Ⅱテモテ4章6~8節 「走るべき道のりを走り終え」

きょうは、第二テモテ4章6~8節の箇所から、「走るべき道のりを走り終え」というタイトルでお話したいと思います。この手紙はパウロが書いた最後の手紙です。その最後のところでパウロがテモテに命じたことは、「みことばを宣べ伝えなさい」ということでした。「時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」そのようにして、自分の務めを全うしなければなりません。

きょうの箇所には、パウロがそれをどのように果たしたのかを語っています。きょうはこのパウロの生き方を通して、私たちも自分に与えられた務めを十分に果たしたいと思います。

Ⅰ.私が世を去る時(6)

まず6節をご覧ください。ご一緒に読みたいと思います。

「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。」

ここでパウロは現在、過去、未来の三つの観点から自分の生涯を振り返っています。まず現在です。パウロは自分が今置かれている状況をよく理解していました。それは、もうすぐ打ち首にされるということです。そのことを彼は、「今や注ぎの供え物となります」と表現しています。

「注ぎの供え物」という表現はあまり聞かない言葉ですが、これは旧約聖書の中で自分を神様にささげるときに使われた表現です。その時には動物のいけにえとともに、ぶどう酒による注ぎの供え物を祭壇に注ぎました。それは神への香りのささげものです。パウロはもうすぐ死ぬことが決まっていましたが、それはこの注ぎの供え物だと言っているのです。どういうことでしょうか。

ローマ人への手紙12章1節にはこうあります。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」ここには、「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」とあります。なぜでしょうか?「そういうわけですから」です。つまり、人はみな生まれながらに罪人であり、神の御怒りを受けるべき者でしたが、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいた私たちをキリストとともに生かしてくださったからです。神はこのキリストの上に私たちのすべての罪咎を負わせ十字架で死んでくださいました。そのことによって私たちのすべての罪を贖ってくださいました。だから、だれでもイエスを信じるなら救われるのです。それは私たちの行いによるのではありません。神からの賜物です。私たちは、この神の恵みのゆえに、信仰によって救われました。

「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:23,24)

そういうわけだからです。そのようにあなたは神の一方的な恵みによって罪から救い出されたのですから、あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなければならないのです。

パウロはそのように生きました。そのことを彼はガラテヤ書2章20節でこう言っています。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

彼は救い主イエス・キリストを信じたとき、古い自分に死に、キリストにあって生きると決めました。彼がこの世にあって生きているのは自分の喜びや満足のためではなく、自分を愛し、自分のために命までもお捨てになられた神の御子を信じる信仰によってでした。彼は自分のすべてを主に全くささげたのです。これ献身と言います。献身とはこのように神のために生かされていることを覚え、神にすべてをささげ、神のために生きることです。クリスチャンはみなそのように告白したはずです。献身こそ、私たちが神様に対してなすべき最も基本的な行為であり、最も大切な行為です。これがなかったら何も始まりませんし、何の変化も生まれてきません。私は神様によって贖われた者であり、神様のために生かされている者ですから、そのすべてはあなたのものであり、あなたにささげますという献身があるからこそ、私たちは神様のみこころにかなった歩みをすることができるのです。

アメリカの有名な伝道者D・L・ムーディは、ある時神の迫りを感じて、その献金皿が回ってきたとき、その上に、「D・L・ムーディ」と書いた紙切れを置いたと言われています。彼は、自分自身のすべてをささげたいという思いになったのでしょう。わたしのすべてをささげますと、そのように書いたのです。もう献金の皿の中に横になりたい気持ちだったのでしょう。私たちの献金袋は袋ですから、その中にもぐりこみたいという気持ちでしょうか。もぐりこむか、横になるかは別にしても、私たちのからだをささげるとはそういうことなのです。

パウロはそのように生きました。彼は自分の全生涯を神にささげたのです。そして今その生涯の最後の時を迎えようとしていました。そのように生きたパウロにとってふさわしい最後とはどのようなものだったのでしょうか。それは同じように注ぎの供え物となるということでした。彼にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益でした。彼の存在そのものが、香ばしい香としての神への注ぎの供え物だったのです。私たちもパウロのように、自分自身を神への注ぎの供え物としてささげ、神の栄光のために生き、また神の栄光のために死ぬ者でありたいと思います。

ところで、パウロは死をどのように受け止めていたのでしょうか。パウロはここで、「私が世を去る時はすでに来ました。」と言っています。この「去る」ということばは、農夫が一日の仕事を終えた牛やろばからくびきを外す時に使われた言葉です。一日の仕事を終えた牛さんに、「お疲れさん」と言ってそれから解放してあげる時に使われた言葉なのです。また、船が錨をあげて出航するときにも使われました。ともづなを「解く」という意味です。さらに、旅人がテントをたたんで次の目的地に向かう時にも使われました。テントのロープを緩めたり、解いたりする時に使われたのです。すなわち、パウロにとって世を去る時というのは、そうした労苦から解放され、主のみもとに凱旋すること、輝ける天の御国へ出発するときであると理解していたのです。

皆さんは「死」をどのように受け止めておられるでしょうか?一般的な日本人にとって死は悲しく不幸なものであり、忌むべきものです。なぜなら、すべてが終わってしまうからです。自分の存在が消えて無くなってしまうと思えばそれは悲しいことですが、パウロはそのようにはとらえていませんでした。パウロにとって死は肉体という地上のテントをたたんで、天にある家で永遠に住むために出発する時だったのです。だからそれは悲しいことではなく、むしろ喜びの時であり、感謝の時、希望の時だったのです。

皆さんはどうでしょうか。皆さんは死をどのように受け止めておられるでしょうか。これは100パーセント、だれもが経験することです。いわば私たちの生は死に向かって歩んでいるのです。その死に対する備えがなかったら、それほど恐ろしいことはないでしょう。なぜなら、私たちはそこで永遠を過ごすのですから・・・。そして、パウロはその死とは何なのかを、聖霊によってはっきり知っていました。それは永遠への入り口であるということを。救い主イエスを信じるものは、天国で永遠に過ごすのです。この地上のすべての労苦から解き放たれて自由になり、栄光の天の御国で神とともに永遠に生きるのです。それゆえに、死を恐れる必要はありません。たとえ死の陰の谷を歩くことがあっても、わざわいを恐れなくてもいいのです。

先日、Fさんが78歳のこの地上の生涯を終えて天に帰られました。召される2週間前に病室を訪問したとき、彼女は「死ぬのが怖い」と言われました。ずっと前から教会に来てはいましたがイエス様を信じるには至りませんでした。しかし、今年2月にお見舞いに行ったとき、「イエス様を信じてください」と勧めたら、「はい」と素直に信じて洗礼を受けました。あれから4か月、なかなかお会いすることができず久しぶりの再会となりましたが、そこでイエス様の約束の言葉を読みました。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)Fさんはこの言葉を信じました。すると翌週訪問したとき「どうですか」と尋ねると、「苦しいですが、平安はあります。」とお答えになられました。苦しいですが、平安があります。それは死に勝利されたイエス・キリストが与えてくださる天国の確かな希望だったのです。イエスを信じる人には、この平安と希望が与えられるのです。あなたもイエス様を信じてください。そして、苦しみの中にもある確かな平安をいただいていただきたいと思います。

Ⅱ.走るべき道のりを走り終え(7)

次にパウロの過去を振り返ってみたいと思います。7節をご覧ください。ここにはパウロの過去がどのようなものであったかが要約されています。「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」 彼は立派なボクサーのように信仰の戦いを勇敢に戦い、また、目標を目指して走るアスリートのように、走るべき道のりを走り終えました。

ピリピ3章13節と14節を見ると、そこにはこうあります。「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えていません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。」

これはテモテへの手紙が書かれる数年前に書かれたものですが、その時にはまだゴールしていませんでした。彼は、神の栄冠を目指して一心に走っていました。しかしここでは違います。ここでパウロは、「走るべき道のりを走り終えた」と言っています。また、信仰を守り通したとも言っています。これはただ単に自分の信仰を最後まで貫いたというよりも、ゆだねられた神のことばである福音を偽りの教師たちと戦って、最後までその真理を守り通したということです。

このようなパウロの確信は、何か凱歌のように私たちの胸に響いてきます。私たちもパウロのように凱歌の詩を歌いながら、永遠の御国に帰って行けるように、日ごとのわざに励もうではありませんか。信仰の生涯で最も難しいのはその終わり方です。始めることは易しいことですが、それを最後まで全うすることは並大抵のことではありません。いったいどうしたら最後まで信仰の戦いを戦い抜くことができるのでしょうか。

パウロは、「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです」と言いました。ここにその答えがあります。彼はキリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して走りました。彼は今自分を取り巻いている現実がどれほど困難なものであるのかを見ていませんでした。彼が見ていたのは、やがてもたらされる神の栄冠がどれほどすばらしいものであるのかを見て、それを目指して走ったのです。そういう期待感でいっぱいでした。だから今を乗り越えることができたのです。

これが現実の困難を乗り越える大きな鍵です。もし目の前の困難ばかりを見ていたら、その重圧に押しつぶされてしまうでしょう。しかし、その先にある栄光を見るなら、それがどんな困難であっても必ず耐えることができるのです

このことについてパウロはすでに2章でキリスト・イエスのりっぱな兵士のたとえをもって語りました。また、アスリートにもたらされる栄冠のたとえによっても語りました。そして、労苦した農夫にもたらされる収穫のたとえによっても語りました。「夕暮れには涙が宿っても朝明けには喜びの叫びがある」( 詩篇30:5)のです。この喜びに目をとめるべきです。そうすれば、信仰の戦いを勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、最後まで信仰を守り通すことができるのです。

Ⅲ.義の栄冠(8)

では、やがてもたらされる栄光とはどのようなものなのでしょうか。8節をご覧ください。

「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」

ここでパウロは、「今からは、義の栄冠が私のために用意されているのです。」と言っています。彼は、義の栄冠を受けることを確信していました。義の栄冠とは何でしょうか?それは、イエス・キリストを信じる者すべてに与えられる永遠のいのちことです。パウロの生きた時代、運動競技の勝利者には月桂樹の冠やオリーブの花輪が与えられましたが、それと同じように、イエス・キリストを信じ、最後までその信仰を守り通した人には「義の冠」が与えられるのです。これは先週お話したキリストのさばきとは違います。キリストのさばきとは、イエス・キリストを信じた者がこの地上で成したことに対する評価のことでしたが、この「義の冠」は、イエス・キリストを信じるすべての人にもたらされる栄光です。ヤコブ1章12節には「いのちの冠」と表現されていますが、それと同じものです。また、Ⅰペテロ5章4節には「しぼむことのない栄光の冠」とありますが、それとも同じものです。これはパウロだけでなく、彼と同じようにイエスを信じ、全身全霊をもってイエスに従い、イエス・キリストの再臨を待ち望んでいるすべての人にもたらされる栄冠です。私たちはやがてこの栄冠を受けるのです。

これはテモテにとってどれほど大きな励ましであったことでしょう。しかし、それはテモテばかりでなく、パウロと同じように最後まで信仰を守り通したすべての人に約束されていることです。やがて将来においてこのような義の栄冠が与えられるという約束は、今を生きる私たちにとって大きな力になるのです。

織田信長や豊臣秀吉に仕えたキリシタン大名、高山右近(1552~1615年)が年内にも、マザー・テレサらと並ぶカトリック教徒の崇敬の対象である「福者(ふくしゃ)」としてローマ法王庁から認定されることになりました。高山右近は12歳で洗礼を受け、高槻城主時代の領民のうち約7割がキリスト教徒だったとされます。秀吉の側近、黒田官兵衛らに入信を勧めるなど、布教活動にも熱心でした。しかし、秀吉からのキリスト教を棄てるようにとの命令を受けそれを拒否したことから地位や領地を失い国外追放となりましたが、それでも信仰を捨てませんでした。彼は、「信仰のため国を追われた殉教者」となったのです。それが評価されて福者として認定されることになったのですが、福者として認定されるかどうかは別にしても、彼にはそれにふさわしい義の冠が用意されていることでしょう。彼は走るべき道のりを走り終え、最後まで信仰を守り通したからです。

ベルギーのダミアン神父もそうでした。ダミアン神父は、ハワイのモロカイ島でハンセン病患者を救うためにその生涯をささげました。当時ハンセン病は不治の病で伝染性が強いとされていたので、患者は家族から引き離され、モロカイ島に送り込まれていました。絶望的な患者で満ちていたこの島は、悲惨な様相を呈していました。そこへダミアン神父が単身でやって来たのです。彼は患者の心の友となり、伝道者、医師、裁判官、測量士、葬儀屋、墓堀りとして働きました。16年間に千六百人もの人々を葬り、千個の棺を自分の手で作りました。初めは冷たい目で彼を見ていた人々も、次第にダミアンの愛と偉大さがわかってきて、彼のことばを聞くようになって行きました。晩年、彼もハンセン病になりました。1889年4月15日朝8時、ダミアンは48年のこの地上の生涯を終えて天に召されました。死に臨んだ彼のことばが記録されています。「何もかも、持てる限りを与え尽くした私は幸福者である。今は貧しくて死んでゆく。自分自身の物と名の付くものは何もない。ああ何と幸福なことであろう。」

皆さん、どう思いますか。この地上の生涯を終えるとき、「私は幸福者だ」と言える人は本当に幸いではないでしょうか。人がその人生の最期に語る言葉というのは、その人の生きざまをよく表していると思います。最後に何を語るのかは、その人がどのように生きてきたのかということと深い関係があるからです。ダミアン神父のように、そしてパウロのように、「何もかも、持てる限りを与え尽くした私は幸福者である」と言えるような、また、「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」と言えるような、そんな生涯を全うさせていただこうではありませんか。今からでも決して遅くはありません。あなたがイエス・キリストを信じて、走るべき信仰の道のりを走り終えるなら、あなたにも栄光の義の冠が用意されているのです。

Ⅱテモテ4章1~5節 「みことばを宣べ伝えなさい」

きょうは、テモテ第二の手紙4章前半の箇所から、「みことばを宣べ伝えなさい」というテーマでお話します。これはパウロから弟子のテモテに、いや信仰によるわが子テモテに宛てて書かれた手紙です。この時パウロはローマの地下牢に捕えられていて、もう打ち首になることが決まっていました。そんなパウロがエペソの教会の牧会で疲れ果てていたテモテを励ますためにこの手紙を書いたわけですが、その最後の部分となります。自分がこの世を去って行く前に、父親として息子に残しておきたかった言葉とはいったい何だったのでしょうか。最後のことばですからとても重みのある、重要な言葉です。聖霊に動かされて書いたパウロの最後の言葉に、ご一緒に耳を傾けていきたいと思います。

Ⅰ.みことばを宣べ伝えなさい(1-2)

まず1節と2節をご覧ください。

「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」

パウロがその生涯の終わりに、どうしてもテモテに伝えたかったことは、みことばを宣べ伝えなさいということでした。「みことばを宣べ伝える」とは、神のことば、キリストの救いのメッセージを人々に宣言し、伝達することです。この「宣べ伝える」ということばは、王がその国民に何らかの布告を出したとき、それを宣言し、伝達することを表すのに用いられました。ですから、「私はこう思います」とか、「私はこのように感じます」といった自分の意見や考えを述べることではなく、神が言われることをそのまま脚色なしで伝えることなのです。

なぜ、みことばを宣べ伝えなければならないのでしょうか。なぜなら、人は神のみことばによって救いに導かれるからです。そのことをパウロはすでに3章15節でこのように語りました。「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。」聖書は、あなたがキリストを信じるように、その救いに導いてくれるのです。

このことをペテロはこう言っています。Ⅰペテロ1章23~25節です。開いてみましょう。「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。「人はみな草の花のようで、その栄は、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」

あなたがたに伝えられた福音のことばがこれです。あなたが新しく生まれるのは、とこしえに変わることのない神のことばによってであるということです。このみことばによってあなたは救われるのです。だから、この救いのみことばを宣べ伝えなければなりません。

そればかりではありません。そのように救いに導かれた人が霊的に成長し、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためにでもあります。そのことをパウロは3章16~17節でこう言いました。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」

また、使徒の働き20章32節にはこうあります。「いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。」

何があなたがたを育成するのでしょうか。何がすべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのでしょうか。神のことばです。神のみことばはあなたがたを育成し、すべての聖なる人々の中にあって御国を継がせることができます。これ以外に私たちクリスチャンを霊的に成長させることはできません。だから私たちは神のことばを熱心に聞かなければならないのです。

ところで、第二テモテ4章に戻っていただきまして、1節を見ると、ここに、「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思って、私はおごそかに命じます。」とあります。どういうことでしょうか。何度も申し上げておりますように、この時パウロはローマの地下牢に捕えられていました。彼は自分がもうすぐこの世を去り、神の御前に出ることを知っていたのです。そして、キリストのさばきの座に出ることを知っていました。キリストのさばきの座とは何でしょうか?これは黙示録20章11節にある白い御座のさばき、すなわち、キリストを信じなかった者にくだされる最後の審判のことではありません。これは第二コリント5章10節にあるキリストのさばきの座のことです。ちょっと開いてみましょう。Ⅱコリント5章10節です。

「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」

ここに「キリストのさばきの座」という言葉が出てきます。私たちはみな、このキリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになります。それがいつなのかというと、キリストの現れの時です。これはイエス・キリストの再臨の日のことです。このとき、私たちクリスチャンがみなさばきを受けます。このさばきは、天国に行くのか、地獄に行くのかというさばきのことではありません。なぜなら、クリスチャンはみな天国に行くことが決まっているからです。イエス・キリストはこう言われました。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5:24)

ですから、あなたがイエス・キリストを信じているのなら、絶対に地獄に行くことはありません。もう死からいのちに移っているのです。必ず天国に行きます。

ここで言われているさばきとはキリストのさばきのことです。キリストが再臨するとき、クリスチャンはみな天に引き上げらます。まずキリストにあって死んだ人たちです。彼らは墓から出て栄光のからだによみがえり、キリストのもとに引き上げられるのです。次にキリストを信じて生き残っている人たちが、たちまち彼らと一緒に雲の中に引き上げられ、空中で主と会うのです。それがいつなのかはわかりません。それがいつなのかはわかりませんが、キリストが再臨される時キリストにあって死んだ人たちと生き残っている人たちはみな天に引き上げられ、空中で主イエスと会うのです。そのことを、ここでは「生きている人と死んだ人とをとばかれる」と表現されているのです。私たちはみな、キリストが再臨されるとき、そのさばきの座で、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に報いを受けるのです。ですからこの「さばきの座」というのは、その人が天国にふさわしいのか、地獄にふさわしいのかというさばきのことではなく、天国にふさわしい人が、与えられたその命や人生をどのように使ったのかを評価される時のことなのです。

皆さんは美人コンテストを見たことがありますか。あの美人コンテストに参加している人はみな美人です。あれは、美人かどうかを決めるコンテストではありません。みんな美人ですが、その中からその人の持っている特技とか内面性をアピールして、美人にふさわしい人を決めているコンテストなのです。この「キリストのさばきの座」もよく似ています。そこに集まっているのは、みんな「義人」です。みんに義とされた人たちなのです。ただそのクリスチャンたちが、与えられた永遠の命を、この地上でどのように使ったかのかを評価されるのです。

パウロはこのことを第一コリント3章で建物のたとえを用いてこう言っています。「与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」(Ⅰコリント3:10-15)

土台はキリストです。この土台であるキリストの上にどのように建てるかについては注意しなければなりません。もし、だれかがこの土台の上に、それぞれ金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするからです。どのように明らかになるのでしょうか。金、銀、宝石で建てるなら永遠に残りますが、木、草、わらなどで建てますと、それらは火によって燃えてしまいます。この材料の違いは、私たちが何かをする時の動機です。すなわち、神の栄光のためにしたのか、自分の名誉のためにしたのか。神を喜ばすためにしたのか、ただ自分が喜びたいからしたのか。その動機が問われているのです。クリスチャンとして神を信じてから天に帰るまで、この地上で何一つ神に喜ばれることをしたことがない人でも、イエス・キリストを信じたら必ず天国に行きます。アーメン。天使が大喜びであなたを天国に迎え入れてくれるでしょう。しかし、もし何もしなかったという人がいるとしたら、その人はちょうど家が火事になった時に 火の中をくぐるようにして助かるようなものです。家財道具はすべて焼け、着の身着のままに焼け出され、顔はすすだらけの状態になりです。でもその人は助かったのです。助かるのと助からないのでは雲泥のちがいです。天国と地獄はまったく違います。ですから、助かったということはそれだけでものすごい恵みなのです。どんな形でも天国に入ることができれば、その人は人生の成功者です。でも、そのようにして助け出されるよりも、無傷で助け出された方がいいに決まっています。ですから、金や銀、宝石といった火に燃えないもので家を建てる必要があるのです。

アメリカのリック・C・ハワードという人が「キリストの裁きの御座」という本を書きました。彼はこの本の最後の方に、ウィリアム・ブースという人が見た幻を紹介しています。ウィリアム・ブースという人は、イギリス人で、救世軍というクリスチャンの世界的な組織を建て上げた人です。救世軍は、世界の貧しい人々のために、あるいは身寄りのない子供たちのために、救いの手を伸ばそう、という主旨で始まった大きなグループです。彼は小さな時に、人と比べて、自分はかなり熱心なクリスチャンだと思っていました。毎週、日曜日の礼拝は欠かしたことがなく、毎朝聖書は読むし、祈るし、そして教会でもたくさんの奉仕をしているから、自分はもう十分に、立派なクリスチャンだと思っていたそうです。そんな時に、神は天国の幻を見せてくださいました。彼が天国に着くと、神の御座の回りで多くの人々が行進していく幻を見たそうです。神の軍隊のように、勝利の凱旋の行列のように、多くの人々が、目の前を通って行きました。その行進している人の顔を見たら、ほんとうに喜びと栄光に輝いていました。この人たちはずらしいクリスチャンだということが一目でわかり、この人たちと自分を比べた時に、もし自分が天国に着いたら、この義を行列にはふさわしくないと感じました。自分はこの人たちほど神を愛していないことに気がついたのです。がっかりしている時に、イエス様が彼のところにやって来て、こうおっしゃったそうです。

「地上に戻りなさい。私はおまえにもう一度チャンスを与えます。自分が、わたしの名にふさわしい者であることを証明してきなさい。おまえがわたしの聖霊を帯びていることを、行いによって、この世の人々に示してあげなさい。そして、わたしの代理者として、人々を救いに導きなさい。その勝利の戦いを済ませて、再び戻って来なさい。そうすれば、お前も、わたしが勝ち取ったこれらの者たちの行列の中に加えてあげよう。」

こうして彼は天国の幻から帰ってきました。そして、彼はその後、神のために一生懸命に働きました。

何度も言いますように、ただ、イエス様を信じるだけで救われます。救われて、天国に行くことができます。それは神の一方的な恵みなのです。そのために神は私たちには何の行いも要求されません。でも、「ただ自分が救われて良かった」「ああ自分の家族も救われて良かった。もうこれでいい。あとは天国に行くのを待とう」「罪も赦されたし、平安だし、問題もそんなにないし、あとは天国を楽しみにして待っていよう」といって座り込んでいるのではなく、やがてキリストが再臨され、そのさばきの座で正しくさばかれるその時に、神からの栄冠を受けるために、私たちはどうあるべきなのかを考え、そのように生きるべきだとチャレンジしているのです。そして、それにふさわしい生き方とはどのようなものなのでしょうか。それは、「みことばを宣べ伝えなさい。時がよくても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えずお家ながら、責め、戒め、また勧めなさい。」ということです。

これはテモテに対してばかりでなく、その後に続くすべてのクリスチャンにも命じられていることです。私たちは、みことばを宣べ伝えなければなりません。時がよくても悪くても、寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなければならないのです。

皆さん、今はどんな時ですか?良い時ですか?それとも悪い時でしょうか?テモテの時代は悪い時でした。外からはローマ皇帝ネロによる激しい迫害がありました。また、教会の内部にも違ったことを教えて混乱を引き起こす人たちもいました。みことばを宣べ伝えたくてもそれを妨げるさまざまな障害があったのです。しかし、そういう時でも、いやむしろそういう時だからこそ、しっかりとみことばを宣べ伝えなければなりません。なぜなら、みことばによって人は救いに導かれ、キリストが現れるその時に、神から正しい評価を受けることになるからです。そのみことばを伝えなければ、いったい人はどのようにしてそのことを知ることができるでしょうか。信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。その知らせを宣べ伝える人がいなければ、だれも聞くことができません。だからみことばを宣べ伝えなければなりません。時が良くても悪くても、寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなければならないのです。

Ⅱ.真理から耳をそむける時代(3-4)

なぜ、みことばを宣べ伝えなければならないのでしょうか。もう一つの理由が3節と4節にあります。

「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」

なぜ、みことばを宣べ伝えなければならないのでしょうか?積極的な意味では、それによって人々が救いに導かれ、霊的に成長していき、やがてキリストの現れの時に、正しくさばかれる神の御前で、その報いを受けるためですが、消極的な意味では、人々が健全な教えに耳を貸そうとしないからです。そういう時代がやって来ます。いや、もうすでにそのような時代が来ているのです。

このことについてパウロは前の章で、終わりの時代には、人々がどうなっていくのかについて語りました。その時に人々は「自分を愛する者」になります。世の終わりが近くなると、人々はまず自分を愛するようになるのです。神を愛するよりも自分を、隣人を愛するよりも自分を愛するようになるのです。不法がはびこるので愛が冷えてくるからです。牧師、伝道者が健全な教えを語っても、そういう話は聞きたくありません。なぜなら、そこには自分を捨てることが求められるからです。イエス様は「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マルコ8:34)と言われました。だれでもイエスについて行きたいと思うなら、自分を捨てことが求められます。もちろん、イエス様を信じたらその愛と恵みの大きさに感動し、喜んで自分を捨て神の道に従いたいと願うものですが、しかし、本質的に自己中心的な私たちは、このようなことを嫌がる傾向があるのです。健全な聖書の教えに耳をかしたくありません。そして、自分に都合の良いことを言ってもらう牧師や教師を次々に捜し歩き、自分たちのために寄せ集めるのです。すると真理ではなく、空想話にそれていくようになります。

だから、みことばを宣べ伝えなければなりません。そうした時代になっていくからこそ、真理のことばである神のことばをまっすぐに説き明かさなければならないのです。人がどう考え、どのように思い、何を言っているかではなく、神のことばである聖書は何と言っているのかを聞かなければならないからです。

Ⅲ.自分の務めを十分に果たしなさい(5)

ですから、結論としてはこうです。5節をご一緒読みましょう。

「しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。」

「しかし、あなたは」とは、これまでパウロが語ってきたように、終わりの日が近くなると、人々は健全な教えに耳を貸そうとせず、自分に都合の良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理からそれて、空想話にそれて行くようになりますが、しかし、あなたは、です。しかし、あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たさなければなりません。テモテに与えられた務めとは何でしょうか?みことばを宣べ伝えることです。テモテに伝道者としての力があったかどうかはわかりません。彼が力強い牧会者であったかどうかもわかりません。ただわかることは、みことばを宣べ伝えることが、彼に与えられた務めであったということです。そのために彼は召されたのです。その務めを十分に果たさなければなりませんでした。

それは私たちも同じです。私たちも自分たちに与えられた務めを十分に果たさなければなりません。皆さんはどうでしょうか。皆さんに与えられている務めとは何でしょうか。皆さんは、その務めを十分に果たしておられるでしょうか?

私はここに一冊の記念誌を持ってきました。これは保守バプテスト同盟の山形福音伝道隊65周年を記念してまとめられたものです。現在山形には約20の保守バプテスト同盟の教会がありますが、その最初は1948年に山形で宣教を開始したジョセフ・G・ミーコ宣教師ご夫妻の働きによるものが大きいのです。先生は「いちご伝道」といって、いちごが実を結ぶとき、実を結ぶ前に次のところにつるを伸ばして実を結ぶように、開拓伝道を始めたら、同時に次のところの準備も始め、同時に実を結ばせようとして、その結果、多く教会を生み出して行ったのです。先生は持病で1948年から10年後に一時帰国し、再び来られたのは1973年でした。そして帰国した1979年までの16年間に、本当に多くの教会を生み出していったのです。私が実践している開拓伝道はこのいちご伝道がモデルになっています。それにしても、戦後の混乱期にあって、しかも持病を抱えながら伝道することはどれほどのご苦労があったことかと思います。

このミーコ先生と一緒に働いたジョー・グーデンという宣教師が、ミーコ先生についてこのように語っています。「私はあの日のことを決して忘れない。山形盆地、そこに教会が一つもない沢山の町々村々があった。小高い山からそれらの村々を見ながら、彼は32か所を指さしていた。私がもっと彼に近づいてよく見ると、彼の目には涙が浮かんでいた。彼の声は震えて、「私はあの一つ一つの所に教会でも、聖書研究会でも、あればと願っている。ジョー、私と一緒に働いてくれないか。あなたと私は人柄も才能も違う。私にはあなたが必要なのだ。お互いに助け合えばきっとよい成果がある。どうか私と一緒に働きに来てください。」そして、ジョー・グーデン宣教師は彼のもとに来たのでした。そして、ミーコ先生の宣教の情熱、一人の魂に対する愛、ねばり強さ、若者の心をとらえたい心、主のためなら何でも平気だという図太い神経、そして、彼の重荷を見たのでした。

ミーコ先生は天に召されるまで日本に残された、まだ福音の伝わっていない地のことを思っていました。もう痛みも絶頂に達していたとき、その痛みをおして、彼の伝道を背負っている日本の牧師たちと話し合うために来日しましたが、来るたびに、これが最後にかもしれないと思われた中で、最後の教訓を残して成田から去って行かれたのでした。ミーコ先生は、自分に与えられた務めを十分に果たしました。今ごろ天国で義の栄冠を受け、主イエスからこのような報いを受けておられるでしょう。

「よくやった。良い忠実なしもべただ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」(マタイ25:21)

それはミーコ先生だけではありません。キリストのみことばに従って自分の務めを十分に果たしたすべてのクリスチャンにもたらされる約束でもあるのです。ここには、「自分の務めを十分に果たしなさい」とあります。それは途中であきらめるなという意味です。あきらめないで、最後まで走り続けなければなりません。神があなたにゆだねられた使命を果たし終えるまで、最後まで走り続けなければならないのです。

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」「しかし、あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。」これがこの世を去る直前にパウロがテモテにどうしても伝えたかったことであり、二千年の時を越えて、今もなお私たちに語り続けている命令なのです。お祈りしましょう。

民数記27章

きょうは、民数記27章から学びたいと思います。前回の学びで、モーセとアロンがシナイの荒野で登録したときのイスラエル人はみな荒野で死に、ヨシュアとカレブのほかには、だれも残っていなかったという現実を見ました。残された民が、神が約束してくだった地を相続します。そして、その相続の割り当てについて語られました。すなわち、大きい部族にはその相続地を多くし、小さい部族にはその相続地を少なくしなければならないということです。きょうの箇所には、その相続に関する神様のあわれみが示されます。

Ⅰ.ツェロフハデの娘たち(1-11)

まず1節から11節までをご覧ください。

「 さて、ヨセフの子マナセの一族のツェロフハデの娘たち・・ツェロフハデはヘフェルの子、ヘフェルはギルアデの子、ギルアデはマキルの子、マキルはマナセの子・・が進み出た。娘たちの名はマフラ、ノア、ホグラ、ミルカ、ティルツァであった。彼女たちは、モーセと、祭司エルアザルと、族長たちと、全会衆との前、会見の天幕の入口に立って言った。「私たちの父は荒野で死にました。彼はコラの仲間と一つになって主に逆らった仲間には加わっていませんでしたが、自分の罪によって死にました。彼には男の子がなかったのです。男の子がなかったからといって、なぜ私たちの父の名がその氏族の間から削られるのでしょうか。私たちにも、父の兄弟たちの間で所有地を与えてください。」そこでモーセは、彼女たちの訴えを、主の前に出した。すると主はモーセに告げて仰せられた。「ツェロフハデの娘たちの言い分は正しい。あなたは必ず彼女たちに、その父の兄弟たちの間で、相続の所有地を与えなければならない。彼女たちにその父の相続地を渡せ。」あなたはイスラエル人に告げて言わなければならない。人が死に、その人に男の子がないとは、あなたがたはその相続地を娘に渡しなさい。もし娘もないときには、その相続地を彼の兄弟たちに与えなさい。もし兄弟たちもいないときには、その相続地を彼の父の兄弟たちに与えなさい。もしその父に兄弟がないときには、その相続地を彼の氏族の中で、彼に一番近い血縁の者に与え、それを受け継がせなさい。これを、主がモーセに命じられたとおり、イスラエル人のための定まったおきてとしなさい。」

ここに、ヨセフの子のマナセの一族のツェロフハデの娘たちが出てきます。彼女たちは、モーセと、祭司エルアザルと、族長たちと、全会衆との前、会見の天幕の入り口に立って、自分たちにも所有地を与えてください、と言いました。どういうことでしょうか?26章33節を見ると、ここにツェロフハデの娘たちの名前が記されてあります。彼女たちの父ツェロフハデには息子がなく、娘たちしかいませんでした。ということは、ツェロフハデには何一つ相続地が与えられないということになります。ですから、彼女たちは、そのことによって相続地が与えられないのはおかしい、とモーセに訴えたのです。

この訴えに対して主は何と言われたでしょうか。6節です。主は、この訴えは正しい、と言われました。そして、主は彼女たちの訴えに基づいて、父が子を残さなかったときについての相続の教えを与えられました。子がいないという理由で相続地がないということがあってはならないというのです。その相続地を娘たちに与えなければなりません。娘たちもいなければ、それを彼の兄弟たちに、彼に兄弟がいなければ、それを氏族の中で、彼に一番近い血縁の者に与えて、それを受け継がせなければならない、と言われたのです。

これはどういうことでしょうか?このことについては、おもしろいことに、ここで話が終わっていません。36章を見ると、マナセ族の諸氏族のかしらたちがモーセのところにやって来て、この娘たちが他の部族のところにとついだならば、マナセ族の相続地が他の部族のものとなってしまうので、彼女たちはマナセ族の男にとつぐようにさせてください、と訴えているのです。そしてその訴えを聞いたモーセは、「それはもっともである」と、彼女たちは父の部族に属する氏族にとつがなければならない、と命じるのです。そのようにして、イスラエルの相続地は、一つの部族から他の部族に移らないようにし、おのおのがその相続地を堅く守るようにさせました。そして、この民数記は、この娘たちが主が命じられたとおりに行ったことを記録して終わるのです。

つまり、彼女たちの行為は信仰によるもので、約束のものを得るときの模範になっているということです。そうでなければ、このことが聖霊に導かれてモーセが記録するはずがありません。主が、アブラハムの子孫に、この地を与えると約束されたので、彼女たちは、その約束を自分のものとしたいと願いました。けれども、相続するためには男子でなければなりません。しかし、そうした障害にも関わらず、彼女たちは主の前に進み出て大胆に願い出ました。ここがポイントです。ここが、私たちが彼女たちに見習わなければいけないところなのです。つまり、私たちは、その約束にある祝福を、自分たちの勝手な判断であきらめたりしないで、彼女たちのように信仰によって大胆に願い求めなければならないのです。

あのツロ・フェニキヤの女もそうでした。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません。」「子どもたちのパンくずを取り上げて、子犬にやるのはよくないことです。」と言われた主イエス様に対して、彼女は、「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」(マタイ15:27)と言いました。そして、そのとおりになりました。信仰をもって、あきらめないで願い出るなら、主は惜しみなく与えてくださるのです。もちろん、その願いは自己中心的なものではなく、主のみこころにかなったものであることが重要ですが、しかし、あまりにもそれを考えすぎるあまり求めることをしなければ、何も得ることはできません。「求めなさい。そうすれば、与えられます。」(マタイ7:7)私たちは、キリストにあってすべてのものを施してくださるという神の約束を信じて、神に求める者でありたいと願わされます。

Ⅱ.モーセの死(12-14)

次に12節から14節までをご覧ください。

「ついで主はモーセに言われた。「このアバリム山に登り、わたしがイスラエル人に与えた地を見よ。それを見れば、あなたもまた、あなたの兄弟アロンが加えられたように、あなたの民に加えられる。ツィンの荒野で会衆が争ったとき、あなたがたがわたしの命令に逆らい、その水のほとりで、彼らの目の前に、わたしを聖なる者としなかったからである。」これはツィンの荒野のメリバテ・カデシュの水のことである。」

これは、モーセも他のイスラエルの民と同様に約束の地に入ることができないという、厳粛な主の宣告です。この宣告は、イスラエルの民以上に、彼にとってどんなに辛かったことでしょう。彼はこの120年間、ただイスラエルの民が解放され、約束の地に導かれることを夢見てきました。しかし、彼自身はそこに入ることはできないのです。なぜでしょうか?それは14節にあるように、ツィンの荒野で会衆が争ったとき、主の命令に従わなかったからです。

どういうことでしょうか?もう一度民数記20章を振り返ってみましょう。これはイスラエルがツィンの荒野までやって来たときのことです。そこでモーセの姉ミリヤムが死にました。そこには水がなかったので、彼らはモーセとアロンに逆らって言いました。それで主はモーセに杖を取って、彼らの目の前で岩に命じるようにと言われました。そのようにすれば、岩は水を出す・・・と。ところが、モーセは主の命令に背き、岩に命じたのではなく、岩を二度打ってしまいました。それで主はモーセとアロンに、彼らが主を信じないで、イスラエルの人々の前で聖なる者としなかったので、彼らは約束の地に入ることができないと言われたのです。

Ⅰコリント10章4節には、この岩がキリストのことであると言われています。その岩から飲むとは、キリストにあるいのちを受けることを示しています。そのためには、その岩に向かってただ命じればよかったのです。しかし、彼らは岩を打ってしまいました。モーセとアロンは、主が仰せになられたことに従いませんでした。彼は自分の思い、自分の感情、自分の方法に従いました。それは信仰ではありません。それゆえに、彼らは約束の地に入ることはできない、と言われたのです。あまりにも厳しい結果ですが、これが信仰なのです。信仰とは、神のことばに従うことです。そうでなければ救われることはありません。私たちが救われるのはただ神のみことばを信じて受け入れること以外にはないのです。御霊の岩であるイエスを信じる以外にはありません。彼らは神と争い、神の方法ではなく自分の方法によって水を得ようとしたので、約束の地に入ることができませんでした。それは他のイスラエルも同様です。彼らもまた不信仰であったがゆえに、だれひとり約束の地に入ることができませんでした。ただヨシュアとカレブだけが入ることができました。彼らだけが神の約束を信じたからです。神の約束を得るために必要なのは、ただ神のことばに聞き従うということなのです。

Ⅲ.モーセの後継者(15-23)

しかし、話はそれで終わっていません。それでモーセは主に申し上げます。15節から23節までをご覧ください。

「それでモーセは主に申し上げた。「すべての肉なるもののいのちの神、主よ。ひとりの人を会衆の上に定め、彼が、彼らに先立って出て行き、彼らに先立ってはいり、また彼らを連れ出し、彼らをはいらせるようにしてください。主の会衆を、飼う者のいない羊のようにしないでください。」主はモーセに仰せられた。「あなたは神の霊の宿っている人、ヌンの子ヨシュアを取り、あなたの手を彼の上に置け。彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、彼らの見ているところで彼を任命せよ。あなたは、自分の権威を彼に分け与え、イスラエル人の全会衆を彼に聞き従わせよ。彼は祭司エルアザルの前に立ち、エルアザルは彼のために主の前でウリムによるさばきを求めなければならない。ヨシュアと彼とともにいるイスラエルのすべての者、すなわち全会衆は、エルアザルの命令によって出、また、彼の命令によって、はいらなければならない。」モーセは主が命じられたとおりに行なった。ヨシュアを取って、彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、自分の手を彼の上に置いて、主がモーセを通して告げられたとおりに彼を任命した。」

モーセは、自分が約束の地に入れないことを思い、であれば、イスラエルの民がそこに入って行くことができるように、だれか他のリーダーを立ててくださいと言いました。そうでなかったら、彼らは羊飼いのいない羊のようにさまよってしまうことになるからです。皆さん、羊飼いのいない羊がどうなるかをご存知でしょうか?羊飼いのいない羊はどこに行ったらよいのかがわからずさまよってしまうため、結果、きちんと食べることもできないので、死んでしまいます。それは霊的にも同じです。牧者がいない羊たちはめいめいが勝手なことをするようになり、その結果、滅んでしまうことになるのです。士師記を見るとよくわかります。彼らは指導者がいなかったときめいめいが勝手なことをしたため、霊的に弱くなり、たえず敵に脅かされてしまいます。それで彼らが叫ぶと主はさばき司を送られたので立ち直ることができました。ですから、リーダーがいないということは群れにとっては致命的なことなのです。モーセはそのことを心配していました。

それに対して主は何と言われたでしょうか。主はモーセに、ヌンの子ヨシュアを取り、彼の上に手を置き、彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、彼らの見ているところで彼をその務めに任命するように、と言われました。

主はヨシュアを、モーセの後継者としてお選びになりました。主はヨシュアが「神の霊の宿っている人」と言っています。ヨシュアにはどのように神の霊が宿っていたのでしょうか?このヨシュアについてそのもっとも特徴的な表現は、出エジプト記24章13節の、「モーセとその従者ヨシュアは立ち上がり」という表現です。彼はいつもモーセのそばにいて、彼に従い、彼を助けました。出エジプト記17章には、イスラエルがエジプトを出て荒野を放浪していたときにアマレクと戦わなければなりませんでしたが、その実働部隊を率いたのがこのヨシュアでした。また、彼はあのカデシュ・バルネヤから12人の偵察隊を遣わした中にもいて、カレブとともに他の10人の偵察隊が不信仰に陥って嘆いた時も、「ぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」と進言しました。彼はとくに、めざましい働きをしていたわけではありませんでしたが、常にモーセのそばにいて、モーセの助手として彼を支え、彼に仕えていたのです。いわば彼は、モーセのかばん持ちだったわけです。モーセに言われたことを守り行ない、モーセが猫の手を借りたいときには猫の手になり、難しい仕事も不平を言わずにこなし、とにかくモーセを助けていました。Ⅰコリント11章28節には、「助ける者」という賜物がありますが、ヨシュアには、こうした助けの賜物が与えられていて、モーセに仕えていたのです。ですから、ヨシュアこそモーセの後継者としてふさわしい人でした。

モーセは主が命じられたとおりに行ないました。彼はヨシュアを取って、彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、自分の手を彼の上に置いて、主がモーセを通して告げられたとおりに彼を任命しました。彼は約束の地に入ることはできませんでしたが、アバリム山に登り、イスラエル人に与えられた約束の地を見て、その後を後継者にゆだねたのでした。

創世記16章

今日は、創世記16章から学びたいと思います。

1.不信仰による失敗(1-3)

前回は、アブラハムの信仰について学びました。アブラハムは老年になって、サラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まるどころかますます強くなり、神には約束されたことを成就する力があると信じました。主が彼を外に連れ出して天の星を見上げさせ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われたとき、アブラムはその神の言葉を信じました。それゆえに神は、それを彼の義とみなしてくださったのです。ところが、きょうのところにはそれほどの信仰をもっていたアブラハムが不信仰に陥ったことが記されてあります。まず、1~4節前半のところをご覧ください。

「アブラハムの妻サライは、彼に子どもを産まなかった。彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。サライはアブラムに言った。「ご存じのように、主は私が小どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。アブラムはサライの言うことを聞き入れた。アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの土地に住んでから十年後に、彼女の女奴隷のエジプト人ハガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた。彼はハガルのところに入った。そして彼女はみごもった。」

ここでサラはアブラハムに、女奴隷ハガルのところに入るようにと言っています。なぜでしょうか?彼女は、主が自分には子どもを産むことができないと考え、だったら自分の女奴隷によって子をもうけようとしたのです。彼女は神のことばに信頼してその御業を待ち望むというより、人間的な方法によって子どもを得ようとしました。一方、アブラハムはどうだったでしょうか。彼はサラがそのように言うのを聞いて、あったさりとそれを受け入れました。なぜでしょうか?3節には、「アブラムがカナンに住んでから10年後に・・・」とあります。彼もまた神が約束してくださったことが実現しないのを見て、自分たちで何とかしなければならないと思ったのです。

しかし、それは大きな間違いでした。神は私たちの助けを必要とされる方ではないからです。私たちにとって必要なことは、ただ黙って神を待ち望むことです。しかし、神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐なのです(ヘブル10:36)。

2.不信仰の結果(4-6)

さて、その結果どんなことが起こったでしょうか。4b~6節までのところをご覧ください。

「彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。5 そこでサライはアブラムに言った。「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」6 アブラムはサライに言った。「ご覧。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。」それで、サライが彼女をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。」

アブラムがハガルの所に入ったので、彼女はみごもりました。すると彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになりました。そこでサライはアブラムに言います。「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。」つまり、彼らが不信仰に陥った結果、彼らの関係に亀裂が生じたのです。アブラハムとサライは、ハガルから子孫をつくることは良い考えだと思っていたでしょう。けれども、どんなに優れた考えでも、それが神のみこころでなければ、そこには混乱や争いが生じます。私たちの生活の中で、そのようなプレッシャーを感じている部分はないでしょうか。それは多くの場合、肉の行いが原因で起こります。ですから、神に心を尽くしてより頼む事が最善なのです。箴言には、「心を尽くして主に依り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行くところどこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:6)とあります。

3.女主人のもとにかえりなさい(7-12)

ところで、女主人のもとから去ったハガイはどうなったでしょうか?7~9節をご覧ください。

「7 主の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、8 「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか」と尋ねた。彼女は答えた。「私の女主人サライのところから逃げているところです。」9 そこで、主の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」

神様は人生の裏街道を歩いている者をも、決して見過ごされる方ではありません。ハガルは主人の家から、実に理不尽なやり方で追い出され、ひとり寂しく生まれ故郷のエジプトに向かっていました。そこは荒野で、途中にオアシスがあり、泉がわき出ていましたた。ハガルはそこで旅路の疲れをいやそうと腰をおろすと、そこに主の使いが現れて、こう言いました。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」なぜなら、彼女はサライの女奴隷だからです。これは、彼女がどのような者であり、どこから来たのか、どこに行くのかを告げている言葉です。彼女はサライの女奴隷であって、彼女のもとに戻り、身を低くして仕えることが彼女に与えられていた使命であり、彼女にとって最も幸福な道だったのです。

それにしても、なぜ主はそのようにハガイに言われたのでしょうか?それは、どんな理由があるにせよそのように主人を見下げることは主のみこころではなかったからです。確かに問題はアブラムとサライにありました。彼らが神のことばを疑って人間的になってしまったことがすべての間違いの原因です。しかし、だからといって奴隷の立場であったハガルが自分の立場を忘れ愚かにも女主人を見下げるということは、奴隷としてあってはならないことでした。彼女はどんなことがあってもりっぱに行動すべきだったのにそれができませんでした。だから悔い改め、女主人サライのもとに戻って、彼女のもとで身を低くし、その手に自分の身をゆだねるように、と言われたのです。

そればかりではありません。主はそんなハガルを見捨てることをせず、彼女を顧みてくださる方だからです。10~12節をご覧ください。

「10 また、主の使いは彼女に言った。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」11 さらに、主の使いは彼女に言った。「見よ。あなたはみごもっている。男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞き入れられたから。12 彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」

ここで主は彼女の子孫を数え切れないほどに増やしてくださると約束してくださいました。胎の実は神からの報酬であると信じられていた時代にあって、この約束はどれほど大きな慰めであったことかわかりません。そればかりではありません。そして、その名を「イシュマエル」と名づけるようにと言われました。意味は、「神は受け入れられる」です。人が彼女を見捨てても、神は見捨てる方ではありません。神はどこまでも受け入れてくださいます。

しかし、神はこのイシュマエルについて、次のようなことも言われました。「彼は野生のろばのようになり、その手は、すべての人の手も、彼に逆らい、彼はすべての兄弟に敵対して住むようになる」どういうことでしょうか?「野生のろば」は、荒々しい性質を表しています。彼はすべての人に逆らい、敵対して住むというのです。なぜ神がこのようなことを預言されたのかはわかりませんが、おそらく、ハガルによって生まれてくる子がサラによって生まれてくる子供と本質的に違っていることを示したかったのでしょう。すなわち、サラの子どもが神の約束のこどもであったのに対して、ハガルの子どもそうではないということです。

このイサクとイシュマエルの対比は、パウロがガラテヤ人への手紙4章28~31節までのところで論じられています。すなわち、イシュマエルが女奴隷の子どもであり肉の子どもであったのに対して、イサクは約束の子どもであったということです。つまりハガルの子どもは肉の子どもであったのに対して、サラの子どもは御霊によって生まれた子どもだったということです。すなわちハガルは肉的な誕生しかしていない人の象徴であるのに対して、イサクはイエス・キリストの十字架の贖いによって新しく生まれた人を現していたのです。

このイシュマエルはアラブ民族の祖先となりました。イシュマエルの子孫は、歴史を通じて他の民族に、とくにイスラエル民族に敵対して生きてきたことを思うと、この預言が確かなものであったことがわかります。しかし、これは単にアラブ民族に対する預言というよりも、イエス・キリストを信じないすべての人のことを指し示しているのであり、イエス・キリストを信じない肉のままの人は、霊的な意味でこのアラブの系統にある人なのです。それは逆に、たとえアラブの人であってもイエス・キリストを信じて約束の子どもとされた人は、みなイサクの子どもになるのです。

そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ」と呼びました。エル・ロイとは、神は見ておられるという意味です。ベエル・ラハイ・ロイは、生きて見ておられるお方の井戸、という意味です。彼女は苦しみの中で、神が自分を見ておられることを知りました。また、神が自分の叫びを聞き入れてくださるのも知ったのです。私たちが苦しみを持っているとき、だれも自分を省みてくれない、神でさえも省みられないと思ってしまうことがありますが、神は私たちに聞き入り、その苦しみをご覧になっておられるのです。

 

民数記26章

きょうは、民数記26章から学びます。

Ⅰ.人口調査をせよ(1-4a,52-56)

まず1節かと2節をご覧ください。1節、2節にはこうあります。「1この神罰の後、主はモーセと祭司アロンの子エルアザルに告げて仰せられた。2 「イスラエル人の全会衆につき、父祖の家ごとに二十歳以上で、イスラエルにあって軍務につくことのできる者すべての人口調査をせよ。」26:3 そこでモーセと祭司エルアザルは、エリコをのぞむヨルダンのほとりのモアブの草原で彼らに告げて言った。26:4a 「主がモーセに命じられたように、二十歳以上の者を数えなさい。」

「この神罰」とは、バラムの企みによって、イスラエルにモアブの女たちを忍び込ませ、彼らが彼女らと不品行を行い、偶像礼拝を行ったことで、二万四千人が死んだという出来事です。その神罰の後に、主はモーセと祭司エルアザルに、イスラエルの全会衆の中から、父祖の家ごとに二十歳以上で、イスラエルにあって軍務につくことのできる者すべての人口調査をするようにと命じられました。いったいなぜここで人口を調査しなければならなかったのでしょうか?

人口調査については1章ですでに行われていました。それはエジプトを出て二年目の第二の月のことでしたが、イスラエルがシナイの荒野に宿営していたとき、やはり氏族ごとに二十歳以上の男子で、軍務につくことができる人数が数えられました。それは何のためであったかというと戦うためです。戦うためには軍隊を整えなければなりません。それで主はイスラエルの軍隊を組織させ、その戦いに備えました。部族ごとにリーダーが立てられ、それぞれの人数が数えられたのです。

しかし、ここで人口調査が行われたのは戦うためではありません。あれから38年が経ち、イスラエルは今ヨルダン川の東側までやって来ました。彼らはもうすぐ約束の地に入るのです。いわば荒野での戦いは終わりました。それなのにいったいなぜ人口を調査する必要があったのでしょうか。

それは約束の地に果てる備えるためです。52~56節までをご覧ください。ここで主は、これから入る約束の地において、その血をそれぞれの部族の数にしたがって相続するようにと命じています。大きい部族には大きい相続地を、小さい部族にはその相続地を少なくしなければなりませんでした。彼らはその人数によって相続地を割り当てたのです。

このように主は、荒野で戦いに備える前に人口を調査し、今度は約束の地で相続地を割り当てるのに人口調査をしました。それは決して自らの数を誇るためではなく、これから先の行動に備えるためでした。彼らが約束の地に入るには、まだ原住民との戦いがありました。その後で相続地の割り当てが行われます。しかし、主はそれに先立ち、すでにこの時点で相続地の分割を考えておられました。それはまさに先取りの信仰ともいえるものです。主の約束に従い、それを信じて、いまそれを行っていくのです。そうなると信じて、たとえ今はそうでなくとも、そのように行動していかなければならないのです。

先日、今月の支払いのことで会計担当の方から連絡をいただきました。献金が足りないので支払に支障をきたしているとのことでした。いったいこれはどういうことかと思って祈っていたら、主はこのみことばを私に与えてくださいました。Ⅱ列王記3章16~18です。特に、16節の「みぞを掘れ。みぞを掘れ。」という言葉です。水がなくて困っているというのに、主は「みぞを掘れ」と仰せになられる。いったいこれはどういうことなのかと祈っていると、たとえ今はそうでなくても、主は必ず満たしてくれるので、それを信じてみぞを掘るようにということであることがわかりました。実際にはそれは祈れということでしょう。神が満たしてくださると信じて、神が与えてくださると信じて祈りなさいということです。18節には、「これは主の目には小さなことだ。主はモアブをあなたがたの手に渡される。」とあります。これは主の目には小さいことなのです。そのことで思い悩む必要はありません。そう思ったら、目の前の霧がパッと晴れたようになりました。

私たちの信仰の歩みには自分の思うようにいかないことがたくさんありますが、そのような中でも主の約束を信じ、必ずそのようになると信じて祈り備えていかなければなりません。

Ⅱ.イスラエルの人口(4b-51,57-62)

さて、そのイスラエルの人口ですが、38年前と比較してどうなったかを見てみたいと思います。5節から51節までにそれぞれの部族の人口が記録してあります。

部  族 シナイの荒野 モアブの草原 増  減 割  合
ルベン族 46,500 43,730 -2,770 -6%
シメオン族 59,300 22,200 -37,100 -63%
ガド族 45,650 40,500 -5,150 -11%
ユダ族 74,600 76,500 +1,900 +3%
イッサカル族 54,400 64,300 +9,900 +18%
ゼブルン族 57,400 60,500 +3,100 +5%
マナセ族 32,200 52,700 +20,500 +64%
エフライム族 40,500 32,500 -8,000 -20%
ベンジャミン族 35,400 45,600 +10,200 +29%
ダン族 62,700 64,400 +1,700 +3%
アシェル族 41,500 53,400 +11,900 +29%
ナフタリ族 53,400 45,400 -8,000 -15%
レビ族 数に含まれず 数に含まれず
合  計 603,550 601,730 -1,820 -0.3%

 

 

 

 

 

 

 

 

コラの反乱に加担した者は、このルベン族のダタンとアビラムでした。ダタンとアビラムは会衆に選ばれた者でしたが、コラ(レビ族ケハテの子)の仲間に入り、モーセとアロンに逆らいました。その結果、彼らはコラとともに滅びましたが、コラの子らは死にませんでした。コラの子たちは、後世に礼拝の賛美奉仕者となっていきます。

ところで、38年前にシナイの荒野で数えられた時と比較すると、興味深いです。その時の合計がほとんど同じなのです。以前は603,550人でしたが、今回は601,730人です。ここからも、荒野の生活がかなり過酷であったことがわかります。イスラエルは神の祝福によってたちまち増え続けてきましたが、この荒野の40年は全然増えませんでした。かろうじてほぼ同じ人口は保つことができました。

次にレビ族の人数が記されてあります。レビ族にはゲルション、ケハテ、メラリという三つの氏族がありました。ここで特筆すべきことは、ケハテから生まれたアムラムとその妻ヨケベテとの間にアロンとモーセとその姉妹のミリヤムが生まれたということです。そして、このアロンにはナダブとアビフ、エルアザルとイタマルという四人の息子がいましたが、ナダブとアブフは主の前に異なった火をささげたので死に(レビ16:1:大祭司しか入ることができなかった至聖所に入っていけにえをささげた)、その弟エルアザルが大祭司となりました。

それから、このレビ族の記録でもう一つ重要なことは、彼らの場合は二十歳以上の男子ではなく一か月以上のすべての男子が登録されたということです。そして、彼らは、ほかのイスラエル人の中に登録されませんでした。なぜなら、彼らはイスラエル人の間で相続地を持たなかったからです。

Ⅲ.シナイの荒野で登録された者はひとりもいなかった(63-65)

そして63節から終わりまでがまとめです。「63 これがモーセと祭司エルアザルが、エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原で、イスラエル人を登録したときにモーセと祭司エルアザルによって登録された者である。64 しかし、このうちには、モーセと祭司アロンがシナイの荒野でイスラエル人を登録したときに登録された者は、ひとりもいなかった。65 それは主がかつて彼らについて、「彼らは必ず荒野で死ぬ。」と言われていたからである。彼らのうち、ただエフネの子カレブとヌンの子ヨシュアのほかには、だれも残っていなかった。」

これがこの章のまとめであり、民数記全体の要約でもあります。イスラエルの民は約束の地に入るためにエジプトから出てきたのに、その地に入ることができたのはヨシュアとカレブ以外は誰のいなかったという事実です。彼らは、約束のものを受けていたのに、その約束にあずかれなかったのです。なぜでしょうか?「彼らは必ず荒野で死ぬ」(14章)と言われたからです。神は彼らを約束の地に導くと行ったのに、彼らはそれを信じないで十度も主を試みたので、主はそのように言われたのです。

これは本当に厳粛な話です。私たちがどんなに信仰の恵みに預かっても、不信仰になって主を何度も試みるようなことがあれば、約束の地に入ることはできないのです。パウロはこのことを第一コリン10章でこう言っています。

「そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。あなたがたは、彼らの中のある人たちにならって、偶像崇拝者となってはいけません。聖書には、「民が、すわっては飲み食いし、立っては踊った。」と書いてあります。また、私たちは、彼らのある人たちが姦淫をしたのにならって姦淫をすることはないようにしましょう。彼らは姦淫のゆえに一日に二万三千人死にました。私たちは、さらに、彼らの中のある人たちが主を試みたのにならって主を試みることはないようにしましょう。彼らは蛇に滅ぼされました。また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(Ⅰコリント10:1-13節)

パウロはここで、彼らの父祖たち、すなわち、イスラエルの民が御霊によって神の約束のものを手に入れたのに、最終地まで到達することなく、荒野で滅ぼされてしまったのは、私たちへの戒めのためであると言って、7節からその要因を列挙しています。それは金の子牛を造ってそれを拝んだことや、バラムのたくらみによってモアブの女たちと姦淫を行い、その結果、モアブの神々を拝んでしまい、一日に二万三千人が死んだという出来事、さらには、ある人たちがつぶやいたのにならって、つぶやいたりしたことです。これはコラたちの事件のことでしょう。私たちはこれらの出来事一つ一つを見てきました。それらのことによって、イスラエルの民はせっかく神から約束のものを手に入れていたのに、それを受けることができなかったのです。そしてそれは私たちへの教訓のためでした。ですから、立っていると思う者は、倒れないように気を付けなければなりません。

私たちは今世の終わりに生きています。世の終わりになると困難な時代がやって来るということをイエス様も、またパウロも語っています。いつ倒れてもおかしくない状況に置かれているのです。自分は大丈夫だと思っていても、そうした傲慢な思いが神様のみこころにかなわない場合があります。それなのにいつまでもかたくなになっていると、この時のイスラエルのように約束の地に入ることかで゛きなくなってしまいます。倒れてしまう可能性が十分にあるのです。けれども神は倒れないようにするための約束も与えておられます。それが13節です。

「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」

神が与えておられる試練は必ず耐えることができるものです。耐えられないような試練は与えません。耐えることができるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。この約束を信じて、いつまでも神様の道に歩まなければなりません。もしその道から外れてしまうことがあったら、すぐに悔い改めて、もう一度立ち返る必要があります。そうすれば、主はあなたを赦し、あなたを受け入れてくださいます。いつまでもかたくなになって悔い改めないなら、かつてイスラエルが荒野で滅びたように、約束のものを手に入れることはできません。それがヘブル人への手紙3章13節から19節までのところに進められていることです。
「「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。」

私たちは、この世の歩みの中でいろいろな試練を受けますが、しかし、「きょう」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしたいと思います。そして信じた時に与えられた最初の確信を最後まで保ちたいと思います。聞いていてもその御言葉が信仰によって結び付けられることなく滅んでしまうことがないように、いつも柔らかな心をもってみことばに聞き従う者でありたいと思います。

Ⅱテモテ3章10~17節 「聖書は神のことば」

きょうは、Ⅱテモテ3章後半の箇所から、「聖書は神のことば」というタイトルでお話したいと思います。パウロは3章前半のところで、終わりの日には困難な時代がやってくることをよく承知しておきなさい、と勧めました。なぜなら、そのことを事前に知っているならたとえ困難な事態に直面しても落ち着いてそれに対処することができるからです。

そしてきょうの箇所には、そうした困難な時代の中でクリスチャンはどあるべきなのかについて教えています。困難な時代がやってくることを避けることはできませんが、しかし、そのような困難な状況の中にも堅く信仰に立つことができます。いったいどうしたらいいのでしょうか。きょうは、このことについて三つのことをお話したいと思います。

Ⅰ.良い模範を見ならう(10-12)

まず10節から12節までをご覧ください。

「しかし、あなたは、私の教え、行動、計画、信仰、寛容、愛、忍耐に、またアンテオケ、イコニオム、ルステラで私にふりかかった迫害や苦難にも、よくついて来てくれました。またアンテオケ、イコニオム、ルステラで私にふりかかった迫害や苦難にも、よくついてきてくれました。何というひどい迫害にも私は耐えて来たことでしょう。しかし、主はいっさいのことから私を救い出してくださいました。確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」

終わりの日の困難な時代に私たちが信仰に堅く立つために必要な第一のことは、良い模範を見ならうということです。ここでパウロはテモテに対して、神のしもべとして歩んできた自分に、「よくついて来てくれました」と感謝しています。エペソの教会はパウロによって始められた教会です。最初のうちはキリストの愛に溢れ、宣教の情熱に燃えるすばらしい教会でしたが、パウロがエペソを去った後でだんだん雲行きが怪しくなってきました。狂暴な狼が入り込み、群れを荒らすようになったからです。聖書の教えとは違うことを主張したり、ああでもない、こうでもないと、自分を主張する人たちが出てきたのです。それは教会の中に癌のように広がり、ある人たちの信仰をくつがえしてしまうほどでしたが、しかし、テモテは、彼らとは違っていました。彼は、パウロの教え、行動、計画、信仰、寛容、愛、忍耐に、そればかりか、アンテオケ、イコニオム、ルステラでパウロにふりかかった迫害や苦難にも、よくついて行きました。彼は最後までパウロの教えから離れることはありませんでした。その模範に見習ったのです。

皆さん、終わりの日にはこうした困難な時代がやってきますが、そうした中にあっても私たちは信仰に堅く立ち続けることができます。それは、信仰の良い模範を見習うことによってです。クリスチャンの歩む道は必ずしも孤独なものではありません。そこには信仰の先達者たちの良い模範が数多く残されているのです。たとえば、ヘブル12章1節にはこうあります。

「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」

いったいどうしたら目の前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けることができるのでしょうか。それは多くの証人たちが、雲のように私たちを取り囲んでいるからです。私たちだけでなく、私たちの先に生きた多くのクリスチャンたちも同じような経験をしながらも、忍耐をもって最後まで走り続けました。そのことを思うと励ましが与えられます。確かにテモテには困難がありましたが、しかしそうした中にあっても同じような困難を通ったパウロのそばにいて、パウロがどのように主に信頼しているのかを間近に見ながらその姿から学ぶことができたことは大きな恵みでした。

いったいテモテはパウロの何を見習ったのでしょうか。まずテモテが見習ったのはパウロの教えでした。パウロの教えは人から聞いたものではなく、主イエスから直接聞いたものでした。それはガラテヤ書1章11~20節のところで言われているとおりです。彼はクリスチャンを迫害するためにダマスコという町に向かっていた時、突然、天からまばゆいばかりの光を見ました。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」それで彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、街に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」それで彼は目が見えませんでしたが、人々に手を引いてもらってダマスコに行き、そこで三日の間、目が見えず、また飲み食いもせず、神のみこころを待ち望みました。そこへアナニヤという弟子が現れて、彼がしなければならないことを告げるのです。それでパウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになり、ただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めました。ですから、パウロの教えはだれか他の人から聞いたことではなく、主ご自身から聞いた主の教えでした。テモテはその教えにとどまったのです。

いったいなぜ人は聖書が教えている主イエスの教えから外れてしまうのでしょうか。それは主イエスから聞いたことではなく、人から聞いたことや、だれか別の人が言ったことを鵜呑みにするからです。そうではなく、神のことばである聖書は何と言っているのかを聞かなければなりません。聖書は何と言っているのか、また、それはどういう意味なのか、そして、それは私の生活にとってどういうことなのか祈りながら適用しなければなりません。そうでなかったらいつまでも人の話に振り回されてしまい、それと違った考えや教えが入ってきてもどこが違うのかを判別することができず、惑わされてしまうことになります。

またテモテはパウロの教えばかりでなく、パウロの行動も見習いました。パウロの行動は、その教えと一致していました。彼は自分が語っているメッセージをその生涯で実証していたからです。主のために犠牲を惜しまずに伝道し、自らが華美で贅沢な暮らしを求めるようなことはしませんでした。自分が人から受ける以上のものを人に与えました。また、真理のためなら、自らのいのちを落とすことも厭いませんでした。彼は神と人に仕える僕だったのです。

またパウロの計画は、これは目的と言い換えたほうが良いかと思いますが、それはただ神の栄光を現すことでした。パウロはこう証しています。「神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」(使徒20:24)パウロはこの地に福音が満たされ、救われる人たちが起こされることによって、神の栄光が現されることをひたすら願いました。彼の関心は自分が人から注目を浴びることではなく、自分の名声を得ることでもなく、ただ神の栄光が現されることでした。テモテはずっとパウロのそばにいてその姿を見ていました。パウロは自分に頼らないで、主に信頼していたのです。

そればかりでなく、パウロが反対する人たちがたくさんいる中でも、寛容な心をもって教えているのを見ていました。また迫害する人たちに対しても、神の愛をもって赦す姿、どんな困難な状況にあっても、じっと忍耐する姿をそばで見ていたのです。

パウロは11節でそのことを言っています。彼が福音のゆえに受けた迫害や苦難は、私たちの想像以上のものでした。ピシデヤのアンテオケではユダヤ人たちの激しいねたみによってその地方から追い出され、イコニオム、ルステラでも同様の迫害がありましたが、ルステラでは石打にされ、死んだと思われて捨てられたほどです。確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。しかし、テモテが見たのはそれだけではありませんした。そうした激しい迫害や苦難にあっても、主はいっさいのことから救い出してくださったということも目の当たりにしていました。

ここでパウロは、主が迫害や苦難から救い出してくださったということを思い出しています。このように自分の過去を振り返る時、神がどのようなことをしてくださったのかを思い出すなら、今置かれている状況がどんなに苦しくても希望を持つことができます。この時パウロはローマの地下牢にいてこれを書いていましたが、この時には打ち首になることが決まっていました。そこにはもう何の希望もないかのようでしたが、そのような中にあっても彼は決してあきらめませんでした。主が必ず救ってくださるという希望を持っていたのです。どういうふうに救い出してくださるのかはわかりません。もしかしたらそれが延期になって事態が一変し、そこから奇跡的に逃れられるようになるのか、あるいは、かつてピリピの獄舎で経験したように、大地震が起こって救い出されるのか、どのようにして救い出されるのかはわかりませんが、神が必ず救い出してくださるという確信がありました。たとえそうでなくても、主は彼に最善のことをしてくださると信じていました。たとえ処刑されて命を失うようなことがあっても、それは主イエスのそばに行くということを意味しているので、それもまた喜ぶことができました。彼は迫害の中にあっても、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝することができたのです。

テモテはいつもパウロのそばにいて、そうしたパウロの姿をつぶさに見ながら、そこから学んでいました。彼にはそうした信仰の模範がありました。ですから、実際の困難な状況にあったとき、そのことを思い出して励まされ、忍耐することができたのです。

私たちも、時に困難に直面することがありますが、そのような時にはぜひこうした信仰の先達者たちの姿を思い出したいものです。そして、そこから励ましを受け、そうした困難の中にあっても目標に向かって前進していきたいと思うのです。

Ⅱ.神のことばにとどまる(13-15a)

困難な時代にあっても、私たちが信仰に堅く立つために必要な第二のことは、神のことばである聖書にとどまることです。13~15節前半までをご覧ください。ここには、「しかし、悪人や詐欺師たちは、だましたりだまされたりしながら、ますます悪に落ちて行くのです。けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。」とあります。

終わりの日が近くなると、こうした「悪人」とか「詐欺師たち」と呼ばれる人たちが増えてきます。「悪人」とか「詐欺師たち」とは名ばかりのクリスチャンたちのことで、言っていることとやっていることが一致しない人たちのことです。口ではイエス様信じます!と言いながら、その主のことばに従って歩もうとしないのです。そういう人は信じているとは言っても行いによってそれを否定するので、信じていることにはならないのです。

主イエスはマタイの福音書の中で、「わたしに向かって「主よ、主よ」と言う人者がみな天の御国に入るのではなく、無店におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」(マタイ7:21)と言われました。終わりの日にはこういう人たちが多くなっていくのです。そして、こういう人たちはだましだまされながら、ますます悪に落ちて行くのです。

では、どうしたらいいのでしょうか。そのような現実の中でいったいどうやって信仰に堅く立ち続けることができるのでしょうか。聖書はこう言っています。14節です。「けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。」

いったいなぜこうした悪人や詐欺師たちにだまされるのでしょうか?それは、聖書を学ぼうとしないからです。聖書が何と言っているかということよりも、自分の考えや思いによって行動しようとするからです。ですから、そうした偽りの教えがやってきてもそれを正しく判別することができないので、その結果、振り回されてしまうのです。

けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。勿論、この学んでというのは「聖書」のことです。「聖書」を学んで確信したところにとどまっていなければなりません。なぜなら、その聖書をだれから学んだのかをよく知っているからです。

テモテはだれから聖書を学んだのでしょうか。テモテの父親はギリシャ人で、母親はユダヤ人でした。でもテモテを信仰に育てたのは母親でした。なぜなら、ユダヤ人の誇りは、子供たちを幼い時から律法に基づいて教育し、訓練することだったからです。ユダヤ人は、律法が子供たちの魂にも精神にも深く印象づけられているので、自分の名前を忘れることはあっても律法は忘れないと言っています。そのようにテモテは幼い頃から母親から聖書を学んでいました。

テモテはそれを知らない人から聞いたのではありません。まして偽りの教師たちから聞いたのでもないのです。彼はそれを信頼できる人から学びました。ですから、それは信頼できる教えなのです。そしてそうした信頼できる教えは、必ず健全な信仰を生み出します。そしてそこにとどまっているなら、たとえ偽りの教えが入ってきても惑わされることはないのです。

Ⅲ.聖書の価値(15b-17)

では、テモテが幼いころから親しんできた聖書とはどのようなものなのでしょうか。15節の後半から17節までをご覧ください。「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」

ここでパウロは、聖書について四つの大切なことを語っています。第一に、聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるということです。これが、聖書が書かれた一番大きな目的です。聖書は単なる文学書や歴史書ではありません。聖書は、イエス・キリストによる救いを受けさせるために書かれたものなのです。

ヨハネの福音書20章31節には、「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」とあります。聖書が書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、そして、信じて、イエスの御名によっていのちを得るためなのです。ですから、どんなに聖書を読みその内容を知っていても、それによってイエスを信じなければ何の意味もありません。それは聖書読みの聖書知らずということになります。しかし、聖書は私たちがそれを読んで、イエスが神の子キリストであることを信じるために書かれたのです。この目的を理解してあなたが聖書を読むなら、あなたもキリスト・イエスを信じる信仰へと導かれ、永遠のいのちを得ることができるのです。

A.M.チャーギンは、「世界伝道における聖書」という本の中で、あるイギリスの小児科病院の看護婦長の話をしています。彼女の告白した話では、彼女は人生がくだらぬ、無意味なものだと思っていました。そして、彼女は人生の意味を見出すために、次から次に本を読みました。しかし、何の満足も得られなかったので、次に彼女は哲学書を苦労して読み始めました。しかし聖書を開こうとはしませんでした。彼女の友人が、ことこまかに、聖書がいかに偽りであって、真実性のないものであるのかを語っていたので、そう信じ込まされていたからです。しかし、ある日病室に訪問者がやって来て福音書の一冊を贈り物として残して行きました。その婦長はヨハネの福音書を読むようにと勧められていたので読んでみると、そこにはこう書かれてありました。「そこでピラトはイエスに行った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」(ヨハネの福音書18章37節)そして彼女は救い主を発見したのです。

この婦人は、聖書を読むまで真理がわかりませんでした。けれども、直ぐな心で聖書を読むなら、そこに驚くべきことが起こります。他のどんな本にもない救いの知恵がその中にあるからです。

第二のことは、聖書はすべて神の霊感によるものであるということです。ここには、「聖書はすべて、神の霊感によるもので、」とあります。どういう意味でしょうか?それは、聖書は神の霊の息吹によって書かれたということです。聖書は40人の著者たちによって、約1600年の歳月をかけて書かれましたが、その内容をみると統一性があり、全体が見事に調和していることがわかります。バラバラではないのです。もしここにいる人たちがイエス・キリストというテーマで書いたとしたら、その内容はバラバラなものになってしまうでしょう。全く違う人たちが違った視点で書くからです。けれども、聖書は40人の著者たちによって書かれましたが、真の著者は神ご自身であって、神がそれぞれに聖霊によって語りかけ、聖霊は神の人を用いて神のみことばを書かせたので、そこには統一性や一貫性があるのです。それはちょうど法隆寺が聖徳太子によって立てられたのと同じです。実際には聖徳太子が建てたのではなく、宮大工職人によって建てられたものですが、それは聖徳太子の命によって建てられました。ですから、法隆寺は聖徳太子によって建てられたのです。同じように聖書も実際には40人もの人間によって書かれましたが、それを意図して書かせたのは神ご自身なのです。聖書が神のことばであるゆえんはここにあります。

いったい神はどのようにして彼らに書かせたのでしょうか。それは彼らが単なるインスピレーションやひらめきによって書いたというのではありません。またその人たちが意識を失って、手が勝手に動き出して書いたというのでもないのです。神が語られたことを、聖霊に動かされて人たちが書いたのです。そのことをⅡペテロ1章21節では、こう言っています。

「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人とたちが、神からのことばを語ったのだからです。」

「預言」とは「聖書」のことです。聖書は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、神の聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのです。それゆえに聖書は神のことばであると言えるのです。しかも部分的にではありません。すべてです。聖書はすへて神の霊感による、神のことばなのです。

そして第三に、聖書は教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。聖書は、何が真理であり、何が悪であるかをしっかり教えてくれます。また、私たちの生活をまっすぐにし、正しいことを行う力を与えてくれるのです。

リック・ウォーレンの書いた「人生を変える力」という本の中に、南太平洋に浮かぶある島の人食い人種の話があります。その人はキリストを信じて聖書を読むようになりました。ある日、その人が大きなつぼのそばに座って聖書を読んでいると、ヘルメットをかぶった一人の文化人類学者が近寄って来て、「何をしているんだい」と尋ねました。その原住民が「聖書を読んでいるのです」と答えると、その文化人類学者は笑って言いました。「現代の文明人がその本を拒絶してきたことを知らないのかい?ウソのかたまり以外の何ものでもないさ。そんなものを読んで、自分の時間を無駄にしないほうがいい」すると、この人食い人種は、その文化人類学者の頭のてっぺんからつま先までゆっくり眺めた後で、こう言いました。「先生、もしこの本がなかったら、あなたは今頃このつぼの中ですよ。」神のみことばによって、その人食い人種の人生は見事に変えられたのです。このように聖書は、人を変える力があるのです。

もし本気で自分の人生を変えたいと願うなら、聖書に向かわなければなりません。聖書を読んで、そこから学び、ただ学ぶだけでなく暗記したり黙想して、それを自分の生活に適用しなければなりません。そうでなければ、信仰の成長を期待することはできないのです。

それは子供の成長と同じです。小さな子供はわがままで自己主張が強くて大変ですが、そういう子供を立派な大人に成長させたいと願うとき、いったい親はどうするでしょうか。まず何が正しくて、何が正しくないかを教えます。そして、それと違ったことをしたら「それは違う」と教えます。何度言っても聞かない時にはムチを使うかもしれませんね。そしてそれができるようにトレーニングします。同じように、神は私たちを子として扱っておられるので、私たちに教え、戒め、矯正し、義の訓練をされるのです。その道具が聖書なのです。生まれながらの人間は、自分のやり方を通そうとします。真理に従いたくないのです。自分の思うようにしたいのです。それを聖書では肉と言っています。肉は神のみこころに反します。しかし、聖書のことばに従うと成長し、霊的に成熟していくのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益なのです。

第四に、聖書は神の人が、すべての良い働きのためにふさわしく十分に整えます。Ⅰテモテ6章11節で、パウロはテモテを「神の人」と呼びましたが、ここではテモテに限らず、神のみことばを学び、それに従い、それによって支配された人たちを「神の人」と呼んでいます。そして神のことばは、そのような人たちがすべての良い働きのためにふさわしく十分に整えてくれるのです。聖書を学ぶ目的は、ただ聖書の教えを理解し、信仰を守るといった消極的なものだけでなく、みことばによって神の人が神のわざを行っていくという積極的な面で整えられるためでもあるのです。

有名なイギリスの説教者C・H・スポルジョンは、あるとき古くてボロボロになった聖書を手に入れました。普通に扱うと壊れてしまうので、彼は机の上にその聖書を置いて、慎重に1枚1枚開いて読まなければなりませんでした。毎日読んでいるうちに、ふと聖書の中に小さい穴があいているのに気が付きました。その穴は表紙から裏表紙までを貫いていました。それはシミという小さな虫の食った穴でした。シミという虫は銀色のむかでみたいなやつです。以来彼は、「神よ、どうぞ私をこのシミのようにしてください」と祈ったそうです。そして彼は、シミのように聖書の初めから終わりまで何度も何度も繰り返して読んだと言われています。そこに彼の奉仕の原動力の秘密を見るような気がします。

私たちも祈りましょう。「主よ、どうぞ私をシミのようにしてください。」と。聖書の最初から最後まで何度も読んで神の人に創り変えられ、良い働きのために備えられるようにと祈ろうではありませんか。

終わりの日が近くなると、偽りの教えがはびこり、困難な時代がやって来ますが、しかし、動じることはありません。永遠に変わることのない神のことばを握りしめ、そこに根を下ろすなら、どんな困難な中にも堅く立ち続けることができるのです。

Ⅱテモテ3章1~9節 「終わりの日には」

きょうは、「終わりの日には」というタイトルでお話をしたいと思います。パウロは、エペソの教会で牧会していたテモテを励ますために、困難に耐えるためにどうしたらよいかを語ってきました。そしてそのためにはまず、神が私たちに与えてくださったものがどのようなものかを思い出さなければなりません。神が与えってくださったものは、おくびょうの霊ではなく力と愛と慎みとの霊です。(1:7)このことを思い起こすなら力が与えられ奮い立つことができます。それから、イエス・キリストの恵みによって強くならなければなりません。それは兵士のようであり、またアスリートのようです。そして労苦して働く農夫のようです。確かに目の前には戦いがあり、労苦がありますが、その先にもたらされるのは勝利であり、栄光であり、収穫の分け前です。このことを知っていれば、困難の中にあっても強くなれるのです。

それからパウロは、ダビデの子孫であり、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい(2:7)と勧めました。私たちは決して孤独の戦いをしているわけではありません。そこにはいつもイエス様がおられ、イエス様の助けがあることを忘れてはなりません。

これらのことを人々に思い出さなければなりません。そして、聞いている人々を滅ぼすような無意味な話を避けなければなりません。そのような話は聞いている人々を滅ぼし、人々の信仰をくつがえしてしまいます。むしろ、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなければなりません。

そして今日の箇所では、特に終わりの日にはそうした俗悪な無駄話というか、信仰からそれていくような時代になることを警告しています。なぜなら、終わりの日にはどのようなことが起こるのかを前もって知っていると、それに備えることができるからです。

Ⅰ.困難な時代がやって来る(1)

まず1節をご覧ください。

「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。」

ここには、終わりの日には困難な時代がやって来る、とあります。いったい終わりの日とはいつのことなのでしょうか?ヘブル人への手紙1章1,2節にはこうあります。

「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。」ここには、神の御子イエス・キリストがこの世に来られ、神のことばを語られた時を、終わり日と言っています。

また、ペテロはペンテコステの時に聖霊が下られたのを見て、驚き、あやしんでいた群集に、預言者ヨエルのことばを引用してこう言いました。使徒の働き2章16~21節です。「これは、預言者ヨエルによって語られた事です。『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』」

ですから、ヨエルが終わりの日に起こることとして預言したことは、ペンテコステにおいて成就したことがわかります。いや、もっと正確に言うなら、このペンテコステの時に成就しましたが、やがてもっと完全な形で成就するということです。ですから、終わりの日とはイエス様が最初にこの地上に来られた時に始まり、再び来られる時までのことを指しているということです。キリストが最初に来られた時は救い主として来られましたが、二度目に来られる時にはさばき主として来られます。そのときが終わりの時です。その時にはどんなに「時間よ、止まれ」と叫んでも、止まることはありません。終わりの時が来て、すべての人がさばかれるのです。

ですから、今は恵みの時、今は救いの日なのです。イエス様が最初に来て救いの御業を成し遂げられて天に昇られ、さばき主として再び来られるのを待っている時なのです。だれでもイエス・キリストを信じるなら救われます。救われて天の御国に入ることができるのです。過去においてどんなに大きな罪を犯した人でも、また、生まれた環境がどうであれ、もう自分なんか生きる価値もないと思えるような人でも、だれでも救われます。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

イエス・キリストを信じるなら、あなたも罪から救われて、新しい人生を始めることができるのです。今は恵みの時、今は救いの日です。ですから、この恵みの時にイエス・キリストを信じて救われてほしいと思います。やがて信じたくても信じることができない時がやってくるのですから。そして終わりの時がやって来ます。キリストが再びこの地上に来られるとき、彼を信じるすべての人は救われて永遠のいのちを頂き、そうでない人はさばかれます。永遠の滅びへと突き落とされるのです。そういうことがないように、あなたもイエスを信じて救われてください。今は、この終わりの日に限りなく近づいている時なのです。聖書の預言がことごとく成就し、主イエスがいつ来られてもおかしくないような、そういう時に生かされているのです。その恵みの時に、神の救いを受け入れていただきたいのです。

では、その終わりの日には、どんなことが起こるのでしょうか。ここには「困難な時代がやって来る」とあります。悲観的に聞こえるかもしれませんが、これが聖書の言っていることです。なぜ終わりが近づくと困難な時代になっていくのでしょうか。なぜなら、神はその後で新しい天と新しい地を創造されるからです。出産の前には産みの苦しみがあるように、新しい天と新しい地が創造される前にも苦しみがあります。それは産みの苦しみなのです。

この「困難」と訳された言葉は、マタイの福音書8章28節にある「狂暴」という言葉と同じ言葉です。イエスがガリラヤ湖の向こう岸のガダラ人の地に行くと、そこに悪霊につかれた人がふたり墓から出て来ました。彼らは墓場に住みついていました。彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどでした。その「狂暴」と同じ言葉が使われているのです。ですから、世の終わりの時は、悪魔や悪霊が猛威を奮うときなのです。テモテへの手紙第一にもありましたね。後の時代には、ある人たちが惑わす霊と悪霊の教えとに心が奪われる・・と(4:1)。この時代は単に、悪いことが起こるというだけでなく、悪霊がはびこるのです。世界で起こっている事柄が、まさに悪魔的な様相を呈するのです。

パウロは、終わりの日にはこうした困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい、と言いました。なぜなら、そのような困難な時代がやって来るということを覚えているなら、それに備えることができるからです。パウロ自身も、彼の人生の終わりの日が、もう目の前に迫っていました。彼は何度も牢の中に入れられました。別に何か悪いことをしたからではありません。福音のために、良いことのために捕われていたわけです。この手紙を書いた時には打ち首になることが決まっていて、ローマの地下牢に閉じ込められていました。しかし、パウロの心は少しも萎えませんでした。むしろ希望を持っていました。そうした困難な中にあっても、牧会で苦しんでいたテモテを励ますことができたのです。なぜでしょうか?それは、終わりの日にはそうした困難な時代になるということをちゃんと知っていたからです。そして、そのような時代の中にあっても、イエス・キリストが再び来られ、彼を信じるすべての者たちに報いてくださると信じていたからです。ですからパウロは、そうした困難な時代にあっても勇気を失うことなく、苦難の中にあったテモテを励ますことができたのです。

皆さんはどうでしょうか。終わりの日には困難な時代がやって来ることを知っていましたか。日々突然襲って来る苦難に、「なんでこうなるの」と嘆いてはいないでしょうか。でも心配する必要はありません。焦らなくても大丈夫です。それはずっと前から聖書で言われていたことですから・・。「ああ来たな」と思ったら、これが聖書で言われていた患難かと思い、すべてを神様にゆだねて祈ればいいのです。そうすれば主が守り、患難に耐える力を与えてくださいます。

新聖歌247番の2番の歌詞にこうあります。

「来なば来たれ試みよ 襲いかかれ悪しき者

主に隠れし魂の などで揺らぐことやある

主の手にある魂を 揺り動かいものあらじ」

主の手にある魂を、揺り動かすものはありません。ですから、そういう困難は来るということを十分覚えながら、その時には岩なる主に隠れればいいわけです。主の手にある魂を、揺り動かす者は何もないのですから。

Ⅱ.そのときに人々は(2-8)

では、そのとき人々はどのようになるのでしょうか。それが2節から8節までに記されてあります。まず2節から5節までをお読みします。

「そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」

ここでパウロは、そのとき人々はどうなっていくのかを具体的に18のリストを挙げて説明しています。その最初にリストアップされているのは、自分を愛する者です。世の終わりが近くなると、人々は自分を愛するようになります。ここでは特にイエス様を信じていない人のとこが言われているのではありません。イエス様を信じているはずのクリスチャンのことが言われているのです。そのクリスチャンが自己中心になり、神から離れて行くようになるというのです。

イエス様はマタイの福音書24章の中で世の終わりの兆しを語っておられますが、その最大のしるしは何かというと、多くの人たちの愛が冷たくなるということでした。「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなるのです(マタイ24:12)。神に対する愛も、教会に対する愛も、兄弟姉妹たちに対する愛も、隣人に対する愛も冷えるのです。なぜでしょうか?不法がはびこるからです。聖書に教えられていることとは違うことを教えたり、聖書に反するようなことを言ったりすると、愛が冷え、自己中心になるのです。世の終わりが近くなると、そういう人たちが多くなるのです。今はそのような傾向が強くなっているのではないでしょうか。

では、このことについて聖書ではどのように教えているでしょうか?マルコの福音書8章34節を開いてください。ここでイエス様はこう言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。(マルコ8:34)」

また、こうも言われました。「『心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』…『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』」(マルコ12:30-31)

だれでもイエスについて行きたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、イエスについて行かなければなりません。自分を愛するのではなく自分を捨てて、イエスについて行く、それがクリスチャンの信仰の土台です。そして、神を愛し、隣人を愛します。自分を愛するようにということは、聖書には書かれてありません。健全なセルフイメージを持つことは大切なことですが、それと自分を愛することは違います。自分を愛することができなければ神を愛することもできないし、隣人を愛することだってできないのだから、まずは自分を愛さなければならないと言う人がいますが、それはこの世の知恵が教えていることで、聖書が言っていることではないのです。聖書が言っていることは、あなたが神である主を愛せよ、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよということです。そうすれば、あなたに真の自由と平和がもらされるのです。なぜなら、真理はあなたがたを自由にするからです。真理のみことばに従うなら、その真理があなたを自由にするのです。

次に挙げられているのは、金を愛する者です。終わりの日が近くなると、人々は金を愛するようになるというのです。金を愛して何が悪いのか?世の中すべてが金じゃないですか?しかし、聖書はこう言っています。「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」(Ⅰテモテ6:10)金を愛することがすべての悪の根であり、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通すことになります。必要であれば、必ず神が与えてくださいます。ですから、金を愛するのではなく、神を愛さなければなりません。お金を何に使うかによってその人の心がどこにあるか、何に関心があるのかがわかります。自己中心的になると神のために使ったり、人のために使ったりということがなくなり、自分のために使うようになります。なぜなら、だれもふたりの主人に仕えることはできないからです。神にも仕え、また富にも使えるということはできません。神を愛すれば、神に仕えるようになり、金を愛すれば、金に仕えるようになるのです。その結果、信仰から迷い出て、悲惨な結果を見に招くことになるのです。

第三のことは、大言壮語する者です。大言壮語とは何でしょうか。それは自慢することです。できそうにもないことや威勢のいいことを言って誇るのです。終わりの日が近くなると、多くの人がこのように大言壮語するようになります。

第四に、不遜な者です。不遜な者とはギリシャ語で「ヒュペレーファノス」という言葉ですが、これは自分を高く示すという意味です。自分を高くするので、そこには当然相手を見下す態度が生まれます。このような心があると、上から目線で言ったり、やったりするようになるのです。

ルカの福音書18章には、有名なパリサイ人の祈りが紹介されています。彼は、立って、心の中でこう祈りました。「神よ。私はわかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」(ルカ18:11-12)

このパリサイ人は、自分を高い所に置きました。そして、取税人をはじめとする罪人をいつも見下していました。それがこの祈りによく表われています。「ことにこの取税人のようでないことを感謝します」と、祈っています。これが傲慢な者、不遜な者の姿です。

次に、神を汚す者です。つまり、神を侮辱する者です。このような人は神を敬うことをしません。神を敬うのではなく自分を敬います。そうした自尊心は常に神への侮辱を生み出します。神よりも自分の方がもっと知っているとか、神を信じて何にもならないと豪語するのです。こうした思いはやがて人を軽蔑し、人を傷つける言動となって表われます。

次は、両親に従わない者です。終わりの日が近くなると、だんだんと両親にも従わなくなる人が増えてきます。両親のことより自分のことが大切だと思うからです。でも、モーセの十戒では何と言っているでしょうか?モーセの十戒の最初の四つの戒めは神との関係について、後半の六つの戒めは対人関係について言われていますが、その対人関係の最初に言われているのは両親に対する戒めです。そこには、「あなたの父と母を敬え。」(出エジプト20:12)とあります。それが「あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるため」なのです。なぜこのように言われているのでしょうか?なぜなら、あなたの両親は神の代理者として立てられているからです。目に見える親を愛することのできない人が、どうして目に見えない神を愛することができるでしょうか。きょうは奇しくも父の日ということですから、両親から離れて住んでいる方は、ぜひ両親に電話なり、メールなりで感謝を表したいものです。

次は、「感謝することを知らない者」です。終わりの日が近くなると感謝することを知らない人が増えてきます。皆さんは感謝していますか?ブツブツ文句ばっかり言ってはいないでしょうか?不平不満ばかり漏らしてはいないでしょうか?なぜ感謝することができないのでしょうか?それが当たり前だと思っているからです。でも、あなたが生きているのは決して当たり前のことではありません。生きたくても生きられない人がたくさんいます。だから、生きていること自体が奇跡であり、感謝であり、恵みなのです。そればかりか、神はあなたを罪から救ってくださいました。永遠の滅びから、永遠のいのちへと移してくださったのです。神はこんな者でも救ってくださったと思うと、本当に感謝ではないでしょうか。いや、私は自分で頑張って生きてきたんです!誰の世話にもなっていません!自分で一生懸命努力して生きてきたんです!そういう人は感謝することができません。それが当たり前だと思っていたり、自分の力でやって来たと思っている人は感謝ができないのです。そういう人は感謝することをしないばかりか、与えられてもまだ足りないと言って文句を言います。終わりの日が近くなると感謝することを知らない者が増えてきますが、そのような中でも私たちは神を覚え、神によって生かされていることを感謝したいと思います。

次に、汚れた者です。汚れた者とは何でしょうか?汚れた者という言葉はギリシャ語の「アノシオス」ということばですが、これは成文化された法律を破るということでよりも、成文化されていない法律を犯すということです。たとえば、ギリシャ人にとっては、死者を埋葬することを拒むことはアノシオスでした。また、兄弟が姉妹と、もしくは、息子が母親と結婚することもアノシオスであったそうです。つまり、律法の文言に書かれているかいないかということと関係なく、その人が生きていく上での基本的な倫理観や道徳観、マナーやモラルといった面で欠如している人のことを言うのです。

そして次は情け知らずの者です。これは家族や友人への愛情がなくなることです。人は自己中心的になると、もっとも親密なはずの家族のつながりも無くなってしまいます。自己中心的な喜びを追及するあまり、自分の人生がそうした基本的なつながりの上に建てられていることも認めようとしなくなるのです。

M兄から聞いたお話ですが、お借りしている畑の近くの小さな池にカモが親子で泳いでいるそうです。しかし、M兄が近づくと近くの茂みに隠れます。すると突然親カモ傷ついたふりをするのだそうです。M兄の関心を自分に向けさせて、子カモを守ろうとするのです。そしてM兄がそこから離れるとまた子カモのところに戻ります。カモでさえこんなに愛情があるのに人間はどうでしょう。そこに傷ついた人がいても知らんふりをするのです。カモ~ン!私たちはカモよりももっとすぐれたものじゃないですか。困った人や苦しんでいる人を見たら、深い同情心、あわれみの心をもって接したいものです。

次に、和解しない者です。これは「アスポンドス」というギリシャ語ですが、憎悪のあまり、争った相手を決して赦そうとしない態度のことです。この語は精神的な残酷さ、冷酷さを述べることばであって、無慈悲な冷酷さのゆえに、相手を分離しようとすることです。どこまでも執念深く、他の人と仲良くやろうとする心がありません。

次に、そしる者です。これは陰口をたたく者、中傷する者のことです。これはギリシャ語では「ディアボロス」という言葉ですが、英語の「devil」(悪魔)の語源になった語です。ですから、もし人を中傷する人がいれば、それは悪魔から来ているのです。終わりの日には、こうした中傷者が増えてきます。

次は、節制のない者です。節制がない者とは、欲望を抑えられない人のことです。人はその心の願望を叶えたい存在なのです。そしていつの間にか習慣や欲望の奴隷になってしまい、その人自身を滅ぼしてしまいます。銀貨30枚でイエスを裏切ってしまったイスカリオテのユダは、この欲望を抑えることができませんでした。彼は節制のない者でした。その結果、彼は自らそのつけを受けることになってしまいました。しかし、それはユダだけのことではなく、私たにも言えることです。

次は、粗暴な者です。粗暴な者とは野蛮な者、獣のように残忍な者のことです。このような人には人間としての同情心やあわれみの心はありません。犬でさえも、自分の主人を傷つけると申し訳なさそうな動作をしますが、粗暴な人にはこのような感情すらありません。

次に、善を好まない人です。善を好まないで悪を好みます。そんな人がいるのでしょうか。いるんです。このような人は、良いことが煩わしく感じます。光よりも闇を愛するのです。その方が安心するのです。このような人は精神的な味覚、感覚を失っているのです。そして、終わりの日には、このような人がだんだん増えてくるのです。

次は、裏切る者です。いつも近くにいて親しい友人だと思っていたら、ただのふりだったとか、自分に都合が悪くなるとすぐに見捨ててしまう人たちのことです。

向こうみずな者とは、無謀なことをする人のことです。その人は、わがままで分別がありません。一見情熱的に見えますが、それはただ自分がやりたいからやっているだけで、そういう人はもはや他の人の意見を聞く耳を持ちません。情熱的であることと無謀であることはまさに紙一重です。

次は、慢心する者です。慢心する者とは、うぬぼれる人、思い上がる人のことです。原語の「テトュフォーメノス」は、自負心で膨張する者という意味です。俺はこんなにすごいんだと、風船が膨張するように心が膨張するのです。

そして、神よりも快楽を愛する者です。趣味やレジャーが悪いというのではありません。それはリフレッシュするために、リラックスするために、神が与えてくださった祝福です。でも、それを神よりも大事にすれば問題が生じてきます。

ここにあるリストの最後は5節に書いてあることです。「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者」です。どういうことでしょうか?イエスは主です!救い主です!と言いながら、それと矛盾するようなことをやっている人のことです。こういう人は、結局はイエス・キリストに従うのではなくて、自分の肉に従って生きています。宗教の形を気にしているだけで中身が伴わないのです。神のことばがどれだけ私たちの生活を変える力があることを理解することができませか。こういう人を避けなければなりません。

そればかりではありません。6節と7節にはこうあります。「こういう人々の中には、家々に入り込み、愚かな女たちをたぶらかしている者がいます。その女たちは、さまざまの情欲に引き回されて罪に罪を重ね、いつも学んではいるが、いつになっても真理を知ることのできない者たちです。」

どういうことでしょうか?「たぶらかす者たち」は、入り込む者たちです。彼らは、愚かな女たちがさまざまな情欲に引き回されていることを知っているので、そこに入り込み、自分の虜にします。大抵の場合、女性は家にいて、子育てと家事の平凡な日々の繰り返しにむなしさを感じています。いったい何のために生きているのかわからなくなったり、過去の罪責感などで悩んで落ち込むことがありますが、そんな時に「ピンポン」と玄関のチャイムが鳴るので行ってみると、優しそうな二人連れがニコニコしながら話しかけです。「聖書を学んでみませんか」「いいえ、私はいいです。」と一度は断るものの、何度か話をしているうちに、この人たち、「本当にいい人たちだわ、ちょっとくらいだったら聞いてみようかしたら」と思い始めます。すると、生きる目的とか、人生の意味など、これまで考えたこともないようなことを教えてくれるのでおもしろくなって、だんだんとのめり込んでいくのです。それがあからさまに間違っていたらすぐにおかしいと気づくのですが、そこにはちょっと真理が混ざっているので、それが聖書の教えとは違うということに気付かないのです。そして時間が経つうちに、聖書とは全く違うところに導かれてしまいます。だから、彼らはいつも学んではいても、いつになっても真理を知ることができません。パウロの時代にもそういう人たちがいました。彼らはいつも学んでいても、いつになっても真理を知ることができないのです。

8節をご覧ください。「また、こういう人たちは、ちょうどヤンネとヤンプレがモーセに逆らったように、真理に逆らうのです。彼らは知性の腐った、信仰の失格者です。」

この「ヤンネとヤンブレ」とはだれのことなのかははっきりわかりません。彼らのことは聖書の他のところには出ていないからです。でも確かなことはモーセの時代に生きていた人物で、モーセに逆らった人たちであるということです。多くの人たちは、ユダヤ人の伝承から、出エジプト記7~9章に登場するエジプトの呪法師のことではないかと考えています。あるいは、出エジプト記12章38節に出てくるイスラエルの民と一緒に入り混じってエジプトを出てきた外国人の中にいた人物ではないかとも考えられています。彼らは後に荒野に導かれたとき、激しい欲望にかられ、「ああ肉が食べたい。エジプトで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。」と言って、モーセに激しくつぶやきました(民数記11:4-5)。確かなことはわかりませんが、彼らについてわかることは、彼らはだましごとにたけていて、人々を惑わしていたということです。彼らの知性は腐っていました。彼らは信仰の失格者です。

だから目を覚ましていなければなりません。敵である悪魔は、食い尽くすべき獲物を探し求めて歩き回っているからです。聖書は悲観的なことを教えているわけではありませんが、でも厳しい現実があるということを予め教えています。ですから、私たちはそのことを覚えて、そうした困難な時代に対処していかなければならないのです。

Ⅲ.しかし、これ以上は進むことはできない(9)

しかし、感謝なことに、聖書はそれだけで終わっていません。最後の9節には力強い約束が記されてあります。ご一緒に読んでみましょう。「でも、彼らはもうこれ以上進むことはできません。彼らの愚かさは、あのふたりの場合のように、すべての人にはっきりわかるからです。」

彼らとはだれのことでしょうか。このように知性の腐った人たちのことです。真理に逆らう人たちです。終わりの日にはそのような人たちがやって来て、狂暴な狼のように群れを荒らし回しますが、彼らはそれ以上進むことはできません。彼らの力もそこまでで、それ以上は進むことはできないのです。化けの皮がはがれるからです。それが真理の光に暴露されると、必然的にしぼみ、滅亡するからです。神の不動の礎は堅く置かれています。だから教会は決して揺り動かされることはありません。だからたとえどんな人が現れても、どんな困難な時代がやって来てもびくともすることはないのです。そのような時代にあっても、堅く立ち続けることができるのです。

ですから、私たちにとって必要なことは、この真理の上にしっかりと立ち続けていることです。そうすれば、どんなことがあっても揺り動かされることはありません。今は、終わりの日の終わりの時です。終わりの日が限りなく近づいています。このような時代には、ますます不法がはびこり、愛が冷えるでしょう。教会もそうした影響を受けることも少なくありません。けれども、私たちは神のものであり、神に属している者として、この神に従うのです。そうすれば、どんな時代にあっても神が守り、決して動かされることがないように支えていてくださいます。そのことを覚えて、終わりの日に困難な時代がやって来ても慌てることなく、堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かっていきましょう。敵である悪魔はもうそれ以上は進むことはできないからです。

ⅡTimothy2:20-26 “Being an Instrument for Noble Purposes”

Today, I will speak on “being an instrument for noble purposes.” In the first half of chapter two, Paul, in order to encourage Timothy who was pastoring the church at Ephesus, advised him to be strong in the grace that is in Jesus Christ. And, Paul advised him to remember Jesus Christ, raised from the dead, descended from David. The reason is that whatever problems Timothy was facing, the key to solving all of them is in Jesus Christ. By remembering who Jesus is, whatever we are suffering, we can endure it.

Last week, we saw that Paul said that quarreling about words is of no value, and only ruins those who listen, and he said to warn them before God because it destroys the faith of some. There were actually people in the church at Ephesus doing this–Hymanaeus and Philetus, whose teaching was spreading like gangrene (the Japanese translation says “like cancer”), and affecting the whole body.

In spite of this, God’s solid foundation stands firm. God’s solid foundation is the church. Even if there is such quarreling in God’s church, the church does not waver, because it is God’s, and God knows who are his. They will turn away from wickedness. So even those the church faces various problems andattacks, it does not waver. It most certainly cannot waver because it stands firm on God’s word.

If this is the case, how are we to be? That’s the subject for today. If the church is those who are in God, we do not waver from that firm foundation, and must become instruments useful to God. Just how can we become instruments like this?

I. Instruments for noble purposes (v. 20-21)

First look at verses 20 and 21.

In a large house there are articles not only of gold and silver, but also of wood and clay; some are for noble purposes and some for ignoble. If a man cleanses himself from the latter, he will be an instrument for noble purposes, made holy, useful to the Master and prepared to do any good work.

What does “in a large house” mean? The “large house” is the church. Like in a large house, where there are not only articles made of gold and silver articles, but wood and ceramic, in the church there are different kinds of containers. Some serve noble purposes, some are made for ignoble purposes. Containers made of gold and silver are not only used for eating, but also are used as decorations. My mother-in-law had some heirlooms, and when she died my wife inherited them–a glittering silver spoon, fork, and tray, not for everyday use, but for special guests and occasions. As particularly valuable items, they are treated specially.

What would happen if these were treated in the opposite way, as a garbage can or container for leftovers? What a shame to use them as a trash can or leftover container, inconspicuously placed on a backyard porch, in some corner of the kitchen, or hidden inside a built-in cabinet. An ignoble use, inside a cabinet mixed in among less worthy articles. In the same way, there are all kinds in the church, and not all are the same, some are used for noble purposes, some are used for ignoble ones.

What is the standard for determining which is which? It isn’t having such great talent or ability. It isn’t how a person serves the church. It is a matter of how much he turns away from wickedness and cleanses himself from it.

Look at verse 21. Here it is: “If a man cleanses himself from the latter, he will be an instrument for noble purposes, made holy, useful to the Master and prepared to do any good work. ”

Everyone, please imagine I have an expensive wine glass here. Would you drink from it if there were mold growing in the bottom of the glass? No matter how shiny a gold container is, if it is filled with trash it can’t be used. Before using it we’d check it to be sure it was clean. We would use a clean one. All the more so if we were to use it for a guest. Christians, God’s laborers, are the same. No matter how gifted or talented, if we are not holy we can’t be used by God. An instrument used by God, an instrument used for a noble purpose is one who has cleansed himself from the latter.

What is this “latter?” Hymenaeus and Philetus were written about before this. They had wandered from the truth, and destroyed the faith of some. In other words, instead of building others’ faith up, they caused people to turn from their faith. They were filthy instruments. You must turn from such wickedness, and become a noble instrument.

Isaiah prophesied about this. Isaiah 52:11: “Depart, depart, go out from there! Touch no unclean thing. Come out from it and be pure, you who carry the vessels of the LORD.”

The people of God, Israel, were saved by God’s unilateral grace. They put on the garments of righteousness. All that was expected of them was that they would keep from defiling them. They were called upon to “Go out, go out, depart from them.” You have been saved from Babylon, clothed in beautiful new garments, so you must brush off the dirt and shake off the shackles. And then get out, and avoid that which defiles. You must get out of there, and cleanse your body. That’s what is worthy of a vessel of God.

Proverbs 25:4 records the same thing. “Remove the dross from the silver, and out comes material for the silversmith.” Impurities. How do we get a good vessel? Remove the dross, the impurities. Do so, and we can become good instruments in our sleep. Now, what about removing the dross?

II. Becoming a holy instrument (v. 22)

Please look at verse 22.

“Flee the evil desires of youth, and pursue righteousness, faith, love and peace, along with those who call on the Lord out of a pure heart. ”

Here, Paul is teaching what to avoid, and what to seek in order to become a useful instrument to God. First, the things to avoid are the evil desires of youth. This not only means lusts of the flesh, including sexual desires, but includes sin that goes well beyond that. That’s what Barclay’s Commentary says.

“Impatience is included in the meaning. That is, to go faster and faster without knowing it, in such a hurry as to not notice when something good has become harmful.

Next, self-centeredness is included. That is, to not be able to suppress your own ideas when their expression is arrogant. And to not know how to accept the superior points of another’s ideas, be sympathetic to them, and understand them.

And there is the matter of liking to quarrel. To debate more, and do less. To spend the night in heated discussion, but to leave problems unsolved.

And, to be overly fond of novelty. To argue against a reason simply because it is an old reason, and to ardent about something for the simple reason it is new. ”

When young, these feelings more easily control us. But not only in our youth. It’s true no matter what our age. We are to flee from this wickedness. How can a young person flee from these?

It’s here in Psalms 119:9-11.

“How can a young man keep his way pure? By living according to your word. I seek you with all my heart; do not let me stray from your commands. I have hidden your word in my heart that I might not sin against you.

How can a young person keep his way pure? The author of the Psalms says it is by living according to God’s word. To seek God’s word with all our heart, and live in accordance with His commands. It’s important to fill our hearts to the brim with God’s word. Why? People talk of what is in their heart, and act according to what is in their heart. So what is in our heart is very important. If filled with God’s word, our behavior will change with it.And Paul not only advises us on the evil to flee from, but the good we should seek after. What are these good things? Four are listed. They are righteousness, faith, love and peace.

First is righteousness. What is righteousness? Righteousness is correctness. It’s not a matter of just being accepted as righteous, but as a Christian who has been accepted as righteous we must seek after righteousness. A Christian must always seek to do the right thing.

The second one is faith. Faith is to trust God. It is to listen to God’s word, to believe God, and to follow his direction. Through this our faith is strengthened, and we can grow. In many cases, the times when our faith is weak we are not listening to what God is saying. Or it seems like we are listening when we really aren’t. If we give priority to our own thoughts, we can’t obey God’s directions.

Jesus spoke of this in his parable of the sower. A certain person was sowing seed, some by the side of the road, some in rocky places, some among thorns, and some on good land. What happened to the seed sown by the side of the road? The birds came and ate it, so it couldn’t bear fruit. The seed sown in rocky places germinated, but without soil, it dried up in the daytime sun, unable to put down any roots. The seed sown among the thorns was covered by the thorn bushes when they grew, so that it, too, was unable to bear fruit. But as for the seed sown in good soil, some bore fruit a hundred-fold, some sixty-fold, some thirty-fold. The seed planted in good soil are people who hear the word of God, understand what it means, and by obeying and living it they bear fruit.

The next thing the Christian must seek after is love. What is love? I Corinthians 13 is well-known. “Love is patient, love is kind. It does not envy, it does not boast, it is not proud. It is not rude, it is not self-seeking, it is not easily angered, it keeps no record of wrongs. Love does not delight in envying but rejoices with the truth. It always protects, always trusts, always hopes, always perseveres.” (13:4-7)

We don’t have these qualities when we are born. They are God’s love, self-sacrificial love, giving love, agape love. God expressed this love to us by giving his own Son. A Christian knows God’s love, and accepts God’s love. But that is not sufficient, from then on he must become a person who lives in that love. A Christians must spend the rest of his life seeking after that love.

The fourth thing is peace. Peace is brought about by a right relationship with God, and a right relationship in respect to our interactions with others–a condition of accord and harmony. If we listen to God’s word and live in obedience to it, it will bring about peace, and if we don’t, it will generate confusion and not peace, conflict and not harmony.

Please look at Philippians 4: 8-9

Finally, brothers, whatever is true, whatever is noble, whatever is right, whatever is pure, whatever is lovely, whatever is admirable–if anything is excellent or praiseworthy–think about such things. Whatever your have learned or received or heard from me, or seen in me–put it into practice. And the God of peace will be with you.

How can the God of peace be with us? Whatever is true, whatever is noble, whatever is right, whatever is pure, whatever is lovely, whatever is admirable–if anything is excellent or praiseworthy–think about such things. And not just think about them, but we must put them into practice. And if the do, the God of peace will be with us.

Do you want to be an instrument for noble purposes? Do you want to be an instrument God can use? If that is your desire, you must flee from evil, and think about what’s is true, noble, right, lovely, all that is excellent. And put them into practice. If we do, the God of peace will be with us.

There is one more important thing to consider here: what it is to call upon the Lord with a pure heart. As a Christian we can’t seek after these on our own. It is with others who have a pure heart that we must do our seeking. That means the body of Christ, the family of God–the Church. A Christian must not go it alone, to separate himself from his companions, to become distant. It may seem easier to be without any friction with others, but throughout the Bible the stress is on doing it “together.” The joy, the power and the support can be found in that companionship.

The British missionary John Wesley put it this way. “A person must have friends. Otherwise, he must make them. No one is going to heaven alone.” What meaningful words, don’t you think? You can understand that by looking at the kanji for “person”–two leaning together and supporting each other. We live by supporting one another, and cannot live alone. The faith life of a Christian is the same; we must seek after righteousness, faith, love and peace along with others who call upon the Lord with a pure heart.

III. Don’t have anything to do with quarrels (v. 23-26)

Thirdly, one more thing that Christians in order to “be an instrument for noble purposes” (21) must be careful about is that they “don’t have anything to do with… quarrels.” (23) Please look at verse 23. Here it says, “Don’t have anything to do with foolish and stupid arguments, because you know they produce quarrels.” “Foolish and stupid arguments” (23) are arguments that have no content and are just an idea. However, such “foolish and stupid arguments…produce quarrels” (23) “It is of no value, and only ruins those who listen.” (14) In the Ephesian church such talk “spread like gangrene.” (17) However, “the Lord’s servant must not quarrel.” (24) Instead, the proper attitude of the Lord’s servant is to “be kind to everyone, able to teach, not resentful.” (24)

  1.  “Be kind to everyone” (24) The Lord’s servant is not to quarrel, but to “be kind to everyone.” (24) This is the attitude that Christians are to have. Most of the time when you quarrel both parties become emotional and excited and so from such a condition a good result will not be produced.  However, with a kind and calm attitude when you communicate with calm words, the other person’s feelings become quiet and at times the other person will listen.

Proverbs 15:1 says, “A gentle answer turns away wrath,

But a harsh word stirs up anger.”

We are not to do something bad to someone because they have done something bad to us. Even if the other person is emotional, we are to respond with a calm attitude and with soft words. Therefore, let’s not quarrel, but “be kind to everyone.” (24) This is the kind of church we are aiming to be.

  1. Be “able to teach.” (24) The Lord’s servant does not quarrel, but studies the Bible well and is “able to teach.”(24) “Be transformed by the renewing of your mind.  Then you will be able to test and approve what God’s will is-his good, pleasing and perfect will.” (Romans 12:2)  It may look like this will take time, but walk on the correct road. It is the most reliable and closest road.
  2. Not to be “resentful”. (24) We need to not be resentful especially towards those who cause you misery. This is a very difficult thing to do. God wants us not to be resentful. Jesus said “Love your enemies and pray for those who persecute you.”
  3. “Those who oppose him he must gently instruct.” (25) To instruct is to correct. However, that is not instructing with anger, but with gentleness. It is not by looking down on him, but with gentleness. He must correct with humility. If so, the cold heart that was frozen shut will by Christ’s warm love melt.

The reason why the Lord’s servant must take such an attitude is written in the last half of verse 25. “In the hope that God will grant them repentance leading them to a knowledge of the truth.” Also verse 26 says, “and that they will come to their senses and escape from the trap of the devil, who has taken them captive to do his will.”

In other words, they may be saved. God “wants all men to be saved and to come to a knowledge of the truth.” (I Tim. 2:4) This is God’s will. Therefore, we as much as possible should strive to not be resentful and have attitudes in accordance with the will of God. Paul too said in 2:10 “Therefore I endure everything for the sake of the elect, that they too may obtain the salvation that is in Christ Jesus, with eternal glory.” We are the same. We don’t know who will be saved so we too need to “endure everything for the sake of the elect, that they too may obtain the salvation that is in Christ Jesus, with eternal glory.” (2:10) We are the same we don’t know who the elect is, but there are such people . We “must be kind to everyone, able to teach, not resentful.” (24) Those who oppose us we “must gently instruct.” (25) It is God that “will grant them repentance,” (25), but it is the work of the servant of the Lord, us Christians, to lead them to repentance.

This is truly the kind of person that God uses as his instrument. The instrument that God uses is completely unrelated to how splendid, or gorgeous he is. It depends upon how holy he is.  “If a man cleanses himself” (21) and flees from unrighteousness, “he will be an instrument for noble purposes.” (21)

Are you an instrument that is used by God?  What do you need to flee from? Also what are you seeking after?  First let’s begin by making our instrument ready as “an instrument for noble purposes…useful to the Master and prepared to do any good work.” (21)

Ⅱテモテ2章20~26節 「尊いことに用いられる器」

きょうは、「尊いことに用いられる器」というタイトルでお話します。2章の前半の所でパウロは、エペソの教会で牧会していたテモテを励ますために、キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい、と勧めました。また、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえられたイエス・キリストを、いつも思っていなさい、とも勧めました。なぜなら、テモテの問題がどのようなものであれ、すべての解決の鍵はイエス・キリストにあるからです。キリストがどのような方であるのかを思い出すなら、どのような苦しみの中にあったとしても、必ずそれに耐えることができるからです。

そしてパウロは先週のところで、何の益にもならず、聞いている人々を滅ぼすことになるような、ことばについての論争などしないように、神の御前で厳しく命じるようにと言いました。そうした論争は人を建て上げるどころか、人を滅ぼすことになるからです。実際にエペソの教会にはそういう人たちがいました。ヒメナオとかピレトといった人たちです。彼らの話は癌のように広がっていました。癌がからだ全体を蝕んで滅ぼしてしまうように、そうした話はキリストのからだである教会を蝕んでいくことになるのです。

それにもかかわらず、神の不動の礎は堅く置かれています。神の不動の礎とは教会のことでした。たとえ神の教会にそういう話が起こっても、神の教会は決して揺り動かされることはありません。なぜなら、教会は神のものであり、神はご自身に属する者を知っておられるからです。そうした人たちは不義から離れます。だから教会はいろいろな問題や攻撃に遭うことがありますが、決して揺らぐことはないのです。決して揺らぐことがない神のことばの上に堅く立っているからです。教会は、神の不動の礎なのです。であれば、私たちはどうあるべきなのでしょうか。それがきょうのテーマです。であれば私たちは、そうした不義から離れなければなりません。そして、神に用いられる器にならなければなりません。いったいどうしたらそのような器になることができるのでしょうか。

Ⅰ.尊いことに用いられる器(20-21)

まず20節と21節をご覧ください。

「大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。」

「大きな家」とは何でしょうか。それは教会のことです。大きな家には金や銀の器だけでなく、木や土の器など、あらゆる種類の器があるように、教会にもいろいろな器があります。いろいろな人たちがいるのです。また、尊いことのために用いられる器もあれば、卑しいことのために用いられる器もあります。たとえば、金や銀でできた高価な器は食べる時に使われるだけでなく、装飾品としても用いられます。それは高価なものだからです。食器という領域を超えているわけです。もちろん、食器としても使われますが、そうした飾り物としても使われるのです。

それとは違ってごみ箱とか残飯入れは卑しいことのために用いられます。だから大抵の場合は外のベランダとか、台所の隅の目立たないところに置かれるのです。家の中にはいろいろな器がありますが、ある物は尊いことのために、またある物は卑しいことに用いられるのです。それと同じように、教会にもあらゆる器がありますが、すべてが同じように用いられるかというとそうではなく、あるものは尊いことのために用いられ、ある物は卑しいことのために用いられるのです。

では、それを分ける基準は何でしょうか。どのような人が尊いことのために用いられ、どのような人が卑しいことのために用いられるのでしょうか。それはその人がどれだけ賜物や能力を持っているかということとは関係ありません。また、その人がどのような奉仕をしているかということとも関係ないのです。それは、その人がどれだけ汚れから離れて、自分自身をきよめるかということによって決まります。21節をご覧ください。ここには、「だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。」とあります。

皆さん、想像してみてください。たとえば、ここにとても高価なワイングラスがあるとしましょう。しかし、それがどんなに高価なグラスであっても、そのグラスの底にカビが生えていたらどうでしょう。それでも飲めるという人は少ないのではないでしょうか。また、どんなに豪華な器でも、ごみがいっぱい溜まっているとした使うことができません。使うためにはその器が汚れていないことが必要なのです。きれいでなければなりません。それが第一の条件です。ましてお客さんに出す時などはなおさらのことです。それは神の働き人であるクリスチャンも同じです。どんなに賜物があっても、どんな能力が高くても、聖くなければ神に用いられることはできません。神に用いられる尊い器とは、自分自身をきよめて、これらのことから離れなければならないのです。

「これらのこと」とは何でしょうか。その前にヒメナオとかピレトといった人たちのことが書かれてありました。彼らは真理からはずれてしまい、ある人々の信仰をくつがえすような、それを聞いている人たちを滅ぼすようなことを教えていました。すなわち、人々を建て上げるのではなく滅ぼすようなこと、人々が信仰から離れて不敬虔に深入りして、真理から離れていくようなことのことです。そうしたことは器を汚すことです。そうした不義から離れるなら、あなたは尊いことのために用いられる器になれるのです。

そのことを預言者イザヤはこう述べています。イザヤ書52章11節です。「去れよ。去れよ。そこを出よ。汚れたものに触れてはならない。その中から出て、身をきよめよ。の器をになう者たち。」神の民であったイスラエルは、神の一方的な恵みによって救われました。彼らは義の衣という美しい衣を着せていただいたのです。そんな彼らに求められていたことはどんなことかというと、汚れから去ることだったのです。それが「去れよ。去れよ。そこを出よ。」という呼びかけでした。あなたはバビロンから救われて美しい衣を着せられたのだから、そのちりを払い落とし、かせをふりほどかなければなりません。そして、そこを出て、汚れたものに触れてはならない。その中から出て、身をきよめなければなりません。それが主の器をになう者たちなのです。

箴言25章4節にも、同じようなことが記されてあります。「銀から、かなかすを除け。そうすれば、練られて良い器ができる。」かなかすとは不純物のことです。どうしたら良い器ができるのでしょうか。かなかす、不純物を除くことです。そうすれば、寝られて良い器ができるのです。では、かなかすを取り除くとはどういうことでしょうか。

Ⅱ.きよい器になるために(22)

22節をご覧ください。

「それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」

パウロはここで、神に用いられるきよい器になるために、避けなければならないことと追い求めるべきことを教えています。まず避けなければならないことは何でしょうか。若い時の情欲です。若い時の情欲とは肉体的な欲望のことだけでなく、それをはるかに越えた汚れの全般を含みます。バークレーはその注解書でこう言っています。

それは、性急であるという意味も含んでいる。すなわち、徐々に速度を速めることを知らず、あまり急ぐと、益よりもむしろ害になることに気づかないことである。 次に、自己中心を含んでいる。すなわち、自分の意見を抑えることができないことと、その表現が傲慢なことである。そして、自分以外の者の意見にもある優れた点を認め、共感し、理解することを知らぬことである。またさらに論争を好むことである。したがって議論が多く実行は少なくなる。夜を徹して語り明かしても、ただ未解決の問題をまき散らすだけである。また新しがり家である。ただ古いという理由だけである物を批判し、反面、ただ新しいとの理由だけである物を熱望する。体験の価値を低く評価し、昔の人々が信じてきたことに旧式の烙印を押す。」

若い時にはこうした感情に支配されやいものです。しかし、それは若い時だけに限りません。いくつになっても同じです。そうした汚れを避けなければなりません。いったいどのようにして若い人はそれを避けることができるのでしょうか。

詩篇119篇9節~11節には、こうあります。

「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。
あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。
よ。あなたは、ほむべき方。あなたのおきてを私に教えてください。私は、このくちびるで、あなたの御口の決めたことをことごとく語り告げます。私は、あなたのさとしの道を、どんな宝よりも、楽しんでいます。」

どのようにして若い人は自分の道をきよく保つことができるのでしょうか。ここで詩篇の作者は、それは神のことばに従ってそれを守ることだと言っています。神のことばを心に蓄え、神のことばに従ってそれを守ることです。神のことばが心に満ちることが大切だというのです。なぜでしょうか。人は心にあることを話し、心にあるように行動するからです。だからあなたの心が何で満たされているかということが重要なのです。あなたの心が神のことばで満たされているなら、そのような態度に変わっていくからです。

それからパウロはここで悪を避けるだけでなく、良いことを追い求めるようにと勧めています。その良いこととは何でしょうか。ここには4つのことが書かれています。それは義と信仰と愛と平和です。 まず義です。義と正しいということです。これはイエス・キリストを信じて罪から救われ、義と認められることではなく、義と認められたクリスチャンが追い求めなければならないことです。それは不正ではなく正義のことなのです。クリスチャンはいつも正義を求めなければなりません。

第二のことは、信仰です。信仰とは、神に信頼することです。神のみことばを聞いたら、神に信頼して、それに従わなければなりません。そうすることによって信仰が強められ、成長していくことができるからです。多くの場合、信仰が弱っている時というのは、神のことばをあまり聞いていない時です。あるいは聞いているようでも、実際には聞いていない場合がほとんどです。自分の思いや考えが優先して、神に従うことができないのです。

イエス様は種まきのたとえを語られました。ある人が種を蒔いたら、それぞれ道ばた、岩地、いばらの中、そして良い地に落ちました。道ばたに落ちた種はどうなったでしょうか。烏が来て食べてしまったので美を結ぶことができませんでした。岩地に蒔かれた種も、土がなかったのですぐに芽を出しましたが、日が上ると、焼けて、根がないため枯れてしまいました。いばらの中に蒔かれた種も、いばらが伸びて、ふさいでしまったので、実を結ぶことができませんでした。しかし、良い地に聞かれた種は、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びました。良い地に蒔かれた種、それはみことばを聞くと、それを悟り、そのみことばに従って生きる人のことです。神に信頼する人は、何倍もの実を結ぶのです。

次にクリスチャンが追い求めなければならないのは、愛です。愛とは何でしょうか。有名なⅠコリント13章にはこうあります。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」(13:4-7)

私たちは、生まれながらにしてこのような性質を持っていません。これは神の愛、アガペーの愛であり、自己犠牲の愛、与える愛です。神はこの愛を、ご自身の御子を十字架につけて死なせることによって表してくださいました。ここに愛があるのです。だから教会には十字架があるのです。ローマ時代に処刑の道具だった十字架が、いったいなぜ教会に掲げられているのでしょうか。ここに愛があるからです。クリスチャンはこの神の愛を知り、この愛を受けました。でもそれで十分かというとそうではなく、今度はこの愛に生きる者でなければなりません。それはクリスチャンが生涯にわたって追い求めていかなければならないことなのです。

第四のことは、平和です。平和とは神との正しい関係によってもたらされたが、人との交わりにおいて保つべき一致であり、調和であり、ハーモニーのことです。神のことばを聞き、それに従って生きるなら、そこには必ず平和がもたらされます。そうでないと、そこには平和はなく、むしろ混乱や争いが生じるのです。

ピリピ4章8~9節を開いてください。ここにはこう書かれてあります。「最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。どうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださるのでしょうか。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判のよいこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することに心を留めることによってです。ただ留めるだけでなく、それを実行しなければなりません。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。

あなたは尊いことに用いられる器になりたいでしょうか。神に用いられる器になりたいですか。もしそのように願っておられるのなら、悪を避け、このようなものに心を留めなければなりません。そしてそれを実行しなければなりません。そうすれば、平和の神がともにいてくださるのです。

しかし、ここにはもう一つ大切なことが教えられています。それは、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、ということです。クリスチャンはこれらのものを決して一人で追い求めるのではありません。きよい心で主を求める人たちとともに、追い求めるのです。それはキリストの共同体であり、神の家族である教会とともにという意味です。クリスチャンは一人になることを求め、自分の仲間から遠ざかってはいけません。その方が何の摩擦も生じないので楽かもしれませんが、聖書では「共に」ということが強調されているのです。その喜び、その力、支えを、その交わりの中に見出さなければなりません。

イギリスの伝道者であったジョン・ウェスレーはこう言いました。「人は友人を持っていなければならない。さもなければ作らなければならない。だれも独りでは天国に行けないからである。」これは含蓄のあることばではないでしょうか。「人」という漢字を見てもわかるように、人は互いに支え合って生きているわけです。独りで生きることはできません。それはクリスチャンの信仰生活も同じで、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなければならないのです。

Ⅲ.争いを避ける(23-26)

第三に、クリスチャンが尊いことのために用いられるために注意しなければならないもう一つのことは、争いを避けなさいということです。23節をご覧ください。ここには、「愚かで、無知な思弁を避けなさい。それが争いのもとであることは、あなたがたが知っているとおりです。」とあります。「愚かな思弁」とは、中身のないただ単なる観念的な話のことですが、このような話からは論争しか生れず、何の益にもたらされません。それはただ聞いている人々を滅ぼすだけなのです。エペソの教会には、このような話が癌のように広がっていました。しかし、主のしもべが争ってはいけません。主のしもべにとってふさわしい態度とは、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒することです。

第一に、すべての人に優しくしなければなりません。争うのではなく、優しくすることがクリスチャンの取るべき態度です。大抵の場合、言い争っている時はお互いに感情的になっているので、そのような状態からは良い結果は生まれてきません。でも優しくし、穏やかな態度で、穏やかなことばで接すると、相手の気持ちも穏やかになり、場合によっては、相手に聞く耳を持たせる場合もあります。

箴言15章1節には、「柔らかな答えは憤りを静める。しかし激しいことばは怒りを引き起こす。」とあります。売り言葉に買い言葉ではなく、たとえ相手が感情的になっても、穏やかな態度で、柔らかなことばで返すなら、相手の憤りを静めることもあるのです。ですから、争うのではなく、むしろ、すべての人に対して優しくしましょう。私たちが目指しているのは、そういう教会です。

次に、よく教えることです。言い争うのではなく、みことばからよく教え、よく学ぶのです。真理とは何なのか、神の御心は何か、何が良いことで神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなければなりません。それは時間がかかるように見えるかもしれませんが、確かな道に歩むための、いちばん確実で、一番近い道なのです。

そして次は、よく忍びです。よく忍耐することです。特に、自分につらく当たる人には忍耐が必要です。これは口で言うのは簡単ですが、実際の場面では本当に難しいことです。攻撃する人には仕返しをしたくなるからです。それが人間の自然な姿です。けれども神の子どもとされたクリスチャンは、「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」ではなく、自分の敵を愛し、迫害する者のために祈らなければなりません。

もう一つのことは、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい、ということです。訓戒するというのは正すということです。しかし怒って正すのではなく、柔和な心で正さなければなりません。上から目線でではなく、柔和な心で、謙遜な心で正さなければなりません。そうすれば、氷のような冷たく堅く閉ざされた心も、キリストの愛の温かさで溶かされることでしょう。

なぜ、主のしもべはこのような態度を取らなければならないのでしょうか。25節の後半をご覧ください。ここにはこうあります。「もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。」そして26節にも、「それで、悪魔に捕えられて思うままにされている人々でも、目ざめてそのわなをのがれることがあるでしょう。」とあります。つまり、その人が生きている間に救いに導かれるかもしれないからた゜というのです。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」(Ⅰテモテ2:4)だから、私たちもできるだけ忍耐し、神のみこころにかなった態度をとるようにと努めなければならないのです。

パウロは2章10節で、「ですから、私は選ばれた人たちのために、すべてのことを耐え忍びます。」と言いました。救われるようにと神に選ばれている人たちがいるのです。その人たちが救われるために、パウロが耐え忍びました。それは私たちも同じです。だれが救いに選ばれているかがわからないので、でも、確かにそのような人たちがいるのですから、その人たちがキリストにある救いにあずかり、とこしえの栄光を受けるようになるために忍耐しなければならないのです。すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒するのです。悔い改めの心を与えてくださるのは神ですが、その悔い改めの心に導くのは神のしもべである私たちクリスチャンの働きなのです。このような人こそ、神に用いられる器です。神に用いられる器は、それがどれほど高価で、華やかであるかということとではなく、それがどれだけきれいであるかにかかっています。自分自身をきよめて、不義から離れるなら、その人は尊いことに用いられる器になるのです。

あなたは神に用いられる器でしょうか。あなたが避けるべきことは何ですか。また、あなたが追い求めるものは何でしょうか。主人であるキリストにとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるために、まず器を整えることから始めていきたいと思います。

ⅡTimothy2:14-18 “A Workman approved by God”

Today from II Tim. 2:14-18 let’s look at what a workman approved by God is like. In last week’s passage Paul taught how when you suffer for the Gospel, you can tolerate the suffering. That is by remembering “Jesus Christ, raised from the dead.” (8) Jesus was born as a descendant from David.  In other words, Christ’s resurrection proclaims his deity, and his descent from David shows his humanity. The real God who can’t be seen by human eyes became man and came to this earth. Then he was put on the cross for our sins. After that just as the Bible says, on the third day he rose from among the dead. By this he publicly proved that he was the Son of God. By this Jesus received glory. However, Jesus received the glory after he had suffered on the cross.  In the same way the Lord’s worker must remember that after suffering he will receive glory.  Paul himself was like this. Paul himself too suffered for the Gospel but that was so that those who were chosen would be saved. That was so that they would be saved and would receive eternal glory. It was for that purpose that he suffered, but after that suffering he will receive glory. That’s because if we have died with Christ “we will also live with him.” (11)  Paul used a hymn that everyone in that age knew well to explain that. Those who endure will received a reward.  Today is the continuation of this, but here Paul is teaching Timothy that even in the midst of such suffering how God’s worker should be.

  1. Don’t quarrel about words   (Vs. 14)

First of all please read verse 14. “Keep reminding them of these things. Warn them before God against quarreling about words; it is of no value, and only ruins those who listen.”

Here Paul says, “Keep reminding them of these things.” (14) “These things” (14) are the things that Paul said in the preceding passage. In other words, what kind of glory that enduring brings.  That is like a soldier who endures suffering “to please his commanding officer” (1) and is victorious. It is like an athlete that endures training and receives the victor’s crown. Also it is like the hardworking farmer who works continuously and receives “a share of the crops.” (6) Also, just like Jesus by enduring the cross and by the resurrection received the glory of God, those who endure will surely be rewarded.  That reward is full of glory and it will bring great joy. If the rewards man gives are wonderful, then how glorious the rewards given by God will be! What God gives is “eternal glory” (10) and continues for eternity. We must remember these things. We are to remind others of these things.

Another thing is we must warn others “against quarreling about words.” (24) We must “warn them before God.” (24) That is because quarreling “is of no value, and only ruins those who listen.” (14) Such people sneaked into the Ephesian church where Timothy was pastoring. They were teaching wrong things. Not only didn’t they “not agree to the sound instruction of our Lord Jesus Christ and to godly teaching,” (I Tim. 6:3) but they had “an unhealthy interest in controversies and quarrels about words that result in envy, strife, malicious talk, evil suspicions and constant friction.” (I Tim. 6:4, 5)

“Quarreling about words…is of no value.” (14) If we quarrel, will anyone be saved? If we quarrel, will the faith of the people that hear it be built up and mature? No, rather it “only ruins those who listen.” (14) Rather than people being saved, it ruins people.

Ephesians 4:29 says, “Do not let any unwholesome talk come out of your mouths, but only what is helpful for building others up according to their needs, that it may benefit those who listen.”  We must speak words that are “helpful for building others up according to their needs, that it may benefit those who listen.” (Ephesians 4:29) Let’s spend our energy and time for this.

“Warn them before God against quarreling about words.” (14)  Here it says, “before God.” (14) That means that it is that important of a thing.

However, surprisingly such “quarreling about words” (14) can be seen in many places. For example, some people quarrel about how baptism should be done. Baptism should be by immersion, or by sprinkling, or by pouring water on the head. When a person is baptized he should lay back or should kneel bowing forward. However, the way a person is baptized is not important but the essence of it.  If a person repents and is baptized, he is saved. I believe in baptism by immersion, but there are exceptions to it. It is difficult to immerse people who are sick. There are conditions where sprinkling is better. Some people say that then it isn’t necessary to be baptized. However, the Bible commands us to baptize. Also it promises us, “Whoever believes and is baptized will be saved.” (Mark 16:16)

Also some churches have infant baptisms. In such churches when that person grows up he takes confirmation and makes his own personal confession of faith. Therefore, when a person that has been confirmed joins some Baptist churches they must be baptized again. Of course, we don’t require that.

What is important is the essence not the method. Also we must “Warn them before God against quarreling about” (14) such words.

Of course, it is necessary to fight against any teaching that is clearly against the truth. For example, we must thoroughly confront anyone who contradicts things like the trinity, or the divinity of Jesus Christ, etc. These are things that we must take a firm  stand on. The teaching that we are saved by faith is also an important teaching. However, we shouldn’t quarrel about differing unimportant Biblical interpretations. Rather, it is important to acknowledge and accept the differences.

However that is not just faith.  In our daily lives too, surprisingly we criticize others for a slip of their tongue and quarrel. Recently I bought a computer type tablet. It didn’t arrive by the time it was supposed to. I wasn’t planning to go out so there was no problem about it being late. However, it was pass the time it was supposed to arrive so I called the call center to check on it. The person on the phone said that it was due to arrive in the morning and if it hadn’t she was very sorry. She said she would check on it immediately.

Then a moment later the doorbell rang and when I answered the door, the delivery man was standing there.  He said that he had forgotten to bring the tablet that was to be delivered in the morning so that he would go back and bring it so to please wait a little longer.

Then there was a telephone call from the call center. They said they looked into it and the person that was supposed to be delivering it had left. They were very sorry for being late. However, I was the one that should have been apologizing. I had bothered them about something that wasn’t that important. I felt very ashamed. Like this we think we are right and quarrel over little things that don’t really matter.

However, such attitudes are “of no value, and only ruins those who listen.” (14) Therefore, we must be careful not to quarrel “about words”. (14)

  1. A workman approved by God

The key to not quarreling can be found in verses 15 to 18. Verse 15 says, “Do your best to present yourself to God as one approved, a workman who does not need to be ashamed and who correctly handles the word of truth.”

Here Paul is saying that those who quarrel “about words” (14) are the opposite of what a workman of God should be.  Such a person is to be “as one approved” (15) by God, accepted by God. In other words, the workman must do his best to be approved by God. He must do his best to be a workman. To do your best is to eagerly give your all to the task before you. Workmen have work to do, and they must take pains in it. Those  who work diligently with all their soul and might, do “not need to be ashamed.”(15) However, workmen that are unskillful, or unfaithful, or lazy, those who don’t keep their mind on their work, or do it half- heartedly or don’t try to do their best will be ashamed. The workman’s job is to correctly handle “the word of truth.” (15) “The word of truth” (15) is the Gospel which Timothy is to believe, obey and to preach. Timothy must do his best to present himself to God as such a workman.

To correctly handle (15) means to cut straight. It was originally used when a farmer dug trenches straight. There were no curves, but were straight. God’s Word is also the same. There must be no waves, but be straight. It must be handled correctly. It must not be warped by human wisdom. We must listen obediently to message that the Bible is telling us and preach that.

How we can become such a workman approved by God is by doing our best to present ourselves to God. We are do our best to present ourselves as “a workman who does not need to be ashamed”. (15) To “do your best” (15) is to do something with your whole heart, with a devoted heart. We must do our best to present ourselves to God as a workman approved by God that understands correctly the meaning of what the Bible is teaching and who can teach it to other people.

I try not to preach from the same passage I have preached on before because if I preach on the same passage then I don’t learn so much. Without studying there is no understanding. Without understanding, you can’t share with other people. Therefore, the weekly message takes a lot of time. However, for me I am really thankful that I can study.

However, that is a miracle.  I originally was not good at sitting. I always want to be moving. To be moving is easier. However, to prepare 1 message I am sitting in a chair for a long time. That is a miracle! It is only by the work of God that I can sit in a chair for that long of a time every day and study which I don’t like to do either. Without the help of the Holy Spirit I would never be able to do it. Why I do this is because if I don’t, I can’t understand the Bible. If I don’t understand it, then I can’t preach it. In order to be a workman approved by God we must do our best to present ourselves to God.

Please look at verses 16 to 18. Here it says, “Avoid godless chatter, because those who indulge in it will become more and more ungodly. Their teaching will spread like gangrene. Among them are Hymenaeus and Phileptus, who have wandered away from the truth.  They say that the resurrection has already taken place, and they destroyed the faith of some.”

Here it talks about another characteristic of a workmen approved by God. That is they “avoid godless chatter.” (16) That “godless chatter” (16) is teaching that is different from the truth and causes people to “become more and more ungodly” (16) and causes them to wander “away from the truth.” (17) This “teaching will spread like gangrene.” (17)  Strange and bad topics spread faster than good topics.  The Bible compares bad things to yeast. Just like only just a little yeast causes all the dough to rise, such teaching spreads throughout the body of Christ, the Church, and destroys it.

Here the names of two people “Hymenaeus and Phileptus” (17) are specifically given. Hymenaeus was mentioned by name in I Timothy 1:20 too as having shipwrecked his faith. Such “godless chatter” (16) spreads “like gangrene.” (17)

Their mistake was that they “wandered away from the truth.” (17) They said “that the resurrection has already taken place, and they destroyed the faith of some.” (18) They broadcasted to everyone that the resurrection was not a bodily resurrection and that there is only a spiritual resurrection. They interpreted the resurrection allegorically, not literally. They claimed that to rise from the dead is unthinkable so it is stupid to believe in the resurrection. However, the resurrection that the Bible teaches is that when Jesus comes again, our bodies will in reality change into an imperishable glorious body. “The dead in Christ will rise first.  After that, we who are still alive and are left will be caught up together with them in the clouds to meet the Lord in the air. And so we will be with the Lord forever.” (I Thess. 4:16,17) Just as this says this will actually happen. It isn’t just a spiritual resurrection. Please look at I Cor. 15:51 and 52. Here it says, “Listen, I tell you a mystery: We will not all sleep, but we will all be changed-in a flash, in the twinkling of an eye, at the last trumpet.  For the trumpet will sound, the dead will be raised imperishable, and we will be changed.”

When the Lord comes again our bodies “in a flash” (I Cor. 15:52) will be changed into an imperishable glorious body. “For the perishable must clothe itself with the imperishable, and the mortal with immortality. When the perishable has been clothed with the imperishable, and the mortal with immortality, then the saying that is written will come true: ‘Death has been swallowed up in victory.’” (I Cor. 15:53, 54) Like this the Bible clearly promises us that we will be given an imperishable body. Therefore, a workman approved by God avoids “godless chatter”. (16) We must be careful that such people don’t enter the flock.

  1. God’s solid foundation (Vs. 19)

Let’s look at verse 19. “Nevertheless, God’s solid foundation stands firm, sealed with this inscription: ‘The Lord knows those who are his,’ and ‘Everyone who confesses the name of the Lord must turn away from wickedness.’”

“Nevertheless” (19) is even though the false “teaching will spread like gangrene” (17) and some people wander “away from the truth.” (18) “God’s solid foundation stands firm, sealed with this inscription: ‘The Lord knows those who are his,’ and ‘Everyone who confesses the name of the Lord must turn away from wickedness.’”(19) There were people in the Ephesian church that taught false teachings. Such people drew the devout to themselves so many people got caught up in it and “wandered away from the truth.” (18)  “Nevertheless, God’s solid foundation stands firm.” (19) God’s firm foundation is the church. It is a firm foundation.  It will never be shaken. It is a foundation laid by God. It is God’s church. No matter what happens “God’s solid foundation” (19) won’t be moved. Even if false teachings come into it, even if the teachings stir up the church, the church will definitely not be shaken up. That’s because the church is “God’s solid foundation” (19) established by Christ.

Please open your Bibles to Matthew 16:18. Here Jesus said, “On this rock I will build my church, and the gates of Hades will not overcome it.” In this passage Jesus asked Peter, “Who do you say I am?” (Matt. 16:15)

Peter confessed, “You are the Christ, the Son of the living God.” (Matt. 16:16)

Peter made the right confession. However, Jesus said that he didn’t make the confession by his own ability to understand, but it was revealed to him by God. He said that he would build his church upon that confession “and the gates of Hades will not overcome it.” (Matthew 16:18) It is built upon a firm foundation. That is what the church is. If the church was started by a person, no matter how grand it is, it will perish.  Man is unstable. However, God is different. Even if the heavens and earth perish, God’s Word will never perish. Everything will be fulfilled. It is that definite. Therefore, God’s church that was started by God no matter what will “stand firm.” (19) Even if false teachings enter the church, even if a huge problem occurs, the church will continue to “stand firm.” (19)

“God’s solid foundation stands firm, sealed with” (19) two inscriptions. One is ‘The Lord knows those who are his.” (19) The other one is “Everyone who confesses the name of the Lord must turn away from wickedness.” (19) Both of these are words quoted from the event of Korah and his sons in Numbers chapter 16. If you look at them in the light of Jesus words I think you can understand well.

Now we can’t look at this in detail, but William Barclay, a Bible commentator explains these two inscriptions so I’d like to introduce what he says.

The first is a reminiscence of a saying of Moses to the rebellious friends and associates of Korah in the wilderness days. When they gathered themselves together against him, Moses said: “The Lord will show who is his” (Num.16:5). But that Old Testament text was read in the light of the saying of Jesus in Matt.7:22: “Many will say to me in that day, `Lord, Lord did we not prophesy in your name, and cast out demons in your name, and do many mighty works in your name?’ And then will I declare to them, I never knew you: depart from me you evil-doers.” The Old Testament text is, as it were, retranslated into the words of Jesus.

The second is another reminiscence of the Korah story. It was Moses’ command to the people: “Depart, I pray you, from the tents of these wicked men, and touch nothing of theirs” (Num.16:26). But that, too, is read in the light of the words of Jesus in Lk.13:27, where he says to those who falsely claim to be his followers: “Depart from me, all you workers of iniquity.”

Two things emerge. The early Christians always read the Old Testament in the light of the words of Jesus; and they were not interested in verbal niceties, but to any problem they brought the general sense of the whole range of scripture. These are still excellent principles by which to read and use scripture.

The two texts give us two broad principles about the Church:

The first tells us that the Church consists of those who belong to God, who have given themselves to him in such a way that they no longer possess themselves and the world no longer possesses them, but God possesses them.

The second tells us that the Church consists of those who have departed from unrighteousness. That is not to say that it consists of perfect people. If that were so, there would be no Church. It has been said that the great interest of God is not so much in where a man has reached, as in the direction in which he is facing. And the Church consists of those whose faces are turned to righteousness. They may often fall and the goal may sometimes seem distressingly far away, but their faces are ever set in the right direction.

The Church consists of those who belong to God and have dedicated themselves to the struggle for righteousness.” ( William Barclay, Commentary of I Timothy, II Timothy, and Titus, “II Timothy 2:19”)

“The Church consists of those who belong to God and have dedicated themselves to the struggle of righteousness.” (Barclay) Therefore, even if they fall and the goal may seem far away, even if something is distressing, even so, their faces are always facing the goal. Therefore, no matter what happens to God’s church, it is not shaken. Let’s believe this promise of God and let’s reconfirm that we belong to God and that we have dedicated ourselves to the struggle for righteousness, and move forward aiming for the goal of God.