イザヤ60:1-22 レジュメ

「起きよ。光を放て」  イザヤ書60:122

Ⅰ.起きよ。光を放て(1-3) 

 ここには、世の終わりにもたらされる栄光がいかに輝いたものであるかが記されている。「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。」(1)終末の時代に神の都シオンは主の栄光の輝きによって、諸国を輝かすようにと命じられている。なぜなら、「見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国をおおっている。」(2)からだ。終末の時代には、神の民に対する圧迫も激しくなり、肉体的にも、精神的にも、暗やみが世界を支配するようになる。だから、神の民は、起きて、光を放たなければならない。主イエスも、「あなたがたは、世界の光です。・・・あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:14-16)と言われた。神の民であるクリスチャンは霊的に暗黒のような世界の中で、光のような存在として生きなければならない。自分自身に光がなくても、光であられるイエス・キリストを信じた私たちは「光の子ども」となったのだから。その光を輝かさなければならないのである。

Ⅱ.目を上げて、あたりを見よ(4-9)

神の民が主の栄光の光を放つとき、いったいどんなことが起こるのだろうか。4節には、「目を上げて、あたりを見よ。彼らは集まって、あなたのもとに来る。あなたの息子たちは遠くから来、娘たちはわきに抱かれて来る。」とある。かつて「子を産まない不妊の女」(54:1)と言われたイスラエルの多くの子孫が、遠くから、近くから、彼らのもとに集まってくるというのだ。ただ集まってくるのではない。地中海沿岸から来る者は海の富を携え、砂漠から来る者は、らくだを携えてやって来る。また、「ケダルの羊の群れもみな、あなたのところに集まり・・いけにえとして、わたしの祭壇にささげられる。」(7)ケダルというのはイシュマエルの息子で、イスラエルに敵対する人たちのことである。そうした人までも神の都シオンにやって来て、いけにえをささげるようになるのである。これは本当に麗しい神の恵みのみわざだ。世の終わりには、どんなに敵対していた人でも、どんなに呪われていた人でも、主は必ず救いの手を差し伸べ、神の民の一員に加えてくださる。「そのとき、あなたはこれを見て、晴れやかになり、心は震えて、喜ぶようになる。」(5)そんな心躍るような喜びに満たされるのである。

Ⅲ.主があなたの永遠の光となる(10-22)

そればかりではない。10節には、「外国人もあなたの城壁を建て直し、その王たちもあなたに仕える。」とある。かつてエルサレムの神殿はアッシリヤやバビロンなど、異教の王や外国の軍隊によって攻撃され、破壊され、略奪されてきた。それはイザヤの時代の後にも起こる。エルサレムはローマによって滅ぼされ、神殿は完全に破壊されてしまった。しかし、世の終わりには、こうした外国人によってそれが再び建て直される。彼らを苦しめた者たちの子らは、身をかがめてやって来て、彼らの足下にひれ伏し、「あなたを、主の町、イスラエルの聖なる方のシオン、と呼ぶ。」(14)ようになる。神のあわれみのゆえに、異邦人に苦しめられたエルサレムが、その栄光を回復する。神のあわれみの心が、神の都シオンを暗やみと絶望の深い淵から救ってくださるのである。そして、この約束は後に教会に引き継がれることになる。神の民であるクリスチャンはこの地上で様々な苦難や逆境に置かれるが、そうした苦難を乗り越えて、やがて神が栄光を回復してくださるのである。

私たちは皆、立場は違うが、いろいろな形で苦しみを経験している。ある人は病気で、またある人は仕事で行き詰まり、またある人は自然災害によって立ち直ることが難しいと「絶望」に陥ることがある。しかし、そのような中にあってもこの救いの神を見上げて、ここに希望を置くなら、神が必ずあなたを助けてくださる。この永遠の希望の約束を通して、私たちに立ち上がる力を与えてくださるのである。

ここには「時が来れば、わたし、主がすみやかにそれをする。」(22)とある。時が来れば、それはすみやかに起こる。それはすぐそこまで来ている。いつ起こっても不思議ではない。私たちはここに希望を起きたい。やがてもたらされる栄光の輝きを胸に、私たちに与えられた希望の光を、この地上にあって放つ者でありたい。

イザヤ書60章1~22節 「起きよ。光を放て。」

きょうは、イザヤ書60章から「起きよ。光を放て」というタイトルでお話します。これは、神の恵みによって救われた神の民に対して語られていることばです。「主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。」(59:16)主は一方的な恵みによって私たちを救ってくださいました。その神の民に語られていることは「起きよ。光を放て」ということです。  きょうはこの箇所から、神の民であるクリスチャンにもたらされる栄光がどのようなものか、どのように輝いたものなのかを一緒に見ていきたいと思います。

Ⅰ.起きよ。光を放て(1-3)

まず最初に1節から3節までをご覧ください。1節には、「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。」とあります。 この「あなた」とは誰のことでしょうか。それは罪を悔い改めた者、シオンのことです。59章19,20節には、「そうして、西のほうでは、主の御名が、日の上る方では、主の栄光が恐れられ。主は激しい流れのように来られ、その中で主の息が吹きまくっている。「しかし、シオンには贖い主として来る。ヤコブの中のそむきの罪を悔い改める者のところに来る。」とあります。これは主イエスの再臨の預言なのです。主イエスはどのような人のところに来られるのでしょうか。ヤコブの中のそむきの罪を悔い改める者たちのところ、その罪が贖われた者たちのところです。ですから、これはクリスチャンたちのことを指して言われているのです。そのクリスチャンたちに語られていることはどういうことでしょうか。起きて、光を放て、です。なぜなら、あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからです。

「やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。」(2)

まさに現代はやみです。暗やみです。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっています。しかし、クリスチャンは決してやみの中を歩むことはありません。なぜなら、クリスチャンの上には主が輝いているからです。主はこう言われました。

「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)

イエス様はこの世の光です。あなたではありません。あなたが世の光なのではないのです。イエス様が世の光です。私たちはその光を受けて、その光が私たちの上に輝いているので、私たちは決してやみの中を歩むことはないのです。いや、そればかりではなく、国々の民はこの私たちの光のうちに歩み、王たちは私たちの輝きに照らされて歩むのです。私たちにはまさに燈台のような使命が与えられているのです。

マタイの福音書5章14~16節を開いてください。そのところで主はこう言っておられます。 「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:14~16)

皆さん、私たちは世界の光なのです。光は何のために存在しているのでしょうか。照らすためです。その光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられる私たちの父があがめられるようにしなければなりません。

ゴスペルシンガーのレーナ・マリアさんは、生まれたときから両手がありませんでした。そのうえ、左足の長さも右足の半分ぐらいしかなかったのです。両親は初めびっくりしましたが、すべての人は等しく価値ある人間だという信念から、精一杯の愛情を注いでレーナさんを育てました。障害があるからといって甘やかさず、普通の子どもと同じように育てました。もちろん、困難なことはたくさんあったでしょうが、レーナさんは、何でもできるだけ自分でするようにして、辛抱強く一つ一つを克復していきました。字を書くことはもちろんのこと、お料理も、裁縫や編み物も、パソコンも、ピアノを弾くことも、そして車を運転することも、できるようになりました。口とあごと両手を使って何でもできるようになったのです。3歳からは水泳を始めて、ソオルのパラリンピックでは優秀な成績を収めました。  そのレーナ・マリアさんが日本のテレビに出演したとき、キャスターが、「体が不自由で大変でしょう。それなのに、どうしてそんなに明るい笑顔でいらるんですか」と尋ねると、レーナさんはにこにこしながら、こう答えました。「私は神様からたくさんのものをいただいているので、不自由だと思ったことがありません。イエス様はいつも私のそばにいてくださいます。だから、いつも神様に感謝しているんです」  レーナさんは、このような体で生まれたのは、神様が特別な目的をもっていらっしゃるからだと考えています。そして、その神様の目的を達成するために精一杯努力したいと言って、美しい声で神様を賛美し、さわやかな笑顔で神様のすばらしさを証しているのです。長野のパラリンピックの開会式では、「わが魂、いざたたえよ。大いなる御神を」と高らかに神様を賛美して、世界中の人に感銘を与えました。また、先の震災復興のコンサートでも多くの人たちに慰めを与えました。

それは何もレーナさんのように特別な人だけのことではありません。私たちもそうなのです。今、阿久津恵美さんが証をしてくださいました。阿久津さんがクリスチャンになられたのは、かつて米国の証券会社に勤めていた時に同じフロアーにいた一人の女性との出会いがきっかけでした。毎日怒号が飛び交う殺伐とした職場の中でも、その方はつも笑顔を絶やさないで、だれにでも親切に接しておられたので、誰からも愛されていました。こんな殺伐とした職場でどうしてそんなに穏やかにしていにれるのかと思った阿久津さんは、ある日その女性に尋ねました。すると彼女は「神様を信じているから」と言いました。その方はいろいろと説明してくれたのですが、ただ一つわかったことは、その神様というのは仏陀でも、マホメットでもなく、イエス・キリストであるということです。それで阿久津さんはその週末から近くの教会に行くようになったのです。その方の存在が阿久津さんを救いへと導くきっかけを与えてくれたのです。阿久津さんにとってその方は光のような役割を果たしてくれました。阿久津さん曰く、「人は行いだけでは救われませんが、しかし、彼女の存在そのものがイエス様の香り放ち、愛を示していたことで、私の中に蒔かれていた信仰の芽を芽吹かせるきっかけとなりました。」    アーメン!皆さん、私たちの存在そのものがこの世の暗やみを照らす光なのです。人は行いだけによっては救われませんが、私たちの良い行いを見て、天の父をあがめるようになるのです。そういう意味では笑顔は大切ですね。一生懸命に作る笑顔ではなくその人の心から溢れ出るような笑顔、優しい言葉、親切な態度、愛に溢れた行動、そうした良い行いによって、天の父があがめられるようにしなければなりません。

Ⅱ.目を上げて、あたりを見よ(4-9)

次に4~9節までをご覧ください。4節には「目を上げて、あたりを見よ。彼らは集まって、あなたのもとに来る。あなたの息子たちは遠くから来、娘たちはわきに抱かれて来る。」とあります。

どういうことでしょうか。これは終末的預言で、やがて神の子とされる数えきれない人々が救われ、主に導かれてくるということです。リバイバルです。具体的には、あなたの証しによって、イエス様を信じ、救われた神の子たち、ここでは息子とか娘と呼ばれていますが、そういう人たちが教会に集うようになるのです。伝道というと、人の誤りや罪を指摘し、イエス様を信じるようにと説得することだと考えている人が多いようですが、このところを見ると、伝道とはそういうものではないことがわかります。伝道とは、あなた自身がイエス様とイエス様の御言葉にしっかりつながることによって愛の実を結び、あなたの内にあるイエス様の光に、人々が引き寄せられてくることなのです。いつでも、どこでも、あなたは光であるイエス様だけを見上げて、人々を愛し、仕えればよいのです。そうすれば、人々はあなたに引き寄せられてきます。それが伝道です。あなたを救われたイエス様の光を指し示すのが伝道なのです。

そのとき、主の祝福が、あなたのもとにやって来ます。5節には、「そのとき、あなたはこれを見て、晴れやかになり、心は震えて、喜ぶ。海の富はあなたのところに移され、国々の財宝はあなたのものとなるからだ。」とあります。「海の富」とは、海からの産物のこと、諸国の財宝も彼らのものとなります。

そればかりではありません。6節を見てください。6節には、「らくだの大群、ミデヤンとエファの若いらくだが、あなたのところに押し寄せる。これらシェバから来るものはみな、金と乳香を携えて来る、主の奇しいみわざを宣べ伝える。」とあります。  「ミデヤン」とか「エファ」とは、イスラエルの南方にある広大な砂漠地帯のことです。モーセはエジプトから逃れたときこのミデヤンの荒野に来て、ここで羊を飼っていました。そのミデヤンとエファからはらくだの大軍が押し寄せてくるというのです。  「シェバ」とは今のサウジアラビヤのことですが、そこから来る者は黄金と乳香を携えてやって来ます。イエス様がお生まれになったとき、東方の博士たちが、黄金、乳香、没薬をイエス様に献げましたが、それはこの預言の成就でもあると言えます。

7節を見てください。7節には、「ケダルの羊の群れもみな、あなたのところに集まり、ネバヨテの雄羊は、あなたに仕え、これらは受け入れられるいけにえとして、わたしの祭壇にささげられる。わたしは、わたしの美しい家を輝かす。」とあります。「ケダル」も南方の荒野の地域のことですが、そこからは羊の群れを携えてやって来るようになります。しかし、これは単なる羊の群れというよりも、主を礼拝するためのいけにえとしてささげられるということが言われています。どういうことでしょうか?

ケダルとはイシュマエルの子孫たちのことです。アブラハムと女奴隷ハガルとの間に生まれたこどもですね。それがイシュマエルです。その子孫がケダルです。聖書を見ると、このイシュマエルの子孫であるケダルは、ずっと神の民であるイスラエルに敵対すると預言されています(創世記16:12,25:18)。その預言のとおりに、イシュマエルの子孫であるアラブ人はずっとイスラエルに敵対していました。それはこの聖書の預言でもあるのです。イスラム教の創始者であるムハンマドは、自分はこのイシュマエルの子ケダルの子孫であると言っていますが、イスラム教徒やアラブ人は昔から今に至るまでずっと、イスラエルに敵対してきたのです。しかし、そのような人たちでさえも、世の終わりになると神の都にやって来て、まことの神を礼拝するようになります。自分のたちの家畜をいけにえとしてイスラエルの神の神殿でささげるようになるのです。これは本当に麗しいことではないでしょうか。これまでどんなに神に敵対していた人でも、どんなに呪われていたような人でも、主は必ず救いの手を差し伸べてくださいます。そして神の民の一員として加えてくださり、神の民と一緒に神の救いをほめたたえ、心からの感謝のささげ物をささげるようになるのです。ここに「わたしは、わたしの美しい家を輝かす」とありますが、そのようなことによってさらに主の宮は美しく輝くようになるのです。

そして8節と9節です。「タルシシュの船は真っ先に、あなたの子らを遠くから来させ、彼らの金銀もいっしょに、あなたの神、主の名のために、イスラエルの聖なる者のために運んで来る。」

「タルシシュ」とは今のスペインにある町のことです。後に、そこには多くのイタリヤ人が移民しました。ですから、ここにはヨーロッパから運ばれてくる品々がどんなものであるのかが記されてあるのです。そしてヨーロッパから運ばれてくるのは多くの金銀、莫大な財宝であります。それはまさに大きな雲が押し寄せて来るようであり、巣に帰る鳩が群れをなして押し寄せて来るようです。つまり、この世の終わりには、世界の果てから、四方八方から、多くの人々がそうした財宝を携えて、あなたのもとにやって来るようになるのです。なぜそのようなことが起こるのでしょうか。「主があなたを輝かされたから」です。私たちは神の子どもとして、神のすべての祝福を相続するようになったからです。

神の子どもとされたことで得た栄光、やがて来る栄光はどんなに輝いたものでしょう。あなたはこれを見なければなりません。目をあげて、あたりを見なければならないのです。罪贖われて神の子どもとされた者に与えられる祝福がどんなに大きなものなのか、その栄光がどんなに輝いたものであるかを見るなら、あなたはこの主の光を輝かせることができるようになるでしょう。

Ⅲ.主があなたの永遠の光となる(10-22)

最後に、この御国の栄光とその輝きについて見たいと思います。10節から終わりまでのところです。10節から13節をご覧ください。 「外国人もあなたの城壁を建て直し、その王たちもあなたに仕える。実に、わたしは怒って、あなたをあわれんだ。あなたの門はいつも開かれ、昼も夜も閉じられない。国々の財宝があなたのところに運ばれ、その王たちが導かれて来るためである。あなたに仕えない国民や王国は滅び、これらの国々は荒廃する。レバノンの栄光は、もみの木、すずかけ、檜も、共に、あなたのもとに来て、わたしの聖所を美しくする。わたしは、わたしの足台を尊くする。」

「城壁」とは、エルサレムの神殿の城壁のことです。これまで外国人の王たちは、城壁を打ち壊す者でした。アッシリヤにしてもそうですし、バビロンにしてもそうです。またローマ帝国もそうでした。外国の王たちはみなエルサレムを踏みにじり、その神殿を粉々に破壊しました。今、そこには嘆きの壁と呼ばれている壁があるだけです。しかし、この世の終わりにはそうではありません。逆に、彼らは城壁を建て直し、その王たちもあなたに仕えるようになります。エルサレムの再建のために、王たちが仕えるようになるのです。

11節には、「あなたの門はいつも開かれ、昼も夜も閉じられない。国々の財宝があなたのところに運ばれ、その王たちが導かれて来るためである。」とあります。  これはやがてもたらされる新しいエルサレムの光景です。黙示録21章25節にも同じことが言われています。つまり、これは天の御国のことが語られているのです。このイザヤ書60章と黙示録21章は対になっている箇所です。同じことが預言されています。紀元前700年頃に見たイザヤの幻と紀元100年頃に見たヨハネの幻は同じものだったのです。ということはどういうことかというと、これは必ず起こるというこです。天国は絶対にあるということです。私は牧師として時々思うことがあります。こうやって天国のことをいつも宣べ伝えておきながら死んだ後で天国がなかったらどうしよう・・・と。私の一生は何だったのか・・・と。そのために仕え、そのために労してきたのに、死んでみたらそれがなかったとしたら、それほど虚しいことはありません。けれども、こうしてイザヤもヨハネも同じものを見ていたことを知るなら、「ああ、やっぱり間違いではなかった!」という確信が与えられます。イザヤもヨハネも言っていることは、この都の門は一日中決して閉じることがない、ということです。なぜ?そこにはいつも国々の財宝が運ばれて来るからです。そこにはレバノンの杉やもみの木、すずかげ、檜といった木々が運ばれて来て、神の神殿を美しく飾るようになります。かつてレバノンの杉を使ってソロモンが神殿を建てたように、世の終わりの新しいエルサレム(天国)も完全なレバノンの杉が神の神殿を美しく飾るのです。

これと同じ光景が19節と20節にもあります。 「太陽がもうあなたの昼の光とならず、月の輝きもあなたを照らさず、主があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの光栄となる。あなたの太陽はもう沈まず、あなたの月はかげることがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである。」

この神の都は、太陽と月はもはや必要ありません。なぜなら、主ご自身が永遠の光となって、太陽にまさる光で都を照らされるからです。暗い夜に星が輝いているときれいですね。昔はその星によって旅人が旅の方角を知りました。航海する舟が後悔することがないように、ちゃんと行く道を定めるように星を見て航海したのです。ところがその星でさえ、太陽が出たら消えてしまいます。太陽の光というのはものすごく明るいです。ところが、その太陽の光でさえ、栄光の主の前には消えてしまうのです。私たちは太陽を見ると、目が焼けてしまいますから、いぶしたガラスなどで見ますが、主の栄光を見るということは太陽どころではありません。罪人はその前で立っていられないのです。しかし、その私たちの罪が赦され、聖められて主イエスが再びおいでになられたるとき、太陽の光にもまさる栄光を私たちはこの眼をもって見ることができ、拝することができるのです。いいえ、そればかりではなく、この栄光の主と永遠に交わりをもつことができるのです。そういう時が来ます。

ここに「あなたの太陽はもう沈まず、あなたの月はかげることがない」とあります。いい言葉ですね。いくら明るい太陽でも雲があったら隠れてしまいます。夜になったら沈んでしまいます。けれどもこの太陽は隠れることも、沈むこともありません。私たちの心のうちに与えられた神の恵みが、永遠に輝き続けるからです

22節の最後のところには、「時が来れば、わたし、主が、すみやかにそれをする。」とあります。そういう時が必ず来るぞ!とイザヤは告げました。時が来れば、主がすみやかにそれをされます。それは私たちでさえまだ見ていない、これから何年先、何千年先に起こるかわからない出来事、けれども、それは必ず起こる出来事であると、イザヤは神の聖霊によって見ていたのです。あなたはこのことを見ておられますか。あなたが見ておられるのは何ですか。目の前の苦しみや患難ですか、それとも、やがてもたらされる栄光でしょうか。今の生活がどんなに苦しくても、それがすべてではありません。クリスチャンには暗やみを照らす光があるのです。その光があなたの上に輝いています。この光に照らされることによって、私たちは現実の生活での不安や絶望を克復していくことができるのです。どんな暗やみの中にあっても輝くことができるのです。その光を私たちはこの世の中で輝かせなければなりません。

昨年、7月22日午前9時15分、JR南浦和駅のホームで30歳の女性が足を滑らせて京浜東北線の電車とホームに間に挟まれるという事故が起こりました。その女性は幸い電車とホームの間にウエストがひっかかり、線路のある地面に落ちませんでした。しかし、その女性を救い出すためには電車をゆっくりと動かさなければなりませんでした。駅のスタッフはホームと乗客にこのことを伝え、このため電車が遅れるとアナウンスすると、約40人くらいの人が線路に下りて行き、みんなでゆっくりと電車を反対側に押し始めました。それで電車とホームにはさまれていた女性は全く無傷で、何のけがをするみとなく救い出されたのです。彼らはホームに落ちて危ない人がいるということを聞いたとき、何とかしなければならないという気持ちになり、自分にもできるならと、ホームに下りて行ったのです。一人一人の力は小さくても、このようにみんなで協力し合うことによって一人の女性が救い出されたのです。

これは私たちの伝道においても言えることです。私たち一人一人の力は小さいですが、この世の中で迷っている人がいることを知り、何とかしなければならないという思いを持って立ち上がり、お互いに協力し合うなら、必ず救い出すことができます。それがあなたがたの光を輝かせるということではないでしょうか。私たちはそういう教会でありたいと願います。神を知らないで滅びに向かっている人を救い出すために一つ一つの光が助け合って大きな光となってキリストを証していく。そこに大きな神の栄光が現されていくのです。

「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。」私たちも主の光を受けて、主の証人として輝かせていただきましょう。

イザヤ59:1-21 レジュメ

イザヤ書59:1~21   「救いは主の御手に」                           No.93

Ⅰ.神との仕切り(1-8) 

 イスラエルは自分たちの罪のせいでバビロンの捕囚となったのに、それを神のせいにして恨んでいた。神は自分たちを見捨ててしまったと嘆いていたのだ。しかし、絶対にそんなことはない。主は永遠の愛をもって彼らを愛してくださった。だから神は、どんなことがあっても彼らを見捨てるようなことはなさらない。

ではいったい何が問題だったのだろうか。それは彼らの咎であり、彼らのそむきの罪のせいであった。「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」(1-2)彼らがそのようになったのは、彼ら自身に問題があったのである。

私たちはしばしば間違いを犯すと、それに対して神が怒られ、自分から遠ざかれたのではないかと考えるが、そうではない。神が遠ざかれるのではなく、私たちの方が遠ざかるのだ。人は罪を犯すと神から隠れようとする。その罪が神との間の仕切りとなり、御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしているのである。

その罪の結果、人はどのように汚れてしまったか?「実に、あなたがたの手で血で汚れ、指は咎で汚れ、あなたがたのくちびるは偽りを語り、舌は不正をつぶやく。正しい訴えをする者はなく、真実をもって弁護する者もなく、むなしいことにたより、うそを言い、害毒をはらみ、悪意を産む。彼らはまむしの卵をかえし、くもの巣を織る。その卵を食べる者は死に、卵をつぶすと、毒蛇が飛び出す。そのくもの巣は着物にはならず、自分の作ったもので身をおおうこともできない。彼らのわざは不義のわざ、彼らの手のなすことは、ただ暴虐。彼らの足は悪に走り、罪のない者の血を流すのに速い。彼らの思いは不義の思い。破壊と破滅が彼らの大路にある。彼らは平和の道を知らず、その道筋には公義がない。彼らは自分の通り道を曲げ、そこを歩む者はだれも、平和を知らない。」(3-8)その手は血で汚れ、指は咎で汚れ、くちびるは偽りを語り、その足は悪に走り、罪のない者の血を流すのに速くなった。つまり、すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となってしまったのである。いったいどうしたらこの罪を解決することができるのだろうか。

Ⅱ.罪の告白(9-15)

そのためには、自分がそのような汚れた者であることを認め、その罪を悔い改めなければならない。「それゆえ、公義は私たちから遠ざかり、義は私たちに追いつかない。私たちは光を待ち望んだが、見よ、やみ。輝きを待ち望んだが、暗やみの中を歩む。」(9)ここから主語が「彼ら」から「私たち」に変わっている。つまり、神に指摘された罪を認めて告白しているのである。これまで彼らは嫌というほど、罪に汚れた自分の姿というものを見せられたが、そのことに同意して、自分たちはそのような者だと認めているのだ。罪の解決は、まず認めることから始まる。自分がいかに汚れた者であるかを示されたなら、「その通りです」と認めることから始まるのである。いつまでも言い訳ばかりして、「そんなの関係ねぇ」みたいなことを言っていると、いつまでも罪を解決することはできない。

Ⅲ.主の救い(16-21)

そのとき、主が立ち上がってくださる。「主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。」(16)これは、人間の側にはこの罪から救うことのできる人は誰もいないということである。誰もいないからこそ、主が立ち上がってくださる。主はご自分の御腕によって救いをもたらしてくださる。これが救いである。そして神は、今から二千年前にイエス・キリストをこの世に遣わされ、その救いの御業を成し遂げてくださった。イエス様は、私たちと神との間の敗れ口に立つかのようにして十字架に架かって死んでくださった。神はそのひとり子イエス・キリストを通して義を確立してくださったのである。私たちが罪から救われる道は、このイエスを救い主として信じる以外にはない。私たちは自分の力で救われることはできない。ただ神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いのゆえに、価なしに義と認められるのである。

あなたは、このイエスを自分の罪からの救い主として信じているだろうか。もうすぐイエスが再臨される。二千年前にはしもべとして、私たちに仕えるために来られたが、二度目は違う。主が再び来られる時には、栄光の王として、キング・オブ・キングスとして来られる。このイエスの救いにあずかる者は幸いである。あなたも自分の罪を認め、神に救いを求めていただきたい。救いは主の御手にあるのだから。

Isaiah59:1-21 “Salvation is in the Lord’s hand”

In Isaiah chapter 58 Isaiah touched on Israel’s problem.  That was that their faith was just a formality, and it had no substance.  Action didn’t accompany it.  In this chapter 59 it takes up the root problem.  That is the problem of sin. They weren’t able to put their faith into concrete action because of the root problem of sin.  They can’t solve the problem of sin by their own power.  Only God can save them. Only God can solve all the problems of sin and punishment.

Ⅰ.Separated from God

First please look at verses 1 to 8.  I will read verses 1 and 2. “Surely the arm of the LORD is not too short to save, nor his ear too dull to hear. But your iniquities have separated you from your God; your sins have hidden his face from you, so that he will not hear.”

This content was also in 50:2. Even though Israel because of their sins was destroyed and became captive to Babylon, they bore a grudge towards God and accused him.  They complained that God had abandoned them just like a man’s child is sold into slavery when his debts were not paid.  However, that is definitely not so. The Lord loves them with eternal love.  Therefore, no matter what happens he will never abandon them.

The problem was their “sins” (50:1) and “transgressions” (50:1) Therefore, they were sent away. They themselves were the whole cause of them becoming like they were, Therefore, in 50:2 the Lord says, “When I came, why was there no one?

When I called, why was there no one to answer?

Was my arm too short to ransom you?

Do I lack the strength to rescue you?

By a mere rebuke I dry up the sea,

I turn rivers into a desert;

their fish rot for lack of water and die of thirst.”

The Lord until now has sent prophets over and over again to them to warn them.  Even so no one answered him. “Why”? (50:2) It wasn’t because God’s arm was “too short to ransom” (50:2) them. It wasn’t because God lacked “the strength to rescue” (50:2) them. It was because they didn’t have any faith. No matter how much they were warned, they didn’t listen to the Word of God.  That was the problem.

Here too it is saying the same thing. They became like this not because “the arm of the LORD is…too short to save.” (1) It is also not because God’s ears are “too dull to hear.” (1) Their iniquities “have separated” (1) them from their God and their “sins have hidden his face from” (1) them “so that he will not hear.” (1)

We often make a mistake and think that because of it God is angry and has moved away from us, but that is not so. God hasn’t moved away, but we have moved away.  For example, remember Adam. Adam was the first to sin. When he took and ate fruit from the tree that he was told not to eat from, God didn’t move away from him.  Even then God wanted to be with Adam. Therefore, he called out to Adam, “Where are you?” (Genesis3:9) Adam was hiding between the trees not because he was playing hide and seek, but because he had sinned, He was hiding because he was afraid. Therefore, it wasn’t God who moved away from Adam, but Adam moved away from God. When man sins, he hides from God.  The sin becomes a wall, separates us from our God, and   hides God’s face from us “so that he will not hear.” (1)

Please look at verses 3 to 8. Here it describes the result of sin, how filthy man became. First in verses 3to 6 sins committed by the hands and mouth are written about. “For your hand are stained with blood,

your fingers with guilt.

Your lips have spoken lies,

and your tongue mutter wicked things.

No one calls for justice;

no one pleads his case with integrity.

They rely on empty arguments and speak lies;

they conceive trouble and give birth to evil.

They hatch the eggs of vipers

and spin a spider’s web.

Whoever eats their eggs will die,

and when one is broken, an adder is hatched.

Their cobwebs are useless for clothing;

they cannot cover themselves with what they make,

Their deeds are evil deeds,

and acts of violence are in their hands.”

“For your hand are stained with blood, your fingers with guilt. Your lips have spoken lies, and your tongue mutter wicked things. No one calls for justice (3,4) or “pleads his case with integrity. They rely on empty arguments and speak lies.” (4) They

do things to entrap other people. In fact, they entrap people. It is just like hatching from “the eggs of vipers”. (5) It is really “trouble”. (4)  Also like spinning “a spider’s web” (5) they cause others to fall into a trap.

Please look at verses 7 and 8. “Their feet rush into sin;

they are swift to shed innocent blood.

Their thoughts are evil thoughts;

ruin and destruction mark their ways.

The way of peace they do not know;

there is no justice in their paths.

They have turned them into crooked roads;

no one who walks in them will know peace.”             Next is their feet. “Their feet rush into sin; they are swift to shed innocent blood…The way of peace they do not know; there is no justice in their paths. They have turned them into crooked roads; no one who walks in them will know peace.” (7,8)

Please look at Romans chapter 3. Romans 3:9-18.

“What shall we conclude then? Are we any better? Not at all! We have already made the charge that Jews and Gentiles alike are all under sin.  As it is written: ‘There is no one righteous, not even one; there is no one who understands, no one who seeks God.  All have turned away, they have together become worthless; there is no one who does good, not even one. Their throats are open graves; their tongues practice deceit. The poison of vipers is on their lips.  Their mouths are full of cursing and bitterness.  Their feet are swift to shed blood; ruin and misery mark their ways, and the way of peace they do not know. There is no fear of God before their eyes.’”

Paul is quoting this passage to show that all men are “under sin.” (Romans 3:9) The first man Adam sinned, so all men are under sin. The Jews are not an exception. All men are “under sin.” (Romans 3:9) “All have turned away, they have together become worthless.” (Romans 3:12) We are the same too. We may think that we aren’t such terrible people, but we are like mud that has settled at the bottom of a cup. When the water is stirred, the water is completely muddy. This could happen to us at any time.

How can this problem of sin be solved? Can it be cut off by your will? Can it be solved by fasting? I often decide to diet, but I haven’t been successful yet. Even though man’s will seems strong, it is surprisingly weak. How could such a will cut off sin? Paul confesses how wretched he is in his inability to cut off sin. “What a wretched man I am! Who will rescue me from the body of death?” (Romans 7:24)

This is a naked confession of a man who confronted sin.  No one can rescue us “from the body of death?” (Romans 7:24) However, unless this sin is removed there is no salvation. What should we do?

Ⅱ.The confession of sin (Vs. 9-15)

To do that we must admit that we are such a being. In other words, we have to admit that we are sinners, and agree with what God says. In the Bible this is called “confess”. Please look at verse 9. “So justice is far from us,

and righteousness does not reach us.

We look for light, but all is darkness;

for brightness, but we walk in deep shadows.”

Here the subject changes. Up to here it has been “They”, but now it changes to “us”. It is because from here on they are confessing sin. Up until now they were shown to the point that they were disgusted at how filthy they were from sin and they consented to it and admitted that they were like this. The solution to sins begins by admitting to it. If you are shown how filthy you are, begin by admitting that it is true. If you make excuses, or think that it is unrelated to you, you will never be able to flee from the sin.

Here it says, “We look for light, but all is darkness; for brightness, but we walk in deep shadows.” (9) This is human life. We go all out to build a better society by our wisdom and constant effort, but what was the real result? Civilization developed, and did it become a peaceful world without struggles and war?  No, it didn’t. “We look for light, but all is darkness.” (9) Many people are beginning to realize that the past was more peaceful. The development of civilization doesn’t necessarily lead to happiness.

Please look at verse 10. “Like the blind…at midday we stumble as if it were twilight; among the strong, we are like the dead.” It is being in the condition of not knowing which direction we should go. It is like “we all growl like bears; we moan mournfully like doves. We look for justice, but find none; for deliverance, but it is far away.”(11)  It seems like it is describing the present world. Problems stack up and we growl like impatient and frustrated bears no knowing which direction to go to cope with the problem. While the problems are not yet solved, the next problem comes up. We come no nearer to the real solution and it gets further and further away.

The reason is in verse 12. “For our offenses are many in your sight,

and our sins testify against us.

Our offenses are ever with us,

and we acknowledge our iniquities.”

What a wonderful confession! They honestly admit “For our offenses are many in your sight, and our sins testify against us.” (12) Then they confess, “Our offenses are ever with us, and we acknowledge our iniquities.” (12) They are confessing that their sin is not just a simple act of sin, but it is sin that by nature always clings to them. In Paul’s words, “What a wretched man I am! Who will rescue me from the body of death?” (Romans 7:24) It is the same thing. They are confessing that they are really sinful people that are beyond help.

Please look at verses 13 and 14. “rebellion and treachery against the LORD,

turning our backs on our God,

fomenting oppression and revolt,

uttering lies our hearts have conceived.

So justice is driven back,

and righteousness stands at a distance;

truth has stumbled in the streets,

honesty cannot enter.

This became a form of admitting that what God said in the previous verses 3 to 8  is right, completely true. The subject is just been changed from they to we. They are acknowledging all the offenses that God had pointed out to them. However, this is where real salvation begins.  The end of verse 15 says, “The LORD looked and was displeased that there was not justice.”  If you will look at the next verse you will see that “there was no justice” (15) for Israel means that “there was no one to intervene” (16), to work salvation. “Yet the LORD longs to be gracious to you;

He rises to show you compassion.

For the LORD is a God of justice.

Blessed are all who wait for him!” (30:18)

It is only the Lord who can bring salvation.  There is no one else who can intervene. “The LORD longs to be gracious to you.” (30:18) God longs to give you salvation, but for that salvation to begin we must admit that we are as the Lord says, sinful and then repent.

 

Ⅲ.The salvation of the Lord. (Vs. 16-21)

Please look at verse 16. Here it says, “He saw that there was no one,

he was appalled that there was no

  • one to intervene;

so his own arm worked salvation for him,

and his own righteousness

sustained him.”

This means that the Lord looked and there was no one that could save them and no one that could intervene for them and “he was appalled”. (16)

Before when Israel left Egypt and was led to the wilderness, they worshipped the golden calf, which was about to bring the anger of God upon them and they were about to be destroyed, but then Moses stood between God and the people and prayed like this, “But now, please forgive their sin-but if not, then blot me out of the book you have written.” (Exodus 32:32)

Moses stood between God and the people and interceded. However, in this age there is no one who will stand up, intervene, and intercede. On the human end there is no one who can save them from their sin.

Therefore the Lord will rise up. There is no one so the Lord’s “own arm worked salvation.” (16) This is salvation. Therefore, God sent Jesus Christ into this world 2000 years ago, and completed the work of salvation. There is no one who can save us from sin so Jesus came to this world and like an intercessor, a mediator, was put on the cross and died. He interceded praying, “Father, forgive them, for they do not know what they are doing.” (Luke 23:34) Therefore, this is a prophecy that the Savior Jesus Christ would come. “His own righteousness sustained him” (16) means that God brought in a righteousness by the merit and meditation of his own Son. Christ is called “the righteousness that comes from God.”(Phil3:9)

Please look at verse 17. Here it says, “He put on righteousness as his breastplate, and the helmet of salvation on his head; he put on the garments of vengeance and wrapped himself in zeal as in a cloak.”

Here “righteousness” and “salvation” are expressed as things to be worn. This means that by putting on righteousness we will be allowed before God. This is the righteousness of God. Paul says in II Cor. 5:21, “God made him who had no sin to be sin for us, so that in him we might become the righteousness of God.”

Also in Romans 3:23 and 24 too he said, “For all have sinned and fall short of the glory of God, and are justified freely by his grace through the redemption that came by Christ Jesus.”

We cannot save ourselves from sin. It is only God’s “grace through the redemption that came by Christ Jesus” (Romans 3:24) that we “are justified freely.” (Romans 3:24) We must put on our Lord Jesus. We shouldn’t work hard like Adam sewing fig leaves together to make a covering in a feeble and futile attempt to hide our shame, which only God can cover, but put on the covering that God has prepared. That covering is Jesus Christ.

Have you put on righteousness? Have you put on the clothes that God has prepared.  The one and only way that we can be saved is by putting on righteousness. There is no other way. It is only by Jesus Christ that we can be “justified freely”. (Romans 3:24)

Here it says, “He put on the garments of vengeance and wrapped himself in zeal as in a cloak.” God says in 63:4, “For the day of vengeance was in my heart, and the year of my redemption has come” The day of judging the enemy meant at the same time redemption for God’s people. It is a part of the day of the Lord. God will with “zeal” (17) carry out the work of righteousness, salvation, and judgment. Salvation is not by our power, but by the “zeal” (17) of the Lord.

Please look at verses 18 and 19. “According to what they have done,

so will he repay

wrath to his enemies

and retribution to his foes;

he will repay the islands their due,

From the west, men will fear the

name of the LORD,

and from the rising of the sun,

they will revere his glory.

For he will come like a pent-up flood

that the breath of the LORD drives along.”

This means that the Lord “will come like a pent-up flood” (19) to repay. In other words this is a prophecy of the second coming. In Isaiah’s age the Messiah, the Savior Christ hadn’t come so Christ’s first coming and second coming are seen as two overlapping mountain peaks in the far distance. However, in reality there is a time gap between them like there are valleys between mountains. We are now in a valley. The Savior has already come.  However, the Lord will come again. At the time the Lord will “According to what they have done, so will he repay wrath to his enemies and retribution to his foes; he will repay the islands their due, From the west, men will fear the name of the LORD, and from the rising of the sun, they will revere his glory.” (18,19) It will be “like a pent-up flood.” (19) The Lord “will come like a pent-up flood that the breath of the LORD drives along.” (19) We are now waiting for this. This will be for us the time of the completion of our salvation.

Last year typhoons came one after another to Japan, bringing huge disasters to every area. On T.V. there were pictures of the washout of the levees on the Katsuragawa      River in Kyoto. The water of the river with tremendous momentum gushed into the tourist area of Kyoto. Like that flood the Lord will come again. When Jesus came the first time, he came as a servant of the Lord. He had “nothing in his appearance that we should desire him.” (53:2) He came to serve. However, when he comes again, he will come as the glorious king, the King of Kings, He will come in glory. When Jesus comes again he will come gushing with tremendous momentum like when a levee has washed out.

Now there maybe people who can’t believe this at all, but that is the same as how it was in the age of Noah. In Noah’s age too there were people who couldn’t believe and made fun of Noah. Just as the Lord had said, there was a flood and everything on the earth perished.  However, Noah and his family who entered the ark were saved. In the same way, God is warning us that at the time of the Lord’s judgment, he will come again like a raving flood. The reason that that hasn’t occurred yet is because as II Peter 3 says, “The Lord is not slow in keeping his promise, as some understand slowness.  He is patient with you, not wanting anyone to perish, but everyone to come to repentance.” (II Peter 3::9)  This day is certainly getting closer. The water is gradually building up. In the course of time the levee will break and like a pent-up river gushing out, the glorious Lord will come. Are you prepared for his coming? Have you entered the ark of salvation, of Jesus Christ.

Lastly, let’s look at verse 21. “As for me, this is my covenant with them,” says the LORD. “My Spirit, who is on you, and my words that I have put in your mouth will not depart from your mouth, or from the mouths of your children, or from the mouths of their descendants from this time on and forever,” says the LORD.

This is the covenant that God made between us and God. Even if the words of the covenant are passed down for ever, they will never change. This is the way of salvation.  To be saved from the bounds of sin that bind us is the one and only method of salvation that God prepared.  Salvation is given only by seeking God’s help for yourself. It is given by admitting honestly your sins, invoking God’s mercy, and through Jesus Christ who intercedes for us. Have you received this salvation? Seek God’s salvation. That’s because salvation is in the Lord’s hand.

イザヤ書59章1~21節 「救いは主の御手の中に」

きょうは、「救いは主の御手の中に」というタイトルでお話します。イザヤは、58章でイスラエルの問題について触れました。それは、彼らの信仰は形だけで中身がなかったということです。行動が伴っていませんでした。この59章ではその根本的な問題を取り上げています。それは罪の問題です。彼らが自分の信仰を具体的な行動に移さなかったのは、根本的に罪があったからなのです。いったいどうしたらこの罪の問題を解決することができるのでしょうか。それはただ神の御手の中にあります。

Ⅰ.神との仕切り(1-8)

まず1節から8節までをご覧ください。1節と2節をお読みします。 「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」

イスラエルは自分たちがバビロンに捕えられたのを神のせいにしていました。そして、神は自分たちを見捨ててしまったと嘆き、恨んでいたのです。しかし、神が彼らを見捨てたのではありません。彼らが神に背いたのです。彼らの咎が、彼らと神との仕切りとなり、彼らの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのです。彼らがそのようになったのは、すべて彼ら自身に原因があったのです。

私たちはしばしば、自分が罪を犯すと、神が怒られて、自分から遠ざかれたのではないかと考えますが、そうではありません。神が遠ざかれるのではなく、私たちの方が遠ざかるのです。私たちの咎が、神との間の仕切りとなり、御顔を隠させているのです。アダムのことを考えてみてください。アダムが罪を犯したとき、神は彼から遠ざかれたでしょうか。いいえ、神ではなく、アダムの方が遠ざかりました。食べてはならないと神が命じておられた木から取って食べたとき、彼は神の御顔を避けて、木と木の間に身を隠したのです。「アダム、あなたはどこにいるのか」と神が呼びかけても、彼は神の前に姿を見せようともしませんでした。神を恐れたからです。もともと人間は神によって造られ、神を愛し、神と交わるように造られたのに、その神から遠ざかってしまったのです。何が問題だったのでしょうか。罪です。アダムは罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができなくなってしまいました。主の御手が短くて救えないのではないのです。その耳が遠くて聞こえないのでもないのです。彼らの咎が、彼らと神との仕切りとなり、彼らの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのです。

その結果、人間はどうなってしまったでしょうか。3節から8節までをご覧ください。まず3節から6節までのところを読みます。 「実に、あなたがたの手で血で汚れ、指は咎で汚れ、あなたがたのくちびるは偽りを語り、舌は不正をつぶやく。正しい訴えをする者はなく、真実をもって弁護する者もなく、むなしいことにたより、うそを言い、害毒をはらみ、悪意を産む。 彼らはまむしの卵をかえし、くもの巣を織る。その卵を食べる者は死に、卵をつぶすと、毒蛇が飛び出す。そのくもの巣は着物にはならず、自分の作ったもので身をおおうこともできない。彼らのわざは不義のわざ、彼らの手のなすことは、ただ暴虐。」

ここには手と口の犯す罪にいつて書かれてあります。実に、手は血で汚れ、指は咎で汚れています。くちびるは偽りを語り、舌は不正をつぶやきます。正しい訴えをする者も、真実をもって弁護する者もなく、むなしいことにたより、うそを言います。人を陥れるような言動をし、事実、人を陥れるのです。それはまさにまむしの卵から毒蛇(まむし)をかえすようなものです。まさに毒舌ですね。また、「くもの巣を織る」とあるように、他の人をわなに陥れるようなことをするのです。

そして、7節と8節も読んでみましょう。 「彼らの足は悪に走り、罪のない者の血を流すのに速い。彼らの思いは不義の思い。破壊と破滅が彼らの大路にある。彼らは平和の道を知らず、その道筋には公義がない。彼らは自分の通り道を曲げ、そこを歩む者はだれも、平和を知らない。」

今度は彼らの足です。彼らの足はどうでしょうか。彼らの足は悪に走り、罪のない者の血を流すのに速いのです。彼らは平和の道を知らず、その道には公平がありません。彼らは自分たちの道を曲げ、そこを歩く者はだれも、平和を知らないのです。これが人間の姿です。

パウロはローマ人への手紙3章9~18節で、この箇所を引用してこう言っています。 「では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちの前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない。」「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」

パウロは、すべての人が罪の下にあることを示すために、この箇所を引用してこう述べたのです。最初の人アダムが罪を犯したので、すべての人が罪の下に置かれるようになってしまいました。それはユダヤ人も例外ではありません。すべての人です。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益なものとなってしまいました。それは私たちも同じです。私たちはそんなひどい人間じゃないと思うかもしれませんが、しかし、それはコップの下に沈んでいる泥のようなものであり、その水をかき混ぜると水全体が濁るように、いつでもこれらのことを起こしえる者なのです。

このような罪の問題を、いったいどうやって解決しろというのでしょうか。あなたの意志で断ち切ることができますか。断食という方法で解決できるでしょうか。できません。私はよくダイエットを決行するのですが、ただの一度さえ成功したことがないのです。人間の意志は強そうでも、意外ともろいものです。そのような意志でいったいどうやってこの罪を断ちきることができるというのでしょうか。パウロは、この罪を断ち切れない自分のみじめさをこう告白しています。

「私は、ほんとうにみじめな人間で。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるでしょうか。」(ローマ7:24)

これは罪に立ち向かった人間の赤裸々な告白です。だれもこの死の、からだから救うことができる人はいません。だれもこの罪の問題を解決できる人はいないのです。いったいどうすればいいのでしょうか。

Ⅱ.罪の告白(9-15)

9節から15節までをご覧ください。9節をご覧ください。 「それゆえ、公義は私たちから遠ざかり、義は私たちに追いつかない。私たちは光を待ち望んだが、見よ、やみ。輝きを待ち望んだが、暗やみの中を歩む。」    ここから主語が「私たち」に変わっています。これまでは「彼ら」が主語でしたが、ここからは「私たち」です。なぜでしょうか。ここから、罪の告白が始まるからです。これまで彼らは自分の罪の姿を嫌というほど見せつけられましたが、そのことに同意して、自分たちがそのように汚れたものであると認めているのです。つまり、この罪の解決は、自分の罪を認めることから始まるということです。 その罪を認め、それを告白することから始まるのです。

ここに「私たちは光を待ち望んだが、見よ、やみ。輝きを待ち望んだが、暗やみの中を歩む。」とあります。これが人類の営みではなかったでしょうか。人類は自分たちの英知と不断の努力によってもっといい社会を築くことができると躍起になってきましたが、実際はどうだったかというと、全く逆の結果でした。文明が発達して、争いや戦争のない平和な世界になったでしょうか。なっていません。光を待ち望んだのに、かえって闇の中を歩むようになりました。かえって昔の方が平和だったと、多くの人が気づき始めています。文明の発達は必ずしも幸福な世界へと導くことはできませんでした。

10節を見てください。それはまさに盲人のようです。真昼でも、たそがれ時のようにつまずき、やみの中にいる死人のようです。これからどういう方向に進んでいったらよいのか分からない状態です。また、熊のようにほえ、鳩のようにうめいても、そこに公義も救いもありません。まるで現代の世界を描いているかのようですね。問題が山積しいますが、それをどう処理したらいいかわからないまま、また次の問題が出て来ています。真の解決に近づくどころか、それはますます遠ざかっていくのです。

それはなぜでしょう。12節をご覧ください。 「それは、私たちがあなたの御前で多くのそむきの罪を犯し、私たちの罪が、私たちに不利な証言をするからです。私たちのそむきの罪は、私たちとともにあり、私たちは自分の咎を知っている。」    すばらしい告白です。「それは、私たちがあなたの御前で多くのそむきの罪を犯し、私たちの咎が、私たちに不利な証言をするからです。」と正直に認めています。そして、「私たちのそむきの罪は、私たちとともにあり、私たちは自分の咎を知っている。」と告白しています。私たちの罪は、単なる行為としての罪ではなく、常に自分にまとわりついている性質としての罪だと告白しているのです。パウロのことばで言うなら、「ほんとうに私はみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出すことができるでしょうか」というのと同じです。本当に罪深い者であり、もうどうしようもない人間なのです、と告白しているのです。

13節と14節をご覧ください。 「私たちは、そむいて、主を否み、私たちの神に従うことをやめ、しいたげと反逆を語り、心に偽りのことばを抱いて、つぶやいている。こうして公正は退けられ、正義は遠く離れて立っている。真理は広場でつまずき、正直は中に入ることもできない。」

これは、先程3節から8節までのところで、「あなたがたはこうだ」と神が言われたことに対して、「そうです、その通りです」と、それをそっくりそのまま認めている形になっています。主語が「私たち」に変わっただけです。しかし、ここから本当の救いが始まります。15節の終わりのところには何とあるでしょうか。「主はこれを見て、公義のないのに心を痛められた。」とあります。主はそれを見て心を動かされたのです。すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができないのを見られて、心を痛められたのです。

Ⅲ.主の救い(16-21)

ではどこに救いがあるのでしょうか。ここに救いがあります。救いは主の御の中にあります。16節をご覧ください。ここには、「主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。」とあります。

どういうことでしょうか。これは、主はこの罪から救うことのできる人がいないのを見て、とりなす者がいないのを見て驚かれたという意味です。かつてイスラエルがエジプトを出て荒野に導かれた時、金の子牛を拝み、神の怒りを招いて滅ぼされそうになりましたが、その時モーセは神と民との間に立って、こう祈りました。

「今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら―。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」(出エジプト32:32)

モーセは神と民の間に、その破れ口に立って祈ったのです。しかし、今の時代、そのように破れ口に立ってとりなす人はいません。人間の側には、この罪から救うことのできる人は誰もいないということです。

だからこそ、主が立ち上がってくださったのです。だから主はご自身の御腕によって救いをもたらしてくださるのです。神は今から二千年前にイエス・キリストをこの世に遣わし、その救いの御業を成し遂げてくださいました。罪から救うことのできる人はひとりもいないので、イエスさまがこの世に来られ、神と人の破れ口に立つかのようにして十字架にかかって死んでくださいました。そして、「父よ。彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか自分でわからないのですから。」と言ってとりなしてくださったのです。ですから、ここは、救い主としてイエス・キリストが来られるということの預言なのです。「ご自分の義を、ご自分のささえとされた」とは、ご自分のひとり子、罪を知らない方を基として義を確立されたということです。

17節をご覧ください。ここには、「主は義をよろいのように着、救いのかぶとを頭にかぶり、復讐の衣を身にまとい、ねたみを外套として身をおおわれた。」とあります。

ここでは義や救いが身につけるものとして表現されています。それは私たちがこの義を身につけることによって、神の前に認められるようになるという意味です。これが信仰による義です。パウロはⅡコリント5章21節でこう言っています。

「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(Ⅱコリント5:21)

また、ローマ人への手紙3章23~24節でも、こう言っています。 「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」

私たちはこの罪から自分を救うことなどできません。ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。ですから、神の救いであるイエスの衣を着なければなりません。一生懸命にいちじくの葉をつづり合わせて腰のおおい作るのではなく(創世記3:7)、神が用意してくださった皮の衣(同3:21)、義の衣を着なければならないのです。どんなにいちじくの葉を綴りあわせても、そんなのはすぐに枯れてしまうでしょう。そんなのはあなたを救うことなんてできません。あなたを救うことができるのは、神が用意してくださった皮の衣です。その皮の衣こそイエス・キリストであります。

あなたはこの義を身につけているでしょうか。神が用意してくださった皮の衣を着ておられるでしょうか。私たちが救われる唯一の道は、この義を着る以外にはありません。私たちはこの方にあってのみ、神の義と認めていただくことができるのです。

ところで、ここには「復讐の衣を身にまとい、ねたみを外套として身におおわれた」とあります。これはどういうことでしょうか。この「復讐」とか「ねたみ」とは、「しっと」という意味ではなく、「主の熱心」という意味です。神が、義と救いとさばきにおいて、熱心に働かれるということです。まさに救いは私たちの力ではなく、主の熱心によるのです。

18節と19節を見てください。 「主は彼らのしうちに応じて報い、その仇には憤りを報い、その敵には報復をし、島々にも報復をする。そうして、西のほうでは、主の御名が、日の上るほうでは、主の栄光が恐れられる。主は激しい流れのように来られ、その中で主の息が吹きまくっている。」

これはどういうことかというと、主は報復するために、激しい流れのように来られるということです。つまり、これは再臨の預言なのです。イザヤの時代にはまだメシヤ、救い主キリストが来ていなかったので、キリストの初臨と再臨が一つの山脈のように重なって見えているのです。しかし、実際にはそこには時間的なズレがあって、山と山の間のくぼみのようになっているのです。そして、私たちはまさにそのくぼみの中にいるわけです。もう救い主は来られました。しかし、主は再びやって来られます。その時に主は彼らのしうちに応じて報い、その仇には憤りを報い、その敵には報復をし、島々にも報復をされるのです。そして、西の方では、主の御名が、日の昇る方では、主の栄光が恐れられます。それはまるで激しい流れのようです。主は激しい流れのように来られ、その中で主の息が吹きまくるのです。私たちは今、それを待ち望んでいるのです。それは私たちにとっては救いの完成の時でもあるからです。

昨年、台風が次々に日本列島を襲い、各地に大きな被害をもたらしました。テレビでは京都の桂川の堤防が決壊し、川の水がものすごい勢いで観光地を呑み込んでいく映像を流していましたが、まさにそのような激しい流れのように、再び主がやって来られるのです。イエス様が最初に来られた時には主のしもべとして、ほんとうに見るべき麗しい姿もなく、私たちに仕えるために来られましたが、再び来られる時には、栄光の王として、キング・オブ・キングス(King of Kings)として、栄光のうちにやって来られるのです。このようなことを申し上げると、世の中の人は言います。「へ-え、イエス様がもう一回来るの?ウソだ!」と。また「聖書も教会もおもしくていいし、精神的にもいいこと言ってるんだけど、人が水の上を歩いただの、死んだ人が生き返ったとか、イエス様が再び来られるだの、そんなのはいただけないな。この時代に」という人もいます。けれども、そうではありせん。聖書には、私たちのいいなと思うところもあれば、どうかなぁと思うところもありますが、しかし私たちがどのように思おうが、キリストが再びおいでになられる時にはせき止められた堤防が決壊するような勢いでおいでになられるのです。

今は、「そんなのあるはずがない。あるなら、いつくるんだ」と全く信じられないようですが、それはちょうどノアの時代と同じです。ノアの時代もそのように言ってノアをバカにしていましたが、主はそのことばの通り洪水でこの地上を滅ぼされました。ただ箱舟に入ったノアとその家族だけが救われたのです。それと同じように、主のさばきの時、再び来られる日がやって来ます。それがまだ起こっていないのは、Ⅱペテロ3章にあるように、神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われるのを望んでおられるからなのです(Ⅱペテロ3:9)。しかし皆さん、その日は確実に近くなっています。ジワリジワリと水の量は増しています。やがてせきとめられた堤防が決壊するような形で、栄光の主がやって来られるのです。皆さんは、その時のための備えが出来ているでしょうか。イエス・キリストという救いの箱舟の中に入っておられるでしょうか。

最後に21節を見ておわります。 「これは、彼らと結ぶわたしの契約である」と主は仰せられる。「あなたの上にあるわたしの霊、わたしがあなたの口に置いたわたしのことばは、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、すえのすえの口からも、今よりとこしえに離れない」と主は仰せられる。」

これが神が私たちと結ぶ神の契約です。この契約のことばはいつまで経っても絶対に変更されることはありません。これが救いの道です。私たちが自分ではどうすることもできなかった、自分をがんじがらめに縛っていた罪の縄目から救われるために神が用意してくださった唯一の救いの方法なのです。救いはただ自分自身のために神に助けを呼び求める者に与えられます。自分の罪を正直に認め、神にあわれみを請う者に、とりなし手であられるイエス・キリストを通して与えられるものなのです。あなたはこの救いを受けておられるでしょうか。

最近、私はこの本を読みました。これはアメリカのNASAでも働いたこともある韓国の科学者キム・ヨンギルという人の証です。シントロピーというのはエントロピーの反対で、調和とか、秩序という意味です。彼の人生がどのようにエントロピー、すなわち無秩序と崩壊、混乱の人生から、シントロピー、調和と秩序ある人生に回復されたかということが証されています。結論から言うと、それはイエス・キリストを信じることによってです。この天地を造られたお方こそ、この世界と私たちの人生にシントロピーをもたらすことができるということです。それにしても彼は一流の科学者です。その彼がどうやってイエス様を信じることができたのでしょうか。この本によると、彼は神様についてもっと知りたいというチャレンジを受け、ヨハネの福音書から読み始めるのですが、早くも2章のところで躓きます。カナの婚礼で、イエス様が水をぶどう酒に変えたという奇跡です。水を運んでいる間に化学方程式がH2OからC2H5OHに一瞬にして変わるのです。科学を信奉していた彼にとって、到底受け入れることのできない出来事でした。元素を変化させる核融合反応は常温では起こりえないからです。奥さんは小さい頃からクリスチャンの家庭で育てられた敬虔なクリスチャンですが、その奥さんに、こんなナンセンスなことがあるのかと質問すると、奥さんの答えはいつも簡単です。「そうやって問い正さないで聖書の言葉をただ信じるのよ。そんな疑って問い詰めてばかりいたら神様も気分を害されるでしょ。だから、ただ信じなさい。」ですから、疑問はたくさんありましたが、その疑問を脇に置いておいて、最後まで読んでみようと決心し、読み続けると、今度は6章です。ガリラヤのテベリヤ湖の向こう岸の山に登られたイエス様は、ついてきた群衆が牧者のいない羊のようなのをみてあわれまれた。夕暮れ時だったので、イエス様は弟子たちに、彼らに夕食を食べさせるようにと命じられました。そんなの無理です。こんなへんぴな所で、店もないし、あったとしても、これだけの人たちにどうやって食べさせろと言うんですか、と言うと、そこに少年が差し出した大麦のパン五つと小さい魚二匹をとり、感謝をささげて五千人あまりの人々に分け与えられました。彼らが十分に食べた後も多くのパンと魚が残ったと、聖書は記しています。これは科学者にとって、水がぶどう酒に変わることよりももっと信じがたい出来事でした。なぜなら、エネルギーの総量が変化してしまい、科学の基本法則であるエネルギー保存の法則、つまり、熱力学第一の法則に反するからです。  それで彼は信じられなくなってしまうのです。そして、妻に、約束とおり教会には行くけど、聖書は到底信じられない、と言いました。 しかし、NASAの同僚のクリスチャンたちが彼のために断食をして祈ってくれたそうです。自分のために食事もしない人がいるなんて、こんな迷惑なことはないと思いながら、もう一度創世記から読み始めたのです。そして、そこに記されてあるイエス・キリストについての預言を確かめたのです。それは数百回以上記されてありました。これには驚きました。というのは、科学の世界では常に人間の知識と理性を土台に組み立てられているので、たった1秒後に何が起こるかを確信して、預言することすらできないからです。なのに聖書は、旧約時代の約千年にわたって記された預言が新約の時代にことごとく成就しているのです。それは、聖書の御言葉が人間の知識や知恵ではなく、神に啓示によって記されたことを証明していました。そうした聖書の黙想と科学的な知識の探求から、創造主は実在し、人の人生を治めておられるという結論に到達しました。そして、ハル・リンゼイという人が書いた「惑星地球の解放」という本を読んだとき、彼がこれまで抱いていた様々な疑問が解決して、これまで断片的に蓄えてきた聖書の知識が一気につながり始めました。まるであちこちに散らばっていたジクソーパズルのピースがあるべき位置に納まり、一つの絵が完成したかのようでした。

「神は、実に、そのひとり湖をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

この御言葉の中に、神が私たちを救われた理由、代価、方法、そして結果のすべてが記されていることがわかりました。神が私たちを救われたのは、神の愛のゆえなのだということが・・・。私たちを救うために、神はひとの子であられるイエス様のいのちを私たちの人間の罪の負債の代価として支払われました。このことを信じるなら、私たちは永遠の滅びから救われ、永遠のいのちが与えられるということがわかったのです。これが福音であり、恵みなのです。彼は長い霊的漂流生活を終え、創造主であり、救い主であるイエス・キリストを救い主として受け入れたのです。

「この方以外に救いはありません。世界中でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名としては、人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)

このイエス・キリストだけが救い主であり、このイエスを救い主として受け入れるとき、あなたも罪から救われ、これまで崩壊と混乱でしかなかったあなたの人生に、秩序と調和の回復が、シントロピーがもたらされるのです。

あなたはイエスを信じていますか。信じて救われていますか。救いはただ主の御手の中にあります。このイエスを信じて、あなたも人生のシントロピーを体験してください。

レビ記20章

1.  モレクに自分の子どもを与えるなら(1-5)

レビ記20章を学びます。まず1~5節までをお読みします。

「ついではモーセに告げて仰せられた。「あなたはイスラエル人に言わなければならない。イスラエル人、またはイスラエルにいる在留異国人のうちで、自分の子どもをモレクに与える者は、だれでも必ず殺さなければならない。この国の人々は彼を石で打ち殺さなければならない。わたしはその者からわたしの顔をそむけ、彼をその民の間から断つ。彼がモレクに子どもを与え、そのためわたしの聖所を汚し、わたしの聖なる名を汚すからである。人がモレクにその子どもを与えるとき、もしこの国の人々が、ことさらに目をつぶり、彼を殺さなかったなら、わたし自身は、その人とその家族から顔をそむけ、彼と、彼にならモレクを慕って、淫行を行うみだらな者をすべて、その民の間から断つ。」

ここには、もしイスラエルがモレクに自分の子どもを与えるようなことをした場合どうなるかが教えられています。モレクとはアモン人とモアブ人の信じていた神々、偶像のことです。その特徴は自分の子どもをいけにえとしてささげるということでした。望まずに出来た子どもをどのように処理したらいいか。彼らはそれをモレクの偶像にささげたのです。それは当時の堕胎処理の方法であったわけです。そのように自分の子どもをモレクに与えるものはどうなるか?だれでも必ず殺されなければなりませんでした。石で打たれなければならなかったのです。それは異教的な習慣であり、神が忌み嫌われることだったからです。それは神の聖なる御名を汚すことでもありました。ですから、そのようなことをする者は、殺されなければならなかったのです。もし殺さなかったらどうなるでしょうか。神はその人その家族から顔をそむけ、彼にならいモレクを慕って淫行を行うみだらな者すべてを、その民の間から断たれました。

2.  霊媒や口寄せ(6-8)

次に6~8節をご覧ください。

「霊媒や口寄せのところにおもむき、彼らを慕って淫行を行う者があれば、わたしはその者から顔をそむけ、その者をその民の間から断つ。あなたがたが自分の身を聖別するなら、あなたがたは聖なる者となる。わたしがあなたがたの神、であるからだ。あなたがたは、わたしのおきてを守るなら、それを行うであろう。わたしはあなたがたを聖なる者とする。である。」

霊媒と口寄せについては19章で学びました。「霊媒」とは、あたかも死者の声を取り次ぐように話すこと、「口寄せ」とは、未来のことを知ろうとすることです。つまり、神とか、キリストを介することなく霊の世界と交わることです。おがみやとか、占いやオカルト、超能力といった類のものです。これらはみな悪霊によるものであり、汚れたものです。もしそのようなところにおもむき、彼らを慕って淫行を行うようなことがあるとしたら、神はその者から顔を背け、その者をその民の間から断たれます。そのようにして自分の身を聖別しなければなりませんでした。

3.  両親への反抗(9)

9節にはこうあります。「だれでも自分の父あるいは母をのろう者は、必ず殺されなければならない。彼は自分の父あるいは母をのろった。その血の責任は彼にある。」

つまり、両親への執拗な反抗は、死刑に値するということです。なぜなら、両親は神の代理者であったからです。自分の父と母を敬うことは、神の第一の戒めなのです(エペソ6:2)。

4.姦通(10-21)

次に、10~21節までをご覧ください。

「人がもし、他人の妻と姦通するなら、すなわちその隣人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならない。人がもし、父の妻と寝るなら、父をはずかしめたのである。ふたりは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。人がもし、息子の嫁と寝るなら、ふたりは必ず殺されなければならない。彼らは道ならぬことをした。その血の責任は彼らにある。男がもし、女と寝るように男と寝るなら、ふたりは忌みきらうべきことをしたのである。彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。人がもし、女をその母といっしょにめとるなら、それは破廉恥なことである。かれも彼女らも共に火で焼かれなければならない。あなたがたの間で破廉恥な行為があってはならないためである。人がもし動物と寝れば、その者は必ず殺されなければならない。あなたがたはその動物も殺さなければならない。女がもし、どんな動物にでも、近づいて、それとともに臥すなら、あなたはその女と動物を殺さなければならない。彼らは必ず殺さなければならない。その血の責任は彼らにある。人がもし、自分の姉妹、すなわち父の娘、あるいは母の娘をめとり、その姉妹の裸を見、また女が彼の裸を見るなら、これは恥ずべきことである。同族の目の前で彼らは断ち切られる。彼はその姉妹を犯した。その咎を負わなければならない。人がもし、月のさわりのある女と寝て、これを犯すなら、男は女の泉をあばき、女はその血の泉を現したのである。ふたりはその民の間から断たれる。母の姉妹や父の姉妹を犯してはならない。これは、自分の肉親を犯したのである。彼らは咎を負わなければならない。人がもし、自分のおばと寝るなら、おじをはずかしめることになる。彼らはその罪を負わなければならない。彼らは子を残さずに死ななければならない。人がもし、自分の兄弟の妻をめとるなら、それは忌まわしいことだ。彼はその兄弟をはずかしめた。彼らは子のない者となる。」

ここに記されてあることは、既に19章に出てきたことです。一言で言えば、性的な汚れです。10節には、「他人の妻と姦通するなら」どうなるか、11節には「父の妻と寝るなら」どうなるか、これは必ずしも自分の母親ということではなくその背後に一夫多妻制の背景があることは前に説明したとおりです。12節、息子の嫁と関係を持った場合、13節には、同性同士の関係について語られています。14節には女を母といっしょにめとることについて、15節と16節では動物と関係を持つこと、17節では姉妹の裸を見ることについて、18節では生理中の女性との性行為する場合、19節、20節では叔父、叔母と関係を持ったらどうなるか、そして、21節では自分の兄弟の妻をめとるようなことをしたらどうなるかについてです。そして、このようなことを行う者はすべて殺される、あるいは、イスラエルの共同体から断ち切られるとあります。問題は、こうした処罰が現代の私たちにも適用されるかということです。それはありません。

の福音書8章1~11節までを開いてください。ここには、姦淫の現場で捕らえられた女がイエス様のところに連れて来られたことが書かれてあります。律法では、このような女は石打にするようにと命じていました。そこで彼らは彼女をイエスのもとに連れて来て、イエスがどのように言うかをためそうとしたのです。もし石打にすべきであると言えば、何とあわれみのない者かと言われるでしょうし、かといって石打にする必要はないと言えば、律法に背くことを言ったと言って捕らえることができたからです。それでイエス様はどうされたかというと、しばらくの間身をかがめて、地面に何やら書いておられました。けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、身を起こしてこう言われたのです。

「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」

そう言うと、もう一度身をかがめて、地面に書かれたのです。そして、だれも彼女に石を投げる人がいないのを見ると、女に言いました。「あの人たちはどこにいますか。あなたを罪に定める者はいなかったのですか。」「わたしもあなたを罪に定めない。」

皆さん、イエス様は私たちを罪に定められません。なぜでしょうか。イエス様がその罪に対する刑罰を受けてくださったからです。この律法の要求は、イエス様が十字架に架かって死なれることによって実現したからです。律法の要求がどうでもいいということではないのです。律法は律法として、ちゃんと実行されなければなりません。そして、その律法によれば私たちは死刑なのです。しかし、キリストが代わりにその刑罰を受けてくださったので、私たちは受ける必要がなくなったのです。

ということは、私たちは何をしてもいいということなのでしょうか。そうではありません。その国、その国において定められた法律があります。神は不信者であってもそのような支配権を行使されることをお許しになられました。その法によってさばかれることはあるのです。

しかし、仮に法律に違反していないことであっても、神の恵みを侮り、あくまでも罪を犯し続けているようなことがあれば、神はご自身の民から断ち切られることがあるのです。(Ⅰコリント6:9-10,ガラテヤ5:19-21,エペソ5:3-6)ですから、もし私たちがこのような神のみこころにかなわず、神の定めに反するようなことをしているとしたら、その罪を悔い改めて、救い主イエス・キリストを信じなければなりません。そうすれば、私たちのすべての罪は赦されるのです。イエス様が代わりに受けてくださったからです。また、イエス様を信じて罪を犯すようなことがあれば、というか、私たちは罪を犯さずには生きていけないような罪深い者ですから、その罪をいつも悔い改めなければなりません。あの律法学者やパリサイ人たちのように、イエス様から、「あなたがたの中で罪のない者から石を投げなさい」と言われたときに、石を置いて、一人また一人立ち去って行ったように、自分の罪深い心を見て、悔い改めなければならないのです。

5.えり分けられた民(22-27)

最後に22節から27節までを見て終わりたいと思います。

「あなたがたが、わたしのすべてのおきてと、すべての定めとを守り、これを行うなら、わたしがあなたがたを住まわせようと導き入れるその地は、あなたがたを吐き出さない。あなたがたは、わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている国民の風習に従って歩んではならない。彼らはこれらすべてのことを行ったので、わたしは彼らをはなはだしくきらった。それゆえ、あなたがたに言った。『あなたがたは彼らの土地を所有するようになる。わたしが乳と蜜の流れる地を、あなたがたに与えて、所有させよう。わたしは、あなたがたを国々の民からえり分けたあなたがたの神、である。あなたがたは、きよい動物と汚れた動物、また、汚れた鳥ときよい鳥を区別するようになる。わたしがあなたがたのために汚れているとして区別した動物や鳥や地をはうすべてのものによって、あなたがた自身を忌むべきものとしてはならない。あなたがたはわたしにとって聖なるものとなる。であるわたしは聖であり、あなたがたをわたしのものにしようと、国々の民からえり分けたからである。』男か女で、霊媒や口寄せがいるなら、その者は必ず殺されなければならない。彼らは石で打ち殺されなければならない。彼らの血の責任は彼らにある。」

この時イスラエルはまだシナイ山にいたのでまだカナンの土地に定住していませんでしたが、これから入って行こうとしていたカナンの土地の風習に従って歩んではならないと命じられます。それはなぜでしょうか。それは、彼らがえり分けられた民だからです(24,26)。神は彼らを国々の民からえり分けられました。ですから、彼らはその土地の風習やならわしをまねるのではなく、彼らを贖ってくださった神である主の戒めを守り行わなければならなかったのです。

その最初は食物の規定でした(25)。きよい動物と汚れた動物を区別しなければなりませんでした。それはいったい何のためだったのかというと、イスラエルが他の民族と区別されていることを示すためでした。26節にあるように、それは彼らが聖なるものとなるためでした。彼らはもはや自分自身のものではなく、神のものとなりました。代価を払って買い取られました。ですから、神のものとなるために、自らを聖別しなければならなかったのです。

それは私たちクリスチャンも同じです。Iコリント6:19-20には、「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まわれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価をもって買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」とあります。私たちは神のものとして、まず区別することが求められているのです。神の栄光のために、神が望んでおられることを行い、神のものとして生きることが求められているのです。

イザヤ58:1-14 レジュメ

「神に喜ばれる信仰」                No.92

イザヤ書58:1~14

Ⅰ.見せかけの信仰(1-5) 

 主はイザヤに、「せいいっぱい大声で叫べ。角笛のように、声をあげよ。」(1)と言われた。なぜだろうか。イスラエルにそむきの罪があったからである。その罪を彼らに告げなければならなかった。イスラエルは日ごとに神を求め、神の道を知ることを望んでいたのに、実際には神から遠く離れていた。確かに彼らは断食という宗教的な行為には熱心だったが、中身が伴っていなかった。断食の日に自分の好むことをし、労働者をみな、圧迫していた。彼らが断食するのは、争いとけんかをするためであり、不法にこぶしを打ち付けるためであった。そのような断食は神に認められるものではない。それはただの見せかけの、偽善的なものでしかない。どんなに熱心に断食しても、それが本来の目的にかなったものでなければ虚しく、すべてが空回りする。

Ⅱ.本物の信仰とは(6-7)

では、神が好まれる断食とはどのようなものなのだろうか。「わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くちびるのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。」(6-7)すなわち、困難の中にいる人、抑圧された人たちに助けの手を差し伸べ、貧しさにあえぐ人には必要なものを与えることである。なぜなら、分け与えることこそ神の本性であり、その愛によって私たちも救われたからである。神の愛によって救われた私たちは、この愛を分け与える者でなければならない。

Ⅲ.そのとき(8-14)

そのとき、どのような祝福がもたらされるのだろうか。8節には、そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。」とある。「すみやかにいやされる」とは、「すみやかに回復する」とも訳される。偽善によって腐り果てたたましいが、みことばを聞き、それに従うことによって、すぐに新しい回復が始まる。それは暁の光のようだ。たとえあなたの心が暗やみのように暗くても、真昼のように明るく輝いたものとなる。

そればかりではない。「あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。」とある。昼は雲の柱、夜は火の柱のように、主があなたの前を進み、あなたの道を導いてくださるだけでなく、あなたのしんがりとなって守ってくださる。

また、「そのとき、あなたが叫ぶと、主は答え、あなたが叫ぶと、「わたしはここにいる」と仰せられる。」(9)「神様!」と呼ぶと、即答してくださるというのだ。今まではそうではなかった。いくら呼んでも答えてくださらなかった。なぜなら、彼らの祈りは形式的なもので、自己満足の祈りにすぎなかったからである。しかし、今は違う。あなたが叫ぶと、主はすぐに答えてくださる。

また、11節には、「主は絶えず、あなたを導いて、焼け付く土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水の枯れない源のようになる。」とある。どんな状況でも、泉のように内側からいのちの水が流れ出るようになる。まさに「楽園」のようになるのだ。

何という祝福であろう。神のみこころに従って神が望む断食をするなら、神が私たちをこのように祝福してくださる。そんな幸いな人生を歩ませていただきたい。それはあなたが好むような断食ではなく、神が好む断食を求め、あなたの心が神と一つになって歩むことによってもたらされるのである。

Isaiah58:1-14 “Faith that pleases God”

Today I’d like to talk from Isaiah 58 about the faith that pleases God. Verse 3 says, “’Why have we fasted,’ they say,

‘and you have not seen it?

Why have we humbled ourselves,

And you have not noticed?’”

Israel was enthusiastic religiously. However, God was not pleased with their enthusiasm.  They could be said to be in the condition of fruitless spiritual activity, of being in a rat race. We too must be careful to not fall to the same mistake. Today I would like to talk about 3 aspects of a faith that pleases God.

 

  1. A made to look like faith (Vs.1-5)

First please look at verses 1 to 5. Here vain fasting is written about. I’ll read verses 1 and 2.  “Shout it aloud, do not hold back,

Raise your voice like a trumpet.

Declare to my people their rebellion

and to the descendants of Jacob their sins.

For day after day they seek me out;

they seem eager to know my ways,

as if they were a nation that does what is right

and has not forsaken the commands of its God.

They ask me for just decisions

and seem eager for God to come near them.

This was spoken by God to Israel. God says to “Shout it aloud…raise your voice like a trumpet” (1) and declare to Israel. That’s because God’s people, “the descendant of Jacob”, (1) Israel has sinned. This must be declared to them. “Day after day they seek” (2) God and they “seem eager to know”(2) God. However, in reality they were far from God.

Their problem is explained in verses 3 to 5. It says, “’Why have we fasted,’ they say, ‘and you have not seen it? Why have we humbled ourselves, and you have not noticed?’ Yet on the day of your fasting, you do as you please and exploit all your workers. Your fasting ends in quarreling and strife, and in striking each other with wicked fists. You cannot fast as you do today and expect your voice to be heard on high. Is this the kind of fast I have chosen, only a day for people to humble themselves? Is it only for bowing one’s head like a reed and for lying in sackcloth and ashes?  Is that what you call a fast, a day acceptable to the LORD?”

Certainly they were enthusiastic in the practice of fasting. However, their heart didn’t concretely accompany it. It seemed like they were seeking God’s righteousness, but in reality it was different.  In reality they sought to do as they pleased.  Here it says, “on the day of your fasting”. (3) This was the Day of Atonement. It is written in Lev. 16, but in Israel once a year the high priest was to slaughter a cow and goat as a sacrifice for sin. Its blood was sprinkled inside the tent, in other words on the mercy seat that was in holy of holies and all of Israel’s sin was atoned for. It was ordained that they must fast on that day. However, they didn’t fast just once a year. They fasted over and over again. For example, Zechariah 8:19 says, “This is what the LORD Almighty says: ‘The fasts of the fourth, fifth, seventh and tenth months will become joyful and glad occasions and happy festivals for Judah.  Therefore love truth and peace.“ They fasted on “the fourth, fifth, seventh and tenth months” (Zechariah 8:19) too. This was to repent to God. They fasted as a sign of repentance and sadness of sin that they had become captive to Babylon because they had committed sin.

That’s not all. Such religious enthusiasm gradually escalated and they began to fast twice a week, on Monday and Thursday. The scholars of the law and the Pharisees were like this. In the prayer of the tax collector and the Pharisee that appears in Luke 18:12, the Pharisee prays, “I fast twice a week…” is from this background.

However, no matter how much you humble yourself and fast, if it doesn’t fulfill its original purpose then it is completely meaningless. “On the day of fasting, (3) they did as they pleased and exploited all their workers. Their fasting ended “in quarreling and strife, and in striking each other with wicked fists.” (4) Even though they were enthusiastic religiously, in their concrete life the fruit of it couldn’t be seen. No matter how much you fast like this there is no possibility that God will be pleased.  The original purpose of fasting was to devote yourself to God and to become humble before God. If there isn’t that then even if you fast it will end in just being a fruitless activity. Also such a faith without realizing it becomes a hypocritical one.  Hypocrisy means acting, dramatizing, or pretending. It is made to look like faith, but religiously there is no substance to it.

Let’s open your Bibles to Luke chapter 14. In verse 3 Jesus asks the scholars of the law and the Pharisees, “Is it lawful to heal on the Sabbath or not?” That was because there was a person there that suffered from dropsy. Dropsy is a sickness where the body accumulates too much water and becomes bloated.  At that time it was thought that like leprosy dropsy was a sickness of a curse from God. Also the Jewish teachers, the Rabbi, that it was the result of fornication.

One Sabbath when Jesus entered a Pharisee leader’s house to eat a meal.  However the scholars of the law brought a person suffering from dropsy there. That was to trap Jesus. If Jesus healed the man on the Sabbath then they would accuse him of sinning by breaking the law.

However, Jesus knew what was in in their heart and questioned them, “Is it lawful to heal on the Sabbath or not?”  They were silent.  They couldn’t answer. If they said that it is o.k. to heal on the Sabbath it would be breaking the principles of the Sabbath.  However, if they answered that you mustn’t heal then it would mean that it was o.k. to ignore your neighbor’s suffering.  Either answer would not be good.  Therefore, they were silent. Then Jesus held the man suffering from dropsy, healed him, and sent him home. Then he said, “If one of you a child or an ox that falls into a well on the Sabbath day, you not immediately pull it out?” Luke 14:5

They couldn’t answer. That was because they didn’t understand the most important thing about the law. That is to love God and to love people. “All the Law and the Prophets hang on these two commandments.” (Matt. 22:40) Even so they didn’t understand this. Therefore if this is not understood, no matter how formally the law is followed, it is not what God desires and is just a religious right that is being performed.

This is what we too must be careful about. There are cases where you think that you do religious duties like going to the worship service, giving offerings, reading your Bibles occasionally at home and praying so that you are ok. while at the same time “you do as you please” (3) quarreling and having strife. There are cases where even if you conduct yourself piously at the worship, when you leave the church and the moment you get in the car, you fight with your wife or have hatred for your relatives, or you walk among people and without reserve slander others, and gossip about others. There are cases when we get stuck on something and are angry all day.  That is made to look like faith, but it isn’t.

The Lord Jesus’ brother Jacob said this, “What good is it, my brothers and sisters, if someone claims to have faith but has no deeds?  Can such faith save them? Suppose a brother or a sister is without clothes and daily food.  If one of you says to the, ‘Go in peace; keep warm and well fed,’ but does nothing about their physical needs, what good is it?  In the same way, faith by itself, if it is not accompanied by action, is dead.”(James 2:14-17)

“Faith by itself, if it is not accompanied by action, is dead.” (James 2:17)      It doesn’t mean that if you don’t have deeds then you are not saved.  Real faith is accompanied by deeds. If there are no deeds, then it is just a faith that is made to look like faith, but it really isn’t a faith.

  1. What real faith is like (Vs. 6,7)

Then what kind of fasting pleases God is written about in verses 6 and 7. “Is this not the kind of fasting I have chosen: to loose the chains of injustice and untie the cords of the yoke, to set the oppressed free and break every yoke?  Is it not to share your food with the hungry and to provide the poor wanderer with shelter- when you see the naked to clothe them, and not to turn away from you own flesh and blood.”

Here it teaches us what kind of fast pleases God. In other words, it is “to loose the chains of injustice and untie the cords of the yoke, to set the oppressed free and break every yoke”. (6) Also it is “to share your food with the hungry.” (7)  It is to welcome to your house the poor who have no house and provide him with a warm bed. It is to clothe the naked. It is also to take care of your poor relatives. In other words, it is to give a hand to those who are on the brink of difficulties and to those who are oppressed, and to give what is needed to those who are suffering from poverty.

This is in agreement with the letter of James that we read previously. Read faith is accompanied by substance. To be accompanied by substance means that if there are people suffering around you, to “untie the cords”. (6)  If there are people that are actually asking for help, to give responding to their needs. James said this. “If anyone considers himself religious and yet does not keep a tight rein on his tongue, he deceives himself and his religion is worthless.  Religion that God our Father accepts as pure and faultless is this: to look after orphans and widows in their distress and to keep oneself from being polluted by the world.” (James 1:26, 27)

“Religion that God our Father accepts as pure and faultless is this: to look after orphans and widows in their distress and to keep oneself from being polluted by the world.” (James 1:27) This doesn’t mean to be unconcerned about your brothers and sisters and neighbors, or to put up a front of being loving. Even if a person is religious and enthusiastically follows things of the law, if he is uninterested in the needs of the people around him or is uninterested in the needs of brothers and sisters in the church, that is not real faith. Real faith is to share concretely. That is because to share is concretely shown in God’s love.

“For God so loved the world that he gave his one and only Son, that whoever believes in him shall not perish but have eternal life.” (John 3:16)

God gave Jesus to this world because he “loved the world”. (John 3:16) That was so “that whoever believes in him shall not perish but have eternal life.” (John 3:16) “God is love.  This is how God showed his love among us; He sent his one and only Son into the world.” (I John 4:8, 9) There is a saying that “love freely takes”.  However in reality love is the opposite. It freely gives. We who were saved by love must become people that share.

During Golden Week any place you go is crowded so we didn’t go anywhere, but watched a DVD. The DVD was Schindler’s List. It is a true story of during World War II in the midst of the Jews being massacred by the German Nazis a German industrialist, Oskar Schindler saved over 1,100 Jews.

In August of 1939 Poland was captured by the German army. The stage of the movie is the Kraków Ghetto where the Germans move Polish Jews into as World War II begins. Oskar Schindler, an ethnic German, arrives in the city hoping to make use the war as a way to make his fortune. He acquired an enamelware factory and began business. In the course of time, a cruel lieutenant is sent to oversee the Krakow Ghetto and he began to murder Jew after Jew. Schindler who up until then had only been interested in making money witnesses the massacre and is profoundly affected. As time passes, Schindler’s focus shifts from making money to trying to save as many lives as possible. He bribes the lieutenant into allowing him to build a sub-camp for his workers so that he can better protect them.

As the Germans begin to lose the war, the lieutenant is ordered to ship the remaining Jews to Auschwitz concentration camp. Schindler asks the Lieutenant to allow him to move his workers to a new ammunitions factory he plans to build in his home town of Zwuttau-Brinnlitz. The Lieutenant agrees, but charges a huge bribe for each person that Schindler takes to his new factory. Schindler creates a list of people to be transferred from to Brinnlitz and thus saved from transport to Auschwitz. The list of “skilled workers” included children who were also hired. The list of Jews was “Schindler’s List”. It was called a list of life and there were more than 1,100 people on the list.  Schindler used all the money he had to buy as many Jew as he could and save them.

In the course of time when the war ended and the Jews were set free, he apologized to the Jews saying that if he had had more money he would have saved more Jews.

The Jews who were saved by him were very thankful for him desperately saving them. For his work during the war, in 1963 Schindler was named Righteous Among the Nations, an award bestowed by the State of Israel on non-Jews who took an active role to rescue Jews during the Holocaust.

This is love. Love gives oneself freely. Love does not take away, it gives. “For God so loved the world that he gave his one and only Son.” (John 3:16) To give our most important things is love. That is the fasting that pleases God.     It is not a made up faith, but a real faith.

How about you? Are you giving joyfully to your neighbor?  That is not something that can be done easily. We are really selfish and self centered and think only of ourselves. We think that its o.k. as long as we are getting the good end of it.  However, let’s remember that the fasting that God is pleased with is to joyfully share with our neighbors. In order to walk like this let’s seek the Lord who is the source of love.

 

  1. Then  (Vs. 8-14)

When we live as such a man of faith, what will happen? Lastly let’s look at the blessings God give to such people of faith.  Let’s look at verse 8 to the end of the chapter. Here the word “Then” appears 3 times in verses 8, 9, and 14. First of all let’s read together verse 8. “Then your light will break forth like the dawn,

and your healing will quickly appear;

then your righteousness will go before you,

and the glory of the LORD will be your rear guard.”

““Then your light will break forth like the dawn, and your healing will quickly appear.” (8) “Your healing will quickly appear” (8) means you will be restored quickly. Their spirits which rotted and died by hypocrisy when they listen and follow the Word of God will begin to be restored

Here it says, “your light will break forth”. (8) This is a strange expression.  Israel is not a light.  Their faith is rotten. Therefore, they don’t have any light at all.  Even so it says, “your light”. (8) This is not a light that they have, but it is the light they have received from God whom they believe in. This light is a light that shines in the darkness, and there is new power and recovery there. Jesus said, “I am the light of the world. Whoever follows me will never walk in darkness, but will have the light of life.” (John 8:12)

Also Job 11:17 says, “Life will be brighter than noonday,

And darkness will become like morning.”

Even if your heart is dark like darkness, it will become “brighter than noonday.” (Job 11:17) That light has that much power. By that light “your healing will quickly appear.” (8) How blessed it is to walk by that light!

That’s not all. The words that comes after it says, “then your righteousness will go before you, and the glory of the LORD will be your rear guard.” (8) This too is not the righteousness that you made, but the righteousness that you received and believed in.  That “righteousness will go before you, and the glory of the LORD will be your rear guard.” (8) In other words, just like Israel who was led in the desert after the Exodus by the cloud during the day and the fire at night, the Lord will take care of us in the wilderness of life and lead us to the kingdom of heaven.

Please look at verse 9. Here is the second “then”. “Then you will call, and the LORD will answer; you will cry for help, and he will say: Here am I.” (9) If you call, “God!”, God will answer immediately. God will answer, “Here am I”. (9) That is if you “untie the cords of the yoke “(6)  , stop gossiping, have concern for the poor, and satisfy the desires of those who are troubled.

Please look at verses 11 and 12.  Let’s read this together. “The LORD will guide you always; he will satisfy your needs in a sun scorched land and will strengthen your frame. You will be like a well-watered garden, like a spring whose waters never fail. Your people will rebuild the ancient ruins and will raise up the age-old foundations: you will be called Repairer of Broken Walls, Restorer of Streets with Dwellings.”

How wonderful! No matter what kind of soil you are, “the LORD will guide you always…You will be like a well-watered garden, like a spring whose waters never fail.” (11) Also some of the people will “rebuild the ancient ruins” (12) of the temple in God’s city, Jerusalem, that was destroyed by Babylon and they “will be called Repairer  of Broken Walls, Restorer of Streets with Dwellings.” (12) Those who receive the Lord’s blessings, the Lord’s guidance will not be called the destroyed, but the “Repairer”. (12)

Then verse 14 says, “Then you will find your joy in the LORD.”  In verse 13 it talks about the Sabbath again and this is the same thing. If you understand the meaning of the Sabbath, and give thankfulness and joy to the Lord for redeeming you, and worship the Lord from your hearts, then “you will find your joy in the LORD” (14) and enjoy plentiful food in the promised land.

Such blessings will be given. How about you? Do you desire the fasts that God desires? Are you seeking the faith that pleases God? On the outside it may seem like you are earnest faith, but it is possible that there is a gap of faith. Let’s seek to have a faith that pleases God.

Last week I went to the annual meeting of the Conservative Baptists.  There I attended a lecture by a Pastor that I am close to.  It was about a book that is now out of print, “The Emotionally Healthy Church” by Peter Scazzero. The pastor translated this book. As he translated this book he matured and was taught many things about the maturing of the church he was pastoring. That is in our hearts there are hurts that hamper our spiritual maturity. In many cases that is deeply connected that person’s upbringing. If the light of Gospel doesn’t shine on it, in other words, if we aren’t treated by the grace of the Gospel, no matter how much of the message of the Gospel we hear it just ends in knowledge. It doesn’t soak deep into the person’s heart. In other words, the faith is just on the surface. His faith doesn’t change. I Thess. 5:23 says, “May God himself, the God of peace, sanctify you through and through. May your whole spirit, soul and body be kept blameless at the coming of our Lord Jesus Christ.”  Sanctification doesn’t soak into spirit, soul, and body. To do it is necessary that the light of the gospel soaks deeply into the spirit, soul, and body.

In his talk he talked about a woman that is in the church that he is pastoring.  This woman has been a Christian for 40 years. It could be said that she was a grand Christian. She has always been single and worked as a nurse in a hospital. Of course she lives a disciplined Christian life. On the skin level she looks like a splendid Christian. However, she is cold. This Pastor went to college and seminary in America and so he spent a long time in America. She says things like, “Pastor you were in America for a long time so you don’t understand.”

This church has an early Morning Prayer meeting every Friday. One time this woman came to the prayer meeting.  The Pastor was thrilled and said,” Oh, I’m glad you came. Let’s pray together.” The woman replied, “No, I just came to observe to see what the prayer meeting is like.” She is always cold. The pastor was always distressed not knowing why she was like that.

However, after reading the book, he realized that she must have a wound in her heart.  That wound was hampering her from being meek and mild. The Pastor didn’t judge her, but listened from his heart to what she was saying. Then she said, “Pastor, you always talk about marriage and families, but I don’t understand it well.”  The Pastor realized that that she never married and had always been single so whenever she heard such talks, she couldn’t accept it.  However, by her opening up her heart to him about that and by the Pastor accepting how she felt she was changed.

In that church there was a young man from Mongol. He got hepatitis. She accepted him like her child and nursed him well. Of course, since she was a nurse that may seem natural, but what was different was it was not a superficial relationship. She payed for all his medical expenses.

She was changed this much because the grace of the Gospel wasn’t just a head knowledge, but soaked down deep into her spirit. The light of the Gospel had shown deep into her soul. As a result her faith was not superficial, but was really from her heart. She was really changed.

This is the kind of faith that pleases God. When we hear about the grace of the Gospel, we mustn’t listen to it as if it is for other people, but accept it into our hearts. If we actually put it into our life, God will definitely change you.  James said, “Do not merely listen to the word, and so deceive yourselves. Do what it says.” (James 1:22) How are you? Are you possibly just listening? Let’s obediently accept the Word of God hat has been given to us. Then we will become a person that pleases God. Let’s be a person that puts the Word of God into action. The Word of God can save your soul.

イザヤ書58章1~14節 「神に喜ばれる信仰」

きょうは、イザヤ書58章から「神に喜ばれる信仰」というタイトルでお話します。3節に、「なぜ、私たちが断食したのに、あなたはご覧にならなかったのですか。私たちが戒めたのに、どうしてそれを認めてくださらないのですか。」とあります。イスラエルは宗教的には熱心でしたが、その熱心は神に喜ばれるものではありませんでした。それは、いわば「霊的空回り状態」だったのです。私たちも注意しないと、同じような過ちに陥ってしまうことがあります。自分では熱心だと思っていてもその熱心が神のみこころからズレていると、イスラエルと同じように空回りしていることがあるのです。しかもそのことにさえも気付かないこともあります。  いったい神に喜ばれる信仰とはどのようなものなのでしょうか。きょうは、神に喜ばれる信仰について、3つのポイントお話したいと思います。

Ⅰ.見せかけの信仰(1-5)

まず第一に1~5節までをご覧ください。ここには、虚しい断食について記されてあります。1節と2節をお読みします。

「せいいっぱい大声で叫べ。角笛のように、声をあげよ。わたしの民に彼らのそむきの罪を告げ、ヤコブの家にその罪を告げよ。しかし、彼らは日ごとにわたしを求め、わたしの道を知ることを望んでいる。義を行い、神の定めを捨てたことのない国のように、彼らはわたしの正しいさばきをわたしに求め、神に近づくことを望んでいる。」    これは、主がイザヤに対して語っていることです。主はイザヤに、イスラエルに対してせいいっぱい大声で叫ぶように、また、角笛のように、声を上げるように、と言っています。なぜでしょうか?神の民であるイスラエルに、ヤコブの家であるイスラエルに、そむきの罪があったからです。それを彼らに告げなければなりませんでした。彼らは日ごとに神を求め、神を知ることを望んでいましたが、実際には、神から遠く離れていたのです。いったい何が問題だったのでしょうか。

3節から5節までところに、次のようにあります。 「なぜ、私たちが断食したのに、あなたはご覧にならなかったのですか。私たちが身を戒めたのに、どうしてそれを認めてくださらないのですか。」見よ。あなたがたは断食の日に自分の好むことをし、あなたがたの労働者をみな、圧迫する。見よ。あなたがたが断食をするのは、争いとけんかをするためであり、不法にこぶしを打ちつけるためだ。あなたがたは今、断食をしているが、あなたがたの声はいと高き所に届かない。わたしの好む断食、人が身を戒める日は、このようなものだろうか。葦のように頭を垂れ、荒布と灰を敷き広げることだけだろうか。これを、あなたがたは断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。」    確かに彼らは断食という行為そのものには熱心でしたが、そこに具体的な心が伴っていませんでした。神の義、神を求めているようでも、実際は自分の好むことを求めていたのです。たとえば3節後半に「断食の日」とありますが、これは「贖罪の日」と言って、イスラエルで年に一度行われていた罪が贖われる日のことです。レビ記16章に記されてありますが、この日には大祭司がいけにえの雄牛ややぎをほふり、その血を垂れ幕の内側、すなわち至聖所と呼ばれる所に携えて行き、罪の贖いをしました。その血を贖いのふたの上に、また回りに振りかけて自分自身とイスラエルのすべての民の罪を贖ったのです。そして、この日には断食することが定められていました(レビ16:29)。ところが彼らは年に一度どころじゃないのです。何回も、何回も断食しました。ゼカリヤ書8章19節には、「万軍の主はこう仰せられる。「第四の月の断食、第五の月の断食、第七の月の断食、第十の月の断食は、ユダの家にとっては、楽しみとなり、喜びとなり、うれしい礼祭となる。だから、真実と平和を愛せよ。」とあります。第四の月の断食、第五の月の断食、第七の月の断食、第十の月もです。なぜでしょうか?神のために悔い改めるためです。彼らは自分たちがバビロンの捕囚になったのは神に対して罪を犯したからだと、その罪を悲しみ、悔い改めるしるしとして断食をしたのです。

そればかりではありません。そうした宗教的な熱心さはどんどんエスカレートして、週に二度も断食するようになりました。月曜日と木曜日にです。律法学者やパリサイ人たちはそうでした。ルカの福音書18章12節に出てくる取税人とパリサイ人の祈りの中で、パリサイ人が「私は週に二度断食し・・・」と言っているのは、こうした背景があったからです。

しかし、どんなに身を戒めて断食しても、それが本来の目的にかなったものでなければ全く意味がありません。彼らは断食の日に自分の好むことをし、労働者を圧迫していました。彼らが断食するのは争いとけんかをするためであり、不法とこぶしを打ちつけるためでした。宗教的には熱心でも、具体的な生活においてその実を見ることができなかったのです。全く変化がありませんでした。救われていない人のように振る舞っていたのです。そのような断食をどんなにしても、主に喜ばれるはずがありません。断食の本来の目的は心砕かれて神の前にへりくだることなのですから・・。それがなかったらどんなに断食をしても、空回りに終わってしまいます。そればかりではない。そのような信仰は、いつしか偽善的なものに陥ってしまいます。「偽善」とは、演技とか、芝居、見せかけという意味です。そうした見せかけの信仰になってしまうのです。宗教的でも中身がない。

ここでルカの福音書14章を開いてみましょう。3節のところに、イエス様は律法の専門家やパリサイ人たちに「安息日に病気をいやすことは正しいことですか、それともよくないことですか」とあります。そこに水腫をわずらっている人がいたからです。水腫とは、体内に必要以上に水分が溜まってむくみを起こす病気のことですが、当時は神から呪われた病気だと考えられていました。  ところで、ある安息日にイエスが食事をしようとして、パイサイ派の指導者の家に入られた時、そこに律法の専門家たちがこの水腫をわずらっている人を連れて来たのです。イエスをわなに陥れるためです。もしイエス様が安息日にこの人をいやすようなことをしたら律法を破ったと訴えることができます。  けれども、イエス様はそんな彼らの心を見抜いて次のよう質問されました。「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それとも、よくないことですか」 彼らは黙っていました。答えることができなかったのです。もし安息日に病気を直しても良いと言えば安息日の規則を破ることになるし、直してはいけないと答えれば、隣人の苦しみを放っておいてもいいのかということになります。どっちに転んでもよくありません。だから黙っていたのです。するとイエスはその水腫をわずらっている人を抱き、いやして、帰されました。それからこう言われました。

「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。」(同14:5)

すると彼らは答えることができませんでした。なぜなら、彼らは律法の本意を理解していなかったからです。安息日に病気をいやすことが正しいことなのか、正しくないことなのかといった字面にとらわれて、それが意味しているところの本来の目的からズレていたのです。では安息日律法の目的は何だったのでしょうか。それは神を愛し、人を愛することです。律法全体はこの二つにかかっていると、イエスは教えられました(マタイ22:34~40)。いや、そんなのおかしい。イエスが間違っていると言われますか?イエス様は律法の完成であり、律法そのものが求めていた実体そのものです。それゆえイエス様は安息日の主とも言われていますが、そのイエス様がそう言うのですから、このイエスが言われることこそ正しいことであり、これが安息日の律法が定められた本来の目的だったのです。なのに彼らはそのことを理解していませんでした。自分たちは律法に忠実だとずっと思い込んでいた。しかしこのことを理解しないでどんなに律法を守っていたとしても、それは神の望むことではなく、彼らが作り出した宗教でしかありません。それは宗教という洋服を来た生まれながらの自分でしかないのです。そうした宗教はいつしか形骸化していき、単なる見せかけの偽善的なものに陥ってしまう危険性があるのです。

これは私たちも注意しなければならないことです。私はクリスチャンです。クリスチャンとしての務めをちゃんと義務を果たしています。ちゃんと礼拝に行っているし、献金もしている。家でもちゃんと聖書を読んで祈っています。だから自分はちゃんとしたクリスチャンだ!自分は大丈夫だ!といいながら、まだ自分の好むことをし、自分の思いのままに生きていることがあるのです。たとえば、礼拝に来ても別のことを考えていたり、礼拝ではいかにも敬虔そうに振る舞っていても、教会から一歩外に出た瞬間に夫婦ゲンカを始めてみたり、人の悪口を言って平気で歩き回ったり、他の人を批判したりとか、そういったことがあるのです。聖書を頭ではわかっていても心ではわからない。知識では理解していても霊的には理解していない。したがって、なかなか生活が変わらないのです。表面的にはクリスチャンだといっても中身が伴わないのです。もちろん、私たちは不完全な者であり、弱さを抱えている者ですから、神のみこころにかなった歩みなどできません。しかし、できなくてもそうしたいと心から願い求めるのが本当に救われた者、神の民の姿ではないでしょうか。なのにそうでないと、いつしかそれが見せかけの、偽善的な信仰に陥ってしまうのです。この律法学者やパリサイ人たちの問題はここにありました。

ヤコブ書2章14~17節をお開きください。ここには、「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは死んだものです。」(ヤコブ2:14-17) とあります。

信仰も、もし行いがなかったら、それだけでは、死んだものです。それは行いがなければ救われないということではありません。本当の信仰にはこうした行いが伴っているものであり、そのように願っているということです。それがないとしたら、それはただの見せかけの信仰になってしまいます。

Ⅱ.本物の信仰とは(6-7)

では、神の好む断食とはどのようなものなのでしょうか。6節と7節をご覧ください。

「わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これを着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。」

ここには、神の好む断食とは、どのようなものなのかが教えられています。すなわち、悪のきずなを解き、くびきの縄目をほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことです。また、飢えた人に自分の食べ物を分け与え、家のない貧しい人々を家に迎え入れて、その人に暖かい寝床を用意し、裸の人に服を着せ、貧しい親戚の世話をすることです。すなわち困難に瀕している人、抑圧された人たちに助けの手を差し伸べ、貧しさにあえぐ人には必要なものを与えることです。これが神が喜ばれる断食です。

これは、先程読んだヤコブの手紙と一致しています。本当の信仰とは中身が伴ったものです。どういうことですか、中身が伴っているというのは・・・。自分の回りに苦しんでいる人がいたらそのなわめをほどき、実際的な助けを求めている人がいたら、その必要に応えてあげることです。ヤコブはこう言っています。

「自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。」(ヤコブ1:26-27)

神の御前にきよく汚れのない宗教とは、孤児ややもめたちが困っているのを見たらその人たちの世話をし、この世から自分をきよく守ることです。兄弟姉妹や隣人に無関心であったり、表面的に愛そうとすることではありません。宗教的なお勤めとそれにまつわるさまざまなおきてを守ることには熱心でも、自分の回りの人々の必要、教会の兄弟姉妹に無関心であったとしたら、それは本当の信仰ではないということになります。本当の信仰とは具体的に分け与えることなのです。なぜなら、分け与えることこそ神の愛の具体的な現れだからです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

神がイエスをこの世の与えられたのは、この世を愛しておられたからです。それは、御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。神は愛です。その愛は、大切なひとり子をこの世にお与えになることによって表されました。「愛は惜しみなく奪う」ということばがありますが、本当の愛は逆です。惜しみなく与えるのです。その愛によって救われた私たちは、これを分け与える者でなければなりません。

ゴールデンウィークはどこに行っても混雑しているので、私はどこにも行かないで家でDVDを観ていました。「シンドーラーのリスト」というDVDです。これは第二次世界大戦時のナチス党政権下のドイツによるユダヤ人の虐殺の中、ドイツ人実業家オスカー・シンドラーが1,100人以上ものユダヤ人を救ったという実話です。  1939年9月、ドイツ軍によってポーランドが占領され、この映画の舞台となったクラクフもドイツ軍の占領下に置かれました。ナチス党のドイツ人実業家オスカー・シンドラーがこの町にやってくると、戦争を利用してひと儲けしようともくろみました。潰れた工場を買い取ってほうろう容器工場の経営を始めたのです。  やがてナチスから残虐な少尉がクラクフの強制収容所の所長として送られて来ると、彼は次々とユダヤ人を虐殺し始めました。それを見たシンドラーは、それまで金儲けにしか関心がありませんでしたが、心境に変化が生じてきました。そして、彼はあるリストを作りました。それはユダヤ人の子供や大学生を熟練の金属工と称して工場で働かせることです。  やがてソビエトの侵攻によって、クラクフ強制収容所の施設の解体を余儀なくされると、そこにいた20,000人以上のユダヤ人がアウシュビッツ収容所に移送されることになりました。そこでシンドラーは立ち上がり、故郷のチェコスロバキヤに工場を再開させ、そこに移送予定のユダヤ人を「労働力」として連れて行くことにしたのです。そのユダヤ人のリストがシンドラーのリストです。それは命のリストと呼ばれ、1,100人以上に上りました。しかし、そのために彼はユダヤ人を贖うために多額のお金を少尉に支払わなければなりませんでした。ユダヤ1人当たりいくらいくらという値段で。彼は自分の持てる財産のすべてを使って、懸命にユダヤ人を救ったのでした。  やがて戦争が終わりユダヤ人が解放された時、彼はユダヤ人にこう言うのです。「申し訳ない。自分にもっとお金があったら・・・。もっと救うことができたのに・・。」  救われたユダヤ人たちは彼が必死で自分たちを救ってくれたことを感謝し、やがてイスラエルの栄誉の賞を彼に授けました。杉原千畝氏とともに。

皆さん、これが愛です。愛は惜しみなく自分を与えることです。愛は惜しみなく奪うという言葉がありますが、本当の愛は違います。本当の愛は奪うのではなく与えるのです。神がそのひとり子をこの世にお与えになったほどに愛されたように、私たちの最も大切なものを与えること、それが愛です。これが神が好まれる断食であり、見せかけでない本物の信仰なのです。

皆さんはどうでしょうか。神の栄光のために、隣人のために、自らを喜んで与えておられるでしょうか。なかなかできることではありません。本当にわがままで、自己中心的な私たちは、自分のことしか考えないからです。自分さえよければいいという思いがあります。しかし、神の好まれる断食とは何か、それはこのように喜んで分け与えることであることを覚え、そのように歩めるように愛の源であられる主に求めていきたいと思います。

Ⅲ.そのとき(8-14)

さあ、最後にこのように中身伴った信仰者として生きるとき、どんなことが起こるのかを見て終わりたいと思います。8節から終わりまでを見てください。ここには「そのとき」ということばが3回出てきます。8節、9節、14節です。まず8節をご一緒に読みましょう。

「そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。」

そのとき、暁のようにあなたの光がさして、あなたの傷はすみやかにいやされます。「すみやかにいやされる」とは、「すみやかに回復される」という意味です。偽善によって腐り果てた魂が、みことばを聞きそれ従う時、すみやかな回復が始まります。

ところでここには「あなたの光がさしいで」とありますが、これは不思議な表現です。イスラエルには、私たちには光などありません。私たちの信仰は腐っているわけですから・・。いったいこれはどういうことなのでしょうか。これは彼らが持っている光ということではなく、彼らが信じ、神から受け取った光のことです。この光は暗闇を照らす光であり、そこには新しい力、回復があるのです。イエス様はこう言われました。

「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持ちのです。」(ヨハネ8:12)

またヨブ記11章17節には、「あなたの一生は真昼のように輝き、暗くても、それは朝のようになる。」とあります。たとえあなたの心が暗やみのように暗くても、真昼のように明るく輝いたものとなるのです。この光にはそれほどの力があるのです。その光によってあなたの傷はすみやかにいやされるのです。このような光によって歩めるということは何と幸いなことでしょうか。

それだけではありません。その後のところにはこうあります。「あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。」これはどういうことかというと、神がいつもあなたとともにいて、あなたの人生を導いてくださるということです。かつてイスラエルがエジプトを出た後で荒野に導かれました。どこに進んだらいいかわからないとき、昼は雲の柱が、夜は火の柱をもって彼らを導かれました。そのように神は人生の荒野を進む私たちの道を照らし、導いてくださるのです。  ここにも「あなたの義」とありますが、これもあなたが作り出す義のことではなく、あなたが信じて、受け取った義のことです。

9節をご覧ください。ここに第二の「そのとき」が出てきます。「そのとき、あなたが呼ぶと、主は答え、「わたしはここにいる」と仰せられる。」 あなたが「神様!」と呼ぶと、神様はすぐに答えてくださいます。いくら呼んでも答えてくださらないのではなく、主は答え、「わたしはここにいる」と言われるのです。 いったいなぜ主は答えてくださらないのでしょうか。あなたの中に罪があるからです。くびきをのぞこうとしない、人のうしろ指を指してみたり、つまらないおしゃべりに終始してしまう。そのような罪があるので答えてくださらないのです。もし私たちが飢えた人に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、主はすぐに答えてくださいます。

11節と12節をご覧ください。ここも一緒に読みたいと思います。 「主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。あなたのうちのある者は、昔の廃墟を建て直し、あなたは古代の礎を築き直し、「破れを繕う者、市街を住めるように回復する者」と呼ばれよう。」    すごいですね。あなたがどのような土地にいても、主は絶えず、あなたを導いて、潤された園のようにしてくださいます。水のかれない源のようにしてくださるのです。どんな状況でも、内側から泉のようにいのちの水が溢れ出るようになるのです。また、彼らのある者たちは、バビロンによって破壊された神の都エルサレムの神殿も建て直し、「破れを繕う者」、「市街をすめるように回復する者」と呼ばれるようになる、ということです。主の祝福、主の守りを受けた者は、破壊者ではなく、回復する者と呼ばれるようになるのです。

そして14節には、「そのとき、あなたは主をあなたの喜びとしよう」とあります。13節では再び安息日のことが語られていますが、これも同じ事です。この安息日の意味を理解して、自分たちを贖ってくださった主への感謝と喜びをささげ、心から主を礼拝するなら、主はあなたを喜びとし、ヤコブのゆずりの地で、あなたを養ってくださるというのです。

このような祝福がもたらされるのです。皆さんはどうでしょうか。神が望まれる断食、神が喜ばれる信仰を求めておられるでしょうか。表面的には信仰に熱心なようでも、実はその信仰がズレていることもあります。そうではなく、神に喜ばれる信仰を求めていきたいと思います。

先週、私は同盟の総会に行っておりましたが、そこで親しくさせていただいているある牧師のレクチャーを聞きました。それは今は絶版になっているそうですが、アメリカのピーター・スキャゼロという牧師が書いた「情緒的に健康な教会をめざして」という本についてでした。実は先生はこの本を翻訳されたわけですが、この本を翻訳する中でいろいろ考えさせられたというのです。私たちの中に信仰の成熟を妨げている心の傷があるということです。多くの場合、それはその人の生育歴と深く関わっているわけですが、そこに福音の光が当たらないと、つまり全人格的に福音の恵みによって取り扱いを受けないと、どんなに福音のメッセージをかたってもそれが単に知識だけのもので終わり、自分自身の中にみことばが深く入っていくことができないということです。つまり、信仰が表面的なものになってしまい、その人の生活が変わるところまではいかないのです。Ⅰテサロニケ5章23節には、「あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られるように。」とありますが、霊、たましい、からだといった全人格的なものにならないというのです。

その話の中で、先生が牧会しておられる教会のことを分かち合ってくださいました。その教会には病院の看護師として働いておられる型がいるのですが、この方は信仰をもって40年も経つな方で、忠実に信仰を守り、奉仕も熱心にされる方なのですが、どこか冷たいのです。たとえば、この牧師はアメリカでの生活が長いため日本の習慣がわからないことがあるんですが、そのようなことを見ると、「先生はアメリカでの生活が長いからわからないんですよね」と言われたり、あるいは、毎週金曜日に行われている早天祈祷会にいらっしゃったので、牧師うれしくて、「いや、よくいらっしゃいました。うれしいです。一緒に祈りましょう。」と言うと、「いや、ただどんな感じか観察に来ただけですから」と言われるのです。どこか人ごとなのです。神の懐の中になかなか飛び込んで来れない。いったいなぜだろうかとずっと悩んでいました。  ところが、このことについて学んでいたとき、気付かされました。もしかするとこの方の中に何か傷があって、それが邪魔をしてみことばが入っていけなくなっているのではないか・・・と。  それである時彼女を呼んでお話を聞いたのです。すると彼女はこんなことを言われました。 「先生。先生はよくお話の中で結婚とか家族の話をされますが、よくわからないんですよね。」  この方は結婚しないでずっと独身で来られたので、そのような話を聞く度にそれを受け入れることができなかったのです。しかし、彼女の方からそのように心を開いて打ち明けてくれたので、その気持ちをそっくりそのまま受け入れたとき、彼女が少しずつ変わり始めました。みことばを素直に受け入れることができるようになったのです。そして心から主に仕えることができるようになりました。  その教会にモンゴルから来ている若い青年がいるのですが、あるときこの青年がB型肝炎にかかりました。すると彼女は彼を我が子のように受け入れて、よく看病するようになりました。もちろん看護師としてずっと仕えてきたので当然といえば当然かもしれませんが、違うのはそれが表面的な関わりではなかったことです。彼の治療代を全部負担してまで看病してくれたのです。

いったいなぜ彼女はそこまで変わったのでしょうか。福音の恵みが単に頭だけでなく情緒的な面でも深く取り扱われたからです。その心の深いところに福音の光が照らされたからです。その結果、信仰が表面的なものではなく、本当に心からのものに変えられたのです。

それこそ神に喜ばれる信仰ではないでしょうか。私たちがこの福音の恵みを聞くときそれを人ごとのようにではなく自分のこととして、それを心で受け止める。それを自分の生活に実際に適用していくなら、神が必ずあなたを変えてくださいます。ヤコブは、「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(ヤコブ1:22)と言っていますが、皆さんどうでしょうか。ただ聞くだけの者になってはいなかったでしょうか。心に植え付けられたみことばを、すなおに受け入れましょう。そして、私たちが神に喜ばれる者になれるように、そのみことばを実行する者であれりたいと思います。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができるからです。

レビ記19章19~37節

きょうは、レビ記19章の後半部分から学びたいと思います。まず19節から25節までをご覧ください。

1.  神のおきて(19-25) 

「あなたがたは、わたしのおきてを守らなければならない。あなたの家畜を種類の異なった家畜と交わらせてはならない。あなたの畑に二種類の種を蒔いてはならない。また、二種類の糸で織った布地の衣服を身につけてはならない。男が女と寝て交わり、その女が別の男に決まっている女奴隷であって、まだ全然贖われておらず、自由を与えられていない場合は考慮する。女が自由の身でないので、彼らは殺されない。その男は、への罪過のためのいけにえとして、罪過のためのいけにえの雄羊を会見の天幕の入口の所に持って来る。祭司は、彼の犯した罪のために、その罪過のためのいけにえの雄羊によっての前で彼の贖いをする。彼はその犯した罪を赦される。あなたがたが、かの地に入って、どんな果樹でも植えるとき、その実はまだ割礼のないものとみなされなければならない。三年の間、それはあなたがたにとって割礼のないものとなる。食べてはならない。四年目にはその実はすべて聖となり、への賛美のささげ物となる。五年目には、あなたがたははその実を食べることができる。それはあなたがたの収穫を増すためである。わたしはあなたがたの神、である。」

19節には、「あなたの家畜を種類の異なった家畜と交わらせてはならない。あなたの畑に二種類の種を蒔いてはならない。また、二種類の糸で織った布地の衣服を身につけてはならない。」とあります。つまり、種類の異なったものを交わらせてはならないということです。創世記1章11節には、「神は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。」とあります。神はこの地上に植物を芽生えさせたとき、「種類にしたがって」、生じさせました(1:12,21,24,25)。この神の創造の秩序を乱してはならないということです。たとえば、ラバは雄のロバと雌のウマの交雑種の家畜ですが、そのように異なった種類の家畜を交わらせてはいけません。ただし、自然な結合の結果生まれた家畜はその限りではありません。(Ⅰ列王10:25)それらの家畜は利用されていたことがわかります。

また、この教えから考えると、行きすぎた遺伝子組み換え作業には問題あると言えます。というのは、遺伝子組換え作物(いでんしくみかえさくもつ)というのは、遺伝子組み換え技術を用いて作物の品種改良等を行うことによって、いわゆる種であるDNAまでも組み替えようという試みだからです。

また、18章22~23節に同性愛を禁じる戒めがありましたが、この点からも間違っていると言えます。それは、畑に二種類の種を蒔くことも同じです。二種類の種を蒔くとは、たとえば大豆とレンズ豆等を一つの畑に一緒に蒔くといったことですが、そうしたことが禁じられています。それは種を変えることになるからです。神は、その種類にしたがって、この地上に作物を生じさせました。その神の秩序を乱してはいけないのです。

それは二種類の糸で織った布地も同じです。いわゆる混紡が禁じられているのです。いったいどうしてでしょうか?ユダヤ人の学者によると、これは異教の祭司が偶像礼拝をする時に、このように二種類の糸で織った衣服を身にまとっていたからだと言います。たぶん、そういうことでしょう。つまり、こうした異教的なならわしや風習をまねてはいけないということが、その教えの根底にあるのです。

20節から22節をご覧ください。ここには、「男が女と寝て交わり、その女が別の男に決まっている女奴隷であって、まだ全然贖われておらず、自由を与えられていない場合は考慮する。女が自由の身でないので、彼らは殺されない。その男は、への罪過のためのいけにえとして、罪過のためのいけにえの雄羊を会見の天幕の入口の所に持って来る。祭司は、彼の犯した罪のために、その罪過のためのいけにえの雄羊によっての前で彼の贖いをする。彼はその犯した罪を赦される。」とあります。

どういうことでしょうか。ここでは、夫が決まっている女と寝て交わることは、神の秩序を乱すことになります。夫が決まっている女とは結婚が決まっている女、すなわち、婚約中にある女のことです。それは、「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」(創世記2:24)と定められた神の秩序に反することだからです。しかし、ここではただ単に別の女と寝て交わることが禁じられているのではなく、その女が別の男と結婚が決まっている女奴隷の場合はどうかということです。この「女奴隷」とは、他の男と婚約はしているが、まだ正式に結婚していない女奴隷のことです。その身がまだ完全に自由の身となっていないケースです。そのような場合は、考慮します。「考慮する」という言葉は直訳では「尋問する」ということで、それが彼女の意志によってしたのかどうかが調べられるわけです。それが彼女の意志によってなされた場合ならふたりとも石打による死刑(申22:23~)、そうでなければ、まだ女が自由の身でなかったので、仕方がないこととして、罰せられませんでした。しかし、男の方は違います。罪過のためのいけにえをささげ、祭司に罪を贖ってもらわなければなりませんでした。そのいけにえとは何でしょうか。雄羊です。つまり、最も高価な家畜をささげなければならなかったのです。なぜなら、主人の所有物を犯したからです。女奴隷は主人の所有物なので何をしてもかまわないと思われていた当時の社会にあって、このように女奴隷も神様にあって保護されていたことがわかります。

次に、23節から25節までをご覧ください。ここには、「あなたがたが、かの地に入って、どんな果樹でも植えるとき、その実はまだ割礼のないものとみなされなければならない。三年の間、それはあなたがたにとって割礼のないものとなる。食べてはならない。四年目にはその実はすべて聖となり、への賛美のささげ物となる。五年目には、あなたがたははその実を食べることができる。それはあなたがたの収穫を増すためである。わたしはあなたがたの神、である。」とあります。

ここには、作物の実である果実を、いつ食べることができるかということが記されてあります。3年間は食べることができません。なぜなら、その実はまだ割礼が施されていないからです。果実の実に割礼を施すとはどういうことでしょうか?「割礼」とは、男性の性器を覆っている包皮を切り取る儀式です。それはイスラエルにとって神の民としての契約でもありました。その割礼がないというのは、まだ切り取られていないということです。つまり、切り取らなければならないということです。それは具体的にはどういうことかというと、果実の実を摘み取るとか、花を摘み取ることです。そのようにしてこそ木はよく育ち、多くの実を結ぶことができるからです。

これは人間にも言えることです。実がなったからといってすぐに食べてはいけません。3年間は待たなければならないのです。その間、よく教え、よく学んで、霊的に十分成長してから取らなければならないのです。それは霊的な面ばかりでなく、私たちの生活のあらゆる面で言えることです。社会においても、会社においても、家庭においても、すぐに実を取ろうとすると、よく成長することができないのです。最初はちょっとそっとしておくような期間を設け、神様に十分養っていただいてから、それから奉仕をしていく。それが聖い生き方には欠かせないことなのです。

じゃ3年経ったから食べよう、ということにはいきません。何だ、ずっと我慢してきたのに、まだ食べられないのかと不満が出るかもしれませんが、これが神のおきてです。三年たったら、四年目はその実をかみにささげなければなりません。それは聖となるからです。私たちのすべては神のものであり、神に贖われた者として、常に神を敬い、神にささげていくことから始めなければならないのです。自分の最初の時間、最初の給料など、最初のものは聖いのです。それは神のものとして、神にささげていくこと。それが祝福の原則なのです。

いよいよ五年目になります。随分待ちました。まだ何かあるんですか?ありません。あなたは食べることができます。それは、あなたがたの収穫を増すためです。食べることによって収穫を増す?どういうことでしょうか?これは霊的にも同じです。私たちは神から与えられた賜物を使うことによって、収穫がますます増すのです。食べなければ、ささげなければ、増えていくことはありません。

2.  異教的行為の禁止(26-31)

次に26節から31節までのところをみていきましょう。

「あなたがたは血のついたままで何も食べてはならない。まじないをしてはならない。卜占をしてはならない。あなたがたの頭のびんの毛をそり落としてはならない。ひげの両端をそこなってはならない。あなたがたは死者のため、自分のからだを傷をつけてはならない。また自分の身を入墨をしてはならない。わたしはである。あなたの娘を汚して、みだらなことをさせてはならない。地がみだらになり、地が破廉恥な行為で満ちることのないために。あなたがたは、わたしの安息日を守り、わたしの聖所を恐れなければならない。わたしはである。あなたがたは霊媒や口寄せに心を移してはならない。彼らを求めて、彼らに汚されてはならない。わたしはあなたがたの神、である。」

血がついたままで何も食べてはならない、ということについては17章10節でも言われていたことです。なぜなら、いのちとして贖いをするのは血だからです。しかし、ここではそれがまじないや卜占といった異教の魔術的な行為との関係で禁じられています。異教の魔術的な行為に結びつけて、血と肉が混ぜて食べられることがあったからです。まじないは日本でもよく行われます。縁起をかついだり、おみくじをひいてみたり、一日の始まりや仕事の始まりを、そうしたものを基準にしたりすることは禁じられています。「卜占」とはあまり聞かないことばですが、占いのことです。日本でもいろいろな占いがありますね。テレビでは毎日のように「きょうの占い」と放映されています。星占い、手相とか、おみくじとか、本当にたくさんの占いがありますが、それらはすべて神を知らない異教的な風習であり、神の民がそのようなことをすることが禁じられています。

27節には、「あなたがたの頭のびんの毛をそり落としてはならない。ひげの両端をそこなってはならない。」とあります。へんな教えです。びんの毛、ひげは男性の特徴だからです。ですから、今でも正当派のユダヤ日とはこのおきてを守り、長いびんの毛になっている人が多いのです。あいさつをするときは、ひげを互いにつかみました(Ⅱサムエル20:9)。ひげをそったり、切ったりすることは恥ずかしいことであり、不名誉なことだと考えられていました(Ⅱサム10:4,イザヤ7:20)。こうした毛をそって神にささげるという異教的な習慣があったので、禁じられているのです。ですから、これも異教的な風習をまねてはいけないということであって、髪のスタイルやひげをそってはならないということではありません。

28節には、「あなたがたは死者のため、自分のからだを傷をつけてはならない。また自分の身を入墨をしてはならない。わたしはである。」とあります。

悲しみのしるしとして体に傷をつけるという風習があったようです。自分の息子、娘の死を前に悲しみをこらえきれない親の気持ちはわかります。それで命を絶つ人もいるくらいです。ですから、死者のために体を傷つけるという気持ちはわかりますが、そのようにしてはいけません。悲しみは悲しみとしてしっかりと受け止めつつ、死もいのちも支配しておられる全能の神にゆだねなければならないのです。

また、ここに自分の身に入れ墨をしてはならないとあります。なぜ人は入れ墨をするのでしょうか。それは古くはアルプスの氷河から発見された5300年前のアイスマンの体や、1993年に発掘された2500年前のアルタ王女のミイラにも見られます。それはあらゆる国のさまざまな人種に見られるしゆうかんです。入れ墨は容易には消えない特性を持っていることから、古代から現代に至まで身分・所属などを示す個体識別の手段として用いられてきました(ナチの親衛隊の血液型の入れ墨、アウシュビッツに収容された人々の腕に記された番号の入れ墨、漁師の身元判明のための入れ墨、戦国時代の雑兵の入れ墨、暴力団組織の構成員としての象徴としての入れ墨)。

アメリカでは1960年代に世界的に流行したヒッピーの文化に取り入れらね、それが最近ではファッションとして、アートとして取り入れられるようになっています。

しかし、こうした理由の他にも日常生活を助ける魔除けとしての入れ墨など、魔術や宗教的な意味でも行われていたのです。たとえば、たとえば、漁師たちは昔から伝承されていたさめから身を守る意味でドルフィンの入れ墨を入れたり、多くのアメリカの原住民たちは、自分の保護や防御のために動物たちの入れ墨を入れていました。その他、ヒーリングのお守りとして、それぞれの神々の入れ墨がなされるようになったのです。古くから異教的習慣として行われていたのです。

しかし、それがどんな理由であっても自分の身に入れ墨を入れたり、傷つけたりということは髪神のみこころではありません。なぜなら、それは神のものであって、神からいただいているからだをそのように傷つけることは、それを与えてくださった神を傷つけることになるからです。中には大切なのは心であって、心が正しければ外側は問題はない、と考える人もいますが、これが神のおきてであるということをわかっていながらすることはよくありません。しかし、既に入れ墨を入れているからといってそれでクリスチャンになりないということではありません。悔い改めて、神を信じるなら、そのような人であっても救われてクリスチャンになることができます。大切なのは、救われた人が神の民としてこれからどのように生きていくかということです。神に贖われた神の民として、私たちはこのような点においてもしっかりと区別していくことを求めていきたいものです。

次に29節をご覧ください。ここには、「あなたの娘を汚して、みだらなことをさせてはならない。地がみだらになり、地が破廉恥な行為で満ちることのないために。」とあります。娘を汚すとはどういうことでしょうか。当時は、自分の娘を神殿娼婦としてささげることがありました。たとえば、アシュタロテの神殿には多数の娼婦がいました(申23:17)。

30節には再び安息日を守ることが命じられています。異教的風習を排除する最良の方法は、まことの神を礼拝し、まことの神に仕えることです。神のみこころは何かを学び、その神に仕えることです。そうすれば、こうした異教的な風習からも解放されるでしょう。

31節には、「霊媒や口寄せに心を移してはならない」とあります。「霊媒」とはヘブル語で「オーブ」と言います。わきの下から出て来るような声で、あたかも死者の声を取り次ぐように話すことです。「口寄せ」とは、ヘブル語で「イッデオニー」です。未来のことを知ろうとする者のことです。つまり、こうした霊媒とか口寄せは、神が啓示されることではなく、神を介さずに、またキリストを介さずに、霊の世界と接触することです。そのようなことは汚れていることです。占いとか、オカルト、超能力といったものがそれです。そのようなことである程度、未来のことがわかるかもしれません。他人の真実についても見ることができます。しかし、そうしたことを見せているのは、教えているのは死者の霊でも、まして神の霊でもありません。それは悪霊によるのです。そのようなことを行っている人には聖さがありません。私たちはただキリストを通してのみ神に近づくことができるのであって、キリスト抜きにそうした世界に近づこうものなら、たちまちに滅ぼされてしまいます。キリストを通して語られた啓示の書、つまり聖書を通してこの世界を、また霊の世界を、未来のことを知ることが、私たちに許されているのであって、そうでないことは汚れているのです。

3.  老人や在留異国人への配慮(32-34)

次に32節から34節までをご覧ください。ここには老人と在留異国人に対してどうあるべきなのか、その配慮が記されてあります。

「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしはである。もしあなたがたの国に、あなたといっしょに在留異国人がいるなら、彼をしいたげてはならない。あなたがたといっしょの在留異国人は、あなたがたにとって、あなたがたの国で生まれたひとりのようにしなければならない。あなたは彼をあなた自身のように愛しなさい。あなたがたもかつてエジプトの地では在留異国人だったからである。わたしはあなたがたの神、である。」

最近、年老いた方々に対する不親切が、社会の中に広まっています。ご老人は力のない、役に立たない者のように扱われているのです。しかし、老人を敬い、神に接するかのように接しなければなりません。

また在留異国人をしいたげてはいけません。イスラエル人にとって、彼らもかつてはエジプトで在留異国人として過ごしていたので、その痛みや苦しみを知っていました。だからこそ、こうした在留異国人に対しては、特に親切でなければなりません。あなたの国で生まれたひとりのようにしなければなりません。

現在、在日外国人はどうでしょうか。彼らはまず選挙権がありません。基本的な人権が得られていないのです。もしこうした外国人に選挙権が与えられたら、国が転覆する恐れを抱く人もいるかもしれません。ですから、選挙権がどうのこうのということではなく、ではどうしたらこの国で生まれたひとりのように感じていただくことができるのかを、本気で考えなければなりません。外国人の犯罪が増えているので、こうした外国人への偏見や無関心も多く芽生えていますが、そうしたことがかえって在日外国人を苦しめていることでもあります。でも、私たちクリスチャンはそうであってはいけません。在日外国人に親切にし、彼らが喜んで生活できるように配慮しなければならないのです。それが神によって贖われ、神の民とさせていただいた者としての聖い歩みなのです。

4.  正しいはかり(35-36)

最後に、35節から37節までを見て終わりたいと思います。ここには、「あなたがたはさばきにおいても、ものさしにおいても、はかりにおいても、分量においても、不正をしてはならない。正しいてんびん、正しい重り石、正しいエパ、正しいヒンを使わなければならない。わたしは、あなたがたをエジプトの地から連れ出した。あなたがたの神、である。あなたがたは、わたしのすべてのおきてとすべての定めを守り、これらを行いなさい。わたしはである。」とあります。

「さばき」とははかりのことです。ますやものさし、はかり、分量において、不正をしてはならないということです。正しいてんびん、正しいおもり石、正しいはかり、ものさしを使わなければなりません。ごまかしはいけません。それが神によって贖われた者の、聖い歩みなのです。