に、「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。」とあるように、たとえ苦しみが長引いたとしても、神の時がおそくなることはないからです。だから、恐れ退いてはなりません。私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者だからです。たとえ試練があっても信仰によって前進するなら、必ずいのちを得ることができるのです。神とともに歩むなら、耐えられない試練はありません。主はおそくなることなく来られ、すべての涙をぬぐい、約束された永遠のいのちを与えてくださいます。そのことを信じなければなりません。義人は信仰によって生きるからです。

 

これは旧約聖書の預言者ハバククの言葉です。ハバククは、たとえ敵が押し寄せ、持っているものをすべて奪って行ったとしても、義人は信仰によって生きると宣言しました。神はどんな状況にあっても、信仰に立って生きる者を喜ばれます。信仰は苦難の中にあっても屈せず、天の希望を見上げさせます。クリスチャンの歩みを勝利させるのはこの世の力や権力ではありません。ただ主が与えてくださる信仰なのです。信仰によって生きるなら、どんな時にも勝利することができます。神は真実な方であって、約束されたことを必ず実現してくださる方だからです。ですから、信仰によって生きるなら、やがて大きな祝福を受けることになるのです。

 

あなたは何によって生きているでしょうか。何に目を留めていますか。いつまでも残るものを見ているでしょうか。どうかあなたの確信を投げ捨てないでください。最初の確信を終わりまでしっかりと保ちましょう。信仰によって生きる者にとりましょう。あなたがたが神のみこころを行って、約束したものを手に入れるために必要なのは忍耐なのです。

ヘブル10章19~25節 「新しい生ける道」

きょうはこのへブル人への手紙10章19節から25節までの箇所から、「新しい生ける道」というタイトルでお話しします。この箇所はヘブル人への手紙の中で最もすぐれた黄金の勧告と言われている箇所です。黄金の勧告とは、内容が深遠で、人生にとって この上なく有益な教訓のことです。聖書には黄金律と呼ばれているみことばがあります。それはキリストの山上の説教の一節で、マタイ7章12節のみことばです。

「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」

これはいつの時代でも、どのような状況でも変わりなく、人としての重要な生き方を示していることばなので「黄金律」と呼ばれているのです。。それと同じように、ここにはクリスチャンとしてどのように生きるべきなのか、その大切な勧めが三つのポイントで語られています。きょうはこの黄金の三つの勧告を学びたいと思います。

 

Ⅰ.全き信仰をもって神に近づきなさい(19-22)

 

第一のことは、全き信仰をもって神に近づきなさいということです。

19節から22節までをご覧ください。

「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」

 

19節は、「こういうわけですから・・」ということばで始まっています。ヘブル人への手紙全体を通して読むと、この10章19節が分岐点となって、流れが大きく変わっていることに気づきます。これまでは、神の御子キリストがいかにすぐれた方であるかについて説明されてきました。キリストは御使いよりもすぐれた方であり、すぐれた救いの道を備えられ、またアロンの祭司職よりも偉大な、メルキゼデクの祭司となられたことについて述べられてきました。そして、モーセを通して与えられた神との契約は、新しい契約によって取って代えられ、この契約が古い契約よりもすぐれていることが述べられてきたのです。このように、キリストがいかにすぐれた方であり、いかにすぐれた仲介者であるかを述べた後で、ここから、これを知った人たちがどのようにして応答していくのか、すなわち「勧め」の部分に入るのです。

 

その勧めとはどんなことかというと、「まことの聖所に入ることができる」というものです。まことの聖所にはいることができる、天国の神に近づき、神との親密で深い交わりの中に入ることができるということです。

 

それはイエスの血によってです。なぜなら、前回学んだように、「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない」からです。(9:22)神に近づくことは、私たちの行ないによっては絶対に無理なのであって、ただ私たちの罪の身代わりとなって十字架で死なれ、その尊い血を注ぎ出してくださった神の御子イエス・キリストを信じることによってのみもたらされるものなのです。イエスが十字架で死なれたのは愛の模範を示すためではなく、血を注ぎ出すためだったのです。ですから、私たちは大胆に神に近づくことができるのです。

 

この「大胆に」という言葉は、英語では、We have boldnessとか、We have confidenceと訳されています。「確信を持っている」とか「自信をもっている」という意味です。つまり、私たちはまことの聖所に入ることができるという確信があるということです。なぜなら、イエスが十字架で血を流して死んでくださったからです。私たちがどのような人であるからとか、どのようなことをしたかということではなく、神の御子イエス・キリストの血が流されたので、その方の血の注ぎを受けているので、まことの聖所に入ることができるという確信があるということなのです。

 

20節ではそのことを別の形で表現しています。それは、「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」ということです。この「垂れ幕」というのは、聖所の中にある、聖所と至聖所を分けていた幕のことです。この幕が、イエスが十字架につけられていたときに、上から下に、真っ二つに引き裂かれました。この幕は厚さが10cm以上もあり、その両端を数頭の馬が反対方向に引っ張っても破れないほど丈夫なものであったと言われています。その幕が、イエスが十字架で死なれたときに、上から下に、真っ二つに裂けたのです。それはキリストが十字架の上でご自分のからだを引き裂いてくださったことによって神と人とを隔てていた壁が引き裂かれ、神の御許に行くことができるようになったということを表しています。このようにして、キリストはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの生ける新しい道を設けてくださったのです。ですから、このイエスを信じるならだれでも神の御許に行くことができるのです。イエスを信じるなら、だれでも救われるのです。

 

そればかりではありません。21節を見ると、「また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。」とあります。ここも英語ではWe have high priest になっていて、Haveという言葉が繰り返して使われています。持っているとか、あるという意味です。何を持っているのかというと、偉大な祭司です。もちろん、この偉大な祭司とはイエス・キリストのことですが、この祭司をもっているので、私たちは絶対にまことの聖所に入ることができるというのです。なぜなら、この祭司は神の家をつかさどっておられる偉大な方だからです。神の家をつかさどっているということは、神の家を支配しておられるという意味です。そういう方がついておられるのなら、神に近づくことができるというのはなおさらのことなのです。「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎ受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」と勧められているのです。

 

この新改訳聖書では19節から22節までが幾つかの文章になっていますが、原文では19節から22節までが一つに文章になっています。つまり、私たちはイエスの血の注ぎを受けているのですから、イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのですから、また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司がいるのですから、私たちは、全き信仰をもって、神に近づこうでないかというのです。「神に近づく」というのは場所的、時間的なことというよりも、人格的なものです。神を深く知って、このお方のようになっていこうということなのです。これがキリスト教の本質なのです。

 

先日、さくらチャーチで行われているみんなのカフェにNさんというご婦人が初めて参加されました。この方は宗教に造詣が深く、いろいろなことを知っておられる方ですが、パットがアメリカから来たということで、「キリスト教とはどういう宗教ですか」と尋ねられました。するとパットはこう言いました。「私はキリスト教を宗教として考えていません。これは神との関係です。神がどのような方かを知って、この方のようにされていくこと、それがキリスト教です。」と。私は、それを聞いていて、なるほどと思いました。宗教を何かの形で考えることは間違っていて、神との関係として捉えなければわからないということです。だから、神に近づくことを求めていかなければなりません。どうしたらもっと神に近づくことができるのでしょうか。

 

ここには、「全き信仰をもって・・」とあります。皆さん、全き信仰とはどういう信仰なのでしょうか。それは強い信仰とか、弱い信仰ということではありません。たくさん信じるとか、ちょっとだけ信じるというようなことでもありません。全き信仰とは、神につながっている信仰のことなのです。

 

それは、たとえば電気のスイッチのことを考えたらわかると思います。どうしたら電球に明りがつくのでしょうか。電気のスイッチを入れればいいのです。それだけでいいのです。電気をつけるのに力を入れてステッチを押す必要はありません。力を入れてスイッチを押せば明るくつくとか、さわるように、撫でるように、優しく押すだけでは弱い明りしかつかないということはありません。強く押しても、弱く押しても明りの強さは同じです。大切なのはスイッチを入れることです。

 

それは信仰も同じで、強い信仰とか、弱い信仰というのがあるのではなく、あるのは神につながっているかどうかということです。神につながっていれば、神が働いてくださいます。すなわち、信じるということはこちらの側の信じ方ではなく、信仰の対象であるイエスとつながっているかどうか、結ばれているかどうかということなのです。イエス様を信頼して、イエス様を見上げていれば、信仰は確かなものとなっていきます。自分の知恵と力を尽くして信じる過信ではなく、半分だけ信じる半信でもなく、また、全く信じられないという不信でもなく、単純にイエスに信頼していであるべきです。イエス様にとつながっていればいいのです。そうすれば電気はつくのです。それが全き信仰です。

 

アフリカ伝道隊の総裁をしていたJ・B・B・フレンドという人は、信仰を持つことをバケツの水にたとえてはならないと言いました。日本では恵まれた信仰をバケツに水がいっぱいに満たされた状態にたとえることがありますが、信仰をそのようにとらえてはいけないというのです。そのようにとらえてしまうと、バケツの水を使って無くなったらやっとの思いで礼拝にやって来て満たされるといった誤ったイメージを抱きやすくなってしまいます。そうではなく、むしろ、信仰生活は水道管のパイプのようなもので、もしあなたがたっぷりと満たされた貯水池につながっているなら、あとは栓をひねるだけでいつでもザーと水が出てきます。信じればザーです。パイプが細いか太いかは関係ありません。信じればザーなのです。信仰とは栓をひねるだけのことなのです。

 

ただ注意しなければならないことは、パイプを詰まらせないようにしなければならないということです。それゆえに、ここに、「全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」とあるのです。これは、パイプを詰まらせてはならないという意味です。いつもイエスさまと親しい交わりを保つようにしなければなりません。もしそのパイプに何か詰まっていればそれを取り除いて、いつも神のいのちが流れるようにしなければなりません。私たちの信仰生活では、よく詰まらせてしまうことがあります。トイレットペーハーを大量に使って詰まらせたり、異物を混入させて詰まってしまうことがあるように、あまりにも多くのことに心が奪われて神との関係を詰まらせてしまうことがあるのです。そういうことがないように、いつも主につながり、主と親しい交わりを保っているかどうかを確認しなければなりません。

 

とても評判の良いレストランにはある一つの共通点があるそうです。それはあまりいろいろなことに手を出さないということです。得意なメニュー集中するのだそうです。それを極めるために努力に努力を重ねます。それで「美味しい店」になれるのです。一方で、あまり美味しくないレストランというのは、とにかくメニューがいっぱいあります。全部やろうとすると、全部まずくなってしまうのです。

 

同じように、私たちはイエス様に集中しなければなりません。あれも、これもではなく、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないようにしなければなりません。そして、このイエスにしっかりとどまっていなければなりません。主イエスは言われました。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)このような信仰をもって神に近づくなら、神はそのような人を受け入れ、多くの実を結ばせてくださいます。

 

Ⅱ.しっかり希望を告白する(23)

 

第二のことは、しっかりと希望を告白することです。23節をご一緒にお読みしましょう。

「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。」

 

ここでは、希望を持つことが勧められています。私たちの信仰生活には失望することが何と多いことでしょうか。それは悪魔が何とかしてあなたから信仰を奪おうとしているからです。悪魔はほえたける獅子のように、食い尽くすべき獲物を探し求めながら、歩きまわっています。そのために一番効果的なのは、あなたから希望を奪い取ることです。そうすれば、信仰にとどまることができなくなってしまうからです。人は希望がなければ生きることがでません。この希望を奪うことによって、信仰から遠ざけようとするのです。ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しなければなりません。

 

いったいどうしたら希望を持ち続けることができるのでしょうか。ここには、「約束された方は真実な方ですから」とあります。皆さん、私たちの信じている神は真実な方です。どういう点で真実であるかというと、約束されたことを一つも違わず成就してくださるという点においてです。聖書の中には神の約束が沢山ありますが、それは、信じる人に実現する約束なのです。その神の約束は必ず実現するわけですから、それを信じて歩むことが大切です。その約束の中でも最大のものは、私たち信じる者たちが天国へ行くことができるということでしょう。これは必ず実現します。なぜなら、すでに見てきたように、そのためにイエスの血が流さたからです。だから私たちは必ず天国に行くことができるのです。

 

であれば、この地上においてどんなに厳しい状況にあっても、もうだめだと失望することがあっても、そういうことで動揺しないで、しっかりと希望を告白することができるのではないでしょうか。それが天国に向かって歩んでいる人の姿なのであります。

 

Ⅲ.愛と善行を促す(24-25)

 

第三のことは、愛と善行を促すように注意しましょうということです。24-25節をご覧ください。ここには、「また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょ集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」とあります。

 

「愛と善行を促すように注意し合おうではないか」とはどういうことでしょうか。現代訳聖書では、「どのようにしたらほかの人を愛し、助けることができるかということについて、心を配ろうではないか」と訳されています。すなわち、キリストの恵みによって救われたクリスチャンは、愛という霊的な面と、ほかの人を助けるという具体的な両面が必要だということです。愛しているといってもそれが具体的な行動によって現されるものでなければ、本当に愛しているとは言えません。愛しているなら、それが必ず具体的な面で表されてくるはずだからです。

特に教会の中では「互いに重荷を負い合う」ということが強調されています。ガラテヤ6章2節には、「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」とあります。もしキリストによって救われ、あなたの中にキリストの愛が満ち溢れているなら、それは必ず互いに重荷を負い合うという具体的な形で現れてきます。もし現れてこないとしたら、その人は果たして本当にイエス様を愛しているのか、魂を愛しているのかということを吟味してみる必要があります。イエス様の愛によって救われているのなら、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合わなければなりません。特定の人にだけ重荷を負わせ、犠牲を強いるというようなことがあってはいけないのです。もちろん、皆が同じように愛を実行できるということではありませんが、自分のできる範囲で、心を配るということが求められているのです。

 

そのためには、いっしょに集まることをやめたりしないということが大切です。クリスチャンが一人で信仰生活をしていくと、どうしても独り善がりになり、偏った考え方に陥ってしまいがちです。ですから、どうしてもクリスチャンには交わりが必要で、その中で最も大切な交わりは教会の交わりであると言えるでしょう。なぜなら、教会は神の家族であるからです。家族であれば一緒に生活するわけで、一緒に生活していれば必ずぶつかり合うこともあります。しかし、そのようなぶつかり合いの中でこそ自分の信仰が鍛えられ、健全に成長していくものなのです。

 

このように見てきますと、イエスの血によってきよめられ、この新しい生ける道を歩むようになったクリスチャンに求められていることは、次の三つのことであることがわかります。すなわち、信仰と希望と愛です。どこかで聞いたことがありますね。信仰と希望と愛。パウロはⅠコリント

13章13節で、次のように言っています。

 

「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」

 

いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。それは自分自身から出てくるものではなく、イエスの血によって救われ、この新しい生ける道を歩むようになった者にもたらされるものです。全き信仰はイエス様を見上げ、イエスにとどまることによって与えられます。しっかりと希望を告白するためには、イエスを見続けることが必要です。そして、愛と善行に励むためには、イエス様と交わることが求められます。その結果として信仰と希望と愛が生まれてくるのです。

 

皆さんはどうですか。皆さんのために血を流し、救いの御業を成し遂げてくださった主イエスをしっかり見ているでしょうか。また、このイエスにとどまり、このイエスと交わりをもっておられますか。かの日は近づいています。イエス様が再び来られる日、救いが完成する日が近づいているのですから、私たちはますますそうしようではありませんか。それが新しい生ける道を歩むクリスチャンに求められていることなのです。

ヘブル9章15~28節 「成し遂げられた救いのみわざ」

きょうはヘブル書9章後半の箇所から、「成し遂げられた救いのみわざ」というタイトルでお話しします。

 

Ⅰ.新しい契約の仲介者(15~22)

 

まず15~22節までをご覧ください。15節にはこうあります。

「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産を受けることができるためなのです。」

 

「こういうわけで」というのは、14節までのところで述べられてきたことを受けてということです。そこでは、キリストは、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました、とありました。こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者となられました。

 

それは、いったい何のためでしょうか。このヘブル書の著者は、続いてこう述べています。「それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。」

どういうことでしょうか?初めの契約とはモーセによって与えられた律法のことですが、その初めの契約のときの違反を贖うための死が実現するためであったというのです。その初めの契約ではどちらか一方がその契約に違反すればその契約は成立しませんでした。しかし、イエス・キリストが血を流して死んでくださったことによって、新しい契約が成立しました。ですから、イエスさまが新しい契約の仲介者です。そして、この死は新しい契約を成立させるというだけでなく、古い契約における要求をも満たすものだったのです。律法に違反すれば死ななければならなかったのですが、イエスさまが十字架で死んでくださったことによって、その律法の要求をも完全に満たしてくださったのです。ですから、もはや罪の咎めを受ける必要はありません。私たちに残されているのは、永遠の資産を受け継ぐ約束だけなのです。

 

この神の契約は、人間でいえば遺言のような意味と性格をもっています。そこで16節には、「遺言には、遺言者の死亡証明が必要です。」とあるのです。この契約は遺言と同じ性質をもっているということです。どういう点で同じなのかというと、まず遺言は遺言を書いた人の一方的な意思によって決まりますが、それと同じように、この神が与えてくださった契約も神の一方的な意思によって決まるという点です。この新しい契約においては、私たちの行いがどうであるかということは全く関係ないのです。たとえあなたの罪が緋のように赤くても、雪のようにしてくださいます。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようにしてくださるのです。なぜなら、神の御子イエス・キリストがあなたの身代わりとなって十字架でその刑罰を受けてくださったからです。だから、イエスさまを信じる人はどんな罪でも赦されるのです。私たちの状態とは関係なく、神がどうしたいのかということによって決まるのです。

 

もう一つの特徴は17節にあるように、「遺言は人が死んだとき初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は、決して効力は」ないということです。

これはどういうことかというと、キリストが十字架で死なれることによって、この神の救いの契約が効力を発したということです。それは初めの契約も同じでした。あの初めの契約では、人の罪はどのようにして赦されたのかというと、動物の犠牲によってでした。動物をほふって得られた血を至聖所に置かれた契約の箱のふたに振りかけることによって赦されるとあったのです。なぜなら、人のいのちは血にあるからです。ですから、血が注ぎ出されることがなければ罪の赦しはなかったのです。このことは何を表していたのかというと、それはやがて来るべき神の御子イエス・キリストが十字架で死なれることによって、はじめて罪が赦されるという効力があるということです。イエス・キリストが十字架に掛かって死なれたことによって、私たちの罪を取り除いてくださったということなのです。それは血が注ぎ出されることがなければ、罪の赦しはなかったからです。このゴールデンウイークの間、「サン・オブ・ゴッド」という映画でDVDで観ましたが、キリストが十字架に付けられた場面は実に凄惨でした。イエスさまの全身が血だらけでした。なぜキリストは血だらけにならなければならなかったのか、なぜ十字架にかからなければならなかったのか、それはここに書いてあるように、すべてのものは血によってきよめられからです。血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはなかったからなのです。

 

このように言うと、中には「キリスト教って血生臭い宗教なんですね」とか、「何だってむごいことをするのでしょう」と思われる方がおられますが、実はその血生臭さこそ、私たちの罪の血生臭さであり、そのむごさこそ、私たちの罪のむごさであったということです。罪が赦されるためには、いのちの代価としての血が求められたからです。そうでなければ、私たち自身が死ななければなりませんでした。私たちが罪をもっていても死ななくても済むのは、キリストが私たちの代わりに死んでくださったからなのです。キリストが死んでくださったので、この神の契約は有効になりました。

 

ですから、この契約は遺言と同じなのです。実際に、15節の「契約」ということばと、16節の「遺言」、17節の「遺言」、20節の「契約」という言葉は、原語のギリシャ語ではどれも同じことばが用いられています。それはこのヘブル書の著者が、神の契約は遺言と同じであるということを強調したかったからです。それは神の真実において一方的な契約であり、イエスさまが十字架で死んでくださったことによって成立した契約であったということあって、私たちの行動とか、私たちの行いとは一切関係ないということです。たとえあなたがどんなに弱くとも、たとえ、あなたが神との契約を守ることができなくとも、あなたがイエスさまを信じるなら、あなたが十字架につけられたイエスさまを仰ぎ見るなら、あなたはすべての罪から救われるのです。

 

皆さん、これはすばらしい知らせではないでしょうか。だからこれが「福音」というのです。「福音」とは良い知らせ、グッド・ニュースです。なぜこれがグッド・ニュースなのかというと、これは神の真実にかけて結ばれた契約だからであって、私たちの行いとは全く関係ないからです。

 

先日、宣教師訓練センター後援会主催の聖会があり、そこで有賀喜一先生がお話をしてくださいましたが、有賀先生はそのお話の中でご自分がイエス様を信じたときの証をしてくださいました。先生が14歳のとき友人が亡くなりましたが、人は死んだらどこに行くのかわからなかったのでいろいろな人に尋ねるのです。「すみません。死んだらどこに行くのですか」返ってきた答えは「そんなの死んでみないとわからない」というものでした。死んでみないとわからないというのなら死んでみようと思い、遺書を書いて列車に飛び込むのです。けれども、当時の列車は車体が高く飛び込んだ先生の体の上を通り過ぎていったため死ぬことも叶いませんでした。自分は死に神からも見放されたかと思っていたとき、友人に誘われて教会に行くと、そこでスウーデンから来た宣教師がヨハネ伝3章からニコデモの話をしていました。

「人は、どうしたら神の国を見ることができるのか」

「人は、新しく生まれなければ神の国を見ることはできません」

「どうしたら新しく生まれることができましょう。」

「水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」

こうしたイエス様とニコデモとの会話から、新しく生まれなければ、神の国に入ることはできないことを知らされるのです。一方では、死んでみないとわからないと言われ、一方では、新しく生まれるなら入ることができるとはっきり告げられ、その晩、有賀先生は自分の罪を告白してイエス・キリストを救い主として信じて救われたのです。

それまで、自分では良い人間だと思っていました。自分には罪など関係ないと思っていたのが、当時、教会の役員だった方に促されて罪を告白すると、本当に罪深い人間だということが示され、それを全部告白して、救われたのです。

 

皆さん、死ななくてもいいのです。死んだらどこに行くのかということは、死んでみないとわからないのではありません。死ななくてもわかります。皆さんの罪の身代わりとなって死んでくださった神の御子イエス・キリストを信じるだけでいいのです。信じる者は救われるのです。何という恵みでしょうか。これが、神がキリストによって与えてくださった救いの約束です。本来ならば、自分の罪のために、神の怒りとさばきを受けなければならなかったのに、神の一方的な恵みによって救われたのです。

 

Ⅱ.完全な救い(23~26)

 

では、そのような神の救いのみわざはどのようにして成し遂げられたのでしょうか。23節から26節までをご覧ください。

「ですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません。キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現われてくださるのです。それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所にはいる大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。」

 

ここには、旧約聖書に出てくるあの地上の幕屋と天の幕屋との対比を通して、地上の幕屋が血によってきよめられたのは、罪ある人間が神に受け入れられ神に近づくことができるようにするためでしたが、それは天にある幕屋、天国のひな型であったということ言われています。そして、天国の神に近づくためには、動物のいけにえよりももっとすぐれたいけにえでなければならなかったということが言われているのですが、それはもちろんイエス・キリストのことであって、これまで説明してきたとおりです。それでは、このキリストの犠牲とはどのようなものだったのであったのかを、二つのことばをもって協調しています。それは26節にあるように、「ただ一度」ということと、「今の世の終わりに」という言葉です。

 

これはどういうことでしょうか。キリストはただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために来られました。旧約における大祭司は年に一度、動物のいけにえの血を携えて聖所に入りました。しかも、それを毎年繰り返して行っていましたが、キリストは、ただ一度だけ、ご自身をささげられました。つまり、これが神の私たち人間を救う最終解決であったということです。神は最初の人間アダムが罪を犯した瞬間から、人類を罪から救う永遠の計画をもっておられましたが、その完全な贖いがイエス・キリストを十字架につけることによって完了したということです。キリストが十字架につけられたとき「完了した」と言われましたが、何が完了したのかというと、この神の永遠の救いのみわざが完了したということです。これが神のファイナルアンサーでした。これ以上、他に何かしたり、何すを付け足したりする必要はありません。私たちの罪の贖いはキリストの十字架によってすべて完了したのです。それは完全な救いだったのです。

 

リビングライフのコラムにこんなことが書かれてありました。ある夏の日、一人の子どもが庭で遊んでいたら、突然、大きな蜂がやって来て、子どもの頭上をブンブン飛び回りました。逃げようとすればするほど、さらに襲いかかってくるので、蜂が怖くて、子どもは泣きながら母親のところに走って行って抱きつきました。子どもの驚いた表情を見た母親は、急いでスカートで子どものからだを覆い、両手で子どもの顔を隠しました。その瞬間、怒った蜂は今度はその母親の手を力いっぱい刺し、大きな蜂の毒針は、抜くことができないほど深く突き刺さってしまいました。針が抜けた蜂は、飛んでいくこともできず、母親の手の上をはいずり回っていました。母親は痛みをこらえながら、おびえている子どもに言いました。「もう怖がらなくていいのよ。お母さんがあなたの代わりに刺されたから、もう大丈夫。この蜂は私を刺したから、もうあなた指すことはできないわよ。」「蜂の一刺し」という言葉がありますが、蜂は一度指したら死んでしまうのです。もう刺すことはありません。

 

キリストも、ただ一度だけ、十字架で刺されて死なれました。だから、私たちはもう刺されることはありません。キリストは、すでに私たちのために罪を贖って死なれ、三日目によみがえられることによって死に勝利され、今、天国のまことの聖所で私たちのために、あなたのために働いておられるのです。

 

さくらでの伝道が始まって一か月が経ちましたが、あまり反応がないのでどうしたんだろうと思い、教会の回りの家を訪問することにしました。すると、驚いたことに、中には家の中にいるということがわかっているのに玄関にも出て来なかったり、いぶかしい顔で対応する人もいました。いったいどうしてだろうかと思いながらある方のお宅へ行ったところ、その方が、「きょうは五回目ですよ」というです。「えっ、何が・・」と尋ねると、「エホバの証人の方が何回も何回も回ってくるのです」と言われました。「オタクとは違うんですか」というので、「えっ、違いますよ。一番違うのは十字架があるかないかということです。伝統的なキリスト教には必ず十字架がありますが、エホバの証人の方には十字架がありません。それが一番大きな違いです。」というと、「ああ、そうなんですか。私はオタクも同じかと思っていました」と言われました。

エホバの証人の方が一生懸命に伝道しているのはすばらしいことだと思うのですが、なぜそこまでして伝道するのかというと、そうしないと救われないと思っているからです。自分が救われているかどうかがわからないのです。だから、救われるためにそうやって必至で伝道しているのです。

けれども、聖書はなんといっているでしょうか。キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られました。このイエスを信じる者は、だれでも救われるのです。神はキリストを通してその救いの御業を完成してくださいました。このイエスを信じるならだれでも救われます。これが、聖書が約束していることです。これは感謝なことではないでしょうか。そして、このすばらしい救いに預かったのなら、こんなにすばらしい恵みを受けたのであれば、その喜びがあふれてくるはずで、エホバの証人どころではない熱心さが生まれてくるはずです。

 

Ⅲ.キリストを待ち望んで(27~28)

 

であれば、私たちはどうあるべきなのでしょうか。27~28節をご覧ください。「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自分をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々のために来られるのです。」

 

これはとても厳粛な箇所です。このヘブル人への手紙の著者は、「ただ一度」という言葉を、人間にもあてはめています。人は、何度も死ぬわけではありません。死ぬのはたった一度だけです。そしてそれは確実にやってきます。すべての人は皆、死ぬのです。しかしそればかりでなく、死んだらそこでさばきを受けることが定まっているのです。日本人の中には死んだらまた他の人となって生まれ変わるとか、死んだら無になると考えている人がいますが、そうではありません。人は死ぬことと、死んだらそこで必ず神のさばきを受けるのです。このさばきというのは、キリストを信じた者は天国へ、信じなかった者は地獄へ行くという最後のさばきのことです。なぜそのようなことが言えるのかというと、これまで何度も語ってきたように、キリストを信じた者はキリストが十字架にかかってその人の罪の身代わりとして死んでくださったので、もうさばかれることがないからです。ヨハネの福音書3章16~18節にこう書かれてあります。

 

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者がひとりも滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」

 

御子を信じる者はさばかれません。なぜなら、御子が代わりにさばかれたからです。これこそ神が用意してくださった救いであります。神はこのすばらしい救いを私たちに提供してくださいました。あなたはこの救いを受け取られましたか。あなたの罪の救い主イエスを信じて救われていますか。信じる者は信じる者は救われるのです。

 

ところで、ここには、人は一度死ぬことと死後にさばきを受けるということだけでなく、キリストが再び来られるということも書かれてあります。キリストは多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいるすべての人々の救いのために来られるのです。

 

いったいなぜここにキリストが二度目に来られること、すなわち、キリストの再臨について語られているのでしょうか。それは、キリストによって罪赦された者がどのようにあるべきなのかを語るためです。すなわち、私たちは、今をどのようにとらえているかということであります。ここには、今は世の終わりの時であると言われています。この終わりの時をどのようにとらえ、どのように生きているかということによって私たちのきょうの生き方は変わってくるのです。

ペテロはこう言っています。「万物の終わりが近づいてきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。それぞが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」(Ⅰペテロ4:7~10)

 

なぜ祈りのために、身を慎むのでしょうか。なぜ何よりも、互いに熱心に愛し合うのでしょうか。なぜつぶやかないで、互いに親切にもてなし合い、その賜物を用いて、互いに仕え合うのでしょうか。万物の終わりが近づいているからです。このように、キリストの再臨の望みが、きょうの私たちの生き方を変えるのです。

 

あるクリスチャンの方がガンと診断され、余命6か月と宣告されました。この人は人生を整理することにしました。それまで自分が神様に対して行った過ちを紙にすべて書き出しました。数日間、身動きもせず、祈りながらすべてを書き出したのです。そして、書き出した罪の項目を一つ一つ消去しながら、神様の御前で悔い改めました。人に間違ったことをしたなら、訪ねて行ってお金を返し、謝り、食事をするなどして、人生を整理したのです。しかし、6か月経っても体調が悪くならないので、別の病院に行って診察してもらうと、最初の病院が誤診したようだと言われました。そこで彼の友人が、それはひどいと言って、その病院を訴えるよう勧めましたが、その聖徒は顔を上げることができませんでした。それは、その6か月間、自分はとても幸せで、生きがいを感じたためです。ですから、その残りの人生もそのように生きたいと思ったからなのです。

 

神様は、私たちが霊的に目覚め、このような心境で生きることを望んでおられます。まるで来月にでもイエスさまが来られるかのように、来月私がこの世を去ってしまうかのように、悔い改め、赦し、愛しながら生きることを望んでおられるのです。

あなたは、今がどのような時であるかを意識していますか。今が終わりの時であることを知り、あなたのために救いの御業を成し遂げてくださった主の恵みに感謝し、そこにしっかりととどまりながら、キリストが再び来られることを待ち望んでいるでしょうか。もちろん、私たちがこの世で与えられている務めはいろいろありますが、それは「キリストが死なれたのは、昨日のように思う」といったルターのように、キリストの愛に駆り立てられてのことなのであって、キリストを日々待ち望みながらのことなのです。

 

この手紙の読者たちはユダヤ人クリスチャンで、日々激しい迫害の中に置かれていました。生きる希望もなかったでしょう。しかし、ここに希望があります。それはやがてキリストが再び来られ、その救いを完成してくださるという望みです。キリストは、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られます。そこに希望を置きながら、きょうという日を感謝して歩んでいきたいと思います。それが神の恵みによって救われた私たちに求められていることなのです。

ヘブル9章1~14節 「永遠の救い」

きょうはヘブル書9章前半の箇所から、「永遠の救い」というタイトルでお話ししたいと思います。この手紙の著者は8章において、初めの契約と新しい契約がどのように違うのかについて述べました。すなわち、初めの契約、これはイスラエルがエジプトから導かれた後にシナイ山で結ばれた十戒のことですが、その契約には欠点があったのです。どういう点で欠けがあったのかというと、それは一種の双務契約のようなもので、一方がその契約に違反すれば、たちどころに反故になってしまうという点においてです。しかし、神の契約を守ることができる人などだれもいないわけですから、結局のところ、あの初めの契約で救われることはできる人は一人もいなかったわけです。じゃいったい何のためにそんな契約を与えたのでしょうか。それは私たちが罪人であるということを自覚させ、本当に救いを求めるように導くためでした。その本当の救いとはイエス・キリストによって与えられた新しい契約です。この新しい契約の特徴は、たとえ私たちが神との契約を守ることができなくとも、イエス・キリストを信じることによってそのすべての罪が赦され、救われるということでした。私たちの行いとは全く関係がなく、神の一方的な恵みによって救われるからです。私たちの罪がたとえ緋のように赤くても、雪のように白くしてくださる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようにしてくだるのです。キリストの血によって・・。これが福音、良い知らせです。神はこの新しい契約を私たちに与えてくださいました。きょうのところには、そのことがもう少し詳しく説明されています。

 

Ⅰ.初めの契約(1-10)

 

まず1節から10節までをご覧ください。1節と2節をお読みします。

「初めの契約にも礼拝の規定と地上の聖所とがありました。幕屋が設けられ、その前部の所には、燭台と机と供えのパンがありました。聖所と呼ばれるところです。」

 

前回見たように、キリストは私たちの罪の贖いを成し遂げて天の神の御座の右に着座されました。そこで何をしておられるのかというと、仕えておられるということでしたね。これは礼拝の務めをするということで、祭司として、私たちが神に礼拝をささげられるように仕えておられるということでした。

 

ではその聖所とはどういう所なのでしょうか。2節を見ると、その前部の所、そこは聖所と呼ばれていた所ですが、そこには燭台と机と供えのパンがありました。これらはすべてイエス様ご自身を表していたものです。イエス様は言われました。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。(ヨハネ8:12)ですから、これは「世の光」であるキリストを表していたのです。また、供えのパンですが、これもキリストを象徴していました。キリストは、「わたしがいのちのパンです。わたしに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときでも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ6:35)と言われました。また、「このパンを食べる者は永遠に生きます。」(ヨハネ6:58)とも言われました。ですから、この聖所の細部に至るまで、イエス様のことが表されていたわけです。

 

そして、3節を見ると、幕屋の中は垂れ幕で仕切られていました。奥の部分は至聖所と呼ばれていましたが、そこには金の香壇と、全面が金で覆われた契約の箱がありました。中には、マナの入ったつぼと、芽を出したアロンの杖、十戒を記した二枚の石の板が収められていました。また、箱の上には、栄光に輝くケルビムがその翼で箱を覆うようにしていました。そこは幕屋の中でももっともきよい場所でした。なぜなら、そこには神が臨在しておられたからです。あまりにもきよい場所なので、祭司といえどもふだんは入ることができず、ただ大祭司だけが、一年に一度だけ、入ることができました。なんのためでしょう。7節には、「そのとき、血を携えずに入るようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。」とあります。そうです、イスラエルの罪と、自分の罪を赦してもらうためです。そのために、動物のいけにえの血を携えて入ったのです。なぜなら、この9章22節を見るとわかりますが、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないからです。ですから、大祭司はこの至聖所に入って行ったわけですが、それはいのちがけのことだったのです。なぜなら、大祭司に少しでも穢れあれば、その場で打たれて死んでしまうこともあったからです。だから、大祭司は着物のすそに鈴のついた特別の服を着ました。歩くと鈴がなるのです。もし神に打たれて死んでしまったら鈴の音は聞こえなくなります。その時には他の祭司たちがロープで引きずり出しました。それほどの慎重さをもって、またいのちがけで、大祭司は至聖所に入って行ったわけですが、罪の贖いをして帰ってくると、「神はあなたの罪を赦された」と宣言するのです。イスラエルの民はこのときをどれほど喜び、待ち望んでいたことでしょう。それゆえ、この日にはイスラエル中から人々がエルサレムに上ってきたのです。

 

それはイスラエルの民にとってばかりでなく、私たちにとっても同じではないでしょうか。主に罪が赦されるということ、そして、主が共にいてくださるというほどの幸いはありません。ダビデは詩篇32篇1,2節でこう言っています。

「幸いなことよ。そのそむきの罪を赦され、罪を覆われた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、その霊に欺きのない人は。」

ダビデはバテ・シェバという女性と姦淫を行ったとき、それをずっと黙っていたときには、一日中、うめいて、骨々が疲れ果てたといっています。それは、主の御手が昼も夜も彼の上に重くのしかかり、彼の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。しかし、彼がそのそむきの罪を主に告白して赦しを請うたとき、主は彼を赦してくださいました。それがいかに幸いであるかを、彼はこのように歌ったのでした。そして、彼は続けてこうも言っています。

「悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼するものには、恵みが、その人を取り囲む。」(詩篇32:10)

だから、主に罪赦され、神がともにいるという経験は、何にもまさって幸いなことなのです。

 

しかし、この幕屋での行為は、彼らの罪の赦しにおいて完全なものではありませんでした。なぜなら、それらは彼らの良心を完全にきよめることができなかったからです。また罪が思い出されたからです。せっかく赦されたと思ったのにまた罪を犯してしまうことによって、良心の呵責がなくなってしまうことがなかったのです。それは後に来るものの比喩であって、本当の罪の赦しは得られなかったのです。では本当の罪の赦しはいったいどのようにして得られるのでしょうか。

 

Ⅱ.永遠の贖い(11-12)

 

ですから、次に11節と12節をご覧ください。

「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い換えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではないく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」

 

旧約時代、祭司たちは初めの契約の律法に従っていけにえを捧げ、動物の血を流し、神の前に出て、民のために罪の赦しを請いました。神はそのつど、祭司や大祭司を通して罪の赦しを宣言してきたのです。しかしそれはあくまでもひな型にすぎませんでした。完全なものではなかったのです。どんなやっても罪が思い出されました。彼らの良心を完全にきよめることができなかったのです。本当の罪の赦しのためには、イエス・キリストを待たなければなりませんでした。やぎと子牛との血によってではなく、まことの神の子であるイエス・キリストが十字架にかかって流された血を携えて、天にあるまことの聖所に入り、罪の贖いをする必要がありました。その血によって、私たちは神の前に完全な罪の赦しときよめを受けることができるのでした。それは何度も何度も罪が思い出されるような不完全なものではなく、もう二度と思い出されることがない永遠の贖いです。詩篇 103:12には、「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く 離される。」とあります。私たちのそむきの罪を遠く離されるのです。東から西が遠く離れているようにというのは、もう決して交わることがないという意味です。そのような完全な罪の赦しが与えられるのです。なんという幸いでしょうか。これが本物の救いです。それゆえ本物の救いを知っている私たちは本物の贖いによって赦され、本物できよめられたのです。なぜこれが本物だといえるのでしょうか。なぜなら、イエス様は十字架につけられて死なれただけでなく三日目によみがえり、天において本物の幕屋で今もとりなしていてくださるからです。

 

ある村での出来事です。一そうの漁船が沖合で嵐に会いました。ようやく岸の近くまで戻ってきたのですが、そこには岩が多く、とうとう岩礁に乗り上げてしまいました。それを知った村人たちが驚いてやってきました。彼らは船の人を助けようとしましたが、波が高くてとても危険でした。しかしだからといってそのまま見殺しにすることもできません。そこで屈強な者たちが集められ、危険を承知で船を出しました。そして死闘を繰り返すようにして、荒波を越え、漁船の所へ行きました。ところが救命用に用意した船には一度にはたくさんの人が乗れませんでした。そこで何回かに分けて運ぶことにしたのですが、一回行き、二回行き、三回目行きましたが、それでも全員乗り切れず最後に一人だけ残ってしまいました。

そうこうしているうちに嵐はいっそう激しくなっていき、もはや助けに行ったとしても、とても無事に戻って来られそうもありませんでした。ところがその時、一人の勇気ある若者が「ぼくが行く」と言いました。もちろん止められました。それでも行くと、振り切ると、今度は母親が止めました。彼の父親がやはり嵐で遭難しており、その母親に残されたのは彼を含めた二人の息子たちだけだったからです。しかし彼はなお「行く」と言い張りました。というのも、実は最後に残ったたった一人というのは、彼のお兄さんだったからです。彼は言いました。「兄さんは他の人を先にやっておいて自分はあとに残ったんだ。ぼくが行かないで誰が行くんですか」

こうして彼は人々を振り切るようにして船を出しました。そしてお兄さんを無事に救出して帰って来たそうです。

 

イエス様は私たちを兄弟と呼ぶことを恥となさいませんでした。私たちを弟、妹のように思ってくださいます。そして、ちょうどいのちがけで兄を助けに行った弟のように、いのちがけで私たちを救ってくださったのです。十字架の上で。イエス様の愛は何と驚くべきものでしょう。イエス様はご自分のいのちをかけて救ってくださるのです。

 

しかも聖所でのイエス様の救いは実に見事です。12節には、「ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」とあります。毎日、毎日、何回も繰り返して、いつまでも続けられなければならない旧約時代の贖いと違い、たった一度だけで、永遠の贖いを成し遂げてくださいました。イエス様の贖いのわざは完全です。ですから、どんな人でも救うことができるのです。どんな汚れた人でも、どんなに皮膚の色が違っても、その人にどんな過去、背景があったとしても、どんな人でも救うことができるのです。イエス様は確信をもって、たった一度だけ、永遠の救いをしてくださいました。

 

毎年秋になるとプロ野球の日本シリーズが行われ、日本中のファンを楽しませてくれますが、1994年10月8日に行われた巨人と中日のリーグ優勝をかけた戦いは、いまでも語り継がれている名勝負です。この試合に勝った方が日本シリーズに行くということで、だれもが注目していたゲームでした。その大切な試合のセーブを任せられたのは桑田投手です。彼は7回からマウンドに立つと魂がこもった投球をして、最後のバッターも三振に抑え、見事に巨人を優勝に導くのです。最大で13.5も引き離れていたペナントレースを見事に逆転して優勝するのです。この年に流行語になった言葉が「メイクドラマ」です。ドラマみたいなホントの話、ドラマを作るという意味で「メイクドラマ」と呼ばれたのでした。

これは野球の好きな人ならだれでも知っている名場面ですが、しかし、イエス様がなさったセーブはそんなものではありません。それは完全なみわざであり、永遠の救いだったのです。イエスの血によってあなたは、完全な救いを得ることができるのです。

 

Ⅲ.生ける神に仕える者(13-14)

 

ではイエス様はいったい何のためにそのようなみわざをなさったのでしょうか。13節と14節にこうあります。

「もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰をけがれた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよめいものにするとしたら、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」

 

イエス様がそのようなみわざをなさったのは、私たちをきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とするためでした。

皆さん、死んだ行いとはどういう行いのことでしょうか。死んだ行いとは、命のない行い、命を生み出さない行いのこと、つまり、自己中心な行いのことです。それは、霊的に死んだ状態から出て来て、さらなる死の状態へと導き、やがては永遠の滅びへと至らせるのです。生ごみや臭いモノにたかるハエって どんなに追い払ってもすぐまた戻ってくるように、自己中心や自分の欲に従う生き方は霊的に死んだ状態で腐っているので、どんなに追い払っても戻ってくるのです。それを完全に追い払うにはどうすればいいのかというと、その元を取り除いて綺麗にすればいいわけです。それがイエス・キリストの血によるみわざでした。

 

主イエスが来られて、十字架の上で永遠の贖いを成し遂げられたのは、まさにそのためだったのです。そのようにして私たちを生きた行いへと向かわせ、いのちの実を結ばせるためだったのです。

 

もう一度13節を見てください。ここには、「もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば」とあります。動物の血は、それが人々にかけられることによって、彼らの肉体、つまり、外側をきよいものにすることがでたのであれば、私たちのためにささげられた御子イエスの血は、どんなにか私たちの心をきよめて生ける神様に仕える者とすることができるというのです。

 

私たちが日々、主の十字架を仰ぎ見る理由がここにあります。私たちはそこで流された御子の血によって自分の罪が赦されていることを覚えます。しかし、それが十字架の意味のすべてではありません。私たちはその御子の血を自分自身のうちに受けているのです。つまり、十字架で裂かれたキリストのからだと流された血を、パンとぶどう酒を通して食することで、私たちはこの方と一つにされているのです。それはこの信仰に生きるためです。つまり、そのことによって私たちは主と一つにされ、自分を中心として生きていた以前の古い自分が、キリストとともに十字架で死に、また、キリストの復活のいのちにあずかることで、私たちは神の子どもとして新しく生まれ変わるのです。ですから、信仰者はみなキリストのいのちを宿す者であり、彼のうちにあって、彼によって生かされるのです。それは御霊なる主の働きによるものです。

 

ガラ手や人への手紙5章16~18節には、こうあります。「 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。」

 

御霊によって歩むなら、私たちは自分の肉の欲を満たそうとする死んだ行いから解放されます。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。そのどちらかしかありません。主イエスは、この御霊によって、十字架の杯を取り除けてほしいというご自分の願いを退け、父なる神様の御心としての十字架の道を進んで行かれました。そのようにして、主は生ける神様に仕えられたのです。

 

同じように、私たちも神の御霊によって生ける神に仕えることができるのです。私たちは御子の血によって、犯した罪に対する赦しを受けているだけでなく、御子のいのちをうちに宿すことで、罪の力から解放され、生ける神様に仕える者とされるのです。もう二度とあなたにハエがたかることはありません。

 

皆さんの心はどうでしょうか。このイエスの血によって聖められているでしょうか。このイエスのいのちをいただいて、罪の束縛から解放され、神に仕える者とされているでしょうか。

 

箴言にこういうことばがあります。「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」(箴言4:23)私たちはよっぽど気を付けていないと、そう、力の限り心を見張っていないと、自分知らないうちに自分の思いにどっぷりと浸かってしまうことがあるのです。「ああ、めんどうくさい」とか、「あの人ってさあ、・・・だよね」といった悪いことでないにしても、他の人のことを話題にしてしまうことがあります。そういうのは神様が喜ばれることではなく、自分の肉の思いから出ていることですから、注意が必要です。そうでないと、ほら、ハエがたかりますから・・・。「信仰からでていないことは、みな罪です。」(ローマ14:23)愛から出ていないことは、みな罪であって、死んだ行いでしかないのです。ですから、そういうことがないように、私たちは力の限り、見張って、私たちの心を見守らなければなりません。

 

英国にジョン・ウェスレーという伝道者がいました。彼は広く伝道し、多くの書物を書き、すぐれた学者でもありましたが、そのウェスレーが死に臨んだ時、彼はこう言ったそうです。「私は天国に入る何の資格もない」

その場にいた弟子たちはみんなびっくりしました。ウェスレー先生ともあろう人が、不信仰になってしまったのだろうか、先生を信頼してついてきたのに、土壇場になってこんなことを言って、と思ったかもしれません。

しかしその時、ウェスレーは続いてこう言いました。「イエス様が私のために死んでくださったので、私は天国に入れる。」と。

 

これだけの学者であっても、自分の力では天国に入る資格はありません。天国に入るためには、御子イエスを信じなければなりません。信じて、罪を赦してもらわなければならないのです。また、このイエスの血によって神の御霊をいただき、死んだ行いから離れ、生ける神に仕える者とされるのです。

 

あなたは御子イエスの血によって罪が赦されていますか。その御子のいのちを宿すことによって、罪の力から解放され、生ける神に仕えておられるでしょうか。力あるイエスの血を受けてください。そして、あなたも罪から救われ、生ける神に仕える者となってください。お祈りします。