イザヤ書62章1~12節 「黙っていてはならない」

きょうは、イザヤ書62章のみことばからお話したいと思います。タイトルは、「黙ってはならない」です。ここにはエルサレムの回復が預言されています。バビロンによって滅ぼされ、荒廃したエルサレムを、主がもう一度建て直してくださるということが約束されているのです。それは私たちに対する約束でもあります。主は荒廃した私たちの人生をもう一度立て直してくださるのです。では、早速、本文を見ていきましょう。まず1節から5節までをご覧ください。

Ⅰ.黙っておられない神(1-5)

1節には、「シオンのために、わたしは黙っていない。エルサレムのために、黙りこまない。その義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは。」とあります。シオンとはエルサレムのことです。ここには、主がシオンのために黙ってはおられることをせず、その義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまで、働いてくださることが約束されています。

ヘブル人への手紙7章24、25節にはこうあります。 「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」  キリストはいつも生きていて、あなたのためにとりなしをしておられます。黙っているということはありません。ずっと働いていてくださるのです。

何という励ましでしょうか。私たち人間はそうではありません。59章16節には、「主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。」とありましたが、人のためにとりなす人がいないのです。いつも自分のことばかり。自分さえよければいい。自分のたるには祈っても、人のために祈ることができません。それが人間です。しかし、キリストはいつも生きていて、あなたのために、とりなしておられるのです。

これはイザヤの時代で言うなら、バビロン捕囚から解放されることを現しています。イスラエルは罪の結果70年もの間、捕囚としてはバビロンに囚われていましたが、そこから解放してくださるという約束です。主はそのためにずっととりなしておられたのです。

いったい主はどのように働いてくださるのでしょうか。2節をご覧ください。 「そのとき、国々はあなたの義を見、すべての王があなたの栄光を見る。あなたは、主の口が名づける新しい名で呼ばれよう。」

「そのとき」とは、エルサレムが回復するときのことです。そのとき、国々はあなたの義を見、すべての王があなたの栄光を見るようになります。世界中のすべての人が、あなたの上に神の大いなる御業が成されたことを見て、神をほめたたえるようになるのです。そしてあなたは、主の口が名付ける新しい名で呼ばれるようになるのです。「新しい名」で呼ばれるというのは、新しい性質に変えられることを表しています。

そのような性質でしょうか。3~5節をご覧ください。 「あなたは主の手にある輝かしい冠となり、あなたの神の手のひらにある王のかぶり物となる。あなたはもう、「見捨てられている」と言われず、あなたの国はもう、「荒れ果てている」とは言われない。かえって、あなたは「わたしの喜びは、彼女にある」と呼ばれ、あなたの国は夫のある国と呼ばれよう。主の喜びがあなたにあり、あなたの国が夫を得るからである。若い男が若い女をめとるように、あなたの子らはあなたをめとり、花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ。」

それまでは、「見捨てられている」とか「荒れ果てている」と呼ばれていましたが、これからはそのように呼ばれることはありません。これからは「わたしの喜びは彼女にある」とか、「あなたの国は夫のある国」こう呼ばれるようになります。

どうですか、このように呼ばれたら、どんなにうれしいことでしょう。この「わたしの喜びは、彼女にある」という言葉はⅡ列王記21章1節に出てくる「ヘフツィ・バハ」という言葉です。そこではユダの王ヒゼキヤの奥さんの名前として使われています。彼女はヒゼキヤの喜びでした。「ヘフツィ・バハ」。「あなたは私にとって喜びだ」とか、「私の喜びはあなたにある」と言ってもらえる妻はどれほど幸せでしょうか。「あなたは私の悲しみだ」とか、「顔もみたくない」なんて言われたら、もう死にたい気持ちになるでしょう。逆に、「あなたは喜びだよ」なんて言われたら、もう天にも上るような気分になります。

私たちはもともと「見捨てられたもの」と呼ばれても致し方ないような者だったんです。自分勝手な道を歩み、何度も何度も神を裏切ってきました。もう見捨てられても、見放されてもしょうがない者だったのに、神は一方的なあわれみによって赦してくださいました。神はあなたを、「あなたはわたしの喜び」、「あなたは夫のある国」と呼んでくださるのです。

いったいこのような神が他にいるでしょうか。どの神があなたのことをこのように受け入れてくれるでしょうか。どの宗教があなたを心から喜んでくれるくれるでしょうか。ただ聖書の神だけが、イエス・キリストだけがあなたを喜び、あなたを心から受け入れてくださいます。なぜなら、キリストはあなたのためにいのちを捨ててくださったからです。いのちをかけてあなたを贖ってくださいました。だから、たとえあなたがどんなに裏切っても、たとえあなたがどんなに失敗を繰り返しても、あなたが悔い改めて神に立ち返るなら、神はあなたを赦し、受け入れてくださるのです。

今、NHKの大河ドラマで豊臣秀吉に仕えた「軍師、官兵衛」の生涯を描いたドラマが放映されていますが、そこに親を早くに亡くして黒田家に引き取られ、幼い長政(松寿丸)と兄弟のように育てられた後藤又兵衛という家臣が登場しますが、彼は一度ならず二度も黒田家を裏切り、敵となってしまいました。しかし、戦いに敗れた又兵衛が謝罪のため黒田家を訪れたとき、彼は自分はとても許されるに値しない者と身を引こうとしましたが、そんな又兵衛に官兵衛の妻、光(てる)が、こう言って引き留めるのです。「又兵衛、おまえは一度ならず、二度も母を捨てるのですか?」何度捨てても、わたしはおまえの母なんですよ、そう言って受け入れるんですね。それを見ていて、ああ、私たちの天のお父さんと同じだなぁと思いました。いや、天の父はもっと完全な愛をもって受け入れてくださいます。何度失敗しても、悔い改めて立ち返るなら、どこまでも赦してくださいます。「見捨てられている」とか「荒れ果てている」という名前ではなく、「わたしの喜びは、あなたにある」と言ってくださる。それが天の父、あなたの神です。

ゼパニヤ書3章17節にはこうあります。 「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」

すばらしい約束です。イエス様の目に、私たちはこのように写っているのです。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与えてくださいます。主は高らかに、あなたのことを喜ばれるのです。主はあなたのことを怒っているのではもなく、嫌っているのでもありません。あなたのことを喜んでおられるのです。あなたがイエスを信じて、神の子とされたので、主はあなたのただ中におられるからです。あなたはなかなか神のみこころにかなった者になれないかもしれません。何度も同じ失敗を繰り返すかもしれない。それでも神はあなたのことを喜ばれるのです。

だから私たちは、その主から目を背けてはいけません。決してイエス様から離れてはならないのです。やっぱり自分はひどい人間だと落ち込んで、主の下に来ることを拒んではいけないのです。私たちをご自身のものとし、常に私たちを愛し、私たちを喜んでくださる主に心を開いて、あたかも親しい夫婦のように、すべてをさらけ出して、ありのままに出て行かなければならないのです。

Ⅱ.黙っていてはならない(6-9)

第二のことは、であれば私たちも黙っていてはならないということです。6節をご覧ください。 「エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。」

ここに、「エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。」とあります。「見張り人」とはだれのことでしょうか。見張り人とは、城壁に敵がやって来ているかどうかを見張っている人のことです。イザヤの時代であれば、それはイザヤをはじめとした預言者たちのことでした。いわばイスラエルに向かって警告を発する人たちのことです。神のさばきが近づいているという警告です。彼らは、昼も間も、夜の間も、決して黙っていてはいけませんでした。主がエルサレムを堅く立て、この地でエルサレムを栄誉とされるまで、黙っていてはなりませんでした。

それは私たちクリスチャンも同じです。神は私たちを見張り人としてこの世に置かれました。ですから、どんな時でも、その希望が実現するその時までこの世を見張っていなければなりません。黙っていてはならないのです。私たちはこの世の終わりが近づいているという警告を発するために、だから悔い改めて神を信じるようにと勧めるために、ここに置かれているのです。

このことについてパウロはこのように言っています。Ⅱテモテ4章2~5節です。 「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。しかし、あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。」

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。これは、私が伝道者として召された時に与えられたみことばでもあります。それまでこの社会で普通に働いて、平凡でもいい、クリスチャンの家庭を築き、幸せに生きていきたいと思っていましたが、そのような時、友達が運転する車が車が崖から転落して友達が即死するという事故がありました。翌日、友人の家を訪れ、そこに横たわる友人の亡骸を見て、いったい人は何のためな生きているのだろうと、考えさせられました。その時主はみことばを通してこのように語りかけてくださいました。 「人は、たとえ全世界を得ても、まことのいのちを損じたら何の得があるでしょう。」  それで私はなくなる食物のためにではなく、なくならない食物のために働きたいと主のために働くことを決心したのですが、でも、現実的にはこの日本の社会で伝道者として立っていくことは困難なように感じました。しかし、そのような時に主はこのみことばをもって励ましてくださったのです。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても、悪くてもしっかりやりなさい。」時が良くても悪くても、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たすように・・と。

みなさん、今は良い時でしょうか、それとも悪い時でしょうか。良い時もあれば、悪い時もありますね。どちらかというと悪い時かもしれません。パウロがここで言っているように、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分に都合の良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを変え、自分たちのために寄せ集め、真理から耳を背け、空想話にそれて行くような時代だからです。パウロはこういう時代になるということを、この時からちゃんとわかっていました。というのは、昔も今も本質は変わらないからです。どちらかというとその傾向が強くなっているということです。しかし、たとえ時が悪くても、みことばを宣べ伝えなければなりません。困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たさなければならないのです。だれも信じないからだめだと悲観するのではなく、神の約束に信頼しても、みことばを宣べ伝えなければなりません。それが私たちに求められていることです。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなければならないのです。そうすれば、主が働いてくださいます。私たちに求められていることは、この「見張り人」としての使命を果たすことなのです。見張り人として神の警告を発しなければなりません。黙ってはなりません。この町にはわたしの民がたくさんいる、と主は言われます。そう言われる主のみことばを信じて、みことばを宣べ伝えなければなりません。黙っていてはいけないのです。なぜなら、神はあなたのために黙っていないからです。キリストはあなたのために、いのちを捨ててくださいました。そして、今もあなたのためにとりなしておられるからです。そうであるなら、私たちもキリストのように人々のためにとりなす者でなければなりません。エルサレムのために祈らなければならないのです。

Ⅲ.あなたの救いが来る(10-12)

最後に、10節から12節まで見たいと思います。10節には、「通れ、通れ、城門を。この民の道を整え、盛り上げ、土を盛り上げ、大路を造れ。石を取り除いて国々の民の上に旗を揚げよ。」とあります。なぜなら、あなたの救いが来るからです。

11節をご覧ください。 「見よ。主は、地の果てまで聞こえるように仰せられた。「シオンの娘に言え。『見よ。あなたの救いが来る。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある』と。」  主は地の果てのすべての人に聞こえるように、大声で呼び掛けておられます。

これは黙示録22章12節にも引用されているみことばでもあります。やがて世の終わりになると、イエス・キリストがさばき主としてやって来られます。その時、主はそれぞれのしたわざに応じて報いてくださるのです。あなたの救いがやってきます。それがもうすぐ完成するのです。

12節を見てください。ここには、また新しい名前で呼ばれると言われています。そのとき彼らは、「聖なる民」、「主に贖われた者」と呼ばれるようになります。「尋ね求められる者」とか、「見捨てられない町」と呼ばれるようになるのです。これまでは、そうではありませんでした。これまでは見捨てられ、荒れ果てていました。しかし、やがてイエス・キリストが来られるとき、あなたは聖なる民、主に贖われた者、見捨てられない町と呼ばれるようになるのです。なぜなら、あなたはイエス・キリストによって贖われた者だからです。イエス・キリストにあるという、たったこれだけのことで、神のものとされたからです。あなたに何か得があったからではありません。あなたが何かすばらしい、特別なことをしたからでもないのです。ただあなたが神を信じ、キリストによって罪贖われて神の子どもとされたので、あなたは特別の存在となったからです。あなたは神にとって喜ばれる存在であり、目の中に入れても痛くないほど尊い者となったのです。それは一方的な神の恵みによるのであって、あなたはそれをもうすぐ受け取る日がやって来るのです。あなたは救い主によってその報いを受け取ります。見よ。あなたの救いがもうすぐ来るのです。あなたはこのことを地の果てまで聞こえるように叫ばなければならないのです。

あなたが今、ここにいるのはそのためです。あなたはこのすばらしい喜びの知らせを宣べ伝えるために、ここに置かれているのです。それまで荒廃していた生涯が神のあわれみによって、そのひとり子が十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたという事実を信じることによって救われ、見捨てられない町と呼ばれるようになるというすばらしい知らせを伝えるために、ここに置かれているのです。

神のみこころは、ひとりも滅びることなく、すべての人が救われて真理を知るようになることです。この救いの知らせを、ひとりでも多く人に伝えようではありませんか。主が地の果てにまで聞こえるように叫ばれたように、私たちもこの救いのことばを大きな声で叫ぼうではありませんか。

 

レビ記22章

レビ記22章

きょうはレビ記22章から学びます。21章では神に祭司に対して汚れから遠ざかるようにと教えられていましたが、きょうのところはその続きです。ここには祭司が汚れたままでささげ物に近づいてはならないことが教えられています。まず1~9節までを読みましょう。

1..聖なるささげ物(1-9)

「ついではモーセに告げて仰せられた。「アロンとその子らに告げよ。イスラエル人の聖なるものは、わたしのために聖別しなければならない。彼らはわたしの聖なる名を汚してはならない。それは彼らがわたしのために、聖なるもとのすべきものである。わたしはである。彼らに言え。代々にわたり、あなたがたの子孫のだれかが、イスラエル人がのために聖別した聖なるものに汚れたままで近づくなら、その者は、わたしの前から断ち切られる。わたしはである。アロンの子孫のうち、ツァラアトの者、または漏出のある者はだれでも、きよくなるまで聖なるものを食べてはならない。また、死体によって汚されたものに触れる者、精を漏らす者、あるいはすべて人を汚す、群生するものに触れる者、または、どのような汚れでも、人を汚れさせる人間に触れる者、このようなものに触れる者は、夕方まで汚れる。その者は、からだに水を浴びずに、聖なるものを食べてはならない。ただし、日が沈めば、彼はきよくなり、その後、聖なるものを食べることができる。それは彼の食物だからである。自然に死んだものや、野獣に裂き殺されたものを食べて、汚れてはならない。わたしはである。彼らがわたしの戒めを守るなら、彼らが、これを汚し、そのために罪を負って、死ぬことはない。わたしは彼らを聖別するである。」

21章に続きアロンとその子ら、すなわち祭司たちに語られています。先週もお話したように、この祭司というのは私たちクリスチャンのことでもあります(Ⅰペテロ2:9)。その祭司に対してどんなことが言われているでしょうか。2節には、「イスラエル人の聖なるものは、わたしのために聖別しなければならない。彼らはわたしの聖なる名を汚してはならない。」とあります。どういうことですか?祭司が汚れたままでささげ物に近づいてはならないというのです。具体的には3節の内容です。汚れたままで聖なるものに近づいてはならないということです。「聖なるもの」とは、主にささげられた聖なるささげもののことです。そのささげものに汚れたまま近づいてはいれないということです。その汚れとは具体的にどのようなものなのかが4節~8節にあります。すなわち、ツァラートの者、漏出のある者、死体によって汚された者に触れる者、精を漏らす者、人を汚す、群生するものに触れる者、どのようなものでも、人を汚れさせる人にふれる者です。覚えていますか、ツァラートや漏出のある者は隔離され、宿営の中に入ることができませんでした。祭司がツァラートにかかったり、漏出を持ったりすることがあります。そのとき、彼は汚れているので、ささげ物の分け前をもらうことができませんでした。そのようなものに触れる者は、夕方まで汚れるとされていたからです。そのような者は、からだに水をあびなければなりませんでした。水をあびてきめられた後で食べることができたのです。

しかし、日が沈めば、彼はきよくなり、聖なるものを食べることができました。つまり、次の日には食べることができたということです。どういうことでしょうか。私たちは、この祭司たちと同じように、日々きよめられる必要があるということです。日常生活を歩んでいくなかで、汚れたものにふれてしまうことがあります。というか、そういうことは日常茶飯事です。世の汚れにふれてしまうことがよくあるのです。すなわち、汚れた思い、陰口、うわさ話、嘘、偽り、無神経な態度等、そういうことは日常茶飯事に行なわれていて、それに振り回されたり、影響されてしまう場合があるのです。そういうものが私たちの中にこと頭の中に入ってくるのです。そのような汚れを、その日のうちにきよめていただかなければなりません。次の日にまで持ち越してはならないのです。神は一日という単位を大切にしておられます。その日の汚れをその日のうちにきよめていただき、次の日には新しい一日を始めなければなりません。

エペソ4:26には、「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけまん。」とあります。どういう意味でしょうか。怒りという感情は神が人間に与えてくださったものですからある意味で自然なものですが、それをいつまでも正当化していると悪魔に機会を与えてしまうことになるということです。人の怒りは神の義を全うするものではありません(ヤコブ1:20)。ですから、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなければなりません。そうした汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植え付けられたみことばをすなおに受け入れるようにしなければならないのです。だから、日が暮れるまで行き取っていてはならないのです。憤ることもありますが、それをその日のうちに解決しなければなりません。怒りは神の義を全うしないからです。

怒りは火山のマグマのようなものです。それは意識しなくても表に現わさなくても心の内の深いところに燃えたぎっています。機会があれば大爆発しますが普段からふつふつと火の玉となって不平不満となって周りに当たり散らしています。ですからいつも心の内を神様に探って頂きマグマを取り除かないと、いつか、突然にして大爆発してしまうことがあるのです。ついつい不平不満を周りに愚痴っていたり、当たり散らしたりして、トラブルメーカーのような人もいますが、あなたが気に入らないそのような人も、あなたが苦手な人も神様の造られた愛する人達なのです。互いに赦し合わなければなりません。マグマを取り除いて隣人を愛する事は自分の力や努力では出来ませんが、それができるようにと、キリストが十字架にかかって死んでくださいました。キリストが十字架につけられたのは、敵意を廃棄して、平和をもたらすためです。

「実にキリストは私達の平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意と言う隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。」エペ2:14。

ですから、私たちはこの方にあって自分が赦され、他の人も赦すことができます。その日のうちに怒りや憤りといったあらゆる悪を捨て去ることができるのです

そのような汚れを、次の日にまで持ち越すことはよくありません。一日の終わりに、神のみことばを読み、罪を告白してきよめていただき、次の日を出発させなければなりません。そうしなければ、ここで書かれているとおり、神のパンを食べることができない、つまりイエスさまとの交わりを持つことができなくなってしまいます。もちろん、私たちは、罪に定められることはありません。神の前に、キリストにあってきよく、傷のない者とされました。けれども、主との交わりがでできなくなってしまう、そのことによってもたらされる喜びを持つことができなくなってしまうのです。ですから、日々きよめていただく必要があるのです。

そうすれば、罪を負って死ぬことはありません。逆に罪の中で生き続けるなら、死ぬ可能性があります。これはクリスチャンへの警告でしょう。罪の中で生き続けるようなことがあれば、死んでしまうこともあるのです。クリスチャンであるということは、日々のきよめがある人であり、ないのであれば、その人はもはやクリスチャンとは呼ばれなくなってしまうこともあるのです。キリスト教信仰の本質は、この悔い改めにあるというのはそういうことです。どんなに罪深い者でもその罪を悔い改めるなら主は赦してくださいますが、自分がきよめられたと過信して悔い改めることをしないなら、死んでしまうこともあるのです。

2.一般の者は食べてはならない(10-16)

次に、10~16節までをご覧ください。

「一般の者はだれも聖なるものを食べてはならない。祭司と同居している者や雇い人は、聖なるものを食べてはならない。祭司に金で買われた者は、これを食べることができる。また、その家で生まれたしもべも、祭司のパンを食べることができる。祭司の娘が一般の人と結婚したなら、彼女は聖なる奉納物を食べてはならない。祭司の娘がやもめ、あるいは離縁された者となり、子どももなく、娘のときのように再びその父の家に戻っていれば、その父の食物を食べることができる。しかし、一般の者はだれも、それを食べてはならない。だれかが、あやまって聖なるものを食べるなら、それにその五分の一を足して、その聖なるものを祭司に渡す。イスラエル人に、そのに奉納する聖なるものを汚し、聖なるものを食べて、その罪過の咎を負うようにさせてはならない。わたしは彼らを聖別するだからである。」

これはどういうことでしょうか。祭司に分けられたささげものの肉やパン、穀物といったものを、一般の者はだれも食べてはいけませんでした。祭司と同居している雇い人もです。しかし、祭司に金で買われた者、つまり奴隷は食べることができました。また、その家で生まれたしもべも、食べることができました。

これは、キリストにある神の祭司にならないかぎり、ささげものを食することはできないということです。それは神との交わりを表していますので、キリストを信じて祭司にならなければ、神との交わりを楽しむことはできない、ということです。クリスチャンらしく、ふるまうことはできるでしょう。けれども、同居しているだけでは食べることができないのです。しかし、金で買われた人(奴隷)は食べることができました。彼は贖われたからです。私たちは買い取られることによって、主との交わりにあずかることができるのです。自分がどんなにみじめで、神の祝福にあずかるには到底できないような存在であっても、主イエス・キリストが流された血の代価を受け入れるならば、その交わりにあずかることができるのです。それは私たちが一生懸命にきよい生き方をしてもかなわないことですが、キリストの血潮によって買い取られた、と信じるなら食べることができるのです。そして、自分はもはや神のものであり、自分自身のものではない、と信じることによって、神の祝福のすべてを受け取ることができるのです。

祭司の娘でも、一般の人と結婚したら、聖なる物は食べることはできません。これはどういうことかというと、祭司以外の人との結婚、すなわち、異邦人と結婚することを指しています。それは神が忌み嫌われることです。神の祭司に求められていることは聖であること、すなわち、この世と分離することですから、それがなされなければ神の祭司ではなくなってしまうのです。その結果、神との交わり、キリストのいのちにあずかることができなくなってしまうのです。しかし、離婚されて、子どもがいなければ、父の家に戻ることができます。一般の人との交わりから解かれるからです。それは汚れからの解放を意味していました。

しかし、一般の人はだれも、それを食べてはいけませんでした。もしだれかが、あやまって食べてしまったらどうなるでしょうか。それに五分の一をプラスして祭司に渡さなければなりませんでした。あやまってだれかに害を与えてしまったとき、それに等しい償いをすればよいというのではなく、それに五分一をプラスしなければなりません。それは物理的な被害以上に、大きな損傷を与えてしまったからです。その償いとして、害を与えた額よりも、さらに五分の一を加えられた額で償わなければならなかったのです。

3.主へのささげもの(17~25)

次に17~25節までをご覧ください。

「ついではモーセに告げて仰せられた。「アロンとその子ら、またすべてのイスラエル人に告げて言え。だれでも、イスラエルの家の者、またはイスラエルにいる在留異国人がささげ物をささげ、誓願のささげ物、あるいは進んでささげるささげ物として、全焼のいけにえをにささげるなら、あなたがたが受け入れられるためには、それは牛、羊、あるいはやぎのうちの傷のない雄でなければならない。欠陥のあるものは、いっさいささげてはならない。それはあなたがたのために受け入れないからである。また、人が特別の誓願を果たすため、あるいは進んでささげるささげ物として、牛か羊の中から和解のいけにえをにささげるときは、それが受け入れられるためには傷のないものでなければならない。それにはどのような欠陥もあってはならない。盲目のもの、折れたところのあるもの、傷のあるもの、あるいは、うみの出るもの、湿疹のあるもの、かさぶたのあるもの、あなたがたはこれらのものをにささげてはならない。また、これらのものをへの火によるささげ物として祭壇の上にささげてはならない。牛や羊で、足が伸びすぎているか、またはなえ縮んだものは、進んでささげるささげ物とすることはできるが、誓願のささげ物としては受け入れられない。あなたがたは、こうがんの押しつぶされたもの、砕かれたもの、裂かれたもの、切り取られたものをにささげてはならない。あなたがたの地でそのようなことをしてはならない。また、あなたがたは、外国人の手から何かこのようなものを受けて、あなたがたの神のパンとしてささげてはならない。これらのものはそこなわれており、欠陥があるから、あなたがたのために受け入れられない。」

ここで再び祭司からすべてのイスラエル人に対して語られます。イスラエルの家の者、またはイスラエルにいる在留異国人が主にささげものをささげる時に、主が受け入れられるためにはどうしなければならないかについてです。そして、それが全焼のいけにえの場合、牛、羊、あるいはやぎのうちの傷のない雄でなければなりませんでした。欠陥のあるものは、いっさいささげてはならなかったのです。それは、ささげ物も、神ご自身を現わしていたからです。あるいは、神への供え物であるイエス・キリストを表していたからです。完全な方には、完全ないけにえが要求されるのです。それは和解のいけにえも同じです(21)。

私たちは、神に受け入れられるためにあらゆる努力をします。しかし、それらがみな不完全であることは百も承知です。私たちは、完全な方には、完全ないけにえをささげなければなりません。つまり、イエス・キリストにつながれた自分を見ること以外に、神に受け入れられることはできないのです。キリストに結びつけられた自分を主の御前にささげるときに、初めて主は、私たちを受け入れてくださるのです。主の御前に、ありのままの自分で出てきてください。これが、本当の献身です。

2 5節には、何かこのようなものを受けて、神のパンとしてささげてはならない、「何かこのようなものを受けて」とは、欠陥のあるものを受けてということです。外国人は、イスラエル人に与えられた律法など知りませんから、平気で欠陥のある動物をささげてしまう危険性がありました。相手は善意でしてくれること、与えてくれるものがありますが、私たちは、それをそのまま受け入れることはできないのです。

4.主への感謝のいけにえ(26~33)

最後に26~33節までをご覧ください。

「ついではモーセに告げて仰せられた。「牛か羊かやぎが生まれたときは、七日間、その母親といっしょにしておく。八日目以後、それはへの火によるささげ物として受け入れられる。しかし、牛でも、羊でも、それをその子と同じ日にほふってはならない。に感謝のいけにえをささげるときは、あなたがたが受け入れられるように、それをささげなければならない。その同じ日にこれを食べ、朝までそれを残しておいてはならない。わたしはである。あなたがたは、わたしの命令を守り、これを行え。わたしはである。わたしの聖なる名を汚してはならない。むしろわたしはイスラエル人のうちで聖とされなければならない。わたしはあなたがたを聖別したである。あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から連れ出した者、わたしは、で ある。」

ここには、牛か羊かやぎが生まれたときは、七日間、その母親といっしょにしておかなければならない、とあります。八日目以後、それらは主への火によるささげ物として受け入れました。なぜでしょうか?それは、この赤ん坊が乳離れをするためです。母親から赤ん坊を奪い取るようなことはしていけません。神は、動物にさえ、あわれみを示しておられるのです。私たちの生きている世界は、合理化、効率化が進んで、このように弱いものに対する配慮を無視して、突き進んでいます。この前の学びでもそうですが、貧しい者たちをしいたげる者は、格別のさばきを受けます。今の日本は、そのような社会ではないでしょうか。

28節には、「しかし、牛でも、羊でも、それをその子と同じ日にほふってはならない。」とあります。ここにも、神の動物にたいするあわれみがあります。母親と同じ日にほふってはいけません。そんなことをしたら母親がどんなに悲しむことでしょう。

29節には、主に感謝のいけにえをささげるときは、どのようにささげなければならないかが語られています。それは「あなたがたが受け入れられるように」です。これは「自ら進んで」と訳すことができます。つまり、感謝のいけにえをささげるときには、自ら進んでささげなければならないということです。そうでなければ感謝になりません。

パウロも献金の教えの中で、「いやいやながらでなく、人から強いられてでもなく、自分で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」(Ⅱコリント9:7)と言いました。だれから強いられたり、いやいやながらするのではなく、心で決めたとおりに、喜んでささげる。そのようないけにえこそ主に喜ばれるいけにえなのです。

「その同じ日にこれを食べ、朝までそれを残しておいてはならない。わたしは主である。」

朝まで残すのは、次の日に食べ物がなくなるのでは、と思い煩うからです。けれども、こういうものはみな、異邦人が求めているものです。けれども、私たちの天の父は、それが私たちに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とを第一に求めなければなりません。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。私たちは、その日その日に与えられるマナで養われなければなりません。焦って明日の分も集める必要はありません。必要であれば神が二倍の祝福を与えてくださいます。そうでないと、せっかく集めたものも腐ってしまいます。心配や思い煩いも私たちの心を汚しますね。私たちは日々、主に拠り頼み、主から新しい力、恵み、あわれみを受けなければならないのです。

そして31節から33節にこうあります。

「あなたがたは、わたしの命令を守り、これを行え。わたしはである。わたしの聖なる名を汚してはならない。むしろわたしはイスラエル人のうちで聖とされなければならない。わたしはあなたがたを聖別したである。あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から連れ出した者、わたしは、である。」

ここには、私たちがなぜ、聖なる歩みをしなければならないのかの理由が記されてあります。それは主が私たちを聖別してくださったからです。主は私たちを罪のエジプトから連れ出してくださいました。ですから、私たちは私たちを罪から救い出してくださった方にならって聖でなければならないのです。私たちは贖われた者、自分が神のものである、という意識を持っていることが、こうした聖なる歩みを行う原動力となるのです。

Isaiah61:1-11 “Rejoice in the Lord”

Last week I gave a message entitled ““Arise, Shine”from Isaiah chapter 60. “For your light has come, and the glory of the LORD rises upon you.” (1) Zion who had repented of her sin and had received the Lord’s redemption became brightly shinning as a light to the nations.

This chapter 61 is this continuation, but it is more than a continuation. It is about how the redeemed will receive enormous blessings. Their sadness that they have had up until now will be changed to joy and their mourning to praise. Therefore, no matter what situation we are in we can rejoice in the Lord.

 

  1. From sadness to joy (Vs. 1-3)

First let’s look at verses 1 to 3. “The Spirit of the Sovereign LORD is on me,

because the LORD has anointed me

to proclaim good news to the poor.

He has sent me to bind up the brokenhearted,

to proclaim freedom for the captives

and release from darkness for the prisoners,

to proclaim the year of the LORD’s favor

and the day of vengeance of our God,

to comfort all who mourn,

and provide for those who grieve in Zion-

to bestow on them a crown of beauty

instead of ashes,

the oil of joy

instead of mourning,

and a garment of praise

instead of a spirit of despair.

They will be oaks of righteousness,

a planting of the LORD

for the display of his splendor.”

Here it says, “The Spirit of the Sovereign LORD is on me.” (1) This “me” (1) is “the Lord’s servant” who in Isaiah has been shown continually. He was chosen to execute God’s commission. However, here “The Spirit of the Sovereign LORD is on” (1) him “because the LORD has anointed” (1) him “to proclaim good news to the poor,” (1) and “to bind up the brokenhearted.”(1) He will free the captives, and release the prisoners. He will “proclaim the year of the LORD’s favor and the day of vengeance of our God.” (2) He will “comfort all who mourn.” (2) If you read this far, I think you realized this is talking about the Savior, the Lord Jesus Christ who will be sent by God in the course of time. The word, “anointed” (1) is in Hebrew Messiah, which is the Savior.  In other words, this is a prophesizing about the Savior, Jesus, who will save mankind from sin.

Please open your Bibles to Luke 4:18, 19. Jesus quotes this passage here.  This is a record of Jesus’ first sermon. On the Sabbath he went to Nazareth where he was brought up at and went into the Synagogue there, and read the Bible. He was handed the book of Isaiah so Jesus opened the book and read it.  He read Isaiah 61:1, 2. “The Spirit of the Sovereign LORD is on me, because he has anointed me to proclaim good news to the poor. He has sent me to proclaim freedom for the prisoners, and recovery of sight for the blind, to set the oppressed free, to proclaim the year of the LORD’s favor.” (Luke 4:18-19)

After reading the passage, Jesus handed the scroll to the attendant. The people who were there fastened their eyes on Jesus. Then Jesus turned to the people and said in verse 21, “Today this scripture is fulfilled in your hearing.”

Then the people praised Jesus and were amazed at the words of grace that came from his mouth. Jesus proclaimed that he was the Savior that Isaiah had prophesized about. “Christ” in Greek means “the anointed one” In other words, Jesus Christ means “the anointed Jesus”. Jesus is really the anointed Savior. God sent Jesus as Messiah to this world.

However, if you look at this passage Jesus quoted Isaiah 61 verse 1 to the middle of verse 2. He finished with “to proclaim the year of the LORD’s favor.” (Luke 4:19) The passage continues, but he finished with “to proclaim the year of the LORD’s favor.” (Luke 4:19) That is because until there is the purpose of the Savior, Jesus’, first coming. That latter part will be fulfilled at Christ’s second coming. At that time Christ will come as the Lord of judgment, but before that he will come as the Savior. It is that prophecy. As the prophecy says, Christ came about 2000 years from now as Savior to this world. He proclaimed good news, the Gospel, to the poor. He healed the brokenhearted. He came to proclaim freedom for those captive to sin and to release those who were prisoners to darkness.

Certainly good news was proclaimed to the poor. Jesus said, “Blessed are the poor in spirit for the kingdom of shall be theirs.”  People with a thirsty spirit are really blessed. That is because such a person seeks God and believes God’s Word. All men build values and thinking based upon their experience. That becomes their rule for living.  Whatever matches it, they accept, but what doesn’t match it they refuse. The older a person becomes the more this tendency increases. However, when such people’s values are shattered, then their heart is opened. It is easier for such people to accept God. That is because they have become poor in spirit.  Things like bankruptcy, sickness, disasters, death in the family, etc. are all things that are turning points for values to change.  To such people the good news will be proclaimed.  Jesus said, “It is not the healthy who need a doctor, but the sick.  I have not come to call the righteousness, but the sick.” (Mark 2:17) This is the meaning. It is like a sick person. If he isn’t humble enough to receive medical treatment, then he won’t be saved.  A person that is fully immersed in his own thinking and values no matter how much he hears the wonderful news, he won’t be saved.

There is a joke. A person who was sightseeing in Canada saw an old man fishing at a lake. However, it was strange but the old man caught a huge fish, but he let it go and only put small fish the size of his hand in the bucket. The person who was sightseeing asked, “Why did you let the huge fish go?” The old man answered, “My frying pan is 25 cm. Therefore, a bigger fish won’t fit in it.”  That’s why the old man was letting the big fish go.

We too do things like this old man.  We throw out anything that doesn’t stay within our world view. We only accept what agrees with our own thinking.  Without realizing it we set our heart on own thinking making it absolute. We won’t accept anything else and judge things that are different from our own thinking.  That is what the scholars of the law and Pharisees of that time were like. They thought they were correct so they weren’t able to accept Jesus. They saw what Jesus was doing and they complained saying, “Oh no, he’s eating with sinners!” “He’s not following the religious traditions!” About such people Jesus said, “You brood of vipers!” (Matt. 23:33)

Here it says, “to bind up the brokenhearted”. (1) Are we binding up the brokenhearted? Jesus said, “Come to me all who are weary and I will give you rest.” Like this Jesus invites the brokenhearted to come and he will heal them.

Then is “to proclaim freedom for the captives

and release from darkness for the prisoners,

to proclaim the year of the LORD’s favor.” (1) “The year of the LORD’s favor” (1) is the “Year of Jubilee” that is in Lev. 25. The “Year of Jubilee” came every 50th year and was a year of being set free. At that time various debts were cleared.  Also the slaves who had been sold were set free and they were able to return to their homes. In short, this was massive liberation by grace.  This means that in the course of time the

Savior will come to this world and by this Savior he will bring freedom from sin. God’s people who have committed uncountable amounts of sin will be set free by their Lord. It is a pattern of the age of salvation when sin will not be accused.

 

Jesus came to proclaim the year of the LORD’s favor.” (1)  There will be massive liberation from spiritual problems, psychological problems, financial problems, and from all problems.  Therefore, when Jesus comes, many people will be encouraged by the words of grace that come from his mouth.  The blind will see, the lame will be healed and the dead will rise. Those who are demonized will be set free, and people captivated by various problems will be liberated. That’s not all. A time will come when those people who have sinned and as a result are captive to death will be forgiven.

Our mankind’s last enemy is death.  Death came as a result of sin. There is no one that can overcome death.  It is even said that mankind is the slave of death.  The famous Martin Hemmingway said, “All of mankind is a being shut in by death.” We became slaves for such a thing and in the end man gave up and yields to death. However, for us Jesus came, and took upon himself all of our sin and died in our place on the cross.  That is not all. Three days later he rose again. By the power of the resurrection like blasting death overcame it.  He came to make the “Year of Jubilee”, a perfect liberation, a reality and to proclaim it. What amazing grace! Like this he will “comfort all who mourn.” (2)

“and provide for those who grieve in Zion-

to bestow on them a crown of beauty                                                                                 instead of ashes,

the oil of joy                                                                                                                        instead of mourning,

and a garment of praise

instead of a spirit of despair.” (3)

“Those who grieve in Zion” (3) will be given “a crown of beauty.” (3) “Ashes” are a symbol of mourning and lamenting. When Israel was suffering in sorrow they covered themselves with ashes. For example, when David’s sister Tamar was raped by Amnon, her brother, (David was the father of both Tamar and Amnon, but they had different mothers.) “Tamar put ashes on her head and tore the ornamented robe she wearing” (II Samuel 13:19) that only “virgin daughters of the king wore.” (II Samuel 13:18) Then “she put her hand on her head and went away, weeping aloud as she went.” (II Samuel 13:19) That was the height of sorrow, an expression of the extremity of sorrow. However, by Christ when we are liberated from our sin, “instead of ashes (3) we will receive a crown on our heads. A crown on the head is a symbol of celebration. Christ will change  sorrows into blessing.

 

 

Also it says, “the oil of joy instead of mourning.” (3) This is a symbol of blessing. Oil is poured out when the king is ordained. Anointing of oil was also common on joyous occasions. It was also customary to anoint the heads of the guests at banquets. The oil of mourning will be changed into the oil of joy and blessings. The Savior, Jesus, will change your sorrows to joy.

As it says, “a garment of praise instead of a spirit of despair.” (3) “A spirit of despair” (3) is also changed into praise.

The result is “they will be called oaks of righteousness.” (3) Oaks are strong, hard, magnificent trees. They have very green leaves that are full of vital energy. They will become like such oak trees. An oak tree is an oak tree, but in 1:30 there is also “an oak with fading leaves.” Those who are separated from God and are living their own life are like “an oak with fading leaves.” (1:30) However, those who by the Savior, Christ, have been redeemed of their sin, and have been set free from their sin can live a life like a righteous oak tree.

 

II.          You will be called priests of the Lord (Vs. 4-9)

Next please look at verses 4 to 9. First I will read verses 4 to 6. “They will rebuild the ancient ruins and restore the places long devastated; they will renew the ruined cities that have been devastated for generations. Aliens will shepherd your flocks; foreigners will work your fields and vineyards. And you will be called priests of the LORD, you will be named ministers of our God. You will feed on the wealth of nations, and in their riches you will boast.” (4-6)

“They” (4) are the people that by God’s Christ have been redeemed of their sin. “They will rebuild the ancient ruins” (4) of Jerusalem and the temple and “renew the ruined cities.” (4) Aliens will shepherd their flocks; foreigners will work their fields and vineyards. Until then it will not be like this. Until then the aliens will torment Israel. Such aliens will shepherd their flocks; foreigners will work their fields and vineyards.

However, you will have a different responsibility.  What you will do is the work of the priests, you will minister and “you will feed on the wealth of the nations, and in their riches you will boast.” (6) “You” (6) are God’s redeemed, Zion. Zion will become the Lord’s priest, and “will be named ministers of our God.” (6) They will receive the wealth and glory of the nations.

This is an awesome blessing. Priests intercede to God for the people. Also they give God’s grace and blessings to the people. “You will be called priests of the LORD.” (6)

For example, Abraham prayed to God for Abimelech king of Gerar and his family. Also Jacob blessed the Egyptian Pharaoh . This means that their positions have been reversed. Usually the person of higher standing blesses the person of lower standing.  However, the lower person is blessing the higher person. This means that God gave Abraham and Jacob a position and authority surpassing the other kings of the earth. Therefore, to be a priest of God is a very glorious. “You will be called priests of the LORD.” (6) Us Christians are promised that we have been given this position. “You are a chosen people, a royal priesthood, a holy nation, a people belonging to God.” (I Peter 2:9)

“You” (I Peter 2:9) are Christians We “are a chosen people, a royal priesthood, a holy nation, a people belonging to God.” (I Peter 2:9) so that we “may declare the praises of him who called you out of darkness into his wonderful light.” (I Peter 2:9)

That’s not all. Please look at verse 7. “Instead of their shame

my people will receive a double portion,

and instead of disgrace

they will rejoice in their inheritance;

and so they will inherit a double

portion in their land,

and everlasting joy will be theirs.”

“My people will receive a double portion, and instead of disgrace…they will inherit a double portion.” (7) This “double portion” (7) more than being exactly as the words say a double portion, it is better to think of it as a symbolical figure. It means that they will be abundantly blessed.  In the Old Testament law too, a thief “must pay back double” (Exodus 22:4) for what he has stolen. It is to pay back double.  Israel was always being plundered, but a time will come when they will be properly paid back. Let’s look forward to the things that we have lost being paid back in double portion.  What has been taken away from you?  You may have had various things like your time, your effort, your money, your possessions stolen or you may have had bad times, but God will pay you back double.

Then verse 8 says, “For I, the LORD, love justice:

I hate robbery and iniquity.

In my faithfulness I will reward them

And make an everlasting covenant with them.”

“I, the LORD” (8) loves justice. “Justice” (8) is to act properly in accordance with the law.  It is to obey and behave properly according to the Bible.  It is to love God. Therefore, we too must obey the Bible. We must do what pleases God. There may be few, just a handful of people that do so.  It may be in the minority to live for God. Most people may think that the Bible is not important and they live by their own thinking, “but as for me and my household, we will serve the LORD.” (Joshua 24:15) We just walk on the road that the Lord shows.  That is because the Lord loves justice. People may criticize you.  People may give you a bad time. However, even so we walk the road that the Lord shows. That’s because the Lord loves justice. Such a person is blessed. Such a person is like verse 9 says blessed eternally into the following generations.

 

III.         Rejoice in the Lord (Vs. 10,11)

Therefore, the conclusion is to rejoice in the Lord.  Please look at verses 10 and 11.  “I delight greatly in the LORD;

my soul rejoices in my God.

For he has clothed me with garments of salvation

and arrayed me in a robe of righteousness,

as a bridegroom adorns his head like a priest

and as a bride adorns herself with her jewels,

For as the soil makes the sprout come up

and a garden causes seeds to grow,

so the Sovereign LORD will make righteousness and praise

spring up before all nations.”

”I” of verse 10 if you look at the context from verse 1 you will see that this is the Messiah. It is said to refer to the Savior, Jesus Christ.

Therefore, Jesus delights “greatly in the LORD.” (10) Jesus’ soul too rejoices in the Father, God. The Lord clothed Jesus “with garments of salvation and arrayed” (10) him “in a robe of righteousness, as a bridegroom adorns his head like a priest and as a bride adorns herself with her jewels.” (10) This doesn’t mean that Jesus needed salvation. This means that Jesus comes with salvation clothes. He comes arrayed “in a robe of righteousness, as a bridegroom adorns his head like a priest and as a bride adorns herself with her jewels.” (10)

This is not just Jesus. We who believe in Jesus and are a part of Jesus too can take part in the same blessings as Jesus. “We are heirs-heirs of God and co-heirs with Christ.” (Romans 8:17) When Jesus is blessed, we are blessed too. We share Jesus’ glory.

We are “co-heirs with Christ.” (Romans 8:17) That is because we are “co-heirs with Christ.” (Romans 8:17) so we can receive God’s blessings together with Christ.  Such blessings are promised to us.  In the Millennium we will rule this earth with Jesus. What a wonderful promise! We are really weak, lacking much, but even so just like Jesus who by the Lord delights “greatly in the LORD.” (10) and rejoices, we too can “delight greatly in the Lord” (10) and rejoice in the Lord.

“I consider that our present sufferings are not worth comparing with the glory that will be revealed in us.” (Romans 8:18)

 

We are promised such glory. Our present life has difficulties all the time. Every one has various concerns and struggles. There are deep societal problems too, financial problems, the education of children, taking care of parents, they are all difficult things However, we have been given a certain hope. Good news will be preached to the poor and the brokenhearted will be healed.  The captives will be set free and the prisoners released from darkness. The year of the Lord’s favor will be proclaimed. All who mourn will be saved. Instead of sadness there will be joy and instead of mourning there will be praise. Even in the midst of this present life we can rejoice in Christ. We can be thankful. In the midst of the realities of difficulties, don’t forget the Lord’s grace and let’s praise and thank the Lord.

This is from the book, “A life of Thankfulness, 365 days”. A 15 year old girl made this kind of contribution to an American newspaper.

“I am unfortunate. I don’t have my own room. My parents won’t believe me and they strongly watch my every move.  I don’t have a boyfriend. I don’t have good looking clothes. My future is all black.”

A 13 year old girl who read this contribution wrote this article and sent it to the newspaper. “I can’t walk.  How great a blessing it is to be able to walk! I can’t walk, but I can see, hear and talk so instead of complaining about my misfortunate feet, I am thankful!”

This content makes us think. We quickly look at what is not in the world and wail, and complain, but we aren’t looking at how great the grace is that we have been given. God has given us salvation. He gave use a future hope and blessing too. What we must look at is the Lord who gave us salvation. We can “delight greatly in the LORD” (12) and rejoice in our God and praise him. This week too let’s look at the salvation that we have been given, and give praise and thankfulness to the Lord.

イザヤ61:1-11 レジュメ

「主によって喜ぶ」                  No.95

イザヤ書61:111

 Ⅰ.悲しみを喜びに(1-3) 

 主によって罪赦され、神の民とされた者にもたらされる祝福がどのようなものかが預言されている。「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年とわれわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの代わりに賛美の外套を着けさせるために。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。」(1-3)この「わたし」とは誰のことか?これはイエスのことである。ルカの福音書4章18-19節のところで、イエスは会堂でこの箇所をお読みになられ、「きょう、聖書のみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」(ルカ4:21)と宣言された。イエスこそ主に油そそがれた方であり、貧しい者に福音を伝え、心の傷ついた者をいやし、捕らわれ人には赦免を、囚人には釈放を告げ知らせるために神から遣わされた救い主だったのである。

しかし、ルカの福音書を見ると、イエスの宣言は「主の恵みの年を告げ知らせるために。」で切れていることがわかる。いたいこれはどういうことだろうか。実はイエスはここで最初の来臨と二度目の来臨を分けておられたのだ。最初の来臨はイエスが救い主として来られた時に成就したが、二度目は違う。二度目はさばき主として来られる時に成就する。イザヤはその両方を見て預言したが、イエスはその最初の来臨が成就したと告げたのである。今から二千年前に。確かにイエスが来られたとき貧しい人に福音が伝えられた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目が開かれることを告げられた。しいたげられていた人々は自由にされ、主の恵みの年が告げ知らされた。しかし、それだけではない。やがてイエスはさばき主として再臨され、神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、喜びの油を、賛美の外套を着けてくださる。その時イエスはすべての敵に復讐し、神の民シオンを慰めてくださる。今はいろいろなことで苦しまなければならないが、やがてこのような喜びがもたらされる。これは必ず実現することである。なぜなら、前半に書かれてあった預言もちゃんと実現したことを私たちは知っているからだ。だから、私たちはここに希望を置くことができる。ここに希望を置いて、神からの慰めを受けるものでありたい。

Ⅱ.主の祭司ととなえられる(4-9)

そればかりではない。6節には、「しかし、あなたがたは主の祭司ととなえられ、われわれの神に仕える者と呼ばれる。」とある。これはどういうことか。祭司とは民に代わって神にとりなしをする人のこと。立場の下にある者が上の人を祝福する。それは下の者が上の者に勝る特権が与えられていることを意味している。イスラエルはもともとその祭司として召されていた(出エジプト19:6)。にもかかわらず彼らはその召しに不忠実だった。それで神は彼らからその特権を取り上げ、それを異邦人へともたらされた。そのようにして私たち異邦人がイエス・キリストを通してこの祭司の王国に加えられ、聖なる国民、神の所有とされた。霊的イスラエルとなったのである(Iペテロ2:9)。しかし、それは神がイスラエルを捨てられたということではない。神の賜物と召命とは変わることはない(ローマ11:29)。一時的に救いが異邦人にもたらされたが、それはオリーブの木につぎ木されているだけのことであり、やがてイスラエルはみな救われる。それは彼らが再び神の祭司となるためである。イスラエルがどんなに神にかたくなになり、神に反逆したり、神のみこころにそむいても、神は決して彼らを捨てることはない。それは霊的イスラエルとなった神の民クリスチャンにも同じことがいえる。私たちも何度も神に敵対し、その召しに不忠実になることがあるが、一度神を信じ、イエス・キリストの救いにあずかったのならば、どんなことがあっても捨てられることはない。神はずっと私たちを愛し続け、必ず捕らえてくださる。あなたもやがて神の祭司と呼ばれるようになるのである。

Ⅲ.主によって喜ぶ(10-11)

だから、私たちに求められていることは、主によって喜ぶことである。「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。」(10)「わたし」とはイエスのこと。イエスは主によって楽しみ、イエスのたましいも、神よって喜ぶ。であれば、イエスによって救われ、イエスに連なる者とされた私たちも主によって喜び、楽しむことができる。私たちはキリストとの共同相続人であるからだ。イエスに対する栄光は私たちに対する栄光であり、イエスの祝福は私たちの祝福でもある。だから、私たちもこの主によって喜び、楽しむことができる。現実の日々の生活にはいろいろな困難もあるが、私たちもこの主によって喜び、楽しもう。私たちにもこのようなすばらしい祝福が約束されているのだから。

イザヤ書61章1~11節 「主によって喜ぶ」

前回は60章1節のみことばから、「起きよ。光を放て」というメッセージでした。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからです。罪を悔い改めて、主の贖いをいただいた神の民は、光輝く存在になって、周りの国々を照らすようにというのです。  この61章はその続きですが、続き以上です。そのように主に贖われた者はものずこい祝福を受けるようになることが語られます。それまでの悲しみが喜びに、憂いが賛美に変えられるのです。だから私たちはどんな状況にあっても、この主によって喜ぶことができるのです。

Ⅰ.悲しみが喜びに(1-3)

まず1~3節を見ていきましょう。 「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。」

ここに「神である主の霊が、わたしの上にある」とありまりますが、この「わたし」とは誰のことでしょうか。これはイザヤ書の中でずっと示されてきた「主のしもべ」のことです。この方は主の使命を遂行するために選ばれ、立てられた人物ですが、ここには、主によって油を注がれ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために遣わされる方だと言われています。この方は捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰めてくださいます。ここまで読むと、これが誰のことを指していたかがわかるでしょう。そうです、これはやがて神によって遣わされる救い主イエス・キリストのことです。この「油をそそぎ」という言葉はヘブル語で「メシヤ」と言いますが、「救い主」のことです。すなわち、これは人々を罪から救ってくださる救い主イエスのことを預言していたのです。

ルカの福音書4章18~19節を開いてください。この箇所がイエス様によって引用されています。イエス様はその宣教の初期、自分の育った町ナザレに行き、いつものとおりに会堂に入って、聖書を朗読されました。それはイザヤ書でしたが、当時は巻物になっていましたのでその巻物を開くと、こう書いてある所を見つけました。

「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」(ルカ4:18-19)

これはイザヤ書61章1,2節のみことばです。イエス様はこれを朗読されると巻物を巻き、係りの者に渡してすわられました。そこにいた人たちが固唾を呑んでイエスを見つめていると、イエスは人々に向かってこう言われたのです。

「きょう、聖書のみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」(21)

そこにいた人たちはみんなびっくりしたでしょう。イエス様は、このイザヤ書で預言されていた救い主はご自分のことであったと宣言されたのですから。イエスこそ油注がれた者、メシヤ、キリストだと宣言されたのですから。それで人々はみなイエスをほめ、その口から出てくる恵みのことばに驚きました。

しかしこのところを見ると、イエス様はイザヤ書61章1節と2節の途中までしか引用していないことがわかります。「主の恵みの年を告げ知らせるために。」で終わっています。本来なら「主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ・・」と続くはずなのに、「主の恵みの年を告げ知らせるために」で終わっているのです。なぜでしょうか。それはここまでが救い主イエスが最初に来られた目的であったからです。その後の「われわれの神の復讐を告げ、」という部分は、後で成就します。それはキリストが再臨するときに成就することなのです。そのときキリストはさばき主として再び来られます。しかし、その前にキリストは救い主として来られます。その預言だっのです。その預言のとおりに、キリストは今から約二千年前に救い主としてこの世に来られました。貧しい人には良い知らせ伝え、心の傷ついた者をいやし、捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げるために来られたのです。

皆さん、キリストは私たちを救うためにこの世に来られました。貧しい人に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、来てくださいました。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年を告げるために来てくださったのです。

皆さん、私たちは何と多くのものにとらわれながら生きていることでしょうか。私たちは、往々にして自分の欲望の赴くままに行動しています。それが自由だと錯覚しているからです。しかし、本当の自由とは自分の欲望のまま生きることではなく、自分の意志によって生き方を選択できることです。しかし、罪に捕らわれた者はそうした罪の誘惑を拒否しようとしてもできず、自分の意志によって選択することさえもできなくなってしまいました。

そんな罪に囚われたみじめな人間の姿を嘆いて、使徒パウロはこう告白しています。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(ローマ7:24,25)

それは本当にみじめな人間の姿です。それはまさに死のからだなのです。いったいだれが罪に囚われた死のからだから私たちを救うことができるのでしょうか。だれもいません。ただ神だけが、神が遣わされた救い主だけができます。それゆえに彼は、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」と言ったのです。

イエスはこう言われました。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:31)罪を行っている者はみな罪の奴隷です。しかし、真理はあなたがたを自由にします。「もしキリストがあなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」(ヨハネ8:36)キリストは、あなたを自由にすることができます。罪に囚われた状態から完全に解放することができるのです。

ドイツの哲学者マルティン・ハイデッガー(Martin Heidegger、1889年9月26日 – 1976年5月26日)は、「人間というのはみな死に閉じ込められいる存在だ」と言いました。死の奴隷になっているのが人間だというのです。そういうものの奴隷になつて、結局のところ死に服するのが人間だとあきらめていたわけですが、そういう私たちのために、イエス様は来られました。イエス様は、私たちの罪を全部背負って十字架について身代わりに死んでくださいました。それだけではありません。三日目によみがえられました。その復活の力をもって死を爆破するかのように征服されたのです。イエス様は「捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年」を告げるために来られたのです。

ここには「主の恵みの年」という言葉がありますが、これはレビ記25章にある「ヨベルの年」のことです。この「ヨベルの年」とは、五十年ごとにやってくる解放の年です。その時にはあらゆる借金が棒引きになりました。また、奴隷に売られていた人々は解放されて家に帰ることができました。要するにこれは恵みの大解放であったわけです。そういう時がやって来るとイザヤは預言したのです。それは何を意味していたのかというと、このことです。やがてこの世界に救い主が来られ、罪に囚われている私たち解放してくださるということの預言だったわけです。罪によって苦しんできたこの人類がその罪から解放され、その罪を問わないという救いの時代がやってくるということのひな型だったのです。

イエスは、この恵みの年を告げ知らせるために来られました。それは霊的な問題であれ、精神的な問題であれ、肉体的な問題であれ、経済的な問題であれ、すべての問題における大解放です。ですからイエス様がおいでになられた時、その口から出る恵みの言葉に多くの人々が慰められたのです。盲人には目が開かれることを、足のなえた人はいやされ、死人は生き返りました。悪霊に縛られていた人も解放され、さまざまな問題に捕らわれていた人が解放されました。それだけではありません。罪を犯して、その結果である死に捕らわれていた人が赦される時が来たのです。それが主の恵みの年です。何という恵みでしょう。まさにアメージング グレーズです。それは私たちの人生を一変させます。3節をご覧ください。

「シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。」

シオンの悲しむ者たちは、灰の代わりに頭の飾りを着けてもらえます。灰というのは悲しみや嘆きのシンボルです。イスラエルでは大きな悲しみを被ったときに灰をかぶりました。たとえば、ダビデの娘タマルが異母兄弟アムノンに辱められたとき、タマルは頭に灰をかぶり、着ていたそでつきの長服を裂き、手を頭に置いて、歩きながら声をあげて泣いた(Ⅱサムエル13:19)とあります。それは悲しみの極致、極みの表現だったからです。しかし、キリストによって罪から解放されると、灰の代わりに頭に飾りをつけてもらえるのです。頭の飾りはお祝いのシンボルです。キリストはあなたの悲しみを祝福に代えてくださるのです。

また、悲しみの代わりに喜びの油を、とあります。これは祝福のシンボルです。油は王としての任職される時に注がれました。それは元気な者としての身だしなみでもありました。ぱさぱさしていません。しっとりとして、つやつやしています。悲しみの油がそのような祝福の油に変えられるのです。救い主イエスは、あなたの悲しみを喜びに変えてくださるのです。

また、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである、とあります。 憂いの心も讃美に代わるのです。

その結果どうなるか?「彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。」とあります。皆さん、樫の木というのは堅くて立派な木です。一年中、常に緑の葉をつけ、生命力に溢れています。そんな樫の木のようになるというのです。樫の木は樫の木でも、1章30節には「葉のしぼんだ樫の木」もあります。神から離れ、自分勝手に生きる人は、葉のしぼんだ樫の木のようです。しかし、救い主キリストによって罪贖われ、罪から解放された人は、義の樫の木のようになるのです。

Ⅱ.主の祭司ととなえられる(4-9)

次に4節から9節までをご覧ください。まず4~6節までをお読みします。 「彼らは昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。他国人は、あなたがたの羊の群れを飼うようになり、外国人が、あなたがたの農夫となり、ぶどう作りとなる。しかし、あなたがたは主の祭司ととなえられ、われわれの神に仕える者と呼ばれる。あなたがたは国々の力を食い尽くし、その富を誇る。」

「彼ら」とは神のキリストによって罪贖われた人たちのことです。彼らは廃墟となったエルサレムと神殿を建て直し、荒廃した他の町々を新しくします。そして他国人は、彼らの羊の群れを飼い、ぶどう作りに励むようになります。これまではそうではありませんでした。これまでは他国人はイスラエルを苦しめていました。そうした他国人がエルサレムの人たちのために羊を飼い、畑を耕し、ぶどう畑の手入れをするようになるのです。

しかし、あなたがたは違います。あなたがたというのは神に贖われた者、シオンのことです。シオンは主の祭司となって、神に仕える者と呼ばれるようになり、世界の富と栄光をその身に受けるようになるのです。    これはものすごい祝福です。皆さん、祭司というのをご存じでしょうか。祭司とは民に代わって神にとりなしをする人のことです。また、神の恵みと祝福を民にとりつぐ人でもありました。この祭司ととなえられるのです。

たとえば、アブラハムはゲラルの王アビメレクのために祈りました(創世記20:17)。また、ヤコブがエジプトの王パロを祝福しました(創世記47:10)。これはどういうことかというと、立場が逆転しているということです。普通、身分の高い人が低い人を祝福するのに、下の人が高い人を祝福したのです。それは神がアブラハムやヤコブに、その地の王に勝る権威や立場を与えてくださったということです。ですから、神の祭司であるということはとても栄誉なことなのです。その神の祭司ととなえられるようになるのです。そして、私たちクリスチャンにはこの立場が与えられていると約束されています。

「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」(Iペテロ2:9)

「あなたがた」とはクリスチャンのことです。私たちは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、私たちを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、私たちが宣べ伝えるためなのです。

そればかりではありません。7節をご覧ください。 「あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受ける。人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、その国で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが彼らのものとなる。」

二倍の祝福です。あなたの恥に代えて、あなたは二倍のものを受けます。この二倍というのは文字通りの二倍というよりも象徴的な数字と考えた方がいいかと思います。豊かな祝福を受けるということです。旧約聖書の律法でも、「盗んだものは必ず二倍にして返さなければならない」(出エジプト22:4)とあります。倍返しです。イスラエルはずっと略奪されてきましたが、ちゃんと報われる時がやってくるのです。このように失われたものが倍にして返されるなら、私たちも期待したいと思います。あなたから奪い去られるものがあるでしょうか。あなたの時間も、労力も、お金も、持ち物も、いろいろな物が盗まれたとか、いろいろなひどい目に遭ってきたということがあるかもしれません。でも神様は二倍にして報いてくださいます。

そして8節には、「まことに、わたしは公義を愛する主だ。わたしは不法な略奪を憎む。わたしは誠実を尽くして彼らに報い、とこしえの契約を彼らと結ぶ。」 とあります。

「わたし」とは主なる神のことです。主はどのような方なのでしょうか。主は公義を愛する方です。公義とは律法にかなった正しい行いのことです。聖書にしたがって正しい行いをすること、それは神様が愛されることです。だから私たちもそれに従うのです。神が愛されることを行うわけです。もしかしたら、それは少数派の、ほんの一握りの人たちかもしれません。マイナーかもしれません。大多数の人は聖書なんてどうでもいいと、自分たちの考えに従って行動するかもしれませんが、我が家と我は主に仕えん、です。私たちはただ主が示される道を歩むのです。それは主は公義を愛する方だからです。人はあなたを非難するかもしれません。人はあなたを煙たがるかもしれません。しかし、それでも私たちは主が示される道を歩みます。なぜなら、主は公義を愛する方であって、そのような者を祝福してくださるからです。  そのような人は9節にあるように、決して揺らぐことのない永遠の祝福を受けるようになるのです。

Ⅲ.主によって喜ぶ(10-11)

ですから結論は何かというと、主によって喜ぶということです。10、11節をご覧ください。 「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。地が芽を出し、園が蒔かれた種を芽ばえさせるように、神である主が義と賛美とを、すべての国の前に芽ばえさせるからだ。」    10節の「わたし」というのは、文脈上、1節から見ていただくとわかりますが、メシヤのことです。救い主イエス・キリストのことを指して言われています。

ですから、これはイエスが主によって大いに楽しみ、イエスのたましいも、父なる神によって喜ぶということです。主がイエスに、救いの衣を着せ、正義の外套をかぶらせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからです。ということは、イエス様も救いが必要だったという意味ではありません。これはイエス様が救いを帯びて来られたという意味です。イエス様は救いを帯びて来られました。正義の外套をまとい、花婿のような栄冠と、花嫁のような宝石で飾られてやって来られました。

それはイエス様だけのことではありません。このイエスを信じ、イエスに連なる者とされた私たちも、イエス様と同じ祝福にあずかることができるのです。なぜなら、私たちはキリストとともに、キリストとの共同相続人であるからです(ローマ8:17)。イエス様が祝福されるとき、私たちも祝福されます。イエスの栄光は私たちの栄光でもあるのです。イエスのものはすべて私たちのものなのです。なぜなら、私たちはイエス様とともに神の祝福にあずかる共同相続人だからです。私たちはそのような祝福が約束されています。来るべき千年王国では、イエス様とともに王としてこの地上を治めるようになるのです。何とすばらしい約束でしょうか。本当に私たちは弱く、足りない者ですが、それでもイエス様が主によって大いに楽しみ、喜ばれるように、私たちもこの神によって楽しみ、喜ぶことができるのです。

「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」(ローマ8:18)

私たちにはこのような栄光が約束されているのです。現実の生活は厳しいことばかりです。誰もがさまざまな悩みや苦しみを抱えています。社会の問題も深刻です。経済の事も、こどもの教育のことも、親の介護のことも、家族の病気のことも、どれも厳しいことばかりです。けれども、私たちには確かな希望が与えられているのです。貧しい者に福音が伝えられ、心傷ついた人もいやされます。捕らわれ人には解放を、主の恵みの年が告げられました。すべての者が慰められ、悲しみの代わりに喜びが、憂いの代わりに賛美がもたらされました。こうした現実の生活の中にあっても、私たちはキリストにあって喜ぶことができるのです。感謝することができるのです。厳しい現実の中に、こうした主の恵みを忘れないで、主に賛美と感謝をささげようではありませんか。

これは「一生感謝365日」にあった言葉です。アメリカの新聞に15歳の少女がこのような投稿をした。 「私は不幸です。自分の部屋をもってないし、両親の干渉が強くて私を信じてくれません。私のことを好きな男の子もいないし、素敵な服ももっていません。私の将来は真っ暗です。」  この投稿を読んだ13歳の少女が、新聞社にこのような文を送った。 「私は歩くことができません。人が歩いたりすることがどれほど大きな幸せでしょうか。私は歩くことができませんが、見たり聞いたり、話したりすることができるので、足の不幸に不平を言う代わりに、感謝をしています。」

考えさせられる内容です。私たちはこの世で無いものを見てはすぐに嘆き、不平を言う者ですが、自分たちに与えられているものがどれほど大きな恵みなのを見ていません。神は私たちに救いを与えてくださいました。将来の希望も祝福も与えてくださいました。私たちが見なければならないのは、私たちに救いを与えてくださった主です。私たちはこの方にあって大いに楽しみ、喜び、賛美することができます。今週も、私たちに与えられた救いを見て、主に賛美と感謝をささげましょう。

レビ記21章

レビ記21章

きょうはレビ記21章から学びます。まず1~9節を見ていきたいと思います。

1.祭司の歩み(1-9)

「ついではモーセに仰せられた。「アロンの子である祭司たちに言え。彼らに言え。縁者のうちで死んだ者のために、自分の身を汚してはならない。ただし、近親の者、母や父、息子や娘、また兄弟の場合は例外である。近親の、結婚したことのない処女の姉妹の場合は、身を汚してもよい。 姻戚の縁者として身を汚し、自分を冒涜することになってはならない。彼らは頭をそってはならない。ひげの両端をそり落としてもいけない。からだにどんな傷をつけてはならない。彼らは自分の神に対して聖でなければならない。また自分の神の御名を汚してはならない。彼らは、への火によるささげ物、彼らの神のパンをささげるからである。彼らは聖でなければならない。彼らは淫行で汚れている女をめとってはならない。また夫から離婚された女をめとってはならない。祭司は神に対して聖であるから。あなたは彼を聖別しなければならない。彼はあなたの神のパンをささげるからである。彼はあなたにとって聖でなければならない。あなたがたを聖別する、わたしが聖であるから。祭司の娘が淫行で身を汚すなら、その父を汚すことになる。彼女は火で焼かれなければならない。」

レビ記の後半部分は17章から始まりますが、そこには神の民として聖められた者の歩みとはどのようなものなのかが教えられていますが、ここにはアロンの子である祭司に対して語られています。聖書で「祭司」というとき、それは民に代わって神にとりなしをする人のことです。また、神の恵みと祝福を人々に分かち合う仲介者でもあります。ですから、祭司とは神に仕える特権が与えられていた人たちです。

そして、聖書を見ると、私たちは神の祭司であると言われています。Iペテロ2:9に、そのように記されてあります。ですから、これは私たちクリスチャン一人一人に対して語られている教えであると言えるのです。その祭司に対して言われていることはどういうことでしょうか。1節には、「縁者のうちで死んだ者のために、自分の身を汚してはならない。」とあります。どういうことでしょうか。

新共同訳には、「親族の遺体に触れて身を汚してはならない。」とあります。このことはすでに11章でも語られていました。そこには、死体に触れる者は七日間汚れました(11:24)。そして再び聖くなるためには、聖めの儀式を経なければなりませんでした。なぜ祭司は死体に触れてはいけなかったのでしょうか。それは、「死」というのは罪によってもたらされたものだからです。罪によって死が入り込んだので、死んだ者にふれることは、罪にふれることを象徴していたからです。ですから、ここで祭司が死体にふれてはいけない、というのは、私たちキリスト者が、罪と関わってはいけない、罪から遠ざかりなさい、ということを教えているのです。それが外見の行ないだけではなく、内側の思いの中で、心の中でも、罪を犯してはいけない、そのような罪にふれてはいけません、と言うことです。

しかし、近親の者の死体には触れてもよいとされています。それは、神さまは、死者のために嘆き悲しむことを許されているからです。したがって、クリスチャンも、聖書的に、神さまのみこころにかなって、身内の死んだ人たちのために喪に服することはできるのです。しかし、そこに異教の影響が入ってはいけません。とかく喪に服するときに、異教はいろいろな儀式を持って来ることができるのです。

ですから、5節のところに、次のような戒めがあるのです。

「彼らは頭をそってはならない。ひげの両端をそり落としてもいけない。からだにどんな傷をつけてはならない。」

どういうことでしょうか。これは死体を弔う異教的な慣習、ならわしでした。そうした風習にならってはいけないということです。日本でも、葬式は、「死者の霊への弔い」と考えられています。神を礼拝するのではなく、死んだ人を拝み、語りかけ、花をささげます。ですから、花であっても、それは神にささげられるものではなく、その死人に捧げるものとして考えられているのです。ここに、日本における葬式の難しさがあります。そういう異教的な風習を排除して、神を礼拝し、残された家族の慰めを祈るという本来の目的をどのように伝えるかは重要なことかと思います。

けれども、私たちが死んだ人のことを悲しむことは、何一つ悪いことではありません。もちろん、主イエスを信じて天国に入ったことは喜びではありますが、この地上での別れを悲しむということは当然のことであって、悪いことではないのです。死んだその人について思い出し、神がその人を通して行なってくださったことを思い出して、神を礼拝することは、感謝なことなのです。

祭司は、クリスチャンは、神に対して聖でなければなりません。死体に触れることによって身を汚したりして、自分の神の御名を汚してはならないのです。なぜでしょうか。その理由が6節に書かれてあります。それは、彼らは主への火によるささげ物、彼らの神のパンをささげるからです。

これはどういうことでしょうか。これは主との交わりのことです。この「神のパン」とは、穀物のパンも含めた神へのささげものことで、神がこれらのささげものを食されるわけです。それによって神との交わりを保つことができます。祭司が神にいけにえをささげることによって、聖なる神と一つになることを表しているのです。なのに、そこに罪が入ってきたとしたらどうでしょうか。神との交わりを保つことができなくなってしまいます。ですから、主との交わりを保ち、いつも主にある喜びと平安に満ち溢れた歩みをするためには、こうした汚れから離れていなければならないのです。

それは結婚についても同じです。7節には、「彼らは淫行で汚れている女をめとってはならない。また夫から離婚された女をめとってはならない。」とあります。結婚とは、その相手と交わり、一つとなることです。したがって、汚れた相手と結婚すれば、自分も汚れてしまうことになります。ですから、そのような人と結婚してはいけない、と言われているのです。ここには「淫行で汚れた女」とか、「離婚された女」とありますが、これは神を恐れずに歩んでいる人のことです。そういう女をめとってはならない、そういう人と深い関わりを持ってはならないという意味です。

私たちは、結婚に限らず、深い関わりを持つ人たちを選ばなければいけません。すべての人と、深い交わりができるわけではないのです。

使徒パウロが言いました。「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。(Ⅱコリント6:14-15)」

もちろん、私たちはすべての人に接して、愛していかなければいけません。私たちの主も、罪人たちと食事を取られ、またパリサイ人とも食事を取られました。けれども、主は、ご自分が選ばれた12人の弟子たちと特に深い関わりを持たれました。同じように、私たちも、深い関わりを、汚れていない人、神を恐れて歩んでいる人と持つべきなのです。

なぜでしょうか。同じ理由が7節後半と8節にこうあります。

「祭司は神に対して聖であるから。あなたは彼を聖別しなければならない。彼はあなたの神のパンをささげるからである。彼はあなたにとって聖でなければならない。あなたがたを聖別する、わたしが聖であるから。」

2.大祭司の歩み(10-15)

次に10~15節をご覧ください。

「兄弟たちのうち大祭司で、頭にそそぎの油がそそがれ、聖別されて装束を着けている者は、その髪の毛を乱したり、その装束を引き裂いたりしてはならないどんな死体のところにも、行ってはならない。自分の父のためにも母のためにも、自分の身を汚してはならない。聖所から出て行って、神の聖所を汚してはならない。神のそそぎの油による記章を身につけているからである。わたしはである。彼は処女である女をめとらなければならない。やもめ、離婚された女、あるいは淫行で汚れている女、これらをめとってはならない。彼はただ、自分の民から処女をめとらなければならない。彼の民のうちで、その子孫を汚すことのないためである。わたしは彼を聖別するだからである。」

次に大祭司についての教えです。大祭司は民を代表して至聖所に入ることができた唯一の祭司です。祭司たちは、自分の近親の者であれば、そのために喪に服することができましたが、大祭司は父母のためにもその死体にふれることも許されませんでした。10節には、「その髪の毛を乱したり、その装束を引き裂いたりしてはならない。」とあります。髪を乱すとは髪をほどくことで、悲嘆の感情を表す行為ですが、大祭司にはこのような哀悼の表現も許されませんでした。また、家族の葬儀に参加するために、聖所から出ることも許されていなかったのです。

なぜでしょうか。12節にこうあります。「神の注ぎの油による記章を身につけているから」です。どういうことでしょうか。新共同訳では、「神の聖別の油を頭に注がれた者だからである。」と訳されています。つまり、大祭司には神の特別の油が注がれていたからです。一般の祭司と違い大祭司だけが至聖所の神の臨在に近づくことができました。大祭司こそ、神にもっとも近づいている者なのです。ゆえに、もっと聖くなければならなかったのです。

このことはどのようなことを意味しているのかというと、大きな特権に与る者には、大きな責任も伴うということです。大祭司は、神ご自身の栄光に近づき、神と交わるという特権にあずかっている分、自分の歩みもまた制限されるのです。
もちろん、この大祭司とはイエス・キリストのことを指し示しています。イエス様は私たちの大祭司です。その大祭司であるイエス様の歩みはどうだったでしょうか。罪は犯されませんでしたが、すべての点で私たちと同じようになられました。これが私たちの模範としての姿です。イエス様のように罪や汚れから遠ざかり、神に喜ばれる歩みを求めていかなければなりません。私たちは、クリスチャンとしてすばらしい特権にあずかっているからです。それゆえ、私たちの歩みも、してはいけないことが増えてくるのです。これは否定的に考えるべきではありません。主との交わりを深めれば深めるほど、その関係は緊密になり、自分が何をしなければいけないかが、はっきりと見えてくると言ったらよいでしょう。例えば、独身のときには自由にふるまっていました。けれども、結婚することによって、自分が行なわなければいけない責任範囲がはっきりとして、そのガイドラインにのっとって歩むことに大きな喜びを持つことができます。何をすればよいかわからない、ではないのです。制限されることにある喜び、といいましょうか、律法的ではなく、賞を得るような競争選手のように、目的がはっきりした生き方であります。

それは結婚においても言えることです。大祭司は淫行で汚れている女や、離婚された女だけでなく、やもめをめとってもなりませんでした。ただ処女である女をめとらなければなりませんでした。それはなぜか?その子孫を汚すことがないためです。

3.身に欠陥のある祭司(16-24)

「ついではモーセに告げて仰せられた。「アロンに告げて言え。あなたの代々の子孫のうち、だれでも身に欠陥のある者は、神のパンをささげるために近づいてはならない。だれでも、身に欠陥のある者は近づいてはならない。目の見えない者、足のなえた者、あるいは手足が短すぎたり、長すぎたりしている者、あるいは足や手の折れた者、くる病、肺病でやせた者、目に星のある者、湿疹のある者、かさぶたのある者や、こうがんのつぶれた者などである。祭司であるアロンの子孫のうち、だれでも身に欠陥のある者は、への火によるささげ物をささげるために近寄ってはならない。彼の身には欠陥があるから、神のパンをささげるために近寄ってはならない。しかし彼は、神のパンは、最も聖なるものでも、聖なるものでも食べることができる。ただし、垂れ幕の所に行ってはならない。祭壇に近寄ってはならない。彼は身に欠陥があるからである。彼はわたしの聖所を汚してはならない。わたしがそれを聖別するだからである。」モーセはこのように、アロンとその子らとすべてのイスラエル人に告げた。」

ここには、からだに欠陥がある祭司は奉仕をすることができない、とあります。どういうことでしょうか。これは障害者に対する差別では決してありません。ですから、22節には、「しかし彼は、神のパンは、最も聖なるものでも、聖なるものでも食べることができる。」とあるのです。身に欠陥のある人でも、神のパンは、最も聖なるものでも食べることができました。これは神との交わりを表しているということを言いました。つまり、身に欠陥がある人でも神との親しい交わりを保つことができたのです。決して身体障害者の人が差別されているわけではないのです。そのような人たちも奉仕している人たちと同じように聖められていました。

 ではここで言われていることはどういうことなのでしょうか。これは死んだ者にふれるとか、淫行で汚れた者と結婚するというような、汚れを意味していました。ここでも同じです。神は完全な方であり、何一つ欠けたところのない方なので、この神と交わりを持つためにはそこに欠陥というものを持っていってはいけないということなのです。ですからそれは身障者が汚れているということではなく神がどのような方であり、その神に仕える者はどうあるべきなのかが教えられているのです。ですから、23節に、「ただし、垂れ幕のところに言ってはならない。」とあるように、そのように身体に障害を持っている祭司でも、他の祭司を補助し、日ごとの献げものの灰を取り除くなどの仕事をすることができたのです。

 神に仕える祭司には、神との交わりという大きな特権が与えられているがゆえに、そこにはこうした行動における制限も伴いますが、それは私たちの行動を規制するためではなく、私たちが主との交わりを深めその関係がもっと緊密になるために、何が神のみこころなのかを示しているガイドラインです。そのガイドラインにのっとって歩むことによって神との交わりをもっと深く保つことができることを覚え、神に喜ばれる歩みを求めていきたいと思います。

イザヤ60:1-22 レジュメ

「起きよ。光を放て」  イザヤ書60:122

Ⅰ.起きよ。光を放て(1-3) 

 ここには、世の終わりにもたらされる栄光がいかに輝いたものであるかが記されている。「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。」(1)終末の時代に神の都シオンは主の栄光の輝きによって、諸国を輝かすようにと命じられている。なぜなら、「見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国をおおっている。」(2)からだ。終末の時代には、神の民に対する圧迫も激しくなり、肉体的にも、精神的にも、暗やみが世界を支配するようになる。だから、神の民は、起きて、光を放たなければならない。主イエスも、「あなたがたは、世界の光です。・・・あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:14-16)と言われた。神の民であるクリスチャンは霊的に暗黒のような世界の中で、光のような存在として生きなければならない。自分自身に光がなくても、光であられるイエス・キリストを信じた私たちは「光の子ども」となったのだから。その光を輝かさなければならないのである。

Ⅱ.目を上げて、あたりを見よ(4-9)

神の民が主の栄光の光を放つとき、いったいどんなことが起こるのだろうか。4節には、「目を上げて、あたりを見よ。彼らは集まって、あなたのもとに来る。あなたの息子たちは遠くから来、娘たちはわきに抱かれて来る。」とある。かつて「子を産まない不妊の女」(54:1)と言われたイスラエルの多くの子孫が、遠くから、近くから、彼らのもとに集まってくるというのだ。ただ集まってくるのではない。地中海沿岸から来る者は海の富を携え、砂漠から来る者は、らくだを携えてやって来る。また、「ケダルの羊の群れもみな、あなたのところに集まり・・いけにえとして、わたしの祭壇にささげられる。」(7)ケダルというのはイシュマエルの息子で、イスラエルに敵対する人たちのことである。そうした人までも神の都シオンにやって来て、いけにえをささげるようになるのである。これは本当に麗しい神の恵みのみわざだ。世の終わりには、どんなに敵対していた人でも、どんなに呪われていた人でも、主は必ず救いの手を差し伸べ、神の民の一員に加えてくださる。「そのとき、あなたはこれを見て、晴れやかになり、心は震えて、喜ぶようになる。」(5)そんな心躍るような喜びに満たされるのである。

Ⅲ.主があなたの永遠の光となる(10-22)

そればかりではない。10節には、「外国人もあなたの城壁を建て直し、その王たちもあなたに仕える。」とある。かつてエルサレムの神殿はアッシリヤやバビロンなど、異教の王や外国の軍隊によって攻撃され、破壊され、略奪されてきた。それはイザヤの時代の後にも起こる。エルサレムはローマによって滅ぼされ、神殿は完全に破壊されてしまった。しかし、世の終わりには、こうした外国人によってそれが再び建て直される。彼らを苦しめた者たちの子らは、身をかがめてやって来て、彼らの足下にひれ伏し、「あなたを、主の町、イスラエルの聖なる方のシオン、と呼ぶ。」(14)ようになる。神のあわれみのゆえに、異邦人に苦しめられたエルサレムが、その栄光を回復する。神のあわれみの心が、神の都シオンを暗やみと絶望の深い淵から救ってくださるのである。そして、この約束は後に教会に引き継がれることになる。神の民であるクリスチャンはこの地上で様々な苦難や逆境に置かれるが、そうした苦難を乗り越えて、やがて神が栄光を回復してくださるのである。

私たちは皆、立場は違うが、いろいろな形で苦しみを経験している。ある人は病気で、またある人は仕事で行き詰まり、またある人は自然災害によって立ち直ることが難しいと「絶望」に陥ることがある。しかし、そのような中にあってもこの救いの神を見上げて、ここに希望を置くなら、神が必ずあなたを助けてくださる。この永遠の希望の約束を通して、私たちに立ち上がる力を与えてくださるのである。

ここには「時が来れば、わたし、主がすみやかにそれをする。」(22)とある。時が来れば、それはすみやかに起こる。それはすぐそこまで来ている。いつ起こっても不思議ではない。私たちはここに希望を起きたい。やがてもたらされる栄光の輝きを胸に、私たちに与えられた希望の光を、この地上にあって放つ者でありたい。

イザヤ書60章1~22節 「起きよ。光を放て。」

きょうは、イザヤ書60章から「起きよ。光を放て」というタイトルでお話します。これは、神の恵みによって救われた神の民に対して語られていることばです。「主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。」(59:16)主は一方的な恵みによって私たちを救ってくださいました。その神の民に語られていることは「起きよ。光を放て」ということです。  きょうはこの箇所から、神の民であるクリスチャンにもたらされる栄光がどのようなものか、どのように輝いたものなのかを一緒に見ていきたいと思います。

Ⅰ.起きよ。光を放て(1-3)

まず最初に1節から3節までをご覧ください。1節には、「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。」とあります。 この「あなた」とは誰のことでしょうか。それは罪を悔い改めた者、シオンのことです。59章19,20節には、「そうして、西のほうでは、主の御名が、日の上る方では、主の栄光が恐れられ。主は激しい流れのように来られ、その中で主の息が吹きまくっている。「しかし、シオンには贖い主として来る。ヤコブの中のそむきの罪を悔い改める者のところに来る。」とあります。これは主イエスの再臨の預言なのです。主イエスはどのような人のところに来られるのでしょうか。ヤコブの中のそむきの罪を悔い改める者たちのところ、その罪が贖われた者たちのところです。ですから、これはクリスチャンたちのことを指して言われているのです。そのクリスチャンたちに語られていることはどういうことでしょうか。起きて、光を放て、です。なぜなら、あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからです。

「やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。」(2)

まさに現代はやみです。暗やみです。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっています。しかし、クリスチャンは決してやみの中を歩むことはありません。なぜなら、クリスチャンの上には主が輝いているからです。主はこう言われました。

「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)

イエス様はこの世の光です。あなたではありません。あなたが世の光なのではないのです。イエス様が世の光です。私たちはその光を受けて、その光が私たちの上に輝いているので、私たちは決してやみの中を歩むことはないのです。いや、そればかりではなく、国々の民はこの私たちの光のうちに歩み、王たちは私たちの輝きに照らされて歩むのです。私たちにはまさに燈台のような使命が与えられているのです。

マタイの福音書5章14~16節を開いてください。そのところで主はこう言っておられます。 「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:14~16)

皆さん、私たちは世界の光なのです。光は何のために存在しているのでしょうか。照らすためです。その光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられる私たちの父があがめられるようにしなければなりません。

ゴスペルシンガーのレーナ・マリアさんは、生まれたときから両手がありませんでした。そのうえ、左足の長さも右足の半分ぐらいしかなかったのです。両親は初めびっくりしましたが、すべての人は等しく価値ある人間だという信念から、精一杯の愛情を注いでレーナさんを育てました。障害があるからといって甘やかさず、普通の子どもと同じように育てました。もちろん、困難なことはたくさんあったでしょうが、レーナさんは、何でもできるだけ自分でするようにして、辛抱強く一つ一つを克復していきました。字を書くことはもちろんのこと、お料理も、裁縫や編み物も、パソコンも、ピアノを弾くことも、そして車を運転することも、できるようになりました。口とあごと両手を使って何でもできるようになったのです。3歳からは水泳を始めて、ソオルのパラリンピックでは優秀な成績を収めました。  そのレーナ・マリアさんが日本のテレビに出演したとき、キャスターが、「体が不自由で大変でしょう。それなのに、どうしてそんなに明るい笑顔でいらるんですか」と尋ねると、レーナさんはにこにこしながら、こう答えました。「私は神様からたくさんのものをいただいているので、不自由だと思ったことがありません。イエス様はいつも私のそばにいてくださいます。だから、いつも神様に感謝しているんです」  レーナさんは、このような体で生まれたのは、神様が特別な目的をもっていらっしゃるからだと考えています。そして、その神様の目的を達成するために精一杯努力したいと言って、美しい声で神様を賛美し、さわやかな笑顔で神様のすばらしさを証しているのです。長野のパラリンピックの開会式では、「わが魂、いざたたえよ。大いなる御神を」と高らかに神様を賛美して、世界中の人に感銘を与えました。また、先の震災復興のコンサートでも多くの人たちに慰めを与えました。

それは何もレーナさんのように特別な人だけのことではありません。私たちもそうなのです。今、阿久津恵美さんが証をしてくださいました。阿久津さんがクリスチャンになられたのは、かつて米国の証券会社に勤めていた時に同じフロアーにいた一人の女性との出会いがきっかけでした。毎日怒号が飛び交う殺伐とした職場の中でも、その方はつも笑顔を絶やさないで、だれにでも親切に接しておられたので、誰からも愛されていました。こんな殺伐とした職場でどうしてそんなに穏やかにしていにれるのかと思った阿久津さんは、ある日その女性に尋ねました。すると彼女は「神様を信じているから」と言いました。その方はいろいろと説明してくれたのですが、ただ一つわかったことは、その神様というのは仏陀でも、マホメットでもなく、イエス・キリストであるということです。それで阿久津さんはその週末から近くの教会に行くようになったのです。その方の存在が阿久津さんを救いへと導くきっかけを与えてくれたのです。阿久津さんにとってその方は光のような役割を果たしてくれました。阿久津さん曰く、「人は行いだけでは救われませんが、しかし、彼女の存在そのものがイエス様の香り放ち、愛を示していたことで、私の中に蒔かれていた信仰の芽を芽吹かせるきっかけとなりました。」    アーメン!皆さん、私たちの存在そのものがこの世の暗やみを照らす光なのです。人は行いだけによっては救われませんが、私たちの良い行いを見て、天の父をあがめるようになるのです。そういう意味では笑顔は大切ですね。一生懸命に作る笑顔ではなくその人の心から溢れ出るような笑顔、優しい言葉、親切な態度、愛に溢れた行動、そうした良い行いによって、天の父があがめられるようにしなければなりません。

Ⅱ.目を上げて、あたりを見よ(4-9)

次に4~9節までをご覧ください。4節には「目を上げて、あたりを見よ。彼らは集まって、あなたのもとに来る。あなたの息子たちは遠くから来、娘たちはわきに抱かれて来る。」とあります。

どういうことでしょうか。これは終末的預言で、やがて神の子とされる数えきれない人々が救われ、主に導かれてくるということです。リバイバルです。具体的には、あなたの証しによって、イエス様を信じ、救われた神の子たち、ここでは息子とか娘と呼ばれていますが、そういう人たちが教会に集うようになるのです。伝道というと、人の誤りや罪を指摘し、イエス様を信じるようにと説得することだと考えている人が多いようですが、このところを見ると、伝道とはそういうものではないことがわかります。伝道とは、あなた自身がイエス様とイエス様の御言葉にしっかりつながることによって愛の実を結び、あなたの内にあるイエス様の光に、人々が引き寄せられてくることなのです。いつでも、どこでも、あなたは光であるイエス様だけを見上げて、人々を愛し、仕えればよいのです。そうすれば、人々はあなたに引き寄せられてきます。それが伝道です。あなたを救われたイエス様の光を指し示すのが伝道なのです。

そのとき、主の祝福が、あなたのもとにやって来ます。5節には、「そのとき、あなたはこれを見て、晴れやかになり、心は震えて、喜ぶ。海の富はあなたのところに移され、国々の財宝はあなたのものとなるからだ。」とあります。「海の富」とは、海からの産物のこと、諸国の財宝も彼らのものとなります。

そればかりではありません。6節を見てください。6節には、「らくだの大群、ミデヤンとエファの若いらくだが、あなたのところに押し寄せる。これらシェバから来るものはみな、金と乳香を携えて来る、主の奇しいみわざを宣べ伝える。」とあります。  「ミデヤン」とか「エファ」とは、イスラエルの南方にある広大な砂漠地帯のことです。モーセはエジプトから逃れたときこのミデヤンの荒野に来て、ここで羊を飼っていました。そのミデヤンとエファからはらくだの大軍が押し寄せてくるというのです。  「シェバ」とは今のサウジアラビヤのことですが、そこから来る者は黄金と乳香を携えてやって来ます。イエス様がお生まれになったとき、東方の博士たちが、黄金、乳香、没薬をイエス様に献げましたが、それはこの預言の成就でもあると言えます。

7節を見てください。7節には、「ケダルの羊の群れもみな、あなたのところに集まり、ネバヨテの雄羊は、あなたに仕え、これらは受け入れられるいけにえとして、わたしの祭壇にささげられる。わたしは、わたしの美しい家を輝かす。」とあります。「ケダル」も南方の荒野の地域のことですが、そこからは羊の群れを携えてやって来るようになります。しかし、これは単なる羊の群れというよりも、主を礼拝するためのいけにえとしてささげられるということが言われています。どういうことでしょうか?

ケダルとはイシュマエルの子孫たちのことです。アブラハムと女奴隷ハガルとの間に生まれたこどもですね。それがイシュマエルです。その子孫がケダルです。聖書を見ると、このイシュマエルの子孫であるケダルは、ずっと神の民であるイスラエルに敵対すると預言されています(創世記16:12,25:18)。その預言のとおりに、イシュマエルの子孫であるアラブ人はずっとイスラエルに敵対していました。それはこの聖書の預言でもあるのです。イスラム教の創始者であるムハンマドは、自分はこのイシュマエルの子ケダルの子孫であると言っていますが、イスラム教徒やアラブ人は昔から今に至るまでずっと、イスラエルに敵対してきたのです。しかし、そのような人たちでさえも、世の終わりになると神の都にやって来て、まことの神を礼拝するようになります。自分のたちの家畜をいけにえとしてイスラエルの神の神殿でささげるようになるのです。これは本当に麗しいことではないでしょうか。これまでどんなに神に敵対していた人でも、どんなに呪われていたような人でも、主は必ず救いの手を差し伸べてくださいます。そして神の民の一員として加えてくださり、神の民と一緒に神の救いをほめたたえ、心からの感謝のささげ物をささげるようになるのです。ここに「わたしは、わたしの美しい家を輝かす」とありますが、そのようなことによってさらに主の宮は美しく輝くようになるのです。

そして8節と9節です。「タルシシュの船は真っ先に、あなたの子らを遠くから来させ、彼らの金銀もいっしょに、あなたの神、主の名のために、イスラエルの聖なる者のために運んで来る。」

「タルシシュ」とは今のスペインにある町のことです。後に、そこには多くのイタリヤ人が移民しました。ですから、ここにはヨーロッパから運ばれてくる品々がどんなものであるのかが記されてあるのです。そしてヨーロッパから運ばれてくるのは多くの金銀、莫大な財宝であります。それはまさに大きな雲が押し寄せて来るようであり、巣に帰る鳩が群れをなして押し寄せて来るようです。つまり、この世の終わりには、世界の果てから、四方八方から、多くの人々がそうした財宝を携えて、あなたのもとにやって来るようになるのです。なぜそのようなことが起こるのでしょうか。「主があなたを輝かされたから」です。私たちは神の子どもとして、神のすべての祝福を相続するようになったからです。

神の子どもとされたことで得た栄光、やがて来る栄光はどんなに輝いたものでしょう。あなたはこれを見なければなりません。目をあげて、あたりを見なければならないのです。罪贖われて神の子どもとされた者に与えられる祝福がどんなに大きなものなのか、その栄光がどんなに輝いたものであるかを見るなら、あなたはこの主の光を輝かせることができるようになるでしょう。

Ⅲ.主があなたの永遠の光となる(10-22)

最後に、この御国の栄光とその輝きについて見たいと思います。10節から終わりまでのところです。10節から13節をご覧ください。 「外国人もあなたの城壁を建て直し、その王たちもあなたに仕える。実に、わたしは怒って、あなたをあわれんだ。あなたの門はいつも開かれ、昼も夜も閉じられない。国々の財宝があなたのところに運ばれ、その王たちが導かれて来るためである。あなたに仕えない国民や王国は滅び、これらの国々は荒廃する。レバノンの栄光は、もみの木、すずかけ、檜も、共に、あなたのもとに来て、わたしの聖所を美しくする。わたしは、わたしの足台を尊くする。」

「城壁」とは、エルサレムの神殿の城壁のことです。これまで外国人の王たちは、城壁を打ち壊す者でした。アッシリヤにしてもそうですし、バビロンにしてもそうです。またローマ帝国もそうでした。外国の王たちはみなエルサレムを踏みにじり、その神殿を粉々に破壊しました。今、そこには嘆きの壁と呼ばれている壁があるだけです。しかし、この世の終わりにはそうではありません。逆に、彼らは城壁を建て直し、その王たちもあなたに仕えるようになります。エルサレムの再建のために、王たちが仕えるようになるのです。

11節には、「あなたの門はいつも開かれ、昼も夜も閉じられない。国々の財宝があなたのところに運ばれ、その王たちが導かれて来るためである。」とあります。  これはやがてもたらされる新しいエルサレムの光景です。黙示録21章25節にも同じことが言われています。つまり、これは天の御国のことが語られているのです。このイザヤ書60章と黙示録21章は対になっている箇所です。同じことが預言されています。紀元前700年頃に見たイザヤの幻と紀元100年頃に見たヨハネの幻は同じものだったのです。ということはどういうことかというと、これは必ず起こるというこです。天国は絶対にあるということです。私は牧師として時々思うことがあります。こうやって天国のことをいつも宣べ伝えておきながら死んだ後で天国がなかったらどうしよう・・・と。私の一生は何だったのか・・・と。そのために仕え、そのために労してきたのに、死んでみたらそれがなかったとしたら、それほど虚しいことはありません。けれども、こうしてイザヤもヨハネも同じものを見ていたことを知るなら、「ああ、やっぱり間違いではなかった!」という確信が与えられます。イザヤもヨハネも言っていることは、この都の門は一日中決して閉じることがない、ということです。なぜ?そこにはいつも国々の財宝が運ばれて来るからです。そこにはレバノンの杉やもみの木、すずかげ、檜といった木々が運ばれて来て、神の神殿を美しく飾るようになります。かつてレバノンの杉を使ってソロモンが神殿を建てたように、世の終わりの新しいエルサレム(天国)も完全なレバノンの杉が神の神殿を美しく飾るのです。

これと同じ光景が19節と20節にもあります。 「太陽がもうあなたの昼の光とならず、月の輝きもあなたを照らさず、主があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの光栄となる。あなたの太陽はもう沈まず、あなたの月はかげることがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである。」

この神の都は、太陽と月はもはや必要ありません。なぜなら、主ご自身が永遠の光となって、太陽にまさる光で都を照らされるからです。暗い夜に星が輝いているときれいですね。昔はその星によって旅人が旅の方角を知りました。航海する舟が後悔することがないように、ちゃんと行く道を定めるように星を見て航海したのです。ところがその星でさえ、太陽が出たら消えてしまいます。太陽の光というのはものすごく明るいです。ところが、その太陽の光でさえ、栄光の主の前には消えてしまうのです。私たちは太陽を見ると、目が焼けてしまいますから、いぶしたガラスなどで見ますが、主の栄光を見るということは太陽どころではありません。罪人はその前で立っていられないのです。しかし、その私たちの罪が赦され、聖められて主イエスが再びおいでになられたるとき、太陽の光にもまさる栄光を私たちはこの眼をもって見ることができ、拝することができるのです。いいえ、そればかりではなく、この栄光の主と永遠に交わりをもつことができるのです。そういう時が来ます。

ここに「あなたの太陽はもう沈まず、あなたの月はかげることがない」とあります。いい言葉ですね。いくら明るい太陽でも雲があったら隠れてしまいます。夜になったら沈んでしまいます。けれどもこの太陽は隠れることも、沈むこともありません。私たちの心のうちに与えられた神の恵みが、永遠に輝き続けるからです

22節の最後のところには、「時が来れば、わたし、主が、すみやかにそれをする。」とあります。そういう時が必ず来るぞ!とイザヤは告げました。時が来れば、主がすみやかにそれをされます。それは私たちでさえまだ見ていない、これから何年先、何千年先に起こるかわからない出来事、けれども、それは必ず起こる出来事であると、イザヤは神の聖霊によって見ていたのです。あなたはこのことを見ておられますか。あなたが見ておられるのは何ですか。目の前の苦しみや患難ですか、それとも、やがてもたらされる栄光でしょうか。今の生活がどんなに苦しくても、それがすべてではありません。クリスチャンには暗やみを照らす光があるのです。その光があなたの上に輝いています。この光に照らされることによって、私たちは現実の生活での不安や絶望を克復していくことができるのです。どんな暗やみの中にあっても輝くことができるのです。その光を私たちはこの世の中で輝かせなければなりません。

昨年、7月22日午前9時15分、JR南浦和駅のホームで30歳の女性が足を滑らせて京浜東北線の電車とホームに間に挟まれるという事故が起こりました。その女性は幸い電車とホームの間にウエストがひっかかり、線路のある地面に落ちませんでした。しかし、その女性を救い出すためには電車をゆっくりと動かさなければなりませんでした。駅のスタッフはホームと乗客にこのことを伝え、このため電車が遅れるとアナウンスすると、約40人くらいの人が線路に下りて行き、みんなでゆっくりと電車を反対側に押し始めました。それで電車とホームにはさまれていた女性は全く無傷で、何のけがをするみとなく救い出されたのです。彼らはホームに落ちて危ない人がいるということを聞いたとき、何とかしなければならないという気持ちになり、自分にもできるならと、ホームに下りて行ったのです。一人一人の力は小さくても、このようにみんなで協力し合うことによって一人の女性が救い出されたのです。

これは私たちの伝道においても言えることです。私たち一人一人の力は小さいですが、この世の中で迷っている人がいることを知り、何とかしなければならないという思いを持って立ち上がり、お互いに協力し合うなら、必ず救い出すことができます。それがあなたがたの光を輝かせるということではないでしょうか。私たちはそういう教会でありたいと願います。神を知らないで滅びに向かっている人を救い出すために一つ一つの光が助け合って大きな光となってキリストを証していく。そこに大きな神の栄光が現されていくのです。

「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。」私たちも主の光を受けて、主の証人として輝かせていただきましょう。

イザヤ59:1-21 レジュメ

イザヤ書59:1~21   「救いは主の御手に」                           No.93

Ⅰ.神との仕切り(1-8) 

 イスラエルは自分たちの罪のせいでバビロンの捕囚となったのに、それを神のせいにして恨んでいた。神は自分たちを見捨ててしまったと嘆いていたのだ。しかし、絶対にそんなことはない。主は永遠の愛をもって彼らを愛してくださった。だから神は、どんなことがあっても彼らを見捨てるようなことはなさらない。

ではいったい何が問題だったのだろうか。それは彼らの咎であり、彼らのそむきの罪のせいであった。「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」(1-2)彼らがそのようになったのは、彼ら自身に問題があったのである。

私たちはしばしば間違いを犯すと、それに対して神が怒られ、自分から遠ざかれたのではないかと考えるが、そうではない。神が遠ざかれるのではなく、私たちの方が遠ざかるのだ。人は罪を犯すと神から隠れようとする。その罪が神との間の仕切りとなり、御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしているのである。

その罪の結果、人はどのように汚れてしまったか?「実に、あなたがたの手で血で汚れ、指は咎で汚れ、あなたがたのくちびるは偽りを語り、舌は不正をつぶやく。正しい訴えをする者はなく、真実をもって弁護する者もなく、むなしいことにたより、うそを言い、害毒をはらみ、悪意を産む。彼らはまむしの卵をかえし、くもの巣を織る。その卵を食べる者は死に、卵をつぶすと、毒蛇が飛び出す。そのくもの巣は着物にはならず、自分の作ったもので身をおおうこともできない。彼らのわざは不義のわざ、彼らの手のなすことは、ただ暴虐。彼らの足は悪に走り、罪のない者の血を流すのに速い。彼らの思いは不義の思い。破壊と破滅が彼らの大路にある。彼らは平和の道を知らず、その道筋には公義がない。彼らは自分の通り道を曲げ、そこを歩む者はだれも、平和を知らない。」(3-8)その手は血で汚れ、指は咎で汚れ、くちびるは偽りを語り、その足は悪に走り、罪のない者の血を流すのに速くなった。つまり、すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となってしまったのである。いったいどうしたらこの罪を解決することができるのだろうか。

Ⅱ.罪の告白(9-15)

そのためには、自分がそのような汚れた者であることを認め、その罪を悔い改めなければならない。「それゆえ、公義は私たちから遠ざかり、義は私たちに追いつかない。私たちは光を待ち望んだが、見よ、やみ。輝きを待ち望んだが、暗やみの中を歩む。」(9)ここから主語が「彼ら」から「私たち」に変わっている。つまり、神に指摘された罪を認めて告白しているのである。これまで彼らは嫌というほど、罪に汚れた自分の姿というものを見せられたが、そのことに同意して、自分たちはそのような者だと認めているのだ。罪の解決は、まず認めることから始まる。自分がいかに汚れた者であるかを示されたなら、「その通りです」と認めることから始まるのである。いつまでも言い訳ばかりして、「そんなの関係ねぇ」みたいなことを言っていると、いつまでも罪を解決することはできない。

Ⅲ.主の救い(16-21)

そのとき、主が立ち上がってくださる。「主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。」(16)これは、人間の側にはこの罪から救うことのできる人は誰もいないということである。誰もいないからこそ、主が立ち上がってくださる。主はご自分の御腕によって救いをもたらしてくださる。これが救いである。そして神は、今から二千年前にイエス・キリストをこの世に遣わされ、その救いの御業を成し遂げてくださった。イエス様は、私たちと神との間の敗れ口に立つかのようにして十字架に架かって死んでくださった。神はそのひとり子イエス・キリストを通して義を確立してくださったのである。私たちが罪から救われる道は、このイエスを救い主として信じる以外にはない。私たちは自分の力で救われることはできない。ただ神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いのゆえに、価なしに義と認められるのである。

あなたは、このイエスを自分の罪からの救い主として信じているだろうか。もうすぐイエスが再臨される。二千年前にはしもべとして、私たちに仕えるために来られたが、二度目は違う。主が再び来られる時には、栄光の王として、キング・オブ・キングスとして来られる。このイエスの救いにあずかる者は幸いである。あなたも自分の罪を認め、神に救いを求めていただきたい。救いは主の御手にあるのだから。

Isaiah59:1-21 “Salvation is in the Lord’s hand”

In Isaiah chapter 58 Isaiah touched on Israel’s problem.  That was that their faith was just a formality, and it had no substance.  Action didn’t accompany it.  In this chapter 59 it takes up the root problem.  That is the problem of sin. They weren’t able to put their faith into concrete action because of the root problem of sin.  They can’t solve the problem of sin by their own power.  Only God can save them. Only God can solve all the problems of sin and punishment.

Ⅰ.Separated from God

First please look at verses 1 to 8.  I will read verses 1 and 2. “Surely the arm of the LORD is not too short to save, nor his ear too dull to hear. But your iniquities have separated you from your God; your sins have hidden his face from you, so that he will not hear.”

This content was also in 50:2. Even though Israel because of their sins was destroyed and became captive to Babylon, they bore a grudge towards God and accused him.  They complained that God had abandoned them just like a man’s child is sold into slavery when his debts were not paid.  However, that is definitely not so. The Lord loves them with eternal love.  Therefore, no matter what happens he will never abandon them.

The problem was their “sins” (50:1) and “transgressions” (50:1) Therefore, they were sent away. They themselves were the whole cause of them becoming like they were, Therefore, in 50:2 the Lord says, “When I came, why was there no one?

When I called, why was there no one to answer?

Was my arm too short to ransom you?

Do I lack the strength to rescue you?

By a mere rebuke I dry up the sea,

I turn rivers into a desert;

their fish rot for lack of water and die of thirst.”

The Lord until now has sent prophets over and over again to them to warn them.  Even so no one answered him. “Why”? (50:2) It wasn’t because God’s arm was “too short to ransom” (50:2) them. It wasn’t because God lacked “the strength to rescue” (50:2) them. It was because they didn’t have any faith. No matter how much they were warned, they didn’t listen to the Word of God.  That was the problem.

Here too it is saying the same thing. They became like this not because “the arm of the LORD is…too short to save.” (1) It is also not because God’s ears are “too dull to hear.” (1) Their iniquities “have separated” (1) them from their God and their “sins have hidden his face from” (1) them “so that he will not hear.” (1)

We often make a mistake and think that because of it God is angry and has moved away from us, but that is not so. God hasn’t moved away, but we have moved away.  For example, remember Adam. Adam was the first to sin. When he took and ate fruit from the tree that he was told not to eat from, God didn’t move away from him.  Even then God wanted to be with Adam. Therefore, he called out to Adam, “Where are you?” (Genesis3:9) Adam was hiding between the trees not because he was playing hide and seek, but because he had sinned, He was hiding because he was afraid. Therefore, it wasn’t God who moved away from Adam, but Adam moved away from God. When man sins, he hides from God.  The sin becomes a wall, separates us from our God, and   hides God’s face from us “so that he will not hear.” (1)

Please look at verses 3 to 8. Here it describes the result of sin, how filthy man became. First in verses 3to 6 sins committed by the hands and mouth are written about. “For your hand are stained with blood,

your fingers with guilt.

Your lips have spoken lies,

and your tongue mutter wicked things.

No one calls for justice;

no one pleads his case with integrity.

They rely on empty arguments and speak lies;

they conceive trouble and give birth to evil.

They hatch the eggs of vipers

and spin a spider’s web.

Whoever eats their eggs will die,

and when one is broken, an adder is hatched.

Their cobwebs are useless for clothing;

they cannot cover themselves with what they make,

Their deeds are evil deeds,

and acts of violence are in their hands.”

“For your hand are stained with blood, your fingers with guilt. Your lips have spoken lies, and your tongue mutter wicked things. No one calls for justice (3,4) or “pleads his case with integrity. They rely on empty arguments and speak lies.” (4) They

do things to entrap other people. In fact, they entrap people. It is just like hatching from “the eggs of vipers”. (5) It is really “trouble”. (4)  Also like spinning “a spider’s web” (5) they cause others to fall into a trap.

Please look at verses 7 and 8. “Their feet rush into sin;

they are swift to shed innocent blood.

Their thoughts are evil thoughts;

ruin and destruction mark their ways.

The way of peace they do not know;

there is no justice in their paths.

They have turned them into crooked roads;

no one who walks in them will know peace.”             Next is their feet. “Their feet rush into sin; they are swift to shed innocent blood…The way of peace they do not know; there is no justice in their paths. They have turned them into crooked roads; no one who walks in them will know peace.” (7,8)

Please look at Romans chapter 3. Romans 3:9-18.

“What shall we conclude then? Are we any better? Not at all! We have already made the charge that Jews and Gentiles alike are all under sin.  As it is written: ‘There is no one righteous, not even one; there is no one who understands, no one who seeks God.  All have turned away, they have together become worthless; there is no one who does good, not even one. Their throats are open graves; their tongues practice deceit. The poison of vipers is on their lips.  Their mouths are full of cursing and bitterness.  Their feet are swift to shed blood; ruin and misery mark their ways, and the way of peace they do not know. There is no fear of God before their eyes.’”

Paul is quoting this passage to show that all men are “under sin.” (Romans 3:9) The first man Adam sinned, so all men are under sin. The Jews are not an exception. All men are “under sin.” (Romans 3:9) “All have turned away, they have together become worthless.” (Romans 3:12) We are the same too. We may think that we aren’t such terrible people, but we are like mud that has settled at the bottom of a cup. When the water is stirred, the water is completely muddy. This could happen to us at any time.

How can this problem of sin be solved? Can it be cut off by your will? Can it be solved by fasting? I often decide to diet, but I haven’t been successful yet. Even though man’s will seems strong, it is surprisingly weak. How could such a will cut off sin? Paul confesses how wretched he is in his inability to cut off sin. “What a wretched man I am! Who will rescue me from the body of death?” (Romans 7:24)

This is a naked confession of a man who confronted sin.  No one can rescue us “from the body of death?” (Romans 7:24) However, unless this sin is removed there is no salvation. What should we do?

Ⅱ.The confession of sin (Vs. 9-15)

To do that we must admit that we are such a being. In other words, we have to admit that we are sinners, and agree with what God says. In the Bible this is called “confess”. Please look at verse 9. “So justice is far from us,

and righteousness does not reach us.

We look for light, but all is darkness;

for brightness, but we walk in deep shadows.”

Here the subject changes. Up to here it has been “They”, but now it changes to “us”. It is because from here on they are confessing sin. Up until now they were shown to the point that they were disgusted at how filthy they were from sin and they consented to it and admitted that they were like this. The solution to sins begins by admitting to it. If you are shown how filthy you are, begin by admitting that it is true. If you make excuses, or think that it is unrelated to you, you will never be able to flee from the sin.

Here it says, “We look for light, but all is darkness; for brightness, but we walk in deep shadows.” (9) This is human life. We go all out to build a better society by our wisdom and constant effort, but what was the real result? Civilization developed, and did it become a peaceful world without struggles and war?  No, it didn’t. “We look for light, but all is darkness.” (9) Many people are beginning to realize that the past was more peaceful. The development of civilization doesn’t necessarily lead to happiness.

Please look at verse 10. “Like the blind…at midday we stumble as if it were twilight; among the strong, we are like the dead.” It is being in the condition of not knowing which direction we should go. It is like “we all growl like bears; we moan mournfully like doves. We look for justice, but find none; for deliverance, but it is far away.”(11)  It seems like it is describing the present world. Problems stack up and we growl like impatient and frustrated bears no knowing which direction to go to cope with the problem. While the problems are not yet solved, the next problem comes up. We come no nearer to the real solution and it gets further and further away.

The reason is in verse 12. “For our offenses are many in your sight,

and our sins testify against us.

Our offenses are ever with us,

and we acknowledge our iniquities.”

What a wonderful confession! They honestly admit “For our offenses are many in your sight, and our sins testify against us.” (12) Then they confess, “Our offenses are ever with us, and we acknowledge our iniquities.” (12) They are confessing that their sin is not just a simple act of sin, but it is sin that by nature always clings to them. In Paul’s words, “What a wretched man I am! Who will rescue me from the body of death?” (Romans 7:24) It is the same thing. They are confessing that they are really sinful people that are beyond help.

Please look at verses 13 and 14. “rebellion and treachery against the LORD,

turning our backs on our God,

fomenting oppression and revolt,

uttering lies our hearts have conceived.

So justice is driven back,

and righteousness stands at a distance;

truth has stumbled in the streets,

honesty cannot enter.

This became a form of admitting that what God said in the previous verses 3 to 8  is right, completely true. The subject is just been changed from they to we. They are acknowledging all the offenses that God had pointed out to them. However, this is where real salvation begins.  The end of verse 15 says, “The LORD looked and was displeased that there was not justice.”  If you will look at the next verse you will see that “there was no justice” (15) for Israel means that “there was no one to intervene” (16), to work salvation. “Yet the LORD longs to be gracious to you;

He rises to show you compassion.

For the LORD is a God of justice.

Blessed are all who wait for him!” (30:18)

It is only the Lord who can bring salvation.  There is no one else who can intervene. “The LORD longs to be gracious to you.” (30:18) God longs to give you salvation, but for that salvation to begin we must admit that we are as the Lord says, sinful and then repent.

 

Ⅲ.The salvation of the Lord. (Vs. 16-21)

Please look at verse 16. Here it says, “He saw that there was no one,

he was appalled that there was no

  • one to intervene;

so his own arm worked salvation for him,

and his own righteousness

sustained him.”

This means that the Lord looked and there was no one that could save them and no one that could intervene for them and “he was appalled”. (16)

Before when Israel left Egypt and was led to the wilderness, they worshipped the golden calf, which was about to bring the anger of God upon them and they were about to be destroyed, but then Moses stood between God and the people and prayed like this, “But now, please forgive their sin-but if not, then blot me out of the book you have written.” (Exodus 32:32)

Moses stood between God and the people and interceded. However, in this age there is no one who will stand up, intervene, and intercede. On the human end there is no one who can save them from their sin.

Therefore the Lord will rise up. There is no one so the Lord’s “own arm worked salvation.” (16) This is salvation. Therefore, God sent Jesus Christ into this world 2000 years ago, and completed the work of salvation. There is no one who can save us from sin so Jesus came to this world and like an intercessor, a mediator, was put on the cross and died. He interceded praying, “Father, forgive them, for they do not know what they are doing.” (Luke 23:34) Therefore, this is a prophecy that the Savior Jesus Christ would come. “His own righteousness sustained him” (16) means that God brought in a righteousness by the merit and meditation of his own Son. Christ is called “the righteousness that comes from God.”(Phil3:9)

Please look at verse 17. Here it says, “He put on righteousness as his breastplate, and the helmet of salvation on his head; he put on the garments of vengeance and wrapped himself in zeal as in a cloak.”

Here “righteousness” and “salvation” are expressed as things to be worn. This means that by putting on righteousness we will be allowed before God. This is the righteousness of God. Paul says in II Cor. 5:21, “God made him who had no sin to be sin for us, so that in him we might become the righteousness of God.”

Also in Romans 3:23 and 24 too he said, “For all have sinned and fall short of the glory of God, and are justified freely by his grace through the redemption that came by Christ Jesus.”

We cannot save ourselves from sin. It is only God’s “grace through the redemption that came by Christ Jesus” (Romans 3:24) that we “are justified freely.” (Romans 3:24) We must put on our Lord Jesus. We shouldn’t work hard like Adam sewing fig leaves together to make a covering in a feeble and futile attempt to hide our shame, which only God can cover, but put on the covering that God has prepared. That covering is Jesus Christ.

Have you put on righteousness? Have you put on the clothes that God has prepared.  The one and only way that we can be saved is by putting on righteousness. There is no other way. It is only by Jesus Christ that we can be “justified freely”. (Romans 3:24)

Here it says, “He put on the garments of vengeance and wrapped himself in zeal as in a cloak.” God says in 63:4, “For the day of vengeance was in my heart, and the year of my redemption has come” The day of judging the enemy meant at the same time redemption for God’s people. It is a part of the day of the Lord. God will with “zeal” (17) carry out the work of righteousness, salvation, and judgment. Salvation is not by our power, but by the “zeal” (17) of the Lord.

Please look at verses 18 and 19. “According to what they have done,

so will he repay

wrath to his enemies

and retribution to his foes;

he will repay the islands their due,

From the west, men will fear the

name of the LORD,

and from the rising of the sun,

they will revere his glory.

For he will come like a pent-up flood

that the breath of the LORD drives along.”

This means that the Lord “will come like a pent-up flood” (19) to repay. In other words this is a prophecy of the second coming. In Isaiah’s age the Messiah, the Savior Christ hadn’t come so Christ’s first coming and second coming are seen as two overlapping mountain peaks in the far distance. However, in reality there is a time gap between them like there are valleys between mountains. We are now in a valley. The Savior has already come.  However, the Lord will come again. At the time the Lord will “According to what they have done, so will he repay wrath to his enemies and retribution to his foes; he will repay the islands their due, From the west, men will fear the name of the LORD, and from the rising of the sun, they will revere his glory.” (18,19) It will be “like a pent-up flood.” (19) The Lord “will come like a pent-up flood that the breath of the LORD drives along.” (19) We are now waiting for this. This will be for us the time of the completion of our salvation.

Last year typhoons came one after another to Japan, bringing huge disasters to every area. On T.V. there were pictures of the washout of the levees on the Katsuragawa      River in Kyoto. The water of the river with tremendous momentum gushed into the tourist area of Kyoto. Like that flood the Lord will come again. When Jesus came the first time, he came as a servant of the Lord. He had “nothing in his appearance that we should desire him.” (53:2) He came to serve. However, when he comes again, he will come as the glorious king, the King of Kings, He will come in glory. When Jesus comes again he will come gushing with tremendous momentum like when a levee has washed out.

Now there maybe people who can’t believe this at all, but that is the same as how it was in the age of Noah. In Noah’s age too there were people who couldn’t believe and made fun of Noah. Just as the Lord had said, there was a flood and everything on the earth perished.  However, Noah and his family who entered the ark were saved. In the same way, God is warning us that at the time of the Lord’s judgment, he will come again like a raving flood. The reason that that hasn’t occurred yet is because as II Peter 3 says, “The Lord is not slow in keeping his promise, as some understand slowness.  He is patient with you, not wanting anyone to perish, but everyone to come to repentance.” (II Peter 3::9)  This day is certainly getting closer. The water is gradually building up. In the course of time the levee will break and like a pent-up river gushing out, the glorious Lord will come. Are you prepared for his coming? Have you entered the ark of salvation, of Jesus Christ.

Lastly, let’s look at verse 21. “As for me, this is my covenant with them,” says the LORD. “My Spirit, who is on you, and my words that I have put in your mouth will not depart from your mouth, or from the mouths of your children, or from the mouths of their descendants from this time on and forever,” says the LORD.

This is the covenant that God made between us and God. Even if the words of the covenant are passed down for ever, they will never change. This is the way of salvation.  To be saved from the bounds of sin that bind us is the one and only method of salvation that God prepared.  Salvation is given only by seeking God’s help for yourself. It is given by admitting honestly your sins, invoking God’s mercy, and through Jesus Christ who intercedes for us. Have you received this salvation? Seek God’s salvation. That’s because salvation is in the Lord’s hand.