創世記11章

きょうは、「バベルの塔」から一緒に学んでいきたいと思います。1節を見ると、「さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。」あります。それがヘブル語であったのか、アラム語であったのかわかりませんが、全地は一つのことば、一つの話ことばしかありませんでした。このようにことばが一つであったということは、なによりも精神生活が一つであったということです。たとえ彼らの中に堕落している者たちがいたとしても、同じことばで、自分の思いと考えを伝えることができたわけです。

1.シヌアルの地に(1-2)

ところが、それが変わり始める出来事が起こります。2節をご覧ください。「そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。」とあります。このシヌアルの地というのは、10章8~10節にしるされてある世の権力者ニムロデの国にありました。ニムロデとは、ハムの子クシュの子どもです。クシュとはエチオピアのことですから、彼らの多くはエジプトへと移住した民族のことですが、このニムロデは違いました。彼は、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住したのです。これはどこかというと、バビロンのことです。その平野に定住したということは、彼らはそこに安心の根拠を得ようとしたからでしょう。ノアの箱舟以来、人々が拠り所としていたのは神のことばであったはずなのに、いつしか彼らはその神のことばではなく、そうした地理的優位さを安心の拠り所にするようになっていたのです。ですから、彼らは互いに次のように言ったのです。3~4節です。

2.名をあげようとした人たち(3-4)

「彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにレンガを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。そのうちに彼らはこう言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」

瀝青とはアスファルトのことです。彼らは石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いるようになりました。アスファルトを用いたり、塔を造ったりすること自体は問題ではありませんが、彼らはそれによって自分たちの名をあげようとしました。それが問題でした。人間はこうしたアスファルトのようなものを発見し用いたりすると、自分たちの手のわざを誇るようになり、もう神にでもなったかのように高ぶってしまうのです。「天にまで届く塔」とは、そういう意味でしょう。彼らは公然と神を無視し、神に対抗しようとしました。彼らは愚かにも自分たちの力、自分たちの手で、神のさばきを防げるとさえ思ったのです。

神がアダムとエバに、そして、ノアに与えた命令とはどんなことだったでしょうか。創世記1章28節、9章1-2には、「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地にあるすべてのものを支配せよ。」ということでした。神様は、人間が一箇所に集まって満足することだけを願っておられませんでした。神様は、そのように集まって互いに励まし合い、力をいただいたなら、今度はその人たちが地を満たすために出て行くことを願っておられたのです。神様は、彼らが一箇所に凝り固まって住んだら、すぐに神様とそのみこころを忘れてしまうということを知っておられたのです。案の定、彼らはこのシヌアルの地に定住し、そこで次々に文明の力を発見し、生活が便利になってきますと、いつしか自分たちの力を誇るようなってしまったのです。しかし、神様のみこころは何かというと、地を満たすことです。散らされることです。もし、福音を満たすために出て行こうとしないと、神様は別の方法でそのように導かれます。あの使徒の働きを見てください。神様のみこころは、エルサレムからユダヤ、サマリヤ、および地の果てまで主の証人になることでした。しかし、彼らはなかなか出ていこうとしませんでした。人はそこにとどまっていた方が安定感がありますから、わざわざ冒険してまで出て行こうとはしないのです。その結果、どんなことが起こったでしょうか。神様は迫害を与えました。なかなか重い腰をあげなかった彼らが、そうせずにはいられないように迫害を与えて散らされたのです。ピリポはサマリヤに、別の人たちはアンテオケまで進んでいきました。そして、そのアンテオケからパウロとバルナバが全世界に遣わされて行ったのです。

3年半前に東日本大地震で原発事故が起こりました。なぜあのような悲惨な出来事が起こったのでしょうか。わかりません。しかし、一つだけ言えることは、そのことによって散らされた人たちがキリストの証人として、遣わされたところで証するためではなかったのではないでしょうか。この時もシヌアルの平地で、アスファルトまで作って、れんがも作って、文明がどんどん発達し、生活も安定していく中で、人々はその中にとどまろう、とどまろうという傾向があったに違いありません。それ自体は問題ではないのですが、そのように内側に、内側にと凝り固まっていくうちに、彼らの考え方や思いも凝り固まってそこから出られなくなってしまっただけでなく、いつしか彼らは自分たちの手のわざを誇るようになり、神様を無視し、自らが神になったかのように高ぶっていたのです。それが問題でした。

3.ことばを混乱させた神(5-7)

すると神様はどうされたでしょうか?5-7節です。「そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」

バビロンの町と塔が、彼らの思惑通りに進捗していたとき、神は行動を開始されました。神はどんなことでも決して見逃される方ではありません。まさにそのとき、人間が建てた町と塔をご覧になられるために降りて来られました。それはこれまでのことを神様が知らなかったということではなく、それまでのすべてのことをご存知であられましたが、神の時が来るまで、待っておられたということです。

町はその面積を増し、塔はその高さを加えつつあり、人々が会心の笑みをもって眺めていたまさにそのとき、突如として神が仰せられました。彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」

一致団結するということは、人が何かをする場合とても大切なことですが、その団結が間違ったことのために用いられるとしたそれもまた悲惨なことです。彼らが一つの民、一つのことばで、精神生活が一つであったということはすばらしいことでしたが、それを用いて、神に反逆するとしたら、それほどひどいことはありません。ですから、神はそれができないように立ち上がられたのです。どのように?神様は降って行かれ、彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしたのです。「悪いけど、石を取ってくれる?」「何?」「石」「何?」「石だでば・・・」「もういい。」なんだか私たち夫婦の会話のようです。ことばが通じないというのは辛いところがあります。互いの考えがかみ合わず、行動もすれ違い、その中が大混乱するのです。当然、仕事のつじつまは合わなくなりますし、しまいには怒り出す始末です。そしてついには人間関係が分裂してしまうのです。だからコミュニケーションというのは、とても大切ですね。ことばが通じ合ってもコミュニケーションがうまくいかないと、互いの信頼関係にもひびが入ってきます。神様は、彼らのことばを混乱させたので、彼らは互いにことばが通じ合わないようになってしまったのです。

4.バベル(8-9)

その結果、どうなったでしょうか。8-9節です。「 こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。」

彼らはその町を建てるのをやめ、そこから地の全面に散らされて行きました。それは、人間の力がどれほど偉大であっても、神様のさばきを防ぐことはできないということです。神の力はどんな人間の力よりもはるかにまさっているのです。人は事に失敗するまで、このことが本当にわからないのです。まさに霊的盲目です。いや、たとえ事に失敗しても、このことに気づく人は本当に少ないのです。たいていは、今までやっていたことを止めるだけで、そのことから本当の意味で悟ろうとはしません。人は神様によって霊のまなこを開いてもらうまでは、本当に盲目なのです。

それゆう、その町の名は「バベル」と呼ばれました。「バベル」とは、「神の門」という意味です。バビロンの人たちは、この塔を自分たちの手で天に届くように、自分たちの手で天国に行けるようにと名付けましたが、そうした人間の高慢さを見られた神は、彼らのことばを混乱させ、ヘブル語で「混乱する」という意味の「バベル」と呼ばれたのです。

このバベルの塔の話は、私たちに重要な教訓を与えてくれます。それは、人間が一つになるという問題についてです。人間は、しばしば一つにならなければならない必要に迫られます。そして一つになるために多くのことを考えます。また一つの同じ目的のもとに、同じ働きをすれば一つになれると考えますが、それは違います。それこそバベルの塔の建設にほかなりません。私たちが一つになれるのは聖霊によってであって、そうでなかったら必ず失敗するのです。人間的に一つになろうとしても、自己中心的な者たちが自分たちで一つになろうとしたら、そこには必ずほころびが生じます。しかし、キリストの十字架によって一つになっていくとき、そこに完全な一致と調和が生まれてくるのです。というのは、神が一つにされるからです。あのペンテコステの出来事はまさにそのことを物語っているのではないでしょうか。人間は、罪によって神にむ逆らい、人間関係の中に分裂が生じましたが、神様は、聖霊によってその分裂を一つにされたのです。一同が聖霊に満たされることによって、一つにされたのです。現代社会におけるイデオロギーを始めとしたあらゆる種類の対立も、聖霊によって一致する以外に真の解決の道はないのです。

5.生めよ。ふえよ。地に満ちよ。

次に10節と11節をご覧ください。ここには、「 これはセムの歴史である。セムは百歳のとき、すなわち大洪水の二年後にアルパクシャデを生んだ。セムはアルパクシャデを生んで後、五百年生き、息子、娘たちを生んだ。」とあります。

この系図を見てまず気がつくことは、5章に記されてある系図と比べてみると、5章の方にはそれぞれの人を「そして彼は死んだ」という悲しいことばで結んでいるのに対して、ここにはそのような「そして彼は死んだ」というようなことばは一切なく、「生んだ」ということばで終わっていることです。いったいこれはどういうことでしょうか?「生んだ」ということばから考えると、9章1節のところで洪水後のノアに対して神が、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。」と言われた神の祝福を思い出します。そうです。この「生んだ」という表現は、神の祝福を現しているわけです。そしてこれがバベルの塔の事件の後に記されてあるということは、バベルの人々が神に敵対し強制的に散らされて混乱に陥ったのと異なり、セムの子孫は、神の約束の通りに、そこには秩序があり、順調に増えていったことが現されているのです。あのバベルの時のように「頂きが天に届く塔を建て、名をあげよう」というように、神様よりも自分たちの考え、自分たちの思い、自分たちの手のわざを誇るようになると、そこには混乱が生じてまいりますが、セムの歴史に代表される信仰の道、神に従って生きる人生には、秩序と祝福が生まれるということです。

6.選ばれた者の系図(12~26)

それから14~20節までに注目してください。「シェラフは三十年生きて、エベルを生んだ。シェラフはエベルを生んで後、四百三年生き、息子、娘たちを生んだ。エベルは、三十四年生きて、ペレグを生んだ。エベルはペレグを生んで後、四百三十年生き、息子、娘たちを生んだ。ペレグは三十年生きて、レウを生んだ。ペレグはレウを生んで後、二百九年生き、息子、娘たちを生んだ。レウは三十二年生きて、セレグを生んだ。」

ここにエベルが生まれます。「エベル」という名は「ヘブル」という語の起源になっている言葉です。すなわち、ここからヘブル人が出ました。しかもこの後10章の系図にはエベルにはペレグとヨクタンという子どもが生まれたことがわかりますが、この11章の系図にはヨクタンのことは記されておらず、ペレグの子レウへとつながっているのです。これはどういうことかというと、この系図は10章の系図とは違いセムからエベル、そしてアブラハムへとつながっていく系図を示しているからなのです。すなわち、神の選びがアダムからセツ、ノア、セム、ペレグ、そしてアブラハムに次第にせばめられている様子が描かれているのです。そして12章からの神の選民の歴史がはじまるアブラハムへとつながっていくわけです。ですから、ここではそのアブラハム以前の歴史がどうであったのかを、このセムから始まる系図の中に記していたのです。そして、この系図の中に私たちもまたいます。今の時代を生きる私たちはみな、選ばれた者の系図の終わりに記録されているのです。自分が救いの歴史の中にいると確信して歩めることは何と幸いなことでしょうか。単に目に見える現象にとらわれることなく、神の国全体の視点の中で生きることができるからです。

7.テラの歴史(27~32)

最後にテラの歴史を見ていきましょう。テラと言ってもお寺の歴史ではありません。27~32節です。セツから始まった系図はエベル、ペレグと続いてテラまで続きます。ここから12章のアブラハムの生涯が始まります。そういう意味ではこれは「アブラハムの歴史」なのに、ここには「テラの歴史」という表題がつけられているのはどうしてなのでしょうか?それはこのアブラハムがテラの子どもであり、彼の家族の中から選ばれた者であるということを描こうとしていたのです。アブラハムの生涯において重要なことは彼が最初から特別な家族の中にいたのではなく、異教的なテラの家庭の中からいて、その中から選ばれた者であるということです。それはヨシュア記24章2~節を見るとわかります。テラは他の神々に仕えていたのです。確かにウルとハランは月礼拝の中心地であったと言われています。テラたちはカナンに向かって移住したはずなのにハランに住み着いてしまったというのは、この偶像礼拝と関係があったからではないでしょうか。そうした中から神様はアブラハムを選ばれたのです。そして、やがて約束の地カナンへと導かれた。それがここで言われていることです。アブラハムの信仰の出発点は、こうした異教的な家庭にあったのです。

そういう意味では、私たちもまた最初からキリスト教の環境の中にあったのではなく、アブラハムと同じように偶像に縛られた異教的な背景の中から出た者です。そんな私たちが救われたのはただ神様の一方的な恵み、神様の選びによるものでしかありません。それが信仰の出発点なのです。そのことを覚えながら、そうした虚しい偶像の中から行ける神様に立ち返るようにしてくださった神の恵みに感謝して、神の示される道を歩む者でありたいと思います。

創世記10章

創世記10章には、「諸民族の起源」が記されてあります。それによると世界のすべての民族は、ノアの三人の息子セム・ハム・ヤペテから分かれ出ました。大洪水の時ノアの箱舟に乗ったのは、ノアとその妻、および彼らの息子セム・ハム・ヤペテとその妻たちの合計8人でした。ですから、現在の人類は、すべてノアの子孫であり、またすべての民族はセム、ハム、ヤペテの3人を先祖として、分かれ出たことになります。

1.ヤペテ(10:2-5)

まず取り上げられているのはヤペテです。兄弟の順序からすればセム、ヤペテ、ハムですからセムが取り上げられなければならないのですが、以後、セムの歴史が中心に記されていくので、その前にヤペテとハムの歴史をまず取り上げて、その後で中心のセムについて書き記すという書き方をしています。

「ヤペテ」という名前の意味は「広い」です。事実、ヤペテ系の民族はその名のとおり、非常に広い範囲に移り住みました。ヤペテから出た諸民族は、「白人」と呼ばれる欧米人やロシア人、ペルシャ人、インド人などになりまた。聖書によるとヤペテの子は、「ゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トバル、メシェク、ティラス」でした。まず「ゴメル」です。ゴメルの子孫は、「アシュケナズ、リファテ、トガルマ」(10:3)とあります。

「アシュケナズ」はおもに小アジア(今のトルコ)に移り住みましたが、さらに進んでヨーロッパに渡り、ドイツにも移り住んだようです。ユダヤ人はドイツ人を「アシュケナズ」という名で呼んできたのは、ここにその由来があるようです。

「リファテ」はパフレゴニヤ人、「トガルマ」はフルギヤ人のことです。(ヨセフスによると・・)今のアルメニア人の先祖です。彼らはいずれも小アジア(今のトルコ)に移り住みました。

次にヤペテの子「マゴグ」です。彼らはスキタイ人のことで、南ロシアの騎馬民族となりました。(ヨセフス「ユダヤ古代史1巻6:1)

ヤペテのもうひとりの子「マダイ」はメディア人のことです。彼らはメソポタミヤにメディア帝国を作り、のちに兄弟民族のペルシャ人と結託して、メディア・ペルシャ帝国を築き上げました。いわゆるアーリア人は、この「マダイ」の子孫です。アーリアの名は、メデア・ペルシャ帝国の人々が「アーリア人」と呼ばれたことから来ているのです。アーリア人はインド方面にも移り住み、インドの主要民族となりました。したがってインドの主要民族は、ヤペテ系です。

次に出てくるのは「ヤワン」です。「ヤワン」とは、ギリシャ人のことです。ギリシャは、ヘブル語で「ヤワン」なのです。ギリシャ人は自分たちのことを、イオニヤ人(ギリシャ語でイヤオ-ン)と呼んでいました。聖書にはヤワンの子は、「エリシャ、タルシシュ、キティム人、ドダニム人」(10:4)とあります。「エリシャ」はおそらくギリシャや、地中海のキプロス島に渡った人たちです。「タルシシュは、スペインに移り住んだ人たちです。スペインには、「タルテッソ」という港があります。(ヨナ1:3)キティム人は、キプロスに渡り、そこを占領した民族です。(ヨセフス、「ユダヤ古代史」1巻6:1)「ドニダム人は、おそらく北方ギリシャ人、タセルダネア人、ドーリア人、またはエーゲ海東のローデア人のことです。

次は「トバル」です。彼らは旧ソ連の中にあるグルジヤ共和国あたりに移り住みました。グルジヤ共和国の首都トビリシは、この「トバル」に由来しています。

ヤペテの子「メシェク」は、モスコイ人のことで、(ヘロドトス「歴史」3:94)旧ソ連のロシア共和国付近に移り住んだ民族です。モスクワの名は、この「メシェク」に由来しています。ヤペテの子「ティラス」は、エーゲ海周辺に移り住んだエトラシア人です。

このようにヤペテの子孫は、おもにヨーロッパ、ロシア方面に移り住み、インドにも移り住みました。ですからヤペテ系民族は、いわゆる「インド・ヨーロッパ語族」の人々と、ほぼ同じか、ほとんど重なるものです。

一般に言われている「インド・ヨーロッパ語族」というのは、

〔西方系〕スラブ系=ロシア人・ポーランド人・ユーゴスラビア人・ブルガリア人等 チュートン(ゲルマン)系=イギリス人・オランダ人・ドイツ人・ノルマン人 ラテン系=イタリア人・フランス人・スペイン人・ポルトガル人 ギリシャ系=ギリシャ人

〔東方系〕インド人(アーリア人)・イラン人(メデア・ペルシャ人)です。これまで見てきたことからを考えると、大まかに言って、スラブ系は、マゴグ・トバル・メシェク・ゴメル チュートン系(ゲルマン系)は、マダイ・ゴメル ラテン系・ギリシャ系は、ヤワン 東方系は、マダイの子孫ということになるでしょう。ヤペテ系の人々の肌は、大体において白色から、黄色かかったうすい褐色をしています。

2.ハムの子孫(6-20)

次にハムの子孫について見ていきましょう。10章6節には、「ハムの子孫はクシュ、ミツライム、プテ、カナン。」とあります。はじめに「クシュ」は、旧約聖書の古代訳であるアレキサンドリヤ・ギリシャ語訳では「エチオピア」です。この「クシュ」から、アフリカ大陸に住んだヌビア民族が生まれ出ました。クシュの子孫のひとり「セバ」(10:7)、エチエピアの町メロイの旧名でもあります。(ヨセフス「ユダヤ古代史」第二巻10:2)

次に、ハムの子「ミツライム」からは、エジプト人が出ました。ミツライムの子孫「パテロス人」(同10:13)などは、今日のエジプトに定住した民族です。同じくミツライムの子孫「レハビム」(10:13)は、アフリカ大陸の北部のリビアあたりに定住しました。(同ヨセフス)

次にハムの子「プテ」も、アフリカ北西岸リビア地方に移り住みました。ハムの子孫の多くは、アフリカ大陸に広がったのです。彼らはアフリカ北部から次第に南下して、やがてアフリカ全土に広がったのでしょう。

したがって、いわゆるニグロイド(黒人)はハムの子孫ということになります。しかしハムの子孫のすべてが、アフリカ大陸に移り住んだというわけではありません。また、ハムの子孫のすべてが黒人というわけでもないのです。

ここにハムの子クシュの子孫に「サブタ」(10:7)という人がいますが、彼はアラビア半島の南端のハドラマウトというところに定住しました。同じく「ラマ」は、ハドラマウト北方に住んだランマニテ人のことです。

またクシュの子孫「サブテカ」(10:7)は、ペルシャ湾東側の都サムダケを建設した民族であり、「シェバ」は、アラビア半島南西部のマリブを都とする商業国の建設者、「テダン」は、北方アラビア人となった人々です。ハムの子孫の中には、アラビア半島に移り住んだ人々もいました。またハムの子「クシュ」の子孫の中から「ニムロデ」という人物も出ました。彼はメソポタミヤ地方に強大な王国をつくり、地上最初の権力者となりました。 ニムロデの王国は、「シヌアルの地」(10:10)にありました。歴史学のうえで有名なシュメール地方(メソポタミヤ)のことです。彼は都市国家バベル、エレク、アカデ(アッカド)を征服して支配しました。ニムロデの名はその後も伝説的に語り継がれ、のちに神格化されて、バビロンの守護神メロダク(マルズク)として崇められました。有名なハムラビ王(B.C.2000年頃)の時代には、世界最高の神として祭られました。

このようにハム系の民族の中には、メソポタミヤ地方や、アラビア半島方面に広がった人々もいました。さらに次に見るように、パレスチナ地方に移り住んだ人たちもいました。ハムの子ミツライムの子孫「カスルヒム人」は、ペリシテ人の先祖で(10:14)、「バレスチナ」という名は、彼ら「ペリシテ」の名に由来するものです。彼らは、イスラエル人とたびたび戦闘を交えたので、旧約聖書にもよく出てきます。

またハムの子「カナン」から出た民族のほとんども、パレスチナ地方から小アジア地方(今のトルコ共和国)に移り住みました。たとえば、カナンの子孫の「シドン人」(10:15)は、フェニキヤ人となった人々です。フェニキヤ地方(今日のシリア)には、今もシドンという町があります。カナン人の子孫「ヘテ人」は、ハッティ人のことです。彼らはのちに他民族、おそらくヤペテ系民族に征服され、いわゆるヒッタイト王国の住民となりました。 カナンの子孫「エブス人」は(10:16)、エルサレムの先住民族であり、「エモリ人」(10:16)は、スリヤ(今日のシリヤ)に移り住んだ民族です。ヒビ人は、パレスチナに移り住みました。 またカナンの子孫「アルキ人」(10:17)は、レバノン山麓テル・アルカ近辺の住民、「アルワデ人」(10:17)は都市国家アルワデの住人、「ツェマリ人」(10:18)は都市国家ズムラの住人、「ハマテ人」(10:18)は都市国家ハマテの住人と言われています。彼らはいずれも、パレスチナ、レバノン、シリヤあたのり町々の住人となったのです。

結論としてハムの子孫は、アフリカ大陸や、アラビア半島、メソポタミヤ、パレスチナ、シリヤ、小アジア(今のトルコ)の地域に移り住みました。古代史に名だたるエジプト帝国、フェニキア人、またフェニキア人の植民都市カルタゴなどはみな、ハム系です。ハム系の人々の肌の色は、大体において黒色から、黄色かかったうすい褐色まであります。

ニューギニア人、フィリピン原住民、マライ半島(マレーシア原住民)、オーストラリア原住民、そのほか「東南アジア・ニグロイド」とか「オセアニア・ニグロイド」と言われる人々も、ハム系の血が濃いのではないかと思われます。つまりハム系の人々は、かなり東の方まで進出し、東南アジアや、ニューギニヤ、オーストラリア方面にも移り住んだようです。「ハム」という名前の意味は「暑い」という意味で、実際に彼らは、おもに暑い地方に移り住んだようです。

3.セムから出た民族(21-31)

10:22には、セムの子孫は、「エラム、アシュル、アルパクシャデ、ルデ、アラム」とあります。はじめに三番目のアルパクシャデから見ていきましょう。10:24によると、彼の孫に「エベル」という人物が出てきますが、この「エベル」は、「ヘブル人」の先祖です。(11:14)すなわち、「エベル」から、イスラエル人とかユダヤ人と呼ばれる人々が出たのです。またねこのアルパクシャデの子孫の中には、「シェレフ」や「ハツァルマベテ」「ウザル」といった人たちが出ていることがわかります。「シェレフ」は、アラビア南部に定住した民族です。

「ハツァルマベテ」は、今日のアラビア半島南端の、ハドラマウト地方に定住した民族です。名前が似ているのは、この地方に移り住んだのが彼らだったからです。「ウザル」、アラビア半島に移り住みました。イエメンあたりに移り住みました。イエメンの首都サヌアの旧名は「ウザル」であって、これは彼らの先祖の名に由来するものです。このようにセムの子「アルパクシャデ」からは、ヘブル人以外にも、アラビア半島に住む諸民族が出たわけです。

セムの他の子についてはどうでしょうか。セムの子「エラム」は、メソポタミヤの北部(今のシリヤ)付近に定住した民族です。有名な「アッシリア」の名は、彼らに由来しています。しかし、歴史学の上で言ういわゆる「アッシリア帝国」がセム系だったかというと、そうではありません。アッシリア帝国の支配階級となった人々は、ハムの子カナンの子孫であるエモリ人だったからです。彼らはアッシリア一帯を征服し、そこの支配者となりました。

セムの子「ルデ」は「リディア人」(リュディア人)のことで、やはりメソポタミヤに住みました。リディアは、B.C.七~六世紀頃には強国となりました。またセムの子「アラム」も、メソポタミヤやスリヤ(今のシリヤ)地方に定住しました。彼らの言葉「アラム語」は、紀元前一千年頃には全メソポタミヤ地方に広まり、アッシリア帝国やペルシャ帝国の公用語になりました。イエスや弟子たちも、アラム語を話しました。考古学者の意見によると、紀元前7世紀に新バビロニア帝国(聖書でいうバビロン帝国)を建てた「カルデヤ人」は、今のところアラムの一派と思われています。そうであれば、新バビロニア帝国はセム系であったということになりますが、一方ではハム系であるという意見もあり、はっきりしていないところがあります。

いずれにせよ、このようにハムからは、ヘブル人やアラビア人、そのほか、中近東に住む人々が出ました。ただし、これは今日、中近東に住む人々がみなセムの子孫である、ということではありません。今日、中近東にはセムの子孫以外にもハムの子孫やヤペテの子孫なども住んでいます。ここで述べているのは、おもにセムの子孫は中近東に移り住んだということです。

民数記8章

民数記8章を学びます。まず1節から4節までをご覧ください。

1.燭台のともしび(1-4)

「1 はモーセに告げて仰せられた。2 「アロンに告げて言え。あなたがともしび皿を上げるときは、七つのともしび皿が燭台の前を照らすようにしなさい。」3 アロンはそのようにした。がモーセに命じられたとおりに、前に向けて燭台のともしび皿を、取りつけた。4 燭台の作り方は次のとおりであった。それは金の打ち物で、その台座から花弁に至るまで打ち物であった。がモーセに示された型のとおりに、この燭台は作られていた。」

主はモーセに、アロンに告げて言うようにと命じられました。七つのともしび皿が燭台の前を照らすように・・と。それでアロンは、主がモーセに命じられたとおりに、前に向けて燭台のともしび皿を、取りつけました。至聖所には神の臨在の栄光の輝きがありますが、聖所は真っ暗でした。この燭台のともし火によって中が明るくなります。主はこのようにして聖所の中に光があることを望まれました。それにしても、いったいなぜ急に燭台のともしびの話が出てくるのでしょうか。少し不思議な感じがします。しかし、その後の箇所を読むと、その意味が明らかになります。

2.レビ人のきよめ(5-13)

それでは次に5節から26節までを見ていきましょう。

「5 ついではモーセに告げて仰せられた。6 「レビ人をイスラエル人の中から取って、彼らをきよめよ。7 あなたは次のようにして彼らをきよめなければならない。罪のきよめの水を彼らに振りかける。彼らは全身にかみそりを当て、その衣服を洗い、身をきよめ、8 若い雄牛と油を混ぜた小麦粉の穀物のささげ物を取る。あなたも別の若い雄牛を罪のためのいけにえとして取らなければならない。9 あなたはレビ人を会見の天幕の前に近づかせ、イスラエル人の全会衆を集め、10 レビ人をの前に進ませる。イスラエル人はその手をレビ人の上に置く。11 アロンはレビ人を、イスラエル人からの奉献物としての前にささげる。これは彼らがの奉仕をするためである。12 レビ人は、その手を雄牛の頭の上に置き、レビ人の罪を贖うために、一頭の罪のためのいけにえとし、一頭を全焼のいけにえとしてにささげなければならない。13 あなたはレビ人をアロンとその子らの前に立たせ、彼らを奉献物としてにささげる。」

主は、レビ人を幕屋の奉仕を行なうためにささげるように、命じられます。聖所における奉仕は、アロンとその子孫が祭司として任命を受け、祭司たちが行ないます。また祭壇における奉仕も祭司が行ないます。しかしながら、彼らだけでは人数が足りなくてすべての務めを執り行なうことができません。そこで、主は、幕屋の中で奉仕するために、レビ人を取るように命じられています。

レビ人は、まず水によるきよめを受けなければいけません。どのようにきよめるのかが7節以降に記されてあります。まず罪のきよめの水をモーセがレビ人に振りかけます。そして、レビ人は全身の毛をそって、衣服を洗います。レビ人の奉献式は水の洗いから始まるのです。このことは、クリスチャンがどのようにきよめられるのかを教えています。クリスチャンは、イスラエル人のようにささげ物をするだけではなく、レビ人のように自分自身をささげる者ですが(ローマ12:1)、そのときに必要なのが、きよめるということです。クリスチャンはどうやってきよめられるのでしょうか?Ⅰヨハネ1章9節には、「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」とあります。私たちをきよめるのは御子イエスの血です。そして、そのようにイエスの血によってきよめられた者は、イエスの御姿に変えられていくために、神のみことばによってきよめられるのです。しかし、ここで注意しなければならないのは、多くのクリスチャンが自分をきよめるということを、自分の内側を見つめて、自分の肉と罪深さを探っていくことであると考え、自分は汚れた者で、主のわざを行なっていく資格はない、奉仕するような資格はない、と思ってしまうのですが、それは誤ったきよめです。主のきよめはそのようにして行われるのではなく、ただキリストの血と聖霊の恵みによって成されていくものなのです。

それが燭台の表していたことだったのです。ここで1節から4節までのところに記されてあった燭台のともしびが生きてきます。このレビ人のきよめの儀式の前に、燭台のともしびを整えるようにとの命令がありました。いったいなぜそんなことが必要なのでしょうか。あまりにも唐突な感じがしないわけでもありません。しかし、実はそれはこのレビ人のきよめの土台、前提であったということです。つまり、燭台のともしびこそ、イエス・キリストと聖霊を表すものだったのです。ヨハネ8章12節には、「イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」とあります。またゼカリヤ書4章をみると、ともしび皿の油は主の御霊である聖霊のことを指していることがわかります。御霊がキリストの栄光を照らし出し、私たち(教会)の心を明るくされるのです。この燭台の光があるからこその、水の洗いがあるのです。この順番が大切です。私たちが自分をきよめるということは、自分の考えで自分自身の内側を見つめるということではなく、聖霊によってキリストの光を照らしていただくことなのです。それによって私たちはきよめられるのです。ゼカリヤ書に「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と書かれてあるとおりです。私たちの働きは、教会の働きは、私たちの能力や力によって行われるのではなく、ただ神の力によって成されていくものなのです。燭台であられるキリストと、油であられるご聖霊の働きことが、レビ人のきよめに必要なものであり、その前提、土台にあるものなのです。

「あなたはレビ人を会見の天幕の前に近づかせ、イスラエル人の全会衆を集め、レビ人を主の前に進ませる。イスラエル人はその手をレビ人の上に置く。アロンはレビ人を、イスラエル人からの奉献物として主の前にささげる。これは彼らが主の奉仕をするためである。」(9-11)

モーセがレビ人を会見の天幕の前に近づかせると、イスラエルの全会衆を集め、レビ人の上にイスラエル人が手を置きます。これはどういうことかというと、レビ人がイスラエル全会衆を代表であったということです。イスラエルの代表として、その働きをゆだねられていたということです。それはレビ人だけのことではなく、イスラエル人のすべてもいっしょに奉仕をしていることを意味していました。つまり、イスラエル人は今、レビ人を自分たちのものとして、主の前にささげているのです。レビ人は、その手を雄牛の頭の上に置き、レビ人の罪を贖うために、一頭を罪のためのいけにえとし、一頭を全焼のいけにえとして主にささげます。このようにしてレビ人を奉献物として主にささげたのです。

3.レビ人の奉仕(14-22)

「14 あなたがレビ人をイスラエル人のうちから分けるなら、レビ人はわたしのものとなる。15 こうして後、レビ人は会見の天幕の奉仕をすることができる。あなたは彼らをきよめ、彼らを奉献物としてささげなければならない。16 彼らはイスラエル人のうちから正式にわたしのものとなったからである。すべてのイスラエル人のうちで、最初に生まれた初子の代わりに、わたしは彼らをわたしのものとして取ったのである。17 イスラエル人のうちでは、人でも家畜でも、すべての初子はわたしのものだからである。エジプトの地で、わたしがすべての初子を打ち殺した日に、わたしは彼らを聖別してわたしのものとした。18 わたしはイスラエル人のうちのすべての初子の代わりにレビ人を取った。19 わたしはイスラエル人のうちからレビ人をアロンとその子らに正式にあてがい、会見の天幕でイスラエル人の奉仕をし、イスラエル人のために贖いをするようにした。それは、イスラエル人が聖所に近づいて、彼らにわざわいが及ぶことのないためである。20 モーセとアロンとイスラエル人の全会衆は、すべてがレビ人についてモーセに命じられたところに従って、レビ人に対して行った。イスラエル人はそのとおりに彼らに行った。21 レビ人は罪の身をきよめ、その衣服を洗った。そうしてアロンは彼らを奉献物としての前にささげた。22 こうして後、レビ人は会見の天幕に入って、アロンとその子らの前で自分たちの奉仕をした。人々はがレビ人についてモーセに命じられたとおりに、レビ人に行った。」

このようにしてレビ人は主の奉仕に就くことができました。彼らはイスラエル人のうちから正式に主のものとなったからです。すべてのイスラエル人のうちで、最初に生まれた初子の代わりに、主は彼らをご自身のものとして取られました。イスラエル人のうちでは、人でも家畜でも、すべての初子は主のものです。エジプトの地で、主がすべての初子を打ち殺した日に、主は彼らを聖別してご自身のものとされました。主はそのイスラエル人のうちのすべての初子の代わりにレビ人を取ったのです。

それで主はイスラエル人のうちからレビ人をアロンとその子らに正式にあてがい、会見の天幕で奉仕ができるようになりました。ですから主の奉仕をするときに必要なことは、「私は主のものである。」という確信です。主が私をここにおいてくださり、主が私のことを握っておられるという確信なのです。私たちが奉仕をしていると、主が自分のことを気にしておられるのか、遠くから見ておられるだけではないのか、という気持ちになることがありますが、主はともにいてくださいます。そして、私は主のものとされているのです。この確信が必要なのです。モーセとアロンとイスラエル人の全会衆は、すべて主がレビ人についてモーセに命じられたところに従って、レビ人に対して行ないました。

4.レビ人の奉仕(23-26)

「ついで主はモーセに告げて仰せられた。「これはレビ人に関することである。二十五歳以上の者は会見の天幕の奉仕の務めを果たさなければならない。」

4章3節には、会見の天幕で務めにつき、仕事をすることができるのは30歳以上50歳までの男子であると言われていますが、ここでは25歳以上となっているのは、おそらくインターンの期間も含めてのことでしょう。インターンとして5年間奉仕し、30歳から50歳までフルに仕えるように定められていたのです。Ⅰテモテ3章には監督の資質が書かれてありますが、そこには「信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。」(3:6)とあります。25歳からでも奉仕できますが、実際にはよく経験を積んで30歳から奉仕するようになっていたのです。また、50歳からは奉仕の務めから退き、もう奉仕してはいけませんでした。その人はただ、会見の天幕で、自分の同族の者が任務を果たすのを助けることはできましたが、自分で奉仕することはできませんでした。50歳以上の人は、サポートする側、監督をする側に回り、実際の奉仕をすることはなかったのです。

Ⅰテサロニケ5:19~28

きょうは、テサロニケ第一の手紙からの最後のメッセージです。前回までのところでパウロは、主の再臨に備えた者の生き方として、いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。と勧めてきました。これが、キリスト・イエスにあって神が私たちに望んでおられることです。そして、その続きがきょうの箇所です。特に、この手紙の最後にあるパウロの結びのことばが心に響きます。「私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたとともにありますように。」いったい、キリストの恵みがあふれる生活とはどのようなものなのでしょうか。きょうはこのことについて三つのポイントでお話したいと思います。

Ⅰ.御霊を消してはなりません(19-22)

まず19節から22節までのところをご覧ください。「19 御霊を消してはなりません。20 預言をないがしろにしてはいけません。21 しかし、すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。22 悪はどんな悪でも避けなさい。」

ここには、「御霊を消してはなりません」とあります。どういうことでしょうか?御霊とは神の御霊である聖霊のことです。この聖霊を消してはならないというのです。御霊を消すということは聖霊を否定することです。Ⅰコリント12章1節から3節をご覧ください。

「1 さて、兄弟たち。御霊の賜物についてですが、私はあなたがたに、ぜひ次のことを知っていていただきたいのです。2 ご承知のように、あなたがたが異教徒であったときには、どう導かれたとしても、引かれて行った所は、ものを言わない偶像の所でした。3 ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。」

神の聖霊によらなければ、だれも「イエスは主」と告白することはできません。私たちがイエスを主と告白することができるのは、この聖霊の促しと導きによるのです。イエス様を信じたくても聖霊の導きがなければそのように告白することはできません。しかし、聖霊がそのように促しているにもかかわらずそれを拒むことがあるとしたら、それは聖霊を否定することになります。御霊を消してしまうことになるのです。

またⅠコリント12章4節から7節のところも見たいと思います。ここには、「4 さて、賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。5 奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。6 働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。7 しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。」あります。

ここでは御霊の賜物について語られています。御霊の賜物にはいろいろな種類があります。たとえば、知恵のことばとか、知識のことは、信仰、いやし、奇跡を行う力、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力などです。いったい何のためにこれらの賜物が与えられているのでしょうか?それは、みなの益のためです。そのような賜物が用いられることによって神の教会、キリストのからだである教会が建て上げられていくのです。みなが同じではありません。みんな違います。しかし、その違った賜物が与えられてこそ教会は建て上げられていくのです。それなのに、そうした賜物を否定することがあるとしたらどうなってしまうでしょうか。それはちょうど目が「耳ではないからからだに属さない」と言っているようなものです。だとしたら、いったいどこで見るというのでしょうか?鼻で見るんですか、それとも耳でしょうか。鼻や耳で見ることはできません。目で見るのです。目はからだの中でなくてはならない大切な器官なのです。それと同じように、私たち一人一人もキリストのからだを構成している器官なのです。一つのからだには多くの器官があるように、教会にもいろいろな賜物があります。その賜物を否定してはいけないのです。もし否定することがあるとしたら、それは御霊を否定することであり、キリストのからだを弱くしてしまうことになるのです。

しかし、パウロはこうした賜物の中でも預言をないがしろにしてはいけないと言っています。預言とは言葉を預かると書くように、未来のことを予め語ることも含めた神の言葉を預かり、それを語ることです。なぜ預言をないがしろにしてはならないのでしょうか。なぜなら、異言は自分の徳を高めますが、預言は教会の徳を高めるからです。それは必ず教会を養い育てます。だから預言をないがしろにしてはいけないのです。

パウロはこのことをⅠコリント14章1節のところでこう言っています。、「愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。」とあります。愛が一番です。なぜなら、愛はすべてを結ぶ帯だからです。たとい人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がなければ、何の値打ちもありません。愛が一番すぐれているものです。こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛なのです。そして次は何でしょうか。次は預言です。御霊の賜物の中でも、特に預言することを熱心に求めなければなりません。神のことばをひたすら求めなければならないのです。なぜなら、神の言葉が私たちを養い育て、教会を建て上げるからです。

また預言だからといってもやみくもに信じてはいけません。それが本当に神からのものであるかどうかを十分に吟味しなければなりません。これは有名な先生が言ったことだからとか、これは有名な先生の本に書いてあったことだからといって、鵜呑みにしてはいけないのです。ここには、「しかし、すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。」とあります。

この「見分ける」ということばは「吟味する」とか「検証する」ということです。元々は金属を試すことから出たことばです。それが本当に良いものであるかどうかをテストしました。そのように、それが本当に神から発せられたものなのかどうかを十分に吟味し、それが本物であるならば、たとえ自分の感情がどうであっても、喜んで従わなければならないのです。

使徒の働き17章11節には、ベレヤという町のユダヤ人のことが紹介されていますが、彼らはパウロが語ったことをよく調べました。「ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。」彼らはパウロが語ったからといってそれを鵜呑みにすることをせず、はたしてそのとおりかどうかを吟味するために毎日聖書を調べたのです。そのため、彼らのうちの多くの者たちが信仰に入りました。毎日聖書を調べるくらいの努力をしたら、何が本物であるかがわかるでしょう。この時代にはまだ新約聖書はなく旧約聖書しかなかったので、彼らは旧約聖書をもって吟味しましたが、今の時代は旧約聖書に加えて新約聖書もあります。この聖書をもって調べるのです。そうすれば教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることはないはずです。

テサロニケのクリスチャンは本当に純粋で、パウロを通して語られた神のみことばを、多くの苦難の中でも、聖霊による喜びをもって受け入れました。その結果、彼らは主にならう者となり、その信仰はすべての信者の模範となりました。それはマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、あらゆる所に伝わっていったほどです。しかし、そうした純粋な人たちだからこそ注意しなければならなかったことは、それを鵜呑みにしてはいけないということでした。Ⅰヨハネ4章1節には、「霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものであるかどうかを、ためしなさい。」とあります。彼らに求められていたことはためすこと、吟味することだったのです。はたしてそれがほんとうに神からのものなのかどうかを検証して、見分けなければならなかったのです。あまり理屈っぽくなるのも問題ですが、信仰はこうした幼子のように純粋に受け入れるという面と、それがほんとうに神からのものなのかどうかを見分けるといった面の両面の作業が求められます。なぜなら、22節にも「悪はどんな悪でも避けなさい」とありますが、それが神に喜ばれ信仰への確かな道だからです。

Ⅱ.神は真実ですから(23-24)

次に23節と24節をご覧ください。ここには、「23 平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。24 あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」とあります。

原文には、「平和の神ご自身が」の前に「de」という言葉があります。「de」というのは「しかし」という意味です。「しかし、平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいます。」これは22節の言葉に続いています。「悪はどんな悪でも避けなさい。」無理です。そんなことできるはずがありません。こんなに汚れた者がすべての悪を避けるなんてとてもできません。「しかし」です。悪を避けることは自分の力ではできないかもしれませんが、しかし、平和の神ご自身があなたを助けてくださいます。あなたを全く聖なる者としてくださるのです。主イエス・キリストの再臨のとき、責められるところがないように、あなたの霊、たましい、からだを完全に守ってくださいます。ですから、神を信じてくださいというのです。

ここには、「あなたがたの霊、たましい、からだ」とあります。これは私たちの全領域においてという意味です。私たちは肉体だけの存在ではありません。私たちは霊、たましい、からだという三つの部分が一つになった統一体なのです。全人的な存在です。立派な家に住み、何一つ足りないものがない生活をしているのに、何だか虚しい。ポッカリ穴が開いたような感じがするのはなぜでしょうか。それは霊が死んでいるからです。私たち人間は神によって造られましたが、どのようにして造られたのかというと、「神のかたち」にとあります。この「神のかたち」というのは肉体のことではありません。これは「霊」のことです。なぜなら、神は霊だからです。この霊をもって神と交わり、神に祈り、神をほめたたえる者として造られました。そのとき私たちの霊は満たされ、生きる喜びが与えられます。しかし、人類最初の人であったアダムが神の命令に背き、取ってはならないと命じられていた木から取って食べてしまったので、神との関係が断絶してしまいました。聖書ではこれを罪と言っています。意味は「的外れ」です。的を外した状態になってしまったのです。本来なら神を愛し、神とともに生きるはずの者が、自分中心に生きるようになってしまいました。その結果、霊が死んでしまったのです。しかし、私たちが幸せになるためには、私たちのからだやたましいだけでなく、霊も健やかでなければなりません。なぜなら、私たちはそのように造られているからです。私たちは霊とたましいとからだが統一されて造られているのです。ですから、この三つの領域が完全に守られることによって、平和で、幸せな人生を送ることができるのです。

動物には霊がありません。霊があるのは人間だけです。動物にあるのはたましいとからだだけです。たましいというのは、感情の部分、情緒的な部分のことです。知・情・意の部分です。動物を見ていると喜んだり、悲しんだりしているのがわかります。私はフェレットを飼っていますが、毎朝エサをあげに行くと、私の顔を見るなりそわそわし始めます。ケージに前足をかけ、からだを大きく伸ばして、「早く出してけれ」みたいなことを言います。その表情をみるとわかるのです。かつてコロという犬を飼っていましたが、この犬も喜びを爆発させていました。私の姿を見るだけでしっぽをふって喜びを表現するのです。しかし、知らない人が近寄るとうなったり、吠えたりします。犬は飼い主には忠実ですね。飼い主がいれば喜び、いないと悲しみます。それは犬にもたましいがあるからです。でも犬には霊はありません。霊は人間だけに備わったものだからです。皆さんの中で犬が祈っているのを見たことのある人がいますか?いないでしょう。犬は祈りませぬ。それは人間だけが持っているものだからです。

それなのに、人間が祈れなかったどうなるでしょうか?もう生ける屍でしかありません。どんなにエステに行ってきれいになっても、どんなにジムに行ってからだを鍛えても、どんなに仕事をがんばって大金持ちになっても、生きる力、生きる喜びがありません。人間にとって一番大きな喜びは、神が共にいることだからです。これを永遠のいのちと言います。死んでも生きるいのち、復活のいのち、天国に導き入れられるいのちを持つこと、それが最高の喜びだからです。

皆さん、医学界の最大の発見は何だか知っていますか?それは、クロロフォルム(麻酔薬)の発見だと言われています。これは、ジェームズ・シンプソンによって発見されました。この麻酔薬が発見されたことによって、痛みをあまり感じることなく、手術が受けられるようになりました。歯を抜くときにも、麻酔薬のおかげで、痛みを感じることなく抜けるので本当に助かります。 ある時、この麻酔薬を発見したジェームズ・シンプソンが新聞記者から、「あなたの人生の最大の発見は何ですか?」という質問を受けました。新聞記者が期待していた答えは、彼の口から、「クロロフォルムの発見です」ということでしたが、シンプソン、そのようには答えませんでした。彼は「私の人生の最大の発見は、イエス・キリストを通して与えられた永遠のいのちです。」と答えたのです。麻酔薬という偉大な発見をしたシンプソンであっても、人生最大の発見は、イエス・キリストを通して与えられる永遠のいのちだったのです。

人はみな、いつかは必ず死にます。死亡率は100%です。しかし、イエス・キリストを救い主として信じるなら、死んだ後も、天の御国に入り、永遠に生き続けるのです。この永遠のいのちこそ、私たち人類にもたらされた最高の発見なのです。イエス・キリストを信じるなら、神があなたの霊、たましい、からだを完全に守ってくださるのです。

24節を見てください。それは神が真実な方だからです。その根拠はあなたにあるのではなく、神にあります。あなたがたを召された方は真実な方ですから、きっとこのことをしてくださいます。あなたにできなくても、あなたが失敗しても、あなたがするのではありません。あなたを召してくださった神がしてくださいます。そのことを信じてほしいと思います。栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられるのはあなたの働きではなく、御霊なる主の働きです。イエスによって救われた人は、イエスによってずっと救われ続けます。救ってくださった方にその責任があるからです。神が私たちを救ってくださったのですから、それが完成する日まで、イエスが再臨するその時まで守ってくださいます。だからとって、イエスに丸投げするわけではなく、私たちの側にも責任があって、私たちも神に自分をゆだねなければなりませんが、そうするなら、神が喜ばれるような者に創り変えてくださいます。あなたは神が望まれる者に変えられているでしょうか。いつも喜んでいるでしょうか。絶えず祈っていますか。すべてのことについて感謝していますか。もしそうでなければ、あなたは神が望まれる者になっていません。でも、神はあなたをそのような者に変えてくださいます。それは御霊なる主の働きによるのです。そう信じて、おそれないで、あなた自身を神に明け渡していただきたいと思います。

Ⅲ.すべての兄弟たちに(25-28)

最後に、25節から終わりまでを見て終わります。25節には、「兄弟たち。私たちのためにも祈ってください。」とあります。パウロが救われたばかりのベイビークリスチャンたちに祈ってくださいとお願いしています。教会の創立者が、生まれたばかりのクリスチャンに、私のためにも祈ってほしいと言っているのです。ほんとうにへりくだった人です。へりくだっていなければこのように言えことはできません。あなたのために祈ってやります、あなたのためにしてやります、聞いてやります、となるのですが、パウロは、私のためにも祈ってほしいと、頭を下げているのです。それだけ牧師には祈りが必要であるということです。私のためにも祈ってほしいと思います。それは私が成功するためではなく、私が神の国の建設のために用いられ、神の栄光があがめられるためにです。

26節、27節には、「すべての兄弟たちに」が強調されています。「すべての兄弟たちに、聖なる口づけをもってあいさつしなさい。この手紙がすべての兄弟たちに読まれるように、主によって命じます。」

ただのあいさつではありません。聖なる口づけをもってするあいさつです。聖なる口づけの「聖なる」という言葉は「フィレマー」というギリシャが使われています。「フィレマー」とは兄弟愛を目に見える形で表してという意味です。そういうあいさつをしなさいというのです。この世でしているようなありきたりの、表面的であたりさわりのない、形だけのものではなく、心からの、相手のことをおもんぱかりのあいさつをしなさいというのです。

「ハレルヤ!お元気ですか?先日はお体の具合がよくなかったと聞いていましたが、その後いかがですか?毎日のお仕事の中で信仰を守るのは大変なことでしょう。どのようにしておられるんですか?神の聖霊が兄弟を守ってくださるように祈っています。」というふうに。

教会に行ったけどだれからも声をかけられなかったとか、だれも親切にしてくれなかったということがないように、回りの人たちのことを気にかけたいあいさつされなかったとか、だれもいうことがないように、できるだけ回りにおられる方々のことを気遣いたいですね。日本人はどちらかというとどこかよそよそしいところがあって、自分から声をかけるというのが苦手なことがありますが、私たちはイエス様を信じた時から自分捨てました。今、私がこの世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。だから、イエス様が望んでおられるように、イエス様が願っておられるように生きていきたいと思います。だからそのようにするのです。聖なる口づけをもってあいさつしなさいとあるように、「あなたにお会いできてうれしい」「あなたのために祈っています」ということを、目に見える形で表したいものです。そしてそのためには、いつも兄弟姉妹に関心を持って祈っていることが大切です。

27節の「すべての兄弟たち」は、この手紙がすべての兄弟たちに読まれるように、とあります。これは主の命令です。主の命令によって、私たちにもこの手紙が読まれました。これがすべての兄弟たちに読まれるようにしなければなりません。他の兄弟たちにもです。すべての人に対してです。なぜなら、この手紙が読まれるとき、私たちの主イエス・キリストの恵みが、あふれるようになるからです。主の日が近づいています。主イエスが再び来られるそのとき、主にあって眠った人たちは、すなわち、主イエスを信じた人たちは、朽ちないからだ、栄光のからだによみがえり、雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うようになります。そのようにして、私たちはいつまでも主とともにいるようになるのです。それが私たちの救いが完成です。この希望は失望に終わることがありません。これは失望に終わらない希望、究極の希望の言葉なのです。これが私たちの慰めとなります。ですから、私たちはこのことばをもって互いに慰め合わなければなりません。この手紙がすべての兄弟たちに読まれるようにしなければならないのです。そしてここに希望を置き、私たちの主イエス・キリストの恵みにあふれた人たちがもっともっと起こされるようにと祈る者でありたいと思います。イエス・キリストの恵みが、あながたとともにありますように。

民数記7章

きょうは民数記の7章から学びます。まず1節から9節までをお読みします。

1.ささげ物(1-9)

「1 モーセは幕屋を建て終わった日に、これに油をそそいで、聖別した。そのすべての器具と、祭壇およびそのすべての用具もそうした。彼がそれらに、油をそそいで聖別したとき、2 イスラエルの族長たち、すなわち彼らの父祖の家のかしらたち―彼らは部族の長たちで、登録を担当した者―がささげ物をした。3 彼らはささげ物をの前に持って来た。それはおおいのある車六両と雄牛十二頭で、族長ふたりにつき車一両、ひとりにつき牛一頭であった。彼らはこれを幕屋の前に連れて来た。4 するとはモーセに告げて仰せられた。5 「会見の天幕の奉仕に使うために彼らからこれらを受け取り、レビ人にそれぞれの奉仕に応じて渡せ。」6 そこでモーセは車と雄牛とを受け取り、それをレビ人に与えた。7 車二両と雄牛四頭をゲルション族にその奉仕に応じて与え、8 車四両と雄牛八頭をメラリ族に、祭司アロンの子イタマルの監督のもとにある彼らの奉仕に応じて与えた。9 しかしケハテ族には何も与えなかった。彼らの聖なるものにかかわる奉仕は、肩に負わなければならないからである。」

1節を見ると、「モーセは幕屋を建て終った日に」とあります。モーセが幕屋を建て終ったのは、イスラエルがエジプトを出てから二年目の、第一月の一日のことです。出エジプト記40章17節にそう記録されてあります。それから一か月間、主はモーセを呼び寄せ、会見の天幕から、彼に告げて仰せられました。それがレビ記の内容です。そして、その後で神はモーセに人口調査をするように命じられました。それが民数記の最初に記されてあることです。それは彼らがエジプトを出て二年目の第二の月の一日のことです。それなのにここでは「モーセが幕屋を建て終った日に」話がさかのぼっています。いったいなぜでしょうか?おそらく二つの理由があったと考えられます。

第一のことは、モーセは幕屋を完成させました。幕屋については、すべての必要が揃ったのです。しかし、これからイスラエルが約束の地に向かって進んでいく上で、何か足りないものを感じたのです。それは、イスラエルが旅をするときの運搬用具です。旅をするときには、幕屋を分解して運ばなければなりません。それを運ぶトラックが必要だったのです。そこで彼らは、必要な車とそれを引っ張る牛をささげます。それが7章に記されてある内容です。ですから、幕屋は完成して聖別したけれども、これから旅立つにあたって、今度はそれを運ぶトラックが必要になったことを、ここで振り返って記録しているのです。

それからもう一つの理由は、この7章はささげものについて記録されていると申し上げましたが、そのささげものについて記す前に、奉仕について記す前に、それに先行することがあったということです。それは何でしょうか?それは神の恵みであり、神の祝福です。6章の最後のところには、アロンによる神の祝福のことばが述べられていました。これはものすごい祝福です。それはイスラエルが何かをしたからではありません。彼らはただ自分を主にささげたので、主は彼らを祝福してくださいました。彼らが何かをしたから祝福されたのではなく、神が一方的に祝福したのです。これが神の祝福です。神は私たちが奉仕をしたから、献金をしたから祝福してくださるのではなく、その前に一方的に祝福してくださる方なのです。つまり、私たちの奉仕やささげものの前に神の恵みが先行するということです。そうした神の愛や恵み、祝福があるからそれに応答してささげる。それが私たちの奉仕であって、その逆ではないのです。ですから、ここに一か月さかのぼってイスラエルのささげ物について記されているのだと思います。

それでは2節から9節までをご覧ください。イスラエルの族長たち、すなわち彼らの父祖の家のかしらたちがささげ物をしました。それはおおいのある車六両と雄牛十二頭で、族長ふたりにつき車一両、ひとりにつき牛一頭でした。族長二人で車1台ですから、車は全部で6台、族長一人につき牛一頭ですから12頭になります。それを幕屋の前に連れてきました。すると主はモーセに告げて仰せられました。「会見の天幕の奉仕に使うために彼らからこれらを受け取り、レビ人にそれぞれの奉仕に応じて渡せ。」(5)そこでモーセは車と雄牛とを受け取り、それをレビ人に与えました。

レビ族には三つの氏族がいました。ゲルション族、メラリ族、ケハテ族です。まずゲルション族には車2両と雄牛4頭です。車は全部で6両、雄牛は全部で12頭ありましたので、それを三つに分ければ車2両と雄牛4頭というのは妥当な数です。しかし、メラリ族はそうではありませんでした。メラリ族には車4両と雄牛8頭です。つまり残りの車と雄牛がすべてメラリ族に与えられました。ということは、残りはゼロです。ですから、ケハテ族には何も与えられませんでした。これはいったいどういうことでしょうか? 私たちはこういう記事を読むと不公平ではないかと感じます。ある人たちはいいものをたくさん受けているのに自分たちはそうではないということに不公平感を抱きやすいのです。特に格差社会が広がっているような日本の社会においてはその傾向があります。しかし、これは本当に不公平なのでしょうか?

ここで鍵になる言葉は「奉仕に応じて」(5,7,8,)という言葉です。これは奉仕に応じて与えられたのです。民数記4章を見ると、彼らの奉仕が割り当てられていたかがわかります。まずゲルション族は幕屋の幕、会見の天幕とそのおおい、その上にかけるじゅごんの皮のおおい、会見の天幕の入り口の垂れ幕、・・およびこれらに関するすべての奉仕」でした(4:25,26)。それはかなりの重量がありました。ですから、人力で運ぶのは大変です。彼らの奉仕には車2両と牛4頭が必要だったのです。そしてメラリ族はというと、幕でおおうところの板、柱、釘、台座などを運ぶように任命されました(29-33)。彼らは幕屋の板や横木、台座といった重いものから釘1本、ひも1本に至る小さな奉仕に至るまで行いました。ですから、もっと人手が必要でしたし、当然、車や牛といった運搬用具も必要だったのです。それではケハテ族はどうだったのでしょうか。ケハテ族に割り当てられていた奉仕は最も聖なるものにかかわることであって、聖所のすべての器具を運ぶというものでした(4:15)。それに触れてもいけませんでした。それに触れて死ぬといけないからです。ですから、それにかつぎ棒を通し、肩にかついで運ばなければならなかったのです。

Ⅱサムエル6章には、これとは違った方法で運んだ結果、神の怒りに触れて死んだ人の事件が記されてあります。そうです、ウザです。彼はダビデの命令によってユダのバアラから自分の町に神の箱を運び入れようとしました。それで彼らは、神の箱を、新しい車に載せて、アビナダブの家から運び出したのです。しかし、ナコンの打ち場まで来たとき、牛がそれをひっくり返そうとしたので、ウザが手を伸ばして、神の箱を押さえました。それで主の怒りがウザに向かって燃え上がり、彼はそのかたわらで死んだのです。この事件での問題は何だったのでしょうか。それはこの民数記に書いてあるような方法によって運ばなかったことです。それは肩にかついで運ばなければなりませんでした。箱に触れて死なないためです。それなのに彼らはそれを新しい車に載せて運ぼうとしました。それが問題だったのです。

ですから、ケハテ族には車も牛も必要ありませんでした。幕屋の燭台以外はかつぎ棒を通して、肩にかついで運んだからです。それでは不公平ではないですかと思われるかもしれません。ゲルション族やメラリ族には車も牛も与えられたのに、ケハテ族には何も与えられなかったのですから・・・。しかし、そうではありません。彼らはそれを肩にかつぐことが許されていたのです。栄光の主に密着するかのようにして奉仕することができました。主の臨在をもとも近く感じることができたのです。それは何よりも特別な奉仕でした。そんなすばらしい特権は他にはありません。車、牛によってではなく、聖なるものに密着しながら歩めたのです。それは不公平どころかむしろ人もうらやむようなすばらしい恵みだったのです。

このところから教えられことは、私たちクリスチャンにとっての幸いは何かということです。私たちにとっての幸いはそうした物質やお金といったものではなく、主ご自身と共に歩むことです。マタイの福音書8章20節のところでイエス様は、「きつねには穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」と言いました。これがイエス様の生き方でした。イエス様は物質に振り回されるような生き方ではなく、神と親密な関係を求めてシンプルに生きられたのです。時としてそうした物が、お金が、神との親密な交わりを阻害することがあります。車や牛が与えられていてもいなくも、それを感謝して受け止める信仰が求められるのです。

2.祭壇奉献(10-11)

次に10節と11節をご覧ください。

「10 祭壇に油が注がれる日に、族長たちは祭壇奉献のためのささげ物をささげた、族長たちが自分たちのささげ物を祭壇の前にささげたとき、11 はモーセに言われた。「族長たちは一日にひとりずつの割りで、祭壇奉献のための彼らのささげ物をささげなければならない。」

幕屋が完成し祭壇に油が注がれる日に、族長たちは祭壇奉献のためのささげ物をささげました。それは12節から終わりのところまでに記されていることですが、それは運搬用具の車や牛だけではありませんでした。彼らは祭壇における奉仕のために必要なものをささげました。11節を見ると、族長たちは一日にひとりずつの割りで、部族ごとにささげるようにと命じられました。なぜ一度に急いで持ってくるようにと言わなかったのでしょうか?それは主が私たちのささげ物をしっかりと受け止めておられるからです。丁寧に、一日一日という間隔を空けて持って凝らせることによって、それを噛み締めるかのようにして受け取られたのです。私たちは効率主義の社会の中で動いていますが、そこでは一つの成果をあげるために、私たちの仕事がまるで機械のねじのように扱われています。しかし、神の方法は違います。「わたしの弟子だということで、この小さい物たちのひとりに、水いっぱいでも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」(マタイ10:42)。とあるように、私たちの一つ一つの小さな奉仕が、一滴のしずくのように感じるものでも、主はそれをしっかりと心に留めておられ、それにしたがって報いをお与えになられるのです。その一つ一つの奉仕を覚えるためです。

3.平等にささげる(12-89)

では、それぞれの部族はどのようにささげたのでしょうか。12節から終わりまでを見てください。ここには、各部族の長たちが何をささげたのかが記されてあります。第一にささげ物をささげたのは、ユダ部族のアミナダブの子ナフションです。そのささげ物は、銀の皿一つ、銀の鉢一つ、これらには穀物のささげ物として油を混ぜた小麦粉がいっぱい入れてありました。また香を満たした金のひしゃく、全焼のいけにえとして雄牛一頭、雄羊一頭、一歳の雄の子羊一頭、罪のためのいけにえとして雄山羊一頭、和解のいけにえとして雄牛二頭、雄羊五頭、雄山羊五頭、一歳の雄の子羊五頭です。そして、それが各部族が一日ずつ、順番に持ってくることが記されてあるのです。

このところを呼んで非常に驚くことは、それぞれの部族が携えてくるささげ物は、すべて同じものであるのにもかかわらず、いちいち繰り返してささげ物の内容が記されていることです。この章は、聖書の中で2番目に長い章であり89節もあります。一番長いのは詩篇119篇ですが、詩篇119篇にはみことばに関するさまざまな事について書かれてあり、私たちの魂を潤わせる内容となっていますが、この章は、ただささげ物の内容が12回繰り返されているだけです。いったいなぜ同じことが12回も繰り返して書かれてあるのでしょうか?いくつかの理由が考えられます。

第一に、主はささげることを大切にしておられるということです。主は、それぞれのささげ物を記録として残しておかれたいと願われたほど、彼らのささげ物に目を留めておられたのです。一日ごとに、それぞれのささげ物が省略されることなく列挙されています。神の目ではどんなに小さなささげものであっても、しっかりと記録されているのです。

第二のことは、各部族はそれぞれ人数が異なるのに、同じささげ物がささげられていることに注目してください。成年男子の人数は、ユダ部族が最も多くマナセ族がもっとも少ないのですが、それでもまったく同じささげものがささげられています。つまり、主の前にあって、どの部族がより多くの注目を集め、他の部族がそれほど注目に値しないということではなく、主の前では、どの部族も覚えられ、主に栄光が帰せられているのです。こうして平等となり、調和が保たれているのです。これは旧約のイスラエルの時代だけでなく、新約の時代も、あるいは今の時代にも適用できる原則でもあります。それが十分の一の原則です。十分の一とは何でしょうか。それは私たちに与えられている財産のすべては神のものであるという信仰の表明として、それを十分の一ささげることによって表したのです。新約の時代に生きる者としてこんな律法に縛られる必要はないと考える人がいますが、これは律法が制定される前にすでにあった神の原則です。創世記14章20節を見ると、アブラハムはサレムの王メルキデゼクに戦利品の十分の一をささげたとあります。それは律法が制定される以前の話です。神は私たちがどれだけささげたかということではなく、どのような割合でささげたのかをご覧になられます。レプタ銅貨2枚をささげたやもめには、彼女は他のだれよりも多くささげたと称賛しました。多く集めた人も少なく集めた人も余ることがなく、また足りないことがないように、神は十分の一という原則を定めてささげることを願っておられるのです。

 

パウロはこう言っています。「今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになるのです。こうして、平等になるのです。多く集めた物も余るところがなく、少し集めた物も足りないところがなかった」と書いてあるとおりです。」(Ⅱコリント8:14)

 

私たちも自分に与えられたものは神のものであって、それを神に喜んでお返しするために、いやいやながらではなく、強いられてでもなく、心に決めたとおりに、喜んで主にささげるものでありたいと思います。主は喜んでささげ人を愛してくださるのです。

Ⅰテサロニケ5章16~18節「神が望んでおられること」

きょうは、Ⅰテサロニケ5章16節から18節までの短い箇所から、「神が望んでおられること」というテーマでお話したいと思います。

Ⅰ.いつも喜んでいなさい(16)

まず、「いつも喜んでいなさい」です。これは「パントケカイレテ」というギリシャ語1語で、聖書の中で最も短い節になっています。日本語の聖書の訳で最も短い節はルカ20章30節の「次男も」という節ですが、ギリシャ語では、この「いつも喜んでいなさい」「パントケカイレテ」です。ちなみに英語の聖書で一番短い箇所は、ヨハネ10章35節の “Jesus wept.”です。訳によって長さも違いますが、原文のギリシャ語ではこの「パントケカイレテ」、「いつも喜んでいなさい」が一番短い節です。これは最も短い節ですが、この中には大切なことが語られているのではないでしょうか。

「いつも喜んでいなさい」と言われても、できません。無理です。うれしいことがあったり、楽しいことがあったら喜ぶことができますが、嫌なことがあったり、苦しいことがあったときに喜ぶことなどできません。しかし、神の命令は「いつも喜んでいなさい」です。うれしい時には喜びなさいというのではなく、いつも喜んでいなさいというのです。いったいどうしたらそんなことができるのでしょうか。

その鍵は18節にあります。「キリスト・イエスにあって」です。私たちの力ではいつも喜んでいることはできませんが、キリスト・イエスにあるならばできるのです。自分の力で喜ぼうとしてもできません。自分の殻に閉じこもっていたのでは無理なのです。というのは、私たちの人生には喜べないと思うようなことがたくさんあるからです。いやむしろ、そういうことの方が多いのではないでしょうか。あなたから喜びを奪ってしまう出来事がたくさんあるのです。しかし、そうした中にあってももしあなたが自分の考えや思いにとらわれることなく、キリスト・イエスにあるならできるのです。

パウロは、ピリピ4章4節で「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」と言っています。なぜ彼はこのように言うことができたのでしょうか。彼はこの時獄中にいました。ある程度の自由は許されていましたが、それでも24時間監視されながら生活することは相当のプレッシァーがあったと思います。そうした中にあっても彼は喜びに満ち溢れていました。それは「主にあって」です。彼の置かれていた状況を見たら、決して喜ぶことなどできなかったでしょう。しかし、彼は主にあって喜ぶことができたのです。

では「キリスト・イエスにあって」とか「主にあって」とはどういうことでしょうか。それはイエス様があなたのために十字架にかかって死んでくださったその恵みにあってということです。ヘブル12章2、3節を開いてください。ここにはこうあります。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」

ここでへブル人の手紙の著者は、罪人たちのこのような犯行を忍ばれたイエス様ことを考えなさい。それはあなたがたの心に元気が与えられ、疲れ果ててしまわないためです、と言っています。そうすれば、むしろ感謝になります。こんな私のためにイエス様が身代わりとなって十字架で死んでくださった。私の罪はイエス様によって全部赦されました。これは恵みです。感謝なことです。このイエス様の恵みを思えばということなのです。イエス様はご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともされませんでした。イエス様はあなたのために喜んで命を捨ててくださったのです。このイエスの恵みにあるならです。私たちはこのイエスにあって罪の赦し、永遠のいのち、神の豊かな恵みを受けたのです。神が私たちとともにいてくださるのです。私たちの人生にとって最もすばらしい祝福は神がともにおられるということです。これこそ、何にも代えがたい喜びです。私たちはイエス様を信じたことによってこの恵みを受けているのです。であれば、この世のものは「ちりあくた」にすぎません。どうでもいいことなのです。私たちはイエス・キリストにあって最もすばらしい恵みと祝福をいただいているのですから、この世で遭遇する様々な問題や苦しみは、取るに足りないことなのです。私たちはこのキリスト・イエスにあっていつも喜んでいることができるのです。

私が卒業した神学校の校長であったマクダニエル先生が、今年の夏、天国に帰られました。この先生の口癖は「よ・ろ・こ・べ!」でした。いつも「よ・ろ・こ・べ」と号令をかけました。もう65歳を過ぎて、体もヨボヨボなのに、奥様の健康も思わしくないと聞いていました。神学校の運営でも相当のご苦労もあったことでしょう。でもいつも「よ・ろ・こ・べ」なのです。なぜ先生はそう言っていたのか。それはこの「キリスト・イエスにあって」だったのです。人間的はいつも喜んでいることはできないことですが、「主にあって」「キリスト・イエスにあって」できるのです。

皆さんいかがですか。皆さんはいつも喜んでおられるでしょうか。喜ぼうと思ったら顔を引きつったりして・・。もし皆さんが喜びたいならイエス・キリストを見なければなりません。自分を見たら決して喜ぶことなどできないからです。人生には嫌なことや苦しいこと、辛いことの方が多いのですから。たまに喜ぶことができても、そんな喜びはすぐに吹っ飛んでしまうでしょう。しかし、もしあなたがイエスを見るなら、いつも喜んでいることができます。どうぞこのイエスを見てください。このイエスを見て、喜び、楽しもうではありませんか。

ダビデはこう言いました。「8 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。9 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。10 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。11 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇16:8-11)ダビデはいつも彼の目の前に主を置きました。主が彼の右におられたので、彼の心はゆらぐことはありませんでした。それゆえ、彼の心は喜び、彼のたましいは楽しんだのです。彼がいつも喜ぶことができたのは、彼がいつも彼の前に主を置いたからなのです。

あなたはどうでしょうか。あなたの心は喜んでいますか。あなたのたましいは楽しんでいますか。あなたは自分の思いでは喜ぶことなどできません。ただあなたの前に主を置くことによってのみ喜びにあふれるのです。それはキリスト・イエスにあってのみ可能なことなのです。このイエスから目を離してはいけません。いつもイエスに目を留めて、イエスがあなたのためにどんなすばらしいことをしてくださったのかを思い巡らさなければならないのです。そうすれば、あなたもいつも喜んでいることができます。

Ⅱ.絶えず祈りなさい(17)

神が願っておられる第二のことは、絶えず祈りなさいということです。絶えず祈るとはどういうことでしょうか?朝から晩までずっと祈っていることでしょうか?24時間何もしないで、四六時中ずっと祈っているということでしょうか?そんなの無理です。仕事もしなければなりませんし、勉強もしなければなりません。家族のこともしなければなりません。やらなければならないこともたくさんあるのに、いつも祈っていることなどできません。無理です。ましてそんな体力もありませんし・・。できるはずがありません。そう思われるかもしれません。もしあなたが絶えず祈るということをそのような理解しているとしたら、それ不可能なことでしょう。しかし、この「絶えず祈りなさい」というのはそういうことではないのです。

この、「絶えず祈りなさい」という原語のギリシァ語は、「隙間なく」という意味です。この「隙間なく」という言葉は、古代ローマにおいては、例えば「しつこい咳に苦しめられている人」を表現する時に使われました。ちょうど今インフルエンザの流行が始まって、あちこちで咳をしている人がいます。もし皆さんがいつも咳に苦しめられているとしたらどうでしょうか。いつも咳のことばかり考えるようになってしまうのではないでしょうか。「どうしたのかな、喉がイライラする、風邪でも引いたのかな。他の人にうつさないようにしなければならない。会議の時に咳き込んでいたらヤバイなぁ・・」とか。ですから、しつこい咳に苦しめられている人は、いつもそのことを意識するようになります。その状態を表しているのです。つまり「絶えず祈りなさい」というのは一秒も休まず祈り続けなさいという意味ではなく、主の臨在を常に意識していなさいということなのです。もちろん、主と親しく交わるためには特別に時間を取って祈ることも重要ですが、しかし、思わず祈りを込めて発する言葉や祈り心から出る神への思いも、それと同じくらい重要なのです。それは私たちが常に神様を意識して歩んでいる証しだからです。

たとえば、車を運転中、教会員のだれかを見かけたとしましょう。それは主がそのように行き合わせてくださったのですから、その人のために即座に祈るのです。「神様、今あの人を見ました。随分急いでいるようでしたが、どうか事故などに遭うことがないように守ってください」とか、「あの人の今日一日が祝福されますように」「あの人の生活を通して神の栄光が現されますように」と祈るのです。それはとっさの祈りです。思わず祈りを込めて発しているにすぎません。しかし、それはいつも主の臨在を意識していなければできないことです。

あるいは、あなたが家でテレビを観ていたとしましょう。すると気になるニュースがあったとします。それで心を痛め、心が騒ぐというようなことがあったとしたら、そのために祈るのです。心の中でも、声に出しても・・・。このように絶えず祈るというのは、私たちのあらゆる出来事の中で反射的に祈ることなのです。それはいつも主を意識していなければできないことなのです。

私は家で食事をしている時、家内がよく「きょうはあの人のために祈っていた」とか、「あのことのために祈っていた」ということを聞くことがありますが、本当に驚きます。毎日忙しくて、あまり時間がないのに、よく祈れるなぁと思うのですが、それはこの祈りです。特別に時間をとってその場にひれ伏し、目をつぶって何時間も祈るということではなく、もちろんそういう時間も重要ですが、日々の生活の中の瞬間、瞬間に祈る祈りなのです。それはいつも主を意識し主の臨在の中にいなければできないことです。

ピリピ4章6節には、「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」とあります。私たちの心に心配や思い煩いがあるとき、私たちは即座にすべての思いを祈りに変えなければなりません。あらゆる場合に感謝をもってささげる祈りと願いによって、私たちの心を神に知っていただかなければならないのです。そのためにパウロは、コロサイの信者にも「目を覚まして、感謝を持って、たゆみなく祈りなさい。」(コロサイ4:2)と言っています。またエペソのクリスチャンには、「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。」(エペソ6:18)と勧めています。

日々の歩みの中で不安や恐れ、心配や憤り、怒り、悩み、苦しみに遭うとき、それらに対する私たちの最初の反応は祈りであるべきなのです。祈りを欠くとき、私たちは神の恵みに頼る代わりに、自分自身に頼るようになります。絶えず祈るということは、要するに、いつも神に信頼し、神と交わることなのです。

Ⅲ.すべてのことについて感謝しなさい(18)

神が私たちに望んでおられる三つ目のことは、すべてのことについて感謝することです。「すべてのことについて感謝しなさい」という言葉を聞くとき、人は次の二つの誤解を起こしやすいのです。一つは、感謝は神様が下さる良いものに対してのみするものだという考えです。そのため、成功したり、健康であったり、祝福があったり、財産が増えたり、素敵なプレゼントをいただいた時といった、うれしいこと、うまくいった時だけ感謝すればいいという考えです。

もう一つの間違いは、感謝は感謝の思いが溢れてきた時だけ感謝すればいいという考えです。しかし、パウロは「すべてのことについて感謝しなさい」と言いました。これはすべてのこと、どんな状況でも、どんな成り行きになっても、すなわちうれしい時でも、悲しい時にも、失敗した時でも、さらには苦しみに直面している時でもです。すべてのことについて感謝しなさいという意味です。いったいどうしたらこのように感謝することができるのでしょうか。

ここで鍵になるのも18節にある「キリスト・イエスにあって」という言葉です。自分の力ではとても感謝することなどできません。しかし、キリスト・イエスにあるなら感謝することができます。キリスト・イエスにあるなら、すべてのことについて感謝することができるのです。災害に見舞われても、病気になっても、愛する人と死別するようなことがあっても、思うように事が進まなくてがっかりすることがあっても、この世を治めておられる神様の視点で物事を見るなら、どんな状況でも、感謝することができるのです。

ジョン・クゥアン師が書いた「一生感謝365日」という本の中に、すべての感謝の基本ということで、次のように書いてあります。「幸せは持っているものに比例するのではなく、感謝に比例する。自分の人生のすべてのことを感謝だと感じられれば、それに比例して幸せも大きくなる。ではどのように感謝することができるだろうか。お金をたくさん稼ぐこと、持っている不動産の値段が何倍にも跳ね上がったこと、商売がうまくいくこと、良い学校に合格したこと、就職したこと、進級したことなどはすべて感謝の対象となる。しかし聖書は、このような感謝はだれにでもできる感謝だと言っている。では、私たちがささげることのできる感謝とは何か。「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によってやすらぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」(ゼパニヤ3:17)イエス・キリストを送ってくださったことにより、死から永遠のいのちに移されたことよりも尊く、価値のある贈り物が他にあるだろうか。だからこそ私たちは、イエスの十字架を見上げて感謝しなければならない。これがすべての感謝の基本であり、始まりである。」

これがキリスト・イエスにあってということです。私たちはイエスにあってこのようなすばらしい救いを受けているのです。ですから、たとえこの地上で悲しいことや苦しいことがあっても、そうした目の前の出来事に押し潰されず、その先にある望みを見て喜び、感謝することができるのです。

先ほど、この手紙を書いたパウロが獄中にあっても喜んだということを紹介しましたが、彼の人生は苦難の連続でした。その宣教においては、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついには死さえも覚悟したとあります。そればかりか、彼は肉体に一つのとげを与えられ、それを去らせてくださいと三度も主に願ったにもかかわらず、取り去られることはありませんでした。人生を呪えと言われて呪うことかできる人がいるとしたら、このパウロとヨブの他にいたでしょうか。それほどの苦しみを味わったのです。そのパウロが「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」と言うことができたのは、彼がこのすばらしい宝を見出していたからなのです。

「11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。12 私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。13 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:11-13) これがパウロの喜び、パウロの感謝の秘訣だったのです。私たちは、私たちを強くしてくださる方によってどんなことでもできるのです。わたしたちに永遠のいのちを与えてくださった神の恵みがあれば、すべてのことについて感謝することができるのです。

新聖歌252番の「やすけさは川のごとく」を書いたスパフォード(HORATIO G.SPAFORD)は、絶望的な状況でも、神の前で喜び、賛美し、感謝した人です。弁護士であり、法医学の教授であった彼は、ムーディーが赴任していたシカゴの教会の執事でした。しかし、シカゴ大火災で全財産を失い、妻と四人の娘たちがヨーロッパに行くために乗った船が衝突事故を起こし、娘たち全員が亡くなってしまいました。生き残った妻に会い行く途中、彼はこの讃美歌「やすけさは川のごとく」と作り、歌いながら感謝をささげたと言われています。

「安けさは川のごとく 心 浸す時、悲しみは波のごとく わが胸、満たす時、すべて安し、み神 共に いませば」「見よ わが罪は十字架に 釘付けられたり、 この安き この喜び誰も損ない得じ」

世界を信仰の目で見上げることができるなら、そこに変化が起こります。神様の力がどれほど大きいか、神様が自分をどれほど愛してくださっているかを知るなら、私たちは神様に感謝をせずにはいられません。信仰の目が感謝を生み出すからです。

皆さんはいかがですか。今、皆さんには不平や不満があるでしょうか。それならこう祈ってください。「神様。不平を言わないよう、私に信仰の目を与えてください。わたしに言葉や出来事を通して、神様の考えと思いを表してくださり、いつでも感謝があふれるようにしてください。」

「愛の原子爆弾」と呼ばれたソン・ヤンウォンという牧師は、それ以前に「感謝の水素爆弾」でした。彼は二人の息子の葬式の時でさえ感謝し、多くの人々を驚かせました。どれほど大きな恵みと悟りを得れば、息子の死を前に感謝できるのでしょうか。普段から感謝できない人が、ある日大きな感謝をささげることはできません。普段小さなことに感謝する人だけが、困難な時に感謝をささげることができるのです。このソン牧師は本当に感謝の人でした。彼の感謝に関する説教には、こう書いてあります。「水を飲みながら感謝せよ。息をしながら感謝せよ。太陽の光を下さる恵みに感謝せよ。土地が与えられている恵みに感謝せよ。死に至る罪から救われた恵みに感謝せよ。今までいのちが与えられている恵みに感謝せよ。永遠のいのちの国を保証されていることに感謝せよ。」

彼の感謝を読むと、神様はすでに私たちに必要なすべてのものを与えて満たしてくださっているということがわかります。水、空気、太陽、大地などはすべて私たちに必要不可欠なものですが、私たちの努力では決して得ることはできません。これらは神様が最初から与えてくださっている贈り物なのです。このように神様は、私たちの肉体に必要なもの、霊的に必要なもののすべてを満たしてくださっています。だから私たちは、与えられている祝福を数えて感謝すればいいのです。感謝は祝福を受ける器です。感謝の器を広げる時、すべてのことが満たされるのです。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。これが神のみこころです。私たちの力ではこの神のみこころを行うことはできません。それはただキリスト・イエスにあってのみ可能なことなのです。このイエス・キリストによって与えられた救いの恵み、聖霊の喜び、神がともにおられることの感謝を、信仰によってささげてまいりましょう。

Ⅰテサロニケ5章12~15節 「互いに平和を保ちなさい」

きょうはⅠテサロニケ5章後半の箇所から、互いの間で平和を保つということについてお話したいと思います。パウロは5章前半のところで、主の再臨に備えてどう生きるべきかについて語りました。その基本は6節にあるように、目を覚まして、慎み深くしていましょう、ということでした。慎み深くとは「しらふで」と訳されることばです。酔ったような状態ではなく、しらふでいましょうということです。その具体的な表われが、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みをかぶるということでした。そのようにして互いに励まし合い、互いに徳を高め合うことが必要なのです。

きょうの箇所はそれを受けて、ではどのように具体的に互いに建て上げていくのかが語られています。そしてここでは、お互いの間に平和を保ちなさいとあります。

きょうはこの平和を保つということについて三つのことをお話したいと思います。第一のことは、互いに平和を保つとはどういうことでしょうか。第二のことは、それを教会の指導者たちとの間でどのように保ったらよいのか、第三のことは、教会の兄弟姉妹との間でそれをどのように保ったらよいのかということです。

Ⅰ.平和を保ちなさい(12-13)

まず12節と13節をご覧ください。ここには、「12 兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。13 その務めのうえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい。」とあります。

原文では12節の「兄弟たち」の前に「de」というギリシャ語が使われています。これは「それで」とか、「しかし」という意味の接続詞です。英語の聖書では「Now」という言葉が使われています。「Now we ask you ,brothers,」です。「それで、兄弟たちよ。あなたがたにお願いします」というニュアンスです。つまり、この節はその前に語られてきたこととつながりのある内容であるということです。すなわち、11節でパウロは、キリストの再臨に備えて互いに励まし合うようにと勧めましたが、その具体的な励ましの内容がここで語られているのです。それはあなたがたの指導者たちとの間に平和を保つようにということです。教会には指導者と呼ばれる人たちがいます。そのような人たちと平和を保つようにというのです。

この平和とは、私たちが一般的に考える平和とは異なります。5章3節にも、「人々が平和だ。安全だ」と言っているそのような時に、突如として滅びが彼らに襲いかかる」とありますが、そのような平和のことでありません。表面的にはにこにこしていても心の中では何を考えているのかわからないというような平和ではないのです。この平和はイエス・キリストによってもたらされる神との平和がその土台となっているものです。ローマ人への手紙5章1節には、「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」とあります。

以前、私たちと神との間には平和がありませんでした。敵対関係にあったのです。神を神ともせずに自己中心に生きていた私たちは、神から遠く離れていました。聖書ではこれを罪と言います。その罪のゆえに、神との関係が断絶していました。いわば戦争状態にあったのです。しかし、あわれみ豊かな神は、その大きなあわれみのゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。神の子イエス・キリストの血によって、このイエスを救い主と信じることによって敵対関係を解消し、神に近い者とされたのです。キリストこそ私たちの平和であり、神との間にあった隔ての壁を打ちこわし、敵意を廃棄された方なのです。敵意は十字架によって葬り去られました。私たちは、このキリストによって、大胆に父のみもとに近づくことができるようになったのです。かつて日本とアメリカは激しい戦いを繰り広げましたが、今は互いに助け合う関係になったのと同じです。これが平和です。つまり、神と正しい関係に入ったのです。これがクリスチャンの平和です。クリスチャンは、互いの間にこの正しい関係が保たれなければなりません。それは、神が混乱の神ではなく、秩序の神だからです(Ⅰコリント14:33)。

23節にも、「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。」とありますね。私たちの神は平和の神です。そして、教会はこの平和の神を信じる信仰の共同体なのです。ですから、私たちはこの平和の神にならって、平和の神を私たちの中心に置いて、互いの間に平和を保たなければならないのです。

Ⅱ.指導者を認めなさい(12-13)

では、どのようにしたら平和を保つことができるのでしょうか。ここでパウロは、「あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。13 その務めのうえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。」と言っています。

指導者たちとの間に平和を保つことによってです。教会には指導者と呼ばれる人たちがいます。それは上下関係があるということでありません。ローマカトリック教会ではこの上下関係を明確に設けた階級制度がありますが、プロテスタントでは、聖書ではそのような階級は存在しません。私たちはみな兄弟姉妹であり、祭司なのです。これを万人祭司と言います。ローマカトリック教会では司祭と呼ばれる人を通さなければ神に近づくことはできないと教えますが、プロテスタントではすべての人はイエス・キリストを信じることで、直接神に近づくことができると教えています。神と人との間には何人も入ることはできません。イエス様だけが唯一の仲介者であって、このイエスを信じるなら、だれでも神のもとに近づくことができるのです。

しかし、教会には使徒、預言者、伝道者、牧師または教師、監督、長老といった指導する立場にある火とたちがいるということです。この人たちは別にえらいというわけではありませんが、その与えられた賜物のゆえに、その務めをゆだねられた人たちなので、その人たちを認め、愛をもって深い尊敬を払いなさいというのです。

この「指導し」という言葉と同じ言葉が、Ⅰテモテ3章4節と5節にも使われていて、そこには、「4 自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。5 ―自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう―」とあります。

この「自分の家庭をよく治め」の「治め」という言葉が、「指導し」と同じ言葉です。ここには監督と呼ばれる人の資質が語られていますが、その中でパウロは、監督者というのは自分の家庭をよく治める人でなければならないと言っています。夫として自分の妻をよく治める人、父親として自分の家庭をよく治める人が、監督者としての最低の条件だというのです。なぜでしょうか?自分の家庭こそ最小の単位であるからです。その自分の家庭をよく治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょうか。とても厳しい言葉です。これだけでも、監督者として立っていくということがどれほど難しいことであるかがわかります。夫婦関係がぎくしゃくしていたり、子供たちが全然聖書に従っていなければ、ましてや神の教会を治めていくなどできないでしょう。

 

ですから、こうした立場にある人というのは別に教会だけでなく、家庭の中にも、会社の中にも、学校にも、この社会の中にも、どこにでもあるのです。このように治める人がいてこそ、全体がまとまるのです。こういう人がいなかったらどうなるでしょうか。いいようで悪いです。みんなバラバラになってしまいます。それぞれが自分の言いたいことを主張し、好き勝手なことをするようになるのです。「私はこうしたい」、「ああしたい」とてんでバラバラなことを言い、まとまることはありません。そこには必ず治める人、指導する人、世話をする人、まとめる人、監督する人がいてこそ全体の調和と秩序が保たれ、健全に建て上げられていくのです。教会の場合、それが牧師とか、長老とか、監督とかと呼ばれる人たちで、そのような人たちに対して、その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさいというのです。

ここで大切なのは、「その務めのゆえに」ということです。牧師だから尊敬しなさいとか、監督者だから、指導者だから、尊敬しなさいと言っているのではありません。その務めのゆえにです。それはどんな務めでしょうか。

ここではまず「あなたがたの間で労苦し」とあります。指導者の特質の第一は、教会員の間にいて労苦している人です。Ⅱコリント11章28節には、牧会者であったパウロがどれだけ労苦していたかが書かれています。彼はここで、「このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。」と言っています。「このような外から来ること」というのは、その前に語られている牢に入れられたこととか、むち打たれたこと、石で打たれたこと、難船して海上を漂ったこと、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、飢え渇き、寒さに凍えるといったことですが、このような外から来ることのほかに、日々押しかかるすべての教会への心づかいがありました。これが労苦の中でも最も重いもの、労苦が伴うものでした。「教会への心づかい」です。イエス様は「良い羊飼いは、羊のためにいのちを捨てまい。」と言われましたが、いつも羊の間にいて、羊が守られるようにと、ありとあらゆる心づかいをします。それが羊飼いです。それによって時には命を捨てることもあります。それがどれだけ大きく、重い労苦であるかがわかります。

第二のことは、「主にあってあなたがたを指導し」とあります。教会の指導者は主にあって指導する人です。主にあって指導するとはどういうことでしょうか。主イエスにあって指導するということです。イエスのように歩み、イエスのように指導するということです。常に神のみこころは何なのかを求め、その主のみこころに従って指導するということです。

第三のことは、「訓戒している人」です。指導者とは訓戒する人です。何によって訓戒するのでしょうか。みことばによってです。訓戒するとは14節にも同じ言葉が使われていて、そこでは「戒める」と訳されていますが、聖書のみことばをもって戒め、訓戒し、警告することなのです。できればそんなことはしたくないです。そんなことは言わないで、優しい、親切な言葉だけを言いたいです。でも訓戒がなかったら立派に成長することはできません。それは子育てを考えたらわかります。親が小さなこどもに口うるさく注意するのは、その子に立派に成長してほしいからでしょう。それがなかったらどこに行ってしまうかわかりません。わがままで、勝手な道に進み、自分にも、回りにも害をもたらすようになってしまうでしょう。彼らは聞き分けのない大人になってしまいます。だから、そういうことがないように親は口うるさいくらいに注意するのです。それと同じです。

テサロニケのクリスチャンは生まれたばかりのベイビークリスチャンでした。そんな彼らにとって必要だったのは何かというと、この戒めるということだったのです。聖書のみことばからの訓戒がなかったら、いろいろな教えの風に振りまわされたり、波にもて遊ばれることになってしまいます。そういうことがないように、教会の指導者は、聖書のみことばを教えなければならないのです。そうすれば、どんなにいろいろなことを聞いても、いつも聖書からそれを確認して判断することができるようになるでしょう。それが大人のクリスチャンです。そうなるように、みことばによって教え、訓戒しなければなりません。それが牧師の主要な務めです。牧師には他にもたくさんしなければならないことがありますが、その中でも第一の務めは、みことばによって訓戒すること、みことばによって養うことです。

その務めのゆえに、です。その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払わなければなりません。この「愛をもって深い尊敬を払う」というのは、最大、最高の愛と尊敬をもって、という意味です。それは、従えばいいんでしょ、従えば・・・といった表面的な尊敬のことではありません。愛をもった深い尊敬です。愛がなければ何の意味もありません。たとえ口先で敬っているようでも、それが表面的なものであれば何の意味もないのです。

レオン・モリスという注解者はこう言っています。「従う立場にある人たちが批判にさらされるとき、指導者たちは最善の働きをすることは決してできない。良い指導者に必要なのは、よく従う立場にある者たちの愛と尊敬である。」

また、イギリスの偉大な説教者のチャールズ・スポルジョンはこう言っています。「偉大な会衆は、必ずしも偉大な説教者によって作られるのではない。しかし偉大な説教者は、偉大な会衆によって作られる。」

もし教会員が自分の指導者たちに対して最高で、最大の愛と尊敬をもって扱うなら、その教会員も指導者と同じような存在になれるのです。ですから、深い愛と尊敬を払うことが求められているのです。

Ⅲ.すべての人に対して寛容であれ(14-15)

次に、14節と15節をご覧ください。ここには、指導者たちとの間ではなく、兄弟姉妹の間でどうあるべきなのかが教えられています。「14 兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。15 だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うよう務めなさい。」

原文では、14節の冒頭にも「de」という接続詞があります。これは13節までの流れを受けての「de」です。すなわち、お互いの間に平和を保ちなさい」そして、兄弟たちよ。すべての人たちに対してはこうですよ、こうありなさい、と語られているのです。それは、気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい、ということです。私たちは皆、聖人君子ばかりではないということを認めなければなりません。私たちはみな問題を抱えており、そういう罪赦された罪人たちが集まっているところが教会なのです。そのことを認めなければならないのです。その上で、私たちはいったいどうあるべきなのか。

まず、気ままな者を戒めなければなりません。この「気ままな者」という言葉のギリシャ語は軍隊用語で、隊列を乱す兵士を指す言葉です。命令系統を全く無視して、勝手気ままに行動している兵士のことです。詳訳聖書という聖書がありますが、それによるとこれを、「怠け者、だらしのない者、わがままな者」と訳しています。そういう人は面倒くさいからといって放っておき、波風立てないようにせよ、というのではなく、そういう人たちを戒めるようにと言われているのです。教会の秩序を乱す者がいれば、教会の方針に従わないで勝手なことをする人がいたら、教会の指導者を無視して、自分がまるで指導者であるかのようにふるまっている人がいるとしたら、そういう人を戒めるようにと言われているのです。

次は「小心な者を励まし」とあります。詳訳聖書では、「臆病な者」と訳しています。気弱な者、いつもくよくよしている者、いくじがない者、内気で適用性に欠けた者、そういう者がいれば励ますように・・・と。この「励ます」というのは、特にことばをもってというニュアンスなので、優しく、またねんごろに語るという意味になります。内気で、気弱な者、くよくよしている人に対しては優しく、ねんごろに語るというのが「励ます」ということなのです。

次は「弱い者を助け」です。詳訳聖書では、「弱いたましいを助け」とあります。ですから、これは単に身体的に弱いというよりも、信仰的に弱い人のことです。霊的に弱さがある人です。それは聖書もろくに知らないで、勝手気ままに歩んでいる人というよりも、むしろ、律法主義的な人たちのことを指しています。

パウロはローマ人への手紙14章で、偶像にささげた肉を食べてはならないと信じていたクリスチャンを弱いクリスチャンと呼びました。そういう人たちは、自分がそう思っていただけでなく、そうでない他のクリスチャンをさばいていたのです。本来ならキリストにあって自由にされているはずなのにその自由を満喫することができず、自分の中で勝手に律法を課して、クリスチャンとして、してはいけない、ふさわしくない、と線引きしては、自分の描いた基準に合っていない人をだめなクリスチャンとして見下したり、断罪していたのです。彼らは聖書のことはよく知っていたし、厳格に聖書に生きようとしていましたが、それによって、自分と同じようにしていないクリスチャンを見てさばいていたのです。パウロはそういう人たちを弱いクリスチャンと呼び、そういう弱いクリスチャンに対しては助けなければならない、と勧めているのです。この「助ける」という言葉は、しっかりつかむというニュアンスです。これは言葉によって助けるというよりも、彼らに寄り添うようにして、しっかりとつかみ上げるようにして助けるということなのです。

そしてもう一つのことは、「すべての人に対して寛容でありなさい」ということです。教会にはあなたの寛容を脅かす人たちがいます。堪忍袋の緒が切れそうになる人たちがいるのです。そういう人に対して寛容でありなさい、というのです。詳訳聖書ではこれを、「すべての人に対して忍耐強くありなさい」と訳しています。愛は寛容であり、愛は親切です。愛は自慢せず、高慢になりません。愛はすべてを耐え忍ぶのです。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。気ままな人がいてもぶち切れてはいけません。小心な者がいても、ムカついてはならないのです。弱い者がいたとしても腹を立ててはいけません。すべての人に対して寛容であれ、忍耐であれ、というのです。そのようにしてお互いの間に平和を保ちなさい、というのです。

そして、15節です。ここには、「だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うよう務めなさい。」とあります。テサロニケのクリスチャンは激しい迫害に遭っていました。彼らはテサロニケの住人からも、テサロニケのユダヤ人たちからも迫害されていたのです。いわばダブルパンチです。それでパウロは三週間しか滞在することができず、そこから逃れなければならなかったのですが、彼らはそういうわけにはいきませんでした。そのような激しい迫害の中でじっと耐え忍んだのです。そうなるとどういうことが起こってくるかというと、復讐心ですね。よ~し、今に見てろ、後でどうなるかわからないからな・・・。神の呪いがあるように・・・なんて祈りたくなるわけです。しかしここでは、だれも悪に対して悪をもって報いることがないようにと戒められているのです。それはローマ12章17~21節にもあります。

「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。18 あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。19 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」20 もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。21 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」

また、ペテロもこう言っています。Ⅰペテロ3章9節です。「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」

それは主であるイエスから受けた教えであるからです。マタイの福音書5章43~44節にはこうあります。「43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」

それは聖書の一貫した教えであって、すべてのクリスチャンに求められていることなのです。むしろ、クリスチャンはお互いの間で、またすべての人に対して、いつも善行を行うように務めなければなりません。神の一方的な恵みによって罪が赦され、神との平和をいただいた者は、同じように兄弟姉妹を赦し、すべての人に対して善行を行うことができるのです。

私たちは主イエス・キリストによって神との平和が与えられました。平和が与えられた者として、私たちに求められていることは、教会の指導者と呼ばれる人たちを、その務めのゆえに、愛を持って深い尊敬を払い、教会の兄弟姉妹、あるいはすべての人に対して、いつも善行を行うということなのです。そのようにして私たちは、主がいつ戻って来てもいいように、互いに励まし合って、互いに立て上げていくものでありたいと思います。

民数記6章

きょうは、民数記6章から学びます。まず1節から12節までをお読みします。

1.ナジル人の誓願(1-12)

「1 はモーセに告げて仰せられた。2 「イスラエル人に告げて言え。男または女がのものとして身を聖別するため特別な誓いをして、ナジル人の誓願を立てる場合、3 ぶどう酒や強い酒を断たなければならない。ぶどう酒の酢や強い酒の酢を飲んではならない。ぶどう汁をいっさい飲んではならない。ぶどうの実の生のものも干したものも食べてはならない。4 彼のナジル人としての聖別の期間には、ぶどうの木から生じるものはすべて、種も皮も食べてはならない。5 彼がナジル人としての聖別の誓願を立てている間、頭にかみそりを当ててはならない。のものとして身を聖別している期間が満ちるまで、彼は聖なるものであって、頭の髪の毛をのばしておかなければならない。6 のものとして身を聖別している間は、死体に近づいてはならない。7 父、母、兄弟、姉妹が死んだ場合でも、彼らのため身を汚してはならない。その頭には神の聖別があるからである。
8 彼は、ナジル人としての聖別の期間は、に聖なるものである。9 もしだれかが突然、彼のそばで死んで、その聖別された頭を汚した場合、彼は、その身をきよめる日に頭をそる。すなわち七日目にそらなければならない。10 そして八日目に山鳩二羽か家鳩のひな二羽を会見の天幕の入口の祭司のところに持って来なければならない。11 祭司はその一羽を罪のためのいけにえとし、他の一羽を全焼のいけにえとしてささげ、死体によって招いた罪について彼のために贖いをし、彼はその日にその頭を聖なるものとし、12 ナジル人としての聖別の期間をあらためてのものとして聖別する。そして一歳の雄の子羊を携えて来て、罪過のためのいけにえとする。それ以前の日数は、彼の聖別が汚されたので無効になる。」

5章には、宿営の内側を聖めることについて教えられていました。なぜなら、そこに主が住まわれるからです。主が住まわれる宿営を汚さないように、ツァラートの者、漏出を病む者、死体によって身を汚している者をすべて追い出すようにと勧められていました。また、夫婦関係についても教えられていました。それは社会の最小単位であるからです。すべての関係の土台でもある夫婦関係が守られてこそ敵に勝利することができます。

そして、きょうのところにはナジル人の誓願について教えられています。「ナジル人」というのは2節にもあるように、「男または女が主のものとして身を聖別するための特別な誓い」のことです。意味は「聖め別たれた者」とか、「主に献げられた者」という意味です。つまり、自分を主に献げるという特別の誓いのことです。聖書には、すべての神の民に、自分を神にささげるようにと勧められています(ローマ12:1)。「こういうわけで」というのは、イエス・キリストに罪赦された者として、神の民とされていただいたので、ということです。そのように神の恵みによって聖なる者とされたクリスチャンは、自分を聖い生きた供え物としてささげなければならないのです。しかし、ここでは「特別な誓い」とあるように、何か特別な目的のために自分のものを主にささげるという人たちがいたのです。それがナジル人の誓願です。なぜこのような誓願をしたのかというと、神がそれを喜ばれ、そのような人に神の特別な力と御業が現されるからです。それは断食等の信仰の行いもそうです。ただ形式にやったからといってもあまり意味はありませんが、ある目的のために神の恵みとあわれみを求めて自分を聖別するなら、神はその信仰を特別に喜ばれ、御力を現してくださるのです。いわばこのナジル人の誓願はより積極的な面での聖めについての教えであると言えるでしょう。そのようにナジル人の誓願を立てる場合はどうしたらいいのでしょうか。

その場合はまず、彼は、または彼女はナジル人としてぶどう酒や強い酒を断たなければなりませんでした。ここには「ぶどう酒や強い酒を断たなければならない」(3)とあります。また、ぶどう酒と強い酒の他に、酢も飲んではいけませんでした。ぶどう汁もそうです。ぶどうの実の生のものも干したものも食べてはなりませんでした。ナジル人としての聖別の期間には、ぶどうの木から生じるものはすべて、種も皮も食べてはならなかったのです。なぜでしょうか?それはぶどうが心に喜びをもたらすもの、豊かさの象徴であったからです。神へのナジル人はそうした喜びや豊かさを断つことが求められたのです。なぜ喜びとか楽しみを断たなければならなかったのでしょうか。別に喜んではならないとか、楽しんではならないという意味ではありません。しかし、必然的にそうした事態に陥ることがあります。そうした時でもひたすら神を求め、神に祈り、神との交わりの中でその解決を求めていくことが必要だったからなのです。ナジル人にとってはこの世の楽しみよりも、主との交わりを最優先にしなければならなかったということです。

第二のことは、ナジル人がしなければならなかったことは、頭の髪をそってはならないということです(5)。なぜナジル人は髪の毛をそってはならなかったのでしょうか?それは、髪の毛が神の力を象徴していたからです。サムソンは、母の胎内にいるときから神へのナジル人でしたが、主の使いは父マノアに、「その子の頭にかみそりを当ててはならない。」(士師13:5)と言いました。それでサムソンは長髪だったのです。彼には御霊によって怪力が与えられ、何千人ものペリシテ人を殺すことができましたが、その力の源は何だったかというと、彼の髪の毛にありました。それでデリラは自分のひざの上にサムソンを眠らせると、人を呼んで彼の髪の毛をそり落としてしまいました。それで彼の力は彼を去っていったのです(士師16:19)。

サムソンだけではなく、サムエルもナジル人でした。ハンナが、主に祈って、激しく泣いた時、彼女は誓願を立ててこう言いました。「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」(Ⅰサムエル1:11)。サムエルは後に偉大な士師、預言者となり、霊的暗黒時代の中にいたイスラエルを復興させるための、神に用いられた器になりました。したがって、ナジル人の長髪は、神に用いられるところの力を象徴していたのです。主に自分のすべてをささげている人は、神の力を受けるのです。

ですから、イスラエルには、このようなナジル人の存在が必要でした。すべてを主に明け渡し、自分の思いを主に定め、右にも左にもそれない人が必要だったのです。神は、このような人たちを通して、ご自分のわざを行なわれるのです。それはキリストの教会においてもいえることです。教会もこのように自分を主にささげ、主のために生きるとコミットした人たちによって建て上げられていきます。そこに神のいのちと力が増し加えられ、ご自身のみわざが現されるからです。

第三に、主のものとして身を聖別している間は、死体に近づくことができませんでした(6)。父、母、兄弟、姉妹が死んだ場合でも、身を汚してはならなかったのです。なぜでしょうか?なぜなら、死体は罪、汚れの象徴だったからです。罪によって死がもたらされました。神のうちにはいのちがあるだけで、死は一切ありません。したがって、これらを避けることが主のみこころだったのです。

ところで、9節から12節までのところには、「もしだれかが突然、彼のそばで死んで、その聖別された頭を汚した場合」はどうしたらよいかが教えられています。つまり、自分の意志によってではなく、たまたまそれに巻き込まれた場合はどうしたらいいのかということです。その場合は12節にあるように、「ナジル人としての聖別の期間をあらためて主のものとして聖別」しなければなりませんでした。すなわち、ふりだしに戻らなければならないということです。その時には、まず七日目に頭をそり、八日目に山鳩二羽か家鳩のひな二羽を会見の天幕の入口の祭司のところに持って来ます。祭司はその一羽を罪のためのいけにえとし、他の一羽を全焼のいけにえとしてささげ、死体によって招いた罪について彼のために贖いをし、彼はその日にその頭を聖なるものとして、ナジル人としての聖別の期間をあらためて主のものとして聖別するのです。罪のいけにえは、罪を犯したときに、その赦しのためにささげられるいけにえで、全焼のいけにえは、神に自分自身をささげるためのいけにえです。私たちが罪を犯したときは、この二つのいけにえが必要です。罪の赦しをいただき、再び主に自分自身をささげることです。このようにして再びやり直すことができました。

けれども、自分の行為によって犯した過ちではないのに、なぜ、罪を犯した者として数えられてしまうのでしょうか。それは、ナジル人として主に自分を献げるということはそのように厳しさが伴うからです。たとえ自分がさわっていなくとも、死体のほうがふりかかってきても、その人は罪のいえにえと全焼のいけにえをささげなければならないのです。そして一歳の雄の子羊を携えて来て、罪過のためのいけにえとしなければなりませんでした。罪過のいけにえは、自分が他の人に危害を加えた場合にささげるものであります。このいけにえをささげたあと、聖別はふりもどしになり、またゼロから出発します。私たちも、ふと思いがけないことですべてのことがだめになってしまうことがありますが、神は、何度でもチャンスを与えてくださいます。これまで築き上げてきたものがゼロになっても、再びスタートすることができるのです。

2.ナジル人の期間が満ちた時(13-21)

次に13節から21節までをご覧ください。

「13 これがナジル人についてのおしえである。ナジル人としての聖別の期間が満ちたときは、彼を会見の天幕の入口に連れて来なければならない。14 彼はへのささげ物として、一歳の雄の子羊の傷のないもの一頭を全焼のいけにえとして、また一歳の雌の子羊の傷のないもの一頭を罪のためのいけにえとして、また傷のない雄羊一頭を和解のいけにえとして、15 また種を入れないパン一かご、油を混ぜた小麦粉の輪型のパン、油を塗った種を入れないせんべい、これらの穀物のささげ物と注ぎのささげ物を、ささげなければならない。16 祭司はこれらのものをの前にささげ、罪のためのいけにえと全焼のいけにえとをささげる。17 雄羊を和解のいけにえとして、一かごの種を入れないパンに添えてにささげ、さらに祭司は穀物のささげ物と注ぎのささげ物をささげる。18 ナジル人は会見の天幕の入口で、聖別した頭をそり、その聖別した頭の髪の毛を取って、和解のいけにえの下にある火にくべる。19 祭司は煮えた雄羊の肩と、かごの中の種を入れない輪型のパン一個と、種を入れないせんべい一個を取って、ナジル人がその聖別した髪の毛をそって後に、これらをその手の上に載せる。20 祭司はこれらを奉献物としてに向かって揺り動かす。これは聖なるものであって、奉献物の胸、奉献物のももとともに祭司のものとなる。その後に、このナジル人はぶどう酒を飲むことができる。21 これがナジル人についてのおしえである。ナジル人としての聖別に加えて、その人の及ぶ以上にへのささげ物を誓う者は、ナジル人としての聖別のおしえに加えて、その誓った誓いのことばどおりにしなければならない。」

ここには、ナジル人としての聖別の期間が満ちた時にはどうしたらよいかが教えられています。ナジル人としての聖別の期間が満ちたときは、彼を幕屋のところに連れて来て、いけにえをささげなければなりませんでした(13)。そのいけにえとは、まず全焼のいけにえです。一歳の雄の子羊の傷のないものでなければなりませんでした。また一歳の雌の子羊で傷のないもの一頭を罪のためのいけにえとして、また傷のない雄羊一頭を和解のいけにえとしてささげなければなりませんでした。和解のいけにえとは、平和のいけにえと訳すこともできますが、神との和解、神との平和が与えられたので、それを楽しむためのいけにえです。

そして、穀物のささげものがあります。種を入れないパン一かご、油を混ぜた小麦粉の輪型のパンと、油を塗った種を入れないせんべいです。パン種は罪の象徴なので、パンの中には種が入っていてはいけませんでした。また油は聖霊の象徴なので、その油を塗るとか混ぜるというのは、主の聖霊が私たちのうちに宿り、また主の油注ぎが私たちのうちにあることを表していました。このように、ナジル人の誓願によって身を聖別することによって、主との特別な交わり、御霊にある喜びを持つことができたのです。

18節には、ナジル人はこれまで伸ばしてきた髪の毛をここでそり、それを祭壇のところで和解のいけにえの下にある火にくべる、とあります。祭司は煮えた雄羊の肩と、かごの中の種を入れない輪型のパン一個と、種を入れないせんべい一個を取って、ナジル人がその聖別した髪の毛をそった後で、これらをその手の上に載せました。祭司はこれらを奉献物として主に向かって揺り動かします。これは聖なるものであって、奉献物の胸、奉納物のももとともに祭司のものとなりました。和解のいけにえは、このように、祭司によって、神の前で高くかかげられます。主に感謝して、主を賛美している姿です。その後で、ナジル人はぶどう酒を飲むことができました。それはどれほどの喜びをもたらしたことでしょう。その喜びがこの後の祝福となって表われます。

3.祝福(22-27)

22節から27節をご覧ください。ここにイスラエルに対する祝福が語られます。

「22 ついではモーセに仰せられた。23 「アロンとその子らに告げて言え。あなたがたはイスラエル人をこのように祝福して言いなさい。24 『があなたを祝福し、あなたを守られますように。
25 が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。26 が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』27 彼らがわたしの名でイスラエル人のために祈るなら、わたしは彼らを祝福しよう。」

これは礼拝の祝祷でも用いられる有名な祝福の祈りです。神はこの祝福の祈りをナジル人の教えの後で、アロンにするように命じられました。なぜでしょうか。これはナジル人の誓いと無関係ではないからです。なぜなら、神は自分自身を聖別する者を喜ばれ、祝福されるからです。ツァラートの者、漏出を病む者、死体で身を汚している者を追い出し、他人に害を加えた者が弁償を行ない、苦い水によってためされ、そしてナジル人の聖別などによって聖別し、内なる人が強められるところに、主はご自分の祝福を注がれるのです。神が願っておられることは、私たちが主に聖別された者として、自分自身を主にささげることです。そのところに神のいのちと力、祝福が現され、教会は外側からも内側からも崩れない堅固な教会として堅く立ち続けることができるのです。

先ほど、ナジル人としてささげられた人としての例としてサムソンとサムエルのことを取り上げましたが、実は新約聖書にもナジル人として自分自身を髪にささげた人がいます。その一人は、バプテスマのヨハネです。天使ガブリエルがザカリヤに対して、「彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、」(ルカ1:15)と言いました。そのように神にささげられたバプテスマのヨハネは、主イエスから「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」(マタイ11:11)と称賛されたほどです。彼はそれほど神の力に満ち溢れていました。

また、使徒パウロも一時、ナジル人の誓いを立てていたことが分かります。ケンクレヤというところで一つの誓いを立てたので、髪の毛を剃っています(使徒18:18)。パウロがケンクレヤで髪を剃った、というのは、その断食期間、その誓願期間に一つの区切りを迎えたということです。ナジル人として、一定期間誓願を立てていて、それに区切りをつけたということは、ケンクレヤで第二次伝道旅行は終わったということです。パウロは、コリントで腰を据えて伝道していました。18章11節に「そこでパウロは、1年半ここに腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた。」とあります。衰弱して、恐れを抱きながら、コリントに来たパウロですが、そこでアクラとプリスキラという、同じようにローマから避難してきた夫婦に出会い、話をしているうちに元気を回復し、そしてイエスさまから励ましのことばを受ける。これが10節です。「わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はいない。この町にも、わたしの民がたくさんいるから。」と、伝道の実りは大きいと主に励まされて、パウロはコリントに一年半滞在したのです。その伝道の働きが終わりました。それで、パウロはシリヤに向かって船出をします。それが18節に書いてあります。そしてケンクリヤに来た時に髪をそったのです。いったいパウロは何ためにナジル人としての誓願を立てたのでしょうか。それはおそらく第二次伝道旅行においてふりかかる数々の迫害の中にも神の恵みと力にあふれて、その御業を果たすことができるようにという願いだったのではないでしょうか。それが終わった。それから解かれたので、彼は髪の毛をそったのです。そのように神の働きにおいて、神の力ある御業が現されるようにと願ってナジル人としての誓願を立てる。自分を神にささげるということはとても大切なことであるということがわかります。

そして何よりもナジル人として生きられたのは、イエス様ご自身でした。イエス様は最後の晩餐の時にこう言われました。「あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。(ルカ22:18)」これはナジル人としての誓願です。イエス様が再び地上に来られる時まで、ぶどうの実で造られた物を飲むことはないと、自分をおささげになられたのです。神の国がもたらされるそのときに、その喜びの祝宴の中でぶどう酒を飲みます、と言われたのです。つまり、主イエス・キリストが切に願われたのは、ご自分の民であるユダヤ人がご自分を受け入れること、そして世界が元の通りに回復することです。それまでは、この喜びと楽しみの時が来るまでご自分を父にお任せしているのです。それほどご自分を父なる神にゆだねておられるのです。そのようなところに、神の救いのみわざがもたらされるからです。

みなさんはどうでしょうか?イエス様に自分のすべてをささげておられますか?主のものとなっておられるでしょうか。自分自身を主にささげておられますか。もしそうであれば、そこに主の御力とみわざがあらわれます。主があなたを祝福し、あなたを守られるからです。主があなたを照らし、あなたを恵まれるからです。主が御顔をあなたに向け、あなた平安を与えられるからです。私たちはそんな力ある主のみわざにあずかるために、自分自身を主におささげして歩む者でありたいと思います。

民数記5章

きょうは、民数記5章から学びます。1章から4章までのところには、イスラエル人の人口調査について記されてあります。イスラエルがこれからシナイ山を出発し約束の地に向かって進んで行く上で、体制を整えることはとても重要なことでした。そこで彼らはまずイスラエル人の人口を数えて登録しました。20歳以上の男子で軍務につくことのできる男子を登録し、また幕屋の器具を運ぶためにレビ人を登録しました。そして、宿営における部族ごとの配置も定めました。幕屋を中心として東西南北の方角ごとに位置したのです。その中心には神の幕屋がありました。神の幕屋を中心にした秩序を保って、約束の地へと向かって行ったのです。彼らはそのようにして自分たちがイスラエルの共同体の一員であることを自覚し、自分に課せられた任務をわきまえて、神を中心とした一枚岩となって前進して行ったのです。

それは神の教会も同じです。教会も自分たちがどの教会に属し、自分たちに託された使命や役割は何なのかを知ることによって、キリストを中心として一枚岩となって進んで行かなければなりません。イエス様は「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(マタイ16:18)と言われました。そのような教会はハデスの門も打ち勝つことができないほど強固で、この世の荒野を進んで行くことができるのです。

しかし、そのように戦闘態勢を整え、奉仕の体制を整えたら大丈夫かというとそうではありません。それを脅かすのがあります。それは宿営の外側からの脅威だけでなく、内側からのものです。それは罪の問題です。罪が宿営を破壊し、死をもたらす原因にもなります。ですから、この罪に対してしっかりと対処していかなければなりません。それがこの5章で取り扱われている内容ことです。それでは早速本文を見ていきましょう。まず1節から4節までをご覧ください。

1.  罪のきよめ(1-4)

「1ついではモーセに告げて仰せられた。2 「イスラエル人に命じて、ツァラアトの者、漏出を病む者、死体によって身を汚している者をすべて宿営から追い出せ。3 男でも女でも追い出し、彼らを宿営の外に追い出して、わたしがその中に住む宿営を汚さないようにしなければならない。」4 イスラエル人はそのようにして、彼らを宿営の外に追い出した。がモーセに告げられたとおりにイスラエル人は行った。」

ここには、ツァラートの者、漏出物を病む者、死体によって身を汚している者をすべて宿営から追い出せとあります。なぜでしょうか?このツァラアトについてはレビ記で見たとおり、らい病とは違います。というのは、ツァラアトは皮膚に現れるだけでなく、家の壁や衣服にも認められる現象であるからです。それが厳密に何を指しているかはいまだに明らかではありませんが、しかし,それは「何らかの原因により、人体や物の表面が冒された状態のことで、汚れたものであることは確かです。漏出を病むというのは性病のことで、それは伝染性のある有害なものでした。また、死体も腐敗するとばい菌がつき、それが伝染する危険性がありました。ですから、このようなものが宿営の中に蔓延すれば、イスラエルの民は滅んでしまいます。どんなに外的から守られるために軍務につく者を配置しても、内部から崩壊する危険があったのです。ですから、外からの攻撃から自分たちを守るだけではなく、内側にある汚れを取り除くことが、彼らが存続していくために不可欠なことだったのです。

しかし、ここではこうした衛生的なことだけでなく、もっと大切な理由がありました。それは3節に書かれてあります。「わたしがその中に住む」という言葉です。そこは、神が住んでおられるところだからです。聖なる主が宿営の中に住まわれているので、汚れた者が宿営の中にいることはできなかったのです。つまり、このツァラアトの者とか漏出を病む者、死体によって身を汚している者というのは、罪の象徴だったのです。そこに罪、汚れがあれば、神がお住みになることはできません。なぜなら、神は聖なる方だからです。聖なるものと汚れたものは相容れないのです。ですから、イスラエル人たちは、自分たちの間にある汚れを取り除かなければならなかったのです。

考えてみると、イスラエルの民がここまで進んでくることができのはなぜでしょうか?300万人にもなる群集を導くことができた力は何だったのでしょうか?それはモーセやアロンに指導力があったからではありません。イスラエルに特別な能力があったからでもないのです。そこに神がおられたからです。神が彼らの真ん中に住んでおられたので彼らは一つになることができ、力強く前進することができたのです。その神がいなかったらどうなるでしょうか。何もすることができません。神が共におられるということ、神がその中に住んでくださるということがイスラエルの強さの秘訣であり、神の民の本質であって、それがなかったら何もすることもできないのです。ですから、神は宿営の中から汚れを追い出すようにと命じられたのです。

このことは、神の共同体である教会にも言えることです。私たちの間にも聖さが保たれていなければなりません。だれかが罪を犯し、指摘しても悔い改めないのであれば、自分たちで取り除いていかなければならないのです。それは、共同体においては、一人の罪が全体の罪として数えられているからです。たとえば、ヨシュア記にアカンが罪を犯したときのことが記されてあります。アカンがアカンことをしたのです。彼は聖絶のものをいくらか取ったのです。聖絶のものは主のものなのに、彼はそれを盗んだのです。そのとき、神は何と言われたでしょうか。「イスラエルが罪を犯した。」(ヨシュア7:11)と言われました。それはアカン一人だけの問題ではありませんでした。イスラエル全体の問題だったのです。そこでヨシュアが率いるイスラエルは、アカンを石打ちによって殺し、自分たちの中から悪を取り除いたのです。教会の中に神のいのちがあるためには、聖めが必要です。教会が力をもって前進するためには、私たちの間にある汚れをきよめなければなりません。

2.  他人に罪を犯した場合(5-10)

次に、5節から10節までをご覧ください。ここには、他人に対して罪を犯した場合どうしたらよいかが教えられています。

「5 ついではモーセに告げて仰せられた。6 「イスラエル人に告げよ。男にせよ、女にせよ、に対して不信の罪を犯し、他人に何か一つでも罪を犯し、自分でその罪を認めたときは、7 自分の犯した罪を告白しなければならない。その者は罪過のために総額を弁償する。また、それにその五分の一を加えて、当の被害者に支払わなければならない。8 もしその人に、罪過のための弁償を受け取る権利のある親類がいなければ、その弁償された罪過のためのものはのものであり祭司のものとなる。そのほか、その者の罪の贖いをするための贖いの雄羊もそうなる。9 こうしてイスラエル人が祭司のところに持って来るすべての聖なる奉納物はみな、祭司のものとなる。10 すべての人の聖なるささげ物は祭司のものとなり、すべての人が祭司に与えるものは祭司のものとなる。」

他人との不和は争いの種になるので、きちんと処理しておくようにということです。そして、ここにはまず、仲間に対して犯した罪は、主に対して不信の罪を犯すことになると言われています。仲間が傷つけられることがあれば、それは主を傷つけることになるということです。私たちが迫害を受けることは、主も迫害を受けることです。ですから、クリスチャンを迫害していたパウロに主イエスが現されたとき、「サウロ、サウロ。どうしてわたしを迫害するのか。」(使徒9:1-5)と言われたのです。ですから、もし兄弟に対して罪を犯したなら、自分の犯した罪を告白してきちんと処理しなければなりません。

しかし、ここではただ告白するだけでなく、それ相応の償いが求められています。その者は罪過のためにその総額それにその五分の一を加えて、被害者に支払わなければなりませんでした。この五分の一、20%を加えなければならなかったのはなぜでしょうか。それは、被害者の受けた心の傷やしこりといったものに対する補償です。そのように弁済することによって真の和解が成立するのです。それほどに、イスラエルが宿営での生活を営んでいくときに、和解が重要であったことがわかります。お互いが敵対的になり、分裂し、孤立していくようになるなら、イスラエルが共同生活を営んでいく上で致命的となります。したがって、主は、危害を加えた者が、罪を告白して、弁償することを命じられたのです。このような関係の修復は、イスラエルだけではなく、教会にとっても必要不可欠なことなのです。

8節に注目してください。ここには、弁償を受け取る権利のある親類がいなければどうしたらいいかが書かれてあります。その場合は、それは主のものであり、祭司のものとなります。そのほか、その者の罪の贖いをするための贖いの雄羊もそうです。弁償を支払う相手がいなくとも、支払わなければいけません。主に対する罪なのですから、この罪が取り除かれなければいけないからです。そのときは、祭司のところに弁償を持ってきます。こうしてイスラエル人が祭司のところに持って来るすべての聖なる奉納物はみな、祭司のものとなるわけです。すべて人の聖なるささげ物は祭司のものとなり、すべて人が祭司に与えるものは祭司のもの、主のものになるのです。

3.姦淫の罪を犯した場合(11-31)

次に、もし妻が道をはずして夫に対して不信の罪を犯した場合はどうしたらよいかについて見たいと思います。少し長いですが、11節から31節まで見たいと思います。まず15節までをお読みします。

「11 ついではモーセに告げて仰せられた。12 「イスラエル人に告げて言え。もし人が妻が道をはずして夫に対して不信の罪を犯し、13 男が彼女と寝て交わったが、そのことが彼女の夫の目に隠れており、彼女は身を汚したが、発見されず、それに対する証人もなく、またその場で彼女が捕らえられもしなかった場合、14 妻が身を汚していて、夫にねたみの心が起こって妻をねたむか、あるいは妻が身を汚していないのに、夫にねたみの心が起こって妻をねたむかする場合、15 夫は妻を祭司のところに連れて行き、彼女のために大麦の粉十分の一エパをささげ物として携えて行きなさい。この上に油をそそいでも乳香を加えてもいけない。これはねたみのささげ物、咎を思い出す覚えの穀物のささげ物だからである。」

ここでは妻が道をはずして夫に対して不信の罪を犯し、男が女と寝て交わったが、そのことが彼女の夫の目に隠れていて、発見されず、そのことに対する証人もなく、またその場で彼女が捕えられもしなかった場合どうするかということです。そして、そのことで夫は疑いを抱いているわけです。夫は、もしかしたら他の男がいるかもしれない、と勘ぐっていますが、その証人はどこにもいません。現場で捕らえられることもありません。ただ夫が、そうではないかと疑っているのです。そのような時はどうしたらよいか。実に生々しい、具体的な問題です。そういう番組もありますね。しかし、ここにはそういう時にはどうしたらよいかの具体的な方法が示されています。

そのような時には、夫は妻を祭司のところに連れていきます。そして、大麦の粉十分の一エパをささげ物として携えて行きます。そこには油を注いでも乳香を加えてもいけません。なぜでしょうか?この油は聖霊のことを表しているからです。イエス・キリストを信じる者に与えられるいのちの御霊のことだからです。ですから、穀物のささげ物に油がまざっているということは、イエス・キリストを信じる者の中に聖霊が住んでおられることを表しているのです。しかし、これはねたみのささげ物、咎を思い出す覚えの穀物のささげ物なので、油を入れてはいけないのです。

ところで、なぜここに夫婦の問題が取り上げられているのでしょうか。それは、私たちのすべての関係の基本がここにあるからです。イスラエルの共同体において、部族、氏族という単位がありましたが、もっとも小さな単位はもちろん家族であり、その中でも夫婦が最小単位です。この夫婦の関係が土台であり、夫婦が一心同体になっていることがイスラエル共同体の大前提であったのです。それはちょうど原子が分裂したら、物質はそのままで存在することはできないように、夫婦に亀裂が生じたら、共同体全体が存続できなくなってしまいます。だから、主は、妻の不信の罪について、その疑いがあるだけでも、それを明らかにするように命じておられるのです。

ではなぜ妻だけの問題が取り上げられているのでしょうか。夫だって、姦淫の罪を犯すのではないでしょうか。むしろその方が多いかもしれません。それなのに、ここでは妻の問題だけが取り上げられているのです。いったいそれはどうしてなのでしょうか。ユダヤ教のラビ、教師は、これは男女相互に適用される、と解釈しています。それはそうでしょう。妻だけに適用されることだとしたら、問題になります。それにのになぜここには妻だけが取り上げられているのでしょうか。

ここで鍵になる言葉は「ねたむ」という言葉です。聖書には、主ご自身が、「わたしはねたむ神である」とおっしゃっておられます。だから、ほかの神を拝んではいけないのです。主だけを拝し、主だけに仕えなさい、と命じられています。そして、主はご自分を夫になぞらえて、イスラエルを妻にして、ご自分とイスラエルとの関係を表しておられるのです。そうです、ここには神とイスラエル、キリストと教会との関係が示されているのです。ですからここにはただの姦淫の罪ということではなく、霊的姦淫の罪について定められているのです。霊的に姦淫の罪を犯すということは、単に罪を犯すことよりも深刻な問題です。妻が夫に対してどのような罪を犯していても、夫が妻を愛しているなら、それを赦すことができますが、他の男に行ってしまったら、どうなってしまうでしょうか。それは関係そのものの一切が切れてしまいます。同じように、私たちが神に対していろいろな罪を犯しても、神は赦してくださいますが、他の神に移ってしまったら、もうそこで関係は切れてしまうのです。パウロはコリントの教会に対してこう言いました。「しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。(Ⅱコリント11:3)それはこのことを語っていたのです。コリントの教会は、偽使徒たちによって異なるイエス、異なる福音、異なる霊を受けていました。そこでパウロは、エバが蛇によって欺かれたように、キリストの花嫁であるあなたの思いも汚されているのではないか、と心配していたのです。

16節から22節までをご覧ください。「16 祭司は、その女を近寄らせ、の前に立たせる。
17 祭司はきよい水を土の器に取り、幕屋の床にあるちりを取ってその水に入れる。18 祭司は、の前に女を立たせて、その女の髪の毛を乱され、その手にねたみのささげ物である覚えの穀物のささげ物を与える。祭司の手にはのろいをもたらす苦い水がなければならない。19 祭司は女に誓わせ、これに言う。『もしも、他の男があなたと寝たことがなく、またあなたがた夫のもとにありながら道ならぬことをして汚れたことがなければ、あなたはこののろいをもたらす苦い水の害を受けないように。20 しかしあなたが、もし夫のもとにありながら道ならぬことを行って身を汚し、夫以外の男があなたと寝たのであれば、』21 ―そこで祭司はその女にのろいの誓いを誓わせ、これに言う―『があなたのももをやせ衰えさせ、あなたの腹をふくれさせ、あなたの民のうちにあってがあなたをのろいとし誓いとされるように。22 またこののろいをもたらす水があなたのからだに入って腹をふくれさせ、ももをやせ衰えさせるように。』その女は、『アーメン、アーメン』と言う。」

ここで彼らは不思議な方法でその疑いを晴らしました。夫が妻を祭司のもとに連れて行くと、祭司は、その女を近寄らせ、主の前に立たせます。そして、きよい水を土の器に取り、幕屋の床にあるちりを取ってその水に入れます。それはのろいをもたらす苦い水です。祭司は女に誓わせてその水を飲ませますが、もし女に汚れたことが何一つなければ女は何の害も受けず、もし女が道ならぬことを行って身を汚していたら、その水がからだに入るとき、腹をふくれさせ、ももをやせ衰えさせました。現代でいうとうそ発見器のようなものかと思いますが、それにしても、何とも奇妙な方法です。いったいこれはどういことなのでしょうか。

まずこの水とはみことばのことでしょう。エペソ5章26節には、「みことばにより、水の洗いをもって」とあります。みことばが水として表現されているのです。みことばが洗うのです。みことばが見極めるのです。その水の中に、幕屋の床にあるちりを取って入れます。これは創世記3章14節のところに、神は蛇に対して、「おまえは、…ちりを食べなければならない。」と言われましたが、のろいを表しているものと思われます。それは神のみことばの中にあるさばきであると言えます。というのは、ヘブル4章12、13節に、こう書いてあるからです。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」とありますが、実は次の言葉に続きます。「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。神のみことばによって、また、聖霊の働きによって、隠れたこともみな裸にされて、さらけ出されるのです。祭司はその女にのろいの誓いを誓わせるというのは、祭司が誓わせたことが女のことばになるということです。もし彼女が嘘を言っていたらのろいがもたらされ、本当だったら害を受けることがないということです。

それからどうなるでしょうか。23節から31節までを見ていきましょう。「23 祭司はこののろいを書き物に書き、それを苦い水の中に洗い落とす。24 こののろいをもたらす苦い水をその女に飲ませると、のろいをもたらす水が彼女の中に入って苦くなるであろう。25 祭司は女の手からねたみのささげ物を取り、この穀物のささげ物をに向かって揺り動かし、それを祭壇にささげる。26 祭司は、その穀物のささげ物から記念の部分をひとつかみ取って、それを祭壇で焼いて煙とする。その後に、女にその水を飲ませなければならない。27 その水を飲ませたときに、もし、その女が夫に対して不信の罪を犯して身を汚していれば、のろいをもたらす水はその女の中に入って苦くなり、その腹はふくれ、そのももはやせ衰える。その女は、その民の間でのろいとなる。28 しかし、もし女が身を汚しておらず、きよければ、害を受けず、子を宿すようになる。29 これがねたみの場合のおしえである。女が夫のもとにありながら道ならぬことをして身を汚したり、30 または人にねたみの心が起こって、自分の妻をねたむ場合には、その妻をの前に立たせる。そして祭司は女にこのおしえをすべて適用する。31 夫には咎がなく、その妻がその咎を負うのである。」

なんと今誓ったことを書物に書き、それを苦い水の中で洗い落とします。つまり、自分のことばが自分の腹の中に入って、自分のうちに実現するということです。ここで、真実が明らかにされます。姦淫の罪を犯していれば、女は子を宿すことができないようなからだになり、犯していなければ何の害も受けなくてもすみます。これは、本当に罪を犯していない人にとっては、この上もなくうれしいことです。夫から疑いをかけられていたけれども、今、潔白であることが証明されたからです。自分が罪を犯したとも、犯していないともわからないような状況でしたが、神は、この方法によって、彼女の純潔をためされたのです。

しかし、私たちはどうでしょうか。主に罪を探られたら、主の前に立っていることができるでしょうか。この苦い水を飲んだら、それがのろいとなって害を受けるような者なのではないでしょうか。しかし、私たちの代わりにのろいを受けてくださった方がおられます。苦い水を飲まれた方がおられるのです。だれでしょうか。そうです、私たちの救い主イエス・キリストです。キリストは私たちの代わりにのろいとなってくださいました。私たちのために苦い水を飲んでくださいました。酔いぶどう酒です。十字架の上で・・・。それは私たちがさばかれることなく、そのさばきを代わりに受けるためでした。私たちはこのイエス・キリストの十字架の身代わりによってのろいをうけない者にしていただけたのです。イエスは、姦淫の現場で捕えられた女に、こう言われました。「わたしもあなたを罪に定めなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8:10-11)私たちはキリストによってすべての罪が赦されました。私たちは神ののろいではなく、神の恵みによって聖い者にしていただけたのです。すべての罪が赦されて、身の潔白が証明された人は何と幸いなことでしょう。自分の疑いが晴らされて身の潔白を証明できた女が躍り上がるような喜びに満ち溢れたように、私たちも救い主イエス・キリストを信じる信仰によって義と認められ、このキリストの中にいることによって日々イエス様のように変えられ、やがてくる終わりの時にキリストの花嫁として、いつまでも主とともにいられるということはこの上もない喜びです。この喜びのゆえに、私たちはますます私たちの代わりに死んでくださったキリストに感謝し、この方に中にずっととどまっていたいと思います。たとえ道から外れることがあっても、そののろいを受けてくださったキリストの愛のゆえに、悔い改めて神に立ち返る者でありたいと思います。

Ⅰテサロニケ5章1~11節 「主の日に備えて」

きょうは、「主の日に備えよ」というテーマでお話します。先週は4章13節から、眠った人々のことについて学びました。イエス様を信じて死んだ人たちはどうなるのか。彼らはイエス様が再び来られるその時、雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会います。そのようにして、いつまでも主とともにいるようになるのです。これがクリスチャンの救いの完成です。それはクリスチャンにとっての本当の慰めとなります。このことばをもって互いに慰め合わなければなりません。そして今日の箇所には、そのキリストの再臨にどのように備えたらよいかが語られています。

Ⅰ.主の日は突然やって来る(1-3)

まず、第一のことは、主の日は盗人のように突然やって来るということです。1節から3節までをご覧ください。1節には、「兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。」とあります。

「それら」という言葉は原文にはありませんが、これはキリストの空中再臨、携挙のことであることは、前後の文脈からわかります。その時については、あるいはその時期については、書いてもらう必要がないというのです。なぜなら、彼らはその時についてよく承知していたからです。2節を見ると、「主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。」とあります。彼らは主の日がどのようにしてやって来るかをよく承知していたのです。この「主の日」とは、主が再臨される日のことであり、神の激しい怒りが下る時でもあります。その日は夜中の盗人のようにやって来るのです。

3節をご覧ください。「人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、突如して滅びが彼らに襲いかかります。」この「彼ら」とは1節の「兄弟たち」とは別の人たちのことです。つまり、これはノンクリスチャンたちのことを指して言われているわけです。彼らが「平和だ。安全だ」と言っているようなときに、突然滅びが彼らに襲いかかるのです。もし泥棒が、いついつあなたの家に侵入しますからね、と事前に言ってくれたら、それに備えてしっかり戸締りとかをしてちゃんと用心することもできるのですが、それがいつなのかがわからないのです。それは突如として襲いかかって来るのです。

このことは、すでにイエス様が弟子たちにお話なさったことでもあります。マタイの福音書24章43節には、「しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。」とあります。の子は思いがけない時に来るのです。ですからこのことを知り、このために用心している人は幸いです。けれども、それがいつなのかはわかりませんが、その前兆があります。イエス様はこう言われました。「32 いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。33 そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」(マタイ24:32-33)

これらのことを見たら、人の子が戸口まで近づいていることを知らなければなりません。いちじくの木から、たとえを学ばなければならないのです。枝が柔らかくなって、葉が出てくると、夏が近いということがわかるように、これらの前兆があれば、イエスの再臨が近いということがわかるのです。いったいそれはどんな前兆があるのでしょうか。

まず5節には、「わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」とあります。大勢の偽キリストが現れます。「わたしこそキリストだ」と言って、多くの人を惑わすのです。お隣の韓国はキリスト教の盛んな国ですが、多くの偽キリストが現れています。自分が再臨のキリストだと主張する人が50人もいるというのです。そしてそれを信じる人たちが少なくとも200万人から300万人もいるのです。日本のクリスチャン人口が約100万人ですから、これがどれほどの数であるかがわかるでしょう。これは韓国のキリスト教人口の約4分の1に相当するもので、多くの教会がこうした異端によって傷を受けており、その被害は深刻なものになっています。特に、「新天地」と言われるグループは素性を隠してひそかに教会に入り込むので見分けが難しく、韓国のキリスト教会の脅威になっているのです。

また6節には、「戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょう」とあります。世の終わりが近くなると、戦争のことや戦争のうわさを聞きます。先に起こった二つの世界大戦は、歴史上前例を見ないほどの世界規模で行われました。そして今も戦いが止むことはありません。イスラム国(IS)をはじめ、イスラム過激派と呼ばれるグループが世界中でテロを企てています。これらのテログループはこれまでと違って豊富な資金源を背景に全世界から兵士を集め、世界中に拡がり続けているのです。

そして7節には、「方々にききんと地震が起こります」とあります。日本でも3年前に東日本大震災が発生しましたが、こうした地震やききんが世界中で頻繁に起こっているのです。その他、世の終わりの時には、不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。現代はまさにそのような時代となっているのです。インターネットが普及してからは、ネット犯罪と呼ばれる犯罪があとを絶たず、世界中に悪がはびこっています。

そして何といっても、世の終わりが近くなると、天の果てから果てまで、四方からその選びの民が集められるとあります。これは世界中に散らされているユダヤ人が集められるという預言ですが、この預言のとおりに、世界中に離散していたユダヤ人が集められ、イスラエルという国を再興しました。1948年5月14日のことです。これは世の終わりが近いということの確かなしるしと言えるでしょう。

まさにいちじくの木の枝が柔らかくなって、葉が出てきています。夏が近づいているのです。イエス様は戸口まで近づいているのです。私たちは今、そういう時代に生きているのです。それなのに人々は「平和だ。安全だ。」と言っています。しかし、人々が「平和だ。安全だ」と言っているまさにそのようなときに、突如として滅びが襲いかかるのです。

Ⅱ.しかし、兄弟たちを襲うことはない(4-5)

第二のことは、しかし、クリスチャンには、そのように主の日が、盗人のようにやって来て襲うようなことはありません。4節と5節をご覧ください。「4 しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。5 あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。」

「兄弟たち」とは、先ほども言ったように、キリストにある人たちのことです。神のさばきは突如として彼らに襲いかかりますが、クリスチャンを襲うことはありません。なぜなら、クリスチャンは光であられるイエスを信じたことによって、光の子ども、昼の子どもとされたからです。大抵の場合、盗人がやって来るのは夜です。まあ白昼堂々というケースもありますが、大抵の場合は夜なのです。それは暗やみのわざだからです。ですから、光の子どもであるクリスチャンを襲うということはありません。むしろ、その日はクリスチャンにとっては喜びの日です。なぜなら、花婿であられるキリストが花嫁である教会を迎えに来る時だからです。

ヨハネの福音書8章12節に、次のようなイエスのことばがあります。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」イエスは世の光であられ、このイエスを信じ、イエスに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。盗人が突然現れてあなたを滅ぼすというようなことはないのです。

またヨハネの福音書5章24節には、こうあります。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」イエスを信じる者はさばきに会うことがなく、死からいのちに移っています。この場合のさばきとは、いのちの書に名が書き記されていない人が火の池に投げ込まれる最後のさばきであると同時に、キリストが再び来られる時にこの地上に下る大患難によるさばきのことでもあるのです。なぜなら、9節にあるように、「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです」

皆さん、クリスチャンは、キリストが再臨される時にさばかれることはありません。神は私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにとお定めになられたからです。かつてはそうではありませんでした。エペソ2章3節にあるように、「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです―」(エペソ2:4-5)

どんなにいい人でも神の怒りから免れることはできません。どんなにいい人でも、神の目にはそうではないからです。みんなさばかれて致し方ないような者なのです。しかし、あわれみ豊かな神は、その大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいた私たちをキリストとともに生かしてくださいました。私たちが救われたのはただ恵みによるのです。イエスを主と告白し、神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じただけで救ってくださいました。あなたがどれだけいい人で、どれだけ良いことをしたかなどということは全く関係ないのです。ただイエスを救い主と信じただけで救われたのです。イエス以外には救われる道はありません。このイエスを信じた人は光の子ども、昼の子どもですから、暗やみが襲いかかるということはないのです。あなたはイエスを救い主と信じておられるでしょうか。

Ⅲ.だから慎み深くしていましょう(6-11)

ですから、第三のことは、慎み深くしていましょう、ということです。6,7節には「6 ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。7 眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。」とあります。

この「慎み深く」ということばは「しらふ」とも訳せることばです。「酔う者」に対しての「しらふ」です。イエス様は、ゲッセマネの園で祈っておられたとき、弟子たちに、「誘惑に陥らないで、目をさまして、祈っていなさい。」(ルカ22:40)と言われました。それは、これからイエス様が捕えられ、裁判にかけられ、むち打たれ、ののしられ、あげくの果てに十字架につけられて殺されるという事態に備えるためでした。それなのに弟子たちはどうしていたかというと、すっかり眠りこけていたのです。実際に眠っていたというだけでなく、霊的にも眠っていました。その結果どうなったでしょうか。実際の場面に遭遇したときどうすればよいかわからず、結局、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。そしてペテロは、「イエスなど知らない」と三度も主を否定して、大きな罪を犯してしまいました。眠っているとはこういうことです。自分の周りで起こるかもしれない、いろいろな状況を考えることができないで、自分のことしか考えられないのです。そうなると、何か困難が訪れたとき簡単に罪に陥ってしまうのです。眠っていると、罪を犯しやすくなるのです。だから、誘惑に陥らないように、目を覚ましていなければなりません。こういうことが起こったら自分はどのようにすべきか、このような事態に陥ったら自分はどのようにしてキリストに従うべきなのかを予期しながら、しっかりと備えておなかければならないのです。

その具体的な備えがどのようなものなのかが、8節にあります。「しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。」昼の者として慎み深く生きるためには、信仰と愛と望みによって生きなければなりません。ここではただの信仰、愛、希望ではなく、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、とあります。エペソ人への手紙6章にある霊の戦いのときに身に着ける、神の武具と同じようにたとえられているのです。兵士の胸当てとして、信仰と愛をつけます。そして、頭にかぶるかぶととして救いの望みをかぶるのです。

まず信仰の胸当てです。信仰を胸当てとして着けなければなりません。なぜでしょうか。この信仰が望みへとつながっていくからです。せっかく信仰の種が蒔かれても、岩地に蒔かれた種のように、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまうようであれば、実を結ぶことはできません。あるいは、いばらの中に蒔かれた種のように、この世の心づかいや富の惑わしによってふさがれてしまうなら、実を結ぶことはできないのです。実を結ぶためには、良い地に蒔かれなければなりません。みことばを聞いてそれを悟らなければならないのです。聞いたみことばを信仰によって心に結びつけられなければならないのです。

また、胸当てとして愛も着けなければなりません。神はこの愛をイエス・キリストによって現してくださいました。ここに愛があります。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子をお与えになられました。ここに愛があるのです。この愛を胸当てとして着けなければならないのです。

テサロニケのクリスチャンたちは、激しい迫害と極度の貧しさの中にあっても貧困で苦しんでいたユダヤの兄弟姉妹のために喜んで献げることができたのはどうしてでしょうか?それは彼らが神に深く愛されていたからです。この愛こそが私たちをキリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおりに信仰を堅くし、あふれるばかりの感謝へと導いてくれるのです。ですから、この神の愛を胸当てとしてしっかりと身に着けなければならないのです。

それからもう一つは、救いの望みのかぶとです。これは先週見たとおりです。やがてキリストが救いを完成してくださるということに望みを置くのです。私たちはイエス様を信じた瞬間に救われ、永遠のいのちが与えられます。しかし、その救いが完成するのはいつかというと、イエス・キリストが再臨される時なのです。そのとき、私たちは朽ちないからだ、栄光のからだによみがえり、雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいるようになるのです。そのとき、それまでのすべての苦しみから解き放たれ、永遠の喜びに満たされるのです。これが私たちの救いが完成するときです。

しかし、目の前に困難があったり、苦しみがあったりすると、なかなかこの望みを抱くことができなくなります。やがて天の御国の栄光に与るということがわかっていても、目の前のことですぐにつぶやいてしまうのです。この望みは「かぶと」だと言われています。ヘルメットです。頭がやられたらイチコロころです。敵であるサタンはこのことをよく知っているのす。そして、私たちからこの希望を奪おうとして躍起になっているのです。しかし希望というかぶとをしっかりかぶっていれば、サタンは何もすることができません。ですから、救いの望みというかぶとをかぶっていなければならないのです。いつも希望を告白していなければならないのです。

いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。この世の人たちには信仰がありません。したがって、愛もありません。ましてや永遠の希望などないのです。彼らが求めているのはこの世の一時的なものにすぎません。そのようなものはやがて朽ちていきます。いつまでも残るものは信仰と希望と愛なのです。テサロニケの人たちは、この三つの徳を持っていました。信仰の働き、愛の労苦、望みの忍耐を持っていたのです。それゆえに、たとえ救われたばかりでも、たとえ敵から迫害されるという苦しみの中にあって、キリストにしっかりととどまり続けることができました。私たちに求められているのは、この信仰と愛の胸当てを身につけ、救いの望みのかぶとをかぶって、慎み深く歩むことなのです。

最後に、11節を見て終わりたいと思います。ここには、「ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。」とあります。ここで強調されていることは「互いに」ということです。互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。このことからわかることは、一人ではイエスの命令を守ることはできないということです。一人の方が落に感じるかもしれません。一人でいた方がだれかと関わる必要もないので問題がなくていいと思うかもしれません。一人でいた方が何の制約も受けることなく、自由に聖書を学ぶことができるのではないかと考えるかもしれませんが、それは間違いです。それはあなたをこの信仰と愛と救いの望みから引き離すためのサタンの巧妙なたくらみなのです。なぜならここに「互いに」とあるからです。一人ではイエス様の命令を守ることはできないし、神のみこころに歩むことはできません。私たちは神の教会に集まってこそ、この互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさいという命令を守ることができるのです。

へブル人への手紙10章25節を開いてください。ここには、「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」とあります。

ここで鍵になる言葉は「かの日」という言葉です。かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか、です。イエス様が再び来られる日、救いが完成する日、その日が近づいているのですから、ますますそうしようではありませんか。いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合おうではないかということです。たまに教会に行きますとか、何とか日曜日だけは行くようにしています、では足りません。本気で再臨を信じているのなら、本気でかの日が近づいていると信じているのなら、ますますそうしなければなりません。一緒に集まることをやめたりしないで、ますますそうしなければなりません。これが世の終わりに生きるクリスチャンの姿なのです。

それがいつなのか、またどういう時かについて、私たちは知りません。しかし、確かなことは、それが確実に近づいているということです。それは盗人のように、突如として襲いかかります。その時、私たちは慌てることがないように、しっかりと備えておきたいと思います。信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。今しているとおり、いっしょに集まることをやめたりしないで、かの日か近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。それが世の終わりに生きるクリスチャンに求められていることなのです。