創世記13章

きょうは創世記13章から学びたいと思います。タイトルは「信仰による選択」です。

1.信仰者の場所(1-7)

アブラハムは、ききんのためエジプトに下りましたが、神様のご介入によってもとの地ネゲブに戻ってきました。こここそが、神様の約束の地だったからです。彼は神様から目を離し人間的になってしまったのでエジプトに下って行きましたが、もう一度もとの場所、神様のもとに戻って来たのです。信仰は一度失敗すると、失敗した最初のところにもどって来てこそ、ようやく回復されるのです。アブラハムも彼が出た最初のところに戻ってきました。そこはどのようなところだったのでしょうか。4節を見ると、

「そこは彼が以前に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、主の名によって祈った。」

とあります。そこには主の祭壇があり、主の名による祈りがあります。そこはかつて下って行ったエジプトのような豊かな地ではないかもしれませんが、主がともにおられるところです。そこで主を礼拝し、主の名によって祈るのです。それこそ、信仰者がいるべき所なのです。アブラハムはその場所に戻ったのです。

2.アブラハムとロトの間に起こった問題(6-7)

 

ところで、その地に戻って住んでみると、一つの問題が起こりました。それは場所が狭いという問題です。彼らの持ち物が多すぎて、いっしょに住むことができなかったのです。ですから、アブラムの家畜の牧者たちと、おいのロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こりました。

問題はいつでもささいなところから生じます。財産が少なくて喧嘩になったのではなく、多くて喧嘩になりました。現代風に言えば、遺産相続の争いをしているようなものです。相続する遺産がなければ喧嘩にもなりませんが、多いために兄弟が互いに憎しみ合うこともあります。しかも、彼らの牧者たちとの間にも争いが起こりました。いったい何が問題だったのでしょうか。もし財産が多くて喧嘩になったのであれば、ロトは財産をアブラハムにそっくりあげればよかったはずです。もともと彼の財産はアブラハムによって与えられたものなのですから・・・・。また、そのような争いが起こってもきちんと話し合えば解決できたはずです。にもかかわらず彼らは、カナン人やペリジ人が住んでいる前で醜い争いを繰り広げました。ということは、こうした争いというのは表面的なことであって、本質的な問題は別なところにあったということです。では、その本当の問題とは何だったのでしょうか?

3.信仰による選択(8-13)

8節からのところを見ると、その争いの本質的な原因が見えてくると思います。8,9節を見ると、アブラハムはロトに一つの提案をしたことがわかります。それは、自分から別れてほしいということです。そして、もし彼が右に行けば左に、左に行けば右に行くと言ったのです。なぜアブラハムはこのような提案をしたのでしょうか?おそらく彼の中にはこのような思いがあったことでしょう。テモテ第二の手紙2章24~25節です。

「主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しく、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。」

主のしもべが争うことは、神様のみこころではありません。主のしもべはすべての人に優しく、忍耐して、反対する人たちを柔和な心で訓戒すべきです。そうした思いがあったに違いありません。ですから彼は何とかしてこの問題を解決したいと思ったのです。そしてその解決のカギは、ロトにその選択の優先権を与えるということでした。元々そのあたり一帯は、アブラハムが神様から賜った土地です。その土地をどうしようとそれは彼の自由であったはずなのです。そして、彼とて、よく潤っていた低地全体に心がひかれたことでしょう。しかし彼は自分自身の思いにまかせることをせず、まずロトに好きな土地を選ばせ、自分は残りの土地を受けることにしたのです。どうしてでしょうか。詩篇16篇6節をご覧ください。

「測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。」

一般には測りなわがどこに落ちるかが大きな問題のようですが、しかし、信仰によるならばそうではありません。どこに落ちるかではなく、だれが落とすのか、投げるのかです。神様が投げられるのであれば、そこがどのような地であっても、好ましいところとなるのです。アブラハムはそのような信仰を持っていたのです。つまり彼は、神様に信頼したのです。

それに対してロトはどうだったでしょうか。彼はアブラハムのようではありませんてでした。彼が低地全体を見渡すとそこが主の園のようにどこも潤っていたので、その地を選び取りました。彼は、自分が欲するところを手に入れようとしたのです。自分の選択を神様にまかせることをしませんでした。なぜでしょうか?信仰に生きていなかったからです。これが問題の本質です。問題は財産が多いか少ないかということではなく、どこを見て生きていたのかということだったのです。アブラハムは神を見て神に信頼して生きていたのに対して、ロトは自分の欲に従い自分の思い、自分の考えを基準に生きていました。これが問題だったのです。

何年か前に、当時聖書宣教会の教師であった内田先生を迎えて修養会を行いましたが、その時、教会に起こる問題の根底には救いの問題があると言われました。イエス様を信じて救われているようでも、本当の意味で救われていないと、問題は解決できないと言われたのです。もし教会にいる人がみな救われ御霊によって生きていたら、たとえ問題が起こっても御霊によって解決できるはずです。しかし、実際にそのようにならないのは、本当の意味で神に従いたいと思っていないからです。まだ自分が中心になっているからです。すなわち、肉の思いが御霊の思いを妨げているのです。それが問題の根底にあるのです。

まさにロトの問題はここにあったのです。そして、問題の根底にこのような要因があると解決するのが非常に困難ですが、アブラハムはそれを見事に乗り越えました。どのようにしたのでしょうか。彼は主の前にへりくだり、自分に執着することを捨てたのです。謙遜になってロトにその選択の優先権を与えのでした。これこそ、私たちが求めていかなければならない態度です。自分を捨て、主にすべてをゆだねるのです。そうすれば、主が最善に導いてくださいます。

4.神の祝福(14-18)

さて、ロトとアブラハムは別れて、それぞれどうなったでしょうか?ロトについては後にこのソドムとゴモラが滅ぼされることになっていくことがわかります。自分の欲に従い自分の思いで人間的に判断した彼は、神のさばきを受けなければなりませんでした。一方のアブラハムはどうなったかというと、14節からのところにあるように、神様の祝福を受けました。この地を全部アブラハムとその子孫に与えると約束してくださったのです。そればかりではありません。彼の子孫を地のちりのようにならせると言われました。このとき、彼にはまだ子どもがありませんでした。そのアブラハムに、地のちりのように子孫を与えるというのは、本当に大きな慰めです。

そこでアブラハムは天幕を移し、ヘブロンの樫の木のそばに来て住み、そこに主のための祭壇を築きました。どこにいても、神が祝福してくださるところが最善です。ですから、アブラハムはどこにいても、神のために祭壇を築き、そこで主の名によって祈ったのです。

それにしてもアブラハムは、どうしてこのような信仰に生きることができたのでしょうか?12章の後半を見る限り、そこには信仰の「し」の字もないかのような彼の生き様が描かれていたのですが、ここにはあの信仰の人アブラハムが復活したかのようです。おそらく彼は、あのエジプトでの失敗から学んだのではないでしょうか。信仰者とて完全な人はいません。ですから、時には失敗して痛い目に遭うこともありますが、大切なのはそこから学ぶことです。彼は、どんな時でも神に信頼することを学びました。ですから、この問題も信仰によって乗り越えることができたのです。私たちの信仰生活にもいろいろな問題が起こりますが、そうした問題が問題なのではなく、私たちがどこを見てむ歩むか、誰とともに歩むのかが重要です。神とともに歩むなら、そこが山地のでこぼこしたような所であっても祝福となりますが、自分の思いや考えによって生きようとするなら、絶えず問題にさいなまれるばかりか、結果的に近視眼的な判断をしてしまうことになるのまです。ですから私たちは、いつでも、どんなときでも、神のみこころを求め、この神のみこころに歩む者でありたいと思います。

民数記19章

きょうは民数記19章から学びます。ここでのテーマは「完全に赤い雌牛」です。まず19章全体を読んでみましょう。ここで主はモーセとアロンに、完全な赤い雌牛によって灰を作るように命じています。何のためでしょうか?その灰によってきよめの水をつくり、それを死体に触れて汚れた人たちに振りかけるためです。そうすれば死体にふれて汚れた者がきよめられるというのです。

まず、この箇所の背景ですが、この時イスラエルの民は、四十年間荒野をさまよっていました。そのときコラたちがモーセとアロンに反逆し、生きたままよみに投げ入れられるという神のさばきを受けると、それに同情したイスラエルの民もモーセに反抗して罪を犯したためそれに対する神罰が下り、彼らの中からもたくさんの死者が出たのです。コラの事件の他に何と14,700人が死にました。けれども、レビ記にあるように死者に触れる者は汚れました。そこで主は、死体に触れた者が清められるために特別な方法を示されたのです。それがこの「完全に赤い雌牛」であり、この雌牛の灰によって作られた水を注ぎかけるという儀式だったのです。

いったいこれはどんなことを教えていたのでしょうか?これまでも人の死体に触れた場合の戒めは幾度か取り上げられていました(レビ記21:1-4、11、民数記6:6-12、9:6-12)。しかし、それを取り除く具体的な方法は示されていませんでした。16章のコラの反逆の結果、多くの人が一度に死んだことで人の死の汚れをどのように取り除くべきかは、最も深刻な問題となったのです。誰でも死体や人間の骨や墓に触れるなら、あるいは、死人の天幕に入るならば汚れ(14-16)、その汚れは伝染しました(22)。宿営の中で誰かが死ぬと、宿営の中のすべての人が汚れ、何らかの対応をしないと、主の幕屋を汚す恐れがあったのです。

いったいどうすればいいのでしょうか?赤い雌牛をほふり、その灰によってきよめの水を作り、それを汚れた人に注ぎかけるのです。そうすれば、死体によって汚れた人のすべてがいやされるのです。

その水の作り方ですが、まずくびきの置かれたことのない赤い雌牛が犠牲にされ、灰が用いられました。「傷がなく」というのは、全く欠陥がない(罪がない)ということです。そして、「くびきの置かれたことのない」というのは、罪のくびき(罪の奴隷)が置かれたことがないという意味です。「赤い雌牛」の「赤」は血といのちを表していました。「雌牛」は新しいいのちを産み出す象徴なのです。つまりこれは、やがて来られるイエス・キリストのことを指し示していたのです。祭司エルアザルは指でその血を取り、会見の天幕に向かって七たび振りかけました。「七度」は完全数です。

そしてその雌牛は彼の目の前で焼かれました。また、その皮、肉、血をその汚物とともに焼かなければなりませんでした。宿営の外で・・。そして6節にあるように、祭司は杉の木と、ヒソプと、緋色の糸を取り、それを雌牛の焼けている中に投げ入れました。

この杉の木とヒソプ、緋色の糸がそれぞれ何を象徴しているのかはっきりわかりません。ある注解者は、杉の木は十字架の象徴、ヒソプは罪のきよめの象徴、そして緋色の糸はキリストの血を表していると考えていますが、果たしてそうでしょうか。確かに、ヒソプはイスラエル人がエジプトで,過ぎ越しのいけにえの血を自分たちの家の2本の戸柱と戸口の上部に塗った時に用いられました。(出12:21-22)また,以前にらい病にかかっていた人や家を清める儀式や(レビ14:2-7,48-53),「清めの水」に使われる灰を準備する際に使われ,その水を特定の物や人にそそぎかけるときにも用いられました。(民19:6,9,18)ですから、ダビデが,ヒソプをもって罪から浄めてください、と祈ったのです。(詩篇51:7)。また、緋色についても、それはキリストの血を表すものとして出エジプト記の中の幕屋の垂れ幕や大祭司の服に刺繍されていました。

けれども、ここにはそれを火の中に投げ入れたのです。それをもって血を塗るとか、何かをするというのではなく、それを雌牛と一緒に焼いたのです。ですから、それは十字架やきよめ、血の象徴としてではなく全く逆の意味として使われているのです。そしてよく調べてみると、杉の木は力の象徴、富、権力、栄光の象徴として用いられていることがわかります。そしてⅠ列王記第4章33節には、ソロモンが草木のことを論じた際に、「杉の木からヒソプにまで及んだ」と言っています。ヒソプというのはとても低い草なのだそうですが、杉木のように高くて大きな木からヒソプのように低くて小さな草に至るまでという意味です。それは植物全体を意味しています。すべての草木を表徴してそういったのです。言い換えると、それらは全世界を予表しているということになります。緋色の糸は何を表していたのでしょうか? この言葉は、イザヤ書第1章18節において「緋」とも翻訳されており、それはこう言っています、「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる」。このことから、緋色の糸はわたしたちの罪を表徴します。すなわちこの三つは、大きな罪から小さな罪まで、全ての罪を象徴していたのです。それを火の中に投げ入れ成した。ですから、杉の木、ヒソプ、緋色の糸が一緒に焼かれることは、赤い雌牛を神にささげた時、全世界の罪が赤い雌牛と一緒にされて、それらがすべて共に焼かれたことを意味しているのです。

その灰を集め、湧き水と混ぜ合わされて「きよい水」を作ります。その水がすべての汚れをきよめるのです。その水を死体にふれて汚れた人にきよめられると、だれでもきよめられました。ここには三日目と七日目とあります。三日目は復活を、七日目は完全を表していたと思われます。

いったいこれは何を表していたのでしょうか。ヘブル人への手紙9章13-14節にはこうあります。「もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」

そうです、これはキリストの十字架の血によるきよめを表していたのです。この灰を死体にふれた人々に注ぎかけるということは、十字架につけらえたキリストの血を、罪の中に死んでいる人々に注ぎかけることを象徴していました。そうすれば汚れはなくなり、罪はみなきよめられ、完全なきよめが果たされるのです。それだけ、キリストの血には力があるのです。しかも、この赤い雌牛の犠牲は、これ以前にもこれ以降にも一度限りです。完全な一度限りのいけにえです。イエスのいけにえも、全人類のための完全な一度限りの犠牲であり、いけにです。イエスの死によって、私たちは、神の怒りから解放され、罪の赦しを得、罪の支配からも解放されたのです。実に、このように雌牛が人の罪を赦し、きよいものとするならば、尊いイエスの犠牲はいかばかりであろうか、というのです。

ここには、キリストの血がどれほど力があるのかを、三つの点で語られています。第一に、良心をきよめる力です。「どんなにか私たちの良心をきよめて」とあります。

人間の良心は、罪によって汚されており、汚れた良心は、人にとって負い目となります。パウロは自らの中にある罪を認めてこう言いました。「私には自分のしていることがわかりません。私には自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分の憎むことをしているからです。」(ローマ7:15)とあるように、人は無意識的にそうした良心の咎めを持っています。どんなに、言い訳、弁解、仕事、趣味、宗教、善行等で繕おうと務めてもその「良心の呵責」があれば真の自由を得ることはできません。しかしキリストの血はそのような「良心の呵責」から完全に解放してくれるのです。

第二に、生き方を変える力があります。ここには、「死んだ行いから離れさせ」とあります。キリストの血潮は、人を縛っている罪のくびきから解放することができます。ザアカイはその一人です。彼はキリストと出会ったその日から新しい人に変えられました。人の心に罪が支配している間は、人は「死んだ行いの奴隷です。人は「新しく生まれなければ、神の国を見ることができません。キリストの血潮と御霊による新生は人を全く新しい人に造り変えます。使徒ペテロもこう語っています。「あんたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、・・傷もなく、汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(Ⅰペテロ1:19)

第三に、キリストの血は人を生かす力です。ここにはまた、「生ける神に仕える者とする」とあります。

キリストの血は神から離れた人を神に連れ戻すだけでなく、新しい歩みをさせる力を与えます。「古い生き方」から解放され罪を離れるならば、「神に仕える」という新しい目標、真の生きがいをもつようになります。「死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」(ローマ6:13)とパウロは勧めました。主の死にあずかるならば、主のよみがえりの力にもあずかることができ、そのような人は神の前に立つことができ(ささげて)、神のために実を結ぶ生涯へと導かれるのです(ローマ6:5, 22)

このようにキリストの血の力を知ることは、私たちをして、責められることなく、臆することなく、大胆に、神の前に立つことができ、破格の恵みによって歩くことのできる力を与えられるのです。

民数記18章

民数記18章から学びます。前回までのところにはコラの反乱とその結果、そして、アロンの杖について学びました。コラはレビ人であり、かつケハテの氏族に属していましたが、彼はアロンの祭司職を欲しがって、モーセとアロンに反抗しました。「あなたがたは分を越えている」と。そんなコラにして、主は彼と彼の家族を生きたまま陰府に投げ込むというさはぎを行いました。それを見たイスラエル人は、モーセとアロンがコラを殺したとつぶやき、それゆえ、主はイスラエルの民に罰を下され、何とイスラエルの民の中から14,700もの人たちが死に絶えました。しかし、アロンが香を盛った火皿をもって宿営の中に入り、ちょうど死んでいる者と生きている者の間に立ったとき、その神罰が止みました。イスラエルはアロンのとりなしによって救われたのです。

その後、主はアロンの杖にアーモンドの花と実を結ばせて、イスラエルの民がアロンこそ選ばれた祭司であることをお示しになりました。しかし、イスラエルの民は、ここにあらわされた神さまのあわれみを理解せず、「私たちも滅びる!私たちも滅びる。」と言って、パニック状態になっていました。それは、彼らが神の恵みとあわれみを理解していなかったからです。彼らは祭司の務めによって初めて、そうした神の怒りから救われるということです。主はさばきを行なわれる方です。しかし、主は、祭司という仲介者をとおして、ご自分の怒りをなだめ、彼らに罪の赦しと和解を与えようとされるのです。そこで主はこの18章において、さらに祭司の務めについてお語りになられました。

Ⅰ.祭司の務め(1-7)

まず1節から7節までをご覧ください。

「1 そこで、はアロンに言われた。「あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちと、あなたの父の家の者たちは、聖所にかかわる咎を負わなければならない。そしてあなたと、あなたとともにいるあなたの子たちが、あなたの祭司職にかかわる咎を負わなければならない。2 しかし、あなたの父祖の部族であるレビ族のあなたの身内の者たちも、あなたに近づけよ。彼らがあなたに配属され、あかしの天幕の前で、あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちに仕えるためである。3 彼らはあなたのための任務と、天幕全体の任務を果たすのである。しかし彼らは、聖所の器具と祭壇とに、近づいてはならない。彼らも、あなたがたも、死ぬことのないためである。4 彼らがあなたに配属され、天幕の奉仕のすべてにかかわる会見の天幕の任務を果たす。ほかの者があなたがたに近づいてはならない。5 あなたがたが聖所の任務と祭壇の任務を果たすなら、イスラエル人に再び激しい怒りが下ることはない。6 今ここに、わたしは、あなたがたの同族レビ人をイスラエルの中から取り、会見の天幕の奉仕をするために、彼らをにささげられたあなたがたへの贈り物とする。7 あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちは、祭壇に関するすべてのことや、垂れ幕の内側のことについてのあなたがたの祭司職を守り、奉仕しなければならない。わたしはあなたがたの祭司職の賜物の奉仕として与える。ほかの者で近づく者は死ななければならない。」

主はアロンに、彼と彼の子たち、すなわちアロンの家族が、聖所にかかわる咎を負わなければなせない、と言われました。彼の家族こそが祭司職を担わなければならないと確認されたのです。少し前に、コラの家族やそれにくみ与する者たちを死をもってさばかれたことによって、イスラエル全体に混乱が起こりましたが、ここでもう一度、だれが祭司の務めを果たすのかを示されたのです。

2節には、アロンの家族以外の、レビ人たちの位置についても、確認されています。レビ人は、聖所でアロンの祭司の務めを助ける奉仕を行なうことはできましたが、祭壇で献げ物をささげることはできませんでした。(1:47-53,3:5-10)それがレビ人に与えられた役割なのです。その任務に忠実であることを神は求めておられるのです。コラの罪は、この役割を忘れ、アロンの祭司職まで求めたことだったのです。

3節から5節までのところには、神がそのようにされる(祭司の務めと、レビ人の奉仕について確認している)理由を語られます。それは、イスラエル人が死ぬことがないためです。コラたちが受けたような激しい御怒りを二度と受けることがないようにという配慮からなのです。

6節と7節を見ると、このアロンの祭司職は、彼とその家族が自分たちで手に入れたのではなく、神の恵みの賜物として与えられたことが教えられています。それは彼らを助けるレビ人も同じです。レビ人もアロンたちが会見の天幕の奉仕をするために、主にささげられたかれらへの贈り物として、神から与えられたものなのです。私たちが自分たちの奉仕について考えるとき、このことはとても重要なことです。これはすべて神からの贈り物、賜物なのです。それは私たちの救いがもともと神からの賜物であることと同じです。神の一方的な恵みによって救いを与えてくださった主は、その後の奉仕においても恵みの賜物を与えてくだり、私たちがしなければならない務めを与えてくださったのです。その分を越えてはいけません。それぞれが神から与えられた信仰の量に応じて、慎み深く、仕えなければならないのです。

Ⅱ.永遠の分け前(8-24)

次に8節から24節までをご覧ください。

「8 はそれから、アロンに仰せられた。「今、わたしは、わたしへの奉納物に関わる任務をあなたに与える。わたしはイスラエル人のすべての聖なるささげ物についてこれをあなたに、またあなたの子たちとに、受ける分として与え、永遠の分け前とする。9 最も聖なるもの、火によるささげ物のうちで、あなたの分となるものは次のとおりである。最も聖なるものとして、わたしに納めるすべてのささげ物、すなわち穀物のささげ物、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえ、これらの全部は、あなたとあなたの子たちの分となる。10 あなたはそれを最も聖なるものとして食べなければならない。ただ男子だけが、それを食べることができる。それはあなたにとって聖なるものである。
11 また次の物もあなたの分となる。イスラエル人の贈り物である奉納物、彼らのすべての奉献物、これをわたしはあなたとあなたの息子たち、それにあなたとともにいる娘たちに与えて、永遠の分け前としする。あなたの家にいるきよい者はみな、それを食べることができる。12 最良の新しい油、最良の新しいぶどう酒と穀物、これらの人々がに供える初物全部をあなたに与える。13 彼らの国のすべてのものの初なりで、彼らがに携えて来る物は、あなたのものになる。あなたの家にいるきよい者はだれでも、それを食べることができる。14 イスラエルのうちで、聖絶のものはみな、あなたのものになる。15 人でも、獣でも、すべての肉なるものの最初に生まれたものでにささげるものはみな、あなたのものとなる。ただし、人の初子は、必ず贖われなければならない。また、汚れた獣の初子も贖われなければならない。16 その贖いの代金として、生後一か月以上は聖所のシェケルの評価によって銀五シェケルで贖わなければならない。一シェケルは二十ゲラである。
17 ただし、牛の初子、または羊の初子、あるいはやぎの初子は贖ってはならない。これらは聖なるものであるからである。あなたはそれらの血を祭壇に振りかけ、その脂肪を火によるささげ物、へのなだめのかおりとして、焼いて煙にしなければならない。18 その肉はあなたのものとなる。それは奉献物の胸や右のもものようにあなたのものとなる。19 イスラエル人がに供える聖なる奉献物をみな、わたしは、あなたとあなたの息子たちと、あなたとともにいるあなたの娘たちに与えて、永遠の分け前とする。それはの前にあって、あなたとあなたの子孫に対する永遠の塩の契約となる。」20 はまたアロンに仰せられた。「あなたは彼らの国で相続地を持ってはならない。彼らのうちで何の割り当て地をも所有してはならない。イスラエル人の中にあって、わたしがあなたの割り当て地であり、あなたの相続地である。21 さらに、わたしは今、レビ族には、彼らが会見の天幕の奉仕をするその奉仕に報いて、イスラエルのついの十分の一をみな、相続財産として与える。22 これからはもう、イスラエル人は、会見の天幕に近づいてはならない。彼らが罪を得て死ぬことがないためである。23 レビ人だけが会見の天幕の奉仕をすることができる。ほかの者は咎を負う。これは代々にわたる永遠のおきてである。彼らはイスラエル人の中にあって相続地を持ってはならない。24 それは、イスラエル人が、奉納物としてに供える十分の一を、わたしは彼らの相続財産としてレビ人に与えるからである。それゆえわたしは彼らがイスラエル人の中で相続地を持ってはならないと、彼らに言ったのである。」

8節には、「はそれから、アロンに仰せられた。「今、わたしは、わたしへの奉納物に関わる任務をあなたに与える。わたしはイスラエル人のすべての聖なるささげ物についてこれをあなたに、またあなたの子たちとに、受ける分として与え、永遠の分け前とする。」とあります。どういうことでしょうか?これは、アロンの家族たちが、祭司としてイスラエルが神に対してささげたささげものの一部を、受け取ることができたということです。イスラエルは、神に動物のいけにえや穀物のささげものなどをささげましたが、それを受け取ることができたのです。そして、それは祭司としての彼らの任務なのです。ここに「聖なるささげ物」とありますが、これは主ご自身のものを自分たちが受け取ることによって、主と自分たちが交わることを意味しています。祭司たちは、主のものを共有することによって主と交わる、あるいは礼拝したのです。それは、私たちの主の聖餐と同じです。私たちはイエス・キリストの血と肉を食することによって主と交わりを持つのです。キリストにあって一つになることができるからです。それは、アロンとその家族に対する「永遠の分け前」なのです。

9節には、最も聖なるものとして、穀物のささげもの、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえがあげられています。なぜこれらが最も聖なるものなのでしょうか?それは、罪のいけにえによって、神と人との間の仕切りとなっている罪が取り除かれるからです。その肉を食べるということは、主ご自身が人の代わりに罪のさばきをお受けになったことを意味しているからです。

しかし、ヘブル書を見ると、「雄牛ややぎの血は、罪を除くことができません。(ヘブル10:4)」とあります。そうした動物のいけにえは、罪を取り除くことはできないのです。では何が私たちの罪を取り除くことができるのでしょうか。ヘブル書のその後のところには、それがイエス・キリストであることが書かれてあります。「キリストは、つみのために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、」(ヘブル10:12)とあります。神と人とが一つとなることができるのは、神のひとり子キリスト以外にはありません。イエス様が、罪のためのいけにえとなってくださったことによって、私たちの罪のすべてを負ってくださいました。それ故に、このイエスを信じることによって、私たちは完全な罪の赦しを得ることができるのです。イエスは、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。(ヨハネ6:54)」と言われました。祭司が罪のためのいけにえの肉を食べるとき、それは新約聖書の言う祭司である私たちがキリストを食することに他なりません。

11節には、その他の奉納物や奉献物は、彼らの息子たち、また娘たちにも与えられるとあります。罪のいけにえは聖所で奉仕を行なう男子だけが食べることができましたが、その他の奉納物や奉献物は、息子たちや娘たちも食べることができました。しかしここには、それも「永遠の分け前」であると言われています。これは、時を経ると効力がなくなってしまうような一時的なものではなく、永遠に続くものである、ということです。言い換えれば、完全な分け前であり、欠けたものがないもの、ということです。またそれは、繰り返す必要のない、ただ一度の出来事、と言うことが言えるでしょう。それは、神の贖いのわざも同じです。キリストが十字架の上で血を流され、死なれたことによって、贖いは完成しました。神にとって必要な贖いは、もうこれ以上何一つありません。したがって、キリストの成し遂げられた贖いは永遠に続くものであり、再び繰り返される必要はないものなのです。

このことについてヘブル人への手紙9章11節にはこうあります。「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」

これが、私たちクリスチャンの贖いです。私たちは、キリストのただ一度の贖いによって、永遠の救いを受けました。私たちの過去、現在、未来のすべての罪が、二千年前のキリストの十字架の贖いによってすべて取り除かれているのです。あたかも罪が赦されていないかのように、その赦しを請うために祈ったり、聖書を読んだり、奉仕をしているということはないでしょうか?あるいは、自分をもっと聖めたいと思って、これらの宗教的活動をしていることはないでしょうか。心の中で、「まだ自分は聖められていない。もっと神さまに従って、神さまに近づかなければいけない。」と思っていないでしょうか?しかし、キリストの贖いは、そのような不完全なものではないのです!使徒パウロは言いました。「あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。(Ⅰコリント6:11)」私たちはすでに、洗われて、聖められて、義と認められたのです。キリストが二千年前に死なれたときに、これらはみな完成しました。ですから、祭司たちが、神からいただく分け前は「永遠」のものであったのです。

12節と13節には、「最良の新しい油、最良の新しいぶどう酒と穀物、これらの人々が主に供える初物全部をあなたに与える。彼らの国のすべてのものの初なりで、彼らが主に携えて来る物は、あなたのものになる。あなたの家にいるきよい者はだれでも、それを食べることができる。」とあります。

イスラエル人は、罪や罪過のためにいけにえだけではなく収穫物の初物を幕屋に携えてきました。最良の新しい油、最良のぶどう酒や穀物を自分たちの分け前とすることができたのです。これらも、罪のためのいけにえと同じように、キリストご自身を表していました。キリストが信者たちの初物となってくださっています。キリストが死者の中からよみがえられたように、キリストを信じる者は死んでも生きるのです。キリストが死なれて葬られたように、キリストにつく者は古い人に対して死に、キリストが神からすべてのものを相続しておられるように、キリストのうちにある者も、神からの相続を受けるのです。ですから他の個所では、キリストはすべての兄弟の長子となられた、と書いてあります。祭司としての私たちは、初物であられるキリストを心に受け入れているのです。

14節には、イスラエルのうちで、聖絶のものがみな、祭司たちのものとなる、とあります。 聖絶のものはすべて神のものであり、すべて神の宝物倉に入れておかなければならないものですが、それが祭司たちは自分たちのものとなるというのです。

15節には、「人でも、獣でも、すべての肉なるものの最初に生まれるもので主にささげられるものはみな、あなたのものとなる。ただし、人の初子は、必ず贖わなければならない。また、汚れた獣の初子も贖わなければならない。その贖いの代金として、生後一か月以上は聖所のシェケルの評価によって銀五シェケルで贖わなければならない。一シェケルは二十ゲラである。」とあります。

植物の初物が祭司のものになったように、動物や人間の初子も祭司のものとなります。ただし、イスラエルに初めに生まれてきた男の子が、祭司のものになるのではありません。初子はすべて主のものですが、イスラエル人はお金を払って買い取るからです。それは生後一ヶ月以上であれば聖所のシェケルで銀五シェケルと定められていました。ただし、牛の初子、または羊の初子、あるいはやぎの初子は贖うことができませんでした(17)。なぜなら、それらは火によるささげものとして、主にささげられなければならなかったからです。そして、肉はみな祭司たちのものとなりました(18)。

19節には再び「永遠の分け前」が出てきます。ここには、この分け前についてのまとめが記されてあります。これは永遠の分け前であり、永遠の塩の契約なのです。「永遠の塩の契約」とは、解消されることのない契約である、という意味です。これは、物理的に祭司職が続くということではなく、先ほど申し上げたように、キリストの永遠の祭司職を指し示しています。

20節から24節までには、相続地に関する教えが記されてあります。祭司たちは、約束の地において自分たちが所有となる土地が与えられませんでした。それは、彼らにとって主を礼拝することがすべてであり、主を礼拝するという霊的富をすでに得ていたからです。主は、「わたしがあなたの割り当ての地であり、あなたの相続地である」と言われました。私たちも、新約時代の祭司としてこのように告白しなければなりません。私たちはただ、イエス様だけを相続地としているでしょうか。イエス様だけのことばに拠り頼んでいるでしょうか。この地では、楽しいこと、喜ばしいこと、多くの友だち、家族、いろいろな祝福があります。しかし、「わたしの相続地はイエス様です。それで十分です。」という告白しているでしょうか。アロンに対して、主は、「相続地を持ってはならない。わたしがあなたの相続地である。」と言われました。

それはレビ人も同じです。主はレビ人にも相続地を与えられていません。その代わり、イスラエル人が携えてくる十分の一をみな、レビ人が受け取ることができました。それは、レビ人が幕屋の奉仕をすることができるようになるためであり、それによって、イスラエル人が幕屋の中に入ったりしなくても良いようにしてくださったのです。レビ人はそれによって生活が支えられ、フルタイムで主に仕えることができたのです。

Ⅲ.祭司の報酬(25-32)

最後に25節から32節までを見て終わりたいと思います。

「25 はモーセに告げて仰せられた。26 「あなたはレビ人に告げて言わなければならない。わたしがあなたがたに相続財産として与えた十分の一を、イスラエル人から受け取るとき、あなたがたはその十分の一の十分の一を、への奉納物として供えなさい。27 これは、打ち場からの穀物や、酒ぶねからの豊かなぶどう酒と同じように、あなたがたの奉納物とみなされる。28 それで、あなたがたもまた、イスラエル人から受け取るすべての十分の一から、への奉納物を供えなさい。その中からへの奉納物を祭司アロンに与えなさい。29 あなたがたへのすべての贈り物のうち、それぞれ最上の部分で聖別される分のうちからへのすべての奉納物を供えなさい。30 またあなたは彼らに言え。あなたがたが、その最上の部分をその中から供えるとき、それはレビ人にとって打ち場からの収穫、酒ぶねからの収穫と同じようにみなされる。
31 あなたがたもあなたがたの家族も、どこででもそれを食べてよい。これは会見の天幕でのあなたがたの奉仕に対する報酬だからである。32 あなたがたが、その最上の部分を供えるなら、そのことで罪を負うことはない。イスラエル人の聖なるささげ物を、あなたがたは汚してはならない。それは、あなたがたが死なないためである。」

レビ人は受け取った十分の一のすべてを自分たちのものとすることはできませんでした。その中から十分の一を取り、それを主への奉納物としてささげたのです。すなわち、アロンの家族に与えたのです。それは祭司の家族が生活に困ることなく、祭壇と聖所における奉仕に専念することができるようにするためでした。こうして、アロンの家族は、レビ人を含むイスラエル人すべてを代表して、主に奉仕をし、礼拝をささげました。物質的な必要が支えられることによって、神と人との仲介の役を果たし、イスラエル人が幕屋に近づいて殺されなくてもすむようにしたのです。

これが神の計画でした。神はイスラエルが聖所の器具と祭壇に近づいて死ぬことがないようにするために、このように配慮してくださいました。それは今日で言うなら、神は教会に牧師、長老、監督といったは働き人を与え、彼らによってこの働きを担うことができるようにしておられるのと同じです。彼らが死ぬことがないように、神は牧師、長老、監督といった霊的指導者を教会に与えてくださいました。そうした働き人がその働きに専念できるように、教会は彼らの必要を与え養わなければならないのです。「穀物をみなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」し、「働き人が報酬をうけることは当然である」のです。

ⅠTimothy5:1-16 “The church is the family of God”

Today’s passage is I Timothy 5:1-16. From today’s passage let’s look at how we should serve each other in the church which is the family of God.

1.As family (Vs. 1-3)

First please look at verses 1 to 3.

“Do not rebuke an older man harshly, but exhort him as if he were your father. Treat younger men as brothers, older women as mothers, and younger women as sisters, with absolute purity. Give proper recognition to those widows who are really in need.”

Paul said in 3:15 that the church is God’s family, God’s household. In the family there are different members: grandfather, grandmother, father, mother, son, daughter, grandchildren, etc. It is composed of different members. The church is God’s family so the church is also the same. It has people of different ages, positions, and circumstances. Recently it is said that there are a lot of elderly in the church, but normally the elderly, young, men, and women, people of all ages gather in the church. In such a church how should we serve each other?

In verse 1 Paul says first of all, “Do not rebuke an old man harshly.”  When humans grow old they can’t move as vigorously and quick as when they were young.  Because of that there are cases where young people treat the elderly as people who stand in their way and are mean to them. However, there must not be such things in the church. “Do not rebuke…harshly” means not to scold severely. The elderly fail and make mistakes, but even at such times you must “not rebuke…harshly” or look down on them and find fault with them.

According to Tsugio Kosegawa when you get old your thinking is controlled by three thoughts. One is by sentimental memories of past life: the success and failures, the joys and sadness, etc. The mixed feelings of joy and anger are constantly crossing over each other. When you remember an event for a moment you rejoice, then in the next moment feelings of regret suddenly overcome you. There are times when you are emotionally unstable. The second is emotions that come from the future. Such feelings of fear of death, uncertainties that come from the ageing of the body, the hope of heaven, etc. are interwoven. Thirdly are the sentiments that come from the present conditions: feelings of not working, powerless, isolation, etc. It is hard for those who are working hard to understand such feelings, but it is important to understand such mixed emotions and not put pressure on the elderly who move at their own pace. We must not be harsh towards them.

Lev. 19:32 says, “Rise in the presence of the aged, show respect for the elderly and revere your God. I am the LORD.”  In today’s passage it says to treat older men as fathers, and “older women as mothers.” (2) The Greek word used for “treat” (1) is paracleo which means “stand next to and assist”. It is the root word for paracletos which means the comforter or Holy Spirit. It is to stand next and encourage or stand next and help. If an elderly person makes a mistake or does a wrong, we must stand next to him and encourage him.  Especially here it says “as fathers” (1) and “as mothers”. (1) The 10 commandments teach us that we should honor our father and mother. Therefore, to treat the elderly “as fathers” (1) and “as mothers” is to honor them. It is also respecting the elderly for their life experience and the character that was formed by the mixing of those experiences.

Next is how we should treat young people. “Treat younger men as brothers…and younger women as sisters, with absolute purity.” (1, 2) Among young people there may be some who are wild and irresponsible or cause only trouble. There may be some that leave a lot to be desired. However, when we have contact with them, we must treat them as brother and sister. To treat as brothers and sisters is treat the relationship like an intimate relationship that even if you cut off the relationship it doesn’t become a broken relationship. Here too the word “treat” (1) is used. Therefore, it is not looking down on the person and spitting out words of disgust, but we must support them standing beside them and helping them.

Especially younger women are to be treated “as sisters, with absolute purity.” (2) “Absolute purity” (2) is used also in 4:12. It is a pure heart with no secret intentions. In other words they are to be treated like real sisters.

Please look at verse 3. The next to appear is “the widowed”. (3) In that age a widow by losing her husband lost her life base. They didn’t have social security like we have today so all the support for life was lost. It was extremely necessary for the church to support such widows.  Rather, not just the widowers, it was the church’s duty to help the weak in society.  James 1:27 says, “Religion that God our Father accepts as pure and faultless is this: to look after orphans and widows in their distress and to keep oneself from being polluted by the world.”  “To look after the orphans and widows in their distress” (James 1:27) was an important duty of the church.

Paul is saying, “Give proper recognition to those widows” (3) He didn’t say just to take care of them and help them, but to “give proper recognition to those widows.” (3) To “give proper recognition” is to show honor and respect.  However, it goes beyond the honor that is to be shown to the elderly as Paul taught in verses 1 and 2. Not only were the widows to be honored and respected, but they were to be taken care of too.

By the way, the name Timothy means “honor God”. A person that honors God honors God’s family. Also even within God’s family he especially honors the weak.

Paul said that the church was Christ’s body. If you look at what a body is like we can understand this. Paul says in I Cor. 12:22-27, “On the contrary, those parts of the body that seem to be weaker are indispensable, and the parts that we think are less honorable we treat with special honor. And the parts that are unpresentable are treated with special modesty, while our presentable parts need no special treatment.  But God has combined the members of the body and has given greater honor to the parts that lacked it, so that there should be no division in the body, but that its parts should have equal concern for each other.  If one part suffers, every part suffers with it; if one part is honored every part rejoices with it.  Now you are the body of Christ, and each of you is a part of it.”

The church is the body of Christ. “Those parts of the body that seem to be weaker are indispensable…God has combined the members of the body and has given greater honor to the parts that lacked it.” (I Cor. 12:22, 24) Therefore, by honoring those that are weak, the church becomes a healthy body. The church benefits from all its combined parts.

However, here it isn’t saying to help all widows.  Here it says, “Give proper recognition to those widows who are really in need.” (3) That is so as it says in verse 16 the church will not be burdened by them. Not all churches have enough money financially. There are some churches that are poor. For such poor churches to help orphaned children and widows it was necessary for them to distinguish who “those widows who are really in need” (3) are. Even if a church was poor, the church must as a whole support such needy widows. Next let’s look at who “those widows who are really in need” (3) are.

2.Those widows who are really in need (Vs. 4-10)

  1. “Those widows who are really in need” (3) have no blood or non-blood relatives.  Verse 4 says, “But if a widow has children or grandchildren, these should learn first of all to put their religion into practice by caring for their own family and so repaying their parents and grandparents, for this is pleasing to God.”

In other words, it is important that children and grandchildren learn to respect, care for, and repay their parents and grandparents. There may be some people that can’t respect their parents. They may think that their parents didn’t bring them up well or that they showed no compunction for abandoning them. However, it is certain that their parents bore them. Now they exist because they had parents that gave birth to them. Their parents may not have brought them up well. They may have made mistakes. It may be true that they had weak points. However, to continue to have bitterness or to not respect them is not pleasing to God.

Verse 8 says, “If anyone does not provide for his relatives, and especially for his immediate family, he has denied the faith and is worse than an unbeliever.” No matter what kind of parents a person had to “not provide for” (8) his parents it to deny “the faith and is worse than an unbeliever.” (8) “Honor your father and mother” (Exodus 20:12) is pleasing to God. Children must learn to do this and we must teach them to do so.

  1. “Those widows who are really in need” (3) put their “hope in God.” (5) Please look at verses 5 and 6. “The widow who is really in need and left all alone puts her hope in God and continues night and day to pray and ask God for help. But the widow who lives for pleasure is dead even while she lives.”

“Those widows who are really in need” (3) put their hope in God and continue “night and day to pray and ask God for help.” (5) In other words, they live a life of faith. Such a person like verse 10, “is well known for her good deeds, such as bringing up children, showing hospitality, washing the feet of the saints, helping those in trouble and devoting herself to all kinds of good deeds.” They are women who don’t receive any remuneration from the church, but like the church staff, just earnestly serve God and the church. It is only natural for the church to support them. That is because such people have always supported the church.

“But the widow who lives for pleasure is dead even while she lives.” (6) That is not just limited to widows. A person who lives for his own pleasure, for his own joy and contentment “is dead even while” (6) he lives. Even though normally the older and older a person gets, the longer and longer he has faith, he must become a model of a person of faith and lives a life of godliness, but if he his living for pleasure, that’s terrible. Just because she is a widow, the church mustn’t thoughtlessly support her. The church must not support a person that is living for pleasure.

  1. “Those widows who are really in need” (3) are “over sixty” (9) and have “been faithful to her husband.” (9) Please look at verse 9. “No widow may be put on the list of widows unless she is over sixty, has been faithful to her husband.”  It says, “No widow may be put on the list of widows unless she is over sixty.” (9) In that age over 60 was considered elderly. Here there are probably some people over 60 who think they are still young, but in that age over 60 was counted as elderly. Here it says, “No widow may be put on the list of widows unless she is over sixty.” The reason will appear after this so I’d like to identify it then.

Also here it says, “has been faithful to her husband.” (9) The fruits of faith must first be evident in the marriage relationship. The Greek phrase in verse 9, literally, “one-man woman” is the counterpart to the “one-woman man” which describes the overseer and deacon (3:2, 12) This refers to faithfulness in marriage.

Thus, a widow is a widow, but “give proper recognition to those widows who are really in need.” (3) Often there are people who think that the church should help all people who are in poverty without conditions or requirements. However, that it not so. Real kindness is not giving help to just anyone no matter what he does. The church must help “those widows who are really in need” (3) have no blood or non-blood relatives, are “left all alone” (5) put their “hope in God” (5) and continue “night and day to pray and ask God for help,” (5) are “over sixty” (9) and have “been faithful to” (9) their husband. I think we must think more seriously and constructively about helping people in this kind of situations.

3.Do not put younger widows on such a list (Verses 11-16)

Please look at verses 11 to 16.

“Thus they bring judgment on themselves, because they have broken their first pledge.  Besides, they get into the habit of being idle and going about from house to house.  And not only do they become idlers, but also gossips and busybodies, saying things they ought not to.  So I counsel younger widows to marry, to have children, to manage their homes and to give the enemy no opportunity for slander.  Some have in fact already turned away to follow Satan.  If any woman who is a believer has widows in her family, she should help then and not let the church be burdened with them, so that the church can help those widows who are really in need.”

Until now we have looked at what “widows who are really in need” (3) are like. “Those widows who are really in need” (3) have no blood or non-blood relatives, are “left all alone” (5) put their “hope in God” (5) and continue “night and day to pray” (5) and serve God. Then an age restriction of over 60 was laid. Here it says, “As for younger widows, do not put them on such a list.” (11) That is because “when their sensual desires overcome their dedication to Christ, they want to marry. Thus they bring judgment on themselves, because they have broken their first pledge.” (11,12)

In the ancient church among the exponent theologians were John Chrysostom and Tertullianus. According to their accounts, the first church had a system concerning the widows. They established an agreement that for widows that serve God for life, the church will fulfill their obligation to them. Those who were registered had faith and had to pledge to not remarry the rest of their lives. Those who made this vow put on “widows clothes” and received the laying on of hands. Therefore, here the widows that are being spoken about are not just widows. Their husbands had died and they had vowed to serve the Lord for the rest of their life.

However, this mustn’t be the case with young widows too. That is because “when their sensual desires overcome their dedication to Christ, they want to marry. Thus they bring judgment on themselves, because they have broken their first pledge.” (11,12) “Their sensual desires overcome their dedication to Christ” (11) means that “their sensual desires overcome” their commitment to dedicate themselves to Christ. As a result of their youth, for “sensual desires,” (11) they discard their first vow, their first faith. This is the image of a young ox that tries to escape from his yoke.  In the old day the fields were plowed by 2 oxen that were tied together by a yoke.  However, in time one of the oxen tries to escape from the yoke. Young widows are the same. They try to escape from the yoke and “they want to marry.”

To marry in and of its self is not bad.  The problem is that even though they had promised to give all to Jesus, they break the vow and marry.  Now that they became a widow, they vow to give the rest of their life to God. It is like Catholic sisters that even though they vow not to marry and give their life to God, when they meet a kind man, a man whose faith they respect, soon “they want to marry.” (11) This is the problem.

Marriage is wonderful. It is a blessing of God. However, marriage isn’t everything.  If your husband dies first, it is also wonderful to give the Lord the rest of your life and serve the Lord. That’s because “a married man is concerned about the affairs of this world-how he can please his wife-and his interests are divided.  An unmarried woman or virgin is concerned about the Lord’s affairs; her aim is to be devoted to the Lord in both body and spirit.” (I Cor. 7:33,34) “But if you do marry, you have not sinned.” (I Cor. 7:28) However, Paul advises, “Because of the present crisis, I think that it is good for you to remain as you are.” (I Cor. 7:26) That is because you can live “in undivided devotion to the Lord.” (I Cor. 7:35) Therefore. marrying is a good thing.  Also “if she stays as she is,” (I. Cor. 7:40) in other words, she doesn’t remarry, that is also wonderful. What is important is how you are going to serve the Lord in the situation that you are in. If a young woman becomes a widow, she must think about how she should spend the rest of her life. Then if she has vowed to give the rest of her life to the Lord, she must not turn her back on that vow.  However, it says that “As for younger widows, do not put them on such a list.  For when their sensual desires overcome their dedication to Christ, they want to marry.” (11)

“Besides, they get into the habit of being idle and going about from house to house.  And not only do they become idlers, but also gossips and busybodies, saying things they ought not to.” (13) These are the women that have discarded their first vow.  A woman whose husband dies and vowed that she would use the rest of her life for the Lord is good, but then if she gives up her vow and marries another man, has time on her hands and idles away her life, “going about from house to house.  And … also gossips.” (13) They are busybodies, “saying things they ought not to.” (13)

Therefore, Paul counsels the younger women “to marry, to have children, to manage their homes and to give the enemy no opportunity for slander.” (14) That is because “Some have in fact already turned away to follow Satan.” (15 Therefore, while you are young, you should work faithfully, or do your household jobs, and live a calm life.

Just because a person is a widow we shouldn’t haphazardly support them. We need to among the widows “give proper recognition to those widows who are really in need.” (3) That’s because the church is God’s family.

As you know the other day Vanatu, a small country in the South Pacific was hit by a huge cyclone that did extensive damage. Actually 70% of the countries’ population lost their homes. We received a report on the present condition from our friend Greg Carlson and his wife who are sent out by Wycliffe to do Bible translation there. According to Greg the people of Vanatu are facing a deeper problem than the loss of their homes. That is food! They live off of the land. Most of the population lives by subsistence farming. Their crops were all destroyed so they have nothing to eat. Even if they plant seeds, it will take 6 months before they can harvest.  Fortunately rice has been sent to Vanatu from many countries, but they have nothing to eat but rice.

When I received this report I prayed about what I should do. God’s answer was “give proper recognition to those widows who are really in need.” (3) In the body of Christ, God’s church, if there are such people, we should give them proper recognition.

We should do what we can to help them. The problem is not how much we give. What is important is that we follow God’s word, and put it into practice. In the back of the room there is an offering box so please pray and give.

A few weeks ago on the television program “Unbelievable” Shu Wuan Jien was introduced on a film strip from China entitled “2013’s most beautiful neighbor”. In 1979 Shun who lived in a small village in Shisensho, China was 15 years old.  His family was poor and they didn’t even have money to buy pig feed. Every day he would go to the town and gather left over food that could be used to feed the pig.

One day Shun eyes fell upon some people who were eating wantan ramen which looked so delicious. Without thinking Shun stopped and looked at them. Food like wantan that has meat in it was too expensive for the poor.

Then a 60 year old woman named Wan Zuyu said to him, “It’s hard when you are still a child to collect left over food.” Then she gave him some wantan ramen to eat. Shu was so thankful. Also he thought that he wanted to become a person like Wan.

However, the next day he saw Wan working as a carrier of baggage. Moreover her blind son was pushing the cart from the rear. Besides that she had a sick husband. He realized that she was poor like him.  After that too Wan was always concerned about Shun.

21 years passed. Shun married and had a family. Even after he became an adult he visited and kept his relationship with Wan. In 2002 when Shun was 38 years old he received the news that Wan’s husband and son unfortunately died. Besides that, Wan broke both legs and was put in a home for the elderly. The homes for the elderly in China are public so they are almost all free, but for an older person like Wan who is by herself the greatest agony is loneliness. At that time Wan was 83 years old. Therefore, Shun talked with his own mother, wife, and son and brought Wan to his home to live with them.  He loved her like his own mother. The people around him could not understand why he would bring an old lady to live with him. They thought he did it out of an expectation for something in return, but her only possession was a walking cane. In return as gratitude for one bowl of wantan ramen he brought Wan to his house.

Then after 11 years in Jan. of 2014 Wan died. She was 95 years old. While she was alive, she said to Shun, “You weren’t my real son. However, like a real son you loved me. You did so much that I don’t know how to repay you. I’m thankful from the bottom of my heart.”

At the “The most beautiful neighbor” awards ceremony Shun said, “A neighbor is in a sense family. Wan treated me like a family member when I was young. Even today she lives within my heart.”

These words, “A neighbor is in a sense family” rang strongly in my heart.  The church is God’s family. Therefore, we are asked to treat the members as a family. The church has people of many different ages, backgrounds, and circumstances, but no matter what kind of person, we are asked to treat them as family. How do you look at the people in the church, the family God? Let’s remember once again that the church is the family of God and let’s treat the members like family.

Ⅰテモテ5章1-16節「教会は神の家族」

きょうは、Ⅰテモテ5章1節から16節のみことばから、「教会は神の家族」というタイトルでお話したいと思います。4章でパウロは、教会の奉仕者として、りっぱな奉仕者とはどのような者なのかについて語りましたが、この5章では、神の教会においてどのように仕えたらよいかについて語っています。パウロは、3章15節で教会は神の家、神の家族だと言いました。家族の中にはいろいろな人たちがいます。おじいちゃんやおばあちゃん、お父さんやお母さん、息子たちや娘たち、そして孫たちもいます。教会は、いろいろなメンバーで構成されているわけです。その教会においていったいどのように仕えていったらいいのでしょうか。

Ⅰ.家族に対するように(1-3)

まず1節から3節までをご覧ください。

「年寄りをしかってはいけません。むしろ、父親に対するように勧めなさい。若い人たちには兄弟に対するように、年とった婦人たちには母親に対するように、若い女たちには真に混じりけのない心で姉妹に対するように勧めなさい。やもめの中でもほんとうのやもめを敬いなさい。」

1節には「年寄をしかってはいけません」とあります。人間は年を取ると若い時のように活発に、あるは敏速に行動することができなくなります。そのため若い人は年寄りを見てイライラしたり、つらく当たってしまったりすることがありますが、そういうことがあってはならないというのです。「しかってはいけない」というのは、厳しく叱ってはいけないという意味です。年寄りでも失敗したり、過ちに陥ったりすることがありますが、そのような時でも叱ったり、厳しく咎めるようなことがあってはいけないのです。お年寄りが安心していられるような環境を整えることが大切です。

よく年をとると次の三つの思いに支配されると言われています。一つは過去の生活とその思い出です。それは成功や失敗、喜びや悲しみなどの喜怒哀楽が交差した複雑なもので、過去のことを思い出して一瞬喜んだかと思ったら、次の瞬間には悔しがったりといろいろな思いが突然湧いてきたりして、情緒的に不安定になることがあるのです。

二つ目は未来に関することです。これは死の恐れ、肉体が衰えていくことの不安と恐怖、そして天国の希望といった絡み合った思いです。

そして三つ目は現在の状態に対する思いです。これは退職しての無力感、孤独などから来る気持ちです。このような気持ちは元気でバリバリ働いている人にはなかなか理解できないことですが、そうした複雑な心情にあることを理解し、自分のペースをお年寄りに押し付けたりして、つらくあたるようなことがあってはならないのです。

レビ記19章32節にはこうあります。「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしはである。」老人を敬うことは神を恐れることでもあり、旧約の昔から教えられてきた真理なのです。

では、こうしたお年寄りにはどのように接したらいいのでしょうか。ここには、「むしろ、父親に対するように勧めなさい。」とか、「年をとった婦人たちには母親に対するように、勧めなさい」とあります。父親に対するように、また、母親に対するように勧めなければなりません。父親に対するように勧めるとか、母親に対するように勧めるとはどういうことでしょうか。十戒には、「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。」(出エジプト20:12)とあります。ですから、父親に対するようにとか、母親に対するようにとは、尊敬をもって勧めるということです。それは、お年寄りのこれまでの人生経験と、その中から練り上げられてきた人格に対する尊敬の念を失わないことでもあるのです。

ところで、この「勧める」ということばはパラカレオーというギリシャ語ですが、これは、「そばにいて援助する」という意味があります。これは「助け主」(聖霊)を表す「パラクートス」ということばの語源となった言葉です。もし年をとった方が間違いを犯したり、過ちに陥いるようなことがあれば、そばにいて援助するようにして励まさなければならないのです。

次に、若い人たちにはどうあるべきでしょうか。ここには、若い人たちには兄弟に対するように、若い女性たちには真に混じりけのない心で姉妹に対するように勧めなさい、とあります。若い人たちの中には結構いい加減で自堕落な生活をしていたり、面倒ばかりかけるような人もいるかもしれませんが、兄弟に対するように切っても切れないような親しい間柄として勧めなければなりません。上から目線で「まったくなっていない」と吐き捨てるようにではなく、そばにいて助けるようにして支え、励ましてあげなければならないのです。

特に若い女たちには真に混じりけのない姉妹に対するようにとあります。これは4章12節にも使われていた言葉ですが、そこでは「純潔」と訳されています。つまり、下心のない純粋な心で、実の姉妹に対するように勧めなければならないということです。

3節をご覧ください。次に出てくるのは「やもめ」です。やもめとは未亡人のことです。何らかの理由で夫に先立たれた妻のことです。当時のやもめは、夫を失うことで生活の基盤を失いました。今日のような社会保障制度がなかったので、文字通り、大黒柱を失うと生活の柱を失ったわけです。そのようなやもめたちを援助するということは、教会にとってとても重要なことでした。いや、やもめに限らず、社会的弱者を助けることは、教会の務めでもありました。ヤコブの手紙1章27節にはこうあります。

「父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです」

神の御前できよく汚れのない宗教とは、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。孤児ややもめが困っているときに世話をすることは、教会にとって大切な務めだったのです。

パウロは、そういうやもめに対しても「敬いなさい」と言っています。この敬うという言葉は単に尊敬するということ以上に、大切にすることも含まれています。彼らを大切にして、その必要に答えてあげるようにということです。テモテという名前は「神を敬う」という意味ですが、神を敬う人は神の家族を敬います。そして、神の家族の中でも、特に弱い者を敬うのです。

パウロは、教会はキリストのからだであると言いましたが、それはからだがどのようなものであるかをみればわかります。Ⅰコリント12章22~27節にはこうあります。

「22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。23 また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官はことさらに良いかっこうになりますが、24 かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。
26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」

教会はキリストのからだなのです。からだは、比較的弱いとみられる器官が、かえってなくてはならないものです。そのように劣ったところを尊ぶことによって、からだ全体の調和が図られるからです。ですから、そうした弱いと思われるような人を敬うことによって、教会全体の調和が保たれるのです。

しかし、やもめならだれでもいいというわけではありません。ここには、「ほんとうのやもめを敬いなさい」とあります。それは16節にあるように、教会に負担をかけないようにするためです。教会といってもすべての教会が、経済的に余裕があるわけではありません。貧しい教会もあります。そうした貧しい教会が孤児ややもめを援助していくためには、ほんとうに必要なやもめはだれかを見分ける必要があるのです。そうしたやもめにはたとえ教会が貧しくても、全体でサポートしていく必要があるのです。ではほんとうのやもめとはどのような人なのでしょうか。

Ⅱ.ほんとうのやもめ(4-10)

第一に、ほんとうのやもめとは肉親も身寄りもいない人です。4節をご覧ください。

「しかし、もし、やもめに子どもか孫がいるなら、まずこれらの者に、自分の家の者に敬愛を示し、親の恩に報いる習慣をつけさせなさい。それが神に喜ばれることです。」

そのやもめに子どもか孫がいるなら、まずこれらの者に、自分の家の者に敬い、親の恩に報いる習慣をつけさせるべきです。おじいちゃんやおばあちゃんのところに行くのはお年玉やおこずかいをねだる時だけであって、そうでないと寄り付かないというのではよくありません。それは神の家族の中ではふさわしいことではないのです。

この「恩に報いる習慣をつけさせなさい」という言葉は、2章11節にも使われていた言葉です。そこでは「女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。」とあります。この「教えを受ける」ということばが「習慣をつけさせる」という言葉が同じ言葉なのです。つまり、子どもや孫に自分の親やおじいちゃん、おばあちゃんを尊敬し、その恩に報いるように教えることは大切なことであるということを教えなければならないということです。中には親を尊敬できないという人がいるかもしれません。自分のことをちゃんと育ててくれなかった、平気で見捨てられたということもあるかもしれません。でも、産んでくれたということは事実です。今、あなたがここにいるのは、あなたを生んでくれた親がいるからなのです。その親はうまくあなたを育てることができなかったかもしれません。間違いや失敗もたくさんしたことでしょう。彼らにも弱さがあったのは事実です。だからと言って恨み続けて「こんな親は親じゃない。」とか、「尊敬に値しない」んていうことがあるとしたら、それは神に喜ばれることではないのです。

8節には、「もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。」とあります。どんな親であっても自分の親を顧みないということがあれば、それは信仰を捨てていることと同じであって、不信者よりも悪いのです。「あなたの父と母を敬」(出エジプト20:12)ことは神に喜ばれることであり、神のみこころであるということを、子どもたちにしっかりと教え込まなければならないのです。

第二に、ほんとうのやもめは神に望みを置いている人です。5節と6節をご覧ください。

「ほんとうのやもめで、身寄りのない人は、望みを神に置いて、昼も夜も絶えず神に願いと祈りをささげていますが、自堕落な生活をしているやもめは、生きてはいても、もう死んだ者なのです。」

ほんとうのやもめは、望みを神に置いて、昼も夜も絶えず神に願いと祈りをささげています。つまり、信仰の生活を送っている人です。そのような人は、10節に「良い行いによって認められている人、すなわち、子どもを育て、旅人をもてなし、聖徒の足を洗い、困っている人を助け、すべての良いわざに務め励んだ人としなさい。」とあるように、良い行いによって認められていました。つまり、子どもをよく育て、旅人をもてなし、神の家族に仕え、困っている人がいれば助けていたのです。この人たちはいつも祈り、神と教会に仕えた人たちなのです。教会から何の謝礼も受け取らずに、教会のスタッフ同様、ただひたすら神に仕えた人たちなのです。そのような人たちを支えるのは、教会として当然のことではないでしょうか。

しかし、自堕落な生活をしているやもめは、生きてはいても、もう死んだ者なのです。自堕落な生活をしているとは「快楽」と訳される言葉で、快楽のために生きているやもめのことです。そういうやもめは、生きてはいても死んだ者と同じだというのです。別にこれはやもめに限ったことではありません。自分の快楽のために生きている人は、自分の喜びと満足のために生きている人は、生きてはいても死んだ者と同じです。本来は年を重ねれば重ねるほど、信仰が長ければ長いほど、信者の模範となっていなければならないのに、自堕落な生活をしているとしたらもう目も当てられません。そういうやもめをサポートするようなことがあってはならないのです。

第三のことは、9節、やもめの名簿に載せるのは、六十歳以上の人で、ひとりの夫の妻であった人です。初代教会にはやもめに関する制度があって、生涯神に仕えると誓ったやもめには名簿に載せられました。そのような名簿に載せられたやもめに対して、教会はしっかりとサポートする義務があったのです。ではその名簿に載せる人はどのような人なのでしょうか。ここには、六十歳未満の人でなく、ひとりの夫の妻であった人で、良い行いによって認められていた人」とあります。当時は六十歳でお年寄りの仲間入りとなりました。現代ではかなり寿命が伸びましたから六十歳でお年寄りなんて言ったら怒られます。「私はまだ若いです」なんて・・・。若いかどうかはともかくある程度の年齢に達していなければならなかったのです。なぜでしょうか。若いやもめは、キリストにそむいて情欲に引かれると、結婚したがり、初めの誓いを捨てたという非難を受けることになるからです。このことについては、この後のポイントで触れたいと思いますが、ここではもう一つのことが挙げられています。それは、「ひとりの夫の妻であった人」であるということです。これしどういう意味でしょうか。これは監督、執事の条件にもあげられていたことです。ここではそれと同じ言葉が使われています。すなわち、健全な結婚関係にあった人であるということです。当時は一夫多妻というのが当たり前の風習にあって、ひとりの夫の妻としてその務めを忠実に果たしてきたかどうかが問われました。

しばしば教会では生活に困窮している人がいれば無条件で援助すべきだと考える方もおられますが、聖書で言われていることは必ずしもそうではありません。ほんとうに親切にするということはそれを受ける相手がどういう人でも構わないということではなく、ここにあげられているような人でなければならないというのです。私たちは教会でいったいだれを援助しなければならないのかということを、もっと真剣に考えていかなければなりません。

Ⅲ.若いやもめは断りなさい(11-16)

第三に、11節から16節をご覧ください。

「若いやもめは断りなさい。というのは、彼女たちは、キリストにそむいて情欲に引かれると、結婚したがり、初めの誓いを捨てたという非難を受けることになるからです。そのうえ、怠けて、家々を遊び歩くことを覚え、ただ怠けるだけでなく、うわさ話やおせっかいをして、話してはいけないことまで話します。ですから、私が願うのは、若いやもめは結婚し、子どもを産み、家庭を治め、反対者にそしる機会を与えないことです。というのは、すでに、道を踏みはずし、サタンのあとについて行った者があるからです。もし信者である婦人の身内にやもめがいたら、その人がやもめを助け、教会には負担をかけないようにしなさい。そうすれば、教会はほんとうのやもめを助けることができます。」

ここには、「若いやもめは断りなさい」とあります。なぜでしょうか。なぜなら、彼女たちは、キリストにそむいて情欲に引かれると、結婚したがり、初めの誓いを捨てたという非難を受けることになるからです。どういうことでしょうか。

古代教会における代表的な神学者たちの中にクリュソストモスとかテルトリアヌスといった人たちがいますが、彼らの記述によると、初代教会にはやもめに関する制度があって、生涯神に仕えるというやもめに規約を設けたり、教会の義務を課したりしていたようです。そして、やもめとして登録される者は、信仰をもって、生涯独身の約束をしなければならなかったのです。そのような誓約をした者は「やもめの衣装」を着用し、按手を受けたとされています。ですから、ここで言われているやもめとはただの未亡人のことではなかったのです。夫に先立たれ、その残された生涯を神のために仕えると誓約までしたのです。

しかし、若いやもめはそういうわけにはいきません。彼女たちは、キリストにそむいて情欲に引かれると、結婚したがり、初めの誓いを捨てたという非難を受けることになるからです。この「キリストにそむいて情欲に引かれる」とは、彼女たちの情欲が、キリストへの献身を打ち負かしてという意味です。その若さのゆえに、その情欲と肉欲が、初めの誓い、初めの信仰を捨ててしまうことになるというのです。これは、くびきから逃れようとする若い雄牛のイメージです。昔、田畑を耕したのは、くびきによって結ばれた二頭の雄牛でした。ところが、そのうちの一頭がオレは嫌だとくびきから逃れようとするわけです。若いやもめも同じです。くびきから逃れて結婚したがるようになるのです。

結婚すること自体が悪いことではありません。問題はイエス様にすべてをささげますと誓ったにもかかわらず、その誓いを破って結婚することです。やもめになった以上は残りの生涯をあなたにささげますと、カトリックのシスターのように誓ったにもかかわらず、ちょっとでも優しい男性に出会ったりすると、ちょっとでも信仰的に尊敬できるような人に出会うと、すぐに結婚したがる。それが問題なのです。

結婚することはすばらしいことであり、神の祝福ですが、結婚がすべてではありません。何らかの理由で夫に先立たれてしまい、その残りの生涯を主にささげ、主に仕えることもすばらしいことなのです。なぜなら、結婚した男、女は、どうしたら相手に喜ばれるかと世のことに心を配り、心が分かれますが、独身の男、独身の女、夫を失った女は、身もたましいも聖くなるため、主のことに心を配ることができるからです。たとえ結婚したからと言って罪を犯すのではありません。でも、現在の危急の時には、そのままの状態にとどまるのがよいと思うと、パウロは勧めています。それは思う存分、主にお仕えすることができるからです。ですから、結婚することも良いことであり、そのままの状態、すなわち、独身のままでいることもすばらしいことです。大切なのは、自分の置かれた状況の中で、どのように主に仕えるかということです。もし若い女性が結婚して夫に先立たれ、未亡人になったとしたら、その後の生涯をどのようにすべきかをよく考えなければなりません。そして、もしその残りの生涯を主にささげますと言って誓うなら、それに背いてはならないということです。けれども、若いやもめは情欲に引かれるとすぐに結婚したがるので、そういう人を登録するのは断るようにと言われているのです。

そればかりではありません。彼らは怠けて、家々を遊び歩くことを覚え、ただ怠けるだけでなく、うわさ話やおせっかいをして、話してはいけないことまで話すようになるからです。これは初めの誓いを捨てた人のことです。夫が死んで、その残された生涯を主にささげますと誓ったのはいいものの、や~めた!と打算で結婚する人は、かえって時間をもて遊ぶようになり、家から家へと飛び回り、うわさ話やおせっかい話の花を咲かせ、おっと、話してはいけないことまで話すようになるのです。

だから、若いやもめに対しては、彼らが結婚し、子どもを産み、家庭を治め、反対者にそしる機会を与えないようにすべきです。というのは、すでに、道を踏み外し、サタンのあとについて行った者があるからです。だから、若いうちはきちんと働いて、あるいは家庭の務めについて、落ち着いた生活をすることを心がけるべきなのです。

やもめだからといって、やみくもに援助することがあってはなりません。やもめの中でもほんとうのやもめを敬い、彼らを心から支えていくべきです。なぜなら、教会は神の家族だからです。

皆さんもご存じのように、先日南太平洋のバヌアツという小さな国が巨大サイクロンに襲われ大きな被害が出ました。実に国の70%の人たちの住宅が損壊し、避難所生活をしています。そこには私たちの友人で、ウィクリフ聖書翻訳協会から遣わされているGreg Carlsonという宣教師夫妻が住んでいますが、彼から現況の報告がありました。それによると、バヌアツの人たちにとって住宅よりも深刻な問題は食糧の問題です。彼らのほとんどは農業を営んで生活しているため、畑が被害に会うと収穫することができにいため、食べることができなくなるのです。これから種を植えても収穫するのは半年先のことです。幸いいろいろな国から食料が届いていますがどれもお米ばかりで、野菜などの食糧が不足しているとのことです。

私はこの報告を受けてどうすべきかと祈りましたが、神の答えは、ほんとうのやもめを敬いなさいということです。キリストのからだである神の教会に、そのような人たちがいるなら、私たちは敬うべきです。彼らの必要に少しでも答えられるように、できるだけのことをすべきではないでしょうか。ささげる額や量が問題なのではありません。大切なのは、神の御言葉に従い、それを実践することです。後ろにそのための献金箱を用意しておきましたので、志のある方はこのために祈ってささげていただきたいと思います。

 

数週間前に「アンビリーバボー」というテレビの番組で、中国の四川省から『2013年度の最も美しい隣人』として表彰された徐文建(シュ・ウェン・ジィェン)さんのことが紹介されていました。

1979年、中国四川省の小さな村に暮らしていたシュさんは、当時15歳でしたが、家が貧しく、豚のエサさえ買うお金さえもなかったので、毎日、街に出ては、エサとなる残飯を集めていました。

そんなある日、シュさんは一軒の食堂の前で目が奪われてしました。そこにおいしそうにワンタン麺を食べている人たちがいたからです。シュさんは、思わず立ち止まってしまいました。ワンタンのような肉の入った食べ物はとても貴重なもので、貧乏な者が払えるような金額では食べることができませんでした。

すると、そんな彼に声をかけてきた女性がいたのです。彼女は王子玉(ワン・ズーユー)さんと方で、当時60歳の方でした。「まだ、子供なのに残飯集めなんて大変だね」と、心を痛めたワンさんは、なんと彼にワンタン麺をご馳走してくれたのです。シュさんは、感謝の気持ちでいっぱいになりました。そして、自分はワンさんのような人間になりたいと思いました。

ところが、翌日、いつものように残飯集めをしていると、彼の前に荷物運びの仕事をするワンさんの姿がありました。しかも、後ろからリアカーを押していたのは、盲目の息子でした。さらに、彼女には、病気の夫もいて、自分と同じような貧しい境遇であった事を知るのです。それからも、ワンさんは、シュさんの事を何かと気にかけてくれました。

それから21年が経ち、少年だったシュさんも家族を持つようになりました。そして、大人になってからも頻繁にワンさんのもとを訪れては交流を続けていましたが、2002年、シュさんが38歳だったある日、ワンさんが不運にも夫と息子を亡くし、さらに、ワンさんが両足を骨折したため、敬老院に入居したという知らせを受けました。シュさんは、すぐに見舞いに行きました。敬老院と呼ばれる中国の老人ホームは公営のため、ほぼ無料で入居できましたが、ワンさんのように一人で入居した老人にとって最大の苦しみは孤独でした。このときワンさんは83歳になっていました。そこで、シュさんは、自身の母親や、妻、息子と相談し、ワンさんを自宅に引き取る事にしました。そして、実の母親のように尽くしたのです。血のつながりのない老人を引き取るなんて、何か見返りが欲しいのかと、回りの人からは理解されませんでしたが、彼女の唯一の財産は、拾った一本の竹の棒だけでした。彼はただ一杯のワンタン麺の恩返しがしたくてワンさんを引き取ったのです。

それから11年、2014年1月に王さんはこの世を去りました。95歳でした。生前ワンさんはシュさんに、「あなたは本当の息子ではありません。でも、本当の息子のように愛しています。どう恩返ししたらいいかわからないほどよくしてくれるあなたに、心から感謝しています。」と言っていました。

シュさんは、「最も美しい隣人」の授賞式でこう言いました。「隣人とは、ある意味、家族ではないでしょうか。彼女は若き日の私に対して、家族のように接してくれました。今も、私の心の中で生きています。」

私はこの「隣人とは家族ではないか」という言葉がとても強く心に響きました。教会は神の家族です。だから私たちは家族のように接することが求められているのです。教会にはいろいろな年齢、経歴、境遇の方がいらっしゃいますが、それがどのような人であっても家族のように接することが求められているのです。あなたは神の家族である教会の人たちを、どのように見ておられますか?教会は神の家族であるということをもう一度覚えながら、家族に対するように接していきたいと思います。

民数記17章

前回は、モーセとアロンに立ち向かったコラたちに対する神のさばきと、そのことを受け入れられず、同じようにモーセに反抗したイスラエルの会衆に臨んだ神罰について学びました。きょうのところには、さらに、神が選ばれた祭司はだれであるかということを、神は別のしるしをもって現されます。まず1節から7節までをご覧ください。

1.族長たちの杖(1-7)

「1 はモーセに告げて仰せられた。2 「イスラエル人に告げて、彼らから、杖を、父の家ごとに一本ずつ、彼らの父祖の家のすべての族長から十二本の杖を、取れ。その杖にはおのおのの名を書きしるさなければならない。3 レビの杖にはアロンの名を書かなければならない。彼らの父祖の家のかしらにそれぞれ一本の杖とするから。4 あなたはそれらを、会見の天幕の中わたしがそこであなたがたに会うあかしの箱の前に置け。5 わたしが選ぶ人の杖は芽を出す。こうしてイスラエル人があなたがたに向かってつぶやく不平をわたし自身が静めよう。」6 モーセがイスラエル人にこのように告げたので、彼らの族長たちはみな、父祖の家ごとに、族長ひとりに一本ずつの杖、十二本を彼に渡した。アロンの杖も彼らの杖の中にあった。7 モーセはそれらの杖を、あかしの天幕の中のの前に置いた。」(1-7)

主はモーセに、イスラエル人に告げて、彼らから、杖を、父の家ごとに一本ずつ取り、その杖におのおの名を書いて持ってこらせ、それをあかしの箱の前に置くようにと言われました。何のためでしょうか。神が祭司としてお立てになられた者がだれであるのかをはっきりと示すためです。

「杖」は、かつてモーセまたアロンが、エジプトから出て行く時にエジプトに神が災いを下すときに用いられたものです。それは羊飼いの杖ではありますが、主はそれを用いてご自分の力ある働きを行なわれました。その杖にそれぞれの名前を書き、至聖所にある契約の箱の前に置きます。神はその中から、ご自分が選ばれた者の杖に、芽を出させるというのです。死んだはずの杖から芽を出させることによって、その者こそ、神がご自分の祭司であるということをはっきりと表そうとされたのです。そして、イスラエルがモーセに向かってつぶやくのを主ご自身が静めようとされたのです。それで、彼らの族長たちはみな、父祖の家ごとに、族長ひとりに一本ずつの杖、十二本を彼に渡したので、モーセはそれらを、至聖所にある契約の箱の前に置きました。

2.アロンの杖(8-13)

その結果、どうなったでしょうか。次に8節から11節までをご覧ください。

「8 その翌日、モーセはあかしの天幕に入って行った。すると見よ、レビの家のためのアロンの杖が芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んでいた。9 モーセがその杖をみな、の前から、すべてのイスラエル人のところに持って来たので、彼らは見分けて、おのおの自分の杖を取った。10 はモーセに言われた。「アロンの杖をあかしの箱の前に戻して、逆らう者どもへの戒めのため、しるしとせよ。彼らのわたしに対する不平を全くなくして、彼らが死ぬことのないように。」11 モーセはそうした。が命じられたとおりにした。」(8-11)

その翌日、モーセがあかしの天幕(至聖所)に入って行くと、レビの家のためのアロンの杖が芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んでいました。そして、モーセはそれをイスラエル人の前に示しました。これではっきりと、神の箱にまで近づくことのできる選ばれた者がアロンであることを示されたのです。ヘブル語で「アーモンド」は、「目覚める」とか「見張る」という意味の動詞と語源が同じ言葉です。主がこれを見張っている、はっきりと見つめていることも表しているのです。

死んだ木からいのちを芽生えさせる働きは、神にしかできないことです。これは、その神によって選ばれた者だけができる御業であって、人がどんなに望んでも、それなりのふりをしても、できることではないのです。形ではそのようにふるまっても、そこにいのちの実を実らせることはできません。人を永遠のいのちに導くのは主であって、主によって立てられ、主によって賜物が与えられた者によってのみなのです。

神は、死んだ杖から実を結ばせることのできるお方です。死者の中から人を復活させることができるのです。神はそれをイエス・キリストによって示してくださいました。十字架で死なれたキリストを三日目によみがえらせました。私たちにはこの復活のいのちが与えられており、祭司の務めはこのいのちの恵みを分け与えることなのです。

それで主は、アロンが祭司であることを示すために、この杖をあかしの箱の中に入れるようにされました。神に反逆した者たちへの警告のしるしとして保管しておくためです。このしるしを見て、イスラエルが神に対して不平を漏らすことをなくして、彼らが死ぬことがないためです。  それに対してイスラエルはどのように応答したでしょうか。

3.神の恵みにお頼りして(12-13)

「12 しかし、イスラエル人はモーセに言った。「ああ、私たちは死んでしまう。私たちは滅びる。みな滅びる。13 の幕屋にあえて近づく者はだれでも死ななければならないとは、ああ、私たちはみな、死に絶えなければならないのか。」(12-13)

彼らはまだ、自分たちが主の幕屋に近づくことに対する恐れを抱いています。なぜでしょうか。神の恵み、神の慈しみを理解していないからです。神が祭司を通してどのような恵みをあえてくださるのかを理解していないのです。そして、ただ神の裁きの恐ろしさだけを見て恐れているのです。彼らにとって必要なことは、神がどれほど慈しみ深い方であるのかを知り、悔い改めて、神の贖いの御業を受け入れること、つまり、信仰を持つことなのです。自分の正しさや自分の行いによって義と認められようとする人、いつもこのように神のさばきに怯えますが、逆に、神の恵みに信頼する人は、恐れから解放されるのです。Ⅰヨハネ4章15~18節にはこうあります。

「15 だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。16 私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。17 このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。18 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」

全き愛は恐れを締め出します。私たちがイエスを神の御子と告白するなら、神は私たちのうちにおられ、その神の愛によって、恐れは締め出されるのです。そのように導いてくださったのが、私たちの大祭司であられるイエス・キリストです。そして、ここでもそのために立てられていたのが大祭司アロンでした。神はイスラエルが死なくてもよいように、アロンの家とレビ人を幕屋の奉仕に立ててくださったのです。それなのに彼らはそのことに気づきませんでした。まだ自分たちの行いによって救われようとしていたのです。それで彼らは怯えていたのです。この後18章には、このアロンの家の祭司職と、レビ人の幕屋の奉仕についての定めが語られます。それは、彼らがしっかりとその務めを果たすことによって、イスラエル人が死ななくてもよいように守ってくださるためです。そして19章には、完全な赤い雌牛を罪のためのいけにえとして用意して、死体をさわった者たちのきよめが完全に行なわれます。会衆にはすでに、14,700人の死者が出ているので、その死体によって汚されている者たちが大勢いたからです。ちなみに、この完全な赤い雌牛は、宿営の外で焼かれて、その火の中に、杉の木と、ヒソプと、緋色の糸を投げ入れます。これらはみな、それぞれ、私たちの主イエス・キリストの十字架の木と、罪のきよめと、血を表しています。このようにして、主は、イスラエルの民のために、徹底的にご自分の恵みとあわれみのわざを、行なわれているのです。

このように、神は私たちのために祭司の務めをしておられます。私たちはそれを受けなければならないのです。祭司の務めとは、神のあわれみと恵みを分かち合うことです。キリストが来られた今、それはすべての信者に与えられ、それぞれ信仰の量りにしたがって、賜物が与えられています。互いに仕え合うことによって、私たちは主から恵みとあわれみを受け続けることができるのです。それぞれが、どのような働きに召されているのか、どのような賜物が与えられているのかを知るのは、私たち一人一人の責任です。そして、何よりも、私たちには今、神の右の座におられる大祭司なるイエス様がいます。この方が、アロンのように、私たちと神との仲介となってくださり、神の右の座において執り成しをされておられます。このことに対し、私たちは、約束の地にはいって穀物やぶどう酒をささげるイスラエルの民のように、感謝と賛美のいけにえをおささげするのです。

Ⅰテモテ4章7~16節「敬虔のための鍛錬」

先週は、世の終わりが近づくとどういうことが起こるかを学びました。世の終わりが近づくと、ある人たちは惑わす霊と悪霊との教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。だから、そういうことがないように正しい聖書の教えを教えなければなりません。これらのことを教えるなら、あなたはキリスト・イエスのりっぱな奉仕者です。りっぱな奉仕者とは神のみことばを教える人、また、このみことばを教えることができるように整える人のことなのです。

きょうの箇所はその続きです。ここには、ただ教えるだけでなくそれを実行することの大切さが語られています。それが敬虔のための鍛錬です。鍛錬というのは訓練とか、トレーニングということですね。敬虔のための鍛錬、すなわち、神を敬い、神を恐れるといった霊的、信仰のための鍛錬ということです。

Ⅰ.敬虔のために鍛錬しなさい(7-11)

まず、7節から11節までをご覧ください。7節をお読みします。「俗悪で愚にもつかぬ空想話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分を鍛錬しなさい。」

「俗悪で愚にもつかぬ空想話」とは何でしょうか。新改訳聖書第二版では、「俗悪な、年寄り女がするような空想話を避けなさい。」と訳されています。第三版では「年寄女がするような」という言葉が抜けています。詳訳聖書を見ると、ここは「俗悪な、汚れた、神を知らない作り話、つまらぬおばあちゃん話やばかげた神話を避けなさい。」となっています。やはり年寄女とか、つまらぬおばあちゃん話といった内容になっています。別におばあちゃんの話がつまらないという意味ではありません。おそらくこれは2章からの流れを受けて、「女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。」とありましたが、そうした人たちの教えを指しているのではないかと思われます。エペソの教会にはそういう年配の婦人たちがいて、違った教えを説いたり、果てしのない空想話に花を咲かせていたようです。彼らの話は神を知らない不敬虔な作り話でした。こくこくと話をするのはいいのですが、何を言っているのかさっぱりわからない。それはまるで空想話のようだったのです。そういう話を避けなさいというのです。

Ⅱテモテ4章を見ると、世の終わりになると、そういう話が蔓延するようになるとパウロは警告しています。4章1節から5節です。

「1 神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思って、私はおごそかに命じます。2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。3 というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、4 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。5 しかし、あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。」

世の終わりになると、空想話にそれていくようになるのです。自分に都合の良いことを言ってもらうために、自分の考えに合ったことを言ってもらうために、そういう教師たちを捜しては、教会を渡り歩くようになるというのです。「聖書はこう言っている」と言われるのが嫌で、自分たちに都合のいいことを言ってもらえる教師を捜し歩くのです。それでも見つからないと、じゃ、自分たちで教会を作っちゃおうと、そこにスピーカーを呼んで集会まで始めちゃうのです。家の教会だとか言って…。これは世の終わりのしるしです。自分に都合のいいことを言ってもらおうと、真理から耳をそむけ、空想話にそれていくようになっているからです。

もしかすると、これはエペソの教会に蔓延していた異教的な習慣に汚染された教えのことだったのかもしれません。エペソには豊穣の女神アルテミスを祭った神殿、アルテミスの神殿がありましたが、そうした異教的な教えによって神の教えが汚されていたということがあったのかもしれません。いずれにせよ、そうした俗悪で、愚にもつかぬ空想話を避けるように、そして、むしろ、敬虔のために自分を鍛錬するようにと命じたのです。

敬虔のために鍛錬するとはどういうことでしょうか。敬虔とは神を敬うということですが、言い換えると、信仰のため、霊的なことのためにということです。信仰のため、自分の霊のために鍛錬するようにと勧めたのです。なぜでしょうか。8節をご覧ください。8節にはこうあります。

「肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。」

皆さん、肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益なのです。もっと、もっと有益です。それは比べものにならないくらいの、計り知れない益をもたらすのです。

2015年2月10日、米国心臓病学会誌(Journal of the American College of Cardiology:JACC)で報告された、デンマークのコペンハーゲンの研究者らによると、「『軽い、適度』なジョギングが座りがちの生活や『過度』なジョギングをするよりも、長生きにつながる」という研究報告を発表しました。つまり週に2~3回、1回30分くらいのゆっくりとしたペースの軽いジョギングか、もしくは適度な運動をする人の死亡率が低いというのです。また、激しいジョギングをする人の死亡リスクと、長時間座りジョギングの習慣がない人の死亡リスクが変わらないという意外な結果も示されました。運動をすれば必ずしも長生きするとは限らないというのです。運動のしすぎはかえって体に良くないというのです。軽いジョギングが健康にはいいというわけです。

しかし、最期はだれでもみな死にます。どんなに適度な運動をしても、どんなに軽いジョギングしてもみな死ぬのです。肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益なのです。それは肉体の鍛錬とは比較にならないほどの益をもたらすのです。体育よりも霊育の方がはるかに重要であり、有益なのです。フィトネスクラブもいいですが、霊的トレーニングジムこそ私たちが通うべきところなのです。勿論、肉体のトレーニングジムが不要だとか、フィットネスクラブが必要ないと言っているのではありません。私も男だけのフィットネスクラブがあれば、ぜひ参加したいと思っているのですが、今のところ、そういうものがないのが残念です。肉体的にも健康体でいることは大切なことです。ご老人になっても病気やけがをしないように、80歳になっても自分の歯で食べたい、生活習慣病にならないように、食生活には気を付けるなど注意しなければならないし、いろいろな努力もしなければなりませんが、それだけでなく、その先においても、次に来る世のことも考えなければならないのです。

有名な詩篇の90篇にはこうあります。

「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦と災いです。それは早く過ぎ去り、私たちは飛び去るのです。」(詩篇90:10)

「それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうした私たちに知恵の心を得させてください。」(詩篇90:12)

「自分の日をかぞえる」とは、自分に与えられている人生がどれほど短いものであるのかを悟り、そのいのちを握っておられるまことの神を信じて、神を恐れて生きるということです。つまり、敬虔のために自分を鍛錬するということなのです。

C.S.ルイスは、「永遠に続かないものはみな、役に立たないものである。」と言いました。言い換えるとそれは、永遠に続くものこそ価値があるということです。

皆さん、私たちは永遠に続かないもののために、あまりにも時間と労力を使いすぎてはいないでしょうか。肉体の鍛錬のために、今の生活をもっと向上させることのために、もっと老後を楽に過ごせるために、何一つ不自由のない生活をするために身を粉にして必死で働いても、敬虔のためにどれだけ鍛錬しているでしょうか。それ自体が悪いということではなく、それと同時に、いやそれ以上にやらなくてはならないことがあるということです。それはあなたに大きな益をもたらすものなのです。

9節をご覧ください。「このことばは、真実であり、そのまま受け入れるに価することばです。」これはパウロの常套句です。1章15節でも使われています。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。」ここでも、「肉体の鍛錬もいくらか有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。」このことばは、真実であり、そのまま受け入れるに値することばであると言っているのです。皆さん「アーメン」でしょうか。それとも、首をかしげながら「う~ん」とうなりながら、「私にはちょっと受け入れがたいなぁ」と言うでしょうか。このことばは、真実であり、そのまま受け入れるに値することばなのです。アーメンと言って、そのまま受け入れましょう。そして、聖書が教える未来のいのちを大切にしながら、天国に向かって進む者でありたいと願わされます。

10節をご覧ください。「私たちはそのために労し、また苦心しているのです。それは、すべての人々、ことに信じる人々の救い主である、生ける神に望みを置いているからです。」

なぜパウロはこのことをアーメンと言って受け入れているのでしょうか。それは、パウロはそのために労し、また苦心しているからです。「労し」というのは特に肉体的に労するという意味のことばであり、「苦心し」というのは、精神的に苦しむことを指しています。パウロが労し、また苦心しているのは、すべての人々のほんとうの救いであり、ほんとうの望みは、この救い主なる生ける神にあるからです。ここにこそ、真の希望なのです。

神が与えてくださった肉体をベストコンディションに保ち、整えることは大切なことでありますが、しかし、どんなに肉体を鍛えても人間のからだは年とともに衰えていくものです。しかし、ここに決して衰えることのないものがあります。それが神の救い、永遠のいのちなのです。この神の救いの中に主とともに生かしていただくのでなければ、たとえ五体満足であっても、肉体の健康など意味がありません。それはむなしいものにすぎないのです。敬虔のための鍛錬こそ、私たちに真のいのちと希望をもたらしてくれるものなのだということをわきまえ、このために生きる者でありたいと願わされます。

Ⅱ.信者の模範になりなさい(12-14)

第二のことは、信者の模範になりなさいということです。12節から14節までをご覧ください。12節には、「年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。」とあります。

パウロは11節のところで、「これらのことを命じ、また教えなさい。」と言いました。命じること、教えることはだれにでもできることです。しかし、それを実行することは簡単なことではありません。しかし、本当に聖書を教えるということは、その教えたことを自らが実践して模範を示すことによってこそ説得力があるのです。イエス様は命じられたことを実践し、それを弟子たちの前に現して模範を示されました。たとえば、ヨハネの福音書13章には、イエス様が弟子たち一人一人の足を洗ったという出来事が記録されています。夕食の席から立ち上がり、上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰にまとわれて、弟子たちの足を洗い、その手ぬぐいでふかれたのです。いったいなぜそんなことをされたのでしょうか。それは模範を示すためです。イエス様は、自分がしたように彼らもまたするようにと、その模範を示されたのです。イエス様は単に神の御言葉を教えられただけではなく、それを実践されたのです。だから説得力があったのです。だからパウロはここでも同じようにテモテに、これらのことを命じまた教えるだけでなく、それを実践して模範を示すようにと言っているのです。それが、神の働き人が人々から尊敬と信頼を勝ち取る道でもあるからです。

ここには、「年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。」とあります。この時テモテが何歳くらいだったかは書いていないのでわかりませんが、長老たちがたくさんいたエペソの教会では、比較的若く、見られていたのでしょう。このような若い人が教会で霊的リーダーシップ(霊的権威)を持つということは並大抵のことではありません。こうしたものは人間的な資格や条件、あるいは身分や年齢によっては与えられるものではないからです。こうしたものは、御霊のみわざによってのみもたらされるのです。

ですから、パウロはここで、年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにするために、「かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、純潔にも信者の模範となりなさい。」と勧めているのです。それは生き方によって示されなければならないからです。しかもその生き方というのは、ある事柄においては模範的でも、ある事柄においてはそうではないということではなく、ことばにも、態度にも、愛にも、純潔にも、すなわち、すべてのことにおいて信者の模範でなければならないのです。無理です!そんなことできるはずないじゃないですか。そうです、それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできるのです。神は、弱い私たちをご自身と同じ姿に変えてくださいます。それは御霊なる主の働きによるのです。主は栄光から栄光へと主と同じ姿に変えてくださいます。ですから、私たち自身を主にゆだね、そのような模範となれるように助けてください!と謙虚に祈り求めましょう。そうすれば、主は必ずあなたを変えてくださるのです。

それからもう一つのことは、与えられた御霊の賜物を軽んじてはならないということです。13節と14節にはこうあります。「13 私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい。14 長老たちによる按手を受けたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある聖霊の賜物を軽んじてはいけません。」どういうことでしょうか。

「聖書の朗読と勧めと教え」とは、聖書の教えのことです。それに専念しなさいというのです。なぜなら、それはテモテに与えられた神の御霊、聖霊の賜物だからです。その賜物を軽んじてはいけません。その与えられた賜物に従って、その与えられた務めに忠実に励むとき、そうした霊的リーダーシップも自然についてくるのです。こうした霊的な権威は年齢とか立場、あるいは、学歴や社会的な身分といったものによってもたらされるものではなく、ただ自分に与えられた使命に集中し、敬虔な生き方を実践することによってのみもたらされるものなのです。

旧約の預言者エレミヤも若くして選ばれました。彼は主から次のように言われました。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。」(エレミヤ1:7-8)

「若い」ことが即、障害になるのではありません。むしろ、若いからこそできることもあるのです。若くてもキリストの大使になることができます。キリストの大使として神が遣わすどんな所へでも行き、神が命じるすべてのことを語らなければなりません。その与えられた務めを忠実に果たさなければならないのです。それは私たちを遣わしておられる方が、私たちの主なる神であられるからです。一国の大使は、たとえ年が若いからといってその権限や行動が左右されたり、制約されたりすることはありません。それと同じように、どんなに若くても神によって召され、神によって遣わされたのならば、その与えられた使命に集中し、それを忠実に果たしていかなければならないのです。そうすれば、年が若いからといって軽く見られることはないのです。

Ⅲ.これらの務めに心を砕き(15-16)

最後に、15節と16節をご覧ください。「15 これらの務めに心を砕き、しっかりやりなさい。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。16 自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい。あくまでそれを続けなさい。そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになります。」

ここには、神の働き人が自分自身にも、教えることにも、よく気を付けなければならない、その理由が記されてあります。それは、自分自身をも、また自分から教えを聞く人たちを救うことになるからです。どういうことでしょうか?もちろん、ここで言っている「救い」とは罪からの救いのことではありません。ここで言っている救いとは、4章1節に書かれている「惑わしの霊、悪霊の教え」からの救いのことです。そうでないと、こうした教えによって信仰から離れるようになってしまうからです。敵である悪魔はほえたける獅子のように、食い尽くすべき獲物を探し求めながら歩き回っています。ですから、堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かわなければなりません。自分自身に気を付けて、また、自分が教えていることにも気を付けて、これらの務めに心を砕かなければならないのです。

「心を砕く」とは、直訳では「留意する」とか「考慮する」、「実行する」ということです。つまり、御言葉に関する務めを、よく祈り、よく考えて、ある時は喜びながら、またある時は悲しみや痛みを覚えながら、神のみこころにそった奉仕として全うしなさいということです。神の御言葉につかえる奉仕者は、「心を砕いて」これにあたらなければなりません。そうすれば、自分自身をも、またその教えを聞く人をも救うことになるのです。そのような人こそりっぱな奉仕者なのです。

クリスチャンはいつも二つの影響を受けながら生きています。一つは神からの影響で、もう一つはこの世からの影響です。神のくださる御言葉と恵みの中でクリスチャンは強められ、キリストの兵士としてりっぱに訓練されていきます。しかし、この世からも別の影響を受けています。この世の中で耳にし、学習する俗悪で愚にもつかない空想話から悪影響を受けることもあるのです。結局、クリスチャンの敬虔さはだれから多くの影響を受けるかによって決まるのです。もちろん、神からの影響を受ければ敬虔に生きることができますが、神は私たちに無理矢理影響を及ぼそうとはなさいません。私たちの意思によって敬虔に生きるようにと願っておられるのです。救いは神がくださるものですが、救われた後の敬虔は私たちが努力して身につけていかなければならないものなのです。

この作業は簡単なことではありませんが、この作業をし続けていくなら、必ずや自分自身を救うだけでなく、他の人を救うことになります。敬虔のための鍛錬こそ、今のいのちと未来のいのちにおいて有益なものであることを覚え、そのために労ししていく者でありたいと思います。

民数記16章

きょうは民数記16章から学びます。私たちは前回、イスラエルがカデシュ・ベルネアまで来たとき、「上って行って、そこを占領せよ」との主の御言葉に背き、上って行かなかった姿を見ました。不信仰のゆえに、恐れてしまったからです。その結果、二十歳以上の者はみな荒野の中で死ぬことになってしまいました。そして、イスラエルが40年にわたる荒野での生活を始めようとしていたとき、もう一つの大きな事件が起こりました。

1.  コラの子たちの反抗(1-3)

「1 レビの子ケハテの子であるイツハルの子コラは、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、2 会衆の上に立つ人たちで、会合で選び出された名のある者たち二百五十人のイスラエル人とともに、モーセに立ち向かった。3 彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らい、彼らに言った。「あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか。」

まず1節から3節までをご覧ください。ここには、レビの子ケハテの子であるイツハルの子コラが、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、会衆の上に立つ人たちで、会合で選び出された名のある者たち二百五十人のイスラエル人とともに、モーセに立ち向かいました。彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らい、「あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか。」と言ったのです。

いったいなぜ彼らはそのように言ったのでしょうか。レビの氏族には三つの氏族がいました。ゲルション族、ケハテ族、メラリ族です。ここで問題になっているのはケハテの子、イツハルの子のコラという人物です。彼はルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、会衆の上に立つ者250人とともに、モーセに立ち向かったのです。

ケハテ族は、他の二つの氏族に比べ、もっと聖なる奉仕に携わっていました。ゲルション族は幕を運搬する奉仕が与えられ、メラリ族は板とか、土台、柱、横棒などを運搬しました。それに対してケハテ族は、契約の箱を始め、供えのパンの机、香壇、青銅の祭壇などを、幕屋の聖具を運ぶ最も聖なる奉仕に召されていました。ですから、ケハテ族は、レビ族の三つの氏族の中でも最も主のご栄光に近いところで奉仕する特権が与えられていたのです。それなのに、彼らは主の幕屋で奉仕することが許されていませんでした。幕屋で奉仕するのは祭司だけであって、祭司だけが聖所の中に入り、燭台のともしびを整え、供えのパンを取替え、また青銅の祭壇では数々の火による捧げ物をささげることができたのです。それゆえ彼らは祭司たちをねたみました。なぜアロンの家系だけがそのような特権が与えられているのか、なぜ自分たちにはそれができないのか・・・。それを間近で見ていたコラは、自分にもこの務めを行う権利があるものと思ったのです。

しかも、その理由がもっともらしいのです。彼らは、「全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか」と言っています。あなただけが特別なのではない、主にとってはここにいるみんなが同じように大切なのであって、あなたたちが、主の集会の上に立っているのはおかしいというのです。皆さん、どうでしょうか。もっともらしい意見ではないでしょうか。私たちの教会はバプテストの教理に立っていますが、その一つの特徴は会衆性にあります。会衆性とは、教会政治が牧師や長老によって決められるのではなく会衆みんなの総意によって決められるべきであるというものです。牧師も会衆と同じ立場であって、特別に権力があるのではないという考えです。ここでコラたちが言っていることはそういうことです。彼らは自分たちが支配したいというねたみによって突き動かされていたのに、そのようなことを理由にあたかもそれが正当であるかのように言いました。

ルベン族のダタンとアビラム、そしてオンが共謀したのも、さらには二百五十人の有力者たちが共に立ち上がったのも、本質的には同じ理由からでしょう。ルベン族はヤコブの長男だったので、自らが第一の者であるという自負があったものと考えられます。また、二百五十人の有力者たちも、彼らが人々に認められているという自負があったので、モーセとアロンに立ち向かったのでしょう。

また、そこには、イスラエルが荒野を四十年間放浪しなければならなくなったということも、その大きな要因の一つであったと思います。人は物事が順調に進んでいる時はこうした肉の思いが抑えられがちですがいざ苦難や困難に直面すると、不満や反抗という形ですぐに表に現れてくるのです。彼らにとって必要だったのはそのような状況にあっても不平や不満をぶちまけることではなく、力強い主の御手にへりくだることでした。Ⅰペテロ5:6には、こうあります。「あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるのです。」

2.慎み深い考え方をしなさい(4-11)

それに対してモーセはどうしたでしょうか。4節から7節までをご覧ください。

「4 モーセはこれを聞いてひれ伏した。5 それから、コラとそのすべての仲間とに告げて言った。「あしたの朝、は、だれがご自分のものか、だれが聖なるものかをお示しになり、その者をご自分に近づけられる。主は、ご自分が選ぶ者をご自分に近づけられるのだ。6 こうしなさい。コラとその仲間のすべてよ。あなたがたは火皿を取り、7 あす、の前でその中に火を入れ、その上に香を盛りなさい。がお選びになるその人が聖なるものである。レビの子たちよ。あなたがたが分を越えているのだ。」

モーセはこれを聞いて、主の前にひれ伏しました。彼は、このようなことも主の許しの中に起こっていることを認め、主がこの問題を解決してくださるように祈り求めたのです。そして、コラとそのすべての仲間とに、主は、だれを選ばれ、ご自分に近づけられるのかを知るために、火皿を取って、その中に火を入れ、その上に香を盛るようにと言いました。

火皿とは、神の前で香をたく際に、燃える炭火を入れる特別な道具です。祭司だけが祭壇で香をたくことができました。祭司でない者が香をたいたり、祭司が規定に反して香をたいたりすると、だれであれ死罪とされました。ですから、もし生き残ることができれば神に選ばれた物であるということです(レビ10:1-2)。

モーセはさらにコラに言いました。8節から11節までをご覧ください。

「8レビの子たちよ。よく聞きなさい。16:9 イスラエルの神が、あなたがたを、イスラエルの会衆から分けて、主の幕屋の奉仕をするために、また会衆の前に立って彼らに仕えるために、みもとに近づけてくださったのだ。あなたがたには、これに不足があるのか。16:10 こうしてあなたとあなたの同族であるレビ族全部を、あなたといっしょに近づけてくださったのだ。それなのに、あなたがたは祭司の職まで要求するのか。16:11 それだから、あなたとあなたの仲間のすべては、一つになって主に逆らっているのだ。アロンが何だからといって、彼に対して不平を言うのか。」

これはどういうことかというと、コラは、レビ族として荒野の旅をするときに、幕屋を取り外して、運搬し、また次の宿営地において再び組み立てるという奉仕を行なっていました。そして、幕屋の外庭においても、祭司たちを補佐する役割を担っていました。特にケハテ族は、聖所の中の用具を運搬するということで、他のレビ族の氏族よりも、さらに主に近いというか、栄誉ある働きに召されていたのです。それなのに、コラはそれで満足することができず、祭司職、つまり、聖所の中における奉仕までを要求したのです。それは分を越えていることでした。モーセが分を越えていたのではなく、コラたちが分を越えていたのです。

ローマ12章3節には、「だれでも、思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」とあります。神はご自身のみからだてある教会を建て上げるために、それぞれに賜物を与えてくださいました。それは一方的な神の恵みによるのであって、神がそのようにお選びになられたのです。モーセがイスラエルの上に立って指導したかったのではなく、神が彼をその働きに召し、賜物を与えてくださったのです。そのモーセに反抗するということは、それは神に対する反抗でもあるのです。ですから、ここでコラたちがモーセに、「あなたがたは分を越えている」と言ったのは、このことを全く理解していないからであり、神が定めた秩序を無視したことだったのです。神が定めた秩序とは人間主体の民主主義ではなく、神が恵みによって与えられた賜物にしたがって、慎み深い考え方をすることなのです。

3.神のさばき(12-19)

「12 モーセは使いをやって、エリアブの子のダタンとアビラムとを呼び寄せようとしたが、彼らは言った。「私たちは行かない。13 あなたが私たちを乳と蜜の流れる地から上らせて、荒野で私たちを死なせようとし、そのうえ、あなたは私たちを支配しようとして君臨している。それでも不足があるのか。14 しかも、あなたは、乳と蜜の流れる地に私たちを連れても行かず、畑とぶどう畑を受け継ぐべき財産として私たちに与えてもいない。あなたは、この人たちの目をくらまそうとするのか。私たちは行かない。」15 モーセは激しく怒った。そしてに申し上げた。「どうか、彼らのささげ物を顧みないでください。私は彼らから、ろば一頭も取ったことはなく、彼らのうちのだれをも傷つけたこともありません。」16 それから、モーセはコラに言った。「あなたとあなたの仲間のすべて、あなたと彼らとそれにアロンとは、あす、の前に出なさい。17 あなたがたは、おのおの自分の火皿を取り、その上に香を盛り、おのおのの前にそれを持って来なさい。すなわち二百五十の火皿、それにまたあなたも、アロンも、おのおの火皿を持って来なさい。18 彼らはおのおの、その火皿を取り、それに火を入れて、その上に香を盛った。そしてモーセとアロンはいっしょに会見の天幕の入口に立った。19 コラは全会衆を会見の天幕の入口に集めて、ふたりに逆らわせようとした。そのとき、の栄光が全会衆に現れた。」

モーセは使いをやって、ダタンとアビラムを呼び寄せようとしましたが、彼らの答えはノーでした。その理由は何でしょうか。モーセが自分たちを乳と蜜の流れる地から上らせて、この荒野で死なせようとしたということです。あれっ、乳と蜜の流れる地とは神が約束されたカナンの地のことなのに、彼らはここでかつて自分たちが住んでいたエジプトのことを、そのように言っているのです。また、「それでも不足があるのか」という言葉も、先ほどモーセが、コラに対して言った言葉をもじっています。さらに、約束のカナン人の地にあなたがたが連れて行かなかった、とモーセたちの失敗をあげつらっています。

それでモーセは激しく怒り、彼らのささげものを顧みないようにと、主に申し上げました。そして、コラに言いました。コラとその仲間たち、そしてアロンとは、明日、主の前に出るように・・・と。するとコラたちは、おのおの火皿を取り、それに火に入れて、その上に香を盛りました。そしてイスラエルの全会衆を会見の天幕の入り口に集めて、ふたりに逆らわせようとしたのです。

それに対して、主はどのようにされたでしょうか。20節から24節までをご覧ください。

「20 はモーセとアロンに告げて仰せられた。21 「あなたがたはこの会衆から離れよ。わたしはこの者どもをたちどころに絶滅してしまうから。」22 ふたりひれ伏して言った。「神。すべての肉なるもののいのちの神よ。ひとりの者が罪を犯せば、全会衆をお怒りになるのですか。」23 はモーセに告げて仰せられた。24 「この会衆に告げて、コラとダタンとアビラムの住まいの付近から離れ去るように言え。」

主はモーセに、この民から離れるようにと言われました。彼らをたちどころに滅ぼされるからです。モーセが怒っている以上に、主がお怒りになっておられました。そして、主はそのような反逆の民を滅ぼそうとされたのです。

するとモーセとアロンはひれ伏して言いました。「神。すべての肉なるもののいのちの神よ。ひとりの者が罪を犯せば、全会衆をお怒りになるのですか。」

何と、彼らは、イスラエルのためにとりなして祈りました。ここまで反抗する民のためにとりなすこと人間的にはなかなかできないことですが、モーセは地上のだれにもまさって謙遜な人でした。そのような中にあっても冷静に、あわれみの心をもって主にとりなしたのです。

すると主は、「この会衆に告げて、コラとダタンとアビラムの住まいの付近から離れ去るように言え。」と言って、会衆を滅ぼさないようにされたのです。しかし、そのようにモーセに反抗し会衆を扇動したダタンとアビラムに対しては、きびしいことばを語りました。25節から35節です。

「25 モーセは立ち上がり、イスラエルの長老たちを従えて、ダタンとアビラムのところへ行き、26 そして会衆に告げて言った。「さあ、この悪者どもの天幕から離れ、彼らのものには何にもさわるな。彼らのすべての罪のために、あなたがたが滅ぼし尽くされるといけないから。」27 それでみなは、コラとダタンとアビラムの住まいの付近から離れ去った。ダタンとアビラムは、その妻子、幼子たちといっしょに出て来て、自分たちの天幕の入口に立った。」モーセは言った。「私を遣わして、これらのしわざをさせたのはであって、私自身の考えからではないことが、次のことによってあなたがたにわかるであろう。29 もしこの者たちが、すべての人が死ぬように死に、すべての人の会う運命に彼らも会えば、私を遣わされたのはではない。30 しかし、もしがこれまでにないことを行われて、地がその口を開き、彼らと彼らに属する者たちとを、ことごとくのみこみ、彼らが生きながらよみに下るなら、あなたがたは、これらの者たちがを侮ったことを知らなければならない。」31 モーセがこれらのことばをみな言い終わるや、彼らの下の地面が割れた。32 地はその口をあけて、彼らとその家族、またコラに属するすべての者と、すべての持ち物とをのみこんだ。33 彼らとすべて彼に属する者は、生きながら、よみに下り、地は彼らを包んでしまい、彼らは集会の中から滅び去った。34 このとき、彼らの回りにいたイスラエル人はみな、彼らの叫び声を聞いて逃げた。「地が私たちをも、のみこんでしまうかもしれない」と思ったからである。35 また、のところから火が出て、香をささげていた二百五十人を焼き尽くした。」

モーセは、イスラエルの長老たちを従えて、ダタンとアビラムのところへ行き、まず会衆に、彼らから離れるように告げると、これが自分の考えによるのではなく、主が遣わして、これらのことをさせたのであることを示すために、地がその口を開いて、彼らと彼らに属する者たちとを、ことごとく呑み込み、生きながらよみに下るようにさせると言いました。そして、モーセがこれらのことばを語り終えるや、彼らの下の地面が割れて、彼らとその家族、またコラに族するすべての者が、呑み込まれたのです。彼らは、生きながら、よみにくだったのです。よみとは死者の住む世界です。死んだ人が行くところなのです。ところが、そのよみに生きながら、下って行ったのです。これはおそろしいことです。

このとき、彼らの回りにいたイスラエル人はみな、彼らの叫び声を聞いて逃げました。「地が私たちをも、のみこんでしまうかもしれない。」と思ったからです。しかし、神はあわれみ深い方です。モーセとアロンのとりなしによって、彼らが滅びないで済むようにしてくださったのです。 また、先ほどコラと共に来てモーセとアロンに立ち向かった二百五十人は、その持っていた火皿の火が彼らを焼き尽くしました。このように神によって遣わされたモーセに反逆した彼らは、おそろしい神のさばきを受けたのです。

4.祭壇のための被金(36-40)

すると主は、モーセにつげて次のように言われました。36節から40節までをご覧ください。

「36 はモーセに告げて仰せられた。37 「あなたは、祭司アロンの子エルアザルに命じて、炎の中から火皿を取り出させよ。火を遠くにまき散らさせよ。それらは聖なるものとなっているから。38 罪を犯していのちを失ったこれらの者たちの火皿を取り、それらを打ちたたいて延べ板とし、祭壇のための被金とせよ。それらは、彼らがの前にささげたので、聖なるものとなっているからである。こうして、これらをイスラエル人に対するしるしとさせよ。」39 そこで祭司エルアザルは、焼き殺される者たちがささげた青銅の火皿を取って、それを打ち延ばし、祭壇のための被金とし、40 イスラエル人のための記念とした。これは、アロンの子孫でないほかの者が、の前に近づいて煙を立ち上らせることがないため、その者が、コラやその仲間のようなめに会わないためである。―がモーセを通してエルアザルに言われたとおりである。」

新共同訳聖書では、ここから17章になっています。新共同訳聖書が、なぜここから17章にしたのかはわかりません。もともと章節は人間が便宜的に作ったものでそこに霊感が働いたわけではないので重要なことではありませんが、ここから17章にしたのには何か意図があったのではないかと思います。17章には「アロンの杖」についての言及があるので、祭壇の被いについて記されてあるここから17章にしたものと思われます。しかし、49節にはイスラエルに下った神罰に対する言及があるので、これはコラやダタンとアビラム、また、二百五十人のリーダーたちに対するさばきの続きと見た方がよいかと思います。

そしてこのところで主は、罪を犯していのちを失った者たちの火皿を取り、それを打ちたたいて、祭壇のための被金(きせがね)、これは被いのことですが、それを作るようにと言われました。何のためでしょうか。それは「しるし」のため、「記念」のためです。アロンの子孫でないほかの者たちが、主の前に近づいて煙を上らせるようなことがないために、そのようなことをして主の怒りをかい、滅びることがないようにするためです。私たちにもこのようなしるしが必要ですね。繰り返し、繰り返し主に反抗しては罪を犯す者だからです。「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」(1コリント10:11-12)とありますが、このようなことを教訓として、倒れることがないように気を付けたいと思います。

ところで、ここには焼き尽くすささげものの祭壇がどうして青銅で覆われるようになったのかが記されてあるのです(出エジプト27:1-2,38:1-2)。それは、このコラの罪のためです。それを見て、自分たちへの戒めとするためだったのです。それはまさに私たちの罪のために焼き尽くすささげものとなられた十字架のキリストを指し示すものだったのです。キリストの十字架を見る時、私たちの罪がいかに大きいものであるかを知ります。その罪のためにキリストが十字架で死んでくださったことによって、私たちのすべての罪が赦されたのです。これはそのためのしるしなのです。私たちはこのしるしを見て、キリストの贖いの恵みに感謝しつつ、神に喜ばれる歩みをしていきたいと願わされます。

5.さらなる神罰(41-50)

最後に41節から50節までのところを見て終わりたいと思います。

「41 その翌日、イスラエル人の全会衆は、モーセとアロンに向かってつぶやいて言った。「あなたがたはの民を殺した。」42 会衆が集まってモーセとアロンに逆らったとき、ふたりが会見の天幕のほうを振り向くと、見よ、雲がそれをおおい、の栄光が現れた。43 モーセとアロンが会見の天幕の前に行くと、44 はモーセに告げて仰せられた。45 「あなたがたはこの会衆から立ち去れ。わたしがこの者どもをたちどころに絶ち滅ぼすことができるように。」ふたりはひれ伏した。46 モーセはアロンに言った。「火皿を取り、祭壇から火を取ってそれに入れ、その上に香を盛りなさい。そして急いで会衆のところへ持って行き、彼らの贖いをしなさい。の前から激しい怒りが出て来て、神罰がもう始まったから。」47 アロンは、モーセが命じたように、火皿を取って集会の真ん中に走って行ったが、見よ、神罰はすでに民のうちに始まっていた。そこで彼は香をたいて、民の贖いをした。48 彼が死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ったとき、神罰はやんだ。49 コラの事件で死んだ者とは別に、この神罰で死んだ者は、一万四千七百人になった。50 こうして、アロンは会見の天幕の入口のモーセのところへ帰った。神罰はやんだ。」

これほど恐ろしい神のさばきを目の当たりにし、そのさばきを免れたイスラエルの民はさぞ感謝したかと思いきや、全く違っていました。その翌日、イスラエルの全会衆は、モーセとアロンに向かってつぶやいたのです。「あなたがたは主の民を殺した。」と。言い換えると、「愛がない」ということでしょうか。彼らはコラたちに同情していたのです。主の指導者たちにつぶやくことは主につぶやくことであり、そのことに対するさはぎがどれほど恐ろしいものであるかを目の当たりにしたのに、彼らはそこから学ぶことをせず、同じような過ちを犯しました。

それで、モーセとアロンが天幕の方を振り向くと、雲がそれをおおい、主の栄光が現れました。そして、モーセとアロンに、彼らから離れるようにと言われたのです。主が彼らをたちどころに滅ぼされるからです。するとモーセはひれ伏しました。そして、アロンに、彼らの罪の贖いをするようにと命じます。けれども、すでに神罰は始まっていました。コラの事件で死んだ者とは別に、この神罰でイスラエルの一万四千七百人が死んだのです。しかし、アロンが死んだ者と生きている者たちとの間に立ったとき、神罰はやみました。これは、神と人間の間に立たれたイエス・キリストを表しています。罪のゆえに神に滅ぼされてもいたしかたない私たちのために、神は御子イエス・キリストをお遣わしくださり、私たちと神との間に立って罪の贖いをしてくださったので、神の怒り、神罰はやんだのです。

彼らはいつまでも自分の感情に流されていました。何が神のみこころなのかを知り、それに従うということよりも、たとえそれが罪であっても、自分の思いや感情に従って歩もうとしたのです。これはクリスチャンにとって陥りやすい過ちでもあります。神のみこころがどうであるかよりも、あくまでも自分の考えや思いを優先するのです。自分が滅ぼされるまで、自分の肉に従って生きようとするのです。その結果は、このように滅びる以外はありません。私たちは自分の感情がどうであれ、神のみこころが何であるかを知り、それに従うことが求められます。それが信仰の歩みなのです。

Ⅰテモテ4章1~6節「りっぱな奉仕者」

きょうは、Ⅰテモテ4章のみことばから「りっぱな奉仕者」というタイトルでお話したいと思います。1章では、教会が守るべきメッセージについて、2章と3章では、教会のメンバーとしてどうあるべきなのかについて語ってきたパウロは、4章においては、りっぱな奉仕者とはどのような奉仕者なのかについて語ります。「奉仕者」と訳されていることばは「ミニスター」で、一般には聖職者とか教役者、牧会者のことを指していますが、これはもともと「仕える者」のことで、主の働きに召されている人のことを指しています。そういう意味では、クリスチャンはみなミニストリーに召されているので、すべてのクリスチャンに対して語られていると言ってもいいでしょう。

Ⅰ.信仰から離れるようになる(1)

まず1節をご覧ください。ここには、「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。」とあります。

「しかし」というのは、3章16節で語られた内容を受けての「しかし」です。そこでは敬虔の奥義について語られていました。それは一言で言うなら、それはイエス・キリストの福音でした。最初から最後まで、徹頭徹尾イエス・キリストです。これがキリスト教です。キリスト教とはキリストです。キリスト教信仰とはキリストです。そして、私たちが宣べ伝えるべき内容はイエス・キリストであって、それ以外のメッセージはありません。これが敬虔の奥義であり、いくら強調しても、強調しすぎることはありません。「しかし」です。

「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊との教えに心を奪われ、信仰から離れるようになります。」

「御霊が明らかに言われるように」とは、御霊が書かれたこの聖書で明らかに言われているようにということです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。その聖書が繰り返し、繰り返し、後の時代になると、どういうことが起こるのかを告げています。それは、ある人たちは惑わす霊と悪霊との教えに心奪われて、信仰から離れるようになるということです。それはこのテモテへの手紙だけでなく、他のパウロの書簡でも、またヨハネの書簡でも、またペテロの書簡、ヤコブの書簡でも言及されていることです。聖書はすべて、神の霊感によるものなので、だれが書いても同じことを語っているのです。勿論、それはイエス様も語っておられることです。マタイの福音書24書を開いてみましょう。ここには世の終わりになると戦争があったり、ききんがあったり、いろいろな自然災害、天変地異が起こると言われていますが、その中で最も顕著なしるしは、これではないかと思います。12節です。

「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。」

「不法」というのは、神のみことばに反することです。神のみことばに反するので、多く人たちの愛は冷たくなります。これがパウロの言葉では、「信仰から離れる」と表現されているわけです。世の終わりになると、神のみことばに反するようなことを教えたり、また、反聖書的な神学、教理がはびこるので、多くの人たちの神に対する愛も、教会に対する愛も、兄弟姉妹たちに対する愛も、隣人に対する愛も、失われていくたましいに対する愛も冷めてしまうというのです。いったいなぜ神様に対する愛が冷めてしまうのでしょうか。それは不法がはびこるからです。聖書のことばに反するようなことを言ったり、教えたりするのからです。神のみことばから離れると、愛が冷えてくるのです。信仰から離れるようになるのです。「聖書なんて、そんなに熱心に学ばなくてもいいじゃないですか。」「教会にそんなに足しげく通う必要なんてないですよ。」「好きな時に行くだけで十分です。」「今はインターネットもありますから、いつでも好きな時に、好きなメッセージを聞けばいいんです」教会に対する愛も覚めてきます。これは世の終わりのしるしなんです。不法がはびこるので、多くの人たちの愛が冷たくなるのです。今はまさにそのような時代ではないでしょうか。刻一刻と世の終わりに近づいているのです。

この「信仰から離れるようになります」の「信仰」には定冠詞がついています。定冠詞というのは、英語で言うところの「The」です。その信仰です。その信仰とはどの信仰かというと、文脈を見ておわかりのように3章16節の信仰です。キリスト教信仰のことです。その信仰から離れるようになるのです。ただ不信仰に陥るとかということではありません。キリスト教信仰そのものから離れるようになるのです。これは救いから離れていくようになるということです。つまり、救いを失うようになるということなのです。ですから、この信仰から離れるというのは、非常に重いことです。ただ誤解がないように整理しておきたいと思いますが、クリスチャンが救いを失うことは決してありません。これはヨハネの福音書10章28節、29節のイエス様のことばを読めば明らかなことです。一度キリストに捕えられた者は、その救いを失うことは絶対にありません。ヨハネの福音書にはこうあります。

「28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。29 わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。」

「永遠のいちの」とは言い換えると「救い」のことです。イエス様は彼らに救いを与えます。だれもイエスの御手の中から彼らを奪い去るようなことはありません。イエスばかりでなく、父なる神からもあなたを奪い去るようなことはできません。あなたはイエスと父なる神の両方の手によってしっかりとガードされ、守られているのです。だれもそこからあなたを奪い去ることはできないのです。これ以上安全なところはありません。救いは絶対保障、完全保障なのです。

他にも、ローマ書8章1節で、パウロはこう言っています。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」

言い換えれば、クリスチャンが、再び永遠の滅びに定められるようなことは絶対にないということです。キリスト・イエスのうちにあるならば、本当の意味でクリスチャンであるならば、地獄に行くようなことは絶対にないのです。その刑罰は、イエス・キリストが二千年前に十字架の上で肩代わりしてくださったからです。すべての贖いは完了済みなのです。

これは絶対に外せないところです。ある人たちはクリスチャンでも救いを失うことがあると言う人もいますが、それは違います。聖書が教えていることは、救いは絶対に失われることはないのです。これが聖書の教えです。

その一方で、同時に聖書はこうも言っているのです。ある人たちは、その信仰から離れるようになる・・・と。どういうことですか?ここでは離れることもあり得る、と言っているのです。ちょっと矛盾しているかのように感じるところですが、その違いをしっかりと区分けして解する必要があるかと思います。

こういうことです。クリスチャンは絶対に救いを失うことはありませんが、しかし、その一方でクリスチャンは救いから離れることがあり得るということです。それは、私たち人間がロボットように造られたからではないからです。私たちは自由意志を持つ者として造られました。自由意思を持つ者というのは、自由に神を賛美し、喜び、ほめたたえることができるということです。逆に言うなら、自由に神から離れることもできるということです。仮に私たちがもうキリストの手の中にはいたくない、神の手の中に収まりたくない、私は自由に生きたいと思うなら、神から離れることができるのです。その人は実際に離れることができるのです。神様は、無理矢理に私たちをご自身の手の中にとどめておくようなことはなさらないのです。私たちの意志をもって神を愛し、神をほめたたえ、神に従うことを望んでおられるのです。ですから私たちは、自分の自由な意思によって神を信じることも、信じないこともできるのです。自由意思によって天国に行くことも選べるし、地獄に行くことも選べるのです。

ただ私は、個人的に思うのは、もしそのように思う人があるとしたら、すなわち、信仰から離れたいと思うようなことがあるとしたら、その人は本当の意味で救われていなかったのではないかということです。本当に救われていたなら、あるいは、本当に神の恵みを味わっていたのなら、この神の愛から離れたいなんてだれも思わないからです。そう思うとしたら、最初から信じていなかったのではないかと思うのです。わかりません。ただ聖書が告げていることは、そういう事実があるということです。クリスチャンは救いを失うことはないし、その一方で、その救いから離れることもあるということを教えているのです。

ヘブル3章12節にもこう書いてあります。「兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。」

「兄弟たち」とは、もちろん、クリスチャンたちのことです。ヘブル人クリスチャンたちに語っているのです。「あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。」と。この「離れる」ということばはⅠテモテ4章1節で使われている「離れる」と全く同じ原語が使われています。気を付けるように。生ける神から離れるということがないように。こういうことがクリスチャンたちの間でもあり得るからです。そういう事実を事実として受け止めながら、そういうことがないように気を付けるようにと勧められているのです。

でも、仮にその人が信仰から離れることがあったとしても、それですべてがだめになってしまうわけではありません。そういう人でももう一度やり直すことができます。何度でもやり直すことができるのです。正しいキリストの福音を聞き、悔い改めて、イエスを救い主と信じればいいのです。そうすれば、救われるのです。

「私はただクリスチャンのふりをしていただけです。口先だけの信仰でした。心を込めて、意味がわかっていたわけではありません。何となく雰囲気に呑まれて、何となく人から勧められて、プレッシャーになって、感情的になって、人間的な思いでイエス様を信じますとは言ったけれど、よく考えてみたら、自分は全くイエス様のことがわかっていませんでした。救いについてわかりませんでした。イエス様と生きた関係もありませんでした。ごめんなさい。いま、あなたの救いかわかりました。私はいま、あなたを私の罪からの救い主として、私の人生の主として迎えます。どうか、あなたの喜ばれる者に変えてください。」

そう言って、イエス様を信じればいいのです。そうすれば、確かな救いを受けることができるのです。そう気づいたならば遅くはありません。もう一度やり直すことができるのです。もう一度真剣に神の前に自らの罪を悔い改め、そして神に立ち返って、イエス・キリストを信じればいいのです。やり直しはできるのです。ですから、仮に信仰から離れたとしても、もう一度信仰に戻ってくることができるのです。一度信仰から離れたらもう二度と救われないとか、そういういい加減なクリスチャンは救われないということはないのです。

このように、世の終わりになると、信仰から離れる人たちが起こることをパウロは警告しています。それは御霊が明らかに言われることなのです。だから、霊だからと言って、みな信じてはいけません。それが惑わしの霊や悪霊の教えによるものではないかどうか、みことばによって吟味しなければなりません。そして、惑わされることがないように、この信仰にしっかりととどまっていなければならないのです。

Ⅱ.うそつきどもの偽善(2-5)

では、悪魔はどのように惑わしてくるのでしょうか。次に2節から5節までをご覧ください。ここには惑わしの方法が記されてあります。

「2 それは、うそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており、3 結婚することを禁じたり、食物を絶つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。4 神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。5 神のことばと祈りとによって、聖められるからです。」

それは、うそつきどもの偽善によるものです。惑わす霊と悪霊の教えの特徴は、「偽り」にあります。悪魔は偽りの父であり、悪魔から真実を聞くことはありません。悪魔は偽教師を用いてそのわざを進めるのです。その偽教師について、ここでは二つの特徴があげられています。一つは、彼らの良心が麻痺しているということ、そしてもう一つのことは、彼らは禁欲主義的な傾向を持っているということです。

まず、良心が麻痺していることについてですが、この麻痺しているという言葉は、アイロンで自分のからだをやけどさせ、焦がしてしまい、ついには無感覚になってしまう状態のことを指しています。これが、良心が麻痺するという言葉です。パウロは、このテモテへの手紙の中で、「良心」という言葉をたくさん用いています。たとえば、1章5節では、「この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。」とあります。また、1章19節にも、「信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くためです。」と言っています。この良心が麻痺してしまうほど、つまり罪の意識を感じないほどに、平気で嘘をつくのです。いくら聖書の御言葉に「こう書いてあります」と言っても、「それで」とか、「それがどうしたんですか」、「みんながやっていることじゃないですか」、「おかしいのはあなたです」なんて開き直ったりするのです。聖書の御言葉を聞いても良心が痛むことがありません。それが罪だということもわからないのです。

偽りの教師たちのもう一つの特徴は、結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりすることです。これは律法主義、または禁欲主義と呼ばれるものです。これらはすべて惑わしの霊によるもの、悪霊の教えによるもの、または、パウロはこのⅠテモテの冒頭で「違った教えを説いたり」と言っていますが、本来のキリストの教えとは違った教えのことです。その背景にはグノーシス主義とか、ユダヤ主義といった異端がはびこっていました。グノーシス主義とは霊肉二元論で、「すべて肉体的、物質的なものは悪であり、霊的、精神的なものが善いものである」という教えです。したがって、結婚は肉体的なものですから悪いものとされ、結婚することを禁じたりしたのです。食べ物も物質的なものですから悪いものであると、食物を断つことを禁じたりしたのです。

ここからローマ・カトリック教会では、聖職者の独身性というものを強調するようになりました。司祭やシスターなど神に仕える者は聖くなければならないと、独身であることが求められたのです。独身でないと司祭になれません。結婚していると司祭にはなれないのです。それは肉であり、世俗的なことだからです。祭司やシスターなど神に仕える者たちはそうした世俗的なことから離れ、ただ神だけを求めなければならないし、それが聖いことだと考えられるようになったのです。

しかし、そこには一つの矛盾があります。というのは、このローマ・カトリック教会の最初の教皇であったペテロは、皮肉にも結婚していたことです。ローマ・カトリック教会では、初代法王をペテロにおいているのに、そのペテロは結婚していました。何という矛盾でしょうか。ですから、そうしたローマ・カトリック教会の教えの中にも、こうしたグノーシス主義の名残というか、そういう考え方が入り込んでいたのであって、それはもともとの聖書の教えではありません。聖書では、そもそも結婚を禁じてはいないのです。結婚は神の創造の初めに神が立てられた制度であり、それは祝福されたもの、聖なるものなのです。それを禁じるということは、まさに惑わす霊と悪霊の教えによるものなのです。勿論、だからと言って結婚しなければならないというものでもありません。結婚するのは神のためであり、しないのも神のためです。私たちは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、神の栄光を現すためにするのです。したがって、結婚に関して言うならば、それはしてもいいし、しなくてもいい、ということです。それを禁じることは、聖書とは違った惑わす霊と悪霊の教えによるものになのです。

しばらく前に統一協会の合同結婚式が話題なりましたが、あれも問題です。確かに合同結婚式では結婚を禁じているわけではありませんが、教団の思惑でまだ一度も会ったことがない人が結婚させられるのですから・・。結婚を禁じているのではなく、無理やり結婚させるのも問題です。

それからもう一つの食物を断つことについでですが、ここにもユダヤ主義的な影響が強く見られます。ユダヤ主義というのは、クリスチャンになっても旧約聖書の律法を守らなければ救われないという教えです。その中心がこうした食べ物の規定であったわけです。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られたものです。神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。それは、神のことばと祈り、すなわち、信仰によって感謝して受けるとき、すべては聖められるからです。それなのに、いったいなぜ食物を断たなければならないのでしょうか。もし、健康のために断つというのならわかります。食べ過ぎてメタボにならないように、少しどころか、かなりセーブしなければならない時もあるでしょう。あるいは、祈りのために一時的に断つというのもわかります。イエス様も、「この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません」(マタイ17:21)と言って、断食して祈ることの重要性を教えられました。しかし、それ以外に、食物を断たなければならない理由はありません。旧約聖書のレビ記にそう書いてあるではないですか?レビ記には数々の食物に関する規定が書かれてあるのは確かです。しかし、それは次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。コロサイ書2章16,17節をお開きください。ここに何と書いてありますか。こうあります。

「16 こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。17 これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」(コロサイ2:16-17)

皆さん、本体はキリストにあるのです。旧約聖書にある律法の規定は影にすぎません。その影を必至に追い求め、本体を見失うことがあるとしたら、それこそ本末転倒です。律法の目的であるキリストが、旧約聖書の目的であるキリストが何と言っておられるのかということが重要なことです。そのキリストが、神が造られた物はみな良い物で。感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません、と言っているのです。いいえ、これはパウロのことばであってキリストのことばではありませんと言う方がいらっしゃるかもしれませんが、パウロはキリストのことばをここで語っているのです。イエス様は、「外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」(マルコ7:15)と言われ、すべての食物をきよいとされました。それゆえ、食物を断つことを禁じてはいけないのです。もし禁じることがあるとしたらそれは聖書とは違った教えであり、惑わしの霊、悪霊の教えなのです。

キリスト教の異端とされているモルモン教では、食べ物について細かな規定があります。コーヒー、紅茶、緑茶など、カフェインの入っている飲み物は全部だめです。もちろん、アルコールもご法度です。それは不健康をもたらし、霊的にも聖くなることができないと考えているからです。また、モルモン教では通常、月の初めの日曜日が断食の日に設定されていて、2食を断つことが推奨されています。その断食によって節約されたお金で困っている人を助けるというのです。その目的自体はすばらしいものですが、それが個人の信仰によってではなく、教団の教えによって強いられてやっているとしたら問題です。なぜなら、聖書では、食物を断つことを禁じてはならないと命じられているからです。もしそのように命じることがあるとしたら、それは偽りの教え、惑わす霊と悪霊の教えによるものなのです。

私たちが義と認められるのはイエス・キリストを信じる信仰によってのみであって、その他のどんな宗教的な行為も、どんな行いも義とすることはできないのです。私たちを救い、私たちをご自身と同じ姿に変えてくれるのはキリストのみであって、それは御霊なる主の働きによるものなのです。私たちの行いによるのではありません。ですから、私たちはいつも「この信仰」から離れることがないように注意しなければならないのです。

Ⅲ.これらのことを教えるなら(6)

第三のことは、これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたはキリスト・イエスのりっぱな奉仕者になることができるということです。6節をご覧ください。

「これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたはキリスト・イエスのりっぱな奉仕者になります。信仰のことばと、あなたが従って来た良い教えのことばとによって養われているからです。」

「これらのこと」とは、1節から5節までのところでパウロが語ってきた内容のことです。すなわち、後の時代になるとどのようなことが起こるのか、そこには惑わす霊と悪霊の教えが蔓延するようになるのでそれをよく判別し、聖書が教えている正しい教えとはどのようなものなのかを教えるなら、ということです。これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたはりっぱな奉仕者になることができるのです。よい奉仕者とは、これらのことをよく教える人です。その信仰から離れることがないように、イエス・キリストのことをよく教える奉仕者のことなのです。イエス・キリストのことはそっちのけで全く言及しないというのでは、りっぱな奉仕になることはできません。

なぜなら、信仰のことばと、あなたが従って来た良い教えのことばによって養われているからです。信仰のことばと、テモテが従って来た教えのことばとは同じものを指していますが、パウロはここでそれをあえて強調してこのように言っています。信仰から出てないことば、つまり、聖書に書かれていないようなことば、そして、テモテがこれまで聞いたこともないような奇抜な教えは、惑わしの霊、悪霊の教えによるものであって、そういう教えは退け、この聖書のことば、昔からずっと教えられてことば、すべての教会が伝統的に守ってきた教えにしっかりととどまるように、そのことによって信仰が養われていくからです。何かこの世で流行っているから、人々がもてはやしているからといったものに目移りして、そういったものに飛びついたりしてはいけないのです。古いと言われようと、時代遅れだと言われようと、時代錯誤だと言われようと、同性愛がいまどき罪だなんてアホじゃないかと言われようとも、それでも、この信仰のことば、テモテがずっと従ってきた聖書の御言葉に立ち、これを教えなければならないのです。それによって私たちの信仰が養われていくからです。それ以外は惑わしの霊によるものであって、信仰から離れていくようになるのです。愛が冷えて、自分を愛するようになり、神から離れるようになるのです。ですから、私たちはこれらのことを教えなければなりません。教えるとは思い起こさせるという言葉ですが、何度も何度も繰り返し、繰り返し語って、思い起こさせなければなりません。そのような奉仕者こそ良いミニスター、りっぱな奉仕者なのです。

このように見て来ると、教会の牧会者の務めが何であるかが見えてきます。それは、これらのことを教えることです。これが教会の牧会者にとって最も重要な務めなのです。日本ではどちらかというと、教会のこまごまとしたことから、事務的なこと、教会員のケア、食べ物も飲み物に関することまで何でもする牧師が良い牧師であるかのように思われがちですが、聖書で言うところの良いミニスターとそうではありません。

使徒の働き6章には、最初の教会に起こった問題を対処するために御霊と知恵に満ちた7人の執事が選ばれたことが記録されています。ギリシャ語を使うユダヤ人たちがヘブル語を使うユダヤ人たちに苦情を申し立てたのです。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給のことでなおざりにされていたからです。食べ物の恨みは恐ろしいのです。たかが食べ物のことで・・・と思うかもしれませんが、食べ物のこと、飲み物のことは以外と重要なのです。

しかし、12人の弟子たちがこうした問題に関わっていたら、彼らがしなければならない大切なことがなおざりにされてしまいます。そりは祈りとみことばです。それで初代教会は、彼らが祈りとみことばの奉仕に専念するために、彼らにこの問題7人の解決をゆだねたのでした。もし彼らがこれらのことに振り回されて最も重要な奉仕ができなくなってしまったら、それは教会にとって不幸なことなのです。

りっぱな奉仕者とは、祈りとみことばに専念し、これらのことを教える奉仕者です。私たちはいつもみことばから教えられ、惑わしの霊と悪霊との教えに心を奪われ、信仰から離れることがないように、みことばによって養われ、整えられていくことを求めていきたいと思います。

I Timothy 4:1-1 “A good minister”

Today I would like to talk about “a good minister” (6) from the first part of I Timothy chapter 4. In chapter 1 of this letter to Timothy Paul spoke about the contents of the message that the church must keep. That is the glorious Gospel that is full of blessing. “The goal of this…is love, which comes from a pure heart and a good conscience and a sincere faith.” (1:5) In chapter 2 and 3 he spoke about the order of creation and what the church members should be like. Now in this chapter 4 he advises Timothy to become “a good minister” (6) and is teaching about what is necessary in order to be so. The word that is used here for “minister” (6) has as its origin the meaning of “servant” or “someone who serves”. If you take that meaning, then all Christians are called to be the Lord’s servant so this can be applied to all Christians.

 

  1. Some will abandon the faith (Vs. 1)

First of all please look at verse 1. It says, “The Spirit clearly says that in later times some will abandon the faith and follow deceiving spirits and things taught by demons.”

This verse is related to the last verse in chapter 3. Christ “appeared in a body, was vindicated by the Spirit, was seen by angels, was preached among the nations, was believed on in the world, was taken up in glory.” (3:16) In one word this is the Gospel of Jesus Christ. From the beginning to the end is Jesus Christ.  That is Christianity. Christianity is Jesus Christ. The Christian faith is Christ. The truth of Christianity is Christ. What we should preach is Christ. There is no other message. It is the “mystery of godliness” (3:16) No matter how much you emphasize it, it can’t be emphasized too much.

“The Spirit clearly says that in later times some will abandon the faith and follow deceiving spirits and things taught by demons.” (1)

“The Spirit clearly says” (1) means that it is clearly said in the Bible that the Holy Spirit inspired it. In the Bible it says over and over again what “later times,” that can be used interchangeably with the end of the world, will be like. That is “some will abandon the faith and follow deceiving spirits and things taught by demons.” (1) This is prophesized about not only in this letter to Timothy, but also in the books by Paul, also in the books by John, the books by Peter and in the same way in the book by James.  This is because they were all written by the same Holy Spirit of God. The Holy Spirit gave the same inspiration. He made it clear what will occur “in later times.” (1) Of course, Jesus Christ himself too in advance stated the same signs preluding the end of the world.

That is in Matthew 24. There will be wars, famines, natural disaster, and a convulsion of nature. However, the most obvious sign of the end of the world will be this I think. “Because of the increase of wickedness, the love of most will grow cold.” (Matt. 24:12)

“Wickedness” (Matt. 24:12) is towards God’s Word. Wickedness is the opposite of God’s Word. It will prevail so “the love of most will grow cold.” (Matt. 24:12) This is expressed by Paul as “some will abandon the faith.” (1) In the age at the end of the world, things contrary to the Word of God will be taught.  Also theology and doctrine contrary to the Bible will increase. Most people’s love towards God, towards the church, and towards the brothers and sisters in Christ, towards their neighbors, towards the lost “will grow cold.” (Matt. 24:12) The things that people were on fire for will cool off and become lukewarm.  There will be a lack of interest in studying the Bible. People won’t feel the need to go to church. “Because of the increase of wickedness, the love of most will grow cold.” (Matt. 24:12) Now we are entering such an age.

The word “faith” in “some will abandon the faith” in I Timothy 4:1 is preceded by article “the”. “The faith” (1) is the faith of 3:16. It is the Gospel of Christ, the Christian faith. This is “the faith” (1), but “some will abandon” (1) it.  This doesn’t mean to fall into unbelief. It refers to abandoning the faith of Christianity, abandoning the Gospel of Christ. It is abandoning the nucleus of the doctrine of salvation. In other words, they will lose their salvation.   Therefore, abandoning the faith is an extremely serious thing. However, so there is no misunderstanding I would like to put this teaching in order. Christians will never lose their salvation. If you read Jesus’ words in John 10:28 and 29 this will be clear. Anyone who is in Jesus’ hand will never lose his salvation. In John it says, “I give them eternal life, and they shall never perish; no one can snatch them out of my hand. My Father who has given them to me is greater than all; no one can take them out of my Father’s hand.” (John 10:28, 29)

“Eternal life” (John 10:28) said in other words is “salvation”. Therefore, Jesus gives them salvation. “No one can snatch them out of” (John 10:28) Jesus’ hand.  Not only Jesus’ hand. “No one can take them out of” (John 10:29) the Father’s hand either. You are guarded and taken care of by both the hands of Jesus and God the Father. “No one can snatch” (John 10:28) you out of them. There is no greater place of security. Salvation is an absolute guarantee, and a full and comprehensive guarantee.

Also in another passage too, Roman 8:1, Paul said, “Therefore, there is now no condemnation for those who are in Christ Jesus. The total ransom has been paid.

This will definitely not fail. There are some people that take the view that even Christians can lose their salvation, but that is wrong.  What the Bible teaches is that salvation is never lost. This is the teaching of the Bible.

On the other hand, at the same time the Bible says, “some will abandon the faith.” (1)  This seems to contradict the teaching that Christians cannot lose their salvation. Therefore, it is important that we clearly understand this difference.

Christians definitely cannot lose their salvation. However, on the other hand a person can “abandon the faith”. (1) That’s because we mankind have a free will. God will definitely never take away our salvation, but on the other hand there are cases where we by our own will abandon salvation. God doesn’t make us to be robots, but made us with free wills, to freely praise the Lord, to rejoice, and to sing to God. Therefore, he doesn’t force us to stay within his hands. For example, if a person says that he wants to leave God’s hands or he doesn’t want to be in God’s hands any more, or that he wants to live his own way, that person can in reality leave. That is because man has been given a free will. By our free will we believe in God or we can choose not to believe. By our free will we can choose to go to heaven and at the same time we can choose to go to hell.

Only I think personally myself that if a person was saved once, but even so thinks that he wants to abandon the faith, then I think that he was never really saved. If that person really knows the salvation of Jesus Christ and tasted it, then I think he would definitely not want to leave. I don’t know, but I wonder if he had just been pretending to be saved. I don’t know.  That is just my personal opinion. However, the truth of the Bible is that Christians cannot lose their salvation. On the other hand, it teaches that a person can “abandon the faith”. (1)

In Hebrews 3:12 it says, “See to it, brothers, that none of you has a sinful, unbelieving heart that turns away from the living God.”

“Brothers” (Hebrews 3:12) is, of course, Christians. Paul is talking to the Hebrew Christians.  He is saying to them to be careful to see to it that among them none of them have “a sinful, unbelieving heart that turns away from the living God.” (Hebrews 3:12) “Turns away” (Hebrews 3:12) is exactly the same word that is used in verse 1 for “abandon”. They are to be careful that no one abandons the living God. It is conceivable that this can happen among Christians. While accepting this as a reality, we are being advised to “see to it…that none of you has a sinful, unbelieving heart that turns away from the living God.” (Hebrews 3:12)

However, for example, even if there is a case of a person abandoning the faith, that doesn’t mean that all is lost.  Even such a person can once start all over again. He can start all over again time after time after time. He can start over many times. He just needs to hear the Christian Gospel, repent and believe in Jesus as his Savior.  Then that person will be saved.

 

 

If you feel like you were under pressure by other people to believe in Christ so you said you did. However, you feel like it was just words and not from your heart. If you feel like you don’t have a living relationship with Jesus, the only thing you need to do is to believe in Jesus and ask him to forgive you of your sins and become your Lord. If you realize this, it’s not too late. You can start over again. For example, even if we abandon the faith, we can return again to the faith.

Paul is warning that like this at the end of the world there will be people who will abandon the faith. This is something that “the Spirit clearly says.” (1) We must not believe all things, but check with what the Bible teaches to make sure the teaching is not by “deceiving spirits and things taught by demons.” (1) Then so we are not deceived we need to abide in the faith.

 

  1. Hypocritical liars (Vs. 2-5)

In the next verses, verses 2 to 5, is written the methods by which we are deceived by the devil. “Such teachings come through hypocritical liars, whose consciences have been seared as with a hot iron.  They forbid people to marry and order them to abstain from certain foods, which God created to be received with thanksgiving by those who believe and who know the truth.  For everything God created is good, and nothing is to be rejected if it is received with thanksgiving, because it is consecrated by the word of God and prayer.” (2-5)

“Such teachings come through hypocritical liars.” (2) A characteristic of teaching by “deceiving spirits and things taught by demons” (1) is that it is lies. The devil is the father of lies. You won’t hear the truth from the devil. The devil advances his works by using false teachers. Here 2 characteristics of the false teachers are given. One is that their “consciences have been seared.” (2) The other is that they were disposed to asceticism.

First about their consciences being seared, the word “seared” refers to burning your body with an iron, scorching it, and being in the condition of having no feelings. That is the meaning of their “consciences have been seared.” (2) Paul in the book of Timothy uses the word “conscience” many times. For example, in 1:5 it says, “The goal of this command is love, which comes from a pure heart and a good conscience and a sincere faith.” Also in 1:19 too it says, “holding on to faith and a good conscience.” This good conscience becomes so seared, in other words, so much that the conscience doesn’t feel sin, it is indifferent to telling lies. Even if he hears the Words of the Bible, his conscience isn’t hurt. That is because he doesn’t recognize sin.

 

 

Another characteristic is that the false teachers “forbid people to marry and order them to abstain from certain foods.” (3) This is called legalism or asceticism. These are all by ”deceiving spirits and things taught by demons.” (2) Also Paul in the opening paragraph of I Timothy warns about men who teach false doctrines. That teaching was a different teaching from the original teachings of Christ. In the background was such prevailing Gnosticism and Jewish heresies. Gnosticism was a soul and body dualism that taught that everything that was fleshly and material was bad, and spiritual and mind were good. Accordingly, marriage is a fleshly thing so it is evil and “forbid people to marry.” (3) Food too is material so evil and therefore “ordered them to abstain from certain foods.” (3)

From this the Roman Catholic Church came to emphasize single clergy. Priests and sisters and such people who serve God must be holy so they sought singleness. If you are not single, you can’t be a priest. If you are married, you can’t be a priest. That is fleshly and secular. They thought that by being single you are spiritual. However, there is one contradiction. It is it is ironic, but the Catholic Church’s first pope, Peter, was married. The practice is a relic of Gnosticism caused by the infiltration of such thinking into the church. It was not the teaching of the Bible.  In the Bible from the beginning marriage was not forbidden. Marriage was an institution instituted by God from the beginning of creation. It is blessed and holy. It can be said that for it to be forbidden is really the teaching of “deceiving spirits and things taught by demons.” (2)  Of course, that doesn’t mean that you have to get married. You get married for God and you don’t marry for God. “So whether you eat or drink or whatever you do, do it all for the glory of God.” (I Cor. 10:31) If you apply this to marriage then it’s o.k. to get married and its o.k. not to get married. To forbid is a teaching of “deceiving spirit and things taught by demons.” (2) and is different than the teaching of the Bible.

Also about the other one, ordering “them to abstain from certain foods,” (3) the influence of Judaism can be strongly seen. It was the teaching that even though you became a Christian, you had to follow the law of the Old Testament or you couldn’t be saved. The main thing was the commands about food. However, food was created by God to be received thankfully by people that know the truth and have faith. “For everything God created is good, and nothing is to be rejected if it is received with thanksgiving, because it is consecrated by the word of God and prayer.” (3, 4) There may be times when for our health we should watch how much we eat or there are times when we may fast for the purpose of prayer. However, there is no reason that food should be forbidden. Actually in Leviticus there are many regulations written about food. However, they are a shadow of what is to come. The substance is Christ. Please open your Bibles to Colossians 2:16, 17. It says, “Therefore do not let anyone judge you by what you eat or drink, or with regard to a religious festival, a New Moon celebration or a Sabbath day.  These are a shadow of the things that were to come; the reality, however, is found in Christ.”

The substance is Christ.  The regulations of the law of the Old Testament were nothing more than a shadow. If you desperately pursue the shadow and lose sight of the substance, then that is really overturning the plans. The purpose of the law was Christ, but what is important is what Christ who is the purpose of the Old Testament says. Christ said, “For everything God created is good, and nothing is to be rejected if it is received with thanksgiving, because it is consecrated by the word of God and prayer.” (3, 4) Actually you might be realizing these aren’t Jesus’ words, but Paul’s. However, Paul is speaking about Christ’s words. Jesus said, “Nothing outside a man can make him ‘unclean’ by going into him.  Rather, it is what comes out of a man that makes him ‘unclean’.” (Mark 7:15) He made all foods clean. Therefore, food must not by forbidden. If it is forbidden, then it is a teaching of “deceiving spirits and things taught by demons.” (2)

The Christian cult, the Mormons, has detailed regulations concerning food. Drinks that contain caffeine like coffee, tea, green tea, etc. are not allowed. Of course alcohol is prohibited. They think it isn’t healthy and that they won’t be able to be spiritually holy too. Also the Mormons usually make the first Sunday of each month a day of fasting. Fasting for 2 meals is recommended. The money that is saved by fasting is used to help people. The purpose in and of itself is wonderful, but the problem it is not by personal faith that they are doing it, but by the teaching of the religious group. That’s because the Bible commands not to forbid food. If such a thing is commanded then it is a false teaching. It is a teaching of “deceiving spirits and things taught by demons.” (2)

We are made righteous only by a faith of believing in Jesus Christ. There are no other religious acts or works by which a person can be made righteous. We are saved and changed into his likeness only by Christ. It is by the spiritual work of the Lord. It is not by our works. Therefore, we must always be careful not to abandon the faith.

 

  1. If you point these things out (Vs. 6)

The third point is that “if you point these things out to the brothers, you will be a good minister.” (6)  Please look at verse 6 “If you point these things out to the brothers, you will be a good minister of Christ Jesus, brought up in the truths of the faith and of the good teaching that you have followed.” (6)

 

 

“These things” (6) are the contents that Paul talked about in verses 1 to 5.  In other words, it is about what will occur “in later times” (1).  “In later times” (1) teachings by “deceiving spirits and things taught by demons” (1) will prevail so Paul is teaching that Timothy needs to distinguish the teaching and teach the teaching of the Bible correctly. “If you point these things out to the brothers, you will be a good minister of Christ Jesus.” (6) “A good minister of Christ Jesus” (6) is a person that teaches these things well. “A good minister of Christ Jesus” (6) teaches the about Jesus Christ well so that no one abandons the faith. A person who neglects Jesus Christ, and doesn’t mention him at all is not a good minister. “A good minister of Jesus Christ” (6) teaches all “these things”. (6)

That’s because you were “brought up in the truths of the faith and of the good teaching that you have followed.” (6) “The truths of the faith” and “the good teaching that you have followed” are the same things, but here Paul is saying this in this way in order to emphasize it. Words that do not come from faith, in other words, original words that are not written in the Bible and that Timothy had not heard up until now are a teaching of “deceiving spirits and things taught by demons.” (2) Such teaching must be gotten rid of. By keeping the words of the Bible which have not changed from the beginning, and the teaching that all the churches have kept traditionally, “the truths of the faith and of the good teaching that” (6) he has followed and by teaching them he will be “a good minister of Jesus Christ.” (6) Even if it seems old fashion or out dated Timothy must teach the “the truths of the faith” (6) and “the good teaching that (6) he has followed. By doing so our faith will mature. All other teaching is by “deceiving spirits and things taught by demons” (1) and will cause people to abandon the faith. Love will become cold and people will love only themselves and abandon God.  Therefore, we must teach these things. To teach is the word used for remember. We must repeat it over and over again, saying it repeatedly and we must remember it. Such a minister is “a good minister.” (6)

By looking at this we can see what the duty of the minister of the church is. It is to teach “these things”. (6) This is the most important duty of the minister of the church. In Japan there is a tendency to think that a good Pastor is one does everything: the secretarial things, the church member’s care, things concerning food and drink, and who does all details in the church. However, that is not what the Bible says a good minister is.

In Acts 6 there is a record of 7 people being chosen as deacons who were filled with the Holy Spirit and wisdom to deal with a problem that occurred in the first church. The Jews who spoke Greek “complained against the Hebraic Jews because their widows were being overlooked in the daily distribution of food.” (Acts 6:1) However if the 12 disciples took care of this problem it would mean neglecting the important things that they had to do. That was prayer and the Word of God.  In order to concentrate on the ministry of the word of God and prayer, they turned the responsibility of the problem over to 7 men. If they were to be worried about this problem then they wouldn’t be able to do their important ministry and so it would be a misfortune for the church.

“A good minister” (6) gives “attention to prayer and the ministry of the word” (Acts 6:4) and is a minister that teaches “these things.” (6) Let’s seek to always be taught by the Word and not “abandon the faith and follow deceiving spirits and things taught by demons” (1) b