ヘブル5章5~10節 「とこしえに救いを与える方」

きょうは、イエス・キリストこそとこしえの救いを与えることができる方であるということをお話したいと思います。まず5節と6節をご覧ください。

 

Ⅰ.神によって立てられたイエス(5-6)

 

5節には、「同様に、キリストも大祭司となる栄誉を自分で得られたのではなく、彼に、『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。』と言われた方が、それをお与えになったのです。」とあります。「同様に」というのは、その前のところで語られてきたことを受けてのことあります。その前のところ、すなわち、5章1節から4節までのところには、大祭司はどのようにして選ばれるのかについて3つのことが語られていました。すなわち、第一に、大祭司は人々の中から選ばれなければならないということでした。なぜでしょうか。なぜなら、大祭司は人々に代わって神にとりなしをする人ですから、その人々の気持ちを十分理解できる人でなければその務めを十分果たすことはできないわけです。

 

それから大祭司のもう一つの条件は何だったかというと、人々の弱さを十分身にまとっていなければならないということでした。自分自身も弱さを身にまとっているからこそ、人の痛みを十分理解し、そのために心から祈ることができるわけです。私は新年早々胆嚢摘出手術で一週間入院しましたが、中にはとても喜んでくださる方がおられまして、その喜びというのは「ざまあみろ」とか、「あっすっきりした」といった気持からでなく、どうも私は人からは強い人間に見られているようで、そんな私が一週間も入院したものですから、これで牧師も人の痛みが少しはわかったに違いないといった安堵心からのようでした。しかし、幸い、あれから大分自分の体をいたわるようになったためか、以前よりもぐっと調子がよくなった感じがします。こんなに調子がよくなるなら、もっと早く手術を受けていればよかったなぁと思っているほどです。

それから大祭司のもう一つの条件は何だったかというと、大祭司は自分でなりたくてもなれるわけではなく、神に召されて受けるのですということです。同様に、キリストも大祭司となる栄誉を自分で得られたのではなく、神によって召され、神よってそのように立てられたからこそその立場に着いておられるということです。

 

それは、『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。』という言葉からもわかります。これはいったい、だれが、だれに言った言葉なのでしょうか?これは旧約聖書の詩篇2篇7節の言葉からの引用です。このヘブル人への手紙の中には、この聖句が何回も何回も引用されています。それはイエスさまが、父なる神から、「あなたは、わたしの子」と呼ばれている、つまりイエスさまが神の独り子であることの宣言なのです。イエスさまは、旧約聖書の昔から神とともにおられたひとり子の神であり、人類を罪から救うために神によって遣わされたメシヤ、救い主であることとの証言なのです。イエス様はその辺のちょっとした偉大な人を超えた神のメシヤ、救い主なのです。そのことを表しているのがこの聖句です。

 

ここには、「きょう、わたしがあなたを生んだ。」ことばがありますが、エホバの証人の方はこの言葉が大好きで、「ほら、みろ。キリストは神によって生まれたと書いてあるではないか。神であるなら生まれるはずがないじゃないか、キリストはその神によって生まれた子にすぎないのだ」と言われるのですが、ここではそういうことを言っているのではありません。この「生んだ」という言葉は、神様がイエス様を「オギャー」と産んだということではなく、第一のものになるとか、初穂になるという意味なのです。つまり、イエスさまが死者の中からよみがえられたことによって、イエスが神の御子であられることが公に示されたのです。もしイエスが死んで復活しなかったらどうでしょうか。それは私たちと何ら変わらない人間の一人にすぎないということになります。確かに偉大なことを教え、すばらしい奇跡を行ったかもしれませんが、所詮、それまでのことです。しかし、キリストは死者の中からよみがえられたので、彼が神の子であることがはっきりと証明されたのです。つまり、これはキリストが神の子、メシヤ、救い主であることの照明でもあるのです。イエスは神の子であり、全く罪のない方であり、私たちの罪を完全に贖い、私たちを神のみもとに導くことができる方なのです。

 

それゆえに、このイエスについて別の箇所でこう言われているのです。6節、

『あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。』」

 

「メルキデゼクの位に等しい祭司」であることについては7章のところに詳しく出てくるのでそこで取り上げたいと思いますが、ここではただ一つのことだけを申し上げたいのです。このメルキデゼクという人物はエルサレムの王であり、祭司でもあった人で、アブラハムの時代にいた人物であるということです。大祭司というのはアロンの時代に初めてその職に任じられたわけですから、それよりもずっと先の時代の人であったということです。つまり、このメルキデゼクという人はアロンよりもすぐれた大祭司であり、ちょっと不思議な大祭司であったということです。そして、ここでは神の子イエスがメルキデゼクの位に等しい大祭司であると言われているのです。ここには、彼は「とこしえに」祭司であると言われていることから、キリストはそのような類な大祭司であるということがわかります。つまり、キリストは、私の罪も、あなたの罪も、完全にあがなうことがおできになられる方であって、そのために神によって立てられた方なのです。

 

このような方がいたら、あなたも助けを求めたいと思いませんか。人間は一見強そうでも、ちょっとしたことですぐに右往左往するような弱い者でしかありません。きょうは何でもなくても明日はどうなるかさえわからない不確かな者なのです。しかし、人間を超えた確かな神、メルキデゼクの位に等しい大祭司に支えられながら生きれらるということはどんなに幸いなことでしょう。私たちにはこのような支えが必要なのです。あなたは、それをどのように持っておられるでしょうか。

 

Ⅱ.涙をもって祈られたイエス(7)

 

次に7節をご覧ください。「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」

 

どういうことでしょうか。大祭司であるためのもう一つの条件は、人々を思いやることができるということでした。まさに、ここにはそうした大祭司イエスの姿が描かれているのです。4章15節にも、「私たちの弱さに同情することがおできになられるのです。どのようにおできになられるのでしょうか。ここには、「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことができる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」とあります。

 

確かにイエス様の生涯をみると、それは祈りの生涯でした。しかしその中でも、死を目前にしたゲッセマネでの祈りは、私たちの想像をはるかに超える激しい祈りでした。イエスは十字架の死を前にして、「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22:42)と三度も祈られました。それはこけまでひと時も離れたことがなかった父と離れることの苦しみを表していたからです。ルカは「汗が血のしずくのように地におちた。」と記録しています(同22:44)。それほど激しい祈りの葛藤でした。

しかし、それはゲッセマネの園での祈りだけではありません。というのは、ここに「キリストは人としてこの世におられたとき」とあるからです。この原文を直訳すると、「キリストは、ご自分の肉の日々において」となります。つまり、これはイエス様の地上生活の中のある特定の日のことを指しているのではなく、イエス様がこの地上で生活をしておられた間中のことなのです。ですから、イエス様はゲッセマネの園での祈りだけでなく、いつも涙を流して叫び続けておられたのです。あなたのために涙をもって祈っておられるのです。

 

一体どこのだれがこの私のために、あなたのために、涙を流して祈ってくれたでしょうか。イエス様以外にはおられません。主イエス様以外に、あなたのために涙を流して祈ってくれる方はいないのです。しかも、イエス様はいつもそのように祈っていてくださいます。この地上におられた時だけでなく、天におられる今も、父なる神に私たちのためにとりなしていてくださるのです。なんという大きな恵みでしょうか。

 

旧約聖書にサムエルという預言者が登場しますが、彼はイスラエルが神制から王制に移行していく際に大きな貢献を果たした人物です。なぜ彼がそれほどの貢献を果たすことができたのでしょうか。その背後に母ハンナの涙の祈りがあったからです。ハンナは夫のエルカナに愛されていましたが、残念ながら、なかなか子どもが与えられませんでした。その当時、妻の最大の役目は跡継ぎを産むことでしたから、それが彼女にとってどれほど屈辱的なことだったかわかりません。しかも、夫のエルカナには、ペニンナというもう一人の妻がいて、彼女には何人かの子供が与えられていたので、そのことでペニンナからも辛く当たられ、ハンナの苦しみは更に増すばかりでした。とうとうハンナは、食事もできないほどに悲しみに暮れるようになりました。

そんなある日、ハンナは、夫エルカナと共に神殿に上り、そこで、子どもを授かることを願って熱心に祈りました。彼女は主に祈って、激しく泣いたとあります。

ハンナが主の前であまりにも長く祈っていたので、祭司のエリはそれを見て心配になりました。くちびるが動くだけで、その声が聞こえなかったからです。それで、もしかしたら酔っぱらっているのではないかと思ったのです。

「いいえ、祭司様。私は酔っぱらってなんていません。私は心に悩みのある女でございます。ぶどう酒も、酒も飲んではおりません。私はただ主の前に心を注いで祈っていたのです。」

そのようにして与えられたのがサムエルです。そうした母の涙の祈りはサムエルが生まれた時だけではありませんでした。彼が成長し、やがて主のために用いられるようになってもずっと続きました。そうしたサムエルの働きの背後には、こうした母の涙の祈りがあったのです。

 

それはサムエルだけではありません。このキリスト教の歴史を振り返ると、偉大な働き人の背後にはいつもそうした涙の祈りがあったことがわかります。

たとえば、皆さんもよくご存知のアウグスティヌスもそうでした。アウグスティヌスは4世紀最大の教父といわれ、その思想と信仰は今でもローマ・カトリック教会でも、プロテスタントでも支持されています。そして最後はヒッポの監督にまでなりました。しかし、彼の若い時はそうではありませんでした。

アウグスティヌスは若い時に神から離れて享楽的な生活に浸り、熱心なキリスト教徒のお母さんモニカを悩ませました。また彼は当時の新興宗教であったマニ教にもはまるのです。どうしたらいいかわからず悩んだ母モニカは、彼が悔い改めて神のもとに帰るようにと祈りました。そしてある日、教会で祈っていたとき、その教会の神父がその様子を見て、こう言いました。

「子供は必ずあなたのところに帰ってきますよ、涙の子は滅びないと言いますから」

その言葉に慰められた母モニカは勇気を得て、いよいよ熱心に祈りました。しかし、その祈りが応えられたのはアウグスティヌスが32歳のときでした。彼がイタリアのミラノの庭園で木陰に身を寄せていたとき、隣の家の庭で遊んでいた子供たちの清らかな声が聞こえてきました。「取りて読め、取りて読め」。これを聞いたとき、彼は急いで部屋に入り聖書を手にして開いたところが、ローマ書13章12~14節の箇所でした。そこにはこうありました。

「夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」

彼の心は震え、やがて静まり、そしてやがてほのかな光と平安が彼の心に差し込んできたのです。そしてキリスト教に入る決心をしたのです。これがアウグスティヌスの劇的回心のときでした。そして「神よ。わが魂は、あなたのもとで安らぎを得るまで揺れ動いています。」という後世に残る有名な言葉を残したのです。

そして34歳の復活祭の日に、アンブロシウスによって洗礼を受けたのでした。これをいちばん喜んだのは言うまでもなく母モニカでした。「涙の子は滅びない」という言葉が現実になったのです。しかし母モニカはそれから9日目に天に召されました。まさしく母モニカの一生は、アウグスティヌスの回心のために捧げられた生涯でした。

すばらしいですね。涙の子は滅びません。涙の祈りは答えられるのです。そして、私たちの主イエスは、私たちのためにいつも涙を流して祈っているのです。

 

ノアという賛美グループの曲に、「聞こえてくる」という賛美があります。  「聞こえてくる」 あきらめない。いつまでも イエス様の励まし 聞こえてくる 試練の中でも 喜びがある 苦しみの中でも 光がある ああ主の御手の中で 砕かれてゆく  ああ、主の愛につつまれ 輝く

 

私たちにはイエス様の涙の祈りがあります。イエス様はいつもあなたのために祈っています。あなたはそのように祈られているのです。よく「私なんで・・」という人がいますが、それは事実ではありません。そんなあなたでも祈られているのです。そのことをどうか忘れないでほしいと思います。そして、たとえ試練があっても、たとえ苦しみがあっても、あきらめずに進んでいこうではありませんか。

 

Ⅲ.完全な者とされたイエス(8-10)

 

ところで、涙をもって祈られたイエス様の祈りはどうなったでしょうか。7節を見ると、「その敬虔のゆえに聞き入れられました。」とあります。イエス様が神の子であられるのなら、イエス様の祈りが答えられるというのは当たり前のことではないでしょうか。いいえ、そうではありません。それは、この地上に生きる人間がいかに神の御心にかなった歩みをするのが難しいかを見ればわかります。しかし、イエス様の祈りは、その敬虔のゆえに聞き入れられました。現代訳には、「父である神を畏れかしこむ態度によって」と訳されています。父である神を畏れる態度とは、もう少し別の言葉で言うと、こういうことです。8節から10節をご覧ください。

 

「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。」

 

キリストは本来、神の御子であられる方ですから、従順を学びというのは不思議なことです。こういう記述からエホバの証人の方は、「ほら、見てください。キリストは神の子ですが、神ではないということですよ。」と訳の分からないことを言うわけです。しかし、ここではそういうことを言っているのではありません。キリストが神に従うことを学ばれたのは、キリストが本来そのような性質を持っておられなかったからというのでのではなく、本来持っておられたにもかかわらず、なのです。それが神の「御子であられるのに」という言葉で表現されていることなのです。それなのに、ここでもう一度従順を学ばれたのは、それによってご自分の完全さを実証されるためであり、それゆえに、ご自分に従って来る人々に対して、とこしえの救い、永遠の救いを与える者となられるためだったのです。だから、このことはむしろキリストが本来そのような方であることを、むしろ強調している箇所でもあるのです。そのような方であるにもかかわらず、それをかなぐり捨てて、神に従われました。そのことを、ピリピ2章6~11節にはこう言われています。

 

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」

 

それは、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。イエスこそキリスト、救い主です。イエスは自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

 

皆さん、イエス・キリストこそ完全な救い主であられ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与えることがおできになるお方なのです。キリストはあなたも完全に救うことができるのです。この方以外にはだれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。それゆえ、私たちはこの完全な大祭司であられるイエスの御名に拠り頼み、どこまでもイエスに従う者となろうではありませんか。

 

あなたは何に信頼しているでしょうか。どこに救いを求めておられるでしょう。あなたを助け、あなたにとこしえの救いを与えてくださる方は、あなたの罪を贖ってくださった救い主イエスです。このイエスから目を離さないようにしましょう。

 

先ほども申しげたように、私は先週まで一週間入院して胆石の治療にあたっていましたが、それは自分が想像していたよりも少し大変な手術でした。何が大変だったかというと、手術の前には浣腸して腸にあるものを全部出すのですが、それが看護ステーションの隣にある処置室でなされるのです。便の状態を確認しなければならないからとのことですが、全く慣れていないこともあって屈辱的に感じました。そして、手術中は全く何もわかりませんでしたが、終わってから尿に管がついていてあまり身動きできないんですね。動きたくても体中に管が巻き付いていて気になって眠れないのです。するとだんだん麻酔は切れてきますし、気持ちは悪くなるし、ああ、こんなにひどいのかと一瞬思ったほどです。時々見舞いに来てくれる永岡姉のお顔が天使のように見えるほど、ありがたく、また安心しました。

でも、私はこの手術に臨むあたり一つみことばが得られました。それは詩篇62篇621,2節のみことばです。

 

「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。

神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。」

 

浣腸の時も、「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神

。神こそ、わが岩、わが救い。わがやぐら。私は決して揺るがされることはない。」と思う、不思議に平安が与えられるのでした。

 

皆さん、主こそあなたの救いです。あなたはっ決して揺るがされることはありません。この主に信頼して、この新しい年も前進させていただきましょう。

申命記7章

きょうは、申命記7章から学びます。モーセは、イスラエルが約束の地に渡って行って、そこで彼らが行うためのおきてと定めを語っています。前回のところでは、親が子どもに教える内容とその理由を語りました。それは、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよということでした。なぜなら、主は彼らをエジプトから救い出された方であられるからです。それがイスラエルの根源にあることで、新約の時代に生きる私たちにとっては十字架と復活による罪の贖いを指しています。私たちを罪から贖ってくださった主に従うことを、自分の子、孫、そしてその子孫に語り告げなければならないのです。そして、きょうのところには、異邦人を追い払うことについて教えられています。

 

1.互いに縁を結んではならない(1-5

 

まず、1節から5節までをご覧ください。

「あなたが、はいって行って、所有しようとしている地に、あなたの神、主が、あなたを導き入れられるとき、主は、多くの異邦の民、すなわちヘテ人、ギルガシ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、およびエブス人の、これらあなたよりも数多く、また強い七つの異邦の民を、あなたの前から追い払われる。あなたの神、主は、彼らをあなたに渡し、あなたがこれを打つとき、あなたは彼らを聖絶しなければならない。彼らと何の契約も結んではならない。容赦してはならない。また、彼らと互いに縁を結んではならない。あなたの娘を彼の息子に与えてはならない。彼の娘をあなたの息子にめとってはならない。彼はあなたの息子を私から引き離すであろう。彼らがほかの神々に仕えるなら、主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、主はあなたをたちどころに根絶やしにしてしまわれる。むしろ彼らに対して、このようにしなければならない。彼らの祭壇を打ちこわし、石の柱を打ち砕き、彼らのアシェラ像を切り倒し、彼らの彫像を火で焼かなければならない。」

 

 イスラエルが、入って行って、所有しようとしている地には、多くの異邦の民がいます。ここにはその七つの民が列記されています。それはヘテ人、ギルガシ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、およびエブス人です。これらの民はイスラエルよりも圧倒的に多く、強い民ですが、主が彼らを追い払ってくださるので恐れる必要はありません。何と力強い宣言でしょうか。この新しい一年が、力強い主の約束に守られてスタートできることを感謝します。

 

しかし、主がそのように先住民族を追い払われるとき、イスラエルの民が注意しなければならないことがありました。それは、主がそのように彼らを打つとき、彼らを聖絶しなければならないということです。彼らと何の契約も結んではならないし、容赦してはなりませんでした。

また、彼らと互いに縁を結んでもなりませんでした。それは具体的にどういうことかというと、彼らの娘をその地の息子に与えはならないし、その地の娘を彼らの息子にめとってはならないということです。なぜでしょうか?それは彼らの息子が主から離れることによってしまうからです。そうなれば、主の怒りが彼らに向かって燃え上がり、主はたちどころに彼らを根絶やしにしてしまわれます。ですから、彼らはその地の住民の祭壇を打ちこわし、石の柱を打ち砕き、彼らのアシェラ像を切り倒し、彼らの彫像を火で焼かなければなりませんでした。

 

パウロはこのことについて、コリント人への手紙第二でこう言っています。「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。」(Ⅱコリント6:14-15

 

これは、不信者との関わりを一切持ってはいけないということではありません。むしろ、神の愛を伝えていくために彼らと積極的に関わっていくべきです。けれども、そのことによって自分たちが立っているポイントを見失うことがないようにしなければなりません。光と闇とに全く交わりがないように、キリストと悪魔には何の交わりもないのです。度を越えた交わりは命取りとなってしまいます。それが不信者との結婚なのです。結婚は神が定めたもっとも親密な関係であるがゆえに、不信者と縁を結ぶなら、その根本が崩れてしまうことになります。つまり、まことの神から離れてしまうことになるのです。「いや、たとえ信仰が違っても別に問題はない」と言う人がいますが、本当でしょうか。そのようなことは決してありません。相手があなたに合わせているか、あなたが相手に合わせているかであって、最も深いところで一つになることはできないのです。それどころから、あなたは確かに信仰に歩んでいるようでも、もっと深く入っていこうものなら相手のことが気になってブレーキをかけてしまうことになるでしょう。つまり、同じ土俵に立てないのです。その結果、神との関係が弱くなってしまうか、離れてしまうことになってしまいます。

 

Ⅱ.主があなたがたを愛されたから(6-16

 

いったいなぜ主は異邦の民と縁を結ぶことについて、そんなに厳しく命じておられるのでしょうか。その理由が6節から16節までのところにあります。

 

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。あなたは知っているのだ。あなたの神、主だけが神であり、誠実な神である。主を愛し、主の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られるが、主を憎む者には、これに報いて、主はたちどころに彼らを滅ぼされる。主を憎む者には猶予はされない。たちどころに報いられる。私が、きょう、あなたに命じる命令・・おきてと定め・・を守り行なわなければならない。それゆえ、もしあなたがたが、これらの定めを聞いて、これを守り行なうならば、あなたの神、主は、あなたの先祖たちに誓われた恵みの契約をあなたのために守り、あなたを愛し、あなたを祝福し、あなたをふやし、主があなたに与えるとあなたの先祖たちに誓われた地で、主はあなたの身から生まれる者、地の産物、穀物、新しいぶどう酒、油、またあなたの群れのうちの子牛、群れのうちの雌羊をも祝福される。あなたはすべての国々の民の中で、最も祝福された者となる。あなたのうちには、子のない男、子のない女はいないであろう。あなたの家畜も同様である。主は、すべての病気をあなたから取り除き、あなたの知っているあのエジプトの悪疫は、これを一つもあなたにもたらさず、あなたを憎むすべての者にこれを下す。あなたは、あなたの神、主があなたに与えるすべての国々の民を滅ぼし尽くす。彼らをあわれんではならない。また、彼らの神々に仕えてはならない。それがあなたへのわなとなるからだ。」

 

異邦の民を根絶やしにしなければいけない理由は、彼らが主の聖なる民だからです。「聖」というのはある一定の目的のために分離されるという意味です。彼らが分離されて、聖なる神のものとされたということです。それをここでは「ご自分の宝の民とされた」と言われています。神によって造られた民はこの地上に数多くあれども、主は、この地の面のすべての国々の民にうちから、彼らを選んでご自分の宝の民とされたのです。これはものすごいことです。この世界には何十億という人が住んでいますが、その中で私たちを神の民、宝の民としてくださったのです。それはどのくらいのパーセントの確率かというと、この日本では1パーセント以下の確率です。その中に私たちも入れさせていただきました。主の宝の民とされたのです。これはものすごいことではないでしょうか。ですから、その密接な関係を壊すような要因をすべて破壊するように、というのです。

 

いったいなぜ主はイスラエルをご自分の宝の民として選ばれたのでしょうか。7節からのところらその理由が記されてあります。それは彼らがどの民よりも数が多かったからではありません。力があったからでもない。ただ愛されたからです。ん、どういうことですか?そういうことです。主がただ愛されたから・・・。つまり、私たちに何か選ばれる根拠があったからではなく、神が一方的にただ愛されたからです。これが聖書に描かれている神の選びです。つまり、神の選びは、神の一方的な主権的な選びなのです。

 

パウロは、この神の主権的な選びについてこう言いました。「神はモーセに、『わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。』と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」(ローマ9:15-16

 

しばしば、ユダヤ人が選民思想を持っていると言ってユダヤ人を批判する人がいますが、そもそも選民思想というのはそのようなものではありません。選民とは、神が一方的に自分たちを選び、一方的に関わりを持たれ、一方的にご自身の御業を成してくださることです。私たちが何かすぐれているから愛されているのではなく、ただ愛したいから愛されているのです。自分には愛されるような資格がないのに、にもかかわらず愛されることなのです。それが神の選びなのです。自分に愛される資格がないのに愛されるのは気持ちが悪いものですが、でもほっとします。自分が根本的に愛されていることを知ると、自分のありのままの姿、罪深いその暗やみの部分も見る勇気が与えられるからです。イスラエルが試されて、ここまで罪性が明らかにされてもなお、主が彼らを見捨てておられないように、私たちもとことんまで自分の罪深さが示されても、主がなお愛されていることを知ることができるのです。

 

 彼らの神、主は、そのような方です。この主だけが神です。他に神はいません。そして、この神が彼らと結ばれた、おきてと定めがこれなのです。これというのは十戒であり、また、その中心である神だけを愛しなさいということです。それ以外のものが入ってきてはいけません。これは神の恵みの契約なのです。これを守り行うなら、主が彼らを愛し、祝福し、その恵みの契約を千代までも守られますが、主を憎む者には、主はたちどころに彼らを滅ぼされます。その祝福の内容が12節から16節まで書かれてあります。特に16節には、「彼らをあわれんではならない」とありますが、神から祝福される力は、この不信者と交わらないという聖別にあることがわかります。私たちがどれほど立派に信仰に生きていても、たくさんの人々に福音を語っても、もしこの真理に立っていなければ、そこには力がありません。それがあなたへのわなとなることがあるからです。

 

Ⅲ.恐れてはならない(17-26

 

「あなたが心のうちで、「これらの異邦の民は私よりも多い。どうして彼らを追い払うことができよう。」と言うことがあれば、彼らを恐れてはならない。あなたの神、主がパロに、また全エジプトにされたことをよく覚えていなければならない。あなたが自分の目で見たあの大きな試みと、しるしと、不思議と、力強い御手と、伸べられた腕、これをもって、あなたの神、主は、あなたを連れ出された。あなたの恐れているすべての国々の民に対しても、あなたの神、主が同じようにされる。あなたの神、主はまた、くまばちを彼らのうちに送り、生き残っている者たちや隠れている者たちを、あなたの前から滅ぼされる。彼らの前でおののいてはならない。あなたの神、主、大いなる恐るべき神が、あなたのうちにおられるから。あなたの神、主は、これらの国々を徐々にあなたの前から追い払われる。あなたは彼らをすぐに絶ち滅ぼすことはできない。野の獣が増してあなたを襲うことがないためである。あなたの神、主が、彼らをあなたに渡し、彼らを大いにかき乱し、ついに、彼らを根絶やしにされる。 また彼らの王たちをあなたの手に渡される。あなたは彼らの名を天の下から消し去ろう。だれひとりとして、あなたの前に立ちはだかる者はなく、ついに、あなたは彼らを根絶やしにする。あなたがたは彼らの神々の彫像を火で焼かなければならない。それにかぶせた銀や金を欲しがってはならない。自分のものとしてはならない。あなたがわなにかけられないために。それは、あなたの神、主の忌みきらわれるものである。忌みきらうべきものを、あなたの家に持ち込んで、あなたもそれと同じように聖絶のものとなってはならない。それをあくまで忌むべきものとし、あくまで忌みきらわなければならない。それは聖絶のものだからである。」

 

さて、イスラエルの民が約束の地に入って行くにあたり、そこには当然、恐れが生じます。敵は自分たちよりもはるかに多く、強いわけですから、どうやって彼らを追い払うことができるのでしょう。そのために主は、かつてエジプトでパロに対してなされたことを思い出させています。それと同じように、主は彼らが恐れているすべての国々対して成されます。だから彼らを恐れてはなりません。

 

ここでも、やはりエジプトにおける主のみわざが出発点となっています。クリスチャンも同じように、キリストが十字架で死なれ三日目によみがえられたという主の圧倒的な救いの御業がすべての勝利の原点にあります。それによって、「神はわたしたちとともにおられる」ことが現実のものとなり、何も恐れる必要がなくなったのです。私たちはキリストの御業によって罪から贖われたにもかかわらず、いつも恐れを抱きながら生きる者です。自分の肉の弱さのゆえに、いつも罪に打ち負かされてしまう弱さがあります。そのことでいつもおびえているような者ですが、しかし、死者の中からキリストをよみがえされてくださった神が、私たちのうちにすでに住んでおられるのです。復活させる力があることを信じるその信仰によって、私たちのうちで復活の力が働くのです。そして肉の行ないを殺すことができるのです。

 

しかし、それはすぐにということではありません。22節には、「徐々にあなたの前から追い払われる」とありますが、私たちの肉の思いや行ないも、一挙になくなるのではなく、御霊に導かれつつ、徐々に克服されていくものなのです。ですから、たとえ今はそうでなくても、このキリストのいのちをいただいている者として、やがて完成へと導かれていくことを信じて、ここに希望を置きたいと思うのです。

 

25節と26節には、聖絶のものを欲しがったり、それを家に持ち込んではならないと教えられています。聖絶されたものを自分のところも持ち込むというのは、神が葬ってくださった罪を、また掘り起こすこととを意味しています。そのようなことを行なえば、私たちの状態は初めのときよりも悪くなってしまうと、使徒ペテロは話しています(Ⅱペテロ2:20)。ですから、そのようなことがないように注意しなければなりません。

 

 このように、主は私たちをご自分の宝の民としてくださいました。それは私たちかに何か愛される資格があったからではなく、主がただ愛されたからでした。私たちに求められていることは、この主が与えてくださった定めとおきてを守り、心を尽くして、精神を尽くして、力を尽くして主を愛することです。それがすべてです。主はそのような者を祝福してくださいます。何も恐れてはなりません。なぜなら、全能の主があなたとともにおられるからです。私たちに必要なことは、ただこの主を愛し、主と共に歩むことなのです。この新しい一年がそのような一年でありますように。

ヘブル5章1~4節 「聖なる祭司として生きる」

 新年おめでとうございます。この新しい一年も、皆さまの上に主の恵みと祝福を祈ります。この新年の礼拝に私たちに与えられているみことばは、ヘブル人への手紙5章1節からの4節までのみことばであります。このみことばから、聖なる祭司として生きるというタイトルでお話したいと思います。

 

 このヘブル書の手紙は4章14節から「大祭司」をテーマに話が展開されています。大祭司とは神と人との仲介者のことで、人々に代わって神にとりなしをする人のことです。私たちの主イエスはこの偉大な大祭司であるということが、10章の終わりまで続きます。いわばこのヘブル書の中心的な主題の一つでもあるわけです。なぜ大祭司なのか?それは、大祭司こそ旧約聖書において人々の罪を贖う働きをした人物だったからです。その大祭司と比較して、キリストはもっとすぐれた偉大な大祭司であるということを、ここで証明しようとしているのです。なぜかというと、この手紙はユダヤ教から回心したクリスチャンに宛てて書かれましたが、彼らはイエスをキリスト、救い主として信じることができたのは良かったけれども、そのことでかつてのユダヤ教の人たちから激しい迫害を受けたとき、「こんなはずじゃなかった」「こんなことなら信じなければよかった」と、以前の生活に戻ろうとする人たちがいたからです。そういう人たちに対して、イエス・キリストがいかに優れた方であるかを証明することで、この福音にしっかりととどまるようにと励まそうとしたのです。そして、前回の箇所では、このキリストがいかに偉大な大祭司であるかが述べられましたが、きょうの箇所には、その大祭司になるためにはどのような資格が必要なのか、その資格について駆られています。

 

 Ⅰ.人々の中から選ばれた者(1)

 

 まず1節をご覧ください。

「大祭司はみな、人々の中から選ばれ、神に仕える事がらについて人々に代わる者として、任命を受けたのです。それは、罪のために、ささげ物といけにえをささげるためです。」

 

 ここには、大祭司はみな、人々の中から選ばれ、とあります。大祭司であるための第一の条件は、人々の中から選ばれた者でなければならないということです。あたり前じゃないですか、他にどこから選ばれるというのでしょうか?しかし、このあたり前のことが重要なのです。すなわち、大祭司は人々の中から選ばれなければならないのであって、それ以外の者ではだめなのです。なぜでしょうか。それは、大祭司は人々に代わって神に仕える者、神にとりなす者ですから、人々の気持ちを十分理解することができなければならなかったからです。人でなければ人の気持ちを理解することはできません。人以外のもの、例えば今年は猿年だそうですが、どんなに去るが人間のような顔をしていても、猿では人人の気持ちを理解することはできません。人以外のものは人の気持ちを理解することはできないのです。ですから、大祭司は人々の中から選ばれなければならなかったのです。

 

それは最初の大祭司としてアロンが選ばれたことからもわかります。出エジプト記28章1節を見ると、イスラエルの最初の大祭司はモーセではなく、モーセの兄アロンでした。

「あなたは、イスラエル人の中から、あなたの兄弟アロンとその子、すなわち、アロンとその子のナダブとアビフ、エルアザルとイタマルを、あなたのそばに近づけ、祭司としてわたしに仕えさせなさい。」

 いったいなぜモーセではなかったのでしょうか。それはアロンがお兄さんだったからではありません。モーセよりもアロンの方が大祭司としてふさわしい人物だったからなのです。どのようにふさわしい人物だったかというと、アロンはイスラエルの人々の中で生まれ育ったので、イスラエルの人々の気持ちをよく理解することができました。しかし、モーセは違います。モーセはアロンと同じ両親の下で生まれましたが、モーセが生まれたときエジプトの王パロはイスラエルが多産なのを見て、いざ戦いになった時に、敵側について自分たちと戦うのではないかと恐れ、生まれたばかりの男の赤ちゃん殺すように命じていたので、本当は殺される運命にありました。しかし、モーセのお母さんはそんな惨いことなどできなとずっとかくしていたのですが隠し切れなくなったので、ある日パピルス製のかごに入れナイル川の岸の葦の茂みの中に置いたのです。するとどうでしょう。何とパロの娘が水浴びに来ていて見つけたので、彼はパロの娘に引き取られ、王女の息子として王宮で育てられたのです。

 

 ですから、モーセは確かにアロンと同じ両親の下に生まれましたが、イスラエルの民の生活からは離れて育ったので、彼らの気持ちをよく理解することができませんでした。彼らの気持ちを理解することができたのは彼らの中で生まれ育ち、彼らの気持ちを十分理解することができたアロンだったのです。だからアロンが大祭司として任命されたのです。モーセはイスラエルの偉大な指導者でしたが、大祭司になることはできませんでした。

 

それは、私たちの大祭司であられるイエス様も同じです。ヨハネの福音書1章14節には、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」とあります。ことばであるイエスさまが人として生まれてくださいました。なぜでしょうか。私たちと同じようになるためです。私たちの間に住み、私たちの悩みを知り、私たちの弱さを十分理解するためです。

 

ヘブル4章15節にはこうあります。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」

私たちの大祭司であられるイエス様は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。なぜなら、私たちと同じようになられたからです。私たちと同じように試みに会われました。私たちと同じように胎児としてお母さんのお腹の中に宿り、赤ちゃんとして生まれ、幼児としても、少年としても、青年としても、大人としても歩まれました。イエス様は私たちが通るすべてのライフステージを通られたのです。だから、私たちの弱さに同情することができるのです。それが人々の中から選ばれなければならないという意味です。イエスは、罪は犯されませんでしたが、すべての点で私たちと同じように試みにあわれたので、あなたのことを十分思いやることができるだけでなく、あなたに代わって神にとりなしをすることがおできになるのです。

 

 Ⅱ.人々を思いやることができる者(2-3)

 

 大祭司になるための第二の条件は、人々を思いやることができるということです。2節と3節をご覧ください。

「彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。そしてまた、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のためのささげ物をしなければなりません」

 

 大祭司は、自分自身も弱さをまとっています。決して完全なわけではありません。もう絶対に罪を犯さない者になったというわけではないのです。しかし、そのような弱さを身にまとっているからこそ、そうした弱さのゆえに、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。

 

 この無知で迷っている人々とは誰のことでしょうか。それはイエスを知らない人々のこと、つまり、ノンクリスチャンたちのことを指しています。なぜなら、ローマ1章21節に、「それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。」とあるからです。神を神としてあがめることをしないと、不平や不満で満たされるので、だんだん暗くなっていきます。感謝することができません。これが神を知らない人たちの特徴です。

 

それは、救われる前の私たちの姿でもあります。私たちもみな、かつては罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。15,16,17と、私の人生暗かった・・・のです。どうすりゃいいのかわからない、夢は夜開く・・でした。だからこそ、そうした人の気持ちをよく理解することができるのです。

 

ところで、この「思いやる」という言葉ですが、これは単に「相手の身になって思いやる」ということだけでなく、相手の怒りなどの激しい感情をやわらげるという意味で使われています。詳訳聖書といってもう少し詳しく訳された聖書があるのですが、それによると、「やさしく(忍耐深く)取り扱う」と訳されています。つまり大祭司は、まだイエスを知らない人たちの激しい怒りの感情をやわらげて、彼らを柔和に取り扱うことが求められているのです。ノンクリスチャンに対して激怒したり、ブチ切れてはいけません。むしろ、柔和で、穏やかな心で、やさしく、忍耐深くなければならないのです。それは自分自身も弱さをまとっているからです。自分自身も弱さをまとっているので、その弱さのゆえに、そのように無知で迷っている人々に対してもやさしく、忍耐強く接していかなければならないのです。

 

しかし、それは無知で迷っている人々に対してだけでなく、クリスチャンに対しても言えることです。ガラテヤ6章1~4節にはこうあります。

「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。」

 

 これはクリスチャンに宛てて言われていることです。兄弟たちよ、もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなければなりません。私たちは教会の中に肉的な人がいるとついついさばきたくなる傾向があります。しかしそうではなく、柔和な心でその人を正してあげなければなりません。なぜなら、自分自身にも弱さがあるからです。そのようにさばきたくなるのは、その人がある一つの事実を見失っているからなのです。すなわち、自分自身も弱さをまとっているということです。自分自身もその人と何ら変わらない弱い人間であるという自覚です。自分も同じような境遇に置かれていたら、きっと同じようなことをしたに違いないと思うと、そのように人をさばくことなんてできなくなるはずです。むしろ、柔和な心でその人を正してあげるようになるでしょう。

 

 実は、私は昨日から入院しておりまして、きょうは病院から外泊許可をいただいてここに立っています。以前から懸念されていた胆石の治療で、この正月の時期は一番時間的に余裕があると思い、明日、手術を受けることになっています。結婚して32年間一度も入院したことがなく、周囲からはいかにも元気そうに見られている私が入院することは、少し恥ずかしいこともあってあまり人には言いたくないと思っていたのですが、実際に入院してみてわかったことは、自分の本当に弱い人間なんだなぁということです。そういう弱さを抱えているということです。このように病気になって入院してみて、病気で苦しんでいる人たちの気持ちがよく理解できるようになったような気がします。それは霊的にも同じで、私たちは決して完全な者ではなく、自分自身も弱さを身にまとっているので、同じような弱さを持っている人々を思いやることができるのです。神の祭司としてその務めを果たしていくために、私たちいつもこのような謙虚な気持ちを忘れない者でありたいと思います。

 

  Ⅲ.神に召された者(4)

 

 大祭司であるための第三の条件は、神に召された者であるということです。4節をご覧ください。

「まただれでも、この名誉は自分で得るのではなく、アロンのように神に召されて受けるのです。」

 

イスラエルの最初の大祭司アロンは、自己推薦をして大祭司になったのではありません。また、自分でなりたくてなったのでもないのです。神がアロンを選び、彼を任命したのです。そうです、大祭司は神によって任命された人しかなることはできないのです。同様に、私たちが祭司として立てられたのも私たちがそうしたいからではなく、神によってそのように召されたからなのです。私たちが救われたのは、ただ神の恵みによるのです。教会に来ていれば自動的に救われるのかというとそうではなく、神が聖霊を通してその人に働いてくださり、その人が受け入れることができるようにと心を開かせてくださったので信じることができたのです。自分で信じようとがんばったから信じることができたわけではないのです。救いは神の一方的な恵みによるのです。それが私たちの救いないのです。イエスさまはこう言われました。

 

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ15:16)

 

あなたがたがイエス様を選んだのではありません。イエス様があなたがたを選び、任命したのです。それはあなたがたが行って、実を結び、そのあなたがたの実が残るためです。私たちは、永遠の神のご計画によって救われるようにと、神によって召された者なのです。そのようにして神の祭司となったのです。

 

私はよく、「牧師として一番大切だと思うことは何ですか」と聞かれることがありますが、そのとき迷わず答えることは、それは「召し」であるということです。召しといっても食べる飯ではありません。そのように選ばれた者であるということ、そのように召された者であるということです。

それが牧師としての自分の働きを根底から支えているものです。そうでなかったら、どうやって続けることができるでしょうか。できません。自分もそうですが、多くの牧師が悩むことは、自分は牧師には向いていないのではないかということです。でも自分が牧師に向いているかどうなんて関係ないのです。大切なのは、そのように召されているかどうかであって、そのように召されているのであれば、召してくださった方に対して忠実に仕えて行くこと、それが求められているのではないでしょうか。

 

それは牧師に限らず、すべてのクリスチャンに言えることです。あなたがそうなりたいかなりたくないかと関係なく、主がそのようにて召してくださいました。であれば、その召してくださった方に対して忠実に仕えていくことが求められているのではないでしょうか。

 

さて、これまで大祭司の条件について見てきましたが、最後に、この大祭司とはいったいだれのことを指しているのかを考えていみたいと思います。Ⅰペテロ2章9節をご覧ください。ここには、「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」とあります。ここには、私たちクリスチャンはみな神の祭司であると言われています。それは、私たちを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、私たちが宣べ伝えるためです。私たちにはそのような務めがゆだねられているのです。私たちは神の祭司として人々のために祈り、とりなしていかなければなりません。まだ救われていない人たちを、神へのいけにえとしてささげていかなければならないのです。そのような者として、私たちは人々の中から選ばれ、無知な迷っている人々を十分に思いやり、神によってこの務めに任じられているという自覚をもって、この務めを全うさせていただきたいと願うものであります。この務めを全うする神の祭司である私たちの上に、神の助けと励ましが豊かにありますように。

申命記6章

きょうは、申命記6章から学びます。モーセは前の章から、イスラエルが約束の地に渡って行って、そこで彼らが行うためのおきてと定めを語っています。6章はその続きです。

 

1.聞きなさい。イスラエル(1-9

 

まず、1節から9節までをご覧ください。

「これは、あなたがたの神、主が、あなたがたに教えよと命じられた命令・・おきてと定め・・である。あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地で、行なうためである。それは、あなたの一生の間、あなたも、そしてあなたの子も孫も、あなたの神、主を恐れて、私の命じるすべての主のおきてと命令を守るため、またあなたが長く生きることのできるためである。イスラエルよ。聞いて、守り行ないなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、あなたの父祖の神、主があなたに告げられたように、あなたは乳と蜜の流れる国で大いにふえよう。聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。

 

イスラエルが約束の地を所有してから、そこで、主が命令したおきてと定めと行うのは、彼らが一生の間、主を恐れて生き、長く生きることができるためです。それは彼らだけではありません。モーセも、また彼らの子も孫も、であります。主のおきてと定めは、後の世代の者たちに新しい啓示として語られることはなく、すでにモーセに与えられた神の律法によって生きることです。彼らはこれを子々孫々に伝えていかなければなりませんでした。

 

それは私たちも同じです。初代教会の信者たちは、使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、祈りをしていました(使徒2:42)。彼らは使徒たちによって教えられた教え、それは元々主によって教えられたことでありますが、それを堅く守らなければなりませんでした。

 

パウロ自身も手紙の中でこう言っています。「兄弟たち。堅く立って、私たちのことば、また手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい。」(Ⅱテサロニケ2:15彼らはパウロのことば、使徒たちの教えを堅く守ることが求められたのです。ですから、私たちはこの使徒たちの教えに従っている者であり、イエス・キリストの福音の真理を継承している者たちなのです。何か新しい啓示が与えられたとか、今まで聞いたことがない魅力的な教えを聞いたというような、当時のアテネの人たちのように、新しいものを追い求めているクリスチャンがいますが、そのような新しいものはありません。聖書は既に完結しているのです。私たちはそこから神の真理を再発見し、その喜びの中で生きていかなければならないのです。私たちの役割は、ただ、神が語られた真理を継承させていくことだけです。

 

では、神が語られた真理とは何でしょうか。神のおきてと定めとは何でしょうか。4節と5節をご覧ください。

「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

この「聞きなさい」という言葉は申命記においてのキーワードであるということはお話しました。これは、「シェマ」と呼ばれているもので、ユダヤ人の信仰の柱になっている御言葉です。それは、主はただひとりであるということ、そしてこの主を心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして愛するということです。

 

まず、「主は私たちの神。主はただひとりである。」ということですが、これは、ユダヤ人が迫害されても、殺されても、決してゆずらなかった信仰です。唯一神の信仰ですね。主はただひとりであるということです。しかし、私たちが信じている神は一つは一つですが、その一つの神は三つの人格を持っておられる神であって、それが一つである神、三位一体の神です。それが聖書全体を貫いている教えです。それは、たとえば創世記11節や、126節をみればわかります。ではこの箇所はどうなのでしょうか。実は、ここも同じなのです。「主は私たちの神」の「神」は「エロヒーム」という複数形が使われているのです。そして、「ただひとり」という言葉も「エカド」という言葉ですが、これは複合単数形が使われているのです。複合単数形というのは、例えば「一本の手」と言うときに、手には5本の指がありますが、複合的に一つにされているわけです。そのような時に使われるのが複合単数形です。それは創世記1章1節と同じです。「初めに、神が天と地を創造された。」の「神」は複数形ですが、「創造された」は複合単数形です。ここと同じです。複数なのですが単数であめことを表しているわけです。つまり、これも三位一体を表していることばなのです。

 

次に、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」という言葉ですが、これは、前回学んだ十戒の要約です。イエス様は、ある律法の専門家から、律法の中で、大切ないましめはどれですか、と質問されたとき、この戒めを語られました(マタイ22:38)。もし主を愛するなら、主のおきてと定めに喜んで応答したいと思うでしょう。それはもう戒めではありません。愛と恵みの言葉以外の何ものでもありません。だから、神を愛すること、これが第一の戒めであり、

律法全体の要約なのです。また、あなたの隣人をあなた自身のように愛するという第二の戒めも大切です。律法全体と預言者とが、この二つにかかっているのです。

 

 それゆえ、私たちはこの主が命じる命令を心に刻まなければなりません。また、子どもたちによく教え、家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、これを唱えなければなりません。このことばを忘れないように、手に結び付け、記章として額の上に置かなければなりません。また、家の門柱と門に書きしるさなければならないのです。ユダヤ人は、これを文字通り実践しました。ですから、皆さんもご覧になられたことがあるでしょう。ユダヤ人の額にマッチ箱ほどの大きさの箱をくくりつけている写真を・・。それはこの箇所を忘れないようにと、額の上に置いたのです。

 

 これは、パウロのことばでいえば、「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ」ことです。(コロサイ3:16。イスラエル人はそれを忘れないようにあらゆることをしました。特に、彼らは、外側で主のみことばを刻みましたが、私たちはこれを、心に住まわせなければならないのです。エレミヤ31:3には、「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。」とあります。また、使徒ヨハネは、「あなたがたの場合、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それでだれからも教えを受ける必要がありません。」(Ⅰヨハネ2:27)」と言いました。ですから、聖霊ご自身が、神のみことばによって私たちに語りかけてくださるので、形式的にみことばを刻む必要はありません。聖霊ご自身がそのことばを解き明かしてくださるようにしていただくことが大切です。しかし、こうしたことのためにもみことばを心に刻むという努力は求められているのです。それが聖霊の油を注がれているクリスチャンのあり方なのです。

 

 2.あなたは気を付けて(10-19

 

次に10節から19節までをご覧ください。

「あなたの神、主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地にあなたを導き入れ、あなたが建てなかった、大きくて、すばらしい町々、あなたが満たさなかった、すべての良い物が満ちた家々、あなたが掘らなかった掘り井戸、あなたが植えなかったぶどう畑とオリーブ畑、これらをあなたに与え、あなたが食べて、満ち足りるとき、あなたは気をつけて、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなさい。あなたの神、主を恐れなければならない。主に仕えなければならない。御名によって誓わなければならない。ほかの神々、あなたがたの回りにいる国々の民の神に従ってはならない。あなたのうちにおられるあなたの神、主は、ねたむ神であるから、あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、主があなたを地の面から根絶やしにされないようにしなさい。あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。あなたがたの神、主の命令、主が命じられたさとしとおきてを忠実に守らなければならない。主が正しい、また良いと見られることをしなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、主があなたの先祖たちに誓われたあの良い地を所有することができる。そうして、主が告げられたように、あなたの敵は、ことごとくあなたの前から追い払われる。」

 

次にモーセは、イスラエルが約束の地に入って行ったときに、陥りやすい過ちについて語っています。それは何でしょうか。12節をご覧ください。それは、「あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなさい」ということです。彼らが約束の地に入っていくとき、そこで多くの祝福を受けます。すべての良い物で満たされるのです。そのような祝福にあずかることはすばらしいことですが、そこに一つの危険もあるのです。それは、主を忘れてしまうということです。自分がどのようなところから救われてここまで来たのかを忘れ、あたかもそれを自分の力で成し得たかのような錯覚を抱き、自分で豊かになった、自分の行ないでこれだけのことができている、また自分はこのような祝福を受けるのに値するものだ、と思い違いをしやすいのです。そのような危険性があります。

 

かつて日本にも多くの救われた人たちがいました。フランシスコ・ザビエルが最初に日本にキリスト教を宣教したとき、明治維新によって新しい国が作られたとき、そして、戦後、敗戦の貧しさと苦しみの中で人々が真の幸福とは何か、人生の目的は何なのかを求めて教会にやって来た時です。ある教会の記録によると人々は波が押し寄せるかのように教会にやって来たとあります。どの教会も人、人、人で満ちあふれていました。入り切れないほどの人がやって来たのです。

ところが、高度経済成長を経て日本が豊かになると、今度は波が引くように、教会から人々が去って行ったとあります。いったい何が問題だったのでしょうか。いろいろな問題が複雑に絡み合っているためこれが問題だとは言い切れないところはありますが、その一つの要因がこれなのです。豊かになった。もう神に頼る必要がなくなったのです。人はどちらかというと物質的に豊かになると、それに反比例して霊的に貧しくなってしまいます。神への飢え渇きが起こりづらくなるのです。別に神に頼らなくてもやっていける、わざわざ教会に行く必要を感じないのです。それはまさに主がラオデキヤの教会に書き送ったことではないでしょうか。

 

黙示録3:14-22のところで、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らないラオデキヤの教会の人たちに、主は、目が見えるようになるために、目に塗る目薬を買いなさい、と言われました。熱くもなく、冷たくもない信仰ではなく、厚いか、冷たいかであってほしいというのです。なまぬるいものは吐き出すとまで言うのです。

 

これはいつの時代でも同じです。人は豊かになると主を忘れてしまうという過ちに陥りやすくなるのです。だから、気を付けなければなりません。あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなければならないのです。ただ主を恐れなければなりません。主に仕え、御名によって誓わなければならないのです。ほかの神々、神以外のものに仕えてはなりません。

 

なぜですか?なぜなら、主は、ねたむ神であられるからです。主を忘れ、主以外のものに走っていくなら、主はあなたをねたみ、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、主があなたを地の表から根絶やしにされるのです。何ですか、ねたむというのは?皆さん、私たちの神はねたむ神なのです。それはちょうど夫婦のようです。夫婦であれば、一方が他の対象に向かっていけばねたみます。それは愛しているからです。相手がどうでもよければそのような感情は起こらないでしょうが、愛によって結ばれた夫婦ならば、それは当然にして起こってくる感情なんのです。神とイスラエルの関係も同じです。神は彼らをエジプトの奴隷の中から救い出されたお方で、神の民とされたのです。にもかかわらず、彼らが別の神に走って行くことがあるとしたら、そこには当然妬みが起こるのではないでしょうか。それはイスラエルだけでなく、私たちにも言えることです。私たちも主の愛によって罪という奴隷から救われました。主イエスの十字架の贖いによって買い戻されました。私たちは主のものなのです。そんな私たちが主から離れることがあるとしたら、どれほど主が悲しまれることでしょうか。

 

だから、主が命じられた教えとさとしを忠実に守らなければならないのです。彼らがマサで主を試みたように、主を試みてはならないのです。マサで試みとは、水がなく、主につぶやいたときの試みです。モーセが岩を杖でたたいたことによって水が出てきました。祝福が主を忘れさせてしまうように、試練も主を忘れさせてしまいます。試練の中にいるとき、私たちは苦々しくなって、不平を鳴らしてしまうからです。しかし、そうであってはならないとモーセは戒めています。

 

3.あなたの息子が尋ねるとき(20-25

 

次に20節から25節までをご覧ください。

「後になって、あなたの息子があなたに尋ねて、「私たちの神、主が、あなたがたに命じられた、このさとしとおきてと定めとは、どういうことか。」と言うなら、あなたは自分の息子にこう言いなさい。「私たちはエジプトでパロの奴隷であったが、主が力強い御手をもって、私たちをエジプトから連れ出された。主は私たちの目の前で、エジプトに対し、パロとその全家族に対して大きくてむごいしるしと不思議とを行ない、私たちをそこから連れ出された。それは私たちの先祖たちに誓われた地に、私たちをはいらせて、その地を私たちに与えるためであった。それで、主は、私たちがこのすべてのおきてを行ない、私たちの神、主を恐れるように命じられた。それは、今日のように、いつまでも私たちがしあわせであり、生き残るためである。私たちの神、主が命じられたように、御前でこのすべての命令を守り行なうことは、私たちの義となるのである。」

 

ここでモーセは再び、子どもに教えることを命じています。子どもは、いろいろな場面で親に質問します。「なんで?」。昨日も孫が泊まりました、その話が止まりませんでした。「グランパ、これ何?」「あれは?」次から次に質問が出てきます。そして、もう大きくなると、おそらくこういう質問が出てくるでしょう。「主が命じられた、このさとしとおきてと定めとは、どういうことか・・?」そのとき、どう答えたらいいのでしょうか。

 

そして、そのときにはまず、イスラエルの先祖がどういう状態であったかを話さなければなりません。すなわち、彼らはエジプトで奴隷の状態であったということです。しかし、そのような状態から、主が力強い御手をもって、彼らをエジプトから連れ出されました。どのような御手があったのでしょうか。主は彼らの目の前で、エジプトに対して、パロとその全家族に対して大きくてむごいしるしと不思議とを行ってくださいました。そのようにして、彼らを先祖たちに誓われた地へと導いてくださったのです。それは、私たちがこのおきてを守り、いつまでも主を恐れるためです。そして、今日のように、いつまでも自分たちが幸せに、生きるためなのです。だから、主が命じられた命令を守り行うことは、私たちの義となるのです。イスラエルにとって出エジプトが、彼らの新しい生活の出発点であったのです。そして、それをいつまでも忘れないために、彼らは過ぎ越しの祭りを行います。ただ口伝で伝えるだけではありません。それがどのようなものであったのかを、いつも体験として覚えようと努めたのです。

 

それは私たちも同じです。キリストの十字架と復活のみわざからすべてが始まります。そのことを忘れないように聖餐式を行うのです。そして、それをただ忘れないというだけでなく、私たちにはさらにこれを宣べ伝えていくという使命がゆだねられています。その起点となるのがイエス・キリストの十字架の贖いであり、十字架と復活によって成し遂げられた救いの御業なのです。自分たちがいかに罪の中にあえいでいた者であったのか、しかし、そのような中から神が救い出してくださいました。圧倒的なしるしと不思議をもって導き出してくださいました。そのことを伝えていかなければならないのです。

 

きょうは今年最後の祈祷会なりましたが、この一年の終わりもキリストの十字架の贖いの恵みにとどまり、新しい年もこの恵みで始まっていく者でありたいと思います。

申命記5章

きょうは、申命記5章から学びます。 モーセはこれまで、エジプトから出てモアブの地に至るまでの経緯を話しましたが、ここからは具体的に、守るべき、おきてと定めを話し始めます。

 

1.おきてと定めとを守らなければならない(1-5

 

まず、1節から5節までをご覧ください。

「さて、モーセはイスラエル人をみな呼び寄せて彼らに言った。聞きなさい。イスラエルよ。きょう、私があなたがたの耳に語るおきてと定めとを。これを学び、守り行ないなさい。私たちの神、主は、ホレブで私たちと契約を結ばれた。主が、この契約を結ばれたのは、私たちの先祖たちとではなく、きょう、ここに生きている私たちひとりひとりと、結ばれたのである。主はあの山で、火の中からあなたがたに顔と顔とを合わせて語られた。そのとき、私は主とあなたがたとの間に立ち、主のことばをあなたがたに告げた。あなたがたが火を恐れて、山に登らなかったからである。主は仰せられた。」

 

モーセは再び、イスラエルの民を集めて語ります。「聞きなさい」ということばは、この申命記のキーワードの一つです。それだけ重要な内容であるということです。「きょう、私があなたがたの耳に語るおきてと定めとを。これを学び、守り行ないなさい。」と。その内容は、かつて彼らがホレブにいたとき、そこで神と結ばれた契約についてです。主はあの山で、火の中から彼らと顔と顔とを合わせて語られました。これは、主がイスラエルに個人的に語られたということです。主がいかにイスラエルの民を愛し、この民と婚姻関係のような、一体化した結びつきを持ちたいかを表しているのです。主は、私たちに対しても、個人的にお語りになりたいと願われています。私たちは、個人的に語られる神の御声を聞くことによって、神との関係を持つことができるのです。

 

2.主のおきてと定め(6-21

 

次に6節から21節までをご覧ください。

「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。安息日を守って、これを聖なる日とせよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。・・あなたも、あなたの息子、娘も、あなたの男奴隷や女奴隷も、あなたの牛、ろばも、あなたのどんな家畜も、またあなたの町囲みのうちにいる在留異国人も。・・そうすれば、あなたの男奴隷も、女奴隷も、あなたと同じように休むことができる。あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。あなたの隣人に対し、偽証してはならない。あなたの隣人の妻を欲しがってはならない。あなたの隣人の家、畑、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」

 

モーセはこれから、十戒について語りますが、その前提になっているのは、主がイスラエルをエジプト贖い出されたお方であるという事実です。律法が与えられたのは、それを行なって救われるためではなく、エジプトから救われ、贖われた者だから、その贖ってくださった方の命令として行うのです。だから、罪が贖われた者でなければ、本当の意味で神の律法を行うことはできません。この戒めのベースにあるのは愛なのです。

 

先日、近藤先生ご夫妻とお話している中で、よくクリスチャンが日曜日教会に行かなければならないのは束縛されるようで嫌だということを聞くけれども、自分はそういうことがなかったので、そういう人の気持ちが理解できないとおっしゃっておられました。神に罪が救われた喜びで日曜日は教会に行きたくて、行きたくてしょうがなかったというのです。それはここで言っていることです。これから語られる戒めは決していやいやながら、強制されてするのではなく、主によって罪が贖われた者だから喜んで応答したいのです。

 

では、その内容を見ていきましょう。まず神の律法の第一の戒めは、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。」です。主のみを神とし、他のものを神としてはいけないということです。これは単に木や石で作った神を神としてはいけないというだけでなく、神以外のものを神の位置に置いてはいけないということを意味しています。神以外に自分の仕事や家庭を、神以外に自分自身を置いてはいけないのです。それらを拝んでもなりません。仕えてもなりません。ただ神だけを礼拝し、神にだけ仕えなければならないのです。

 

12節から15節までには、安息日を守るように言われています。安息日とは、主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたので、この日を聖なる日とするように定められたものです。ところが、申命記には、スラエルの民がエジプトの地で奴隷であったが、神が力強い御手をもって、彼らを導き出されたので、そのことを覚えるために、この日を安息日として守るようにと定められています。つまり、モーセは今、新しい世代のイスラエルに、主がエジプトから導き出されたことを起点にして、その生活を営むように指導しているのです。

 

 ここに、安息日とは何なのか、その意義を見出すことができます。それは、まぎれもなく、主のみわざが行なわれ、完成したので安息する、という意義です。主が天地を創造されたとき、その創造のみわざは完成し、七日目に休まれました。これは創造のわざからの安息です。そして、イスラエルがエジプトの奴隷状態から贖い出されましたが、これは主の救いのみわざの完成です。主は救いのみわざを終えられたので、安息されたのです。つまり、救いのみわざからの安息です。このように主のみわざが完成したところに憩い、とどまることが、安息日の意義なのです。それは主イエスによってもたらされた安息を指し示しています。主イエスは十字架の上で、「テテレスタイ」(完了した)と言われました。また三日目に死人の中からよみがえられたことによって、全人類を罪から救い出す神のみわざが完成したのです。ですから、私たちはこの主イエスのみわざの中に憩うことができるのです。つまり、私たちはいつでも、主イエス・キリストにあって真の安息を持つことができるのです。であれば、この安息日の規定はもはや律法ではありません。私たちを罪から贖い出して救いのみわざを成し遂げてくださった主の中に安息を得ているという喜びをもって、主の日に集まることは当然のことではないでしょうか。

 

そして次に、あなたの父と母を敬え。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。あなたの隣人に対し、偽証してはならない。あなたの隣人の妻を欲しがってはならない。あなたの隣人の家、畑、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。と続きます。

ここで出エジプト記の記述と若干違う点は、最後の「隣人の妻を欲しがってはならない」です。出エジプト記には「あなたの隣人の家をほしがってはならない。」とあり、その後に、「隣人の妻・・・」と続きますが、ここには、あなたの隣人の妻をとあって、家のことに関する記述はありません。いったいなぜでしょうか。おそらく、この後の7章に異邦人の妻のことが語られているので、そのことを意識していたからでしょう。イスラエルが約束の地に入ったときには、その地の住民を聖絶しなければなりませんでした。彼らと縁を結んではならなかったのです。それゆえ、イスラエルの隣人の妻を欲しがってはならなかったのです。ですから、この隣人の妻というのは単に隣人の妻というだけでなく、異邦人の妻のことも含んで語られていたのです。

 

3.主の御声を聞き続ける(22-27

 

次に22節から27節までをご覧ください。

「これらのことばを、主はあの山で、火と雲と暗やみの中から、あなたがたの全集会に、大きな声で告げられた。このほかのことは言われなかった。主はそれを二枚の石の板に書いて、私に授けられた。あなたがたが、暗黒の中からのその御声を聞き、またその山が火で燃えていたときに、あなたがた、すなわちあなたがたの部族のすべてのかしらたちと長老たちとは、私のもとに近寄って来た。そして言った。「私たちの神、主は、今、ご自身の栄光と偉大さとを私たちに示されました。私たちは火の中から御声を聞きました。きょう、私たちは、神が人に語られても、人が生きることができるのを見ました。今、私たちはなぜ死ななければならないのでしょうか。この大きい火が私たちをなめ尽くそうとしています。もし、この上なお私たちの神、主の声を聞くならば、私たちは死ななければなりません。いったい肉を持つ者で、私たちのように、火の中から語られる生ける神の声を聞いて、なお生きている者がありましょうか。あなたが近づいて行き、私たちの神、主が仰せになることをみな聞き、私たちの神、主があなたにお告げになることをみな、私たちに告げてくださいますように。私たちは聞いて、行ないます。」 

 

これらの戒めを、主はあのホレブの山で、火と雲と暗やみの中から、イスラエル全会衆に、大きな声で語られました。そして、それを二枚の石の板に書いて、モーセに授けられました。イスラエルの部族のすべてのかしらと長老たちとは、それを聞いてモーセのところに来て言いました。「私たちは火の中から御声を聞きました。」と。主の御声を聞いてもなお生きているとは考えられないことでしたが、彼らはそのようにして主と顔と顔とを合わせて、主の御声を聞いたにもかかわらず、滅ぼされることはありませんでした。これはすごいことです。天地万物を創造された大いなる神が、自分たちに個人的に直接、語られることなど、あまりにも信じがたいことだったのです。それで彼らは、主がモーセに告げられることばはみな聞いて、行いますと言いました。

 

28節から33節までです。

「主はあなたがたが私に話していたとき、あなたがたのことばの声を聞かれて、主は私に仰せられた。「わたしはこの民があなたに話していることばの声を聞いた。彼らの言ったことは、みな、もっともである。どうか、彼らの心がこのようであって、いつまでも、わたしを恐れ、わたしのすべての命令を守るように。そうして、彼らも、その子孫も、永久にしあわせになるように。さあ、彼らに、『あなたがたは、自分の天幕に帰りなさい。』と言え。しかし、あなたは、わたしとともにここにとどまれ。わたしは、あなたが彼らに教えるすべての命令・・おきてと定め・・を、あなたに告げよう。彼らは、わたしが与えて所有させようとしているその地で、それを行なうのだ。」あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおりに守り行ないなさい。右にも左にもそれてはならない。あなたがたの神、主が命じられたすべての道を歩まなければならない。あなたがたが生き、しあわせになり、あなたがたが所有する地で、長く生きるためである。」

 

主は、イスラエルの決意をとても喜ばれました。そして、彼らの心がいつもこのようであって、いつまでも、主を恐れ、主のすべての命令を守るように、と仰せになられました。この時だけでなく、いつもこのようであるように、いつまでもこのようであるようにというのが、主の願いだったのです。私たちはある時主の御声を聞いて「アーメン」と言って従いますが、しばらく経つとその気持ちがいつしか失せてしまい、自分の思いが優先してしまうことがあります。そうではなくて、いつも、いつまでも、主に聞き従わなければなりません。そのためにはどうしたらいいのでしょうか。主の御声を聞き続けることです。主と顔と顔とを合わせてその御声を聞き、主をおそれることが求められます。そのことによってイスラエルは主との結びつきが始まりました。個人的に語られることなしに主と関係は持つことはできないし、またイスラエルも、主を恐れおののいて、その御声に聞き従うことなくして、神との関係を保つことはできません。私たちの信仰生活の土台は、この主との生ける結びつき以外にはないのです。

 

あのザアカイもそうでした。主がエリコの町にやって来られたとき、ザアカイはいちじく桑の木に登りました。そのザアカイに向かってイエスは御顔を向け、個人的に語られました。主がホレブでイスラエルに対してなされたようにです。すると彼は、自分の財産の半分を貧しい人に渡し、だまし取った物は四倍にして返す、と言ったのです(ルカ19:1-10)。いったいなぜ彼はそのように言ったのでしょうか。それは、彼がイエスの御声を聞き、イエスの聖さにふれて、自分の汚れが明らかになり、悔い改めたからです。彼はイエスと個人的な関係を持つことができたのです。そして、このように主と個人的な関係を持つとき、私たちは変えられていきます。聖なる主にお会いすることは恐れも伴いますが、そのような個人的な主との関係が、私たちをご自身へと近づけていくのです。

 

しかしモ―セに対して主は、「あなたは、わたしとともにここにとどまれ。」と言われました。この十戒の他にもイスラエルに教えなければならない、おきてと定めとを告げるためです。そして、これらをイスラエルが所有する土地で守り行なうようにと命じなければなりません。なぜでしょうか。それは彼らが生き、しあわせになるためです。私たちは主のおきとさだめを守ることが、そこから右にも左にもそれないで、その道を歩み続けることが、私たちの幸せとなり、私たちが生きる道でもあるのです。

きょうは、申命記5章から学びます。 モーセはこれまで、エジプトから出てモアブの地に至るまでの経緯を話しましたが、ここからは具体的に、守るべき、おきてと定めを話し始めます。

 

1.おきてと定めとを守らなければならない(1-5

 

まず、1節から5節までをご覧ください。

「さて、モーセはイスラエル人をみな呼び寄せて彼らに言った。聞きなさい。イスラエルよ。きょう、私があなたがたの耳に語るおきてと定めとを。これを学び、守り行ないなさい。私たちの神、主は、ホレブで私たちと契約を結ばれた。主が、この契約を結ばれたのは、私たちの先祖たちとではなく、きょう、ここに生きている私たちひとりひとりと、結ばれたのである。主はあの山で、火の中からあなたがたに顔と顔とを合わせて語られた。そのとき、私は主とあなたがたとの間に立ち、主のことばをあなたがたに告げた。あなたがたが火を恐れて、山に登らなかったからである。主は仰せられた。」

 

モーセは再び、イスラエルの民を集めて語ります。「聞きなさい」ということばは、この申命記のキーワードの一つです。それだけ重要な内容であるということです。「きょう、私があなたがたの耳に語るおきてと定めとを。これを学び、守り行ないなさい。」と。その内容は、かつて彼らがホレブにいたとき、そこで神と結ばれた契約についてです。主はあの山で、火の中から彼らと顔と顔とを合わせて語られました。これは、主がイスラエルに個人的に語られたということです。主がいかにイスラエルの民を愛し、この民と婚姻関係のような、一体化した結びつきを持ちたいかを表しているのです。主は、私たちに対しても、個人的にお語りになりたいと願われています。私たちは、個人的に語られる神の御声を聞くことによって、神との関係を持つことができるのです。

 

2.主のおきてと定め(6-21

 

次に6節から21節までをご覧ください。

「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。安息日を守って、これを聖なる日とせよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。・・あなたも、あなたの息子、娘も、あなたの男奴隷や女奴隷も、あなたの牛、ろばも、あなたのどんな家畜も、またあなたの町囲みのうちにいる在留異国人も。・・そうすれば、あなたの男奴隷も、女奴隷も、あなたと同じように休むことができる。あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。あなたの隣人に対し、偽証してはならない。あなたの隣人の妻を欲しがってはならない。あなたの隣人の家、畑、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」

 

モーセはこれから、十戒について語りますが、その前提になっているのは、主がイスラエルをエジプト贖い出されたお方であるという事実です。律法が与えられたのは、それを行なって救われるためではなく、エジプトから救われ、贖われた者だから、その贖ってくださった方の命令として行うのです。だから、罪が贖われた者でなければ、本当の意味で神の律法を行うことはできません。この戒めのベースにあるのは愛なのです。

 

先日、近藤先生ご夫妻とお話している中で、よくクリスチャンが日曜日教会に行かなければならないのは束縛されるようで嫌だということを聞くけれども、自分はそういうことがなかったので、そういう人の気持ちが理解できないとおっしゃっておられました。神に罪が救われた喜びで日曜日は教会に行きたくて、行きたくてしょうがなかったというのです。それはここで言っていることです。これから語られる戒めは決していやいやながら、強制されてするのではなく、主によって罪が贖われた者だから喜んで応答したいのです。

 

では、その内容を見ていきましょう。まず神の律法の第一の戒めは、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。」です。主のみを神とし、他のものを神としてはいけないということです。これは単に木や石で作った神を神としてはいけないというだけでなく、神以外のものを神の位置に置いてはいけないということを意味しています。神以外に自分の仕事や家庭を、神以外に自分自身を置いてはいけないのです。それらを拝んでもなりません。仕えてもなりません。ただ神だけを礼拝し、神にだけ仕えなければならないのです。

 

12節から15節までには、安息日を守るように言われています。安息日とは、主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたので、この日を聖なる日とするように定められたものです。ところが、申命記には、スラエルの民がエジプトの地で奴隷であったが、神が力強い御手をもって、彼らを導き出されたので、そのことを覚えるために、この日を安息日として守るようにと定められています。つまり、モーセは今、新しい世代のイスラエルに、主がエジプトから導き出されたことを起点にして、その生活を営むように指導しているのです。

 

 ここに、安息日とは何なのか、その意義を見出すことができます。それは、まぎれもなく、主のみわざが行なわれ、完成したので安息する、という意義です。主が天地を創造されたとき、その創造のみわざは完成し、七日目に休まれました。これは創造のわざからの安息です。そして、イスラエルがエジプトの奴隷状態から贖い出されましたが、これは主の救いのみわざの完成です。主は救いのみわざを終えられたので、安息されたのです。つまり、救いのみわざからの安息です。このように主のみわざが完成したところに憩い、とどまることが、安息日の意義なのです。それは主イエスによってもたらされた安息を指し示しています。主イエスは十字架の上で、「テテレスタイ」(完了した)と言われました。また三日目に死人の中からよみがえられたことによって、全人類を罪から救い出す神のみわざが完成したのです。ですから、私たちはこの主イエスのみわざの中に憩うことができるのです。つまり、私たちはいつでも、主イエス・キリストにあって真の安息を持つことができるのです。であれば、この安息日の規定はもはや律法ではありません。私たちを罪から贖い出して救いのみわざを成し遂げてくださった主の中に安息を得ているという喜びをもって、主の日に集まることは当然のことではないでしょうか。

 

そして次に、あなたの父と母を敬え。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。あなたの隣人に対し、偽証してはならない。あなたの隣人の妻を欲しがってはならない。あなたの隣人の家、畑、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。と続きます。

ここで出エジプト記の記述と若干違う点は、最後の「隣人の妻を欲しがってはならない」です。出エジプト記には「あなたの隣人の家をほしがってはならない。」とあり、その後に、「隣人の妻・・・」と続きますが、ここには、あなたの隣人の妻をとあって、家のことに関する記述はありません。いったいなぜでしょうか。おそらく、この後の7章に異邦人の妻のことが語られているので、そのことを意識していたからでしょう。イスラエルが約束の地に入ったときには、その地の住民を聖絶しなければなりませんでした。彼らと縁を結んではならなかったのです。それゆえ、イスラエルの隣人の妻を欲しがってはならなかったのです。ですから、この隣人の妻というのは単に隣人の妻というだけでなく、異邦人の妻のことも含んで語られていたのです。

 

3.主の御声を聞き続ける(22-27

 

次に22節から27節までをご覧ください。

「これらのことばを、主はあの山で、火と雲と暗やみの中から、あなたがたの全集会に、大きな声で告げられた。このほかのことは言われなかった。主はそれを二枚の石の板に書いて、私に授けられた。あなたがたが、暗黒の中からのその御声を聞き、またその山が火で燃えていたときに、あなたがた、すなわちあなたがたの部族のすべてのかしらたちと長老たちとは、私のもとに近寄って来た。そして言った。「私たちの神、主は、今、ご自身の栄光と偉大さとを私たちに示されました。私たちは火の中から御声を聞きました。きょう、私たちは、神が人に語られても、人が生きることができるのを見ました。今、私たちはなぜ死ななければならないのでしょうか。この大きい火が私たちをなめ尽くそうとしています。もし、この上なお私たちの神、主の声を聞くならば、私たちは死ななければなりません。いったい肉を持つ者で、私たちのように、火の中から語られる生ける神の声を聞いて、なお生きている者がありましょうか。あなたが近づいて行き、私たちの神、主が仰せになることをみな聞き、私たちの神、主があなたにお告げになることをみな、私たちに告げてくださいますように。私たちは聞いて、行ないます。」 

 

これらの戒めを、主はあのホレブの山で、火と雲と暗やみの中から、イスラエル全会衆に、大きな声で語られました。そして、それを二枚の石の板に書いて、モーセに授けられました。イスラエルの部族のすべてのかしらと長老たちとは、それを聞いてモーセのところに来て言いました。「私たちは火の中から御声を聞きました。」と。主の御声を聞いてもなお生きているとは考えられないことでしたが、彼らはそのようにして主と顔と顔とを合わせて、主の御声を聞いたにもかかわらず、滅ぼされることはありませんでした。これはすごいことです。天地万物を創造された大いなる神が、自分たちに個人的に直接、語られることなど、あまりにも信じがたいことだったのです。それで彼らは、主がモーセに告げられることばはみな聞いて、行いますと言いました。

 

28節から33節までです。

「主はあなたがたが私に話していたとき、あなたがたのことばの声を聞かれて、主は私に仰せられた。「わたしはこの民があなたに話していることばの声を聞いた。彼らの言ったことは、みな、もっともである。どうか、彼らの心がこのようであって、いつまでも、わたしを恐れ、わたしのすべての命令を守るように。そうして、彼らも、その子孫も、永久にしあわせになるように。さあ、彼らに、『あなたがたは、自分の天幕に帰りなさい。』と言え。しかし、あなたは、わたしとともにここにとどまれ。わたしは、あなたが彼らに教えるすべての命令・・おきてと定め・・を、あなたに告げよう。彼らは、わたしが与えて所有させようとしているその地で、それを行なうのだ。」あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおりに守り行ないなさい。右にも左にもそれてはならない。あなたがたの神、主が命じられたすべての道を歩まなければならない。あなたがたが生き、しあわせになり、あなたがたが所有する地で、長く生きるためである。」

 

主は、イスラエルの決意をとても喜ばれました。そして、彼らの心がいつもこのようであって、いつまでも、主を恐れ、主のすべての命令を守るように、と仰せになられました。この時だけでなく、いつもこのようであるように、いつまでもこのようであるようにというのが、主の願いだったのです。私たちはある時主の御声を聞いて「アーメン」と言って従いますが、しばらく経つとその気持ちがいつしか失せてしまい、自分の思いが優先してしまうことがあります。そうではなくて、いつも、いつまでも、主に聞き従わなければなりません。そのためにはどうしたらいいのでしょうか。主の御声を聞き続けることです。主と顔と顔とを合わせてその御声を聞き、主をおそれることが求められます。そのことによってイスラエルは主との結びつきが始まりました。個人的に語られることなしに主と関係は持つことはできないし、またイスラエルも、主を恐れおののいて、その御声に聞き従うことなくして、神との関係を保つことはできません。私たちの信仰生活の土台は、この主との生ける結びつき以外にはないのです。

 

あのザアカイもそうでした。主がエリコの町にやって来られたとき、ザアカイはいちじく桑の木に登りました。そのザアカイに向かってイエスは御顔を向け、個人的に語られました。主がホレブでイスラエルに対してなされたようにです。すると彼は、自分の財産の半分を貧しい人に渡し、だまし取った物は四倍にして返す、と言ったのです(ルカ19:1-10)。いったいなぜ彼はそのように言ったのでしょうか。それは、彼がイエスの御声を聞き、イエスの聖さにふれて、自分の汚れが明らかになり、悔い改めたからです。彼はイエスと個人的な関係を持つことができたのです。そして、このように主と個人的な関係を持つとき、私たちは変えられていきます。聖なる主にお会いすることは恐れも伴いますが、そのような個人的な主との関係が、私たちをご自身へと近づけていくのです。

 

しかしモ―セに対して主は、「あなたは、わたしとともにここにとどまれ。」と言われました。この十戒の他にもイスラエルに教えなければならない、おきてと定めとを告げるためです。そして、これらをイスラエルが所有する土地で守り行なうようにと命じなければなりません。なぜでしょうか。それは彼らが生き、しあわせになるためです。私たちは主のおきとさだめを守ることが、そこから右にも左にもそれないで、その道を歩み続けることが、私たちの幸せとなり、私たちが生きる道でもあるのです。

ヘブル4章14~16節 「私たちの大祭司イエス」

 

 きょうは、ヘブル4章14節から16節までのみことばから、「私たちの大祭司イエス」というタイトルでお話したいと思います。

 

 「大祭司」というのは私たち日本人にはあまり馴染みのない言葉ですが、旧約聖書を信じていたユダヤ人たちにはよく知られていたことでした。それは、神と人を結びつける働きをする人のこと、仲介者のことです。旧約聖書でなぜ大祭司が存在していたのかというと、罪ある人間は、そのままでは神に近づくことができなかったからです。神は聖なる、聖なる、聖なる方なので、その神に近づこうものなら、たちまちのうちに滅ぼされてしまったわけです。それで神はそういうことがないように、ご自分に近づく方法をお定めになられました。それが大祭司を建てるということだったのです。大祭司が年に一度動物をほふり、その血を携えて幕屋と呼ばれる所に入って行き、だれも近づくことができない、契約の箱が置いてある至聖所に入り、その契約の箱に動物の血をふりかけてイスラエルの民の罪の贖いをしました。それによってイスラエルの民の罪は赦され、神の前に出ることができたのです。

 

 ここでは、神の御子イエスがこの大祭司であると言われています。ここから10章の終わりまでずっとこの大祭司の話が続きます。いわばこれはこのヘブル書の中心的な内容であると言えます。いったいなぜ大祭司の話が出てくるのでしょうか。旧約聖書の時には、大祭司はアロンという人の家系から選ばれましたが、ここにはアロンではない、もっと偉大な大祭司がいて、この方によって私たちは大胆に神のみもとに出て行くことができるということを証明しようとしているのです。それが私たちの主イエス・キリストです。

この手紙はユダヤ教からキリスト教に回心した人たちに宛てて書かれました。キリスト教に回心したのはよかったけれども、それによって度重なる迫害を受けて、中には元の教え、旧約聖書の律法に逆戻りしようという人たちもいました。そこでこの手紙の著者は、旧約聖書の大祭司であるアロンとまことの大祭司であるイエスとを比較することによって、イエスがどれほど偉大な大祭司であるのかを証明し、このイエスにしっかりとどまるようにと勧めるのです。いったいイエスはどのように偉大な大祭司なのでしょうか。

 

 Ⅰ.もろもろの天を通られた大祭司(14)

 

 まず14節をご覧ください。

「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。」

 

 ここには、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、とあります。私たちの大祭司であられるイエスは、もろもろの天を通られた偉大な大祭司です。では、この「もろもろの天を通られた」とはどういう意味でしょうか。

 

ユダヤ人は、天には三つの層があると考えていました。すなわち、第一の天、第二の天、そして第三の天です。まず、第一の天というのは、私たちの肉眼で見ることができる天のことで、そこには雲あり、太陽の光が輝いています。また、鳥が飛び交っています。いわゆる大気圏と呼ばれてものです。

第二の天は、その大気圏を出た宇宙のことです。そこには太陽があり、月があり、多くの星々があります。旧約聖書に出てくるソロモン王は、壮大な神の宮を建てようとしていたとき、「天も、天の天も主をお入れできないのに、いったいだれが主のために宮を建てる力を持っているというのでしょうか。」(Ⅱ歴代誌2:6)と言いましたが、この「天の天」というのがこの第二の天のことでしょう。神が造られたすべての世界のことです。

 そして第三の天というのは、神が住んでおられる所、神の国のことです。Ⅱコリント12章2節のところでパウロは、「第三の天にまで引き上げられました」と言っていますが、それはこの神が住み給う所、天国のことでした。

 だから、ある人はもろもろの天を通られたというのは、こうした天を通られたという意味ではないかと考えているのです。

 

 しかし、ある人たちはこの天を文字通りの天のことではなく、自然界に対する超自然界のことを指しているのではないかと考えています。すなわち、悪魔の試みを含むあらゆる経験をされたということを意味ではないかというのです。それは、15節のところに、「罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」とあるからです。

 

 しかし、このもろもろの天を通られたということがどういうことであるにせよ、重要なことは、このもろもろの天を通ってどこへ行かれたのかということです。キリストはもろもろの天を通られ、神の御住まいであられる天に昇り、その右の座に着座されました。着座するというのは働きが完成したことを表しています。もう終わったのです。人類の罪に対する神の救いのみわざは、このイエスによって成し遂げられました。イエス様が私たちの罪の身代わりに十字架にかかって死なれ、三日目によみがえれ、四十日間この地上でご自身のお姿を現されて後に、天にある神の御座に着座されたことによって完成したのです。ですからもろもろの天を通られたというのは、この救いのみわざを成し遂げて神の右の座に着かれたことを表しているのです。

 

ローマ8章34節には、このようにあります。

「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」

 

主イエスは、私たちの罪の贖いを成し遂げて神の右の座に着き、そこで私たちのためにとりなしていてくださるのです。「とりなす」とは「なかだちをする」とか、「仲介する」ということですが、たとえだれかがあなたを罪に定めようとする人がいたとしても、あなたが罪に定められることが絶対にありません。なぜなら、キリストが神の右の座にいて、とりなしてくださるからです。あなたの罪の贖いは、イエス様が十字架で死んで、三日目によみがえられたことで、完全に成し遂げられたのです。

 

 でも、この地上の大祭司、アロンの家系の大祭司はどうかというと、そうではありません。ユダヤ教では今でも年に一度、大贖罪日と呼ばれる日に大祭司が動物の血を携えて聖所の中に入って行き、そこでイスラエルの罪の贖いが繰り返して行われています。それはいつまで経っても終わることがありません。永遠に繰り返されているのです。

 

 しかし、イエスによる贖いは完了しました。なぜなら、イエスはやぎや子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたからです。もう罪の贖いは必要なくなりました。主イエスの十字架の血によって、私たちと神との間を隔てていた壁は取り除かれたのです。そして、大胆に、神の御座に地区づくことができるようになりました。これはすごい恵みです。

 

マタイの福音書27章51節を見ると、イエスさまが十字架にかかって死なれ、息を引き取られたとき、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けたとありますが、それは、神と人との関係を隔てていた罪の幕が取り除かれたということです。イエスさまの血によって、イエスさまが私たちの罪に身代わりとなって十字架で死んでくださったので、その隔ての壁が完全に取り除かれたのです。ですから、このイエスさまを信じる人はだれでも、いつでも、どこでも、自由に、大胆に、神のもとに行くことができるようになったのです。これがもろもろの天を通られたという意味です。

 

 ですから、このイエスを信じる者はだれでも救われるのです。あなたがキリストを信じるなら、あなたのすべての罪は赦されます。過去に犯した罪ばかりでなく、現在の罪も、未来の罪も、すべて赦されるのです。なぜなら、聖書には「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(Ⅰヨハネ1:7)とあるからです。これはものすごい恵みではないでしょうか。

 

 先日、大久保茂美姉のバプテスマ式を行いました。いろいろな事で不安を抱え夜も眠れない苦しみの中でイエス様に助けを求めて教会に来られました。そして、キリストの罪の赦しを信じたとき、心に平安が与えられたと言います。イエス様が平安を与えてくださいました。それは罪の赦しから来る平安です。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところへ来なさい。」と言われるイエス様の招きに応答して、イエス様の十字架の贖いを信じたことで、大久保さんのすべての罪がゆるされ、神にゆだねて祈ることができるようになったのです。何という恵みでしょうか。

 

 昔、アメリカにチャールズ・フィニー(Charles Grandison Finney、1792年1875年)という伝道者がいました。彼は「最初のアメリカ人リバイバリスト」と呼ばれた人ですが、彼がある町で伝道していたとき、人相の悪い男が彼のところにやって来て、「今晩、わしの店まで来てくれ」と言ったので行ってみると、その男は突然ピストルを取り出してこう言いました。「昨晩あんたが言ったことは本当か」「どんなことを言いましたか。」と言うと、「キリストの血がすべての罪から聖めるっていうことさ。」するとフィニーは、「それは私のことばではなく、神のおことばです。本当です。」と答えると、彼は自分の身の上話を始めました。

「実は、この酒場にある秘密のギャンブル場で、おれは多くの男から最後の1ドルまでもふんだくり、ある者は自殺に追いやった。こんな男でも、神は赦してくれるのか。」

「はい、すべての罪はキリストの血によってきよめられると書いてあります。」

「ちょっと待ってくれ。通りの向こうの大きな家に、わしの妻と子供たちがいるが、わしはこの16年間全く家族を顧みず、妻をののしり続けてきた。この前は幼い娘をストーブのそばに押し倒し、大やけどを負わせてしまったんだが、こんな男でも神は赦してくれるというのか。」

 するとフィニーは立ち上がり、その男の手を握ってこう言いました。

「これまで聞いたこともないような恐ろしい話を聞きましたが、聖書には、キリストの血がすべての罪を赦し、きよめると書いてあります。」

 するとその男は、「それを聞いて安心した」と言って自分の家に帰って行きました。

 彼は自分の部屋に幼い娘を呼び寄せて、ひざの上に乗せると、「パパはおまえを、心から愛しているよ」と言いました。何事が起ったのかと部屋の中をのぞいている奥さんの頬に、涙が伝わり落ちました。彼は妻を呼んで言いました。

「昨晩、今まで聞いたことのない、すばらしい話を聞いた。キリストの血は、すべての罪からきよめると・・・」

そして彼は酒場を閉め、その町に大きな恩恵をもたらす者になったのです。

 

皆さん、すばらしい知らせではないですか。キリストの血は、どんな罪でも赦し、聖め、私たちを神と和解させてくれます。キリストの愛はどんな人でもその人を内側から変え、神の平安で満たしてくださるのです。あなたもこの平安をほしいと思いませんか。イエスさまはもろもろの天を通って神の右の座に着かれました。あなたもこのイエスを信じるなら、罪の赦しと永遠のいのちを受けることができます。イエスは、もろもろの天を通られた偉大な大祭司なのです。

 

 Ⅱ.私たちの弱さに同情してくださる大祭司(15)

 

 次に15節をご覧ください。一緒に読みましょう。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」

 

 ここには、私たちの大祭司についてもう一つのことが言われています。それは、私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではない、ということです。私たちが苦しむとき、その苦しみを十分に理解し、同情することがおできになられます。それはもう他人事ではありません。自分の痛み、自分の苦しみ、自分の悲しみとして、共に負ってくださるのです。

 

聖書に「良きサマリヤ人」の話があります。彼は、旅の途中、強盗に襲われ死にそうになっていた人を見ると、かわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋につれて行き、介抱してやりました。次の日、彼はデナリ硬貨を二つ取り出し、宿屋の主人に渡して言いました。「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」

このサマリや人はなぜこのようなことができたのでしょうか。それは、この傷つき、苦しんでいた人の隣人になったからです。彼は傷つき、苦しんでいた人を見たとき、とても他人事には思えませんでした。それを自分のことのように感じたのです。だから彼はそのような行動をとることができたのです。

 

それはイエス様も同じです。イエス様は罪によって苦しみ、傷ついている私たちを見たとき、それを自分の苦しみとして理解することができました。なぜなら、イエス様は私たちと同じような肉体を持って来られ、私たちが経験するすべての苦しみ、いやそれ以上の十字架の苦しみに会われたからです。先週はクリスマスでしたが、クリスマスのすばらしいことは、ことばが人となってくださったということです。神は高いところにいて、そこから救おうとされたのではなく、私たちと同じ姿をとって生まれてくださいました。私たちが経験するすべての苦しみを経験されたのです。

 

先日のアンビリバボーで、理由もなくたった一人の息子を殺された市瀬朝一さんという方の、人生をかけた壮絶な敵討ちが紹介されました。その敵討ちとは息子を殺した犯人を殺すことではなく、同じように家族を殺された人たちを経済的に救うべく、犯罪被害者の保障に関する法律を作るということでした。その働きは、朝市さんが過労で失明するという壮絶な戦いでしたが、奥様に助けられながら運動を続け、ついに国を動かすことに成功し、息子さんが殺されてから12年後の1977年にその法案が成立したのです。それは朝市さんが亡くなってから三日後のことでした。いったいそれほどまでに朝市さんの心を動かしたものは何だったのでしょうか。それは、朝市さんが朝市さんと同じように愛する家族を失った人たちの悲しみに触れて、経済的に困窮している人たちの現実を知ったからでした。朝市さんは自分の息子が殺されたことで、同じような苦しみにある人たちのことを十分思いやることができたのです。

 

 確かに、私たちは痛みを経験してはじめて人の痛みを理解することができます。貧しさを経験してはじめて人の貧しさを理解し、同情することができます。しかし、私たちはひとりで、すべての痛みや苦しみを経験することはできません。したがって、すべての人を理解することは不可能なのです。しかし、私たちの大祭司は、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われました。ですから、私たちの弱さを十分すぎるほど理解することができ、また同情することができるのです。そればかりではありません。私たちの大祭司は、そうした弱さや試みから助け出すことができる方です。

 

 Ⅲ.おりにかなった助けを与えてくださる大祭司(16)

 

 第三のことは、だから、大胆に恵みの御座に近づこうということです。16節をご覧ください。ご一緒に読みましょう。

「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

 

 旧約聖書の時代には、だれもが神に近づけるというわけではありませんでした。近づくことができなかたのです。神に近づこうものならば、たちまちにして滅ぼされてしまいました。神に近づくことが許されたのは神に選ばれた大祭司だけで、しかもそれは一年に一度だけのことでした。しかも大祭司にも罪があったので、彼が神の前に出る時にはまず自分自身と家族のためにいけにえをささげなければならないという、念入りさが求められました。

 

 けれども、今は違います。今は神の御子イエス・キリストが完全ないけにえとして十字架で死んでくださり、私たちのすべての罪を贖ってくださったので、大胆に神に近づくことができるようになりました。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づくことができるのです。

 

 この「大胆に」という言葉は、1955年版の口語訳聖書では「少しもはばかることなく」と訳されています。「はばかることなく」というのは「遠慮しないで」とか、「ためらわないで」ということです。遠慮しないで、ためらわないで、大胆に恵みの御座に近づこうではないかというのです。

 

 しかし、どうでしょうか。実際にははばかってしまいます。躊躇して、遠慮して、なかなか神のもとに行こうとしません。なぜでしょうか。その理由の一つは、こんな罪深い者が神のもとに近づくなんておこがましいと思っているからです。自分の罪がそんなに簡単に赦されるはずがないと思っているのです。それが悪魔、サタンの常套手段でもあります。悪魔は偽善者であり、告発者なので、絶えず私たちを訴えてきます。あなたはあんな罪、こんな罪を犯したではないか、その罪がそんなに簡単に赦されるとでも思っているのか、あなたのようなひどい人間が神様に愛される資格があるとでも思っているのか、あなたが神に祈る資格があるとでもいうのか・・。そうやって責めてくるわけです。告発者ですから。そうやって責められると、大抵の場合は、「そうだ、私の罪は大きくてそんなに簡単に赦されるはずがない」と思ってしまいます。そして、神に近づくことにブレーキをかけてしまうのです。

 

またこのような自分自身の弱さとは別に、それにつけ入るサタンの働きもあります。ちょっと前にテツ&トモという漫才コンビが歌う「なんでだろう」という歌がブームになりました。なんでブームになったのかというと、その歌に共感できる人が多いからです。確かに私たちの人生には、「なんでだろう」というようなことがよく起こるのです。その理由がわからなくて、神が信じられなくなってしまったというケースも少なくありません。要するに、そこには自分の力を超えた力が働いているのです。

 

しかし、そうした弱さや破れというものを感じながらも、なおイエスさまの恵み深さにすがりついていくことが、私たちの信仰なのです。何の闇もなく、破れもないところを行くのではなく、そうした弱さを抱えながらも、そうした愚かさを持ちながらも、そんな不十分な者として、とても信仰者だなんて思えないような者でありながらも、なおこのような者をあわれみ、恵み、おりにかなった助けを与えてくださるイエスさまにすがりつくこと、それが私たちの信仰なのです。

 

それはイエス・キリストがあの十字架で、私たちのあらゆる恐れ、あらゆる不幸、あらゆる悲しみの根源である罪と死に打ち勝ってくださったからです。そのようにして私たちと神とを結び付けてくださいました。私たちは、このような偉大な大祭司を持っているのです。それだから、私たちは自分の弱さの中に留まり続けるのではなく、そこから一歩踏み出して、神様に近づくことができるのです。苦しい時は「神様、助けてください」と叫び求めることができるのです。今も天で大祭司であられるイエス・キリストが、私たちの信仰を支え、導いておられるのです。あなたのために祈り続けておられるのです。

 

 あなたはどんなことで弱さを覚えておられますか。子どもたちのこと、夫婦のこと、人間関係のこと、仕事のこと、学校のこと、将来のこと、いろいろと思い煩うことがあると思いますが、どうかそれを自分の中にためておかないで、いつでも、どこでも、おりにかなった助けを受けるために、主イエスのもとに、その恵みの御座に近づいていこうではありませんか。

申命記4章

きょうは、申命記4章から学びます。

 

1.おきてと定めとを守らなければならない(1-8)

 

まず、1節から8節までをご覧ください。

「今、イスラエルよ。あなたがたが行なうように私の教えるおきてと定めとを聞きなさい。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたの父祖の神、主が、あなたがたに与えようとしておられる地を所有することができる。私があなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。また、減らしてはならない。私があなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令を、守らなければならない。あなたがたは、主がバアル・ペオルのことでなさったことを、その目で見た。バアル・ペオルに従った者はみな、あなたの神、主があなたのうちから根絶やしにされた。しかし、あなたがたの神、主にすがってきたあなたがたはみな、きょう、生きている。見なさい。私は、私の神、主が私に命じられたとおりに、おきてと定めとをあなたがたに教えた。あなたがたが、はいって行って、所有しようとしているその地の真中で、そのように行なうためである。これを守り行ないなさい。そうすれば、それは国々の民に、あなたがたの知恵と悟りを示すことになり、これらすべてのおきてを聞く彼らは、「この偉大な国民は、確かに知恵のある、悟りのある民だ。」と言うであろう。まことに、私たちの神、主は、私たちが呼ばわるとき、いつも、近くにおられる。このような神を持つ偉大な国民が、どこにあるだろうか。また、きょう、私があなたがたの前に与えようとしている、このみおしえのすべてのように、正しいおきてと定めとを持っている偉大な国民が、いったい、どこにあるだろう。」

 

「申命記」というタイトルの意味は、第二の律法で、神が語られたことを繰り返して述べるということでした。なぜなら、それはとても重要な内容だからです。ここでモーセは、「聞きなさい」という言葉を何度も繰り返して語り、それを強調しています。1節には、「今、イスラエルよ。あなたがたが行なうように私の教えるおきてと定めとを聞きなさい。」とあります。なぜでしょうか。なぜなら、そうすれば、彼らは生き、彼らの父祖の神、主が、彼らに与えようとしておられる地を所有することができるからです。その神の命じることばには、つけ加えてはならないし、また、減らしてはなりません。主が命じる命令を、守らなければなりません。

 

その命令を守らなかったことで起こった悲劇がここに取り上げられています。それはバアル・ペオルでの出来事です。これは民数記25章に記されてある内容ですが、イスラエルがモアブの草原に宿営していたとき、バラムの陰謀によってモアブの娘たちがそこに送り込まれると、この娘たちとみだらなことをしただけでなく、彼女たちの神々であったバアル・ペオルを慕うようになったので、主の怒りがイスラエルに対して燃やされ、それに関わった多くの者たちが殺されたのです。この神罰で死んだ者は二万四千人であったとあります(民数記25:9)。いったい何が問題だったのでしょうか。彼らが主の命令に従わなかったことです。主の命令に背いて、偶像を拝んでしまいました。それで主は彼らを根絶やしにされたのです。しかし、それはあの時だけのことではありません。その主はきょうも生きておられるのです。彼らは、これから入って行って、所有しようとしているその地で、主の命令を守り行わなければなりません。そのことで、その地の住民に、彼らの知恵と悟りを示し、これらすべてのおきてを聞く彼らが、「この偉大な国民は、確かに知恵のある、悟りのある民だ。」と言うようになるためです。

 

このようなイスラエルの偉大さは、神の二つの特質にかかっていることでした。一つは、彼らが呼ばわるとき、主は、いつも近くにおられることです。神が臨在しておられるということほど、祝福に満ちたことはありません。もう一つは正しい、おきてと定めを持っていることです。

 

これはほんとうに偉大なことではないでしょうか。私たちの主は、私たちが呼ばわるとき、いつも近くにおられる方です。主イエスはこう言われました。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)主がともにおられるということほど大きな祝福はありません。主が共におられるならば、私たちは何も恐れることがないからです。なぜなら、主は全能者であって、すべての問題に勝利してくださる方だからです。

また、このような正しいおきてと定めが与えられていることも大きな祝福です。情報過多の時代にあって多くの情報が錯そうする中で人々は何を信じたらいいかわからずに迷っています。そのような中にあって、「わたしが道であり、真理であり、いのちです。」と言って導いてくださる方がおられるということは、本当に感謝なことなのです。

 

2.十分に気をつけなさい(9-40)

 

次に9節から40節までを見ていきたいと思います。まず、14節までをご覧ください。

「ただ、あなたは、ひたすら慎み、用心深くありなさい。あなたが自分の目で見たことを忘れず、一生の間、それらがあなたの心から離れることのないようにしなさい。あなたはそれらを、あなたの子どもや孫たちに知らせなさい。あなたがホレブで、あなたの神、主の前に立った日に、主は私に仰せられた。「民をわたしのもとに集めよ。わたしは彼らにわたしのことばを聞かせよう。それによって彼らが地上に生きている日の間、わたしを恐れることを学び、また彼らがその子どもたちに教えることができるように。」そこであなたがたは近づいて来て、山のふもとに立った。山は激しく燃え立ち、火は中天に達し、雲と暗やみの暗黒とがあった。主は火の中から、あなたがたに語られた。あなたがたはことばの声を聞いたが、御姿は見なかった。御声だけであった。 主はご自分の契約をあなたがたに告げて、それを行なうように命じられた。十のことばである。主はそれを二枚の石の板に書きしるされた。主は、そのとき、あなたがたにおきてと定めとを教えるように、私に命じられた。あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地で、それらを行なうためであった。」

 

モーセは今、シナイ山において、神がみことばを与えられたときのことを思い起こさせています。それは二枚の石の板に書き記された十のことば、十戒のことです。それを一生の間心から離れないようにするばかりでなく、それらを、自分たちの子どもや孫たちに知らせるようにと言われました。それは彼らが所有しようとしている地で、それらを行うためです。

 

 次に15節から24節までをご覧ください。

「あなたがたは十分に気をつけなさい。主がホレブで火の中からあなたがたに話しかけられた日に、あなたがたは何の姿も見なかったからである。堕落して、自分たちのために、どんな形の彫像をも造らないようにしなさい。男の形も女の形も。地上のどんな家畜の形も、空を飛ぶどんな鳥の形も、地をはうどんなものの形も、地の下の水の中にいるどんな魚の形も。また、天に目を上げて、日、月、星の天の万象を見るとき、魅せられてそれらを拝み、それらに仕えないようにしなさい。それらのものは、あなたの神、主が全天下の国々の民に分け与えられたものである。主はあなたがたを取って、鉄の炉エジプトから連れ出し、今日のように、ご自分の所有の民とされた。しかし、主は、あなたがたのことで私を怒り、私はヨルダンを渡れず、またあなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる良い地にはいることができないと誓われた。私は、この地で、死ななければならない。私はヨルダンを渡ることができない。しかしあなたがたは渡って、あの良い地を所有しようとしている。気をつけて、あなたがたの神、主があなたがたと結ばれた契約を忘れることのないようにしなさい。あなたの神、主の命令にそむいて、どんな形の彫像をも造ることのないようにしなさい。あなたの神、主は焼き尽くす火、ねたむ神だからである。」(20-24)

 

ここに繰り返して「気をつけなさい」と言われています。何を、気をつけなければならないのでしょうか。偶像崇拝です。イスラエルの民にとって、そして私たちクリスチャンにとっても根本的な問題は何かというと、偶像礼拝なのです。偶像とは何でしょうか。神以外のものを神とすることです。人はそれを肩地にするのですが、それが偶像です。自分が理解できて、感じることができて、自分で考えて、満足できるものがほしい、と願うのです。それが偶像なのです。しかし、主に拠り頼むときに、私たちは自分のものを持つことができません。自分の考えではなく、神が考えておられることを受け入れなければなりません。自分が喜ぶことではなく、神が喜ぶことを選び取らなければならないのです。神を主としていくことが、私たちの務めであるからです。それゆえ、十戒の第一の戒めは何かというと、「あなたには、わたしのほかに、ほかの偶像があってはならない。」ということでした。自分のために、偶像を造ってはならないし、それらを拝んではなりません。私たちに求められていることは、神を神としていくことであり、自分の思い、自分のイメージではなく、神の命令に聞き従うことなのです。

 

 次にモーセは、偶像を造ったり、拝んだりするようなことがあった場合どうなるかについて語っています。25節から31節までです。

「あなたが子を生み、孫を得、あなたがたがその地に永住し、堕落して、何かの形に刻んだ像を造り、あなたの神、主の目の前に悪を行ない、御怒りを買うようなことがあれば、私は、きょう、あなたがたに対して、天と地とを証人に立てる。あなたがたは、ヨルダンを渡って、所有しようとしているその土地から、たちまちにして滅びうせる。そこで長く生きるどころか、すっかり根絶やしにされるだろう。主はあなたがたを国々の民の中に散らされる。しかし、ごくわずかな者たちが、主の追いやる国々の中に残される。あなたがたはそこで、人間の手で造った、見ることも、聞くこともせず、食べることも、かぐこともしない木や石の神々に仕える。そこから、あなたがたは、あなたの神、主を慕い求め、主に会う。あなたが、心を尽くし、精神を尽くして切に求めるようになるからである。あなたの苦しみのうちにあって、これらすべてのことが後の日に、あなたに臨むなら、あなたは、あなたの神、主に立ち返り、御声に聞き従うのである。あなたの神、主は、あわれみ深い神であるから、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、あなたの先祖たちに誓った契約を忘れない。」

 

どういうことでしょうか。偶像を拝むようなことがあれば、主は彼らを国々の民の中に散らされます。その土地から追いやられるのです。異邦の民の中で、異邦人と同じように生きなければならないのです。しかし、あわれみ深い主は、そこから主に立ち返るようにしてくださいます。主は決して彼らを捨てず、彼らを滅ぼさず、彼らの先祖たちに誓った契約を忘れないのです。なんとすばらしい神のあわれみでしょうか。イスラエルが偶像を拝んでも、神は彼らが立ち返るようにしてくださいます。偶像ではなく、御声を聞くことができるようにしてくださいます。30節には「後の日」とありますが、これは終わりの時のことです。イスラエルは事実、土地を離れ離散の民となりましたが、今や、約束の地に戻ってきています。神は、ご自分の立てた契約のゆえに、彼らがこの地に戻ることができるようにしてくださいます。

 

この預言のとおり、1948年5月に、全世界に離散していたユダヤ人がここに戻り、イスラエル共和国を樹立しました。二千年もの間離散としていた民が再び集まって国を再建するということは考えられません。しかし、神はそれを行ってくださいました。神はご自分の語られたことを必ず成就してくださる方であることを知ることができます。この「終わりの日」とは、まさに現代のことを指しているのです。

 

次に32節から40節までをご覧ください。

「さあ、あなたより前の過ぎ去った時代に尋ねてみるがよい。神が地上に人を造られた日からこのかた、天のこの果てからかの果てまでに、これほど偉大なことが起こったであろうか。このようなことが聞かれたであろうか。あなたのように、火の中から語られる神の声を聞いて、なお生きていた民があっただろうか。あるいは、あなたがたの神、主が、エジプトにおいてあなたの目の前で、あなたがたのためになさったように、試みと、しるしと、不思議と、戦いと、力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力とをもって、一つの国民を他の国民の中から取って、あえてご自身のものとされた神があったであろうか。あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であって、ほかには神はないことを、あなたが知るためであった。主はあなたを訓練するため、天から御声を聞かせ、地の上では、大きい火を見させた。その火の中からあなたは、みことばを聞いた。主は、あなたの先祖たちを愛して、その後の子孫を選んでおられたので、主ご自身が大いなる力をもって、あなたをエジプトから連れ出された。それはあなたよりも大きく、強い国々を、あなたの前から追い払い、あなたを彼らの地にはいらせ、これを相続地としてあなたに与えるためであった。今日のとおりである。きょう、あなたは、上は天、下は地において、主だけが神であり、ほかに神はないことを知り、心に留めなさい。きょう、私が命じておいた主のおきてと命令とを守りなさい。あなたも、あなたの後の子孫も、しあわせになり、あなたの神、主が永久にあなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生き続けるためである。」  どういうことでしょうか。モーセはここで、神がイスラエルをいかに愛しておられるのかを語っています。イスラエルはこれまで、主の偉大なみわざをずっと見てきました。それはたとえば、火の中から語られる神の声であったり、エジプトにおいて彼らのためになされた力強いみわざであったりです。いったいなぜ主は彼らのこのような偉大なみわざを見せられたのでしょうか。それは35節にあるように、主だけが神であり、他に神がないことを知るためであり、心に留めるためでした。彼らがこのことを心に留めることによって、彼らが入っていく約束の地において、彼らが長く生き続けるためだったのです。

 

 それは私たちも同じです。主は私たちの人生においても数々のみわざを成してくださいました。それはいったい何のためなのかというと、これからの歩みにおいて、主こそ神であることを知り、その神に信頼して生きるためです。それなのに、私たちは神のみわざを心に留めることをしないので、すぐに忘れてしまうので、人間的になってしまいます。神が与えてくださった地で私たちが長く生き続けるためには、私たちは主の偉大さを思い起こし、信仰によって生きなければならないのです。

 

3.これがイスラエル人の前に置かれたみことば(41-49) 「それからモーセは、ヨルダンの向こうの地に三つの町を取り分けた。東のほうである。以前から憎んでいなかった隣人を知らずに殺した殺人者が、そこへ、のがれることのできるためである。その者はこれらの町の一つにのがれて、生きのびることができる。ルベン人に属する高地の荒野にあるベツェル、ガド人に属するギルアデのラモテ、マナセ人に属するバシャンのゴランである。これはモーセがイスラエル人の前に置いたみおしえである。これはさとしとおきてと定めであって、イスラエル人がエジプトを出たとき、モーセが彼らに告げたのである。そこは、ヨルダンの向こうの地、エモリ人の王シホンの国のベテ・ペオルの前の谷であった。シホンはヘシュボンに住んでいたが、モーセとイスラエル人が、エジプトから出て来たとき、彼を打ち殺した。彼らは、シホンの国とバシャンの王オグの国とを占領した。このふたりのエモリ人の王はヨルダンの向こうの地、東のほうにいた。それはアルノン川の縁にあるアロエルからシーオン山、すなわちヘルモンまで、また、ヨルダンの向こうの地、東の、アラバの全部、ピスガの傾斜地のふもとのアラバの海までである。」

 

それからモーセは、ヨルダン川の東側に三つの町を取り分けました。

 

のがれの町とは、あやまって人を殺した者がそこに逃れることができるようにと定められた町です。この町々は、彼らが復讐する者からのがれるところで、殺人者が、さばきのために会衆の前に立つ前に、死ぬことがないようにと定められた町々です。

こののがれの町は何を表していたのかというと、キリストの贖いでした。彼らは聖なる油をそそがれた大祭司が死ぬまで、そこにいなければなりませんでした。血を流したことに対しては贖いが求められたからです。そして、大祭司の死は、その在任中に殺された被害者の血を贖うに十分なものでした。この大祭司こそイエス・キリストを示すものでした。イエス・キリストは大いなる大祭司として、永遠の御霊によって、全く汚れのないご自分を神にささげ、その死によって世の罪のためのなだめの供え物となられました。ちょうど大祭司の死によって、あやまって人を殺した者の罪の贖いがなされ、自分の所有の地に帰ることができたように、私たちの大祭司イエス・キリストの死によって、彼のもとに逃れて来たものたちが、罪によって失われた嗣業を受けるに足る者とされ、キリストが約束された永遠の住まいに帰ることができたのです。

 

こうして、主のみことばを聞くことがいかに大切であるかが語られました。これがモーセをとおしてイスラエル人の前に置かれたみおしえです。このように、主との生きた交わりは、その場の雰囲気や自分の思いや感情とは全く関係なく、ただ主の言われることを単純に聞き、それに応答していく、柔らかい心だけなのです。これが、イスラエルがヨルダン川のところまできたその旅路に現われていたことだったのです。

申命記3章

きょうは、申命記3章から学びます。

 

1.バシャンの王オグを攻め取る(1-11)

 

「私たちはバシャンへの道を上って行った。するとバシャンの王オグとそのすべての民は、エデレイで私たちを迎えて戦うために出て来た。そのとき、主は私に仰せられた。「彼を恐れてはならない。わたしは、彼と、そのすべての民と、その地とを、あなたの手に渡している。あなたはヘシュボンに住んでいたエモリ人の王シホンにしたように、彼にしなければならない。」こうして私たちの神、主は、バシャンの王オグとそのすべての民をも、私たちの手に渡されたので、私たちはこれを打ち殺して、ひとりの生存者をも残さなかった。そのとき、私たちは彼の町々をことごとく攻め取った。私たちが取らなかった町は一つもなかった。取った町は六十、アルゴブの全地域であって、バシャンのオグの王国であった。これらはみな、高い城壁と門とかんぬきのある要害の町々であった。このほかに、城壁のない町々が非常に多くあった。私たちはヘシュボンの王シホンにしたように、これらを聖絶した。そのすべての町々・・男、女および子ども・・を聖絶した。ただし、すべての家畜と、私たちが取った町々で略奪した物とは私たちのものとした。このようにして、そのとき、私たちは、ふたりのエモリ人の王の手から、ヨルダンの向こうの地を、アルノン川からヘルモン山まで取った。」

ヘシュボンの王シホンに勝利しその地を聖絶したイスラエルはさらに北上し、バシャンへの道を上って行きました。バシャンの地は、ガリラヤ湖の北東地域、つまりゴラン高原のことです。するとバシャンの王オグとそのすべての民は、エデレイで戦うために出て来たので、そこで一戦を交えます。

そのとき、主はモーセに仰せられました。「彼を恐れてはならない。わたしは、彼と、そのすべての民と、その地とを、あなたの手に渡している。あなたはヘシュボンに住んでいたエモリ人の王シホンにしたように、彼にしなければならない。」

こうして主は、バシャンの王オグとそのすべての民をイスラエルの手に渡されたので、イスラエルはこれを打ち殺して、ひとりの生存者をも残しませんでした。そのとき、イスラエルは彼の町々をことごとく攻め取り、彼らが取らなかった町は一つもありませんでした。取った町は六十、アルゴブの全地域であって、バシャンのオグの王国でした。イスラエルは、ヘシュボンの王シホンにしたように、これらすべての町々、男、女および子どもを聖絶したのです。こうして、彼らは、ふたりのエモリ人の王の手から、ヨルダンの向こうの地を、アルノン川からヘルモン山まで取ったのです。  ここに、バシャンの王オグがどれほど巨人であったかが記録されています。まず「バシャンの王オグだけが、レファイムの生存者として残っていた。」とあります。「レファイム」とは「巨人」という意味です。彼がどれほど巨人であったかは、彼の寝台を見ればわかります。この「寝台」がベッドのことなのか、棺を指しているのかはっきりわかりませんが、いずれにせよ、彼の寝台は鉄製で、そのサイズは長さ9キュビト、幅4キュビトでした。1キュビトは約44cmですから、長さは約4m、幅は約1.7mとなります。そんなに大きなベッドに寝ていました。それほど大きかったのです。そんな大きな相手を倒すことができたのです。どうしてでしょうか。主が共におられたからです。敵がどれほど大きなものでも、私たちの主は全能なる方です。主にとって不可能なことは一つもありません。主が「恐れてはならない」、「その地を渡している」、「戦え」と言われるなら、そのみことばに従わなければなりません。そうすれば、必ず主が敵を打ち破ってくださいます。

 

2.この地の分割(12-22)

 

「この地を、私たちは、そのとき、占領した。アルノン川のほとりのアロエルの一部と、ギルアデの山地の半分と、その町々とを私はルベン人とガド人とに与えた。ギルアデの残りと、オグの王国であったバシャンの全土とは、マナセの半部族に与えた。それはアルゴブの全地域で、そのバシャンの全土はレファイムの国と呼ばれている。マナセの子ヤイルは、ゲシュル人とマアカ人との境界までのアルゴブの全地域を取り、自分の名にちなんで、バシャンをハボテ・ヤイルと名づけて、今日に至っている。マキルには私はギルアデを与えた。 ルベン人とガド人には、ギルアデからアルノン川の、国境にあたる川の真中まで、またアモン人の国境ヤボク川までを与えた。またアラバをも与えた。それはヨルダンを境界として、キネレテからアラバの海、すなわち、東のほうのピスガの傾斜地のふもとにある塩の海までであった。 私はそのとき、あなたがたに命じて言った。「あなたがたの神、主は、あなたがたがこの地を所有するように、あなたがたに与えられた。しかし、勇士たちはみな武装して、同族、イスラエル人の先に立って渡って行かなければならない。ただし、あなたがたの妻と子どもと家畜は、私が与えた町々にとどまっていてもよい。私はあなたがたが家畜を多く持っているのを知っている。主があなたがたと同じように、あなたがたの同族に安住の地を与え、彼らもまた、ヨルダンの向こうで、あなたがたの神、主が与えようとしておられる地を所有するようになったなら、そのとき、あなたがたは、おのおの私が与えた自分の所有地に帰ることができる。」 私は、そのとき、ヨシュアに命じて言った。「あなたは、あなたがたの神、主が、これらふたりの王になさったすべてのことをその目で見た。主はあなたがたがこれから渡って行くすべての国々にも、同じようにされる。彼らを恐れてはならない。あなたがたのために戦われるのはあなたがたの神、主であるからだ。」

 

モーセは占領した地、すなわち、ヨルダン川の東側の地を、ルベン人とガド人、そしてマナセの半部族とに与えました。それは、彼らがモーセにその地を割り当ててほしいと願い出たからです(民数記32章)。その地は家畜に適した地だったので、家畜を多く所有していた彼らは、何とかその地を自分たちの所有の地として与えてほしかったのです。しかし、それは神のみこころではありませんでした。神のみこころは、ヨルダンの西側のカナンの地を占領することでした。そのようにしてその地にとどまることは神のみこころではないだけでなく、そうした彼らの行為はイスラエル人の意気をくじくもので、かつて彼らがカデシュ・バルネアで失敗を繰り返すことでした。

そこでモーセは、彼らがイスラエル人の先に立って渡って行き、主が与えようとしておられる地を占領し、その地を所有するようになったら、モーセが与えたその地を所有することができると言いました。

 

これはどういうことなのでしょうか。神は決して強要されることはしないということです。彼らが行きたくないというのなら、行かなくても構わないのです。信仰生活において神を知ることや、神に仕えること、聖書を学ぶこと、教会で奉仕すること、そういった霊的なことにおいてそれ以上求めなければ、それ以上はお求めにならないのです。あなたがもっと先へ行きたい、もっと深く知りたい、もっと主に仕えたいと願わない限り、神はあなたを強要して先へ向かわせるようなことはしないのです。あなたが望まない限りは一歩もあなたを強制的に前へ進ませることはなさらないのです。逆に言うなら、望みさえすれば、いくらでもあなたを先へ進ませてくださるということです。もっと豊かな土地へ、もっと祝福の人生へと進ませてくださるのです。マタイの福音書7章7節に、「求めなさい。そうすれば、与えられます。」とあるように、求めなければ、与えられることはないのです。そこで止まってしまのです。ただ兄弟姉妹が戦っているのを見て、傍観していてはなりません。サポートすべき時はサポートし、それは祈りをし、物質的な援助をもって、最前線で戦っている人たちをサポートしなければなりません。それが神の望まれていることなのです。

 

またモーセは、ヨシュアに対しても、彼を励ますことを忘れませんでした。モーセは彼に、主がこれらふたりの王になさったすべてのことを、これからわたって行くすべての国々にも同じようにされると宣言し、彼らを恐れてはならない、と命じました。

 

3.モーセの祈り(23-29)

 

「私は、そのとき、主に懇願して言った。「神、主よ。あなたの偉大さと、あなたの力強い御手とを、あなたはこのしもべに示し始められました。あなたのわざ、あなたの力あるわざのようなことのできる神が、天、あるいは地にあるでしょうか。どうか、私に、渡って行って、ヨルダンの向こうにある良い地、あの良い山地、およびレバノンを見させてください。」 しかし主は、あなたがたのために私を怒り、私の願いを聞き入れてくださらなかった。そして主は私に言われた。「もう十分だ。このことについては、もう二度とわたしに言ってはならない。ピスガの頂に登って、目を上げて西、北、南、東を見よ。あなたのその目でよく見よ。あなたはこのヨルダンを渡ることができないからだ。ヨシュアに命じ、彼を力づけ、彼を励ませ。彼はこの民の先に立って渡って行き、あなたの見るあの地を彼らに受け継がせるであろう。」こうして私たちはベテ・ペオルの近くの谷にとどまっていた。」

 

 そのときモーセは主に懇願して言いました。モーセがヨルダン川を渡って行って、ヨルダンの向こうにある良い地を見させてください、と。モーセはなぜこのようなことを懇願したのでしょうか。それは彼もぜひとも見たかったからでしょう。そこでイスラエルを励まし、彼らがしっかりと神にとどまるように導きたかったのだと思います。

 

 しかし主の答えはノーでした。主はモーセに怒り、彼の願いを聞き入れてくださいませんでした。なぜでしょうか。神の命令に従わなかったからです。岩を一度だけ打つように命じられていたのに、イスラエルの民に対する怒りと憤りを抑えることができず、二度も打ってしまいました。モーセは偉大な指導者でしたが、彼にも弱さがありました。彼は自分の感情に従ってブチ切れてしまったのです。それで彼も約束の地に入ることはできないと告げられたのです。

 

そして主はモーセに言われた。「もう十分だ。このことについては、もう二度とわたしに言ってはならない。ピスガの頂に登って、目を上げて西、北、南、東を見よ。あなたのその目でよく見よ。あなたはこのヨルダンを渡ることができないからだ。ヨシュアに命じ、彼を力づけ、彼を励ませ。彼はこの民の先に立って渡って行き、あなたの見るあの地を彼らに受け継がせるであろう。」

 

どういうことでしょうか。ここに二つの霊的真理が教えられています。一つは、イスラエルの民を約束の地に導いたのはモーセではなくヨシュアであったということです。ヨシュアという名前は「主は救い」です。ギリシャではイエスです。つまり、イスラエルを約束の地に導くことができるのは律法ではなく、イエス・キリストであるということです。モーセは律法を表していましたが、イスラエルを約束の地に導くことができたのは律法ではなく神の救い、イエス・キリストでした。確かに律法にも大切な役割がありました。それは神の下へと導く養育係りであるということです。律法を守ろうとすればするほど守れない自分に気付き、神の救いを求めるようになります。まさに律法はそのために与えられたものであって、律法そのものが人を救うことはできないのです。

 

もう一つのことは、確かにモーセは約束の地に入ることはできませんでしたが、そんなモーセに神様はビジョンを与えてくださったことです。モーセが主に、あの良い地を見させてくださいと懇願すると、主は怒って、それを聞き入れてくださいませんでした。しかし、主は彼をピスガの頂に立たせて、こう言われました。「目を上げて西、北、南、東を見よ。あなたのその目でよく見よ。あなたはこのヨルダンを渡ることができないからだ。」

このことはモーセにとってどれほど大きな慰めであったことでしょう。そのことによって彼はその地がどういうところかを知ることができました。また、自分が導いてきたイスラエルがそこに入って行くこともイメージすることができたでしょう。それまでは、その地に入って行くことができないという主のことばにただがっかりして、ただ後悔していただけでした。自分のミスによることだけど、自分が蒔いた種だから仕方ないけど、本当に残念だ。しかし、神はそのモーセをあわれみ、励まし、このビジョンを与えてくだせさったのです。それでモーセは励ましを受けることができました。

 

私たちも自分の失敗に悩み、落ち込むことがあります。どうしてあの時あんなことをしてしまったのだろう、神のみことばに従っていればこんなことにはならなかった、自分が思い描いた人生ではなかった、やりたいこと、願っていたことができなかった、自分のプランがすべて水泡に帰してしまった、目の前の扉がすべて閉ざされてしまったと、落ち込むことがあります。しかし、あなたがピスガの頂に登り、そこで主と交わり、主からビジョンを見せていただくなら、あなたも励ましと、慰めと、希望を持つことができるのです。

 

箴言29章18節には、「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。しかし律法を守る者は幸いである。」とあります。

幻がなければ、私たちはほしいままにふるまってしまいます。つまり、滅びてしまうことになります。自分の罪を悲しみ、落ち込んでいるとき、その救いを見て、その方から幻が与えられることによって、あなたは勇気を持つことができるのです。励ましを受けることができます。それがピスガの頂での体験です。神は過去のことで悩み、苦しみ、落ち込んでいるあなたにみことばを与え、ビジョンを示し、喜びと平安と希望を与えてくださるのです。ヨルダン川を渡ることはできませんでしたが、それよりももっとすばらしいかの地へと導いてくださるのです。

 

 ところで、モーセは約束の地に入ることができませんでしたが、彼は天国に入ることができたのでしょうか。マタイの福音書17章を見ると、イエスがペテロとヨハネとヤコブの3人の弟子を連れて非常に高い山に行ったとき、そこで御姿が変わったという出来事がありました。御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなりました。これは神としてのキリストの姿です。キリストが本来どのような方であられるのかを、この時彼らに示されたのです。そして、この時モーセとエリヤが現れて何やらイエスと話し合っていたとあります。それはまさに天国の光景でした。ですから、モーセは天国に入れられていたのです。彼の肉体はヨルダン川の手前で滅びましたが、彼の霊は天の御国に入れられたのです。モーセが見たビジョンは、まさにこの天国のビジョンだったのです。

 

 それと同じように、私たちもこの地上はいろいろな失敗があり、神のみこころを損ねて、約束の地に入れないことがあり、そのことで非常に落ち込むことがあるのですが、神はあなたをピスガの頂に立たせ、このビジョンを示されるとき、あなたは慰めと励ましと希望を持つことができるのです。もう過去に縛られることはありません。神はあなたを招いてピスガの頂に立たせてくださいます。そこで喜び、平安、希望が与えられます。あなたはやがてその地に入れられるからです。

 

そして、このピスガの頂はどこにでもあります。神が落ち込んでいるあなたに声をかけてくださるところ、それがピスガの頂なのです。そこであなたは神の声を聞くとこができるのです。落ち込んでいる心に語りかけてくださいます。そのときあなたは本当の励ましを体験することができるのです。神はあなたにも「ここに来なさい、ここに上りなさい」と招いておられます。それは、ある人にとっては静かな人気のない所かもしれません。ある人は自分の部屋に、ひとりだけになっている時かもしれません。ある人は車の中かもしれません。ある人はトイレの中かもしれません。いずれにせよ、静かなところで神様と1対1になって、神の声を聞くところ、それがあなたにとってのピスガの頂です。神様があなたに何かを必ず示してくださいます。これから先どういう展開になるのかを。そしてあなたは励まされるはずです。ですから、あなたもピスガの頂に登り、そこで神の声を聞いてください。神が与えてくださる約束の地を見てください。そこで神と語らい、神からの励ましを受けて、神のビジョンに向かって一歩を踏み出していただきたいと思います。

ヘブル4章1~13節 「神の安息は残されている」

 きょうは、ヘブル4章のみことばから、「神の安息は残されている」というタイトルでお話します。 

 現代は忙しさと不安の時代です。「忙しいですか」という言葉が挨拶になっているくらいです。もしも「いや、そんなに忙しくもないですよ」と答えようものなら、「この人は何をしているのだろう」という目で見られ、落ちこぼれではないかと思われかねません。しかし、「忙しい」という字は「心が亡びる」と書くように、それは滅びへの道を邁進しているとも限らないのです。もちろん、毎日忙しい生活を送りながらも充実した日々を送っている人もいますが、そうした忙しさの陰にあって、心のどこかで不安を隠すことができないというのも事実です。こんなに一生懸命に仕事をしているのにリストラにされたらどうしよう。その先どうやって生活していったらいいのか。家族はどうなってしまうのだろう。リストラに遭わなくても病気になって働けなくなるかもしれないし、そしたら自分はどうなってしまうのだろうか、といった不安もあります。要するに現代は先が見えない時代なのです。だからみんな不安を感じているのです。このような忙しさと不安の時代にあっても、身も心も休まるような安息が与えられるとしたらどんなに幸いなことでしょうか。きょうは、この安息について三つのことをお話したいと思います。 

 Ⅰ.聞いたみことばを、信仰によって、結びつける(1-3a) 

 まず1節から3節までをご覧ください。1節には、「こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。」とあります。 

 「こういうわけで」とは、どういうわけで、でしょうか。これは3章の後半で語られていたことを受けてのことです。そこには、荒野でのイスラエルの不信仰について語られていました。彼らは何度も何度も神のみわざを見て、神の恵みを体験したにもかかわらず、ちょっとでも自分たちの状況が悪くなると、すぐにモーセにつぶやきました。その結果、カデシュ・バルネアというところで決定的なことが起こりました。それは3節にあるように、神が彼らに、「決してわたしの安息に入らせない。」と言われたのです。それは、彼らが神を信じなかったからです。神は彼らに、「上って行って、占領せよ。」と命じられたのに、それに従いませんでした。その地を偵察するために12人の偵察隊を遣わすと、その内の10人が否定的な報告をもたらしました。それを聞いた彼らは、上って行くことはできないと結論してモーセにつぶやいたのです。それで神は怒られ、「彼らの先祖たちに誓った地を見ることはできない」と宣言されたのです。その結果、彼らは荒野で滅びてしまいました。約束の地に入ることができなかったのです。ただ最後まで従い通したヨシュアとカレブだけが入ることができました「そういうわけで」です。

そういうわけで、神の安息はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないことがないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか、というのです。どういうことでしょうか。ここでこの手紙の著者は、モーセの時代のイスラエルの不信仰を例に取り上げて、キリストによって成し遂げられた救いのみわざを信じないで真の安息に入れないというようなことがないように、この救いのみわざにしっかりとどまろうと勧めているのです。 

ご存知のように、この手紙はユダヤ人クリスチャンに宛てて書かれました。彼らの中には激しい迫害のゆえにモーセの律法を中心としたかつての生活に逆戻りしようとする人たちがいました。しかし、モーセの時代でも不信仰によって神が約束してくださった安息に入ることができなかったのであれば、ましてやモーセよりも偉大なイエス・キリストによってもたらされた救いのみわざを信じなければ真の安息に入ることはできないのだから、万が一にもそういうことがないように、この救いのみわざにしっかりとどまろうと励ましているのです。すなわち、モーセの時代の神の安息の話から、キリストによってもたらされた真の安息の話へと話題を展開しているのです。皆さん、いったいどこに本当の安息があるのでしょうか。イエスはこう言われました。 

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

 本当の安息はイエス・キリストにあります。あなたがキリストのもとに行くなら、あなたはたましいにやすらぎを得ることができます。なぜなら、あなたの罪が赦されるからです。罪が赦されると神との平和が回復するので、あなたの心の深い部分に神の平安がもたらされるのです。これが真の安息です。私たちは肉体が疲れたら休まなければなりません。休まないで働き続けるとどうなりますか。必ずガタがきます。知らず知らずのうちに疲れが蓄積されて身体に変調をきたすようになるのです。だから疲れたら休まなければなりません。それは私たちの心も同じです。私たちの心にも休息が必要なのです。いったいどこで休息を得ることができるのでしょうか。心が疲れているとき、どんなにリポビタンDを飲んでも解決にはなりません。心が疲れたときはキリストのもとに行かなければなりません。キリストのもとに行くならたましいにやすらぎを得ることができます。それはこの地上の表面的で一時的なやすらぎとは違います。世の波風が吹き荒れても決して動じない天国の安息です。私たちはこの地上でその前味を味わう時がありますが、やがて天に行く時その完全な安息を味わうことでしょう。この安息があなたのためにまだ残されているのですから、万が一にもこれに入れないことがないように注意しなければなりません。 

 ではどうしたらこの安息に入ることができるのでしょうか。2節と3節前半をご覧ください。

「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。「信じた私たちは安息にはいるのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。」 

「福音」とは「良い知らせ」のことです。モーセの時代の良き知らせとは何だったのでしょうか。それは、神の約束の地に入ることでした。彼らはそれまでずっとエジプトの奴隷でしたが、そこから解放されて乳と蜜の流れる地へ入れられるとの約束が与えられました。それが彼らにとっての良い知らせだったのです。それと同じように、私たちも良い知らせを聞きました。どんな知らせですか。神の御子イエス・キリストの十字架の贖いによって罪の奴隷から解放され、天の御国に入れていただけるという知らせです。私たちが何かをしたからでなく、またできるからというわけでもなく、何もできない私たちを神は愛して下さり、私たちのために御子イエス・キリストをこの世に遣わし、この方が私の罪のために死んでくださり三日目によみがえられたことによって、その名を信じる者に罪の赦しと永遠のいのちが与えられるという知らせです。これはグッド・ニュースではないでしょうか。 

けれども、どんなに良い知らせを聞いても、その聞いたことばを、信仰によって結びつけることがなければ全く無意味です。モーセの時代のイスラエルの人々はそうでした。彼らはエジプトから救われて神が約束した地に導いてくださるということばを聞いたのに、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。なぜ?それを聞いた人たちに、信仰によって、結び付けられなかったからです。 

皆さん、神のみことばを聞くことは大切なことですが、聞いても信じなければ意味がありません。イエスは種まきのたとえ話の中でこう教えられました。

「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。 蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。 しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。 また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。 別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。耳のある者は聞きなさい。」(マタイ13:3~9) 

 種とは、神のことばのことです。農夫が種を蒔いたら四つの地に落ちました。道ばた、岩地、いばら、良い地です。道ばたに落ちた種はどうなったでしょうか。鳥が来て食べてしまいました。それはみことばを聞くとすぐにサタンがやって来てみことばを奪って行くので、実を結ぶことができない人のことです。                                        岩地に落ちた種はどうなったでしょうか。岩地に落ちた種は、土が柔らかく温かかったのですぐに芽を出しましたが、日が上ると焼けて、すぐに枯れてしまいました。根がなかったからです。これは、みことばを聞くとすぐに喜んで受け入れますが、根を張っていないので、しばらくの間そうしているだけで、困難や迫害があるとすぐにつまずいてしまい、実を結ぶことができない人のことです。   いばらの中に蒔かれた種はどうなったでしょうか。いばらが伸びて、ふさいでしまうので、実を結ぶことができませんでした。これはみことばを聞いて成長しますが、この世の心遣いや富の惑わしといったものでみことばが塞がれるため実を結ぶことができない人のことです。いい線までは行くのですが、そうしたいばらによって首が絞められるため実を結ぶことができないのです。          しかし、良い地に蒔かれた種は、30倍、60倍、100倍の実を結びました。これは、神のみことばを聞いて、それを悟人のことです。すなわち、神のことばを聞いて、それを信仰によって、結び付ける人のことです。そういう人は何倍もの実を結ぶのです。 

三恵(さんね)という言葉があります。聞恵(もんえ)、思恵(しえ)、そして修恵(しゅえ)です。聞恵(もんえ)とは、見たり、聞いたりするだけの知恵(知識・情報)です。思恵(しえ)とは、その見たり、聞いたりしたことを心の中で思い巡らし、「ああ、わかった」と悟ることです。でも、まだ体で受け取るまでにはいっていません。そして、修恵(しゅえ)とは、見たこと、聞いたことを思い巡らして悟り、その学んだことを実際の生活の中に生かしていくことです。神の言葉を信仰によって結びつけるとは、神の言葉をただ聞くだけでなく、また、そのことを思い巡らすだけでもなく、それをしっかりと心に結び付け実際の生活に生かす。      信仰の実を結ぶ原則は実にシンプルです。すなわち、神のみことばを聞き、それを心に結び付けることです。みことばを聞いて信じるなら実を結びますが、聞いても信じなければ、実を結ぶことはできません。実に単純なことです。 

 あるひとりの少女が言いました。「あたし、天国に行くとき、あたしの聖書を持っていくわ」。「どうしてなの」と尋ねると、その少女はこう答えました。「もしイエスさまが、あたしにどうして天国なんかに来たかって言ったら、マタイの福音書11章を開いて、「だって、わたしのところに来なさいとおっしゃったではありませんか」と言うのよ。」                    なんと単純な信仰でしょう。信じた私たちは安息に入るのです。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。」と言われる主のことばを信じて、単純に罪を悔い改め、イエスさまのもとに行こうではありませんか。 

 Ⅱ.神の安息はまだ残されている(3b~10) 

 次に、3節後半から10節までをご覧ください。

「みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と言われました。そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と言われたのです。こういうわけで、その安息にはいる人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえにはいれなかったのですから、神は再びある日を「きょう。」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。」

これはどういうことでしょうか。3節と4節の、「みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。というのは、神は七日目について、ある箇所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた」と言われました。」というのは、創世記2章2節のみことばからの引用です。神はこの天地万物を造られたとき六日間で造られ、七日目には、なさっていたすべてのわざを休まれました。この「休まれた」というのは、すべてが完成したとか、終わったという意味です。私たちは六日間働くと疲れて七日目に休みますが、神は私たちのように疲れることはありません。ですから、そういう意味で休まれたのではないのです。六日間ですべてのものを造られ、完成したという意味です。もう何も付け加えるものはありません。人が住むための最高の環境が備えられたので、「それは非常に良かった」と言われたのです。満足されたわけです。ところが、その満足が破壊される出来事が起こりました。それは人間の罪です。神が、食べてはならないと命じられていた木から取って食べてしまったので、その神との平和が断たれてしまったのです。断絶したのです。                                                        しかし、それでも神はあきらめませんでした。神はあわれみ深い方なので、その壊れた関係を修復し本来の関係に回復しようと、救い主をお遣わしになったのですが、それが主イエス・キリストです。イエス・キリストは私たちを罪から救うために十字架にかかって死なれ、三日目によみがえってくださいました。それによって私たちの罪の贖いを完成してくださったのです。それでイエス・キリストを信じる者には、元々あった神との平和な関係、神の安息、永遠のいのちが与えられるようになりました。ですから、イエスは十字架の上でこのように叫ばれたのです。                                             「完了した」(ヨハネ19:30)                                            罪のための贖いは完了しました。これに付け加えるものは何もありません。イエスがあなたの罪のために十字架にかかって死んでくださったので、あなたが罪のために支払わなければならない代価はすべて完全に支払われました。あなたはこのイエスによって罪から解放されたのです。                                                     この罪の赦し、永遠のいのち、天の御国の安息に入るために、旧約聖書ではそのひな型を示し、神を信じるようにとずっと勧められてきましたが、その一つが神の約束の地カナンであり、神殿の至聖所であったわけです。                    それらはこのキリストによる神の安息、天国のひな型だったのです。 

 しかし、モーセの時代、イスラエルは不信仰だったので、この安息に入ることができませんでした。それが5節と6節に書かれてあることです。モーセの時代、彼らは不信仰だったので、神は、「決して彼らをわたしの安息に入らせない」と言われたのです。そして、「その安息に入る人々がまだ残っており」とも言われました。これはどういうことかというと、この安息がまだ残されているということです。もしモーセの時代に安息が終わっていたのであれば、「決して彼らをわたしの安息に入らせない」とか、「その安息に入る人々がまだ残っている」とは言わなかったでしょう。神の創造のわざは完成しましたが、罪によって失われた安息を回復することができるように、神は今もその働きを続けておられるということなのです。 

 それは7節を見てもわかります。ここにはモーセの時代よりもずっと後のダビデの時代のことが言及されています。神はダビデを通しても、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない」と言われました。それは、ダビデの時代にも安息に入る人たちが残っていたということです。つまり、モーセの時代も、ダビデの時代にも、神はご自分の安息の中に人々を入れるように招き続けておられたということなのです。つまり、神の安息はまだ残されているということです。その安息こそキリストによってもたらされた神の国、永遠のいのちのことだったのです。 

神の創造のわざは終わっていますが、神の安息はまだ残されています。最初の人が罪を犯したことで神との関係が損なわれてしまいましたが、神はその壊れた関係を修復し、私たちがこの安息に入るようにと今に至るまでずっと働いておられるのです。この安息はあなたのために、神の民のためにまだ残っているのです。いったいどうしたらこの安息に入ることができるのでしょうか。 

 Ⅲ.神のみことばには力がある(11-13) 

ですから、最後に11節から13節までをご一緒に読みたいと思います。

「ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」 

 ですから、この手紙の著者はこう勧めるのです。「ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。」

ここには、「この安息に入るように力を尽くして努め・・・」とありますが、休息と努力とは全く反対のように思えます。しかし、真の安息とは、何もしないで手ぶらで遊んでいて与えられるものでありません。むしろ、すべてを造られ、すべてを支配しておられる神を知り、その神が遣わされた救い主を信じ、その中にしっかりととどまっていることによってこそ得られるものなのです。この手紙の受取人であったユダヤ人クリスチャンたちは、さまざまな教えの波にもて遊ばれて、中にはキリストの福音から離れて行く人たちもいました。それでは神の安息に入ることはできません。神の安息に入るためには、聞いたみことばにしっかりととどまっていなければならないのです。あのイスラエルの不従順のように、落伍する者がないように、力を尽くして努力しなければならないのです。 

それは私たちも同じです。私たちも聞いたみことばを受け入れて、それを心に結び付け、しっかりとそこにとどまっていなければなりません。私たちは時々、もっと努力をしなければ救われないのではないかと焦ることがあります。神のためにもっと奉仕をしなければならないのではないか、もっと献金をしなければならないのではないかといった思いにかられることがありますが、そうした人間の努力によっては救われることはありません。私たちが救われるのはただ神の恵みによるのであって、神がしてくださった十字架のみわざを信じることによってのみなのです。私たちが良いことをするのは救われるためではなく、救われたからです。神がこんな者をも愛して救ってくださったので、その恵みに応答したいからであって、そうでないとだんだんと疲れてくるのです。私たちはいつもいろいろな教えを聞きますが、そうした教えに押し流されないように、しっかりと神の恵みに、信仰にとどまっていなければなりません。 

その恵みにとどまらせるものは何でしょうか。この安息に入るために、信仰にとどまらせてくれるものは何でしょうか。それが神のみことばです。なぜなら、神のみことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができるからです。神は造られたすべてのものを完全にご存知であられ、心の奥底まで探り極められる方です。神はみことばによって私たちの心を探り、なにが良いことで完全なものであるかを示してくださるのです。 

この神のみことばがあなたを救います。このみことばが聖霊を通してあなたに働かれるとき、あなたは罪について、さばきについて、救いについて悟り、イエス・キリストを救い主として信じることができるようになるのです。なぜなら、聖霊によらなければ、だれもイエスを主と告白することはできないからです。 

「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(Ⅰコリント1:18)

この十字架の神のことばは、私たちに永遠のいのち、神の安息へと導いてくれます。私たちの人生の良し悪しを最終的に決めるものは何ですか。それは私たちの将来がどうであるかということです。今がどんなに良くても将来が永遠の滅びであったとしたら、何の意味もありません。しかし、キリストの福音は、あなたに輝かしい将来を約束しています。それは永遠のいのちです。福音は私たちに現在の救いを与えるばかりではなく、永遠のいのちを与えてくれるのです。 

ある船頭さんがひとりの物知り博士を乗せて、夜、小さな船で海を渡っていました。しばらくして、その物知り博士が船頭に言いました。                                                         「きみ、きみは天文学のことを知っているかね?」                                      「いや先生、私はいっこうに天文学のことは知りません」船頭がそう答えると、                                                      「きみ、あのね、太陽系以外で一番近い星でも地球からは6兆マイルも離れているんだよ。きみ、天文学のことを知らなければ人生を半分知らないと言ってもいいよ」                                                   しばらくするとまた、その物知り博士は船頭に言いました。                                         「きみ、きみはいつでも海の上を渡っているけれども、この海のことを知っているかね?」                                船頭が「あまり専門的なことはしりません」と答えると、                                        「きみ、海のことを知らないようでは人生の半分は知らないんだよ、いまに人間はこの海の水からエネルギーを取るようになる」  などといろいろなことを偉そうに言っていました。                                         ところが、急に突風がやって来て、船の中に水が入り始めました。                                       そのとき船頭は、「先生、あなたは泳ぎを知っていますか?」と言うと、                                その物知り博士は、「いや、私は泳ぎを知らない」と答えました。するとその船頭が言いました。                             「先生、天文学を知っていても海洋学を知っていても、泳げなければオダブツですね。」

皆さん、私たちにどんなに知識があり、どんなに文化的な生活をしていても、私たちが永遠のいのちを持っていなければ、永遠の世界において生きるということを知っていなければ、ほんとうにオダブツなのですそのことを私たちに教えてくれるのが神のことばです。十字架のことばは滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です。

どうかこの神のことばを知ってください。神のことばを聞いて、幼子のように素直に信じてください。そうすれば、あなたはキリストにある永遠のいのちを得ることができるのです。神の安息はあなたのためにまだ残されているのです。この安息に入れるように、あなたもイエス・キリストを信じて救われてください。

申命記2章

きょうは、申命記2章から学びます。まず1節から8節までをご覧ください。 

Ⅰ.エサウの子孫に戦いをしかけてはならない(1-8) 

「それから、私たちは向きを変え、主が私に告げられたように、葦の海への道を荒野に向かって旅立って、その後、長らくセイル山のまわりを回っていた。主は私にこう仰せられた。「あなたがたは長らくこの山のまわりを回っていたが、北のほうに向かって行け。民に命じてこう言え。あなたがたは、セイルに住んでいるエサウの子孫、あなたがたの同族の領土内を通ろうとしている。彼らはあなたがたを恐れるであろう。あなたがたは、十分に注意せよ。 彼らに争いをしかけてはならない。わたしは彼らの地を、足の裏で踏むほども、あなたがたには与えない。わたしはエサウにセイル山を彼の所有地として与えたからである。食物は、彼らから金で買って食べ、水もまた、彼らから金で買って飲まなければならない。事実、あなたの神、主は、あなたのしたすべてのことを祝福し、あなたの、この広大な荒野の旅を見守ってくださったのだ。あなたの神、主は、この四十年の間あなたとともにおられ、あなたは、何一つ欠けたものはなかった。」それで私たちは、セイルに住むエサウの子孫である私たちの同族から離れ、アラバへの道から離れ、エラテからも、またエツヨン・ゲベルからも離れて進んで行った。そして、私たちはモアブの荒野への道を進んで行った。」 

カデシュ・バルネアでの出来事によって約束の地に入れないと宣告されたイスラエルの民は、再び荒野を放浪することになりました。セイル山の回りというのは死海とアカバ湾の間の地域のことです。彼らはそこをグルグルと38年間も回っていたのです。その時主は彼らに、「北のほうに向かって行け。」と仰せになられました。そこはエサウの子孫エドム人が住んでいた所ですが、彼らに争いをしかけてはならない、と命じられたのです。なぜでしょうか。それは、主がエサウにセイル山を彼の所有地として与えたからです。エサウはイスラエルの先祖アブラハムの子イサクの双子の兄弟で、彼らにとっては親戚にあたる民族です。神はヤコブを選ばれ、彼をイスラエルと改名して、彼から12の部族が誕生しました。それがイスラエルの起源です。けれども、エサウにも彼が所有する地を与えておられたのです。使徒17章26節に、「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全地に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。」とありますが、それはイスラエル民族だけではなく、すべての民族に対しても同じようにしてくださったのです。このことは神が愛しておられるのはご自分が選ばれ、ご自分の民とされたイスラエルだけではないということです。神はイスラエルに約束の地を与えてくださいましたが、エサウにも、他の民族にも同じように与えておられるのです。 

6節をご覧ください。食物は、彼らから金で買って食べ、水もまた、彼らから金で買って飲まなければなりませんでした。これはどういうことでしょうか。これまではどうであったかというと、食物は神が天からマナを降らせて養い、水は岩から流して与えてくださいました。しかし、これからは自分で食べ物も飲み物も得なければなりません。なぜなら、神は彼らに乳と蜜の流れる地へ導いてくださるからです。乳とは家畜の乳のことであり、家畜を飼うに適した地という意味です。また、蜜とは蜂蜜のことではなくくだものの蜜のことです。すなわち、そこは農耕にも適した地であるという意味です。神はそのようなすばらしい地を与えてくださるのですから、これからは自分で買って食べなければなりません。いつまでもマナが降るわけではありません。いつまでも岩から水が流れるわけではありません。神は必要な時には必ず与えてくださいますが、それはいつまでもそこに甘んじていてはならないのです。約束の地に導かれたなら、それが止むのです。ヨシュア5章11節と12節を見ると、彼らがカナンの地に入り、そこで過ぎ越しのいけにえをささげた翌日から、マナが降るのがやんだので、彼らはカナンの地で収穫したものを食べました。このように神はどのような状態でも、私たちを祝福して守ってくださるのです。それが7節で言われていることです。「あなたの神、主は、この四十年の間あなたとともにおられ、あなたは、何一つ欠けたものはなかった。」これはイスラエルがエドムを通る時も同じで、主は彼らが事欠くことがないと励ましてくださいました。主はなんとすばらしい方でしょうか。彼らが荒野を旅する時でも、彼らが一度も飢えることがないように、すべての必要を満たし続けてくださったのです。

それはイスラエルに対してだけではありません。私たちに対しても同じです。クリスチャンになって何年、何十年と辛いこと、苦しいことはありましたが、振り返ってみると、一度も事欠くようなことはありませんでした。主はすべての必要を満たし続けてくださいました。あれがない、これがないと言ったことはありましたが、それでもすべてを備えてくださいました。私たちの主はそのようにあわれみ深く、忠実な方なのです。 

Ⅱ.モアブに敵対してはならない(9-15) 

次に9節から15節までをご覧ください。

「主は私に仰せられた。「モアブに敵対してはならない。彼らに戦いをしかけてはならない。あなたには、その土地を所有地としては与えない。わたしはロトの子孫にアルを所有地として与えたからである。そこには以前、エミム人が住んでいた。強大な民で、数も多く、アナク人のように背が高かった。アナク人と同じく、彼らもレファイムであるとみなされていたが、モアブ人は彼らをエミム人と呼んでいた。ホリ人は、以前セイルに住んでいたが、エサウの子孫がこれを追い払い、これを根絶やしにして、彼らに代わって住んでいた。ちょうど、イスラエルが主の下さった所有の地に対してしたようにである。今、立ってゼレデ川を渡れ。」そこで私たちはゼレデ川を渡った。カデシュ・バルネアを出てからゼレデ川を渡るまでの期間は三十八年であった。それまでに、その世代の戦士たちはみな、宿営のうちから絶えてしまった。主が彼らについて誓われたとおりであった。まことに主の御手が彼らに下り、彼らをかき乱し、宿営のうちから絶やされた。」 

ここでは、「モアブに敵対してはならない」と言われています。なぜでしょうか。モアブはアブラハムの甥ロトが先祖だからです。ロトはソドムとゴモラを選び取りそこに住んでいましたが、あまりにも激しい堕落のゆえに神によって滅ぼされてしまいました。けれども、アブラハムの必死のとりなしによってロトとその家族は救出されたのですが、ロトの妻は後ろを振り返ってはならないと言われたにもかかわらず振り返ってしまったので、塩の柱になってしまいました。残されたロトの二人の娘はどうやって子孫を残すでしょうと考えた末、父親のロトと関係を持つことによって子供をもうけました。そのようにして生まれたのがモアブとアモンです。ですからモアブもイスラエルの親戚にあたる民族なので、彼らに敵対してはならないし、彼らに争いをしかけてはならないと言われているのです。 

ところで、そのモアブ人の住んでいたところにはかつてエミム人が住んでいましたが、このエミム人は強大な民で、数も多く、アナク人のように背が高かったのですが、彼らはそんなエミム人を追い払い、自分たちの領土にしていたのです。 

それはあのエサウの子孫が住んでいたセイルの地も同じです。そこにはかつてホリ人が住んでいましたが、彼らはこのホリ人を追い払い、根絶やしにして、そこを占領し住んでいたのです。 

何が言いいたいのかというと、エドム人やモアブ人は、そこに背が高いレファイムがいても、自分たちの手で勇敢に戦い、その地を攻め取ったということです。その一方でイスラエルはどうだったかというと、彼らは約束の地を前にして、そうした巨人たちがいるのを見て恐れおののき、戦おうとしませんでした。その結果、約束の地へ入ることができませんでした。 

これはどういうことでしょうか。神の民であるクリスチャンの中には、目の前にこうした巨人たちがいると尻込みして戦おうとしない人たちが多いということです。ちょっとでも辛いこと、苦しいこと、試練などがあると、「ああ、私はもうだめだ。」「私はなんてかわいそうな人間なんだろう」と悲観的になったり、自己憐憫に陥ってしまい、戦いを避けようとする傾向があります。でもモアブ人やエドム人はどうだったかというと、彼らは異教徒であったにもかかわらず勇敢に戦って、自分たちの手でその地を占領しました。これは全く逆ではないでしょうか。私たちには全能者である神がともにおられるのです。私は、私を強くしてくださる方によってどんなことでもできるのです、とあるのに、実際はできません、だめだと言って、戦おうとしないのです。ノンクリスチャンには神がいないので、自分でやるしかありません。自分を鼓舞して、自分の力を信じて、だめもとでチャレンジします。私たちはダメもとどころか、真の力の源であられる主イエスがともにおられるのです。それがみこころだったら、主が必ず与えてくださるはずです。主が真の解決者なのです。私たちこそ主の力を信じて、すべてを主にゆだねて、開拓して、パイノニアの精神で、切り開いていく者でなければなりません。Ⅰコリント10章13節にはこうあります。

「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」

 何が脱出の道ですか。イエスは言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちです。」ですから、イエスが道です。イエスが脱出の道です。私たちにはその道が与えられているのです。ですから、主が命じられることならば、恐れないで、チャレンジしていかなければなりません。 

「ゼレデ川」とは死海の南端に水が入っていく、モアブとエドムの国境にもなっている渓谷です。これからゼレデ川を渡ってモアブの地に入ります。カデシュ・バルネアからゼレデ川を渡るまでの期間は38年でした。エジプトを出たのはさらに1年数か月前のことでしたから、エジプトを出てから実に四十年かかりました。40年というのは一世代のことですから、この間にエジプトを出たときに二十歳以上であった人たちはみな荒野で死に絶えてしまいました。 

Ⅲ.アモン人に敵対してはならない(16-23) 

次に16節から23節までをご覧ください。

「戦士たちがみな、民のうちから絶えたとき、主は私に告げて仰せられた。「あなたは、きょう、モアブの領土、アルを通ろうとしている。それで、アモン人に近づくが、彼らに敵対してはならない。彼らに争いをしかけてはならない。あなたには、アモン人の地を所有地としては与えない。ロトの子孫に、それを所有地として与えているからである。・・そこもまたレファイムの国とみなされている。以前は、レファイムがそこに住んでいた。アモン人は、彼らをザムズミム人と呼んでいた。これは強大な民であって数も多く、アナク人のように背も高かった。主がこれを根絶やしにされたので、アモン人がこれを追い払い、彼らに代わって住んでいた。それは、セイルに住んでいるエサウの子孫のために、主が彼らの前からホリ人を根絶やしにされたのと同じである。それで彼らはホリ人を追い払い、彼らに代わって住みつき、今日に至っている。また、ガザ近郊の村々に住んでいたアビム人を、カフトルから出て来たカフトル人が根絶やしにして、これに代わって住みついた。・・」 

 ここには、ロトと彼のもう一人の娘との間に生まれたアモンの子孫のことについて、彼らに敵対してはならないと言われています。それは彼らがロトの子孫であり、彼らの親戚にあたる人たちだからです。アモン人もまたザムズミズ人という巨人、レファイムを打ち破り、その地を占領していました。それは強大な民であって数も多く、アナク人のように背が高かったが、主がこれを根絶やしにされたので、アモン人がこれを追い払い、彼らに代わって住んでいたのです。それはエサウの子孫やモアブの子孫たちと同じです。ちなみに、ここに「カフトル」から出てきた民のことが言及されていますが、これは地中海に浮かぶクレテ島のことです。これはペリシテ人のことです。彼らはクレテから始まる、地中海沿岸地域に住みつき、イスラエルの地ではガザ地区辺りに住んでいた民族でありますが、彼らはガザ近郊の村々に住んでいたアピム人を、根絶やしにして、代わりに住みついていました。 

ここでおもしろいことは、11節や12節でモアブやエサウの子孫たちがその地を占領した時の経緯と違い、ここには「主が」という言葉があることです。「主がこれを根絶やしにされたのです・・・」(21)、「主が彼らの前からホリ人を根絶やしにされたのと同じである。」これはどういうことでしょうか。これは、モアブやエサウの子孫たちが占領した時にも、主が働いておられたということです。主が働いておられたので、彼らもその地の住人を追い払うことができたのです。ノンクリスチャンの背後にも主が働いておられるのです。ノンクリスチャンは自分の手腕によって成功したかのように考えているかもしれませんが、そうではなく、その背後に主が働いておられ、主がその人に能力を与え成功に導いてくださったのです。ローマ1章21節を見ると、「それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。」とありますが、このことを認めず、神に感謝しないと、彼らの思いは暗くなってしまいます。このことをしなかったエドムも、モアブも、アモンも、今日は存在していません。彼らは神を神としてあがめなかったので滅びてしまったのです。それは今日も言えることで、ノンクリスチャンの背後にも神が働いておられるということを認め、神に感謝しなければ、その人もまた滅ぼされてしまうことになってしまいます。 

Ⅳ.ヘシュボンの王シホンと戦いを交えよ(24-37) 

最後に24節から37節までを見ておわります。

「立ち上がれ。出発せよ。アルノン川を渡れ。見よ。わたしはヘシュボンの王エモリ人シホンとその国とを、あなたの手に渡す。占領し始めよ。彼と戦いを交えよ。きょうから、わたしは全天下の国々の民に、あなたのことでおびえと恐れを臨ませる。彼らは、あなたのうわさを聞いて震え、あなたのことでわななこう。そこで私は、ケデモテの荒野から、ヘシュボンの王シホンに使者を送り、和平を申し込んで言った。「あなたの国を通らせてください。私は大路だけを通って、右にも左にも曲がりません。食物は金で私に売ってください。それを食べます。水も、金を取って私に与えてください。それを飲みます。徒歩で通らせてくださるだけでよいのです。セイルに住んでいるエサウの子孫や、アルに住んでいるモアブ人が、私にしたようにしてください。そうすれば、私はヨルダンを渡って、私たちの神、主が私たちに与えようとしておられる地に行けるのです。」しかし、ヘシュボンの王シホンは、私たちをどうしても通らせようとはしなかった。それは今日見るとおり、彼をあなたの手に渡すために、あなたの神、主が、彼を強気にし、その心をかたくなにされたからである。主は私に言われた。「見よ。わたしはシホンとその地とをあなたの手に渡し始めた。占領し始めよ。その地を所有せよ。」シホンとそのすべての民が、私たちを迎えて戦うため、ヤハツに出て来たとき、私たちの神、主は、彼を私たちの手に渡された。私たちは彼とその子らと、そのすべての民とを打ち殺した。そのとき、私たちは、彼のすべての町々を攻め取り、すべての町々・・男、女および子ども・・を聖絶して、ひとりの生存者も残さなかった。ただし、私たちが分捕った家畜と私たちが攻め取った町々で略奪した物とは別である。アルノン川の縁にあるアロエルおよび谷の中の町から、ギルアデに至るまで、私たちよりも強い町は一つもなかった。私たちの神、主が、それらをみな、私たちの手に渡されたのである。ただアモン人の地、ヤボク川の全岸と山地の町々には、私たちの神、主が命じられたとおりに、近寄らなかった。」 

これまで主は三度も「争うな」と命じておられましたが、ここでは「戦え」と命じておられます。アルノン川が、モアブの北の国境線になっており、そこを越えるとエモリ人シホンの国になります。それでモーセは、ケデモテの荒野から、ヘシュボンの王シホンに使者を送り、和平を申し込んで言いました。「あなたの国を通らせてください・・・」しかし、ヘシュボンの王は、どうしても通らせようとしなかったので、イスラエルは彼らと戦いを交え、その民のすべての民を滅ぼしました。 

ここには、興味深いいくつかのことが記されてあります。その一つは、主はモーセに戦いを交えよと言われたのに、モーセはまず和平を申し込んだことです。これは決してモーセが神の命令に逆らったということではありません。それは正しいことでした。神は正義に基づいて事を行われます。ですから、相手がこちらの要求に従う時には、わざわざ戦いを交える必要はないのです。和平ができれば、それに越したことはありません。だから、そのようなステップを踏みながら接していくことはとても重要なことなのです。しかし、主は相手がどのような態度を取るかということを前もって知っておられました。相手がかたくなになって、強気になって、戦いを挑んでくることを知っておられたので、戦いを交えよと言われたのであって、できるだけ平和的な解決を求めることは神の民にとってふさわしいことなのです。 

もう一つのことは、こうしたヘシュボンの王シホンの態度は、主がそのようにしておられたということです。20節を見ると、あなたの神、主が、彼を強気にし、その心をかたくなにされたからである、とあります。ヘシュボンの王シホンの心をかたくなにしたのは主ご自身でありました。なぜでしょうか。それは、主が彼をイスラエルに渡すためです。彼らがかたくなになり、強気になり、イスラエルと戦うことによって、主がイスラエルに勝利を与え、彼らをその手に渡すためでした。

これはエジプトの王パロも同じでした。かつてイスラエルがエジプトを出るときに、モーセがパロのところに行って、「民を出て行かせてください」と願い出ても、パロは心を強情にして出て行かせませんでした。それでどうしたかというと、主がエジプトと戦われました。神が勝利を表されるために、あえて相手の心をかたくなにすることがあるのです。 

これは私たちにも言えることです。これまで仲良くしていた人が急に手のひらをかえしたかのような行動をとる場合があります。あんなに丁寧に接していたのに、あんなにやさしく、親切にして、仲良かったのに、急に対立したり、対抗してくるようなことがあって、ショックになることがあるのです。いったいなんでそうなるのかどんなに考えてもわからないことがあるのです。

それを解決する鍵がここにあります。それは、主がそのことを許されたということです。すべてのことは神の御の中にあります。神が主権をもってコントロールしておられるのであって、私たちがわからないこともあるのです。私たちにとって必要なのは、その神の主権を認めることなのです。「あっ、これも神がゆるしておられることなんだ」「このことにもきっと何らかの神のご計画があるに違いない」と認めると、平安が与えられます。神は御座におられ、すべてをすべ治めておられます。シホンの王の心がかたくなになったのも主がゆるされたことであって、それで戦いを交えることがあったとしても、主が勝利を与えてくださり、主に栄光が帰されるということです。ですから、たとえ理解できなくてもすべてを主にゆだねて祈らなければなりません。

あの創世記に出て来たヨセフもそうでした。なぜそのようなことになったのかさっぱりわかりませんでしたが、主はそのような悪さえも善に変えてくださいました。それはヨセフがそこに主の御手があることを覚え、すべてを主にゆだねたからです。

それは私たちにも言えることです。私たちの人生にもなぜそのようなことが起こるのかさっぱりわからないことがありますが、その背後で主が働いておられ、主がそのように導いておられるのです。ということは、そのことさえも主の栄光のために用いられるということです。そのことがわかると安心します。私たちに必要なのは、そのような中でもただ主を待ち望むことなのです。 

それから34節に「聖絶」ということばが出てきます。それは主のためにすべてを滅ぼすことです。いったいなぜこのようなことが命じられているのでしょうか。そんなことをしたらかわいそうだ、そんなことを命じる神はおかしいと、このことでつまずく人もいますので、このことを正しく理解することは大切なことです。 

これは霊的には、聖霊によって肉の性質を徹底的に殺すことを意味しています。ローマ8章13節には、「もし肉に従って生きるのなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すのなら、あなたがたは生きるのです。」とあります。どうしたら生きるのでしょうか。御霊によって、からだの行いを殺すことによってです。そこには妥協は一切許されません。肉が働く機会を許さないように、徹底的に取り除かなければならないのです。ここでひとりの生存者も残さないように聖絶するようにと命じられているのは、そのためだったのです。私たちも信仰の戦いにおいて、こうした肉の働きに対しては聖絶することが求められているのです。こうしてエモリ人の地を占領しました。イスラエルは主が命じられたとおりに、エサウの子孫であるエドム人の地やロトの子孫であったモアブ人の地とアモン人の地には近寄りませんでしたが、エモリ人とは戦いを交えて勝利し、その地を聖絶したのです。