ヨハネの福音書12章1~3節「ナルドの香油」

ヨハネの福音書12章に入ります。ヨハネの福音書は、大きく分けると二つに分けられます。1章から11章までのキリストの公的宣教と、12章から21章までの最後の1週間です。ですから、ここはイエスの公的宣教の最終段階の場面です。過越しの祭りの六日前にベタニアの村に来られたイエスは、ここでマリアの高価な香油の注ぎを受け、その翌日、最後のエルサレム入場をされ、13章からの受難物語へと続いていくのです。そんなピリピリと張り詰めた空気の中で、一切の打算抜きの一人の女性の奉仕があったことを、ヨハネはここに記しているのです。その女性とは、ベタニアのマリアです。かつて兄弟のラザロを、イエスによみがえらせていただいた彼女は、心からの感謝と献身の思いを込めて、心からの奉仕をささげるのです。それはまさに、この直後十字架に向かって行くキリストの道にふさわしい麗しい奉仕でもありました。きょうは、このマリアの奉仕を中心に、イエスに喜ばれる奉仕とはどのようなものなのかをご一緒に学びたいと思います。

 

 

Ⅰ.マルタの奉仕(2)

 

まず、マルタの奉仕です。もう一度12:1~3をお読みします。

「さて、イエスは過越の祭りの六日前にベタニアに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。人々はイエスのために、そこに夕食を用意した。マルタは給仕し、ラザロは、イエスとともに食卓に着いていた人たちの中にいた。一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。」

 

イエスは過越しの祭りの六日前にベタニアに来られました。ベタニアは、マルタとマリアの兄弟ラザロが生き返るという奇跡が行われた村です。その奇跡を見た多くのユダヤ人はイエスを信じましたが、しかし、何人かはパリサイ人たちのところに行って、イエスがなさったことを裂耐えたので、祭司長たちやパリサイ人たちは焦りを感じ、遂に、イエスを殺そうと企みました(11:53)。それでイエスはもはやユダヤ人たちの間を歩くことをせず、そこから北に20キロほど離れたエフライムという町に入りました。そこはのどかな牧草地でしたので、そこで父なる神様とのしばしの交わりの時、祈りの時を過ごされたのです。

 

「しかし」(11:55)、ユダヤ人の過越しの祭りが近づいたとき、イエスは弟子たちを連れてエルサレムに上られました。なぜ?前回お話ししました。それが神のみこころだったからです。イエスはこの時に捕らえられ、十字架につけられることになります。それを重々承知の上で、キリストはこの過越しの祭りに行かれたのです。

 

その過越の祭りの六日前、イエスはベタニアに来られました。ベタニアはエルサレムか3キロメートルほどの道のりだったので、イエスがエルサレムに来られた時にはいつもここに泊まっておられたようです。そこにはあのラザロもいました。イエスが死人の中からよみがえらせたラザロです。

 

人々はイエスのためにそこに夕食を用意しました。おそらくそれは、ツァラートに冒された人シモンの家であったろうと思われます。というのは、同じ出来事を記したマタイ26章とマルコ14章にそのようにあるからです。ちなみに、ルカ7章にある同様の出来事は、全く別のものです。シモンという人の家であるということと、婦人が香油を注ぐという点では似ていますが、一方はツァラートに冒された人人シモンであるのに対して、ルカの記述にはパリサイ人シモンとあるからです。また、一方はベタニアのマリアであるのに対して、ルカには罪深い女とあり、しかも状況が全く違うからです。ですから、イエスがベタニアにやって来たとき、このツァラートに冒された人シモンの家に、ラザロとその姉妹マルタとマリアも集まっていたのでしょう。

 

その夕食を用意していたとき、マルタは何をしていたでしょうか。ここには「マルタは給仕し、」とあります。彼女は相変わらず給仕していました。覚えていますか、ルカ10:38~42にあった出来事を。この数か月前にイエスがマルタとマリアの家に来た時も、彼女は給仕していました。でも、あの時と今回は状況が違います。あの時はもてなしのために心が落ち着かず、イエスのところに来て、「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」(ルカ10:40)と不満を訴えました。でも今回はそういうことはなく、黙って仕えています。今回はあの時に比べてかなりの大人数であるにもかかわらずです。夕食を準備するのも大変だったろうと思いますが、ただ淡々と給仕に専念しているのです。いったい何があったのでしょうか。

 

彼女はあの出来事から学んでいたのです。イエス様から「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」(ルカ10:41-42)と言われた時、「ああそうか、主のためにおもてなしをするということは大切なことだけれども、いろいろなことを心配して思い煩っているとしたら本末転倒だ。何をするかということよりも、誰に対してしているのか、どのような心でするかが大切なんだ」を教えられ、イエスがしてくださったことに感謝して、心から喜んで仕えていたのです。

 

マルタは私たちの模範です。私たちの中にも、どちらと言えばマルタのように体を動かすのが好きです、という方がおられるのではないでしょうか。人をもてなすことが好きなんです、食事を作ることが生きがいなんです、掃除をすることなら全然苦になりません。そういう人がいるでしょう。それ自体は全然問題ではありません。むしろ、すばらしいことです。教会はマルタのような働き人を本当に必要としています。しかし、注意しなければなりません。最初のうちは喜んでやっていてもだんだん疲れて来て、いつの間にかそれが重荷となり、そこに何の喜びも感じられなくなっていることがあります。その結果、愚痴や不平不満が出てきているとしたら、それこそ本末転倒です。それが原因で口論や争いに発展することもあります。ですから、心から感謝して、喜んでささげられるのならいいのですが、そうでないとしたら、どこに問題があるのかを点検し、主の前に静まることから始めなければなりません。コロサイ3:20には「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。」とあります。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からすることが大切です。マルタはそれを学んだのです。

 

Ⅱ.ラザロの証し(2)

 

次に、兄弟ラザロを見たいと思います。もう一度2節をご覧ください。ここには、「ラザロは、イエスとともに食卓に着いていた人たちの中にいた。」とあります。彼については、イエスとともに食卓に着いていた人たちの中にいた、とあるだけです。彼は何もしていないし、何もしゃべっていません。聖書には、彼が何かをしゃべったという記録は一つもないんですね。彼はどちらかというと無口だったのかもしれません。無口でも全く問題ありません。なぜなら、彼の存在そのものが大きな証しだったからです。キリストを証しするというのは何かを語ることだけではないからです。キリストを証しするというのは、キリストによって生きること、キリストの証人となることです。むしろ、そっちの方が効果的な証だと言えるでしょう。使徒1:8をご覧ください。ここには、「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」とあります。ここには「地の果てまでわたしを証言します」ではなく「わたしの証人となります」とあります。聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたは単に証言をする人になるのではなく、証人になるのです。私たちもかつてはラザロのように死んでいたような者でした。しかし、神の救い、イエス・キリストを信じたことで、その中から救われました。罪の奴隷から解放され神の子としていただけたのです。それはまさにあのラザロが死人の中からよみがえったような衝撃をもたらすことでしょう。

 

ある人が牧師にこう尋ねました。「空っぽの教会を一杯にするにはどうしたらいいでしょうか」するとその牧師はこう答えました。「ラザロを連れて来なさい。そうすれば、教会は一杯になるでしょう。」なるほど、人々はいったいこの人はどのようにしてよみがえったのかを見たさに教会にこぞって来るようになるでしょう。そのラザロとはだれですか。それは私たちです。私たちは死人の中からよみがえらされました。罪に死んでいたのがキリストにあって新しいいのちによみがえったのです。今私が生きているのは私を愛し、私のためにご自身のいのちを与えてくださったこのキリストの力によってなのです。それはどれほど大きな衝撃を人々にもたらすのです。

 

きょう、この後でバプテスマを受けられる下野さんと任さんの証を週報にはさんでおきました。お二人に証を見て共通していると思ったことは、二人がキリストを信じるように導かれたきっかけが息子、あるいは娘の証しによるものであったということです。任さんは中国にいる娘さんの証しを通して、また、下野さんは、今は天国にいる次男の文男さんの証しを通して教会に導かれました。

私は昨日、下野さんから与った文男の証しを読みました。それは本当に分厚いファイルにまとめられていました。

文男さんは、私と同じ年ということですが、信仰に導かれたのも同じ頃で、高校3年生の終わり頃でした。ある教会で上映した「塩狩峠」という映画と集会でのメッセージを通して「愛」というテーマで随分悩みました。この「塩狩峠」という映画は、三浦綾子さんの小説を映画化したものですが、汽車が北海道の塩狩峠という峠に差し掛かった時に、車両が外れてしまうんですね。しかし、ブレーキが思うように利かず、このままでは目前に迫ったカーブを曲がり切れないと判断した車掌が、自らの身体を車両の前に投げ出して身体で車両を止め乗客の命を救ったという実話に基づいた話です。

この映画を観たとき、人を愛するって本当はどういうことなんだろうかと、自分の今までの生活に当てはめて考えたのです。例えば、中学生の頃、その当時親友と思っていた友達が体育の授業中にリンチにあいましたが、その時、足が竦(すく)んで何一つできなかった自分自身に無力さを痛感し、人のために自分を犠牲にすることはできないが、それこそ大きな愛はないということを知り、その後何度か教会に行くようになって、キリストを信じる信仰を持ちました。それで浪人期間の2年間と大学での4年間、合計6年間をほとんど教会を中心に費やすのです。

その後、一時的に教会から離れ、本当に大変な苦労をされますが、その苦労を通して再びキリストのもとに戻り、それからはもう迷いがありませんでした。2001年3月にご病気で東大病院に入院以降、教えられた聖書の言葉が21書き止められていて、文男さんがどれほど誠実に主の前に歩まれたかがわかります。それは文男さんが天国に行かれる直前にお母さんに言われた最後の言葉からもわかります。

「おかあちゃん、ぼく、もうすぐ天国に行くのでぼくの分まで生きて、教会に行ってイエス・キリスト神さまを信じてと約束して」

それは文男さんのいのちをかけた祈りでした。そのような祈りが伝わらないはずがありません。それから何年経ったでしょうか、今年下野さんが教会に電話をくださって来られようになり、イエス様を信じて、きょうバプテスマの恵みに与るようになりました。ハレルヤ!それは主イエス・キリストのあわれみと、文男さんの生きた証によるものだったのです。下野さんは一昨日85歳の誕生日を迎えましたが、天国に行くまでにはまだまだかとは思いますが、その前にイエス様を信じることができて本当に良かったと思います。

 

Ⅲ.マリアの礼拝(3)

 

次にマリアです。3節をご覧ください。マルタは奉仕の模範でした。ラザロは証の模範でした。ではマリアはどうでしょうか。マリアは礼拝の模範です。ここには、「一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。」とあります。

 

先ほども申し上げましたが、並行箇所のマルコの福音書には、ある女がナルドの香油が入った小さな壺を持って来て、それを割って、イエスの頭に注いだ、とあります。これは非常に高価なものでした。どれほど高価なものであったのかは、この後でイスカリオテのユダが語ったことばからもわかります。5節には、「どうして、この香油を300デナリで売って、貧しい人に施さなかったのか」とあります。1デナリは1日分の給料に相当する金額ですから、300デナリとは300日分の給料、すなわち年収に相当する額です。このような香油は、通常王族や貴族が使用しました。おそらく、マリアがこれだけの香油を持っていたのは、両親の遺産として相続していたのかもしれません。当時は財産を銀行に預けておくのではなく、金とか、銀とか、香油にして壺の中に入れ、地面に隠しておきました。女性であれば、香油を壺に入れて蓄えておくのが一般的でした。というのは、そこにはある一つの大きな目的があったからです。それは、結婚に備えるということです。少しでもいい男性と結婚するためにコツコツと蓄えたのです。愛があればお金なんてと言う人もいますが、当時はそうではありませんでした。どれだけ結婚持参金があるかによって結婚が決まりました。少しでもお金を蓄えていれば、それだけ結婚に有利だったのです。いい人と結婚できるかどうかは、どれだけお金を持っているかによって決まったのです。

でもマリアはその香油をイエスに注ぎました。しかもそれを入れておいた壺を割ってです。壺を割ってとは、全部使い切ったということです。もう香油は一滴も残されていません。全部イエスにささげたのです。これはどういうことでしょうか。これでマリアがいい人と結婚できる可能性はほぼ無くなったと言うことです。彼女は無一文の女性になりました。そんな人と結婚したい男性なんてほとんどいません。だから、マリアがこのナルドの香油をすべてイエスに注いだというのは、自分のすべてをイエスにささげたということなのです。自分の結婚も、自分の将来も、すべてイエスにささげたのです。それは目に見える高価な香油をささげたというだけでなく、彼女のすべてをささげたということなのです。いったいなぜ彼女はこのようなことをしたのでしょうか。

 

それはマリアにとってイエスがすべてであったからです。マリアにとってイエスは結婚以上に大切な方でした。一般的に女性なら、結婚すれば幸せになれると思うでしょう。安定した生活が送れるし、安心して生きられると思います。しかし、マリアはそうではありませんでした。彼女にとってはイエスがすべてでした。だから喜んで犠牲を払うことができたのです。そればかりではありません。イエスの足に塗った香油を自分の髪の毛で拭うということまでしました。これは当時として考えられないことでした。というのは、当時は女性が人前で髪の毛をほどいてバラバラにするということは恥ずべきことだとされていたからです。その髪の毛でイエスの足に塗った香油を拭いました。まさに「なりふりかまわず」です。だれがいようが、だれが見ていようが構いません。自分の思いのたけをそのように表したのです。

 

そこには弟のラザロを生き返らせていただいたことへの感謝の気持ちもあったでしょう。しかしそれだけでなく、彼女はもっと深いものを感じていました。それはこの後の所に出てきますが、イエスが自分のためにいのちを捧げてくださったということ、そして自分を罪から救ってくださったという感謝に溢れていたからなのです。この時点でそれがまだ明らかにはされていませんが、彼女はイエスが語ることばを聞いて、そのように受け止めていました。それを深く感じていました。次元が違います。もうこの世の次元ではありません。霊的な次元でイエスを見ていたのです。

 

彼女は文字通りイエスのために人生を投げ打ちました。壺を割るかのように自分の人生を投げ打ったのです。自分の人生を生きた供え物として捧げました。これこそ神に喜ばれる礼拝です。ローマ12:1にはこうあります。

「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」(ローマ12:1)

「それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」は、新改訳聖書第三版では、「それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」と訳されています。あなたがたにふさわしい礼拝、霊的な礼拝とはどのような礼拝でしょうか。それは、あなたがたのからだを、神に受け入れられる、生きたささげものとして献げる礼拝です。あなたがたのからだとは、あなたがたのすべてと言ってもいいでしょう。あなたがたのすべてをささげる礼拝、それこそ神が望んでおられる礼拝です。神に喜ばれる礼拝なのです。マリアの礼拝はまさにそれでした。彼女は自分のすべてをイエスに捧げました。誰かに強制されてそうしたのではありません。自ら進んで、喜んで自分のすべてを主に捧げたのです。

 

同じように、自分のすべてをささげた女性がいます。だれでしょう。そうです、あのレプタ銅貨2枚をささげたやもめです。多くの金持ちはあり余るお金の中からたくさん投げ入れましたが、このやもめはレプタ銅貨2枚しかささげることができませんでした。レプタ銅貨というのは1デナリの128分の1、それを2枚ですから、今で言ったら100円というところでしょうか、それを捧げたのです。しかし、イエスは弟子たちにこう言われました。

「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」(マルコ12:43-44)

 

同じです。マリアは、年収に相当するだけの香油をイエスに献げ、やもめはレプタ銅貨2枚を献げましたが、そこにあった思いは同じです。それは自分のすべてをささげたということです。自分のいのちそのものをささげたのです。これが礼拝するということです。

 

「礼拝」とはギリシャ語で「プロスクネオー」と言いますが、意味は「ひれ伏す」とか、「尊敬を帰する」です。何ものかに価値や尊敬を帰することです。イエスを、礼拝を受けるのにふさわしいお方として認め、心からの尊敬をささげることを意味しています。礼拝というと、どちらかというと受けるというイメージがありますが、礼拝とはささげることです。イエスに価値と尊敬を帰すること、それが礼拝です。マリアにとってイエスは最高に価値あるお方でした。だから自分のもっていた最高のものをささげることができたのです。レプタ銅貨2枚をささげたやもめも、イエスが最高に価値あるお方でした。だから、自分のすべてをささげることができたのです。それは金額の問題ではありません。ハートの問題です。どれだけささげるのかということではなく、どのような心でささげるのかです。イエスは尊い犠牲を払っても尊敬を受けるに値する方です。なぜなら、イエスは私たちを罪から救ってくださるために、ご自分のいのちを投げ打ってくださったからです。

 

昔、ひとりのイギリス人の少女がドイツのある町に留学しました。彼女はその町の美術館で、一枚の忘れることができない絵に出会いました。

その絵には、「エッケ・ホモ(この人を見よ)」という題が付けられていました。そしてその絵の下には、その絵を描いた画家のことばが書かれてありました。

「私はあなたのために命を捨てた。あなたは、私のために何をしたか」

少女はこの絵とこの画家のことばを深く心に刻みつけました。イギリスに帰った彼女は成長して、賛美歌作家になりました。彼女の名前は、フランシス・ハヴァーガルと言います。彼女は、ドイツで出会ったあの絵と画家のことばをもとに、私たちがイエス様の十字架の愛にどのように応えるかという歌詞の賛美歌を作りました。それが「主はいのちを与えませり」(新聖歌102番)です。

1. 主は生命を与えませり

主は血しおを流しませり その死によりてぞわれは生きぬ われ何をなして主に報いし

  1. 主はみ父のもとを離れ

わびしき世に住みたまえり かくもわがために栄えを捨つ われは主のために何を捨てし

  1. 主は赦しと慈しみと 救いをもて降りませり 豊けき賜物身にぞあまる ただ身と魂とを捧げまつらん

 

「私はあなたのために命を捨てた。あなたは、私のために何をしたか」主が求めておられるのは、霊的な礼拝です。主を最高に価値のある方として認め、全身全霊をもって主を愛すること、自分のいのちをかけて主を愛すること、それを求めておられるのです。

 

スコットランドの探検家で、宣教師、また医師でもあったデイヴィッド・リヴィングストンは、ヨーロッパ人として初めて、当時「暗黒大陸」と呼ばれていたアフリカ大陸を横断した人です。彼がアフリカのある村で伝道していたとき、イエス様を信じたその村の村長が喜びに溢れ、自分の気持ちを何らかの形で表現したいと思いました。それで彼はリヴィングストンのもとに小麦粉を持ってきました。「宣教師先生。私は神様に感謝をささげたくて、小麦粉を持ってきました。」私だったら、それはすばらしい。神様はきっと喜んでくださいますよ、と言うでしょうが、リヴィングストンは、こう言いました。「すみませんが、神さまは小麦粉などでは満足されません。」それで彼は、白馬なら喜ばれるだろうと、今度は白馬を連れて来ました。するとリヴィングストンは笑いながらこう言いました。「神様は白馬などでは満足されません。」しばらくして、また村長がやって来ました。「今回は、村長の権威と名誉を象徴しているこのピンを持ってきました。これがなければ私は死んだも同然です。」するとリヴィングストンは「どうでしょう。神様はそれくらいで満足されるでしょうか。」と答えました。するとその村長は怒って言いました。「それでは、何をささげればよいのですか。もう「私」しか残っていません。」するとリヴィングストンは言いました。「そうです。神様が願っておられるのは、そのあなたです。」

 

マリアが石膏の壺を割ったのはそういうことでした。マリアは石膏の壺を割るように、自分自身という壺を割ったのです。自分自身を主にささげたのです。いったい彼女はどうしてそのようなことができたのでしょうか。それは彼女がイエスという方がどのような方であるのかをよく知っていたからです。イエスを知れば知るほど豊かな礼拝をささげることができるようになります。そのためにはイエスの足もとに行かなければなりません。イエスの足もとに行って、イエスのみことばに聞き入る必要があるのです。あなたがどのように礼拝をささげておられるかを見れば、あなたの価値観がわかります。どれほどイエスを愛しておられるかがわかるのです。もしイエスを礼拝することがただの義務感でしかないとしたら、重荷になっているとしたら、その人はほんとうの意味でイエスのことを知らないということです。だから、イエスの足もとに行って、イエスのことばを聞きましょう。そして、イエスがどれほど価値ある方なのかを知り、心からイエスを礼拝する者となりましょう。

 

きょうバプテスマを受けられたお二人に主イエスが最も願っておられるのはこのことではないでしょうか。ただ形でイエスに向き合うのではなく、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主を愛することです。それが、主が私たちに求めておられることです。マリアはそれに応答しました。非常に高価なナルドの香油を主にささげたのです。私たちも主の愛に応答し、心からの感謝と礼拝を主にささげる者となりたいと思います。

ヨハネの福音書11章47~57節「神のみこころのままに」

前回まで、ラザロのよみがえりの奇跡を学んできました。イエスは、この奇跡を通してご自身が神から遣わされたメシアであるということ、そして、ご自身を信じる者は死んでも生きるということ、そして、終わりの日にこのイエスを信じる者は、イエスと同じ復活のからだ、栄光のからだによみがえるということを語っておられたということを学びました。きょうはその後の箇所から「神のみこころのままに」というタイトルでお話しします。

 

皆さんは何を基準に、また、どのような考えで生きておられるでしょうか。これはとても重要なことです。なぜなら、これによって私たちの行動が決まるからです。そして、私たちの行動の基準とは、イエスさまならどうされるかです。しばらく前に、W.W.J.Dと印字されたブレスレットが流行りました。これは、What would Jesus do?の頭文字のW.W.J.D.を取ったものですが、主イエスならどうされるかということです。そして、主イエスの考えの最も基本的なものは、神のみこころのままにということでした。たとえそれが自分にとって不利なことであっても、たとえそれが自分にとって損と思われることであっても、それが神のみこころであるならば、喜んで自分のいのちをささげられました。これがイエスさまの行動の基準でした。

 

これは、私たちも見習うべきことです。自分の損得勘定ではなく、神のみこころは何なのか、何が良いことで神に受け入れられることなのかを考え、それを基準に生きる者でありたいと思います。

 

Ⅰ.祭司長たちとパリサイ人たちの行動基準(47-48)

 

まず、47~48節をご覧ください。ここには、祭司長たちやパリサイ人たちの判断基準がどのようなものであったかが記されてあります。

「祭司長たちとパリサイ人たちは最高法院を召集して言った。「われわれは何をしているのか。あの者が多くのしるしを行っているというのに。あの者をこのまま放っておけば、すべての人があの者を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も取り上げてしまうだろう。」

 

イエスが死んだラザロをよみがえらせた奇跡を見た多くのユダヤ人はイエスを信じましたが、何人かはパリサイ人たちのところにやって来て、イエスがなさったことを伝えました。すると、祭司長たちとパリサイ人たちは最高法院を招集しました。「最高法院」とは、「サンヘドリン」と呼ばれるユダヤの最高議会のことです。祭司長たちやパリサイ人たちなど71人の長老たちによって構成されていました。彼らはイエスがラザロをよみがえらせたということを聞くと、この最高議会を招集してこう言いました。「われわれは何をしているのか。あの者が多くのしるしを行っているというのに。あの者をこのまま放っておけば、すべての人があの者を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も取り上げてしまうだろう。」

 

何人かの報告を聞いた祭司長たちやパリサイ人たちはかなり動揺していました。「あの者」とは主イエスのことです。イエスが多くのしるしを行っているというのに、われわれは何をしているのか。何もしていないではないか。このままでは、すべての者があの者を信じるようになってしまう。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も取り上げてしまうのではないかと。

 

この「しるし」とは、下の脚注にあるように「証拠としての奇跡」のことです。イエスが神の子であることを証明するための奇跡です。彼らは、イエスがそのしるしを行っているというのを聞き、すべての人がイエスを信じるようになるのではないかと恐れたのです。なぜでしょうか?なぜなら、そんなことになれば、ローマ人がやって来て、自分たちの土地も国民も取り上げてしまうのではないかと思ったからです。この時代イスラエルはローマ帝国の支配下にありましたから、実際には土地も国民もローマに奪い取られている状態だったのに、自分たちの土地も国民も取り上げられてしまうと言っているのは、彼らの中には、土地も国民も自分たちのものだという認識があったということです。確かにローマ帝国の支配下であっても彼らの利権が守られていたので安心ですが、もしローマがやって来てそれを取り上げてしまうようなことにでもなれば、その利権が奪われてしまうことになります。そのことを恐れていたのです。つまり、彼らにとってイスラエルの土地のこととか国民のことなどどうでも良かったのです。それよりもローマ帝国とうまくやっていた方が得策だと考えていたのでした。

 

ここに人々がイエスを信じたくない本当の理由が見られます。つまり、イエスを信じてしまうと、自分たちの利権を失ってしまうのではないかという恐れを抱いてしまうのです。イエスを信じると、これまで当たり前のようにやって来たことができなくなってしまうのではないか。たとえば、仕事もまともにやらなければならなくなるし、不正などできなくなります。当たり前といえば当たり前のことですが、この世においては当たり前であることが難しいのです。そんなことをしていたら生活が成り立たなくなってしまうのではないかと恐れるのです。暴利をむさぼるようなことはできません。税金も正しく申告しなければなりません。イエスを信じると不正なことはできなくなってしまいます。その結果、仕事がうまく回らなくなってしまうかもしれない。自分の好きなようには動かなくなるかもしれない。この世の地位や名誉、肩書きも失ってしまうかもしれない。そういうことを恐れてしまうのです。つまり、信仰というものを打算的に考えてしまいます。すべてが損得勘定で動いているのです。これがイエスを信じることができない本当の理由です。

 

ローマ1:20-21には、「神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。」とあります。彼らとは、神を信じない人たちのことです。彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなりました。神の永遠の力は、被造物を通してはっきりと認められ、弁解の余地もないのに、その神を神としてあがめようとしないからです。

 

詩篇19:1には、「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」とあります。天を見上げれば、それは神の栄光を語り告げています。大空を見れば、神の御手のわざを告げ知らせているのです。今は秋の紅葉が見事ですね。というか、自分は紅葉を見に行っていないですが、テレビを見ていると画面から色鮮やかな光景が映し出されます。いったいだれがこんなにきれいな紅葉を創り出せるでしょう。神の、目に見えない性質、神の永遠の力と神性は、世界が創造された時から被造物を通してはっきりと知られ、弁解の余地もないのです。それでも信じないのは、人間が罪ゆえに、打算的な考えで、損得勘定で動いているからなのです。

 

そのような人たちは、この祭司長たちやパリサイ人たちのように、主イエスを真っ向から否定して、イエスを排除しようとします。彼らは古い自分を捨てたくないのです。悲しいことに、彼らはイエスが私たちを愛して、私たちの罪のために十字架で死んでくださったということも知らずに、自分の目の前からイエスを排除しようとするのです。しかし、この世のはかないもののために躍起なっていったい何になるというのでしょうか。そのようなものはどんなに輝いていているようでも、やがて虫やさびで傷物になり、滅びて行きます。これをエントロピーの法則と言います。進化するのではなく退化していくのです。私たちの体もそうでしょう。いつまでも若いわけではありません。だんだん老化していきます。この世のものはすべて一時的で、やがて朽ち果てていくのです。しかし、天の御国は決して朽ちることはありません。だから、主イエスは、「自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。」と言われたのです。天に宝を蓄えなさいと。「そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。」(マタイ6:20)

 

皆さんはどうでしょうか。皆さんはどこに宝を蓄えていますか。祭司長たちやパリサイ人たちは、自分の土地も国民も奪われてしまうと恐れましたが、私たちが恐れなければならないのはこの世における土地とか国民ではなく、天における場所です。イエスさまと一緒にいる場所が一番重要です。地上の居場所がどこにあるのか、地上の分け前、財産はどれだけあるか、地上の地位、名誉がどうであるかなんて、どうでもいいことなんです。私たちにとって最も大切なのは天国です。たとえ地上のものを失うことがあったとしても、決して失ってならないもの、それは天にある私たちの居場所であり、天にある私たちの分け前です。もしあなたが心配することがあるとしたらこの地上の土地や国民ではなく、天の土地、天の国民を気にかけてください。

 

あのニコデモはどうなったでしょうか。彼はイエスを信じ、新しく生まれ、神の子としていただきました。彼もこのサンヘドリン、ユダヤの最高議会の議員でした。でも彼はイエスを信じました。このサンヘドリンの議員の中でイエス様を信じたのはこのニコデモ以外にもう一人います。アリマタヤのヨセフという人です。ですから、71人の中で2人が信じたことになります。これを多いと取るか少ないと取るかは別として、これは神の奇跡です。というのは、マタイ19:23~26でイエスは、このように言っておられるからです。「そこで、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。金持ちが天の御国に入るのは難しいことです。もう一度あなたがたに言います。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」弟子たちはこれを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」イエスは彼らをじっと見つめて言われた。「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」

金持ちが天の御国に入るのは、らくだが針の穴を通るよりも難しいことです。それは不可能だという意味です。それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。ニコデモはかなりのお金持ちでした。人間的には救われることは不可能だったでしょう。しかし、神にはどんなことでもできるのです。そんなニコデモでもイエスを信じることができました。

ニコデモは、イエスを信じたことで多くの困難があったでしょう。彼はユダヤ教の教師で、ユダヤの最高議会サンヘドリンの議員で、最高の権威がありました。しかし、イエスを信じたことでその職を追われ、エルサレムからも追放されたかもしれません。当時のラビの文書には、そのような記録が残っています。その伝承が事実であったかどうかはわかりませんが、十分考えられることです。しかし、彼はこの地上のものを失ったとしても、天国のいのち、永遠のいのちをいただき、永遠にイエスとともに過ごす特権に与ることができました。

 

あなたの土地はどこにありますか。あなたはどの国民ですか。あなたは天の国民であり、イエスさまと一緒にいる天国に行くのです。それこそ私たちが真に追い求めなければならないものです。この地上の土地なんてどうでもいいとは言っているのではありません。そうしたものも神から与えられた大切なものであるのには違いありませんが、しかし、もっと大切なものは天における土地、天国の国民であるということを忘れないでいただきたいのです。

 

Ⅱ.大祭司カヤパの行動基準(49-52)

 

次に、大祭司カヤパの判断基準を見たいと思います。49~52節をご覧ください。

「しかし、彼らのうちの一人で、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だということを、考えてもいない。」

 

ここには「その年の大祭司であったカヤパ」とありますが、大祭司は毎年のように交代するようなものではありませんがあえて「その年の大祭司であった」とあるのは、彼がたまたまその年の大祭司であったということではなく、この記念すべき年の大祭司であったという意味です。それはイエスが十字架で死なれ復活された年の大祭司であったということです。その時の大祭司はカヤパでした。その年が何年であったのを特定するのは困難ですが、カヤパは紀元17年に祭司として任命されてから紀元37年に解任されるまで、実に20年にわたって大祭司として君臨していました。この彼の大祭司としての任職中にイエスが十字架で死なれ、よみがえるという出来事が起こります。ですから、その年の大祭司とは、彼がその記念すべきことが起こった年の大祭司であったということなのです。

 

そのカヤパが、ユダヤの最高議会サンヘドリンの人たちにこう言いました。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だということを、考えてもいない。」

イスラエルの指導者たちを前にずいぶん傲慢な言い方をしています。彼はローマ帝国によって任命され、ローマ帝国の息のかかった大祭司ということで、また彼はその在職期間も最も長いということもあって王様気取りだったのでしょう。

 

このカヤパの発言は実に驚くべきものでした。というのは、彼は、キリストの身代わりの死について預言しているからです。50節の「一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だということを、考えてもいない。」という言葉です。どういうことでしょうか?彼は、ひとりの人の人物の死によって、自分たちユダヤ民族の生き残りを願い無意識のうちに言っただけでしたが、それが全く違った意味で、キリストの身代わりの死を指し示すこととなったのです。

 

そのことについて、ヨハネは次のように説明しています。51~52節です。

「このことは、彼が自分から言ったのではなかった。彼はその年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子らを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。」

つまり、キリストの死は私たちの身代わりであったということです。これまでイエスが教えて来られたことは、ご自分がいのちのパンであるとか、いのちの水であるということでした。そして、イエスを信じる者には永遠のいのちを与えてくださるということでしたが、ここで初めて、それが私たちの身代わりとなって死なれることによって与えてくださるものであるということが明らかにされたのです。

 

そればかりでなく、ここには、「また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子らを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言していたのである。」とあるように、キリストのからだである教会を形成するためであったということです。このことについては、既に10:16のところで語られました。「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです。」とあります。

 

カヤパは、これほどまでに鮮明に、的確にキリストの十字架の死についてその意味を語っていたというのはすごいことです。なぜ彼はそれほどまでに十字架の意味を語ることができたのでしょうか。51節には、「このことは、彼が自分から言ったのではなかった。」とあります。彼はそのように言うつもりはありませんでしたが、無意識のうちにただ口走ってしまったのです。自分でも何を言っているのかわかりませんでした。彼はただ自分たちのことしか考えないで語ったことが、こんなにすごい預言となってしまったのです。

 

このように神は、それがたとえ打算であったとしても、救い主が生まれる場所が預言通りに成就するために、強大なローマ皇帝の人口調査を用いられたように、どんなものでも用いて語られるのです。たとえば、民数記24章には、モアブの王バラクがイスラエルを呪わせるためにバラムという偽預言者を雇いますが、神はこの偽預言者バラ無を通して、逆にイスラエルを祝福してしまうのです。しかも、その中でメシアの預言までしちゃうのです。「私には彼が見える。しかし今のことではない。私は彼を見つめる。しかし近くのことではない。ヤコブから一つの星が進み出る。イスラエルから一本の杖が起こり、モアブのこめかみを、すべてのセツの子らの脳天を打ち砕く。」(17)「ヤコブから一つの星が進み出る」とは、イエス・キリストのことです。それは今のことではありません。近くのことではない。しかし、やがて確かにヤコブから一つの星が進み出るのです。これはメシア預言でした。その預言のとおりに、キリストはこのヤコブの子孫から出ました。また「イスラエルから一本の杖が起こり、モアブのこめかみを、すべてのセツの子らの脳天を打ち砕く。」とありますが、この杖とは権威の象徴です。イスラエルから一本の杖が起こり、すべての敵を打ち砕きます。ものすごい預言です。これが何と偽預言者バラムを通して語られたのです。こんな偽預言者を通してでも神はみこころを語られることがあるのです。

 

このように神は、どんな人でも、どんな物でも、どんな事でも用いて、ご自身のみこころを語られるのです。たとえそれが自分に敵対するように者であっても、です。神はロバさえも用いて語られました。時にはサタンを用いても語られることもあります。Ⅱコリント11:14には、「しかし、驚くには及びません。サタンでさえ光の御使いに変装します。」とあります。この「光の御使い」とは神のことばのメッセンジャーのことですが、サタンも時々神の使いのメッセンジャーに変装して、私たちにご自身のみこころを語られることがあるのです。

 

そうであれば、私たちはへりくだって、神が語ることに耳を傾けなければなりません。神を知らないあなたに何がわかるかとか、聖書も知らないあなたに神のことがわかるかといった高飛車な態度ではなく、「主よ、お語りください。しもべは聞いています」というへりくだった態度で、常に神のみこころを求めなければなりません。

 

ところで、先ほども申し上げたように、この大祭司カヤパをも用いて神はみこころを示されましたが、カヤパはそれを言いたくて言ったのではなく、ただ無意識のうちに言っただけでした。彼の頭の中にあったのは、自分たちにとって何が得策かということ、つまり打算的な考えしかありませんでした。損得勘定で動いていたのです。カヤパの判断基準もこの損得勘定であり、ご都合主義に基づいたものでした。彼は大祭司としてどうすれば安泰でいられるのかを考えた結果、イエスを拒絶すれば彼も彼の仕事も安泰ですが、もしイエスを受け入れるようなことがあれば、自分も家族も不利益を被るということで、イエスを拒絶することを選んだのです。それは私たちにもあるのではないでしょうか。イエスを選ぶことで、不利益が生じてしまうと思うと、そうでない道を選んでしまうということがあります。

 

皆さんはどうでしょうか。いったい何を基準に動いているでしょうか。あなたの行動基準は何ですか。カヤパのように自分の都合によって物事を判断しているということはないでしょうか。自分や家族にとって何が得で、何が損かというような基準で判断していることはないでしょうか。私たちはそうした基準によってではなく、霊的な損得勘定を基準にして判断しなければなりません。

 

パウロは、「しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、キリストにある者と認められるようになるためです。」(ピリピ3:7-9)と言っています。「このようなすべてのもの」とは、肉にあって誇れるものですね。自分の経歴や業績、地位や名誉といったものです。そうしたものはちりあくただと考えるようになりました。それは彼がキリストを得て、キリストにある者と認められるようにたるためです。彼の行動の基準はキリストと同じようになることでした。言い換えると、キリストに似た者となるということです。これがクリスチャンの目標です。キリストならどう考え、どう行動するか、それがクリスチャンの判断と行動の基準なのです。パウロは、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという栄冠をいただくためにその目標に向かって一心に走りました。

 

それはパウロだけでなく、私たちにも求められていることです。なぜなら、ここには、「大人である人はみな、このように考えましょう。もしも、あなたがたが何か違う考え方をしているなら、そのことも神があなたがたに明らかにしてくださいます。ただし、私たちは到達したところを基準にして進むべきです。」(ピリピ3:15-16)とあるからです。これは、私たちも基準にして進むべき考え方なのです。

カヤパの判断基準は、自分にとって何が得策なのかということでした。いつでも自分が基準だったのです。しかし、キリストを信じ、キリストに従う者にとっての基準は、自分ではなくキリストなのです。キリストならどう考えるのか、どう行動されるのか、私たちもその基準に従って歩むべきです。

 

Ⅲ.イエスの行動基準(53-57)

 

最後に主イエスの行動基準を見たいと思います。53~57節をご覧ください。

「その日以来、彼らはイエスを殺そうと企んだ。そのために、イエスはもはやユダヤ人たちの間を公然と歩くことをせず、そこから荒野に近い地方に去って、エフライムという町に入り、弟子たちとともにそこに滞在された。さて、ユダヤ人の過越の祭りが近づいた。多くの人々が、身を清めるため、過越の祭りの前に地方からエルサレムに上って来た。彼らはイエスを捜し、宮の中に立って互いに話していた。「どう思うか。あの方は祭りに来られないのだろうか。」祭司長たち、パリサイ人たちはイエスを捕らえるために、イエスがどこにいるかを知っている者は報告するように、という命令を出していた。」

 

その日以来、彼らはイエスを殺そうと企みました。これまでも彼らはイエスを殺そうとしていましたが、しかしここで公にイエスの処刑が決定されたのです。その決定的な要因は何だったのでしょうか。それはラザロをよみがえらせたという出来事です。そうです、イエスはラザロをよみがえらせることによってご自分が正式に処刑されるということを知っていて、自分にとってそれが不利になるということが分かっていてもあえて危険を冒し、ベタニアに来られたのです。あの大祭司カヤパとは大違いです。彼は自分の損得勘定によって生きていましたが、イエスは自分の損得勘定ではなく、たとえそれが自分にとって不利になることであっても、それが神のみこころであるならば、喜んで自分のいのちをささげられたのです。これは私たちが見習わなければならない基準です。

 

そのことは、その後のイエスの行動にも如実に表れています。54節には、「そのために、イエスはもはやユダヤ人たちの間を公然と歩くことをせず、そこから荒野に近い地方に去って、エフライムという町に入り、弟子たちとともにそこに滞在された。」とあります。そこはエルサレムから北に20㎞ほど下ったところです。そこは荒野になっていましたが、同時に放牧地でもありました。しかし、イエスはそこで静かに祈り、神との交わりの時を持たれました。

 

しかし、再びエルサレムに上られます。55節には、「さて、ユダヤ人の過越の祭りが近づいた。多くの人々が、身を清めるため、過越の祭りの前に地方からエルサレムに上って来た。」とあります。この「さて」という言葉はギリシャ語では「δη」という接続詞で、これは「しかし」とも訳されることばです。祭司長たちやパリサイ人たちがイエスを殺そうとしていたのでイエスはエフライムという町に逃れ、そこに滞在しておられましたが、しかし、ユダヤ人の過越しの祭りが近づいていたので、エルサレムに上って来たのです。どうしてもエルサレムに行かなければならなかったのです。どうしてでしょうか。それは、これがイエスの生涯における最後の過越しの祭りであったからです。イエスはこの過越しの祭りの時に捕らえられ、十字架につけられることになります。そんなところにどうして行かなければならなかったのでしょうか。それは、神の永遠の救いの計画を成し遂げるためです。私たちの罪のための子羊となって十字架にかかって死なれるためです。それが神のご計画だったのです。その神のご計画を成し遂げるために、イエスはエフライムでの静かな時、祈りの時を持ち、エルサレムへと向かわれたのです。

 

イエスは、十字架を前に弟子たちを伴いゲッセマネの園に向かいました。その時イエスはひれ伏してこう祈られました。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むことではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」(マタイ26:39)

これがイエスの生きる基準でした。すなわち、「わたしが望むことではなく、あなたの望まれるままに、なさってください」ということです。ユダヤ人たちが自分を殺そうとしていることがわかっていても、それがもし父なる神のみこころであるなら、そのとおりにしてください。これがイエスさまの判断基準だったのです。

 

イエスはどのような思いでエルサレムに上られたのでしょうか。私たちも自分の判断の基準というものを、行動の基準というものを考えたいものです。そして、私たちもイエスさまのように、「わたしが望むことではなく、あなたが望まれるままに、なさってください」と自らを神に明け渡し、神のみこころのままに歩ませていただきたいと思います。

ヨハネの福音書11章38~46節 「信じるなら神の栄光を見る」

ヨハネの福音書11章を学んでおります。ベタニアのマルタとマリアの兄弟ラザロが死んで四日後に、イエスはヨルダンの川向うからベタニアにやって来られました。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」というマルタに対してイエスは、「あなたの兄弟はよみがえります。」と言われました。しかし、そのことばを信じることができなかったマルタは、「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」と答えると、イエスは、あの有名なみことばを語られました。25節です。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」しかし、そればかりではありません。26節にあるように、「また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」とも言われました。確かにイエスを信じる者は死んでも生きる永遠のいのちを持ちます。しかし、そればかりではなく、生きていてイエスを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことはありません。もうすでに永遠のいのちを持っています。死んでも生きるのです。イエスを信じる者が「死」という絶望に苛(さいな)まれることはありません。どんな困難にも勝利することができるのです。死んだラザロもよみがえります。「あなたは、このことを信じますか。」と言われたのです。マルタは、「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」と言いましたが、それはイエスが期待していた信仰ではありませんでした。イエスは、今、この地上にあって神の国が来ていることを信じてほしかったのです。

 

それはマリアも同じでした。マリアがイエスに会うと、マルタが言った言葉と同じ言葉を言いました。32節、「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」彼女もまたラザロの死を受け止めることができませんでした。「どうしてもっと早く来てくれなかったのですか。」「どうしてここにいてくださらなかったのですか。」「もしここにいてくださったなら、私の兄弟ラザロは死ななかったでしょうに。」そして、大声で泣きました。号泣したのです。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、

心の動揺を感じて、涙を流されました。英語では、゛Jesus wept.”です。たった2文字です。聖書の中で一番短い聖句となっています。イエスは涙を流された。なぜ涙を流されたのでしょうか。それは、イエスは私たちと同じ人間として来られたからです。私たちと同じ感情をもっておられました。ですから、マレアが泣いているのをご覧になられ、その弱さに同情されたのです。私たちの主イエスは、私たちの弱さに同情できない方ではないのです。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じようになられました。イエスは、あなたの痛み、あなたの悲しみ、あなたの苦しみ、あなたの涙を知り、あわれんでくださるのです。ですから、私たちに必要なことは、そのあわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づくことです。言い換えるなら、どんな時でもこのイエスに信頼するということです。信じるなら神の栄光を見るのです。きょうは、このことについてご一緒に考えたいと思います。

 

Ⅰ.その石を取りのけなさい(38-40)

 

まず、38~40節をご覧ください

「イエスは再び心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓は洞穴で、石が置かれてふさがれていた。イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだラザロの姉妹マルタは言った。「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」 イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」

 

イエスは再び心のうちに憤りを覚えながら、ラザロの墓に来られました。イエスは何に対しテ憤っておられたのかについては先週お話しした通りです。それは人類に死をもたらした罪の現実と、それを支配している悪魔に対する憤りです。当時、墓は洞穴になっていて、その入口に石が置かれていました。するとイエスは、「その石を取りのけなさい」(39)と言われました。「その石」とは墓をふさいでいた石です。いったい何をするというのでしょうか。死んだラザロの姉妹マルタは、「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」(39)と答えました。私たちも今週の土曜日に埋葬式を行いますが、当時の埋葬は、今日のように火葬にはせず、死体には香料や没薬を塗り、長い布で巻きつけて、洞穴の中に置きました。でもさすがに四日も経つと腐ってきます。ただ腐るというだけではありません。当時のユダヤ教のラビたちは、死者の魂は死後三日間は遺体の周りを漂っているが、四日になるとその遺体から完全に離れていくと教えていました。ですから、死んで四日になるというのは、その人が完全に死んでしまったということを言っているのです。死んで三日以内であれば蘇生する可能性もあるかもしれませんが、四日にもなるとそういうことはあり得ません。遺体の腐敗も進んでいるでしょう。もう無理です。その望みは完全に断たれてしまいました。しかし、イエスはその石を取りのけなさいと言われました。いったいなぜそのように言われたのでしょうか。

 

40節には、「イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」」とあります。確かに常識で考えれば、一度死んでしまった者が生き返るなどということがあろうはずがありません。終わりの日によみがえることはあるでしょう。でも実際に死んだ人がよみがえるなどということは考えられません。しかし、イエスは「信じるなら神の栄光を見る」と言われました。問題は、私たちが信じられないことです。マルタと同じように「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」と言ってしまいます。「無理ですよ」「お先真っ暗です」「もうどうしようもありません」と言ってしまうのです。でもそのような時こそイエスがやって来てこう言われます。「その石を取りのけなさい。」イエスがラザロの死後四日も経ってから来られたのはそのためでした。マルタがもうだめです、終わりです、と言うそのタイミングで来られたのです。もし私たちの中にまだ可能性があるかもしれない、他に何らかの道があるかもしれないという状況ではイエスは来られません。もうだめです。何もできません。絶望です。そういう時にこそ来てくださるのです。それはイエスが遅れているからではありません。そのような時だからこそ主の力が発揮され、主の栄光が現されるためです。私たちに求められているのは、信じてその石を取りのけることです。

 

先日、武藤兄姉を訪問しました。これまでお一人で寂しいこともありましたが、武藤兄が退院してとても安心しておられました。ところが、武藤兄もリハビリがあるので、車椅子の姉妹にはご主人を介護するのには限界があります。そんな時、東京にいた頃に所属していた教会の牧師先生が語ったことばを思い出しているとのことでした。それは「人の限界の時が、神が働かれる時である」という言葉です。自分にはもうできないという時こそ、神が働いてくださる時だというのです。まだ自分にはできると思っているうちには神は働かれませんが、もうだめだという時にこそ神が働かれるのです。あなたはそれを信じなければなりません。信じるなら神の栄光を見るのです。本気で信じていないのに、神の栄光を見せてくださいというのは全くのお門違いです。神の栄光を見たいなら、本気で信じなければなりません。あなたの問題をすべて神にゆだねなければならないのです。

武藤さんの家から帰ろうとしていたら、「先生、主人のためにも祈ってください」というので、ご主人のお部屋に行きました。ご主人は部屋を暗くして寝ておられましたが、奥様が、「ねぇ、ちょっと先生が来たから電気つけるわよ」と部屋を明るくしました。そして、「夫はあの、父、御子、御霊の、という頌栄がありますよね、あれが好きなんですよ。」と言われたので、「あっ、ちょうどヒムプレーヤーを持って来たので一緒に賛美しましょう。私は何でも弾けますから」と、ヒムプレーヤーの伴奏で一緒に新聖歌63番を賛美しました。ご主人は目をつぶり、涙を流しながら、父、御子、御霊の、おおみ神に、とこしえ、たえせず、御栄えあれ」と賛美しました。それを見ていた武藤姉も涙しました。私はそこに主の臨在を強く感じました。体も思うようにいかない中でも、主を見上げ、主を信じ、主の栄光をあがめるところに、必ず主が働かれることを確信しました。信じるなら、神の栄光を見るのです。信じて、その石を取りのけなければなりません。

 

私たちは「臭い物に蓋をする」ということわざがあるように、どちらかというと、臭いものには蓋をしようとする傾向があります。できるだけ臭い自分に蓋をして、匂いが外に漏れないように隠してしまうのです。でも主の栄光を見たいなら、臭いものに蓋をしてはなりません。逆に、その石を取りのけなければならないのです。たとえそれがたまらなく臭いようなものでも、他の人から見たら醜い問題でも、その蓋を取りのけてイエスに触れていただくようにしなければなりません。それが主にすべてをゆだねるということです。あなたの問題を主にゆだねてください。あなたを塞いでいるものは何ですか。その石を取りのけてください。そして、神の栄光を見させていただこうではありませんか。

 

Ⅱ.ラザロよ、出て来なさい(41-43)

 

次に、41~43節をご覧ください。

「そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて言われた。「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。あなたはいつでもわたしの願いを聞いてくださると、わたしは知っておりましたが、周りにいる人たちのために、こう申し上げました。あなたがわたしを遣わされたことを、彼らが信じるようになるために。」 そう言ってから、イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ、出て来なさい。」」

 

そこで彼らが石を取りのけると、イエスはこう言われました。「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。」これは祈りです。その祈りはまず「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します」という感謝の祈りでした。イエスの願いとはどんなことだったのでしょうか。ここには書かれていないのではっきりはわかりませんが、この文脈からするとラザロがよみがえることではないかと思います。そうだとすれば、イエスはここに来られる前からラザロのために、そしてマルタやマリアのために祈っていたということがわかります。そうです、何のアクションもないからといってイエスは何もしておられないのではありません。何もしていないようでも、いつもあなたのために祈っておられるのです。ローマ8:34には、「だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。」とあります。イエスは今も、神の右の座でとりなしていてくださるということを覚えていただきたいと思います。

 

そして、42節には「あなたはいつでもわたしの願いを聞いてくださると、わたしは知っておりましたが、周りにいる人たちのために、こう申し上げました。」とあります。私たちもこのように祈りたいですね。「あなたはいつでもわたしの願いを聞いてくださると、わたしは知っております」私たちの願いは父のみこころにかなったものであり、もうすでに聞いていただいているという確信をもって祈らなければなりません。

 

そのように祈られると、イエスは大声で叫ばれました。「ラザロよ、出て来なさい。」なぜ大声で叫ばれたのでしょうか。マタイ12:19には、「彼は言い争わず、叫ばず、通りでその声を聞く者はなく」とあります。イエスは日ごろあまり大きな声を出されるということはありませんでしたが、ここでは大声で叫ばれました。それはあたかも天地創造の時に、神が「光よ、あれ」と仰せられた時のようです。それは無から一切のものを創造し、人にいのちを与えられた主の権威ある一言でした。つまり、イエスは人にいのちを与えることがおできになる方であることを印象付けるために、大声で叫ばれたのです。主はそのような権威を持っておられる方なのです。その声にすべてのものはひれ伏し、伏し拝み、服従します。それが私のようにかん高い声だったかどうかわかりませんが、どんな声であっても、その声にすべてのものが服従するのです。それはあなたが抱えている困難も、です。私たちは時として大きな困難に出会い絶望してしまうことがありますが、イエスが御声を発すると、すべてのものは服従するのです。イエスにはそのような権威を持っておられるということを覚えていただきたいのです。

 

Ⅲ.ほどいてやって、帰らせなさい(44)

 

第三に、44節をご覧ください。主イエスがそのように叫ばれるとどうなったでしょうか。「すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布で包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」」

おもしろいですね。亜麻布でぐるぐる巻きに巻かれて死んでいた人が、墓から出て来ました。手足はもちろんのこと、ここには「彼の顔は布で包まれていた」とあります。全身が布で包まれていました。ほとんど身動きできないような状態だったでしょう。そういう人が墓から出てきたのです。開いた口がふさがらないとはこのことです。とても信じられません。ここに信じがたい光景が映し出されています。だいたいどうやって出てきたのでしょうか。全身が布で包まれているわけですから、普通に歩いて出てくることはできなかったでしょう。ピョンピョンと跳ねながら出て来たのでしょうか、あるいは、肘をついて這いつくばるようにして出てきたのでしょうか。わかりません。ただ確かなことは、死んだはずのラザロが墓から出てきたということです。

 

死んだ人が生き返ったという話は新約聖書に何回か出てきますが、あの会堂管理人ヤイロの娘の場合は、死んでからすぐのことでした。また、ナインの町のやもめの息子の時は、死んで埋葬のために墓に向かって行く途中でした。すなわち、死んですぐのことでした。しかし、このラザロの場合は死んで四日も経っていました。それは完全に死んだということを意味しています。イエスはそんなラザロを生き返らせたのです。そうです、イエスは死人をよみがえらせることができる方です。死んでいる人にいのちを与えることができる方なのです。

 

ヨハネの福音書の中には、イエスが神から遣わされたメシアであることを示すためのしるしが7回出てくるということを何度かお話してきました。それは証拠としての奇跡です。その最後のものが、このラザロのよみがえりです。ですから、このしるしはヨハネの福音書の中のクライマックスであり、最大のしるしであったと言えます。ヨハネはこの奇跡によって何を示そうとしていたのかというと、イエスは神から遣わされたメシアであるということ、そして、霊的に死んでいる人をもよみがえらせることができるということです。まさにこれこそヨハネが伝えたかったことであり、聖書の中心です。永遠の滅びから救われ、永遠のいのちを与えることができるということは、神の奇跡の中でも最大の奇跡なのです。イエスはそのように死んでいる人にいのちを与えることができるお方なのです。

 

皆さんは、クリスチャンになってからも神の奇跡を体験したいと願い、自分の人生に奇跡が起こったらどんなにすばらしいだろうと思うことがあるでしょう。こんなにお金が必要な時に、宝くじ一つにでも当ったらどんなにすばらしいものかと思うかもしれません。原因不明の病気にかかりどの医療機関に行ってもどうにもならないと医者から宣告されたけど、神が奇跡を起こして完全に癒してくれたらどんなにすばらしいことかと思います。愛する者が亡くなったとき、このラザロのようにキリストが直接現れて生き返らせてくれたらどんなにすごいだろうと思うでしょう。神の奇跡を期待して何度も叫びたくなる時があります。でも忘れてはならないことがあります。それは、人が永遠の滅びから救われるということ以上に大きな奇跡はないということです。霊的に死んでいた人がよみがえるということ以上に大きな奇跡はありません。これは最大の奇跡です。

 

先日、ある方がこう言われました。「先生、今関わっている人は本当にひどい人で、携帯の料金も払わないので自分が立て替えてあげたんですけれども、結局、支払うことができずブラックリストに載ってしまいました。仕事はやっているんですけれど、給料日になるとパーっとお酒を飲んで使ってしまうので、全然生活が成り立たないんです。こういう人でも救われますか」皆さん、どうですか。こういう人でも救われますか。救われます。なぜなら、イエスは死んでいた私たちを救いいのちを与えてくださるのですから。死んでいるということはもう何もできないということです。神に対して叫ぶこができません。しかし、神は、そんな状態からも救ってくださいました。それは一方的な神の恵みによるのです。エペソ書の中にはこうあります。

「さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。」(エペソ2:1-8)

 

ここには、私たちは、自分の背きと罪の中に死んでいたとあります。でもあわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。それは神の恵みによるのです。そればりではありません。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。私たちはもう天上に座らせていただいたのです。いつ死んでも天国です。イエス・キリストによって神がともにいてくださるようにしてくださいました。これが永遠のいのちです。それは私たちから出たことではなく、神からの賜物です。すごいでしょ。あのウエスレーが「私たちにとって一番良いことは、神がともにおられることです」と言った言葉が響いてきます。この永遠のいのちを持つようにしてくださいました。これはものすごいことなのです。これよりも大きな奇跡はありません。イエスは、このラザロの生き返りを通して、ご自分が死んだ私たちを生き返らせることができるいのちの主であることを示してくださったのです。

 

しかし、それだけではありません。ラザロはイエスのことばを聞いて墓から出てきましたが、私たちもイエスのことばを聞いて墓から出てくる時が来る時がやって来ます。ラザロのよみがえりは、私たちもやがてよみがえるということの型でもあったのです。

ヨハネ5:25~29をご覧ください。ここには、「まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。」とあります。死んだ人が神の声を聞く時が来るとは、霊的に死んでいる人が神の声を聞くということです。それを聞いて、それを信じる者には、永遠のいのちを持ちます。死んでいた者がいのちを受けるのです。イエスが道であり、死んであり、いのちです。ですから、イエスを信じるなら、だれでもこのいのちを持つことができるのです。しかし、それだけではありません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受け、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出てきます。これはキリストが再臨される時に受けるよみがえりのことを言っています。その時、キリストを信じた者はみな墓からよみがえります。それはラザロがよみがえったように、再び死ななければならないからだによみがえるのではなく、決して死ぬことのない霊のからだ、栄光のからだによみがえります。それは、イエスが十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられた時のからだと同じです。もはや死ぬことはありません。イエスが死からよみがえられたのは、私たちもやがて終わりの日にこのからだによみがえるということを示すためでした。それは初穂だったのです。ラザロのよみがえりはそれとはちょっと違いますがこの型でした。私たちはやがてこの霊のからだによみがえります。イエスが死んだラザロをよみがえらせてくださったのは、私たちにそのことを示すためでもあったのです。イエスはそれがおできになられます。なぜなら、イエスは完全に死んだラザロをよみがえらせることができたからです。イエスは、死んだ者にいのちを与えることができます。そうです、イエスは霊的に死んだ私たちにいのちを与え、やがて滅びた肉体を朽ちることのない栄光のからだに変えてくださるのです。これほど大きな奇跡がほかにあるでしょうか。これは最高にして、最大の奇跡です。あなたは、この奇跡を経験したのです。感謝しましょう。

 

そればかりではありません。イエスはこのように命じられました。「ほどいてやって、帰らせなさい。」どういうことですか?なぜ、ほどいてやる必要があったのでしょうか。勿論、ラザロは全身が布でぐるぐる巻かれていたので自分でそれをほどくことができなかったでしょう。だれか他の人にほどいてもらう必要がありました。しかし、それだけではありませんでした。それを見ていた人が自分の手で触れて確かめることができるためだったのです。そのことによって彼らは、それが幻想ではなくイエスによって実際に行われた奇跡であることを確認することができました。確認して、神の栄光を見ることができたのです。

 

マリアのところに来ていて、この出来事を見たユダヤ人の多くが、イエスを信じました。しかし、何人かはこれを信じないばかりか、パリサイ人たちのところに行って、イエスがなさったことを伝えました。信じるなら、神の栄光を見ます。それがたとえ死であっても、必ず神の栄光を現すようになります。なぜなら、イエスは、私たちにとって最悪だと思える死であってもいのちを与えることができる方であり、そこから引き上げることがおできになられる方だからです。イエスは霊的に死んでいる私たちにいのちを与えてくださいました。その方は、私たちの現実の生活の中に起こるかいなる問題にも解決を与えてくださいます。私たちは時としてあまりにも大きな困難に出会うと、絶望してしまうことがありますが、そこにいのちの主がおられる限り、絶望の2文字はないということを覚え、ますます主に信頼していきたいと思います。信じるなら神の栄光を見るからです。

ヨハネの福音書11章28~37節「涙を流されるイエス」

きょうは、「涙を流されるイエス」というタイトルでお話します。聖書の中には、イエスが笑われたという表現は一度も出ておりませんが、涙を流されたというのは、三回出てきます。ルカ19:41とへブル5:7とここです。どうして主イエスは涙を流されたのでしょうか。それは、マルタやマリアやそこにいた人たちの悲しみに同情されたからです。主イエスは、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように試みに会われました。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づくことができるのです。きょうは、このあわれみ深いイエスについて三つのことをお話ししたいと思います。第一のことは、イエスは私たちを呼んでおられるということです。

 

Ⅰ.あなたを呼ばれるイエス(17-22)

 

28~32節をご覧ください

「マルタはこう言ってから、帰って行って姉妹のマリアを呼び、そっと伝えた。「先生がお見えになり、あなたを呼んでおられます。」マリアはそれを聞くと、すぐに立ち上がって、イエスのところに行った。イエスはまだ村に入らず、マルタが出迎えた場所におられた。マリアとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリアが急いで立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、ついて行った。マリアはイエスがおられるところに来た。そしてイエスを見ると、足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」

 

ラザロが死んで四日経っていました。イエスが来られたことを聞いたマルタは、すぐに出迎えに行きました。一方、マリアは、イエスが来られたと聞いても、家に座っていました。あまりにも悲しくて立ちあがれなかったのかもしれません。イエスを出迎えに行ったマルタが、「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と言うと、イエスは「あなたの兄弟はよみがえります」と言われました。マルタは、終わりの日に、よみがえることは知っていますと答えると、主はあの有名なみことばを語られました。

「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことはありません。」(25-26)

すると彼女はイエスに「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の御子キリストであると信じております。」と答えました。彼女は確かにイエスが旧約聖書で預言されていたメシアであると信じていましたが、それ以上の方として受け入れることはできませんでした。つまり彼女はイエスを神の子として信じていましたが、また、そういう意味では彼女も救われ永遠のいのちを受けていましたが、同時にそれがこの世におけるさまざまな問題においても実際に解決をもたらす力があるということを理解していなかったのです。彼女の信仰には欠陥というか、不完全な要素がありました。

 

マルタは、そのように言うと、自分の家に帰って姉妹のマリアを呼び、そっと伝えました。「先生がお見えになり、あなたを呼んでおられます。」(28)マリアはそれを聞くと、すぐに立ち上がって、イエスのところに行きました。「すぐに立ち上がって」という言葉は、ギリシャ語ではエゲイローという語ですが、眠りから覚めるという意味があります。5:21には、「死人をよみがえらせ」とありますが、この「よみがえらせ」という言葉がエゲイローです。12:1にも「そこには、イエスが死人からよみがえらせたラザロがいた」とありますが、この「よみがえらせた」も「エゲイロー」です。イエスの呼びかけは、死んでいたような彼らの霊を呼び覚ましました。あなたはどうでしょうか?あなたの腰は重くなっていないでしょうか?眠ったままになってはいませんか?マリアはそれを聞くとすぐに立ち上がりました。それほどに彼女はイエスを愛していたというか、信頼していたことがわかります。私たちもイエスさまの呼びかけにすぐに応答する者となりたいですね。

 

30節をご覧ください。イエスはまだ村に入らず、マルタが出迎えた場所にいました。なぜイエスは村に入らなかったのでしょうか?それはマルタと個人的な時間を持ちたかったからです。村に入ってしまうとそのような時間を持つことができないと思われたのでしょう。28節にも、マルタは、イエスがマリアを呼んでおられることを「そっと伝えた」とありますが、それはこのためでしょう。すぐに大勢の人々が集まって来るのを望まなかったのです。ところが、結果的にはそのようにはなりませんでした。31節を見ると、「マリアとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリアが急いで立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、ついて行った。マリアはイエスがおられるところに来た。」とあります。「彼女を慰めていたユダヤ人たち」とは、多くの親戚たちや、親しい友人たちのことです。そして当時ユダヤには「泣き女」と呼ばれる人たちがいました。泣くことを職業にしていた人たちです。そういう人たちものいました。ですから、そういう人たちすべてのことです。イエスは、こういう人たちを振り払ってできるだけ個人的に、静かな時間を持ちたいと思われたのです。しかし、この人たちは、マリアが急いで立ち上がって出て行くのを見て墓に泣きに行くのだろうと思い、ついて行きました。

 

マリアはイエスのおられるところに来るとどうしましたか?彼女はイエスを見ると、足もとにひれ伏して言いました。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」どこかで聞いたことのあることばです。そうです、これは21節でマルタがイエスに言ったことばと全く同じです。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」マルタが言ったことばが山彦(やまびこ)のようにこだましています。なぜマリアは同じセリフを言ったのでしょうか?言ったというよりも自然に出て来たのでしょう。それは、マルタとマリアがイエスを待っている間ずっと同じことばを繰り返していたからです。これが人間の性です。言葉使いとか、口癖というものは、実に感染していきます。すぐに周囲に影響をもたらすのです。ですから、皆さんは普段付き合っている人と同じように話すようになるのです。あなたが「疲れた、疲れた」と言っていると、あなたの子供たちも「疲れた、疲れた」と言うようになります。夫婦もよく似てきます。同じ時間を共有しているからです。そうやって互いに影響を及ぼしているわけです。

 

かなり前のことですが、家内の母親がアメリカから来日した時のことです。二女の英語の発音を聞いてびっくりしました。あまりもひどい。どうしてそんなにひどいのかと思ったら、私の発音にそっくりだというのです。考えてみたら娘が小さかった時、何とか英語ができるようにと一生懸命に英語で話しかけていました。それが悪かった。私の発音にそっくりになってしまいました。それ以降、なるべく良い発音ができるように私は一切話さないようにしました。貝のように堅く口を閉ざしたのです。それでも娘の発音はずっとひどかったらしいです。小さい時の耳はその通り覚えているんですね。だから、何に触れるかはとても重要なことです。

 

パウロは、コリント第一15:33で、「惑わされてはいけません。「悪い交際は良い習慣を損なう」のです。」と言っています。これは真実です。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。

マルタとマリアは、弟のラザロの容態が悪くなるにつれ、主はいったいどこへ行ってしまったのか、私たちのメッセージを受け取らなかったのだろうか、それを聞いて、何ともお思いになられなかったのでしょうか、早く来てくれれば何とかなるのにと、ずっと言い合っていたのです。

 

友達が悪ければ、良い習慣が損なわれます。いつもすねてばかりいて、いぶかしそうにしている人、不平不満と苦々しい思いを持った人、不機嫌な人たちといると、それがあなたにも移ります。だから、だれと付き合うかというのは大切なことなのです。勿論、重荷を負っている人とは関わらない方がいいと言っているのではありません。否定的な人とは一切交わらない方がいいと勧めているのではありません。ただ長い付き合いとなる人間関係において、信仰の言葉を語り、神を愛し、神に信頼している人たちと共に時間を過ごすなら、そのような人になっていくということを覚えておくことは大切なことです。うちの夫はいつも否定的で、時間があったら上司の悪口しか言わないけど、別れるわけにもいかないし、どうしたら良いかという人もいるかもしれません。大丈夫です。そういう時は、イエス様と一緒に過ごす時間を多くしてください。その上で一緒にいれば、イエス様の影響を受けるようになるでしょう。

 

マリアは、マルタとの生活の中で否定的な思いに感染していました。でもイエスを見たとき、彼女はその足もとにひれ伏しました。この「ひれ伏す」という言葉は「礼拝する」ということです。通常は、王様や高貴な人に対してしか、このような態度を取りません。マリアは、イエスを神の子と信じていたので、ひれ伏したのです。これはすばらしい態度です。この後12章に入ると、イエスが過越しの祭りの時に再びこのベタニアに来られた時のことが記されてありますが、おそらくらい病人シモンの家でのことでしょう。人々が食卓に着いていた時イエスのもとにやって来て、非常に高価なナルドの香油をイエスに注ぎ、それを髪の毛でそれをぬぐい、その足に口づけしました。その時も彼女は主の足もとにひれ伏しました。彼女はいつも主の足もとにひれ伏しています。順境の時でも、逆境の時でも、主の足もとにひれ伏しました。ある人たちは順境の時にはイエスと時を過ごしても、逆境になったとたんに身を引いてしまうという人がいます。自分の思い通りにならなかったり、辛いこと、苦しいことがあると、怒りと失望と困惑によって、主から離れてしまうのです。なぜこんなに時間をかけてまで教会に行かなければならないのか、それだったら家で寝ながらユーチューブを観ていた方がいい・・・と。

 

一方他の人たちは、逆境になると教会に駆け込みますが、問題が解決すると、そのとたん教会から去って行きます。いわゆる駆け込み寺ですね。しかし、マリアは、順境の時も、逆境の時も、いつもイエスの足もとにひれ伏しました。これが重要です。いったいどうしたら、マリアのようにイエスと親密な関係を築くことができるのでしょうか。その答えはシンプルです。イエスさまの足もとにひれ伏せばいいのです。イエスさまの足もとにひれ伏して、共に過ごす時間を持てばいい。そうすれば、あなたも主イエスと親密な関係を持つことができ、主イエスから多くの影響を受け、主イエスのようになることができるのです。

 

イエスさまは、あなたを呼んでおられます。あなたを取り巻く人たちの中からあなたを呼んでおられるのです。それが教会です。教会とは、ギリシャ語でエクレシアと言いますが、意味は「呼び出された者たちの群れ」です。私たちは、主イエスによって呼び出された者たちです。それは、私たちが行って、実を結ぶためです。(ヨハネ15:6)主イエスの言葉は、あなたの死んだような心をよみがえらせてくれます。ですから、どうか、この主イエスの声を聞き、主イエスの足もとに行ってください。そしてイエスの足もとにひれ伏して、イエスの言葉を聞きましょう。そうすれば、あなたがたとえこの世でさまざまな声を聞いて影響を受け、疲れ果て、悩み、苦しんでいても、イエス様の言葉によってよみがえることができます。あなたがすべきことは、主イエスの言葉を聞いて、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行き、イエスの足もとにひれ伏すことなのです。

 

Ⅱ.あなたの涙をご覧になられるイエス(33-35)

 

次に33~35節をご覧ください。イエスさまはあなたを呼ばれますが、ただ呼ばれるだけでなく、あなたの涙をご覧になられ、深くあわれんでくださいます。

「そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」イエスは涙を流された。」

 

イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になられると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じられました。この「泣く」という言葉は、原語のギリシャ語では「クライオ」という語です。意味は大声で泣くとか、号泣する、泣きじゃくるです。特に、悲しみや痛みを表現する時に用いられます。彼らはなぜ泣いていたのでしょうか。彼らの心に死の悲しみが重くのしかかっていたからです。彼らには、イエスが死に打ち勝つ力があることを信じることができませんでした。死んだら終わりという現実に打ちのめされていたのです。イエスはそんな彼らの姿を見て、霊の憤りを覚え、心を騒がして、「彼をどこに置きましたか」と言われたのです。

 

「霊の憤りを覚える」とはどういうことでしょうか。イエスはなぜ霊の憤りを覚えれたのでしょうか。いくつかの理由が考えられます。一つは、彼らの不信仰に対する憤りです。彼らはイエスに死に打ち勝つ力があることを認めることができませんでした。「あなたの兄弟はよみがえります」と言っても、だれも信じられなかった。まあ、当然と言えば当然かもしれません。死んだ人がよみがえるなんて考えられないことですから。それで嘆き悲しんでいました。すばらしい良い知らせをまともに受け止めることができませんでした。喜びの知らせがもたらされているのに喜べないばかりか、嘆き悲しんでいまのです。その不信仰さ、かたくなさを憤っておられたのでしょう。。

 

第二の理由は、愛するラザロの命を奪った死に対する憤りです。へブル2:14には、この死の力を持つ者は悪魔であるとあります。イエスはその悪魔という死の力に憤っておられるのです。

 

第三の理由は、もっとより深い次元で、人類に死をもたらした罪の現実に対する憤りです。罪がもたらしたもの、それは死です。病もそうです。すべての問題の根源はこの罪です。誤解しないでください。もし皆さんが今病気だからといって、それが罪を犯したことで引き起こされたということではありません。そうではなく、最初の人アダムとエバが罪を犯したことで、私たちはみな生まれながらに罪を持っているということです。その罪が病を引き起こしているのです。だから、人は例外なく病気になるし、肉体的に死ぬわけです。それは最初の人アダムとエバによって全人類にもたらされた罪の結果なのです。もしアダムとエバが罪を犯さなかったら人は病気になることはなかったし、死ぬこともありませんでした。ですから、イエスはその罪に対して憤っておられたのです。

 

恐らく、この三つの理由が複合的に絡み合ってのことだと思います。つまり、イエスは罪とその結果もたらされた死の現実に対して憤っておられたのであって、その罪と死の現実に勝利し、新しいいのちを与えるために来てくださったのに、それを信じようとしない不信仰に対して憤られたのです。

 

それでは「心を騒がせて」とはどういうことでしょうか。イエスはどんな時にも心を騒がせてはならないと言っておられるのに、ここではイエスご自身が心を騒がせておられます。この「心を騒がせる」というのは「タラッソ-」という言葉ですが、かき乱すとか、平静を失うという意味があります。感情を強く揺り動かされることです。ヨハネの福音書では何回も使われています。たとえば、5:4では「水を動かす」とありましたね。そして5:7では「かき回される」とありました。12:27には、「今わたしの心は騒いでいる」とあります。13:21では「心が騒いだ」とあります。イエスは何回も心が騒ぐことがあったのです。どうしてでしょうか?イエスは神だからどんなことにも動揺しないと思われるかもしれませんが、イエスは同時に100%人間でもあられました。血の通った私たちと同じ人間だったのです。つまり、感情を持っておられたのです。だから心の動揺を感じることもあったでしょうし、感情的に高ぶることもあったのです。心が乱されることもありました。へブル4:15-16にこうあります。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

イエスは私たちの弱さを知っておられます。私たちの痛みを知っておられる。なぜなら、罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように試みに会われたからです。私たちは本当に心が病んでみないと、その人の気持ちはわかりません。肉体的にも病気になってみないと、本当の意味でその人の苦しみはわからないものです。しかし、イエスは私たちの痛み、苦しみ、悩みを知っておられます。私たちと同じ姿になってくださったからです。この方だけが、私たちに本当に同情できる方なのです。

 

そればかりではありません。35節をご覧ください。ここには、イエスがそんな彼らに深く同情されたというだけでなく、涙を流されたとあります。「イエスは涙を流された。」英語では、”Jesus wept” です。聖書の中で最も短い節です。ちなみに、日本語で最も短いのは、ルカ20:30の「次男も」です。英語では、キングジェームズ訳ですと、”And the second took her as wife, and he died childless.と少し長くなります。英語で一番短いのはこの箇所になります。まあ、どうでもいいことですが、ここで大切なことは、イエスは涙を流されたということです。ラザロが死んで、マリアが泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になられ、イエスも涙を流されました。

 

先ほども申し上げたように、イエスが涙を流されたのは聖書に三回出てきます。一回はルカ19:41で、主がエルサレムの都をご覧になった時です。やがてアルサレムが敵によって攻撃され、その町に住む子どもたちを地にたたきつけ、粉々に砕かれることを預言して涙を流されたのです。もう一つは、へブル5:7で、主が祈られた時です。「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。」そして、もう一回がこの箇所です。どうして主はここで涙を流されたのでしょうか。文脈から見て、最も自然な解釈は、マルタとマリアやそこに来ていた人々の悲しみに同情されたからです。主はマルタやマリアがまもなくラザロの生き返りを見て喜ぶことを十分知っていながら、こうして悲しんでいる人々のために心を動かされ、涙を流されたのです。

 

このことを考えると、泣くことですね、それは決して信仰と矛盾しないことがわかります。日本では泣くことがどこか良しとされないところがあります。逆に、ひんしゅくをかったり、白い眼で見られるということがありますが、悲しみの表現として涙を流すということはむしろ自然なことであり、恥ずかしいことではありません。最近の研究では、このように涙を流すことはストレスの発散につながるとも言われています。でも注意しなければならないことは、このように悲しい時に泣くことは自然なことですが、自分が悲劇のヒロインであるかのように泣くことは、神を冒涜することにもつながりかねないので注意しなければなりません。自己憐憫の涙ですね。それは神中心ではなく、自分が中心となるからです。自分がいかに不幸で、惨めで、かわいそうであるのかを訴えて同情を引き寄せようとすることは、神を冒涜することにつながりかねません。しかし、悲しみを表すことは少しも悪いことではなく、むしろ自然なことであるということ、そして、私たちもそのように悲しんでいる人、苦しんでいる人を見て涙を流すほど、あわれみの心を持つことは大事なことなのです。それがイエスの心です。

 

イエスが涙を流されると、ユダヤ人たちはこう言いました。「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか。」彼らは素直にイエスの愛をそこで感じ取ったわけです。あなたはこの愛を感じ取っておられますか。そして、悲しんでいる人、苦しんでいる人に対して、イエスのように、あわれみの心を持っておられるでしょうか。イエスは、あなたの悲しみをご覧になられます。そして、そのために心を動かせ、涙を流しておられるのです。私たちもイエスからあわれみと恵みをいただいて、同じように悲しみの中にある人たちにあわれみ深い者とさせていただきたいと思います。

 

この後で賛美する「いつくしみ深き」は、歌われている讃美歌の一つで、教会では礼拝ではもちろんのこと、葬儀や結婚式においてもよく歌われる有名な賛美歌の一つです。

この歌の歌詞を書いたのは、ジョゼフ・スクラビンという19世紀のアイルランド人ですが、彼の生涯は、この世的には全く恵まれないものでした。大学卒業後に事業を営みますが、結婚式を目前にして婚約者を湖の事故で亡くし、事業も破産します。その後アイルランドからカナダに渡り、大学で教鞭を取りながら、不幸な人や貧しい方たちへの奉仕活動にその生涯を献げました。そんな活動の中で出会った女性と婚約するものの、その女性も結核を患い、帰らぬ人となるのです。彼は1度ならず2度までも愛する婚約者を失いました。世をはかなみ、自分の人生をどれほど呪ったことでしょうか。神を恨んでも仕方がないと思えるような状況の中で、彼は郷里のアイルランドで病に苦しむ母を慰めるために、この讃美歌を書いたのです。神を呪いたくなるほどの試練と苦悩を味わいつつ、彼は「苦しむ自分を励まし、力づけてくれたキリストを母に伝えたい」そんな思いがこの歌詞の中には込められています。

  1. いつくしみ深き 友なるイエスは 罪、咎、憂いを とり去りたもう

心の嘆きを 包まず述べて などかは下(おろ)さぬ 負える重荷を

  1. いつくしみ深き 友なるイエスは 我らの弱きを知りて 憐れむ

悩み悲しみに 沈めるときも 祈りにこたえて 慰めたまわん

  1. いつくしみ深き 友なるイエスは 変わらぬ愛もて 導き給う

世の友我らを捨て去る時も 祈りに応えて いたわりたまわん

 

イエスはあなたを深く愛しておられます。あなたの苦しみ、嘆きのすべてをご存知であられるのです。ですから、このイエスにすべての重荷を置いて、なぐさめとあわれみをいただき、同じように苦しんでいる人たちに対して慰めを与える者となりたいと思うのです。

 

Ⅲ.主のあわれみを感じて(36-37)

 

ですから、第三のことは、この主のあわれみに応答しましょうということです。36節と37節をご覧ください。「ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか。」しかし、彼らのうちのある者たちは、「見えない人の目を開けたこの方も、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか」と言った。」

 

イエスが涙を流されたのを見たユダヤ人たちは、「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか。」と言いましたが、しかし、彼らのうちのある者たちは、「見えない人の目を開けたこの方も、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか」と言いました。つまり、このように主のあわれみを素直に感じ取る人々もいましたが、そうでない人もいたということです。このような人は、いつでも悪意を持っている人であって、批判の目を持って見てばかりいる人です。

 

あなたは、この二つのタイプのうち、どちらでしょうか。あわれみ深いイエスが目の前にいても、それを認めようとしない、ねじけた心は、下向きに置かれた器のように、どんなに雨が降ってもそれを受け止めることができません。上向きの器にしか雨水はたまらないのです。それと同じように、主に対して心を閉ざしている人は、下向きの心の人です。しかし心が主に向いている人には、主の恵み、あわれみが十分注がれます。あなたの心はどちらに向いているでしょうか。「私はこれを心に思い返す。それゆえ、私は言う。「私は待ち望む。主の恵みを。」実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は偉大です。」」(哀歌3:21-23)主のあわれみは尽きることがありません。それは朝毎に新しいのです。あなたも、この尽きない主のあわれみを感じ取り、ぜひこの恵みの中に生きる者となろうではありませんか。

ヨハネの福音書11章17~27節 「わたしはよみがえりです いのちです」

きょうは、「わたしはよみがえりです いのちです」というタイトルでお話します。ヨハネの福音書には「わたしは・・である」という宣言が7回出てきますが、これはその中の5番目のものです。また、ヨハネの福音書にはイエスが神から遣わされたメシアであることを示すしるしがやはり7回出てきますが、このラザロを生き返らせるという奇跡は、その7番目のものであり、最大のものです。というのは、それはただラザロを生き返らせるというだけでなく、このことを通して主はご自身がよみがえりであり、いのちであることを示してくださったからです。ラザロは生き返りましたが、また死にました。しかし、キリストは再び死ぬことのないからだ、霊のからだによみがえられました。それはこの方を信じる者がみな、イエスのように死んでも霊のからだによみがえり、永遠のいのちが与えられるという聖書の約束が真実であることを示すためだったのです。よみがえりであり、いのちであるイエス・キリストを信じる者は、死んでも生きます。また、生きていてこの方を信じる人は、永遠に決して死ぬことはありません。私たちにはこのことを信じなければなりません。

 

私たちの人生には、ある日突然、予想だにしなかったことが起こります。先週の台風19号はそうでしょう。まさかあんなに大きな災害をもたらすなんて思いませんでした。それは災害だけでなく病気もそうですし、事件、事故などもそうです。中にはそうしたことで死ぬことさえあります。そんなことが起こるとき、私たちは「どうしてこんなことが起こるの?」と思ってしまいます。しかし、それがどんなことであっても、私たちはそれを乗り越えることができます。なぜなら、イエスはよみがえりであり、いのちであり、そのイエスが私たちともにいてそうした問題を乗り越える力を与えてくださるからです。

 

きょうは、このイエス様の御言葉から三つのことをお話しします。第一のことは、私たちの信じているイエスがどのような方であるのかを正しく理解しましょう、ということです。第二のことは、イエス様はよみがえりです。いのちです。イエス様を信じる者は死んでも生きる、ということです。そして第三のことは、あなたは、このことを信じますか、ということです。信じない者にならないで、信じる者になりましょう。

 

Ⅰ.もしここにいてくださったなら(17-22)

 

まず、17~22節をご覧ください

「イエスがおいでになると、ラザロは墓の中に入れられて、すでに四日たっていた。 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほど離れたところにあった。マルタとマリアのところには、兄弟のことで慰めようと、大勢のユダヤ人が来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、出迎えに行った。マリアは家で座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています。」

 

イエスは、ラザロが病んでいるということを聞いてからも、そのときいた場所になお二日とどまられました(6)。「そのときいた場所」とは、ヨルダン川の川向うのことです。そこはかつてバプテスマのヨハネが人々にバプテスマを授けていた所です。イエスは彼を殺そうとしていたユダヤ人たちの手から逃れるために、そこに退いておられたのです。それからラザロがいたベタニアにやって来ましたが、それはラザロが死んで墓に葬られてすでに四日もたっていた時でした。ベタニアはエルサレムに近く、3キロメートルほど離れた所にありました。大勢の人々がマルタとマリアを慰めるために来ていました。マルタはイエスが来られたと聞いてすぐに迎えに行きましたが、マリアは家で座っていました。兄弟ラザロが死んだことがあまりも悲しくて、そこから動けなかったのかもしれません。

 

マルタは、イエス様に会うなりこう言いました。21節です。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」どういうことでしょうか。32節を見ると、実はマリアも同じように言っていたことがわかります。ここに、彼女たちが、どれほどイエスが来られるのを待っていたのかがわかります。あるいは、待ってはいてもなかなか来てくれないイエス様のことを残念に思っていたのでしょう。これまで一生懸命に尽くしてきたのだから、何を差し置いてもすぐに飛んで来てくれると思ったのにそうではない。イエス様がエルサレムに上られた時は、彼らの家に宿泊することが多かったようですが、その時にはいつも決まった時間に来てくれたではないですかるそれなのにこんな大事な時に来てくださらないとはどういうことか、彼女の中に不満というか、失望があったかもしれません。彼女たちは、ラザロが死ぬと頼るべき対象を失い絶望していたのです。ラザロの死は、彼女たちに大きな悲しみと虚しさを与え、生きる意欲と希望を奪って行きました。このように死は、死んだ人ではなく生きている人を支配するのです。

 

そんな中でもマルタは、かすかな期待を持っていました。そして、こう言いました。22節です。「しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています。」どういうことでしょうか。この言葉には、イエスに対する不十分な理解というものが見られます。彼女は、それまでイエスが行われた数々の奇跡というものを忘れていました。それはイエスが力ある神だからというよりも、イエスのとりなしの祈りに効果があるのであって、イエスが神に求めることは何でも神は聞いてくださると考えていたからです。マルタはイエスを全能の神としてよりも、一人の祈りの勇者として信じていたのです。21節で彼女が「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう。」と言ったのも、同様の理由からです。イエスがここにいてくだされば何とかなったかもしれませんが、いてくれなかったので兄弟ラザロは死んでしまったのだ、と言っています。でも、イエスはそこにいなければ何もできないのでしょうか?そうではありません。あのカペナウムの王室の役人の息子が癒された時もそうでした。彼がイエスの所に来て、「主よ。どうか子どもが死なないうちに、下って来てください。」(4:49)と懇願したとき、イエスは、「行きなさい。あなたの息子は治ります。」(4:50)と言っただけで癒すことができました。イエスがその場に行かなくても、ただ言葉を発しただけで癒すことができたのです。イエスは全能の神です。そこにいなくても御言葉を発するだけで癒すことができる方なのです。彼女はそのことを忘れていました。

 

しかし、それはマルタだけではありません。私たちもイエスは死人をも生き返らせることができる全能者であるということを頭ではわかっていても、いざその現実に直面すると信仰がどこかに吹っ飛んで行くというか、すぐに慌てふためくのではないでしょうか。

 

今、さくらの祈祷会では出エジプト記を学んでいますが、エジプトを出たイスラエルが荒野に導かれた時、行き場を失う場面が出てきます。目の前には紅海が広がっています。後ろからはエジプト軍が追いかけて来る。絶対絶命です。その時、イスラエルの民はモーセに向かってつぶやきました。「エジプトには墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。」(出エジプト記14:11)そんなことをしたらエジプト軍が追いかけて来て自分たちを捕らえてしまうでしょう。もっとひどいことになる。モーセよ、あなたは、エジプトには墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのかと言って、叫んだのです。これは信仰の叫びではなく不信仰の叫びです。皆さん、叫びには二種類の叫びがあります。それは信仰の叫びと不信仰の叫びです。彼らの叫びは不信仰の叫びでした。確かに彼らはエジプトになされた主のみわざを見て主を信じましたが、こうした困難に直面すると、その信仰はどこかへ吹っ飛んで行ってしまったのです。

 

それは私たちも同じです。私たちもイエス様を信じています。しかし、こうした困難に直面すると、マルタのように、またイスラエルの民のように、不信仰になってすぐに不平不満を漏らしてしまうのです。いったい何が問題なのでしょうか。それは、キリストに対する理解が欠如していることです。私たちの信じている主イエスがどのような方であるのかを正しく理解していないのです。確かに、マルタとマリアは紛れもなくイエスを信じていました。そういう意味では真のクリスチャンです。しかし、その信仰には欠けがありました。確かにイエスを見てはいましたが、そこには不信仰が入り混じっていました。それはちょうどすりガラスを通して観るようにぼんやりとしたものでした。知ってはいましたが部分的でした。信じていましたがキリストの力を自分の頭で制限していたのです。あなたはどうでしょうか。どのようにキリストを理解しているでしょうか。あなたの理解は、どれほど深く、広いものになっているでしょうか。また、その理解は日々深まっているでしょうか。私たちは聖書の御言葉を通して、キリストを正しく理解しなければなりません。

 

那須でバプテスマを受けられた小島兄夫妻と継続的に学びの時を持っていますが、先日のテーマは「三位一体」でした。私たちが信じている聖書の神は、三位一体の神です。三位一体とは何ですか。三位一体とは、神は実態において唯一の神であり、父と子と聖霊という三つの位格によって存在するということです。位格とは人格と置き換えることができます。つまり、神はただ一人、唯一ですが、三人いるということです。単純に考えると理解できません。複雑に考えても理解できません。だって一人だけれど3人なんですから。目がくるくる回りそうです。聖書には三位一体という言葉は出てきませんが、そういう神概念を啓示しています。すなわち、父なる神は神としての性質を持っているということ、子なる神も神としての性質を持っているということ、そして、聖霊なる神も神としての性質を持っているということです。だから、三位一体を頭で理解することはできないのですが、啓示された神の言葉を受け入れるなら、これを信じなければならないのです。これは理解できるかできないかということではなく、信じるかどうかの問題です。

 

ところで、エホバの証人の方は、キリストは神の子であっても神ではないと主張します。神に近い人間だけれども神ではないと。皆さん、どう思いますか。そうだね、なんて言わないでください。聖書そのものをみると、イエス・キリストが神であるということは至るところに出てくるのですから。たとえば、ヨハネ1:1~3には、「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。」とあります。もうこれだけでもキリストが神であるのは明らかです。ここには、キリストは「ことば」として表されていますが、それは神を啓示された方という意味です。そのことばは「初め」から存在していました。この「初め」とは永遠の初めのことです。何も存在していなかった永遠の昔からキリストは存在していたのです。それは、ヨハネ8:58で、「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」とあることからもわかります。イエスはアブラハムが生まれる前から存在しておられました。アブラハムが生まれたのはいつですか。B.C.2000年です。イエスはそれよりも先におられたというのは、イエスは霊において永遠の昔から存在しておられたということです。それが時至って今から2,000年前に人間の姿を取ってこの地上に来てくださいました。キリスト永遠なるお方なのです。これだけでもキリストは神であるということがはっきりしています。でも、そればかりではありません。ここには、「ことば神とともにあった。ことばは神であった。」とあります。ここにはっきりと、「ことばは神であった」とあります。キリストは神ご自身であられるのです。それは、「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。」と言う言葉からもわかります。この方は、創造主なる神なのです。

 

これだけ見ても、キリストが全能の神であられるということがわかります。しかし、そればかりでないのです。たとえば、私たちはこれまでずっとヨハネの福音書を学んできましたが、その中でこの方が成されたわざを見れば、どれほど偉大な方であるかがわかります。キリストは王室の役人の息子の病気を癒したり、ベテスダの池の周りで38年間も伏せていた人を癒されました。そして、生まれつき盲人の目を開けて見えるようにしました。これだけでもすごいのに、それだけではありません。何とガリラヤ湖を舟で渡っていた弟子たちが嵐のため漕ぎあぐねているのを見ると、水の上を歩いて近づかれました。近づいて「どうした」と言われるのかと思ったら、そのまま通り過ぎるおつもりであったなんて、おもしろいですね。そして、そんな嵐に向かって、「嵐よ、静まれ」と言われると、波はなぎになりました。自然界をも支配されたのです。先の台風19号が襲来したとき、だれがその自然の猛威を静めることができたでしょうか。だれもいませんでした。台風が来るのでいのちを守ってくださいと言うことはできても、その嵐に向かって「静まれ」ということができる人など一人もいませんでした。しかし、キリストはその自然界さえも治めることができました。

そしてここでは死んだラザロを生き返らせます。だれがそんなことができるでしょうか。だれもできません。しかし、キリストはおできになるのです。なぜなら、キリストは神だからです。キリストは神であられ、どんなことでもおできになる全能者なのです。あなたはそのことを本当に信じていますか。

 

20世紀の偉大な聖書学者、J・B・フィリップスの著書に、「あなたの神は小さすぎる」という本があります。あなたは、自分の小さな箱の中に、偉大な神様を、閉じ込めている、というのです。あなたはどうでしょうか。この偉大な神であられるイエス・キリストを、限界のある、人間の脳みその中に、押し込んでいる、ということはないでしょうか。私たちの主イエス・キリストは全能の神であることを信じ、いざというときに、その信仰を働かさなければなりません。

 

Ⅱ.わたしはよみがえりです。いのちです(23-26a)

 

第二のことは、イエスはよみがえりであり、いのちであるということです。23節から26節前半までご覧ください。

「イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」マルタはイエスに言った。「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」

 

そこでイエスは、マルタに「あなたの兄弟はよみがえります。」と言われました。これが、イエスがベタニアに来て最初に言われた言葉です。マルタのあいまいなキリスト観というものを正そうと導こうとして発せられた最初の御言葉です。いつ、どのように生き返らせるのかといったことには一切触れず、ただラザロが生き返ると言われたのです。

 

それに対してマルタは何と言いました。25節です。「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」どういうことですか?「終わりの日」とは世の終わりの日のことで、キリストが再臨される時のことです。その日にクリスチャンがよみがえるというのは聖書の約束であり、それを信じる信仰は確かにすばらしいものです。しかし、その信仰が今の彼女が当面している問題に対して何の解決も与えてくれないとしたら、それは生きた信仰とは言えません。彼女はイエスを信じていながらも現実的には悲しみ、絶望していました。今の彼女にとっては何の力にもならなかったのです。しかし、主が望んでおられたことは、その信仰が現実の生活の中に生かされることでした。死からよみがえるという復活の信仰に生きることだったのです。信仰と現実が一致することです。信仰は心の平安のために、でも実際の生活は自分の力でというのではありません。信仰が実際の生活の中で生かされることなのです。ですから、イエスは彼女に対して力強い約束と宣言のことばを語られました。25節と26節の言葉です。ご一緒に読みましょう。

「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」

 

イエスはこれまで何回も「わたしは・・です」と宣言されました。たとえば、「わたしはいのちのパンです」と言われました。6:35です。また、8:12では「わたしは世の光です」とも言われました。そして、10:7では「わたしは羊たちの門です」と言われました。また、そのすぐ後の10:11では「わたしは良い牧者です」とも言われました。イエスはこれまで4回も「わたしは・・です」語られましたが、これらはみな比喩として語られました。ところが、今回は単なる比喩としてではなく、そのものズバ語られたのです。つまり、イエスはよみがえりであり、いのちであられるということです。これはどういうことかと言うと、イエスはよみがえりそのものであり、いのちそのものであられるということです。そのような者であるということではなく、そのものズバリであられるということです。よみがえりであり、いのちであられるのです。

 

そして、これが現在形で書かれていることからもわかるように、よみがえりであり、いのちであられるキリストは、私たちが今、現在抱えている様々な問題のただ中にそのような方として存在しておられるのです。信仰とは過去や未来ではなく現在です。私たちは現在においてイエスを信じなければなりません。過去において信じていましたとか、いつか信じるでしょうというのではなく、今、信じなければならないのです。それは線のようにずっと継続していくものなのです。ですから、この終わりの日だけでなく、今イエスを自分のよみがえり、いのちと信じるなら、イエスは当面している今の問題を、その復活の力によって解決してくださるのです。よみがえりであり、いのちであられる主は、死んだ人にいのちを与えてことができます。しかし、それは死んでからのことだけでなく、生きている今、この瞬間にも、もたらされるのです。イエスはヨハネ5:24でこのように言われました。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」

イエスの言葉を聞いてイエスを信じる者は、その瞬間に永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。将来において移るでしょう、たぶん移るはずです、きっと移りますと言うのではなく、今、この瞬間に移っているのです。イエスを信じたら、その瞬間に天国です。天国とは神の支配です。神が共におられるところです。そういう意味では、信仰は本当に神秘的です。私たちがイエスをいのちの主として信じ受け入れる時、その瞬間にそこに驚くべきことが起こるからです。死からいのちに移ります。私たちはこれまで死の勢力が支配されて生きてきました。死んだら終わりという世界です。死の勢力は私たちを恐れさせ、虚しくし、悲しくし、運命の奴隷としてきました。死は人からすべての生命、希望、喜びを奪って行きます。しかし、いのちの世界に移されると状況は全く変わります。その時、それ以上死が支配することができないのです。代わりにいのちが私たちを支配するようになります。いのちの世界は光の世界であり、喜びと希望の世界です。いのちの世界に生きている人はもはや虚しさにさいなまれることはありません。もう運命に支配されることはないのです。使徒パウロは復活されたイエスに出会い、人生が全く変えられました。彼は次のように言いました。

「「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」(Ⅰコリント15:55-58)

 

すごいでしょ。以前、NHKで死の医学というものを提唱した精神科医の西川喜作さんのドキュメント番組を放映しました。これは作家の柳田邦夫さんも「死の医学」という本に書いています。

西川さんは精神科医として、まさに働き盛りの頃、その仕事に生き甲斐をもって全力を打ち込んでいました。ところがある日、血尿が出たため検査を受けたところガンの兆候であることがわかりました。それからというもの、検査、検査の毎日が続き、からだはその検査のためにクタクタになり、自分の生き甲斐である仕事も思うようにできなくなっていきました。やがて、彼は自分がガンであることを悟ります。担当医は、症状が少しでも進まないように、仕事から離れて静養することを勧めるのですが、彼にとっては仕事が何よりの生き甲斐でしたから、ドクター・ストップを振り切って、これまでどおりに手がけてきた仕事に全力を傾けていきました。

そうした中で、彼は医者として、現代の医療のあり方に対して非常に強い疑問を抱くようになるのです。確かに科学が進歩し、医療技術も進歩して、1日も長く寿命を延ばすことができるようになったけれども、ただそれだけのことではないか。自分が今抱えている死に対する不安や焦り、恐れ、そうした心の苦痛に対して、現代の医療は何も解決を与えてくれない、ということを痛感したのです。そして、「死の医学」を提唱し始めたのです。

症状が着実に進んでいきました。ガンは全身に転移し、力尽きてベッドに寝たままとなってしまいました。弱々しい姿に変わり果てながらも、訪問してくれる同僚や先輩の医者たちに対して、死についての真剣な対話を求めます。「死の向こうに何かあると思いますか。あなたは来世を信じていますか。」・・など。しかし、同僚や先輩たちは何も答えてくれませんでした。誰も真の意味で慰めてはくれない。死の恐れから彼を慰めるものは何もなかった、誰もいなかったのです。

私はそのドキュメントを見ながらとても痛々しかったのを覚えています。絶望感、虚無感、なぜ、どうしてという虚無感に襲われながらも何一つつかまるところのないその姿はとてもかわいそうでした。

私たちもいずれ例外なく、自分の死に直面します。これだけはみな平等です。その確立は100%です。しかし、この死の恐れ、死の不安に対して、本当の慰め、本当の勝利を持っている人が、果たしてどれだけいるでしょうか。人生の終わりに自分がどこへいくのかわからない、そんな人生はとても悲惨です。その人が人生で成してきたことが、死に対してなんの力にもならないのです。私たちがどこへいくのかはっきりと知ってこそ、どうなるのかを知ってこそ、はじめて死の恐れから解放されて生きることができるのです。

 

イエスはこう言われました。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」私たちの恐れの最後の砦である「死」に打ち破り、勝利を与えてくださった主に、心からの感謝しようではありませんか。そして、それは私たちが死んでからだけのことばかりではなく、生きていて、イエスを信じる者は決して死ぬことがなく、永遠の命を持つということ、つまり、キリストが今この復活の力を持って、この方を信じるすべての人の問題をも解決することができるということを信じて、ここに慰めと希望を持ちたいと思うのです。

 

Ⅲ.あなたは、このことを信じますか(26b-29)

 

ですから、第三のことは、このことを信じましょう、ということです。26節後半から29節までをご覧ください。

「あなたは、このことを信じますか。」彼女はイエスに言った。「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」マルタはこう言ってから、帰って行って姉妹のマリアを呼び、そっと伝えた。「先生がお見えになり、あなたを呼んでおられます。」マリアはそれを聞くと、すぐに立ち上がって、イエスのところに行った。」

 

イエスは、ご自分がいのちであり、真理であられるということ、そして、このことを信じる者は死んでも生きるというだけでなく、生きていてこのことを信じる者は、決して死ぬことはない、と言われると、マルタに向かって「あなたにとって少し慰めになりましたか」とか、「ちょっと楽になりましたか」などとは言いませんでした。、「あなたは、このことを信じますか」と言われました。「このこと」とは何ですか。それは、死んでも生きるというだけでなく、生きていて信じる者は、決して死ぬことがないということ、つまり、その復活のいのちをもって、今、当面している問題をも解決することができるということです。このことを信じますか、と問われたのです。

 

すると彼女は、このようにイエスに言いました。「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」どういうことですか。これは彼女がイエスの意図しておられるような意味で信仰を持ってはいなかったということを表しています。というのは、確かに彼女はイエスが世に来られる救い主であると信じていましたが、それ以上のお方としては信じていなかったからです。それ以上の方とは、この方が、今、現在、当面している問題をも解決することができる方であるという信仰です。この場合で言うなら、ラザロが生き返るということです。マルタのこの信仰告白は間違いではありませんでしたが、それは、漠然とした一般的な告白にすぎなかったのです。

 

クリソストムという神学者は、ヨハネの福音書の註解の中で次のように述べています。「マルタはキリストの語られた内容を理解していないように思われる。その重大性には気付いていたが、意味を十分に把握していなかった。そのため、的外れの返答をしたのである。」(J.C.ライル「ヨハネの福音書註解ⅢP64」)

また、トレトスという神学者はこう述べています。「マルタはキリストが、約束された真のメシアであると信じ、キリストが語られた一切の事柄を信じていると考えた。確かに彼女は信じてはいたが、その信仰は完全ではなく、漠然としていた。あたかも、よく把握していない信仰の教義について訪ねられた際、よく考えもせず、「私は公同の教会を信じます」と答える人に似ている。ここでのマルタも同様であり、「主よ、私は、あなたが真のキリストであること、また語られた事柄すべてが真実であることを信じますと述べてはいるが、その内容を十分に悟っていなかった。」(J.C.ライル「ヨハネの福音書註解ⅢP64」)

つまり、彼女は確かにイエスを神の子キリストであると信じていましたが、また、そういう意味では神の子とされ、永遠のいのちを受けていましたが、同時にそれがこの世でのさまざまな問題においても実際に解決をもたらす力がある方としては理解していなかったのです。いわばそれは私たちの信仰と同じであったということです。私たちもイエスを信じれば天国に行くことができると素朴に信じています。しかし、それがこの世の現実の生活においてはどうなのかと言われると、どこか首をかしげることがあるのではないでしょうか。なかなかそこまで信じることができません。

 

マルコの福音書に、口をきけなくする霊につかれた息子が連れて来られた時、イエスがその息子を癒される出来事が記録されています。人々がその子をイエスのもとに連れて来ると、霊がすぐ彼に引きつけを起こさせたので、彼は地面に倒れ、泡を吹きながら転げ回りました。イエスはその子の父親に、「この子にこのようなことが起こるようになってから、どのくらいたちますか」と尋ねると、父親は、こう答えました。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、何度も日の中や水の中に投げ込みました。しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでください。」(マルコ9:21-22)するとイエスは何と言われたでしょうか。イエスは、こう言われました。「できるものなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」(9:23)

 

皆さん、私たちもこの父親のように言うのではないでしょうか。「もしおできになるなら・・・」。確かにイエスは全能者であると信じていますが、まさか目の前にある問題は解決できないでしょう。だから、「もし、おできになるなら」と言ってしまうのです。そこに「もし」が付くのです。もしできるなら、お願いします。しかし、信仰には「もし」はないのです。信じる者にはどんなことでもできるのです。その父親は自分の不信仰を悔改めてこう言いました。「信じます。不信仰な私をお助けください。」(マルコ9:24)

 

私たちも、目の前の問題が大きければ大きいほどイエス様に限界を設け、「もしできるなら」と言ってしいますが、信じる者にはどんなことでもできるのです。問題はイエス様に限界があるのではなく、私たちの側に限界があるのです。イエスはよみがえりです。いのちです。イエスを信じる者は死んでも生きます。また、生きていて、イエスを信じる者は、決して死ぬことはありません。私たちはこのイエス様の言葉を信じなければなりません。もし私たちの中にあの父親のような不信仰が少しでもあるなら、今悔い改めましょう。そして、彼が「信じます。不信仰な私をお助けください。」と言ったように、聖霊によってイエスを主として、全能の主として信じることができるように祈ろうではありませんか。

 

「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。」(エペソ1:17-19)

そして、この主の問いかけに対して、私たちも「はい、信じます」と告白することができますように。私たちは信じないで滅びる者ではなく、信じていのちを得る者とさせていただきましょう。

 

ヨハネの福音書11章1~16節「神の栄光のために」

きょうは、「神の栄光のために」というタイトルでお話しします。皆さんはいったい何のために生きておられるでしょうか。これがわからないと、私たちの人生は無味乾燥なものになり、生きてはいても死んだようなものになってしまいます。逆に、このことがわかるとたとえ苦難があってもそれを乗り越えることができ、むしろそのことを通しても神の栄光が現されるようになるのではないでしょうか。

きょうは、このことについて三つのことをお話しします。第一のことは、私たちが苦しみに会うとき、主は最善を成してくださると信じ、すべてを主にゆだねなければならないということです。

第二のことは、その苦しみは何のためにあるのでしょうか。それは神の栄光のためです。すべてのことが神の栄光のためであると信じなければなりません。

そして、第三のことは、それはあなたの信仰の成長のためです。神はあなたの信仰の成長のためにそうした苦難を用いられるのです。

 

Ⅰ.神のみこころにかなった願い(1-3)

 

まず、1~3節をご覧ください

「さて、ある人が病気にかかっていた。ベタニアのラザロである。ベタニアはマリアとその姉妹マルタの村であった。このマリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアで、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」

 

ある人が病気にかかっていました。ベタニアという村に住んでいたラザロという人です。この人はマリアとその姉妹マルタの兄弟でした。このマリアは、「主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアとあるように、主を深く愛していた人でした。そのマリアの兄弟ラザロが病んでいたのです。

 

その時、マルタとマリア姉妹は、このことを伝えるために主イエスのところに使いを送りました。というのは、その時イエスはユダヤ人たちの手を逃れ、ヨルダンの川向こう、かつてバプテスマのヨハネがバプテスマを授けておられた場所に滞在しておられたからです。ベタニアからはその所までは、徒歩で約1日かかりました。マルタとマリアは、そのイエスのところに使いを送ってこう言いました。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」(3)

 

どういうことでしょうか。何と麗しい信仰でしょうか。このような時普通なら何と言うでしょう。「主よ、あなたが愛しておられるラザロが病気です。お願いですから早く来て、癒してください。私たちはあなたをこよなく愛し、あなたのためならば何でもしました。それはあなたが誰よりもご存知なはずです。今こそあなたが応えてくださる番です。お願いです。助けてください。」そう言うのではないでしょうか。つまり、自分の願うようにイエスに動いてもらおうと、必死になってイエスを納得させようとするのです。それが信仰だと思っているわけです。でも彼女たちは自分の思いや願いを押し付けたり、自分たちの信仰の正当性を訴えてイエスに動いてもらおうとしたのではなく、ただ事実だけを申し上げたのです。なぜでしょうか。それは神のみこころが成ることが最善であると信じていたからです。これが信仰です。信仰とは自分の思いが成ることではなく、神のみこころがなること、神のみこころに焦点を合わせることです。もちろん、自分の願いを申し上げることが間違っているのではありません。イエスは、「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(ルカ7:9)と言われました。「だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」(ルカ7:10)熱心に求めることは大切なことです。しかし、それは私たちの思い通りになるということではなく、あくまでも私たちが良いものを求めるなら、ということです。良いものとは何でしょうか。それは神のみこころです。

「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」(Ⅰヨハネ5:14)

これが、私たちの神に対する確信です。であれば、私たちは自分の思いや考えを主に押し付けるのではなく、神のみこころが何であるかを求め、それが成るように祈らなければなりません。そのためには聖書を通して神のみこころを悟ることが大切で、そうでないと、自分の常識や正義感、あるいは人間の尺度で、これが神のみこころだと勝手に決めつけてしまうことになるからです。

 

ここでマルタとマリアはイエスのところに使いを送り、「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」と言いました。それだから、どうしてくださいとか、どうするのが当然ですといった押し付けがましいことは一切言いませんでした。ただ事実だけを伝えたのです。もちろん、一刻も早く来てほしいという思いはあったでしょう。しかし、いつ、どのようにして癒してくださるのかは主の御手の中にあるのであって、主が成してくださることが最善であるという信仰があったのです。

 

ルカ10:38~42には、イエスが彼らの家に来られたとき、彼らがイエスをもてなした時の様子が記されてあります。妹のマリアは、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていましたが、姉のマルタはどうだったかというと、そんな妹の姿にイライラして、イエス様のところに来てこう言いました。「主よ。妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」

するとイエス様は何と言われたでしょうか。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良い方を選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」(ルカ10:41-42)

 

あなたは、いろいろなことを思い煩って、心を乱していませんか。しかし、どうしても必要なのはわずかです。いや一つだけです。それは何でしょうか。それは、主のみことばを聞くことです。こうした信仰は、みことばに聞き入ることから生まれてくるのです。

 

私たちの人生にも、愛する者が病気になることがあります。自分でもどうしたらよいのかわからない問題に直面することがあります。そのような時どうしたら良いのでしょうか。私たちはどうしても自分の思いが先走り、「主よ、こうしてください」とか、「ああしてください」と言うようなことがありますが、大切なのは、主が成されることが最善であると信じてすべてを主にゆだねることなのです。

 

Ⅱ.神の栄光のために(4-6)

 

第二のことは、苦難の目的です。いったい私たちの人生に、どうしてさまざまな苦難が起こるのでしょうか。それは、神の栄光のためです。4~6節をご覧ください。

「これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。」

 

ラザロが病気であると聞いたイエスは、「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」と言われました。彼女たちが「あなたが愛しておられる者が病気です」と伝えたのは、すぐに助けに来てほしいという思いがあったのは明らかです。でもイエスは彼女たちが願ったとおりには行動されませんでした。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。」と言われたのです。イエスがそのように言われたのは、マルタとマリアを、そしてラザロを愛しておられたからです。しかし、イエス様は、そのことを聞いてもすぐに出発しなかったばかりか、そこになお2日もとどまられました。愛しておられたのに、なぜそこになお2日もとどまられたのでしょうか。愛しておられたのであれば直ぐにでも駆け付けて癒してやろうとするのが普通です。それなのになぜなおもそこに2日もとどまられたのか。それはラザロが死ぬのを待つためです。新改訳聖書第3版には、この「しかし」を「そのようなわけで」と訳しています。「そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。」これを常識的に読むと、イエス様は彼らを愛しておられたので、ラザロが死ぬまで何も行動を起こさなかったとなります。どういうことでしょうか。

それを解く鍵は、4節のイエス様のことばにあります。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。」すなわち、イエス様は、行動を起こすべき神の時を待っておられたのです。

 

私たちの人生には、私たちが願ったとおりにならないことがたくさんあります。そのような時でも、神は最善以外のことをなさらないという確信を持っていなければなりません。すべてのことが神の栄光のために動いているからです。

 

同じ保守バプテスト同盟の婦人伝道師で、かつて山形で伝道された陶山節子先生のお話を聞いたことがあります。陶山先生は、1941年のある日、東京のある橋の上に立っていました。死のうと思っていたのですが、出来ませんでした。陶山先生は波乱万丈の人生を送っていました。夫は神奈川県の重要な政治家でしたが、結核でなくなりました。30代にして、未亡人となったのです。6年間の結婚生活は、意地悪な姑に悩まされる日々でした。たとえば、姑が風呂に入るときは、着物の中で一番良いものを着て姑の背中を流すように強要されました。それは、戦況が暗さを増していく頃のことでした。

陶山先生は横浜で育ち、恵まれた環境の中、大学にも進み、英語も流暢に話せ、将来有望な人でしたが、その時は何もかもが失われたかのように見えました。

しかし、何とかその暗い年月を乗り越え、やがて戦後、多くの宣教師たちが希望を携えて日本に押し寄せてきました。陶山先生はあちらこちらで、彼らの説教の通訳や翻訳で忙しくなりました。そんなある日、ある説教者の祈りを通訳し、自分が涙で出来た水たまりの中に立っていると気が付いたのです。そこで彼女はイエス様に出会ったのでした。

英語が話せたおかげで、いくらでも仕事の機会はやってきました。マッカーサー元帥のGHQ総司令部から雇用の話がきたことさえありました。しかしその時、彼女はジョセフ・ミーコという宣教師夫妻に出会います。彼らは山形県の奥地にある、まるで世の中の流れに取り残されたようなへんぴな場所に引っ越そうとしているところでした。そこは東京とはずいぶん違った場所でした。

陶山先生は、神様の導きを感じていました。しかし、それは大きな変化を意味していました。それでも、彼女は一歩踏み出すために大変な選択をします。生活の安定と数々のビジネスチャンスを捨てて、何の保証もないまま、おそらく霊的には日本で最も暗い東北で、ミーコ宣教師夫妻の開拓伝道を助けることを申し出たのです。

山形での努力は、国内では最も実を結んだ教会開拓の歩みとなりました。10年間で、12にも及ぶ教会が次々に生まれました。またその他にも、幼稚園が数件、女性の聖書研究会が28グループ、数えきれないほどの子供の聖書クラブ、しかもある日の日曜学校には、450人以上の子供たちが参加したのです。

陶山先生は、様々な地域で多くの人々の救いに関わったと同時に、山形の教会の霊的祖母として知られています。1993年には、その傑出した奉仕と、日本の伝道における歴史的影響力の故に、日本福音功労者賞を授与されました。2000年に行われた陶山先生の葬儀は、勝利に満ちたものとなり、メサイヤのハレルヤコーラスの合唱で最高潮に達したと言われています。

このような栄光はどのようにしてもたらされたのでしょうか。それは、夫を結核で失い、30代にして未亡人となるという苦しみの中から生まれたのです。陶山先生は、ご主人の癒しのためにどれほど祈られたことでしょう。まだその時にはイエス様と出会っていませんでしたが、その死によって宣教師の通訳の仕事へと導かれ、その中からミーコ先生との出会いが与えられました。そして、信仰によって一歩踏み出したとき、神様はそこに大いなるみわざをなされたのです。

 

苦しみは、できれば避けて通りたいとものですが、神様はその苦しみを通してご自身の栄光を現そうとしておられるのです。そうです、その病気は死で終わるものではなく、神の栄光が現されるためのものなのです。ですから、主が私たちの祈りにすぐに答えてくださらないということがあっても、あるいは、私たちが願ったとおりに応えてくださらないことがあっても、それはイエス様があなたを愛しておられないからではなく、むしろ愛しておられるからであって、また、主は、ご自身の栄光のために、私たちが考えている以上に、もっとすばらしい方法で解決を与えてくださるからであると、信仰によって受け止めなければなりません。主は愛する者の信仰の成長を願い、時にはそこに障害物を置かれることがあるからです。

 

Ⅲ.あなたがたが信じるため(7-16)

 

第三のことは、それはあなたがたが信じるためであるということです。7~16節をご覧ください。7節と8節にはこうあります。

「それからイエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。弟子たちはイエスに言った。「先生。ついこの間ユダヤ人たちがあなたを石打ちにしようとしたのに、またそこにおいでになるのですか。」

それから、どうなったでしょうか。それからイエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われました。「それから」とは、そのときいた場所になお二日とどまられてからです。すると、弟子たちは驚いて、イエス様に言いました。「先生。ついこの間ユダヤ人たちがあなたを石打ちにしようとしたのに、またそこにおいでになるのですか。」「ついこの間」というのは、あの宮きよめの祭りの時のことを指しています。その時、ユダヤ人たちはイエス様を殺そうとしました。なぜなら、イエス様が「わたしと父とは一つです」(10:30)と言って神を冒涜したと考えたからです。それでイエスは彼らの手を逃れ、ヨルダン川の向こう側にやって来ていたのですが、そのユダヤにもう一度行こうと言われたので、弟子たちは驚いたのです。

 

それに対してイエス様は何と言われたでしょうか。9節と10節をご覧ください。「昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。」どういうことですか。ユダヤ人は、1日12時間を昼の時間と考えていました。この時間は太陽が照らしているので、倒れたり、躓いたりすることはありません。しかし、夜になると働くことができません。光がないからです。この「夜」とは、イエスが十字架につけられる時のことを指しています。つまり、イエスはご自分が死ぬ時はまだ来ていないので、ユダヤに行っても殺されることはないと言われたのです。

 

イエスがこのように話されると、ラザロについてこのように言われました。「わたしたちの友ラザロは眠ってしまいました。わたしは彼を起こしに行きます。」(11)聖書では、しばしば人が死んだ時「眠った」と表現することがあります。しかし、弟子たちにはその意味が理解できませんでした。それで彼らはイエスに言いました。「主よ。眠っているのなら、助かるでしょう。」彼らはイエスの語られたことばの意味を理解できませんでした。

それでイエスは彼らにこう言われました。14節と15節です。「ラザロは死にました。あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」(14-15)

ここでイエスはラザロが病気になったとき、ご自分がベタニアのラザロのところに居合わせなかったことを喜んでいると言いました。なぜなら、もしそこにいたなら、すぐにでも飛んで行くことができたので彼は癒されたことでしょうが、こんなに遠く離れているわけですからそのようにすることができません。結果、ラザロは死んでしまいました。しかし、ラザロが死んだので彼にいのちを与え、彼を生き返らせることで、もっと大きな主のみわざを行うことができるからです。それはラザロが癒されるよりももっとすごいことでした。主はそのような計画を持っておられたのです。ですから、そこに居合わせなかったことを喜んでいると言ったのです。

 

しかし、この箇所を注意してよく見てみると、イエスはここで「わたしはラザロが死んだことを喜んでいる」とは言っていません。イエスが言われたのは、「わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます」ということでした。しかもそれはマルタとマリアとラザロためにではなく、「あなたがたのため、あなたがたが信じるため」です。どういうことかというと、イエスは、ひとりひとりが苦しんだり、悲しんだり、死んだりするのをご覧になって喜んでおられるのではないということです。そうではなく、ある人々の苦しみを通して、多くの人が信仰の益を受け、祝福されるのを望んでおられるということです。ここでは「あなたがたが信じるためには」とはそのことです。あなたがたとはだれのことですか。そうです、弟子たちのことであり、私たち一人一人のことです。弟子たちが信じるためには、本当に多くの時間がかかりました。その弟子たちの信仰の教育のためには、このことが必要だったのです。だから、イエスはその場に居合わせなかったことを喜んでいると言われたのです。

 

案の定、デドモと呼ばれるトマスは、そんなイエスの思いを全く理解することができませんでした。そして仲間の弟子たちに、「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」と言いました。だから、違うというのに・・・。なかなか理解できませんでした。しかし、それはトマスだけではなく、他の弟子たちも同じでした。他の弟子たちも、やがて主が逮捕された時には、主を捨てて逃げ去ってしまいます。

 

でも、私たちはそんな彼らを決して笑うことはできません。というのは、私たちもこのトマスが言ったようなことを、大まじめに言うようなことがあるからです。主のみこころとはかなり違ったことを言ってしまうことがあります。ですから、私たちは、まだまだイエス様の心を心とするには遠い者ですが、私たちが主のみこころに歩めるようになるために、主は私たちに試練を与えておられるということを覚え、謙虚な心で、主のみこころに従っていきたいと思うのです。

 

ニューヨークのリハビリテーションセンターの壁に掲げられている一患者の詩です。これは「病者の祈り」という題名がつけられている有名な詩です。この詩を読むと、この詩人が神のみこころをしっかりと受け止めていたことがわかります。

 

大事を成そうとして 力を与えてほしいと神に求めたのに 慎み深く従順であるようにと 弱さを授かった
より偉大なことができるように 健康を求めたのに よりよきことができるようにと 病弱を与えられた
幸せになろうとして 富を求めたのに 賢明であるようにと 貧困を授かった
世の人々の賞賛を得ようとして 権力を求めたのに 神の前にひざまずくようにと 弱さを授かった
人生を享楽しようと あらゆるものを求めたのに あらゆるものを喜べるようにと 生命を授かった
求めたものは一つとして与えられなかったが 願いはすべて聞き届けられた

神の意にそぐわぬ者であるにもかかわらず 心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた

私はあらゆる人々の中で 最も豊かに祝福されたのだ

 

私たちもなぜこのようなことが・・と思うようなことがありますが、私たちの人生に起こる一つ一つのことが神の栄光のために用いられていることを知り、すべてを主にゆだね、ますます主のみこころに歩ませていただきたいと思います。

ヨハネの福音書10章31~42節 「わたしのわざを信じなさい」 

きょうは「わたしのわざを信じなさい」というタイトルでお話ししたいと思います。エルサレムで宮きよめの祭りがあった時、イエスは宮の中で、ソロモンの回廊を歩いていると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言いました。「あなたがキリストなら、はっきりと言ってください。」(24)はっきりと言ってくださいと言っても、もう何回もはっきりと言ってきました。それなのに、彼らが信じなかったのは、彼らがイエスの羊の群れに属していないからです。イエスの羊の群れに属しているなら、イエスの声を聞き分けイエスについて行きますが、そうでないと言うことは、彼らがイエスの羊の群れに属していないという証拠です。

 

不思議なことですが、世の中にはイエスの声を聞くとすべての羊がそれについて行くかというとそうではなく、ついて行く羊とそうではない二種類の羊がいます。彼らはどうしてイエスを信じなかったのでしょうか、あるいは、信じたのでしょうか。きょうは、そのことについて共に学びたいと思います。そして、信じない者ではなく、信じる者になりましょう。

 

Ⅰ.イエスを石打ちにしようとした人たち(31-36)

 

まず、31~36節をご覧ください。ここにはイエスを信じなかったというよりも、イエスを石打にして殺そうとした人たちの姿が描かれています。

「ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、再び石を取り上げた。イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」ユダヤ人たちはイエスに答えた。「あなたを石打ちにするのは良いわざのためではなく、冒?のためだ。あなたは人間でありながら、自分を神としているからだ。」イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの律法に、『わたしは言った。「おまえたちは神々だ」』と書かれていないでしょうか。神のことばを受けた人々を神々と呼んだのなら、聖書が廃棄されることはあり得ないのだから、『わたしは神の子である』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が聖なる者とし、世に遣わした者について、『神を冒涜している』と言うのですか。」

 

先ほども申し上げたように、22節からは場面が、宮きよめの祭りでイエスが宮にいた時のことです。イエスはご自分について来る者に永遠のいのちを与えると約束されました。そればかりか、彼らは永遠に、決して滅びるとこがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしませんと言われました。どうしてそのように言うことができるのでしょうか。それは、イエスが彼らの手をしっかりと掴んでいてくださるからです。31節には「わたしと父とは一つです」とありますが、イエスは全能の神です。その方が掴んでいてくださるなら、どんなことがあっても決して離れることはありません。

 

そのように言うと、ユダヤ人たちが、イエスを石打ちにしようとしました。どうしてかというと、イエスが神を冒涜したと思ったからです。イエスが「わたしと父とは一つです」と宣言しました。人間でありながら、自分を神と等しい者とするとは何事かと烈火のごとく怒り、イエスを殺そうとしたのです。

 

イスラエルにはモーセによって与えられた十戒がありました。その戒めの第一戒にはこうあります。「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」(出エジプト20:3)

人間を神とする、自らを神とすることは神を冒涜することであり、この戒めに背くことになります。ですから、彼らはイエスがこの戒めを破り自分を神としたことで、神を冒涜したと考えたのです。もしイエスがただの人間であったのなら、彼らの主張も正しかったでしょう。でもイエスはただの人間ではありませんでした。イエスはもともと神であられる方なのに、人間の姿を取ってこの世に来てくださったのです。ですから、イエスが言っていることは正しいのです。そのイエスのことばを受け入れることができず、そのお方をさばき、石を投げつけるとしたら、その人の方がはるかに神を冒涜していると言えます。

 

イエスはそのことを証明するために、ここで二つの理由を挙げておられます。その一つが34~36節にあります。ここには、「イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの律法に、『わたしは言った。「おまえたちは神々だ」』と書かれていないでしょうか。神のことばを受けた人々を神々と呼んだのなら、聖書が廃棄されることはあり得ないのだから、『わたしは神の子である』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が聖なる者とし、世に遣わした者について、『神を冒している』と言うのですか。」」とあります。どういうことでしょうか?

 

主イエスがここで引用した言葉は、詩篇82篇6節の御言葉です。詩篇82篇6節にはこうあります。「わたしは言った。「おまえたちは神々だ。みないと高き者の子らだ。」(詩篇82:6)

この「おまえたち」とは、この世の裁判官や権力者たちのことのことです。ここで彼らは「神々だ」と呼ばれているのです。どうしてそのように呼ばれていたのかというと、人を裁く役目を担っていたからです。ある面でそれは神と同じ働きをしていたわけです。それで彼らは「神々だ」と呼ばれていたわけですが、であれば、神から遣わされ、人々を正しく裁く権威を持っておられる方を神と呼んだからと言ってどうしてそれが神を冒涜したと言えるのかというのです。

 

実は、旧約聖書においては、神から遣わされた器は神の代理人としての権威と使命をもって働くので、その人々を神々と呼ばれています。たとえば、出エジプト記4:16には、「彼があなたにとって口となり、あなたは彼にとって神の代わりとなる」とあります。「彼」とはモーセの兄アロンのことですが、神は口下手なモーセに代わってアロンをモーセの口としました。そして、モーセは「彼」すなわちアロンにとって神の代わりとなるのです。モーセが神の代わりとなるといったら大変なことになります。それこそモーセを神の地位まで高めたということで神を冒涜したと言われても不思議ではないでしょう。でも、ここではそういう反発はありません。また同じ出エジプト記7:1には、神はモーセに、「見よ、わたしはあなたをファラオにとって神とする。あなたの兄アロンがあなたの預言者となる。」と言われました。ここでも、モーセがエジプトの王ファラオにとって神とすると言われています。つまり、神から遣わされた器は神の代理人としての権威と使命をもって働くので、「神々」と呼ばれていたのですが、であれば、父から遣わされた神の御子自身を神と呼ぶのは当然であって、決して神を冒涜していることには当たらないでしょ、というのです。

 

誤解しないでください。ここでイエスが言っておられることは、本当はご自身は神ではないけれども神から遣わされている人々を「神々」と呼んだのだから、自分もそのように呼ばれても構わないのではないかということではなく、イエスは本当に神であって、父なる神と一つであられる方ですが、彼らがなかなか信じようとしなかったので、彼らが信じていた旧約聖書を引用して、神と呼ばれていたのは自分だけではないということを取り上げることで、ご自身が「わたしは神である」と言ったことが決して神への冒涜ではないということを示そうとされたのです。そうです、イエスはまことの神であり、父なる神と等しい方なのです。あなたはイエスをどのような方であると受け止めていますか。イエスを神の子、キリストとして信じましょう。

 

Ⅱ.わたしのわざを信じなさい(37-39)

 

第二のことは、イエスが行われたわざです。もしイエスが神のわざを行っているとしたら、それこそイエスが神ご自身であられ、父なる神と一つであるということの証拠となります。37~39節をご覧ください。ここには、「もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じてはなりません。しかし、行っているのなら、たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしも父にいることを、あなたがたが知り、また深く理解するようになるためです。」そこで、彼らは再びイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手から逃れられた。」とあります。

 

イエスは、たとえわたしを信じられなくても、わたしのわざを信じなさい、と言われました。イエスの言葉を信じることができなくても、そのわざを見れば信じることができます。イエスはまさに、神の子としてふさわしいわざを行われました。ガリラヤのカナでは、結婚式に水をぶどう酒に変えて、式が損なわれることがないようにされました。カペナウムでは、病気で死にかかっていた王室の役人の息子を癒されました。エルサレムでは、38年間も病気で伏せっていた男を癒されました。また、ガリラヤ湖畔では、イエスの説教を聞いていた5000人の人たちの空腹を、5つのパンと2匹の魚をもって養われました。そして9章では、生まれつき目の見えない人の目を見えるようにされました。

 

これを書いたヨハネは、この福音書の最後でこのように述べています。「イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。」(21:25)

イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあります。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められません。イエスはそれほど多くのわざを行われたのです。それは、イエスが行われたわざを見ることによって、イエスが神の子、メシアであることを、あなたがたが信じるためであり、イエスの名によっていのちを得るためです。イエスの言葉を信じることができなくても、そのわざを見れば、この方が神のもとから来られた方であることを自ずと知ることができるのです。私たちも人が言っていることについて、本当にそのとおりであるかどうかを確かめるためには、その人が行なっていることを見るのではないでしょうか。それと同じように、イエスは、ご自分が神の子であると言っていることにふさわしいわざを行なわれたのです。

 

私たちはどうでしょうか。私たちのうちにイエスのわざが行なわれているでしょうか。目が開けられた人は、単にイエスの言葉を聞いてイエスを信じたのではありません。イエスのわざが自分のうちに行なわれたことを体験して、イエスを信じたのです。彼はこう言っています。「あの方が罪人であるどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」(9:25)

 

つまり、イエスの言葉には実質が伴っていたということです。聖書は、イエスを信じると言うことは、そこに実質が伴うことであると教えています。たとえば、Ⅰヨハネ2:29には、「あなたがたは、神が正しい方であると知っているなら、義を行う者もみな神から生まれたことが分かるはずです。」とあります。神が正しい方であると信じているなら、その神から生まれた者もみな正しいこと、義を行うはずなのです。また、3:6には、「キリストにとどまる者はだれも、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見たこともなく、知ってもいません。」とあります。ここも同じです。さらに4:7には、「愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。」とあります。神を愛する者はみな、兄弟をも愛します。なぜなら、愛は神から出ているからです。つまり、その行いを見れば、何を信じているのかがわかるわけです。イエスを本当に神の子として信じているなら、神の子としてのわざが私たちのうちに起こってくるのです。ですから、もし私たちの言葉を信じることができなくても、私たちのわざ、行いを見れば、イエス様が本当に救い主であることがわかるはずなのです。

 

中国人の任さんと聖書を学んでいますが、先週、信仰告白に導かれました。本当はもう少し学んでから「どうですか、イエスさまを信じますか」と尋ねるのですが、「もう信じている」と言うので、まだ3回目ですが、信仰の告白に導いた方がいいと思いました。なぜなら、ローマ10:9-10に、「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」とあるからです。それで、このみことばを示しながら、「任さん、任さんは心の中でイエスさまを信じています。だから今、それを告白しましょう。なぜならここに、人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるからです。」書いてあるからです。今、私の後に続いて祈ってください。これは、新生の祈りと言って、信仰告白の祈りです。任さんが声を出してこの祈りをすることによって、任さんは新しく生まれます。今までのすべての罪が赦されて、神の子どもとなります。いいですか、それじゃ祈りましょう」と言って、一緒に祈りました。祈り終わった後でキョトンとしているので、「任さん、任さんはクリスチャンになりました。すべての罪が赦されて神のこどもになりました。いつ死んでも天国です。今も神がともにいてくださいます。良かったですね。」と言うと、「ん、良かった。罪全部赦されたね。良かった。今まで悪いことたくさんしてきた。ただ警察に捕まらなかっただけよ。でもその罪全部赦さんだね。感謝します。」と言いました。おもしろいです。中国人がみんなそうだとは思いませんが、自分でも、中国人は強いから・・と言われるのです。はっきりしています。悪いこともたくさんする。でも、本当に素直なんです。いろいろな人と接する機会がありますが、実におもしろいというか、とても爽やかです。

 

そもそも任さんが聖書を学びたいと思うようになったのは、中国に住む娘さんから、「お母さんもイエスさまを信じてください」と言われたからです。普通なら、娘にそう言われても「はい、そうします」という親は多くないと思います。「キリスト教なんて信じたって何も得しない。私は自分の思うように生きていきたい」と言うでしょう。でも、任さんは違いました。娘さんがそう言うので、自分もイエスさまを信じたいと思いました。娘さんを非常に尊敬しているんです。娘は普通の人じゃない、本当にすばらしいのです。何がそんなにすばらしいのかとお聞きすると、こう言いました。

娘さんは、大学生の頃にクリスチャンになりました。それから結婚しましたが、旦那はクリスチャンじゃなかったので、娘さんをひどく迫害しました。娘さんが熱心に祈っていると「気ちがい!気ちがい!」と言い、娘さんが教会に行くと言うと、娘さんを叩いたり、髪の毛をむしり取りました。「教会になんて言っているヤツは愚かなヤツばかりだ」と言うと、娘さんは「確かに、愚かかもしれません。でも実際に来てみてください。本当に謙遜で、立派な人たちばかりです。」と言いました。

ある日この旦那が教会にやって来ました。すると、最初のうちは聖書のことはわかりませんでしたが、そこにいる人たちが皆、優しいのです。今まで抱いていたイメージと全く違いました。しかも、社会的に地位のある人や人格的に優れた人たちがたくさんいました。それで続いて教会に来るようなると、旦那もイエス様を信じたのです。ただ信じたのではありません。熱心にイエスさまに仕えるようになり、今では伝道者になって世界中を飛び回り、貧しい人たちや困っている人たちを助けるような人になったというのです。すごいじゃないですか。何が奇跡かって、人が変えられることほど大きな奇跡はありません。イエス様は、私たちを変えてくださいます。そのみわざがどれほど大きいものであるかがわかります。

 

しかし、それだけだったら任さんもそこまで聖書を学びたいと思わなかったでしょう。しかし、この娘さんはイエスさまの教えに徹底して歩んでいるんですね。こんなことがありました。実は任さんにはもう一人の息子がおられるのですが、この息子さんから、こんなことを言われたそうです。「お母さん、お母さんはマンションを2つ持っているよね。それはお母さんが死んだら遺産として自分たちに相続されるんだから、だったら死ぬ前にその1つを自分の名義にしてください。嫁がそう言うようにとうるさいんだよ。」

それで、任さんは娘さんに相談しました。「弟がそのように言っているんだけど、どうしたらいい。」すると娘さんがこのように答えました。

「お母さん、私はマンションなんていりません。私には天国があるのでそれで十分です。天国は朽ちることも、消えて行くこともありません。この世のものはすべて一時的なもので、すぐに消えて行きます。天国に持って行くこともできません。でも、天国は永遠です。永遠にイエスさまと一緒に過ごせるんです。それがあれば十分です。何もいりません。お母さんのマンションは二つとも弟にあげてください。私は何もいりませんからでも、お母さん、お母さんには感謝しています。私を生んでくれたこと、そして、ここまで大切に育ててくれたこと、本当に感謝しています。こうして健康でいられるのも、お母さんのお陰です。ありがとう!お母さん。」

 

こんなことばを聞いて感動しない親はいないでしょう。任さんも娘の言葉を聞いたときびっくりしました。普通ならマンションちょうだい、お金もちょうだい、自分にはもらう権利があると主張するところでしょうが、娘さんは全然違いました。それで、「これは本物だ」と思いました。自分は悪いことばっかりやってきましたが、イエスさまを信じて天国に行きたいと思ったのです。

 

キリスト教が本物であるかどうかは、聖書の教えを聞いただけではわからないことがあります。でもそこに実質が伴っているならそれが本物であることを知り、信じることができます。「もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じてはなりません。しかし、行っているのなら、たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしも父にいることを、あなたがたが知り、また深く理解するようになるためです。」

 

イエスさまのわざとは、何も病気が癒されたとか、悪霊が追い出されたとか、不思議なわざが起こったりすることだけではありません。イエスさまの最大のみわざは、私たちがイエスを信じることです。イエスさまを信じて永遠のいのちを受け、そのいのちが溢れることです。それより大きな奇跡はありません。あなたがイエスさまを信じて救われたこと、救われて大きく変えられたこと、それよりも大きなみわざはないのです。聖書にあるイエスのわざを見たり、初代教会のクリスチャンたちの生活や行いを見ても、一つだけ言える確かなことは、イエスは神の子であり、信じる者はその名によっていのちを持つということなのです。

 

Ⅲ.イエスを信じた人々(40-42)

 

第三のことは、その結果です。40~42節をご覧ください。

「そして、イエスは再びヨルダンの川向こう、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた場所に行き、そこに滞在された。多くの人々がイエスのところに来た。彼らは「ヨハネは何もしるしを行わなかったが、この方についてヨハネが話したことはすべて真実であった」と言った。そして、その地で多くの人々がイエスを信じた。」

 

イエスの愛に満ちたメッセージにも関わらず、パリサイ人たちのかたくなな心が砕かれることはありませんでした。彼らはイエスを捕らえようとしましたが、イエスは彼らの手から逃れられました。それはまだイエスの時が来ていなかったからです。

 

そして、ヨルダン川の向こうに行かれ、そこに滞在されました。そこはバプテスマのヨハネが初めにバプテスマを授けていた場所です。すると、多くの人々がイエスのところに来てイエスを信じました。なぜこの人々はイエスを信じることができたのでしょうか。ここに「彼らは「ヨハネは何もしるしを行なわなかったが、この方についてヨハネが話したことはすべて真実であった」と言った。」(41)とあります。「この方についてヨハネが話したこと」とは何でしょうか。私たちはすでに1章のところで、ヨハネの証を見てきました。1:26,27には、「私は水でバプテスマを授けていますが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私の後に来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません。」とあります。バプテスマのヨハネは人々からキリストではないか、光ではないかと思われていましたが、自分はそのような者ではなく、その方の履き物のひもを解く値打ちもないと言いました。そしてその翌日、イエスが自分の方に来られるのを見ると、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(1:29)と言いました。つまり、イエスが彼らのところに来たとき、彼らはかつてバプテスマのヨハネが語った言葉を思い出し、それがこの方のことであったことに気付きイエスを信じたのです。

 

いったい死ぬために生まれてきた人がいるでしょうか。いません。もちろん、どんな人でも最後には死にます。しかし、死ぬことを目的として生まれ、死ぬことを目的として生きているわけではありません。しかし、イエス・キリストは死ぬために生まれ、死ぬために生きられました。バプテスマのヨハネが言ったように、この方は世の罪を取り除く神の子羊として来られたのです。人間は、生まれながら罪人です。その罪を取り除いたり、赦したりできるのは、神以外にはおられません。イエスはその神の子羊として来られました。彼らはそのことがわかったのです。それで、その地で多くの人々がイエスを信じることができたのです。

 

私はここに深い慰めを感じます。すなわち、彼らが信じることができたのは、そこに彼らが信じることができるようにバプテスマのヨハネという人物の道備えがあり、主がその証を用いて信じることができるように助けてくださったからなのです。もし私がその場にいたら、どうだったであろうかと想像します。ガリラヤのナザレ出身の大工の息子が自分は神の子であると主張しているのです。果たして、そのような人物をどこまで素直に信じることができたでしょう。もしかしたら、受け入れられなかったかもしれません。そもそもそんなことどうでも良いと思ったかもしれない。それでも彼らは信じることができました。それは一方的な神の恵みによるのです。

 

それはあの使徒パウロも同じでした。「パウロ 愛と赦しの物語」という映画を観ました。パウロも、最初はイエスを救い主として信じることはできませんでした。むしろイエスを信じる者たちを激しく迫害していました。そのようなパウロが180度変わったのは、復活されたキリストが彼に近寄ってくださったからです。彼がクリスチャンを迫害しようとダマスコに向かっていた時、復活の主イエスが彼に現れて言いました。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」(使徒9:4)

「あなたはどなたですか」と言うと、答えがありました。

「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」(9:5)

どういうことか、パウロはわけもわからず、ただイエスが言われたように、ダマスコに行ってみると、そこにアナニアという兄弟がいて、彼を通して目が見えるようになりました。それは肉眼だけでなく、彼の心の目も開かれました。それは、一方的な神の恵みのみわざであることがわかったのです。

 

イエスさまはご自分が良い羊飼いであると言われました。良い羊飼いは羊のためにいのちを捨てます。羊が守られるのは、羊飼いに従うことにもよりますが、それ以上に、そこに羊飼いたちのいのちをかけた愛があるからです。同じように、私たちはイエスさまを信じていますが、それは私たちの努力によるものというよりも、神の力、神の恵みわざによるのです。主がそのことに気付かせてくださいます。これまでの様々な人たちとの出会いや、ある時に聞いた救いの証し、聖書のメッセージ、これまで経験した一つ一つのことが、ヨルダンの川向うの人たちが、「ヨハネが話したことはすべて真実であった」と気付いてイエスを信じたように、必ずや、そのような時が来て、イエスを信じることができるように導いてくださるのです。そのことが見えるとき、私たちはそこに深い慰めと平安が与えられます。私たちは神の恵みによってこそ信じることができ、今あることを覚え、神に感謝したいと思います。そして、ますます信仰に堅く立って、動かされることがないように、いつも主のわざに励みたいと思います。

ヨハネの福音書10章22~30節 「わたしの羊たち」

きょう私たちに与えられているみことばは、ヨハネ10:22~30です。きょうは、この箇所から「わたしの羊たち」というタイトルでお話します。「わたしの」とは、イエスさまのことです。イエスさまはご自分に従う者を「わたしの羊たち」と呼んでくださいます。イエスさまの羊たちとはどのような羊でしょうか。きょうはこのことについて三つのことをお話ししたいと思います。第一のことは、キリストの羊たちはキリストについて行くということです。そして第二のことは、そのようにキリストについて行く者に、キリストは永遠のいのちを与えてくださいます。そして、第三のことは、そのように永遠のいのちが与えられた者は、どんなことがあっても決して滅びることはないということです。

 

Ⅰ.キリストの羊はキリストについて行く(22-27)

 

まず、22~26節をご覧ください

「そのころ、エルサレムで宮きよめの祭りがあった。時は冬であった。イエスは宮の中で、ソロモンの回廊を歩いておられた。ユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。あなたがキリストなら、はっきりと言ってください。」イエスは彼らに答えられた。「わたしは話したのに、あなたがたは信じません。わたしが父の名によって行うわざが、わたしについて証ししているのに、あなたがたは信じません。あなたがたがわたしの羊の群れに属していないからです。わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。」

 

ここから場面が変わります。これまでは生まれながら目が見えなかった人が、イエスさまによっていやされたことから、ユダヤ人の指導者たち、パリサイ人たちとの間に起こった論争が描かれていましたが、ここからはエルサレムで宮きよめがあった時の出来事に変わります。「宮きよめの祭り」とは、ここにしか言及されていない祭りです。これは紀元前164年のことですが、当時ユダヤはシリアという国に支配されていましたが、そのシリアの王でアンティオコス・エピファネスという人が自分こそ神であると宣言しエルサレムの神殿の祭壇にギリシャの偶像を立て、律法で禁じられていた豚をささげて神殿を汚した時、ハスモン家の祭司でユダ・マカバイという人が立ちあがり、彼が中心となってユダヤ民族の独立のために戦い、エルサレム神殿を奪回し、祭壇から一切の憎むべき偶像を取り除くことに成功したことを記念して行われるようになった祭りです。今の暦で毎年12月に一週間、宮きよめの祭りとして祝われるようになりました。「時は冬であった」とあるのはそのためです。旧約聖書にこの祭りについての言及がないのは、これが旧約聖書の最後の書であるマラキ書が書かれたてから、新約時代が始まるまでの400年の間、これを沈黙の時代とか、中間時代と呼ばれていますが、その期間に起こった出来事だからです。

 

この宮きよめの祭り時に、イエス様が宮の中で、ソロモンの回廊を歩いておられると、ユダヤ人の指導者たちがイエス様を取り囲んでこう言いました。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。あなたがキリストなら、はっきりと言ってください。」

これは、19節から21節までのところをご覧なっていただくと分かりますが、当時ユダヤ人たちの間に分裂があったからです。ある人たちは、イエスは悪霊につかれて頭がおかしくなっていると言い、他の人たちは、イエスのことばを聞く限り悪霊につかれているとは考えられないと言いました。そんなスッキリしない中で、ユダヤ人たちはイライラしていたのでしょう。彼らはそうしたいらついた気持ちをイエスにぶつけたのです。

 

それに対して、イエス様は何と言われたでしょうか。25~27節です。「わたしは話したのに、あなたがたは信じません。わたしが父の名によって行うわざが、わたしについて証ししているのに、あなたがたは信じません。あなたがたがわたしの羊の群れに属していないからです。わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。」(25~27)

 

イエス様はすでにご自分がメシアであることを何度も語ってきましたが、彼らは信じませんでした。「わたしの羊の群れに属していないからです。」イエス様の羊であればイエス様の声を聞き分け、イエス様について行きますが、そうでないということは、イエス様の羊ではないということです。誤解しないでください。これは彼らがイエスの群れに属していないので信じないというのではなく、彼らが信じないということがイエスの群れ属していない証拠であるということです。だから今イエス様を信じていないのは自分がイエス様の羊ではないからだと諦めないでください。イエス様の声を聞いて彼に従うなら、あなたもイエスの群れに属することができるのです。それにしても、彼らはなぜキリストを信じることができなかったのでしょうか。

 

そこには、この宮きよめが関係しているのではないかと思われます。すなわち、この宮きよめは、あの荒らす忌むべき者アンティオコス・エピファネスからユダ・マカバイという人が中心となって、宮をきよめたことを記念する祭りですが、彼らが期待していたメシアとは、そのように政治的、軍事的に自分たちを救ってくれる人だと思っていたからです。しかし、イエス様が語られるメシアとは羊のためにご自分のいのちを捨てる人のことでした。いわゆる霊的メシアです。その受け止め方にギャップがありました。それゆえに彼らはイエス様をメシアとして信じることができなかったのです。

 

このようなことが私たちにもあるのではないでしょうか。聖書のことばが自分の思いや考えとちょっとでも違うと納得するまでは信じないということがあります。あるいは信じていても、自分に都合が良いことは受け入れられても、そうでないことは割り引いてしまうということがあります。でも、「わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。」「彼らはわたしについて来ます。」とあるように、キリストの羊は、キリストの声を聞き分け、キリストについて行きます。それ以外のものにはついて行きません。羊飼いの声を知っているからです。

 

今聖書をマナでおられる任さんは、中国にいる娘さんから「お母さんもイエス様を信じてください。教会に行ってください。」と言われ、自分もイエス様を信じたいと思いましたが、どこに行ったら良いのかわかりませんでした。そんな時エホバの証人の方がご自宅を訪ねてこられました。そして、「自分たちが信じているのはイエス様よりも偉い方で、イエス様のお父さんですよ」と言われたとき、「あれっ、ちょっとおかしいなぁ。」と思いました。「イエス様は神様じゃないの?イエス様よりも偉い人なんているの?ちょっとおかしい」そうこうしているうちに、この方のご主人が創価学会の方にわずかばかり寄付をしたことで、「じゃ、創価学会の会館に来てください」と言われたので行ってみると、「おめでとうございます、あなたは今日から創価学会の会員です」と1枚の紙を手渡されました。会員証ですね。いや、自分はただ寄付をしただけで、別に会員になるつもりはありませんと言うと、何度もやって来ては「会員になりました、会員になりました」と言うのです。そのしつこさは異常で、これは絶対に違うなと思いました。そんな時教会の前を通ったら看板に十字架があるのを見つけました。小さな十字架でした。キリスト教会は控えめですね。もっと大きな十字架を掲げればいいのに、小さな十字架でした。でも、ここはキリスト教の教会ではないかと思って思いきって訪ねて来られたのです。そして、娘さんが通っておられる中国の教会の動画を見せてくれました。それが「歌いつつあゆまん」だったのです。私がこの賛美を知っているとそれに合わせて歌ったら、「これホンモノね」と聖書を学ぶようになりました。

 

キリストの羊はキリストの声を知っています。それでキリストについて行くのです。そうでない羊はその違いが分かりません。あなたはどうでしょうか。あなたはキリストの声を知っていますか。キリストの心を知っていますか。どうぞイエス・キリストを信じてください。キリストは良い牧者です。あなたのためにいのちを捨ててくださいました。それほどまでに、あなたを愛しておられます。ですから、その声を聞き分け、この方を救い主と信じ、この方に従ってついて行ってください。そのような人こそキリストの羊なのです。

 

Ⅱ.キリストは彼らに永遠のいのちを与えます(28a)

 

第二のことは、そのようにイエス様について行く者に、イエス様は永遠のいのちを与えてくださるということです。28節の前半をご覧ください。ここには、「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます」とあります。これは、羊飼いであられるイエス様に従う者の特権です。それは何でしょうか。それは永遠のいのちです。イエス様はご自分について来る者に永遠のいのちを与えられます。それは罪の赦しと、来るべき世における栄光のいのちです。

 

18世紀のイギリスにおける伝道者で、メソジスト運動と呼ばれる信仰覚醒運動を指導したジャン・ウエスレーは、臨終を前にして最後の言葉を伝えるために家族を集めました。彼は最後の60秒間、起き上がってこう言いました。

「一番良いことは、神様が私たちとともにおられることです。」

そして再び横になり、両手を高く上げて、最後の力を振り絞ってもう一度言いました。

「一番良いことは、神様が私たちとともにおられることです。」

そう言って彼は、息を引き取りました。

 

一番良いことは、神が私たちとともにおられることです。神がともにおられることと神がそばにおられることでは次元が違います。神は聖なる方ですから、罪ある者と共にいることはできません。神がともにいてくださるには、その罪が赦され神の子どもにされなければなりません。神はそのためにひとり子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださいました。それは、この方を信じる者がひとりも滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。これが、私たちの罪が赦されるための神の永遠のご計画だったのです。それが時至って、今から二千年前に、キリストは旧約聖書にある預言のとおりに来られ、十字架と復活を通して救いの御業を成し遂げてくださいました。ですから、この方を信じる者はみな永遠のいのちを受けるのです。永遠に神が共にいてくださいます。ここでイエス様は、「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。」と言っておられます。これは現在形で書かれています。それはやがて私たちの肉体が滅んだ後に受ける栄光のいのちだけでなく、イエス様を信じるすべての人がその瞬間から持つことができる神との交わりであり、神がともにおられることです。ウエスレーは、この永遠のいのち、神様が私たちとともにおられることが一番良いことです、と言ったのです。あなたは、この永遠のいのちを受けておられるでしょうか。

 

昨日、スーパーキッズが行われ、2階でお母さんたちの聖書の学びを持ちました。少し遅れて参加した一人の方が、2年前から仕事をしているのだが、最近なんだか空しく感じることがあるというのです。何のために働いているのかがわからない。別に働かなければならないというわけではないが、今のうちに働いていないと後で年をとってから働けなくなるのではないかと思って、ちょっとしたこずかい稼ぎのために働いているんだけど、これでいいのかなぁと思うようになったのです。いったい何のために生きているのかがわからない。「何のために生きているんですか。生きる目的はありますか」と聞かれるのです。「あります。イエス・キリストです」というとポーとしたお顔で聞いておられるので、話を続けたのです。私たちは肉体だけのいのちではなく、精神的、霊的な存在です。だから、霊が満たされなければどんなに肉体的に、物質的に満たされても幸せになれないんです。逆に、霊が満たされていれば、肉体的に辛いことがあっても、物質的に足りないことがあっても、乗り越えることができます。イエス・キリストを信じて永遠のいのちを受けることが、私たちの生きる目的なのです。神がともにおられること、それが私たちにとって一番良いことなのです。

 

Ⅲ.キリストの羊は永遠に滅びることがない(28b-30)

 

第三のことは、彼らは永遠に滅びることがないということです。28節から30節までをご覧ください。

「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。わたしと父とは一つです。」

 

これはものすごい約束です。イエス様は、ご自身を信じ、ご自身に従う者に永遠のいのちが与えると約束されましたが、そればかりではなく、だれも彼らをご自身の手から奪い去ることはできないと言われました。これはどういうことでしょうか?これは、どんなことがあっても救いから落ちることはないということです。たとえあなたが罪を犯すことがあっても、あなたがキリストの羊の群れに属しているなら、その救いから漏れることは絶対にないということです。問題は、この羊の群れに属しているかどうかです。イエス様を信じて永遠のいのちを受けているかどうかです。いったいどうやってそれを知ることができるのでしょうか。イエス様を信じて、バプテスマをうけたのであれば、永遠のいのちが与えられているのではないでしょうか。

 

でも、この箇所にはそのようには記されてありません。ここには、「わたしの羊たちはわたしの声を聞き分ける」とあります。また「わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。」とあります。これがキリストの羊の群れに属している羊たちです。すなわち、キリストの羊たちは、キリストの声を聞いて、キリストに従うということです。これは、全く罪を犯さないということではありません。羊は愚かで、弱く、無力です。すぐに道に迷ってしまう動物です。イエス様について行ってるようでも、すぐに道を踏み外してしまいます。おっちょこちょいなんですね。落ち着きがありません。でもそういうことは全く関係ないのです。大切なのは、キリストの声を聞いて、キリストについて行くかどうかです。自分が道に反れてしまったと思ったなら、キリストの声を聞いて悔い改めればいいのです。それを聞かないで、自分は立派な者だと思っているとしたら、それこそキリストの声に従ってしない証拠と言えます。ですから、表面的には見分けがつきません。ただ一つ言えることは、キリストの羊はキリストの声を聞き分けて、キリストについて行くということです。もしそうであるなら、あなたはキリストの羊です。その人は永遠のいのちを受けるだけでなく、だれもキリストの手から奪い去られることはありません。

 

パウロは、この真理を次のように述べています。「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:35~39)

だれも、また何も、どんなものも、キリストにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。なぜなら、キリストは父なる神と一つになって、私たちの手をしっかりと握り締めていてくださるからです。救いについてこれほど確かな保証はありません。

 

私たちはしばしば信仰というものを私たちが神の御手をつかんでいることだと考えていますが、それは大きな間違いです。もしも信仰というものがそのようなものであれば、疲れたり、躓いたりしたら、手を離してしまう危険があります。よく「私は意志が弱いので、信じても長続きしないのではないかと思います」と言われる人がいますが、そのような人は、信仰というものを自分の意思で続けていくものだと思っているのです。でも、信仰とはそのようなものではありません。信仰は私たちが神様の御手をつかんでいるのではなく、神様が私たちの手をつかんでいてくださることです。

たとえば、小さな子供が親の手をつかんで歩いているのを想像してみてください。もしもその時子供が何かに躓いたら、子供は手を離して転んでしまうでしょう。しかし、もしも親が子供の手をつかんでいたら、たとい子供が躓いても親がしっかりと子供の手をつかんでいるので転ぶことはありません。それと同じで、私たちの救いというのは、私たちが神の御手をつかんでいるのではなく、神が私たちの手をつかんでいてくださることなのです。そうであれば、たとい私たちが何かにつまずくことがあっても、決して倒れてしまうことはありません。

 

私たちの周りには、キリストの羊を、キリストから奪い去り、罪の中に引き戻そうとするものがたくさんあります。絶えず何かが私たちを「奪おう」とし「引き抜こう」としています。でも、もしあなたがキリストの羊であるなら、あなたはキリストの手の中で守られており、決して滅びることはありません。なぜなら、キリストがあなたの手をつかんで離さないでいてくださるからです。

 

最後に30節を見ておわりたいと思います。ここには、その手がどれほど確かなものであるかが記されてあります。それは「わたしと父とは一つです」という言葉です。これは、イエス様と永遠の父とは全く一つであるということです。その本質と力において、また意志において全く一つなのです。つまり、イエス様は父なる神と同等の力を持った神であるという意味です。この箇所を見ても、イエス様よりもお父さんの方が偉いというエホバの証人の主張が間違っていることがわかります。イエス様と父なる神は全く一つであって、その神があなたの手をつかんでいてくださるのです。であれば、だれがあなたを奪い去ることができるでしょうか。あなたはキリストの手の中で完全に守られており、神が約束してくださった永遠のいのちを受け、永遠に神がともにいてくださることを体験することができるのです。

 

ですから、あなたにとって最も大切なことは、あなたはキリストの羊の群れに属しているかどうかということです。キリストの羊は、キリストの声を聞いて、その声に従います。あなたもキリストの声を聞いて、キリストを信じ、キリストの羊の囲いに属してください。そうすれば、何も、だれも、どんなことも、あなたをキリストから奪い去ることはできないのです。この不透明な時代、何があるかわかりません。一寸先は闇です。しかし、目の前がどんなに暗くても、キリストがあなたの手を握っていてくださいます。つかんで離さないようにしています。これほど確かな平安はありません。今週も何が起こるかわかりませんが、何が起こっても、キリストの声を聞いて、その声に従いましょう。あなたはイエス・キリストの囲いに属している羊なのですから。

ヨハネの福音書10章~18節 「わたしは良い牧者です」

きょうは、「わたしは良い牧者です」というタイトルでお話しします。すでにお話ししてきたように、ヨハネの福音書には、「わたしは・・・です」という表現が七回出てきます。まず、6章35、41節でしたね、「わたしはいのちのパンです」とありました。それから、8章12節には、「わたしは世の光です」とありました。そして前回見た10章7,9節には、「わたしは門です」とありました。きょうの箇所に出てくる「わたしは良い牧者です」とは、四回目となります。

 

イエス様はここで、ご自分を良い羊飼いにたとえでいらっしゃいます。私たちの周りには羊がいないので、羊飼いとはどのようなものなのかについてあまりよくわかりませんが、当時のパレスチナではよく羊が飼われていたので、イエス様がこのたとえを話された時、これを聞いていた人々はピンときたのではないかと思います。いったい良い羊飼いとはどのようなものなのでしょうか。イエス様はここで良い牧者について三つの特徴を取り上げておられます。

 

Ⅰ.良い牧者は羊のためにいのちを捨てる(11-13)

 

第一に、良い牧者は羊のためにいのちを捨てるということです。11~13節をご覧ください

「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。」

 

この箇所の直前に「わたしは羊たちの門です」とたとえで話されたイエス様は、今度はご自身が羊たちの牧者であると言われました。ただの牧者ではありません。良い牧者です。良い牧者とはどのような者でしょうか。良い牧者は、羊たちのためにいのちを捨てます。牧者ではない雇い人はどうかというと、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりするのです。しかし、良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。

 

旧約聖書に登場するダビデは、元々羊飼いでした。その羊飼いであった時に、実際に熊や獅子と戦って羊を守りました。羊飼いは、羊が奪われたとき、ただ羊を食われましたと言うだけではだめでした。その際に実際に野獣と戦った証拠として、その足取り返してきたとか、耳を取り返してきたというのを見せなければなりませんでした。確かにこの人は戦ったけれども仕方なく食われてしまったとか、そこまでいかないと、羊飼いとしての使命を果たしたことにならなかったのです。それで、結構多くの羊飼いが命を落とすことがあったのです。実際にそういうことを見たという方もいます。その様な経験を通してダビデはこう言いました。

「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。」(詩篇23:1-4)

主はこのような羊飼いでした。ダビデは実際に羊飼いだったのでそのことをよく知っていました。それにしても、良い羊飼いはどうして羊のためにいのちを捨てるのでしょうか。それは雇い人ではないからです。雇い人ではないので自分の利益や報酬のために生きているのではなく、羊のために仕えていたからです。それで狼などがやって来ると、羊たちを危険から守るためにいのちがけで戦ったのです。また、羊を養うために牧草地へ導いて行ったり、いこいの水のほとりに連れて行きました。その時にも危険が伴いますが、いのちがけで羊を守ったのです。

 

しかし、雇い人はそうではありません。雇い人はそこまでしません。羊よりも自分の方が大切なので、そうした危険に直面するとすぐに逃げ出してしまうのです。そこまでして守りたいとは思いません。彼らはただ雇われているだけなので、羊たちのことなど全然心にかけていないのです。このような牧者に養われている羊たちは可哀想そうですね。何かあったらすぐにどこかにいなくなってしまうのですから。いたとしても羊たちのことなど心にかけていません。そこまでして犠牲を払いたいとは思わないのです。本当に羊のことを心にかけていれば、羊が何百匹いても、その1匹1匹を心にかけるはずです。それが出来るのが良い羊飼いです。

 

エゼキエル書34章に次のようにあります。

「次のような主のことばが私にあった。「人の子よ、イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して、牧者である彼らに言え。『神である主はこう言われる。わざわいだ。自分を養っているイスラエルの牧者たち。牧者が養わなければならないのは羊ではないか。あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊を屠るが、羊は養わない。弱った羊を強めず、病気のものを癒やさず、傷ついたものを介抱せず、追いやられたものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくで、しかも過酷な仕方で彼らを支配した。彼らは牧者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となった。こうして彼らは散らされた。わたしの羊はすべての山々、すべての高い丘をさまよった。わたしの羊は地の全面に散らされ、尋ね求める者もなく、捜す者もない。それゆえ、牧者たちよ、主のことばを聞け。わたしは生きている──神である主のことば──。わたしの羊はかすめ奪われ、牧者がいないために、あらゆる野の獣の餌食となってきた。それなのに、わたしの牧者たちはわたしの羊を捜し求めず、かえって自分自身を養って、わたしの羊を養ってこなかった。それゆえ、牧者たちよ、主のことばを聞け。神である主はこう言う。わたしは牧者たちを敵とし、彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる。もはや牧者たちが自分自身を養うことはなくなる。わたしは彼らの口からわたしの羊を救い出し、彼らの餌食にさせない。』」まことに、神である主はこう言われる。「見よ。わたしは自分でわたしの羊の群れを捜し求め、これを捜し出す。」(エゼキエル34:1-11)

 

これはエゼキエルを通して語られた主のことばです。イスラエルの牧者たちは何のために牧会しているのか、羊を養うためなのか、それとも自分を養うためなのか?羊たちのことを顧みず、自分を養っている牧者たちに対して、羊を飼うのをやめさせると言われたのです。これは言い換えると、羊飼いになろうとしているのか、雇い人になろうとしているのかということです。非常にきつい言葉です。あなたは羊飼いになろうしているでしょうか、それとも、ただの雇い人でしょうか?

 

私は牧師として、いつもこのことを問われることがあります。一生懸命に養っているようでも、それがただの見せ掛けのような時があるからです。自分の本質を見ると、自分もこのイスラエルの牧者とちっとも変わらない者ではないかと思わされます。真の意味でこのような牧者であり得るのはイエス様だけです。なぜなら、イエス様は羊のためにいのちを捨てられるからです。そうです、これはイエス様の十字架の死の預言だったのです。イエス様は、私たちのために自分のいのちを捨ててくださいました。それほどまでに愛してくださったのです。自分のためにいのちを捨てる方がいることを知るなら、私たちの生き方も少しずつ変えられていくのではないでしょうか。

 

先日、知り合いの牧師が、その話の中で教会に集っている一人の姉妹のことをお話ししてくれました。その姉妹は、自分を受け入れてくれる人には心を開きますがそうでない人には貝のように心を閉ざされるので、自分には心を開いていろいろ打ち明けてくれるのでいいのですが、他の方々には全く心を開かないので困っているとのことでした。それで他の姉妹たちと不協和音が生じ、姉妹たちの中にはそれが原因で教会から出て行こうとする人までいるとのことでした。姉妹たちからすれば、牧師がその姉妹のことで振り回されてしまい、教会全体を見られなくなっているという不満がうっ積していました。とは言っても、他の人が関わってくれるのではあればいいですが、そういう人がだれもいないという状況で、もし自分がやらなければいったいこの姉妹はどうなってしまうのかと思うと放っておくこともできず、結局、牧師自身が追い詰められていたのでした。

その話を聞いていてすごいなぁと思ったのは、この牧師はたとえ自分がどんなに辛くても、その人を決して置き去りにしたり投げ出したりしないで、いつも心にかけ、一つ一つ丁寧に対処しようとしていたことです。また、確かにそのことで教会の中に不協和音が生じても、むしろ、そのことを通してキリストの愛を学ぼうとしていたことでした。ある姉妹がそのことで我慢できなくなり、「わかりました。それじゃ、私はもう教会から出て行きますから」と言ってドアを開けた時、「ちょっと待ってください。このような時こそイエス様の愛を学ぶ時ではないですか。イエス様が互いに愛し合いなさいと言われたように、私たちも互いに愛し合いましょう。」と言うと、その姉妹は、「わかりました」と言ってそのことばを受け止められました。牧師も牧師ですが、姉妹も姉妹ですね。自分の感情に従うのではなくイエス様のみことばに従って行こうという姿勢がすばらしいと思ったのです。

 

そうです、大切なのは、イエス様ならどうされるのかということです。イエス様は私たちのためにいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。私たちの愛は、このイエス様のいのちがけの愛から生まれているのです。イエス様は良い牧者です。であれば、私たちはどうあるべきなのでしょうか。

 

Ⅱ.良い牧者は羊のことを知っている(14-15)

 

第二に、良い牧者は羊のことを知っているということです。14節と15節をご覧ください。

「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。また、わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます。」

 

イエス様は、私たち一人一人を心にかけてくださっているだけでなく、私たち一人一人のことをよく知っておられます。私たちの名前はもちろんのこと、私たちの生い立ちも、私たちの性格も、私たちの個性も、私たちが置かれている環境も、私たちの長所も弱さもすべて知っておられます。すべてを知った上で、愛してくださっているのです。愛している方にすべて知られているなら安心ですね。でも、知らないこともあるでしょう。おそらく、人間の社会において一番よく知っているのは夫婦ではないかと思いますが、夫婦はお互いのことを一番よく知っているようで、意外に知りません。「もう何年も一緒にいるのに、うちの旦那は私のことをちっともわからないの・・・」とか、「お父さんは、何年も一緒にいるのにお母さんの好きな料理もわかんないんだから」と言うのを聞くことがあります。分かっているようでわかっていません。

 

しかし、イエス様は私たちのことを完全に知っておられます。どのくらい知っておられるのかというと、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じようにです。父である神は御子であられるイエス様をどれほど知っておられるでしょうか。また、御子なるイエス様は、父なる神をどれほど知っておられるでしょう。父なる神も子なる神も完全であられますから、完全に知っておられるわけです。しかもただ単に知的に知っているということ以上に、そこには親密な交わりがあります。深い関心と愛情をもっておられるということです。イザヤ書の中にこのようなみことばがあります。

「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。」(イザヤ49:15)

人があなたのことを忘れても、母親が乳飲み子を忘れても、わたしはあなたを忘れません。あなたに深い愛情を持っておられるのです。これはまさに目からうろこではないでしょうか。

 

しかし、ここには単に牧者であられるイエス様が、羊である私たちのことを知っているというだけでなく、羊である私たちも、牧者であられるイエス様のことを知っているとあります。皆さんは、自分の牧者であるイエス様のことを、どれだけ知っているでしょうか。3、4節には、牧者が自分の羊たちを連れ出し、その先頭に立って行くと、羊たちはそれについて行くとあります。彼の声を知っているからです。今、世の中にはいろいろな声があふれています。けれども私たちは、イエス様の声を聞き分けなければなりません。どうしたらイエス様の声を聞き分けることができるでしょうか。それはいつも本物にふれていることです。何が本物ですか。

 

先月から、中国人の任さんと聖書を学んでいます。中国の娘さんから教会に行ってほしい、イエス様を信じてほしいと言われ、教会を探しているんだけれども、教会にもいろいろあるでしょう、危ない。だから、間違いのない教会を探しているんですと、ある日、教会を訪ねて来られました。すると、この教会は本物かと聞くのです。本物かって、自分たちは本物だと思って聖書を学んでいますが、どの団体も自分たちが本物だと信じているわけですから、何を根拠に自分たちが本物であるかを説明するのは難しいです。

すると、娘さんは中国の教会で、聖歌隊で歌っているのですが、そのユーチューブの動画を見せてくれました。それは「歌いつつあゆまん」という賛美でした。私がそれに合わせて歌ったら、「それ、ホンモノね」と言って、一緒に学ぶことになりました。別に「歌いつつ歩まん」を賛美しているから本物だというわけではないでしょうが、少なくても、イエス様を救い主として信じている教会というのは間違いないということで、信じていただけたのでしょう。でも、本当は聖書を見なければなりません。聖書にあるイエス様とはどのような方なのかを知り、イエス様を信じ、イエス様と共に歩み、イエス様に信頼して生きていくことが大切なのです。そのようにして、私たちがイエス様を深く知る時に、イエス様の心が見えてきます。皆さんもそうではないですか。人と親しく交わっていく時に、その人の気持ちや思いが言わなくても分かってきます。そのような関係が出来てくるのです。私たちはそこまでイエス様のことを深く知っていきたいと思うのです。

 

韓国のアン・リスクさんという人が書いた「たとえそうでなくても」という本があります。著者のアン・リスクさんは日本が韓国で神社参拝を強制した時に、それを拒否し信仰を貫いたために、日本の牢獄に入れられました。その牢獄の中に日本語を話せない満州人の女性がいました。ご主人殺しで捕まったようですが、後ろ手に縛られて食べるのも犬食い。下の物も垂れ流しです。アン・リスクさん自身も本当に辛い苦しいところを通っているのは事実です。しかし彼女の部屋は天国の出張所とも言われていました。というのは彼女の部屋に来る人が皆変わってしまうからです。アン・リスクさんの影響で、怖い顔が穏やかな表情に変わっていくのです。

そんな中でアン・リスクさんはイエス様がここに来られたらだれの所にいくであろうと考えました。当然自分は一番神様を愛しているし、神様に従っているから自分の所に来るかなと思いましたが、直ぐにそうじゃないと気づかされました。それじゃどうされるかと言えばと、あの満州の女性の所に行くのではないかと気づかされたのです。この人こそが一番可哀想な人。イエス様は必ずその人の所に行くと思った時に、自分が今成すべきことは、この人に愛を与えることだと気づかされました。看守達もアン・リスクさんの人格に感動していましたから、かなり彼女の言うことを聞いてくれるようになっていました。それで彼女は看取にあの人を自分の部屋に連れて来て下さいと頼みました。それで連れて来てもらいましたが、その途端から目が痛くて仕方がないのです。アンモニア臭がすごかったからです。彼女はその時から満州語で「私はあなたを愛しています。」と言い続けました。それも本音を言うとそんなには愛していなかったのだけれども、内に来てくれている聖霊様は愛してくれているはずだからと、そのことを言っていたのですが、その内に「あなたを愛しています。」と言う度毎にアン・リスクさんの目から涙が落ちます。そして彼女のことを本当に想い始めて遂にはその人のために、1日1食しか出てこない食事を断食してその人に与えました。3日、4日経っても「ありがとう」も何もない。当たり前のように食べている。しかし5日目、6日目になってきて始めて何故この人が自分にこんなことをするのだろうかと、変わり始めて彼女もまた捉えられていきました。

本当にイエス様の心を知るからこそ、アン・リスクさんはそのように出来たのです。私たちも本当にイエス様の心を知っていくなら、喜んで犠牲を払ったり、人に仕えたりしていくことが出来るのではないでしょうか。これが信仰生活の鍵です。どれほどイエス様を知っておられるかということです。あなたはどうでしょう。どれほど知っておられるでしょうか。私たちもそのように主を知っていく者となっていきたいと思うのです。

 

Ⅲ.良い牧者は一つの群れ、一人の牧者となる(16-18)

 

第三のことは、良い牧者は、一つの群れ、一人の牧者となるということです。16節から18節までをご覧ください。

「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです。わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」」

 

「この囲いに属さないほかの羊たち」とは、神の選民であるユダヤ人とは区別された異邦人クリスチャンのことです。イエス様は、それらも導かなければなりません、と言われました。それらも導いて、一つの群れ、一人の牧者となるのです。どういうことでしょうか。イエス様はユダヤ人だけでなく、異邦人をも救いに導き、一つの群れ、一つの牧者となられるというのです。それが、イエス・キリストを頭とするキリストのからだ、教会のことです。どのようにして一つの群れとするのでしょうか。それはイエス様が十字架にかかって死なれることによってです。イエス様はただ単に選民であるユダヤ人を救うためにこの世に来られたのではなく、「この囲いに属さないほかの人たち」、すなわち、異邦人をも救うために来られたのです。そして、それらの人々を一つの群れにするためでした。教会とはまさに、イスラエル人の信者と異邦人の信者が、キリストをかしらとする「新しい一人の人」とされたものなのです。

 

このことについてパウロは、エペソ2章14~16節で次のように言っています。「実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、

ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。」(エペソ2:14-16)

 

イエス様がここで「一つの群れ、一人の牧者となる」と言われたのは、このことだったのです。ユダヤ人信者と異邦人の信者によって造り上げられる新しい一人の人です。それがキリストの教会です。それは、キリストの十字架によって成し遂げられました。十字架こそ敵意を打ち砕き、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄し、二つのものを一つにすることを実現してくださるものでした。この十字架によって、私たちは一つになることができるのです。そして一つになることが主のみこころだということがわかると、私たちもまた様々な偏見や憎しみを捨てて、お互いに愛し合い、一つとなるために務め励むことができるのではないでしょうか。

 

教会では先月からイングリッシュ、ワーシップが行われていますが、これはすばらしいことだと思います。なぜなら、様々な国の人たちが一つの所に集まり、言葉の違い、文化の違い、習慣の違いを乗り越えて、イエス・キリストにあって一つになろうとすることだからです。そのために、イエス様が十字架で死んでくださいました。キリストの十字架によってすべての敵意が廃棄されました。キリストの十字架によって私たちは一つとされ、互いに愛し合い、互いに仕え合うことができるようになったのです。ハレルヤ!これがイエス様のみこころです。今、韓国との関係が最悪だと言われています。中国との関係も微妙です。アメリカとの関係も貿易の問題があります。でも、私たちはキリストにあって一つになることができるのです。すばらしいですね。ここに本当の平和があります。本当の平和は政治的にはもたらされるものではありません。経済によっても無理です。ただイエス・キリストによってのみもたらされます。イエス様が十字架にかかって流されたその血によって、すべての敵意が取り除かれたので、私たちは一つになることができるのです。これが本当の平和です。イエス様はそのために来てくださいました。それは、決して教理を無視し、ただ一つになれば良いということではありません。イエス・キリストの十字架の贖いを信じ、聖書に啓示されてあるキリストのみこころに従って一つになるということです。聖書の御言葉に堅く立ち、御霊による一致を求めることです。そうした御言葉に立っている人たちと一致協力し、世界宣教に励まなければなりません。

 

あなたは、イエス・キリストの十字架によって神と和解しましたか。そして、兄弟姉妹との間に、またあらゆる人との間に平和がもたらされたでしょうか。どうかイエス様を信じてください。イエス様は良い牧者です。良い牧者は私たち羊のためにいのちを捨ててくださいました。また、良い牧者は、羊である私たちのことをよく知っておられます。そして、良い牧者は、さまざまな破れ口に立って、その関係を修復してくださいます。良い牧者であられるイエス様は、いつもあなたを緑の牧場へと導き、いこいの水のほとりに伴ってくださいます。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、わざわいを恐れることはありません。主がともにおられますから。」この方によって導かれる人生はどんなに幸いでしょう。この方を信じ、この方にすべてをゆだね、この方に全く信頼しましょう。イエス様は必ずあなたを救ってくださいますから。なぜなら、イエス様は良い牧者であられるからです。

ヨハネの福音書10章1~10節 「わたしは門です」

きょうから10章に入ります。きょうは「わたしは門です」というタイトルでお話ししたいと思います。イエス様は、ご自身のことを「わたしは門です」と言われました。これはどういうことでしょうか。きょうはこのことについて三つのことをお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.わたしは門です(1-2)

 

まず1節と2節をご覧ください。イエス様がその門です。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。しかし、門から入る者は、その羊の牧者です。」

 

きょうの箇所は9章からの続きです。9章には、生まれながら目の見えなかった人が、イエス様によって見えるようになったことが記されてあります。しかし、それが安息日であったことからパリサイ人と論争になりました。41節には、「イエスは彼らに言われた。『もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、「私たちは目が見える。」と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」』とあります。パリサイ人たちは、イエス様のことばを正しく受けとめることが出来ませんでした。きょうの箇所は、そのパリサイ人たちの教えや考え方に注意するために、イエス様が語られたことです。

 

イエス様はここで、「まことに、まことに、あなたがたに言います。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。しかし、門から入る者は、その羊の牧者です。」と言われました。

イエス様が「まことに、まことに」と言われる時は、重要な真理を語られる時です。「羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者」とは、先ほども申し上げたように、これは9章の続きですから、パリサイ人たちのことを指していることは明らかです。

 

パレスチナでは、羊たちの囲いがありました。それは石などを積み上げた高い塀で囲まれており、夜になると羊飼いは羊たちをその囲いの中に入れました。野獣などから守るためです。その囲いには門があって、そこでは門番が門の戸の開け閉めをしました。しかし、彼らはこの門から入らないでほかのところを乗り越えて入り込み、羊たちを奪っていく者たちがいました。具体的にそれがどういうことかというと、7節に「わたしは羊たちの門です」とあるように、また、9節にも「わたしは門です」とあるように、イエス様を通らないでこの囲いの中に入ろうとする者たちのことです。これは、9章でイエス様に食ってかかったパリサイ人たちのことを指しています。彼らはイエス様を受け入れることができませんでした。安息日に盲人の目を癒すような者が、どうして神から遣わされた者だと言えるのか、そんなはずがないと言って、目が開かれた人を会堂から追い出してしまいました。彼らは門から入って来たのではなく、ほかのところを乗り越えて入って来たのです。彼らはイエス様を信じることができませんでした。イエス様こそ、旧約聖書の預言の通りに来られた方であり、恵みとまことによって羊たちを導かれる方なのに、そのイエス様を受け入れることができなかったのです。彼らはモーセの律法ではなく、先祖たちの言い伝えがまとめられた別の律法(ミシュナー)を振りかざしては、神の民である羊たちの囲いの中に入り込んでいました。それは門ではないほかのところから乗り越える行為でした。イエス様はそんな彼らのことを、「盗人であり強盗です」と言われたのです。

 

ちょうどこのメッセージを書いている時、同盟からメールが届き、クオンパという韓国系の異端が日本で活動しているので、警戒してくださいという連絡がありました。「クオンパ」という団体がどういう団体なのか詳しくはわかりませんが、「クオンパ」というのは日本語で「救援」という意味だそうですが、この救援(クオンパ)派のパク・オクス(朴玉洙)という人が主導している団体で、クリスチャン・リーダーズ・フォーラムという集会の案内(国立オリンピックセンターでの開催)を各教会に送っているとのことでした。韓国の主要教団ではすでに異端であると決議された団体です。日本ではグッドニュース宣教会・東京恩恵教会という団体になりましているそうですが、ちょっと聞いただけではキリスト教会と同じ団体のように思ってしまいます。しかし、これらは羊のなりをした狼であって、巧妙な手口で羊たちの囲いの中に入り、羊たちを奪っていくのです。その最大の特徴は何かというと、羊たちの囲いに、門から入らないで、ほかのところを乗り越えて来ることです。キリストという門から入らないのです。

 

イエス様は、世の終わりには、「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、「私こそキリストだ」と言って、多くの人を惑わします。」(マタイ24:5)と言われましたが、まさに世の終わりが近づいているということの兆候なのでしょう。その特徴は何かというと、「私こそキリストだ」と言って、多くの人を惑わすことです。彼らはそのように言うものの羊の囲いの門から入るのではなく、ほかのところから乗り越えて入ってきます。しかし、門から入るのが羊たちの牧者です。私たちはそうした者に惑わされることがないように、その人がどこから入って来たのかをよく見極めなければなりません。

 

Ⅱ.羊たちはその声を聞き分ける(3-5)

 

では、どのようにしてそれを見分けることができるのでしょうか。それは「声」です。3節から5節までをご覧ください。

「門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」

 

ここには、羊たちがどのようにして自分たちの牧者を見極めることができるのかが教えられています。それはその声です。門番が牧舎のために門を開くと、羊たちはその声を聞き分けます。羊たちはその声を知っているので、牧者のあとについて行きますが、ほかの人にはついて行きません。かえって逃げ出してしまいます。なぜなら、ほかの人たちの声は知らないからです。つまり、その声によって聞き分けるのです。

 

私は羊を飼ったことがありませんが、犬を飼ったことがあります。犬を飼っていたとき本当に不思議だなぁと思ったのは、犬は飼い主に忠実であることと、飼い主の声をよく知っていることです。真っ暗な闇の中でだれかが家の玄関に近づこうものなら「ワン、ワン」と激しく鳴きますが、私が近づくとすぐに泣き止みます。そして、私の姿を見ただけで尻尾を振って喜ぶのです。

ある時、声だけで私のことがわかるかどうか実験したことがあります。近くで物音を立てますが、姿を見せないで声だけ出すのです。やっぱりわかるのです。私の声がいい声だからではありません。かすれたような声でも私の声をすぐに聞き分けることができました。羊も同じです。たとえ姿が見えなくても、声を聞けばわかります。彼らは聞き分けることができるのです。

 

これは神の民であるクリスチャンにも言えることです。世の人々には不思議に思われるかもしれませんが、クリスチャンは霊的な直観力を持っているのです。それによって真の教えか偽りの教えかを識別することができます。彼らは健全でない教えを聞くと「これは間違っている」という内なる声を聞き、真理が語られる時には「これは正しい」という声を聞くのです。この世の人たちは、それぞれの牧師の説教にどのような違いがあるのかなんてさっぱりわかりませんが、クリスチャンにはその違いがわかるのです。何が違うのか、どのように違うのかを説明することができなくても、「あっ、ちょっと違う」と感じるのです。なぜそのように感じるのでしょうか。それは、クリスチャンには聖霊なる神が住んでおられるからです。

 

Ⅰヨハネ2章20節を開いてください。ここには、「あなたがたには聖なる方からのそそぎの油があるので、だれでも知識を持っています。」とあります。「聖なる方からの注ぎの油」とは、聖霊のことです。クリスチャンにはこの聖霊の内住があるので、だれでも判別することができます。どんなに愚かな羊のようであっても、クリスチャンであるならこの聖なる油が注がれているのでわかるのです。ですから、偽りの牧者の影響から守られるように祈らなければなりません。苦みと甘みの区別ができなくなっているとしたら、それは健康を損なっていることの一つの兆候だと言えます。それと同様に、それが律法なのか、それとも福音なのか、それが真理なのか、それとも偽りなのか、それがキリストの教えなのか、それとも人の教えなのかを識別できないとしたら、それは霊的な健康を損なっているしるしであって、救いについて真剣に吟味する必要があります。もし救われているなら、その人には聖なる方からのそそぎの油があるので、それを聞き分けることができるはずだからです。

 

ところで、3節には、牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出すとあります。羊にはそれぞれ名前があるんです。太郎とか、花子とか、一郎とか、洋子とか・・。そして、羊飼いはその一匹、一匹の羊の名前を覚えているのです。忘れてしまったとか、思い出せないということはありません。一匹、一匹の名前を覚えていて、その名前を呼んで外に連れ出すのです。名前を呼ぶというのは、単に名前を呼ぶということだけでなく、その羊のことをよく知っているということでもあります。そうでしょ、「ええと、あなたの名前は何でしたっけ。思い出せない」というのは、その人のことをあまりよく知らないということです。だれも自分の夫の名前、妻の名前を忘れません。奥さんに向かって、「あなたの名前は何でしたっけ」というなら、特別な事情がない限り、そこには何の関係もないことがわかります。ということは、名前を呼ぶというのは、その人の性格や、長所や短所、喜びや悲しみといったことも含めて、よく知っているということなのです。

 

イザヤ書43:1には、「だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」とあります。主はあなたの名前を呼ばれるのです。

私が数えたわけではありませんが、名、名前という単語は新約聖書に151回、旧約聖書には428回も出てくるそうです。聖書の世界において名前がとても重要なものであることがわかります。それは、名前というのは、その人の存在、個性、人格などと結び付いているからです。適当にほかの名に変えることはできません。

 

ですから、牧者がそれぞれの羊たちの名前を呼ばれるというのは、かけがえのない存在として呼びかけられるということなのです。名を呼んで、誰でもよいから返事をしろというのではなく、ほかの誰でもない、あなたを呼んでいるということなのです。イエス様はその羊の性質、長所、弱点といったすべてをご存知であられます。人には言えないようなことでも、イエス様はすべてをご存知なのです。その上で、決して私たちを見捨てることなく、祝福の野に連れ出されます。イエス様はあなたの名も呼んでおられます。ですから、その方の声を聞きイエス様ついて行ってほしいと思います。

 

ザアカイは、自分の名を呼ばれてイエス様について行きました。彼は当時の社会で嫌われていました。というのは、神の民であるユダヤ人から税金を取り立てて異邦人であるローマに納める取税人であったからです。そんなザアカイのいるエリコの町にある日イエス様がやって来られるというので彼は見に行きますが、群衆が彼をさえぎったためイエスの姿を見ることができませんでした。そこで彼はいちじく桑の木によじ登ります。すると、そこを通りかかったイエス様は、上を見上げて言われました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」(ルカ19:5)

いったいどうしてイエス様はザアカイの名前を知っていたのかわかりません。もしかしたら、ザアカイのことを誰かから聞いていたのかもしれません。でもこのことはザアカイにとって予想外の大きな出来事でした。彼はイエス様を自分の家に招くと、悔い改め、自分の財産の半分を貧しい人に施し、だれかからおどし取った物があれば、四倍にして返すと言いました。するとイエス様はこう言われました。

「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた者を探して救うために来たのです。」(ルカ19:9-10)

イエス様はザアカイだけではありません。あなたも探しておられます。あなたを探して救おうとしておられます。イエス様はあなたの名も呼んでおられるのです。

あなたはこの方の声を知っていますか。あなたの名前を呼んでくださる主イエス様の声を聞いて、この方について行ってください。

 

Ⅲ.わたしを通って入るなら救われます(6-10)

 

第三のことは、その結果です。この門から入るならいのちを得、それを豊かに持ちます。6節から10節までをご覧ください。

「イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」

 

イエス様はご自分が羊たちの牧者であり、自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出すと言われましたが、パリサイ人たちは、イエス様が何のことを言っているのかさっぱり分からなかったので、イエス様は再び彼らに言われました。それは、イエス様が羊の門であり、だれでも、イエス様を通って入るなら、救われるということです。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。けれども、盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。イエス様が来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。つまり、イエス・キリストが救いに至る門であるということです。それ以外に道はありません。

 

イエス様はそのことを山上の説教でこう言われました。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13-14)

またこの福音書の少し後でも、このように教えておられます。「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

つまり、イエス・キリスト以外に救われる道はないということです。特にここでは「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます」と、それ以外の所からは救いに入ることのできないことを明言されました。

 

このようなことを聞くと、排他性を嫌う日本人は、そんなことはないと、宗教についても、一休さんが作ったとされる次の歌を引き合いに、協調性、受容することの大切さを主張します。

「分け登る 麓の道は多けれど 同じ高嶺の月を見るかな」

これは、真理は一つであっても、そこに至る道はいろいろあってよい。どの道から入ったとしても、それはその人の自由であって、要は究極の真理に到達することである、という意味です。

 

以前、福島にいた時、立正佼成会という仏教系の新興宗教の団体から招かれてお話ししたことがありました。その団体では、毎月1の付く日は他宗教から学ぼうということで、キリスト教からも学びたいのでぜひ来てお話ししていただけないかとお招きを受けたのです。畳敷きの広いスペースに300人くらいの方々が座っていました。みんな優しそうなお顔で、にニコニコして聞いてくださいました。当時私も33歳と若かったので、「自分の息子みたいな年の牧師さんが来てくれた」と喜んでいるようでした。私は何をお話ししようか悩みましたが、折角キリスト教の話を聞きたいというのだから、キリスト以外に救いはないという話をしたのです。そして、お話しの終わりに聖霊によって「祈りなさい」と促されたので、祈ることにしました。「皆さん、どうでしたか。キリスト教のことが少しでもわかってもらえたらうれしいですが、皆さんの祝福をお祈りさせていただいてもよろしいでしょうか」と言うと、皆さん「うん、うん」と首を縦に振るのです。「じゃ祈ります」と祈りました。そして、お祈りの中で、「どうでしょうか、皆さんの中できょうのお話しを聞いて、イエス様もいいな、イエス様を信じたいという方がおられますか、おられるなら、手をあげて教えてもらえますか」と言うと、3人くらいの方が手を上げたのです。それじゃ、その方のためにお祈りします」と祈ったとたん、そこの堂会長と言われる方がすかさず私のところに来て、皆さんにこう言われたのです。

「皆さん、とってもいい話でしたね。それぞれがそれぞれの宗教に従って歩むとは大事なことですよ。でもね、結局、みんな同じところに行くんですよ。ほら、こういう歌があるでしょ」と、この歌を歌われたのです。

その後で別室に招かれまして、この堂会長さんと昼食をいただきましたが、まさに日本の社会、精神風土は、排他性というものを極端に避ける文化なんだなぁということを痛感させられました。

 

しかし、ここでイエス様が言っておられることはそういうことではありません。イエス様は「わたしは羊の門です」とはっきり宣言されました。これはヨハネの福音書の中に7回出てくる「わたしは・・です」(エゴー・エイミー)というイエスの神性宣言の一つです。何が羊の門ですか?わたし様が羊の門です。それ以外に門はありません。イエス様が羊の門であって、イエス様を通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけることができます。これはどういうことかというと、この門から入るならたましいの救いが与えられるというだけでなく、そのたましいが満たされることを経験するということです。これが、イエス様がこの世に来られた目的です。つまり、イエス様が来られたのは、羊たちがいのちを得て、それを豊かに持つためです。ですから、私たちがこの門から入るなら、私たちはキリストの救いの中に入れていただくことができるだけでなく、真の意味で生き生きとした人生を送ることができるのです。すでにいのちを持っている人には、さらに豊かにいのちを与えていただけるのです。これは、キリスト抜きでは絶対に考えられないことです。

 

イエス様は私たちの人生に最高の生き方を与えてくださいます。それが、聖書が教えている救いであり、豊かないのちを持つことです。そのためには、キリストという門から入らなければなりません。門はいくつかあるかもしれません。また道もたくさんあるように見えるでしょう。しかし天国への門は一つしかありません。それは私たちのために天から下って来られ、いのちを捨ててくださったイエス・キリストだけです。この門を間違えてはなりません。

 

キリストという門を通ることなしに、本当のいのちはありません。キリストこそ、私たちが通らなければならない門です。あなたはこの門を通りましたか。まだ外側からただ眺めているだけということはないでしょうか。あるいは、キリスト以外のものに心が向いているということはないでしょうか。「豊かないのち」とは、単に物質的な豊かさを指しているのではなく、霊的な喜びも含めた全人的な祝福のことです。その祝福を実感しているでしょうか。もしそうでないとしたら、もしかしたら、この世のほかのものに魅力を感じているということがあるのかもしれません。キリストが門です。キリスト以外の門を通って出入りしてはいないかを点検し、キリストのことばがいつも私たちの心を支配するようにしましょう。そして、イエス様がくださる豊かないのちを体験させていただきたいと思います。