イザヤ書42章1~9節 「主のしもべ、イエス・キリスト」

きょうはイザヤ書42章のみことばから、神の御声を聞きたいと思います。タイトルは「主のしもべイエス・キリスト」です。

Ⅰ.主のしもべイエス・キリスト(1)

まず1節をご覧ください。ここには、「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。」とあります。

この「わたしのしもべ」とは、やがて来られるメシヤ、イエス・キリストのことを指しています。これが新約聖書に引用されていることからわかります。マタイの福音書12章17節から21節までを開いてください。

「17これは、預言者イザヤを通して言われたことが成就するためであった。18 「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心は喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。19争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。20彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。21 異邦人は彼の名に望みをかける。」

ある安息日にイエスが会堂に入られると、そこに片手のなえた人がいました。安息日にいやすことは正しいことか。律法学者やパリサイ人たちはイエスを訴える口実を見付けようと躍起になっていましたが、安息日に良いことをすることは正しいことであると、イエスは彼の手をいやされました。当然、パリサイ人たちはそのことを訴えようとしていたわけですが、イエスはそのことを知って、そこを立ち去られました。そして、ご自分について来られた人たちを、みないやされました。しかし、ご自分のことを人々に知らせないようと、彼らを戒められたのです。なぜでしょうか。まだご自分の時が来ていなかったからです。十字架にかかる時が来ていませんでした。そこでご自分のことを人々に知らせないようにと、戒められたのです。マタイは、このことはこのイザヤ書に書かれてあることが成就するためであってと、これを引用したのです。ですから、この「わたしのしもべ」とはイエス・キリストのことであって、イザヤはイエスが生まれる700年以上も前に、このことを預言していたのです。

「わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。」  これもイエス・キリストによって成就したことがわかります。マタイの福音書3章16~17節をご覧ください。

「16 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。17 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

これはイエスが約30 歳になられた時、ヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマをを受けた時の光景です。この時からイエスは公生涯に入られました。その最初がバプテスマを受けることだったのです。その時、天から声がありました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」父なる神が御子イエス・キリストを、忠実なしもべとして喜ばれたのです。 つまりイエスこそ天の神が承認した神の子であり、神の忠実なしもべであったのです。イエスが成すすべてのことは神が喜ばれることであり、神に受け入れられることなのです。このことによって改めてイエスが神の子、救い主であるということが確証されたと言ってもいいでしょう。

その時、天が開け、神の御霊が鳩のようにイエスの上に下られました。これはイエスが水のバプテスマを受けられたとき、同時に聖霊のバプテスマを受けられたということです。イザヤ書42章1節に、「わたしは彼の上にわたしの霊を授け」とあるとおりです。神のしもべであられるイエスは、神の霊、聖霊の注ぎを受けられたのです。この聖霊の力によってイエスは神の働きを始められました。この聖霊の力なくして、イエスは神に喜ばれる働きをすることはできませんでした。イエスが神の子であったのならどうして聖霊に満たされる必要があったのかと思われる人もいるかもしれません。それはイエスが人となられたからです。神が人となるためには、神としての特権を捨てなければなりませんでした。一時的に。そうでないと、人になることができなかったからです。もしイエスが全知全能だったら、もはや人間とは言えなかったでしょう。全知全能な人間などいないからです。しかしイエスは人として生まれてくださったので、私たちと同じ弱さ、同じ苦しみを持たれました。私たちと同じようにイエスも疲れることがあり、同じように空腹を感じることがありました。同じように喉が渇くこともありました。無力さを感じることもあったのです。それは彼が人となられたからです。しかしイエスは神の霊が注がれていたので、神にしかできないことをすることができました。イエスは無限の霊が注がれていた(ヨハネ3:34)ので、この神の霊によって公義(神の支配)をもたらすことができたのです。

それは私たちも同じです。今日イエスを信じているクリスチャンにも同じ力が与えられます。使徒の働き1章8節を開いてください。 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」  この聖霊に満たされるとき、あなたも神の力を受けて、地の果てまで、神の働きをすることができます。この力がなければただの人です。何もすることができません。ただ聖霊が注がれ、聖霊の力を受けてこそ、偉大な神の働きをすることができるのです。

Ⅱ.心優しく、へりくだった神のしもべ(2-4)

次に2節から4節までをご覧ださい。「彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声は聞かせない。彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。島々も、そのおしえを待ち望む。」

「彼」とはしもべのことですが、彼は叫ばず、声を上げず、ちまたにその声を聞かせません。これはどういうことかというと、文字通りイエスが叫ばなかったとか、声をあげなかったということではありません。ちまたにその声を聞かせなかったということではないのです。イエスは3年半の間、悪霊を追い出し、病人をいやし、神の国をちまたで宣べ伝えました。ですから、これは文字通りにそのようにしなかったということではありません。これはイエスがどのように神の国を宣べ伝えたのかということです。そして、イエスの宣教活動は全く地味なものでした。イエスは自分自身をひけらかしたり、人々を集めて大きな伝道集会をしたわけでもありません。イエスはただ名もない12人を弟子に選び、彼らと生活を共にしながら神の国を宣べ伝えました。そこには力ある人や裕福な人はいませんでした。彼らの多くは漁師たちでした。いわば無学な普通の人だったのです。中には元取税人もいました。熱心党員もいましたが、権力者とか、大富豪、有名な人はいませんでした。彼らはごく普通の、無名な、素朴な人たちでした。そういう人たちを通して福音を宣べ伝えたのです。

ですから、牢獄に捕らえられていたバプテスマのヨハネは、ある時自分の弟子をイエスのもとに送り、こう尋ねなければなりませんでした。 「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも私たちはなおほかの方を待つべきでしょうか。」(ルカ7:20)  バプテスマヨハネがそのような尋ねたのは、イエスがそのような人だったからでしょう。バプテスのヨハネのように、「燃えるようなメッセージを語っていたわけではなく、ただ淡々と神の国の福音を宣べ伝えていただけです。だからヨハネはそのように尋ねたのです。そう尋ねざるを得なかったのです。イエスがあまりにも人目を引くように語っていなかったからです。

そればかりではありません。ここに「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。」とあります。これはどういうことでしょうか?「葦」とは足のことではなく「葦」のことです。もっともこの「アシ」という名称が「悪し」というイメージにつながることから、「アシ」ではなく「ヨシ」とも呼ばれているそうですが、「アシ」「ヨシ」でもどちらでも、風が吹くとすぐに折れてしまうような弱い植物です。しかもここには「いたんだ葦」とあります。傷ついて、いたんだ葦、今にも折れそうな足です。全く価値がありません。そんな傷ついた、いたんだ葦でも、「お前なんか傷物だからだめだ」と言って折ってしまわないで、優しく守ってくれる。支えてくれるというのです。

また、ここには「くすぶる燈心を消すこともない」とあります。何ですか、「くすぶる燈心を消すこともない」とは?燈心とはランプなどの芯のことです。灯油を吸い込ませて、火をともすためのもので、綿糸などが用いられていますが、その芯のことです。ここではその芯がくすぶっているとあります。煙しか出さないようなくすぶっている芯です。そのような芯はもう役に立ちませんが、だからといって「こんなものはいらない」と言って捨ててしまわないで、もう一度新しくしてくださるというのです。たとえあなたが、「私なんかもうだめだ」と言うことがあっても、この方は声を上げるのではなく、派手に何かするのではないけれども、そういう人々に行き届いた配慮をもって道を教えてくださるというのです。イエスはこのように言われました。

「28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイ11:28-29)

皆さん、これが私たちの信じている救い主イエス・キリストです。この方は心優しくへりくだっているので、弱そうな葦であっても折ることをせず、くすぶっているような燈心であっても消すことはなさらないのです。このようにして彼は神の道を教えてくださるのです。

そればかりではありません。4節には、「彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。島々も、そのおしえを待ち望む。」とあります。これはどういうことかというと、あきらめない、挫折しない、くじけない、ということです。彼はどんな困難に直面してもひるまず、決して挫折しません。どんな悪い者たちの抵抗と攻撃があってもくじけず、与えられた使命を最後まで全うするのです。ついには地に公義を打ち立てます。なぜなら、この方は地の果てまで創造された神だからです。40章28節から31節までをもう一度みてください。

「28 あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。29 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。30 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」

これが主のしもべ、約束されたメシヤ、イエス・キリストです。このような方を信じて歩めるというのはどんなに心強いことでしょう。私たちはこの方を待ち望む者でありたいと思います。

Ⅲ.国々の光とする(5-9)

最後に5節から9節までを見て終わりたいと思います。まず5節から7節までをご覧ください。「天を造り出し、これを引き延べ、地とその産物を押し広め、その上の民に息を与え、この上を歩む者に霊を授けた神なる主はこう仰せられる。「わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守り、あなたを民の契約とし、国々の光とする。こうして、見えない目を開き、囚人を牢獄から、やみの中に住む者を獄屋から連れ出す。」

6節の「あなた」とは「主のしもべ」のことです。イエス・キリストのことであります。天と地を造られ、人間にいのちと霊を与えられた神が、この世のために主のしもべを召されました。彼に与えられた使命は国々の民が主と契約を結び、彼らが救われるために光となることです。彼は目が見えない者の目を開き、牢獄に閉じこめられている者を解放します。彼は肉体的、政治的に捕らわれた人たちを解放するだけでなく霊的に捕らわれている人々を、その罪から解放してくださるのです。

この預言のとおり、この預言から700年後に、神の子、メシヤ、救い主がこの世に来られました。そして罪と無知の中に盲目となっていた人々を、そのやみの中から救ってくださいました。キリストは十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられることによって、罪の中に捕らわれていた人たちを解放してくださったのです。

ヨハネの福音書9章には、生まれつきの盲人の目を開かれたことが記されてあります。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」(ヨハネ9:2)という弟子たちに対して、イエスは、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」(同9:3)と言って、彼の目を開かれました。それは彼の目が開かれたということだけでなく、彼の霊の眼も開かれたことを意味していました。  彼が盲目に生まれたのは、だれが罪を冒したからですか?私たちもよくする質問です。霊の目が開かれていない人はみな、このような近視眼的な見方しかできません。しかし、イエスを信じて目が開かれた人は、そうしたすべての出来事の背後に、神の栄光を見るのです。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。それはこの人の人生にとってどれほど慰めに満ちた光となったことでしょうか。

8節と9節には「わたしは主、これがわたしの名。わたしの栄光を他の者に、わたしの栄誉を刻んだ像どもに与えはしない。先の事は、見よ、すでに起こった。新しい事を、わたしは告げよう。それが起こる前に、あなたがたに聞かせよう。」 とあります。    この「主」とは太字の主で、アルファベットのYWVHの四文字が使われています。これは「ヤハウェ」といって、神聖四文字と言われています。これが主の名です。意味は「わたしは、あるというものである」です。「あってあるもの」という意味です。他の何ものにも依存しない者という意味です。ただそれだけで存在することができる自存の神という意味です。つまり、神は完全であられ、その栄光も完全なもので、陰ることも、うつろうこともありません。永遠に輝きわたるのです。それが神の栄光です。そのような栄光はとても偶像に似つかわしいものではありません。そのような物に神の栄誉を与えたりはしないのです。この栄光にふさわしい方はだれでしょう。そう、それは「主」です。神のしもべ、主イエス・キリストなのです。

この方は「新しい事」を告げられます。「先の事」は、すでに起こりました。「先の事」とは何でしょう。おそらく、それはイザヤを通して語られた神の預言のことでしょう。それはすでに起こりました。語られたとおりになりました。その主が新しいことを告げてくださいます。それはこの主のしもべ、メシヤに関することでしょう。それは必ずなるのです。このしもべによって、私たちは必ず神の栄光を見るようになるのです。この方こそ私たちを罪から救ってくださる救い主イエス・キリストなのです。

1節に「見よ」ということばがあります。何を見よというのでしょうか?「わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。」です。この方こそ私たちに神の国をもたらす救い主です。この方を見よ、というのです。実はこの「見よ」ということばは41章24節と29節にも出てきたことばです。そこでは偶像について用いられていました。偶像がいかにむなしいものなのかを見よというわけです。しかし、この方は違います。この方を見よ、と対比されて使われているのです。私たちが見なければならないのはこの神のしもべ、メシヤ、イエス・キリストなのです。

「この方以外にはだれによっても救いはありません。この御名のほかに、私たちが救われるべき名としては、私たち人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)                  この方に信頼し、この方にあなたのすべてをゆだねましょう。たとえあなたが将来のことがわからなくても、この方はあなたの将来のことも含め、あなたのすべてのことを知っておられます。この方は前もって新しい事を告げることがおできになります。この方はあなたを救ってくださる救い主なのです。ですから、この方にあなたのすべてをゆだねることが、最も懸命なことなのです。 先のことがわからないのにあれこれと心配して、自分の力で一生懸命未来を切り開いていこうとしても、そこには何の保証もありません。期待が裏切られることもあります。しかし、神は私たちの期待を決して裏切ることはありません。神はご自身のしもべを通して、私たちのために救いとなってくださいましたから。この方にあなたの人生をゆだねること、あなたの将来をゆだねること、それが懸命なことなのです。神はあなたに約束してくださいました。神はご自分のしもべイエス・キリストによって、あなたに公義(神の国)をもたらしてくださると。あなたがしなければならないことは、この主のしもべで、救い主イエス・キリストに信頼して、あなたの人生のすべてをゆだねることです。そのとき神はあなたの人生にも奇しいみ業を行ってくださるのです。

イザヤ書41章21~29節 「主だけが神」

きょうは、「主だけが神」というタイトルでお話したいと思います。21節に「あなたがたの訴えを出せ、と主は仰せられる。あなたがたの証拠を持って来い、とヤコブの王は仰せられる。」とあります。「あなたがた」とは偶像の神々のことです。ここで主は偶像の神々に呼びかけて、どちらが本物の神なのか、その証拠を持って来い、というわけです。偶像が本物の神ならば、その証拠がなくてはなりません。神は神としての証拠を見せることができることによってのみ、その正当性が認められるからです。きょうのところには主こそ真の神であるということがいかんなく示されています。きょうは主こそ神であるということについて三つのことをお話したいと思います。

Ⅰ.後に起ころうとする事を告げよ(22-24)    まず最初に22節から24節までをご覧ください。22節と23節をお読みします。「持って来て、後に起ころうとする事を告げよ。先にあった事は何であったのかを告げよ。そうすれば、われわれもそれに心を留め、また後の事どもを知ることができよう。または、来たるべき事をわたしたちに聞かせよ。後に起ころうとする事を告げよ。そうすれば、われわれは、あなたがたが神であることを知ろう。良いことでも、悪いことでもしてみよ。そうすれば、われわれは共に見て驚こう。」

ここで主は、「後に起ころうとする事を告げよ」と語られます。後に起ころうとする事を告げることのできる方が、真の神であるというのです。ここに「われわれ」とあるのは、神とイスラエルのことを指しているからです。主なる神とイスラエルが一体化しているわけです。しかし、それは同時に父、子、聖霊の三位一体の神のことを表しているといるとも言ってもいいでしょう。創世記1章26節のところで神は、「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。」と仰せになられました。その神のことです。

この神が偶像に神であることの証拠として求めたことが、「後に起ころうとすることを告げよ。」ということでした。本物の神ならば、これから後に起こることを告げることができます。これは神にしかできないことです。もしそれができるとしたら、それこそ神であると言ってもいいでしょう。しかし、できません。偶像にはこれから後にどんなことが起こることを告げることはできないのです。

しかし、聖書の神は違います。まぁ、聖書の神という表現も微妙ですね。神社の神とか、自然の神とか、神という名前が一杯あるからです。別に宣伝する訳ではありませんが、最近「創造主訳聖書」というのが刊行されまして、それではこの違いを明確にするために、その訳では「創造主」と言っています。この方がはっきりするかもしれません。ビックリするほどよく分かると好評ですので、良かったらどうぞ読んでみてください。この聖書の神、創造主なる神は、これから後に起こることを、未来のことをあらかじめ告げることができます。聖書には未来のことがたくさん記されてあります。これを何というかというと「預言」と言いますが、実に聖書の1/3、あるいは1/4がこの預言で占められています。聖書が預言の書であると言われるゆえんはここにあります。これが、聖書がユニークな書物であることの一つの大きな理由でもあるわけです。聖書はこれから後に起ころうとすることを的確に、より具体的にあらかじめ告げているのです。

たとえば25節を見ると、ここには、「わたしが北から人を起こすと、彼は来て、日の出る所から、わたしの名を呼ぶ。彼は長官たちをしっくいのように踏む。陶器師が粘土を踏みつけるように。」とありますが、これも預言の一つです。「北から人を起こす」の「北」とはペルシャのこと、「人」とはそのペルシャの王クロスのことです。彼は日の出る所から、わたしの名を呼び、長官たちをしっくいのように、陶器師が粘土を踏みつけるように踏むというのです。これはペルシャの王クロスがやって来て、バビロンを攻撃するという預言です。ちょうど陶器師が粘土を踏んで、こね返すように、バビロンを踏みつけるというのです。

このことが語られたのは、B.C.700年頃です。そしてこれが実際に起こったのは約150年後のB.C.539年なんですね。実に150年も後のことです。このときにはまだペルシャ帝国は興っていません。この時はまだアッシリヤ帝国の時代でした。この後にバビロニヤ帝国が興り、ペルシャ帝国、メド・ペルシャ帝国が興るのはその後のことなんです。勿論、クロス王もまだ生まれていません。なのにまだ生まれていない人の名前までも正確に告げているのです。そんなことあり得ないと、ある人は第二イザヤ、第三イザヤなる人物がいて、後の時代になってこれを書き加えられたのではないかと疑う人もいるのですが、神が全知全能であられるならば、むしろこのことが、この創造主なる神こそ真の神であることの証明であると言えるのです。

よくキリスト教もイスラム教も仏教もみんな同じだと言う人がいます。どの宗教もみんないいこと言ってると、いかにもすべてを学んだかのように言う人がいますが、実は、それは間違っています。そのように言うのは、実は聖書のことをよく知っていないからなのです。聖書を学んだことがある人なら、決してそのようなことは言えないでしょう。だれがこれから起こることを正確に告げることができるでしょう。聖書はただの宗教書でなければ、ただの道徳書でもありません。あるいはただの心理的な書物でもないのです。これを読めば心が穏やかになってくるという類の本ではないのです。もちろん、そのような面もありますが、それが中心ではありません。そのようなつもりで読んでいると、そうでない現実に直面してつまずいてしまうこともあるかもしれません。というのは、聖書は主こそ神であって、この神が人類の歴史の中にどのようにご介入されたのかを知り、この方に従い、この方を敬って生きることが私たち人間に与えられた喜びであり、祝福であることを示しているのです。そして、この神が本物の神ならば、後に興ろうとすること正確に、またより具体的に告げることができるのです。それが聖書です。

「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」(Ⅱペテロ1:21)

これが聖書が他の本と決定的に違う点です。世の中にはノストラダムスの大予言とか、マヤの予言といったまやかしも多くあります。しかし、それらはとても預言とは言い難いものです。なぜなら、必ず外れるからです。つい最近もマヤの預言によると、2012年12月21日に人類が滅亡すると預言して外れました。外れたらその言い訳が何かというと、どうも計算ミスがあったというのです。よく計算してみたら2012年ではなく2015年だったと手のひらを返すように説を翻しました。外れるとそうやって後回し後回しするのですが、それはまやかしにすぎません。ただ人々を恐怖と混乱に陥れるだけなのです。

しかし聖書は違います。聖書は人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語った神のことばなので、語られたことは必ず成就するのです。決して裏切ることはありません。もっとも、これが神のことばだと預言してそれが実現しなかったら、その預言者の命は取られました。そして、その預言を語った者が信じている神も否定されたのです。一つでも外れたら死ななければなりませんでした。ですから当時の預言者はいのちがけで語ったということがわかります。いい加減には語ることはできませんでした。そのようにしてできあがったのが聖書なのです。それゆえに、聖書は信じるに値するものであり、人生をかけるほどの価値あるものであることがわかります。これキリスト教なのであって、そういう点では他の宗教と全然違うということがおわかりいただけるのではないでしょうか。

勿論、旧約聖書にはイエス・キリストについての預言もたくさんあります。キリストとはメシヤ、救い主のことですが、このキリストがどこで生まれ、どのような生涯を送られ、どのような苦しみを受けられ、どのようにして死なれ、どのようにしてよみがえられるのかについて、はっきり預言されています。直接的には300回以上、間接的なものも含めると、実に350回以上も預言されているのです。ですから旧約聖書をみると、来るべきメシヤ、救い主がどのような方であるのかがはっきりわかるのです。そしてこの旧約聖書(聖書)が、ナザレ人イエスこそ、十字架にかかって死なれ、三日目に墓からよみがえられたイエスこそ救い主であると、はっきり告げているのです。ある意味で新約聖書はそのことを証明している書であると言えます。旧約聖書の中で預言されていたメシヤが、どのようにイエス・キリストにおいて成就したのかということを証明しているのです。キリスト教が世界的な広がりを持つようになったのはパウロという伝道者の影響が大きいと言われていますが、そのパウロがどのように伝道したかというと、彼はまずユダヤ教の会堂に行ってみことばを語りました。なぜユダヤ人の会堂に行ったのかというと、彼らはみな旧約聖書を信じていたからです。その旧約聖書に書かれてあるメシヤとはだれなのかを示したのです。彼は旧約聖書から論じたのです。そして、多くの人たちが聖書のことばを聞いただけで信じることができたのです。それは仏教も、キリスト教も、イスラム教もみな同じというレベルではありません。イエスこそキリスト、救い主であるという確信です。なぜなら、イエスこそ旧約聖書の中であらかじめ預言されていたメシヤであられるからです。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒4:12)

この確信です。あれから二千年が経ちました。二千年が経った今、そうした新約聖書の時代に生きた人たちの証言を通して、死たちはイエスという人物がどういう人であったかを知ることができます。イエスこそは旧約聖書の中で預言されていたメシヤ、救い主であるということをはっきり知ることができるのです。と同時に、まだ成就していないことも告げています。それは世の終わりのことです。イエス・キリストの再臨によってもたらされる千年王国と、その後に続く新天新地、新しいエルサレムについても告げられているのです。そして、これまで語られてきたことがことごとく成就してきたことを見ると、これから起こると預言されていることも100%起こると信じることができます。それは地震予知なんかよりはるかに確実なことなのです。最近も大きい地震が立て続けに起きていて、どうしたら地震が起こるのを予知することができるかと躍起になっていますが、結論から申し上げますと、どんなに科学的なデータを分析しても、地震が起こることを予知することはできないということです。だから、いつ地震が起こってもいいよにそれに備えていくことの方が重要なことなのです。しかし、主が再び来られることと、その後に千年王国がもたらされるということは必ず起こることとして聖書の中に記されてあるわけですから、そのために備えておくことはもっと重要なことです。いったいどうやって備えたらいいのでしょうか?

22節を見ると、おもしろいことが言われています。それは「先にあった事は何であったのかを告げよ。」という言葉です。先にあった事はだれにでもわかります。誰にでも告げることができます。なのにあえて「先にあったことを告げよ。」とはどういうことなのでしょうか?これは単に先にどんなことがあったのかを告げよということではなく、それがどういうことなのかを、その意味を告げて見よということです。過去についてその意味なり、真相なりを正しく語ることができなければ、未来のことについても正しく語ることができません。世界には初めがあったこと、そしてその世界が神によって造られたこと、しかも、それが秩序あるものとして造られ、その中でも人間が神に似せて、神のかたちに特別に造られたことを知っている者だけが、未来のことを正しく告げることができるからです。それはちょうどボートを漕ぐ人のようなものです。ボートを漕ぐ人は未来の方へ背を向け、過去を見ながら、未来に向かって前進していきます。それと同じです。その過去の歴史を見て、神がどのような方なのかを正しく知ることができる者だけが、未来のことを正確に告げることができるということなのであって、それはこの天地万物を造られた創造主なる神を知ること以外にはないのです。

この神を知るとき、神がいかに私たちを愛し、関わろうとされたかがわかります。私たちの努力や行いによっては決して義と認められることはなく、ただ神のひとり子であられるイエス・キリストを信じることによってのみ救われるということがわかり、そのことが後に起ころうとする事の備え、永遠の備えであることがわかるのです。

先日、生命保険の営業の方が来られました。今入っている保険の確認で伺いたいがどうかというので、「はい、どうぞお待ちしています」と言って、来られました。話の中で、私はクリスチャンなので神を信じているんですよ、という話をしたのです。この世はお上の言う通りでなんでも国が言うことを信じていますが、国が言ってることはころころ変わるので信じられません。だから、いつまでも変わらないもの、神を信じているんです。みたいなことを言いましたら、その方が「うちの職場にもクリスチャンがいる」というのです。週に3回は研修だと言って仕事を休むのだけど・・。「それはクリスチャンではなくてエホバの証人じゃないかな。クリスチャンはそんなに仕事を休むことはしないし、いつも研修があわけじゃないから・・。」「ところで、あなたもイエスさまを信じませんか。」と言ったら、この方、こう言うのです。「いや、実は私、学会なんです。今、いろいろと話を聞いてて、やっぱり信じるものがあるというのは違うなぁと思ってたんです。」というのです。ああ、そういうことだったのか・・と心に思いながらも、学会の方でも救われた人もいるんだから、ここはあきらめないでお話をしようと思い、話を続けました。「学会の方も皆さん熱心ですよね。でもキリスト教との違いがどこにあるかおわかりますか」すると、「学会では信じるだけではだめなんです」というのです。「自分でも一生懸命に頑張らないと・・。信じるだけでは救われません。」と言われました。  「そうなんです。自力本願ですよね。自分がどれだけ頑張るかの世界です。それも大切なことですが、自分の力が限界があるんじゃないですか。どんなに力のある人でもできることは限られています。そんな力を誇ってもたいしたことじゃないですよ。大切なのは神のお恵みを信じることですよ。」なんて、説教みたいなことを言いました。  その方はとても真面目で、誠実そうな方で、「保険の話にきてこんな話になってすみません」と言いながら、また聞かせてくださいと言って帰って行かれましたが、どのようにしたら救われるのかという理解が、これかの道を決定づけることになるのです。

聖書を通してつげられたこと、聖書を通して示された救い、それをどのように受け止めるのかが、後に起ころうとすることを知り、それに備えていくことにつながっていくのです。私たちの人生は未来の方に背を向け、過去を見ながら、未来に向かって進んでいくものなのだということを、覚えておきたいと思います。

Ⅱ.不思議な御業(25-27)    次に25節から27節までをご覧ください。26節と27節をお読みします。「だれが、初めから告げて、われわれにこのことを知るようにさせただろうか。だれか、あらかじめ、われわれに「それは正しい」と言うようにさせただろうか。告げた者はひとりもなく、聞かせた者もひとりもなく、あなたがたの言うことを聞いた者もだれひとり、いなかった。わたしが、最初にシオンに、「見よ。これを見よ」と言い、わたしが、エルサレムに、良い知らせを伝える者を与えよう。」

26節の「このこと」とは、25節に記されてある内容のことです。具体的には先程申し上げたように、神が北から人を起こし、長官たちをしっくいのように踏みつけるということです。それはメド・ペルシャ帝国のクロス王を起こし、バビロンを倒すという預言です。彼はバビロンにやって来て、陶器師が粘土を踏んでこね返すように、長官たちを踏みつけます。主によって送られたクロス王の前に、諸国の統治者たちは、全く抵抗できず屈服するようになるのです。

いったいだれがこんなことを考えることができるでしょうか。ここには「彼は来て、日の出る所から、わたしの名を呼ぶ。」とあります。これは解釈が困難です。これを見るとクロス王が神を知っていたかのように、信じていたかのようなイメージがありますが、そういうことではありません。クロス王は異邦の民でしたから、創造主なる神を信じていたわけではありません。

エズラ記1章2節を見ると、ここに「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜った。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。」とあります。クロスは異邦の民であって主を信じていたわけではありませんでしたが、そんな彼の意志とは関係なく、主の御業の実現のために用いられたのです。まさにアメージングです。驚くべき、不思議な御業です。いったいだれがこのようなことを考えることができるでしょう。いったいだれがこのようなことをあらかじめ告げることができるでしょう。だれもできません。ただ主だけがこれを計画し、成し遂げられました。ただ主だけがクロス王を登場させ、バビロンを滅ぼして、ご自身の民をエルサレムに帰還させることができたのです。27節には「良い知らせを伝える者」とありますが、これは預言者たちのことです。そうした預言者たちを通して主は、繰り返し繰り返し、バビロンの滅亡とクロス王による勝利、イスラエルの解放を伝えてくださったのです。これが福音です。

これが神の御業です。神の救いの御業は私たちが考えるような方法によってではなく、全く考えも及ばないような方法でもたらされます。皆さん、いったいなぜイエスは十字架につけられて死ななければならなかったのでしょうか?それは血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないからです(ヘブル9:22)。「しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。」(ヘブル9:26)それが神の救いの方法だったのです。 ある人はイエスの十字架を偶然のできごとか、あるいは殉教のようなものだと思っていますが、決してそんなものではありません。私たちが救われるためには、メシヤが私たちの罪を身代わりに負って死ななければならなかったのです。イザヤ書53章を開いてみましょう。ここには来るべきメシヤがどのようなことをされるのかが預言されていました。

「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれていく羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。 9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」(イザヤ53:4-10)    この預言のとおりに、キリストは私たちのために十字架にかかって死んでくださったのです。だれがそんなことを考えることができたでしょう。だれも考えられなかったでしょう。ですから、イエスが十字架にけられたとき多くの人たちが散り散りに散らされて行ったのです。しかし、これが神の御業でした。神は私たちが考えるようにではなく、全く不思議な方法で導いてくださいます。私たちはこの主の御手の中にすべてをゆだねなければなりません。あなたがどのように考えるかということではなく、主がどのように考えておられるのかを学び、そこにすべてをゆだねなければならないのです。

Ⅲ.偶像はむなしい(28-29)

最後に28節と29節を見て終わりたいと思います。「わたしが見回しても、だれもいない。彼らの中には、わたしが尋ねても返事のできる助言者もいない。見よ。彼らはみな、偽りを言い、彼らのなすことはむなしい。彼らの鋳た像は風のように形もない。」

私たちの回りには多くの偶像がありますが、そのような偶像に尋ねても返事は返ってきません。たとえば、占いはどうでしょうか。私たちの回りには数多くの占いがあります。普通の女性雑誌には必ずといってよいほど占いのコーナーがあります。携帯にも、インターネットにも、あるいは毎朝のテレビでも、「きょうの運勢」なんていって占っています。しかし、占いはあたかもそうであるかのように告げますが、全くあてになりません。むしろ、それに縛られて身動きが取れなくなってしまいます。それはただ将来に対する漠然とした不安を解消させるものなのです。もし日本人に「あなたが危機に遭ったとき、あなたは何に信頼しますか」と質問したら、最も多い答えがマスメディアだそうです。テレビやネットで言ってることに信頼するというのです。しかし、そうしたものは偽りであって、正しい序言を与えてはくれません。まさに29節にあるように、「彼らのなすことはむなしい。」「彼らの鋳た像は風のように形もない。」のです。それらはただ人間の欲望の型に鋳て作られたものにすぎず、むなしいのです。

私は先日同盟の牧師会があって東京に行って来ました。その日は少しゆっくりしようと思い、新幹線で行くことにしました。しかし、あまりゆっくりにはなりませんでした。というのは、その朝駅に着いたのは良かったのですが、携帯がどこかに行ってしまいました。車の中やバッグの中をどんなに探しても見当たりませんでした。時間もなかったので仕方なく帰りにもう一度探すことにしたのですが、どうも気分が落ち着かないのです。転送にしたのでどこかから電話が来たらどうしようとか、だれかが拾って勝手に使われたら大変なことになるなとか、いろいろなことを考えて上野に着きました。  あまりにも動揺があったのでこのままではよくないと、気分を落ち着かせようと、ポケットからマウスウォツシュを取り出して2,3回噴射しました。そのとたんにとんでもない味が口の中に広がりました。よく見たら、それはマウスウォツシュではなくメガネクリーナーでした。マウスウォシュだと思って机の引き出しから取り出したのはメガネクリーナーだったのです。そう言えば、ちょっと前にメガネを交換したときにもらったのを思い出しました。それを間違って噴射したのです。すぐに水道の水でうがいをしたものの、実にむなしい気持ちになりました。

「見よ。彼らはみな、偽りを言い、彼らのなすことはむなしい。」それが神のようだからと間違えるとむなしいのです。真の神はイエス・キリストです。この方以外に救いはありません。この方は後に起ころうとすることを的確に、具体的に告げることができます。この方こそあなたが信頼するに価する神なのです。この方は不思議な御業をもってあなたの人生を導いてくださいます。どうかこの方に信頼してください。あなたの中にはまだ、完全に捨てきることのできない迷信的な考えや習慣といったものはないでしょうか。しかし、それはまやかしです。主だけがまことの神です。どうかこの方を見上げ、この方だけに信頼してください。そのときあなたもあなたが想像も及ばないほどの偉大な御業を体験していくことになるのです。

イザヤ書41章14~20節 「恐れるな。虫けらのヤコブ。」

きょうはイザヤ書41章14節から20節までのみことばを通して、「恐れるな、虫けらのヤコブ」というタイトルでお話をしたいと思います。先週のところから、主こそ神であるということが語られていますが、その証拠は何かというと、主は「ひとりの人」を起こし、行く先々で勝利を収めさせるいうことでした。この人こそクロス王であり、またクロス王が指し示していた来るべきメシヤイエス・キリストです。この方はどんなことがあっても、あなたを強め、助け、守ってくださいます。なぜなら、あなたは神によって選ばれた神のしもべだからです。ですから、どんなことがあってもあなたを見捨てるようなことはなさいません。

「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」(イザヤ41:10)

そして、きょうのところには神はどのように助け、守ってくださるのかが語られます。

Ⅰ.恐れるな。虫けらのヤコブ(14)

まず14節をご覧ください。「恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。―主の御告げ―あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。」

ここで神はイスラエルを虫けらのヤコブと呼んでいます。イスラエルはもともと「ヤコブ」という名前でした。意味は「かかとをつかむ者」、「押しのける者」です。それがイスラエル、神に支配された者という名前に改名されました。今ではこれが国の名前にもなっています。しかし、もともとはヤコブなんです。かかとをつかむ者、押しのける者、ずる賢いような者であったわけです。まさに虫けらのような何の価値もない、踏みつけられて終わるような者、いてもいなくてもいいような者、そんな小さく、弱い者に対して神は、「恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。」と語られたのです。

ヘブル語をギリシャ語に訳した聖書に七十人訳聖書(Septuaginta)がありますが、この七十人訳聖書ではこのところを、「恐れるな。ヤコブ、わずかなイスラエル」と訳しています。つまり、イスラエルが少数民族であること、また軽微であることを示しています。周辺諸国に比べたら本当に小さく、わずかな数のイスラエルではありますが、恐れることはない、そう言われたのであります。なぜなら、わたしはあなたを助けるからです。あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者なので、あなたは何も恐れることはないのです。43章1節から3節までをご覧ください。

「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。」(43:1b-3:a)

「贖う」とは「代価を払って買い取る」という意味です。エジプトで奴隷の状態であったイスラエルを贖い出されたように(出エジプト15:13)、主は神の民イスラエルを罪の束縛から贖い出してくださるのです。「虫けら」のように、他から軽蔑されているようなイスラエルも、主は彼らを贖ってくださったので、救い主となってくださったので、主が彼らを助け、守ってくださいます。それゆえに恐れてはならないのです。

それは私たちクリスチャンにも言えることであります。教会に集められる人々は、ほんの一握りかもしれません。聖書の神、イスラエルの聖なる方を知っている人は、ほんとうにごくわずかです。しかし、恐れてはなりません。なぜなら、神はあなたを贖ってくださったからです。イエス・キリストという神のひとり子の尊い血をもって買い取ってくださいました。それゆえに私たちは神の目にとって高価で、尊い存在なのです。たとえあなたが水の中を過ぎるようなことがあっても、あるいは、川を渡るようなときがあっても、あなたは決して押し流されることはありません。火の中を歩いても、焼かれることはないのです。イスラエルの聖なる方が、あなたの救い主であられるからです。ややもすると私たちはそうした小さな自分の存在に絶望しがちになりますが、そんな私たちに対して主が、「恐れるな。わたしはあなたを助ける。」と言って励ましておられることを覚え、その御声を聞き続けていかなければならないのです。

茨城県下館市にある小さな教会で、一昨年の10月、その教会の中心的な働きを担っておられた信徒さんが倒れました。一命はとりとめたものの、からだの半身が動かないという後遺症が残りました。半年以上にわたる病院でのリハビリを終え、ご自宅に戻ってこられました。杖をついて少しずつ歩くこともできるようになりましたが、一つの問題があることに気づきました。それは障害者用のトイレがないとどこにも出かけて行くことができないということでた。手すりがついた洋式のトイレが必要なのです。それがないと用をたすことができません。それは教会にもありませんでした。それでせっかく歩けるようになったのに教会に来ることができませんでした。  さてどうしたものか・・、せめて教会に来れるようにできないものかと思案しているうちに、だれからともなく「トイレを直そう」という声が上がりました。しかしお金がありません。教区に納める分担金すら支払えない小さな教会で、どうやって改修工事ができるのかと思っていたところ、とにかく工事を始めようと計画が進められ、6月半ばにもちあがった話が7月末には完成しました。傾斜のあった床を平らにし、洋式のトイレと手すりを取り付けることができたのです。そして不思議なことに「トイレ改修のための献金」が集まったのでした。

トイレが出来たからといって大したことではないかもしれませんが、これが神のなさることなのです。神は私たちが考えも及ばない不思議な方法で、ご自分のみ業を行ってくださいます。だから小さいからといって卑屈なる必要はありません。何もできないといってがっかりしなくてもいいのです。私たちとともにおられる方は私たちを罪から贖ってくださったイスラエルの聖なる方なのです。この世の何にも優って偉大な方です。この方があなたを助けてくださいます。あなたにとって必要なことは自分の弱さや足りなさを見て絶望することではなく、この神を信じ、この神を見上げることです。そうすれば、主が助けてくださいます。 イエスはこのように言われました。 「小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。」(ルカ12:32)  たとえあなたがどんなに小さく、虫けらのようなものであっても、あなたの神は喜んで、あなたに御国を与えてくださいます。あなたがどんなに小さなものであっても、あなたは恐れることはないのです。

Ⅱ.新しいもろ刃の打穀機とする(15-16)

次に15節と16節をご覧ください。「見よ。わたしはあなたを鋭い、新しいもろ刃の打穀機とする。あなたは、山々を踏みつけて粉々に砕く。丘をもみがらのようにする。あなたがそれをあおぐと、風が運び去り、暴風がそれをまき散らす。あなたは主によって喜び、イスラエルの聖なる者によって誇る。」

ここで神はイスラエルを、鋭い、新しいもろ刃の打穀機とすると言われました。新しいもろ刃の打穀機とするとはどういうことでしょうか?アレック・モティア(Alec Motyer)という聖書学者が書いた注解書によると、この「もろ刃の打穀機とは、下に鋭い刃が付いた重い木の台であった」、と説明されてあります。それは石の刃でした。それを引くことによってその穂から粒をとったのです。ですから、使い古してきますと、刃が丸くなって穀物がよく落ちなくなります。しかし、それに新しい石の刃が付け替えられますと、シャープになった石の刃によって、収穫がたくさんできたのです。神はイスラエルを、その鋭い、新しいもろ刃の打穀機にすると言われました。もう虫けらに等しいと思われたヤコブを、何の価値もない、踏みつけられて死んでしまうような彼らを、新しいもろ刃の打穀機にするというのです。何という変わりようでしょうか。変身するとショッカーたちを次々とやっつける改造人間に変わる仮面ライダーどころじゃありません。新しいもろ刃の打穀機とになって、山々を踏みつけて粉々に砕き、丘をもみがらのようにするのです。私たちには山を崩すようなことはできません。人生には何と山の多いことでしょうか。目の前に山が立ちふさがって、前進することができないことがあります。しかし、神は虫けらのヤコブを新しいもろ刃の打穀機のように変え、もろもろの山を、丘を、粉々に踏み砕くようにしてくださるのです。これが神のなさることなのです。

昨年、私はアメリカに行って、その教会のスケールの大きさに驚いて帰ってきました。五千人くらいの人々が一同に会して礼拝をささげていました。あれだけの人が礼拝をするために、いったいどれほどの人たちが奉仕しているのだろうと、ざっと回りを見わたしただけで、相当数の人たちが奉仕をしていました。ある人たちは次から次に会場に入ってくる人たちを席まで案内したり、献金を集めたり、賛美の奉仕をしたり、本当にすごいの一語に尽きます。そのような人たちはほとんど全く普通の人たちだと思うのですが、喜んで仕えていました。    いったいどうしてそのようなことができるのでしょうか。そのような人たちはみな教会の有給スタッフではないはずです。それぞれが自分の仕事を持ち、月曜日から金曜日まで、あるいは土曜日まで、自分の仕事を一生懸命やっているはずです。中には会社の重役という人もいるでしょう。自分のことで忙しく走り回っている人もいるはずです。なのにみんに喜んで仕えているのはどうしてなのでしょうか。主がその人を変えてくださったからです。虫けらのヤコブのようなものを、鋭い、新しいもろ刃の脱穀機にしてくださったからです。上からの新しくされる恵みと力に満たされていたからです。この力に満たされていたので、喜んで奉仕することができたのでしょう。それは教会の奉仕だけではありません。生きることが喜びとなります。感謝になります。だから何もしないではいられないのです。そのような人生に変えてくださった主への感謝のゆえに、喜んで自分をささげたいと思ったのです。それが奉仕として現れていたにすぎません。だからそのような奉仕がどうのこうのということではなく、そのような人へと変えてくださった主の恵みの大きさを、どれほど感じているかなのです。これは信仰を律法的にとらえていては決して生まれてこないものです。上から新しくされる神の恵みの力、聖霊の力に満たされることです。そうでないと、ちょっとのことでも苦痛になります。「疲れた」とか、「大変だ」とか、「どうして私ばかりやらなければならないんだ」と、いつしか不平不満が出てきます。これでは本末転倒でしょう。本当にへりくだって、「主よ、あなたは私の主です。わたしはあなたのしもべです。用いてください。」と言って自分をささげていくとき、神はこの新しい力、新しい恵みに満たしてくださいます。あなたも鋭い、新しいもろ刃の打穀機になることができるのです。

実に神は「わたしはあなたを助ける。あなたを選んで離さない。」と言われました。「あなたの敵を踏みつけて粉々に砕く」と言われました。どんなに小さな虫けらのような者であっても、どんなに落ちぶれているような者であっても、神は新しくして、助けてくださるのです。

Ⅲ.荒野に水が流れる(17-20)

最後に17節から20節までを見て終わりたいと思います。まず17節をお読みします。「悩んでいる者や貧しい者が水を求めても水はなく、その舌は渇きで干からびるが、わたし、主は、彼らに答え、イスラエルの神は、彼らを見捨てない。」

ここでは外敵からの救いだけでなく、飢え渇きによる死からも救ってくださるという約束が語られています。バビロンの捕囚となっていたイスラエルはあわれな身分でした。水を捜し求めても得ることができず、舌が干からびるほどの、のどの渇きに苦しめられていました。しかし、神が彼らに答えられ、その渇きを潤してくださいました。どんなに悩んでいる者、貧しい者が水を求めてもその渇きがいやされることはなく、その舌は干からびてしまいますが、主がともにおられるなら、主が彼らに答え、その渇きを完全にいやしてくださるのです。イスラエルの神は、決して彼らを見捨てたりはなさらないからです。

そればかりではありません。18節と19節をご覧ください。ここには、「わたしは、裸の丘に川を開き、平地に泉をわかせる。荒野を水のある沢とし、砂漠の地を水の源とする。わたしは荒野の中に杉や、アカシヤ、ミルトス、オリーブの木を植え、荒地にもみの木、すずかけ、檜も共に植える。」とあります。

これはバビロン捕囚によって希望のない苦しみの中にいるイスラエルを回復してくださるという預言です。神がともにおられる人生は、恵みの雨によって潤される人生です。裸の丘に川が開かれ、平地に泉がわきます。荒野が水のある沢となり、砂漠の地が水の源となるのです。そして、その荒野に杉やアカシヤ、ミルトス、オリーブといったさまざまな木が植えられるようになります。それはまさに新しい創造です。それは世の終わりにおいて成就することでしょう。やがてもたらされる千年王国において、神はこの新しい創造を文字通りもたらしてくださいます。がしかし、驚くべきことにそれが今少しずつ成就しているのを見ることができます。今、イスラエルでこうした現象を見ることが出来るのです。荒野に水が流れ、多くの木が植えられています。

今から二千年前に、イスラエルはローマ帝国の迫害によって世界中に離散しました。長らく祖国を失っていたのです。第一次世界大戦の頃までイスラエルは約400年間もオスマントルコ帝国の支配下にありました。オスマントルコはパレスチナに入植していたアラブ人たちから税金を受ける際、木材で収めてもいいとしたので、税金を払いたくなかったアラブ人たちは自分たちの土地でないイスラエルの地から木を伐採して税金として収めました。そのために地は荒廃し、完全に荒地となり、砂漠化していきました。何の価値もない荒れ放題の土地になってしまったのです。  第一次世界大戦でイギリスがオスマントルコに勝利すると、ユダヤ人はイギリスの統治下、イスラエルに入植していきました。そしてパレスチナから法外な価格で土地を買い、緑地化していったのです。  第二次世界大戦の時、ナチスのホロコーストによって世界中のユダヤ人の1/3が虐殺されると、世界中の同情がユダヤ人に寄せられるようになりました。そして1900年も祖国を失っていた彼らに国家を与えようではないかということになって、国連も動いて、1948年5月14日にイスラエル共和国として独立を果たすことができたのです。1900年間も流浪の民であったイスラエルが、国の再建を果たすという人間的には全く考えられないことが実現したのです。これは現代の奇跡とまで言われたことですが、それが実際に起こりました。  しかし、周辺のアラブ諸国はそれを嫌って認めないと戦争を起こしました。それが中東戦争の始まりです。けれどもイスラエルは度重なる戦争に勝利して、国としての体制を確かなものとしていきました。と同時に、その間イスラエルは荒地の状態だった土地を緑地化していきました。ハイテク農業を駆使し、農業大国となりました。食料自給率は90%以上にのぼります。今ではたくさんのくだものや花などを世界中に輸出するようになりました。イスラエルは四国ほどの面積しか持たない小さな国ですが、農業大国になったのです。この100年間に植林された木は2億2万本にのぼります。あれほど荒地となっていた土地の緑地化に成功したのです。

ですから、この預言の完全な成就はこれから後にもたらされる千年王国において実現しますが、現代においても少しずつ成就しつつあるのです。ということはどういうことかというと、この預言は必ず成就するということです。そしてそれはそんなに遠い日のことではないでしょう。もしかすると、私たちが生きている時代に起こるかもしれません。主イエスが再臨され、この地に千年王国を樹立される日も近いのです。それがいつかとは言いません。言ったら異端者になってしまいますから。けれども、それはそんなに遠いことではないように感じます。

と同時に、これはイエスを信じて生きている私たちクリスチャンのたましいにもたらされるいのちの水のことです。文字通りにはその完成を見てはいなくとも、神は私たちの心にこの新しい創造をもたらしてくれるのです。私たちの渇いた砂漠のような心に川を作り、平地に泉をわかせ、荒野を水のある沢とし、砂漠を水の源としてくださいます。そして、そこに杉や、アカシヤや、オリーブといったさまざまに木を植えるような豊かさで潤してくださるのです。

主イエスは言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37-38)  イエスのもとに行くなら、心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。

私の妻は日本に来て34年になりますが、実はその前に1年間、大学生の時に日本に留学した経験があります。その時にホームステイした日本の家族は東京に住んでいますが、今でも日本のお父さんお母さんとしてずっと慕っています。結婚式の時にはアメリカから両親が来れなかったので、この方が一緒に手を組んでバージンロードを歩いてくださったほどです。  ところが、この方が昨年秋に尿毒症っていうんですか、尿が出なくなる病気で、それが頭に回ったのか意識を失ってしまいました。聖路加病院に二週間入院し、驚くほどの回復を見せ昨年末に自宅に戻ったということを聞いたので、二週間ほど前にお見舞いに行って来ました。  痴呆が進んでいるという家族の話とは裏腹に、昔のこともよく覚えていて、時には冗談をいいながら楽しい会話をしました。実は今回お邪魔したのはもう一つ理由がありました。それは何とかイエス様のことを信じてほしいという気持ちがあって、元気なうちに何とか伝えたかったのです。でもいざ話を出そうと思うと急に別の話になって、伝えられないでいました。  そうこうしているうちに変える時間になりました。私の心の中には残念な思いと情けない思いが入り交じっていましたが、その時お母さんがどこかの寺の住職さんが書いた色紙があると持って来てくれました。そしてそれを私たちにあげるというのです。思い出に。私が牧師だということを重々知っているのに、お坊さんが書いた色紙をあげるんですよ。そしてそれを見たら「愛」と書いてあるではありませんか。東南アジヤのどこかの国に行った時に記念に買って来た置物と一緒にそれをくれるというのです。そのときとっさに私のくちびるから、このようなことばが出ました。 「ああ、そうだ。私には何にも差し上げるものはありませんが、イエス様の愛をあげたいので祈りたいと思いますが、いいですか。」  するとお父さんが「ああ、お願いします」というので、何を祈ったか忘れましたが心を込めて祈ったのです。すると祈り終わってからお父さんが感慨深そうに言いました。「ああ、何よりのプレゼントだった」  村上のお父さんが求めていたのはこれだったんですね。この生ける水の川こそ真の意味で私たち人間のたましいを満たすことができるものなのです。

イエスは言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」イエスは、「だれでも渇いているなら、あそこに行けば満たされる」と言ったのではありません。「わたしのもとに来なさい。」と言われたのです。そのように言うことができるのは、イエスさましかいません。他のどんな人も、どんな教えも、「わたしのところに来なさい」とは言えないし、言いませんでした。彼らは、自分をいやしてくれるものや、満たしてくれたものを紹介する「道案内」にはなれましたが、そのものにはなれ得なかったのです。ただイエスだけが、「わたしのところに来て飲みなさい。」と言うことができたのです。それはイエスこそが私たちの心の渇きを潤すことができるからです。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:5)

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい」(マタイ11:28)

あなたが渇いているなら、どうぞイエスのところに来てください。そして、イエスが与えてくださる水を飲んでください。イエスを信じる者には、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになるのです。そのときあなたは、イスラエルの聖なる方、主がこのことをしてくださったことを悟るようになるでしょう。荒野のように渇いた人生の中にも、ひび、渇くことのない主の恵みの泉に掘り、そこから溢れているいのちの水を飲み続けることができますように。

イザヤ書41章1~13節 「恐れるな、たじろぐな」

きょうは、イザヤ書41章のみことばから、「恐れるな、たじろぐな」というタイトルでお話したいと思います。私たちの人生には常に恐れや不安がつきまといますが、そうした恐れが私たちを取り囲むとき、いったい私たちはどうしたらいいのでしょうか。きょうはこのことについて、力強い主の語りかけを通して学んでいきたいと思います。

Ⅰ.ひとりの者(1-7)

まず初めに1節から7節までをご覧ください。1節をお読みします。「島々よ。わたしの前で静まれ。諸国の民よ。新しい力を得よ。近寄って、今、語れ。われわれは、こぞって、さばきの座に近づこう。」

ここで主は、「島々よ」と語られます。島々とはだれのことでしょうか?イスラエルから見た島々、それは地中海の島々のことです。あるいは、世界中の島々のことと言ってもいいでしょう。日本も島国の一つですから、これは日本のことも含めて語られていると考えてよいかと思います。ですからこれはイスラエルに対して語られているのではなく、イスラエル以外の偶像を伏し拝む国々のことを指して言われているのです。どんなことが語られているのでしょうか?「わたしの前で静まれ」とか、「新しい力を得よ」ということです。これは良い意味で語られているのではなく、ある意味で皮肉っぽい意味で語られています。というのは、そのあとのところに「近寄って、今、語れ。われわれは、こぞって、さばきの座に近づこう」とあるからです。さばきの座というのは裁判のことです。ここでは裁判の法廷のシーンが背景に語られています。偶像を拝む諸国の民に対して、いったいどちらが本物の神なのか、どちらが信頼に値する力ある神なのかを論じ合おうではないか、というのです。そのために、どうぞ新しい力を得て来てください、と呼びかけているのです。

2節から4節までをご覧ください。ここではまず主なる神の力が語られています。「だれが、ひとりの者を東から起こし、彼の行く先々で勝利を収めさせるのか。彼の前に国々を渡し、王たちを踏みにじらせ、その剣で彼らをちりのようにし、その弓でわらのように吹き払う。彼は彼らを追い、まだ歩いて行ったことのない道を安全に通って行く。だれが、これを成し遂げたのか。初めから代々の人々に呼びかけた者ではないか。わたし、主こそ初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ。」

2節に記されてある「ひとりの者」ですが、これがだれなのかについては見解が分かれるとこです。一般的に多くの学者は、この「ひとりの者」とは後に起こるメディヤとペルシャの連合軍、メド・ペルシャ帝国の王であったクロスのことではないかと考えています。それはこのイザヤの時代よりも200年も後に出てくる王であります。このイザヤの時代、南ユダ王国はアッシリヤ帝国の攻撃を受け、まさに風前の灯火のような状況でした。まだメド・ペルシャ帝国は起こっていません。それが起こるのはそれから200年も後のことであります。実際にこのアッシリヤの後に起こるのがバビロニヤ帝国です。このバビロニヤ帝国によって南ユダ王国は滅ぼされ、バビロンへと捕らえ移されます。そこでバビロンの奴隷として70年の時を過ごすわけでありますが、そのバビロンを滅ぼしたのがこのメド・ペルシャ帝国です。その王様がクロス王なのです。それがこのイザヤ書の後半の背景になっていることですが、それは実にこのイザヤ時代から200年も後のことであって、そのことがここで預言されているわけです。「ひとりの者」が東から起こって、その行く先々で勝利を治めます。実際、前539年にメド・ペルシャ帝国の王クロス王はバビロンを滅ぼすと、その行く先々で勝利を収めました。そしてこのクロス王によってイスラエルはエルサレムへの帰還を果たします。そのことがここに預言されているわけです。ですから、この「ひとりの王」とはクロス王のことであるのは間違いありません。彼については44章28節と45章1節のところにも「油注がれた者クロス」と名指しで語られています。主はイザヤを通して、200年も後に起こることを、しかも実際に名前まで挙げて予め語ってくださったのです。それはまさに驚くべき事ですが、全知全能の神はこのようなこともおできになられる方なのです。

しかし4節を見ると、ここに「だれが、これを成し遂げたのか。初めから代々の人々に呼びかけた者ではないか。わたし、主こそ初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ。」とあります。このことを成し遂げたのは「わたし」だとあることから、この「ひとりの人」とはイエス・キリストのことを指しているのではないかと考える人もいます。特にここには「わたし、主こそ初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ。」とありますが、これはイエス・キリストが黙示録1章8節で語っておられることでもあるのです。「わたしはアルファであり、オメガである。」ですから、これはイエス・キリストのことでもあるわけです。ではいったいこれはどういうことなのでしょうか。

こういうことです。この「ひとりの人」とはペルシャの王クロスのことであり、また、その背後で彼を導いておられたイエス・キリストのことであったということです。この場合クロス王はキリストの陰、型として描かれていて、本体はキリストなのです。神はペルシャの王であったクロス王を起こし、神の民を勝利に導き、そこから解放してくださいましたが、それはやがて罪の奴隷の中にある人類を全く解放してくださる真の救い主イエス・キリストがおいでになられるということの預言でもあったのです。その救い主の模型のようにして、歴史的に見せてくれたのが、このクロス王であったというわけです。

ですから、やがて世界においでになられる救い主は、ペルシャのクロス王どころではないのです。真の解放者であられるイエス・キリストは、ほんとうに打ちひしがれた人たちを助けてくださる方なのです。そして、私たちはこのことが実際に成し遂げられたことを歴史を通して知っています。ペルシャの王クロス王は(ひとりの者)行く先々で勝利を収めバビロンを滅ぼすと、そこに捕らわれていたイスラエルを解放し、祖国エルサレムへと帰還させたように、それから約539年後にアダムが罪を犯して堕落して以来、人類をその罪の縄目から救い出してくださると旧約聖書の中でずっと預言されてきたメシヤ、救い主、キリストがユダのベツレヘムで生まれ、33年の罪なき生涯を送られたにもかかわらず十字架にかかって死なれ、三日目にその死の中から復活されたことによってその御業を信じる者に、全き解放をもたらしてくださいました。私たちはこのことを知っているのです。私たちの神はそのひとり子イエス・キリストによって、私たちを罪から解放してくださった救い主なる方なのです。

それに対して島々はどうでしょうか。5節から7節までをご覧ください。「島々は見て恐れた。地の果ては震えながら近づいて来た。彼らは互いに助け合い、その兄弟に「強くあれ」と言う。鋳物師は金細工人を力づけ、金槌で打つ者は、鉄床をたたく者に、はんだづけについて「それで良い」と言い、釘で打ちつけて動かないようにする。」

諸国の民は、クロス王のとどまるところを知らない快進撃を見て恐れます。そしてどうしたかというと、お互いに励まし合ってクロス王に対抗しようとするのです。ここに「兄弟」とあるのは、諸国の民がクロス王に対抗するために同盟を結んでいたことを示しています。主が起こした征服者クロス王に対抗して、すべての国々が互いに力を合わせます。そして、彼らは自分たちを守ってくれる偶像を、さらに揺るがない堅固なものにしようと、偶像をくぎで固定させ動かないようにするのです。そうした偶像は自分を造った人たちによって守ってもらうしかない、無力な存在にすぎないからです。この地上での戦いを見れば、誰が真の神なのかは一目瞭然です。どちらが本当の神なのでしょうか?誰が真の神ですか?その答えは、その行く先々で勝利を収めた神です。ペルシャの王クロスによって現された罪から解放してくださったイエス・キリストこそ真の神であって、私たちが信じるに値する方なのです。

Ⅱ.わたしはあなたを選んだ(8-9)

次に8節と9節をご覧ください。ここには、なぜ神はイスラエルを助けてくださるのか、その理由なり、根拠なりというものが記されてあります。それは、彼らは神のしもべであるからです。神の所有とされた民だからです。「しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。わたしが選んだヤコブ、わたしの友、アブラハムのすえよ。わたしは、あなたを地の果てから連れ出し、地のはるかな所からあなたを呼び出して言った。「あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、捨てなかった。」

ここで主はイスラエルのことを、「わたしのしもべ」と呼んでおられます。イスラエルは神によって特別に選ばれた民です。それだけではありません。ここには「わたしの友、アブラハムのすえよ」とも呼ばれています。主はイスラエルを国々の中から選び出してご自分の所有とされただけでなく、ご自分の友とされました。「しもべ」という言葉を聞くと私たちは否定的なイメージを抱きがちです。なんだか自由がなく、こき使われるといったイメージを抱きますが、実はしもべであるということはそうではなく、主人に守ってもらえる立場に置かれたということでもあるのです。イスラエルは主なる神によって選ばれた神のしもべです。ですから、どんなことがあっても神は彼らを守ってくださるのです。

ここには「わたしのしもべ」のあとに、「イスラエルよ。わたしが選んだヤコブ」とありますね。ヤコブは神に選ばれました。彼には双子の兄弟で兄のエサウがいましたが、神が選ばれたのは弟のヤコブでした。二人とも同じ両親イサクとリベカの子どもで、しかもヤコブは弟でエサウはお兄さんでした。にもかかわらず、神はエサウを退けヤコブを選ばれました。どうしてでしょうか?多くの人たちは彼らにはもともとそういう素地があったからではないか考えています。つまり、エサウよりもヤコブの方が性格的にすぐれていたからだというのです。たとえば、あのレンズ豆の煮物の事件がそうです。エサウは長子の権利をあの一杯のレンズ豆の煮物と交換して渡してしまいました。エサウには神の祝福を軽んじる愚かさがあったと言うのです。しかし、そういう点で言うならば、ヤコブはもっとひどい人間でした。彼はその名前のごとく「かかとをつかむ者」「おしのける者」でした。その性格は生まれた時から表れていました。彼は生まれた時、お兄さんのかかとをつかんで出てきました。お兄さんが先に出ていこうとすると、「ちょっと待って。ボクの方が先に出るから。」と兄さんのかかとをつかんで離さなかったのです。それでもタッチの差で兄さんの方が先に出ると、その長子の権利をどうやったら奪えるかと考えました。「そうだ、兄貴は食べ物に弱いから、狩りをしてお腹を空かせて帰ってきた時に美味しい煮豆を用意していたら、きっとその権利を渡すに違いない」と、長子の権利も、家督の権利も、全部奪い取って逃げて行きました。彼はまさに自分勝手な者の代表的な人物のような者です。エサウもひどい人間でしたが、ヤコブはもっとひどい人間でした。しかし神様はそんなヤコブを選ばれたのです。なぜでしょうか?パウロはその驚くべき理由をこのように語っています。

「その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださる方によるようにと、「兄は弟に仕える」と彼女に告げられたのです。」(ローマ9:11-12)

ここでのポイントは、それは彼らがまだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに定められていたということです。すなわち、神様がヤコブを選ばれたのはヤコブが人間的にすぐれたいたとか、何か良いことを行ったとかということからではなく、神さまの一方的で自由な選びによるものであったということです。

人間の頭の中には因果律というものがあって、結果には必ずそれに至る原因があると考えます。たとえば、ある人が事業に成功すると、この人がどうして成功したのかを考えて、彼が一生懸命に努力したからだとか、タイミングが良かったから成功したんだと言うわけです。あるいは逆に失敗したりすると、「あの人は悪いことばっかりしているからだ」とか、「私たちの知らない大きな罪があったからあんなふうになったんだ」と考えるのです。多くの災難で苦しむヨブに、その友人たちが取った態度はまさにこうでした。しかし、聖書にはすべてがそういうわけではないと書かれています。特に救いに関して言うならば、私たちの性格が良いからだ、悪いからだといった、私たちの側に何らかの原因があるからではなく、それはただ神様の一方的な恵みでしかないというのです。人間的に見たらどうしてエサウが憎まれ、ヤコブが救われたのかわかりませんが、神様はずっと前からそのように選んでおられたのです。ご自身の民と定めておられました。ですから、どんなことがあってもヤコブを、イスラエルを捨てられることはないのです。

それは民族としてのイスラエルだけのことではなく、霊的イスラエルである私たちクリスチャンにも言えることです。エペソ人への手紙1章3節から5節までを開いてみましょう。ここには、「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」(エペソ1:3-5)とあります。

クリスチャンもまたキリストにあって選ばれた者です。それは生まれる前から、いや世界の基の置かれる前からそのように定められていたのです。私たちがどんな人間であろうと、私たちがどんなことをしたかといったことと関係なく救われるようにと、世の始めから定められていたのです。多くの人はこの選びの教理を語ると、「最初から救われる人と救われない人がいるなんて不公平ではないか」といぶかり、この選びの教理を受け入れられないばかりか、こうしたみことばにつまずいてしまうことも少なくありませんが、聖書が言っている救いとはこういうことなのです。そして、救われてご自身の子どもとされたのならば、神のしもべ、イスラエルとされているならば、どんなことがあってもあなたが捨てられることはありません。「あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、捨てなかった。」(9b)とあるとおりです。

私たちは、時々、「神に捨てられたのではないか」と感じる時があります。祈っても祈っても暗い霧が晴れず、どんなにもがいても、どうにもならないという時がありますが、神は決してあなたを捨てたのではありません。「私は神に捨てられたのではないか」と思うそのとき、実は神はあなたの苦しみをともに担っておられるのです。そして、あなたを一歩一歩導いておられるのです。神はあなたが辛いと思うようなときにもあなたとともにいて、あなたを助けてくださいます。神は私たちを選んでくださったので、たとえ私たちが谷間の干からびた骨のような者であっても見捨てることはないのです。

何度か紹介したことがありますが、マーガレット・F・パワーズさんが書いた「あしあと」という詩をもう一度紹介したいと思います。家内に言わせると「またか」と言われるのですが、これは何度聞いてもいい詩です。

「ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。 暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。そこには一つのあしあとしかなかった。わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。このことがいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。 「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、 わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、ひとりのあしあとしかなかったのです。 いちばんあなたを必要としたときに、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、 わたしにはわかりません。」 主は、ささやかれた。 「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」    神は決してあなたを捨てたりはなさいません。ましてあなたが苦しんでいるような時に、あなたから離れるようなことはなさらないのです。あなたが苦しいときこそ、神はあなたの苦しみを共に担っていてくださるのです。このことをしっかりと覚えておきたいと思います。

Ⅲ.恐れるな、たじろぐな(10-13)

ですから第三のことは、恐れないでください、たじろがないでくださいということです。10節から13節までのところをご覧ください。10節をご一緒に読んでみましょう。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」

本当にすばらしいみことばですね。このみことばは、ぜひとも暗記しておきたいみことばの一つです。実際、このみことばによって支えられたという方も少なくないかと思います。これまで何千年もの間、苦難の中にあった多くの人たちを助け、支え、強めてきたみことばです。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」

これはイスラエルに限定されたことばではなく、私たちにも語られていることばです。人間だれでも恐れます。そのように恐れることが多いからこそ、主は何度も何度も、「恐れるな」と言って励ましてくださるのではないでしょうか。この中にも、何かのことで恐れているという方がおられるでしょうか?仕事を失うかもしれない、大きな病気になったらどうしよう、人から嫌われてしまうのではないか、これから家族はどうなってしまうのだろう・・・、そういった恐れがあるでしょうか?しかし、心配しないでください。あなたを愛し、あなたを罪から救い出し、あなたの神となってくださった主は、あなたがどのようになっても、あなたを守ってくださいます。

その根拠はどこにあるのでしょうか?第一に、「わたしはあなたとともにいる」です。この天地万物を造られた創造者なる神がともにいてくださいます。この神は人が造った、人にかたどり造られた神ではありません。金や銀、メッキをかぶせられた神ではなく、この全宇宙を造られた神なのです。この方があなたを守り、支えてくださるなら、いったい何を恐れる必要があるでしょうか。

第二、「わたしがあなたの神だから」です。神はただの神ではありません。あなたの神です。「アイ アム ユアゴッド」です。あなたと個人的に関わってくださる神なのです。かつて神はイスラエルと契約を結んでくださいました。「もしあなたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。」(出エジプト19:5)神はこの契約の絆を、実にイエス・キリストによって、私たちとの間に成立させてくださいました。これが新しい契約です。主イエス言われました。「これはわたしの血による新しい契約です。」イエスが十字架で流された血潮を信じて受け入れる者を、神は「あなたの神」と呼んでくださるのです。

第三に、「わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」です。私たちは自分が主にしがみついているから大丈夫だと思っていますが、実は私たちが神をつかんでいるのではなく、神が私たちをつかんでいてくださるのです。その手は「義の右の手」です。「義の右の手」というのはヘブル語の「ツァデーカー」といいますが、これは「勝利」という意味です。ですからこの神の右の手は勝利の手であり、また救いの手のことです。この手をもって神は私たちをつかみ、守っていてくださいます。

であれば、いったい私たちは何を恐れる必要があるでしょうか。神は必ずあなたに勝利をもたらし、繁栄を与えてくだいます。もしあなたに向かっていきりたつ者があるとしたら、そのような者は必ず恥を見、はずかしめを受けるようになります。あなたと争うような者があれば、そのような者は、無い者のようになって滅びていきます。なぜなら、あなたの神である主が、その義の右の手であなたを守ってくださるからです。

これはアメリカで実際にあった話です。シャーマン・ジャクソンさんというクリスチャンが体験したあかしです。普段、遅れたことのないシャーマン・ジャクソンさんは、ある日の夕礼拝に遅刻してしまいました。しかしそれには、大きな訳があったのです。  シャーマンは教会へ行く途中、ガソリンスタンドに、7歳の娘も一緒でしたが立ち寄りました。しかし、給油を済ませてスタンドから出ようとした矢先、一人の男が車に近づいてきて言いました。「一寸お願いがあるのですが‥‥ 。私の車が置いてある所まで乗せていただけませんか。お金払いますから。」  シャーマンは一瞬迷いました。教会に遅れると思ったからです。しかし、目の前の困っている人を助けなければと、自分に言い聞かせて、その男を助手席に乗せ、娘を後部座席に座らせて走りだしました。走り出すと間もなく、男はポケットからピストルを出して、片手でシャーマンの肩を掴み、わき腹に銃を突き当て、「おい、手を上げろ。遊びじゃないぞ。金を全部出せ。撃つぞ」と言ったのです。  シャーマンはいまだかつてこれほど驚いたことはなかったのですが、「でも、今は運転中ですから、手を上げることは出来ません」と、ちょっと、なんだか変なことを言ってしまいました。すると男は、「あ、そうか、じゃいいからとにかく金を出せ」と言いました。  そうするうちに、このシャーマンは、娘を一緒に連れて来たことを後悔しました。 ポケットに手を入れ、「これで全部だよ。持って行けよ。」と有り金を全部出して言ったのですが、この男は信用せずに、「嘘をつくな。全部出せ!」と、益々強く銃をシャーマンのわき腹に突きつけて叫びました。  このシャーマンは、テキサス州ガーランドに住み、保険代理店を営む、ギデオン聖書協会の会員でした。彼は車に、いつもギデオンの聖書を積んでいて、各聖書には1ドル紙幣が挟んでありました。それはホームレスの人々にあげるためにそうしてあったのです。銃男は聖書のドル紙幣を見て、シャーマンに向かって大声をあげました。「この大嘘つきめ、ここに金があるじゃないか。」  その時、突然シャーマンに何かが起こりました。シャーマンは大きな声で祈り出しました。「天の父よ、私の叫びを聞いてください。今、目の前にいる悪魔から救ってください。」  不思議なことですが、こう祈っているうちに、彼は思いもしなかった平安を感じるようになったのです。その時、「心配や恐怖の意識はすべて消え去りました。なんだか肝が座つてしまったのです。」と、シャーマンは、後にこの時のことをあかしして言っています。  彼は車の速度を落とし、突然Uターンをし始めたのです。  「何をしやがる!」と男は叫びました。  「車を引き返す。お前の言うことには従わない。」と、シャーマンは答えたのです。  男は銃をシャーマンの胸につきつけて、「わからんのか。お前など虫けらさ。引き金を引くぞ!」と脅かしたのですが、今度は、シヤーマンは言い返しました。  「お前こそわかっていない。僕にとって世の中で一番大切なものは神様だ。キリストはお前の銃より強い方だ。」  銃男が引き金を引こうとするのがシャーマンには分かりました。「カチッ」という音ともに撃鉄が下ろされたのですが、シャーマンはひるみませんでした。  彼は、主がともにいてくださることの平安を強く心に感じていたので、静かに車を脇に寄せ、そして停車しました。  「イエス様のことを話そう。」と、彼は銃男に言いいました。  男は、一瞬たじろいだかと思うと銃を下ろし、頭を垂れて、次に顔を上げたときに泣いていました。  「済みませんでした。赦してください。本当に殺すつもりだった。」  「赦すよ!」とシヤーマンは言ました。そしてイエス様を信じて、新しく生まれ変わるように神に祈り求めるようにと語り聞かせたのです。  また、一緒に教会に行かないかと、奨めたのですが、男はこの近くに置いてある自分の車まで連れていってくれと頼みました。その途中、男は謙虚になっていろいろと話し出し、名前は「マイク」だと名乗り、握手を求めることさえしたのです。  シャーマンは運転しながら、神様を受け入れて新しい人生を始めるようにと言い続けました。車が男の言う店の近くに来たとき、シャーマンは「ところでマイク、僕の金を返してくれよ。」と、強盗になりかかっていた男は弱々しく金を返した。「代わりにこの聖書を持っていってくれ。これまで経験したことのないほどこれを読むようになるよ。マイク、君のために祈っているよ。神様が君の人生に介入してくださるようにとね。」  シャーマンが車を男の車の横に着けると、男は出て行きました。 「男は片手に銃を持ち、もう一方に聖書を持ち、目には涙を溜めていた。」とシャーマンは語っていました。そしてシャーマンは教会へと向かったのです。ちょっと遅刻してしまったのですが。(「The Gideon」2002年1月号より)    これは、2002年に、世界中に聖書を配布している国際ギデオン協会の会報に紹介されたものですが、大変おもしろいものです。普段こんな目にあったら、必ず何もしないでおとなしく相手のいうことを聴くのがよいと思います。しかし、どんな危険な状況にあっても、主が私たちの神であり、どんなときにもともにいて、守ってくださるという約束があることは、なんと幸いでしょうか!

皆さん、神は私たちともにおられます。たとえ死の陰の谷を歩くことがあっても、わざわいを恐れません。神が私とともにおらるからです。職を失っても私たちは一人ではありません。苦難が訪れ苦しみのただ中にあっても、私たちは一人ではないのです。家族がみな背を向けても、神はそうされません。友人たちが裏切ったとしても、神は変わりません。荒野に一人立ちながら、深い孤独に震えているような時でも、私たちは一人ではなく、神はともにいてくださるのです。神がともにいてくださるなら、何を恐れる必要はないのです。

サンフランシスコにはゴールデンゲートブリッジというきれいな橋があります。1930年に建てられた、世界で最も高くて長い橋です。橋の両側に柱が立ち、真ん中は何もなくただ宙に浮いている状態です。その橋を建てるとき、数多くの危険要素のために、技術者たちはいつも不安を感じていました。結局、5人もの人が海の中に墜落するという事故が起こってしまいました。市当局は技術者たちの安全のためにいろいろな対策を試みました。その中の一つが工事現場の下に網を張るということでした。すると、その後その網の上に落ちる人はだれもいなかったそうです。なぜなら、墜落しても海の中には落ちないという安心感があったからです。不安な心が平安になり、足も震えなくなったからです。すなわち、彼らが安全網を信じたからなのです。

主こそ私たちの安全網です。主はその義の右の手は私たちを守ってくださいます。ですから、私たちの人生にどんな危険が迫ってきても、私たちは恐れたり、不安になったりしません。私たちの下に神の安全網があることを知り、神を信じる人は不安と恐れから解放されるのです。  主がともにおらられば、明日はこわくありません。明日の問題で心配することは全くいらないのです。「恐れるな。わたしがあなたを助ける」と言っているのだから。」(13) この確信があるとき、あなたも勇気をもって前進していくことができるのです。

イザヤ書40章27~31節 「鷲のように翼をかって」

きょうはイザヤ書40章のみことばから、「鷲のように翼をかって」というタイトルでお話したいと思います。30節と31節には、「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」とあります。疲れるのは年をとっているからではありません。若者でも疲れ、たゆむことがあります。現代はさまざまなストレスにさらされていて、みんな疲れ果てています。いったいどうしたらこのストレスの社会にあって、元気に生きることができるのでしょうか。ここには「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。」とあります。きょうは、この「主を待ち望む者」について三つのことをお話したいと思います。

Ⅰ.イスラエルの不満(27)

まず27節をご覧ください。「ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか。「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている」と。」

ここには、イスラエルの神に対するつぶやき、不満が述べられています。彼らは、「私の道は隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごされている」と嘆いていました。いったいなぜ彼らはそのようにつぶやいたのでしょうか。神様に拒絶されていると感じていたからです。神が自分たちの苦しみから目を背けられ、見過ごしにされていると感じていたのです。40章をずっと見て来て、確かに神が偉大な方だということはわかった。この天地を造られた創造主なる方なのでしょう。しかし、その方はいったい私とどんな関わりがあるのでしょうか。私のことなんてちっとも思っていないのではなですか。だって、私がこういう状況だというのにちっとも助けてくださいません。

前にもお話したように、この時イスラエルはバビロンという国に捕らわれ奴隷になっていました。異国の地に住む苦しみと、困難を神に訴えても、神様はウンともツンとも言ってくれません。ただじっと沈黙されるのみです。そうした中にあって彼らは、神は全く自分たちに関心を持っておられないと感じていたのです。自分たちの道が主に隠れ、正しい訴えも見過ごされていると思いました。

私たちも幾度となく、同じように感じたことがあるのではないでしょうか。それが自分の問題によるのか、あるいは、神様の何らかの計画によるものなのかはわかりませんが、全く希望を持てない状況に陥ることがあります。そして、そこから何とか抜けだそうと必死でもがいて、神に祈ったりはするものの、何の変化も起こらず、依然としてずっとその苦しみの中に置かれたままでいたりすることがあります。そのような時私たちも、自分は神様から見捨てられたのではないかと感じることがあるのです。まさにイスラエルが置かれていた状況は、そういう状況だったのです。

しかし、そのようなつぶやきは信仰から出たことではなく、彼らの弱さ、彼らの不信仰から出たものでした。というのは、40章1節には何とありましたか。「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」とありました。イスラエルは「わたしの民」なのです。神の契約の民なのです。神のものです。そのような者をどうして見捨てたりするでしょうか。

よく妻の携帯に東京の娘からメールがあったり、電話がかかってきたりすることがあります。そのメールが始まると1回、2回では終わらないので、ずっと永遠に続きます。はたから見ていると妻も自分のことで忙しくしているのに、娘からのメールにずっと付き合ってるんですね。私から見たら「今、忙しいから後でね」と言えばいいのにと思うのですが、ずっとメールを送り続けているのです。どうしてそんなことをするのでしょう。自分の娘だからです。その娘のために何とか答えてあげたいという思いがあるからではないでしょうか。自分がどんなに忙しくても自分のことは後回しにしてでも、娘のために時間を取りたいと思っているからです。主は私たちの神となられました。天の父なる神です。であれば、ご自分の子に対して隠れたり、見過ごしにされるようなことがあるでしょうか。絶対にありません。

また、これまで何度も見てきたように、神はこの天と地を造られた創造主なる神です。神はご自分が創造されたすべてのものを知っておられ、その完全なご支配の中で導いておられる方なのです。その方が私たちの人生の中に絶望と思えるような状況が起こるのを許されるのは、そこに神の何らかの深いご計画があるからなのです。

もちろんイスラエルがバビロンの捕囚となったのは彼らが神に従わなかった罪の結果です。けれども神は彼らに大切な真理を教えるためにそのことさえも用いて彼らを導こうとされたのです。ですから、彼らがさまざまな困難な状況に置かれたことも実は無意味なことではありませんでした。神はすべてのことを働かせて選れらの益とされたのです。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。」(ローマ8:28)

ルベン・トーレイ2世は中国の宣教師でした。1945年、中国で宣教の働きをしていたとき、トラックで移動中、交通事故に遭いました。病院に運ばれると、重症なので右腕を切断しなければなりませんでした。しかし、トーレイ牧師はそのことでだれも恨まず、むしろ感謝しました。「主よ、これまで両腕をくださって楽に暮らしてきました。今、片腕を取り去ってくださって感謝します。」  ひとまずアメリカに戻り、1952年に韓国で働きをするために戻って来たトーレイ牧師は、戦争後に腕や足を失った多くの人々を目撃しました。その瞬間、彼は自分に腕がないことが韓国での働きのための備えであったことを悟りました。腕のない人々の苦しみと不自由を理解することができ、彼らの心に触れることができました。そして、義手、義足を作る技術を身につけ、リハビリセンターを設立し、腕や足を失った人々や軍人のために義手や義足を作ってあげました。このようにすべての苦しみには隠された意味があるのです。

雨が降れば庭に咲いた植物がだめになってしまうので嫌になります。ですから、どちらかというとそれを否定的にとらえてしまう傾向がありますが、それは間違いです。干ばつを体験した人なら、雨がどれほどの恵みであり、祝福であるかを知っています。雨は地を潤し、良い人の上にも、悪い人の上にも、地の恵みを与えてくれます。それは私たちの人生でも同じで、人生の嵐に激しく襲われますと、その大きな力にくじけそうになりますが、実はそのような時こそ祝福なのです。天の御国はその人のものだからです。そのような人は慰められます。それもまたいつくしみ深い神がお許しになられたことですから。神は私たちをより強くするために、それが必要だと判断してなさっておられるのです。神は、雨で私たちの外側を打たれますが、そのようにして私たちの内側を強くされるのです。

ですから私たちは、永遠の創造主なる神を見上げなければなりません。この世で神の創造の御手が及ばないところはありません。神の御力は偉大で、その英知は測り知れません。この神を待ち望まなければならないのです。私たちが救いの御手を体験することができるのは、私たちの計画、知恵、知識、努力によってはどうすることもできない状況のなかで、自分の無力さを認め、生ける神だけが助けであることを心から待ち望むときなのです。

Ⅱ.主は永遠の神(28-29)

次に28節と29節をご覧ください。そのように主に不平をもらすイスラエルの民に対して、イザヤは神がどのような方であるかを思い起こさせます。「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。」

21節のところで、神はイザヤを通して異教徒たちに対して語られました。「あなたがたは知らないのか。聞かないのか。初めから、告げられなかったのか。地の基がどうして置かれたかを悟らなかったのか。」と。ここではそれを契約の民であるイスラエルに語っておられます。

クリスチャンであっても、未信者と同じように神の偉大さを、神の大きさを忘れてしまうことがあるのです。私たちはいつも神がどのような方なのかをはっきりと覚えておかなければなりません。それが、私たちがさまざまな困難に直面した時に乗り越えていくために必要なことだからです。ではイザヤはここで、神はどのような方であると言っているでしょうか。ここで彼は神のご性質を四つ紹介しています。

まず第一に、主は永遠の神であるということです。主が永遠の神であるとはどういうことでしょうか?それは、神にははじまりも終わりもないということです。神にとってはいつも「今」なのです。永遠の現在というのでしょうか。神は時間と空間を超越して存在しておられるのです。神は永遠の昔から、永遠の未来まで、ずっと存在しておられます。神が存在していない時間はありません。神はいつでも、どこにでも存在しておられるのです。

「神である主、今いまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」(黙示録1:8)

皆さん、この方はアルファであり、オメガです。最初であり、最後です。永遠に生きておられる方なのです。この方はあなたが胎内に形造られた時から、いや、そのずっと以前からも、あなたのことを知っておられます。知られない時は一瞬たりともないのです。この方があなたのことを知らないということは絶対にありません。あなたはいつも神に覚えられているのです。たとえ苦しみの中にいる時でも・・。そしてこの永遠に変わることのない神が、あなたの必要に答えて働いてくださいます。

第二に、主は地の果てまで創造された方です。すべてのものはこの方によって造られました。このことは既に見てきたことです。12節には、「だれが、手のひらで水を量り、手の幅で天を推し量り、地のちりを枡に盛り、山をてんびんで量り、丘をはかりで量ったのか。」とあります。この地球には14億Km3の水がありますが、それほとの水でも手のひらに乗せることができます。また、この宇宙は半径で460億光年の広がりがあると言われています。1光年は1年間に光が進む早さ、スピードです。光が宇宙の真ん中から端まで行くのに光の速さをもってしても460億年もかかるのです。それほど宇宙はものすごく広いわけです。その天さえも手の幅で推し量ることができるのです。この神のパワーがどれほど偉大なものであるかがわかると思います。それは私たちの想像をはるかに越えているのです。

この天地を創造された神にとってできないことなど一つもありません。たとえあなたが天地がひっくり返すような大きな問題を抱えていても、この創造主なる神にとっては何でもないことなのです。それは地のちりにも満たないような小さな問題でしかありません。だれもこの方と比べることはできません。この方の御前には、すべてのものがむなしく形ないものとされるのです。この方は地の果てまで創造された全能の神だからです。

第三に、神は疲れたり、たゆんだりすることがありません。現代ではみんな疲れています。人々はみな偶像の神々に頼り、人生の目的をこの世の富や快楽を得ることだと一生懸命に努力しますが、どんなに努力しそこにエネルギーをつぎ込んだとしても、限界と疲れを覚えるときがやってきます。また、いつまでもピンと張ったままでいることはできません。やがてその勢いは弱まり、衰えて行きます。それが人間であり、この社会です。しかし、神は疲れることがなく、たゆむ(勢いが弱まる。衰える。とまる。)ことがありません。神の御力は無限なのです。そして、その無限の力を疲れた者に与えてくださいます。「疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。」神は疲れた者、精力のない者に、このみなぎるパワーを注入してくださいます。私たちは勝手に本当に神はおられるのか?おられたとしても、こんなちっぽけな私には何も関わってくださらないだろう・・と思いがちですが、そうではありません。神は疲れた人、重荷を負っている人を招いてくださいます。そして、そのような人に力を与えて慰めてくださるのです。

第四に、その英知は測り知れません。何でしょうか「英知」とは?口語訳では「知恵」と訳しています。これは「洞察力」のことです。神は知恵に基づいた正しい判断力によって物事を正しく見分けることができるのです。神はどんな難しい状況でもすべてを理解し、個々の人間が置かれた事情や状況もまた、よく把握しておられる方なのです。神は、この測り知れない知恵、英知を持っておられる方なのです。

にもかわらずイスラエルの民が、神は自分たちの状況を知らず、全く顧みてくださらないつぶやいたのは、この神のご性質を見失っていたからです。それは私たちも同じです。「あなたがたは知らないのか。聞いていないのか。」この世で神の創造の御手が及ばない所はありません。その力は衰えず、その英知は測り知れません。あなたはこの神を見上げなければならないのです。

Ⅲ.主を待ち望め(30-31)

ですから第三のことは、「主を待ち望め」ということです。30節と31節をご覧ください。「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」

イザヤはバビロンで捕えられていたユダの人々に、主を仰ぎ見るように進めてています。捕囚の生活に疲れ果て、不満と失望を抱いていた彼らに力を与え、活気をつけてくださる主に信頼することによって、その苦しみを乗り越えていくようにと励ましているのです。

ここには、若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れるとあります。ここで「若者」が取り上げられているのはなぜでしょうか。体力を誇ることができる代表的な年代だからです。若者はお年寄りに比べて力があります。私も毎日できるだけ散歩をするようにしていますが、ゆっくり歩いておられるお年寄りの脇を通る時には、いかにも「自分はこんなにも若いんですよ」と言わんばかりに大またで、飛び跳ねるように歩いて抜き去ります。しかし、若者も疲れ、たゆむことがあります。若い男もつまずき倒れるのです。今日、力を誇っていても、明日突然無力と絶望に陥ることがあるのです。何となく気が滅入って、億劫(おっくう)になってしまうことがあります。食欲が無くなって、夜もぐっすり眠れない。全身に倦怠感があり、物事に集中できない。何にも興味がわかない。何でも自分が悪いと、自分を責めてしまう。自殺以外にもう道はないと考えてしまう。といったことがあるのです。

いったいどうしたらいいのでしょうか?ここには、「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」とあります。「主を待ち望む」とは、力をくださる方に完全に頼ることを意味しています。その力の源が主なる神です。力の源である主に自分を結びつけるとき、その人は新しい力を受けながら生きて行くことができるのです。

東京大学の名誉教授で脳生理学者であった時実利彦(ときざねとしひこ)先生は、「人間であること」という本の中で、ストレスの解消方法として次の四つのことが必要だと言っておられます。1.睡眠 2.アルコール 3.歌 4.賭け事(ただし勝つこと)。そして、最後にこう結んでいます。「しかし、何といってもストレスに対する最も効果的な方法は、心に喜びを持つことである」つまり、心の底から湧いて来るような喜びを持って生きている人は、ストレスに負けないでかえって、そのストレスをバネにして前へ進むことができるというのです。  ではどうしたら本物の喜びを持つことができるのでしょうか?そのためには二つのことを知る必要があります。一つは、人生の真の意味と目的を知ること、そしてもう一つのことは、確かなものに繋がる(つながる)ことです。イエス・キリストは言われました。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:18)

イエス・キリストが唯一確かな道です。この方は人となられた神です。この方は疲れることもたゆむこともない方です。その英知は測り知れず、疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつけてくれます。イエスのところに行くなら、イエスにつながるなら、休ませていただくことができます。「休ませる」とは「リフレッシュする」ということです。水がなくてしおれている花に水をやるともとの元気な姿に戻りますが、そのような様です。私たちはしばしば身体の疲れと共に心の疲れを覚えます。つまずき倒れてしまうこともあります。しかし、そんな私たちの心の中に絶えず無限の力を注いで下さる創造者なる神、永遠の神、復活の神にしっかり繋がって生きるなら、どんなストレスがあっても疲れることなく、またたゆむことなく、走ることができるのです。

それは鷲が翼をかって上るようだとあります。皆さんも、鷲が翼をかって上るのを見たことがあるでしょう。鷲は雀のように羽をバタバタさせません。それは最初だけで、あとは上昇気流にのって一気に空高く上っていきます。自分の力は必要ありません。上昇気流に乗れば、自分の力以上の所まで上ることができます。とても自分の力では飛ぶことができない所まで飛んでいくことができるのです。それが主を待ち望む者の姿です。主を待ち望む者はバタバタしたりしません。焦ることも、慌てることもしません。主を待ち望む者は主がどのような方なのかを知って、主の力を信じ、主にすべてをゆだねます。聖霊の上昇気流、聖霊の風を待ち望むのです。その神の霊によって力を得るのです。

今、皆さんの中に疲れている人がおられますか?あなたは主を待ち望む必要があります。最近たるんできたなぁと感じている人がいますか?そのような人はイエスのところに行ってください。そうすれば、イエスがあなたを休ませてくださいます。そうすれば、再び新しい力を受けることができます。また、新しい歩みをしていくことができるのです。神が与えてくださる聖霊の力によって、走ってもたゆまず、歩いても疲れないクリスチャン生活、疲れ知らずのクリスチャンにさせていただこうではありませんか。

最後に、映画「炎のランナー」の主人公となったエリック・リデルというクリスチャンの話をして終わりたいと思います。舞台は1924年にパリで行われたオリンピックです。100㍍の金メダル最有力候補であったエリック・リデルは、その予選が日曜日にあるということで主日遵守を理由に棄権し、その日彼はパリ中心部のスコットランド長老教会の礼拝で説教をしました。長老教会特有の十数段の踏み段をのぼって高い説教壇に立ったエリックは、このイザヤ書の聖書箇所を朗読しました。彼が朗読している最中にも競技はどんどん進み、勝って喜ぶ選手もいれば、敗れて疲労感に苛まれている選手も続出していました。そんな中で彼はこう宣言したのです。 「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」  数日後、彼は400㍍の出場権を得、決勝に進出しました。しかし、周りのだれも彼に注目することはありませんでした。彼が400㍍のための練習はしていなかったからです。彼の走り方はスムーズとはとても言い難い、野生の馬のような荒っぽい型破りのものでした。前半の200㍍で力を使い果たして、後半はバテてしまうだろうと思われていました。実際、エリックは前半を全速力で走りトップに立ちました。いよいよ後半に入ります。 「そのときエリックの頭がうしろに倒れた。力がこんこんと湧き出ている時に見せる、エリック独特のランニング・ポーズだった。これまでより、いっそうスピードが加わった。走りながら流れ込む空気を吸うように口を開け、力をふりしぼるように両腕を振った。ますますペースが速くなった。」(「炎のランナー」序より)  彼は当時の世界記録47秒6で優勝し、その記録はその後20年間破られなかったそうです。いったいどこからそんな力が湧き出てきたのでしょう。主なる神です。彼は自分の力ではなく、主を待ち望み、主の力によって走り続けたのです。主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

私たちも、エリック・リデルのように主を待ち望む者でありたいと思います。いつも天を仰ぎ、そこからこんこんと湧き出る主の力、聖霊の力に満たされて、この信仰の馳せ場を走り抜きたいのです。

アンドリュー・マーレイは、「神を待ち望め」という本の中で、次のように言っています。「神を待ち望むことは、主として祈りの中で遂行されなければなりません。もし私たちの待ち望みが自然的働きを沈静させることから始まり、神の前に静まり、やがて頭を垂れて、すべての善を成しうる唯一の神のみ業を慕い求め、さらに、神は私たちのうちにもみ業を成そうとしておられるという確信に進むまで待つことができるなら、待ち望みこそ、真に魂の力と喜びになることでしょう。」

今週どこかできちんと時間を取り、主の前に静まり、主を待ち望むことを実践したいですね。そのように主を待ち望む人は、新しく力を得て、鷲のように翼をかって上ることができるのです。走ってもたゆまず、歩いても疲れません。そんな尽きることのない神の力をいただいて、今週も前進していきましょう。

イザヤ書40章9~26節 「見よ、あなたがたの神を」

きょうはイザヤ書40章のみことばから、「見よ、あなたがたの神を」というタイトルでお話したいと思います。イザヤ書はこの40章から後半部分に入りました。ここからはイスラエルに対する回復と希望のメッセージが語られます。神に背いたイスラエルはバビロンによって滅ぼされ捕囚の民となりますが、神はそこから解放されるというメッセージを語られるのです。9節をご覧ください。 ここには、「シオンに良い知らせを伝える者よ。高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ。力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。「見よ。あなたがたの神を。」とあります。

良い知らせとは何でしょうか。良い知らせとは、神がバビロンから解放してくださるいう知らせです。もう奴隷として縛られるとはありません。罪の奴隷として縛られるこがないのです。キリストが十字架にかかってあなたの罪を贖ってくださったので、あなたはもう罪に悩まなくてもいいのです。あなたは天国に行くことができます。神があなたを救ってくださいました。これが良い知らせです。あなたがこの神を見るなら、あなたは慰めを受けます。いったいこの方はどのような方なのでしょうか。

Ⅰ.力ある神(10-11)

まず第一に、この方は力ある神です。10節と11節をご覧ください。10節にはこうあります。「見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。」

神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治められます。バビロンがどんなに力があっても私たちの主はもっと力ある方です。この力ある方が来られ、この世のすべての権力と支配を打ち破り、エルサレムで王としてご自分の民を治めてくださいます。そして、そのわざに応じて報いてくださるのです。この理不尽な世界がいつまでも続くのではありません。やがて王の王、主の主であられるイエス・キリストが来られ、この理不尽な世界を統べ治めてくださいます。その時主は、私たちのわざに応じて報いてくださいます。すなわち、耐え忍んで善を行い、栄光とほまれと朽ちぬものとを求める人には、永遠のいのちが与えられ、党派心をいだき、真理に従わないで不義に従う人には、怒りと激しい憤りとが下るのです。忍耐をもって善を行い、最後まで主に従い通すなら、神が「よくやった。良い忠実なしもべだ。」と言って報いてくださるのです。ここに慰めと希望があります。

そればかりではありません。11節を見ると、「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。」 とあります。主の御腕はすべてを統べ治める力強い御腕であるだけでなく、同時に子羊を引き寄せ、そのふところに抱き寄せてくださる優しい御腕でもあります。「私はあの人のようにパッ、パッっと聖書を開けない」、「あの人のように流暢に祈ることもできなければ、奉仕もできない。献金もできない。」という方がおられるでしょうか。大丈夫です。たとえあなたが子羊のように未熟であっても、どんなに小さな者であっても、主は羊飼いのように群れを養い、その御腕でふところに引き寄せてくださるからです。皆さん、牧者である主の御腕はどんなに太く、どんなに優しい腕なのでしょうか。私たちの人生には、失敗があり、失望もあり、望みがなくなってしまう時がありますが、そのような時でも「永遠の腕が下に」(申命記32:27)にあるのです。神はそのどん底にまで力強いみ腕を差し伸べ、その羊をふところに入れ、乳を飲ませる者を優しく導いてくださいます。

ヨハネの福音書10章11節を開いてください。ここには、「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」とあります。皆さん、良い牧者は羊のためにいのちを捨ててくださいます。羊のためにいのちを捨てるような牧者がいるでしょうか。そのような牧者はこの方イエス・キリスト以外にはいません。私がどれほどフェレットを愛していても、死ぬことはできません。身代わりに死ぬなどということなどとんでもないことです。しかし、この方は違います。この方は羊のためにいのちを捨ててくださいます。ちりにすぎないような私たち人間のために、代わりに死んでくださるのです。それがイエス・キリストなのです。

ヘブル人への手紙13章20~21節も開いてみましょう。ここには「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が、イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行い、あなたがたがみこころを行うことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。どうか、キリストに栄光が世々限りなくありますように。アーメン。」とあります。ここではイエス・キリストが永遠の羊の大牧者と言われています。この方は私たちのために死んでくださっただけでなく、その死からよみがえってくださいました。そして、今も生きて、天でとりなしていてくださるのです。これが私たちの主イエス・キリストです。

また、Iペテロ5章4節も開いてみましょう。ここには「そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。」とあります。大牧者とはイエス・キリストのことです。この方は再び現れてくださいます。イエス・キリストは死んで、よみがえられ、今も天でとりなしておられるだけでなく、やがて再びこの地上に戻って来られるのす。

これが私たちの大牧者であられるイエス・キリストです。この方の御腕がいつもあなたの下にあることを覚えてください。私たちは本当に愚かで迷いやすい子羊ですが、主はその子羊をふところに引き寄せ、その御腕に抱いて養ってくださるのです。これは本当に慰めではないでしょうか。

Ⅱ.創造主なる神(12-17)

第二に、主は創造者なる神です。12節から17節までをご覧ください。12節をお読みします。「だれが、手のひらで水を量り、手の幅で天を推し量り、地のちりを枡に盛り、山をてんびんで量り、丘をはかりで量ったのか。」

だれもこの地球にある水の量を量ることなどできません。だれもこの巨大な宇宙を量ることなどできないのです。だれも地のちりを枡に盛って、山や丘をてんびんで量ることなとできません。しかし、神はその水を手のひらに、大宇宙を手の幅に収めることができます。地のちりを枡に盛って量ることがおできになるのです。なぜなら、主はこの天地を造られた創造者なる神だからです。

実際、この地球には約14億Km3の水があるそうです。14億Km3と言われてもピンときません。しかし、そのほとんどの97%が海水だそうです。海水といったらものすごい膨大な量でしょう。海は広いな大きいな♪♪それだけの水を量ることは不可能なです。しかし神はそのすべての水をかき集め、ご自身の手のひらに乗せることがおできになるのです。

またこの巨大な宇宙も、神の手の幅にすっぽりと入ります。手の幅というのは小指から親指までのことですが、その中にすっぽりと収まるのです。私は手は小さくて20㎝くらいしかありませんが、神の手の幅はものすごく大きいのです。この大宇宙さえもすっぽりと収めることができるのですから・・・。

たとえば、地球から太陽までの距離は約1億5千万㎞だと言われています。1億5千万㎞というのがどれだけの距離なのかピンとこないと思いますが、これは時速100㎞で車を運転して171年もかかる距離です。1日24時間、171年間全く休みなしで走り続けてやっと到着できるくらいの距離なのです。そんな太陽や地球もその手の中にすっぽりと入ってしまうのです。

そればかりではありません。その太陽が入っている天の川銀河と呼ばれている銀河がありますが、その銀河には約2000億個もの恒星があると言われていますが、その天の川銀河もこの手の中に収まってしまいます。この天の川銀河の大きさは直径で約10万光年だと言われています。1光年が1年間に進む光の速さですから、その光の速さをもってしても10万年もかかるとことになります。それほど大きいのです。まして、この宇宙全体となったらどれほどの大きいことでしょう。とてつもない大きさです。この宇宙の大きさを計算した人がいますが、その人の計算によると、この宇宙の大きさは半径で460億光年だそうです。宇宙の中心から端まで行くのに光のスピードをもってしても460億年もかかるのです。この宇宙がどれほど大きな広がりをもっているかは、もはや私たちの想像の域をはるかに超えているのです。しかしそれほど巨大な宇宙も、この神の御手の中にすっぽりと収まってしまうのです。    神はそれほど偉大でパワフルな方なのです。たとえあなたが抱いている問題がどんなに大きなものでも、この神の目から見たらちっぽけなものにすぎません。あなたの神はこの天地を造られた創造主なる神なのです。それがどれほど大きな問題であっても、この神にとって解決できない問題はありません。この方を信じて歩めるということは、どれほど力強いことでしょう。このことを知るなら、あなたは大きな慰めを受けることができるのです。

13節と14節をご覧ください。「だれが主の霊を推し量り、主の顧問として教えたのか。主はだれと相談して悟りを得られたのか。だれが公正の道筋を主に教えて、知識を授け、英知の道を知らせたのか。」

この方は天地を造られた創造主なる神なのに、あたかも自分が神であるかのように、神に教えようとする人がいます。13節の「主の霊」とはこの創造者なる神の知恵、神のはかりごと、神の能力のことです。この神の知恵を量ろうとする人がいるわけです。そしてあたかも神の顧問(カウンセラー)であるかのように、「こうした方がいいんじゃないか」とか、「ああした方がいいに決まっている」と、いつの間にか神にアドバイスしていることがあるのです。祈りの中で、日々の生活の中で、いわゆる主客転倒ということが起こってしまうわけです。けれども神は絶対者であって、だれとも相談しなくても、一人で悟りを得ることができる方であり、正しい道と正しい知識と正しい知恵を持っておられます。私たちに必要なことはこの方に何かを教えようとすることではなく、この方を絶対者として認め、ひれ伏し、伏し拝むことなのです。

15節から17節までも見てみましょう。「見よ。国々は、手おけの一しずく、はかりの上のごみのようにみなされる。見よ。主は島々を細かいちりのように取り上げる。レバノンも、たきぎにするには、足りない、その獣も、全焼のいけにえにするには、足りない。すべての国々も主の前では無いに等しく、主にとってはむなしく形もないものとみなされる。」

この「国々」とは、イスラエルの国ではない異邦人の国々のことです。イスラエルの神を神としないで偶像を拝んでいる国々のことです。それは手おけの一しずくにすぎません。はかりの上のごみのようなものです。手おけとはバケツのことです。主にとって国々はバケツの一しずくにすぎず、天秤(はかり)の上についている埃(ほこり:ゴミ)のようなものにすぎまないのです。そんなものはふっと吹いたら、どこかに吹っ飛んでしまいます。

「見よ。主は島々を細かいちりのように取り上げる。レバノンも、たきぎにするには、足りない、その獣も、全焼のいけにえにするには、足りない。すべての国々も主の前では無いに等しく、主にとってはむなしく形もないものとみなされる。」  主は島々も、細かいちりのようにみなされます。レバノンとはレバノン杉のことです。高級で立派なレバノン杉がどんなにあっても、たきぎにするには、足りません。また、どれほどの数の動物を全焼のいけにえとしてささげても、足りません。すべての国々も、主の前には無に等しく、全く無力にすぎないのです。なぜならこの方は天地を創造された神だからです。この方があなたの神であり、あなたを救ってくださったのです。

Ⅲ.比類なき神(18-26)

第三に、この方は比類なき神です。18節から26節までをご覧ください。まず18節から20節までのところには、次のようにあります。「あなたがたは、神をだれになぞらえ、神をどんな似姿に似せようとするのか。鋳物師は偶像を鋳て造り、金細工人はそれに金をかぶせ、銀の鎖を作る。貧しい者は、奉納物として、朽ちない木を選び、巧みな細工人を捜して、動かない偶像を据える。」

いったいあなたは、神をだれになぞらえ、神をどんな似姿に似せようとするのでしょうか。愚かにも人間は鋳物に金をかぶせ、銀の飾りを作って、いかにもそれが神々しい神であるかのようにします。樹齢何百年という太い杉の木にしめ縄をして、それを神として拝みます。家内安全、無病息災、商売繁盛と書かれた紙きれが自分を守ってくれると思って大切に持っています。しかし、それはただの紙切れであり、ただの木や石であり、ただの金属にすぎません。それらのものは人間が作ったものにすぎず、人間に支えられていなければ立っていることができないものです。そんなものに私たちを造られたまことの神をなぞらえたり、比べたりすることはできません。

21節、22節をご覧ください。ここには、「あなたがたは知らないのか。聞かないのか。初めから、告げられなかったのか。地の基がどうして置かれたかを悟らなかったのか。主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。地の住民はいなごのようだ。主は天を薄絹のように延べ、これを天幕のように広げて住まわれる。」とあります。この地がどのようにして置かれ、この天がどのように引き延ばされたかをご存知でしょうか。それは主が地をおおう天蓋の上に住まわれ、主が天を薄絹のように引き延ばされたのです。

この「天蓋」という言葉ですが、これはヘブル語で「フッグ」という言葉です。これは「円」を意味する言葉なので「天蓋」と訳したのだと思いますが、口語訳では「地球」と訳されています。英語ではこれを「circle」(NIV)と訳しています。これと同じ言葉が箴言8章27節に使われています。そこではちゃんと「円」と訳しています。「神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれたとき、わたしはそこにいた。」この「円」ということばです。つまり、地球は円いということです。

この箇所(イザヤ40:22)からあの有名なクリストファー・コロンブスは、地球は円いと言いました。当時、地球が円いとは信じられていませんでした。地球は平らだと信じられていたのです。しかし、地球は円いのです。聖書は科学の教科書ではありませんが、科学の記述においても間違ってはいません。今からはるか2700年も前に、イザヤはちゃんと地球は円いということを聖霊によって語っていたのです。その天蓋の上に主は住んでおられるのです。その神の目から見たら、地の住民はまるでいなごのようです。いなごにも満たないかもしれませんね。いなごは見ればわかりますが、天蓋からこの地を見ても、地の住民を見ることはできないでしょう。私たちの存在というのはそれほど小さなものなのです。

また、ここには「主は天を薄絹のように延べ」とあります。この「延べ」という言葉は42章5節にも使われていますが、そこでは「天を造り出し、これを引き延べ」とあります。神さまは天を造られて、それを引き延ばされました。昔から宇宙は永遠に変わらないと信じられていましたが、この聖書の記述をみるとそうではなく、宇宙は引き延ばされたことがわかります。膨張したのです。どうやって膨張したのかはわかりません。ベルギーの司祭で天文学者のジョルジュ・ルメートルという人は、これを「宇宙の原始的原子(primeval atom) の“爆発”」すなわち、ビッグバンによって膨張したと提唱しました。それ以来、宇宙はビッグバンによって始まったと信じられるようになりましたが、必ずしもそうではありません。確かなことは神が引き延ばされたということであって、それがどのようにして引き延ばされたのかはわからないのです。主は天を薄絹のように延べ、これを天幕のように広げて住まわれるのです。

あなたはこのことを知らないのでしょうか。聞いていないのでしょうか。地の基がどのようにして置かれたのかを。どのようにして天が薄絹のように引き延ばされたのかを。それはこの天地を創造された神なのです。木や石で造られた偶像がしたのではありません。それらのものは人間が作ったただの木や石であって、人間が支えていなければ倒れてしまうほどもろいものです。そんなものは、この創造者なる神になぞらえることなどできません。比べることなどできないのです。

もちろん、君主たちもそうです。地のさばきつかさでも同じです。23節には、「君主たちを無に帰し、地のさばきつかさをむなしいものにされる。」とあります。この世のどんな王たちや支配者たちでも、どんな政治的指導者であっても、この方と比べることはできません。超大国アメリカ大統領をもってしても、新しく指導者が変わった中国の習国家主席であっても、日本の総理大臣をもってしても、無に等しいのです。全く比べることができません。  昨年(2012年)の世界の大富豪ランキングによると第一位が3年連続でメキシコの実業家でした。5.6兆円の資産があるそうです。2位がアメリカのビル・ゲイツですが、彼も4.8兆円の資産を持っています。しかし、彼らがどんなに資産を持っていても、この方の前には無に等しいのです。全然比べものになりません。そんなものは暴風がわらを散らすように散らされるだけなのです。この方は他の何にも、だれとも比べることができない比類のない神なのです。

ですから、あなたはこの方を見なければなりません。この方を見るなら、あなたは慰めを受けることができます。26節をご一緒に読んでみましょう。「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。」

この方は天地を創造された方であって、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる方です。一つももれるものはありません。この天にどれほどの万象が、星々があるでしょうか。エレミヤ33章22節によると、「天の万象は数えきれず、海の砂は量れない・・」とあります。昔は星の数は数千だろうと思われていましたが、実際は数千どこではありません。数え切れないほどあるのです。現代では、10の26乗もの数の星が存在していることがわかっています。10の26乗というのは、100×1億×1億です。まさに天文学的な数字です。それは地球にある砂の数に相当すると言われています。それほど多くの星々が存在しているのです。主はその星々一つ一つの名をもって呼ばれます。神はそれほど精力に満ち、力強い方なのです。この方があなたの信じている神です。

であれば、あなたはいったい何を恐れる必要があるでしょうか。何にも恐れることはありません。あなたにはこの偉大な神がついているからです。あなたがしなければならないことはあなたが抱えている問題を見て怯えることではなく、あなたの神を見ることです。目を高く上げて、だれがこれらを創造したのかを見なければなりません。そして、その方がちりにも劣るほどの小さな私たちに目を留めてくださり、心を注いで、罪の中から救ってくださったことを覚え、この方にすべてをおゆだねすることなのです。問題を人間的に解決するのではなく、信仰をもって神を見上げること、それが解決であり、そこから真の慰めが与えられるのです。

第二次世界大戦の初期、イギリス国籍の船一隻が重要な任務を遂行するため、アメリカに向かって出港しました。いかに数多くの敵船を避けてアメリカに向かうかと心配していた船長に向かって、その任務を命じた人はこう言いました。「君が危険な目に会いそうになったら、この暗号を使って無線を打ちたまえ。連絡が行くだろう。」  船長はその言葉を信じて、危険な航海を続けました。すると突然、目の前に敵の船が現れました。それで指示された通りに暗号を打ちました。すると、このような返事が返って来たのです。「すべて把握している。こちらも敵の船を監視している。しかし、君たちの船も見守っていることを忘れるな。」その返事をもらった船長は勇気百倍になり、航海を続けることができました。船がサンフランシスコ港に入ったとき、船長はその後ろから大きな船がついて来ているのを発見しました。それは潜水艦でした。見えないところで潜水艦が小さな船を見守っていたのでした。船長のそばで勇気づけてくれていた「恐れるな。我々がそばで見守っている」というメッセージのおかげで、偉大な任務を無事に遂行することができたのです。

私たちの人生はまさにこの船の航海のようです。いろいろな危険や困難が待ち伏せています。しかし、そこにどんなに大きな危険があっても、あなたを愛し、あなたを守ってくださる創造主なる神がともにいてくださいます。これこそ真の慰めではないでしょうか。どうかこの方を見上げてください。そうすれば、どんな危険があっても、あなたは人生の航海を遂行することができるのです。

イザヤ書40章1~8節 「慰めのメッセージ」

きょうはイザヤ書40章前半の箇所から、神の慰めのメッセージをお話ししたいと思います。イザヤ書はここから後半部分に入りますが、これまでとは内容がガラッと変わります。前半はイスラエルに対する神のさばきが語られていましたが、ここからは慰めと希望が語られます。そしてこれまではイザヤが生きていた時代、すなわちヒゼキヤがユダの王であった時代を背景に語られていましたが、ここからは、イザヤの時代よりも100年も先に起こる出来事、すなわち、バビロンという国から解放されることが背景に語られます。紀元前586年にエルサレムはバビロンの王ネブカデネザルによって滅ぼされ捕囚の民となりますが、やがてペルシャの王クロスが登場し、ユダの民を解放するわけです。その時代のことが背景に語られているわけです。それがあまりにも具体的に書かれてあるので、これはイザヤが書いたのではなくずっと後になってから別の人によって書かれ、編集されたのではないかという人たちがいます。自由主義神学者(リベラル)とか、高等批評家と呼ばれている人たちです。このような人たちは聖書をそうやって分析することが高等だと思っているのですが、それは高等でも何でもありません。ただ聖書が神のことばだと信じられないだけです。全知全能の神は100年先のことはおろか世の終わりのことに至るまですべてのことを知っておられるだけでなく、それらのことを書き記すことがおできになるのです。それを信じることができるなら何の問題もありません。聖書は到底人間が書いたものではなく、神の霊、聖霊に動かされた人たちが書いた神の言葉だからです。ですから、100年先のことであろうと、何年先のことであうと正確に告げることができるのです。これが聖書と一般の書物の一番大きな違いです。聖書が神のことばであるゆえんはここにあります。

Ⅰ.慰めよ 慰めよ(1-2)

まず1節と2節をご覧ください。「1慰めよ。慰めよ。わたしの民を」とあなたがたの神は仰せられる。2 「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」

1章から39章までは「懲らしめよ 懲らしめよ」だったのが、ここから「慰めよ 慰めよ」になります。懲らしめの後には慰めがきます。主はいつまでも怒っておられる方ではありません。ちょうど親がその子を懲らしめた後にギュッと抱きしめるように、神はあなたを抱きしめてくださいます。あなたのすべての罪は贖われました。前半ではその罪に対するさばきのメッセージが語られましたが、すべての罪が贖われた今は、慰めのメッセージが語られるのです。

「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。」主は優しく語ってくださいます。あなたの罪のことで、神はあなたを責めたりはなさいません。なぜなら、神はあなたのために十字架にかかってくださったからです。あなたの代わりに罰を受けて、罪を処罰してくださいました。もう罪に悩む必要はありません。いつまでも悲しんでいなくてもいいのです。主イエスが私たちのすべての罪の罰を受けてくださったので、罪のことでそう悩む必要はないのです。あなたに必要なことはただ悔い改めて、神の救いの御業を信じるだけです。あなたの罪に対する神の怒りはキリストによって取り去られたからです。あなたの罪のことで神はもう怒ってはおられません。優しく語りかけてくださいます。

「その労苦は終わり、その咎は償われた。」これが、神があなたに語ってくださることです。その労苦は終わり、その咎は償われました。この「労苦」と訳されている言葉は「戦争」とも訳される言葉です。毎日戦争のように過ごしておられるでしょうか。それらの戦いが終わる日がやってきます。労苦が終わる日、戦いが終わる日がやってくるのです。その時、その咎は完全に償われます。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主から受けるのです。「二倍のもの」とは何でしょうか。注解書を見ると、この「二倍」という言葉は「折り重ねる」という意味だとあります。貿易証人が、一度支払いが終わったら顧客のドアに半分に折られた明細書をピンで留めて、これが「倍」と呼ばれたのです。つまり、折り重ねた状態のことを指しているのです。それは半分ともう半分がちょうど対応するように、罪と罪の支払う報酬の釣り合いが取れていることを表しています。その罪に対する償いが十分に成されたことを意味しているのです。コロサイ2章14節には、「いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。」とありますが、まさに私たちを責め立てていたその債務証書が無効にされたのです。その負債は完全に支払われました。それは十字架に釘付けにされたのです。イエスさまは十字架で死なれる時「テテレスタイ」と叫ばれました。意味は「完了した」です。もう完了したのです。あなたの罪に対する負債は完済しました。あなたはもう罪に悩む必要はありません。キリストがあなたの代わりに罰を受けてくださったので、あなたの罪の代価は支払われたのです。あなたの罪は赦されています。これはグッド・ニュースではないでしょうか。これが慰めのメッセージです。

さきほど、これはバビロン捕囚からの解放がその背景にあるとお話しましたがその背景で言うならば、バビロンでの70年にわたる捕囚の状態から解放されて自由にされることの宣言です。ちょうど牢獄につながれていた者が、その服役の期間が終わって、看守から、「さあ出てもいいぞ。お前の刑期は満了した。その咎は償われた」と言われるような情景です。この刑に服している者の生涯というのは、どんなに望みのない、不自由で、孤独な、寂しい生涯であったことかと思います。その時、看守から「お前の罪はもう問われないから出てもいいぞ」と言って、牢獄の扉を開けてもらえたとしたら、その時の喜びようは、その時の心はどんなでしょう。それがただ償われただけではなく、そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主から受けるのです。

今ちょどNHKで「いつか陽のあたる場所で」というドラマが放映されていますが、これはその牢獄から解放された二人の女性の深い友情を描いた物語です。一方は愛した男のために犯罪に手を染め7年の実刑を受けて服役しました。もう一方は家庭内暴力から息子の命を守るために夫を殺して5年間服役しました。その二人が刑期を終えて釈放されるのです。二人は刑務所で知り合い、深い絆で結ばれましたが、家族に見捨てられ、過去を隠しながらも、お互いに励まし合って下町で懸命に生きようとするわけですが、どんなに罪を償っても過去を背負って生きることは楽なことではありません。その後の彼らの人生に暗い影を落とすのです。

しかし、神はそのすべての罪に引き替え、二倍のものを主から受けると約束してくださいました。ただ赦してくださったというだけではないのです。そのすべての罪に引き替えに、二倍のものを受けました。あなたの罪は完全に償われたのです。イエス・キリストがあなたのために十字架にかかって罰を受けてくださったので、あなたの咎は償われました。もう罪に悩む必要はありません。その労苦は終わり、その咎は償われました。なんと慰めに満ちた言葉でしょうか。

Ⅱ.荒野で呼ばわる者の声(3-5)

第二のことは、そのようにして神はあなたを罪の縄目から解放してくださったのですから、その道を整えなさいということです。3節から5節までをご覧ください。「3 荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。4 すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。5 このようにして、主の栄光が現されると、すべての者が共にこれを見る。主の御口が語られたからだ。」

この道とは主が通られる道のことです。バビロンから解放してくださった主が、あなたを罪の縄目から解放してくださった主が、今、道を通って神の都エルサレムに帰って来られます。その道を整えるようにというのです。実際、その国の王様が旅をする時にはその行く先々に先遣隊を遣わして、道を整えました。道を広く、大きくし、まっすぐに、平らにしました。すべての谷は埋められ、すべての山や丘を低くしてならしました。  かつて私が福島に住んでいた時、国体が開かれたことがありましたが、その時には街中の道路がきれいに整備されました。道幅が広げられ、まっすぐに舗装されました。そこを天皇陛下が通るからです。たった1回しか通らないその道のために何年も前から工事が行われ、立派な道を作りました。ここでは天皇陛下よりもはるかに偉大な方が、全く比べものにもならない王の王、主であられるイエス・キリストが来られるのですから、その道を整えるようにと言われているのです。

あなたの道は整えられているでしょうか。谷底のように心が沈んではいないでしょうか。劣等感、自己憐憫、罪悪感、敗北感といった谷は埋められなければなりません。また、山や丘のような高くはなっていませんか。プライドや傲慢といった山や丘があれば削られて低くされなければなりません。障害物は取り除かれ、でこぼこ道は平らに整えなければならないのです。

ところで、この3節のみことばは新約聖書にも引用されているみことばですが、新約聖書をみると、この「荒野に呼ばわる者の声」とはバプテスマのヨハネのことを指していたのがわかります。彼はキリストが来られる半年前に現れ、メシヤがいつ来てもいいように準備するようにと、悔い改めのメッセージを語りました。彼はらくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べるといういかにも旧約聖書の預言者のような生活をしていたので、もしかすると彼はあの偉大な預言者エリヤの再来ではないかとか、あるいは、その力強いメッセージに、もしかすると、この方がキリストではあるまいかと思われていました。そのヨハネが「あなたはだれですか」と群衆から尋ねられたとき、次のように答えました。

「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫んでいる者の声です。」(ヨハネ1:23)

ヨハネは、自分はエリヤでも、キリストでもない、ただの荒野の声だと言いました。主の道を整えるように、荒野で呼ばわる声だと言ったのです。これがヨハネのミニストリーでした。そして、それは私たちのミニストリーでもあります。私たちのミニストリーは声になることです。声は見えません。まさに私たちは見えない声に徹して、ヨハネのようにイエス・キリストを宣べ伝えなければならないのです。ヨハネが自分のところに来る人々をイエスのもとに導いたように、自分のところに来る人をイエスのもとに導かなければならないのです。

イエスさまは、「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」(マタイ11:11)と言われました。バプテスマのヨハネは、女から生まれた者の中で一番偉大な人でした。あのアブラハムよりも、あのモーセよりも、あのエリヤよりも、もっと偉大な者でした。なぜ彼はそんなに偉大な者だと言われたのでしょうか?それは彼が「声」になったからです。派手なことをするのではなく、自分のことを見せるのでもない。ただイエスのことを分かち合う声になったので、彼は偉大な者、すぐれた者と言われたのです。

あなたもすぐれた者になれます。ヨハネのように、荒野の声となってください。荒野の声となって人々の心を整えるなら、あなたもイエスさまからすぐれた者と呼ばれるようになるのです。今から2000年前に来られた主イエスは再び来られると言われました。その主が再び来られる前に私たちは荒野の声となって、その道を整えるように叫ばなければなりません。主が再び来られる前に、すべての谷は埋められ、すべての山や丘は低くされ、でこぼこ道は平らにされ、まっすぐにするように伝えなければなりません。そのようにしてイエスを迎えるなら慰めを受けるからです。ほんとうの慰めはこのイエスを心に迎えることにあります。そのとき私たちは雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うようになります。このようにして、いつまでも主とともにいることになるのです。「こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」(Ⅰテサロニケ4:18)これが本当の慰めの言葉です。そのキリストが再び来られる時のために心を整えるように、私たちは荒野の声にならなければならないのです。

Ⅲ.神のことばは永遠に立つ(6-8)

慰めのメッセージの第三のことは、神のことばは永遠に立つということです。6節から8節までをご覧ください。「6 「呼ばわれ」と言う者の声がする。私は、「何と呼ばわりましょう」と答えた。」

ここにもう一つの声が出てきます。それは「呼ばわれ」と言う者の声です。この声がだれの声なのかははっきりわかりません。だれか第三者の声なのか、それとも神ご自身の声なのかはっきりしていなからです。ただはっきりしていることは、その声に対してイザヤが「何と呼ばわりましょう」と答えたら、次のような声があったことです。

「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。7 主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。8 草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」

すべての人は草のようであるということです。また、花のようでもあるということです。草のようであるというのは枯れるということ、また、花のようであるというのはしぼむということです。朝に生え出でて栄えたかと思ったら、夕べにはしおれて枯れてしまいます。人はみなこの草や花のようだというのです。そんなこと信じられない、そんなことはないという人がいたら、どうぞ家に帰って鏡をよく見てください。よく見ると、いつの間にか白髪が増えたなぁとか、しみやしわが増えたなぁと気づくと思います。あんなに青々としていたのが、いつの間にか枯れてきた。あたんなきれいに咲き誇っていたのに、いつの間にか色あせてきた、しぼんできたということに気づきます。だれだれさんはどこどこの大学を出て、教授になった、医者になった、大臣になった、大統領になったと言っても、70年か80年で私たちの人生は終わってしまいます。どんなに栄華を極めても、10年、20年、そこに留まることができたら、関の山です。仏教ではこれを「諸行無常」と言いました。平家物語の冒頭に引用されています。

祗園精舎の鐘の声、(ぎおんしょうじゃのかねのこえ)、 諸行無常の響きあり(しょぎょうむじょうのひびきあり)。 娑羅双樹の花の色、(しゃらそうじゅのはなのいろ)、 盛者必衰の理をあらは(わ)す。(じょうしゃひっすいのことわりをあらわす)。 おごれる人も久しからず、(おごれるひともひさしからず) 唯春の夜の夢のごとし。(ただはるのよのゆめのごとし) たけき者も遂にはほろびぬ、(たけきものもついにはほろびぬ) 偏に風の前の塵に同じ。(ひとえにかぜのまえのちりにおなじ)

祇園精舎の鐘の音には、諸行無常すなわちこの世のすべての現象は絶えず変化していくものだという響きがある。沙羅双樹の花の色は、どんなに勢いが盛んな者も必ず衰えるものであるという道理をあらわしている。世に栄え得意になっている者も、その栄えはずっとは続かず、春の夜の夢のようである。勢い盛んではげしい者も、結局は滅び去り、まるで風に吹き飛ばされる塵と同じようである。そう詠ったのです。実に人間は虚しい存在なのです。

こんなこと言われて全然慰めになりません、という人もいるかもしれませんが、実はこれが慰めなのです。この現実をしっかりと見つめ、それを額面通り受け止めるなら、それが慰めになるのです。この現実を突きつけられたら確かにショックかもしれません。決して受け入れたくないでしょう。しかし、これが事実なのです。事実を事実として受け止められれば慰めが来ます。自分は枯れていく存在なのだ。いつまでも咲き誇っているわけではない。しぼんでいきます。やがて死んでいくのです。それは明日かもしれない。年をとってから死ぬとは限りません。今晩死ぬかもしれません。人生はそんなに長くありません。草花のようにすぐにしぼんでいく者なのです。その事実を受け入れて、その先にあるものを希望として生きていくなら、慰められます。この地上にあるものがすべてではないということがわかるとき、その人は慰めを受けることができるのです。

多くの人たちは草や花であるのに、いつまでもゴージャスな花を咲かせようと躍起になっています。健康を保とうと、美しさを保とうとあれやこれやとやって疲れ果てています。しかし、このことを受け止めることができれば、もうこの一時的な地上のために躍起にならなくてもよくなります。そんなに時間やお金や労力をかけなくてもいいのです。もちろん、健康を管理することは大切なことです。美に関心を払わないで汚い格好をして一日過ごせと言っているのではありません。そういうことに気を配ることも大切なことですが、そうした目に見えるものばかりに気がとらわれていると、まるでそこにすべてのものがあるかのように思い込んでいると、慰められなくなってしまうのです。

皆さんは、「エントロピーの法則」というのを聞かれたことがあるでしょうか。これは熱力学の第二の法則という宇宙の法則のことです。これは簡単にいうと、形あるものは崩れるというものです。これはこの宇宙には始まりがあったことを示唆しています。始まりがあってすべてが劣化していく、退化していくというものです。これは物理がわからなくてもだれにでもわかることです。形あるものはやがて崩れていきます。新しい車もいつまでも新しいままではありません。やがて中古車になります。新築した家もやがて古びていきます。これは避けられない事実なのです。これをエントロピーの法則というのですが、進化論を否定する時に用いられる法則でもあります。進化論はこのエントロピーの法則に反しています。なぜなら退化するのではなく進化すると考えているからです。しかし、すべてものは進化するのではなく退化するのです。

詩篇102篇25節から28節を開いてみましょう。「25 あなたははるか以前に地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。26 これらのものは滅びるでしょう。しかし、あなたはながらえられます。すべてのものは衣のようにすり切れます。あなたが着物のように取り替えられると、それらは変わってしまいます。27 しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。28 あなたのしもべらの子孫は住みつき、彼らのすえは、あなたの前に堅く立てられましょう。」

これらのものは滅びます。いつまでも続くものではありません。健康も、美も、失われる時がやってくるのです。目に見えるものがいつまでも続くものではありません。そのようなものにとらわれていたら、そのようなものに人生のすべてをかけているとしたら、それほど虚しいことはありません。それによって慰められことはできないのです。しかしあなたはながらえます。神は永遠に変わることがなく、その年は尽きることがありません。この方に信頼すれば慰められるのです。

イザヤ書で言われていることはこのことです。8節をお読みします。「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」皆さん、神のことばは永遠に立つのです。これこそ信頼するのに値するものです。これを見つめ、これに生きるなら、あなたは決して失望することはないのです。

主イエスは言われました。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)これはいつまでも変わらない神の約束のことばです。主イエスは世の終わりまで、いつもあなたとともにいます。あなたが見捨てられることは絶対にありません。見放されることはないのです。世界がどのようになっても、津波がすべてを奪っていくようなことがあっても、病気になって余命いくばくかもないとなったとしても、神は約束をたがえることはなさいません。その語られたことばの通りに、あなたを守ってくださいます。これほど大きな慰めはないのではないでしょうか。

パウロはこう言いました。「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:18)たとえ肉体が滅びることがあってもそれで終わりではありません。私たちの魂は天の御国で永遠に生き続けます。しかもイエス・キリストが再び来られる時には永遠に朽ちることのない栄光の体によみがえり、いつまでも主とともにいるようになるのてす。これが慰めのことばです。クリスチャンにはその約束の保証として御霊が与えられています。その御霊によって私たちは、やがて確かに永遠の命がもたらされることを確信し、真の平安を得ることができるのです。ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされているからです。今の時の軽い艱難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです(同4:16-17)。

慰めを必要としている人がいたら、ぜひこのことを知ってほしいと思います。そして、目先のことで一喜一憂する人生から、いつまでも変わらない神の約束のことばに立った確かな人生を歩んでいただきたいのです。これが真の慰めのメッセージなのです。

イザヤ書39章1~8節 「主のことばはありがたい」

きょうはイザヤ書前半の最後の部分である39章から「主のことばはありがたい」というタイトルでお話したいと思います。病気で死にかかっていたユダの王ヒゼキヤは、主に向かって、泣きながら祈りました。その結果、主は彼の祈りを聞かれ、彼の寿命にもう15年を加えてくださいました。死から救われたヒゼキヤは喜びのあまり主に感謝と賛美をささげましたが同時に彼は愚かなことをして、神のさばきを招いてしまいました。それがきょうのところに記されてあることです。しかし、彼は最後に「主のことばはありがたい」と言ってその生涯を閉じました。終わりよければすべて良しということばがありますが、彼はその激動の生涯を信仰によって全うしたのです。  きょうは彼の失敗とそれに対す神のさばき、しかしそれでもあきらめないで最後まで主に信頼したヒゼキヤの姿から学びたいと思います。

Ⅰ.高慢になったヒゼキヤ(1-4)    まず第一にヒゼキヤの失敗から見ていきましょう。1節から4節までをご覧ください。1節と2節をお読みします。

「1 そのころ、バルアダンの子、バビロンの王メロダク・バルアダンは、使者を遣わし、手紙と贈り物をヒゼキヤに届けた。彼が病気だったが、元気になった、ということを聞いたからである。2 ヒゼキヤはそれらを喜び、宝庫、銀、金、香料、高価な油、いっさいの武器庫、彼の宝物倉にあるすべての物を彼らに見せた。ヒゼキヤがその家の中、および国中で、彼らに見せなかった物は一つもなかった。」

「そのころ」とは、ヒゼキヤが死に至る病から奇跡的にいやされたころのことです。バビロンの王メロダク・バルアダンは、使者を遣わし、ヒゼキヤに見舞いの手紙と贈り物を届けました。それは彼が病気だったが、元気になった、ということを聞いたからです。このころバビロンはまだ新興国でした。このころ世界を風靡していたのはアッシリヤでしたが、そのアッシリヤに代わって後に超大国になるのがバビロンという国です。それまでバビロンは何度かアッシリヤに反旗を翻しますがその度に退けられていました。事実、B.C.710年にはこのバビロンの王メロダク・バロアダンはアッシリヤに反逆して戦いますがその戦いに敗れ、アッシリヤの王サルゴン2世によってバビロンを追放されています。しかし、サルゴン王の死後、再び彼はこのバビロンを治めるようになっていました。ですから、こうしてメロダク・バルアダンがヒゼキヤに見舞いを送ったのは、ヒゼキヤと同盟を結んでアッシリヤに対抗しようという意図があったからなのです。ちょうど、病気だということを聞いたメロダク・バルアダンは、この機会を利用してヒゼキヤに近づこうとしたわけです。

それでヒゼキヤはどうしたかというと、バビロンの王が使者を遣わし数々の贈り物まで贈ってくれたことに感激して、宝庫と、銀、金、香料、高価な油、いっさいの武器庫、および彼の宝物倉にあるすべての物を彼らに見せてしまいました。国家の秘密の物までもすべて公開してしまったのです。ヒゼキヤが彼らに見せなかったものは一つもありませんでした。そしてこのことが原因となり、やがて南ユダ王国はこのバビロンによって完全に滅ぼされることになってしまうわけです。その原因を作ったのがヒゼキヤでした。この事件がそのきっかけだったわけです。ヒゼキヤは15年も寿命を延ばしてもらいましたが、その間にしたことはとんでもないことでした。取り返しのつかない過ちを犯してしまったのです。いったい何が問題だったのでしょうか?

この箇所の並行記事がⅡ歴代誌32章にあります。開いてみましょう。24-25節です。「24 そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかったが、彼が主に祈ったとき、主は彼に答え、しるしを与えられた。25 ところが、ヒゼキヤは、自分に与えられた恵みにしたがって報いようとせず、かえってその心を高ぶらせた。そこで、彼の上に、また、ユダとエルサレムの上に御怒りが下った。」

問題は、彼の心が高ぶったことです。彼は自分の富と力を誇りたかったのです。彼がほんとうに見せなければならなかったのは生きて働かれる神の御業だったのに、自分の業績を見せました。彼は使者たちを神殿に連れて行き、イスラエルの神が天地を創造された唯一の神であり、恵み深く、またあわれみ深い方であり、この主をおそれるすべての者にあわれみを示してくださり、不治の病までもいやしてくださったということをあかしすべきだったのに、そして、神殿の聖歌隊と共に、琴を奏でて賛美すべきだったのに、バビロンから贈られた病気見舞いの品々を見て興奮し、有頂天になって、神の奇跡についてあかしするどころか、自分の宝物倉などを全部見せて、自分の権力と、自分の栄華を誇示しました。一言でいうと、彼は人間的な欲のゆえに信仰の中心を失ってしまったのです。信仰の中心とは何でしょうか。それは神だけに頼るということです。それまではアッシリヤの王セナケリブや将軍ラブ・シャケからの脅迫状が届いても、彼は主の宮に行ってそれを広げ、主に祈りました。病気で死にかかったときも、ただ主だけを見上げて、涙して祈りました。しかし、そうした危機から脱するとあたかも自分の力で勝利したかのように思い込んで高ぶってしまいました。今まで神さまだけに頼り、祈ってきた彼の心に隙間が生じたのです。

愚かと言えば愚かですが、往々にして人にはこのような傾向があります。人は神の恵みに感謝するよりも、自分の栄光を誇示しがちなのです。病気がいやされたり、家庭が崩壊の危機から回復したりすると、主の恵みに感謝し、キリストのみわざについてあかしするよりも、自分のすばらしさを誇示しようとするのです。そうしたみにくい性質があるのです。ラブシャケやセナケリブから脅迫された時は、それで信仰から離れてしまうのではないかという危険がありましたが、それよりももっと危険なのは、本当の意味で危険なのは、むしろそうした困難に勝利して「あなたはすばらしい」と人からちやほやされたり、こうした陣中見舞いの品々が届けられて、心ウキウキするような時なのだということを私たちはよく覚えながら、パウロが「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」(Ⅰコリント10:13)と言ったように、いつも慎み深く、謙遜でありたいと思います。

Ⅱ.すべてはバビロンへ(5-7)

次に、そのようなヒゼキヤの高慢に対する主のさばきを見たいと思います。5節から7節までをご覧ください。「5 すると、イザヤはヒゼキヤに言った。「万軍の主のことばを聞きなさい。6 見よ。あなたの家にある物、あなたの先祖たちが今日まで、たくわえてきた物がすべて、バビロンへ運び去られる日が来ている。何一つ残されまい、と主は仰せられます。7 また、あなたの生む、あなた自身の息子たちのうち、捕らえられてバビロンの王の宮殿で宦官となる者があろう。」

これは、この時から115年後のB.C.586年に起こるバビロン捕囚の預言です。バビロンの王ネブカデネザルがエルサレムを陥落させ、そこにいた人たちを捕虜として連行するだけでなく、ヒゼキヤがバビロンの使者たちに見せたすべての財産が、バビロンの人々によって略奪されます。そればかりではなく、ヒゼキヤの息子たちがバビロンにとらえられて、バビロンの王の宮殿で宦官として仕えるようになります。ユダの統治者たちが異邦人の宮殿で仕えるということはどれほど屈辱的なことであったでしょう。そのようなことになります。彼らは自分たちが警戒していたアッシリヤによってではなく、バビロンの攻撃によって滅んでしまうことになるのです。

その原因は何かというと、ヒゼキヤが神ではないバビロンに拠り頼んだからです。神の恵みに感謝しないで、あくまでも自分の栄光を誇ろうとしたからなのです。もし彼が神に信頼し、神に助けを求めたのであれば、滅ぼされることはなかったでしょう。しかし彼は神ではなく自分のことしか考えませんでした。自分さえよければ良かったのです。自分の栄光を求めました。だから滅んでしまうことになったのです。    文学の世界には、悲劇の主人公に性格的な欠陥があり、それがその主人公を破滅に追い込んでいくというパターンがありますが、これを「悲劇的欠点」と呼ぶそうです。聖書に出てくるウジヤ王は、まさにそれでした。ウジヤ王は16歳でユダの王となると、長い間、主を追い求め、主に従いました。神はそのようなウジヤを祝福し繁栄をお与えになったので、その名は遠くにまで鳴り響きました。しかし、彼が強くなると、彼の心は高ぶり、ついに自分を滅ぼすに至りました(Ⅱ歴代26:16)。ウジヤ王は神の命令にそむいて、自らが祭壇で香を焚こうとして、主の神殿に入りました。おそらく自分だけは特別で、神が全人類に与えられた戒めからも除外してもらえるのではないかと思ったのでしょう。祭司たちがやって来て「主に香を焚くのはあなたのすることではありません」と諭すと、ウジヤは開き直って激しく怒りました。もう怖いものは何もありませんでした。その時、主が彼を打たれました。それで彼はツァラートに冒されたのです。  文学の世界でも、現実の世の中でも、良い評判を誇った人が面目を失い、自分の名を汚し、苦しむということがよくありますが、それは文学の世界だけでなく私たちの世界でも言えることなのです。称賛の甘い蜜が、おごりという毒に変化しないように私たちも注意したいものです。そのためにできる唯一のことは、謙虚な心で神に従うことなのです。

Ⅲ.それでもあきらめないで(8)

最後に8節を見て終わりたいと思います。ヒゼキヤは失敗しました。有頂天になってバビロンの使者たちに見せてはならないものまて見せてしまいました。その結果、取り返しのつかない結果を招いてしまったわけです。それでヒゼキヤの生涯は終わったのでしょうか?cそうではありません。8節を見ると、彼はそこからまた悔い改めて立ち上がったことがわかります。8節をご覧ください。「ヒゼキヤはイザヤに言った。「あなたが告げてくれた主のことばはありがたい。」彼は、自分が生きている間は、平和で安全だろう、と思ったからである。」

ヒゼキヤはここでイザヤに、「あなたが告げてくれた主のことばはありがたい」と言いました。どうしてでしょうか?それは彼が、自分が生きている間は、平和で安全であろう、と思ったからです。これらのことは自分が生きている時代ではなく後の起こるので、安心だと思ったというのです。あまりにも身勝手です。自分さえよければいいといった利己的な思いが込められています。

しかしこの文脈を見ると、あながちそうではもないことがわかります。先程も開いた並行記事であるⅡ歴代誌32章26節には次のように記されてあります。「しかしヒゼキヤが、その心の高ぶりを捨ててへりくだり、彼およびエルサレムの住民もそうしたので、主の怒りは、ヒゼキヤの時代には彼らの上に臨まなかった。」                                                        ヒゼキヤは、この神のさはぎを招くようになったのは自分のせいであること、自分が高ぶったからだということを知り、その高ぶりを捨ててへりくだりました。それで、主の怒りはヒゼキヤの時代は彼らの上に臨まなかったのです。すなわち、ヒゼキヤは自分が生きている間は主の怒りは下らないから安心だと考えていたのではなく、そうした失敗からも学び、それを悔い改めてへりくだったので、彼が生きている間には起こらないことを悟ったのです。確かにヒゼキヤは高ぶりました。それで彼の上に、また、ユダとエルサレムに取り返しのつかないような結果を招いてしまいましたが、それで彼はあきらめることなく、そこからもう一度悔い改めて、主に立ち返ったのです。彼はこの失敗を通して、この痛ましい出来事を通して、大切な教訓を学んだのです。それが「あなたが告げてくれた主のことばはありがたい」という言葉によく表れていると思います。

38章をみると彼が39歳の時死の宣告を受けた時の様子が描かれていますが、その時とは全然違います。その時は死にたくない、死にたくないの一点張りでした。神さまが「あなたは死ぬ。直らない。」と言ってるのにそのことばを受け入れることができず、大声で泣き叫びました。今流行の新島八重、八重の桜の言葉で言うと、会津弁で言うと「んだげんちょも」となりますが、「んだげんちょも」「んだげんちょも」と言って受け入れることができなかったのです。主のことばはありがたくなかったわけです。それは人間の心情からすれば当然のことで、自然な感情の表れかもしれませんが、この時は違います。イザヤが告げた後にもたらされるであろう神のさばきの宣告に対して泣き言一つ言わず、「あなたが告げてくれた主のことばはありがたい」と言うことができました。いったいなぜこの時ヒゼキヤはこのように言うことができたのでしょうか。それは、彼が自分の失敗を通して学んでいたからです。15年間も寿命を延ばしてもらったのに大きな過ちを犯してしまったのは、高慢にもそれが自分が良い人間であるかのように思い込んでいたからだ。それが一方的な神さまのあわれみであることを忘れて・・。すべては神さまの恵みです。神さまは約束されたことを一つもたがわず実現してくださる真実な方であって、その真実のゆえにこの病も癒してくださった。決して自分の功績によってではない。ただ神さまのあわれみなんだ。だから主のみこころがベストであり、それに従うことが最大の祝福なんだということがわかったのです。それがこのことばに現れているのです。「あなたが告げてくれた主のことばはありがたい。」  彼は自分の失敗を悔い改め、そこから学んでいたので、このように言うことができたのです。彼はイザヤが告げた神のさはぎに対して一切泣き言を言わず、また異議を申し立てるようなこともせず、ただ「主のことばはありがたい」と言って受け入れたのです。

ですから、その後のヒゼキヤのことばを見ると利己的で無責任な態度のように見えますが、38章に照らし合わせてみると、むしろ自分の過ちを認め、神のさばきの宣言を受け入れようとする信仰的な態度が読み取れるのです。それはⅡ歴代誌32章33節の言葉を見てもわかります。ヒゼキヤの最期について聖書は次のように記しています。

「こうして、ヒゼキヤは彼の先祖たちとともに眠り、人々は彼をダビデの子らの墓地の上り坂に葬った。ユダのすべての人々とエルサレムの住民は、彼が死んだとき、彼に栄光を与えた。彼の子マナセが代わって王となった。」

ヒゼキヤが死んだとき、ユダのすべての人々とエルサレムの住民は、彼に栄光を与えました。ヒゼキヤは栄光のうちに死ぬことが許されたのです。それは彼が何歳になっても自分の過ちや失敗から教訓を学び、主のみこころにかなった歩みを求めていたからです。年をとっても罪を犯すことがあります。晩年になっても人は完全にはなれません。いつも過ちを犯すのです。このことを厳粛に受け止めるなら、私たちもヒゼキヤのようにそこから教訓を学ぶことができるのではないでしょうか。

C.S.ルイスは次のように言いました。「人間は結局、二種類に分けられる。神が『汝の意のままになれ』と言う人と、神に『御身の意のままに』と言う人だ。地獄に行く者はみな、自分で地獄を選んでいる」  ヒゼキヤはかつて神が「汝が意のままになれ」という人でした。神のみこころがどうであろうとも、私の願うようにしてください、私の思いのままにしてくださいというタイプの人間でしたが、この失敗を通して教訓を学び、神に「御身の意のままに」、すなわち、あなたのみこころのとおりにしてくださいと言う人に変えられたのです。

日本を代表する明治時代のクリスチャンに内村鑑三という人がいますが、彼は次のように言いました。「死ぬこともよい。願わくは神より離れないことを。神に生きれば、私に恐怖はない。」すばらしいことばですね。これはヒゼキヤが学んで到達した境地と言えましょう。あなたのみこころのままに。生きるも良し、死ぬこともまた益なり・・・と。  しかし、内村鑑三は最初からこのような力強い信仰を持っていたのかというとそうではありません。彼がこのような信仰に至ったのは、娘の死がきっかけであったと言われています。娘の名前はルツ子と言いました。ルツ記のルツからとってルツ子です。ルツ子さんは数え年で19歳の時原因不明の難病で天に召されます。その亡くなる3時間前に内村鑑三と奥さん、そしてルツ子さんの3人で聖餐式を行いました。その聖餐に預かったときルツ子さんが「感謝、感謝。もう行きます。」と言いました。それが最後の言葉でした。その12分後にルツ子さんは息を引き取って、天に召されました。  それを見た内村鑑三は悲しみの中にも深く感動し、ルツ子さんの葬式の時にこう言いました。 「これはルツ子の葬式ではなく、結婚式です。私の愛する娘を天国に嫁入りされたのであります」  そして墓地に埋葬する際には、一握りの土をつかんで、その手を高く上げると、かん高い声で「ルツ子さんバンザイ、ルツ子さんバンザイ。」と大声で叫びました。それはこのルツ子さんの死を通して、内村鑑三が初めて復活信仰、再臨信仰に目覚めたからです。  それで晩年の内村鑑三は、イエス・キリストがいつ戻って来てもいいように生活するように心がけました。そして、娘のルツ子さんと天国で再会できることを何よりもの楽しみとして、力強くあかしし、伝道者としての生涯を全うしたと言われています。  それまで彼は、実は、4度の結婚をしています。1度は死別でしたがあとの2度は離婚しているんです。クリスチャンなのに2回も離婚しました。ルツ子さんは最後の奥さんとの間に生まれたまな娘です。その娘が天国に召されたことは彼にとって本当にショックなことでしたが、そのことを通して彼はこれまでの彼の生き様がいかにいい加減なもので、罪深いものであるかを示され、そしてこの結婚が本当に神から与えられた祝福だと感謝して受け止めることができるようになったのです。悔い改めることもできました。いわば娘のルツ子さんの死によって、彼の信仰は刷新されたのです。  そんな内村鑑三が一つの死を書きました。「我らは四人」という詩です。四人というのは娘のルツ子さんの他にもう一人の子供がいたので四人と言っているわけです。 「我らは四人であった。 しかして 今なお四人である。 戸籍簿に一人の名は消え、四角の食卓の一辺はむなしく  四部合奏の一部は欠け 賛美の乱れされしと言えども しかして 我らは今なお四人である。 我らは四人である。地の帳簿に一人の名は消え、天の記録に一人の名は増えた。 三度の食事に空席はできたが、残る三人はより親しくなった。 彼女は今は我らの内にある。一人は三人を縛る愛の絆となった。 しかし、我らはいつまでもかくあるのではない。 我らはラッパの鳴り響くとき、眠れる者が皆起き上がるとき、 主が再びこの地に来たりたもうとき、新しいエルサレムが天から下るとき、 我らは再び四人になるのである。」

何という信仰でしょう。これがキリストを知る者の信仰です。これが復活を信じる者の信仰です。「生きることはキリスト、死ぬことも益です。」(ピリピ1:21)願わくば、神より離れないことを、という信仰です。「御身の意のままに」という人の信仰なのです。

内村鑑三がこのように言うことができたのは、ルツ子さんの死によって、その死に様を通して、本当の信仰に触れたからです。これがヒゼキヤの信仰でもありました。このときはまだキリストの復活がなかったのでそれはぼんやりしていたと思いますが、これまでの数々の失敗を通して、彼もまたその境地に至ったのです。それが「あなたが告げてくれた主のことばはありがい。」なのです。

皆さん、私たちも年をとってからでも罪を犯すことがあります。晩年になっても大きな過ちを犯し、神のさばきを招いてしまうことがあるのです。ダビデもそうでした。彼も晩年になって人口調査の罪を犯し、神のさばきを招きました。彼は神よりも軍事力に頼ろうとしたのです。その結果、イスラエルの民7万人が疫病で倒れるという災いを招いてしまいました。同じように私たちも、何歳になっても完全にはなれません。罪を犯したり、過ちに陥ったりすることがあるのです。 しかし神は、私たちがもう一度信仰に立つことができるようにチャンスを与えてくださいます。そうした過ちや失敗からも必ず学ぶべきレッスンがあるのです。 だから、私のあの時の言葉が、あの時の振る舞いが、過ちが、今日のこんな結果を招いてしまったとか、自分の子供にも、孫にも、こんな影響を与えてしまった、自分の周囲の人たちも巻き込んでしまったとただ後悔ばかりして、泣きべそばかりかいているのではなく、その失敗からもしっかり学んでほしいと思います。最後まであきらめたり、なげやりになったりせずに、それでも主にすがっていただきたいのです。ヒゼキヤのように、「あなたが告げてくれた主のことばはありがたい」と言えるように、何歳になってもその失敗から学んでほしいのです。

イエスの弟子のペテロは、いつも主のみそばにいて四六時中観察しながら学んでいてもいつも失敗ばかりしていましたが、そのペテロが後にこのように証しています。

「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」(Ⅰペテロ5:10)

彼は、主が完全にしてくださると信じていました。主が私たちを変えてくださるのであって、それは一方的な主のあわれみによるのです。私たちが他の人のことを、ああだ、こうだと評価してしまうのは、人はだれであれ「工事中」であるということ、つまり変えられる過程であるということを忘れているからなのです。ペテロは、自分が変えられるのに時間がかかったことを知っていました。ですから、他の人たちのことも余裕をもって待てるようになったのです。彼は「主が完全にしてくださる」と言いました。今、完全なのではありません。晩年になったから完全になるのでもない。私たちは何歳になっても「工事中」なのです。しかし、主はそのような者を変え、やがて完全にし、堅くし、強くしてくださいます。その神の約束を信じて神にゆだねましょう。そしてへりくだって仕えていきたいと思います。自分の弱さに失望してはなりません。ヒゼキヤのように変えられるためには、弱さを持ったまま主の御前に進み出て、そこからしっかりと学ぶべきことを学び、変えられるべきところは変えられるように祈りながら、主の励ましをいただいてもう一度立ち上がることです。主のいつくしみと恵みは尽きることはありません。何歳になってもあなたは新しく変えられるのです。そう信じて、あきらめないで、主のあわれみを信じて、何度でも立ち上がりましょう。それがヒゼキヤの生涯、栄光の生涯だったのです。

イザヤ書38章9~22節 「生と死を支えるもの」

きょうはイザヤ書38章の後半の部分から、「生と死を支えるもの」というタイトルでお話します。エルサレムがアッシリヤによって包囲され陥落寸前まで追い詰められていたころ、ユダの王ヒゼキヤにはもう一つの深刻な悩みがありました。それは、病気で死にかかっていたことです。そして預言者イザヤを通して、「あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。」と死の宣告を受けました。そのときヒゼキヤは顔を壁に向け、大声で泣きながら、主に祈りました。すると主はそのヒゼキヤの祈りを聞いてくださり、彼の寿命にもう15年加えてくださいました。きょうのところには、ヒゼキヤがその病気から回復したときにしるしたことばが記してあります。このところから、人の生と死を支えているものとはいったい何なのかということをご一緒に考えてみたいと思います。

Ⅰ.ヒゼキヤの嘆き(10-16)

まず第一にヒゼキヤの嘆き見ていきたいと思います。10節から16節までに注目してください。まず10節をお読みします。

「私は言った。私は生涯の半ばで、よみの門に入る。私は、私の残りの年を失ってしまった。」

このときヒゼキヤは39歳でした。まさに「生涯の半ば」です。英語では「in the prime of my life」と訳されています。「prime」とは「最も重要な」とか「全盛期」という意味です。つまり「人生で一番脂がのった時」という意味になります。そのような時によみの門に入りました。「よみ」とは何でしょう。ここに※がついていますが、この※がついているイザヤ5:14をみると、これはヘブル語で「シェオル」であることがわかります。「シェオル」とはギリシャ語で「ハデス」ですが、それはこの聖書のあとがきを見ると説明が書かれてありますが、「死者が終末にもたらされる究極のさばきを待つ間の中間状態で置かれる所」のことです。よく「ゲヘナ」という言葉も出てきますが、ゲヘナとは神の究極のさばきによって、罪人が入れられる苦しみの場所のことです。いわば「ハデス」は裁判で刑が決まるまで留置されている所であるのに対して、ゲヘナとはその裁判によって最終的な刑が確定してから行く刑務所のようなところなのです。

皆さん、人は死んだらどうなるのでしょうか?旧約聖書の時代には、人は死んだらみな「シェオル」に行くと考えられていました。そこで死後のさばきを待っていたのです。しかし、ルカの福音書に出てくる金持ちとラザロの話を見ると、このハデスには区別があったことがわかります。アブラハムのふところと呼ばれるところと、火が燃えているために熱くて苦しい所です。ラザロは死んでアブラハムのふところへ行きましたが、金持ちは炎の燃えている苦しみの場所へ行きました。すなわち、旧約時代の人たちは死んだらみなハデスに行きましたが、神を信じていた人たち、すなわち、聖徒と呼ばれていた人たちは「アブラハムのふところ」と呼ばれる所へ行き、そこで神の慰めを受けていたのです。

ヒゼキヤがここで「私は生涯の半ばで、よみに入る。」と言ったのは、死んだ人がみな向かうよみの世界のことを指しています。人生で一番脂がのった時に、残りの人生を失ってしまうことは、どれほど悲しかったことでしょう。その悲しみが11節から14節までに四つの比喩を通して表されています。

まず第一に、それは牧者の天幕のようです。12節をご覧ください。ここには、 「私の住みかは牧者の天幕のように引き抜かれ、私から取り去られた。」とあります。人のいのちは、人の人生は、まるでテントのようにたやすく取り去られるというのです。それがたとえ王であろうと金持ちであろうと、人生ははかないのです。豪勢な宮殿での生活も健康そうな肉体も、牧者の天幕がたたまれて移動する時のように、あっけなく引き抜かれ、取り去られます。

第二に、それは機織りのようです。同じ12節の後半に次のようにあります。「私は、私のいのちを機織りのように巻いた。主は私を、機から断ち切る。」機織りが完成すると遠慮なく糸が切られるように、神はある日突然、人生の糸を切ってしまうわれるというのです。人のいのちはそれほどはかないものなのです。

第三に、それは雄獅子のようです。13節、「私は朝まで叫びました。主は、雄獅子のように私のすべての骨を砕かれます。」雄獅子はすべてのものを容赦なくかみ砕きます。それと同じように、主は病という苦痛をもって容赦なく臨むのです。そこには信仰者も不信仰者の区別もありません。すべての人が雄獅子にかみ砕かれるように砕かれます。それが死なのです。

そして第四に、鳥の鳴き声のようです。14節、「つばめや、つるのように、私は泣き、鳩のように、うめきました。」皆さん、つばめやつるが泣くのを聞かれたことがあるでしょうか?何とも悲しいような鳴き声です。鶴の恩返し。あの鶴はどんな鳴き声で着物を織っていたのでしょう。小鳥たちの鳴き声とは違います。小鳥たちは軽快なハミングを奏でますが、鶴は違います。鶴は心から絞り出すような鳴き声をします。また、ここには「鳩のように」とあります。鳩はヘブル語で「ヨーナー」と言いますが、「嘆く者」という意味があります。神の救いを知らない人は、死の宣告を受けるとき、このように衰え果てて嘆くのです。

いったいなぜヒゼキヤはこんなに落ち込んでいたのでしょうか?ここで有名な使徒パウロのことばを見てみましょう。パウロは次のように言いました。ピリピ1章23節を開いてください。

「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。」(ピリピ1:23)

何という告白でしょうか。パウロは、自分の願いはこの世を去ってキリストとともにいることだと言いました。これは先程見たヒゼキヤの嘆きとは全く違います。ヒゼキヤは死んだら終わりだ、よみに行く。もう主を見ることもない。どうせ私の人生は天幕と同じだから、機織りのようにすぐに切られてしまう。雄獅子のように粉々にかみ砕かれるだけだ。鶴です。鳩です。いったいこの違いはどこから来たのでしょうか?

それは死後にもたらされる復活の希望があったかどうかです。ヒゼキヤは死後のいのち、永遠のいのち、死者の復活についての信仰が希薄(きはく)でした。確かに旧約の時代にも死後の復活についての言及がなかったわけではありません(詩篇49:15,ダニエル12:2)。しかし、まだそれがはっきりしていませんでした。なぜなら、まだイエス・キリストが生まれていなかったからです。それがはっきりしたのはイエスが来られ十字架にかかって死んでくださり、三日目によみがえられたことによってなのです。イエスが死んでよみがえられたので、聖書が約束しているように、私たちも死んでよみがえるということがはっきりわかったのです。たとえ私たちのこの地上の住まいである肉体が壊れても、神がくださる永遠の家、天国があることが、はっきりわかったのです(Ⅱコリント5:1)。私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます(ピリピ3:20)。その時私たちは朽ちることのないからだ、栄光のからだによみがえるからです。

しかし、ヒゼキヤはそのことを知りませんでした。いや知ってはいましたがはっきりしていませんでした。イエス・キリストがまだ来ていなかったので、ぼんやりとしか見ることができなかったのです。ですから希望がありませんでした。死んだらよみに入ると嘆いたのです。

しかし、14節の後半のところを見ると、そのヒゼキヤの心に変化が生じていることがわかります。「私の目は、上を仰いで衰えました。主よ。私はしいたげられています。私の保証人となってください。15 何を私は語れましょう。主が私に語り、主みずから行われたのに。私は私のすべての年月、私のたましいの苦しみのために、静かに歩みます。16 主よ。これらによって、人は生きるのです。私の息のいのちも、すべてこれらに従っています。どうか、私を健やかにし、私を生かしてください。」

ヒゼキヤは主に「保証人」となってくださいと、祈っています。「保証人」とは、自分が支払わなければならない義務を支払えない時に、代わりに支払ってくれる人のことです。最近では一人暮らしのご老人が老人ホームなどに入所する際に、この「保証人」がいないために入れないというケースがあって問題になっています。ある意味で「保証人」というのは連帯保証人よりも重い責任があると言われていますが、その保証人になってくださいと言っているのです。借金の返済を要求する恐ろしいサラ金業者のような「死」に対して、神ご自身が保証人となってくださると確信しました。神が保証人となってくださるなら、何も恐れる心配はありません。この方にすべてをゆだねればいいのです。彼は、主が命を延ばしてくださるなら、その残された日々を静かに歩むと言いました。この信仰によって、人は生きるのだ、その信仰が人を健やかにするのだ、と言うことができました。 その保証人こそ十字架で死なれ、三日目によみがえられた救い主イエス・キリストです。ヒゼキヤの時代にはそれがぼんやりしていてはっきり見ることができませんでしたが、彼はこの神の救いにゆだねることができたのです。

結局のところ、人の生と死を支えるものは何かというと、この信仰なのです。罪の赦しと永遠のいのちの信仰です。復活の希望なのです。Ⅰコリント15章56節から58節を開いてみましょう。

「56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。57 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことをしっているのですから。」

この希望があるとき、私たちはたとえ死に直面するようなことがあっても、神に感謝することができます。たとえ心が騒ぐようなことがあっても、堅く立って、動かされることなく、いつも主のみわざに励むことができるのです。何と大きな力でしょうか。

ヒゼキヤと大体同じ年に死の宣告を受けた方で飯島夏樹という方がおられます。この方は日本を代表する世界級のプロ・ウィンドサーファーでしたが、38歳の時に肝臓ガンでこの世を去りました。飯島夏樹さんはガンの宣告を受けたとき、人生がガラッと変わりました。最初は「ガンといっても不治の病ではないだろう」と悲観しませんでしたが、大手術を2回、130針の傷跡、17回の入院生活をしていく中で徐々に「うつ病」と「パニック障害」になり、だんだん引きこもりになりました。とても辛い時を過ごされました。そして、とどめと思われるような医者からの余命宣告を受けてしまいます。しかしクリスチャンだった彼は小説を書くことをすすめられました。残された家族への愛と慰めをどのように表したらいいかと思案した彼は、「天国で君に逢えたら」という小説を書きました。その小説を書いたのは、彼がクリスチャンだったからです。その小説の中で彼は、救われた人は天国へ行くと聖書に書いてあるから、この世の別れはつかの間の別れなのだ、と言っています。死が怖くないというと嘘になるが、私たちクリスチャンは天国への希望を持っている。そこでまた君と逢えると、天国の希望を書き綴ったのです。それこそ彼が伝えたかった真の慰めでした。そして、喜びと感謝のうちに見事に天に凱旋して行かれました。

神に希望を置く人は何と幸いでしょうか。たとえ病気になっても、たとえガンの宣告を受けても、そこに永遠のいのちがある。死は勝利にのまれた。天国に行くことができるという希望は、ほんとうの意味で人を励まし、人を立ち上がらせ、人を生かすのです。

私たちの人生には色々な困難があります。ヒゼキヤのように死の宣告を受けるようなこともあるかもしれません。どうすることも出来ない現実にぶつかることもあります。しかし、それがどのような困難であっても、イエス・キリストを信じる人には絶望はありません。そこに復活の希望、永遠のいのちが約束されているからです。その現実を受け入れ、なおかつその現実を神さまにゆだねつつ、静かに生きることができるのです。

Ⅱ.ヒゼキヤの賛美(17-20)

次に、ヒゼキヤの賛美の生涯を見ていきましょう。17節から20節までをご覧ください。「ああ、私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。あなたは、滅びの穴から、私のたましいを引き戻されました。あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました。18 よみはあなたをほめたたえず、死はあなたを賛美せず、穴に下る者たちは、あなたのまことを待ち望みません。19 生きている者、ただ生きている者だけが今日の私のように、あなたをほめたたえるのです。父は子らにあなたのまことについて知らせます。20 主は、私を救ってくださる。私たちの生きている日々の間、主の宮で琴をかなでよう。」

ヒゼキヤはここで、自分が苦しんだ苦しみは平安のためでした、と言っています。彼は神との祈りの中でこの希望を抱くことができるようになりました。自分の苦しみは苦しみだけのものではなく、むしろ、平安をもたらすためであったと受け止めることができるようになったのです。ヒゼキヤは今、自分の身に起こっていることが主の主権の中で起こっているのであって、主が最善に導いてくださるという信仰を持つことができました。自分の苦しみが、平安を与えようとする神の良いご計画であると悟ることができたのです。何よりもヒゼキヤはいやされたことで高慢になりませんでした。20節に、「主は、私を救ってくださる。私たちの生きている日々の間、主の宮で琴をかなでよう。」とあるように、神の一方的なあわれみに感謝して、心からの賛美をささげることができました。

9歳で集団赤痢にかかり、高熱が原因で脳性マヒになった水野源三さんは、以来、寝たきりになり言葉を発することができなくなってしまいました。首から下が全く動かなくなってしまったのです。コミュニケーションの手段はただ一つ、瞬きをするだけです。12歳の時に聖書に触れ、13歳の時に洗礼を受けました。47歳でこの世を去った水野源三さんは、その瞬きだけで詩を書きました。それで「瞬きの詩人」と言われましたが、その水野さんの詩の中に「キリストを知るため」という詩があります。

「病に倒れたその時には、涙を流して悲しんだが 霊の病いやしたもう キリストを知るためだとわかり 喜びと感謝に変わりました。  友にそむかれた時には 夜も眠れずに恨んだが 永遠に変わらない友なる キリストを知るためだとわかり 喜びと感謝に変わりました。  過ち犯したその時には 心を乱して悔やんだが すべてをば 償いたもう キリストを知るためだとわかり 喜びと感謝に変わりました。」

すべてはキリストを知るためなんだ。病気で寝たきりになったのも、キリストを知るためだった。病気だったからこそキリストを知ることができた。それがわかったとき、病気で倒れた悲しみが、喜びと感謝に変わったのです。

皆さんはいかがですか?病に倒れたその時に、それは霊の病をいやしたもうキリストを知るためであったとを知り、神に感謝し、神を賛美しているでしょうか?友にそむかれたその時に、夜も眠れずに恨んだのは、永遠に変わらないキリストを知るためであったと知り、感謝と賛美をささげているでしょうか?過ちを犯したその時に、心を乱して悔やむことがあったのは、すべての罪を償いたもうキリストを知るためであったことを知り、喜び、感謝しているでしょうか?逆に不平不満に満ちて、心が暗く、落ち込んではいないでしょうか?私たちが神を賛美し、神に感謝するのは、そこに神が働いておられ、すべてを最善に導いてくださるという信仰のゆえであり、その苦しみや艱難が逆に平安を与えようとする神の良い計画だと信じているからなのです。そのような人はどんなことがあってもつまずくことはありません。いつも神を見上げ、その神のすばらしい計画を見て、喜び、賛美し、感謝をささげることができるようになるのです。そのような信仰に主は応えてくださいます。

Ⅲ.いやすのは神(21-22)

最後に、主がヒゼキヤにどのように答えてくださったのかを見て終わりたいと思います。21節と22節をご覧ください。「イザヤは言った。「ひとかたまりの干しいちじくを持って来させ、腫物の上で塗りつけなさい。そうすれば直ります。」22 ヒゼキヤは言った。「私が主の宮に上れるそのしるしは何ですか。」

ヒゼキヤの信仰に応え、主は彼の病をいやされました。預言者イザヤは言いました。「ひとかたまりの干しいちじくを持って来させ、種物の上に塗りなさい。」ここに「腫物」とあるので、ヒゼキヤがかかっていた病気は何らかの皮膚病であったのではないかと考えられています。それが死に至るほどの病であったとすれば、皮膚ガンのようなものだったと考えてもおかしくありません。しかし、その病気が何であったにせよ、その病気をいやすために主は、干しいちじくを用いられました。主が全能者であられるならわざわざこのような方法を用いなくてもよかったはずなのに、あえてこのようにされたのはなぜでしょうか?

それは、このような方法によっても神はいやされることを示すためでした。実際、いちじくにはこのような効用があるらしいのですが、主はヒゼキヤの病をいやすためにこの方法を用いられたのです。主がいやされるのであれば何もしなくてもいやすことができたはずなのに、あえてこのような方法を用いられたのは、主はどのような方法によってもいやされる方であることを示すためだったのではないかと思います。    これと同じようなことが、聖書の中の至るところに見られます。たとえば、出エジプト記15章には、シュルの荒野にやって来たイスラエルの民がやっとの思いで水を見付けたかと思ったら、その水が苦くて飲めなかったということがありましたが、主はその水をどのように甘くされたかというと、何と一本の木をその水の中に投げ入れるという方法を取られました(出エジプト15:25)。

また、ヨハネの福音書を見ると、生まれつきの盲人がいやされたことが記されてありますが、どのようにいやされたのかというと、イエスが地面につばきをした、そのつばで泥をつくり、その泥を盲人の目に塗って、シロアムの池で洗うようにと命じる方法によってでした(ヨハネ9:7)。彼がシロアムの池に行って洗うと、この盲人の目は見えるようになりました。

主は何もしなくてもいやすことがおできになりますが、あえてこのような方法を用いられることがあるのです。それは、主はどのような方法によってであれいやすことができる方であるということを示すためだったのです。神さまは何もしなくてもいやすことができますが、時には医療行為を用いていやされることもあります。ですから、病院に行くのは不信仰だとか、薬を飲むのは信仰がないからだというのは間違っています。それはバランスを欠いた危険な教えです。なぜなら、神は医療を用いていやされることもあるからです。薬を用いていやすこともあるのです。

パウロの弟子のテモテの胃腸が弱かったとき、「これからは胃のために、少量のぶどう酒を飲みなさい。」(Ⅰテモテ5:23)と言いました。これもいやすために神が用いられた方法でした。あれほど聖霊に満たされていたパウロが、死人をも生き返らせることがてきたパウロが、その一方では「これからは胃のために、少量のぶどう酒を飲みなさい。」と言ったのです。それも神の方法だったのです。神はすべてのことを、いやしのために用いられるのです。神のみこころなら医者にかからなくても瞬時にいやされますが、と同時に、神のみこころなら、様々な方法によってもいやされるのです。主がいやしてくださると信じて、主が用意してくださる方法を通して、与えられた方法を感謝して受け取ること。それも信仰なのです。いずれにせよ、大切なのは神はいやし主であると信じて、この方に祈り、この方に信頼することです。

「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行い、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」(出エジプト15:26)

この信仰のゆえに、神は働いてくださいます。ヒゼキヤのように主に信頼して祈り、主のいやしを体験することができますように。そして、その生涯が嘆きや悲しみ、つぶやき、絶望の生涯から、主への賛美と感謝に満ち溢れた生涯となりますように。復活の希望、永遠のいのちの希望こそ、私たちの生と死を真に支えるものなのです。

イザヤ書38章1~8節 「祈りは壁を突き破る」

きょうは、「祈りは壁を突き破る」というタイトルでお話したいと思います。私たちの人生には、とても背負いきれないと思うような試練が襲ってくることがありますが、そのような時いったいどうしたらいいのでしょうか?きょうの箇所に出てくるユダの王ヒゼキヤは、病気にかかって死にかけていたとき、死の宣告を受けましたが、それで彼は絶望したり、あきらめたたかというとそうではなく、顔を壁に向けて祈りました。神に集中して祈ったのです。その結果、その祈りが聞かれ、彼の寿命に15年が加えられました。絶望の死の壁にいのちの扉が開かれたのです。どんなに試練が襲ってきても絶望してはいけません。そのような時こそ神に向かって祈らなければなりません。そうすれば主はその祈りを聞かれ、御業を行ってくださいます。本当の絶望とは祈れないことです。もし私たちに少しでも祈る信仰が残されているなら、そこにはまだ希望があることを覚えていただきたいのです。きょうは、祈りは壁を突き破るというテーマで、三つのことをお話たいと思います。

Ⅰ.あなたの家を整理せよ(1)

まず1節をご覧ください。「そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。そこへ、アモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。「主はこう仰せられます。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。』」

「そのころ」とは、エルサレムがアッシリヤに取り囲まれていたころのことです。それは前701年のことでした。ヒゼキヤが死んだのは前686年でしたから、これに15年を加えるとちょうどこの年になります。まさにそのとき、ヒゼキヤは病気にかかって死にかかっていたのです。それが何の病気であったのかははっきりはわかりませんが、21節を見ると、ここに「ひとかたまりの干しいちじくを持って来させ、腫物の上で塗りつけなさい。そうすれば直ります。」とありますので、これはどうも皮膚ガンのようなものだったのではないかと考えられています。悪性の腫瘍ですね。それが悪化して死にかかっていたのです。ヒゼキヤはこのとき、アッシリヤに包囲されていただけでなく、病気にもかかっていて死にかけていたのです。このことからも彼がいかに苦しんでいたかがわかると思います。試練が同時に二つも三つも押し寄せていたのです。「いったいなぜこんなことが起こるのか」「なぜ神はこのようなことを許されるのか」彼は相当苦しんでいたに違いありません。

しかもそれに追い打ちをかけるかのように、自分が師として仰ぎ、いつも相談していた預言者イザヤがやって来て、こう告げました。「あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。」死の宣告です。この病気は直らないから、あなたはもうすぐ死ぬのだから、あなたの家を整理するように。何とショッキングな言葉でしょう。直らないかもしれないとか、覚悟をしておいた方がいいかもしれない、ではありません。「あなたは死ぬ。直らない。」とはっきり告げられたのです。だから、あなたの家を整理しておくようにというのです。これは家を片付けておくようにということだけではありません。ちゃんと遺言を書いておきなさいということです。あなたが死んだ後、残された人たちが混乱しないように、ちゃんと遺言を書いて整理しておきなさいということです。またそれだけでなく、そういうことも含めた上で、神と会う備えをしておきなさいということです。アモス書4章12節を開いてください。

「それゆえ、イスラエルよ。わたしはあなたにこうしよう。わたしはあなたにこのことをするから、イスラエル、あなたはあなたの神に会う備えをせよ。」

神に会う備えをすること。キリストの御座のさばきに着く備えをすること。それが一番大きな備えです。なぜなら、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)からです。どんなに健康に留意しても、毎日運動してダイエットに励んでも、無農薬の有機野菜を食べても、人は皆必ず死にます。そしてその日は思いがけない時にやって来るのです。ですから、その前にあなたの家を整理しなければなりません。財産の管理、不動産の整理も必要でしょう。しかしそれ以上に必要なことは霊的なこと、永遠のいのちについて考えなければなりません。あなたの家は整理されているでしょうか?

ヒゼキヤはこの時39歳の若さでしたが、その39歳の時にこのことを問われたのです。よっぽどショックだったと思います。外側から来る試練も辛いものがありますが、それ以上に自分の病気が治らないということは、どんなに自分を苦しめていたことかと思います。しかし、彼はそれで終わりませんでした。ヒゼキヤは主に祈りました。ここが神を信じている人とそうでない人の違いです。神を信じている人にとっては、それは辛く、悲しいことですが、むしろそのようなときこそ神の栄光が現されるチャンスだと受け止め、神に向かうのです。というのは、神の御業はしばしば私たちが調子よく物事を行っているときよりも、むしろ人間的に見たら絶望でお手上げの状態の時こそ発揮されるものだからです。

たとえば、イエス様がガリラヤのカナで婚礼に招かれたとき、ぶどう酒がなくなってしまうということが起こりました。婚礼の祝いの席でぶどう酒がなくなるというのは親類縁者の恥にもなります。さてどうしましょうか。母マリヤはイエスのところへ行き、イエスの耳元でつぶやきました。「ぶどう酒がありません」普通ならぶどう酒がなくなって終わりとなりますが、このときこそ神に対する信仰が発揮される時です。イエスは手伝いをする者たちに、そこに置いてあった大きな石の水がめに水を満たすように言われました。1,2,3,4,5,6,それは全部で6つありました。彼らはその水がめの縁までいっぱい水を満たしました。そして、それを宴会の世話役のところに持って行くようにと言われると、それは甘いぶどう酒になっていました。人々は言いました。「だれでも初めに良いぶどう酒を出して、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものなのに、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておいたものだ。」それほど良いぶどう酒に変わっていたのです。彼らはそれがどこから来たのか知りませんでしたが、水を汲んだ手伝いの者たちは知っていました。イエスがそれをぶどう酒に変えたということを。  これがイエスの行われた最初の奇跡です。その奇跡によってご自分の栄光を現されたのです。ぶどう酒がなくなった時こそ、神の栄光が現される時でもあったのです。

まさにヒゼキヤはそのような状況に置かれました。自分ではどうしようもない絶望的な状況に置かれたその時が、神の栄光が現される時でもあったのです。あなたにとってもなかなか受け入れられない、辛いこと、苦しいことが襲ってくることがあるかもしれませんが、いや、まさに今がそのような状況の中にいるという人もおられるでしょう。しかし覚えていただきたいことは、そのようなときこそ、神の栄光が現される時でもあるのです。私たちがいつも神様から愛されている、神を信じて愛しているといういのちの関係が、こういうところに輝き出てくるのです。

Ⅱ.壁に向けて祈ったヒゼキヤ(2-3)

では、この時ヒゼキヤはどうしたでしょうか?2節と3節をご覧ください。「2 そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて、主に祈って、3 言った。「ああ、主よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行ってきたことを。」こうして、ヒゼキヤは大声で泣いた。」

ここに「そこで」とあります。「そこで」というのは、ヒゼキヤが死の宣告を受けたのでということです。ヒゼキヤは死の宣告を受けた時、ただうろたえて絶望していたのではありません。彼は立ち上がり、神のもとに走っていき、神に祈りました。ヒゼキヤが壁に向かって祈ったのは、彼が病気で神殿に行けなかったからではありません。彼の置かれていた状況が壁に囲まれた八方塞がりのようだったということであり、他のものが自分の視野に入ってくるのを拒絶するかのように、ただ神に集中して祈ったということです。

これこそ、困難に直面するときに私たちが取らなければならない態度です。私たちの人生にもヒゼキヤが経験したような試練や、いろいろなことで心を騒がせるような出来事が起こることがありますが、そのような時にしなければならないことはただ神に向いて、神に集中して祈ることです。ほんとうの祈りとは言葉や内容ではありません。ほんとうの祈りとは神に向かうこと、神に信頼して自分を集中することなのです。

ヒゼキヤはどのように祈ったでしょうか。彼はこう言いました。3節です。「ああ、主よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行ってきたことを。」

これはどういうことでしょうか?ある人は、ヒゼキヤはここで自分の良い行いを神の前に並び立て、自分の要求を聞いてくれるように神と取引をしているのだと言っていますが、そうではありません。全く逆です。ヒゼキヤがこのように言ってるのは自分の力ではどうすることもできないことと認め、ただ神のあわれみにすがっていたからなのです。

ここでヒゼキヤは、「神さま、どうか、私がまことを尽くし、全き心、真心をもって仕えてきた、この生涯を覚えてください。顧みてください。」と言いました。それは普段神さまとそのような関係がなければ言えない言葉です。もし神さまとの関係が希薄であれば、このような祈りは出てこないはずです。しかしそれはヒゼキヤが全く罪を犯さなかったとか、完全であったということではなく、神のあわれみに信頼して、まごころをもって仕えてきたというありのままのことを申し上げているだけのことです。事実、ヒゼキヤはこれまでも何度も失敗を重ねてきました。アッシリヤに攻撃された時には、自分たちは滅ぼされてしまうのではないかと恐れて、内密のうちにエジプトと同盟関係を結びました。またアッシリヤの王に貢ぎ物を送っては、お金で問題を解決しようとしました。しかし、そうした人間的なはかりごとはことごとく失敗に終わりました。彼は決して完全ではありませんでした。その彼が「私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行ってきた」と言ったのは、神の恵みの契約に対して心を込めて仕えてきたということであって、神のあわれみにすがっていたからなのです。

これは私たちも忘れてはならないことです。ここ一番という時、どうしても神に聞いていただきたいという祈りをする時、私たちはどのように祈ったらいいのでしょうか?私たちはみなすねに傷をもっている者です(心にやましいものを持っている者という意味)。イエスさまを信じてからも、何度イエスさまを裏切ってきたことでしょう。そういう者が神に訴えて、神に祈るとき、いったいどのように祈ればいいのでしょうか。自分がどれだけ信じてきたかとか、自分がどれだけ仕えてきたかということではなく、神がどれほどあわれみ深く、真実であられるかに信頼することです。この神は私がどんなに失敗しようが、どんなにつまずこうが、そういうことで私を退ける方でない。むしろ、そこからずり落ちることがないように、あわれみをもって守ってくださると信頼することです。

日本人の宗教観の中には、「こんなことをしたら罰があたる」とか「あんなことをしたら呪われる」といったものがありますが、イスラエルの神、この天地を造られたまことの神は、そういう方ではありません。私たちの神さまは無限に私たちを愛し、私たちに恵みとあわれみを注いでくださる方です。それが聖書の神であり、聖書の信仰です。この方は私たちがどうであれ、絶対に私たちを退けることはされません。ですから、いろいろな試練に遭うとき、さまざまな苦しみに直面するとき、自分がこんなことになったのはあんなことをしたからだとか、こんなことをしたからだと思わないで、神は無限の恩寵者であって、だれが忘れても決して私を忘れることはなさらない方であると信じて祈らなければなりません。

ちょっと前に「レ・ミゼラブル」(ああ、無情)のDVDを観ました。それを観て考えさせられたことは、その中に登場する神父の態度です。一切れのパンを盗んだがために投獄され、19年にわたる強制労働を強いられたジャン・バルジャンが修道院を訪ねてやって来ましたが、神父は彼を客として迎えました。「あんたを殺すかもしれない」というジャン・バルジャンの言葉に対して、神父は「互いに信用し合おうじゃないか」と言って、彼を受け入れます。暖かい部屋で、暖かい夕食をもってもてなし、暖かいベッドを提供したにもかかわらず、ジャン・バルジャンはその神父の好意を仇で返すようなことをしました。銀食器を盗んで逃亡しました。やがて捕まり、神父のもとに連行されてきたとき、「神父様からもらった」と嘘をいたジャン・バルジャンを、「そうとも、彼にやったものだ。ついでに燭台も持って行くようにと言ったのだが、急ぐからと持って行かなかった。」そう言って彼を守るのです。「なぜこんなことを」と聞くジャン・バルジャンに対して、神父はこう言いました。「昨夜、こう言ったことを忘れるな。」「新しい人になる」と。「兄弟ジャン・バルジャンよ。君は悪と縁を切ったのだ。私は銀食器で君の魂を買い戻した。恐怖と憎しみから君を救い、神の御手に君を返す」と。

私はこの神父の慈しみとあわれみに、深く心を打たれました。彼はどこまでもジャン・バルジャンを信じて受け入れました。その愛に心打たれたジャン・バルジャンは見事に変わります。やがてある町の市長になった彼はひとりの女性との約束を守り、命がけで彼女の娘を守りました。また、敵であった警察署長を心から許してあげるのです。

これが神の憐れみです。私たちがどんなに不誠実であり、神を無視するような行動があったとしても、神はあわれみ深い方であって、イエス・キリストによって私たちを買い戻してくださいました。神の御手の中に。イエス・キリストの贖いのゆえに、私たちは神の子とさせていただいたのです。この方を「お父さん」と呼べるようにしてくださいました。「お父ちゃん」と呼ぶとき、神は私たちをご自身の子として受け入れてくださるのです。それが神に対する私たちの根本的な信仰でなければなりません。神は全能者であられるということも大切ですが、その前に神はあわれみ深い方であるということを忘れないでいただきたいのです。

ですからヒゼキヤはこう祈ったのです。「神さま、私はあなたのあわれみによって選んでいただいたあなたの民です。あなたが約束してくださった恵みとまことに対して、私の全身全霊をもって答えます。欠けがあるかもしれません。失敗も多いかもしれませんが、神よ、あなたのあわれみのゆえに、聞いてください。」

こうしてヒゼキヤは大声で泣きました。人前に「大変です。助けてください」と泣いたのではありません。「痛いよ。苦しいよ」と泣いたのでもないのです。神の前に泣いたのです。ありのままの姿で、自分の全存在を神にぶつけ、神のあわれみにすがったのです。涙をもって、自分が自分ではいられなくなるような思いで神に訴えたのです。そのような祈りを、神が聞かないわけがありません。このような祈りは必ず神の心を動かします。このような切なる祈りは、八方塞がりの壁に希望の扉を開くのです。

Ⅲ.わたしはあなたの祈りを聞いた(4-8)

では、ヒゼキヤが祈ったその祈りに、神はどのように答えたでしょうか。4節から8節までをご覧ください。「4 そのとき、イザヤに次のような主のことばがあった。5 「行って、ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、主は、こう仰せられます。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたの寿命にもう十五年を加えよう。6 わたしはアッシリヤの王の手から、あなたとこの町を救い出し、この町を守る。』7 これがあなたへの主からのしるしです。主は約束されたこのことを成就されます。8 見よ。わたしは、アハズの日時計におりた時計の影を、十度あとに戻す。」すると、日時計におりた日が十度戻った。」

主はイザヤを通して語られました。「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。」何という慰めに満ちた言葉でしょう。すばらしい神のあわれみです。神はヒゼキヤの祈りを聞かれ、その涙を見たと言われました。そして、彼の寿命にもう15年を加えてくださいました。そればかりではありません。神は彼が祈らなかったことまで答えてくださいました。それはアッシリヤの手から彼とエルサレムを救い出すということです。これが私たちの信じている神です。これが聖書の神なのです。

エペソ人への手紙3章20節を開いてみましょう。ここには「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、」とあります。私たちの神は、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことができる方なのです。この方が私たちの祈りに答えてくださるのです。なぜでしょうか?なぜなら、この方はあわれみ深い方だからです。結局、ヒゼキヤの祈りが答えられたのは彼の功績に基づくものではなく、また、彼の人格に基づくものでもありませんでした。あるいは、彼の信心深さ、敬虔さといったものでもなかったのです。ヒゼキヤの祈りが答えられたのは、ただ神があわれみ深く、真実な方だからです。神は約束されたことをどこまでも守られます。神が祈りに答えられるのはあなたがすばらしいからではありません。あなたががんばっているからでもない。ただ神があわれみ深い方だからであって、そのご性質に基づいて、神はあなたの祈りに答えてくださるのです。

またそのしるしとしてアハズの日時計の影を10度あとに戻すと言われました。この「アハズの日時計」はヒゼキヤの父であったアハズ王が作ったものです。これがどのような時計であったのかはよくわかりませんが、下の欄外を見るとこの「日時計」という言葉に※がついていて、直訳で「階段」とありますから、おそらく、宮殿に上る階段の影のことではなかったかと思われます。360度の中の10度であれば、時間にして24時間では40分になります。それだけの時間が戻ったということになります。ヨシュア記には太陽が1日止まったという記事が出てきますが、このように時間が止まったとか、戻ったということを聞いて、「だから聖書は信じられないんだ」とか、「ほんとうに荒唐無稽な非科学的なことだ」という人もいます。しかし、神さまは科学で証明できないようなこともされるのです。時間を創造された神さまは、時間を支配したり、コントロールしたりすることもおできになるのです。時間を延ばすことも、縮めることも、長くすることも、短くすることも、何でもおできになるのです。神さまは神さまであって、時間に縛られる方ではないからです。「初めに、神は、天と地を創造した。」(創世記1:1)このみことばを信じられるなら、このこともたやすく信じられるでしょう。時間をコントロールされる神さまは、ヒゼキヤの寿命も伸ばされたのです。

何とすばらしいことでしょう。神はヒゼキヤの泣き叫ぶ祈りと涙を見られ、ヒゼキヤの祈りに豊かに答えてくださいました。ヒゼキヤは自分の病を癒してくださいと祈りましたが、神はヒゼキヤの病を癒すだけでなく、15年寿命を延ばしてくださいました。さらに、ユダをアッシリヤの手から救い出され、エルサレムの町を守るという約束まで加えてくださいました。そして、日時計の影があとに戻るというしるしもくださいました。たとえ自分には背負い切れないと思うような試練が襲って来ても、あなたが神に向かって切に祈り求めるなら、神はあなたの祈りを聞いて、豊かに答えてくださいます。八方塞がりの壁 にいのちの扉が開くのです。

マーガレット・ミッチェルは、足を痛めてから小説を書き始め、7年かかって一つの小説を書き上げました。彼女は原稿をもってあちこちの出版社を訊ね歩きましたが、はねつけられました。誰もミッチェルの小説に関心を示しませんでした。普通の人ならそこであきらめて他の仕事を探したでしょうが、彼女はあきらめませんでした。ミッチェルはマクミラン出版社のレイソン社長がアトランタに出張に来るという話しを聞き、汽車の駅まで駆けつけました。そして、自分が書いた原稿の束を社長に渡しながら懇願しました。「お願いです。この原稿を読んでください。」レイソン社長は面倒だという表情で原稿をカバンに放り込みましたが、原稿を読む気など毛頭ありませんでした。レイソン社長は道中に電報を受け取りました。ミッチェルからでした。「お願いです。私の原稿を読んでください。」一日経って、また電報が来ました。「どうか、読んでください。」次の日もまた電報が来ました。レイソン社長はミッチェルの執念に感動し、原稿を読み始めました。ところがその後、列車が目的地に到着したことにも気づかないほど、社長はその小説に深く没頭していました。その小説こそ「風と共に去りぬ」(Gone with the Wind)です。

「風とともに去りぬ」は、ミッチェルの粘り強い執念による産物です。私たちの祈りもこうあるべきです。どんな試練が襲って来ても絶望してはいけません。そのときあなたがすべきことは、あなたの顔を壁に向けて祈ることです。神のあわれみにすがって祈ってください。そうすれば、神はあなたの祈りを聞き、あなたの涙を見て、豊かに答えてくださいます。神の子供としての特権と祝福を、祈りを通して体験することができますように。そのような祈りは必ずや壁をも突き破るようになるのです。