創世記6章

きょうは創世記6章から学びたいと思います。

Ⅰ.人の悪の増大(1-7)

「さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。」

まず1節と2節をご覧ください。最初の人アダムとエバが造られてからどのくらいの時が経っていたでしょうか。おそらく2に専念くらいが経過していたと思われます。地上には多くの人々が増え始めていました。そのように地上に人が増え始め、彼らに娘たちが生まれたとき、神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻としたとあります。いったいこれはどういうことでしょうか。

ここには「神の子ら」と「人の娘たち」という二種類の人たちが出てきていることがわかります。ある人たちはこの「神の子ら」を「天使たち」と解釈する人もいますが、これは天使のことではありません。天使と人間が結婚することなどないからです。また、天使には性もなく、肉体もないからです。ましてや、天使と人間との間から子どもが生まれるということなどあり得ないのです。ではこの「神の子ら」とか「人の娘たち」とはいったいだれのことを指しているのでしょうか。それは、アダム-セツ-ノアという系統と、アダム-カイン-レメクという系統のことです。すなわち神を信じて歩む神の民と、そうでない人々のことです。同じ人間でも信仰によって歩む人たちのことを「神の子たち」と表現しているのです。いったい神の子たちに何があったのでしょうか。

ここには、「神の子ら」が、人の娘たちの、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻としたとあります。すなわち、信仰によって歩むはずの神の子たちが、神に向けていたその目を、人の娘に向けたということです。このようなことがあると、いったいどういうことが起こるのでしょうか。信仰から離れるということが起こってきます。これまでは神を中心に歩んでいた人たちが、この世を中心に生きるようになってしまうのです。その一番大きな原因が結婚なのです。結婚によって信仰から離れてしまうというケースが少なくありません。それゆえに神は、未信者との結婚を禁じているのです。あの知恵者ソロモンでさえその王国が分裂した直接の原因は、千人のそばめを置いたことです。それによって彼の心が、真の神から離れ偶像へと向かっていったのです。ですから、誰と結婚するかというのはとても重要なことです。聖書は一貫して未信者との結婚を禁じています。ここでも神の子たちが人の娘たちの中から妻を選んで結婚したことが、彼らが悪の道に走っていく一番大きな原因だったのです。

そこで主はどうされたのでしょうか。3節をご覧ください。「そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう」と仰せられた。」

神様は人の齢を120年と定められました。それまではほとんど900歳くらいまで生きることができました。なぜなら、そこに神の祝福があったからです。もちろん、環境も、食物も、良かったでしょう。けれども、何といっても神の祝福があったのです。ですから人は長く生きることができました。しかし、地上に人が増え始め、その悪が増大し、その心に量ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になられた主が、人の齢を120年としたわけです。その人の悪が増大した一つの例が、この神の子らが人の娘たちを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻としたということだったのです。

次に4節をご覧ください。 ここには、「ネフィリム」がいたとあります。「ネフィリム」とは何でしょうか?何だか恐竜かのような名前ですが、これは恐竜のことではありません。「ネフィリム」とは、「ナファル」ということばから派生したもので、「攻撃する」という意味があります。ですから、「ネフィリム」とは「攻撃者」とか「略奪者」というような意味なのです。つまり、神を畏れることを知らない権力者たちのことです。政治的にも経済的にも力を持っている巨人のことです。このような存在はその当時だけでなく、今もたくさんいるでしょう。いや、そうした人たちで満ちています。まさにこの「ネフィリム」の存在は、現代の社会そのものを現しているようです。人の目から見る時、そのような人々は「勇士」であり、「名のある者」たちです。しかしどんなに名があり、力があっても、あるいは美しくても、そこに神がいなければ悪なのです。そうした悪がこの地上に増大した、それがノアの時代だったわけです。

このように、地上に人の悪が増大したことをご覧になられた主はどうされたでしょうか。5節から8節までをご覧ください。「それで主は、地上に人をつくったことを悔やみ、心を痛められました。」「悔やまれた」ということばは「後悔する」という意味ではありません。「悔やむ」とは、「痛む」とか「悲しく思う」という意味で、結果を見て後悔する人間のそれとは全く違うのです。Iサムエル15章2節に、「この方は人間ではないので、悔いることはない」とあるとおりです。神様は人の悪が増大するのを見て、深く心を痛められたのです。ですから、この悔やみというのは、神様の深いあわれみが示されていることばなのです。人は罪の中にあって、罪の恐ろしさを知らずに、かえって罪を誇りとしています。その罪を自分の問題として悲しみ、心を痛められたのです。それがやがてイエス・キリストの救いへとつながっていくわけですが・・・。神様は、人間の罪をご覧になられて、本当に心を痛められたのです。

その結果、どうされたでしょうか。7節です。「そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」

人の罪を痛み、あわれんでおられるなら、いったいどうして人を地の表から消し去るようなことをされるのでしょうか?それは、神は罪や悪と共存できるお方ではないからです。正しく、きよい神様は、少しの汚れとも共存することができません。だからこそ、そうした人の悪、罪に対しては、怒りを持たれるのです。しかし、その怒りとは私たちの怒りとは違います。心に痛みの伴う怒りです。それは「わたしが創造した」ということばに表れているのではないでしょうか。「わたしが創造した人」、私たちは神によって造られたものなのです。神と深く結びついているものなのです。ですから、そのような人を滅ぼすということには、神の深い苦しみと痛みがあったのです。ご自分で造られたものを、ご自分で打ち壊さなければならない神の心痛はいかばかりであったかと思うのです。

Ⅱ.主の心にかなっていたノア(8-14)

しかし、そのような中で、ノアだけは違いました。彼は主の心にかなっていました。彼は、たとえまわりの人たちが自分勝手に生きていても、神を敬い、神に信頼して歩んでいたのです。9節を見ると、「ノアは、正しい人であって、その時代にあっても全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」とあります。彼は他の人たちと同じように罪人の一人にすぎませんでしたが、他の人たちのように自分の思うようにではなく、神に信頼して生きたのです。

地上に人の悪が増大する中で、そのように信仰によって歩むことには大きな戦いがあったかと思いますが、神はその信仰を受け入れられ、喜ばれ、彼とその家族を救われ、後の新しい人類の礎とされました。それは今の時代も同じです。今の時代も人々は神を敬うことをせず、自分勝手に歩んでいますが、それでも私たちはノアのように、神とともに歩む、神に信頼して生きる、そういう者でありたいと思います。

13節と14節をご覧ください。「そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らと地とともに滅ぼそうとしている。あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外とを木のやにで塗りなさい。」

ここには「そこで、神は・・・」とあります。神がノアに箱舟を造るようにと命じられたのは、地が神の前に堕落し、暴虐で満ちていたからです。そこで神は、彼らを地とともに滅ぼそうとされたのです。しかし、9章18~27節を見ると、洪水の直後にノアがぶどう酒を飲んで酔っぱらい、天幕の中で裸になったとき、それを見たハムが罪を犯したことを考えると、もしこの地上の悪を一掃することが洪水の目的であったとしたら、それは元の木阿弥(もとのもくあみ)となり、目的を達成することができなかったということになるのではないでしょうか。いったい洪水の目的は何だったのでしょうか。

マタイの福音書24章37~39節のところには、イエス様がこのノアの洪水について言及しています。 「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。の子が来るのも、そのとおりです。」

これは世の終わりのことです。イエス様が再臨されることについて預言しているのです。その預言の中でイエス様は、人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだと言っています。つまり、このノアの時の洪水の出来事は、世の終わりの時のことの型だったのです。キリスト再臨される時の警告であったわけです。

Ⅲ.ノアの箱舟(15-22)

さて、ノアが造るように命じられた箱舟がどのようなものであったかについて、15節以降に記されてあります。その長さは300キュビト、幅は50キュビト、高さは30キュビトです。1キュビトはだいたい44㎝ですから、長さ132㍍、幅22㍍、高さ13㍍となります。近代の船でいえば1万5千トンぐらいの船に相当する大きな船であっただろうと考えられています。

そして、箱舟に天窓が作られました。神様はどうして天窓を作るようにされたのでしょうか。それは洪水を見ないで神様だけを見るためです。祈りの窓を通して、神だけを待ち望まなければならなかったのです。それから、箱舟の側面には戸口を設けました。この箱舟の戸口はイエス・キリストの救いを表しています。ヨハネの福音書10章9節には、「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」とあります。

これはイエス・キリストの門を表しています。だれでもイエスを通って入るなら救われます。そして安らかに出入りし、牧草を見つけるのです。いやぁ、ここには戸口が1階と2階と3階と3つもあるのだから、これがイエスの救いを示しているとは言えないのではないかと考えられますが、実はそうではありません。新改訳聖書では1階から3階にそれぞれ戸口が作られたかのように記されてありますが、実際には戸口は一つしかありませんでした。戸口が一つしかない船で、1,2,3階のある船を造るようにと命じられたのです。ですから、口語訳には次のように訳されてあるのです。

「あなたは糸杉の木で箱舟を造り、その中に部屋(複数)を設け、ピッチでその内外を塗りなさい。その造り方は次のとおりである。箱舟の長さは300キューピット、幅は50キューピット、高さは30キューピットとし、箱舟に屋根を造り、上へ1キューピットにそれを仕上げ、また箱舟の戸口をその横に設けて、1階と2階と3階のある箱舟を造りなさい」

これが正しい訳です。戸口は一つしかありませんでした。それはイエス・キリストを表していたのです。イエスが門です。だれでもイエス様を通って入るなら救われますが、そうでなければ救われることはありません。イエス・キリストを通って入るなら救われます。そうでなければ救われないのです。

ノアはその箱舟の中に入りました。妻と息子たちと一緒に・・・。神様は今日でも私たちに、「あなたとあなたの家族とは皆箱舟に入りなさい」と語っておられます。誰も信じないような時代にあって、ただ聖書のみことばに従ってイエス・キリストの箱舟に入るなら、救われるのです。この世にはいろいろな船があって、いろいろなドアがあって、どの船、どのドアから入ったらいいのか迷ってしまいますが、聖書は、救いに至る船、戸口は、イエス・キリストであるとはっきりと告げているのです。皆さんはこのみことばを信じますか。そうであればご自分だけでなく、妻、息子たち、すなわち家族といっしょにこの箱舟に入ってください。

さて、この神の命令に対してノアはどのように応答したでしょうか。22節をご覧ください。「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。」

ここには「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った」とありますが、これはなかなか簡単なことではありません。まず時間がかかったでしょう。創世記5章32節にはノアが500歳のとき、セム、ハム、ヤペテが生まれたとあります。そして7章11節には彼が600歳のときに洪水がありました。ですから、箱舟を作るにはかなりの期間がありました。そうした歳月をかけて作ったのがこの箱舟です。雨などあまり降らないような時に、これだけの歳月をかけて箱舟を造ることがどれだけ大変であったかを想像することは容易いことです。人々に馬鹿にされ、あざけられる中でも、彼はコツコツと箱舟を造り続けました。

第二に、このためには多額の資金が要でした。おそらく彼は、このために自分の全財産を使ったのではないかと思います。それなのにもし洪水が起こらなかったとしたら、今までやってきたことが全部無駄になってしまいます。それでも彼は、神様が命じられたとおりにしたのです。

第三に、かなりの労力が必要でした。猫の手も借りたいくらいの状態だったでしょう。実際これをノアと三人の息子たちだけで作ることはできなかったでしょうから、多くの人たちを雇ったに違いありません。しかし、そうした彼らも、ノアの行ったことをそのまま信じることはできなかったのです。

こうした困難な中で、どうしてノアは箱舟を造ることができたのでしょうか。信仰があったからです。ノアは神様が言われたことは必ずそうなると信じたのです。

「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。」(へブル11:7)

彼は信仰によって生きたので、まだ見ていないことでしたが、神が洪水によってこの世をさばかれるということを聞いたとき、それを信じてそのように行ったのです。

皆さん、キリストが再臨されるときも同じなのです。キリストが再臨されるのも、ノアの日のようです。洪水が来て、すべてのものをさらってしまうまで、彼らはわかりませんでした。思いがけない時にやってくるのです。しかし、違う点が一つだけあります。それは、ノアの日は洪水によってこの地が滅びましたが、キリストの再臨の時はそうではないということです。黙示録などを見ると、もうありとあらゆることが起こるとあります。天変地異から、疫病、原子力災害のようなもの、大混乱が地上に起こるのです。それらのことは前兆なのです。そういうのを見たら、世の終わりが近いということを悟るようにとあります。そういう面から見ると、確かに世の終わりは近いのです。私たちはノアのように、いつキリストが再臨されてもいいように、いつ世の終わりがあり、どのようなことになってもいいように、神様が語られたことをそのとおり行っていく、そういう信仰をもって日々歩んでいきたいと思います。

レビ記26章

いよいよレビ記26章に入ります。25章においては安息年、ヨベルの年、そして買戻しの権利について学びました。きょうのところには、神に聞き従う者への祝福と、そうでない者へのさばきが語られています。

Ⅰ.神の命令(1-2)

まず1節と2節をご覧ください。ここには、「26:1 あなたがたは自分のために偶像を造ってはならない。また自分のために刻んだ像や石の柱を立ててはならない。あなたがたの地に石像を立てて、それを拝んではならない。わたしがあなたがたの神、主だからである。26:2 あなたがたはわたしの安息日を守り、わたしの聖所を恐れなければならない。わたしは主である。」とあります。

主はこれまでも、イスラエルの民に数々の戒めを与えられましたが、ここでは極めて単純に、神の命令を与えられています。それは、「自分のために偶像を造ってはならない」こと、また、「それを拝んではならない」、「安息日を守り、わたしの聖所を恐れなければならない」ということです。なぜなら、「わたしがあなたがたの神、主だから」です。これは十戒にも定められている戒めです。なぜここにきて、このようなことか戒められているのでしょうか。それは、これがすべての戒めの中心的なポイントだからです。神の戒めというとあれをしてはならない、これもしてはならない、といったいろいろな戒めを思い出しますが、神に対してしなければならないことはそれほど多くはありません。いや一つだけです。それは何かというと、主だけを愛し、主に従いなさい、ということです。

ルカの福音書10章41-42節には、イエス様をもてなすために気が落ち着かずイライラしていたマルタが、「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私を手伝うように妹におっしゃってください。」と言ったことに対するイエスのことばが記録されています。そのときイエスはこういわれました。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。(ルカ10:41-42)」それと同じです。どうしても必要なことはそんなに多くはありません。いや一つだけです。それは主を第一にして、主の御言葉を聞いて生きるということです。このような単純な生活の中に、神のみわざを経験することができるのです。

これは教会も同じです。教会にとって必要なことはそんなに多くはありません。いや一つだけなのです。それは何でしょうか。神のみ言葉を聞き、それに生きるということです。神を愛し、神を第一にして生きることです。あれもしなければならない、これもしなければならい、ということではありません。何かをすることで忙しくなってしまい、肝心のみ言葉を聞くことが後回しになってしまうと、神の祝福が見えなくなってしまいます。

Ⅱ.神の命令に従う者への祝福(3-13)

次に3節から13節までをご覧ください。ここには、神のおきてに従って歩む者への祝福が語られています。

それは第一に、豊かな収穫です。4-5節をご覧ください。

「26:4 わたしはその季節にしたがってあなたがたに雨を与え、地は産物を出し、畑の木々はその実を結び、26:5 あなたがたの麦打ちは、ぶどうの取り入れ時まで続き、ぶどうの取り入れ時は、種蒔きの時まで続く。あなたがたは満ち足りるまでパンを食べ、安らかにあなたがたの地に住む。」

普通大麦の収穫は四月ごろに、小麦の収穫が五月ごろに行われますが、それがぶどうの取り入れ時まで続きます。ぶどうの取り入れ時とは八月なので、それまで続くということです。そして、ぶどうの取り入れ時は、種まきの時まで続きます。種を蒔くのは十月以降、つまりぶどうの収穫が種蒔きの時である十月まで続くということです。それだけ豊かな収穫をもたらされるということです。ヨハネ1章16節には、「私たちはみな、この方(キリスト)の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」とありますが、その祝福は無尽蔵の豊かさです。恵みが与えられたかと思いきや、さらに大きな恵みがその上に押し寄せる豊かさです。

第二に、安全が約束されています。6節をご覧ください。

「26:6 わたしはまたその地に平和を与える。あなたがたはだれにも悩まされずに寝る。わたしはまた悪い獣をその国から除く。剣があなたがたの国を通り過ぎることはない。」

これは敵や獣の襲撃がなく安心していることができる、というものです。この豊かな日本に住んでいると、こうした安全は当たり前に思ってしまいますが、イスラエルではそうではありません。いつ何時、敵に襲われるかわかりません。ですから、当時の町は城壁に囲まれていたのです。しかし主は、そんな彼らに平和と安全を与えてくださいます。

 

第三に、勝利の約束です。7-8節をご覧ください。

「26:7 あなたがたは敵を追いかけ、彼らはあなたがたの前に剣によって倒れる。26:8 あなたがたの五人は百人を追いかけ、あなたがたの百人は万人を追いかけ、あなたがたの敵はあなたがたの前に剣によって倒れる。」

これは、戦いにおける勝利の約束です。どのようにして勝利するのでしょうか。五人が百人を追いかけ、百人が万人を追いかけるのです。どのようにしてこんなことが可能になるのでしょうか。主が戦っていてくださることによってです。イスラエル人の戦いは、その多くがごく少数によって行われていました。代表的なのはギデオン率いる三百人によって、十三万五千人のミデヤン人に勝利した出来事です(士師7:7)。

 

第四に、出産の祝福です。9節です。

「26:9 わたしは、あなたがたを顧み、多くの子どもを与え、あなたがたをふやし、あなたがたとのわたしの契約を確かなものにする。」

聖書には、子どもは神からの賜物であり、神の祝福の象徴として語られています。神がアブラハムに与えられた祝福の約束も、彼の子孫を星の数のように、海辺の砂のようにふやす、というものでした。

第五の祝福は、豊かな収穫の約束です。10節をご覧ください。

「26:10 あなたがたは長くたくわえられた古いものを食べ、新しいものを前にして、古いものを運び出す。」それは倉庫に保管されている作物の古い穀物を取り出さなければいけない程です。それほどの豊かな収穫がもたらされるということです。

そして六つ目の祝福は、主の臨在の約束です。11-13節をご覧ください。

「26:11 わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。26:12 わたしはあなたがたの間を歩もう。わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。26:13 わたしはあなたがたを、奴隷の身分から救い出すためにエジプトの地から連れ出したあなたがたの神、主である。わたしはあなたがたのくびきの横木を打ち砕き、あなたがたをまっすぐに立たせて歩かせた。」

これはもろもろの祝福の中でももっとも優れた祝福です。「わたしの住まいを建てよう」とは、主の臨在を表しています。天の天も、主をお入れすることなどできないのに、その主が住まわれる家を建ててくださいます。それは物質的な家ではなく霊的なに家、つまり、聖霊の宮である私たちのからだのことを指しています。その私たちの間を、主は歩んでくださるということは、何と大きな恵みでしょうか。また、主は決して彼らを忌み嫌うことはありません。好意をもって見つめていてくださいます。言い換えると、数ある目に見える祝福は、目に見えない祝福、霊的祝福の証し、あるいはしるしであったということです。

また12節には、「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」とあります。これは神との個人的で、人格的な結びつきのことです。黙示録21章3節、4節には、「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。」とあります。これこそ、私たちにとっての究極の祝福です。その祝福へと導いてくれるのです。

Ⅲ.神の命令に従わない者へのさばき(14-39)

次に、神の命令に従わない者、つまり神のおきてを拒み神の命令を破る者には対するさばきが語られます。

まず第一に不安と恐れ、病です。敵からの攻撃です。16節と17節をご覧ください。

「26:16 わたしもまた、あなたがたに次のことを行なおう。すなわち、わたしはあなたがたの上に恐怖を臨ませ、肺病と熱病で目を衰えさせ、心をすり減らさせる。あなたがたは、種を蒔いてもむだになる。あなたがたの敵がそれを食べる。26:17 わたしは、あなたがたからわたしの顔をそむける。あなたがたは自分の敵に打ち負かされ、あなたがたを憎む者があなたがたを踏みつける。だれも追いかけて来ないのに、あなたがたは逃げる。」

ここでは先ほど語られた「安心」「安全」の代わりに恐怖がもたされるということが語られています。そればかりではありません。肺病や熱病によって目が衰えます。また、心をすり減らさせる、心

の病のことでしょう。また、せっかく種を蒔いてもその収穫は敵に奪われるようになるのでむだになります。敵が襲いかかり、打ち負かされ、踏みつけられます。だれも追いかけて来ないのに、ただおどおどと逃げ惑うばかりです。

第二のことは、飢饉。18節から20節をご覧ださい。

「26:18 もし、これらのことの後でも、あなたがたがわたしに聞かないなら、わたしはさらに、あなたがたの罪に対して七倍も重く懲らしめる。26:19 わたしはさらに、あなたがたの力を頼む高慢を打ち砕き、あなたがたの天を鉄のように、あなたがたの地を青銅のようにする。26:20 あなたがたの力はむだに費やされる。あなたがたの地はその産物を出さず、地の木々もその実を結ばないであろう。」

19節には「あなたがたの力を頼む高慢を打ち砕き」とありますが、これは神により頼まず、おのが力で成し遂げたと言って誇っている者を指しています。自分に今与えられているものがあたかも自分の力で成し遂げたかのように思い込んでは誇り、神に感謝もせずも神に栄光を帰することをしないなら、神はその高慢を打ち砕くのです。どのようにでしょうか。あなたがたの地を青銅のようにし、あなたがたの天を鉄のようにしてです。これはその地が産物を出さず、地の木々も実を結ばないで、すなわち、飢饉によってということです。

ところで、18節には「さらに、七倍重く懲らしめる」とありますが、これはどういうことかというと、その程度が極めて強くなることを意味しています。「七」という数字は完全数ですが、神がこれを完璧に行なわれるということです。

第三に、獣による襲撃です。21節、,22節をご覧ください。

「26:21 また、もしあなたがたが、わたしに反抗して歩み、わたしに聞こうとしないなら、わたしはさらにあなたがたの罪によって、七倍も激しくあなたがたを打ちたたく。26:22 わたしはまた、あなたがたのうちに野の獣を放つ。それらはあなたがたから子を奪い、あなたがたの家畜を絶えさせ、あなたがたの人口を減らす。こうしてあなたがたの道は荒れ果てる。」

神が獣を野に放つので、その獣がこどもを奪い、家畜が絶やし、人口が減少するのです。そして、道は荒れ果ててしまうことになります。そしてここにも「七倍も激しく」とあります。神の怒りの激しさが現されています。

第四のさばきは、敵の襲来です。23節から26節までをご覧ください。ここには、敵によって町が包囲されることが語られています。主は彼らの上につるぎを臨ませ、契約の復讐を果たさせるのです。また、主は彼らの中に疫病を送り込まれるので、彼らは敵の手に落ちることになります。26節には、パンがないので、満ち足りないと言われています。それぞれの家で窯を使う燃料がないので、十人が一度に同じ窯を使うからです。普通なら一つの家庭で一つの窯が必要だったのに、十人が使っても十分な位、非常に少量のパンだったのです。そして、何十グラムとかいう単位で、残り少ないパンを計ることで、食いつないだ様子がここに書かれています。もちろん、空腹で体が弱まっている時には、免疫力がなくなっているので疫病も蔓延します。

そして第五のさばきは、もっとおそろしいことが起こります。それは親が自分の息子、娘たちの肉を食べるようになるという警告です。27節から33節をご覧ください。

「26:27 これにもかかわらず、なおもあなたがたが、わたしに聞かず、わたしに反抗して歩むなら、26:28 わたしは怒ってあなたがたに反抗して歩み、またわたしはあなたがたの罪に対して七倍も重くあなたがたを懲らしめよう。26:29 あなたがたは自分たちの息子の肉を食べ、自分たちの娘の肉を食べる。26:30 わたしはあなたがたの高き所をこぼち、香の台を切り倒し、偶像の死体の上に、あなたがたの死体を積み上げる。わたしはあなたがたを忌みきらう。26:31 わたしはあなたがたの町々を廃墟とし、あなたがたの聖所を荒れ果てさせる。わたしはあなたがたのなだめのかおりもかがないであろう。26:32 わたしはその地を荒れ果てさせ、そこに住むあなたがたの敵はそこで色を失う。26:33 わたしはあなたがたを国々の間に散らし、剣を抜いてあなたがたのあとを追おう。あなたがたの地は荒れ果て、あなたがたの町々は廃墟となる。」

ここにも「七倍も重く」懲らしめるとあります。これは本当に凄惨です。親が自分の息子や娘の肉を食べるという事態が起こるのです。それがバビロンに包囲されたユダに起こりました(Ⅱ列王6:28-29)。また、「高き所に死体が積み上げられる」とありますが、これは外国が、自分が征服した民を侮辱するため、彼らが拝んでいる神の祭壇に彼らの死体を置くことで、その祭壇を汚しているのです。これも、バビロンはユダの国に対して行いました。そして町々は廃墟となり、聖所は荒れ果てます。ユダがバビロンによって滅ぼされたとき、これが実現しました。これは紀元前1400年頃、モーセがシナイ山において神から与えられた言葉なのです。バビロン捕囚は紀元前586年ですが、858年前にこのことが前もって預言されていたのです。神の言葉はこれだけ確かなものなのです。

そして第六番目のさばきは、滅びです。あるいは、敵の国で捕えられるということです。34節から39節までのところです。

「26:34 その地が荒れ果て、あなたがたが敵の国にいる間、そのとき、その地は休み、その安息の年を取り返す。26:35 地が荒れ果てている間中、地は、あなたがたがそこの住まいに住んでいたとき、安息の年に休まなかったその休みを取る。26:36 あなたがたのうちで生き残る者にも、彼らが敵の国にいる間、彼らの心の中におくびょうを送り込む。吹き散らされる木の葉の音にさえ彼らは追い立てられ、剣からのがれる者のように逃げ、追いかける者もいないのに倒れる。26:37 追いかける者もいないのに、剣からのがれるように折り重なって、つまずき倒れる。あなたがたは敵の前に立つこともできない。26:38 あなたがたは国々の間で滅び、あなたがたの敵の地はあなたがたを食い尽くす。26:39 あなたがたのうちで生き残る者も、あなたがたの敵の地で自分の咎のために朽ち果てる。さらに、その先祖たちの咎のために朽ち果てる。」

これはユダヤ人が捕囚の民となって、七十年間、バビロンに捕え移されることによって成就します。彼らがバビロンによって滅ぼされ捕囚となって連行されたのは、神に背いたからなのです。ここには安息年のことが指摘されていますが、彼らが引き抜かれたのは彼らが七年ごとに訪れる安息年を守らなかったからです。そして、彼らはバビロンへと連行されて行きました。バビロン捕囚です。彼らは敵の国にいる間、ここに書かれている通りになりました。敵国において脅かしと恐れの生活を歩みました。そればかりではありません。紀元70年には今度はローマによって世界中に散らされ、敵の国にいる間、迫害と虐殺の連続でした。そして、先ほど出てきた荒れ果てた地というのも、ユダヤ人が十九世紀にイスラエルの地に帰還を始める前までは、沼地と荒地しかなかったと言われています。実に、イスラエルは、祝福のみならず、裁きにおいても神の存在を世界に知らしめる証人となっていたのです。

そして私たちが知らなければならないのは、この離散の状態になることこそ神が最もイスラエルに経験してほしくなかったことなのです。主が何度も何度も、「わたしは、あなたがたをエジプトから連れ出した神である」と宣言されました。それは、彼らが奴隷状態になっていることを神ご自身が最も望んでいなかったからです。それで、彼らにイスラエルにカナンの地を与えられたのです。ところが、その初めの状態に戻ってしまいました。これは悲惨なことです。

けれども、これはキリスト者にとっても大きな警告となっています。ペテロが第二の手紙でこう言っています。「主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。(2:20)」初めから知らずに罪に溺れていることのほうが、知ってから溺れるよりはましだ、とペテロは言っています。このことを避けるために、主はイスラエルに対して、また私たちに対して、何とかして振り返ってほしいと願い、懲らしめを与えられるのです。

Ⅳ.神の慰め(40-46)

しかし、神の警告はこれだけで終わっていません。そこから悔い改めて神に立ち返る者への回復と慰めを語っています。最後に40節から46節までを見て終わりたいと思います。まず40-41節をご覧ください。

「26:40 彼らは、わたしに不実なことを行ない、わたしに反抗して歩んだ自分たちの咎と先祖たちの咎を告白するが、26:41 しかし、わたしが彼らに反抗して歩み、彼らを敵の国へ送り込んだのである。そのとき、彼らの無割礼の心はへりくだり、彼らの咎の償いをしよう。」

いよいよイスラエルは自分たちの過ちに気が付きます。自分たちが不実なことを行い、神に反抗して歩んだ自分たちの罪と先祖たちの罪、咎を告白します。彼らは敵国へと送り込まれたことによって、自分たちの過ちにやって気づくわけです。これが、主がイスラエルに望まれていたことでした。ここに「無割礼の心」とありますが、これは男性の性器が包皮で覆われていることによって感覚が鈍るのと同じように、心が神の声に対して鈍くなっていたことを示しています。けれども、今彼らはそれを悔い改めて、神に立ち返ります。これこそが神の懲らしめの目的であり、懲らしめによってその罪の愚かさに気づき、自らその罪を楠改め、神に立ち返るのです。するとどういうことが起こるでしょうか。42-46節です。

「26:42 わたしはヤコブとのわたしの契約を思い起こそう。またイサクとのわたしの契約を、またアブラハムとのわたしの契約をも思い起こそう。そしてわたしはその地をも思い起こそう。26:43 その地は彼らが去って荒れ果てている間、安息の年を取り返すために彼らによって捨てられなければならず、彼らは自分たちの咎の償いをしなければならない。実に彼らがわたしの定めを退け、彼らがわたしのおきてを忌みきらったからである。26:44 それにもかかわらず、彼らがその敵の国にいるときに、わたしは彼らを退けず、忌みきらって彼らを絶ち滅ぼさず、彼らとのわたしの契約を破ることはない。わたしは彼らの神、主である。26:45 わたしは彼らのために、彼らの先祖たちとの契約を思い起こそう。わたしは彼らを、異邦の民の目の前で、彼らの神となるために、エジプトの地から連れ出した。わたしは主である。26:46 以上は、主がシナイ山でモーセを通して御自身とイスラエル人との間に立てられたおきてと定めとおしえである。」

ここにすばらしい神の慰めの約束があります。彼らが離散の民になったことによって、もうこれで終わりと考えてもおかしくありません。けれども、アブラハム、イサク、ヤコブに神が与えられた約束はそれでも有効だったのです。主はイスラエルをお見捨てになりません。今も見捨てておられないし、今後も見捨てることはありません。異邦人の救いが完成したら、今度は彼らを救ってくださるのです。アブラハムとの契約を思い出すというのです。

このように、神の選びというのは確かなのです。私たちがイスラエルに対して、私たちの勝手な思いで「イスラエルは見捨てられた」と考えるならば、私たちが罪に陥って、とことんまでどん底に落ちたら、主は私たちをお見捨てになる、と言っているのと等しいのです。これでも、主は予め知っておられる者たちを、決して見捨てたりなさらないのです。もちろん、土地から引き抜かれるという痛みを味わいました。こんなひどいところを通らずして、主とともに歩むことができれば最高です。だから、通らないで従順でいることのほうが大事なのです。けれども、たとえ失敗しても、主は再び立ち上がる機会を与えてくださるのです。

Isaiah66:18-25 “Where will you spend eternity?”

Today is the last message on Isaiah.  Just as the whole Bible is composed of 66 books, the whole book of Isaiah consists of 66 chapters. Also just as the Bible finishes with Revelation’s new heavens and new earth the end of Isaiah too describes the final goal of human history.

  1. Those who survive (Vs. 18,19)

First let’s look at verses 18 and 19. Verse 18 says, “And I because of what they have planned and done, am about to come and gather the people of all nations and languages, and they will come and see my glory.”

Here the Lord’s plan of missions is displayed. That it that “some of those who survive” (19) in other words, the remnant of Israel, will be sent and proclaim God’s glory “to the nations…that have not heard of “(19) the God of the Bible.

Here is says, “Tarshish, to the Libyans and Lydians (famous as archers), to Tubal and Greece, and to the distant islands.” (19) The Lydians were probably from Lydia in the western Asian Minor. Tubal was in the area of present day Turkey. “The distant islands” (19) includes Japan. In other words, God will send them to the entire world. Through them the Lord’s name will be proclaimed in the world. The Lord’s glory will be seen throughout the world.

If you look at verse 19, it says, “I will set a sign among them.” God “will set a sign” (19) among those who preach God’s glory to the entire world. What is this sign? Some people think that it is the stamp that is stamped on the heads of 144,000 people in Revelations chapter 7. Also other people think it is the 120 Jews of Acts 1:15. It is through them that the first church was born. It was through them that God’s Gospel was proclaimed though out the entire world. They say that since they were chosen by God to go to the nations and preach the Gospel that they are the remnant.

However, this “sign” (19) is probably Jesus. That’s because Matt. 12:38-40 says this, “Then some of the Pharisees and teachers of the law said to him, ‘Teacher, we want to see a sign from you.’

He answered, ‘A wicked and adulterous generation asks for a sign! But none will be given it except the sign of the prophet Jonah.  For as Jonah was three days and three nights in the belly of a huge fish, so the Son of Man will be three days and three nights in the heart of the earth.’”

Jesus says that the sign is “the Son of Man” who “will be three days and three nights in the heart of the earth.” (Matt. 12:40) In other words, it is Jesus who died on the cross and went to down to hades and spent “three days and three nights in the heart of the earth.” (Matt. 12:40)  God “will set a sign among them.” (19) “Them” (19) can said to refer to Christians who believe in Jesus. God has set a sign among Christians who are the remnant that God has chosen and through them to preach to the entire world that has not heard of Jesus, to prepare those who are saved, and to bring them before God. When you think of this, it can be said that the Word of God, now too is to be continuously and constantly preached. God has planned through us Christians to proclaim God’s glory to the ends of the earth.

It is for that purpose that God chose us. “You did not choose me, but I chose you and appointed you so that you might go and bear fruit-fruit that will last-and so that whatever you ask in my name the Father will give you.” (John 15:16) You were chosen by God to do his precious work. You are those who survived. As one who survived are you prepared to do so? What are you doing to prepare yourself to proclaim God’s glory among the nations?

  1. History’s final goal (Vs. 20-23)

Next let’s look at verses 20 to 23. Verse 20 says, “’And they will bring all your people, from all the nations, to my holy mountain in Jerusalem as an offering to the LORD- on horses, in chariots and wagons, and on mules and camels,’ says the LORD. ‘They will bring them, as the Israelites bring their grain offerings, to the temple of the LORD in ceremonially clean vessels.’”

“They” (20) are “those who survive”. (19) They will bring all the people who were saved “from all the nations”, (20) to the Lord’s holy mountain “in Jerusalem as an offering to the LORD.” (20)  The reason they bring all the people is to worship. There the Jewish Christians that believed in Jesus and are saved and the Gentile Christians that believed in Jesus and are saved will in unity worship God.

Please look at verse 22. “’As the new heavens and the new earth that I make will endure before me,’ declares the LORD, ‘so will your name and descendants endure.’”

“The new heavens and the new earth that” (22) God will make “will endure before” (22) God. They will definitely never perish.  They will continue for eternity. Also God’s people that have assembled before God too will definitely never perish. They will continue to live eternally. At the end of the world all things will be burned up. However, “The new heavens and the new earth…will endure” (22) forever. Also the Christians that inherit the “the new heavens and the new earth…will endure” (22) forever.  There we will receive God’s never ending protection and help and will continue to live eternally with God. What we will do there is written in verse 23. “’From one New Moon to another and from one Sabbath to another, all mankind will come and bow down before me,’ says the LORD.”

They will worship God there. “All mankind” (23) will come before the Lord and worship. This is heaven. Christians who believe in their Savior Jesus Christ and have become the people of God will praise God eternally. Revelations 21 talks about what that will be like.

“Then I saw ‘a new heaven and a new earth,’ for the first heaven and the first earth had passed away, and there was no longer any sea.  I saw the Holy City, the New Jerusalem coming down out of heaven from God, prepared as a bride beautifully dressed for her husband.  And I heard a loud voice from the throne saying, ‘Look! God’s dwelling place is now among the people, and he will dwell with them.  They will be his people, and God himself will be with them and be their God. 「He will wipe every tear from their eyes.  There will be no more death」or mourning or crying or pain, for the old order of things has passed away.’

He who was seated on the throne said, ‘I am making everything new!’ Then he said, ‘Write these words are trustworthy and true.’

He said to me: ‘It is done. I am the Alpha and the Omega, the Beginning and the End. To the thirsty I will give water without cost from the spring of the water of life.  Those who are victorious will inherit all this, and I will be their God and they will be my children.’” (Rev. 21:1-7)

God’s people, Christians, are promised victory. “God’s dwelling place is now among the people, and he will dwell with them…God himself will be with them…He will wipe every tear from their eyes.  There will be no more death or mourning or crying or pain, for the old order of things has passed away.”(Rev. 21:3,4) In the new heaven and new earth we will receive living “water without cost from” (Rev. 21:6) God. We will in this heaven worship God for eternity. What comfort!

This is the final ending of history. It is the final goal of history. “All mankind will come” (23) and worship before God. This is the ultimate purpose of God’s salvation. We were created for the purpose of worshiping God. We were created to praise God for eternity. It was for this purpose that sin was atoned for.  Therefore, there is not even one person in heaven that doesn’t want to worship God. There isn’t anyone who doesn’t believe in God. Everyone in heaven is moved by the work of Jesus’ salvation, and is thankful so they worship the Savior from their hearts.

In 1994 when I went to Korea for the first time, I attended worship at Korin        Church, the largest Holiness Church in the world. I was very surprised. In the sanctuary that is said to fit 3,000 we worshipped together with a large choir and orchestra. When the worship started the curtain opened automatically and the hymn that the orchestra was playing began. It was Hymn 27, “New every morning”. It was very impressive. As I was singing my body felt a holy trembling. I couldn’t stop crying. I was over whelmed by the Lord’s presence. It was a time of wanting to be there forever and praise the Lord forever.

Worship in heaven will be greater than that.  That is because the Lord will be there.  A large number of people will praise God. We will be surrounded by what we think is the greatest possible joy and inspiration. To be able to praise God eternally makes everything else of no significance.  That is heaven. There is no world that is as great as this anywhere. “All mankind will come” (23) before the God of heaven and praise God. This is the end that is promised to God’s people, Christians. Are you included in this?

III.Where will you spend eternity? (Vs. 24)

However, the book of Isaiah does not just end here. It adds verse 24. Although it would have been o.k. to have ended at verse 23, the words of verse 24 are added. I will read verse 24. “And they will go out and look on the dead bodies of those who rebelled against me; the worms that eat them will not die, that fire that burns them will not be quenched, and they will be loathsome to all mankind.”

In reality this is a description of hell. If you look at Mark 9:47 and 48 Jesus is quoting from this. “And if your eye causes you to stumble, pluck it out.  It is better for you to enter the kingdom of God with one eye than to have two eyes and be thrown into hell, ‘the worms that eat them do not die, and the fire is not quenched.’”

That Jesus quoted this means that there is really such a place. When a person dies, what happens?

Last Sunday evening on NHK’s special they broadcasted a program, “Near death experience, a documentary by Takashi Tachibana, When you die, what happens to your soul?”  Takashi Tachibana, a journalistic critic, who reported on near death experience over 20 years ago, has turned 74 years old. He has cancer and heart disease so now he feels death approaching.  Therefore, once again he is contemplating about the field of near death experience from the newest research and is rethinking about “death”. Since the near death experience that certain people on the verge of death see began to receive attention in the 1980s and on there have been mainly two explanations for it. One is the scientific explanation that it is an hallucination that occurs in the brain and the other is that after our physical body dies, our soul continues to exist. There are two scientists that when Takashi Tachibana had previously interviewed them, held strongly to the scientific explanation that it is an hallucination that occurs in the brain. However, now they both have now changed their position to there is definitely a world after death. Takashi Tachibana introduced these two people.

One person is Dr. Eben Alexander、a neurological surgeon who for 25 years rejected the notion of a world after death. However, now he asserts that his out of body and near death experience while in a meningitis-induced coma in 2008 proves that consciousness is independent of the brain, and that death is a transition into eternity.

The other person is Raymond Moody. He is a psychologist, but for many years he studied near death experiences and his written many books. When he was interviewed by Takashi Tachibana on “Takahashi Tachibana reports Near death experiences, What does a person see when he dies” aired on NHK in March of 1991 Raymond Moody rejected the idea of a world after death. However 23 years later in this report he said that during these 23 years he had psychological problems and attempted suicide. During his suicide attempt he had a near death experience himself so he came to believe that there is a world after death.

The program ended with the concept that there is a world after death, but admitting that no one knew where this world is. No one knows what a soul is. We don’t know how our soul or “I” is born and how it disappears. We don’t know what “I” is.

However, the Bible knows all these things. The Bible clearly says that when a person dies, even if his body perishes, his soul lives eternally either in heaven or hell. Those who believe in God’s son Jesus Christ as their Savior that saved them from their sin will live eternally with God in Heaven. Those who don’t will as this verse says, live for eternity in hell where “the worms that eat them will not die, that fire that burns them will not be quenched, and they will be loathsome to all mankind.” (24) Where do you want to spend eternity? You have only two choices, heaven or hell.  There are no other possibilities.  If that’s the case, wouldn’t it be best to believe in Jesus Christ and go to heaven? For that purpose God sent Jesus into this world. God wants you to be saved and to have eternal life.

“For God so loved the world that he gave his one and only Son, that whoever believes in him shall not perish but have eternal life.  For God did not send his Son into the world to condemn the world, but to save the world through him. Whoever believes in him is not condemned, but whoever does not believe stands condemned already because he has not believed in the name of God’s one and only Son.” (John 3:16-18)

This is the essence of the Bible and the conclusion of the book of Isaiah. Those who believe in the Son will not be judged. Those who do not believe in the name of God’s only Son so they have already been judged. So that you are not judged please believe in the Son.

“That f you confess with your mouth, ‘Jesus is Lord’, and believe in your heart that God raised him from the dead, you will be saved. For it is with your heart that you believe and are justified, and it with your mouth that you confess and are saved.” (Romans 10:9-10)

Only those who believe Jesus in their hearts and confess it with their mouths will be saved. Those who don’t will not go to heaven.  Such people will go to hell.  So that that doesn’t happen, please repent of your sins and believe in Jesus. If you believe, you can go to heaven and praise God for eternity and you will please God. This is the ultimate goal for us humans who were created by God.  Let’s praise God for eternity in heaven together. Heaven or hell, which will you choose?  The choice is up to you.

イザヤ66:18-24レジュメ

「永遠をどこで」

イザヤ66:18-24

 Ⅰ.のがれた者たち(18-19)

 イザヤ書の最後の箇所からのメッセージである。ここには、やがて神はすべての国々と種族を集めるので、彼らは来て、神の栄光を見る、とある。「わたしは彼らの中にしるしを置き、彼らのうちののがれた者たちを諸国に遣わす。すなわち、タルシシュ、プル、弓を引く者ルデ、トバル、ヤワン、遠い島々に。これらはわたしのうわさを聞いたこともなく、わたしの栄光も見たことがない。彼らはわたしの栄光を諸国の民に告げ知らせよう。」(19)この「のがれた者たち」とはだれのことなのかわからないが、彼らはこれまで主なる神のうわさを聞いたことも、その栄光を見たこともない諸国の民のところに出ていき、主の栄光を告げ知らせるようになる。

 神はこの尊い働きのために私たちを選んでくださった。そう、この「のがれた者たち」は、私たちのことでもあるのだ。私たちには、「のがれた者」として、すべての国々に主の栄光を告げ知らせる使命が与えられている。あなたはその準備ができているだろうか。主の栄光をすべての民に伝えるために、あなたは主に献身しておられるだろうか。

 Ⅱ.歴史の最終ゴール(20-23)

 「彼らは、すべての国々から、あなたがたの同胞をみな、主への贈り物として、馬、車、かご、騾馬、らくだに乗せて、わたしの聖なる山、エルサレムに連れてくる。」(20)「あなたがたの同胞」も誰のことを指しているのか明確ではない。しかし、のがれた者たちの宣教によって救われた人たちのことであるのは間違いない。彼らは聖なる山に連れて来られる。何のために?礼拝するためである。彼らはエルサレムにやって来て、心を一つにして主を礼拝する。「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように、-主の御告げ-あなたの子孫と、あなたがたの名もいつまでも続く。」(22)これは天国の光景である。神が造られる新しい天と新しい地が、神の前にいつまでも続くように、彼らは決して滅ぼされることはない。いつまでも続く。永遠に神をほめたたえる。これが神の民に約束されている勝利の姿である。これが全歴史の最終ゴールだ。すべての人が神の前に来て、礼拝をささげるようになる。私たちはいったい何のために造られたのか?神を礼拝するためである。永遠に神をほめたたえるためなのである。やがてそれが実現する。これが神の民であるクリスチャンに約束されている最後の姿なのだ。

 Ⅲ.永遠をどこで?(15-17)

 しかし、イザヤ書はこれたけで終わってはいない。最後に24節の言葉が加えられている。「彼らは出て行って、わたしにそむいた者たちのしかばねを見る。そのうじは死なず、その火も消えず、それはすべての人に、忌み嫌われる。」これはげヘナ、地獄のことである。イエス様はここから引用して、ゲヘナが実際にある現実の世界であることを示された(マルコ9:47-48)。もしあなたが悔い改めないで、イエスを信じないなら、このゲヘナに投げ込まれる。私たちを救うのはただイエスを救い主として信じ、それを口で告白することによってのみである。そうでなければ地獄に落ちてしまうことになる。そこはうじがわいていて、永遠に消えない火で焼かれる。どんなに苦しくて死にたくても、死ぬこともできない。そこで永遠に苦しみ続けることになる。それが地獄である。

神は私たち人間がひとりも滅びることがないように、この地獄に行くことがないように、ひとり子イエスを送ってくださった。このイエスを信じるなら、だれでも救われる。その人は神が造られた新しい天と新しい地で、永遠に神とともに生きることになる。天国と地獄、あなたはどちらで永遠を過ごしたいか?選択はあなたにゆだねられている。イエス様を信じて、天国で永遠に神とともに生きる者となっていただきたい。

レビ記25章23~55節

きょうは、レビ記25章の後半部分から学びたいと思います。まず23節から28節までをご覧ください。

1.買戻しの権利(23-28)

「23 地は買い戻しの権利を放棄して、売ってはならない。地はわたしのものであるから。あなたがたはわたしのもとに寄留している異国人である。24 あなたがたの所有するどの土地にも、その土地の買い戻しの権利を認めなければならない。25 もし、あなたの兄弟が貧しくなり、その所有地を売ったなら、買い戻しの権利のある親類が来て、兄弟の売ったものを買い戻さなければならない。26 その者に買い戻しの権利のある親類がいないときは、その者の暮らし向きが良くなり、それを買い戻す余裕ができたなら、27 売ってからの年数を計算し、なお残る分を買い主に返し、自分の所有地に帰る。28 もしその者に返す余裕ができないなら、その売ったものは、ヨベルの年まで、買い主の手に渡る。ヨベルの年にその手を離れると、その者が、自分の所有地に帰る。」

ここには買戻しの権利について語られています。買戻しの権利とは25節にあるように、もし、あなたの兄弟が貧しくなり、その所有地を売ったなら、買戻しの権利のある親類が来て、兄弟が売ったものを買い戻すというものです。その者に買戻しの権利のある親類がいないときは、その者の暮らし向きが良くなり、それを買い戻す余裕ができたら、売ってからの年数を計算し、なお残りの分を買主に支払って、自分の所有地に帰りました。もしその者に返す余裕ができなかったら、ヨベルの年まで待たなければなりませんでした。ヨベルの年になれば、前回学んだように、すべての者が、自分の所有地に戻ることができました。

それにしても、なぜ神はこうも一度割り当てられた所有地に対して、こだわりを持っておられるのでしょうか?それは23節にあるように、「地はわたしものであるから」です。確かに、イスラエル人がそれを所有していますが、元々それは神に属しているものであり、神の所有地です。彼らはただそれを一時的にゆだねられているにすぎません。

私たちは全てのことについて、この姿勢を持っていなければいけません。前回は安息年について学びましたが、なぜ、七年ごとに安息を得なければならなかったのか?それは安息することによって、自分の手からその土地が離れるからです。そして元々、その土地を与えられた神を認めることができるようになります。土地についてもそれはもともと自分のものではなく主ご自身のものであり、自分はあくまでも主にこの務めを割り当てられているにしか過ぎないのだ、ということを知ることは、とても大切なことです。

25節には、貧しくなってその地を売らなければならなくなった時に、近親の者がそれを買い戻してあげなければならないということが記されてあります。ヘブル語ではこれを「ゴエル」と言います。「ゴエル」とは、買い戻す者という意味ですが、ルツ記に出てくるボアズが、ルツが嫁いだエリメレク家にとってのゴエルでした。彼は、今は亡きエリメレクの土地を、ナオミとルツのために買い戻してくれたのです。それはやがい来られるイエス・キリストの型でもありました。

また、例えば自分のしている商売がうまくいって暮らし向きが良くなれば、自分自身で買い戻すことができました。ヨベルの年までの土地の収穫によってかつて売っていたわけですが、自分の手から離れた年数を差し引いて、その土地を買い戻します。けれども、たとえ買い戻すことができなくても、ヨベルの年になれば自分のものに戻ってきたのです。

次に29~34節をご覧ください。

「29 人がもし城壁のある町の中の住宅を売るときは、それを売ってから満一年の間は、買い戻す権利がある。買い戻しはこの期間に限る。30 もし満一年たつまでに買い戻されないなら、城壁のある町の中のその家は買い戻しの権利の喪失により、代々にわたり、それを買い取った人のものとなって、ヨベルの年にも手を離れない。31 その回りに城壁のない村落の家は土地とみなされ、買い戻すことができ、ヨベルの年にはその手を離れる。32 レビ人の町々、すなわち、彼らが所有している町々の家は、レビ人にいつでも買い戻す権利がある。33 レビ人から買い戻していたもの、すなわち、その所有している町で売られていた家は、ヨベルの年には手放される。レビ人の町々の家は、イスラエル人の間にある彼らの所有だからである。34 しかし、かれらの町々の放牧用の畑は売ってはならない。それは彼らの永遠の所有地だからである。」

人がもし城壁のある町の中の住宅を売るときは、それを売ってから満一年の間は、買い戻す権利がありましたが、満一年の間に買い戻されなかったら、城壁のある町のその家は買戻しの権利の喪失ということで、代々に渡って、買い取った人のものとなりました。それがたとえヨベルの年であっても、その買い取った人の手から離れることはありませんでした。

これはどういうことでしょうか。ここでのポイントは、それが城壁のある町に囲まれた住宅であるということです。作物を育てる土地とは異なり、城壁に囲まれた町にある住居は買い戻しの権利は一年しかありませんでした。その期間が過ぎれば、たとえヨベルの年になっても買い戻すことはできませんでした。なぜでしょうか。城壁の中に住むことは、自分たちを敵から守ることだからです。もしそこに住んでいる人から買い戻されるようなことがあれば、そこに住んでいた人はその町から出て行かなければならなくなります。つまり、自分たちの安全と保護がなくなり、敵の手に渡される危険性があったのです。ですから、そうした事態にならないように、城壁の中にある住宅が売られることがないようにされたのです。もしそうしたことになれば買戻しの権利を喪失するという例外まで定め、何とかしてそのような事態にならないようにしたのです。しかし31節にあるように、城壁のない村落の家は土地とみなされ、買い戻すことができたばかりか、ヨベルの年にはその手を離れたのです。

レビ人には、土地の割り当てが与えられていませんでした。なぜなら、主ご自身が彼らの相続地であったからです。彼らは神の幕屋に関する奉仕に従事する人々であり、主にお仕えするということそのものが財産だったのです。ですから、そのレビ人から買い戻していたものは、ヨベルの年には手放され、再びそのレビ人のものとなりました。レビ人の町々の家は、イスラエル人の間にあるかれらの所有地だったからです。ですから、レビ人の場合は、城壁の中の住居とは異なり、いつでも買い戻すことができました。しかし、彼らの町々の放牧用の畑は売ってはなりませんでした。それは彼らの永遠の所有地だからです。売ること自体が論外だったのです。

2.兄弟が貧しくなり、身売りしたらどうするか(35-46)

次に35~46節までを見ていきましょう。まず38節までをお読みします。

「35 もし、あなたの兄弟が貧しくなり、あなたのもとで暮らしが立たなくなったなら、あなたは彼を在住異国人として扶養し、あなたのもとで彼が生活できるようにしなさい。36 彼から利息も利得も取らないようにしなさい。あなたの神を恐れなさい。そうすればあなたの兄弟があなたのもとで生活できるようになる。37 あなたは彼に金を貸して利息を取ってはならない。また食物を与えて利得を得てはならない。38 わたしはあなたがたの神、である。わたしはあなたがたにカナンの地を与え、あなたがたの神となるためにあなたがたをエジプトの地から連れ出したのである。」

ここには、あなたの兄弟が貧しくなり、あなたのもとで暮らしが立たなくなったなら、どうしたらよいかということが教えられています。25節には、あなたの兄弟が貧しくなり、その所有地を売ったなら、その地の買戻しの権利を認めなければならないということが語られていましたが、ここでは所有地どこではありません。その貧しさがもっとひどくなり、生活そのものは成り立っていかなくなった場合、日々の生活さえままならない状態に陥った場合どうしたらいいかが教えられているのです。そして、もしあなたの兄弟がそのような状態に陥ったなら、彼を在留異国人として扶養し、あなたのもとで彼が生活できるようにしなければなりません。在留異国人として扱うなんてひどいじゃないかと思われるかもしれませんが、逆に、身売りしなければならなくなった人をこのように扱うということは、そのこと自体が神のあわれみのしるしです。というのは、ここでは異邦人ではなく在留異国人と言われているからです。それは土地を持たない寄留者のこと、あるいは、旅人のことを表しているからです。財産を失って、もう身売りしなければならなくなった人を奴隷としてではなく旅人のように、寄留者のように扱うというのは、何と大きなあわれみでしょうか。なぜそのように扱うのでしょうか。

38節にその理由が書かれてあります。それは、主がエジプトからイスラエル人を連れ出してくださったからです。それなのに、再び奴隷になるようなことがあるとしたら、それが全く無意味なものとなってしまいます。それで主は、同胞のイスラエル人がその貧しい人を扶養するように命じておられるのです。そして、その状況を利用してその人から利息を取るようなことがないように、つまり、従属関係に陥ることのないように戒めておられるのです。「あなたの神を恐れなさい」(43)と。

それにしても、なにゆえに神はそこまで貧しくなった人たちを憐れんでおられるのでしょうか。おそれは神の家族の中では全ての人が平等であって、そこには何の差別もあってはならないからです。全ての人が罪人であり、全ての人がキリストへの信仰によって義と認められるという差別なき救いのゆえなのです。ゆえに、そこに上下関係や階層制度が入ってはならないのです。すべてのクリスチャンは兄弟であり、姉妹なのです。

39~46節までをご覧ください。

「39 もし、あなたのもとにいるあなたの兄弟が貧しくなり、あなたに身売りしても、彼を奴隷として仕えさせてはならない。40 あなたのもとで住み込みの雇い人としておらせ、ヨベルの年まであなたのもとで仕えるようにしなさい。41 そして、彼とその子どもたちがあなたのもとから出て行き、自分の一族のところに帰るようにしなさい。そうすれば彼は自分の先祖の所有地に帰ることができる。
42 彼らは、わたしがエジプトの地から連れ出した、わたしの奴隷だからである。彼らは奴隷の身分として売られてはならない。43 あなたは彼をしいたげてはならない。あなたの神をおそれなさい。
44 あなたのものとなる男女の奴隷は、あなたがたの周囲の国々から男女の奴隷を買い取るのでなければならない。45 または、あなたがたのところに居留している異国人の子どもたちのうちから、あるいは、あなたがたの間にいる彼らの家族で、あなたがたの国で生まれた者のうちから買い取ることができる。このような者はあなたがたの所有にできる。46 あなたがたは、彼らを後の子孫にゆずりとして与え、永遠の所有として受け継がせることができる。このような者は奴隷とすることができる。しかし、あなたがたの兄弟であるイスラエル人は互いに酷使し合ってはならない。」

39節以降の場合は、実際に身売りしてしまった場合のことです。たとえ身売りしたような場合でも、彼を奴隷として仕えさせてはなりませんでした。その時には住み込みの雇人としておらせ、ヨベルの年までその人のもとで仕えるようにさせなければなりませんでした。奴隷として扱ってはならなかったのです。それはイスラエル人の間で主人と奴隷の関係を持たせることを、神は望んでおられなかったからです。労働にふさわしい賃金を支払わなければなりませんでした。「彼らは、わたしがエジプトの地から連れ出した、わたしの奴隷だからである。」(42)だからです。ただ異邦人は奴隷とすることができました。44~45節にあるように、彼らの周囲の国々から奴隷を買い取ることができましたが、彼らの中からはだれも奴隷にすることは赦されていませんでした。

それは神の教会においても同じです。キリスト者は、後に王となり祭司となることが約束されています(黙示1:6)。キリストと共に神の国を統治することが約束されているのです。したがって今の時代にも、教会の外では雇用関係や商売や政治活動など、この世の制度の中で主の命令に違反しない限りのことを行うことはできますが、それを教会の中に持ち込むことはできません。私たちはあくまでもキリストが頭であられ、互いに神の家族の兄弟姉妹であるからです。

3.在留異国人の奴隷となってしまったらどうしたらいいか(47-55)

最後に47節から55節までを見て終わりたいと思います。

「47 もしあなたのところの在住異国人の暮らし向きが良くなり、その人のところにいるあなたの兄弟が貧しくなって、あなたのところの在住異国人に、あるいはその異国人の氏族の子孫に、彼が身を売ったときは、48 彼が身を売ったあとでも、彼には買い戻される権利がある。彼の兄弟のひとりが彼を買い戻すことができる。49 あるいは、彼のおじとか、おじの息子が買い戻すことができる。あるいは、彼の一族の近親者のひとりが買い戻すことができる。あるいはもし、彼の暮らし向きがよくなれば、自分で自分自身を買い戻すことができる。50 彼は買い主と、自分が身を売った年からヨベルの年までを計算し、彼の身代金をその年数に応じて決める。それは雇い人の場合の期間と同じである。51 もし、まだ多くの年数が残っているなら、それに応じて自分が買われた金額のうちの自分の買い戻し金を払い戻さなければならない。52 もしヨベルの年までわずかの年数しか残っていないなら、彼はそのように計算し、その年数に応じてその買い戻し金を払い戻さなければならない。53 彼は年ごとに雇われる者のように扱われなければならない。あなたの目の前で、その人は彼を酷使してはならない。54 たとい、彼がこれらの方法によって買い戻されなかったとしても、ヨベルの年には、彼はその子どもといっしょに出て行くことができる。55 わたしにとって、イスラエル人はしもべだからである。彼らは、わたしがエジプトの地から連れ出したわたしのしもべである。わたしはあなたがたの神、である。」

ここには、あなたがたの兄弟、すなわちイスラエル人が貧しくなり、在留異国人に身を売ってしまったらどうしたらよいかが教えられています。これは最悪な状況です。主はイスラエル人の奴隷になることも避けるように戒めておられたのに、ここでは異邦人の奴隷になってしまった状況が想定されています。いったいこんなことがあるのでしょうか。イスラエルの歴史を見ると侵略の歴史です。その昔はエジプトに捕えられて奴隷になったことがありますし、この後にはバビロンによって滅ぼされ、奴隷としてとらえられ、奴隷として過ごすときがやってきます。このようにイスラエル人だからといって必ずしも平穏に過ごすことができるかというとそうではありません。こうした外国からの侵略によらなくても、生活が貧しくなり、身を売ってしまうという状況に陥る場合があるのです。そのような時はいったいどうしたらいいのでしょうか。

その時は、先ほど土地においての買い戻しの権利を奴隷を解放する身代金を支払うことで行使することができます。つまり、彼が身を売ったあとでも、彼には買い戻される権威があるのです。彼の兄弟のひとりか、あるいは彼のおじとか、おじの息子とかが買い戻すことができます。あるいは、彼の一族の近親者のひとりが買い戻すことができます。あるいは、もし彼の暮らし向きが良くなれば、自分で自分を買い戻すこともできます。そのときは、どのようにして買い戻せばいいのでしょうか。

50節以降にこうあります。 彼は買い主と、自分が身を売った年からヨベルの年までを計算し、彼の身代金をその年数に応じて決めます。それは雇い人の場合の期間と同じです。もし、まだ多くの年数が残っているなら、それに応じて自分が買われた金額のうちの自分の買い戻し金を払い戻さなければなりません。もしヨベルの年までわずかの年数しか残っていないなら、彼はそのように計算し、その年数に応じてその買い戻し金を払い戻さなければなりませんでした。彼は年ごとに雇われる者のように扱われなければなりません。あなたの目の前で、その人は彼を酷使してはなりません。たとい、彼がこれらの方法によって買い戻されなかったとしても、ヨベルの年には、彼はその子どもといっしょに出て行くことができました。

それは土地を売買するときの計算と同じですね。ヨベルの年まで何年残っているかによって身代金が変わりました。たとえば後十年残っていれば、十年分の労働賃金を売り手に支払います。そして、奴隷のように酷使してはならないと強く戒めておられます。これらの戒めの根拠が55節にあります。

「わたしにとって、イスラエル人はしもべだからである。彼らは、わたしがエジプトの地から連れ出したわたしのしもべである。わたしはあなたがたの神、主である。」

イスラエル人は主のみに属する僕だからです。神の僕である者は、他のあらゆるものから自由にされている存在ですから、他に負債があったり、ましてや身売りされている状態は何としてでも回復させ、解放させなければならないのです。

これはどんことを表していたのかというと、イエス・キリストの身代金です。イエス様は、ご自分が来たのは、「多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10:45)と言われました。その贖いの代価とは、人質に身代金を与える身代金の意味を持っています。また奴隷を解放する時の身代金です。貧しくなって土地を売り渡し、また自分の身をも売り渡さなければいけない状態から解放するために、主はご自分の命をもって買い戻しの権利を行使されたのです。

やがてヨエルの年が来ます。究極的に主が全てのものを回復される時が来ます。その時に私たちは栄光の姿に変えられます。そして、主と共に地上に降りてきて御国を相続するようになるのです。しかし、だからといって私たちは罪の中にいていいのでしょうか。罪の中にいることは、まさに身売りしているような状態と同じです。罪を犯せば、罪の支配を受けるようになるからです。その結果、自分の持っているものまでが奪い取られることになってしまいます。神との慕わしい交わりはもちろんのこと、教会の兄弟姉妹との信頼関係も失われ、夫婦の関係や親子関係にも傷が生じます。そして罪を犯し続けると、さらには世においても惨めな姿になります。ちょうど異邦人の奴隷になってしまうのと同じです。

主は、そのようなことのないように、何とかしてご自分が与えられた贖いの代価によって、私たちが自分に与えられている神の自由を、その分け前を取り戻すべく働きかけておられます。ご聖霊が、私たちが確かに罪の支配を受けないように、そこから自由になり、神の霊的祝福を楽しむことができるように導びいてくださいます。そして、兄弟たちが代わりに買い戻すように、教会では兄弟たちが罪を犯している仲間を、重荷をもって助け、柔和な心で正していくのです。パウロはガラテヤ5章13節で、「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」と言っています。私たちは自由を持っているのですから、罪を犯してその特権を売り渡してはなりません。むしろ、その自由を保ちつつ、他の兄弟姉妹に対して愛をもって仕えていかなければならないのです。

イザヤ書66章18~24章 「永遠をどこで」

きょうはイザヤ書から最後のメッセージです。聖書全体の最後が黙示録であり、その最後に新しい天と新しい地の預言で終わっているように、このイザヤ書の最後も新しい天と新しい地の預言で終わります。きょうはこの最後の箇所から、「永遠をどこで」というタイトルでお話したいと思います。

Ⅰ.のがれた者たち(18-19)

まず18節と19節をご覧ください。18節には「わたしは、彼らのわざと、思い計りとを知っている。わたしは、すべての国々と種族とを集めに来る。彼らは来て、わたしの栄光を見る。わたしは彼らの中にしるしを置き、彼らのうちののがれた物たちを諸国に遣わす。すなわち、タルシシュ、プル、弓を引く者ルデ、トバル、ヤワン、遠い島々に。これらはわたしのうわさを聞いたこともなく、わたしの栄光を見たこともない。彼らはわたしの栄光を諸国の民に告げ知らせよう。」

どういうことでしょうか。ここには、主がどのようにご自身の栄光を諸国の民に告げ知らせるのか、その計画と方法が語られています。それはイスラエルの中ののがれた者たちにしるしを置き、彼らを諸国に遣わして、まだ一度もまことの神について聞いたことのない人々に神の栄光を告げ知らせるというものです。ここには、「タルシシュ、プル、弓を引くものルデ、トバル、ヤワン、遠い島々」とあります。タルシシュとは今のスペインです。それからプル、これはエジプトに隣接するリビアのことだろうと考えられています。それからルデ、これも北アフリカの西方の地域のことと考えられています。そしてトバル、これは今のトルコあたりのことで、ヤワンはギリシャのことです。遠い島々、これは世界中の遠い島々のことで、この中には日本も含まれます。すなわち、彼らを通して全世界に神の栄光が宣べ伝えられるというのです。

ところで19節に、「彼らの中にしるしを置く」とありますが、このしるしを置かれた人とは誰のことでしょうか。ある人たちはこれを黙示録7章に出てくる十四万四千人のことだと考えています。彼らはその額に印を押されていて、その数は十四万四千人でした。この人たちは誰かははっきりわかりませんが、ここには、イスラエルの12部族からそれぞれ1万2千人ずつ選ばれた人であるとあります。彼らはその後、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群集とともに、御座と小羊との前に立って礼拝をささげます。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」(黙示録7:10)と。すなわち、彼らは諸国の民を救いに導くために遣わされたユダヤ人であり、彼らによって救われた人たちと一緒に、天国で大声で主を賛美するようになった人たちだ、というのです。

いったいそれはだれのことでしょうか?ある人たちこれを使徒の働き1章15節に出てくる120人のキリストの弟子たちのことだと考えます。彼らはイエスさまが天に昇って行かれた後エルサレムにあった家に泊まり、心を合わせて祈っていましたが、その時天から聖霊が下り、イエス様のことを力強く語り始めました。そして最初の教会が誕生するのです。そして、彼らを通して福音がエルサレム、ユダヤとサマリやの全土、および地の果てにまで宣べ伝えられていきます。そこにはペテロやヨハネ、ヤコブ、アンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモン、ヤコブの子ユダといったキリストの弟子たちでしたが、彼らを通してキリストの福音が全世界に宣べ伝えられていきました。この人たちのことを指しているのではないかというのです。

しかし、このしるしとはおそらくそうではないと思います。このしるしとはイエスさまご自身のことを指していると思われます。というのは、マタイの福音書12章38-~40節にこうあるからです。

「そのとき、律法学者、パリサイ人たちのうちのある者がイエスに答えて言った。「先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです。」しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。」

イエスさまは、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられていないと言われました。そのしるしとは何か。ヨナが三日三晩大魚の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるということです。イエスさまこそ十字架で死なれ、よみにくだられ、三日三晩地の中におられた方です。ですから、このしるしとはイエスさまのことを示していたのです。だとすると、このしるしを置かれた人とはだれのことかというと、イエスさまを信じたクリスチャンのことなのです。神が選ばれたのがれた者たちとはクリスチャンのことであり、神はキリストというしるしを彼らの上に置き、彼らを通して全世界の、まだイエスさまを知らない人たちに福音を宣べ伝えさせ、そこに救われる人たちを備えてくださり、神の元に集めてくださるという預言だったのです。ですから、これは福音が全世界に宣べ伝えられている今の時代の預言であり、今も継続して行われていることなのです。神は私たちクリスチャンを通して、地の果てにまで、神の栄光を宣べ伝えよるようにと計画しておられたのです。

神はそのために私たちを選んでくださいました。「あなたがたが私たちを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それはあなたがたが行って、実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしのなによって求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ15:16)  神はこの尊い働きのためにあなたも選んでくださいました。あなたは「のがれた者たち」なのです。そののがれた者として、すべての国々に主の栄光を伝える使命が与えられているのです。あなたはその準備ができているでしょうか。主の栄光をすべての国々伝えるために、あなたはどのように備えているでしょうか。

Ⅱ.歴史の最終ゴール(20-23)

次に20節から23節をご覧ください。20節には、「彼らは、すべての国々から、あなたがたの同胞をみな、主への贈り物として、馬、車、かご、騾馬、らくだに乗せて、わたしの聖なる山、エルサレムに連れて来る」と主は仰せられる。「それはちょうど、イスラエル人がささげ物をきよい器に入れて主の宮に携えて来るのと同じである。」とあります。

20節の「彼ら」とは、こののがれた者たちのことです。彼らは、すべての国々から救われた人たちを呼び集め、「主への贈り物」として聖なる山エルサレムに連れて来るのです。何のためでしょうか。礼拝するためです。そこでユダヤ人の中でイエス様を信じて救われたクリスチャンと、異邦人の中でイエス様を信じて救われたクリスチャンが一つになって神を礼拝するためです。

22節をご覧ください。「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように、―主の御告げ―あなたがたの子孫と、あなたがたの名もいつまでも続く。」

神が造られる新しい天と新しい地は、神の前にいつまでも続きます。それは決して滅びることはありません。そして、神のみもとに集められた神の民たちも、決して滅びることはありません。彼らは永遠に生き続けるのです。この世の終わりにはすべてのものが焼けてくずれ去りますが、新しい天と新しい地はいつまでも続きます。そして、その新しい天と新しい地を相続するクリスチャンもいつまでも生きることになります。そこで終わることのない神の保護と助けを受けて、永遠に神と共に生き続けるのです。いったい私たちは、そこで何をするのでしょうか。23節をご覧ください。

「毎月の新月の祭りに、毎週の安息日に、すべての人が、わたしの前に礼拝に来る」と主は仰せられる。」

彼らはそこで神を礼拝します。すべての人が主の前に来て、礼拝をささげるのです。これが天国です。救い主イエス・キリストを信じ神の民とされたクリスチャンは、永遠に神をほめたたえるようになるのです。黙示録21章にはその様子が語られています。

「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。」(黙示録21:1-7)

皆さん、神の民であるクリスチャンには、この勝利が約束されているのです。神の幕屋が人とともにあり、神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。神ご自身が彼らとともにいて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもありません。なぜなら、以前のものが過ぎ去ったからです。新しい天と新しい地で神からいのちの水を、価なしに飲ませていただけるのです。私たちはこの天国で、永遠に神を礼拝するのです。何という慰めでしょうか。

皆さん、これが歴史の最後、歴史の最終ゴールです。すべての人は神の前に来て、礼拝をささげるようになるのです。これが神の救いの計画の究極の目的なのです。私たちはいったい何のために造られたのでしょうか。それは神を礼拝するためです。永遠に神をほめたたえるためです。そのために罪が贖われました。だから、礼拝なんかしたくないという人は、天国には一人もいません。神様なんて信じないなんていう人は誰もいないのです。天国にいる人はみなイエスさまの救いのみわざに感動し、感謝しているので、その救い主に心から礼拝をささげたいのです。

私は1994年に初めて韓国を訪れたとき、光林教会という世界で一番大きなホーリネス教会の礼拝に出席したことがありますが、とても驚きました。3千人は入ると言われるその礼拝堂で、大勢の聖歌隊とオーケストラといっしょに礼拝をささげるのです。礼拝が始まると自動的にカーテンが閉じて、オーケストラが奏でる讃美歌が流れます。新聖歌23番の「来る朝ごとに」でした。とても厳かな感じがしました。賛美しながら体が震えるような聖さを感じました。涙がとまりませんでした。ものすごい主のご臨在に圧倒されました。もういつまでもそこにいたい、いつまでも主を賛美していたい、そんな時間でした。

天国での賛美はそれ以上です。主がそこにおられるのですから。大勢の人で神をほめたたえのです。これほどすばらしいことはないと思えるような感動と喜びに包まれるでしょう。他のことはもうどうでもいいと思うくらいに、永遠に神をほめたたえることができる。それが天国です。こんなにすばらしい世界は他にはありません。すべての人がこの天国で神の前に来て、神をほめたたえるのです。これが神の民であるクリスチャンに約束されている最後です。あなたはこの中に含まれているでしょうか。

Ⅲ.永遠をどこで(24)

しかし、イザヤ書はこれだけで終わってはいません。24節のことばが加えられています。23節で終わってもよかったのに、24節のことばが加えられているのです。それはどのような内容でしょうか。最後にこの24節をお読みします。

「彼らは出て行って、わたしにそむいた者たちのしかばねを見る。そのうじは死なず、その火も消えず、それはすべての人に、忌みきらわれる。」

実は、これは地獄の描写です。これがゲヘナと呼ばれる所です。マルコの福音書9章47~48節を見ると、イエス様はここから引用されました。

「もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国に入るほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。」

イエス様がこれを引用されたということは、これがほんとうにあるということなのです。皆さん、人は死んだらどうなるのでしょうか。

先週の日曜日の夜のNHKスペシャルで、「臨死体験  人は死ぬときどうなるのか」が放映されました。20年余り前、臨死体験について徹底的に取材し考察を深めてきたジャーナリストで評論家の立花隆さんは74歳を迎え、がんや心臓の病を抱えて死を間近に感じている今、再び臨死体験の最新研究の現場を見つめ、“死”について見つめ直しました。果たして人は死んだらどうなるのか。死の間際に一定の人が見る臨死体験が世界で注目され始めた1980年代以降、それは脳内現象として科学で説明できるとする「脳内現象説」と、肉体が死んでも“魂”が存在し続けるという「魂存在説」の二つの説が互いに相容れない、激しい議論が続けられてきた中で、立花さんは新たな臨死体験の掘り起こしをすると同時に、そもそも魂とは何なのかを最新の脳科学や心理学、哲学にいたるまで、徹底した取材に基づいて正面から挑みました。科学的に見て、死後の世界があると言える余地はどれくらいあるのか。死後の世界がないとしたら、『私(自分)』という存在をどう説明することができるのか。私たちが当たり前と思っている『私』という存在はいったい何なのか。有史以来、人類が追い求め続けてきた生と死にまつわる壮大な謎に挑むわけのです。  立花さんの結論としてはわからないということですが、その中で長らく死後の世界を否定してきた二人の科学者が、死後の世界はあると確信するようになったことを紹介していました。  一人はエベン・アレキサンダー(Eben Alexander)博士です。彼は脳神経外科の権威ですが2008年に急性細菌性髄膜炎という重い病にかかり、脳の新皮質に深刻なダメージを受けてこん睡状態に陥った経験から、死後の世界はあると確信するようになったというのです。ハーバード大学で教育を受け、25年にわたって神経外科医として一線で活躍する彼は、自分が病気にかかる以前はこの死後の世界を否定していましたが、この経験を通して彼の確信は全く変えられたのです。  もう一人はレイモンド・ムーディ(Raymond Moody)という科学者です。彼はアメリカの医師で心理学者でもありますが、長年、臨死体験を研究してきた第一人者で、著書に「かいまみた死後の世界」とか「死者との再会」など多数書いておられます。彼は1991年3月にNHKが放送した「立花隆リポート 臨死体験 人は死ぬ時何を見るのか」で死後の世界を否定していたのですが、その23年後のこのレポートでは、死に対して大きな心境の変化がありました。レイモンド博士はこの23年の間に精神が病み自殺を図り臨死体験をする中で、死後の世界を信じるようになりました。「なぜそこまで見解が変わったのですか?」という立花さんの問いに、彼はこう答えています。

「私は、自分の心をより見つめるようになったのです。心はすばらしく魅力的なものです。当時は死後の世界を認めず、他の説明をこじつけようとしました。しかし、それは死後の世界はあると明確に言い切れなかったので、認めることから逃げていたのだと思います。その一方で、今自分が自分で言っていることに驚いています。客観的に考えてみれば、死後の世界があり、人生の終わりにあの世が続いているとはっきり言えること自分に矛盾を感じます。なぜそうなったのかは本当に自分でもわかりません。でもそもそも人生は死ぬまで理解できないものなのです。私たちが死ぬとき何があるのか、私たちの論理や思考が不十分であるため、なかなかわからないのだと思います。ただわかっていることは私たちが死ぬとき臨死体験という冒険をしながら人生を全うしていくということでしょう。あなたが永遠に落ち着ける場所を見つけられるように祈っています。」これが長年臨死体験を研究してきたムーディー博士の言葉です。

人は死んだらどうなるのでしょうか。この二人の体験に基づかなく共、聖書は明確に語っています。人は死んで肉体が滅んでも、魂は永遠に生き続ける・・・と。ただ生き続けるだけではありません。そこには天国と地獄があって、そのどちらかで生きるようになると語っています。すなわち、神の子イエス・キリストを自分の罪からの救い主として信じる人は天国で、永遠に神とともに生きるようになり、そうでない人、つまり、イエスさまを信じない人は地獄に行くようになるのです。そこにはうじがわいていて、そのうじは死なず、その火も消えることもありません。それが地獄です。あなたはどこで永遠を過ごしたいですか。天国ですか、それとも地獄ですか。私は地獄には行きたくないけど、天国にも行かなくてもいい、私は中国がいい、なんて言う人がいますが、死後の世界には中国はありません。天国か地獄のいずれかしかないのです。だとしたら、神の救いであるイエス・キリストを信じて天国に行った方がいいじゃないですか。神はそのためにイエスをこの世に遣わしてくださったのです。神はあなたが救われて永遠のいのちを持つことを願っておられるのです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」(ヨハネ3:16-18)

これが聖書の要約であり、イザヤ書の結論でもあります。御子を信じる者はさばかれません。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれているのです。どうかさばかれることがないように、神の御子を信じてください。

「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ロー10:9-10)

イエスを信じて、口で告白する者だけが救われます。そうでない者は、天国に行くことができません。そういう人は地獄に行きます。そういうことがないように、あなたも罪を悔い改めて、救い主イエスを信じてください。信じるなら天国に行くことができ、そこで永遠に神をほめたたえ、神を喜ぶことができます。それこそ神によって造られた私たち人間にとっての究極のゴール、目的なのです。天国でも一緒に永遠に神を賛美しようではありませんか。天国か地獄か、どちらを選ぶかは、あなたの選択にゆだねられているのです。

イザヤ66:6-17レジュメ

「エルサレムとともに喜べ」

イザヤ66:6-17

 Ⅰ.新しい神の民イスラエルの誕生(6-9)

 「彼女は産みの苦しみをする前に産み、陣痛の起こる前に男の子を産み落とした。だれが、このような事を聞き、だれが、これらの事を見たか。地は一日の陣痛で産み出されようか。国は一瞬にして生まれようか。ところがシオンは、陣痛を起こすと同時に子らを産んだのだ。」(7-8)

 これはいったいどういうことか。「彼女」とはシオンのこと、その彼女から産み落とされる子とは新しい神の民イスラエルのことである。世の終わりになると、シオンから一瞬にして新しい国、民族が産み落とされる。このシオンとは神の臨在と支配、そして礼拝の中心となるところである。それは教会のことを指していると言ってもいい。もちろん、それは第一義的にはキリストのからだなる天上の教会のことであるが、その現れである地上の教会のことでもある。この教会を通して、主は新しい神の民である霊的イスラエル(クリスチャン)を産み出すというのだ。しかも一瞬のうちに・・。地上の教会を見る限り欠陥だらけで、時にはみすぼらしいと感じることさえあるが、この教会を通して主は新しいイスラエルを産み出される。それは教会に福音宣教がゆだねられているからである。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって救いを得させる神の力である。この福音のゆえに、教会を通して新しいクリスチャンが産み出されるのである。

あなたはその聖なる共同体である教会を愛し、教会に仕えておられるだろうか。教会を通して与えられる神の恵みを体験しておられるか。神はシオンを通して新しい神の民を産み出してくださる。その神のみわざにともにあずかろうではないか。

Ⅱ.エルサレムとともに喜べ(10-14)

 「エルサレムとともに喜べ。すべてこれを愛する者よ。これとともに楽しめ。すべてこれのために悲しむ者よ。これとともに喜び喜べ。」(10)敵の攻撃を受け荒廃していたエルサレムが回復し、栄光に輝く。そのエルサレムとともに喜べと勧められている。なぜなら、彼らは彼女の慰めの乳房から乳を飲んで飽き足り、その豊かな乳房から吸って喜んだからだ。彼らは幼子が母親の乳房からおっぱいを飲んで満ち足りるように、神の豊かな乳房から飲んで喜んだ。かつて神はアブラハムに「エルシャダイ」としてご自身を現されたが、これは母親の乳房が語源になっている。私たちの神はおっぱいの神であって、幼子が母親の乳房から吸って満足するように完全な満足を与えてくれる全能の神なのである。

それゆえに神は、「母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる。」(13)人はだれでも慰めを必要としている。その慰めはいったいどこにあるのだろうか。主は私たちにこう呼びかけておられる。「わたし、このわたしが、あなたがたを慰める。あなたは、何者なのか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子をおそれるとは。」(51:12)あなたは何を恐れていますか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れる必要など全くない。なぜなら、神があなたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められるからだ。

 Ⅲ.敵を激しく怒られる主(15-17)

 けれども、神に敵対する者に対してはそうではない。「まことに、主は火の中を進んで来られる。その戦車はつむじ風のようだ。その怒りを激しく燃やし、火の炎をもって責め立てる。」(15)その敵とは、具体的には「おのが身を聖別し、身をきよめて、園に行き、その中にある一つのものに従って、豚の肉や、忌むべき物や、ねずみを食らう者たち」(17)である。すなわち、表面的には敬虔に神に仕えているようでも、実際には偶像に仕えている者たちのことである。彼らは神のことばを悟らす、自分勝手な信仰、自分勝手な礼拝を求めて走り回っている。そのような高慢を遠ざけなければならない。そして、神のみことばにおののき、エルサレム(教会)とともに喜び、神の喜びと平安、慰めと満たしを経験させていただく者でありたい。

イザヤ書66章6~17節「エルサレムとともに喜べ」

イザヤ書の最後の章を学んでいます。きょうは6節から17節までのみこばから、「エルサレムとともに喜べ」というタイトルでお話します。この66章は65章の続きです。「主よ、いつまでですか」(6:11)というイザヤの質問に対して、主はエルサレムの荒廃とさばきのメッセージを語りますが、それで終わりではありません。その先に新しいイスラエル、霊のイスラエルがエルサレムとともに喜ぶ日がやってくることが示されます。きょうは、それがどれほどの喜びなのかをみことばからご一緒に見ていきたいと思います。

Ⅰ.神の民の誕生(6-9)

まず、6節から9節までをごらんください。 「聞け。町からの騒ぎ、宮からの声、敵に報復しておられる主の御声を。彼女は産みの苦しみをする前に産み、陣痛の起こる前に男の子を産み落とした。だれが、このような事を聞き、だれが、これらの事を見たか。地は一日の陣痛で産み出されようか。国は一瞬にして生まれようか。ところがシオンは、陣痛を起こすと同時に子らを産んだのだ。「わたしが産み出させるようにしながら、産ませないだろうか」と主は仰せられる。「わたしは産ませる者なのに、胎を閉ざすだろうか」とあなたの神は仰せられる。」

ここには、キリストが再臨される時の様子が語られています。キリストが再臨される時、キリストその敵に報復されます。それで町には騒ぎが、宮からは声が聞こえて来るのです。しかし、エルサレムはすみやかに回復されます。7節を見ると「彼女は産みの苦しみをする前に産み、陣痛の起こる前に男の子を産み落とした」とあります。「彼女」とはもちろんシオン、エルサレムのことです。シオンが産みの苦しみが臨む前に産み、陣痛が起こる前に男の子を産み落とすのです。これはどういうことかというと、8節を見るとわかります。

「地は一日の陣痛で生み出されようか。国は一瞬にして生まれようか。ところがシオンは、陣痛を起こすと同時に子らを産んだのだ。」

これはシオンがその子ら、すなわち神の民を産み出すという預言です。それは一瞬のうちになされます。「陣痛が起こる前に、一日の陣痛で、陣痛を起こすと同時に」産まれるのです。私は出産をしたことがありませんが、出産の前兆である陣痛がないまま出産できたらどれほど楽でしょうか。そのように神の民は一瞬にして産み出されるのです。あなたが新しく生まれた時も同じです。あなたはイエスさまを救い主と信じた瞬間に新しく生まれました。

ヨハネの福音書3章を見ると、ニコデモはイエスさまに尋ねます。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」(ヨハネ3:4)と。  するとイエス様は答えて言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」(ヨハネ3:5)

皆さん、人は水と御霊によって生まれなければ、神の国を見ることはできません。肉は神の国を相続することができないからです。ですから、御霊によって生まれなければ、だれも神の国に入ることはできないのです。御霊によって生まれるとは、御霊のことばである聖書のことばを聞き、それを信じて受け入れることです。あなたが神の国に入るには、あなたが幼子のようにへりくだり、神のことばを聞き、そこにある神の救いを受け入れなければならないのです。そうすれば、あなたもその瞬間に新しく生まれ変わります。そして、神の国に入ることができるようになるのです。

ところで、ここにはシオンが産み出すとあります。シオンとはエルサレムのことです。神の臨在とご支配のあるところを意味しています。それは何を指しているのでしょうか。教会です。神の祝福は教会を通して流れるのです。もちろんそれはキリストのからだである天上の教会のことですが、それと同時に、この地上の教会のことであもあります。なぜなら、この地上にある一つ一つの教会はどんなに小さく、欠陥があったとしても、それは天上の教会の現れだからです。ですからイエスさまは、「何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。」(マタイ18:18)と言われたのです。「まことにあなたにもう一度告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんなことでも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしのなにおいて集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:19-20)  何ということでしょうか。こんな欠陥だらで、不完全な教会でも、この地上に立てられた教会のふたりが、どんなことでも、心を一つにして祈るなら、天におられる私たちの神様は、それをかなえてくださるのです。この地上の教会の私たちがつなぐなら、それは天においてもつながれており、解くなら、それは天においても解かれているのです。この地上の教会をみる限りほんとうにみすぼらしいと感じることさえありますが、でも主はこの地上の教会が解くなら、解かれ、つなぐならつなぐと仰せになられました。この地上の教会はどんなに小さくとも、そこにキリストが満ちておられ、この教会を通して新しく救われる人たちを起こしてくださるのです。だから教会が大きいか小さいかということは全く関係ありません。大切なのは、そこにキリストのいのちが流れているかということです。キリストのいのちはキリストにとどまり、キリストのことばに従うところに流れます。イエスさまは言われました。

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)

また、こう言われました。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(ヨハネ15:7)

ですから、キリストのことばに従い、キリストにとどまるなら、そこにキリストのいのちが溢れるようになります。たとえその教会がどんなに小さくとも、この地上の教会のふたりが、心を一つにして祈るなら、天におられる私たちの神は、それをかなえてくださるのです。私たちの教会を通して、神の祝福が流れるようになるのです。神の民が生み出さるのです。

それゆえ、3世紀の有名な教父キプリアヌスは(Thascius Caecilius Cyprianus)は、「教会の外には、救いはない」と言ったのです。もちろん、救いは主のわざであり、産み出される方は神ご自身です。しかし、神は教会を通してそれを行ってくださるのです。ですから彼は、「教会の外には、救いはない」と言ったのです。  また、あの有名な宗教改革者マルチン・ルターはこう言いました。「教会の外には、望みもなく、罪の赦しもない。永遠の死とさばきがあるのみである。」そこまで言い切ったのです。なぜなら、教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところだからです。そして、教会には福音を宣べ伝える使命がゆだねられているからです。ですから、イエスさまはペテロに「わたしは、あなたに天の御国のかぎをあげます。」(マタイ16:19)と言われたのです。何を血迷ったのか、ローマカトリック教会はローマ教皇こそがこのペテロの後継者であると主張し、教皇をあたかも神のように敬っていますが、そういうことではありません。これは、「あなたは生ける神の子キリストです」と言ったペテロの信仰告白を指しているのです。イエスさまはその岩の上にわたしの教会を建てると言われたのです。そのような信仰告白の上に立てられた教会は、ハデスの門もそれに打ち勝つことはできないのです。それは教会には福音を宣教するという使命がゆだねられているからです。神は教会を通して救われる人を生み出しておられるのです。そういう意味で、マルチン・ルターが言ったことはあながち間違いではないのです。教会はこの福音を宣べ伝えているがゆえに救いがあるのです。

皆さんはどうでしょうか。こうした教会の理解の上に立って、教会を愛し、教会に仕えておられるでしょうか。教会を通してなされる神の救いのみわざに取り組んでおられるでしょうか。教会を通して生み出される新しい神の民を待ち望み、福音を宣べ伝えておられるでしょうか。「シオンは、陣痛を起こすと同時に子らを産んだのだ。」このすばらしい恵みに、私たちも加わらせていただきましょう。

Ⅱ.エルサレムとともに喜べ(10-14)

次に10節から14節までをご覧ください。10節には、「エルサレムとともに喜べ。すべてこれを愛する者よ。これとともに楽しめ。すべてこれのために悲しむ者よ。これとともに喜び喜べ。」とあります。

ここには、「喜べ」とか「楽しめ」という言葉が何回も出てきます。新しい神の国の中心であるエルサレムが喜びと楽しみの所となります。それまで荒廃していたエルサレムが回復し、栄光に輝くようになるからです。すべてこれを愛する者、すべてこのために悲しんだ者が慰めを受けるようになり、喜びにあふれるようになります。

それは11節にあるように、赤ちゃんが母親の乳房から飲んで飽き足りるかのようです。皆さん、赤ちゃんがお母さんのおっぱいを飲んでいる姿を見たことがありますか。赤ちゃんはそれさえあれば満足です。安心してぐっすり休みます。おっぱいは赤ちゃんにとってオールマイティなのです。それさえあれば満足します。そのような満足が与えられます。

おもしろいことに、かつて主はアブラハムに「エル・シャダイ」としてご自身現わされましたが、この「エル・シャダイ」とは母親が赤ん坊に乳を飲ませることがその語源となっています。「エル」は神、「シャダイ」は女性の乳房を指す言葉です。言わば、神はおっぱいの神です。赤ちゃんはそれさえあれば十分に満ち足ります。おっぱいを飲んでいれば大喜びなのです。ここで言われていることはそういうことです。おっぱいを通して赤ちゃんのすべての必要が満たされるように、神はご自身の民のすべての必要を満たしてくださるのです。

12節から14節をご覧ください。 「主はこう仰せられる。「見よ。わたしは川のように繁栄を彼女に与え、あふれる流れのように国々の富を与える。あなたがたは乳を飲み、わきに抱かれ、ひざの上でかわいがられる。母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる。あなたがたはこれを見て、心喜び、あなたがたの骨は若草のように生き返る。主の御手は、そのしもべたちに知られ、その憤りは敵たちに向けられる。」

12節の「繁栄」と訳されている言葉は「シャローム」ということばです。これはあらゆるわざわいから解放された平和な状態を表しています。新しいエルサレムはまさに川のような繁栄と平和が与えられ、あふれる流れのような富がもたらされます。

「あなたがたは乳を飲み、わきに抱かれ、ひざの上でかわいがられる。」また乳が出てきています。あなたがたはおっぱいを飲み、わきに抱かれて、ひざの上でかわいがられる。つまり、神は母親が赤ちゃんを完全に養い、保護するように、イスラエルを完全に守られるのです。

13節を見てください。「母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる。」それは母に慰められる者のようです。ここには「慰め」という言葉が3回も使われています。母親は慰めに満ちています。子どもが痛い思いをしたらどこに行くでしょうか。大抵は母親のところに行きます。なぜなら、慰めてくれるからです。滑り台から落ちて、ブランコから落ちて、テーブルにつかまり立ちしていたら落ちてあびをぶつけたとき、ワンワン泣くと、お母さんのところに行きます。お父さんのところには行きません。お父さんは慰めことを知らないからです。「何やってんの。ちゃんとつかまってないからだよ。」なんて冷たい言葉を発します。あっ、お母さんも言いますね。でもその後の対応が違います。 「何やっての。ちゃんとつかまっていないからよ。」 「しょうがないわね。」 「痛い、痛い、痛かったね。」 「痛いの、痛いの飛んで行け!」 「ほら、もう直った。よかったね」 なんて言って慰めてくれます。やっぱりお母さんです。お母さんは慰めに満ちています。私たちの神はお父さんのような力強さもありますが、お母さんのような優しさも持っておられる方です。あなたを慰め、あなたの必要を満たしてくださるのです。

皆さん、いったいどこに慰めがあるのでしょうか。人はみな慰めを必要としています。みなさんの中に「私は慰めがいらない」という人がいるでしょうか。誰もいないと思います。私たちは、生きている限りさまざまな困難にぶつかります。多くの人が、仕事のことや家庭のこと、人間関係のこと、自分の健康のことなど、さまざまな問題を抱えながら生きているのです。元気で活動的な人でも、身近に自分の悩みを打ち明けることのできる人がいなければ、やはり孤独に陥るでしょう。そんな時、いったい私たちはどこに慰めを見いだすことができるのでしょうか。

ある人は慰めを求めて、エンターテーメントに走ります。それもいいでしょう。しかし、こうしたエンターテーメントは一時的な気晴らしにはなっても、真の意味で人の心を深く慰めることはできません。エンターテーメントで満足できないと、人はやたらと高価なものを買ったり、お酒やギャンブル、ドラッグと、もっと強い刺激を求めて走り回りますが、こうしたものも一時的には渇きをいやしてくれても真の満足は与えることはできません。それは慰めるどころか、もっとひどい状態に引きずり込んでしまうこともあります。ではほんとうの慰めはどこにあるのでしょうか。

ここには、「わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる。」とあります。慰めてくださるのは神です。「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」(40:1)という言葉をもって始まるこのイザヤ書の後半部分には、その神の慰めが随所に語られています。(49:13、51:3、52:9他)まことに神は慰めの神です。その神がイスラエルだけでなく、今の時代を生きる私たちクリスチャンにも与えられているのです。キリストはこのように言われました。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

人は、さまざまなところに慰めを求めます。しかし、神以外のところに本当の慰めはありません。神の慰めは母親が赤ん坊を扱うようにやさしく、温かいものですが、同時に力あるものです。それは、いったん亡びた国をよみがえらせるほどの力です。罪の中に死んでいた者をそこから引き上げることのできるほどの慰めなのです。神が、この慰めを与えてくださるのに、どうして私たちは、慰めにもならないものを求め、救いにもないところに行くのでしょうか。神の救いと慰めを知っていながら、なんの救いも慰めもないかのように嘆くのでしょうか。イザヤ51章12節で、主は、私たちに呼びかけておられます。「わたし、このわたしが、あなたがたを慰める。あなたは、何者なのか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れるとは。」ほんとうの慰め主のところに行きましょう。このお方を信じ、このお方から深く、大きい慰めを受け取りましょう。

1977年11月15日、土曜日、新潟市で、学校のクラブ活動を終えたひとりの女子中学生が忽然(こつぜん)と姿を消しました。横田めぐみさんです。警察の必死の捜査にもかかわらず、彼女の行方は全くわかりませんでした。母親の早紀江さんは、娘に深い心の悩みがあって、それで行方をくらましたのではないかと考えました。「どうして、娘の気持ちを分かってあげられなかったのだろう。」と自分を責めました。この事件があって、いろんな人が彼女を訪ね、さまざまなアドバイスを与えましたが、その多くは「因果応報」に基づいた話でした。この家族には、過去に悪事があって、それが娘に報いとなって表われたのだというのです。だからお祓いをしてもらいなさい、先祖を供養しなさいというのですが、それは彼女をもっと苦しめました。

そんな時、ひとりの友人が、「聖書のヨブ記を読んでみたら」と言って一冊の聖書を置いて帰りました。悶々とした日を過ごしていた彼女はすぐには聖書を開くことができませんでしたが、ある日、大きな悲しみが襲ってきたので、彼女は聖書を開いて読んでみることにしました。彼女は、それまでも聖書のことばに断片的には触れていましたが、この時はじめて読んで感動しました。それはヨブ1章21節の「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」ということばです。そのとき彼女は、「人間よりも偉大なお方がおられ、すべてを包んでおられる」ということが分かり、聖書から深い慰めを得たのです。

めぐみさんの失踪から20年がたち、それが北朝鮮による誘拐であることが明らかになり、それからさらに10年がたちましたが、めぐみさんの行方はまだ明らかになっていません。そんな中で横田早紀江さんは、毎月、北朝鮮のために祈る、祈り会を開いています。彼女はこう言っています。「北朝鮮は、私から娘を奪い、私を苦しめた国ですが、北朝鮮の人たちは、私の娘以上に苦しめられています。神は全能で奇跡をなさるお方です。生きて娘に会いたい。けれどもそれもみこころの中にあります。今は、苦しめられている人たちが救われ、世界に平和が来るようにと祈っています。」  自分の娘の人生を台無しにした国とその人々を憎んでも当然なのに、早紀江さんは、その国の人々のために祈っているのです。このようなことは人間の慰めだけしか知らない人にはできません。神の慰めを知っている人だけが、他の人にもそれを分け与えることができます。人間の慰めは小さくて、不十分で、自分のためにも足りないほどですから、まして他の人に分け与えることなどできませんが、神からの慰めは大きくて、満ちあふれるほどですので、いくらでも人に分け与えることができます。分け与えずにはおれなくなるのです。

私たちも神の慰めのことばを聞き、深く慰められ、この神の慰めを人々と分かちあうことができますようにと祈り求めましょう。

Ⅲ.敵を激しく怒られる主(15-17)

最後に15節から17節を見て終わりたいと思います。 「見よ。まことに、主は火の中を進んで来られる。その戦車はつむじ風のようだ。その怒りを激しく燃やし、火の炎をもって責めたてる。実に、主は火をもってさばき、その剣ですべての肉なる者をさばく。主に刺し殺される者は多い。おのが身を聖別し、身をきよめて、園に行き、その中にある一つのものに従って、豚の肉や、忌むべき物や、ねずみを食らう者たちはみな、絶ち滅ぼされる。―主の御告げ―」

主はご自分に頼る者たちを見捨てることはされず、母のような愛によって慰めてくださいますが、敵に対してはそうではありません。その憤りが敵に向かって燃え上がるのです。

15節ではそれを「火」と「つむじ風」と「炎」という言葉で表しています。「見よ。まことに、主は火の中を進んで来られる。」「火」は神のさばきを、また、「つむじ風」は破壊的なイメージを、そして「火の炎」は激しい神の怒りを表しています。実に、主は火をもってさばき、その剣ですべての肉なる者をさばかれるのです。

いったいこの敵とはだれのことでしょうか。17節には、「おのが身を聖別し、身をきよめて、園に行き、その中にある一つのものに従って、豚の肉や、忌むべき物や、ねずみを食らう者たちはみな、絶ち滅ぼされる。」とあります。自ら身を聖別し、きよめているといいながら、園に行って、異教の神々に仕えていた人たちのことです。彼らは神に仕えているようで、一方では豚の肉や、忌むべき物、ねずみを食らう者たちでした。そうです、彼らは3節と4節に出てきた自分勝手な敬虔を求めていた人たちです。神によって産み出された子らと関係のない人たちです。それは言い換えると神のエルサレムとともに喜ぶことができない人たちのことなのです。神のことばも悟れず、ただ自分勝手な敬虔を求めるならば、その身に神のさばきを招くことになります。神が与えてくださるすべての祝福は、まことの教会を通して流れ出るからです。神が約束された共同体ではなく、自分勝手な信仰、自分勝手な礼拝を求めて走り回る霊的な高ぶりを遠ざけなければなりません。

あなたはどうですか?エルサレムとともに喜んでいますか。神のみことばにおののいておられますか。エルサレムとともに喜べ。エルサレム、神の教会とともに喜び、神の喜びと繁栄、慰めと満たしを体験させていただきたいと思います。

創世記5章

きょうは、5章に記されてあるアダムの歴史の記録からご一緒に学んでいきたいと思います。

Ⅰ.人類最初の人アダム(1-2)

まず1~2節をご覧ください。「これはアダムの歴史の記録である。神は人を創造されたとき、神に似せて彼を造られ、男と女とに彼らを創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、その名を人と呼ばれた。」

これは系図の形として書かれた歴史です。ユダヤ人の習慣として、彼らはよくこのような書き方をしました。マタイの福音書1章に記されてある系図もそうです。この系図の最初に述べられていることは、アダムが造られた時の経緯、要約です。神は人を造られた時どのように造られたかというと、神に似せてであります。神に似せて彼を造られ、男と女とに彼らを造られました。神が彼らを創造された時、神は彼らを祝福し、その名を「人」(アダム)と呼ばれました。3節以降は、その神の祝福がどのように展開(成就)していったかが記録されています。

Ⅱ.アダムの歴史(3-5)

3節からのところには、アダムの系図として10人の名前が出てきます。アダム、セツ、エノシュ、ケナン、マハラルエル、エレデ、エノク、メトシェラ、レメク、ノアです。この系図の叙述には、ある一定の型があることがわかります。それは、

①「・・は・・才になって、・・を生んだ。」→父になった時の年齢

②「・・は・・を生んだのち、・・年生きて、息子、娘たちを生んだ」→残りの 年数と他の子供の誕生

③「・・の一生は・・年であった。こうして彼は死んだ。」→合計した年齢(寿命)、死

というパターンです。これがこの系図の強調点なのです。この系図を見てまず第一に気づくことは、ここに出てくる人々の寿命が今日と比べて著しく長いということです。6章3節になって人の寿命が120歳と定められますが、それと比較しても、それ以前の人たちの寿命はことのほか長いことがわかります。これは、洪水前の気象や環境、食べ物など、今よりもずっと良かったということがその理由に上げられます。放射線による汚染なども、その当時は全くありませんでした。しかし、それ以上に、そこに神の祝福があったということが表されているのでしょう。この地上に人が増え始め、人の悪が増大したのがノアの時代であった(6:1-5)ということを考えると、ある程度は納得できます。現代は科学が進歩しているようですが、実際には退化しています。一つ一つの技術は進化しているようでも、社会的には逆に悪くっています。それはこの地上に人の悪がもっと増大しているからです。このままでは、この地球はいったいどうなってしまうことでしょう。それに比べこのアダムの時代からのしばらくの時代は、そうした悪が少なかったことを考えると、このように長く生きることができたということも理解できます。しかし、たとえ人の寿命がいくら長いとはいえ、その最後は「こうして彼は死んだ」ということばで結ばれていることを思うと、最初の人アダムによってもたらされた罪の結果人類に死がもたらされたことは、本当に悲しいことです。

ところで、ここにはそれぞれの人の年齢がしるされていますが、アダムの創造からノアの洪水までの年数が記録されているのではありません。これらの数を合計すると、大体2000年くらいになります。ですから、多くの人たち、特にファンダメンダリストと言われる人たちは、ここからアダムからノアの時代までを2000年、ノアからアブラハムの時代までを2000年、アブラハムからイエス・キリストの時代までを2000年、そして、今日まで2000年と計算し、人類が誕生してから今日までの年数を8000年だと主張しますが、それには注意が必要です。というのは、これはあくまでも系図を記しているのであって、年代記ではないからです。多くの系図がそうであるように、そこには省略されている人たちもいるからです。

Ⅲ.神とともに歩んだエノク(21-24)

この系図の中でもう一つ際だっていることは、24節の記録です。ここには、「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」とあります。5章の系図に記されてあるほかの人たちが「そして彼は死んだ」と結ばれているのに対して、エノクだけは例外です。彼だけは「死んだ」ではなく、「彼はいなくなった」とあるのです。神が彼を取られたので、彼はいなくなったのです。これはいったいどういうことでしょうか?

ここには、「エノクは神とともに歩んだ」とあります。ヘブル11章5節には、「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれることが、あかしされていました。」とあります。彼は神に喜ばれることがあかしさていたので、神に移されて、みえなくなったのです。

また、ユダ1章14節、15節には、「アダムから七代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。「見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。すべての者にさばきを行い、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである。」とあります。

これは主の再臨の預言です。エノクは、やがて主が千万の聖徒を引き連れて来られ、不敬虔な物たちをさばかれることを預言していたのです。ということは、これらのことからエノクがどのような歩みをしていたかがわかると思います。それは一言で言うなら、「神とともに歩く」歩みです。エノクの時代にはすでに多く人々がこの地上に増え広がっており、そうした人々の心が悪に傾いていた中で、彼は神とともに歩んだのです。後にノアの記述が出てきますが、ノアも同じです(6:5)。罪の中に生まれた人間の歩みというのはこの世の流れにしたがい、何の迫害もない、安易な道に歩みがちですが、それは放っておけば地獄へと堕ちていく道であります。こうした中で信仰に目覚め、つねに信仰の決断をもって歩もうとすれば、そこには多くの戦いも生じますが、実に、そうした歩みこそ神とともに歩む道なのです。エノクの人生はそういうものだったのです。彼は神を仰ぎ、永遠に変わることのない真実な神、全能であられる神により頼みながら、信仰によって生きたのです。彼が主の再臨と最後のさばきについて宣べ伝えていたということは、そのことを表しているのではないでしょうか。

そのように神とともに歩む者の最後は、「死を見ないように天に移される」ということです。これは「神とともに歩む者」の姿であり、一つのひな型です。すなわち、神とともに歩む人は、主イエス・キリストの再臨の時に必ず携え上げられ、永遠に主とともにいるようになるのです。エノクは肉体の死を見ませんでした。神とともに歩む私たちもやがて最後の死を見ることなく、永遠のいのちを受け継ぐようになるのです。

[分かち合いのために]

  1. アダムは何歳の時セツが生まれましたか。またセツを生んでから何年生きましたか。アダムの一生は何年でしたか。その後、彼はどうなりましたか。アダムの後の系図を見ると、そこにどのような書き方(パターン)がありますか。
  2. この系図をみると、多くの人たちが900歳くらい生きました。なぜそんなに長く生きることができたのでしょうか。
  3. この系図の中でエノクは他の人たちと違いがあることがわかります。どのような違いがありますか。彼はなぜ神に取られたのでしょうか。神とともに歩むとはどういうことでしょうか。そのような人にはどんな祝福が約束されていますか。

創世記4章17~26節

前回は4章1~16節までのところから、カインとアベルについて学びました。信仰によってアベルは神が喜ばれるささげ物をささげましたが、カインはそうではありませんでした。カインは自分の考えによってささげ物をささげました。それは自分の手によるささげ物を表していました。ですから、神はアベルのささげ物には目を留められましたが、カインのささげ物には目をとめられませんでした。

そしてそのことで嫉妬したカインはアベルに襲いかかり、彼を殺してしまったのです。しかも殺しておいて、今度は自分が殺されると嘆いているのです。神様はそんなカインをあわれみ、彼が殺されることがないように、彼に一つのしるしを与えてくださいました。それが何であったのかははっきりわかりませんが、それは彼が悔い改めようにという神からの機会でもあったわけです。しかしながら彼は悔い改めることをせず、エデンの東、ノデの地に住み着きました。「ノデ」それは「動揺」です。「さすらい」です。神から離れて人生はさすらいなのです。きょうのところには、その彼の人生がどのようになったのかがしるされています。

1.文化の起源(17-22)

まず17節をご覧ください。「カインはその妻を知った。彼女はみごもり、エノクを産んだ。カインは町を建てていたので、自分の子の名にちなんで、その町にエノクという名をつけた。」

ノデの地に住み着いたカインは、そこで妻を得ます。アダムとエバにはカインとアベルしかいなかったのに、いったいこの妻はどこからやって来たのかという疑問が起こりますが、それはここには書いていないだけで、アダムとエバには他に多くのこどもがいたようです。そのひとりが25節に出てくるセツですが、他にも多くいたのです。この17節には「町を建てた」とありますから、町を建てるくらいのこどもたちがいたということです。1:28のみことばから考えると、それは不思議なことではありません。

さて、カインはその妻を知り、子供を設けました。彼はその町の名にちなんで「エノク」という名をつけました。意味は「開始する」です。おそらく彼は、自分の思うような人生を、自分の計画を開始するという意味で町を建て、そういう名前にしたのだと思います。そして、それと同じような考えを持っていた人たちがたくさんいたのです。それがエノクという町です。

そのエノクにイラデが生まれ、イラデにはメフヤエルが生まれ、メフヤエルにはメトシャエルが生まれ、メトシャエルにはレメクが生まれました。19節を見ると、このレメクはふたりの妻をめとったとあります。ひとりはアダで、もう一人がツィラです。これがカインの道を歩む者の姿、神から離れた者たちの結末です。つまり、このレメクは今日まで続いている一夫多妻制の原型となったのです。男女の一夫一婦の関係は創造のはじめから定められていて、これは神聖なものなのに、神を信じないで、自分の欲望のままに歩む者は、この男女の神聖な関係を破り、神に反抗したのです。唯一の神を信じない者は、このように自分の欲望のままに生きようとするのです。

さて、20節を見ると、この二人の妻のうちアダはヤバルとユバルを、そしてツィラはトバル・カインを産みました。まずヤバルは天幕に住む者となり、家畜を飼う者、すなわち農業に従事する者の祖先になりました。そしてユバルは竪琴と笛を巧みに奏でる奏者、すなわち芸術の祖先、そしてトバル・カインは青銅と鉄のあらゆる用具を作る鍛冶屋、すなわち産業の祖先となりました。いわゆる文化の起源がここにあるわけです。しかし、このように文化がカインと彼の子孫たちから出たからといって、それ自体が悪であるということではありません。文化自体はすばらしいものであり、罪の結果、あるいは罪をおおう手段として生まれたものではありません。というのは、もし文化が悪であるとしたら、文化の進歩自体が悪になってしまいますし、人間の文化的努力のいっさいが無意味なものになってしまうからです。ですから、文化そのものは悪ではなく、それは神から与えられた恵みであり、人間の生活を潤すものであり、自然と社会に対して人間がなす真善美の活動とその成果なのです。問題は、こうした文化活動を営む人間がどうであるかということです。せっかく神様から恵みとして与えられたこの文化を自分たちの知恵や力を誇るものとして用いようとしたら、本末転倒になってしまいます。もしそうだとしたら、すなわち、それが神の栄光のためではなく、自分のたちの力を誇る道具になるとしたら、それは神への反逆の有力な武器と科してしてしまうのです。まさに現代の文化はこの神なしの文化であり、本当に罪に満ちた文化です。私たちに求められているのはこうした文化ではなく、神のための、神の栄光を現す聖書に基づいたキリスト教の文化をうち建てることです。

2.レメクの歌(23-24)

次に、23~24節をご覧ください。「さて、レメクはその妻たちに言った。「アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」

これはレメクがその妻アダとツィラに言ったことばです。レメクはここで何を言っているのでしょうか。これはレメクが、自分の残忍さを誇っているのです。カインを殺す者がいれば七倍の復讐を受けるのであれば、自分を殺す者にはその七十七倍の復讐を受けるということです。つまり、神様がカインに約束された七倍の復讐では足りないとして、七十七倍も報いようとしてるのです。それは自分の力が神以上のものであることを誇示しているのです。このように、人間は堕落すると、自分の残忍さを誇ったり、自分の不道徳を平気で人に誇ったりするようになるのです。これがカインの道、これが罪深い人間の姿です。

3.主の御名によって祈ったエノシュ(25-26)

それに対してここに、そうしたカイン、レメクとは違うもう一つの系統が現れます。それが信仰の系統、セツです。25~26セツには、「アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。人々は主の御名によって祈ることを始めた。」とあります。

先にアベルを失ったアダムとエバは、神様の前に深い悲しみと嘆きの日々を過ごしていたことでしょう。この悲嘆に暮れていた家庭にも、新しい喜びが訪れます。「セツ」の誕生です。「セツ」とは「基礎」という意味です。詩篇11:3には「正しい者」と訳されています。他に「柱」という意味もあります。おさらく、アダムとエバは新しく与えられた子どもとその子孫によって、自分たちの生活の基礎を正しく据えようとしたのではないかと思います。セツこそアベルに代わるべきものであり、アベルの足跡を踏むべき者と考えたのです。それがこの「カインはアベルを殺したので、彼の代わりに、神はもうひとりの子を授けられたから」という意味に込められているわけです。ですから、セツにもまた子供が生まれたとき、その子はエノシュと言いますが、そのとき、人は主の名で祈ることを始めたとあるのです。セツこそは、アベルに代わるべきもの、信仰の系統となるべき者として、神が与えてくださいました。そしてやがてこのセツの系統からアダらハムから始まるイスラエル民族が、そして、イエス・キリストにつながる系統が出てくるのです。ルカ3:38は、そのことを記しています。「エノス」とは「この「エノシュ」のことです。自分の町を建て、物から物に生きようとしたカイン、レメクの系統に対して、神様はアベルに代わる新しい信仰の系統として、ここにセツと、その子孫エノシュから始まる系統を備えてくださったのです。そして、エノシュは主の名によって祈り始めました。レメクが傲慢不遜にも大手をふっていた時に、このように主の御名によって祈ることは、決してやしいことではありません。しかしこのような人々を、神様はいつもわずかながら残しておられるのです。この尽きない神の恵みに感謝して、この信仰の道を歩み続ける物でありたいと願わされます。