申命記5章

きょうは、申命記5章から学びます。 モーセはこれまで、エジプトから出てモアブの地に至るまでの経緯を話しましたが、ここからは具体的に、守るべき、おきてと定めを話し始めます。

 

1.おきてと定めとを守らなければならない(1-5

 

まず、1節から5節までをご覧ください。

「さて、モーセはイスラエル人をみな呼び寄せて彼らに言った。聞きなさい。イスラエルよ。きょう、私があなたがたの耳に語るおきてと定めとを。これを学び、守り行ないなさい。私たちの神、主は、ホレブで私たちと契約を結ばれた。主が、この契約を結ばれたのは、私たちの先祖たちとではなく、きょう、ここに生きている私たちひとりひとりと、結ばれたのである。主はあの山で、火の中からあなたがたに顔と顔とを合わせて語られた。そのとき、私は主とあなたがたとの間に立ち、主のことばをあなたがたに告げた。あなたがたが火を恐れて、山に登らなかったからである。主は仰せられた。」

 

モーセは再び、イスラエルの民を集めて語ります。「聞きなさい」ということばは、この申命記のキーワードの一つです。それだけ重要な内容であるということです。「きょう、私があなたがたの耳に語るおきてと定めとを。これを学び、守り行ないなさい。」と。その内容は、かつて彼らがホレブにいたとき、そこで神と結ばれた契約についてです。主はあの山で、火の中から彼らと顔と顔とを合わせて語られました。これは、主がイスラエルに個人的に語られたということです。主がいかにイスラエルの民を愛し、この民と婚姻関係のような、一体化した結びつきを持ちたいかを表しているのです。主は、私たちに対しても、個人的にお語りになりたいと願われています。私たちは、個人的に語られる神の御声を聞くことによって、神との関係を持つことができるのです。

 

2.主のおきてと定め(6-21

 

次に6節から21節までをご覧ください。

「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。安息日を守って、これを聖なる日とせよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。・・あなたも、あなたの息子、娘も、あなたの男奴隷や女奴隷も、あなたの牛、ろばも、あなたのどんな家畜も、またあなたの町囲みのうちにいる在留異国人も。・・そうすれば、あなたの男奴隷も、女奴隷も、あなたと同じように休むことができる。あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。あなたの隣人に対し、偽証してはならない。あなたの隣人の妻を欲しがってはならない。あなたの隣人の家、畑、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」

 

モーセはこれから、十戒について語りますが、その前提になっているのは、主がイスラエルをエジプト贖い出されたお方であるという事実です。律法が与えられたのは、それを行なって救われるためではなく、エジプトから救われ、贖われた者だから、その贖ってくださった方の命令として行うのです。だから、罪が贖われた者でなければ、本当の意味で神の律法を行うことはできません。この戒めのベースにあるのは愛なのです。

 

先日、近藤先生ご夫妻とお話している中で、よくクリスチャンが日曜日教会に行かなければならないのは束縛されるようで嫌だということを聞くけれども、自分はそういうことがなかったので、そういう人の気持ちが理解できないとおっしゃっておられました。神に罪が救われた喜びで日曜日は教会に行きたくて、行きたくてしょうがなかったというのです。それはここで言っていることです。これから語られる戒めは決していやいやながら、強制されてするのではなく、主によって罪が贖われた者だから喜んで応答したいのです。

 

では、その内容を見ていきましょう。まず神の律法の第一の戒めは、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。」です。主のみを神とし、他のものを神としてはいけないということです。これは単に木や石で作った神を神としてはいけないというだけでなく、神以外のものを神の位置に置いてはいけないということを意味しています。神以外に自分の仕事や家庭を、神以外に自分自身を置いてはいけないのです。それらを拝んでもなりません。仕えてもなりません。ただ神だけを礼拝し、神にだけ仕えなければならないのです。

 

12節から15節までには、安息日を守るように言われています。安息日とは、主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたので、この日を聖なる日とするように定められたものです。ところが、申命記には、スラエルの民がエジプトの地で奴隷であったが、神が力強い御手をもって、彼らを導き出されたので、そのことを覚えるために、この日を安息日として守るようにと定められています。つまり、モーセは今、新しい世代のイスラエルに、主がエジプトから導き出されたことを起点にして、その生活を営むように指導しているのです。

 

 ここに、安息日とは何なのか、その意義を見出すことができます。それは、まぎれもなく、主のみわざが行なわれ、完成したので安息する、という意義です。主が天地を創造されたとき、その創造のみわざは完成し、七日目に休まれました。これは創造のわざからの安息です。そして、イスラエルがエジプトの奴隷状態から贖い出されましたが、これは主の救いのみわざの完成です。主は救いのみわざを終えられたので、安息されたのです。つまり、救いのみわざからの安息です。このように主のみわざが完成したところに憩い、とどまることが、安息日の意義なのです。それは主イエスによってもたらされた安息を指し示しています。主イエスは十字架の上で、「テテレスタイ」(完了した)と言われました。また三日目に死人の中からよみがえられたことによって、全人類を罪から救い出す神のみわざが完成したのです。ですから、私たちはこの主イエスのみわざの中に憩うことができるのです。つまり、私たちはいつでも、主イエス・キリストにあって真の安息を持つことができるのです。であれば、この安息日の規定はもはや律法ではありません。私たちを罪から贖い出して救いのみわざを成し遂げてくださった主の中に安息を得ているという喜びをもって、主の日に集まることは当然のことではないでしょうか。

 

そして次に、あなたの父と母を敬え。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。あなたの隣人に対し、偽証してはならない。あなたの隣人の妻を欲しがってはならない。あなたの隣人の家、畑、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。と続きます。

ここで出エジプト記の記述と若干違う点は、最後の「隣人の妻を欲しがってはならない」です。出エジプト記には「あなたの隣人の家をほしがってはならない。」とあり、その後に、「隣人の妻・・・」と続きますが、ここには、あなたの隣人の妻をとあって、家のことに関する記述はありません。いったいなぜでしょうか。おそらく、この後の7章に異邦人の妻のことが語られているので、そのことを意識していたからでしょう。イスラエルが約束の地に入ったときには、その地の住民を聖絶しなければなりませんでした。彼らと縁を結んではならなかったのです。それゆえ、イスラエルの隣人の妻を欲しがってはならなかったのです。ですから、この隣人の妻というのは単に隣人の妻というだけでなく、異邦人の妻のことも含んで語られていたのです。

 

3.主の御声を聞き続ける(22-27

 

次に22節から27節までをご覧ください。

「これらのことばを、主はあの山で、火と雲と暗やみの中から、あなたがたの全集会に、大きな声で告げられた。このほかのことは言われなかった。主はそれを二枚の石の板に書いて、私に授けられた。あなたがたが、暗黒の中からのその御声を聞き、またその山が火で燃えていたときに、あなたがた、すなわちあなたがたの部族のすべてのかしらたちと長老たちとは、私のもとに近寄って来た。そして言った。「私たちの神、主は、今、ご自身の栄光と偉大さとを私たちに示されました。私たちは火の中から御声を聞きました。きょう、私たちは、神が人に語られても、人が生きることができるのを見ました。今、私たちはなぜ死ななければならないのでしょうか。この大きい火が私たちをなめ尽くそうとしています。もし、この上なお私たちの神、主の声を聞くならば、私たちは死ななければなりません。いったい肉を持つ者で、私たちのように、火の中から語られる生ける神の声を聞いて、なお生きている者がありましょうか。あなたが近づいて行き、私たちの神、主が仰せになることをみな聞き、私たちの神、主があなたにお告げになることをみな、私たちに告げてくださいますように。私たちは聞いて、行ないます。」 

 

これらの戒めを、主はあのホレブの山で、火と雲と暗やみの中から、イスラエル全会衆に、大きな声で語られました。そして、それを二枚の石の板に書いて、モーセに授けられました。イスラエルの部族のすべてのかしらと長老たちとは、それを聞いてモーセのところに来て言いました。「私たちは火の中から御声を聞きました。」と。主の御声を聞いてもなお生きているとは考えられないことでしたが、彼らはそのようにして主と顔と顔とを合わせて、主の御声を聞いたにもかかわらず、滅ぼされることはありませんでした。これはすごいことです。天地万物を創造された大いなる神が、自分たちに個人的に直接、語られることなど、あまりにも信じがたいことだったのです。それで彼らは、主がモーセに告げられることばはみな聞いて、行いますと言いました。

 

28節から33節までです。

「主はあなたがたが私に話していたとき、あなたがたのことばの声を聞かれて、主は私に仰せられた。「わたしはこの民があなたに話していることばの声を聞いた。彼らの言ったことは、みな、もっともである。どうか、彼らの心がこのようであって、いつまでも、わたしを恐れ、わたしのすべての命令を守るように。そうして、彼らも、その子孫も、永久にしあわせになるように。さあ、彼らに、『あなたがたは、自分の天幕に帰りなさい。』と言え。しかし、あなたは、わたしとともにここにとどまれ。わたしは、あなたが彼らに教えるすべての命令・・おきてと定め・・を、あなたに告げよう。彼らは、わたしが与えて所有させようとしているその地で、それを行なうのだ。」あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおりに守り行ないなさい。右にも左にもそれてはならない。あなたがたの神、主が命じられたすべての道を歩まなければならない。あなたがたが生き、しあわせになり、あなたがたが所有する地で、長く生きるためである。」

 

主は、イスラエルの決意をとても喜ばれました。そして、彼らの心がいつもこのようであって、いつまでも、主を恐れ、主のすべての命令を守るように、と仰せになられました。この時だけでなく、いつもこのようであるように、いつまでもこのようであるようにというのが、主の願いだったのです。私たちはある時主の御声を聞いて「アーメン」と言って従いますが、しばらく経つとその気持ちがいつしか失せてしまい、自分の思いが優先してしまうことがあります。そうではなくて、いつも、いつまでも、主に聞き従わなければなりません。そのためにはどうしたらいいのでしょうか。主の御声を聞き続けることです。主と顔と顔とを合わせてその御声を聞き、主をおそれることが求められます。そのことによってイスラエルは主との結びつきが始まりました。個人的に語られることなしに主と関係は持つことはできないし、またイスラエルも、主を恐れおののいて、その御声に聞き従うことなくして、神との関係を保つことはできません。私たちの信仰生活の土台は、この主との生ける結びつき以外にはないのです。

 

あのザアカイもそうでした。主がエリコの町にやって来られたとき、ザアカイはいちじく桑の木に登りました。そのザアカイに向かってイエスは御顔を向け、個人的に語られました。主がホレブでイスラエルに対してなされたようにです。すると彼は、自分の財産の半分を貧しい人に渡し、だまし取った物は四倍にして返す、と言ったのです(ルカ19:1-10)。いったいなぜ彼はそのように言ったのでしょうか。それは、彼がイエスの御声を聞き、イエスの聖さにふれて、自分の汚れが明らかになり、悔い改めたからです。彼はイエスと個人的な関係を持つことができたのです。そして、このように主と個人的な関係を持つとき、私たちは変えられていきます。聖なる主にお会いすることは恐れも伴いますが、そのような個人的な主との関係が、私たちをご自身へと近づけていくのです。

 

しかしモ―セに対して主は、「あなたは、わたしとともにここにとどまれ。」と言われました。この十戒の他にもイスラエルに教えなければならない、おきてと定めとを告げるためです。そして、これらをイスラエルが所有する土地で守り行なうようにと命じなければなりません。なぜでしょうか。それは彼らが生き、しあわせになるためです。私たちは主のおきとさだめを守ることが、そこから右にも左にもそれないで、その道を歩み続けることが、私たちの幸せとなり、私たちが生きる道でもあるのです。

きょうは、申命記5章から学びます。 モーセはこれまで、エジプトから出てモアブの地に至るまでの経緯を話しましたが、ここからは具体的に、守るべき、おきてと定めを話し始めます。

 

1.おきてと定めとを守らなければならない(1-5

 

まず、1節から5節までをご覧ください。

「さて、モーセはイスラエル人をみな呼び寄せて彼らに言った。聞きなさい。イスラエルよ。きょう、私があなたがたの耳に語るおきてと定めとを。これを学び、守り行ないなさい。私たちの神、主は、ホレブで私たちと契約を結ばれた。主が、この契約を結ばれたのは、私たちの先祖たちとではなく、きょう、ここに生きている私たちひとりひとりと、結ばれたのである。主はあの山で、火の中からあなたがたに顔と顔とを合わせて語られた。そのとき、私は主とあなたがたとの間に立ち、主のことばをあなたがたに告げた。あなたがたが火を恐れて、山に登らなかったからである。主は仰せられた。」

 

モーセは再び、イスラエルの民を集めて語ります。「聞きなさい」ということばは、この申命記のキーワードの一つです。それだけ重要な内容であるということです。「きょう、私があなたがたの耳に語るおきてと定めとを。これを学び、守り行ないなさい。」と。その内容は、かつて彼らがホレブにいたとき、そこで神と結ばれた契約についてです。主はあの山で、火の中から彼らと顔と顔とを合わせて語られました。これは、主がイスラエルに個人的に語られたということです。主がいかにイスラエルの民を愛し、この民と婚姻関係のような、一体化した結びつきを持ちたいかを表しているのです。主は、私たちに対しても、個人的にお語りになりたいと願われています。私たちは、個人的に語られる神の御声を聞くことによって、神との関係を持つことができるのです。

 

2.主のおきてと定め(6-21

 

次に6節から21節までをご覧ください。

「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。安息日を守って、これを聖なる日とせよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。・・あなたも、あなたの息子、娘も、あなたの男奴隷や女奴隷も、あなたの牛、ろばも、あなたのどんな家畜も、またあなたの町囲みのうちにいる在留異国人も。・・そうすれば、あなたの男奴隷も、女奴隷も、あなたと同じように休むことができる。あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。あなたの隣人に対し、偽証してはならない。あなたの隣人の妻を欲しがってはならない。あなたの隣人の家、畑、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」

 

モーセはこれから、十戒について語りますが、その前提になっているのは、主がイスラエルをエジプト贖い出されたお方であるという事実です。律法が与えられたのは、それを行なって救われるためではなく、エジプトから救われ、贖われた者だから、その贖ってくださった方の命令として行うのです。だから、罪が贖われた者でなければ、本当の意味で神の律法を行うことはできません。この戒めのベースにあるのは愛なのです。

 

先日、近藤先生ご夫妻とお話している中で、よくクリスチャンが日曜日教会に行かなければならないのは束縛されるようで嫌だということを聞くけれども、自分はそういうことがなかったので、そういう人の気持ちが理解できないとおっしゃっておられました。神に罪が救われた喜びで日曜日は教会に行きたくて、行きたくてしょうがなかったというのです。それはここで言っていることです。これから語られる戒めは決していやいやながら、強制されてするのではなく、主によって罪が贖われた者だから喜んで応答したいのです。

 

では、その内容を見ていきましょう。まず神の律法の第一の戒めは、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。」です。主のみを神とし、他のものを神としてはいけないということです。これは単に木や石で作った神を神としてはいけないというだけでなく、神以外のものを神の位置に置いてはいけないということを意味しています。神以外に自分の仕事や家庭を、神以外に自分自身を置いてはいけないのです。それらを拝んでもなりません。仕えてもなりません。ただ神だけを礼拝し、神にだけ仕えなければならないのです。

 

12節から15節までには、安息日を守るように言われています。安息日とは、主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたので、この日を聖なる日とするように定められたものです。ところが、申命記には、スラエルの民がエジプトの地で奴隷であったが、神が力強い御手をもって、彼らを導き出されたので、そのことを覚えるために、この日を安息日として守るようにと定められています。つまり、モーセは今、新しい世代のイスラエルに、主がエジプトから導き出されたことを起点にして、その生活を営むように指導しているのです。

 

 ここに、安息日とは何なのか、その意義を見出すことができます。それは、まぎれもなく、主のみわざが行なわれ、完成したので安息する、という意義です。主が天地を創造されたとき、その創造のみわざは完成し、七日目に休まれました。これは創造のわざからの安息です。そして、イスラエルがエジプトの奴隷状態から贖い出されましたが、これは主の救いのみわざの完成です。主は救いのみわざを終えられたので、安息されたのです。つまり、救いのみわざからの安息です。このように主のみわざが完成したところに憩い、とどまることが、安息日の意義なのです。それは主イエスによってもたらされた安息を指し示しています。主イエスは十字架の上で、「テテレスタイ」(完了した)と言われました。また三日目に死人の中からよみがえられたことによって、全人類を罪から救い出す神のみわざが完成したのです。ですから、私たちはこの主イエスのみわざの中に憩うことができるのです。つまり、私たちはいつでも、主イエス・キリストにあって真の安息を持つことができるのです。であれば、この安息日の規定はもはや律法ではありません。私たちを罪から贖い出して救いのみわざを成し遂げてくださった主の中に安息を得ているという喜びをもって、主の日に集まることは当然のことではないでしょうか。

 

そして次に、あなたの父と母を敬え。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。あなたの隣人に対し、偽証してはならない。あなたの隣人の妻を欲しがってはならない。あなたの隣人の家、畑、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。と続きます。

ここで出エジプト記の記述と若干違う点は、最後の「隣人の妻を欲しがってはならない」です。出エジプト記には「あなたの隣人の家をほしがってはならない。」とあり、その後に、「隣人の妻・・・」と続きますが、ここには、あなたの隣人の妻をとあって、家のことに関する記述はありません。いったいなぜでしょうか。おそらく、この後の7章に異邦人の妻のことが語られているので、そのことを意識していたからでしょう。イスラエルが約束の地に入ったときには、その地の住民を聖絶しなければなりませんでした。彼らと縁を結んではならなかったのです。それゆえ、イスラエルの隣人の妻を欲しがってはならなかったのです。ですから、この隣人の妻というのは単に隣人の妻というだけでなく、異邦人の妻のことも含んで語られていたのです。

 

3.主の御声を聞き続ける(22-27

 

次に22節から27節までをご覧ください。

「これらのことばを、主はあの山で、火と雲と暗やみの中から、あなたがたの全集会に、大きな声で告げられた。このほかのことは言われなかった。主はそれを二枚の石の板に書いて、私に授けられた。あなたがたが、暗黒の中からのその御声を聞き、またその山が火で燃えていたときに、あなたがた、すなわちあなたがたの部族のすべてのかしらたちと長老たちとは、私のもとに近寄って来た。そして言った。「私たちの神、主は、今、ご自身の栄光と偉大さとを私たちに示されました。私たちは火の中から御声を聞きました。きょう、私たちは、神が人に語られても、人が生きることができるのを見ました。今、私たちはなぜ死ななければならないのでしょうか。この大きい火が私たちをなめ尽くそうとしています。もし、この上なお私たちの神、主の声を聞くならば、私たちは死ななければなりません。いったい肉を持つ者で、私たちのように、火の中から語られる生ける神の声を聞いて、なお生きている者がありましょうか。あなたが近づいて行き、私たちの神、主が仰せになることをみな聞き、私たちの神、主があなたにお告げになることをみな、私たちに告げてくださいますように。私たちは聞いて、行ないます。」 

 

これらの戒めを、主はあのホレブの山で、火と雲と暗やみの中から、イスラエル全会衆に、大きな声で語られました。そして、それを二枚の石の板に書いて、モーセに授けられました。イスラエルの部族のすべてのかしらと長老たちとは、それを聞いてモーセのところに来て言いました。「私たちは火の中から御声を聞きました。」と。主の御声を聞いてもなお生きているとは考えられないことでしたが、彼らはそのようにして主と顔と顔とを合わせて、主の御声を聞いたにもかかわらず、滅ぼされることはありませんでした。これはすごいことです。天地万物を創造された大いなる神が、自分たちに個人的に直接、語られることなど、あまりにも信じがたいことだったのです。それで彼らは、主がモーセに告げられることばはみな聞いて、行いますと言いました。

 

28節から33節までです。

「主はあなたがたが私に話していたとき、あなたがたのことばの声を聞かれて、主は私に仰せられた。「わたしはこの民があなたに話していることばの声を聞いた。彼らの言ったことは、みな、もっともである。どうか、彼らの心がこのようであって、いつまでも、わたしを恐れ、わたしのすべての命令を守るように。そうして、彼らも、その子孫も、永久にしあわせになるように。さあ、彼らに、『あなたがたは、自分の天幕に帰りなさい。』と言え。しかし、あなたは、わたしとともにここにとどまれ。わたしは、あなたが彼らに教えるすべての命令・・おきてと定め・・を、あなたに告げよう。彼らは、わたしが与えて所有させようとしているその地で、それを行なうのだ。」あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおりに守り行ないなさい。右にも左にもそれてはならない。あなたがたの神、主が命じられたすべての道を歩まなければならない。あなたがたが生き、しあわせになり、あなたがたが所有する地で、長く生きるためである。」

 

主は、イスラエルの決意をとても喜ばれました。そして、彼らの心がいつもこのようであって、いつまでも、主を恐れ、主のすべての命令を守るように、と仰せになられました。この時だけでなく、いつもこのようであるように、いつまでもこのようであるようにというのが、主の願いだったのです。私たちはある時主の御声を聞いて「アーメン」と言って従いますが、しばらく経つとその気持ちがいつしか失せてしまい、自分の思いが優先してしまうことがあります。そうではなくて、いつも、いつまでも、主に聞き従わなければなりません。そのためにはどうしたらいいのでしょうか。主の御声を聞き続けることです。主と顔と顔とを合わせてその御声を聞き、主をおそれることが求められます。そのことによってイスラエルは主との結びつきが始まりました。個人的に語られることなしに主と関係は持つことはできないし、またイスラエルも、主を恐れおののいて、その御声に聞き従うことなくして、神との関係を保つことはできません。私たちの信仰生活の土台は、この主との生ける結びつき以外にはないのです。

 

あのザアカイもそうでした。主がエリコの町にやって来られたとき、ザアカイはいちじく桑の木に登りました。そのザアカイに向かってイエスは御顔を向け、個人的に語られました。主がホレブでイスラエルに対してなされたようにです。すると彼は、自分の財産の半分を貧しい人に渡し、だまし取った物は四倍にして返す、と言ったのです(ルカ19:1-10)。いったいなぜ彼はそのように言ったのでしょうか。それは、彼がイエスの御声を聞き、イエスの聖さにふれて、自分の汚れが明らかになり、悔い改めたからです。彼はイエスと個人的な関係を持つことができたのです。そして、このように主と個人的な関係を持つとき、私たちは変えられていきます。聖なる主にお会いすることは恐れも伴いますが、そのような個人的な主との関係が、私たちをご自身へと近づけていくのです。

 

しかしモ―セに対して主は、「あなたは、わたしとともにここにとどまれ。」と言われました。この十戒の他にもイスラエルに教えなければならない、おきてと定めとを告げるためです。そして、これらをイスラエルが所有する土地で守り行なうようにと命じなければなりません。なぜでしょうか。それは彼らが生き、しあわせになるためです。私たちは主のおきとさだめを守ることが、そこから右にも左にもそれないで、その道を歩み続けることが、私たちの幸せとなり、私たちが生きる道でもあるのです。

ヘブル4章14~16節 「私たちの大祭司イエス」

 

 きょうは、ヘブル4章14節から16節までのみことばから、「私たちの大祭司イエス」というタイトルでお話したいと思います。

 

 「大祭司」というのは私たち日本人にはあまり馴染みのない言葉ですが、旧約聖書を信じていたユダヤ人たちにはよく知られていたことでした。それは、神と人を結びつける働きをする人のこと、仲介者のことです。旧約聖書でなぜ大祭司が存在していたのかというと、罪ある人間は、そのままでは神に近づくことができなかったからです。神は聖なる、聖なる、聖なる方なので、その神に近づこうものなら、たちまちのうちに滅ぼされてしまったわけです。それで神はそういうことがないように、ご自分に近づく方法をお定めになられました。それが大祭司を建てるということだったのです。大祭司が年に一度動物をほふり、その血を携えて幕屋と呼ばれる所に入って行き、だれも近づくことができない、契約の箱が置いてある至聖所に入り、その契約の箱に動物の血をふりかけてイスラエルの民の罪の贖いをしました。それによってイスラエルの民の罪は赦され、神の前に出ることができたのです。

 

 ここでは、神の御子イエスがこの大祭司であると言われています。ここから10章の終わりまでずっとこの大祭司の話が続きます。いわばこれはこのヘブル書の中心的な内容であると言えます。いったいなぜ大祭司の話が出てくるのでしょうか。旧約聖書の時には、大祭司はアロンという人の家系から選ばれましたが、ここにはアロンではない、もっと偉大な大祭司がいて、この方によって私たちは大胆に神のみもとに出て行くことができるということを証明しようとしているのです。それが私たちの主イエス・キリストです。

この手紙はユダヤ教からキリスト教に回心した人たちに宛てて書かれました。キリスト教に回心したのはよかったけれども、それによって度重なる迫害を受けて、中には元の教え、旧約聖書の律法に逆戻りしようという人たちもいました。そこでこの手紙の著者は、旧約聖書の大祭司であるアロンとまことの大祭司であるイエスとを比較することによって、イエスがどれほど偉大な大祭司であるのかを証明し、このイエスにしっかりとどまるようにと勧めるのです。いったいイエスはどのように偉大な大祭司なのでしょうか。

 

 Ⅰ.もろもろの天を通られた大祭司(14)

 

 まず14節をご覧ください。

「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。」

 

 ここには、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、とあります。私たちの大祭司であられるイエスは、もろもろの天を通られた偉大な大祭司です。では、この「もろもろの天を通られた」とはどういう意味でしょうか。

 

ユダヤ人は、天には三つの層があると考えていました。すなわち、第一の天、第二の天、そして第三の天です。まず、第一の天というのは、私たちの肉眼で見ることができる天のことで、そこには雲あり、太陽の光が輝いています。また、鳥が飛び交っています。いわゆる大気圏と呼ばれてものです。

第二の天は、その大気圏を出た宇宙のことです。そこには太陽があり、月があり、多くの星々があります。旧約聖書に出てくるソロモン王は、壮大な神の宮を建てようとしていたとき、「天も、天の天も主をお入れできないのに、いったいだれが主のために宮を建てる力を持っているというのでしょうか。」(Ⅱ歴代誌2:6)と言いましたが、この「天の天」というのがこの第二の天のことでしょう。神が造られたすべての世界のことです。

 そして第三の天というのは、神が住んでおられる所、神の国のことです。Ⅱコリント12章2節のところでパウロは、「第三の天にまで引き上げられました」と言っていますが、それはこの神が住み給う所、天国のことでした。

 だから、ある人はもろもろの天を通られたというのは、こうした天を通られたという意味ではないかと考えているのです。

 

 しかし、ある人たちはこの天を文字通りの天のことではなく、自然界に対する超自然界のことを指しているのではないかと考えています。すなわち、悪魔の試みを含むあらゆる経験をされたということを意味ではないかというのです。それは、15節のところに、「罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」とあるからです。

 

 しかし、このもろもろの天を通られたということがどういうことであるにせよ、重要なことは、このもろもろの天を通ってどこへ行かれたのかということです。キリストはもろもろの天を通られ、神の御住まいであられる天に昇り、その右の座に着座されました。着座するというのは働きが完成したことを表しています。もう終わったのです。人類の罪に対する神の救いのみわざは、このイエスによって成し遂げられました。イエス様が私たちの罪の身代わりに十字架にかかって死なれ、三日目によみがえれ、四十日間この地上でご自身のお姿を現されて後に、天にある神の御座に着座されたことによって完成したのです。ですからもろもろの天を通られたというのは、この救いのみわざを成し遂げて神の右の座に着かれたことを表しているのです。

 

ローマ8章34節には、このようにあります。

「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」

 

主イエスは、私たちの罪の贖いを成し遂げて神の右の座に着き、そこで私たちのためにとりなしていてくださるのです。「とりなす」とは「なかだちをする」とか、「仲介する」ということですが、たとえだれかがあなたを罪に定めようとする人がいたとしても、あなたが罪に定められることが絶対にありません。なぜなら、キリストが神の右の座にいて、とりなしてくださるからです。あなたの罪の贖いは、イエス様が十字架で死んで、三日目によみがえられたことで、完全に成し遂げられたのです。

 

 でも、この地上の大祭司、アロンの家系の大祭司はどうかというと、そうではありません。ユダヤ教では今でも年に一度、大贖罪日と呼ばれる日に大祭司が動物の血を携えて聖所の中に入って行き、そこでイスラエルの罪の贖いが繰り返して行われています。それはいつまで経っても終わることがありません。永遠に繰り返されているのです。

 

 しかし、イエスによる贖いは完了しました。なぜなら、イエスはやぎや子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたからです。もう罪の贖いは必要なくなりました。主イエスの十字架の血によって、私たちと神との間を隔てていた壁は取り除かれたのです。そして、大胆に、神の御座に地区づくことができるようになりました。これはすごい恵みです。

 

マタイの福音書27章51節を見ると、イエスさまが十字架にかかって死なれ、息を引き取られたとき、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けたとありますが、それは、神と人との関係を隔てていた罪の幕が取り除かれたということです。イエスさまの血によって、イエスさまが私たちの罪に身代わりとなって十字架で死んでくださったので、その隔ての壁が完全に取り除かれたのです。ですから、このイエスさまを信じる人はだれでも、いつでも、どこでも、自由に、大胆に、神のもとに行くことができるようになったのです。これがもろもろの天を通られたという意味です。

 

 ですから、このイエスを信じる者はだれでも救われるのです。あなたがキリストを信じるなら、あなたのすべての罪は赦されます。過去に犯した罪ばかりでなく、現在の罪も、未来の罪も、すべて赦されるのです。なぜなら、聖書には「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(Ⅰヨハネ1:7)とあるからです。これはものすごい恵みではないでしょうか。

 

 先日、大久保茂美姉のバプテスマ式を行いました。いろいろな事で不安を抱え夜も眠れない苦しみの中でイエス様に助けを求めて教会に来られました。そして、キリストの罪の赦しを信じたとき、心に平安が与えられたと言います。イエス様が平安を与えてくださいました。それは罪の赦しから来る平安です。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところへ来なさい。」と言われるイエス様の招きに応答して、イエス様の十字架の贖いを信じたことで、大久保さんのすべての罪がゆるされ、神にゆだねて祈ることができるようになったのです。何という恵みでしょうか。

 

 昔、アメリカにチャールズ・フィニー(Charles Grandison Finney、1792年1875年)という伝道者がいました。彼は「最初のアメリカ人リバイバリスト」と呼ばれた人ですが、彼がある町で伝道していたとき、人相の悪い男が彼のところにやって来て、「今晩、わしの店まで来てくれ」と言ったので行ってみると、その男は突然ピストルを取り出してこう言いました。「昨晩あんたが言ったことは本当か」「どんなことを言いましたか。」と言うと、「キリストの血がすべての罪から聖めるっていうことさ。」するとフィニーは、「それは私のことばではなく、神のおことばです。本当です。」と答えると、彼は自分の身の上話を始めました。

「実は、この酒場にある秘密のギャンブル場で、おれは多くの男から最後の1ドルまでもふんだくり、ある者は自殺に追いやった。こんな男でも、神は赦してくれるのか。」

「はい、すべての罪はキリストの血によってきよめられると書いてあります。」

「ちょっと待ってくれ。通りの向こうの大きな家に、わしの妻と子供たちがいるが、わしはこの16年間全く家族を顧みず、妻をののしり続けてきた。この前は幼い娘をストーブのそばに押し倒し、大やけどを負わせてしまったんだが、こんな男でも神は赦してくれるというのか。」

 するとフィニーは立ち上がり、その男の手を握ってこう言いました。

「これまで聞いたこともないような恐ろしい話を聞きましたが、聖書には、キリストの血がすべての罪を赦し、きよめると書いてあります。」

 するとその男は、「それを聞いて安心した」と言って自分の家に帰って行きました。

 彼は自分の部屋に幼い娘を呼び寄せて、ひざの上に乗せると、「パパはおまえを、心から愛しているよ」と言いました。何事が起ったのかと部屋の中をのぞいている奥さんの頬に、涙が伝わり落ちました。彼は妻を呼んで言いました。

「昨晩、今まで聞いたことのない、すばらしい話を聞いた。キリストの血は、すべての罪からきよめると・・・」

そして彼は酒場を閉め、その町に大きな恩恵をもたらす者になったのです。

 

皆さん、すばらしい知らせではないですか。キリストの血は、どんな罪でも赦し、聖め、私たちを神と和解させてくれます。キリストの愛はどんな人でもその人を内側から変え、神の平安で満たしてくださるのです。あなたもこの平安をほしいと思いませんか。イエスさまはもろもろの天を通って神の右の座に着かれました。あなたもこのイエスを信じるなら、罪の赦しと永遠のいのちを受けることができます。イエスは、もろもろの天を通られた偉大な大祭司なのです。

 

 Ⅱ.私たちの弱さに同情してくださる大祭司(15)

 

 次に15節をご覧ください。一緒に読みましょう。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」

 

 ここには、私たちの大祭司についてもう一つのことが言われています。それは、私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではない、ということです。私たちが苦しむとき、その苦しみを十分に理解し、同情することがおできになられます。それはもう他人事ではありません。自分の痛み、自分の苦しみ、自分の悲しみとして、共に負ってくださるのです。

 

聖書に「良きサマリヤ人」の話があります。彼は、旅の途中、強盗に襲われ死にそうになっていた人を見ると、かわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋につれて行き、介抱してやりました。次の日、彼はデナリ硬貨を二つ取り出し、宿屋の主人に渡して言いました。「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」

このサマリや人はなぜこのようなことができたのでしょうか。それは、この傷つき、苦しんでいた人の隣人になったからです。彼は傷つき、苦しんでいた人を見たとき、とても他人事には思えませんでした。それを自分のことのように感じたのです。だから彼はそのような行動をとることができたのです。

 

それはイエス様も同じです。イエス様は罪によって苦しみ、傷ついている私たちを見たとき、それを自分の苦しみとして理解することができました。なぜなら、イエス様は私たちと同じような肉体を持って来られ、私たちが経験するすべての苦しみ、いやそれ以上の十字架の苦しみに会われたからです。先週はクリスマスでしたが、クリスマスのすばらしいことは、ことばが人となってくださったということです。神は高いところにいて、そこから救おうとされたのではなく、私たちと同じ姿をとって生まれてくださいました。私たちが経験するすべての苦しみを経験されたのです。

 

先日のアンビリバボーで、理由もなくたった一人の息子を殺された市瀬朝一さんという方の、人生をかけた壮絶な敵討ちが紹介されました。その敵討ちとは息子を殺した犯人を殺すことではなく、同じように家族を殺された人たちを経済的に救うべく、犯罪被害者の保障に関する法律を作るということでした。その働きは、朝市さんが過労で失明するという壮絶な戦いでしたが、奥様に助けられながら運動を続け、ついに国を動かすことに成功し、息子さんが殺されてから12年後の1977年にその法案が成立したのです。それは朝市さんが亡くなってから三日後のことでした。いったいそれほどまでに朝市さんの心を動かしたものは何だったのでしょうか。それは、朝市さんが朝市さんと同じように愛する家族を失った人たちの悲しみに触れて、経済的に困窮している人たちの現実を知ったからでした。朝市さんは自分の息子が殺されたことで、同じような苦しみにある人たちのことを十分思いやることができたのです。

 

 確かに、私たちは痛みを経験してはじめて人の痛みを理解することができます。貧しさを経験してはじめて人の貧しさを理解し、同情することができます。しかし、私たちはひとりで、すべての痛みや苦しみを経験することはできません。したがって、すべての人を理解することは不可能なのです。しかし、私たちの大祭司は、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われました。ですから、私たちの弱さを十分すぎるほど理解することができ、また同情することができるのです。そればかりではありません。私たちの大祭司は、そうした弱さや試みから助け出すことができる方です。

 

 Ⅲ.おりにかなった助けを与えてくださる大祭司(16)

 

 第三のことは、だから、大胆に恵みの御座に近づこうということです。16節をご覧ください。ご一緒に読みましょう。

「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

 

 旧約聖書の時代には、だれもが神に近づけるというわけではありませんでした。近づくことができなかたのです。神に近づこうものならば、たちまちにして滅ぼされてしまいました。神に近づくことが許されたのは神に選ばれた大祭司だけで、しかもそれは一年に一度だけのことでした。しかも大祭司にも罪があったので、彼が神の前に出る時にはまず自分自身と家族のためにいけにえをささげなければならないという、念入りさが求められました。

 

 けれども、今は違います。今は神の御子イエス・キリストが完全ないけにえとして十字架で死んでくださり、私たちのすべての罪を贖ってくださったので、大胆に神に近づくことができるようになりました。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づくことができるのです。

 

 この「大胆に」という言葉は、1955年版の口語訳聖書では「少しもはばかることなく」と訳されています。「はばかることなく」というのは「遠慮しないで」とか、「ためらわないで」ということです。遠慮しないで、ためらわないで、大胆に恵みの御座に近づこうではないかというのです。

 

 しかし、どうでしょうか。実際にははばかってしまいます。躊躇して、遠慮して、なかなか神のもとに行こうとしません。なぜでしょうか。その理由の一つは、こんな罪深い者が神のもとに近づくなんておこがましいと思っているからです。自分の罪がそんなに簡単に赦されるはずがないと思っているのです。それが悪魔、サタンの常套手段でもあります。悪魔は偽善者であり、告発者なので、絶えず私たちを訴えてきます。あなたはあんな罪、こんな罪を犯したではないか、その罪がそんなに簡単に赦されるとでも思っているのか、あなたのようなひどい人間が神様に愛される資格があるとでも思っているのか、あなたが神に祈る資格があるとでもいうのか・・。そうやって責めてくるわけです。告発者ですから。そうやって責められると、大抵の場合は、「そうだ、私の罪は大きくてそんなに簡単に赦されるはずがない」と思ってしまいます。そして、神に近づくことにブレーキをかけてしまうのです。

 

またこのような自分自身の弱さとは別に、それにつけ入るサタンの働きもあります。ちょっと前にテツ&トモという漫才コンビが歌う「なんでだろう」という歌がブームになりました。なんでブームになったのかというと、その歌に共感できる人が多いからです。確かに私たちの人生には、「なんでだろう」というようなことがよく起こるのです。その理由がわからなくて、神が信じられなくなってしまったというケースも少なくありません。要するに、そこには自分の力を超えた力が働いているのです。

 

しかし、そうした弱さや破れというものを感じながらも、なおイエスさまの恵み深さにすがりついていくことが、私たちの信仰なのです。何の闇もなく、破れもないところを行くのではなく、そうした弱さを抱えながらも、そうした愚かさを持ちながらも、そんな不十分な者として、とても信仰者だなんて思えないような者でありながらも、なおこのような者をあわれみ、恵み、おりにかなった助けを与えてくださるイエスさまにすがりつくこと、それが私たちの信仰なのです。

 

それはイエス・キリストがあの十字架で、私たちのあらゆる恐れ、あらゆる不幸、あらゆる悲しみの根源である罪と死に打ち勝ってくださったからです。そのようにして私たちと神とを結び付けてくださいました。私たちは、このような偉大な大祭司を持っているのです。それだから、私たちは自分の弱さの中に留まり続けるのではなく、そこから一歩踏み出して、神様に近づくことができるのです。苦しい時は「神様、助けてください」と叫び求めることができるのです。今も天で大祭司であられるイエス・キリストが、私たちの信仰を支え、導いておられるのです。あなたのために祈り続けておられるのです。

 

 あなたはどんなことで弱さを覚えておられますか。子どもたちのこと、夫婦のこと、人間関係のこと、仕事のこと、学校のこと、将来のこと、いろいろと思い煩うことがあると思いますが、どうかそれを自分の中にためておかないで、いつでも、どこでも、おりにかなった助けを受けるために、主イエスのもとに、その恵みの御座に近づいていこうではありませんか。

申命記4章

きょうは、申命記4章から学びます。

 

1.おきてと定めとを守らなければならない(1-8)

 

まず、1節から8節までをご覧ください。

「今、イスラエルよ。あなたがたが行なうように私の教えるおきてと定めとを聞きなさい。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたの父祖の神、主が、あなたがたに与えようとしておられる地を所有することができる。私があなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。また、減らしてはならない。私があなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令を、守らなければならない。あなたがたは、主がバアル・ペオルのことでなさったことを、その目で見た。バアル・ペオルに従った者はみな、あなたの神、主があなたのうちから根絶やしにされた。しかし、あなたがたの神、主にすがってきたあなたがたはみな、きょう、生きている。見なさい。私は、私の神、主が私に命じられたとおりに、おきてと定めとをあなたがたに教えた。あなたがたが、はいって行って、所有しようとしているその地の真中で、そのように行なうためである。これを守り行ないなさい。そうすれば、それは国々の民に、あなたがたの知恵と悟りを示すことになり、これらすべてのおきてを聞く彼らは、「この偉大な国民は、確かに知恵のある、悟りのある民だ。」と言うであろう。まことに、私たちの神、主は、私たちが呼ばわるとき、いつも、近くにおられる。このような神を持つ偉大な国民が、どこにあるだろうか。また、きょう、私があなたがたの前に与えようとしている、このみおしえのすべてのように、正しいおきてと定めとを持っている偉大な国民が、いったい、どこにあるだろう。」

 

「申命記」というタイトルの意味は、第二の律法で、神が語られたことを繰り返して述べるということでした。なぜなら、それはとても重要な内容だからです。ここでモーセは、「聞きなさい」という言葉を何度も繰り返して語り、それを強調しています。1節には、「今、イスラエルよ。あなたがたが行なうように私の教えるおきてと定めとを聞きなさい。」とあります。なぜでしょうか。なぜなら、そうすれば、彼らは生き、彼らの父祖の神、主が、彼らに与えようとしておられる地を所有することができるからです。その神の命じることばには、つけ加えてはならないし、また、減らしてはなりません。主が命じる命令を、守らなければなりません。

 

その命令を守らなかったことで起こった悲劇がここに取り上げられています。それはバアル・ペオルでの出来事です。これは民数記25章に記されてある内容ですが、イスラエルがモアブの草原に宿営していたとき、バラムの陰謀によってモアブの娘たちがそこに送り込まれると、この娘たちとみだらなことをしただけでなく、彼女たちの神々であったバアル・ペオルを慕うようになったので、主の怒りがイスラエルに対して燃やされ、それに関わった多くの者たちが殺されたのです。この神罰で死んだ者は二万四千人であったとあります(民数記25:9)。いったい何が問題だったのでしょうか。彼らが主の命令に従わなかったことです。主の命令に背いて、偶像を拝んでしまいました。それで主は彼らを根絶やしにされたのです。しかし、それはあの時だけのことではありません。その主はきょうも生きておられるのです。彼らは、これから入って行って、所有しようとしているその地で、主の命令を守り行わなければなりません。そのことで、その地の住民に、彼らの知恵と悟りを示し、これらすべてのおきてを聞く彼らが、「この偉大な国民は、確かに知恵のある、悟りのある民だ。」と言うようになるためです。

 

このようなイスラエルの偉大さは、神の二つの特質にかかっていることでした。一つは、彼らが呼ばわるとき、主は、いつも近くにおられることです。神が臨在しておられるということほど、祝福に満ちたことはありません。もう一つは正しい、おきてと定めを持っていることです。

 

これはほんとうに偉大なことではないでしょうか。私たちの主は、私たちが呼ばわるとき、いつも近くにおられる方です。主イエスはこう言われました。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)主がともにおられるということほど大きな祝福はありません。主が共におられるならば、私たちは何も恐れることがないからです。なぜなら、主は全能者であって、すべての問題に勝利してくださる方だからです。

また、このような正しいおきてと定めが与えられていることも大きな祝福です。情報過多の時代にあって多くの情報が錯そうする中で人々は何を信じたらいいかわからずに迷っています。そのような中にあって、「わたしが道であり、真理であり、いのちです。」と言って導いてくださる方がおられるということは、本当に感謝なことなのです。

 

2.十分に気をつけなさい(9-40)

 

次に9節から40節までを見ていきたいと思います。まず、14節までをご覧ください。

「ただ、あなたは、ひたすら慎み、用心深くありなさい。あなたが自分の目で見たことを忘れず、一生の間、それらがあなたの心から離れることのないようにしなさい。あなたはそれらを、あなたの子どもや孫たちに知らせなさい。あなたがホレブで、あなたの神、主の前に立った日に、主は私に仰せられた。「民をわたしのもとに集めよ。わたしは彼らにわたしのことばを聞かせよう。それによって彼らが地上に生きている日の間、わたしを恐れることを学び、また彼らがその子どもたちに教えることができるように。」そこであなたがたは近づいて来て、山のふもとに立った。山は激しく燃え立ち、火は中天に達し、雲と暗やみの暗黒とがあった。主は火の中から、あなたがたに語られた。あなたがたはことばの声を聞いたが、御姿は見なかった。御声だけであった。 主はご自分の契約をあなたがたに告げて、それを行なうように命じられた。十のことばである。主はそれを二枚の石の板に書きしるされた。主は、そのとき、あなたがたにおきてと定めとを教えるように、私に命じられた。あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地で、それらを行なうためであった。」

 

モーセは今、シナイ山において、神がみことばを与えられたときのことを思い起こさせています。それは二枚の石の板に書き記された十のことば、十戒のことです。それを一生の間心から離れないようにするばかりでなく、それらを、自分たちの子どもや孫たちに知らせるようにと言われました。それは彼らが所有しようとしている地で、それらを行うためです。

 

 次に15節から24節までをご覧ください。

「あなたがたは十分に気をつけなさい。主がホレブで火の中からあなたがたに話しかけられた日に、あなたがたは何の姿も見なかったからである。堕落して、自分たちのために、どんな形の彫像をも造らないようにしなさい。男の形も女の形も。地上のどんな家畜の形も、空を飛ぶどんな鳥の形も、地をはうどんなものの形も、地の下の水の中にいるどんな魚の形も。また、天に目を上げて、日、月、星の天の万象を見るとき、魅せられてそれらを拝み、それらに仕えないようにしなさい。それらのものは、あなたの神、主が全天下の国々の民に分け与えられたものである。主はあなたがたを取って、鉄の炉エジプトから連れ出し、今日のように、ご自分の所有の民とされた。しかし、主は、あなたがたのことで私を怒り、私はヨルダンを渡れず、またあなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる良い地にはいることができないと誓われた。私は、この地で、死ななければならない。私はヨルダンを渡ることができない。しかしあなたがたは渡って、あの良い地を所有しようとしている。気をつけて、あなたがたの神、主があなたがたと結ばれた契約を忘れることのないようにしなさい。あなたの神、主の命令にそむいて、どんな形の彫像をも造ることのないようにしなさい。あなたの神、主は焼き尽くす火、ねたむ神だからである。」(20-24)

 

ここに繰り返して「気をつけなさい」と言われています。何を、気をつけなければならないのでしょうか。偶像崇拝です。イスラエルの民にとって、そして私たちクリスチャンにとっても根本的な問題は何かというと、偶像礼拝なのです。偶像とは何でしょうか。神以外のものを神とすることです。人はそれを肩地にするのですが、それが偶像です。自分が理解できて、感じることができて、自分で考えて、満足できるものがほしい、と願うのです。それが偶像なのです。しかし、主に拠り頼むときに、私たちは自分のものを持つことができません。自分の考えではなく、神が考えておられることを受け入れなければなりません。自分が喜ぶことではなく、神が喜ぶことを選び取らなければならないのです。神を主としていくことが、私たちの務めであるからです。それゆえ、十戒の第一の戒めは何かというと、「あなたには、わたしのほかに、ほかの偶像があってはならない。」ということでした。自分のために、偶像を造ってはならないし、それらを拝んではなりません。私たちに求められていることは、神を神としていくことであり、自分の思い、自分のイメージではなく、神の命令に聞き従うことなのです。

 

 次にモーセは、偶像を造ったり、拝んだりするようなことがあった場合どうなるかについて語っています。25節から31節までです。

「あなたが子を生み、孫を得、あなたがたがその地に永住し、堕落して、何かの形に刻んだ像を造り、あなたの神、主の目の前に悪を行ない、御怒りを買うようなことがあれば、私は、きょう、あなたがたに対して、天と地とを証人に立てる。あなたがたは、ヨルダンを渡って、所有しようとしているその土地から、たちまちにして滅びうせる。そこで長く生きるどころか、すっかり根絶やしにされるだろう。主はあなたがたを国々の民の中に散らされる。しかし、ごくわずかな者たちが、主の追いやる国々の中に残される。あなたがたはそこで、人間の手で造った、見ることも、聞くこともせず、食べることも、かぐこともしない木や石の神々に仕える。そこから、あなたがたは、あなたの神、主を慕い求め、主に会う。あなたが、心を尽くし、精神を尽くして切に求めるようになるからである。あなたの苦しみのうちにあって、これらすべてのことが後の日に、あなたに臨むなら、あなたは、あなたの神、主に立ち返り、御声に聞き従うのである。あなたの神、主は、あわれみ深い神であるから、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、あなたの先祖たちに誓った契約を忘れない。」

 

どういうことでしょうか。偶像を拝むようなことがあれば、主は彼らを国々の民の中に散らされます。その土地から追いやられるのです。異邦の民の中で、異邦人と同じように生きなければならないのです。しかし、あわれみ深い主は、そこから主に立ち返るようにしてくださいます。主は決して彼らを捨てず、彼らを滅ぼさず、彼らの先祖たちに誓った契約を忘れないのです。なんとすばらしい神のあわれみでしょうか。イスラエルが偶像を拝んでも、神は彼らが立ち返るようにしてくださいます。偶像ではなく、御声を聞くことができるようにしてくださいます。30節には「後の日」とありますが、これは終わりの時のことです。イスラエルは事実、土地を離れ離散の民となりましたが、今や、約束の地に戻ってきています。神は、ご自分の立てた契約のゆえに、彼らがこの地に戻ることができるようにしてくださいます。

 

この預言のとおり、1948年5月に、全世界に離散していたユダヤ人がここに戻り、イスラエル共和国を樹立しました。二千年もの間離散としていた民が再び集まって国を再建するということは考えられません。しかし、神はそれを行ってくださいました。神はご自分の語られたことを必ず成就してくださる方であることを知ることができます。この「終わりの日」とは、まさに現代のことを指しているのです。

 

次に32節から40節までをご覧ください。

「さあ、あなたより前の過ぎ去った時代に尋ねてみるがよい。神が地上に人を造られた日からこのかた、天のこの果てからかの果てまでに、これほど偉大なことが起こったであろうか。このようなことが聞かれたであろうか。あなたのように、火の中から語られる神の声を聞いて、なお生きていた民があっただろうか。あるいは、あなたがたの神、主が、エジプトにおいてあなたの目の前で、あなたがたのためになさったように、試みと、しるしと、不思議と、戦いと、力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力とをもって、一つの国民を他の国民の中から取って、あえてご自身のものとされた神があったであろうか。あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であって、ほかには神はないことを、あなたが知るためであった。主はあなたを訓練するため、天から御声を聞かせ、地の上では、大きい火を見させた。その火の中からあなたは、みことばを聞いた。主は、あなたの先祖たちを愛して、その後の子孫を選んでおられたので、主ご自身が大いなる力をもって、あなたをエジプトから連れ出された。それはあなたよりも大きく、強い国々を、あなたの前から追い払い、あなたを彼らの地にはいらせ、これを相続地としてあなたに与えるためであった。今日のとおりである。きょう、あなたは、上は天、下は地において、主だけが神であり、ほかに神はないことを知り、心に留めなさい。きょう、私が命じておいた主のおきてと命令とを守りなさい。あなたも、あなたの後の子孫も、しあわせになり、あなたの神、主が永久にあなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生き続けるためである。」  どういうことでしょうか。モーセはここで、神がイスラエルをいかに愛しておられるのかを語っています。イスラエルはこれまで、主の偉大なみわざをずっと見てきました。それはたとえば、火の中から語られる神の声であったり、エジプトにおいて彼らのためになされた力強いみわざであったりです。いったいなぜ主は彼らのこのような偉大なみわざを見せられたのでしょうか。それは35節にあるように、主だけが神であり、他に神がないことを知るためであり、心に留めるためでした。彼らがこのことを心に留めることによって、彼らが入っていく約束の地において、彼らが長く生き続けるためだったのです。

 

 それは私たちも同じです。主は私たちの人生においても数々のみわざを成してくださいました。それはいったい何のためなのかというと、これからの歩みにおいて、主こそ神であることを知り、その神に信頼して生きるためです。それなのに、私たちは神のみわざを心に留めることをしないので、すぐに忘れてしまうので、人間的になってしまいます。神が与えてくださった地で私たちが長く生き続けるためには、私たちは主の偉大さを思い起こし、信仰によって生きなければならないのです。

 

3.これがイスラエル人の前に置かれたみことば(41-49) 「それからモーセは、ヨルダンの向こうの地に三つの町を取り分けた。東のほうである。以前から憎んでいなかった隣人を知らずに殺した殺人者が、そこへ、のがれることのできるためである。その者はこれらの町の一つにのがれて、生きのびることができる。ルベン人に属する高地の荒野にあるベツェル、ガド人に属するギルアデのラモテ、マナセ人に属するバシャンのゴランである。これはモーセがイスラエル人の前に置いたみおしえである。これはさとしとおきてと定めであって、イスラエル人がエジプトを出たとき、モーセが彼らに告げたのである。そこは、ヨルダンの向こうの地、エモリ人の王シホンの国のベテ・ペオルの前の谷であった。シホンはヘシュボンに住んでいたが、モーセとイスラエル人が、エジプトから出て来たとき、彼を打ち殺した。彼らは、シホンの国とバシャンの王オグの国とを占領した。このふたりのエモリ人の王はヨルダンの向こうの地、東のほうにいた。それはアルノン川の縁にあるアロエルからシーオン山、すなわちヘルモンまで、また、ヨルダンの向こうの地、東の、アラバの全部、ピスガの傾斜地のふもとのアラバの海までである。」

 

それからモーセは、ヨルダン川の東側に三つの町を取り分けました。

 

のがれの町とは、あやまって人を殺した者がそこに逃れることができるようにと定められた町です。この町々は、彼らが復讐する者からのがれるところで、殺人者が、さばきのために会衆の前に立つ前に、死ぬことがないようにと定められた町々です。

こののがれの町は何を表していたのかというと、キリストの贖いでした。彼らは聖なる油をそそがれた大祭司が死ぬまで、そこにいなければなりませんでした。血を流したことに対しては贖いが求められたからです。そして、大祭司の死は、その在任中に殺された被害者の血を贖うに十分なものでした。この大祭司こそイエス・キリストを示すものでした。イエス・キリストは大いなる大祭司として、永遠の御霊によって、全く汚れのないご自分を神にささげ、その死によって世の罪のためのなだめの供え物となられました。ちょうど大祭司の死によって、あやまって人を殺した者の罪の贖いがなされ、自分の所有の地に帰ることができたように、私たちの大祭司イエス・キリストの死によって、彼のもとに逃れて来たものたちが、罪によって失われた嗣業を受けるに足る者とされ、キリストが約束された永遠の住まいに帰ることができたのです。

 

こうして、主のみことばを聞くことがいかに大切であるかが語られました。これがモーセをとおしてイスラエル人の前に置かれたみおしえです。このように、主との生きた交わりは、その場の雰囲気や自分の思いや感情とは全く関係なく、ただ主の言われることを単純に聞き、それに応答していく、柔らかい心だけなのです。これが、イスラエルがヨルダン川のところまできたその旅路に現われていたことだったのです。

申命記3章

きょうは、申命記3章から学びます。

 

1.バシャンの王オグを攻め取る(1-11)

 

「私たちはバシャンへの道を上って行った。するとバシャンの王オグとそのすべての民は、エデレイで私たちを迎えて戦うために出て来た。そのとき、主は私に仰せられた。「彼を恐れてはならない。わたしは、彼と、そのすべての民と、その地とを、あなたの手に渡している。あなたはヘシュボンに住んでいたエモリ人の王シホンにしたように、彼にしなければならない。」こうして私たちの神、主は、バシャンの王オグとそのすべての民をも、私たちの手に渡されたので、私たちはこれを打ち殺して、ひとりの生存者をも残さなかった。そのとき、私たちは彼の町々をことごとく攻め取った。私たちが取らなかった町は一つもなかった。取った町は六十、アルゴブの全地域であって、バシャンのオグの王国であった。これらはみな、高い城壁と門とかんぬきのある要害の町々であった。このほかに、城壁のない町々が非常に多くあった。私たちはヘシュボンの王シホンにしたように、これらを聖絶した。そのすべての町々・・男、女および子ども・・を聖絶した。ただし、すべての家畜と、私たちが取った町々で略奪した物とは私たちのものとした。このようにして、そのとき、私たちは、ふたりのエモリ人の王の手から、ヨルダンの向こうの地を、アルノン川からヘルモン山まで取った。」

ヘシュボンの王シホンに勝利しその地を聖絶したイスラエルはさらに北上し、バシャンへの道を上って行きました。バシャンの地は、ガリラヤ湖の北東地域、つまりゴラン高原のことです。するとバシャンの王オグとそのすべての民は、エデレイで戦うために出て来たので、そこで一戦を交えます。

そのとき、主はモーセに仰せられました。「彼を恐れてはならない。わたしは、彼と、そのすべての民と、その地とを、あなたの手に渡している。あなたはヘシュボンに住んでいたエモリ人の王シホンにしたように、彼にしなければならない。」

こうして主は、バシャンの王オグとそのすべての民をイスラエルの手に渡されたので、イスラエルはこれを打ち殺して、ひとりの生存者をも残しませんでした。そのとき、イスラエルは彼の町々をことごとく攻め取り、彼らが取らなかった町は一つもありませんでした。取った町は六十、アルゴブの全地域であって、バシャンのオグの王国でした。イスラエルは、ヘシュボンの王シホンにしたように、これらすべての町々、男、女および子どもを聖絶したのです。こうして、彼らは、ふたりのエモリ人の王の手から、ヨルダンの向こうの地を、アルノン川からヘルモン山まで取ったのです。  ここに、バシャンの王オグがどれほど巨人であったかが記録されています。まず「バシャンの王オグだけが、レファイムの生存者として残っていた。」とあります。「レファイム」とは「巨人」という意味です。彼がどれほど巨人であったかは、彼の寝台を見ればわかります。この「寝台」がベッドのことなのか、棺を指しているのかはっきりわかりませんが、いずれにせよ、彼の寝台は鉄製で、そのサイズは長さ9キュビト、幅4キュビトでした。1キュビトは約44cmですから、長さは約4m、幅は約1.7mとなります。そんなに大きなベッドに寝ていました。それほど大きかったのです。そんな大きな相手を倒すことができたのです。どうしてでしょうか。主が共におられたからです。敵がどれほど大きなものでも、私たちの主は全能なる方です。主にとって不可能なことは一つもありません。主が「恐れてはならない」、「その地を渡している」、「戦え」と言われるなら、そのみことばに従わなければなりません。そうすれば、必ず主が敵を打ち破ってくださいます。

 

2.この地の分割(12-22)

 

「この地を、私たちは、そのとき、占領した。アルノン川のほとりのアロエルの一部と、ギルアデの山地の半分と、その町々とを私はルベン人とガド人とに与えた。ギルアデの残りと、オグの王国であったバシャンの全土とは、マナセの半部族に与えた。それはアルゴブの全地域で、そのバシャンの全土はレファイムの国と呼ばれている。マナセの子ヤイルは、ゲシュル人とマアカ人との境界までのアルゴブの全地域を取り、自分の名にちなんで、バシャンをハボテ・ヤイルと名づけて、今日に至っている。マキルには私はギルアデを与えた。 ルベン人とガド人には、ギルアデからアルノン川の、国境にあたる川の真中まで、またアモン人の国境ヤボク川までを与えた。またアラバをも与えた。それはヨルダンを境界として、キネレテからアラバの海、すなわち、東のほうのピスガの傾斜地のふもとにある塩の海までであった。 私はそのとき、あなたがたに命じて言った。「あなたがたの神、主は、あなたがたがこの地を所有するように、あなたがたに与えられた。しかし、勇士たちはみな武装して、同族、イスラエル人の先に立って渡って行かなければならない。ただし、あなたがたの妻と子どもと家畜は、私が与えた町々にとどまっていてもよい。私はあなたがたが家畜を多く持っているのを知っている。主があなたがたと同じように、あなたがたの同族に安住の地を与え、彼らもまた、ヨルダンの向こうで、あなたがたの神、主が与えようとしておられる地を所有するようになったなら、そのとき、あなたがたは、おのおの私が与えた自分の所有地に帰ることができる。」 私は、そのとき、ヨシュアに命じて言った。「あなたは、あなたがたの神、主が、これらふたりの王になさったすべてのことをその目で見た。主はあなたがたがこれから渡って行くすべての国々にも、同じようにされる。彼らを恐れてはならない。あなたがたのために戦われるのはあなたがたの神、主であるからだ。」

 

モーセは占領した地、すなわち、ヨルダン川の東側の地を、ルベン人とガド人、そしてマナセの半部族とに与えました。それは、彼らがモーセにその地を割り当ててほしいと願い出たからです(民数記32章)。その地は家畜に適した地だったので、家畜を多く所有していた彼らは、何とかその地を自分たちの所有の地として与えてほしかったのです。しかし、それは神のみこころではありませんでした。神のみこころは、ヨルダンの西側のカナンの地を占領することでした。そのようにしてその地にとどまることは神のみこころではないだけでなく、そうした彼らの行為はイスラエル人の意気をくじくもので、かつて彼らがカデシュ・バルネアで失敗を繰り返すことでした。

そこでモーセは、彼らがイスラエル人の先に立って渡って行き、主が与えようとしておられる地を占領し、その地を所有するようになったら、モーセが与えたその地を所有することができると言いました。

 

これはどういうことなのでしょうか。神は決して強要されることはしないということです。彼らが行きたくないというのなら、行かなくても構わないのです。信仰生活において神を知ることや、神に仕えること、聖書を学ぶこと、教会で奉仕すること、そういった霊的なことにおいてそれ以上求めなければ、それ以上はお求めにならないのです。あなたがもっと先へ行きたい、もっと深く知りたい、もっと主に仕えたいと願わない限り、神はあなたを強要して先へ向かわせるようなことはしないのです。あなたが望まない限りは一歩もあなたを強制的に前へ進ませることはなさらないのです。逆に言うなら、望みさえすれば、いくらでもあなたを先へ進ませてくださるということです。もっと豊かな土地へ、もっと祝福の人生へと進ませてくださるのです。マタイの福音書7章7節に、「求めなさい。そうすれば、与えられます。」とあるように、求めなければ、与えられることはないのです。そこで止まってしまのです。ただ兄弟姉妹が戦っているのを見て、傍観していてはなりません。サポートすべき時はサポートし、それは祈りをし、物質的な援助をもって、最前線で戦っている人たちをサポートしなければなりません。それが神の望まれていることなのです。

 

またモーセは、ヨシュアに対しても、彼を励ますことを忘れませんでした。モーセは彼に、主がこれらふたりの王になさったすべてのことを、これからわたって行くすべての国々にも同じようにされると宣言し、彼らを恐れてはならない、と命じました。

 

3.モーセの祈り(23-29)

 

「私は、そのとき、主に懇願して言った。「神、主よ。あなたの偉大さと、あなたの力強い御手とを、あなたはこのしもべに示し始められました。あなたのわざ、あなたの力あるわざのようなことのできる神が、天、あるいは地にあるでしょうか。どうか、私に、渡って行って、ヨルダンの向こうにある良い地、あの良い山地、およびレバノンを見させてください。」 しかし主は、あなたがたのために私を怒り、私の願いを聞き入れてくださらなかった。そして主は私に言われた。「もう十分だ。このことについては、もう二度とわたしに言ってはならない。ピスガの頂に登って、目を上げて西、北、南、東を見よ。あなたのその目でよく見よ。あなたはこのヨルダンを渡ることができないからだ。ヨシュアに命じ、彼を力づけ、彼を励ませ。彼はこの民の先に立って渡って行き、あなたの見るあの地を彼らに受け継がせるであろう。」こうして私たちはベテ・ペオルの近くの谷にとどまっていた。」

 

 そのときモーセは主に懇願して言いました。モーセがヨルダン川を渡って行って、ヨルダンの向こうにある良い地を見させてください、と。モーセはなぜこのようなことを懇願したのでしょうか。それは彼もぜひとも見たかったからでしょう。そこでイスラエルを励まし、彼らがしっかりと神にとどまるように導きたかったのだと思います。

 

 しかし主の答えはノーでした。主はモーセに怒り、彼の願いを聞き入れてくださいませんでした。なぜでしょうか。神の命令に従わなかったからです。岩を一度だけ打つように命じられていたのに、イスラエルの民に対する怒りと憤りを抑えることができず、二度も打ってしまいました。モーセは偉大な指導者でしたが、彼にも弱さがありました。彼は自分の感情に従ってブチ切れてしまったのです。それで彼も約束の地に入ることはできないと告げられたのです。

 

そして主はモーセに言われた。「もう十分だ。このことについては、もう二度とわたしに言ってはならない。ピスガの頂に登って、目を上げて西、北、南、東を見よ。あなたのその目でよく見よ。あなたはこのヨルダンを渡ることができないからだ。ヨシュアに命じ、彼を力づけ、彼を励ませ。彼はこの民の先に立って渡って行き、あなたの見るあの地を彼らに受け継がせるであろう。」

 

どういうことでしょうか。ここに二つの霊的真理が教えられています。一つは、イスラエルの民を約束の地に導いたのはモーセではなくヨシュアであったということです。ヨシュアという名前は「主は救い」です。ギリシャではイエスです。つまり、イスラエルを約束の地に導くことができるのは律法ではなく、イエス・キリストであるということです。モーセは律法を表していましたが、イスラエルを約束の地に導くことができたのは律法ではなく神の救い、イエス・キリストでした。確かに律法にも大切な役割がありました。それは神の下へと導く養育係りであるということです。律法を守ろうとすればするほど守れない自分に気付き、神の救いを求めるようになります。まさに律法はそのために与えられたものであって、律法そのものが人を救うことはできないのです。

 

もう一つのことは、確かにモーセは約束の地に入ることはできませんでしたが、そんなモーセに神様はビジョンを与えてくださったことです。モーセが主に、あの良い地を見させてくださいと懇願すると、主は怒って、それを聞き入れてくださいませんでした。しかし、主は彼をピスガの頂に立たせて、こう言われました。「目を上げて西、北、南、東を見よ。あなたのその目でよく見よ。あなたはこのヨルダンを渡ることができないからだ。」

このことはモーセにとってどれほど大きな慰めであったことでしょう。そのことによって彼はその地がどういうところかを知ることができました。また、自分が導いてきたイスラエルがそこに入って行くこともイメージすることができたでしょう。それまでは、その地に入って行くことができないという主のことばにただがっかりして、ただ後悔していただけでした。自分のミスによることだけど、自分が蒔いた種だから仕方ないけど、本当に残念だ。しかし、神はそのモーセをあわれみ、励まし、このビジョンを与えてくだせさったのです。それでモーセは励ましを受けることができました。

 

私たちも自分の失敗に悩み、落ち込むことがあります。どうしてあの時あんなことをしてしまったのだろう、神のみことばに従っていればこんなことにはならなかった、自分が思い描いた人生ではなかった、やりたいこと、願っていたことができなかった、自分のプランがすべて水泡に帰してしまった、目の前の扉がすべて閉ざされてしまったと、落ち込むことがあります。しかし、あなたがピスガの頂に登り、そこで主と交わり、主からビジョンを見せていただくなら、あなたも励ましと、慰めと、希望を持つことができるのです。

 

箴言29章18節には、「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。しかし律法を守る者は幸いである。」とあります。

幻がなければ、私たちはほしいままにふるまってしまいます。つまり、滅びてしまうことになります。自分の罪を悲しみ、落ち込んでいるとき、その救いを見て、その方から幻が与えられることによって、あなたは勇気を持つことができるのです。励ましを受けることができます。それがピスガの頂での体験です。神は過去のことで悩み、苦しみ、落ち込んでいるあなたにみことばを与え、ビジョンを示し、喜びと平安と希望を与えてくださるのです。ヨルダン川を渡ることはできませんでしたが、それよりももっとすばらしいかの地へと導いてくださるのです。

 

 ところで、モーセは約束の地に入ることができませんでしたが、彼は天国に入ることができたのでしょうか。マタイの福音書17章を見ると、イエスがペテロとヨハネとヤコブの3人の弟子を連れて非常に高い山に行ったとき、そこで御姿が変わったという出来事がありました。御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなりました。これは神としてのキリストの姿です。キリストが本来どのような方であられるのかを、この時彼らに示されたのです。そして、この時モーセとエリヤが現れて何やらイエスと話し合っていたとあります。それはまさに天国の光景でした。ですから、モーセは天国に入れられていたのです。彼の肉体はヨルダン川の手前で滅びましたが、彼の霊は天の御国に入れられたのです。モーセが見たビジョンは、まさにこの天国のビジョンだったのです。

 

 それと同じように、私たちもこの地上はいろいろな失敗があり、神のみこころを損ねて、約束の地に入れないことがあり、そのことで非常に落ち込むことがあるのですが、神はあなたをピスガの頂に立たせ、このビジョンを示されるとき、あなたは慰めと励ましと希望を持つことができるのです。もう過去に縛られることはありません。神はあなたを招いてピスガの頂に立たせてくださいます。そこで喜び、平安、希望が与えられます。あなたはやがてその地に入れられるからです。

 

そして、このピスガの頂はどこにでもあります。神が落ち込んでいるあなたに声をかけてくださるところ、それがピスガの頂なのです。そこであなたは神の声を聞くとこができるのです。落ち込んでいる心に語りかけてくださいます。そのときあなたは本当の励ましを体験することができるのです。神はあなたにも「ここに来なさい、ここに上りなさい」と招いておられます。それは、ある人にとっては静かな人気のない所かもしれません。ある人は自分の部屋に、ひとりだけになっている時かもしれません。ある人は車の中かもしれません。ある人はトイレの中かもしれません。いずれにせよ、静かなところで神様と1対1になって、神の声を聞くところ、それがあなたにとってのピスガの頂です。神様があなたに何かを必ず示してくださいます。これから先どういう展開になるのかを。そしてあなたは励まされるはずです。ですから、あなたもピスガの頂に登り、そこで神の声を聞いてください。神が与えてくださる約束の地を見てください。そこで神と語らい、神からの励ましを受けて、神のビジョンに向かって一歩を踏み出していただきたいと思います。

ヘブル4章1~13節 「神の安息は残されている」

 きょうは、ヘブル4章のみことばから、「神の安息は残されている」というタイトルでお話します。 

 現代は忙しさと不安の時代です。「忙しいですか」という言葉が挨拶になっているくらいです。もしも「いや、そんなに忙しくもないですよ」と答えようものなら、「この人は何をしているのだろう」という目で見られ、落ちこぼれではないかと思われかねません。しかし、「忙しい」という字は「心が亡びる」と書くように、それは滅びへの道を邁進しているとも限らないのです。もちろん、毎日忙しい生活を送りながらも充実した日々を送っている人もいますが、そうした忙しさの陰にあって、心のどこかで不安を隠すことができないというのも事実です。こんなに一生懸命に仕事をしているのにリストラにされたらどうしよう。その先どうやって生活していったらいいのか。家族はどうなってしまうのだろう。リストラに遭わなくても病気になって働けなくなるかもしれないし、そしたら自分はどうなってしまうのだろうか、といった不安もあります。要するに現代は先が見えない時代なのです。だからみんな不安を感じているのです。このような忙しさと不安の時代にあっても、身も心も休まるような安息が与えられるとしたらどんなに幸いなことでしょうか。きょうは、この安息について三つのことをお話したいと思います。 

 Ⅰ.聞いたみことばを、信仰によって、結びつける(1-3a) 

 まず1節から3節までをご覧ください。1節には、「こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。」とあります。 

 「こういうわけで」とは、どういうわけで、でしょうか。これは3章の後半で語られていたことを受けてのことです。そこには、荒野でのイスラエルの不信仰について語られていました。彼らは何度も何度も神のみわざを見て、神の恵みを体験したにもかかわらず、ちょっとでも自分たちの状況が悪くなると、すぐにモーセにつぶやきました。その結果、カデシュ・バルネアというところで決定的なことが起こりました。それは3節にあるように、神が彼らに、「決してわたしの安息に入らせない。」と言われたのです。それは、彼らが神を信じなかったからです。神は彼らに、「上って行って、占領せよ。」と命じられたのに、それに従いませんでした。その地を偵察するために12人の偵察隊を遣わすと、その内の10人が否定的な報告をもたらしました。それを聞いた彼らは、上って行くことはできないと結論してモーセにつぶやいたのです。それで神は怒られ、「彼らの先祖たちに誓った地を見ることはできない」と宣言されたのです。その結果、彼らは荒野で滅びてしまいました。約束の地に入ることができなかったのです。ただ最後まで従い通したヨシュアとカレブだけが入ることができました「そういうわけで」です。

そういうわけで、神の安息はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないことがないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか、というのです。どういうことでしょうか。ここでこの手紙の著者は、モーセの時代のイスラエルの不信仰を例に取り上げて、キリストによって成し遂げられた救いのみわざを信じないで真の安息に入れないというようなことがないように、この救いのみわざにしっかりとどまろうと勧めているのです。 

ご存知のように、この手紙はユダヤ人クリスチャンに宛てて書かれました。彼らの中には激しい迫害のゆえにモーセの律法を中心としたかつての生活に逆戻りしようとする人たちがいました。しかし、モーセの時代でも不信仰によって神が約束してくださった安息に入ることができなかったのであれば、ましてやモーセよりも偉大なイエス・キリストによってもたらされた救いのみわざを信じなければ真の安息に入ることはできないのだから、万が一にもそういうことがないように、この救いのみわざにしっかりとどまろうと励ましているのです。すなわち、モーセの時代の神の安息の話から、キリストによってもたらされた真の安息の話へと話題を展開しているのです。皆さん、いったいどこに本当の安息があるのでしょうか。イエスはこう言われました。 

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

 本当の安息はイエス・キリストにあります。あなたがキリストのもとに行くなら、あなたはたましいにやすらぎを得ることができます。なぜなら、あなたの罪が赦されるからです。罪が赦されると神との平和が回復するので、あなたの心の深い部分に神の平安がもたらされるのです。これが真の安息です。私たちは肉体が疲れたら休まなければなりません。休まないで働き続けるとどうなりますか。必ずガタがきます。知らず知らずのうちに疲れが蓄積されて身体に変調をきたすようになるのです。だから疲れたら休まなければなりません。それは私たちの心も同じです。私たちの心にも休息が必要なのです。いったいどこで休息を得ることができるのでしょうか。心が疲れているとき、どんなにリポビタンDを飲んでも解決にはなりません。心が疲れたときはキリストのもとに行かなければなりません。キリストのもとに行くならたましいにやすらぎを得ることができます。それはこの地上の表面的で一時的なやすらぎとは違います。世の波風が吹き荒れても決して動じない天国の安息です。私たちはこの地上でその前味を味わう時がありますが、やがて天に行く時その完全な安息を味わうことでしょう。この安息があなたのためにまだ残されているのですから、万が一にもこれに入れないことがないように注意しなければなりません。 

 ではどうしたらこの安息に入ることができるのでしょうか。2節と3節前半をご覧ください。

「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。「信じた私たちは安息にはいるのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。」 

「福音」とは「良い知らせ」のことです。モーセの時代の良き知らせとは何だったのでしょうか。それは、神の約束の地に入ることでした。彼らはそれまでずっとエジプトの奴隷でしたが、そこから解放されて乳と蜜の流れる地へ入れられるとの約束が与えられました。それが彼らにとっての良い知らせだったのです。それと同じように、私たちも良い知らせを聞きました。どんな知らせですか。神の御子イエス・キリストの十字架の贖いによって罪の奴隷から解放され、天の御国に入れていただけるという知らせです。私たちが何かをしたからでなく、またできるからというわけでもなく、何もできない私たちを神は愛して下さり、私たちのために御子イエス・キリストをこの世に遣わし、この方が私の罪のために死んでくださり三日目によみがえられたことによって、その名を信じる者に罪の赦しと永遠のいのちが与えられるという知らせです。これはグッド・ニュースではないでしょうか。 

けれども、どんなに良い知らせを聞いても、その聞いたことばを、信仰によって結びつけることがなければ全く無意味です。モーセの時代のイスラエルの人々はそうでした。彼らはエジプトから救われて神が約束した地に導いてくださるということばを聞いたのに、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。なぜ?それを聞いた人たちに、信仰によって、結び付けられなかったからです。 

皆さん、神のみことばを聞くことは大切なことですが、聞いても信じなければ意味がありません。イエスは種まきのたとえ話の中でこう教えられました。

「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。 蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。 しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。 また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。 別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。耳のある者は聞きなさい。」(マタイ13:3~9) 

 種とは、神のことばのことです。農夫が種を蒔いたら四つの地に落ちました。道ばた、岩地、いばら、良い地です。道ばたに落ちた種はどうなったでしょうか。鳥が来て食べてしまいました。それはみことばを聞くとすぐにサタンがやって来てみことばを奪って行くので、実を結ぶことができない人のことです。                                        岩地に落ちた種はどうなったでしょうか。岩地に落ちた種は、土が柔らかく温かかったのですぐに芽を出しましたが、日が上ると焼けて、すぐに枯れてしまいました。根がなかったからです。これは、みことばを聞くとすぐに喜んで受け入れますが、根を張っていないので、しばらくの間そうしているだけで、困難や迫害があるとすぐにつまずいてしまい、実を結ぶことができない人のことです。   いばらの中に蒔かれた種はどうなったでしょうか。いばらが伸びて、ふさいでしまうので、実を結ぶことができませんでした。これはみことばを聞いて成長しますが、この世の心遣いや富の惑わしといったものでみことばが塞がれるため実を結ぶことができない人のことです。いい線までは行くのですが、そうしたいばらによって首が絞められるため実を結ぶことができないのです。          しかし、良い地に蒔かれた種は、30倍、60倍、100倍の実を結びました。これは、神のみことばを聞いて、それを悟人のことです。すなわち、神のことばを聞いて、それを信仰によって、結び付ける人のことです。そういう人は何倍もの実を結ぶのです。 

三恵(さんね)という言葉があります。聞恵(もんえ)、思恵(しえ)、そして修恵(しゅえ)です。聞恵(もんえ)とは、見たり、聞いたりするだけの知恵(知識・情報)です。思恵(しえ)とは、その見たり、聞いたりしたことを心の中で思い巡らし、「ああ、わかった」と悟ることです。でも、まだ体で受け取るまでにはいっていません。そして、修恵(しゅえ)とは、見たこと、聞いたことを思い巡らして悟り、その学んだことを実際の生活の中に生かしていくことです。神の言葉を信仰によって結びつけるとは、神の言葉をただ聞くだけでなく、また、そのことを思い巡らすだけでもなく、それをしっかりと心に結び付け実際の生活に生かす。      信仰の実を結ぶ原則は実にシンプルです。すなわち、神のみことばを聞き、それを心に結び付けることです。みことばを聞いて信じるなら実を結びますが、聞いても信じなければ、実を結ぶことはできません。実に単純なことです。 

 あるひとりの少女が言いました。「あたし、天国に行くとき、あたしの聖書を持っていくわ」。「どうしてなの」と尋ねると、その少女はこう答えました。「もしイエスさまが、あたしにどうして天国なんかに来たかって言ったら、マタイの福音書11章を開いて、「だって、わたしのところに来なさいとおっしゃったではありませんか」と言うのよ。」                    なんと単純な信仰でしょう。信じた私たちは安息に入るのです。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。」と言われる主のことばを信じて、単純に罪を悔い改め、イエスさまのもとに行こうではありませんか。 

 Ⅱ.神の安息はまだ残されている(3b~10) 

 次に、3節後半から10節までをご覧ください。

「みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と言われました。そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と言われたのです。こういうわけで、その安息にはいる人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえにはいれなかったのですから、神は再びある日を「きょう。」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。」

これはどういうことでしょうか。3節と4節の、「みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。というのは、神は七日目について、ある箇所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた」と言われました。」というのは、創世記2章2節のみことばからの引用です。神はこの天地万物を造られたとき六日間で造られ、七日目には、なさっていたすべてのわざを休まれました。この「休まれた」というのは、すべてが完成したとか、終わったという意味です。私たちは六日間働くと疲れて七日目に休みますが、神は私たちのように疲れることはありません。ですから、そういう意味で休まれたのではないのです。六日間ですべてのものを造られ、完成したという意味です。もう何も付け加えるものはありません。人が住むための最高の環境が備えられたので、「それは非常に良かった」と言われたのです。満足されたわけです。ところが、その満足が破壊される出来事が起こりました。それは人間の罪です。神が、食べてはならないと命じられていた木から取って食べてしまったので、その神との平和が断たれてしまったのです。断絶したのです。                                                        しかし、それでも神はあきらめませんでした。神はあわれみ深い方なので、その壊れた関係を修復し本来の関係に回復しようと、救い主をお遣わしになったのですが、それが主イエス・キリストです。イエス・キリストは私たちを罪から救うために十字架にかかって死なれ、三日目によみがえってくださいました。それによって私たちの罪の贖いを完成してくださったのです。それでイエス・キリストを信じる者には、元々あった神との平和な関係、神の安息、永遠のいのちが与えられるようになりました。ですから、イエスは十字架の上でこのように叫ばれたのです。                                             「完了した」(ヨハネ19:30)                                            罪のための贖いは完了しました。これに付け加えるものは何もありません。イエスがあなたの罪のために十字架にかかって死んでくださったので、あなたが罪のために支払わなければならない代価はすべて完全に支払われました。あなたはこのイエスによって罪から解放されたのです。                                                     この罪の赦し、永遠のいのち、天の御国の安息に入るために、旧約聖書ではそのひな型を示し、神を信じるようにとずっと勧められてきましたが、その一つが神の約束の地カナンであり、神殿の至聖所であったわけです。                    それらはこのキリストによる神の安息、天国のひな型だったのです。 

 しかし、モーセの時代、イスラエルは不信仰だったので、この安息に入ることができませんでした。それが5節と6節に書かれてあることです。モーセの時代、彼らは不信仰だったので、神は、「決して彼らをわたしの安息に入らせない」と言われたのです。そして、「その安息に入る人々がまだ残っており」とも言われました。これはどういうことかというと、この安息がまだ残されているということです。もしモーセの時代に安息が終わっていたのであれば、「決して彼らをわたしの安息に入らせない」とか、「その安息に入る人々がまだ残っている」とは言わなかったでしょう。神の創造のわざは完成しましたが、罪によって失われた安息を回復することができるように、神は今もその働きを続けておられるということなのです。 

 それは7節を見てもわかります。ここにはモーセの時代よりもずっと後のダビデの時代のことが言及されています。神はダビデを通しても、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない」と言われました。それは、ダビデの時代にも安息に入る人たちが残っていたということです。つまり、モーセの時代も、ダビデの時代にも、神はご自分の安息の中に人々を入れるように招き続けておられたということなのです。つまり、神の安息はまだ残されているということです。その安息こそキリストによってもたらされた神の国、永遠のいのちのことだったのです。 

神の創造のわざは終わっていますが、神の安息はまだ残されています。最初の人が罪を犯したことで神との関係が損なわれてしまいましたが、神はその壊れた関係を修復し、私たちがこの安息に入るようにと今に至るまでずっと働いておられるのです。この安息はあなたのために、神の民のためにまだ残っているのです。いったいどうしたらこの安息に入ることができるのでしょうか。 

 Ⅲ.神のみことばには力がある(11-13) 

ですから、最後に11節から13節までをご一緒に読みたいと思います。

「ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」 

 ですから、この手紙の著者はこう勧めるのです。「ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。」

ここには、「この安息に入るように力を尽くして努め・・・」とありますが、休息と努力とは全く反対のように思えます。しかし、真の安息とは、何もしないで手ぶらで遊んでいて与えられるものでありません。むしろ、すべてを造られ、すべてを支配しておられる神を知り、その神が遣わされた救い主を信じ、その中にしっかりととどまっていることによってこそ得られるものなのです。この手紙の受取人であったユダヤ人クリスチャンたちは、さまざまな教えの波にもて遊ばれて、中にはキリストの福音から離れて行く人たちもいました。それでは神の安息に入ることはできません。神の安息に入るためには、聞いたみことばにしっかりととどまっていなければならないのです。あのイスラエルの不従順のように、落伍する者がないように、力を尽くして努力しなければならないのです。 

それは私たちも同じです。私たちも聞いたみことばを受け入れて、それを心に結び付け、しっかりとそこにとどまっていなければなりません。私たちは時々、もっと努力をしなければ救われないのではないかと焦ることがあります。神のためにもっと奉仕をしなければならないのではないか、もっと献金をしなければならないのではないかといった思いにかられることがありますが、そうした人間の努力によっては救われることはありません。私たちが救われるのはただ神の恵みによるのであって、神がしてくださった十字架のみわざを信じることによってのみなのです。私たちが良いことをするのは救われるためではなく、救われたからです。神がこんな者をも愛して救ってくださったので、その恵みに応答したいからであって、そうでないとだんだんと疲れてくるのです。私たちはいつもいろいろな教えを聞きますが、そうした教えに押し流されないように、しっかりと神の恵みに、信仰にとどまっていなければなりません。 

その恵みにとどまらせるものは何でしょうか。この安息に入るために、信仰にとどまらせてくれるものは何でしょうか。それが神のみことばです。なぜなら、神のみことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができるからです。神は造られたすべてのものを完全にご存知であられ、心の奥底まで探り極められる方です。神はみことばによって私たちの心を探り、なにが良いことで完全なものであるかを示してくださるのです。 

この神のみことばがあなたを救います。このみことばが聖霊を通してあなたに働かれるとき、あなたは罪について、さばきについて、救いについて悟り、イエス・キリストを救い主として信じることができるようになるのです。なぜなら、聖霊によらなければ、だれもイエスを主と告白することはできないからです。 

「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(Ⅰコリント1:18)

この十字架の神のことばは、私たちに永遠のいのち、神の安息へと導いてくれます。私たちの人生の良し悪しを最終的に決めるものは何ですか。それは私たちの将来がどうであるかということです。今がどんなに良くても将来が永遠の滅びであったとしたら、何の意味もありません。しかし、キリストの福音は、あなたに輝かしい将来を約束しています。それは永遠のいのちです。福音は私たちに現在の救いを与えるばかりではなく、永遠のいのちを与えてくれるのです。 

ある船頭さんがひとりの物知り博士を乗せて、夜、小さな船で海を渡っていました。しばらくして、その物知り博士が船頭に言いました。                                                         「きみ、きみは天文学のことを知っているかね?」                                      「いや先生、私はいっこうに天文学のことは知りません」船頭がそう答えると、                                                      「きみ、あのね、太陽系以外で一番近い星でも地球からは6兆マイルも離れているんだよ。きみ、天文学のことを知らなければ人生を半分知らないと言ってもいいよ」                                                   しばらくするとまた、その物知り博士は船頭に言いました。                                         「きみ、きみはいつでも海の上を渡っているけれども、この海のことを知っているかね?」                                船頭が「あまり専門的なことはしりません」と答えると、                                        「きみ、海のことを知らないようでは人生の半分は知らないんだよ、いまに人間はこの海の水からエネルギーを取るようになる」  などといろいろなことを偉そうに言っていました。                                         ところが、急に突風がやって来て、船の中に水が入り始めました。                                       そのとき船頭は、「先生、あなたは泳ぎを知っていますか?」と言うと、                                その物知り博士は、「いや、私は泳ぎを知らない」と答えました。するとその船頭が言いました。                             「先生、天文学を知っていても海洋学を知っていても、泳げなければオダブツですね。」

皆さん、私たちにどんなに知識があり、どんなに文化的な生活をしていても、私たちが永遠のいのちを持っていなければ、永遠の世界において生きるということを知っていなければ、ほんとうにオダブツなのですそのことを私たちに教えてくれるのが神のことばです。十字架のことばは滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です。

どうかこの神のことばを知ってください。神のことばを聞いて、幼子のように素直に信じてください。そうすれば、あなたはキリストにある永遠のいのちを得ることができるのです。神の安息はあなたのためにまだ残されているのです。この安息に入れるように、あなたもイエス・キリストを信じて救われてください。

申命記2章

きょうは、申命記2章から学びます。まず1節から8節までをご覧ください。 

Ⅰ.エサウの子孫に戦いをしかけてはならない(1-8) 

「それから、私たちは向きを変え、主が私に告げられたように、葦の海への道を荒野に向かって旅立って、その後、長らくセイル山のまわりを回っていた。主は私にこう仰せられた。「あなたがたは長らくこの山のまわりを回っていたが、北のほうに向かって行け。民に命じてこう言え。あなたがたは、セイルに住んでいるエサウの子孫、あなたがたの同族の領土内を通ろうとしている。彼らはあなたがたを恐れるであろう。あなたがたは、十分に注意せよ。 彼らに争いをしかけてはならない。わたしは彼らの地を、足の裏で踏むほども、あなたがたには与えない。わたしはエサウにセイル山を彼の所有地として与えたからである。食物は、彼らから金で買って食べ、水もまた、彼らから金で買って飲まなければならない。事実、あなたの神、主は、あなたのしたすべてのことを祝福し、あなたの、この広大な荒野の旅を見守ってくださったのだ。あなたの神、主は、この四十年の間あなたとともにおられ、あなたは、何一つ欠けたものはなかった。」それで私たちは、セイルに住むエサウの子孫である私たちの同族から離れ、アラバへの道から離れ、エラテからも、またエツヨン・ゲベルからも離れて進んで行った。そして、私たちはモアブの荒野への道を進んで行った。」 

カデシュ・バルネアでの出来事によって約束の地に入れないと宣告されたイスラエルの民は、再び荒野を放浪することになりました。セイル山の回りというのは死海とアカバ湾の間の地域のことです。彼らはそこをグルグルと38年間も回っていたのです。その時主は彼らに、「北のほうに向かって行け。」と仰せになられました。そこはエサウの子孫エドム人が住んでいた所ですが、彼らに争いをしかけてはならない、と命じられたのです。なぜでしょうか。それは、主がエサウにセイル山を彼の所有地として与えたからです。エサウはイスラエルの先祖アブラハムの子イサクの双子の兄弟で、彼らにとっては親戚にあたる民族です。神はヤコブを選ばれ、彼をイスラエルと改名して、彼から12の部族が誕生しました。それがイスラエルの起源です。けれども、エサウにも彼が所有する地を与えておられたのです。使徒17章26節に、「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全地に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。」とありますが、それはイスラエル民族だけではなく、すべての民族に対しても同じようにしてくださったのです。このことは神が愛しておられるのはご自分が選ばれ、ご自分の民とされたイスラエルだけではないということです。神はイスラエルに約束の地を与えてくださいましたが、エサウにも、他の民族にも同じように与えておられるのです。 

6節をご覧ください。食物は、彼らから金で買って食べ、水もまた、彼らから金で買って飲まなければなりませんでした。これはどういうことでしょうか。これまではどうであったかというと、食物は神が天からマナを降らせて養い、水は岩から流して与えてくださいました。しかし、これからは自分で食べ物も飲み物も得なければなりません。なぜなら、神は彼らに乳と蜜の流れる地へ導いてくださるからです。乳とは家畜の乳のことであり、家畜を飼うに適した地という意味です。また、蜜とは蜂蜜のことではなくくだものの蜜のことです。すなわち、そこは農耕にも適した地であるという意味です。神はそのようなすばらしい地を与えてくださるのですから、これからは自分で買って食べなければなりません。いつまでもマナが降るわけではありません。いつまでも岩から水が流れるわけではありません。神は必要な時には必ず与えてくださいますが、それはいつまでもそこに甘んじていてはならないのです。約束の地に導かれたなら、それが止むのです。ヨシュア5章11節と12節を見ると、彼らがカナンの地に入り、そこで過ぎ越しのいけにえをささげた翌日から、マナが降るのがやんだので、彼らはカナンの地で収穫したものを食べました。このように神はどのような状態でも、私たちを祝福して守ってくださるのです。それが7節で言われていることです。「あなたの神、主は、この四十年の間あなたとともにおられ、あなたは、何一つ欠けたものはなかった。」これはイスラエルがエドムを通る時も同じで、主は彼らが事欠くことがないと励ましてくださいました。主はなんとすばらしい方でしょうか。彼らが荒野を旅する時でも、彼らが一度も飢えることがないように、すべての必要を満たし続けてくださったのです。

それはイスラエルに対してだけではありません。私たちに対しても同じです。クリスチャンになって何年、何十年と辛いこと、苦しいことはありましたが、振り返ってみると、一度も事欠くようなことはありませんでした。主はすべての必要を満たし続けてくださいました。あれがない、これがないと言ったことはありましたが、それでもすべてを備えてくださいました。私たちの主はそのようにあわれみ深く、忠実な方なのです。 

Ⅱ.モアブに敵対してはならない(9-15) 

次に9節から15節までをご覧ください。

「主は私に仰せられた。「モアブに敵対してはならない。彼らに戦いをしかけてはならない。あなたには、その土地を所有地としては与えない。わたしはロトの子孫にアルを所有地として与えたからである。そこには以前、エミム人が住んでいた。強大な民で、数も多く、アナク人のように背が高かった。アナク人と同じく、彼らもレファイムであるとみなされていたが、モアブ人は彼らをエミム人と呼んでいた。ホリ人は、以前セイルに住んでいたが、エサウの子孫がこれを追い払い、これを根絶やしにして、彼らに代わって住んでいた。ちょうど、イスラエルが主の下さった所有の地に対してしたようにである。今、立ってゼレデ川を渡れ。」そこで私たちはゼレデ川を渡った。カデシュ・バルネアを出てからゼレデ川を渡るまでの期間は三十八年であった。それまでに、その世代の戦士たちはみな、宿営のうちから絶えてしまった。主が彼らについて誓われたとおりであった。まことに主の御手が彼らに下り、彼らをかき乱し、宿営のうちから絶やされた。」 

ここでは、「モアブに敵対してはならない」と言われています。なぜでしょうか。モアブはアブラハムの甥ロトが先祖だからです。ロトはソドムとゴモラを選び取りそこに住んでいましたが、あまりにも激しい堕落のゆえに神によって滅ぼされてしまいました。けれども、アブラハムの必死のとりなしによってロトとその家族は救出されたのですが、ロトの妻は後ろを振り返ってはならないと言われたにもかかわらず振り返ってしまったので、塩の柱になってしまいました。残されたロトの二人の娘はどうやって子孫を残すでしょうと考えた末、父親のロトと関係を持つことによって子供をもうけました。そのようにして生まれたのがモアブとアモンです。ですからモアブもイスラエルの親戚にあたる民族なので、彼らに敵対してはならないし、彼らに争いをしかけてはならないと言われているのです。 

ところで、そのモアブ人の住んでいたところにはかつてエミム人が住んでいましたが、このエミム人は強大な民で、数も多く、アナク人のように背が高かったのですが、彼らはそんなエミム人を追い払い、自分たちの領土にしていたのです。 

それはあのエサウの子孫が住んでいたセイルの地も同じです。そこにはかつてホリ人が住んでいましたが、彼らはこのホリ人を追い払い、根絶やしにして、そこを占領し住んでいたのです。 

何が言いいたいのかというと、エドム人やモアブ人は、そこに背が高いレファイムがいても、自分たちの手で勇敢に戦い、その地を攻め取ったということです。その一方でイスラエルはどうだったかというと、彼らは約束の地を前にして、そうした巨人たちがいるのを見て恐れおののき、戦おうとしませんでした。その結果、約束の地へ入ることができませんでした。 

これはどういうことでしょうか。神の民であるクリスチャンの中には、目の前にこうした巨人たちがいると尻込みして戦おうとしない人たちが多いということです。ちょっとでも辛いこと、苦しいこと、試練などがあると、「ああ、私はもうだめだ。」「私はなんてかわいそうな人間なんだろう」と悲観的になったり、自己憐憫に陥ってしまい、戦いを避けようとする傾向があります。でもモアブ人やエドム人はどうだったかというと、彼らは異教徒であったにもかかわらず勇敢に戦って、自分たちの手でその地を占領しました。これは全く逆ではないでしょうか。私たちには全能者である神がともにおられるのです。私は、私を強くしてくださる方によってどんなことでもできるのです、とあるのに、実際はできません、だめだと言って、戦おうとしないのです。ノンクリスチャンには神がいないので、自分でやるしかありません。自分を鼓舞して、自分の力を信じて、だめもとでチャレンジします。私たちはダメもとどころか、真の力の源であられる主イエスがともにおられるのです。それがみこころだったら、主が必ず与えてくださるはずです。主が真の解決者なのです。私たちこそ主の力を信じて、すべてを主にゆだねて、開拓して、パイノニアの精神で、切り開いていく者でなければなりません。Ⅰコリント10章13節にはこうあります。

「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」

 何が脱出の道ですか。イエスは言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちです。」ですから、イエスが道です。イエスが脱出の道です。私たちにはその道が与えられているのです。ですから、主が命じられることならば、恐れないで、チャレンジしていかなければなりません。 

「ゼレデ川」とは死海の南端に水が入っていく、モアブとエドムの国境にもなっている渓谷です。これからゼレデ川を渡ってモアブの地に入ります。カデシュ・バルネアからゼレデ川を渡るまでの期間は38年でした。エジプトを出たのはさらに1年数か月前のことでしたから、エジプトを出てから実に四十年かかりました。40年というのは一世代のことですから、この間にエジプトを出たときに二十歳以上であった人たちはみな荒野で死に絶えてしまいました。 

Ⅲ.アモン人に敵対してはならない(16-23) 

次に16節から23節までをご覧ください。

「戦士たちがみな、民のうちから絶えたとき、主は私に告げて仰せられた。「あなたは、きょう、モアブの領土、アルを通ろうとしている。それで、アモン人に近づくが、彼らに敵対してはならない。彼らに争いをしかけてはならない。あなたには、アモン人の地を所有地としては与えない。ロトの子孫に、それを所有地として与えているからである。・・そこもまたレファイムの国とみなされている。以前は、レファイムがそこに住んでいた。アモン人は、彼らをザムズミム人と呼んでいた。これは強大な民であって数も多く、アナク人のように背も高かった。主がこれを根絶やしにされたので、アモン人がこれを追い払い、彼らに代わって住んでいた。それは、セイルに住んでいるエサウの子孫のために、主が彼らの前からホリ人を根絶やしにされたのと同じである。それで彼らはホリ人を追い払い、彼らに代わって住みつき、今日に至っている。また、ガザ近郊の村々に住んでいたアビム人を、カフトルから出て来たカフトル人が根絶やしにして、これに代わって住みついた。・・」 

 ここには、ロトと彼のもう一人の娘との間に生まれたアモンの子孫のことについて、彼らに敵対してはならないと言われています。それは彼らがロトの子孫であり、彼らの親戚にあたる人たちだからです。アモン人もまたザムズミズ人という巨人、レファイムを打ち破り、その地を占領していました。それは強大な民であって数も多く、アナク人のように背が高かったが、主がこれを根絶やしにされたので、アモン人がこれを追い払い、彼らに代わって住んでいたのです。それはエサウの子孫やモアブの子孫たちと同じです。ちなみに、ここに「カフトル」から出てきた民のことが言及されていますが、これは地中海に浮かぶクレテ島のことです。これはペリシテ人のことです。彼らはクレテから始まる、地中海沿岸地域に住みつき、イスラエルの地ではガザ地区辺りに住んでいた民族でありますが、彼らはガザ近郊の村々に住んでいたアピム人を、根絶やしにして、代わりに住みついていました。 

ここでおもしろいことは、11節や12節でモアブやエサウの子孫たちがその地を占領した時の経緯と違い、ここには「主が」という言葉があることです。「主がこれを根絶やしにされたのです・・・」(21)、「主が彼らの前からホリ人を根絶やしにされたのと同じである。」これはどういうことでしょうか。これは、モアブやエサウの子孫たちが占領した時にも、主が働いておられたということです。主が働いておられたので、彼らもその地の住人を追い払うことができたのです。ノンクリスチャンの背後にも主が働いておられるのです。ノンクリスチャンは自分の手腕によって成功したかのように考えているかもしれませんが、そうではなく、その背後に主が働いておられ、主がその人に能力を与え成功に導いてくださったのです。ローマ1章21節を見ると、「それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。」とありますが、このことを認めず、神に感謝しないと、彼らの思いは暗くなってしまいます。このことをしなかったエドムも、モアブも、アモンも、今日は存在していません。彼らは神を神としてあがめなかったので滅びてしまったのです。それは今日も言えることで、ノンクリスチャンの背後にも神が働いておられるということを認め、神に感謝しなければ、その人もまた滅ぼされてしまうことになってしまいます。 

Ⅳ.ヘシュボンの王シホンと戦いを交えよ(24-37) 

最後に24節から37節までを見ておわります。

「立ち上がれ。出発せよ。アルノン川を渡れ。見よ。わたしはヘシュボンの王エモリ人シホンとその国とを、あなたの手に渡す。占領し始めよ。彼と戦いを交えよ。きょうから、わたしは全天下の国々の民に、あなたのことでおびえと恐れを臨ませる。彼らは、あなたのうわさを聞いて震え、あなたのことでわななこう。そこで私は、ケデモテの荒野から、ヘシュボンの王シホンに使者を送り、和平を申し込んで言った。「あなたの国を通らせてください。私は大路だけを通って、右にも左にも曲がりません。食物は金で私に売ってください。それを食べます。水も、金を取って私に与えてください。それを飲みます。徒歩で通らせてくださるだけでよいのです。セイルに住んでいるエサウの子孫や、アルに住んでいるモアブ人が、私にしたようにしてください。そうすれば、私はヨルダンを渡って、私たちの神、主が私たちに与えようとしておられる地に行けるのです。」しかし、ヘシュボンの王シホンは、私たちをどうしても通らせようとはしなかった。それは今日見るとおり、彼をあなたの手に渡すために、あなたの神、主が、彼を強気にし、その心をかたくなにされたからである。主は私に言われた。「見よ。わたしはシホンとその地とをあなたの手に渡し始めた。占領し始めよ。その地を所有せよ。」シホンとそのすべての民が、私たちを迎えて戦うため、ヤハツに出て来たとき、私たちの神、主は、彼を私たちの手に渡された。私たちは彼とその子らと、そのすべての民とを打ち殺した。そのとき、私たちは、彼のすべての町々を攻め取り、すべての町々・・男、女および子ども・・を聖絶して、ひとりの生存者も残さなかった。ただし、私たちが分捕った家畜と私たちが攻め取った町々で略奪した物とは別である。アルノン川の縁にあるアロエルおよび谷の中の町から、ギルアデに至るまで、私たちよりも強い町は一つもなかった。私たちの神、主が、それらをみな、私たちの手に渡されたのである。ただアモン人の地、ヤボク川の全岸と山地の町々には、私たちの神、主が命じられたとおりに、近寄らなかった。」 

これまで主は三度も「争うな」と命じておられましたが、ここでは「戦え」と命じておられます。アルノン川が、モアブの北の国境線になっており、そこを越えるとエモリ人シホンの国になります。それでモーセは、ケデモテの荒野から、ヘシュボンの王シホンに使者を送り、和平を申し込んで言いました。「あなたの国を通らせてください・・・」しかし、ヘシュボンの王は、どうしても通らせようとしなかったので、イスラエルは彼らと戦いを交え、その民のすべての民を滅ぼしました。 

ここには、興味深いいくつかのことが記されてあります。その一つは、主はモーセに戦いを交えよと言われたのに、モーセはまず和平を申し込んだことです。これは決してモーセが神の命令に逆らったということではありません。それは正しいことでした。神は正義に基づいて事を行われます。ですから、相手がこちらの要求に従う時には、わざわざ戦いを交える必要はないのです。和平ができれば、それに越したことはありません。だから、そのようなステップを踏みながら接していくことはとても重要なことなのです。しかし、主は相手がどのような態度を取るかということを前もって知っておられました。相手がかたくなになって、強気になって、戦いを挑んでくることを知っておられたので、戦いを交えよと言われたのであって、できるだけ平和的な解決を求めることは神の民にとってふさわしいことなのです。 

もう一つのことは、こうしたヘシュボンの王シホンの態度は、主がそのようにしておられたということです。20節を見ると、あなたの神、主が、彼を強気にし、その心をかたくなにされたからである、とあります。ヘシュボンの王シホンの心をかたくなにしたのは主ご自身でありました。なぜでしょうか。それは、主が彼をイスラエルに渡すためです。彼らがかたくなになり、強気になり、イスラエルと戦うことによって、主がイスラエルに勝利を与え、彼らをその手に渡すためでした。

これはエジプトの王パロも同じでした。かつてイスラエルがエジプトを出るときに、モーセがパロのところに行って、「民を出て行かせてください」と願い出ても、パロは心を強情にして出て行かせませんでした。それでどうしたかというと、主がエジプトと戦われました。神が勝利を表されるために、あえて相手の心をかたくなにすることがあるのです。 

これは私たちにも言えることです。これまで仲良くしていた人が急に手のひらをかえしたかのような行動をとる場合があります。あんなに丁寧に接していたのに、あんなにやさしく、親切にして、仲良かったのに、急に対立したり、対抗してくるようなことがあって、ショックになることがあるのです。いったいなんでそうなるのかどんなに考えてもわからないことがあるのです。

それを解決する鍵がここにあります。それは、主がそのことを許されたということです。すべてのことは神の御の中にあります。神が主権をもってコントロールしておられるのであって、私たちがわからないこともあるのです。私たちにとって必要なのは、その神の主権を認めることなのです。「あっ、これも神がゆるしておられることなんだ」「このことにもきっと何らかの神のご計画があるに違いない」と認めると、平安が与えられます。神は御座におられ、すべてをすべ治めておられます。シホンの王の心がかたくなになったのも主がゆるされたことであって、それで戦いを交えることがあったとしても、主が勝利を与えてくださり、主に栄光が帰されるということです。ですから、たとえ理解できなくてもすべてを主にゆだねて祈らなければなりません。

あの創世記に出て来たヨセフもそうでした。なぜそのようなことになったのかさっぱりわかりませんでしたが、主はそのような悪さえも善に変えてくださいました。それはヨセフがそこに主の御手があることを覚え、すべてを主にゆだねたからです。

それは私たちにも言えることです。私たちの人生にもなぜそのようなことが起こるのかさっぱりわからないことがありますが、その背後で主が働いておられ、主がそのように導いておられるのです。ということは、そのことさえも主の栄光のために用いられるということです。そのことがわかると安心します。私たちに必要なのは、そのような中でもただ主を待ち望むことなのです。 

それから34節に「聖絶」ということばが出てきます。それは主のためにすべてを滅ぼすことです。いったいなぜこのようなことが命じられているのでしょうか。そんなことをしたらかわいそうだ、そんなことを命じる神はおかしいと、このことでつまずく人もいますので、このことを正しく理解することは大切なことです。 

これは霊的には、聖霊によって肉の性質を徹底的に殺すことを意味しています。ローマ8章13節には、「もし肉に従って生きるのなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すのなら、あなたがたは生きるのです。」とあります。どうしたら生きるのでしょうか。御霊によって、からだの行いを殺すことによってです。そこには妥協は一切許されません。肉が働く機会を許さないように、徹底的に取り除かなければならないのです。ここでひとりの生存者も残さないように聖絶するようにと命じられているのは、そのためだったのです。私たちも信仰の戦いにおいて、こうした肉の働きに対しては聖絶することが求められているのです。こうしてエモリ人の地を占領しました。イスラエルは主が命じられたとおりに、エサウの子孫であるエドム人の地やロトの子孫であったモアブ人の地とアモン人の地には近寄りませんでしたが、エモリ人とは戦いを交えて勝利し、その地を聖絶したのです。

ヘブル3章7~19節 「神の安息に入るために」

 きょうは、ヘブル3章7節から19節までのみことばから、「神の安息に入るために」というタイトルでお話したいと思います。 

 よく私たちの人生は旅のようなものであると言われます。旅にもいろいろあって、名所旧跡を訪ねる旅もあれば、道なき道をかき分けて行く冒険のような旅もあります。すでにだれかが作ってくれた道を行くのであれば、比較的安心して行くことができますが、原生林や荒野を旅する場合は、そんなに楽な旅ではありません。 

 それは、私たちの信仰の旅も同じです。聖書にはよく旧約時代のイスラエルの民がエジプトを出てから約束の地に入るまでのことを、私たちの信仰生活になぞらえて教えられていますが、それはまさに荒野の旅でもあり、そこには多くの戦いがありました。そして、その荒野の旅において彼らは、神が約束してくださった地に入ることができませんでした。いったいなぜ入ることができなかったのでしょうか。きょうはイスラエルの失敗から、どうしたら神の安息に入ることができるのかを学びたいと思います。 

Ⅰ.心をかたくなにしてはならない(7~11) 

 まず、第一のことは、心をかたくなにしてはならないということです。7節から11節までをご覧ください。「ですから、聖霊が言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試みて証拠を求め、四十年の間、わたしのわざを見た。だから、わたしはその時代を憤って言った。彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」

 「ですから」というのは、これまで語られてきた内容を受けてのことです。3章1節から6節までのところにはイエスのことを考えなさいと、勧められてありました。なぜなら、イエスこそ信仰の使徒であり、大祭司であられる方だからです。人は何を考えるかによってその行動が決まります。仕事のことばかり考えている人は仕事を中心とした生活になり、健康のことばかり考えている人は、自分の健康にいいと思うことをいろいろ試してみようとあちらこちらに奔走します。でもイエスのことを考える人は天国のことを考えます。目の前に様々な問題があっても主が必ず解決してくださると信じ、すべてをゆだねて祈るのです。だから、イエスのことを考えなければなりません。 

 そして、このイエスがどんなに偉大な方であるかを、モーセと比較して語られました。すなわち、モーセは神の家に仕える者でしたが、イエスはその神の家を建てた方であり、それを治めておられる方です。だから、私たちがこのイエスに最後までしっかりと確信と希望を持ち続けるならば、私たちが神の家となるのです。「ですから」です。「ですから」何でしょうか。 

 「ですから、聖霊がこう言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」 

 どういうことでしょうか?これは詩篇95篇8節からの引用です。この手紙の著者はイスラエルの先祖たちの不信仰を取り上げて、あの荒野での試みの日に、心をかたくなにして、神の御怒りを引き起こすようなことがあってはならないと警告しているのです。いったい「荒野での試みの日に」何があったのでしょうか。実は、詩篇95篇を見ると、この荒野の試みの日がどのようなものであったのかがもっと具体的に記されてあります。

「メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」(詩篇95:8)

ここにはメリバでのときのように、また荒野のマサの日のようにとあります。いったいメリバで何があったのでしょうか。マサで何が起こったのでしょうか。これは出エジプト記17章に書かれている内容です。少し長いですが読んでみたいと思います。1~7節までです。

「イスラエル人の全会衆は、主の命により、シンの荒野から旅立ち、旅を重ねて、レフィディムで宿営した。そこには民の飲む水がなかった。それで、民はモーセと争い、「私たちに飲む水を下さい。」と言った。モーセは彼らに、「あなたがたはなぜ私と争うのですか。なぜ主を試みるのですか。」と言った。民はその所で水に渇いた。それで民はモーセにつぶやいて言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」そこでモーセは主に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。もう少しで私を石で打ち殺そうとしています。」主はモーセに仰せられた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを幾人か連れ、あなたがナイルを打ったあの杖を手に取って出て行け。さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。それで、彼はその所をマサ、またはメリバと名づけた。それは、イスラエル人が争ったからであり、また彼らが、「主は私たちの中におられるのか、おられないのか。」と言って、主を試みたからである。」 

 これはイスラエルがエジプトを出て荒野に導かれたときに起こった出来事です。イスラエルは430年間エジプトの奴隷として仕えていましたが、その苦しみの中で彼らが主に助けを求めると、主はモーセというひとりの人物を立て、そこから救い出してくださいました。それは人間的には全く考えられないことでしたが、主は力強い御手をもって彼らをエジプトから連れ出されたのです。エジプトから出た彼らはどうなったでしょうか。彼らが導かれたのは荒野でした。荒野というと皆さんはどのような所を想像するでしょうか。それは荒れた野と書きますから、それが厳しい環境であることは間違いありません。その中でも水がないというのは重大な問題でした。それはイコール死を意味していたからです。そこで彼らはモーセと争いました。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」これにはモーセもどう答えたらよいかわかりませんでした。それでモーセは主に叫ぶのです。すると主は、民の前を通り、イスラエルの長老たちを幾人か連れて、ナイルを打ったあの杖で、ホレブの岩を打つようにと命じられました。それでモーセがそのとおりにすると、岩から水がほとばしり出たので、彼らはそれを飲んだのです。いったい何が問題だったのでしょうか。彼らの心がかたくなだったことです。彼らはこれまで何度も主のみわざを体験したにもかかわらず、信じることができませんでした。少しでも状況が不利になるとすぐにつぶやいて、神と争ったのです。それで主は怒りをもって誓ったように、彼らを神の安息に入れない、言われたのです。 

 これは私たちも同じです。私たちも神の救いのみわざを経験し、何度も神の恵みを体験しても、イスラエルのように心をかたくなし、常に心が迷い、神の道を悟ることがないと、神の安息に入ることができないこともあるのです。 

聖書は、神のご性質についてこう言っています。

「主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。」(詩篇103:8) 

 これが私たちの神です。主は、あわれみ深く、情け深い方です。私たちが何度も何度もつぶやき、主に対して不平不満を言っても、主は私たちを赦してくださいます。怒るのにおそく、あわれみ深い方なのです。しかし、いつまでも心をかたくなにして、常に心が迷い、神の道を悟らなければ、最終的には神の怒りが下るのです。ですから、そういうことがないように、イスラエルのように心をかたくなにしないで、心を柔らかくして、神のことばを素直に受け入れなければなりません。 

 私たちの人生には辛いこと、苦しいこと、また、なかなか受け入れられないことが起こりますが、それは私たちの信仰が試される時でもあります。そしてそのような時こそ、信仰が強められる時でもあるのです。それなのに、私たちはどちらかというとそのように受け止めることができず、すぐにつぶやいたり、疑ってみたり、不平不満を漏らしたりして、不信仰になってしまいますが、そうではなく、神の約束を信じなければならないのです。神を愛する人々、すなわち、神のご計画にしたがって召された人々のためには、神はすべてのことを働いて益としてくださると信じなければならないのです。 

 Ⅱ.日々互いに励まし合って(12-15) 

 次に12節から15節までをご覧ください。

「兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。」

 ここでこの手紙の著者はイスラエルの不信仰を事例に、この手紙の受取人であるユダヤ人クリスチャンに警告を与えています。というのは、彼らの中にはイエス・キリストを信じて神の救い、永遠のいのちを受けたにもかかわらず、その信仰のゆえに迫害や困難に遭うと、古い契約、モーセの律法に戻ろうとする人たちがいたからです。だから、彼らのように不信仰の心になって生ける神から離れることがないようにと警告しているのです。12節の「悪い不信仰の心」というのは神を信じない心のことです。神を信じていると言っても、悪い不信仰の心になると、生ける神から離れてしまい、その身に滅びを招くことになります。モーセの言うことを信じなかった人たちは、みな荒野で滅びてしまいました。であれば、ましてやモーセよりもはるかに偉大な神の御子イエス・キリストを信じなかったどうなるでしょうか。イエスを信じなければ罪が残っているということなので、永遠のいのちを受けることができなくなってしまいます。だから、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れることがないように気をつけなければなりません。そして、「きょう」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなければなりません。 

 ところで、この手紙では「きょう」という言葉が繰り返し使われています。このように同じことばが繰り返して使われている時はそのことが強調されていることを表していると以前申し上げましたが、ここでもそうです。「きょう」が強調されているのです。なぜなら、私たちに明日があるかどうかはわからないからです。明日があるかどうかは誰にもわかりません。私たちが生きることができるのは、「きょう」だけであって、明日がどのようになるかはわかりません。しかも、今、この瞬間しかありません。次の瞬間にはどうなるかわからないのです。私たちが生きることかできるのは、今、この瞬間しかないのです。私たちは過去に生きることはできないし、未来に生きることもできません。明日があるかどうかはわからないのです。 私たちは自分で生きていると思っていますが、実は生かされているのです。そして神がよしとするときに、神の許に、天の御国に召されるのです。それがいつなのかはだれにもわかりません。もしかするとそれは明日かもしれません。だから「きょう」御声を聞くならば、心をかたくなにしないで、イエスを信じなければならないのです。 

 まだイエス様を信じていない方がおられるでしょうか。きょう初めて教会に来られたという方もおられるかもしれません。そういう方はどうか「きょう」イエスさまを信じてください。イエスさまはどんな悩みがあっても解決を与えてくださいます。イエスさまを信じれば、あなたの罪が赦され、あなたの心に神のいのちが与えられます。それは一時的なものではなく永遠のいのちです。これが神の恵みの福音なのです。 そして、もうすでにイエスを信じておられる方は、どうか、ここにあるように、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしてください。だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れることがないように気を付けてください。 

 そのためにはどうしたらいいのでしょうか。ここにはそのために必要なことが勧められています。それは「日々互いに励まし合って」という言葉です。日々、互いに励まし合って、だれも罪に惑わされないようにしなければなりません。聖書には至るところで「互いに」という言葉が使われています。互いに愛し合いなさい。互いに慰め合いなさい。互いに励まし合いなさい。互いに労り合いなさい。互いに赦し合いなさい。互いに受け入れ合いなさい。というようにです。なぜでしょうか。なぜなら、私たちの信仰はひとりで守ることはできないからです。イエス様を信じたからあとは自分で信仰を守っていくから大丈夫だということはありません。互いに励まし合う必要があるのです。それは生まれたばかりの赤ん坊を見てもわかります。赤ん坊は一人で生きることはできません。ミルクをあげたり、おむつを交換したり、何かあったら世話をしたりして守ってあげる人が必要です。そういうケアがあってこそ健全に育っていくことができるのです。それと同じように、私たちの信仰も互いに励まし合ってこそ健全に成長していくことができるのです。 

 ですから、神様が教会を与えてくださったということは本当に感謝なことなのです。教会がなかったらどうなるでしょうか。教会がなかったら自分で聖書を読み、自分で祈り、自分で信仰を守らなければなりません。確かに一人でも聖書を読み、堅く信仰に立って歩める人もいるかもしれませんが、ほとんどの人はこの世の影響を受けて、生ける神から離れてしまうことでしょう。教会はキリストのからだであり、私たちはその器官であると言われていますが、肝臓が肝臓だけで存在することができるでしょうか。腎臓が腎臓だけで生きることはできません。私たちはキリストのからだの各機関としてそれぞれしっかりと組み合わされ、結び合わされて、成長して、愛のうちに建てられるのです。

「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、供えられたあらゆる結び目によって、しっかり組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」(エペソ4:16) 

 確かに目に見える教会は完全ではありません。問題もあるでしょう。でも教会はキリストのからだであって、私たち一人一人がこのキリストにしっかりと結び合わされ、組み合わされて、成長して、愛のうちに建てられているのです。だから、平安があるのです。教会に来ると慰められ、励まされます。心が元気になります。なぜでしょうか?頭(かしら)がしっかりしているからです。教会のかしらは牧師ではありません。教会のかしらはイエスさまです。イエスさまがしっかりしているので守られ、養われるのです。だから、教会ってものすごいところなのです。どんなに小さな教会でも、教会にはキリストのいのちが溢れているのです。その教会で互いに励まし合ってこそ、私たちはしっかりと信仰に立ち続けることができるのであって、そうでなかったら、この世の流れに流されて、生ける神から離れ、罪に惑わされてしまうことになります。だからそういうことがないように、日々互いに励まし合い、最初の確信を終わりまでしっかりと保ち、キリストにあずかる者、つまり、共に神の安息に入る者とさせていただきたいと思います。 

Ⅲ.不従順にならないで(16-19) 

 第三のことは、だから不従順にならないでということです。16節から19節までをご覧ください。

「聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。」 

 ここで著者は再び、モーセの時代のイスラエルの話に戻っています。つまり、イスラエルはなぜ約束の地に入ることができなかったのかということです。ここにはそれを決定的にした原因が書かれてあります。それはカデシュ・バルネアでの出来事です。民数記13章と14章に記されてあります。彼らはエジプトを出て約1年数か月後に、もう約束の地までは目と鼻の先という所まで来ました。そのとき、12人の偵察隊を送り、その地がどんな地であるかを探らせるのです。そこに住んでいる人は強いか弱いか、あるいは多いか少ないか、その土地はどうか、それが良いか悪いか、彼らが住んでいる町はどうか、宿営か、それとも城壁の町かといったことを調べさせました。 

 ところが、偵察から帰って来た人のうち10人は、モーセとイスラエルの全会衆に否定的な報告をもたらしました。確かにそこは乳と蜜の流れる良い地だったが、とても上って行くことはできない。そこにはアナク人の子孫や、アマレク人など、とても大きくて、強そうな人ばかりいるので、行こうものなら滅ぼされてしまうだろう、と告げたのです。それを聞いたイスラエルの全会衆は大声をあげて泣きました。いったいなぜモーセは自分たちをこんなところに連れてきたのか。こんなことならエジプトで死んでいた方がましだった。できれば、荒野で死んでいればよかった・・・。

 それで主は怒られイスラエルを滅ぼそうとしましたが、モーセの必死のとりなしによって赦しを請うことができたものの、このように十度も主を試みたということで、彼らは約束の地に入ることはできない、と宣言されたのです。彼らがその地を巡った一日を一年として、四十年間荒野をさまようになると言われたのです。これが、彼らが神の安息に入れなかった決定的な原因でした。つまり、彼らは不信仰だったので、安息の地に入れなかったのです。 

 しかし、こうした不信仰の中でも主に信頼し、それとは違った応答をした人たちがいました。ヨシュアとカレブです。彼らは他の10人と全く同じものを見たにもかかわらず、その応答は正反対でした。彼らはこう言いました。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」(民数記13:30) そこはすばらしいところで、神が自分たちに与えてくださると約束してくださったところですから、神は絶対に与えてくださいます。ぜひとも上っていきましょう、と言ったのです。 

 皆さん、この違いは何でしょうか。信仰です。現状がどうであれ、ヨシュアとカレブは神の約束を信じていたのでそのように受け止めることができました。神の安息に入るには、信仰がなければならないのです。 

 私はかつて福島の教会で会堂建設に取り組んだことがあります。教会は土地代を献金して建物の建築費は銀行から融資を受けようと計画したのですが、銀行から受けられる融資の額は私たちが予定していた額よりも一千万円低い金額でした。教会には若者が多く、お金を持っている人などほとんどいなかったので、これが銀行で融資できる精一杯の金額ですと言われたのです。それで私たちは礼拝後にみんなで集まってどうしようかと話し合いました。銀行で貸してくれないというのだから当初予定していた建物の規模を小さくしようと話がまとまったとき、一人の女性が「はい」と手を上げたのです。その方はご主人の仕事の関係で北海道から引っ越してきたばかりの韓国人の姉妹で、私たちの教会には2~3回しか参加していませんでした。その方が手をあげてこう言われたのです。「日本人はいつでも小さく考えますが、それが神様のみこころだったら神様は与えてくださるのではないでしょうか。」一瞬、みんなの顔が凍り付いたのがわかりました。それは私も同じでした。ここ数年土地代をささげるためにどれほど大変だったかを知っていたので、さらに一千万円をささげることは人間的には困難であることをだれもが感じていたのです。でも、神のみこころなら与えられるというのは正しいことなので、一年後までに与えられるように祈りましょう、ということになりました。               それから2,3か月経った頃のことです。東北電力から電話があり、教会の前の車のタイヤを作る工場で電気を引きたいので鉄塔を立てるのですが電線がちょうど教会の土地の一部に引っかかるので許可をいただきたいと言って来たのです。その工場には地域の多くの方が働いていたので「だめです」なんて言えなかったので「いいですよ」というと、それじゃ線下保証金といって、そのために土地の評価が低くなってしまうので、その保証のためのお金を支払いますと、約六百万円が与えられたのです。そしてあの話し合いからちょうど一年後の1998年9月末にささげられた金額は999万円だったのです。私は信じられないというかうれしさと驚きとともに主に感謝しました。そして、ポケットに手を入れたらちょうど1万円があったのでそれをささげることができ、必要が完全に満たされたのです。       あの姉妹が言ったとおり、神は私たちの必要を満たしてくださったのです。あのときもし信じなかったら、今の会堂はなかったでしょう。それが私たちにとってどんなに難しいことでも、神にとって大きすぎることはありません。神様は全能者であって、どんなことでもおできになる方なのです。ただそれが神のみこころなのかどうかということが重要なことであり、それが神のみこころなら、信じなければならないのです。 

 皆さん、信仰とは何でしょうか。ヘブル11章1節にはこうあります。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」

 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものなのです。目に見えるものを信じることは信仰ではありません。目に見えないことでもそれが神の約束してくださったことなら、それは必ず与えられると信じること、それが信仰なのです。ヨシュアとカレブは神の約束のことばを信じました。だから、彼らは約束のものを受けることができたのです。しかし、信じなかった人たちは受けることができませんでした。神の安息に入ることができなかったのです。 

 ですから、どうか信じない者にならないで、信じる者になってください。キリストのことばを聞いて、それを信じて受け入れ、そのことばに従って生きる者でありますように。きょう、あなたも神のことばを聞きました。あとは信じるだけです。信じて従うだけなのです。私たちの人生は荒野かもしれません。しかし、それがどんな荒野であっても、最初の確信を終わりまでしっかりと保ちさえすれば、あなたもキリストにあずかる者となるのです。神の安息に入ることができるのです。だから、心をかたくなにして、御怒りを引き起こしたときのようになってはいけません。きょう、もし御声を聞くならば、そのことばを信じて、そのことばに従って歩み続けていきましょう。

申命記1章

 きょうから申命記の学びに入ります。まず1節から8節までをご覧ください。 

 Ⅰ.向きを変えて、出発せよ(1-8) 

「これは、モーセがヨルダンの向こうの地、パランと、トフェル、ラバン、ハツェロテ、ディ・ザハブとの間の、スフの前にあるアラバの荒野で、イスラエルのすべての民に告げたことばである。ホレブから、セイル山を経てカデシュ・バルネアに至るのには十一日かかる。第四十年の第十一月の一日にモーセは、主がイスラエル人のために彼に命じられたことを、ことごとく彼らに告げた。モーセが、ヘシュボンに住んでいたエモリ人の王シホン、およびアシュタロテに住んでいたバシャンの王オグをエデレイで打ち破って後のことである。」 

 「申命記」というタイトルは、日本語では「命令」を、「申した」、「記録」となっていますが、これは、これは中国の漢訳聖書から取られたものです。その意味は「繰り返して述べる」であります。ですから、これは神のことばが繰り返し、繰り返し、述べられている書であると言えます。この「申命記」という書名の元々の名前は、「エーレハデバリーム」と言います。ヘブル語です。直訳すると、「これはことばである」です。何のことばであるのかというと、もちろん、神のことばです。ですから、「これは神のことばである」というのが原語のタイトルなのです。ヘブル語をギリシャ語に訳した「七十人訳聖書」、「セプチュアギンタ」と言いますが、この七十人訳聖書では何というタイトルがつけられているかというと、「Deutonomion」です。実は英語の聖書では申命記を「Deuteronomy」と言いますが、これはこのギリシャ語訳からとられたものです。その意味は「第二の律法」です。第一の律法は何かというと創世記から申命記までの五つの書のことですが、そこで語られたことを繰り返して述べられています。ですから、申命記は第二の律法と言えるのです。なぜ繰り返して述べられているのでしょうか。それは、私たちは忘れやすいものだからです。創世記からずっと語られてきたことを振り返ることによって神がどのような方であるのか、イスラエルがどのように失敗したのかを学び、そこから教訓を学ぼうとしているのです。過去の歴史を学ぶということはそのような益を受けることができるのです。そして、それを今の自分の生活に適用することができます。ちなみに、イエスさはこの申命記から最も多く引用されました。いわば、これはイエスさまの愛読書であったと言っても過言ではありません。申命記はそれほど重要な書なのです。

 ホレブというのは十戒が与えられたシナイ山のことです。そこからカデシュ・バルネア、すなわち、約束の地に入るための入口となる町までの道のりはたった11日でした。それなのに彼らは、そこにやって来るまで40年もかかってしまいました。なぜでしょうか。信じなかったからです。エジプトを出て荒野に導かれてからの彼らの旅路は困難の連絡でしたが、主はそのたびに彼らをあわれみ、みわざを現わしてくださったのに、信じませんでした。そして、カデシュ・バルネアでの出来事を通して、約束の地に入れないということが決定的になってしまったのです。40年というのは一世代を指します。すなわち、エジプトを出た最初の世代のうち二十歳以上の者はだれも入ることができなかったのです。 

 この時モーセはどんな気持ちだったでしょうか。なぜあの時従うことができなかったのだろう、なぜあんなことをしてしまったのか、なぜこんなことも・・・と後悔していたことでしょう。私たちも天国を前にして、モーセと同じような心境になるかもしれません。あのときちゃんと信じていればよかった。あの時牧師が語っていることを額面通り信じて受け入れていればよかったと、後悔するようになるかもしれません。そういうことがないように、私たちはこのイスラエルの失敗から学ぶべきです。これまでのことは仕方ないにしても、後ろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進むべきです。これからの残された生涯を、それがどれだけあるかは別として、後悔しないように、神のみことばに従って生きていきたいと思うのです。 

 では次に5節から8節までをご覧ください。「ヨルダンの向こうの地、モアブの地で、モーセは、このみおしえを説明し始めて言った。私たちの神、主は、ホレブで私たちに告げて仰せられた。「あなたがたはこの山に長くとどまっていた。向きを変えて、出発せよ。そしてエモリ人の山地に行き、その近隣のすべての地、アラバ、山地、低地、ネゲブ、海辺、カナン人の地、レバノン、さらにあの大河ユ一フラテス川にまで行け。見よ。わたしはその地をあなたがたの手に渡している。行け。その地を所有せよ。これは、主があなたがたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓って、彼らとその後の子孫に与えると言われた地である。」 

 イスラエルは第一年の第三の月の第一日(出19:1-3)から第二年の第二の月の第二十日(民数記10:11)まで約1年間、ホレブの山にとどまっていました。そこで主はイスラエルに、「向きを変えて、出発せよ。」と命じられました。なぜなら、主はその広大な地を彼らの手に渡しているからです。だから、彼らは行って、その地を所有しなければなりませんでした。「渡している」という言葉はヘブル語では完了形になっています。これはアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、彼らとその子孫に与えると言われた時から、もう既にイスラエルのものとなっているものです。しかし、いくらそれがイスラエルのものであっても、彼らがそこにとどまっているのなら、それを所有することはできません。それを自分たちのものにするためには、そこに出て行って、実際にその地を所有しなければならなかったのです。向きを変えて、出発しなければなりません。向きを変えるとは、悔い改めるということです。方向転換をしなければなりません。不信仰だったこれまでの生き方を悔い改め、神が仰せになられることは何でもしますという方向に転換しなければなりません。そこには想像を絶するほどの祝福が待ち構えているからです。 

  Ⅱ.リーダーたちの任命(9-18) 

 次に9節から18節までをご覧ください。「私はあの時、あなたがたにこう言った。「私だけではあなたがたの重荷を負うことはできない。あなたがたの神、主が、あなたがたをふやされたので、見よ、あなたがたは、きょう、空の星のように多い。・・どうかあなたがたの父祖の神、主が、あなたがたを今の千倍にふやしてくださるように。そしてあなたがたに約束されたとおり、あなたがたを祝福してくださるように。・・私ひとりで、どうして、あなたがたのもめごとと重荷と争いを背負いきれよう。あなたがたは、部族ごとに、知恵があり、悟りがあり、経験のある人々を出しなさい。彼らを、あなたがたのかしらとして立てよう。すると、あなたがたは私に答えて、「あなたが、しようと言われることは良い。」と言った。そこで私は、あなたがたの部族のかしらで、知恵があり、経験のある者たちを取り、彼らをあなたがたの上に置き、かしらとした。千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長、また、あなたがたの部族のつかさである。またそのとき、私はあなたがたのさばきつかさたちに命じて言った。「あなたがたの身内の者たちの間の事をよく聞きなさい。ある人と身内の者たちとの間、また在留異国人との間を正しくさばきなさい。さばきをするとき、人をかたよって見てはならない。身分の低い人にも高い人にもみな、同じように聞かなければならない。人を恐れてはならない。さばきは神のものである。あなたがたにとってむずかしすぎる事は、私のところに持って来なさい。私がそれを聞こう。」私はまた、そのとき、あなたがたのなすべきすべてのことを命じた。」  「あの時」とは、どの時のことでしょうか。これは出エジプト記18章に記されてあるイテロが助言した時のことでしょう。エジプトを出てまだ二か月も経っていませんでしたが、モーセはひとりで大勢の民を治め、さばくことに疲れ果てていました。いったいどうやってその大勢のイスラエルの民を約束の地まで導くことができるでしょう。それでモーセはイスラエルの民に率直に言うのです。「私ひとりで、どうして、あなたがたのもめごとと重荷と争いを背負いきれよう。」モーセにとってイスラエルの民のもめごとは重荷でした。不従順な民はリーダーの重荷となるのです。牧師がその能力と賜物を発揮できないのは牧師の弱さにもありますが、実はこうした重荷が原因である場合が多いのです。一人一人が主に従っていれば、もめごとなんて起こりません。起こったとしても互いに赦し合い、愛し合って、解決できるはずです。それなのにもめごとになってしまうのは、主に従っていないからです。すべては主との関係で決まるのです。一人一人がしっかりと主につながり、主のみこころに歩んでいれば、そこには愛と一致が生まれ、麗しい調和、ハーモニーが奏でられるのです。そうすれば牧師の荷は軽くなり、その力をもっと発揮することができるようになるでしょう。それがないと指導者は疲れ果て、倒れてしまいます。結局、モーセも共倒れになってしまいました。モーセほど偉大な指導者はいないと思いますが、そのモーセでも300万人もの人たちをさばくことはできなかったのです。そうしたもめごとで完全に足が引っ張られたのです。 

 それで、部族ごとに、知恵があり、悟りがあり、経験のある人々を出すようにと言いました。すると、彼らは、「あなたが、しようと言われることは良い。」と言ったので、モーセは、彼らの部族のかしらで、知恵があり、経験のある者たちを取り、彼らの上に置きました。その結果、モーセは荷を軽くして、前進していくことができたのです。 

 これは教会においても言えることです。教会も牧師一人ではすべての重荷を負うことはできません。そんなことをしたら倒れてしまいます。どんなに能力があっても、どんなに若くてエネルギーがあっても、それは不可能なことなのです。最初のうちはできるかもしれませんが、10人、20人と人数が増えてくるに従い、一人ではできなくなるのです。だから、リーダーが立てられ、重荷を負い合って、それぞれの荷を軽くしなければならないのです。

 また、出エジプト記18章19-20節には、こうあります。「あなたは民に代わって神の前にいて、事件を神のところに持って行きなさい。あなたは彼らにおきてとおしえとを与えて、彼らの歩むべき道と、なすべきわざを彼らに知らせなさい。」(出18:19-20)

 いったいなぜ、かしらが立てられなければならなかったのでしょうか。それはモーセが民に代わって神の前にいるためです。神の前にいて、神から彼らが歩むべき道を聞き、それを民に示すためです。これが、モーセのしなければならなかった最優先のことだったのです。それなのに、もし彼がさまざまな重荷で疲れ果ててしまったら、彼が本来しなければならないことができなくなってしまいます。それはイスラエル全体にとっても大きな損失です。なぜなら、それこそ彼らが前進していくために最も重要なことだったからです。このように指導者が神の前に出て神からのおきてを授かり、神とじっくりと交わるためには、指導者の荷を軽くしなければならなかったのです。 

 ところで、ここではどのような人がリーダーが立てられているでしょうか。ここには、「知恵があり、悟りがあり、経験のある人々を出しなさい。」とあります。どういう意味でしょうか。リーダーは人々の中から出されなければならないということです。日曜日だけ礼拝に来ていればいいのかというとそうではありません。リーダーはいつも人々の中にいる人でなければならないのです。人々とともに考え、分かち合い、祈り、行動を共にしてこそ、その痛みを理解することができるからです。主イエスは「わたしは良い羊飼いです。」と言われましたが、まさにリーダーは小羊飼いです。羊とともにいて、彼らの世話をすることが求められています。だから、その中から選ばれなければならなかったのです。 

 Ⅲ.イスラエルの不信仰の結果(19-46)  

 そして、次にモーセはカデシュ・バルネアでの出来事について語ります。19節から40節までをご覧ください。まず19節から26節までをお読みします。「私たちの神、主が、私たちに命じられたとおりに、私たちはホレブを旅立ち、あなたがたが見た、あの大きな恐ろしい荒野を、エモリ人の山地への道をとって進み、カデシュ・バルネアまで来た。そのとき、私はあなたがたに言った。「あなたがたは、私たちの神、主が私たちに与えようとされるエモリ人の山地に来た。見よ。あなたの神、主は、この地をあなたの手に渡されている。上れ。占領せよ。あなたの父祖の神、主があなたに告げられたとおりに。恐れてはならない。おののいてはならない。」すると、あなたがた全部が、私に近寄って来て、「私たちより先に人を遣わし、私たちのために、その地を探らせよう。私たちの上って行く道や、はいって行く町々について、報告を持ち帰らせよう。」と言った。私にとってこのことは良いと思われたので、私は各部族からひとりずつ、十二人をあなたがたの中から取った。彼らは山地に向かって登って行き、エシュコルの谷まで行き、そこを探り、また、その地のくだものを手に入れ、私たちのもとに持って下って来た。そして報告をもたらし、「私たちの神、主が、私たちに与えようとしておられる地は良い地です。」と言った。」

 これは、イスラエルがカデシュ・バルネアでの出来事です。これは荒野を行くイスラエルにとって最大、かつ最悪な出来事でした。なぜなら、このことによってイスラエルの民は荒野で死に絶えてしまうことになるからです。その出来事というのは、これから占領しようとしていた土地へ偵察隊を遣わしその地がどのような所であるかを探らせようというものでした。それで各部族から一人ずつ12人を選び出し遣わしたのです。 

 ところで、ここにはこのことがどのようにして行われたのかが記録されています。主は「上れ。占領せよ。あなたの父祖の神、主があなたに告げられたとおりに。恐れてはならない。おののいてはならない。」と命じられたのに、イスラエルの民はモーセのところにやって来て、その地に人を遣わして、その地を探らせようと言ったのです。すなわち、これは主から出たことではなく、イスラエルの民たちから出たことだったのです。なぜ彼らはこのようなことを言ったのでしようか。不安があったからです。恐れがあったからです。自分たちがこれから入っていく地がどういうところかわからないのに行って滅ぼされてしまったら大変なので、そういうことがないように、事前に調べさせようというのです。

 これは人間的にみたら一見慎重で、賢い態度のように見えるかもしれませんが、これが間違っていたことは明白です。なぜなら、しゅは「上れ。占領せよ。」と命じておられたからです。ですから、彼らがそのように言ったのは、それは彼らが主が語られたことを信じることができなかったから、すなわち、彼らが不信仰だったからなのです。 

 このようなことは、私たちの中にもあるのではないでしょうか。物事を慎重に考えることは大切なことです。しかし、それよりも大切なことは、主が何と言っておられるのかを知り、それに従うことです。そうでないなら、それは慎重なのではなく、不信仰以外の何ものでもないからです。 

 さて、偵察に行った人たちは帰って来てどんな報告をしたでしょうか。26節から33節までをご覧ください。「しかし、あなたがたは登って行こうとせず、あなたがたの神、主の命令に逆らった。彼らは主の命令に逆らいました。そしてあなたがたの天幕の中でつぶやいて言った。「主は私たちを憎んでおられるので、私たちをエジプトの地から連れ出してエモリ人の手に渡し、私たちを根絶やしにしようとしておられる。私たちはどこへ上って行くのか。私たちの身内の者たちは、『その民は私たちよりも大きくて背が高い。町々は大きく城壁は高く天にそびえている。しかも、そこでアナク人を見た。』と言って、私たちの心をくじいた。」それで、私はあなたがたに言った。「おののいてはならない。彼らを恐れてはならない。あなたがたに先立って行かれるあなたがたの神、主が、エジプトにおいて、あなたがたの目の前で、あなたがたのためにしてくださったそのとおりに、あなたがたのために戦われるのだ。また、荒野では、あなたがたがこの所に来るまでの、全道中、人がその子を抱くように、あなたの神、主が、あなたを抱かれたのを見ているのだ。このようなことによってもまだ、あなたがたはあなたがたの神、主を信じていない。」主は、あなたがたが宿営する場所を捜すために、道中あなたがたの先に立って行かれ、夜は火のうち、昼は雲のうちにあって、あなたがたの進んで行く道を示されるのだ。」 

 12人のうちヨシュアとカレ部以外の10人たちは、否定的な報告をしました。確かにその地は乳と蜜の流れるすばらしい地だが、上って行くことはできない。そこにはエモリ人やアナク人といった大男がいるので、入って行こうものなら根絶やしにされてしまう。と言ったのです。その報告を聞いたイスラエルの民はどうなったでしょうか。彼らは大声をあげて叫び、民は、その夜、泣き明かしました(民数記14:1)。彼らは自分たちが見た通りのことを語ったのは良かったのですが、それがどういうことなのかを正しく理解していませんでした。それで、間違った結論を出してしまいました。モーセはそのことを28節で、「私たちの心をくじいた」と言っています。そのような否定的な報告は、それを聞いたイスラエルの人々の心をくじくのです。それがつぶやきの一番おそろしいことです。あなたが不平不満を言い、あなたが恐れていると、回りの人をくじけさせます。あなたの不平不満があなただけでとどまっているのではなく、他の人にも伝染するのです。よく、自分の弱さはさらけだすべきだということを聞くことがありますが、それは間違っています。自分の弱さをさらけ出せばいいというのではなく、そこに働いておられる主の力を信じて、主の恵みを証しなければなりません。パウロはエペソ4章29節で、「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを離し、聞く人に恵みを与えなさい。」と言っています。悪いことばとは不信仰のことばです。そのようなことばは人の心をくじきますが、良いことば、信仰から出たことばは人の徳を養います。そのようなことばを語らなければならないのです。

 

そのようなイスラエルの不信仰の結果、どのような結果がもたらされたでしょうか。34節から40節までをご覧ください。「主は、あなたがたの不平を言う声を聞いて怒り、誓って言われた。「この悪い世代のこれらの者のうちには、わたしが、あなたがたの先祖たちに与えると誓ったあの良い地を見る者は、ひとりもいない。ただエフネの子カレブだけがそれを見ることができる。彼が踏んだ地を、わたしは彼とその子孫に与えよう。彼は主に従い通したからだ。」主はあなたがたのために、この私に対しても怒って言われた。「あなたも、そこに、はいれない。あなたに仕えているヌンの子ヨシュアが、そこに、はいるのだ。彼を力づけよ。彼がそこをイスラエルに受け継がせるからだ。あなたがたが、略奪されるだろうと言ったあなたがたの幼子たち、今はまだ善悪のわきまえのないあなたがたの子どもたちが、そこに、はいる。わたしは彼らにそこを与えよう。彼らはそれを所有するようになる。あなたがたは向きを変え、葦の海への道を荒野に向かって旅立て。」 

 主はイスラエルの不平を聞いて怒られ、ヨシュアとカレブ以外、モーセを始めとして、「この悪い時代のこれらの物のうちには、わたしが、あなたがたの先祖たちに与えると誓ったあの良い地を見る者はひとりもいない」(35節)と断言されたのです。主はこれまでもずっと反逆してきたイスラエルを赦してこられましたが、このことが決定的な原因となって、イスラエルの第一世代の人たちは、主が与えると言われた約束の地に入ることができませんでした。 

「すると、あなたがたは私に答えて言った。「私たちは主に向かって罪を犯した。私たちの神、主が命じられたとおりに、私たちは上って行って、戦おう。」そして、おのおの武具を身に帯びて、向こう見ずに山地に登って行こうとした。たしかに主は命じられました。しかし、語られたときに彼らは聞き従いませんでした。それで主は私に言われた。「彼らに言え。『上ってはならない。戦ってはならない。わたしがあなたがたのうちにはいないからだ。あなたがたは敵に打ち負かされてはならない。』」私が、あなたがたにこう告げたのに、あなたがたは聞き従わず、主の命令に逆らい、不遜にも山地に登って行った。すると、その山地に住んでいたエモリ人が出て来て、あなたがたを迎え撃ち、蜂が追うようにあなたがたを追いかけ、あなたがたをセイルのホルマにまで追い散らした。あなたがたは帰って来て、主の前で泣いたが、主はあなたがたの声を聞き入れず、あなたがたに耳を傾けられなかった。こうしてあなたがたは、あなたがたがとどまった期間だけの長い間カデシュにとどまった。」(41-46)

 すると彼らはどのような態度を取ったでしょうか。彼らは主に対して罪を犯したと言って、主が命じられたことを行おうと、上って行こうとしました。しかし、それが信仰から出たことではなかったことは明らかです。なぜなら、その後で主は「上ってはならない。」と命じているのに、それでも上ろうとしたからです。彼らの行動はあくまでも自分たちの思いに基づいたものだったのです。こういうのを何というのでしょうか。あまのじゃくとか、すれ違いとでもいうでしょうか。「上って行け」と言われると「いやです」と答え、「上って行くな」と言われると、「いや、上っていく」というのです。不信仰な人はいつもこのような行動をします。 

 その結果はどうだったでしょうか。彼らは出てきたエモリ人たちの迎え撃ちに会い、セイル山まで追い散らされてしまいました。それは悲惨なものでした。そして、みことばに従わず、自分勝手なことをしておきながら、失敗して嘆き訴えても、主は聞いてくださいませんでした。彼らに求められていたことは自分の罪を悔い改めて、ただ神のみこころに従うことだったのです。自己中心的に解決しようとするのではなく、神のみこころに歩むこと、それが求められていたのです。今からでも遅くはありません。私たちもこのイスラエルと同じような失敗を繰り返す者ですが、このところから学び、同じ失敗を繰り返さないように、すなわち、自分自身がどうであれ、主のみこころは何かを悟り、それに従う者でなければなりません。聞いたみことばを信仰によって心に結び付けていきたいと思います。これが繰り返して神が語っておられることなのです。

民数記36章

きょうは民数記36章から学びます。まず1節から4節までをご覧ください。 

Ⅰ.ヨセフ族の訴え(1-4) 

「ヨセフ族の一つ、マナセの子マキルの子ギルアデの氏族に属する諸家族のかしらたちが進み出て、モーセとイスラエル人の諸家族のかしらである家長たちに訴えて、言った。「主は、あの土地をくじによってイスラエル人に相続地として与えるように、あなたに命じられました。そしてまた、私たちの親類ツェロフハデの相続地を、彼の娘たちに与えるように、あなたは主に命じられています。もし彼女たちが、イスラエル人の他の部族の息子たちにとついだなら、彼女たちの相続地は、私たちの父祖の相続地から差し引かれて、彼女たちがとつぐ部族の相続地に加えられましょう。こうして私たちの相続の地所は減ることになります。イスラエル人のヨベルの年になれば、彼女たちの相続地は、彼女たちのとつぐ部族の相続地に加えられ、彼女たちの相続地は、私たちの父祖の部族の相続地から差し引かれることになります。」

ここには、マナセ族の一つの氏族のかしらたちが進み出て、モーセとイスラエル人の諸家族のかしらである家長たちに何やら訴えたことが記されています。その訴えの内容は、マナセ族のツェロフハデの相続地に関することです。彼らが他の部族の人と結婚してとついで行ったなら、その土地はその部族の土地に加えられるため、自分たちの相続地が減ることになるのではないか、というものです。 

思い出せるでしょうか、27章1節から11節までのところには、ヨセフ族のツェロフハデには男の子がなく5人の娘たちばかりだったので、この5人の娘たちが、自分たちに父の相続地が与えられないのはおかしいと、モーセに訴えたのでした。それでモーセがこれを主の前に出して祈ったところ、主はその訴えはもっともであると言われ、彼女たちにも父の相続地を渡すように仰せになられました。

しかし、ここでまた新たな問題が生じました。そのように彼女たちが父の相続地を受けるのは構わないけれども、もし彼女たちが別の部族の人と結婚するようなことがあれば、その土地はその部族の相続地に加えられることになり、自分たちの相続地が減ってしまうのではないかということです。そこでマナセ族のかしらたちがやって来て、モーセに訴えたのです。 

Ⅱ.主のみこころ(5-9)

そのことに対する主の答えはどのようなものだったでしょうか。5節から9節までをご覧ください。

「そこでモーセは、主の命により、イスラエル人に命じて言った。「ヨセフ部族の訴えはもっともである。主がツェロフハデの娘たちについて命じて仰せられたことは次のとおりである。『彼女たちは、その心にかなう人にとついでよい。ただし、彼女たちの父の部族に属する氏族にとつがなければならない。イスラエル人の相続地は、一つの部族から他の部族に移してはならない。イスラエル人は、おのおのその父祖の部族の相続地を堅く守らなければならないからである。イスラエル人の部族のうち、相続地を受け継ぐ娘はみな、その父の部族に属する氏族のひとりにとつがなければならない。イスラエル人が、おのおのその父祖の相続地を受け継ぐためである。こうして相続地は、一つの部族から他の部族に移してはならない。イスラエル人の部族は、おのおのその相続地を堅く守らなければならないからである。』」  主は、このヨセフ部族の訴えはもっともであると言われ、彼女たちは父の部族に属する氏族、すなわち、ヨセフ族の人たちのところにとつがなければならない、と言われました。なぜでしょうか。イスラエル人は、おのおの父祖の部族の相続地を堅く守らなければならないからです。神から与えられた相続地は、他の部族へ移してはなりませんでした。イスラエルの各部族は、おのおのその相続地を堅く守らなければならなかったのです。 

いったいなぜ神はこのように命じられたのでしょうか。いったいなぜこのことが民数記の最後のところに記されてあるのでしょうか。このことは私たちクリスチャンにどんなことを教えているのでしょうか。それは、私たちクリスチャンに与えられた相続地も変わらないということです。それは不変であり、不動のものなのです。私たちの行いにかかわらず、神が私たちに与えてくださった相続地はいつまでも変わることがないのです。 

ペテロはこう言いました。「また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。」(Ⅰペテロ1:4) 

私たちに与えられている相続地は、朽ちることも汚れることも、消えていくこともないものです。それが天にたくわえられているのです。そして、やがてそのような資産を受け継ぐようになると思うとき、たとえ今、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければならないようなことがあったとしても、喜びを持つことができます。たましいの救い、永遠のいのちを得ているからです。これはすばらしい約束ではないでしょうか。 

 また、ここには、「イスラエル人は、おのおのその相続地を堅く守らなければならないからである。」ということが強調されています。ということは、私たちが守らなければならない相続地があるということです。私たちには神からすばらしい相続地が与えられていながら、いろいろなことでそれを失ってしまうことがあります。その一つが試練でありましょう。私たちはこの地上にあってさまざまに試練にあうたびに信仰が試されることがありますが、どのようなことがあっても、神から与えられた相続地を堅く守っていかなければならないのです。 

Ⅲ.ツァロフハデの娘たちの応答(10-13) 

 さて、このように語られた主のことばに対して、ツァロフハデの娘たちはどのように応答したでしょうか。10節から13節までをご覧ください。

「ツェロフハデの娘たちは、主がモーセに命じられたとおりに行なった。ツェロフハデの娘たち、マフラ、ティルツァ、ホグラ、ミルカおよびノアは、そのおじの息子たちにとついだ。彼女たちは、ヨセフの子マナセの子孫の氏族にとついだので、彼女たちの相続地は、彼女たちの父の氏族の部族に残った。」 

ツァロフハデの五人の娘たちは、主がモーセに命じられたとおりに行い、そのおじの息子たち、すなわち、従兄弟のところにとつぎました。彼女たちがそのようにしたので、彼女たちの相続地は、彼女たちの父の氏族の部族に残ったのです。 

「これらは、エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原で、主がモーセを通してイスラエル人に命じた命令と定めである。」 

 これらが、エリコに近いモアブの草原で、主がモーセを通してイスラエル人に命じたことでした。特にこの民数記の26章からは、イスラエルが約束の地に入ってからどうあるべきなのかについて語られましたが、それは私たちの信仰生活そのものでもあります。私たちは神の恵みにより、イエス・キリストを信じる信仰によって救いの中に入れられました。神の相続地に入れさせていただきました。そこでは堅く守らなければならないものがたくさんあることに気付かされます。神の相続を受けたからもう大丈夫だというのではなく、神の相続地を受けたからこそそれを堅く守り、神のみことばに従順に聞き従う者でなければなりません。それが神の恵みによって救われた者としてのふさわしい応答なのです。

ヘブル3章1~6節 「モーセよりもすぐれたキリスト」

 きょうは、「モーセよりもすぐれたキリスト」というタイトルでお話します。この手紙はユダヤ人クリスチャンに宛てて書かれた手紙です。彼らはイエス・キリストを救い主として信じましたが、度重なる激しい迫害に耐えかねてかつての古い教えに戻ろうとしていたので、イエス・キリストが旧約聖書に出てくるどのような人よりも、どのようなものよりもすぐれた方であるということ証明し、励まそうとしたのです。そのためこの手紙の著者は、イエス・キリストをいろいろなものと比較しています。 

 まず1章では預言者たちと比較しました。神は、昔、預言者たちを通して、多くの部分に分け、いろいろな方法によって語られましたが、終わりの時には、御子によって語られました。神は御子によってご自分のすべてのものを現してくださったのです。神の御子イエスをみれば、神がどのような方であるかがわかります。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであって、そうした預言者たちとは全く比較にならない偉大な方なのです。 

 それから、1章後半から2章にかけては、御使いたちと比較しました。なぜなら、御使いはユダヤ人にとって特別な存在だったからです。けれども神は御使いに対して「わたしの子」と呼んだことは一度もありませんでした。ただ御子に対してだけをそのように呼ばれたのです。御使いは被造物であって、神に仕える者でしたが、御子は万物の創造者であられ、仕えられる方です。御使いは神の前にひれ伏し、伏し拝む者、すなわち、礼拝をささげる者ですが、御子は礼拝を受けられる方です。だからイエス・キリストは御使いよりもはるかにすぐれた方なのです。 

 そしてきょうのところではモーセと比較されています。なぜモーセなのでしょうか。モーセは偉大な預言者であり、ユダヤ人が最も尊敬していた人物だったからです。律法はこのモーセを通して与えられました。この偉大なモーセと比較して、イエスがどれほどすぐれた方であるのかを証明しているのです。 

 Ⅰ.イエスのことを考えなさい(1) 

 まず1節をご覧ください。

「そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。」

 「そういうわけですから」とは、これまで語られてきたことを受けてということです。特に2章9節以降のところには、キリストはなぜ人となって来られたのかについて語られてきました。それはすべての人のためでした。神はすべての人を救うためにご自分の御子をこの世に遣わし、十字架におかけになって、罪の贖いを成し遂げてくださいました。すべての人はこの罪のために死ななければなりませんでした。一生涯死の恐怖につながれていたのです。そんな死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放するためにキリストは来られ、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼしてくださいました。そればかりでなく三日目によみがえられました。それゆえに、この方を信じる者はこの方が死からよみがえられたように、やがて死からよみがえるのです。もはや死は何の力もありません。それは栄光の御国への入り口になりました。こんなにすばらしい救いがあるでしょうか。私たちはこの神の御子イエス・キリストを救い主と信じたことによって、この救いを受ける者となったのです。ハレルヤ!「そういうわけですから」です。 

「そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。」 

 人は何を考えるかによってその生活が決まります。ビジネスのことばかり考えている人は、いつもビジネスのことばかり口にします。どうしたら仕事がうまくいくか、どうしたらもっと利益をあげることができるかといったことを語り、そのための情報を集めるためにアンテナを高くあげて、あちらこちらに奔走するのです。だからあまり落ち着きがありません。恋愛に関心のある人はいつも恋愛のことばかり考えています。寝ても覚めても彼氏や彼女のことばかりです。健康に関心のある人は、健康のことばかり考えています。何を食べればダイエットに効果があるか、どうしたら腸の動きを活発にすることができるか、そういったことに敏感に反応するのです。ではクリスチャンは何を考えるのでしょうか?クリスチャンが考えるのはイエス・キリストのことです。なぜなら、クリスチャンは天の召しにあずかっている者だからです。これはどういうことかというと、天国に行くように召された者であるからということです。皆さん、クリスチャンは天国に行くように召された者なのです。だから天国のことを考えるのです。 

 これまではそんなこと考えたことがありませんでした。天国に行くのはずっと先のことだし、天国のことを考えるよりも、今をどう生きるかということを考えることの方がよっぽど大切だと思っていました。だからいつもこの地上のことばかり考えながら生きてきたのです。今をどう生きるかが最大の関心事だったのです。だから教会に誘われても、「そんなこと考えている暇なんてないよ。毎日忙しくて」と、目の前のことばかりに追われていたのです。どうしたら豊かになれるのか、どうしたら成功することができるのかということで一杯だったわけです。 

 しかし、イエスを信じた今は違います。確かにこの地上のことも大切です。でもイエスを信じてからは、それは一時的なものだということがわかりました。この地上では旅人であり、寄留者にすぎないことがわかったのです。それは永遠に続くものではありません。永遠に続くものは何でしょうか。いつまでも続くものは、信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。ですから、いつまでも神の愛とその御国です。私たちはやがてそこに帰るのです。だから私たちはこれを目標に、天の召しにあずかっている聖なる者、神の者として、神の栄光が現されるように生きるのです。 

 ですから、クリスチャンが求めなければならないことは、その信仰の中心であるイエスのことを深く心に留めることなのです。なぜあなたに喜びがないのでしょうか。自分のことにこだわっているからです。自分の思いに執着して、なかなかそれを手放すことができないでいるからです。あなたの目を神に向け、あなたのすべてを神にゆだねてください。そうすれば、自分自身から解放されて、キリストにある平安を持つことができます。それは聖書にこう書いてあるからです。 

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6~7) 

 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもって祈りと願いをもって、あなたがたの願い事を神に知っていただけばいいのです。自分を見るのではなくイエスを見なければなりません。イエスのことを考えるなら、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたの心と思いをキリスト・イエスにあって守っていただけるのです。なぜなら、イエスはあなたの告白する信仰の使徒であり、大祭司であられる方だからです。どういうことでしょうか? 

 「使徒」とは「遣わされた者」という意味です。イエスは父なる神によって遣わされた者でした。何のために遣わされたのかというと、父なる神のみこころを伝え、そのみわざを行い、私たちを罪から救うためです。「大祭司」とは逆に、人々の代表として神にとりなしをする人のことです。仲介者ですね。イエスは私たちの罪の身代わりとして十字架にかかって死なれ、墓に葬られ、最も深い所である「よみ」という所へ下られました。しかし三日目によみがえられて、神の御住まいである天に昇られて、神の右の座に着座されました。私たちの罪の贖いは完全に成し遂げられました。だから私たちはこの方に全く信頼し、すべてをゆだねることができるのです。私たちが見つめなければならないのはこのイエスです。イエスのことを考えなければならないのです。 

あなたは何を考えているでしょうか。仕事のことや学校のこと、家庭のこと、将来のこと、健康のことで頭が一杯になってはいないでしょうか。どうぞ、イエスのことを考えてください。 

Ⅱ.すべてのものを造られた神(2-4) 

 次に2節から4節までをご覧ください。ここには、そのイエスはどのような方なのかが語られています。

「モーセが神の家全体のために忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実なのです。家よりも、家を建てる者が大きな栄誉を持つのと同様に、イエスはモーセよりも大きな栄光を受けるのにふさわしいとされました。家はそれぞれ、だれかが建てるのですが、すべてのものを造られた方は、神です。」

 

 ここでこの手紙の著者は、イエスがどれほど偉大な方であるかを証明するためにモーセと比較しています。なぜモーセなのでしょうか。それは先ほども述べたように、ユダヤ人にとってモーセほど偉大な人物はいなかったからです。祈祷会では民数記を学んできましたが、今週でその学びが終わります。それは神がモーセを立て、神の民であるイスラエルを約束の地まで導き入れるようにされた歴史です。彼の働きによって、旧約聖書の最初の五つの書が書き記されました。だから旧約聖書の最初の五つの書を「モーセ五書」と言うのです。彼はイスラエルのすべての土台を据えた人でした。したがって、モーセは旧約の預言者の中でも最も偉大な預言者であり、この地上には、彼ほど偉大な預言者はいませんでした。 

 そしてこのモーセの特徴は何かというと、神の家であるイスラエル全体のために忠実に仕えたということです。彼がすぐれていたのは何か目ざましいことを行なったからではなく、いつでも、どこでも忠実に、神が命じられたとおりのことを行ったということなのです。皆さん、忠実であるとはどういうことでしょうか。忠実であるとは、主が命じられたことを、そのとおりに行うことです。モーセはそのような人でした。 

 それに対してイエスはどうだったでしょうか。イエスも同様に、ご自分を立てた方に対して忠実でした。モーセ同様に、イエスも父なる神に対して忠実だったのです。イエスは、いつでも、どこでも、父なる神がお語りになった通りのことを語り、そのとおりに行われました。父から離れて勝手に行動したことは一度もありませんでした。ヨハネ6章38節にはこうあります。 

「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。」

イエスが来たのは自分の思いを行うためではなく、自分を遣わした方、すなわち、天の父なる神のみこころを行うためでした。そして、イエスはそれを完全に行われました。ですからモーセが神の家全体のために忠実であったように、イエスもご自分を立てた父なる神に対して忠実だったのです。 

では、イエスとモーセは同じレベルの人物であったということなのでしょうか。違います。イエスもモーセも神に対して忠実であったという点では同じですが、根本的に違う点があります。それが3節と4節に書かれてあります。

「家よりも、家を建てる者が大きな栄誉を持つのと同様に、イエスはモーセよりも大きな栄光を受けるのにふさわしいとされました。家はそれぞれ、だれかが建てるのですが、すべてのものを造られた方は、神です。」 

 どういうことでしょうか。皆さん、家とその家を建てる者ではどちらが偉いのでしょうか。何億円もするような豪華な家を見ると、「すごい家だなぁ」と感動しますが、実はすごいのは、その家そのものよりもその家を建てた人なのです。 

 この夏アメリカに行ったとき、カリフォルニア州サンシメオンという街にあるハースト・キャッスルと呼ばれる豪邸を見に行きまた。これは1900年代前半に新聞産業で財を成したウィリアム・ランドルフ・ハーストという人が作った自分の家で、現在はカリフォルニア州の州立公園として管理されていますが、8,400㎡という広大な敷地に6,000㎡のお城と、3つのゲストハウス、それに屋外プール、屋内プール、遊技場、エアポートまでついているという豪華な家です。きょうはこの後でさくらチャペルの起工式がありますが、その土地は124㎡ですので、67倍もある大きな敷地です。それは敷地だけの面積で、実際に彼が所有していた土地はものすごい広さで、おそらく栃木県全部の面積に匹敵するほどの広さです。もっとすごいのは、その豪華絢爛な建物です。ダイニングルームやプライベートシアター、巨大なライブラリーやハースト夫妻の寝室など、建物の細かい彫刻や壁画、絵画、デコレーションなど120の部屋があり、そのすべてが贅沢でため息が出るほどです。それは山の上に建てられていて、そこから海が一望できるすばらしいロケーションになっています。しかし、それがどれほど豪華なお城であっても、もっとすごいのはその家を建てた人なのです。 

 ある中学生が友達を誘って教会に来ました。「何で来たの」と尋ねると、友達と偶像の話になり、「何で木や石で造ったものを拝むのか」という話になったそうです。「木や石で作ったというのは、作った人の方が偉いということじゃないの?それなのに、どうして作った人が作られた物を拝むのか、おかしいじゃないか」という話になり、「ホントだ。おかしい。」「何かおもしろい」「何だか感動した」「ぼくも教会に行ってみたい」と言って、教会に来たというのです。 

 皆さん、よく考えてみてください。どっちが偉いんですか。造った人ですか、造られた物ですか。もちろん、造った人です。モーセは神の民であるイスラエル全体のために忠実に仕え、彼らを約束の地へと導きましたが、その神の家であるイスラエルを造られたのはだれでしょうか。イエスさまです。イエスは創造主であられるのに対して、モーセは被造物の一つにすぎません。すべてを造られたのは神です。この神の方がはるかに偉大なのであって、その神こそ万物の創造者であられるイエス・キリストなのです。ですから、イエスはモーセとは比較にならないほど偉大な方なのです。 

 Ⅲ.神の御子イエス・キリスト(5-6) 

 なぜイエスはモーセよりも偉大な方であると言えるのでしょうか。もう一つの理由は、モーセは神のしもべであったのに対して、イエスは神の御子であられるからです。5,6節をご覧ください。

「モーセは、しもべとして神の家全体のために忠実でした。それは、後に語られる事をあかしするためでした。しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。」 

 ここではモーセとイエスのどちらが偉いのかということを、立場の違いをもって説明しています。すなわちモーセはしもべと呼ばれているのに対して、イエスは御子と呼ばれているということです。モーセは神のしもべとして神の家のために忠実に仕えましたが、イエスは神の御子として神の家を忠実に治めておられる方なのです。立場が全然違います。しもべは主人に仕える者ですが、御子はその家の所有者、オーナーなのです。イエスは神の御子として、神の家を治められる方なのです。モーセは後に語られる事をあかしするために立てられました。それは天にある神の幕屋のことですが、その天の幕屋を治めておられるのがイエスなのです。イエスこそモーセが指し示していた神の幕屋の実態であり、目的であられる方だったのです。それゆえ、イエスがどれほど偉大な方であるかがわかると思います。 

 ですから、結論は何かというと、6節後半のみことばです。ご一緒に読みましょう。「もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。」 どういうことですか?イエスはこのような方なので、最後までこの方に確信と希望を持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。すなわち、そこに神のいのち、救いがあるということです。 

 パピニというイタリアの詩人が、こんな言葉を書いています。「人間の生活に絶対必要なものが三つある。食物と健康と、それに希望である。」確かに、その通りだと思います。でも、今の世の中で、いったいどこに希望を見つけることができるのでしょうか。どこにも見つけることができません。しかし、イエス・キリストを信じる人には、すばらしい希望が与えられるのです。イエスはこう言われました。「わたしは、よみかえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)死んでも生きるいのちがある。これこそ真の希望ではないでしょうか。この希望はキリストを信じる者に与えられるのです。 

 先週はウイリアム・ウッド先生が来会してメッセージを語ってくださいましたが、そのウッド先生が書かれた著書「あなたを元気にする100のミニ・メッセージ」がカウンターにあります。その本の中にベレッタ・クラムリーというアメリカ人女性の体験談が紹介されています。彼女は旧約聖書のヨブを思わせる壮絶な試練を経験しました。長男のダニエルは、二歳の時に、白血病で亡くなりました。初めは、「どうしてですか」と神に抗議の祈りをしましたが、その大きな苦しみの中で、人間にとって最も大切なことは、「わたしはよみがえりであり、命です。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」と言われたお方を知ることだと、確信させられました。                                                                            そしてその二年後に、今度は夫のヘンリーが癌だと分かりました。その時には二男のリヨンに続いて、長女のローリーが生まれていました。夫のヘンリーは海外宣教に使命を感じていたので、彼は、残りの日々を、海外宣教のために使おうと、決意しました。病気を押して夫婦は南米、ギリシャ、インド、日本、韓国、台湾へと宣教の旅に出ました。帰国して一週間後、夫のヘンリーは天に召されました。葬儀の午後のことを、ベレッタさんは、こう語っています。「突然、私の心に夫の幻が現れ、彼のよみがえった体は勝利を得て、もう二度と苦しまず、早く主のもとに急いで昇って行きたいように見えました。両腕を伸ばしたイエス様がヘンリーに呼び掛けて「良い忠実なしもべだ。よくやった」と言ってくださると確信しました。                                        三度目の試練は、突然でした。17歳になった二男リヨンと妹のローリーが乗っていた車が事故に遭ったのです。二人の死を告げる警察官の言葉にベレッタさんは、「突然高い崖から荒れている海に突き落とされたかのような気がしました」と言いました。しかし次の瞬間、聖霊に強く包まれ、優しく、平安な、天の父なる神の温かい臨在を感じたと言います。そして警察官に向かって、落ち着いた声でこう言いました。「うちの子供は天国の神様のところに行きましたのね。」ベレッタさんはその後、宣教師として台湾で奉仕し、多くの人々をキリストに導いておられるそうです。夫と長男を病気で失い、二男と長女を交通事故で失うという失意の中でも、彼女は死んでも生きるいのち、永遠のいのちの約束をしっかりと握りしめ、その希望を持って歩み続けておられるのです。

 皆さん、私たちの人生には実に多くのことが起こります。しかし、それがどのようなものであっても、キリストにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。なぜなら、キリストは神の御子であられ、すべてのものを創造された方であり、またそれを支配しておられる方だからです。また、キリストは死んで、よみがえられました。あなたのために救いのみわざを完全に成し遂げてくださいました。ですから、あなたが最後まで確信と希望を持ち続けるなら、あなたは神の家になるのです。 

「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。・・しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべての中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さ、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ローマ8章35~38節) 

 このイエスに終わりまでしっかりととどまりましょう。いつもイエスのことを考えましょう。イエスがあなたの希望です。イエスはモーセよりもはるかにすぐれたお方なのです。