創世記15章

1.神様の約束(1-5)

1節を見ると、「これらの出来事の後、主のことばが幻のうちに亜プラムに臨み・・・」とあります。「これらの出来事」とは何でしょうか。そのすぐ前の章には、アブラハムが諸王を破って帰還して後、ソドムの王がこの世の財宝を差し出しましたが、アブラハムはそれを拒んだという内容が記されてありました。その出来事の後でということです。その時に神様が語られたのは、「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは大きい。」ということでした。これは神様が、ご自分が恵み深い方として彼を守り、彼に報いを与えという約束です。ソドムの王が提示した物質的な財宝を拒んだアブラハムに、神様が慰めを与えてくださったのでしょう。

これに対してアブラハムは何と答えたでしょうか?彼は恵み深い神様の語りかけに対して、「神、主よ。私に何を私にお与えくださるのですか。私には子がありません。私の家の相続人は、あのダマス子のエリエゼルになるのでしょうか。」(2)と言いました。まさに打てば響くとはこのことです。アブラハムは「あなたの受ける報いは大きい」と言われた主の約束に対して、「じゃ、何を与えてくださるのですか」と答えたのです。ここに神様の報いに期待していた彼の信仰が読み取れます。そして、彼が最も心配していたことは、彼の跡取りに関することでした。ですから、彼はすぐにこう言ったのです。「私には子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」12章3節、13章15~16節で語られた神の約束が全く実現する雰囲気が感じられず、絶望の中にいたのです。アブラハムもサラも年をとっていて、もう新しいいのちを生み出す力がなくなっていました。ですから、ダマスコのエリエゼルを養子にしてでも、その子孫をと考えざるをえなかったのです。

すると主は言われました。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出る者が、あなたの跡を継がなければならない。」えっ、ウソでしょう。人間的に考えたら、普通の常識で考えたなら無理です。なぜ?その時期はもうとっくにすぎていたからです。ローマ4章19節には、「自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることを認めても」とあります。もう胎は「死んでいた」のです。ですから、これからいのちを生み出すなどということは全く考えられない状態でした。にもかかわらず神は、「ただ」、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」と言われたのです。

そして神は、アブラハムを外に連れ出して言われました。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」

あなたの子孫はこのようになる、とビジュアル的に示してくださいました。これほどわかりやすいことはありません。「ああ、こうなるのか」とアブラハムは思ったでしょう。でも、現実的に考えると、それは全く不可能なことでした。

2.神の約束を信じたアブラハム(6)

それに対して、アブラハムはどのように応答したでしょうか。6節をご覧ください。ここには、「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」とあります。どういうことでしょうか?彼は、自分のからだは死んだも同然だけれども、神にはできないことはないと信じたのです。すなわち、自分のからだのことや人間的な考えで判断することをやめ、天地万物を創造された全能の神様を、イエス・キリストを死者の中から復活させることのできる全能の神様を信じたのです。そして、その力がこどもを宿す力である以上、神様の約束は必ず実現すると信じたのです。

このような信仰を持つことが重要です。なぜなら、このような神への信仰が私たちの心を満たされる時、その人は真の自由を得るからです。そこには全く限界はありません。この神様がどんなことでもしてくださるという喜びが溢れます。反対に人間的になって限界もうけるとむると、心配が募り、顔色が悪くなってしまいます。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」(詩篇37:5)とあります。私たちは、私たちの力や思いではなく、すべてをこの神様にゆだねなければなりません。死人をよみがえらせることができる方は、どんなことでもすることができるお方だからです。そうでしょ。もし、今、皆さんに心配や悩みがあるなら、この全能の神に信頼してください。信仰とはそういうことなのです。すなわち、「望み得ない時に望みを抱いて信じ」(ローマ4:18)、「死者を生かし、無から有を呼び出される神(ローマ4:17)と信じることです。アブラハムは復活の力をもっておられる神様を待ち望み、いのちの源でいます神が、自由にいのちを与えられる方であるということを信じたのです。信仰とは、神が神でいますこと、人間は人間でしかないことを、そののまま認めることなのです。神様は、神様であられるがゆえに、人の思いをはるかに越えたことをなされるのです。

この6節のみことばは、聖書の中で最も重要な聖句の一つです。新約聖書には、この聖句を引用して、アブラハムの信仰について教えている箇所が三箇所あります。(ローマ4:3,ガラテヤ3:6,ヤコブ2:23)聖書において、人が義と認められる方法は、旧約、新約を通してただ一つだけです。それは、「信仰による」ということです。信仰以外にはありません。

ダビデも信仰によって義と認められる人の幸いについて語っています。(詩篇32:1,2、ローマ4:7,8)ハバククも「義人はその信仰によって生きる」ことを語っています。(ハバクク2:4,ローマ1:17,ガラテヤ3:11,ヘブル10:38) パウロも徹頭徹尾、この教理に貫かれていました。 聖書のどこを見ても、人間の功績が救いにあずかる力とはなり得ないことを教えています。たとえ人間が難行・苦行をしても、どんなに信仰心が深くでも、どんなにあわれみ深く慈善事業を行ったとしても、信仰によらなければ義と認められることはできません。それははアブラハムが信じていなかったときのように、死んだからだのようで、何の役にも立たないのです。その心が新しく生まれ変わらなければならないのです。それは人間によるのではなく、神によらなければならないのです。アブラハムが自分のからだは死んでいても、神にはどんなことでもできると信じて新しく生まれ変わったように、聖霊によって、新しく生まれかわらなければならないのです。自分の力ではどうにもならないのです。ただ神に信頼するしかないのです。このように、自分の罪に対する人間性への絶望があってのみ、初めて神への信頼が生まれてくるのです。これが神の義と認められる信仰なのです。

ついで神は土地についての約束をされました。7節と8節です。「また彼に仰せられた。・・・・カルデヤのウルから連れ出した主である。」アブラハムがカルデヤのウルから連れ出され、カナンに着いた時、神は「この地を与える」(12:7)と約束されました。あれから何年になるでしょうか。約束を与えたままで、それがなかなか実現しない現実に、アブラハムもどれだけまだるっこい思いが拭えなかったかと思います。彼は、その確証を求めていました。それで、「神、主よ。それが私の所有であることを、どうやって知ることができるでしょうか。」と問うているのです。

3.神様の約束(9-21)

すると、神は言われました。9節と10節をご覧ください。「すると彼に仰せられた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持って来なさい。」彼はそれら全部を持って来て、それらを真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。しかし鳥は切り裂かなかった。」

これは契約を結ぶ時のセレモニーです。真っ二つに切り裂かれた動物を互いに向かい合わせ、契約を交わした両者がその間を通ることによって、契約が締結されました(エレミヤ34:18)。鳥が切り裂かれなかったのは、小さかったからでしょう。犠牲の家畜を二つに裂き、血を流し、それを両側に一つずつおき、その間を契約した両者が通るということは、その「間」を埋めることであり、二つのものを一つにすることを表していました。そうやって契約が結ばれたのです。これは、神が私たち人間と契約を結ばれた時と同じです。神はそのひとり子イエス・キリストを十字架で引き裂かれ、血を流されることによって、埋めてくださいましたるそれで神と私たちの契約を成し遂げてくださったのです。

17節には、「煙の立つかまど」と「燃えているたいまつ」が、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎたとあります。これは神の臨在の象徴です。神の跡にアブラハムが通ったというのは、この契約が神様の全くの恵みによるものであることを表しています。人間はそのために何もせず、努力も協力もしなかったのに、神様だけがすべてをしてくださいました。人間はその受益者にすぎません。救いは神様の一方的な賜物なのです。

11節を見ると、「猛禽がその死体の上に下りて来た」とありますが、この「猛禽」とは、アブラハムの子孫がその約束の地を受け継ぐ前に経験しなければならない試練や困難を表しています。その具体的なことは、13~16節までに記されてあることです。それはエジプトでの400年間にわたる奴隷としての生活を指しています。けれども神様は、その四代目の者たちによって再び帰ることも預言されました。これはモーセとヨシュアの時代のことです。ここにイスラエルのエジプト滞在について預言されていることは、実に驚くべきことです。本当に、神様の約束の実現までには多くの困難や苦しみがありますが、しかし、神が語られたことは必ず実現するのです。私たちはただ神様が約束してくださったことを信じて、神の御国に向かって前進していく者でありたいと思います。「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なことは忍耐です。」(ヘブル10:36)

創世記14章

1.選択の結果(1-12)

前の章において、アブラハムとロトが、それぞれ自分の信仰のはかりにしたがって、山地と平地とを選択したことを見ました。きょうところには、その結果、彼らがどうなってしまったかが記録されています。北東の四人の王と死海近くにいた五人の王との間に行われた戦争によって、ソドムとゴモラの王が戦いに敗れ洞穴に逃げ込んだとき、その四人の王はソドムとゴモラの全財産と食料全部を奪って逃げて行きました。ということは、ロトも捕らえられてしまったということです。12節に「彼らはまた、アブラハムのおいのロトとその財産をも奪い去った。」とあります。ロトはソドムに住んでいたからです。主の園のようによく潤っていたこの地が、まさか戦いに敗れて敵に奪われてしまうというようなことを、いったいだれが想像することができたでしょうか。しかし、これが現実なのです。自分の欲望にしたがって肥沃な平地を選んだロトは、この戦いに巻き込まれて悲惨な事態を招くことになってしまったのです。信仰によってではなく、自分の欲望にしたがって歩む者には、このような結果が待ち受けていることを覚えておかなければなりません。

2.ロトを助けたアブラハム(13-16)

問題はその後です。13-16節までをご覧ください。そのことがアブラハムのもとに知らされると、アブラハムはどのような行動を取ったでしょうか?「フン、いい気味だ。欲望によって選択したからそうなったんだ」と言ったでしょうか。アブラハムはその知らせを聞くと、彼の家で生まれた318人のしもべを召集して、ダンまで追跡し、彼らと戦って打ち破り、すべての財産を取り戻しました。いったいなぜアブラハムはそのような行動をとったのでしょうか?もしかしたら自分の家族が巻き込まれて大きな損害を受けるかもしれません。にもかかわらず彼は追跡して、彼らと戦ったのです。14節には、「アブラハムは自分の親類の者がとりこになったことを聞き・・・」とあります。一度は別れたものの、ロトと親類関係にあったアブラハムは、ロトと無関係ではありえませんでした。ただ兄弟に対する愛のゆえに、ロトを助けようとして、追いかけて行ったのです。

本当の信仰とは、人を独立させはしても、決して他人のことに無頓着ではありません。ほかの人が困苦にあえいでいる時に、どうして知らぬふりをしていられるでしょうか。自分だけがよければいいという思いは信仰から出た思いではありません。

ルカ10:30~37のところでイエス様は、良きサマリヤ人のたとえを話されました。ある人がエルサレムから絵里子に下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取って、殴りつけ、半殺しにして逃げていきました。そこへ祭司が、レビ人が通りかかりましたが、彼らは見て、見ぬふりをして通りすぎて行きました。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中で通りかかったのです。彼はどうしたかというと、かわいそうに思って、オリーブ油を注いで、ほうたいをして、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してあげました。この三人の中で、だれがこの人の隣人になったでしょうか?このサマリヤ人です。するとイエス様は言われました。「あなたも行って、同じようにしなさい。」と。あなたの隣人をあなた自身のように愛することを、実行しなさいというのです。 これが信仰者の態度です。もちろん、救われるためにするのではありません。救われた者として、神様のみこころに歩む者は、このような歩みは当然のことなのです。それを実行しなさいと言われたのです。

アブラハムは、この神様のみこころに従っただけです。アブラハムは兄弟への愛をあらわし、ついには勝利をはくしたのです。

3.シャレムの王メルキデゼク(17-24)

さて、18節を見ると、そのようにして勝利したアブラハムを迎えたのは、シャレムの王メルキデゼクでした。彼はいと高き神の祭司でもありました。彼はアブラハムを祝福して言ったのです。

「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」

いったいこれはどういうことなのでしょうか?このシャレムの王メルキデゼクについては、ヘブル5-7章に言及されていますが、7:3にしるしてあるように、彼がどこの出なのか、どのような人なのかについては明らかではありませんが、彼がイエス・キリストの型であることは間違いありません。そのメルキデゼクがアブラハムを祝福したとき、アブラハムは彼に自分のすべての持ち物の中からその十分の一をささげたのです。これが十分の一献金の起源です。アブラハムは創造主なる神からの祝福を受けたとき、彼はその全ての持ち物が神から与えられたものであることを認めて、その十分の一をささげました。すなわち、十分の一献金とは何かというと、私たちに与えられたすべてのものは神様のものであって、神様からの祝福であるということを認め、その一部を神様にお返しする信仰の表明なのです。すなわち、これはアブラハムの神への礼拝だったのです。ですから、ここにこのメルキデゼクがいと高き神の祭司であり、「パンとぶどう酒を持ってきた」とあるのです。神からの祝福をいただき、神への信仰を十分の一献金という形で表したのです。

それにしても、なぜここにメルキデゼクが登場し、このような礼拝をささげる必要があったのでしょうか?それは続く21節にあるソドムの王とのやりとりをみるとわかります。ここにはソドムの王が現れて、アブラハムに、「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください」とあります。どういうことでしょうか?これは、「財産はあんたにやるから」ということでしょう。すなわち、自分が財産をアブラハムにやったので、アブラハムは富む者となったというのです。そのときアブラハムは何と言ったでしょうか。22,23節には、彼が、糸一本でも取らないと言いました。それは、アブラハムを富ませたのは私だとソドムの王に言わせないためです。すなわち、アブラハムはこの世の力によって支配されることを恐れたのです。彼にとって神様だけで十分でした。神様がおられれば、神様が祝福してくだいます。人間的にいろいろな小細工をしなくても、最終的に神様が祝福し、神様が責任を持って下さる。その信仰の表れだったのです。

そのような信仰に立つためには、神様を見上げなければなりません。それがシャレムの王メルキデゼクを通しての礼拝だったのです。このところをよく見ると、このシャレムの王メルキデゼクが表れたのは、17節で、ソドムの王がアブラハムを迎えに出て来たときでした。そのような外敵を打ち破ったときこそより深刻な内的な戦いがあることがわかります。それがこうした物質的な誘惑だったのです。そうした誘惑に勝利するために必要だったのは何でしょうか?そうです。神礼拝だったのです。礼拝を通して自分がどのような者であり、自分がよって立っているのは何なのかを確信して、自分を神様にささげること、それが必要だったのです。アブラハムの信仰は、そうした神礼拝に支えられていたのです。

考えてみると、彼がいたところにはいつも主のための祭壇があり、彼はいつも主の御名によって祈りました。(12:7,13:4,13:18)アブラハムの信仰は、そうした神礼拝によって支えられていたのです。ここに私たちの信仰の原点があります。それは、私たちは礼拝から始めていかなければならないということです。私たちが礼拝をささげるとき、神様が私たちの人生を守り、導いてくださいます。そうでないと本質を見失って失敗してしまうということです。礼拝が私たちの信仰生活の生命線なのです。アブラハムはそのことを知っていました。ですから、そうした物質的な誘惑が襲ってきたとき、彼はまず神様を礼拝し、自分をささげ、自分の持っているものをささげて、自分が何によって生きているのかを確認したのです。それが十分の一献金だったのです。

それは私たちも同じです。私たちもいつも神への礼拝を通して、神様がすべてであり、神様だけで十分であること、神様がともにおられるならば、神様が祝福してくださり、その必要のすべてを満たしてくださるということを確信しながら生きていかなければなりません。そうでないと、私たちもまたこの世の流れにながされて、いつも揺り動かされながら生きることになってしまうのです。人生の節目節目に、日々の歩みの節目節目に、神様を礼拝すること、それが私たちの生きる力となり、誘惑に勝利する力となるのです。アブラハムがささげた礼拝は、まさにそのためだったのです。

Ⅱテモテ2章1~7節 「キリストの恵みによって強くなりなさい」

Ⅱテモテ2章に入ります。きょうのタイトルは、「キリストにある恵みによって強くなりなさい」です。この手紙は使徒パウロによって書かれた彼の最後の手紙です。パウロは福音のゆえに再び捕えられ、ローマの地下牢に入れられました。いつ処刑されるかわからないという不安な状況の中で若いテモテに手紙を書き送ったのです。それは当時エペソの教会を牧会していたテモテが、教会にくすぶっていた問題の対応で疲れ、弱り果てていたからです。そんなテモテに対してパウロは、神から与えられた賜物を再び燃え立たせよと勧めました。なぜなら、神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊だからです。だから、この神の力によって、福音のために苦しみをともにしてほしい。そう勧めたのです。その良い模範がオネシポロという人でしたね。彼はパウロが捕えられたと聞くと多くの人たちがパウロから離れて行く中でも、むしろ、パウロが鎖につながれていることを恥じとも思わず、自分の命の危険をも顧みずに、ローマにいたパウロを捜してくれました。そのことでパウロはどれほど慰められたことでしょう。そのように、神の力によって、苦しみをともにしてほしいと願ったのです。

きょうのところでもパウロは、意気消沈していたテモテに対して、「キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい」と勧め、どうしたら強くなれるのかを具体的な三つのたとえを用いてわかりやすく説明しています。私たちも日々、さまざまな苦しみの中で弱さを感じることがありますが、そのような時、いったいどうしたら強くなることができるのか。きょうはこのことについてご一緒に学びたいと思います。

Ⅰ.キリスト・イエスの恵みによって(1-2)

まず1節と2節をご覧ください。1節を読みます。

「そこで、わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。」

パウロはⅠテモテ1章2節でも、テモテのことを「信仰による真実のわが子テモテ」と呼びましたが、ここで再び彼を「わが子よ」と呼んでいます。テモテはパウロによって救われた霊的な子どもでした。そんなわが子に対して霊的父親であったパウロが言いたかったことは、「強くなりなさい」ということでした。わが子に強くあってほしいと願うのはどの親も同じです。どんな困難な中にもめげないでほしい、むしろ困難な中にあればあるほどたくましくあってほしい、強くあってほしいと願うものですが、霊的父親であったパウロもそのように願っていたのです。いったいどうやったら強くなれるのでしょうか。

ここでパウロは、「キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。」と言っています。キリスト・イエスにある恵みによって強くなるとはどういうことでしょうか。

エペソ2章8節と9節には、私たちが救われたのは神の恵みによるということが書かれてあります。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」とあります。

私たちは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。私たちが何か良い行いをしたから救われたのではなく、救いは神の恵みによって与えられたものです。それは神の賜物なのです。賜物というのはプレゼントということですよね。プレゼントは与える人の一方的な好意によってなされるものであって、その人がしたいからするのであって、したくなければしなくてもいいのです。でも神様はそのプレゼントを私たちに与えてくださいました。それは、神はあなたを愛しておられるからです。だから神は、したくて、したくてしょうがなかったのです。それがイエス・キリストであり、イエス・キリストが十字架につけられて死なれるということでした。このイエスを信じる者は誰でも救われます。それが信仰です。だから、私たちが救われたのは私たちの行いによるのではなく、神の恵みによるのです。それは、私たちが何か頑張って獲得したものではありません。もし自分の力で頑張って獲得したものであれば恵みではありません。それは自力本願と言います。でもこうした自力の世界は頑張ることができるうちはいいのですが、頑張ることができなくなったとたんに不安になってしまいます。ですから、私たちはキリスト・イエスにある恵みにとどまっていれば強くなれますが、この恵みの外に出るととたんに不安になってしまうわけです。だからテモテはこの恵みによって強くなりなさいと言ったのです。

だからこれは「恵みによって強くなりなさい」ということではなく、恵みによって強くされなさいということなのです。実際にこの「強くなりなさい」ということばは、原語では受動態になっています。つまり「強くされなさい」ということです。自分の力で頑張って強くなりなさいということではなく、外側からの力によって、キリスト・イエスにある神の恵みによって強くされなさいということです。

使徒の働き1章8節には、「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」とあります。聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けるのです。その力によって、エルサレム、ユダヤ、サマリやの全土、および地の果てまで、キリストの証人になることができるのです。私たちがキリストを証することができるのは、自分の力によるのではなく、聖霊の力を受けることによってであって、その時にそのようになれるのです。

そのことをパウロは、エペソ人への手紙3章20節でこう言っています。「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、」私たちの力ではなく、私たちの内に働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことができる方、それが私たちの神であり、神の力なる聖霊なのです。

ピリピ4章13節には、こうあります。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」私たちができると言えるのは、私たちを強くしてくださる方によってです。その方こそイエス・キリストであり、イエス・キリストの恵みとあわれみによるのです。この方が御霊を通して私たちのうちに働いて、私たちはどんなことでもできるのです。私たちは、私たちを強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

ステラさんのためにお祈りありがとうございます。ステラさんは先週の火曜日に377gの赤ちゃんを出産されました。妊娠中毒症でこのままだと赤ちゃんのいのちもステラさんの命も危ないということで、妊娠26週でしたが、手術で出産しました。低体重に超がつくほどの超低体重児で、いろいろな障害が心配されましたが、今のところ奇跡的に守られ、少しずつですが、順調に生育しています。皆さんのお祈りを本当に感謝します。そして何よりも神様の恵みに感謝します。それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできるのです。私たちは、イエス・キリストにある神のめぐみによって強くなれるのです。

小さな赤ちゃんという点では、1982年にオーストラリアと生まれたニック・ブイチチ(Nick Vujicic)さんも同じでした。彼は、両手・両足のない赤ちゃんとして生まれました。生まれたとき上半身は肩から先がなく、下半身は2本の指を残して脚がありませんでした。原因は不明です。両親は牧師で、いつもイエス様のことは聞いていたので、神が愛であることは知っていました。そして、何度も手足をくださいと祈りましたが、応えられませんでした。やがて、自分は神に愛されていないのではないか、間違って生まれたのだと思うようになりました。将来、まともな職に就けないだろう。結婚もできないかもしれない。もしできても、生まれてきた子どもを抱くことすらできない。ニックさんは、少年時代から人生の希望を失っていました。学校では、できないことは山ほどありました。からかわれ、泣いた彼を両親は抱きしめてくれましたが、本当に心の痛みを知ることはできなかったでしょう。神がこの痛みを取り去ってくれないなら自分で・・と、10歳の時、風呂場で自殺を試みたほどです。でも、自分が死んだら両親がすごく悲しむことに気づき、思いとどまりました。しかし、今、ニックさんは「生きていることがとてもうれしい」と、言っています。「私を見てください。私は大学を卒業し、2つの学士を取得しました。不動産業の仕事にも就きました。各地に招かれて講演もしています」。小さな足で歩くことができる。水泳もできる。2本の足の指で、ピースサインはもちろん、1分間に43の単語が入力でき、字も書けます。
「真理が、私を自由にしたのです」。と晴れやかに言います。15 歳の時、ヨハネの福音書9章に出会いました。「盲人が盲目に生まれたのは、罪を犯したからではなく、神のわざが現れるため。」この個所を読んだとき、なぜ自分がこのようにして生まれてきたのかがわかりました。それは神の栄光のためです。神はご自分の栄光のために、自分にすべての人以上の計画をもっておられたのです。手足が与えられなくても、神を信じますと祈ったとき、神は状況ではなく心を変えてくださいました。そして、この神にあってどんなことでもできるという確信を持つことができるようになったのです。今、彼はキリスト教の伝道師として世界中を飛び回り、キリストの愛を至るところで語っています。先日も東京のビッグ・サイトで大きな集会がありました。そして、3年前には結婚して、今2歳になるこどもさんもおられるのです。すごいですね。彼は彼を強くしてくださる方によって今も力強く生き続けているのです。

私は、私を強くしてくださる方によってどんなことでもできる。これはニックさんだけでなく、神の恵みによって救われたすべての人に言えることです。私たちは弱い者ですが、しかし、私たちのうちにおられるイエス・キリストの恵みによって、どんなことでもできるのです。

イエス様はヨハネの福音書15章でこう言われました。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(15:5)イエス様がぶどうの木で、私たちは枝です。枝が木につながっていれば実を結ぶことができます。離れていては結ぶことはできません。非常にシンプルです。イエス様は自然界の真理をもってお語りくださいました。当たり前のことです。そしてそれは霊的にも言えることなのです。キリストはまことのぶどうの木で、私たちは枝です。私たちがこの方につながるならば、とどまるならば、多くの実を結びます。その方によって強くされるからです。

だからパウロは弱っていたテモテに言ったのです。テモテはいろいろな問題で心が塞ぎ、沈んでいましたが、しかし、わが子テモテよ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。キリスト・イエスを見なさい。その恵みにとどまるように。そうすればあなたは強くされるのです・・と。

2節をご覧ください。2節には、「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」とあります。

どういうことでしょうか。「私から聞いたこと」とは福音のことです。それを他の教える力のある忠実な人たちにゆだねなければなりません。テモテはパウロからこの福音のことばをゆだねられました。それを今度は他の教える力のある人たちに、次の世代の人たちにゆだねていかなければならないのです。なぜなら、そのように先に福音を信じた人がそれを他の人にゆだねて行くことによって、本当の意味で福音が広がり、霊的なリバイバルが持続されていくからです。これがキリストにある恵みによってあなたが強くされる理由であり、目的です。あなたはなぜ強くされなければならないのでしょうか。それはこの福音を他の人にゆだねていくためです。それはあなたのためではないのです。この福音のため、この福音が全世界に広がっていくために、あなたは強くされなければならないのです。

この時テモテはいろいろな問題に押しつぶされて、自分のことしか見えなくなっていました。そんなテモテにパウロはもっと広い視野で神様のみこころを示しているのです。あなたにゆだねられたこの福音が他の人たちにもゆだねられるために、あなたはキリストにある恵みによってほしいということだったのです。

Ⅱ.兵士のように、アスリートのように、農夫のように(3-6)

次に3節から6節までをご覧ください。パウロはここでキリストにある恵みによって強くされる人とはどういう人なのかを、三つのたとえを用いて説明しています。「キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者を喜ばせるためです。また、競技をするときも、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません。労苦した農夫こそ、まず第一に収穫の分け前にあずかるべきです。」

第一に、それは兵士のような人です。りっぱな兵士は勇敢です。彼らは自己犠牲の覚悟ができています。国を守るため、家族を守るため、どんな苦しみにも耐えて、いのちをかけて勇敢に戦うのです。しかし、一人で戦っているのではありません。私と苦しみをともにしてくださいとあるように、みんなで苦しみをともにするのです。みんなでその戦いの最前線に立って戦います。また戦っている最中は日常生活のことについて考えている暇などありません。24時間365日戦いに集中しています。彼らは司令官を喜ばせるために、自分に与えられた任務を最後まで全うするのです。

エペソ6章を見ると、クリスチャンにも戦いがあると言われています。それは霊的な戦いです。ですから、クリスチャンは霊的な戦いを戦っている兵士です。そうした戦いがあることを覚えていなければなりません。しかし、一人で戦っているのではありません。いっしょに戦っているのです。そして、司令官であるイエス・キリストを喜ばせるために、自分に与えられた任務を最後まで全うしなければなりません。

第二にパウロは、恵みによって強くされた人は兵士だけでなく、アスリートのようなものであると言っています。アスリートは、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません。2011年韓国の大邱(テグ)で行われた世界陸上男子100メートルの決勝で、ウサイン・ボルト選手がまさかのフライングで一発退場になりました。彼の走りをみたかった私はとても残念でしたが、それが競技というものです。どんなに速くても、競技はルールに従って走らなければ栄冠を得ることできません。

当時のギリシャのオリンピックには3つの規定があったそうです。一つは、競技者は純粋なギリシャ人でなければなりませんでした。二つ目に、オリンピックに出場する人は10カ月間の練習に参加しなければなりませんでした。三つ目のことは、当日の競技は、規定に従って行わなければならないということです。これを守らなければ失格となったのです。

ですから、優秀なアスリートは自己鍛錬を怠りませんでした。どんなに才能があっても日々の練習を怠るのであれば当然良い結果は期待することができないからです。長い期間、厳しいトレーニングを繰り返し、繰り返し行うのです。また自分に害のあるものを避けていきます。こうした苦しみを乗り越えるのは栄冠を得るという目標があるからです。

同じように私たちクリスチャンも、栄冠を目指して走るアスリートのようなものです。栄冠を得るためには日々、敬虔のための鍛錬が求められます。Ⅰテモテでそれを学びました。肉体の鍛錬もいくらかの益にはなりますが、敬虔のための鍛錬は今の世ばかりでなく、永遠に私たちにとって益となるのです。

パウロはピリピ3章でこのように言いました。「兄弟たちよ。私は、すでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。」(13-15)

そしてローマ皇帝ネロによって処刑されようとしている今、この世での生涯を終えようとしている今、彼はこのように言っているのです。Ⅱテモテ4章6節から8節のところです。

「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」(Ⅱテモテ4:6-8)

注ぎの供え物となるとは殉教することを指しています。もうすぐパウロは殉教します。そのような時にパウロが言ったことは、「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」ということでした。目標を目指して一心に走っていたパウロは、そのように言うことができました。彼は勇敢に戦い、走るべき行程を走り終えたのです。すばらしいことばです。私が死んだときにもし墓があるとしたら、このみことばを墓石に刻んでほしいくらいです。「走るべき道のりを走り終え・・・」今からは義の栄冠が用意されています。それはパウロだけに用意されているものではなく、主の現れを慕っているすべての人に約束されていることです。私たちもイエス・キリストから、「よくやった。良い忠実なしもべだ」と言われるように、栄冠を目指して、走り続けていきたいものです。

第三に、パウロはここで恵みによって強くされた人は、農夫のようだと言っています。兵士だけでなく、またアスリートのようであるだけでなく、農夫のような者でもあるのです。農夫のようであるとはどういうことでしょうか。農夫は労苦することを惜しみません。朝早くから夜遅くまで一生懸命に働きます。暑さにも寒さにも耐えて、汗水流しながら働くのです。アスリートはみんなから注目されますが、農夫が注目されることはありません。すごく地味ですよね。そして決まりきった毎日の作業をたんたんと繰り返し、繰り返しこなしているだけですが、でも根気強くそれを続けていけばどうなるかということをよく知っています。まず第一に収穫の分け前にあずかるということです。だれも注目しない、華やかでもない、エキサイトするような仕事でもありませんが、毎日たんたんと根気よく続けていけば、必ず収穫にあずかるのです。だから労苦を惜しまないのです。

私たちも農夫のような者です。福音のために労苦を惜しまなければ、必ず収穫にあずかれる時がやってきます。詩篇の作者はこう歌っています。「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。」(詩篇126:5-6)

涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取るのです。必ず刈り取りのとき、収穫の時が来るので、農夫は労苦を惜しまないですることができるのです。

Ⅲ.よく考えなさい(7)

最後に7節を見て終わりたいと思います。「私が言っていることをよく考えなさい。主はすべてのことについて、理解する力をあなたに必ず与えてくださいます。」

ここは、きょうの箇所のまとめの箇所です。パウロはテモテを励ますためにこの手紙を書きました。テモテは教会の内部の問題、そして、外からの迫害による苦しみによって、その信仰が弱まっていました。しかし、わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。あなたは私から学んだことを他の人たちにも教えなさい。あなたは福音のために戦う兵士のようです。あなたは栄冠を目指して走るアスリートです。あなたは収穫のために労苦する農夫です。そしてここで、テモテよ、あなたは私があなたに言っていることをよく考えなさい、深く考えるようにと言うのです。そして、主が理解できるように、すべてのことについて理解する力を与えてくださるようにと祈っています。

私たちはどうでしょうか。パウロが言っていることを理解しているでしょうか。恵みが何であるかを本当に理解しているでしょうか。そして神のことばを他の人たちにゆだねていくことの大切さを理解しているでしょうか。あなたは自分が兵士であることをしっていましたか。アスリートであることを知っていますか。農夫であることを理解していましたか。「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。」ということを知っていますか。そうした収穫の喜びは労苦の後にもたらされるということを知っていたでしょうか。そのことをよく考えなければなりません。そうすれば、困難に耐えることができます。福音のための苦しみをともにすることができるのです。

私たちの信仰生活は戦いの連続です。アスリートですから、それは競技場でもあります。農夫ですから、それは畑ですね。そこには労苦が伴いますが、しかし、やがて必ず勝利を、栄冠を、収穫を得ることになります。福音のために戦い続け、最後まで走り続け、労苦し続けるなら、必ず勝利と永遠と収穫を得るようになるのです。でもそれは私たちの力によるのではありません。聖書は何と言っていますか。キリスト・イエスにある恵みによってと言っています。キリスト・イエスにある恵みによって強められるのです。神の愛、神の恵み、神の力に満たされて、私たちも信仰の戦いを戦いつづけ、走り続け、収穫を得るために働き続け、神が与えてくださる栄冠を得させていただく者でありたいと思います。