イザヤ書47章1~7節 「バビロンの滅亡」

きょうは、イザヤ書47章の前半の箇所からお話します。ここにはバビロンの滅亡について記されてあります。難攻不落と言われたバビロンが滅びたのはいったいどうしてだったのでしょうか。きょうはその原因について三つのポイントでお話したいと思います。

Ⅰ.わたしは復讐する(1-4)

まず1節から4節までをご覧ください。1節には、「おとめバビロンの娘よ。下って、ちりの上にすわれ。カルデヤ人の娘よ。王座のない地にすわれ。もうあなたは、優しい上品な女と呼ばれないからだ。」とあります。

ここではバビロンのことが、「おとめバビロンの娘」と呼ばれています。バビロンがこのようにおとめ、すなわち処女であると言われているのは、まだ一度も外敵に侵略されたことがなかったからです。高さ90m、厚さ24mの城壁は、一辺が24㎞に及び、周囲が96㎞もありました。また、城壁には100の門と250の見張り塔が備えられていました。このような城壁を崩せる者など誰もいませんでした。バビロンは難攻不落の都市、まさに「おとめ」でありました。

しかし、そんなバビロンに対して主はこう言われます。「下って、ちりの上にすわれ。」ちりの上にすわるとは、しばしば嘆きを表わす時に使われる表現ですが、それは低くされることを表しています。これまで一度も攻められたことのないバビロンが攻められ、ちりの上にすわるほど低くされるのです。

また、「カルデヤ人の娘よ。王座のない地にすわれ。」と言われます。カルデヤ人の娘とはバビロンの娘のことです。バビロンの別名がカルデヤでしたるそのカルデヤに主は、王座のない地に座れと言うのです。これは、長らく王座で統治しいていたバビロンが、卑しい座に移されることを意味しています。

なぜでしょうか?「もうあなたは、優しい上品な女と呼ばれないから」です。 優しい上品な女とは、バビロンの優雅さを表しています。バビロンは高くそびえ立つ城壁に囲まれ、その真ん中にはユーフラテス川が流れていました。そして町の中心にはエ・テメン・アン・キと呼ばれる塔が立っていました。また、その隣にはバビロンの神マルドュクを祭った立派な神殿がありました。そして、あの世界七不思議の一つにも数えられているバビロンの空中庭園もありました。それだけではありません。皆さんはイシユタルの門という門のことを聞いたことがありますか。その美しさは言語を超えていたと言われています。まさに上品な女です。そんな優雅なバビロンが、もはや上品な女とは呼ばれなくなります。なぜなら、最も卑しい女奴隷になりさがるからです。2節と3節をご覧ください。

「ひき臼を取って粉をひけ。顔おおいを取り去り、すそをまくって、すねを出し、川を渡れ。3あなたの裸は現れ、あなたの恥もあらわになる。」

ひき臼を取って粉をひく仕事は、当時女奴隷の仕事でした。顔おおいとは、貴族の女たちが顔を覆うために使う布のことですが、そのような布はもはや必要なくなります。そんなのがあったら臼をひく仕事の邪魔になってしまうからです。    「すそをまくって、すねを出し、川を渡れ」というのは、バビロンがクロス王によって滅ぼされ、征服され、敵国に連行されていく姿を表したものです。すそをまくって、すねを出すことは恥です。このように、華やかさと贅沢を楽しんでいた女王のバビロンが、卑しい女奴隷に転落するのです。

いったいなぜこのようなことになるのでしょうか。3節後半をご覧ください。ここには、「わたしは復讐をする。だれひとり容赦しない。」とあります。神がバビロンに対してさばきを下されるからです。神の民であるイスラエルを苦しめたバビロンに対して、神ご自身が復讐されるのです。

私たちの神は復讐をする神です。詩篇94篇をご覧ください。1節から7節までと、22節、23節をお読みします。

「1 復讐の神、主よ。復讐の神よ。光を放ってください。 2 地をさばく方よ。立ち上がってください。高ぶる者に報復してください。 3 主よ。悪者どもはいつまで、いつまで、悪者どもは、勝ち誇るのでしょう。 4 彼らは放言し、横柄に語り、不法を行う者はみな自慢します。 5 主よ。彼らはあなたの民を打ち砕き、あなたのものである民を悩まします。 6 彼らは、やもめや在留異国人を殺し、みなしごたちを打ち殺します。 7こうして彼らは言っています。「主は見ることはない。ヤコブの神は気づかな い。」 22 しかし主は、わがとりでとなり、わが神は、わが避け所の岩となられました。 23主は彼らの不義をその身に返し、彼らの悪のゆえに、彼らを滅ぼされます。    われらの神、主が、彼らを滅ぼされます。」

主は彼らの不義をその身に返し、彼らの悪のゆえに、彼らを滅ぼされるのです。神がバビロンにこのようにされるのは、彼らの悪のゆえなのです。彼らが高ぶって自らが神であるかのようにイスラエルを苦しめたので、その悪に対して神が復讐されるのです。

皆さん、復讐は神がされることであって、私たちがすることではありません。私たちはすべてのことを正しく知っているわけではありませんので、物事を正しく判断することができないからです。けれども神は正しい方であって、そのすべてのことにおいて正しくさばくことがおできになられます。ですから、さばきは神にゆだねなければなりません。

しかし、これは私たちに害をもたらす人たち、すなわち、私たちに不利益をもたらし、怒りを煽る(あおる)ような人たちに対してだけに言われていることではありません。確かに神はあなたに害をもたらす人たちに復讐されますが、それは彼らだけのことではなく、私たち自身にもあてはまることなのです。神はあなたにも復讐されるのです。あなたに対しても容赦しません。他の人のことは置いておいて、私たちが考えなければならないことは、自分自身はどうかということです。もしあなたが神に対して罪を犯しているなら、神はその罪に対しても正しく復讐されるのです。神はそれを大目に見られることはありません。そんなことをしたら、神の正義が歪め(ゆがめ)られてしまうからです。あなただけを大目に見て、あなたの罪を見ないようにして、他の人の罪だけをとがめるようなことはなさいません。なぜなら、神にはえこひいはないからです。あの人をさばけば、この人もさばきます。この人をさばけば、あの人もさばきます。神にはえこひいきがないからです。

しかし、私たちは何も恐れる必要はありません。なぜなら、私たちはもうさばかれる対象ではないからです。あなたが御子イエス・キリストを信じたその瞬間に、あなたのすべての罪は赦されました。あなたの罪は神の御子イエス・キリストが十字架にかかってくださり、神のさばきを代わりに一身に受けてくださったので、すべて赦されたのです。あなたが罰せられることはもうありません。あなたは罪のない者とみなされたのです。そんなおいしい話があるのかと思うかもしれませんが、あるのです。それが福音です。福音はGood Newsと言いますが、これこそGood News、良い知らせです。ですから、私たちは、神は復讐すると言っても、だれひとり容赦しないと言ってもびくびくする必要はないのです。

イエス様の約束のことばを聞きましょう。ヨハネの福音書5章24節を開いてください。ここをご一緒に読みたいと思います。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5:24)

もしあなたがイエスのことばを聞いて、イエスを遣わした方を信じるなら、あなたは永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。あなたはもうこの方を信じていますか?あなたのすべての罪を負ってあなたの代わりに十字架にかかって死んでくださったイエスを信じていますか?もしあなたが信じているなら、あなたは何も恐れる必要はありません。これはキリストを信じる前の人に語られている言葉です。キリストを知るまでは絶えずビクビクしながら生きていなければなりませんでした。たださばきを待つだけの死刑囚のようであったわけです。それがかつての私たちの姿です。しかし、イエス・キリストを信じた瞬間に、そうした恐怖から全く解放されました。もうさばかれることはありません。4節のことばをご一緒に読んでみましょう。

「私たちを贖う方、その名は万軍の主、イスラエルの聖なる方。」

私たちの神は私たちを贖ってくださる方です。その名は万軍の主、イスラエルの聖なる方です。あなたはこの方の名を知っているでしょうか?あなたの罪はこの方によって贖われているでしょうか?この方はあなたの聖なる方になっているでしょうか?もしまだ知らないというのなら、あなたを贖ってくださる方に身をゆだねてこう祈ってください。

「主よ。いまあなたのことを知りました。あなたは私の罪を贖ってくださる方です。どうか私の罪を赦してください。そして、すべての罪を取り除いて聖めてください。神のさばきの対象ではなく愛の対象になりたいのです。」

あなたがこのように祈るなら、神はあなたを贖い、ずっとあなたを運んでくださいます。46章3節と4節にあったように、あなたが年をとっても、あなたがしらがになっても、ずっと背負ってくださいます。イエス・キリストを自分の救い主として信じるなら、あなたは救われるのです。そしてもはやこの3節のことばは恐怖とはならず、このことばにビクビクする必要はなくなるのです。

Ⅱ.あくまでも道具にすぎない(5-6)

次に5節と6節をご覧ください。5節、「5カルデヤ人の娘よ。黙ってすわり、やみに入れ。あなたはもう、王国の女王と呼ばれることはないからだ。」

ここでバビロンに対して、「黙ってすわり、やみに入れ」と言われています。「やみに入れ」とは滅びとさばきの象徴です。つまり、バビロンが神にさばかれ、滅ぼされることを表しているのです。なぜなら、「あなたはもう、王国の女王と呼ばれることはないから」です。 これは1節で言われていることと同じです。1節では「もうあなたは、優しい上品な女と呼ばれないからだ」とありましたが、ここでは「あなたはもう王国の女王と呼ばれることがないからだ」と言われています。女王といえばイギリスのエリザベス女王が有名ですが、それは絶対的な権力を持っている人を表しています。バビロンの王は女王ではありませんが、すべての国々を征服した絶対的な権力をもっていました。そんな女王が、ひき臼をひく女奴隷になりさがるのです。    いったい何が問題だったのでしょうか?その理由が6節にあります。ご一緒に読みましょう。「わたしは、わたしの民を怒って、わたしのゆずりの民を汚し、彼らをあなたの手に渡したが、あなたは彼らをあわれまず、老人にも、ひどく重いくびきを負わせた。」

どういうことでしょうか?「わたしの民」とはイスラエルのことです。神はご自分の民であるイスラエルが神に背いたので、彼らを懲らしめるために彼らをバビロンの手に渡したのに、バビロンは彼らをあわれむことをせず、老人にも、ひどく重いくびきを負わせました。つまり、バビロンは神に背いたイスラエルを懲らしめるためのただの道具にすぎなかったのに、彼らはその自分たちの立場を逸脱して、傲慢にも、行きすぎたことをしてしまったのです。彼らは単なるスパンク棒のような存在にすぎなかったのに、その立場にとどまっていることをせず、それで彼らをめった打ちにしたのです。皆さん、スパンク棒ってご存じですか?尻叩き棒のことです。子供が悪いことをした時に、言っても言うことを聞かないと、それでお尻ペンペンするわけです。しかし、お尻ペンペンする役割を超えて、それでメッタ打ちにしてしまいました。虐待したのです。それで神は彼らをその地位からひきずり下ろし、ちりの上にすわるように、やみに入るようにされたのです。

それはバビロンだけのことではありません。私たちの中にもついいき過ぎたりすることがあります。自分の感情にまかせて、つい言い過ぎたり、やりすぎたり、度が過ぎたりすることがあるのです。傲慢になって、ついつい他人に対して厳しくなって、乱暴にふるまったりすることがあるのです。そしてあわれみに欠けることがあるのです。

たとえば、先程言ったお尻ペンペンですが、お尻ペンペンのはずが子供を虐待しているということがあります。また、日本では商売において売る側と客の側では立場が違います。お客様を神様のようにもとなすことはすばらしいことですが、いつしかそれで客の心に慢心な思いが生じ、ついつい横柄な態度になってしまうことがあるではないでしょうか。  アメリカでは逆です。たとえばスーパーマーケットでレジに行くと、客の人が「Thank you」というのです。不思議だなぁと思って帰ってから家内に尋ねたら「当たり前でしょう」と言うのです。店の人は自分のために働いてくれてるんだから感謝するのは当然だ、というのです。  国が違うとこうも違うのかと思いましたが、よく考えてみるとそうなのです。店の人も客の人も同じ人間であって、どちらが上だとか、どちらが下だといった関係ではないはずです。しかし、そうした関係によって態度がコロコロ変わってしまうのは、そうした理解に欠けているからではないかと思うのです。それによって行きすぎた態度を取ってしまう傾向を生んでしまいます。

主は百デナリ借りのあるしもべをゆるさなかった主人に対して、「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。」(マタイ18:33)と言いました。私たちも主に罪を赦してもらわなければならない罪人にすぎないのです。ローマ人への手紙12章3節で、パウロが、「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」と言っているように、自分の置かれている立場をわきまえて、慎み深い者でなければなりません。

Ⅲ.高慢は破滅に先立ち(7)

最後に7節を見て終わりたいと思います。ここには、「あなたは『いつまでも、私は女王でいよう』と考えて、これらのことを心に留めず、自分の終わりのことを思ってもみなかった。」とあります。

どういうことでしょうか?「あなた」とはバビロンのことです。バビロンは「いつまでも、私は女王でいよう」と考えました。これは完全な高慢です。バビロンは、自分たちの国は、自分たちの時代はいつまでも続くと考えていました。女王のように優雅で、気品に溢れた生活がいつまでも続くと思っていたのです。終わりのことを考えないで、自分たちの思うままに行っていました。こんなことをしたらどうなるかを考えたら、少しでも思いとどまることができたはずです。なのに彼らはそんなことは微塵も思わず、高慢になって、やりたい放題でした。あわれみに欠けて、行きすぎてもやり過ぎても全くお構いなしで、快楽にふけり、安逸をむさぼっていたのです。「これらのことに心を留めず、自分たちのことを思ってもみ」ませんでした。そのような高慢なバビロンを、神はさばかれました。彼女を女王の座から引きずり下ろし、ちりの上にすわるように、王座のない地に座るようにされたのです。

聖書に、「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」(ヤコブ4:6)とあります。また、「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」(箴言18:2)とあります。人生の中でたいせつなことは、高ぶらないことです。高ぶると祝福を失うことになります。高慢は滅びに先立つのです。

創世記16章に、アブラハムにあった出来事が記されてあります。アブラハムには長い間子どもがありませんでした。神様は彼に、「お前の末から祝福を与える」と約束されましたが、80才を過ぎても子どもが与えられませんでした。 妻のサライはとても美しい人でしたが、年になっても赤ちゃんができませんでした。そこで、サライは言いました。「神様は子どもをくださると言ったけれど、なかなかくださらない。だから、私のはしためハガルをあなたにあげるので結婚して赤ちゃんを作りなさい。」と。アブラハムは信仰の人でしたが、考えて「私も80才過ぎているので子どもができるわけがない。」と女奴隷ハガルをめとり、子どもができました。しかし、彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになったのです。  彼女は奴隷です。しかし彼女に赤ちゃんができたら、自分の女主人であるサライを見下げるようになりました。「私に赤ちゃんができた」と言って彼女は見下げるようになりました。  人間が高ぶる時は人を見下げる時です。ある人は、「頭の良さそうな人はいない。あの人はちょっとばかだ。私のほうが上だ。」と見下げます。人を見下げることは批判的なこと、高慢なことです。  アブラハムの奥さんになるようにハガルに勧めたのは、女主人のサライですが、サライのおかげで子どもができたのに見下げました。  ハガルがサライをばかにしたのでサライも怒りました。そして、「ハガルが高ぶって私を見下げているのはあなたのせいです。」と今度はアブラハムを責めました。仕方なくアブラハムは、「じゃ、あなたの好きなようにしなさい。」と言ったので、サライはハガルをいじめました。それでハガルはサライから逃げました。荒野を逃げ、非常に苦しみながら砂漠の近くに来た時、神はハガルに声をかけられました。それは、「ハガル。あなたはどこから来たのか。」という声でした。  神様は高ぶった人をも見捨てません。声をかけられました。神様は素晴らしい方です。人間は一度背いたら、「もう二度と家の敷居をまたいてはいけない。」と言うと思いますが、神は、「ハガル、あなたは何をしている。どこから来たのか。」と語りかけられました。彼女は、「はい。女主人にいじめられて逃げてきました。」と答えました。すると神様は、こう言われました。

「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」(創世記16:9)

これが神のみこころです。身を低くしたら祝福されのです。私たちの人生の中で、身を低くすることは大切なことです。高ぶってしまったらおしまいです。身を低くして、へりくだったら必ず祝福されます。私たちは神のしもべにすぎません。そのしもべとしての立場をわきまえて、思うべき限度を越えて思い上がることがないように注意しましょう。これからはもっともっと身を低くしていきましょう。 高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つからです。

イザヤ書46章1~13節 「運んでくださる神」

きょうは、「運んでくださる神」というタイトルでお話します。イザヤ書の中には、人々に暗記され、その人の人生を絶えず励まし支えているようなみことばがあります。たとえば、「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」(40:31)というみことばはそうですし、また、「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」(43:2)もそうでしょう。そして、きょうの箇所に出てくる3節と4節のみことばも、その中の一つに数えられるようなみことばです。

「3 わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。 4 あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」

ほんとうにすばらしいみことばです。しかし、これらのみことばを愛して、人生の支えとしている人たちに尋ねてみると、たいていはその前後の文脈を知らずに、独立したテキストとして愛好している場合が多いのです。  きょうはこの前後の文脈を踏まえながら、このみことばのすばらしさを味わいたいと思います。

Ⅰ.わたしは背負う(1-8)

まず最初に、1節から8節までをご覧ください。ここには偶像の神とまことの神との対比を通して、まことの神がいかにすばらしい方であるかが語られています。まず1節と2節をお読みします。 「1 ベルはひざまずき、ネボはかがむ。彼らの偶像は獣と家畜に載せられ、あなたがたの運ぶものは荷物となり、疲れた獣の重荷となる。 2 彼は共にかがみ、ひざまずく。彼は重荷を解くこともできず、彼ら自身もとりことなって行く。」

ここには「ベル」とか「ネボ」ということばが出てきますが、これはバビロンの偶像の神々の名前です。バビロンの主神は「マルドゥーク」と呼ばれる神ですが、その別名が「ベル」です。当時バビロンには50もの偶像の神々がありましたが、その主神がマルドゥークで、その別名が「ベル」でした。ですから、これはバビロンの主神の名前なのです。また「ネボ」とはベルの息子のことです。バビロンの王にネブカデネザルという名前の王様がいましたが、その名前の中にも使われています。意味は「神のメッセンジャー」です。

このバビロンの二つの神について、ここでは、「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。」と言われています。どういうことでしょうか?「彼らの偶像は獣と家畜に乗せられ、あなたがたの運ぶものは荷物となり、疲れた獣の重荷となる。」のです。やがてバビロンは滅ぼされ、彼らが信じていた偶像はお荷物になるということです。古代中近東の世界では、戦争は、それぞれの国の神々の戦いであると考えられていました。そして、戦いに敗れた時は、その偶像を担いで逃げたわけです。そのことが言われています。つまり、バビロンの神々、偶像の神々は運ばれる神であり、重荷となる神だということです。

そして、こりことがイザヤがこれを語ってから150年後に成就しました。ペルシャの王クロスによってバビロンが滅ぼされたとき、こうした偶像は獣と家畜に乗せられ荷物のように運ばれました。それは彼らにとって重荷となったのです。このように偶像はいざという時に何の役にも立たないどころか、かえってお荷物になり、重荷となるのです。偶像とはこのようなものなのです。なのに多くの人はこうした偶像の前にかがんで、ひれ伏して、願掛けをしたりしています。

皆さんはいかがでしょうか?偶像にひれ伏したり、ひざまずいたりはしていないでしょうか。前にもお話したように、十戒の一番最初の戒めは、「あなたには、わたしのほかに他の神々があってはならない。」(出エジプト20:3)です。この「私のほかに」というのは「わたしの前に」という意味です。もしあなたが神よりも前に何かを置くとしたら、それがあなたの偶像になります。神よりも前に仕事を、神よりも前に勉強を、神よりも前に仲間を、神よりも前に趣味を置くなら、それが偶像になるのです。ベルやネボと同じようなものです。それらはどれも大切なもので、どうでもいいものは一つもありませんが、たとえどんなに大切なものであっても神より前に置いてはならないのです。もし神の前にこれらのものを置くとしたら、それが偶像になってしまうというだけでなく、そうしたものはやがてあなたの足を引っ張り、あなたの荷物となり、重荷となるのです。

それに対して、まことの神はどうでしょうか?3節と4節をご覧ください。ご一緒に読んでみましょう。 「3 わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。 4 あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」

人を救うことができず、獣の背中に運ばれて行く偶像とは対照的に、真の神は人を胎内にいる時からになってこられた方です。生まれる前からずっとあなたを運んでこられました。

エレミヤ書31章3節も開いてみたいと思います。ここには、「主は遠くから、私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」とあります。ここには生まれる前どころではありません。永遠の愛をもって愛したとあります。永遠の昔から愛してくださいまた。皆さん、神の愛は永遠の愛です。

「永遠の愛」とはどのような愛でしょうか。永遠ですから、そこには時間的な感覚はありません。過去、現在、未来といった時間に支配されることがなく、いつもということです。神はいつもあなたとともにいて愛してくださいます。一瞬たりとも愛していない時はありません。永遠の昔から今に至るまでずっと、そして、これからもずっと愛し続けてくださいます。あなたがどんなにひどい人間であろうと、あなたがどんなにおぞましい罪を犯そうとも、決して変わることなく、いつも愛してくださいます。いや、そんなこと最初から十分承知の上で、にもかかわらずずっと愛し、ずっとになってきてくださいました。これが神の愛です。これが永遠の愛なのです。神はこの愛で私たちを愛してくださったのです。

人間はそうではありません。そこにはいつも条件があります。もしあなたがちゃんと働くのなら愛します。健康だったら愛します。でもそうでなければ愛せません。これが人間の愛です。ですから、いつ関係が切られるかと恐れてビクビクしながら生きているわけです。しかし、神の愛は違います。神はいつも愛してくたざいます。永遠の昔からずっとあなたを運んでくださいました。になったくださいました。

この「になう」という言葉です。これは1節に出てきた「荷物となり」という言葉と全く同じ言葉です。先程の文脈では偶像は荷物となり、重荷となるという意味で使われていましたが、ここでは私たちがお荷物だというのです。実に私たちは神にとってお荷物以外の何ものでもありません。生まれながら全く自己中心で、神を信じて生きるよりも、神に従って生きるよりも、自分が好きなように生きていた自分勝手な者でした。そのような人間は神にとって不要なものであり、お荷物でもありません。にもかかわらず神は、そんな私たちをになってくださり、運んでくださいました。そして、私たちがにないきれない罪の重荷を代わりに背負ってくださったのです。これは究極的には十字架のことを表しています。神はひとり子イエス・キリストをとおして、イエス様が私たちの代わりに十字架にかかって死んでくださることによって、私たちのすべての重荷を負ってくださいました。それは御子を信じる人が一人も滅びないで、永遠のいのちを持つためです。

ですからイエスはこう言われるのです。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

イエスさまがあなたの代わりに十字架にかかって死んでくださったので、イエスさまがあなたの重荷のすべてを負ってくださったので、あなたがイエスさまのもとに行くなら、あなたの罪は赦され、あなたの重荷はなくなり、あなたの疲れはいやされて、たましいに安らぎを得ることができるのです。あなたはそうやってずっと神にになわれてきたのです。その集大成がイエス・キリストの十字架だったのです。ですから、あなたがイエスのもとに行くなら、イエスがあなたの代わりに十字架であなたの罪の重荷を負ってくださったと信じるなら、あなたは救われるのです。

そればかりではありません。4節を見ると、それはこれからも同じだというのです。「あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがしらがになっても、わたしは背負う。」  皆さんの中で年をとってる方がおられますか?しらがの方はおられますか?別にしらがになることは問題ありませんが、ある意味でそれは老人の特徴で、気付かないうちに体力も衰えていることがあります。ついには世の楽しみに何の反応も示さなくなる日がやってきます。社会の中でも無価値、無用な者のように扱われ、寂しさを感じることも少なくありません。  日本人の平均寿命は世界一になってきましたが、核家族化の進行によって、老後の不安がますます大きくなってきています。私たちが召される日まで、元気で人の世話にならず、経済面でも大丈夫という保障はどこにもありません。

しかし、この天と地を造られた創造主なる神は、真の神は、あなたが年をとっても同じようにする、あなたがしらがになっても、背負ってくださると約束しておられます。それは単なる未来においての生活を保障してくださるというだけでなく、このような人生の厳しい末路においても神がともにいて守ってくださるという確証でもあります。

いったいなぜ神はこのように言えるのでしょうか?4節後半にこうあります。「わたしはそうしてきたのだ。」これまでもずっとそうしてきたではないか。胎内にいる時からずっとあなたをにない、生まれる前からずっとあなたを運んできました。その主はこれからも同じようにしてくださいます。つまり、いつまでも変わらない神は、今日のこの日までいささかの恵みにも欠けるところなく運んでこられたように、これからも同じようにずっと運んでくださるというのです。

「あしあと」という詩があります。もう何度も聞いたことがあるでしょう。クリスチャンになるとだれでも、この詩に共鳴できるのではないでしょうか。それはこれまで自分一人で歩いていると思っていたのが実はそうではなく、主が共に歩いてくだり、私たちをになっていてくださったということに気付くからです。そして、それはこれから先も変わらないで、同じようにずっと見守ってくださるという確信を与えてくれるからです。   ある夜、わたしは夢を見た。 わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。 暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。 どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。 ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。 これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、 わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。 そこには一つのあしあとしかなかった。 わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。 このことがいつもわたしの心を乱していたので、 わたしはその悩みについて主にお尋ねした。 「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、  あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、  わたしと語り合ってくださると約束されました。  それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、  ひとりのあしあとしかなかったのです。  いちばんあなたを必要としたときに、  あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、  わたしにはわかりません。」 主は、ささやかれた。 「わたしの大切な子よ。  わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。  ましてや、苦しみや試みの時に。  あしあとがひとつだったとき、  わたしはあなたを背負って歩いていた。」    マーガレット・F・パワーズ 「あしあと」

皆さん、主はあなたを胎内にいる時からにない、生まれる前から運んでくださいました。自分が一番苦しい時も、一番大変な時も、決して見離すことなく、見捨てることなく見守ってくださいました。それはこれからも同じです。あなたが年をとっても、しらがになっても、ヨボヨボになっても、主はなおもあなたを背負い続けてくださいます。運び続けてくださるのです。

8節をご覧ください。ご一緒に読みましょう。「このことを思い出し、しっかりせよ。そむく者らよ。心に思い返せ。」

「このこと」とは何でしょう。このこととは、これまで語られてきたことと考えてよいでしょう。つまり、偶像の神は「運ばれる神」であるのに対して、真の神は「運んでくださる神」であるということです。このことを思い出さなければなりません。なぜなら、このことがわからないと、このことに気付かないと、心がいつも揺れ動きしっかり立っていることができなくなるからです。このことを思い出すなら、あなたは主にあっていつもしっかりと立っていることができます。主のほかに真の神はいないということを確信して、この神だけに信頼して生きることができるのです。

皆さんはいかがですか。まだ自分の考えや自分の能力といったものに頼ってはいませんか。この世に引きずられて、心がさ迷っているということはないでしょうか。このことを思い出してください。このことを心に思い出して、この神に、信仰に、しっかりと堅く立っていたいと思います。

Ⅱ.わたしははかりごとを行う(9-11)

次に9節から11節までをご覧ください。 「9 遠い大昔のことを思い出せ。わたしが神である。ほかにはいない。わたしの ような神はいない。 10 わたしは、終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、 『わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる』と言う。 11 わたしは、東から猛禽を、遠い地から、わたしのはかりごとを行う者を呼ぶ。 わたしが語ると、すぐそれを行い、わたしが計ると、すぐそれをする。」

ここで主は、「遠い大昔のことを思い出せ。」と言われます。遠い大昔のこととは何でしょうか?それは、イスラエルの一連の過去の歴史のことです。特にここではイスラエルがエジプトから救い出された時の出来事を指しています。そのことを思い出せと言うのです。なぜでしょうか?それはこの前のことと同じように、その事を思い出すなら希望を持つことができるからです。その希望とはバビロンから救われるということです。イスラエルはかつて、遠い大昔に、驚くほどの恵みを体験しました。430年もの間エジプトの奴隷として過ごしていましたが、神の偉大な御業によってそこから解放されたのです。  しかし時を経て、その神の恵みを忘れ、回りの偶像に仕えるようになると、彼らは力を失い、疲れ果て、ついにはバビロンによって滅ぼされ、国を追われるはめになりました。そして今度はバビロンに捕らえられ、捕囚の民として連れて行かれたのです。もうそこには何の希望もありませんでした。そんな彼らにとって必要だったことは、遠い大昔のことを思い出すことでした。遠い大昔に神が彼らにどんなことをしてくださったのか、どんなにあわれんでくださったのかを思い出すことでした。なぜなら、そのようにすることによって彼らは希望が与えられるからです。その同じ主がバビロン捕囚からも解放してくださるという希望が与えられるのです。

それは私たちも同じです。時に私たちはバビロンに捕えられているかのような状態に置かれることがあります。全く先が見えず、希望を失ってしまうことがあります。そのような時に私たちに必要なことは何かというと、遠い昔のことを思い出すことです。神があなたをどんなにあわれんでくださったのか、神はあなたにどんなに大きなことをしてくださったのかを思い出すことです。神はあなたを救うために、あなたの代わりに死んでくださいました。何の価値もない、もう捨てられても致し方ないような罪深い私たちのために十字架にかかって死んでくださり、私たちをその罪から救ってくださいました。そのことを思い出さなければなりません。中には「つい最近救われました」という人もいれば、「もう何年も前に救われた」、「何十年も前に救われました」という人もいるでしょう。それがいつのことであっても、私たちはいつもその事を思い出し、初めの愛に立ち返らなければならないのです。そうすれば、どんな困難にも打ち勝ち、希望を持ち続けることができるからです。

10節を見てください。ここには、「わたしは、終わりのことを初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、『わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる』と言う。」とあります。「わたしのはかりごと」とは何でしょうか。また、「わたしの望む事」とは何でしょうか。それは、バビロンに捕らえられていたイスラエルを救うという神の計画のことです。神はご自分のはかりごとを成就し、ご自分の望む事を成し遂げられます。

いったいどのようにして成し遂げられるのでしょうか?11節にこうあります。「わたしは、東から猛禽を、遠い地から、わたしのはかりごとを行う者を呼ぶ。」「猛禽」とは、鷲や鷹のように素早く獲物を獲る鳥のことです。ここではクロス王のことを指しています。クロス王は、この時はまだ生まれていませんでした。彼が歴史の舞台に登場するのは、この預言が語られてから150年後のことです。彼がまだ生まれていないうちに、イスラエルがまだバビロンに捕らえられている時に、神はイスラエルがどのようにバビロンから救うのかを語られたのです。神はクロス王を用いてバビロンを滅ぼし、イスラエルを救うことを計画しておられたのです。神ははかられたことを必ずします。そして神はこの全人類を救う計画も立てられました。それが十字架です。神の御子イエスが十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたことは、遠い昔からの、永遠の昔からの、神のご計画でした。神は、ご自分がはかられることを必ず行われるのです。

そして神は、あなたの人生にも計画をもっておられます。そして、その計画をも必ず成し遂げられます。であれば、私たちは私たちの未来をも握っておられるこの方に私たちの人生をゆだねることが、最も幸いなことであることがわかります。

あなたはどうでしょうか?あなたはこれからのこと、明日のことを考えて思い煩っていませんか?イエスさまは、自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配してはいけません、と言われました。いのちは食べ物よりもたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものです。そのいのちを、そのからだを、神はちゃんと守っていてくださいます。空の鳥を見なさい。種まきもせず、刈り入れもしません。倉に収めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていていてくださいます。野のゆりを見なさい。野のゆりがどうして育つのでしょう。働きもせず、つむぎもしません。しかし、天の父が養っておられます。まして、あなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。あなたは神の永遠の愛によって救われた神の子です。その子のために、どうしてよくしてくださらないわけがあるでしょうか。神はあなたのために最善をしてくださいます。あなたにとって必要なことは遠い大昔のことを思い出すことです。神があなたのためにどんなことをしてくださったのかを思い出して、この方の御手にすべてをゆだねることなのです。

Ⅲ.わたしは勝利を近づける(12-13)

最後に12節と13節を見て終わりたいと思います。 「12 わたしに聞け。強情な者、正義から遠ざかっている者たちよ。 13 わたしは、わたしの勝利を近づける。それは遠くはない。わたしの救いは遅 れることがない。わたしはシオンに救いを与え、イスラエルにわたしの光栄を 与える。」

この「強情な者、正義から遠ざかっている者」とは、8節の「そむく者たち」たちと同じ人たちのことです。つまり、神の警告を無視し、神に背を向け、自分勝手に生きていたイスラエルの人たちことを指しています。彼らは神に聞き従わなかったのでバビロンによって滅ぼされ、捕囚の民となってしまいました。けれども、驚くべきことに、神はそのような人たちに、「わたしの勝利を近づける」と宣言されました。そむく者、強情な者、正義から遠ざかっていた者であるにもかかわらず、そしてその結果、バビロンに捕らわれるというさばきを受けますが、それでも神は勝利を近づけると言われるのです。それは遠くはありません。神の救いが遅れることはないからです。それは計画どおりに進みます。たとえ人間がどんなに強情でも、神を無視するような者であっても、神の計画は必ず成し遂げられるのです。遅すぎることがなく、早すぎることもなく、神の最善のタイミングで、絶妙のタイミングで成し遂げられるのです。

私たちは、自分中心に物事を考える習性があるので、ちょっと遅すぎると、なぜもっと早く手を打ってくれないんだとか、このままではもう台無しだ、すべてが終わってしまうと、すぐにパニックに陥ってしまう者ですが、神はパニックに陥ることはありません。神はご自分の計画どおりに粛々と救いの御業を進めておられるのです。それは早すぎることも遅れることもないので、この神に信頼するならもう振り回されることも、あわてふためくこともなく、全き平安が与えられます。

たとえ私たちがそむく者でも、強情な者、正義から遠ざかっているような者でも、神はそんな私たちをあわれんでくださいます。勿論、そむいたままでいいということではありません。強情のままでも構わないということではありません。しかし、たとえそのような者であっても、神の方から近づいてくださるということです。神の方から近づいてくださらなければ、私たちは永遠の暗やみに、永遠の滅びの中にいなければなりませんでした。そんな私たちのところに神の方から近づいてくださいました。

それはルカの福音書にある放蕩息子のたとえからもわかります。父の財産の分け前をもらい、それを湯水のように使い果たしてしまった彼は、食べるにも困り果てて、とうとう豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどでした。その時彼は自分はここで何をしているんだろう。父のところにはパンの有り余っている雇い人が大勢いるではないか。それなのに、自分はここで飢え死にしそうだ。そうだ、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」(ルカ15:18-19)  そして彼は、自分の父のもとに行きました。でも足がすくんでなかなか前に進みません。するとまだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけると、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き口づけしました。そして彼に一番良い着物を着せ、手に指輪をはめさせて、足につくをはかせたのです。そして喜んで言いました。「肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが、見つかったのだから。」(ルカ15:23-24)

まさに神は走り寄る神なのです。皆さん、父親はこう言いました。「この息子は死んでいた」と。死んでいる者が勝手に起き上がったり、歩き出したりはしません。死んでいる者が自分から近づくことはできないのです。ですから、神の方から近づいてくださいました。今から二千年前に天から下って来られ、私たちの間に住んでくだいました。そして、罪は犯されませんでしたが私たちと同じようになられ、私たちの痛みや、私たちの悲しみ、苦しみを経験され、ついには私たちの苦しみのすべてを負って十字架にかかって死んでくださいました。神の方から近づいてくださり、救ってくださったのです。これは恵みではないでしょうか。私たちが神を求める前から、神の方から私たちを求めてくださいました。私たちが神を愛する前から、神の方で私たちを愛してくださったのです。

皆さん、イニシアチブは常に神にあります。私たちは罪深い者で、自分で自分を救うことができない無力な存在なのです。もう一度言いますよ。私たちは自分で自分を救うことができない無力な存在なのです。神の方から近づいてくださらなれければ、神の方から働きかけてくださらなければ、私たちはただ滅びに向かうしかない存在だったのです。エペソ2:1には、「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、」とあります。そんな死人同然の私たちのところに、神の方から近づいてくださいました。イエスが近づいてくださり、死から救ってくださったのです。そして、永遠に生きるいのち、永遠のいのちを与えてくださいました。

ここで言う救いとはバビロン捕囚からの救いのことですが、これは霊的には、罪からの救いのことです。イスラエルがバビロンから救われてエルサレムに帰還したように、私たちも罪から救われて新しいエルサレムである天国への帰還を果たすことができるようになりました。それは遠くはありません。神の救いは遅れることはないからです。神の方からあなたに近づいてくださいました。あなたはただその差し出されている救いを受け取るだけでいいのです。そうすればあなたも、この勝利を受けることができるのです。

どうか、このことを思い出してください。そして、しっかりしてください。このことを思い出すなら、あなたはしっかりと立っていることができます。母の胎内にいた時からあなたをになわれた神は、生まれる前からあなたを運ばれた神は、これからも同じようにされます。神はあなたをすべての縄目から解き放ってくださいます。それは遠くはありません。ここに希望をもって、この人生の旅路を旅していきましょう。

イザヤ書45章14~25節 「わたしを仰ぎ見て救われよ」

きょうは、「わたしを仰ぎ見て救われよ」というタイトルでお話します。皆さん、人はどうしたら救われるのでしょうか?創造主なる神を仰ぎ見れば救われます。なぜなら、この方が神であって、ほかにはいないからです。きょうは、このことについて三つのポイントでお話します。

Ⅰ.ご自身を隠す神(14-17)

まず第一に14節から17節までをご覧ください。まず14節をお読みします。「主はこう仰せられる。「エジプトの産物と、クシュの商品、それに背の高いセバ人も、あなたのところにやって来て、あなたのものとなる。彼らは鎖につながれて、あなたに従って来、あなたにひれ伏して、あなたに祈って言う。『神はただあなたのところにだけおられ、ほかにはなく、ほかに神々はいない。』」

この前の箇所には、主がクロス王に油を注ぎ、バビロンに捕らえられていたイスラエルを解放するという預言が語られていました。それは地のすべての人が、主こそ神であることを知るためです。そのような偉大な御業を目の当たりにすると、異邦人をはじめ地のすべての人が主こそ神であってほかにはいないことを認め、そのイスラエルの神にひれ伏すようになります。ここに出てくるエジプト人やエチオピア人、あるいはセバ人もそうです。彼らも主のところにやって来て、主のものとなります。彼らは、主の前にひれ伏して、「あなたがただけがまことの神であり、ほかにはいない」と言うようになるのです。

15節をご覧ください。ここには「イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自身を隠す神。」とあります。おもしろい表現です。イスラエルの神、救い主は、ご自身を隠す神だというのです。これはどういうことでしょうか?これは、神が私たちの思いをはるかに越えたことをされる方であるということです。異教徒のクロス王を用いてイスラエルをバビロンから救うということを、いったいだれが想像することかできたでしょうか。しかし、神はそのように私たちの思いをはるかに超えて働かれる方なのです。なにも神はクリスチャンだけを用いられるとは限りません。そうでない人たち、まだ神を信じていない人たち、いや、もしかしたら神に敵対している人たちでさえも用いられることがあるのです。実に神はご自身を隠される神です。どんなことでも用いてご自分の目的と計画を成し遂げられるのです。

ですから、16節と17節にあるように、偶像を作って拝む者は恥を見、はずかしめを受けます。しかし、イスラエルはそうではありません。イスラエルには永遠の救いが約束されています。イスラエルは主によって救われ、永遠の救いに入るのです。決して恥を見ることはありません。それが私たちに約束されていることでもあります。複雑に絡み合った目に見える状況だけを見たら、時に挫折することもあるかもしれませんが、私たちの背後でいつも私たちの考えをはるかに越えた神が働いておられることを知りこの方を仰ぎ見るなら、勝利することができます。

ある父親が小学校に入ったばかりの子どもに難しい問題を出しました。「バラバラにちぎった世界地図を10分ですべて合わせられたら、美味しいお菓子を買ってあげよう。」と言ったのです。父親はバラバラにちぎれた地図なので1時間あっても無理だろうと考えていました。おまけにその子どもはまだ小学校に入ったばかりで世界地図を全部覚えていなかったので、全く不可能な問題でした。 ところが、その子どもは5分もたたないうちに得意げな顔ですべて合わせた地図を持ってきたのです。いったいどうやって合わせることができたのでしょうか?  父親がそのわけを尋ねると、子どもはこう答えました。「いや、とっても簡単さ。地図の裏に人の顔を大きく描いておいたんだよ。それを見て合わせたんだ。だからお菓子買ってね!」

皆さん、私たちの人生も時にこのちぎれた世界地図のようです。複雑に絡み合っていて、どうしたらいいかわからなことがあります。しかし、神はご自身を隠す神です。私たちの背後で私たちの人生のすべてを治め、導いておられます。この方を見て、この方に信頼するなら、あなたはその複雑に絡み合った人生の中にも希望を見いだすことができるのです。

Ⅱ.正義の神、救い主(18-21)

次に18節から21節までに注目しましょう。18節、「天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上た方、すなわちこれを堅く立てた方、これを茫漠としたものに創造せず、人の住みかにこれを形造った方、まことに、この主がこう仰せられる。「わたしが主である。ほかにはいない。」

隠れたところで働かれる神は天地を創造された方です。地を堅く立て、そこに人が住めるようにしてくださいました。ここに「茫漠」という言葉がありますが、この言葉は創世記1章2節にもあります。「地は茫漠として何もなかった」と同じ言葉です。新改訳の第二版ではこれを「地は形がなく、何もなかった。」と訳しましたが、この言葉は何もなかったのではなく、あったけれども混沌としていたという意味なので、第三版ではこれを「茫漠として何もなかった。」と訳したのです。しかし、「茫漠として」という言葉は一般ではあまり使われておらずわかりずらい言葉なので、この新改訳第三版に改訂した委員の先生に直接お聞きしたことがありました。「茫漠」というのはわかりずらいのではないか・・と。するとそういう説明でした。つまり、あったのだけれども混沌としていた、むなしかった。それを神は特別な意図をもって、秩序正しく造られたという意味です。その意図とは何でしょうか。それは「人の住みかにこれを形造った」ということです。そこに人が住めるようにしてくださったのです。

神はそこに人が住めるように地を形造り、これを仕上げてくださいました。神はこの地を何の形もない、むなしいものとして造ったのではなく、そこにちゃんと人が住めるように、秩序正しく造ってくださいました。それはこの天地創造の順序を見てもわかりますね。

まず神は光を造られ、光とやみとを区別されました。次に造られたのは大空です。天を造られました。次に神が造られたのは何でしょうか。陸地と海です。天の下の水を一所に集め、かわいた所を造られたのです。それが地です。そしてそこに、種類にしたがって、植物や実を結ぶ果樹を芽生えさせました。それが第三日です。そして神は四日目に、太陽や月、星々を造られました。神がその次に造られたのは何でしょうか。海に住む生き物と空を飛ぶ鳥たちです。それが五日目のことでした。そして六日目に神が造られたのが地に群がる生き物です。家畜やはうもの、野の獣を造られました。そしてその後に人間を造られました。神は人を神に似せて、神のかたちに創造されました。    こうやって見ると、神が造られた世界は秩序正しく、理路整然としていたことがわかります。そして、このように神が天地を創造されたのは、そこに人を住まわせるためだったのです。もうすぐ娘に赤ちゃんが生まれますが、聞けば、赤ちゃんがいつ生まれてもいいようにカーテンを取り替え、部屋の模様替えをして、ベビーベッドを準備し、おむつなども用意していると言います。いつ生まれてもいいように、生まれた赤ちゃんが生きていけるように必要なものをちゃんと備えているのです。同じように神は人を造る前に人が生きていくために必要なすべてのものを造り、備えてくださいました。神は、このような特別な目的をもって天地を創造されたのであって、決して偶然に造られたのではありません。まして人は猿から進化して出来たのではなく、また、今から38億年も前に非常に小さな微生物から進化して出来たものではないのです。きちんとした目的をもって造られたのです。いったいこのような神がほかにいるでしょうか。いません。このように天を創造され、地を形造り、人の住みかにこれを形造られた方こそ、まことの神なのです。

19節をご覧ください。「わたしは隠れた所、やみの地の場所で語らなかった。荒地で、ヤコブの子らにわたしを尋ね求めよと言わなかった。わたしは主、正義を語り、公正を告げる者。」

おもしろいですね。15節のところには、神は「ご自身を隠す神」と言われのに、ここでは「隠れた所、やみの場所で語らなかった」とあります。ご自身を隠す方は、その計画を隠したりはしないで、はっきりと啓示してくださいました。主は占いとか、降霊術のようなわけのわからない秘密の方法によって語られるのではなく、明確なことば(聖書)をもってご自分のみこころを語ってくださいます。主はみことばに示されてある通りにわたしを尋ね求めよと言われるのであって、決して荒地で、隠密に尋ね求めよとは言われません。まさに神は正義と公正の神です。そして、そこで語られたことばが一つもたがわずにみなその通りになったということも、この方がまことの神であることを証明しているのではないでしょうか。

そして20節と21節をご覧ください。「諸国からの逃亡者たち」とは、クロス王率いるペルシャ帝国によって滅ぼされ逃げて来た人たちのことです。そのような者たちに向かって主は「集まって来て、共に近づけ」と言われるのです。なぜでしょうか?論じ合うためです。だれが本物の神なのか。彼らが期待をかけていたのは彼らを救うことも、助けることもできない偶像でしたが、そんな偶像礼拝者たちに証拠を出してみろ、というのです。いったいだれがこれから起こることを告げることかができたのか。だれがこのクロス王のことを昔から告げていたというのか。このわたし、主ではないか。

イザヤがこれを預言したのは、このことが起こる150年も前のことであったというのは何度もお話していることです。もうずっと前から、これから先に起こることを予め告げておられたのです。しかも具体的に、また正確に。それはノストラダムスの大予言どころではありません。預言しても外れるようなものではなく、語ったことは100%必ず成就する本物の預言です。このようにこれから先に起こることを正確に告げることができる方こそ本当の神です。それはわたし、主であって、ほかにはいません。主だけが神であって、主こそ私たちを真に救うことができる救い主なのです。

Ⅲ.わたしを仰ぎ見て救われよ(22-25)

ですから、結論として神はこう言われるのです。22節をご一緒に読みましょう。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」

これは諸国から逃げて来た人だけでなく、地の果てのすべての人に呼びかけられていることばです。神ご自身の救いの招きのことばです。「地の果てのすべての人よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。」あなたは、この神の救いの招きに対してどのように応答されるでしょうか。

19世紀にイギリスで世界最大の教会、メトロポリタン・タバナクル教会を牧会したチャールズ・スポルジョン(Charles Haddon Spurgeon)は、この聖句によって回心に導かれました。後に語った説教の中で彼は、自分が回心に至った証を次のように語りました。少し長いですが引用したいと思います。

「私自身がどのようにして真理の知識に導かれたかを語ろう。それを語ることが、だれかをキリストに導くことになるかもしれない。神は、私が少年時代に罪の自覚を持つことを良しとされた。私はみじめな生活をしており、何の希望も慰めもなく、神は決して私を救ってくださらないに違いないと思っていた。ついに最悪なところに、最悪な事態が重なった。私はみじめであった。私は救いの道を見いだすために、私の住んでいるすべての教会を訪ねてみようと決心した。もし神が許してくださるなら、私は喜んでどんなことでもするし、どんな者にでもなろうと思った。私はすべての教会を行き巡ろうと決め、出発し、礼拝するあらゆる場所へ行った。私は、その人々を尊敬する。けれども、私は彼らから一度でも福音の十分な説き明かしを聞いたことがなかったと言わざるを得ない。私が何を言いたいかと言えば、彼らは真理、すなわち偉大な真理、彼らの会衆にふさわしい良い説教をしていた。しかし、私が知りたかったのはどのようにして罪の赦しを得ることができるかということであったのだが、そのことについては彼らは一度も話してはくれなかったということである。  私は、罪の自覚を持ったあわれな罪人が、どのようにして神との平和を見いだせるのかを聞きたかった。私は何度も何度も出かけたが、どの教会に行っても、私よりも注意深く聞いている聴衆はひとりもいなかった。なぜなら、私はどうしたら救われるのかを知ろうと熱望し、あえいでいたからである。  私の悩みはこうであった。私は福音を知らなかった。私はキリスト教国で生まれ、クリスチャンの両親を持っていたが、福音の真理を理解していなかった。  私は、私の住んでいた町の礼拝所を訪ねたが、正直言って、私は福音が十分に説き明かされるのを聞かなかったと思う。一人の牧師は神の主権について語った。しかし、救われるためには何をしたら良いかを知りたいと願っているあわれな罪人にとって、それがいったい何であるというのか。またいつも律法について語る立派な牧師もいた。あるいは、偉大な実際的な説教者もいた。私は彼の説教を聞いたが、まるで足のない一団に戦争の作戦行動を教えるために号令をかけている将校のようであった。私は礼拝に行こうとしていたあの日曜日の朝に、神のいつくしみによって大吹雪が送られてこなかったら、今でも暗やみの絶望の中にいたであろうと思う。  私はもうこれ以上進めなくなった時、路地を折り返してメソジストの小さなチャペルに入った。そのチャペルには14~15人がいた。その朝はたぶん雪のため、牧師が来ることができなかったのであろう。見たところ、靴屋の仕立て屋といった風貌の1人の貧相な男が、講壇に上って説教した。  さて、あの牧師たちは十分な教育を受けた人たちであり、一方この人は、言わせてもらえば本当に無学な人であった。他に語るべきことが何もなかったという単純な理由で、彼は選んだ聖書のみことばを何回も何回も繰り返さずを得なかった。その聖書のみことばは、これである。「地の果てのすべての人よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。」(イザヤ45:22)であった。  彼は、単語すら正確に発音することができなかった。しかし、それは問題ではなかった。その聖書のみことばの中に、私の希望の光があると思った。彼はこのように語り始めた。

「愛する友よ。これは本当に短い聖句です。『見よ』、と書いてあります。それは非常に努力のいることではありません。足を上げることでも、手を上げることでもありません。ただ見るだけです。ただ見ることを学ぶために、人は大学に行く必要はありません。ただ見るだけのために千年も費やす必要はないのです。だれでも見ることができます。小さな子どもでもできます。しかし、これがこの聖句の言わんとしていることであります。そしてみことばは、「わたしを仰ぎ見よ」と言います。ああ、多くの人は自分自身を見ています。自分自身を見ても無益なことです。あなたは決してあなた自身の中に平安を見いだすことはできません。イエス・キリストは、『わたしを見よ』と言われます。ある人々は、私は聖霊が働かれるのを待つべきだと言います。しかし、今あなたが成すべきことはそれではありません。今あなたが成すべきことはキリストを見ることです。「わたしを仰ぎ見て」と書いてあります。このキリストを見上げてください。」

彼はやっとのことで話を引き延ばして10分くらい経ったとき、ついに話の種が切れてしまった。すると会衆席の私の方を見て、おそらく非常に少ない出席者だったので、私が新来者であることがわかったのであろう。こう言った。

「おい、お若いの、君は非常に辛そうに見える。」

確かにその通りであった。その通りではあったが、私はかつて講壇から私の風貌についてこのように語りかけられたことはなかった。しかし、それは強烈な一撃であった。彼は続けて言った。

「もし君がこのことばに従わないなら、これからもずっとみじめであろう。そのいのちにおいてもみじめ、その死においてもみじめ。しかし、今、君が従うなら、その瞬間に君は救われるのだ。『若者よ。イエス・キリストを見よ。』」

私はまさにその時にキリストを見た。その時雲は消え去り、暗黒は消え去った。その時、私は太陽を見た。その時、私は立ち上がって、非常に狂信的な人々と共にキリストのすばらしい血潮と、彼のみを見上げる信仰を歌うことができた。  ああ、あの無名な人物が、つい先程私に語った通りであった。キリストを信ぜよ。さらば救われん。  私は今、罪人に語りかけることをしない説教を決してしてはならないと思う。罪人に語りかけることなしに説教できる牧師は、いかにして説教できるのかを知らないのだと思う。」

これは、スポルジョンが16歳に回心した時のことです。彼はどうしたらみじめな罪人が救われるのかがはっきりわかって回心しました。それはイエス・キリストを仰ぎ見ることです。仰ぎ見るとは、信じるということです。このイエスを信じる者はみな救われます。十字架につけられたキリストを見る者は救われるのです。ただイエスを見るだけでいいのです。ただ信じるだけでいいのです。そうすれは救われるのです。これが福音です。グッド・ニュースです。これが最初の人アダムが罪に陥って以来、私たちが救われるために昔から神が人類に提示しておられた救われるために必要な唯一の道だったのです。

ですから、イスラエルが荒野で不平不満を言ってモーセにつぶやいた時、神は燃える蛇を送り、多くの民がそれにかまれて死にそうになりましたが、そのとき彼らが救われるために神が言われたことは、青銅の蛇を作り、それを仰ぎ見よ、ということだったのです。聖書で青銅はさばきのシンボル、蛇は罪のシンボルです。ですから青銅の蛇を掲げたということはどういうことというと、罪がさばかれたことを表していました。それは十字架につけられたイエス・キリストを象徴していたのです。ヨハネの福音書3章のところで、イエスご自身も、それはご自分のことだと言われたことからもわかります。

皆さん、罪から救われるためにはイエスを見なければなりません。十字架につけられたイエスを信じなければならないのです。これがグッド・ニュースです。あなたの罪はイエスが代わりに負ってくださり、既に十字架にかかって死んでくださいました。そして、このことが本当であることを示すために、キリストは死からよみがえってくださいました。このことを信じるなら、あなたも罪から救われ、永遠のいのちを受けることができるのです。

「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」(ローマ10:9)

スポルジョンは、ずっとみじめでした。むなしく生きていました。どんなに人生頑張っても、どんなにおもしろ、おかしく生きたとしても、いつか死んで終わってしまうなら、それは全くむなしい人生です。しかし、死んでも終わらないいのちがあります。それが永遠のいのちです。そのいのちを持つなら、もう死も恐怖ではなくなるのです。

最後に23節後半から25節までを見ておわりたいと思います。「すべてのひざはわたしに向かってかがみ、すべての舌は誓い、24 わたしについて、『ただ、主にだけ、正義と力がある』と言う。主に向かっていきりたつ者はみな、主のもとに来て恥じ入る。25 イスラエルの子孫はみな、主によって義とされ、誇る。」

23節のことばは、ピリピ人への手紙2章10~11節で引用されているみことばです。「10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、11 すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」(ピリピ2:10-11)

キリストは神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることかでききないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。そして、自分を卑しくして、死にまでも従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それはいったい何のためだったのでしょうか。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

これはイスラエルの子孫だけ言われていることではありません。ここには「主に向かっていきり立つ者はみな」とあります。この「いきり立つ者」とは、全くイエスを信じない人たちのことです。神なんていないという人たちのことです。そういう人たちもみな、いつの日か神の前に出て、ひざまずくようになると言われているのです。やがて人は死んだら皆神の前にひざまずいて、「あなたが神です」と告白するようになります。すべての口が、「イエスが主です」と告白するようになるのです。

しかし、そこには二つのタイプの人たちがいます。イエス様を信じて、罪から救われた人は、喜び、誇りながら、「イエス様、あなたは私たちの主です」と告白しますが、そうでない人たち、イエス様を信じない人たちは、恥じ入って、悔しくなりながら、「イエスは主です」と言うようになります。イエスさまを信じないで死んでしまっても、そのような人でも最後には「イエスは主です」と告白するようになるのです。あなたはどちらのタイプ、どちらの種類の人ですか?イエス様を信じて、喜び、誇りながら、「あなたは主です」と告白しますか?それとも、いきり立ちながら、恥じ入って、悔しくなりながら、「あなたは主です」と告白しますか?

「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。」あなたがイエスを仰ぎ見るなら、その瞬間に、あなたも救われます。今が恵みの時、今が救いの日です(Ⅱコリント6:2)。死んでからでは遅いのです。今、信じて救われてほしいと思います。そして、やがて神の前にひざまずく時、喜びと感謝をもって「イエスさま、あなたが主です」と告白する者でありたいと思います。

イザヤ書45章1~13節 「神の御心のままに」

きょうからイザヤ書45章に入ります。きょうは、「神の御心のままに」というタイトルでお話します。

Ⅰ.油そそがれた者クロス(1-3)

まず1節から3節までをご覧ください。1節に、「主は、油そそがれた者クロスに、こう仰せられた。」とあります。「クロス」とは先週もお話したように、バビロン帝国を打ち破ったメド・ペルシャ帝国の王です。このクロスについてここでは「油そそがれた者」と言われています。「油そそがれた」というのは、ヘブル語で「メシヤ」と言いますが、「救い主」を意味します。彼は異教徒の王であったのにどうしてこのように言われているのでしょうか。それは彼がバビロンに捕えられていたイスラエルを解放したからです。神はイスラエルを救うために異教徒の王であったクロスを用いられました。いったい彼はどのようにイスラエルを救ったのでしょうか。1節の「」のところを見てください。

「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにする。2 わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。3 わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。」

ここには彼がどのようにバビロンを打ち破ったのかが描かれています。「わたしは彼の右の手を握り」というのは、神がクロスを歴史の表舞台に連れて来たことを意味しています。「彼の前に諸国を下らせ」とは、クロスがメディア、リディア、新バビロニアを滅ぼし、メソポタミアを統一したことを示しています。「王たちの腰の帯を解き」とは、王の力を失わせるという意味ですが、これは文字通り、バビロンの最後の王ベルシャツァルに実現しました。ダニエル書5章を見るとわかりますが、彼が大宴会を開いていたとき、壁に人の指が文字を書きました。その時彼は「腰の関節がゆるみ、ひざはがたがたに震え」ました。(ダニエル5:6)このことです。また「彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにする」というのは、難攻不落と言われたバビロンの城門が開かれるようにするということです。高さ90㍍、幅24㍍、長さ65㎞にも及ぶバビロンの城壁を崩すことは全く考えられないことでしたが、主はクロスに知恵を与え奇抜な方法でその城壁を攻略しました。それはバビロンの真ん中を流れていたユーフラテス川に支流を設けて干からびさせるという方法でした。彼らはそのようにして水かさを減らし、その下から門をくぐり抜けました。そして中ではバビロンの王たちが乱交パーティーを開き、みんなベロンベロンに酔っぱらっていたので、難なくベルシャツァル王を殺し、全く血を流さずに、たった1日でバビロンを倒しました。

2節の「険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る」というのも同じです。難攻不落と言われたバビロンを粉々に打ち砕くとの預言です。また3節には、「わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。」とあります。これは、本来であれば自分が戦いに負けた時でも相手に財宝を略奪されないようにそれをひそかな所に隠すものですが、そんな隠された財宝もあっさりと見つけることができるようにするということです。その財宝の中にはかつてバビロンの王ネブカデネザルがイスラエルから持ち帰った神殿の聖なる器具もあったことでしょう。そうした財宝のすべてがクロスに与えられ、イスラエルに返還されるようにするというのです。

なぜ神はクロスにこのようなことをされるのでしょうか?クロスは別にイスラエルの神を信じていたわけではありません。むしろペルシャの神ゾロアスター教神を信じていた人です。そのような者になぜ神は油をそそぎ、イスラエルを救うようなことをされたのでしょうか?それは3節にあるように、「わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るため」です。どういうことかというと、この方こそ神であり、イスラエルの創造主であることを、クロスが知るためです。そのために神は異教徒の王までも用いられたのです。ご自分の計画を推し進めるために、神は何も神の民だけを用いられるのではありません。場合によってはこのように異教徒も、未信者をも用いることがあるのです。神が用いようと思えば誰でも、何でも用いることができるのです。それはこの方こそ主であり、すべてを支配しておられる創造主であるということをすべての人に知らしめるためでした。

実際、クロス王はこのことを知ってどんなに驚いたことかとかと思います。エズラ記1章1節から4節までを開いてください。「1ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。2「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜った。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。3 あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神がその者とともにおられるように。その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、主の宮を建てるようにせよ。この方はエルサレムにおられる神である。4 残る者はみな、その者を援助するようにせよ。どこに寄留しているにしても、その所から、その土地の人々が、エルサレムにある神の宮のために進んでささげるささげ物のほか、銀、金、財貨、家畜をもって援助せよ。』」    ここに、主はペルシャの王クロスの霊を奮い立たせたので、とあります。歴史の中には、特にユダヤ人の歴史の中にはどうしても説明がつかないことが多くありますが、このところはその一つでありましょう。異教徒の王であったクロスは、なぜそこまでユダヤ人に寛大な政策をとったのか?ということです。別にそれで彼がユダヤ人からわいろをもらっていたとか、このことで何か彼に有利に働くということがあったわけでもありません。ただ主が彼の霊を奮い立たせたので、彼はユダヤ人を祖国に帰かせ、そこに神の宮である神殿を建てることを許したのです。金、銀、財貨、家畜などの援助までして・・・。

イエスさまと同じ時代に生きたユダヤ人の歴史家にヨセフス(フラビウス・ヨセフス:Yosef Ben Matityahu)という人がいますが、彼が書いた「ユダヤ古代誌」という本の中で、彼はこのように書いています。「クロスがバビロンを陥落させた後、ユダヤ人が持っていた聖書を手にして彼は奮い立った」その内容というのが、このイザヤ書44章と45章だったというのです。つまり、彼は自分が生まれる150年も前に、イザヤが既に預言していたこと、しかもそこには自分の名前までも記されていることを知って奮い立ち、そこに書かれてあるとおりにエルサレムに神殿が再建されるように援助した、というのです。それまでクロスは自分の力で諸国を打ち破って支配したとばかり思っていましたが、実はそうではなく、その背後に歴史を支配している神がおられ、その神の目的と計画のために自分が用いられたことを知って、この主こそ神であり、イスラエルの創造主であることを知ったのです。それゆえに彼はユダヤ人にそれほどまでに寛容な政策をとったのです。それが主が彼の霊を奮い立たせたということだったのです。

皆さん、神はこの歴史を支配し導いておられる方です。このことを知るならあなたはクロスのように奮い立ち、神の栄光と目的のために用いられますが、そうでないと目の前の状況に振り回されてしまうことになります。

ルツ記に出てくるナオミはそうでした。彼女の名前ナオミは、「楽しい」とか「快適」という意味です。なのに彼女が実家のベツレヘムに戻って来たとき、町中の女たちに、「もう私をナオミとは呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから。」(ルツ1:20)と言いました。「マラ」とは「苦い」とか、「苦しい」という意味です。いったい彼女に何があったのでしょうか。彼女は夫のエリメレクと共に暮らしていましたが、彼らが住んでいたユダのベツレヘムはききんがひどかったので、二人の息子マフロンとキルヨンとともにベツレヘムを出てモアブの野に行き、そこに滞在することにしました。  ところがです。彼らがそこに滞在している時、夫のエリメレクが死んでしまいました。男手を失った彼女はどんなにか心細かったに違いありません。そこで二人の息子にモアブ人の妻を迎え、さらに十年間そこに住んでいたのですが、今度はその二人の息子マフロンとキルヨンも死んでしまったのです。ナオミは二人の子どもと夫に先立たれて、これからどうやって生きていったらいいのかわからなくなってしまいました。仕方なく二人の嫁には自分の母の家に帰るようにと言いましたが、嫁の一人のルツは、「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です」と言って頑として聞き入れず、姑のナオミといっしょにベツレヘムにやって来たのです。しかし、先が見えなかったナオミはその状況に打ちのめされ、「もう私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください」と言ったのでした。  いったい何が問題だったのでしょうか?確かに夫とに二人の息子に先立たれたことは辛い現実でした。不安もあったでしょう。しかし、最も大きな問題はそのような現実の中で神を見ることができなかったことです。    もともとその土地を離れること自体が問題でした。イスラエルで約束の土地を離れるということは信仰から離れることを意味していたからです。時はさばきつかさがおさめていたころ、イスラエルの歴史の中でももっとも信仰が冷めた時代でした。そうした中にあって彼女は神を見ることができなかった。神がこの歴史のすべてを支配しておられ、その目的に従って導いておられることを見ることができなかったのです。それが問題だったのです。

しかし、あわれみ豊かな神は、そんな彼女の人生にある一つの転機をもたらしてくださいました。それがボアズです。嫁のルツがボアズのところで落ち穂拾いをしたことがきっかけとなって、彼女は彼に買い戻されました。結婚へと導かれたのです。そしてその結果、彼の家系から旧約時代最大の王と言われるダビデが生まれ、またその子孫に全世界の王、私たちの救い主イエス・キリストが生まれることになったのです。いったいだれがそのようなことを考えることができたでしょう。それはただ神が計画しておられたことでした。神はご自身の計画に従ってナオミにそのような苦しみをもたらされましたが、それはご自分の目的を成し遂げるための神の計画だったのです。「もう私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください」と言ったナオミは、今頃天国で顔を赤くしているのではないでしょうか。「あら、恥ずかしいわ。まったく。私はナオミです」なんて・・・。

皆さん、神はあなたの人生にも目的をもって導いておられます。それがどのような目的なのかわからないかもしれませんが、確かなことは、あなたの背後には神がおられ、完全な計画をもって導いておられるということです。あなたはそのことを信じなければなりません。そのときあなたも奮い立ち、神の栄光のために用いられることになるのです。

Ⅱ.すべての主権者であられる神(4-8)

次に4節から8節までをご覧ください。6節までをお読みします。「4わたしのしもべヤコブ、わたしが選んだイスラエルのために、わたしはあなたをあなたの名で呼ぶ。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに肩書を与える。5 わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。6 それは、日の上る方からも、西からも、わたしのほかには、だれもいないことを、人々が知るためだ。わたしが主である。ほかにはいない。」

クロス王によるユダヤ人の救いについて驚くべきことは、クロスが主を知らなかったにもかかわらず、主が彼に肩書きを与えられたことです。その肩書きとは先程見たように「油注がれた者」という肩書きです。いったいなぜ神は彼にこの肩書きを与えたのでしょうか?それは6節にあるように、日の昇るところからその沈むところまで、ご自分の他に神はいないということを知らしめるためです。ダニエル書を見ると、バビロンの王ネブカデネザルもそうであったことがわかります。ネブカデネザル王というのは、メド・ペルシャ帝国によって滅ぼされた時の王様ベルシャツァルのおじいちゃんですね。彼もバビロンの神ベルを拝む者でしたが、ダニエルを通してイスラエルの神こそまことの神であることを知りました。そして彼はいと高き方を賛美し、ほめたたえました。(ダニエル4:34-37)彼がイスラエルの神を信じたかどうかはわかりませんが、当時世界の超大国であったバビロンの王がイスラエルの神こそまことの神であることを知り、認めたことは本当に驚くべきことです。そのようにしてイスラエルの神は全世界に、「わたしこそ神であり、他にはいない」ということを知らしめたのです。同じように世界を統治したペルシャの王クロスが、イスラエルをバビロンから解放したことによって、そのイスラエルの神こそがまことの神であるということを、全世界に知らしめることになったのです。

7節をご覧ください。ここには「わたしは光を造り出し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを造る者。」とあります。ここで神は光を造り出し、やみを創造すると言われます。平和をつくり、わざわいを創造すると言っておられます。これはどういうことでしょうか?    このことばの背景にはペルシャの宗教ゾロアスター教の影響があります。つまり、ゾロアスター教では二元論を信じていて、宇宙は光と闇、善と悪、精神と物質のそれぞれ二つの対立する原理に基づいており、そのような対立によって世界が造られると考えていましたが、そうではなく、光もやみも神ではなく、神によって造られたものにすぎにいと言っているのです。平和もわざわいも、これらすべてを造られたのは神であって、この方以外に神はいないのです。

ところで、ここには「やみを創造し」とあります。神が光を造られたというのはわかりますが、やみを創造したというのはどういうことなのでしょうか。やみを支配しているのはサタンであって、そんなやみを創造したというのはおかしいのではないかと思います。    これはやみを創造したというよりも、やみを許されたといった方が正確です。神は決してやみを造られる方ではなく、それはサタンによってもたらされたものです。しかし、神はそのサタンがすることをあえて許されることがあるのです。たとえばヨブの場合はそうでした。ヨブはサタンに打たれ、家族を失い、健康を失いました。財産も失いました。しかし、それを許されたのは神です。あるときサタンがやって来て神に言いました。「もしあなたの手を伸べ、彼の骨と肉を打たれるなら、彼はきっとあなたをのろうに違いありません。」(ヨブ2:5)それで神は「わかった」と、「彼をおまえの手に任せるが、ただ彼のいのちにだけは触れるな」と言って、それを許されたのです。サタンは自分でヨブを打つことはできませんでした。神が許されたのでサタンはヨブを打つことができたのです。

そういうことが私たちの人生の中にも起こります。私たちの人生にも「主よ。どうしてですか」と叫ばずにはいられないような状況に出会うことがあります。たとえば何らかの病気にかかったり、大きな事故に巻き込まれたり、あるいは、仕事を失ったり、家族や友達を失ったりすることがあります。しかし、忘れてはならないことは、そのすべての出来事の背後に神がおられ、そのことさえも神が許されたことであるということです。神はすべてを支配しておられる方なのです。主権者です。そのことを覚えた上でいやしなり、回復なりを祈らなければなりません。私たちはできればこの杯を自分から取り除いてほしいと願います。病気がいやされて平安でいることを望みます。けれども、そうした病気もまた神様の計画の中で用いられることもあるのです。神様は光を造り出し、やみを創造された方です。平和をつくり、わざわいを創造されたのです。すべてを支配しておられる方です。順境にしても、逆境にしても、すべて神の目的のために与えられているのですから、その神の主権的な取り扱いを受け入れ、「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころとおりにしてください。」(ルカ22:42)とイエス様が祈られたように、祈らなければなりません。神のみこころが最善になると信じて、神の栄光が現されることを求めて祈るべきなのです。

8節をご覧ください。「天よ。上から、したたらせよ。雲よ。正義を降らせよ。地よ。開いて救いを実らせよ。正義も共に芽ばえさせよ。わたしは主、わたしがこれを創造した。」

どういうことでしょうか?ここでは、全世界に及ぶ神の義と神の救いが、天からしたたり落ちる雨のように描かれています。その正義と救いをもたらされるのはだれでしょうか。ここに「わたしは主、わたしがこれを創造した」とあります。それは私たちの行いによってもたらされるのではありません。神様が一方的に、罪深い私たちを救ってくださるのです。救いは主のものであって、主の恵みによって一方的にもたらさけるものなのです。それはイスラエルがバビロンから救われることも同じです。イスラエルは自分たちの知恵、力によっては、決してバビロンから救われることはできませんでした。ただ神が一方的にあわれんでくださり、ご自分の圧倒的な力と、不信者であるクロス王を用いるという全く意表をつくような方法によってもたらしてくださいました。それは、彼らが決して自分たちの力によって救ったということがないためです。彼らが救われたのは彼らの行為とは全く関係なしに、一方的な神のあわれみの御業によるものだったのです。救いは主のものであって、主がそれを創造されたのです。神が主権者としてすべてをコントロールしておられるのです。私たちにとって必要なことはこの主の主権を認め、この主にすべてをゆだねることなのです。

Ⅲ.神の御心のままに(9-13)

最後に9節から13節までを見て終わりたいと思います。このように申し上げると、そんな神のやり方にな対して文句をつけたくなる方もおられるのではないでしょうか。なんでクロス王なんだ・・・と。なんであの人じゃないんだ・・。神の主権がなかなか認められないのです。そして神のなさることに異議を唱えようとするわけです。9節と10節をご覧ください。

「9 ああ。陶器が陶器を作る者に抗議するように自分を造った者に抗議する者。粘土は、形造る者に、「何を作るのか」とか、「あなたの作った物には、手がついていない」などと言うであろうか。10 ああ。自分の父に「なぜ、子どもを生むのか」と言い、母に「なぜ、産みの苦しみをするのか」と言う者。」    このみことばはローマ人への手紙9章に引用されています。ローマ人への手紙9章では、主がエサウではなくヤコブを選んだのはどうしてなのかについて書かれています。それが二人の生まれる前から選ばれていたというのは、それが人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるものだからです。ところが、パウロがこの選びの教理を語ると、彼らからそれは不公平ではないかという意見が噴出しました。それでパウロはそのような人たちに対してこのイザヤ書のみことばを引用してこのように言いました。

「しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようにしたのですか。陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。」(ローマ9:20-21)

ユダヤ人にとっては、クロス王によって救われるということに納得のいかない人たちもいたでしょう。まことの神を信じていない人になぜ救ってもらわなければならないのかという思いがあったに違いありません。私たちも、クリスチャンでない人、クリスチャンでない未信者の人が、神様の働きに深く関わるような場面に遭遇したら、同じような気持ちを抱くかもしれません。「クリスチャンでもないのに、どうして、・・・」しかし、神はクリスチャンだけに限らず、未信者をも用いられるのです。神はすべてを支配しておられるので、ご自分の目的に従って自由に働かれるのであって、その神に対して「どうしてですか・・」と抗議するようなことがあってはならないのです。

それはちょうど土くれの粘土が陶器を作る者に抗議するようなものです。主は陶器師であって、私たちはただの土くれにすぎません。ただの土くれがぐにゅぐにゅとこねられて、「おい、何するんだ」とか言いますか?轆轤(ろくろ)で回されて、「おい、目が回るじゃないか。なんでこんなことをするんだ?と言うでしょうか。言いません。ただの粘土は陶器師の手によって自由に用いられるのです。陶器師がこねるのは、こねられる必要があると思うからするのであって、それで土くれがいちいち文句を言うのはおかしいのです。陶器師がろくろでくるくる回すのは、陶器師が必要だと思うからするだけです。イスラエルはただの土くれ、粘土です。私たちはただ土地のちりで神に形造られた土くれにすぎません。その土くれである粘土が陶器師に握られた時にこそ価値があるのであって、そうでなければただの土くれにすぎません。私たちに価値があるから神が愛されたのではなく、神が一方的に愛されたので、私たちには価値があるのです。私たちはただの土くれにすぎないということを覚えておきたいと思います。そんな土くれが何でオレをこねるんだとか、回すんだと文句を言うのは滑稽な話です。けれども私たちは、神に対して結構そのようなことをしているのです。自分の人生に起こることが許せません。神様、なぜこんなことをされるのですか?とすぐにつぶやくのです。しかし、神はあなたの陶器師です。あなたにとって最善になるように働いておられます。何よりもあなたが文句をつける前に、神があなたのために何をしてくださったのかを思いめぐらすべきです。神はあなたのために十字架にかかっていのちを捨ててくださいました。その手には釘を打たれて、そのわき腹には槍を刺されて・・・。あなたをこねてくださる陶器師の手には、その釘の跡があることを忘れてはいけません。あなたを愛してやまない主は、あなたにとって最善以下のことは絶対になさいません。そう信じて、「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのとおりにしてください」と祈らなければなりません。

パウロはガラテヤ書の中で、「けれども、生まれた時から私を選び分け、恵みをもって召してくださった」(1:15)と言っています。パウロはかつてクリスチャンを迫害し、とんでもないようなことをしていた人です。あのステパノの殺害にも加わりました。そんなパウロをいったいなぜ神は選んだのでしょうか?わかりません。それは決して彼に何らかの能力があったからではないのです。なぜなら、パウロが選ばれたのは、生まれた時から、いや、生まれる前からのことだからです。生まれる前に彼に能力があっるかどうかということを、いったいだれが知ることができるでしょう。だれも知りません。知っておられるのは神だけです。そして神はそういうことをすべてご存じの上で、彼を使徒として召してくださいました。それは彼の偉大さを示すためではなく、そのような愚かな者を用いてくださる神の御名があがめられるためなのです。

それは、私たちも同じです。なぜ神があなたを、私を救ってくださったのかわかりません。けれども神はあなたが生まれる前から、いや世界の基の置かれる前から救われるようにと、キリストにあって選んでくださいました。それはあなたを通してその神の御名があがめられるためです。

榎本保郎先生は「ちいろば」という本を書いておられますが、本当に私たちは小さなろばです。ロバは英語でdonkyと言いますが、愚か者という意味です。しかし、イエス様はご自分の生涯のクライマックスに馬ではなくこのろばを用いられました。「主がお入り用なのです」と言って連れて来られると、そのろばの背中に乗ってエルサレムに入られたのです。  私たちはちいろばです。本当に愚かで、力のない「ちいろば」ですが、そんな私たちを神は選んでくださいました。そして、ご自分の目的と計画にしたがって用いてくださいます。「主がお入り用なのです」と言われるとき、私たちはその召しに応えて立ち上がる者でありたいと思います。すべてを支配しておられる主にゆだね、「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのとおりにしてください」と応答しようではありませんか。そのときどんなに小さなろばでも、神の栄光のために用いていただくことができるのです。

イザヤ書44章21~28節 「成し遂げられる神の計画」

きょうは「成し遂げられる神の計画」というタイトルでお話したいと思います。神はバビロンに捕らえられたイスラエルを解放し、エルサレムを再建してくださると宣言されました。いったいどのようにそれを成し遂げられるのでしょうか。

Ⅰ.わたしはあなたを忘れない(21-22)

まず初めに21節と22節をご覧ください。「21 ヤコブよ。これらのことを覚えよ。イスラエルよ。あなたはわたしのしもべ。わたしが、あなたを造り上げた。あなたは、わたし自身のしもべだ。イスラエルよ。あなたはわたしに忘れられることがない。22 わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」

ここで主はヤコブに、「これらのことを覚えよ」と言っておられます。「これらのこと」とは何でしょうか。それはこれまで語ってきたことということよりも、この後で語られる内容のことです。21節後半から22節にかけてこうあります。「イスラエルよ。あなたはわたしに忘れられることがない。22 わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」

これは感動的なことばではないでしょうか。主はイスラエルに、「あなたはわたしに忘れられることはない」とおっしゃられました。これを語られたイスラエルとはどのような者だったでしょうか?その前のところを見るとわかりますが、彼らは主によって贖われた者であるにもかかわらず偶像を造り、それを拝んでいた者たちです。勝手に神を裏切るような者でした。そんな彼らに対して主は、「あなたはわたしに忘れられることはない」と言われたのです。これは実に驚くべき恵みです。Amazing Graceです。そして今朝、神様は同じようにあなたにも語ってくださいます。「あなたはわたしに忘れられることはない。」と。たとえあなたが自分でイメージした神を造り、それに伏し拝んでいたとしても、たとえあなたが神を忘れて勝手に生きていたとしても、「わたしはあなたを忘れない」というのです。これはすごいことではないでしょうか。

ここには「わたしは、あなたのそむきの罪を雪のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った」とあります。また、「わたしは、あなたを贖った」ともあります。どちらも完了形で書かれてあります。神はあなたの罪を完全にぬぐい去られました。神はあなたの罪を完全に贖われました。「ぬぐい去る」とは「赦す」ということです。また「贖う」というのは「代価を払って買い取る」というとです。神はイエスという代価を払ってあなたの罪を贖ってくださいました。イエスが十字架にかかってくださり、あなたが支払わなければならない罪の代価を支払ってくださったので、あなたはもう罪に悩む必要はありません。あなたのすべての罪は赦されています。あなたの過去の罪も、今犯している罪も、またこれから犯すであろう未来の罪も、すべての罪が赦されました。イエスさまは十字架の上で何と言われましたか?「テテレスタイ」と言われました。「完了した」という意味です。イエス様があなたの代わりにご自分のいのちをもって弁済してくださったので、あなたはもう罪に悩む必要はないのです。あなたにとって必要なことは、ただ神に帰ることです。自分の罪を悔い改めてイエスに頼ることです。あなたのために死んでくださったイエスを自分の罪からの救い主として信じるなら、あなたのすべての罪は赦されます。ヨハネ第一の手紙1章7節から9節までをご覧ください。

「7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。8 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。9 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。なぜなら、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめてくださるからです。あなたは自分で自分の罪を贖うことはできません。自分で自分を救うこともできないのです。ただイエスの血だけが、すべての罪をきよめることができます。神がこのことを成し遂げてくださいました。神はあなたの罪を雲のように、またかすみのようにぬぐい去ってくださいました。神はあなたを贖ってくださいました。あなたの罪の赦しの御業は完了したのです。あとはあなたが神のもとに帰るだけです。主は声を大きくして言われます。「わたしに帰れ」と。あなたが神に帰るなら、神はあなたの罪を雲のように、またかすみのようにぬぐい去ってくださいます。

小説「雲の階段」に登場する相川三郎は、もともと過疎の島の診療所の事務員でしたが、診療所の所長に頼まれ手術の助手をしたことがきっかけで、医師免許をもたないまま医療行為をするようになりました。そして東京の大病院の院長の娘の手術をしていのちを救ったことで彼女と結婚し、その大病院の副院長にまで上り詰めるわけですが、彼の中にはいつも不安があるのです。バレたらどうしよう・・と。でももう後戻りはできないと思い、まさに雲の階段を上っていくわけです。あのドラマを見て思うのは、今からでも遅くはないということです。人はいつでもやり直すことができます。今でも神に帰るなら、どんな人でもやり直すことができるのです。神はその罪を赦してくださいます。なぜなら、神はイエスの十字架という代価を払ってあなたを贖ってくださったからです。あなたは忘れられることはありません。あなたは、神があなたの罪を贖いご自分の子としてくださったということを覚えておかなければならないのです。

Ⅱ.喜び歌え(23)

次に23節をご覧ください。ここには「23 天よ。喜び歌え。主がこれを成し遂げられたから。地のどん底よ。喜び叫べ。山々よ。喜びの歌声をあげよ。林とそのすべての木も。主がヤコブを贖い、イスラエルのうちに、その栄光を現されるからだ。」とあります。

ここにあげられている「天」や「地のどん底」、「山々」、「林とそのすべての木」というのは、神が造られた被造物のことです。こうした被造物に向かって、喜び歌うように命じられています。なぜなら、主がこれを成し遂げられたからです。「主がヤコブを贖い、イスラエルのうちに、その栄光を現されるから」です。「これ」とは何でしょうか。イスラエルを通して成された驚くべき救いの御業のことです。それはイスラエルの救いを越えて、すべての自然界にも影響を及ぼすほどのものなのです。神がイスラエルを贖われたということは、それほど大いなる御業でした。それがあまりにも大きな出来事だったので、その出来事を境にして人類はB.C.とA.D.の二つに分かれたほどです。

あなたは自分の罪が贖われたということを、どのように受け止めておられたでしょうか。あなたを救ってくださった神の御業に対して、どのように応答しているでしょうか。ただ何とく教会に来てイエスさまを信じたとか、たまたま知り合いがいて信じるようになったというレベルで受け止めてはいないでしょうか。

以前、二匹の亀を飼ったことがあります。ある日、一匹の亀が何も食べずにピクリとも動きませんでした。するともう一方の元気な亀がその背中に乗り、押さえつけて苦しめているではありませんか。私は原因を探ろうと水槽のふたを開け、弱っている亀を見ました。すると目を患っているのに気がつきました。白い幕が目にかかり、目が見えなくなって、あちこちにぶつかりながら不安になっていたのです。私はかわいそうに思い、強い亀をどかして、弱い亀が少しでも餌を食べられるようにしてやりました。  それは私たちの姿ではないでしょうか。私たちの目にも白い幕がかかり、主が贖ってくださったということがよく見えなくなっていることがあるのではないでしょうか。

主がヤコブを贖われたということは、主があなたを贖われたことは、天が、山々が賛美するほどの偉大な御業なのです。私たちはこの偉大な神の救いの御業に対して、天や山々の木々の賛美に合わせて、心からの賛美をささげていく者でありたいと思います。

Ⅲ.成し遂げられる神の計画(24-28)

最後に24節から28節を見て終わりたいと思います。まず24節と25節をご覧ください。「24 あなたを贖い、あなたを母の胎内にいる時から形造った方、主はこう仰せられる。「わたしは万物を造った主だ。わたしはひとりで天を張り延ばし、ただ、わたしだけで、地を押し広げた。25わたしは自慢する者らのしるしを破り、占い師を狂わせ、知恵ある者を退けて、その知識を愚かにする。」

主は天地万物を造られた創造主なる神です。この方はただお一人で天と地を造られました。この方は自慢する者、占い師、知恵ある者を退けて、その知識を愚かにします。この「自慢する者」とか「占い師」、「知恵ある者」というのは、バビロンの祭司や占い師たちのことを指しています。彼らは人類最古の文明メソポタミヤ文明を築いたシュメール人の伝統を受け継いでいると誇り、その宗教と占い、特に占星術を信じていましたが、そんな彼らのしるしを破り、占いを狂わせ、知恵ある者を退けて、その知識を愚かにするのです。

しかし、イスラエルに対してはそうではありません。26節をご覧ください。「26 わたしは、わたしのしもべのことばを成就させ、わたしの使者たちの計画を成し遂げさせる。エルサレムに向かっては、『人が住むようになる』と言い、ユダの町々に向かっては、『町々は再建され、その廃墟はわたしが復興させる』と言う。」

神はご自分のしもべを通して語られたことを成就させ、使者たちを通して語られた計画を成し遂げられます。バビロンの占い師や知恵ある者たちのことばが退けられるのに対して、主が預言者を通して語られたことは、必ず成し遂げられるのです。それはどのような内容でしょうか。「エルサレムに向かっては、『人が住むようになる』と言い、ユダの町々に向かっては、『町々は再建され、その廃墟はわたしが復興させる』ということです。廃墟となったエルサレムとユダの町々を再建し、人々がもう一度暮らせるようにするということです。

いったいどうしてそのようなことが起こるというのでしょうか?当時イスラエルはバビロンに捕らえられていました。そのバビロンの町は高さ90㍍、幅24㍍の城壁に囲まれていたのです。その周囲は実に65㎞にも及びました。100の門に、250もの見張り塔がありました。ですから敵が城壁を越えて攻めて来ようものなら、その見張り塔から放たれる矢でひとたまりもありません。では地下を掘って侵入しようとしても、何とその城壁は地下11㍍までも深く掘られていたので、どんなにしても地下から侵入することもできませんでした。その城壁は誰も落とすことができない難攻不落の都市と呼ばれていました。史上最強の町だったのです。しかも、そこにはバビロンに暮らす全住民の20年分の食料が備蓄されていた言われています。ですから、どんなろう城攻めに会ってもびくともしません。誰も攻め落とすことなどできないと思われていました。ですから、バビロンの王ベルシャツァルは、毎晩何千人という要人を招いてはどんちゃん騒ぎをしていたわけです。だれも攻めることなどできないと高をくくっていたのです(大したことはないと見くびる)。

そんなバビロンを、神はいったいどのように滅ぼしたのでしょうか?27節と28節をご覧ください。

「27 淵に向かっては、『干上がれ。わたしはおまえの川々をからす』と言う。わたしはクロスに向かっては、「わたしの牧者、わたしの望むことをみな成し遂げる」と言う。」

ここに「クロス」という名前が出てきます。意味は「太陽」とか「王座」という意味です。クロスはバビロン帝国の後に興ったメド・ペルシャ帝国の王様です。もともとはメディア王国に従属するアンシャンという小さな国の王にすぎませんでしたが、メディア王国でクーデターが起こった際に(B.C.550)そのクーデターを利用してメディアを倒して王となりました。そして、不死隊の1万人と呼ばれた軍団を率い、やがて古代エジプトを除く全ての古代オリエント諸国を統一し、空前の大帝国を建設しました。これがメド・ペルシャ帝国です。世界史ではキュロス王として有名ですが、現代のイラン人は、このキュロスをイランの建国の父と称えています。ここに「わたしはクロスに向かっては「わたしの牧者・・・と言う。」とありますが、これは彼が牧者、羊飼いであったことを表しています。ちょうどダビデが王族でありながら羊飼いであったように、彼もまた王族でありながらも羊飼いであったようです。その彼がクロス大王になりました。そして、このクロス王を用いて、神はバビロン帝国を滅ぼしたわけです。

いったいどのようにしてあの難攻不落と言われたバビロンの城壁を打ち破ったのでしょうか?それは本当に奇抜な方法によるものでした。ここに27節を見てください。ここに「淵に向かっては、『干上がれ。わたしはおまえの川々をからす』と言う」とあります。「淵」とはバビロンを象徴するユーフラテス川のことです。この川に向かって「干上がれ。わたしはおまえの川々をからす」と言われたのです。どういうことかというと、彼らはユーフラテス川に支流を作って川の流れを変え、本流を干上がらせたのです。そして川底を渡って町に侵入し、パーティーで酒に酔っぱらっていたバビロンの王たちを打ち滅ぼしたのであります。

いったいだれがそんなことを考えることができたでしょう。だれも考えることなんてできません。当のバビロンの王ベルシャツァルもまさかそんな方法で攻めてくるなんて考えられませんでしたから、メド・ペルシャの大軍が城壁を取り込んでいるという状況でも、意気揚々と千人の要人を招いて酒を飲み交わしていたほどです。その様子はダニエル書5章に詳しく記されてありますのでどうぞ参照してください。しかしそのようにして彼らは、当時世界最強と言われたバビロンを、たった1日で、しかも全く血を流すことなく落とすことに成功したのであります。26節に「わたしは、わたしのしもべたちのことばを成就させ、わたしの使者たちの計画を成し遂げさせる。」とありますが、神はそのことばのごとく、ご自身の計画を成し遂げられたのです。

しかも驚くべきことに、このことが語られたのはこの出来事が起こる150年も前のことです。その時にはまだクロスも生まれていませんし、バビロンという国も興っていませんでした。当時はまだアッシリヤという国が世界を風靡していた時代です。その頃にイザヤはこれを預言したのです。いつ、どのようにしてバビロンに捕らえられていたイスラエルが解放されるのかということを、あらかじめ具体的に語ったのです。それがあまりにも具体的なので、そんなことを人間が書けるはずがないと、ずっと後になってから第二イザヤ、第三イザヤなる人物がこれを書いたのではないかと疑う人もいるほどです。しかし、これは本当にイザヤという預言者がそれが起こる150年も前に神が語られたことを語った預言なのです。このようなことはとても人間にはできませんが、私たちの信じている聖書の神は未来のことを予め告げることができる全知全能の神なのです。

しかし、このイザヤの預言はバビロンがクロス王によって滅ぼされるというだけで終わっていません。28節の後半を見ると、「エルサレムに向かっては、『再建される。神殿は、その基が据えられる』と言う。」とあります。

どういうことでしょうか?バビロンによって破壊された神殿が再建されるということです。この預言のとおりバビロンを滅ぼしたクロス王はユダヤ人をエルサレムに帰還させると、総督ゼルバベルという人を通してこの神殿の再建を許可します。そしてB.C.516年にエルサレムの神殿が再建されました。それはエルサレムがバビロンによって滅ぼされた時から、ちょうど70年が経った時でした。それはかつてのソロモンによって建てられた神殿とははるかに比べものにならないほど小さな神殿でしたが、それでも神の臨在の象徴でもある神殿が再建されたということは、彼らにとって感無量だったに違いありません。この神殿が完成したとき、それが完成してうれしかったのか、それともそれがかつての神殿に比べて小さいことに嘆いたのか、彼らはみな泣いたと聖書に記されてあります。いずれにせよ、ここに宣言されてあることが成就したのです。

ということはどういうことでょうか?神が語られたことは必ず実現するということです。神はご自身の計画を必ず成し遂げられます。であれば私たちは、この神のみことばに堅く立って、その約束を待ち望まなければなりません。最近はテレビやインターネットを通してさまざまな情報が溢れていますが、そうした情報に振り回されることがありますが、そうではなく、神のみことばに聞き、みことばに従い、みことばの実現を待ち望みながら祈らなければなりません。

最近、個人的に示された聖書の箇所は使徒の働き1章です。イエス様が天に昇って行かれる直前に、弟子たちにこう命じられました。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」(使徒1:5)すると彼らは泊まっていた屋上の間上がって、みな心を合わせ、祈りに専念しました。その結果何があったかは皆さんもご存じてす。約束の聖霊を受けて、彼らはキリストの証人として全世界に出て行きました。そこに集まっていたのは120名ほどでした。当時のパレスチナの人口は約400万人です。その400万人の中の120人が、主が命じられた通りに心を合わせて集まったのです。400万人の中の120人という数字は大変少ない数字です。それはからし種のような吹けばどこかに飛んでいくようなものでしょう。けれども神様はこの120人の人たちにすべての期待をかけられまたのです。

神の国はまさにこのからし種のようです。それは地に蒔かれる時には他のどの植物よりも小さなもののようですが、それが蒔かれるとやがて大きく成長し、そこに鳥が巣を食うほどになります。そこに神のいのちがあるからです。神が望んでおられるのは人数ではありません。そこに神のいのちを持ったクリスチャンがどれだけいるかということです。そしてそこに一人でも主のために100%献身しようとする人がいるなら、神はその一人を通して御業をなされるのです。

私たちがその一人となさせていただきましょう。そして、その種を地に蒔きましょう。みことばを素直に信じて、みことばに信頼していく一人の人を通して、主は大いなる御業をなされます。あなたが覚えておかなければならないのは、このことなのです。

イザヤ書44章9~20節 「偶像はむなしい」

きょうは「偶像はむなしい」というタイトルでお話したいと思います。イザヤは44章前半のところで、まことの神とはどのようなお方なのかについて語りました。そしてまことの神とはイスラエルの王である主、これを贖う方です。そして、「万軍の主」とあるように、絶対的な権威と力を持っておられる方です。また、初めであり、終わりである方とあるように、永遠なる方です。そして、これはイエス・キリストにもそっくりそのまま使われていることからもわかるように、この方は三位一体の創造主なる神です。この方以外に神はありません。この方だけが岩なる方であって、私たちが信頼するに足るお方です。それ以外に神はありません。もしあるとしたら、それはまことの神ではなく何の役にもたたない偶像です。イザヤはきょうのところでその偶像とはどのようなものなのか、また、偶像に頼るとどうなるのかを教えています。

Ⅰ.なぜ偶像を造るのか(9-11)

まず第一に9節から11節までをご覧ください。「9偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。彼らの仕えるものは、見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。10だれが、いったい、何の役にも立たない神を造り、偶像を得たのだろうか。11見よ。その信徒たちはみな、恥を見る。それを細工した者が人間にすぎないからだ。彼らはみな集まり、立つがよい。彼らはおののいて共に恥を見る。」

ここに「偶像を造る者はみな、むなしい」とあります。なぜなら、それは何の役にも立たないからです。それは見ることもできず、知ることもできません。詩篇にもこうあります。「4 彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。5 口があっても語れず、目があっても見えない。6 耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。7 手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。8 これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。」(詩篇115:4-8)

偶像は目があっても見えず、耳があっても聞こえず、口があっても語れず、鼻があってもかげず、手があってもさわれず、足があっても歩くことができません。そんな偶像を造り、それを拝むことにいったいどんな意味があるというのでしょうか。全く意味がありません。そうした偶像は何の役にも立たないのであって、全く無益なのです。

なのに、いったい人はなぜ偶像を造るのでしょうか?そもそも「偶像」とは「切り刻んだもの」という意味です。それは人が勝手にイメージしたものに具体的な形に切り刻んだものにすぎないのです。なぜ人は自分のイメージに切り刻むのでしょうか。そうした方が拝みやすいからです。

たとえば、出エジプト記の中にモーセが十戒を受けるためシナイ山に上って行った時、なかなか山から下りて来なかったのに苛立ったイスラエルの民は、アロンのところに来てこう言いました。「さあ、私たちに先だって行く神を、作ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったモーセという物が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」(出エジプト32:1)  イスラエルの民が嫌だったのは、モーセが神を示してくれなかったことです。自分たちに先立って行く神を見せてくれなかったということなのです。それでアロンに詰め寄り、自分たちに先立って導いてくれる神を、作ってほしいと頼んだのです。アロンもアロンです。彼もこのままではイスラエルの民が何をするかわからないと恐れたのでしょう。それで彼は金の耳輪を外して、私のところに持って来なさい、と言いました。そしてそれて金の子牛を造って、「これがあなたがたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ」(同32:4)と言いました。そうやって民のニーズを満足させようとしたのです。つまり、彼らは自分たちのニーズを満たすためにそうした偶像を造り、それを拝んだのです。  つまり、偶像礼拝とは何かというと、私たちの心の欲求を形にしたものなのです。人間の欲望を具現化したもの、それが偶像なのです。ですから、それは必ずしも人間や動物の形をしたものを拝むことだけではないのです。

コロサイ3章5節を開いてください。ここには「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」とあります。ここでは、むさぼりそのものが偶像礼拝だと言われています。「こういうのがあったらいいなぁ」「こういうのが欲しい」そうした思いを具体的な形にし、それを礼拝することが偶像礼拝です。

ですから、それは未信者の方だけの問題ではなく、クリスチャンである私たちも警告しなければならないことなのです。ですから使徒ヨハネはその手紙の中で、次のように書き送ったのです。「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。」(Iヨハネ5:21)。子どもたちとはクリスチャンのことです。クリスチャンにも偶像を拝もうとする誘惑があります。「こういうのがあったらいいなぁ」というイメージを抱き、それをむさぼることがあるのです。そのようなものに陥らないようにと、ヨハネは書き送ったのです。

皆さん、人はみな何らかの欲望を持っています。それが人間です。欲望をもっていない人間など一人もいません。マルチン・ルターはこう言いました。「人は常に神か、さもなくば偶像を持つ。」それは必ずしも神という名前が付いているとは限りません。自分のむさぼりを具現化したものが偶像であり、それを拝み、それに仕えていくことが偶像礼拝ですから、そういう意味で人はだれでも何らかの神を持ち、それにひれ伏す存在なのです。そうしないと生きていくことができません。「私は神なんて信じません」という人でも、実は何らかの神を信じて拝んでいます。自分は偶像なんて信じていないという人でも必死にお金を拝んでいたり(拝金主義)、科学こそ絶対だと信じていたり(科学絶対主義)、音楽には特別の力があると音楽にのめり込んでしまったりすることがあるのです。それがその人の神なのです。どの時代、どの文化、どの世代でも、みな何らかの神を持っているのです。

共産主義の特徴は神を持たないということですが、そんな共産主義においてさえも神は存在しています。独裁者という偶像が存在しているのです。ですから見てください。北朝鮮のピョンヤンにあるキム・イルソン広場には、ものすごい偶像がありますよ。キム・イルソンとキム・ジャンイルの巨大な金の偶像がそびえ立っています。神なんていないという国において彼らが神になっているのです。人は常に神か、偶像を持っています。どの時代、どの文化においても、人が存在するところには必ず偶像も存在するのであって、そうした偶像に警戒しなければなりません。

皆さんはどうでしょうか?本物の神以外のものを神としていることはないでしょうか。出エジプト記20章には十戒が記されてありますが、その第一の戒めには、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」(20:3)とあります。この「わたしのほかに」の「ほかに」というのは「わたしの前に」という意味です。神よりも前に置くもの、神よりも前に考えてしまうものがあれが、それがあなたの偶像なのです。神よりも前にあなたが仕事のことを置くなら、神よりも前に家のこと、車のこと、健康のこと、スポーツ、趣味、勉強のこと、学校のことを優先するなら、それがあなたの偶像なのです。私たちはこの偶像を警戒しなければなりません。

Ⅱ.偶像を拝むとどうなるか(12-17)

では次に12節から17節までをご覧ください。まず12節と13節です。「12 鉄で細工する者はなたを使い、炭火の上で細工し、金槌でこれを形造り、力ある腕でそれを造る。彼も腹がすくと力がなくなり、水を飲まないと疲れてしまう。13 木で細工する者は、測りなわで測り、朱で輪郭をとり、かんなで削り、コンパスで線を引き、人の形に造り、人間の美しい姿に仕上げて、神殿に安置する。」

ここには、その偶像を造るのはだれかということが語られています。それは腹がすくと力がなくなり、水を飲まないとすぐに疲れてしまう人間です。偶像を造るのはこのようなかぼそい人間なのです。完成したものは美しく、神殿に飾られていますが、そうしたものを造ったのは外から食べ物なり、水なりを与えられないと生きていけない人間の手によってデザインされ、造られたもの、それが偶像です。こんな人間が全知全能の神を造れると考えること自体が愚かなことはありません。

そして14節から17節にはこうあります。「14 彼は杉の木を切り、あるいはうばめがしや樫の木を選んで、林の木の中で自分のために育てる。また、月桂樹を植えると、大雨が育てる。15 それは人間のたきぎになり、人はそのいくらかを取って暖まり、また、これを燃やしてパンを焼く。また、これで神を造って拝み、それを偶像に仕立てて、これに伏す。16 その半分は火に燃やし、その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する。また、暖まって、『ああ、暖まった。熱くなった』と言う。17 その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って『私を救ってください。あなたは私の神だから』と言う。」

ここでは、その偶像が何によって造られているか語られています。それは自分が植え、自分が育てた杉の木であり、あるいはうばめやがしや樫の木です。それは人間のたきぎになったり、料理をする時の燃料になったりするものですが、そうしたもので造られたものを拝み、ひれ伏しているのです。その半分は火に燃やし、その半分で肉を焼き、その半分は寒い時の暖炉の燃料になります。その残りが神様です。こっけいじゃないですか。つまり、彼らの神は残りものの神なのです。そうしたものにひれ伏し、そうしたものに祈って、「私を救ってください。」と言っても、救ってもらえるでしょうか。

私はかつて福島刑務所で教誨師をしていたことがあります。教誨師というのは受刑者の心のニーズに応えるために、それぞれの宗教の教えに従ってお話する人のことです。私も着きに一度刑務所に行って聖書のお話をしていたことがありますが、かつてその教誨に集っていた方が、先日久しぶりに尋ねて来てくれました。この方は刑務所に入る前から、また出てからもずっとヤクザの世界にいる人です。しかし心は純粋で、単純で、曲がったことが大嫌いというひとなんです。゛いぶん曲がったことをしている人ですが、曲がったことは大嫌い。私と同じ年だということもあってか、時々電話をくれたりするのですが、先日は東京から仙台に行く用事があるのでその途中に会いたいと、立ち寄って行かれました。  その彼が何と言ったと思いますか?彼はこう言ったんです。「そろそろ潮時かなと思っている」これまでずっとヤクザの世界にいた人が「そろそろ潮時かな」というのはいいことだけど不思議に思い「どういうことか」と尋ねると、どうも最近、ヤクザの世界も変わって来たらしいのです。つまり、出世するのはお金がある人ばかりらしいのです。だから、たとえ今自分の下にいる若い者でもいつ立場が逆転するかわからない。だから、最近は言葉遣いにも気を付けて「・・・さん、大変だったね。ご苦労様」なんて言うらしいのです。昔はそういうことはなかった。義理人情の世界ですからたとえ自分の下になったとしても、それなりの態度をしてくれたけど、最近はそうでもないらしいのです。先の者があとになり、あとの者が先になることがある。クリスチャンの世界では先に立つ者はもっと謙遜になることを求めますが、ヤクザの世界ではその立場というのは絶対だと言うのです。だから、いつ自分が下になるかわからないと思うと、いつまでもそういう生活は続けられない。そろそろ潮時かなというのです。これまで組のために命をかけてやってきたのに、「そろそろ潮時かな」というのでは、今まで何のために頑張ってきたのかわかりません。親分が間違ったんですよ。親分はイエス様しかいません。イエス様のために命をかければイエス様が助けてくれますが、それ以外のものに命をかけると裏切られることになるのです。

それは彼だけではありません。この世のものはいざというときにあなたを助けてはくれないのです。皆さん、人生にはトラブルが付きものです。イエスさまも、「あなたがたは世にあって患難があります」と言われました。そのような時にいったいあなたは何に頼るでしょうか。日本人は絶対的なものを嫌います。絶対的なものを嫌うので、イエス様だけというのを嫌うわけです。イエス様もいいけど、あの人もなかなか魅力的だとか、この教えはすごいとか、このサークルは楽しくていいわ、なんて言うのです。しかし、たきぎの残りで造った偶像はあなたを助けてはくれません。あなたを救うことはできないのです。あなたが健康を失う時、あなたが何か大きな困難に陥ったとき、そうしたものはあなたにとって何の役にも立ちません。そうしたものを拝み、仕えるとしたら、そこにはただむなしさだけが残るだけなのです。

それだけではありません。もう一度詩篇115篇4節から8節までのところをご覧いただきたいと思いますが、特に8節にはこのようにあります。

「これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。」

つまり、こうした偶像を拝み、それに仕えていると、ただむなしくなるというだけでなく、「これと同じ」になるということです。偶像を造り、偶像を拝む者は、その偶像のようになるということです。たとえば、よく野球の試合を見に行く人たちの姿を見ますが、そういう人たちはどういう格好をしているかというと、お気に入りの球団のプレーヤーと同じ格好をしています。ジャイアンツファンはジャイアンツのユニホームを着て、背番号はお気に入りの選手の背番号です。AKBのファンはAKBと同じような格好をしています。頭にリボンをつけたり、てんとう虫のようなハットをかぶっているのです。それが熱狂的なファンの姿です。アイドルのファンはアイドルのような格好をし、アイドルのように考え、アイドルのようなライフスタイルとなり、アイドルのような人生をたどっていくのです。英語で「偶像」とはidolsと言いますが、まさにそのidolsのようになるのです。

しかし、まことの神を信じ、まことの神を礼拝し、まことの神に仕えるなら、まことの神のように、イエス様のようになります。Ⅱコリント人への手紙3章 18節には、こうあります。

「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:18)

私たちはみな、鏡のように主の栄光を反映させらながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていくのであります。神を信じ、神の御霊をいただいたので、その御霊が導かれるままに、主と同じ姿に変えられていくのです。イエスさまを信じ、イエスさまにつながっていれば、イエスさまのようになります。御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制(ガラテヤ5:22-23)ですから、そのような性質の者へと帰られていくのです。今まではできなかったこともできるようになります。聖霊の力によって今まで赦せなかった人も赦せるようになり、愛せなかった人をも愛せるようになります。それは御霊なる主の働きによるのです。あなたがイエスさまを信じて、イエスさまにつながっていれば、イエスさまと同じような人になるのです。

私は時々ほかの人から、「先生と奥さんは似ていらっしゃいますね。」と言われて驚くことがあります。いったい私たちのどこが似ているでしょう。日本人とアメリカ人、黒い髪と金髪、ちょっと白くなりましたが・・・。黒い目と青い目、日本語と英語、行動はウサギとカメです。その私たちのいったいどこが似ているというのでしょうか。もちろん、外見は全く似ていません。しかし、内面が知らず知らずのうちに似てくるのです。考え方や、話し方とか・・。それはいつも一緒にいて交わっているからです。

そう言えばある教会の副牧師の話を聞いたことがありますが、その話し方が牧師に似ているのに驚きました。以前はそうでなかったのに何年も一緒にいると話し方まで似てくるんだなぁと思いました。

人はだれと交わるかによってその人のようになるのです。車を愛し、いつも車のことばかり話している人は車のような顔になり、お金を愛しいつもお金に仕えている人はお金のようになります。こういうのを何というかというと「おっかね」と言います。しかし、まことの神を信じ、まことの神を礼拝し、まことの神と交わっている人はまことの神のようになるのです。栄光から栄光へと主と同じ姿へ変えられていくのです。これはすばらしい恵みではないでしょうか。ですからその機会を逃すとそのすばらしい祝福を失ってしまうことになるのです。

日曜日に主を礼拝することがどうして大切なのかがわかるでしょう。もし皆さんがこの方を礼拝し、この方と交わり、この方に仕えるなら、この方のようになるからです。もちろん、それは日曜日の礼拝だけではありません。日常礼拝です。日常的にどれだけ神を礼拝し、神と交わっているかということです。そして、そのように神様と交わっているならば、聖書に書かれてあるように神の聖霊を受けた霊の家族と共に礼拝をささげたいと思うようになるはずです。なぜなら、それが御霊なる神の働きだからです。安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ、と書かれてあるとおりです。神ご自身を求め、神を礼拝すること、神を第一とすることが神のみこころだからです。

Ⅲ.どうしたら偶像から解放されるか(18-20)

ではどうしたらこのむなしい偶像から解放されることができるのでしょうか。最後にそのことについて見て終わりたいと思います。18節から20節までをご覧ください。「18 彼らは知りもせず、悟りもしない。彼らの目は固くふさがって見ることもできず、彼らの心もふさがって悟ることもできない。19 彼らは考えてもみず、知識も英知もないので、『私は、その半分を火に燃やし、その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。その残りで忌みきらうべき物を造り、木の切れ端の前にひれ伏すのだろうか』とさえ言わない。20 灰にあこがれる者の心は欺かれ、惑わされて、自分を救い出すことができず、『私の右の手には偽りがないのだろうか』とさえ言わない。」

偶像を拝んでいる人たちは、冷静に考えればそれがヘンだとわかるようなことでも偶像の美しさ、力強さ、神秘性に魅了されて、それが偶像であるということを悟れないほど霊的に麻痺しています。そのような人たちは、自分たちの欲求を満足させてくれるものに簡単に目がくらんでしまうのです。まさに偶像のように目があっても見ることができず、耳があっても聞くことができません。その心もふさがっていて悟ることもできないのです。いったいどうしたらいいのでしょうか。神のみことばに照らし合わせて考えなければなりません。自分の考えや判断ではなく、日々神と交わり、神のみこころと神の力をいただかなければなりません。そうすればむなしい偶像から立ち返ることができます。

サムエル記第一5章を開いてください。1節から5節までを読みます。ここにはイスラエルの神の箱がペリシテ人に奪われ、ペリシテの神ダゴンの神殿に運ばれ安置されたとあります。ダゴンとは魚の頭を持った海の神です。魚が多産であることから豊作と結びつけ、ダゴンを半魚の農耕神として信仰していたと言われています。そのダゴンの神殿にイスラエルの契約の箱が運び込まれたわけです。その翌日、彼らが朝早く起きて見ると、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていました。ダゴンの頭と両腕は切り離されて、胴体だけが、そこに残っていたのです。それで彼らはこの契約の箱を恐れてイスラエルに送り返すことにしました。

この契約の箱は何を象徴していたかというと、神の臨在です。つまり、神の臨在があると偶像は倒れるということです。偶像はあまりにも魅力的なので、あなたの力では倒すことはできませんが、神の臨在があると自然に倒れるのです。あなたが暗やみの力に打ち勝つにはどうするでしょうか?イエスの御名によって出て行けと命じますか。それとも力づくで暗やみを追い出そうとタックルするでしょうか。しかし、そのようにしても無理です。暗やみは出て行きません。どうしたらいいのでしょうか。電気のスイッチを入れればいいのです。あなたが火を灯すなら、暗やみは自然に逃げ去ります。それと同じように、神の光輝く臨在をあなたのダゴン神殿の中に運び入れればいいのです。そうすれば、ダゴンは力を失い、自然に倒れます。あなたがこのむなしい偶像から解放されるには、悪習慣から解放されるには、あなたが一生懸命に偶像を追い出そうとするのではなく、あなたのダゴン神殿の中に神の臨在を運び入れなければなりません。毎日聖書を開いて、神を賛美し、祈って、あなたの心に神が住んでくださるなら、そして神を第一にするのなら、あなたは偶像から解放され、生ける神の臨在に満たされるのです。しかし、それを後回しにしたり、ないがしろにしたり、神以外のものを神の前に置いたりすると、ダゴンがスッと立ち上がり、あなたの前にたちはだかるようになるのです。

あなたのダゴンは何ですか。あなたの生活の中で最も大切にしているもの、それがダゴンです。もしあなたがこのダゴンに仕えていると、あなたはいつになってもそのむなしい生き方から解放されることはありません。あなたにはわたしのほかにほかの神々があってはならない。神をあなたの生活の第一としましょう。神の臨在を求めましょう。そうすれば、あなたはむなしい偶像から解放されて、意味のある人生を送ることができるようになります。神がキリストによってあなたを贖いあなたを罪から救ってくださったのは、そのためだったのです。

 

イザヤ書44章1~8節 「わたしのほかに神はいない」

イザヤ書44章に入ります。きょうのタイトルは、「わたしのほかに神はいない」です。神は十戒の最初の命令の中で、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」(出エジプト20:3)と命じられました。主なる神だけが本当の神であって、この方以外に神はありません。いったいこの方はどのような方なのでしょうか。

Ⅰ.あなたを形造り、あなたを助ける主(1-5)

まず第一に1節から5節までをご覧ください。1節と2節をお読みします。「1 今、聞け、わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだイスラエルよ。2 あなたを造り、あなたを母の胎内にいる時から形造って、あなたを助ける主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだエシュルンよ。」

ここに「エシュルン」という言葉が出てきますが、これはイスラエルの別名です。意味は「まっすぐな者」、「正しい者」、「心の直ぐな者」という意味です。ここには「ヤコブ」、「イスラエル」、「エシュルン」という名前が全部出ています。ヤコブとは「かかとをつかむ者」「押しのける者」「ずる賢い者」という意味です。そんなヤコブがイスラエルに改名されました。イスラエルの意味は「神に支配された者」です。何度も、何度も神に背き、神のみこころに歩まなかった彼らは「イスラエル」という名前にはふさわしくない者でしたが、神が彼らを選び、彼らを贖ってくださったので、そんな彼らでも「エシュルン」と呼ばれるのです。

そして、このところには彼らがどのように選ばれていたのかがわかります。ここには、彼らが母の胎内にいる時から形造って、とあります。何と彼らが生まれる時から、いや生まれる前からまだ母の胎内に形造られた時からともにおられ、彼らを支えておられたというのです。イスラエルはその時から既に、神の御手に守られていたのです。有名なエペソ人への手紙によると、世界の基の置かれる前から、神に選ばれていた、とあります(エペソ1:4)

であれば、いったい何を恐れる必要があるでしょうか。あなたの背後にはこの大きな神の御手があるのです。神があなたを造られたのだから、神があなたを助けて、今日まで生かしてくださったのだから、神があなたを支えているのだから、あなたは何も恐れることはないのです。あなたはこの大きな神の守りと支えを感じておられるでしょうか。それとも、自分の無力さにさいなまれてはいないでしょうか。あなたにとって必要なのは、神があなたとともにいて、あなたを守っておられることを信じることです。いったいどうしたらそのようにできるのでしょうか?

3節から5節までをご一緒に読みましょう。「3わたしは潤いのない地に水を注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。4 彼らは、流れのほとりの柳の木のように、青草の間に芽ばえる。5 ある者は『私は主のもの』と言い、ある者はヤコブの名を名のり、ある者は手に『主のもの』としるして、イスラエルの名を名のる。」

これはただ単に荒野に水を注いで潤してくださるということだけでなく、神の御霊が注がれるという約束です。「わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう」とあるからです。ちょうど水が人間の肉体に命と潤いを与えるように、神の御霊は私たちに霊的ないのちと力を与えてくださいます。

ヨエル書2章28-29節を開いてみましょう。ここには、「28 その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りや夢を見、若い男は幻を見る。29その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。」とあります。ここにも、世の終わりになると神が選ばれたイスラエルのり上に、神の御霊が注がれるとことが預言されています。これは、具体的には世の終わりの最後の患難時代に起こることです。その時神がイスラエルに神の霊、聖霊を注がれます。すると彼らの目が開かれ、イエスをこそメシヤ、救い主であることを知り、信じるようになります。そしてこぞって救われるのです。こうしてローマ人への手紙11章26節にある「イスラエルはみな救われる」というみことばが成就するのです。

しかし、このヨエル書の預言は、使徒の働きの中にも引用されています。使徒の働き2章16節から18節です。「16これは、預言者ヨエルによって語られた事です。17『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。18その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」

これはどういうことかというと、今から二千年前に起こったペンテコステにおいても成就したということです。イエスさまが十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられて救いの御業を成し遂げられました。そのイエスさまは、私たちのために場所を備えるために天に昇って行かれました。場所を備えたら、また来て、私たちを迎えてくださいます。イエスさまがいなくなって寂しくなる弟子たちに、助け主である聖霊を送ると約束されました。この方が来るとき、この方がイエスさまについて証してくださいます。その聖霊が天からくだったのです。

それはあのヨエルが預言したことがペンテコステにおいて成就したということです。それは世の終わりにおいて完全に成就しますが、ペンテコステにおいて始まったのです。そういう意味では、今はまさに世の終わりの時代を迎えていると言えるのです。その世の終わりの日に、神はすべての人に聖霊を注いでくださいました。ユダヤ人だけでなくユダヤ人以外の異邦人も含めてのすべての人にです。 この聖霊が注がれるとどうなるでしょうか。この霊を注がれると、息子や娘は預言し、青年は幻を見ます。そして老人は夢を見るのです。夢見る老人。わたしはいつも夢を見ています。そういう夢ではありません。主のビジョン、幻です。こんな年寄りだけれども、自分にも何かできる。神様のお役に立ちたいという思いが与えられる。もうヨボヨボだけれど、人生これから、残りの生涯を主にささげます、という思いが芽生えるようになるのです。何とすばらしいことでしょう。 それは神の霊が注がれているからです。

イザヤ書の文脈で言うならば、これは「流れのほとりの柳の木のように、青草の間に芽ばえる。5 ある者は『私は主のもの』と言い、ある者はヤコブの名を名のり、ある者は手に『主のもの』としるして、イスラエルの名を名のる。」ということです。本当に無力で、ちっぽけな存在であっても、聖霊によっていのちと力を受け、「私は主のもの」と言い、ある者はヤコブの名を名のり、ある者は手に「主のもの」としるして、イスラエルの名を名のるようになるのです。これはまさに御霊なる主の働き以外の何ものでもありません。(Iコリント12:3)

イエスさまの弟子たちのことを考えてみてください。彼らは、イエスさまが十字架につけられた後、当局者たちに捕まるのではないかと恐れて逃げ隠れしていましたが、この神の霊、聖霊が注がれ、聖霊に満たされると一変しました。まるで人が変わったかのように、全く死を恐れず、大胆に、公の場で、「イエスは主である」と告白するようになりました。イエスさまが言われたとおりになったのです。

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)

聖霊があなたに臨むと、あなたは力を受けます。渇いた心に聖霊が臨むと、その心は完全に潤されます。愛とか、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制といった御霊の実を結ぶようになります。神の霊が注がれるとき、あなたの中から恐れが消え去り、大胆に神を証する力が与えられるのです。私たちもそうありたいと願います。いったいどうしたらいいのでしょうか。

ここに「わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ」とあります。もしあなたが神の霊に満たされたいと願うなら、まず神の霊に飢え渇かなければなりません。ちようど水が高いところから低いところに流れるように、神の霊も飢え渇いた人に注がれるのです。渇いていなければ、だれも満たされることはありません。あなたが神の霊に満たされたいと願うなら、あなたは神に飢え渇かなければならないのです。

マタイ5章6節をご覧ください。ここには「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。」とあります。どのような人が満ち足りるのでしょうか?飢え渇いている人です。義に飢え渇く者は幸いです。なぜなら、そのような人が満ち足りるようになるからです。

ルカの福音書11章11節から13節までのところも開いてみましょう。ここには、「11あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。12卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。13してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」とあります。  すばらしい約束ですね。肉の父親は、子どもが魚を下さいというときに、魚の代わりに蛇を与えるようなことはしません。最近温かくなってそこかしこに蛇を見ますが、蛇がいっぱいいるからといって蛇をあげよう、なんていうことは言いません。良いものを与えてくれます。同じように天の父は、求める人たちに聖霊を注いでくださいます。もっと聖書を勉強して、クリスチャンとして成熟したら聖霊に満たされるといいなぁと言っていたら、いつまでたっても満たされることはありません。今、この瞬間にでも、聖霊を求めてください。そうすれば、主はあなたに聖霊を与えてくださいます。「主よ。わたしは本当に弱い者です。あのことで、このことで心配しています。わたしはあなたが必要です。私のたましいを満たすことができるのはただあなただけです。あなたの御霊だけです。どうかあなたの御霊で満たしてください。そしてあなたの力を与えてください。」そう祈っていただきたいのです。

もう一箇所開きたいと思います。ヨハネの福音書7章37節から39節までのところです。「37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」

ここにもすばらしい約束が記されてあります。だれでも、渇いているなら、わたしのもとに来て、飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。これはイエスを信じる者たちが後になってから受ける聖霊のことを言われたのでありますが、この「流れ出るようになる」というのは、ほとばしり出るという意味です。石清水のようにチョロチョロと流れるのではありません。爆発的に流れ出るようになるということです。まさにデュナミスです。ダイナマイトのような爆発的な流れ、力を受けるのです。そして、流れのほとりの柳の木のように、青草の間に芽生えるようになるのです。その葉は枯れることなく、常に生き生きとして、キラキラとして、喜びがあるのです。私たちもそうありたいです。愛に満たされ、愛に溢れ、自分がどんなひどい仕打ちを受けても心から赦せる人になりたいです。そのためには聖霊に満たされる必要があります。それはあなたの内にあるものを絞り出すようにしても出てきません。私たちの内側には善いものなどないからです。私たちに必要なのは人知をはるかに超えた神の愛です。聖霊の満たしです。主はこの霊を満たしてくださると約束してくださいました。あなたが恐れから全く解放されるには、この神の霊を受けなければならないのです。

Ⅱ.わたしのほかに神はない(6)

次に6節をご覧ください。「イスラエルの王である主、これを贖う方、万軍の主はこう仰せられる。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。」    ここで神はご自分がどのようなものであるかを述べられました。まず神はイスラエルの王である主です。この主という字は太字の主です。新改訳聖書でこのように太字になっている時は、これが主の個人名であることを表しています。すなわち「ヤーウェー」という名です。また、ここには「これを贖う方」とあります。神はイスラエルを贖ってくださった方です。イスラエルをエジプトから救い出したように、バビロンからも解放してくださる方なのです。そればかりではありません。ここには「万軍の主」とあります。これは神の絶対的な力と権威がこめられた表現です。つまり万軍の主がその全能の力をもってイスラエルを救ってくださるということです。また、主は「わたしは初めであり、わたしは終わりである」方です。この方は永遠に生きておられ、初めから、終わりまで、この歴史を支配しておられる方であるということです。この方以外に神はいません。この方だけが神です。この神とはだれのことでしょうか。エホバの証人は、この神とはエホバのことだと信じています。しかし、これはエホバのことではありません。これはエホバも含めた三位一体の神のことです。このエホバは同時にイエスのことだということを知ってほしいと思います。というのは、このエホバに使われている名が、イエスにも使われているからです。

たとえば、イエスがイスラエルの王であることについては、ヨハネの福音書1章49節に記されてあります。「ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」  これはナタナエルという人の言葉です。信仰告白です。彼は、友人ピリポと一緒にヨルダン川のそばに来ておりました。ヨハネから洗礼を受けたかったのかも知れません。しかし、そこでイエスさまにお会いし、まずピリポが信じてイエスさまの弟子になりました。そして、ナタナエルに言います。「来て、そして、見なさい」「私たちは、モ-セが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです」(45)ところがナタナエルは信じませんでした。その理由は、「ナザレから何の良いものが出ようか」と思っていたからです。彼は隣町カナの人(ヨハネ21:2)で、ナザレのことを良く知っていました。そこは小さな町でだれがどこの家の者かも周知のことでした。大工ヨセフの息子がメシヤであるはずがない、そう思いました。ナザレからいったいどんな良いものが出るというのか。あり得ない。ところが彼はイエスと出会い、 イエスが彼のことを言い当てたことで、彼のイエスに対する懐疑心はどこかに吹っ飛んでしまいました。イエスこそ神の子、メシヤ、イスラエル王であると告白したのです。

また、「贖う者」については何度もお話しているように、代価を払って買い取るという意味です。ヘブル語では「ガアール」と言います。旧約聖書ルツ記の中に出てくるボアズという人は、この「贖う人」です。それはイエスさまのひな型でした。このボアズとルツの子孫からイエスさまが生まれてきたのです。それはイエスさまが贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来られた方だからです。(マタイ20:28) イエスさまは、私たちの罪を贖って十字架で死んでくださいました。クリスチャンは、イエス様の十字架の血で贖われ、買い取られた者なのです。イエスさまは私たちの罪を贖ってくださったので、神様との道を開いてくださいました。私たちは日々罪を犯してしまう者ですが、イエスさまによって罪が贖われたので、悔い改め、神に立ち返る時にあらゆる回復が与えられるのです。イエスさまが私たちの贖い主です。

また「万軍の主」についても、ヨハネの福音書12章41節を見ると、「イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。」とあります。ではイザヤが見たイエスの栄光とは何か?イザヤ書6章3節にはこうあります。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」ここに、「万軍の主」と言われています。イザヤがみたこの万軍の主とはイエスのこと、イエスの栄光のことだったのです。

そして、「わたしは初めであり、わたしは終わりである」ということについては、黙示録1章17節と18節にこうあります。「17 それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、18 生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。」  ここに「わたしは、最初であり、最後であり・・」とあります。このわたしとは誰のことかというと、イエスさまのことであります。なぜなら、その後のところに、「わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている」とあるからです。死んで、よみがえり、いつまでも生きておられる方とはだれのことでしょうか。そうです、イエス・キリストのことです。イエスこそ初めであり、終わりである方なのです。

このように、イザヤ書44章6節でエホバなる神、ヤーウェーなる神に使われている言葉はすべて、イエスさまご自身に対しても使われているのです。つまり、このエホバなる神は同時にイエスのことでもあるということです。その証拠に、「わたしのほかに神はいない」の神は複数形で書かれてあります。「エロヒーム」です。単数形では「エル」です。二つ以上の複数形になると「エラ」になります。そして三つ以上の複数形になると、このように「エロヒーム」になるのです。三位一体の神のことなのです。三位一体という言葉は聖書には出て来ませんが、その概念は聖書の至るところに出てきます。ですからこれはエホバなる神のことではなく、同時にイエスのことであり、聖霊のことでもあって、三位一体の神のことなのです。

そして、聖書はこの方以外に神はいないとはっきり言っておられます。イスラエルの王である主、これを贖う方、万軍の主、初めてあり、終わりであられる方、三位一体の神こそまことの神であって、ほかに神はいないのです。

Ⅲ.未来のことを告げられる神(7-8)    最後に7節と8節をご覧ください。「7 わたしが永遠の民を起こしたときから、だれが、わたしのように宣言して、これを告げることができたか。これをわたしの前で並べたててみよ。彼らに未来の事、来たるべき事を告げさせてみよ。8 恐れるな、おののくな。わたしが、もう古くからあなたに聞かせ、告げてきたではないか。あなたがたはわたしの証人。わたしのほかに神があろうか。ほかに岩はない。わたしは知らない。」

ここで主は、わたしのほかに神がいるというなら、その証拠を見せてみよ、と言われます。神は、神としての証拠を見せることができることによってのみ、その正当性が認められるからです。その証拠として主が求めておられることは、これから起ころうとすること、未来のこと、来るべきことを告げてみよということでした。これは41章で言われていたことと同じです。未来のことを告げることができる神こそ本当の神です。この聖書の神、創造主なる神は、これから後に起こることを、未来のことをあらかじめ告げることができます。聖書にはそれを預言としてたくさん記されてあるということについては、以前にもお話したとおりです。実に聖書の1/3から1/4は、この預言で占められています。聖書が預言の書であると言われるゆえんはここにあります。これが、聖書がユニークな書物であることの一つの大きな理由でもあるわけです。聖書はこれから後に起ころうとすることを的確に(正確に)、より具体的にあらかじめ告げているのです。たとえば、この後45章1節には「主は、油注がれた者クロス」という名前が出てきますが、まだ生まれていないペルシャの王の名前までも告げているのです。それはこの神こそまことの神だからです。

このように告げることができる神こそまことの神であって、ほかに神はいません。イスラエルはこの神に選ばれ、救われ、守られ、支えられているのです。であれば、偶像を造ったり、それらを拝んだりするということは、全くむなしいことです。彼らにとって必要なことはこの神こそ本当の神であると確信し、この神のみことばの証人となることです。

それは私たちも同じです。私たちも聖書の神こそまことの神であって、この方のほかには神はいないということを確信し、この神の証人にならなければなりません。ペテロをはじめとする初代教会のクリスチャンたちが、「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒4:12)と大胆に告白したように、私たちもイエスこそまことの神であり、救い主であって、この方以外には救いはないということを、そして、この方を信じるようにと証なければなりません。

主は十戒の一番初めに、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」と言われました。この「わたしのほかに」しいうのは、「わたしの前に」という意味です。あなたにはわたしの前にほかの神々があってはならないのです。つまり、この神をあなたの人生において第一にしなければならないということです。神よりも仕事を、神よりも家庭を、神よりも教会を、神よりも趣味を、神よりも勉強を、神よりも友達を大切にするなら、この戒めを破っていることになります。もちろん、仕事も、家庭も、教会も、勉強も、すべて大切なものです。どうでもいいようなものは一つもありません。しかし、その中にあってどうしても第一にしなければならないものは神なのです。神を第一にして、こうした大切な一つ一つのことがらにバランスよく取り組むことによってこそ、生活全体が安定し、潤いのあるものになっていくのです。

私は、毎日「ディリーブレッド」という小冊子を読んでいますが、その中にDave Branonという人が書いたエッセイを読みました。彼は子どもの頃から野球で大好きで、中でもデトロイト・タイガースの大ファンでした。そして、チームが活躍しているとウキウキし、楽しくしているのですが、逆に負けて成績が奮わないような時は、随分イライラさせられました。これでは精神衛生上よくないと思って、タイガースを断ち切りました。四日間、全く関わらないようにしたのです。  その経験を通して彼が気づいたことは、タイガースを断ちをしている四日間というものがいかに長く、難しいものでるかということでした。そして、それはタイガースに限らず、私たちの生活のどの領域においても同じではないかということでした。どこかで制限しなければならないということがわかっていても、ついついのめり込んで振り回されていることがあります。仕事中毒になって仕事以外のことは何も考えられなくなっているということもあります。あるいは、神に喜ばれないような習慣やクセがあって、神の栄光を現す生き方をするためにはそれをきっぱりやめなければならないと分かっていても、それができないでいる場合もあります。しかし、自分の生活の中に、神との親しい関係を築くことを妨げるものがあるとしたら、それをきっぱりとやめるべきです。

イエスさまはこのように言われました。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えてすべてのものは備えられます。」(マタイ6:33)神の国とその義とをまず第一に求めるなら、それに加えて、すべてのものは必ず備えられます。主に助けを求めて祈るなら、主は必ず脱出の道を備えてくださいます。そう信じて、神のチャレンジに応答しましょう。そのときあなたは御霊にに満たされ、御霊に属することをひたすら考えるようになります。そして、神が不思議な方法であなたを導き、あなたを守ってくださいます。

わたしのほかに神はいない。胎内にいる時からあなたを選び、あなたを守り、あなたを支えてくださった主こそ神であり、この方のほかには神はいません。この方だけがあなたを助けることができる岩なるお方です。あなたの人生をこの方にかけてください。ゆだねてください。主は決してあなたを裏切ることはなさいません。

イザヤ書43章14~28節 「わたしは新しい事をする」

Ⅰ.救ってくださる神(14-17)

きょうは、「わたしは新しい事をする」というタイトルでお話したいと思います。まず14節と15節をご覧ください。「14あなたがたを贖われたイスラエルの聖なる方、主はこう仰せられる。「あなたがたのために、わたしはバビロンに使いを送り、彼らの横木をみな突き落とし、カルデヤ人を喜び歌っている船から突き落とす。15わたしは主、あなたがたの聖なる者、イスラエルの創造者、あなたがたの王である。」

これは、主がイスラエルのためにバビロンを打ち破るという宣告です。主がバビロンに送る使いとはペルシャの王クロスのことです。主はクロス王を送ってバビロンを倒し、そこに捕らわれていたイスラエルを解放するというのです。「横木」とは町の門のかんぬきのことです。主は、バビロンの町の門のかんぬきを突き落として軽々と倒してしまいます。また、カルデヤ人というのはバビロン人のことですが、勝利に酔いしれていたバビロン人を、主はその喜びの船から突き落とすのです。難攻不落と言われたバビロンも、必ず倒れます。なぜなら、主はイスラエルの聖なる方だからです。イスラエルの創造者、彼らの王であられるからです。ここには「イスラエルの聖なる方」という表現が何度も使われています。これは「分離された者」という意味です。主はこの天地を創造された全能者であって、この世とは完全に分離された方なのです。その方がイニシアチブをとってこのことをしてくださるので、必ずなるわけです。

16節と17節をご覧ください。「16 海の中に道を、激しく流れる水の中に通り道を設け、17 戦車と馬、強力な軍勢を連れ出した主はこう仰せられる。「彼らはみな倒れて起き上がれず、燈心のように消える。」

これは出エジプトの出来事が背景にあります。イスラエルがエジプトから救い出された時、執拗に追ってくるエジプト軍を背に絶体絶命に陥ったことがありました。目の前には紅海が広がっていて、もう先に進むことができませんでした。その時主は紅海を真っ二つに分けそこに乾いた道を設け彼らを救い出されました。海の中に道を、激しく流れる水の中に通りを設け、エジプトの戦車や馬をそこで倒されました。その出来事です。その時と同じように主はバビロンを倒して起き上がれないようにし、イスラエルを救われるのです。いわばこれは第二の出エジプトなのです。敵(バビロン)がどんな強大でも、神はその力強い御業をもって彼らを助け出されるのです。

ヘブル人への手紙13章5節には、「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」とあります。エジプトに捕らわれていたイスラエルを救い出された主は、バビロンに捕らえられていたイスラエルをも救ってくださいます。そして、その主は今も生きて同じような御業をなさってくださいます。罪に苦しむ人類を救うために御子イエス・キリストを送り、罪から解放してくださいました。この罪の赦しはいつでもあなたに備えられているのです。神は今もご自身の御業をなさっておられるのです。

数年前に天国に帰られた韓国のオンヌリ教会のハ・ヨンジュ先生は、「Acts29」というビジョンを打ち立てました。それは使徒の働き29章を書いていくことです。「使徒の働き」は全部で28章ですが、その使徒の働きはまだ終わっていません。主の命令に従ってすべての民族に福音を伝えていかなければなりません。その「使徒の働き」の使命を引き継いでいく教会、それがオンヌリ教会だというのです。そして、「2000/10000ビジョン」を持つようになられました。これは2010年までに二千人の宣教師を派遣し、一万人の働き人を立てるということです。このビジョンを宣言したら、ある長老がハ先生のところにやって来てこう尋ねました。  「先生、本当にそのビジョンは神様が与えてくださったものですか」  とても不可能に思えることでした。しかし、その後その長老は宣教師を送る働きをするようになりました。そして彼はこのように話しました。  「先生、本当にそのようになって行きますね」

誰もができることなら、神様は必要ありません。そのまま人間が一生懸命に努力し、最善を尽くせばできることです。不可能なことですが、神ご自身が行われること、それが神のビジョンです。神は今にいたるまで働いておられます。イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。神はイエス・キリストによって救いの御業を成してくださいました。そして今も生きて働いておられます。あなたはこの神を見て、この神に信頼しなければなりません。

Ⅱ.新しい事をされる神(18-21)

次に18節から21節までを見ていきたいと思います。18節と19節の前半をご覧ください。「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。19 見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。」

「先の事ども」とか「昔の事ども」とは何でしょうか。それは過去の歴史においてイスラエルが経験した神の救いの御業のことです。特に16節と17節では出エジプトの出来事が記されてありますので、そのことを指していると思われます。そうした先の事ども、昔の事どもを思い出すな、考えるな、というのです。なぜでしょうか?なぜなら、主は新しいことをするからです。それは彼らがこれまで経験したこととは全く比べものにならないほどスケールの大きなことです。今、それが起ころうとしています。それを見よ、というのです。それは何でしょうか?19節後半から20節にかけてこうあります。

「あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。20 野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。」

これはどういうことかというと、イスラエルをバビロンから解放するということです。イスラエルがバビロンから解放され祖国エルサレムに帰還する際には、荒野を通らなければなりませんでした。荒地を通らなければならなかったのです。道のない荒野を進むことがどんなに困難なことであり、水のない荒地を進むことがどんなに危険なことであるかは、行ったことのない人でなければわからないことかもしれませんが、それはとても危険で苛酷なことでした。しかし、主はそんな荒野に道を造り、荒地に川を設けて、彼らが安全に、安心して帰還できるようにしてくだというのです。たとえそこに道がないようでも、主が道を造られるというのです。

しかし、これはイスラエルをバビロンから解放するということばかりではなく、もっと大きな神の御業の預言でもありました。それはやがてメシヤ、救い主をこの世に送り、全人類を罪の縄目から解放してくださるということです。最初の人アダムによって全人類にもたらされた罪ののろいを断ち切るために、神はそのひとり子をこの世に送り、私たちの罪のために、十字架にかかって死んでくださり、私たちを全人類から救い出してくださいました。その預言です。それは神にしかできない御業でした。イスラエルがエジプトから救い出されたことやバビロンから救い出されたこともものすごい奇跡ですが、もっと大きなそして最大の奇跡は、私たちの罪を赦すために神がそのひとり子をお与えになったということです。いや、イスラエルがエジプトから救い出されたことやバビロンから好き出されたという出来事は、全人類が罪から救い出すためになされた神の御業のひな形だったのです。模型ですね。実体はキリストです。キリストによって全人類が罪から救われることの型だったのです。これが新しい事です。かつてイスラエルをバビロンから救い出すために荒野に道を、荒地に川を設けてくださった神は、私たちを罪から救い出すために御子イエスを備えてくださったのです。

また20節を見ると、ここには野の獣、ジャッカルやだちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。」とありますが、これはまさに千年王国の光景です。神は荒野や砂漠を潤った園とし、ご自身の民をそこで楽しませてくださいます。ですから、これは世の終わりの千年王国の預言でもあるのです。

主はイスラエルの歴史の中にこうした新しいことをしてくださったように、あなたの人生にも新しいことをしてくださいます。今、それが起ころうとしているのです。信じますか?

アメリカのゴスペルシンガーにドン・モーエン(Don Moen)という方がおられます。彼はこの箇所から「主は道を造られる」(God will make a way)という歌を作りました。 「主は、道を造られる。何もないと思えるようなところにも。 主は、私たちが見えない方法で働かれ 私のために道を作ってくださる。 主は、私の導き手であり、私をご自身のふところに抱いて、 愛と力を 日々新しく与えてくださり、道を造ってくださる。 主は道を造られる。 主が荒野の道に私を導かれることがあっても、 私は砂漠の中に川を見ることができる。 やがて、この天と地は滅び失せる。しかし、神のみことばは永遠に残る。 主は、今日も、何か新しいみわざをなしてくださる。」

実は彼がこの歌を作ったのは、彼が絶望の知らせを受けた時だったんです。ドン・モーエンは、ある夜、妻の母から電話を受けました。妻の妹とその夫が、恐ろしい交通事故に会い、九歳になる長男ジェレミーが命を失い、他の三人の子どもも重症を負ったとのことでした。彼は無力感に圧倒され、心に浮かぶどんなみことばも慰めにならないと思えました。そのとき、彼らのために祈る中で、神は一つの歌を与えてくださり、それを書き留めたのです。それがこの歌です。「主は道を造られる。何もないように思えるところにも。主は、私たちが見えない方法で働かれる」  それこそ、彼が妹夫婦に伝えたいことでした。神は、絶望の中に希望を生み出すことができる方です。あなたにも、「神は私をお忘れになった!」と思えるようなときがあるかもしれません。全く先が見えず、これから先、どのように進んで行ったらいいのかわからないかもしれません。しかし、神は私たちを決してお忘れにはなりません。それは、「あなたは、わたしのしもべ・・あなたは忘れられることがない」(44:21)と言われているとおりです。神はあなたを救ってくださいました。神はあなたを見捨てず、見離しません。人生が順調なときには、「これは私が成し遂げた・・」という気持ちになりがちなものです。しかし、「もう道がない・・・」と思えるときこそ、主が道を開いてくださるという恵みが見られるチャンスなのです。そのことを忘れないでください。私たちは、そのような時こそ主を見なければならないのです。

Ⅲ.罪を赦し、思い出さない神(22-28)

にもかかわらず、イスラエルはどうしたでしょうか?22節をご覧ください。ここには、「しかしヤコブよ。あなたはわたしを呼び求めなかった。イスラエルよ。あなたはわたしのために労苦しなかった。」とあります。

主が新しい事をしてくださるというのに、イスラエルはそれに応答して主に助けを求めませんでした。「あなたはわたしのために労苦しなかった」というのは、23節にあるように、ささげ物を持って礼拝しに来なかった、ということです。もちろん、主が求めておられたのは、ささげ物ではなく、砕かれたたましい、悔いた心です。にもかかわらず、彼らは主を求めることをせず、かえって罪によって、主を煩わせました。

しかし、ここにすばらしい約束があります。そのように神の約束に目を留めず、神を呼び求めようともせず、自分勝手に生きていた彼らですが、主はそんな彼らの罪をぬぐい去り、もう二度と思い出さないというのです。25節をご一緒に読みましょう。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」

「ぬぐい去る」という言葉は「赦す」という言葉と同じ言葉です。ただ赦すというのではありません。あなたの罪をもう思い出さないというのです。創造主訳聖書では「心に思い留めない」と訳しています。神の赦しは、一切心に思い留めません。これが人間の赦しと違う点です。人間の赦しは、確かに赦しますが忘れることまでは含まれていないのです。ですから、時間が経つとまた過去のことが思い出されるのです。いつのまにかまた苦々しい思いが蒸し返してきます。赦したはずなのにまだ心のどこかに憤りが残っていたり、過去の記憶がフラッシュバックしてよみがえっては、いらついたりするのです。

しかし、神は違います。神が赦すといったら、もうすべてを忘れてくださいます。あなたが神に「ごめんなさい。赦してください」と言うとき、神はご自分の記憶から消し去って、完全に忘れてくださるのです。

こんなジョークがあります。アレックスは、もう90歳になりました。彼は自宅で友人たちを食事に招き、いつものように妻のレイチェルの手料理でもてなしました。食事が終わって、レイチェルが後片付けに台所に戻った時に、友人のマイクがアレックスに感心して尋ねました。  「アレックス、あなたは何という愛妻家なんでしょう。奥さんのことをいつもダーリンとか、スゥィーティーとか、ハニーとか、ぼくのかわいい天使さんとか、かわいい小鳥ちゃん、ぼくのバラのつぼみとか呼んでるけど、その年になって、それほどまでに奥さんを愛している人はいないよ。すごいことでだね。もうボクは感動したよ。」  するとアレックスが言いました。「いやマイク、実は、この10年というもの物忘れがだいぶひどくなって、家内の名前を思い出せないんだよ。」

これはジョークですが主はジョークではなく、私たちの罪を思い出さないのです。「わたし、このわたしは、わたし自身のために、あなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」

前にもお話したことがありますが、「私の頭の中の消しゴム」というタイトルの韓国映画があります。これは若年性アルツハイマーにかかった女性とその夫のお話ですが、この映画の中で、若い二人のカップルがすてきな新婚生活を送っていましたが、この美しい奥様がアルツハイマーにかかるのです。そして、順調で幸せいっぱいの生活の中で、美しくも若い奥様の記憶が失われていきました。「僕が代わりに、君の記憶になるから」というセリフがあるのですが、自分の夫のことも忘れてしまうのはどんなに辛いことかと思います。  するとこの妻がこう言います。「私の頭の中には、消しゴムがあるんだって」 それがこの映画のタイトルです。「私の頭の中の消しゴム」  ある映画評論家が、この映画の基調は「ゆるし」だと言っています。自分を捨てた母親を赦せないでいるご主人に、この若い妻が赦しのメッセージを語っているというのです。ちょうど自分の頭からすべての記憶が消えていくように、あなたの心からもお母さんに対する憎しみが消されるようにというのです。  よく観ると、この夫婦の家の壁には、玄関の戸を叩くイエスさまの絵が飾られています。これは、イエスさまが私たちの心の扉をノックしておられる絵です。私たちの心にあるなかなか消えない憎しみの記憶は、ただイエスさまを心の中に迎え、イエスさまを信じて罪を赦していただくことによってのみ受けられるものだというメッセージなのでしょう。ただイエスさまだけが、私たちの罪を赦すことができるのです。そして、もう二度と思い出すことはなさいません。これが神の赦しなのです。それはユダヤ人、イスラエルがどれだけ良い行いをしたかによってではなく、神の恵みによる一方的な赦しなのです。

いったいどうして神はこのようなことをされるのでしょうか。ここには「わたし、このわたしは、わたし自身のために・・」とあります。どういうことでしょうか?ただ神が、神ご自身のために、一方的にあわれんで罪をぬぐい去ってくださり、もうあなたの罪を思い出さないのです。それは、神があなたを選ばれたからです。神があなたの神となってくださいました。あなたが御子イエスさまを信じ、イエスさまがあなたの罪の身代わりとして死んでくださったと信じたので、あなたはこの神の子どもになりました。ですから、どんなことがあっても神はあなたを見捨てることも、見離すこともありません。あなたが悔い改めて神に立ち返るなら、神はいつでもあなたを赦し、その罪を忘れ、もう思い出すことはしないのです。

ですから、26節のところで、主はこのように語っておられるのです。「 わたしに思い出させよ。共に論じ合おう。身の潔白を明かすため、あなたのほうから述べたてよ。」

あなたの中に何か罪が赦されるための根拠があるというのなら、それを述べたてよというのです。ありません。あなたの中には神の命令を行う力はないのです。あなたは神の律法をこれっぽっちも行うことができない弱い存在なのです。人間は神の律法を守ることができない存在なのです。だすからイエスさまが来てくださいました。律法とは別の、しかも律法と預言者によってあかしされていた神の義です。それが信仰です。

「23すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:23-24)

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。」(エペソ2:8)

私たちは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物なのです。ただ神が一方的にあなたをあわれんでくださいました。あなたが「イエスさま、あなたを私の罪からの救い主として信じます」と告白したその時から、神はあなたの神となってくださり、そのすべての罪を赦してくださっただけでなく、もう二度と思い出すことはしないのです。

これがあなたの神です。神はかつてイスラエルをバビロンから解放し、荒野に道を、荒地に川を設けられたように、あなたの人生にも新しい事をしてくださいます。神はあなたの罪を赦し、あなたを天国に入れてくださいます。あなたにはいつも罪の赦しが備えられているのです。さあ、あなたもイエスさまを信じて、神の子どもになってください。そして罪の赦し、永遠のいのちをいただいてください。神はあなたにも新しい事をしてくださいます。この神の新しい御業をワクワクしながら歩める人生はどんなに幸いなことでしょう。あなたもその中に招かれているのです。「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。」イエスさまを通してなされた救いのみわざを信じて受け入れましょう。そして、主があなたの人生になさってくださる御業を期待して待ち望みましょう。主はあなたの人生にも新しいことをしてくださるのです。

イザヤ書43章1~13節 「たとえ火の中、水の中」

きょうはイザヤ書43章から、「たとえ火の中、水の中」というタイトルでお話をしたいと思います。2節に、「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」とあります。まさに「たとえ火の中、水の中」です。どんなことがあっても神はあなたを守られます。

Ⅰ.たとえ火の中、水の中(1-4)

まず1節から4節までのところに注目してみましょう。1節には、「だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」とあります。

ここに「だが、今、ヤコブよ。」とあります。これは、これまで語られてきたことを受けての「だが・・」です。これまでどんなことが語られていたのかというと、前の章を見るとわかりますが、イスラエルがいかに霊的盲目なのかが語られてきました。42章19節には、「わたしのしもべほどの盲目の者が、だれかほかにいようか。わたしの送る使者のような耳の聞こえない者が、ほかにいようか。」と、イスラエルの霊的盲目に対して、主は驚きを隠せませんでした。主はそのような彼らを奪い取る者、かすめ奪う者に渡されました。これはバビロンのことです。どんなに言っても言うことを聞かないので、燃える怒りを注がれたのです。それは前回も言いましたように、彼らをさばくためではなく彼らを立ち上がらせるためです。イスラエルの神はあわれみ深く、恵み深い方で、どこまでも良い神さまです。ですから、彼らを救い、彼らが立ち返るために、神はそのような怒りを彼らに注いだのです。それがこの「だが、今、ヤコブよ。」なのです。 「だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」

そんなかたくななイスラエル、ヤコブではあるが、「恐れるな」と言うのです。なぜなら、主が彼らを贖ってくださったからです。主が彼らの名を呼ばれました。彼らは主のものなのです。この「贖う」と言葉は、「代価を払って買い取る」という意味です。主は代価を払って買い取られたので、彼らは主のものなのです。ですから、どんなことがあっても見離さず、見捨てることはなさいません。たとえ彼らが神に背き、罪のどん底に落ちようとも、主は彼らを見捨てるようなことは絶対にされないのです。

3節を見てください。ここには、その代価がどのようなものであったかが記されてあります。「わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。」  その身代金はエジプトであり、クシュでした。また、セバでした。クシュとはエチオピヤのことであり、また「セバ」とはエチオピヤからさらに南方にある地域のことです。主はそうした国々を彼らの身代金として支払い、彼らをバビロンから救ってくださいました。つまりイスラエルを救うために、代わりにこうした国々をペルシャ帝国に差し出したというか、治めることができるようにしたということです。

これは、究極的には私たちの罪の贖いとなって十字架にかかってくださったイエス・キリストのことを指しています。神はイスラエルを救うためにエジプトやクシュを身代金としたように、この全人類を罪から救うために、御子イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。御子を身代金として差し出すことによって、全人類を罪から救ってくださったのです。十字架につけてくださることによって・・。あなたがこの事実を受け入れ、この神の救いを信じて受け入れるなら、あなたも救われます。あなたの罪も赦され、この罪の支配から解放されるのです。神はあなたを罪から救うために、尊いひとり子のいのちを与えてくださったのです。それほどにあなたを愛されたのです。ヨハネの福音書3章16節を開いてみましょう。ここには、

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

とあります。私たちは、神の目から見ると罪深い者です。すぐに嘘をついたり、怒ったり、人を傷つけたり、心に悪い思いを抱いてしまいます。そればかりでなく、主から多くのことを教えられても心に留めず、聞こうとしません。いわゆる霊的盲人であり、霊的聾唖者です。ですから、そのままでは滅ぼされても致し方ない存在なのです。にもかかわらず神はひとり子のイエスをあなたのために遣わし、あなたの罪の身代わりとして十字架にかかって死んでくださいました。それはひとりも滅びないで、永遠のいのちを持つためです。この「ひとりも滅びることなく」の中には、あなたも含まれているのです。それが「だが、今、ヤコブよ」なのです。この「ヤコブ」のところに自分の名前を入れ替えて読んでみてください。「だが、今、とみおよ。」「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」主イエスを救い主として信じて、主のものとされた者は、どんなことがあっても見捨てられることはありません。

4節を見てください。ここには、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」とあります。ここでははっきりと神の宣言として「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と語られています。

私たちの周りにはいろいろな目がありますが、一番重要な目はこの目です。それは「わたしの目には」と言われる神の目です。この神の目であなたは高価で尊いのです。この神の目こそ絶対的な基準ではないでしょうか。だれが何と言おうと、あなたが自分で自分のことをどう思おうと、あるいはほかの人があなたことをどう見ようが、そんなのは関係ないのです。神があなたをどう見られるかが重要なことであって、その神の目であなたは高価で尊いのです。神はどれだけあなたを愛しておられるのでしょうか?それはご自分のひとり子を十字架におかけになるほどです。それほどまでに愛しておられます。本来、私たちは愛されるに値するような者ではありません。何の価値もない、裁かれても致し方ないような者です。しかし、神はこのような者をも愛してくださったので、十字架にまでかかって愛してくださったので、どこまでも愛してくださいます。たとえこの地球上にあなた1人しかいなかったとしても、イエスはあなた1人のために来て、十字架でご自分のいのちを投げ打ってくださったでしょう。だからここにはもう「あなたがた」といった複数形ではなく「あなた」とあるのです。神の愛は十把一絡げ(じゅっぱひとからげ)ではなく、一人一人に向けて差し出されているのです。あなたにとって必要なことは、あなたに差し出されているこの愛をありがたく受け入れることです。

韓国の牧師でイ・ミンソプという方が神学生の時に「きみは愛されるため生まれた」という賛美歌を作りました。

きみは愛されるため生まれた   きみの生涯は 愛で満ちている   きみは愛されるため生まれた   きみの生涯は 愛で満ちている

永遠の神の愛は 我らの出会いの中で実を結ぶ   きみの存在が私には どれほど大きな喜びでしょう

きみは愛されるため生まれた    今もその愛 受けている   きみは愛されるため生まれた   今もその愛 受けている

子どもの事件が起こったある県の小学校で、教会に行っている女の子が、この賛美歌を口ずさんでいたそうです。するとそれを聞いた担任の先生が、この歌の意味を子どもたちに知ってほしいと思い、この女の子にCDがあるかどうかを聞いたことから、この賛美歌が日本でCD化されたそうです。この賛美歌は、そのクラスで歌われ、学校で歌われ、今では全国で歌われています。それだけ「愛されている」という実感が持てないのでしょう。  けれども、この歌はされている実感を持つための歌ではありません。あなたがありのままで愛されているということを強調するために作られたものではないのです。あなたがどれほど尊い人間なのかという自分のイメージ、セルフイメージを持つための歌ではありません。これはあなたを愛してやまない神様が、あなたのためにひとり子イエス・キリストを送ってくださり、この方があなたの身代わりとなって十字架で死んでくださいました。この神の愛を信じて受け入れた者が、神の目にどれほど尊い存在なのかを歌った歌なのです。すなわち、あなたがどんなに落ちようとも、この神の救いイエス・キリストを信じて神のものとせられたのならば、神はあなたを見捨てることはせずに、あなたを助け、守ってくださいます。それほどまでに神はあなたを愛しておられるのてす。

それが2節のみことばに表されていると思います。2節をご一緒に読みます。「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」

「たとえ火の中、水の中」ということばがありますが、たとえ水の中を過ぎることがあっても、主はあなたとともにおり、たとえ川を渡るようなことがあっても、押し流されることはありません。たとえ火の中を歩くようなことがあっても、炎はあなたに燃えつくことはないのです。なぜなら、あなたの神、主、イスラエルの聖なる方が、あなたの救い主であられるからです。

水の中を過ぎるとは、おそらくイスラエルの出エジプトのことを指していると思われます。彼らはエジプトを出るとき紅海の水の中を通って救われました。また、川を渡るときというのは、約束の地に入る時に渡ったヨルダン川のことでしょう。また火の中を歩くとは、バビロンの地でシャデラク、メシャク、アベデネゴの三人の少年がネブカデネザル王の命令に背いて金の像を拝まなかったために燃える炉の中に投げ込まれたことを指していると思われます。彼らは燃える炉の中に、しかも通常の何倍もの熱い火の中に入れられましたが、まったく無傷でした。神が彼らとともにおられたからです。よく見ると、その炉の中には彼らのほかに神々の子のような方がもうひとりいたとあります。そうです、それは受肉前のイエス・キリストでした。主が彼らとともにいたので、彼らは何一つ傷を受けることはなかったのです。神が私たちの味方であるなら、いったい何を恐れる必要があるでしょうか。何も恐れる心配はありません。

神はあなたを贖ってくださいました。あなたは神の尊い代価によって買い取られたのです。あなたは神のものとなりました。ですから、神の目にあなたは高価で尊いのです。神はあなたを愛しておられます。あなたがどんなに罪に落ちても、あなたを愛してやまない主は、あなたをどこまでも救ってくださいます。どこまでに愛しておられます。それがあなたの神なのです。神があなたを贖ってくださったので、あなたは特別な神の関心と守りの対象となりました。神はどんなことがあってもあなたを守ってくださいます。それはあなたが神に贖われた神の民であり、神にとって高価で尊い存在だからなのです。

Ⅱ.神の栄光のために(5-7)

次に5節から7節までをご覧ください。5,6節をお読みします。「5 恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは東から、あなたの子孫を来させ、西から、あなたを集める。6 わたしは、北に向かって『引き渡せ』と言い、南に向かって『引き止めるな』と言う。わたしの子らを遠くから来させ、わたしの娘らを地の果てから来させよ。」

主はここでイスラエルに対して再び「恐れるな」と語られます。それだけイスラエルの民は恐れていたのでしょう。彼らが恐れていたことはどんなことだったのでしょうか?バビロンに捕らえられその圧制に苦しむ中で、自分はこれからどのようになってしまうのだろうかという恐れがあったのではないでしょうか。そのような彼らに対して主は、「恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。」と語られました。主は彼らとともにいて何をしてくださるのでしょうか?主は東から、彼らの子孫を来させ、西から、彼らを集めます。また、北に向かって、「引き渡せ」と言い、南に向かって、「引き止めるな」と言います。そのようにして、神の民を遠くから来らせ、地の果てから集めてくださいます。彼らはバビロンによって捕らえ移されていただけでなく、アッシリヤによって他の地域に捕らえ移されていたので、各地に離散していました。そういう彼らを遠くから集め、祖国エルサレムに帰還できるようにされるというのです。

これはペルシャの王クロスによってバビロンが滅ぼされたことによって成就しました。バビロンによって捕らえ移されていたユダヤ人は、70年の後に祖国エルサレムに帰還することができました。しかし、これは同時に世の終わりの預言でもあります。世の終わりには世界中に散らばっているユダヤ人が、地の果てから集められます。マタイの福音書24章31節をご覧ください。

「人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」

イエスさまは世の終わりに、ご自分が戻って来られる時、このようなことが起こると言われました。主が御使いたちを遣わすと、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めるのです。世の終わりには、再びイスラエルが復興するのです。果たせるかな、これが1948年5月14日に実現します。イスラエル共和国が国として建てられたのです。A.D.70年にローマ帝国の迫害によって世界中に離散していたユダヤ人たちが集められ、国を再興したのです。考えられないことです。考えられないことですが現実に起こりました。これは現代の奇跡と呼ばれています。なぜこのようなことが起こったのでしょうか?それはそうなるとあらかじめ聖書が告げていたからです。その預言のとおりに世界中に散らばっていたユダヤ人が集められ、祖国に帰還を果たしたのです。

ここには「北に向かって『引き渡せ』と言い、南に向かって、『引き止めるな』と言う。」とあります。おそらくこの北とは東ヨーロッパや旧ソ連のことでしょう。第二次世界大戦後、こうした国々は鉄のカーテンで仕切られていました。東ヨーロッパや旧ソ連などの共産主義国家ではユダヤ人たちが「我が民を去らせよ」と要求しデモなども行いましたが、なかなか実現しませんでした。そうした国々のブレインになっていたのはユダヤ人たちだったので、彼らがいなくなったら国として成り立たなくなってしまうからです。しかし1986年にあのチェルノブイリの事故が起こると旧ソ連がガタガタしてきて、少しずつ鉄のカーテンが開き始めました。そしてついに1990年代に入ると民主化の波が一気に押し寄せ、ベルリンの壁は崩壊し共産国政府が転覆したのです。そして北から多くのユダヤ人が帰還をはたしました。

また、「南」というのはエチオピヤのことを指しているのではないかと思います。このエチオピヤも、かつてマルクス主義による共産主義国家でした。その共産主義国家が転覆し、1984年から1991年までに2万2千人以上のユダヤ人がイスラエルに移住することができました。1948年にイスラエルが建国された時には人口が60万人だったのが、2011年には717万人に増えました。世界中からありとあらゆる障害を克服して、ユダヤ人が祖国イスラエルに帰還しているのです。これは世の終わりの兆候でもありますが、それが少しずつ成就しているのです。神はここで約束していおられるように、世界中に離散したユダヤ人を再び集めてくださるのです。ですから、恐れる必要はありません。

私たちも神を信じていると言いながら将来のことで恐れがありますが、恐れることはありません。主なる神が私たちとともにおられるからです。年をとったらどうしょうか。自分たちの年金は大丈夫だろうか。最近からだのあちこちが動かなくなってきているが、大きな病気になったらどうしょう。そういった不安が頭をよぎることがあります。しかし、恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。神がともにいてくださるのだから、恐れてはならないのです。神はイスラエルを東から、西から、北から、南から集めると言われ、その通りにされたように、私たちの将来にも確かな御業を行ってくださるのです。

いったい何のために主はこのようなことをしてくださるのでしょうか、7節をご覧ください。ここには、「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」とあります。 ここに主がユダヤ人を集められる目的が記されてあります。それは「わたしの栄光のために」です。イスラエルがいかに優れた民族であるのかを示すためではなく、神の栄光のためなのです。彼らは神の名で呼ばれた神の民なので、神の栄光のために存在しているのです。そのために神は彼らを通して現代の奇跡とも言われる偉大な御業をなされるのです。

それは私たちクリスチャンも同じです。クリスチャンとはキリストに属する者という意味です。私たちが造られ、私たちがこの世に存在しているのは、キリストの栄光を現すためです。神の栄光を現すことができるなら、私たちは自分の存在目的を果たすことができるので、それまで味わったことのないような充足感を味わうことができます。

先日、久米小百合さんが賛美の奉仕に来られました。かつて「異邦人」という歌で大ヒットし、一世を風靡した方です。この方がなぜプロの歌手をやめて教会音楽家になったのかを証してくださいました。あの芸能界というのは何千万とか何億円といったことばが宙を舞っているような世界ですが、そのような中にいて彼女は自分の居場所がなかったと言います。世間から注目を浴びていても、何の喜びも感じられなかったとき、原点に戻ろうと思いました。自分の原点って何だろうと考えてみたら、小さい時日曜学校で歌っていたあの歌にあるのではないかと思いました。「主われを愛す」小さいとき「愛す」を「アイス」と間違えてフラフラと行ったところが教会でした。そこで歌っていた讃美歌が自分の原点だと思った彼女は、教会の扉を叩きました。そこでイエス・キリストと出会ったのです。それから芸能界を退いて教会で、神をほめたたえ、キリストを証するために歌うようになりました。なぜ「異邦人」を歌わないのだろうとも思いましたが、彼女が生きているのは主の栄光のためだからです。そんなの歌ってもちっとも栄光にならなければスパッと封印するというのはさすがです。今はかつてのような大金を手にすることはありませんが、それまで味わったことのない充足感を得ていると言われました。

私たちは歌い手ではありませんが、それが何であっても目的は同じです。私たちを通して主イエス・キリストの栄光がほめたたえられることです。神の栄光のために存在しているのです。あなたは歌い手ではないかもしれません。そんな大それたことなどできないと思っているかもしれませんが、あなたがどのような人であるかは全く関係ありません。あなたを通して働かれる神の力がどのように偉大であるのかを証すること、そのためにあなたは存在しているのです。

あなたは何のために生きていらっしゃいますか?そんなこと考えたことないかもしれません。とにかく生きるために生きてきたかもしれません。結構そういう人が多いんです。何のために生きていますか?生きるため・・・。全く答えになっていませんが、結構多いのです。それほどただ漠然と生きているということでしょう。何の目的もないまま、ただ自分の満足のために、自分の栄誉、自分の栄光、出世、富、快楽、夢の実現のために生きて来られたかもしれません。あるいは家族のため、社会のため、国家のためという人もおられるかもしれません。しかし、それは的外れです。あなたが存在しているのはそのためではありません。あなたが存在しているのは、あなたを造り、あなたを罪の中から贖いだしてくださった神の栄光のためなのです。

Ⅲ.わたしの証人(8-13)

最後に8節から13節を見て終わりたいと思います。8節と9節です。「8目があっても盲目の民、耳があっても聞こえない者たちを連れ出せ。9 すべての国々をつどわせ、諸国の民を集めよ。彼らのうちのだれが、このことを告げ、先の事をわれわれに聞かせることができようか。彼らの証人を出して証言させ、それを聞く者に『ほんとうだ』と言わせよ。」

「目があっても盲目の民、耳があっても聞こえない者たち」とは、ユダヤ人たちのことです。ここでは彼らを連れ出すようにと言われています。何のためでしょうか?すべての国々に、諸国の民たちに、この方こそまことの神であることを証言させるためです。ですから10節のところに、「あなたがたはわたしの証人」「わたしが選んだわたしのしもべ」とあるのです。これはユダヤ人のことであり、私たちクリスチャンのことです。

キリスト教の異端である「エホバの証人」という名前は、ここから取られました。「ものみの塔冊子協会」ですね。彼らはこれを自分たちに適用して、「これはわれわれのことである。だからわれわれはエホバなる神の証人、エホバの証人である。」と言いました。1931年のことです。エホバの証人はチャールズ・ラッセルという人によって始められ、本来は「ものみの塔冊子協会」と言いますが、この箇所から「エホバの証人」という名称を正式に採用するようになりました。しかし、これは彼らのことではありません。神の民イスラエルのことであり、また、神に選ばれた私たちクリスチャンのことです。

なぜなら、第一にここに「わたしが選んだわたしのしもべ」とあるからです。この証人は、このしもべは神に選ばれた者です。それが証人です。もっと言いますと証人とは自分でなりたくてなれる者ではないということです。選ばれた者だけが証人になることができます。イエスは、弟子たちに次のように言われました。

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ15:16)

イエスさまが私たちを選んでくださいました。証し人は志願するのではありません。自衛隊は志願することができますが、神の証し人は志願できません。それは神に選ばれた者、キリストに選ばれた者でなければならないのです。神のキリストを否定する者が、どうしてキリストを証することができるでしょうか?救われたクリスチャン以外には、この神の証人になることはできないのです。

もう一つのことは、神の証人、キリストの証人は「わたしのしもべ」とあるように、主人ではなくしもべでなければなりません。しもべとはどのような人でしょうか?主人の言うことを忠実に実行する者、それがしもべです。いつも自分が自分がと自分があがめられ、自分がちやほやされなければ我慢できないような人は、本当の証し人になることはできません。なぜなら、しもべとは仕える者だからです。

皆さん、イエスさまはどこまで私たちに仕えてくださったのでしょうか。イエスさまは仕えられるために来たのではなく、仕えるために来られました。そして多くの人の贖いの代価として、自分のいのちを与えられました。イエスさまはしもべになり切れたからこそ、「わたしを見たものは父を見た」と言うことができたのです。私たちも自分を捨て、自分の十字架を負って、イエスに従って行く者でないと、主の証し人になることはできません。「私は・・私は・・私は・・」といつも自分のことばかり話しているようですと、神の恵みの証し人になれないのです。    そしてもう一つのことは、主の証人は「神がどのような方であるか」を知っていなければならないということです。10節に「これはあなたがたが知って、わたしを信じ、わたしがその者であることを悟るためだ。」とあります。「神は恵み深いお方だそうですね」ではなく、「神は恵み深いお方ですよ」と言わなければなりません。そのためには、神さまのことを知らなければならないのです。「知る」というのはヘブル語で「ヤーダ」と言いますが、そんなのヤーダなんて言わないでください。これは結婚生活を意味する言葉です。そういう意味で神を知るということです。そのためには神のおことばを信じて、この方にあなたの人生をおゆだねしなければなりません。そしたら、この方がどういう方かがすぐにわかります。別の言葉で言うと「ピ~ン」と来ます。それがこの「悟る」ということなのです。神を知って、神を信じて、神との間に親しい交わりを持ち、神に信頼して歩んでいると、ピ~ンとくるのです。証し人というのはそういう人のことなのです。

最後に証人のメッセージを見て終わりましょう。11節です。「わたし、このわたしが、主であって、わたしのほかに救い主はいない。」これが神の証人が語るメッセージの内容です。「やぁ、私は病気だったけども、それが治りました。感謝でした。」これも証ですが、それよりも、それを直してくださった方を伝えなければなりません。主こそ神であるということ、そして、この方以外に私たちを救うことができる救い主はいないということです。この神が唯一の主であるということ、この神こそ救い主であるということ、この二点です。この二点が証し人のメッセージです。

その方とはだれでしょうか?そうです、この方こそ主イエス・キリストです。13節に、「これから後もわたしは神だ。」とあります。この神には※がついていて、下の説明を見ると、これは直訳「彼だ」です。ですからここは「これから後も彼だ」ということになります。英語で言うとHe is.です。かつて主がモーセに現れた時に言われた「わたしはあるというものである」という表現し同じ表現です。これはギリシャ語で「エゴー・エイミー」という言葉ですが、イエスさまはそれをご自分に対して使われました。「わたしは・・である」ということばを七回繰り返され、ご自分が神であり、ヤハウェであることを証されたのです。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒4:12)

これが私たちが語るべきメッセージの内容なのです。かつて弟子たちがいのちがけで主こそ神であると宣言したように、私たちも神の恵みによって救われた者として、主こそ神であり、救い主であるということ、そしてこの方があなたの人生にどんなに大きなことをしてくださったのかを証しする者でありたいと思います。口をつぐんではなりません。あなたはそのために選ばれたのですから。

2011年の3.11.は、歴史を変えたと言われる大きな出来事でした。そしてそれ以来、なかなか復興が進まない中、また放射能汚染の影響が広がる中、人々は全く希望のない、悩みと暗黒に満ちた生活を送っています。みんな恐れを不安を抱えながら生きています。そんな中で私たちは救われました。私たちには確かな希望が与えられました。そんな私たちに与えられている使命がどれほど大きいかを感じます。私たちは人々の所に出て行って、「来て見てください。イエスさまを信じてごらんなさい。イエスさまはあなたを愛しておられます。あなたのために身代わりとなって十字架にかかってくださいました。それほどまでに愛しておられるのです。イエスさまはあなたの生涯も、私のように変えてくださるでしょう。」そういう証を立てていく者でありたいと思うのです。それが神の栄光を現す生き方です。あなたはそのために造られました。この神の愛と、神の救いを証する証人としての使命を全うできますように。

イザヤ書42章10~25節 「主に向かって新しい歌を歌え」

きょうはイザヤ書42章10節のみことばから、「主に向かって新しい歌を歌え」というタイトルでお話をしたいと思います。先週は、42章1節から9節までの箇所からお話しましたが、そこにはやがて来られるメシヤ、イエス・キリストがどのような方かが語られました。主は神の霊を無限に受けておられる方で、いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心も消すことのない優しい方です。この方は国々に救いの光をもたらしてくださる方です。私たちが見なければなせないのはこの方であるということでした。  きょうのところには、その主を見た者はどうあるべきなのかが語られています。すなわち、その主に向かって新しい歌を歌えということです。

Ⅰ.すべての者は主を賛美せよ(10-12)

まず最初に、10節から12節までをご覧ください。「主に向かって新しい歌を歌え、その栄誉を地の果てから。海に下る者、そこを渡るすべての者、島々とそこに住む者よ。荒野とその町々、ケダル人の住む村々よ。声をあげよ。セラに住む者は喜び歌え。山々の頂から声高らかに叫べ。主に栄光を帰し、島々にその栄誉を告げ知らせよ。」

ここに「主に向かって新しい歌を歌え」とあります。主によってすばらしい救いの御業がなされたので、その御業を体験した人は、その主に向かって新しい歌を歌えというのです。この「新しい歌」は、新しく作られた歌とも言えますし、新しい思いで歌えという意味でもあります。古い歌でも新しい思いで、新鮮な思いで歌えということです。主の救いの御業に対する感動を表現した歌、それが新しい歌です。

それはだれに対して語られているのでしょうか。ここには「その栄誉を地の果てから。海に下る者、そこを渡るすべての者、島々に」とあります。また、荒野とその町々、ケダル人の住む村々、セラに住む者、山々の頂からもです。すなわち、世界中の至るところで、ほめたたえよというのです。

ここに「ケダル人の住む村々」とか、「セラの住む者」とありますが、ケダル人とはアラブ人のこと、セラとは現在のヨルダンにあるペトラという地域のことです。そこは今世界遺産にもなっているところですが、そのように海に住んでいる人だけでなく、荒野に住んでいる人も、砂漠に住んでいる人もみな主を賛美するようにというのです。

特に「ケダル人」というのは創世記25章13節を見ると、その先祖はイシュマエルであったことがわかります。サラの女奴隷ハガルがアブラハムに産んだこども、それがイシュマエルで、そのこどもケダルです。彼からアラブ人が、そしてイスラム教を開いたムハンマドが出てきまきた。ムハンマドはこのケダル人の子孫なのです。このケダル人について聖書は何と言ってるかというと、詩篇120篇5節から7節のところで、次のように言っています。

「ああ、哀れな私よ。メシェクに寄留し、ケダルの天幕で暮らすとは。6 私は、久しく、平和を憎む者とともに住んでいた。7 私は平和を―、私が話すと、彼らは戦いを望むのだ。」(詩篇120:5-7)

これはダビデによって書かれてものと思われますが、ダビデはケダル人について、彼らは戦いを望むと言いました。ダビデとはユダヤ人のことですが、彼らが話すとケダル人は戦いを望むのです。そのように言いました。それはダビデの時代に始まったことではありません。こうした対立関係は、すでにイシュマエルとイサクとの間にありました。それはずっと昔から聖書に預言されていたことなのです。私たちはどうして中東でイスラエルとパレスチナがいつもケンカばっかりしているのかさっぱり理解できませんが、そしてその理由を、後から入ってきたイスラエル人がパレスチナ人たちをいじめているのではないかと思われがちですが、実はそうではないのです。ずっと昔からあったことなのです。

しかし、未来においてはそうではありません。未来においてはケダル人の村々も、一緒になって主をほめたたえるようになります。やがて彼らもコーランの神アラーではなく聖書の神主イエスを信じるようになり、主に向かって賛美をささげるようになるのです。少し長いですが、エペソ人への手紙2章11節から19節までをお読みします。

「11ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、12そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。13しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。14キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、15ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人を造り上げて、平和を実現するためであり、16また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。 17それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。18私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」

皆さん、すばらしいと思いませんか。敵意はキリストによって廃棄されたのです。やがていつの日か、その敵対関係が取り除かれ、一つの御霊によって、父なる神のみもとに近づくようになるのです。一緒に賛美する時がやって来るのです。

イギリスの作家ジェフェリー・アーチャーが「ケインとアベル」という小説を書きました。銀行の頭取ケインとアメリカのホテル王であったアベルが、ふとしたことで反目し合い、憎しみながら生活するようになりましたが、このケインの娘とアベルの息子が愛し合い、親の反対を押し切って結婚してこどもが生まれました。それがウィリアム・アベル・ケインです。この子の誕生をきっかけに長らく続いていた憎しみと復讐心の歩みに終止符が打たれ、真の和解がもたらされました。

同じように、キリストは神との断絶した関係を修復し和解をもたらすために生まれてくださいました。そしてその和解は神との和解だけででなく、私たち人間同士の間にあった憎しみと隔ての壁を取り除いてくださいました。キリストにあって敵意は廃棄されたのです。そしてやがて心を一つにして主を賛美する時がやって来るのです。

本当にすばらしいですね。事実、アラブ人の中に、イスラム教徒の人たちの中に、イエス・キリストを信じる人たちが増えてきています。これはこの預言が確実にその実現に向かって進んでいることのしるしです。どんなに敵対している者同士であっても、やがて心を一つにして主を賛美する時がやってくるのです。

Ⅱ.敵を打ち砕かれた主を賛美せよ(13-17)

次に13節から17節までをご覧ください。ここには、主を賛美する理由が記されてあります。13節には、「主は勇士のようにいで立ち、戦士のように激しく奮い立ち、ときの声をあげて叫び、敵に向かって威力を現す。」とあります。

確かに主は、心優しく、へりくだっておられる方ですが、敵に対しては勇士のようにいで立ち、激しく奮い立ち、ときの声をあげて、威力を現してくださいます。主イエスは、偽善の律法学者やパリサイ人たちに対して、「おまえたちは白く塗った墓」(マタイ23:27)だと言われました。また、エルサレムの神殿で商売をし、まるで強盗の巣のようにしている人たちに対しても、すべてそれを排除するかのように宮きよめをされました。主は黙って毛を刈られる小羊のように、私たちの罪を取り除くために死んでいかれる方ですが、同時に、敵に向かっては獅子(ライオン)のように、勇士のように、戦士のように激しく奮い立って、立ち向かい、威力を現すのです。

私たちの回りには、たましいに戦いを挑む敵であるサタンの攻撃が何と多いことでしょうか。敵であるサタンは、事あるごとに私たちのたましいに戦いを挑んできます。けれども、恐れる必要はありません。主が私たちの勇士となり、戦士となられ、そうした敵に向かって激しく奮い立ち、威力を現してくださるからです。どのように御力を現してくださるのでしょうか?

14節には、「わたしは久しく黙っていた。静かに自分を押さえていた。今は、子を産む女のようにうめき、激しい息づかいであえぐ。」とあります。これは、イスラエルがバビロンに捕らえられていた時のことを描いています。イスラエルがバビロンに捕らえられている間は、まさに忍耐の時でした。主がずっと沈黙しておられました。しかし、定めの時がきたとき、主は勇士のように出て行かれ、戦士のように奮い立ってバビロンを激しく打たれました。15節にあるように、主は山や丘を荒らし、そのすべての青草を枯らし、川をかわいた地とし、沢をからしました。そのように主は立ち上がり、敵を打ち砕いてくださるのです。

そればかりではありません。16節に、「わたしは目の見えない者に、彼らの知らない道を歩ませ、彼らの知らない通り道を行かせる。彼らの前でやみを光に、でこぼこの地を平らにする。これらのことをわたしがして、彼らを見捨てない。」とあるように、たとえイスラエルが目の見えないような者であっても、主は決して彼らを捨てるようなことはされません。むしろ、彼らの思いにまさる救いの道に導いてくださるのです。

私たちには、日々、多くの選択しなければならないことや決断しなければならないことがありますが、その決定においては、本当にどうしたらいいかと悩むものです。またこれから先のことを予想することもできません。まさに霊的盲人なのです。しかし、主はそんな見えない私たちを母親が幼いわが子の手を取って導くように、優しく導いてくださいます。私たちが知らない、想像もできない新しい道へと導いてくださるのです。

このような主をどうして賛美せずにいられるでしょうか。人が造った偶像に拠り頼むことは愚かなことです。そのような者は恥を見ます。あなたのために戦ってくださる主、あなたの人生を確かな道へ導いてくださる主をあなたは賛美せずにはいられなくなるはずです。

Ⅲ.罪から立ち返って主を賛美せよ(18-25)

ではどのようにし主を賛美したらいいのでしょうか。最後に18節から25節までを見て終わりたいと思います。まず18節から20節までをお読みします。「耳の聞こえない者たちよ、聞け。目の見えない者たちよ、目をこらして見よ。19わたしのしもべほどの盲目の者が、だれかほかにいようか。わたしの送る使者のような耳の聞こえない者が、ほかにいようか。わたしに買い取られた者のような盲目の者、主のしもべのような盲目の者が、だれかほかにいようか。20あなたは多くのことを見ながら、心に留めず、耳を開きながら、聞こうとしない。」

「耳の聞こえない者たち」とか、「目の見えない者たち」というのは、イスラエルの民のことです。19節の「わたしのしもべ」とはイスラエルのことです。彼らには神によって贖われ、神のしもべとされたにもかかわらず、神のことを心に留めようともしませんでした。神に聞こうともしませんでした。彼らは霊的に盲目であり、霊的に耳の聞こえない者でした。そんな彼らのことを主は驚いておられるのです。異邦人ならば見えないのも当然です。彼らには神の真理が伝えられていないのですから・・・。しかし、神に買い取られ、神のしもべであるはずの人たちが見えないということはあり得ないはずです。実際に、神はイスラエルに対して偉大な御業を見せてくださいました。エジプトから出るときには数々の奇跡としるしを行い、彼らの目の前で紅海が真っ二つに分けてくださいました。荒野では四十年間もマナをもって養われ、岩からはほしばしり出るほどの水を与えてくださいました。そして約束の地カナンへと導かれると、その地の住民を追い払い、約束のとおりに彼らに乳と蜜の流れる地を与えてくださいました。神は彼らを特別に取り扱ってくださったのです。それは、そのことによって彼らが、この方こそまことの神であり、全宇宙を造られた創造主であることを知るためです。そのような多くのことを見たにもかかわらず、見ても見ないふり、聞いても聞かないふりをして、心をかたくなにしました。そんな彼らを主は何と呼ばれたかというと、「うなじのこわい民」です。うなじとは首の後ろの部分です。馬の手綱を引く人はその部分を引いて言うことを聞かせるのですが、いくら引いてもウンともツンともいわないことを「うなじのこわい民」と言うのです。頑固な者のことです。イスラエルはまさに頑固な者でした。どんなに主が多くのことを見せても心に停めることをせず、多くのことを聞いても、聞き従おうとしませんでした。そんなイスラエルの民を見て主は驚いておにれるのです。

しかしそれはイスラエルだけでなく私たちも同じです。多くのことを見ながらも心に留めず、耳を開きながらも聞こうとしません。神はあなたのためにたくさんのことをしてくださいました。たくさんのことを聞かせてくださいました。なのにあなたは聞こうとせず、心に留めようとしていません。あってはならないことですが、そのような罪に、そのような不信仰に私たちも陥ってしまうことがあるのです。そのような不信仰を見て神は、同じように嘆いておられるのです。

いったいどうしたらいいのでしょうか。神に立ち返って、神に赦しを求めることです。自分たちの罪によって目が見えなくなり、耳が聞こえなくなったことに気づき、主のもとに帰らなければなりません。24節と25節をご覧ください。 「24だれが、ヤコブを、奪い取る者に渡し、イスラエルを、かすめ奪う者に渡したのか。それは主ではないか。この方に、私たちは罪を犯し、主の道に歩むことを望まず、そのおしえに聞き従わなかった。25そこで主は、燃える怒りをこれに注ぎ、激しい戦いをこれに向けた。それがあたりを焼き尽くしても、彼は悟らず、自分に燃えついても、心に留めなかった。」

皆さん、だれがヤコブを、奪い取る者に渡し、イスラエルをかすめ奪う者に渡したのでしょうか。それは主です。イスラエルは主に聞き従わなかったので、主は燃える怒りを彼らに注いだのです。イスラエルがバビロンに捕らえられるようになったのは、神が彼らをバビロンに渡されたからなのです。それはイスラエルが神の道に歩むことを願わず、そのみおしえに従わなかったからです。時に私たちが受ける苦しみというのは、私たちが罪を犯したために起こるものですから、その時には罪を悔い改め、神に立ち返らなければなりません。神がさばかれたことを認め、その神に立ち返るなら、そこに希望があるのです。

自分に起こった出来事が決して偶然ではなく、それが神からの警告であると受け止めて回心に導かれた人がいます。アドニラム・ジャドソン(Adoniram Judson)という人です。彼はやがてビルマ、今のミャンマーですが、そこへ最初の外国人宣教師として赴いて行った人ですが、最初からそうであったわけではありません。彼はイスラエルのように「うなじのこわい民」でした。彼はアメリカマサチューセッツ州プリマスにある教会の牧師のこどもとして生まれましたが、小さい頃からとても頭が良いこどもでした。彼はたった3歳で本を読むことができたほどで、子供時代に父親の書斎にあった本を全て読破しました。10歳になったとき、彼はすでに数学者となり、基礎的名ギリシャ語とラテン語も学んでいました。父親は彼がやがて偉大な人物になることを期待し、名前は同じですが、「アドニラム、あなたは非常に賢い少年だ。私はあなたが偉大な人となることを聞いたしている」と、言い聞かせていたそうです。  彼は、16歳で大学に入ることかできました。ハーバード大学は自宅から50マイルしか離れていませんでしたが、その大学はすでにリベラル(自由主義神学)になりつつあったので、彼の父親は彼をハーバードではなくプレビデンスのロードアイランド大学(後にブラウン大学となる)に送りました。その学校は聖書信仰に堅く立つ大学だと思っていたからです。彼は、入学したときすでにラテン語、ギリシャ語、数学、天文学、論理学、弁証論学ならびに倫理を知っていたので、新入生としてではなく、二年生として入学しました。  ところが、彼はそこで友人たちの影響を受けて次第に信仰から離れていきます。一歳年上のジェイコブ・イアメスという人と知り合いになりましたが、彼も秀才でとても評判のよい学生でしたが、無神論者で、クリスチャンではなかったのです。アドニラム・ジャドソンは彼と大変親密になるうちに彼の影響を多分に受け、イアメス同様、無神論者になってしまいました。もし父親がこのことを知ったら、すぐさま彼を学校から引き離したでしょうが、父親はまさか息子の友人のジェイコブ・イアメスが、自分の息子をそのような不信仰の道に引き込むなんて全く想像することができませんでした。  ジェイコブ・イアメスは、アドニラムの友達の中でリーダー的な存在でした。彼らは一緒に勉強をしたり、若い女の子とよくパーティーに行ったり、一緒に遊んだりする間柄でした。彼らはキリスト教に対する関心が全くありませんでした。彼らの関心は、偉大な作家になること、演劇家になること、俳優になることで、そういうことに話の花を咲かせていました。彼らはアメリカという新世界で、シェークスピアやゴールドスミスになることを夢見ていました。アドニラムの父親が注意を払って教えた聖書信仰は、完全に泡と消えました。ジェイコブ・イアメスは、アドニラムを彼の父親の古い信仰から解放し、富と名声の世界に彼を引き連れたのです。  いよいよ彼が大学を卒業する日、彼はクラスで主席になり、卒業生の総代に選ばれました。そして、式の後、最も名誉な席で、彼は卒業生を代表してスピーチをしました。聴衆席では彼の両親が温かく彼を見守っていまた。どんなに誇りにおもっていたこでしょう。  卒業後、彼には今後の人生を歩む準備はできていましたが、何をすべきかがわかりませんでした。それで彼は家に帰り、毎週日曜日に両親と教会へ行きましたが、そういう自分が何だか偽善者であるように感じました。父親は彼に牧師になる勉強をしてくれるように頼みましたが、彼はそのことを聞いたとき、両親に真実を話しました。両親の神は自分の神ではないこと、自分は聖書を全く信じていないこと、イエスが神の子であることを信じていないことを、話しました。  両親は、どれほどショックだったかと思います。まさかそのように代わっていたなんて、全く想像できませんでした。両親は彼を説得しましたが、彼は聞き入れませんでした。そして、馬にまたがってニューヨークへ向けて出かけて行きました。  しかし、そこに着いたとき、彼は夢に描いていた世界とは違うことに気づきました。ニューヨークは彼を温かく迎えることもなく、また仕事もありませんでした。彼はそこに数週間留まっただけで、そこを去りました。  日没前に、彼は小さな村にたどり着きました。そこに宿屋を見付け、馬を休ませ、空き部屋があるかどうか尋ねました。しかし、その宿はほとんど満杯でした。一部屋だけが残っていました。しかし、その部屋の隣は非常に病気で、今にも死にそうな若者が泊まっていると、宿屋の主人は告げました。「別に問題ない」とアドニラムは答え、ぐっすり眠れるでしょうと主人に言いました。簡単な食事をすませ、彼は床に入り、眠ろうとしました。しかし、彼はなかなか眠れませんでした。隣の部屋から、足音とか、床がきしむ音、低い話し声、うめき声、あえぎが聞こえてきたのです。彼はこれらの音にはさほど気に掛けませんでした。人が死ぬことは普通のことだと思っていたからです。  しかし、あることを考えたのです。隣の部屋の人は果たして死ぬ準備ができているだろうかという思いです。自分自身、その準備ができているだろうか?そのことを考えて眠れなかったのです。彼は自分は死に対してどのように立ち向かって行くのか?彼にとって死は、底なしの穴への、暗やみに通じる扉で、悪く言えば、死体の棺桶を覆いかぶさる土の重さが、終わり無く続き、その中で肉体が少しずつ腐っていくだけです。  同時に彼は学校の友達のことを考えました。いったい友達は何というか?結局のところ、彼らはこんな思いを笑い飛ばすだろう。そう思うと、彼は自分を恥ずかしく感じました。  太陽が窓から差し込んで、彼は目が覚めました。暗やみの中での彼の恐怖は消え失せました。彼は自分がそんなにも弱く、恐怖に怯えることに、信じがたかった。彼は着替えて朝食を取るために下に降りて行きました。彼は宿屋の主人を見付けて支払いを済ませ、隣の若者は元気になったかどうか尋ねてみました。すると主人は「その若者が死んだ」ことを告げました。その若者はどこの人か知ってるかと尋ねると、主人は「もちろんさ」と言って、彼がブラウン大学の学生で、名前はイアメス、ジェイコブ・イアメスだと答えました。彼は、最も久しい友人のジェイコブ・イアメスで、前の晩に隣の部屋で亡くなったのでした。  アドニラムは、その後数時間をどのように過ごしたのかを思い出すことができませんでした。ただ彼が思い出すことができることは、その宿をしばらく出ることが出来なかったということです。ついに彼は立って、馬に乗って走り出しました。彼の思いには一言「失われた」が駆け巡りました。死に臨んで、ジェイコブ・イアメスは失われていました。完全に失われていました。失われたままで死ぬこと。友からの死、この世界からの死、将来からの死、空中に消えていく煙のように。もしイアメスが間違っていたら、彼は永久に滅びてしまうことになる。逆に、もと聖書が文字通り真実で、神が真実であったなら、イアメスは永久に失われたままになってしまう。そしてその瞬間、アドニラムは自分が間違っていたことに気づきました。イメアスは救われるための全ての機会が失われたのです。これらの思いが、アドニラムの動揺した思いの中を駆けめぐりました。アドニラムは、彼の最も親しかった友人が自分の隣の部屋で死んだのは、決して偶然なことではないと考えました。彼は、神がこれらのことを事前に準備されたのだと悟ったのでした。  突然、彼は、聖書の神は真の神であると感じました。そして、馬の向きを変え、家に向かいました。彼の旅はたった五週間続いただけでしたが、その五週間の間に、彼のたましいを揺すぶる激変を体験したのです。彼は心の加藤の中で、自分自身のたましいと向かい合いました。彼は家に着いたときには、覚醒した罪人でした。こうして彼は回心したのです。  そして、その回心が彼をビルマへの最初の外国宣教師へと導いたのです。それまでだれ一人として訪れたことがなかった未開の地へ宣教師として行きました。そのビルマで厳しい困難の中、投獄されたり、二人の妻と数人の子供たちをなくすといった悲劇もありましたが、それでも彼は決して失われている者をキリストに導く使命、また、聖書をビルマ語に翻訳する使命を捨てませんでした。それは、彼が若い時に経験した回心の出来事があったからです。友人のジェイコブ・ イアメスの死を神からの警告として受け止め、神に立ち返ったあの経験があったからです。

あなたはどうですか。神がずっと悔い改めを求めておられるのに、平気で無視していることはないですか。まだ時間は十分あるといって、それを先延ばしにしているということはないでしょうか。どうか「立ち返れ」という神の叫びに心を傾けてください。そして、一緒に主に向かって新しい歌を歌おうではありませんか。その栄誉を心からほめたたえようではありませんか。主があなたのために、すばらしいことをしてくださったからです。あなたのためにひとり子のいのちを与えてくださいました。その救いの御業に対する応答としてもっともふさわしい態度は、その救いを受け入れて神に立ち返り、この方に向かって新しい歌を歌うことです。やがて全世界が主を賛美するようになります。どうぞあなたもその賛美の中に加わってください。