Ⅰテモテ3章1~13「監督、執事にふさわしい人」

きょうは、Ⅰテモテ3章から「監督、執事にふさわしい人」というタイトルでお話します。1章で語ったことを受けてパウロは、教会においてクリスチャンはどうあるべきなのかを、2章から述べています。まず初めに、すべての人のために祈りなさい、ということでした。なぜなら、神はすべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられるからです。そして次にパウロは、男女の役割について教えました。男は怒ったり言い争ったりすることなく、きよい手をあげて祈るように、また、女はつつましい身なりで、静かにしているようにということでした。

その流れの中できょうのところでは、教会を治める人たちについて語られます。監督、長老、牧師、執事にふさしい人はどのような人であるかということです。それは、教会の秩序が保たれるために最も重要なポイントだと言えるでしょう。しかし、それは教会のリーダーだけに求められていることではなく、私たちクリスチャンすべてに求められていることでもあります。なぜなら、神は私たちすべてのクリスチャンがそのような働きをすることを願っておられるからです。これはすべてのクリスチャンに対する神のみこころであり、とりわけ、教会のリーダーたちに求められていることなのです。

Ⅰ.監督にふさわしい人(1-7)

それではまず、1節から7節までをご覧ください。1節をお読みします。

「人がもし監督の職につきたいと思うなら、それはすばらしい仕事を求めることである」ということばは真実です。」

「監督」とは文字通り「監督をする」という意味で、教会の監督をする人のことです。教会の牧師、教師、長老、伝道者など、教会の指導をする人たちのことです。いわば神の家の管理者のことです。どの集まりや組織にもその群れ全体をまとめるリーダーの存在がありますが、それが立つか倒れるかはほとんどの場合そのリーダーの腕にかかっていると言っても過言ではありません。ですから、それだけ責任が重いのです。しかし、ここには、「それはすばらしい仕事をもとめることである」ということばは真実です、とあります。それは牧師、教師だけでなく、すべてのクリスチャンに求められていることだからです。すべての人が監督になるわけではありませんが、そのような仕事を求めることはすばらしいことなのです。

では、監督にふさわしい人とはどのような人でしょうか。2節から7節までをご覧ください。

「2 ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、3 酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、4 自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。5 ―自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう―6 また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。7 また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。そしりを受け、悪魔のわなに陥らないためです。」

ここには、監督の資質として15の項目があげられています。まず「非難されるところがない」ということです。これは罪を犯したことがない完璧な人ということではありません。この言葉は元来「捕まえられない、取り上げられない」という意味で、まずいことをしてしっぽをつまれるようなことをしていない人という意味です。一般的に見ても非難されない、とがめられるようなことをしていない人ということです。

次は、「ひとりの妻の夫であり」ということです。当たり前じゃないかと思われるかもしれませんが、当時は、当たり前ではありませんでした。パウロの時代、一夫多妻制というか、妻の他に妾(めかけ)をもっていることが当たり前のことだったのです。男は、最低妾を3人は持てと言われていました。一人は話し相手のために、もうひとりは性的欲求を満たすため、そしてもうひとりは子どもを生んで育てるためにです。そうした背景にあってパウロは明確に一人でなければならないと言ったのです。これは当時としては画期的なことだったのです。

これは監督や牧師は必ずしも結婚していなければならないということではありません。独身でも問題ではありませんでした。しかし、妻を持つなら一人でなければならなかったのです。

自分を制しとは、正気であるとか、酒に酔っていないということですが、感情面で安定していることです。教会にはいろいろな問題が起こりますが、そうした問題があっても動揺したり、押しつぶされたりしないで、主にあって心の平安をいただき、常にバランスをもって対処することが求められたのです。

慎み深くとは、思慮深くとか、分別があるということです。この点に欠けると、教会はとんでもない方向に行ってしまうことがあります。みことばによって絶えず主から知恵をいただき、判断と決断をしていかなければなりません。

品位がありとは、ふるまいや態度においてたしなみがあり、礼儀正しいということです。坂東真理子さんが書いた「女性の品格」という本の中には、たとえば、約束をきちんと守るとか、長い人間関係を大切にする。敬語はきちんと使う。乱暴な言葉・ネガティブな言葉を使わない。流行に飛びつかない。姿勢は正しくする。良い客になる。値段でモノを買わない。思い出の品を大事にする。もてはやされている人に摺り寄らない。利害関係の無い人にも丁寧に接する。怒りをすぐ顔に出さない。不遇な人にも礼を尽くす。聞き上手になる。プライバシーを詮索しない。友人知人の悪口を言わない。といったことが挙げられています。こうしたことは全て、社会人として守るべきマナーですが、特に、教会の牧師、監督に求められることでした。

次は、よくもてなすということです。これは、お客さんをよくもてなすこと、お客さんだけでなく外国の人々や他の人々を率先して受け入れ、親切にして、愛を示すことです。人をもてなすには時間もお金も労力もかかりますが、だからこそ、そこには人々に対する敬愛の情がよく表れるのです。監督は、ことばだけで人を治めることはできません。もてなしの態度に現れるような思いやりが求められるのです。私たちも、外国の方々や新しく来られた方々を温かく歓迎し、心からもてなす教会になりたいと思います。

次は、教える能力があるということです。これだけが唯一、技術的に求められていることです。他はすべて人格的なことや性質的なことに関することですが、これだけが技術的なことに関することです。なぜなら、監督や牧師は、これがないとやっていけないからです。もちろん、教える能力があっても他の面で欠けていると問題になりますが、しかし、他の面でどんなに優れていても教える能力がないと治めることはではないのです。監督は真理のみことばをまっすぐに説き明かす者でなければならないからです。

そして、次は酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲であるということです。この五つのことは一つのまとまりとして考えることができます。同じような内容が別の表現で語られています。「酒飲み」とは「酒におぼれる」という意味で、習慣的な飲酒を指しています。酒は気ちがい水と言って、人を気ちがいにする水だと言われていますが、酒が原因で起こる悲劇は後を絶ちません。酒は理性や分別を失わせてしまうのです。酒飲みの指導者が本当に良い政治をした例があるでしょうか。箴言には、マサの王レムエルの母が、自分の息子に次のように教えました。箴言31章4,5節です。

「4 レムエルよ。酒を飲むことは王のすることではない。王のすることではない。「強い酒はどこだ」とは、君子の言うことではない。5 酒を飲んで勅令を忘れ、すべて悩む者のさばきを曲げるといけないから。」

それは賢明な戒めでしょう。神の家の管理者は酒飲みではなく、御霊に満たされることが求めなければならないからです。

暴力をふるわずとは、説明がいらないでしょう。殴る、蹴る、乱暴を働くという意味です。このようなことは神の家の牧者としてふさわしいことではありません。

温和でとは、思いやりがあり、優しく、柔和であることです。性格が落ち着いているということです。これは監督だけでなく、すべてのクリスチャンに求められている徳性でもあります。

争わずとは、文字通りけんか好きではない、論争好きではないということです。

そして金銭に無欲であるということです。これは、金銭を愛さないということです。なぜなら、「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」(6:10)これは牧師や監督だけでなく、すべてのクリスチャンに言えることですが、クリスチャンは金銭のことについては割り切って主にゆだねるべきなのです。

そしてここには、「自分の家庭をよく治め」とあります。またここには、十分な威厳をもって子どもを従わせているという条件が付け加えられています。なぜこのような条件があげられているのでしょうか。それは、これが監督者としての管理能力や指導力をチェックするポイントになるからです。「自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。」とあるとおりです。本当に厳しい条件です。私は牧師になって31年になりますが、いつもこのことで悩みました。時には、神の教会のために自分の家庭を犠牲にすることがあるからです。本当に家族には申し訳なかったと思います。しかし、何よりも優先しなければならないことは自分自身の家族です。自分の家庭を治めることを知らない人がどうして神の教会の世話をすることができるでしょう。できないのです。そういう意味では、私などは牧師としては失格者で、穴があったら入りたいくらいです。もちろん、神様が一番ですが、次は自分の家庭です。そして、教会であり、仕事でありというのがクリスチャンの優先順序です。もちろん、時には仕事が優先したり、教会が優先したりすることもありますが、基本的には家庭は教会や仕事よりも優先されなければならないことなのです。社会の最小単位である家庭を治めることができなければ、多種多様な人々で占められた神の家族である教会を治めることはできないからです。

そしてここには、「信者になったばかりの人ではいけません」とあります。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。「信者になったばかり」とは、まだ信仰生活の知識や経験が少ないということです。指導者にとって、知識や経験がどんなに重要であるかは言うまでもありません。経験がないと、自分のやっていることについて見えなくなり、自己満足に陥りやすくなり、高慢になりやくなるからです。その結果、悪魔と同じさばきを受けることになります。暁の子、明けの明星である天使の長が堕落したのは、このことが原因でした。彼は、「神のようになろう」と高ぶって、自分の領域を守りませんでした。その結果、神は彼をよみに落とされ、穴の底に落とされたのです。信者になったばかりの人が、教会において治める働きをすることは、霊的にも自分自身が高められることだと勘違いして高ぶってしまうことになりかねないのです。しかし、パウロのように主を知れば知るほど自分の足りなさ、罪深さ、至らなさを知るようになれば、すべてにおいて神の恵みとあわれみを求めるようになります。彼は神を知れば知るほど、「わたしは罪人のかしらです」と告白するようになりました。それこそが教会の監督者に求められていることなのです。

これは、若い人が牧会者なることはできないということではありません。テモテ自身も若かったし、古くは旧約の預言者エレミヤも若くして神の召しを受けました。肉の年齢のことではなく、信仰の経験のことを言っているのです。

牧師、監督に求められている最後の条件は、教会外の人々にも評判の良い人でなければならないということです。これは、監督になる人は、その地域においても評判が良くなければならないということです。もし評判が悪い人だと、「そしりを受け、悪魔のわなに陥る」ことになりかねないからです。これはどういうことかというと、世間の人々は、教会に無関心なようでも案外よく見ておられるということです。そして牧師や伝道者、あるいは信者にちょっとでもまずいことがあると、それを大げさに取りざたにするのです。しかし、いつでも悪いことだけを取りざたにしているわけではありません。良いことをすると「やっぱりクリスチャンは違うな」とか、「あの人はクリスチャンだから」と言われることも少なくありません。ですから、クリスチャンは地域社会から遊離するのではなく、かえって正しい評判を得て人々に良い影響を与えるように努めなければならないのです。

以上が、監督の資質、あるいは条件です。ここに挙げられた条件をよく見ると、そのほとんどが人格的なことに関することであって霊的、信仰的なことではないのがわかります。たとえば、「よく聖書を読み、祈る人」とか、「神を第一にしている人」といったことは挙げられていないのです。それはいったいどうしてでしょうか。おそらくそれは当然のこととして考えられていたからでしょう。そうした前提の上で、このようなことが求められていたのであって、そうしたことがどうでもいいということではないのです。おそらく、これはエペソの教会で問題になっていた点に焦点を絞っていたからかもしれません。霊的であればこうしたことはどうでもいいということではなく、教会の指導者たる者はこうしたことも含めてしっかりしていることが求められていたのです。それは、聖書に正しく従っていればその人の人柄や実際の生活の中にきわめて現実的に現れてくるものなのです。

Ⅱ.執事としてふさわしい人(8-12)

次に、執事の資質について見ていきたいと思います。8節から12節までをご覧ください。まず8節から10節までをお読みします。

「8 執事もまたこういう人でなければなりません。謹厳で、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不正な利をむさぼらず、9 きよい良心をもって信仰の奥義を保っている人です。10 まず審査を受けさせなさい。そして、非難される点がなければ、執事の職につかせなさい。」

8節からは執事の資格について述べられています。「執事」とは原語では「ディアコヌス」で、意味は、「仕える者」とか、「給仕する者」です。いわゆるしもべを指すことばです。奴隷のように仕える人たちのことなのです。新約聖書では、使徒の働き6章に最初に出てきます。そこにはギリシャ語を使うユダヤ人たちとヘブル語を使うユダヤ人たちとの間に起こった毎日の配給に関する問題を処理するために、七人の弟子たちが選ばれました。この七人の弟子たちのことです。彼らは、使徒たちはもっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことができるように、いわば教会の実務にあたったのです。つまり、執事というのは、監督、長老、牧師といった教会の指導者がその第一の務めである祈りとみことばに励むことができるように、補助的な働きをして彼らを助けたのです。一般に考えられている名誉職とは違います。しもべのように仕える人、それが執事です。こうした執事も神の教会の管理に携わるわけですので、パウロはここでこうした執事の資格を述べているのです。使徒の働きでは彼らの資格として、「信仰と聖霊とに満ちた人たち」が選ばれましたが、ここではもっと具体的に語られています。

それはまず謹厳で、二枚舌を使わず、大酒のみでなく、不正な利をむさぼらないということです。謹厳とは何でしょうか。謹厳とは尊敬と信頼に値するということです。つまり、誠実で、まじめであるということです。誠実で、真面目で、信頼に値する人こそ執事にふさわしい人です。

二枚舌を使わずとは、相手によって言うことを変えないということです。こっちの人にはこう言って、あっちの人にはこう言ってと、人によって言い方を変えることを二枚舌と言います。舌が二枚あるわけです。これは執事としてふさわしくありません。なぜなら、互いの間の信頼を損なわせ、混乱を生じさせることになるからです。信徒とじかに接することが多い立場として、執事には慎重な舌の使い方が求められるのです。

次に、大酒のみでなく、とあります。この点については監督と同じです。しかし、監督は「酒飲みでなく」とあったのに対して、執事には「大酒飲みでなく」とあることから、ある人は、監督には一切お酒を飲むことが禁じられているが執事はちょっとなら飲んでもいいと解釈する人がいますが、そういうことではありません。お酒を飲むのは酔うためであって、そこには放蕩があります。そのことによって引き起こす悲劇は後を絶ちません。そのようなものをいったい何のために飲む必要があるのでしょうか。これはお酒の量の問題ではなく、お酒によってもたらされる悲劇に対する忠告なのです。そのようなお酒をいったい何のために飲まなければならないのでしょうか。健康のために、少量のぶどう酒を飲むというのならわかりますが、あるいは、美味しいお料理のために調味料として使うというのならわかりますが、それ以外、酔うこと以外お酒を飲む目的がわかりません。飲んではならないということではありませんが、飲む必要がありません。

次に、不正の利をむさぼらずとあります。これはお金にクリーンな人であるという意味です。執事の仕事には金銭を取り扱うこともあったため、欲とむさぼりに気を付けるということは非常に大切なことでした。

そして、きよい良心をもって信仰の奥義を保っている人です。きよい奥義とは、神が啓示してくださったキリスト教の正しい真理のことです。つまり、正しい聖書の教えのことです。執事の働きはどちらかというと経済的なことや物質的な面といった実務的なことが中心ですが、そうした実務的な働きにあっても、それが正しい聖書の教理と信仰に立ってなされなければなりません。ですから、最初の執事たちが選ばれた時の第一の条件は、「信仰と聖霊に満ちた人」だったのです。これは立派な霊的な奉仕なのです。

12節をご覧ください。ここには、「執事は、ひとりの妻の夫であって、子どもと家庭をよく治める人でなければなりません。」とあります。執事にも結婚生活と家庭生活の健全さが求められているのです。執事も神の家の管理に携わるので、本質的には監督に求められていることと同じだからです。

さて、11節をご覧ください。ここには、「執事の妻も、威厳があり、悪口を言わず、自分を制し、すべてに忠実な人でなければなりません。」とあります。この「婦人執事」ということばには※がついていて、下の欄外の説明を見ると、「執事の妻」とあります。これは「婦人執事」のことなのか、「執事の妻」のことなのかはっきりわからないのです。というのは、原語ではただの「女」とか「妻」となっているからです。新改訳聖書が「婦人執事」と訳したのは、前後の文脈で執事のことが述べられているので、おそらくこれは婦人執事のことだろうと考えてのことです。しかし、2章で語られてきたことの流れからみると、そうかなぁと疑問を感じます。というのは、2章のところでパウロは、女は静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい、とあるからです。女が教えたり男を支配したりすることは許しません、とあるからです。その女性が監督、執事といった教会の指導者たちの中に出てくるというのはちょっと合わないような気がするのは私だけでしょうか。そういう意味では「執事の妻」と訳した方が全体的な流れにも合致するように感じます。英語の聖書も、wives(RSV)とかtheir wives(NIV)と、執事の妻として訳しています。ですから、たとえこれが「婦人執事」であったとしても、すでに2章で学んだように、男性執事をサポートする立場としての婦人執事であり、執事である夫や教会の指導者に仕えるふさわしい助け手としてであることを忘れてはなりません。アメリカの教会には「decons」(執事たち)と呼ばれる人たちと「deaconess」(婦人執事たち)という人たちがいる教会があると聞いていますが、それはとても聖書的ではないかと思います。なぜなら、あくまでも執事は男性であっても、その執事や教会の指導者たちを助ける働きが必要だからです。それを婦人執事と呼ぶか、執事の妻たちと呼ぶか、婦人たちと呼ぶかは違いますが、そのような助け手が必要なのは確かなのです。

では、そのような人たちに求められていることはどんなことでしょうか?ここには、「威厳があり、悪口を言わず、自分を制し、すべてに忠実な人でなければなりません。」とあります。それは執事に求められていることと同じことです。なぜなら、悪口は人間関係を損ない、お互いの信頼関係を台無しにしてしまうからです。また女性の場合は、特に感情的になると自分を制することができなくなって互いに気まずくなってしまうことがあるからです。また、忠実でない気まぐれな奉仕も、教会員に不安を与えてしまう恐れがあるからです。

しかし、もしこうした婦人たちの「女らしさ」という賜物がきよめられ、用いられることによって、男性には及びもつかないほどの信仰の美しさが加えられ、それが教会形成においても多大な貢献をなすことができるということを思うとき、こうした女性の働きが必要不可欠なものであるというだけでなく、そうした働きが補い合って、すばらしいキリストのからだである教会が立て上げられていくことがわかります。女性の人たちが目指す姿がここに描かれているのです。

Ⅲ.執事の務めをりっぱに果たした人は・・(13)

最後に13節を見て終わりたいと思います。ここには、こうした務めをりっぱに果たした人には、どのような祝福がもたらされるかが約束されています。

「というのは、執事の務めをりっぱに果たした人は、良い地歩を占め、また、キリスト・イエスを信じる信仰について強い確信を持つことができるからです。」

「良い地位を占め」とは、教会の中でも信頼され、尊敬される人になるということです。また「信仰について強い確信を持つことができる」とは、こうした執事の働きを通して信仰とは何か、福音とは何かということをますます知ることができるようになり、さらに大胆に信仰に歩めるようになるということです。そうした祝福が約束されているのです。これはやってみないとわからないことです。やってみるとその大変さに打ちのめされそうになることもありますが、それと同時にこうした霊的な祝福も味わうことができるというのは、本当にすばらしい特権ではないでしょうか。

ですから、このような仕事を求めることは、すばらしい仕事を求めることなのです。それはすべてのクリスチャンに求められていることでもあります。すべてのクリスチャンがこうした仕事につけるようにと、祈り求めていかなければなりません。格別に、そのような仕事が与えられた人は、その与えられた任務を嫌々ながら、しぶしぶと、適当にやってはいけないのです。尊い主の御用としてりっぱに勤め上げ、神に喜ばれるように忠実に果たしていかなければなりません。

ところで、このように監督、執事、婦人執事の資質を学んできますと、ある一つの疑問が生じてきます。それは、いったいこのような資格に適合する人などいるのだろうかということです。残念ながら、答えはノーです。だれもいません。聖書の要求を満たすりっぱな人など一人もいないのです。また、クリスチャンになったからといってこのような人間になれるわけでもありません。むしろ、あのイザヤが神から預言者としての召命を受けた時のように、「ああ、私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。」(イザヤ6:5)と絶望せざるを得ない者なのです。しかし、そうした現実にもかかわらず、このような資格が求められているというのはそういう人でないとだめだということではなく、それは第一に祈りのためであり、第二に牧師、監督、執事、そしてすべてのクリスチャンにとって、これが真の努力目標であり、成長の目標であるということなのです。

ではいったいどうしたらこの目標に達することができるのでしょうか。Ⅱコリント3章18節にはこうあります。

「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

皆さん、これは御霊なる主の働きによるのです。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに帰られていくのです。それはまさに、御霊なる主の働きなのです。ですから、今の自分を見たら「だめだ~」となりますが、御霊なる主に信頼し、みことばに聞き従って日々歩んでいくなら、主がそのような卑しい私たちを、主と同じ姿に変えてくださるのです。

よくこんな広告を目にすることがあります。「タクシー運転手募集!第一種免許証可、第二種免許証取得を目指します」ご存じのようにタクシーを運転するには第二種運転免許が必要ですが、第一種免許があればいいですよという広告です。なぜなら、実際に働いている中で第二種免許の資格取得を目指すからです。

これは私たちの信仰にも言えることです。私たちにはそんな資格などありませんが、しかし、私たちの主なる神は、ご自分の召し出される人にその資格を取得させないはずがありません。必ずそのようにしてくださるのです。なぜなら、私たちの資格は神からのものだからです。ですから、この神に信頼し、そのような者となれるように、神のふところに飛び込んでいきたいと思うのです。そして信仰について強い確信を持ち、さらに大胆に信仰に歩ませていだたきましょう。

Ⅰテモテ2:8~15「男は男らしく、女は女らしく」

きょうは、Ⅰテモテ2章後半のところから「男は男らしく、女は女らしく」というタイトルでお話します。パウロは1章で語ってきたことを受けて、すべての人のために祈るようにと勧めました。なぜなら、神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられるからです。そして、きょうの箇所では、引き続き祈りについて語りながら教会における秩序について述べています。すなわち、教会においては男は男らしく、女は女らしくあれというのです。男らしいとか、女らしいというのはどういう人でしょうか。

Ⅰ.男は男らしく(8)

まず8節をご覧ください。

「ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。」

まず男に対してパウロは、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい、と勧めています。祈ることはすべてのクリスチャンに求められていることですが、とりわけクリスチャンの男性に求められていることなのです。

20世紀最大の説教家と言われたイギリスの牧師D.M.ロイドジョンズ(David Martyn Lloyd-Jones)は、「祈りは、クリスチャンの男性にとって生死にかかわるものです。」と言いました。祈りは、それほど重要なものなのです。しかし、これほど重要な祈りが妨げられる時があるのです。どういう時でしょうか。それは怒ったり、争ったりするときです。これが、男の弱さでもあります。男性はどちらかというと怒ったり、争ったりする傾向があります。メンツとか虚栄心とか、優越感とか劣等感のゆえに、論争を好む傾向があるのです。おそらくこれは、エペソの教会でもよく見られた光景だったのでしょう。男が人前で怒ったり、言い争ったりするようなことがあったのです。しかし、このようなものは神の義を実現するものではありません。

ヤコブ1章20,21節には、「人の怒りは、神の義を実現するものではありません。ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」とあります。怒りではなく神のみことばを持たなければなりません。怒りは神の義を実現することはありませんが、みことばは、あなたのたましいを救うことができるからです。男は、怒ったり、言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈らなければならないのです。

では、きよい手を上げて祈るとはどういうことでしょうか。手を上げて祈るというのは、ユダヤ人が祈る祈りの姿勢でした。ユダヤ人は普通祈る時、手を上げて祈ったんですね。両手を前に差し出して、立ったままで祈ったのです。哀歌3章40節に、「私たちの手をも心をも天におられる神に向けて上げよう。」とありますが、それは、心を神に向けることの表現だったのです。それがキリスト教会にも取り入れられていたのです。

しかし、ここではただ手を上げて祈れと言われているのではなく、きよい手を上げて祈るようにと言われています。「きよい」とは、もともと神のために分けるという意味です。したがって、きよい手を上げて祈るとは、心と行いがすっかり神の方に向けられていることを示しているのです。私たち心と行いのすべてが神の方に向けられている状態で祈るということです。

イザヤ書1章15~16節を見ると、当時のイスラエルの民はそうではありませんでした。ここには、「15 あなたがたが手を差し伸べて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。16 洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。」とありますが、確かに表面的には多くのいけにえをささげ、新月の祭りやきよめの集会をしていました。しかし、神は、どんなに彼らがそのような宗教的な儀式を行っても聞くことはないと言われました。なぜなら、そこに中身が伴っていなかったからです。そのような祈りは神に喜ばれることはありません。神はその心と行いが神に向けられた祈りを求めておられるのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈らなければなりません。

Ⅱ.女は女らしく(9-14)

次に9節から14節までをご覧ください。まず9節から12節までをお読みします。

「9 同じように女も、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服によってではなく、10 むしろ、神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行いを自分の飾りとしなさい。
11 女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。12 私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。」

女性に勧められていることはどんなことでしょうか。女性には二つのことが勧められています。一つはつつましく身を飾ることで、もう一つのことは、静かにして、よく従う心をもって教えを受けることです。女性には祈るようにとは勧められていません。なぜなら、言われなくても、女性は率先して祈ることができるからです。しかし、女性にとって難しいことがあります。それは慎ましく身を飾ることと、静かにすることです。

まず慎み深く身を飾ることについて、パウロは次のように言っています。

「同じように女も、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服によってではなく、 むしろ、神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行いを自分の飾りとしなさい。」

どういうことでしょうか。この「飾り」と訳されている言葉は「コスメティコス」(kosmetikos)というギリシャ語で、英語のコスメティック(cosmetic:化粧品)の語源になった言葉です。ここからある人たちは、クリスチャンの女性は一切化粧をしてはいけないと考える人がいますが、そういうことではありません。外見をきれいにすること自体は悪いことではないのです。安心してください。歯を磨いて、髪を整え、お風呂に入って清潔にし、ちゃんと洗濯をした服を着ることは最低限のエチケットでもあります。

では、これはどういうことでしょうか。度を越してはいけないということです。ここには「つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り」とあります。派手な格好をすることもできるし、分厚く化粧したり、ブランド品を身に着けたりすることもできますが、あえてそのようなことはしないで、控えめに慎み深く身を飾るようにしなさい、と言うのです。なぜでしょうか。男性につまずきを与えないためです。

この手紙は、当時エペソの教会で牧会していたテモテに宛てて書き送られました。このエペソの町にはアルテミスの神殿があって、それは豊穣の女神アルテミスを祭った神殿ですが、そこには何千という神殿娼婦と呼ばれる人たちがいたのです。彼女たちは町に繰り出しては男たちを魅了していました。派手なファッションをして、金や真珠の宝石で身を飾って挑発していたのです。パウロはそういう状況の中で、あなたがたはこのような派手な格好をしてアッピールするのではなく、神を敬う女性にふさわしく、良い行いを自分の飾りとしなさいと言ったのです。

だから、そういう服を着てはいけないとか、化粧をしてはいけないということではなく、そのような格好をすることによって男性につまずきを与えることがないようにしなさいということなのです。女性はそうした外見で決まるものではありません。むしろ柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらこそ重要であり、それこそ、神の御前に勝ちあるものなのです。

箴言11章22節を開いてみましょう。ここには、「美しいが、たしなみのない女は、金の輪が豚の鼻にあるようだ。」とあります。どんなに美しく着飾っても、たしなみがない人は、金の輪が豚の鼻にあるようなものなのです。また箴言31章30節にはこうあります。

「麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、を恐れる女はほめたたえられる。」

麗しさは偽りです。美しさはむなしいのです。けれども、主を恐れる女性はほめたたえられます。

それから女性に勧められているもう一つのことは、静かにしていなさいということです。11節と12節にはこうあります。「女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。」

これは何回読んでも難解な箇所です。パウロは、いかにも女性を差別しているのではないかと感じられるところで、誤解を生むところでもあるのです。いったいこれはどういうことでしょうか?これは「女は黙っていろ」とか、口を開くことも許さないということではありません。女性の本分とか務めは静かにして、よく従う心をもって教えを受けることであるということです。そうでないと、教会が混乱してしまうことになるからです。エペソの教会にはこうした教えに従わない人たちによって問題が生じていました。一部の女性たちが限度を越えておしゃべりをして、あるいは、むやみやたらに他人のことに首を突っ込むことで混乱が生じていたのです。ここに「女が教えたり、男を支配したりすることを許しません」とありますが、男たち、これは教会の指導的な立場にあった人たちのことですが、そういう人たちの教えを受けるよりも教えようとしたり、支配しようとする人たちがいて、混乱していたのです。

ここが女性の弱いところでもあります。女性は一般的におしゃべりを好む傾向があります。それは女性に与えられた祝福でもありますが、この神から与えられた祝福が人間の罪のせいでゆがめられ、しばしば問題を引き起こしてしまう原因になることもあるのです。そういうことがないように、むしろ静かにしていなさいというのです。「おとなしい」という字を漢字で書くと「大人しい」と書きますが、もし騒ぎ立てるようなことがあるとしたら、それは逆に子どもじみているということです。大人らしい人とは、聖書の教えに従って、静かにして、よく従う心をもって教えを受ける人なのです。

いったいなぜ女が教えたり男を支配したりしてはいけないのでしょうか。13節と14節をご覧ください。ここには、「アダムが初めに造られ、次にエバが造られたからです。また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。」とあります。

なぜ女が教えたり男を支配したりしてはいけないのでしょうか。なぜ女は静かにして、よく従う心をもって教えを受けなければならないのでしょうか。それは、アダムが初めに造られ、次にエバが造られたからです。 また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯してしまったからです。これが、神が定めた創造の秩序なのです。それは決して女が男のロボットであるという意味ではありません。男も女も同じように神のかたちに造られました。そういう意味では男女は平等であり、同権です。しかし、アダムが最初に造られ、次にエバが造られました。エバはアダムの助けてとして造られたのです。それが神の創造の秩序でした。それはアダムが家長としてリードし、妻はそれをサポートするように造られたということなのです。

マシュー・ヘンリーという注解者が、創世記の注解でこう言っています。「エバはアダムの上に立つようにとアダムの頭の一部から造られなかったし、彼にひざまずくようにと彼の足から造られたのでもなかった。そうではなく、彼と等しい者として彼の脇腹から、彼に守られるべく彼の腕の下から、彼に愛されるべく彼の心臓のそばから取り出されて造られたのである。」

男女は互いに助け合い、補完し合うように造られました。男にも足りないところがあるし、女にも足りないところがありますが、そうした足りない者同士が補い合って一つのものを作り上げていくのです。それが夫婦というものです。夫婦を見ていると、両極端とまではいきませんが、全然違うタイプの人同士が結婚していることに気づきます。私たち夫婦はよく真逆だと言われますが、意外とそういう夫婦が多いのです。それでフーフーしているわけですが、そのように全く違った者が結婚して夫婦になるのは、それはお互いに足りない者を補い合って、さらに良い新しいひとりの人に作り上げられていくためなのです。だから、私たちは全く違って大変なのよ、というカップルがいたとしたら、それこそ神の祝福であることを覚えて感謝しなければなりません。

もう一つの理由は、アダムは惑わされなかったが、エバは惑わされて、あやまちを犯したからです。えっ、エバだけでないでしょう。アダムも罪を犯したじゃないですか。アダムもあやまちを犯しました。そうなんです。しかし、蛇に惑わされたのはアダムではなくエバでした。蛇は最初からわかっていたんです。アダムを誘惑しても鈍感な彼にはわからないだろう。こうした霊的なことがわかるのは女であるエバだと。それで蛇はエバを誘惑したのです。「あなたがこれを食べるそのとき、あなたの目は開かれ、神のようになりますよ。」するとエバは「あら、そうかしら」なんて言って、すぐに飛びついたのです。アダムに言ってもだめです。「えっ、目、そんなのどうでもいい。眠い・・」だから、アダムは罪を犯した時、こんな言い訳をしたのです。「あなたが私のそばに置かれたこの女が・・・」アダムはエバによって誘惑されたのです。でもエバは悪魔に惑われて罪を犯しました。そのことです。これが創造の秩序なのです。この神が造られた創造の秩序からすれば、女が教えたり、男を支配したりすることはふさわしくないし、あってはならないことなのです。

この「教える」という言葉はギリシャ語で「ディダケー」という言葉です。これは権威をもって継続的に教えるという意味です。ただ道を示すというのではなく、権威をもって従わせるようなことはよくないし、許されていないことなのです。女性は男性の権威の下で、時々、あるいはサポートする形で教えることはできますが、自分が権威をもって、継続的に教えることはふさわしくありません。このことばは、マタイの福音書28章15節には「指図する」と訳されている言葉ですが、女性が男性に代わって指図したり、支配したりというようなことがあってはならないということです。でも実際にはそういうことをよく見かけます。教会で女性が男性を教えたり、指図したりということがあるのです。確かにそのようなこともありますが、それは聖書が教えていることではありせん。そういうことは許されていないからです。こういうことを言うと多くの敵を作ることになるかもしれませんが、これが聖書で教えていることです。女性はあくまでもアシスタントであって、教えたり、指図したり、支配したりするというようなことがあってはならないのです。

しかし、Ⅰコリント11章5節と6節を見ると、女性でも教会で祈ったり、預言したりすることがあったことが示唆されています。ここには、こうあります。

「しかし、女が、祈りや預言をするときに、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭をはずかしめることになります。それは髪をそっているのと全く同じことだからです。 女がかぶり物を着けないのなら、髪も切ってしまいなさい。髪を切り、頭をそることが女として恥ずかしいことなら、かぶり物を着けなさい。」

「女が祈りや預言をするときに」ということは、女性でも祈ったり預言をすることがあったということではないでしょうか。預言とは言葉を預かると書きますが、これはみことばの奉仕のことです。説教したり、教えたりすることです。そういうことが行われていたのではないでしょうか。そうです、女性も祈りや預言をすることがあります。しかし、一つだけ条件があったのです。それは、女性が祈りや預言をするときには、頭にかぶり物をつけていなければならないということです。何でしょうか。このかぶり物とは・・・。これは権威のしるしです。女の権威は男です。妻の権威は夫です。そのような権威をつけていなければいけないということです。その権威の下にあるならできるのです。つまり、秩序をもってなされるのなら大丈夫なのですが、そうでないとできないということです。その秩序とは何でしょうか。それは男性のリーダーシップもとで、ということです。神が定めてくださった秩序において祈ったり、教えたりすることができるということです。そうでないのにすることがあるとしたら、それはふさわしくないことなのです。

でも、みんなやってることだもの、いいんじゃないですか?そんなに堅く考えなくても。これは堅いか、堅くないかということではなくて、聖書で何と教えているかということであって、それを逸脱することがあるとしたら、そこに神の祝福はないということを覚えなければなりません。なぜそのように行われるようになったのでしょうか。それは、男性が悪いからです。男性がしっかりしないからです。男性が霊的にもしっかりと女性をリードして導くことができれば、女性は安心してついてくることができますが、そうでないと、女性が男性を教えたり、支配したりするようなことが起こってくるのです。だから男性が悪いのです。男性がもっと女性のことを考えなければなりません。

Ⅰペテロ3章7節には、「同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。」とあります。男は、夫は、妻が、女性が弱い器であるということを、わきまえて、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなければなりません。そういう負担を負わせないように、男性がもっとしっかりしなければならないのです。そうでないと、女性が教えたり男を支配したりするようなことになるのです。

Ⅲ.子を産むことによって救われる(15)

最後に、こうした神の教えに従うとき、どのような祝福がもたらされるのかを見て終わりたいと思います。15節をご覧ください。

「しかし、女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。」

これも難解な箇所です。女は、子を産むことによって救われるとはどういうことでしょうか。子を産まなければ救われないのでしょうか。そういうことではありません。ここでは二つの解釈ができます。一つは、14節までの流れを受けて、女であるマリヤが救い主である子イエス・キリストを生むことによって救われるという解釈です。14節までのところには、アダムとエバによって罪に陥った話が出てきましたが、その女の子孫から出る救い主イエス・キリストによって、敵である悪魔が完全に踏み砕かれるという預言なのです。ですから、この子を産むというのは、マリヤの処女降誕のことを指しているのではないかということです。

けれども、ここでの救いというのをそのような意味での救いとしてではなく、女性としての本来の生き方を全うし、女性としての幸いを見出すという意味での救いととらえることもできます。なぜなら、ここに「女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら」と言われているからです。それはこれまでパウロが語ってきた内容でもありますが、慎みを持って、信仰と愛と聖さを保ち、子を産むという女性としての本来の生き方を全うするなら、男性が決して果たすことができない、美しくも尊い、女性としての特権にあずかることができるのです。

このどちらの解釈もできますが、私はどちらかと言えば後者の方が文脈的に正しいのではないかと思います。なぜなら、ここではずっと男性として、また女性としてどうあるべきなのかということが語られてきたからです。男性はどこでもきよい手を上げて祈るようにするなら、また女性は女性として本来あるべき生き方としてつつましく、静かにして、よく従う心をもって教えを受けるなら、確かに神はそこに豊かな祝福をもたらしてくださるのです。

今日のように間違った意味での男女平等が叫ばれる時代にあって、こうした聖書が教える男性像、女性像を期待するのは古臭いとか、時代遅れただと言われて難しいかもしれませんが、聖書は間違いのない神のみことばです。男は怒ったり、言い争ったりするのではなく、どこででもきよい手をあげて祈るなら、また、女が良い行いを飾りとして、静かに、よく従う心をもって教えを受けるなら、必ずすばらしい祝福が用意されているのです。私たちは聖書が教える男らしさ、女らしさを求め、神から祝福を受けるものでありたいと思います。

Ⅰテモテ2:1~7「すべての人のために祈りなさい」

今、このテモテへの手紙から学んでいます。これは、パウロが書いた最後の手紙です。いわば遺言のような手紙です。なぜパウロはテモテに手紙を書き送ったのかと言うと、この時テモテはエペソ教会の牧会をしていましたが、いろいろな問題で苦しみプレッシャーに押しつぶされそうになっていたからです。苦しくて、苦しくて、もう辞めたいと思っていました。そんなテモテを励ますためにこれを書いたのです。と同時に、そうした問題にどのように対処したらいいのか、すなわち、神の家でどのように行動すべきなのかを教えるためにこれを書いたのです。

そして、今日のところでは、公の集まりにおいてクリスチャンはどうあるべきなのかについて語っています。それは、すべての人のために祈らなければならないということです。

Ⅰ.すべての人のために祈りなさい(1-3)

まず1節から3節までをご覧ください。

「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。2 それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。3 そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。」

「そこで」とは1章の内容を受けてということです。1章には、パウロとは違った教えを説く人たちについて語られていました。ヒメナオとかアレキサンデルといった人たちです。彼らは信仰の破船に会いました。正しい良心を捨てて、自分たちの考えに従った教えを説き、信仰からズレてしまったのです。しかし、テモテよ、あなたはそうであってはならない。あなたは正しい信仰と良心を保って、勇敢に戦い抜かなければなりません。そのように勧めてきました。それを受けてということです。

それを受けて、まず初めにパウロが勧めていることは、すべての人のために祈りなさいということでした。そうした騒々しい、教会の秩序を乱すような人たちのいる中でまず初めにしなければならないことは、祈ることだというのです。なぜなら、教会はキリストの弟子たちの祈りの中から生まれたからです。彼らが心を合わせ、祈りに専念していたとき、突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまりました。それがペンテコステ、聖霊降臨です。それによってエルサレムに最初の教会が誕生しました。教会は祈りによって生まれました。だから教会はまず祈らなければなりません。

ここでは、すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために祈りなさい、とあります。自分たちが気に入っている一定の人々のためだけでなく、またクリスチャンのためだけでなく、すべての人のために、特に高い地位にある人たちのために祈るようにと言うのです。ここには、「願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい」と言われています。この願いとか、祈り、とりなし、感謝というのは、祈りに含まれる要素のことです。このように表現することによって、祈りの大切さというものを、いろいろな面から強調しているものと思われます。

なぜすべての人のために祈らなければならないのでしょうか?2節をご覧ください。「それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。」どういうことでしょうか。「敬虔に」とは、信仰深くということです。神を恐れ、神に信頼して生活することです。また「威厳をもって」とは、他の人々に対するあり方において、信頼に値する確かな態度で生活することです。また「平安で静かな一生を過ごす」とは、外的にも内的にも、静かで、落ち着いた平和な生活をすることです。そのために祈らなければなりません。それは、クリスチャンとしての私たちの幸せのため、幸せに一生を過ごすためなのです。

なぜすべての人のために祈ることが、特に高い地位にある人たちのために祈ることが、私たちの幸せな生活につながるのでしょうか。それは、すべての権威は神によって立てられたものだからです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものだからです。ローマ人への手紙13章1~5節に、つぎのように言われています。

「1 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。2 したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。3 支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者からほめられます。4 それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。5 ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。」

ですから、上に立てられた人というのは本来、神の立てられた秩序の下で、すべての人のための平和と幸福のために託されている職務を果たすべき人たちなのです。大田原の市長も、栃木県知事も、日本の総理大臣も、すべてそうです。あの人たちは選挙によって選ばれたんじゃないですか。彼らは人によって選ばれたんですよという方もおられるかもしれませんが、しかし、その背後には神の働きがあり神によって立てられているのです。それは彼らばかりではなく、たとえばあなたの学校の教師も、会社の上司も、家族の長も同じです。彼らもまた神によって立てられているのです。すべて上に立つ権威は神によって、神の目的と計画を果たすための道具として、神のしもべとして、神によって立てられているのです。神がすべての主権者であられ、その神が背後で働いているのですから、その権威を認めて、彼らのために祈らなければならないのです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。

しかし、パウロの時代、これはなかなか難しいことでした。なぜなら、それはクリスチャンを迫害していたローマ皇帝ネロのためにも祈れということになるからです。とてもできません。自分たちを迫害し、弾圧しているネロのために祈るなんて考えられないことです。皇帝崇拝を強要したり、偽りの教えを広める人たちのために祈るなんてできないことです。それで、公の礼拝において広くすべての人のために祈られるはずの祈りが、いつしか自分たちを中心にした関係者たちだけのための祈りに片寄ってしまっていたのです。しかし、祈りとは本来そのようなものではありません。公の礼拝における祈りとは、すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのためにもささげられなければならないものです。それが神の御前において良いことであり、神に喜ばれることなのです。あなたの政治的立場がどうであれ、その人があなたの好みであるかどうかということと関係なく、あるいは、その人の人格がどうであろうとも、すべての人のために祈ることは、高い地位にある人のために祈ることは神のみこころであり、私たちの平和と幸福になることなのです。

あなたはどうでしょうか。すべての人のために祈っているでしょうか。王と高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝をささげているでしょうか。天皇陛下のために祈っているでしょうか。日本の政治家のためにも祈っているでしょうか。この町の人たちのために祈っているでしょうか。ややもすると、私たちは、テレビのコメンテーターたちのように安易に政治家たちを批判したり、非難したりしますが、その前に私たちがしなければならないことは、彼らのために祈ることです。勿論、政治的な意見を言ってはいけないということではありません。でもそんな暇があるなら祈れと言っているのです。もし彼らのために祈るなら、その批判は今よりずっと少なくなるでしょう。そして、議論や論争といった無益なことを避け、神が求めておられる敬虔さや威厳さを保ち、平和で静かな日々を過ごすことができるのです。

S・B・ゴードンはこう言いました。「祈る人ほど今日の世界で重要な人はいない。それは祈りについて語る人でなければ、祈りについて説明できる人でもない。それは時間を割いて祈る人のことである。彼らには時間がない。それは他のことを犠牲にした時間である。他のことも大切であり、差し迫ったものである。しかし、祈りほど重要で差し迫ったものはない。」

先週は寺山兄の告別式が行われましたが、告別式でもお話したように、寺山兄は祈りの人でした。退職してから病気で療養されるまでの16年間、毎朝1時間、時間を決めて祈られました。その祈りの課題を見せていただきましたが、ハーベストタイムとか、MTCとか、その他いろいろな団体から出されている祈祷課題を覚えて祈っておられました。もちろん、教会のためにも祈ってくださいました。私は後でその祈りの課題を見せていただきましたが、赤い鉛筆で線を引いて、あるところには点がつけてあったりしました。そうやって祈ってくださいました。それは兄弟の遺体とともに棺の中に納められましたが、その祈りは決してむだになることはないでしょう。神の前に香のように立ち上がり、いつか必ず答えられるに違いありません。

ですから、私たちはもっともっと祈らなければなりません。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために祈らなければならないのです。

Ⅱ.神はすべての人が救われることを望んでおられる(4)

次に4節をご覧ください。ご一緒にお読みしたいと思います。

「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」

私たちがすべての人のために祈るのはどうしてでしょうか。ここにもう一つの理由が書かれてあります。それは、神はすべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられるからです。皆さん、これが神のみこころなのです。だれも、この神の救いから漏れる人はいません。神はすべての人が救われることを望んでおられるからです。これが神のハートです。あなたは神と同じハートを持っておられるでしょうか。すべての人が救われることを望んでおられるでしょうか。私たちはどんな人でも救われるように、すべての人のために祈らなければなりません。

ところで、ここには神の救いについて二つのことがわかります。一つは、すべての人が救われるためには、まずそのことを神に祈らなければならないということです。すなわち、伝道する前に祈らなければならないということです。伝道することは重要なことですが、そのためにはまず神に祈らなければならないのです。

そしてもう一つのことは、救われると真理を知るようになるということです。真理を聖書とか、神とか、キリストに置き換えても構いません。なぜなら聖書は真理の書であり、神は真理であられるからです。ここで言われていることは真理を知れば救われるというのではなく、救われれば真理を知るようになるということです。私たちはよく、「私はまだ聖書を全部読んだことがないから信じることができません」とか、「なかなか聖書を理解することができないから信じられないんです」、「もうちょっと勉強したら信じます。」という事を聞くことがありますが、それは違います。聖書を勉強したら信じることができるのではなく、信じたら聖書がわかるようになるのです。神がどのような方か、神が願っておられることはどういうことなのかがわかってくるのです。

あるとき、一人の方が電話をくださいました。それは、神には善い神と悪い神がいるのかということでした。皆さん、神には善い神と悪い神がいるのでしょうか。おりません。なぜなら神は唯一であって、それはこの天地万物を造られた創造主なる神だからです。この方は私たちを罪から救ってくださる救い主なる神であり、全く悪や汚れのない聖なる方、義なる方です。この方だけが神であって他にはいません。もしいるとしたら、それは神の装いをした偶像の神々であって、本当の神ではないのです。それなのにその方がわざわざお電話をくださったのは、そのようなことを誰か他の人から聞いて「あれっ」と思ったからでした。いろいろな教会でもう何年も聖書を勉強していてもまだ神を信じていないので、神がどのような方なのかがわからないのです。でも信じたらわかるようになります。

私たちも初めはそうでした。説教を聞いてもチンプンカンプンでした。でもイエス様を信じたら少しずつわかるようになりました。イエス様を信じて救われたら心の目が開かれ、説教を聞いても、自分で聖書を読んでいても、少しずつわかるようになりました。あるときはハッと気付かされたり、ああこういうことだったのかと思うようになったのです。

ですから、まだ聖書がわからないという方も、まず信じていただきたいと思うのです。そうすれば、少しずつ真理がわかるようになりますから。自分の頭で真理を知ることには限界があるんです。なぜなら、真理は知識ではなく人格だからです。百聞は一見にしかず、ということわざがありますが、もしまだ一度も会ったことのない人を知りたいと思うなら、その人についていろいろと情報を集めて知ろうとするよりも、まず会ってお話してみることです。そうすれば、知識で得た情報よりも何倍もその人のことを知ることができまるでしょう。それと同じです。

神はすべての人が救われて真理を知るようになることを願っておられます。そこにはあなたも含まれています。神はあなたが救われて真理を知るようになることを願っておられるのです。神はあなたを地獄に落とす方ではありません。あなたが救われることをこよなく願っておられるのです。

Ⅲ.すべての人の贖いの代価であるキリスト(5-7)

最後に5節から7節までを見て終わりたいと思います。救いに関する神のみこころを語ったパウロは、神ご自身とその救いのみわざについて言及しています。

「5 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。6 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。7 そのあかしのために、私は宣伝者また使徒に任じられ―私は真実を言っており、うそは言いません―信仰と真理を異邦人に教える教師とされました。」

まず神についてパウロは、「神は唯一です」と断言しています。唯一とはこの方だけという意味です。神はただ一人であって、聖書の神以外には存在していません。日本では昔から八百万の神といって八百万の神々がいると信じられてきましたが、それは嘘です。また神仏融合といって神道の神も仏教の神もみな同じだと言う人がいますが、それも違います。排他性を嫌う日本人には「あれも神、これも神、たぶん神、きっと神」と、曖昧な方が受け入れられやすいのですが、真の神はそういう方ではないのです。神はただ一つであって、それはこの天地万物を創造された方であり、それを保っておられる方、また生きとし生けるものすべてにいのちを与えてくださった方であり、罪の中にあえぎ苦しんでいる人類を救われる方なのです。

そしてここには、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです、とあります。この神の御許に行くことができるための仲介者も唯一であるということです。それは人として来られたキリスト・イエスです。キリストは100%神であり、100%人間であられたので、この方だけが私たちと神様との架け橋となることができたのです。神と人との間をつなげることができるのは、100%神であり、100%人間であられたイエス様以外にはいません。イエスのような仲介者は他にはいないのです。他にこのような救い主はいません。この世界にはたくさんの偉人と言われる人や聖人と言われる人がいますが、この方のような救い主は他にはいないのです。仏陀にしても、孔子にしても、釈迦にしても、ムハンマドにしても、ソクラテスにしても、確かに彼らは偉人、聖人の部類に入る人たちだったかもしれませんが、彼らはただの人間にすぎませんでした。死んで、葬られて、それで終わりです。でもキリストは違います。キリストは死んで、三日目によみがえりました。この方が死につながれていることなどあり得ないからです。キリストは100%神なので、死の力を打ち破ることができたからです。

イエスは神でありながら人の姿をとられました。それは、私たち人間を救うためです。人を救うためには、人にならなければならなかったのです。それが人として来られたキリスト・イエスという意味です。でもイエス様は一つも罪を犯しませんでした。神が罪を犯すことなどないからです。その代わりに、イエス様は私たちの罪を負って十字架で死んでくださいました。そして葬られて、三日目によみがえられました。また、天に昇って行かれました。このような仲介者は他にはいません。他にこのような救い主はいないのです。

「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

イエスが道であり、真理であり、いのちなのです。イエスを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。イエスだけが唯一無比の仲介者なのです。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒4:12)

この方以外には、だれによっても救いありません。私たちが救われるべき名として与えられているのはこの名、イエス・キリストだけであって、他にはいないのです。このイエスを信じるなら、だれでも救われます。どんな人も救いに漏れることはありません。

ではこの方はどのように救ってくださったのでしょうか。そのために何をしてくださったのでしょうか。6節にはこうあります。

「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」

「贖い」とは「代価を払って買い取る」という意味です。ですから、「贖いの代価」とは、身売りして奴隷となった人を買い取るために支払われる代価のことです。いわゆる身代金のことです。神は罪の奴隷であった私たちを買い取るために、キリストのいのちという代価を払ってくださいました。その代価によって私たちは自由にしていただけたのです。すべての人は生まれながら罪の奴隷であり、それゆえ、不自由で、良心の呵責に悩み、不安と恐れの中に生きなければならない者でしたが、そこから解放するためのイエス・キリストという方のいのちを、身代金を支払ってくださったというのです。キリストが十字架で死なれたというのは、私たちのすべてが自分の罪のために受けなければならなかった律法ののろいを、キリストが代わりに受けてくださったということなのです。というのは、律法には、「木にかけられた者はすべてのろわれたものであると書いてあるからです。」(ガラテヤ3:13)

Ⅰヨハネ2章2節を開いてください。ここには、「この方こそ、私たちの罪のための―私たちの罪だけでなく、世全体のための―なだめの供え物です。」とあります。この方は私たちクリスチャンたちだけの罪のためではなく、全世界のための、なだめの供え物として十字架にかかって死んでくださったのです。キリスト教徒のためだけでなく、イスラム教徒のためにも、またユダヤ教徒のためにも、ヒンズー教徒も、仏教徒も、神道の人のためにも、さらには創価学会や幸福の科学、おうかんみち、立正佼成会といった人たちのためにも死んでくださったのです。すべての人のための贖いの代価として、ご自身をお与えになられたのです。

だから、すべての人がイエスの救いの恵みにあずかることができます。なぜなら、イエスはすべての人の贖いの代価として死んでくださったからです。でもすべての人が救われるわけではありません。なぜなら、中には「いりません」とか、「結構です」「間にあっています」という人がおられるからです。あるいは、信じたいけど、信じたら大変でしょ、毎週教会に行かなければならないし、組織にがんじがらめにされると、心配される方がいます。どうですか、皆さん、信じたら毎週教会にいかなければならないのでしょうか。いいえ、違います。そうではなく、信じたら行きたくて、行きたくてしょうがなくなるのです。神の御霊である聖霊を受けると、神ってもっと知りたいと思うようになるのです。週に一回では物足りない。もう毎日でも行きたくなるのです。そうでしょ。アーメン。だから、そういう心配は必要ないのです。すべての人のための贖いの代価として死なれたイエスを、救い主として信じて受け入れればいいのです。そうすれば、あなたも救われ、真理について知るようになります。神は、すべての人が救われてほしいと願っておられるのであって、この救いはあなたにも差し出されているのです。

7節でパウロは、「そのあかしのために、私は宣伝者また使徒に任じられ・・教師とされました。」と言っています。宣伝者とは、王の命令を忠実に、正確に伝える人のことです。それから「使徒」とは「遣わされた者」という意味です。パウロは若き伝道者テモテに、あなたもまたこのすばらしい福音を伝えるために神によって遣わされているんですよ、ということを思い起こさせています。それは人を永遠の滅びから永遠の救いへと導くすばらしい知らせです。そのような尊い務めがゆだねられているのです。それは本当にすばらしい務めではないでしょうか。

そして、その務めに私たちも任じられているのです。私たちも宣伝者、使徒として、教師として遣わされているのです。それはまことに光栄なことではないでしょうか。ですから、私たちはいつもこの遣わされているということを覚え、その遣わされた先々で、このすばらしい恵みの福音を証する者でありたいと思います。あなたが遣わされている家庭や学校、職場、地域社会のすべては、神よって遣わされているのです。神はすべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。そのハートをハートとして、その遣わされたところで福音のすばらしさを証していく者でありたいと思います。

Ⅰテモテ1:12-20「私は罪人間かしらです」

先週からテモテへの手紙に入りました。これはパウロからテモテに宛てて書かれた手紙です。この時テモテはエペソ教会の牧師として様々な問題を抱えておりそのプレッシャーに耐えかねて、エペソを去りたいと考えていましたが、そんなテモテを励まし、彼がエペソにずっととどまり、与えられた使命を全うできるように励ましているのです。

きょうのところでパウロは、自分の個人的な証をしてテモテを励まそうとしています。

Ⅰ.私は罪人のかしらです(12-15)

まず12節から15節までをご覧ください。まず12節には、「私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。なぜなら、キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。」とあります。

ここでパウロは、なぜ自分が福音のために働くようになったのかを語っています。それは、キリストがこの務めに任じてくださったからです。自分がやりたいからやっているのではなく、あるいは、だれかにやれと言われたからやっているのでもなく、ただキリストがこの務めに任命してくださったのでやっているのです。

キリストはなぜパウロをこの務めに任命したのでしょうか。それは彼を忠実な者として認めてくださったからです。彼に何か特別な能力があったからではありません。また、彼が人格的に優れていたからでもないのです。神が彼を忠実な者として認めてくださったからなのです。だからパウロはここで、その務めに任じてくださった神に感謝をささげているのです。もしこれが自分の力でできるようなものならば、こんな感謝をささげることはできなかったでしょう。けれども、彼は自分の力ではなく自分を強くしてくださるキリスト・イエスの力に拠り頼んでいたので、その力の源である主イエスに感謝することができたのです。

これが私たちの信仰です。私たちは、私たちを強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。このことは、テモテをどんなに励まし、勇気付けたことでしょう。パウロも弱さを抱えていましたが、彼は自分の力の源がどこから来るのかをよく知っていました。そして、その方によってこの務めを行っていたのです。

私たちも、いろいろいなことで自信を失ったり弱さを感じたりすることがありますが、しかし忘れてはいけないことは、私たちが弱くても主は強いということです。そして、私たちはこの方から力をいただいて、強くしていただくことができるのです。この方が私たちを忠実な者としてこの務めに任じてくださったからです。

13節をご覧ください。

「13 私は、以前は神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。」

ここでパウロは、自分がかつてどのような者であったかを述べています。もっとはっきり言うなら、どれだけひどい人間であったのかということです。

パウロはかつて、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。ナザレ人イエスが救い主であるはずがないと、イエス様を信じる者を捕えては牢に投げ込んでいたのです。ステパノが処刑される時には、それに賛成票を投じました。その熱心さは国内ばかりにとどまらず、国外にまで追いかけて行ったほどです。そのようにして彼がダマスコまで出かけて行ったとき、その途上で、復活の主と出会いました。

「サウロ、サロウ。どうしてわたしを迫害するのか。」

「主よ、あなたはどなたですか。」

「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」

パウロにとってはまさに目からうろこでした。これまで激しく迫害してきたイエスがキリストだなんて全く考えられないことだったからです。

とても許されるはずがありません。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。あわれみとは、本来受けるべき罰を受けないで済むということです。そんなにひどいことをしたのですから当然さばかれても仕方ないのに、それを受けなくてもいいようにしていただいたのです。神があわれんでくださったからです。

いったいなぜパウロはこんなことを書いているのでしょうか。それは、こんなひどい者が救われたのは、神の恵み以外の何ものでもないことを明らかにするためです。14節を見てください。ここには、「私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。」とあります。どういうことでしょうか。

「恵み」とは、受けるに値しない者がただで受けるということです。あわれみは、本来受けなければならないものを受けなくてもいいようにしていただいたことですが、恵みとは、本来受けるはずのない者が受けることができるようになったということです。パウロは神の教会を迫害していたわけですから本来なら滅ぼされても仕方ないのに、そのようにならないように神があわれんでくださったというだけでなく、何と救ってくださったというのです。全く救われるに値しない者が救われました。これが恵みです。パウロはこのことをⅠコリント15章10節でこう言っています。

「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」

彼が救われこの務めに任じられたのは、神の恵みによってです。神の恵みによって、今の自分になりました。すべては神の恵みです。自分の存在、自分の働きのすべても、恵みによるのです。この恵みが、キリスト・イエスにある信仰と愛とともにますます満ちあふれるようになっりました。そしてこの恵みは、あなたにもあふれているのです。

そればかりではありません。15節を見てください。

「「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」

イエス様は罪人を救うためにこの世に来られましたが、自分はその罪人のかしらだと言っています。これまでいろいろな罪を犯した人はいるかもしれないが、私はその罪人の中でもトップですと言っているのです。私ほど罪深い者はいない。そう言っているのです。これが、パウロが自覚していたことでした。彼の自己認識だったのです。彼は謙遜にそう言っているのではありません。本当にそう思っていたのです。自分の過去を思う時、本当にそのように思えたのです。それは過去だけでなく、今の自分を見てもそうです。ここには「罪人のかしらです」と現在形で書かれています。昔も今も、ずっと罪人のかしらだ、自分ほど罪深い人間はいないと思っていたのです。

皆さん、これが成熟したクリスチャンの姿です。成熟したクリスチャンは、そうであればあるほど、自分の罪の大きさ自覚するようになります。それはちょうど光に近づけば近づくほど自分の陰の長さに驚くように、神に近づけば近づくほど自分の罪の大きさに圧倒されてしまうのと同じです。聖書を学べば学ぶほど、自分がどうしようもない人間であり、救いがたい罪人であることを悟るようになるのです。それは彼が初期の頃書いたコリント人への手紙を見るとわかります。これはA.D.54年頃に書かれて手紙ですが、この中で彼はこう言っています。

「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。」

しかし、それから5~6年後に書かれたエペソ人への手紙の中では違います。ちょっと変化しているのです。

「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、」(エペソ3:8)

そして、彼の晩年に書かれてこのテモテへの手紙の中ではこうです。

「私はその罪人のかしらです」A.D.64年頃のことです。

「使徒の中で」から「すべての聖徒たちの中で」になり、最後は「罪人のかしら」です。イエス様を信じて救われ、神の恵みを知れば知るほど、自分の罪深さに気づかされていったのです。

彼はそんな自分の姿を嘆いて、ローマ人への手紙7章24節ではこのように告白しています。

「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょう。」

いったいなぜパウロはこんなことを言っているのでしょうか。それはテモテにこの神の恵みに目を留めてほしかったからです。こんな罪深い者が救われたとしたら、それはどんなに大きな恵みでしょうか。こんな者が救われたのです。こんな者がこの尊い務めに任じられたのです。であれば、それは何と感謝なことでしょうか。もう世界観が180度かわります。自分を見るから落ち込むのです。自分でやろうとするから躓くのです。そうではなく、神を見なければなりません。決して赦されない者が赦されました。罪人のかしらにすぎない者が救われたのです。であるとしたら、すべてが恵みではないでしょうか。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られたということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。」

私は罪人かもしれないがあの人よりは少しはマシですとか、私も罪人ですがあの人も罪人ですというのは、本当の意味で罪を自覚していない証拠です。「私は罪人のかしらです」という人は、他の人のことなどもうどうでもよくなるのです。人があなたにどんなにひどいことをしても、こんな者が救われたということを思うとき、そのことも感謝と喜びに変えられていくからです。自分で何とかしなければならないと思うから息詰まるのです。もう自分には何もできませんと、私は罪人のかしらですと、すべてを主に明け渡すとき、すべてが恵みになるのです。

こんな話を読んだことがあります。失望した一人の伝道者が、列車に乗って山形県の「新庄」駅を通過しました。その時、駅員の言う「しんじょう、しんじょう」というアナウンスが「死んじゃおう、死んじゃおう」と聞こえました。しかしその後恩師を訪ね、元気になって帰宅した時は、「同じアナウンスが「信じよう、信じよう」と聞こえてきたというのです。すべてが神の恵みであることがわかるとき、本当に大きな励ましと力を受けるのです。

森永製菓の創業者の森永太一郎は、晩年、この「私は罪人のかしらです」というのぼりを持って全国を行脚してそうです。彼は19歳の時に陶器商に勤めたことがきっかけでアメリカに渡り日本の陶器を売ろうとしましたが全く売れず、失意の中である公園のベンチに暗い気持ち座っていたとき、とても上品な感じの婦人からキャンディを頂いたことがきっかけで教会に導かれ、イエス・キリストを信じました。すると彼は陶器職人になる夢を捨て、キリスト教の伝道者になろうと帰国し、すぐに家族や親族に伝道しましたが、そんな彼の姿を見た家族は、全く彼を受け入れることができませんでした。「太一郎はアメリカに行って、とうとう頭がおかしくなった」と罵倒されました。そして育ててくれた家からも離縁されてしまったのです。

それで彼は伝道者になることもあきらめて、再度アメリカに渡り、洋菓子作りを学ぶわけです。そして帰国後、マシュマロを作って販売すると、これが大当たりしました。それらのお菓子をガラス張りのリヤカーに積んで販売して回ったのです。そのリヤカーの上には看板に聖書の言葉が掲げられていました。それは、このみことばでした。「キリスト・イエス、罪人を救わんために世に来たりたまえり。」(Ⅰテモテ1:15)そのような彼を町の人たちは「ヤソのお菓子屋さん」と呼んだそうです。

やがてあの有名なミルクキャラメルが販売されると、日本中で大ヒットとなりました。昭和の人ならば一度は食べたことがあるでしょう。森永のキャラメルです。しかし商売の成功と同時に、信仰の面は一時停滞した時がありました。その信仰も、奥さんの死を契機に復活し、彼は川のほとりで泣きながら再献身を誓うのです。

やがて社長を退いて会長となってからは、全国の教会を伝道講演して回りました。その時の講演題は、判で押したかのように、いつもこれでした。「我は罪人の頭なり」、「私は罪人のかしらです」です。彼はいつも自分が罪人のかしらであるという自覚を持っていました。いや、晩年になればなるほど、その思いは強くなっていったのです。今、自分があるのはただキリスト・イエスの恵みです。こんな罪深い者をキリスト・イエスが救ってくださった。この私が救われたのだから、あなたが救われないはずがない。何という恵みでしょう。この神の恵みが彼の人生をさらに豊かなものへと導いたのです。それは森永太一郎だけでなく、私たちクリスチャンにとっても同じで、これが私たちの信仰生活の力であり、原点なのです。

Ⅱ.パウロがあわれみを受けた理由(16-17)

次に16節と17節をご覧ください。

「16 しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。17 どうか、世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄えとが世々限りなくありますように。アーメン。」

ここでパウロは、自分があわれみを受けた理由を述べています。いったいなぜ彼はそんなにあわれみを受けたのか。あんなにひどいことをしたパウロがあわれみを受けたのはどうしてなのでしょうか。それは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず自分に対してこの上もない寛容を示してくださったからです。どういうことかというと、パウロが救われたのは、神がどのように罪人を救うのかの見本を示すためであったということです。つまり、どんな人でも救われるということです。こんな罪深い者でも救われたのですから、救われない人などいません。こんなにひどい者でも救われたのですから、救われない人などいないということです。だれでも救われるのです。ここに希望があります。パウロを見れば希望があります。あのパウロが救われたのだから、あなたが救われないはずがないのです。だれでも救われます。あなたも、あなたの家族も、どんなにひどい人でも、イエス・キリストは救うことができるのです。

昨年、台湾に住むひとりの方からメールをいただきました。彼女のいとこが黒羽の刑務所に入っているのですが、どうかイエス様の愛を伝えてほしいという内容でした。彼は自分のしたことに対して反省することもなく、自分勝手なことばかり言うので、実の両親からもさじを投げられ、出所後は彼女のもとに身を寄せたいというが、正直、彼女にとっても重荷だと言うのです。そんな彼を救うことができるのはイエスさましかいないと、彼にイエス様の愛を伝えてほしいというのです。

すると数か月後に本人から手紙が届きました。出所後は全うな道を歩んで行きたいと思うので、私のところにぜひ伺いたいということでした。その内容が台湾のいとこのところにも言ったようで、彼女はとても勇気づけられたというのです。頼みの綱はイエスさまだけだ・・・と。

そうです、イエス様だけです。イエス様はどんな人でも救うことができるし、どんな人も新しく造り替えることができます。「だれでも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)パウロでも救われたんです。罪人のかしらであったパウロでも救われたのなら、このキリストの愛から漏れる人など一人もいないのです。だれでも、どんな人でも救われます。それが、パウロがあわれみを受けた理由だったのです。

パウロはこの神のあわれみを思うとき、もう神をほめたたえずにはいられませんでした。17節です。「どうか、世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄えとが世々限りなくありますように。アーメン。」

自分の過去を思い、救われるはずのなかった自分が救われた。そればかりではありません。この尊い務めに任じられました。一方的な神の恵みによってこの務めに任命していただいた。その恵みとあわれみを思うとき、彼は神をほめたたえずにはいられなかったのです。

とかく私たちは自分を見てダメだと落ち込むことがありますが、大切なのは自分を見るのではなく、こんなダメな自分を救ってくださった神を見上げることです。そうすれば、私たちはそこに偉大な神のみわざを見て励まされ、神をほめたたえるようになるのです。

Ⅲ.信仰の戦いを戦い抜いて(18-20)

だから結論は何かというと、だから、テモテよ、信仰の戦いを戦い抜きなさいということです。18節から20節までをご覧ください。18節です。

「私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言に従って、私はあなたにこの命令をゆだねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くためです。」

「この命令」とは何でしょうか。それは1章3,4節にあったエペソにずっととどまっていて、そこで違った教えを説いたり、果てしのない空想話と系図とに心を奪われないように命じることです。それはパウロの個人的な思いから出たことではなく、テモテに与えられた神の言葉、すなわち預言に従ってのことです。その預言に従ってテモテが信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜かなければならなかったのです。

信仰とは何でしょうか。信仰とは、神に信頼することです。エペソ人への手紙6章では「信仰の大盾」と言われています。それによって敵が放つ火矢を消すことができます。信仰の戦いにおいては、敵である悪魔が放つ火矢があるのです。それは人からの非難や中傷かもしれませんし、脅かしであるかもしれません。あるいは、あなたが神に信頼しないで、自分の力を信じるようにとそそのかす、甘い誘惑かもしれません。あるいは、神への疑いというものであるかもしれません。神への疑いは信仰をダメにします。クリスチャンが苦しみの中でも耐えられるのは、神を信じるからであって、それなのにそこに疑いが入って来ると、クリスチャンは失望の中に投げ込まれることになってしまうのです。

だから信仰の大盾をもって、悪魔が放つ火矢を消さなければなりません。詩篇18篇2節、「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。」(詩篇18:2)

詩篇91篇4節、「主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。」

神のみことばを学び、それを守ることは大切なことですが、それが単なる知識にとどまって、神への信頼につながらなかったら、すぐに敵に攻撃され、失望します。主が私たちのとりでであり、救い主です。この方に身を避けなければなりません。そうすれば、敵がどんなに攻撃してきても勇敢に戦い抜くことができるのです。

それからここには、「正しい良心を保ち」とあります。良心が責められることのない正しい生活をするという意味です。罪の意識があると、私たちはしっかりと立ち続けることができません。パウロはいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしましたが、良心が責められることのない正しい生活を心がけることが、信仰の戦いを戦い抜くために必要なことなのです。

ある人たちは、この正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました。ここには具体的に名前まで出ています。ヒメナオとアレキサンデルです。信仰の破船とは、信仰からずれてしまった人たちの状態を指していますが、彼らがどのようにずれていたのかははっきり書かれていないのでわかりませんが、Ⅱテモテ2章17節にはヒメナオについて、「彼らの話は癌のように広がるのです。」とありますから、健全な教えから離れ、そればかりか、人々をも信仰からも、福音からも遠ざけていたものと思われます。またアレキサンデルについてもⅡテモテ4章14節に、「私をひどく苦しめた」とあることから、パウロを非難して、真理のことばから離れていったのではないかと考えられます。パウロはそういう人たちをサタンに引き渡したと言っています。これはサタンの支配に引き渡したということではなく、教会の交わりから除外したということです。それによって彼らに、神を汚してはならないことを学ばせるためです。

私たちの信仰の歩みにはこうした戦いが尽きることはありませんが、しかし、信仰と正しい良心をもって勇敢に戦い抜かなければなりません。なぜなら、キリストはこんな者も救い、この尊い務めに任命してくださったからです。キリスト・イエスは、罪人を救うために来られたというのはまことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。すべては神の恵みなのです。この認識があれば、あなたもどんな困難にも立ち向かうことができます。だから私たちはこの恵みにとどまり、日々感謝し、主に信頼して歩んでいきましょう。

Ⅰテモテ1章1~11節「祝福に満ちた栄光の福音」

きょうからテモテへの手紙に入ります。これはパウロから若き伝道者テモテに宛てて書かれた手紙です。この手紙は、テモテへの手紙第二、テトスへの手紙と共に、「牧会書簡」として知られています。「牧会」とは、教会を牧するという意味ですが、もともとは羊飼いの比喩から生まれた表現です。このことからもわかるように、これは教会をどのように教え、導くのかということについて教えられている大切な書です。

いったいなぜパウロはテモテにこの書を書き送ったのでしょうか。この時テモテはエペソの教会の牧会をしていましたが、相当のプレッシャーがあり、悩んでいたようです。1章3節には、「あなたはエペソにずっととどまっていて」とありますが、どうもこの時テモテはそうしたプレッシャーに耐えきれず、エペソ教会を辞めようと思っていたようです。それは胃腸障害を患ってしまうほどのストレスでした。彼は若くして牧師になり、素質にも恵まれ、使徒パウロにも見込まれた、いわば将来有望な人でしたが、時にはぐらつくことがあったのです。プレッシャーに押しつぶされて、立ち上がれないと思うような時がありました。そんなテモテを励ますためにパウロはこれを書き送ったのです。

おそらく、パウロがこれを書いたのはA.D.64~66年頃の頃だと思われます。前回まで学んできたテサロニケ教会への手紙はパウロが書いた最初の手紙でしたが、このテモテへの手紙は最後の手紙です。彼はA.D.68年頃にローマ皇帝ネロによって殉教したと言われていますが、その数年前に書かれた、いわばパウロの遺言のような手紙、それがこのテモテへの手紙です。

3章15節を見ると、そこには「それは、たとい私がおそくなった場合でも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたが知っておくためです。」とありますが、ただ励ますというだけでなく牧会者としてどうあるべきなのかをテモテに示すために、これを書き送ったのです。それはテモテばかりではなく、そのことを私たちもよく理解するためでもあります。きょうはこのテモテへの手紙の最初の部分から、牧会者の働きについてご一緒に学びたいと思います。

Ⅰ.信仰による真実のわが子テモテ(1-2)

まず1,2節をご覧ください。

「1 私たちの救い主なる神と私たちの望みなるキリスト・イエスとの命令による、キリスト・イエスの使徒パウロから、2 信仰による真実のわが子テモテへ。父なる神と私たちの主なるキリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安とがありますように。」

パウロは当時の手紙の書式にしたがって、差出人、それから受取人、そして、あいさつをここで述べてから祝福の祈りを加えています。もちろん差出人はパウロで、受取人はテモテです。パウロはテモテ個人にあてて書いたのですが、ここで興味深いことに、自分ことを「キリスト・イエスの使徒パウロ」と言っています。個人的な手紙に自分のタイトルまで入れて自己紹介をするのは珍しいことですが、それはこの手紙がテモテ個人だけでなくすべての教会で読んでもらいたいという意図があったからです。

使徒とは「遣わされた者」という意味です。パウロが遣わされたのは救い主なる神とキリスト・イエスの命令によってでありました。いつもパウロが手紙を書くときは「神のみこころによる」という表現を使いますが、ここでは救い主なる神とキリスト・イエスの命令によると言っています。いったいどうしてでしょうか。

「救い主なる神」という表現は非常に珍しい表現です。新約聖書でこのように表現しているのは、この手紙とこの後のテトスの手紙だけで、他には見られません。このように救い主という表現を使うのはイエスさまに対してであって、神に対してはあまり使われていないのです。しかし、旧約聖書を見ると何度か「救い主なる神」という表現が使われています。たとえば、詩篇24篇5節には「その人はから祝福を受け、その救いの神から義を受ける。」とあります。

神は私たちを罪から救ってくださる方です。また、ただ罪から救ってくださるというだけでなく、私たちは生きているうえで様々な苦しみや困難に直面することがありますが、そうした苦しみや困難からも救ってくださるのです。それが私たちの神です。そのために神は御子イエス・キリストを遣わしてくださいました。イエス様は私たちの罪の身代わりとして十字架で死なれ、よみがえってくださいました。このキリストを信じる者はだれでも救われます。これが神の福音です。ですから、イエスさまのことを救い主というのもふさわしいことですし、またここにあるようにイエス様を遣わされた父なる神を救い主と呼ぶこともふさわしいことなのです。この神は私たちをあらゆる困難からも救ってくださる方なのです。

さらにパウロは、ここでイエス様のことを、「私たちの望みなるキリスト・イエス」と呼んでいます。どういう意味でしょうか。イエス様は私たちのために救いの御業を成し遂げてくださっただけでなく、その完成のために再び戻って来られるということです。それが私たちの救いが完成するときであり、私たちクリスチャンの望みです。その時私たちはイエス様と同じ朽ちないからだ、栄光のからだによみがえり、一挙に雲の中に引き上げられ、空中で主と会います。そのようにして、いつまでも主とともにいるようになるのです。これこそクリスチャンの望みです、私たちはこの地上にあっていろいろな苦しみや悲しみがありますが、それは一時的なものであり、やがてそこから解放されて永遠の安息が与えられるのです。それがクリスチャンにとっての真の希望なのです。この時テモテはエペソ教会の牧師としていろいろな事で悩み苦しんでいましたが、その彼に対していったい何が励ましだというのでしょうか。それはこの救い主なる神と私たちの望みなるキリスト・イエスです。それがこのあいさつの中で一気に出てきたのです。パウロはテモテを励ますために、神がどのような方なのかを思い出させようとしていたのです。救い主なる神と私たちの望みなるキリスト・イエスこそ、私たちをあらゆる困難から救い出してくださる方なのです。

また、パウロは神だけでなくパウロ自身もどれほど彼のことを愛し、彼のために祈っているのかを、2節で示しています。それが「信仰による真実なわが子テモテ」という表現です。テモテはギリシャ人の父とユダヤ人の母との間に生まれたハーフでした。おそらくテモテは、パウロが第一回目の伝道旅行でルステラの町に行ったときに信仰を持ったのでしょう。それは彼がまだ少年の時でした。そしてその後母ユニケと祖母ロイスによって、幼い頃から聖書に親しんできました(Ⅱテモテ3:15)。ここにも二代目のクリスチャン、三代目のクリスチャンという方がおられますが、そうやって信仰を継承していくということはとてもすばらしいことです。そのような中から、このように将来、主に仕えたいと思うような器が育まれてくるのです。

そんなテモテがパウロの働きに加えられていったのは、パウロの第二回伝道旅行の時でした。再びルステラを訪れたパウロは、ルステラとイコニオムで評判の良かったテモテをその働きに加えました。そして、テモテはパウロから多くのことを学びました。パウロもまた霊的な意味で「わが子」としてテモテを訓練したのです。「信仰による真実なわが子」とはそういう意味です。「真実の子」とは、「本当の子」と言う意味です。パウロは、テモテを自分の本当の子どものように、愛娘なる愛弟子として受け止め、そのように表明したのです。それはテモテにとってどれほど大きな慰めだったことでしょう。

そのテモテに対してパウロは、「父なる神と私たちの主なるキリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安がありますように。」と祈っています。恵みというのは、受けるに値しない者がただで受けることです。それに対してあわれみとは、本来、受けなければならないものを受けなくてもいいようにしてくたることです。私たちは罪のゆえにその罰を受けなければなりませんでしたが、その罰を受けなくてもいいようにしてくださいました。なぜでしょう。イエスさまが私たちの罪の代わりに十字架にかかり、その罪の罰を受けてくださったからです。また、神のあわれみは、苦しみの中にある人や困難の中にある人にも示されるものです。イエス様は病気の人や苦しみにある人を見て、かわいそうに思い、深くあわれんで、いやしたり、助けてくださいました。それが神のご性質です。

この時、テモテはどうでしたか。彼は弱っていました。彼は牧会で行き詰まりを感じ、苦しんでいました。そんな彼に必要だったのは、この神のあわれみだったのです。神のあわれみこそがテモテを立ち上がらせてくださる。だからパウロはここで、恵みあわれみと平安があるようにと祈っているのです。

私たちもいろいろな問題で悩み、困窮することがあります。しかし、たとえそのような中にあっても神は私たちを助け、励まし、立ち上がらせてくださいます。私たちは神に恵みとあわれみと平安を受けることができるのです。それは私たちクリスチャンに与えられているすばらしい特権です。私たちはこの特権を用いて、同じように苦難の中にある人たちのために祈らなければなりません。

Ⅱ.警戒すべき間違った教え(3-7)

次に3節から7節までをご覧ください。まず3節と4節をお読みします。

「3 私がマケドニヤに出発するとき、あなたにお願いしていたように、あなたは、エペソにずっととどまっていて、ある人たちが違った教えを説いたり、4 果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように命じてください。そのようなものは、論議を引き起こすだけで、信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすものではありません。」

パウロがマケドニヤに出発したのがいつのことなのかははっきりわかりません。彼は、第三回伝道旅行でエペソに長期間滞在した後、経済的に困窮していたエルサレムの教会を助けるためにマケドニヤの諸教会から献金を集めるためにその地域を回ったので、その時のことを言っているのか、それとも、囚人としてローマ皇帝の前に立ちましたが、一回目の裁判で無罪とされ、その後エペソに戻り、そこからマケドニヤへ向かったのか、はっきりわかりません。わかっていることは、その時パウロはエペソにいたテモテに、そこに留まっているようにとお願いしたことです。何のためでしょうか。ある人たちが間違った教えを説いたり、果てしのない空想話と系図とに心を奪われていたので、そういうことがないようにと命じるためです。

間違った教えというのは、イエス・キリスト以外に何らかの人間的な努力をしなければ救われないという教えのことです。聖書はキリストを信じる以外に救いの道はないと教えています。この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下では、この御名の他に救われる名としては人間に与えられていないからです(使徒4:12)。イエス・キリスト以外に救いの道はないのです。それなのに彼らは果てしのない空想話と系図との無意味な論争をしていました。この空想話と系図というのがどういうものだったのかは書いていないのではっきりしたことはわかりませんが、おそらく、ユダヤ人の言い伝えや作り話、あるいは旧約の系図を使った変な教えのことではないかと思います。

パウロは第三回目の伝道旅行を終えてエルサレムに戻る途中に、ミレトという港町にて、エペソにいる長老たちを呼び寄せたことがありましたが、そこで彼は、自分が出発した後で、凶暴な狼があなたがたの中にはいり込み、群れを荒らし回ることを予告しましたが、はたして、その通りになったのです。そのような人たちにどのように対処したらよいか、テモテは大変苦慮していたのです。

そうした間違った教えや果てしのない空想話といったものから、いったい何が生まれてくるというのでしょうか。そこにはただの論争しか生まれません。そのような無意味な論争をして、だれが救われるというのでしょうか。だれの信仰が成長していくのでしょうか。だれも救われないし、だれも成長することはないのです。それは全く無益なものです。間違った教えからは間違った信仰しか生まれてこないです。もしあなたが救われたいと願っているなら正しい教えを聞かなければなりません。それは使徒たちが教えたイエス・キリストの福音です。Ⅰコリント15章3~5節を開いてみましょう。ここにはこうあります。

「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、4 また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、5 また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。」

私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたことは、キリストは私たちのために死なれたということ、そして、葬られたということ、そして、聖書の示すとおりに三日目によみがえられたということです。このキリストを信じる者はだれでも救われるのです。これが福音であり、パウロたちが、使徒たちが、最も大切なこととして人々に伝えたことなのです。これが福音です。神様が私たちを救うためにお定めになられた救いの方法はたった一つ、それは、信仰によってということです。信仰によってだれでも救われるということなのです。それなのに彼らはそれとは違った教えや果てしのない空想話にとらわれ、議論を引き起こすようなことをしていたのです。

5節から7節までをご覧ください。

「5 この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。6 ある人たちはこの目当てを見失い、わき道にそれて無益な議論に走り、7 律法の教師でありたいと望みながら、自分の言っていることも、また強く主張していることについても理解していません。」

「この命令は」とは、これまでパウロが命じてきたことです。すなわち、間違った教えを説いたり、果てしのない空想話と系図とに心を奪われないように彼らに命じることです。この命令はいったい何のためにあるのでしょうか。何を目標としているのでしようか。それは愛です。きよい心と正しい良心と偽りのない信仰から出てくる愛です。もし私たちの心が汚れているなら、愛は生まれません。神を愛し、隣人を愛することはできないのです。もし、私たちの良心が正しくなければ、きよい心にはなることはありません。もし、私たちの信仰が偽善的で、ただの見せかけの、形だけのものなら、きよい心も正しい良心も生まれてくることはないのです。従って、そのような心、そのような良心、そのような信仰からは愛が生まれることはないのです。もしあなたが愛を持ちたいなら、あなたの心がきよく、良心が正しく、信仰が本物でなければなりません。

しかし、エペソの教会にいたある人たちは、それを見失っていました。目標からわき道にそれて、無益な議論に走っていたのです。7節を見ると、どうやら彼らは律法の教師になりたいと願っていたようですが、その律法の本来の意味をはき違えていたのです。彼らは人々を救いに導くことや、その徳を高めたり、人々を愛するといった目標を見失い、わき道にそれて、無益な議論に走っていたのです。

皆さん、これは私たちも注意しなければなりません。教会には、いつの時代でも、また、どこにおいても、こうした違った教えや本筋から反れた議論が持ち込まれることがあります。それによって正しい信仰からズレてしまうことがあるのです。それでは、神の救いのご計画の実現を妨げてしまうことになります。なぜなら、神の救いは信仰によって得られるものであって、勝手な教えや議論、好奇心からの知識欲、議論のための議論によっては決してもたらされることはないからです。ですから、そういうことがないように、それがきよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出てくる愛を目標としているかどうかをいつもよく吟味しなければなりません。

イエス様は、にせ預言者たちに気をつけるようにと言われました。彼らは羊のなりをしてやって来るが、その内側は貪欲な狼だからです。あのグリム童話の「狼と七匹の子ヤギ」の話と同じですね。狼は羊を食べようとお母さんのふりをしてやって来るのです。「ドアを開けなさい。お母さんですよ。」と言って。手を替え品を替え、あの手この手でやって来ます。いったいどうしたらそれを見分けることができるでしょう。イエス様はこう言われました。

「16 あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。17 同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。18 良い木が悪い実をならせることはできませんし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。19 良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。20 こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。」(マタイ7:16-20)

良い木が悪い実をならせることはできないし、悪い木が良い実をならせることもできません。私たちはその実によって彼らを見分けることができるのです。イエス様の話をよく聞いて、よく見分けなければなりません。教会が福音の上にしっかりと立っているなら決して揺らぐことはありませんが、もし健全な教えから少しでもズレるなら、たちまち信仰が崩れてしまうことになるでしょう。きよい心と正しい良心と偽りのない信仰から出て来る愛ではなく、無益な議論に走ってしまうことになるのです。そういうことがないように、ある人たちのように違った教えを説いたり、果てしのない空想話と系図とに心が奪われることがないように注意しなければなりません。

Ⅲ.律法の正しい役割とは(8-11)

では律法の本来の役割、目的とは何でしょうか。8~11節をご覧ください。「8 しかし私たちは知っています。律法は、もし次のことを知っていて正しく用いるならば、良いものです。9 すなわち、律法は、正しい人のためにあるのではなく、律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人、汚らわしい俗物、父や母を殺す者、人を殺す者、10 不品行な者、男色をする者、人を誘拐する者、うそをつく者、偽証をする者などのため、またそのほか健全な教えにそむく事のためにあるのです。11 祝福に満ちた神の、栄光の福音によれば、こうなのであって、私はその福音をゆだねられたのです。」

どういう意味でしょうか。偽教師たちは律法の与えられた目的を理解していませんでした。彼らは知識としては律法を良く知っていましたが、それを行うことはありませんでした。律法が与えられた目的を理解していなかったからです。ここでパウロは、律法は正しい人のためにあるのではないと言っています。ローマ7章のところでパウロは、律法は正しいものであると言っています。律法は良いものですが、私たちを救う力はありません。それではいったい何のために与えられたのでしょうか。それは私たちが神の前に罪人であることを示すためです。パウロはこれをガラテヤ3章24節で、「罪人をキリストに導くための養育係」だと言っています。

「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」

自分は正しいと思っている人に罪の意識を生じさせ、罪の自覚を与えるために、神は律法を与えてくださいました。ですから、神の律法に照らし合わせてみると、本当に自分はズレてるなぁとか、なんと罪深いんだろうということがわかるのです。すべての人は罪人であるということを否定できなくなるのです。私は正しいですというのなら、じゃ律法に照らし合わせてみましょう、というのです。そのようには言えなくなりますから・・・。もうお手上げになります。もしそのように言う人がいるとしたら、それこそ律法を全然理解していない証拠でもあるのです。というのは、律法は外側のものだけでなく、私たちの内側をも暴き出すものだからです。律法学者やパリサイ人たちは外側だけ守っていたので、私は大丈夫、私は正しい、全然問題ないと豪語していたのですが、律法はただその人の外側だけではなくその人の内側も照らすのです。

イエス様はこう言われました。あなたがたは人を殺したことがないというけれども、そんなあなたがたに私は言います。もし、兄弟に向かって「ばか者」と言うなら、あなたは人を殺していることになるんですよ。姦淫したことがないというかもしれませんが、情欲をもって女を見るなら、すでに姦淫を犯しているのです。要するに、この律法の規定はただ外側において守っているかいないかというだけでなく、私たちの内側の部分、心の部分にまでも問うているということなのです。そうなると、だれも神の前に正しいと言える人などいないわけです。すべての人は罪人であるということを律法ははっきりと示すのです。

だからパウロは言うのです。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10-12)

ここにあげられているのは、その罪のリストです。パウロはここに罪のリストを挙げて、すべての人は有罪であるということを示しているのです。律法は私たちが罪人であることを明らかにし、そして、私たちには救いが必要だと気づかせてくれるのです。では、私たちにはもはや希望はないのでしょうか。だれが私を救うことができるのでしょうか。ガラテヤ2章16節を開いてみましょう。

「しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」

皆さん、ここに希望があります。人は律法の行いによっては義と認められることはありません。律法が要求しているような愛を、私たちは持っていないのです。聖書の基準に照らし合わせたら、私たちは完全にアウトなのです。完全に無力です。私たちはやりたいと思ってもできません。

しかし、ここに希望があります。イエス・キリストです。イエス・キリストを信じるだけで救われるのです。イエス・キリストを信じるなら、義と認めていただくことができるのです。これが聖書の福音、良い知らせです。福音は、私たちの力ではなく、神の力を明らかにしてくれました。私たちにできないことを、神はしてくださいました。キリスト・イエスを信じる者はだれでも救われるということです。これが福音です。パウロはここで、これを栄光の福音と言っています。これが栄光の福音なのです。そこに神の栄光が現されているのです。

神はイエスを信じる信仰によって、自分の力では無力な私たちを救ってくださいました。そして、ただ救ってくださっただけでなく、私たちをご自身の姿と同じ姿に変えてくださっています。私たちに注がれた聖霊によって、今も神の愛が注がれているのです。日々神の愛が注がれ、その神の御霊によって内側からイエス様と同じ姿に変えられているのです。その最終ゴールは、イエス様が再び来られたときイエス様と同じ栄光の姿に変えられるということです。これが私たちの望みであり、神が私たちに与えてくださった良い知らせであります。

すべては福音を聞いて信じたところから始まります。すべては福音を聞いて信仰を持ったところから始まるのです。だから正しい教えを聞かなければなりません。健全な教えにとどまっていなければならないのです。いつも福音に、祝福に満ちた、神の栄光の福音にしっかりと立ち続けていたいと思います。

民数記12章

きょうは民数記12章から学びたいと思います。

1.  モーセに対する非難(1-2)

まず1節と2節をご覧ください。

「1 そのとき、ミリヤムはアロンといっしょに、モーセがめとっていたクシュ人の女のことで彼を非難した。モーセがクシュ人の女をめとっていたからである。2 彼らは言った。「はただモーセとだけ話されたのでしょうか。私たちとも話されたのではないでしょうか。」はこれを聞かれた。」

ここに「そのとき」とあります。イスラエルの民は神の山シナイ山から旅立ち、まずタブエラへ進みました。そこで民はひどく不平を鳴らして主につぶやいたので、主は彼らに対して怒りを燃やされ、宿営をなめ尽くされました。また「ああ、肉が食べたい」という声に紛れてつぶやく民に対して、主は大量のうずらを降らせましたが、肉が彼らの歯の間にあるうちに、主の怒りが燃え上がり、彼らは激しい疫病で打たれて死にました。それがキブロテ・ハタワテという所での出来事です。イスラエルはそこからハツェロテに進み、そこにとどまりました。「そのとき」のことです。モーセの姉ミリヤムがアロンといっしょに、モーセがめとっていたクシュ人の女のことで彼を非難したのです。

このクシュ人の女が誰のことを指しているのかははっきりわかりません。モーセには、チッポラという妻がいました。彼女はミデヤン人イテロの娘です。このクシュ人がそのチッポラのことなのか、あるいはチッポラが死んだ後の二人目の妻なのかは分かりませんが、イスラエル人ではない異邦人であることは確かです。ミリアムは、この女のことでモーセを非難したのです。なぜでしょうか。ねたみがあったからです。自分はモーセの姉なのにモーセばかり用いられて自分は全く認められていないことにある種の不満があったのでしょう。しかし、このような妬みは地に属するものであり、肉に属し、悪霊に属するものです。

ヤコブ3章14-15節には、「14 しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。15 そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。」とあります。私たちは、自分たちの中にこうしたねたみがないかどうかを、しっかりと見張っていなければいけません。確かにモーセにも欠陥があったかもしれません。しかし、モーセは神によって立てられたしもべなのです。主がお立てになりました。そのモーセを非難して、彼の評判を傷つけるということは、それは神ご自身を傷つけることと同じです。ミリヤムはそのことを理解していませんでした。

ローマ13章1節には、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたのです。」とあります。私たちは平気で上に立てられた権威を非難したり、悪口を言ったり、さばいたりすることことがありますが、それは神ご自身を非難することであり、傷つけることであるということを覚えておかなければなりません。なぜなら、上に立つ権威は、すべて神によって立てられたものだからです。勿論、私たちはキリストにあって一つであり、上下の関係でありません。みな平等です。けれども、そこには秩序があるのです。神によって立てられた権威を非難することは神のみこころではありません。むしろそれを理解し、主にあって支え、守る責務を持っているのだということを覚えておかなければなりません。

2.神のしもべモーセ(3-8)

次に3節から8節までをご覧ください。

「3 さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。4 そこで、は突然、モーセとアロンとミリヤムに、「あなたがた三人は会見の天幕へ出よ」と言われたので、彼ら三人は出て行った。5 は雲の柱の中にあって降りて来られ、天幕の入口に立って、アロンとミリヤムを呼ばれた。ふたりが出て行くと、6 仰せられた。「わたしのことばを聞け。もし、あなたがたのひとりが預言者であるなら、であるわたしは、幻の中でその者にわたしを知らせ、夢の中でその者に語る。7 しかしわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者である。8 彼とは、わたしの口と口で語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、の姿を仰ぎ見ている。なぜ、あなたがたは、わたしのしもべモーセを恐れずに非難するのか。」

モーセは、ミリアムとアロンから非難されたとき、何も反発しませんでした。そのままにしていました。自分は、確かに足りない人間だと思ったのでしょう。「私に立てつくとはどういうことだ」というようなことを言いませんでした。ですからここには、モーセは、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった、と書いてあるのです。

そこで、モーセではなく主ご自身が三人に天幕の所に出て来るようにと言われました。モーセも傷ついていましたが、それ以上に傷つかれたのは神でした。ですから、神が黙っておられなかったのです。彼らが出て行くと、主は雲の柱の中にあって降りて来られ、こう仰せになられました。「「わたしのことばを聞け。もし、あなたがたのひとりが預言者であるなら、であるわたしは、幻の中でその者にわたしを知らせ、夢の中でその者に語る。7 しかしわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者である。8 彼とは、わたしの口と口で語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、の姿を仰ぎ見ている。なぜ、あなたがたは、わたしのしもべモーセを恐れずに非難するのか。」

「幻の中で知らせる」とか「夢の中で語る」というのは、誰かの解き証しが必要であるようなあやふやな語り方で語るということです。しかし、モーセに対してはそうではありません。モーセに対しては、口と口で語り、明らかに語って、なぞで話すことはしないのです。なぜなら、彼は全家を通して忠実な者だからです。どういう意味でしょうか。神の家全体のために忠実であるということです。ミリアムは、主の働きを履き違えていました。モーセが預言をし、不思議を行なっているのを見て、なんとすばらしいんだろうと興奮し、自分もそのような奉仕に携わりたい、と思ったかもしれませんが、モーセはそういうつもりで奉仕していたのではなく、ただ神に忠実であることに徹していたのです。神から与えられた使命を全うするために与えられていた賜物を用いて仕えて。彼は自分の分をよくわきまえて、与えられた奉仕に集中していたのです。

時に私たちも、そうした目ざましいわざや、興奮するような事を求める傾向がありますが、そうではなく、自分に与えられた使命を認識し、そのために与えられた賜物を用いて、忠実に与えられたを果たしていかなければなりません。他の賜物を持っている人を見てすばらしいと思い、自分もそれを持ちたいなあと思うことがあっても、そのために賜物が与えられるのではありません。しっかりと主に与えられた務めを行なうために、主にお仕えするために与えられているのです。そのことをわきまえなければなりません。それは地味で、きらびやかしたものではないかもしれませんが、主のしもべに求められていることは忠実であることなのです。

3.主の懲らしめ(9-16)

最後に、ミリヤムの高慢に対する主のさばきを見て終わりたいと思います。9節から16節までをご覧ください。

「9 の怒りが彼らに向かって燃え上がり、主は去って行かれた。10 雲が天幕の上から離れると、見よ、ミリヤムはツァラアトになり、雪のようになっていた。アロンがミリヤムのほうを降り向くと、見よ、彼女はツァラアトに冒されていた。11 アロンはモーセに言った。「わが主よ。私たちが愚かで犯しました罪の罰をどうか、私たちに負わせないでください。12 どうか、彼女を、その肉が半ば腐って母の胎から出て来る死人のようにしないでください。」13 それで、モーセは主に叫んで言った。「神よ。どうか、彼女をいやしてください。」14 しかしはモーセに言われた。「彼女の父が、彼女の顔につばきしてさえ、彼女は七日間、恥をかかせられたことになるではないか。彼女を七日間、宿営の外に締め出しておかなければならない。その後に彼女を連れ戻すことができる。」15 それでミリヤムは七日間、宿営の外に締め出された。民はミリヤムが連れ戻されるまで、旅立たなかった。16 その後、民はハツェロテから旅立ち、パランの荒野に宿営した。」はミリアムに罰を与えられます。」

主の怒りがミリヤムとアロンに向かって燃え上がると、主は天幕の上から離れ去って行きました。すると、ミリヤムはツァラートのようになり、雪のように白くなりました。すると、アロンがモーセに「わが主よ。私たちが愚かで犯しました罪の罰をどうか、私たちに負わせないでください。どうか、彼女を、その肉が半ば腐って母の胎から出て来る死人のようにしないでください。」と言いましたが、主は彼女を七日間宿営の外に締め出さなければならないと言われたので、そのようにしました。
モーセは、自分を非難したミリアムのために祈ることができました。彼には赦す心がありました。愛は、忍耐し、親切にする、とありますが、まさにモーセは愛をもって行動したのです。しかし、主は彼女を七日間、宿営外の外に締め出しておかなければならないと言われました。どういうことでしょうか。「つばきをかける」とは、はずかしめを受けるということです。死刑ではないけれども、このようにつばきをかけられて、はずかしめを受けるという刑が律法にありました。それと同じように、ミリヤムは神の懲らしめを受け、自分の罪を悲しみ、もう二度と同じことをしないという悔い改めの期間が求められました。それが七日間、宿営の外に締め出されるということです。

それでミリヤムは七日間、宿営の外に締め出されましたが、民はミリヤムが連れ戻されるまで、そこにとどまり、旅立ちませんでした。それはミリヤムだけでなくイスラエル全体が、このことを深く考え、主の戒めを考える時でもあったかもしれません。主の懲らしめを受けるのは、私たちにとっても必要なことです。それは、私たちに意地悪するのではなく、愛をもっておられるからです。へブル12章5~13節に次のようにあるとおりです。

「5 そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」7 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。8 もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。9 さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。10 なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。12 ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。13 また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。なえた足が関節をはずさないため、いやむしろ、いやされるためです。」

こうしてモーセたちは、パランの荒野に宿営しました。イスラエルの民は約束の地に向かう荒野の道中ですぐにつぶやき、激しい欲望にかられてその多くが滅び失せました。また、モーセの姉ミリヤムは主のしもべを非難して、主の懲らしめを受けました。これらのことはみな何に起因していたのでしょうか。それは、主のあわれみと真実から離れてしまったことです。主は私たちに良くしてくださっています。一見、いつもと同じことの繰り返しのようで、物足りないと感じるかもしれませんが、主のあわれみは朝ごとに新しいのです。つぶやきはこのことを忘れたところから出てきます。そして、非難も、主が立てておられる秩序に違反することから出てきます。秩序を乱すことや、平和を壊すことに、私たちは注意していなければいけません。慎み深くして、主とともに歩むことが、天に向かって進む私たちのこの荒野での歩みにおいて求められていることなのです。

Ⅱテサロニケ3章1~18節 「主は真実な方ですから」

きょうはテサロニケ第二の手紙からの最後のメッセージとなります。第一の手紙同様この第二の手紙も、迫害で苦しんでいたテサロニケのクリスチャンたちを励ますために書かれました。また、主の再臨について、もうすでに来たかのように言うのを聞いて動揺し、落ち着きを失ったりすることがないように教えるために書かれました。だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、主の再臨の前には背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が必ず現れるからです。だから、そうした誤った教えを聞いて動揺することがないようにと教え、彼らが信仰に堅く立つようにと励ましたのです。そして、この手紙の終わりの部分に入ります。

Ⅰ.パウロの確信(1-5)

まず1節から5節までをご覧ください。1節と2節をお読みします。

「1 終わりに、兄弟たちよ。私たちのために祈ってください。主のみことばが、あなたがたのところでと同じように早く広まり、またあがめられますように。2 また、私たちが、ひねくれた悪人どもの手から救い出されますように。すべての人が信仰を持っているのではないからです。」

終わりにパウロは、私たちのためにも祈ってくださいとお願いしています。いったい彼は何を祈ってほしいと言っているのでしょうか。彼はここで二つの祈りのリクエストをしています。一つは、主のみことばが、あなたがたのところでと同じように早く広まり、またあがめられるようにということです。

主のことばとは福音のことです。また、それは神のことば全体のことでもあります。この神のことばが彼らのところで急速に広がったように、他のところでも急速に広がり、そのことによって神の栄光があがめられるように祈ってほしいと願ったのです。

パウロはこの時コリントにいました。コリントの教会はとても堕落していました。教会は性的に堕落しており、また、ねたみや争いが絶えませんでした。彼らはイエスさまを信じて救われていたはずなのに、ただの人のように歩んでいたのです。いったい何が問題だったのでしょうか。それは神のことばを聞いてもそれをただ聞くだけで、それが彼らの心に留まっていなかったことです。神のことばを聞いているのですが、それが心の中に留まることがなかったのです。しかし、テサロニケのクリスチャンたちはそうではありませんでした。。彼らはパウロたちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れたので、そのことばが、信じている彼らのうちに働いたのです(Ⅰテサロニケ12:13)。主のことばは生きていて、力があるので、これを聞く人を救うだけでなく、その人を全く新しい人に作り変えることができます。テサロニケのクリスチャンたちのすばらしい点は、この神のことばに生きていたということです。そのようにコリントでもいや、他の至るところでもみことばが急速に広がり、それによって救われる人々が起こされるように、そして、その神のことばによって生活が変えられ、主の御名があがめられるように祈ってほしいと言ったのです。

パウロの第二の祈りのリクエストは、自分たちがひねくれた悪人たちの手から救い出されるようにということです。2節にこうあります。「また、私たちが、ひねくれた悪人どもの手から救い出されますように。すべての人が信仰を持っているのではないからです。」「ひねくれた悪人ども」とは、イエスさまを信じて救われていると言いながらパウロの教えを否定したり、あからさまにパウロの人格を否定するようなことを言って、その働きを妨げていた人たちのことです。彼らはユダヤ主義者と呼ばれていました。キリストの福音を信じてもそれだけでは足りない。ブラス律法も守らないと救われないといった間違ったことを教えていました。間違ったことを教えていただけでなく、パウロの教えが間違っていると言って混乱させていたのです。伝道には反対や困難は付き物です。しかし、時としてそれが福音宣教の大きな足かせになってしまうこともあります。だからパウロは、福音の前進のために、このような悪人どもの手から救い出されるように祈ってほしいと訴えているのです。

しかし、こうした困難な中にもパウロは、それを乗り越える力がどこにあるのかをよく知っていました。それは確信です。3節と4節をご覧ください。「3 しかし、主は真実な方ですから、あなたがたを強くし、悪い者から守ってくださいます。4 私たちが命じることを、あなたがたが現に実行しており、これからも実行してくれることを私たちは主にあって確信しています。」

パウロはここで、「私たちは主にあって確信しています」と言っています。確信を持つことはとても大切なことです。それがどんなに険しい状況であっても、こうした確信を持つことによって必ず乗り越えることができるからです。パウロはここで二つの確信を持っています。一つは、主は真実な方ですから、彼らを強くし、悪い者から守ってくれるという確信です。

皆さん、私たちの信じている神は真実な方です。たとえすべての人が信じなくても、たとえ教会の中に問題があっても、それは神が真実な方ではないということではありません。人がどうであれ、教会がどうであれ、神は常に真実な方なのです。信仰が安定しているクリスチャンの秘訣はここにあります。私たちは人を見て、あるいは教会を見て、あるいはキリスト教の歴史を見て、またクリスチャンの理不尽な状況を見てすぐにつまずいてしまいますが、それでも神が真実であることは変わらないのです。そうしたことは確かに多いかと思います。それは今もあるし、これからもあるでしょう。いつもあります。ではそれによって神は真実ではないということにはならないのです。人は真実でなくとも、神は常に真実なのです。これがパウロの持っていた確信です。Ⅱテモテ2章13~14節を開きたいと思います。

「13 私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。14 これらのことを人々に思い出させなさい。そして何の益にもならず、聞いている人々を滅ぼすことになるような、ことばについての論争などしないように、神の御前できびしく命じなさい。」

彼とはイエス・キリストのことです。私たちは真実でなくても、彼は常に真実です。彼にはご自身を否むことができないからです。だから、これらのことを思い出させるようにと言っているのです。頼りにならない人間に依存しないで、神に信頼しなければなりません。なぜなら、神は真実な方だからです。そうでないと、人のことばに振り回されてしまうことになります。神は真実な方であるという確信があれば、たとえ人がどうであろうと、たとえ教会がどうであろうと全く関係ありません。そこに希望を置くことができるからです。

パウロが持っていたもう一つの確信は、4節にありますが、テサロニケの人たちが、パウロたちが命じたことをこれからも実行してくれるということです。彼らは、パウロたちが伝えた福音を神のことばとして受け入れました。そして、信じて救われたというだけでなく、その教えに堅く立ち、それを守り、実行していました。もう現にそれをしていたのです。それをこれからもしていくということです。パウロの確信は、彼らがそれを信じて終わりではなく、これからもずっと信じていくということでした。かつて信じていましたが今は信じていませんというのでは、意味がありません。かつては熱心に仕えていましたが今はちょっと引いていますというのでは、主に喜ばれることないのです。なぜなら、主はこれからも続けていくことを強く願っておられるからです。そうした確信に立ってパウロはこう祈っているのです。5節、「どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださいますように。」

もしこの二つの確信があれば、あとは主が働いてくださいます。主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださるのです。クリスチャンが神の愛とキリストの忍耐を持つことは、自分の力や人間の努力だけでできるものではありません。そのためにはどうしても神の恵みと導きによらなければなりません。だから、パウロの祈りはこの二つの確信によって裏付けられていたのです。主は真実な方ですから、必ずあなたを強くし、悪い者から守ってくださる。聖書が命じていることを、あなたが現に実行しているように、これからも必ず実行していくという確信です。私たちもこのような確信を持たせていただきましょう。それが困難な中にあっても神の愛とキリストの忍耐とを持ち続けていく秘訣だからです。

Ⅱ.締りのない歩み方をしないで(6-15)

次に6節から12節までを見ていきましょう。終わりに、パウロがテサロニケの人たちに命じている第二のことは、締りのない歩み方をしないようにということです。

「6 兄弟たちよ。主イエス・キリストの御名によって命じます。締まりのない歩み方をして私たちから受けた言い伝えに従わないでいる、すべての兄弟たちから離れていなさい。7 どのように私たちを見ならうべきかは、あなたがた自身が知っているのです。あなたがたのところで、私たちは締まりのないことはしなかったし、8 人のパンをただで食べることもしませんでした。かえって、あなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も労苦しながら働き続けました。9 それは、私たちに権利がなかったからではなく、ただ私たちを見ならうようにと、身をもってあなたがたに模範を示すためでした。10 私たちは、あなたがたのところにいたときにも、働きたくない者は食べるなと命じました。11 ところが、あなたがたの中には、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締まりのない歩み方をしている人たちがあると聞いています。12 こういう人たちには、主イエス・キリストによって、命じ、また勧めます。静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。」

6節には、締りのない歩み方をして、主の教えに従わないでいる、すべての兄弟たちから離れていなさい、とあります。「締りのない生き方」とは仕事ができるのに、怠けて何もしない。フラフラしていた人たちのことです。彼らはもう既に主は再臨したのだから、仕事していても意味がないと、全く仕事をしませんでした。そうなると経済的に苦しくなり、回りの人に負担をかけてしまうことになります。そういう人たちに対してパウロは、「自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。」(Ⅰテサロニケ4:11)と命じてきましたが、その命令に従わない人がいたので、そういう人たちからは「離れていなさい」と命じているのです。

なぜでしょうか。仕事をすることは神のみこころだからです。神は世の初めから今に至るまでずっと働いておられます。また、イエスさまも神が人となって来られた方ですが、公生涯に入るまでずっと大工として働いておられました。パウロもそうです。パウロ人のパンをただで食べることはしませんでした。かえって、だれにも負担をかけまいとして、昼も夜も労苦しながら働き続けました。それは、彼らに報酬を受ける権利がなかったからではありません。彼にはその権利がありましたが、それでも労苦しながら働き続けたのは、彼らのだれにも負担をかけないようにするためだったのです。また、彼らがパウロたちを見習うようにと、身をもって模範を示すためだったのです。だから、パウロは彼らのところにいたときも、働きたくない者は食べるなと命じたのです。働くことは神のみこころなのです。勿論、健康上の理由で働けない人もいます。また、仕事をしたくてもない人たちもいますが、ここではそういう人たちのことを言っているのではありません。そういう人たちには当然助けが必要です。ここでパウロが言っているのは、十分働けるのに働く気のない人たちのことです。

11節を見てください。彼らの問題は、ただ仕事をしないというだけではありませんでした。彼らは人のおせっかいばかりして、締りのない歩み方をしていたのです。言わなくてもいいようなことまで言って問題を作ったり、お腹が空けばだれかの厄介になるというように、まさにパンツのひもがゆるんだような生活をしていたのです。そういう人たちに対してパウロは、「静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。」と命じたのです。しかし、そうでない人たちもいます。汗水たらして働き、わずかなお給料を大切に使い、そこから精一杯主にささげるという人たちもいたのです。

そういう人たちに必要だったのは、たゆむことなく善を行うということでした。仕事をしない人には食べさせるな!と聞くと、食べさせてはダメだということをすべての人に当てはめてしまう人がいますが、それもよくありません。中には仕事をしたくてもできないという人もいます。そういう人たちには助けが必要なのです。特に、当時は社会保障制度が確立されていなかったので、夫に先立たれてしまうと仕事がなくて食べるのにも困り果ててしまうということがありました。そういう人たちに対しては助けてあげるように、善を行うようにと命じているのです。

マタイの福音書25章40節のところでイエス様は、「これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」と言われました。弱い人に助けの手を差し伸べることは神にしたことと全く同じことだと言われたのです。だから善いことを行うことを止めてはいけません。たゆむことなく善を行わなければならないのです。

Ⅲ.平和の神がともにおられるように(16-18)

最後に16節から終わりのところを見て終わりたいと思います。パウロはこの手紙の最後にテサロニケの人たちのために祈り、あいさつを送っています。「16 どうか、平和の主ご自身が、どんな場合にも、いつも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。どうか、主があなたがたすべてと、ともにおられますように。」

ここでパウロは、平和の主ご自身が、どんな場合にも、いつも、彼らに平和を与えてくださるようにということ、また、主が彼らすべてとともにおられるようにと祈りました。これはテサロニケのクリスチャンたちにとって最もふさわしい祈りであったと言えるでしょう。というのは、彼らは激しい迫害の中に苦しんでいたからです。また、もう既に主の日は来られたと言って心を騒がせる人たちがいたからです。そんな彼らにとって必要だったのは、平和の主が、彼らとともにいて、彼らの心に平和を与えてくださるということでした。

皆さん、私たちは問題があるとすぐに心を騒がせ、右往左往してしまいます。もうどうしたらいいかわからなくてパニクッテしまうのです。ですから、私たちに必要なのは心の平安であり、安心感です。いったいどうしたらこの平安を持つことができるのでしょうか。それは主に祈ることです。なぜなら、それは平和の主である神から来るからです。だからパウロはここで、この平和の主ご自身が、どんな場合にも、いつも、あなたがたに平和を与えてくださるようにと祈っているのです。もしあなたが、この平和の主ご自身があなたとともにおられるということを知るなら、心に平安を持つことができるのです。たとえば、小さな子どもにとってはお母さんがすべてです。お母さんがいないと不安になるのです。しかし、そばにいれば安心します。それと同じことです。

私たちは問題に直面すると、自分だけが世界のすべてを背負っているかのように感じてしまいます。だれも助けてくれないとか、自分だけが・・・と、孤独に陥ってしまうのです。神にも見捨てられたような気分に陥ってしまうのです。しかし、そうではありません。神は決して私たちを見離したり、見捨てたりすることはないのです。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と言われた主は、世の終わりまで、いつもあなたと共にいてくださいます。平和の主が共におられるということを知るなら、あなたは心に神の平安を持つことができるのです。

ではどうしたらこのことを知ることができるのでしょうか。そのためには二つのことが必要です。一つのことは、あなたが神との平和を持っているということです。ローマ人への手紙5章1節には、「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」とあります。イエス・キリストを信じるならあなたのすべての罪は赦され、神が聖霊をとおしてあなたの内にいてくださいます。あなたは神との平和を持つことができるのです。以前はそうではありませんでした。以前は罪があったので、神に敵対していましたが、今はその罪が赦されて、聖められたので、神の子と呼ばれるようになりました。あなたは神との平和を持っているのです。

しかし、神との平和があるということと、神の平安を持つことは違います。神との平和はあなたと神との間の平和のことですが、それでも目の前に問題が起こると、すぐに心が騒いでしまいます。平安を失ってしまうのです。神との平和があっても、神の平安が失われてしまうことがあるのです。ではそのような時はどうすればいいのでしょうか。パウロはこう言っています。ピリピ4章6~7節です。開いてみましょう。

「6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」

ここでパウロは、何も思い煩わないで、あらゆる場合に祈れと言っています。私たちは神との平和が与えられても心配したり、落ち込んだりしますが、そういう時には祈るように、あらゆる場合に感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさいというのです。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。つまり、あなたのことを神に知っていただくと、あなたは安心するのです。あなたが何も思い煩わないで、あらゆる場合に感謝をもって祈ると、神がともにおられることがわかるようになるからです。平和の主があなたとともにおられることがわかると、あなたは再び神との平安を持つことができるようになるのです。

この切り替えが早いか遅いかだけの問題です。信仰生活が長くても不安は押し寄せてきますし、心騒ぐことがあります。問題は同じように起こります。信仰を持ったらすべてがバラ色になるということではありません。同じように問題は起こります。どこに行っても、何をしても、必ず問題は起こるのです。でも、神との平和を持つ前と持ってからでは全く違います。そういう時でも祈れる対象をちゃんと持っているということです。それまでは困ったときの神頼みで、もう何でもいいから祈っていました。答えてくれそうなものなら、たとえそれがきつねでもたぬきでも、太陽でも、星でも、ご先祖様でも、何でもいいから祈れとばかり祈っていたわけです。しかし、神との平和を持ってからは違います。神との平和を持ってからは、そうした太陽や星、ご先祖様までも造られた創造主なる神に祈ることができるようになりました。だから、神の平安を持つことができるのです。これが早いか遅いかの違いです。これが遅いと不安の方が強くなるのです。

ですから、私たちはどんな時でも、いつでも祈ることが大切です。あなたが不安になったときには、どうぞ祈ってください。何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたの願い事を神に知っていただくようにしてください。そうすれば、神の平安が、あなたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。もしあなたが人間関係で悩んでいるなら、神に祈ってください。もしあなたが夫婦関係で悩んでいるなら、子どもの問題で悩んでいるなら、それを神に祈りましょう。感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたの願い事を神に知っていただいてください。そうすれば、あなたの心と思いが、キリスト・イエスにあって守っていただけます。もしあなたが経済的な問題で悩んでいるなら、あるいは仕事のことで、病気のことで、この先どうしていったらいいのだろうと悩んでいるなら、それを神に知っていただいてください。そうすれば、あなたの心と思いは、キリスト・イエスにあって守っていただけるのです。自分一人で悩み、ふさぎ込んだりしないで、それを神に知っていただくように祈ってください。また、そのために神の家族がいます。信仰の仲間たちがいるのです。そういう人たちと一緒に祈ってください。そうすれば、あなたはどんな困難な状況の中にも、平安を持つことができるのです。

17節と18節をご覧ください。「17 パウロが自分の手であいさつを書きます。これは私のどの手紙にもあるしるしです。これが私の手紙の書き方です。18 どうか、私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたすべてとともにありますように。」

パウロはいつも恵みによって手紙を書き始め、恵みによって終えます。それは私たちの信仰生活も同じです。私たちも神の恵みによって信仰生活が始まりました。今までいろいろ辛いこともありましたが、神の恵みによって救われました。救われた後もいろいろな問題が襲ってきますが、その恵みの中にいるのです。そして、最後まで恵みの中を歩み続けるのです。「どうか、私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたすべてとともにありますように。」

民数記11章

きょうは、民数記11章から学びます。まず1節から9節までをご覧ください。

1.  イスラエルの民の不平、つぶやき(1-9)

「1 さて、民はひどく不平を鳴らしてにつぶやいた。はこれを聞いて怒りを燃やし、の火が彼らに向かって燃え上がり、宿営の端をなめ尽くした。2 すると民はモーセに向かってわめいた。それで、モーセがに祈ると、その火は消えた。3 の火が、彼らに向かって燃え上がったので、その場所の名をタブエラと呼んだ。4 また彼らのうちに混じってきていた者が、激しい欲望にかられ、そのうえ、イスラエル人もまた大声で泣いた、言った。「ああ、肉が食べたい。5 エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいかも、にら、たまねぎ、にんにくも。6 だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ。」7 マナは、コエンドロの種のようで、その色はベドラハのようであった。8 人々は歩き回って、それを集め、ひき臼でひくか、臼でついて、これをなべで煮て、パン菓子を作っていた。その味は、おいしいクリームの味のようであった。9 夜、宿営に露が降りるとき、マナもそれといっしょに降りた。」

イスラエルは神の山シナイ山のふもとから旅立ち、約束の地に向かって荒野の旅を始めました。彼らが宿営を出て進むとき、主の雲が彼らの上にあって彼らを導きました。主の雲が最初にとどまったのはパランの荒野でした。それはシナイ山の北にある荒野ですが、彼らが主の山を出て、三日の道のりを進んだところにありました。しかし、彼らがパランの荒野に着くまでの間に、大きな問題が起こりました。1節から3節までを見てください。彼らはひどく不平を鳴らして主につぶやいたのです。それで主はこれを聞いて怒りを燃やされ、宿営の端をなめ尽くしたのです。荒野の旅を始めてまだ三日だというのに、早くも不平やつぶやきが出たのです。いったいなぜ彼らはつぶいたのでしょうか。荒野は決して楽な場所ではなく、不便さと困難がつきものです。空腹や疲れもあったでしょう。そんな荒野での三日間続いた旅の後で、彼らは「もう嫌だ、こんな生活」と不平を言ってつぶやいたのです。何ということでしょう。この荒野の旅のために神さまからいろいろな準備をしていただいたにもかかわらず、わずか三日でつぶやいてしまったのです。それに対して主は怒りを燃やし、火をもって彼らを懲らしめられました。この火は神の裁きを表しています。イスラエルの宿営の中にきよさがなくなったので、神は火をもってその汚れを取り除こうされたのです。

すると民はモーセに向かってわめきました。モーセに向かって、「どうか、助けてください。何とかしてください。主に祈ってください。」とお願いしたのでしょう。それでモーセは主に祈ると、その火は消えました。それで、その所を「タブエラ」と名付けました。「燃える」という意味です。

つぶやきとか不平は、クリスチャンである私たちがいつも抱えている問題でもあります。イスラエルの荒野の旅は、クリスチャンにとって、この世での歩みです。この世は、クリスチャンにとって、実に住みにくいところです。すべてが自分の思いとは反対の方向へ進んでいるかのように見えます。もちろん、この世の人たちと同じような問題にも出くわします。たとえば病気であったり、交通事故であったり、仕事をしている人はその会社の経営状況が悪かったり、さまざまな嫌なことや苦しいことが起こります。そこで私たちは、イスラエルの民のように、不平を漏らしてしまうのです。神さまから、旅のためのいろいろな準備をしていただいたのにもかかわらずです。いざ不快なことが起こると、イスラエルのように不平を鳴らしてしまうのです。それは神を怒らせることなのです。

4節から7節までのところをご覧ください。また彼らのうちに混じっていた者が、激しい欲望にかられ、そのうえ、イスラエル人もまた大声で泣き叫びました。「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいかも、にら、たまねぎ、にんにくも。だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ。」

ここで彼らは激しい欲望にかられ、「ああ、肉が食べたい。魚も。きゅうりも、すいかも・・・」と、かつてエジプトにいた時のことを思い出して嘆いているのです。でもエジプトにいた時は本当にそんなに良かったのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。ここで彼らはエジプトでの生活が楽であったように言っていますが、実際は、激しい苦役であえぎ、叫んでいたのです。あの激しい労働を忘れていたのです。これが、私たちが陥ってしまう過ちの一つす。この世は楽しそうに見え、過去のほうが良かったように見えるときがあります。けれども、その時はきまって、自分が通ってきたむなしさ、苦しみ、悩み、暗やみを忘れてしまっているときです。そこから救い出された今こそが、最もすばらしい時であるということを見ることができないのです。

とこで、4節を見ると、ここに「また彼らのうちに混じってきていた者が・・」とあります。ここで気づかされることは、このつぶやきを初めに言ったのは、「イスラエルの中に混じってきた者」であるということです。これはいったい誰のことでしょうか?彼らはイスラエル人ではありません。イスラエルがエジプトを出るときに、「さらに、多くの入り混じって来た外国人も、彼らとともに上った。」と出エジプト記12章38節に書いてあります。イスラエルとの契約の中に入っていない者たちが、イスラエル人たちとともに旅をしていたのです。行動はともにしているのですが、異なる動機で、異なる価値観で生きていたのです。けれども、彼らがいたこと自体は問題ではありませんでした。問題は、イスラエル人自身が、彼らにつられて、つぶやいてしまったということです。宿営の中に、神の思いではなく、人の思い、肉の思いを入れてしまったところに問題があったのです。

このことは神の民の集まりである教会にも言えることです。教会は、主から与えられた幻を見て、ともに前進する共同体です。そこに必要なのは信仰であり、主のみことばによって、主を仰ぎ見ながら前進していくということです。しかし、信仰の共同体であるはずの教会が人のことばや人の考えに振り回されてしまうことがあります。そして、そのような人たちに影響されて、いっしょになってつぶやいてしまうことがあるのです。「彼らのうちに混じってきた者」がイスラエルとの契約の中に入っていない者であるように、神の救いにあずかっていない人であることが多いのです。教会は、あらゆる人々を受け入れるところでありますが、人々に影響される共同体ではありません。教会は、神の方法によって人々に影響を与えているところの共同体であるということをしっかりと覚えておきたいものです。

さて、この「マナ」は、イスラエルがエジプトを出て荒野に導かれた時、食べ物に飢えたイスラエルがモーセとアロンにつぶやいたので、彼らが食べることができるように、天から降らせたパンのことです。それは、コエンドロの種のようで、その色はベドラハのようでした。 人々は歩き回って、それを集め、ひき臼でひくか、臼でついて、これをなべで煮て、パン菓子を作っていたのですが、その味は、おいしいクリームの味のようでした。しかし、イスラエルはこのマナに食べ飽きたのです。肉が食べたい、魚が食べたい、美味しい野菜も・・・。そう言ってつぶやいたのです。これは注意しなければなりません。そんな荒野にいてもちゃんと食べることができるように神が日々与えてくださったのですから、本来であれば、それを感謝しなければならなかったのに、彼らは、この一見お決まりの食事がいやになってしまったのです。にんげってどこまでも欲足らずですね。

このことは、私たちクリスチャンも注意しなければなりません。というのは、この世における歩みは、荒野の旅のように、単調で、お決まりの日々が続くからです。必ずしも、自分たちの魂を満足させるような目新しいこと、刺激的なことが起こるわけではありません。この世においては、そのようなスリルを味わいたくて、私たちを刺激させるようなものをいろいろ提供してくれるのですが、信仰生活は違うのです。クリスチャンは、毎日与えられたマナを食べるような、単調に見える歩みではありますが、主の真実を知って、喜び感謝しなければなりません。

2.  モーセの嘆きと祈り(10-15)

次に10節から15節までをご覧ください。

「10 モーセは、民がその家族ごとに、それぞれ自分の天幕の入口で泣くのを聞いた。の怒りは激しく燃え上がり、モーセも腹立たしく思った。11 モーセはに申し上げた。「なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのでしょう。なぜ、私はあなたのご厚意をいただけないのでしょう。なぜ、このすべての民の重荷を私に負わされるのでしょう。12 私がこのすべての民をはらんだのでしょうか。それとも、私が彼らを生んだのでしょうか。それなのになぜ、あなたは私に、『うばが乳飲み子を抱きかかえるように、彼らをあなたの胸に抱き、わたしが彼らの先祖たちに誓った地に連れて行け』と言われるのでしょう。13 どこから私は肉を得て、この民全体に与えなければならないのでしょうか。彼らは私に泣き叫び、『私たちに肉を与えて食べさせてくれ』と言うのです。14 私だけでは、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます。15 私にこんなしうちをなさるなら、お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を苦しみに会わせないでください。」

イスラエルの民の不平とつぶやきに対するモーセの反応は、神に訴えることでした(11~14)。神に祈ることは、指導者であるモーセが問題を前にしてできる最も重要なことでした。しかし、モーセは民の絶え間ない不平とつぶやきに忍耐の限界を感じていました。モーセはイスラエルの民に対して、「このすべての民」(11)と呼んでいます。このような言い方は、自分とイスラエルの民との間に距離を置いた言い方です。神に自分の命を取り去ってほしいと叫ぶモーセの祈り(15)は、えにしだの木の下で嘆いていたエリヤの祈り(Ⅰ列王19章)を連想させます。モーセは指導者として直面する痛みと苦しみを、神の前に正直に吐き出したのです。時に私たちも率直に神の前に祈る必要があります。神は人間の限界を十分に理解されます。ゆだねられたたましいが重荷に感じられるとき、指導者として直面する心の痛みを主に告白して祈りたいものです。

3.70人の長老(16-30)

そんなモーセの祈りに主は答えてくださいました。16節から30節までのところをご覧ください。

「16 はモーセに仰せられた。「イスラエルの長老たちのうちから、あなたがよく知っている民の長老で、そのつかさである者七十人をわたしのために集め、彼らを会見の天幕に連れて来て、そこであなたのそばに立たせよ。17 わたしは降りて行って、その所であなたと語り、あなたの上にある霊のいくらかを取って彼らの上に置こう。それで彼らも民の重荷をあなたとともに負い、あなたはただひとりで負うことがないようになろう。18 あなたは民に言わなければならない。あすのために身をきよめなさい。あなたがたは肉が食べられるのだ。あなたがたが泣いて、『ああ肉が食べたい。エジプトでは良かった』とにつぶやいて言ったからだ。が肉を下さる。あなたがたは肉が食べられるのだ。19 あなたがたが食べるのは、一日や二日や五日や十日や二十日だけではなく、20 一か月もであって、ついにはあなたがたの鼻から出て来て、吐き気を催すほどになる。それはあなたがたのうちにおられるをないがしろにして、御前に泣き、『なぜ、こうして私たちはエジプトから出て来たのだろう』と言ったからだ。」21 しかしモーセは申し上げた。「私といっしょにいる民は徒歩の男子だけで六十万です。しかもあなたは、彼らに肉を与え、一月の間食べさせる、と言われます。22 彼らのために羊の群れ、牛の群れをほふっても、彼らに十分でしょうか。彼らのために海の魚を全部集めても、彼らに十分でしょうか。」23 はモーセに答えられた。「の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる。」24 ここでモーセは出て行って、のことばを民に告げた。そして彼は民の長老たちのうちから七十人を集め、彼らを天幕の回りに立たせた。25 するとは雲の中にあって降りて来られ、モーセと語り、彼の上にある霊を取って、その七十人の長老にも与えた。その霊が彼らの上にとどまったとき、彼らは預言した。しかし、それを重ねることはなかった。26 そのとき、ふたりの者が宿営に残っていた。ひとりの名はエルダデ、もうひとりの名はメダデであった。彼らの上にも霊がとどまった。―彼らは長老として登録された者たちであったが、天幕へは出て行かなかった―彼らは宿営の中で預言した。27 それで、ひとりの若者が走って来て、モーセに知らせて言った。「エルダデとメダデが宿営の中で預言しています。」28 若いときからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアも答えて言った。「わが主、モーセよ。彼らをやめさせてください。」29 しかしモーセは彼に言った。「あなたは私のためを思ってねたみを起こしているのか。の民がみな、預言者となればよいのに。が彼あの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」30 それからモーセとイスラエルの長老たちは、宿営に戻った。」

神は重荷をひとりで背負い、苦しむモーセに解決策を与えてくださいました。それは、イスラエルの長老たちのうちから70人を取り、モーセのそばに立たせるということです。つまり、モーセの重荷を分けられたのです。これによってイスラエルに新しい形の組織ができました。イスラエルは一つの国として備えるべき行政的組織を整備していったのです。神はモーセの祈りと嘆願を通して、危機をチャンスに変えてくださったのです。神はモーセに臨んだ同じ霊を70人の長老に注がれ、神の働きを力強くするようにされました。神が指導者を立てられるとき、同時に権威と力も備えてくださるのです。神の働きは聖霊の油注ぎが伴う聖霊の働きであり、信仰の人々共に成されていくものです。他の人の助けによってさらにスムーズらできることは何かを、真剣に祈り求めていかなければなりません。

さて、イスラエルの不満に対しては、主は何と言われたでしょうか。18節から23節までのところで、主は彼らに肉を食べさせると言われました。しかもただ食べさせてくるというのではないのです。それが鼻から出てくるほど嫌気がさすほど与えられるというのです。どういうことでしょうか。こんなに与えられたからと言って喜んではなりません。なぜなら、それは神が喜ばれることではなかったからです。食べたい肉を嫌というほど食べさせるというのは、一見神の答えであるかのように見えますが、実際には神の懲らしめでした。欲望のままに祈りが答えられたからと言っても、それは神がしかたなく許されたことであるかもしれないのです。この場合はまさにそうでした。祈りは私たちの願いではなく、神の願いを求めていかなければなりません。神のみこころを自分の考えに合わせて祈るのではなく、神のみこころに合わせて祈ること、それが本当の祈りなのです。個人的な欲望によって祈ることがないかを点検しなければなりません。

するとモーセは驚いて主に申し上げました。「「私といっしょにいる民は徒歩の男子だけで六十万です。しかもあなたは、彼らに肉を与え、一月の間食べさせる、と言われます。22 彼らのために羊の群れ、牛の群れをほふっても、彼らに十分でしょうか。彼らのために海の魚を全部集めても、彼らに十分でしょうか。」(21-22)

主は 70人の長老を立てることを約束してくださいまいましたが、何と一ヶ月もの間、肉を与えなければならないとしたら、どうやってそれができるでしょう。イスラエルの民は男だけで60万人もいるのですから・・。すると主は仰せられました。「主の手は短いだろうか。」主がこのことを成し遂げてくださいます。それはモーセやこの70人の長老によるのではありません。これを聞いて、モーセは気づいたかもしれません。「ああ、70人の長老が与えられても、それは、この肉の食べ物の問題には関係のなかったことなのだ。私は、的外れなお願いをしていたのだ。」と。主は、私たちがあまりにも切羽詰っていて、しきりにお願いするので、それを惜しまず与えられることがありますが、けれども、実は神はもっと違ったことを考えておられるのです。

そこでモーセは出て行って、主のことばを民に告げました(24)。そして彼は民の長老たちのうちから七十人を集め、彼らを天幕の回りに立たせました。すると主は雲の中にあって降りて来られ、モーセと語り、彼の上にある霊を取って、その長老たちも与えました。その礼が彼らの上にとどまったしるしとして、そのとき彼らは預言をしました。しかし、この時エルダデとメダテというたちりの者が宿営に残っていたので、天幕のモーセのところには行きませんでした。そして。宿営で預言していたのです。そこで、若者やヨシュアもびっくりして、彼らの預言をやめさせなければいけない、と思ってそのことをモーセに告げたのですが、モーセの答えはこうでした。29節です。

「あなたは私のためを思ってねたみを起こしているのか。の民がみな、預言者となればよいのに。が彼あの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」

どういうことでしょうか。彼は、このふたりが、自分が行なっていることと同じことをしていなくても、それをねたまずに、そのような働きがもっともっと起こされればよいのに、と言ったのです。モーセはすべての人に主の霊が臨むことを願ったのです。神はキリストを通して、私たちに聖霊の賜物を与えてくださいました。それは神の子としての権威であると同時に、神の共同体である教会に仕えるための力を与えてくださったということを意味しています。神はその賜物を通して、私たちが御国の建設のために仕えることを願っておられるのです。私たちは霊的リーダーとして聖霊の賜物が用いられることを求めていかなければならないのです。

この個所で興味深いのは、モーセのことばです。「主の民がみな、預言者となればよいのに。主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」(29)この当時、神は、特定の選ばれた者にのみ御霊を注がれました。そこで、モーセは「すべての人」に御霊が注がれるとよいのに、と言いました。実は、預言者ヨエルが、世の終わりにそのようになると預言しました。「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。」(ヨエル2:28-29)そして、この預言は成就しました。五旬節の日に、聖霊が弟子たちに降り、それだけではなく、サマリヤ人、異邦人コルネリオの家族にも降りました。イスラエルの長老たちにくだった霊が、汚れているとされていたイスラエルの契約とは無縁であるとされていた異邦人にさえ下ったのです。そして、その礼が私たちにも注がれているのです。

4.  欲望にかられた民(31-35)

最後に31節から35節までを見て終わりたいと思います。

「31 さて、のほうから風が吹き、海の向こうからうずらを運んで来て、宿営の上に落とした。それは宿営の回りに、こちら側に約一日の道のり、あちら側にも約一日の道のり、地上に約二キュビトの高さになった。32 民はその火は、終日終夜、その翌日も一日中出て行って、うずらを集め、―最も少なく集めた者でも、十ホメルほど集めた―彼らはそれらを、宿営の回りに広く広げた。33 肉が彼らの歯の間にあってまだかみ終わらないうちに、の怒りが民に向かって燃え上がり、は非常に激しい疫病で民を打った。34 こうして、欲望にかられた民を、彼らがそこに埋めたので、その場所の名をキブロテ・ハタアワと呼んだ。35 キブロテ・ハタアワから、民はハツェロテに進み、ハツェロテにとどまった。」

エジプトを出た日、主は一晩中東風で紅海を干上がらせましたが、今回はその主の風でうずらの群れを送られました。神は奇跡的な方法でイスラエルの民の要求を満たされ、これを通して人間の理性を越えて働かれる神の無現の力を現してくださいました(11:23)。風に乗って飛んできたうずら群れは、約90cmの高さにまで積もりました。それでイスラエルはそれぞれ2.2リットル以上の大量のうずらを集めることができたのです。しかし、肉が彼らの歯の間にあってまだかみ終わらないうちに、主の怒りが彼らの燃え上がり、主は非常に激しい疫病で彼らを打ったのです。これはどういうことでしょうか。科学的には、うずらに何らかのばい菌が入っていたのかもしれません。それを少しずつ除菌しながら食べればよかったのかもしれませんが、むさぼり食ったためにばい菌が体に蔓延して死んだのかもしれません。あるいは、そうしたむさぼりに対する神のさばきだったのかもしれません。

いずれにせよ、イスラエルはむさぼりのために滅んでしまいました。それは私たちにも言えます。肉の欲望は人を滅びに至らせるのです。私たちは欲望に駆り立てられているときに、そのことに気づきません。けれども、自分のからだ、いのちさえをも惜しんで、欲望を満たしたいと思うようになりそこで、病気になったり、交通事故にあったり、金がなくなったので盗みを働いたり、離婚をしなければいけなくなったり、さまざまな悲惨な結果を招くことになるのです。だからパウロはこのむさぼりを殺しなさい(コロサイ3:5)と言っているのです。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです、と。私たちはむさぼり殺し、神が与えてくださったものに満足し、感謝をもって日々歩んでいきましょう。

創世記12章

きょうは創世記12章から学びます。

1.アブラハムの召命(1-9)

まず1節から9節までをご覧ください。1節には、「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」とあります。11章31節を見ると、これはアブラハムが父テラとハランの孫のロトといっしょにカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからハランまでやって来て、そこに住み着いた時に語られたかのように記されてありますが、実際はそうではありません。使徒の働き7章2-3節をみると、そこに「アブラハムがハランに住む以前、まだメソポタミヤにいたとき、」に栄光の神が彼に現れて、この命令を与えたと記されてとあります。ですからこれは、カルデヤのウルにいた時にすでに与えられていた命令だったのです。ですから、注解者の中には、アブラハムがこのような命令を受けたときすぐに父や甥から離れなかったことを非難する人がいるのですが、そうではありません。アブラムはカルデヤのウルで召命をうけたとき、その時期をずっと待っていたのです。そして兄弟ハランがウルで死に、父テラもハランの地で死んだとき、彼は信仰によって歩むべき時がやってきたことを悟ったのです。物事には時期があります。信仰、信仰と、信仰だからいつでもいいかというとそうではなく、その信仰によって歩み出すべき契機となる出来事があるのです。アブラムにとってテラの死は、まさにその一つの大きな出来事であったに違いありません。

ところで、この命令の内容は「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」というものでした。いったいなぜ彼は父の家を出る必要があったのでしょうか?それは父の家が偶像礼拝の盛んなところだったからです。そのことは前回もみましたが、ヨシュア24章2節をみるとわかります。そこには、テラはほかの神々に仕えていたということばからもわかります。そこがたとえ長年住み慣れた国、長年つきあってきた気心の知れた人たちであっても、そうした偶像礼拝の盛んなカルデヤのウルやハランの地から離れ、神様が示す地に行かなければならなかったのです。それが神様のみこころだったのです。

次に2節と3節をご覧ください。ここには、「それすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福とな。あなたを祝福する者を私は祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」とあります。

ここには3つの祝福が約束されています。第一に、あなたを大いなる国民とするということです。この「国民」とはKing James Versionでは「Nation」と訳されています。民族、国、国民全体のことです。つまり、彼を通して一つの国民が造られるという約束です。考えてみてください。このとき妻サライは不妊の女(11:30)でした。それにもかかわらず、彼を「大いなる国民とする」というのです。それは本当に驚きと同時に、大きな慰めだったのではないでしょうか。

第二の祝福は、アブラハムを祝福し彼を祝福の基とするということでした。「アブラハムを祝福する者を祝福し、のろう者をのろう」とあります。つまり、彼を通して他の人も祝福の恩恵を受けるようになるということです。

そしてもう一つの約束は、彼に与えられた約束の中でも最も素晴らしい約束ですが、「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」というものです。これはどういう意味でしょうか?これはこの地上に救いをもたらす方を、彼の子孫から送られるというものだからです。最初の人アダムが罪に陥ったとき、神様はそのサタンの力を打ち破る救いをもたらす方を送ると約束されましたが、それが何とアブラハムの子孫から生まれるというのです。地上のすべての人は、アブラムから出る一人の子孫によって救われるようになるというのです。もちろん、この約束には私たちも含まれています。

さて、アブラムがそのような召しを受けたとき、彼はどのように応答したでしょうか?4節と5節をご覧ください。「アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。」とあります。この時彼は75歳という高齢でした。一般的に考えればもうゆっくり暮らしたいという年なのではないでしょうか。今よりも全体的に寿命が長かったとはいえ、それでも75歳という年は高齢でありました。にもかかわらず彼は、主がお告げになったとおりに出かけて行きました。しかもおいのロトと、彼らが得たすべての財産、ハランで加えられた人々を伴ってです。それがどのくらいの量であったかを前に調べたことがありましたが、かなりの量でした。そういったものを携えて彼は、カナンに向かって旅立って行ったのです。なぜでしょうか?なぜ彼は出かけて行くことができたのでしょうか?ヘブル11章8~10節には、「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しをうけたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。」とあります。

それは「信仰によって」でありました。それは単なる気まぐれや冒険心からではありませんでした。アブラムは神を信じていたので、出て行くことにしたのです。彼は裕福で名声もありました。その彼が今、旅をし、テント生活をしなければならないのです。こうしたさまざまな不便な生活や社会からの圧力があったにもかかわらず、アブラムは神を信じていたので、彼のすべて、家族や所有物そして名声まで神にゆだねて、神に従ったのです。

これが信仰者の生き方の基本にあるものです。彼は、神様からそのように告げられたので、そのとおりに出かけて行くのです。そしてこの時点ではまだどこに行くのかも曖昧でした。にもかかわらずそうやって従うことができたのは、彼が神にのみ望みを置いていたからなのです。

聖書全体の真ん中はどの章だかわかりますか。詩篇118篇です。その前が全部で594章、後が594章です。この数字をたすと全部で1188です。そして、聖書全体の真ん中の節はどこかというと、詩篇118:8です。信じられないですが本当です。こんなことを調べている学者がいるんですね。ところでその詩篇118篇8節にはこうあります。

「主に身を避けることは、人に信頼するよりもよい。」

アブラハムはまさに主に身を避けた人、主のみことばに信頼した人なのです。だから神のみことばに従って出て行くことができたのです。

そうしたアブラムの信仰は、彼が約束の地に入ってからも見られます。6節から9節までをご覧ください。

「6 アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。7 そのころ、がアブラムに現れ、そして、「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた。アブラムは自分に現れてくださったのために、そこに祭壇を築いた。
8 彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼はのため、そこに祭壇を築き、の御名によって祈った。9 それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。」

アブラムは神様が示してくださったカナンの地に着くと、「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と仰せられた主のために、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈りました。どういうことでしょうか?6節には、アブラムがカナンに入って行ったとき、そこにはすでにカナン人たちがいました。このカナン人たちはどこから来たのでしょうか。そう、あのハムの子カナンの子孫です。彼らはバベルの塔の出来事以来散らされてその一部がここに住み着くようになっていたのです。そこにアブラムたちが渡り鳥のようにやって来たわけです。そこにしっかりと居を構えていた先住民族カナン人に対して、彼らはよそ者であり、天幕に住むような実に弱い存在でしかありませんでした。しかし、そこが、神が示してくださった地であり、彼らが住むべき土地だったのです。そんな彼らの生活を支えたのは実にこの神でした。彼らにとっての頼りといえば、ただ神の約束だけだったのです。だから彼らはそこに祭壇を築き、主の御名によって祈ったのです。もし彼らが出てきたところのことを考えたなら、帰る機会はいくらでもあったでしょう。その方が楽に暮らすことができたはずです。けれども彼らは、もっと良い、天の故郷を仰ぎ見ていたので、この地上ではたとえ旅人であったとしても、それに堪え忍び、神が仰せになられたことを淡々と行って行ったのです。彼は、天に用意された神の都を望んでいたので、神が示された地に安んじることができたのです。そこに祭壇を築いて礼拝し、自分が生かされている目的、自分たちに与えられている使命、そういったものをいつも確認しながら、そのように導いてくださった主に感謝して祈ったのです。

これが信仰の原点です。信仰はその人が、その置かれてある状況がどうのこうのではなく、どんな状況にあってもこの主を覚え、主に祈り、主に信頼して生きようとすることです。人に信頼するのではなく、神に信頼するのです。しかし、どちらかというと私たちはすぐに回りの状況に心が奪われてしまいます。ですからそこに祭壇を築いて主を礼拝し、主に祈り、自分たちの置かれている場所をたえず確認していかなければならない。それが礼拝であり、祈祷会なのだと思います。私たちも日々の生活の中に祈りの祭壇を築き、この神によって生かされていることを覚えながら、神を中心としていつも歩む者でありたいと思います。

2.信仰の試練(10)

アブラハムは、いよいよ神様が約束してくださったカナンの地に着きました。そこで彼は主のために祭壇を築き、主の名によって祈りました。まさに「信仰によって」歩んだ彼の姿が描き出されています。しかし、そんなアブラハムも完全な人間ではありませんでした。さまざまな試練の中で苦しむことも多かったのです。その一つの試練が、ここにある内容です。

アブラハムに与えられた最初の試練は何だったでしょうか。それは「ききん」の問題でした。いわば生活問題です。10節を見ると、ここに「さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。」とあります。神から与えられたこの試練こそ、彼の信仰の試験にほかなりませんでした。何も問題がなければいいのですが、私たちの信仰生活はそういうわけにはいきません。なぜなら、神様はその試練を通して私たちの信仰を成熟させようとしておられるからです。サタンは倒して、殺すために私たちを試みますが、神様はそうではありません。神様は倒すためではなく、建て上げるために試練をお与えになるのです。このような試練に耐え、その中で神様に従い、神様のみこころをよく知るために、このような機会を与えておられるのです。ですから、大切なのはこのような試練があることではなく、このような試練にどのように対処するかということです。アブラハムは、この試練にどのように対処したでしょうか?

11~13節をご覧ください。「 彼はエジプトに近づき、そこに入ろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」

何と彼はエジプトに下って行き、そこに入ろうとする時、妻のサライに、自分の妹だと言ってくれと頼みました。そうすれば、サラのゆえにアブラハムもよくしてもらい、生き延びることができるから・・・と。ここにはアブラハムの信仰の陰さえ見られません。人間的、肉的な考え方が頭をもたげてきたのです。それは、妻の美貌に対する危惧の念であり、そのことにより起こるであろう自分の身の危険に、人間的な小細工をすることによって、当座の処置をしようと考えたのです。つまり愛すべき妻の貞節を犠牲にしてまで、自己の身の安全を計ろうとしたのです。

いったいなぜアブラハムはこのようなことをたのでしょうか?確かに生活の不安は大きかったと思います。ききんで明日からどうやって食べて行ったらよいのかわからない時、人はだれもみな不安を抱えると思います。今回の地震や津波、原発の事故で非難して来られた人を訪問して、那須町の体育館に行って話しを聞きましたが、やはり一番不安なのはこの先どうなるかということでした。家も、仕事もなくなって、これから先どうやって生活していったらいいのか。ちゃんと保障してもらいたいということでした。

アメリカの心理学者でアブラハム・マズローという人が欲求段階説を唱えましたが、それによると、こうした衣食住の欲求は、人が生きていくために必要な根源的な欲求なのです。これが脅かされるというのは、相当の不安が生じるのは確かです。しかし、アブラハムの失敗の原因はどこにあったのかというと、そうした生活上の不安が生じたことではなく、神様から目が離れてしまったことです。

かつて弟子たちだけでガリラヤ湖を舟で渡っていたとき、向かい風に悩まされて、なかなか前に進めないでいたときイエス様が湖の上を歩いて近寄られたことがありました。そして、ペテロに「舟を出て、水の上を歩いて来なさい。」と言われました。するとペテロは湖の上を歩き出したのです。しかし、風を見て怖くなり、沈みかけたので、イエス様が手を伸ばして助けました。そのときイエス様が言われたことはこうでした。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのだ。」(マタイ14:31)同じように、アブラハムも神様から目を離してしまったのです。

神様がアブラハムに願っておられたことはどんなことだったのでしょうか?それは彼が神様に示された地にとどまっていることでした。そこがどのような地であろうとも、またそこでどんなことが起ころうとも、そこに留まっているべきだったのです。その彼がついに生活難に耐えかねて、約束の地をみすみす捨て、エジプトへと下って行ってしまった。それが彼の失敗の原因だったのです。マタイ6章にあるように、何を食べるか、何を飲むか、何を着るかについて心配するのではなく、そのようなものは神様が与えてくださると信じて、神の国とその義とを第一に求めることが彼に必要なことだったのです。

ここでちょっと注意したいことは、困難があるかないかが道の正、不正を示すものではないということです。しばしば正しい道、神に服従する道に最も大きな困難が横たわっている場合があるのです。神の約束されたカナンの地にも、強力な力を持ったカナン人がおり、こうしたききんが起こってきたのです。

3.約束を守られる神(14-20)

アブラハムがエジプトに下って行った結果、どういうことが起こったでしょうか?エジプト人はサライの非常に美しいのを見て彼女をパロに推奨したので、彼女は宮廷に召しかかえられることになりました。そして彼女のゆえにパロはアブラムによくしてやり、彼は羊の群れ、牛の群れ、ろばやらくだ、それら男女の奴隷を所有するようになりました。しかし、それはアブラハムが行ったことが正しかったということではありません。それはただ神のあわれみであり、神が彼らを守ってくださったからなのです。主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけると事の真相が明らかにされ、パロはアブラムとサラをエジプトから去らせました。いったいなぜ神様はパロに、こんなひどい災害で痛めつけられたのでしょうか。それは、神がアブラハムと交わされた約束を守るためです。神様はアブラムに、あなたによって、地上のすべての民族は祝福されると約束されました。アブラハムの子孫から多くの子孫が出て、その子孫から救い主が出るという約束です。この神様の約束が成就されるためには、神様の特別な選びが必要であり、ただアブラハムの子であるだけでは不十分だったのです。どのような女の胎から生まれるかが重要だったのです。それはサラの胎でした。神様が選ばれた胎は、不妊の女と言われていた彼女の胎を通して実現されるものでした。彼女もまた神様から選ばれた胎だったのです。にもかかわらず、もし彼女がエジプトに召し入れられ、そこでパロのそばめとして仕えるようになったとしたら、あの神様の約束が無効になってしまう危険があったのです。アブラハムはこの聖なる神様の約束が成就されるはずだったサラの胎を、自分の身の保全のために犠牲に供しようとしたのです。神様はそれを拒まれた。もしこの時、神様が御手を伸ばし事態に干渉されなかったら、あるいはアブラハムはいつまでも愛すべきサラをパロの宮廷においたなら、確かにそれで多くの財産を得、安易な生活にとどまることができたかもしれませんが、それ以上に重要な祝福を失うことになってしまう危険に直面していたのです。 しかし、たとえ人が不真実であっても、神の真実はいつまでも変わりません。神様はご自分が約束されたことを忠実に保護し、履行されるのです。すなわち神様はパロとその家とに疫病を送られて、悩まされたので、ついに事の真相が明らかにされ、パロは驚いてアブラムとサラをエジプトからさらせたのです。

私たちにもアブラハムのような試練に会うことがありますが、その時には神のみこころを求めて祈り、そのみこころに従うことによって、勝利していかなければなりません。イエス様もその宣教のはじめに悪魔の試みを受けられました。四十日四十夜断食して祈っていたとき、悪魔がやって来て、「この石がパンになるように命じなさい」と言って誘惑してきたのです。神のみこころを忘れさせ、曲がった道を求めるように誘惑してきたのです。そのための道具が「パン」でした。私たちの信仰生活にも、こうしたききんがやってくることがあります。その誘惑に勝利する力は、ただ神から与えられる力です。イエス様が一人荒野に出て神様と交わり、祈ることによってその力を求められたように、私たちも人生の荒野の中で神様の前に出て祈り、神の力を求めなければなりません。その神様との交わりの中で、神様のみこころを知り、それに従っていく力が与えられるようにと祈らなければならないのです。アブラハムが失敗に陥ったのは、それがなかったからでしょう。生活の中に祭壇が取り除かれ、主の名によって祈ることもなくなってしまった。それが一番大きな問題でした。私たちはこのアブラハムの失敗を通して、できるだけそのような失敗に陥ることがないように、いつも神様の御声を聞き、その神様のみこころから離れることがないように祈っていく者でありたいと思います。

Ⅱテサロニケ2章13~17節

きょうは、Ⅱテサロニケ2章後半のところから、「主があなたの心を慰め、強めてくださるように」というタイトルでお話します。パウロは2章前半のところで、主の日がすでに来たかのように言って惑わす人がいても、そのようなことにだまされないようにと勧めました。なぜなら、その前には必ず二つのことが起こるからです。一つは背教で、もう一つは不法の人の到来です。終わりの日の前にはこの二つのことが起こるので、それをよく見てだまされたいりしないようにしなさいと言いました。きょうのところはその続きです。

Ⅰ.神の救い(13-14)

まず13節をご覧ください。ご一緒に読んでみたいと思います。

「しかし、あなたがたのことについては、私たちはいつでも神に感謝しなければなりません。主に愛されている兄弟たち。神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになったからです。」(13)

パウロは、キリストを受け入れない人たちに臨む神のさばきについて語りましたが、一方、テサロニケの人たちについては神に感謝しています。なぜなら、神が彼らを救いにお選びになったからです。パウロは1章3節でも感謝しました。それは彼らの信仰が目に見えて成長し、彼らの相互の間に、愛が増し加わっていたからです。また、彼らは激しい迫害と患難とに耐えながらその信仰を堅く保っていたからです。そして、彼は再び神に感謝しています。それは神が彼らを救ってくださったからです。

いったいなぜ神は彼らを救ってくださったのでしょうか。それは、神が彼らを愛してくださったからです。ここには、「主に愛された兄弟たち」とあります。神が彼らを愛してくださったので、彼らは救われたのです。いったいなぜ神は彼らを愛されたのでしょうか。わかりません。というのは、彼らには愛される資格などなかったからです。彼らも、私たちも罪を犯し、神を神とも思わず、自分勝手に生きていました。愛される資格など全くなかったのです。それにもかかわらず、神は私たちを愛してくださいました。そして、そのためにご自身のひとり子を与えてくださいました。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

とても有名なみことばです。これは聖書の中の小聖書と言われている箇所で、この一節を見れば、聖書が何のために書かれたのかがわかると言われている箇所です。それは、神は愛であるということ、そして、神はそのひとり子をお与えになったほどに世を、あなたを、私を愛してくださったということです。そしてそれは、この御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つため、すなわち、救われるためです。

同じヨハネが書いた手紙にも、この神の愛について書かれてあります。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」(Ⅰヨハネ4:9~11)

皆さん、いったいどこに愛があるのでしょうか。ここにあります。神が私たちのために、なだめの供え物としての御子を遣わされたことの中にあるのです。なだめるというのは、怒りや不満の気持ちを静めることです。神は私たち人間の罪に対して怒っておられます。その怒りを静めようと人はいろいろな事をするわけです。たとえば、ボランティアをしたり、困っている人を助けたり、高価なささげものをしたりといったことです。ほら、皆さんが怒っておられるとき、誰かがお詫びのしるしとして何かを差し出すと、それを見て気持ちがやわらぐのと同じです。やってしまったことはしょうがないけど、そこまで反省しているならしょうがないか、となるわけです。ところが、人間の罪はあまりにもひどいので、たとえ人がどんな良いことをしても、困っている人を助けたり、相談にのってあげた、たくさんささげものをしたからといっても、神の怒りを静めることはできませんでした。それをなだめることができたのは、人間の側の何かではなく、神のひとり子のいのちだったのです。神はご自身のひとり子をなだめの供え物として十字架につけてくださいました。神はそのひとり子のいけにえを見て、人間の罪に対するご自身の怒りをなだめられたのです。そこまでして神は私たちをゆるしてくださったのです。ここに神の愛が示されたのです。

だからヨハネは「神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのだから、私たちも互いに愛し合いましょう。」と言っているのです。神がこれほどまでに愛してくださったのだから、私たちは互いに愛することができるのです。この愛がわからなければ、他の人を愛することも、赦すこともできません。それはただ十字架で死なれたイエスさまを見上げ、そこに現された神の愛を知った人だけができることなのです。

ここでパウロは、神はテサロニケの人たちを愛してくださったので、彼らを救いにお選びになったと言っています。それはいつのことでしょうか。それは「初めから」です。あなたが何か良いことをしたからではなく、あなたが優れていたからでもなく、そういうことと全く関係なく、あなたが生まれるずっと前から、いや、この世界が造られるずっと前からそのように選ばれていたのです。エペソ人への手紙1章には、「世界の基の置かれる前から」とあります。世界の基の置かれる前から、神はあなたが救われるようにとあらかじめ救いに定めておられたのです。

そのことは、イエスさまの言葉からもわかります。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(ヨハネ15:16)

皆さん、私たちは、自分で教会に来たかのように思っていますが、実はそうではありません。自分でイエス・キリストを信じたかのように考えていますが、そうではないのです。イエスさまがあなたをそのように選んでおられたのです。ここに私たちの救いの確かさがあるのではないでしょうか。もし私たちが自分で好きに信じたのであれば、嫌になったら「や~めた」ということになってしまいますが、そうじゃないというのです。神がそのように選んでくださったのですから、たとえ日の中、水の中、どんなことがあろうとも、決して見捨てられることはありません。神は最後まで責任をもって導いてくださるのです。

ところで、神はどのようにして私たちを救ってくださったのでしょうか。ここには、「神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、救いにお選びになったからです。」とあります。どういうことでしょうか。ここから、私たちが救われるためには二つのことが必要であることがわかります。一つは神の側の働きと、それからもう一つは私たち人間の側の応答です。

まず救いは神の側の働きによるものです。そのことをパウロはここで「御霊による聖め」と言っているのです。御霊とは神の聖霊のことです。神はこの聖霊によって私たちを聖めてくださいました。聖めるとは「分離する」とか「分ける」という意味です。神は聖霊によってこの世からあなたを分離してくださった、救ってくださったのです。

ヨハネの福音書3章にニコデモの話があります。彼はユダヤ人の指導者で教師でもありましたが、ある一つのことがどうしてもわかりませんでした。それは、人はどうしたら神の国を見ることができるかということです。どうしたら救われて天国に入ることができるかということですね。そこである夜、ほっかぶりをしてイエスさまのもとを訪ねるのです。ほら、彼はユダヤ教の指導者でしたから、わからないなんて言えないのです。だから、だれにもわからないようにかぶり物をして、しかも夜、こっそりとやって来たのです。

そんなニコデモにイエスは何と言われたでしょうか。イエスは言われました。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(3:3)

ん、新しく生まれなければ神の国を見ることができない?どういうことか?もう私は70ですよ。こんな老年になっていて、どのようにして生まれることができましょう。もう一度、お母さんの胎に入って生まれなければならないということでしょうか。(3:4)

ニコデモは新しく生まれるということがどういうことがわかりませんでした。彼はユダヤ教の教師で、聖書もよく知っていましたが、救い主がだれなのか、イエスがだれなのかがわからなかったのです。それでイエス言われました。「人は水と御霊によって新しく生まれなければ、神の国に入ることはできません。」(3:5)

人は水と御霊によって新しく生まれなければ神の国に入ることはできないのです。水と御霊によって新しく生まれるとはどういうことでしょうか。皆さん、人間には二つの誕生があります。一つは肉体の誕生であり、もう一つは霊の誕生です。肉体の誕生、すなわち生まれたままの状態では神の国に入ることはできません。なぜなら、そこには罪があるからです。罪があれば神の国に入ることはできないのです。神の国に入るには霊(神の霊、聖霊)によって新しく生まれなければならないのです。それで神はイエス・キリストを与えてくださいました。イエス・キリストを信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。だれでもイエスを信じるなら、その瞬間に神の霊を受けることができます。聖霊によって新しく生まれることができるのです。これは神の側による、神の働きによるものなのです。

けれども、その一方で、救いを得るためには私たちの側の応答も必要です。それが「真理による信仰」です。どういうことでしょうか。それは、真理であるイエス・キリストを信じる信仰ということです。ヨハネ14章6節のところで、イエスはこう言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

イエスは道であり、真理であり、いのちです。このイエスを信じるなら、あなたは救われます。あなたも、あなたの家族も。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)

このように、私たちが救われるためには神の側の働きと、人間の側の応答という二つの側面があるのです。真理のみことばを聞かなければ応答のしようがありません。聞いたことがないものを、どうして信じることができるでしょう。ですから、神さまはそのために人を遣わされるのです。テサロニケにもパウロたちが遣わされました。14節をご覧ください。

「ですから神は、私たちの福音によってあなたがたを召し、私たちの主イエス・キリストの栄光を得させてくださったのです。」

神はパウロたちを遣わして福音を宣べさせました。ここに、「福音によってあなたがたを召し」とあるのはこのことです。神はパウロたちを通して語った福音を通して彼らを救いへと召し、イエス・キリストの栄光を得させてくださったのです。

このことを思うと、パウロは感謝せずにはいられませんでした。信仰をもってまだ数か月のテサロニケの人たちは、激しい迫害と患難の中にありましたが神は一方的に彼らを愛してくださり、救ってくださったことを思うと、自然と感謝が溢れてきたのです。

それは私たちも同じです。私たちにも困難があります。苦しみもあるでしょう。でも、このことを思うと感謝せずにはいられなくなるのです。神があなたを救ってくださいました。あなたが何かをしたからでなく、また、あなたに救われるだけの根拠があったからでもありません。ただ神の恵みにより、キリスト・イエスを信じる信仰によって、一方的に救ってくださったのです。あなたが救われたのは、ただ恵みによるのです。そのことを思うと感謝せずにはいられません。たとえ今どのような状況にあっても、たとえ困難にあっても、あなたは感謝せずにはいられなくなるのです。

Ⅱ.堅く立って(15)

次に15節をご覧ください。ご一緒に読んでみましょう。

「そこで、兄弟たち。堅く立って、私たちのことば、または手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい。」

「そこで」というのは、これまでパウロが語ってきたことを受けてということです。それを受けてパウロはこう言っています。「堅く立って、私たちのことば、また手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい。」

堅く立つためには軸がしっかりしているということがとても大切です。土台がしっかりしているということが必要なんです。その軸とは何でしょうか。その土台とは何でしょうか。それは神のことばです。あなたの心が揺るがないためには、神のことばにしっかりと立っていなければなりません。あなたが揺らぐのは問題を見ているからです。問題を見るとぐらぐらと揺らぎ、穴の中に沈みかけてしまいます。ペテロも湖で沈みかけたのは風を見て怖くなったからです。もし彼がイエスさまだけを見ていたら、沈みかけることはありませんでした。問題を見て怖くなったので沈んだのです。私たちも人の言葉や人の態度を見ると揺らいでしまいます。でももし神のことばに立つなら、決して揺らぐことはありません。しっかりと立つことができるのです。

パウロはここで、神のことばのことを「私たちのことば」と言っています。これはどういうことでしょうか。また、ここで彼は私たちの手紙と言っているのはどうしてでしょうか。それは、パウロや使徒たちが直接イエスさまから教えられた人たちだからです。私たちは間接的に聞いて、間接的に教えられていますが、パウロたちや使徒たちは、人となって来られた神イエスを直接見て、その奇跡を目の当たりにしました。また、その権威ある教えをじかに聞いたのです。ですから、彼らが教えていたことはイエスさまが教えていたことであり、イエスさまのことばそのものであったわけです。また、それは彼らが書いた手紙というのも神の霊感を受けたものであり、普通の手紙ではなく、主イエスからの手紙と同じであったからです。ですからパウロはここで、「私たちのことば」とか「手紙」と言っているのです。その教えを守るとき、私たちの信仰は揺らぐことがなく、しっかりと立つことができるのです。

私たちの信仰が弱くなるのはどうしてでしょうか。また、教会が霊的に弱くなってしまうのはどうしてなのでしょうか。それは、神のことばに立たないで、自分の考えや自分の思いに立つからです。私たちが神にことばに立たないで自分の思いに立つなら弱くなります。また、すでに教えられている教えからズレてしまうと弱くなってしまうのです。ですから、そういうことがないように、私たちは神のことば、すでに教えられた教えに堅く立っていなければなりません。

Ⅲ.心を慰め、強めてくださいますように(16-17)

最後に16節と17節を見て終わりたいと思います。ご一緒に読んでみましょう。パウロはテサロニケのクリスチャンたちに教えと励ましを与えた後でこう祈っています。

「どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくださった方ご自身が、あらゆる良いわざとことばとに進むよう、あなたがたの心を慰め、強めてくださいますように。」

パウロはここで二つのことを祈っています。一つは、神が彼らの心を慰め、強めてくださるようにということ、そしてもう一つのことは、あらゆる良いわざとことばに進むようにということです。この順序が大切です。というのは、あらゆる良いわざとことばとに進むためには、心が慰められ、強められなければならないからです。良いわざとか、ことばというのは、自分の中に力がないとできません。したいと思っても力がないとできないのです。その力とは何でしょうか。それは聖霊の力です。イエスさまはこう言われました。

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれる時、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤ、サマリやの全土、および地の果てまでわたしの証人となります。」

良いわざとことば、すなわち、キリストの証人となるためには、力を受けなければなりません。聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリやの全土、および地の果てにまで、キリストの証人となることができます。でも力がないと証をすることができません。そういう時には休んでください。休むと回復します。神のことばによって慰められ、励まされ、強められると元気になってくるのです。そのように力を受けたら、証をすればいいのです。

ところで、そのように彼らの心を慰め、強めてくださる方はだれでしょうか。それは、もちろん神です。それは、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神です。しかし、ここにはその神がどのような方であるかが紹介されています。すなわち、私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくださった方です。

まず神は私たちを愛してくださった方です。イエスさまは私たちを愛し、私たちのために十字架で死んでくださいました。このキリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すものは何もありません。パウロはローマ8章35節から39節までのところでこう言っています。

「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。」

「しかし」です。患難があります。苦しみもあります。迫害がある。しかし、私たちはこれらすべての中にあって圧倒的な勝利者となることができるのです。どうしてでしょうか。神が愛してくださったからです。誰も、何も、このキリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。皆さん、私たちは問題を見ると心が沈みます。しかし、私たちの目を神に向けると慰めを受けるのです。なぜなら、私たちは私たちを愛してくださった方によって、これらすべての中にあっても、圧倒的な勝利者となるからです。

また、神は恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくださった方です。神は慰めの神です。どのような苦しみの時でも、私たちを慰めてくださるとあります(Ⅱコリント1:3-4)。どんな苦しみの中にあっても、やがて神の安息が与えられると思うと慰められます。永遠の安息はこの地上にはありません。どこに行っても問題はあります。でも永遠の御国、天国はそうではありません。そこにはもはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもありません。以前のものが、もはや過ぎ去ったからです。そこには主がともにおられるので、主が彼らの涙をすっかりぬぐい取ってくださいます。それこそ本当の慰めではないでしょうか。

またパウロはここで、神はすばらしい望みを与えてくださった方であると言っています。苦しいことがあると、希望が消えそうになります。テサロニケの人たちもまさにそうでした。しかし、パウロは彼らにすばらしい望みを思い起こさせています。その望みとは何でしょうか。それは神の国に入れていただけるという望みです。やがて永遠の安息が待っています。そして、そればかりではなく、朽ちることのないからだ、栄光の姿によみがえるという希望が与えられているのです。この希望を持っていれば、この地上でどんなに苦しいことがあっても、辛いこと、悲しいことがあっても、必ず乗り越えることができます。だからパウロは彼らにお願いをする前に、神がどのような方なのか、どんなことをしてくださったのかを思い起こさせているのです。

どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくださった方ご自身が、あらゆる良いわざとことばとに進むよう、あなたがたの心を慰め、強めてくださいますように。

私たちの周りにもまだ救われていない人たちがたくさんおられます。そしてそういう人たちが救われるようにと、神はあなたが良いわざとことばとに進むように願っておられます。そのためにまずあなた自身が慰められ、強められる必要があります。あなたが受けている苦しみは何ですか。あなたは今どんことで疲れ果てておられるでしょうか。でも神はあなたを慰め、あなたを強めてくださいます。神はあなたを愛し、あなたのためにひとり子さえも与えてくださいました。そして、私たちの主イエス・キリストの栄光を得させてくださったのです。この方にあって、あなたは慰めを受け、強めていただくことができるのです。どうかペテロのように風を見て怖くなり沈みかけるのではなく、私たちを愛し、永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくださった方を見て強められますように。それによってあらゆる良いわざとことばとに進むことができますように祈ります。