イザヤ30:1-15 レジュメ

「反逆の子ら」                                              N041

Ⅰ.何もしないラハブ(1-7) 

主は、南ユダを「反逆の子ら」と呼んだ。それは「彼らははかりごとをめぐらすが、わたしによらず、同盟を結ぶが、わたしの霊によらず、罪に罪を加えるばかり」(1節)だったからである。その当時、南ユダにはアッシリヤの脅威が迫っていた。アッシリヤは北イスラエルをのみ込むと、破竹の勢いで南ユダに迫っていたのだ。いったいどうすればいいのか。ユダはエジプトに助けを求めた。しかし、それは主によることではなかった。神を抜きにしたはかりごとだったのである。人がはかりごとをめぐらすこと、計画を立てること自体は問題ではない。問題は、その計画が神を抜きにしたものであり、自分であれこれとはかりごとをめぐらしてしまうことである。しかし、私たちはまず神に求めなければならない。神には計画があることを認め、その神の計画の中にむしろ私たちが参画していかなければならないのだ。そうではなく人に頼るととんでもないことになる。ユダは神の指示をあおごうとせずユダに下って行こうとした。そこに安心を求めた。しかし、その結果は恥であり、侮辱であった。また、そこには苦難と苦悩が伴った。なのに、エジプトは何の役にも立たなかったのである。ここに「何もしないラハブ」(7節)とある。「ラハプ」とは騒ぎ立てるとか、威張り散らすという意味である。いかにも強そうで頼りになるかと思ったら何もしない。ここの別訳は「病気で休んでいるラハブ」である。寝たきりで、何もできない状態だった。それがこの世である。南ユダはそのようなものに頼ろうとしていたのだ。しかし、彼らがまず尋ねなければならなかったのは神であり、神に頼らなければならなかった。神だけが全能者であり、真に助けとなられる方なのである。

 Ⅱ.主の小道を歩もう(8-11)

神はイザヤに、ご自分のみことばを書き記すようにと言われた。それは、彼らの苦悩は彼らが神のことばに従わなかったからであることを示すためであった。神のことばこそ唯一信頼に値するものである。なのに、彼らはこの神のことばをどのように受け止めたであろうか。「彼らは予見者に『見るな』と言い、先見者には『私たちに正しいことを預言するな。私たちの気に入ることを語り、偽りの預言をせよ。』」(10節)と言った。何ということか。聖書をねじ曲げて、自分たちに都合いいように語れというのだ。なぜ彼らはそのように言ったのだろうか?それはイザヤをはじめとした預言者たちが正しいことを知っていたからだ。しかし、それは自分たちの都合に合わない。気に入らなかった。だから自分たちが気に入るようなことを語ってもらいたかったのである。しかし、それは道からそれ、小道からそれることであった。それは、神ご自身を拒否していることと同じことである。彼らは口では神を信じていると言いながらも、その実は神を退けていたのだ。ただ自分たちに都合のいい神を造っていたにすぎない。その神をイエス・キリストと呼んでいただけだったのである。

人はみな自分にとって都合のいい話を聞きたい。嫌なことは聞きたくない。なめらかな言葉、受け入れやすい言葉を聞きたいのだ。しかし、箴言27:5には、「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。」とある。時として心にグサッと突き刺さるようなことばであってもそれが神のことばであるなら、それを神からの愛のむちとして受け止めるものでありたい。そうした懲らしめによって、私たちは成長を遂げていくことができるのである。

Ⅲ.立ち返って静かにせよ(12-15) 

もし神のことばをないがしろにし、しいたげと悪巧みに拠り頼むなら、どのようなとになるのか?「それゆえ、このあなたがたの不義は、そそり立つ城壁に広がって今にもそれを倒す裂け目のようになる。それは、にわかに、急に、破滅をもたらす。」(13節)そこには破滅しかない。ちょうどほんのわずかな亀裂が城壁全体を崩してしまうように、神のことばを退ける人は必ず崩壊を招くことになる。それはにわかにやってくる。急にもたらされる。そして、その破滅は、陶器師のつぼが容赦なく打ち砕かれるときのように、粉々に砕かれる。もはやその破片で、炉から火を集めたり、水ためから水を汲むほどのかけらさえ見いだされない。もう人生をやり直せないほどに、これまでの人生が一つも役に立たないほどに砕かれるのである。

これは警告である。反逆の子らへの警告だ。彼らははかりごとをめぐらすが、神にはよらない。窮地になれば、自分にはこんな計画がある。これに頼れば何とかなると考える。十分蓄えがあるから大丈夫。これまでの経験で何とかなる。あの人に頼めば打開できる・・・。とあれこれと思いをめぐらすが、神の霊によらない。それは明らかに罪である。その結果は恥であり、侮辱である。遠回りして、苦労して、さまざまな危険にさらされるものの何の役にも立たない。そのまま歩めば最後は小さな裂け目からすべてが崩壊してしまう。粉々になってしまう。今までの人生はいったい何だったのかと思うほど、粉々に砕かれてしまうのである。これまで蓄えたものも役に立たない。得た資格も役に立たない。あんなに健康に留意してからだを鍛えても、あるとき何の役にも立たない時がやってくる。

では救いはどこにあるのか?「立ち返って静かにすれば、あなたは救われ、信頼すれば、あなたは力を得る。」(15節)あなたが親しくすべき方は神である。そして、いつも近くに置くべきものは聖書だ。聖書を通して神に出会い、そのみことばを聞き、それに従うなら、あなたは救われる。力を得る。どうか破滅ではなくこの救いの道を歩んでほしい。反逆の子にならないで、神に喜ばれる子になっていただきたい。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたの人生にはどんな脅威がありますか。その危機の状況で、あなたはどこに助けを求めていますか?。

・あなたは聞きたくない聖書のことばを聞くとき、どのように反応していますか?「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。」という聖書のことばをどう思いますか。

・あなたの人生には小さな亀裂はありませんか。あなたはそれをどのように修復しようとしていますか?

イザヤ29:1-24 レジュメ

 [アリエルのうめき]                             N040

 Ⅰ.しいたげられるアリエル(1-8)

 アリェルとはエルサレムの名である。「神のライオン」とか[祭壇の炉]という意味かおる。アリエルはダビデによって都に定められた。神の箱がエルサレムに運ばれてきたとき、ダビデは力の限り踊った。それはまさにライオンのように勇ましい姿であった。しかしそれは同時に祭壇の炉をも意味する。いけにえをささげる炉のことてある。そこで彼らは大のような試練を受ける。なぜなら、彼らの心が神から遠く離れていたからだ。

 しかしそんなアリエルを神は救われる。敵が彼らを取り囲んでも、神の奇跡的なご介入によって彼らは救われる。これはB.C.701年のアッシリヤの攻撃の様子が背景にある。アッシリヤはエルサレムを取り囲み、エルサレムはまさに風前のともしびのようになったが、神の使いが出て行き、一晩で185、000入のアッシリヤ兵を撃ち殺した。どんなに敵が襲っても、万軍の主は雷と地震と大きな音をもって、つむじ風と暴風と焼き尽くす炎をもって彼らのところに訪れてくれる。アリエルが、エルサレムが滅ぼされることなど決してない。なぜなら、エルサレムはダビデによって定められたからである。ダビデの子イエス・キリストが臨在しておられる神の都だからである。その神の都を破壊しようとすることなどまさに夢物語であり、非現実的なことなのである。そのような者だらけ、夢見る者たちのように、干からびたのどのようになる。

 Ⅱ.深い眠りの霊(9-16)

 いったいなぜアリエルはうめくようになったのか。それは彼らの目が閉ざされており、彼らの頭小おおわれていたからである。彼らはぶどう酒や強い酒は飲んでいなかったが、エフライムのようにふらついていた。それは彼らに深い眠りの霊が注がれていたからである。彼らは神のことばを全く理解することができなかった。それは封じられた書物のようであった。読み書きできる人も、できない人も屯、理解できなかった。それはこの書物がそれほど難しかったからではない。理解しようという気持ちがなかったからだ。悟りたいと思っていなかった。どんなに知識のある人でも聖書を理解したいと思わなければ、その意味はわからない。それは退屈で、無味乾燥な、どこを読んでもわからないミステリヤスなものになってしまう。しかし、どんなに無学な者であっても、聖書を学びたい、もっと深く知りたいと願うなら、理解が与えられる。

 その根本的な原因は何だったのか。彼らは目先では神を敬っていても、その心は神から遠く離れていたことである。ワーシップサービスではなく、リップサービスになっていた。神を賛美しながら全く別のことを考えていた。心が伴っていなかったのだ。心ここにあらずであった。これが問題である。それは彼らが人の教えを教えとして、神の教えを教えていなかったからだ。自分に都合がいいように、自分の考えや主義主張を唱えていたからである。その結果、彼らの心は神から遠く離れていたのである。聖書を教えているようでも、実際は聖書の教えではなかった。人間の教えを教えとしていたのだ。これでは神の御業は現れない。たとえ私たちが理解できようができまいが神のことばを神のことはとして受け入れ従うときに、私たちが理解できないはどのすばらしい御業が現れるのである。

 III.つぶやく者も教えを学ぶ(17-24)

 ここにはアリエルの回復が述べられている。「もうしばらくすれば、確かに、レバノンは果樹園に変わり、果樹園は森とみなされるようになる。」(17)聖書の確かな約束である。その約束のとおりに、かつて地雷が埋め込まれていたレバノンは、今や立派な果樹園に変えられた。レバノンの人口の40%はクリスチャンである。やがて終わりの日に、レバノンは完全なかたちで回復することであろう。その日、耳の聞こえない者が書物のことばを聞き、目の見えない者の目が暗黒とやみから物をみるようになる。これまで「ああ眠い。聖書はほんとうに退屈な本だ。何か書いてあるかわからない。読みたくない。」と言っていた人が、こぞって聞くようになる。心の迷っていた者は悟りを得、つぶやく者もおしえを学ぶようになるのだ。神は必ずこのようにしてくださる。なぜなら、そこは神が臨在しておられる神の都だからである。神があなたとともにおられ、あなたをすべてのわざわいから守ってくださる。アブテハムを贖われた主はあなたをも贖ってくださり、この神の都に置いてくださった。あなたもまた回復されるのである。あなたの心は迷っていないか。つぶやいていないか。へりくだって神のことばを聞き、貧しい者の心とかって神のことばを求めよう。そうすれば、あなたにも悟りが与えられ、この約束に立つことができるようになる。水遠の神の深いご計画に目を留めることができるようになるのだ。主のおしえを学ぶこと。それが私たちの信仰の原点である。

まとめ(自分に適用してみましょう)

・あなたはしいたげられていませんか。あなたがどんなにしいたげられても、神はあなたを守ってくださると 信じていますか。

・あなたは神のことばを求めていますか。知りたいと願って卜ますか。それを実際の生活の中でどのように表 していますか。

・あなたの信仰は目先だけの形式的なものにはなっていませんか。心が伴った信仰であるために必要なことは何ですか。

イザヤ28:14-29 レジュメ

「これを信じる者はあわてることがない」                          N039

Ⅰ.これを信じる者はあわてることはない(15-16) 

ここで主はイザヤのメッセージを聞いてあざける者たちに語られた。「主のことばを聞け。」と。彼らは「私たちは死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる。たとい、にわか水があふれ、越えて来ても、それは私たちには届かない。私たちは、まやかしを避け所とし、偽りに身を隠してきたのだから。」(15)と言った。「死」とか、「よみ」とは、エジプトのことである。彼らは北から攻め入ろうとしていたアッシリヤに対抗するためエジプトと同盟を結ぼうとした。エジプトと契約を結べば、たとえアッシリヤが攻めてきても大丈夫だと思ったのである。しかし、それは死と契約を結ぶようなものである。よみと同盟を結ぶようなことなのだ。そんなものは何の役にも立たない。アッシリヤが大洪水のように襲ってきたら、たとえエジプトと同盟を結んでも失望することになってしまう。彼らはただ神に信頼するようにというイザヤのメッセージをあざ笑い、自分たちの考えで、自分たちの力でそれを乗り越えようとしたが、それは全くむなしいことであった。

そこで主は彼らに次のように言われた。「見よ。わたしはシオンに一つの石を据える。これは、試みを経た石。堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることはない。」主は彼らに、彼らが頼らなければならないまことの道を示された。それはシオンに据えられた礎の石である。それは試みを経た石であって、どんなことがあっても壊れたりすることがない堅い石である。何度も何度も検査して証明済みの石なのである。これに信頼するなら、あわてることはない。パウロはこれをローマ人への手紙の中に引用している。彼はこの石こそイエス・キリストだと宣言した。イエス・キリストこそ全く傷のない完全なお方である。イエス・キリストこそこの堅く据えられた礎の、尊いかしら石なのであって、この方に信頼する者は決して失望させられることがないと言った。

我々は当時のイスラエルの指導者たちのようにエジプトと手を組めば守られるのではないかと考える。エジプトとはこの世の象徴だ。この世の力を借りて、この世の専門家を動員して、あの問題、この問題に対処すれば何とかなるのではないかと考えるが、その結果は失望するだけである。これを信じる者は、あわてることはない。ただキリストを信じ、この方にすがることによってのみ、我々は守られるのである。

 Ⅱ.比類なき神のみわざ(17-22)

なのに、彼らは神により頼むことをしなかった。それゆえに神はアッシリヤをもって彼らを懲らしめる。彼らによって踏みにじられるようにされた。それは身を伸ばすには短すぎる寝床のようであり、身をくるむには狭すぎる毛布と同じだ。いざというときに何の役にも立たない。私は生命保険に入っているから大丈夫。銀行にこれだけ貯金があるから、不動産がある、私には健康がある、健康だけが取り柄です、あの資格、この資格があるから食べていくには心配ない。しかし、それは短すぎる寝床であり、狭すぎる毛布である。いざというときに、あなたを守ってはくれないのだ。ほんとうに守ってくれるものは、あなたを地獄の滅びから救い出してくださったイエス・キリストだけである。主はかつてペラツィムの山でペリシテを打ち破った時のように、そのみわざを行われる。それは比類のないみわざだ。このイザヤの時代もエルサレムは何十万人というアッシリヤの軍隊に囲まれたが、ユダの王ヒゼキヤとイザヤが必死に祈ったとき、主の使いが出て行き、一晩で185,000人のアッシリヤ兵を打ち倒した。まさにアメージングである。それはイザヤの時代だけではない。この世の終わりに何十万という地上の軍隊がメギドの丘に集結し、そこで再臨の主に立ち向かっても、主は一息で彼らを滅ぼされる。そのみわざは偉大で、比類のないものである。どの時代であっても、彼に信頼する者は失望させられることはない。

Ⅲ.その奇しいはかりごと(23-29) 

それは、農夫の作業をみればわかる。農夫は土地を耕したら種を植える。その植え方は穀物の種類によって異なる。「ういきょう」や「クミン」といった香辛料の種は手を蒔くが、小麦、大麦、裸麦といった穀物の種は、それぞれうねに、定まった場所に、その境にと、場所が違う。農夫はその穀物の種類にしたがって最も適した方法で、一番最適な場所に蒔いたり、植えたりする。

それは収穫も同じだ。すべてがすべて脱穀機で脱穀するわけではない。ういきょうやクミンは棒を打って脱穀するかと思えば、堅い穀物の実は、脱穀車や馬のかかとを利用して脱穀する。つまり、農作業は作物によっていろいろな手順や法則がある。それと同じように、神は国家や個人を扱う時にもいろいろなやり方や方法があるのだ。大切なのは、その背後に奇しい神のみわざがあることを覚え、その神に完全にゆだねることである。たとえ自分たちの考えや思いでは愚かなことのようであっても、主が最善に導いてくださると信じて従うことが求められているのだ。

主のはかりごとは奇しく、そのおもんぱかりはすばらしいものであ。主はイザヤの時代にユダに対して最善の計画を持っておられたように、私たちにもすばらしい計画を持っておられる。そう信じて、神のみことばをあざ笑うのではなく、純粋に、慕い求める者でなければならない。

まとめ(自分に適用してみましょう!)

 ・あなたには当時の宗教指導者たちのように、単純なイザヤのメッセージを、聖書のみことばをあざ笑うといった心はありませんか。生まれたばかりの乳飲み子のように、みことばの乳を慕い求めていますか。

・あなたはこの世のもので自分を守ろうとする思いはありませんか。あなたが頼りとしているものは何ですか。そのことで失望させられたことはありませんか。あなたがイエス・キリストだけに信頼するために必要なことは何ですか。

イザヤ28:1-13 レジュメ

「ここにいこいがある」                                  N038

Ⅰ.エフライムの酔いどれ(1-6) 

再びイスラエルとユダに対して語られる。まずエフライムに対して。エフライムに対して主は、「ああ。エフライムの酔いどれの誇りとする冠、その美しい飾りのしぼんでゆく花。これは、酔いつぶれた者たちの肥えた谷の頂きにある。」(1)と語られた。エフライムとは北イスラエルのこと。北イスラエルは酔いどれのようであった。なぜ?なぜなら、彼らが高ぶっていたからだ。彼らはその豊かな土壌のゆえに農業が盛んで、経済的に豊かであった。それゆえに彼らは高ぶり、酔いどれのようになってしまった。いくら神がさばきを警告しても、何の脅威も感じない鈍感な心になっていた。主はこれを「酔いどれ」と呼んだのである。Iヨハネ2:16に「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。」とある。エフライムは特に「暮らし向きの自慢」がネックになっていた。そのようなものを頼りにしていた。そのようなものをまるで神にように頼りとしていたので、聞くべきことが聞けなくなっていたのである。

 Ⅱ.戒めに戒め、規則に規則(7-10)

次は南のユダの指導者たちに対する宣告である。彼らもまた酔いどれのようであった。ぶどう酒のためによろめき、強い酒のためにふらつき、幻を見ながらよろめき、さばきを下すときよろけた。彼らは、エフライムとアラムの連合軍が攻めてくるという知らせに対してアッシリヤに助けを求め、アッシリヤによって危機を乗り越えようとした。表面上はうまくいった。その危機を乗り越えて祝いの酒を酌み交わしていた。しかし、昨日の友は今日の敵ということもある。やがてそれが現実のものとなって押し寄せてくることになる。彼らの判断は間違っていた。彼らは神に拠り頼むべきだったのに人に頼ってしまった。酔いどれのようにふらついていたのだ。

そればかりではない。イザヤの鋭い指摘に激しく反発した。「我々をいったいだれだと思っているのか。赤ん坊や幼子に教えるように語るなんて。我々が神の啓示を知らないとでも思っているのか。口を開けば、やれ戒めだの、それ規則だとなんだかんだうるさいな。」と、酔いがまわった口調で反論した。

Ⅱテモテ4:3-4には、世の終わりは、健全な教えに耳を貸そうとしないで、自分に都合のいいことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くようになるとある。聖書の話だけではレベルが低い。もっと高尚な、もっと自分の欲望を満たしてくれるような、自己実現をもたらしてくれるような話を聞きたいというようになる。しかし、聖書はそのまま読んでいくのに値するものである。なぜなら、聖書は聖霊によって書かれたものであって、教えと、戒めと、矯正と、義の訓練とのために有益だからである。聖書をそのまま読んでいけば、聖霊によって自分の欠けが示され、戒めを受け、思いが変えられ、行動が変えられていく。パウロは、「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です。」(Iコリント1:18)と言った。真理は単純である。そんなに複雑ではない。十字架のことばをそのまま読み、そのまま受け入れていかなければならない。それで十分である。それが私たちに必要とされていることなのである。

Ⅲ.ここにいこいがある(11-13) 

それゆえに主は、もつれた舌で、外国のことばで、彼らに語られる。それは彼らには理解できないことばであり、意味不明の言葉である。それはアッシリヤをはじめとする外国の国々のことを指している。そうした国々によって襲われるようにするというのだ。パウロはこれを異言の説明の中で引用している。それは信者のためのしるしではなく、不信者のためのしるしです・・・と。(Iコリント14:22)この不信者こそ、ここでいう神のことばを聞こうとしない人たちのことである。彼らは神のことばを聞こうとせず、神の賜物も信じていなかった。そのような人たちに主は、彼らがハッとするようなしるしを送られる。それがもつれた舌であり、外国のことばであった。

そういう人たちにはいこいはない。そういう人たちはいつも人間的になり、神の働きを認めようとしない。しかし、まことの救いはイエスにある。まことのいのち、まことのいやし、まことのやすらぎはイエスにある。それを受け入れなければならない。主イエスは、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28-30)と言われた。このイエスにやすらぎがある。だれでもイエスのところに行きイエスから学ぶなら、いこいが得られる。それを単純に信じて受け入れなければならない。そうすれば、あなたにも安らぎが来るのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたにも、自分は豊かになったから大丈夫だという過信、暮らし向きの自慢はありませんか。神のことばを素直に聞くとこができますか。

・あなたはユダの霊的リーダーたちのように自分に都合のいいことを言ってもらうために、気ままな願いをもってみことばを聞いていませんか。聖書のみことばから教えられたいという純粋な願いがありますか?

・あなたにはいこいがありますか?へりくだった心で神のみことばを聞こうとしていますか?

イザヤ 27:1-13 レジュメ

「麗しいぶどう畑の歌」                               N037

I . 麗し いぶどう 畑 ( l·6)

2 節に「その日、 麗しいぶどう 畑、これについて歌え。」とある。このぶどう畑とはイスラエルのこと ある。かつてイスラエルは酸いぶどうができた畑として、神の怒りと嘆きとして描かれていたが、ここでは「麗しいぶどう畑」である。もう神の怒りはない。神と和を結んだイスラエルに約束されているのは神の守りと祝福だ。「時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラ ルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす。」(6 節)まさに今のイスラエルはそのようになった。 農業の最先進国として、豊かな農作物を全世界に輸出するまでになった。かつてはそうではなかった。そこは荒れ果てた地であった。1948 年にイスラ ルが建国すると、わずか20年で、世界に花やフル-ツを輸出するまでになったのだ。

しかし 、ここ は 「その時が来れば」とある。それはすぐにもたらされるものではない。実を結ぶには時聞がかかる。 その時を待たなければならない。種を蒔いて、水をやり、芽が出て、 花が咲いて、それから実を結ぶ。 その時まで待たなければならない。

我々は、自分の状態を見ては少しも変わっていない現実に打ちのめされることがある。 しかし、時聞がかかる。その時まで待たなければならない。「 あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成さ てくださる。」(ピリピ1:6) あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、必ずそれを完成させてくださる。やがて実を結ぶことかできるようにしてくださる。そう信じて、しっかりと根を張っていきたい。下に根をっ て、それから上に実を結ぶのであるから。

Il . 神の懲らしめがある(7-11)

それだけではない。神には懲らしめがある。7節に「主は、イスラエルを打った者を打つように、イスラエルを打たれ るだろうか。あるいは、イスラエルを殺した者を殺すように、イスラエルを殺されるだろうか。」とある。 これは、異邦の国々に対する神のさばきと 、イスラエルを懲らしめる時の神のさばきには違いがあることを述べている 。アッ シリヤやバビロンに対する神のさばきは完全な滅びであったが、イスラエルはそうではない。イスラエルが完全に滅ぼされることはない。そこに必ず残りの者を残してくださり、その民によってやがて回復できるように、神の救いと あわれみが注がれるのだ。なぜなら、イスラエルは神の契約の民だからである。確かに罪の結果は刈り取らなければなら ないが、それは彼らを滅ぼすためではなく、彼らを懲らしめるためのものである。神はその中で彼らが悔い改め、救われるようになることを望んでおられるのだ。

黙示録3章19節に、わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」とある。神は愛する者を叱ったり、懲らしめたりする。それは彼らが本当の子どもであるからだ。もしそういうことをしなかったら、それは私生児にすぎない。本当の子どもであるからこそ神は叱ったり、むちを加えたりするのだ。

その具体的な懲らしめが 節にある。それがアッシリヤとかバビロンといった国々であった。主は彼らをスパンク棒のようにして用い、イスラエルが悔い改めるように導いておられた。 彼らはまことの神に背いて偶像に頼ったので、彼らを約束の地から追放された。それは彼らにとって激しい苦難の経験だったが、それによって彼らは神に立ち返ることができたのである 。

それゆえに、後らの不義は赦された。祭壇のすべての石を粉々にされた石灰のようにするとか、アシェラ像と香の台をもう立てないようにするとは、根底から悔い改めるということである 。根底から悔い改めてやり直すなら、神はその人の不義を赦される。新しい人生を始めることができるようにしてくださるのだ。

Ⅲ.神は回復させてくださる ( 12·13)

その結果が12 節と13 節である。12 節には「その日、主はユーフラテス川から エジプト川までの穀物の穂を打ち落とされる。イスラエルの子らよ。あなたがたは、ことりひとり拾い上げられる。」とある。これはアッシリヤからエジプトまでの広い領土を回復し、一人も見落とすことなく、すべてのイスラエルを集めてくださるという約束である。そればかりではない。13節には、「その日、大きな角笛が鳴り渡り、アッシリ ヤの地に失われていた者や、エジプトの地に散らされていた者たちが来て、エルサレムの聖なる山で、主を礼拝する。」とある。19章24-25 節には、「その日、イスラエルはエジプトとアッシリヤと並んで、第三のものとなり、大地の真ん中で祝福を受ける。万軍の主は祝福して言われる 。「わたしの民エジプト、わたしの手でつくったアッシリヤ、わたしのものであるイスラエルに祝福があるように。」とある。すなわち、エジプトやアッシリヤもイスラエルと和睦して、神の祝福を受けるよう になるということである。 神から遠く離れていた異邦人の中からも救われる人を起こしてくださり、共に神を礼拝するようにしてくださるのだ。

何というスケ-ルの大きな祝福であろう。私たちにはそのような回復が約束されている。今はそのかけらの一つも見えないような現実の中にあるが、やがてこのようになるのである。この希望こそ重要である。私たちにとってこの世での生活も大切ではあるが、これから先の希望はもっと重要である。なぜなら、それで永遠が決まるからだ。そして神は、 その永遠においてこのような回復を約束しておられる。私たちはここに望みを置きたい。その望みが今の生活に大きな希望と励ましを与え、そこにどんなに大きな困難があっても、それを乗り越えるカとなるからだ。

時が来れば、実を結ぶようになる。そう信じて、しっかりと根を張っていきたい。やがて芽を出し、花が咲き、豊かな を結んでいく。私たちの信仰は下に根を張り、上に実を結ぶのである。

まとめ(自分に適用 てみましょう!)

・あなたは麗しいぶどう畑ですか?あなたは何と和を結ぼう と していますか?

・あなたの人生は、しっかりと根を下ろしていますか?それをどのように感じていますか?「時が来れば」というみことばを、あなたはどのように受け止めていますか?

・ あなたは、神の懲らしめを受けた時どのような痛みがありましたか?その結果、どのように変わりましたか?

・やがて主は落ち穂を拾い集められるようにあなたを拾い上げてくださるという約束は、あなたにとってどのような励ましを与えますか?

イザヤ26:7-21 レジュメ

「義人の道」                             N036

Ⅰ.義人の道は平らです(7-11) 

この26章には、世の終わりの千年王国において、ユダの国で歌われる歌が記されてある。7節には、「義人の道は平です。あなたは義人の道筋をならして平にされます。」とある。それは何の障害や困難もないということではない。そうした障害や困難があっても主がその道をならして平にしてくださるので、つまずいたり、倒れたり、迷ったりすることがなく、まっすぐに進んでいくことができるということだ。

では、「義人」とはどのような人のことを言うのか?ここにその特徴が書かれてある。それは神を慕い求める人である。義人とは何一つ悪いことをしたことがない正しい人のことではない。聖書が言っている義人とは、イエス・キリストを信じて救われている人のことである。なぜなら、義人はいない。ひとりもいないからだ。すべての人が罪を犯したので神からの栄誉が受けられなくなってしまった。ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるようになったのだ。

あなたは神を慕い求めているだろうか?イエス様は「義に飢え渇いている人は幸いです。その人は満ち足りるからです。」(マタイ5:6)と言われた。信仰によって義と認められた人は、今度はその救いが完成する日を待ち望み、いつも主を慕い求めなければならない。そのような人が満ち足りるのである。

 Ⅱ.義人の道には繁栄がある(12-15)

第二に、義人の道には繁栄がある。12節には、「主よ。あなたは、私たちのために平和を備えておられます。私たちのなすすべてのわざも、あなたが私たちのためにしてくださったのですから。」とある。そして13節では、「私たちの神、主よ。あなた以外の多くの君主が、私たちを治めましたが、私たちは、ただあなたによってのみ、私たちは、ただあなたによってのみ、御名を唱えます。」とある。すばらしい告白である。私たちもかつては罪の奴隷として、罪の支配の中にあった。けれども、神は私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子の支配の中に移してくださった。(コロサイ1:13)私たちはこの御子の支配に生きる者とされたのだ。そのような者にもたらされるのは繁栄と祝福である。15節には、「主よ。あなたはこの国民を増し加え、この国民に栄光を現し、この国のすべての境を広げられました。」とある。これが世の終わりの神の民の姿である。私たちもこのように告白していい。「いや、私にはそんな大した能力はないから・・・」とか、「それは私の性分ではないから・・」と言って、小さくまとまってはいけない。この私を通して神の栄光を最大限に現すことができるように祈らなければならない。

ヤベツは、悲しみのうちに産まれた子どもであった。おそらくヤベツの母親は彼を産んだとき、父親が亡くなっていたのかもしれない。彼女は肉体的にも、精神的にも、経済的にも大変な苦しみのなかにあったのだ。それで彼女は彼を「ヤベツ」(悲しみの子)と名付けたのである。それは彼の心に大きな傷を与え、思春期には自分の名前を呼ばれるごとに、かなり悩んだに違いない。しかし、そんなヤベツが他の兄弟たちよりも重んじられた。それは主が彼の祈りに答えられたからである。ヤベツはこう祈った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」(I歴代誌4:10)その祈りに主が答えられたのだ。義人の道には繁栄がある。私たちもキリストにある新しい者として、キリストにあって罪ゆるされた者として、主が祝福してくださるように、主が地境を広げてくださるようにと祈ることが許されているのである。

Ⅲ.義人の道には守りがある(16-21) 

第三に、義人の道には守りがある。16節には、「主よ。苦難の時に、彼らはあなたを求め、あなたが彼らを懲らしめられたので、彼らは祈ってつぶやきました。」とある。これは大患難時代における苦難のことである。その苦難の時に、彼らは主を求めた。自分たちが槍で突き刺した方を見て、悔い改めたのだ。大患難は彼らにとっては確かに苦しみの極みであったが、その中で彼らは悔い改めて、主に立ち返った。心を注いで祈るようになった。

人は順境の時には祈ろうともしないが、逆境や苦難の時には真剣に、切実に祈る。苦難は人を祈りへと向かわせる。痛みが祈りを産み出すのだ。現代では痛みがあるとすぐに薬に頼ろうとするのであまり痛みを感じないが、そうした痛みが祈りを生み出し、人生の豊かさへと導いていくのである。そうした苦難の中にも神の守りがあるのだ。

しかし、最大の守りはイエス・キリストにある。20節には、「さあ、わが民よ。あなたの部屋に入り、うしろの戸を閉じよ。憤りの過ぎるまで、ほんのしばらく、身を隠せ。」とある。これは大患難時代において、神の残りの者に勧められていることだ。神の激しい怒りの中にも、神は彼らのために隠れ部屋を備えてくださり、さばかれないように守ってくださるという約束である。これはちょうどイスラエルの出エジプトの過越の時に似ている。神の民は贖いの主の血が塗られた家に入り、戸を閉じ、身を隠すことによって救われたように、世の終わりの患難時代においても、主はご自身の民を守ってくださるのである。

しかし、それはイエス・キリストを指し示すものであった。この救いはイエス・キリストによって完全に成就するのである。確かに患難時代におい神の民であるユダヤ人は神が備えてくださる部屋に入ることによって守られるが、イエス・キリストを信じるクリスチャンに約束されているのは完全な御国である。「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」(Iテサロニケ5:9)その時、クリスチャンは雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのだ。そのようにして、いつまでも主とともにいることになる。地上では不信者に対する神のさばきが行われているその時、クリスチャンは栄光のからだによみがえり、空中で主とともにいるようになるのだ。主イエス・キリストにあって救いを得るようにと定められているのである。

何という希望であろうか。主イエスがその希望を私たちに与えてくださる。イエス・キリストを信じるなら、あなたにもこの希望が与えられる。そして、この地上にあってさまざまな困難に直面しても、この方が助けてくださるという確信をもって力強く歩んで行くことができるのである。義人の道にはこのような確かな守りがあるのだ。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたはどのように主を慕い求めていますか?あなたの中に、主を慕い求める思いがないとしたら、どこにその原因がありますか?

・あなたは、自分を通して神の栄光を最大限に現すことができるように神の栄光と繁栄を求めて大胆に祈っていますか?もしそうでないとしたら、どこに原因があると思いますか?

・あなたは、御怒りに会わないで、主イエス・キリストにあって救いを得るという確信がありますか?もしなければ、イエス・キリストをあなたの救い主として信じて、受け入れてください。

イザヤ26:1-6 レジュメ

「全き平安」                             N035

Ⅰ.私たちには強い町がある(1-2) 

1節に「その日、ユダの国でこの歌が歌われる」とある。「その日」とは、世の終わりのことを指す。世の終わりの千年王国とその後に続く栄光の御国に起こることである。その日、ユダでこの歌が歌われるようになる。それは、神はその城壁と塁で私たちを救ってくださるということだ。神の救いが城壁であり、とりでである。それは敵が指一本もふれることができない堅固な町である。その町に入れてくださるというのだ。いったいどのような人がその中に入れていただけるのか?ここには「誠実を守る正しい民を入らせよ。」とある。神が求めておられることは私たちがどれだけ偉大なことをしたかではなく、どれだけ忠実であったかということだ。神はそれぞれにふさわしい働きをゆだねてくださった。それに対してどれだけ忠実であったかである。誠実を守る正しい民は、その堅固な町に入ることができる。

 Ⅱ.全き平安のうちに守られる(3)

第二のことは、その町に入れられた人にどのような祝福が約束されているかである。3節には「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られる。」とある。全き平安とは、ヘブル語で「シャローム、シャローム」だ。英語では「Perfect peace」と訳されている。「完全な平安」である。今は平安でもいつ崩れてしまうかわからないような平安ではなく、何の欠けもない、また、何物にも脅かされることのない平安である。主イエスは、「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)と言われた。そのような平安である。

いったいどうしたらそのような平安を持つことができるのか?ここには「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られる。」とある。「志の堅固な者」とは、自分の思いがしっかりと主に向けられている人のことである。他のものに心が向いていると平安がない。ただ神に心と思いが集中することによってのみこの平安が与えられるのである。なぜなら、神はシャロームだから。神は満ち満ちた方であり、ご自身のもとに来る者をこの平和で満たすことができる。パウロは、「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって神との平和を持っています。」(ローマ5:1)と言った。私たちが平安を得るためには、まず神との平和を持たなければならない。主イエスが来られたのはそのためだった。主イエスは私たちの罪を赦すために十字架にかかって死んでくださった。それは御子を信じる者がひとりも滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。だれでもこのイエスを救い主として信じるなら、すべての罪が赦され、神との平和を持つことができる。

Ⅲ.いつまでも主に信頼せよ(4-6) 

第三のことは、いつまでも主に信頼せよということである。主イエスを信じても平安がないとしたら、いったい問題はどこにあるのか?主に信頼していないことである。まだ主にすべてを任せていない。というのは、信頼するというのは感情的なことではなく、意志の問題だからである。自分の意志によってすべてを主に明け渡すように決断しなければならないのだ。ピリピ4:6-7に、「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスあって守ってくれます。」とある。自分の感情がどうであっても、それがどれだけ大きな問題であっても、何も思い煩ってはならない。むしろ、そのような中にあっても、感謝をもって祈らなければならない。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくださる。

私たちの人生には失望とか、とてもではないが信仰など持てないという時がある。そのような時こそ信仰を働かせなければならない。信仰を発揮してキラリと光る者でなければならない。キリストの弟子たちは、イースターの後で、自分たちも捕らえられて処刑されるのではないかと恐れ、部屋に鍵をかけて隠れるように息をひそめていたが、そこに主イエスが現れて言われた。「平安があるように。」神のシャロームがあなたがたを取り囲んでいるのだ。恐れてはならないと言われたのである。すると「弟子たちは、主を見て喜んだ。」(ヨハネ20:20)あなたもこの時弟子たちが体験した平安をいただくことができる。志を堅固にし、いつまでも主に信頼するなら、主はあなたにもこの平安を与えてくださるのだ。信じて求める者には必ず、神は信頼に応えてくださるからである。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたの心には「全き平安」がありますか?もしないとしたら、その原因はどこにありますか?あなたの心はしっかりと神に向けられているでしょうか?

・あなたの生活の中に理不尽だと思われることがありますか?あなたはそれをどのように解決していましたか?すべてを神にゆだねて祈りましょう。そして、人のすべての考えにまさに神の平安をいただいてください。

イザヤ25:1-12 レジュメ

「神を賛美しよう」                          N034

Ⅰ.神は真実な方である(1-5) 

ここには、大患難時代を通って残されたイスラエルの賛美が描かれている。彼らは、「主よ。あなたは私の神。私はあなたをあがめ、あなたの御名をほめたたえます。」(1節)と賛美した。すばらしい賛美のことばである。主は遠い昔から永遠のご計画を、忠実に成し遂げられた。これが、私たちが神を賛美する理由である。あなたはどれだけこの神の真実を体験しているだろうか。真実な神を体験すればするほど、神への賛美が溢れてくるのである。

それだけではない。ここに「あなたは弱っている者のとりで、貧しい者の悩みのとりで、あらしのときの避け所、暑さを避ける陰となられたからです。」(4節)とある。来るべき大患難時代において、どれほど多くの人が滅びていくことか。しかし、主はその中にもわずかな者を残し、守ってくださる。その人たちのことをイザヤは弱っている者たちと呼んだ。主はそのような人たちの陰として、また避け所として守ってくださる。それゆえに、私たちはこの方に心からの賛美と感謝をささげることができるのである。

 Ⅱ.神は豊かに祝福してくださる(6-8)

それだけではない。ここには「万軍の主はこの山の上で万人のために、あぶらの多い宴会を、良いぶどう酒の宴会、随の多いあぶらみとよくこされたぶどう酒の宴会を催される。」(6節)とある。もうコレステロールの心配はない。カロリーも気にすることもない。メタボとか、メタボ予備軍といった健康指導も受ける必要もない。焼き肉食べ放題、ステーキ食べ放題である。もっともこれは文字通りの焼き肉食べ放題のことではない。古代社会においてこのように油の多い肉とは大きな豊かさを意味していた。そのような宴会に加えられるのである。だれでも、イエスを信じ、救われた人々は、この宴会に加わることができる。何と大きな喜びであろう。

また、ここには万民をおおっている顔おおいと、万民の上にかぶさっているおおいを取り除き、死を滅ぼされるとある。(7節)何とこれまでキリストの栄光を遮断していたおおいが取り除かれ、顔と顔とを合わせて、キリストにまみえるようになる。そして、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていくのだ。もはや死もなく、嘆き、悲しみ、叫びもない。なぜなら、そのとき、主はあなたの涙をすっかりぬぐい去ってくださるからである。

Ⅲ.主を待ち望んで(9-12) 

それゆえに、私たちはその日を待ち望まなければならない。「見よ。この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。この方こそ、私たちが待ち望んだ主。その御救いを楽しみ喜ぼう。」(9節)今はどんなに主を慕い求めても限界がある。朝から晩まで聖書を読もうとしても時間的な制約があったり、肉体的な限界がある。しかし、その日私たちは朝から晩まで思う存分みことばを慕い求めることができる。主を喜び、楽しむことができるのである。そこに希望がある。その希望を待ち望む者でありたい。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたはどれだけ主の真実を体験していますか。主はあなたのためにどんなことをしてくださったかを思いめぐらしてみましょう。

・あなたには今、どんな悲しみや叫びがありますか。その日、主はあなたの涙をすっかりぬぐい去ってくださいます。ここに慰めと希望を求めましょう。

・あなたはどれほど主を待ち望んでいますか。あなたはどこに希望を置いていますか。

イザヤ24:14-23 レジュメ

「残りの者の歌」                           N033

Ⅰ.残りの者の歌(14-16a) 

イザヤは、この24章の前半部分で地がひっくり返るということを語った。それは、この地に住む人たちが神との契約を破ったからである。それで神は地を荒れすたらせ、その面をひっくり返し、その住人を散らされると言われた。しかし、そのような中にもわずかながら救われる人たちもいる。「残りの者」である。これはイザヤ書における重要なテーマの一つでもある。この残りの者が、声を張り上げて主をほめたたえる姿がここに描かれている。大患難時代には、それまで陽気にしていた人たちの心がしおれ、悲しむようになるが、それとは対照的にその患難を通って救われた人たちは喜び歌うようになるのである。

黙示録7章9節から17節にも、この残りの者たちの賛美が記されてある。彼らは御座と小羊との前に立ち、大声で叫んで言う。「救いは、御座にある私たちの神と、小羊にある。」彼らは御座の前にひれ伏し、神を拝して次のように言うのである。「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。」(黙示録7:12)

ベートーベンが「第九交響曲」を作曲した時、彼の耳は聞こえにくくなっていた。彼はそのような絶望の淵にあって、神の助けを求めて祈り、この曲を作った。それは彼が苦しみの中でその腕を天に差し出し、天での歓喜に溢れていたからだ。

やがて私たちもこの主を賛美する時がやってくる。それこそ私たちの希望である。今は辛いこと、苦しいこと、悲しいことがたくさんあるが、その中にあっても私たちが神を賛美することができるのは、私たちにはそのような希望があることを知っているからなのである。

 Ⅱ.止まらない神のさばき(16b-20)

残りの者たちの輝かしい賛美があったかと思ったら一転、イザヤは「私はだめだ。なんと私は不幸なことか。裏切る者には裏切り、裏切り者は、裏切り、裏切った。」と嘆いている。いったいなぜか?確かに患難時代にも救われる人がいる。しかし、手放しでは喜べない。なぜなら、そこに永遠の滅びに行く大勢の人たちがいるからだ。一部の人たちが救われることはすばらしいことだが、あまりにも多くの人たちが苦しみ、滅んでいくことに、イザヤは愕然としたのだ。彼らは神のさばきからどんなに逃げようとしても逃げることができず、隠れようとしても隠れることができない。天の窓が開かれ、地の基が震えるからだ。天の窓が開くとは、天から巨大な雹が降ってくるということである。それは1タラント(約35㎏)の雹で、家や畑など目に見えるあらゆるものを破壊し尽くす。また地が震えるとは、専門用語で「ポール・シフト」のことである。世の終わりにはかつてなかったほどの大きな地震が起こる。それによって地軸が動き、気候変動や地殻変動などが起こる。その結果、地は酔っぱらいのように、ふらふら、ふらついてしまうのである。そのそむきの罪が地の上に重くのしかかるからだ。

イザヤは、それを見て嘆いた。わずかな者が救われて神を賛美するようになることはすばらしいことだが、一方で、神のさばきによって滅んでいく人たちもいる。私たちはそういう人たちが救われるように祈らなければならない。救いの箱舟の中に入れられ、やがて神を賛美する人たちの中に加えられるように、このさばきのメッセージを語っていかなければならない。

Ⅲ.王座に着かれる主(21-23) 

このところでイザヤは、世の終わりのことを次のように預言した。「その日、主は天では天の大軍を、地では地上の王たちを罰せられる。彼らは囚人が地下牢に集められるように集められ、牢獄に閉じこめられ、それから何年かたって後、罰せられる。」(21-22)いったいこれはどういうことか。これは患難時代の最後に行われる人類最終戦争(ハルマゲドンの戦い)と、その後に現れる地上の千年王国、そして、その後の白い御座のさばきと新しい天と新しい地という、世の終わりの出来事がパノラマのように描かれている。イザヤ書24章が「イザヤの黙示録」と呼ばれているゆえんはここにある。しかし、このところで言いたかったことは何かというと、最終的に主が勝利されるということである。主が御座に着座される。なぜ主を賛美するのか。それは、主が究極的な勝利を与えてくださるからである。この方こそ私たちの希望である。私たちが主を賛美するのは、主が最終的に勝利してくださると信じているからなのだ。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたには、この残りの者たちのような賛美がありますか。あなたは自分の罪を悲しみ、心砕かれ、義に飢え渇いていますか。神との正しい関係を求めていますか。

・あなたはイエス様を信じないで滅んでいく人たちを見てどのように思っていますか。あなたは、その人たちの救いのために何ができますか。

・あなたが今見ているものは何ですか。目の前の問題ですか。それとも世の終わりにもたらされる究極的な勝利ですか。最終的に主が勝利してくださることを信じて心から主に賛美しましょう。

イザヤ24:1-13 レジュメ

「地をさばかれる神」                         N032

Ⅰ.ひっくり返る世(1-4) 

イザヤ書は、ここから新しい段落に入る。これまでイスラエルを取り囲む周辺諸国に対する神のさばきのことばが語られてきたが、ここからは全世界に向けて語られていく。そしてここには「見よ。主は地を荒れすたらせ、その面をくつがえして、その住民を散らされる。」(1節)とある。主はさばきによってこの世をひっくり返すというのだ。このことは、主イエスも弟子たちに語られたことである。主は、「そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。」(マタイ24:21)と言われた。また黙示録6章12節にも、大きな地震が起こることが書いてある。そのときは、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになり、すべての山や島がその場所から移されるとある。世の終わりにはかつて経験したことがないような大地震が起こり、この世がひっくり返るような地殻変動が起こる。その結果、「地は嘆き悲しみ、衰える。世界はしおれ、衰える。天も地とともにしおれる。」(4節)とあるように、全世界がしおれてしまうことになる。

 Ⅱ.契約を破った人間(5-6)

いったいどこに原因があるのか。それは、人間が律法を犯し、定めを変え、とこしえの契約を破ったからである。(5節)「とこしえの契約」とは、あのノアとの契約にシナイ山で結ばれた契約を合わせたものである。その神との契約を人間が破ったので、のろいは地を食い尽くすようになったのだ。そののろいとは、地の住民は減り、わずかな者だけが残されるというものであった。「減る」とは「焼かれる」という意味である。世の終わりになると、神の火によるさばきが起こる。天の万象は焼けて崩れ落ちる。そのようにして地上の人口が減るのである。神を信じていない人は、「そんなこと起こるはずがない」とか、「世界は昔のままで、何も変わっていない」とあざけるかもしれない。しかし、そのような人が見落としていることがある。それは、世界が何も変わっていないのは神が忍耐しておられるからであるということだ。神はひとりも滅びることを望まず、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられる。だから、この火のさばきに会わないように、悔い改めて、神に立ち返らなければならない。

Ⅲ.喜びが消える(7-13) 

神がこの地をさばかれた結果、どうなってしまうのか。「都はこわされて荒地のようになり、すべての家は閉ざされて入れない。ちまたには、ぶどう酒はなく、悲しみの叫び。すべての喜びは薄れ、地の楽しみは取り去られる。」(10-11)喜びが消えて無くなるのである。大患難は何もかも変えてしまう。これまで大事にしてきた財産を奪い、これまで大切にしてきた家族も失ってしまう。そのような中で人々の喜びは取り去られ、悲しみが地を覆うようになるのだ。

だから、今が恵みの時、今が救いの日なのである。もしあなたが主イエスを信じるなら救われる。イエスが再び来られるそのとき、朽ちないからだ、永遠のからだ、完全なからだによみがえらされて、いつまでも主とともにいるようになるのである。この神のさばきに会わなくて済むのだ。確かにこの患難時代にもわずかながら救われる人もいる。でもそのような人はこの患難の中を通らなければならない。主イエスが再臨される前に信じた者だけが天に引き上げられるのである。これこそ本当の希望ではないか。そういう人にとってやがて来る神の審判は不安と恐れの時ではなく、喜びと希望、栄光に輝く時である。それは、今を生きる私たちにとっての希望と力にもなるのだ。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたの心はしおれていませんか。もししおれているようならどこに原因があるのかを思い出し、逆に世界をひっくり返すほどの聖霊の力をいただきましょう。

・いま主が再臨されてもあなたは大丈夫ですか。天に引き上げられるという確信がありますか。確かに今が恵みの時、今が救いの日です。この恵みの時にイエスを救い主として信じてください。